第四十回 成都王司馬穎は縊られて死す

 成都王せいとおう司馬穎しばえいは、長安ちょうあんから華陰かいんを経て武関ぶかんを抜け、ついに荊州けいしゅう新野しんやに到った。古くから麾下にあった公師藩こうしはんの許に向かおうと図ったのである。

 成都王が新野にあると知った者のうち、ある者が南中郎将なんちゅうろうしょう劉陶りゅうとうに報せた。劉陶は書状を認めると東海王とうかいおうに次のように言い遣る。

「成都王を洛陽らくように呼び返し、宗室の和をつくろわれるのがよろしいでしょう」

 東海王は馮嵩ふうすうを遣わし、荊州けいしゅう刺史しし劉弘りゅうこうと劉陶の二人に命じて成都王を捕縛し、誅殺するように申し付けた。劉陶はそれを知ると、捕縛の軍勢を発する前に人を走らせ、成都王に経緯を報せる。

 成都王は家眷とともに知人の家に寄寓きぐうしていたが、二人の子の廬江王ろこうおう司馬普しばふ中都王ちゅうとおう司馬廓しばかく、それに腹心の盧志ろし孟玖もうきゅうだけを連れて北に奔り、黄河を渡って朝歌ちょうかに逃れた。

▼「新野」は襄陽じょうようの北、南陽なんようの南に位置する。そこから朝歌に向かうには、いくつかの経路が考えられるが、いずれにせよ、東海王に与する洛陽、許昌きょしょう徐州じょしゅうを結ぶ東西の線を越えねばならず、極めて危険な遠路となる。

 郭勱かくばいの子の郭植かくしょく齊王せいおうの麾下にあった韓泰かんたいの子の韓玭かんひが朝歌に参じ、その許に投じる敗卒も三千を超える。成都王は公師藩の許に人を遣わし、盧志は麾下にあった将兵を呼び集めた。


 ※


 この時、馮嵩は朝歌の東にある頓丘とんきゅうに遣わされ、成都王が兵を募って鄴の奪還を企てていると観て、鄴に鎮守する范陽王はんようおうに告げ報せる。范陽王はそれを知ったものの、国家に大功のある成都王を滅ぼすに忍びず、聞き捨てにした。

 劉輿りゅうよはそれを知って懸念し、かつて成都王を棄てて東海王に与した陳眕ちんしんを唆して言う。

「将軍はかつて成都王に腹心として重用されたものの、聖上せいじょうを擁して鄴を攻めた東海王に降られました。成都王が鄴に入って復権すれば、将軍は成都王の罪人、どうして無事でおられましょう。その上、将軍の兄弟はいずれも成都王との戦に命を落とされている。成都王の許に軍勢が集るに先んじ、馮嵩とともに朝歌を囲んでとりことされるのが上策ではありませんか。それこそ禍の根を断つと言うものです」

 陳眕はその言に従って三千の軍勢とともに頓丘に向かった。成都王に与する郭植はそれを知ると、一軍を率いて頓丘への路を阻み、かえって討ち取られた。敗兵が逃げ戻るとそれに続いて陳眕の軍勢が到り、さらに頓丘から馮嵩の軍勢も包囲に加わる。

 囲まれた朝歌にある成都王は謀士の盧志を欠いて打つ手もなく、韓玭とともに城を抜けて公師藩の許に逃れようと図った。馮嵩はそれを許さず、厳しく追って韓玭を討ち取り、ついに成都王とその二子を擒とした。馮嵩は成都王たちを鄴に送って范陽王と処分を案じることとした。


 ※


 盧志が朝歌に還ると、成都王が擒とされたと聞いて大哭し、単騎で鄴に向かった。范陽王に見えると、成都王の勲功を論じてその命を救うように願い出る。范陽王は重い病に罹っていたが、盧志の哀訴を聞いて言う。

「孤の死は旦夕にある。王には漢賊を退けた大功があり、それは重々承知している。今しばらくは別室に安んじて孤の死後に卿が策を案じてお救いせよ。孤は許昌の敗戦など意に介しておらぬが、このような仕儀に至ったのは劉輿の怨みによるのだ」

 范陽王の言葉を聞き、盧志は拝謝して退いた。

 劉輿は許昌で張方に敗れた屈辱を忘れておらず、かつ、范陽王が重病の床にあって成都王を処分できまいと考えていた。さらに、鄴は成都王が長らく鎮守していた大都であり、故旧が与して変事を生じるおそれもある。ついに陳眕に成都王を害するように命じた。

 陳眕は部将の田徽でんきを遣わして成都王とその二子を獄に繋ぐ。その数日後には范陽王が世を去り、劉輿と陳眕はその死を伏せて喪を発さず、成都王に死を賜う命が下されたと文武の官に告げた。


 ※


 成都王は鄴の獄にあって監視役を務める田徽と時事を談じていた。

「誰が孤を獄に繋がせたか」

「范陽王のご命令にございます」

「范陽王は重病の床にあってそのような命を下せまい」

「病床にあられるがゆえ、変事の出来しゅったいを懸念なされたのでしょう」

「それならば、王の病状は如何か」

 成都王の問いに田徽は首を横に振るのみ、成都王は話柄を変える。

「お前は今年で幾つになる」

「五十になりました」

「孔子は『五十にして天命を知る』と申された。まだ天命を知らぬと見えるな」

「この乱世にあっては明日がどうなるかも分かりません。まして天命など知りようもありますまい」

「孤は知っておる。たとえば、孤の死後は東海王が軍国の権を握るであろう。しかし、それで天下を安んじられるであろうか」

 田徽がその問いかけに答えるに及ばず、勅使が来臨したとの報せが入る。成都王は嘆息して言う。

「孤は鄴を出て放浪すること三年に及ぶ。その間、身体しんたい髪膚はっぷを清める暇もなかった。獄中に囚われた身に勅使を迎えるとなれば、まずは沐浴もくよくして身を清め、衣をえて勅命を拝することとしよう」

 田徽はそれをうけがい、成都王と二子のために湯を用意させた。沐浴を終えたと見ると詔を奉じる勅使を迎え入れ、勅命が宣読される。

「成都王は鄴城の戦にて官軍に矢を向けて龍体りゅうたいを損なった。ただ、その身は宗室に連なるがゆえに極刑を加えるに忍びず、特に自尽を賜う」

 成都王は聞き終えると二子と抱き合って哭し、天地を拝して世を辞する。朝服を脱ぎ去って巾舄きんせきに改めると東を枕に身を横たえる。縄で縊るよう田徽に命じ、田徽はそれに従う。須臾の間に鼻穴より血が流れ出て、成都王の命は絶えた。

▼「巾舄」は頭巾と靴の意、死に装束の場合は「素服そふく」とされるであろうことから、官服から私服に着替えたと解するのがよい。

 田徽が哭する二子を連れて獄を出ようとすれば、劉輿が遣わした兵士がそれを止める。ついに二子も同じく獄中に戮された。


 ※


 盧志と孟玖は成都王を訪ねて獄に向かう最中、成都王父子が誅殺されたことを知った。

 盧志はそれを聞くと獄中に駆け込み、成都王の屍を見ると大哭した。

「大王が臣の言をれておられれば、このような終わりを迎えることもありませんでした」

 屍を拝してそう言うと、兵士は連行して劉輿の許に引き出した。

「主が辱められれば臣はその命を捨てる。死は吾が願うところ、当然の義に過ぎぬ。成都王は勲功多く、罪過は少ない。河間王や東海王たちが煽動して世を乱したため、このような事態に立ち至ったに過ぎぬ。王の屍を収めて葬り、君臣の義を尽くした後であれば、いつでも命など呉れてやる」

 成都王に与した罪を責められ、盧志はただそう応じる。劉輿もその忠義に感じ入り、成都王の屍を収めて王礼によって葬るよう官吏に命じる。

 孟玖は讒佞にして陸機と陸雲の兄弟を死に追いやり、さらに東安王の殺害を唆したため、その身は誅殺して梟首にするとともに、三族までも夷滅された。

 盧志は成都王父子を鄴の東に葬ると、墓の傍らに庵を編んだ。

 成都王が時勢に乗じた頃、その門は賓客に満ちていたものの、最後には誰もが逃げ去ってしまった。ただ、盧志だけは艱難にあってもその傍らを離れず、始終変わることがなかった。

 世人はその行いを忠であると称揚したことであった。

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