第三十九回 晋帝司馬衷は再び洛陽に還る

 河間王かかんおうは一戦に麾下の諸将を喪い、長安ちょうあんを棄てて逃げ奔った。一方、成都王せいとおうは敗卒をまとめて長安に退き、城門を閉ざす。祁弘きこうは諸王の軍勢を配して包囲に入った。

 趙譲ちょうじょうは城壁に上がって防戦の指揮を執る最中に流矢を目に受け、城中の軍勢は大いに畏れて士気を沮喪する。

 張方ちょうほうの一族に張鵬ちょうほうという者があり、張方を殺されたために河間王を怨んで河間王の子の司馬暉しばきとその一家を殺し、さらに謀士の李含りがんをも殺害した。

 成都王は趙譲とともに家眷を連れて城を抜け、間道から華陰縣かいんけんを抜けて武関ぶかんに向かった。公師藩こうしはんと合流しようと図ったのである。

▼「武関」は藍田らんでんを経て上洛じょうらくしょうの先にあり、荊州けいしゅうに到ることは先に述べたとおりである。「華陰縣」は潼関を抜けて西に向かったところにあり、長安から見れば東にある。そこから真南に進んで武関に向かう間道があったようであるが、険路であったらしく通行は一般的ではなかった。なお、東海王の軍勢が潼関どうかんを抜いて長安に攻め寄せたことを考えれば、成都王はその道を逆に辿ったことになる。

 長安の諸将はそれぞれに家財を牽いて逃れ去り、ついぞ成都王と死生をともにする者がない。ただ、盧志ろしが独り成都王に付き従うだけであった。祁弘、温溥おんふ糜晃びこうが攻め入る頃には、長安は主を失っていた。

 祁弘と温溥は兵を率いて宮城に進み、その途上で三千を越える家が掠奪を被る。ただ糜晃だけが兵士に掠奪を禁じていた。百官も祁弘の軍勢を見て過半が逃げ出す。東海王とうかいおうはそれを知ると王浚おうしゅんに告げ、王浚が祁弘の側近十人ほどを刑戮すると、祁弘は恐懼して兵士の掠奪を禁じた。

 これにより、ようやく長安の士人は落ち着きを取り戻したのであった。


 ※


 東海王は范陽王はんようおう南陽王なんようおう東平公とうへいこう、王浚、温羨おんせん劉輿りゅうよとともに晋帝しんていに謁見して上奏し、洛陽に帰還するように願い出た。

「旅の空の身が故郷を思うのは人情の常、朕は洛陽を思って寝食を忘れておった。卿らが洛陽に連れ帰ってくれるのであれば、この身は再生するようなものだ。日を選んですみやかに長安を発せよ」

 晋帝がそう言うと、諸親王は協議の上で祁弘と糜晃を晋帝の護衛として先発させ、東海王は長安に残って残務を処理することとした。論功をおこなって王浚と温羨をそれぞれの鎮所に帰還させ、東海王は親将の梁柳りょうりゅうを鎮西大都督に任じて長安に鎮守させる。また、自らは范陽王たちともに枋頭ほうとうの大道から洛陽に向かった。

▼「枋頭」は洛陽より東、黄河の北岸で鄴の南にあることは先に述べたとおり、長安から見れば洛陽を越えた先にある。よって、ここで枋頭の地名が出るのはおかしい。誤記ではないかと思われる。

 東海王たちは晋帝に先んじて洛陽に到った。そこで、何倫かりんを洛陽に置いて上官己たちに宮殿の修繕を命じ、晋帝の還御に備えさせる。また、自らはさらに進んで許昌きょしょうに入った。

▼「許昌」は洛陽より東にあり、長安から洛陽に向かった東海王は素通りして許昌に入ったことになる。また、許昌から洛陽に何倫を遣わすよりも洛陽に残して自らは東に進んで荒廃していない許昌に入ったと考えるのがよい。よって、原文の解釈から離れるがこのように訳した。

 晋帝を護衛する祁弘と糜晃は、間道を抜けて洛陽に向かっていた。道は狭くて車を進められず、晋帝を牛車に載せて百官は徒歩でそれに従う。そのため、一日に四十里(約22.4km)も進めずにいた。険隘の地を抜けて辛苦し、その果てにようやく許昌に到った。晋帝が許昌に着いたのは、東海王の到着より実に半月後のことであった。

▼「許昌」が洛陽の東にあることは上に述べたとおり、間道を使ったにせよ、洛陽を通り過ぎて許昌に到ったとは考えにくい。

 東海王、范陽王、南陽王は晋帝を迎えるとその道傍に並んで罪を謝する。晋帝は三王を慰労すると涙を流したことであった。


 ※


 晋帝が許昌に着いて数日の後、劉洽りゅうこうが洛陽より到って宮殿の修繕がほぼ終わったと報告し、還御を請うた。東海王は晋帝とともに洛陽に向かう。太廟たいびょうと官署も復興を終えており、羊皇后と皇太弟の司馬熾しばしをそれぞれ位にかえした。

 晋帝は東海王を太傅たいふ録尚書事ろくしょうしょじに任じて軍国の権を委ね、范陽王を司空しくうに任じて鄴に鎮守させ、東平公の爵位を王として徐州の鎮守を命じ、祁弘に平難へいなん大将軍の号と関外侯かんがいこうの爵を授けて幽州ゆうしゅうに還らせる。また、王浚を幽薊ゆうけい大都督だいととく保国公ほこくこうとし、劉琨を平攘へいじょう将軍、騎都尉きといに任じ、温羨を冀州牧とした。

▼「関外侯」は『晋書しんじょ石閔せきびん載記に「びんは既に都督と為り、內外の兵權をぶ。乃ち殿中の將士及びもとの東宮の高力萬餘人を懷撫かいぶするに、皆な奏して殿中員外でんちゅういんがい將軍、しゃく關外侯と為し、賜うに宮女を以てして己の恩をつる」とあるのがもっとも古い。実質を伴わない名号だけの爵位であろう。『隋書ずいしょ』百官志では「關中、關外侯は第九品なり」とあり、封爵九等の最下位とされている。

▼「冀州牧」は冀州刺史と考えればよい。

 それ以外の諸将は軍功によって秩禄を増し、糜晃を護駕ごが將軍に任じて洛陽の兵権を掌らせ、司馬睿しばえい瑯琊王ろうやおうの爵を継がせて銭穀を掌らせた。

 東海王は洛陽を安定させると劉洽の謀を用い、元老や名望ある者を登用して国政を委ね、人心を収めようとした。

 潁川えいせん庾顗ゆがいを召して軍諮ぐんし祭酒さいしゅとし、泰山たいざん胡毋こぼ輔之ほしを従事中郎とし、河南かなん郭象かくしょう記室きしつ主簿しゅぼとし、陳留ちんりゅう阮修げんしゅう行軍こうぐん参議さんぎとし、陽夏ようか謝仁しゃじん掾吏えんりとした。

 劉洽は彼らを登用して輿論を収めようとしたが、これらの者たちはいずれも王衍おうえん畢卓ひつたく阮咸げんかんの行いに倣って虚飾を尊んで酒に溺れ、実務を行う能はない。実に彼らが晋の天下を壊すことになるのであった。


 ※


 瑯琊王の従事じゅうじを務める王導おうどうは鄴を脱け出して東海王に従って以来、政治を口にしなかった。しかし、この時ばかりは密かに東海王を諌めた。

「秩禄を与えるだけならともかく、彼らに政事を委ねてはなりません。必ずや風俗を壊しましょう」

 東海王はその言をれず、王導は密かに瑯琊王に言う。

「司馬越は大局を知らず、治世の材ではありません。河北は久しからずして乱れましょう。大王は先王の代より江東の鎮守を委ねられております。先王の祭祀にかこつけてすみやかに還り、自衛の策を図らねばなりません」

 司馬睿はその言をれて意を決し、河北を離れることばかり考えるようになったことであった。

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