第三十九回 晋帝司馬衷は再び洛陽に還る
成都王は趙譲とともに家眷を連れて城を抜け、間道から
▼「武関」は
長安の諸将はそれぞれに家財を牽いて逃れ去り、ついぞ成都王と死生をともにする者がない。ただ、
祁弘と温溥は兵を率いて宮城に進み、その途上で三千を越える家が掠奪を被る。ただ糜晃だけが兵士に掠奪を禁じていた。百官も祁弘の軍勢を見て過半が逃げ出す。
これにより、ようやく長安の士人は落ち着きを取り戻したのであった。
※
東海王は
「旅の空の身が故郷を思うのは人情の常、朕は洛陽を思って寝食を忘れておった。卿らが洛陽に連れ帰ってくれるのであれば、この身は再生するようなものだ。日を選んですみやかに長安を発せよ」
晋帝がそう言うと、諸親王は協議の上で祁弘と糜晃を晋帝の護衛として先発させ、東海王は長安に残って残務を処理することとした。論功をおこなって王浚と温羨をそれぞれの鎮所に帰還させ、東海王は親将の
▼「枋頭」は洛陽より東、黄河の北岸で鄴の南にあることは先に述べたとおり、長安から見れば洛陽を越えた先にある。よって、ここで枋頭の地名が出るのはおかしい。誤記ではないかと思われる。
東海王たちは晋帝に先んじて洛陽に到った。そこで、
▼「許昌」は洛陽より東にあり、長安から洛陽に向かった東海王は素通りして許昌に入ったことになる。また、許昌から洛陽に何倫を遣わすよりも洛陽に残して自らは東に進んで荒廃していない許昌に入ったと考えるのがよい。よって、原文の解釈から離れるがこのように訳した。
晋帝を護衛する祁弘と糜晃は、間道を抜けて洛陽に向かっていた。道は狭くて車を進められず、晋帝を牛車に載せて百官は徒歩でそれに従う。そのため、一日に四十里(約22.4km)も進めずにいた。険隘の地を抜けて辛苦し、その果てにようやく許昌に到った。晋帝が許昌に着いたのは、東海王の到着より実に半月後のことであった。
▼「許昌」が洛陽の東にあることは上に述べたとおり、間道を使ったにせよ、洛陽を通り過ぎて許昌に到ったとは考えにくい。
東海王、范陽王、南陽王は晋帝を迎えるとその道傍に並んで罪を謝する。晋帝は三王を慰労すると涙を流したことであった。
※
晋帝が許昌に着いて数日の後、
晋帝は東海王を
▼「関外侯」は『
▼「冀州牧」は冀州刺史と考えればよい。
それ以外の諸将は軍功によって秩禄を増し、糜晃を
東海王は洛陽を安定させると劉洽の謀を用い、元老や名望ある者を登用して国政を委ね、人心を収めようとした。
劉洽は彼らを登用して輿論を収めようとしたが、これらの者たちはいずれも
※
瑯琊王の
「秩禄を与えるだけならともかく、彼らに政事を委ねてはなりません。必ずや風俗を壊しましょう」
東海王はその言を
「司馬越は大局を知らず、治世の材ではありません。河北は久しからずして乱れましょう。大王は先王の代より江東の鎮守を委ねられております。先王の祭祀に
司馬睿はその言を
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