第三十八回 河間王司馬顒は太白山に走る

 祁弘きこう劉琨りゅうこん郭偉かくいを斬って覇上はじょうの陣を奪い取った。敗れた馬瞻ばせんたちは長安ちょうあんに逃げ戻り、東海王とうかいおうの軍勢の兵威を報告した。

「事ここに至り、和睦は許されまい。危惧したところで無益である。軍勢を率いて藍田らんでんを守り、長安の包囲を阻まねばならぬ」

▼「藍田」は長安の南にあり、藍田関らんでんかんとも言われる。藍田を抜ければ洛陽らくようの西南の上洛じょうらくを抜けて荊州けいしゅう南陽なんようつまりえん襄陽じょうようの間にある新野しんやに到る。東海王の軍勢は長安の東にある覇上に駐屯しているため、南の藍田は長安と覇上を結ぶ線上にない。

 成都王せいとおうが言うと、河間王かかんおうはその言葉をれて張輔ちょうほと馬瞻に五万の軍勢を与え、東海王の軍勢を防がせる。

 翌日、祁弘、糜晃びこう、劉琨は軍勢を三つに分けて進み、張輔の軍勢に糜晃と劉琨が攻めかかる。河間王麾下の諸将は軍勢を分けて糜晃と劉琨の軍勢を包囲せんと図る。そこに祁弘と孫緯そんいの軍勢が斬り込めば、各個撃破されて諸軍は次々に潰走した。

 東海王の軍勢は藍田を抜いたことを祝って軍営で祝宴を張ろうとした。王修おうしゅうがそれを諌めて言う。

「吾らの軍勢は霊璧れいへき劉喬りゅうきょうを破って滎陽えいよう潼関どうかんを抜き、関中に入って覇上と藍田を奪いました。その勢いは破竹の如く、古人も『兵は神速を貴ぶ』と申します。成都王に防備を固める暇を与えてはなりません。夜を徹して長安に迫って敵人の胆を奪うべきです。祝宴を張るなら長安を陥れた後でも遅くはございますまい」

 祁弘はその言葉を聞くと袂を払って言う。

王公おうこう(王修)は正しい。迅雷を聞いてから耳を覆っても間に合わぬと言うとおり、すみやかに進むべきである。張輔たちが軍勢を立て直す暇を与えてはならぬ」

 将兵はその言葉を聞くと、勇躍して軍勢を発した。


 ※


 張輔と馬瞻が長安に逃げ込んだ後、東海王の軍勢も後を追うように攻め寄せてきた。それを見た郅輔しつほが言う。

「東海王の軍勢は進軍を急ぎ、兵法の禁忌を犯しております。城を囲まれれば、そこで一息吐いて付け入る隙がなくなりましょう。包囲を許してはなりません。すみやかに軍勢を出して出鼻を挫くのが上策、大王が自ら出戦されれば将兵の士気も上がります。まずは一戦してその鋭気を阻み、それから計略を行うのがよろしいでしょう」

 河間王はその献策を容れ、成都王とともに城を出て陣を布く。そこに祁弘が到着して対峙した。河間王は自ら馬を進めて祁弘に言う。

「諸王は張方を誅殺して罪を正すとの名目で挙兵し、孤はその罪を知って首級を送り届けた。それでも軍勢を返さず長安にまで攻め寄せるとは、天子を弑虐しいぎゃくせんと欲するか」

「東海王の命を奉じて聖上を洛陽にお迎えし、天子に謁見すれば軍勢を返しましょう。長安を抜こうなどとは考えてもおりません」

 祁弘の抗弁に郅輔が馬を出して言う。

「天子が長安に遷られたのは、洛陽が荒廃して食糧にも事欠くがゆえ。吾が主は仮に長安に奉迎して境内を安寧ならしめた暁には天子を洛陽にお返しするであろう。お前たちが軍勢を挙げて長安まで迎えに来る必要はない」

 祁弘はそれに駁して言う。

「洛陽が荒廃したとは言え、天下の州郡より穀粟が届けられて一月もすれば府庫は満ち足りよう。妄りに天子を遷すには及ばぬ。河間王は長安に迎え、東海王は洛陽にお戻しせんとし、ともに天子のために行ったことではあるが、洛陽に還って宗廟を奉じるのが礼の正しい有り様であろう」

「聖上は此処にあり、吾らには過失も礼を失した行いもない。東海王が迎えに来るには及ばぬ。朝見を望むのであれば、甲冑を脱いで刀鎗を置き、朝見に向かうがよい。軍勢を並べて官兵を脅かす必要はない」

「武帝が開基された国都は洛陽であって長安ではない。お前たちが聖上を長安に遷したに過ぎぬ。その下心は言わずとも知れたこと、それにも関わらずなお妄言を吐くか。聖上を送り出して誅戮を免れるがよい。少しでも遅れるようであれば、城池を打ち破って満城の者どもを尽く誅殺するであろう」

 祁弘の放言を聞いた張輔は怒り、大刀を抜いて斬りかかった。

「匹夫めが無礼にも禁闕を犯そうとするか。誅戮だけで許されると思うな」

「昨日は藍田から必死で逃れたにも関わらず、懲りずに大言を吐くか。腕前の違いを見せてやろう」

 祁弘はそう言って哂うと、鎗を捻って迎え撃つ。刀鎗を交えて二十合を超えるも勝敗を分かたない。河間王に従う樓褒ろうほう刁默ちょうもくは張輔が祁弘に及ばぬと見て取り、馬を拍って加勢に向かう。

 東海王の陣からは糜晃と宋冑そうちゅうが馬を飛ばして阻みに向かい、わずか三合で樓褒が糜晃に討ち取られた。張輔を救うべく刁默が宋冑との戦を棄てて馳せ向かえば、劉琨が陣より飛び出して前を阻む。背後に迫る宋冑との間に挟まれた刁默は、ついに劉琨に斬り殺された。

 その頃には張輔も祁弘の鎗を見に受けて馬下に絶命していた。


 ※


 河間王は麾下の部将が次々と討ち取られるのを見ると、傍らにある郅輔に出戦を命じた。郅輔は諸将の戦死を見て一驚を喫し、にわかに目を見張って河間王を見据えて言う

司馬顒しばぎょう凡夫ぼんぷめが、今日また吾を張方のように殺すつもりか」

 そう言うと、刀を抜いて河間王に斬りつける。河間王が叫ぶ。

郅君翊しつくんよく(郅輔、君翊はあざな)、血迷ったか。早く賊を退けよ」

 郅輔はにわかに自刎して果てた。その頸からは血が流れず、代わって全身の七穴より血が流れ出る。河間王はその死が張方を殺した報いであると思い至り、麾下の部将を喪ったことも相俟って長安を指して逃げ奔る。

 東海王は河間王の軍勢が総崩れになったと観て叫んだ。

「司馬顒をとりことした者に重賞を与える。見逃した者は軍法を以って処罰する」

 河間王はついに長安に入ることを諦めて太白山たいはくさんに逃げ込んだものの、糧秣もなく餓え渇き、木の実を拾って渇きを癒しつつ逃れ去ったことであった。

◆「木の実」の原文は「橡枓ちょと」とされている。橡は栃の木、枓は枡の意であるため、栃の木で作った枡と解されるが、文意と合わない。また、栃の実では渇きを癒せないため、転写の誤りではないかと推測される。

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