十八章 八王呑噬:天地否

第三十四回 東海王司馬越は諸親王を会す

▼章名の「天地否てんちひ」とは六十四の卦辞の一つ。「はこれ人にあらず。君子のていよろしからず。大はきて小が来る」と解される。「人の道が行われず、正しい心の君子は不利な立場に陥り、大人たいじんは去って小人が意をほしいままにする」の意である。


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 晋帝しんてい長安ちょうあんに駕を移してより、東海王とうかいおう司馬越しばえつぎょうでの一戦に敗れ、将兵はほぼ尽き果てて何の手も打てずにいた。佐僚に策を問えば、従事じゅうじ劉洽りゅうこうが進み出て言う。

▼「従事」とは従事中郎じゅうじちゅうろうの略称である。従事中郎は『晋書しんじょ職官志しょっかんしに「諸公及び開府かいふの位公に從いて兵を加うる者、司馬一人、ちつ千石せんせき、從事中郎二人,秩は比千石ひせんせき、~中略~を增し置く」とある通り、司馬に次ぐ地位とされている。高級幕僚と考えればよい。

王修おうしゅう徐州じょしゅう東平公とうへいこう司馬楙しばぼう)に遣わして兵を借りるのがよいでしょう。まずは軍勢を揃えて張方ちょうほうに対抗できるよう備えねばなりません」

▼「司馬楙」は司馬懿しばいの弟の司馬孚しばふ安平獻王あんぺいけんおう)の孫、司馬孚の次子である司馬望しばぼうの三子にあたる。

 王修を徐州に遣わして二ヶ月が過ぎても音信はなく、東海王の焦燥はますます募る。

「憂慮には及びませぬ。東平公が拒めばすでに王修は復命ふくめいしております。事は必ずやなりましょう。早晩に使者が到るはずです」

 劉洽の言葉が終わらぬうちに、門吏が報せて言う。

「東平公の使者の糜晃びこうが五百の軍勢とともに到り、大王を徐州に迎えて事を諮りたいとのことです」

 東海王は糜晃を引見した後に酒宴を設けて歓待し、五百の兵士に賞を与えて労う。その日のうちに劉洽、何倫かりん宋冑そうちゅうたちとともに徐州に向けて発った。


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 東平公の司馬楙は城外まで出迎えると、ともに官衙に入って事を諮る。

王兄おうけいが義兵を起こして張方ちょうほうを討ち、河間王かかんおう成都王せいとおうの不道の罪を問おうとされるならば、弟は徐州の軍勢糧秣を王兄に差し出し、その号令に従いましょう」

「国家を建て直して聖上せいじょうを洛陽にお還しし、先帝の霊に郊祀こうしを奉げることを願うのみ。それゆえ、王弟に兵馬の援助を得てともに国難を平らげんとするものであって、王弟の兵権を奪いたいわけではない」

▼「郊祀」は国都郊外で行われる先祖への祭祀、おおむね天壇に天を祀り、地壇に地を祀るが、それに先祖を配してともに祀る。

「司馬氏の恥を雪いで国家の乱を収める者は、王兄を措いて他にありません。弟は愚かにして義兵を首唱するに足りず、かつ、王兄が徐州に拠らねば衆人の仰ぐところがなく、糾合した軍勢を会するにもままなりますまい」

「それならば、ただ徐州の兵馬の権のみお借りしたい。糧秣や統治は王弟が統べられるがよい」

 東海王がそう言っても、東平公は固く願って譲らない。ついに劉洽と王修が勧めて言う。

「東平公の申し出を仮にお受けになるのがよいでしょう。その上で各地に檄文を発して盟主となり、事がなった後には東平公に徐州をお返しするとともに鎮所を増して功績に報いるのが筋というものです」

 ついに東海王は東平公より徐州を譲り受け、檄文を発して范陽王はんようおう司馬虓しばこう東瀛公とうえいこう司馬騰しばとう幽州ゆうしゅう王浚おうしゅん荊州けいしゅう劉弘りゅうこうと結び、王室をたすけて不道を誅さんと図る。東平公は郡内において兵と糧秣を集めて出兵の準備を進めた。

▼「司馬虓」は司馬懿の四弟の司馬馗しばきょくの孫、司馬綏しばすいの子にあたる。


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 この時、范陽王の司馬虓は、齊王せいおう司馬冏しばけいの死にともなって許昌きょしょうを鎮守しており、鄴を攻めて敗戦した晋帝を成都王が鄴に迎えた際には、鎮東ちんとう將軍の周馥しゅうふくとともに上奏し、晋帝と成都王に次のように勧めた。

「鄴は帝都に適しておらず、宗室の諸親王を和して駕を洛陽に還されるのが上策です。詔を発して王浚の軍勢を幽州に還らせ、王戎おうじゅうを用いて司馬越を親任されるのが安寧への近道というものです」

 晋帝はその上奏を行えず、成都王は聞き入れずに王浚との戦に敗れ、ついに洛陽に逃れたのであった。しかし、河間王は強横の志を逞しくし、その部将の張方を遣わして洛陽を焚き、ついに晋帝を長安に移した。

 それゆえ、范陽王は成都王と河間王を快く思っていない。

 長沙王ちょうさおう司馬乂しばがい麾下に馮嵩ふうすうという者があり、王の死後は范陽王の許に身を寄せていた。

 馮嵩は范陽王の意を測り、間に乗じて言う。

「今や河間王は帝室の傍系であるにも関わらず、帝を脅かして西に移し、張方は成都王を幽閉して権をほしいままにしております。このままにしておけば、必ずや簒奪さんだつを行いましょう。大王の雄略は世に知らぬ者なく、南陽王なんようおう司馬模しばぼ)と兵を会して義兵を起こし、王室をただして国難を平らげられるべきです」

▼「南陽王」の原文は『後傳』『通俗』ともに「南陽王、平昌公へいしょうこう」となっているが、これはともに司馬模を指す。『晋書』孝惠帝紀こうけいていき光熙こうき元年(三〇六)九月條に「平昌公の模を南陽王と為す」という一文があることから明らかである。以降、平昌を含む箇所は重複と見て省略に従う。

「張方は勇猛にしてその勢いは盛んである。義兵を挙げる大事を行うにも、にわかには果たせぬ」

 ちょうどその時、東海王より軍勢を会せよと求める檄文が到来し、范陽王はそれを読むと衆人を集めて事を諮った。

 馮嵩が進み出て言う。

「東海王がついに義兵を挙げられて東平公は徐州を根拠地として譲られるとのこと、実に壮挙であると考えます。檄文がこの許昌に届けられたからには大王も軍勢を揃えて東海王とともに盟主となり、叛逆者を平らげて朝廷を扶けられるべきです。敢えてこの議に異論を挟む者などありますまい」

 范陽王はその言をれて東海王の使者に日ならず軍勢を発するであろうと告げる。即日、馮嵩は命を受けて義兵を挙げる約を結ぶべく南陽に向かった。


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 南陽王の司馬模を前に馮嵩が言う。

「臣は范陽王の命を奉じて大王の許に参りました。ともに義兵を挙げて専権を振るう張方を討ち取り、聖上を洛陽に迎えて九廟に供物を奉げ、晋朝の天下を安からしめることこそ諸親王の務め、ここで義兵を挙げねばついには河間王が簒奪を果たしましょう」

「義兵を挙げて天下を安んじること、誰もが望むところである。范陽王の言は忠義の言というべきであろう。ただ、吾らの軍勢は河間王、成都王の軍勢と比して気勢に劣り、李含りがんの如き謀臣、張方や郅輔しつほの如き驍将を欠く。二王の軍勢は端倪たんげいすべからざる強兵、戦となれば易々と勝利を得られまい」

豫州よしゅう刺史しし劉喬りゅうきょうは国家の安寧を願ってその心は忠、諸事に練達して謀計を善くします。大王が使者を遣わして大義を諭されれば、必ずや義兵に応じましょう。劉豫州りゅうよしゅう(劉喬、豫州は官名)を諸親王に推薦して軍事を委ねれば、張方を打ち破るなど枯木を砕くより容易いことです」

▼「豫州」は『晋書しんじょ地理志ちりしによると、潁川郡えいせんぐん許昌きょしょうが州治である。ここでは范陽王の鎮所が許昌となっており、矛盾する。

 南陽王はその言に従い、親将の夏勇かゆうを劉喬の許に遣わした。

 馮嵩は事が成ったと観ると南陽を発ち、許昌に還ると范陽王とともに軍勢を率い、東海王と会するべく徐州に向かった。


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 河間王と成都王の専権を憎む諸親王は期日までに徐州に会した。

 東海王は糜晃、何倫、宋冑を遣わして諸軍を出迎え、諸親王が会すればそれぞれに国家こっか傾覆けいふくの危難を嘆じて憤らない者がない。

 東海王の司馬越が言う。

「諸親王におかれては孤の鄙言ひげんを聞き入れられ、ついにこの徐州に軍勢を会された。愚見によれば、諸親王の軍勢は大軍であるが、にわかには一体となって動き得ぬ。まずは熟練の将帥を主帥に任じて方略を定め、その後に軍勢を発するのがよかろう」

 南陽王の司馬模が応じる。

「孤も先よりこの一事を懸念している。吾が馮長史ふうちょうし(馮嵩)の薦めるところ、劉豫州(劉喬)は老練の臣であり、かつ、謀計に長じて比肩する者がないという。そのため、親将を遣わして主帥に挙げんと図ったものの、まだ復命を受けておらぬ」

 そこに使者となっていた夏勇が還って言う。

「劉豫州は吾を先行させ、僚属との評議を終えた後に来られるとの仰せです」

 それを聞いた馮嵩が言う。

「悠長に時を過ごすわけには参りません。使者を発して劉豫州に催促し、まずは此処に迎えるのが先決です」

 東海王はその言をれ、檄文を授けた使者を劉喬の許に遣わした。


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 僚属との評議の最中に到った檄文を観ると、劉喬が言う。

「先には南陽王より夏勇を遣わして徐州に軍勢を会せよと言う。今また東海王の檄文が到った。義兵に与するがよいか、与せぬがよいか、諸君の見解は如何か」

 劉喬の子の劉祐りゅうゆうは識見に富み、諸人もこれを重んじていた。その劉祐が答える。

「東海王の心は不仁にして誰もが知る令徳もありません。また、成都王に敗れて将兵を喪い、報復する術がないばかりに義兵を挙げると偽り、聖上を迎えると称して諸親王の軍勢を借り、公事に託して私欲を満たそうとしているに過ぎません」

 劉喬はそれに駁して言う。

「張方が洛陽から長安に遷る際に宮妃を辱めたという事実を名分としている。檄に応じなければ、東海王が張方を破った暁には吾を不忠であると弾劾するであろう」

 劉祐が言う。

「長沙王は聖上に尽忠したものの、ついに東海王の讒言により殺害されました。さらに軍勢を発して鄴を陥れ、成都王をも害そうとして果たさず、敗戦して車駕を敵人の手に委ねたのです。その後、王浚を唆して鄴城を破り、車駕を取り返そうとしたものの、洛陽に逃れた聖上は河間王が遣わした張方により関中に移されました。この禍はすべて東海王が引き起こしたものです。もし、東海王の軍勢が河間王や成都王に並ぶものであれば、すでに簒奪を行っておりましょう。その檄文に応じることは馬から虎に乗り換えるようなもの、久しからずしてその身をも食い尽くされましょう」

 参謀を務める夏恵かけいが同じる。

「公子の言は深く事実に合致しております。さらに、河間王は天子を擁して諸侯を従えております。東海王に従うことは、天子に逆らうことでもあるのです」

 劉喬は眉をひそめて言う。

「東海王の檄文に応じねば、おそらくは河間、成都の二王に通じているかと疑われよう。その時はどのように処するつもりか」

 夏恵が策を案じて言う。

「范陽王は劉琨りゅうこん長史ちょうしとしており、東海王はその子の劉群りゅうぐん淮北わいほく護軍ごぐんに任じており、甥の劉演りゅうえんは鄴に鎮守して弟の劉輿りゅうよ潁川えいせんの太守となっていると聞きます。その罪を挙げて関中の軍勢を引き出せば、吾らに構ってもいられますまい。『羌賊の盧禾ろか馬荷ばかが郡境を侵しているにも関わらず、劉琨は地を棄てて顧みず、劉演は壷関こかんを漢賊に抜かれて抗わず、しかも鄴に拠って司馬越に阿附しております。劉輿も司馬倫しばりんに与して簒奪を勧めたにも関わらず今も要職に就いており、これらの者はその罪を問われておりません』と関中の朝廷に上奏すれば、成都王が軍勢をもって罪を問うこととなりましょう。そうなれば、東海王も吾らに拘泥してはいられません。しんば吾らを攻めたところで、関中の軍勢が背後にあれば、どうして後ろを顧みずにいられましょう。万一、東海王が車駕を洛陽に還し得たとしても、その行いは正しからず、決して永くは保てますまい。東海王に与してはなりません」

 劉喬はついに劉祐の言を納れて関中に上奏文を送り、劉琨一門の過失と東海王の挙兵を報せたことであった。

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