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2018年3月5日 00:22
永嘉六年にあった襄国の戦いの前倒しですな。段部鮮卑の力は強くて、実際に石勒は正面からは勝てず、突門の計略を使っても勝てなかったようです。劉淵も拓跋鮮卑には負けまくりなので、内地に入っていった匈奴や羯は、純粋な騎馬民族にはかなわなかったようですね。意外とイメージと違って、馬を持っていない匈奴の民も多かったかもしれません。この段末杯解放の件は、この時代に珍しく寛容がうまくいった事例ですな。かえって、正義の味方っぽい段文鴦の方が史実では段末杯を殺してでも石勒を討つように進言しており、石勒・張賓の人心掌握の巧みさを感じます。しかし、この段階で石虎はもういたのですね。今回の翻訳で初めて気付きました。
作者からの返信
こんにちは。>永嘉六年にあった襄国の戦いの前倒しですな。枋頭戦もそうでしたが、石勒の山東攻略の時系列を入れ替えた感じですね。それだけに前後との辻褄が合わなくなっています。>内地に入っていった匈奴や羯は、純粋な騎馬民族にはかなわなかったようですね。しかし、これより百年ほど過ぎても、山西の匈奴は歩落稽と呼ばれたり、山胡と呼ばれたり、漢族とは同化していないようです。半農半牧で暮らしていたんでしょうかね。>石勒・張賓の人心掌握の巧みさを感じます。ここで段部を取り込んだことが後々に利いてくるわけですが、それはさらに先の話となります。>この段階で石虎はもういたのですね。石虎の初出は「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」ですね。最後の張賓の献策に王伏都とともに名が挙げられています。
永嘉六年にあった襄国の戦いの前倒しですな。
段部鮮卑の力は強くて、実際に石勒は正面からは勝てず、突門の計略を使っても勝てなかったようです。劉淵も拓跋鮮卑には負けまくりなので、内地に入っていった匈奴や羯は、純粋な騎馬民族にはかなわなかったようですね。
意外とイメージと違って、馬を持っていない匈奴の民も多かったかもしれません。
この段末杯解放の件は、この時代に珍しく寛容がうまくいった事例ですな。かえって、正義の味方っぽい段文鴦の方が史実では段末杯を殺してでも石勒を討つように進言しており、石勒・張賓の人心掌握の巧みさを感じます。
しかし、この段階で石虎はもういたのですね。今回の翻訳で初めて気付きました。
作者からの返信
こんにちは。
>永嘉六年にあった襄国の戦いの前倒しですな。
枋頭戦もそうでしたが、石勒の山東攻略の時系列を入れ替えた感じですね。それだけに前後との辻褄が合わなくなっています。
>内地に入っていった匈奴や羯は、純粋な騎馬民族にはかなわなかったようですね。
しかし、これより百年ほど過ぎても、山西の匈奴は歩落稽と呼ばれたり、山胡と呼ばれたり、漢族とは同化していないようです。半農半牧で暮らしていたんでしょうかね。
>石勒・張賓の人心掌握の巧みさを感じます。
ここで段部を取り込んだことが後々に利いてくるわけですが、それはさらに先の話となります。
>この段階で石虎はもういたのですね。
石虎の初出は「第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」ですね。最後の張賓の献策に王伏都とともに名が挙げられています。