第二十九回 段末杯を釈いて遼西に帰す

 遼西りょうせい段末杯だんまつかいたちは王浚おうしゅんを助けて襄國じょうこくの救援に向かった。しかし、張賓ちょうひんが計略により夜陰に乗じて城壁に十数か所の穴を穿うがち、そこから城外に出た漢軍がにわかに軍営を襲って火攻めを行い、酩酊した段部の将兵は熟睡して気づきもしない。軍営を駆け回って将兵を叩き起こし、ようやく目を醒ました頃には漢兵は目前に迫り、軍営は炎に捲かれて紅に染まっていた。

 段文鴦だんぶんおうは真っ先に駆け出たところで張敬ちょうけいに出遭い、二人は燃え上がる軍営の中で斬り結んでたちまち二十合を超える。

 この時、段疾陸眷だんしつりくけんが加勢に向かおうとするも、廖翀りょうよく范隆はんりゅう桃虎とうこに阻まれて先に進めない。段末杯が自ら漢兵に向かおうとすれば、張實ちょうじつが矛を捻って斬り止め、五合を過ぎぬうちに汲桑きゅうそうが飛ぶように駆けて来る。

 石勒せきろくは晋の救援が来ないと観ると、上党じょうとうの諸将を率いて段部の軍勢に攻めかかった。

 汲桑は一散に段末杯を目指して進み、大斧を挙げると馬の頸を斬り落とす。段末杯はたまらず馬から投げ出され、汲桑は振り切った大斧を返してその首級を狙う。

「斬り殺してはならぬ。生きながらとりことせよ」

 張實がそう叫ぶと、汲桑は大斧の柄で段末杯を突き飛ばしてついに擒とする。

 段末杯が擒とされたと知らぬ段疾陸眷は、死戦をつづけて軍列を支えたものの、石勒に突き破られて逃げ奔る。段文鴦もまた張敬と孔萇こうちょうに斬りたてられ、夜陰に乗じて逃れ去った。

 段部の軍勢は北の渚水しょすいの北岸まで逃れて敗卒をまとめると、一戦に一万を超える将兵を喪っていた。

「主帥(段末杯)がまだ着いておらぬ。軍勢とともに殿後を務めているのであろうか」

 段疾陸眷が言うところに敗兵が逃げ戻って言う。

「すでにすべての軍勢が到着しております。先に漢賊の歩将があり、その身の丈は一丈(約3.1m)ばかり、百斤(約60kg)を超えるであろう大斧を手に主帥の乗馬を斬り殺し、生きながら擒として引き返していきました。その歩将は姓名を汲桑と名乗っておりました」

 それを聞いた段疾陸眷は大哭だいこくし、王浚を罵って言う。

「奸猾の老賊めが。襄國を奪い取らんと吾らを誑かし、吾らはお前のために力を尽くした。それにも関わらず、軍営を燃やされて炎は天を衝いて百里の外まで見えたであろう。何ゆえに救援さえせぬのか」

 ちょうど間諜が戻って言う。

「王総管(王浚)は漢兵に軍営を攻められると、軍営を棄てて幽州に逃げ戻ったようです」

「不義の賊め、吾らの力を借りて勲功をなさんとしながら、難事に臨んで救わず、あまつさえ吾らを棄てて逃げ出すとは。どこまで人を裏切れば気が済むのか」

 段疾陸眷は段文鴦に向かって言う。

「王浚は信ずるに足りぬ。もし敗戦しても踏み止まるようであれば、まだ合流して進退を議することもできたが、彼奴は吾らを棄てて顧みぬ。王浚に与したところで無益であろう。むしろ、石勒と好誼を結んで段末杯を取り戻し、王浚とは断交するのがよかろう。お前の意見は如何か」

「妥当だろう。王浚に義理立てして吾が家の豪傑を喪うなど割りに合わぬ」

 段文鴦が同意すると、段疾陸眷は襄國に使者を立てるべく、気の利く軍士を三人ばかり呼び寄せた。


 ※


 段部の軍士は襄國の城下に到ると声高に叫んで言う。

「漢の将兵たちよ、矢を放つな。吾が将軍の段疾陸眷、段文鴦の命を受けてせき都督ととく(石勒)に段末杯の助命を願いに参ったのだ。明日には吾が将軍が自ら城下に到ってその命をあがないたい。都督におかれては智仁の心により救命の徳を開かれんことを。願いを聞き入れて頂けるならば、吾が将軍は厚く報いるであろう」

 城壁上にある兵士たちはその言葉を聞くと、本営に駆け込んで告げ報せた。

「お前たちは引き返し、『明日の辰の刻(午前八時)に自ら此処に来て相見えよ。遅れるようであれば段末杯を梟首きょうしゅにして平陽へいように捷報を発する』と申し伝えよ」

 兵士が城壁より張賓の言葉を伝えると、段部の兵が言う。

「謹んでお言葉に従おう。吾らはこれより陣に戻って吾が将軍にお伝えする。約したからには変心されぬように」

 そう言うと、軍士は渚水河畔の陣に引き返し、張賓の言葉を段疾陸眷に伝えた。

「それならば、石勒と張賓には吾らと和を結ぶ心があろう。すでに夜は明けんとしておる。すみやかに此処を発して約を違えてはならぬ」

 段疾陸眷はそう言うと、参軍の秦紳しんしんに書状を授けて先行させ、自らは段文鴦をはじめとする将佐とともに礼物を奉じて襄國に向かった。

 秦紳が襄國に着いた時にはまだ辰の刻になっておらず、まずは城内に入って言う。

「将軍(段疾陸眷)と先鋒(段文鴦)も時を移さず到着されますが、先に礼物の目録を献上すべく吾を遣わされました」

 呈された目録をひらいて見れば、金寶きんぽう蕃錦ばんきん異鎧いがい犬馬けんばなどの物が並び記されている。それにつづいて次の一文が記されていた。

「願わくば、段末杯の幼弟を質に留めて好誼を結ばせて頂きたい。段末杯が解放されれば、吾らは永く好誼を結んで裏切りませぬ。遼西に帰還した後も王浚とは断交して二度と彼に加勢せず、都督の要請があれば、協力を惜しむことはございません」

「ご苦労でした。賓館に入ってしばらくお待ち下さい。協議の後に礼物を受け取らせて頂こう」

 石勒は秦紳を労って言うと、石虎せきこを監視役として賓館に引き取らせた。この秦紳は名望ある漢人であり、それゆえに石勒は礼遇したのである。

 秦紳が退いた後に諸将を集めて事を諮った。

「段末杯は遼西りょうせい鮮卑せんぴ、その心腹は測りがたい。また、北辺の大患でもある。王浚に加勢して襄國に攻め寄せ、幸いに軍営を踏み破って擒としたものの、軽々しく解き放つわけにはいくまい。後日の憂いとなる虞もある。見せしめに斬刑に処するのが妥当であろう。万一、吾らが段末杯に擒とされた場合、解き放つことなど絶えてあるまい」

 諸将が口々にそう言うと、張賓と楊龍ようりゅうが口を揃えて駁する。

「遼西鮮卑は戦に長けた部族、将兵の多くは勇敢であり、吾らとの間に仇讐きゅうしゅうを結んではおらぬ。また、匈奴五部とともに北辺にある一族でもある。この襄國攻めに加わったのは王浚と姻戚であることにより背けなかったのであろう。彼らの本心ではない。段末杯を殺せば、吾らと遼西鮮卑は深仇を結ぶことになる。段部の一族は各地に広がっており、段末杯を殺したところで勢威が弱まるわけではない。彼らの願いとおりに段末杯を解放して好誼を結べば、段部の一族は必ずや吾が大漢の徳に感じてこれより先に王浚を助けることはあるまい。王浚も段部の軍勢を動かせなければ翼のない鳥に同じく、高く飛ぶことはもはやできぬ。段末杯を殺せば、段部は王浚とふたたび結んで吾らを阻むであろう。そうなれば、戦いは終わることなく河北を収めることなど到底できまい。段末杯を解き放てば吾らの幸いとなり、段末杯を殺せば王浚の幸いとなる。このことをよくよく考えるべきであろう」

 それを聞いた石勒が意を決して言う。

張孟孫ちょうもうそん(張賓)と楊元化ようげんか(楊龍)の言は大事の論というべきであろう」

 ついで秦紳を召し入れると、礼物の目録を受け取って祝宴を設けた。しばらくすると、兵士が駆け込んで段部の到着を報せる。石勒は張賓に命じて秦紳とともに段部の軍中に向かわせ、段疾陸眷と盟約のことを論じさせる。段疾陸眷と段文鴦は白馬を殺し、その血を張賓と啜って誓った。

「結んで兄弟となって互いに境を侵すことを許さず。約に背いて誓いを違えることを許さず。ふたたび王浚に与して兄弟の和を損なうことを許さず」

 誓いが終わると、二人は賓客の礼に従って張賓を城に送り返した。石勒は張賓、石虎、王彌、楊龍、段末杯と馬を並べて城を出る。

 城外に宴席を設けると段疾陸眷と段文鴦をはじめとする段部の諸将を招いて酒盃を交わす。ついで、石虎に命じて段文鴦を結拝させた。これより石勒と段部は故旧の如く結び、段部の一族は石勒の恩徳に感じて心を寄せる。

 この後、段部と断交した王浚の威勢は日に日に衰えたことであった。

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