第二十四回 石勒は張顕と戦う

 石勒せきろく渤海ぼっかいに入ると攻城の策を諮り、張賓ちょうひんが言う。

「まだ大郡を攻めるには時機尚早です。このあたりは劉琨りゅうこん王浚おうしゅんの鎮所に近く、これらは鮮卑せんぴ拓跋部たくばつぶ段部だんぶと結んでいます。城を攻めれば合力して防ぐのは必定、さらに吾らには糧秣の不安もあります。一戦に城を下せばともかく、城攻めに手間取れば劉琨たちが援軍を発し、にわかに苦境に陥りましょう。廣平こうへいの各地では麦が熟しております。諸将を遣わしてこれらを収め取れば糧秣の憂えはありません。その後に城攻めを行うのがよいでしょう」

▼「渤海」が冀州きしゅう北部にあることはすでに述べたとおり、また、冀州北部は王浚の根拠地である幽州ゆうしゅうからは近いが、劉琨の根拠地である并州へいしゅうとの間には太行山脈がある。

 この献策により孔萇こうちょう桃豹とうひょう張曀僕ちょういつぼく支屈六しくつりく吳豫ごよ趙鹿ちょうろくの諸将を冀州きしゅう北部の各縣に遣わす。あわせて張敬ちょうけい王如おうじょ趙染ちょうせん范隆はんりゅう牢城ろうじょうに遣わし、糧秣を確保した。

 これらの捷報しょうほう平陽へいように発すると、それを受けた漢主の劉淵りゅうえんは戦功をよみし、石勒を都督ととく幽冀営并雑夷征討諸軍事ゆうきえいへいざついせいとうしょぐんじに任じて上黨郡侯じょうとうぐんこうに封じた。

 晋将の游綸ゆうりん張豺ちょうさいは五万の軍勢を擁しており、漢兵が牢城を攻めたと聞いて救援に向かった。城に到る前にその失陥を知って軍勢を返そうとしたところ、張敬たちの軍勢に捕捉されて対峙に入る。石勒が王彌とともに牢城に向かったと知り、張豺はそれを防ぐべく軍勢を分かつ。張賓は自ら晋の陣に入って説諭し、游綸と張豺を説き伏せて降らせた。

 降兵を加えた北路の軍勢は二十万に達し、ついに渤海に軍を向ける。


 ※


 渤海太守の張顕ちょうけんは、魏に仕えた張遼ちょうりょうの孫にあたり、その弟に張榮ちょうえいという者があって督護を務める。二人は勇略があり、張顕は三百斤(約179kg)の強弓を引き、弟の張榮は同僚と力比べをして八百斤(約477kg)の鉄獅子を挙げたことがある。二人が周囲の盗賊たちを威圧したことにより冀州北部は安寧にあった。

 漢兵が渤海に向かったと知り、張顕は僚佐を集めて方策を諮る。その席で参軍さんぐん邵祿しょうろくが進み出て言う。

「漢賊は隣縣を落として攻め寄せており、その鋭気は盛んでありましょう。軽々しく城を出て戦ってはなりません。濠を深くして塁を高くし、城池を堅守するとともに朝廷に急を告げ、救援を求めねばなりません。あわせて人を青州せいしゅうに遣わして刺史しし苟道將こうどうしょう苟晞こうき、道將はあざな)にも救援を求めるのです。青州の援軍を得られれば、渤海は易く保たれましょう」

 それを聞いた張顕が言う。

「朝廷は乱を避けて洛陽らくようから関中かんちゅうに遷られた。禍乱が各地に起こっておる上に諸親王は和を保てず、救援を求めたところで頼みとはできまい。かえって孤城で窮塞きゅうそくすることになりかねぬ」

 張榮もそれに同じて言う。

「お言葉のとおり、援軍を頼みとはできますまい。軍勢を発して高陽関こうようかんを塞ぎ、攻め寄せる漢賊と一戦すべきでしょう。平生の武勇を表せば漢賊を城に寄せ付けません。万一、城を囲まれれば衆寡敵せず、坐して樊籠はんろうを守るというもの、武威を表すこともできますまい」

▼「高陽関」は『宋史』地理志の河北西路順安軍には宋の神宗の熙寧六年(一〇七三)に瀛州えいしゅう高陽縣に高陽鎮を置いたという記事があり、それを想定していると思われる。

▼「樊籠」は鳥籠の意。

 張顕はその言をれて高陽関の守りを固めるべく軍勢を発した。


 ※


 漢賊の進軍は思いのほか早く、高陽関に入る前に攻め寄せてきた。張顕は軍勢を率いて山を下り、平地に陣を布いて対峙に入る。漢軍を率いる石勒は自ら陣頭に立つ。その姿は頭に金兜を頂いて黄金の鎧を身に纏い、三尖の大桿刀だいかんとうを手に駿馬を駆る。

「今や晋の命数は尽きんとし、愚者も智者も等しくそれを知っておる。干戈を投じて漢に降れば、上は封侯の位を失わず、下は身体しんたい髪膚はっぷを損なうこともない。吾らの軍勢を拒まんとしたところで援軍もなく、自らとがを求める愚行は止めておくがよかろう」

 石勒の言を聞いた張顕は哂って言う。

「吾ら兄弟はお前たち漢賊と戦って全力を尽くすこともない。援軍など考えもせぬわ。恩に叛く賊虜ぞくりょが大言して天朝の官将を侮るとは無礼であろう」

 言うや鎗を捻って漢の陣に向かい、石勒に攻めかかる。石勒も刀を抜いて迎え撃つ。二人の馬が力を比べて一来一往し、戦は五十合を過ぎても勝敗を見ない。馬蹄ばていが挙げる塵埃じんあいは日を蔽ってかげらせ、砂地に脚をとられて馬も自由に駆け回れなくなる。

「互いの馬が疲れては存分に戦えぬ。吾を畏れなければ馬を換えて再戦せよ」

 張顕の言葉に石勒が言う。

「お前が逃げ出さなければよいがな」

「大丈夫が敵にあたって背を見せるはずもない」

 ついに二人は陣に還って馬を換え、再び陣頭に立って戦に入る。石勒の勇猛と張顕の老練はいずれも甲乙付けがたく、さらに四十合を戦って勝敗を決さない。それでも二人は戦を棄てず、天は暮れて日が沈まんとするに至り、ようやくそれぞれの陣に退いた。


 ※


 石勒は陣に還ると諸将が労い、張賓が言う。

「張顕の武勇を讃える者は多く、それは事実だったようです。都督(石勒)が出戦せねば、食い止めることは難しかったでしょう」

 張賓の言葉を聞いた王彌が不満げに言う。

「軍師は諸将を軽視される。吾が五十合のうちに張顕をとりことできなければ、ないがしろにされても抗弁すまい」

「そうではない。計略によって張顕を擒とすれば、必ずや敵を破れよう。張顕を討ち取るには飛豹ひひょう(王彌、飛豹は綽名)が適任であろう。しかし、擒とするのであれば、張顕は与し易い敵ではない。計略を議して行うべきであろう」

「どのような計略によって張顕を擒とするのか」

「すでに一計を案じている。虎を引いて林を出るの計略によれば擒とできよう。この高陽関の傍らにある鳴石山めいせきさんの西麓は、道が平坦でその両側が峻険な崖になっている。この地形を利用するのがよい。明日、飛豹と張敬は二軍を率いて東麓の渤海に向かう道上に伏せ、汲民徳きゅうみんとく汲桑きゅうそう、民徳は字)は五千の軍勢を率いて東路の伏兵に加勢し、張顕を渤海の城に向かわせるな。趙文翰ちょうぶんかん(趙概、文翰は字)と文勝ぶんしょう(趙染、文勝は字)の兄弟は一万の軍勢とともに鳴石山の西麓に伏せ、張實ちょうじつ呼延模こえんぼも同じく一万の軍勢とともに南麓に伏せよ。南麓は要地であるがゆえ、孔世魯こうせいろ(孔萇、世魯は字)と桃子威とうしい(桃豹、子威は字)は五千の軍勢を率いて後詰となれ。楊元化ようげんか(楊龍、元化は字)と廖鳳起りょうほうき廖翀りょうよく、鳳起は字)は一万の軍勢とともに鳴石山の北麓に伏せよ。これらの三路は高陽関に向かう道上にあり、用心して張顕を逃げ込ませるな。東麓の隘路は東郡とうぐんに通じており、すでに計略を施してある。南麓の道は高陽関に通じているが、晋兵が屯している。西麓と北麓の二路は晋の将兵は重視しておらず、兵を伏せるのも難しくない」

▼「東郡」とは通常、延壽津えんじゅしんの南にある滑臺城かつだいじょうを言う。延壽津は棘津きょくしんの下流の黄河南岸にあり、渤海からは遥か南にあたる。また、渤海郡の郡治である南皮は清河の東岸にあって東に向かえば海に到る。よって、渤海付近から東に向かって東郡に到るような道はあり得ない。

 張賓は諸将への指示を終えると、さらに范隆、刁膺ちょうよう、吳豫に五千の軍勢を与えて孔萇と汲桑の加勢を命じる。これは、張顕兄弟が東に逃れた際にそれを阻む王彌と汲桑を助けるためであった。

「都督(石勒)は旧によって軍勢とともに張顕にあたって頂きます。戦がたけなわとなれば、偽って敗れたように装い、張顕を誘って鳴石山の西麓の伏処に誘い込むのです。支屈六は三百の兵とともに山頂の南側に伏せよ。張曀僕も同じく三百を率いて山頂の北側に伏せよ。都督を追撃する軍勢が到れば、合図の号砲を挙げるのだ。合図を聞けば伏兵は四面より発して張顕を襲え。必ずや擒とできよう」

 石勒はその計略に従うこととし、命を受けた諸将はうべなって伏処に向かったことであった。

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