第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る

 北路の先鋒に任じられた石勒せきろくは、軍勢を発して黄河を渡るべく棘津きょくしんを越えようとしていた。

▼「棘津」とは、ぎょうから南に安陽あんよう蕩陰とういん朝歌ちょうかを越えた先にある黄河の渡し場である。このあたりは渡河が容易であったらしく、棘津の西には延津えんしん、別名「霊昌津れいしょうしん」があったことは『続三国志』に詳述した。そもそも平陽へいようを発して黄河を越えるには南に向かわざるを得ず、北路を任された石勒がどのような進軍路を経て棘津の南岸に到ったかは不明である。ちなみに、石勒は史実でも枋頭ほうとうを抜いているが、この時は、河南かなん葛坡かつはから北上して黄河南岸のえんに到り、そこから棘津を渡っている。

 その棘津の北岸は晋の軍勢に厳しく固められており、渡し場には土塁と柵が廻らされて城の如く、向氷しょうひょうという晋将に率いられているらしい。石勒は周囲の船筏を掻き集めようとして使える物がなく、数日に渡って軍を止めざるを得ない。

 諸将に諮ると、主帥の王彌おうびが言う。

「上流の枋頭で渡るのがよいだろう。必ずしも棘津を破るには及ばぬ」

 張賓ちょうひんがその意見に同じる。

飛豹ひひょう(王彌、飛豹は綽名)の言うとおりであろう。向氷が棘津を堅く守っているが、その兵糧は枋頭にある。此処に一軍を置いて敵を誘い、時機を測って挑発し、場合によっては黄河を渡る形勢を見せれば、向氷は思惑とおりに事が進んだと喜ぶ。その裏で密かに一軍を遣わし、文石津ぶんせきしんの渡し場を奪って枋頭を抜けばよい。それを知れば向氷も軍勢を返さざるを得ぬ。その隙に精鋭を発して棘津を抜き、その後に大軍を渡らせれば遺漏はあるまい」

▼「文石津」は棘津に近い黄河の渡し場であるが、詳細は不明。なお、『晋書』石勒載記によると、成臯せいこうを出て倉垣そうえんを囲み、そこで敗れて文石津に軍勢を留めたという記述があり、倉垣の付近にあったかと思われる。

 石勒はその言に従い、廖翀りょうよく孔萇こうちょう支屈六しくつりく鮮于豐せんうほうの四人に四千の鉄騎を与えて文石津に遣わし、筏を並べて河を渡り、枋頭に向かわせた。あわせて王彌は小船を造らせ、晋軍に間諜を送り込む。

 三日を過ぎず、孔萇たちは文石津を渡って枋頭に向かい、晋の斥候はそれを知って向氷に告げ報せる。向氷はすぐさま棘津を捨てて枋頭に軍を返し、それを知った王彌は汲桑きゅうそうとともに対岸の船筏を奪うべく下流の渡しを小船で渡る。

 汲桑は小船から飛び出して晋兵に襲いかかり、斧を振るって斬り散らす。王彌も小船を揃えて矢を射放つ。棘津を守る晋兵は残り少なく、汲桑の暴勇を支えきれない。ついに棘津を捨てて逃げ走った。

 王彌は船筏を連ねて浮き橋を組み、対岸にたむろする軍勢を渡らせる。黄河を渡った軍勢は酸棗さんそうに軍営を置いた。

▼「酸棗」は黄河の南岸にある。『資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注によると、枋頭の地名は曹操そうそうが北から黄河に流れ込む淇水きすい白溝はくこうに流れ込ませるために造った水門からその名があり、北岸にあることは疑いない。よって、河を渡って枋頭を攻めた以上、石勒は南岸にいなくてはならない。その石勒が黄河を渡って南岸の酸棗に軍を屯したという記述は矛盾しており、解しがたい。

 一方、孔萇たち四将は向氷の軍勢に阻まれて動くに動けずにいた。それを知ると、石勒は楊龍ようりゅうと王彌を救援に遣わす。鮮于豐は王彌の軍勢の到着を見て廖翀に言う。

「吾らは敵に阻まれて枋頭を降せずにいる。棘津からの救援に功績を奪われては、何の面目があって顔を合わせられよう。これより枋頭を抜いて首功を挙げねばならぬ」

 馬を拍って晋の軍列に斬り込めば、向氷が鎗を捻って前を阻む。一来一往して戦うこと三十余合、鮮于豐は鎗先を乱して向氷に討ち取られる。孔萇は怒って向氷に向かおうとするも、楊龍の軍勢が横ざまに晋軍に突っ込んだ。向氷は鮮于豐を討ち取った勝勢を駆って楊龍を防ぎ止めようと図るも、一刀の下に斬り殺された。

 孔萇と廖翀が軍勢を差し招いて晋兵に攻めかかると、主帥を喪った晋兵たちは支えきれず、鄴城ぎょうじょうを指して逃げ奔る。

 ついで枋頭を攻め落とすと、石勒は酸棗の軍営を枋頭に移した。


 ※


 敗卒たちが鄴城で枋頭の失陥を報告すると、壷関こかんから逃れた劉演りゅうえんは愕いて言う。

「枋頭は東北の要地、それを奪われたとなると、漢賊は次にこの鄴か渤海ぼっかいを狙ってくるであろう」

▼「渤海」は冀州きしゅうの北、南皮なんぴのあたりを指す。枋頭を奪われるとその北にある鄴が危うくなることは正しいが、渤海まで危うくなることはない。大郡を考えれば、陽平ようへいを抜けて冀州の信都しんとを陥れる危険を考えるべきであろう。

 劉演は牟穆ぼうぼく林深りんしんの二将に命じた。

「漢賊どもが枋頭に拠ったという。必ずやこの鄴城を陥れんと図るであろう。一万の軍勢とともに黄崗こうこうに拠り、漢賊を阻んで鄴に向かわせるな」

▼「黄崗」とは、鄴の南東にある黄澤こうたくのあたりを指すものと推測される。

 二将は二千の軍勢を先発させて黄崗に柵塁を置かせ、自らは八千の軍勢を率いてそれに続く。

 枋頭を発して北に向かった石勒は、黄崗の柵塁を見ると先頭に立って斬り込まんとした。その時には王彌の軍勢がすでに晋兵にぶつかっており、牟穆と林深の二将は王彌を挟んで討ち取ろうと図る。王彌の弟の王如おうじょが加勢に向かい、四将が戦うこと二十合を過ぎずして晋の軍列は総崩れとなった。

 歩兵を率いる汲桑が大斧を手に晋兵に向かい、伍丁ごてい力士りきしが山を切り開くかの如く、立ち向かう晋兵を真っ二つに断ち割っていく。

▼「伍丁力士」は道教神話中における神将を指す。

 牟穆と林深はそれを見て逃げ出し、ついに黄崗の軍営を堅く守って一歩も出なくなった。

 王彌と張敬ちょうけいは勝勢に乗じて追撃せんと図ったものの、張賓がそれを止めると石勒に言う。

「晋将たちの勢はすでに窮している。大軍で攻め寄せればますます堅く守るだけであろう。それでは戦が長引き、この辺りの百姓の暮らしも立ち行くまい。廖翀を遣わして説諭させるのがよかろう。投降するならば刃を血塗るにも及ばぬ」

 石勒はその言をれて廖翀を黄崗に遣わす。廖翀が利害を説いても、二将は黙して答えない。

「お二人は劉演の命によって此処に来られたのでしょう。しかし、軍勢を進めて枋頭を奪回できず、黄崗も吾が軍勢に囲まれては風前の灯火、いずれにせよ罪は免れますまい。吾が漢主は恩威ともに備わり、向かうところに敵はありません。日ならずして黄河の南北はすべて大漢に帰しましょう。ともに漢をたすけて勲功を建てれば、永く富貴を保たれましょう。迷妄に陥って生命まで落とされるには及びますまい」

 廖翀が勧めると、ついに牟穆と林深は枋頭に到って石勒に降った。石勒が鄴城への郷導きょうどうを命じると、鄴城を攻めることを願わない二人は言う。

「鄴城は洛陽に近く、中原の重鎮です。城郭は堅固で軍勢糧秣ともに備わっており、にわかには攻め落とせません。また、太尉たいい劉琨りゅうこんもこの地を重視して甥の劉演を遣わしています。鄴城を攻めれば必ずや救援に向かうでしょう。さらに、驍将の公師藩こうしはんは鄴を離れて洛陽らくようにあり、これも事があれば軍勢とともに引き返して参ります。鄴城攻めは時機尚早と申し上げざるを得ません」

 それを聞いた張賓が言う。

「言うとおり鄴は中原の要衝、晋朝も易々と譲りはしますまい。また、劉琨は鮮卑せんぴ段部だんぶ王浚おうしゅんと結んでおり、鄴を攻めるには後顧の憂いがあって必勝を期しがたい。まずは牢城ろうじょうを奪って積まれた糧秣を奪うのがよいでしょう。その後、北に向かって幽州ゆうしゅう并州へいしゅうを落とせば、後顧の憂いはありません。これが齊の桓公かんこうと晋の文公ぶんこうの大略というものです。さらに言えば、九州は鼎の沸騰するが如く、各地で戦乱が起こって人は縦横して常ならず、人心は一朝に変じて定まりません。よく天下を制するには地を得るに過ぎるはございますまい。山東の渤海や襄國じょうこくはいずれも趙の旧都、山に拠って険に付く形勝の地にして六国と天下を争った基です。観るところ、劉永明りゅうえいめい劉曜りゅうよう、永明はあざな)は都督(石勒)と並び立たず、いずれは覇を競うこととなりましょう。彼は勇猛にして漢の宗族、衆人は忌憚きたんしております。まずは、その嫉妬を受けぬように意を払わねばなりますまい」

▼「牢城」は『後傳』『通俗』ともに「罕城かんじょう」とする。『元和郡縣圖志』巻十五の邢州に引く同文では「牢城」としており、それに従う。所在地は不明。

▼「趙の旧都」というが、戦国時代の趙の国都は建国から滅亡まで邯鄲かんたんにあった。ここでは、趙の主要な城邑であったと解するのがよい。

「劉曜は勇敢であっても粗暴に過ぎる。吾が劣るとは思わぬが、注意するに越したことはなかろう。孟孫もうそん(張賓、孟孫は字)が吾を惜しむ心があるならば、どのように処するべきか示教するところがあろう」

 石勒が言うと、張賓が声を低める。

「都督(石勒)は天涯孤独の身となっても上党じょうとうに義兵を集め、洛陽で石大夫せきたいふ石莧せきけん、石勒の養父)の仇を討たれて漢主に与し、魏郡ぎぐんに糧秣を送って大軍を救い、霊昌河れいしょうかに奇功を挙げてその名声は諸将に過ぎます。お二人の兄上(趙概ちょうがい趙染ちょうせん)に比しておさおさ劣らず、まして余人には比肩する者もありません。それゆえに漢主も北路の先鋒に抜擢されたのでしょう。その福徳もこれまでの勲功によるものです。この軍行にあってはまず渤海と襄國の二郡を奪い取り、さらに邯鄲を押さえねばなりません。石季龍せききりゅう石虎せきこ、季龍は字)と王伏都おうふくとにそれらの地を委ね、後日の根拠地とされるのがよいでしょう。都督におかれては漢主より征討の詔を授けられておられます。まずは勲功を挙げて漢主の心を獲り、その後に假節を下して山東の鎮守を委ねられるよう願い、麾下の諸将とともに朝命を待って兵を練るのです。一朝に詔を得れば、諸将に奇略を授けて各地を攻略し、能力ある者を登用して賢人に職を任せ、弱を兼ねて昧を攻めれば、群凶は自ずから滅んで天下は安寧となりましょう」

 石勒はそれを聞くと張賓に謝し、渤海に向けて軍勢を発したことであった。

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