応援コメント

第二十三回 石勒は計にて枋頭を取る」への応援コメント


  • 編集済

    ここの石勒と張賓が後のターニングポイントと聞いて、こちらを熟読することにしました。この段階では王彌を指揮しているような描写はあれども、石勒は先鋒に過ぎなかったので、劉曜との北漢における功争いに勝ち、生き残るための戦略程度と思っていたので、それほどまで重要とは思っていなかったのですが、後の後趙の自立に至る重要な発言だったのですね。

    かなりの説明不足を補って、想像をたくましくすると、
    ①張賓は、大会戦の最後に自分たちの命令を聞かなかった王彌・劉霊・劉曜に物足りなさを感じ、特に劉淵の宗族でありながら、手柄争いを行う嫉妬深い劉曜を忌避している。
    ②その反面、それに加わらなかった石勒に強い将来性を感じ、肩入れしている。元々、石勒自体はぐれたとはいえ、逃亡の時は同じグループであり、親近感がある。さらに、生き残り、新たな将や軍をつれて戻ってきたことに感嘆し、惚れ込んでいる。
    ③張賓は元々から、ドライなところがあり、漢の復興について多少醒めたところがある。石勒>劉聡と見ている時点で乗り換えることに余り躊躇しない。ましてや、進言を聞かない可能性が高い劉曜と組みたくない。
    ④そのため、大会戦の時は石勒の参謀だった姜発からその軍師の地位を譲り受けるように工作し、ここだけは変更させている。
    ⑤それで、この北路の軍も王彌の立場を弱くして、(王彌には「飛豹」、石勒は「将軍」と呼ぶ)、張兄弟・趙兄弟・汲桑・十四悍も同調したため、王彌は主帥を譲らざるを得なくなった。そのため、内心ではこれを不服として同調した楊龍を連れ、分離して活動することにした。
    ⑥王彌と分離した石勒・張賓はなおさら、自立のための活動をすることにした。張賓と長い付き合いである劉淵・諸葛宣于は多少の不審を感じながらも、信じがたいこともあって刺激しないように様子を見ている。

    この後の流れも含めて、このような感じでしょうか。ちょっと、ここは作者としては余り詳細に書きたくないところであるでしょうね。張飛・趙雲を称揚するどころか、貶めかねない部分ですから。

    追伸
    詳細な解説ありがとうございました。酉陽野史のただのミスとした方が後々の内容とつながるので、そちらの方がよさそうですね。劉霊と王彌は主帥には心許なく、新入りとはいえ、あれほどの勝利をあげた劉曜・石勒の統率力には及ばないでしょう。なんといっても両人には腹心がいて、劉淵・張賓に目をかけられています。

    >王彌が分離する過程がまったく不明
    三国志後伝でも全く同じく不明でしたね。
    張賓が「都督但且慢起,遣使先催王彌將所部三萬人馬去會劉永明,只說我等隨後就發,待其試進,我看緩急而行,豈不兩美乎?」と話しているところから、独断専行しても許可を得て分離したにしても、完全な信頼関係はないですね。その後、王彌が石勒に相談しようとしたり、命令を疑うことなく軍を進めていることを見ると、後者っぽいです。

    人格と軍略はともかく、酉陽野史は、「王彌は粗暴だが、忠臣」、「石勒と張賓は才覚優れるが忠誠心は低い」とキャラつけしているのだと思われます。

    >後段のことを考えるとけっこう悲しいすれ違いです。。。
    そうですね。劉曜は、史実で見ても「本心では自負と主将・宗族(あるいは皇帝)の権威のために諫言に従いたくないのだが、自分が間違っていると認めた時にはできるだけ心を曲げて従うようにしている」のがありありと分かるので、親近感が湧きます。利益のためなら、比較的簡単に従える石勒の方が遠い存在ですね。

    作者からの返信

    【追伸を受けて】

    〉酉陽野史のただのミスとした方が後々の内容とつながるので、そちらの方がよさそうですね。

    そうですよね。
    いずれは▼付きで改めてしまおうかと考えています。今のままでは読む人は石勒と王彌の関係を見て?ってなりそうで、よくないなあ、と。


    〉三国志後伝でも全く同じく不明でしたね。

    ご教示ありがとうございます。
    やはり後伝も不明ですか。。。
    まあ、枝葉ではありますから、
    仕方ないですね。


    〉「王彌は粗暴だが、忠臣」、「石勒と張賓は才覚優れるが忠誠心は低い」

    本作に入ってから顕著になってきました。前作の蜀漢遺臣が一丸となった際の盛り上がりは望めませんが、それぞれの人物が自律的に動き出したとも言えるかもしれません。
    ただ、振り返れば自律の起点が大戦最後の四将の独断専行にあるのは確かで、あのあたりも書き込み不足の感は拭えないですね。


    〉劉曜は、史実で見ても「本心では自負と主将・宗族(あるいは皇帝)の権威のために諫言に従いたくないのだが、自分が間違っていると認めた時にはできるだけ心を曲げて従うようにしている」

    劉曜には「普通の人」の面があるわけですね。
    石勒は劉邦を敬愛して諫言に流れるように従う、完璧超人みたいな印象があります。石勒には全幅の信頼を寄せられる張賓がいたというのも大きそうですね。。。





    こんばんは。
    詳細なご検討ありがとうございます。

    ほぼ同じような脳内設定ですが、少々違うところもありますのでちょっとまとめてみますね。
    といっても、「これが正しい」ではなく、「こう考える方がスキ」に過ぎませんけど。。。

    ①②は完全に同意、③もほぼ完全に同意ですが、「第七十五回 漢は洛陽を囲むも克くせずして退く」(6/12公開予定)には劉曜が張賓の智謀を評価して撤退を聞き入れる描写がありますので、劉曜としては張賓には従ってもいい気持ちがあったようです。

    ただ、劉曜は「第五十八回 晋兵は再び漢の両軍を破る」で姜發の進言を聞かなかった描写があり、

     姜發が進み出て言う。
    「将となって外征に出れば君命も受けぬ場合があります。時勢を観て判断せねばならぬためです。この戦場に執着してはなりません」
     劉曜はそれを聞くと気分を害して抗弁した。
    「晋兵など恐れるに足りぬ」

    自我が強くて流れるように諫言に従うタイプではなかったことは確かです。だから、劉曜としては張賓になら従ってよい気持ちがあったものの、張賓としてはNoThankYouって感じだったと考えています。
    ほぼ同じ見解なのですが、後段のことを考えるとけっこう悲しいすれ違いです。。。


    ④は「第五十六回 王彌と劉曜は許昌を攻む」で陳元達がくじ引きをさせていますので、陳元達が張賓の願いを容れてクジに細工する可能性は否定できないですね。


    ⑤は実は酉陽野史のミスじゃないかなあ、という疑いがありまして。
    「第二十二回 王彌と劉霊は壷関を取る」を見る限り、最初は「主帥:劉聰、先鋒:劉霊&王彌」で始まっています。
    つまり、当初予定では劉聰の本軍に劉霊と王彌が両路先鋒という構成なんですよね。他の人はみんな本軍に属するはず。

    で、そこに劉曜がちょっと待ったコールで先鋒に名乗り出て石勒とケンカになり、陳元達が割って入り、軍勢を二路に分けることを提案しています。そのため、先の劉聰が本軍を率いるという当初想定が推測されるわけですね。

    ただし、この時も以下のように言っています。
    出兵するにしても二路によって軍勢を進め、晋の全軍をもって吾が軍を阻めぬようにすべきかと愚考いたします。
    その上で王彌、劉霊の二先鋒に一万の軍勢を与えて不意を襲い、要衝の壷関を奪い取り、その後に大軍を続いて進めれば防ぎきれますまい。
    今や全将兵が此処に揃っております。
    南北二路を正副の将帥に分かち、劉曜と石勒、張賓と姜發、王彌と劉霊を三組としてそれぞれに籤を引かせ、南北それぞれの主帥、謀士、先鋒とすれば路を争うことはありません。

    最後の発言の語順に注意が必要で、
    「劉曜と石勒、張賓と姜發、王彌と劉霊」
    「主帥、謀士、先鋒」
    つまり陳元達は二路の構成を次のように考えていたと思うのです。
     主帥:劉曜or石勒
     謀士:張賓or姜發
     先鋒:王彌or劉霊
    そうなると、陳元達が引かせたクジもそのようになっているはずで、石勒と劉曜は主帥だったはずなんですよね。
    で、陳元達はこの軍勢の構成を以下のように述べています。

    南北両軍は総帥となる太子(劉聰)と国師(諸葛宣于)の節制を受けることとし、違背は一切認めてはなりません

    つまり、
     主帥:劉聰
     先鋒:劉霊&王彌
    という当初の想定から、
     全軍の総帥:劉聰
     全軍の謀主:諸葛宣于
      南北軍の主帥:劉曜/石勒
      南北軍の謀士:姜發/張賓
      南北軍の先鋒:劉霊/王彌
    という感じに変わってしまっていると解釈します。

    こう考えると、劉聰が同行する劉曜の軍勢では主帥の劉曜は本軍にあって思うように指揮を取れないために先鋒の劉霊が主帥の代役を果たし、劉聰と分かれて動く石勒の軍勢では、石勒が主帥として機能したので王彌は先鋒の任に専念していた、と後段のそれぞれの動きにも沿うように思うのですね。

    以上の推測から、劉曜と石勒が主帥、劉霊と王彌が先鋒という設定を酉陽野史が入れ替えて記述してしまったのではないか、と疑っております。

    ⑥も異論なしなのですが、王彌が分離する過程がまったく不明なんですよね。通俗で省略されているだけかも知れませんが、「第二十九回 段末杯を釈いて遼西に帰す」
    までは王彌が石勒と行動を共にしていたことは明らかですが、「第五十六回 王彌と劉曜は許昌を攻む」では石勒と張賓が襄國にいるにも関わらず、王彌だけは轘轅關に軍勢を進めているという有様です。「何で北の襄國から進んで洛陽の南におんねん」という疑義もありますが、まあ王彌は先鋒として戦意が高く、独断専行で先を進んだのだ、という解釈も無理くりですが、なくはないかなあ、と思います。

    以上の経緯をもって張賓は石勒の謀主となるわけですが、以降の歴史を見据えると劉曜と対立する石勒に漢からの自立を勧めざるを得ません。
    蜀漢を称揚したい三国志演義の続編としては超絶ビミョーな展開にならざるを得なかったわけで、このあたりは描写をモゴモゴするしかないですよね。

    編集済