第二十一回 晋帝司馬衷は長安城に行幸す

 成都王せいとおうの十万の大軍は平棘へいきょくで覆敗して残る軍勢は数千ほど、いずれも戦に堪える兵ではない。公師藩こうしはんたちはその弱兵を率いてぎょうに入り、成都王は狼狽する将兵を見ると嘆息して言う。

「大軍は覆滅した。このまま鄴城に留まることはできまい。洛陽らくようには上官己じょうかんきたちが皇太子を輔佐している。聖上せいじょうが洛陽を離れて久しい。聖上とともに洛陽に移り、王浚おうしゅんの包囲をかわすのがよかろう」

 すぐさま軍勢を整えて晋帝しんていとともに洛陽に向かおうとした。晋帝に従う王侯や大臣は王浚の軍勢が今にも到るかとおそれ、それぞれに逃げ出していた。成都王は騒ぎの中で牛車に晋帝を載せて鄴を発つ。

 にわかなことで糧秣を積んだ輜重は、王彦おうげんたちが率いて先に発した。それを頼みに鄴城を発つものの、二日目には食糧がまったくなくなった。晋帝は黄門こうもんに命じて詔を下し、帝に供する食糧を掻き集めさせた。

 それでも食糧は集らず、ついに黄門は三千文の私財を取り出して民間にて飯を買い、瓦盆がぼんで晋帝に薦めて飢えを凌ぐ有様となった。

 一行が武帝ぶてい司馬炎しばえん)の陵墓に通りかかって拝謁しようとすれば、晋帝の左のくつが見当たらない。従者が自分の履を差し出し、それを履いて陵墓を拝した。

 晋帝は大哭だいこくすると倒れて起き上がれなくなる。ちょうど日が暮れかかり、左右の者たちは晋帝をたすけてその場を去った。


 ※


 王浚は鄴城を包囲すべく軍勢を進める。

 すでに成都王は洛陽に去り、百姓も夷狄いてきの掠奪を恐れて姿も疎らになっている。鄴城の城門はすべて開いており、鮮卑せんぴ烏桓うかんの兵士たちは争って城内で掠奪を働いた。王浚も訓令を聞く者はなく、ついに鄴城の庫蔵の財物はすべて奪い去られ、殺戮された百姓は数え切れない。また、一万人に迫る子女が連れ去られた。

 夷狄の兵士が掠奪を働いたため、鄴城の治安は悪化の一途を辿る。王浚と東瀛公とうえいこう司馬騰しばとうは、すでに成都王が晋帝とともに洛陽に去ったと知り、さらに東海王の軍勢が到らぬことから、鄴城の財物を収めて軍勢を返すこととした。

 この頃、関中かんちゅうにある河間王かかんおう司馬顒しばぎょうの許に事態を報せる者があった。

「成都王は王浚に大敗を喫し、全軍は覆没して鄴城は陥りました。聖上とともに洛陽に移ったものの、軍勢も百官もいまだ集ってはいないようです。大王が軍勢とともに洛陽に入って成都王と東海王を仲裁されれば、せい桓公かんこうしん文公ぶんこうの功績も及びますまい」

 河間王は謀士と諸将を集めて方策を諮ると、長史ちょうし李含りがんが言う。

▼李含は長沙王との戦でとりことされたが、その後に解放されたらしい。

「かつて、晋の文公は周の襄王じょうおうを迎えて諸侯はみな従い、漢の高祖こうそ項羽こううに殺された義帝ぎていの喪に服して天下は帰付しました。天子が洛陽を離れたとはいえ、劉沈りゅうちんとの戦もあって関中から軍勢を出す暇はございません。今、聖上は鄴城から洛陽に向かっておりますが、洛陽も荒廃しております。大王がこの時勢により聖上を擁して人心を収められれば、大順と言えましょう。公事をおこなって天下を服さしめれば、大略と言えましょう。聖上を長安に迎えて争乱を鎮められれば、大功となりましょう。周囲を敵に囲まれたところで、大王に危害を加えることなどできますまい。すみやかに大計を定めなくてはなりません。猶予ゆうよする間に英雄が聖上を輔弼する心を起こして事を行えば、後難は測り知れません」

 河間王もその言に従って軍勢を発そうとするところ、僕射ぼくや荀藩じゅんはんが鄴より逃れて長安に到った。河間王が朝廷の事を問うと、答えて言う。

▼「僕射」は尚書しょうしょ僕射ぼくやを意味し、尚書令を欠く際は左右の僕射が尚書令の任を行う。この時、荀藩は尚書しょうしょ右僕射ゆうぼくやであった。

「大王が大義を奉じて洛陽に向かわれ、朝廷を正して聖上を輔け、宗室を安んじて乱を収められれば、これは五覇の功となりましょう。しかしながら、大王に従われる諸将の心事も一つではありますまい。ここは長安に留まって推移を観望されるのが上策というものです。聖上が洛陽に入られれば、大官たちは庫蔵の空虚と洛陽の荒廃を観て『しばらく長安に遷られれば、天下は安泰となりましょう』とでも言い、自ずから人心もそれに従うでしょう。聖上が長安に行幸されるとなれば、遠近の人心を従える好機です。しばらく長安を動かれるべきではありません。大王が自ら聖上を長安に遷されては、人心が従うとは限りません。非常の事を行えば、非常の功を挙げられるものですが、よりよい方策を測って行われるべきです」

 河間王はその策に同じて笑い、さらに問うて言う。

「王浚は北にあり、聖上と成都王は洛陽にあり、東海王は鎮所にあり、孤が洛陽に向かうにはどのような策をおこなうべきか」

「難しいことはございません。王浚は書状を遣って安心させてやればよろしいでしょう。東海王が従われぬようであれば、諸大臣の心事を問うた後に国事を諮るためと称して呼び出せばよいのです。その場では、『今や洛陽の府蔵は空虚となって人民も離散し、宮室も破壊されている。近隣から食糧を給することができぬゆえ、しばらく聖上には長安に遷って頂くのがよかろう。関中の食糧は不足しておらず、周辺からの漕運そううんも容易く、食糧不足の憂はない。洛陽には仮に東海王と上官己たちを置いて皇太子を輔佐し、食糧不足の懸念がなくなった後に聖上に還御かんぎょ頂くのがよかろう』と言えば、安逸を願う大臣たちはこぞって従いましょう」

「卿は孤に従って及ばぬところを補え。事が成った暁には厚く報いるであろう」

 荀藩にそう言うと、河間王は意を決して張方に五千の軍勢を与えて洛陽に差し向けることとした。その出発にあたって密かに李含と荀藩の策を言い含め、張方は頷くと郅輔しつほ郭偉かくいとともに昼夜兼行で洛陽に向かった。


 ※


 洛陽の成都王は張方の到着を悦び、晋帝に謁見させた。その場で張方が上奏して言う。

「臣が主の河間王は、王浚めが鮮卑、烏桓の夷兵を率いて鄴城を侵したと聞き知り、賊を破って聖上の護衛を務めるべく、臣を遣わされました。しかし、烏桓らは臣の到着を見て逃げ去っており、頓首とんしゅして罪を請うばかりであります」

 晋帝はその言葉を喜んで言う。

「河間王はちんの至親であり、今もこのように意を尽くしてくれておる。誠に社稷しゃしょくの臣というべきであろう。この度の難儀は一日が一年にも感じられるほどであった。洛陽の府蔵はみな空虚となって人民も窮迫しておる。これは宮闕きゅうけつのあるべき姿ではない。河間王はなぜ自ら洛陽に来ぬのか」

「臣が主は軍勢を率いて後詰となっております。日ならず到着されましょう」

 張方はそう言うと晋帝の御前を辞した。それより一通の書状を認める。

「洛陽は戦乱により荒廃して宮殿民家はともに破壊されております。民の生活は安んぜず、聖上は臣らにその困苦を嘆かれておりました。御駕を遷す一事については、賛否両論が分かれましょう。臣は口を閉じて漏らしておりません。大王におかれては軍勢を率いて中途まで進み、臣が御駕ぎょがを保護して西に向かうのをお待ち下さい」

 その書状は使者により関中に送られる。河間王は関中にあって李含、荀藩と洛陽の事を論じており、張方がこの大任に堪えるか不安に思っていた。

 そこに早馬があって張方の書状を呈する。河間王がひらいて見れば、軍勢を発して御駕を迎えるよう求める内容であった。

 すぐさま林成りんせい馬瞻ばせん呂朗りょろう刁默ちょうもくに四万の軍勢を与えて洛陽がある司州ししゅうの西境に進ませ、自らも二万の軍勢を率いて関中を発する。

 張方は成都王を説得した後、公師藩、王彦、趙讓ちょうじょうに晋帝と文武百官の護衛を任せて長安に向かう道に上らせた。張方はその後ろから宮妃や王子など一万ほどの子女を率いて進む。洛陽を出るにあたっては宮闕に火を放って焼き尽くし、上官己、王瑚おうこ陳眕ちんしんたちを洛陽に留めた。

 この時、兵士たちは路にあって妃嬪や官女を分かたず姦淫して欲をほしいままにし、張方の罪は言い尽くせぬほどであった。

 司州の西境に到る頃、王彦や公師藩たちは関中兵の狼藉を見て張方に何か謀があろうと疑うところ、前方より日をおおわんばかりの旌旗せいきが進み来る。林成、馬瞻、呂朗、刁默たちが大軍とともに晋帝の奉迎に現れたのであった。

 それより、一軍となって御駕を奉じて関中に入ろうとしたところ、河間王の司馬顒、苟藩、李含、王闡おうせん張輔ちょうほたちが軍勢を並べて出迎え、みな馬より下りて晋帝に罪を請う。

 河間王たちは晋帝を奉じて関中に入るも、王彦や公師藩は疑心を生じてしばらく其処に留まることとした。

 晋帝が長安に入ると、河間王は太尉たいいの官に任じられて朝政を執り行い、それ以外の賞罰はすべて張方に委ねることとした。

 張方は河間王に説いて言う。

「成都王は多能にして明敏です。彼が皇太弟である限り、大王が志を行うことは難しいでしょう。皇太弟を廃して余人を立てるべきです。さらに言えば、成都王は罪過が多く、これを憎む者も多くおります」

 河間王はその言をれてついに成都王を私邸に軟禁し、代わって豫章王よしょうおう司馬熾しばしを皇太弟に立てた。

 武帝司馬炎の子は二十五人あり、この時に存命していた者は、成都王の司馬穎しばえい、東海王の司馬越しばえつ、豫章王の司馬熾、それに呉王ごおう司馬晏しばあんの四人だけとなっていた。

 このうち、呉王は才知が庸劣ようれつであったため、八王の争いに巻き込まれず難を逃れたことであった。

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