応援コメント

第十九回 石超は大いに東海王司馬越を破る」への応援コメント


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    あれ? 續後三國志演義でも成都王・司馬穎は皇太弟になっていますか?

    三国志後伝第七十四回の

    『河間王聽說,乃遣人上表,言:「宜以成都王為太弟,詔入東宮,以衛政治,以壯國本。司馬覃已廢,且在衝幼,不宜再入。」惠帝勉受其奏,不行頒召。』
    の最後は、どのように訳すべきでしょうか?

    追伸
    ありがとうございます!
    実態を伴っているが、あくまで自称というわけですね。

    リストでは形式にあわせて、今のままにします。
    司馬穎としては、恵帝が死んでも実力で皇太弟であったことを
    証明しなければならない、あるいは証明すればよかったのですね。
    本当、乱世ですね。

    作者からの返信

    こんにちは。

    筋を読む限り、上奏を受けたものの、詔を降して東宮には迎えなかったと解してよいです。
    いわゆる、事寝不報または不行と言われるヤツですね。上奏されても応えない、行わない。

    が、この時期の司馬衷に実権があったかと言うと。。。河間王が支持して成都王がその気になれば、既成事実化も可能な状況です。

    そのため、河間王派、成都王派とそれ以外で筋をとるか、既成事実を取るかで認識が異なるように思います。

    結果、後段でも成都王を皇太弟と呼ぶ事例はいくつか見られます。詔は下されていないのに。乱世です。

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