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2018年2月20日 02:52 編集済
あれ? 續後三國志演義でも成都王・司馬穎は皇太弟になっていますか?三国志後伝第七十四回の『河間王聽說,乃遣人上表,言:「宜以成都王為太弟,詔入東宮,以衛政治,以壯國本。司馬覃已廢,且在衝幼,不宜再入。」惠帝勉受其奏,不行頒召。』の最後は、どのように訳すべきでしょうか?追伸ありがとうございます!実態を伴っているが、あくまで自称というわけですね。リストでは形式にあわせて、今のままにします。司馬穎としては、恵帝が死んでも実力で皇太弟であったことを証明しなければならない、あるいは証明すればよかったのですね。本当、乱世ですね。
作者からの返信
こんにちは。筋を読む限り、上奏を受けたものの、詔を降して東宮には迎えなかったと解してよいです。いわゆる、事寝不報または不行と言われるヤツですね。上奏されても応えない、行わない。が、この時期の司馬衷に実権があったかと言うと。。。河間王が支持して成都王がその気になれば、既成事実化も可能な状況です。そのため、河間王派、成都王派とそれ以外で筋をとるか、既成事実を取るかで認識が異なるように思います。結果、後段でも成都王を皇太弟と呼ぶ事例はいくつか見られます。詔は下されていないのに。乱世です。
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あれ? 續後三國志演義でも成都王・司馬穎は皇太弟になっていますか?
三国志後伝第七十四回の
『河間王聽說,乃遣人上表,言:「宜以成都王為太弟,詔入東宮,以衛政治,以壯國本。司馬覃已廢,且在衝幼,不宜再入。」惠帝勉受其奏,不行頒召。』
の最後は、どのように訳すべきでしょうか?
追伸
ありがとうございます!
実態を伴っているが、あくまで自称というわけですね。
リストでは形式にあわせて、今のままにします。
司馬穎としては、恵帝が死んでも実力で皇太弟であったことを
証明しなければならない、あるいは証明すればよかったのですね。
本当、乱世ですね。
作者からの返信
こんにちは。
筋を読む限り、上奏を受けたものの、詔を降して東宮には迎えなかったと解してよいです。
いわゆる、事寝不報または不行と言われるヤツですね。上奏されても応えない、行わない。
が、この時期の司馬衷に実権があったかと言うと。。。河間王が支持して成都王がその気になれば、既成事実化も可能な状況です。
そのため、河間王派、成都王派とそれ以外で筋をとるか、既成事実を取るかで認識が異なるように思います。
結果、後段でも成都王を皇太弟と呼ぶ事例はいくつか見られます。詔は下されていないのに。乱世です。