第十七回 東海王司馬越は長沙王司馬乂を殺す

 成都王せいとおう長沙王ちょうさおうの書状を読んで衆人の意見を問い、それより三日の間はただ城の包囲をつづけている。これは軍勢を返すか躊躇ちゅうちょしたためであった。その理由は、関中かんちゅうの軍勢を率いる張方ちょうほうが包囲を解くことをがえんじず、それゆえに包囲を解けなかったのである。

 この時、東海王とうかいおう司馬越しばえつは朝廷におり、もともと齊王せいおうに阿附していたためにその死を不満に思っていた。

 そこに齊王を殺した仇である成都王と河間王かかんおうの挙兵を聞くと、長沙王を殺して成都王と迎える功により朝権を握ろうと考える。

 その折から成都王に軍勢を返す心があると知り、腹心の何倫かりんを召して言う。

「成都、河間の両王が兵を挙げて洛陽を囲み、長沙王の事が破れんとしておる。長沙王は一通の書状を成都王に送って和を請い、成都王はその書状に心動かされて軍勢を返そうと考えているらしい。これでは齊王の怨みを晴らし得ぬ。どうすべきか」

「殿下の本懐を遂げられるには、両王の軍勢を洛陽に留めて外援とせねばなりません。それでこそ長沙王を除き得ましょう」

 何倫がそう言うと、参軍さんぐん劉洽りゅうこうが諌めて言う。

「齊王の敗亡は不忠によるものではなく、憐れむべきとは存じます。しかし、朝権を専らにして葛旟かつよ董艾とうがいの如き輩を信任したことで道を誤ったのです。今や城内は困窮しておりますが、長沙王は尽忠して止みません。このような忠義の人を害する謀には賛同いたしかねます。私によって公を害しては余人も異心を生じましょう」

 東海王はその諌言を聞かず、ついに張方の許に人を遣って言う。

「城中の軍民はともに長沙王への怨みを懐いており、朝夕には内より変事が生じて城は陥ることでしょう。ここで包囲を解いて軍勢を返してはなりません。大功は目前にあり、それを捨てるのは智者の行いとは言えますまい。将軍におかれては城の包囲を数日ばかりつづけられればよいのです。人を遣って城門を開き、両王の軍勢を城内に招じ入れましょう。将軍は労せずして大功を建てられるのです」

 張方はそれを聞くと成都王に見えて包囲をつづけるよう勧めた。成都王はそれを聞いても答えない。張方は退くと成都王麾下の石超せきちょう牽秀けんしゅう和演わえんに言う。

「吾らは十万を越える大軍とそれに倍する糧秣を費やして洛陽を包囲している。すでに大功は目前にあるにも関わらず、成都王は長沙王の書状により兵を返さんとしておられる。そうなれば、吾らの功を労う賞賜も下されるまい。さらに、麾下の将兵は大王を恨むであろう。これが禍であるか福であるかは誰の目にも明らかである。吾らは長沙王の書状を見ておらず、どのような意見も持ち合わせてはおらぬが、成都王はその書状により包囲を解こうとお考えになっているらしい。それならば、死力を尽くして城を攻め、東海王が城門を開くのに乗じて禍根を断つのが上策というものであろう」

 石超たちは張方の意見に同じると、成都王の命令を待たず城門に攻めかかった。


 ※


 長沙王はそれを知ると城壁上に出て指揮を執り、城兵を督して堅守をつづける。その一方、城内では東海王が衛兵を呼び集めて言う。

「成都王と河間王がこの城を攻めるのは、朝廷を信じず都民に怒っているわけでもない。ただ長沙王が朝権を専らにして両王が齊王を平らげた勲功を忘れ去ったことを恨んでいるに過ぎぬ。包囲されてより二ヶ月が過ぎ、城内の人民は飢えてあいむに至り、外に援軍はなく城の失陥は旦夕にある。どうして二王の軍勢が退くことなどあろうか。その上、張方は二大郡の軍勢を打ち破って劉沈りゅうちん張光ちょうこうとりことしたほどの勇将、智謀により城を囲んで勇猛により攻め打たれれば、日ならず吾らはみな擒となろう。今夜のうちに長沙王を捕縛して聖上せいじょう金墉城きんようじょうに繋げば、両王の軍勢は戦わずして退き、城内の生命を保全できよう。長沙王に従って飢えに苦しみ、ついに路傍に死するには及ぶまいぞ」

 それを聞いて十の四は東海王に従ったものの、残りは長沙王を支持してその場を離れた。東海王は謀が長沙王に漏れるかと懼れ、麾下の軍勢と従う衛兵あわせて一千の軍勢に叫んで言う。

「孤に従って富貴を得るはこの一戦にある。各々力を尽くせ」

 軍勢は密かに議事堂に向かって長沙王を捕らえると、朝廷に入って晋帝しんていに上奏する。

「成都王と河間王が洛陽を包囲しておりますが、これは他意があるわけではなく、ただ長沙王より朝権を奪わんとしてのことでございます。城内の糧秣はすでに尽きて外に援軍はなく、都民の多くは餓死して将兵の過半は飢え疲れております。このような有様では内より不測の変が起こりかねませぬ。詔を下して長沙王の官職を削り、庶人とすることにより、両王は包囲を解いて軍勢を返し、大晋の社稷しゃしょくは安んじられましょう」

「長沙王は忠心のみあってとがはない。どうして官職を削る必要があろうか」

 晋帝の言葉に東海王が答えて言う。

「長沙王に咎がなかろうとも、一人の官職を捨てて洛陽の人民の生命を救わぬわけには参りません。両王の軍勢が城を陥れれば、玉石を分かたず害されましょう。陛下といえども必ずしもご無事とは申し上げかねます」

 晋帝は猶予ゆうよして従わず、東海王は将兵に命じる。

「朝廷を騒がして詔を出さざるを得なくせよ」

 将兵は朝廷を囲んで鬨の声を挙げ、金鼓の音が闕下けつかを震わせる。東海王は晋帝を顧みて言う。

「衆人の願いに従われなくては、不測の変事が起こりましょう」

「お前の願いとおり、好きにするがよい」

 晋帝が歎じて言うと、東海王が宣言する。

「聖上より勅命を受けた。長沙王の官爵を削って庶人となすとの仰せだ」

 その後、何倫に命じて晋帝を護衛させ、ついに金墉城に幽閉する。あわせて人を張方と石超の許に遣わして城内に攻め入るように申し伝えさせた。さらに、長沙王麾下の諸将には詔を下して両王の軍勢に手向かわぬよう慰撫する。

 内より城門が開かれると寄せ手の軍勢は怒濤のように攻め入った。その様子を見た城内の将兵は罵って言う。

「両王の軍勢の士気はそれほど高くなく、城門を破って攻め込めるわけもない。これは、東海王が長沙王に嫉妬して敵に通じ、長沙王をうために招き入れたに違いあるまい」

 それを知った東海王は将兵の異心をおそれて何倫に問う。

「首尾よく長沙王を逐えればよいが、長沙王を朝廷に留めるような議論がされれば、罪は孤の一身に集ろう。その時にはどのように対処したものであろうか」

「まずは張方を怒らせた後に金墉に向かわせ、長沙王を殺して禍根を断たれるのがよいでしょう。その後はまた別の謀を練ればよいのです」

 東海王は張方の許に人を遣わして言う。

「城内の諸将が長沙王を救い出して両王の軍勢を拒もうとしております。将兵が長沙王の下に心を一にして戦えば、勝敗はいまだ明らかではありません。急ぎ軍勢とともに金墉に向かって禍根を除かなくては、危難に陥るおそれがありましょう」

 張方はすぐさま刁默ちょうもく郅輔しつほの二将に二千の軍勢を与えて金墉城に向かわせる。二将軍は長沙王を擒とすると白刃を突きつけた。

「孤は朝廷にあって政事を輔弼すれども私意を恣にしたことはなく、また、藩王に悪意を向けたこともない。朝臣に驕らず、百姓を害さず、己を誇って驕慢に流れたこともない。かたじけなくも詔書を受けて金墉城に蟄居ちっきょし、後日に事情を明かになるのを待っておる。深く悔いるところではあるが、忠佞を明かにせんとするのみである。成都王、河間王は孤の骨肉の親であり、罪悪なくして孤を殺すようなことはせぬ。孤を殺したいのであれば、両王にまみえさせよ。吾が罪を明かに鳴らした後、首を差し出して刑戮を受けるのであれば、死するとも瞑目めいもくできようというものだ」

 周囲の将兵はその言葉の壮にして理に明らかであるのを聞くと、刀を引いて害する者がない。

 郅輔が刁默に問う。

「長沙王を殺せば、吾らは忠臣を害したという悪名を受けよう。どうしたものか」

「彼を殺さないのは、捕らえた虎を放つようなものだ。吾らはすでに親王を擒として上を犯すの罪を踏んでおる。殺さぬとしてもこの悪名は避けられぬ。さらに、殺さなければ吾らはほしいままに彼を許した罪を被ろう。吾らの命をもって彼の命を救うなどということができようか。こうなっては運を天に任せるよりあるまい」

 刁默はそう言うと、長沙王の衣冠を去ってひとえさんを着せて柱に繋いだ。

▼「衫」は肌着と解すればよい。

「君命により国法を行わざるを得ません。そのため、このようにさせて頂きます。一日このままでお堪え下さい。明日には両王が見えられ、必ずや寛大な処置がおこなわれましょう。臣は殿下のお言葉を聞いてはじめてその忠心を知りました」

 すでに孟冬十月に入って天は寒く、長沙王が言う。

「卿らに忠義を憐れむ仁があるならば、この戒めを解いて衣を着せよ。生き延びることができれば必ずや恩に報いるであろう」

 郅輔が衣服を持ってくるように言うと、すでに何者かに持ち去られた後だと言う。刁默が命じて言う。

「衣服がないのであれば、火鉢を二つ持って来い。殿下の身辺に置いて寒気を払うのだ。吾は衣服を捜してくる」

 刁默に言い含められた兵士たちは三面に猛火を起こした。長沙王は身体も動かせず、二更にこう(午後十時)に至ると顔も胸も火傷を負って苦しみに堪えず、兵士を呼んで水を求めた。

「深夜なので水は手に入りません。軍中に酒がありますので、お好きなようにお飲み下さい」

 郅輔はそう言って焼酎を与える。長沙王は渇きが甚だしく、ついに数杯を飲み干した。夜明けまで一滴の水も与えられなかった長沙王は、全身の七穴より地を流して息絶えた。

 享年二十八歳、後に成都王の司馬穎も同年にて死んだことから、人はみな因果応報であると噂した。将兵の多くは長沙王の横死を知ると、涙を流して悲しんだことであった。

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