第十六回 長沙王司馬乂は苦しみて和親を請う
四州の軍勢は一戦に破れ、
張方が長安に去った後、長沙王は幾度か城を出て戦を挑んだものの、
一方、河間王と成都王の将兵たちも臣が君を冒す事態に不審を感じており、さらに城内には朝廷があることから、死力を尽くして城を攻めるには至らない。
そのため、八月から始まった洛陽の包囲は十月に入ってもつづけられ、事態は膠着してただ城を囲んでいるだけとなった。
※
洛陽城内の将兵は飢えに苦しんで牛馬も殺して喰い尽し、すでに食糧は払底している。包囲のために城外に食糧を求められない。
家屋を
洛陽の困窮が極まって城外の軍勢も疲弊していると知った
「成都王、長沙王はともに
▼「弘農郡」は洛陽から長安に向かう途上、潼関に到る手前にある。実質的には函谷関を指すと考えればよい。この言は、成都王が函谷関より東を、河間王が函谷関より西を分けて統治することを提案するものと解される。
王衍と石陋は勅命を奉じて成都王の軍営に向かい、勅命を宣したものの、成都王は従わない。それを知った長沙王は書状を認めると成都王に送り遣る。その書状は次のようなものであった。
先帝は天運に応じ機略を
先に
吾と弟を含む十人は同じく皇室の至親にして外郡に封じられているにも関わらず、王教を広く布くことも、四夷を慰撫することもできず、
弟が鄴都に鎮守して
吾は受任するより日々政事を思って
これは、劣兄の心が
試みに往事を思い返し、劣兄に責めるべき罪があるとすれば、すぐに
ただ、二王(司馬穎と司馬顒)の勤皇の功を顕彰しておらぬことは、不才な劣兄の手落ちでありました。それゆえに二王が大軍を催して洛陽を囲み、六十余日の間に十万人を超える死傷者を出したこと、国恩の慈しみを示すものではなく、
今、書状をもって王弟に勧めるに、鎮所に還って家国を安んじ、宗族を辱めるところがなければ、子孫の福というものです。たとえ軍勢を返さないとしても、骨肉分裂の痛みを思って宗族を善処し、徒に手足を損なって至親を傷つけ、後人に哂われぬようにされよ。弟におかれてもこれをよくよくお考え頂きたい。
成都王はその書状を読むと深く思い悩み、麾下の諸将に長沙王の書状を示した。衆人も一読すると成都王に勧めて言う。
「大王が兵を挙げるよりすでに二ヶ月余りが過ぎております。城内は困窮を極めて餓死する者が枕を並べておりますが、それでも内より変事が起こらぬのは、長沙王が忠義の心をもって聖上を輔弼し、
「その罪は孤とて免れぬ。諸将はしばらく退いておれ。熟慮の上で明日ふたたび議論することとする」
成都王はそう言って幕舎に退き、その日の軍議はそれまでとなったことであった。
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