第十八回 東海王司馬越は鄴城を攻めんと欲す

 成都王せいとおう洛陽らくように入城すると、長沙王ちょうさおう麾下の将兵を招いて慰撫した後、晋帝しんていに謁見した。拝跪して罪を謝すると、晋帝は慰諭した後に言う。

「長沙王は忠正にして罪はない。すでに官爵を削られた後、命まで奪う必要はなかった」

「これは張方ちょうほう郅輔しつほの残忍、それに東海王とうかいおうの不仁がなしたことです」

 成都王は長沙王の死を惜しみ、麾下にあった劉佑りゅうゆう金墉城きんようじょうに遣わし、王の礼をもって埋葬させた。ついで、東海王を尚書令しょうしょれいに任じて朝政を委ねる。あわせて長沙王の将帥の皇甫商こうほしょう宋洪そうこう、それに羊玄之ようげんし東市とうしで斬刑に処し、よう皇后と皇太子の司馬覃しばたんを廃した。

 洛陽周辺の治安は親将の石超せきちょうに委ね、軍勢を分けて十二の城門を固めさせる。殿中に宿衛する将の気に入らぬ者はしりぞけ、自らの親党を布いた。麾下の将帥たちは九錫きゅうしゃくを受けるよう勧めると、成都王もそれに従おうとした。

 それを聞いた盧志ろしが言う。

「九錫とは乱世にあって大功を建てた臣下を顕彰する殊礼しゅれいです。大王は聖上せいじょうの至親、乗輿じょうよにて朝廷に出入してその前を節鉞せつえつが導き、袞冕こんべんを身につけて尊重する礼儀は明らかです。すでに富貴を極めてさらに九錫を加えたとしても、威儀が増すわけではありません。さらに、趙王ちょうおう齊王せいおうは九錫を加えられましたが、一人として永く福を享けて身命を全うした者がありません。大王はこのことを熟慮なさるべきかと存じます。この情勢を図るに、ただ謙退してぎょうに還り、永く藩職を守って汝南王じょなんおう、齊王、長沙王のてつを踏まぬことが上策です。長沙王の忠正をもってしても死後はその死を哀しむ者はありません。大王といえども洛陽に留まっては罪を得ぬとは言い切れません」

 成都王は盧志の多言を怒り、叱って退けた。

 盧志は諫言を容れられず、このままでは禍が及ぶかと憂懼ゆうくして病に伏せ、三日の間はわずかの水さえ喉を通らなかった。成都王はそれを知ると甚だ後悔して盧志を鄴にて療養させんと思い立ち、朝政を東海王と石超に委ねることとした。

 その東海王は謀議を諮る智士を求め、齊王の属官であった孫恵そんけいが鄴にいると聞き知り、人を遣わして招聘する。成都王は盧志が病であることから、やはり孫恵を召して事を諮らんとしたが、すでに洛陽に向かった後のことであった。


 ※


 河間王かかんおうの麾下の張方は成都王の許を辞して関中かんちゅうに還り、河間王に見えて言う。

「成都王は鄴に帰還され、石超を代理として朝廷に残されました。そのため、吾も長安ちょうあんに還った次第であります」

 河間王は事の次第を聞いて喜び、洛陽に人を遣わして上奏した。

「成都王を皇太弟として東宮とうぐうに入れ、統治に意を用いれば国家繁栄のもといとなりましょう。廃された司馬覃はまだ幼く、皇太子とはできません」

 晋帝はその上奏を受けるも、ついに行わなかった。

 この時、朝廷は柱石の大臣を欠いて国政が混乱していた。石超は部将の身でありながら権をほしいままにして心驕り、政事に容喙ようかいして法度に従わない。そのため、朝臣は不満をいだいていた。

 さらに、成都王は洛陽に入城した折に意に添わぬ朝臣数百人を殺しており、いずれも忠良にして罪のない者たちであった。このため、朝臣はことごとく成都王の専横を憎んで長沙王の忠正を追慕し、嘆息しない者がない。

 東海王はこれを知ると腹心の何倫かりんに諮って言う。

「孤は長沙王を除くにあたって成都王の兵威を借りた。その成都王が己の意に添わぬ者を除き、さらに河間王は上奏して成都王を皇太弟に立てんと図っておる。これが成れば天下の半ばは成都王の有に帰そう。しかし、石超は匹夫に過ぎず、朝廷にあって横暴をおこない、吾らを鷹犬のように使っておる。これでは吾が本懐を遂げられぬ。どうしたものであろうか」

「成都王を除かんとの思し召しであれば、今こそその時です。成都王はまだ東宮に入ってはおりません。長沙王の麾下にあった上官己じょうかんきらを召して言い含めればよいのです。『河間王は成都王とともに張方に命じて長沙王を害した。このために河間王は成都王を皇太弟に立てようとしておる。成都王が即位すれば、お前たちは決して容れられぬ身となろう。すみやかに成都王を図らねばならぬ。私怨を捨てて吾に従うのであれば、お前たちと表裏をなして石超を攻め破り、清河王せいがおう(司馬覃)を皇太子に立てるであろう』と言えば、大権は大王の手に帰しましょう」

 東海王はその策を容れて上官己、王瑚おうこ成輔せいほ逮苞たいほう陳珍ちんちん、劉佑を王府に招いて密かに事を議する。陳珍たちは長沙王の復仇を企てており、石超を攻め破って成都王の皇太弟冊立を阻む計略を聞くと喜んで言った。

「大王が石超を誅殺して皇后と皇太子の復位を行われれば、両宮を正すのみならず千載一遇の美事となりましょう。吾らは犬馬の労を尽くして国賊を除かせて頂きます」

「卿らが孤を助けるつもりであれば、すみやかに事を行って誤るな」

 東海王がそう言うと、何倫が止めて言う。

「成都王麾下の部将は石超だけではなく、朝廷に多くおります。にわかに事を行ってはなりません。必ず計略によって爪牙そうがの臣を除かなければ、事はなりますまい。さらに、成都王の威勢はほのおのように盛んです。万一、事が漏れて内外より攻められれば、到底敵いません」

 東海王はついで劉佑に方策を問うた。

「いずれも行うべきではありません。成都王は謙退して鄴に帰還され、大王を尚書令に任じて朝政を委ねられました。成都王の官職が高くても、鄴にあっては名ばかりのことに過ぎません。また、成都王を皇太弟に立てる謀は河間王によるものであって成都王が望んだものではなく、羊皇后を廃したことは父の羊玄之が長沙王に阿附したがゆえのこと、皇太子は齊王が擁立したためにこれを忌んだのでしょう。しばらく時を待てば、朝廷で議論が行われるはずです。石超は確かに横暴を働いております。それゆえ、書状をもって成都王に知らしめ、余人をもって代えるよう求めれば、鄴に召還されましょう。さすれば、大王の求められるところは得られます。無名の帥を起こして石超を攻め殺せば、成都王と無用の仇を結んで国家に寧日は訪れません」

 劉佑の言を聞いても東海王は迂遠であると言って聞き入れない。

 王瑚と陳珍が東海王の意を迎えて献策する。

「今や朝権は大王の手にあり、何をなせぬことがありましょうや。郭勱かくばん和演わえん董洪とうきょう郭嵩かくすうの四人を宴席に誘き出して殺し、羽翼を奪った後に石超を討ち取ればよいだけのことです。石超は匹夫でありながら宮城を横行しており、朝臣で怒りを懐いておらぬ者はおりません。一たび大王がたもとを払って起たれれば、みなは左袒さたんして応じましょう。石超を斬るにあたって大王の御手を煩わせるまでもありますまい。石超ども五将を除けば成都王の威勢は挫かれます。そこで、清河王をふたたび皇太子に建てて羊皇后を位にかえし、成都王が聖上を伐って忠臣を害し、皇后を廃して皇太弟に立った罪を問う詔を受け、親征を仰いで鄴城を囲めば、一鼓にして討ち平らげられましょう。急いで謀を進めねばなりません」

「石超一人であればどうとでもなろうが、郭勱、和演、董洪、郭嵩の四賊はいずれも勇士である。にわかには謀れまい」

 東海王の懸念を聞くと王瑚が言う。

「計略は吾ら二人の胸中にてすでに成っております。大王におかれては酒を供えて書状を認め、四賊を誘き出して頂ければよいのです」

 東海王はその言を納れ、人を遣って四将を召し寄せる。

「吾が王より四将軍と石殿帥せきでんすい(石超、殿帥は禁軍の総帥の意であろう)をお迎えして内密のご相談があると仰せです。すなわち、成都王を洛陽にお迎えして天位に即いて頂こうという謀でございます」

 それを聞いた四将に異議はなく、喜んで東海王の府に到った。


 ※


 東海王は郭勱、和演、董洪、郭嵩の四将を引見して言う。

「今、孤が特に将軍らにご足労を願ったのは、一献いっこんを傾けんと願うがゆえである。明日にはいずれか一人を煩わせて鄴城に向かい、皇太弟の上洛を請うて天位に即いて頂こうと考えておる。その時には、卿らは開国の元勲となろう」

 四将はそれを聞くと拝謝して東海王を讃える。そこに使いの者が到り、報せて言う。

「石将軍(石超)は朝廷の役目があり、明日には此方に伺うとのことです」

 それより、東海王は四将と酒を酌み交わし、その傍らには麾下の何倫と宋冑そうちゅうが侍るのみであった。

 宴席では酒盃が回され、一人が飲み干すと次の者に酒が注がれる。それが十巡もせぬうちに、府中に伏せていた王瑚、陳珍、上官己、成輔、董拱、劉佑の六将が軍勢とともに姿を現す。何倫と宋冑を加えた八将が二人がかりで四将を組み伏せ、一刀の下に斬り殺した。

 東海王は使者を遣わすと朝廷の衛兵たちに宣して言う。

「石超は虎の威を借りて君臣を欺き侮った。それゆえ、勅命を奉じてその罪を問う。お前たちは詔に従って国のために尽力せよ。さすれば各々に褒賞が授けられよう」

 その言葉を聞くと、禁衛の兵士には石超に家族を殺害された者が多く、応諾すると武器を手に前駆を務める。その頃、石超の許には事態を告げる者が現れて言う。

「東海王が郭勱、和演、董洪、郭嵩を殺害し、軍勢とともに将軍の罪を問うと言ってこちらに向かっております」

 それを聞いた石超は大いに愕き、城壁を越えて鄴に逃げ去った。


 ※


 東海王の許に報せる者があって言う。

「石超はすでに事態を知って単身で城壁を乗り越え、鄴城に逃げ去りました」

 それを聞いた東海王が言う。

「石超が鄴城に逃げ戻れば、それを聞いた成都王は兵を挙げて罪を問おうとするであろう。朝政を執る主を欠いては如何ともし難い」

 ついに詔を矯めて文武百官を会し、羊皇后と清河王の司馬覃の位を復すと百官とともに上奏して言う。

「成都王の司馬穎しばえいは洛陽を囲んで陛下に迫り、皇后を廃して兄である長沙王を殺害し、河間王と結んで皇太弟になるなど臣下としての身の程をわきまえません。これらの行いは明かに帝位を簒奪せんと図るものです。その不軌の心は見え透いております。陛下におかれましては皇太子に監国かんごくを委ねて自ら六軍を率い、長沙王の麾下で忠誠を尽くした上官己たちを前駆として成都王を討伐する軍勢を発されますよう。臣らは御駕ぎょがを奉じて護衛となり、成都王と石超を擒として国法を正すことをお助け申し上げます。さもなくば、近日中には関中の張方たちの軍勢が洛陽に攻め寄せて騒ぎとなりましょう」

 晋帝はその上奏を聞いて言う。

「成都王は鎮所の鄴に還っており、そのような意図はあるまい。石超は洛陽の統治を委ねられたものの、衆人を従えることができず逃げ去ったに過ぎぬ。皇弟の身は軽々しく事を起こすべきではない。先に長沙王は忠義を尽くしたものの、お前の誤解を受けてその身を終えたではないか」

 東海王はその言葉を聞くと、晋帝に己を害さんとする意図があるのではないかと疑う。また、説得にも応じないと見て取り、詔をめて陳珍と上官己を先鋒に任じ、王瑚と逮苞を左軍に任じ、成輔と宋冑を右軍に任じた。さらに、何倫と劉佑を護衛に任じて宋淇そうきと董拱にも出征を命じるとともに、晋帝をたすけて鸞輿らんよを出征の途に上らせる。

 朝廷の百官の多くは従わず、ただ侍中の嵇紹けいしょうだけが晋帝の出征に従おうとした。その友人の秦準しんじゅんがそれを止めて言う。

「過ちのない者を伐つことを忿兵ふんへいといい、忿いかれば必ず敗れるものだ。鄴への出征は安危を測り難く、勝敗も見通せない。それでも皇帝に扈從こしょうするというならば、家にはよほどの駿馬を繋いでいるのであろうな」

 つまり、敗れた際には洛陽に逃げ戻る算段をしているかと問うたわけである。それを聞いた嵇紹は表情を改めて言った。

「臣下たるものが主君に従う以上、死生を伴にする覚悟である。駿馬があろうと役になど立つものか」

 そう言い捨てると、晋帝に従って出発したのであった。


 ※


 東海王は長沙王麾下と禁衛を合わせた十万の軍勢を率い、鄴の南の安陽あんように軍営を置く。そこから鄴に勅使を遣わして成都王の罪を責めた。

 成都王の許には石超が逃げ戻っており、報告して言う。

「東海王は密かに兵を潜ませて郭勱、和演、董洪、郭嵩の四将を害し、軍勢を奪って吾を攻めました。多勢に無勢では敵しがたく、それゆえに洛陽を逃れたのです。今や東海王は親征を煩わせてその背後から軍勢を進めております」

 成都王はそれを聞くと怒って言う。

「賊めが何という無礼を働くか。孤が自ら軍勢を率いて向かい、この不義の徒をとりことして長沙王の恨みを晴らさねばならぬ」

 そう言うところに勅使が到着して詔を宣し、成都王の罪を数えて言う。

「二度も軍勢をもって洛陽に迫り、齊王と長沙王を殺害して聖上の手足を除き、ついに皇太弟となることを願った。聖上を欺くことも甚だしい。さらに皇太子と皇后を廃したこと、帝位を簒奪せんと企てたものであろう。東海王の司馬越しばえつを元帥に任じて上官己と陳珍を先鋒とし、御駕が親征して十万の軍勢は安陽に到着した。すみやかに石超とともに出頭して謝罪せよ。さすれば誅殺を免れて親親の義を全うできよう」

 成都王は詔を聞いて愕き、諸将を召して言う。

「長沙王の死は東海王が密かに張方に命じたこと、洛陽の包囲も孤が命じたものではなく、張方が勝手にやったに過ぎぬ。それにも関わらず、東海王はすべてを孤の罪として聖上をたぶらかして親征の軍勢を発したのである。これは、孤を除いて朝権を擅いままにせんとする企てである。そのため、詔を発して孤に安陽まで出頭せよと命じたのであろう。出頭して弁明すれば東海王に害されることは必定、出頭しなければ勅命に逆らったかどで戦を挑まれよう。戦うにも洛陽に残した四将はすでに喪われ、勝敗を争うことは難しい。卿らはこの事態をどのように観るか」

 この時、東安王とうあんおう司馬繇しばようは閑居して鄴にあり、その甥である瑯琊王ろうやおう司馬睿しばえいは漢軍との戦にあたって二万の軍勢を率いて出征し、まだ軍勢を鄴に留めていた。

 その言葉を聞いた東安王は成都王が晋帝と戦うことになるかと憂え、諌めて言う。

「吾が大晋は骨肉の親が相争って根本を弱くし、ついに四方で叛乱が起こって兵戈へいかが止まず、万民が苦しんでおります。天子が親征されるとあれば、甲冑を解いて素服そふくで出迎えるのが礼というものです。君臣にして兄弟である間柄にあって、互いに争うべきではございません。大王が臣としての礼を尽くされれば、天子が兄弟という至親の間柄にある大王を礼によって遇さぬはずはございますまい」

 成都王はそれを聞いて答えず、石超が進み出て言う。

「王のお言葉はまったくその通りでございますが、時勢においてはできぬこともございます。先に長沙王が殺害されましたが、それも勅命によらなかったわけではございません。すでに御駕が鄴を親征しているのです。自ら羅網らもうに身を投じるわけには参りません」

 石超の言葉を聞いて東安王が言う。

「長沙王の死は張方が暗に企てたものであろう」

 長史ちょうし崔曠さいこうが傍らより駁して言う。

「王は宗廟社稷のために親親の義を尽くさんと大義を説かれますが、東海王の心中は計略が多く、また張方の一件もあって進退は容易ではありません」

 牽秀けんしゅうもそれに同じる。

「長史の言葉が正しいでしょう。殿下のお言葉に従えば、自らの身を籠に投じて東海王に縛らせるようなものです。事態が急変すればたちまち金墉城に幽閉されて東海王の下僕になりたいと願っても叶いますまい。まして、東海王が大王に危害を加えぬとは限りません。鄴城は堅固にして軍勢は多く、この城に拠って防ぐのが上策というものです。東海王の麾下には長沙王の旧将が多く、いまだ心服してはおりますまい。雌雄を決すれば勝敗はいまだ測れません。勝てぬならば城に退いて守りを固め、河間王の救援を仰いで敵を退ければよいのです。詔を騙った計略に陥ってはなりません」

 成都王はその献策を容れて東安王にも与するように求める。しかし、東安王はそれを拒んで正道により成都王を責めた。成都王はついに怒って東安王を殺すとその軍勢を奪い、瑯琊王は自らも害されるかと懼れて王導おうどう潘仁はんじん伏尚ふくしょうとともに鄴より晋帝の許に逃げ去った。

 ついに石超と趙譲を先鋒に任じ、王彦おうげん李毅りきを左軍に、陳眕ちんしん王斌おうひんを右軍に任じ、牽秀と陳昭ちんしょうを後軍として公師藩こうしはん和淳わじゅんを遊軍とする八万の軍勢を率い、東海王の軍勢を拒まんと黎陽津れいようしんに向かったことであった。

▼「黎陽津」は津の字があるとおり、黄河の北岸に位置する。位置関係としてみれば、鄴とにらみ合うくらいの南に東海王の軍営がある安陽、その南に成都王がかつて軍勢を留めた蕩陰とういんがあり、さらに南に黎陽がある。黎陽は滑臺かつだいの北岸、棘津きょくしんの東にあり、安陽よりも南に位置する。よって、安陽の東海王に対峙するために黎陽に軍営を置くと、鄴が無防備になり、位置関係としてあり得ない。なお、安陽と鄴の間に適切な城邑は存在しない。

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