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2018年1月30日 23:47 編集済
長沙王・司馬乂は恵帝を皇帝に戴いたまま、西晋を維持するギリギリ妥協できるラインを示したにも関わらず、ついに成都王・司馬穎と河間王・司馬顒はそれすらも破りました。恵帝も追い詰められ、もう司馬乂に軍事力で勝ってもらうしか帝位を守る方法はありません。この回の恵帝は名君にすら見えますね。司馬乂の忠誠が恵帝の目を覚まさせたということでしょうか。私は司馬乂が王豹を殺させたのは、これ以上司馬一族間の不信感が蔓延するのを防ぐためと考えます。王豹の計略を聞けば、司馬冏は助かるかもしれませんが、さらに大きな外鎮を一つ生み、西晋はもっと不安定となるからです。また、司馬乂の治世時に大勢力である新野王・司馬歆が義陽蛮・張昌の反乱に遭い、すでに司馬穎と通じていたため、連繋を疑った司馬乂の許しを得られないために討伐の詔を得られず、張昌に攻められ戦死しています。續後三國志演義では記載されていませんが、リストでは司馬歆も死んだことにして処理します。(帝室)恵帝:司馬衷皇后:羊献容太子:司馬覃執政:司馬乂・司馬穎→司馬乂(八王)長沙王・司馬乂成都王・司馬穎河間王・司馬顒東海王・司馬越汝南王・司馬亮(死亡)楚 王・司馬瑋(死亡)淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり趙 王・司馬倫(死亡)梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり斉 王・司馬冏(死亡)(親王公)瑯琊王・司馬睿南陽王・司馬模呉 王・司馬晏范陽王・司馬虓東瀛公・司馬騰東安王・司馬繇✕新野王・司馬歆予章郡王・司馬熾東平王・司馬楙清河王・司馬覃→太子へ
作者からの返信
こんばんは。八王もすでに残り四人ですか。すぐ三人になってしまうわけですが。。。〉この回の恵帝は名君にすら見えますたしかに、大局を掴んで惑わされない姿は名君のそれですが。遅きに失した感が否めないです。もっと早く目覚めんかい。〉司馬乂が王豹を殺させたのは、これ以上司馬一族間の不信感が蔓延するのを防ぐためと考えます。史実においては、ですね。まだ史上における八王の乱に対する定見はないので、意見をお返しできません。すみませんね。読み込めば何か出てくるとは思いますが、今は翻訳上の問題箇所以外は正史にあたっていませんから。やはり地理的なところが一番引っかかるんですね。嗜好とは仕方のないものです。〉リストでは司馬歆も死んだことにして処理します。司馬歆は趙王戦では一番に齊王に応じた人でしたが、成都王に通じていたと見られたのですね。しかし、義陽蛮ですか。。。五渓蛮といい、荊州は南部山間地が広いのでかなり後代まで蛮族がいたようで、ナシ族も元は荊州だそうですし、荊州はなかなか興味深いです。『荊楚歳時記』には蛮習らしきものはあまりないので、南北格差が大きかったんでしょうね。
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長沙王・司馬乂は恵帝を皇帝に戴いたまま、西晋を維持するギリギリ妥協できるラインを示したにも関わらず、ついに成都王・司馬穎と河間王・司馬顒はそれすらも破りました。
恵帝も追い詰められ、もう司馬乂に軍事力で勝ってもらうしか帝位を守る方法はありません。この回の恵帝は名君にすら見えますね。司馬乂の忠誠が恵帝の目を覚まさせたということでしょうか。
私は司馬乂が王豹を殺させたのは、これ以上司馬一族間の不信感が蔓延するのを防ぐためと考えます。王豹の計略を聞けば、司馬冏は助かるかもしれませんが、さらに大きな外鎮を一つ生み、西晋はもっと不安定となるからです。
また、司馬乂の治世時に大勢力である新野王・司馬歆が義陽蛮・張昌の反乱に遭い、すでに司馬穎と通じていたため、連繋を疑った司馬乂の許しを得られないために討伐の詔を得られず、張昌に攻められ戦死しています。續後三國志演義では記載されていませんが、リストでは司馬歆も死んだことにして処理します。
(帝室)
恵帝:司馬衷
皇后:羊献容
太子:司馬覃
執政:司馬乂・司馬穎→司馬乂
(八王)
長沙王・司馬乂
成都王・司馬穎
河間王・司馬顒
東海王・司馬越
汝南王・司馬亮(死亡)
楚 王・司馬瑋(死亡)
淮南王・司馬允(死亡)※八王にいれる説あり
趙 王・司馬倫(死亡)
梁 王・司馬肜(死亡)※八王にいれる説あり
斉 王・司馬冏(死亡)
(親王公)
瑯琊王・司馬睿
南陽王・司馬模
呉 王・司馬晏
范陽王・司馬虓
東瀛公・司馬騰
東安王・司馬繇
✕新野王・司馬歆
予章郡王・司馬熾
東平王・司馬楙
清河王・司馬覃→太子へ
作者からの返信
こんばんは。
八王もすでに残り四人ですか。すぐ三人になってしまうわけですが。。。
〉この回の恵帝は名君にすら見えます
たしかに、大局を掴んで惑わされない姿は名君のそれですが。遅きに失した感が否めないです。もっと早く目覚めんかい。
〉司馬乂が王豹を殺させたのは、これ以上司馬一族間の不信感が蔓延するのを防ぐためと考えます。
史実においては、ですね。
まだ史上における八王の乱に対する定見はないので、意見をお返しできません。すみませんね。
読み込めば何か出てくるとは思いますが、今は翻訳上の問題箇所以外は正史にあたっていませんから。
やはり地理的なところが一番引っかかるんですね。嗜好とは仕方のないものです。
〉リストでは司馬歆も死んだことにして処理します。
司馬歆は趙王戦では一番に齊王に応じた人でしたが、成都王に通じていたと見られたのですね。
しかし、義陽蛮ですか。。。五渓蛮といい、荊州は南部山間地が広いのでかなり後代まで蛮族がいたようで、ナシ族も元は荊州だそうですし、荊州はなかなか興味深いです。『荊楚歳時記』には蛮習らしきものはあまりないので、南北格差が大きかったんでしょうね。