第三回 顧榮と張翰は呉郡に奔る

 酒に沈湎ちんめんした顧榮こえいは、酔うと友人である馮熊ふうゆうの許をおとなう毎日であった。馮熊は当代の高士として名を知られ、齊王せいおう司馬冏しばけい)の招聘にも応じず閑居していた。

 毎日現れて正理を一言も口にしない顧榮をなじって言う。

彦先げんせん(顧榮、彦先は字)がこれほど酒を飲むとはどうしたことか。吾の聞くところ、酒は狂薬といって聖人はこれを憎んだという。君は酒にふけって昼夜を問わず、賢君子けんくんしの行いとは言えまい。願わくば、このことを深く察して高徳を破らぬようにしたまえ」

 顧榮は頷いて言う。

「儒書は読んでおるのだから、酒が身を滅ぼす源であると知らぬはずもない。君は吾が心を知らぬのだ。今や齊王の驕恣きょうしは度を失い、権勢をほしいままに振るっている。久しからずして身を滅ぼすことだろう。吾は齊王の職を受けて辞任することもできず、その傾覆の道連れとなることを免れられぬ。それで酒を飲んでようやく胸中の憂鬱を消し去ろうとしているわけだ。君の家にしばしば寄せてもらうのは懇意にしていることもあるが、まだ口にしていない真の理由があるのだよ」

「どのような理由かね」

「君から良策を得て齊王の許を離れ、余生を保ちたいと望んでいるのだ。吾がために一計を案じてもらえぬだろうか」

「そのような理由であるとは思い至らなかった」

 馮熊はそう言うと、しばらく呻吟しんぎんしてから口を開く。

「難しいことではない。一計を得たので望むとおりに齊王の許から離れられよう」

 そこから先は顧榮に一計を耳打ちし、聞き終えた顧榮は喜んで帰っていった。


 ※


 翌日、馮熊は他事にかこつけて葛旟かつよの許を訪れ、齊王府の官人の器量を評して言う。

「府内の官員賓客ともに大変よろしい。ただ心配なのは顧榮だけです。この人は大酒飲みで虚名だけあり、大任に堪える器ではありません。それにも関わらず、主簿しゅぼとして文書をつかさどっているようですな。酔いに任せて大事を外に漏らせば、よからぬことが起こりましょう。齊王に申し上げて処遇を見直されるのがよろしい。観るところ、顧榮は深謀遠慮を善くする智士ではありません」

 それを聞くと葛旟も同じて言う。

「常々そう思っているのですが、齊王が自ら招聘されたこともあり、敢えてまだ申し上げてはいないのです」

「それは理由になりますまい。知って言わねば忠臣ではなく、疑って去らねば智士ではありません」

 そう言うと、馮熊は起ち上がって辞去し、葛旟は礼をもって送り出した。翌日、齊王の閑暇に乗じて言う。

「臣の観るところ、王府にあって顧榮が裨益ひえきするところはございません。終日酒を飲んで醒めればまた飲むという有様です。その机には手をつけられていない書牘しょとくが山と積まれ、このような者は他におりません。人選を誤られたのではありますまいか」

「孤もその名を聞いておったがゆえに召し出したが、ただの酒徒とは思わなんだ」

 そう言うと、すぐさま顧榮を王府の主簿から中書郎ちゅうしょろうに遷した。顧榮はこれを喜び、齊王府を離れた後は酒を絶っても心静かに暮らせるようになった。

▼「中書郎」は中書省の官吏であるため、齊王府を離れて朝廷の官吏となったことを意味する。


 ※


 その同郷に張翰ちょうかん、字を季膺きようという者があり、名を知られた智謀の士であった。その人が顧榮に密かに告げて言う。

「齊王は自らの知恵を誇って忠諫の言をれず、ついにその身を破ることとなろう。その折には吾らにも禍が降りかかってくるであろう」

 それを聞いて顧榮が言う。

「仰るとおり、刀刃の危険を冒してつまらぬ官職にしがみつくより、身を脱して故郷に帰り、同心の友人たちとともに南山なんざんわらびんで東江とうこうの水を飲み、余生を楽しみたいと思うが、貴兄はどう思われるか」

「吾もそのように思って久しい。ただ官職のくびきを逃れられぬだけのことだ。賢弟がそう言われるのであれば、ともに官職を捨てて故郷に帰ろう」

 張翰はそう約すると顧榮と別れた。

 後日、二人が酒を飲んで楽しんでいると、西風が桐の葉を動かす音に秋の訪れを感じた。

「今や秋天の気が訪れてもそれに気づかず、行く雁の声を聞いてにわかに悲しい思いがこみ上げてきた」

 顧榮が言うと、張翰も同じて言う。

「繁華の地である洛陽らくようで楽しめと言われても、故郷の呉郡ごぐんで名物を楽しむには及ばぬ。人生は富貴を求めるものとはいえ、心に叶うに勝るものはない。千里の外に名誉と官爵を求めたとて何になろうか」

 二人はその日のうちに密かに洛陽を発ち、呉郡に逃れ去った。


 ※


 齊王は顧榮と張翰が洛陽から逃げ去ったと聞いて怒りが止まず、追手をかけて召し捕らえ、誅殺せよと罵った。

 それを聞いた董艾とうがいが哂って言う。

「官吏に登用すべき人材がなければ彼らの逃亡を制するべきですが、天下泰平にして招くべき人には事欠きません。顧榮や張翰など意に介するにもあたりますまい」

 齊王もそれを聞いて怒りを抑え、二人を捨て置くこととした。

 その後、齊王が例によって宴会を開いて音楽が終わろうとした時、董艾が言う。

絲竹しちくの音を論じるのであれば、みな侍中の嵇紹けいしょうの精妙に及ぶ者はないと言います」

▼「嵇紹」は竹林の七賢の一人である嵇康けいこうの子、鍾会しょうかいの讒言により司馬昭しばしょうに父を誅殺されたが、同じく竹林の七賢人の一人である山濤さんとうに養育され、晋に仕えた。

▼「絲竹」は弦楽器の総称、父の嵇康はきんを得意として『広陵散こうりょうさん』という曲を善くし、誰にも教えなかったという。

 齊王はそれを聞くと、一曲をいて宴会を盛り上げるよう命じるも、嵇紹は色を正して言う。

「殿下は社稷しゃしょくただして吏部りぶの職を掌られ、無用のことをなさるべきではありません。後日のはんとなるからです。朝廷の大臣に俳優の技を命じられることは、朝廷の官服を芸事の晴れ着にするようなものです。僭越ながら臣は大臣の職を忝くして金玉の帯を腰に宮城に侍る身、絲竹を操る教坊の技を事とするわけには参りません」

 齊王はその言を聞いて嵇紹を鯁骨こうこつの君子であると言い、笑って謝したことであった。

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