✧ⅳ

 突然、黒いなにかが、全身鏡側からまっすぐ飛んできて、俺の胸元にぶつかった。するとよろけながらも、さらに勢いで半分開けていたドアからすり抜けて出て行ってしまった。

 もしかしたら、害虫だったのかもしれない。

そんなものを外に出し、メリーが見つけたときにはさぞ驚くだろうと思えば、逃げたやつが憎かった。

すぐに追ってドアを開けたが、もう廊下にはいなかった。

 足早に階段を下りた。そしてなんとなくクラーンを一階から見上げた。もう歌っていなかった。

「クラーン、ありがとう」

 自然に出た言葉だった。

「オーソネ、守れ」

 クラーンの返事は意外なものだった。

「え? なにを急に」

「守れ! 守れ!」

 クラーンの様子は決してふざけているように見えなかった。むしろなんらかの前兆を知らせているようだ。

 思いがけず、二階からドアを激しくしめる音と共に、床になにかが落ちる音が響いた。


「もはや、ガマンの限界」

 二階からは息を絞った、食いしばったようなサンタの声がした。

「ガマンの限界なんだ。わしは一生をかけて、世界中の子供たちを幸せにすると心に固く決めていた。すべての子供たちに夢を与えたかった。

 世界中のどこへ行っても見つからないおもちゃやぬいぐるみ、ゲームで、一瞬でも恵まれない現実を忘れ、心が満たされ、幸せいっぱいになることを願っていた。

 人種や地位、宗教に国境などの差異はすべて悪い人間のつくった妄想。わしはそんな境界線など関係ない。サンタランドを含め、この世界は地球という宇宙船の中にいる。みんな同じ「船員」じゃないか。

 そう、信じて、がんばってきた。しかし、私の現実は」

「サンタさん」

 追ってメリーの声がした。

 二人は二階の作業部屋の前にいるようだ。

 俺はこそこそと、階段下に隠れて様子を伺った。

「わしに時間をくれないか。疲れたよ」

「そんな。休んでしまったら、クリスマスに間に合いません」

「では教えてほしい。クリスマスは誰のために、何のためにあるのだね」

「それは……」

「答えが出るまで、わしは帰らないつもりだ」

 サンタはどしどしと階段を踏みつけて、力任せに扉を開けて外へ去っていった。

 張り詰めていた空気がビリビリ音を立てて引き裂かれた。そして俺の体をも緊張させた。

 そっと、階段の上り口まで歩み寄り、二階を見上げた。ここからではメリーの姿が見えない。

なんとなく申し訳なく、まるで夫婦喧嘩を見てしまった子供の気分だ。しかしメリーの様子が気になるばかりで、音を立てずに階段を上っていった。

二階の作業部屋の前にメリーは座りこんでいた。ただ呆然とし、青い瞳から真珠球ほどの大粒の涙がぽろぽろと零している。胸がきゅっと痛くなった。

「メリー、大丈夫?」

 メリーは少し驚いて、俺を見上げた。

 メリーはそっと目を伏せた。

「ねえ、俺でよかったら話きくよ」

 メリーは思い出したかのように、また涙をこぼす。

「サンタさんのつくるプレゼントはあと一品でした。すべて日程どおり作っていました。それなのに……急にオーソネ様のいらっしゃる現実社会のクリスマスをお嘆きになりました。現実のクリスマスはもはや子供のためのものでなく、大人の、しかもカップルと呼ばれる男女のための娯楽になってしまっている。それで子供たちへプレゼントを贈ることの意味を見失ってしまったようです。そして私たちの世界にもかなしいことが」

「うん、それで」

「サンタさんは、何十年もの間、節約し、勤勉に努め、自分の知恵や労力、資産でさえ子供たちのために費やしました。

 はじめこそ世界中から集まってくる義援金やボランティアの方々のお手伝いがあったので、予算も作業にも余裕がありました。けれど、金は徐々になくなってしまい、ボランティアの方々も老いてくるために止めざるを得ない。

 ついに私たちは財産を手放さずにはいられなくなりました。サンタさんの自作の機械やいらなくなった家具や金属類を売りました。それにより生活は以前の水準と同じに保たれました。しかし、喜んでばかりいられません。もはや義援金の当てもなく、売れる財産も無くなってしまいました。そこでサンタは苦渋の決断を下しました」

 メリーは嗚咽した。

「サンタさんは……トナカイを売るとっ」

「うそだ。それじゃ、どうやって飛ぶ」

「もう、サンタクロース業をお辞めになるつもりです。

 今、世界では局所的にトナカイ肉がブームになっているとの噂があります。しかし材料のトナカイは保護動物で捕獲が難しく、大変稀少価値の高い肉のようです」

「くそっ」

 サンタはトナカイを肉にして、余生の糧にしようとしている。永久休業と引き換えに。

「どうして。どうして簡単に諦めたっ」

 メリーは俺の言葉を聞くなり、手で目を覆った。

「夢は……金銭によってでしか、手に入らないのでしょうかっ……」

 俺もいつしか目頭に熱を帯びていた。だんだんに怒りが目覚めてくる。

「サンタのことは、ひとまず後だ。トナカイのことを考えよう。ということは、買いにくる奴らがいるんだよな?」

「はい。今、この屋敷に向かっているそうです。希少な肉は早く手に入れ、早く客に出したいようです」

「そうか。じゃあ今すぐにトナカイたちに事情を話し、そうだ。小人にも協力してもらって、トナカイを隠そう」

「きっと間に合いません。いつ来るかわからないんですよ」

「やってみなきゃ、わからない」

「私は、予定以外のことはできません」

 メリーの言葉を無視して、俺は急いで屋根裏部屋に戻り、毛皮のコートを引っ掛けて 再び二階に戻ってきた。

 するとメリーはもう二階にいなかった。もしかしたらと思い、一階の応接間をのぞいた。

 応接間の食器棚の前にメリーは立っていた。その小さな手には使い古したフライパンが握られていた。

「メリー?」

「終わってしまった。私が守ってきた世界は」

「終わりじゃないよ。まだやり直せる」

「そんなの嘘よ! 信じられない」

メリーは持っていたフライパンを振りかぶり、力の限りに食器棚にぶつけた。バチンという破裂する音とともに、半透明のガラスがあちこちに飛び散った。まるで映画の中のスローモーションのように、破片がゆっくりと空気を切り裂いて流れていくのが見えるのだった。

 そのなかのひとつがメリーの頬をも裂いた。それでも動じることなく、何度も食器棚を殴っている。中の皿が割れていく音がした。

「やめろ、やめるんだ!」

 メリーは何も答えずに、ただ泣いていた。

「苦しいのなら、やめるんだ」

 俺は決死で、フライパンと食器棚の間に立ちふさがった。

 メリーの手首を握りしめ、彼女の反動を抑えた。倒れそうになるも、ガラス片だらけの食器棚の淵に手をかけて、体重を支えた。この際、手の痛みなど気にしている場合じゃない。

「オーソネ様」

 メリーはやや正気に戻ったようで、フライパンを捨てて俺に寄った。

 俺は食器棚から手を離し、そして両手を伸ばしてメリーを抱きしめた。メリーの頭がすっぽりと俺の胸に入る。

「……君が壊して、どうするんだ」

「あ、あ……。この世界が終わりを見るくらいなら、私の手で……」

 メリーは途切れとぎれに嗚咽し、気持ちを伝えてくれた。全部言い切る前に、溢れる気持ちが涙となって消えていった。

 俺はただ、静かにメリーを抱きしめていた。メリーからは花のような甘い香りがした。

 遠くから、トナカイの悲しそうな声が響いてきた。何かに怯え、いや怒っているように聞こえた。

 まさか――まさに予想は当たった。

 玄関を殴るようなノックがした。

 メリーは先ほどの狂乱が嘘のように、俺の腕を振り解いて、玄関前に飛び出した。すぐに俺も後を追って応接間を出た。

 そして玄関の扉が壊されて、内側へと倒れてきた。扉はすぐ足元に落ちていった。

 扉を失った入り口から、昼のまぶしい白い光が屋敷に差し込んできた。光の中には三つの人影があった。そのうちの一つが前進した。人間じゃない、服を着たゴリラだ。眉間に深いシワを並べ、目は小さめで鼻は大きい。唇がぼってりとした厚みがあり、口元はだらしなくニヤニヤしている。小さい目をよくみると、尋常でなく凶暴な光が宿っているように見える。

 メリーはまた俺を押しのけて、前に立った。

「いらっしゃいませ。どのようなご用件ですか」

 そしていつもやっている挨拶を冷静にした。

「へへ、扉あ、建てつけが悪かったみたいですぜ。すぐに直したほうがいい。

 わたくしどもはご依頼を承った生肉回収屋でございます。わたくしはそこのオーナーのゴルです。よろしく。

 さて、お伺い致しましたところ、トナカイは全部で五頭。それをすべて回収とのことで。終わり次第、またお屋敷に参りますので、そのときご精算さしあげますぜ」

 オーナーのゴルはガラが悪いわりにも愛想のよい声で、薄気味悪く話した。

 メリーは何も言い返せずに、黙っている。その背中は哀愁を帯びていた。

「では、仲間が作業にとりかかるところでしょうから、わたくしどもも行ってまいります」

「ちょっと、待ってくれ」

 俺はガマンしきれずに口を挟んだ。そしてメリーを守るために前のほうに移動した。

「その依頼、無しにしてもらえないか。サンタさんにはトナカイが絶対必要なんだ。連れていかれては困る。だから、今から仲間にもこの旨を伝えてくれ」

「困った方ですなあ。処分の希望をお出しなすったのは、この屋敷の主ですぜ。なんであなたに決める権利があるのでしょうな」

「屋敷に住む者、すべてにこの屋敷を守る権利がある。サンタさんだって間違えるときもある。それを止めるのが俺らだ」

 ゴルはそれでも薄気味悪くニヤニヤしている。それから後ろのゴリラたちとひそひそと相談を始めた。

 その隙にメリーに耳打ちした。

「このままじゃ危険だ。裏口から逃げて」

「でも、オーソネ様は」

「だいじょうぶ」

 メリーはそろそろと音を立てずに後ずさりして、掃除用具を入れている階段下収納の戸に手をかけた。

「いろいろと、ルールがありましてね。契約を妨害するやつは排除しななきゃいけないんですよ。もちろんそれを援助したものにもね」

 後ろのゴリラの一頭が長い巻物をべろべろと引き伸ばしてもち、もう一頭のほうがその文章を指差した。

「わたくしどもは、そちらの主人のご希望どおりの仕事をしているだけなのですぜ。それに茶々入れられるのは筋じゃない。残念ですが、あなたとメイドさん、お二人ともお引き取り願いますぜ」

「メリー、逃げろ!」

 俺は叫んだ。その瞬間、戸は閉まり、内からカギをかけた音がした。

 ゴリラたちはあっという顔をした。後ろの二頭が走りそうな姿勢をしたので、すばやく両手を広げて見せた。

「メリーは悪くない。俺を好きにすればいい」

 俺は覚悟した。ゴリラたちを睨む。

 ゴルは仲間たちとニヤニヤ笑いあった。どこまでも薄気味悪い連中だ。

 後ろの二頭が玄関の外で大きな麻袋を広げ始めた。その様子をじっと見ていると、急にゴルが視界に入った。その刹那、すさまじい衝撃が走った。

遅れてゴルの拳が顎に入ったと、次にようやく気がついた。

りんごを潰したような骨の悲鳴、

口の中に鉄の味。

俺の体は放物線を描いて玄関の木の床に倒れた。

 まだ意識があるのに、体は動かない。 

 俺の体は麻袋に手足を曲げた状態で押し込まれ、閉じ込められたようだ。

幸いまだ感覚は残っている。

 ザクザクと雪を踏む音が聞こえる。

 肌を刺すような痛い寒さがある。

 ぶらぶらと袋がゆすられているのか、船揺れのような感覚だ。

 レディたちもこうやって袋に詰められて、同じところに持っていかれるのだろうか。それなら、回復したところで一緒に帰ることができるかもしれない。

 

 しばらくして、「ブー。ゲコッ。ブー」という鼻をもごもごさせたブタのような声が聞こえた。これがまさか、トナカイなのか。

 自然な動物の声では聞いてなかったが、瞬間的にトナカイだと感じた。

 その声は必死に助けを求めるように聞こえる。暴れて雪がぎゅうぎゅう擦る音もする。

 助けてやりたいのに、俺は何もできない。だんだんと「寒い」という感覚が鈍ってきて、考えも鈍くなってきた。

 うとうととしていると、体がぐらぐらと左右に大きく揺れ、勢いよく重力に逆らって浮いた。今までとは違う浮力だ。


そう思ったら、すぐに重力に従って落ちていった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ファンタジー Arenn @jyuna01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ