✧ⅲ

気がつくと、後ろからクラーンの声が細波のように聞こえている。


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 ほんの少し、このおかしな世界に安らぎを感じてしまうことも事実であった。

 切なくも、確かであった。

 しかしながら、俺は帰りたい。

「メリー。改まって言うのは照れるけれど、とても感謝しているよ。三食心配なく暮らせて、俺に部屋も分けてくれた。おまけにベッドもパジャマも、毛皮のコートもついている。本当にありがたいよ。この恩を返したい」

 この言葉はうそじゃない。むしろ本心だ。だから、できるだけ丁寧に言った。

「そんな、私は当然のことを日々尽くしておりますだけに、恥ずかしいです」

 メリーは喜びながらも戸惑っていた。

「どうか、お願いします。トナカイ番だけでは気が済みません。どうか、サンタさんのお手伝いをさせてください」

 メリーはぎょっと驚いた様子で、そして急に目が泳ぎだした。

「今、クリスマスの前でサンタさんは大事な仕事をしているところです。私でさえ作業部屋に立ち入ることが禁じられております。ですから、オーソネ様のお心に副うことは」

「掃除でいい。ほら、寝室ならどうだろう。ほこりっぽくてはサンタの疲れも抜けないでしょう」

 無理な言い分だが、熱意をこめて言った。それが伝わったのか、メリーは一度視線を逸らして、数分黙っていた。その後、もう一度俺の目を見つめてきた。俺はぐっと目に力を入れて見つめ返した。

「約束は守れますか」

 止まった空気を、先に打ち破ったのはメリーだった。

「はい、もちろんです」

 メリーはまじめな顔をした。

「作業部屋に立ち入ることは禁止します。当然ながら、話しかけることも、のぞくことも。サンタさんはひとつひとつのプレゼントを、ああでもないこうでもないと苦労して、試行錯誤しながら作っています。お心をこめて形にし、おもちゃに命を吹き込みます。ですから、余計なことで気が散っては、思い通りのおもちゃにするなど成しえません。プレゼントの完成は、この屋敷の者すべての責任であり、生き甲斐なのです。

 オーソネ様もこの自覚を持ち、守ってくださるのでしたら許しましょう」

 メリーの瞳は、深い海の底から湧き上がる光りの粒をいっせいにかき集めて、輝いている。

今にも、俺までその海に吸い込まれてしまいそうだ。心のどこかで、メリーに触れたいと気持ちが生まれたが、それは奥へと仕舞い込んだ。

「わかりました。俺も屋敷の住人です。心して仕事をします」

 ぐっとツバを飲み込んで、ようやく言葉になった。一方でメリーは言葉を聞くなり、やわらかい表情になり笑顔になった。

「承知いたしました。そのお言葉を信じましょう。では、オーソネ様、掃除がしたいとのご希望でしたね」

「はい。なんでも大丈夫ですよ。今まで一人暮らしをしていて、掃除・洗濯・風呂・料理の家事一通りできますから。今時は男だって煮物を作れる時代ですよ」

 メリーは一瞬だけまゆげを持ち上げて表情を変えたが、すぐにまじめな顔に戻ってしまった。

「では、サンタさんの寝室の掃除をお任せします。ただし家具や装飾に触れることは禁止です」

「でも、家具の上にはホコリが溜まりますよね。それはどうしたら」

「手の届く範囲のもののホコリ取りや雑巾がけはやっていただいてかまいません。しかし、当然のことですが、家具などを開けることは断じて許しません」

「条件が多いですね。やはりプレゼントをつくるのに秘密でも」

「それは答えられません」

 俺は冗談のつもりで冷やかしたのだが、メリーは非常に厳しい口調で返した。

 屋敷を守る者としての責任感が伝わってくる。

「わかりました。あなたに、いや屋敷のルールに従います」

「ご理解いただけて幸いです」

 だいぶ遠回りをしたが、これでようやくサンタに近づいた。あとは会う機会をうかがうだけだ。

 サンタといえば、あの歓迎パーティ以来、会っていない。時々廊下ですれ違う程度で、挨拶すらまともにしていない。今は客よりも仕事を優先しているためだろうか、食事ですら、作業部屋でとっているようだ。

 一人になってから、さっそく初仕事のために、階段下の収納場所から掃除道具を持ち出した。ほうき、ちり取り、雑巾、モップ。古典的な道具しかなかった。掃除機があれば、すぐに終わるのに。

 サンタはここにいる。

 サンタがプレゼントを用意して、クリスマスになれば世界中の子供の家に出向き、靴下に入れる。

 まだ実感はないけれど、心が震えている。このサンタランドに世界中の期待や夢が集まっている。かつては子供だった俺も、そのうちの一人だった。

 田舎の育ちで、ずいぶん純粋に成長していたせいか十三歳の冬まで、サンタクロースが存在して、靴下にプレゼントをくれると信じていた。それを中学の友達にたまたま話してしまったら、あっという間にクラス中に噂が広まり、ついに卒業式までネタにされ笑われた。当然の成り行きだが、これ以来、自分からクリスマスの話題に触れることはなかった。サンタクロースという言葉さえ嫌いになっていた。

 俺は大人になった。けれど、もう一度、その存在を信じてみよう。と。

 掃除道具のうち、ほうきと、ちり取りはバケツの中に入れて両手に持った。そしてジーンズのポケットに雑巾をねじ込んだ。

「サンタさんの寝室を掃除してきます」

 応接間にいるメリーに声をかけてから、二階に上った。

 サンタの寝室は二階の部屋のうち東側のほうだ。二階の高さはちょうど吹き抜けのクラーンと目の合う場所だ。

 一階からは肉を焼く香ばしいニオイ。天井からは熟した木の香り。それを一度に深く吸い込んだ。

「オーソネ、オーソネ」

 クラーンが珍しく話しかけてきた。頭の糸を無理に捻って、こちらを向いている。

「どうした」

「サンタの部屋にはペットがいるよ。あいつは助手みたいなものだけど、危ない奴なんだ。ま、食われそうになったら逃げることだね」

「食われるだって?」

「そうだよ。当たり前よ、あいつは肉食だもん」

「あいつって何者だよ!」

「それは会ってからのお楽しみさ」

 クラーンはさも嬉しそうにケタケタ笑いながら、首を元に戻した。

「おい! 不親切なやつだな」

 嫌味を言ってもなおクラーンはすいすいと宙を飛んでいた。

 俺はクラーンが見ていないことをいいことに、あっかんべーをした。

 嫌な予感がしながら、恐る恐るドアノブを回す。ギギギと木のドアは軋むように開く。

 中は暗くてよく見えない。手探りで電気のスイッチを探した。壁に手を伝わせて、右手で何も触れず、左手でも探ってみたが何もつっかえるものがない。壁伝いに一歩踏み出すと、右手になにかがぶつかり、ガチャンとなにかが落ちた。慌てて手を上下に大きく振ると触れられるものがあった。不思議に思い、今度はゆっくりと、そのなにかにぽんぽんと小刻みに触れていく。しばらくは堅くて平らな面が続き、急にそれが消失した。少し手前に戻ると、角に触れた。これは家具だ。となると、その上のものを落としたに違いない。落としたものを拾うにも、暗くてわからない。

 ふと、なぜ廊下からの明かりがないのだろう、と気がつく。振り向くといつの間にかドアが閉まっていた。

「電気のつけ方も忘れましたか」

 部屋の奥から、重く低い声がした。あまりに唐突で肩がびくっと反応した。

「はい」

「サンタさん、仕事熱心であることは、すばらしいことと思います。ですが、部屋が汚いからといって、メリーさんも立ち入れないがためにこんな有様……しまいには自分の部屋の電気さえ忘れるなんて。ホーリー・ナイト!」

 その掛け声と共に、ぱっと部屋が明るくなった。

 目の前に現れたのは白クマだった。その毛は白くもこもととしていて、一見巨大なぬいぐるみのようだ。向き合って互いに直立しているが、白クマの身長は二メートル程ありそうだ。

「お前は誰だ」

 クラーンが言っていた危ない奴とは、こいつのことか。

 白クマは野生の鋭い目つきで、大きな口を広げて威嚇してきた。真っ赤な口の中は血を連想させ、本能的に絶体絶命を感じた。

「あ、ああ、申し遅れました。俺は大曽根。サンタさんとメリーさんに雇われてる掃除屋なんです。決して怪しい者ではございません。お願いですから、食べるのだけはお止めください」

 目一杯身振り手振りを交えて友好の気持ちを表現した。しかし笑顔と裏腹に背中には冷や汗がしたたっている。

「ふん、オーソネか。聞いたことない、見たこともない人間だ。それをサンタさんが許したなんて」

「や、本当ですよ。なんならメリーさんに聞いてみてください。

 それに、ほら、今から掃除をしたいのでほうきにバケツ、ちりとりと雑巾だってある。すぐに掃除をして、いつでもサンタさんに横になってもらいたいんです。ですから、少しお暇を差し上げますよ」

「なぜお前に指示をもらわなければならない」

 白クマはぐわっと、口を更に広げて、首を大きく左右に振った。その動きで鋭利な歯がギラギラと照り、口からは唾液がほとばしった。

「言い間違えました! 申し訳ありません。ご不満はあると思いますが、これはすべてサンタさんのため。寝室が汚くてお困りのようですし」

 今までに経験がないほどの最高の笑顔をつくった。こんないい顔、バイトでもしないぞ。

「俺はサンタさんが好きです。子供のときから、ずっと。だから、お手伝いしたく、願い出ました。それはあなたも一緒ですよね? もしそうならば、この気持ちを少しでも理解してください」

 白クマは二足歩行でにじり寄ってくる。その瞳はとても静かだった。俺は息を呑んで、後退するもあえなくドアにぶつかった。もう下がれないとわかった瞬間、額からどっと汗が垂れてきた。小鼻の筋にそって、唇の上に留まった。わずかに唇が震えてきたようだ。いよいよ眼前に来た。生臭い息が顔にかかる。そして白クマが毛だらけのグローブのような手を前に出した。

 もうダメだ。強く目をつぶった。

 しかしながら、次の瞬間、痛みはなかった。少し目を開くと、まだ白くまは手を出して待っていた。

「なにを怖がることがある。そんな痩せこけた人間を食うほど下品なクマではない。私はホワイト。お前にこの部屋の掃除を許そう。小さいわりに勇気があるようだ」

「あ、ありがとうございます」

「よし、握手をしよう」

「はい」

 必死で握って汗ばむ手をシャツで拭った。それからグローブの上に手を置いた。しかし、それは手でなく紅葉ほどに見えた。

 ホワイトは軽く爪と指先を曲げて、手を揺すった。

「よろしくお願いします」

 震えながら、ようやく挨拶できた。緊張がほぐれると同時に小さなため息がもれ、へなへなとその場に座り込んだ。全身をつなぐ糸がぷっつりと切れたように、腕も足も腰も力が入らない。汗だけが頭から背中や胸に流れていく。心臓はまだ激しく波打っていて、少し苦しいくらいだ。

「掃除の邪魔をしちゃいけないから、私は外に出るよ。何かわからないことがあったら、すぐ呼んでくれ。じゃ、よろしく頼むぞ。若造」

 ホワイトが大きな口で微笑み、四足でのっそりのそりと部屋から出て行った。見送った後、すぐにドアを閉めた。まだ腰は抜けたままだった。

もう怖いものなどないのに、急にひざが小刻みに震えだす。情けな気持ちで、叩いてみたり、動きを止めようと両手で押さえたりしてみたが、それでもカタカタ震えていた。

 仕方がないので、慰めるように両足を曲げて、両手で抱え込むように支える。腕の中のぽっかりと開いた空洞に顔をうずめた。

 怖かった。本当に食われるかと思った。

「オーソネ、えらい! つぎソウジ!」

 ふいにクラーンの声がはっきりと耳元に聞こえた。ドアはしっかりと閉まっているのに変だなあ。頭を持ち上げて、体をドアへ向きなおし、耳をぴったりと寄せた。

 外からは確かにクラーンの声がしたが、かすかに聞こえるばかりだった。

 あれこれ考えている間に、しだいに足の震えは緩和していった。

 もう一度ぐっと手を握り締め、尻についたホコリを手で叩き落とした。

 部屋の広さは五畳ほどで、まるで子供部屋のようだ。入り口から向かって右側にブラウンカラーの家具が二つあり、一つはさっき触れた腰ほどの高さの低い棚。その上にはオルゴールやぬいぐるみがおいてある。そこから落ちたのは鏡だった。幸いにも割れていなかった。それをとりあえず拾って、伏せた状態でおいた。

つぎに奥のものは収納棚風で高さは天井まである。やはり、天井が低く見えるために部屋は狭く感じる。

 左側をみると、部屋の幅半分を占める大きなベッドと、全身鏡があるだけだった。

 本当にただ寝るだけの部屋だな。

 最後に中央部分には白く丸いカーペットがしいてある。それは毛足が長く、白クマがいたと思われる窪みがまだ残っている。

 部屋全体は淡いクリーム色で整えられて、それを電気がやさしい蜜柑色で包んでいた。

子供部屋と形容した理由に配色も関係あるが、もう一方で装飾にも理由がある。部屋のあらゆる所におもちゃやぬいぐるみが配され、赤ん坊をあやすのによく用いるモビールという動く装飾、それはクラーンと似たおもちゃで天井から一本の糸で垂らし、その途中で糸は幾重にも枝分かれし、ちょうど四角形がぐるぐる回るイメージだ。その枝先には動物などをかたどった飾りがつけられ、それもまた風によってくるくる回転する。モビールはふわふわ浮いた、気まぐれなメリーゴーランドといったところだ。

「これが、サンタの部屋か」

 その一言しかなかった。

 ぼやっとしてても、始まらない。手から散らばった掃除道具を拾い集め、掃除に取り掛かった。

 まずバケツに水をくんで、雑巾を固く絞り、棚の上からホコリを拭いた。だいぶ汚れがたまっていたので、濯いでは拭くの繰り返しになった。ようやく次に掃き掃除をした。

 白クマが言っていたとおり、確かにひどい。ひと掃きしただけでもホコリが舞い上がり、隅には大きな綿ホコリもあった。予想以上の現状だ。これでマスクを忘れたのは大きな誤算だ。

 自分の部屋のように掃除を進め、ゴミやホコリをちりとりにまとめた。うすい灰色だった雑巾はすっかり黒くなってしまった。これはメリーに報告して捨ててもらおう。そう思ってドアノブを回した。

 出て行く間際に、やり忘れたことがあることに気がついた。低い家具の上の鏡が伏せたままになっている。

 体の向きを変え、その鏡をそのまま立てた。鏡には全身鏡が映った。

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