その10:ライブ・七月四日(三)~日本格闘技史上最大のクーデター生配信──昭和の復讐・天下争奪戦!伝説最強のプロレスラーVSスポ根ブームの火付け役/平成の格闘技バブルが死神(スーパイ)を完全包囲!

  一〇、Let Slip the Dogs of War Act.3



 一二月三一日――新しい一年を迎えんとする夜のテレビ番組は、その土地その国の文化によって種々様々である。

 日本の場合、かつての〝格闘技バブル〟の頃には興行イベントの生中継が地上波三局を占め、その再来を目指しているMMAにとっては列島の視聴者を争奪し合う〝裏番組ライバル〟ということになるが、紅白二組に分かれて大勢の歌手たちが美声を競い合う大晦日の〝風物詩〟が二三時四五分丁度に終了すると、続けて全国各地の寺社の様子を順番に追い掛けていく年越し番組に切り替わる。

 地域によっては吹雪の只中にて除夜の鐘がかれ、その厳かな響きに耳を傾けながら一月一日の零時を待つわけだが、過ぎゆく年と迎える年に思いを馳せる節目でもなければ、日本中の人々がわざわざ時間を合わせて神社仏閣を眺める機会など有り得ないだろう。

 七月四日という一年の折り返しからも少しばかり外れた時期に、その『じんぐう』が日本のみならず世界の注目を集めたことは、二度とないほどまれな状況なのだ。

 尤も、そのように仰々しい呼び方を用いているのは、築数十年とおぼしき四畳半程度のアパートで暮らす本人のみである。割れた窓ガラスなどはダンボールで補強しており、その中央に煌びやかな風貌が仁王立ちしていると激しい落差が一等際立つのだった。『神宮』という聖なる響きさえ、虚しい自虐とも己の境遇を題材にした諧謔とも思えてくる。

 視聴者に危険な誤解を与えないよう両手に瞬間的なモザイク処理が施されたが、「貧乏長屋の誤魔化し方として宇宙一痛々しい」などと揶揄するコメントに中指を立てつつ、目の前に設置されたカメラに向かってはつらつとした笑顔を振り撒く少女は『あつミヤズ』である。

 が用いるころもをモチーフにした若草色の装束に身を包み、美しく割れた腹筋を誇示するかのように前面を大きく開けている。あどけなさを残した顔立ちには不釣り合いと思えるほど主張の大きい胸部はタンクトップで覆われているのだが、この最も目を引く部位に『パンチアウト・マガジン』という帰属先が大きくプリントされていた。

 日本で随一の人気を誇る格闘技雑誌の名称である。そもそも『あつミヤズ』は同誌の販促キャンペーンを目的として作られ、同編集部で運用している〝キャラクター〟なのだ。

 樋口郁郎が先代編集長ということもあり、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンも『天叢雲アメノムラクモ』と業務提携を結び、興行イベント後に『熱田ミヤズ』が試合内容を総括する生放送形式のネット番組を配信している。

 これを視聴できる手段の一つが全世界に登録者ユーザーを抱える動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』であり、『熱田ミヤズ』のネット番組も格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの専用チャンネル内で公開されているのだった。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンを購読するほどMMAに精通したファンに向けたマニアックな技術解説は、全身の隅々まで凶器の如くふるう攻防の再現も交えており、半ば独立したコンテンツとして運営されるほどの大好評を博している。

 『熱田ミヤズ』という〝キャラクター〟の誕生が『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げよりも後発であっただけで、くだんの業務を前提として動き易さを重視する風貌デザインになったと決め付ける声が多いのは、樋口のではないとタンクトップでも主張する彼女には甚だ不愉快であろう。

 はかまの代わりにスパッツを穿き、両袖はころもから取り外されて肩が剥き出しとなっている。山吹色の長い髪は右耳の上辺りで一つに結わえ、紐の部分にかんざしのような飾りが差し込んであった。

 寝技を実演しようと激しく動き回って身を転がせば、髪飾りも畳敷きの床に接触してしまうが、めり込んだ部位がし折れないのは彼女が〝現実リアル〟の存在ではなく、〝架空バーチャル〟の空間で三次元描画された存在キャラクターである為だ。

 製作者の趣味こだわりか、〝現実リアル〟と同じように重力の影響を受ける処理が施してあり、豊かな胸部や一房に束ねた髪も身のこなしに連動して奔放に揺れていた。

 初陣プロデビュー直前に不祥事を起こした新人選手ルーキー故郷ペルーで繰り返してきた犯罪の暴露番組といった例外を除き、『熱田ミヤズ』が『天叢雲アメノムラクモ』について自ら取り上げることはなく、原則的には興行イベント後のに限られている。

 つまり、〝緊急特番〟と強く打ち出して二〇一四年七月四日一八時から開始はじまった〝生配信〟は例外中の例外であり、その背後にの影が見え隠れするわけだ。


「――こんな場末の配信にお呼びするのがそもそも間違ってるレベルのスーパースターサマはさッすがですねぇ~! 開始スタートから数分足らずで、このチャンネルの閲覧者数最高新記録を更新されちまったわ~! 折角のお祭り騒ぎなんだから、何も考えずに踊っといたほうがイイって理屈アタマでは分かってるけど、感情キモチのほうは死ぬほどズッタズタだわ~! ミヤズの単独ピンじゃ永遠に塗り変えられないでしょ、こんなモン! 『天叢雲アメノムラクモ』新企画発表記念コラボじゃなくて自尊心プライド爆死配信に改題してやっからな! おぼえてろよっ!」


 大車輪さながらに右腕を振り回し、普段以上に大きな騒音への抗議として壁を叩いてきた隣室に向かって垂直に跳ね飛んで土下座する様子はの『熱田ミヤズ』だが、視聴者の目に今日の『神宮』が異次元のように映るのは、同じ画面に収まる彼女と比較して縮尺が全く合っていない男性の顔が頭部のみという奇怪な状態で浮かんでいる為である。

 アニメ作品の〝キャラクター〟に近い描画で現れた『熱田ミヤズ』に対して、男性の顔は〝現実リアル〟のである。アニメと実写が混在する映像作品は見る者のなかで違和感が生じないよう丁寧な調整が施されているが、この二人の場合は調和という二字が崩壊した有りさまで並んでおり、滑稽を通り越して眩暈すら覚えるほど不気味であった。


「『天叢雲アメノムラクモ』の評判を落とす為にどこぞが送り込んできた工作員としか思えないトラブルの千本ノックな新人選手ルーキーの尻拭いまでやらなきゃいけないなんて、花形選手スーパースターの身分もラクじゃないですね。あのドぐされ、契約解除クビになんないのがワケわかんねぇレベルですよ。統括本部長のひいがあそこまで露骨あからさまだといっそ清々しいわ!」

「愛する『天叢雲アメノムラクモ』の為ならオレは何でもやっちゃう覚悟よ~ん。マイ・シスターの報告によればブラジル人のクセにサッカーワールドカップじゃなくて日本のMMAに魂を売った裏切り者だと地元で話題が沸騰中! 貧民街ファヴェーラ育ちが伝説の英雄ジュリアス・シーザーと同じ領域トコロに立っちゃうなんて、これも一つの〝MMAドリーム〟だよね! むしろ名探偵ポアロの『オリエント急行殺人事件』っぽくなるほうが面白いか! 帰路の飛行機内で滅多刺しにされたら、遺体はブラジルの太陽で焼き尽くして、そのまま大西洋に散骨してくれよな!」


「日本時間では明日早朝の試合開始キックオフだけど、七月四日ってブラジルとコロンビアの中南米大決戦にガチでカチ合ってるじゃないですか。なのに東京でネット番組に生出演なんて勇者でしょ。生配信コレをご覧になってる南米のヤベ~皆さ~ん、ミヤズを共犯者グルと思わないでくださいね~! 怯えながら夜道を歩く人生とか、親に一番泣かれるルートだわッ!」


 『熱田ミヤズ』の人気を支える絶好調な毒舌に大笑いしながら頷くのは、『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルであった。ブロッコリーにもたとえられる豊かなアフロ頭が『ユアセルフ銀幕』の画面に浮かんでいるわけだ。

 表現として正確とは言いがたいものの、〝膨張〟の二字こそ似つかわしい毛量である。レオニダスがじろぎすると大樹の枝葉の如くアフロも揺さぶられ、隣に立つ『熱田ミヤズ』を覆い隠してしまう瞬間もあり、そのたびに「人気者の圧力に潰されるゥーッ!」という金切り声が視聴者の鼓膜をつんざくのだった。

 両者のサイズをえて合わせないのも演出の一環なのであろう。頭頂から爪先まで九頭身の三次元形状モデルで立つ『熱田ミヤズ』に対し、レオニダスのほうは頭部あたまだけで画面の左半分を占めている状態なのだ。『神宮』が〝現実リアル〟の質量を持たない仮想空間バーチャルでなければ、トレードマークのアフロ頭で天井を突き破っていたはずである。

 人目に触れないでは周到な事前準備が進んでいたのであろうが、この〝生配信〟は午前一〇時にレオニダスがSNSソーシャルネットワークサービスで発した突然の一言が出発点であった。

 「今日の一八時、MMAの歴史が〝本当の意味〟で変わる」というキリサメ・アマカザリひいては『スーパイ・サーキット』に対する当てこすりのような文言が投稿されるや否や、『天叢雲アメノムラクモ』と格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの公式サイトにいて『あつミヤズ』による緊急特別番組が発表され、レオニダスのゲスト出演も大々的に報じられた。

 交流会を兼ねた公式オフィシャル観戦ツアーへの参加を表明した途端にチケットが過去最速で売り切れるなど名実ともに『天叢雲アメノムラクモ』最高の花形選手スーパースターの登場ということもあって、閲覧者数が通常の配信とは比べ物にならない。日本でのタレント活動にも精力的で顔が売れている為、格闘技界の外からもファンが殺到しているのだろう。

 〝生配信〟の開始から数分程度が経過したばかりにも関わらず、数万にも及ぶ世界中の人々がパソコンやタブレット端末あるいは携帯電話の画面に釘付けとなっているわけだ。『ユアセルフ銀幕』には閲覧者による感想コメントが一覧形式で並んでいるが、これが映像の枠内スクリーンにも表示されるよう設定すれば、文字の羅列としか表せないモノに埋め尽くされて二人の姿など全く隠れてしまうはずである。


「サッカーに人生を捧げるタイプはで行動力の塊みたいなヤツも多いからねぇ。コレを観ながら東京行きの航空券チケットを手配しちゃったかも知れないよ~ん。〝地球の裏側〟から〝鉄砲玉〟が飛んできちゃったら、オレと二人で地獄巡りとシャ込もうじゃ~ん!」

「やァだァ~、公開放送でデートのお誘い~? 〝裏社会のフーリガン〟から蜂の巣にされなかったとしてもレオニダス選手のファンから滅多刺し間違いナシじゃ~ん! 公開ギロチン刑への片道切符チケットって、どの窓口行けば払い戻し出来んのッ⁉」


 丸みを帯びた蜘蛛タランチュラ刺青タトゥーが刻まれている長い舌を出し、道化役者アルルカンのような調子でわらったレオニダスに対して『熱田ミヤズ』が柔道にける背負い投げの仕草ゼスチャーを披露すると、三次元描画ではない〝現実リアル〟の顔にも関わらず彼の鼻はゴムのように引き伸ばされ、イタリアの童話『ピノッキオの冒険』の主人公を凌駕する有りさまとなった。

 実在する被写体を架空フィクションの存在に作り変えてしまうような映像加工は、人間の動作うごきをパソコンに取り込んで三次元描画の〝キャラクター〟に反映させるモーションキャプチャーと同時期の一九九〇年代後半には確立されていた技術であり、レオニダスが出演するテレビのバラエティー番組でも多用されるなど大して珍しくはない。


「皆サマの予想をイイ意味で裏切りつつ、最高以上の形で応えるのが一番の喜びなんだけどさ、〝人気者の圧力〟ならオレの肩にもビシバシ効いてるよ。さっきちょろっと話した通り、キリサメ・アマカザリ――マイ・ブラザーとジョーワタのお仲間御一行サマが『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場で流血沙汰をおっぱじめるのを防ぎたくて、乱闘の肩代わりを提案してみたんだよね。即興アドリブとはいえ〝謝肉祭カルナヴァウ〟を捻り出したセンスは我ながら大当たりビッグヒットなんだけどねぇ、それじゃマイ・ハニーたちが納得してくれなくってさァ~」


 『あつミヤズ』が手を離した途端に元通りの顔に戻ったレオニダスは、〝頭の上に乗せたブロッコリー〟が揺れるくらい大笑いしながら、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行以来の自作自演マッチポンプを疑われ兼ねないやり口で期待を吊り上げてきた〝緊急特番〟のを切り出した。

 馴れ馴れしく〝ブラザー〟として扱う相手は、次回つぎの熊本興行にける対戦をレオニダスが直々に要請オファーした『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリである。

 これに対してとろけるような甘い声で〝ハニー〟と呼んだのは、自分の活躍を応援してくれる女性ファンたちであった。この呼称が彼の口から発せられるだけでも、快楽物質が脳に溢れるのであろう。それが証拠に感想コメント欄にも些か品を欠いた歓声が乱れ飛んでいる。


「〝プロ〟としての実績が一個もないブラザーが選手としての等級ランクさえ丸ごとすっ飛ばすのはレオ様への侮辱だ――って怒ってくれたハニーたちも無視スルーできないさ。このまま熊本興行に突入したら、余計に拗れてマイ・ハニーに悲しい思いをさせるしね」

対戦交渉マッチメイクをやった本人の前で言うのもナンですけど、ミヤズも新人選手ルーキー花形選手スタープレイヤーの試合はマジ有り得ねェってキレてますよ。実績云々は『まだ将来さきがある』って擁護フォローも出来ますけどねぇ~。デビュー戦直前にやらかしやがった路上戦ストリートファイト、悪質な反則負け、おまけにリング破壊――ちょっと数えるだけでも〝プロ〟の資格を返上するべき理由がボロボロ出てくる依怙贔屓野郎イージーボーイにお情けで救いの手を差し伸べたら、『天叢雲アメノムラクモ』の信用が地に落ちる事態に一直線まっしぐらって想像できなかったんか、この無駄にデカいアタマは⁉」

「あっ! ブラザーだけじゃなくてオレにもしっかりキレてるのねっ!」


 レオニダス本人による対戦交渉マッチメイクは、団体代表の樋口郁郎に許可も得ないまま勝手に進められたものである。〝プロ〟としての試合経験が一戦のみという新人選手ルーキー花形選手スーパースターに挑む構図は、興行イベントの側面にいても全く釣り合いが取れず、『熱田ミヤズ』が怒気を込めて指摘したように競技団体としての信頼性を損ねる危険性リスクも高い。

 『天叢雲アメノムラクモ』の意向を全く無視した振る舞いが日本MMA自体に損害を与えるとして本気で腹を立てている『熱田ミヤズ』は、左右の五指にてレオニダスのアフロ頭を掴むような仕草ゼスチャーを披露し、そのまま勢いよく腕を回して見せた。

 彼女の配信にけるだが、激し過ぎる動作うごきにモーションキャプチャーの機能が追い付かず、毎回のように三次元描画が狂ってしまう。今度も両腕があってはならない方向にしたが、視線の先のアフロ頭も盛大に捩じれており、螺旋状に働いた力の作用が頭部全体にまで及ぶと、レオニダスの顔は内側に向かって巻き込まれるような形で歪み、甲高い破裂音と共に粉々に砕け散った。


「ご存知の通り、オレってば欲しがり屋の宴会芸人じゃん? 皆サマから要求されたモノを一つ残らず叶えずにはいられないんだよねぇ。オレとブラザーの急接近に嫉妬ジェラっちゃうハニーたちを抱き止めるのも愛され体質の義務っしょ? はてさて、ど~しよっかなって頭をちょいと捻ってみたら、〝挑戦者決定戦〟の一言がポコンと飛び出たワケよ! たまに自分の感性センスが切れ味鋭過ぎておっかなくなっちゃうねぇ~」

「その感性センスとやらで引っ張り出してきた野郎も全く納得できねぇんですよ。ミヤズ的には顔に泥を塗られたのと一緒ですもん。このチャンネルだって商売上がったりだわ!」


 何事もなかったように復活し、「爆発でアフロが更にもっさりした」と冷やかす感想コメントで迎えられたレオニダスであるが、弾け飛んだ顔が元通りになる過程で異変が生じた。る二人のMMA選手の顔写真が双眸を隠すような恰好で表示されたのだ。

 左右のレンズに別々の映像が嵌め込まれるという文字通りの〝額縁メガネ〟を押し付けられた恰好であるが、レオニダスにとって己の双眸を覆い隠した二人は揃って『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟であった。より正確に表すならば、右側が〝後輩〟で、左側が〝先輩〟だ。

 右側に表示されているのは同団体の公式ホームページから借用したものとおぼしきキリサメ・アマカザリの顔写真である。

 古豪ベテランの〝誇り〟を握り締めた鉄拳で滅多打ちにされ、絶体絶命の窮地に追い詰められたキリサメは人間という種の限界を超越する異能ちから――『スーパイ・サーキット』を発動し、殺人キリングマシーンも同然という暴走の果てに大切な初陣プロデビューを反則負けで終えることになった。

 異種格闘技戦の時代から実戦志向ストロングスタイルのプロレスラーたちが闘魂たましいを吹き込んできた四角いリングを死神スーパイの〝力〟で倒壊させ、対戦相手であるじょうわたマッチの命まで脅かしたのだから、レフェリーの宣言は正当であろう。

 じょうわたマッチを〝総長〟と仰ぐ暴走族チームの仲間は神聖な試合がキリサメにけがされたと捉え、烈火の如く怒り狂って興行イベント会場で報復を仕掛けようとしたのである。そこに割って入り、カタキ討ちの代行を申し出たのが同じ岩手興行に出場していた花形選手レオニダスだ。

 『熱田ミヤズ』が怒気を撒き散らしながら列挙した通り、前身団体から『天叢雲アメノムラクモ』に至るまで日本MMAにける〝最強〟を誇ってきた『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』の玉座を奪い取ろうかという花形選手スーパースター新人選手ルーキーに狙いを定める真意は、半月が過ぎた今も皆が測り兼ねている。

 言葉巧みに暴走族チームを宥めすかしてまでキリサメとの試合を望む理由について、レオニダス当人は〝貧民街スラム出身の格闘家〟という一種のが横取りされる可能性を先んじて摘み取っておきたいと述べていた。

 同じ境遇の新人選手キリサメ・アマカザリが頭角を現せば、自分を現在の〝地位〟にまで押し上げた〝MMAドリーム〟が値崩れを起こしてしまうという利害の勘定には反射的に首を頷かせそうになるが、何しろ軽佻浮薄の極限としか呼びようがない為人ひととなりだ。口から発した言葉を疑うこともなく〝本心〟として鵜呑みにしているのは、二枚の顔写真で双眸が隠された姿を「能天気なサングラスも似合う」と持てはやす熱狂的なファンだけである。

 新人選手ルーキーと対になっている顔写真は、じょうわたマッチと同じように『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体から日本MMAのリングで闘い、大晦日に興行イベントの生中継が地上波三局を占めるという〝格闘技バブル〟にも貢献した古豪ベテランの物であった。

 ライサンダー・カツォポリス――古代オリンピックの競技にして〝総合格闘技の祖先〟とも呼ばれる『パンクラチオン』の使い手だ。『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントではギリシャという出身地と併せて大学生の一人娘を養う為に闘い続けている旨が紹介されていた。

 キリサメの養父にして『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長である八雲岳は、このライサンダーと戦友の絆を結んでいた。一〇年近く昔の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンではおや揃って『八雲道場』へ遊びに出掛け、他のMMA選手も交えてBBQバーベキューや花火を楽しむ様子が取り上げられたこともある。

 『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟であることに加え、八雲岳という存在を挟んだ接点もある両選手ふたりの姿が順番に大写しとなり、次いで画面が『神宮』に戻ると、新人選手キリサメ・アマカザリ古豪ライサンダー・カツォポリスの顔写真はやや縮小されて『熱田ミヤズ』の真上に移動した。


「結果的にミヤズちゃんの解説番組をにするみたいになっちまったけど、カツォポリスをオレに推薦してくれたのは樋口シャッチョサマなんだぜ。MMAのだいセンパイサマに〝挑戦者決定戦〟はど~ッスかって相談したら、主催企業サムライ・アスレチックス公式オフィシャルの新規事業になっちまったワケよ。問題だらけの新人選手ルーキーにぶつけて一番盛り上がるのは誰かってつう人選に、古豪ベテラン教育的指導おしりペンペンを宛がっちまう樋口シャッチョサマの感性センスには敵わねぇなァ~!」

「屁理屈くっ付けたって所詮は『天叢雲アメノムラクモ』がを叩き売りしたいだけでしょ。岩手興行での落ちぶれっぷりを見た全員にライサンダー・カツォポリスは戦力外通告以外に有り得ないでしょっていて回りたいですよ――あッ! 『ユアセルフ銀幕』のアンケート機能、マジで使ってみよっか? さすがに裁判所から欲しくないお手紙第一位ナンバーワンが届くか」

「一歩でも下がったら奈落の底にドボンってな具合の崖っぷちだから、カツォポリスは死に物狂いでブラザーにぶつからなきゃだし、そこまで本気ガチ古豪ベテランを倒せたらハニーたちも挑戦権を認めてくれるって算段さ。『窮鼠猫を嚙む』ってな東洋のことわざがあるけど、だって火が付いたら〝何〟がどうなるか分からないぜ~?」

「そりゃあカツォポリス選手からすりゃ、崖っぷちからの一発逆転狙いなのは間違いないですけどねぇ~。〝かみ〟のご意向だとはいえ、〝挑戦者決定戦〟は荷が重過ぎませんかねぇ~? 例の異能スーパイ・サーキットが飛び出すくらいアマカザリ選手を追い詰められないのは勿論、大した盛り上がりもなく一ラウンドKO負けってオチじゃない? ハニーとやらに納得してもらえるどころか、余計に微妙な空気になるほうにミヤズは賭けますよ!」


 かつての〝格闘技バブル〟の功労者に対して、『熱田ミヤズ』は以前から異常なくらい辛辣に当たってきた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント終了後にこのチャンネルで生配信される全試合の総括番組は、日本のスポーツメディアの中でも飛び抜けた人気を誇っているが、それは遠慮会釈のない毒舌や愛らしい容姿が理由というわけではない。リングにける攻防の実演など、興行イベントで実況席に座る鬼貫道明とも違った切り口の技術解説が極めて丁寧であり、その精度がMMAファンから正当に評価されているのだ。

 その一方で、見所がない試合や見込みのない選手は舌鋒鋭く扱き下ろす傾向がある。サラシで無理矢理に引き締めている胴周りの贅肉など古豪ベテランと呼ばれる年齢ゆえの衰えが著しいじょうわたマッチや、自身の体重に適応する階級制度がなく、重量級選手に有利な『天叢雲アメノムラクモ』のルールに苦しめられる中量級のしんかいこうは、戦績が芳しくない為にしばしば批判の対象となっており、ライサンダー・カツォポリスも矛先を向けられる一人であった。

 四〇代半ばとなったライサンダーは負傷を理由に興行イベントを欠場することが増え、完治が難しい状態まで損傷した左右の足は金属ボルトを埋めなければ己の体重すら満足に支えられない。何年も前に現役を退いていても不思議ではなく、岩手興行にけるしんかいこうとの試合では懸命に動かしていた足が完全に停止まってしまう一幕もあったのだ。

 文字通りに自らの肉体からだが資本という競技選手アスリートにとって、怪我は宿命である。これをそしる側こそ品性を疑われるべきだが、〝プロ〟である以上は結果が全てということも目を逸らしがたい〝現実〟である。試合に至る経緯や事情など所属先にも観客にも関わりがないと、まさしく〝プロ〟として自覚していればこそ、ライサンダーも他の〝同僚〟と同じように怪我を成績不振の言い訳にはしないのだった。

 そのライサンダーがキリサメと熊本城の間に立ちはだかるという。『熱田ミヤズ』とレオニダスの間で飛び交った言葉は、格闘技界にとってまさしく〝青天のへきれき〟である。

 対戦交渉マッチメイクの経緯も含めて熊本興行でキリサメが闘う相手はレオニダスと『天叢雲アメノムラクモ』の内外に周知されており、誰一人としてライサンダーとの〝挑戦者決定戦〟など想像していなかった。この〝緊急特番〟を視聴するパソコンが表示機能を設定していれば、突然の発表に対する動揺が弾幕の如く『ユアセルフ銀幕』の画面を埋め尽くしたことであろう。


「カツォポリスにはさっき話したから〝挑戦者決定戦〟の出場依頼オファーをしたんだけど、異能スーパイ・サーキットで過大評価されてる新人選手ルーキー古豪ベテラン的には気に食わなかったんかなぁ。ブラザーにはむしろ自分のほうから挑戦したかったっつって手ェ挙げてくれたんだよ。そ~でしたよね、ジャドーセンパイサマ~?」


 〝誰か〟に向かってレオニダスは耳を澄ませる仕草を見せたが、これは〝第四の壁〟を破る行為だ。四畳半の『神宮』には届かないものの、そこかしこで呻き声が起こった。

 『熱田ミヤズ』は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部が運営する〝キャラクター〟である。モーションキャプチャーで動作うごきを実演する者、いのちを吹き込む者、それらを総合して仮想空間バーチャルに三次元描画を実施する者――このチャンネルは何人ものスタッフに支えられているわけだ。今日の〝緊急特番〟は生身の人間レオニダスを撮影する者も加わっている。

 〝もう一つの生命〟という触れ込みはに過ぎないと誰もが理解しながら視聴しているのだが、この暗黙の了解を破って『神宮』の〝外〟に居る人間へ呼び掛けるのは、遊園地の着ぐるみに組み付いてを暴く行為にも等しいであろう。

 チャンネルそのものを破綻させ兼ねないレオニダスに対し、『熱田ミヤズ』が左右の中指を立てるよりも早く、弦楽器の音色が抗議の代わりとして『神宮』に鳴り響いた。

 沖縄で愛されてきた伝統楽器のさんしんである。これをつまいた者がレオニダスの画策する〝挑戦者決定戦〟の協力者であり、その音色で閲覧者たちも正体が判ったのであろう。

 MMAへの未練を捨て切れないなら、クレープを焼いていないで自分がアマカザリと闘え――と、感想コメント欄にはを促す声まで並んでいる。


「ブラザー、観てる~? オレと熊本城でりたきゃ先にギリシャのだいセンパイサマを撃墜して頂戴よ! 〝復活祭イースター〟の約束を早めるコトになっちまうけど、数えてみたら前回大会から〝挑戦者決定戦〟までほぼ四〇日なんだよな。偶然の帳尻合わせを神の奇跡と思って拝まなきゃバチが当たるぜェ~!」

「さっきから〝挑戦者決定戦〟ってご陽気に連呼してますけど、万が一にもカツォポリス選手が勝っちゃった場合、タファレル選手への挑戦権もあっちに移るんですか? 番外編みたいな試合ならまだしもでクソ同然の組み合わせなんてミヤズは許さないよ?」

正直ぶっちゃけ、その展開は考えてなかったわ! ブラザーならきっとオレに届くって信じてるけどねェ~。そうねェ~。折角の好機チャンスをモノに出来ない上、反則標準装備な問題児と試合しても構わねェって選手が『天叢雲アメノムラクモ』にどれだけ残ってるかねェ~? オレとカツォポリスを見比べてみりゃ分かるっしょ? 勝ち続けるのが〝プロ〟のだってさ!」


 今度もレオニダスは『神宮』の〝外〟に声を掛けたのだが、さんしんの音色は聞こえない。スタッフではなくカメラの〝先〟に向けたものである為、許容範囲なのだろう。

 この瞬間に限っては、迷惑に感じているのは『熱田ミヤズ』ただ一人である。レンズを覗き込む『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターは、彼女の姿が画面の端にさえ映らなくなるくらい身を乗り出していた。

 格差社会の最下層で命を繋ぐ為に編み出された殺傷ひとごろしすべ――喧嘩殺法の〝本性〟と、暴走状態に陥った異能スーパイ・サーキットによってリングごと破壊された試合も、怒りで正気を失った暴走族チームによる乱闘未遂事件も、ブラジル出身うまれ花形選手スーパースターは一まとめにしてキリスト教の〝謝肉祭〟にたとえていた。

 大多数の日本人は〝謝肉祭〟――『カーニバル』と聞いてリオデジャネイロにけるサンバの祭典パレードを直感的に連想してしまうが、キリサメが生まれ育った隣国ペルーはブラジルと同様にキリスト教が広く信仰され、その文化も根付いており、己が発した挑発ことばの意図を〝ブラザー〟だけは必ず読み取れるとレオニダスも確信していたわけだ。

『スーパイ・サーキット』による超人的な跳躍の頂点からキリサメが急降下を伴う攻撃を仕掛け、じょうわたマッチを巻き込む形で倒壊させたリングを指して、レオニダスは付け合わせも含めて全ての料理が平らげられた〝謝肉祭の皿〟に見立てていた。

 慎ましい期間を過ぎ越す為にこそ狂騒の宴が開かれることも、花形選手スーパースターが岩手興行の第一試合全体をその祭礼に重ねたことも、通じている。

 そもそも〝謝肉祭〟とはキリスト教にいて意義の深いものであり、ときに倫理や道徳すら弾け飛んでしまう乱痴気騒ぎも復活祭イースターに至る道筋を前提としている。本来は「肉食との別離」といった意味を持っており、この日から四〇日間――日曜日を除いて割り出した日数――は豪華な食事や娯楽を控え、祈りや奉仕の精神をもって人類の罪を背負った〝主〟の受難に寄り添わんとするのだ。

 新約聖書にける『マルコの福音書』などに記された伝承によれば〝主〟は食を断ったまま荒野で四〇日を過ごしたとされている。

 自分と対戦する熊本興行こそが〝ブラザー〟にとっての〝復活祭イースター〟といった旨をレオニダスはたのしげにうたっていた。信仰の在り方を自らの心に問い掛ける風習も節制の期間にける伝統の一種ひとつである。〝プロ〟の競技選手アスリートにあるまじき振る舞いを猛省し、MMAを愛する人々が納得する再出発を目指して粛々と励む機会をキリサメは与えられたわけだ。

 そうして新人選手ルーキーを汚名返上へ導いた花形選手スーパースターが唐突に気まぐれを起こし、〝復活祭イースター〟のを一方的に言い渡してきた次第である。

 それどころか、自分と対戦する資格を奪い合う〝挑戦者決定戦〟でMMA選手としてのを示せなければ、『天叢雲アメノムラクモ』から居場所が無くなることまで彼は仄めかした。

 ネット番組でレオニダスが吹聴しているだけであったなら、として聞き流しても構わなかったが、この〝挑戦者決定戦〟が『天叢雲アメノムラクモ』の事業に組み込まれ、団体代表の樋口まで関与している以上、プロデビュー戦と同じような失態を犯せば、今度こそ選手契約が解除されてしまうだろう。

 ライサンダー・カツォポリスとの対戦を回避しようとした場合には、熊本興行の出場選手から除名され、相応の制裁措置が取られることも間違いない。


「オレがきわめた『ブラジリアン柔術』はドナト・ピレス・ドス・ヘイスより前まで遡ってみりゃ全世界津々浦々の〝千戦無敗〟――前田光世コンデ・コマに行き着くじゃん? それだけでも鼻高々だったのに、ギリシャのパンクラチオンは神話の時代からあるってんだから悔しいよなァ~。でもさァ、〝総合格闘技のご先祖サマ〟と現代の貧民街スラムが産み落とした喧嘩技のガチンコ一本勝負なんてさァ、クニタチイチバンセン漫画コミックでやってないのがおかしい爆熱な展開じゃん。それでなら両選手ふたりとも『天叢雲アメノムラクモ』じゃチリに帰ったも同然だよ」


 キリスト教の祭礼やこれに由来する語句を用いながらも、レオニダスは〝主〟を軽んじる言行が酷く目立つ。キリサメにも面と向かって指摘されたが、熊本興行は彼にとっての〝復活祭〟などと述べておきながら、〝謝肉祭〟に重ねた岩手興行から数えても荒野で飲食を断った〝主〟に倣う四〇日間と全く合っていなかった。〝じゅんせつ〟と呼ばれるこの期間が旧約聖書を起源とすることさえ、花形選手スーパースターには興味の対象外であるのかも知れない。

 本音と冗談の境い目を見極めるのが不可能な振る舞いを持てはやす声に埋もれているが、感想コメント欄には背教者アポステイトした批難も少なからず混ざっていた。


「大らかな時代だったっつうノスタルジーを免罪符にしておかないと、パトカーのサイレンなり裁判所からの呼び出しなりが聞こえてくるような、常識も倫理も狂いまくった『昭和』のプロレスよろしく、無観客デスマッチでもやりたいワケ? 鬼貫道明がまだ『アンドレオ鬼貫』だった一九八七年に似たような試合を敢行したわよ。お誂え向きにみやもとさしささろうが決闘したのと同じがんりゅうじまに『新鬼道プロレス』のリングを設置してね」

「ミヤズちゃん、ソレをど~してもっと早く言ってくれなかったんよ⁉ 『アンドレオ鬼貫』への敬意リスペクトが零れるオレがその一戦だけ抜け落ちるなんて『IQファイター』の名折れだぜ~! サンも『大王道プロレス』のほうで開催ったよね⁉ この間もメシ食いながら話したんだから、ガンリュージマの決闘リターンズみたいなアイデイアを出してくれたら良かったにィ~! 赤字前提になる一試合ワンマッチ限りの興行イベントも、そのテの趣向なら企画をゴリ押しで通せたし、そっちのほうが絶対に大興奮だったのにさァ~!」

「タファレル選手の交流関係なんざ知ったこっちゃないですけど、樋口郁郎もきっと視聴してる生配信で〝天敵〟の名前を平気な顔して出せる図太さだけは褒めてやりますわ」


 世界の〝全て〟を笑い話にしてしまうレオニダスの性格からして、〝じょうわた総長〟のカタキ討ちを引き受けた暴走族チームには事前連絡も相談もしていないはずだ。

 二重の意味で誇りを傷付けられたつるぎきょうたちが〝ゾク車〟に打ち跨って襲い掛かってくるかも知れないのだが、そのような事態など全く考えてもいないのか、き殺される前に全滅させられる揺るぎない自信のあらわれか――『熱田ミヤズ』から邪魔とばかりに爆発される瞬間まで花形選手スーパースターは〝毒蜘蛛伝説〟を想起させる舌でもって自らの顎をねぶっていた。



                     *



 かみの昔と現代の貧民街スラム――遥けき時代ときを超えて二種ふたつの〝総合格闘技術〟が繰り広げる究極の生存闘争と盛んに喧伝していけば、新人選手キリサメ・アマカザリ古豪ライサンダー・カツォポリスによる花形選手スーパースターへの〝挑戦者決定戦〟を好意的に受け止めるMMAファンも増えることであろう。あるいは樋口郁郎が得意とする情報工作をもってして、そのような潮流ながれを作り出すのかも知れない。

 しかし、約三ヶ月の内に二連戦を強行することは、回復が追い付かないほどの負担を選手に強いるという意味である。死闘の果てに命のひと欠片かけらが燃え尽きることさえ美徳とする〝くにたち漫画〟のような〝スポ根〟のマンに浸ってはいられまい。

 架空フィクションの出来事ではなく、両選手キリサメとライサンダーの命を脅かすに他ならないのだ。スポーツに関わる医療従事者が投稿したものであろうか、この危険性リスクに対する警告も一つ二つと感想コメント欄に現れ始めた。


「この間から『サタナス』とかいう聖女気取りのテロリストがおトモダチの論文で転売紛いのを始めたでしょ? あの女性レディーと同じ収監先で無意味極まりない暴動起こして、バカ丸出しのまま蜂の巣にされた学者のセン。アメリカのプロボクシングと政財界の癒着を暴露するとかいう妄想とこじ付けの与太話なのに、撃ち殺された同情やら公権力の横暴への義憤やらで、じゃ鵜呑みにするアホがひっきりナシなんだって。グチシャッチョサマの大演説にもあったようにさ、世間の皆サマに格闘技の値打ちを証明しなくちゃいけないんだよね。そんなときに臆病者チキンのレッテルなんか貼られちまったらさァ、オレなら恥ずかしくて二度とリングに立てねェかな」


 〝心技体〟を振り絞る〝プロ〟の興行イベントとはいえ、選手生命の危機をわざわざ引き寄せるような事態の是非を難詰するコメントを目聡く発見したレオニダスは、自分の趣味たのしみに文句を付けられて機嫌を損ねるどころか、医学的見地による指摘さえも、リングで命を惜しむ格闘家の存在意義について閲覧者の意見を募りたいと、反対に提案を持ち掛けた。

 『ユアセルフ銀幕』はアンケート機能が備わっている。動画ビデオの配信者が幾つか選択肢を設け、閲覧者に投票を呼び掛けるわけだ。〝挑戦者決定戦〟を勝ち抜いたとしても疲弊が祟ってレオニダスとの〝本番〟で全力を発揮できず、再起不能の重傷に繋がってしまうことへの懸念など、間もなく画面内に四つの項目が表示された。

 自身のチャンネルでありながら、すっかり主導権を握られてしまった『熱田ミヤズ』は先程と同じようにレオニダスの鼻を長く引き伸ばし、今にも喉笛に咬み付きそうな唸り声と共にこれを折り曲げ、鼻先でもって時計回りに四択を指していく。

 携帯電話スマホの液晶画面越しに所属団体の花形選手スーパースターを見つめるさら・バロッサは、彼が何らかの言葉を発するたびに首を左右に首を捻っており、これを見兼ねた同行マネージャーのおおとりさとから筋を痛めたら仕事に支障をきたすと注意されてしまった。

 七月四日も希更は声優という〝本業〟で大忙しである。この日に予定されていた声の収録は一八時過ぎに完了したのだが、二〇時開始スタートのラジオ番組へ生出演する為、大鳥マネージャーがハンドルを握る声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラ社用車くるまゆうらくちょうのスタジオに急いでいた。

 ――『天叢雲アメノムラクモ』に関連する『熱田ミヤズ』の〝緊急特番〟は後部座席に腰掛けている間しか視聴できないわけだが、を超えようと誘われたら応じてしまいそうなほどの好意を抱いている〝レオ様〟の特別出演でありながら、その顔に甘やかな感情を滲ませたのは、『ユアセルフ銀幕』の画面を開いた直後の数分のみである。

 眉をひそめずにいられないのは当然であろう。慕情に惑わされてひいを抑えられない希更から見ても〝緊急特番〟の内容は不可解極まりないのだ。

 伸び盛りの才能が醜聞スキャンダルで潰されることを心配する声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラに自重を促されながら、公の場にいても〝レオ様〟という愛称ニックネームはばからない希更だけに、花形選手スーパースターにまつわる情報も漏らさず確認チェックしているが、匿名性という盾で暴言や妄言の類いが分別を失うSNSソーシャルネットワークサービスでさえ新人選手ルーキーの挑戦権を否定する声などは殆ど見掛けなかったのである。

 勿論、絶無だったわけではない。だが、希更の観測する範囲では〝挑戦者決定戦〟が必要となるほど問題視されていなかったはずなのだ。

 彼女の携帯電話スマホは画面全体に『神宮』のみが大写しとなる状態に切り換えられており、今や数万に達した閲覧者たちによる感想コメント枠内スクリーンを横切る形で表示されている。危険行為の乱発によって反則負けを喫するような新人選手スーパースターと『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターの対戦に否定的なファンが多いとレオニダス自身の口から発せられた途端、これに同調するコメントが〝弾幕〟の如く大量に押し寄せ、『熱田ミヤズ』を巻き込んで当人の顔も覆い隠したのだが、「マジでレオ様と闘う気なら身の程知らずを通り越して恥知らず。犯罪者の分際で夢見んな」などとキリサメを蔑んだ人々は、この瞬間まで何処いずこに息を潜めていたのであろうか。

 人間という種を超越する異能ちから――『スーパイ・サーキット』をその身に宿しているとはいえ、プロ一戦目を終えたばかりの下位アンダーカードを百戦錬磨の上位メインカードがいたぶる構図を危険視する声は、大勢の〝ハニー〟の目に留まるもことなく押し流されていく。

 同じ〝ハニー〟でありながらも、良心そのものが反転したかのような急変に疑問など差し挟まず、妄信的にレオニダスの言行を肯定する人々との間に熱量の差を禁じ得ない希更であるが、その気持ちに寄り添わんとする思考あたまは簡単には手放さなかった。不穏当な性質だけに本音を打ち明けられないまま胸に秘めていたのであろうと捉えられなくもない。

 尤も、実名を特定されない形で好き勝手に意見を発信する手段などIT社会には幾らでもあり、『ユアセルフ銀幕』でキリサメに対する暴言を垂れ流す人間が別のSNSソーシャルネットワークサービスで同じ真似をしないのは不自然という新たな疑問が追い掛けてくる為、希更がどれほど好意的に解釈しようともすぐに行き詰ってしまう。

 他の〝ハニー〟と比べて、同じ『天叢雲アメノムラクモ』に所属する自分こそが誰よりも〝レオ様〟との距離が近いという優越感を今日まで持っていた希更は、たったの数分間で重く苦いモノに変わってしまったを持て余し、憧憬あこがれの反転に抗うかのように寿の夕焼け空へと車窓まど越しに溜め息を溶け込ませた。

 週末の都心は淀んだ血管の如く車輛の移動が滞る。七キロ程度という道程さえ遅々として進まず、それが己の心の有りさまと重なった希更の口からもう一つ溜め息が滑り落ちた。


「……我を忘れたつるぎさんに割り込む恰好でしたが、自分のほうから試合を申し入れておいて、それをで覆した理由は分かり兼ねます。現在いまの時点で正確に近いと言い切れるのは、シン感想コメントを利用してキリサメさんへの疑いの目とやらをする企み。選手に無意味な負担を強いる〝挑戦者決定戦〟であろうとも実施は正当だと刷り込む為の方便――私と同じことをバロッサさんも疑っておいでなのでしょう?」

「まさかと思うけど、片手ハンドルで携帯電話スマホを覗いてませんよね?」

「バロッサさんの携帯電話スマホから流れてくる音声と、ルームミラー越しに見える表情かおで生配信の概略あらましを察せられないような鈍感では、で同行マネージャーと身辺警護ボディーガードの兼務は事務所が任せてくださいませんよ」

「サッカーで例えるなら〝計略マリーシア〟ってヤツ? 樋口社長やうちの父みたいに裏でコソコソと状況を操作コントロールするような面白くない真似、レオ様にはやって欲しくなかったなぁ……」

「より悪質な〝奸計マランダラージ〟のほうではないかと。私が思うにタファレルさんに同調する声を上げている方々は、その放送が始まるまでキリサメさんに何の不満も持っていなかったのでは? MMAと無関係のファンに至っては彼の名前すら知らなかったはず」

「本当はキリキリなんか好きでも嫌いでもないけど、レオ様が言うなら〝挑戦者決定戦〟も絶対正しい――そうやって無条件に支持するように誘導されたってコトですか? 数の暴力よろしく感想コメント欄に溢れた賛成多数で押し切ろうって? 確かに『IQファイター』とも呼ばれていますけど……」

「別の通称は『蜘蛛スパイダー』でしたね。まさしく蜘蛛の糸のような罠でしょう。その〝奸計マランダラージ〟にバロッサさんも引っ掛からず、一歩引いた目でご覧になっているのはマネージャーの立場として有難い限りですよ」


 花形選手スーパースターを褒めちぎりながら新人選手ルーキーの人格攻撃まで始めた否定派アンチに虫が全身を這い回るような不快感を抑えられない希更のなかで、を仕掛けたレオニダス本人に対する猜疑心も膨らみ始めている。

 そのことを見抜いた大鳥マネージャーは、〝挑戦者決定戦〟の実施を要請する声が大多数であると『天叢雲アメノムラクモ』のに信じ込ませようとする情報工作であろうと、レオニダスの〝奸計マランダラージ〟を分析してみせた。

 数の偽装ではないが、限りなく捏造に近い。花形選手スーパースターという〝立場〟から偶像崇拝に内在する危険性を自覚した上で言葉巧みに群集心理を操り、己の都合が良い〝流れ〟を作り出す扇動策は、日本格闘技界を実効支配してきた〝暴君〟が最も得意とする手口だ。

 人の心に泥靴で踏み込み、ボードゲームのように状況を動かす謀略は〝ランボー〟とも『在野の軍師』とも恐れられる弁護士の父アルフレッド・ライアン・バロッサにも重なる為、希更はしかめ面にならざるを得ないのである。『天叢雲アメノムラクモ』と熊本武術界の対立を巡って感情面の摩擦が続く父の存在ことが頭にあったればこそ、レオニダスに抱いていた己自身の慕情を疑い始めたのであろう。


「タファレルさんじきじきに内容を読み上げていましたが、アンケートは閲覧者への責任転嫁を兼ねた悪知恵でしょう。リングに向かわされる選手の負担を度外視したが心配するような事態を招いたとしても、それを要求したのは自分じゃないと言い訳できますからね。発表時の口振りやビックリパーティーと嫌がらせの区別が怪しい性格からして、おそらく〝挑戦者決定戦〟に関してキリサメさんには事前の相談もなかったはず。遊び半分で〝同僚〟の命を危険に晒す人間がだけで〝奸計マランダラージ〟を止めるとも思えませんね」


 大鳥が並べた言葉はどこを切り取ってもレオニダスへの侮辱としか思えなかったが、これも希更は否定せず、控え目に首を上下させることで相槌に代えている。

 マネージャーの〝立場〟としては、担当声優から醜聞スキャンダルの可能性が遠ざかることには幾ら安堵の溜め息をいても足りないくらいだ。今年の三月に開催された『天叢雲アメノムラクモ』長野興行でのことだが、希更から自分に向けられる好意を聞きつけたレオニダスがを過ごせるよう取り計らって欲しいと大鳥に頼んできたのである。

 マネージャーを共犯者にしようとする買収金カネで断り、会話を録音している旨を突き付けて希更と個人的に接触しないよう阻止していた為、地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の刺客が彼女を取り囲んだ場に駆け付けられなかったのだ。

 レオニダスから持ち掛けられた吐き気を催す交渉も、有力な証拠である録音データの存在も希更本人に伝えておらず、万が一の場合に〝切り札〟として行使するよう声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラの上層部から指示されている。テレビ画面に陽気な笑い顔とアフロ頭が映った瞬間にチャンネルを切り替えるような軽蔑が大鳥のなかくらく燃えたぎっているのだった。

 背広の内ポケットに忍ばせているのは片手半剣バスタードソードではなく伸縮式特殊警棒だが、得物を持ち替えて振るうとしても、幼馴染みと共に稽古を積んだ西洋剣術は『蜘蛛スパイダー』のブラジリアン柔術にもおくれを取らないつもりである。


「バロッサさんもバロッサさんで、現在いまはキリサメさんに負けないくらい微妙な時期ではないですか。くれぐれも首を突っ込まないようにお願いしますよ」

「あたし以上に首を突っ込みたいのは大鳥さんのほうでしょ。今日は舌が回りに回ってますけど、友達をバカにされて激怒ブチギレてるのは後ろ姿だけでもバレバレですよ」


 肩越しの呻き声が一番の返事であり、が我が事のように嬉しい希更は甚だ場違いと分かっていながらも頬を緩ませずにはいられなかった。

 初めて顔を合わせた頃はレオニダスと同じように担当声優の醜聞スキャンダルの原因になり兼ねないとしてキリサメを警戒していたが、打ち解けた現在いま下の名前ファーストネームで呼び合うくらいき友人関係となっており、彼が初陣プロデビューのリングへ臨む直前には準備運動ウォーミングアップにも協力している。

 〝大人〟だから粛々と職務を全うしているが、本心では大鳥も理不尽な逆風に晒されている友人キリサメのもとに今すぐ駆け付けたいのだ。レオニダスに対する憤怒いかりと相俟って社用車くるまのハンドルを握る左右の五指に普段より強い力が込められていることは、後部座席から見ても瞭然であった。


「……改めて釘を刺されなくても事務所に迷惑が掛かるような真似なんかしませんよ。こんな冷たい言い方はバロッサの家名なまえに顔向けできませんけど、〝本業〟は弁えています」


 運転席に向けて口を鳴らしたのは、担当声優への信用が足りないという抗議ではない。夕陽のいろに染まった天井を仰いだ希更は、〝何〟も知らない間に立たされてしまった板挟みも同然の状況を完全に持て余していた。

 父には内密にしておくよう忠告されたものの、自分自身の良心に従ってそれを黙殺した希更は、と故郷の〝火の国〟が武力衝突の可能性も有り得る緊張状態に陥ったことを声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラにも報告していた。

 担当マネージャーの大鳥が自宅や収録先まで社用車くるまで送迎する体制に切り替えるなど、事務所の上層部は歯止めが掛からない『ウォースパイト運動』の先鋭化を激しく警戒している。ただでさえ不穏な空気が垂れ込めている状況で、バロッサ家も属する熊本武術界が新たな騒動の〝火種〟となってしまったわけだ。

 天下に名高い二刀流の剣豪・みやもとさしも愛した〝武の都〟の象徴である熊本城をMMA興行イベントの為に占拠しようとする『天叢雲アメノムラクモ』は、明治維新まで同地を治めたほそかわ家によって育まれたしょうの気風をもけがさんとしている。これを迎え撃つ為の〝挙兵〟には古馴染みの道場が関わり、バロッサ家の一門も総大将と目される人物と足並みを揃えているが、希更自身はどちらの陣営にもくみせず距離を取るつもりである。

 本来ならば故郷へ錦を飾る記念すべき大会になるはずであった熊本興行への出場はやむを得ないとして、リングの〝外〟でそうじょう事件が発生した場合にも無関係を貫くという方針を希更本人と声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラの双方で確認し合っている。声優としての活動こそ最優先という判断は彼女が自ら申し出ており、家族や友人との接点を完全に断ち切ることまでは求めていないと、反対に事務所の上層部から宥められたほどであった。


「全方位の板挟みに遭わせたくないから内緒にしていたっていう押し付けがましいにも程がある親心、大鳥さんから見てどう思います? えて伏せておく優しさをバッサリ切り捨てたくないですけど、生まれ故郷の大事件は黙ってる場合じゃないですよね⁉ あたしの幼馴染みなんか先陣切って東京まで乗り込んできたんですよ⁉ 仮にも親友が主戦場にしてる『天叢雲アメノムラクモ』の代表の首級くびを熊本に持って帰るって……戦国乱世だってもうちょっと奥ゆかしかったんじゃないッ⁉」

「ご友人の為なら危険も顧みず手を差し伸べるご気性と理解わかっておいでだから、ご両親も恨まれる覚悟をお決めになられたのではありませんか。社長もバロッサさんの良さを生かす方向で支援バックアップを約束してくださったのですし、余り頑なに構えないほうがよろしいかと」


 声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラから許可された範囲を超えないことが前提となるが、熊本武術界の人間が接触を図ってきたときには父やバロッサ家の意向とも関係なく、希更という一人の格闘家として必要と判断した行動を取るつもりである。

 熊本城を踏み荒らさんとする〝暴君〟へ裁きの一太刀を浴びせるべく上京してきた幼馴染み――『おううんりゅう』という流派の剣士である――にも『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手か、〝火の国〟の同胞なかまか、去就を明らかにするよう迫られているのだ。

 熊本武術界の旗頭を務めてきた細川家重臣の末裔――よし家に歩み寄る一方で、今度の〝挙兵〟に関しては中立を保ち、軽挙妄動を諫め続けるバロッサ家のはらを探ろうという意図も含んでいたのであろう。

 怒れる武術家たちの思惑を彼女の背後に感じ取ったからこそ、法治国家の根幹を否定するような〝暴力〟に訴えることこそ誇り高い〝火の国〟の名折れと希更も再三に亘って諭したのだが、この説得ことばは加勢の拒絶と受け取られたようで、東京に移り住んだ同郷の仲間たちに協力を取り付けてみせると、幼馴染みは肩を怒らせながら出掛けていった。

 『天叢雲アメノムラクモ』の〝敵〟を匿う状況と表すべきか、『ぎり』という名前のその女性は都内に滞在中、希更の部屋に居候していた。〝暴君〟の悪逆非道を許せない同志は数え切れないと朝食の席で意気軒高に語っていたが、自分たちが証明している通りに熊本と東京のは埋めがたく、〝暴力事件〟への加担に腰を上げる者など一人も見つかるまい。

 今頃は部屋に帰り着き、昔から変わらないくされた顔で夕食を摂っているはずだ。


音流あのコもこの生配信を観てたら、帰宅かえるなり一悶着ね。『天叢雲アメノムラクモ』からしつこく熊本を侮辱されたようなものだし、よしの屋敷にまたブチギレた大勢が集まるのかなぁ。どう転んでも面倒だなぁ。は樋口社長をツブす為にお父さんが利用しないワケがないわ……)


 八代市に法律事務所を構える希更の父――アルフレッド・ライアン・バロッサは、古くから真っ二つに分断され、抜き差しならない状態が続いてきた熊本武術界を一つにまとめ上げたことは、樋口郁郎にとってなどと皮肉を飛ばしていた。

 発端は江戸時代まで遡る。とよとみのひでよしからごのくにを与えられた加藤家に代わり、江戸幕府に五二まんごくの統治を任されたはんの親子ははんちょうが置かれた熊本城と、父・ただおきの隠居先である八代城に別れて暮らすことになったが、双方の家臣の間で派閥争いが起こった。

 しょう二年(一六四六年)に忠興が没したのち、八代城は筆頭家老の松井家に任されたが、その頃には遠く熊本城を見据える眼差しに互いの〝格〟を競う意識が芽生えていた。

 やりかたなが武勇の証であった乱世から現代まで〝しょう〟の気風を留める一方、熊本藩の教育機関であるはんこうしゅうかん』にて伝授されていた流派は熊本城下に道場を構え、それ以外の地域に根を下ろした武芸者との間に埋めがたい溝も広がっていたのだ。

 改めてつまびらかとするまでもないが、藩庁との距離で武勇に差が開くことはない。

 およそ四〇キロという距離に横たわる禍根は二つの城下町で道場を構えた武芸者たちの対抗意識と結び付き、熊本武術界を分断する緊張状態がこんにちまで根深く残ってしまった。

 互いに誇り高い〝肥後武士〟である。その矜持は譲れず、一定の世代より上の人々は今でも張り合い続けていた。

 ぎりが家伝の技として学んだ八代の古流剣術と、細川家に従って京都から熊本へと移り住み、藩主側近への指南を担った鎌倉時代発祥の〝戦場武術〟は、特に対立関係を拗らせていた。県内諸流派を統括し、その伝承を支える協会が仲裁しなければ、潰し合いを繰り返した末に共倒れになっていたであろう。

 熊本城下の一派は旧主・細川家が忠興から累代に亘って叙任されてきた『えっちゅうのかみ』にきちれいの如くあやかって『ほそえつ派』を称し、起源を遡ればいにしえのしんとうに辿り着くと云う〝戦場武術〟の継承者でもあるよし家を盟主に仰いでいる。

 これに対し、八代城に集った武芸者の一派は同地を治める松井家が称した『どのかみ』に倣って『しょう派』と名乗りを上げた。字面の印象では〝まつどのかみ〟の略称と思えるが、ここにこそ熊本城下には一歩も譲らないという矜持が込められている。

 せきはらの決戦など戦国末期の主だったおおいくさで自ら太刀を振るい、織田信長にも称賛された勇将・ほそかわえっちゅうのかみただおきは、〝茶聖〟と名高いせんのきゅうの愛弟子でもあり、とよとみのひでよしてんしょう一五年(一五八七年)一〇月にきたてんまんぐうで主催した『きたおおちゃの』にいては、ようごうの松の西に茶室を設け、これは〝しょうこうあん〟として後代まで語り継がれることになった。

 これに由来し、晩年の忠興は〝しょうこう殿どのさんさい〟と号している。即ち、こんにちける『しょう派』の名乗りは松井家が治めた八代城の同志という意味に加えて、〝しょうこう殿どのを護りたすけるもののふ〟の誇りを〝火の国〟の隅々まで示しているのだった。

 『しょう派』が天高く掲げる旗は、ようごうの松の枝葉と、〝しょうこうあん〟で茶をてる為に忠興が水を汲んだと伝承される井戸を組み合わせて意匠化した物である。熊本城下にってよし家の『さんかいびしいつくぎぬき』の旗のもとに集う『ほそえつ派』に対して、八代のもののふこそが〝本家筋〟と誇示してきたわけだ。

 古代ビルマに由来する伝統武術ムエ・カッチューアをアメリカで教え広めていたバロッサ家は、猛き武士の魂が山にも海にも宿る〝火の国〟に深く〝共鳴〟し、一族での移住を決意したのだ。この特殊な背景もあって、八代市に根を下ろしながらも二派のどちらかに属することなく中立を保ってきた次第である。

 物心が付く前から『ほそえつ派』と『しょう派』が火花を散らすさまを目にしてきた希更は、両者の協力体制が遠からず破綻することを半ば確信していた。今でこそ樋口郁郎という共通の大敵に向かっているが、根底にある感情は一つとして解消されておらず、それでは四世紀近く続いてきたが収まるはずもあるまい。

 であるぎりは東京在住の『しょう派』に協力を仰ぐと語っていた。その際、長年の確執を超えて『ほそえつ派』からも同志を募るとは一度も口にしなかったのだ。

 それはつまり、樋口成敗の武勲を『ほそえつ派』に譲りたくないという意味である。この期に及んで〝先陣争い〟の真似事をしているようでは両派の確執は早晩再燃し、今回の〝挙兵〟を取り仕切るよし家の〝当代〟でさえ制御できなくなることであろう。

 団体代表が〝くにたち漫画〟の幻想に取りかれ、所属選手の命を守る努力を放棄したかのような『天叢雲アメノムラクモ』は一刻も早く滅ぶべきと考えている父親アルフレッドからすれば、樋口郁郎の首級くびを狩る好機を逃すということである。露骨あからさまに不機嫌な表情かお煙草タバコふかし、母親ジャーメインから窘められる様子が希更には容易く想像できた。

 声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラ事務所の了承も取り付けているが、父親アルフレッドの策謀によって『天叢雲アメノムラクモ』が崩壊の危機を迎えた場合には、ありとあらゆる手段を講じて友人たちを守るつもりであった。熊本武術界の〝挙兵〟が腰砕けとなって解散に至れば、が一つ潰れるわけだ。


声優事務所うちの社長は銀河より懐が広くても、頼り切りはダメじゃないですか。ましてや家族や友達の時代錯誤な〝挙兵〟なんて、わたくしごとの相談に含めて正解なのかも怪しいですし、……暴力沙汰に巻き込む危険性がある以上、表情かおだって強張らないワケありません」

「自分の場合は修行地が欧州ヨーロッパだったもので、熊本の道場事情には今もって明るくはなく、担当マネージャーとして申し訳ない限りなのですが、少し前に教えていただいたよしなる旗頭はブレーキ役として心許ないのですか? 自分が伺った限りですと、熊本武術界全体の〝顔役〟のような印象を受けましたが……?」

しょうこう殿どの以来、細川のお殿様の守り神を務め上げたよし家が旗を振って引っ張っている間はまだマシです。本当の最悪は旧家の名士でさえ手綱を引けなくなったとき。頭の中が憤怒いかりの感情で一杯になった〝肥後武士〟は恐ろしいなんてモンじゃないですよ」

「確かごのくには――安土桃山時代の熊本は、一致団結してとよとみ政権の支配に抵抗したのですよね。『くにしゅういっ』……でしたか。領地として任されるはずだったさっなりまさの失政が〝肥後武士〟たちの大規模なはんらんを招いたとか。現時点で〝くにいっ〟に近い状況の熊本城下に、歩いているだけで敵を作ってしまう樋口さんが足を踏み入れたら……」

標的ねらいは樋口社長だけで済まなくなるハズ。破裂した憎悪にき動かされて『天叢雲アメノムラクモ』全体への無差別攻撃まで行き着くかも知れません。最悪なのは、その局面ときに〝暴力〟を制御コントロールできる総大将が不在いないってコト。……理性が弾け飛んだ破壊の本能は、例え主催企業サムライ・アスレチックスの本社を焼き討ちしたって満たされなくなるわ……ッ!」

「……そして、その混沌カオスを〝彼〟が面白がらないワケがない――と? えて名前は申し上げませんが、自分が思い浮かべた名前こそ最も憂慮しておいでなのでしょう?」

「ブチギレた〝肥後武士〟を更に煽って樋口社長を襲わせるっていう一発逆転策、父なら涼しい顔でやってのけます――ってが通じないのは理解わかってますから……」


 最大限に警戒すべき対象として、運転席と後部座席に座る二人の脳内あたまのなかにそれぞれ浮かんだのは『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルである。

 九月の開催前から『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行を巡る情勢を手のひらの上で転がす『IQファイター』に『ほそえつ派』と『しょう派』の対立関係を知られてしまったら、友人キリサメに続いて故郷の人々まで〝奸計マランダラージ〟によって弄ばれることになるかも知れない。

 両派をけしかけ、熊本興行のとして〝同士討ち〟を起こさせておいて、自分に危害が及ばない安全な場所から血に染まった熊本城を見物する笑い顔が目に浮かぶようであった。

 樋口郁郎からすれば熊本武術界の自滅は願ってもない筋運びである。もしも、レオニダスに協力を求められたならば断る理由があるまい。

 ひょっとすると、〝暴君〟のほうから熊本制圧の逆転策に花形選手スーパースターを巻き込むかも知れなかった。己にこそ正義があると信じて疑わないぎりは、今こそ『天叢雲アメノムラクモ』を倒すべしと誰にはばかることもなく触れ回っているのだ。東京中を駆け巡る幼馴染みの動向が情報戦に長けた樋口の耳に入っていないとも思えない。

 戦国乱世よりも遥かに遡った平安時代末期――驕るへいを今こそ倒すべしと、しんぐうじゅうろうゆきいえが諸国のげんに決起を促して回った結果、幽閉状態であったしらかわほうおうおうを中心とする挙兵計画がへいしょうこくきよもりの知るところとなり、速やかに鎮圧されてしまったのだ。


(樋口社長やレオ様の〝鼻〟が利いても『おううんりゅう』――っていうか、ぎり家と〝例の拳法家〟に三好家まで絡んだは嗅ぎ付けられないハズだから、……哀川神通ジンジンからぬコトを吹き込まれたりはしないだろうけど、……音流あのコ、『ダイニングこん』に行かないわよね。『しょうおうりゅう』の宗家と鉢合わせたりしたら上京の理由が変わるわ)


 幼馴染みのぎりは言うに及ばず、故郷の人々に憤怒いかりに囚われた過ちを犯して欲しくない希更にとっては、『IQファイター』の〝奸計マランダラージ〟がアルフレッドよしの〝当代〟を一吞みにするような事態は、想像するだけでも身震いが抑えられなくなる。


(熊本と山梨を結ぶラインがレオ様に気付かれたら必ず死人が出るわ。そのが冗談じゃ済まされないと理解しても、きっと止まらない。逆に大興奮ノリノリのアゲアゲよね。世界の流浪ながれているとも分からない〝例の拳法家〟まで熊本興行に誘き寄せるかも知れないわ……)


 現在開催中のサッカーワールドカップに再来年の〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟と、短期間に国際競技大会メガスポーツイベントが集中する弊害として、レオニダスが生まれ育った貧民街ファヴェーラの強制撤去といった大混乱がブラジル社会を軋ませていることは希更も承知している。逆恨みに近い憂さ晴らしなのか、歪んだ享楽の成れの果てなのかは分からないが、ここに至るまでの言行を振り返ってみると、故郷ブラジルと同等の混沌で日本中を引き裂く腹積もりではないかという疑念が湧き起こるのだ。

 希更の様子をルームミラーで見て取った大鳥マネージャーが双眸に鋭い義憤を宿し、ハンドルを握る五指にも一等強い力を込めたことは、改めてつまびらかとするまでもあるまい。


「……熊本と『天叢雲アメノムラクモ』のどちらかを選べって迫ってきた父に『両方を選ぶ』って啖呵を切ってやったんですよ。あの瞬間の気持ちは少しも変わっていませんけど、その中でさえ〝何か〟を切り捨てる覚悟がるんだから、……〝相互理解〟もしんどいなぁ……」

「親子間でどんな会話があったのかは存じ上げませんが、まで見越した上で、お父上はバロッサさんを気遣われたのではありませんか。親は子どもの気持ちを理解わかっていないと良く呆れられますが、案外に細かなところまで見守ってくれているものですよ」

「……それはそれでムカつくんですよね、うちの父の場合は特に……」


 手放せないまま抱えている慕情を抑え切れない胸騒ぎが上回ってしまった希更は、思わず携帯電話スマホの液晶画面から目を逸らした。

 〝レオ様〟ととろけるように呼んできた反動とはいえ、主演を務めるアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の主題テーマである〝相互理解〟を体現してきた希更には疑心暗鬼ほど似合わないモノはなく、彼女自身も胸中に滲んだが悲しくてならないのだが、一方で父親譲りの勘働きから花形選手スーパースターの〝深淵〟に迫り近付きつつあることも間違いない。

 一つの事実として、憤怒いかりの火で包まれていた熊本武術界を巡る情勢は、この七月四日を境に潮目の変化を迎えることになる。それはのちの格闘技史を紐解いても明らかであった。


「――最大マックス四〇字じゃ伝えきれない迸りを連投してくれたんかな、コレ? 贔屓されまくりのキリサメ・アマカザリはデビューのチャンスもカネで買ったに決まってる? 統括本部長もグルの組織的犯行だってさ! しまったァ~! コレもアンケートに入れときゃ面白かったのにィ~! ブラザー、格闘家なら身の潔白は試合で証明しなくちゃだろ? 天にまします我らが〝主〟も自分に試練を与えまくりだったっしょ? 一回くらいは天に召されるトコまで無茶したほうが〝復活祭イースター〟もハクが付くってモンさァ~! ファンの皆サマの期待にきっちり応えんのも〝プロ〟の絶対条件だぜッ!」


 液晶画面の向こうの〝レオ様〟は『熱田ミヤズ』の手で幾度か鼻を引き伸ばされ、カルロ・コッローディによるイタリアの童話『ピノッキオの冒険』の主人公のような有りさまとなっていた。花形選手スーパースターの〝身分ステータス〟が窺い知れるが、そのたびに〝ハニー〟たちが『熱田ミヤズ』への殺害予告を感想コメント欄に並べるのだ。

 操り人形ピノッキオの鼻が伸びる条件は嘘をくことである。



                     *



 主要な選手・スタッフの顔触れが大きく変わらず、名実ともに『天叢雲アメノムラクモ』の前身である昔日かつての日本MMA最大団体――『バイオスピリッツ』は、二〇〇〇年代半ばに最盛期を迎えた黄金時代には地上波放送のスポーツ番組で毎日のように大きく取り上げられていた。

 〝格闘技バブル〟の熱狂へ乗るようにして、同団体バイオスピリッツは頻繁にMMA興行イベントを開催していたわけだが、〝心技体〟を振り絞ってリングに挑む選手の負担を考えれば、週に一度の試合は全く現実的ではない。ワンマッチ形式の通常レギュラーシリーズやトーナメント形式の王者決定戦グランプリといった〝本大会〟の合間に、やや控え目な規模の〝付属大会〟が併催されていたのだ。

 『バイオバズゲイザーズ』という略称で呼ばれたその〝付属大会〟は、戦績の少ない日本人選手の育成や有力な外国人選手の発掘を主たる目的として、日本列島がMMAブームで沸き返る二〇〇三年に始動した。即ち、〝本大会バイオスピリッツ〟への門戸を開く〝査定試合トライアウト〟のような位置付けの興行イベントである。

 わざわざスポーツ番組にチャンネルを合わせずとも、漫然ぼんやりとテレビ画面を眺めているだけで一日の内に選手や関係者が何度も目に飛び込んでくる〝格闘技バブル〟でしか成り立たないとも言い換えられるだろう。

 MMAという新時代の〝スポーツ文化〟がきっかけとなって、この時期は格闘技そのものが社会現象を巻き起こしていた。『天叢雲アメノムラクモ』や『こんごうりき』という国際的にも最大規模を誇る競技団体の興行イベントでさえ地上波中継が途絶えた二〇一四年七月現在の日本では想像も難しいが、娯楽性に振り切ったショープロレスも含めてブレーキが壊れたかのように様々な〝格闘技事業〟が乱立しており、採算性などは二の次三の次という無謀な大会運営を力ずくで推し進めることも、熱に浮かされた状態で許されたわけだ。


「思春期ド真ん中の頃にさ、『バイオスピリッツ』や『バイオバズゲイザーズ』の熱狂にテレビで酔いれてたオレとしちゃあ、現在いまのうすら寒い日本の格闘技界が残念無念で仕方ね~のよ! でも、オレから前向きさをったらオレじゃなくなるじゃん? 『あの黄金時代に生まれてたら良かった』なんて儲からないハナシをするよりも、ふるい世代には気持ち良くおサラバして、今が最盛期って胸張れるくらいドにブチかまそうぜッ!」


 新人選手ルーキー古豪ベテラン花形選手スーパースターを仰ぐ構図の中で展開される〝挑戦者決定戦〟に関連したアンケートを募集している間も、天地がひっくり返る趣向で絶対に退屈させない――閲覧者の期待を煽るような前置きを挟んだのち、付帯情報として『バイオスピリッツ』の話題を切り出したレオニダスは、が一区切りするとカメラの向こうの〝誰か〟を挑発するようにタランチュラの刺青タトゥーが刻まれた長い舌で自らの顎先をねぶって見せた。


「同じ時代に生まれたんだから、ブラザーがオレと同じ〝MMAドリーム〟を浴びるコトを全世界にも認めて欲しいワケよ。そこで問題になるのがデビューの経緯なんだよなァ。本来、ジョーワタるハズだったビェールクト・ヴォズネセンスキーは実は仮病で、補欠選手として出場する権利をカネで買ったんだろって決め付けられるのは素直に同情するぜ」

正直ぶっちゃけ、ミヤズはそこも未だに納得してねぇんですよ! そもそも選手採用が団体代表の気分次第って段階で『天叢雲アメノムラクモ』は終わってますよ! くにたちいちばんの教えだか知らないけど、時代遅れのワンマン経営で全世界から後ろ指なんて、実行委員会がギリギリをしてた前身団体バイオスピリッツより退化してるじゃんっ!」

「ミヤズちゃんのブチギレは、イコールで〝世界の声〟なんだよ、ブラザー。トライアウトやテストマッチの類いに合格パスしたワケでもねぇのに一発採用だろ? それなのに試合前の不祥事と本番の反則負けが合わせ技一本になっちまったら、オレの口八丁で自重をお願いしても〝プロ〟を名乗るのは許さねェっつうは止められねぇのよ」

「本物の〝プロ〟だと名乗りを上げさせる舞台のお膳立てをアマカザリ選手にだけ都合してあげるのは、『天叢雲アメノムラクモ』へ出場する好機チャンスを狙ってきた世界中の格闘家たちに公平性を欠くんじゃないの? 統括本部長の御曹司サマだけに許された特権だとかネットで袋叩きにされて頓挫ポシャるっしょ」

「下手すりゃオレまでテレビ出演やCMが打ち切られるじゃん! そこでお互い損する事態コトにならねェのがコペルニクス的転回ってワケ! ブラザーの一試合ワンマッチ限定オンリーじゃなくて、と一緒に旧世代へトドメをブッ刺してくれるのオーディション大会をワールドカップもブッ飛ばす勢いでやってやろうぜ! 今! 装いも新たに生まれ変わった『バイオバズゲイザーズ』の興行名なまえは――」

「――『テンソンコウリン』ッ!」


 嵐が直撃した大木の如くアフロ頭を縦横無尽に揺らすレオニダスを噴火とたとえるべき大音声で遮りながら、『熱田ミヤズ』は一枚の和紙が収められた額縁を顔の辺りで掲げた。

 彼女が上げた雄叫びの通り、中央には『テンソンコウリン』と荒々しい筆致で墨書されている。


「日本中を旅して回る〝本大会〟が『天叢雲アメノムラクモ』だから、それにくっ付く興行イベントも日本神話を丸ごとパロッて『テンソンコウリン』――って、カメラの裏でジャドーセンパイサマが持ってるカンペを棒読み丸出しのブラジル人だけど、コレで〝主〟から天罰喰らっちまったら、ここに居る全員を呪うからな⁉ その危険性リスクを背負うのも許せちゃうイカした命名ネーミングじゃ~ん!」


 辟易とした表情の『熱田ミヤズ』が喉の奥から絞り出した「深夜の通販番組みたいなノリは我ながらキツいわ」という自嘲と、からともなく流れてきたさんしんの音色をレオニダスの軽薄な笑い声が押し流す間にも、『神宮』の様子は忙しなく変化していく。彼女の頭上に浮かんでいた新人選手キリサメ古豪ライサンダーの写真が画面中央に移動し、これを下から睨むような構図で新たな顔が出現あらわれた。

 キリサメたちと同じ大きさで揃えられた顔写真だが、誰よりもくされた目付きでし口を作る男が目に留まった瞬間、数多の閲覧者が異口同音でる名前を挙げた。

 〝平成の大横綱〟として相撲界の歴史に刻まれるはずであったモンゴル・ウランバートル出身の『はがね』を執拗に卑しめて土俵から追放される原因を作り、彼が『バトーギーン・チョルモン』という本名で転向したMMAをも敵視して事実無根の誹謗中傷を繰り返すなど、スポーツ・ルポライターを生業としながらも手掛けた記事を誰にも信用されないほど悪名高いぜにつぼまんきちである。

 〝テレビ画面に映った瞬間にチャンネルを変える芸能人タレント〟の上位を年単位で維持し続ける顔であろうと、誰もが吐き気を催しながら直感したのだが、写真の中で構えを取るどう姿は随分と若い。武道経験が一つもないまま職業差別に等しい言葉の暴力を格闘家に浴びせることから論客としても軽蔑されてきたのが銭坪満吉である。それ故に『くうかん』と刺繍されたからを纏う写真に誰もが目を疑い、感想コメント欄もどよめきが埋め尽くしたわけだ。

 二〇〇〇年に急性骨髄性白血病で急逝した〝世界一のカカト落としの名手〟――テオ・ブリンガーや、『こんごうりき』の競技統括プロデューサーを兼務し、同団体のチャリティー興行イベントを推進してきたきょういしとも最高師範など、『くうかん』とりわけいけぶくろの本部道場は優れた人格の持ち主が多く、卑劣の二字が服を着て歩いているような銭坪満吉とは相容れまい。


グチシャッチョサマをにお招きしてジャドーセンパイサマと〝挑戦者決定戦〟を相談する内に、チマチマしたよりオーディション大会にスケールアップしたほうが面白いってな具合に方向性が固まった後、他力本願最サイコ~人脈ツテで何人かに出場を打診してみたんだよ。オレってば臆病者だしィ? 完全に無計画ノープランなまま、この規模スケール大事業ビッグプロジェクトを発表するなんて心臓破裂するもん! そしたら一発目で大物を釣り上げちゃってさァ~! ぜにつぼかねよし――〝大学空手〟の最強王者を『テンソンコウリン』にお迎えできた自分の強運にビビり散らすぜッ!」


 レオニダスが直々に紹介した通り、キリサメの間近に浮かべられた顔写真はスポーツ・ルポライター本人ではなくその息子のぜにつぼかねよしの物であった。これを受けて風化しかけていた記憶が甦ったのか、数年ぶりの生存確認に対する驚愕も感想コメント欄に散見された。


「大学卒業後も『クーカン』の〝サバキ系空手〟一本で続けてたら、天才・キョーイシシャモンの日本選手権三連覇を阻んだかもなのに、お父サマ譲りの大言壮語ビッグマウスで引っ込み付かなくなったのがマズかったよなァ~。だけども、る気がある内は格闘家は花盛り! 〝プロ〟失格な新人選手ルーキーに日本MMAを任せちゃおけねぇって『テンソンコウリン』参戦を自分から申して出くれたんだわ。海外のMMA団体を渡り歩いた歴戦のつわものが合流してくれたら、他の選手もビシバシ刺激されて新興団体としてもブリッと勢いくぜ~ッ!」

ぜにつぼかねよしを美化し過ぎだろ。頭髪かみと同じで妄想も爆発ってか。『くうかん』の〝天狗〟が海外のMMAを舐め腐ってボコられて、世間知らずで泣きを見て逃げ帰ってきただけじゃないですか。付け焼き刃のJUDOジュードーで巻き返そうとした結果、本来の〝サバキ〟とグチャグチャに混ざって最後は自分てめー様式スタイルも見失ってたようにミヤズは記憶してますが~?」


 相手に組み付いて姿勢を崩し、無防備化させて必殺の一撃を叩き込むという直接打撃フルコンタクト空手の流れを汲んだ〝サバキ系〟の『くうかん』道場で大学在学中に頭角を現し、その自信を握り締めて欧米のMMA団体へ飛び込みながらも、称賛を浴びた〝大学空手〟と同じようには活躍できず、最後に挑んだポーランドでの惨敗によって海外で闘い続けることを断念した――それが銭坪満吉の息子の現状である。

 日本のリングでMMA選手としての再出発を計画しているとも言い添えたレオニダスに対して、『熱田ミヤズ』は己のすぐ近くに表示されているのが言い返してこない顔写真であるのを良いことに、かねよしの帰国理由を情け容赦なく扱き下ろした。

 痛罵を並べ立てる間、『熱田ミヤズ』は後から学んだというJUDOジュードー――国際ルールに適応させた様式スタイルである――と、空手の技を組み合わせた〝何か〟を披露し続けていた。

 胸部を穿たんと直線的に拳を突き出したのち、五指を開いてえりを掴むのでもなく、わざわざ片腕に狙いを変えて一本背負いを試みるなど動作うごきが全く連携していない。それほどまでに支離滅裂な有りさまに陥っていると、ぜにつぼかねよしを嘲っているわけだ。


「果たして、『天叢雲アメノムラクモ』と『コンゴーリキ』の両方に『クーカン』の旗が翻るのか⁉ 地獄から帰還した空手家の復活ロードは、某局が密着取材を進行中! 『テンソンコウリン』のリングに立つまでの劇的ストーリーは、近日放送予定だからお楽しみに! オレもお邪魔するかもだからヨロシクね~!」

「某局っつーか、『フクジテレビ』ですよね。芸能人の私生活プライベートを食い散らかすドキュメンタリー気取りのテレビバラエティーに付き纏われて喜ぶのなんか銭坪満吉くらいでしょ。目立ちたがりな親父の差し金? 小遣い稼ぎに宝好むすこを利用しても驚きゃしませんがね」

「仮にも『天叢雲アメノムラクモ』と業務提携してるミヤズちゃんがテレビ局相手に中指を立てると、オレのが地上波で中継される日も遠のくからさ、行き届いた配慮をお願いしたいんだよねぇ~。全国のハニーがIQに満ちた『蜘蛛スパイダー』を待ってるんだぜ!」


 出資スポンサー企業に対する配慮から放送局や当該するテレビ番組を明かさないつもりであったレオニダスを嘲笑うかのように、『熱田ミヤズ』は隠しておくほうが不自然とばかりに『フクジテレビ』という名称を〝生配信〟の閲覧者へ暴露した。

 かつて前身団体バイオスピリッツの放送権を握りながら〝格闘技バブル〟の崩壊と共に興行イベントの中継から撤退し、『天叢雲アメノムラクモ』とも距離を置いている東京キー局の一つである。

 視聴率を目当てとするテレビ局の思惑によって歯車を狂わされた『ひきアイガイオン』という悪しき前例もある為、慎重な対応が求められるが、挫折からの再起を目指すMMA選手にとって密着番組は大きな利点メリットとなるであろう。

 その一方で、何にも勝る皮肉である。以前に出演したスポーツ番組にいても、銭坪満吉は『MMA日本協会』で理事を務めるたてやま弁護士と醜悪な舌戦を繰り広げたのだが、正気を失ったかのようにMMAを蔑む理由が宝好むすこの存在で証明された恰好であった。

 MMAので顔に泥を塗られたものと逆恨みしているわけだ。それなのに『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーに対しては手のひらを返し、人間という種を超えて神の領域に達する『スーパイ・サーキット』と併せて褒めそやしている。薄気味悪いほど唐突で極端な変節は、日本MMAが宝好むすこに手を差し伸べたことと無関係ではあるまい。


「オーディション大会としての基盤ベースは〝レオニダス少年〟も夢を膨らませた『バイオバズゲイザーズ』だけど、さっきも言ったように『アンドレオオニツラ』への敬意リスペクトだって溢れまくりなんだぜ⁉ ブラザーとタファレルの対戦カードで『レオ様の気配りは地平線を駆け抜けるゥ!』って惚れ直してくれたハニーも居るっしょ? 実戦志向ストロングスタイルの異種格闘技戦で繰り広げられたような〝日本対世界〟の全面戦争ガチンコで〝MMAドリーム〟にご招待~!」


 前身団体バイオスピリッツとは比較にならないほど層が薄い日本人選手を育てることが急務――個人間で完結する〝挑戦者決定戦〟ではなく、主催企業サムライ・アスレチックスの新事業として体制を整えるに当たり、樋口代表から提示された条件もレオニダスは言い添えたが、『天叢雲アメノムラクモ』に対する〝選手供給源〟という役割のもとで選ばれた新たな出場者の写真がぜにつぼかねよしに続いて出現あらわれた瞬間、数万人が揃って驚愕し、衝撃に打ちのめされて感想コメントすら止まってしまった。

 岩手興行で突然にMMA挑戦ひいては『天叢雲アメノムラクモ』への出場を宣言したおうしゅうのローカルアイドル――いいざかぴんがグループの仲間メンバーと肩を並べて復興支援のチャリティーコンサートに臨み、『よさこい』の文化を取り入れた歌と踊りを披露している一枚であった。

 そのいいざかぴん中央センターを引き受ける五人組グループは、岩手県でも盛んな『よさこい』から出発しており、舞台ステージで着用する衣装もこれをモチーフにした物である。首の付け根より少し上の辺りで結い上げられた小振りなポニーテールを元気よく揺らし、両手になるを握るのが嬉しくて仕方がないといった表情かおからは全く想像できないが、彼女と四人の仲間たちは卑劣極まりない脅迫事件の被害者なのだ。

 読んで字の如く〝ローカルアイドル〟は地域の活性化を目的とした非営利団体であり、半ばボランティアに近い。住民も地域の催し物を盛り上げる〝近所の人気者〟といった感覚で接しており、名実ともに〝地元の星〟であった。

 全選手の公開計量が実施される前日セレモニーの特別ライブなど、岩手県内の企業と提携する『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントにも客演の形で出演する予定であったのだが、五人組グループがMMAに関わることを快く思わない人間から玩具の銃弾を封入した脅迫状が送り付けられ、参加辞退を余儀なくされたのである。『ウォースパイト運動』の活動家によるテロ行為と疑われる状況だけに、犯人が逮捕されない限りは慎重な対応とならざるを得なかったのだ。

 県内で活動する〝同業〟の人々より頭一つ抜きん出た無敵の花形エース――いいざかぴんは、卑劣極まりない脅迫犯がどうしても許せず、玩具の銃弾をもって自分たちの活動を阻んだ張本人が最も嫌っているであろうMMAに参戦し、不当な〝暴力〟には屈しないことをリングの上で証明してみせると〝宣戦布告〟したのである。

 不屈の心意気は称賛に値するものの、いいざかぴんを応援してきたファンは誰もが顔から血の気が引いた。格闘技やプロレスの観戦が趣味であることは以前から公表している。だからこそ脅迫犯にも激しく怒り、MMA興行イベントに出場するという決意に至ったのであろうと察せられるが、彼女自身は学校の選択科目でさえ武道を経験していないのだ。

 子どもの頃から親しんできた『よさこい』や、これに基づくダンスで鍛えた身体能力が格闘家としての素養に直結すると判断していた場合、この上なく惨たらしい形で〝プロ〟の洗礼を受けることになるだろう。

 若い才能が暴走の末に壊れてしまう結末は、〝プロ〟の側も看過できなかった。この筋運びを憂慮したギロチン・ウータン――『天叢雲アメノムラクモ』に旗揚げ興行から参加してきた女子プロレスラーは、自身が率いる『ちょうじょうプロレス』に練習生としていいざかぴんを迎え入れ、ようやく基礎訓練を開始したばかりであった。

 格闘家としての経歴キャリアは持たなくとも、格差社会の最下層にける〝実戦〟を数え切れないほど潜り抜けてきた新人選手キリサメとは事情が異なる〝選手候補〟というわけだ。現時点でいいざかぴんのプロデビューは全く現実的ではないが、日本人選手の育成を掲げる『テンソンコウリン』に出場するよう樋口代表から強要されたのであろうか。

 いいざかぴんを約束したのも、決意表明の場を整えたのも、『天叢雲アメノムラクモ』で最高の権限を持つ樋口郁郎その人である。テロにも屈しない強い闘魂たましいを尊重すると口先で吹聴しながらも、ここに至る経緯から世間の注目を集めやすいローカルアイドルを新たな〝客寄せパンダ〟に据えるのが真の狙いであろう――そのように勘繰る声は岩手興行の直後から日本国外のスポーツメディアで上がっている。

 りきどうざんより先駆けてプロレス興行に挑んだがりさだを源流としながら不当に軽んじられてきた女子レスラーの地位向上と、誹謗中傷カミソリレターが常態化していた〝悪玉ヒール〟の印象回復に心血を注ぎ、〝ママさんヒール〟と敬われるギロチン・ウータンさえも強権をふるって屈服させたのか――と、プロレスを愛してやまない人々は憶測に基づいて〝暴君〟への憤りを膨らませたが、その状況は場違いとしか表しようがないレオニダスの笑い声で一変した。


「ホワイトハウスがやってる〝ビッグ・ブロック・オブ・チーズ・デー〟みたく夢を叶えたい大勢に手を差し伸べる興行イベントこそ、飯坂稟叶このコが〝プロ〟の名乗りを上げるのに打ってつけじゃん? ジャドーセンパイサマがブルッちまったモンだからオレが自ら出場要請オファーしてみたんだけどさ、久々に命の危険を感じたわ! 無謀な挑戦をゴリ押しする気なら『超嬢プロレス』は『天叢雲アメノムラクモ』と縁を切るってギロチン・ウータンを激怒マジギレさせちゃったよ! 先行き不透明のお先真っ暗になったトコで立候補してくれたのがもう一人のコってワケ――」


 著しく品性に欠ける笑い声を巻き込みながらいいざかぴんの写真が回転すると、引っ繰り返された裏側にローカルアイドルとは印象そのものが対極という女性の顔が現れた。

 黒い地毛を染めたものとおぼしき長い金髪が天をくかの如く逆巻き、その煌びやかな螺旋に草花や装飾品を幾つも差し込んだ女性は、人生で起こる〝全て〟を楽しんでしまえる活力が漲った顔立ちだ。年齢は二〇代前半のいいざかぴんと大きく変わるまい。

 アマチュア大会で授与された金メダルを胸元で煌めかせ、優勝トロフィーを両手で掲げる写真には、『しめたにしのん』という名前フルネームが添えられていた。

 写真を通しても瞭然というほど化粧が濃く、上下の付けまつに至ってはまぶたの開閉にも苦労しそうなくらい大きい。両目が異なるいろであり、尚且つ左の瞳に太陽が、右の瞳に満月がそれぞれ浮かぶのは、魔法と錯覚するようなカラーコンタクトを着けている為だ。

 左右合わせて十指の全てにいろと模様がそれぞれ異なる付け爪を装着しており、並べた際に鮮やかなグラデーションを生み出す趣向も凝らされているようだが、トロフィーの台座を掴んだ拍子に本来の爪から剥がれてしまわないよう注意し続けるのも大変であろう。

 競技用のラッシュガードを纏っていようとも、果たして何者だろうかと判別できない風貌であるが、格闘技に詳しい人々は一瞥だけで彼女の〝正体〟に気付き、「折原浩之の愛弟子を引っ張り込むとか樋口郁郎に喧嘩売る気満々」という感嘆を感想コメント欄に並べた。

 それ自体が〝暴君〟へのではないかと勘繰られた名前――『おりはらひろゆき』とは『MMA日本協会』の理事長である。

 数多の実戦経験と独自の哲学に基づき、日本で初めて『とうきょく』の理論化を成し遂げたヴァルチャーマスクが一九八〇年代に創始した〝総合格闘〟を誰よりも深く極め、この師匠から直々に要請されて二〇代の頃には試合に用いる道具の開発に携わった愛弟子とも言い換えられるだろう。

 己に克ってたたかいを修める――その理念に基づいて体系化された〝総合格闘〟の使い手たちは、プロレスの用語ことばで真剣勝負を意味する『シュート』に由来して自らを〝MMA選手〟ではなく〝シューター〟と称している。

 即ち、しめたにしのんもストロー級――五二キロ以下の階級に属する総合格闘技者シューターである。『打投極』の三字から掛け離れた過剰に華美な出で立ちは、ファッションモデルをこなすなど「格闘家は日常生活でさえどうを纏っていて汗臭そう」という偏った誤解イメージを払拭した折原浩之の教え子であることをこれ以上ないほど表しているわけだ。

 栗色に近い毛髪をがねいろに染め抜き、自ら拵えたスモーキークォーツのピアスを右耳に付け、着物の生地で仕立てた背広を悪目立ちもせずに着こなせる〝粋人〟からしめたにしのんが学んだことは、写真の中の金メダルとトロフィーこそが一番の証明であろう。

 毎週のように全国各地で試合を執り行い、統一された〝技術〟を磨き続けるという組織の体質は、『天叢雲アメノムラクモ』のような〝興行団体〟ではなく武術・格闘技の〝道場〟に近い。これを志す者は自らを厳しく律するなど武道寄りの精神性を重んじており、練習も試合も礼に始まって礼に終わる――創始者ヴァルチャーマスクの哲学とは相容れないように思える外見とは裏腹に、彼女もまた『打投極』の〝直系〟を継ぐ一人なのだ。

 〝サバキ系〟の空手家として日本選手権三連覇を成し遂げ、その実績を拳の内側なかに握り締めて『こんごうりき』という〝プロ〟の競技団体へ参戦したきょういし沙門と同様の経緯で、『テンソンコウリン』への出場を立候補したわけである。

 例えば飯坂稟叶ローカルアイドルのように格闘技経験が皆無という〝素人〟が対戦相手としてリングに押し上げられた場合、命の安全が保障されないほどの実力派であった。


「自分でも抑え切れない愛されオーラのオレからしたらカルチャーショックなんだけど、しのんちゃんってば今すぐブッ殺したいって連呼するくらいブラザーにキレまくりだったよ~ん。じきじきに激励してくれたヴァルチャーマスクを裏切った腐れ外道は、自分で地獄に投げ落とさなきゃ気が済まないってさ。喋り方も〝ギャル〟全開なのにシンカイコーと同じ真剣勝負の〝シューター〟なんだな。出場決定を祝して親睦会でもやろ~ってお誘いしたら、次の興行イベントから性別の項目が変わるコトになるって脅かされちまったよ!」


 『打投極』の創始者から預けられた闘魂たましいをも血でけがしたキリサメのことをしめたにしおんは文字通りに叩き潰したい様子だが、そもそも日本MMAは〝男女混成試合〟を全面的に禁じており、選手の命を軽んじる樋口体制にいてさえ前例がない。

 様々な意味で対戦相手に好奇の目が注がれたが、しめたにしおんの右隣に浮かべられた正方形のパネルは中央にクエスチョンマークが表示されるのみであり、先程のように引っ繰り返って格闘家の顔写真に差し換えられることもなかった。


「ここまで盛り上げといてタマ切れとか信じられる? ビックリよね? 数万人が一斉にズッコケてるのかと思うとウケるわ~。ウケねぇよ! 〝日本対世界〟全面戦争ガチンコを謳ったのに海外勢はカツォポリス選手一人だけじゃんかッ!」

「ついさっきコンセプトを明かしたばっかりじゃ~ん。夢を叶えたい大勢に手を差し伸べる興行イベントだよ、『テンソンコウリン』は。この〝ハテナ〟を〝ビックリ〟に変えるのは画面の前のキミたち! 明日のMMA王者チャンピオンはキミたちかも知れないッ!」


 正面に据えられているカメラに向かってレオニダスが一等大きな声で呼び掛けると、クエスチョンマークのパネルが夥しいとも感じられるほど大量に飛び散り、『神宮』の隅々まで埋め尽くしていった。

 これをもって、日本MMAとしては最大級となる〝オーディション大会〟への応募を開始する合図に代えたわけだ。些か強引にレオニダスが挿入した『バイオバズゲイザーズ』の説明も、改めて振り返ってみれば『テンソンコウリン』の発表に向けた布石であったと分かる。

 報酬ファイトマネーに関してはと前置きしつつ、未成年は応募禁止といった詳しい募集要項も字幕形式で表示されていく。かつての異種格闘技戦に近似する〝日本対世界〟の構図を作る為、日本人以外の選手も広く募りたいとレオニダスは自らの口で強く呼び掛けた。

 〝本大会〟である『天叢雲アメノムラクモ』との明確な区別化を図ろうというのか、全国各地の運動施設を経巡る〝旅興行〟ではなく、東京都内の然るべき場所にリングをするという。

 先程は満足な事前説明もないままカメラの向こうのキリサメに対し、「岩手興行から数えておよそ四〇日後」とキリスト教の〝じゅんせつ〟に重ねつつ一方的に語り掛けていたが、開催日が八月最初の土曜日であることもようやく発表された。

 花形選手スーパースターの気まぐれで強行されることになった〝挑戦者決定戦〟に付き合わされるキリサメやライサンダーからすれば、三ヶ月という短期間に二連戦の可能性もあるという過酷な日程スケジュールだが、参戦希望を問われた格闘家たちは輪を掛けて困難である。数日で書類選考などを済ませ、出場の可否を通達する旨も説明されたものの、応募開始の七月四日時点で開催まで一ヶ月を切っているのだ。

 試合に向けた準備など間に合うはずもなく、出場選手の負担が危険な水準に達することも明らかである。文字通りに生死を賭すほどの試練を乗り越えた先にこそ、日本最高のMMA興行イベントという栄達の〝道〟がひらかれるというレオニダスの言葉は、主催側の不備を誤魔化す為の狡賢い弁舌としか思えなかった。


前身団体バイオスピリッツのOBまで引っ張り出したクセして出場選手すら揃え切れないガタガタな興行イベントに、年がら年中、『天叢雲てめーのトコ』の資金も足りてなさそうな樋口郁郎が費用カネなんか出してくれるんですか? サッカーみたいな〝公営賭博〟で巻き返す企みならマジでゲームオーバーですよ。短時間で簡単に許可が下りるわけね~だろ。おまけに銀行も企業も財布の紐がカタい大不況なんだからさ~」

「さすがのご名答~。樋口シャッチョサマもを懐から出そうともしなかったさ。主催企業サムライ・アスレチックスの事業へ組み込むからにはは持っても構わないけど、自前の資金調達が条件だってさ。みんなに可能性の手を差し伸べる興行イベントは、みんなで未来の可能性を支え合うのがやっぱし健全っつうコトでさ、〝クラファン〟を試してみようってワケ!」


 景気良く選手を応募しておきながら、結局は資金面の問題から開催断念という末路を辿るに違いないと決め付け、鼻で笑った『熱田ミヤズ』にやり返すべくレオニダスが新たなる〝切り札〟として挙げたのは『クラウドファンディング』である。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』の共催による日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを中心と据えた二〇一〇年代の格闘技史が編纂される頃には資金調達の手段として定着した『クラウドファンディング』も、二〇一四年の日本にける〝民間単位〟での運用は普及の途上である。

 『東日本大震災』の復興支援活動の中で新しい寄付の様式として注目を集め、広く一般に認識され始めたものの、銀行の融資や〝スポーツファンド〟の投資に際して判断材料となる〝社会的地位〟の影響を受けにくいというる種の利点メリットは言うに及ばず、一過性の資金確保との区別が付けられないばかりか、集まった支援金の管理方法を正確に把握できていない人間も二〇一四年七月時点では少なくなかった。

 ゆくゆくは金銭的な見返りが望める投資型・融資型や、出資で完成した商品や事業プロジェクトに対する特権などが得られる購入型など、一口に『クラウドファンディング』と言っても複数の選択肢があるのだが、今回の『テンソンコウリン』は一ヶ月足らずという極めて短期間での運用となる為、返礼の類いを用意する余裕もあるまい。『熱田ミヤズ』を辟易うんざりさせるくらい饒舌なレオニダスが報酬については一言も触れないことこそ何よりの証拠であろう。

 この場合は純粋な寄付型となる。応援したい人間や事業プロジェクトを資金提供で支えるという連帯感や充足感が報酬に代わるわけだが、選手の安全を蔑ろにするような開催日程に異議を唱えるどころか、「IQファイターが格闘技新時代を創り上げる」と無批判に絶賛する妄信的なファンは、花形選手スーパースターから促されるままに財布を開くことであろう。目標金額や募集期間の発表前にも関わらず、限度額まで払うと張り切る声が感想コメント欄を埋め尽くしていた。

 だが、その一方で今後の発展性・将来性を考慮すれば、悪いでもない。出場選手の密着取材という間接的な繋がりではあるものの、〝本大会〟である『天叢雲アメノムラクモ』との断絶が続く『フクジテレビ』を引き入れることに〝付属大会〟が成功したのだ。

 精力的にタレント活動をこなすレオニダスや、沖縄クレープの訪問販売による大成功から定期的にバラエティー番組へ招かれるじゃどうねいしゅうの人脈も大きく影響しているのであろうが、前身団体バイオスピリッツ興行イベント中継を担っていた東京キー局との提携は、地上波放送復帰を悲願としながら『フクジテレビ』との関係修復が捗らなかった日本MMAにとって快挙にも等しいのだ。純粋に格闘技を愛する人々も、好機到来と見てこぞって出資することであろう。


「タファレル選手の知名度ネームバリューなら半日経たずに目標額達成まで行っちゃうだろ~けどさ、ミヤズが心配してんのは〝透明性の確保〟ね。アンタの金遣いのヤバさ、地獄耳じゃなくても聞こえてくんのよ? 仮にもを〝使途不明金〟に変えやがったら、放送の中で募集を出したミヤズも共犯扱い間違いナシじゃん! チャンネル乗っ取られた挙げ句にとか、ネタにして笑い飛ばすにはスーパーヘビー過ぎるわッ!」

資金おカネの管理は『MMA日本協会』にお願いしてあるから実績と安心の明朗会計よ~ん。東北復興支援事業プロジェクトの『ホンオウエンダン』でもさ、全国の格闘技団体から集められた義援金は協会で預かってるっしょ? それと一緒ね。オカ会長や理事の皆サマも『テンソンコウリン』へのを約束してくれたし、ミヤズちゃんも安心じゃない?」


 レオニダスの口から何気なく発せられたその一言は、一八時丁度に〝緊急特番〟が開始されて以来、最も大きなどよめきを生んだ。

 『ユアセルフ銀幕』の感想コメント欄だけではない。パソコンや携帯電話などを用いて視聴していた誰もが比喩でなく本当に我が耳を疑ったのだ。意味も理解わからず「さすがレオ様は公明正大!」と讃えるのは、MMAとは無関係で無関心なレオニダスのファンのみであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースターは、樋口代表にとって最大の天敵と呼ぶべき『MMA日本協会』がでもある『テンソンコウリン』に関与する旨を突如として発表したのだ。



                     *



 MMAは〝暴力〟の応酬などではないが、互いの身をち、骨を軋ませる格闘競技スポーツであることに変わりはない。だからこそ、深刻な後遺症あるいは〝リング〟という最悪の事態に至らないよう脳や内臓の損傷を防ぐ為のルールが最重要である。

 人間という生き物が宿した精神の極限や、心身の崩壊をも省みずに闘い抜く境地――つまり、格闘技に人生を捧げた末、再起不能どころか、絶命という壮烈な結末を迎える登場人物を〝美徳〟として昇華してしまう〝くにたち漫画〟のような〝スポ根〟を〝現実〟の選手に強要することは断じて許されないわけだ。

 その視点から捉えるならば、『天叢雲アメノムラクモ』に対する〝選手供給源〟の機能を備えた『テンソンコウリン』は、看過しがたい問題を抱えていた。何よりも〝目玉メインイベント〟に据えられることが想定される〝挑戦者決定戦〟は、どちらの選手がレオニダスと対戦する資格を得るとしても、およそ三ヶ月内の二連戦は回復が間に合わないほどの負担となる。

 格闘技やスポーツに携わる医療従事者も〝生配信〟に対する感想コメントという形で警告を発したが、〝緊急特番〟の主導権を『熱田ミヤズ』から掠め取ったレオニダスは、『ユアセルフ銀幕』のアンケート機能を利用し、数万もの閲覧者たちに向かって「リングで命を惜しむような臆病者チキンが〝プロ〟の格闘家に相応しいのか」と問い掛けた。

 これをもってして、『昭和』の〝スポ根〟ブームを牽引したくにたちいちばんという――死も恐れずに戦い続ける覚悟から両選手キリサメとライサンダーを逃れられなくしてしまったのである。

 〝挑戦者決定戦〟を勝ち抜いたとしても疲弊が祟ってレオニダスとの〝本番〟で全力を発揮できず、再起不能の重傷に繋がってしまうことへの懸念など、四つの項目に分かれたアンケートは残り数分で投票時間が終わる。

 その間際になって、レオニダスは『テンソンコウリン』が〝公開検証〟の性質を持つという発表を急に付け加えた。

 この花形選手スーパースターが戯れ半分の気まぐれで思い付いた〝挑戦者決定戦〟から発展した興行イベントであったはずだが、〝次〟に向けた改善を前提としていなければ成り立たない〝検証〟の二字を口にしたからには、前身団体バイオスピリッツの〝付属大会〟であった『バイオバズゲイザーズ』と同じく〝本大会〟の合間に定期的に開催していく計画へ切り替わったのであろう。

 一大会ごと『クラウドファンディング』で費用を工面するわけにはいかないだろうが、主催企業サムライ・アスレチックスの〝新事業〟として樋口郁郎が採用したMMA興行イベントだけに、一度限りの開催で完結しないことは少しも不思議ではない。しかし、花形選手レオニダスによる先程の発表は運営の主導権を『MMA日本協会』が掌握することを仄めかすものであった。

 この筋運びも受け取り方は人それぞれで異なっている。しかし、最初から〝付属大会〟を乗っ取る腹積もりでレオニダスと秘密裏に手を組んだという陰謀を疑う者は多くとも、『MMA日本協会』が樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』との和解に漕ぎ着けたとは誰一人として考えていなかった。

 アンケート機能で意見を募ってみれば、数万にも及ぶ閲覧者の内、〝暴君〟に対する造反とした人間が大多数を占めるのは明白という穏やかならざる状況なのだ。

 いずれはPPVペイ・パー・ビューを主軸に据え、ネット配信に特化した体制を確立させるという展望も明かされた。日本のMMA興行イベントとしては異例の試みながら、撮影用ドローンも投入する段取りである。実況担当も〝本大会〟と分けられ、格闘技専門のアナウンサーではなく、格闘技を愛してやまないファンの代表とも呼ぶべき人物に出演要請オファーしているという。しかも、その〝正体〟は開催当日まで伏せられ、開会式オープニングセレモニーで初めて判明する趣向であった。

 試合中の技術解説は興行イベントの実現に向けて誰よりも忙しく立ち回ったことが明かされたじゃどうねいしゅうと、レオニダス当人が二人一組コンビで担当するが、従来のように視聴者に向けて攻防の要点を説明するのではなく、格闘競技スポーツとしての是非などを語り合う公開討論に近い形式という風変わりな方向性も示された。

 いずれも樋口郁郎が持たざる発想であり、〝本大会〟からでも成立させられるくらい独自性が強い。運営が軌道に乗った段階で『天叢雲アメノムラクモ』から〝独立〟する可能性を隠す気もなく打ち出しているよう〝暴君〟のには映ったことであろう。

 〝付属大会〟あるいは〝オーディション大会〟とは名ばかりで、実際は新旧の顧客を引き連れて『天叢雲アメノムラクモ』に取って代わらんとする大掛かりな謀略であり、日本MMAのり方を巡って〝暴君〟と意見をたがえる『MMA日本協会』がその筋書きシナリオを用意したのではないか――両者の確執を前提とする邪推に対し、はんばくがたであることは『テンソンコウリン』の発足に関与した誰もが否定できまい。

 一〇時間を超える時差が横たわっている為、とは言いがたいものの、日本格闘技界の潮目が俄かに変わり始めた七月四日は、奇しくもアメリカの独立記念日である。

 北米アメリカ最大の規模を誇り、ドーピング汚染による信用失墜の危機を挟みながら世界のMMAを主導してきた『NSB』の興行イベント開催日も、重なっていた。特別大会も開催されるはずであったのだが、『ウォースパイト運動』の過激派が興行イベント会場を狙った銃撃事件の動揺も収まらない状況であり、テロ対策という危機管理上の問題が解決に至らなかった為に中止という無念の決断を下さざるを得なかった。

 しかし、ラスベガスに所在する『NSB』の本社は憂色に染まってはいない。記念すべき七月四日の興行イベントを楽しみにしていたファンや選手の為に〝代替大会〟を催そうという声が盛んに上がるなど、前日三日から日付が変わった深夜まで幾つもの会議ミーティングが続いていた。

 三時を目前に控え、〝眠らない都市まち〟では独立記念日を祝う声がますます大きくなっているが、『NSB』代表のイズリアル・モニワは、全面ガラス張りの小会議室で随分と遅い夜食あるいは気早な朝食をりながら『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟を視聴していた。

 器用に箸を使って縦長の紙容器に詰め込まれた中華料理をつつくイズリアルに対して、カレーソースが香るクラブハウスサンドを隣の席で頬張る白髭の古老は、台湾武術界の重鎮として『NSB』でも一目を置かれるこうれいだ。

 二人の視線が向かう先を辿っていくと、据置式の液晶モニターに行き着く。尤も、その画面に映し出されているのは『熱田ミヤズ』が配信を行う四畳半の『神宮』ではなく、ルワンダの首都キガリに所在する国立競技場アマホロスタジアムであった。

 同地では〝内戦〟と虐殺ジェノサイドという国家的悲劇から解放されて二〇年の節目を記念する式典が現地時間の正午前から執り行われており、ルワンダ政府が『ユアセルフ銀幕』に開設した公式チャンネルでその模様が全世界に生放送されている。

 軍楽隊の演奏や軽快な太鼓の音色を背にする伝統舞踊など、失われた命への厳かな祈りと平和を噛み締める喜びが合わさった催しが続いているが、『NSB』の所属選手であるシロッコ・T・ンセンギマナも祖国ルワンダを代表する空手家との特別試合エキシビションマッチに臨む予定であり、これを見守るべくイズリアルたちは小会議室に集まった次第である。

 その一方、『テンソンコウリン』という日本MMAの新事業が発表された〝緊急特番〟は七月四日にけるイズリアルの日程スケジュールへ急に割り込んできたものであり、現地時間一八時から開始されて以来、机上に置かれたノートパソコンの画面で垂れ流されていた。

 ラスベガスが七月四日午前三時を迎えようとする頃、日本では夕陽が摩天楼群に沈み、ルワンダでは太陽が頂点に差し掛かっている。前者の〝緊急特番〟と後者の記念式典はどちらも『ユアセルフ銀幕』を介したの〝生配信〟であるが、三ヶ国間の時差が奇跡的に一致した為、『NSB』の本社であれば〝同時視聴〟の条件が整うのだった。

 国立競技場アマホロスタジアムではアメリカにいて父親の如くンセンギマナの精神こころを支えてきたルロイ神父のスピーチが行われている。現在いまに耳を傾けつつ『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターや『熱田ミヤズ』を目で追い掛ける余裕もあるが、ンセンギマナが『NSB』の試合場オクタゴンでも用いる左の義足ライジング・ポルカドットを装着して姿を現した後は、ノートパソコンの電源を切るつもりであった。

 彼女イズリアルの段取りは想定外の事態によって呆気なく破綻し、ルワンダの国立競技場アマホロスタジアムか、日本の『神宮』か、意識を集中させるべき対象を判断し兼ねる情況に陥った挙げ句、カレー春巻きを挟んだまま箸まで止まってしまっている。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する『天叢雲アメノムラクモ』の代表が日本格闘技界から〝叛乱〟を起こされた恰好なのだ。剛腕としか表しようのない情報戦と、イズリアルにも比肩する人脈を強権の如くふるい、その〝立場〟から己の身を挺してでも守らなければならない所属選手の人生を手のひらの上で弄んできた〝暴君〟にとっては、夢想だにしない不意討ちに違いあるまい。


「……よりにもよって七月四日にクーデターなんて、悪い冗談にも程があるわ……」


 イズリアルが喉の奥から絞り出した呟きは、余人の耳には「独立記念日のお祝いムードに物騒な気配で水を差された」といった意味合いにしか聞こえなかったことであろう。同郷ハワイの出身うまれであるヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードが同席していれば、そこに秘められた真意を正確に読み取り、多分にを込めた皮肉を飛ばさずにはいられなかったはずだ。

 無論、『テンソンコウリン』が矢継ぎ早に繰り出す様々な発表は、人によって受け止め方が全く異なっている。パンも具も厚切りというクラブハウスサンドを炭酸飲料コーラで流し込んだこうれいは、穏やかならざる空気を漂わせる隣席イズリアルとは正反対に、白髭の上からでも瞭然なほど頬を緩ませていた。


「――ルワンダにお招きいただいたことで老い先短い最後の夢も叶いました。国家的悲劇の終結から間もない一九九七年に首都キガリで義肢装具の工房を開き、一七年間に亘って復興を支えてこられた彼の恩人ご夫婦と語り合う時間を賜ったことです。奥様が遥か彼方の日本から移住されたこと、ルワンダを二〇〇〇年シドニーパラリンピック出場へ導かれたことは彼に教わって承知していましたが、周囲まわりの仲間や拳法の教え子、もっと広い人々と〝人間の可能性〟を分かち合う芯の強さ、相手が誰であろうとも憎まず嫌わず優しく見守る限りなき友愛は、ご夫婦から学んだ部分も大きいという私の予想は的中ビンゴでした。最初のMMA用義足を彼の為に拵えたのもご夫婦の工房と伺っています。渡米後は拳法の恩師と相談し合って運動面での負荷が大きいMMAには不向きというスポーツ義足の弱点を改良し、現在いまでは彼が八角形の試合場オクタゴンに立ってデータを測定するたび、格闘技に用いる義肢装具の研究が捗るようになりました。このルワンダで国の垣根も超えて立ち上げられた工房と、そこで生み出された義足が刻んでいく足跡――それ自体が全世界のパラスポーツに向けて拓かれた〝道〟なのです。その〝道〟を『未来』と呼ぶことを私は躊躇ためらいません」


 演説台の前に立ったルロイ神父は、スピーチを通じてこれから入場するンセンギマナの為人ひととなりを紹介しているのだが、〝血〟の繋がった我が子も同然に慈しんできた青年との想い出を紐解いていることもあってか、パラスポーツの発展に対する彼の貢献を一つ一つ挙げていく最中などは、この上なく頼もしそうな表情かおであった。

 依然として『神宮』を映し続けるノートパソコンの液晶画面からいよいよ目を離さなくなったこうれいは、アメリカから招待された老神父と変わらない眼差しなのだ。

 健康体操ではなく〝実戦〟にいて真の輝きを放ち、世に数多存在する太極拳の源流みなもとともされる武術――『こうたいきょくけん』の開祖は、大陸の伝説に現われる稀代の思想家・こうの子孫とわれ、『NSB』でも〝たいじん〟の敬称をもって一目置かれていた。

 動乱の時代を経て台湾に根を下ろし、他国の植民地支配による弾圧といった歴史の転換期で喪失うしなわれた東洋武術の復古に残りの生涯を捧げているこの古老は、『NSB』で特別顧問兼アジア地域担当スーパーバイザーという肩書きを背負っているのだ。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催に際しても、『NSB』と『天叢雲アメノムラクモ』のパイプ役を託されている。後者で統括本部長を務める八雲岳とは師匠のおもてらくさいともども親しく、それだけに日本格闘技界に向ける眼差しも温かい。

 平和の意義を全世界に向かって改めて問い掛けるルワンダの記念式典と見比べたとき、東洋武術の仙人のなかでは、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMAがい方向へと進み始めた〝流れ〟が強い輪郭を伴って浮かび上がったのである。

 付け合わせのポテトフライを口に放り込んだ古老に対し、真向かいの席でドレッシングも掛かっていない夏野菜の盛り合わせにフォークを突き刺していたていはつ姿は、『天叢雲アメノムラクモ』に垂れ込めた叛乱の気配を深刻に受け止めるイズリアルよりも顔に差した影が濃い。

 皮膚が剥き出しとなった禿頭あたまには、大きな螺旋を描くかのように無数のきずあとが無数に刻まれている。かつて『ヴァルチャーマスク』の通称リングネームで畏怖されていた事実を証明する〝歴戦〟の碑文にも等しいわけだ。

 イズリアルに同行して『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の臨時視察に赴いたときのように古びた太縄を腰に締めておらず、菱形の玉を束ねた大数珠をたすき掛けに帯びてもいないが、焦茶色のそう――作業着と同じ用途の略服――を小柄ながらも巨岩の如く逞しい体躯に纏っていた。

 現在いまは日本で用いたモノとは別の通称リングネーム覆面プロレスマスクで『NSB』の八角形の試合場オクタゴンに臨むこの仏僧は、イズリアルから請われて『NSB』の運営にも携わっており、独立記念日の前日に始まった数々の会議ミーティングへ出席する為、修行の日々を過ごすリトル・トーキョーの仏教寺院からラスベガスまで足を運んでいたのだ。

 自らが完成させた『打投極』の〝直系〟である総合格闘技者シューターも参戦の意向を示した『テンソンコウリン』に〝何か〟を感じ、身のうちを貫いた衝動のままに椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がった仏僧は、軋む音がこうれいの耳に届くほど強く左手の数珠を握り締めていた。


「彼のお母上や、パラアスリートとしての活動を支える人々と一緒に今日の晴れ舞台を見守ることが出来るのも、私にとっては人生のご褒美も同じです。何よりこの折れ曲がった腰が真っ直ぐ伸びるほど意義深くも感じています。MMA用のスポーツ義足の修理や調整に携わる義肢装具士のゼラスニィさんは、彼の出発点である工房と連携し、その開発と改良に励んでおられます。スポーツ義足に関わる技術が国を超えて一つの結晶になったと申し上げても過言ではないでしょう。……アメリカでは治療を終えた傷痍退役軍人にスポーツによるリハビリプログラムも用意されます。その一環であるトレーニングキャンプに退役軍人委員会の計らいで彼が特別参加したときのこと――故あって私も同行させていただきましたが、は生まれた国や取り組む競技、自身が負った傷病の差異ちがいも超えて身体機能の生かし方や精神こころの在り方を熱心に議論し合い、キャンプが終わる頃には初日と見違えるほど飛躍していました。アメリカでは傷痍退役軍人を『ウォリアーズ』と呼びます。軍の将兵であったことも含んではいますが、〝人間の可能性に挑戦する勇者〟こそがまことの意味でしょう。〝パラスポーツとしてのMMA〟に挑む彼は間違いなく『ウォリアーズ』の一人。そして、ルワンダで生きる全ての皆様も永遠の『ウォリアーズ』なのだと、今日、確信と尊敬を強めた次第です」


 真向かいのこうれいとは正反対に、鷹の如き双眸はノートパソコンの液晶画面を捉えたまま微動だにしなかった。ルワンダの平和に捧げられた老神父のスピーチによって、日本MMAに横たわるおぞましい〝闇〟の記憶が抉り出されてしまったのかも知れない。

 指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟が発覚し、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が〝格闘技バブル〟もろとも崩壊したとき、彼はその責任を取る形で『ヴァルチャーマスク』の通称リングネームとハゲワシの覆面プロレスマスクを棄て、『プロレスが負けた日』に〝永久戦犯〟の烙印を押されながらも発展に貢献し続けた日本MMAを去ったのである。


しめたにしのん君……であったかな。孫弟子を案じる気持ちがおういん君に険しい表情かおをさせているのは分からぬでもない。わししんかいこう君と同じ目に遭って欲しくはないと――」


 ほったいになって以来、『おういん』と号する仏僧がし口の隙間から洩らした唸り声にほんの一瞬だけ目を丸くしたこうれいであるが、自分とは真逆の目付きで『神宮』を見据える理由はすぐさま察せられ、仙人のような白髭を気まずげに撫でた。


「――生と死が紙一重という極限状態でしか生まれない迫真のドラマや、精神が肉体を超えた瞬間に覚醒する人間の可能性を〝熱筆〟し続けた功績には感謝しかありませんし、偉大な〝くにたち漫画〟から〝現実リアル〟の格闘技が受け取った影響ものは計り知れません。その上で、をご覧になっている皆さんには俺が話したコトを是非とも自分に問い掛けていただきたい。命懸けの戦いというモノは、自分には不可能な世界で戦う勇者への憧憬あこがれもあって、全身の血が沸騰するくらい盛り上がりますし、アニメや映画の世界を〝現実リアル〟で体験する内に感覚自体が浮足立ちます。俺だって一緒ですよ? だからMMA団体を立ち上げたようなモンです。……でもね、わざわざ〝くにたち漫画〟を真似なくたって、格闘技は最初ハナから命懸けなんですよ。それでは物足りないから更に血を流せと強いるのは、バンジージャンプにロープ不要論を唱えるのと一個も変わりません」


 『神宮』には新しい顔が加わっている。レオニダスと同じように隣の『熱田ミヤズ』と大きさの釣り合わない頭部が浮かんでいる状態だが、骨格全体が三角形にも近い輪郭を描いている為、いきなり視界に入ると〝歩く握り飯〟のように錯覚しそうになる。

 『そえもつちかのり』――日本格闘技界にいて、中・軽量級選手が活躍するMMA団体を一〇年以上も堅実に運営してきた代表者だ。

 色褪せた末に金魚を彷彿とさせる風情となったのスカジャンを羽織り、安物のヘルメットを被ってスクーターで日本国内のMMA興行イベントへ駆け付ける中年男性は、一瞥のみで人のさが分かる顔立ちだが、現在いまは不似合いというくらいまなじりを吊り上げていた。


「この番組をご覧になっている方の中には『バイオスピリッツ』の由来をご存知でない人も混ざっているかも知れません。〝バイオ〟は特撮ヒーローの『バイオグリーン』――つまり、巨大怪獣を退治する〝超生命体〟へのオマージュです。生身の俺たちは『バイオグリーン』にはなれっこない。巨大化とか、手から必殺光線バイオフラッシュを発射できないって意味じゃないですよ? 死に物狂いの戦いで本当に力尽きたとしても、リングにたおれた格闘家に誰かが宇宙から新しい命を運んできてくれるワケじゃない。それでも、と同じ生身の格闘家に『バイオグリーン』を求められますか? あの無敵の巨人になりたいっていう夢に寄り添うのも俺の〝仕事〟です。けれども、は〝架空フィクションの特撮ヒーロー〟を〝現実リアル〟の世界で仕立て上げるのとイコールであってはならないんです」


 頭部本来の形状を歪めるようにして脳天の左右に生やされた二本の角と、比喩でなく文字通りに顏が真っ赤に染まって〝焼きおにぎり〟と感想コメント欄で揶揄される姿でなければ、彼が全身から発する静かな静かな怒気は閲覧者の目にもっと深刻に映ったことであろう。

 声を荒げずとも生来の穏やかさが吹き飛ぶと予想できたからこそ、二本の角に向かって顔面の皮膚が捩じれ、怒りの表情が過度に誇張されて間抜けに見える加工が施されたのかも知れない。〝生配信〟が破綻しない程度にを緩衝する措置というわけだ。

 〝付属大会〟にも関わらず、〝本大会〟とは〝別の道〟を選んだとしか思えない『テンソンコウリン』の展望などを説明したのは、『熱田ミヤズ』でもレオニダスでもなく、二人に呼ばれて自分は場違いではないかと照れながら『神宮』へ入ってきたそえもつちかのりであった。


「――樋口さんとMMAで数年ぶりに〝面白いコト〟をやれるって言うのが俺には一番デカいんですよ! 二〇一一年に〝復活〟の旗を揚げたときに誘ってもらえなくて、正直ぶっちゃけ、寂し過ぎて枕を濡らしましたからね⁉ でも、〝今〟の自分なら三年前よりもガッチリ樋口さんの夢を支援サポートできるって確信しています! むしろMMA人生がノリノリで充実している〝今〟、声を掛けてもらえたのは結果的には最善ベストなタイミングでしたねっ!」


 あくまでも樋口郁郎の面目が保たれる言葉を選び、以前かつての『バイオバズゲイザーズ』と同じ〝本大会〟の〝選手供給源〟という役割はする旨を最初の内は述べていたが、レオニダスが閲覧者たちに募ったアンケートの集計結果を確かめ、これを冷やかすコメントが目立ち始めた途端に血相を変えた。


「七難八苦をえて選んで立ち向かうヘラクレスのような意志は尊重するべきです。安全安心にこだわり過ぎて、燃え盛る闘魂を外野が邪魔する事態もあってはなりませんよ。それよりも遥かにくないのは、選手のに甘えるコト。くにたちいちばんの代表作をかれたら、鮮烈な生き様と散り様で魅せてくれたボクシング漫画を思い浮かべる人も多いハズです。俺も大好きでした――が、自分でMMA団体を率いるようになってからは、選手がに燃え尽きたとき、称賛の拍手など送れないと思うようになりました。格闘家の安全を軽んじる項目に投票した方は、ご自分に問いかけてみてください。その格闘家がリングの上で二度と目を開かなかったときに責任を取れますか?」


 レオニダスの誘導を受けて大多数が追従した結果、先程のアンケートはキリサメとライサンダーの安全こそ優先するように訴える項目は得票数が最下位となってしまったが、そえもつちかのりはこれに敢然と異議を唱えたのである。

 命を惜しむMMA選手は格闘家失格と決め付けるのは印象操作にも等しく、誤解を振り撒くアンケート自体がそもそも間違いだった――叱り飛ばすのではなく諭すような口調ながらも、揺るぎない声でレオニダスの悪ふざけを糾弾すると、たちまち感想コメント欄は罵詈雑言で埋め尽くされたが、〝数の暴力〟ともたとえるべき状況にさえそえもつは尻込みしなかった。


「選手の命を守る責任は競技団体の代表者が引き受けるものです。格闘大会を開催するということは、選手の命を預かる〝立場〟と義務を自分に問い掛けるのと一緒おなじ。しかしながら、先程のアンケートは皆さん一人々々の声に他なりません。匿名だから〝誰〟が〝どれ〟に投票したのかは分かりません。でも、あなた自身は知っています」

「チカちゃんってばさァ~、真面目腐った人生なんて一個も面白くないじゃん。言いたいコトは分かるぜ? リオの〝謝肉祭カルナヴァウ〟がだけどさぁ、要するにどんちゃん騒ぎで大盛り上がりのムードは人間ヒトを際限なく大らかにさせるってコトでしょ? その空気をもっと賑やかにしてやろうっつう向こう見ずな〝一気呑み〟に走って、今までに数え切れないくらい何度も取り返しのつかない事態を招いてきましたァ~ってな具合でさ」

「タファレル選手も皆さんも、〝一気呑み〟を危ないと止めますか? それともジョッキを空にするようはやし立てますか? ……命は一つ、人生は一度限り。これをご覧になっているあなたも格闘家も、同じ生身の人間です」

ありがたァ~いきょ~くんの中でブラザーの異能ちからを意図的に無視スルーするのは公平フェアじゃないぜ。『スーパイ・サーキット』のお陰で『バイオグリーン』と同じ正真正銘の〝超生命体〟になったじゃん。お達者だった頃のクニタチイチバンが『ヴァルチャーマスク』を送り出したみたいに、樋口シャッチョサマも〝架空フィクション〟から飛び出した〝超人〟でお考えのご様子だったけど~?」

「父親のほうの銭坪さんの言葉を借りますと、『スーパイ・サーキット』はまさに〝火事場のクソ力〟ですよ。限りなく〝超生命体バイオグリーン〟に近付いたとしても、……目や耳から鮮血を滴らせた姿こそが〝俺たちと変わらない生身〟の証拠ってモンです。内臓にまで損傷ダメージが及んでいるかも知れない反動を娯楽エンターテインメントとして消費する危うさがアンケート結果に反映されていますし、〝現実リアル〟のヴァルチャーマスクがこの番組をご覧になっていたら、免罪符みたいに扱われてムッとしていますよ。たたかいを修める哲学とは対極じゃないですか。忘れないでください、アマカザリ選手が試合後に緊急搬送された事実を」


 そえもつちかのりが日本を代表するMMA興行イベントであると知らない人間は、『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟に招かれた〝歩く握り飯〟を〝暴君〟にへつらう〝金魚のフン〟と第一印象で蔑んだことであろう。しかし、現在いまは気色ばんでレオニダスを庇う妄信的な人々でさえその認識を改めているに違いない。

 彼に詰め寄られたレオニダスと『熱田ミヤズ』は、〝何か〟を絞るような甲高い効果音と共に豆粒並みに小さくされてしまった。悪戯いたずらとしか思えない処理が施されたわけだが、格闘技を心から愛する人々にはそえもつの義憤は真っ直ぐに伝わっている。

 『熱田ミヤズ』も同様であった。表情かおが分からないような身の丈にされてしまう間際、レオニダスはおどけた調子で肩を竦めて見せたが、彼女のほうは電源スイッチが切れたことを心配するコメントが上がるほど動かなくなり、そえもつの一字一句に聞き入っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体を追い掛けるような形で二〇〇一年に旗揚げし、樋口郁郎と協力体制を築きながら〝格闘技バブル〟の崩壊に巻き込まれてになることもなく、こんにちまで〝健全な運営〟を維持し続けてきたMMA団体――『ばっけんマキシマンダラ』を率いるそえもつちかのりは、自分の顔が無許可でことには腹を立てない。他者ひとの意見を自分の声で鋭く遮るのは、人生を捧げる総合格闘技MMAが卑しめられた瞬間のみである。

 そして、そのような男の言葉だからこそ、受け止める側の心に重く響く。


「一九六七年四月九日――最終回にバイオグリーンが倒されてしまった悔しさがきっかけになってカタキを討つべく格闘技を志した小学生は、やがてプロレスの門を叩き、ハゲワシの覆面プロレスマスクを被って〝架空フィクション〟と〝現実リアル〟の壁をブチ破る正真正銘の〝超人〟レスラーになりました。日本MMAの〝最初はじめの一歩〟を踏み出した偉人が『ルチャ・リブレ』などを経て完成させた『打投極』の礎とは、退格闘術モノでしたか?」

「そのヴァルチャーマスクがまだ若い頃だけど、オレが観たビデオじゃあエディ・タウンゼントが助走付けて殴りに来るレベルで練習生に〝シゴキ〟をブチかましてたよ~ん?」

「精神力で肉体の限界を突き抜ける過酷な修行だったのは否定しません。それでも反論させてもらうなら、一つの油断で命を落としてしまう格闘技に、苦情クレームにビビッて叱り声一つ上げられない馴れ合いの空気が垂れ込めるほうがマズいです。命の危機に即応できる鋭い感覚の体得など、死なせないように鍛えるんだから〝仲良しごっこ〟とは行きません」

「つか、二〇年くらい前のテレビ番組でしょ、それ。『ユアセルフ銀幕』に著作権ガン無視で投稿アップロードされてたの? 夏合宿の密着取材ってミヤズは記憶してるけど、パワハラみたいな行為は半分以上がテレビ向けのパフォーマンスだってアタマに入れとかないと、ヴァルチャーマスクの本質はカケラも理解できないわよ。ネットに投稿アップロードされる動画は過激センセーショナルな部分だけ切り出す悪意ある編集も多いでしょ。肉体からだの使い方を教え子に理詰めで解説して、褒めるべきときにしっかり褒める姿なんてのは、きっとカットされてたんじゃね?」

「只今のご紹介の通り、ヴァルチャーマスクはいて来れない教え子をふるいに掛けるのでもなく、理論的な指導でを何より大事にしていたんです。タファレル選手の誤解のように体罰が常態化していたら、『敵を叩き伏せるのではなく、たたかいを修める』という発想に辿り着けるはずがありません。ましてや考えナシの感情任せで体系化を成し遂げられるほど〝総合格闘〟が簡単でないことは、MMAで一時代を築いたブラジリアン柔術の使い手なら実感としてご理解いただけるハズですよ」

「闘いに殉じる美学の〝クニタチ漫画〟から〝現実リアル〟のリングに降り立ったヴァルチャーマスクがクニタチイチバンの〝スポ根〟とは正反対の〝道〟を切り拓いた意義深さを噛み締めろってワケね! すっかりやっつけられちまったけど、日本MMAのルールを検証し直そうっていうMMA興行イベントの特別顧問なんだから、それくらい気合い入っててもらわなきゃ逆に困っちまうぜ! ヴァルチャーマスクの直弟子が理事長やってる『MMA日本協会』にもルール策定にがっつりいただくんだから、何から何までお誂え向きだわな~」


 レオニダスの悪ふざけで実施されたアンケートは、図らずも格闘技全般に対する観客側の危機意識を洗い出す形となったわけだが、そえもつちかのりをMMAルールの改正案に結び付け、結果的に〝本大会〟である『天叢雲アメノムラクモ』との更なる差異ちがいを打ち出すことになった。


「無差別級は格闘大会の華だし、『ばっけんマキシマンダラ』では――MMAでは安全上の問題があるからやらないだけで、脳内あたまのなかに花火が上がるくらい大好物ですよ。だけどね、、選手全員が〝同等の条件〟で実力を出し切れるワケじゃないって事実のほうが遥かに重いんです。文字通りの〝身の丈〟に合った適正な階級制度は、夢を抱いてMMAのリングに挑む格闘家に好機チャンスを約束する道標ガイドラインなんですよ」


 体重別階級制度の導入も、『テンソンコウリン』の独自性を支える大きな柱であった。

 くにたちいちばんの〝最後の弟子〟である樋口郁郎が支配する『天叢雲アメノムラクモ』では、かつての〝スポ根〟の如きがルールの面でも再現されてきたのだが、体重という垣根を取り払い、全選手が〝対等の条件〟でリングに臨む完全無差別級の試合形式もその内の一つである。

 選手の組み合わせによっては大人と子どもが殴り合うような危うい状況となる為、国内外のスポーツメディアにもさん極まりない樋口体制の象徴として数え切れないほどの批難を浴びせられてきた。『天叢雲アメノムラクモ』を率いるのが〝くにたちいちばん最後の弟子〟でなければ、そもそも旗揚げの時点で安全性の三字とは真逆のルールなど採用されなかったことであろう。

 『神宮』に浮かぶ頭部の大きさが元通りとなったレオニダスは、こんにちまで放置されてきた『天叢雲アメノムラクモ』の〝構造上の欠陥〟を抜本的に見直すことも、『テンソンコウリン』が果たす役割の一つであると仄めかし、そえもつもそれに応じてちゅうちょなく頷いた。


「選手個人々々が最大のパフォーマンスを発揮できる環境を整えもしないで、腕力ちからさえあればどんな条件も退けられるだろうと選手に要求するのは、多様性ダイバーシティ受容インクルージョンが〝当たり前のこと〟になった〝今の時代〟に逆行しています。二〇二〇年東京オリンピックの開催が正式に決まったIOC総会でも、この理念が強く訴えられたことをおぼえておいでの方は少なくないと信じていますよ。『くうかん』道場の最高師範やそのご子息が心血を注いでおられる組織改革とも、『テンソンコウリン』の志は大いに通じ合っています」

「そこでキョーイシを持ち出すとは、ケンカを売る範囲を大胆に拡げるつもりだねぇ~。ふるい時代の怨霊どもをまとめて滅ぼそうってハラなら、今日の放送は〝神回〟になるぜェ~!」

「つか、アンタはどこまで『テンソンコウリン』につもりなの? 『MMA日本協会』とズブズブとしか思えないんだけど、の運営方針にここまで中指立てまくったらツー契約解除クビでしょ。携帯電話スマホに解雇通知のメールでも届いてるんじゃね?」

「三度のメシより〝客寄せパンダ〟が大好きな樋口シャッチョサマがオレを切れるゥ~? 冗談ジョークはともかく、体格差がデカい選手を捻じ伏せるのはタレントとして心証イメージ悪化ダウンになっちまうからさァ、重量級選手に絞った試合が組めるんなら大歓迎って寸法よォ~」

「無理があるんですよねぇ、そっちにハナシを持ってくのは。タファレル選手がブラザーだとか馴れ馴れしく呼んでる腐れ新人選手ルーキーは思いっ切りフェザー級の体重じゃん。熊本興行での試合が決まっちゃったら、ど~やって自分てめーの吐いた唾を飲むワケ?」

「軽量級以前にブラザーは人間の皮を被った〝死神スーパイ〟じゃ~ん! 生かしておいたらろくなコトしそうにねェ化け物を退治してやるのも人気者の使命ってワケ!」

「直近の〝挑戦者決定戦〟も体重や体格の釣り合いを考慮して何らかのハンディキャップマッチ方式でなければダメだって自分は考えています。アマカザリ選手の場合、ライトヘビー級に属するカツォポリス選手との体重差はミドル級のじょうわた選手以上に大きい。単純計算で約二七キロですよ? 四階級超えの試合なんてアメリカだったら体育委員会アスレチックコミッションが承認しません。折角の〝公開検証〟なんです。損得勘定とかで意見を引っ込めるのはナシで行きましょうよ。自分もどんどん問題提起させてもらいますし、討論が萎んだら興行イベントを開催する意味だってありませんからね」

「チカちゃんの人生、何が面白いのか、オレにはマジで全くんないわ~」


 『天叢雲アメノムラクモ』や『ばっけんマキシマンダラ』の興行イベントに足繫く通い、『ユアセルフ銀幕』で配信される『NSB』の試合をPPVペイ・パー・ビュー視聴するほど熱心なMMAファンであっても、世界各国にける同競技の現状を把握しているとは限らない。ましてや『天叢雲アメノムラクモ』以外のMMA団体に興味のないファンは、完全無差別級試合こそが異端であるとは知るよしもあるまい。

 だからこそ、そえもつちかのりはMMAにいて体重別階級制度を設けるべき必要性を〝安全上の理由〟まで遡って切々と訴えていく。

 体格差・体重差によって増幅される損傷ダメージは〝くにたち漫画〟の影響を色濃く受けた〝格闘技作品〟にいて、中・軽量級の格闘家の危機的状況と逆転劇を盛り上げる〝演出〟として利用されることが大半であったが、〝現実リアル〟の試合ではただちに命を脅かされるほど深刻な問題なのだ。それにも関わらず、危険度の認識を他でもないMMAファンと共有できないことがそえもつは歯痒くてならない様子である。

 悩める彼にとって、『テンソンコウリン』は千載一遇の好機といっても過言ではなかった。

 試合の内容については、『MMA日本協会』が中心となって討論会も実施される。皮肉が達者な『熱田ミヤズ』には〝実証実験〟などとからかわれたが、この〝公開検証〟を通じて日本MMAのり方そのものを見つめ直す者が増えることは間違いあるまい。

 無論、〝生配信〟の終了後に〝暴君〟の横槍が入る可能性も高い。ルールの面にいても『天叢雲アメノムラクモ』と共通していなければならない〝付属大会〟でありながら、ここまで独自性が強くなってしまっては〝選手供給源〟として機能するのかも怪しい。

 それでも日本MMAの改革を目指すならば、そえもつちかのりこそ旗頭として最も適任だ。

 彼が率いる『ばっけんマキシマンダラ』の活動期間は一三年を数え、日本のMMA団体としては最長を誇っている。『MMA日本協会』が旗揚げに関わった競技団体は大半が短命に終わったが、奇跡の二字こそ相応しい例外となったわけだ。『天叢雲アメノムラクモ』や前身団体バイオスピリッツに規模こそ及ばないものの、健全かつ堅実な運営に努めてきた副物代表の手腕の賜物である。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』の間で争われる勢力図へ割り込むかのようにシンガポールで台頭した新興団体――『至輪パンゲア・ラウンド』もそえもつちかのりとは良好な関係を築いており、『ばっけんマキシマンダラ』に審判長ヘッドレフェリー兼ルールディレクターとして参加する男を人材交流の一環で招いた際にはを用意している。

 情報戦を得意とし、派手々々しい演出で大衆の注目を集める樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』の影に隠れているが、真の意味で〝世界〟の最前線を知るのはそえもつちかのりと『ばっけんマキシマンダラ』であろう――ピューリッツァー賞にも輝いたアメリカの格闘技雑誌『ゴッドハンド・ジャーナル』の記者であるマリオン・マクリーシュも、誌面で披露した分析によって限りなく日本MMAの〝核心〟に迫ったことがあった。

 MMAのルール策定にいても、『MMA日本協会』の館山弁護士に比肩するほど頼もしい存在というわけだ。そえもつの頭部は依然として赤鬼にも見える映像加工が施されたままであるが、その言葉へ耳を傾ける内に大切な選手の命を守らんとする意思の顕現あらわれのように感じ始めた者も多かろう。


「ヴァルチャーマスクが体現した通り、〝現実リアル〟と夢は必ず両立できます。どちらか片方だけでは味気なくてダメなんです。現行のルールに対する〝公開検証〟と一口に言っても海外で主流の〝統一ユニファイドルール〟に迎合するという意味ではありません。格闘家の存在意義アイデンティティーにも等しい試合着ユニフォームの自由選択や、実戦志向ストロングスタイルのプロレスから受け継いできた闘魂のリングが象徴するように、日本MMAとして守るべきところは守り抜く――俺の仕事は樋口さんに喧嘩を売ることなんかじゃありません。俺の持ち得る限りを尽くして『天叢雲アメノムラクモ』と〝世界〟の橋渡しを皆さんと一緒に成し遂げたい。『テンソンコウリン』という名のリングは、今日の願いをが確かめ合う約束の舞台ですッ!」

「ルートヴィヒ・グットマン博士が未来に託した『失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ』という言葉の意味も、実感と共に呑み込めてはいませんでした。パラスポーツに取り組む傷痍軍人の瞳にみるみる光が戻っていった理由を本当の意味で悟ったのは、ルワンダの〝誇り〟を分けて頂けたからに他なりません。を私に教えてくれたのは、シロッコ・T・ンセンギマナ君とのいです。一四年前にシドニーの国際水泳センターが拍手で埋め尽くされたように、五〇メートル自由形に出場した偉大な挑戦者が人間の可能性を示したように、ンセンギマナ君も希望の意味を体現する一人。同じ想いをいだく全世界のみんなの架け橋です。この私は勿論、『NSB』で腕を競い合う仲間も、『アメリカン拳法』の道場スタジオの教え子も、ルワンダが強く掴んだ未来を学んでいるのです」


 全ては日本MMAの為に――歯が浮きそうな台詞を真っ直ぐに全力で発する『神宮』のそえもつちかのりと、ルワンダの国立競技場アマホロスタジアムける老神父のスピーチが重なったのは、偶然などではなく〝天〟のおぼし召しであったのかも知れない。

 二ヶ国の〝生配信〟と向かい側に立つおういんの顔を順繰りに見つめたのちこうれいは口元をハンカチで拭いながら二度三度と首を頷かせた。


「差し迫ったテロ対策よりも〝内政干渉〟を一切受け付けぬという〝政治力〟の誇示が優先されるほどに現在いまの『天叢雲アメノムラクモ』は病み切っておる。おごりとは別の〝何か〟としか言いようのない樋口君の妄念も、日本MMA自体に残存のこされた自浄能力をもって内側から祓われると胸を撫で下ろしたばかりじゃが、誰も憎まず誰もが争わずという希望のぞみは暢気が過ぎたようじゃ。……如何なる〝道〟を選ぼうとも、進む〝先〟は地獄で変わりなしか」

「日本のリングに郷愁抑え切れぬ小生にも、こうたいじんこころ理解わかるつもりでござる。志高くとも、誰もが納得する大義名分を立てようとも、時代を動かす為の〝いけにえ〟を欲した時点で、骨肉相食む〝身内〟の争いは避けられぬと小生は心得ております。己の肉を斬り、骨を断ち、腐った血が腹に溜まるかの如き醜い有りさまとなりましょう」

「……新たなを力に任せて押し付けられた瞬間とき、人間は命懸けで抗うものじゃ。ましてや先人より受け継ぎ、背負ってきた〝全て〟を否定されるとなれば、我が身に宿る以外の〝誇り〟をも取り込んで一歩も退かぬ覚悟を決めよう。こんにちまで思い通りに味方に付けていた大衆までもがに回る危険性おそれが高まった以上、樋口郁郎個人の面目の上からもこのまま捨て置くような真似はするまい」


 〝くにたち漫画〟の幻想に取りかれた成れの果てと蔑まれてきた『天叢雲アメノムラクモ』のルールがそもそもの是非も含めて真剣に議論され始めたこの状況を吉兆と捉え、期待の眼差しを向ける台湾武術界の古老であったが、樋口郁郎からすれば師匠の生きざまが汚泥にまみれた靴で踏みにじられる状況にも等しかろう。

 自身の作品との提携タイアップを通じてプロレス人気を爆発させた功績から日本のマット界ひいては格闘技界全体に絶大な影響力を持ち、映画制作への進出によって芸能界にまで深く食い込んだくにたちいちばんの教えを直接的に受ける機会に恵まれた〝最後の弟子〟だけに、格闘技ひいてはスポーツに関する樋口郁郎の人脈ネットワークは全世界にも及んでいる。

 僅かでも逆らおうものなら格闘技界で生きる場所を根こそぎ奪われると恐怖されてきたからこそ、反乱分子を封じ込めて実効支配を維持できたのだが、そのの効き目が確実に薄れ始めている。そして、この状況こそが更なる暴走の火種となり得るわけだ。


「少し前に届けられた内部情報によれば、進士選手が主催企業サムライ・アスレチックスの社長室に乗り込んだ際、彼に向かって『裏切り者』と怒鳴り散らしたとか。ただでさえ正気を失いそうな情況で飼い犬に手を嚙まれるような追い撃ちを受けたのだから、ますます意固地になって〝自分だけの縄張り〟にしがみ付くしかなくなるわ。〝もっの幸い〟は語弊があるかも知れないけれど、樋口代表を追い落とすには冷静さを欠いた今こそ好機であるのは間違いないわね」


 一等不穏な言葉を投げ掛けることでこうれいおういんの遣り取りに加わったイズリアルも、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する団体の代表が常軌を逸した行動に出ることを確信している。

 日本時間一八時から始まったのは、新しいMMA興行イベントの発表会などではない。樋口郁郎最大の〝天敵〟である『MMA日本協会』まで参戦した叛乱劇なのだ。

 熊本武術界との衝突は『NSB』でも早い段階で把握していた。文字通りの意味で身辺が脅かされている状況に加えて、『天叢雲アメノムラクモ』に所属する選手と、少数精鋭で切り盛りしてきた主催企業サムライ・アスレチックス内部なかから〝暴君〟に歯向かう者が出現あらわれてしまっては、平静を装うだけでも困難を極めることであろう。

 たった一つでも打つ手を誤った瞬間に苦労を重ねて築いてきた〝全て〟が崩れ去るのだから、なりりなど構ってはいられない――団体代表という〝立場〟として、イズリアルは現在の樋口郁郎が置かれた状況を背筋が凍るような実感と共に想像できるのだった。


「小生もそえもつちかのりという男を良く知っています。善意の塊で、快男児という言葉はあれの為にあるようなもの。……良心が人の形を取っておるような男であったればこそ、しんかいこうを『天叢雲アメノムラクモ』に――いな、樋口に引き渡してしまった過ちを今も悔恨しておるのは明白。しんかいの無念を晴らす為にも不退転の覚悟で臨んでおりましょうな」


 鷹胤ヴァルチャーマスクが完成させた『打投極』の〝直系〟を継ぐ総合格闘技者シューターであり、『天叢雲アメノムラクモ』にも旗揚げ当初から参戦しているしんかいこうは、中量級選手でありながら、〝暴君〟に重量級選手との対戦を強いられ、体格差・体重差を覆せないまま成績不振に苦しみ続けている。

 そえもつが体重別階級制度の導入を一等強く推進しているのは、鷹胤ヴァルチャーマスクが指摘したようにしんかいこうへの負い目が理由の一つであろう。

 本来であれば、彼は中・軽量級選手が活躍している『ばっけんマキシマンダラ』からプロデビューを果たす予定であった。その直前になって樋口郁郎から『天叢雲アメノムラクモ』に出場させたいという交渉を持ち掛けられ、花形選手エースとしての活躍が期待された総合格闘技者シューターを同団体に譲った結果、適応の余地もない〝完全無差別級試合〟に放り込んでしまったのである。

 前途ある総合格闘技者シューターから努力が報われる機会を奪った責任を取るべく『テンソンコウリン』への参加を決心したのであろうと鷹胤ヴァルチャーマスクは察していたが、この行動自体を樋口郁郎が叛意とすのも間違いない。政治的意図を差し引いても、しゃくに障らないはずがない――かれ悪しかれ〝暴君〟の為人ひととなりを理解している仏僧は、呻き声を挟みながらえて断言した。

 その上、そえもつは『くうかん』のきょういししゃもんの名前まで挙げている。ふるいに掛けるような根性論や負傷者の治療すら阻む支配的な上下関係、これらを強要する〝シゴキ〟が蔓延はびこり続ける支部道場の体質を憂い、全国規模の組織改革を進める空手家である。

 そのきょういし沙門と同じ志であるとも明言したのだ。既得権益と結び付いた旧体制の反対派を沙門が実力行使で排除していることは、今や格闘技界にいて知らない者はいない。


「……そえもつが真っ直ぐであればあるほど叛乱の火は大きくなりましょう。本人がを敵に回したくなくとも、周囲まわりがそれを望まぬ筈がない。我が大将がまでも風下に立つのは理不尽至極と、あれを慕う者が鼻を鳴らす音は小生の耳にも届いておりますれば……」

「何よりも当の樋口郁郎イクオ・ヒグチがそのような状況を見過ごせるわけがないわね。……歴史がそれを証明しているけれど、叛乱というものは〝起こす側〟だけでなく、〝起こされた側〟の反応によって規模が果てしなく拡大するわ。野望を押し通す為なら非合法イリーガルな手段も辞さない国舘一蛮イチバン・クニタチから〝全て〟を学んだ〝最後の弟子〟は、自分が守らなければならないモノを焼け野原に変えるとしてもわよ」

「自分たちふるい世代のしかばねを超えてゆけ――おういん君はそう言って初陣の新人選手キリサメ・アマカザリを激励したのであったな。……樋口君の〝器〟は同じ言葉での背中を押してやれるかの」

「虚しさが胸を刺しますが、未来に期する喜びを樋口と分かち合えるとは、とても……」


 『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMAに新たな秩序をもたらす存在として期待される握り飯のような頭部あたまの男は、底抜けの人のさからは想像できないが、樋口郁郎という〝暴君〟の一番弟子を称している。

 日本国内で活動するMMA団体の中で、中・軽量級の選手層が最も厚い『ばっけんマキシマンダラ』は、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体である『バイオスピリッツ』に大勢の選手を派遣していた。樋口体制にける重量級偏重の傾向を〝選手供給源〟の役割で補っていたわけだ。

 先ほどレオニダスが熱狂の想い出を交えながら例に引いた『バイオバズゲイザーズ』にも運営スタッフとして参加しており、自身が守る団体とは基本方針からしてあいれないものの、そこで樋口郁郎との師弟関係が結ばれた――少なくともそえもつ本人は、MMA興行イベントに必要な〝全て〟を学んだと、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンのインタビューでも感謝と共に述懐していた。

 樋口郁郎が本当に逆上するならば、そえもつが弟子の〝立場〟も弁えずに師匠に楯突いたことではなく、〝器〟の差異ちがいという厳然たる〝現実〟に抗うべく身のうちから湧き起こる激烈な衝動であろうと、三者とも同じように〝暴君〟の内面を推しはかっている。

 で爆発する感情は嫉妬の一言で片付けられるくらい単純ではないだろう。しかし、『ヴァルチャーマスク』の通称リングネームを名乗った頃に樋口郁郎と対峙した仏僧おとこが苦々しく吐き捨てた通り、〝出藍の誉れ〟を素直に喜べる人間でないこともまた〝事実〟なのだ。

 〝現実リアル〟の顔に悪ふざけのような加工が施されたのも弟子の発言から説得力を消し去らんとする樋口の差し金かも知れないが、今やその珍妙さを誰も気にしなくなっていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターから〝ハニー〟と呼ばれるファンの中にはしつこく罵声を投稿する者も残っていたが、何万という閲覧者の半分以上がそえもつちかのりの真摯な言葉に聞き入っている。番組スタッフさえも作業を忘れて耳を傾けている様子であった。


「この番組に立ち会う何割かは、こう思うことでありましょう。MMAの〝正道〟を心から呼び掛け、己の団体で実践してきたそえもつが何ゆえ日本MMAの旗頭を樋口に譲っておるのかと。〝くにたち漫画〟の幻想から〝現実〟のリングを解き放つという天命は、他の誰でもないくにたちいちばんが果たさねばならんと……ッ!」


 『打投極』のが苦しめられた〝完全無差別級試合〟の改善をこうれいと同様に望ましく思う一方、故郷の〝内乱状態〟は我が身を切り刻まれることにも等しいのであろう。おういんの左掌中にる数珠が再び大きな音で軋んだ。

 自分に逆らえなくなるよう策を弄して人の心を縛り付ける樋口郁郎に対し、そえもつちかのりおもいを込めた声一つで人の心を揺り動かしている。弟子と同じ真似が出来るのであれば、この〝暴君〟はめんに陥らず、日本MMAに叛乱劇の構図も作り出していないはずだ。


「……鷹胤あなたにとっては『くにくずしの変』を想い出さずにはいられないのでしょう?」


 イズリアルの指摘に決して小さくはない呻き声を洩らしたのは、これを向けられた本人ではなく向かい側の席に座るこうれいであった。どうやら彼女と〝同じ出来事〟を思い浮かべていた様子であり、禁句と捉えて咳払いで戒めようとしたのだが、それは他でもないおういん自身から目配せでもって押し止められた。

 表情かおには出さないものの、かつての『ヴァルチャーマスク』の言行をそえもつが何度も例に引いたことで、その通称リングネームを名乗っていた仏僧は、深夜三時にも関わらず二切れのクラブハウスサンドを一気に平らげたこうれいとは真逆に箸が止まるほど心を掻き乱されていた。それでもイズリアルの指摘を聞こえなかった芝居フリで受け流すつもりはないようだ。

 三者が揃って思い浮かべ、『神宮』で起きている叛乱劇との類似性を持つ出来事は『くにくずしの変』という。日本で『昭和』と呼ばれた時代が終焉を迎える間際にマット界で起きた最大最悪の〝政変〟である。


「……もう三〇年も昔になるかの。わし自身は関わっておらぬゆえ外から筋運びを案じるのみじゃったが、くにたちいちばんの間で起きた〝天下分け目〟の直接対決――おういん君の前で紐解くことは甚だちゅうちょしてしまうがのぉ……」

「小生も我が口より語るのが不思議でなりませぬが、『ヴァルチャーマスク』――くにたちいちばんが手掛けた漫画との提携タイアップに当たって取り決めた諸条件が双方の間で食い違い始め、〝金の切れ目が縁の切れ目〟としか申し上げられぬ確執が引き金となりました。我が恩師我が朋輩――『新鬼道プロレス』を二つに割ってしまったのも事実でございますれば、気遣い無用でお頼み申し上げます。を過去の己になすり付けもしませぬ」

「部外者の覗き見による認識ゆえ誤解も多かろうが、〝くにたち漫画〟なくして『昭和』のプロレス人気はなかったとの自負がご当人は殊の外に強かったような。利権やを割り引いても、あの執着はわしの目に異様としか見えんかったわい」

「戦後日本の〝格闘技文化〟を育てたのは己自身という〝誇り〟が高かったのは間違いございませぬ。〝くにたち漫画〟が成し遂げた功績は誰にも否定できませぬが、くにたちいちばんはプロレス人気を他人に一つたりとも譲りたくないが為、我らが『新鬼道プロレス』とも、りきどうざんの〝直系〟を継ぐ『大王道プロレス』とも違う〝第三勢力〟の発足も企てました。利権ロイヤリティを巡って我が恩師と意見を違えたのも、日本のマット界を実効支配する為に打った布石ではなかったのかと、三〇年の歳月を経た今も疑念は拭い切れませぬ」

「……『しんこくりつプロレス』だったかしら。その構想はハワイ出身うまれの私にも他人事ではなくなるのよ。『鬼馬鋼バトーギーン・チョルモン』を横綱にまで育て上げた師匠の『だいかいせい』――ハレアカラ火山に由来するを称して土俵に上がったハワイ系初の相撲取りは、今でもまぶたの裏に浮かぶわよ。……負傷が続いて土俵際で苦しむ『だいかいせい』にプロレス転向の風聞うわさを流し、半ば強引に契約書に署名サインさせたのが〝誰か〟も把握しているわ」

「自らのプロレス団体を持たんとする野望は、一九七八年には既に抱いていたかと。チョルモンが現役力士であった頃の好敵手である『おろし』を横綱へと導いた親方――『たばかぜ』が同じ年に〝まくうち〟と〝まくした〟を行き来していたことは御両人ともご存知でございましょう? 土俵の上では芽も出ないと揺さぶりを掛け、プロレス転向を迫ったと聞いております。陰謀に勘付いた相撲協会が動いて白紙撤回となりましたが、〝暴君〟の所業を許しておれば〝昭和の大横綱〟は生まれなかったことでありましょう」

「……『たばかぜ』を〝看板レスラー〟に仕立て上げようとした画策は、私の耳にも届いているわ。一九七八年前後の停滞期から僅か三年で横綱まで上り詰めたことを思えば、将来性を見抜く眼力は見事と讃える以外に無いわね。振り返るたびに『この師匠にしてこの弟子あり』という言葉が脳裏を過る強硬策は論外だけど……」

「平成を二〇年も過ぎた現在いまでも〝日本人横綱〟を殊更に有り難がる角界の〝薄暗さ〟を吹き込んで離反を促したのは、きょういし沙門君に勝るとも劣らぬ強硬策じゃな。こんにちのモンゴル出身力士をも苦しめる根深いに三〇年目から勘付いておったのは間違いないじゃろうが、それを先見の明と認めて良いものか……」

「己の思い通りにならぬ『アンドレオ鬼貫』に取って代わるべく最後の決着戦を挑んだ一九八三年のくにたちいちばんは、……こうたいじんでなくとも異様と見えましょうな。指定暴力団ヤクザの実働部隊まで呼び寄せて我が恩師を脅し、の悪事が露見して逮捕され、一度は社会的に抹殺されたにも関わらず、謀略を張り巡らせて『新鬼道プロレス』の乗っ取りに王手を掛けたあの執念は、……三〇年が経った今も怖気が鎮まらぬ権力ちからの亡者でござったわ」


 しんこくりつプロレス――『昭和』の〝スポ根〟ブームを牽引しながらも、それだけでは野心が満たされず、日本格闘技界の完全な支配に取りかれた漫画原作者が見果てぬ夢の足掛かりに想定していた新団体は〝国立〟と冠していたが、が「くにたちいちばんによる設立」とい毒々しい自己主張であることは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 『たばかぜ』に続いて『だいかいせい』を〝看板レスラー〟に据える計画も失敗し、『しんこくりつプロレス』の構想そのものが暗礁に乗り上げると、くにたちいちばんは己の息が掛かった新役員ひとびとによる〝傀儡政権〟で『新鬼道プロレス』を乗っ取る策謀へと舵を切った。

 同じ法治国家にも関わらず、『昭和』は現代の社会よりも〝暴力〟の〝実効性〟が遥かに強かった。郷愁を駆り立てる夕焼けの底に〝誰〟とも知れない変死体が折り重なる荒んだ時代ではあったが、それでも外道の振る舞いを繰り返す者に〝天〟が味方し続けるはずはない――二人に背中を向ける恰好で立ち上がったおういんが述懐した通り、くにたちいちばんは大義もなく支配欲に溺れた時点で命運が尽きていた。


「……所属レスラーも経営陣フロントも、『新鬼道プロレス』が文字通り真っ二つに割れる規模の造反じゃったな。鬼貫君の運営体制に不満が募っていた者たちを焚き付け、一度は彼を社長の座から引きずり下ろしたが、『アンドレオ鬼貫』というに泥を塗って貶めれば勝てると踏んだのがくにたちいちばんの敗因じゃ。彼らしいつまずき方といえばそれまでじゃがな」

「プロレスとMMAの差異ちがいはあれども団体運営という共通点があるから、内部分裂に失望したファンが雪崩を打って離れる状況は想像しただけで、……に胃を突き刺されるわね。アンドレオ鬼貫の復権を求める声に応えなければ、たちまち活動は破綻するもの。新団体騒動の際に〝看板レスラー〟の確保に躍起になっておきながら、くにたちいちばんはその言葉が意味することを見失っていたようね」

「自らの手で積み重ねた実績と、これによって育まれた信頼は、目の前に利益エサを吊るすような陰謀をも上回る――鬼貫君の逆転勝利は全ての人間が肝に銘じるべき教訓じゃよ。最終的に『くにくずしの変』が見せ付けたのは〝正しく生きること〟の意味じゃ。そして、罠にめて他者ひとの地位を奪ったところで、徳なき者の企みが長く続くことは〝人間の営み〟が寄り集まった社会という仕組みが許さぬ」

たいじんが仰せの通り、運命の分水嶺たる徳の有無は、掴みどころのない〝天〟のおぼし召しなどよりずっと即物的。いえ、ここはぞくことわりと申しておくと致しましょう。人と人とが繋がり合い、信じ合う心が『昭和』のプロレスを導いた両雄ふたりの明暗を分けたことは、小生が口幅ったい真似などせずともご承知のことと拝察しております」


 〝三日天下〟の闇将軍――と、重苦しい溜め息を引き摺りながら天井を仰いだおういんは、『くにくずしの変』の顛末に辿り着いたところで口を真一文字に結んだ。

 『新鬼道プロレス』の掌握を確信したくにたちいちばんは、保釈中の身分でありながら祝勝会を開き、その席上で大病を発して〝覇権争い〟を続けられなくなってしまった。

 一方の鬼貫道明はファンもマスメディアも味方となり、およそ三ヶ月という短期間で社長に返り咲いたが、その後も造反した仲間たちを懲罰人事で不当に苦しめることはなく、文字通りの〝無血〟で事態を収拾してみせた。

 生まれた国こそ日本と違えども、イズリアルとこうれいは一連の経緯は把握している。国家転覆の悪役を意味する歌舞伎の用語ことばと、首謀者の名字を引っ掛けて『くにくずしの変』と呼ばれるようになったことも承知している。

 いっときくにたちいちばんなくして日本格闘技界は立ち行かないとまで恐れられた影響力が完全に排除されたからこそ、〝政変〟として取り扱われるのである。

 謀略の全てが徒労に終わったことを認められないくにたちいちばんは、瀕死の病床に臥せながらも反乱分子をけしかけ続けたという。この数年後に没した為、〝最後の弟子〟が教えられていない限りは真相も永遠に不明であろうが、蜜月の盟友であった鬼貫道明を失脚させるべく異常な執念を燃やした理由については、〝表〟の社会を追われたからこそ〝闇将軍〟の座を渇望したのかも知れないという憶測が多い。


「……〝力〟を持ち過ぎた者、己の手に余る権力ちからを欲する者はどこかで必ず排除される。その宿命さだめを樋口はくにたちいちばんよりも深刻に受け止めていたであろうに……」


 焦茶色のそうは依然として二人に背を向けているが、小会議室は全面ガラス張りなので顔は鏡に映ったような状態であり、間接的に表情を確かめることも不可能ではない。呻き声が心配になっても覗き込もうとしないのは、無神経で品性を疑われる行動を慎む常識を持ち合わせていることに加えて、岩の如き体躯に計り知れない苦しみを感じ取った為だ。

 帳尻合わせのように最後は元通りの形となったが、仲間同士で醜い感情をさらけ出す叛乱そのものは『新鬼道プロレス』の内部なかで勃発している。〝くにたち漫画〟との提携タイアップが火種ということもあり、かつて『ヴァルチャーマスク』の通称リングネームを名乗ったこの仏僧おとこも、鬼貫道明に並ぶ〝当事者〟の一人として『くにくずしの変』の趨勢に深く関与していた。

 こうれいと同様にイズリアルも〝外〟から動向を窺うのみであったが、鬼貫への不信感を拭い切れない為に『新鬼道プロレス』を去って独立すると吹聴して回った鷹胤ヴァルチャーマスクは、造反者たちと連動しているようにも見せ掛け、〝超人レスラー〟として国民的英雄ヒーローに飛躍するきっかけを与えてくれたくにたちいちばんを騙し討ちにしている。

 愛してやまない『新鬼道プロレス』を守る為とはいえ、苦楽を共にした仲間を欺き、大恩ある相手を裏切らざるを得なかったことは、〝たたかいを修める〟という理想の模索など求道的に生きてきた鷹胤ヴァルチャーマスクの心に暗い影を落とし、『くにくずしの変』を振り返るたびに己を卑劣と責めずにはいられないのであろう。

 ざんの念から逃れる為に出家し、慈善活動も罪悪感の埋め合わせに違いない――の誤解から事実無根の誹謗中傷を浴びせられたことも耳にしていたイズリアルは、「権力ちからを持ち過ぎた者は必ず排除される」という先程の呟きから背中の〝向こう側〟の苦悶へ思いを馳せずにはいられなかった。

 『くにくずしの変』を紐解く内、自身が一世紀近く背負ってきた黄砂混じりの歴史に近似する事件を見つけたこうの末裔は、何ともたとがた表情かおで仙人さながらの白髭を撫でるのみとなってしまったが、隣席となりのイズリアルも、脳内あたまのなかの半分はかつて故郷ハワイに栄えた王国を崩壊に追いやった銃剣とサーベルによって占められている。

 イズリアル・モニワにとっての七月四日は、自身の執務室オフィスで日付変更線を超えるよも二〇時間近く前――前日三日の朝からそもそも心穏やかには過ごせていなかった。

 独立記念日に合わせた『NSB』の特別大会が『ウォースパイト運動』による銃撃事件の余波を受けて中止になったことへの憤懣は、今も気を抜いた瞬間に破裂してしまいそうだが、善後策を話し合う会議に『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟を割り込まれたことや、ラスベガスの片隅で経営しているオークションハウスの催し物イベントで忙しい伴侶パートナーと祝日を一緒に過ごせないことは、に少しも影響を与えていない。

 一八九四年まで遡るが、七月四日は群雄割拠のハワイ諸島を統一した〝大王〟――カメハメハ一世の手で建国された『ハワイ王国』がさせられた日でもあるのだ。

 一〇〇年の栄華を誇った常夏の王国も入植者であるはずのアメリカが政治的影響力を強めると陰りが見え始め、〝カメハメハ大王〟から数えて八代目のリリウオカラニは、一八九四年七月四日の時点で既に〝最後の女王〟となっている。

 王国転覆の首謀者は政治的パフォーマンスを見込んで、独立記念日の当日に本来の王家とは関わりのない共和国の樹立を宣言したのである。七月四日を境としてハワイはアメリカ本国の支配が加速し、四年後には準州の形で併合されることになる。

 王国時代に入植した日本人移民団――『がんねんもの』を祖先に持つ日系ハワイ人のイズリアルは、毎年七月四日の賑々しさに居心地の悪さが抑え切れなくなるのだが、そこに『くにくずしの変』の再現としか表しようのない叛乱劇をぶつけられた次第である。

 『ユアセルフ銀幕』の〝生配信〟は、ハワイ王国を滅亡に追いやった陰謀と〝何〟が違うというのだろうか。共和国樹立の一年後に発生した最大規模の叛乱にいてもリリウオカラニ女王に対する仕打ちは非道極まりなく、王国の残党を武装蜂起に差し向けたという濡れ衣を着せてまで持ち込み、王家再興の芽をその根から絶っている。

 王政が不当に覆された日、ホノルルの王宮もアメリカ海兵隊に取り囲まれたのだが、およそ一二〇年前の動乱と現在の樋口郁郎がイズリアルのなかで重なって仕方なかった。情報戦に長けた〝暴君〟の目がどこまで欺かれたのかは定かではないものの、〝政敵〟とも呼ぶべき『MMA日本協会』が『天叢雲アメノムラクモ』の足元を脅かす状況を許してしまったのである。

 〝付属大会〟となるはずの『テンソンコウリン』は、現時点で参戦が決定している格闘家や運営スタッフなど、その大半が『MMA日本協会』と関わりの深い者で埋め尽くされていた。

 国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関――『MMA日本協会』と、その理念を机上の空論では終わらせず、日本のMMA団体にける最長運営期間の記録をもって体現し続けてきたそえもつちかのりが本気で取り組めば、〝付属大会〟の試合内容に基づく〝公開検証〟の成果は、やがて銃剣の如く樋口郁郎を脅かすことであろう。〝本大会〟のルール改正をも承認するよう求めるに違いなかった。

 それはつまり、〝暴君〟に自らの団体運営を支える〝くにたち漫画〟の幻想を否定させるという意味である。少なくとも自分であれば、そのように謀って追い詰める――仰々しく構える必要もなく〝当たり前のこと〟のように心の中で吐き捨てた一言と、故郷ハワイを引き裂いたモノと変わらない陰謀が己の〝一部〟となっていることにイズリアルは口元を歪めた。


「――幾らケツに火が付いた状態っつっても〝旧王国の亡霊たちラナキラ・ハノハノ〟である『夜の行進者ナイトマーチャー』がよりにもよって〝王家潰し〟と似たり寄ったりの策を巡らすようになっちまうとはね。誰が言ったモンだったかな、『歴史は繰り返す』ってのは」


 独立記念日を含む週末の三連休は、愛する妻子に捧げると話して退勤した対テロ即応部隊々長――ヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードから以前にぶつけられた皮肉が脳裏をよぎったイズリアルは、敬愛する〝最後の女王リリウオカラニ〟と軽蔑する〝暴君〟を重ね合わせなければならないことに一等重い溜め息を洩らしそうになり、瞑目と共にこれを噛み殺した。

 ハワイ王国が滅亡へと突き進んだ最初の一歩は、リリウオカラニの先代――兄王・カラカウアの時代に制定じゅうけんけんぽう』である。

 カラカウア王の信任を得て王都ホノルルの警備も務めた民兵組織――『ホノルル・ライフルズ』の寝返りから銃剣によって恫喝され、一八八七年七月一日に王権を大きく後退させるという〝政変クーデター〟も同然の修正憲法に署名を強要されたのだ。

 この動乱で『ホノルル・ライフルズ』を指揮した『ヴォルニー・アシュフォード』は、アメリカ本国の『南北戦争』にも従軍した経験を持つ歴戦の軍人である。

 一〇〇人程度の自警団に過ぎなかった同隊をにまで鍛え上げる軍才の持ち主に、欧米から銃砲を手に入れて敵対勢力をことごとく制圧したカメハメハ大王の〝統一国家〟が脅かされる事態は、『歴史は繰り返す』という訳知り顔の一言で表し切れるほど生易しくはない。建国の〝大王〟が〝海の外〟の文明を広く受けれたからこそ、豊かな〝移民文化〟も花開いたのだ。

 ノートパソコンの画面内で老神父が紹介し続けているンセンギマナが極めた『アメリカン拳法』の創始者――エド・パーカーもハワイ出身うまれである。〝海の外〟から数多の東洋武術が集まる環境に生まれていなければ、〝移民文化〟のとして一つの体系が完成されることはなかったはずだ。ブルース・リーが表舞台に立つきっかけとなったロングビーチの格闘大会をパーカーが催すことも必然的になくなり、総合格闘技MMAの発展は何十年も立ち遅れたことは間違いない。

 くだんの『銃剣憲法』では祖先であるアジア系移民が権利を大きく規制されたこともあり、これと同じように〝暴君〟が握る一種の〝王権〟を段階的に削り取るという計略をおぞましく感じてしまう心はイズリアルも抑えられなかった。

 己の過ちを悔やんだヴォルニー・アシュフォードが王家再興を目指す武装蜂起へ合流したように、日本MMAの頂点いただきを挿げ替える企みは信義にもとるとして異を唱える者が現れないとも限らない。樋口体制にける実利と新体制で生じるであろう損失を勘定して距離を置く者はもっと多いはずだ。一個人の感情から離れたところでも強硬策自体を危険視せざるを得なかった。

 『NSB』の代表の〝立場〟としても、イズリアルは共催団体で起きた事態に複雑な表情を浮かべている。傍目には樋口郁郎への包囲網を主導しているように見えなくもないレオニダスだが、天秤の傾き方によっては手を結んだ全員を見捨てて離反するであろう。仮に〝暴君〟単独ひとりの逆転勝利を許せば日本格闘技界全体の状況は更に悪化する。利害の胸算用ということでは、どのように転んでも『NSB』にとって甚だ芳しからぬ状況なのだ。


「……興行イベント名ではなく日本神話としての『てんそんこうりん』では、〝さんしゅじん〟を携えた神が地上に降り立ち、統治の拠点と決めた霊峰に神聖なる矛を突き刺した――と、物の本で読んだおぼえがあるわね」

「仏にした小生の口から答えるのは些か躊躇ためらわれますが、にもモニワ代表の仰せの通り。『くさなぎのつるぎ』が祀られし熱田神宮とみやひめから着想を得たであろう『あつミヤズ』がMMA興行イベントとしての『テンソンコウリン』に与するのは、『天叢雲アメノムラクモ』という団体名の由来も含めてこの上なくごうが深きこと。『くにみ』に用いた『あめのぼこ』をあまてらすおおみかみが〝天孫〟たるぎのみことに授けたとか。それがたかほのみねの山頂に突き立てられた『あめのさかほこ』と伝わっておりますぞ。一説には大地が安らかになるように願ってを鎮座させたとか。……いずれの伝承を紐解いても、樋口に牙を剥いた者たちのを勘繰らずにはいられませぬ」

「神話から時代を超え、霊峰ではなく日本MMAのリングに、果たして〝誰〟が二一世紀の『あめのさかほこ』を突き立てるのか――坂本龍馬リョーマ・サカモトが『あめのさかほこ』を引き抜き、再び刺し直したとも耳にしたわね。日本を必ず洗濯してみせるという決意表明だったのかしら。……鷹胤あなたが疑う〝作為〟は、あるいはに近いのかも知れないわ」


 興行イベント中継の地上波放送復帰などMMAを日本で再燃させるには、これが〝スポーツ文化〟であることを証明する必要があり、『NSB』と『天叢雲アメノムラクモ』による日米合同大会コンデ・コマ・パスコアこそがその試金石に最も相応しい。『MMA日本協会』としても開催自体に反対する理由はなく、むしろ成功しないと今後の計画にも支障をきたすことであろう。

 MMAに正常性を強く求めるかのような筋運びは、日本格闘技界に大きな影響力を持つ『ハルトマン・プロダクツ』の総帥――トビアス・ザイフェルトが掲げてきた〝人間ひととして正しくあれ〟という方針とも一致している。


(ストラールという名前だったかしら、『ランズエンド・サーガ』で闘ったメルヒオールの実弟おとうと……。オランダに選手派遣を拒絶されるのは『NSB』にも打撃というレベルではない。せめて『格闘技の聖家族』の御曹司とは交渉の線を保っておきたいわね……)


 傘下団体ランズエンド・サーガによる『NSB』への買収工作を許している『ハルトマン・プロダクツ』とは明確な敵対関係であるが、それを把握していないのか、〝全て〟を知りながらえて緊張状態を作り出したのか、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の臨時視察では樋口自身の手配りによってザイフェルト家の御曹司――ギュンターと同席

 その際に自分でも驚くほどよそよそしい挨拶を交わした青年たちが暗躍し、『MMA日本協会』を裏舞台から操っているとしてもイズリアルの想定内である。

 シンガポールの『至輪パンゲア・ラウンド』と繰り広げているアジア圏の勢力争いを『ハルトマン・プロダクツ』は睨んでおり、いざというときに〝盾〟の代わりとなり得る『天叢雲アメノムラクモ』を思い通りに利用する為にも、事あるごとに反抗的な態度を取る樋口郁郎の〝首〟を誰よりも挿げ替えたいはずだ。


(つまり我々NSBと同じようにを放棄しない覚悟というわけね。例え我が身を罪でけがすとしても……)


 見込んでいる〝役割〟こそ異なるものの、『NSB』としても今すぐ『天叢雲アメノムラクモ』にされるわけにはいかなかった。さりとて今までに樋口郁郎が重ねてきた数々の暴挙に目をつむることも難しい――この問題点だけは〝天敵ハルトマン・プロダクツ〟とも共有しているつもりであった。


「……利害や過去の遺恨を乗り越え、東北復興の大志こころざしのもとに鬼貫道明が思い描いた大きな輪を結んだのではなかったのか……⁉ 『くにみ』の矛を相争って『くにくずしの変』を再現していては、まさしく『天叢雲アメノムラクモ』の名折れではないか……ッ!」


 短く詫びたのち鷹胤ヴァルチャーマスクは小会議室から退出していった。そうに包まれた背中をイズリアルのはガラス越しに追い掛けていたが、心の奥底から染み出したドス黒い〝闇〟に呻き声を洩らし、俯き加減となってしまった。

 『くにくずしの変』のなか、この絵図を描いたくにたちいちばんは手掛けた漫画作品の人気や、これによって発生する莫大な利権の為に免じられてきた数々の犯罪行為が暴かれ、警察から逮捕された末に〝最後の弟子〟の奔走で復権されるまで長らく社会的に抹殺されていた。

 〝誰か〟の口から真相が明かされることは永遠にあるまいが、不意打ち同然の逮捕劇は鬼貫道明が仕掛けた〝反撃〟であろうと格闘技界では四半世紀に亘って疑われてきた。それが〝真実〟であったことを鷹胤ヴァルチャーマスクの去りゆく背中が証明した恰好である。

 プロペラの先端としかたとえようのない形で横に飛び出した鷹胤ヴァルチャーマスクのもみあげは人並み外れて豊かである。小会議室から立ち去る間際のは酷く小刻みに震えていた。模様の如く白い筋が入り混じるより遥か昔――若かりし頃の苦しく哀しい記憶と、再び日本格闘技界で繰り返されようとしている醜い内紛への憂慮が入り混じり、『くにくずしの変』に関わった〝当事者〟の心を切り刻んだのは間違いない。

 その表情かおを余人に見せたくなかったのであろう。レスラー仕様のリングシューズで床を踏む鷹胤ヴァルチャーマスクではあるものの、現在いまは頭部を覆面プロレスマスクで隠してはいないのだ。

 プロレスや格闘技の持つ〝力〟によって全世界を一つに繋げられると揺るぎなく信じ、自ら民間単位の〝スポーツ外交〟を幾度も成功させ、日本国内外の格闘家が集まる〝異種格闘技食堂〟を通じて現在いまもその理想を実践し続ける鬼貫道明でさえも、代表という〝立場〟であれば、団体を守り抜く為に己が最も望まない手段も取らざるを得ないのである。

 代表の肩書きを背負う〝立場〟となった以上は、を常に脳内で並べなくてはならない計算高さに対する嫌悪感も、直視できないほど自らの手を醜く汚すことも、〝全て〟を飲み込まなければならないのだ。

 守るべきモノの為には自らの理想に背を向けることを厭わない覚悟は、イズリアル・モニワも〝実感〟と共に理解している。そして、その思考あたまは日本格闘技界で起きた〝暴君〟への叛乱劇に「時期尚早」という結論しか持ち得ないのだった。


「……おういん君は苦しかろうな。影響の一片に至るまで樋口郁郎を除かぬ限り、日本の格闘技に将来さきはないと理屈では呑み込んでおるじゃろうが、その代償が〝古巣〟をズタズタにしてしまうのじゃ。感情の面では容易く割り切れぬじゃろう」


 日本格闘技界との旧縁によって冷静ではいられない鷹胤ヴァルチャーマスクを案じるこうれいの言葉に首を頷かせながらも、イズリアルは『MMA日本協会』と『NSB』の今後これからを憂えている。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの成功に不可欠な『MMA日本協会』は、総合格闘技MMAのオリンピック正式種目化を目指す運動にいても協力体制が必須であり、背後に立つ『ハルトマン・プロダクツ』との緊張状態から親密にはなれずとも、修復不可能というほどの決裂を回避しつつ適切な関係を維持しなければならない。

 指貫オープン・フィンガーグローブや競技用トランクスに内蔵されたICチップ、特殊カメラを複合的に駆使することで選手の心拍数と打撃の威力・有効打の命中回数をリアルタイム計測し、試合をいろどる〝光の演出プロジェクションマッピング〟や公開採点オープン・スコアリングに反映する最新技術の結晶――『CUBEキューブ』の仕組みシステム日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体という〝立場〟を利用して盗み取らんと画策する樋口郁郎は、いずれ必ず排除しなければならない。野放しにしておくことは洋の東西を問わず格闘技界の進歩を妨げるという認識は、イズリアルも『MMA日本協会』と共有している。

 しかし、利用価値が残っている間は〝暴君〟という憎悪の対象のまま玉座にるほうがイズリアルにも都合が良い。何よりも樋口の失脚とは『NSB』が主導権を握らなければならないのである。

 を『MMA日本協会』や『ハルトマン・プロダクツ』へ譲るような事態に陥ってしまったなら、団体を挙げて日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを催す理由も意味も吹き飛ぶのだ。格闘技界の誰からも信頼を寄せられるそえもつちかのりは、その可能性を大きく引き上げることであろう。

 イズリアル自身、『ばっけんマキシマンダラ』の健全な運営手腕を高く評価し、選手全員への細やかな気配りには尊敬の念すら抱いている。ゆくゆくは提携したいと思っていたMMAの〝同志〟が『NSB』の前途を阻む脅威として立ちはだかったことは、痛恨の一言でしか表しようがなかった。


「いつぞや樋口郁郎が団体間の〝交換留学生〟などと吹っ掛けて参ったじゃろう。アレに乗ってみるのもではないかな? 幸いにも『NSBこちら』には八雲君の愛弟子がるし、アマカザリ君に興味津々な様子のエイモス・ファニングも味方になってくれるじゃろう。彼のトレーナーも。きっと暮らし向きの相談にも乗ってくれるはずじゃよ」

「それはキリサメ・アマカザリを厄介払いしたかったときに樋口が捻り出した無理筋の口実でしょう。現在いまは逆に何があっても『スーパイ・サーキット』は手放すまいと思いますが……。経歴キャリアも無視して日米合同大会コンデ・コマ・パスコアでも〝客寄せパンダ〟に利用したいと、あの男なら考え兼ねません。何よりアマカザリは〝くにたち漫画〟の世界観そのものですから」


 こうれいが持ち出したのは『天叢雲アメノムラクモ』が『NSB』に提案した団体間の交流事業だ。岩手興行での初陣プロデビューが公式に発表された〝立場〟でありながら、キリサメが秋葉原で路上戦ストリートファイトを繰り広げるという不祥事を仕出かした直後、樋口郁郎直々に持ち掛けてきたのである。

 両団体の新人選手ルーキーから有望な人材を選抜し、一種の交換留学生を通じて日米MMAの交流を促したい――を並べる樋口であったが、統括本部長の養子むすこであることに加え、代表じぶんの一存による選手起用でもあった為、『天叢雲アメノムラクモ』の社会的信用にきずが付かない形でキリサメを追放するべく回りくどい手段を取ろうとしたのであろう。

 『聖剣エクセルシス』を振り回すという自体は情報工作で強引に解決したものの、〝プロ〟の自覚を持ち得ない新人選手ルーキーを一度は見限った様子である。交渉の席に呼び出された上級スタッフを通じていきさつを知ったイズリアルは、思わず「盗人猛々しいにも程がある」と吐き捨ててしまったが、〝不良債権〟を海外アメリカに売り飛ばしながら、キリサメと同程度に話題性の高い『NSB』の軽量級選手を取り込もうとする腹積もりであったのかも知れない。

 昨年末にタイのラジャダムナン・スタジアムから八角形の試合場オクタゴンへ飛び込んで以来、鍛え抜いたムエタイの技で全戦全勝を維持する『ワンチャイ・シリワット』との交換を樋口郁郎から求められたのである。


「共催団体の代表の〝全て〟が疑わしくてならないのは甚だやり切れませんが、樋口が物珍しさでシリワット選手を〝客寄せパンダ〟に仕立て上げるつもりなら、その才能を見出したこうたいじんは腸が煮えくり返る思いでしょう?」

「無論、ワンチャイ・シリワットを『天叢雲アメノムラクモ』に送り出せとは口が裂けても言わぬ。仮に代表の仰る通りであれば、師匠が味わったのと同じ〝社会的な死〟への片道切符じゃが、現在いまの樋口郁郎はそこまでちても不思議ではない筈じゃ」

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行で初めて目の当たりにした瞬間、『ケ・アラ・ケ・クア』という余人には意味不明な呼び名をぶつけてしまった異能ちからを〝暴君〟の手元に置いておくと、キリサメ自身が〝くにたち漫画〟に登場する主人公のような末路を辿る危険性が極めて高い――背中で受け止めたこうれいの声は、その憂慮に満ちていた。

 常人離れした才能の持ち主が心身を削る死闘を繰り返した末に燃え尽きて再起不能となるか、命が砕け散るか――破滅的な筋書きシナリオで主人公の生きざまを際立てる美学を〝最後の弟子〟は間違いなく受け継いでいる。

 格闘技興行イベントが地上波テレビで生中継されていた前身団体バイオスピリッツの頃であるが、樋口郁郎は格闘家としての実績ではなく〝視聴率を取れるキャラ〟に需要があると見誤り、実力の釣り合いよりも話題性が先行する試合や素人同然の芸能人タレントの選手起用といった悪しき路線に切り替えてMMA自体の信用を失墜させた前科があった。

 選手の心を深く傷付け、試合の安全性をも軽んじた樋口の所業は、『NSB』をドーピングで汚染し、肉体改造が施された〝超人〟たちによるに貶めた前代表フロスト・クラントンに重ねられることも多い。過去にMMAファンから猛烈な批判を浴びせられた上、前身団体バイオスピリッツが破綻に至った一因でもありながら、完全無差別級試合や格闘技経験のないローカルアイドルの選手起用など、『天叢雲アメノムラクモ』でも同じ過ちを止められずにいる。

 〝くにたち漫画〟のを体現するようなキリサメの存在が樋口郁郎の暴走を更に加速させる可能性こそイズリアルは懸念していた。

 男性の体に女性の心を宿して生まれたワンチャイ・シリワットを〝交換留学生〟の候補に選んだ理由を推し量っても、背筋に戦慄が走るくらい危険な兆候が感じ取れるのだ。かつては『こんごうりき』にも外部顧問として携わり、同団体のチャリティー興行イベントを推進した人間とは思えないほど堕落した〝暴君〟に大切な選手ワンチャイ・シリワットを引き渡せるはずもなかった。


「……キリサメ・アマカザリを『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行に導いた〝責任〟は、あるいは樋口よりも『NSB我々』のほうが重いでしょう。〝間接的〟などという小賢しい言い訳も差し挟みません。その責任を取る義務も負っています。良心の呵責に屈してから目を逸らすようなら、今ごろ代表という重い肩書きに背中から心臓まで食い破られているはずです」

「うむ――アマカザリ君が『くにくずしの変』の再現に巻き込まれることは、どうあっても回避は難しいじゃろう。現在いまの微妙な〝立場〟を思えば、かつての『ヴァルチャーマスク』の如くに所属先の思惑に振り回されるのは必定じゃ。己と同じく〝汚れ役〟の苦しみを背負うような目に遭うのではないかと、おういん君は誰よりも案じておるのじゃろう」


 こうれいは鏡の如きガラスに映ったイズリアルの顔を覗き込んでいる。

 『くにくずしの変』にいて恩義ある二人の板挟みになりながら片方を騙し討ちにする裏工作に加担せざるを得なかった鷹胤ヴァルチャーマスクを例に引き、口ではキリサメの行く末を憂いながらも、先程より険しさを増した眼差しは、ガラスの映り込みを介して視線を交わすに対して〝汚れ役〟を全うする覚悟を問いただすかのようであった。


「このまま『天叢雲アメノムラクモ』の有りさまが『NSB』の筋書きシナリオから逸脱し続ければ、〝汚れ役〟の意味もなくなってしまう。そろそろ樋口郁郎のを考え直す時期ではないか」


 古老の双眸は、そのように語っていた。

 一等厳しい眼光におののいて振り返ることもなく、同じ手段を用いてこうれいの顔を覗き返しているイズリアルも、己に求められた〝何か〟を一瞥のみで悟ったからこそ、キリサメの処遇に対する発言をに代えたのだった。

 その一方で、彼女イズリアルの瞳は正面のガラスに前代表フロスト・クラントンの白雪の如き肌色の顔を映していた。

 彼の真隣には禁止薬物に頼って〝超人〟と化した過ちを糾弾され、『NSB』から永久追放の処分を受けたフランス・ノルマンディー出身うまれのMMA選手――ルイ・アベル=ユマシタ・バッソンピエールも並んでいる。

 夏季冬季問わずオリンピックに代表選手を何人も送り込んできたフランススポーツ界の名門――バッソンピエール家に連なるその男は、今や別の名前とかおに変わっている為、イズリアルがているのは想い出の彼方へと消え去った〝残像〟である。

 そして、は世界のMMAの旗頭を担う最大団体の代表が背負い続けなければならない〝罪の十字架〟でもあった。


(……私たちの操作コントロールから外れているのは樋口本人なのか、それとも――)


 間もなくイズリアルが古老よりも遥かに強い眼差しで見つめる〝罪〟の先――ガラス壁の向こうに一つ二つと人影が現れ始めた。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体に関する〝生配信〟を視聴して居ても立っても居られなくなった『NSB』のスタッフたちが代表のもとへと集まってきたのである。

 自身が属する部署の一室でパソコン画面をめつけていた者、独立記念日を祝う為に退勤した者が入り混じっているので、それぞれの出で立ちも統一性を欠いているが、MMAという〝スポーツ文化〟へ誠実に向き合わんとする面持ちは誰も彼も一緒おなじであった。

 私服姿の大半が携帯電話やタブレット端末を手に持っているということは、『熱田ミヤズ』のチャンネルから垂れ流される一部始終を視聴しながら、文字通りに駆け付けたわけである。〝交換留学生〟を巡る交渉で樋口郁郎と対峙した上級スタッフなどはパジャマから着替えることも忘れて自宅を飛び出した様子だ。


「――名古屋市在住の『ちゃ』さん、僭越ながらそえもつちかのりからお答えします。家族や会社が応援してくれるから心強いという気持ちは自分も理解わかります。高校ボクシングの県大会準優勝が自慢なのも。でも、二〇年近く格闘技から離れていたんですよね? 前の挑戦は積極的にやるべきですし、『明日のMMA王者チャンピオンはキミたちかも知れない』というタファレル選手の言葉は、実際に〝MMAドリーム〟を掴んだ彼が発しただけに夢も膨らみますが、それは取り返しのつかない大怪我と引き換えにしても構わないものですか?」


 個々それぞれの液晶画面には未だに『熱田ミヤズ』の『神宮』が映し出されている。

 先ほど『テンソンコウリン』への出場を熱望する電子メールが格闘技雑誌パンチアウト・マガジン編集部のアドレス宛に届いたようであるが、そこに記された経歴を朗読する『熱田ミヤズ』に耳を傾けていたそえもつちかのりは、『神宮』に設置されたカメラを正面から見据えると、そので〝生配信〟を視聴しているであろう送信者に対して無謀な挑戦は文字通りの命取りと諭し始めた。


「同僚上司のご一同も〝ひとり実業団〟みたいに出場してもらったら、会社の宣伝になると思っていませんか? 一旦、全員みんな冷静になりましょう。本気で〝プロ〟の格闘家を目指すおつもりでしたら、長期的な計画を立てて段階的に肉体からだところから始めなければいけません。散歩が日課で足腰が強いというだけで富士山頂まで辿り着けますか?」


 年齢や職業といった細かい差異ちがいこそあれども、くだんの人物は樋口郁郎がリングに押し上げようと試みた飯坂稟叶ローカルアイドルと状況自体は大きく変わらない。そのような相手に自他の感情が先走ることは危険以外の何物でもないと説き聞かせるそえもつの姿は、日本MMAを導く旗頭の役目を〝暴君〟は今すぐ譲るべきと格闘技を愛する全ての人々に思わせることであろう。

 表情も分からないほど強烈な映像加工で歪められていた頭部は元通りに戻されたが、一言々々に宿る信念の力は、燃え盛る正義の顕現あらわれにもたとえるべき赤鬼さながらのかおであった先程と全く変わらない。

 その声によって鼓膜を打たれるたび、MMAに人生を捧げる一個人としては目標ともするべき相手であり、『NSB』を率いる代表としてはこの上なく目障りという相反する感情が綯い交ぜとなって胸中で暴れ回るのだが、ガラス壁の向こうに志を同じくする仲間たちを見つめたイズリアルがを持て余すことはない。


「――幾らケツに火が付いた状態っつっても〝旧王国の亡霊たちラナキラ・ハノハノ〟である『夜の行進者ナイトマーチャー』がよりにもよって〝王家潰し〟と似たり寄ったりの策を巡らすようになっちまうとはね。誰が言ったモンだったかな、『歴史は繰り返す』ってのは」


 そえもつちかのりに勝るとも劣らない信念の力を双眸に湛えた『NSB』の代表は、再び脳裏に甦ったヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードの皮肉と併せてを腹の底に飲み下した。


「数え切れない脅威が迫るこの現状は、自然選択説を冠するMMA団体が極限的な環境に適応して更なる進化に踏み出せるかどうかの瀬戸際です。未来に手を伸ばすの情熱を守らず、MMAを次の時代へ繋げるという〝偉大なる創始者たちピルグリム・ファウンダーズ〟との約束も果たさず、聖者を気取った芝居で天国への階段の前に立ったとしても、私は必ず人生の〝全て〟を後悔します。〝毒〟を飲み干して魂がけがれ、〝天〟から地獄にちると定められた身であるなら、〝闇〟のふちとびこみ競技の金メダルを土産にするくらいの勢いで臨みませんと」

「しからば、も最後まで付き合うのみじゃ。差し当たっては『天叢雲アメノムラクモ』に仕掛けてある〝罠〟の見直しじゃな。おういん君が渋い顔になりそうじゃが、信念高き彼ならばこそ共に〝毒〟のさかずきを呷ってくれるじゃろう」

「MMAの為、『NSB』の為、私もを放棄しません」


 年齢も肌の色も性別も信教も――あらゆる違いを超えてMMAの発展に尽くす仲間たちを誇らしげに見回し、人差し指でもって皆に入室を促したイズリアルは、背後のこうれいと己自身の顔をガラス壁に捉えながら先ほど心の中で呟いた言葉を舌の上に乗せた。



                     *



 日本MMAの新たな興行イベントを発表する〝緊急特番〟は、総仕上げとして最後に一本の動画ビデオが挿入されたのだが、そこまで視聴した者の大半が『テンソンコウリン』は急拵ごしらえで底が浅いのではないかと、期待とは正反対の感情を強めた。

 レオニダス・ドス・サントス・タファレルという『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースターを広告塔に据え、他団体を堅実に運用してきたそえもつちかのりや、『あつミヤズ』の専用チャンネルをも巻き込んだ〝生配信〟は確かに熱量だけは画面から溢れるほど高く、視聴者参加のアンケートや出場者募集など閲覧者と双方向で繋がる仕掛けも試みられたが、いずれも中身が伴わない見掛け倒しに過ぎず、クラウドファンディングの成功率を吊り上げると疑う声の数は、SNSソーシャルネットワークサービスでもくだん動画ビデオが始まる前後で明らかに異なっている。

 『MMA日本協会』と結託し、集めた資金を持ち逃げする詐欺であろうと根拠なく断定した人々には同調しなかったものの、『NSB』のイズリアル・モニワも日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する団体の代表として厳しい評価を下していた。


「粗雑乱造などと文句を浴びせながら、有名画家の絵も美しいを組むタイプの人間が『自分だったら遥かに良質な物に出来る』という根拠も節度もない妄想のもと、手に取ってくださったかたにどのように楽しんでいただくのかという根本的な部分を疎かにして、勝手気ままな形状で台紙を切り分けていった品の無さ。持って生まれた創造性を自分の名前を売る為の道具としか考えられない空疎な人間性が歪なピースに余すところなくあらわれている。そして、そのようなジグソーパズルに限ってギネス記録に並ぶような数になる。ただひとつの慰めは『自分だったら遥かに良質な物に出来る』という傲慢さの成れの果てを知らしめる教訓になること。その意味ではPVプロモーションビデオにも意味があります」


 世界のMMAを主導する旗頭イズリアル・モニワから呆れ果てた表情と情け容赦のない痛罵を引き出した事実は動画ビデオを手掛けた者にとってる意味ではであろう。〝本大会〟への〝選手供給源〟も兼ねた〝付属大会〟という位置付けである為、『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークなども流用しているが、通常の興行イベントPVプロモーションビデオ作成を一手に引き受ける映像作家のおもてみねが手掛けたものでないことは、再生開始から数秒で察せられた。

 日本のインディーズ・シーンで伝説のカリスマと名高いパンク・ロックと、一九七〇年代末のギリシャで一瞬の稲妻の如くはげしい光を放ったジャズ・ファンク――種類ジャンルが異なる二組のバンド音楽をえて同時に流すという趣向によって、キリサメ・アマカザリとライサンダー・カツォポリスを巡る数奇な運命を際立たせんとする意図は辛うじて伝わるのだが、二つのナンバーが重なり合って相乗効果を生み出すような調整は施されておらず、緊張感を煽るどころか、単純に耳障りな雑音ノイズと化していた。

 この二曲は『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントで両選手が入場リングインの際に使用するものだ。嶺子であれば、それぞれのナンバーで特に盛り上がる部分であり、なおつ音域が一致する瞬間を巧みに繋ぎ合わせて一本のうねりを生み出すことであろう。

 容易く模倣できない才能と感性の持ち主であればこそ、表木嶺子は国際的な評価を不動のものとしたのである。洋の東西を問わず格闘技・スポーツを愛好するファンの多くは、彼女の〝煽りⅤTR〟が使用されない競技大会を物足りなく感じる程であった。

 挑発的な文言や挑戦的な演出を駆使し、選手と観客の昂揚を極限を突破するほどに引き上げる嶺子の〝煽りVTR〟を露骨あからさまに意識しながら、あらゆる点で似ても似つかない為、くだん動画ビデオからを見透かした人々に二番煎じあるいは猿真似と批判の集中砲火を浴びせられた次第である。まるで示し合わせたかのように「独り善がりの出来損ない」と前置きすることを一人も忘れなかった。

 観客席の拍手や歓声があって初めて完成するという表木嶺子の〝映像設計〟を少しも理解せず、表層的な部分をなぞっただけで模倣にすら至らなかったのだ。日本時間七月四日一八時から開始された〝生配信〟を最後の最後で台無しにしてしまったのは、番組全体の総括という点にいても、これ以上ないくらい似つかわしい末路であろう。


「――今後、が様々な議論を呼ぶことは百も承知の上。自分の姿は〝プロ〟の特権にしがみ付く浅ましいわるきにしか見えないだろう。それでも自分がキリサメ・アマカザリの前に立ちはだかることを決心したのは〝大人〟の責任という一言しかない。そして、この試合たたかいを『天叢雲アメノムラクモ』への最後の遺言と受け取ってもらっても構わない」


 画面越しでさえ纏わり付いてくるような重苦しい空気が口を開く前から垂れ込めていたライサンダー・カツォポリスへのインタビュー映像は、たった一つの咳払いで閲覧者の背筋を伸ばしてしまうほど凄味がある。

 おそらくはギリシャの自宅で特訓トレーニングの合間に収録したのであろう。浅黒く日に焼けた肉体からだを包むどう――パンクラティアストが用いる民族衣装――は、本来は傍目にもゆったりとした着心地が判る物だが、今は大量の汗を吸って肌に張り付いている。全身から立ち上る白い蒸気は神秘的な気魄オーラと錯覚してしまいそうであった。

 パルテノン神殿で過酷な修行を積むスパルタ兵の生まれ変わり――これは『天叢雲アメノムラクモ』のMMA興行イベントで用いられる喧伝だが、その紛らわしい誇張を〝真実〟の如く信じ込んでしまいそうな威容すがたとも言い換えられるあろう。しかし、彼が紡ぐギリシャ語の一言々々に添えられた字幕テロップによって何もかも台無しにされている。

 粗末の二字でしか表しようがなかった。日希両国の言語ことばに通じる専門家が手掛けた字幕ものとは思えず、『ユアセルフ銀幕』に搭載された精度の低い自動翻訳機能のほうが遥かに信用できるというくらいさんなのだ。そればかりか、意味合いが大きく変わってしまうような誤訳を修正もせずに垂れ流す有りさまであった。

 「浅ましいわるき」という字幕が付けられた下りは、実際には「延命措置と思われても仕方がない」と自身の現状を冷静に見極めるような口調で述べており、言葉の選び方一つで印象が大きく変わってしまう実例となっていた。

 〝遺言〟という感傷的な表現によって、あたかも〝次〟が引退試合になるかのような雰囲気を作り出されてしまったが、ライサンダー当人はむしろ日本MMAの四角いリングに留まり、簡単には乗り越えられない壁として若き選手の前に立ち続けようと、前身団体バイオスピリッツの頃から共に戦ってきた古豪ベテランたちに呼びかけている。


「今さら隠すまでもなく自分も故障が多い。完治の見込みがない怪我も抱えている。これで最後の試合たたかいになるとしても、老いた後ろ姿が〝次〟の世代に何らかの教訓を残せるなら悔いはない――少なくとも自分は一試合ごとにその覚悟で闘ってきた。踏み台にされて本望という気持ちも古豪ベテランと呼ばれる選手には必要だろう。かつての我々がそうやって導かれたように、先人から譲られる〝道〟は何時だって次の階梯ステージへと開かれているのだから。MMAを未来へ押し進めることを若い世代に約束するのも〝大人〟の責任だと思う」


 威張り散らして語気を強めるようなこともない静かで誇り高き決意表明は、意味合いそのものを真逆の形に変えられてしまっていた。

 掴んで離すまいとインタビューの中で語ったのは〝プロ〟の競技選手アスリートとしての〝責任〟なのだ。それにも関わらず〝特権〟という一言を字幕テロップで強く打ち出すと、ライサンダーの為人ひととなりを理解していない者、あるいはギリシャの経済危機と彼の発言を結び付ける者の耳に報酬ファイトマネーや既得権益を失いたくないという泣き言のように聞こえてしまうだろう。

 それとも『テンソンコウリン』にけるキリサメとの試合がなる結末を迎えようとも、〝本大会〟である『天叢雲アメノムラクモ』から確実に居場所を奪うという意思のもとで、作為的に発言が捻じ曲げられているのだろうか。

 〝浅ましい胴欲者〟という誤解を振り撒かれたライサンダーの側に風評被害といった実害が生じた場合、『テンソンコウリン』はクラウドファンディングで確保した大会費用をそのまま裁判費用あるいは示談金に転用せざるを得なくなるだろう。訴状の被告人欄は樋口郁郎の名前が記されるかも知れない。いずせにせよ、訴訟を起こされた瞬間に敗訴が確定するくらい悪質な印象操作なのである。



 暗転を挟み、『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英文が水平に駆け抜けたのちに切り替わったもう一種ひとつの映像も、完成度は推し量れるだろう。

 エーゲ海からすみがわまで瞬間移動テレポーテーションしたような形であるが、大写しとなったのは東京都すみづまばし公園であった。

 かつしか・墨田両区を跨ぐ吾妻橋の東岸に位置し、ビール会社の本社ビルに隣接する黄金の炎をかたどったオブジェが周辺で最も目立つ建物である。

 首都高六号むこうじま線の高架下に所在するその公園はビールの泡と見間違える人が少なくない象徴ランドマークを仰ぐような立地であり、指貫オープン・フィンガーグローブに包まれた拳を交える二人の格闘家の鋭い息吹は、おおきな影を切り裂きながら夕焼け間近の空まで駆け上がっていく。

 『天叢雲アメノムラクモ』所属のキリサメ・アマカザリと、『E・Gイラプション・ゲーム』所属の空閑電知である。筋運びによっては小競り合いにまで発展するほど対立が根深いMMA団体と地下格闘技アンダーグラウンド団体の選手同士が文字通りに取っ組み合う構図だ。

 プロレスパンツを穿いた八雲岳と進士藤太が傍らに立って見守っていなければ二人の格闘家による練習の風景とは思えず、路上戦ストリートファイトと誤解した通行人から警察に通報されたことであろう。丁度、せんそうとスカイツリーの中間に位置することから周辺は人も車輛くるまも往来が活発で、鮮やかな朱色に塗装されたらんかんからえて身を乗り出さずとも吾妻橋の上を歩いているだけで公園内の様子は自然と視界に入るのだ。

 その吾妻橋を挟んだ向こう岸――下町情緒を現代いまに留め、平日と休日の区別もなく世界中から訪れる観光客がかみなりもんへと吸い込まれていく賑やかなあさくさが電知の故郷である。

 柔道普及の大志こころざしを胸に秘め、『明治』と呼ばれた時代に海を渡り、全世界の猛者を相手に他流試合を繰り広げた末、〝千戦無敗〟の伝説を築いた前田光世コンデ・コマの技術や、彼が得意とする戦法を古今東西の文献などから甦らせて『世界最強』を目指す電知ではあるが、〝プロ〟として格闘技を生業としている競技選手アスリートではない。

 地下格闘技アンダーグラウンドはあくまでもアマチュアの競技団体に類されており、彼の〝本業〟も大工である。中学校卒業ののち、実家が営む工務店『ぐみ』で働きながら、終業後や休日に黎明期の様式を再現したじゅうどうに替えて『E・Gイラプション・ゲーム』の試合に臨んでいるわけだ。

 この日は施工主の都合でが午後から休みとなっていた。一方の親友キリサメじょうわたマッチとの試合で負った怪我の回復状況を確認する為、浅草に程近いきょうじまやぶ整形外科医院を訪れる予定となっており、訓練トレーニングを共にするべく吾妻橋公園で合流した次第である。

 キリサメの身辺警護ボディーガードを務めるとらすけは学校帰りに落ち合ったが、その頃には隅田川の水面はだいだいいろに染まる範囲が随分と広がっていた。一五時の休憩も設けられた模擬戦スパーリングは黄金のオブジェが陽の光を直下で跳ね返す時間帯から続いており、爆発する火山の紋様ロゴマークを背面に刷り込んだじゅうどうも、『八雲道場』の名称なまえが左胸で猛烈に自己主張している半袖のシャツも、大量の汗を吸って重くなっている。

 うわの袖が肘の辺りまでしかなく、下穿ズボンの裾が膝下九センチ程度と極めて短い電知のじゅうどうは、傍目には四肢に風を受けて爽快な印象だが、どちらも肌に密着する為、内側に籠る熱を逃がしながら適切に水分補給しないと、たちまち熱中症に罹ってしまう。

 はキリサメも同様だ。シャツの袖口は親友のじゅうどうと比べてゆとりがあるものの、胸部から腹部に至るまで全面が汗によって身体からだに張り付き、トレーニングパンツに付着した土埃も泥と化していた。

 汗みずくとなりながら疲労よりも充実感が表情として浮かぶのは、双方にとって確かな成長を噛み締められる特訓トレーニングという何よりの証左であろう。


「友達のデートを覗き見している気分になってきちゃったよ。それとも二人共謀グルでお預けらわせてやろうっていう意地悪? ボクもはかまで来れば良かったなァ~」

「鎌倉ンときみてェに三つ巴で模擬戦スパーリングやろうってかぁ? 今日は普段いつも通りに対ブラジリアン柔術の想定つもりでやってんだから剣道に割り込まれたら稽古になんね~ぜ! 〝空手屋〟にバレて仲間外とか拗ねられても困るしよ!」

しゃもん氏の前にホスト格闘技の選手から苦情が入るんじゃないか? 僕らの複数同時対戦アレがネットで晒し物になった後、『しゃ』という例の友人から今の寅之助と似たような文句を言われたんだよな?」

「おう! 『あんな面白いお祭り騒ぎに誘ってくれないなんて友達甲斐もクソもない』だとかメールでブー垂れてやがったぜ、夜叉美濃アイツ! スラム仕込みなキリサメの喧嘩殺法にもよ、自分てめーの『サバット』が通じるのか試してェって興味津々だったしな!」

「彼が混ざったら模擬戦スパーリングじゃ済まなくなったと思うよ。ボクを本気ガチで潰しに来る姿が目に浮かぶもん。社会の暗部に明るいちょうのホストなんて茶化していたら後頭部を必殺の後ろ回し蹴りパルチザンでカチ割られるもんね。可愛い顔してサメちゃん並みにえげつないからさ」

「……僕を秋葉原で狙ったときみたいに、しゃという選手ひとに〝辻斬り〟を仕掛けて恨みを買ったのが原因なんだろう、それは。電知から聞いているぞ」

「そんなサメちゃんだったら理解わかってくれるでしょ? 電ちゃんが味わった技を全身で感じずにはいられないボクの気持ちをさ。初日に面会謝絶、合計四日の入院期間も土日を挟んだお陰で出席日数が殆ど削られなくて助かったよ」

理解わかりたくもないけど、理解わからざるを得ない程度には理解わかってきたつもりだよ。……寅之助おまえがそこまでの重傷を負わされたのは信じられないけど……」

所属先ホストクラブ用心棒バウンサーみてェなトコもあるからよ、ホスト格闘技の出場者は。しゃも相当な数の修羅場を潜ってきたみてェだし、寅の場合、ようなモンだぜ。エグさじゃ夜叉美濃アイツのほうが一枚上手だったっつうワケだな」


 さんじゅく学園の制服ブレザーを羽織り、両肩の上を水平に通すような恰好で竹刀袋を担ぎながら、吾妻橋公園ここには居ないしゃ――新宿・歌舞伎町で開催されるホスト格闘技の〝最強〟に襲い掛かって半死半生の目に遭わされた日のことを振り返る一方、寅之助は身辺警護ボディーガードの役目にも抜かりがなく、友人二人の取っ組み合いを傷害事件の類いと勘違いした通行人に格闘技の練習トレーニングである旨を説き聞かせていた。

 常識的に振る舞ったかと思えば、模擬戦スパーリングを眺める顔に羨望の一言では表せない〝何か〟を纏わせ、欲求の抑制おさえが効かなくなった途端に竹刀を抜き放って飛び出しそうな気配を漂わせるのも、瀬古谷寅之助という青年おとこである。

 大正から昭和を生き、海を渡った先で体得したフェンシングにいても全米をしんかんさせた日本史上最強の剣士――森寅雄タイガー・モリ奥義わざと、彼が生きた時代の〝古い剣道〟を極めた寅之助のすぐ近くで手持ちハンディカメラを構えるフィリピン出身うまれの男性は、電知のじゅうどうと同じ紋様ロゴマークが入った腹巻を着けていた。

 季節に不似合いな物で連帯を示す通りに、地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』に所属しているパンギリナンだ。同団体の仲間であるひめまさただを鎌倉の自宅へ訪ねた際には電知に同行しなかったものの、今日は模擬戦スパーリングの記録係を引き受けている。

 ギリシャのライサンダーに対するインタビューに続いて挿入された映像は、そのパンギリナンの背中ごとされた物であった。

 競技形態を問わず、興行イベントの直前に選手の『公開練習』を実施する格闘技団体は多い。

 概ね〝上位メインカード〟を任される等級ランクの選手が担当するのだが、模擬戦スパーリングなどの練習風景を文字通りマスメディアに披露し、きたる開催日に向けて機運を高めようというわけである。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行では花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルがその公開練習を引き受け、〝毒蜘蛛タランチュラ伝説〟にもたとえられる寝技の完成度や、『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』の首級くびを狩らんとする大言壮語ビッグマウスもってしてMMAファンを大いに昂揚させていた。

 だが、はあくまでも広報戦略の一環である。試合に向けた取り組みの公開や記者会見など段取りは様々だが、選手・所属団体・報道関係者の間で合意されたものに基づかなければならず、練習する姿へ勝手に取材のカメラを向けることなど断じて許されない。当該興行イベントの出入り禁止措置どころか、裁判にまで発展するほどの問題なのだ。

 画面が前後左右へ不愉快に揺れ、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーが友人と交わしている会話も殆ど聞き取れないその動画は、彼らに気付かれないよう吾妻橋東岸の何処いずこかに潜みながら、携帯電話スマホのカメラ機能で撮影したのであろう。『八雲道場』ひいては統括本部長の許可など得ていないことは火を見るよりも明らかであり、違法性の三字すら浮かび上がる映像ものが垂れ流されている状況であった。

 それなのに隅田川を望む公園の片隅に見入ってしまうのは、キリサメと電知の模擬戦スパーリングが『天叢雲アメノムラクモ』のリングで繰り広げられる〝実戦〟にも匹敵するほど鮮烈である為だ。

 構えファイティングポーズを取らずに両腕をだらりと垂らすという状態を維持したまま電知を見据え、両拳による〝あて〟をかわし続けていたキリサメは、右の五指を真っ直ぐに伸ばしたしゅとうが斜線を描く恰好で振り下ろされようとする瞬間、前傾姿勢へ転じながら大きく踏み込んだ。

 しゅとう動作うごきへ割り込むようにして電知の懐に入るや否や、その胸部に右肩を押し当てつつ沈めていた身を一気に跳ね起こそうと試みる――首の付け根に狙いを定めたあてでキリサメの回避動作を制し、開いていた五指でシャツの襟をすぐさま掴まんとする『コンデ・コマ式の柔道』を先んじて予測した迎撃である。

 長野で繰り広げた路上戦ストリートファイト以来、幾度も拳を交えた電知が打撃と組技を巧みに連ねて攻守を組み立てることを理解していればこそ、その〝流れ〟を断つ奇策も思い浮かぶわけだ。

 電知は五指を繰り出すのに最適な形で右手を開いていたが、前進という運動がそのまま攻撃と一致しているキリサメの場合は、身のこなしが更に小さくて済む。依然として両腕は垂らしたままであり、じゅうどうの襟も帯も掴んでいない。しかし、肩をぶつけた状態で下方から一気に突き上げ、そこに上体を反り返らせるという動作を加えると、親友の身は後方へと放り出されてしまうのだった。

 対する電知の反応も電光石火の一言ではあった。しゅとうに用いていた右手で防御に転じ、掌でもって肩を受け止めることには成功している。すかさず対の五指を繰り出し、トレーニングパンツの上から腰を掴み返そうともしたのだ。キリサメはいずれの動作うごきも体重という利点をもって覆そうとしたわけである。

 他団体の体重別階級制度にいてフェザー級――六五キロ以下――に相当するキリサメよりも更に軽量な電知の足は、拍子抜けするくらい容易く地面から浮かび上がったが、その頭上を飛び越えるような形で放り投げられたわけではなかった。

 直接的な痛手ダメージは軽微と見極め、肩で突き上げられながら当たるに任せたのでもない。噴火の如く作用する〝力〟に逆らわないよう自ら跳ね飛び、急激に上昇する勢いを減殺してみせた。キリサメが上体を反り返らせる頃には姿勢を制御した上で数歩分ばかり後方うしろに飛び退すさっていた。

 正面切って突進されたのであれば、その勢いを逆に利用して肩で投げ飛ばせたことであろう。しかし、現在いまは全身をほぼ垂直に伸ばし、両腕こそ自由でありながら胴を全くの無防備に晒している。電知がを見逃すはずもなく、キリサメの下肢を挟んで薙ぎ倒すべく我が身をその場に放り出しながら左右の足を繰り出した。

 圧倒的な不利にも関わらず、キリサメの顔に焦燥が滲まないのは、電知との攻防を通じて互いの技を検証し合うことが前提となっている為であろう。彼の反応速度を読み誤ったことを反省しつつ、己に迫る反撃については片方の足首のみを刈って転ばせる〝足払い〟に留めておいたほうが別の技への派生にも適していたであろう――と、記録係のパンギリナンが驚いて手持ちハンディカメラを取り落としそうになるくらい冷静に状況を分析していく。

 足首にさえ〝拘束〟を受けていなかったキリサメは下肢のバネを引き絞って垂直に跳ね飛び、蟹のハサミの如く迫る電知の両足をすり抜けるようにしてかわすと跳躍の頂点で全身を水平姿勢に変え、同時に四肢をも開いた。

 眼下の電知は『かにばさみ』が回避されると見越しており、低い体勢を維持したまま左膝を軸に据えて素早く身を捻り、外から内へと閃く右の回し蹴りに変化している。左半身を傾けることによって蹴り足を高く持ち上げ、宙にるキリサメを叩き落とそうとしたのだが、彼の側も両翼を広げる猛禽とりの如き姿勢となっていた為、爪先が顎の辺りを撫でる程度で終わってしまった。

 鎌倉・いなむらさきの浜辺にいて、寅之助ときょういししゃもんを交えて執り行った複数同時対戦バトルロイヤル形式の模擬戦スパーリングでも試みた緊急回避動作が再び功を奏した次第であるが、ほんの一瞬ばかり電知を翻弄できたところで、身のこなしのはやさはとても敵わない。変則的な回し蹴りが失敗に終わっても彼は止まらず、生じた遠心力を利用して素早く横回転し、空中から影を落とすキリサメと向き合うような恰好で我が身を土の上に放り出したのである。

 荒々しい猛禽とりを彷彿とさせるキリサメではあるものの、本当に空を翔けることなど望むべくもなく、落下する先も変えようがない。そして、を変えるつもりもない。戦慄に値する反応のはやさに肌をあわたせたまま、天と地に分かれながら視線を交わす親友の左側頭部目掛けて右拳を横薙ぎに閃かせた。

 命中した一点を軸に据えて姿勢を翻し、拳で押し込む〝力〟の反動と肩や肘のバネを掛け合わせて右腕一本で跳ねることまで計算に入れた打撃だが、背中を地面に着けた状態の電知が素早く身を転がしてかわしたときには、先程の彼に倣うつもりである。

 右腕を振り抜くべく上半身を捻り込んだ勢いに乗って旋回し、再び地上を睨む姿勢を整えた上で電知を踏み付けにしようというわけだ。彼ならば先に体勢を立て直して防御ガードするだろう。る程度は体重を掛けても大怪我には至るまいと確信しているキリサメは、を蹴り付けて電知を飛び越え、『コンデ・コマ式の柔道』による〝捕獲〟が及ばない位置まで逃れようと考えていた。

 地に伏せる白虎とらを猛きばたきが起こした風でもって吹き飛ばさんとする攻撃であるが、拳をくちばしに見立てて直線的に突き込んでいたとしても、おそらくは届かなかったはずだ。

 電知であれば、己に向かって右拳がことなど瞬く間に見破るとキリサメは信じて疑わない。直撃を容易くは許さない勘働きまで計算に入れているからこそ、互いを負傷させないことが前提となる模擬戦スパーリングいて側頭部を狙えたわけだが、相手の真理を読んで裏を掻く奇策ばかり選択肢に増やすと、計算そのものを土台から覆すような正面突破に対してかえって脆くなるものである。

 迫り来る握り拳を命中の寸前まで引き付けた電知は、その手首を左の五指で掴み返し、打撃を阻んだ直後には対の手も繰り出してキリサメの両腕に対する〝捕獲〟を完成させ、身動きそのものを封じ込めてしまった。

 膝を折り曲げつつ足裏でもって鳩尾を蹴り込むという追撃を直感し、盾に代えるべく右足を持ち上げたキリサメであるが、あしの感触が自身のすねへ浸透する直前まえには自分のほうこそ親友の思惑通りにのだと悟った。〝力の作用〟が三点で釣り合う状態で上半身を固められてしまっては、逃れるすべなど見つけようもあるまい。

 『ともえげ』に持ち込んだ形であるが、電知はその状態を維持したまま地獄を駆ける車輪くるまの妖怪の如く周辺あたりを縦横無尽に転げ回り、相手の三半規管に悲鳴を上げさせてから投げ捨てることが多い。今度もキリサメの足が再び公園の土を踏むまで三分近く掛かった。

 背中も硬い地面に幾度となく接触したが、キリサメの反撃を阻んだのは直接的な痛みを伴わない回転性の眩暈症状である。格差社会の最下層で数え切れないほど経験した命の削り合いにいても、このような技で平衡感覚を乱してくる相手と遭遇したおぼえはない。

 眩暈といっても軽度であるから少し休むだけで速やかに収まるのだが、姿勢を整えようとしてよろめいてしまったキリサメに対し、くだんの技を仕掛けた電知の側は今までと同様に二本の足のみで平然と立ち続けている。

 としての活動範囲が拡がれば、重力に逆らう所作うごきや、我が身で遠心力を作り出すような立ち回りも求められることであろう。今後を見据えて三半規管も鍛えなければならない――と、キリサメが己の課題へと即座に意識を切り替えられる思考回路の持ち主でなければ、親友の戦闘能力との差異ちがいを突き付けられて気落ちしたはずである。


が電知の得意技だとあたまでも肉体からだでも理解わかっているのに、何度も同じ状況に陥ってしまうんだから、自分の練習不足を痛感させられるよ……」

「過去にも喰らわせた技を同じ相手にどうやってもう一度決めるかっつう駆け引きも試合運びってモンだしな。おれの柔道とブラジリアン柔術じゃ引き込み方も一緒に出来ねぇけどよ、コレがレオニダスだったら転がされた次の瞬間には寝技に持っていかれちまうぜ」

「サメちゃんの場合は〝虎の子〟の『スーパイ・サーキット』があるんだし、馬乗りマウント状態ポジションから組み敷かれても力ずくで引き剥がせるんじゃないの?」

「寅之助も理解わかってくれているだろう? 異能あんなモノに頼らなくても済むようになりたいんだ」

「段階踏んでいける状況だったら、ボクも理想論を蹴飛ばしたりしないんだけどねぇ。目の前で〝道〟を塞ぐ現実問題は真っ当な手段でどうにか出来るレベルじゃないでしょ」

「だからこそ正攻法にこだわらなきゃならねぇんだろ。……寅の心配は尤もだけどよ。何しろレオニダスの野郎はも悪ィ。やっぱ九月までに何度かしゃとも模擬戦スパーリングやっといたほうが良いぜ。カポエイラとサバットの差異ちがいはあるが、から何が飛んでくるのか読めねェ足技を少しでも味わっとくと、いざっつうときに応用が利くからよ」


 無理矢理に引っ張ったシャツの裾で顔中の汗を拭いつつ今度こそ身を引き起こしたキリサメは、先に立ち上がって呼吸を整えていた電知と向き合い、今し方の攻防で浮き彫りとなった自らの不出来を一つ一つ反省し始めた。

 実際の試合では双方とも足を止めずに追撃や反撃が交錯するが、模擬戦スパーリングとはあくまでも練習トレーニング一種ひとつである。電知の巴投げで宙に放り出されたキリサメが片膝を突きながら着地した時点で一区切りとなり、新たに試みた技の完成度などを検証する時間に切り替わった。

 それが周囲まわりにも伝わったのか、高架下の公園を訪れて模擬戦スパーリングに遭遇した人々から昂奮を感じ取れる拍手が起こった。

 電知や寅之助が生まれ育った浅草は向こう岸であるが、後者のように道場の跡取りとして生をけたわけではない前者にとっては、この吾妻橋公園も幼い頃から柔道の稽古に利用してきた場所の一つである。

 朱色の橋を跨いで暮らす人々からすれば珍しい光景ではない為、キリサメとの取っ組み合いを目にしても新しい練習相手スパーリングパートナーを連れてきたとしか思わないわけだ。公園の脇を抜けていく通行人でさえ気に留めていなかった。

 それ故に寅之助の説明を聞きれ、キリサメと電知の模擬戦スパーリングSNSソーシャルネットワークサービスで晒そうとする者や、携帯電話のカメラ機能を起動させる者は一人も現れなかった。風変わりなじゅうどうの少年に「電知ちゃん」あるいは「電坊」などと親しく呼び掛け、現在いまも彼と友人キリサメが披露した高い次元の攻防を純粋な気持ちで讃えている。

 つまるところ、隠し撮りされた映像は下町の温もりまで踏みにじっているわけだ。電知とキリサメが組み合いながら園内を転がる最中に間近まで迫られ、レンズを向けていることが露見しなかったのは品性を疑う所業に似つかわしくない僥倖さいわいともたとえるべきであろう。

 下劣さは映像自体の品質にもあらわれる。撮影許可を得て記録係パンギリナンのように堂々とカメラを構えていれば、様々な場面を織り交ぜながら起伏に富んだ〝映像作品〟として完成させられたことであろうが、定点観測のように遠くから覗き見するだけではも望めまい。

 しゅとうから始まった流れるような攻防の前には、キリサメのほうが低い姿勢で突進し、身を沈めた状態から一気に飛び上がってプロレス式の後ろ回し蹴りソバットに繋げるという奇襲も試している。電知の側は足裏に狙いを定めた肘打ちを重ね、双方とも反対側へ弾き飛ばされるような一幕もあったのだが、レンズを覗くのが表木嶺子であったなら、一定以上の迫力が約束された画から更なる熱量を引き出したに違いない。

 隅田川を行き来するボートに乗り込み、そこから公園へとカメラを向け、二人の真横をすり抜けながら動的な興奮度の高い場面を撮影したはずである。ビール会社に掛け合って黄金のオブジェが煌めくくろかげいしの建物の一角を借り受け、高所から抉り込むような俯瞰図も実現させたことであろう。

 視聴する者の興味を一瞬で惹き付けられる画を文字通りに見逃しているわけだ。芸能人タレントとしてのレオニダスのファンには平易で退屈、格闘技関係者にはMMAの資料としての価値を損ねる撮り方が残念でならず、双方にとってストレスが溜まる時間であった。

 〝格闘家の日常〟を一層際立たせる下町情緒にも、そのカメラは全く意識を向けていなかった。空閑電知は『天叢雲アメノムラクモ』と敵対する地下格闘技アンダーグラウンド団体の選手であり、本来はじゅうどう紋様ロゴマークすら映すべきではない。キリサメの初陣プロデビューで選手紹介に用いられた〝煽りVTR〟が実例だが、表木嶺子ならば『E・Gイラプション・ゲーム』の気配を編集作業で消し去り、〝二人の格闘家〟を取り巻く風情のみを巧みに掬い上げるのだ。


「魂に火が入る闘いの直後に水を差すような真似はいかんと理解わかってはいるのだが、電知とタファレルでは体格差が余りにも大き過ぎるのではないか? 九月の熊本決戦を想定した猛特訓とはいえ、電知と組み合うことに肉体からだが慣れてしまうと、いざタファレルとあいつ〝本番〟で練習相手スパーリングパートナーと二回りも三回りも違うに惑い、調子を乱され、模擬戦スパーリングで養った感覚がかえってあだになるのではなかろうか?」


 『ハルトマン・プロダクツ』とメーカー名が刷り込まれたストロー付きのウォーターボトルを手渡しながら二人の検証に口を挟んだのは、『NSB』にいて日本人選手の筆頭を務める進士藤太フルメタルサムライだ。

 聞きようによっては、自分と全く同じごくぶとの眉を持つおもてひろたかが策定に携わった練習メニューに否定的な見解を示しているようにも思えるが、寅之助が捏ねるような皮肉の類いではなくMMAの最前線に立つ経験から紡がれた意見であり、それが真っ直ぐに伝わっているからこそ、電知も「心配御無用」と五文字を縦に並べるような仕草と共に真っ白な歯を見せて笑ったのである。


「樋口の宣伝がアホみてーにで『スーパイ・サーキット』ばっかし変な注目のされ方になっちまってるけど、キリサメの本当の強みは柔軟な適応力じゃねェか。意識の外からブン回してくるような喧嘩技だって、がバカ高ェから無法アウトローな環境とか、マジでタマを取られ兼ねねェ状況に応じて次から次へと閃くんじゃねェか。こうしておれたちの前に居ること自体がその証明と一緒だぜ」

「デタラメだもん、サメちゃん。ボクなんか自我の目覚めより早く剣道の〝かた〟を仕込まれてきたから、たまに電ちゃんと一緒で眩しくなっちゃうね。おまけに一度でも喰らった技を限りなく本物に近い水準レベル模倣コピーできるくらい小器用でしょ? くあるべしみたいに凝り固まった〝かた〟にめたりしないで、る程度はに任せたほうが面白いコだよ」

「岳のおっさんからチョクで『超次元プロレス』を継いだ藤太なら、他人ひとの技を借りるっつうのは上っ面だけ動作うごきを真似たんじゃ話にならねェって思考あたまでも肉体からだでも理解んだろ。身のこなし一つ体重移動一つを全体の連動うごきまでナシで分析できなきゃ始まらねェ。おれの親友はよ、思考と感覚と身体能力が理想的な三位一体ってワケだぜ」

「あらゆる条件下で臨機応変に立ち回り、状況に左右されず潜在能力ポテンシャル十全フルに発揮できるキリーの場合、電知との稽古で要点ツボを掴めばタファレルとの体格差も大した問題にはならんというコトか。……余計なお節介どころか、無意味に出しゃばってしまったようだ」

練習トレーニングいて意味のないコトは一つとしてない――僕はそれをMMA選手になって初めて学びました。〝我流〟では意識が向かない部分が多いことも。客観的な視点や第三者の意見を聞き流すようでは自分の不足を洗い出せる見込みすらありません」


 過去にキリサメと闘った経験ことがある電知と寅之助の分析には、彼のけんを刻まれた者のなかにしか芽生えない実感が込められている。痛みも恐ろしさも味わっていればこそ、強さの裏打ちとなる能力やにまで理解が及ぶわけだ。

 本来ならば二人と同程度の鋭さでもってキリサメ・アマカザリというMMA選手に切り込み、その素質がにして花開くのかという青写真を団体内外に向けて報じなければならない『天叢雲アメノムラクモ』ひいては樋口郁郎は、〝客寄せパンダ〟を仕立てることにばかり躍起となっている為、〝初陣でリングを破壊した異能ちから〟といった世間の注目度が高い話題を押し付けがましく触れ回るのみであった。

 絵に描いたような〝上辺だけの喧伝〟を平素から扱き下ろしてきた藤太であるが、電知と寅之助がキリサメとの闘いから感じ取ったモノには右の親指を垂直に立てつつ得心し、頷き返す際にはごくぶとの眉も大真面目に吊り上げている。

 決まり切った様式にめ込むことや、余計な情報をあたまへ詰め込んだことによる思考の硬直化が養子キリサメの喧嘩殺法を損なうという岳の懸念にも通じるわけだが、とは異なる見解を示した藤太に対してもキリサメ当人は耳を傾けており、この不愛想な少年を電知の親友と認識した公園内の人々も、MMAと誠実に向き合う姿勢を拍手でもって讃えた。


わかにも、学ぶことが、多かろうと、思う。これ程の、空中戦の使い手は、自分も、かつて闘ったおぼえが、ない。特に次なる戦いの相手は、〝何〟を仕掛けてくるか、予想が、立たない。常識の範疇から、外れた攻撃を切り抜ける感覚を、養うのに、またとない機会」


 手持ちハンディカメラの小さな液晶画面を覗き込み、先程までの撮影が正常に完了できたことを確認しながらパンギリナンが紡いだ言葉にも、キリサメは電知と揃って首を頷かせた。

 フィリピン出身うまれの彼は中国を拠点として興行イベントを展開させ、アジア圏の選手がつどうMMA団体『りょうざんぱく』に属していたが、紆余曲折を経て日本の地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』に身を置くようになった。現在は完治して試合に臨んでいるが、両目の網膜剝離を患ったことによる成績不振から〝プロ〟として活躍する場を失った――と、キリサメもパンギリナン本人から教わって承知している。

 一度に発する言葉が短いなど日本語にはまだ不慣れであり、生活の基盤を日本に移して何年も経っていないことが察せられるが、古巣の『りょうざんぱく』がここ数年で急激に存在感を増したシンガポールの新興団体――『至輪パンゲア・ラウンド』にアジア圏の選手を奪われてしまった状況を考えれば、パンギリナンにとっても最善のであったのだろう。

 地下格闘技アンダーグラウンドへの転向は言うに及ばず、大工の一員として『ぐみ』で働き始めたのも電知の仲立ちによるものであり、その恩義から一回りも年下である彼のことを〝わか〟と呼んで付き従っているのだった。

 付き合いが短く、顔を合わせた機会もごくわずかではあるものの、キリサメからすればMMAの〝先輩〟であることに変わりはなく、日本国外の団体をる選手の言葉を咀嚼し、血肉と変わるように反芻している。

 そのパンギリナンが「常識など通じず、行動も予想不可能」と苦々しく言い表した次なる〝敵〟とは、電知の対戦相手を直接的に指しているのではなく、『E・Gイラプション・ゲーム』が対抗戦を催す地下格闘技アンダーグラウンド団体――半グレ集団が収入のみを目的として運営し、乱闘や凶器の持ち込みを煽るなど悪評以外を聞かない『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』のことであろう。

 歌舞伎町に端を発し、夜叉美濃が解決に一役買った銃器密造事件の主犯格という嫌疑がくだんの半グレ集団に掛けられているのだ。警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係の情報提供によってを把握したキリサメも、対抗戦自体が中止になることを願っていた。

 先般の事件で密造された銃器は鞄のような日用品に銃弾の発射機構を仕込んだ一種の隠し武器であるが、銃職人ガンスミスでもないが有り合わせの部品で組み立てる手製銃ジップガンとは明らかに性能が別次元であった。猟銃に用いられる散弾どころか、『ハーグ条約』によって〝戦争行為での使用〟を禁じられるほど非人道的なホローポイント弾まで撃発できるという。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手に親しい人間が少なくないキリサメには他人事ではなかった。二つの地下格闘技アンダーグラウンド団体による対抗戦がこのまま開催されたなら、半グレ集団が密造銃を持ち出して親友たちを脅かすかも知れないのである。己の〝半身〟の如く意識するあいかわじんつうなどは、中世のかっせんで編み出された『しょうおうりゅう』を祖先が身を投じたのと同等の死地で研ぎ澄ませる好機とばかりに、我が身を標的まととして差し出すことであろう。

 『NSB』を襲ったテロは興行イベント開催先の駐車場という限定的な範囲が標的となったが、「古くは〝ツッパリ〟と呼ばれた非行少年グループと、暴力団ヤクザの邪悪な部分の掛け合わせた無分別な犯罪者集団」と評した鹿しか刑事の言葉を信じるならば、凶悪極まりない半グレは銃社会であるアメリカ以上に深刻な銃乱射事件を起こし兼ねないのだった。


「待て待て待てやァーッ! おめーらの熱血アツさに感動してる間にオレの台詞がすっかりなくなっちまったじゃね~かよ! レオの野郎に目に物見せてやる〝下剋上マッチ〟に向けてなァ、オレだって息子キリーの闘魂を盛り上げてェんだよォッ!」

あいにくと岳氏の喚き声は間に合っています」

「もっと言ったれ、キリサメ。つか、何ギレだよ、おっさん。幼稚ガキにも限度があんだろ」


 出番をられた自分がどれくらい不貞腐れているのかを表そうと左右の頬を大きく膨らませ、「この人を師と呼ぶことを猛烈に辞めたくなる」と藤太に頭を抱えさせた岳が述べた通り、では、キリサメもその特訓トレーニング支援サポートする人々も、九月に開催される『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行ひいては花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとの一戦のみに焦点を絞っていた。

 総合格闘技MMAのリングで立ち技にこだわり抜くじょうわたマッチと互角の殴り合いを演じたことから〝打撃系選手ストライカー〟という認識が広がっているキリサメも、故郷ペルー貧民街スラムで編み出した喧嘩殺法の中に関節技の類いを含んでいないわけではないが、『蜘蛛スパイダー』の異名で恐れられるほど寝技に長けたレオニダスへ同じ攻め手で勝負を仕掛けることは自滅行為でしかない。

 しかし、それは立ったスタンド状態の試合たたかい維持キープする限り、『蜘蛛スパイダー』の戦闘能力を半分は抑え込めるという意味でもある。だからこそ、ブラジリアン柔術と併せて極めたカポエイラの足技を凌ぎ、絶対に寝転んだグラウンド状態へ持ち込まれない特訓トレーニングに力を注いでいるのだ。

 吾妻橋公園はアスファルトやコンクリートで覆われておらず、地面が剥き出しとなってはいるものの、落下時の衝撃を吸収してくれる砂場は範囲が限られている上、そもそも子どもの遊び場を文字通りに踏みにじるわけにもいかない。勢いよく投げ落とされてしまったなら大小問わず負傷は免れなかった。

 しかも、キリサメの場合は致命傷が想定される形で急降下しようものなら『スーパイ・サーキット』の発動を招き兼ねないのである。

 人間という種を超越する異能ちからは双眸から鮮血が滴るくらい肉体からだに跳ね返る反動が深刻であり、じょうわたマッチとの激闘と同程度の暴走が起きてしまうと九月の熊本興行までに調整が間に合わなくなる。くだんの対抗戦を控えている電知も、試合に支障をきたす大怪我は対戦相手を失望させない為にも断固回避と心得ている。

 何があっても負傷できないという独特の緊張感がみなぎる状況で臨む模擬戦スパーリングは、全神経を研ぎ澄ませ、これを一秒たりとも緩められないの高い特訓トレーニングとなる。る意味にいては自他の負傷を必然と割り切れる〝実戦〟よりも過酷な環境であり、その中で得られるモノはパンギリナンの言葉通りに極めて貴重であった。

 公園内を縦横無尽に動き回るキリサメと電知は、得意な技すら状況に応じて細かく変化させ、あるいは瞬間的な閃きの中で新たな戦法を編み出し、全く同じ攻防など二度と起こり得ないような試合運びを組み立てていく


「――キリサメ・アマカザリに九月は来ない。〝大人〟の責任として自分が食い止める」


 青春という二字を象徴するかのような吾妻橋公園の情景を切り捨てたのは、エーゲ海から隅田川まで渡ってきた重苦しい声だ。

 ライサンダー・カツォポリスに対するインタビューも未だに終わっていなかったわけであるが、高架下の隠し撮りから切り替わって画面に大写しとなったのはギリシャに所在する彼の自宅ではない。鬼貫道明と『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦と同じ四角いリングに二人のMMA選手を迎えた『バイオスピリッツ』の試合映像である。

 指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟が暴かれて崩壊した為、出場全選手の紹介から閉会式クロージングセレモニーに至るまでMMA興行イベントを完全収録するDVDシリーズも廃盤となってしまった『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が風化した記憶の彼方から突如として甦ったのだ。

 それはつまり、日本MMAの黄金時代――〝格闘技バブル〟が最も熱を帯びた時間まで巻き戻ったという意味である。

 肌艶も瞳に湛えた力も、二〇一四年現在の姿とは比較にならないほど若々しいライサンダーが胴周りに贅肉など纏わせていないじょうわたマッチと猛烈極まる打撃の応酬を繰り広げたのは、二〇〇二年初夏にさいたま市の多目的アリーナで開催された興行イベントであった。

 試合を大きく動かしたのはライサンダー・カツォポリスである。互いの胸部を同時にち合うという拳の交錯を経て、じょうわたマッチの懐に潜り込んで組み付かんとしたのだが、そのように見せ掛けておいて、彼の鼻先をすり抜けるかのように、肘が折り畳まれた状態の右腕を水平に往復させたのである。

 二段式の肘打ちだ。外から内へと閃く一撃目を死角から滑り込ませ、を振り抜いた〝先〟からすかさず逆回転の二撃目を繰り出す――左右のこめかみを瞬く間に狙い撃ち、脳を揺さぶる連続攻撃の切れ味は、『あつミヤズ』の悪口を完全に封じるほど鋭い。

 ヒサシのように前方へと突き出したリーゼント頭――正確にはポンパドール――が反り返り、己の頭蓋骨が軋む音を聞かされたじょうわたであるが、獰猛な瞳は一瞬たりとも標的を逃さず、追撃の拳でもって胴を抉らんとするライサンダーの動作うごきも見極めている。

 ボディーブローで相手の身動きを制した直後、片側の足首を払ってマットに転がし、肋骨を砕く蹴りや鳩尾目掛けて垂直落下させる鉄拳パウンドによって起き上がらんとする力を奪った上で寝技に持ち込むのだ。別の試合では肘関節を極めて降参ギブアップを引き出したが、頑強な選手と相対するときには無理に転がさず、立ったスタンド状態で仕掛ける関節技で肩を攻め、骨をし折って戦闘不能に追い込むこともあった。

 パンクラチオンを近代の〝総合格闘〟として体系化したのはギリシャに起源ルーツを持つアメリカ人であり、一九七一年にマサチューセッツ州ボストンで最初の道場アカデミーが開かれた。

 だが、ライサンダーが極めたのは安全化が施された〝格闘競技スポーツ〟のそれとは違う。〝ギリシャ世界〟にける最強と名高いスパルタの戦士も体得したとしてのパンクラチオンである。禁じられたのは目潰しと噛み付きのみであり、古代の試合では当たり前のように人命が失われた。


「……城渡おまえの誇りと美学は称賛に値するが、我々がやっているのは総合格闘技MMAだ」


 ギリシャの言語ことばで静かに呟くライサンダーの瞳は、両腕で捉えた相手の首を絞め落とすのではなく、その骨を感情も昂らせずにし折れる人間のモノであった。半神半人の猛き勇者・ヘラクレスと、ミノタウロス退治のテセウスなど神話の英雄にまで遡る古代の奥義わざが苛烈な〝本性〟を剥き出しにしようとしている。

 腕を破壊されては〝打撃番長〟の名折れとなる為、じょうわたは大きく傾いだ状態から上半身のバネを無理矢理に引っ張り出し、リーゼント頭の形状かたちが崩れるのも構わずに弓弦で弾かれたような頭突きでに転じた。


「ギリシャ語はちんぷんかんぷんだが、使は万国共通だろうがァッ!」


 日本MMAが誇る〝石頭〟を不意打ち気味にぶつけられたライサンダーは、今まさに腹部へ突き立てんとしていた左拳ごと弾き飛ばされて危うく卒倒しそうになったが、リングを踏み締める両足から力がけることはなく、続けざまに振り下ろされた〝ゲンコツ〟をかわすとじょうわたの背後へ即座に回り込んで見せた。

 剛速球を放たんとする大リーグの投手ピッチャーのように右足一本を軸に据えて立ち、爪先が頭上に達するほど高く持ち上げた左足で猛烈に踏み込みながら、大きく仰け反らせていた上半身のバネを解き放って握り拳ゲンコツを急降下させる城渡マッチの必殺技だ。

 これより一二年後にキリサメ・アマカザリへ放った際には、体力が底を突きかけていたこともあって直撃された側が哀しくなるくらい威力がなかった。しかし、黄金時代の〝打撃番長〟は桁外れの迫力だ。本来の標的から外れてリングを叩くのみとなったが、天井を突き破って隕石が落下してきたと観客の誰もが本気で錯覚したのである。

 ライサンダーから距離を取るべくじょうわたが跳ね飛んだのは、リングの軋む音が鼓膜へ吸い込まれるよりも早かった。その最中に素早く振り返り、背筋が凍り付くようなはやさで追いすがってくる相手選手ライサンダーの腹部を右足裏でもって蹴り付けた。

 己の首に巻き付こうとしていた腕ごとライサンダーを引き剥がしたわけだが、じょうわたは着地と同時に正面切って再び突進し、マットを滑るようにして左足で踏み込みながら対の足で下段蹴りローキックを繰り出していく。

 この時点でライサンダーも次なる攻撃へ移っていた為、リングの〝外〟から試合を見守る人々にじょうわたの右下段蹴りローキックは〝追撃〟と〝迎撃〟のどちらとも判別が付かなかったことであろう。伝説のスパルタ兵にもたとえられたギリシャ出身うまれ格闘家パンクラティアストだけに大きな打撃音と共に左脛を軋まされても全く動じず、己の右足を高々と持ち上げる姿勢も崩さなかった。

 じょうわたが蹴り足を引き戻す前にはライサンダーのほうが折り畳んだ状態から右膝のバネを解き放ち、足裏でもって彼の鳩尾を抉った。傍目には同じ技で報復したように見えたことであろうが、相手の動作うごきを制して自分から遠ざけることが目的であった前者の前蹴りに対して、後者が繰り出したのは内臓にまで威力を通すである。角度を付けて突き入れるような蹴りであり、術理自体が全く異なるのだった。

 このとき、ライサンダーは左足一本でライトヘビー級の体重を支えながら全身を傾け、じょうわたから顔面に対する警戒を引き出すくらい蹴り足の位置も高くなっていた。それに誘導されて鼻を折られまいと防御ガードも高く持ち上げたことがじょうわたの仇となったわけだ。

 両の下腕による防御ガードをすり抜けるようにして、足の付け根辺りで人体急所の一つを狙撃されたじょうわたは、洩れ出す呻き声が抑えられなかったが、下肢に込めた力はリングに根を張るかのように強く、胃が捩じれそうな激痛いたみに耐えてその場に踏み留まった末、完全に伸び切る前にライサンダーの蹴り足を押し止めてしまった。


「上等だ! 真剣マジの喧嘩を――おとこの生きざまっつーモンを〝戦闘民族スパルタン〟に教えたらァッ!」


 次の瞬間には左の五指でもってライサンダーの首の付け根辺りを掴み、対の拳を顔面に叩き込んだ。大仰と思えるほど血飛沫が舞ったのは、この一撃で鼻骨がひしゃげた為である。

 至近距離から反撃の拳を喰らわされたじょうわたも似たような状態ものだ。痛手ダメージを与えた代償に左頬を陥没させられるなど、互いをち合うたびに頭部のかが悲鳴を上げる壮絶な展開となった。改めてつまびらかとするまでもないだろうが、リーゼント頭が原形を留めなくなっても本人は血だらけの歯を食いしばって決して倒れない。

 マウスピースで防護されていなければ、上顎うえの前歯が何本も折れてマット上に転がったことが容易に想像できる〝力〟と〝力〟の応酬は、「MMAはKO勝負でなければ面白くない」というじょうわたの信念を表しているようであった。

 二人揃って立ったスタンド状態を維持したまま、リングの中央で防御ガードも捨てて顔面を壊し合う姿に観客は度肝を抜かれ、その興行イベントで最大級の歓声を爆発させた。〝喧嘩番長〟とパンクラティアストが相対する前は判定に勝敗を委ねる試合が続き、観客席を包む空気もんでいたのだ。剥き出しの暴力性に酔いれるような昂奮は、停滞感の反動というわけである。

 二〇〇〇年代に入って脳の損傷ダメージに関する研究が前進し、かつてボクシングのみに限定されると認識され、それ故に〝パンチドランカー〟と呼称されていた『慢性外傷性脳症』があらゆる接触競技コンタクトスポーツにも共通する神経変性疾患タウオパチーと提唱された為、例えばサッカーにけるヘディングの年齢制限にも繋がったものの、が広く一般に浸透するまでには相当な歳月を待たなくてはならず、黄金時代の日本MMAでは「頑丈な〝石頭〟なら幾ら衝撃を受けても平気」といった頭部外傷への無理解が特に問題視されていなかった。

 〝リン酸化したタウタンパク質の沈着を原因とする神経原線維変化〟というスポーツ医学の知識を持つ二〇一〇年代のレフェリーであれば、に割って入って制止したかも知れないが、二〇〇三年の日本MMAは「格闘たたかいに生き、格闘たたかいに死す」ともたとえるべき〝くにたち漫画〟のがリングで持てはやされていた。

 二〇一四年の自宅ギリシャと全盛期の日本リング――およそ一〇年という歳月が間に横たわるライサンダーは、そのどちらでもパンクラティアストの民族衣装を纏っている。

 声にさえ疲れと老いが滲んだインタビューに前身団体バイオスピリッツの試合映像を重ねるという対比の演出は、古豪ベテランと呼ばれるようになったこんにちの戦績不審を『あつミヤズ』が先程までの〝生配信〟でも執拗に侮辱したことを踏まえると、金属ボルトが埋め込まれた両足を無理矢理に動かして闘う現在いまの姿をみすぼらしい衰えとして強調せんとする悪意以外を感じないのだ。

 日本MMAの黄金時代を築き、これを支えた功労者ライサンダーに対する感謝も敬意も欠き、パンクラティアストとしての実績をことごとく貶めんとする意図に基づく映像であればこそ、イズリアル・モニワも軽蔑の念を剥き出しにしたのである。

 映像のとしても粗雑の一言である。日本で地上波デジタル放送の導入が本格化し始めたのは二〇〇三年一二月であり、ライサンダーとじょうわたマッチが〝根性レース〟さながらのぶつかり合いで興行イベント会場を沸かせた同年初夏の試合は、アナログ放送で生中継されていた。十余年という歳月で隔てられた二種ふたつの映像は大きさ自体が異なるのだが、を調整も施さず交互に繋げた収まりの悪さも、閲覧者から没入感を奪い取っていた。


「……この手で初めて人を殺したのは、キリサメ・アマカザリと同じくらいの年齢としの頃。パンクラチオンの試合中に――だから、る種の実感としてのだ。〝最年少選手〟などと祭り上げられている内に、彼は自分と同じ過ちを『天叢雲アメノムラクモ』で犯す。必ずな。自分自身、今では〝そのとき〟の年齢よりも上の子どもを持っている。父と同様の罪でけがれたリングを我が娘に見せられると思うか? を阻止するのも親の覚悟と心得ている」


 一向に見苦しさが改善されない映像でありながら、一斉に閲覧者たちを前のめりにさせたのは、二〇一四年現在のライサンダーが絞り出した一言と、これを訳した字幕の内容が虚飾に彩られた〝緊急特番〟の締め括りには不釣り合いなほど重々しい為である。

 が目当てという格闘技全般に関心の薄い者や、インターネット上で公開されている百科事典でも意図的に省かれているパンクラティアストとしての経歴を知らない者など、これ以上は観ておくべき内容もないと判断して〝生配信〟から退出しようと思っていた人々を引き締めた殺人経験の告白は、じょうわたマッチの鉄拳を幾度も叩き込まれてあおあざだらけとなった顔に重ねられた。


「このまま九月の試合を迎えれば、彼自身にとって不幸な結果となり兼ねない。前途有望な〝最年少選手〟が自分と同じ過ちを犯す危険性リスクがあるのなら、持てる力の限りを尽くして暴走を止めなくてはいけない。自分がパンクラチオンの試合で良き友人の命を奪ってしまった年齢は、現在いまのキリサメ・アマカザリと大して変わらない。〝そのとき〟の年齢を超える娘を持つようになった今日まで、何十年も〝罪の十字架〟を背負い続ける自分が伝えられることもあるはず。人の親だからこそ〝大人〟の責任を心得ているつもりだ」


 過激さを押し出しさえすれば耳目を集められるという小賢しさで編集された前身団体バイオスピリッツの試合映像は、作為を疑われるほど誤訳だらけの字幕と、二〇一四年のライサンダーが自らの口で紡ぐ内容との著しい乖離を一層際立たせていた。



 『ユアセルフ銀幕』の画面が再び高架下の吾妻橋公園に切り替わったとき、八雲岳と進士藤太の師弟ふたりは、かつての所属先――異種格闘技戦を繰り広げた『新鬼道プロレス』にける練習トレーニングのように地面を転がりながら互いに極技サブミッションを掛け合っていた。

 二人ともプロレスパンツのみを穿き、剥き出しの上半身を泥だらけにしている為、傍目には本当に実戦志向ストロングスタイルの〝極めっこ〟に興じているようにしか見えないのだ。


「仰向けの電知に空中から変則的なフックを見舞うのもわるかねぇがよ、そうと見せ掛けといて急降下肘打ちエルボードロップに変化したほうが〝フェイント殺法〟――いやさ、『パルヘリオン・マニューバ』の稽古になるだろうが! 文字通りの空戦機動マニューバリングっぽくてカッコいいぜ!」

「それでは余計な動作うごきが増え過ぎ、相手に見切りの機会チャンスを与えるばかりと申し上げておるのです! ましてや対ブラジリアン柔術の特訓トレーニングではありませんか! 『蜘蛛スパイダー』が張った巣に自ら飛び込む愚策がどんな結果を招くのか、電知が教えてくれたばかりでは⁉ 『NSB』ならば金網ケイジを蹴って落下の地点や速度まで引っ掛けフェイントに利用できますが、『天叢雲アメノムラクモ』のリングで同じ真似は出来んでしょうに!」

「この野郎、藤太! ヒリつく状況にェから飛び込む度胸で勝負っつう『超次元プロレス』のキモを忘れやがったんじゃねーだろうな⁉ 元気があればやらいでかァッ!」


 喚き声から察するに、キリサメ・アマカザリの指導方針で意見をたがえた様子である。

 水分補給を済ませて電知との模擬戦スパーリングを再開したキリサメは〝大人〟にあるまじき幼稚な喧嘩には一瞥もくれず、二度三度と準備運動のように右手首を回転させたのち動作うごき目的ねらいも容易く見破られてしまうくらい大振りに同じ側の拳を振り抜いた。

 踏み込みと共に全身を捻り、螺旋の如き運動によって生じた全ての〝力〟を拳の先まで伝達させて撃ち放つ切り札――直撃の瞬間に爆発的な破壊力を生み出し、相手の身を隅田川までね飛ばしても不思議ではない『コークスクリューフック』である。

 せんの力を加えながら横薙ぎに唸る拳が側頭部に触れる寸前まで引き付けて半歩ばかり退すさった電知は、轟々と風が切り裂かれていく音を耳で聞きながら左の五指を繰り出してキリサメのシャツの襟を掴み、を握り込む動作うごきと合わせて己の重心を垂直落下させた。

 下方へと一気に働く〝力の作用〟に、緊急回避を試みようとする肉体からだの反応を押し止められたキリサメの顔に差す影は、迫り来る反撃の拳が作り出したものである。

 コークスクリューフックに用いた腕で素早く防御ガードに転じ、握り拳によるあてを凌いだキリサメであるが、電知の側はすかさず右腕を引き戻し、これに続けて左の五指による〝捕獲〟を解いていないキリサメの襟を自身のほうへと引き寄せた。

 両腕の動作うごきが入れ違うかのようであるが、強制的に前傾姿勢へ変えられてしまったキリサメの顔面に再び狙いを定め、電知の右拳が先程の軌道をなぞった。同じ拳を立て続けに突き入れる二連撃は最速最短で身のこなしを完了させたものの、既に防御ガードを固めている側からすれば、これほど反応しやすいものはない。

 果たして、二撃目のあても右下腕で防がれてしまった。尤も、電知自身はが最初から目的ねらいであったのだろう。キリサメは立て続けに拳を突き込まれた部位の〝先〟――腕の芯にも鋭い痛みが走ったことに思わず首を傾げた。やや姿勢は崩していたものの、防御ガード自体は万全であり、威力を十分に軽減させたにも関わらず、直接的にたれた部位から離れた場所に違和感を覚えた次第である。


はサメちゃんの判断ミスでしょ。大きく踏み込むときに電ちゃんの爪先だけでも下敷きにしておけば、ブン殴ったときに働く慣性の法則で全身をブン回されて、地面にしたたか叩き付けられて失神ノックアウト一直線まっしぐらだったね」

模擬戦スパーリングでそんなに危険な真似なんか出来っこないだろう。『天叢雲アメノムラクモ』のルールでも反則だよ。電知のほうは鎌倉以来、全く同じ部位ところに二回続けてあてを重ねることが増えているよな。もその練習なんだろう?」

「完成を楽しみに待ってなね、サメちゃん。スクリュー気味のフックにも引けを取らない新技がキミに牙を剥くと思うよ? その前にボクがしちゃうけどね!」

おめーが答えんなっつ~の! でもよ、コイツの言う通り、キリサメをガッカリはさせる技にはならねぇぜ! おれ自身、どこまで極められるか、ワクワクが止まんねーんだッ!」


 休憩を挟む前の模擬戦スパーリングでは『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手レオニダスとの試合に向けたキリサメの特訓トレーニングを電知が手助けしたが、今度はその役割を交替したわけだ。

 軸足から腰へと連動的に回転を加え、拳が横薙ぎの軌道を描く寸前に肩・肘・手首に至るまで腕全体を内側へ捻り込んで攻撃力を撥ね上げる為、コルク抜きになぞらえる技名なまえが付いたキリサメの切り札には、路上戦ストリートファイトで意識を刈られた苦々しい想い出もあるのだが、電知は螺旋の力に対する恐怖心トラウマの克服を頼んだわけではない。

 キリサメが指摘した〝新技〟の要点コツをより深く掴む為、一撃必殺の威力を作り出す為に動作うごきが大きくなるコークスクリューフックを打ち込んでもらったのだ。

 あてと組技を連ねていく『コンデ・コマ式の柔道』に攻守が目まぐるしく入れ替わる状況下で今し方の〝新技〟を組み込めるようになれば、電知の戦闘能力は一段も二段も飛躍することであろう。


「二連撃の間に、発生する時間差タイムラグを、掴んだ襟を引っ張って、埋めるという若の発想は、悪くないと、思います。ただ自分の目には、あてあてに、別の動作を、一つ挟んだことによって、連動するべき繋がりが、逆に邪魔されたみたいに、見えなくもないです」

「ありがとな、パンギリナン。やっぱ歯車の噛み合わせがモタついた感じだわなァ。相手のたいには有効アリだけど、小細工抜きでおれ自身がもっともっとはやくならなけりゃ〝本命〟のほうがキマり切らねぇぜ!」


 防御ガードの上から衝撃を押し込まれたとしか表しようのない不思議なあての余韻が残る右下腕を対の手で撫でるキリサメは、パンギリナンが撮影していた映像を再生して改善すべき点を洗い出していく電知を見つめ、自分もこの親友に恥ずかしくない試合たたかいをしなければならないと表情を引き締めた。

 これを冷やかすような寅之助の口笛も、未だに足元で組み合っている岳と藤太の聞き苦しい喚き声も、右耳から入って左耳へと素通りさせている。


八雲岳ガク・ヤクモを監督不行き届きと責めはしない。前回の試合を振り返れば一目瞭然だが、キリサメ・アマカザリには『格闘技は殺人ひとごろしの道具』という認識を改める気がなさそうだ。周囲まわりの〝大人〟が説得しても耳を貸さないのだろう。おごたかぶる〝死神スーパイ〟にMMAの未来など任せられるか。数多の修羅場を戦い抜いた〝戦闘民族スパルタン〟の誇りに懸けて、我々が前身団体バイオスピリッツの時代から切り開いてきた〝道〟は譲らない。旧友の恩をあだで返すこのけんは、その息子の血で濡れることだろう。叩き上げの世代との力の差を見せ付けてやる」

「厳しく聞こえるかも知れないが、現状のキリサメ・アマカザリは『格闘技は殺人ひとごろしの道具ではない』と教え諭すことを周囲まわりの〝大人〟が放棄している状況だろう。その責任つとめを引き受けたいと決心したのは旧友――八雲岳ガク・ヤクモへの恩返しでもあるが、何よりもず未来を生きる世代により多くの選択肢を約束する為だ。前身団体バイオスピリッツの時代から〝戦闘民族スパルタン〟などと呼ばれてきた自分と彼は違う。ふるい世代と同じ〝道〟など選ばずとも構わないのだと、この血塗れのけんで伝えるのが我が使命。そのように信じている」


 格差社会の最下層で殺傷ひとごろしの技を数え切れないほど編み出しながら、それをMMAのルールに適応し得る形で磨き直しているキリサメと、格闘技にける殺人ひとごろしの〝十字架〟を語るライサンダーが真っ二つに割れた画面の左右にそれぞれ映し出された。

 画面左側――ギリシャの言語ことばを紡ぐライサンダーに添えられた日本語の字幕は最後まで正常まともな仕事をせず、〝緊急特番〟を視聴した何割かは生真面目にも一定の姿勢を崩さない彼の為人ひととなり挑発的な悪口トラッシュトークばかりが上手くなったと誤解したことであろう。

 〝ペルーの死神スーパイ〟と〝ギリシャの戦闘民族スパルタン〟という韻を踏むような〝挑戦者決定戦〟を『テンソンコウリン』の開催に向けて盛り上げる広報戦略とはいえ、格闘家に対する敬意がとうとう一秒も感じられなかった映像である。

 ギリシャはキリスト教正教徒の国家くにだ。自身の背負う殺人経験を〝罪の十字架〟にたとえる男が〝修羅場〟という仏教由来の言葉を選ぶはずもなく、これを傍証として挙げてもライサンダーの発言を正しく伝えさせないという意思が働いていることは明らかであった。



                     *



 クラウドファンディングの入金先と、これを指差す花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルが大写しとなったところで日本MMAの新しい興行イベント――『テンソンコウリン』の発表に関する〝生配信〟は終了した。

 底抜けに陽気なアフロ頭でライサンダーの重苦しい告白との温度差を際立たせたいという演出であろうが、閲覧者の財布の紐を緩めようとする意図が露骨であり、に〝緊急特番〟の〝全て〟が集約されていた。


「――本当ホンマうなってもうたンは『天叢雲アメノムラクモ』の未来さきちゃうで、ライサンダーオレの〝後輩〟の九月ともちゃう。日本の格闘技自体が愉快おもろないねん」


 携帯電話スマホの液晶画面を覗き込みながら醜悪な〝緊急特番〟に文句を垂れた人間は多かろうが、コーヒー豆のように小粒な双眸に『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターを映す〝彼〟が感情の乾いた声で吐き捨てた言葉は極めて独特であった。

 独特というよりも異様と表すべきであろうが、その二字は〝彼〟のる場にこそ最も相応しい。〝何か〟をホルマリン漬けにしていた物とおぼしきガラスの標本瓶で埋め尽くされた中央にて携帯電話スマホを操作しているのだ。壺のように大きくて分厚いはいずれもからであり、簡単には削ぎ落せないと一目で察せられる汚れが内にも外にもこびり付いていた。

 せ返るくらいカビ臭い畳敷きの和室の片隅には、の布団一式が畳んだ状態で置いてあるが、何年も寝具の役割を果たしていないことは明確な色を挙げがたい汚れからも察せられた。水道は言うに及ばず電気も止められている為、今にも落ちてきそうな天井から丸裸の状態で吊り下げられた白熱電球も役に立たない。

 暗闇の只中にて携帯電話スマホ照明あかりが浮かび上がらせたのは、毒々しい色合いのシミが細かく飛び散った脂肪の塊に目鼻がへばり付いているとしか表しようのない顔と、化学反応が規則性なく入り混じるドブ川のような色合いのモヒカンである。

 内側に詰めた〝何か〟の正体など分かったものではない葉巻の紫煙けむりに燻されながらも、血の色が極端に薄い唇の真上で燃え上がるような光を反射させているのは、いびつに潰れた団子鼻のあなを鼻輪のように貫く指輪の柘榴石ガーネットだ。

 両頬などは頬袋を持つ動物のように膨らみ、だらしなく垂れ下がっているものだから、何本かが長く飛び出した無精髭だらけの顎と首の境い目も分からない。これらに三方から圧迫され、四六時中、くされて窄めているように見えるくらい小さくなった口が日本格闘技界の未来を無感情に切り捨てたのである。

 んでいた紫煙も一緒に吐き出されたが、その勢いは酷く気怠げであり、否定という強い言葉を発しておきながら激しくもくらい想念を込めている様子ではない。〝彼〟という存在に怯えすら抱き、現在の拠点シンガポールでの動向にも警戒心を抑えられない『MMA日本協会』による〝復讐鬼〟という想定を根底から覆すような姿とも言い換えられるだろう。

 一〇〇キロを優に超える体重を受け止めて抜けずにいる床に感心してしまうが、野ざらしの死体にへばり付く苔に近い碧血みどりのラバー生地で仕立てたジャケットは、はち切れんばかりの贅肉を強引に押さえ付けるハムの料理糸のようなものであり、伸縮性に富んでいなければぐらという現在の姿勢に一秒も耐えられなかったはずだ。

 有史以来、最も愛嬌のない大熊猫ジャイアントパンダ――それ以外にたとえる言葉が見つからない〝彼〟は、築一〇〇年近い朽ちかけた物置でガラス容器の整理に勤しんでいるわけではない。その建物はかつて助産院の施設であった。

 雨風に吹き晒されて殆ど消えかけているが、『昭和』――とりわけ戦後間もなくの混乱期をる人間は、正面玄関の看板に神経質な筆致で墨書された『かささんいん』という名称を読み取った瞬間に心臓が凍り付くことであろう。

 と同時に未だ取り壊されていない〝事実〟を理解できず、口を開け広げたまま首を傾げるはずだ。母子を守る法制度が不十分であった時代に金銭目的の〝もら殺人事件〟が起きた現場であった。

 事件発生当時に警察の押収を免れたのか、あるいは裏帳簿と同等の扱いで隠匿かくされていたのか。ふすまが取り外された押入れには診療録に該当する書類が乱雑に放り込まれている。

 その内の一枚が床に落ちたまま放置されているが、殴り書きのように記してあるのは三桁と超える〝何らかの番号〟と出生日時である。母子にとって大切な記録であることを理解できていない筆致で添えられた身長と体重の数値から察するに、一九四七年八月に『かさ産院』へたくされた男の子は、現代いまで言うちょうていしゅっせいたいじゅうであったようだ。

 それ以外の情報は一つもない。出生地も両親の正体も分からないのは、子を設けた〝事実〟すら闇に葬らなければならない〝事情〟がある為であった。同様の新生児が多額の養育費と共に特別産院へ引き取られたのち、満足に食事も与えられず命を落とした――それが明治から昭和中期に掛けて日本で多発した〝もら殺人事件〟である。

 新生児が育てられることもなく生き埋めにされ、命を奪われても血を分けた我が子としていない実親は無関心――吐き気を催す事例ばかりだが、関西のる裏路地で蔦に覆われている『かさ産院』でも一九四〇年代半ばに大量殺人事件が起きてしまったわけだ。

 鬼畜と罵倒しても足りない凶悪犯たちの逮捕に伴って助産院の資格も消滅し、くさむらの向こうに佇む建物は誰の目にも廃墟であることが明らかであったが、法整備さえ間に合っていれば助かったであろう一〇〇を超える怨霊のみ処として近隣住民も忌避しており、平成が四半世紀を超えた現在も触れざる〝闇〟の如く打ち捨てられている。

 二〇〇〇年代半ばに『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が崩壊したのち、樋口郁郎の情報工作によって日本格闘技界から存在自体が抹殺され、数年に亘って消息不明となっていた〝彼〟も、この産院と同じ『かさ』という家名なまえを称して日本MMAのリングに挑んでいた。

 薬品や血を吸ったとしか思えないいろの古びた包帯に覆われた両手で携帯電話スマホを操作し、今し方の〝緊急特番〟を取り上げるネットニュースに接続アクセスする〝彼〟――『かさいるる』は、昔日かつての拠点にちなんだ『おんの雑草魂』という通称の他に、『バイオスピリッツ』の広報戦略として〝最年少選手〟とも呼ばれていた。

 感情の働きが読み取りにくいほど薄い眉を僅かとて動かさない大熊猫ジャイアントパンダの視線の先にるのは、まぶたを半ばまで閉ざしながら瞳に強い光を宿した『天叢雲アメノムラクモ』の〝最年少選手〟が風変わりなじゅうどう姿の少年と模擬戦スパーリングに興じる写真であった。

 ネットニュースの最上部には今日の昼から夕方に掛けて京都・おん界隈で起きた連続殺人事件の続報も表示されている。きよみずでら付近ので発生したものこそが〝第一の事件〟であったようだ。頭部が散弾で吹き飛ばされた射殺体を店舗二階の倉庫で発見したのは被害者の家族だが、日常生活の目と鼻の先で銃による凶悪犯罪が発生することなど〝銃社会でもない日本〟では想像できないのだから、何処いずこからか聞こえてきた破裂音のような〝何か〟をスプレー缶の処理と決め付け、気に留めなかった近隣住民は責められまい。

 通称の由来となるほど縁の深い古巣がよりにもよっておんまつりの最中に夥しい量の血でけがされたというのに、そちらに対する興味は様子だ。容疑者の手掛かりを一つとして掴めないまま京都府警は立て続けに〝銃殺事件〟を許してしまったが、大熊猫ジャイアントパンダの無関心はを把握している人間の態度のように見えなくもない。

 司法解剖によっておん界隈の射殺体よりも武道具店で発見された物のほうが死後硬直は随分と早く始まっていたと判明するのはだが、〝彼〟はきよみずでら付近で〝第一の事件〟が起こることも知っていたのではないか。

 しかし、〝彼〟自身は「計画通り」などと勝ち誇る様子でもない。そもそもコーヒー豆のような瞳に銃殺事件の続報すら映していない。感情どころか、存在自体が。別々の場所で射殺された二人の被害者の間に直接的な接点はないが、一つの明確な〝共通点〟があり、これに気付いた〝世界〟が絶望の二字こそ似つかわしい恐怖に震え上がろうとも口の端など吊り上げず、狂わんばかりの悲鳴すら空虚うつろに通り過ぎるのみであろう。


「おしやす、地獄の


 ラバージャケットは肩や胸部、胴体など至るところに装甲板の如く金属片が縫い付けらており、光の反射によっては大熊猫ジャイアントパンダの模様のように見えなくもなかった。背面にも同様の装飾が施されている。舞い上がることも叶わないのに広げられた片翼の骨だ。

 地べたに転がった脳味噌へ肘に当たる部位が突き刺さり、そこに繊維の根を張った不気味な意匠には「病魔を崇めよ」という悪魔信仰の如き英文まで添えられていた。あるいはもって己の存在ことを〝死を弄ぶ天使モービッドエンジェル〟と知らしめんとする意図であろうか。

 MMA選手であった時代の自分と同じく〝最年少選手〟の呼び名を樋口郁郎から与えられたキリサメ・アマカザリの顔を飽きもせず眺め続けるかさいるるは、小さな口に咥えた葉巻から崩れ落ちていく灰が畳に真っ黒な焦げ目を作っていることにも気付いていない。

 人間という種を超越する『スーパイ・サーキット』と、こうの〝闇〟より現出あらわれた〝どくしゅ〟の流れを汲む『りゅうみょうけん』――世代は異なるものの、共に日本MMAで〝最年少選手〟と呼ばれ、殺傷ひとごろしすべを〝格闘競技スポーツ〟の為に整えてとしたキリサメ・アマカザリとかさいるる。〝無冠の王〟たるガレオンの宿命さだめとも絡まりゆく二人の戦いは、鎮魂の祭礼が銃でけがされた日に火蓋が切られたのだと、のちの格闘技史に刻まれている。



                                       (続く)


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