スーパイ・サーキット
その9:ドグマ・七月四日(二)~プロアスリートの労働者性と格闘技の法規制――150年目の池田屋事件・祇園祭連続銃殺事件/北の魔王の宮殿にて・【エス】の深淵/2014年サッカーワールドカップ・毒手暗躍
その9:ドグマ・七月四日(二)~プロアスリートの労働者性と格闘技の法規制――150年目の池田屋事件・祇園祭連続銃殺事件/北の魔王の宮殿にて・【エス】の深淵/2014年サッカーワールドカップ・毒手暗躍
九、Let Slip the Dogs of War Act.2
一九五〇年代半ば――およそ六〇年も昔のことであるが〝カントリー
同州を縦に貫くシエラネバダ山脈の麓に位置する丘にはアメリカン川が流れ、これを遡ると昨年までの
この人造湖を管理するダムの近くには、フォルサム刑務所での服役中に死亡した受刑者が埋葬される墓地が広がっており、出勤前に敷地内を一周するのがゴスベル・リンガー刑務官の日課だが、気ままな散歩などではない。
同刑務所に収監されるのは重罪犯だが、その誰もが過ちを償って生き直す権利を持っている。これを助けることこそ刑務官の使命であるとゴスベルは揺るぎなく信じてきた。
受刑者番号のみが刻まれた墓石の下に
四年前の九月に急行した先で銃犯罪の犠牲となってしまった救急隊員の母は、銃弾で胸や腹部を貫かれながらも、命が尽きるその瞬間まで搬送対象者に寄り添ったのである。
『九・一一』――二〇〇一年にアメリカ同時多発テロが発生した当時、ニューヨークの消防署に勤務していた母は、崩れ落ちた世界貿易センタービルの只中へ飛び込んで人命救助に当たったことを大統領に称賛されながらも、それを家族や友人に誇ったことは一度もなかった。言葉少なく「それが自分の
心から誇りに思う母に
女性受刑者のみを収監する施設の〝独房棟〟に
例年であったなら、刑務官の間でも職務に支障を
フォルサム刑務所を取り巻く厳しい状況を忘れて浮かれ騒ごうものなら、処罰は免れないだろう。暴動の再発に対する警戒と取り締まりを目的として、全ての刑務官は勤務時間中に実弾が装填された拳銃を携行しなければならなくなっている。それどころか、発砲さえも任意で許可されていた。凶悪犯罪者の収監先とは言えども、これほどまでに張り詰めた七月四日は初めてである。
さりとて頑なな生真面目が祟って
二九年という
この
今や刑務官の誰もが厳粛な任務遂行を忌避するようになっている。怠慢といった単純な
刑務官の職に就いて以来、その使命感を初めて私情が凌駕してしまった次第である。
それが
〝魔王〟の名は『サタナス』という。
過ちを犯した
刑務所内の異常事態を初めて『ペール・ギュント』の第二幕に
あらゆる格闘技を許し
『ウォースパイト運動』を提唱し始めたのは別の人物だが、世界中の〝同志〟の間では真の平和をもたらす〝正義〟の象徴として『サタナス』を崇める声が高まっていた。
『NSB』関係者の搭乗を動機とする
刑務所内の
格闘技を憎む思想こそ分かち合いながらも、『NSB』の
〝暴力なき平和な世界〟を求めながら、矛盾に満ちた惨状を作り出すほど
六階級制覇の期待が高まるアメリカボクシング界の〝切り札〟――『フェイサル・イスマイル・ガスディスク』のトレーナーを務める往年のヘビー級
格闘家どもは皆殺し――シェイクスピア劇『ヘンリー六世』の一幕に倣ったかのような文言を暴徒たちに叫ばせたのも〝
男性専用の施設で起きた混乱ということもあり、かつてヘビー級
銃器使用による鎮圧も、「格闘家どもは皆殺しにしろ」と誰よりも大きな雄叫びを上げた過激活動家――かねてから政財界とボクシング界の癒着を論文などで批難してきた学者の射殺も、刑務官の職務遂行として適正であったと信じて疑わない。
丘の墓地に新たな墓石を増やすことになった暴動事件はゴスベルの心を引き裂いたが、彼女にとって何よりも受け
『サタナス』という
無責任なマスメディアが面白おかしく書き立てる内容に
振り返る
『フォルサム・プリズン・ブルース』の主人公は
巧みな言葉やその場の雰囲気などを駆使して強烈に精神へと働きかけ、熱にでも浮かされたような状態で〝定められた目的〟に突き進むという狂気を対象の
暴動事件の発生直後――聞くに堪えない怒号と耳を塞ぎたくなる発砲音がフォルサムの空を切り裂く
これを目の当たりにしたゴスベルは膝から崩れ落ちた。〝同僚〟にも〝汚染〟が及んでいたことに竦み上がっただけではない。〝塀の外〟に待たせている子どもの為にも罪を償おうと励んでいた母親たちまで〝
もはや、〝
超大国を支えるべき未来の柱までもが〝
研究成果を巡って関係が拗れた助手の女性を自殺に見せかけて殺害した為、長年の功績にも
自らロープで首を絞めた亡骸に劣情を催した挙げ句、司法解剖で体液が検出され、死者の尊厳を辱めたことまで露見した彼は死刑確定を待つのみという状態であり、二度と〝塀の外〟へ解き放ってはならない異常犯罪者であったが、アメリカの発展に間違いなく貢献したであろう叡智が転んでしまうのも『ウォースパイト運動』の特徴であった。
〝
丘の上の刑務所を〝魔王〟から取り戻す――受刑者の未来を守るという刑務官の使命を心に念じながら、ゴスベルは薄明りの床を踏み進んでいく。
『ゴスベル』という名前は
『サタナス』を勇気と正義の守護聖人として崇める〝同志〟の報復を恐れているのか、彼らの
受刑者の命や僅かな
〝魔王〟の成敗を公言して
『ウォースパイト運動』は明らかに〝
〝
(……花は
もはや、法の裁きに
鉄格子の個室が上下二段構造で夥しいほど整列した〝独房棟〟は数時間前に消灯を迎えているが、厳重な警備が最優先される刑務所の性質上、いずれの
示し合わせた合奏と錯覚するくらい寝台の軋む音が薄暗闇で連なっているが、ゴスベルも着任初日に寝心地の悪さを感じ取り、受刑者に対する憐憫の情が溢れ出したのだ。
耳障りな寝息やこれに対する文句を踏み潰すかのように打ち鳴らされていた靴音が一階の片隅で止まったのは、
〝魔王〟の玉座と呼ぶには余りにも粗末であるが、さりとてコンクリートの壁で仕切られた両隣の
「童話の『三匹の子豚』は私も幼い頃から愛読してきたよ。成る程、山のように積んだ本を
受刑者が生活する〝独房〟は原則的にトイレと洗面台、寝台を除いて〝自由〟が著しく制限される。どこからともなくすすり泣く声が聞こえてくるのは、家族と一緒に賑やかに祝うことが叶わない独立記念日にこそ自らの犯した罪が重く
〝自由〟の意味を問い掛けることも刑務所の役割である。それ故に厳格なる刑務官のゴスベルは眼前の〝魔王〟に「更生の可能性など絶望的」という結論以外を持ち得ない。
この〝魔王〟は壁を覆い隠してしまえるほど大量の本を居房内に運び込んでいた。種々様々なそれを壁際から迫り出す形で何列にも何重にも並べた様子は、色とりどりの
受刑者が居房内へ差入品を持ち込むことは認められているが、規律違反だけでなく警備上の問題点に
〝全て〟の手配は刑務所長よりも遥かに〝
フォルサム刑務所の設立は〝戦争の時代〟より遡った一八八〇年七月二六日であるが、女性受刑者専用の施設は一年半前に完成したばかりだ。例え
脱獄を試みるには〝塀の外〟まで密かに導いてくれる内部協力者が不可欠だが、そもそも現在の〝
それ故に〝
国内で罪を犯した駐米大使を治外法権に阻まれて逮捕できない刑事のような心持ちであるが、〝正義〟の根幹が〝
左手の薬指に
「この喜びに満ちた夜までに届いて胸を撫で下ろしました。『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』――リンガー様の人生が豊かになる一冊を選んだつもりでございます。
真っ向から浴びせられる剥き出しの敵意に無防備というくらい友好的な微笑みで応じた居房の主――罪深き人々を
あるいはシリコンバレーの豪邸で一生掛かっても使い切れない
数百冊にも及ぶ本の山に文字通りの意味で囲まれた状態であり、その中央に
正確には散乱と言い換えるべき
以前は人間であったと思われる肉塊や、死肉を削ぎ落した人骨が括り付けてある十字架など、一枚一枚が猟奇性の高い
写真と必ず一組になっている書類は、司法解剖の報告書も含めた〝捜査資料〟である。
日付が一年前の今日である点を除いてゴスベルには内容が殆ど読み取れなかったが、中にはスペイン語で綴られた
「深夜まで――いや、独立記念日まで精が出ることだな。
就寝時間にも関わらず、受刑者が昼間に着る作業用の青いシャツから
地面に逆五芒星を描くような形で立ち、美しい装飾が施された儀式用の短剣で互いの心臓を突き刺し合う集団自殺の写真を目の端に捉えた瞬間、抑え込んできた
〝然るべき機関〟が
世界最高の
『サタナス』の思考回路が異常犯罪者に限りなく近くなければ、瞬く間に猟奇殺人事件の真相を暴けるはずもあるまいが、〝
『ウォースパイト運動』の旗頭からすれば、「格闘家などは人の皮を破った悪魔に過ぎない」と全世界へ知らしめることにも繋がる為、まさしく一挙両得というわけだ。
ハーバード大学在学中に開発した大規模多人数同時参加型
床から天井に至るまでコンクリートが剥き出しの面にプログラムと
刑務作業の監視を除けば日常生活でプログラミング言語に触れる機会のないゴスベルには何から何まで意味不明だが、『サタナス』の場合は一度記した文字列へ幾つもの上書きを重ねており、本人の
尤も、相手は常人の想像力では理解できない〝天才〟である。あるいは書いた
同じ〝愛〟の
額の〝愛〟一字が最も大きく、他が罪の烙印のように黒色であるのに対して、それのみが鮮やかな血の
その
「外国の法制史を学べというのは冗談のつもりか? その法を蔑ろにし続ける貴様に言われて笑えるとでも思ったのか。私はてっきりガーデニングの参考書でも勧めてくるものとばかり想像していたぞ。……貴様の何よりの得意は、
刑務官が受刑者に声を掛ける場合、個々に割り当てられた番号――服役中に死亡した場合は墓碑銘に代わるモノ――を用いるのが適正な職務執行であったが、
『ウォースパイト運動』の〝汚染〟に加担するようなものである為、口が裂けても『サタナス』という忌まわしい異称で呼ぶことは有り得ない。
敵の肉体を喰らって勇敢な魂を自らの
『サタナス』の胸元に垂らされているのは、白色に近い管状の〝何か〟の表面に等間隔で幾つかの穴を開けた不思議な縦笛であった。刳り貫かれた内部に息を吹き込んで鳴らす
しかし、その正体は〝人骨笛〟である。部位や加工方法など想像もしたくもないが、今は亡き母親の骨で拵えた物であることを自ら明かしていた。
〝魔王〟と同じ『カイペル』という
『第一次世界大戦』の発端となった地であるサラエボは、一九八四年冬季大会の八年後に勃発した『ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争』でも激戦地となり、オリンピック関連施設までもが戦争という〝暴力〟によって塗り潰されている。
『サタナス』の母が創造性に満ちた演技でもって世界を魅了したゼトラ・オリンピックホールも被害を免れず、国家の垣根を超えて
メダルが授けられる表彰台も処刑場として転用され、トレベヴィチ山に作られたボブスレーの競技場からは人間を砕く砲弾が降り注いだ。
旧ユーゴスラビアを引き裂く内戦が終息の気配を見せない一九九四年に開催されたリレハンメル冬季オリンピックに
ウクライナのコサック民謡を
スポーツの〝聖域〟が戦争の狂気によって
〝
〝平和の祭典〟の一員であった
平和に貢献した母の死という経験を共有しながら、〝何〟があろうとも交わらない断絶より生じる〝力〟が込められるからこそ、『サタナス』に浴びせる
取材の場には居合わせなかったゴスベルはマリオン・マクリーシュの記事で知るのみであったが、ワーズワス・カイペルは愛する一人娘に向けて「二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない」と遺言したそうである。
自分も亡き母の影響でクラシック音楽を愛聴し、作曲された経緯や意義などを調べて見識を深めてきたのだが、幼い頃から趣味としてフィギュアスケートに親しんできた『サタナス』は、サラエボ冬季オリンピックの銀メダリストが託した最期の言葉に、どうして本当の意味での〝
「まだ飽き足らないのか⁉ 命の花をどれだけ散らせば貴様は満足する⁉ 無残な花びらを遺された人間がどんな気持ちでかき集めるのか、……どうして枯れたブーケを胸に抱えるのか……! 得意の
ゴスベルの怒号も天井や壁に跳ね返って耳障りに反響しているが、それに負けない喚き声で抗議する受刑者は一人も
この反応を確かめんとする胸算用もあって、ゴスベルは今日まで遵守してきた服務規律から逸脱する行為を続けている。今し方の声量は〝独房棟〟の受刑者全員を叩き起こすのに十分であったはずだが、それでも静けさを保ち続けているということは、誰もが『サタナス』の口より発せられる言葉を聞き漏らすまいと息を殺しているのであろう。
〝独房棟〟が丸ごと〝
(野心に溺れて魂の一部を差し出したペール・ギュントは、ドヴレ山の魔王に恐れをなして逃げ出したが、左の薬指から心臓へと走る痛みが私にそれを許さない。
ゴスベルが正気を失ったかのような勢いで声を嗄らすのは、不意に滑り込んできた恐怖に打ち克つ為でもあった。
独立記念日の対決を『サタナス』が予知していたようにしか考えられないのだ。
〝独房棟〟の監視に就く当番日を調べることは大して難しくもない。会話を成り立たせる材料として
カリフォルニア州内ひいてはアメリカ国内の書店に入荷するような物なのか、ゴスベルには皆目見当も付かないが、仮に海外から取り寄せるとすれば先般の暴動事件が起こった後に手配していては七月四日という期日には間に合うまい。『サタナス』が挙げた書名は前日三日の昼に運び込まれた本の一覧に載っていたのである。
己の意志による決起すら〝
「次のテロ計画は何だ⁉ ハナック・ブラウン襲撃未遂の
あれほど燃え
「完全に息の根を止めるまで『NSB』を襲わせるつもりか。駐車場で銃を乱射させても満足しない貴様のことだ。今度は
その警報音に発砲音と「格闘家どもは皆殺し」という憎悪の雄叫びが入り混じった日とは違い、鉄格子の
刑務所の建物は全館に緊急事態を伝達するボタンが必ず壁に設置されているが、恍惚とした
〝
衝動的にホルスターから引き抜いたにも関わらず、ゴスベルが『サタナス』に銃を突き付けられなかったのも事実である。職務に対する倫理観は既に投げ棄てており、鉄格子の隙間から眉間や左胸を撃ち抜くだけの理由もある。そのはずであったが、冷たい銃口は威嚇の一つも出来ないまま天井を仰ぎ続けていた。
「リンガー様と膝を突き合わせてお話しさせていただきたいと願わずにいなかった日はございません。貴女と交わった方々は、どなたも正しくあらんと自らを律する信念を讃えておられました。わたくしも同じ想いでございます。いつか志を
「我々が同じ〝正義〟を分かち合っているとでも⁉ 身も震えるような侮辱だッ!」
「聖なる歌と鐘の
問い
今日までゴスベルは『サタナス』と殆ど言葉を交わしたことがない。ましてや敵意の対象に名前の意味を教えた
「先頃の騒乱にはわたくしもリンガー様と同じように胸を痛めてございます。あれは平和に手を伸ばす『ウォースパイト運動』の信念に
「ガスディスクを〝
「わたくしたちが悪と断じるのは『平和と人道に対する罪』――格闘技ただ一つでございます。人種も性別も出身も言語も信仰も組織も関わりなく、
「ボクシングは国技ではない――看過できない国辱を拭わんとした義挙だと? ……ほざくなァッ! ガスディスクは
「誤った更生プログラムが最後の引き金に代わったとき、秘めたる決意を聖なる行動へ変えるようにと共通の弁護士を通して〝彼〟の背中を押したは間違いなくこのわたくしでございます。大いなる〝運命〟に導かれたのでございますよ、わたくしも〝彼〟も――〝彼ら〟も。今日という夜に新たな絆を結んだわたくしたちの巡り逢いを思えば思うほど、振り返った〝あの日〟が確かな輪郭を伴って大輪の花を咲かせますね」
「ふざけるな! 〝運命〟なんていう綺麗事で全部を片付けようとするのは、救う
アメリカという国家にとって裁判にも掛けず即座に処刑すべきであった〝絶対悪〟を異常犯罪者の捜査に利用できる〝必要悪〟として容認した成れの果ては、フォルサム刑務所の現状からも瞭然である。人間としての本能に従うならば、一秒たりとも視界に入れたくない〝純粋悪〟だが、
『サタナス』は人智によって解き明かせる存在ではない――〝
〝天〟に唾を吐く行為にも等しいと自覚し、
全知全能に指一本分ばかり届いていないだけで、矮小な人間への慈悲である
「わたくしは賭け事を嗜みませんが、先ほどお話しになられた財産の提供――お見立ても半分は正解でございますから、それに比例した額を定めれば奉仕の精神も篤いリンガー様に報いることが叶いますでしょうか。〝暴力〟に苦しむ
「貴様が動かしている〝格闘技被害者〟の救済基金に有り金全てを寄付しろとでも言いたいのか? ……社会福祉へ力を注ぐアメリカに格闘技や武道で一生の傷を負った人たちの
「生まれる前からわたくしたちは平和への祈りで響き合っていたのでございます。〝失われるべきではない命〟に未来を約束する眼差しも、同じ地平に
『サタナス』が高潔な精神として讃えたのは教会への寄付など日頃から心掛けている社会奉仕の活動であり、対決に臨んだ直後のゴスベルであったなら詐取の手口と怒り狂って
だが、
〝IT長者〟として築いた巨万の富を投じ、『サタナス』は格闘技並びに格闘家から被害を受けた〝全て〟の人々を援助する基金を発足させた。
『サタナス』当人の画策によるテロに巻き込まれた被害者も救済対象に含まれるのだから
「――そういう弁舌で
一握ばかり
暴動事件に乗じた脱獄犯は
暴動を起こした受刑者たちへの発砲とは比較にならない最悪の事態である。『ウォースパイト運動』には天才と呼ぶに値する活動家が多いのだが、脱獄犯もその一人であった。
『
死刑が選択肢に含まれるカリフォルニア州に
〝表〟の顔を利用し、疑われる心配もなく〝死の商人〟との取引が盛んな場所へ潜り込んでいたことなど知る由もない議会図書館から〝
今年四月にオクラホマ州の刑務所で混合薬物の投与による死刑執行が失敗し、受刑者が四三分も苦しんだ末に心臓発作で死亡する事故が発生したが、事実上の〝拷問死〟という批判が吹き荒ぶ
チオペンタールとは数年前まで薬殺刑に用いられた薬物である。その注射を受けずに済んだ我が身を喜ぶ無神経な男が罪の意識と向き合っているはずもあるまい。〝
『サタナス』が収監される以前に〝最悪〟の二字で忌み嫌われ、〝刑務所ギャング〟にも一目置かれた
長い人生を共に歩んでいこうと約束した相手の知らない間に〝
そして、それ以上に最愛の婚約者が『ウォースパイト運動』に与してしまうくらい格闘技への憎悪を煮え
イタリア系の気質ということもあり、
被疑者死亡の為に起訴こそ免れたものの、生前の名誉は地に
それでもゴスベルにとっては最愛の人である。同情と侮蔑を
『ゴスベル』という名前の由来も〝魔王〟に
いつしかゴスベルは、己のほうこそが鉄格子の
その様子を見守っている同僚の刑務官は、恩讐といった無意味な感情など捨て去り、世界秩序を導く超越者に
目の端で捉えたそれが揺り戻しとしてゴスベルの
「貴様たちの崇めるエッジワス・カイペルが世界を愛で満たすことは永遠にない! 未来に咲き誇るはずだった花を腐らせる〝魔王〟だッ! 誰も彼も、人生をやり直したくて刑務に励んできたのではなかったのか⁉ 家族と交わした愛の約束を刈り取られて、どうして笑っていられる? 惰眠を貪っていられる⁉ ……サラエボ冬季五輪の選手村は民族紛争という〝血〟の狂気に呑み込まれ、処刑を待つのみの牢獄と化した! 〝魔王〟に命を弄ばれる使い魔の貴様たちと何が違う⁉ 誰も彼も目を醒ませェッ!」
この期に及んで〝真実〟から目を逸らそうとする姿に呆れ返ったような笑い声や、どこまでも無関心な寝息への〝抗議〟として、ゴスベルは激情に任せた怒号に続いて指笛を吹き始めた。呼吸が乱れ切っている為に数十秒も保たずに途切れてしまったものの、無意識の内に〝抗議の笛〟を生まれて初めて吹いていた。
それでも黙ろうとしない受刑者たちを威嚇すべく両手から滑り落ちたまま冷たい床に転がっていた拳銃を拾い上げようとするゴスベルであったが、心の焦点を定められない震えが
皮肉なほど芸術性の高い放物線を描いた拳銃は落下した床で一度だけ大きく跳ね、そこに辿り着くのが定められた運命であったかのように鉄格子の向こうへと滑り込んでいく。
捜査資料とは考え
半世紀以上が経過し、様々な見地による検証が済んだ
〝三メートルの宇宙人〟という異名を写す不気味な
世界の〝全て〟を見守るには刹那の
全知全能に限りなく近くとも生身には違いない〝魔王〟を仕留められる
危機意識を奮い立たせられるほど心の変容を自覚しながら、それに抗う方向へ切る前に握るべき舵を手放してしまうのが
「……〝失われるべきではない命〟に未来を約束する眼差しを我々は共有していると、先程もほざいていたな。だったら東南アジアから面会にやって来た〝アレ〟は何だ⁉ 貴様が正体を暴いた
面会の申請書にまだ六月と記されていた頃であるが、中旬分の面会者名簿に地球を半周するほど遠い彼方――シンガポールから『サタナス』と会う為に来訪した一人の男性が混じっていた。
世界経済に
それ以外に類例を求めるならば『ペール・ギュント』に登場する
〝表〟の社会で真っ当に働いているとは考えられない風貌なのだ。面会を終えるまで着衣が張り裂けなかったことを驚いてしまう量の贅肉を全身に纏わせており、顎の輪郭すら判然としない為、ゴスベルにも日本人であることが辛うじて見て取れたくらいであった。
半ば
「
国家規模のテロ事件による逮捕・収監という事態を受けて再び注目されたが、ハーバード大学在学時に共同設立者ひいては
『ファヴォス・テロメロス』――その男の名前は、二〇〇八年
『サタナス』と〝男女の関係〟という
少なくともファヴォス・テロメロスは『サタナス』と表向きは完全に断絶しているはずであるが、水面下の
『リーマン・ショック』に端を発する世界的金融危機の影響や、東日本大震災直後から暫く続いた過剰な自粛ムードといった様々な原因から財政難に陥った日本の打撃系立ち技格闘技団体『
仲介者を通して
まるで地上の命を守る
捜査資料として添えられた一枚の写真の中では、尋常ならざる面持ちの人々が逆五芒星を描くような形で立ち、互いの胸を短剣で突き刺し合っていた。彼らの信仰は理解できずとも、集団自殺そのものが何らかの
守るべき
世界秩序を司る使徒の
自分が聖なる屍となった後には全世界の〝同志〟が続くのである。絶対的な〝正義〟を分かち合う連帯は宗教的恍惚状態の
過激活動家たちの自害に関与した事実を『サタナス』は隠そうともしないのだから〝死人に口無し〟といったような証拠隠滅の小細工などではなく、〝暴力〟なき未来に向けて捧げられた
異常犯罪者は事件を劇場化させる傾向が強いのだが、〝
婚約者の〝殉教〟をブーケの如く我が胸に抱き締める
墓の下から這い出したものと感じられるよう衣装を泥に埋めてボロ布さながらに汚し、死体に変身する化粧を施すなど、幼い頃の臨死体験によって自身の心臓が動いている事実を精神構造的に認識できなくなったボーカリストが
ブラックメタルという
彼も自らの
無論、殺戮や教会への放火を厭わないテロ集団も同然の
「リンガー様がドヴレ山の
「……実……験……? ……それよりも【エス】……【エス】とは一体――」
「死を命に運ぶモノをわたくしは【エス】と呼んでございます。人という種に〝
『サタナス』の
右足の下敷きとなった写真の中では、泡を吹く変死体が上半身を剥き出しにした状態で畳の上に転がされている。裂傷・打撲傷は見受けられず、臓器不全による突然死と察せられるが、過去に負った怪我の痕跡が痛々しい肉体は
常人の
ゴスベルの意識を一等強く引き付けたのは、
アレクサンドル・デュマの『
引き剥がすような調子で写真から右足を離した〝魔王〟は、空手と柔道のどちらかの物であろう
生き物が恒常的な生命活動を維持する為には、新しく生み出された細胞を交換し続けなければならない。この循環の中では老化・
進化との関係も神秘性すら感じるほど密接であり、例えば胎児の手足が完成されていく過程で指の間の細胞を取り除くのも〝遺伝子にプログラムされた細胞死〟――即ち、『アポトーシス』の役割であった。
野放しにしておけば〝次〟の世界大戦の引き金になる格闘技という名の〝暴力〟を根絶せしめ、人類を新たなる未来へ導くという『ウォースパイト運動』の大義を『アポトーシス』に
アルファベットの〝S〟一字を単純に指しているとは思えず、これを頭文字とする言葉に答えを求めて
勇気と正義の守護聖人を地上に遣わした功績を讃えて〝大聖母〟と呼ぶのが最も相応しいワーズワス・カイペルが一命を
他者の命に死を運ぶという意味合いであるならば、近ごろ日本格闘技界を騒然とさせていると小耳に挟んだ『スーパイ・サーキット』も格闘技という〝暴力〟の象徴として【エス】の候補に加えて構うまい。同国のMMAに明るくないゴスベル自身は
英語ではなく当該選手の出身地であるペルーの公用語で綴った表記となるが、『スーパイ』とは〝死神〟を意味する言葉であったはずだ。
発音が同じというだけで想像を巡らせているが、〝S〟の一字へ直線的に結び付くのかも実際には定かではない。精神分析学に目を転じ、深層心理の
『サタナス』から賜った【エス】という
「完全な理解に至らない自分の
いつか迎える平和の前には何の意味も成さない復讐心が
変節を嘲る笑い声が〝独房棟〟の天井に幾つも跳ね返ったが、ゴスベルと向き合う『サタナス』は軽蔑の眼差しを向けるどころか、彼女が〝大バッハ〟の
「やはり、リンガー様は誰よりも賢い
「……砂糖のように甘い享楽で〝世界〟が満たされようとも〝私〟にとっては毒のような苦しみにしか感じない……」
「果たして、〝死〟が〝私〟から何を奪えるのでしょう。貫く信仰に応じて〝天〟が甦りを約束してくださるのですから、冷たい土の下で
「だからこそ〝私〟は、青ざめた夜明けにも等しい〝死〟が訪れる時を待ち、世界との別れという喜びに思いを馳せて溜め息を
「夜は暗く、土は冷たく」
「……僭越ながら、それはボイジャー探査機に積まれた
「お許しくださいね。リンガー様から伸ばしてくださった手が【エス】の二重螺旋へ限りなく近付かれたことが余りにも嬉しくて、少しだけはしゃいでしまいました」
『来たれ、
感情の迸りはバロック音楽全体の特徴だが、〝大バッハ〟は現代を生きる人間の感覚として受け止めたときに希死念慮を案じてしまうほど生からの解放に手を伸ばしていた。
ゴスベルも幼い頃から亡き母に手を引かれて礼拝堂に通い、〝教会カンタータ〟とも呼ばれる音楽に触れていなければ、死に臨んで甘い蜜を味わうという『サタナス』の
母に導かれて選ばれし
「……〝内なる死〟と〝外なる死〟……それは命の
小さな舌を出して自らが口にした冗談を恥じらう『サタナス』の姿は、それだけでもゴスベルの脳を
矮小な
「今、ようやく悟りました。私の母は
ゴスベルが一人で連ね始めた呟きは余人には全く意味不明であり、志を分かち合えるように耳を傾けていた〝独房棟〟の
生からの解放ひいては天国への憧憬に魂を焦がし続けた〝大バッハ〟の作品らしい世界観と讃えるべきであろう。『サタナス』と二人で紐解いた
命ある世界を最期の瞬間まで理解できなかったであろうブラックメタルバンドのボーカリストは、
その一方、ゴスベル自身が例に引いた第二曲では〝誰か〟が摘んだ
同じ
まさしく〝
己以外にもたらす〝死〟と、己から手を伸ばした〝死〟は、それぞれ正反対の〝先〟を求めながら二本の軸を形作って人という種の〝
命に死を運ぶモノを『サタナス』は【エス】と呼んだ。その概念をDNAと同じ二重螺旋構造に基づいて読み解くならば、〝外なる死〟の軸こそが先ほど『サタナス』から示された「人という種に〝
【エス】の仮説を
「崩れゆく巨塔の下で我が身の安全ではなく他者の救助の為に駆け回り、
「
「争いなき世界の
「
「仰せの通り、『NSB』を司った者は
「
果たして、『サタナス』は〝真実〟と認めて頷き返す代わりに
アナハイムの消防署に勤務していたゴスベルの母親は、急行した先で搬送対象者から銃で撃たれて殉職している。胸や腹部に銃弾で浴びながら事切れる瞬間まで職務を全うしたのだが、『サタナス』が悲しげに述べた通り、犯人は肌の色が自分と違うというだけで彼女の手が触れることを拒否し、
〝その日〟――二〇一〇年九月二五日のアナハイムは地名を冠した野球場を本拠地とするプロ野球チームのホームゲームがあり、興奮の
ゴスベルの母に狙いを定めて
被疑者死亡の為に真相究明の裁判は
メジャーリーグの
リンガー家を襲った事件は痛ましい悲劇であり、アメリカという〝
本人は「昨日までの自分」と口にしていたが、小一時間前のゴスベルも亡き母の誇りに泥を塗られた憤激に
しかし、
〝独居房〟には〝
「……【エス】を……その螺旋の捩じれ構造を食い止めなければ、母と私が味わわされた悲劇が永遠に繰り返されてしまう……嗚呼……その過ちに自分で気付けたからこそ、あの空手家たちも〝正義〟の戦いで散華したのですね……ッ!」
未だ〝真実〟に到達していないゴスベルではあるが、【エス】が歪んだ嗜虐性を内包していることは確信している。両膝を突いて座り込んでいた床から立ち上がると、天に向けて右腕を突き上げ、骨の軋む音が鳴り響きそうなほど強く握り拳を作った。先に
悪しき偏見に理性を冒されて母を撃ったのも、命を壊す〝力〟でしかない格闘技も、どちらも膨張した嗜虐性の成れの果てである。格闘家の蛮行が人間の攻撃性を加速させ、最後には〝第三次世界大戦〟の火種に行き着くと警告の笛を吹き鳴らしてきた『ウォースパイト運動』は、疑問を差し挟む余地もないほどに平和と正義の使徒なのだ。
「ギャロファロー様が仰せになった通りでございます。リンガー様は間違いなく自分たちの
見落としというよりも意識に大きな空白が生じたような状態であるが、気付いたときにはゴスベルは一冊の手帳を持たされていた。
依然として鉄格子を挟んではいるものの、
「最後の書簡と一緒にわたくしへお預けになられた物でございます。いずれ然るべきときにリンガー様へ届けて欲しいと。その約束をようやく果たせましてございます」
『サタナス』が手ずから渡したそれは、ゴスベルが記憶している限りでは捜査資料に混じって床の上に放り出されていた物ではない。〝天〟の一柱に列せられていないほうがおかしいと首を傾げてしまうくらい前者に魅入られている後者は、空間の裂け目から手帳を取り出すという奇跡を
例え相手が婚約者であろうとも自分以外の人間の私生活を覗き見る下劣な性格でもないゴスベルは、
「……そうなの……そうだったのね……あなたの死は……私たちが出逢った〝あの日〟から定められていた運命……本当の意味であなたを殺したのは……
『サタナス』から促されるまま形見の日記帳を開くゴスベルであったが、薬指に指輪を
双眸から溢れて顎先で大粒の雫に変わった涙が落ちていく先には、自らの武道によって
道を踏み外してしまったことを悔い改め、社会復帰に向けて人間というものを学び直すのが矯正施設の存在意義だが、その思いで刑に服す人間ばかりとは限らない。己の犯した罪を罪とも思わず、同室の受刑者や刑務官を暴力で脅かす正真正銘の
特に重罪犯専用の刑務所で働く者は、職務に関わらず自衛の手段として徒手空拳の技術を体得することが必須であり、ゴスベルとウリエロは同じコインランドリー併設の
全米屈指の危険度を誇る二人の勤務先では、刑務所内での待遇などを巡って受刑者と刑務官の衝突が断続的に発生している。片手では足りない死傷者を数えた先般の暴動事件も『ウォースパイト運動』の過激活動家さえ関与していなければ、取り立てて騒ぐほどでもないありふれた事例として通り過ぎていったはずなのだ。
その日、ウリエロへ執拗に絡み、握り拳や肘でもって小突き回した受刑者も、
これをウリエロから注意されて逆上し、勢いに任せて掴み掛かった受刑者は冷たいコンクリートの床に頭から投げ落とされてしまった。彼が
このような経緯の整理を境として、懺悔を書き連ねるウリエロの筆致は一字々々を目で追う者の心に深い刺し傷を作るような慟哭へと変わっていく。
戦意喪失のみを目的とする投げ技であったのだが、打ち所が悪かった為、日常動作に支障を
それでも優しいウリエロは相手側の過失と割り切れなかった。
「
端から端まで余白もなく、全ての
しかし、
形見の日記帳に幾度も数え切れないほど書き殴られた『シン』とは、神を裏切るほどの大罪を意味する言葉であった。己の
「ウリエロ……あなたは最期まで……私が愛したあなたのままだった……」
喉の奥から絞り出した月並みな言葉は、本当に
〝独房棟〟に響くすすり泣きの声は数分前よりも増えている。〝
しかし、
「二〇〇一年九月一一日の英雄が【エス】の捩じれに
思考回路そのものが焼き切れた状態のゴスベルは、『サタナス』の声に反応して顔こそ上げたものの、〝大人の
母を撃ち殺した白人男性が
ゴスベル自身も同地の治安や銃犯罪発生率などが要因とは考えず、人種偏見以外の理由など今日まで想像していなかったくらいである。
「夜勤のお母様が詰めておられた消防署に救急車の出動要請が入る一時間ほど前に、アイスホッケーのプロチームも本拠地を置くアナハイム中心部の
「まさか……『NSB』の――MMAの
「四年前の九月にアナハイムを〝暴力〟で
『サタナス』が続けた
当時から日本人選手の筆頭として
この時点でも場内の空気は
一触即発の緊張も限界に達し、続くアイシクル・ジョーダンとハロルド・ヴィッカーズの試合で目を覆ってしまうような〝暴発〟を迎えた。ゴスベルと同じ肌の色を持つ前者に後者が撃破されたことで
ベイカー・エルステッドとハロルド・ヴィッカーズ――敗れた
前代表のフロスト・クラントンが取り仕切っていた時代の『NSB』は、不当な法規制とも闘ってきた〝
〝クラントン政権〟でも最悪の時期にアナハイムの
『
先程まで『サタナス』が踏み付けていた写真の中で横たわるバーコード付きの変死体ほど
人として恥ずべきながら、職場や学校で溜め込んだ
「……二〇一〇年九月二五日は、その年のアメリカンリーグ西地区優勝が決まった日と記憶しています。……忘れたくても忘れられるワケがありません。私とウリエロの非番が重なって……
アナハイムのプロ野球チームにとって、二〇一〇年は大きな意味を持っていた。発足五〇周年という節目であり、その年のメジャーリーグ・オールスターゲームも本拠地の野球場で開催されたのである。
記念の年をワールドチャンピオンで締めくくる夢が露と消えた同日のアナハイムは、悲喜こもごもながらも賑やかであった。ゴスベルの母を撃った白人男性はその
『NSB』の
「凶弾に
ゴスベルの瞳で再び
「
『NSB』が苦い過ちを乗り越え、〝健全な
それにも関わらず、ゴスベルは自分だけの
『サタナス』の〝
刑務官ですら〝
『NSB』の
己の体内で脈打つ心臓の鼓動も許容できなかったボーカリストが自らの頭部を
余りにも惨たらしい有り
北欧のブラックメタルバンドを巡る一連の惨劇に
「この私も人類を
〝独居房〟を嗚咽で満たしていた受刑者たちも『平和と人道に対する罪』を犯し続ける『NSB』を
アメリカを代表するパラアスリートでもある『クノク・フィネガン』を巻き込み、パラスポーツをも格闘技で
「――格闘家どもは皆殺しにしろッ!」
瞑目しながら〝正義〟の大合唱に耳を傾け、〝愛〟という漢字一字の
天にも昇るほどの歓喜が突然に訪れたゴスベルは失神し兼ねないほど驚いた。半ば危うかったと言うべきであろう。崩れ落ちるほどの勢いで左膝を突き、冷たい床にぶつかった鈍痛で意識の寸断を免れたようなものである。
「リンガー様ほど〝暴力〟を憎む
先ほど拾い上げた拳銃を左手に持っていた『サタナス』は、世界秩序を守るべくして
祝福の
ゴスベルと同じ制服を纏い、成り行きを見守っていた同僚は志を分かち合えた喜びを噛み締めるように何度も首を頷かせている。勇気と正義の守護聖人をあくまでも〝魔王〟として否定するようであれば、彼女が受け取った物と同じ
尤も、ゴスベル当人には己に降り注ぐ祝福が実際に起きていることなのか、幻覚や幻聴の類いなのか、虚実の境い目すら分からなくなっている。世界の〝真実〟はそれほどまでに甘美であり、
希望の夜明けを迎えた喜びを謳い上げる曲も、〝独居房〟の壁や天井に跳ね返って反響する乾いた音と溶け合った途端に耳障りな不協和音と化したが、
『ウォースパイト運動』が掲げる崇高な理想の為、自ら進んで〝殉教者〟にならんとする〝同志〟たちの思いに包まれたゴスベルは、「二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない」という遺言を『サタナス』に託した〝
「気高い信念は時として人に〝道〟を誤らせることがございます。けれどもリンガー様は絶対に大丈夫。愛と平和の使徒としての
魔王の宮殿を逃げ出した主人公が
「〝内なる死〟を見つめた者に与えられる創造と芸術の喜びは〝外なる死〟に餓えて満たされない格闘家には永遠に理解できるものではございません。そして、死に手を伸ばす本能こそが【エス】の二重螺旋――人という種に等しく宿ったそれを戦争の火種に作り変える格闘技には『アポトーシス』という葬送の儀式を
『サタナス』から叙事詩の英雄の如く讃えられ、快楽の絶頂によって脳を貫かれたゴスベルは今度こそ意識を失ってしまった。死後硬直前後のように全身を小刻みに痙攣させながら満面を愉悦で歪めてはいるものの、【エス】の本質を掴み切れたわけではない。
そもそも全知全能の指一本のみ届かないという超越者の叡智を矮小な人間に読み解けるはずもあるまい。人智では決して計り知れない〝真実〟に辿り着いた『サタナス』への畏怖がゴスベルの
命を壊す〝力〟への
添付された写真の中で四角いリングに立ち尽くしているのは、双眸から
果たして、どのような理由があるのか、オランダ
そこに記された『ラグナロク・チャンネル』という文言は『格闘技の聖家族』とその周辺人物以外には全く意味不明であろうが、キリサメが
〝立場〟の
偏桃体病変や海馬の委縮・硬化によって引き起こされる記憶障害と情動失禁、ひいては難治性神経疾患――側頭葉全体の不可逆な
*
ライサンダー・カツォポリスの一人娘が〝騙し討ち〟としか表しようのない国際電話を掛けてきてから六時間余り――〝これから始まること〟に備えて早い夕食を迎えた『八雲道場』に、再び穏やかならざる空気が垂れ込めていた。
食事に対する不満ではない。岳が思い付きだけの〝創作料理〟を振る舞うときには主に未稲が近寄っただけで火傷を負いそうな怒気を漂わせるのだが、七月四日一七時の食卓に用意されたのは食欲を大いに刺激するものであった。
昨日の夕食に藤太が作ったモツカレーの残りと調味料などを溶き合わせたつけ汁で食べる素麺だ。
色違いながら同じ市松模様のエプロンを掛けたまま食卓に着いているキリサメと藤太の二人が夕食の担当だ。青と黒という色合いの前者の
氷水で程よく引き締まった素麺は食卓中央に置かれたガラスの麺鉢に山の如く盛り付けられており、各人が好みの量を取り箸でつけ汁の器に入れるという様式である。しかし、
古い友人との〝騙し合い〟を巡る殺伐とした空気が岳には息苦しくてならず、二人の子どもによる注意も聞き流して愚にもつかない情報バラエティー番組へ逃避したのだが、偶然にもテレビ画面に映し出されたのは格闘技界を
海外情勢を取り上げているが、
かつては『NSB』と契約して世界のMMAを牽引する
しかも、
捜査当局がDNA鑑定を進めているのは、処分し易いように加工され、トイレないしは洗面台から流された骨粉や毛髪だ。それはつまり、自分たちが
平気な顔で牛の小腸を頬張っていられるキリサメの神経が未稲には信じられなかった。
入念な取材など最初から放棄している低俗な情報バラエティー番組は、他の類例に漏れず
「
藤太が
受け手の興味を大いに刺激する〝関係者の
テレビの中の司会進行も、「あくまでも自分個人の見解であって、実際には違う側面があるかも知れません。だからこそ事態を注意深く見守っていかなくてはいけない」という小賢しい一言を添えて批判からの逃げ道を設けている。
そして、このように卑劣なやり口は
放送局に乗り込んで抗議すると息巻き始めた藤太に対し、キリサメは大きく開かれた口に薬味として用意した練りわさびの塊を放り込んで沈黙させた。番組制作側が好き勝手に
「――『昭和』の野球少年がミスター
アメリカで起きた猟奇殺人事件は、〝対岸の火事〟だと気楽に傍観しているわけにはいかないと思う――この前置きを経た
画面内の
子育てや教育に対する独特な哲学が同じ悩みを抱える母親たちから絶大な支持を集め、近ごろテレビ出演の機会が増えた
痛し痒しではあるものの、それが彼女の境遇を端的に表しているのも事実ではあった。一人息子を育てる中での発見を玩具開発という社長業にも生かしており、母一人子一人の喧嘩が絶えない
「二〇二〇年までに日本国内で〝スポーツ熱〟は否応なしに高まり続けるでしょう。熱狂の渦の中で冷静な判断や理性が失われ、疑うことを知らない子どもたちが道を踏み外すのではないかと憂慮しているのは私だけではないはずです。格闘技や武道を純粋なスポーツと同じように取り扱うことは青少年育成の上でも本当に正しいのでしょうか? 紛れもない事実として子どもの運動会のプログラムに殴り合いはありません」
子どもに暴力的な人間には育って欲しくない――同じ願いを胸に秘めた全国の母親たちへ語り掛ける
「……今に始まったワケじゃねェけど、また余計なコトを言いやがって……ッ!」
テレビの向こうの
「
「おうよ。ハナックの身に何かあったら、オレも藤太と一緒にアメリカへ飛んでたぜ」
アメリカ格闘技界の混乱に思いを馳せて何とも
『ウォースパイト運動』の活動家たちの間で神格化されつつある危険人物――『サタナス』が収監されたフォルサム刑務所では、他の矯正施設と同様にボクシングを通じた更生プログラムも実施されているのだが、その技術指導の為にハナック・ブラウンが来訪した当日に一部の受刑者が暴動を起こしたのである。
数日前に発生した事件にも関わらず、日本の情報番組が継続して取り上げるのは、刑務所内に
格闘家どもは皆殺し――暴動を起こした受刑者は、その文言を唱え続けていたという。『NSB』の
即ち、『ウォースパイト運動』の過激思想に染まった受刑者たちによる〝抗議活動〟であったわけだ。この更生プログラムからボクシングに目覚め、出所後のプロデビューから六階級制覇を射程圏内に入れるまでに躍進したフェイサル・イスマイル・ガスディスクも誕生したのだが、彼らの基準では『平和と人道に対する罪』でしかないわけだ。
『昭和の伝説』と畏怖される
恩義のあるハナック・ブラウンに
短時間で鎮圧された暴動も、万事解決ではない。混乱に乗じて受刑者一人の脱獄を許してしまい、フォルサム刑務所が所在するカリフォルニア州は厳戒態勢が続いている。〝
先ほど情報バラエティー番組では同刑務所で過去に幾度か脱獄事件があったことを取り上げたが、今回の脱走犯が『ウォースパイト運動』の活動家であったなら、それは最悪の事態にも近い。刑務官の誰かがこの逃走を助けていた場合、司法の側にまで過激思想が
司会進行は根拠の足りないこじ付けで『サタナス』と暴動を結び付けていた。番組の中で並べられた仮説はいずれも信憑性を欠くものであり、右耳から入って左耳へ通り抜けるほど空疎であったが、『ウォースパイト運動』を正真正銘の〝テロ活動〟へと先鋭化させた〝
「
「ギリシャは分からないけど、ペルーでは今でも日本人の財布は分厚いという認識だよ」
「キリーもそこは
「私のほうからも『さっき
「……俺が話したのはあくまでも憶測だぞ、未稲。確認も取れん想像を自分が怒る理由にするのは感心せんな……」
鼻から放り出された丸メガネが山盛りの素麺の
『NSB』で〝
深刻な経済危機でギリシャが破綻の瀬戸際に立たされていることは、職を失った人々で溢れる街並みや、財政運営の失敗に対する抗議デモと共に世界中で報じられていた。
それは二〇〇九年にギリシャを直撃し、翌年に表面化してから五年に及ぶほど長引いている。ユーロ圏全体に共通することであるが、この
失業者が解雇された会社に銃を取って立て籠もった事件を例に引いた藤太は、自分が同じ困窮に放り出されたら何日と
「格闘家として鍛え上げた精神を
「それは不必要な情報です。まかり間違って同情心が湧いてしまったら、思い切った策を取り辛くなってしまいますよ。〝敵〟は無機物のように思えたほうがやり易い」
「……格闘技に一途な人なのだ、ライサンダー・カツォポリスとは。昔から世話になってきたし、
岳や藤太と一緒に『
傍目にも分かるくらい
国際電話の最中、ギリシャの教育制度の特徴としてキリサメは学費が無料という点を挙げたが、
己の
「……ときにキリーは『ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアン』という名前に聞いた
「進士氏の試合を
「そうだ。ドーピング汚染の解決後に『NSB』の興廃を賭け、たった一度だけ開催された男女混成トーナメントで我らが『ヴァルチャーマスク』をも撃破した『ザ・フェニックス』――その
「
「俺が言い包めずともライサンダーは元から
「藤太さんには残念ですけど、ファビアンさんを持ち出した時点でライサンダーさんのダメさ加減が炙り出されてゲームオーバーですよ。現役にしがみ付いていないで〝同門〟のように
「世の中の全てがカネで解決するとは考えておらんが、社会を支えるのも、そこで生きる人々の暮らしを守るのも経済だ。確かにギリシャはパンクラチオンが生まれた土地だ。オリンピックの始まりの土地でもある。だが、経済が痩せ細った時節にスポーツに回す余力があると思うか? ……それにライサンダーの場合は――」
MMAあるいはパンクラチオンの
「運良く
住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した史上最悪レベルの金融危機の影響は、発生から数年を経た現在も世界経済を蝕み続けている。長期に亘る不況下では、実績がある〝プロ〟の
マイナス成長の日本に
「ほれ見ろ。速攻で藤太の言うコトを真っ直ぐに受け止められなくなってらァ。同じパンクラチオンを極め、どっちも家族を第一に考えてるのに辿った〝道〟は正反対っつう意味をお前らに考えて欲しいんだよ、
「愛する妻の復帰を支える為、選手から
キリサメの返事を待たずに己の苦悶を吐露し始めた藤太に岳は苦笑いで頬を掻き、面白くなさそうにそっぽを向いた未稲は、付け合わせとして小皿に盛られたラッキョウの甘酢漬けを音を立てて頬張った。
その藤太から二人の〝パンクラティアスト〟の
二人が共にギリシャの
(近代のパンクラチオンはアメリカで始まったと、いつか
友人から送り付けられた手紙の内容を
プロ・アマという〝立場〟の
「――古代と違って現代ですからね、〝
パンクラチオンの発祥はギリシャ神話の英雄――半神半人の猛き勇者・ヘラクレスと、ミノタウロス退治のテセウスにまで遡ると
〝ギリシャ世界〟に
〝
しかも、カパブランカ
アイデンティティそのものを辿る旅路であったことはキリサメにも察せられた。
(……ライサンダー・カツォポリスの場合、『
ライサンダーが
絶望的な兵力差にも臆さず、ペルシャ帝国の大軍勢を相手にテルモピュライの地で繰り広げた合戦に
数千年という
それから一〇年も経っていないというのに、彼の両足は自分の体重すら満足に支えられなくなっている。スパルタ兵の再来とまで畏怖された代償が
岩手興行の
歴戦の証を痛罵するのは
ライサンダーのことを『八雲道場』の〝敵〟と
無論、その念はカツォポリス家との〝抗争〟で手加減する理由にはならない。
「キリーや未稲の言う通り、〝騙し討ち〟で『八雲道場』を揺さぶってやろうと
「楽に生きていけないタイプの父親に勝ち星を譲って欲しいってメリッタから泣きつかれたら、
「僕の場合、カツォポリス家とは分かち合うような想い出を持っていないから、進士氏やみーちゃんみたいなこだわりもない。限られた状況証拠から割り出したことだけど、娘のほうは〝騙し討ち〟に乗り気じゃない可能性も捨て切れないよ。無理強いではなくても、追い詰められた父親に手助けを申し出ない確率のほうが低いんじゃないかな。上手く転がせば『
「
「……今一度、師匠に言われたことを己に問い直せ、未稲。疑える材料を相手の言葉の一つ一つに探し回るようになっては、逆に真実から遠ざかるぞ」
「そのメリッタが邪道の限りを尽くしているんですから、
「それでも正論を言い続けるのが〝兄〟の役目と心得る」
カツォポリス家が張り巡らせたであろう謀略の実態をメリッタの言行から見極めるのではなく、
これを見兼ねた様子のキリサメから別の視点へと促された未稲であるが、暴走に対する戒めとして感じた為にいよいよ意固地となり、電話が掛かってきた時点に
「もう一つおまけに言ってやるならよ、仮にもダチ公相手に平気なツラして嘘を
二人と合わせて畳み掛けるように未稲を窘めた
傍目には不可解と思えるくらい未稲の
カツォポリス家との親交や想い出を持たない為、一歩引いた視点を保っているキリサメだけに感情的な未稲と違って偏った分析ではなかった。
空白の時間が埋まるまでは無理に声を張っており、慣れてきた後も八雲の
一連の流れの中で、メリッタとのやり取りが余りにもぎこちないと演技の改善を言い渡されたときには、さしもの岳も「やってられっかッ!」と声を裏返らせた。
一九九〇年代に江戸幕府の埋蔵金の発掘
その岳からすれば
視界からも完全に外れていたテレビが岳の意識に再び割り込んだのは、緊急速報を意味するチャイムを挟んで、
七月の京都は
しかも、昨年までは
耳を澄ませれば、「コンチキチン」という清められた音色がそこかしこから聞こえてくる華やいだ状況を台無しにするかのように、八坂神社に程近い
銃で襲われた被害者は顔面に散弾を浴び、最初の急報の時点で即死と発表されたが、夕方の
最悪の事態としか表しようもないが、この瞬間から連続殺人事件に切り替わったのだ。
翌五日には
無論、京都府警の威信を賭けて〝第三の銃殺事件〟を阻止し、一七日――『
「『
「……キリーの台詞じゃねェけど、どこもかしこもマジで物騒になってきやがった……。仲間を真っ先に心配すんのも良くねぇけど、
銃犯罪の犠牲となったアメリカの
「大学は予想される逃走経路の先に
凶弾によって抉られた右頬の傷を左の人差し指で撫でながら、藤太が一等険しい
『
一つの事件がより深刻な事態の前触れということは、時代の狭間で幾度となく確認されている。
ライサンダーが〝騙し討ち〟を仕掛けてきた根拠として藤太が挙げたギリシャの経済危機も、メリッタを
そこまで
『MMA日本協会』で理事を務める
統括本部長として〝同僚〟たちを見守っている八雲岳どころか、
その〝暴君〟と抜き差しならない関係にある『MMA日本協会』の計画に『八雲道場』が加担したと疑われ兼ねない為、戦力外通告の真偽を麦泉に確かめることも叶わない。
『八雲道場』のマネージャーを欺かざるを得ないのはこの場の誰も気が進まないが、自分たちは〝七月四日一八時に起きること〟に巻き込まれた側と見せ掛けるしかないのだ。
迂闊な行動を取った途端にキリサメと岳が揃ってライサンダーと同じ状況に追い込まれるからこそ、未稲は「ここで〝道〟を譲ったら〝次〟の悪だくみにも担ぎ出される」と樋口代表の動向に危機感を露にしたのだった。
(階段から転げ落ちそうになってるダチ公に手も差し伸べられねェ統括本部長に何の意味があるんだ?
『
そもそも〝プロ〟のMMA
カツォポリス家が初めて『八雲道場』を訪れた二〇〇四年の日本も、経営不振による二球団の合併に端を発したプロ野球界の再編問題で激しく動揺していた。
合併に伴う球団数自体の減少への対応という形で二大リーグの合流という議論にまで発展し、これを推進する一部の球団オーナーが反発を強める選手会に「分を弁えろ」と見下すような言葉を発して球界全体への信頼が著しく損なわれたのである。
一九三四年――『昭和』と呼ばれた時代に日本でプロ野球が発足して以来、初めてとなるストライキ決行や完全新規の球団参入による二リーグ制の維持など、スポーツ界に留まらず政財界をも巻き込む事態となった再編問題は、当然ながらニュースや新聞で連日連夜に亘って報じられた。これによって日本に
日本ではプロ選手を〝個人事業主〟とする認識が一般に広まっており、球団に雇用された労働者という〝法的地位〟は脇に追いやられていた。選手を軽んじた失言が象徴するように、
球界を引き裂く騒動を経て再確認されたのは、選手会が〝労働組合〟としての条件を満たしていることである。そして、それは〝プロ〟の
一〇年周期の激震というべきか、アメリカ・メジャーリーグに
これは二度の世界大戦の最中でも開催されたワールドシリーズの中止という天地が
ベーブ・ルースの一〇〇回目の誕生日までに解決できなかったことで、メジャーリーグ自体の社会的信用も一時は危機的状況に陥ったのである。アメリカスポーツ界にとっては決して忘れてはならない苦い教訓であった。
尤も、
慎重な姿勢を崩せない『NSB』の団体代表と比較して、『
これまでにも〝暴君〟の運営方針は海外のスポーツメディアから時代錯誤と痛烈な批判を浴びてきたが、所属選手に強いる従属的な契約もその一つである。情報戦に長けた樋口だけに「分を弁えろ」などと口は滑らせまいが、本質的に根が同じであることは平素の振る舞いから滲み出しているのだった。
だからといって統括本部長がライサンダーのみを経済的に援助することは、他の選手に対して公平性を欠いてしまう。ましてや成績不振が
統括本部長という選手のまとめ役を担いながら、
(こんなザマをヴァルチャーの
ともすれば足元を見られているようなものであるが、自らの間抜けを嘲って鼻を鳴らさず、名ばかりの統括本部長と化してしまったことを悔やむのが八雲岳という人間なのだ。
「……『どこもかしこも物騒』っつったら、レオが『MMA日本協会』にも一枚噛んでるのだってワケ分かんねェ。裏切り行為がバレても人気に依存しまくってる樋口は
『スーパイ・サーキット』の暴走によって、キリサメは
そのような状況にも関わらず、今度は『MMA日本協会』と結び付き、その計画に協力している。レオニダスが引き受けた役割も杖村理事の情報提供によって把握したのだが、成り行き次第では自ら熱望した熊本興行での対戦が暗礁に乗り上げる可能性もあるのだ。もはや、岳は
〝
「僕との因縁を利用できると考えた〝誰か〟がタファレル氏の人気を当て込んで今度の計画に誘導したとは考えられませんか? ……
レオニダスに対する憤懣を噛み殺そうと、
「杖村たち『MMA日本協会』はライサンダーの置かれた状況を利用し、キリーと『八雲道場』まで巻き込んで樋口郁郎への反撃を計画している。……最後の〝切り札〟を考えれば〝反撃〟ではなく〝叛乱〟と呼ぶべきかも知れん――が、それすらも己の利にせんと企む〝裏〟の意思が働いている。そう言いたいのか、キリー?」
「偶然か、必然か。僕らの〝本当の敵〟も熊本にあり――それは間違いありません」
熊本に目を向けたキリサメが〝誰〟を指して〝本当の敵〟と呼んだのか、藤太との遣り取りから悟った八雲の
「
「電話の一言々々が私たちには自供にしか聞こえなかったけど、向こうは『八雲道場』が一八時に起こることを把握済みなんて知らない――そうやって頭から信じ込んでいた前提が丸ごと間違っているとしたら、メリッタがどのツラを下げてやって来るのか、底意地悪い興味でワクワクしている場合じゃないね」
「ライサンダーとの繋がりを材料としてキリーが舞台裏の気配に勘付いたように、向こうも師匠と『MMA日本協会』の接点から何もかも『
「実際にスパイを送り込めなくても『八雲道場』の反応が探れたら上出来――カツォポリス家の背後に居る黒幕の入れ知恵を想定しておくほうが危機管理の舵も切り易いかと」
テーブルに落下した丸メガネを拾い上げ、これを未稲の鼻筋へ手ずから引っ掛けつつ、キリサメは因縁浅からぬ熊本に感じ取った〝黒幕〟の気配を一等強調した。
七月四日一六時に何が起きるのか、企ての一切が岳の耳に入ったことも織り込み済みでメリッタが接触を図ったと仮定するならば、そこにはライサンダー本人とは別の意思も働いているとキリサメは勘繰っており、これを受け止めた三人は揃って背筋を伸ばした。
キリサメが説いたことには一定以上の信憑性があり、ライサンダー・カツォポリスの背後から伸びる〝影〟に戦慄を抑え切れないわけだ。
「キリくんが心配するようなガチンコの謀略合戦だったら、『
「希更氏の性格上、僕たち友人を裏切る真似だけは絶対にしないはず。『
「……仮にも友達相手にそれはキツいなぁ……」
「メリッタ相手にさんざん
「友達の縁を切ってきたのは向こうなのに、まだそんな寝ぼけたコトを言ってんの? この期に及んで腹の据わらないお父さんより遥かにマシだよ」
『在野の軍師』とは『
『
ライサンダー・カツォポリスもその一人である。
不当な冷遇に耐え兼ね、他団体への移籍に際して樋口から契約不履行で追及されない手立てを『在野の軍師』に求めたことも『八雲道場』は杖村の情報提供で把握していた。
それはアルフレッドに付け入る隙は厳禁という注意喚起でもあったのだろう。『MMA日本協会』もライサンダーの背後に
ライサンダーが戦力外通告を受ける以前より日本MMAからの離脱を画策していたことが岳には
『八雲道場』が極めて深刻に憂慮しているのは、『
熊本に根を下ろしたアルフレッドは当然ながら同地の武術界とも関わりが深く、〝火の国〟の誇りである熊本城を
それはつまり、これからの『
「遅かれ早かれ、希更氏は〝同士討ち〟の板挟みに遭う。そのとき、
「……たまにキリくんの腹の据わり方がおっかなくなるよ……」
そもそもバロッサ家は古代ビルマに由来する伝統武術『ムエ・カッチューア』を日本で教え広め、その功績が世界各国の格闘技関係者にまで知れ渡った名門だ。希更の母親であるジャーメインと『
最愛の娘が悪質極まりない運営体制によって潰されてしまう前に、バロッサ家の一門を挙げて『
ムエ・カッチューアの発祥地であるミャンマーの有力選手と交流試合を開催するなど、バロッサ家は民間単位のスポーツ外交にも尽力してきた一族なのだ。本来は命懸けで守るべき所属選手の人生を手のひらの上で転がすかのように弄ぶ〝暴君〟を許しておけないことは、格闘技全般の勉強が未だ十分とは言い
日本MMAの先駆者を実父に持ち、『八雲道場』の広報活動も担当する未稲は彼より格闘技界の事情に詳しく、それが為にバロッサ家の娘との交流に対する
「文多もバロッサ家だけは敵に回したくねェってずっと言ってたけど、こいつは来るべきときが来ちまったのかも知れねぇな。熊本といえば室町幕府以来の名門、細川家の武勇が唸る〝火の国〟だ。同じ戦乱で牙を研いだ〝真田忍者〟の相手にとって不足はねェがよ」
「例の刑事が吹いた
「そうだよ、みーちゃん。図らずも杖村氏から教わった話が
「その結果、希更さんを辛い目に遭わせたら、メリッタたちを返り討ちに出来たとしても無意味じゃないかな。万が一にも熊本の武術界と本気で合戦みたいな事態に陥ったとき、バロッサ家とぶつかったら、キリくんも絶対に一生後悔するよ」
「二人とも先走んなよ! オレもそこまでガチな
東京から遠く離れた熊本に情報網など持たない『八雲道場』は、二人の情報提供者による断片的な情報に基づいた憶測以外に打つ手がなく、それ故に疑心暗鬼を生じてしまう。
探りを入れる電話が掛かってこないことを判断材料として、希更自身はライサンダー・カツォポリスを巡る企みや熊本武術界とバロッサ家の帯同とは無関係であろうと分析するキリサメであるが、信頼が揺らぎそうになる瞬間が全くないわけではなかった。
未稲が躍起になって打ち消そうとしているのも、己の
「先程も言った通り、
「だろ? そ~だろ? 何でもかんでも疑って決め付けるのは藤太だって良くねェって思うよな? 希更の
「お前たちが大きな陰謀を疑い、神経が過敏になってしまうのも、カツォポリスの
容器のフチに箸を置きつつキリサメと未稲を交互に見つめた藤太は、この二人に対する戒めも凛と張った声で発した。
ギリシャの経済危機は断片的な情報から想像するしかないキリサメであるが、明日をも知れない貧困にまで追い詰められた人間が手段を選ばないという〝意味〟は、この場の誰よりも
〝何〟を仕出かすのか読めないほど〝貧しき者〟は、相手に一切の感情を持たず全力で潰すしかない。情けも容赦も切り捨てなければならないくらい恐ろしいのである。
その実感と同時に、藤太の言葉がMMA選手が守るべき道理であることも分かる。胸に刻んだからこそ、一瞬の逡巡を挟みながらも静かに頷き返したのだが、未稲のほうは
希更との友情が壊れてしまう事態だけは避けるように促したのと同じ口で、電話の向こうのメリッタには
仮にも
〝何〟が気に障ったのかは余人には
「未稲やキリーのように利発ではないが、俺なりに頭を働かせてみた。師匠が何日も留守にする期間に狙い定めて
「何しろオレの一人旅じゃね~からなぁ。旅仲間の誰かが酔っ払った勢いでポロッとお漏らしってコトもあるだろ~よ。ンなコトにまでカリカリしてちゃ身が
「集団生活の中ではあり得る漏れ方ですが、岳氏の旅仲間は
「
「キリーに行き過ぎを注意した舌の根の乾かねェ内に、今度は〝騙し討ち〟の片棒を担ごうってか⁉ オレと気持ちが通じ合ってると思ったのに、お前はどっちの味方だァッ⁉」
「言わずと知れたこと。兄とは
味方という一言が鼓膜を打ったことで、先ほど藤太から掛けられた言葉が叱責ではなく心配だとようやく悟った未稲は、一瞬にして頬を真っ赤に染めた。
感情任せの浅慮が恥ずかしくなったのか、幼い頃からの慕情が込み上げたのか。どちらの思いが未稲の顔を沸騰させたにせよ、キリサメには甚だ面白くないのだが、
「
一方の岳は愛弟子と養子の懸念を理解しながらも、要請に従うのは不可能と示すかのように麦茶のグラスに浮かべられていた氷を噛み砕いて見せた。
「今日の一八時に起こることは、樋口社長の承認を貰ってはいても、『
「その『MMA日本協会』が〝裏〟から『
「親父の昔話に子どもたちを付き合わせるのは良くねェけどよ、プロレス団体の
「師匠も俺も最初から『新鬼道プロレス』の門下でしたが、鬼貫先生が
「
未稲が悲鳴を上げたくなるのも無理からぬことであろう。
「この混沌を一人で回す傑物ならば、『
「通話中にキリくん、一言も喋らないよう
「
日本では
ましてやプロレスパンツ一丁で日本に姿を現わせば、
事情の説明に赴いた先で元妻から傷だらけの姿にされた岳であるが、本人は背中などの引っ掻き傷を撫でながら「愛だよな、愛」などと恍惚に浸っている。その理由には三人とも
「それをアルフレッド氏が見逃すとは思えないし、ネット上の写真ならギリシャでも閲覧できるのか。文明の利器に興味が無いだけで、こんな見落としをしてしまうとは……」
「反省するなら、
国際電話を通じて〝騙し合い〟を演じる最中、この場には居ないという前提であった藤太にそれを忘れて声を掛けようとした岳は、軽率な行動を目突きで押し止められている。無意味に痛い目に遭わされたと頬を膨らませて見せたが、二本指を繰り出した
「アルフレッド・ライアン・バロッサがどのような罠を仕掛けてきても、僕らは受けて立つまで。人目に触れない〝裏〟で動き回るような卑怯者に白旗を揚げるつもりはない」
それぞれの理由から不安が先に立つ様子の三人を見つめても、キリサメ自身の心には波紋の一つも起こらない。覚悟を湛えた瞳で己が貫くべきことを見据え、ライサンダーの背後で蠢く〝影〟に向かって、「この僕が『八雲道場』を守る」と強く言い放った。
『平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件』――事件名が示す通り、先代から次期宗家に指名された師範と、流派開祖の子孫が道場の〝正統〟を巡って争うという極めて難しい訴訟を解決に導いたのがアルフレッドである。
長い歴史を持つ流派をどのようにして時代へ引き継いでいくべきか――古武術の伝承の
万が一の場合には攻め寄せられる前に先んじて熊本へ乗り込み、バロッサの
「
「僕もアルフレッド氏のことは顔だって見たことがありませんよ。……でも、自分の顔が〝表〟に出ない場所から群衆を操る人形使い気取りの怖さは、〝騙し討ち〟の経験と合わせて
「人形使いを気取る者――か。『サタナス』と一緒にするのは申し訳ない気もするがな」
「どちらもきっと
熊本に
アルフレッドを『七月の動乱』の首謀者に重ねるのであれば、彼の頭脳を頼るライサンダーは武器を得たデモ隊に
MMA選手としての評価は〝暴君〟の裁量である為、徒労に終わる可能性のほうが高いのだが、試合の結果次第では『
しかも、『
(……アルフレッド氏は『組織』のリーダーではなく、国家警察の前長官に重ねるのが正解か? わざとテロリストに社会の不安を煽らせて、炙り出した不穏分子の〝間引き〟を狙った〝人倫の敵〟と変わらない。……それを言い始めたら樋口氏も同類になるが)
ライサンダー・カツォポリスと同じ〝格闘技バブル〟を生き、これが過ぎ去った
互いの深い
「……キリくん、ひょっとして、今日――七月四日って……」
キリサメが紡ぐ一言々々に対し、藤太は
「……一五〇年ぶりの『
キリサメの選手活動をチーム一丸となって
それだけに『八雲道場』を狙った〝騙し討ち〟に過剰反応した理由も、「この僕が『八雲道場』を守る」という迷いのない一言も、心の奥深い
労働者の権利を侵害し兼ねない新法の公布に端を発する『七月の動乱』――「我らは自由だ! 常にそうあらんことを!」とペルー国歌の大合唱を引き摺りながら、数万という怒れる
デモ隊の中でも特に過激な一派へ不用意に近付き、挙句の果てには国家警察との銃撃戦にまで加わった
(亡霊でも
四者四様の
「――お子さん、プロレスや格闘技の漫画はお持ちではないですか? テレビゲームやアニメは? それら全部を目の前で全部焼いてください。焼き尽くすんです。そのときに初めて『お母さんは本気で自分の将来を考えてくれている!』と気付いてくれます。暴力に毒されない健全な子育てを目指したいのなら、それが思春期には一番の親心ですよ」
見ず知らずの家庭の教育方針を頭から否定し、自分が提唱するやり方以外に子どもを正しく導くことは不可能と信じて疑わない
*
北半球のドイツと南半球のブラジルの間に横たわる時差は、前者の
世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』は、そのハーメルンで二〇世紀前半に産声を上げ、サッカー
「仮に宇宙へ進出したとして、
匿名の
今なお笛吹き男の伝説が語り継がれるなど中世の趣を色濃く残したハーメルン――ドイツ北西部・ニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡の
新時代を拓くスポーツ用品の開発や
およそ六時間後――一八時に
四日前に行われた〝ラウンド一六〟――決勝トーナメント第一試合・対アルジェリア戦でも平日二二時の
食堂や会議室のテレビ、あるいは誰かのパソコンの前に集まり、日付を超える間際まで決着がもつれ込むという白熱の延長戦を見守った『ハルトマン・プロダクツ』の社員も、飲酒の有無さえ除けばスポーツバーの賑わいと大きくは変わらなかった。
当然ながらアルジェリアの出身者も本社に所属している。私情の面では複雑なものを抱えていたことであろうが、
ドイツ代表も自社で誂えた
そもそも『ハルトマン・プロダクツ』は
半世紀前の〝伝説〟であるが、一九五四年にスイス・ベルンで開催されたサッカー
その一方で、ドイツ
一つの事実として、『ハルトマン・プロダクツ』は祖国を混迷の時代へと導いた独裁政権に
本社ビルからは古びた刑務所を望むことが出来る。正確には建物の一部が改修を施された
名実ともにドイツ経済の一翼を担う『ハルトマン・プロダクツ』が首都ベルリンに本社を移さず、ハーメルンに留まるのは創始以来の〝原罪〟を背負っている為であろう――そのような批判を浴びせるメディアも決して少なくないのだ。
国内外の
いずれも〝原罪〟の〝償い〟に代えていると決め付けられ、事実無根ながら独占禁止法違反の追及を
佇まいに激動の歴史が表れた古老であり、同じ空間に
何しろ『ハルトマン・プロダクツ』がドイツ代表に提供した物と同じ
再来年に
自他に厳しい高潔さを社員の誰もが承知していればこそ、今日の〝トビアス会長〟は反応に迷ってしまうわけだ。無論、フィールドに立つサッカー選手の
若き日に
普段は秘書にハンドルを預けているのだが、今日は孫のギュンターが
座面にて折り畳まれた膝掛け用の
一方の壁を全面ガラス張りにしたことで中世都市を一望できるようになった執務室の中央には、樹齢一〇〇〇年の古木を輪切りにした一枚板の机と、これを挟む形でソファが設えられている。下品にならない程度に数を絞りつつ極上の調度品も並べられているが、いずれも貴賓を迎える為に用意した物であってトビアス本人の嗜好とは異なるのであろう。
執務机は部屋の最も奥まった場所に置かれているのだが、入室した人間がその瞬間に我が目を疑ってしまうくらい異彩を放つモノが背後の壁に掛けられていた。
長い歴史の中で幾度か変更された社章の原画を額縁に収めて飾ってある。公式に掲げられた物だけでなく、採用が見送られた候補作も含まれているが、それら全てがトビアスの実父――『ハルトマン・プロダクツ』創始者の肖像画を挟む形で並べられているのだ。
厳密には親子二人による共同創業だが、両者の仲が極めて複雑であったことはスポーツ界以外にも知れ渡るほど有名である。
第二次世界大戦末期、崩壊の一途を辿る枢軸国の戦線で惨敗を味わったトビアスは連合国側の捕虜として終戦を迎え、〝銃後の守り〟という特権から兵役を免れた職人の父は息子と同じ境遇の人々を軍需品を仕立てる為の〝労働力〟として工房に投入していた。
戦時下のドイツでは旧ソビエト連邦の兵士を中心に夥しいほどの捕虜が強制労働に追い立てられていた。いわゆる〝
その父親――ハルトマンの肖像画をトビアスは背にしている。工房で働く姿を映した一枚であるが、古老にとってはこれこそが背負うべき〝原罪〟の象徴なのであろう。
歴史という名の十字架を背負っていればこそ無意味な贅沢を戒め、己にも他者にも正しくあるよう強く求めて生きてきた。そして、それ故に存在そのものが一世紀にも及ぶ生き証人として畏怖されるのだった。
肥え太るどころか頬などは骨が浮き出るほど痩せこけており、〝スポーツマフィア〟の首領という不名誉な呼び名から連想される
瞳に宿る力は老いなど微塵も感じさせない。「あらゆる困難に挑戦すべき崇高な理由は情熱以外にない」という難民高等弁務官の理念に
その面会が半月ほど遅く、
オランダが誇る『格闘技の聖家族』の御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンも、他の社員たちと同様にトビアスへ掛ける言葉すら迷う有り
〝戦争の時代〟に独蘭両国は戦火を交えたが、ザイフェルト家とオムロープバーン家は永きに渡って盟友の絆を育んでおり、
この歴史の生き証人を物心が付く前から尊敬し、
二〇年近くも昔のことだが、両家合同のクリスマスパーティーが催された際、サンタクロースの役割を自ら引き受けたトビアスは扮装に力を入れ過ぎてしまった。ただでさえ大きな鼻を数倍に膨らませたような特殊メイクが子供心に恐ろしくてならず、プレゼントを手渡される
彼を乗せた車椅子の
同行していた最愛の
そもそも今日はサッカー
発端は数日前に『ハルトマン・プロダクツ』の傘下団体を襲った異様な事件であった。人間界の認識としては〝異常〟と表すのが正確であろう。
イギリス・ロンドンに本拠地を置きながら、〝オイルマネー〟と結び付いて中東にまで活動範囲を拡大させ、名実ともに
しかも、〝
『ラフレシア・ガルヴァーニ』という
特定の文化圏に限らず、古代と呼ばれる時代に戦士が打ち負かした相手などの人肉を喰らい、心身を増強したという伝説は世界各地に残っている。異常プリオンの摂取によって脳を蝕まれる危険性など考えもせず、
犠牲者たちが余りにも浮かばれない動機は、そのまま『ランズエンド・サーガ』の在り方を巡る問題となった。試合に臨む調子を整える為だけに
常軌を逸した犯罪ということもあって把握など不可能であろうが、選手の猟奇性を放置したまま出場させ続けた団体代表の責任を追及する声も、『ランズエンド・サーガ』ひいては『ハルトマン・プロダクツ』の内外で上がり始めている。
夢想だにしない巡り合わせというべきか、あるいは必然的な筋運びか――
無関係な事件と強引に結び付けて失脚が画策されるなど陰湿極まりないが、一つの事実として『ランズエンド・サーガ』の団体代表は悪魔の所業を繰り返し、故郷のアメリカから追放された男である。会長の面前では口に出さないものの、ストラールとて『ハルトマン・プロダクツ』の傘下団体を任せるには値しないと思い続けている。
その上、
選手の不祥事とはいえ、所属団体を事件へ直接的に巻き込んだわけではなく、そうである以上は代表に監督責任を問うのも妥当ではない。背後関係を整理するのも一苦労という複雑な状況に際して、
社長の座に
IT社会が生み出した新しきビジネスモデル――データサイエンス事業の一環だが、ありとあらゆるスポーツ・競技大会・
『格闘技の聖家族』と畏怖されるオムロープバーン家の御曹司らしく担当範囲の中心は格闘競技であるが、全世界に顧客を持ち、
オムロープバーンという〝血〟の
サッカー
そして、それ以上に
「
「日本に潜り込んで状況を転がしてきた身としては耳が痛いぜ――と言っても、『MMA日本協会』主導で企てた
「ギュンターも気鬱の種を想い出させないでください……。米蘭両国の間で
「市民の安全性が確保できない以上、国内の『ウォースパイト運動』を刺激し兼ねない格闘技
「アムステルダムひいてはオランダの秩序を守りたいという市庁舎の考えに共感できるからこそ敵対的構図を作り出さず、行政単位で解決できるよう交渉を進めてきたのですよ。勿論、例の〝公聴会〟の成り行き次第では行政訴訟に持ち込んで一気に白黒つけたいバールーフの声が大きくなると思います。……交渉は潰し合いとは違うと申しますのに……」
ドイツ時間一八時に至れば、会長室の壁に設置された大型の液晶モニターでは
その
サイトの管理者に削除される可能性が高いものの、「日本の格闘技界をグチャグチャにした樋口郁郎が、自動車事故にでも遭って強制退場するのが一番ややこしくなくね?」という過激な痛罵も紛れていた。これを目聡く見つけたストラールは己の
室内の会話や画面内の表示と同じように感想にもドイツの
それも無理からぬことであろう。先程まで液晶モニターから垂れ流されていたのは日本のMMA団体『
当然ながら、日伯の間に横たわる時差も数時間に及ぶ。七月四日のハーメルンは日本現地時間一八時から始まった『
三ヶ国を立て続けに横断するような時差計算が
現在の
ルワンダにとって二〇一四年七月四日は、国家的悲劇から解放されて二〇年という歴史的な節目である。これを記念する式典が
演説台の前に立ち、居並ぶ人々を幾度も見回しながらスピーチを披露しているのは、アメリカ・カリフォルニア州サンノゼから招かれたカトリックの老神父である。
ルロイ・トスカーニというイタリア系アメリカ人の男性は、
それはつまり、年齢もトビアスと大きく離れてはいないということである。独米の
「――本来、私のような者は平和の意義を確かめ合う式典にとって、最も招かれざる客であるのかも知れません。自分の仕えた国が太平洋の向こうの美しい田園風景に枯葉剤を撒き散らすのも、
スピーチの始まりで語られた内容は祝典に相応しいとは言い
当時の
こうした歴史的背景からルワンダではキリスト教が広く信仰されており、二〇年前に起きてしまった国家的悲劇――同じ大地に生まれた人々を惨たらしく引き裂いた内戦と
国内の一部教会が
記念式典は主にアフリカ諸国の要人たちが列席しており、欧米から招かれた賓客は決して多くはないのだが、カトリックの神父という〝立場〟を考えれば異例というほど珍しいわけでもなかった。
「どれだけの将兵がベトナムで命を落とすのか、仮に助かったとして残りの人生を後遺症と共に歩む生存者は全体の何割なのか――と、任務とはいえ、合衆国大統領に仕えていた頃の私は推定戦死者や傷痍軍人を個々人の顔ではなく数字の足し引きで捉えていました。その一方、アメリカという
『ユアセルフ銀幕』の小さな画面には映らないが、ルロイ神父によるスピーチはルワンダの
会長室に集まった人々は、ルロイ神父が
「傷痍軍人の不遇改善を公約に掲げて当選し、その熱意こそ本物であっても政策としての実現がままならない現政権は、今年の四月にも手を差し伸べることさえ間に合えば救われたはずの命を幾つも失ってしまいました。世代や職務の
ドイツ語の自動翻訳機能も設定はされているものの、『
昼に始まった記念式典は軍楽隊による演奏や、戦後生まれの少年合唱団を迎えた人気歌手たちのコンサート、軽快な太鼓の音色を背にした伝統舞踊などが披露され、数え切れない犠牲者たちを弔う厳かな祈りを胸に秘めながらも、〝アフリカの奇跡〟と全世界の称賛を集めた平和を生命の躍動と共に感じる華やかさの中で進んでいく。
「顔の皺だけ意味もなく増えてしまった私ですから、パラリンピックの父と名高いルートヴィヒ・グットマン博士が未来に託した『失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ』という言葉の意味も、実感と共に呑み込めてはいませんでした。パラスポーツに取り組む傷痍軍人の瞳にみるみる光が戻っていった理由を本当の意味で悟ったのは、ルワンダの〝誇り〟を分けて頂けたからに他なりません」
「それを私に教えてくれたのは、シロッコ・T・ンセンギマナ君との
式典会場のカメラは未だ本人の姿を捉えていないが、ルロイ神父が〝架け橋〟という言葉を
ルワンダ全土が悲劇の内戦へ突き進んでいく
四肢を自由に使える選手と同じ条件のもと、世界のMMAを牽引する
抜き身のサーベルを
彼らの姿が
その誇りを〝義足のMMA選手〟――ンセンギマナは背負っている。
二度と国家的悲劇を繰り返さない為に開催される記念式典に
『格闘技の聖家族』という〝立場〟としても〝義足のMMA選手〟が『NSB』に出場する意義の深さと大きさは理解しているつもりであった。水玉模様を散りばめた
しかし、その歓声をンセンギマナ本人が
彼は二度も『ウォースパイト運動』が起こしたテロに遭遇している。人格形成にとって大切な幼少期が内戦と共に
そのテロでは『NSB』の仲間を救えず、目の前で命を奪われてしまったという。喪失の傷が癒えていない情況で
(今日のリングに立てるかは心持ち次第……と無責任には申せませんね。私自身に置き換えてみれば『時間が解決する』という慰めは虚しいだけでしたが、シロッコ・T・ンセンギマナ――果たして似た者となるのか……)
これから暫くの
複雑な動作が必要となるMMAの試合で収集されたデータは、新たなスポーツ用義肢装具開発の礎となる。パラアスリートの支援事業にも力を注ぐ『ハルトマン・プロダクツ』の一員としても、彼のようなモニターなくして格闘技界全体が前進しないことを実感しているスポーツアナリストの端くれとしても、感謝と敬意を抱いていた。
『NSB』が標的となった銃撃事件を巡ってネバダ州
そして、〝平和な時代〟に
(……格闘家どもは皆殺し――と、『ヘンリー六世』の一幕を気取る『ウォースパイト運動』を糾弾する資格はない。……そう罵られても
『ジュリアス・シーザー』第三幕の佳境に
その画策に『ハルトマン・プロダクツ』も水面下で関与している。
それにも関わらず、樋口体制の『
ザイフェルト家の一族としてギュンターが背負う〝罪の十字架〟に寄り添わんとする覚悟も、一人の
これから日本MMAに襲い掛かる混乱も『ハルトマン・プロダクツ』にとっては全て想定内だが、その一方で〝外〟の目からすれば正当性など見えないことも理解していた。
「――既に日本に不安材料を抱えている状況で、『ランズエンド・サーガ』内部の問題にまで振り回されるとは……」
先ほど
〝格闘技王国〟と謳われながら、現在のオランダはその
これでは〝格闘技王国〟ではなく〝傭兵国家〟と嘆く声は身内からも聞こえているが、自国開催の
『格闘技の聖家族』が運営するオランダ式キックボクシングの名門ジム――『バーン・アカデミア』で腕を磨いたキックボクサーを中心として、
アメリカ
オランダで格闘技不遇の潮流を作ったのは、首都アムステルダムの市長であった。
これに対して同国の格闘家は用心棒を兼業することが多く、麻薬などの犯罪で道を踏み外さないよう目を光らせて彼らの稼業を取り仕切ってきたのが『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家なのだ。
その御曹司であるストラールはスポーツアナリストという〝本業〟に従事する一方で、亡き兄の親友たちと交渉の最前線に立ち、格闘技への規制解除をアムステルダム市に長らく働きかけてきた。『ハルトマン・プロダクツ』にとっても〝格闘技王国〟は重要な
複雑に入り混じった独蘭両国の情勢は板挟みとも
猟奇殺人事件はあくまでも選手個人の不祥事と捉え、団体代表の監督責任は追及しないという裁定を下しても『ランズエンド・サーガ』の社会的信用が
『ランズエンド・サーガ』の運営には関与していないのだから甚だ理不尽であるが、世界最大のスポーツメーカーという〝立場〟を忘れて
己の記憶力を少しも信頼できず、いつかどこかで生じた綻びから何もかもが滑り落ちてしまうのかも知れないが、現時点に
あるいは
その
『格闘技の聖家族』の御曹司も籍を置く『ハルトマン・プロダクツ』が悪魔という蔑称を免れない男に救いの手を差し伸べたことは、市庁舎側のスポーツ政策担当者から倫理を踏み外した悪徳への加担と
そもそも市長を交渉のテーブルに着かせるまでには、市議会の切り崩しを図って少しずつ味方を増やさなければならなかった。『ウォースパイト運動』のように格闘技に関わる全てを
先ほど
〝東西冷戦〟の時代や湾岸戦争に
そのマイク・ワイアットも『ハルトマン・プロダクツ』による『
今のところ、『ユアセルフ銀幕』の
〝暴君〟の振る舞いで日本格闘技界に
「――人を殺せる
『
格闘家の犯罪率や反社会的行為を根拠として、格闘技に対する法規制を布くオランダ行政ひいてはアムステルダム市は、同じ番組へどのように反応するのか。『ハルトマン・プロダクツ』が『
日本MMAの正常化を狙って『ハルトマン・プロダクツ』とザイフェルト家の謀略に
(ただでさえキリサメ・アマカザリを頼りにしなければならない状況が不愉快なのに、マイク・ワイアットのご機嫌取りまで考えなければいけないとは……。世間の皆様は存在するだけでも煩わしい人間をどうやり過ごしているのでしょうね……ッ!)
(……ああいうタイプほど会長は喜び勇んで手を組みたがるから敵いません……)
言葉巧みに『ハルトマン・プロダクツ』から協力を引き出そうとする煮ても焼いても食えないマイクをストラールは忌々しい〝天敵〟と思ってきたが、〝トビアス会長〟との対面を一等鋭い腹立たしさと共に想い出してしまうのは、『トビー』などと気安く
トビアスに対し、そこまで礼儀を欠いた態度を取る人間をストラールは他に知らない。別荘といった私的な場所でさえ呼び捨てにするくらい打ち解けて接する者は
年齢不詳の若々しい顔立ちとはいえ、彼の故郷であるアメリカにも銃を向けた〝戦争の時代〟の生き残りからすれば、
ゴーグル型のサングラスで双眸を覆い隠していることもあって、
不意に
〝その日〟のトビアスが纏っていたのはサッカードイツ代表の
全く同じ物を胸元で煌めかせるストラールは、マイク・ワイアットが〝何か〟を口にする
本来、オムロープバーン家を継ぐはずであった
「――お
『格闘技の聖家族』の御曹司からぶつけられた戒めに対する回答の代わりでもあったのだろうが、それ以上にトビアス・ザイフェルトへの純粋な敬意が
トビアスの傍らに控えるギュンターから
その言葉を受け止めてまで個人的な反発心を優先させるようでは、『格闘技の聖家族』の御曹司などとても務まらないのだ。
〝戦争の時代〟を敗戦国として終えたドイツは、戦勝国による占領統治を経た
世に言う〝東西ドイツ時代〟であった。これ以降の国際競技大会は他国の思惑と勢力に母なる大地が引き裂かれたベトナムと近似する状況下で執り行われることになったのだ。
一九六一年に至って東西二ヶ国の完全な分断を象徴する『ベルリンの壁』が建設されると、〝向こう側〟との境界線を超える行為は〝脱出〟と
言わずもがな、
創業者親子の確執を抱えながらも、戦後の『ハルトマン・プロダクツ』は
それはつまり、西ドイツの経済発展を支え、政財界に戦前と大差のない影響力を持ったという意味でもある。トビアス・ザイフェルトが越境を試みようと誰にも止められまい。
ニーダーザクセン州は東西ドイツの国境に位置している。それ故にハーメルンの『ハルトマン・プロダクツ』は、分断された〝家族〟の架け橋を自負していたのであろう――マイクが読んだ古い新聞では、『ベルリンの壁』など意にも介さないトビアスの信念を〝スポーツ利権〟の蚕食とは異なる視点から評していた。
そのトビアス・ザイフェルトが〝難民選手団〟に興味を示さないはずがなく、難民高等弁務官には必ず協力を得られるという勝算があった。だからこそ、『ハルトマン・プロダクツ』と合同で実施した難民キャンプへの視察を終えた
「オレの
「……この上ない敬意を
世界最大のスポーツメーカーを
彼女も難民キャンプの合同視察に参加し、次いで
〝格闘技王国〟の名折れと呼ばざるを得ない窮状の打開に向けて、オムロープバーン家は合同視察の最中にマイクの協力を取り付けている。『ハルトマン・プロダクツ』の会長と難民高等弁務官の会見を報じる際にはその件も差し込む段取りであり、アムステルダム市長に
オランダが抱える憂慮も酌んだのか、右手を掲げることでマフダレーナを制した〝御老公〟――トビアス・ザイフェルトは、そのままマイクに握手を求めた。
「トビーにとっちゃ『フロスト・クラントン』は許しちゃおけねぇ人間の筆頭みてーなモンだよな? オレが生まれたアメリカじゃ名前を出すだけでも白い眼で
肉厚の手を強く握り返しながらマイクが口にしたのは、意外にもフロスト・クラントンのことであった。難民選手団の結成を巡って〝
フロスト・クラントン――
所属選手たちをドーピングで汚染し、『NSB』を世界最高峰のMMA
フロスト・クラントンが
〝クラントン政権〟の時期に深刻な負傷で現役引退を余儀なくされた選手の顔触れを確認すれば瞭然であるが、彼は己と同じ白雪のような肌の色を持つ人間にしか〝
『ハルトマン・プロダクツ』に連なる競技団体であり、
団体代表としての適性も含め、トビアスの一存で決められたフロスト・クラントンの処遇は『格闘技の聖家族』の御曹司も理解に苦しんでいた。それは
そもそも『ハルトマン・プロダクツ』は『NSB』とスポンサー契約を交わしたことがない。それどころか、同団体はスポーツ
「要するに人種差別のクソ野郎を野放しにしておくような偽善者とは同じ夢なんか
「バールーフ、……私たちはオランダの
「生憎と言葉を選んでコレだぜ、ストラール。誰も彼も仲良しこよしの懇親会のつもりでガン首揃えたワケじゃねぇんだろ。上っ面だけの馴れ合いなら難民高等弁務官殿も
マイクの意図をすぐさまに理解し、眉根を寄せる三人に向かって自分なりの解説を披露したのは、
この場に居合わせた者たちの中で『ハルトマン・プロダクツ』の社章を着けていないのは、面会を求めた側の
一九六四年東京大会で日本代表を
この会見に限って執務室の会話は全て英語で行われているが、それはアメリカの
そのマイク・ワイアットとバールーフは視察先で初めて挨拶を交わしたばかりであり、気心の知れた仲とは言い
肩越しに自分のほうを仰いだマイク当人とも互いに親指を立て合っている。それが答え合わせであった。
トビアスの面前にも関わらず茶菓子を手づかみで食べ、粉砂糖の付着した指を
トビアスの怒りを買い、退席を求められても不思議ではない質問を
これから〝
トビアスの返答次第では、
狂気という二字以外に表す
それ故に
バールーフに至ってはフロスト・クラントンの所業を指して「人種差別」と直接的に言い切っており、これを聞き咎める者は誰一人としていなかった。
「人間は産声を上げた瞬間から過ちを犯し続ける生き物だ。生まれた国も育った土地も、肌の色や思想とも関わりなく、ありとあらゆる誰もが等しく間違い、大なり小なり罪を抱えて生きていくしかない。そうであるからこそ、過ちを贖う機会が〝天〟より許されるのではないか。法に基づき、罪を裁く木槌を持たぬ者がどうして〝天〟の思し召しを否定できようか。それ即ち、
無論、罪深き歴史をトビアスと共有していない人々からすれば想像も理解も難しい。フロスト・クラントンが暴挙にさえ出なければ人生が狂わされることもなかった『NSB』の選手は決して少なくないのだ。
望み通りの勝利を収められず、苦悩の谷底に落ちていたアイシクル・ジョーダンは
「真人間になってやり直すコトが罪滅ぼしなのは、法の秩序に支えられる社会じゃ当たり前だがよ、クラントンは刑事罰で
「ムシの良いハナシなのは誰にも否定できねーわな。オレ個人の気持ちをぶっちゃけても構わねーなら、どんな理由があるにせよフロスト・クラントンを野放しにしておく限り、
「つい先ほどストラールから言い方を考えるように注意されましたよね、バールーフ。ワイアットさんも責任ある立場なのですから、それ相応の振る舞いをくれぐれもお願い申し上げます。彼の教育にも良くありません」
「教育に悪いって! レーナよぉ~、年上にぶつける注意じゃね~だろ。我らがアムステルダムの市長サンにも永遠の少年みて~に呼ばれたけどよォ~」
バールーフがマフダレーナから言葉遣いを咎められている間に、
それでもソファから立ち上がろうとはせず、トビアスと視線を交わし続けている。
数え切れないほど多くの人間に
〝誰か〟の手によって過ちを償って生き直す機会が用意されたとしても、実害を被った誰もが断罪を求め、「復讐は何も生まない」という美辞麗句で犠牲者の叫びが不当に退けられたときには、
恨みを晴らすことで初めて癒える痛みもあれば、未来へ踏み出せる一歩もある。
マイク・ワイアットが
マイクが協力を要請しようとしているリオオリンピック・パラリンピックの難民選手団結成も、人間の可能性を信じていなければ始まらない。トビアスの意志を否定することはその交渉を自ら打ち切るようなものだ。難民高等弁務官を名乗る人間にとって〝歴史の生き証人〟が辿り着いた〝答え〟は、大いなる
無論、難民高等弁務官ゆえにトビアスの〝全て〟を受け
トビアスがスポーツ界ひいては格闘技界に進むべき道筋として示す〝正しいこと〟とはザイフェルト家と『ハルトマン・プロダクツ』を基準に設定されたものであり、国際社会に
深い慈悲を持つ一方、
企業間による〝経済戦争〟では個人の命さえ
彼が掲げる〝正しいこと〟に
自分を
ザイフェルト・オムロープバーン両家の御曹司を始めとする次代の担い手は、いずれ必ずフロスト・クラントンの偏った思想が暴走すると危険視しており、傘下の
〝
「贖罪なくして天地人のいずれもフロスト・クラントンという男は受け入れないだろう。恨みや憎しみを抱く者ほど見失ってしまうが、十字架を背に負えるのは過ちを犯した本人のみ。それを横から奪い取る資格など他の誰にあるだろうか。背に肩に食い込む苦しみが英劫に続くか、
「……〝天〟の
「復讐するは我にあり――と、神は仰せになられた。断罪の剣が人の手に余ることは聖書で説かれている通りだ。それでも〝誰か〟を火刑台に掛けなければ何者も救われないというのなら、その任を引き受けるのは私一人で良い」
「そのテの覚悟は感心しねぇぜ、トビー。身代わりを縛り首にしたって根本的な解決にはならねェじゃねーか」
「そう遠くない未来に〝天〟の
「変わらねェときは、そうなるように
「極めて単純な殺人事件が起きたとする。状況も物証もそれを完全に証明しているのに、犯人の行動に謎めいた部分がたった一つあるだけで、〝外〟の目は黒幕や陰謀を探してしまう。それと同じだ、バールーフ君。
「そして、『悪は滅んだ』っつってトビーの死を喜ぶ人たちは、
罪深き者に救いの手を差し伸べる
史上最悪の独裁者は自己判断が未熟な少年に偏ったイデオロギーを刷り込み、〝敵〟を躊躇なく殺戮できるよう仕立てる手段にスポーツを利用した。トビアスは独裁政権の勝利に命を捧げるという洗脳に協力した容疑を掛けられ、特に厳しく尋問された。
希望の一欠けらすら手放しそうになる日々であったが、捕虜たちが押し込められた建物の窓から差し込む光の温かさに生きている実感を想い出し、愛してやまない工房に必ずや
トビアスは戦後六九年に
この世の地獄に差し込む陽の光で心が洗われ、悪夢から醒めたことを〝天〟に感謝したとも同じ手記で書いている。それ故、捕虜を非人道的に扱った父が許せなかったという。
その
ストラールも介助式車椅子の
孫の
だが、偉大な背中が引き受けてきた〝全て〟は、ザイフェルト家の一族としてこの場の誰よりも理解している。いずれはその役目を自分が引き受けるのだ――その覚悟が宿った目をギュンターは
一方でマフダレーナは唇を噛み、今にも決壊しそうな
中世に〝薬草魔術〟を極めた彼女の祖先は、人権の概念が希薄な時代である点を差し引いても残酷極まりない迫害を受け、祖国を捨ててオランダに流れ着いた。フロスト・クラントンのような人間に対しては、その身に流れる〝血〟が殊更強い嫌悪感を生み出し、これを赦すという〝御老公〟の判断にはどうしても賛同し兼ねるわけだ。
鼻孔に心地好く染みるような薬草の
『格闘技の聖家族』が先頭に立ち、発起人であるアムステルダムひいてはオランダという
法規制が理由を欠いた不当な弾圧であれば、相応の措置を取ったが、
アムステルダム市長やスポーツ政策担当者との交渉に臨む
〝格闘技王国〟を巡る情勢がフロスト・クラントンの境遇と似通っているとは思わないが、これを心の中で念じるほど自分より優位な〝誰か〟の
「ワイアット君――いや、マイク君は『人は人を許せる』という理想がジョン・レノンの歌にしか無いわけではないと
「ひょっとすると御老公はンセンギマナ選手のことを仰りたいのですか? 『NSB』と契約する総合格闘家――内戦のルワンダを生き抜いた義足の拳法家のことを……」
思わず口を挟んでしまったストラールに対し、トビアスは先ほどマイクとバールーフが交わしたやり取りを真似て右の親指を垂直に立て、片目を瞑って答え合わせに代えた。
差し向かいのソファに
ンセンギマナの故郷を死で塗り潰した悲劇は、同じ国で生きてきた人々が互いに対する憎悪に呑み込まれたことで勃発し、一九九〇年から数年に亘って灼熱の大地を引き裂いた内戦を経て、一〇〇日間にも及ぶ
民族間の対立を煽り立てる歌声に
ンセンギマナは左太腿から下にMMA用の義足を装着して『NSB』の
それでもルワンダという
無論、
人は人を許せる――これを一つの大きな夢として語ったトビアスが国家的悲劇の生き残りに関心を寄せる理由は、本人に確かめるまでもあるまい。義足のンセンギマナが四肢を十全に使える選手と同じルールに基づいて〝心技体〟を競う試合は、それ自体がトビアスが思い描く理想の具現化でもあるのだった。
「……心変わりしていないかどうかは、甚だ疑問ですが――」
水を差しそうになったストラールは無粋を働く前に口を噤んだ。ンセンギマナは格闘家との相互理解を拒絶する『ウォースパイト運動』が仕掛けてきたテロ攻撃に巻き込まれ、半月前の事件では
『ハルトマン・プロダクツ』の
挨拶すら交わしたことのない
そのストラールが黒いレンズに映しているのは、
やはり目配せ一つで
「お
介助式車椅子のハンドルを握るギュンターは、十字架を背負い続けてきた偉大な背中を尊敬の眼差しで見つめているが、御曹司という〝立場〟から肉親の情を隅に追いやってでも確かめなければならないことがあった。
水面下の工作もフロスト・クラントンの独断によって始まったのだ。これは中東の〝オイルマネー〟への接近も同様であり、新たな資金源と勢力拡大を背景に『ハルトマン・プロダクツ』の支配から独立を画策しているように思えてならなかった。
最悪の
「
「手本なら間に合っていますし、俺の目には〝猫かぶり〟にしか見えませんよ。手綱を握れている内に化けの皮を剥いだほうが
「
「それに乗じてクラントンから一方的に
「二人が憂慮するような事態は『ハルトマン・プロダクツ』にも都合が悪過ぎるんじゃありませんかね、お
「そのときに裁きを下すのは〝天〟ではない。神罰に期する必要もない。自分一人で進む道を踏み外すのではなく、大勢に開かれた道が歪められようとしたときには、志ある誰かが必ずこれを阻止する。フロスト・クラントンが今、
「先ほどのお言葉をご自分で引っ繰り返していますよ、お
「時代が動くとはそういうことなのだ」
それは隣人愛による寛大な措置というよりも、九〇歳に手が届く年齢に似つかわしくない淡い願望であるが、全世界を敵に回すほど暴走した独裁者の高笑いが今も鼓膜にこびり付いている〝歴史の生き証人〟の言葉だけに、この場の皆の心に重く響いていた。
車椅子に乗ったトビアスを追い掛け、爪先立ちを維持したまま両膝を開くような姿勢で腰を下ろし、同じ目線の高さに合わせた
〝笛吹き男の伝説〟の名残を感じ取れる街並みを留めたまま、ドイツの大地を夥しい血で染めた激動の歴史を積み重ねてきたのがハーメルンである。第二次世界大戦に
空襲や砲撃にも屈することなく歴史の移ろいを見守ってきた景色を眺める
その果てに矛盾の二字を体現する存在と化したトビアスにとって、どれほど憎んでも足りない実父と二人三脚で工房を始めたハーメルンは、どうあっても離れ
そして、それは『ハルトマン・プロダクツ』の本社を
「――親は子どもから教わってばかり。そして、ンセンギマナ君は私の自慢の息子です。そんな風にご列席の皆様の前で胸を張ると、一緒に招かれた『アメリカン拳法』の
ルワンダの記念式典に招かれたルロイ神父の言葉が鼓膜を打った瞬間、ストラールの意識は半月前の追憶から七月四日の会長室に引き戻された。
インターネット画面の老神父は、〝パラスポーツとしてのMMA〟に
同じモニターで先程まで垂れ流されていた『
日本で最大の勢力を誇り、来年末には『NSB』との合同大会開催を控えた『
『スーパイ・サーキット』が人間の限界を超える
岩手興行に
明確な宣戦布告である。メインスポンサーを敵に回せば団体の運営自体が立ち行かなくなると子どもでも分かりそうなものであり、それすら見誤るほど目が曇ったのかと、ストラールも
彼がMMA団体の
通すべき筋さえ踏み
同じ危機感を共有していればこそ『ハルトマン・プロダクツ』も樋口体制の『
「
「そもそも『戦争の犬たちを解き放て』と号令したのは〝誰〟なのか。そして、
「は、初恋じゃねぇし! ていうか、対日本MMAの
半月前の会見を声なく振り返る前からストラールの胸中を見抜いていたであろう
「二人の言う通りだよ。ピューリッツァー賞レベルの情報提供を受けてキリサメ・アマカザリに対する策を講じたというのに〝天〟はまだ『ハムレット』の如くあれと仰せだ」
七月四日の日本では現地時間の昼頃に銃撃事件が起きていた。被害者の頭部が散弾で吹き飛ばされたのは、『
しかも、銃撃犯が使用したのは、自国の軍や世界各国の警察に兵器を提供するイタリアの巨大軍需企業――『ロンギヌス社』から弾薬と共に外部へ流出した〝
正確には開発段階の〝試作銃〟と、汎用性の高い工作機械でも部品を作り出せるように翻訳が施された設計図に基づいて模造された物だが、ハンドバッグなど日常の風景に〝擬態〟する形状であり、本体内蔵のAIとイヤホン型の誘導
胸元で煌めく〝
発覚直後に拳銃自殺した流出の張本人が『ウォースパイト運動』の過激活動家であったことも、
日伊二ヶ国で別個に発生した二つの事件が『ウォースパイト運動』という一本の線で繋がってしまった場合、それは〝戦争の犬たち〟としか表しようがなくなる。ギュンターが述べた通り、この文言は『ジュリアス・シーザー』に登場したものであるが、同じシェイクスピア劇『ヘンリー五世』にも似たような表現が用いられ、飢餓・剣・戦火という
これらに匹敵する蛮行が日本で始まろうとしているのだ。『ロンギヌス社』の
その一方で、『格闘技の聖家族』の御曹司は『
いずれにせよ、日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟が怒りの炎で取り巻かれるほど『飢餓・剣・戦火』とも
「――こっちの交渉に悪影響が直撃するなら消えてもらうしかねぇよ。MMAとあんま関わらねぇ
不意にストラールの脳裏に響いたオランダ語は、この会議に同席していないバールーフから以前にぶつけられた一言である。アムステルダム市長が格闘家の不道徳を樋口体制の『
それこそが
「――だって、そうだろ? 無駄に名前の売れてるヤツが大バカをやらかしてみろよ。口を揃えて『それ見たコトか』ってカマしてくる市庁舎の連中が目に浮かぶぜ。格闘技の
並々ならない期待を寄せている
己の領分を弁えない振る舞いという
〝平和な時代〟のルワンダをスピーチで讃えるルロイ神父の
フォルサム刑務所の窮状を暴き立てる書簡がアメリカの格闘技記者から『ハルトマン・プロダクツ』の本社に送り付けられたのは、ストラールと同じ景色を
差出人はマリオン・マクリーシュ――その記者とはストラールも旧知であった。スポーツ用ヒジャブの発表会でザイフェルト家の御曹司と共に取材を受けたこともあるのだ。自ら見聞きした
彼から届いた書簡は、偶然にもフォルサム刑務所を訪れたその日に暴動を目の当たりにしたという近況報告から始まっている。事件自体は『ハルトマン・プロダクツ』でも発生直後に把握しており、ボクシングを通じた更生プログラムの指導員を務める往年のヘビー級
そのヘビー級
生涯の師匠が重傷を負わされていたなら、ガスディスクは腰に巻いたベルトすら投げ捨てて報復を仕掛けたことであろう。地位にも利権にもこだわらず、ボクシングを
ストラールもこの業務を通じてガスディスクと交流を持ち、〝塀の中〟で刑に服している
スポーツアナリストとして貢献する相手に私情を挟んで接することは職務倫理に著しく反すると
無論、
受刑者や刑務官に混ざっていた『ウォースパイト運動』の活動家による騒乱にも、〝同志〟たちの間で神格化されつつある『サタナス』の影響があった。
獄中闘争のつもりであるのか――〝IT長者〟であった頃に蓄えた使い切れないほどの財産を惜しみなく注ぎ込み、格闘技の被害者全てを救済する基金を立ち上げたことで、アメリカでは貧困層を中心に『サタナス』の声に耳を傾ける人間が増え始めているという。
それは格闘技を人権侵害と
ンセンギマナが巻き込まれた二つのテロ事件を
全世界に
別の
〝魔王〟が絵図を描くまでもなく、理性の
格闘技という『平和と人道に対する罪』を裁く為ならば、己の人生さえ犠牲にしてしまえるよう『サタナス』によって脳が書き換えられている――それ以外に伝える
フォルサム刑務所の内部で急速に進む〝汚染〟を〝
(……マクリーシュさんの
かつてバールーフが口にした〝始末〟という二字を振り返ったことで別の記憶まで揺り動かされ、マリオン・マクリーシュの書簡に辿り着いたのだが、格闘技界から排除しなければならないのは日本の樋口郁郎だけではないのである。
戦禍の比喩とも解釈される〝戦争の犬たち〟を放ったのは、本当は〝誰〟なのか――先ほどマフダレーナが口にした一言が〝始末〟すべき標的をストラールに問い掛けていた。
「――この間、バールーフから言われた物騒極まりないことを考えていたのでしょう。確かにお
「第一、ストラールがそこまで思い詰めなくても良いんだぜ? 罪科を数えて背負うのはザイフェルト家の
「……初恋をからかわれて情けなく大慌てするのが私の親友だよ。
あるいはザイフェルト家とオムロープバーン家の間に刻まれた一つの負い目に、
その優しさの為にザイフェルト家の十字架を背負えなくなり、親友の心が壊れてしまう事態だけは絶対に避けたい。今でこそ御曹司の〝身分〟に
(もはや、刑務所の
ハーメルンの一角に覗く〝戦争の時代〟の名残と、書簡の中で語られた〝
フランスを代表する医療・福祉機器メーカーの経営者一族にして、同国スポーツ界の名門――ザイフェルト・オムロープバーン両家と同じく〝
皇帝ナポレオンの再起を疑わない信奉者――いわゆる〝ボナパルティスト〟が企て、結局は失敗した奪還作戦がフォルサム刑務所で再現される事態を案じたストラールたちも、当初はバッソンピエール家を
『サタナス』が〝歪んだ正義〟の殉教者に
マリオン・マクリーシュ記者の情報提供によれば、常軌を逸した犯罪捜査に協力する見返りとして『サタナス』には様々な〝特権〟が与えられているという。超法規的措置としか表しようのない状態を把握したストラールは、かねてから抱いていた不安が現実のものとなったことに眩暈を抑えられなかった。
直接的にせよ間接的にせよ、犯罪捜査に関して『サタナス』と相対している司法当局の折衝役が〝
無条件で〝
以前から不思議でならなかったのだが、〝IT社会の申し子〟である『サタナス』が稀代の天才だとしても、〝空飛ぶホワイトハウス〟とも呼称される
格闘技の影響によって人類の暴力性が膨張し続けた末に、〝第三次世界大戦〟が引き起こされるというのが『ウォースパイト運動』の一方的な主張であるが、『サタナス』の存在こそが新たな〝戦争の時代〟を招くとしか思えない。〝
これを誇大な取り越し苦労と切り捨てられない恐怖が
「シェイクスピアとフォーサイスじゃ意味合いが微妙に異なるが、流出事件の収拾に『ロンギヌス社』が差し向けた連中もれっきとした〝戦争の犬たち〟だ。もしかすると『サタナス』の喉元へ真っ先に銃口を突き付けるかも知れねぇぜ? 冗談で場を和ますつもりでもねぇけど、マジで双方がぶつかったら、やっぱり〝同族殺し〟になるんかな」
「民間単位のテロ対策で売り出していた
「レーナも腹黒い相談が板に付いてきたなァ」
フォルサム刑務所の女性施設に収容された『サタナス』は、我が子の為にも刑を全うしようとする母親たちをも過激思想で洗脳し、己の手駒に変えていることもマリオン・マクリーシュは書簡の中で訴えている。
一方の樋口郁郎は日本で活動する女子MMA選手や、これを支える
「俺たちが黙っていても、
「何も申し上げていないけれど、ここで冷やかすほどわたしも無神経ではありませんよ」
「本場が世話した〝戦争の犬たち〟には、日本国内の『ウォースパイト運動』に火を点けてくれやがったバカの眉間にも一発喰らわせて欲しいもんだぜ。……いっそ誘導でもしてみるか?
「こういう場合、被害を最小限に抑える選択肢も限られますからね。……
マフダレーナと語らう中でギュンターが触れた通り、作家のフレデリック・フォーサイスは傭兵の比喩として〝戦争の犬たち〟という言葉をシェイクスピア劇から借りている。
本人たちは気付いてもいないのだが、ザイフェルト家の御曹司と決して浅くない接点を持つ
(法を超え、銃を
マリオン・マクリーシュの書簡ではなく〝
『サタナス』が担当弁護士以外に〝塀の外〟との繋がりを持っていることは驚かない。問題は〝誰〟と結び付いているか――ストラールたちが『
『
諸事情があって飛行機の利用が難しい為、密航か、それに近い手段でアメリカ西海岸を発ったのであろう。半月近い空白の時間を経て〝彼〟が関西で目撃された直後に、
『MMA日本協会』の
日本に
『
二〇〇〇年代半ばに『
ストラールの記憶力は捧げるべき〝誰か〟を脳から風化させてしまったものの、左右の鼻孔を貫く鼻輪のようなモノが指輪であることは辛うじて忘れていなかった。血の色が極端に薄い唇の真上で燃え上がるような輝きを放っているのは本物の
何本かが長く飛び出した無精髭だらけの顎と首の境い目が分からない豊かな恰幅は、ストラールの記憶に留まっていた〝過去の姿〟と大阪港で隠し撮りされた写真の間に別人のような錯覚をもたらすには十分でもある。有史以来、最も愛嬌のない
両頬などは頬袋を持つ動物のように膨らみ、だらしなく垂れ下がっていた。顎からも
しかし、皮膚が剥き出しになる形で頭部の両側を刈り上げた大きなモヒカンは、そこかしこで起きた毒々しい化学反応が規則性なく入り混じるドブ川のような色合いと共に同一人物であることを強烈に訴えていた。
老化現象とは明らかに異なる毒々しい色合いのシミが細かく飛び散った顔は、昔日と変わらず人間らしい表情を浮かべていない。〝何〟を捉えるでもなくただ見開かれているだけの瞳からも察せられたが、彼の心は今なお乾いている。
日本MMA時代の〝先輩〟である
光沢が鈍いジャケットもズボンも、野ざらしの死体にへばり付く苔に近い
肘から袖口にかけて山裾のように大きく広がっていく奇抜な装いということもあって、芽が出ないまま新陳代謝ばかり悪くなったパンクロッカーとしか思われなかったはずだ。左右の耳輪はその形に沿いながらリング状のピアスが隙間なく並び、耳介に至っては裏側から皮を貫通した三角錐の物が片側ごと逆三角形を描くように付けられていた。
耳朶に装着した球体のピアスは写真を通すと軽量に見えるのだが、実際には相当に重いようで、これに引っ張られて耳の形が拉げていた。
(私の記憶が確かなら『
ファスナーを壊してしまう体格と自覚しているのか、大陸の
肥大した胃袋がそのまま突き出したかのような腹にベルトは締められず、ズボンも前後左右に配置された何本かの紐でジャケットと結び合わせ、サスペンダーと同じ原理で吊り上げていた。構造としては
爪先の部分は極端に反り返っており、まるで
写真では分かりづらいが、暗褐色の靴底は異様に分厚い上、『
写真を見る限りでは手荷物の一つも携えていないが、長い鎖で繋がれた
(……『
『
ギュンターがオブザーバーとして参加した『MMA日本協会』の会合に
「かつての〝最年少選手〟がとうとう日本に姿を現したことは、
俄かに
そのギュンターは幾度か目を瞬かせた
往年のボクシングヘビー級
プルトニウムの密売まで取り仕切るなど無理な注文にも応える〝調達屋〟として裏社会で名を馳せ、犯罪組織の情報提供という司法取引でようやく終身刑まで減刑されるような危険人物だ。『ウォースパイト運動』の〝
一方で『
シンガポールでMMAの新たな
誰より不気味でならないのは、〝スポーツファンド〟として『
〝世界長者番付〟に名を連ねる
差し金と真意はともかくとして、本当に〝
伸縮性に富んだラバーにも関わらず張り裂けそうなジャケットの背面には、金属片を組み合わせた装飾が施されている。舞い上がることも叶わないのに広げられた片翼の骨だ。
地べたに転がった脳味噌へ肘に当たる部位が突き刺さり、そこに繊維の根を張った不気味な意匠には「病魔を崇めよ」という悪魔信仰の如き英文まで添えられている。
大抵の港湾区域と同じように大阪港も火気厳禁と『格闘技の聖家族』の御曹司は想像しているが、『
肘の下から葉巻を挟む指先に至るまで、左右の手は何らかの薬品や血を吸ったとしか思えない
「――無限の
グリーグの『ペール・ギュント』に
「……
ザイフェルト家が背負う〝罪の十字架〟と相通じる思いを老神父に感じ、『ユアセルフ銀幕』の
「あれは哀しい男だ」
孫たちの間で飛び交う物騒な言葉の数々から日本格闘技界を実効支配する〝暴君〟への殺意を感じ取ったのか。それとも〝
荒唐無稽な物語や格闘技に我が身も捧げる登場人物を死すら恐れない潔さの〝美徳〟として昇華する〝スポ根〟漫画の大家――
心身の崩壊をも省みずに闘い抜いた果てに再起不能や絶命という壮烈な結末を迎える師匠の〝世界観〟を国内外の批判を押し切ってまでMMAのリングに再現し、体重別の階級を設定しない完全無差別級の試合形式といった〝スポ根〟さながらの危険な体制を維持する為に敵を作り続け、ついには身近な味方まで離れてしまったのだ。
この〝暴君〟を憎悪する数多の敵が日本国内でテロ活動に走れば、二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックの開催が危機的状況に追い込まれ兼ねない。政府も東京都も、彼のことは〝国家安全保障上の問題〟と
現地時間十八時から始まった『
『平成』を二六年も過ぎても『昭和』を終えられない男を〝戦争の時代〟を背負い続ける『ハルトマン・プロダクツ』が葬ろうとしているわけだ。運命の二字こそ相応しい巡り合わせに思いを馳せ、トビアスは樋口郁郎を「哀しい男」と評したのかも知れない。
トビアス・ザイフェルトは問題を先延ばしにする日和見主義でも、厳つい
そのことに思い至ったストラールであるが、トビアスの背中に答え合わせは求められなかった。振り返る寸前になって彼が見つめるモニターから大歓声が押し寄せてきたのだ。どうやら記念式典で
これに対して、正面の窓ガラスが映し出すのは三人の
どこまでも愚かで果てしなく哀れな樋口郁郎も、生きているだけで世界を〝汚染〟していく『サタナス』も、速やかな抹殺は決定済みであり、その順番を
一〇〇日にも及ぶ
「――
(……私はシロッコ・T・ンセンギマナのように内戦を経験していないし、〝裏〟の
オランダ式キックボクシングの発展に〝全て〟を注いできた
オランダ全土の格闘家たちを束ねる〝顔役〟の父には、オムロープバーン家の政治的素質を一族の誰よりも色濃く継いだのが
〝
(
フォルサム刑務所へ取材に赴いたマリオン・マクリーシュ記者は、『サタナス』がザイフェルト・オムロープバーン両家を侮辱した旨も書簡に書き添えていたが、
〝誰〟をどのように抹殺すれば、最も高い効果が得られるのか――これを憎悪の感情ではなく損得で勘定する自分は、虚しさすら覚えるくらい父と似ている。目を掛けているソマリア難民の
心を邪悪な衝動に委ねる必要もなく、ごく自然に外道の所業が
キックボクサーとして〝格闘技王国〟に殉じた母と兄は、妬いてしまうほど気持ちが通じ合っていた。二人の犠牲ひいては執念の果てにオムロープバーン家の宿願が完成された〝事実〟に対し、これを己の
それが同族嫌悪であることは『格闘技の聖家族』の御曹司にはどうあっても認め
(……オムロープバーンの
(続く)
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