その9:ドグマ・七月四日(二)~プロアスリートの労働者性と格闘技の法規制――150年目の池田屋事件・祇園祭連続銃殺事件/北の魔王の宮殿にて・【エス】の深淵/2014年サッカーワールドカップ・毒手暗躍

  九、Let Slip the Dogs of War Act.2



 一九五〇年代半ば――およそ六〇年も昔のことであるが〝カントリー音楽ミュージックの王様〟と名高いジョニー・キャッシュが歌の題材に選び、受刑者たちの歓声や口笛を収録する形で公開録音も敢行されたフォルサム刑務所は、カリフォルニア州の小高い丘の上に一三四年という歴史を纏いながら鎮座している。

 同州を縦に貫くシエラネバダ山脈の麓に位置する丘にはアメリカン川が流れ、これを遡ると昨年までのかんばつで水位が激減し、底に沈んだ町が姿を現して話題を呼んだフォルサム湖に到達する。奇しくも『フォルサム・プリズン・ブルース』が受刑者たちに捧げられた慰問コンサートと同時期に湖底へ消えたゴールドラッシュ時代の遺跡であった。

 この人造湖を管理するダムの近くには、フォルサム刑務所での服役中に死亡した受刑者が埋葬される墓地が広がっており、出勤前に敷地内を一周するのがゴスベル・リンガー刑務官の日課だが、気ままな散歩などではない。

 同刑務所に収監されるのは重罪犯だが、その誰もが過ちを償って生き直す権利を持っている。これを助けることこそ刑務官の使命であるとゴスベルは揺るぎなく信じてきた。

 受刑者番号のみが刻まれた墓石の下に永眠ねむるのは、人間として当たり前の権利を〝天〟に許されなかった人々である。が無数に並んだ丘を眺めて回る行為は、一人々々の無念に耳を傾けて公僕としての責任を自問する儀式のようなものであった。

 四年前の九月に急行した先で銃犯罪の犠牲となってしまった救急隊員の母は、銃弾で胸や腹部を貫かれながらも、命が尽きるその瞬間まで搬送対象者に寄り添ったのである。

 『九・一一』――二〇〇一年にアメリカ同時多発テロが発生した当時、ニューヨークの消防署に勤務していた母は、崩れ落ちた世界貿易センタービルの只中へ飛び込んで人命救助に当たったことを大統領に称賛されながらも、それを家族や友人に誇ったことは一度もなかった。言葉少なく「それが自分の職務しごとだから」と語るのみであったのだ。

 心から誇りに思う母にじることのない生き方を胸に秘め、ゴスベルは七月四日も黒真珠のいろたとえられる肌に刑務官の制服を纏っている。

 女性受刑者のみを収監する施設の〝独房棟〟に彼女ゴスベルの靴音が響き渡る頃、カリフォルニア州は二〇一四年の独立記念日を迎えていた。無論、打ち上げられた花火の音も乱痴気騒ぎの声も、〝塀の中〟には一つとして届かない。

 例年であったなら、刑務官の間でも職務に支障をきたさない範囲で独立記念日が祝われるのだが、一部受刑者が半月前に起こした暴動事件の衝撃が収まっていない上、その混乱に乗じた脱獄犯一名も未だ発見に至っていないのである。国外逃亡という風聞が現実味を帯び始めた州内では厳戒態勢も継続しているのだ。

 フォルサム刑務所を取り巻く厳しい状況を忘れて浮かれ騒ごうものなら、処罰は免れないだろう。暴動の再発に対する警戒と取り締まりを目的として、全ての刑務官は勤務時間中にが装填された拳銃を携行しなければならなくなっている。それどころか、発砲さえも任意で許可されていた。凶悪犯罪者の収監先とは言えども、これほどまでに張り詰めた七月四日は初めてである。

 なる状況でも服務規律遵守の姿勢を崩さず、刑務官の役目に命を懸けるゴスベルの誠実さは勤務先での評価も高く、本人もそれを励みとしてきた。そのはずであったが、近頃は〝爆弾〟さながらに危ぶむ視線が四方八方より突き刺さるようになっていた。

 さりとて頑なな生真面目が祟って周囲まわりに馴染めなかったわけではない。受刑者にも愛すべき美徳として親しまれていたくらいなのだ。同じ空間に居るだけで相手を疲れさせてしまう気難しさを受けれてくれた伴侶パートナーも、この刑務所内で巡りったのである。

 二九年という彼女ゴスベルの人生は、フォルサム刑務所での日々こそが最も充実していた。

 この伴侶パートナーと人生を共にすることを告げた日に心から祝福してくれた上司が同じ口でとは別の矯正施設へ移るように耳打ちし始めたのは、刑務所そのものが内部から変わってしまった何よりの証左であろう。

 今や刑務官の誰もがを忌避するようになっている。怠慢といった単純な性質ものではなく、自身の役目に対して恐怖を禁じ得ない状況と表すほうが正確であろう。ゴスベルはフォルサム刑務所の現状が悲しくてならなかった。それどころか、復讐心と表裏一体という激烈な憤怒が常に心を満たしている。

 刑務官の職に就いて以来、その使命感を初めて私情が凌駕してしまった次第である。

 自家用車HEVのハンドルを握りながら曲がりくねった長い坂道を上る間、彼女ゴスベルは一種の儀礼の如く『フォルサム・プリズン・ブルース』を流していた。〝カントリー音楽ミュージックの王様〟の甘い歌声と、列車が愉しそうにレールを駆け抜けていくような演奏と共に丘の上の勤務先を見つめていると、設立の一八八〇年から二〇一四年までの間に横たわり、何があろうとも絶やしてはならない〝正義〟の道程を強く意識できるのだ。

 それが現在いまではエドヴァルド・グリーグによる『ペール・ギュント』になぞらえたマスメディアの刷り込みので、『山の魔王の宮殿にて』が脳内あたまのなかに響き渡るようになってしまった。〝塀の外〟から聞こえてくる栄えた町サン・アントニオ行きの列車の汽笛に自由なき監獄で思いを馳せる大都市リノの銃撃犯の嘆きをどれほど大音量にしても押し流せないのだから、〝魔王〟の呪いに掛かったようなものである。

 〝魔王〟の名は『サタナス』という。

 過ちを犯した受刑者ひとびと希望を約束しなければならない刑務所の〝正義〟を吹き飛ばす〝爆弾〟は、自分ではなく鉄格子の向こうの〝魔王サタナス〟――上司へ涙ながらに訴えた日の屈辱は、〝天〟に召されたのちもゴスベルのなかに魂の烙印の如く残ることであろう。

 刑務所内の異常事態を初めて『ペール・ギュント』の第二幕にたとえたのは、偶然にも暴動事件の当日に〝魔王サタナス〟を取材した格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルの記者――マリオン・マクリーシュだ。

 北米アメリカ最大の規模を誇るMMA団体――『NSBナチュラル・セレクション・バウト』がドーピング汚染から復活していく道程を密着取材し、所属先ゴッドハンド・ジャーナルをジャーナリズム公益部門のピューリッツァー賞獲得に導いた記者だけあって、『サタナス』の手によって矯正施設が〝山の魔王の宮殿〟に作り変えられてしまった概略あらましを精緻な分析に基づいて報じていた。

 あらゆる格闘技を許しがたい人権侵害と一方的に決め付け、これを根絶するべく格闘家や格闘技団体に〝抗議〟を繰り返す思想活動『ウォースパイト運動』――その活動家は世界中に点在しているが、指導者の命令を受けて組織的に行動しているわけではなかった。

 他者ひとを傷付け、戦争の火種となるほど人間の攻撃本能を膨らませる格闘技を『平和と人道に対する罪』として憎悪する思想のみを共有し、各々の判断に基づいて〝抗議活動〟を実行してきた〝同志〟たちを狂乱へとき動かしているのは、この〝魔王サタナス〟なのだ。

 『ウォースパイト運動』を提唱し始めたのは別の人物だが、世界中の〝同志〟の間では真の平和をもたらす〝正義〟の象徴として『サタナス』を崇める声が高まっていた。

 『NSB』関係者の搭乗を動機とする大統領専用機エアフォースワンへのサイバー攻撃によって全世界に通称なまえが知れ渡った上、国家反逆罪を問われる前に司法妨害罪などの別件で重罪犯専用の刑務所へ収監された『サタナス』である。『ウォースパイト運動』の一派がラスベガスのMMA興行イベントで起こした銃撃事件も裏で糸を引いたのではないかとマリオン・マクリーシュは疑い、真相を確かめるべく担当弁護士を通じて取材を申し入れたという。

 刑務所内の談話室コモンルームで始まったマリオンの取材にいて『サタナス』は自分自身に掛けられていた嫌疑――即ち、『NSB』の有力選手ベイカー・エルステッドをも過激思想で洗脳し、最終的には容疑者全員の死亡という最悪の結末に至った〝テロ事件〟の首謀を躊躇ためらうことなく認めた。ベイカー・エルステッドとその仲間によって同団体NSB興行イベントを内部から揺るがし、銃で武装した別の一派をも差し向けて彼らを始末した次第である。

 格闘技を憎む思想こそ分かち合いながらも、『NSB』の試合場オクタゴンに立った以上は〝汚らわしい格闘家〟というわけだ。銃撃犯も全員が事件現場で自らの命を絶ってしまったが、その筋書きシナリオを用意したのも『サタナス』であろう。

 〝暴力なき平和な世界〟を求めながら、矛盾に満ちた惨状を作り出すほど精神こころが壊れた〝魔王サタナス〟なのだ。山の如く積み上がった亡骸を己と同じ命であると感じないことにはゴスベルも驚かないが、絶望を味わったのはその取材中に起きた刑務所内の暴動事件である。

 六階級制覇の期待が高まるアメリカボクシング界の〝切り札〟――『フェイサル・イスマイル・ガスディスク』のトレーナーを務める往年のヘビー級王者チャンピオンは全米の矯正施設でボクシングによる更生プログサムを奨励しているが、格闘技を否定する過激思想に染まった一部受刑者がフォルサム刑務所を訪れていた彼を叩き殺すべく集団で暴走したのだ。

 格闘家どもは皆殺し――シェイクスピア劇『ヘンリー六世』の一幕に倣ったかのような文言を暴徒たちに叫ばせたのも〝魔王サタナス〟であった。

 超大国アメリカの権威にさえ怯まず、『ウォースパイト運動』の〝正義〟を貫いた『サタナス』に全世界の〝同志〟が悪しき影響を受け、それまで格闘技を否定するだけに〝抗議活動〟が格闘家の命を脅かす明確な〝テロ攻撃〟へと先鋭化している。

 男性専用の施設で起きた混乱ということもあり、かつてヘビー級王者チャンピオンのベルトを腰に巻いたハナック・ブラウンに飛び掛からんとしていた受刑者の有りさまをゴスベルは調査報告書でしか知らないが、いけにえを求めて彷徨さまよ死神スーパイの群れと化したようにしか思えなかった。

 銃器使用による鎮圧も、「格闘家どもは皆殺しにしろ」と誰よりも大きな雄叫びを上げた過激活動家――かねてから政財界とボクシング界のを論文などで批難してきた学者の射殺も、刑務官の職務遂行として適正であったと信じて疑わない。

 くだんの暴動が吹きすさんだのは男性受刑者の施設であったが、もしも、その場に居合わせていたら自分こそが扇動者の左胸に狙い定めて〝正義〟のひきがねを引いたことであろう。

 丘の墓地に新たな墓石を増やすことになった暴動事件はゴスベルの心を引き裂いたが、彼女にとって何よりも受けがたいのは、が〝魔王サタナス〟の画策ではなく、感化された暴徒たちが独自の判断で決起し、格闘技ボクシングへの憎しみを爆発させたという〝事実〟である。

 『サタナス』という通称なまえの受刑者が存在するだけで凶行が次々と引き起こされる事態に対して、ゴスベルは〝汚染〟の二字を除いて当てめるべき言葉を持ち得なかった。

 無責任なマスメディアが面白おかしく書き立てる内容にはんばくできないことを刑務官として心から恥じ入るゴスベルではあるものの、丘の上の刑務所が丸ごと〝山の魔王の宮殿〟に作り変えられてしまったのは紛れもない〝現実〟であった。〝塀の中〟は〝閉鎖とじた空間せかい〟である為、〝汚染〟の範囲もたちまち拡大されてしまうのだ。

 振り返るたび憤怒いかりで全身が震えてしまうが、『サタナス』は接した者全てを狂乱に駆り立てる〝汚染源〟でありながら、〝汚染〟の速度や範囲を制御できていない――それがゴスベル・リンガーの結論である。格闘技という名の〝けがれ〟を焼き払えるのだから、テロの連鎖を止める理由が〝魔王〟のなかに芽生える可能性など望むべくもあるまい。

 『フォルサム・プリズン・ブルース』の主人公は大都市リノで撃った相手を命が尽きるまで見つめていたが、彼はその間にも幼い頃に母と交わした「銃で遊んではいけない」という約束を振り返り、ひきがねを引いたことを泣きながら悔やんでいた。

 ひと欠片かけらの〝人間らしさ〟も残存のこっていない〝魔王サタナス〟からが伝播し、そのけんぞくが増殖していく〝汚染〟はマリオン・マクリーシュ記者も憂慮しており、常軌を逸した影響力を〝現実歪曲空間リアリティ・ディストーション・フィールド〟の一種と仮定して格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルいても警鐘を鳴らしている。

 巧みな言葉やその場の雰囲気などを駆使して強烈に精神へと働きかけ、熱にでも浮かされたような状態で〝定められた目的〟に突き進むという狂気を対象のなかに芽吹かせるモノを〝現実歪曲空間リアリティ・ディストーション・フィールド〟と呼ぶが、〝魔王サタナス〟の場合は格闘技への悪感情や実害の記憶、これを許容する社会への不安を膨らませてテロ行為を躊躇ためらわせる理性から解き放つわけだ。

 格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルの誌面でマリオン・マクリーシュ記者は『サタナス・フィールド』という呼び名を与えたが、架空フィクションの出来事のように聞こえ兼ねない響きでは、吐き気を催す実態の伝達をかえって妨げるのではないかとゴスベルは危惧している。

 暴動事件の発生直後――聞くに堪えない怒号と耳を塞ぎたくなる発砲音がフォルサムの空を切り裂くなか、〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟によって正気の根を刈り取られた受刑者や刑務官が〝魔王〟の身を案じて駆け付け、我が身を盾に換えて流れ弾から守ろうとしたのである。

 これを目の当たりにしたゴスベルは膝から崩れ落ちた。〝同僚〟にも〝汚染〟が及んでいたことに竦み上がっただけではない。〝塀の外〟に待たせている子どもの為にも罪を償おうと励んでいた母親たちまで〝魔王サタナス〟に自らの命を差し出そうとしたのである。

 もはや、〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟を放置しておけない。『ウォースパイト運動』は格闘技という命を壊す〝力〟に影響されて肥大化した破壊本能が〝第三次世界大戦〟の引き金となることを恐れ、これを食い止めるべく〝抗議の笛〟を吹き鳴らしているが、彼女ゴスベル・リンガーからすれば『サタナス』という存在そのものが黙示録のラッパとしか思えないのだ。

 超大国を支えるべき未来の柱までもが〝魔王サタナス〟の手で喪失うしなわれていく――そのように断定することは決して大仰ではないとゴスベルは確信しており、おやの約束を踏みにじる形で更生の芽を摘んでしまうを〝国家の敵〟と罵倒することも躊躇ためらわなかった。

 研究成果を巡って関係が拗れた助手の女性を自殺に見せかけて殺害した為、長年の功績にもきずが付いてしまったものの、暴動を扇動した学者も経済社会学が対象に含まれていればノーベル賞の歴史に名を刻んだことであろう。

 自らロープで首を絞めた亡骸に劣情を催した挙げ句、司法解剖で体液が検出され、死者の尊厳を辱めたことまで露見した彼は死刑確定を待つのみという状態であり、二度と〝塀の外〟へ解き放ってはならない異常犯罪者であったが、アメリカの発展に間違いなく貢献したであろう叡智がのも『ウォースパイト運動』の特徴であった。

 〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟で心を操られていた集団の中には、国内屈指の化学薬品企業に研究員として勤めた女性受刑者も混ざっている。巨額の横領を伴う背任罪で実刑を免れなかったとはいえ累犯性も低く、正しく社会復帰すれば再び国家の発展に尽くすことであろう。

 丘の上の刑務所を〝魔王〟から取り戻す――受刑者の未来を守るという刑務官の使命を心に念じながら、ゴスベルは薄明りの床を踏み進んでいく。

 『ゴスベル』という名前は霊歌ゴスペルと聖なるベルを掛け合わせて母が考えてくれたものだ。世界に終焉を告げるラッパを打ち消すのに、これ以上に相応しい名前などあるまい。

 『サタナス』を勇気と正義の守護聖人として崇める〝同志〟の報復を恐れているのか、彼らの仲間内なかにまで〝汚染〟が及んでいるのか――極めて狭い〝塀の中〟で死者が出るほどなまぐさい勢力争いを繰り広げ、刑務官も手を焼く凶悪な〝刑務所ギャング〟でさえ〝自分たちの秩序〟と利益を侵害している〝魔王〟を遠巻きに眺めるばかりなのだ。

 受刑者の命や僅かな財産カネを守る為にも機能する〝刑務所ギャング〟の身動きが常軌を逸したテロリストを前にして鈍化するのは、期待外れながらも得心できるが、真の〝正義〟を知らしめるべき規範がテロの恐怖に屈する現状は憂慮の一言で足りるものではない。

 〝魔王〟のを公言してはばからない自分を疎んじているフォルサム刑務所の弱腰は言うに及ばず、アメリカの法体制に対する憤怒いかりまでもがゴスベルのなかで膨らみつつあった。

 『ウォースパイト運動』は明らかに〝自国産ホームグロウンテロ〟だが、〝思想の自由〟は合衆国憲法修正第一条で認められている為、実際にテロ行為を起こさない限りはを取り締まれないのだ。刑務官の中に紛れた『サタナス』の〝同志〟を炙り出すことも叶わない。

 〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟を未然に防ぐすべが現行法には存在しないという意味である。法に基づく〝正義〟を守ってきたゴスベルのなかで、耐えがたい歯痒さがのた打ち回るのだった。


(……花はに行った? 私が愛したあの花を猛毒に冒して枯らしたのは――)


 もはや、法の裁きに希望のぞみはない――左の薬指にめたままの指輪に口付けをもって本当の〝正義〟を誓い、彼女ゴスベルは七月四日の〝独房棟〟監視に就いた次第である。

 が上下二段構造で夥しいほど整列した〝独房棟〟は数時間前に消灯を迎えているが、厳重な警備が最優先される刑務所の性質上、いずれの居房へや照明あかりが完全に落とされることはない。休息に適しているとは言いがたい環境の中、十分に睡眠が取れるか否かはともかくとして、受刑者たちは冷たい壁際に固定された寝台に身を横たえていた。

 示し合わせた合奏と錯覚するくらい寝台の軋む音が薄暗闇で連なっているが、ゴスベルも着任初日に寝心地の悪さを感じ取り、受刑者に対する憐憫の情が溢れ出したのだ。

 耳障りな寝息やこれに対する文句を踏み潰すかのように打ち鳴らされていた靴音が一階の片隅で止まったのは、め付けた鉄格子の向こうに異常を発見した為ではない。そもそも丘の上に〝魔王の宮殿〟を作り出した忌まわしい〝汚染源〟であるのだから、覗き込んで確かめるまでもなく異常性など理解わかっている。

 〝魔王〟の玉座と呼ぶには余りにも粗末であるが、さりとてコンクリートの壁で仕切られた両隣の居房へやとは明らかに違う。だからこそゴスベルは一瞥した瞬間から罪を憎んで人を人で歯ならない刑務官にあるまじき負の想念によって全身が震えたのである。


「童話の『三匹の子豚』は私も幼い頃から愛読してきたよ。成る程、山のように積んだ本をれんに見立てて、シリコンバレーで差し押さえられた自宅いえの代わりを建てようと? それとも脱獄用に掘り進める穴を隠しておくポスター代わりか。……そもそもお前は自らの手を泥で汚す必要もないだろう? エッジワス・カイペル……ッ!」


 受刑者が生活する〝独房〟は原則的にトイレと洗面台、寝台を除いて〝自由〟が著しく制限される。どこからともなくすすり泣く声が聞こえてくるのは、家族と一緒に賑やかに祝うことが叶わない独立記念日にこそ自らの犯した罪が重くし掛かる為であろう。食事や葉巻を〝自由〟に楽しむ乗客たちを乗せた列車の汽笛に思いを馳せ、獄中の我が身を嘆く『フォルサム・プリズン・ブルース』の主人公にも通じる虚しい涙というわけだ。

 〝自由〟の意味を問い掛けることも刑務所の役割である。それ故に厳格なる刑務官のゴスベルは眼前の〝魔王〟に「更生の可能性など絶望的」という結論以外を持ち得ない。

 この〝魔王〟は壁を覆い隠してしまえるほど大量の本を居房内に運び込んでいた。種々様々なを壁際から迫り出す形で何列にも何重にも並べた様子は、色とりどりのれんで塀を作っているように見えなくもない。いずれも天井に達するほど堆く積み重なり、本来の壁面などは僅かな隙間も分からないほど遮蔽されてしまっている。

 受刑者が居房内へ差入品を持ち込むことは認められているが、規律違反だけでなく警備上の問題点にいても限度がある。それにも関わらず、この居房へやの本は一日ごとに一冊残らず入れ替えられているのだ。これこそが〝魔王〟と呼ばれし存在モノに与えられた〝特権〟の象徴であり、〝正義〟の根幹であるべき司法制度がじゅうりんされている証左であった。

 〝全て〟の手配は刑務所長よりも遥かに〝上層うえ〟の意思が司っている。超法規的措置であるとしても最悪としか表しようのない事例が網膜に焼き付くたび、ゴスベルは脳の血管が一本残らず張り裂けそうになるのだ。

 フォルサム刑務所の設立は〝戦争の時代〟より遡った一八八〇年七月二六日であるが、女性受刑者専用の施設は一年半前に完成したばかりだ。例え先端が尖った金槌ロックハンマーなどを入手したところで、真新しい壁を破ることなど物理的に不可能である。

 脱獄を試みるには〝塀の外〟まで密かに導いてくれる内部協力者が不可欠だが、そもそも現在の〝魔王サタナス〟に対しては〝収監〟という二字が正常まともに機能しているのかも疑わしい。口頭で要求するだけで〝塀の内外〟すらも〝自由〟に出入りできるはずだ。

 それ故に〝魔王サタナス〟のをゴスベルは罵らずにはいられない。

 国内で罪を犯した駐米大使を治外法権に阻まれて逮捕できない刑事のような心持ちであるが、〝正義〟の根幹が〝魔王サタナス〟のでは無効化されてしまう。少し逆らっただけで将来を失うほどの権力ちからが背後に働いている気配も感じ取れる為、〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟に〝汚染〟されていない刑務官でさえ法の信頼が失われていく状況から目を逸らしていた。

 左手の薬指にめたままの指輪へ唇を落とし、不退転の勇気を自分は違う。命に代えても喉笛を咬み千切るという決意ので〝魔王〟をめ付けていた。


「この喜びに満ちた夜までに届いて胸を撫で下ろしました。『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』――リンガー様の人生が豊かになる一冊を選んだつもりでございます。哀川斗獅矢トシヤ・アイカワという日本むこうの歴史学者がサムライの法制度を丁寧に纏めてくださいました。是非とも後でお持ちくださいませ。お気に召していただけると嬉しいのですけれど」


 真っ向から浴びせられる剥き出しの敵意に無防備というくらい友好的な微笑みで応じた居房の主――罪深き人々を救済すくいへと導くべき刑務所を我が宮殿の如く作り変えてしまった忌まわしき〝魔王サタナス〟は、敷物の一枚も無い冷たい床へじかに腰を下ろしている。

 あるいはシリコンバレーの豪邸で一生掛かっても使い切れない財産カネを持て余していた頃からに関心が薄かったのかも知れない。〝魔王〟たる存在モノの〝特権〟をもってすれば比喩でなく正真正銘の玉座を獄中へ運び入れることも可能であるが、大きな椅子を置けるくらい空間に余裕があるのなら、新しく増やすに充てたいのであろう。

 数百冊にも及ぶに文字通りの意味で囲まれた状態であり、その中央にる女性が小柄である為、相対的な印象ではあるものの、鉄格子の向こうから覗くだけでも押し潰されてしまいそうな錯覚に見舞われる居房となっていた。

 照明あかりの真下の『サタナス』は、窮屈の二字が真っ先に思い浮かぶ程度しか残っていない床に死体の写真を並べている。

 正確には散乱と言い換えるべき写真それらは、いずれも胃の内容物が逆流しそうになるほど惨い有りさまであり、夜間は限りなく抑えられる居房内の照明あかりによって薄暗闇にいきなり浮かび上がると、『サタナス』の周辺が血の海と化したように見間違えそうになるのだった。

 や、死肉を削ぎ落した人骨が括り付けてある十字架など、一枚一枚が猟奇性の高い写真ものである。神経を掻き乱されるようなこともなく平然と目を通していく『サタナス』ではあるが、常人とは構造からして異質であろう快楽中枢を満足させる趣味として床に敷き詰めたわけでもない。

 写真と必ず一組になっている書類は、司法解剖の報告書も含めた〝捜査資料〟である。

 日付が一年前の今日である点を除いてゴスベルには内容が殆ど読み取れなかったが、中にはスペイン語で綴られた書類ものも混ざっており、塀に片腕を引っ掛けた状態で事切れた射殺体の写真が添えられていた。一〇代半ばであろうか。拳銃ハンドガンを握ったその少女が着ている喪服のような黒いチュニックには、数え切れないほどのが開いていた。


「深夜まで――いや、独立記念日まで精が出ることだな。豪邸いえでずっとで遊んでいたら、そうやってを支払う必要もなく〝自由〟に生きられただろうに……」


 就寝時間にも関わらず、受刑者が昼間に着る作業用の青いシャツから彼女サタナスだけが替えていないということは、これこそが〝魔王〟と呼ばれる存在モノに任された刑務しごとなのだ。

 地面に逆五芒星を描くような形で立ち、美しい装飾が施された儀式用の短剣で互いの心臓を突き刺し合う集団自殺の写真を目の端に捉えた瞬間、抑え込んできた感情モノが破裂し、刑務官にあるまじき皮肉を吐き捨ててしまったゴスベルであるが、その浅慮を自ら戒しようという気持ちは丘の上の墓地に葬り去ってきた。

 〝然るべき機関〟が格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルの編集部に圧力を掛け、くだんの取材記事から削除せざるを得なくなったのかも知れないが、通常手段では解決の糸口さえ見つけられないほど異常性の高い事件の捜査に協力し、その報酬として〝魔王〟に受刑者の身分とは思えない特別待遇が与えられていることをマリオン・マクリーシュ記者はこれまでに報じていなかった。

 世界最高の防御力セキュリティを突破し、一時的とはいえ大統領専用機エアフォースワンのシステムを支配ジャックした頭脳は〝本物〟であり、〝塀の外〟と遮断された獄中にありながら、ほんの小さな情報のみを手掛かりにして常人の想像力では最初の一歩すら踏み出せない領域まで辿り着けるのだ。

 行動分析プロファイリングはこれを実行する人間の知識や経験に依存するところが大きい。捜査当局が囲い込もうと考えるくらい『サタナス』の分析力や推理の確度は高く、先般もアメリカ出身うまれる格闘家が〝食人カニバリズム〟を目的として起こした連続殺人事件を解決に導いている。

 『サタナス』の思考回路が異常犯罪者に限りなく近くなければ、瞬く間に猟奇殺人事件の真相を暴けるはずもあるまいが、〝自国産ホームグロウンテロ〟とはいえ、一種の〝安楽椅子探偵アームチェア・ディテクティブ〟として手を組んだほうがアメリカにとって得策という超法規的判断なのであろう。

 『ウォースパイト運動』の旗頭からすれば、「格闘家などは人の皮を破った悪魔に過ぎない」と全世界へ知らしめることにも繋がる為、まさしく一挙両得というわけだ。

 ハーバード大学在学中に開発した大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームで成功を収めた〝IT時代の寵児〟でありながら、世界最悪のサイバーテロを起こした首謀者であることを理由に『サタナス』の居房へやにはパソコン類が置かれていない。望めば半日も待たずに大抵の品が届けられる〝特権〟をもってしても、携帯電話の所持すら許されないのである。

 床から天井に至るまでコンクリートが剥き出しの面にプログラムとおぼしき羅列を書き記しているということは、IT社会への関与を完全に禁じられたわけではないようだ。

 刑務作業の監視を除けば日常生活でプログラミング言語に触れる機会のないゴスベルには何から何まで意味不明だが、『サタナス』の場合は一度記した文字列へ幾つもの上書きを重ねており、本人のにさえ正確に読み取れないのではないだろうか。

 尤も、相手は常人の想像力では理解できない〝天才〟である。あるいは書いたはしから完全な形で脳に記憶インプットされていくのかも知れない。読書というよりも画像のスキャン処理に近いが、うずたかく積み上げられてを作る何百冊もの本も、ぺーじめくるだけで全ての情報を一つ残らずのだろう。

 毛髪かみのけを一本残らず剃り落とし、剥き出しの皮膚に〝愛〟という漢字一字を無数に彫り込んだ頭部あたま内側なかを見極める透視能力などゴスベルには備わっていないが、脳脊髄液の海に二個の脳が浮かんでいたとしても驚くまい。

 同じ〝愛〟の刺青タトゥーは部位に応じて大きさを調整しながら、心臓の鼓動が止まった後のように白い肌の全身にちりばめられている。耳や指先にまで及んでいることもあって、薄暗い居房の内部なかでは夥しいアリが群がっているようにしか見えなかった。

 額の〝愛〟一字が最も大きく、他が罪の烙印のように黒色であるのに対して、のみが鮮やかな血のいろである。

 その差異ちがいも含めて常人ゴスベルの感性では意味を汲み取ることなど不可能であるが、恐怖におのの記者マリオン・マクリーシュを静かに見下ろし、〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟によってされた人々を従えながら「世界を愛でいっぱいにしたい」と宣言する姿は、この〝魔王〟を守らんとする受刑者たちを追い掛けた先で網膜に焼き付いたまま、ゴスベルのなかで呪いの如く消えずにいる。


「外国の法制史を学べというのは冗談のつもりか? その法を蔑ろにし続ける貴様に言われて笑えるとでも思ったのか。私はてっきりガーデニングの参考書でも勧めてくるものとばかり想像していたぞ。……貴様の何よりの得意は、他者ひとの脳に狂気の種を植え付け、理性を養分にしてテロリズムを芽吹かせることだろう⁉ エッジワス・カイペルッ!」


 刑務官が受刑者に声を掛ける場合、個々に割り当てられた番号――服役中に死亡した場合は墓碑銘に代わるモノ――を用いるのがであったが、えてゴスベルは『エッジワス・カイペル』という本名で呼び付けた。

 『ウォースパイト運動』の〝汚染〟に加担するようなものである為、口が裂けても『サタナス』という忌まわしい異称で呼ぶことは有り得ない。

 敵の肉体を喰らって勇敢な魂を自らのなかに迎え入れたという古代の戦士を模倣し、闘争心を奮い立たせる儀式としての食人カニバリズムを密かに繰り返していた格闘家は、『サタナス』による行動分析プロファイリングがなければ逮捕に至らなかったことであろうが、本来は受刑者に許されていない首飾りを猛烈な吐き気を堪えながらめ付けるゴスベルからすれば、この〝魔王〟も猟奇殺人犯の〝同類項〟としか思えない。

 『サタナス』の胸元に垂らされているのは、白色に近い管状の〝何か〟の表面に等間隔で幾つかの穴を開けた不思議な縦笛であった。刳り貫かれた内部に息を吹き込んで鳴らす種類ものであり、鳥獣の骨片を用いた鷲の翼の骨笛イーグルボーンホイッスルのように見えなくもない。

 しかし、その正体は〝人骨笛〟である。部位や加工方法など想像もしたくもないが、今は亡き母親の骨で拵えた物であることを自ら明かしていた。

 〝魔王〟と同じ『カイペル』という家名ファミリーネームを持つ人間は、アメリカのスポーツ史を紐解くと一九八四年サラエボ冬季オリンピックに現れる。フィギュアスケート・女子シングルの代表選手オリンピアンであり、銀メダルを獲得したワーズワス・カイペルこそが彼女サタナスの母親なのだ。

 『第一次世界大戦』の発端となった地であるサラエボは、一九八四年冬季大会の八年後に勃発した『ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争』でも激戦地となり、オリンピック関連施設までもが戦争という〝暴力〟によって塗り潰されている。

 『サタナス』の母が創造性に満ちた演技でもって世界を魅了したゼトラ・オリンピックホールも被害を免れず、国家の垣根を超えて代表選手オリンピアンが友情を育んだその場所には数え切れないほどの遺体が運び込まれ、木製の観客席は解体ののちに棺として作り変えられた。

 メダルが授けられる表彰台も処刑場として転用され、トレベヴィチ山に作られたボブスレーの競技場からは人間を砕く砲弾が降り注いだ。

 旧ユーゴスラビアを引き裂く内戦が終息の気配を見せない一九九四年に開催されたリレハンメル冬季オリンピックにいて、亡き母ワーズワス・カイペルと女子シングルの金メダルを争った旧東ドイツ代表のアイススケーターがマレーネ・ディードリッヒの唄う『花はどこへ行った』に乗せて反戦の演技を捧げたのだが、その事実を『サタナス』が知らないとは思えない。

 ウクライナのコサック民謡を起源ルーツとし、命の尊さを幾度も訴える『花はどこへ行った』は、『ベトナム戦争』の反対運動の中で注目を浴びた反戦歌であった。

 スポーツの〝聖域〟が戦争の狂気によってけがされる悲劇を目の当たりにして旧東ドイツの好敵手ライバルと同じ思いを抱いたであろうワーズワス・カイペルの一人娘が独善的な〝正義〟を振りかざし、サラエボの再現としか表しようのないテロ事件を起こし続けているわけだ。

 〝戦争への軽蔑ウォースパイト〟を唱えながら、ワーズワス・カイペルの一部で作った人骨笛を吹き鳴らして世界中の〝同志テロリスト〟を煽り立てる『サタナス』は、最期の瞬間まで人命いのち救助すくう為に力を尽くした母の誇りを人生の指針としてきたゴスベルと決して相容れない。

 〝平和の祭典〟の一員であった母親ワーズワス・カイペルを正反対の危険思想で歪め、くだんのサイバーテロにも協力させたのだ。事件後に夫と二人で命を絶ったが、そのように誘導したのが一人娘サタナスであることも間違いあるまい。

 平和に貢献した母の死という経験を共有しながら、〝何〟があろうとも交わらない断絶より生じる〝力〟が込められるからこそ、『サタナス』に浴びせる怒号こえも抑えられないほど大きくなっていくのだ。

 取材の場には居合わせなかったゴスベルはマリオン・マクリーシュの記事で知るのみであったが、ワーズワス・カイペルは愛する一人娘に向けて「二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない」と遺言したそうである。

 自分も亡き母の影響でクラシック音楽を愛聴し、作曲された経緯や意義などを調べて見識を深めてきたのだが、幼い頃から趣味としてフィギュアスケートに親しんできた『サタナス』は、サラエボ冬季オリンピックの銀メダリストが託した最期の言葉に、どうして本当の意味での〝戦争への軽蔑ウォースパイト〟を感じ取れなかったのか。


「まだ飽き足らないのか⁉ 命の花をどれだけ散らせば貴様は満足する⁉ 無残な花びらを遺された人間がどんな気持ちでかき集めるのか、……どうして枯れたブーケを胸に抱えるのか……! 得意の行動分析プロファイリングで言い当ててみろ、エッジワス・カイペルッ!」


 個々それぞれの居房はコンクリートの壁で仕切られているが、その一方で鉄格子には強化ガラスといった遮蔽物がめ込まれておらず、両者の会話は〝独房棟〟の隅々まで筒抜けだ。

 ゴスベルの怒号も天井や壁に跳ね返って耳障りに反響しているが、それに負けない喚き声で抗議する受刑者は一人もらず、棟内全体に不気味な沈黙が垂れ込めていた。

 この反応を確かめんとする胸算用もあって、ゴスベルは今日まで遵守してきた服務規律から逸脱する行為を続けている。今し方の声量は〝独房棟〟の受刑者全員を叩き起こすのに十分であったはずだが、それでも静けさを保ち続けているということは、誰もが『サタナス』の口より発せられる言葉を聞き漏らすまいと息を殺しているのであろう。

 〝独房棟〟が丸ごと〝魔王サタナス〟に支配された証左である。共に監視任務に就いていたはずの〝同僚〟が浮かべたに手招きするような表情かおを目の端に捉えたゴスベルは、反射的に制裁の銃を握りそうになった右手を左の五指で危うく制した。


(野心に溺れて魂の一部を差し出したペール・ギュントは、ドヴレ山の魔王に恐れをなして逃げ出したが、左の薬指から心臓へと走る痛みが私にを許さない。魔物トロルと化した者どもに囲まれようとも教会の鐘が鳴るのを待ちはしない。私自身が夜明けの鐘だッ!)


 ゴスベルが正気を失ったかのような勢いで声を嗄らすのは、不意に滑り込んできた恐怖に打ち克つ為でもあった。

 独立記念日の対決を『サタナス』が予知していたようにしか考えられないのだ。

 〝独房棟〟の監視に就く当番日を調べることは大して難しくもない。会話を成り立たせる材料として相手ゴスベルが興味を持ちそうな贈り物を見繕って用意していたことも、それ自体は不思議ではない。だが、今し方の『サタナス』の口振りでは、ゴスベルが皮肉交じりに書物の推薦を求めることまで分かっていたようではないか。

 哀川斗獅矢トシヤ・アイカワなる著者じんぶつは、日本の歴史学者であるという。

 カリフォルニア州内ひいてはアメリカ国内の書店に入荷するような物なのか、ゴスベルには皆目見当も付かないが、仮に海外から取り寄せるとすれば先般の暴動事件が起こった後に手配していては七月四日という期日には間に合うまい。『サタナス』が挙げた書名は前日三日の昼に運び込まれた本の一覧に載っていたのである。

 己の意志による決起すら〝魔王サタナス〟の手のひらで操られていたのではないか――瞳の中央に捉えた敵意なき笑顔も、俄かに始まった膝の震えを嘲っているとしか思えなくなったゴスベルは、抑え込めない焦燥感を意識の外へと追いやるべくかぶりを振ったが、その回数が増すほどに左の薬指から貰っていたはずの勇気が萎んでいく。


「次のテロ計画は何だ⁉ ハナック・ブラウン襲撃未遂の騒動さわぎに乗じて脱獄した受刑者の担当弁護士は貴様と同じだ! 例の暴動は貴様の差し金だと私の全財産を賭けて断言してやる! 嵐の中で絶叫するロビンスやTR6トロフィーで飛んだマックイーンのように、現在いまも逃走中の受刑者おとこが〝塀の外〟へ抜け出すまでのだったのだなッ⁉」


 あれほど燃えたぎっていた勇気が挫かれようとしている事実だけは何があっても受けれられず、自らのはらわたに響くほどの大音声を張り上げて〝魔王〟に立ち向かわんとするゴスベルであったが、暴動事件当日に鼓膜をつんざいたけたたましい警報音が〝再体験症状フラッシュバック〟のように甦り、同時に襲ってきた指先の震えを無理矢理に押さえるべく刑務官の職務を適正に遂行する為に使用が許されているはずの拳銃を抜いてしまった。


「完全に息の根を止めるまで『NSB』を襲わせるつもりか。駐車場で銃を乱射させても満足しない貴様のことだ。今度は興行イベント会場に毒ガスでも仕掛けさせるのだろう? ブーケの代わりにダイナマイトを抱えた受刑者おとこ八角形の試合場オクタゴンに飛び込ませるのかァッ⁉」


 その警報音に発砲音と「格闘家どもは皆殺し」という憎悪の雄叫びが入り混じった日とは違い、鉄格子の内側なかの誰一人として我が身を盾に換えることは叶わない。それなのに制止を訴える声はどの居房からも聞こえてこなかった。『サタナス』との対峙を見守っている〝同僚〟でさえ同じ拳銃を抜いてゴスベルを迎え撃とうとはせず、〝同志〟を差し向けるべく施錠を解いて回ろうともしないのだ。

 刑務所の建物は全館に緊急事態を伝達するボタンが必ず壁に設置されているが、恍惚とした表情かおの〝同僚〟は『サタナス』を守る援軍を要請するべくを押そうともしない。そもそもゴスベルにはひきがねを引けないと確信している様子であった。

 〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟で洗脳された誰もが同様であるが、ゴスベルが体現してきた刑務官としての高潔さを信頼しているわけではない。格闘技という人権侵害をこの世界から消し去るという崇高な使命を背負った〝魔王〟が丘の上の〝囚人墓地〟へ埋葬される筋運びなど彼らのなかでは想像する必要性を感じないほどに有り得ないわけだ。

 衝動的にホルスターから引き抜いたにも関わらず、ゴスベルが『サタナス』に銃を突き付けられなかったのも事実である。職務に対する倫理観は既に投げ棄てており、鉄格子の隙間から眉間や左胸を撃ち抜くだけのもある。そのはずであったが、冷たい銃口は威嚇の一つも出来ないまま天井を仰ぎ続けていた。


「リンガー様と膝を突き合わせてお話しさせていただきたいと願わずにいなかった日はございません。貴女と交わった方々は、どなたも正しくあらんと自らを律する信念を讃えておられました。わたくしも同じ想いでございます。いつか志をたがえてしまうのではないかという疑念がこのに映り込む瞬間は、今日まで一度もございませんでしたよ」

「我々が同じ〝正義〟を分かち合っているとでも⁉ 身も震えるような侮辱だッ!」

「聖なる歌と鐘のが綾なすお名前は、お母様より賜ったと伺ってございます。そこに込められた平和への祈りは、リンガー様のなかで〝正義〟の花を咲かせたのでございますね。先ほどお聞かせいただいた勇者の咆哮も、魂の深奥まで響いてございます。今宵の語らいを喜びながら、もっとずっと早くに交わりたかったという後悔も底を知りません」


 問いただされたことへただちには答えず、前世からの絆を噛み締めるような微笑みを浮かべ続ける『サタナス』が代わりに語ったのは、こうして相対する直前にゴスベル自身が己に強く言い聞かせた名前の由来である。

 今日までゴスベルは『サタナス』と殆ど言葉を交わしたことがない。ましてや敵意の対象に名前の意味を教えたおぼえなどあろうはずもない。を把握されてしまった理由は一つしか思い当たらず、指輪をめたままの左の薬指が焼け付くように痛んだ。


「先頃の騒乱にはわたくしもリンガー様と同じように胸を痛めてございます。あれは平和に手を伸ばす『ウォースパイト運動』の信念にかこつけてボクシングへの私怨を晴らそうとした男の恥ずべき暴発に他なりません。わたくしの与り知らないところで破裂したものではございますが、いずれはそのような日を迎えると疑わないほどボクシングそのものに対する憎悪ヘイトが世界に澱みを生み出していたことも〝真実〟でございます」

「ガスディスクを〝憎悪ヘイト〟扱いする気か、貴様は! 化けの皮が剥がれてきたな! 『NSB』の前代表と何が違う? 自分と肌の色が違う人たちを存在ごと否定する忌まわしい偏見の持ち主が私と〝正義〟を共有するなど有り得ないッ!」

「わたくしたちが悪と断じるのは『平和と人道に対する罪』――格闘技ただ一つでございます。人種も性別も出身も言語も信仰も組織も関わりなく、るべき秩序を呼び起こす福音の笛を吹くのみ。アラブ系アメリカ人という出自は開戦事由となり得ません。『九・一一』の最前線で戦われたお母様を持つリンガー様の感情がほむらと化すことはわたくしにも癒し切れるものではございませんが、〝あの日〟にご自身の耳でお聞きになられた〝正義〟の合唱が平和を愛する貴女の心に〝真実〟として届かないわけがございません」

「ボクシングは国技ではない――看過できない国辱を拭わんとした義挙だと? ……ほざくなァッ! ガスディスクは暴動事件の攻撃対象ハナック・ブラウンが刑務所で見出し、現世代最強と謳われるまでに導いた英傑だ! 生き方を誤った人間にとってボクシングがになる証明に他ならない! それなのに貴様らは政財界との汚らわしい関係だの、MMA界との仁義なき利権争いだのと、ボクシングに凝り固まった負の側面しか見ないッ!」

「誤った更生プログラムが最後の引き金に代わったとき、秘めたる決意を聖なる行動へ変えるようにと共通の弁護士を通して〝彼〟の背中を押したは間違いなくこのわたくしでございます。大いなる〝運命〟に導かれたのでございますよ、わたくしも〝彼〟も――〝彼ら〟も。今日という夜に新たな絆を結んだの巡り逢いを思えば思うほど、振り返った〝あの日〟が確かな輪郭を伴って大輪の花を咲かせますね」

「ふざけるな! 〝運命〟なんていう綺麗事で全部を片付けようとするのは、救うすべも見つからない思い上がりだ! 〝あの日〟に散った花は、もう二度と咲かない……ッ!」


 アメリカという国家にとって裁判にも掛けず即座に処刑すべきであった〝絶対悪〟を異常犯罪者の捜査に利用できる〝必要悪〟として容認した成れの果ては、フォルサム刑務所の現状からも瞭然である。人間としての本能に従うならば、一秒たりとも視界に入れたくない〝純粋悪〟だが、少女こどものあどけなさと大人の思慮深さを綯い交ぜにしたような瞳に、ゴスベルはくらい怒りすら忘れて心が丸ごと吸い込まれそうになっていた。

 けがれを知らない少女が大人へと移ろっていくなかに突如として成長が止まってしまったとしか表しようのない〝魔王サタナス〟の容貌すがたへ鼻息を荒くする担当弁護士に対し、今日まで身の毛がよだつほどの嫌悪感を抑えられなかったが、己の半分も生きていない相手にかしずいてしまう老弁護士の恍惚へ近付きつつあることを自覚したゴスベルは、言葉では語り尽くせない恐怖にすくみ上がって拳銃を取り落としてしまった。

 『サタナス』は人智によって解き明かせる存在ではない――〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟を目の当たりにしたマリオン・マクリーシュが「本当に同じ人間なのか」と恐れおののく場にも居合わせたゴスベルは、今、その記者と同じ呻き声を生唾と共に飲み下している。

 〝天〟に唾を吐く行為にも等しいと自覚し、ぼうとくの意識で脳も焼き切れそうだが、眼前にる〝魔王〟は、例え神ではなくとも〝神の如き人〟であると認めざるを得なかった。

 哀川斗獅矢トシヤ・アイカワあらわした法制史の本も、職務に対する意識の高さからゴスベルが興味を持たないはずがないと推し測り、揺るぎない確信に基づいて日本から取り寄せたのだ。神の奇跡ともたとえるべき超能力ではないが、頭脳による行動分析プロファイリングである。〝魔王〟を囲む本が象徴するように世界を構築する〝全て〟の情報が遺伝子配列の如く二重螺旋で結び合い、人間という種の〝深淵〟――内宇宙インナースペースに未来が完全な形で浮かび上がるのであろう。

 全知全能に指一本分ばかり届いていないだけで、矮小な人間への慈悲である行動分析プロファイリングは〝予知能力〟と同義おなじである。冷静に分析しても、理性を掻き消す敵意から否定しようとしても、〝暴力〟なき平和と格闘技という大破壊によって引き起こされる〝せんそう〟という二つの未来がえているのは、この地上にいて『サタナス』ただ一人としか思えない。


「わたくしは賭け事を嗜みませんが、先ほどお話しになられた財産の提供――お見立てもでございますから、それに比例した額を定めれば奉仕の精神も篤いリンガー様に報いることが叶いますでしょうか。〝暴力〟に苦しむかたを一人も数えなくなる日が訪れるよう願いながら手を差し伸べる志も、わたくしどもは分かち合っておりますでしょう」

「貴様が動かしている〝格闘技被害者〟の救済基金に有り金全てを寄付しろとでも言いたいのか? ……社会福祉へ力を注ぐアメリカに格闘技や武道でを負った人たちの生活くらし支援サポートする仕組みが存在しないのは間違っていると、前々から思ってはいたが――」

「生まれる前からわたくしたちは平和への祈りで響き合っていたのでございます。〝失われるべきではない命〟に未来を約束する眼差しも、同じ地平に光明ひかりを見ておりますもの」


 『サタナス』が高潔な精神として讃えたのは教会への寄付など日頃から心掛けている社会奉仕の活動であり、対決に臨んだ直後のゴスベルであったなら詐取の手口と怒り狂ってね付けたことであろう。

 だが、現在いまは弱々しく呻くのみに留まってしまっている。膝から起こった震えも今や全身の隅々まで広がっている。

 〝IT長者〟として築いた巨万の富を投じ、『サタナス』は格闘技並びに格闘家から被害を受けた〝全て〟の人々を援助する基金を発足させた。なる取材対象にも公平でなければ報道の〝正義〟を守れないという判断であろうが、マリオン・マクリーシュ記者は格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルで取り上げており、当該記事を読んだ瞬間のゴスベルには『ウォースパイト運動』に賛同する者を増やし兼ねない愚行だと苦々しくてならなかった。

 『サタナス』当人の画策によるテロに巻き込まれた被害者も救済対象に含まれるのだから自作自演マッチポンプにも等しい偽善とまなじりを決し、憤怒いかりで沸騰しなければならないはずだが、現在いまのゴスベルは慈愛に満ちた善意と認めて頷き返しそうになっている。


「――そういう弁舌でたらし込んで、私が愛したあの花を毒で冒して散らしたのか。『ウリエロ』という名の花を……ッ! もなく今日まで生き残っていたら、……貴様に決闘を挑んだ私をウリエロに横から撃たせていたのか……ッ⁉」


 一握ばかり残存のこった理性へ死に物狂いでしがみ付き、『サタナス』を畏れてひれしそうになるに抗っている情況であった。幾らか言葉を交わしただけで〝国家の敵〟とすべき〝魔王〟の眷属へちようとしている〝現実〟に立ちすくみ、を自覚しながらも歯止めが掛けられないのだ。

 暴動事件に乗じた脱獄犯は単独ひとりで〝塀の外〟まで逃げおおせたわけではない。厳重な警備セキュリティを突破するには刑務所内部の共犯者が不可欠なのだ。を手引きした容疑者と目される刑務官は、ゴスベルの足元に転がった物と同じ拳銃で自らのこめかみを撃ち抜き、駆け付けた同僚たちによって即死が確認された。

 暴動を起こした受刑者たちへの発砲とは比較にならない最悪の事態である。『ウォースパイト運動』には天才と呼ぶに値する活動家が多いのだが、脱獄犯もその一人であった。

 『靴屋の妖精レプラコーン』なる通称はどれほど無理なにも応える〝調達屋〟として裏社会で有名であり、二〇〇一年の同時多発テロに端を発する『対テロ戦争GWOT』でも荒稼ぎした上、〝デーモンコア〟――プルトニウムの密売にまで手を伸ばしている。

 死刑が選択肢に含まれるカリフォルニア州にいて、犯罪組織の情報提供という司法取引によって終身刑まで減刑されたその男は、危険な紛争地帯に足を運び、慈善活動を通じて感じたことを美しく織り上げる詩人が〝表〟の顔であった。

 〝表〟の顔を利用し、疑われる心配もなく〝死の商人〟との取引が盛んな場所へ潜り込んでいたことなど知る由もない議会図書館から〝けいかんじん〟の候補に選ばれ、身辺調査の過程で邪悪な正体が発覚したのである。だからこそ、カリフォルニア州は〝調達屋レプラコーン〟の身柄を確保できるまでかつてない厳戒態勢を維持し続けるしかないのだ。

 今年四月にオクラホマ州の刑務所で混合薬物の投与による死刑執行が失敗し、受刑者が四三分も苦しんだ末に心臓発作で死亡する事故が発生したが、事実上の〝拷問死〟という批判が吹き荒ぶなか、〝調達屋レプラコーン〟は『チオペンタールの春』という詩を詠んでいる。

 チオペンタールとは数年前まで薬殺刑に用いられた薬物である。その注射を受けずに済んだ我が身を喜ぶ無神経な男が罪の意識と向き合っているはずもあるまい。〝調達屋レプラコーン〟が〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟によって洗脳されたまま雲隠れし、追跡を断念せざるを得ない事態に陥れば、アメリカという国家くにで司法の信頼が決定的に死ぬことになるだろう。

 『サタナス』が収監される以前に〝最悪〟の二字で忌み嫌われ、〝刑務所ギャング〟にも一目置かれた受刑者レプラコーンの脱獄を共謀した男性刑務官は『ウリエロ・ギャロファロー』という名前であり、左手の薬指にゴスベルと同じ指輪をめていた。

 長い人生を共に歩んでいこうと約束した相手の知らない間に〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟の餌食となり、その果てに自分と咲かせる未来よりも〝魔王〟の命令を選んだのだ。誠実な公僕としての信念がくらい怨みに塗り潰されたとしても誰にも責められるものではなかった。

 そして、それ以上に最愛の婚約者が『ウォースパイト運動』に与してしまうくらい格闘技への憎悪を煮えたぎらせていたことに気付けなかった己自身を許せない。

 イタリア系の気質ということもあり、他者ひとを笑わせることに情熱を注ぐ陽気で愉しい婚約者は家族にさえ呆れられるほど饒舌であったが、武道に恐れは抱いても蔑むような言葉を聞かされたおぼえがゴスベルには一度もなかった。それ故に相手ウリエロのことを本当は〝何〟も理解していなかったのではないかと誓い合った愛に対する自信さえ喪失くし、やり場のない怒りに身も心も焦がすばかりとなってしまった。

 被疑者死亡の為に起訴こそ免れたものの、生前の名誉は地にち、全米から批難を浴び続ける家族は後追い自殺を辛うじて踏み止まっている情況であった。

 それでもゴスベルにとっては最愛の人である。同情と侮蔑をい交ぜにした視線で突き刺されながら復讐心を抱いて幾夜も眠り、二人で選んだ花嫁衣装ウェディングドレス己一人みずからの手で引き裂いて七月四日の決闘に及んだにも関わらず、彼女は婚約者の名前を手ずから刻んだ銃弾で恨みを晴らすことを躊躇ためらってしまったのだ。

 『ゴスベル』という名前の由来も〝魔王〟にたぶらかされた婚約者が明かしたに違いないと直感し、喪失の絶望感にまで入り混じる情況であったのだが、己が身を立てたITに頼らずとも世界の〝全て〟をることが出来るに対しては何もかも差し出して当然――と、最愛の人の裏切りさえ受けれ始めている。

 いつしかゴスベルは、己のほうこそが鉄格子の内側なかに囚われているような錯覚に塗り潰されていた。「許す」「許さない」の二者択一というに当てめることこそ許されざるぼうとくと自らの浅慮を戒めたくらいである。

 その様子を見守っている同僚の刑務官は、恩讐といった無意味な感情など捨て去り、世界秩序を導く超越者にひざまずくことは人間という種として正しい選択とでも言わんばかりの笑顔で首を頷かせていた。人生が平穏で満ち足りた表情とも言い換えられるだろう。

 目の端で捉えたが揺り戻しとしてゴスベルの精神こころに作用し、手を握り返してはならない堕落の誘惑から逃れようと首の骨が耳障りな音を立てる勢いでかぶりを振った。


「貴様たちの崇めるエッジワス・カイペルが世界を愛で満たすことは永遠にない! 未来に咲き誇るはずだった花を腐らせる〝魔王〟だッ! 誰も彼も、人生をやり直したくて刑務に励んできたのではなかったのか⁉ 家族と交わした愛の約束を刈り取られて、どうして笑っていられる? 惰眠を貪っていられる⁉ ……サラエボ冬季五輪の選手村は民族紛争という〝血〟の狂気に呑み込まれ、処刑を待つのみの牢獄と化した! 〝魔王〟に命を弄ばれる使の貴様たちと何が違う⁉ 誰も彼も目を醒ませェッ!」


 この期に及んで〝真実〟から目を逸らそうとする姿に呆れ返ったような笑い声や、どこまでも無関心な寝息への〝抗議〟として、ゴスベルは激情に任せた怒号に続いて指笛を吹き始めた。呼吸が乱れ切っている為に数十秒も保たずに途切れてしまったものの、無意識の内に〝抗議の笛〟を生まれて初めて吹いていた。

 それでも黙ろうとしない受刑者たちを威嚇すべく両手から滑り落ちたまま冷たい床に転がっていた拳銃を拾い上げようとするゴスベルであったが、心の焦点を定められない震えが伝達つたった指では銃把グリップさえ掴めず、焦るあまり右の爪先で銃身を蹴飛ばしてしまった。

 皮肉なほど芸術性の高い放物線を描いた拳銃は落下した床で一度だけ大きく跳ね、そこに辿り着くのが定められた運命であったかのように鉄格子の向こうへと滑り込んでいく。

 捜査資料とは考えにくいが、六二年前にアメリカの小さな田舎町に出現し、ネス湖の怪獣ネッシーに並ぶほど世界中に知れ渡った未確認生物UMA――『フラットウッズ・モンスター』のを添えた書類が『サタナス』の正面に置いてあり、拳銃はそこまで転がった。

 半世紀以上が経過し、様々な見地による検証が済んだ現代いまでこそ目撃地フラットウッズでは観光資源として有効活用されているが、目玉を真っ赤に光らせながら浮遊する異形や、マスタードガスと同様の健康被害を引き起こす霧の噴射といった真偽不明の憶測が乱れ飛んだ当時は、誇張ではなく〝現実〟として全米を恐怖と混乱に陥れたのである。

 〝三メートルの宇宙人〟という異名を写す不気味な想像図イラストの上で止まった拳銃を拾う小さな指を追い抜き、目線を更に上げていくと『サタナス』が痛罵に晒されていたとは思えない深い慈悲の微笑みを浮かべていた。

 世界の〝全て〟を見守るには刹那のまばたきすら惜しいのであろう。左右のまぶたは閉じることを知らず、この世のあらゆる怒りと悲しみを背負うと声なく告げる眼差しなどは聖母の抱擁にも等しい。一片の曇りもなく済み切った瞳は、正面に迎えたゴスベルが倫理をも焼き払いながら剥き出しにする負の想念さえ吸い尽くしてしまいそうだ。

 全知全能に限りなく近くとも生身には違いない〝魔王〟を仕留められるただひとつの武器をゴスベルは差し出してしまった恰好である。それにも関わらず、自分に狙いを定めてひきがねが引かれても生涯最後にして最高の名誉を抱きながらけるだろう――と、焦燥とは真逆の快楽が脳内あたまのなかに噴き出していた。

 危機意識を奮い立たせられるほど心の変容を自覚しながら、それに抗う方向へ切る前に握るべき舵を手放してしまうのが現在いまのゴスベルであった。何もかも〝魔王〟へ委ねてしまいそうな己自身に対する絶望すらも、彼女のなかでは〝現実〟の輪郭を失いつつある。


「……〝失われるべきではない命〟に未来を約束する眼差しを我々は共有していると、先程もほざいていたな。だったら東南アジアから面会にやって来た〝アレ〟は何だ⁉ 貴様が正体を暴いた猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニではないが、人肉の串焼きを好んで貪りそうな魔物トロルと、何の相談だったのか、この場で堂々と明かしてみろ! 答えろ、エッジワス・カイペルッ!」


 面会の申請書にまだ六月と記されていた頃であるが、中旬分の面会者名簿に地球を半周するほど遠い彼方――シンガポールから『サタナス』と会う為に来訪した一人の男性が混じっていた。

 世界経済にいて大国でさえ無視できない存在感を発揮する〝シンガポールマネー〟の恩恵を浴びるほど受けているのか、ゴスベルが監視カメラの映像で自ら確認したくだんの面会者は、丸々と肥え太った豚のようにしか見えなかった。

 それ以外に類例を求めるならば『ペール・ギュント』に登場する魔物トロルだ。ドヴレ山に宮殿を構えた魔王の下僕しもべたちは、その姫をたらし込んで王座に奪い取ろうと企んだ主人公ペール・ギュントを追い回し、肉をらおうと心臓が凍り付くような雄叫びを上げたのである。

 〝表〟の社会で真っ当に働いているとは考えられない風貌なのだ。面会を終えるまで着衣が張り裂けなかったことを驚いてしまう量の贅肉を全身に纏わせており、顎の輪郭すら判然としない為、ゴスベルにも日本人であることが辛うじて見て取れたくらいであった。

 半ばあたまが溶けそうになっている現在のゴスベルには申請書に記された名前を記憶の水底から引き上げることも叶わないが、日本人のとは思えない響きという薄ぼんやりとした印象だけはおぼえていた。無論、偽名でないことが前提である。


大学時代かつての恋人が差し向けてきたことは調べが付いているぞ、エッジワス・カイペル。魔物トロルのような日本人に求愛の手紙でも託したのか? ……復縁の仲立ちでなくば〝人肉のスープ〟を互いにすすり合う相談かァ⁉ いいや、〝調達屋レプラコーン〟を東南アジアへ高飛びさせる段取りだな⁉ 〝裏〟でが唸ったと考えない限り、脱獄後の足取りが全く掴めない現状は不自然の極み――出来るものなら申し開きの機会を与えてやるッ!」


 国家規模のテロ事件による逮捕・収監という事態を受けて再び注目されたが、ハーバード大学在学時に共同設立者ひいては最高財務責任者CFOの肩書きで同期生の『サタナス』と共に大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームを立ち上げ、これを世界的な大成功に導いた男は二〇〇〇年代半ばから拠点をシンガポールに移し、国の垣根を超えて有望なスポーツ関連事業に投資を行うファンド会社『アキレウスヒール・パートナーズ』の経営最高責任者CEOを務めている。

 『ファヴォス・テロメロス』――その男の名前は、二〇〇八年キンオリンピックで実施されたボート競技の記録でも確認できる。八人の漕手と一人の舵手で闘う『エイト』に出場した経験を生かして〝スポーツファンド〟を取り仕切っているわけだ。

 『サタナス』と〝男女の関係〟という風聞うわさもあるが、外部投資家の参入を境に会社から放逐され、策略で希薄化された持株の保有率や名誉を取り戻す法廷闘争に発展していた。

 少なくともファヴォス・テロメロスは『サタナス』と完全に断絶しているはずであるが、水面下の動向うごきまでは読み切れるものではない。

 『リーマン・ショック』に端を発する世界的金融危機の影響や、東日本大震災直後から暫く続いた過剰な自粛ムードといった様々な原因から財政難に陥った日本の打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』を〝外資注入〟で援助するなど『ウォースパイト運動』へ帯同する気配は見受けられないが、一方で今年に入ってから社章ロゴマークを東南アジア伝統の竹笛を模った物に変更しており、猜疑の念を抱き始めると際限がなくなるのだった。

 仲介者を通して昔の恋人ファヴォス・テロメロスと〝人肉のスープ〟をすする密談か――『ペール・ギュント』の一幕を例に引きながら、〝シンガポールマネー〟まで『ウォースパイト運動』のテロ計画に引き摺り込む目論見なのかと語気荒く問い詰めるゴスベルであったが、己のなかに滲み出した迷いを無理矢理に封じ込めるべく感情任せに喚くのみとなっており、命に替えてでも〝魔王〟を食い止めんとする覚悟は、追い詰められた表情かおのどこにも感じられない。

 まるで地上の命を守る責任つとめを〝天〟から委ねられているかのような振る舞いとの矛盾も甚だしいが、〝失われるべきではない命〟を無意味な死に追いやっているのは、他の誰でもない〝魔王サタナス〟であった。

 捜査資料として添えられた一枚の写真の中では、尋常ならざる面持ちの人々が逆五芒星を描くような形で立ち、互いの胸を短剣で突き刺し合っていた。彼らの信仰は理解できずとも、集団自殺そのものが何らかの教義ドグマに基づいた儀式であることは察せられる。鮮血が死化粧となりながら、いずれの顔も生からの解放で満ち足りており、おそらくは連帯が増幅させた宗教的恍惚状態の中で息絶えたのであろう。

 守るべき教義ドグマいて欠くべからざる通過儀礼として受けれたなら、敬虔な信仰心が惨たらしい集団自殺の引き金となる。今や過激思想の拠り所となった〝魔王〟も、それと同じ手段によって哀れな眷属たちが自ら死を選ぶよう仕向けたに違いなかった。

 世界秩序を司る使徒のるべき真理である――と、おそれ多くもてんのこえを模倣し、託された使命を果たしたのちは自らの命を生贄サクリファイスとして捧げるように刷り込めば、『NSB』の興行イベント会場を襲った銃撃事件の末路も思い通りに引き起こせるわけだ。

 自分が聖なる屍となった後には全世界の〝同志〟が続くのである。絶対的な〝正義〟を分かち合う連帯は宗教的恍惚状態の代用かわりとしてこれ以上ない効力を発揮するのだった。

 過激活動家たちの自害に関与した事実を『サタナス』は隠そうともしないのだから〝死人に口無し〟といったような証拠隠滅の小細工などではなく、〝暴力〟なき未来に向けて捧げられた生贄サクリファイスそのものを強い物語性が内在する教義ドグマとして完結させているのだろう。

 異常犯罪者は事件をさせる傾向が強いのだが、〝魔王サタナス〟を産み落とした両親や最愛のウリエロ・ギャロファローは紛れもない〝殉教者〟である。

 婚約者の〝殉教〟をブーケの如く我が胸に抱き締める瞬間とき、あくまでもこれをね付けんとする心の揺らぎを整えようと思い浮かべたのは、ノルウェーのブラックメタルバンドで起きた異常な自殺事件である。

 墓の下から這い出したものとよう衣装を泥に埋めてボロ布さながらに汚し、を施すなど、幼い頃の臨死体験によって自身の心臓が動いている事実を精神構造的に認識できなくなったボーカリストが悪魔信仰サタニズムに傾倒していたバンドの中心人物から死への憧憬を刺激され、ライブの最中に自傷行為を繰り返した末、とうとう自らの頭を散弾銃ショットガンで吹き飛ばしてしまったのだ。

 ブラックメタルという分野ジャンルそのものを震撼させた一九九一年の悲劇を初めて知ったときには〝大バッハ〟の礼拝音楽カンタータにもしばしば登場する死への憧憬とそれが生み出すモノを想像できなかったゴスベルだが、〝魔王サタナス〟に触れた現在いまはバンドの仲間を自殺へ駆り立てた当事者が半分しか頭部が残っていない亡骸をインスタントカメラで撮影し、飛び散った頭蓋骨を拾わずにはいられなかった衝動が理解わかるような気がした。

 彼も自らの教義ドグマに殉じた男であった。凍て付いた月をチェーンソーで真っ二つにするようなぼうとくの歌をもってして、永遠に呪っても足りない世界を死の霧で包めと破壊を促したのである。誰もが疑うことなく信じてきた〝何か〟を葬らんとする最終戦争アルマゲドンに〝真実〟を見出したからこそ、悪魔の群れともたとえるべき数の〝同志ひとびと〟が背徳のほむらに魅入られたのだ。

 無論、殺戮や教会への放火を厭わないテロ集団も同然の悪魔信仰サタニズムとは似ても似つかない神聖な思想モノであるが、己の命を〝正義〟の生贄サクリファイスに代えた婚約者ウリエロ・ギャロファローが満ち足りた想いで最期の瞬間を迎えたことをゴスベルは疑わなかった――もはや、本人にも正常と異常が判別できない支離滅裂な理論展開を経て、こそが〝真実〟なのだと魂に刻まれた瞬間、彼女の〝魔王サタナス〟に対する最後の抵抗が終わった。


「リンガー様がドヴレ山の魔物トロルたとえられたまれびとにも、『靴屋の妖精レプラコーン』の異名で讃えられる〝同志〟にも、〝暴力〟を弄する者によって歪められてしまった世界を本来の平らかな形に戻す〝実験〟にお力添えを頂いております。まぶたの裏に懐かしき顔が浮かぶファヴォスと初めて挨拶を交わした瞬間や、人を愛する尊さを教えてくれたも、大いなる運命が平和を呼ぶ声の一部であったのだと、彼の家名ファミリーネームがわたくしに確信させてくださるのでございます。人間という種から【エス】を取り除く『アポトーシス』は、『テロメロス』の名に導かれてこそ成し遂げられるのでございますから」

「……実……験……? ……それよりも【エス】……【エス】とは一体――」

「死を命に運ぶモノをわたくしは【エス】と呼んでございます。人という種に〝深淵アビス〟より〝暴力〟をもたらすよどみのおきとも申し上げられることでございましょう」


 『サタナス』の居房へやには全知全能に指一本ばかり足りないだけの頭脳による行動分析プロファイリングを頼って〝塀の外〟から持ち込まれた異常犯罪の捜査資料が散乱しており、その場で立ち上がろうとすれば、必然的に何枚かを踏み付けることになる。

 右足の下敷きとなった写真の中では、泡を吹く変死体が上半身を剥き出しにした状態で畳の上に転がされている。裂傷・打撲傷は見受けられず、臓器不全による突然死と察せられるが、過去に負った怪我の痕跡が痛々しい肉体は架空フィクションの世界で活躍する〝超人スーパーヒーロー〟の筋肉を再現したコンピューターグラフィックスを合成したものと考えたほうが得心できるほど膨張していた。

 常人の訓練トレーニングで得られるとは思えないほど現実離れしたは、体内に腐敗ガスが発生するまで時間が経過した水死体のように見えなくもなかったが、血の海に沈められた他の猟奇殺人の犠牲者と比べれば状態そのものは小綺麗である。

 ゴスベルの意識を一等強く引き付けたのは、いびつに膨らむ左肩に見つけたあざのような〝何か〟である。薄暗い照明あかりの下であり、つ『サタナス』に踏まれたままの小さな写真を鉄格子越しに覗くのみである為、正確な形状どころか、刺青タトゥーと烙印の判別すら難しい。

 アレクサンドル・デュマの『さんじゅう』にいて物語を大きく動かす役割を果たした罪人の証のように見えなくもないは、文明社会の日常生活へ当たり前のように溶け込んだバーコードが最も近似している。

 引き剥がすような調子で写真から右足を離した〝魔王〟は、空手と柔道のどちらかの物であろう下穿ズボンから格闘家と推察されるに憐れみ深い目を落とし、〝同志〟が感嘆の溜め息を洩らすほど凛と張った声で【エス】という一言を繰り返した。

 生き物が恒常的な生命活動を維持する為には、新しく生み出された細胞を交換し続けなければならない。この循環の中では老化・がん化などの異常をきたした細胞がマクロファージなどによって一日につき数百億も除去されており、これこそ『サタナス』がかつての恋人ファヴォス・テロメロスの名前と併せて例に引いた『アポトーシス』である。

 進化との関係も神秘性すら感じるほど密接であり、例えば胎児の手足が完成されていく過程でを取り除くのも〝遺伝子にプログラムされた細胞死〟――即ち、『アポトーシス』の役割であった。

 野放しにしておけば〝次〟の世界大戦の引き金になる格闘技という名の〝暴力〟を根絶せしめ、人類を新たなる未来へ導くという『ウォースパイト運動』の大義を『アポトーシス』にたとえた意図こそ察せられたゴスベルではあるものの、それと組み合わせられた【エス】の一言が意味するところを手掛かりすら読み取れず、『サタナス』の叡智をしゃくはんすうできないことが歯痒くてならない。

 アルファベットの〝S〟一字を単純に指しているとは思えず、これを頭文字とする言葉に答えを求めて脳内あたまのなかの辞書を引くゴスベルは、礼拝堂の十字架の前で祈りを捧げるときと同じように両膝を突き、組み合わせた左右の手を額に押し当てていた。

 勇気と正義の守護聖人を地上に遣わした功績を讃えて〝大聖母〟と呼ぶのが最も相応しいワーズワス・カイペルが一命をもって捧げた平和への祈りから『スーサイド』に行き着いたものの、高潔なる『サクリファイス』の先駆けに自殺を意味する言葉は不敬であろう。

 他者の命に死を運ぶという意味合いであるならば、近ごろ日本格闘技界を騒然とさせていると小耳に挟んだ『スーパイ・サーキット』も格闘技という〝暴力〟の象徴として【エス】の候補に加えて構うまい。同国のMMAに明るくないゴスベル自身は概略あらましすら知らないが、試合中にリングを倒壊させた上、対戦相手の命を奪いかけたという。

 英語ではなく当該選手の出身地であるペルーの公用語で綴った表記となるが、『スーパイ』とは〝死神〟を意味する言葉であったはずだ。

 発音が同じというだけで想像を巡らせているが、〝S〟の一字へ直線的に結び付くのかも実際には定かではない。精神分析学に目を転じ、深層心理の一種ひとつである『イド』と同義ではないかとも考え、これこそ〝真実〟と一度は確信したゴスベルではあるものの、そもそも絶対的な超越者を人間界の法則に当てめて理解しようとするのが傲慢の極みと自らを責め、後から追い掛けてきた〝魔王〟への畏怖もえざる辞書をめくる手を止めさせた。

 『サタナス』から賜った【エス】という聖句ことばと、そこに混じる疑問符で埋め尽くされた脳内あたまのなかを整理するべくぞやのように悪魔信仰サタニズムで引き裂かれたブラックメタルバンドを振り返ろうとした瞬間、脳がぜた自殺体と〝大バッハ〟の礼拝音楽カンタータを対比させたことを想い出し、〝死を命に運ぶモノ〟を読み解く手掛かりとして目の前に浮かび上がった。


「完全な理解に至らない自分のあたまが呪わしくて仕方ありませんが、先ほどお聞かせいただいた【エス】は『来たれ、なんじ甘き死の時よ』にも通じるのでしょうか……?」


 いつか迎える平和の前には何の意味も成さない復讐心がおそれを知らない態度としてあらわれていたゴスベルであるが、今は礼拝堂で〝天〟を仰ぐときと同じ態度に変わっている。

 変節を嘲る笑い声が〝独房棟〟の天井に幾つも跳ね返ったが、ゴスベルと向き合う『サタナス』は軽蔑の眼差しを向けるどころか、彼女が〝大バッハ〟の礼拝音楽カンタータの一つである『来たれ、なんじ甘き死の時よ』を口にした途端に歓喜と祝福が溶け合う笑顔を弾けさせた。


「やはり、リンガー様は誰よりも賢いかた。ゆくゆく『アポトーシス』という名の大いなる〝流れ〟とも交わってくださると信じておりましたが、その〝先〟に開かれる〝世界〟へご自分の〝力〟のみで辿り着かれましたね。わたくしの母も父も、【エス】からの解放に身を捧げた全ての同胞みなさまが甘美な蜜と口付けを交わしながら、救い主のもとへと送り出す鐘のを聞いたことでございましょう」

「……砂糖のように甘い享楽で〝世界〟が満たされようとも〝私〟にとっては毒のような苦しみにしか感じない……」

「果たして、〝死〟が〝私〟から何を奪えるのでしょう。貫く信仰に応じて〝天〟が甦りを約束してくださるのですから、冷たい土の下でむくろを虫に貪り尽くされても苦しみなど無く歓喜しかございません」

「だからこそ〝私〟は、青ざめた夜明けにも等しい〝死〟が訪れる時を待ち、世界との別れという喜びに思いを馳せて溜め息をく」

「夜は暗く、土は冷たく」

「……僭越ながら、それはボイジャー探査機に積まれた金属製ゴールデンレコードの収録曲の一つではないかと――いえ、そうですよね、その歌は遠い宇宙の彼方の知的生命体に地球の文化を伝えるという人類の夢そのもの。くびきを超越した平和への願いや、これを歌にして伝えたブラインド・ウィリー・ジョンソンの高潔な精神たましいにも間違いなく重なります」

「お許しくださいね。リンガー様から伸ばしてくださった手が【エス】の二重螺旋へ限りなく近付かれたことが余りにも嬉しくて、少しだけはしゃいでしまいました」


 『来たれ、なんじ甘き死の時よ』を構成する全六曲の内からゴスベルは第二曲に当たる『世よ、汝の喜びはわが重荷なり』を、『サタナス』は第六番『たとい肉体がこの世にて』をそれぞれ選び、自分なりの解釈に基づいて口ずさんでみせたが、どちらも〝音楽の父〟と名高い〝大バッハ〟が死への憧憬を込めて紡ぎ上げた作品である。

 感情の迸りはバロック音楽全体の特徴だが、〝大バッハ〟はとして受け止めたときに希死念慮を案じてしまうほど生からの解放に手を伸ばしていた。

 ゴスベルも幼い頃から亡き母に手を引かれて礼拝堂に通い、〝教会カンタータ〟とも呼ばれる音楽に触れていなければ、死に臨んで甘い蜜を味わうという『サタナス』の聖句ことばが『来たれ、なんじ甘き死の時よ』の引用であり、【エス】という叡智への手招きであることにも気が付かなかったことであろう。

 母に導かれて選ばれし存在モノの頬に触れたようなものである。極限すら超えて研ぎ澄まされたスライドギターで弾き語るに光なき福音伝道師エヴァンジェリスト――ブラインド・ウィリー・ジョンソンの『夜は暗く、土は冷たく』を一種のかいぎゃくとして織り交ぜるほど『サタナス』が心を開いてくれた歓喜はたちまちゴスベルを悦楽の奔流で呑み込み、今すぐ礼拝音楽カンタータを捧げたくなるような熱が心身の隅々まで沸騰させた。


「……〝内なる死〟と〝外なる死〟……それは命のあかしを未来へ運び続けるDNAの二重螺旋構造のように結び合うモノ……ああ……おお……それは……それこそは――」


 小さな舌を出して自らが口にした冗談を恥じらう『サタナス』の姿は、それだけでもゴスベルの脳をとろけさせたが、何よりも【エス】に対する自分の見解が『サタナス』から否定されなかった〝事実〟によって天にも昇るような心地を

 矮小な人間ひとの身でありながら神にも等しい叡智に半歩程度でも踏み込めたのだ。『サタナス』の口より発せられる一字一句を聞き漏らすまいと研ぎ澄ませていた全神経は、例え〝人間らしさ〟を焼き尽くしていく熱にるものであろうとも確かに脳の機能を引き上げており、何気なく紡がれた〝二重螺旋〟という一言をゴスベルのなかで〝てんのこえ〟に換えた。


「今、ようやく悟りました。私の母はトゲに刺されて死んだのですね。慰めを抱いて喜びと共に永眠ねむる墓を美しく彩るはずのであるのに……」


 ゴスベルが連ね始めた呟きは余人には全く意味不明であり、志を分かち合えるように耳を傾けていた〝独房棟〟の受刑者ひとびとも少なからずどよめいたが、当人からすれば『サタナス』との語らいの継続つづきに他ならず、我が身を捨ててでもすいたいするべき勇気と正義の守護聖人より示された教義ドグマとして噛み締めるたびに新しき〝世界〟が広がっていくのだった。

 生からの解放ひいては天国への憧憬に魂を焦がし続けた〝大バッハ〟の作品らしい世界観と讃えるべきであろう。『サタナス』と二人で紐解いた礼拝音楽カンタータの内の第四曲『すでにすべて終わりぬ』では、己の亡骸を埋葬する冷たい墓がで覆われるさまを想像し、未だ死を迎えられない我が身を慰める者の夢見心地を謳い上げている。

 命ある世界を最期の瞬間まで理解できなかったであろうブラックメタルバンドのボーカリストは、散弾銃ショットガンの銃口を自らの頭部へ押し当てる直前にもナイフでもって自らの肉体を切り裂いたという。間もなく砕け散る脳内に〝大バッハ〟が響き渡っていたとしても、ゴスベルには何ら不思議ではなかった。

 その一方、ゴスベル自身が例に引いた第二曲では〝誰か〟が摘んだトゲによって魂を突き刺される者の苦悶を唄っている。『世よ、汝の喜びはわが重荷なり』という題名の通り、〝天〟との対話を妨げる世俗の享楽を忌み嫌い、その全てを否定せずにはいられない嘆きがき声の如く込められているのだ。

 礼拝音楽カンタータ悪魔信仰サタニズムを重ね合わせる行為など死後に送られる先を定めるようなものであるが、〝内〟から〝外〟に向かって迸る〝死〟の情動は、同じバンドの仲間メンバーに自らを害するナイフや散弾銃ショットガンを握らせ、その尊厳すら壊した男をゴスベルは連想せずにいられない。

 同じを用いながらも〝大バッハ〟は他者ひとの魂を脅かすとげと、自らの墓を美しく彩る装飾かざりという両面を一つの礼拝音楽カンタータの中で並立させている。共に〝死〟を見つめながらも、そこに注がれた情念は対極を成している。

 まさしく〝二重螺旋ダブル・ヘリックス〟であった。

 己以外にもたらす〝死〟と、己から手を伸ばした〝死〟は、それぞれ正反対の〝先〟を求めながら二本の軸を形作って人という種の〝深淵アビス〟にり、互いに惹かれ合う衝動ともたとえるべき鎖で繋がったまま捻じ曲がって無限の螺旋を描いているわけだ。

 命に死を運ぶモノを『サタナス』は【エス】と呼んだ。その概念をDNAと同じ二重螺旋構造に基づいて読み解くならば、〝外なる死〟の軸こそが先ほど『サタナス』から示された「人という種に〝深淵アビス〟より〝暴力〟をもたらすよどみのおき」であろう。

 脳内あたまのなかの辞書を再び開いて〝S〟を頭文字とする言葉を探してみれば、茎から張り出すトゲのように『スティング』や『スタッブ』などが次々と浮かび上がる。

 【エス】の仮説を礼拝音楽カンタータに求めたゴスベルであるが、閃いた内容ことえて口に出して並べず、眼差しのみで『サタナス』に答え合わせを求めた。全知全能に指一本ばかり届かないだけの超越者であれば、矮小な人間の意思疎通手段である言葉など介さずとも〝全て〟を理解してくれるという確信が彼女ゴスベルの心臓に早鐘を打たせていた。


「崩れゆく巨塔の下で我が身の安全ではなく他者の救助の為に駆け回り、ふたつのれきを戦場に選んだお母様こそ後世まで我々が手本とするべき英雄でございます。そうでありながら肌の色が違うというだけで、狂える【エス】に呑み込まれてしまわれて……。お母様ともお会いしたかったです。それが永遠に叶わなくなったことが残念でなりません」

おそれ多い限りで! 私こそお母上を――カイペル選手を尊敬しています! 殉じた信念の尊さを遅まきながら理解した今、その思いがどれほど増したか! サラエボに捧げられた平和への祈りが受け継がれていることに、どうして今日まで気付けなかったのか!」

「争いなき世界のしるべたる偉大な母のもとに生まれた喜びも、世界が愛で満たされますようにと額を合わせて祈ることが叶わなくなった喪失の痛みも、わたくしたちを結ぶ運命の糸でございますね。そうであるから尚の事、わたくしは『NSB』という世界のよどみを捨て置いてはおけないのでございます」

……私の母を撃ち殺したモノと同じおきが不変の法則のように蔓延し続ける愚かなスポーツ界……そして、その象徴が『NSB』ッ!」

「仰せの通り、『NSB』を司った者は人間ひとの命を出自うまれり分け、自分と肌の色が違う人々を玩具のように弄んでおりました。いいえ、親と子が玩具を通じて愛情を通わせることを思えば、扱いはそれ以下でございましょう。あれこそ拭い去らねばならない人権侵害――人という種に対する虐殺ジェノサイドと申し上げても差し支えございません。リンガー様が憂えておられるのは全体であると、わたくしも確信してございます」

人間ひと人間ひととも思わない差別と偏見を撒き散らすという『平和と人道に対する罪』を犯しておきながら、『NSB』は恥知らずにも〝平和の祭典オリンピック〟にまで魔の手を伸ばそうとしています。【エス】の二重螺旋が〝外なる死〟に向かってが今より歪になる前に、が全人類の破壊本能へ感染してしまう前に何とかしなければなりません……ッ!」


 果たして、『サタナス』は〝真実〟と認めて頷き返す代わりに彼女ゴスベルの母親が命を落とした日のことを紐解いていく。

 アナハイムの消防署に勤務していたゴスベルの母親は、急行した先で搬送対象者から銃で撃たれて殉職している。胸や腹部に銃弾で浴びながら事切れる瞬間まで職務を全うしたのだが、『サタナス』が悲しげに述べた通り、犯人は肌の色が自分と違うというだけで彼女の手が触れることを拒否し、拳銃ハンドガンを持ち出したことが警察の捜査で明らかとなった。

 〝その日〟――二〇一〇年九月二五日のアナハイムは地名を冠した野球場を本拠地とするプロ野球チームのホームゲームがあり、興奮のつぼと化していた。独立記念日に高まる犯罪率も傍証であるが、大衆を包む熱狂にてられてからぬ行為に走る者は多い。

 ゴスベルの母に狙いを定めてひきがねを引いた男性も他の類例に漏れず、盛り場の酒場バーで泥酔した挙げ句、隣席となりの客と肩や肘の接触で口論となり、ついには腹部をナイフで抉られてしまったのだ。改めてつまびらかとするまでもなく、瀕死の重傷であったのだから消防署に通報したわけであり、緊急搬送を拒否すれば訪れる結末は一つしかない。

 被疑者死亡の為に真相究明の裁判は開廷ひらけず、事件自体が最小限の捜査で幕引きとならざるを得なかったのだが、人種偏見が引き金であり、全米でも珍しい女性の救急隊員が職務中に搬送対象者から射殺されるという異常な状況もあいって、事件現場や『九・一一』の〝跡地グラウンド・ゼロ〟では規模こそ限定的ながら捜査当局に対する抗議デモが起きている。

 メジャーリーグの試合ホームゲームが行われていた野球場の目と鼻の先で発生した殺人事件という話題性もあって半月近くメディアで報じられ、既に刑務官として働いていたゴスベルも記者から追い回されることになったが、好奇の目に晒されるような日々を通じて、母と同じ肌を持って生まれたことへの誇りが更に高まっていった。

 リンガー家を襲った事件は痛ましい悲劇であり、アメリカという〝おおきな国〟が数世代に亘って抱えてきた病理として深刻に受け止めるべきである。だが、偏った優越主義が原因である点は絶対に失念してはならなかった。『ウォースパイト運動』の思想活動と短絡的に結び付け、ましてやのみを論じることは新たな偏見を生み出すほど危ういのだ。

 本人は「昨日までの自分」と口にしていたが、小一時間前のゴスベルも亡き母の誇りに泥を塗られた憤激にき動かされ、格闘技を直接攻撃する憎悪ヘイトと人間社会そのものの病理たる人種偏見の混同を気色ばんで切り捨てたはずだ。

 しかし、現在いまの彼女は己こそが冷たくて狭い鉄格子に囚われた矮小な人間と認識し、正面に超越者サタナスが二人の間の共通点を挙げるたびに歓喜で全身を震わせている。

 〝独居房〟には〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟の支配を免れた受刑者も居ないわけではない。二人の語らいに関心を示さず、高い塀で隔たれて一緒に独立記念日を祝えない家族を思ってすすり泣いているのだが、『サタナス』という名の熱に浮かされた彼女ゴスベルは、を【エス】の犠牲となった自分の母親に対する弔いの涙と誤って受け止める有りさまであった。


「……【エス】を……その螺旋のを食い止めなければ、母と私が味わわされた悲劇が永遠に繰り返されてしまう……嗚呼……その過ちに自分で気付けたからこそ、あの空手家たちも〝正義〟の戦いで散華したのですね……ッ!」


 未だ〝真実〟に到達していないゴスベルではあるが、【エス】が歪んだ嗜虐性を内包していることは確信している。両膝を突いて座り込んでいた床から立ち上がると、天に向けて右腕を突き上げ、骨の軋む音が鳴り響きそうなほど強く握り拳を作った。先に生贄サクリファイスとなった〝同志〟たちの勇気を受け継がんとする決意表明であろう。

 悪しき偏見に理性を冒されて母を撃ったのも、命を壊す〝力〟でしかない格闘技も、どちらも膨張した嗜虐性の成れの果てである。格闘家の蛮行が人間の攻撃性を加速させ、最後には〝第三次世界大戦〟の火種に行き着くと警告の笛を吹き鳴らしてきた『ウォースパイト運動』は、疑問を差し挟む余地もないほどに平和と正義の使徒なのだ。

 二種ふたつ憎悪ヘイトは分けて考えなければを見失うと他者ひとから指摘されても、それ自体が人権侵害ひいては人類全体に対する犯罪と胸を張ってはんばくするであろうゴスベルの表情かおを愛おしそうに見つめた『サタナス』は、喜びを噛み締めるように幾度も首を頷かせた。


「ギャロファロー様が仰せになった通りでございます。リンガー様は間違いなく大志こころざしを理解し、――じかに言葉を交わす機会を得られませんでしたので担当弁護士を仲立ちにした書簡の往復のみでございましたが、人という種から【エス】を駆逐する『アポトーシス』の先駆けたらんとつ直前、そのように仰せでございました」


 見落としというよりも意識に大きな空白が生じたような状態であるが、気付いたときにはゴスベルは一冊の手帳を持たされていた。

 依然として鉄格子を挟んではいるものの、の間にか、『サタナス』の額に刻まれた大きな〝愛〟の一字が目の前にあった。映画のフィルムでたとえるならば、幾つかのコマが急に抜け落ちたような現象ものであろう。そもそも神の頬に触れたような恍惚の中で周辺あたりの情報を正常まともに認識できていないのだが、世界の〝全て〟を見通すで下から覗き込まれる恰好となり、その瞬間に脳まで貫いた昂揚たかぶりで軽度の失神状態に陥った次第である。


「最後の書簡と一緒にわたくしへお預けになられた物でございます。いずれにリンガー様へ届けて欲しいと。その約束をようやく果たせましてございます」


 『サタナス』が手ずから渡したは、ゴスベルが記憶している限りでは捜査資料に混じって床の上に放り出されていた物ではない。〝天〟の一柱に列せられていないほうがおかしいと首を傾げてしまうくらい前者に魅入られている後者は、空間の裂け目から手帳を取り出すという奇跡を脳内あたまのなかに思い描いたが、酷く虚ろな空想は横殴りのように押し寄せてきた〝現実〟が一瞬で断ち切った。

 牛革レザーカバーの損耗いたみが著しい手帳にゴスベルは見おぼえがあった。彼女のあたまを掻き回した混乱を正確に表すならば、記憶の水底へ小石も同然に沈んでいたというような生易しい断片ものではない。ウリエロの部屋のデスクでいつも決まって片隅を占めていた日記帳である。

 例え相手が婚約者であろうともを覗き見る下劣な性格でもないゴスベルは、くだんの日記帳に対して埃を被りそうな定位置という程度の印象しか持ちようもなかった。それが何の前触れもなく手の中に出現あらわれたのだから、面食らわないように強いるほうが無理な注文というものであろう。


「……そうなの……そうだったのね……あなたの死は……私たちが出逢った〝あの日〟から定められていた運命……本当の意味であなたを殺したのは……日本武道ジャパニーズブドー……ッ!」


 『サタナス』から促されるまま形見の日記帳を開くゴスベルであったが、薬指に指輪をめた左手でもって一枚二枚とページめくたびに指先の震えが大きくなり、間もなく嗚咽が漏れ出す口元を覆わずにはいられなくなった。

 双眸から溢れて顎先で大粒の雫に変わった涙が落ちていく先には、自らの武道によって他者ひとの人生を壊してしまったことに対する懺悔の言葉が記されていた。

 道を踏み外してしまったことを悔い改め、社会復帰に向けて人間というものを学び直すのが矯正施設の存在意義だが、その思いで刑に服す人間ばかりとは限らない。己の犯した罪を罪とも思わず、同室の受刑者や刑務官を暴力で脅かす正真正銘の無法者アウトローは、個々の施設のみならず全米の比率にいても相当な割合を占めることであろう。その傍証が〝塀の外〟にまで勢力を拡げる〝刑務所ギャング〟の形成というわけだ。

 特に重罪犯専用の刑務所で働く者は、職務に関わらず自衛の手段として徒手空拳の技術を体得することが必須であり、ゴスベルとウリエロは同じコインランドリー併設のドージョーで『JUDOジュードー』を学んでいた。そこで親しくなって交際に至った次第である。

 全米屈指の危険度を誇る二人の勤務先では、刑務所内での待遇などを巡って受刑者と刑務官の衝突が断続的に発生している。片手では足りない死傷者を数えた先般の暴動事件も『ウォースパイト運動』の過激活動家さえ関与していなければ、取り立てて騒ぐほどでもないとして通り過ぎていったはずなのだ。

 その日、ウリエロへ執拗に絡み、握り拳や肘でもって小突き回した受刑者も、のちの事情聴取で最初は軽い遊戯あそびのつもりであったと供述したが、〝塀の中〟で〝自由〟が制限された無法者アウトローにとっては暴力が一種ひとつ娯楽レクリエーションなのだ。

 これをウリエロから注意されて逆上し、勢いに任せて掴み掛かった受刑者は冷たいコンクリートの床に頭から投げ落とされてしまった。彼がJUDOジュードーの黒帯であることを知らずに侮ったのが命取りであり、頭蓋骨の亀裂が文字通りの手痛い代償となった。

 このような経緯の整理を境として、懺悔を書き連ねるウリエロの筆致は一字々々を目で追う者の心に深い刺し傷を作るような慟哭へと変わっていく。

 戦意喪失のみを目的とする投げ技であったのだが、打ち所が悪かった為、日常動作に支障をきたさないほど軽度ながら身体からだの一部に麻痺が確認された。正当防衛であることは誰の目にも明らかであり、受刑者を不当に虐げたとして懲罰を言い渡されることもなかった。

 それでも優しいウリエロは相手側の過失と割り切れなかった。


ドーなどという〝暴力〟さえ最初から上陸していなければ、誰も取り返しのつかない過ちを犯すことはなかった。コンデ・コマやタイガー・モリがアメリカにバラ撒いていったのは人を傷付けるだけの〝暴力〟でしかないじゃないか――ギャロファロー様が日記帳そこに綴られた切なる思いは、『ウォースパイト運動』の信念を見事に代弁しておられます。日本文化が辿り着いたアメリカ西岸部、とりわけカリフォルニア各地は〝外来種の暴力〟による浸食が現在いまも進行し続けてございます。……パラスポーツの将来を担うべきンセンギマナ様ともあろうかたが多様な〝暴力〟の寄せ集めとしかたとえようのない真似をされるなんて……これをアフリカ大陸全体の文化的損失と申さずして何としましょうか」


 外部そととのパイプ役を務める担当弁護士を通して預かった頃に一読した『サタナス』が小さな口でそらんじた概略あらましの通り、JUDOジュードーさえ体得しなければ他者ひとに一生の怪我を負わせなかった――と、その日記帳には自責の念が尋常ではない勢いで書き連ねてある。

 端から端まで余白もなく、全てのページが言葉による自傷行為で埋め尽くされていた。良心の呵責に耐えられなくなって正気を失ったとしか思えない羅列に婚約者ウリエロを偲び、ページを跨いで幾度も登場する『シン』の一言を右の指先でもって撫でるゴスベルのなかでは、気持ちが先走り過ぎたものとおぼしきつづりの誤りに対する愛しさを罪悪感が塗り潰しつつあった。

 おおそとがりで後頭部を叩き付けられた受刑者の後遺症も、なる処罰も受ける覚悟を決めたウリエロが贖罪つぐないの機会すら与えられずに気を病んでいたことも、当然ながらゴスベルは把握している。だからこそ格闘技の試合や練習で起きた深刻な事故の被害者を直接的に支援できる手立てを二人で相談し合い、政策としてを実現し得るカリフォルニア州第一九選挙区選出のゼラール・カザン下院議員の事務所オフィスまで陳情に赴いたのである。

 しかし、最愛の人ウリエロの苦悶はゴスベルの想像よりも遥かに深かった。誰よりも近くで寄り添っているつもりであったのに、JUDOジュードーに対する絶望には今日まで気付けなかった。

 形見の日記帳に幾度も数え切れないほど書き殴られた『シン』とは、神を裏切るほどの大罪を意味する言葉であった。己のなかに武道という〝暴力〟を受けれてしまった過ちは〝天〟に許しを請うことさえ許されない――それほどまでに思い詰めた末、『シン』の一言を選んだわけである。

 周囲まわりを呆れさせるほど多弁であったにも関わらず、誰の顔も曇らせたくなくて身のうちで暴れ回る苦悶を家族や婚約者に吐露できなかった。その果てに己の心を壊してしまった優しさが悲しいまでに彼らしい――婚約者の崩壊を迎えるべくして迎えた帰結のように割り切ることは間違っていると、他者ひとから批難されるまでもなくゴスベル本人が最も理解しているが、手首を咬み千切って後を追わんとする衝動を抑え込むすべなど他にはあるまい。


「ウリエロ……あなたは最期まで……私が愛したあなたのままだった……」


 喉の奥から絞り出した月並みな言葉は、本当に婚約者ウリエロへ捧げられたものであるのか、崩壊半ばの精神をいっときでもたもつ為に自己みずからを良心的な人間と騙したかったのか。自ら望んで殉教者となるほどにウリエロをさせた〝始まり〟の証を抱き締め、体裁も何もなく泣きじゃくるゴスベルにさえ分からなくなっていた。

 〝独房棟〟に響くすすり泣きの声は数分前よりも増えている。〝現実歪曲空間リアリティ・ディストーション・フィールド〟の影響下にある人々が嗚咽し始めたことは間違いないのだが、ゴスベルとその婚約者の悲劇に憐憫の情が溢れたのか、『ウォースパイト運動』の信念という『サタナス』が発した一言が琴線に触れたのかは定かではない。

 しかし、現在いまのゴスベルには〝同志〟の涙を人類愛ぬくもりとして感じない理由がなかった。


「二〇〇一年九月一一日の英雄が【エス】の捩じれにからめ取られてしまった涙の日――命を守る職務の為にお母様が一身を捧げておられたアナハイムで〝何〟が起きていたのか、リンガー様は既にご存知でございましょうか? 結果として事件現場となった酒場へ足を踏み入れる前、犯人の白人男性がで〝何〟に触れていたのか……」


 思考回路そのものが焼き切れた状態のゴスベルは、『サタナス』の声に反応して顔こそ上げたものの、〝大人の話題はなし〟が理解できないおさなのようにかぶりを振るしかなかった。

 母を撃ち殺した白人男性がちゅうちょなくひきがねを引いた動機と直接的に結び付く背景事情を述べているのだろうとは察せられたが、捜査に当たった地元警察は、事件発生当日のアナハイムについて地元球団のホームゲーム以外には特に触れていなかったはずだ。

 ゴスベル自身も同地の治安や銃犯罪発生率などが要因とは考えず、人種偏見以外の理由など今日まで想像していなかったくらいである。


「夜勤のお母様が詰めておられた消防署に救急車の出動要請が入る一時間ほど前に、アイスホッケーのプロチームも本拠地を置くアナハイム中心部の屋内競技場アリーナで、るスポーツ大会が開催されてございました。脆く崩れそうな自尊心を懐に隠し持った拳銃ボディアーマーキラーで辛うじて保ち、優越感のを血走った目で探し回っていた白人男性は、その観客席で怨嗟を喚き散らした一人――それがわたくしの調査が辿り着いた〝真実〟でございます」

「まさか……『NSB』の――MMAの興行イベントだったのですか……ッ⁉」

「四年前の九月にアナハイムを〝暴力〟でけがした大会は、罪を重ねる『NSB』の歴史にいてさえ最も悪しきものであったそうです。団体自ら恥ずべき汚点と総括する程でございますから、リンガー様が試合自体をご存知でなかったのはかえって幸運さいわいでございました」


 『サタナス』が続けた説明はなしは、一字一句に至るまで我が耳を疑う内容ものであった。

 当時から日本人選手の筆頭として八角形の試合場オクタゴンで力闘し続けていた『フルメタルサムライ』――しんとうと、組技も併用しながら攻防を組み立て、無防備化させた相手を必殺の一撃で砕く〝サバキ系空手〟の真価を|総合格闘技MMAで証明したベイカー・エルステッドが互角の好勝負を繰り広げたというのに、観客席からは不満の声ブーイングしか上がらなかったのだ。

 この時点でも場内の空気はすさんでいたが、フルラウンドの激闘の末に藤太が競り勝つと興行イベントの生中継が放送倫理に問われるほど醜い罵り合いを互いのファンが始めたのである。

 一触即発の緊張も限界に達し、続くアイシクル・ジョーダンとハロルド・ヴィッカーズの試合で目を覆ってしまうような〝暴発〟を迎えた。ゴスベルと同じ肌の色を持つ前者に後者が撃破されたことで憤怒いかりを抑え切れなくなった観客たちが八角形の試合場オクタゴンに殺到し、鎮圧の為にアナハイム市警が出動する規模の乱闘まで発展したのだ。

 ベイカー・エルステッドとハロルド・ヴィッカーズ――敗れた両選手ふたりは、ロッキー山脈の白雪を彷彿とさせる色の肌であった。

 前代表のフロスト・クラントンが取り仕切っていた時代の『NSB』は、不当な法規制とも闘ってきた〝偉大なる創始者たちピルグリム・ファウンダーズ〟の功績や、MMA団体としての実績を投げ捨て、禁止薬物ドーピングによって文字通りの〝怪物モンスター〟と化したから有色人種がなぶり者にされるという吐き気を催すようなと化していた。

 〝クラントン政権〟でも最悪の時期にアナハイムの興行イベントが開催されたというわけだ。

 『くうかん』で清廉潔白な空手家の魂を養い、フロスト・クラントンにくみせず進士藤太フルメタルサムライとも正々堂々と〝心技体〟を競ったエルステッドとは対照的に、身長に対する筋肉量の比率が明らかに異常なヴィッカーズは、改造された肉体からだもってMMAを侮辱したのである。

 先程まで『サタナス』が踏み付けていた写真の中で横たわるほどおおきくはなくとも、地上の何よりも優れた存在に至るという願望を叶えた白人選手が敗れる事態は、フロスト・クラントンと同じく者にとって自分自身を起源ルーツごと否定される苦痛にも等しかった。

 人として恥ずべきながら、職場や学校で溜め込んだうっぷんが吹き飛ぶくらい痛快な気持ちを味わうつもりだったで不愉快な目に遭えば、と違う肌の色は人種を問わず攻撃対象になるだろう。暴徒化した観客をけしかけて乱闘を起こさせた張本人がフロスト・クラントンであることも、カリフォルニア州体育委員会アスレチックコミッションによる事後調査で判明している。


「……二〇一〇年九月二五日は、その年のアメリカンリーグ西地区優勝が決まった日と記憶しています。……忘れたくても忘れられるワケがありません。私とウリエロの非番が重なって……試合ホームゲームのテレビ中継を観終わって少し経って……母の上司から電話が……ッ!」


 アナハイムのプロ野球チームにとって、二〇一〇年は大きな意味を持っていた。発足五〇周年という節目であり、その年のメジャーリーグ・オールスターゲームも本拠地の野球場で開催されたのである。

 球団チームの歴史に刻まれる大切な年だからこそ、何としてもアメリカンリーグ西地区四連覇ひいてはリーグ優勝・ワールドシリーズ制覇を果たす気概で臨み、〝怪獣王〟の異名を持つ日本人選手のメジャー通算一〇〇〇本安打などで盛り上がりはしたものの、左足骨折による〝主砲〟の離脱などもあって首位を睨む位置に甘んじ、ホームゲームを勝利で飾った九月二五日にテキサスの球団チームへ王座を明け渡すことになってしまった。

 記念の年をワールドチャンピオンで締めくくる夢が露と消えた同日のアナハイムは、悲喜こもごもながらも賑やかであった。ゴスベルの母を撃った白人男性はその喧騒さわぎ神経を逆撫でされ、怒りの捌け口を歪んだ人種偏見に求めたのであろう。彼を刺した喧嘩相手が野球場を出た足で酒場に入店はいったことは、の裁判で明らかとなっている。

 『NSB』の興行イベント会場となった屋内競技場スポーツアリーナくだんの野球場は徒歩で苦も無く行き来できる距離である。その狭い範囲で交わったに巻き込まれ、母は理不尽な死を強いられたのか――『サタナス』より示された手掛かりに基づいて二〇一〇年九月二五日の〝真実〟に辿り着いた瞬間、ゴスベルの顔が慟哭とは正反対の激情いろで塗り潰された。


「凶弾にたおれた母の〝真実〟とは、ひいの白人選手が私とに負かされた腹癒せではなかったのですね。あの夜に野球のホームゲームがなくても、例の盛り場に銃を撃った男が居なくても、『NSB』の興行イベント会場から出てきた別の〝誰か〟がきっと母を殺した。それが〝真実〟……! 真に憎裁きを与えるべきは命が弄ばれる傷害事件を見世物にして、これに群がる人々の暴力性を破壊の衝動へと駆り立てる格闘技そのもの! フロスト・クラントンと同じ忌まわしい優越主義に取りかれたあの男だって『NSB』に人格を歪められなかったら、他者の命を奪うまでの暴走はしなかったッ!」


 ゴスベルの瞳で再び憤怒いかりの炎が燃え上がったが、地を舐め尽くすような勢いも、暗闇に浮かび上がる怨霊のような揺らぎ方も、復讐心という自らの内面より噴き出していた先程までのモノとは似ても似つかない。


うっぷんを酒で誤魔化そうと屋内競技場スポーツアリーナから酒場バーへ直行したと想像にかたくない男が拳銃ハンドガンを携行していたことも不自然の極みです。……そうか、『NSB』の興行イベント会場は危険物の持ち込みも自由というワケか! あってはならない! 合法活動リーガルとして認められているのがおかしい集団にアメリカスポーツの旗頭を任すなどあってはならない! 銃も爆弾も気軽に持ち込めるが健全なスポーツなどと信じられるわけがない! それを蔓延はびこらせておくアメリカという国家くにも世界に対して恥ずかしい! 国辱だ、『NSB』はッ!」


 八角形の試合場オクタゴン剣闘士グラディエーターによるの狩場とも呼ぶべき古代ローマの円形闘技場コロッセオに見立てたフロスト・クラントンの非人道的な暴挙は、野放しにされていたわけではない。アナハイムの酒場に銃声が轟いた日から二年後にアメリカ格闘技界を永久追放され、MMA団体のたいを成していなかった『NSB』も新代表に就任したイズリアル・モニワの尽力で復活を遂げたのだが、その事実がゴスベルの脳内あたまのなかから丸ごと抜け落ちてしまっている。

 『NSB』が苦い過ちを乗り越え、〝健全な格闘競技スポーツ団体〟として正常化していく過程を密着取材したマリオン・マクリーシュ記者が格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルの中で鳴らした警鐘を受けて、彼女ゴスベルは〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟に対する危機感を募らせたのだ。同誌がジャーナリズム公益部門でピューリッツァー賞を獲得した特集記事を想い出さないのは不自然ですらあった。

 前代表フロスト・クラントンと結託し、を再起不能にまで破壊する快楽に酔いれていたハロルド・ヴィッカーズも現体制の所属選手に名前を連ねてはいない。

 それにも関わらず、ゴスベルは自分だけのなかに生じた疑惑を『NSB』全体の邪悪な体質と一方的に決め付け、身勝手な義憤を燃やしている。同団体が正しい償い方で過ちを清算しようとも彼女には『平和と人道に対する罪』の証拠隠滅としか思えず、『ウォースパイト運動』という名の〝正義〟の劫火で焼き尽くさなければ、〝暴力〟という名のけがれは祓えないという妄念をのように繰り返すのみであった。

 正常まともな同僚がこの場に居合わせていたなら、『サタナス』との決闘に挑む前後で脳を交換されたとしか思えない豹変を目の当たりにして心臓まで凍り付かせたことであろう。

 『サタナス』の〝現実歪曲空間リアリティ・ディストーション・フィールド〟による〝汚染〟が矯正施設の機能を破綻させ、社会復帰の希望を受刑者から摘み取っていることを分析できる賢さや、刑務官としての責任にいてもこれを断ち切らなければならないと決起できる意志の強さを兼ね備えたゴスベルならば、現在いまの自分がこじ付けの上乗せしかしてないことに気付けないほうがおかしい。

 刑務官ですら〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟で意のままに操り、国家反逆罪に問われようとする身でありながら秘密裏の捜査協力を通じて司法当局の一部すら味方に付けているのだ。ゴスベルの婚約者を自死へと追いやるような計画など選ばずとも、『靴屋の妖精レプラコーン』の異名を持つ裏社会の〝調達屋〟を〝塀の外〟へ逃がせたのは間違いあるまい。

 『NSB』の興行イベントは銃器の持ち込みに規制がなく、これがMMAの暴力性と溶け合って観客を凶悪犯罪に駆り立てているとも批難しているが、ゴスベルの喚き声が反響するたび、その『ウォースパイト運動』に感化されたベイカー・エルステッドが八角形の試合場オクタゴンを占拠した〝抗議活動〟との矛盾が際立っていく。

 彼女ゴスベルの言い掛かりの通りに『NSB』が警備体制を蔑ろにしているのであれば、『くうかん』のからを纏った過激活動家こそが銃による〝テロ事件〟を場内で起こしたはずだ。

 最愛の婚約者ウリエロ・ギャロファローの命を大した意味もなく使い潰したことさえも、先ほどにわかにほのめかした〝実験〟に含まれているのではないか――ここに至るまでの経緯から猜疑の種を拾うことすら忘れて、ゴスベルはで頬を震わせていた。目の前の〝魔王〟が母親の死について異常なくらい細かく把握していたことや、同日に開催された野球とMMAの試合が互いに関係し合ったという原理を科学的に説明するよう詰め寄ることもない。

 婚約者ウリエロの〝殉教〟を理解しようとする際に振り返ったノルウェーのブラックメタルバンドも、思考能力をゴスベルの脳は神の如き『サタナス』のもとで〝正義〟の執行を妨げそうな情報と断定して記憶から消し去ってしまったようである。

 己の体内で脈打つ心臓の鼓動も許容できなかったボーカリストが自らの頭部を散弾銃ショットガンで吹き飛ばす原因を作ったバンドの中心人物は、悪魔崇拝サタニズムる破壊活動を含んだ背徳的な一派も率いていたが、その仲間から首都オスロの自宅で惨殺されている。

 余りにも惨たらしい有りさまからゴスベルに【エス】の最果てを想起させた自殺体の写真がのジャケットという形で世に出回るのは、オスロの殺人事件から二年後である。これを狂ったように撮影した男は、自らの双眸で悪魔崇拝サタニズムの結晶を確かめることもなくアパートメントの外階段に切り刻まれた状態で転がされたのだった。

 北欧のブラックメタルバンドを巡る一連の惨劇にえて『ウォースパイト運動』を重ねるならば、ゴスベルは悪魔崇拝サタニズムの中心人物を二三回も貫いたナイフに当てまる。意識の有無に関わらず、それを脳が認識したからこそ『シン』にも等しい暴挙を企んでしまった精神こころを切り捨てることで『サタナス』に対する罪をあがない、併せて矛盾の引き金ともなり得る復讐心を根から断ち切って自我を保ったわけだ。


「この私も人類をるべき〝道〟へと導く『アポトーシス』の礎にッ!」


 〝独居房〟を嗚咽で満たしていた受刑者たちも『平和と人道に対する罪』を犯し続ける『NSB』を前代表フロスト・クラントン現代表イズリアル・モニワの区別もなく〝抗議〟の口笛を交えながら狂ったように罵り始め、ゴスベルのなかでも〝同志〟との〝共鳴〟によって憤怒いかりの炎が勢いが増していく。

 アメリカを代表するパラアスリートでもある『クノク・フィネガン』を巻き込み、パラスポーツをも格闘技でけがさんと目論んでいるようにしか思えないゼラール・カザン下院議員などそもそも頼ってはいけなかったのだ。期待を寄せるどころか、正義の銃で撃ち殺すべき対象である。格闘家によって傷付けられた人々の救済は、この愛に満ちた〝同志〟と共に己の手にて成し遂げなければならないのである。


「――格闘家どもは皆殺しにしろッ!」


 瞑目しながら〝正義〟の大合唱に耳を傾け、〝愛〟という漢字一字の刺青タトゥーが無数に並んだ頬を涙で濡らし、首から垂れ下げる人骨笛を右の五指で撫でていた『サタナス』は、まぶたを開くと同時にその腕を前方へ伸ばし、鉄格子越しにゴスベルの左頬に触れた。

 天にも昇るほどの歓喜が突然に訪れたゴスベルは失神し兼ねないほど驚いた。半ば危うかったと言うべきであろう。崩れ落ちるほどの勢いで左膝を突き、冷たい床にぶつかった鈍痛で意識の寸断を免れたようなものである。


「リンガー様ほど〝暴力〟を憎むかたをわたくしは他に存じ上げません。〝真実〟に辿り着かれたギャロファロー様も、自分の遺志を継げるのはゴスベル・リンガー以外には居ないと強く語っておられました。次は貴女が愛のひきがねを引く番でございます」


 先ほど拾い上げた拳銃を左手に持っていた『サタナス』は、世界秩序を守るべくしてち上がった勇気へ応えるように、をゴスベルに握らせた。

 祝福の聖句ことばを紡ぎながら自らに跪いた者を見下ろす『サタナス』と、片膝を突いて拳銃ハンドガンを受け取るゴスベルの姿は、傍目には厳かな騎士叙勲の儀式のようであり、間もなく二人の周囲まわりで拍手と歓声が爆発した。

 ゴスベルと同じ制服を纏い、成り行きを見守っていた同僚は志を分かち合えた喜びを噛み締めるように何度も首を頷かせている。勇気と正義の守護聖人をあくまでも〝魔王〟として否定するようであれば、彼女が受け取った物と同じ拳銃ハンドガンで〝成敗〟する覚悟で『サタナス』の傍らへ控えていただけに、取り越し苦労で終わった安堵もひとしおというわけだ。

 尤も、ゴスベル当人には己に降り注ぐ祝福が実際に起きていることなのか、幻覚や幻聴の類いなのか、虚実の境い目すら分からなくなっている。世界の〝真実〟はそれほどまでに甘美であり、とろけた脳内あたまのなかではグリーグの『ペール・ギュント』を構成する楽曲の中で最も有名な『朝』まで流れ始めた。

 希望の夜明けを迎えた喜びを謳い上げる曲も、〝独居房〟の壁や天井に跳ね返って反響する乾いた音と溶け合った途端に耳障りな不協和音と化したが、現在いまのゴスベルにはこの上ないほど心地好く感じられてならない。

 『ウォースパイト運動』が掲げる崇高な理想の為、自ら進んで〝殉教者〟にならんとする〝同志〟たちの思いに包まれたゴスベルは、「二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない」という遺言を『サタナス』に託した〝大聖母ワーズワス・カイペル〟へ亡き母さえ重ねていた。


「気高い信念は時として人に〝道〟を誤らせることがございます。けれどもリンガー様は絶対に大丈夫。愛と平和の使徒としての責任つとめを一途に成し遂げられると、わたくしは信じて疑いません。〝魔王〟の前に臆した『ペール・ギュント』の主人公とは違い、一歩たりとも退かない真の勇者としてゴスベル・リンガーの名は語り継がれることでしょう」


 魔王の宮殿を逃げ出した主人公が魔物トロルたちに追い詰められ、絶体絶命の窮地に陥った瞬間に教会の聖なる鐘が鳴り響いてドヴレ山そのものが霞の如く消滅してしまうのも『ペール・ギュント』を代表する名場面である。そのように邪悪をはらう鐘になることが『ゴスベル』の名を持つ己の運命と悟った瞳は、まばたきを忘れたかのようにまぶたを開き続けていた。


「〝内なる死〟を見つめた者に与えられる創造と芸術の喜びは〝外なる死〟に餓えて満たされない格闘家には永遠に理解できるものではございません。そして、死に手を伸ばす本能こそが【エス】の二重螺旋――人という種に等しく宿ったを戦争の火種に作り変える格闘技には『アポトーシス』という葬送の儀式をもって終止符を打たねばなりません」


 『サタナス』から叙事詩の英雄の如く讃えられ、快楽の絶頂によって脳を貫かれたゴスベルは今度こそ意識を失ってしまった。死後硬直前後のように全身を小刻みに痙攣させながら満面を愉悦で歪めてはいるものの、【エス】の本質を掴み切れたわけではない。

 そもそも全知全能の指一本のみ届かないという超越者の叡智を矮小な人間に読み解けるはずもあるまい。人智では決して計り知れない〝真実〟に辿り着いた『サタナス』への畏怖がゴスベルのなかぜ、正気を取り戻さないまま全体の構成すら無視して『来たれ、なんじ甘き死の時よ』の断片を口ずさむ有りさまとなったのである。

 命を壊す〝力〟への憎悪にくしみ憤怒いかり教義ドグマとして理解していれば、『サタナス』という唯一無二の存在が人類を正しい〝道〟へと導いてくれるのだ――恐れも迷いもなく甘い夢を抱いて転がるゴスベルであるから、『サタナス』が踏み付けにしている書類が日本格闘技界に関した資料であることなど目の前が白く塗り潰される瞬間まで気付いていなかった。

 添付された写真の中で四角いリングに立ち尽くしているのは、双眸から深紅あかい雫を迸らせるキリサメ・アマカザリ――『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーに宿る『スーパイ・サーキット』をアメリカ国内のたちが分析した報告書レポートである。

 果たして、どのような理由があるのか、オランダ出身うまれの格闘家たちを束ねる『格闘技の聖家族』の御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンの生い立ちを調べ上げた紙の束も、キリサメ・アマカザリと結び付けるような形で置かれていた。

 そこに記された『ラグナロク・チャンネル』という文言は『格闘技の聖家族』とその周辺人物以外には全く意味不明であろうが、キリサメが初陣プロデビュー舞台リングで発動させた異能スーパイ・サーキット興行イベント会場で目の当たりにしたストラール本人がを血を吐くかのように口走っている。

 〝立場〟の差異ちがいもあって挨拶を交わしたこともない二人の報告書レポートには各分野の医師による見解も添えられているが、そこには視機能異常や心房細動といった症例が幾つも並び、生身の人間では想定できない機序から平衡感覚を喪失し得ると主張する者もあった。

 偏桃体病変や海馬の委縮・硬化によって引き起こされる記憶障害と情動失禁、ひいては難治性神経疾患――側頭葉全体の不可逆な損傷ダメージ危険性リスクとして挙げた複数の医師は、『ALS』という略称で知られる筋萎縮性側索硬化症にも言及していた。



                     *



 ライサンダー・カツォポリスの一人娘が〝騙し討ち〟としか表しようのない国際電話を掛けてきてから六時間余り――〝これから始まること〟に備えて早い夕食を迎えた『八雲道場』に、再び穏やかならざる空気が垂れ込めていた。

 食事に対する不満ではない。岳が思い付きだけの〝創作料理〟を振る舞うときには主に未稲が近寄っただけで火傷を負いそうな怒気を漂わせるのだが、七月四日一七時の食卓に用意されたのは食欲を大いに刺激するものであった。

 昨日の夕食に藤太が作ったモツカレーの残りと調味料などを溶き合わせたつけ汁で食べる素麺だ。がね色の水面に薬味のネギと一緒に〝白モツ〟が浮かんでいるのは、博多出身うまれの藤太のこだわりというわけである。

 色違いながら同じ市松模様のエプロンを掛けたまま食卓に着いているキリサメと藤太の二人が夕食の担当だ。青と黒という色合いの前者のエプロンがそれなりに使い込まれているのに対して、濃淡が二つに分かれた緑色という後者のエプロンは下ろしたばかりで真新しい。

 おもて親子が『八雲道場』を訪れた際、万が一にもが嶺子の目に留まったなら、新しいエプロンの持ち主を問い詰められた挙げ句、言い淀んだ岳の顔面に新たな傷が増えるのも間違いないが、その凶兆でダイニングルームの空気が張り詰めているわけでもない。

 氷水で程よく引き締まった素麺は食卓中央に置かれたガラスの麺鉢に山の如く盛り付けられており、各人が好みの量を取り箸でつけ汁の器に入れるという様式である。しかし、まで経っても鉢の底が見えないのは、〝二日目のカレー〟が口に合わないのではなく四人の意識が揃ってテレビ画面に吸い寄せられている為だ。

 古い友人との〝騙し合い〟を巡る殺伐とした空気が岳には息苦しくてならず、二人の子どもによる注意も聞き流して愚にもつかない情報バラエティー番組へ逃避したのだが、偶然にもテレビ画面に映し出されたのは格闘技界をしんかんさせるニュースであった。

 海外情勢を取り上げているが、進士藤太フルメタルサムライの右頬を抉った銃撃事件や、大統領専用機エアフォースワンにサイバーテロを仕掛けた『サタナス』や、に関連する報道ではない。

 かつては『NSB』と契約して世界のMMAを牽引する八角形の試合場オクタゴンに臨みながら、前代表フロスト・クラントンによるドーピング汚染へ与した為にアメリカ格闘技界から追放され、欧州ヨーロッパの打撃系立ち技格闘技団体『ランズエンド・サーガ』に移籍した男性選手――『ラフレシア・ガルヴァーニ』が連続殺人事件の容疑者として逮捕されたという我が目我が耳を疑うようなニュースは、ここ数日の間、日米両国の報道番組で大きく報じられていた。

 しかも、くだんの選手は食人カニバリズムの為に拉致と殺人を何年も繰り返していたのだ。牛の大腸を口にした瞬間に人肉をらうという異常犯罪のニュースに接したのだから、未稲が内臓肉モツの一切れをだし汁へ吐き戻してしまったのも無理からぬことであろう。

 猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニは取り調べに対して伝承の語り部さながらに振る舞っているという。闘争本能を揺り動かす手本を古代の戦士に求め、食人カニバリズムという〝儀式〟を試合のたびに執り行ったとも熱弁し、自宅の排水溝や下水管から〝被害者の一部〟が発見されていた。

 捜査当局がDNA鑑定を進めているのは、処分し易いようにされ、トイレないしは洗面台から流された骨粉や毛髪だ。それはつまり、自分たちが内臓肉モツと呼んでいる部分まで猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニは残さず平らげたという意味でもある。

 平気な顔で牛の小腸を頬張っていられるキリサメの神経が未稲には信じられなかった。

 入念な取材など最初から放棄している低俗な情報バラエティー番組は、他の類例に漏れず猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニや被害者と想定される人々がSNSソーシャルネットワークサービスに投稿していた内容を許可も得ずに紹介し、遊び半分で行動分析プロファイリングの真似事に興じている。


現在いまの活動拠点で起きた凶悪犯罪を通じて、故郷のマスコミの醜さを改めて思い知らされるとはな! どうやって手に入れたのかも分からんが、よりにもよって被害者が家族に送信おくったメールを最重要証拠の如く朗読する悪趣味は下衆の一言でも足らん!」


 藤太がごくぶとの眉を不愉快そうに吊り上げるのも当然だ。発言の責任など負う気もない司会進行は「猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニがMMA興行イベントの観客からも食人カニバリズムの標的を見繕っていた」と、過去に所属した『NSB』の関係者から提供された目撃情報を芝居がかった調子で語り、現実に起きた殺人事件を〝架空〟のサスペンスドラマと誤解され兼ねない形にしていく。

 受け手の興味を大いに刺激する〝関係者の証言はなし〟の類いは、〝現実〟の事件を面白おかしく膨らませる捏造が大半を占めており、例えばタブロイド紙の場合は購買意欲の促進を目的として記者ライターに虚言妄言を喋らせるのが常套手段であった。

 テレビの中の司会進行も、「あくまでも自分個人の見解であって、実際には違う側面があるかも知れません。だからこそ事態を注意深く見守っていかなくてはいけない」という小賢しい一言を添えて批判からの逃げ道を設けている。

 そして、このように卑劣なやり口は進士藤太フルメタルサムライが最も嫌うところである。『NSB』の所属選手には〝団体関係者による目撃情報〟そのものが実態から掛け離れていると判る為、事実無根の作り話を平然と垂れ流すテレビに幾度となく鼻を鳴らしていた。

 放送局に乗り込んで抗議すると息巻き始めた藤太に対し、キリサメは大きく開かれた口に薬味として用意した練りわさびの塊を放り込んで沈黙させた。番組制作側が好き勝手に捏造つくった台本をそらんじるのではなく、己のあたまで考えた言葉を凛然と発する女性がテレビ画面の中央に大写しとなったのは、喉の粘膜を焼かれた藤太が洗面所に駆け去った直後だ。


「――『昭和』の野球少年がミスターながしまおうさだはるに夢中になったように、二〇一四年の現在いまも小学生の男の子はスポーツ選手に憧れ、将来の夢に掲げていることが調査データにも表れています。夢見る気持ちは諸刃の剣で、テレビに映る姿こそが〝真実〟だと信じる危険性を孕んでいます。格闘家に憧れる子どもたち、武道に勤しむ子どもたちが容疑者に触発されて古代の儀式を真似したら? あるいは勝利至上主義に染まった親や指導員から強要されたら? 二度目の夏季オリンピック・パラリンピックを控えた日本は、今こそ格闘技の暴力性が与える悪影響と真剣に向き合うべきです」


 アメリカで起きた猟奇殺人事件は、〝対岸の火事〟だと気楽に傍観しているわけにはいかないと思う――この前置きを経たのち、「健全な肉体と精神の育成に、格闘技は本当に寄与できるのか」とカメラの向こうの視聴者に問い掛けたのは、ゲストコメンテーターとして出演している知育玩具メーカーの社長であった。

 画面内の字幕テロップ表示で『たまおきたますみ』と名前フルネームが紹介されたその女性は、純真無垢な青少年の暴力性を肥大化させ兼ねない格闘技・武道の規制は〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の開催国の責任として必要不可欠と深刻な表情かおで訴え続けた。

 子育てや教育に対する独特な哲学が同じ悩みを抱える母親たちから絶大な支持を集め、近ごろテレビ出演の機会が増えたたまおきたまを指して、からぬ誤解を招き兼ねない〝カリスマシングルマザー〟という呼び方を用いる無神経なメディアは少なくない。

 痛し痒しではあるものの、が彼女の境遇を端的に表しているのも事実ではあった。一人息子を育てる中での発見を玩具開発という社長業にも生かしており、母一人子一人の喧嘩が絶えない生活くらしを綴った随筆エッセイは、映画原作にも採用されるほどのベストセラーだ。


「二〇二〇年までに日本国内で〝スポーツ熱〟は否応なしに高まり続けるでしょう。熱狂の渦の中で冷静な判断や理性が失われ、疑うことを知らない子どもたちが道を踏み外すのではないかと憂慮しているのは私だけではないはずです。格闘技や武道を純粋なスポーツと同じように取り扱うことは青少年育成の上でも本当に正しいのでしょうか? 紛れもない事実として子どもの運動会のプログラムに殴り合いはありません」


 子どもに暴力的な人間には育って欲しくない――同じ願いを胸に秘めた全国の母親たちへ語り掛けるたまおきたますみには、司会進行も他の出演者たちも同調を示すように揃って首を頷かせているが、いずれも自分を善良に見せ掛けるに過ぎない。カメラに映り込んだ場合を考え、悲憤の二字を顔面へ大雑把に貼り付けただけなのだ。何事にも無感情なキリサメにさえ内心では誰一人として彼女に心を寄せてはいないのであろうと察せられた。


「……今に始まったワケじゃねェけど、また余計なコトを言いやがって……ッ!」


 テレビの向こうのたまおきたまに届くはずもない岳の反駁ことばは、平素の振る舞いとは正反対に声まで控え目であったが、これはひろたかが乳幼児であった頃に彼女のメーカーの知育玩具を重宝していた為である。


日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する『天叢雲アメノムラクモ』にとっては〝対岸の火事〟ではありませんが、それにしても進士氏が留守にしている間に、アメリカは随分と物騒なことになりましたね。例の銃撃事件から一ヶ月も経っていない内にこの有りさまとは……」

「おうよ。ハナックの身に何かあったら、オレも藤太と一緒にアメリカへ飛んでたぜ」


 アメリカ格闘技界の混乱に思いを馳せて何ともたとえようのない溜め息をくキリサメに対し、洗面所で呻き声を上げ続ける藤太に代わって岳が相槌を打った。このおやは現役格闘家による猟奇殺人事件の前に取り上げられたもう一つの海外ニュースを『ハナック』という名の人物と併せて振り返っている。

 本名フルネームはハナック・ブラウンである。アメリカボクシング界に詳しいとは言いがたいキリサメでさえ知っている往年のプロボクサーであり、政界へ転向する以前まえに『不沈艦』の異名を取ったカービィ・アクセルロッド上院議員と並び称されるヘビー級王者チャンピオンであった。

 『ウォースパイト運動』の活動家たちの間で神格化されつつある危険人物――『サタナス』が収監されたフォルサム刑務所では、他の矯正施設と同様にボクシングを通じた更生プログラムも実施されているのだが、その技術指導の為にハナック・ブラウンが来訪した当日に一部の受刑者が暴動を起こしたのである。

 数日前に発生した事件にも関わらず、日本の情報番組が継続して取り上げるのは、刑務所内にける待遇改善を求めたものではなく、ハナック・ブラウンというが攻撃対象であったを面白がっている為であった。鎮圧に当たった刑務官が止むなく発砲し、幾人かが死傷するという深刻な事態さえ玩具も同然に弄んでいるわけだ。

 格闘家どもは皆殺し――暴動を起こした受刑者は、その文言を唱え続けていたという。『NSB』の興行イベント開催先が銃で襲われた際、絶え間ない発砲音に混じった怒号と一字一句に至るまで同じである。

 即ち、『ウォースパイト運動』の過激思想に染まった受刑者たちによる〝抗議活動〟であったわけだ。この更生プログラムからボクシングに目覚め、出所後のプロデビューから六階級制覇を射程圏内に入れるまでに躍進したフェイサル・イスマイル・ガスディスクも誕生したのだが、の基準では『平和と人道に対する罪』でしかないわけだ。

 『昭和の伝説』と畏怖されるおにつらみちあきが『アンドレオ』という通称リングネームを名乗っていた時代に率い、岳と藤太が実戦志向ストロングスタイルの異種格闘技戦に明け暮れた『新鬼道プロレス』は、アメリカボクシング界とも交流が深く、その繋がりからハナック・ブラウンに『八雲道場』の打撃指導を依頼したこともあった。世界のMMAの中心地で数々の猛者を撃ち抜いた『フルメタルサムライ』の鉄拳パンチは、既に四本の王者チャンピオンベルトを巻いているガスディスクと同じく伝説的なヘビー級王者チャンピオンに鍛えられた賜物である。

 恩義のあるハナック・ブラウンに私刑リンチの危機が迫ったことがニュースで伝えられた瞬間などは岳も藤太も正気を失いかけるほど大慌てとなり、幸いにも無傷のまま安全な場所まで避難した旨が続けて報じられなければ、本当に現地へと急行したはずだ。そのときは彼の愛弟子であるガスディスクとも合流して仇討ちを仕掛けたに違いない。

 短時間で鎮圧された暴動も、万事解決ではない。混乱に乗じて受刑者一人の脱獄を許してしまい、フォルサム刑務所が所在するカリフォルニア州は厳戒態勢が続いている。〝けいかんじん〟の最有力候補にもなった文化人でありながら、〝裏〟では武器密売などを手掛けた死神スーパイの如き〝調達屋〟であったという。

 先ほど情報バラエティー番組では同刑務所で過去に幾度か脱獄事件があったことを取り上げたが、今回の脱走犯が『ウォースパイト運動』の活動家であったなら、それは最悪の事態にも近い。刑務官の誰かがこの逃走を助けていた場合、司法の側にまで過激思想がまんえんし始めたことを意味するのだ。

 司会進行は根拠の足りないこじ付けで『サタナス』と暴動を結び付けていた。番組の中で並べられた仮説はいずれも信憑性を欠くものであり、右耳から入って左耳へ通り抜けるほど空疎であったが、『ウォースパイト運動』を正真正銘の〝テロ活動〟へと先鋭化させた〝魔王サタナス〟の影響を割り引くという考え方のほうが〝現実〟から乖離するのである。


の国で起きた出来事が日本を飲み込むっていう構図は、『八雲道場』的にムカつくくらいタイムリーだよね。日本だってもうずっと火の車の不況続きなんだから、ギリシャの都合に付き合わされるのは迷惑を通り越して理不尽だよ。それとも〝金満ニッポン〟の印象イメージが未だに根深いのかな? 私なんかバブル期は教科書でしか知らないのに」

「ギリシャは分からないけど、ペルーでは今でも日本人の財布はという認識だよ」

「キリーもそこはるトコじゃねーよ! ……あのな、未稲よォ。何でもかんでもライサンダーにくっ付けてケチつけりゃ良いってモンじゃねェだろ。さっき藤太が言った『後戻りできなくなる』ってのは、他人ひとを信じられなくなるコトへの警告も入ってんだぜ」


 内臓肉モツを除けつつ再び素麺を啜り始めた未稲が蒸し返し、「せめてメシのときは忘れようぜ」と岳が歯軋りしながら窘めたのは、『八雲道場』とライサンダーの〝騙し合い〟ひいては八雲・カツォポリス両家の〝抗争〟である。


「私のほうからも『さっきとーさんが言ったコト』を持ち出すけどさ、ライサンダーさんが一人娘メリッタまで巻き込んで『八雲道場うち』に喧嘩を売ってきた一番の原因は、ギリシャの大不況なんでしょ。日本こっちだって『リーマン・ショック』の影響が直撃したから経済危機のヤバさは多少なりともるつもりだよ? でも、自分が生き残る為ならキリくんを踏み台にして良いのかって問い詰めたときに台所事情で居直られたら、私は空閑さんと瀬古谷さんにカタキ討ちをお願いするよ? ネットでも暴露バラして社会的にもブッころすよ?」

「……俺が話したのはあくまでも憶測だぞ、未稲。確認も取れん想像を自分が怒る理由にするのは感心せんな……」


 鼻から放り出された丸メガネが山盛りの素麺の頂点てっぺんに落下するほどいきり立った末、とうとう直接攻撃にまで言及し始めた未稲を咳払いと共に戒めたのは、ようやく洗面所から戻ってきた藤太である。

 『NSB』で〝上位メインカード〟を任される有力選手にあるまじき短慮を押さえ込む為とはいえ、猛烈な強硬策を用いたキリサメの脳天に軽くげんこつを落とした藤太は、メリッタとの通話を終えて「前身団体バイオスピリッツ以来の戦友ダチなのに、何を考えてんのか、一個も分かんねぇ!」と頭を抱えた師匠に対し、カツォポリスのおやはギリシャ社会の先行きを悲観して精神的にも追い詰められているのではないか――と、一つの仮説を述べたのだ。

 深刻な経済危機でギリシャが破綻の瀬戸際に立たされていることは、職を失った人々で溢れる街並みや、財政運営の失敗に対する抗議デモと共に世界中で報じられていた。

 は二〇〇九年にギリシャを直撃し、翌年に表面化してから五年に及ぶほど長引いている。ユーロ圏全体に共通することであるが、このかんに一〇パーセントも跳ね上がった失業率は高い水準のまま殆ど動いていない。

 失業者が解雇された会社に銃を取って立て籠もった事件を例に引いた藤太は、自分が同じ困窮に放り出されたら何日とたずに理性を失うと重く長い溜め息を吐いた。


「格闘家として鍛え上げた精神をもってしても、一人娘メリッタの将来を憂う焦りは抑え込めんのだろう。景気回復の光明が見えん以上、なりり構ってはいられまい。……例え誤った手段であろうとも、家族への愛情が根っこにあることだけはキリーも理解わかってやってくれ」

「それは不必要な情報です。まかり間違って同情心が湧いてしまったら、を取り辛くなってしまいますよ。〝敵〟は無機物のように思えたほうがやり易い」

「……格闘技に一途な人なのだ、ライサンダー・カツォポリスとは。昔から世話になってきたし、いっときは『NSB』の〝同僚〟でもあったのだがな、……不器用な生き方しか出来ん人なのだ。だから俺も抗争を構えねばならん状況がる瀬なくて仕方ないのだ……」


 岳や藤太と一緒に『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体で闘っていたライサンダーは、今や四〇代半ばとなっている。負傷を理由に興行イベントを欠場することが増え、金属ボルトが埋め込まれた左右のあしを必死になって動かすという状態であった。

 傍目にも分かるくらい肉体からだが限界を超えており、何年も前に格闘家をしていても不思議ではなかった。加えてその年齢が転職を困難にしている。未だ立ち直っていないギリシャの財政状況と失業率を考えれば、職業訓練すらままならないのだ。

 国際電話の最中、ギリシャの教育制度の特徴としてキリサメは学費が無料という点を挙げたが、国家くにが財源を確保できなくなれば、その特権はメリッタから奪われる。ましてや通訳という難しい仕事は教育機関にける勉強と研究のみでは全く足りない。これを補う為の語学留学や私塾などに通う費用を賄うのも親の責任つとめである。

 己の肉体からだ一つで家族を支えていかなければならないライサンダーであるが、若かりし頃から格闘技一筋で生きてきた為にリングの外で働くすべを一つとして持っていなかった。


「……ときにキリーは『ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアン』という名前に聞いたおぼえはあるか? 『天叢雲アメノムラクモ』にける『かいおう』――ゴーザフォス・シーグルズルソンのように、〝絶対女王〟として『NSB』に君臨する我が戦友ともだ」

「進士氏の試合をPPVペイ・パー・ビューで観戦したときに岳氏から説明していただきました。前代表の頃に血液ドーピングに手を染めてしまい、引退寸前から奇跡の復活を遂げた選手と聞いています。顔と名前が完全に一致するようになったのは、先日のテロ事件に巻き込まれたというニュースを拝見したからですが……」

「そうだ。ドーピング汚染の解決後に『NSB』の興廃を賭け、たった一度だけ開催された男女混成トーナメントで我らが『ヴァルチャーマスク』をも撃破した『ザ・フェニックス』――その異名なまえに相応しい再起を支えたのがライサンダーの〝同門〟なのだ。ギリシャで生まれた『パンクラチオン』のな」

とーさんまでキリくんの同情を引かないでくださいよ。その〝同門〟ってヴィヴィアンさんの旦那さん――ファビアン・オーケアノスですよね? パンクラチオンの友情物語でライサンダーさんを〝根はい人〟だとか刷り込む感じですか」

「俺が言い包めずともライサンダーは元からい人だ。未稲が小学校に進学あがったばかりの頃だったか。肩車してもらった想い出まで怒りで塗り潰すのはお前自身の為にならん」

「藤太さんには残念ですけど、ファビアンさんを持ち出した時点でライサンダーさんのダメさ加減が炙り出されてゲームオーバーですよ。現役にしがみ付いていないで〝同門〟のように指導者トレーナーに宗旨替えしていたら、ここまで落ちぶれなかったのは確実です。長年の経験っていう財産を元手にした再出発の可能性を自分で潰しただけじゃないですか」

「世の中の全てがカネで解決するとは考えておらんが、社会を支えるのも、そこで生きる人々の暮らしを守るのも経済だ。確かにギリシャはパンクラチオンが生まれた土地だ。オリンピックの始まりの土地でもある。だが、経済が痩せ細った時節にスポーツに回す余力があると思うか? ……それにライサンダーの場合は――」


 MMAあるいはパンクラチオンの指導者トレーナーに関する〝何か〟を言い淀んだ藤太は、無言で首を横に振る岳を一瞥したのち、グラスの麦茶を一息で飲み干すという動作をもって仕切り直しを試みた。


「運良く現在いまは格闘技一本で食えているが、俺の経済基盤は〝上位メインカード〟という地位ポジションしか保証がない。試合順が下降すれば、容易くライサンダーと同じ状況になる。この内臓肉モツあたって悪い病気に拗らせただけでもリングアウトだ。自家用車プジョー住居すまい売却ウリに出しても半年も食い繋げん。『NSB』では


 住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した史上最悪レベルの金融危機の影響は、発生から数年を経た現在も世界経済を蝕み続けている。長期に亘る不況下では、実績がある〝プロ〟の競技選手アスリートでさえ出資者スポンサーの獲得に難しい。

 マイナス成長の日本にいても企業に格闘技やスポーツを育てるだけの余裕がない。自分にとっても身近な問題がライサンダーの窮状と重なってしまったら、意固地な未稲も押し黙るしかなく、その様子を見て取った岳はやたらと芝居がかった調子で肩を竦めた。


「ほれ見ろ。速攻で藤太の言うコトを真っ直ぐに受け止められなくなってらァ。同じパンクラチオンを極め、どっちも家族を第一に考えてるのに辿った〝道〟は正反対っつうをお前らに考えて欲しいんだよ、藤太コイツはよ」

「愛する妻の復帰を支える為、選手から指導者トレーナーに転向して新たな〝道〟を歩む男と、愛する娘の将来を守りたいのに、格闘の哲学者であったが為にあらゆる〝道〟が絶たれようとしている男――キリー、お前はそこに〝何〟を見る? 俺は……俺には違和感しかない」


 キリサメの返事を待たずに己の苦悶を吐露し始めた藤太に岳は苦笑いで頬を掻き、面白くなさそうにそっぽを向いた未稲は、付け合わせとして小皿に盛られたラッキョウの甘酢漬けを音を立てて頬張った。

 その藤太から二人の〝パンクラティアスト〟の差異ちがいを問われたキリサメであるが、ジュリアナ当人についてさえ概略的な情報しか持ち合わせていないのだから、その夫のことなど一つとして理解わからず、〝ライサンダー〟との比較など望まれても困るのだ。

 二人が共にギリシャの出身うまれであり、ファビアンがジュリアナと共にアメリカで暮らしていることは僅かな手掛かりから察せられた。一方のライサンダーは『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体もろとも日本にける〝格闘技バブル〟が崩壊したのちに『NSB』へ移籍したと聞いているが、おそらくはその〝同門〟から招かれたのであろう。


のパンクラチオンはアメリカで始まったと、いつかこうせい氏に教わったな。そのツテを頼って渡米したのか? もう一人が指導者トレーナーをやれるのもかもな)


 友人から送り付けられた手紙の内容を脳内あたまのなかで振り返っていくキリサメであるが、パンクラチオンと呼ばれる格闘術に詳しいわけではない。

 プロ・アマという〝立場〟の差異ちがいを超えて文通という形でMMAの意見交換を続けているカパブランカこうせいが問われもしないのに一方的に概要を書きつづってきたのだが、四肢を隅々まで用いる打撃や投げ技、関節技サブミッションなど〝全ての格闘技術〟が体系に組み込まれているという。標的の首を絞め込む組技は言うに及ばず、寝転んだ状態での攻防まで含んでいるのだ――と、便箋からみ出す勢いでパンクラチオンのことが記されていた。


「――古代と違って現代ですからね、〝格闘競技スポーツ〟としてルールも技術体系も安全化が施されていますよ。再びオリンピック競技化を目指すっていう運動もあるんですから、MMAも負けてられません。ライサンダー・カツォポリスも五輪代表選手オリンピアンは断るんじゃないですかね。我らが『天叢雲アメノムラクモ』が誇る『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』は、近代化の波に飲まれてにまとまった『グリマ』にヴァイキング時代の古い技を復活させたでしょ? それと一緒です。首を絞め落とすんじゃなく、相手の首を抱え込んだら確実に骨をし折る。試合で実演しちゃマズいし、自分も真似したいとは思いませんけど、〝パンクラチオンの本性〟を現代に受け継いだのは格闘家としての優位性アドバンテージが半端じゃないですよ」


 パンクラチオンの発祥はギリシャ神話の英雄――半神半人の猛き勇者・ヘラクレスと、ミノタウロス退治のテセウスにまで遡るとわれている。

 かみの彼方にて編み出された格闘術パンクラチオンは古代オリンピックの競技でもあったのだから、MMAが近代オリンピックの正式種目に採用される日を夢見て練習に励むカパブランカこうせいが普段よりも更に昂奮した筆致になるのは当然であろう。

 〝ギリシャ世界〟にける最強と名高いスパルタの戦士も体得しただけに試合でさえ当たり前のように人命が失われたが、その苛烈さを割り引けば、古代のパンクラチオンはこんにちの〝バーリトゥード〟に性質が近い。禁じられたのは目潰しと噛み付きのみであり、それ以外のあらゆる〝格闘技術〟が解放されたわけだ。

 〝バーリトゥードなんでもアリ〟という試合形式が発祥地のブラジルからアメリカへと渡り、鬼貫道明が率いた異種格闘技戦の影響を受けつつ、新時代の〝スポーツ文化〟である総合格闘技MMAとして発展した経緯を考えれば、紀元前二〇〇〇年にはに先駆けていたパンクラチオンは、まさしく全てのMMA選手の祖先であろう。

 しかも、カパブランカこうせい解説はなしによれば、パンクラチオンを近代の〝総合格闘〟として体系化したのは、ギリシャに起源ルーツを持つアメリカ人であったという。最初の道場アカデミーがマサチューセッツ州ボストンに開かれたのは一九七一年である。エド・パーカーの『アメリカン拳法』、ブルース・リーの『ジークンドー』に続くその開花は、奇しくも日本の鬼貫道明が異種格闘技戦へ挑戦し始めた時期とも重なるのだった。

 格闘競技スポーツが映したナショナリズムか、あるいは伝統武術を通じたエスニシティか――そこに働く意識がキリサメには分からず、軽々しくは踏み込めない領域とも弁えているが、二三八年前の今日にイギリスからの独立を宣言したアメリカの建国史にいて、とりわけ大きな役割を担ったボストンでパンクラチオンの復活を成し遂げた人物は、ギリシャという遥けき起源ルーツへの思いが最も強い原動力であったという。

 アイデンティティそのものを辿る旅路であったことはキリサメにも察せられた。


(……ライサンダー・カツォポリスの場合、『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントでは如何にも伝統的な試合着を使っていたし、MMA選手としての根っこはあくまでもなんだろうな)


 ライサンダーが故郷ギリシャで磨いてきたのは古代パンクラチオンの技術である。一方で『NSB』への出場などアメリカとの接点も薄くはなく、近代パンクラチオンの道場アカデミーとの関わりをえて避けるとも考えにくい。双方を極めた〝パンクラティアスト〟と考えれば、日本の〝格闘技バブル〟にける活躍も得心が行くのだ。

 絶望的な兵力差にも臆さず、ペルシャ帝国の大軍勢を相手にテルモピュライの地で繰り広げた合戦にいて、全滅するまで勇猛果敢に槍と剣を振るい続けたスパルタ兵の如く、最盛期のライサンダー・カツォポリスは無尽蔵の体力で対戦相手を圧倒していた。

 数千年というときを超えて現代の戦場に降り立ったパンクラチオンは、MMAの祖先として燦然と輝き、ライサンダーも『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体では花形選手エースの一角であった。

 それから一〇年も経っていないというのに、彼の両足は自分の体重すら満足に支えられなくなっている。スパルタ兵の再来とまで畏怖された代償が古豪ベテランと呼ばれる年齢になって牙を剥いたのである。

 岩手興行の閉会式クロージングセレモニー後に動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』で生放送された検証番組にいても、実演を交えて技術解説を行う『あつミヤズ』からライサンダーは試合内容を手酷く扱き下ろされていた。

 ガレオンの〝同門〟である『とうきょく』の総合格闘技者シューター――しんかいこうと相対した岩手興行では、試合中にも関わらず足さばきフットワークが維持できなくなってしまった。

 を痛罵するのは古豪ベテランの名誉へ泥を塗ることにも等しいが、なる事情を抱えていようとも決着のゴングが鳴り響くまでで闘い続けられないようでは〝プロ〟失格という『あつミヤズ』の理屈も乱暴ながら誤りではなかった。

 ライサンダーのことを『八雲道場』の〝敵〟としているキリサメだが、肉体面の限界を取り上げて嘲笑おうとは毛ほども思わなかった。八雲岳やヴァルチャーマスクと共に日本でMMAを芽吹かせ、これを育て続けた古豪ベテランの現状を〝時代の流れ〟という一言で切り捨てるほど一七歳の新人選手ルーキーも無神経ではない。

 前身団体バイオスピリッツと『天叢雲アメノムラクモ』の両方に参戦するなど日本MMAと深い絆で結ばれ、年齢や戦績を理由に〝暴君〟から不当に冷遇されている点も含めてライサンダーと重なる部分が多いじょうわたマッチとの試合たたかいを通じ、偉大な先達を敬う気持ちがキリサメのなかに芽生えている。

 無論、その念はカツォポリス家との〝抗争〟で手加減する理由にはならない。


「キリーや未稲の言う通り、〝騙し討ち〟で『八雲道場』を揺さぶってやろうと一人娘メリッタを送り込んできたとしよう。俺はそこに違和感しか持ち得んのだ。そんな器用な真似が出来る男であれば、このままならない状況を上手く渡っていたハズだ。……楽に生きられん男だからこそ見捨てておけんのだ」

「楽に生きていけないタイプの父親に勝ち星を譲って欲しいってメリッタから泣きつかれたら、とーさんは八百長紛いのをキリくんにやれって言うんですか? そのメリッタは火事の嘘までいて潜り込もうとしているんですよ? ……私はキリくんを信じてるけど、色仕掛けの心配だってあるじゃないですか……っ!」

「僕の場合、カツォポリス家とは分かち合うような想い出を持っていないから、進士氏やみーちゃんみたいなこだわりもない。限られた状況証拠から割り出したことだけど、娘のほうは〝騙し討ち〟に乗り気じゃない可能性も捨て切れないよ。無理強いではなくても、追い詰められた父親に手助けを申し出ない確率のほうが低いんじゃないかな。上手く転がせば『八雲道場こちら』に寝返らせて逆に利用できるかも知れない」

おや共謀グルってセンのほうが現実的じゃない? 通話中の日本とギリシャの時差を調べてみたんだけどね、向こうは明け方前だったんだよ? 電話一本に厭味なくらいに気を遣うのは後ろめたい証拠でしょ。ここまで怪しくて推定無罪なら正義もクソもないよ」

「……今一度、師匠に言われたことを己に問い直せ、未稲。を相手の言葉の一つ一つに探し回るようになっては、逆に真実から遠ざかるぞ」

「そのメリッタが邪道の限りを尽くしているんですから、とーさんの正論は〝敵〟に付け入る隙を差し出すようなものじゃないですか」

「それでも正論を言い続けるのが〝兄〟の役目と心得る」


 カツォポリス家が張り巡らせたであろう謀略の実態をメリッタの言行から見極めるのではなく、現在いまの未稲は彼女の欺瞞いつわりを暴くことが目的にすり替わってしまっている。

 これを見兼ねた様子のキリサメから別の視点へと促された未稲であるが、暴走に対する戒めとして感じた為にいよいよ意固地となり、電話が掛かってきた時点にけるギリシャ現地の時刻にまでいびつな猜疑心をぶつけ始めた。呆れ果てたように口を開け広げる藤太の顔が丸メガネのレンズに映ったことも躍起になった原因であろう。


「もう一つおまけに言ってやるならよ、仮にもダチ公相手に平気なツラして嘘をき続けられるようなクサれたムスメに育てたおぼえはねェぜ。ちィと頭を冷やしやがれってんだ」


 二人と合わせて畳み掛けるように未稲を窘めたのち、グラスの麦茶を一気に飲み干した岳であるが、その双眸が捉えていたのは不貞腐れてし口を作る実娘むすめのほうではなく、容器の底に沈殿したカレーの旨味を箸でもってかき混ぜている最中の養子キリサメであった。

 傍目には不可解と思えるくらい未稲のなかで膨らみ続けるメリッタへの敵愾心をそれとなく宥めようとするキリサメであるが、ギリシャとの国際電話が終わった直後は声の調子を分析し、彼女の側から『八雲道場』に向けられる悪意を推し量っていたのだ。考えようによっては未稲よりも遥かに悪質であろう。

 カツォポリス家との親交や想い出を持たない為、一歩引いた視点を保っているキリサメだけに感情的な未稲と違って偏った分析ではなかった。

 空白の時間が埋まるまでは無理に声を張っており、慣れてきた後も八雲のおやを味方に付けようという焦燥感が明るく努めようとする振る舞いに滲んでいた――完全には不信感を拭い切れないが、を根拠として古い友人との〝抗争〟にメリッタは巻き込まれただけかも知れないと、キリサメは未稲と相反する見解を述べたわけだ。

 一連の流れの中で、メリッタとのやり取りが余りにもぎこちないと演技の改善を言い渡されたときには、さしもの岳も「やってられっかッ!」と声を裏返らせた。

 一九九〇年代に江戸幕府の埋蔵金の発掘事業プロジェクトにも挑戦した主宰者の随筆エッセイや、著名人による対談など様々なコンテンツを毎日提供するインターネット事業に協力している岳は、定期的に配信される体操教室で講師を務めてきたが、タレント活動そのものには積極的ではない。俳優経験もテレビドラマや映画に一場面だけとして出演した程度なのだ。

 その岳からすれば即興演技アドリブを求められること自体が間違いであり、「既に『八雲道場こちら』でも〝裏事情〟を把握していることや、カツォポリス家の出方を窺っていることを気取られたら今後の駆け引きにも支障が出る」とキリサメから批難されても、不機嫌な幼児こどものように頬を膨らませた姿を返答こたえに代えるしかない。

 視界からも完全に外れていたテレビが岳の意識に再び割り込んだのは、緊急速報を意味するチャイムを挟んで、きょうきょうひがしやまおん界隈で発生した銃殺事件の字幕テロップとして画面上部に表示された為であった。

 七月の京都はおんまつりの最中である。三三基の稀有壮大なやまぼこおんばやと共に市内を練り歩く巡行が余りにも有名なので、のみをおんまつりと認識している人間も多いのだが、本来は〝せんねんおう〟に厄災わざわいをもたらす怨霊を鎮めんとする八坂神社の祭事であり、一日ついたちの『きっいり』から始まって三一日の『えきじんじゃごしさい』まで続くのだ。

 しかも、昨年まではいちにちの内にされていたやまぼこ巡行がおよそ半世紀ぶりに一七日の『さきまつり』と二四日の『あとまつり』という二日ふつかに分けて実施されることになった。幕末の戦火で失われた『おおふねほこ』の復活も大きな目玉であり、まさしく記念すべき年であった。

 耳を澄ませれば、「コンチキチン」という清められた音色がそこかしこから聞こえてくる華やいだ状況を台無しにするかのように、八坂神社に程近いおんの裏路地で銃殺事件が発生したのは今日の正午近く――メリッタとの国際電話が終了して間もなくであった。

 銃で襲われた被害者は顔面に散弾を浴び、最初の急報の時点で即死と発表されたが、夕方の字幕テロップが無感情とも思えるほど簡潔に提示したのは、きよみずでら付近のる店舗で〝第二の銃殺事件〟が発生した旨である。

 最悪の事態としか表しようもないが、この瞬間からに切り替わったのだ。おん界隈の賑わいを発砲音が引き裂いてから五時間が経過した現在いまも、犯人はおそらく銃を携えたまま逃走中である。

 翌五日にはなぎなたほこじょうどおりに面するかいしょいて〝神事始め〟に『太平の舞』を披露するのだ。完全に無防備な子どもが危険に晒され兼ねない恰好であり、警備体制が整わない場合は行事自体の中止も有り得る状況であった。

 無論、京都府警の威信を賭けて〝第三の銃殺事件〟を阻止し、一七日――『さきまつり』のやまぼこ巡行までにはなる手段を講じようとも犯人を逮捕することであろう。

 「『いけけん』の再来にしちゃあ冗談キツいぜ」と岳が呻いたのも無理からぬことである。彼が記憶している限り、おんまつりが血でけがされたのは京都焼き討ちを企んだ過激じょう派の不逞浪士たちをしんせんぐみさんじょうばしはたいけばくした『よいやま』の死闘以来だ。げん元年――幕末と呼ばれた一八六四年から数えて丁度一五〇年ぶりであった。


「……キリーの台詞じゃねェけど、どこもかしこもマジで物騒になってきやがった……。仲間を真っ先に心配すんのも良くねぇけど、さだは大丈夫だろうな。あいつが勤めてるはなしょ学院大学と八坂神社って大して離れてなかったハズだぜ」


 銃犯罪の犠牲となったアメリカの好敵手ライバル――生きている間に拳を交える機会が巡ってこなかったミッキー・グッドウィンとの友情に捧げるべく、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催に全身全霊を傾けてきた。共に日本MMAの黄金時代を築いたライサンダー・カツォポリスと〝騙し合い〟を繰り広げなければならないこの状況は今でも信じたくない。二つの思いを胸に秘める岳が喉の奥から絞り出した一言は余りにも重かった。


「大学は予想される逃走経路の先に所在ったと俺も記憶していますが、犯人が『ウォースパイト運動』の活動家でもない限り、よしさんに――はなしょ学院に銃口が向けられることは有り得んかと。……俺はそう信じたい……ッ!」


 凶弾によって抉られた右頬の傷を左の人差し指で撫でながら、藤太が一等険しい表情かおになったのは、師匠の呻き声が鼓膜に滑り込んだ為である。

 『いけけん』でちょうしゅう出身者がしんせんぐみに死傷させられたことが火種となって同藩が挙兵し、京都中心部にける武力衝突を経て大火災にまで発展したのが『はまぐりもんきんもん)のへん』――『おおふねほこ』焼失の原因となったおおいくさだ。

 一つの事件がより深刻な事態の前触れということは、時代の狭間で幾度となく確認されている。いけで起きた壮絶な斬り合いが一五〇年の歳月を超えて岳を動揺させていた。

 ライサンダーが〝騙し討ち〟を仕掛けてきた根拠として藤太が挙げたギリシャの経済危機も、メリッタをえて『八雲道場』におびき寄せんと謀った未稲の機転も、決して間違いではないと彼も受け止めている。〝罠〟を張ってカツォポリス家を陥れることを躊躇ためらわせる同情心など持たないようにキリサメが発した警告さえ否定はしなかった。

 そこまで戦友ライサンダーを困窮させた状況が一個人の感傷きもちだけで片付けられないことは、理屈あたまでは分かっている。

 『MMA日本協会』で理事を務めるつえむらあけの情報提供によれば、岩手興行の直後に樋口代表から事実上の戦力外通告を受けたと言うのである。他の競技では努力次第で戦列に復帰できる希望も残しているが、古豪ベテランを疎んじる〝暴君〟に支配された『天叢雲アメノムラクモ』にいては契約解除にも等しい。

 統括本部長として〝同僚〟たちを見守っている八雲岳どころか、主催企業サムライ・アスレチックスでマネジメントを担当する麦泉にさえ事前の相談もない強権的な決定であった。背負った肩書きが本当に有名無実となってしまう事態とも言い換えられるだろう。

 その〝暴君〟と抜き差しならない関係にある『MMA日本協会』のに『八雲道場』が加担したと疑われ兼ねない為、戦力外通告の真偽を麦泉に確かめることも叶わない。

 『八雲道場』のマネージャーを欺かざるを得ないのはこの場の誰も気が進まないが、自分たちは〝七月四日一八時に起きること〟にと見せ掛けるしかないのだ。

 迂闊な行動を取った途端にキリサメと岳が揃ってライサンダーと同じ状況に追い込まれるからこそ、未稲は「ここで〝道〟を譲ったら〝次〟の悪だくみにも担ぎ出される」と樋口代表の動向に危機感を露にしたのだった。


(階段から転げ落ちそうになってるダチ公に手も差し伸べられねェ統括本部長に何の意味があるんだ? ふかさく監督の『かまこうしんきょく』みてェなどんでん返しに出来なきゃよォッ!)


 『天叢雲アメノムラクモ』は近代オリンピックの父――ピエール・ド・クーベルタン男爵が説いたような「参加することに意義がある」というアマチュア大会ではない。東日本大震災の復興支援を掲げてはいるものの、あくまでも〝プロ〟の競技選手アスリートによる興行イベントなのだ。

 そもそも〝プロ〟のMMA興行イベントは観客の心が洗われる青春の一幕ではない。莫大なカネや出資企業スポンサーの期待を応えることに価値の比重が置かれ、選手にも競技団体にも、勝って生き残るか、負けて脱落ちるかという二択しか用意されない完全な競争社会である。

 花形選手スーパースターをファンとの交流イベントに駆り出し、格闘技経験がないローカルアイドルを〝客寄せパンダ〟に仕立てようとするなどMMA興行イベントに長けた樋口は、それ故に観客を満足させられない成績不振の選手から無慈悲に居場所を奪おうとするのだ。

 カツォポリス家が初めて『八雲道場』を訪れた二〇〇四年の日本も、経営不振による二球団の合併に端を発したプロ野球界の再編問題で激しく動揺していた。

 合併に伴う球団数自体の減少への対応という形で二大リーグの合流という議論にまで発展し、これを推進する一部の球団オーナーが反発を強める選手会に「分を弁えろ」と見下すような言葉を発して球界全体への信頼が著しく損なわれたのである。

 一九三四年――『昭和』と呼ばれた時代に日本でプロ野球が発足して以来、初めてとなるストライキ決行や完全新規の球団参入による二リーグ制の維持など、スポーツ界に留まらず政財界をも巻き込む事態となった再編問題は、当然ながらニュースや新聞で連日連夜に亘って報じられた。これによって日本にいても〝プロ〟の競技選手アスリートの〝立場〟に対する眼差しが変わり始めたのは、〝怪我の功名〟ともたとえるべき副産物であろう。

 日本ではプロ選手を〝個人事業主〟とする認識が一般に広まっており、球団にされた労働者という〝法的地位〟は脇に追いやられていた。選手を軽んじた失言が象徴するように、くだんの再編問題では選手会がオーナー陣と〝団体交渉〟を行う権利を有しているのかが一つの焦点となったのだ。

 球界を引き裂く騒動を経て再確認されたのは、選手会が〝労働組合〟としての条件を満たしていることである。そして、は〝プロ〟の競技選手アスリートが〝所属先に雇用された労働者〟という〝法的地位〟の明確な事例でもある。

 一〇年周期の激震というべきか、アメリカ・メジャーリーグにいてもオーナー側が強引に導入しようとした新しい給与制度を巡る労働争議が物別れに終わり、選手会によって一九九四年から翌九五年にかけて二三二日という長期間のストライキが実施されている。

 これは二度の世界大戦の最中でも開催されたワールドシリーズの中止という天地がさかさまになるほどの事態を招き、大統領までもが仲裁に乗り出さざるを得なくなっている。〝スポーツ産業〟が高度に完成されたアメリカにとっては致命的な損失というわけだ。

 ベーブ・ルースの一〇〇回目の誕生日までに解決できなかったことで、メジャーリーグ自体の社会的信用も一時は危機的状況に陥ったのである。アメリカスポーツ界にとっては決して忘れてはならない苦い教訓であった。

 尤も、競技選手アスリートの〝労働者性〟を巡る判断は法解釈にも大きく影響される為、契約を取り交わす競技団体にとっては〝制度上のブラックホール〟にも等しい。同国アメリカではくだんのストライキ以前から正常な労使関係のり方や独占行為の規制を定めた連邦法が適用され得る範疇と認識されているが、格闘家の命を脅かすドーピング汚染から『NSB』を再生させたイズリアル・モニワでさえ所属選手の労働権に関しては現時点で手を付けていない。

 慎重な姿勢を『NSB』の団体代表と比較して、『天叢雲アメノムラクモ』を率いる樋口郁郎の所業はまさしく〝暴君〟である。労働者とその家族の生活に責任を持つ義務が雇用主には生じるのだが、彼は競争社会というプロ選手が直面する〝現実〟を盾に取り、解雇権のらんように相当する暴挙を思うがままに繰り返してきた。

 これまでにも〝暴君〟の運営方針は海外のスポーツメディアから時代錯誤と痛烈な批判を浴びてきたが、所属選手に強いる従属的な契約もその一つである。情報戦に長けた樋口だけに「分を弁えろ」などと口は滑らせまいが、本質的に根が同じであることは平素の振る舞いから滲み出しているのだった。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体である『NSB』と、メインスポンサーの『ハルトマン・プロダクツ』から揃って断交され兼ねない真似を仕出かし、次回興行イベントの開催に向けて手を携えるべき熊本の武術界は、その非礼が許せず敵に回った――近頃の〝暴君〟は己に味方しない人間をふるいに掛けるような振る舞いが目立っているが、『天叢雲アメノムラクモ』に所属する選手間の交流は、互いの利害を挟まない限りはのうろうの掲げた『自他共栄』が保たれている。

 だからといって統括本部長がライサンダーのみを経済的に援助することは、他の選手に対して公平性を欠いてしまう。ましてや成績不振がライサンダー当人の肉体的な限界に起因する以上、樋口による冷遇を『スポーツ仲裁裁判所』――スポーツ関連の紛争を解決に導く機関へ訴えたところで、問題の根本は何も変えられないのである。

 統括本部長という選手のまとめ役を担いながら、主催企業サムライ・アスレチックスの意向に関与する権限など持たず、八方塞がりとなりつつある〝同僚〟に現実的な救済措置を示すことも出来ない。そのような己こそが誰よりも無責任――と、岳は堪えがたい煩悶の中で歯噛みしていた。


(こんなザマをヴァルチャーのあにィが見たら、心の底からがっかりさせちまうな……)


 実兄あにの如く慕うヴァルチャーマスクから篤志の精神を受け継いだ岳は、困っている者を決して見捨てることが出来ない。誰に対しても押し付けがましいくらい手を貸してしまう為人ひととなりが知れ渡っていればこそ、メリッタも切羽詰まった声で助けを求めたわけである。

 ともすれば足元を見られているようなものであるが、自らの間抜けを嘲って鼻を鳴らさず、名ばかりの統括本部長と化してしまったことを悔やむのが八雲岳という人間なのだ。


「……『どこもかしこも物騒』っつったら、レオが『MMA日本協会』にも一枚噛んでるのだってワケ分かんねェ。裏切り行為がバレても人気に依存しまくってる樋口は花形選手じぶんを切れねぇってタカを括ってんのは間違いねェがよ、キリーとりてェっつっといてェでその道筋をややこしくしてるじゃねェか」


 戦友ライサンダーの境遇に心を痛める一方で、『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターに対する不信感を加速させることは岳もちゅうちょしなかった。

 『スーパイ・サーキット』の暴走によって、キリサメはじょうわたマッチの誇りある試合たたかいを踏みにじってしまった。これに怒り狂った暴走族チームの報復を代わりに引き受けるという名目で、花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレル新人選手キリサメに熊本興行での対戦を要請したのである。

 貧民街スラム出身うまれという〝話題性〟のが面白くなく、この謳い文句を自分が独り占めする為に『ブラザー』を潰したいのだとレオニダスはおどけた調子で語っていたが、岳には何らかの〝裏〟があるように思えてならず、団体内の実績や等級ランクを飛び越えてまでキリサメと闘わんとする真意ねらいを第三者的立場から分析して欲しいと藤太にも相談したくらいだ。

 そのような状況にも関わらず、今度は『MMA日本協会』と結び付き、そのに協力している。レオニダスが引き受けた役割も杖村理事の情報提供によって把握したのだが、成り行き次第では自ら熱望した熊本興行での対戦が暗礁に乗り上げる可能性もあるのだ。もはや、岳は花形選手スーパースター思考かんがえが全く読めなくなっている。

 〝じょうわた総長〟を崇拝し、レオニダスが介入しなければ初陣プロデビュー直後のキリサメを襲撃したであろうつるぎきょう――暴走族チームの仲間でさえ手を焼く問題児が一八時から始まる『あつミヤズ』の緊急放送を視聴しようものなら〝騙し討ち〟に遭ったと確実に逆上する。返り討ちという結果はともかくとして『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターをも攻撃対象に加えるはずだ。


「僕との因縁を利用できると考えた〝誰か〟がタファレル氏の人気を当て込んで今度の計画に誘導したとは考えられませんか? ……花形選手スーパースターと『MMA日本協会』の繋がりも、裏舞台で〝誰か〟が糸を引いている証拠の一つではないかと」 


 レオニダスに対する憤懣を噛み殺そうと、いの如く大量の素麺を頬張った岳に対して、キリサメはカレーのつけ汁を啜りつつカツォポリス家の動向うごきに注目していた今までとは異なる角度の推理を披露した。


「杖村たち『MMA日本協会』はライサンダーの置かれた状況を利用し、キリーと『八雲道場』まで巻き込んで樋口郁郎への反撃を計画している。……最後の〝切り札〟を考えれば〝反撃〟ではなく〝叛乱〟と呼ぶべきかも知れん――が、それすらも己の利にせんと企む〝裏〟の意思が働いている。そう言いたいのか、キリー?」

「偶然か、必然か。の〝本当の敵〟も熊本にあり――それは間違いありません」


 熊本に目を向けたキリサメが〝誰〟を指して〝本当の敵〟と呼んだのか、藤太との遣り取りから悟った八雲のおやの反応はさすがに激しい。ただでさえ大量の素麺を頬張っている最中であった岳は、しゃくしたものを喉に詰まらせることだけは免れたが、何本かがはなのあなから飛び出すほどせ返り、未稲は驚いた拍子に丸メガネが吹き飛んでしまった。


脳内あたまンなかに思い浮かべるどのツラも疑わしくなっちまう自分てめーが嫌で仕方ねェけど、他の誰でもねェメリッタが何事もなかったように電話してきたんだから、あけが『八雲道場オレら』に付いたのを『MMA日本協会』の誰かがライサンダーに密告チクったってセンはねェハズだぜ」

「電話の一言々々がには自供にしか聞こえなかったけど、は『八雲道場』がを把握済みなんて知らない――そうやって頭から信じ込んでいた前提が丸ごと間違っているとしたら、メリッタがどのツラを下げてやって来るのか、底意地悪い興味でワクワクしている場合じゃないね」

「ライサンダーとの繋がりを材料としてキリーが舞台裏の気配に勘付いたように、も師匠と『MMA日本協会』の接点から何もかも『八雲道場こちら』に筒抜けと読み切ったか。それを承知した上で、えて一歩踏み込んできたか。……十分に有り得るだろうな」

「実際にスパイを送り込めなくても『八雲道場』の反応が探れたら上出来――カツォポリス家のの入れ知恵を想定しておくほうが危機管理の舵も切り易いかと」


 テーブルに落下した丸メガネを拾い上げ、これを未稲の鼻筋へ手ずから引っ掛けつつ、キリサメは因縁浅からぬ熊本に感じ取った〝黒幕〟の気配を一等強調した。

 七月四日一六時に何が起きるのか、企ての一切が岳の耳に入ったことも織り込み済みでメリッタが接触を図ったと仮定するならば、そこにはライサンダー本人とは別の意思も働いているとキリサメは勘繰っており、これを受け止めた三人は揃って背筋を伸ばした。

 キリサメが説いたことには一定以上の信憑性があり、ライサンダー・カツォポリスの背後から伸びる〝影〟に戦慄を抑え切れないわけだ。


「キリくんが心配するようなガチンコの謀略合戦だったら、『八雲道場こっち』なんか太刀打ちできないんじゃないかなぁ。カツォポリスさんの背後バックに付いてるの、『在野の軍師』なんて漫画みたいなあだ名で呼ばれる弁護士でしょ? そうかと言って希更さんに実のお父さんの寝首を掻けってお願いするワケにもいかないし……」

「希更氏の性格上、僕たち友人を裏切る真似だけは絶対にしないはず。『八雲道場こちら』に有利なのはそれだけかな。……最悪の場合、本当にを頼むしかないよ」

「……仮にも友達相手にそれはキツいなぁ……」

「メリッタ相手にさんざんきたねェ真似しといてどの口が……。お前な、人によって付き合い方を変えるヤツはろくな死に方しねェと相場が決まってんだぞ、オイ」

「友達の縁を切ってきたのは向こうなのに、まだそんな寝ぼけたコトを言ってんの? この期に及んで腹の据わらないお父さんより遥かにマシだよ」


 『在野の軍師』とは『天叢雲アメノムラクモ』に所属するキリサメの〝先輩〟選手――さら・バロッサの父親に付けられた異名であった。

 本名フルネームはアルフレッド・ライアン・バロッサである。未稲が身震いと共に語った通り、九州一円ひいては首都圏にまでその名を轟かせるの弁護士だ。

 『在野の軍師アルフレッド』が熊本県八代市に開設ひらいた法律事務所は、民事事件を中心に取り扱いながらも格闘技・スポーツにまつわる問題解決が専門ではない。それにも関わらず、過去の実績から格闘家や武術家が相談に訪れることが多いという。

 ライサンダー・カツォポリスもその一人である。

 不当な冷遇に耐え兼ね、他団体への移籍に際して樋口から契約不履行で追及されない手立てを『在野の軍師』に求めたことも『八雲道場』は杖村の情報提供で把握していた。

 はアルフレッドに付け入る隙は厳禁という注意喚起でもあったのだろう。『MMA日本協会』もライサンダーの背後にる『在野の軍師』を警戒している様子であった。

 ライサンダーが戦力外通告を受ける以前より日本MMAからの離脱を画策していたことが岳には衝撃ショックであったが、〝暴君〟の理不尽な仕打ちを思えば、のMMA団体を模索することは責められまい。慰留が正解とも言い切れない状況なのだ。

 『八雲道場』が極めて深刻に憂慮しているのは、『在野の軍師アルフレッド・ライアン・バロッサ』が依頼人ライサンダーの裏で糸を引き、〝七月四日一八時に起きること〟を利用する謀略を仕掛けてくる可能性であった。

 熊本に根を下ろしたアルフレッドは当然ながら同地の武術界とも関わりが深く、〝火の国〟の誇りである熊本城をけがさんとする『天叢雲アメノムラクモ』並びに樋口郁郎を迎え撃つ〝挙兵〟に際しても、軽挙妄動に走らないよう周囲まわりを注視する一方で、足並みそのものは『よし』という中心人物と揃えているという。

 それはつまり、これからの『天叢雲アメノムラクモ』を支えていくことが期待されていた有力選手の家族までもが〝暴君〟の敵に回ったという意味である。


「遅かれ早かれ、希更氏は〝同士討ち〟の板挟みに遭う。そのとき、家族バロッサの側に付いたとしても責められないよ。……そして、僕らも覚悟を決めなければならなくなる」

「……たまにキリくんの腹の据わり方がおっかなくなるよ……」


 真隣となりの未稲から肯定とも拒絶とも受け取れる表情かおを引き出してしまうほど、キリサメはアルフレッドと共にバロッサ家という一門全体の動向を警戒していた。

 そもそもバロッサ家は古代ビルマに由来する伝統武術『ムエ・カッチューア』を日本で教え広め、その功績が世界各国の格闘技関係者にまで知れ渡った名門だ。希更の母親であるジャーメインと『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行で挨拶する機会に恵まれたキリサメであったが、危険なルールを採用し続ける樋口体制への強い不信感が何よりも印象に残っている。

 最愛の娘が悪質極まりない運営体制によって潰されてしまう前に、バロッサ家の一門を挙げて『天叢雲アメノムラクモ』を滅ぼそうと両親アルフレッドとジャーメインが共に考えているのであれば、熊本武術界による〝挙兵〟も、ライサンダー・カツォポリスから持ち掛けられた依頼も、どちらも利用しないわけがない。そして、は〝七月四日一六時に起きること〟も同様である。

 ムエ・カッチューアの発祥地であるミャンマーの有力選手と交流試合を開催するなど、バロッサ家は民間単位のスポーツ外交にも尽力してきた一族なのだ。本来は命懸けで守るべき所属選手の人生を手のひらの上で転がすかのように弄ぶ〝暴君〟を許しておけないことは、格闘技全般の勉強が未だ十分とは言いがたいキリサメでさえ理解わかる。

 日本MMAの先駆者を実父に持ち、『八雲道場』の広報活動も担当する未稲は彼より格闘技界の事情に詳しく、それが為にバロッサ家の娘との交流に対する一種ひとつを口にしたキリサメに対して、唇を噛みつつ洩らした呻き声を返答に代えざるを得ないのだった。


「文多もバロッサ家だけは敵に回したくねェってずっと言ってたけど、こいつは来るべきときが来ちまったのかも知れねぇな。熊本といえば室町幕府以来の名門、細川家の武勇が唸る〝火の国〟だ。同じ戦乱で牙を研いだ〝真田忍者〟の相手にとって不足はねェがよ」

「例の刑事が吹いたおおかも知れないのにお父さんまでヘンなやる気を燃やしてるし。つい数秒までジメジメしてたのは何だったの? MMA団体と一県丸ごとの武術界による抗争なんてデタラメな筋書きアングル、地方プロレス同士の対抗戦でさえやんないよ」

「そうだよ、みーちゃん。図らずも杖村氏から教わった話が鹿しかの裏付けになっているんだ。『MMA日本協会』でさえアルフレッド氏が〝何〟を企んでいるのか、完全には掴めていない以上、取り越し苦労にもやってみる価値はあると思うよ」

「その結果、希更さんを辛い目に遭わせたら、メリッタたちを返り討ちに出来たとしても無意味じゃないかな。万が一にも熊本の武術界と本気で合戦みたいな事態に陥ったとき、バロッサ家とぶつかったら、キリくんも絶対に一生後悔するよ」

「二人とも先走んなよ! オレもそこまでガチな調子トーンで言ったんじゃねーんだよッ!」


 東京から遠く離れた熊本に情報網など持たない『八雲道場』は、による断片的な情報に基づいた憶測以外に打つ手がなく、それ故に疑心暗鬼を生じてしまう。

 探りを入れる電話が掛かってこないことを判断材料として、希更自身はライサンダー・カツォポリスを巡る企みや熊本武術界とバロッサ家の帯同とは無関係であろうとするキリサメであるが、信頼が揺らぎそうになる瞬間が全くないわけではなかった。

 未稲が躍起になって打ち消そうとしているのも、己のなかに生じた希更への猜疑心だ。


「先程も言った通り、ひとたび誰かを疑い始めると際限キリがなくなる。疑心暗鬼を退治できれば簡単だが、そうもいかんのが人間という生き物だ。過去に絆を育んだ相手には、例え信頼に足らなくなった後でさえ掛けられる温情を探してしまう。……それを馬鹿者の一言で切り捨てたくないという気持ちもまた〝人間らしさ〟だと俺は信じているよ」

「だろ? そ~だろ? 何でもかんでも疑って決め付けるのは藤太だって良くねェって思うよな? 希更のオヤさんが本当の黒幕だってんなら、ライサンダーは別に――」


 戦友ライサンダーを思って未だに未練がましいことを口にしてしまう岳であったが、半ばまで述べたところで藤太が猛然と素麺を啜る音に断ち切られた。無言で咀嚼しながら火の矢の如き眼光を師匠に叩き付け、先程の未稲と同じように非情になり切れない態度を諫めている。


「お前たちが大きな陰謀を疑い、神経が過敏になってしまうのも、カツォポリスのおやに対する警戒心で張り詰めてしまうその気持ちも、俺なりに分かるつもりだ。未稲が旧友メリッタを相手に〝罠〟を張らねばならなかったこともな。二人が如何なる戦いを選ぼうとも俺はどこまでも信じ抜く。それでもえて訓示を垂れるなら、せめて己自身に愧じるような勝ち方はするな。〝人間らしさ〟を自ら裏切らん限り、例え敗れても闇にちることはない」


 容器のフチに箸を置きつつキリサメと未稲を交互に見つめた藤太は、この二人に対する戒めも凛と張った声で発した。

 ギリシャの経済危機は断片的な情報から想像するしかないキリサメであるが、明日をも知れない貧困にまで追い詰められた人間が手段を選ばないという〝意味〟は、この場の誰よりも理解わかる。ペルー社会を蝕む格差社会の最下層で『聖剣エクセルシス』を振りかざし、かつて亡き母の私塾で机を並べた友人とさえ命の糧を奪い合ってきたのだ。

 〝何〟を仕出かすのか読めないほど〝貧しき者〟は、相手に一切の感情を持たず全力で潰すしかない。情けも容赦も切り捨てなければならないくらい恐ろしいのである。

 その実感と同時に、藤太の言葉がMMA選手が守るべき道理であることも分かる。胸に刻んだからこそ、一瞬の逡巡を挟みながらも静かに頷き返したのだが、未稲のほうはくされたように唇を尖らせるのみであった。

 希更との友情が壊れてしまう事態だけは避けるように促したのと同じ口で、電話の向こうのメリッタには欺瞞いつわりを並べ続けたのだ。傍らで見ていたキリサメも背筋が凍り付くような矛盾の塊と感じたくらいである。

 仮にも古豪ベテランでありながら、己が生き残る為にプロデビューを果たしたばかりの新人選手ルーキーを〝騙し討ち〟にしようとしたことや、一〇年来の友人である八雲家を裏切ったことへの憤りをメリッタにやり返す理由として挙げていたが、その気持ちは半分程度であろう。

 〝何〟が気に障ったのかは余人には理解わからないが、ライサンダーではなくに対して憎悪にも似た負の想念を剥き出しにしている。その様子を案じた藤太は、例え心に響かなくとも正論で諭さないわけにはいかなかった。


「未稲やキリーのように利発ではないが、俺なりに頭を働かせてみた。師匠が何日も留守にする期間に狙い定めて寄宿ホームステイを申し入れてきたことは策略以外の何物でもなかろう。薄気味悪いのは情報源だ。出掛ける日程スケジュールをネットで公表しているわけでもあるまいに……」

「何しろオレの一人旅じゃね~からなぁ。旅仲間の誰かが酔っ払った勢いでポロッとお漏らしってコトもあるだろ~よ。ンなコトにまでカリカリしてちゃ身がたね~ぜ」

「集団生活の中ではあり得る漏れ方ですが、岳氏の旅仲間は住所すまい職業しごとも別々ですよね。ただ聞き耳を立てるだけで進士氏が仰ったような情報を拾えるとは思えません」

しからば考えられる可能性は一つ。師匠、今度の旅では己をおんみつと心得てください。ライサンダーが情報を仕入れた先を特定できれば、それ相応の反撃を見舞えるというもの」

「キリーに行き過ぎを注意した舌の根の乾かねェ内に、今度は〝騙し討ち〟の片棒を担ごうってか⁉ オレと気持ちが通じ合ってると思ったのに、お前はどっちの味方だァッ⁉」

「言わずと知れたこと。兄とはだっていもうとおとうとの味方です」


 味方という一言が鼓膜を打ったことで、先ほど藤太から掛けられた言葉が叱責ではなく心配だとようやく悟った未稲は、一瞬にして頬を真っ赤に染めた。

 感情任せの浅慮が恥ずかしくなったのか、幼い頃からの慕情が込み上げたのか。どちらの思いが未稲の顔を沸騰させたにせよ、キリサメには甚だ面白くないのだが、かんしゃくにも近い暴走への憂慮を共有していただけに安堵の溜め息が幼稚な対抗心を上回った。


情報ネタを売ったヤツを洗い出せってのは堪忍してくれよな~。くたびれたおっさんたちが集まって骨休めにバカやろうっつう旅行だぞ? 毎度、目的地に着く前から酩酊者へべれけだぜ。幼稚園児以下まで逆戻りした知能で探偵ごっこなんか土台無理ってワケだい」


 一方の岳は愛弟子と養子の懸念を理解しながらも、要請に従うのは不可能と示すかのように麦茶のグラスに浮かべられていた氷を噛み砕いて見せた。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催に向けて奔走する『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の重責は二人とも理解している。「骨休めにはナシだぜ」と断られてしまっては、ライサンダーと〝裏〟で繋がる人間を見つけ出すというも引っ込めるしかない。苦笑いの顔を互いに覗き込みながら、ますます後手に回り兼ねない焦燥あせりに折り合いを付けるべく頷き合った。


「今日のは、樋口社長の承認を貰ってはいても、『あつミヤズ』やそれを運営してる格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部まで巻き込んで、いまふく師匠が好き勝手にやってるモノなんだよね。さすがの樋口社長も沈没ドボン一直線まっしぐらな熊本興行への対応に手一杯で、まで面倒見られないってコトでさ。……自分のお師匠さんが主催企業サムライ・アスレチックスを追い出される羽目になったら、私、『MMA日本協会』を恨むかも知れないよ……」

「その『MMA日本協会』が〝裏〟から『天叢雲アメノムラクモ』にらい付いたことも、樋口氏は今日の一八時を迎えるまで知るよしもない――と、杖村氏から説明されたよ。いまふく氏もを承知した上で、……『天叢雲アメノムラクモ』を追われる覚悟を決めて大勝負に出たのも間違いない」

「親父の昔話に子どもたちを付き合わせるのは良くねェけどよ、プロレス団体の内部なかでもリングで肉体からだを張るレスラーと、背広着てソロバンを弾く経営陣フロントの間にゃあ揉め事が多くてよォ……。レスラーの間でさえプロレスのり方を巡って鬼貫の兄ィと反りが合わなくなった挙げ句、辞める辞めろって諍いがゴロゴロしてたんだ。……『新鬼道プロレス』が特に陰気臭かった頃の空気を、まさか『天叢雲アメノムラクモ』でまで味わうコトになるたァな……」

「師匠も俺も最初から『新鬼道プロレス』の門下でしたが、鬼貫先生が実戦志向ストロングスタイルを引っ提げて『大王道プロレス』から――りきどうざんの〝正統〟から外れようと決めたときにも、揉めたというレベルではとても片付けられん動乱が起こりましたな……」

いまふく師匠が起こそうとしている叛乱クーデターの意義は私なりに理解してるつもりですよ。複雑過ぎてあたまがこんがらがるのは希更さんのお父さんのですよ。樋口社長に正面から喧嘩を売りに行く人たちが手のひらで転がされる上、熊本との揉め事やカツォポリス家の事情まで絡むなんて……誰一人として現状を正確には把握できてないんじゃないですか?」


 未稲が悲鳴を上げたくなるのも無理からぬことであろう。

 じょうわたマッチの仇討ちに燃える暴走族チームに〝代行〟を買って出た花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルに全身全霊で挑み、反則負けという初陣プロデビューける最悪の失敗を挽回する――こうした枠組みの中で完結するはずであった熊本興行の迷走に端を発し、半月前とは比べ物にならないほど日本格闘技界を巡る情勢が入り組み始めている。濁流化といっても過言ではあるまい。


「この混沌を一人で回す傑物ならば、『八雲道場こちら』の内情など既に知り尽くしているだろうな。よもや盗聴器の心配はあるまいが、探偵社の調査くらいは覚悟せねばならん」

「通話中にキリくん、一言も喋らないようとーさんにお願いしていたけど、メリッタはそれを電話の向こうで見透かしていたんじゃないかな。必死になって口を塞ぎ続けるとーさんのコトだって小馬鹿にしていたんだよ、絶対」

迂闊そうか……考えてみたら、進士氏の一時帰国はネットで知れ渡っているんだよな。氏へ会いに行く道中では僕まで一緒に晒し物にされて……」


 日本では興行イベントの地上波放送が一〇年近く途絶え続け、黄金時代が過ぎ去って久しいと扱われているMMAであるが、アメリカでは絶大な人気を保ち続けており、その最大団体で活躍する『フルメタルサムライ』の知名度は、メジャーリーグの日本人選手ほどではなくとも『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手と比べ物にならない。

 ましてやプロレスパンツ一丁で日本に姿を現わせば、SNSソーシャルネットワークサービスで話題にならないわけがなかった。そして、それは進士藤太フルメタルサムライの帰国を全世界が把握するという意味でもある。

 実子むすこひろたかと全く同じごくぶとの眉を持つ藤太は、表木嶺子にとって絶対に接触してはならない存在であった。その事情を把握していながら元夫の岳が〝古巣〟という理由で愛弟子を『八雲道場』に迎え入れたと知れば、全身の血が怒りで沸騰するのは当然であろう。

 事情の説明に赴いた先で元妻から傷だらけの姿にされた岳であるが、本人は背中などの引っ掻き傷を撫でながら「愛だよな、愛」などと恍惚に浸っている。その理由には三人ともえて触れず、未稲に至っては腐った廃棄物でも見るような目を父親に向けていた。


をアルフレッド氏が見逃すとは思えないし、ネット上の写真ならギリシャでも閲覧できるのか。文明の利器に興味が無いだけで、こんな見落としをしてしまうとは……」

「反省するなら、養父とうちゃんの目ン玉をほじくろうとしたコトが先じゃねェのッ⁉」


 国際電話を通じて〝騙し合い〟を演じる最中、この場には居ないという前提であった藤太にそれを忘れて声を掛けようとした岳は、軽率な行動を目突きで押し止められている。無意味に痛い目に遭わされたと頬を膨らませて見せたが、二本指を繰り出した当事者キリサメは不満を丸出しにする養父ちちなど一瞥もせず、忍び寄る〝敵〟の影に改めて向き直った。


「アルフレッド・ライアン・バロッサがどのような罠を仕掛けてきても、僕らは受けて立つまで。人目に触れない〝裏〟で動き回るような卑怯者に白旗を揚げるつもりはない」


 それぞれの理由から不安が先に立つ様子の三人を見つめても、キリサメ自身の心には波紋の一つも起こらない。覚悟を湛えた瞳で己が貫くべきことを見据え、ライサンダーの背後で蠢く〝影〟に向かって、「この僕が『八雲道場』を守る」と強く言い放った。

 『平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件』――事件名が示す通り、先代から次期宗家に指名された師範と、流派開祖の子孫が道場の〝正統〟を巡って争うという極めて難しい訴訟を解決に導いたのがアルフレッドである。

 長い歴史を持つ流派をどのようにして時代へ引き継いでいくべきか――古武術の伝承のり方を問う裁判は、生半可な弁護士に取り扱えるものではない。これを最善の形で落着させるような『在野の軍師』と頭脳で戦う状況になれば、未稲が恐れる通りに完封されてしまうはずだ。キリサメも不屈の精神だけで競り勝てるとは考えていない。

 万が一の場合には攻め寄せられる前に先んじて熊本へ乗り込み、バロッサの家名なまえを称する者たちと一戦を交える――捨て身の覚悟を既に決めているようにも受け取れるキリサメの気概に接した未稲は、〝敵〟の中に希更が混ざっていてもちゅうちょなく『聖剣エクセルシス』を振りかざしてしまいそうな危うさに身震いを抑えられなかった。


他者ひとから〝ランボー〟呼ばわりされるバロッサ家の弁護士をキリーがそこまで意識していたのが俺には意外だったぞ。この物騒極まりない呼び名が日本列島に轟いた頃には、俺は既に渡米していたのでな、実績も僅かな風聞でしか知らんのだ。正直なところ、どれほどの難敵なのか、今もって計り兼ねているくらいなのだが……」

「僕もアルフレッド氏のことは顔だって見たことがありませんよ。……でも、自分の顔が〝表〟に出ない場所から群衆を操る人形使い気取りの怖さは、〝騙し討ち〟の経験と合わせて故郷ペルーで痛いほど味わってきたつもりです」

「人形使いを気取る者――か。『サタナス』と一緒にするのは申し訳ない気もするがな」

「どちらもきっと人間ヒトの命を数のみで勘定しています。……人形使いなら〝何〟をどう企むのか、浅知恵を頼りに〝敵〟のを想像する僕も人でなしの同類ですがね」


 熊本にる〝黒幕〟を睨みながらキリサメが脳内あたまのなかで紐解いたのは『七月の動乱』だ。ペルー政府への不満が限界を突き抜けてしまった市民ひとびとに武器を与え、内乱の尖兵に仕立て上げんとしたテロ組織も、社会全体に渦巻く憤怒いかりを裏舞台から扇動していたのである。

 くだんのテロ組織を相手に国家警察と連携して戦う間に、キリサメも敵味方の騙し合いには慣れてしまった。正体まで完全に見破られるという失態を演じたものの、『七月の動乱』の首謀者の拠点アジトに潜入した際も〝騙し討ち〟を仕掛けた。

 アルフレッドを『七月の動乱』の首謀者に重ねるのであれば、彼の頭脳を頼るライサンダーは武器を得たデモ隊に当該あたる。ましてや後者ライサンダーは戦力外通告を撤回する条件として〝MMAのゲームチェンジャー〟を携えた新人選手キリサメ・アマカザリと闘い、己が『天叢雲アメノムラクモ』に不可欠な人材だと証明するよう樋口郁郎から命令されたというではないか。

 MMA選手としての評価は〝暴君〟の裁量である為、徒労に終わる可能性のほうが高いのだが、試合の結果次第では『天叢雲アメノムラクモ』に留まることが叶うかも知れないのだから、生き残る為には手段を選ばず、今後も〝騙し討ち〟を繰り出し続けるはずだ。その最初の一手として一人娘メリッタを『八雲道場』へ送り込むわけである。

 しかも、『天叢雲アメノムラクモ』は〝七月四日一八時に起きること〟の果てに、団体代表の〝首〟が挿げ替えられるかも知れない。〝暴君〟さえ日本MMAから取り除かれたら、虐げられる古豪ベテランたちも移籍の必要がなくなるのだった。


(……アルフレッド氏は『組織』のリーダーではなく、国家警察の前長官に重ねるのが正解か? わざとテロリストに社会の不安を煽らせて、炙り出した不穏分子の〝間引き〟を狙った〝人倫の敵〟と変わらない。……それを言い始めたら樋口氏も同類になるが)


 ライサンダー・カツォポリスと同じ〝格闘技バブル〟を生き、これが過ぎ去った現在いまの境遇も似通っているだろうじょうわたマッチに〝騙し討ち〟という卑怯を知られたら、今度こそ絆を絶たれるに違いない。それを恐れる気持ちはどうしても拭えないが、二の足を踏んだ瞬間に家族や友人が『七月の動乱』にけると同じ目に遭うのだ。

 互いの深い体温ぬくもりまで知り尽くした幼馴染みの少女は、冷たいアスファルトの上に射殺体なきがらを放り出され、右半分がぜ飛んだ顔面や無惨に引き裂かれた肢体はドス黒い血を吸った新聞紙で乱雑に覆われるのみであった。


「……キリくん、ひょっとして、今日――七月四日って……」


 キリサメが紡ぐ一言々々に対し、藤太はごくぶとの眉が吊り上がるくらい真剣な眼差しで頷き返しているが、未稲と岳の父娘ふたりは何ともたとえ難い表情かおで身を強張らせていた。


「……一五〇年ぶりの『いけけん』の再来どころじゃねェじゃねーか……」


 キリサメの選手活動をチーム一丸となって支援サポートしていく為のケースカンファレンスに出席した父娘ふたりは、〝何〟が彼に「人間ヒトの命を数のみで勘定する人形使い」という言葉を選ばせたのか、わざわざ脳内あたまのなかを覗き込まずとも理解わかる。

 それだけに『八雲道場』を狙った〝騙し討ち〟に過剰反応した理由も、「この僕が『八雲道場』を守る」という迷いのない一言も、心の奥深い領域ところまで重く響くのである。

 労働者の権利を侵害し兼ねない新法の公布に端を発する『七月の動乱』――「我らは自由だ! 常にそうあらんことを!」とペルー国歌の大合唱を引き摺りながら、数万という怒れる市民ひとびとが〝大統領宮殿〟へと詰め寄せた一連の反政府デモにける最大最後の武力衝突が起こったのは、一年前の今日なのだ。

 デモ隊の中でも特に過激な一派へ不用意に近付き、挙句の果てには国家警察との銃撃戦にまで加わったは無駄死にでしかないと考えている為、一年が経とうとも弔う気にならないが、懐かしい砂色サンドベージュの風を纏いながら幻像イマジナリーフレンドの形で飄然ふらり出現あらわれるほど喪失の痛みはキリサメの魂を軋ませている。


(亡霊でも幻像まぼろしでも構わない。今もどこかで僕を見物しているのなら、同情の余地もないほど惨めでくだらないあの死に方は、勝手にバカな真似をした報いだと思い知れ)


 四者四様の表情かおを映した窓の向こうでは、にびいろの雲が夕暮れの空を覆い尽くしている。隙間もない分厚さまでもが岩手興行当日と同じであり、『スーパイ・サーキット』の暴走にも匹敵する凶兆のように未稲には思えてならなかった。


「――お子さん、プロレスや格闘技の漫画はお持ちではないですか? テレビゲームやアニメは? それら全部を目の前で全部焼いてください。焼き尽くすんです。そのときに初めて『お母さんは本気で自分の将来を考えてくれている!』と気付いてくれます。暴力に毒されない健全な子育てを目指したいのなら、それが思春期には一番の親心ですよ」


 おんまつりに中止の選択を迫るかのような京都の字幕テロップで表示しながら、緊急報道に切り替わる気配もなく情報バラエティー番組を継続するテレビだけがである。

 見ず知らずの家庭の教育方針を頭から否定し、自分が提唱するやり方以外に子どもを正しく導くことは不可能と信じて疑わない表情かお玉置賜季澄カリスマシングルマザーを大写しにしていた。



                     *



 北半球のドイツと南半球のブラジルの間に横たわる時差は、前者の夏時間サマータイム制度に基づいて算出すると五時間になる。サッカーワールドカップ準々決勝戦の内の一試合が執り行われるリオデジャネイロが目覚めの早朝五時を迎える頃、ハーメルンの企業や学校は既に〝日常〟の喧騒を忙しなく奏でているわけだ。

 世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』は、そのハーメルンで二〇世紀前半に産声を上げ、サッカーワールドカップや〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟に代表される国際競技大会メガスポーツイベントにパートナーシップという名の〝根〟を張って莫大な利権を貪り喰らう〝スポーツマフィア〟と忌み嫌われるまでに成長した次第である。

 「仮に宇宙へ進出したとして、言語ことばが通じない異星人にさえ自社製品の商いを認めさせてしまうだろう」と恐怖心をもって経済紙で評価された法務部を擁し、独占禁止法の網目を巧みにすり抜けて全世界のスポーツ市場マーケットに君臨し続ける『ハルトマン・プロダクツ』を憎悪の眼差しで仰ぐ人々は、総合格闘技MMAとアクションスターの〝兼業格闘家〟であるダン・タン・タインの主演映画に登場するような〝巨悪の秘密結社〟にたとえて罵っている。

 匿名のSNSソーシャルネットワークサービスにも同企業ハルトマン・プロダクツに勤務する社員を「恥を知らない欲望の権化」と中傷する投稿が乱れ飛ぶような有りさまであるが、本当に利権争いのみに取りかれていたなら、そもそも一世紀近くスポーツ界全体を支えられるはずもなく、この〝事実〟の前にはくらい嫉妬や聞くに堪えない言い掛かりも虚しくついえるばかりであった。

 今なお笛吹き男の伝説が語り継がれるなど中世の趣を色濃く残したハーメルン――ドイツ北西部・ニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡のぐんに所在する本社にも心からスポーツを愛し、その発展に貢献したいという志の持ち主が世界中から集まっている。

 新時代を拓くスポーツ用品の開発や競技選手アスリートの支援事業など、平素いつもの社員は勤勉に仕事へ打ち込んでいるのだが、七月四日は誰も彼も朝から気持ちが落ち着かなかった。『ハルトマン・プロダクツ』だけが異様に浮ついていたのではなく、ハーメルンという都市全体ひいてはドイツ一国の隅々まで同様の気配に包まれていた。

 およそ六時間後――一八時に試合開始キックオフを迎える準々決勝戦はドイツとフランスの激突なのだ。〝サッカー王国〟が顔を合わせたことに加え、会場は同競技の〝聖地〟と名高いマラカナン競技場スタジアムである。熱狂的な愛好者ファンでなくとも盛り上がらないわけがなかった。

 四日前に行われた〝ラウンド一六〟――決勝トーナメント第一試合・対アルジェリア戦でも平日二二時の試合開始キックオフでありながら大勢がスポーツバーに詰め寄せ、びゃくを焦がすほどの大歓声を爆発させている。

 食堂や会議室のテレビ、あるいは誰かのパソコンの前に集まり、日付を超える間際まで決着がもつれ込むという白熱の延長戦を見守った『ハルトマン・プロダクツ』の社員も、飲酒の有無さえ除けばスポーツバーの賑わいと大きくは変わらなかった。

 当然ながらアルジェリアの出身者も本社に所属している。私情の面では複雑なものを抱えていたことであろうが、試合着ユニフォームにもスパイクにもサプライヤー契約を結んだ『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが入っており、国際競技大会メガスポーツイベントを支える自社製品を見つめる瞳は誇らしげであった。

 ドイツ代表も自社で誂えた試合着ユニフォームを纏っている。対戦するチーム同士が共に『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークを煌めかせるという構図にこそスポーツ市場マーケットける勢力図が表れているわけだ。

 そもそも『ハルトマン・プロダクツ』はワールドカップを足掛かりとして〝巨大帝国〟にまで上り詰めたスポーツメーカーである。

 半世紀前の〝伝説〟であるが、一九五四年にスイス・ベルンで開催されたサッカーワールドカップの決勝戦は大雨であり、泥濘に足を取られるドイツの代表選手もハンガリーを相手に二点差を許すなど精彩を欠いていた。そこで創始者一族の総帥――トビアス・ザイフェルトは短いハーフタイムの間に自社ハルトマン・プロダクツが開発した長いスタッドのスパイクに交換するよう進言し、奇跡の二字をもってして語り継がれる逆転勝利に貢献したのだった。

 その一方で、ドイツ出身うまれの社員にとっても自社ハルトマン・プロダクツの黎明期は手放しに称賛できるものでもない。一世紀近くも競技選手アスリートに寄り添ってきたということは、人類史上最悪の独裁者をドイツへ生み出した〝戦争の時代〟にける台頭をも意味するのである。

 一つの事実として、『ハルトマン・プロダクツ』は祖国を混迷の時代へと導いた独裁政権にくみして財を成したのだ。

 本社ビルからは古びた刑務所を望むことが出来る。正確には建物の一部が改修を施されたのちに宿泊施設となったわけだが、その場所ではドイツがを突き付けられる前後に忌むべき惨劇が繰り返されていた。

 名実ともにドイツ経済の一翼を担う『ハルトマン・プロダクツ』が首都ベルリンに本社を移さず、ハーメルンに留まるのは創始以来の〝原罪〟を背負っている為であろう――そのような批判を浴びせるメディアも決して少なくないのだ。

 国内外の同業他社スポーツメーカー出資者スポンサーの名目で支配することが叶わない競技団体との利権争いに明け暮れる一方で、パラアスリートの支援やスポーツ用ヒジャブの開発など民族の垣根をも超えた事業を展開している。

 欧州ヨーロッパで深刻な社会問題となりつつある難民とも〝民間〟の立場で向き合い、売名行為といった誹謗中傷に晒されながらも彼らの居住地を資金・物資の両面で援助していた。

 いずれも〝原罪〟の〝償い〟に代えていると決め付けられ、事実無根ながら独占禁止法違反の追及を大金カネで免れていると忌み嫌われるトビアス・ザイフェルトは、九〇に手が届くほどの高齢となった現在も本社ビルに執務室を設け、競技選手アスリートとは異なる領域にて〝世界〟を相手に戦い続けている。

 頭部あたまは大きく禿げ上がり、後頭部に少しばかり残った毛髪かみも顎の輪郭が分からないほど豊かな髭も、もはや生来のいろは一本さえ見つけられなかった。大きな鷲鼻は鼻筋の皮膚がヒビ割れ、白雪のような肌にも黒ずんだシミやイボが散見される。

 佇まいに激動の歴史が表れた古老であり、同じ空間にるだけでも背筋が伸びてしまうのだが、本社勤めの人々もドイツ代表チームの試合日に限っては普段通りに礼節をもって接するべきか、互いの立場を忘れて気安く肩を組むべきか、全く読めずに困り果てていた。

 何しろ『ハルトマン・プロダクツ』がドイツ代表に提供した物と同じ試合着ユニフォームで上下を揃えるのだ。傍目には独仏による準々決勝戦に浮かれているようにしか見えないが、それでいて厳めしい表情かおを崩さないのだから、近しい者さえ真意を測り兼ねている。

 再来年にワールドカップと同じブラジルで開催される〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟にいて〝難民選手団〟を結成できるよう取り計らってもらう為、難民高等弁務官のマイク・ワイアットが『ハルトマン・プロダクツ』の本社を訪れたのは先月であるが、初めて対面が叶ったことによって「人間ひととして正しくあること」を何よりも重んじるトビアスの厳正さを本当の意味で理解できた――と、経済紙の取材インタビューでも一等強い力を込めて述べていた。

 自他に厳しい高潔さを社員の誰もが承知していればこそ、今日の〝トビアス会長〟は反応に迷ってしまうわけだ。無論、フィールドに立つサッカー選手の勇姿すがたに格別の思いがあることも皆が察している。

 若き日に競技選手アスリートとして鍛えたトビアスは競技場ヴァンクドルフ・スタジアムを軽やかに駆け回る健脚の持ち主であったが、半世紀が経った現在いまは歩行補助杖に頼ろうとも自らの体重を支えられず、移動には介助式車椅子を用いるようになっていた。

 普段は秘書にハンドルを預けているのだが、今日は孫のギュンターが背凭れバックレストの向こう側に控えている。

 座面にて折り畳まれた膝掛け用の毛布ブランケットは丁寧に織り上げられた物であるが、同時に最高級の材料を惜しみなく用いた特注品でないことも一目で分かるのだ。そして、そこにこそ難民高等弁務官マイク・ワイアットが深い敬意を抱いた為人ひととなりあらわれている。

 一方の壁を全面ガラス張りにしたことで中世都市を一望できるようになった執務室の中央には、樹齢一〇〇〇年の古木を輪切りにした一枚板の机と、これを挟む形でソファが設えられている。下品にならない程度に数を絞りつつ極上の調度品も並べられているが、いずれも貴賓を迎える為に用意した物であってトビアス本人の嗜好とは異なるのであろう。

 執務机は部屋の最も奥まった場所に置かれているのだが、入室した人間がその瞬間に我が目を疑ってしまうくらい異彩を放つモノが背後の壁に掛けられていた。

 長い歴史の中で幾度か変更された社章の原画を額縁に収めて飾ってある。公式に掲げられた物だけでなく、採用が見送られた候補作も含まれているが、それら全てがトビアスの実父――『ハルトマン・プロダクツ』創始者の肖像画を挟む形で並べられているのだ。

 厳密には親子二人による共同創業だが、両者の仲が極めて複雑であったことはスポーツ界以外にも知れ渡るほど有名である。

 第二次世界大戦末期、崩壊の一途を辿る枢軸国の戦線で惨敗を味わったトビアスは連合国側の捕虜として終戦を迎え、〝銃後の守り〟という特権から兵役を免れたは息子と同じ境遇の人々を軍需品を仕立てる為の〝労働力〟として工房に投入していた。

 戦時下のドイツでは旧ソビエト連邦の兵士を中心に夥しいほどの捕虜が強制労働に追い立てられていた。いわゆる〝東方労働者オストアルバイター〟である。軍の要請とはいえ、その一端を担った父親と、戦争捕虜の〝現実〟を知る息子トビアス――〝内地〟と〝戦地〟に別れて〝戦争の時代〟を生き延びた創業者親子の間には永久に埋められない溝が生じてしまったのだ。

 その父親――ハルトマンの肖像画をトビアスは背にしている。工房で働く姿を映した一枚であるが、古老にとってはこれこそが背負うべき〝原罪〟の象徴なのであろう。

 歴史という名の十字架を背負っていればこそ無意味な贅沢を戒め、己にも他者にも正しくあるよう強く求めて生きてきた。そして、それ故に存在そのものが一世紀にも及ぶ生き証人として畏怖されるのだった。

 肥え太るどころか頬などは骨が浮き出るほど痩せこけており、〝スポーツマフィア〟の首領という不名誉な呼び名から連想される印象イメージとは正反対である。差し向かいの恰好でソファに腰掛けた難民高等弁務官マイク・ワイアットは、双眸に湛えた猛烈な光によって心を真っ直ぐに射貫かれた――と、くだん取材インタビューでも語っていた。

 瞳に宿る力は老いなど微塵も感じさせない。「あらゆる困難に挑戦すべき崇高な理由は情熱以外にない」という難民高等弁務官の理念にいても通じ合えると確信したそうだ。

 その面会が半月ほど遅く、ワールドカップ決勝トーナメントにけるドイツの試合日と重なっていたなら、難民高等弁務官マイク・ワイアットはトビアスに対して全く異なる印象を持ったことであろう。

 オランダが誇る『格闘技の聖家族』の御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンも、他の社員たちと同様にトビアスへ掛ける言葉すら迷う有りさまであり、ゴーグル型のサングラスで覆い隠した双眸にも錯乱寸前の当惑を湛えている。

 〝戦争の時代〟に独蘭両国は戦火を交えたが、ザイフェルト家とオムロープバーン家は永きに渡って盟友の絆を育んでおり、最初はじめは御曹司の〝身分〟ではなかったストラールも幼少の頃から随分とトビアスに目を掛けられてきた。

 この歴史の生き証人を物心が付く前から尊敬し、成人おとなになったのちにもザイフェルト家の主催による晩餐会などに招かれてきたストラールだけに、見る者を圧倒してしまう風貌に反して意外と遊び心が豊かなことも知っている。

 二〇年近くも昔のことだが、両家合同のクリスマスパーティーが催された際、サンタクロースの役割を自ら引き受けたトビアスは扮装に力を入れ過ぎてしまった。ただでさえ大きな鼻を数倍に膨らませたような特殊メイクが子供心に恐ろしくてならず、プレゼントを手渡される瞬間ときに泣き叫んだ想い出は、今もストラールのあたまから消え去っていない。

 る程度は彼でさえ、サッカーの試合着ユニフォームという不似合いにも程がある出で立ちの〝トビアス会長〟を瞳の中央に捉えた瞬間には顎が外れそうになったのだ。

 彼を乗せた車椅子の背面うしろに同じ試合着ユニフォーム親友ギュンターが立っており、声なき目配せでもって〝いつも通りの茶目っ気〟と確認できたからこそ、正気を失わずに済んだようなものである。

 同行していた最愛の伴侶パートナー――マフダレーナ・エッシャーの気遣いを受けて我に返ったストラールは、七月四日の準々決勝戦が独蘭という組み合わせでなかったことを〝天〟に感謝した。両国とも決勝トーナメントまで勝ち上がっており、直接対決となっていたら〝戦争の時代〟の再現ともたとえるべき殺伐とした空気が会長室に垂れ込めたかも知れない。トビアスはドイツ国旗の手旗まで左右の手に一本ずつ握り締めているのだ。

 そもそも今日はサッカーワールドカップの観戦を目的としてハーメルンの本社ビルに集まったのではない。自分の記憶力を微塵も信じられないストラールでさえ、は会長直々に号令を発した会議を終えた後の余禄おまけと断言できるのだ。

 発端は数日前に『ハルトマン・プロダクツ』の傘下団体を襲った異様な事件であった。としては〝異常〟と表すのが正確であろう。

 イギリス・ロンドンに本拠地を置きながら、〝オイルマネー〟と結び付いて中東にまで活動範囲を拡大させ、名実ともに欧州ヨーロッパ最大の勢力を誇る打撃系立ち技格闘技団体――『ランズエンド・サーガ』の所属選手による連続殺人事件が発覚したのである。

 しかも、〝食人カニバリズム〟という背筋が凍り付くほど猟奇性の高い事件だ。警察の囮捜査で現行犯逮捕され、取り調べも進んでいるが、その供述も親会社である『ハルトマン・プロダクツ』を深刻に悩ませる内容ものであった。

 『ラフレシア・ガルヴァーニ』という通称リングネームを名乗っていたそのアメリカ人選手は、闘争本能を揺り動かす手本を〝古代の戦士〟に求め、食人カニバリズムという一種の〝儀式〟を試合のたびに執り行っていた――と、伝承の語り部を気取って自慢げに語っているという。

 特定の文化圏に限らず、古代と呼ばれる時代に戦士が打ち負かした相手などの人肉を喰らい、心身を増強したという伝説は世界各地に残っている。異常プリオンの摂取によって脳を蝕まれる危険性など考えもせず、猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニは自身の試合に向けてを模倣し、常人には理解しがたい倒錯で攻撃性を引き上げていたのだ。

 犠牲者たちが余りにも浮かばれない動機は、そのまま『ランズエンド・サーガ』の在り方を巡る問題となった。試合に臨む調子を整える為だけに食人カニバリズムという狂乱を繰り返していた選手を興行イベントへ出場させていたことになるわけだ。

 常軌を逸した犯罪ということもあって把握など不可能であろうが、選手の猟奇性を放置したまま出場させ続けた団体代表の責任を追及する声も、『ランズエンド・サーガ』ひいては『ハルトマン・プロダクツ』の内外で上がり始めている。

 夢想だにしない巡り合わせというべきか、あるいは必然的な筋運びか――同団体ランズエンド・サーガの現代表は偏った思想に取りかれた末、人と人とも思えなくなった男である。所属選手の狂乱を黙認したのではないかと疑う視線が四方八方から降り注ぎ、殺人事件との因果関係を一方的に決め付けること自体が理不尽だと擁護する者は絶無に等しかった。

 無関係な事件と強引に結び付けて失脚が画策されるなど陰湿極まりないが、一つの事実として『ランズエンド・サーガ』の団体代表は悪魔の所業を繰り返し、故郷のアメリカから追放された男である。会長の面前では口に出さないものの、ストラールとて『ハルトマン・プロダクツ』の傘下団体を任せるには値しないと思い続けている。

 その上、猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニは彼を頼って『ランズエンド・サーガ』に入り込んだ格闘家だ。痛くもない腹を探られる条件が全て整っている状況であった。

 選手の不祥事とはいえ、所属団体を事件へ直接的に巻き込んだわけではなく、そうである以上は代表に監督責任を問うのも妥当ではない。背後関係を整理するのも一苦労という複雑な状況に際して、親会社ハルトマン・プロダクツ傘下団体ランズエンド・サーガにどのような措置を取るべきか――ギュンターは言うに及ばず、ストラールとマフダレーナも会長トビアスから意見を求められた次第である。

 社長の座にるジュリー・ザイフェルトも交えた議論が望ましいとストラールは考えているのだが、〝巨大帝国〟の運営よりも製品開発で才能を発揮してきた彼は、『ハルトマン・プロダクツ』の実父トビアス息子ギュンターに任せており、現在いまもサッカーワールドカップという〝最前線〟で同業他社の創意工夫を見聞する為にブラジルまで赴いているのだった。

 IT社会が生み出した新しきビジネスモデル――データサイエンス事業の一環だが、ありとあらゆるスポーツ・競技大会・競技選手アスリート・チームに関連した膨大なデータを集積・分析し、その結果を『ハルトマン・プロダクツ』で取り扱う全ての業務に反映させる部門が同企業にけるストラールの所属先である。

 のちの格闘技史にも二〇〇〇年代の誕生から加速度的に躍進し続ける分野と刻まれた〝スポーツアナリスト〟であった。

 『格闘技の聖家族』と畏怖されるオムロープバーン家の御曹司らしく担当範囲の中心は格闘競技であるが、全世界に顧客を持ち、多様性ダイバーシティ受容インクルージョンへの対応も不可欠という『ハルトマン・プロダクツ』の一員ともなるとに特化しているだけでは業務しごとは捗らず、比喩でなく本当に〝ありとあらゆるスポーツ〟を知り尽くしていなければならない。

 オムロープバーンという〝血〟のせるわざと呼ぶべきか、スポーツアナリストとしての才能と実績はジュリー社長にも認められており、世界最大規模のビッグデータ収集を兼ねたワールドカップ視察への同行も持ち掛けられたのだが、〝格闘技王国〟と名高い祖国オランダを巡る混乱も収束に向けた正念場を迎えている為、『格闘技の聖家族』の御曹司としてはを優先せざるを得なかった。

 サッカーワールドカップとオリンピック・パラリンピック――国家の威信を賭けた巨大事業が短期間に集中したことによって、ブラジル社会が急激な変貌を余儀なくされたことも伝え聞いている。気候・気象といった試合時の環境のみならず、政治情勢も大会開催地の分析対象に含める為、スポーツアナリストの〝立場〟としてはブラジル遠征に職務上の必要性すら感じていたくらいである。

 そして、それ以上に国際競技大会メガスポーツイベントが開催国から奪い取った〝何か〟を自らの双眸で確かめることが〝スポーツマフィア〟に名を連ねる者の責任つとめとも心得ていた。尤も、ジュリー社長が率いる視察団の出発に前後して猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニによる食人カニバリズム事件が発覚したのだから、旅客機に搭乗らなかったこと自体が天の導きであったのかも知れない。


難民高等弁務官ワイアットさんの協力を取り付けて、アムステルダム市庁舎を相手にいよいよもう一押しというところまで辿り着きましたのに、万が一にもオランダ国外の事情で交渉が手詰まりになったら目も当てられません。既に日本に不安材料を抱えている状況で、『ランズエンド・サーガ』内部の問題にまで振り回されるとは……」

「日本に潜り込んで状況を転がしてきた身としては耳が痛いぜ――と言っても、『MMA日本協会』主導で企てた叛乱クーデターのほうはアムステルダム市長とやり合うのに直接は関係ないハズだろ、レーナ? 格闘技興行イベント開催の是非ってコトなら『NSB』がやられたテロ絡みの〝公聴会〟のほうが影響デカいんじゃねぇの?」

「ギュンターも気鬱の種を想い出させないでください……。米蘭両国の間で差異ちがいはあれども同じ〝行政〟ですし、もしも、ネバダ州体育委員会アスレチックコミッションが格闘技興行イベントと誤解させるような判断を下した場合、格闘技規制を撤回しない正当性の裏付けとして、アムステルダム市庁舎がを持ち出さないはずがありません。そもそもアムステルダム市の政策は治安の回復と犯罪の抑止を目的として出発していますから」

「市民の安全性が確保できない以上、国内の『ウォースパイト運動』を刺激し兼ねない格闘技興行イベントの開催は不許可で当然っていう主張か。やっぱり市を提訴したほうが手っ取り早いと思うぜ。『ハルトマン・プロダクツ』でも弁護士を揃えるしさ」

「アムステルダムひいてはオランダの秩序を守りたいという市庁舎の考えに共感できるからこそ敵対的構図を作り出さず、行政単位で解決できるよう交渉を進めてきたのですよ。勿論、例の〝公聴会〟の成り行き次第では行政訴訟に持ち込んで一気に白黒つけたいバールーフの声が大きくなると思います。……交渉は潰し合いとは違うと申しますのに……」


 ドイツ時間一八時に至れば、会長室の壁に設置された大型の液晶モニターでは社長ジュリーの出張先――ワールドカップの生中継が始まることであろう。

 現在いまはインターネット画面が大写しとなっている。映画館のスクリーンを模したものとおぼしき枠の小さな中央では厳かな式典が執り行われているが、先程までは真っ黒に塗り潰され、無音のまま『生放送は終了しました』という案内だけが表示されていたのだ。

 その枠内スクリーンしている間は短い一文が右から左へ絶え間なく通り過ぎていたのだが、いずれも視聴者から投稿された感想である。

 サイトの管理者に削除される可能性が高いものの、「日本の格闘技界をグチャグチャにした樋口郁郎が、自動車事故にでも遭って強制退場するのが一番ややこしくなくね?」という過激な痛罵も紛れていた。これを目聡く見つけたストラールは己の脳内あたまのなかを他人に覗きこまれたような錯覚を覚え、右手で口元を覆って品性に欠ける薄笑いを隠した。

 室内の会話や画面内の表示と同じように感想にもドイツの言語ことばが用いられているが、日本語で入力された文章を強引に自動翻訳している為、誤読を招きそうな表現も多い。

 も無理からぬことであろう。先程まで液晶モニターから垂れ流されていたのは日本のMMA団体『天叢雲アメノムラクモ』に関連する〝緊急特番〟なのだ。傘下団体ランズエンド・サーガの処遇を話し合う会議へ挿入されるような恰好であったが、動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』にて日本時間の一八時から生放送された番組ものを会長室に集まったみなで視聴した次第である。

 当然ながら、日伯の間に横たわる時差も数時間に及ぶ。七月四日のハーメルンは日本現地時間一八時から始まった『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟を昼食前に視聴し終え、ブラジル現地時間一三時の試合開始キックオフであるワールドカップ・独仏対決を一八時から観戦するという段取りだ。

 三ヶ国を立て続けに横断するような時差計算が脳内あたまのなかで行き詰ったストラールは、これだけは忘却の彼方に追いやっても問題ないと切り捨てた。その建前は自己完結に過ぎず、新たに加えた四ヶ国目の現地時間を割り出そうとした際に、ドイツの夏時間サマータイム制度を失念したことに気付いて諦めの境地に達しただけである。

 現在の枠内スクリーンに映し出されているのがその四ヶ国目――赤道直下のルワンダから全世界に向けて生中継されている映像であった。

 ルワンダにとって二〇一四年七月四日は、国家的悲劇から解放されて二〇年という歴史的な節目である。これを記念する式典が首都キガリ国立競技場アマホロスタジアムで執り行われており、同政府が『ユアセルフ銀幕』に開設した公式チャンネルからその模様が配信されているのだ。

 演説台の前に立ち、居並ぶ人々を幾度も見回しながらスピーチを披露しているのは、アメリカ・カリフォルニア州サンノゼから招かれたカトリックの老神父である。

 ルロイ・トスカーニというイタリア系アメリカ人の男性は、同地サンノゼける教区教会の役割も兼ねたカリフォルニア伝道所ミッションを任されていると先ほど紹介されたが、スピーチの中で述べた内容ことによれば、ベトナム戦争が泥沼の様相を呈する一九六〇年代のホワイトハウスに『国家安全保障担当次席補佐官』として勤めていたという。

 それはつまり、年齢もトビアスと大きく離れてはいないということである。独米の差異ちがいこそあれども、面構えに激動の歴史が表れている点も全く同じであった。


「――本来、私のような者は平和の意義を確かめ合う式典にとって、最も招かれざる客であるのかも知れません。自分の仕えた国が太平洋の向こうの美しい田園風景に枯葉剤を撒き散らすのも、焼夷ナパーム弾の炎で舐め尽くすのも止められず、カラシニコフ銃の弾丸タマが飛んでこない安全な部屋で、青空が〝死の鳥〟で埋め尽くされていくさまを想像するのみでした。ルワンダというに祝福を捧げる資格がないことは、この私自身が一番分かっているつもりです。そして、そのような人間だからこそお伝えできる話があることも」


 スピーチの始まりで語られた内容はに相応しいとは言いがたいが、この場に居並ぶ誰もが姿勢を正して一言々々を受け止めていた。カメラが切り取る国立競技場アマホロスタジアムの空気も、インターネット画面越しでさえ肌に突き刺さるほど厳粛である。

 当時の政権中枢ホワイトハウスで国家安全保障に携わった人間によるベトナム戦争の自己批判は、一九六二年の独立までベルギーが宗主国であり、〝他国〟の思惑によって分断されたルワンダの人々にはこれ以上ないほど重く響くのだった。

 こうした歴史的背景からルワンダではキリスト教が広く信仰されており、二〇年前に起きてしまった国家的悲劇――同じ大地に生まれた人々を惨たらしく引き裂いた内戦と虐殺ジェノサイドいても正負両面で関与している。

 国内の一部教会が虐殺ジェノサイドの共犯者として法の裁きを受ける一方で、内戦の狂気に染まって互いの命を奪い合ったルワンダの国民ひとびとが再び歩み寄ろうというときに、聖職者が橋渡し役を果たしたこともストラールは承知している。

 記念式典は主にアフリカ諸国の要人たちが列席しており、欧米から招かれた賓客は決して多くはないのだが、カトリックの神父という〝立場〟を考えれば異例というほど珍しいわけでもなかった。


「どれだけの将兵がベトナムで命を落とすのか、仮に助かったとして残りの人生を後遺症と共に歩む生存者は全体の何割なのか――と、任務とはいえ、合衆国大統領に仕えていた頃の私は推定戦死者や傷痍軍人を個々人の顔ではなく数字の足し引きで捉えていました。その一方、アメリカという国家くにとしてはベトナムからイラク・アフガンに至るまでイギリスのストーク・マンデビル病院と同様に車椅子競技など傷痍軍人のリハビリにスポーツを奨励し、退役軍人省でも公共事業として採用してきました。全米のパラスポーツ大会からパラリンピアンとしてばたいた傷痍軍人も少なくありません」


 『ユアセルフ銀幕』の小さな画面には映らないが、ルロイ神父によるスピーチはルワンダの四種よっつの公用語へ直ちに翻訳され、国立競技場アマホロスタジアムの大型スクリーンに字幕として表示されているようだ。おそらく現地のテレビでは同時通訳で生放送されているのだろう。

 会長室に集まった人々は、ルロイ神父がじかに発する英語アメリカンイングリッシュのほうでスピーチの内容を聞き取っていた。


「傷痍軍人の不遇改善を公約に掲げて当選し、その熱意こそ本物であっても政策としての実現がままならない現政権は、今年の四月にも手を差し伸べることさえ間に合えば救われたはずの命を幾つも失ってしまいました。世代や職務の差異ちがいこそあれども、ホワイトハウスを去る前に傷痍軍人の支援事業に神経を注いでいたら、結果は必ず違ったはず――塵に帰る日が近付きつつあるからこそ考えずにはいられないのか。私が背負うのは国に仕えた栄誉などではなく、〝罪の十字架〟以外の何物でもありません」


 ドイツ語の自動翻訳機能も設定はされているものの、『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟にける日本語と同じように変換の精度は甚だ低い為、誰もが途中から目で追うことを止めてしまっている。配信側が許可していない為、最初から表示されていないが、投稿された感想までに重なっていたら映像自体に集中できなかったはずだ。

 昼に始まった記念式典は軍楽隊による演奏や、戦後生まれの少年合唱団を迎えた人気歌手たちのコンサート、軽快な太鼓の音色を背にした伝統舞踊などが披露され、数え切れない犠牲者たちを弔う厳かな祈りを胸に秘めながらも、〝アフリカの奇跡〟と全世界の称賛を集めた平和を生命の躍動と共に感じる華やかさの中で進んでいく。

 国立競技場アマホロスタジアムの中央には柔らかなマットが敷き詰められた四角いステージも設置されているのだが、これは特別試合エキシビションマッチを執り行う為に用意された特別なリングである。間もなくこの場所でルワンダを代表する二人の格闘家が向き合い、互いの武技わざもってして〝平和な時代〟を体現することになっていた。


「顔の皺だけ意味もなく増えてしまった私ですから、パラリンピックの父と名高いルートヴィヒ・グットマン博士が未来に託した『失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ』という言葉の意味も、実感と共に呑み込めてはいませんでした。パラスポーツに取り組む傷痍軍人の瞳にみるみる光が戻っていった理由を本当の意味で悟ったのは、ルワンダの〝誇り〟を分けて頂けたからに他なりません」


 現在いまはパラスポーツについて述べているが、ルロイ神父のスピーチは片方の選手の紹介を目的としていた。一言も聞き漏らすまいとトビアスが身を乗り出すのは、ワールドカップ準々決勝戦と同じくらいアフリカの太陽が見守る特別試合エキシビションマッチに興味を惹かれている為だ。


を私に教えてくれたのは、シロッコ・T・ンセンギマナ君とのいです。彼の登場を待ち侘びる皆さんの顔からも一目瞭然でしょう。一四年前にシドニーの国際水泳センターが拍手で埋め尽くされたように、五〇メートル自由形に出場した偉大な挑戦者が人間の可能性を示したように、ンセンギマナ君も希望の意味を体現する一人。そして、同じ想いをいだく全世界のみんなの架け橋です。この私は勿論、『NSB』で腕を競い合う仲間も、『アメリカン拳法』の道場スタジオの教え子も、ルワンダが強く掴んだ未来を学んでいるのです」


 式典会場のカメラは未だ本人の姿を捉えていないが、ルロイ神父が〝架け橋〟という言葉をもって讃えたのは、彼が取り仕切る伝道所ミッション・サンタクララ・デ・アシスに通い、実の親子にも等しい絆を結んだ『NSB』のMMA選手――シロッコ・T・ンセンギマナである。

 ルワンダ全土が悲劇の内戦へ突き進んでいくなかに生まれ、手足が伸び切ってもいない四歳の頃、一〇〇日に及ぶ虐殺ジェノサイドに巻き込まれて左太腿より下を失いながらもMMAの動作うごきに対応できるよう改良されたスポーツ用義足を装着し、『NSB』の試合に臨むンセンギマナは故郷の同胞ひとびとから〝戦争のない時代〟の体現者とも呼ばれていた。

 四肢を自由に使える選手とのもと、世界のMMAを牽引する試合場オクタゴンに猛き水流を起こす勇姿すがたは〝パラスポーツとしてのMMA〟の可能性を示すことにも等しく、虐殺ジェノサイドの中で行われた拷問や地雷などで国民の一割が手足を欠損したルワンダにとっては、内戦後に初めて参加した二〇〇〇年シドニーパラリンピックに勝るとも劣らない希望なのだ。

 抜き身のサーベルをかざした隊長を先頭に、銃口を天に向けながら右腕に添える恰好で銃剣を垂直に立てた軍隊の勇壮な行進も記念式典で目を引いたが、その中には車椅子の軍人も大勢含まれている。

 彼らの姿が国立競技場アマホロスタジアムに現れた瞬間、客席の皆が起立と拍手で出迎えたのだが、この最大の礼節こそルワンダという国家くにが歩んできた歴史の象徴であろう。

 その誇りを〝義足のMMA選手〟――ンセンギマナは背負っている。

 二度と国家的悲劇を繰り返さない為に開催される記念式典にいて、他者の命を壊すことに〝戦う力〟をふるうのではなく、敬意と友情を握り締めて心技体を競い合える〝平和な時代〟の証明を任せられるのは、シロッコ・T・ンセンギマナをいて他に居ない。

 『格闘技の聖家族』という〝立場〟としても〝義足のMMA選手〟が『NSB』に出場する意義の深さと大きさは理解しているつもりであった。水玉模様を散りばめた紫水晶アメジストいろ左義足ライジング・ポルカドットがアフリカの太陽で輝けば、誰もが拍手喝采をもって迎えることであろう。

 しかし、その歓声をンセンギマナ本人がなる思いで受け止めるのか、ゴーグル型のサングラスで覆われた双眸をもってしてもストラールには計り知れなかった。

 彼は二度も『ウォースパイト運動』が起こしたテロに遭遇している。人格形成にとって大切な幼少期が内戦と共にり、旧ソビエト連邦から流れ着いたカラシニコフ銃の発砲音が子守歌も同然であった者にはラスベガスの銃撃事件は何よりも心が抉られたはずだ。

 そのテロでは『NSB』の仲間を救えず、目の前で命を奪われてしまったという。喪失の傷が癒えていない情況で周囲まわりから望まれた使命を果たすことは耐えがたい苦痛を伴うと、『格闘技の聖家族』の御曹司は他の誰よりも知っている。


(今日のリングに立てるかは心持ち次第……と無責任には申せませんね。私自身に置き換えてみれば『時間が解決する』という慰めは虚しいだけでしたが、シロッコ・T・ンセンギマナ――果たしてとなるのか……)


 これから暫くののち、『てんのう』と並び称されることになるとは夢想だにしていないストラールであるが、兼ねてから『NSB』での勇名を耳にしていたンセンギマナの存在を意識せずにはいられなかった。

 複雑な動作が必要となるMMAの試合で収集されたデータは、新たなスポーツ用義肢装具開発の礎となる。パラアスリートの支援事業にも力を注ぐ『ハルトマン・プロダクツ』の一員としても、彼のようなモニターなくして格闘技界全体が前進しないことを実感しているスポーツアナリストの端くれとしても、感謝と敬意を抱いていた。

 『NSB』が標的となった銃撃事件を巡ってネバダ州体育委員会アスレチックコミッションが執り行う〝公聴会〟には、ンセンギマナもの一人として出席する。報道関係者プレスに紛れてストラールも現地で傍聴する予定であるが、その際に時間さえ許せば挨拶したいとも考えている。

 そして、〝平和な時代〟にける格闘技の意義と、〝義足のMMA選手シロッコ・T・ンセンギマナ〟と同じ世代に生まれた意味を思えば思うほど、ルワンダの国立競技場アマホロスタジアムへ切り替わる直前まで『ユアセルフ銀幕』の枠内スクリーンに映し出されていた別の番組の悍ましさが際立ち、次いでシェイクスピア劇の真似事に興じているようなの醜悪さに心を苛まれ、『格闘技の聖家族』の御曹司は難しい表情かおになってしまうのだ。


(……格闘家どもは皆殺し――と、『ヘンリー六世』の一幕を気取る『ウォースパイト運動』を糾弾する資格はない。……そう罵られてもはんばくできる口を私は持っていませんね)


 『ジュリアス・シーザー』第三幕の佳境にいて、古代ローマの政務官・アントニーは最大の政敵であったブルータスを追い落とす為、暗殺されたシーザーの亡骸をも利用して凶刃を突き立てた彼に民の憎しみが牙を剥くように仕向けている。『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟は英雄の死が弄ばれた政争劇を現代の日本で再現したようなものである。

 その画策に『ハルトマン・プロダクツ』も水面下で関与している。国際競技大会メガスポーツイベントの利権を蚕食する〝スポーツマフィア〟でさえ切り込めずに手をこまねいているシンガポールの新興団体『至輪パンゲア・ラウンド』とアジアの勢力争いを繰り広げている状況下にいて、『天叢雲アメノムラクモ』は欠くべからざる〝駒〟である。

 それにも関わらず、樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』はメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』の意向を無視するどころか、一切の〝内政干渉〟を退ける構えを鮮明にしている。制御不能という状況を打開せんとする政治的判断であった。

 くだんの〝緊急特番〟を画策したのは〝暴君〟と敵対する『MMA日本協会』であり、その理事会には御曹司であるザイフェルト家のギュンターが直々に働きかけて自社ハルトマン・プロダクツの筋書き通りとなるように状況を操作しているが、日本格闘技界を思うがままに動かす〝暴君〟を危険視し、可及的速やかに排除したいストラールも、その策謀には側面支援の形で関わっていた。

 ザイフェルト家の一族としてギュンターが背負う〝罪の十字架〟に寄り添わんとする覚悟も、一人の親友ともとして胸に秘めている。

 これから日本MMAに襲い掛かる混乱も『ハルトマン・プロダクツ』にとっては全て想定内だが、その一方で〝外〟の目からすれば正当性など見えないことも理解していた。


「――既に日本に不安材料を抱えている状況で、『ランズエンド・サーガ』内部の問題にまで振り回されるとは……」


 先ほど伴侶パートナーのマフダレーナが絞り出した呟きは、『天叢雲アメノムラクモ』による放送内容ひいては日本格闘技界の情勢が母国オランダからぬ影響が及ぶことを憂慮したものである。を宥める親友ギュンターの言葉も併せて反芻しながら、ストラールは三つ編みに束ねた金髪ブロンド毛先さきを弄んだ。

 〝格闘技王国〟と謳われながら、現在のオランダはその興行イベントが著しく制限されている。格闘家による犯罪の多発を背景として格闘技自体が野蛮という偏見が全国的に広まり、競技団体に対する運動施設の使用許可などが行政単位で認可されなくなっていた。

 これでは〝格闘技王国〟ではなく〝傭兵国家〟と嘆く声は身内からも聞こえているが、自国開催の興行イベントに出場する機会が得られないオランダの格闘家は、当然ながら海外に活躍の場を求めるしかない。その大きな〝受け皿〟が『ランズエンド・サーガ』であった。

 『格闘技の聖家族』が運営するオランダ式キックボクシングの名門ジム――『バーン・アカデミア』で腕を磨いたキックボクサーを中心として、同団体ランズエンド・サーガにはストラールやマフダレーナの〝同郷〟が数え切れないほど出場していた。

 アメリカ出身うまれではあるものの、その『ランズエンド・サーガ』の選手が食人カニバリズムという尋常ならざる事件を起こしたのだ。格闘家を反社会的勢力の如く断定し、これを絞め付けるオランダの行政が態度を更に硬化させることをストラールは最も恐れていた。猟奇殺人者の〝同類項〟が自国に同じ厄災わざわいを呼び寄せると一方的にされてしまう可能性は高い。

 オランダで格闘技不遇の潮流を作ったのは、首都アムステルダムの市長であった。

 これに対して同国の格闘家は用心棒を兼業することが多く、麻薬などの犯罪で道を踏み外さないよう目を光らせて彼らの稼業を取り仕切ってきたのが『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家なのだ。

 その御曹司であるストラールはスポーツアナリストという〝本業〟に従事する一方で、亡き兄の親友たちと交渉の最前線に立ち、格闘技への規制解除をアムステルダム市に長らく働きかけてきた。『ハルトマン・プロダクツ』にとっても〝格闘技王国〟は重要な市場マーケットであり、『ランズエンド・サーガ』の興行イベントを開催することも会長トビアスから望まれている。

 複雑に入り混じった独蘭両国の情勢は板挟みともたとえるべき懊悩と化し、『格闘技の聖家族』の御曹司が黒いレンズの向こうに隠した双眸も疲弊から閉じることが増えていた。

 猟奇殺人事件はあくまでも選手個人の不祥事と捉え、団体代表の監督責任は追及しないという裁定を下しても『ランズエンド・サーガ』の社会的信用がただちに急落するわけではないが、アムステルダム市は凶悪犯罪の温床を放免したものと受け取ることであろう。

 『ランズエンド・サーガ』の運営には関与していないのだから甚だ理不尽であるが、世界最大のスポーツメーカーという〝立場〟を忘れて猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニを放置し続けた責任も、次にアムステルダム市庁舎へ赴いた際に追及されるであろうとストラールは覚悟していた。

 己の記憶力を少しも信頼できず、いつかどこかで生じた綻びから何もかもが滑り落ちてしまうのかも知れないが、現時点にいては古今東西の競技選手アスリートひいては格闘家のデータが脳内あたまのなかに蓄えられており、試合中に対戦相手の集中力を乱してしまうほど猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニの口臭が強烈であったことも把握はしていたのだ。

 あるいは口臭それこそが食人カニバリズムの兆候であったのだろうが、ストラールはあくまでもスポーツアナリストであってプロファイラーではない。同じ情報分析に従事していようとも犯罪捜査とはあたまの使い方が全く異なっており、人間界の常識から外れるような猟奇殺人事件など見破れるはずもなかった。

 その猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニを『ランズエンド・サーガ』に迎え入れた現代表が故郷のアメリカで仕出かした問題は、海を越えてオランダまで届いている。それどころか、市庁舎側の態度を硬化させる一因となっており、〝格闘技王国〟の行く末に呪いの如き影を落としていた。

 『格闘技の聖家族』の御曹司も籍を置く『ハルトマン・プロダクツ』が悪魔という蔑称を免れない男に救いの手を差し伸べたことは、市庁舎側のスポーツ政策担当者から倫理を踏み外した悪徳への加担とされ、これを理由に交渉自体を幾度か拒まれている。

 そもそも市長を交渉のテーブルに着かせるまでには、市議会のを図って少しずつ味方を増やさなければならなかった。『ウォースパイト運動』のように格闘技に関わる全てをからぬ方向へ歪めてしまう市庁舎側の頑なさを覆し得る〝切り札〟も、ようやく確保できたばかりであった。

 先ほど伴侶マフダレーナも言及していたが、難民高等弁務官マイク・ワイアットとの親交という〝事実〟は、オランダ社会に対する絶大な影響を確実に見込めるのだ。格闘技が本当に犯罪を引き起こす原因であるならば、国連機関である難民高等弁務官事務所は接触自体を遮断シャットアウトすることであろう。

 〝東西冷戦〟の時代や湾岸戦争にいてプロレスによる〝民間外交〟を成し遂げてきた鬼貫道明のような〝格闘技の公益性〟を証明しなければならない『格闘技の聖家族』を後押しする難民高等弁務官直筆の書簡も預かっている。

 そのマイク・ワイアットも『ハルトマン・プロダクツ』による『天叢雲アメノムラクモ』への介入の仕方によっては協力体制を白紙撤回し兼ねない。それどころか、の離反は格闘技界に対する市庁舎側の心証も悪化させてしまうだろう。

 今のところ、『ユアセルフ銀幕』の枠内スクリーンには映り込んでいないが、『MMA日本協会』で会長職を務めるおかけんも本来の役職――与党文部科学大臣としてルワンダの大切な式典に招待されている。その岡田会長と難民高等弁務官マイク・ワイアットは長年の親友であり、前者を通じて『ハルトマン・プロダクツ』の悪巧みが後者の耳に入る可能性も低くはないのである。

 〝暴君〟の振る舞いで日本格闘技界に厄災わざわいの種を撒き散らす樋口郁郎を難民高等弁務官マイク・ワイアットも懸念はしているのだが、同時に人権を守る〝立場〟としてはストラールが腹の底で考えるような強硬手段を容認できないという態度も明確に示していた。


「――人を殺せる新人選手ルーキーと、〝同類項〟としか呼びようのない古豪ベテランに骨肉相食む潰し合いをさせるって算段だ。にも樋口郁郎イクオ・ヒグチ好みの状況設定シチュエーションだが、それに一枚噛むもあの男に負けないくらいの人でなしだな。……特にはストラールから愛想を尽かされたって仕方ないくらいだ」


 『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟を振り返ったギュンターは、放送された内容を懊悩が入り混じる一言で総括したが、難民高等弁務官マイク・ワイアットは命が蔑ろにされる状況を許容するのだろうか。

 格闘家の犯罪率や反社会的行為を根拠として、格闘技に対する法規制を布くオランダ行政ひいてはアムステルダム市は、同じ番組へどのように反応するのか。『ハルトマン・プロダクツ』が『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーであることも、当然ながら把握されている。

 日本MMAの正常化を狙って『ハルトマン・プロダクツ』とザイフェルト家の謀略にくみするほどアムステルダム市や難民高等弁務官マイク・ワイアットの不興を買い、これによって故郷オランダの格闘家たちから未来の希望を奪ってしまう――『格闘技の聖家族』の御曹司が背負う責務が一等重くし掛かっていた。


(ただでさえキリサメ・アマカザリを頼りにしなければならない状況が不愉快なのに、マイク・ワイアットのご機嫌取りまで考えなければいけないとは……。世間の皆様は存在するだけでも煩わしい人間をどうやり過ごしているのでしょうね……ッ!)


 難民高等弁務官マイク・ワイアットを〝切り札〟にしなければアムステルダム市を切り崩せないという現状がストラールには何よりも面白くなく、胸中に黒いもやが垂れ込めてしまうのだった。


(……ほど会長は喜び勇んで手を組みたがるから敵いません……)


 言葉巧みに『ハルトマン・プロダクツ』から協力を引き出そうとする煮ても焼いても食えないマイクをストラールは忌々しい〝天敵〟と思ってきたが、〝トビアス会長〟との対面を一等鋭い腹立たしさと共に想い出してしまうのは、『トビー』などと気安く愛称ニックネームで呼び捨てにされたことが原因であった。

 トビアスに対し、そこまで礼儀を欠いた態度を取る人間をストラールは他に知らない。別荘といった私的な場所でさえ呼び捨てにするくらい打ち解けて接する者はらず、誰もが畏怖の二字を顔面に貼り付け、機嫌を損ねないように言葉を選んでいたのである。

 年齢不詳の若々しい顔立ちとはいえ、彼の故郷であるアメリカにも銃を向けた〝戦争の時代〟の生き残りからすれば、難民高等弁務官マイク・ワイアットは三回り近く年下なのだ。飄々としていて掴みどころがない性格と礼儀知らずは分けて考えるべきであり、そのときのマイクはトビアスのことを小馬鹿にしているとさえストラールには感じられたのだった。

 ゴーグル型のサングラスで双眸を覆い隠していることもあって、め付けただけでは通じないと判断し、聞こえよがしの咳払いでもって非礼を戒めようと試みたのだが、『ハルトマン・プロダクツ』の会長と輪切り机を挟んで向き合った難民高等弁務官マイク・ワイアットは、を受け流しながら更に身を乗り出して見せたのである。

 不意に脳内あたまのなかに甦った〝天敵マイク・ワイアット〟の笑い顔によって半月前の記憶がこれ以上ないくらい鮮明に引き摺り出されたストラールは、周囲まわりに誤解を招き兼ねない無意識の舌打ちを危ういところで引っ込め、心の中で疲れ切った溜め息を吐き捨てた。




 〝その日〟のトビアスが纏っていたのはサッカードイツ代表の試合着ユニフォームではなく、襟に二種の徽章を取り付けた背広であった。一方は『ハルトマン・プロダクツ』の社章であり、もう一方は円環を描く〝七星セクンダディ〟を模っている。

 全く同じ物を胸元で煌めかせるストラールは、マイク・ワイアットが〝何か〟を口にするたびに眉間の皺が増えていた。所属先ハルトマン・プロダクツの会長と難民高等弁務官を隔てる輪切り机の脇に立って会談を見守るのが役割であったのから、それも無理からぬことであろう。

 本来、オムロープバーン家を継ぐはずであった実兄あにが急逝する以前のストラールは、オランダ出身うまれの格闘家たちが営む用心棒稼業のまとめ役を担っていた。その頃の〝顔〟を少しばかり晒しながら荒れ狂う憤怒いかりを咳払いに乗せたのだが、〝天敵マイク・ワイアット〟の舌は自重するどころか、逆に回転が加速していった。


「――おあつらえ向きにワールドカップ開催中だ。五〇年前の今頃、トビーはドイツを優勝に導いたんだよな。監督じゃなくスポーツメーカーとしてさ。『国境を引かれようとも我らはみな同じ家族』っつうトビーの啖呵が難癖ケチつけてきた連中にキマッたのは、それから少し後の大会だったな。難民高等弁務官の肩書きを背負うオレにとっちゃ、アレは情熱のおきだよ」


 『格闘技の聖家族』の御曹司からぶつけられた戒めに対する回答の代わりでもあったのだろうが、それ以上にトビアス・ザイフェルトへの純粋な敬意が難民高等弁務官マイク・ワイアットを多弁にさせた様子である。インターネット上の百科事典に記載されている人物評を聞きかじった程度の理解では紡げない言葉を次々と並べていったのだ。

 トビアスの傍らに控えるギュンターからひとず差し出口を我慢するよう目配せでもって促されるまでもなく、ストラールも『ハルトマン・プロダクツ』のり方をドイツの歴史に求めたマイク・ワイアットの話に耳を傾けるつもりであった。

 その言葉を受け止めてまで個人的な反発心を優先させるようでは、『格闘技の聖家族』の御曹司などとても務まらないのだ。

 〝戦争の時代〟を敗戦国として終えたドイツは、戦勝国による占領統治を経たのち、東西二ヶ国に分かれることになった。

 こんにちいて〝代理戦争〟の側面で語られることが多い『ベトナム戦争』と同じように英米仏と旧ソビエト連邦――それぞれの占領地が〝東西冷戦〟という構図の中で〝分断国家〟として並立し、睨み合うことになった次第である。

 世に言う〝東西ドイツ時代〟であった。これ以降の国際競技大会は他国の思惑と勢力に母なる大地が引き裂かれたベトナムと近似する状況下で執り行われることになったのだ。

 一九六一年に至って東西二ヶ国の完全な分断を象徴する『ベルリンの壁』が建設されると、〝向こう側〟との境界線を超える行為は〝脱出〟とされ、国境警備隊から銃口を向けられるようになった。

 りょうこくの往来が厳しく封鎖された状態にも関わらず、東ドイツの代表選手が西ドイツに属するニーダーザクセン州の企業ハルトマン・プロダクツが手掛けた試合着ユニフォームワールドカップに出場したのだ。

 言わずもがな、試合着ユニフォームの胸には同企業のロゴマークが刺繍されている。広告利権を貪る為なら帰属先に対する背信すら厭わないのかという批判も噴出したが、トビアスは「国境を引かれようとも我らはみな同じ家族。共に歩むことに何の差し障りがある」と揺るぎなく言い切り、撤回を求められても取り合わなかった。

 創業者親子の確執を抱えながらも、戦後の『ハルトマン・プロダクツ』は欧州ヨーロッパ各国に工場を開設ひらき、スキー用品など従来の部門では取り扱っていなかったスポーツへの進出と共に世界へと市場を拡大させていったのだ。

 それはつまり、西ドイツの経済発展を支え、政財界に戦前と大差のない影響力を持ったという意味でもある。トビアス・ザイフェルトがを試みようと誰にも止められまい。

 ニーダーザクセン州は東西ドイツの国境に位置している。それ故にハーメルンの『ハルトマン・プロダクツ』は、分断された〝家族〟の架け橋を自負していたのであろう――マイクが読んだ古い新聞では、『ベルリンの壁』など意にも介さないトビアスの信念を〝スポーツ利権〟の蚕食とは異なる視点から評していた。

 そのトビアス・ザイフェルトが〝難民選手団〟に興味を示さないはずがなく、難民高等弁務官には必ず協力を得られるという勝算があった。だからこそ、『ハルトマン・プロダクツ』と合同で実施した難民キャンプへの視察を終えたのち、ザイフェルト家の御曹司たちと共にハーメルンの本社ビルへ赴いたわけだ。


「オレのにトビーは『スポーツは国境を超える』っつう言葉の体現者に見えてるぜ。スポーツを通じて国際社会に〝自由〟の意味を与えたようなモンだ。そんなトビーだから分からねェコトがあるんだよ。突っ込んだ言い方をするなら納得できねェコトがよ」

「……この上ない敬意をもっろうこうに接していただけるのは『ハルトマン・プロダクツ』に身を置く一員として感謝しかございませんが、……もう少し言葉を選んでいただけると助かります。本日のこの会見は難民高等弁務官事務所と当社ハルトマン・プロダクツ両方の広報部から全世界に発信することになりますが、そこに〝物別れ〟という見出しが付くような事態はお互いの益にならないと存じます」


 世界最大のスポーツメーカーを頂点いただきから取り仕切る〝御老公トビアス〟に難民高等弁務官事務所として面会を求めたにも関わらず、図々しいにも程がある物言いをしてはにも差し障りがあるのではないか――今にも脳天から怒りの蒸気を噴き出しそうな伴侶ストラールを抑える形で難民高等弁務官マイク・ワイアットに苦言を呈したのはマフダレーナ・エッシャーであった。

 彼女も難民キャンプの合同視察に参加し、次いで伴侶ストラール親友ギュンターと共に難民高等弁務官マイク・ワイアットをトビアスの執務室へ案内した次第である。

 〝格闘技王国〟の名折れと呼ばざるを得ない窮状の打開に向けて、オムロープバーン家は合同視察の最中にマイクの協力を取り付けている。『ハルトマン・プロダクツ』の会長と難民高等弁務官の会見を報じる際にはも差し込む段取りであり、アムステルダム市長にからぬ印象を与え兼ねない筋運びは甚だ困ると暗に伝える為、「政治的に差し障る」と、この場には些か似つかわしくない一言をえて付け加えたわけだ。

 オランダが抱える憂慮も酌んだのか、右手を掲げることでマフダレーナを制した〝御老公〟――トビアス・ザイフェルトは、そのままマイクに握手を求めた。


「トビーにとっちゃ『フロスト・クラントン』は許しちゃおけねぇ人間の筆頭みてーなモンだよな? オレが生まれたアメリカじゃ名前を出すだけでも白い眼でられちまうくらい評判最悪なクソ野郎に、欧州ヨーロッパを代表する格闘技団体を任せる意味が分からねェんだわ」


 肉厚の手を強く握り返しながらマイクが口にしたのは、意外にもフロスト・クラントンのことであった。難民選手団の結成を巡って〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の話題はなしに移るものと予想していたギュンターは、輪切り机を挟んで対角線上に立つ二人の親友ストラールとマフダレーナに解説を求めるような眼差しを向け、意味不明と言わんばかりに首を傾げるしかない。

 フロスト・クラントン――北米アメリカ最大の勢力を誇り、名実ともに世界の総合格闘技MMAの旗頭を担う『NSB』にいて、イズリアル・モニワの前に団体代表を務めた男だ。

 所属選手たちをドーピングで汚染し、『NSB』を世界最高峰のMMA興行イベントから肉体改造が施された〝化け物モンスター〟たちによる見世物へと作り変え、ついにはアメリカ格闘技界から永久追放された罪深き男は、現在、『ハルトマン・プロダクツ』傘下の打撃系立ち技格闘技団体『ランズエンド・サーガ』の代表の座に就いている。

 フロスト・クラントンが欧州ヨーロッパへ逃げ延びてきた時期と、同団代ランズエンド・サーガの前代表の事故死が偶然にも重なり、トビアスのによって新代表就任が決定したのだが、その是非については未だに『ハルトマン・プロダクツ』内外で物議を醸し続けている。

 〝クラントン政権〟の時期にで現役引退を余儀なくされた選手の顔触れを確認すれば瞭然であるが、彼は己と同じ白雪のような肌の色を持つ人間にしか〝化け物モンスター〟へとする禁止薬物を用意せず、それ以外の肌の人間を古代闘技場コロッセオ剣闘士グラディエーターに差し向けられる猛獣あるいは〝壊れても構わない玩具〟としかしていなかった。

 『ハルトマン・プロダクツ』に連なる競技団体であり、欧州ヨーロッパ最大の勢力を誇る『ランズエンド・サーガ』の舵取りをの持ち主に任せておくことは、国際社会に悪しき誤解を招き兼ねないのである。

 団体代表としての適性も含め、トビアスの一存で決められたフロスト・クラントンの処遇は『格闘技の聖家族』の御曹司も理解に苦しんでいた。それは総帥の孫ギュンターも、自分の伴侶マフダレーナも同様である。隣人愛で手を差し伸べるにも値しない所業を繰り返してきた男なのだ。

 そもそも『ハルトマン・プロダクツ』は『NSB』とスポンサー契約を交わしたことがない。それどころか、同団体はスポーツ市場マーケットいて自社と勢力を二分するアメリカの代表的メーカー『ペースメイク・ブリッジ』を後ろ盾としている。前代表フロスト・クラントンを助ける理由など一つも見当たらないのである。


「要するに人種差別のクソ野郎を野放しにしておくような偽善者とは同じ夢なんかられねぇってコトだろ? そりゃ当たり前だぜ。ドイツって国家くにが一九三六年のベルリンオリンピックから――〝民族の祭典〟から何も変わっていねぇってコトになってみろ。〝|平和の祭典〟に対して何か物申す資格なんざ一発で吹っ飛ぶぜ。未来永劫にな」

「バールーフ、……私たちはオランダの国民にんげんですよ。その口でドイツの在り方を語るのは御老公への無礼以前の問題ではありませんか。軽率な発言は慎んでください」

「生憎と言葉を選んでだぜ、ストラール。誰も彼も仲良しこよしの懇親会のつもりでガン首揃えたワケじゃねぇんだろ。上っ面だけの馴れ合いなら難民高等弁務官殿も執務室ここまで乗り込んできた甲斐がねぇ。腹を割って話そうや」


 マイクの意図をすぐさまに理解し、眉根を寄せる三人に向かって自分なりの解説を披露したのは、難民高等弁務官マイク・ワイアットの背後から身を乗り出し、輪切り机の上に用意された茶菓子を摘まんだじゅうどう姿のバールーフ・デ・ハウアーであった。

 この場に居合わせた者たちの中で『ハルトマン・プロダクツ』の社章を着けていないのは、面会を求めた側の難民高等弁務官マイク・ワイアットを除けば彼一人だ。

 一九六四年東京大会で日本代表をくだして柔道競技の国際化を加速させた金メダリストを師匠に持ち、自らも二〇〇八年キン大会と二〇一二年ロンドン大会で〝格闘技王国〟たるオランダの威信を知らしめた五輪選手オリンピアンは、友人であるストラールと共に難民キャンプを視察したのち、興味本位で執務室ここまでいてきたのである。

 この会見に限って執務室の会話は全て英語で行われているが、それはアメリカの貿易港ボルチモアで生まれた難民高等弁務官への配慮である。ドイツの言語ことばは聞き取ることさえ難しいバールーフにとってもこれは僥倖さいわいであり、国際競技大会にいて故郷オランダ以外の人々との意思疎通を助けてくれる英語が用いられた為、繊細かつ難解なやり取りも理解できたのだった。

 そのマイク・ワイアットとバールーフは視察先で初めて挨拶を交わしたばかりであり、気心の知れた仲とは言いがたい。だが、オランダ国内にける格闘技興行イベントへの法規制解除を求める交渉団にも加わっている為、に鼻が利く。これをもって難民高等弁務官の胸中も見抜いたわけだ。

 肩越しに自分のほうを仰いだマイク当人とも互いに親指を立て合っている。が答え合わせであった。

 トビアスの面前にも関わらず茶菓子を手づかみで食べ、粉砂糖の付着した指をねぶってしまえることからも察せられる通り、些か浅慮ではある。だが、『格闘技の聖家族』の責任を背負い、〝格闘技王国〟の土台を揺るがし兼ねない法規制の発起人であるアムステルダム市長との交渉に臨んでいるストラールにとっては、誰よりも頼もしい兄貴分なのだ。

 トビアスの怒りを買い、退席を求められても不思議ではない質問を難民高等弁務官マイク・ワイアットえて真正面からぶつけた理由は、ストラール自身も察している。

 これから〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の可能性を拡げる難民選手団について語り合おうというのだ。だからこそ、ピエール・ド・クーベルタン男爵やルートヴィヒ・グットマン博士の理念とは相容れないフロスト・クラントンを『ハルトマン・プロダクツ』のとして迎え入れた真意だけは確かめておかなければならないのである。

 トビアスの返答次第では、難民高等弁務官マイク・ワイアットのほうから席を立つことになるであろう。

 狂気という二字以外に表すすべのない絶滅政策ホロコーストの悍ましさを全世界に知らしめたアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所は言うに及ばず、会長トビアスの執務室から跡地を遠くに望むことが出来るハーメルンの刑務所にいても人間ヒト人間ヒトとして扱われなかった。

 それ故に難民高等弁務官マイク・ワイアットは先ほどフロスト・クラントンのことをトビアスの〝天敵〟の如く吐き捨てたのだ。『NSB』をの舞台に歪め、自分と肌の色が異なる選手たちを〝化け物モンスター〟に破壊させる〝玩具〟として使い潰した前代表フロスト・クラントンは、立場や規模こそ違えども絶滅政策ホロコーストを強行した独裁政権と〝根〟は変わらないのではないか。

 バールーフに至ってはフロスト・クラントンの所業を指して「人種差別」と直接的に言い切っており、これを聞き咎める者は誰一人としていなかった。


「人間は産声を上げた瞬間から過ちを犯し続ける生き物だ。生まれた国も育った土地も、肌の色や思想とも関わりなく、ありとあらゆる誰もが等しく間違い、大なり小なり罪を抱えて生きていくしかない。そうであるからこそ、過ちを贖う機会が〝天〟より許されるのではないか。法に基づき、罪を裁く木槌を持たぬ者がどうして〝天〟の思し召しを否定できようか。それ即ち、人間ひとの手に余る傲慢にして〝天〟に唾する冒涜ことに他ならない」


 難民高等弁務官マイク・ワイアットに対するトビアスの返答は、ともすれば余人の驚愕を引き出すものであるが、その一方で紛れもなく〝戦争の時代〟に独裁政権と手を結んで財を成したという十字架を背負う一族のおさの言葉であった。

 無論、罪深き歴史をトビアスと共有していない人々からすれば想像も理解も難しい。フロスト・クラントンが暴挙にさえ出なければ人生が狂わされることもなかった『NSB』の選手は決して少なくないのだ。

 望み通りの勝利を収められず、苦悩の谷底に落ちていたアイシクル・ジョーダンは精神こころを安定させる違法薬物で誘惑された挙げ句、過剰摂取オーバードーズによって若い命を喪失うしなっている。現在の『NSB』が前代表フロスト・クラントンの積み上げた夥しい犠牲の上に成り立っているという事実を承知しながらも、トビアス・ザイフェルトは彼がを取り上げるつもりはないと静かに淀みなく述べた。


「真人間になってやり直すコトが罪滅ぼしなのは、法の秩序に支えられる社会じゃ当たり前だがよ、クラントンは刑事罰で刑務所ムショにブチ込まれたワケじゃねぇし、社会的制裁を喰らったくらいで思想かんがえを変えるタマでもねぇ。結局、救われるのはヤツ一人。底意地悪い言い方すりゃ勝ち逃げだ。カンに障ったらメンゴだけど、えて言わせてもらうぜ、トビー」

「ムシの良いハナシなのは誰にも否定できねーわな。オレ個人の気持ちをぶっちゃけても構わねーなら、どんな理由があるにせよフロスト・クラントンを野放しにしておく限り、ジイさんの大事な会社は信頼がコロコロ転げ落ちてくと思うぜ」

「つい先ほどストラールから言い方を考えるように注意されましたよね、バールーフ。ワイアットさんも責任ある立場なのですから、それ相応の振る舞いをくれぐれもお願い申し上げます。彼の教育にも良くありません」

「教育に悪いって! レーナよぉ~、年上にぶつける注意じゃね~だろ。我らがアムステルダムの市長サンにも永遠の少年みて~に呼ばれたけどよォ~」


 バールーフがマフダレーナから言葉遣いを咎められている間に、難民高等弁務官マイク・ワイアットは笑みを消した。先程の質問に対する返答に心の底から納得できたわけではないのだろう。

 それでもソファから立ち上がろうとはせず、トビアスと視線を交わし続けている。

 数え切れないほど多くの人間に厄災わざわいを振り撒き、再起不能や落命といった取り返しのつかない事態まで招いた人間を許して受けれることがどれほど難しいか、難民高等弁務官の使命を背負ってで内戦・紛争と向き合ってきたマイクは痛いくらいに理解わかっている。

 〝誰か〟の手によって過ちを償って機会が用意されたとしても、実害を被った誰もが断罪を求め、「復讐は何も生まない」という美辞麗句で犠牲者の叫びが退けられたときには、くらい想念が私的制裁という形で破裂する――法が暴力を制する現代社会での是非はともかくとして、悲しみにき動かされた復讐もではあるのだ。

 恨みを晴らすことで初めて癒える痛みもあれば、未来へ踏み出せる一歩もある。

 マイク・ワイアットが現在いまの任務に就いておよそ九年――甘い見積もりが入り込む余地のない〝現実〟は幾度も思い知らされたが、復讐の連鎖や歪んだ正義の執行を断ち、〝赦すこと〟から始めるという理想を絵空事の一言で割り切ってしまったら、難民高等弁務官事務所が目指す平和など永遠に実現できないのだ。

 人間ひと人間ひととして扱われない狂気に染まった〝戦争の時代〟を生き抜き、スポーツをプロパガンダに利用する独裁政権にくみしてしまった罪の意識を半世紀を超えて抱えてきたトビアスも、余人の想像を絶する苦悶の果てに人間の可能性を〝正しいこと〟として信じられるようになったのである。

 マイクが協力を要請しようとしているリオオリンピック・パラリンピックの難民選手団結成も、人間の可能性を信じていなければ始まらない。トビアスの意志を否定することはその交渉を自ら打ち切るようなものだ。難民高等弁務官を名乗る人間にとって〝歴史の生き証人〟が辿り着いた〝答え〟は、大いなるしるべにも等しかった。

 無論、難民高等弁務官ゆえにトビアスの〝全て〟を受けれることは難しい。

 トビアスがスポーツ界ひいては格闘技界に進むべき道筋として示す〝正しいこと〟とはザイフェルト家と『ハルトマン・プロダクツ』を基準に設定されたものであり、国際社会にける秩序と必ずしも一致するものではないのだ。

 深い慈悲を持つ一方、商業ビジネス化に伴って利権争奪の舞台となった国際競技大会メガスポーツイベント出資企業スポンサーを一業種一社に限定するという体制を導入し、莫大な利益を『ハルトマン・プロダクツ』で独占的に吸い上げる仕組みを作り上げたのもトビアスその人なのである。

 本拠地シンガポールの〝スポーツファンド〟による強固な支えで様々な退けてきた〝独自勢力〟――『至輪パンゲア・ラウンド』の動向を警戒するのも、メインスポンサーの立場で影響下に置いた『天叢雲アメノムラクモ』をMMA事業にけるアジア戦略の要と考えているのも、『ハルトマン・プロダクツ』が慈善団体ではなく利益追求を前提としたである為だ。

 企業間による〝経済戦争〟では個人の命さえちりあくたのように軽んじられ、それ故に『ハルトマン・プロダクツ』には〝スポーツマフィア〟の汚名が付き纏うのだが、清濁あるいは正邪とも呼ぶべき相反するモノがトビアスのなかでは矛盾なく混在しているのであろう。

 彼が掲げる〝正しいこと〟に難民高等弁務官マイク・ワイアットも首肯を躊躇ためらってしまうのだが、『ハルトマン・プロダクツ』が頂点いただきに立つ構図の中で、スポーツ界ひいては格闘技界に一定の調和と均衡が保たれている〝事実〟も間違いないのだ。

 自分を欧州ヨーロッパに追いやった古巣NSBへの買収工作など私物化の傾向こそ感じられるものの、二〇一四年六月末の時点にいて、クラントン体制の『ランズエンド・サーガ』は正常に運営されている。リングはる選手によって凄まじく荒らされているが、はフロスト・クラントンが団体代表に就任する以前から起きていた問題ことである為、『NSB』のドーピング汚染のような責任追及は無理があった。

 ザイフェルト・オムロープバーン両家の御曹司を始めとする次代の担い手は、いずれ必ずフロスト・クラントンの偏った思想が暴走すると危険視しており、傘下の競技団体ランズエンド・サーガから早急に取り除きたいのだが、大過が無ければ失脚させようもないわけである。

 〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟への難民選手団派遣を巡り、是が非でも助力を求めたい相手であればこそ企業としての理念にも神経を尖らせてしまうのだが、『ハルトマン・プロダクツ』の社章を着けていない難民高等弁務官マイク・ワイアットは、当然ながら差し出口の権利も持ち得ないのだった。


「贖罪なくして天地人のいずれもフロスト・クラントンという男は受け入れないだろう。恨みや憎しみを抱く者ほど見失ってしまうが、十字架を背に負えるのは過ちを犯した本人のみ。それを横から奪い取る資格など他の誰にあるだろうか。背に肩に食い込む苦しみが英劫に続くか、きたるべきときに解放されるのか。これも〝天〟の差配するところだ」

「……〝天〟のおぼし召しを人の身で気取れば、血の海に沈んだ亡骸を見下ろしていっときばかり恨みが晴れるとも、次の瞬間からは私刑リンチに走ってしまった自分を責め始める――そういうワケかい、トビー? さしずめ『ローマ人への手紙』第一二章第一九節のように」

「復讐するは我にあり――と、神は仰せになられた。断罪の剣が人の手に余ることは聖書で説かれている通りだ。それでも〝誰か〟を火刑台に掛けなければ何者も救われないというのなら、その任を引き受けるのは私一人で良い」

は感心しねぇぜ、トビー。身代わりを縛り首にしたって根本的な解決にはならねェじゃねーか」

「そう遠くない未来に〝天〟のもとに塵となって帰る身だ。地上に満たされた負の想念を連れてくのに私以上の適任はいない。格闘家の命を玩具も同然に弄ぶフロスト・クラントンを助け、別の競技団体まで任せた〝スポーツマフィア〟の首領こそ真の邪悪――彼に怨み持つ人々は怒りの矛先を私に変えるだろう」

「変わらねェときは、そうなるようにェで仕向けるってかよ? ストラールと組んで地元のとやり合ってるオレには勉強になるコトばっかしだが、あの差別主義者にそこまでしてやる義理がジイさんにあんのか?」

「極めて単純な殺人事件が起きたとする。状況も物証もそれを完全に証明しているのに、犯人の行動に謎めいた部分がたった一つあるだけで、〝外〟の目は黒幕や陰謀を探してしまう。それと同じだ、バールーフ君。人間ひとの想像力は常に諸悪の根源を求め、と認識した存在モノに敵意が移ろっていく。……そうなれば、もはや他の誰にも復讐が連鎖することはない。私の棺に敷き詰められた悪言は万人の慰めに変わるだろう」

「そして、『悪は滅んだ』っつってトビーの死を喜ぶ人たちは、私刑リンチに走っちまった後悔や罪悪感に呪われねェで済む算段か。……弱っちまったねェ。救えるはずの命は見捨てねェってトビーの〝情熱〟はオレにもハートの中心で理解わかっちまわァ」


 人間ひと人間ひととして扱わない狂気が脳に根を張った『NSB』の前代表は、そもそも自らの所業を過ちとは思っていないはずだ。に目覚める可能性など望むべくもあるまい――その指摘を静かに受け止めたトビアスは、裁きの鉄槌と呼ばれるモノは〝天〟以外の手に余ることを反対に諭し、フロスト・クラントンの〝赦免〟を受けて噴出する怨みの〝全て〟を老い先短い身で背負うと言い切った。

 罪深き者に救いの手を差し伸べるたび、犠牲者を蔑ろにしていると謗られてきたトビアスの瞳には、己に向けられる怒りも恨みも浄化せんとする覚悟が宿っている。永劫の悪名を代償とすることも、歴史という名の十字架を背負う者が果たすべき責任つとめと心得ている。

 ギュンターと同じいろの瞳で難民高等弁務官マイク・ワイアットを見つめ返すトビアスは、連合国側の捕虜収容所で〝戦争の時代〟を終えた当時を振り返って一つの手記を書いている。

 史上最悪の独裁者は自己判断が未熟な少年に偏ったイデオロギーを刷り込み、〝敵〟を躊躇なく殺戮できるよう仕立てる手段にスポーツを利用した。トビアスは独裁政権の勝利に命を捧げるという洗脳に協力した容疑を掛けられ、特に厳しく尋問された。

 希望の一欠けらすら手放しそうになる日々であったが、捕虜たちが押し込められた建物の窓から差し込む光の温かさに生きている実感を想い出し、愛してやまない工房に必ずや帰還かえらんとする意志を奮い立たせたのだ。

 トビアスは戦後六九年にいて、〝在りし日の光〟にならんとしていた。

 この世の地獄に差し込む陽の光で心が洗われ、悪夢から醒めたことを〝天〟に感謝したとも同じ手記で書いている。それ故、捕虜を非人道的に扱った父が許せなかったという。

 その精神たましいをマイクも高潔と感じている。だからこそ己を犠牲にしてまでフロスト・クラントンを救う意味があるのかというバールーフの問い掛けに首を頷かせてしまったのだ。

 ストラールも介助式車椅子の背後うしろに立つギュンターに対し、トビアスの意図を目配せでもってたずねた。瞳の動きが分からない黒いレンズ越しであっても意思疎通に支障のない相手を親友と呼ぶのだ。神妙な面持ちを維持しながら両眉を上下させたザイフェルト家の御曹司は、合わせて困惑した調子で頬を掻いて見せた。

 孫のギュンターもフロスト・クラントンを庇護する理由を聞けずにいたのだ。初めて知った祖父の真意には、ストラールたちと同様に面食らうばかりであった。

 だが、偉大な背中が引き受けてきた〝全て〟は、ザイフェルト家の一族としてこの場の誰よりも理解している。いずれはその役目を自分が引き受けるのだ――その覚悟が宿った目をギュンターは親友ストラールから祖父トビアスへと転じた。

 一方でマフダレーナは唇を噛み、今にも決壊しそうなくらい激情を必死に堪えている。

 中世に〝薬草魔術〟を極めた彼女の祖先は、人権の概念が希薄な時代である点を差し引いても残酷極まりない迫害を受け、祖国を捨ててオランダに流れ着いた。フロスト・クラントンのような人間に対しては、その身に流れる〝血〟が殊更強い嫌悪感を生み出し、これを赦すという〝御老公〟の判断にはどうしても賛同し兼ねるわけだ。

 鼻孔に心地好く染みるような薬草の芳香かおりを間近に感じながら、オムロープバーン家の御曹司も口を真一文字に結んだまま押し黙っていた。

 『格闘技の聖家族』が先頭に立ち、発起人であるアムステルダムひいてはオランダという国家くにに求めているのは、格闘技興行イベントの開催を禁じる法規制の撤回だ。自国での活動が著しく制限される選手たちは〝格闘技王国〟の出身うまれにも関わらず、他国の競技団体に頼らざるを得ない状況が二〇一一年から続いている。

 法規制が理由を欠いた不当な弾圧であれば、相応の措置を取ったが、祖国オランダの格闘家による犯罪の頻発が原因の一つとして挙げられており、これははんばくがたい事実であった。

 アムステルダム市長やスポーツ政策担当者との交渉に臨むたび、「格闘技はオランダ社会を汚染する害悪に他ならない」という誤解を晴らせずに歯噛みしている。そのようにして足掻く己の〝立場〟がトビアスの説く贖罪と重なって思えたのである。

 〝格闘技王国〟を巡る情勢がフロスト・クラントンの境遇と似通っているとは思わないが、を心の中で念じるほど自分より優位な〝誰か〟のゆるしを得なければ格闘家の〝誇り〟すら守れない事実に突き当たり、潔白の証明とは正反対の想念が噴き出すのだった。


「ワイアット君――いや、マイク君は『人は人を許せる』という理想がジョン・レノンの歌にしか無いわけではないと理解わかるだろう? 私が要らぬお節介など焼かずとも、いずれは嘉納治五郎ジゴロー・カノーが夢見た世界になっていく。格闘技界にき導が居るのも頼もしい限り」

「ひょっとすると御老公はンセンギマナ選手のことを仰りたいのですか? 『NSB』と契約する総合格闘家――内戦のルワンダを生き抜いた義足の拳法家のことを……」


 思わず口を挟んでしまったストラールに対し、トビアスは先ほどマイクとバールーフが交わしたやり取りを真似て右の親指を垂直に立て、片目を瞑って答え合わせに代えた。

 差し向かいのソファにるマイクとバールーフ、その脇に立って複雑そうな表情かおを並べるストラールとマフダレーナを順繰りに見回したのち、トビアスはこの場に居合わせているはずもない『NSB』のMMA選手――シロッコ・T・ンセンギマナと、彼の故郷であるルワンダのことに触れた。

 ンセンギマナの故郷を死で塗り潰した悲劇は、同じ国で生きてきた人々が互いに対する憎悪に呑み込まれたことで勃発し、一九九〇年から数年に亘って灼熱の大地を引き裂いた内戦を経て、一〇〇日間にも及ぶ虐殺ジェノサイドに行き着いてしまった。

 民族間の対立を煽り立てる歌声にき動かされた多数派民族が少数派民族を一方的に惨殺するという最も深刻な事態に陥ったのである。この虐殺ジェノサイドによる正確な犠牲者数は二〇年が経った今も確定されておらず、狂乱を生き延びた国民ひとびともその一割が手足を欠損うしなった。

 ンセンギマナは左太腿から下にMMA用の義足を装着して『NSB』の試合場オクタゴンに立っている。それはスポーツ用義足の進化の証明であるのと同時に、国家的悲劇がルワンダに残した爪痕そのものなのだ。

 それでもルワンダという国家くには甦った。内戦終結後は民族間の断絶を乗り越えて共に再興に励み、〝アフリカの奇跡〟と讃えられるほどの経済発展まで成し遂げた。二〇〇〇年シドニーパラリンピックには競泳自由形の代表選手パラリンピアンも派遣し、五〇メートルを片足で完泳した姿に全世界が魂を震わされたのである。

 無論、虐殺ジェノサイドが歩み寄れるようになるまでには、同じ国家ルワンダで生まれた人間以外には想像できない葛藤があった。聖職者によるNGO団体が〝第三者的立場〟で橋渡し役を務め、〝労働奉仕刑〟という加害者の〝償い〟も進められた。ルワンダ国民は心の復興と社会の再建の両面から手を取り合い、太陽のもとに再び大きな輪を結んだのだ。

 人は人を許せる――これを一つの大きな夢として語ったトビアスが国家的悲劇の生き残りに関心を寄せる理由は、本人に確かめるまでもあるまい。義足のンセンギマナが四肢を十全に使える選手と同じルールに基づいて〝心技体〟を競う試合は、それ自体がトビアスが思い描く理想の具現化でもあるのだった。


「……心変わりしていないかどうかは、甚だ疑問ですが――」


 水を差しそうになったストラールは無粋を働く前に口を噤んだ。ンセンギマナは格闘家との相互理解を拒絶する『ウォースパイト運動』が仕掛けてきたテロ攻撃に巻き込まれ、半月前の事件では祖国ルワンダの内戦と同じように無数の銃口を向けられたのである。

 『ハルトマン・プロダクツ』の情報網ネットワークによって、ンセンギマナが自身が所属するサンノゼの道場スタジオで子どもたちにアメリカン拳法の指導を再開したことは確認しているが、現在いまも『ウォースパイト運動』に襲撃される以前まえと同じ心を保っているとは限らないのだ。

 挨拶すら交わしたことのない相手ンセンギマナがテロによってなる変化を受けたのか、読み取れるはずもなかった。ゴーグル型のサングラスで覆い隠されている翡翠色の双眸は、何もかもを見通すがんの類いではないのである。

 そのストラールが黒いレンズに映しているのは、ギュンターの介助を受けてソファから車椅子に移ろうとするトビアスだ。彼もマフダレーナも慌てて駆け寄ろうとしたが、過剰な手助けは却って良くないのだと、トビアス当人から目配せでもって押し止められてしまった。

 やはり目配せ一つで祖父トビアスの指示を察したギュンターは、窓辺に向かって介助式車椅子を押していく。本社ビルの最上階に位置する執務室は一方の壁が全面ガラス張りとなっており、中世の趣を現代いまに残したハーメルンの街並みを一望できるのだ。傾きつつある陽の光に照らされ、独特の陰影を生み出しつつある景色を老いたは求めていた。


「お祖父じい様の志は俺も喜んで継ぎたいと思っていますけど、それはそれとして『ハルトマン・プロダクツ』っていうも守らなきゃなりません。万が一にもクラントンが我々を裏切ったときには、どうするおつもりですか? 俺としてはお様の顔に泥を塗られてだけでも我慢の限界を突破しそうですがね。何しろ〝おじいちゃん子〟ですから」


 介助式車椅子のハンドルを握るギュンターは、十字架を背負い続けてきた偉大な背中を尊敬の眼差しで見つめているが、御曹司という〝立場〟から肉親の情を隅に追いやってでも確かめなければならないことがあった。

 欧州ヨーロッパいて総合格闘技MMAという〝スポーツ文化〟を花開かせるという実利がある為に追認したのだが、『NSB』の買収を推し進めているのは『ハルトマン・プロダクツ』ではなく、あくまでも『ランズエンド・サーガ』である。

 水面下の工作もフロスト・クラントンの独断によって始まったのだ。は中東の〝オイルマネー〟への接近も同様であり、と勢力拡大を背景に『ハルトマン・プロダクツ』の支配から独立を画策しているように思えてならなかった。

 祖父トビアスの背中に掛けた声は、フロスト・クラントンという存在に対する拒絶反応そのものといっても過言ではない。欧州ヨーロッパ最大の勢力を維持したまま『ハルトマン・プロダクツ』からの離脱を許せば、制御不可能な〝爆弾〟が足元に設置されたような状況に陥るのだ。

 最悪の筋運びシナリオとなり得る可能性は、事前に潰しておくべきであろう――表情かおを引き締めて耳を傾けるストラールもマフダレーナも、親友ギュンターと危機感を共有しているのだった。


我々ハルトマン・プロダクツを出し抜くくらいの野心も持てずして、大業など成し遂げられん。生き馬の目を抜く世界での戦いとはどういうものか、ギュンターにも学ぶことが多いと思うが?」

「手本なら間に合っていますし、俺の目には〝猫かぶり〟にしか見えませんよ。手綱を握れている内に化けの皮を剥いだほうが損害ダメージは少なくて済むと思いますがね。仮にクラントンが『ランズエンド・サーガ』でもドーピング汚染をやらかしたら、……オランダ・フランス・ノルウェーのような格闘技への法規制があっという間に欧州ヨーロッパ全土に広がるハズ。ストラールやレーナだってそう思うだろ?」

接触競技コンタクトスポーツに慎重な態度を取っている国々は一気に法規制に傾く可能性が高いな。そのときにはオランダが旗振り役を買って出るだろう。私たちのこれまでの交渉が吹き飛ぶのも間違いないが、それで済めば御の字だよ。イギリスまでオランダに倣うような事態に陥れば王室旗ユニオンフラッグがはためくもとに拠点を置く『ランズエンド・サーガ』は二一世紀に『出エジプト記』を再現させるはずだ」

「それに乗じてクラントンから一方的に我々ハルトマン・プロダクツへ手切れを宣言してくると想定したほうが良いと思うわ。ビジネスパートナーとして健全な関係を築いていられる間はともかく、〝オイルマネー〟がシナイ山に代わるのはにならないもの。あの方に海を二つに割る力が――いいえ、その〝資格〟があるとはわたしには思えないのだけど……」

「二人が憂慮するような事態は『ハルトマン・プロダクツ』にも都合が悪過ぎるんじゃありませんかね、お祖父じい様?」

に裁きを下すのは〝天〟ではない。神罰に期する必要もない。自分一人で進む道を踏み外すのではなく、大勢に開かれた道が歪められようとしたときには、志ある誰かが必ずこれを阻止する。フロスト・クラントンが今、欧州ヨーロッパる事実こそ何よりの証左というわけだ。そして、このときにのみ裁きの鉄槌は人の手に馴染むのだよ」

「先ほどのお言葉をご自分で引っ繰り返していますよ、お様」

「時代が動くとはなのだ」


 は隣人愛による寛大な措置というよりも、九〇歳に手が届く年齢に似つかわしくない淡い願望であるが、全世界を敵に回すほど暴走した独裁者の高笑いが今も鼓膜にこびり付いている〝歴史の生き証人〟の言葉だけに、この場の皆の心に重く響いていた。

 車椅子に乗ったトビアスを追い掛け、爪先立ちを維持したまま両膝を開くような姿勢で腰を下ろし、同じ目線の高さに合わせた難民高等弁務官マイク・ワイアットは次いで窓の向こうを見回した。

 〝笛吹き男の伝説〟の名残を感じ取れる街並みを留めたまま、ドイツの大地を夥しい血で染めた激動の歴史を積み重ねてきたのがハーメルンである。第二次世界大戦にいては他の都市と同様に戦火に見舞われ、東西分断の時代には冷戦の〝最前線〟でもあった。

 空襲や砲撃にも屈することなく歴史の移ろいを見守ってきた景色を眺めるたび、トビアスは〝原罪〟とも呼ぶべき十字架をザイフェルト家が背負う意味を自問しているのだろう。

 国際競技大会メガスポーツイベントとの癒着によって私腹を肥やしながら、同時に選手や団体に対する支援事業を通じて社会貢献を両立させる姿は矛盾の塊のようにしか思えないが、それは〝外〟からの視点で捉えたものでしかない。トビアス当人は時代の転換点に立ち会うたび、〝そのとき〟に最善であろう選択肢を模索し、これを積み重ねてきたに過ぎないのだ。

 その果てに矛盾の二字を体現する存在と化したトビアスにとって、どれほど憎んでも足りない実父と二人三脚で工房を始めたハーメルンは、どうあっても離れがたいのである。

 そして、それは『ハルトマン・プロダクツ』の本社を首都ベルリンうつさず、東西の架け橋たる土地ニーダーザクセンに留まり続ける理由とも言い換えられるだろう。




「――親は子どもから教わってばかり。そして、ンセンギマナ君は私の自慢の息子です。そんな風にご列席の皆様の前で胸を張ると、一緒に招かれた『アメリカン拳法』の師匠マスターがむくれそうですが、彼に父の如く接して貰えることが私には何よりの〝誇り〟です」


 ルワンダの記念式典に招かれたルロイ神父の言葉が鼓膜を打った瞬間、ストラールの意識は半月前の追憶から七月四日の会長室に引き戻された。

 インターネット画面の老神父は、〝パラスポーツとしてのMMA〟にいてンセンギマナが果たしている役割を過去の戦争の傷痍軍人を例に引きながらスピーチを紡いでおり、『格闘技の聖家族』の御曹司としてまでも耳を傾けていたい気持ちも強いのだが、この会長室に難民高等弁務官が訪れた日を振り返ったことで、『ハルトマン・プロダクツ』とオランダ格闘技界が直面した難題へと思考が完全に切り替わっている。

 同じモニターで先程まで垂れ流されていた『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟は、〝平和〟の二字を高らかにうたい上げる現在の映像とは正反対のモノを全世界に示した。樋口郁郎が〝日本のフロスト・クラントン〟と唾棄される悍ましい〝事実〟である。

 日本で最大の勢力を誇り、来年末には『NSB』との合同大会開催を控えた『天叢雲アメノムラクモ』で代表を務める樋口郁郎は、他団体では反則と判定される危険行為をルール上で解放するなど以前から国際社会の批判を浴びてきたが、近頃は暴走に拍車が掛かっている。

 新人選手キリサメ・アマカザリ初陣プロデビューのリングで発動させた正体不明の異能ちから――『スーパイ・サーキット』を〝ゲームチェンジャー〟の如く吹聴して『天叢雲アメノムラクモ』のを吊り上げる有りさまだ。

 『スーパイ・サーキット』が人間の限界を超える異能ちからなどではなく、心因性の発作として疑っているのはストラールである。こそは競技選手アスリートの常識を根底から覆すデータであり、最優先で解析しなくてはならないと鼻息を荒くするスポーツアナリストの同僚たちを宥めて回ったくらいであった。だからこそ、慎重に向き合うべき異能モノさえも〝客寄せパンダ〟に利用する樋口の神経が全く信じられなかった。

 岩手興行にいて、『ハルトマン・プロダクツ』が『天叢雲アメノムラクモ』の臨時視察を実施した最大の目的は、先鋭化が著しい『ウォースパイト運動』に対処し得る危機管理能力の確認であったのだが、これを受けて樋口郁郎は〝内政干渉〟には実力行使で反撃するという恫喝にも等しい態度で応じてきた。

 明確な宣戦布告である。メインスポンサーを敵に回せば団体の運営自体が立ち行かなくなると子どもでも分かりそうなものであり、それすら見誤るほど目が曇ったのかと、ストラールも興行イベント会場で呆れ果てたのだが、から捉えた場合、〝暴君〟の振る舞いはより深刻な意味をはらむことになる。

 彼がMMA団体のからぬ側面を強調するほど日本国内で活動している『ウォースパイト運動』を刺激し、『NSB』の事件と同等の暴発を招き兼ねない。二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックも視野に入れて〝難民アスリート〟が活躍できる場の拡大に力を尽くす難民高等弁務官マイク・ワイアットも、ただでさえ苦しい立場にる〝難民選手団〟が更に脅かされるテロの火種として樋口郁郎という存在を恐れていた。

 通すべき筋さえ踏みにじった〝暴君〟は次回興行イベントの開催先である熊本県の武術家たちを激怒させ、〝挙兵〟としか表しようのない事態まで引き起こしている。

 同じ危機感を共有していればこそ『ハルトマン・プロダクツ』も樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』を是正せんとする『MMA日本協会』――即ち、日本国内のMMA団体を監督・指導する中立機関に加担してきたのである。


現在いまの状況に思いっ切りオーバーラップする名台詞がシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』にあったよな。『戦争の犬たちを解き放て』ってのが。『ヘンリー五世』にも重ねるなら、は〝三種みっつ厄災わざわい〟ってな具合になるだろ? 鎖でも首輪でも何でも使って、格闘技界が焼け野原にされちまう前に食い止めてみせようじゃねぇか」

「そもそも『戦争の犬たちを解き放て』と号令したのは〝誰〟なのか。そして、厄災わざわいにもたとえられた〝戦争の犬たち〟は〝誰〟を――〝何〟を指すのか? ……正直、アムステルダム市立劇場の上階席から『マクベス』の〝動く森〟を眺めているような気分よ。初恋の相手――バロッサ家のサラさんにまで魔の手が伸びることを心配するギュンターは、わたしよりもずっと逼迫しているのでしょうけれど……」

「は、初恋じゃねぇし! ていうか、対日本MMAのアレコレだって丸ごと私情でやっちゃいねぇからな⁉ 祖父の前でそのテの話は拷問と一緒だぜ、レーナっ!」


 半月前の会見を声なく振り返る前からストラールの胸中を見抜いていたであろう伴侶マフダレーナ親友ギュンターの会話にも表れているが、二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックを一個の巨大な市場マーケットとして重要視している『ハルトマン・プロダクツ』にとっても、日本MMAを取り巻く状況が悪化していく〝流れ〟を断ち切ることは急務であった。


「二人の言う通りだよ。ピューリッツァー賞レベルの情報提供を受けてキリサメ・アマカザリに対する策を講じたというのに〝天〟はまだ『ハムレット』の如くあれと仰せだ」


 七月四日の日本では現地時間の昼頃に銃撃事件が起きていた。被害者の頭部が散弾で吹き飛ばされたのは、『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟によって混沌が渦巻く東京でも、〝暴君〟への憤怒いかりが燃えたぎる熊本でもなく、一ヶ月に及ぶおんまつりで騒がしい京都であるが、『NSB』を襲ったテロに続いて銃撃犯が『ウォースパイト運動』の過激活動家である可能性を『ハルトマン・プロダクツ』は把握していた。

 しかも、銃撃犯が使用したのは、自国の軍や世界各国の警察に兵器を提供するイタリアの巨大軍需企業――『ロンギヌス社』から弾薬と共に外部へ流出した〝擬態銃ミミックガン〟である。

 正確には開発段階の〝試作銃〟と、汎用性の高い工作機械でも部品を作り出せるようにが施された設計図に基づいて模造された物だが、ハンドバッグなど日常の風景に〝擬態〟する形状であり、本体内蔵のAIとイヤホン型の誘導機械デバイスの組み合わせによって素人でも〝プロ〟同然の射撃能力を発揮できる〝世界最新の銃〟であった。

 通称コードネームに含まれる〝ジャストアナザー〟は〝一般市民〟の護身という用途の他に、射程距離の算出や照準の自動補正といった高度な〝射撃管制装置〟の搭載をも指している。

 胸元で煌めく〝七星セクンダディ〟の連帯で得られた情報によれば、地球軌道上の人工衛星と通信リンクする索敵能力や、AIを駆使した〝自動射撃〟の実現が開発計画の要であったという。

 発覚直後に拳銃自殺した流出の張本人が『ウォースパイト運動』の過激活動家であったことも、擬態銃ミミックガンで射殺された京都の被害者が地下格闘技アンダーグラウンドの支援者であったことも、『ハルトマン・プロダクツ』は世界中に張り巡らせた情報網ネットワークで掴んでいる。

 日伊二ヶ国で別個に発生した二つの事件が『ウォースパイト運動』という一本の線で繋がってしまった場合、は〝戦争の犬たち〟としか表しようがなくなる。ギュンターが述べた通り、この文言は『ジュリアス・シーザー』に登場したものであるが、同じシェイクスピア劇『ヘンリー五世』にも似たような表現が用いられ、飢餓・剣・戦火という三種みっつ厄災わざわい――即ち、戦争によってもたらされる惨状にたとえられていた。

 に匹敵する蛮行が日本で始まろうとしているのだ。『ロンギヌス社』の擬態銃ミミックガンは関西よりも先に〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の開催地である東京で確認されていた。

 その一方で、『格闘技の聖家族』の御曹司は『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟を視聴して理性という名の鎖を引き千切った日本MMAの関係者を〝戦争の犬たち〟と捉えている。同じ『ジュリアス・シーザー』でも、偉大なる英雄の無惨な惨たらしい死にき動かされ、アントニーから仕向けられるまま悲憤の暴動を起こすローマ市民に重ねたわけだ。憎悪の矛先が向けられた〝裏切り者ブルータス〟は、言わずもがな樋口郁郎である。

 伴侶パートナー思考かんがえていることが一字一句に至るまで察せられたからこそ、マフダレーナは共に『ジュリアス・シーザー』のマーク・アントニーを思い浮かべながらも、ストラールとギュンターの間で比喩の対象が異なっている旨をえて口にしたのだ。

 いずれにせよ、日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟が怒りの炎で取り巻かれるほど『飢餓・剣・戦火』ともたとえられる〝戦争の犬たち〟は暴威を増していく。仮に『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』が日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催まで漕ぎ着けたとしても、観客席が厄災わざわいの剣で埋め尽くされるとも限らないのだ。そして、その剣はブルータスと共に滅んだシーザー暗殺犯と同じ名の軍需企業が作り出した擬態銃ミミックガンである。


「――に悪影響が直撃するなら消えてもらうしかねぇよ。MMAとあんま関わらねぇ柔道一筋オレの耳にも悪評以外が入ってこねぇんだから救えねぇぜ、樋口郁郎そいつ


 不意にストラールの脳裏に響いたオランダ語は、この会議に同席していないバールーフから以前にぶつけられた一言である。アムステルダム市長が格闘家の不道徳を樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』へ求め始める前に策を講じるべき――と、強硬に訴えられたのだ。

 こそが難民高等弁務官マイク・ワイアットの最も嫌う選択肢だが、オランダの格闘家たちの命運を背負う『格闘技の聖家族』の御曹司には、どうあっても排除できなかった。


「――だって、そうだろ? 無駄に名前の売れてるヤツが大バカをやらかしてみろよ。口を揃えて『それ見たコトか』ってカマしてくる市庁舎の連中が目に浮かぶぜ。格闘技のり方自体にピリピリしてる連中がオレらの相手なんだし、世間は広いようで狭いと来たモンだ。〝格闘技王国〟が遠い日本からされる前に始末しちまおうや」


 並々ならない期待を寄せている義足のMMA選手シロッコ・T・ンセンギマナの姿が国立競技場アマホロスタジアムに現れる瞬間を待ち侘び、『ユアセルフ銀幕』の枠内スクリーンに全神経を集中させる会長トビアスの邪魔にならないよう静かに席を立ち、脳内あたまのなかに響き続けるバールーフの声を引き摺る恰好で窓辺に歩み寄ったストラールは、運河都市の故郷アムステルダムとも異なる〝中世〟の風情を黒いレンズの向こうに一望した。

 己の領分を弁えない振る舞いというちゅうちょが一瞬だけ足を止めさせたが、脳内あたまのなかでまとまりなく回転し続ける考えを整理する為には、難民高等弁務官マイク・ワイアットと並んだ〝トビアス会長〟と同じ場所からハーメルンの刑務所跡を見つめなければならなかった。

 絶滅政策ホロコーストの狂気に蝕まれていた独裁政権下のドイツにいて、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所と同様に人間ヒト人間ヒトとして扱われなかった〝時代のきずあと〟である。

 〝平和な時代〟のルワンダをスピーチで讃えるルロイ神父の伝道所ミッションと同じカリフォルニア州の所在ということは〝天〟の悪戯としては余りにも恐ろしいが、〝カントリー音楽ミュージックの神様〟と名高いジョニー・キャッシュが歌の題材にも選んだ『フォルサム刑務所』にいても、罪を償わんと懸命に励む受刑者ひとびとの心が更に邪悪な思想に塗り変えられていた。

 フォルサム刑務所の窮状を暴き立てる書簡がアメリカの格闘技記者から『ハルトマン・プロダクツ』の本社に送り付けられたのは、ストラールと同じ景色を難民高等弁務官マイク・ワイアットが眺めた時期と殆ど重なっている。

 差出人はマリオン・マクリーシュ――その記者とはストラールも旧知であった。スポーツ用ヒジャブの発表会でザイフェルト家の御曹司と共に取材を受けたこともあるのだ。自ら見聞きした材料もとを記事へ昇華するという誠実な姿勢は、『ハルトマン・プロダクツ』でも高く評価されていた。

 彼から届いた書簡は、偶然にもフォルサム刑務所を訪れたその日に暴動を目の当たりにしたという近況報告から始まっている。事件自体は『ハルトマン・プロダクツ』でも発生直後に把握しており、ボクシングを通じた更生プログラムの指導員を務める往年のヘビー級王者チャンピオンに狙いを定め、大勢で私刑リンチに掛けて殺害しようとしたことはアメリカ国外のニュースでも相応の扱いで報じられたのだ。

 そのヘビー級王者チャンピオン潜在能力ポテンシャルを見出され、ウェルター級から出発したアメリカプロボクシング六階級制覇を成し遂げる可能性を秘めた現世代の〝最強〟――フェイサル・イスマイル・ガスディスクとスポンサー契約を結ぶ『ハルトマン・プロダクツ』としても神経をすり減らすような事件であった為、くだんの書簡は本社内で重く取り扱われたのである。

 生涯の師匠が重傷を負わされていたなら、ガスディスクは腰に巻いたベルトすら投げ捨てて報復を仕掛けたことであろう。地位にも利権にもこだわらず、ボクシングを商売スポーツビジネスとしか考えていない者たちと衝突して二度も現役を引退する鋼鉄はがね精神たましいとしてはストラールも痛快に感じている。

 自社ハルトマン・プロダクツ開発の計測機器やソフトウェアを用いて選手の運動パフォーマンスを分析し、この結果に基づいて本人及びチームに最も効果的かつ適時性の高い練習トレーニングメニューや試合にける戦略を提案することも、スポーツアナリストが担う重要な役割であった。

 ストラールもこの業務を通じてガスディスクと交流を持ち、〝塀の中〟で刑に服しているなかに教わったボクシングで生き直す〝道〟へと辿り着いた姿に、競技こそ違えども一人の格闘家として魂を震わされたのだ。

 スポーツアナリストとして貢献する相手に私情を挟んで接することは職務倫理に著しく反すると自覚わかっているが、いずれ必ず〝王者の中の王者キング・オブ・キングス〟と讃えられる男と同じように、何物にも縛られずキックボクサーとして存分に技をふるいたいという憧憬あこがれは抑えがたい。

 無論、出資者ハルトマン・プロダクツとしては制御できない気難しさを持て余していないわけではない。莫大な利益を生み出すアメリカプロボクシングの振興に不可欠な〝最終兵器〟である為、で失うわけにもいかないのだった。

 受刑者や刑務官に混ざっていた『ウォースパイト運動』の活動家による騒乱にも、〝同志〟たちの間で神格化されつつある『サタナス』の影響があった。のちの格闘技史にいても忌まわしい〝魔王〟として永遠に刻まれる人物の収監先がフォルサム刑務所であり、マリオン・マクリーシュは彼女を取材する為に同地を訪れていたのである。

 獄中闘争のつもりであるのか――〝IT長者〟であった頃に蓄えた使い切れないほどの財産を惜しみなく注ぎ込み、全てを救済する基金を立ち上げたことで、アメリカでは貧困層を中心に『サタナス』の声に耳を傾ける人間が増え始めているという。

 は格闘技を人権侵害として根絶せんとする危険思想の拡大を意味している。

 ンセンギマナが巻き込まれた二つのテロ事件をはかり、今やホワイトハウスにまで〝国家アメリカの敵〟として危険視されるようになった『サタナス』に触発され、一年にも満たない短期間で『ウォースパイト運動』は急速に先鋭化しつつある。

 全世界に情報網ネットワークを持つ『ハルトマン・プロダクツ』とは言え、〝塀の中〟を覗くことは困難であり、ニュースなどの断片的な情報から今度のも『サタナス』が煽ったものと推察するしかなかったのだが、自分にまで暴力が及ぶかも知れない混乱の渦中にて実態を探ったマリオン・マクリーシュの書簡によれば、彼女は一切関与していないという。

 別の情報網ネットワークから届けられた調査報告とも一致した為、を実情として認めた『ハルトマン・プロダクツ』は、『サタナス』自身の企みでなかったことにむしろ危機感を強めた。

 〝魔王〟が絵図を描くまでもなく、理性のたがを外した〝同志〟たちが人の命を躊躇ためらいなく踏みにじるテロを起こすようになってきたわけである。

 格闘技という『平和と人道に対する罪』を裁く為ならば、己の人生さえ犠牲にしてしまえるよう『サタナス』によって脳が書き換えられている――それ以外に伝えるすべを持ち得ないという焦燥感が書簡からは溢れ出していた。

 フォルサム刑務所の内部で急速に進む〝汚染〟を〝現実歪曲空間リアリティ・ディストーション・フィールド〟の一種に例え、『サタナス・フィールド』と言い表したマリオン・マクリーシュは、一刻も早く〝魔王〟を阻止しなければ格闘技そのものが本当に地上から滅ぼされるかも知れないと、情報提供の形を取って直訴してきたわけだ。


(……マクリーシュさんの伴侶パートナーは『天叢雲アメノムラクモ』で闘うMMA選手ですから、まで思い詰めるのも当たり前でしょう。……個人か、一国か。規模こそ違えども〝大切なモノ〟の行く末を憂う気持ちは誰も彼も変わらないということですね……)


 かつてバールーフが口にした〝始末〟という二字を振り返ったことでまで揺り動かされ、マリオン・マクリーシュの書簡に辿り着いたのだが、格闘技界から排除しなければならないのは日本の樋口郁郎だけではないのである。

 戦禍の比喩とも解釈される〝戦争の犬たち〟を放ったのは、本当は〝誰〟なのか――先ほどマフダレーナが口にした一言が〝始末〟すべき標的をストラールに問い掛けていた。


「――この間、バールーフから言われた物騒極まりないことを考えていたのでしょう。確かにお義兄にい様のご友人ですし、わたしも尊敬していますが、……あまり影響を受けられても困りますよ。取り澄ましても抑えられないくらいあなたは血の気が多いのですから」

「第一、ストラールがまで思い詰めなくても良いんだぜ? 罪科を数えて背負うのはザイフェルト家の責任つとめだ。〝聖家族〟の手まで汚させるわけにはいかねぇよ」

「……初恋をからかわれて情けなく大慌てするのが私の親友だよ。責任つとめを理由にして泥を飲み続けていたら、そんな〝人間らしさ〟まで失われてしまう。……それを何も感じずに見ていられる私ではないと、他ならぬギュンターなら理解わかるだろう?」


 祖父トビアスと同じ十字架を背負わんとする自負が血族の誰より強いことは承知しているが、それと同じくらい親友だけに泥を被らせたくないという気遣いもストラールは感じている。

 あるいはザイフェルト家とオムロープバーン家の間に刻まれた一つの負い目に、現在いまも苛まれているのだろうか――本能の領域で自らの戦闘能力を高める極東の古い武術を極めながら、余りにも優し過ぎる親友ギュンターのことがストラールは心配でならず、難民高等弁務官マイク・ワイアットなどザイフェルト家の御曹司に取り入ろうとする者たちを過度に警戒してしまうわけだ。

 その優しさの為にザイフェルト家の十字架を背負えなくなり、親友の心が壊れてしまう事態だけは絶対に避けたい。今でこそ御曹司の〝身分〟にるが、元々は社会の〝裏〟で荒くれ者たちと群れてきたのだ。今さら地獄へちる所業にちゅうちょなどなかった。


(もはや、刑務所の内部なかからハドソン・ローを仕立て上げるのが難しいのであれば、〝塀の外〟からシェーレグリーンの贈り物を届けるまでのこと――)


 ハーメルンの一角に覗く〝戦争の時代〟の名残と、書簡の中で語られた〝魔王サタナス〟の収監先――二つの刑務所を脳内あたまのなかで並べながらも、『格闘技の聖家族』の御曹司が考えているのは南大西洋の火山島である。地名なまえはセントヘレナであり、欧州ヨーロッパ近世史にはナポレオン・ボナパルトが最期のときを過ごした天然の牢獄として現れる。

 フランスを代表する医療・福祉機器メーカーの経営者一族にして、同国スポーツ界の名門――ザイフェルト・オムロープバーン両家と同じく〝七星セクンダディ〟の徽章を持ったバッソンピエール家が『サタナス』の暗殺をけしかけるような行動を取ったのは、僅か半月前であった。

 皇帝ナポレオンの再起を疑わない信奉者――いわゆる〝ボナパルティスト〟が企て、結局は失敗した奪還作戦がフォルサム刑務所で再現される事態を案じたストラールたちも、当初はバッソンピエール家を浅慮あさはかと批難したのだが、今となっては結託してでも〝魔王〟に毒を盛るべきであったと後悔している。

 『サタナス』が〝歪んだ正義〟の殉教者にまつり上げられ、『ウォースパイト運動』の先鋭化が更に加速する危険性も憂慮しては踏み越えずにいたが、今すぐ〝始末〟しなければ〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟という名の〝汚染〟は手遅れになる――ストラールを挟む恰好で肩を並べた伴侶マフダレーナ親友ギュンターも、〝魔王〟の生死が分ける影響を天秤に掛けていた。

 マリオン・マクリーシュ記者の情報提供によれば、常軌を逸した犯罪捜査に協力する見返りとして『サタナス』には様々な〝特権〟が与えられているという。超法規的措置としか表しようのない状態を把握したストラールは、かねてから抱いていた不安が現実のものとなったことに眩暈を抑えられなかった。

 直接的にせよ間接的にせよ、犯罪捜査に関して『サタナス』と相対している司法当局の折衝役が〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟の影響を寄せ付けないほど特殊な心理訓練を受けていないか、を突破されていると仮定した場合、彼女の居房に第二第三のサイバーテロを起こし得る電子機器以外の品々が報酬として運び込まれる状況は、深刻かつ危険な意味を持つ。

 無条件で〝魔王サタナス〟の望みを叶えているわけだ。この状況を把握しながら対処できずにいるのだとすれば、〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟による〝汚染〟はアメリカ社会ひいては国家中枢にまで及んでいることになる。

 以前から不思議でならなかったのだが、〝IT社会の申し子〟である『サタナス』が稀代の天才だとしても、〝空飛ぶホワイトハウス〟とも呼称される大統領専用機エアフォースワンの通信設備を掌握ジャックすることなどではおそらく不可能だ。フォルサム刑務所の有りさまを受けて、政権内部にサイバーテロを手引きした信奉者が潜んでいる可能性をストラールはいよいよ否定し切れなくなったのである。

 格闘技の影響によって人類の暴力性が膨張し続けた末に、〝第三次世界大戦〟が引き起こされるというのが『ウォースパイト運動』の一方的な主張であるが、『サタナス』の存在こそが新たな〝戦争の時代〟を招くとしか思えない。〝現実歪曲空間サタナス・フィールド〟の阻止に失敗すれば、遠くない将来にるブリーフケースが核兵器の発射コードと併せてフォルサム刑務所に届けられることであろう。

 これを誇大な取り越し苦労と切り捨てられない恐怖が人間ヒトの形を取っているのが『サタナス』という〝魔王〟なのである。〝愛〟という漢字一字を全身に彫り込んだ容姿すがたは、平和を呼び掛けながらテロを繰り返すという矛盾の象徴でもあるわけだ。


「シェイクスピアとフォーサイスじゃ意味合いが微妙に異なるが、流出事件の収拾に『ロンギヌス社』が差し向けたもれっきとした〝戦争の犬たち〟だ。もしかすると『サタナス』の喉元へ真っ先に銃口を突き付けるかも知れねぇぜ? 冗談で場を和ますつもりでもねぇけど、マジで双方がぶつかったら、やっぱり〝同族殺し〟になるんかな」

「民間単位のテロ対策で売り出していた擬態銃ミミックガンがテロに悪用されるのは『ロンギヌス社』としても恥の上塗り。が日本ひいてはアジア圏に出回るのを阻止するのが最優先とも考えましたが、その前に事態を悪化させ兼ねない禍根を絶っておくということですか」

「レーナも腹黒い相談が板に付いてきたなァ」


 フォルサム刑務所の女性施設に収容された『サタナス』は、我が子の為にも刑を全うしようとする母親たちをも過激思想で洗脳し、己の手駒に変えていることもマリオン・マクリーシュは書簡の中で訴えている。

 一方の樋口郁郎は日本で活動する女子MMA選手や、これを支える関係者ひとびとに不当としか表しようのない仕打ちを繰り返してきた。両者に対するくら憤怒いかりを愛らしい顔に滲ませるマフダレーナは、鋭い眼光をもって〝スポーツマフィア〟に似つかわしい手段をザイフェルト家の御曹司に促していた。


「俺たちが黙っていても、樋口郁郎イクオ・ヒグチ首級くびは熊本の有志たちが取るだろうけど、出来るなら一般人カタギの手がけがれるような筋運びは避けたいな――って、別にバロッサ家に気ィ遣ってるワケじゃねぇからな?」

「何も申し上げていないけれど、ここで冷やかすほどわたしも無神経ではありませんよ」

が世話した〝戦争の犬たち〟には、日本国内の『ウォースパイト運動』に火を点けてくれやがったバカの眉間にも一発喰らわせて欲しいもんだぜ。……いっそ誘導でもしてみるか? 近代改修型複合弾倉回転式拳銃レ・マット・アルターカスタム――『実無しの葡萄房グレープレス・バンチ』っつう気取ったなまえのリボルバーを使うヤツがいるってコトは風聞ウワサで聞いたおぼえがあるけどよ」

、被害を最小限に抑える選択肢も限られますからね。……難民高等弁務官ワイアットさんに聞かせられませんね、こんな物騒なやり取りは」


 マフダレーナと語らう中でギュンターが触れた通り、作家のフレデリック・フォーサイスは傭兵の比喩として〝戦争の犬たち〟という言葉をシェイクスピア劇から借りている。

 は気付いてもいないのだが、ザイフェルト家の御曹司と決して浅くない接点を持つる人物も、日本政府関係者から『ロンギヌス社』の動向を聞かされた際に、奇しくもギュンターと全く同じ反応を示していた。


(法を超え、銃をもって『サタナス』の〝汚染〟を断ち切るのはテロに屈したも同然と言えるでしょうが、これ以上の犠牲を出さないことが最優先。……いずれ我が身はれんごくの炎で焼かれるとしても、為すべきことは〝天〟もきっと邪魔はなされないはず――)


 マリオン・マクリーシュの書簡ではなく〝七星セクンダディ〟の連帯で掴んだ情報であるが、京都の銃撃事件に『ハルトマン・プロダクツ』は『サタナス』の影響を確信しており、これを深刻に受け止めているストラールは、親友ギュンターによる突飛な発案に迷わず首を頷かせた。

 『サタナス』が担当弁護士以外に〝塀の外〟とのを持っていることは驚かない。問題は〝誰〟と結び付いているか――ストラールたちが『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行を視察するべく日本へ赴いていたのと同時期に〝魔王〟と面会したる日本人は、シンガポールでファンド会社を営む経営最高責任者CEOのもとで〝裏の仕事〟を担っているという。

 『至輪パンゲア・ラウンド』を発足当初から支えてきた〝スポーツファンド〟は『サタナス』がハーバード大学に在学していた頃の〝旧友〟――ファヴォス・テロメロスが取り仕切っている。その男の〝影〟がカリフォルニアの刑務所まで足を運び、次に大阪港に姿を現したのだ。

 があって飛行機の利用が難しい為、密航か、それに近い手段でアメリカ西海岸を発ったのであろう。半月近い空白の時間を経て〝彼〟が関西で目撃された直後に、擬態銃ミミックガンによる初の犠牲者がおんまつりの片隅で確認された次第である。それも一例だけではない。現時点でも半径五キロに満たない距離でが二体も発見されたのだった。

 『MMA日本協会』のよしさだ副会長が准教授を務めるはなしょ学院大学は、二つの銃殺事件が起きたなかぎょう区と隣り合わせのひがしやま区に所在している。MMAの交際的な普及・振興に力を尽くしてきた彼女が擬態銃ミミックガンで襲われていないことは不思議ですらあり、スポーツ用ヒジャブのプレゼンターを託した『ハルトマン・プロダクツ』の一員としても、『格闘技の聖家族』の御曹司としても、ストラールは面識もあるよしが標的に選ばれないことを祈らずにはいられなかった。

 日本にける具体的な足取りは掴めていないが、手掛かりをかき集めて点を線を繋げるまでもなく、猜疑心を抱かざるを得ない条件は全て整っている。同じ関西でも生まれた故郷とは異なるものの、事件現場は〝彼〟にとって昔馴染みのねぐらなのだ。

 『おんの雑草魂』――『天叢雲アメノムラクモ』にけるキリサメ・アマカザリと同じように、黄金時代の日本MMAで〝最年少選手〟と盛んに喧伝された格闘家である。

 二〇〇〇年代半ばに『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が崩壊したのち、樋口郁郎の情報工作によって日本格闘技界から存在そのものが抹殺され、消息不明となっている時期に体格は随分と変わってしまったが、いびつに潰れた団子鼻やコーヒー豆のように小粒な双眸は日本MMAのリングに臨んでいた頃と全く同じであった。

 ストラールの記憶力は捧げるべき〝誰か〟を脳から風化させてしまったものの、左右の鼻孔を貫く鼻輪のようなモノが指輪であることは辛うじて忘れていなかった。血の色が極端に薄い唇の真上で燃え上がるような輝きを放っているのは本物の柘榴石ガーネットであろう。

 何本かが長く飛び出した無精髭だらけの顎と首の境い目が分からない豊かな恰幅は、ストラールの記憶に留まっていた〝過去の姿〟と大阪港で隠し撮りされた写真の間に別人のような錯覚をもたらすには十分でもある。有史以来、最も愛嬌のない大熊猫ジャイアントパンダ――と、率直にも程がある感想を胸中にて呟いてしまったくらいだ。

 両頬などは頬袋を持つ動物のように膨らみ、だらしなく垂れ下がっていた。顎からもこぶと思しき〝何か〟が突き出している。これらに三方から圧迫された口はでもくされて窄めているように見えるくらい小さくなったのではないだろうか。

 しかし、皮膚が剥き出しになる形で頭部の両側を刈り上げた大きなモヒカンは、そこかしこで起きた毒々しい化学反応が規則性なく入り混じるドブ川のような色合いと共に同一人物であることを強烈に訴えていた。

 老化現象とは明らかに異なる毒々しい色合いのシミが細かく飛び散った顔は、昔日と変わらず人間らしい表情を浮かべていない。〝何〟を捉えるでもなくただ見開かれているだけの瞳からも察せられたが、彼の心は今なお

 日本MMA時代の〝先輩〟である進士藤太フルメタルサムライとは正反対に眉毛が極端に薄く、余計に感情の働きが読み取りにくいのだが、少なくとも関西を懐かしんでいる様子ではなさそうだ。

 光沢が鈍いジャケットもズボンも、野ざらしの死体にへばり付く苔に近い碧血みどりのラバー生地で仕立てた物であった。はち切れんばかりの贅肉は強い輪郭を伴いながら浮かび上がり、すれ違う人々の目には〝どくしゅ〟と恐れられる大陸由来の拳法の使い手とは映るまい。

 肘から袖口にかけて山裾のように大きく広がっていく奇抜な装いということもあって、芽が出ないまま新陳代謝ばかり悪くなったパンクロッカーとしか思われなかったはずだ。左右の耳輪はその形に沿いながらリング状のピアスが隙間なく並び、耳介に至っては裏側から皮を貫通した三角錐の物が片側ごと逆三角形を描くように付けられていた。装飾品アクセサリーもって音楽性を強調する趣向もバンドマンの間では珍しくない。

 耳朶に装着した球体のピアスは写真を通すと軽量に見えるのだが、実際には相当に重いようで、に引っ張られて耳の形が拉げていた。


(私の記憶が確かなら『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体では真っ当な競技選手アスリート姿だったはず。スーザンショーリンの七十二芸が起源ルーツと伝わる〝ドクシュ〟は、確かに〝表〟の社会と相容れないまことの暗殺拳ですが、……時代の〝闇〟をついすみに選んだという意味なのでしょうか)


 ファスナーを壊してしまう体格と自覚しているのか、大陸のけんぽうに倣った一種の美意識なのか。肩や胸部、胴体など至るところに装甲板の如く金属片が縫い付けられ、光の反射によって見る者に大熊猫ジャイアントパンダの模様を思い起こさせるジャケットの前面は、等間隔で縦に並んだ紐で留める様式であった。

 肥大した胃袋がそのまま突き出したかのような腹にベルトは締められず、ズボンも前後左右に配置された何本かの紐でジャケットと結び合わせ、サスペンダーと同じ原理で吊り上げていた。構造としては上下分離型セパレートタイプのツナギに近い。

 じろぎのたびに波打つであろう太腿から下へ視線を巡らせていくと、足首の辺りで蛇革のブーツに辿り着く。暗緑色と淡黄色の二色による編み鎖のような模様は甲の部分に至って大きな輪を描いており、ワシントン条約によって国際的に取引が規制されているキングコブラの革で拵えた事実を隠す気もなく示していた。

 爪先の部分は極端に反り返っており、まるでサソリの毒針の如く攻撃的に尖っている。

 写真では分かりづらいが、暗褐色の靴底は異様に分厚い上、『おんの雑草魂』の後頭部の全面に見られる吹出物のような突起が幾つも並んでいた。スタッドを取り外したスパイクシューズにたとえるには一個々々が余りにも大きく、その歪さは軟体動物の吸盤を逆さにした形状としか表しようがない。

 写真を見る限りでは手荷物の一つも携えていないが、長い鎖で繋がれたかぎづめを放って標的を切り裂く大陸の武器――〝そう〟は日本にける拠点アジトに隠してあるのだろうか。


(……『オンの雑草魂』が間に挟まったことで『サタナス』と〝旧友ファヴォス・テロメロス〟が未だに切れていないことも確定――ナポレオンは際限なく拡大していく戦線をどのような気分で見下ろしていたのでしょうね)


 『おんの雑草魂』がシンガポールの〝スポーツファンド〟へ身を寄せたのは、〝格闘技バブル〟の崩壊に飲み込まれてMMA選手として生きる〝道〟を全て絶たれた為である。

 ギュンターがオブザーバーとして参加した『MMA日本協会』の会合にいても、理事たちは彼が〝シンガポールマネー〟を後ろ盾にしてへ〝復讐戦争〟を起こすことを恐れていたが、実際に牙を剥いた〝現実〟は想定よりも遥かに直接的であり、ストラールにも最悪の筋運びとしか考えられなかった。


「かつての〝最年少選手〟がとうとう日本に姿を現したことは、擬態銃ミミックガンと『ウォースパイト運動』の接点を確実に掴めるまで――いや、その銃口が喉元に迫るまでは『MMA日本協会』に伏せておくべきだ。『オンの雑草魂』が『天叢雲アメノムラクモ』にこそ怒りと恨みを向けているのであれば、樋口郁郎イクオ・ヒグチは猛毒に苦しみながら己の所業を悔やむかも知れない。……〝暴君〟を狙う刺客は多ければ多いほうがには助かる」


 俄かにね返した企みの一部をストラールから聞かされた右隣のギュンターは、陸に打ち上げられた魚のように口を開閉させた。先程は両隣の二人に脳内あたまのなかを見透かされたので、その逆回しというわけだ。今度も親友ギュンターと思案が一致していることを疑っておらず、今まさに口を開こうとする寸前で『おんの雑草魂』のことを切り出した次第である。

 そのギュンターは幾度か目を瞬かせたのち、複雑な薄笑いと共に首を頷かせた。『ハルトマン・プロダクツ』のの上でも『おんの雑草魂』の動向は看過できないのだ。

 往年のボクシングヘビー級王者チャンピオン私刑リンチに掛けんとする暴動事件の混乱に乗じ、フォルサム刑務所から脱獄した受刑者は未だに逃走経路すら掴めていないが、これに前後して『サタナス』と面会した『おんの雑草魂』が〝高飛び〟を請け負ったと考えれば辻褄も合う。

 プルトニウムの密売まで取り仕切るなど無理なにも応える〝調達屋〟として裏社会で名を馳せ、犯罪組織の情報提供という司法取引でようやく終身刑まで減刑されるような危険人物だ。『ウォースパイト運動』の〝抗議テロ〟に欠かせない物であれば、収監前の取引相手である〝死の商人〟にも掛け合い、『ロンギヌス社』から流出したばかりの擬態銃ミミックガンですら大阪港到着までに難なく手配できるだろう。

 一方で『至輪パンゲア・ラウンド』と関係が深い〝スポーツファンド〟の暗部を告発してもアジアの勢力争いに与える影響は限定的と胸算用している。くだんのMMA団体には本拠地シンガポールの政府系ファンドも接近しつつあり、〝経済封鎖〟の構図を作り出して絞め上げる計略も成り立つまい。

 シンガポールでMMAの新たな潮流ながれを作り出した『至輪パンゲア・ラウンド』の代表は〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟にも携わった清廉潔白な人物なのだ。アジア圏にける最大級のではあるものの、所属選手一人々々と真摯に向き合う人徳の高い男に卑劣な手段で痛手ダメージを与えたとしたら、トビアスの掲げる「人間ひととして正しくあること」から外れてしまう。〝スポーツマフィア〟とはいえども、こればかりは踏み止まるしかなかった。

 誰より不気味でならないのは、〝スポーツファンド〟として『至輪パンゲア・ラウンド』を支えながら、格闘技を否定する『ウォースパイト運動』の〝魔王サタナス〟と繋がり続ける〝旧友ファヴォス・テロメロス〟だ。彼のファンド会社は日本でMMAよりも古い歴史を持つ打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』が財政破綻の窮地に陥った際、〝外資注入〟による救いの手を差し伸べたのである。

 〝世界長者番付〟に名を連ねる億万長者ビリオネアとしても支離滅裂であり、真の目的ねらいが判明するまでは『ハルトマン・プロダクツ』としても泳がせておくしかあるまい。

 差し金と真意はともかくとして、本当に〝魔王サタナス〟と謀って『ウォースパイト運動』のテロに加担しているとすれば、さしずめ『おんの雑草魂』は〝死を弄ぶ天使モービッドエンジェル〟であろう。

 伸縮性に富んだラバーにも関わらず張り裂けそうなジャケットの背面には、金属片を組み合わせた装飾が施されている。舞い上がることも叶わないのに広げられた片翼の骨だ。

 地べたに転がった脳味噌へ肘に当たる部位が突き刺さり、そこに繊維の根を張った不気味な意匠には「病魔を崇めよ」という悪魔信仰の如き英文まで添えられている。

 大抵の港湾区域と同じように大阪港も火気厳禁と『格闘技の聖家族』の御曹司は想像しているが、『おんの雑草魂』は葉巻から紫煙を燻らせていた。血気盛んな港湾労働者が誰一人として咎められないのは、写真すら飛び出して漂ってくる妖気の為に違いあるまい。

 肘の下から葉巻を挟む指先に至るまで、左右の手は何らかの薬品や血を吸ったとしか思えないいろの古びた包帯で覆われている。その姿も日本MMAを去る以前まえと同じであった。

 大熊猫ジャイアントパンダは笹の葉が主食の一つであるが、この男の場合は葉巻の内側に〝何〟を詰め、世界が灰色に視えているかのようなんでいるのか、分かったものではない。


「――無限のざんもってしてもあがなえないほどの罪深さゆえ、この口で説くのはまんの上塗りではないかと神の仕えたのちも自問してきたことは、ンセンギマナ君の支えを受けながら一緒に手を伸ばし、今、未来への種として握り締めています。地上に生きとし生けるみなが家族。この大切な教えを必ず花開く希望として微かな迷いもなく伝えられるようになった愛しき日々は、……我が子と重ねた歳月は、私の人生で最も実り豊かな時間でした」


 グリーグの『ペール・ギュント』にいて魔物トロルに追われる主人公を救った教会の鐘を反射的に重ねたストラールは、「一から十までこじつけるのは品がない」と自嘲しながら頬を掻いたが、『おんの雑草魂』から伸びてきた禍々しい影を未来への意志で切り裂いたようにも聞こえるルロイ神父のスピーチは、いよいよ佳境を迎えた様子である。


「……樋口郁郎イクオ・ヒグチ――あれは哀しい男だ」


 ザイフェルト家が背負う〝罪の十字架〟と相通じる思いを老神父に感じ、『ユアセルフ銀幕』の枠内スクリーンから目を離さないまま、今まで三者の密議に加わっていなかったトビアスがたった一言だけ静かに呟いた。


「あれは哀しい男だ」


 孫たちの間で飛び交う物騒な言葉の数々から日本格闘技界を実効支配する〝暴君〟への殺意を感じ取ったのか。それとも〝魔王サタナス〟と同じく己の命をもって罪をあがなうべき人間と考えているのか――大きな背中に真意を問えず口を噤んでしまったストラールであるが、樋口郁郎を「哀しい男」と言い表したことには全く同意していた。

 荒唐無稽な物語や格闘技に我が身も捧げる登場人物を死すら恐れない潔さの〝美徳〟として昇華する〝スポ根〟漫画の大家――くにたちいちばんの〝最後の弟子〟が樋口郁郎である。

 心身の崩壊をも省みずに闘い抜いた果てに再起不能や絶命という壮烈な結末を迎える師匠の〝世界観〟を国内外の批判を押し切ってまでMMAのリングに再現し、体重別の階級を設定しない完全無差別級の試合形式といった〝スポ根〟さながらの危険な体制を維持する為に敵を作り続け、ついには身近な味方まで離れてしまったのだ。

 この〝暴君〟を憎悪する数多の敵が日本国内でテロ活動に走れば、二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックの開催が危機的状況に追い込まれ兼ねない。政府も東京都も、彼のことは〝国家安全保障上の問題〟としていないはずがあるまい。

 現地時間十八時から始まった『天叢雲アメノムラクモ』の〝緊急特番〟は、今日まで強権的に理不尽を通し続けてきた〝暴君〟に対して〝首の挿げ替え〟を宣告する内容ものであったのだ。己が率いる団体の関連番組の中で叛乱クーデターを起こされたのだから、哀れという一言しかなかった。

 『平成』を二六年も過ぎても『昭和』を終えられない男を〝戦争の時代〟を背負い続ける『ハルトマン・プロダクツ』が葬ろうとしているわけだ。運命の二字こそ相応しい巡り合わせに思いを馳せ、トビアスは樋口郁郎を「哀しい男」と評したのかも知れない。

 トビアス・ザイフェルトは問題を先延ばしにする日和見主義でも、厳ついかおとは裏腹にサッカーワールドカップに合わせてドイツ代表の試合着ユニフォームを着てしまう好々爺というだけでもない。

 欧州ヨーロッパの〝巨大帝国〟に君臨する〝皇帝〟である。なる時代も〝正しくあること〟を誓い、揺るぎない決意を胸に秘めてギュンターとも違う領域から格闘技界を見下ろしている。

 そのことに思い至ったストラールであるが、トビアスの背中に答え合わせは求められなかった。振り返る寸前になって彼が見つめるモニターから大歓声が押し寄せてきたのだ。どうやら記念式典で特別試合エキシビションマッチを受け持つンセンギマナが入場したようである。

 これに対して、正面の窓ガラスが映し出すのは三人の死神スーパイだ。

 どこまでも愚かで果てしなく哀れな樋口郁郎も、生きているだけで世界を〝汚染〟していく『サタナス』も、速やかな抹殺は決定済みであり、その順番を脳内あたまのなかね返している状況である。『ハルトマン・プロダクツ』に利益のある葬り方を手のひらの上で転がす己自身こそが〝死を弄ぶ天使モービッドエンジェル〟と思っていればこそ、平和の象徴と褒め称えるのが最も似つかわしい義足のMMA選手シロッコ・T・ンセンギマナを見つめられず、振り向くことさえ躊躇ためらってしまう。

 一〇〇日にも及ぶ虐殺ジェノサイドなか、ルワンダのラジオから民族間の憎悪と対立を煽る歌声が流れ続けた。今日の『ユアセルフ銀幕』から溢れているのは、争いのない時代への祝福である。拍手の音が鼓膜を打つたびにストラールは己の邪悪さが抉り出される思いであった。


「――難民高等弁務官ワイアットさんに聞かせられませんね、こんな物騒なやり取りは」


 伴侶マフダレーナの言葉を振り返ったストラールは、亡き兄メルヒオールにも聞かせられないと心の中で呟いた。母に聞かせたら、きっと泣かせてしまうだろう――次いで浮かべたのは、余人には意味の分からない薄笑いであった。


(……私はシロッコ・T・ンセンギマナのように内戦を経験していないし、〝裏〟の社会まちで〝暴力〟を生業にしながら、キリサメ・アマカザリとは違って武装組織とカラシニコフ銃を突き付け合ったこともない。……それだから悪魔にちるような真似も平気なのだ)


 オランダ式キックボクシングの発展に〝全て〟を注いできたメルヒオールが命を縮めてしまったのは、優しい魂が〝スポーツマフィア〟の醜悪さに耐え切れなかったことも大きな原因なのであろう――と、現在いまストラールは実感として理解わかる。

 オランダ全土の格闘家たちを束ねる〝顔役〟の父には、オムロープバーン家の政治的素質を一族の誰よりも色濃く継いだのがストラールであると、アムステルダム市庁舎との交渉を相談するたびに言われていた。

 〝同胞なかまたち〟の用心棒稼業を取りまとめていた頃は、互いの領分や利害を巡ってオランダ政府にまで恐れられるような犯罪組織とも捨て身で渡り合ったのだが、ける経験のみを父から指摘されたわけではない。

 他者ひとの命よりもスポーツ利権のほうが重いという〝闇〟に染まり、場合によってはザイフェルト家の御曹司を超えるほどの強硬策を選ぶ現在いまの自分を見れば、天国の兄と母は汚物に向けるような目付きに変わることであろう。


吉見定香サダカ・ヨシミに無事でいて欲しいのなら、帰ってきた『オンの雑草魂』と擬態銃ミミックガンのことを明かして身の安全を確保するよう警告すれば良い。それをしないでの命よりも自分の利害に天秤の傾きを見る私は『サタナス』以上の悪魔だ)


 フォルサム刑務所へ取材に赴いたマリオン・マクリーシュ記者は、『サタナス』がザイフェルト・オムロープバーン両家を侮辱した旨も書簡に書き添えていたが、えて怒りを煽るような手口もストラールは冷静に受け流している。

 〝誰〟をどのように抹殺すれば、最も高い効果が得られるのか――これを憎悪の感情ではなく損得で勘定する自分は、虚しさすら覚えるくらい父と似ている。目を掛けているソマリア難民の少年ガダンを『ハルトマン・プロダクツ』傘下の格闘技団体からプロデビューさせたいという自身の事情もあって、一〇割の本音では会長トビアスの許可など得ずにフロスト・クラントンもドーバー海峡に沈めてしまいたいのだ。

 心を邪悪な衝動に委ねる必要もなく、ごく自然に外道の所業が脳内あたまのなかに浮かび上がるのだから、ただ純粋にボクシングを愛し抜くフェイサル・イスマイル・ガスディスクと同じ生き方などは、『格闘技の聖家族』の御曹司となった時点で手を伸ばすことも許されまい。

 キックボクサーとして〝格闘技王国〟に殉じた母と兄は、妬いてしまうほど気持ちが通じ合っていた。二人の犠牲ひいては執念の果てにオムロープバーン家の宿願が完成された〝事実〟に対し、を己のなかに宿すストラールは永遠に結論こたえを出せる気がせず、その代わりに亡き師匠の幻想に囚われる樋口郁郎へのくらい感情が噴き出すのだった。

 それがであることは『格闘技の聖家族』の御曹司にはどうあっても認めがたい。


(……オムロープバーンの家名なまえには私こそ裏切り者ブルータス。相応の末路が待つのは間違いありませんが、それでも私にとっての『フィリッピの戦い』はまだ先であると、〝天〟はお定めになられているはず――やれることを全てやっておかなくては罰を下される甲斐もない)


 平和の象徴シロッコ・T・ンセンギマナを迎える大歓声に背中を貫かれ、心を軋ませたストラールの顔を両隣の伴侶マフダレーナ親友ギュンターが覗き込んだ。この二人にはゴーグル型サングラスの裏側にるモノまで当然のように見抜かれており、それが名門オムロープバーンの重責を担う人間には一番の救済すくいであった。




                                       (続く)


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