その8:ミミック・七月四日(一)~スポーツ労働移民・かつて「スパルタン(戦闘民族)」と呼ばれた古豪/ギリシャからの刺客・それは「火の国」の軍師の鬼謀か──日本が銃社会に変わる日

  八、Let Slip the Dogs of War Act.1



 二〇一四年七月から遡ること、およそ一五〇年――今まさに江戸幕府が終焉を迎えようとする間際、現代いまで言う財務大臣の地位にったばくしんぐりこうずけのすけただのりが江戸城の〝きんぞう〟から密かに運び出し、とうばくの旗を掲げたかんぐんへの反撃を期して隠匿かくしたとされる財宝は現在の価値で二〇兆円ともわれている。

 後世にいて〝徳川埋蔵金〟と呼ばれることになる江戸幕府再興の資金が運び込まれたあかやまとそのふもとには、近隣の土地を領していたぐりこうずけのすけただのりの情報工作ともささやかれるまことしやかな〝埋蔵金伝説〟が幾つも点在し、明治維新直後から現代に至るまで黄金の誘惑に取りかれた数多の人々を翻弄してきたのである。

 同地に根を張り、数世代に亘って発掘調査へ心血を注いできた一族は、埋蔵作業の〝事実〟を示す有力な証拠あかしも手に入れたが、いずれも同時代の史料と照らし合わせるたびに信憑性という言葉から遠ざかったという。

 七月六日の同県おおの空模様も、かつての〝埋蔵金伝説〟のようにを見上げるみなの心を振り回していた。尤も、各々の瞳に宿る感情ものは四〇〇万両という幻想ゆめが盛り上げた熱狂とは真逆である。数日前にマリアナ諸島で発生した『平成二六年台風第八号』ので穏やかならざる胸騒ぎを抑えられないのだ。

 当初は「熱帯低気圧」と気象庁から発表されたものの、前日五日の二一時に「大型で非常に強い勢力」へと変わっている。

 広大な関東平野の丘陵地帯で六日の昼下がりを迎えたキリサメ・アマカザリは、凶兆の空をあんじょうから静かに見つめていた。革の手綱を握る力も程よく緩めてあり、周囲まわりからざわめきの形で押し寄せてくる不安の気配が指先に伝播することもない。

 キリサメと同じように自らの足で立つより随分と高い位置から今朝がた確認した気象衛星画像を曇天に映し、防災対策の進み具合をたずね合う人々は、『天叢雲アメノムラクモ』で統括本部長の要職を担う八雲岳が逃げ場のない無人島へ台風直撃の状況下でキャンプ旅行に出掛けることを知れば、ごとながら口を揃えて「自殺行為」と悲鳴を上げるはずだ。

 『ちゃ』と名乗った親子二人も晴れ間が見えない空を困った様子で指差している。名古屋からやって来たというから、台風に直撃されようものなら帰路かえりの新幹線は確実に動かなくなる。比喩でなく本当に差し迫った状況であった。

 「曇り空のお陰で気温が上がらなかったから、教室も中止にならずに済んだ」と、それでも前向きに捉えようとする母親に対し、口数が少ない中学生の娘は年齢に似つかわしくない諦念で顔面を満たしながら、無理を押して参加したのが間違いであったと言わんばかりにかぶりを振っている。

 身のうちから際限なく噴き出し続ける焦燥感によって、巨大な渦巻きが今にも赤城山直上に真っ白なを晒すのではないかと錯覚してしまうくらいみなが気早となっているが、危機管理という点にいては「自然の前に人間ヒトなど無力」と畏れることこそ正解であろう。

 それにも関わらず、岳当人は能天気の極みとしか表しようがなく、今朝も「暴風雨は洞窟にでも隠れて凌ぐし、足止め喰らっても腐るほど用意した酒とさかなで向こう半年は籠城も平気へっちゃらだぜ」と事態を軽視して家族全員を呆れさせたばかりであった。

 あまつさえ、養子キリサメから群馬県まで足を伸ばす予定ことが告げられて以来、たずねられてもいないのに〝がねいろの伝説〟をじょうぜつに語り続けたのである。

 四半世紀も昔であるが、〝徳川埋蔵金〟は日本格闘技界とも関わりの深い有名コピーライターの『ぐるままさやす』が指揮を執って大規模な発掘調査が行われた。〝黄金スペクタクルロマン〟と題した〝泥だらけの経済番組〟は、テレビでも熱狂的な支持を集めたのだ。

 疑惑の地点に穴を掘るたび、次々と現れる〝状況証拠〟に誰もが埋蔵金は「あるとしか言えない」と確信したものの、ついに成果を得られないまま断念せざるを得ない状況に立ち至り、一九九四年一月には〝敗北〟を宣言している。

 継続的な事業プロジェクトではないにせよ、以降も幾度か発掘調査が計画され、一九九九年の大晦日に生中継の形で特別番組が放送された際には、岳も格闘技界の代表として自らヘルメットを被って穴に飛び込んでいった。

 以前にも同じ話を聞かされていたキリサメは右耳から左耳へ素通りさせるくらい辟易うんざりとしていたが、露骨あからさま表情かおすら気付かないのか、比喩でなく本当に泥だらけになりながらスコップを担いだ一九九九年のように養父ちちは幼稚性すら感じさせるくらい目を輝かせて赤城山の想い出を紐解いていた。

 現在のぐるままさやすは種々様々な〝楽しいコト〟をほぼ毎日欠かさず発信し続けるインターネット事業へと活動の場を移しており、発足当初から参加している岳も健康体操のコンテンツを受け持っていた。一度は現役を退いたことで生じた数年分の空白期間ブランクを埋め、再び総合格闘技MMAのリングに立つまでの経過報告も『八雲道場』の公式ホームページではなく同事業の一環として逐次公開していったのである。

 面識はないものの、そのぐるまが当代随一の才人ということはキリサメも承知していた。テレビゲームの開発なども手掛け、鬼貫道明と彼のもとに集ったプロレスラーたちによる異種格闘技戦では実況を務めたこともあったのだ。

 日本でMMAが花開く以前まで遡る友人とはいえ、二〇年に亘って仕事を共にする関係が続いているのだから、この巡り合わせこそ〝徳川埋蔵金〟に匹敵する財宝であろう。

 同じ赤城山ではあるものの、ぐりこうずけのすけただのりにちなんだ伝承に基づいて〝徳川埋蔵金〟の発掘調査が行われたがわ沿いの西麓は、キリサメが馬蹄ひづめの音を聞く丘陵地帯とは奇しくも対角線上に位置している。ましてや養父ちちが土砂を相手に格闘したのは大晦日だ。大型台風接近の影響を差し引くとしても、今日のとは全く異なっていたであろう。

 鮮やかに燃え盛るはずであった夏のいろは今にもにびいろに塗り潰されてしまいそうだが、七月の草花から運ばれる香りは間違いなく季節の調べを奏でており、鼻孔と喉を同時に刺激されて軽くせたキリサメも、曇天が却って際立たせたとしか表しようがないくらい澄んだ瞳で遠い彼方の尾根を貫いていた。

 東にわたがわのせせらぎを聞くはちおうきゅうりょうの中腹である。陽の光が剥き出しのまま降り注ぐほど晴れ渡っていれば、眼下の町並みが陽炎で揺らいだことであろう。

 馬の足が背の高い草を掻き分けていく音は、岩手県奥州市の競馬場ではらわたまで震わされたものとは正反対に緩やかだが、キリサメは自身が跨る栗毛の馬を急かそうとはしない。

 土の匂いを微かにも感じないほど深緑で覆われた小道は極端な隆起や窪みに足を取られて転んでしまわないようにならされ、丁寧な整備が隅々まで行き届いていることもあぶみを踏む足に伝わってくる。その感触を心地好く味わうのがあんじょうの人間のみであるはずもなく、一歩また一歩と踏み締めるたび、キリサメの双眸が捉える範囲だけで何本もの尻尾が勢いよく回転するのだった。


「それにしても、アマカザリ君に乗馬の心得があるとは初めて知ったよ。姿勢も安定感抜群で頼もしいじゃないか。MMAの訓練トレーニングの一環として養父ガクちゃんに馬術も教わったのかい?」


 一本々々を数え始めたら際限がなくなるほど立ち並ぶ木立が枝葉を重ねて作り出した天然のアーチを潜ったところで、キリサメはくろ鹿の馬に跨った師匠――がわだいぜんから手綱捌きを褒められた。

 鞍からの転落といった不測の事故に備えて互いの馬を寄せ、襟足の辺りで束ねた一房の後ろ髪を新弟子キリサメと並行しながら踊らせていたのだが、が無用の気遣いに過ぎなかったことを見て取ると堪らなく嬉しそうに頬を緩め、「来年の今頃には馬を走らせながら飛び装具を使うようなも体得していそうだね。また一つ楽しみが増えたよ」と、あんじょうにて弓矢を射る仕草を披露した。


「アマカザリ君ならきっとガンファイターばりの『ファニング』もバリバリ狙えますよ。競技大会コンテストまで出掛けるのが難しくても、『ユアセルフ銀幕』に山ほど投稿された早撃ちファストドロウ動画ビデオで基礎の部分なんかをかなり勉強できますしね」


 二人よりやや後方うしろから白馬うまを進めていた〝先輩〟の――だいらひろゆきも慣れたように手綱を離し、右手でリボルバー拳銃の構えを取りつつ対の左手でもって撃鉄ハンマーを弾く動作うごきを再現して見せた。

 銃爪トリガーを引くだけでは撃鉄ハンマーが起きない種類シングルアクションのリボルバー拳銃で用いる連射術の模倣をもって弟弟子への期待を表した真平は、保安官シェリフバッジを模した装飾品が左胸で煌めくレザーベストにジーンズというアメリカ西部開拓時代のカウボーイを彷彿とさせる装いだ。馬を走らせた際に生じる皮膚の損傷ダメージから太腿を防護まもるチャップスまで穿いているが、これは乗馬経験の表れというよりも粋人としての嗜みであろう。

 テンガロンハットの代わりに被るのは、色こそ違えども師匠や弟弟子の頭部あたまを防護している物と同種のヘルメットだ。レザーベストの下に装着するプロテクターも二人と揃いであり、胴の全体を固めることで落馬といった不測の事故に備えているのだった。

 馬首を並べる師弟もとしてのどうではなく、頑丈なチノパンにポロシャツという縦横無尽の身のこなしに対応した服装だ。だいぜんのほうは『とうあらた』のロゴマークが背面と左胸に刷り込まれたスタッフジャンパーを羽織り、肘まで左右の袖をめくっていた。


故郷ペルーで何度か馬に跨る機会があっただけで、世間一般で言うところの〝乗馬経験〟とは程遠かったですよ。馬具の取り扱い方を教わったのも初めてです。今日を出発点スタートにして、ずはがわ先生や真平氏と同じコースで〝外乗り〟が出来るようにならなければ。〝人馬一体〟で波打ち際を駆け抜ける技術もとして欠かせないと心得ています」


 故郷ペルーける犯罪の数々を『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表の指図によって暴かれてしまった新弟子をも自身のどうじょうに迎え入れる懐が深い師匠ではあるものの、空腹に耐え兼ねて馬を盗み、肉を貪り喰らおうと企んだ際に身に付けたとはさしものキリサメも答えられず、微妙にはにかんだような一礼で二人に応じた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、〝徳川埋蔵金伝説〟の残照を赤城山に感じながら馬に跨るのも道場『とうあらた』で行ってきた活動の一つである。

 しかし、時代劇の撮影ではない。厳密にはの稽古でもない。『とうあらた』では定期的に乗馬教室を開催しており、やスタントアクションの専門家ではない一般参加者に広く門戸を開いていた。今のところは横転の危険性おそれが感じられないキリサメも、がわ門下以外の皆と同じ条件で名簿に載っているわけだ。

 練習方法を考案したがわだいぜんも、くらに寝そべるという高度な技術も難なくこなせる真平広之も、今日は指導員の〝立場〟ではなく、馬に触れるのも初めての体験という一般参加者と同じようにヘルメットやプロテクターを装備し、道に迷ってしまわないよう一列に並んで皆と緩やかな〝人馬一体〟を楽しんでいるのだった。

 乗馬教室を差配するのは〝おんなだいぜん〟の異名を取る『とうあらた』の古参――いまゆり子である。列の先頭にて鹿の馬に跨り、参加者たちを進むべき順路へと導いている。補佐役を務めるひめまさただは最後尾近くから列の全体に注意を払っており、母親と一緒に参加した『ちゃ』の娘が己以外の生き物と呼吸いきを合わせることに難渋して、「だから私は最初から嫌だったんだよ! に付き合って新しい一歩に挑戦なんて!」と泣きそうになると、真平と同じ白馬を素早く走らせて抜かりなく支えていた。


(白馬は寅之助にも似合っただろうな。……〝次〟は連れてくるから恨まないでくれよ)


 一等大きく鼻を鳴らした馬の首を柔らかな手付きで撫でながら、キリサメは乗馬教室に同行していないとらすけに心の中で詫びた。東京から太田市まで貸し切りのマイクロバスで直接移動し、現地到着後も『とうあらた』の仲間たちと一緒に行動する為、身辺警護ボディーガードが付く必要はないと判断した次第である。

 ありとあらゆる格闘技を深刻な人権侵害と一方的に決め付け、その根絶に狂奔する過激思想活動――『ウォースパイト運動』の先鋭化が危ぶまれる状況下ではあるものの、大規模なテロ攻撃でも受けない限りは危害を加えられる可能性が低く、二〇一四年七月六日現在にいて日本国内の活動家に暴発の兆候は確認されていない。

 日本史上最強の剣士から受け継いだ『タイガー・モリ式の剣道』をもってしても太刀打ちできないテロが発生するほど差し迫った情勢であれば、国内のMMA団体で最大勢力を誇る『天叢雲アメノムラクモ』などはとっくに標的となっていたはずだ。

 能天気の三字が陣羽織を着て歩く養父ちちのような甘い見積もりではなく、隣国エクアドルと交えた戦争やテロにも匹敵する反政府活動が〝日常の風景〟と隣り合わせという故郷ペルーで生きてきた為に厭でも研ぎ澄まさずにいられなかった勘働きであるが、危機管理能力の点では日本人ハポネスよりという自負もある。

 そもそも寅之助が首都圏を離れられない状況を作り出したのは、身辺警護ボディーガードとは〝別件〟を頼んだキリサメ当人である。「ボクに〝裏の仕事〟で働かせといて、自分はお貴族サマみたいなに耽るなんて、サメちゃんもワルくなったねぇ」と不貞腐れた表情かおを振り返ると、互いに納得し、目的も一致した行動とはいえ、申し訳ない気持ちがうずくのだった。

 『コンデ・コマ式の柔道』を甦らせた幼馴染み――でんに自分と本気で闘って欲しいという欲求が異常に強く、えて彼と敵対する側に味方してきた偏執的な寅之助にしか遂行し得ない〝裏の仕事〟でもある。

 電知が体験した技を自分も味わいたくて堪らず、この幼馴染みが闘った人間へ襲い掛からずにはいられない性情も常軌を逸しているが、キリサメ自身も寅之助から仕掛けられた秋葉原の〝撃剣興行たたかい〟を通じて『タイガー・モリ式の剣道』のは理解している。危機的状況を自らの手で斬り払える実力の持ち主と認めていなければ、相談そのものを持ち掛けなかったことであろう。

 故郷ペルー日本ハポンという差異ちがいこそあれども、自分が夜も昼もなく命の危険に晒され続けた社会の〝闇〟へ送り込むような役目ものなのだ。

 あんの心を読み取ることが求められる状況だけに、今日も東京の〝闇〟へ寅之助よりも栗毛のたてがみの揺れ方に意識を向けなければならない。それが為にキリサメのなかで罪悪感が募り、先ほど脳裏にこだました厭味にもこうべを垂れるしかなかった。

 まばたきほどの刹那であろうとも脇見などしようものなら〝人馬一体〟というはたちまち失われ、くさむらへと振り落とされてしまうことであろう。キリサメは己が跨る栗毛の馬――『スコーチャースパイク』の鼻息にあんじょうへの不満が混じっていないことを確かめて安堵の溜め息を零した。



 自分が借り受ける馬に寄り添い、厩舎から初心者用の馬場へ引いていくことも内容プログラムに含まれているのだが、これに立ち会った『ばくろうぶちかい』という乗馬ライディングクラブの代表にも馬の立場となって〝全て〟を考えるよう強く言い渡されている。

 首の後ろで結んだデニムのバンダナとテンガロンハットを組み合わせるという〝ウェスタンスタイル〟の乗馬ライディングクラブと一目で判る風貌の男であった。

 標高の高いじょうもうさんざんに囲まれるという地形から群馬県は気温を急上昇させるフェーン現象が起こりやすく、とりわけ平野部の太田市は、気象番組でも酷暑が取り上げられることが多い。丘の上はヒートアイランド現象も強く影響する市街地と比べれば涼しく、陽の光が分厚い雲によって遮られている今日は幸いにも三〇度まで随分と遠いが、高温注意報が発表された場合には乗馬教室を即座に打ち切るとばくろうぶちは断言していた。

 この措置は参加者の安全確保のみを目的としているわけではない。熱中症は馬にも容赦なく牙を剥き、これを回避する選択肢が人間よりも限られるのだから、最優先で命を守る為には当然の判断であろう。二時間近くマイクロバスに揺られてきた参加者からすれば迷惑なかも知れないが、むし乗馬ライディングクラブとしての誠実さを感じたキリサメは、自分の命も安心して預けられると納得していた。

 その移動時間にいて〝おんなだいぜん〟から説明されたことの一つであるが、『スパークバーグ』と冠するこの乗馬ライディングクラブを取り仕切るばくろうぶちは、がわだいぜんの〝盟友〟である。

 このへいを務めた父のもとに生をけ、物心が付く前から馬と共に生きてきたというばくろうぶちは、日曜日の夜八時から一年間に亘って放送される大型連続時代劇にも馬術指導として参加し、数多の騎馬武者たちが入り乱れる合戦シーンなどの撮影を指導のがわだいぜんと共に支えてきたのだ。

 年齢差もそれほど開いておらず、「ハセ」、「ブチ」と互いに愛称ニックネームでもって気さくに呼び合っているが、でも目元が優しく柔らかながわだいぜんとは対照的に、ばくろうぶちかいの眼差しは、リボルバー拳銃から撃ち放たれた銃弾のように鋭い。

 そして、その瞳の奥に宿した情熱も、盟友ハセに勝るとも劣らないほど燃え盛っている。

 迂闊にも尻尾を正面に捉えるような位置に立ってしまった『ちゃ』の娘を厳しく咎めていたが、乗馬教室への協力体制は細やかに行き届いており、防具一式も乗馬ライディングクラブから貸し出されている。傍目には同じヘルメットが連なる数珠のように見えることであろう。

 この乗馬教室自体ががわだいぜんばくろうぶちかいの盟友関係による業務提携というわけだ。

 〝おんなだいぜん〟による指導のもと、午前中は砂が敷き詰められた初心者向けの丸馬場で乗馬の基礎を練習し、午後からは夏のいろを踏み締めて進む〝がいじょう〟に繰り出している。

 はちおうきゅうりょうの一角を占める広大な乗馬ライディングクラブは、『スパークバーグ』と英字の焼印が押された木製の看板や柵は言うに及ばず、クラブハウスも厩舎も、アメリカの西部開拓時代に迷い込んだと錯覚してしまう様式で統一されている。乗馬教室の参加者が昼食を摂った休憩用のログハウスに真上から俯瞰した空撮写真も飾ってあるが、丘の上をていてつのような形で切り拓いた敷地にが配置されているわけだ。



 言葉を必要としない〝会話〟が少しずつ出来るようになった馬と人は、建物や馬場の間隙を縫う形で設けられた経路コースへと進んでいく。キリサメたちは夏草の香りが最も濃厚な雑木林を抜け、太田市内を一望できるほど見晴らしの良い草原に差し掛かっていた。湾曲したていてつの内側に位置する区画とも言い換えられるだろう。


「森の小道へ入る前、四角く仕切られた馬場の横も通り過ぎましたが、鞍に掴まったまま逆立ちに近い姿勢になったり、走る馬に飛び付いてそのまま跨る練習をしていました。あのサーカスのような技も馬術の一種なのですか。上級者用の馬場と伺いましたが……」

「あれは〝曲芸馬術〟だね。身軽さと器用さは『華斗改メわたしたち』のだいら君も負けていないよ。腰だけ捻って後ろに振り向きながら矢を射るのも得意なんだ。勿論、馬を目一杯走らせつつね。あぶみに足を引っ掛けた状態で姿勢を制御して、限界ギリギリまで身を乗り出して真横の標的まとに弓を構える姿はちょっとした芸術だよ」

「お陰様で騎射それとか〝軽業〟はいまさんに鍛えてもらいましたから! サーカスと言えばね、アマカザリ君、先生はサーカス団のスタントにも携わった経験ことがあるんだぜ。いまさんもコレはまだ話してなかったんじゃないかな?」

の一種と何となく想像できるのですけど、それにしてもサーカスまでとは……」

「何でも楽しいなのさ。物語ストーリー仕立てのサーカスの中で格闘に近いアクションをやりたいという相談を貰ってね。新しい挑戦に飛び込む人たちとの仕事はがあったよ」

現在いまも全国を巡業まわっているサーカス団でさ、関東こっちでテントを張るときは『とうあらた』のみんなで見に行っているんだ。次の機会ときはアマカザリ君も一緒だな」

「ゆりちゃんの〝古巣〟という言い方もあるかな。彼女がまだサーカス団に所属している頃に真平君が説明はなしてくれたスタントの仕事へ一緒に取り組んだのだけど、それがきっかけになって自体を好きになってくれてねぇ。早いもんだ、今年で入門二〇年だよ」


 平素いつもは半ばまで閉ざしているまぶたがわだいぜんが付け足した説明によって開け広げたキリサメは、数人分の肩や頭を飛び越えるような恰好で先頭の背中へと視線を巡らせた。

 不意に明かされた為に驚きはしたものの、サーカス出身という前歴自体は意外とは感じない。がわ門下の古参だけに所作の完成度も随一であったのだが、そもそも身体能力や勘働きが頭抜けて優れているのだ。師匠も兄弟子もサーカス団にける受け持ちには言及しなかったものの、一座の花形として観客を沸かせていたことは想像にかたくなかった。

 格闘家を〝兼業〟するキリサメやひめは言うに及ばず、日本代表の一員として世界大会にも出場した甲冑格闘技アーマードバトルの選手でありながら、己自身の創作活動も並行して進めているだいらなど、分野を跨いで幅広い才能が集うのが『とうあらた』という道場であった。

 これを率いるだいぜんも半生を掛けて体得してきた武芸百般から〝しんじゅつ〟を編み出し、の大名人として活動する一方で〝命を守る力〟の進歩と指導に心血を注いでいる。

 乗馬教室に参加していない〝先輩〟の一人――こんどうもまた特異な経歴の持ち主である。明るく温和な現在の姿から想像することはキリサメには不可能だが、とうしょう大学の附属高校に通っていた頃は学校間抗争の先陣を切って生傷が絶えなかったそうだ。

 しかしながら、喧嘩を好むような非行少年ヤンキーであったわけではない。生まれてから一度として喫煙経験がなく、飲酒も成人まで待つ生真面目な人格者である。

 格闘技や古武術が身近にある環境で生まれ育った為、髪も派手な色に染めない性格でありながら喧嘩が鬼のように強く、さんじゅく学園・島津十寺工業高校シマコーやまのうちかいよう高校といった都内の学校と仲間たちが衝突する状況に至ったときには、負傷者を最小限に抑えるべく乱闘の最前線で相手の番長アタマ一対一タイマンで決着をつけたという。

 さんじゅく学園は寅之助が、島津十寺工業高校シマコーつるぎきょうがそれぞれ籍を置く学校である。後者はじょうわたマッチの母校でもあり、都内屈指というほど荒んでいることはキリサメも恭路の言行から実感していた。伝統的に仲の悪い両校も従えたのか、『天叢雲アメノムラクモ』には〝東京制覇〟を成し遂げた〝最強の番長〟という女子選手も参戦しているが、こんどうが身を投じたのと似たような抗争たたかいが世代を超えて繰り返されているのだろう。

 幼い頃からを志し、現在のキリサメより早く『とうあらた』に練習生として通っていた近藤の場合は、学校にける問題の道場に迷惑を掛けてしまうことを常に悩んでおり、〝敵〟であろうともなるべく傷付けないように〝寸止め〟で相手の戦意をし折って喧嘩を終わらせていたそうである。

 駐日大使の愛娘を巡り、国際問題に発展し兼ねない大事件にも巻き込まれた――と、近藤本人が苦笑交じりで語ったときにも、当然ながらキリサメの双眸は大きく見開かれた。

 望むと望まざるとに関わらず、大きな争いに飛び込まざるを得ない弟子たちをがわだいぜんはずっと昔から見守ってきたのだ。それはつまり、抜き差しならない事情を抱えた人々を受け止められるくらい『とうあらた』という道場の懐が深いという意味でもある。


ひいされているわけじゃないから変に構えなくても良い――以前まえだいら氏が掛けてくださった言葉が今日も胸に響いていますよ。深く、強く……!)


 定められた経路コースを緩やかに一周する初心者向けの〝がいじょう〟とは異なり、乗馬ライセンスを取得するような上級者になれば、草原を全速力で駆けることも許可されるという真平の説明はなしへ肩越しに頷き返しながらキリサメが想い出したのは、以前に電知から聞かされたあいかわじんつうの稽古であった。

 コンクリートの摩天楼が立ち並んだ東京ではなく、群馬県と同じように自然が豊かな故郷の山梨県では『しょうおうりゅう』の同門と〝いくさの為の馬術〟の修練に励んでいるそうだ。中世日本のかっせんで猛威を振るった武器術併用の流派らしく手綱も握らずに馬を操り、左右の五指で大弓や槍を振り回す模擬戦を繰り広げるという。

 神通が生まれ育ったのは『しんげんこうれんぺいじょう』と呼ばれる〝甲斐古流〟の秘境だ。おそらくは乗馬ライディングクラブと同規模の草原を古武術の稽古の為だけに使えるのだろう。その模様を動画として見たことがある電知も「さすがはたけ騎馬軍団のお膝元」と唸っていた。

 〝戦場武術〟の若き宗家と己を並べて考えるのは余りにも不遜とキリサメも弁えているのだが、神通と同じ技を試そうものなら、一秒と経たない内に姿勢を維持できなくなって鞍からまろび落ちるはずである。

 故郷ペルーでは『聖剣エクセルシス』を肩に担いで馬を駆り、夥しい人数かずのデモ隊と国家警察が衝突する合戦さながらの市街地を突き抜けた経験こともあったが、そのときにも〝片手離し〟に留まっていた。遠心力が反動としてし掛かるほど長く重い刀身も、安定性を欠く馬上では牽制として乱雑に振り回すことしか出来なかったのだ。万が一にも馬に乗った状態で〝実戦〟を余儀なくされていたなら、得物を放り出して相手に組み付くしかなかったであろう。

 しかし、いずれは高度なしゃにも精通するだいらひろゆきのように〝両手離し〟であらゆる武具を完璧に扱えるようにならなければなるまい。

 数世紀に亘って受け継いできた殺傷ひとごろし武技わざを錆び付かせない為に危険な地下格闘技アンダーグラウンドへ挑んでいる神通にとって、としての課題を相談されることは不愉快かも知れないが、馬上で自由に戦える身のこなしを教わることもキリサメは選択肢に含めていた。

 見習いのとして、ばくろうぶち乗馬ライディングクラブにも幾度となく通うことになるだろう。

 映像作品にする〝役者馬〟が何頭も所属し、極めて難しい馬上での演技の体得を志す俳優への指導にも力を入れているのだ。顎の輪郭線を覆った白髭が際立たせるこわもての向こうにキリサメが感じたのは、人馬とも真摯に向き合う精神たましいである。

 移動中の車輌マイクロバスいまゆり子から教わったことの一つだが、厳しくも愛に満ちた指導によって鍛え上げられた俳優の多くはこの乗馬ライディングクラブに自馬を預けているそうだ。


「会ったこともない選手のことをひとづてに聞いただけなので、半分以上は僕の想像で補っているのですけど、……る銃撃事件に巻き込まれたアメリカの格闘家は土いじりを通じて精神こころ痛手ダメージを癒したそうです。そのかた出身うまれはルワンダなのですが……」

「ルワンダも農業国だものね。一種の『ガーデンセラピー』だったのかな、その選手も。ブチもね、呼び方すら定まっていない大昔から『ホースセラピー』の可能性を信じていたんだよ。彼の座右の銘の『馬から学べ』とは繊細な馬を気遣う心得というだけではなく、馬と心を通わせることで人間ひとの抱えた重苦しいモノが晴れ渡るという確信でもあるんだ」

「今、僕もがわ先生と同じことを思い浮かべたところでした。『ンセンギマナ』というルワンダ人のMMA選手も、土の温もりを感じながら気持ちや脳内あたまのなかを整理していったのではないかと、こうしてゆるゆると馬に揺られる自分に置き換えてみたばかりです」


 柵によって仕切られた馬場を出て馬を進める〝がいじょう〟は、野原や森林など自然豊かな場所で実施されることが多い為、〝ホーストレッキング〟とも呼ばれている。

 道場への入門を明かした際、〝心の専門医〟として頼みとしているきりしまゆうもいずれは乗馬の練習が始まるものと想定し、『ホースセラピー』は心身の回復を促す効果が高いと説いていた。

 厩舎にける馬の世話なども『ホースセラピー』には含まれるので、今日の体験はほんの一部に過ぎないのだが、少なくともキリサメにとっては今後これからの自分が臨まなければならない課題を見つめ直す為に必要な時間であった。それを助けてくれた鞍下の馬スコーチャースパイクには感謝の一言しかなく、栗毛が輝いて見える首を手のひらでもって二度三度と柔らかく叩いた。

 気持ち良さそうに揺れる栗毛のたてがみも、吹き抜けた風と舞い踊る草花も、日本格闘技界を四分五裂バラバラにしてしまう〝内部抗争〟にの一人として関与していることすら忘れそうになる牧歌的な情景だ。

 故郷ペルーに横たわる格差社会の最下層で血と汚泥にまみれて這い回ってきたキリサメが今まで想像する必要もなかった〝IT社会〟の悍ましさに呑み込まれてから、たった二日しか経過していない。携帯電話が電波も受信できない丘陵を自らの足で歩くよりも時間を掛けて踏み締めていくあんじょうは、気忙しい東京とは何もかもが別世界としか感じられず、くさむらに飛び込んでしまいそうになるくらい心地好かった。

 濁流化した日本格闘技界の混沌によって〝兼業格闘家〟である新弟子キリサメの心が引き裂かれる事態を憂慮したからこそ、がわだいぜんも気晴らしになることを期待して盟友の乗馬ライディングクラブへ導いたのである。えて口に出すことは無粋と弁えている為、感謝は眼差しで伝えるのみに留めているが、師匠の気遣いはキリサメにも溢れんばかりに伝わっている。

 その一方で、がわだいぜんに気取られてしまわないよう懸命に押し殺したモノもあった。

 師匠や兄弟子から手綱捌きを褒められた瞬間に脳裏をよぎった阿鼻叫喚の惨状と、これによって抉り出されそうになった〝闇〟は、日本ハポンに移り住んでから新たな絆を育んだ人々にだけは晒したくないのだ。

 砂色サンドベージュの風を纏いながら幼馴染みの姿で出現あらわれる幻像イマジナリーフレンドが〝死神スーパイ〟を受けれるようささやき始める前に押し戻せたが、魂に根を張った〝闇〟に対するまばたきほど短い葛藤も、並んで馬を進める師匠にはおそらく見抜かれているだろう。それを穿ほじくり返すようなこともなく、ただ静かに寄り添ってくれる優しい瞳には感謝という一言では全く足りなかった。


「――それにしても、キリサメ君に乗馬の心得があるなんて初めて知ったよ。なかなかサマになっているじゃないか。まさか、お袋さんの塾では馬術まで教えていたのかい?」


 去年の七月、奇しくもがわだいぜんと殆ど変わらない言葉を馬に跨って並走しながらキリサメに掛けたのは、銃弾を防ぐプロテクターとヘルメットで全身を固め、暴徒鎮圧用の電撃銃を携えたペルー国家警察のワマン警部であった。

 ペルーという国家くにを形作る二つの民の血を引き、アメリカ大陸にいて初めて列聖の名誉を授けられた『サンタロサ』の肖像が描かれている腕章を付けた対テロ部隊や、これを率いるワマン警部とキリサメは共闘関係である。『日本大使公邸人質占拠事件』で父の身を脅かし、次いで母が命を落とす原因ともなった武装組織を壊滅させる為、彼らと背中を預け合いながら『聖剣エクセルシス』を振るい続けてきたのだ。

 労働者の権利を侵害し兼ねない新法の公布に端を発する大規模な反政府デモ――『七月の動乱』を裏から操り、怒れる民を内乱の尖兵に仕立て上げて〝大統領宮殿〟に差し向けたテロ組織の拠点アジトもワマンたちと共に制圧したのだが、国家警察の別動隊と過激化したデモ隊の間で銃撃戦が発生したことや、そこに幼馴染みの・ルデヤ・ハビエル・キタバタケが巻き込まれた可能性を死闘のなかに知らされ、警察馬の一頭を借り受けて救出に向かった次第である。

 キリサメを身辺警護ボディーガードに雇って非合法街区バリアーダスの実態といったペルー社会の暗部を調査し、くだんの武装組織にも接触を図った日本人記者――ありぞのを後ろに乗せ、ワマン警部と並んで警察馬うまを走らせた末、銃弾によって全身を引き裂かれた射殺体なきがらあんじょうから見下ろすことになったのだ。

 国家警察にとっても想定を大きく上回る犠牲者数となった為に死者の尊厳を守るシートまでもが足りなくなり、乱雑にも新聞紙で覆われたすがり付いてき続ける日本人記者の後ろ姿も、キリサメは馬から降りず、涙の一滴も流さずに眺めていた。

 自分のことを人でなしの薄情者としかキリサメには思えなかった。馬上というただ一つの共通点をもってして、互いの深い体温ぬくもりまで知り尽くした幼馴染みが頭部あたまの半分を吹き飛ばされて二度と動かなくなった『七月の動乱』と長閑のどかな〝外乗ホーストレッキング〟を比べているのだ。

 改めて一年前を紐解いてみれば、鞍から振り落とされなかったのが不思議である。互いの呼吸を合わせることなど考えもせず、鞭の代わりに『聖剣エクセルシス』で臀部を叩いて急かし続けたのだ。アスファルトを蹴り付ける馬蹄ひづめの音が後から追い掛けてくるほどの速度を維持したまま反政府デモの最前線へ突入しながらも、二頭の警察馬は爆発音にも匹敵する怒号に驚いて前足を跳ね上げるようなことはなかった。

 警官隊とデモ隊が衝突した首都リマの市街地は、前者がグレネードランチャーから発射した催涙弾によって目や喉を刺激するにびいろの煙が垂れ込め、後者が放り投げたロケット花火や火炎瓶も大小の石と混じって絶え間なく空を切り裂いていた。大型トラックのタイヤを炎の塊に変えて警察の放水車に投げ付ける者も少なくなかったくらいだ。

 対テロ任務へ就く為に訓練された警察馬は、ペルーの国旗が括り付けられた鉄製の支柱ポールを叩き付けんとする市民と、これを受け止めるべく強化プラスチック製の盾を構えて隊列を組む警官隊の間へ割り込んだ際にも全く怯まなかったのである。

 一刻一秒を争うほど差し迫った状況ということもあって、テロ組織の拠点アジトから反政府デモが巻き起こる市街地までどのようにして駆けたのか、キリサメ自身は高速で後方うしろに流れていった風景の断片すら殆どおぼえていない。

 今日はにも優しく映る栗毛のスコーチャースパイクに跨っているが、国家警察から借り受けた馬の毛色は想い出せないのだ。人間の隊員と同種のプロテクターや目を防護するバイザーを装着していたのか、これを認識するだけの余裕が脳にもなかったのであろう。

 八王子丘陵から望む赤城山にりし日の〝徳川埋蔵金伝説〟を思い、目鼻や耳で夏のいろを一つ一つ数えられるほど緩やかな足取りで栗毛の馬スコーチャースパイクに揺られる〝今〟の姿を昨年の自分が見れば、〝富める者の道楽〟にちたと吐き捨てるのは間違いないが、キリサメ・アマカザリというMMA選手を取り巻く状況は、正気を手放しそうな勢いで駆けた『七月の動乱』よりも遥かに狂気を孕んでいるのだ。

 揺るがしがたい一つの事実として、彼がと心に決めた『天叢雲アメノムラクモ』は存亡の危機に瀕している。彼自身、新人選手ルーキーの〝立場〟にも関わらず、MMAデビューの機会を与えてくれた大恩あるぐちいくを団体代表の座から引き摺り下ろさんとする日本格闘技界の陰謀に加担せざるを得なくなってしまっている。

 『天叢雲アメノムラクモ』のほうから抗争を仕掛けたも同然という熊本武術界も、この混乱状態を聞き付ければ好機とばかりに東京まで一気に攻め寄せ、天下に名高い二刀流の剣豪・みやもとさしも愛した〝武の都〟の誇りを踏みにじった報いを樋口郁郎に与えることであろう。


(おまけに現在いまは電知や神通氏が――友人たちの地下格闘技アンダーグラウンド団体がと構えた抗争も気になって仕方がないと来たものだ。鹿しかが話していた密造銃の影を感じるとはいえ、他人の心配もには〝富める者の道楽〟みたいに映るんだろうな)


 己の状況を振り返ったとき、必ず脳裏に浮かぶのは海を渡ったのちに絆を育んだ仲間たちの顔であった。

 黎明期の様式を再現したじゅうどうや地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋は言うに及ばず、『くうかん』という道場名が刺繍されたからに古めかしいリーゼント頭、中世ヨーロッパの騎士の象徴とも呼ぶべき幅広の両刃剣ブロードソード逆三角盾ヒーターシールドまで混ざっている。

 声優と伝統武術ムエ・カッチューアの格闘家を〝兼業〟するさら・バロッサの場合は、主演アニメ『かいしんイシュタロア』の主人公――『あさつむぎ』が人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのような輪郭シルエットを描く黄金の甲冑を纏った姿と共に現れた。

 想い出のエアーソフト剣を胸元でかざしたおおとりさとマネージャーが自身の担当声優とアニメの登場人物キャラクター騎士ナイトの如く寄り添うのだから、虚実の境い目も何もあったものではない。

 ほんの少し紐解いただけでも躊躇ためらいなく仲間や恩人と呼べる顔が幾つも並ぶのだ。プロレスパンツを穿くレスラーたちの先頭に立ち、左右の拳を押し当てて胸を張るのは、言わずもがな八雲岳である。傍らにて彼を頼もしそうに見守るのはヴァルチャーマスクだ。

 岳の隣で寸分違わず同じ姿勢を取る進士藤太フルメタルサムライとしか表しようがないごくぶとの眉を持つ七歳の〝軍師〟――些か事情が複雑ながら、一応の義弟おとうとであるおもてひろたかと、生まれて初めて〝人間らしさ〟を与えてくれた八雲未稲は養父ちちと同じくらいが強い。

 想い出したように慌てて改造バイクで乗り付け、リーゼント頭の隣でV字型シェイプのエレキギターを掻き鳴らす金髪のパンチパーマは、相変わらず自己主張だけは一人前である。

 今はまだ友好的とは言いがたいエンジニアコートは、皆から離れて胡坐を掻き、魚の化石ディプロミスタスの杖を抱えながら、「必ず報われると信じた分だけ絶望は大きくなる。足掻いたところで無駄な徒労に終わるのが〝真実〟だ」と鼻で笑うかのようにくらい眼差しをぶつけてくる。

 二日前――忌まわしい因縁としか思えない〝七月四日〟から始まった〝内部抗争〟は、日本格闘技界の行く末を確実に左右する。如何なる結末を迎えるにせよ、思い浮かべた誰一人として影響から逃れる道はなかった。打つ手をたった一つ誤っても、自分以外の〝誰か〟と歯車が噛み合わなかっただけでも、心から〝身内〟と呼べる人々が連鎖的に破綻へ追い込まれるのである。道場とはいえ『とうあらた』もキリサメひいては『天叢雲アメノムラクモ』との関わり合いから痛手ダメージは免れず、そのときには程度では済まないはずだ。

 己も含めて、今や日本格闘技界の誰もが生き残りを賭して大博打に挑んでいた。


に拳を〝罪〟でけがした〝先輩〟をわざわざ僕にぶつけてくる趣味の悪さに付き合うのは構わないけど、と家族を天秤に掛けるよう無理強いされるのは、……さすがにくないほうへ心が傾きそうになってしまうかな……)


 望むと望まざるとに関わらず〝樋口政権〟の転覆に踏み込むということは、直接的な利害の面にいても支払う代償が大きい。『スーパイ・サーキット』を始めとする特異性を利用されている部分もあるが、初陣プロデビュー以前まえから社会的影響の大きな問題を起こし続ける〝得体の知れない日系ペルー人〟が日本で最大規模のMMA興行イベントへ出場できたのは、統括本部長を務める養父ちちの恩恵から〝暴君〟の庇護を受けられた為である。

 四角いリングにける特権を「自ら手放した」と表すべきか、〝暴君〟の側から「突き放された」と受け止めるべきか――その判断に結論を出せずにいるキリサメであったが、友人のきょういししゃもんのように人生を打算では敷き詰められず、亡き母にも「人から寄せられた期待には全力で応えろ」と強く言い付けられながら育ってきたこともあって、MMAデビューの機会チャンスを与えてもらえた恩をあだで返そうとしている〝現実〟への葛藤は浅くない。


(――母親の教えを逃げ場にするなと他人ひとから叱られたばかりじゃないか。今度の一件はのほうから仕掛けた戦いでもあるんだ。……故郷ペルーじゃない。日本ハポンで起きた抗争たたかいだ)


 この〝内部抗争〟では〝敵〟の照準が早くも『八雲道場』へ直接的に向けられている。

 自分を迎え入れてくれた〝新しい家族〟の行く末そのものが人質に取られたような状況を決定的に閉塞させない為、考えられる全ての策を講じる。卑劣な〝騙し討ち〟であろうと喜んで選ぶ――のもとへ死に物狂いで馬を走らせた一年前と同じ情況が生き地獄さながらに続くことを覚悟したのも、キリサメ・アマカザリ自身の意思なのだ。



 最初に基礎練習を行った丸馬場と、ばくろうぶちが鋭い目付きで辺りを見回すクラブハウスの中間に位置する広場が到着先であるが、そちらには直行せず、馬に跨った人々は〝おんなだいぜん〟の誘導で広い草原へ集まり、そこで各々の思い通りに馬を走らせることになった。

 その草原もていてつのように大きな曲線を描く恰好で立ち並んだ木々が仕切りの役割を果たしている。夏とは思えない気温である為に数こそ少ないものの、耳を澄ませば蝉の鳴き声も枝葉が揺れる音に混ざっている。

 初心者向けの教室ということもあって小走り程度ではあるものの、ずっとあんじょうで心を通わせてきた人々はすっかり馬と呼吸いきが合うようになっており、誰もがはつらつと息を弾ませている。不慣れから失敗が重なって面白くなさそうにしていた『ちゃ』の娘は参加者の中で最も手綱捌きが上達し、姿勢を安全に維持したまま走り出す工夫コツを母親に教えていた。


「あの赤城山を挟んだ向こう側――ぬままでがさな家の領地だったんだよ。真田といえば長野県の印象が強いのだけど、根拠地のしんしゅううえから程近いぐんの一部に勢力を拡げていたんだね。戦国時代のったりられたりり返したりを経て、再来年の大型連続時代劇で主人公に選ばれたさなのぶしげの兄上の息子の頃になってぬまはんりっぱんされてね。ろくもんせんの歴史マンは〝真田忍者〟の後継者でもあるガクちゃんから教わったんじゃないかな?」

「カリガネイダーという長野のプロレスラーとも親しくさせていただいているのに、それは全くの初耳です。僕もこうして間接的ながら〝真田忍者〟と接点があるわけですから、岳氏も埋蔵金伝説ばかりではなくを話してくださっても良かったのに。バスの車窓まどから赤城山を初めて見つけた瞬間の感慨も桁違いだったはずですよ」

「本家筋のまつしろはんは明治維新まで無事に生き残ったけれど、沼田藩のほうは取り潰しになってしまったから、ガクちゃんも話しにくかったのかなぁ~」

養父ちちの生き方は単純シンプルですから、赤城山と徳川埋蔵金が脳内あたまのなかで直通になってからは他のコトが抜け落ちただけではないかと。発掘に参加した想い出話も聞き飽きたくらいです」


 いまの合図で大地を蹴り付ける人馬を愛おしそうに見つめたのちがわだいぜん新弟子キリサメの双眸が必ず追い掛けてくると確信した上で赤城山を指差した。


「そもそも沼田の領地はさなのぶしげのお祖父じいさんのいっとくさいが敵からブンったのが始まりなんだよ。のちの時代の松代藩は江戸幕府と親密な関係だったのだけど、戦国乱世の徳川家と真田家は常に緊張状態でね。徳川家は東国屈指の有力な戦国大名で、一方の真田家は『くにしゅう』――ざっくりと説明するなら〝家康公の家来〟ではなく利害の一致から徳川の指揮下に入った協力関係。〝独立勢力の地方領主〟と言い表したほうが通りが良かろうかな」

しんくんとうしょうだいごんげんとして祀られた偉人も、現代を生きる俺たちのように血の通った人間に変わりはなかったっていうのも歴史のマンだよ、アマカザリ君。がわ先生が仰ったように本来は〝独立勢力〟だったくにしゅうの扱いを真田に関してはしくじっちまったんだ。徳川もおけはざの合戦後に織田信長へ寝返るまでは駿するいまがわ家に従うくにしゅうだったんだから、領地も守ってくれない大将には随いていかないって痛いほど理解わかっていたハズだけどなぁ」

かんを交えていた相模さがみほうじょうぼくする交換条件として、真田の沼田領を無断で譲り渡してしまったのはどうしても判断ミスに思えるね。家康に直接仕えるだったら折り合いも付けられたのだろうけど、保護の見返りに手を貸すのがくにしゅうだからねぇ」

「飼い犬に手を嚙まれた――と、単純には言い切れない状況だったことは無学な僕でも察せられました。亡き母の日本史の授業ではそこまで深く掘り下げませんでした」


 改めてつまびらかとするまでもないが、がわだいぜん説明はなしに加わったのは、養父ちちの陣羽織やカリガネイダーのプロレスマスクで煌めく〝ろくもんせん〟を家紋とする真田家について、かつて教えられた概略すら満足におぼえていないようなキリサメではない。栗毛とくろ鹿の二頭に自身が跨る白馬を寄せた兄弟子のだいらだ。

 以前に聞かされた伝承でただひとつ印象に残っているのは、真田と同じ長野県を発祥とする戦国武将の末裔――『』なるMMA選手が〝さなにんぐん〟の技を継いだ養父ちちを〝歴史を超えた宿敵〟とし、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体で挑戦状を叩き付けたことである。


「当然、真田のほうもすぐさま徳川に手切れを叩き付けて、衝突不可避となったのが世に名高い『うえかっせん』――その〝第一次〟のほうだね。真田の本拠地であるうえじょうとその周辺が決戦の舞台となったのだけど、徳川の動きに合わせてほうじょうも真田の一族が居座り続ける沼田を奪い取ろうと軍勢を差し向けて、いっとくさいの弟に返り討ちにされたんだ」

「徳川は徳川で、上田と沼田の両方に兵を割かざるを得なくて余裕なんかゼロだったハズのくにしゅう相手にボロ負けっていう世紀の番狂わせが結末オチになっちまったんだよ。父上の代から苦汁を舐めさせられてきた恨みが積もり積もって、江戸幕府二代将軍のひでただは真田家かいえき好機チャンスをずっと狙い続けていた――ってのは後世の創作だけど、そんなが真偽も疑われずに民衆の間で広まるくらい真田は徳川にとって目の上のタンコブだったワケさ」

「正直、養父ちちが真田家のことを話すときは暑苦しい上に押し付けがましいので、九割九分は聞き流していたのですが、ペルーの教材でも取り上げるような日本史上の大人物を打ち負かしていたなんて〝乱世の雄〟という言葉しか思い付きません」

「そう言いながら、アマカザリ君も理解わかってきたじゃん。〝乱世の雄〟って例えも大正解ビンゴだよ。二回起きた『上田合戦』で、両方とも徳川軍を撃退したわのかみまさゆき――真田いっとくさいの息子は特にデタラメの煮凝り状態だったんだぜ? 父上の代から仕えてきたかいたけ家が信長に滅ぼされると、その織田家に娘を人質に出して鞍替えしたり、そうかと思ったら旗色を見てほうじょうに付いたり、武田家臣時代に一度はボコボコに叩きのめした徳川に付いたり、その両方と敵対するえちご後のうえすぎ家に次男ののぶしげを人質に送って支援たすけを求めたり、現代いまで言う〝二枚舌外交〟で乱世を生き抜いた綱渡り人生だねぇ、真田昌幸は」

「……だいら氏の説明がちょっと意味不明なのですが、命を預ける相手を取っ替え引っ替えするのは日本の戦国時代では当たり前だったのですか? 敵への寝返りを繰り返すということは全方向に喧嘩を売り歩くのと大差ない場当たり主義で、いずれ味方してくれる人が誰も居なくなりそうなものですが……」

「領地の死守が最優先っていうくにしゅうの行動原理としては取り立てて異常でもないけど、それにしたって真田昌幸の反復横跳びっぷりは異次元レベルだと思うよ。ほうじょうに従っていたときには上杉と、徳川に移った後はほうじょうとそれぞれり合ったもの。上杉とは徳川配下のときにも戦ったか。真田家本拠地の上田城でさえ家康を言い包めて築城てさせたしね。その徳川を裏切った後は上杉から改築費用も引っ張り出しているし」

「徳川軍と戦った上田城は、その徳川に築城つくらせた……と? だいら氏の説明はなしを聞けば聞くほど詐欺という言葉に脳内あたまのなかが埋め尽くされていくような……」

だいら君にえて付け加えさせてもらうなら、昌幸公は我が身でけがれを引き受ける覚悟で真田一族を守り抜いた――と、私個人のマン込みで讃えさせて欲しいかな。頼みのたけ家滅亡に続いて織田家まで『ほんのうの変』で傾いた後は、確たる後ろ盾もないまま、徳川・上杉・ほうじょうといった有力大名に挟まれて明日をも知れなかったからね。豊臣政権の支配下に入った後、もんのすけのぶしげとよとみのひでよしの重臣から、兄のしゅうのぶゆきが家康の忠臣からそれぞれ奥方を迎えたのも、天下がどう転んでも真田が生き残る策だったと思うよ」


 若き日の八雲岳に忍術の極意を授けた師匠であり、がわだいぜんの古い友人でもあるおもてらくさいは、戦乱の真田家に仕えた正真正銘の忍者――さなにんぐんの末裔である。前者からすれば以前かつての義父と気まずい気持ちで呼ばなくてはならないわけだが、六枚の古銭を組み合わせた紋様は、そのらくさいから特別に使用を許されたものとキリサメは教えられていた。

 真田忍者の師弟の間にいて、六文銭は養子むすこであろうとも譲り渡してはならない神聖なモノであるという。再来年に放送される大型連続時代劇の題材に選ばれた程であるから、真田家のことも良く知らずに高潔で孤高の武士サムライのように想像していたキリサメであるが、そのくにしゅうから大名にまで押し上げたわのかみまさゆきは、近隣の大国どころか、中央政権をも手玉に取った詐欺イカサマ師ではないか。


「再来年の連続大型時代劇は『さなゆきむら』いやさ『げんろうのぶしげ』が主人公だ。親父さん繋がりで縁のあるさなあかぞなえ軍団にアマカザリ君もエキストラとして加わるんだぜ? 俺と一緒に家康本陣へイッパツ突撃カマしてやろうや」

「今のところ、脳内あたまのなかあかぞなえ軍団が詐欺イカサマ集団へ自動的に置き換えられていますけどね……」


 当初の印象イメージを粉々に打ち砕かれた末、養父ちちなる気持ちで六文銭を背負っているのかも分からなくなったキリサメが唖然呆然と口を開け広げると、その様子を見て取ったがわだいぜんだいらひろゆきは互いの顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。つまるところ、真田昌幸という人物に触れた者は、誰もがキリサメと同じような表情になるのであろう。

 〝てんいっとう〟を成し遂げ、この世の〝全て〟を手に入れたとよとみのひでよしにまで〝ひょうきょう〟と警戒されたことからも明らかであるが、真田昌幸は付け入る隙など一ミリも見せてはならない危険人物なのだ。

 『の虎』と畏怖され、戦国最強の称号に最も相応しい武将として名前が挙がることも多いたけしんげんを敬愛するがわだいぜんの口からは語りにくいことであるが、子どもたちの婚姻に基づく『こうそう駿すん三国同盟』を結んでいたほうじょう・今川両家の領地にまで侵攻し、国と国との約束を最悪の形で踏み破ってのぶながを激怒させたたけしんげんの愛弟子ということを考えれば、〝ひょうきょう〟の呼び名は〝天下人〟をも脅かした最大の名誉であり、武田家臣の面目躍如と言えなくもあるまい。

 秀吉も家康も、たけ家最後の当主――天下に比類なき勇将と名高いかつよりながしのしたらがはらかっせんあいまみえたのだ。

 後世にいて『ゆきむら』という勇名が知れ渡った昌幸次男のさなのぶしげも、とよとみのひでよしの親衛隊――うままわりしゅうと呼ばれる――を務めたことから『おおざかの陣』ではしちきりの旗のもとに馳せ参じ、自ら作り上げた最強の砦で江戸幕府軍を散々に苦しめた上、最後の武力衝突でも徳川家康を自害寸前の危機まで追い詰めている。

 のぶしげの兄にして、昌幸から真田宗家を継いだしゅうのぶゆきが徳川家ひいては江戸幕府へ忠誠を尽くしていなければ、六文銭の系譜も現代へ辿り着く前に葬り去られたはずだ。

 尤も、手段を選ばない生き残りの謀略ととうくつの魂は、いっとくさいの時代から真田の家風と呼んでも差し支えなかった。

 しんげんの父にしていのくに統一を果たしたたけのぶとらと上田近隣の敵対勢力から攻め立てられた真田家は、一度は故郷からじょうしゅうみのじょうへ落ち延びたものの、やがて信玄が父を追放してたけ家を掌握するといっとくさいは信濃侵攻の先駆けとしてに入り、したたかにも本領復帰を成功させたのである。

 史料上の根拠とは別のところで成立した江戸時代の講談であるが、たけしんげんの伝説的な軍師――やまもとかんすけさないっとくさいは朋輩であり、冴え渡る謀略を競い合ったという。両雄の親交と同様にとして有名な『さなじゅうゆう』にもさるとびすけきりがくれさいぞうという〝真田忍者〟が含まれているが、岳が極めた忍術は吹けば飛ぶようなくにしゅうに過ぎなかった真田家の命脈を現代まで繋げた生き残りの謀略を〝裏〟で支えた者たち――すっらっ――が編み出した乱世の技であり、〝架空〟の物語で描かれる派手々々しい秘術とは似ても似つかないほど地味で泥臭い。

 『みず』と呼ばれる忍具が左右の足に装着して水面を滑る円形の履物ではなく、浮き輪に近い物であろうと用途の認識が改められたように、忍者の実態も情報工作や破壊活動といった〝影〟のであり、『さなじゅうゆう』の華々しい活躍とは真逆である。それ故に現代まで伝わるいずれの忍法も生々しいまでに〝現実〟の質感を持ち、遭遇した敵を制圧する体術など現代の戦場リングでも通用するのだった。


しんしゅうを追われて真田家が頼ったのは隣のじょうしゅう。今、俺たちが居る群馬県ってワケ。先月から城門の復元工事が始まったみのじょうせきなんて八王子丘陵ここから目と鼻の先――ってのは言い過ぎだけど、職人の皆さんが別の角度から同じ赤城山を眺めているのは間違いないね」


 兄弟子が付け加えた説明はなしに頷き返しながら、乗馬教室の為に群馬県へ出掛ける養子むすこに対して六文銭の一族との浅からぬ所縁を岳が一度も口にしなかったのは、自分自身も発掘に参加した〝徳川埋蔵金伝説〟に脳内あたまのなかを埋め尽くされた為ではなく、意図的なであったのだろうとキリサメは分析していた。

 普段の養父であれば、真田家と群馬県の接点をうっとうしいくらい鼻息荒くひけらかしたことであろう。しかし、を語る以上は六文銭の一族が詐欺イカサマとも思える謀略の限りを尽くして領地を死守してきた歴史へ触れずにはいられなくなる。

 おそらくは乱世の振る舞いに触発されて養子むすこ実娘むすめが暴走することを一人の父親として憂慮したのであろう。その気遣いはキリサメも十分に受け止めているが、一方でまでも腹が据わらないと苛立ってもいる。

 実際、手段を選ばず他者ひとの後ろ指をも振り切って命脈を保った〝くにしゅういくさ〟を反芻しながら、キリサメはを想い出さずにはいられなかった。〝ひょうきょう〟の騙し討ちをもって大国と渡り合ったという真田家は、『天叢雲アメノムラクモ』と熊本武術界の緊張状態を挟んで『在野の軍師』と睨み合う『八雲道場じぶんたち』と驚くほど重なるのだ。

 『在野の軍師』あるいは〝ランボー〟の異名で法曹界から恐れられるアルフレッド・ライアン・バロッサ弁護士――さら・バロッサの父親は、この状況下で明確に『八雲道場』をしてきた。真意ねらいはともかくとして岳の戦友ひいては未稲の旧友をも操り、〝騙し討ち〟を仕掛けてきた〝アルフレッド〟を同様の手段で手加減なく迎え撃つのは当然ではないか。

 日本MMAの黄金時代以来、長く交流してきた友人家族を巻き込む〝騙し討ち〟の応酬に岳は終始一貫して消極的な態度を取り続けている。友情や親愛に惑わされて否定的な思考へ切り替わってしまったと言い換えるべきであろう。

 煮え切らない様子でそっぽを向いてしまう養父ちちとは対照的に、〝アルフレッド〟のはらを読み兼ねたキリサメは鋭い舌打ちが増えている。断片的な手掛かりに基づいて憶測するならば、最終的には『天叢雲アメノムラクモ』を滅ぼす企みであることは間違いなく、樋口代表のみに怒りを向けている熊本武術界以上の危険人物ランボーと言えよう。岩手興行で希更のセコンドに付いた母親ジャーメインも、娘が所属するMMA団体の在り方に極めて不穏当な感情ものを抱えている様子であった。

 それにも関わらず、二日前にる人物を介して繰り広げたに対して〝アルフレッド〟は全く反応を示さなかった。希更の両親は揃って薄気味悪い沈黙を保ち続けているわけだ。少なくとも表立った動きはキリサメの耳に入っていない。

 一つでも選択を誤れば『天叢雲アメノムラクモ』への背信行為になり兼ねないと言い包めて希更もリング外の騙し合いに引き摺り込み、〝アルフレッド〟の動向うごきを探ってみるべきか――そのように提案した際は、岳と正反対の姿勢で〝騙し討ち〟に臨んでいる未稲でさえ丸メガネが滑り落ちるくらい顔を引きらせたが、キリサメ自身は一歩たりとも止まるつもりはなかった。

 ほんの僅かな迷いに囚われて足元がおぼつかなくなったなら、『八雲道場』だけでなく日本ハポンで絆を結んだ人々を巻き込んでつまずくことになる。〝全速力で駆けても間に合わない〟という状況が招く結末を一年前にも味わわされたキリサメは、我が身がおぞましくけがれることを理由にして踏み止まるという選択肢を最初から用意していないのだ。

 ワンフォーオール一人はみんなの為にオールフォーワンみんなは一人の為に――師匠から授けられた教えを心の中で強く念じるキリサメは、〝アルフレッド〟が仕掛けんとする策を先んじて潰し、大切な存在ものを守り切れるのであれば〝ひょうきょう〟と蔑まれることも厭わない。わのかみ昌幸もその父・いっとくさいも、真田の策略を遂行した忍者たちも、同じ覚悟を胸に秘めて赤城山を仰いだことであろう。

 南半球に位置するペルーは冬だが、北半球の日本は夏であり、遠くに望むのもアンデス山脈ではなく赤城山である。警察馬ではなく栗毛の馬スコーチャースパイクに跨って踏み締めるのも、サン・クリストバルの丘ではなくはちおうきゅうりょうなのだ。

 には己一人で始末を付ければ済むと思っていた故郷ペルーとは〝立場〟そのものが違う。そして、それこそが日本ハポン為に欠かせない〝責任〟とも心得ていた。

 一年前の『七月の動乱』では忌むべきテロ組織がペルー政府に対する民衆の怒りを煽り立て、イタリアにいて古い歴史を持つ軍需企業――『ロンギヌス社』の武器をデモ隊に渡した上で社会不安を暴発させたのである。規模の差異ちがいこそあれども、それは紛れもなく現在いまの自分が狂奔している〝騙し討ち〟と同じであった。

 『ロンギヌス社』の拳銃ハンドガンを握った状態で息絶えた幼馴染みと同じ末路の人間を今度は自分の手で作り出してしまうかも知れない。それどころか、母の命を奪った〝神父パードレ〟――我が身に流れるモノと同じ〝血〟を吸い尽くした『聖剣エクセルシス』の以前かつての持ち主とも変わるまい。

 『八雲道場』との絆を疑っていないとされる相手を爛々と輝く目で罠に嵌めようとする未稲の異様さを見ていると、養子じぶんの暴走に歯止めを掛けたい岳の気持ちも分からなくもないが、掴むべきを見せないのも『在野の軍師アルフレッド・ライアン・バロッサ』の計略と判断したときには〝例の娘〟をいけにえの如く利用してでもはらの底を暴くというのがキリサメの目論見であった。

 復讐を果たしたところでくらい憎悪が癒えない〝敵〟と重なるようにけがれていくことは、魂に根を張る〝闇〟をかつてないほどうずかせたが、心が食い破られそうになる痛みさえもキリサメを止められないのだ。


あいぜん氏に警告されてきた崩壊だとするなら、『もく』とかいう罵声は幾らでも受け止める。本当の厄災わざわいを阻止する為に取るべき行動も理解わかっているつもりだ)


 死神スーパイの懐に抱かれたまま二度と時計の針が動かなくなった・ルデヤ・ハビエル・キタバタケとは違って、自分キリサメ・アマカザリの時間は進み続けている。心のかでは一年前と正反対の生活くらしや〝富める者の道楽〟に浸る己自身を蔑んでおり、その気持ちが幼馴染みの姿を真似する幻像イマジナリーフレンドとして出現あらわれて「守りたいと願う存在ものは必ず目の前で喪失うしなわれる。〝貧しき者〟に生まれついた〝真実〟から目を逸らすな」と訴えているのかも知れない。

 に耳を傾けるよう〝心の専門医〟であるきりしまゆうにも促されたが、今日を生き抜く代償が〝身内〟の喪失であると無意識に考え、これを受けれようとしているのなら、例え矛盾や異能スーパイ・サーキットを懸念されようとも、日本ハポンで積み重ねてきた己の全存在をもってして抗うのみであった。


ほうじょうそううん公以来、関東に王者として君臨してきたほうじょう家は、戦略上の利点に加えて誇り高さからぜいの真田に侮られるのを良しとせず、沼田領の奪還に執着したとも伝わっているよ。そのこだわりが両家の仲裁を引き受けた〝天下人秀吉〟の逆鱗に触れ、一〇〇年目の落日を自ら引き寄せてしまったんだ。『歴史から学ぶ』という言葉は、尤もらしく聞こえるようで危うい落とし穴でもあるのだけど、何事もこだわり過ぎるとあだになるという教訓はね、胸に留め置くのも悪くないと思うよ、アマカザリ君」

「ここまで伺った説明はなしに照らし合わせると、北条家と利害対立の続いていたさなわのかみが秀吉をけしかけたようにも想像できますね」

「あるいは秀吉と共謀グルとかね。作家の想像力を膨らませてやまないのも真田の魅力だよ」


 室町幕府の意向を受けて関東に赴き、甥が統治する駿するいまがわ家の補佐などとして立ち働いた末、関東に〝王道〟を示して〝独立〟した『そうずい』を祖とする相模さがみほうじょう家――五代に亘る名門を滅ぼしたとよとみのひでよしの『小田原攻め』をがわだいぜんえて例に引いたのは、外道にちないよう新弟子キリサメを戒めたかった為であろう。

 口に出して『八雲道場』が置かれた状況を確認せずとも、少年の瞳を隣の鞍から覗き込めば危うい企みを胸の奥に隠していることが理解わかるのだ。無論、それは師匠と挟むような恰好で〝後輩〟の栗毛の馬スコーチャースパイクと自身の白馬を並べているだいらも一緒である。


「うんうん――良い顔じゃないか。迷いと悩みを受けれて進もうとするは、前途だけに絞って捉えるものだよ。それを信じてくのも青春だ。その背中をでも見守っているし、分かれ道で間違えそうになったら幾らでも相談して欲しいね」

「まだ一七年しか生きていない分際で生意気かも知れませんが、こんなにも頼もしい言葉を僕は他に知りません」


 釘は刺しつつも胸の奥の覚悟そのものはがわだいぜんも酌んでいるようだ。初陣プロデビューのリングでじょうわたマッチから掛けられたものと良く似た言葉でもって包み込まれたキリサメは、掌中に手綱を握ったまま右の親指でむずがゆくなった頬を掻いた。


「基礎練習へ移る前の説明でもブチから念を押された通り、馬という生き物は背に乗せた人間の心に驚くほど影響を受けやすいんだよ。不安や不満といった穏やかではない感情モノには特に敏感で、たちまち調子を崩してしまう。でも、アマカザリ君に手綱を任せたその馬は落ち着き払っているし、隣から見ていても一緒に歩くことを楽しんでいる様子だよ」

「キミが心に決めたコトは、一つの信念として間違っちゃいないってコトさ。同じ言語ことばも使わずに心が通い合った〝相棒〟がそれを証明してくれるのもマンってね」


 栗毛のたてがみがうねるほど激しいじろぎもなく、鞍下の馬スコーチャースパイクはキリサメを背に乗せたままその場へ静かに留まり続けているが、気忙しくは感じないまでも愛くるしい耳は小刻みに動き続け、時おりあんじょうで交わされる会話を低い鳴き声で遮ろうともしていた為、本能の部分では〝何か〟を感じ取っていたのであろう。

 それでなくとも視線の先にる〝家族〟と同じように、風を切って草原を駆けたくないわけがあるまい。色々な意味で我慢させてしまったことへの謝罪と感謝を込めて、キリサメは身を大きく乗り出してスコーチャースパイクの頭を愛おしそうに撫でた。

 それから間もなくして〝おんなだいぜん〟から手招きされたキリサメは、師匠と兄弟子に対する一礼を挟んだのち、促された先へと栗毛の馬スコーチャースパイクを進めた。待機中の我慢を思い切り発散してもらえる機会が巡ってきた次第である。


「馬は良いだろう、アマカザリ君。小さな悩みのでウジウジと袋小路に迷い込んでしまった自分を笑い飛ばせるくらいにな」

「僕もこれから長い付き合いになりそうです。そう答えられることも嬉しいですよ」


 出発地点で〝後輩〟を迎えたいまゆり子の補佐役――ひめまさただも、草原の清涼な空気を肺一杯に吸い込めば気鬱を一緒に吐き出せるだろうというがわだいぜんの配慮から乗馬教室への参加を打診されたのだった。

 彼はを〝本業〟としながら『とうあらた』の仲間たちにも認められているように本質的はブルース・リーが創始したジークンドーの武術家であり、地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』のリングにも身を投じてきた。キリサメの親友――空閑電知や哀川神通の〝同僚〟でもあるのだが、次の興行イベントは出場そのものを辞退する旨を団体代表に伝えている。

 首都圏で活動してきた地下格闘技アンダーグラウンド二団体で対抗戦を執り行うことに決定したのだが、共催相手を背後から操っているのは半グレ集団なのだ。それは直接的に反社会的勢力との接触を意味しており、道場に迷惑が及ぶことを避けるべく『E・Gイラプション・ゲーム』と距離を取らざるを得なくなったわけだ。このまま同団体のリングを去るという選択肢も有り得る。

 今までの『E・Gイラプション・ゲーム』は指定暴力団といった犯罪組織を徹底的に遮断シャットアウトしており、それ故にを〝兼業〟する姫若子も選手として出場してきたのである。この前提条件が覆された以上、少なくとも半グレが関与する興行イベントに参戦するわけにはいかなかった。

 対抗戦の相手は違法な〝試合賭博スポーツベッティング〟による荒稼ぎばかりか、中学生未満の子どもまで殴り合いのリングに放り込むなど悪質極まりなく、〝格闘競技スポーツ〟という言葉の意味すら理解していないことは明らかであろう。

 くだん地下格闘技アンダーグラウンド団体の情報をキリサメに提供した警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係の鹿しか刑事は、半グレのでもある所属選手が都内で発生した銃器密造事件の犯人であることも、格闘技が東京から排除するべき〝暴力〟に過ぎない傍証としてたのしそうに語っていた。

 同種の〝密造銃〟が対抗戦に持ち込まれることも十分に考えられるのだが、電知は命懸けの戦いでこそ『世界最強』という夢を叶えられると強く信じており、凶弾の餌食にされる危険性など出場を見合わせる理由にはならないのだ。

 『前田光世コンデ・コマ』の柔道を我が身に背負う者として、『谷幸雄スモール・タニ』を継いだと名乗ってじゅうどうを纏う挑戦者は死んでも無視できない――そう言って猛々しく笑う親友を止められないからこそ、キリサメは『E・Gイラプション・ゲーム』に迫る脅威を対抗戦より先に潰す一計を案じたのだ。

 跨る白馬を巧みに寄せ、順番が回ってきたことを知らせるように肩を叩いたひめは言うに及ばず、電知にも神通にも伝えていないが、団体の垣根を超えて絆を育んだ友人の命を守る為にこそ、キリサメは寅之助の協力を得て東京の〝裏〟に踏み込んだのである。

 硬い靴を履いた状態での攻防を想定し、暴風雨の如き蹴り技を主体とするフランス発祥の格闘術――『サバット』でもって密造銃事件の犯人を〝成敗〟したホストとも寅之助の仲立ちを受けて面談する手筈となっていた。

 歌舞伎町で開催される『ホスト格闘技』の興行イベントいて〝最強〟と名高く、打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』に出場すれば、バロッサ家の一族が熊本から送り込んでいる『ムエ・カッチューア』の選手に勝るとも劣らない猛威を振るうであろうと電知からも評されたその青年ホストは、勤務先ホストクラブで『しゃ』と称している。

 打てる手は全て打ち、味方になりそうな者は一人として逃さない――その企てに「お前にしか託せないことなんだ」という言葉で加勢を求められた寅之助は、まぶたを眠たげに半ばまで閉ざして何事にも無感情なキリサメには似つかわしくない〝口説き文句〟が愉しくてならない様子で、息切れを起こすくらい腹を抱えて笑い転げたのである。


(結局、誇り高い『メイセイオペラ』にはなれそうもないけれど、そうたとえてくれた電知に胸を張れない戦いは、僕が僕自身に許せない。……七月四日の〝あの瞬間〟に引かれた一線ラインからあと退ずさることも許されはしないんだ……ッ!)


 乗馬ライディングクラブへ到着した直後の不機嫌が嘘であったかのように無邪気に笑い、新たな道が開けたものと察せられる表情かおに変わった『ちゃ』の娘と入れ違う恰好でスコーチャースパイクと走り出したキリサメも、〝真実を超えた偽り〟を手綱と共に強く握り締めている。

 あんじょうの気魄へ応えるようにスコーチャースパイクの側もキリサメのことを振り落とさないよう姿勢を安定に維持したまま、一等力強く全身の筋肉を躍動させていく。

 四つの瞳が突き抜ける先の赤城山は輪郭がおぼろげになるほど依然として遥かに遠いものの、がねいろの夢で数え切れない人々を惹き付けたのも頷ける存在感に満ちていた。分厚い雲の影響から差し込む影は秒を刻むごとに濃くなっていくが、例えおぼろげであっても輪郭が残っている限りは、真っ直ぐに見据えて突き進むのみである。

 もしも、この場に八雲岳がったなら、はげしい光を湛えた双眸でもって赤城山を捉えて離さない養子キリサメと、ぐりこうずけのすけただのりが仕掛けた〝徳川埋蔵金伝説〟と真っ向から戦った志高き挑戦者たちを重ね合わせて脳の血管が炸裂しそうなくらい昂ったことであろう。

 他の参加者よりも速度を上げて草原を駆けるキリサメ・アマカザリとスコーチャースパイクは、まるで二日前――日本格闘技史上最大の叛乱劇の〝戦端はじまり〟としてのちの歴史に刻まれることになる〝七月四日一八時〟へと遡っていくかのようであった。



                     *



 ファンとの交流会を兼ねた公式オフィシャル観戦ツアーへの参加を表明した途端にチケットが過去最速で売り切れるなど、名実ともに『天叢雲アメノムラクモ』最高の花形選手スーパースターであるレオニダス・ドス・サントス・タファレルのSNSソーシャルネットワークサービスに「今日の一八時、MMAの歴史が〝本当の意味〟で変わる」という挑発的な文言が投稿されたのは、二〇一四年七月四日一〇時丁度である。

 これと同時に『天叢雲アメノムラクモ』や業務提携を結ぶ格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』が公式サイトにいて『あつミヤズ』による緊急特別番組を一八時から生放送すると発表し、特別ゲストとしてレオニダスが出演する旨も大々的に報じられた。

 国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関であり、同競技のオリンピック正式種目化に向けた推進運動の旗振り役――『MMA日本協会』がビデオ会議を開いたのは、ネットニュースを中心に様々な憶測が飛び交う只中であった。

 MMA興行イベントに派遣する医療班を取り仕切る〝格闘技専門のスポーツドクター〟のつえむらあけ理事は、診察の合間を縫って自身が経営する整形外科医院の院長室から出席したが、不思議な巡り合わせから挨拶の機会に恵まれたキリサメ・アマカザリを通じて〝七月四日一八時に起きること〟の全容を『八雲道場』に明かしたと、その場で初めて他の理事たちに報告したのである。

 八時間後に始まるのは未成年の選手生命を犠牲にし兼ねない事態であり、『天叢雲アメノムラクモ』にこれ以上の過ちを犯させないという『MMA日本協会』の大目的と同じくらいキリサメ・アマカザリの将来を守るべきだ――以前から抱いてきた懸念を改めて繰り返したのち、杖村は「医師スポーツドクターの使命に嘘はけません」と、白衣を纏う人間の信念を示したのである。

 あくまでもMMA選手の命に寄り添わんとする杖村の思いは他でもないキリサメ本人が認めており、別れ際の握手にもその配慮に対する感謝を込めたのだった。無論、そこにる種のが含まれていたことに気付かないほど彼女も鈍感ではない。


「現在、一時帰国している『NSB』の進士選手とアマカザリ選手の模擬戦スパーリングを見学する機会に恵まれましたが、そこで『MMA日本協会』の役目をつくづく考えさせられました。目的の為の代償に目をつぶるように〝選手アスリート第一ファースト〟を脇に押し退けてしまったら、MMA全体の抜本的な健全化も何もありません。私たちには全ての選手を守る責任があります。日本格闘技界の将来へ貢献するには〝何〟が必要か。今一度、考えるべきかと」


 無論、己が仕出かしたことは機密漏洩に等しいとも弁えており、解任を申し渡されることを覚悟してビデオ会議に臨んだのだが、裏切り者と糾弾する声は誰からも一度も上がらなかった。それどころか、法律事務所の所長室でノートパソコンの内蔵カメラを覗いているたてやま理事には謝罪の必要もないと宥められてしまったのだ。


「選手を思いやる気持ちを最優先させた杖村君の判断も大正解だよ。我々はみなMMAの発展を目指して集まった〝同志〟だ。君自身の目でアマカザリ君は未来を託し得る人材と見極めたのだろう? それを悪いことなどと、どうして切り捨てられようか」

「樋口さんが押し付けがましいくらい触れ回っている例の異能スーパイ・サーキットを差し引いても、格闘センス自体が頭一つ抜きん出ているように感じました。絶えず試行錯誤を循環させる地頭で粗削りな部分も洗練されていくハズです。……余計な気を回し過ぎる傾向も見受けられましたが、誰に対しても誠実に接する人柄からい影響を受ける選手も多いでしょう」

「小耳に挟んだのだけど、あのがわだいぜんに弟子入りしたのだったね。樋口君が無法者アウトローな来歴を宣伝材料に利用する傍らで、本人は〝道〟を誤らないしるべを得たわけだ。次の分かれ道は八雲君のに感化されるかどうかだね」


 対戦型格闘ゲームの開発・販売だけでなく、フィットネスクラブなどの運営やオリンピアン・パラリンピアンの育成支援事業にも尽力する国内有数のゲームメーカー『ラッシュモア・ソフト』の会長であり、『MMA日本協会』の副理事長を兼任するとくまるも志を同じくする杖村に誇らしげな眼差しを向けている。

 同協会の会合に本社ビルの会議室を提供している徳丸は、経済人としても国内外から畏敬されており、遠隔地を繋ぎ合わせるビデオ会議にも手慣れている様子だ。絶大な人気で一時代を築いた自社製品ソフトのロゴマークを並べるという主張の強いパネルを背にしていた。


えて一言、申し上げるとしたら『水臭い』ってなトコかなァ。俺たちも長い付き合いじゃありませんか。杖村さんが最終的に〝何〟を大事にするのか、ちゃんと理解わかっていましたよ。むしろ、そう来なくては杖村さんが無くなってしまいますもの」

「樋口に気付かれないよう裏で動き回っちゃいるけど、協会のみんなでヤツに目に物見せてやろうってワケじゃないんだから、杖村が思い詰める必要なんか無いのよ。も同じ理想のもとで、それぞれ好き勝手にやっているもの。『オカケン』だってきっと大賛成よ」


 理事長のおりはらひろゆきと副会長のよしさだも、同意を明示するように揃って首を頷かせた。後者は以前からキリサメの喧嘩殺法と潜在能力ポテンシャル強い関心を持っていた為、比喩でなく本当に前のめりとなりながら杖村理事の話に耳を澄ませている。

 その吉見副会長が口にした『オカケン』とは、『MMA日本協会』で会長を務めるおかけん愛称ニックネームであった。

 七月四日は同協会にとっても大勝負の日であり、一八時の決行に向けてビデオ会議を設けたわけであるが、岡田会長はどちらも欠席せざるを得なかった。七時間という時差が横たわっている為に時計の針は重ならないものの、政権与党の文部科学大臣として同日にルワンダで執り行われる式典へ特別に招待されているのだ。

 現在の首都キガリは三時頃――本人が希望しようとも周囲まわりが深夜のビデオ会議などというを許すまい。何しろ一国を代表しての出席なのだ。夜明けを迎えたなら、岡田健は万難を排して式典会場の国立競技場アマホロスタジアムに出発しなければならないのである。


「約二ヶ月という短期間での二連戦――単純計算で一ヶ月に一試合という過密タイト日程スケジュールを事前に承知しているかいないかで、中長期的な戦略は根本から変わります。対タファレル戦の前に受ける痛手ダメージをどう抑えるか、それが出来なかった場合にどう立て直すか……。『八雲道場』にはれっきとしたかかりつけ医が付いていますから、部外者の私が出しゃばるわけにはいきませんが、乗れる相談は何でも引き受けるとも伝えてあります」


 花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルより先にキリサメの前に立ちはだかる男は、その一戦に全身全霊を傾けることが出来る。〝次〟の試合たたかい――即ち、を考える必要がない相手は、その条件自体がキリサメには著しく不利であった。

 短期間で立て続けにMMAのリングに臨まざるを得ないキリサメと同条件であれば、疲弊を最小限に留める作戦を互いに採ることであろう。しかし、その必要がないのだから、〝心技体〟を完全に使い潰すような戦い方も選べるわけだ。休息と調整が不十分な状態で迎える危険性おそれが高い次戦を見据え、温存すべき点まで考慮しなければならない側にとっては負担が果てしなく大きいのだった。


「樋口さんから〝彼〟に突き付けられた最後通告が一種の引き金であったとはいえ、片方ばかりがを約束されるのは公平性を欠いています。そういう意味でも杖村さんの行動は正解だと思いますよ。〝彼〟は何もかも承知した上で今日の一八時を迎えようとしていたのですから、この捻じれた構図は是正されて然るべきでしょう」


 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体の時代から日本MMAのリングに立ってきた〝その男〟が熊本興行を一切考慮しない〝理由〟も併せて『八雲道場』に伝達つたえた――と、杖村から打ち明けられた館山は、難しい表情かおで溜め息をきつつも、現在いまのままではキリサメに対して余りにも不公平であった為、で双方の間で釣り合いが取れるだろうと首を頷かせた。


「勿論、生き残る為、〝彼〟がこの試合たたかいに〝全て〟を懸けていることも理解わかっているつもりです。……それだけにアマカザリ選手が受ける痛手ダメージが大きくなるのも必然。かねてより杖村さんが懸念してきた通り、最悪の場合は深刻な負傷を抱えた状態で花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとの大一番を迎えるコトになるのですね」

「一〇代の回復力で九月までに治療が完了しても、そこからの練習トレーニング興行イベント当月に再開しても間に合いません。私の経験上、闘い方が全く違うへの対応を並行して練り上げるのはもっと難しい。仮にガレオンの補佐サポートを受けられるとしても、アマカザリ選手にとっての熊本興行は苦戦以前の問題になるかも知れません」

「……が仕掛けた計略の要ではありますが、ルールの策定によってMMA選手の命を守る〝法の番人〟として、私の責任で提言するべきでした……っ」

の負傷と回復の進み具合では、タファレル選手とののほうを強制的に順延させます。じょうわた選手の仲間からという試合は、熊本興行での実施が絶対条件ではないはず。誰に恨まれても最悪の展開は食い止める――それがアマカザリ選手に対して果たすべき責任です。万が一の場合、館山先生にもご相談させていただきたく!」

「若者の自然治癒力を当て込んだ無理が祟って、人生の岐路で大事な好機チャンスを見逃した杖村としちゃ、自分と同じ苦しみを一〇代の選手に味わわせるワケにゃいかないわね。苦い経験で信念の〝骨〟を太くできる杖村から私らもい影響を受けまくりよ」

は口にしないのが粋では? 吉見さんご本人でなく杖村さんの事情ことですし」

はね、理屈じゃなくて直球勝負でキメるモンなのよ、館山」


 京都のはなしょ学院大学にスポーツ学科の准教授として勤務し、ビデオ会議にも構内の一室から出席している吉見副会長は『ジョシカク』の新たな扉を開いた先駆者――即ち、日本初の女子MMA選手でもある。現役こそ退いたものの、現在いまもMMAを普及・振興するべく世界各地を飛び回り、スポーツを通じた国際交流に尽力している。

 だからこそ、杖村が『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手キリサメ・アマカザリを気に掛ける理由も察せられるのだ。これは格闘家・武術家と専門的に向き合う医師スポーツドクター精神たましいそのものであり、『MMA日本協会』に名を連ねる全ての人々が各々の〝立場〟で同じ気持ちを共有していた。


「杖村さんの情報提供タレコミで今日の放送前に選択肢が増えたのに、それでもキリサメは勝負に出るって腹括ったんでしょ? 洗いざらい喋ってもらった内容コトを世間にぶちまけて『あつミヤズ』の緊急番組そのものをブッツブす手もあったのにさぁ~」

退も正当な権利とアマカザリ選手へ直にお話しさせていただきました。勿論、タファレル選手との試合ではなくを。……彼に持ち前の誠実さで首を絞めさせてしまったかも知れません。〝火の国〟の怒りから『天叢雲アメノムラクモ』を守るには他に選ぶ〝道〟もない――彼に後戻りできなくさせてしまったワケですから……」

「計画丸ごとブチ壊しってワケにはいかねェし、仮にゴネられたら沖縄クレープを手土産に出張るつもりだったけど、大事なときの思い切りと踏ん切りで気合いを見せるヤツだとニラんでいたんだよなァ。MMAに対する本気度の顕れっしょ。可愛い後輩だぜェ!」


 ビデオ会議の出席者が覗き込むパソコンの画面には、四角い枠で仕切られた〝同志〟たちの顔が上下左右にが並んでいる。そこに『MMA日本協会』とは無関係の人間が一人だけ混ざっていた。

 〝後輩〟の決断を讃えるかのように沖縄の伝統楽器であるさんしんを軽やかに爪弾き、その場違いな振る舞いで館山からしかめ面を引き出したのは『じゃどうねいしゅう』である。

 今から七年前――〝格闘技バブル〟の崩壊と『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体の解散を契機として現役を退き、次いで生まれ故郷の甘味スイーツである沖縄クレープの移動販売に転向し、『一度のしくじりから大逆転した有名人』といった触れ込みでテレビ番組に招かれるほど大成功を収めた元MMA選手だ。

 『がんじゅ~い』と刷り込まれたフードトラックで首都圏を経巡っており、現在いまも移動先であろうと察せられた。車輛の近くに設えた折り畳み式の椅子に腰掛け、ノートパソコンとビデオ会議用の小型カメラは客が飲食する為のテーブルに置いているようであった。

 一八時まで外部そとに知られてはならない密議が垂れ流されているような状況であるが、MMAという〝スポーツ文化〟が日本から途絶えていた空白期間に別の事業で身をおこしただけあってじゃどうねいしゅうは抜け目がなく、情報漏洩の危険性おそれがない場所なのであろう。

 『MMA日本協会』のビデオ会議へ乱入したかのようにも見えるじゃどうのことを誰一人として咎めないのは、彼が正当な権利を有して出席している〝外部協力者〟である為だ。

 〝格闘技バブル〟を牽引した当時の最大団体が指定暴力団ヤクザ――関東最強と名高い『こうりゅうかい』である――と〝黒い交際〟を持った事実が尾を引き、格闘技興行イベントの中継が地上波テレビに復帰できない現状からすれば、バラエティー番組への出演や沖縄民謡でCDデビューを果たすなどタレント活動もこなすじゃどうは、テレビ業界との〝命綱〟にも等しかった。

 〝七月四日一八時に起きること〟にも、欠くべからざる要の一人として関わっている。


「時差があるから午前と午後はあべこべだけど、ルワンダの式典とが始まる時間は概ね一緒だったね。メールで伝えるにしても岡田会長には事後報告になるか。説明しないわけにいかない人たちが他にもいるが、厄介なのはタファレル選手だ。彼は大らかに見えて意外と。機嫌を損ねると面倒臭いことにもなろう。あんどころだな……」

「レオニダスねぇ。キリサメに喧嘩売った辺りの無理筋からキナ臭ェって気になってたんですよねぇ。に頼んで探りを入れてみたんですがね、ブラジルのお友達がキリサメの故郷に潜り込んだっつうのは、タイミング的に怪しいったらありゃしねェでしょ」

「まァまァ、お待ちよ、じゃどう君。『MMA日本協会』の風通しの良さを今一度、噛み締めたばかりだと言うのに、協力し合わなきゃ〝計画〟も立ち行かないタファレル君の近辺を裏で嗅ぎ回るなんて感心しないよ」

「折原センセには〝コソ泥〟みたいにからかわれたくないんですがねぇ。で〝寝業師〟の真似事を始めようってんでしょ? 今から大将首の足元を切り崩していかなけりゃ手遅れになっちまいますからねぇ~」

「人聞きの悪さはお互い様だね。じゃどう君は勿論、徳丸さんも心配性が過ぎますよ。確かにタファレル君はホームパーティーをに計上するタイプですがね、そういう手合いは自分に不利益ではない限り、協力者がコケる姿も酒の肴代わりに見物するモンですよ」


 不安材料レオニダス・ドス・サントス・タファレルに対する憂慮を持て余し、他者ひとの顔に挟まれると一等際立つほど豊かなみみたぶを指先で弄ぶ徳丸と、この副理事長が抱いた不安を更に煽るようなことを述べるじゃどうの両方を冗談交じりで宥めた折原は、携帯電話スマホの内蔵カメラと通信機能を利用して走行中の乗用車内からビデオ会議に出席している。

 情報漏洩の危険性おそれがないと断言できるほど信頼の置ける運転手ドライバーにハンドルを任せ、横向きに持った携帯電話スマホを後部座席にて覗き込む状況である為、後ろ窓リアガラスの向こうにかの市街地の景色が映り込むのだが、自分に対する注意との矛盾が甚だ不満と表すように左右の頬を膨らませるじゃどうは、熊本城への距離が記された看板を見逃さなかった。

 ビデオ会議の出席者たちにも先ほど明かされたばかりであるが、折原理事長は日本MMAそのものに対する憤怒いかりで全土が満たされているであろう〝火の国〟――熊本県へ今日からで滞在している。

 じゃどうから〝わざ〟などと冷やかされた本人は、おどけた調子で悪だくみと笑い飛ばしたが、それは一種の諧謔ジョークに過ぎず、『MMA日本協会』が秘密裏に進めてきたる計画を自分自身の意思でキリサメに打ち明けた杖村と同じように、信念に基づいて渦中の熊本城下へと飛び込んだ次第であった。

 〝大将首の足元を切り崩す裏工作〟とじゃどうは揶揄したが、『天叢雲アメノムラクモ』の行く末は折原の双肩に掛かっているようなものである。を把握している同団体のMMA選手がキリサメ・アマカザリと八雲岳以外に居ないことは、大いなる皮肉としか表しようがない。


「あとはきょういしさんが巻き込まれた〝こうちょうかい〟の影響が海を隔てたアジアへどのように波及するのか……。成り行き次第では折原理事長のお骨折りが無に帰すかも知れません。私も許される範囲で悪化を食い止めるつもりですが……」


 〝何か〟を言い淀んだのち、小さな呻き声を洩らした館山は、七月半ばにラスベガスへ出張することになっている。

 『ウォースパイト運動』の過激活動家が『NSB』の興行イベントを銃で襲撃したテロの事後調査と再発防止を目的として、同団体が拠点を置くネバダ州の体育委員会アスレチックコミッションが〝公聴会〟の実施を決定したのだが、同日には別の活動家たちも試合に乱入し、義足のMMA選手――シロッコ・T・ンセンギマナが立つ八角形の試合場オクタゴンを占拠していた。

 その首謀者たちが〝サバキ系空手〟の先駆け――『くうかん』道場のニューヨーク支部に籍を置く門下生であったことから日本に所在する本部道場も、アメリカで起きたテロ事件の巻き添えとなってしまった。

 『くうかん』最高師範の息子であり、同道場の全日本選手権で三連覇を成し遂げたきょういししゃもんは、アメリカへの〝武道留学〟の際にニューヨーク支部を頼ったのだが、そこで乱入事件を起こす同門の空手家たちと親しく交流していた。これによってテロの決行を促した真の黒幕と疑われた挙げ句、くだんの公聴会に〝重要参考人〟として召喚されたのである。

 『くうかん』本部道場から正式に依頼を受けた館山は、公聴会に出席する沙門へ弁護士の〝立場〟で付き添うことになったのだ。


「私生活での素行不良はともかく、空手家としては子どもたちの未来を守る為に我が身も喜んで犠牲に出来る方なんです。『ウォースパイト運動』とは全くの正反対と、それだけは公聴会で伝えてください。……私生活の素行不良をツッコまれたらお手上げですが」

「悪ふざけで杖村さんに乗っかるワケじゃね~けど、沙門がスキャンダル以外で弁護士センセのお世話になるなんてなァ~。笑うしかねぇくらい図太い野郎だから、アメリカでバカな真似しねェように手綱捌いてやってくださいよ、館山さん。……アイツ、の国の体育委員会アスレチックコミッションすら『空呉館てめーのトコ』の反対勢力をブッツブす策に巻き込むかもだぜ」


 支配的な上下関係に基づいた〝シゴキ〟と理不尽な根性論を廃絶させ、負担を抑えながら効率的に肉体からだを育てる練習方法の導入といった『くうかん』の組織改革に協力している杖村や、沙門と友人として付き合っているじゃどうの言葉に頷き返しながらも、館山が思い浮かべているのはアメリカでもなくシンガポールの動向であった。


「館山君の懸念は尤も至極。具体的には東南アジア――とりわけシンガポールで飛ぶ鳥を落とす勢いを見せる〝例の団体〟にとって、今度の公聴会は勢力図を塗り替える好機だ。『MMAの未来が決まる決戦の日』という報道も決して大袈裟ではあるまい。館山君が我らの命運を託し得る人物だということをぎょうこうと言わずして何とたとえるべきだろうかな」


 日本のみならず世界経済にも目が利く徳丸副理事長も、公聴会の影響という一言から館山と同様にMMAを巡るアジア圏の情勢に思い至った。

 体育委員会アスレチックコミッションによる公聴会が世界のMMAを主導する『NSB』のり方を真っ向から否定する展開になれば、ニューヨーク州がくような同競技への法規制が全米に波及するのは避けられまい。日本MMAもその影響から逃れるすべはなく、両国の間隙へ割り込むかの如く〝第三勢力〟の存在感を示し始めたシンガポールの新興団体は、新たな〝格闘技バブル〟が起きるほど版図を拡大させることであろう。

 同団体は『至輪』と漢字二字で表記した上で、『パンゲア・ラウンド』と称している。

 太古の昔に地球は一つの超大陸パンゲアであったとするアルフレート・ウェーゲナーの仮説を団体名として掲げたのは、格闘技やプロレスを通じて全世界を繋げたいと夢見た鬼貫道明の志を引き継いだという決意表明であろうか。団体代表の『ロシュ・チャオ』はオリンピックの運営にも携わった経験ことがあり、〝大きな輪に至る〟という言葉選びにも格闘競技スポーツを通じて国の垣根を取り払いたいという願いが込められているのは間違いない。

 二〇一四年七月四日現在、『至輪パンゲア・ラウンド』はアジアの出場者が大半を占めている。しかし、試合の成果として興行収益を求めず、これによってMMA選手に与える心理的負担の大幅な軽減も成し遂げ、一人一人を花形エースに育成していくというロシュ・チャオの方針を評価する声はシンガポールの国外そとにも多かった。

 この姿勢は『MMA日本協会』も認めざるを得ない。それ故に〝る目的〟から仲介役を通じて密かに接触を図ったのだが、こので生じた一種ひとつの〝穴〟が原因となり、日本格闘技界そのものが存亡の危機を迎える規模の人材流出が起きるかも知れないのである。

 同国シンガポールの〝スポーツファンド〟も日本格闘技界に侵食し始めている。沙門がプロデビューを果たした打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』が財政難に陥った際、〝外資注入〟で窮地を救い、見返りとして特別顧問を送り込んでいた。


が少しばかり打ち合わせにない行動を取ったところで『ナントカは喧嘩せぬ』の金言通りに『ハルトマン・プロダクツ』は気にも留めまいが、『至輪パンゲア・ラウンド』に対してはそうもいくまいて。ロシュ・チャオ代表も若くして東南アジアのMMAを担うに足る傑物だ」

「……公聴会の結果、日本われわれのみでは立ち行かないと判断すれば、この間のように御曹司ギュンター・ザイフェルトを差し向けてくるかも知れない。そのことを徳丸さんは憂えておられるのですね。樋口さんの――『天叢雲アメノムラクモ』代表の決め台詞を借りるなら〝内政干渉〟を……」

「そのときには『MMA日本協会』の事情も、『天叢雲アメノムラクモ』の行く末も関係あるまい。アジアで自社じぶんたちの勢力を維持する為に必要な手を打つ。この一点のみとなろう。館山君の頭脳と法の力をもってしても止められまいよ。……無理に逆らえば日本MMAが真に滅びてしまうゆえ、総力戦で迎え撃つことも叶わぬ……ッ!」


 〝第三勢力〟たる『至輪パンゲア・ラウンド』は、世界最大のスポーツメーカーである『ハルトマン・プロダクツ』にさえ介入の隙を与えないよう新興企業を中心とするスポンサー構成で防御まもりを固めている。同国シンガポールの政府系ファンドによる投資が水面下で決まったことも、徳丸の大きな耳に入っていた。

 政府系ファンドが後ろ盾となる事実は極めて重い。徳丸からすれば、『至輪パンゲア・ラウンド』を育てることが国益に繋がると国家くにに認められたようなものである。ドイツ経済の一翼を担うとはいえ、私企業に過ぎない『ハルトマン・プロダクツ』には内部に切り込むことが殆ど不可能となるはずだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』に挟まれながら〝第三勢力〟として名乗りを上げた活動実績以上に、ロシュ・チャオその人をシンガポールは評価しているのだろう。MMAの勢力図を俯瞰すれば東南アジアの片隅で旗揚げした弱小団体に過ぎず、二〇一一年の旗揚げ間もなくの頃は成功するはずもないと一方的に決め付けられていたが、その男はたった三年という短期間で冷ややかな眼差しをけて見せたのである。

 の〝地位〟を築こうとも〝王〟にまで上り詰める将来性はないと『至輪パンゲア・ラウンド』を侮り、ロシュ・チャオのことも『MMAのへんきょうはく』などと鼻で笑った人々は、『NSB』をも脅かすほどおおきく育った威容すがたを見上げながら、深く考えもせずに蔑称の如く口にしてきた『辺境伯』が欧州ヨーロッパいて気高い称号であったことを想い出したはずだ。

 幼い頃から『シラット』という伝統武術を嗜んできたものの、格闘技に人生の〝全て〟を捧げた人物ではなく、ロシュ・チャオ経歴キャリアはアメリカのウォールストリートけるスポーツ起業から始まっている。一七年前――即ち、一九九七年に発生し、関係各国の政権をも揺るがした『アジア通貨危機』でシンガポールは致命的な損害ダメージを免れたが、その際にも彼は二〇代半ばにして通貨暴落対策やインドネシアに対する緊急金融支援に参与したという。

 それ故に収益のみに固執する胴欲者といった印象を持たれがちであるが、シンガポールの旧宗主国――イギリスに起源ルーツを持ちながら何よりも道徳を重んじる仏教徒であり、ぜんの精神を土台とする高潔さが競技性を重視する運営方針にも表れていた。

 仏教の恩師から一字を貰い受けて『チャオ』を称する為人ひととなりは言うに及ばず、起業家としての手腕に至るまで〝人の和〟の体現者と政財界から高く評価されているのだ。

 尊敬と脅威を同時に感じざるを得ないロシュ・チャオは『MMA日本協会』にとっても〝仮想敵〟に等しいが、それ以上に〝シンガポールマネー〟を〝天敵〟としている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が破綻した後、日本MMAの復権を託して発足に携わったMMA団体の一つが同国シンガポールの企業に買収され、興行イベントも開催されずに〝塩漬け〟のような状態で放置されているのだ。

 館山も徳丸も過剰反応と自覚はしているものの、この警戒心だけは抑えがたいのである。

 理事たちが見つめる画面には映らないものの、傍らに控えているであろう秘書が血圧の急上昇を案じるほど憤然と鼻を鳴らしながら、徳丸はる名前だけは冷静に伏せていた。

 『おんの雑草魂』――『天叢雲アメノムラクモ』にけるキリサメ・アマカザリと同じように前身団体で〝最年少選手〟と持てはやされた元MMA選手の通称なまえである。

 前身団体が解散の憂き目に遭ったのちくらい事情から移籍先に恵まれず、絶望を抱えたまま日本を去ったその男がシンガポールに流れ着き、国の垣根を超えて有望な競技団体や関連事業に大胆な投資を行うファンド会社――『アキレウスヒール・パートナーズ』に身を寄せていることも『MMA日本協会』は掴んでいた。

 『至輪パンゲア・ラウンド』を発足当初から支えてきたのも、スポーツファンド事業を運営する『アキレウスヒール・パートナーズ』だ。同社の〝影〟と化して動いているものとおぼしき『おんの雑草魂』がシンガポールのMMAに与える影響力は定かではないが、財政的欠陥といった日本格闘技界の弱点を吹き込み、侵略を煽っているという疑惑も浮上していた。

 〝格闘技バブル〟の〝亡霊〟が自分という存在を受け入れなかった日本のリングに怨恨を抱いていないはずがなく、前身団体の〝正統〟である『天叢雲アメノムラクモ』が〝火の国〟の憤怒いかりに脅かされている今こそ〝復讐戦争〟を仕掛ける好機と捉えても不思議ではない。

 ましてや『MMA日本協会』がる交渉を持ち掛けた際に、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本格闘技界が四分五裂バラバラも同然の状態であるとシンガポール側に露見してしまったのである。

 『おんの雑草魂』の〝影〟が見え隠れする件については『MMA日本協会』内部に留めている為、〝外部協力者〟が出席するビデオ会議では誰一人として言及していないが、明らかに口数の減った杖村理事と折原理事長を見れば察せられる通り、シンガポールという国名なまえが鼓膜を打った直後から焦燥感は共有していた。

 東南アジア伝統の竹笛を社章ロゴマークとする『アキレウスヒール・パートナーズ』の経営最高責任者CEOは、『ウォースパイト運動』による〝抗議活動〟を明確なテロに変えてしまった『サタナス』の旧友でもある。この事実に胸騒ぎを覚えないほうが不自然であろう。

 『至輪パンゲア・ラウンド』との仲介を依頼した協力者が現地シンガポールの人間に確かめたところによれば、『アキレウスヒール・パートナーズ』の一員とおぼしき男が経営最高責任者CEOの指示でカリフォルニア州に赴いたという。差し向けられた人物は『おんの雑草魂』と断定して間違いあるまい。そして、同地には『サタナス』が収監されたフォルサム刑務所がるのだ。


「MMAを巡る日米とシンガポールの緊張状態を『在野の軍師』と名高いバロッサ先生が察知していないとも思えません。アマカザリ選手とに立つ〝彼〟の後ろ盾であることも疑いありませんから、足元を見て何らかの手を打ってくるはず。同じ法曹界に属しているのに向こうの出方を掴めないのが歯痒いばかりですよ」

「自分で足を伸ばして思い知りましたけど、東京と熊本は。この一言ですよ。見えない読めないのは当たり前でしょう。現地の事情は自分が出張中に探っておきますからご安心ください。仲間同士の助け合いで参りましょうよ」


 気を緩めた途端、四面楚歌のような錯覚で館山の正気が脅かされそうになるのは、一八時から決行する騙し討ちに〝法の番人〟として後ろめたい気持ちが強い為である。

 弁護士という仕事を通して培った揺るぎない理性は、信念に従った杖村を眩しそうに見つめている。その一方で行動自体は軽率にも私情に囚われたと分析しており、自らに同じを許さないのが館山という人物であった。

 うちから生じる心の声を押し殺してでも樋口郁郎を慈悲なく退け、抜本的な改革を成し遂げなければ日本MMAは生き残れない――そのように己自身で説き伏せたはずの〝歪み〟が館山を切り付ける不可視の刃と化していた。


「オレらがおっぱじめた大博打だ! ジタバタしてもどうしようもねェよ! 腹ァ括って行き着くトコまで行くだけだぜ――岡田会長オカケンなら、こんなときにもそう吼えたハズよ。それぞれの持ち場で人事を尽くし、天命を待つのみってね。じゃどうも一八時からのり、よろしく頼むわよ!」


 大勝負を間近に控えているというのに憂色が濃さを増し始めたビデオ会議から幸先の悪い暗雲を蹴散らそうと、不在の会長に代わって吉見副会長が熱烈な雄叫びを上げた。

 その言葉に画面上の皆が頷き、さんしんの弦をはじく音もそこに添えられた。


(その〝天〟は、天秤を掲げた正義の女神は、に如何なる審判を下すのかしら)


 勇ましく鼓舞されても眉間に寄る皺の数を減らせなかった館山が先ほど言い淀み、咄嗟に依頼人であるきょういし沙門に置き換えた名前は『おんの雑草魂』ではなかった。

 不意に脳裏をよぎったのは、もう一人の〝天敵〟――共演したスポーツ番組で幾度となく醜悪な舌戦を繰り広げたぜにつぼまんきちである。


「……ここまで〝茶番〟に付き合ったんだ。せがれから好機チャンスを奪ってみろ。残りの人生を投げ捨ててでも貴様らを許さん。日本MMAそのものと刺し違えてやる……ッ!」


 『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーが格闘技界を震撼させた『スーパイ・サーキット』――人間という種を超越する異能ちからについて激論し合うテレビ番組の収録が終わった直後のことだが、ひとのない廊下で悪名高いスポーツ・ルポライターから呼び止められた館山は、肥大した自尊心から謝罪や懇願を何よりも嫌うであろう男に頭を下げられてしまった。

 小刻みに震える肩を一瞥すれば、耐え難い屈辱に苛まれていることは明らかであった。脅迫めいた言葉ではあるものの、その声色はすがり付くかのようで痛ましい。

 そこまでしてこうべを垂れる理由を館山は親心以外に知らず、平素の高慢さとは正反対の姿を見つめて留飲など下げられるはずもなかった。

 存在すら認めないと言わんばかりに『天叢雲アメノムラクモ』を侮辱し続けてきた銭坪満吉は、掌を返して媚びへつらうように『スーパイ・サーキット』を〝MMAのゲームチェンジャー〟など褒めそやしている。



                     *



 二〇一四年七月四日の下北沢は、朝から降っては止んでを繰り返すきりさめである。傘を差さずとも濡れ鼠にはならず、窓に打ち付ける程の雨量でもない。しかし、空は晴れ間もないような分厚い雲に覆われていた。

 キリサメ・アマカザリが人間という種を超える異能ちから――『スーパイ・サーキット』を衆目の前で初めて発動させ、異種格闘技戦の時代から数多の選手たちが闘魂を吹き込んできたリングを破壊し尽くした『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行と同じ空模様とも言い換えられる。


「……出来過ぎでしょ、天気まで……」


 華やかな初陣プロデビューとはならなかった日のことを想い出さずにはいられない未稲は、殆ど感情のない顔でリビングルームの窓を仰ぎ、丸メガネのレンズに鈍色の雲を映した。

 は実父の八雲岳に対する反応である。


「マジかマジかマジか⁉ 現在いまのタイミングでの家族から着信とかよォ、状況を考えたら『陰謀企んでます』って自白ゲロってんのと一緒じゃねーか! あけからの情報提供タレコミ本当マジなのも、コレで確定ってワケだろ、オイッ!」

「俺ならどういう魂胆かと問い詰めるところですし、師匠も直球勝負こそ好まれておられますが、この複雑怪奇な状況を思えば、そうも行かんのでしょうな。ましてやは杖村も〝共犯〟として挙げておらん」

「何でアイツ本人じゃなくて家族のほうが出張ってくんだよ⁉ らくさい師匠に『娘さんに手ェ出しちゃいました!』ってご挨拶したときより気まずいぜッ!」

「僕と岳氏の間では色々な面で物事の基準が違うのだと、この五ヶ月の生活くらしで思い知らされましたが、それは結婚の申し入れと比べるものなんですか? 今の言葉を嶺子氏に知られたら、首の骨を折られるだけでは済まないと思いますが……」


 朝から続いていた稽古トレーニングが一段落し、養子のキリサメ・アマカザリと愛弟子の進士藤太を伴って道場からリビングルームへと入ってきた岳は、『昭和』と呼ばれた時代の歌声を不意に流し始めた携帯電話ガラケーをズボンのポケットから引っ張り出すと、液晶画面に表示された名前と番号に比喩ではなく本当に飛び上がって驚いた。

 岳が電話の着信音として設定しているのは、人生の大恩人がハゲワシのプロレスマスクを被るきっかけとなった『ヴァルチャーマスク』の主題歌である。

 有刺鉄線デスマッチを繰り広げた直後のような背中の裂傷に、首や下腕のあおあざも生々しいプロレスパンツ一丁のまま、古いアニメソングを引き摺りながらリビングルームを歩き回る養父に呆れたキリサメは、その横面目掛けて冷や水を浴びせるような指摘ことばを投げ掛けたのだが、はんばくどころか、返事代わりの一瞥すらない。

 それ程までに岳は慌てふためいているということだ。着信に応じるか、聞き逃すのが正解か、悩みに悩んでいる間に『ヴァルチャーマスク』の歌は再び前奏イントロが始まっていた。

 時差が横たわっている為に東京と同時刻とは言いがたいものの、およそ三五時間後に気象庁から「大型で非常に強い勢力」として発表されることになる『平成二六年台風第八号』がマリアナ諸島で発生して間もなくの頃、『八雲道場』でも大嵐が起こった次第である。


「――いよいよもって八方塞がりになってしまい、東京で頼れるのは『八雲道場』しかないんです。これ以上ないくらい厚かましいお願いだとは重々承知していますが、お嫁に出した娘をまた預かるようなものだと思って、なにぶんにも! どうかっ!」

自分てめーの半分も生きてねぇわかいモンすがり付くような声で頼まれちまったら一肌脱がないわけにはいかねぇが、お前の父ちゃんはライサンダーだろ! この通話はなしを親バカのに知られてみろ⁉ 『八雲道場ここ』からに嫁入りさせたんだって焼き討ちされちまわァ!」


 暫し逡巡したのち、意を決して通話開始のボタンを押した岳の携帯電話ガラケーはスピーカーフォン状態となっており、受話口から聞こえてくるのは年若い女性の声であった。

 困っている人間を捨て置けない面倒見の良さに甘えるような物言いではあるものの、同席する養子むすこのキリサメや愛弟子の進士藤太から軽蔑の眼差しは浴びせられず、これをもって通話相手と岳が親子ほど年齢差のある恋愛関係ではないことが証明されていた。

 元妻のおもてみねとは今でも仲睦まじいと、昨晩も誰からかれたわけでもないのに自慢していたのである。

 『NSB』の所属選手である藤太が一時帰国に当たって『八雲道場』に滞在していることは、絶対に接触させてはならない関係の嶺子に隠してあったのだが、ガレオンから呼び出された先にキリサメと連れ立って移動する姿がSNSソーシャルネットワークサービスで話題になった昨日の昼過ぎに露見し、状況を問い詰める怒声が携帯電話ガラケーを通して岳の鼓膜を劈いたのだった。

 キリサメと藤太が『八雲道場』へ帰宅かえる頃には既に出掛けた後であったが、未稲の説明はなしれば「嶺子と二人でって筋を通してくる」とだけ告げ、彼女の居宅すまいを訪ねるとは言明しなかったという。

 岳が家族に傷だらけの姿を晒したのは、七月三日の夕陽が完全に沈んだ頃である。


「嶺子のヤツ、口じゃボロクソにぶちのめしてくるクセして、やっぱりオレとずっと惚れ合ってるんだからよォ~。アイツのが可愛くて仕方ねェんだよなァ~」


 帰宅するなり、近所迷惑など一顧だにしない大声で元妻への愛を謳い上げたのだ。

 指先に至るまで怒りがみなぎった握り拳で全身を滅多打ちにされ、脳をも揺さぶられて様子がおかしくなったのではないかと一瞬だけ背筋が寒くなったキリサメであるが、取っ組み合いの喧嘩にしては爪で引き裂かれた部位が不自然であることや、『八雲道場』の家族で共用している洗浄剤とは明らかに違う芳香を纏わせていたことから〝何か〟を察し、「惚れた腫れたのは両親譲りなんだな」と胸中にて呟きつつ横目で未稲を一瞥した。

 その未稲もキリサメと同じ結論に辿り着いている。出発前は頭頂部よりもやや後ろの位置で結い上げていた長い髪を下ろし、それが平素いつもより乱れた状態で帰ってきたのだ。おぞましい〝何か〟と遭遇してしまったかのような表情かおで口を引きらせ、露骨あからさまなほど実父ちちに近寄らないようにしていた。

 明けて四日も訓練トレーニング用のプロレスパンツへ替える際に「嶺子アイツの愛が今朝もオレを熱くさせやがるぜェ」と、養子キリサメに向かって手首の青痣や腰周りを横に抉る引っ搔き傷を自慢する有りさまであり、度が過ぎた浮かれ方には藤太もかぶりを振る仕草でもって神経を疑って見せた。

 前夜の経緯から通話相手との関係が不健全ではないと確信しながらも、冗談交じりという親愛の情が込められた言葉さえ誰一人として額面通りに受け取れないのは、「一〇年近く昔に教わった電話番号から変更されていなくて安堵した」と前置きする声が分かりやすく震えていたのもである。

 に生きられない性分だけに、些かぎこちない態度で気付かない芝居フリを続けつつ、養子キリサメの誤解を招き兼ねない冗談のみを窘めた岳の言葉通り、その女性は『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長にとって〝戦友〟の一人娘なのだ。

 数年前まで師匠と同じリングに立っていた藤太も通話相手と父親の両方の顔を知っている為、姿の背中に一本の芯棒を通したかのように正座しながら瞑目し、押し黙ったまま腕組みし続けていた。

 改めてつまびらかとするまでもないが、藤太がし口を作っているのは、己と同じごくぶとの眉を持つおもてひろたか実母ははの名前をキリサメが口走って気まずくなった為ではない。

 そもそも彼は師匠の首や胸部、へそ周辺あたりに至るまであちこちに散りばめられた赤い斑点を目にするたび、これ以上ないというくらい居た堪れない表情で顔を背けていたのだ。名前一つで心が揺れる情況でもないのである。同じ斑点を臀部に発見したときには首を三度も振って凝視し、意味不明とばかりにまぶたと口を大きく開け広げていたが、その動転についてはえて穿ほじくり返す理由もあるまい。


「お前の父ちゃんも天文学的な確率にひっくり返ったんじゃねぇのか? 例えにしちゃおかしいかもだけどよ、お前の――『メリッタ』の災難は宝くじの一等賞を引き当てるより難しいハズだぜ。将来を見越した覚悟の〝東京留学〟だってのに、受入先ホストファミリーからドタキャンを喰らっちまうなんてよォ。、オレは聞いたおぼえがねぇぜ」

「『八雲道場』に泊りがけでお邪魔していた小学生の頃から何年経ったと思ってるんですか~? とっくに親離れしてますって。昔はおや揃ってお世話になりましたが、今日は私一人の意思でこの電話を掛けています――と偉そうに言ったところで、岳さんに泣き付いているだけだから、少しも恰好付かないんですけどね……」


 携帯電話ガラケーから聞こえてくる一字一句は全て日本の言語ことばだが、送話口の向こう側でを紡いでいるのはギリシャ人であった。

 岳と藤太のなかで通話相手の顔は最後に会った一二歳で止まっていた。日本語・英語・ギリシャ語という三ヶ国語の通訳を志していることを師弟ふたりが知ったのは、会話はなし開始はじめた直後の近況報告である。昔は父のようなMMA選手を夢見ていたはずだ。

 故郷ギリシャの大学に進学した彼女は、外国語学部で通訳の勉強に励んでいた。その一環として日本の文化をより深く学ぶべく二ヶ月間の語学留学を計画していたのだが、出発の直前になって寄宿ホームステイ先が火事で全焼してしまったのである。

 大学の夏休みを使い切るようにして組んだ予定スケジュールは、既に変更できない状態である。留学自体を取り止めることも不可能であり、困り果てた末、代わりの受入先ホストファミリーを『八雲道場』へ依頼する以外に選択肢がなくなってしまった――電話を介して危機的状況を直訴された岳は、自分こそが八方塞がりと主張するように両手で髪を掻きむしった。

 即ち、エーゲ海と日本を結ぶ国際電話で互いを探り合っているわけだ。

 岳から『メリッタ』と呼ばれた通話相手は、家名ファミリーネームを『カツォポリス』という。

 反社会的勢力との〝黒い交際〟が暴かれたことで〝格闘技バブル〟もろとも二〇〇七年に崩壊した前身団体バイオスピリッツでも、現在の『天叢雲アメノムラクモ』でも日本MMAを支えているギリシャ出身うまれ古豪ベテラン――ライサンダー・カツォポリスの一人娘である。

 二〇一一年の『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げ興行にも駆け付けたライサンダーは、生まれた国こそ違えども岳と同い年の友人であり、一人娘を連れて『八雲道場』に泊まったこともある。メリッタが小学生の頃だが、MMA興行イベントに出場するライサンダーの応援と旅行を兼ねて数ヶ月に一度という間隔ながら学校の長期休業中に来日していたのだ。

 その当時は藤太も同道場の所属であり、嶺子の左手の薬指にも結婚指輪が煌めていた。

 鬼貫道明やヴァルチャーマスクも交えたBBQバーベキューは、岳にとってもこの上なく楽しい想い出である。初めて友人カツォポリスおやを東京タワーへ案内した日のこともまぶたの裏に焼き付いていた。先程は自分の父親を間違わないように釘を刺したものの、望遠鏡から東京の街並みを見渡して笑顔を弾けさせるメリッタをもう一人の娘のように可愛がっていたのも間違いない。

 異邦人の心をも瞬時にして掴んでしまう望遠鏡が東京タワーから撤去されたのは、二〇〇八年のことであった。それまでに間に合ったのは僥倖さいわいであろう。この前年には所属団体バイオスピリッツが最悪の形で崩壊し、メリッサの来日も途絶えてしまった。彼女のライサンダー北米アメリカ最大の団体である『NSBナチュラル・セレクション・バウト』などで選手活動を継続させたが、当時から統括本部長の肩書きを背負っていた岳のほうは一度現役を退いた上、二〇一一年に東日本大震災の復興支援を掲げて復帰するまではMMAそのものとの関わりを断っていたのである。

 過ぎ去った日に失ってしまったはずの絆が今も繋がり続けていると、確かめ合う電話とも言い換えられるわけだ。触れ合った時間こそ限られてはいるものの、実の娘と同じくらい慈しんだ相手メリッタに猜疑の念を抱かざるを得ず、言葉による〝罠〟まで仕掛けて腹の底を探ることは八雲岳の為人ひととなりを深く傷付ける苦痛にも等しかろう。


「他ならぬメリッタからの頼み事とあっちゃ前向きに善処するっきゃね~だろ。親父ライサンダー抜きでも手ェ貸すぜ――つっても、家族うちのモンに了解してもらわなきゃだから、この電話で即決即答は出来ねぇんだけどよ。……歯切れの悪い先延ばしになっちまってすまねェが、今日中には返事すっから待っててくれや」


 通話相手メリッタに薄皮一枚で希望が繋がったことを示す一言は、踏み止まってしまいそうになる背中を後ろから急かすような養子キリサメの目配せを受けて、無意識で飛び出したものである。


「岳さんはそう言ってくださるって信じてました! こうなったら留学中はカプセルホテル暮らしでやりくりするしかないって覚悟した瞬間、東京には岳さんがいるじゃないってハッとした自分にノーベル緊急回避賞を授与したいくらいですっ!」

日本こっちじゃネットカフェを借家代わりにするライフスタイルも広がってるけどよ、年頃のにンな不用心はさせたくねェしなァ。元々の受入先ホストファミリーだって代わりの賃貸住宅とか都合してくれても良さそうなのによ」

「再三再四、確かめてはみたのですけど、それどころじゃないって感じで……。仲介人が間に入っていたら、そのテの保証もあったハズだし、今回はただひたすら自分の甘い見積もりを後悔しています。単なる観光旅行なら諦めもつくんですけど……」


 日希両国間に横たわる一〇年という長い〝空白〟の歳月に緊張していたのか、あるいは〝何らか〟の思惑を胸に秘めている為か、通話の開始から間もなくは声の調子も随分と控え目であったメリッタであるが、言葉を重ねるたびに勢いが増し、最後に『八雲道場』を訪れた一二歳の頃と同じ明朗快活さを取り戻していった。

 岳と藤太の脳内あたまのなかには往時の姿が自然と甦り、懐かしさも込み上げたが、追想に耽ることなどは許されない。奇しくもキリサメと入れ違う恰好となったものの、自身の携帯電話スマホを覗き込んでいた未稲が声もなく顔を上げ、何事か伝えるような眼差しを父に向けつつ首を左右に振って見せた。

 実娘むすめの意図を察した途端、岳の眉間に寄せられていた皺が一気に何本も増えたが、それも無理からぬことであろう。その未稲が持つ携帯電話スマホの液晶画面には、ここ一ヶ月の間に東京都内で発生した火災の情報が一覧形式で映し出されている。

 ギリシャにける緊急速報の仕組みなど岳には想像も出来ないが、少なくとも日本ではインターネットの検索機能を利用するだけで市町村単位の火災情報が確認できる。これに基づいて調査すれば、メリッタの〝東京留学〟を妨げた火事の真偽を暴くことなど容易いのだ。彼女の説明はなしでは当初の寄宿ホームステイ先はたかしもれんじゃくであったという。

 未稲が首を縦に振らなかった理由は明白であり、またそこにはの意味が込められている。メリッタ――つまり、ライサンダー・カツォポリスの一人娘から電話が掛かってきた時点で、『八雲道場』の誰もがこの接触に不審という二字以外を感じなかったのだ。

 前日三日から脳をとろけさせていた甘やかな気持ちは完全に吹き飛んでおり、両頬に刻まれた幾つもの引っ搔き傷を岳自身もとしか思えなくなっている。


「――学費の免除などギリシャは世界一というくらい教育制度が充実していると、亡き母から教わりました。同時通訳を生業とするには資格が必要だとも。国家事業にも欠かせない仕事を志す学生が技術向上スキルアップの為に語学留学へ取り組もうというとき、大学側が支援サポートしないのは不自然では? 寄宿ホームステイも普通は仲介業者が間を取り持つものでしょう? 大事な学生を守る為に大学が紹介してもおかしくない。少なからず土地勘のある東京とはいえ、何もかも自分一人で段取りを組んだこと自体が不自然で不可解です」


 は電話越しの近況報告を受けて、キリサメから藤太に耳打ちされた懸念である。前者はメリッタの言行を一つ残らず不審に思っているわけだが、後者も邪推の一言で切って捨てることは出来ず、重苦しい呻き声を返事に代えるしかなかった。

 師匠に負けず劣らず一本気な『フルメタルサムライ』は、陰謀めいたことが苦痛でならないところも良く似ているのだった。


「声の一つもずっと聞こえないのが不思議で仕方ないんですけど、嶺子さんもそこに居るんですよね? 折角、スピーカーフォンになっているのですし、是非ともご挨拶したいです! ていうか、『八雲道場そちら』に寄宿ホームステイしてもOKだって口説き落としたいっていうか」

自分てめーの口から説明するのも大間抜けなんだが、オレらな、だいぶ前に離婚したんだよ」


 この通話が始まる寸前まで「離婚わかれても好きな元妻ひと」などと謳い、惚気という二字しか似つかわしくない恍惚に浸っていた男が今は同じ嶺子との関係を重苦しい声で吐き出している。その様子を傍らで見守るキリサメたちもわざわざ確かめようとは思わなかったが、身体中の傷も昨日とは異なる痛みで岳を苛んでいることであろう。

 一方のメリッタは声の調子から岳が離婚の痛手を未だに引き摺り続けていると感じた様子であり、電話のでも明確に分かるくらい慌てふためいていた。


「は、初耳! 父さん、そんなコトは一度も……ッ! あの……、ちょっとショックって一言でも表せないっていうか……。同じ職種しごと同士の結婚は難しいって言いますけど、現役格闘家と大会PVプロモの映像作家は、組み合わせ的にぶつかる機会も少ないハズなのに……。だって、『天叢雲アメノムラクモ』の女子選手と格闘技系の記者ライターのご夫婦は上手く行ってますよね⁉」

お前の父ちゃんライサンダーには結婚披露宴でも友人席に座ってもらったし、この電話の通りに家族ぐるみの付き合いだろ? なかなか言い出せなかったんじゃねェかな。メリッタが例に挙げたご夫婦はのトコだけど、向こうさんは夫婦の活動拠点がそもそも日米で分かれてるし、……オレのトコは事情がややこしいっつーか、やってらんなかったつーか……」

「あ~! ひょっとして岳さん、浮気したんじゃないでしょうね? 泣き付いた立場でこんなコトを言うのは命知らずも同然ですけど、人の道だけは踏み外しちゃダメですよ!」

「……さ、察してくれとも言えねぇし、そっとしといてくれや……!」


 八雲家のおやから何ともたとえようのない表情で顔を覗き込まれた藤太は、キリサメの邪推に対する反応とは全く異なる感情が滲んだ呻き声を洩らし、最高潮に達した居た堪れなさを押し殺さんとし口で瞑目してしまった。

 『フルメタルサムライ』の額や腋に冷たい汗が噴き出す一方で、キリサメは携帯電話ガラケーめ付けたまま、液晶画面に表示されているメリッタ・カツォポリスという名前フルネームから一瞬たりとも目を離さない。

 スピーカーフォン状態に設定されてはいるものの、ビデオ通話ではないので海と大陸を隔てたなど見られるはずもないのだが、時おり硬くなるメリッタの声と、そこに滲む〝何か〟を抜かりなく拾わんと前のめりになっているわけだ。


「――お母さんは出てっちゃったけど、私は『八雲道場ここ』に残ったよ、メリッタ」

「えっ⁉ その声って……、ひょっとして未稲っ?」


 自身の携帯電話スマホを駆使し、通話相手メリッタ・カツォポリスの発言に紛れる欺瞞いつわりを黙々と洗い出していた未稲が口を開いたのは、八雲岳と表木嶺子の離婚を巡って会話が僅かに途切れた直後である。

 垂れ込めた沈黙に耐え兼ね、『八雲道場』からの出奔という通話はなしに加わること自体がおかしい〝立場〟も忘れて事情を説明しようとする藤太を制した恰好だ。


「お父さんよりお母さんより、誰よりも真っ先に私に声を掛けるべきじゃないの? 私を頼ってくれたら良いのにさ。私たちの関係って、そんなに浅かったっけ? メリッタが東京に来たときは私を、反対に私がアテネを旅するときはメリッタを、それぞれ助けるって約束したのにな~。私だけが大切にしてる想い出なんて間抜けの極みだな~」

「いや~! いやいやいや~! 『離れ離れになっても私たちは魂の姉妹』っていう誓いは一日だって忘れたコトがないけど、だからって――ううん、だからこそ未稲に甘え過ぎるのはお姉ちゃん的にダメなんだってば~。そもそも岳さんの頭越しに寄宿ホームステイの交渉だなんてMMAのリングだったら極悪なルール違反で一発退場のレベルじゃない」

「勉強熱心なメリッタなら『将を射んとする者はまず馬を射よ』って日本のことわざも知ってるでしょ? 『八雲道場ウチ』でお父さんに主導権なんかあったかな? 例え想い出は色褪せても、アタマに焼き付いて消えないっぷりだったと思うけど?」

「そりゃ確かに嶺子さんと未稲の言いなりだったよ? でも、切羽詰まってるって言ってもそこに付け込むような真似したら人間としておしまいだって。ちなみに一つのお節介焼きだけど、未稲が引用したのは日本じゃなくて中世中国の詩が元ネタだったハズよ」

「東洋のことわざの知ったかぶりをギリシャ人からダメ出しされる屈辱ッ!」

「父ちゃんの陰口叩いておいてェの屈辱もクソもあるもんか! オレだってまだ電話の前に居るんだぜ⁉ ヘタレじゃねぇよ! 家族に対して無限に大らかっつってくれ!」


 「師匠の心がだだっ広いコトを藤太おまえからも言ってやれ」と、本来は『八雲道場ここ』に居るはずのない愛弟子に自分を擁護するよう促そうとした岳を目突きで制したキリサメは、声にもならない悲鳴を巻き込みながら転げ回る巨体など一瞥もせず、テーブル上の携帯電話ガラケーと未稲の両方へ交互に首を傾げた。

 誰かを名前ファーストネームで呼び捨てにする未稲が何よりも珍しい。実弟おとうとひろたかに対しても敬称を用いているのだ。そして、にこそメリッタとの関係性が感じ取れるのだった。

 来日するたびに『八雲道場』に滞在していたのだから、未稲とメリッタの間に父親同士の関係とも重なるような絆が芽生えるのは自然の流れであろう。それだけに携帯電話ガラケーの傍らで二人の想い出話に耳を傾けていたキリサメは、自分のなかで膨らんでいく違和感を抑えられず、奇妙な〝何か〟を覗くかのような目を未稲に向けざるを得なかった。

 『八雲道場』で暮らすようになって五ヶ月が経とうとしているが、その間に姉妹も同然の友人が海外ギリシャにいるという話を未稲から聞いたおぼえがない。「自分たちの関係は浅かったのか」と問い詰める一言は、そもそも成り立っていないようにも聞こえたくらいだ。

 広報戦略を学ぶべく師事しているいまふくナオリは言うに及ばず、甲冑格闘技アーマードバトルつかよりや車椅子ボクシングのなしとみもちなど、彼女は自分の交友関係を家族に隠す人間ではない。

 『天叢雲アメノムラクモ』との対立関係が続く地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手であるかみしもしきてるとの交流すら憚らないのだ。キリサメからすれば、同じゲーミングサークルの仲間メンバーである『デザート・フォックス』への憧憬あこがれはもう少し抑えて欲しいくらいであった。

 ギリシャとペルーの差異ちがいは確かに大きいが、日本と異なる文化圏の出身者を迎え入れる上で、メリッタという存在を手掛かりにはしなかったのであろうか。少なくともキリサメは未稲が類例を振り返ったようには思えず、カツォポリス家が『八雲道場』にまで意図的に〝封印〟していたのではないかと勘繰り始めている。


「そもそもね、お父さんが受入先ホストファミリーシブるのはね、メリッタが来日するのと同じタイミングで旅行に出掛けるからなんだよ。そんな人の許可なんて要らないから来ちゃえ来ちゃえ」

オヤケツの穴が小せェってことを触れ回る為に、未稲おめーはそれを持ち出すかァ⁉ サークル活動のほうは今度のコトに一個も関係ねェぜッ!」


 すぐには激痛いたみが引かない為にまぶたを閉じたままの岳が裏返った声で娘たちの会話に割り込んだが、メリッタの留学期間序盤と彼の旅程が重なったのは紛れもない事実である。

 年に数回かつ不定期であるが、岳は『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長も含む全ての仕事を休んで一週間近い旅行に出掛けることがある。

 日々の激務を通じて澱の如く心に溜まった憂さを晴らそうというわけであるが、〝自分探し〟のように高尚なものではない。行き先も決めずに足の赴くまま自分のことなど誰も知らない町や村を流離さすらう風来坊のでもない。

 人里離れたキャンプ地や無人島などに男所帯で繰り出し、焚火を囲みながら正体をなくすまで酒を酌み交わす――釣りや登山などを交えながらも、基本的には酔い潰れることだけを目的としたかのような乱痴気騒ぎのサークル活動であった。

 愉快でれつで肝臓に良いとも言いがたいサークルの発起人は、岳と共に『新鬼道プロレス』のリングに立った親友の父親――作家にして映画監督のしのつなである。

 大雑把な旅程が招いた想像を絶する失敗を交えながら、キャンプの場景を面白おかしく綴ったしのつな随筆エッセイはベストセラーとなり、最盛期には社会人とその家族を中心に全国のファンの間で同様のアウトドアサークルが結成されていた。小難しく構えず頭をからにして〝楽しいこと〟へ飛び込む冒険心が大いに刺激され、日常生活で強いられている抑圧から解き放たれたわけだ。

 〝本家〟のサークル活動は一九六〇年代半ばから二〇一四年まで半世紀を超えており、発足当初のメンバーも現在いまではしのつなただ一人となっている。その発起人も今年で七〇歳なのだ。年齢相応の〝立場〟にる中高年がほんのいっときだけ社会性すら忘れて童心に帰ることの叶う〝場〟でもあり、四〇代半ばの岳でさえ旅仲間の中では最年少であった。

 旧態依然としたではあるものの、最年少だけに雑用係が割り振られ、来週月曜日の出発に向けた買い出しに朝から駆けずり回っていた為、ガレオンを訪ねようとするキリサメと藤太に同行できなかった次第である。

 玄関とリビングルームの間には壁一面という表現しか当てまらない量の缶ビールや日本酒などが並んでいる。『昭和』と呼ばれた時代には寝台特急でも無遠慮に開いていた大宴会は、時勢に逆らえず縮小を余儀なくされたが、それにも関わらず三分の一の酒が目的地到着までに空になってしまうのだ。

 毎回の恒例ながら廊下を埋め尽くした缶ビールのケースに絶句する未稲に対し、消化器内科・胃腸内科の医者が真っ青になりそうな飲酒量こそが心身の疲弊の証拠であると、岳は胸を張りながら笑って見せた。

 今回は瀬戸内海の無人島でキャンプを楽しむ段取りだ。その岳が出発した翌日に入れ違いの如くメリッタを乗せた旅客機が日本に着陸するのだった。アテネ国際空港を発ってイギリス・ロンドンのヒースロー空港を経由する一五時間超えの長距離飛行ロングフライトである。


「丁度、一〇年前の――二〇〇四年の夏の想い出は、今でも私の心でキラキラと光り輝いてるよ。初めてメリッタが『八雲道場うち』に泊まった夜のコトがね。あの日は外国から新しい友達が遊びに来るんだって、空港で待っている間もずっとワクワクしてたもん」

「あの日、着せてもらった浴衣は今も大事に仕舞ってあるよ。夜に未稲と一緒にやった線香花火は私にとって一生の想い出だよ。ギリシャのロケット花火とは似ても似つかないんだもん。……こんなに綺麗なモノが世界にあるんだって目が覚める思いで――日本の文化を一生の仕事にしたいと思ったきっかけなのよ、あの夜の花火は……」

「今年も花火をたくさん用意して待ってるよ」


 姉妹も同然の友人を心の底から歓迎する――と、口先では繰り返しながらも、未稲の目は少しも笑っていない。それどころか、一〇年前に興じた花火の想い出を紐解いた瞬間などは、傍らのキリサメにも懐古の情とは真逆であろうと一目で分かる想念でもって片頬の筋肉を引きらせていた。

 丸いレンズの向こうで一切の感情を凍り付かせた瞳と、〝カツォポリス家の娘〟に向ける温かな言葉は、矛盾の極致という一言を除いて表しようがない。を担う〝立場〟として最終的な決定権を持っている父親を押し退け、ついには己の一存で受入先ホストファミリーとなることをメリッタに約束してしまったわけだが、そこまで未稲を前のめりにさせたのは美辞麗句のように並べた友情とは正反対の衝動である。

 そのことを察していればこそ、彼女が紡ぐ一言々々がキリサメの耳にはおぞましいモノのように聞こえてならなかった。自分に〝人間らしさ〟を与えてくれた日の未稲からは想像できない一面とも言うべきであろう。

 藤太が『八雲道場』へ帰還した直後は、離れ離れの期間を挟んでも消え失せなかった慕情から随分とめかし込んでいた未稲であるが、緊張感はまでも持続せず、近頃は憧れの彼の前でも気の抜けた普段着である。

 今日もキリサメと同じ『ハルトマン・プロダクツ』のトレーニングパンツを穿いているのだが、〝天〟の気まぐれなのか、あるいは運命的な巡り合わせであったのか、に組み合わせたTシャツには「騙されるとわかっててノコノコついてきたクソ度胸に教育的指導」という文言フレーズが刷り込まれていた。


「……お父さんの腹が据わらなくて、本当にどうするの? メリッタからの着信にあれだけ盛大に狼狽うろたえたんだから、杖村さん――『MMA日本協会』の理事から打ち明けられたコトが念頭アタマにあったんだよね? だったら、もう待ったナシだって理解るでしょ? この電話が掛かってきた時点で、ライサンダー・カツォポリスがお父さんを――『八雲道場』を裏切ったのは確定。〝騙し討ち〟だってお互い様だよ」


 〝カツォポリス家の娘〟との通話を終えたのち、未稲は煮え切らない態度の父親を厳しく詰ったが、先程までの電話で語り合ったような美しい想い出や、姉妹も同然という絆を踏み躙られた憤怒いかりとも異なる〝何か〟にき動かされているのではないか――そのような疑念もキリサメのなかに湧き起こっている。

 未稲が意外と好戦的であることもキリサメは承知していた。格差社会の最下層で編み出された喧嘩殺法を彼女が初めて目にしたのは空閑電知との路上戦ストリートファイトであったが、ちゅうちょなく武器を取り、相手の命を姿に対して恐怖よりも好奇心が勝るのだから、同じ発想に至った『八雲道場』の〝軍師〟――ひろたかとの〝血〟の繋がりを感じずにはいられない。

 砂色サンドベージュの想い出の彼方から幻像イマジナリーフレンドの形で出現あらわれ、『闘争・逃走反応』に類される『スーパイ・サーキット』を制御不能の暴走状態に駆り立てんとする故郷ペルーの幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケに対抗心を剥き出し、既にこの世の存在モノではない彼女に向かって「負けたくない」とするような少女なのだ。

 防音効果の薄い木製のドア一枚では筒抜けにも等しく、向かい側の部屋で生活するキリサメも毎日のように聞いているが、主としてネットゲームに興じる最中、未稲は気に食わない事態に対して暴言を吐く悪癖がある。文章形式のチャット機能ではなく、直接的に言葉を交わすマイクの電源が入っていたなら、ゲーミングサークルの仲間メンバーから知性と理性と品性をまとめて疑われるような陰口とも言い換えられるだろう。

 その一方、『八雲道場』の活動報告を目的とした公式ブログや、短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSソーシャルネットワークサービスは舌禍で窮地に陥ることもなく運用できている。〝そとづら〟の良さもまた『天叢雲アメノムラクモ』の広報戦略を担ういまふくナオリの指導の賜物というわけだ。

 このような〝内に秘めた凶暴さ〟を差し引いても、電話の向こうのメリッタには視認することが叶わなかった未稲のかおは〝人でなし〟としか表しようがない。

 しかし、この局面に限ってはキリサメにとって何よりも頼もしい。寄宿ホームステイ先を変更せざるを得ない理由としてメリッタが述べた火事の真偽を暴こうとしたのも、実父の指示などではない自発的な行動であった。すぐさま〝反撃〟に転じるということがカツォポリス家を完全な〝敵〟と断定した証左であり、正面から対決せんとする覚悟の顕れというわけだ。

 事ここに至った以上、私情に惑わされて立ち尽くしている場合ではない――感情が凍り付いたままの瞳をもってして、未稲は旧友カツォポリスとの決裂という〝現実〟を岳に突き付けていた。


「ちィっと落ち着けって、おい! 〝騙し討ち〟って決め付けは幾らなんでも先走り過ぎだぜ! 知らねェ間に〝裏〟で動いてたアレコレには確かにムカつくけど、ライサンダーが『八雲道場オレら』を裏切ったっつうのも、今のところはあけ情報提供タレコミから膨らんだ想像でしかねェだろ? 確たる証拠もねェのに〝悪玉ヒール〟扱いはくねェぞ」

「うむ……、気付いておらんのかも知れんが、これは運命の分かれ道だぞ、未稲。踏み込んだら最後、二度とは後戻りできん。……『後の祭り』というモノは、決まっていっときの感情が引き寄せる。迂闊が悔恨に変わるきっかけも同じだ」

「……今、ツッコむべきじゃないのは理解わかってるんですけど、その台詞、とーさんだけは言う資格がないような……」

「節操という言葉を知らない進士氏の下半身はともかくとして、杖村氏の情報提供で得られた利点を最大限に生かす迎撃態勢をずは整えるとしましょう。みーちゃんが喰らわせてくれたも必ず後から効いてきます。〝流れ〟は僕らの側にあります」

「如何なる罵声も甘んじて受けれるのも罪滅ぼしと心得ているがな、しかしな、言葉の選び方と並べ方によってはな、〝自由奔放な種馬スタリオン〟という誤解を招き兼ねんのでな……」

「みーちゃんの言う通り、お二人とも認識が甘過ぎます。僕一人を標的まとに絞るだけなら構いませんでしたが、『八雲道場』にを送り込んでくる以上、八雲家とカツォポリス家の〝抗争たたかい〟です。『MMA日本協会』と『天叢雲アメノムラクモ』の〝代理戦争〟などと言っている場合でもありません。総力戦で迎え撃つ〝敵〟は誰か、目を逸らさないでください」


 未稲に続いてキリサメにまで旧友カツォポリスへの未練を断ち切るように強いられてしまった岳と藤太の師弟ふたりは、し口による回答の保留さえ諦めざるを得ないほどの困り顔を見合わせた。


じょうわたさんとの試合前もリングの〝外〟で小競り合いがあったけど、つるぎさんが合宿先を襲撃してきたのが可愛く思えるレベルの事態でしょ。『天叢雲アメノムラクモ』に追い出されそうな古豪ベテランが崖っぷちで踏み止まる為に新人選手ルーキーを潰しに来た――ライサンダーさんを〝敵〟と断定するのに理由が必要なら、だけで十分じゃない」

「……オレはそこまでライサンダーが追い詰められてるコトに気付けなかった自分てめーが情けねェんだよ。名ばかりの統括本部長は目も節穴と来たモンだ……ッ!」

「じゃあ、キリくんの選手活動を〝外〟から好き放題に利用されて平気なの? とーさんも相当なブチギレ状態で杖村さんの病院から帰ってきましたよね? ここで『八雲道場』が〝道〟を譲ったら〝次〟の悪だくみにも必ず担ぎ出されるよ! お父さんさ、義理人情に浸っていられる状況じゃないって本当に理解わかってるッ⁉」

「こうなった以上、〝裏〟で糸を引いている人間の思惑もろともライサンダー・カツォポリスの企みを叩き潰すしかありません。僕の経験上、半端な態度は〝敵〟に付け入る隙を与えるだけです。ましてやは油断した瞬間に相手の手のひらの上に乗せられて、そこから破滅まで真っ逆様ですよ」


 の命を奪った大規模反政府デモ――『七月の動乱』が発生した当日のことだが、キリサメはを裏舞台から扇動したテロ組織の拠点アジトに乗り込み、ペルー国家警察とも連携して〝騙し討ち〟を仕掛けていた。

 ペルー社会の暗部の調査に訪れていた日本人記者――ありぞのと共に試みたこの計略はえなくテロ組織に見破られ、次いで発生した戦闘が長引いた末、銃弾の餌食にされようとしていた・ルデヤ・ハビエル・キタバタケを救えなかった。幼馴染みの危機に間に合わないという最悪の悔恨を味わったからこそ、生半可を戒める声も強くなるのだ。

 日本MMAの黎明期から苦楽を共にしてきた戦友ライサンダー・カツォポリスに猜疑の目を向けざるを得ないことが苦しくてならない岳であるが、二人の子どもが説き聞かせようとする内容ことも分からないわけではなく、それ故に割り切れない感情を歯軋りで表すばかりであった。


「……本気の覚悟なら、俺にどうして止められようか……」


 双方の気持ちが察せられる藤太は、再びまぶたを閉じて重苦しい呻き声を洩らすしかない。

 日本MMAが最も輝いていた時代の想い出を振り返りながら、通話が終わった携帯電話ガラケーを両手で握り締め、実娘むすめ養子むすこの顔を順繰りに見つめた岳は、頭頂部よりやや後ろの位置で結い上げて先端が花弁の如く開いたまげを振り回すようにかぶりを振った。

 であるキリサメを筆頭に『八雲道場』の誰もがメリッタ・カツォポリスの電話をもっその父親ライサンダーが〝騙し討ち〟を仕掛けてきたと断定し、岳は『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体から共に日本MMAを支えてきたギリシャの戦友ともを〝敵〟に回す決断を迫られている。

 〝カツォポリス家の娘〟は二ヶ月にも及ぶ東京への語学留学に当たって『八雲道場』に寄宿ホームステイを依頼したが、その前に『MMA日本協会』の杖村理事から〝七月四日一八時に起きること〟を知らされていなければ、未稲も岳もメリッタの言行を疑わしいとは感じず、同じ〝騙し討ち〟で反撃を試みるような状況にも陥らなかったはずだ。

 前日三日の情報提供の際、キリサメは杖村朱美と握手を交わしたが、これは〝敵〟に先駆けて中長期的な戦略を練ることが可能という利点への返礼であって、感謝の気持ちというよりも皮肉に近い。

 『八雲道場』に掛かってきた一本の国際電話は『平成二六年台風第八号』がマリアナ諸島で変貌を遂げる前の熱帯低気圧にも等しい。『八雲道場』で俄かに吹きすさび始めた〝大型台風〟はこそが発端である。しかしながら、杖村の行動を混乱と厄災わざわいを招いた元凶として責めることも難しいだろう。

 のちの格闘技史には他でもない岳自身が来週になってくだんの大型台風に翻弄されることが記されており、これを思えば何もかもが不思議な巡り合わせとしか表しようがなかった。



                     *



 くまもとけんやつしろ――武家屋敷の斜向かいに位置する『グラウエンヘルツ法律事務所』は、その日も定められた通りに一三時から午後の業務を開始した。

 平日の昼ということもあり、所属弁護士の二人――しょうもりたかごんげんぱちろうは既に出掛けており、後者は離婚調停の審理の為に熊本地裁に入っている頃合いだ。

 四段組の収納トレイや家族写真が映し出されるデジタルフォトフレームなどを並べた執務用のデスクに肘を突き、自らの唇を親指でもって弾き続ける所長――何とも面白くなさそうな表情かおのアルフレッドも、本来は事務所に籠り切りではない。

 毎日、飽きずに決まってスモークサーモンサンドで腹を満たし、紙巻きタバコで一服したのちに依頼人のもとへ向かうのだが、七月四日の午後に限っては予定を入れず、事務員にも面会や電話を暫く取り次がないように指示していた。

 壁際に幾つも立ち並んだダイヤル錠のロッカーが圧迫感を醸し出す一室にるのは、左手の薬指に同じ指輪をめた夫婦ふたりのみ――ワインレッドのシートカバーが張られた椅子に腰掛け、デスクを挟んで向かい合うアルフレッドとジャーメインである。

 前者は法律の専門家として、後者はムエ・カッチューアの師範として日本格闘技界に関わっているが、MMAにいては希更・バロッサの両親という認識が広まっていることであろう。ジャーメインに至ってはバロッサ家総帥の代理として『天叢雲アメノムラクモ』が誕生する瞬間にも立ち合い、前回の岩手興行では愛娘のセコンドも務めている。


「――先刻から何を不貞腐れておるのかと思えば、妻が里帰りの間に男友達と食事したというだけで盛大にへそを曲げるとはな。器の小ささは大昔から知っておったが、いやはや珍しく余の予想を超えてくれて愉快極まりないぞ。本日このときより名を〝リリパット・ライアン・バロッサ〟と改めるがよかろう」

「煩い、黙れ。別にメイの浮気を疑っているわけではない。俺が想像していた以上に話が盛り上がったようで、それが何と言うか、……寂しいだけだ」

「聞いてよ、ゼラール。ご飯行ったのはヴィンセントよ? アルってば自分の親友にヤキモチ焼いてんのよ? 密会ふたりきりじゃなくて向こうの奥さんも一緒だったのに。愛が強過ぎてたまに重いのよねぇ。ていうか、だってアル自身の差し金なのよ。根深く『NSB』に付き纏う独禁法違反疑惑を連邦取引委員会FTCがどうニラんでるのか、弁護士仲間に探りを入れてこいってね。スパイの真似事させられたあたしのほうこそ拗ねても良いんじゃない?」

「その疑惑が『NSB』に与える打撃ダメージは、から吊るし上げを喰らうのとは桁が違うのだぞ。万が一の場合にはお前こそジュリアナの――親友の為に泣くだろう? 愛する妻にはでも笑っていて欲しい。それが俺の生きる道だ」

「こやつめ、抜かしたな。愛さえ唱えれば間諜扱いで妻をFTC関係者に差し向けた言い訳になるというその思い上がり、くの如き有りさまを日本では『へそで茶を沸かす』と申すのであろう? 成る程、思い違いだけは〝ブロブディンナグ〟並みぞ」


 所長室には互いを愛称ニックネームで呼び合う夫婦が二人。しかしながら天井に跳ね返る声は三つ。その上、誰も彼も英語を紡いでいた。

 机上の電話ビジネスフォンは受話器を取らないまま通話できるよう設定されており、ジャーメインから『ゼラール』と呼ばれたもう一人の声はより聞こえてくるものであった。液晶画面ディスプレイに表示されているのもワシントンDCとの通話を示す電話番号だ。

 主に同業者から〝ランボー〟などと物騒極まりない異名で呼ばれてしまうようなアルフレッドの為人ひととなりを揶揄したのは、ゼラール・カザンという故郷アメリカの友人である。

 カリフォルニア州第一九選挙区から選出された三期六年目の与党下院議員――それが通話の相手が背負う肩書きであった。

 他の連邦議員と同様にゼラールも会期中は議事堂が所在するワシントンDCで暮らしており、この電話も下院議員会館の事務所から掛けているわけだ。

 七月四日はアメリカ合衆国の独立記念日である。

 この時期は全米が華やいだ雰囲気で満たされるのだが、政治には一日たりとも空白期間が許されないようにカザンも家族と祝日を楽しむことは難しかった。妻も政治家である。二一時過ぎにリンカン記念堂の反射池リフレクティング・プールから二〇分に亘って打ち上げられる名物の花火を眺めるゆとりもあるまい。

 恨みがましく思っているわけではないが、一つの事実としてアルフレッドも実母ははと独立記念日を祝った想い出が皆無に等しい。『湾岸戦争』や『イラク戦争』など二〇世紀末以降のアメリカの主な軍事作戦で重要な役割を果たした戦争のエキスパートであり、陸軍参謀総長を経て現在いまは統合参謀本部議長を務めているのだ。

 熊本とワシントンDCには一三時間もの時差が横たわっている。わざわざ時計を確認せずとも日付が変わって独立記念日を迎えたことは、議員事務所の壁をも貫いて送話口に飛び込んだ喧騒からバロッサの夫婦にも感じ取れた。

 太陽が頭上まで昇れば自身の主催するイベントが始まる。軍の慰問に力を注ぐアメリカ最大のプロレス団体によるチャリティー大会とも提携したもので、グアテマラからの〝亡命レスラー〟として話題となった『アグリッポ・フルーツランチ』も参戦するそうだ。

 リングの上で披露するスピーチの原稿を通話しながら確認しなければならないほどの多忙であると、昂揚が伝わってくる声でゼラールは語っていた。

 彼自身、現在いまえきとして陸軍に籍を残す少佐であるが、様々な事情から戦場を離れた将兵が安心して生活できるよう支援する下院退役軍人委員会に名を連ねており、くだんのイベントも一八世紀の『独立戦争』から二一世紀の『対テロ戦争GWOT』までアメリカにける傷痍軍人の歴史を見つめ直すという内容ものであった。

 目の守護聖人の教えを広める伝道所にして、カリフォルニア州サンノゼの教区教会である『ミッション・サンタクララ・デ・アシス』を預かる神父にも招待状を送ったが、同じ七月四日にルワンダで執り行われる式典への出席が先に決まっていたそうだ。

 神に仕える前のことであるが、『ベトナム戦争』当時のホワイトハウスで国家安全保障担当次席補佐官を務めた人物であり、アフガンの兵士と向き合った従軍神父チャプレンと共に戦争の〝現実〟を若者たちに説いて欲しかった――と、ゼラールは前置きとして述べていた。

 このように一秒でも惜しい状況でありながら、のほうが他国で暮らす旧友に連絡を入れたのだ。しかも、通話の際にはジャーメインを同席させるようにあらかじめ電子メールで指定してきたのである。

 事務員から冷やかされたが、アルフレッドは最愛の妻ジャーメインと睦み合いたいが為に所長室から他者を締め出したわけではない。他国の下院議員との通話に相応しい状況を整えたのだ。


「余の招きに『クノク・フィネガン』も応じてくれたのだがな、明日の打ち合わせを兼ねたひるの席にて『NSB』の行く末を酷く憂慮しておったのよ。正義と蒙昧を履き違えた愚者に神聖なる夢をけがされたのはこれで二度目。愚かしき選民意識の成れの果てを打ちはらい、復活の名乗りを上げて間もなくの凶事によってたびこそ泡沫うたかたの如く割れて裂けるのではないか――芽吹いたばかりの新しき夢が花咲く前に潰えるのは余も口惜しいでな」


 ゼラールが名前を挙げたクノク・フィネガンとは、先天性の病気で両肘・両膝の下が無いパラアスリートである。

 心身のハンデを持つ者と持たざる者が一緒になってスポーツに興じるアメリカで生まれ育ったフィネガンは、子どもの頃から取り組み続けたレスリングでは四肢が自由に使える選手とで闘い、ハイスクール時代にアマチュア王者チャンピオンを戴冠していた。

 重量挙げウェイトリフティングで一〇〇キロ以上を持ち上げ、更には生まれ持った肉体からだのみで五八九五メートルにも及ぶ険しい山道を這って進み、キリマンジャロ登頂を成し遂げている。

 立ったスタンド状態で闘うことが不可能にも関わらず、四年に及ぶ練習トレーニングを重ねて二〇〇九年にはアマチュア大会でMMAデビューまで果たし、両足でマットを踏み締めることが可能な対戦相手との身長差を利用して攻防を組み立てたのである。フィネガンはブラジリアン柔術も極めており、脇で挟んで頸動脈を絞め込むことで素早く意識を刈り取れるわけだ。

 不撓不屈ネバーギブアップを座右の銘とするフィネガンは、「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」と提唱した〝パラリンピックの父〟ことルートヴィヒ・グットマンの理想の体現者であり、政界進出以来、傷痍軍人の支援政策に携わってきたゼラールにとって欠くべからざる賓客ゲストの一人であった。

 筋書きシナリオに沿うエキシビションマッチだが、ゼラールの呼び掛けに応じたプロレスのチャリティー大会にも名乗りを上げ、〝亡命レスラー〟のアグリッポと対戦予定である。

 フィネガン自身も傷痍軍人の心へ寄り添う活動に取り組んでおり、アフリカ最高峰という険しい山への挑戦も、アフガンで戦没した兵士の遺灰を天国に手が届きそうな場所から散骨するという使命ミッションの為であった。

 不撓不屈ネバーギブアップの挑戦はテレビ番組で幾度も取り上げられ、MMAデビューに至る道程は映画にもなっている。イラクの戦場で心身に深い傷を負い、自殺寸前まで追い詰められた兵士がフィネガンの存在を知って生き直す力が甦ったという逸話は、全米に知れ渡っている。

 互いの活動が結び付き、下院退役軍人委員会に身を置くゼラールと交流を深めたのだ。

 プロ・アマの差異ちがいこそあれども、総合格闘技MMAけるパラアスリートの先駆けと呼ばれるフィネガンは、同競技がパラスポーツの一種ひとつとして発展していくことを期待している。MMA用に改良されたスポーツ義足を装着して『アメリカン拳法』をふるうシロッコ・T・ンセンギマナが八角形の試合場オクタゴンに立つ『NSB』は、その夢を必ずや叶えてくれると信じており、視覚が正常に働かない観客への対応に力を尽くしてきた現代表のイズリアル・モニワとも協力し合うことを約束している。

 それ程までの思いを傾けている『NSB』の現状をフィネガンが案じていないはずもあるまい。ありとあらゆる格闘技を許されざる人権侵害と一方的に決め付け、その根絶を呼び掛ける思想活動――『ウォースパイト運動』の一部過激派の手によって、とうとう興行イベント会場を脅かさんとする銃撃事件が起きてしまったのだ。

 今年の七月四日は『NSB』の興行イベント開催日と重なっており、独立記念日の特別大会が予定されていたのだが、テロ対策という危機管理上の問題が解決に至らなかった為、イズリアルも中止という無念の決断を下さざるを得なかった。

 昼食を共にした際、クノク・フィネガンは大会中止そのことを酷く心配していた――と、ゼラールは言い加えた。つまりはが電話の理由というわけである。


をわざわざ呼び付けたのは『NSB』絡みということか。……先ほど話題にした独禁法違反の疑惑ことは伏せておいてやってくれ。要らない心配が増えては気の毒だ」


 納得したように鼻を鳴らしたアルフレッドは、日本に帰化した弁護士とアメリカの下院議員という互いの立場を超え、ゼラールとは〝腐れ縁〟としての頻度で連絡を取り合っており、最愛の妻ジャーメインが銃撃事件直後に国際線の旅客機へ飛び乗って『NSB』所属の友人を訪ねたことも近況報告の範囲で話してある。

 些か迂遠ではあるものの、ゼラールはクノク・フィネガンに成り代わり、血みどろの凶行によって『NSB』が被った痛手ダメージをジャーメインに確かめようとしているわけだ。

 連邦議員の情報網ネットワークでも利用すれば、MMA団体の内情などは苦労もせずに調べられるだろうに――と、半ばまで述べたところでアルフレッドは自らの言葉を飲み込み、電話の向こうでその意図を察したゼラールから「小賢しきことよ。人の情けなど産廃処理施設に投げ棄てた貴様も家庭を持って少しは気遣いを心得たと見える」と笑われてしまった。

 被疑者全員死亡という最悪の結末を迎えた銃撃事件の余波は、半月が経過した現在いまも際限なく広がっている。『NSB』が本拠地を置くネバダ州の体育委員会アスレチックコミッションは、およそ半月後に再発防止を目的とした〝公聴会〟の実施を発表している。当然ながら興行イベントに携わった団体代表・上級スタッフ、思いがけず巻き込まれた選手も聴取の対象である。そのような時節に連邦議員が『NSB』の周辺を嗅ぎ回れば、からぬ誤解を招くのは間違いない。

 次期大統領選挙への出馬表明を控えた今、不用意な行動は支持率に響く――冗談めかして高笑いするゼラールであったが、実際には公聴会への影響を考慮して『NSB』に対する接触を控えたのであろうと、長過ぎる〝腐れ縁〟のアルフレッドには理解わかっている。

 MMAという〝スポーツ文化〟の行く末を占うとまで報じられた公聴会だ。支持者にさえ反感を買い兼ねない傲岸不遜な立ち居振る舞いでありながら、政治的判断は決して誤らないと、アルフレッドはのことを評価していた。


「……あのテロに遭遇してしまった全ての人たちの〝痛み〟が一日でも早く癒えることを願わずにはいられないわ。あたしが最初に見舞った友人は――この間のジュリアナは、一九九六年のフィーよりずっと落ち着いていたように見えたわね」


 最愛の夫アルフレッドに続いて旧友ゼラールの意図に気付いたジャーメインがその返答の代わりとして例に引いた『フィー』とは、アメリカを代表する喜劇女優コメディエンヌのフィーナ・ユークリッドであった。

 全米屈指の視聴者数を誇るトーク・バラエティー番組――『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』の司会進行係はアルフレッドの幼馴染みにして三者共通の友人であり、同時に一九九六年アトランタと二〇〇〇年シドニーの二大会にアメリカ代表として出場したオリンピック選手でもある。

 アトランタ大会ではメイン会場内の屋外コンサート施設を狙った爆弾テロが発生し、死傷者一〇〇名を超える大惨事となった。

 この時点で女子射撃競技は全て終了しており、フィーナ自身も現場に居合わせたわけではないが、他国の選手と友情を確かめ合った〝平和の祭典〟を暴力でけがされてしまった心の痛手ダメージは深く、事件直後の取材に対して「七月二七日が競技日だったら私は銃爪ひきがねを引けなかったかも知れない」と憔悴し切った様子で述べていた。

 ほんの一年前――マサチューセッツ州ボストンの市民マラソンを襲った爆破事件など、大規模な競技大会を標的とするテロの悲劇を教訓として立て直しを図ったイズリアルは、当夜の内に所属選手・団体関係者の護衛やカウンセリングといった支援体制を整え、同時に『NSB』の熱狂的なファンの暴発を食い止めるべく公式サイトに動画ビデオ投稿アップロードし、〝暴力〟の応酬では何も解決しないと全米に訴えた。

 迅速な対応が功を奏したのであろう。ジャーメインは『NSB』の〝絶対女王〟にして古くからの親友――ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンを訪ねたのだが、動揺こそあれども二度と立ち直れないほど決定的に精神こころし折られてはいなかった。

 数日間、彼女ジュリアナの自宅に滞在して様子を窺っていたものの、銃撃事件による〝心の傷トラウマ〟や〝再体験症状フラッシュバック〟に苦しむ様子はなかった。無論、親友に対しても〝全て〟をさらけ出せるわけではないが、傍らに寄り添う夫や愛息むすこがジュリアナを支えることであろう。


「ゼラール・カザン個人としては、テロに巻き込まれた人たちの心理的な痛手ダメージが何よりも心配なんでしょ。……ゼラールが気に掛けていた『アイシクル・ジョーダン』と同じ悲劇が繰り返されたらどうしようって、あたしもの機内でずっと不安だったもの」

「取るに足らぬ妄想とはいえ、余の心のり方を勝手に決め付けるとは身の程知らずの極みぞ、ジャーメイン・バロッサ。夫婦揃って何と小賢しきことよ」


 ジャーメインが躊躇ためらいがちに口にしたアイシクル・ジョーダンとは、かつて『NSB』で闘ったMMA選手であり、八角形の試合場オクタゴンに挑む以前まえと同じアメリカ陸軍に属して『アフガン戦争』にも従軍した〝帰還兵〟である。

 退役軍人委員会であるゼラールが復員を支援たすけた一人であるが、現地民間人への誤射事件に遭遇して以来、自責の念から長らく患い続けてきた心的外傷後ストレス障害PTSDによって追い詰められた挙げ句、前代表フロスト・クラントンに発作を抑えられる即効性の強い薬物を強いられ、依存の末に過剰摂取オーバードーズで急逝してしまったのだ。

 彼の絶命が前代表フロスト・クラントンの主導によるドーピング汚染を終焉へと導いたのだが、禁止薬物に手を伸ばしてしまった原因を知る者たちは「けがされたMMAを救う為に、天より遣わされた聖人」などという〝外〟の声に首を頷かせることは出来ない。

 それ故にジャーメインは精神こころを正常に保っていてくれた親友ジュリアナの姿を振り返るだけでも安堵の涙が双眸に溢れそうになるのだが、誰もが銃撃事件の前と変わらずにいられたわけではないのも〝現実〟である為、熱い一雫は頬を滑り落ちる前に引っ込んでしまう。

 『天叢雲アメノムラクモ』にける統括本部長のような役割を『NSB』で担うジュリアナがジャーメインに語ったところによれば、一部のスタッフや観客は軽度とは言いがた精神こころ痛手ダメージが強いストレス症状として確認されたそうだ。

 『ウォースパイト運動』の過激派が徒党を組んで銃を乱射したのは、八角形の試合場オクタゴンが設置された興行イベント会場そのものではなく、『NSB』に一二〇〇〇人収容の屋内アリーナを提供した統合型リゾートの駐車場であったのだ。

 平和な夜が絶え間ない銃弾によって引き裂かれる瞬間を目の当たりにした者の比率は、むしろ『NSB』の観客以外のほうが多いくらいだ。〝心の傷トラウマ〟を負ってしまった被害者の正確な人数かずは、団体代表イズリアル・モニワどころか、捜査当局でさえ把握し切れていないという。

 暫しの沈黙を挟んだのち電話ビジネスフォンのスピーカーから小さく鼻を鳴らす音が聞こえてきた。そこにあらわれたゼラールの気持ちはバロッサの夫妻にも伝わっており、ジャーメインは溜め息の一つすらけないまままぶたと口を同時に閉ざした。


「政治家としてのお前には――には、今度のテロがアメリカ国内の過激派に与える影響こそ憂いの種なのだろう? 昨晩、電話したときはお互いに銃撃事件には触れなかったが、『ウォースパイト運動』は国家安全保障上の脅威だと、情報分析室シチュエーションルームの机を叩きながら大統領に訴える母の姿が目に浮かぶ」

「我が上官殿はアメリカという国家への挑戦を断じて許さぬ御仁であるからな。相も変わらぬ貴様の小賢しき振る舞い、統合参謀本部議長ではないが捨て置けぬこともお見通しと驕っておるようだな。しからば、探りを入れるような物言いなど時間の無駄ぞ」


 ビデオ通話ではないので電話を掛けた先の様子はゼラールには見えない。それ故にアルフレッドは最愛の妻ジャーメインの傍らに立ち、労わるようにして左右の肩へと手を添えた。彼女が椅子に腰掛けたままでなければ、背後から抱き締めたことであろう。

 ゼラールに対しては、個人の感情とは切り離した領域で働く政治家としての思考かんがえに踏み込んでいく。

 アメリカ国内が顕著であるが、全世界に散らばった『ウォースパイト運動』の思想活動家は先鋭化に歯止めが掛からないのだ。

 〝IT社会の寵児〟と呼ばれた『サタナス』による大統領専用機エアフォースワンへのサイバーテロが最悪の事例と誰もが考えていたが、バージニア州工科大学の銃乱射事件をも上回るアメリカ史上最悪の銃犯罪が格闘技を根絶せんとする過激思想のもとで起きてしまったのである。

 当初は憶測の域を出なかったのだが、自らも現場に居合わせ、までも鼓膜から消え去ることのない数多の慟哭と発砲音にき動かされる形で収監先のフォルサム刑務所へと乗り込み、本人への直接取材を敢行した格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルの記者――マリオン・マクリーシュの手によって、この凶行テロは『サタナス』の意を受けたものであることが暴かれている。

 犯人グループと接触した形跡が確認できない為、『サタナス』がでテロに関与したことは立証が不可能に近い。既に国家反逆罪などに問われている〝魔王〟の罪状を上乗せすることも叶わず、仲介役を果たしたとおぼしきシルバーマン弁護士の首級くびすられずに終わる有りさまであった。

 アメリカの司法制度の限界を嘲笑う〝完全犯罪〟のように、己まで辿り着く道筋を断ち切った上で酸鼻を極める地獄をこの世に作り出せることが問題の根幹ではない。指導者を仰ぐのではなく、個々の活動家が組織的に連帯していないことが『ウォースパイト運動』の特徴であったはずだが、今や〝魔王サタナス〟の目配せ一つで格闘技を標的とするテロが起きてしまう状況なのだ。

 そして、は『サタナス』の意思とは無関係に〝同志〟たちを暴走に駆り立てる。マリオン・マクリーシュがフォルサム刑務所を訪れた日に一部の受刑者が徒党を組んで暴動を起こしたのだが、これは刑務官たちへの〝抗議〟ではなく、ボクシングを通じた更生プログラムの協力者である元ヘビー級王者チャンピオン――ハナック・ブラウンが攻撃対象であった。

 規模と状況は違うが、マリオン・マクリーシュは『ウォースパイト運動』の凶行へ立て続けに二度も遭遇したわけである。

 格闘家どもは皆殺し――憎悪の雄叫びを繰り返す暴動は言葉による説得では鎮まらず、刑務官側が発砲を余儀なくされる事態にまで発展していた。ボクシングという〝暴力〟で国家をした元ヘビー級王者チャンピオンを直接的に狙ったものである為、またしても『サタナス』の画策であろうと疑われたのだが、これは彼女にとっても不測の事態であった。

 強い影響を与えていたのは間違いないが、ただでさえ攻撃的に先鋭化していた過激思想が刑務所という閉鎖空間の中で共振と膨張を繰り返し、その果てに破裂した次第である。

 『サタナス』が存在し続ける限り、いずれフォルサム刑務所全体が『ウォースパイト運動』に取りかれることであろう――重罪犯の収監先が〝魔王〟の宮殿に作り変えられてしまう可能性を危惧しながら、マクリーシュ記者は格闘技雑誌上での報告を結んでいた。


「軽犯罪程度に留まっていた抗議活動を本物ガチのテロにまで悪化させたクセして、『格闘家から痛い目に遭わされた人生の補償を丸ごと引き受けましょう』なんて、自作自演マッチポンプ以外の何だって言うのよ。政府のほうで資金源を差し押さえてしまえば食い止められるのに」

「億万長者にしては随分としみったれた〝財テク〟だよ。こんなカルト気取りがカイペル家の末路かと思うと、厭味をねる気も湧かないな」


 『サタナス』の本名がエッジワス・カイペルであり、同じ家名ファミリーネーム母親ワーズワスが一九八四年開催のサラエボ冬季オリンピックにアメリカ代表として出場したフィギュアスケート・女子シングルの選手であることも、マクリーシュ記者は当該記事の中で強調していた。

 スポーツを通じた国際交流と相互理解の素晴らしさを肌で感じ、その夢の舞台であるサラエボが紛争によって破壊される悲劇を目の当たりにした母親ワーズワスまで洗脳しておきながら、『サタナス』は〝IT長者〟として手に入れた全財産を投じて、〝格闘技の被害者を救済する基金〟を設立すると宣言した。

 『NSB』の興行イベント開催地である統合型リゾートに偶然たまたま宿泊していて銃撃事件に巻き込まれてしまった負傷者や、殉職した警察官もの対象に含むと、『サタナス』の担当弁護士を通じて発表されたが、アルフレッドは腹立たしげに鼻を鳴らしながら偽善以外の何物でもないと一言で切り捨てた。

 ジャーメインが指摘した『サタナス』の自作自演マッチポンプに苛立っただけではない。〝平和の祭典〟の一員であったワーズワス・カイペルは一人娘が企てた大統領専用機エアフォースワンへのサイバーテロに協力した直後、夫と共に命を絶ったのである。


「ボクシング産業がアメリカの政財界に与えた有害な影響を主題テーマにした論文は、一人の格闘家として我が身を省みるきっかけになったんだけどね……。他のスポーツにどんな不利益が出たのかも具体的にまとめられていたし。それを書いたドクター・バンバンが『サタナス』と同じ刑務所に収監されていたのは驚いたけど、……この間の暴動を煽ったコトに関しては意外でも何でもないのよね」

「……看守が射殺したのは最悪だったな。おそらく弁護士を通して例の論文をバラ撒いてくるはずだが、公権力の横暴が無条件で気に食わない人間の何割かはそれだけで『ウォースパイト運動』に。偽善の被害者救済基金と組み合わされば、『サタナス』のほうこそ〝平和の使徒〟と錯覚するような風潮が生まれる。……感情に囚われるがゆえ人間という生き物は、大して理性的ではないからな」

「ドクター・バンバンの場合、重罪人の刑務所にブチ込まれた理由が最低最悪じゃない。あんな鬼畜が〝真実〟の先駆けみたいに持てはやされるようなコトになったら世も末よ。あたしなんか、二度も名前を言っちゃって舌がけがれた気分だもん」

「人心が著しく乱れたときを狙って薄汚い策をぶつけるのはにも貴様の夫が好みそうではないか、ジャーメイン・バロッサ。罪深き死者を等しく憐れむ人の情けすら、隣の男のには大局を操る布石にしか見えぬのであろうぞ」

「煩い、黙れ」


 格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルに掲載された『サタナス』関連の記事をジャーメインが読んだのは、故郷アメリカに滞在している最中であった。便へ乗り込む前にライアン家――義理の両親にも顔を見せたのだが、統合参謀本部議長フランチェスカ・ライアンも食事の席でアルフレッドと全く同じ憂慮ことを繰り返していた。

 『ウォースパイト運動』という過激思想の伝播と先鋭化は、『サタナス』という一個人たったひとりの影響で進行度が異常な値を示している。〝国家安全保障上の脅威〟が〝世界の敵〟に変わるまで大した時間は掛かるまい。

 アメリカから欧州ヨーロッパに視線を巡らせてみれば、今年の五月にデンマーク最古の造船所で発生した大火災に辿り着く。

 〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の開催も可能と喧伝されるほど大規模なスポーツ施設を備えた世界最大級の豪華客船『オアシス・オブ・ザ・デューン』が溶接作業中の過失によって焼亡の危機に陥ったのだが、格闘競技の施設が充実していることを理由に『ウォースパイト運動』の過激活動家が放火に及んだという。


「確か『格闘技の聖家族』だとか呼ばれるオムロープバーン家は、自国オランダの格闘技規制撤廃に四苦八苦しているのだったな。地球儀のアメリカ大陸を睨みながら、自分の身に置き換えて胃を痛めているのではないか? 『NSB』が立て続けにテロに遭った〝事実〟を利用して、『ウォースパイト運動』とは別の〝アンチMMA〟が勢い付くことだろう」

「今は被害者NSBへの同情が大勢を占めていようが、さてそれもまで続くか。MMAこそが過激思想の暴走を誘発する原因であり、が存在する限り、無関係なアメリカ国民まで脅かされる――と、反対派アンチが言葉巧みにテロの因果関係をすり替え始めたなら『NSB』の前身を潰した法規制とは比較にならぬじょうらんが全米を舐め尽くすであろうよ。〝アンチMMA〟最後の砦たるニューヨーク州議会が号令を掛けるかも知れぬな」

「テロに対する怒りを反転させるわけか。安全確保という名目は聞こえが良い分、反対派アンチにとっては狙い目だ。MMA興行イベントが開催されるだけで治安が乱れるという大義名分が立てば、強引なやり方もる程度は正当化されてしまうからな」


 テロは破壊工作のみで完結するわけではない。むしろ、心理的な動揺に滑り込んでくる悪しき影響への対処こそが本番なのである。思想の伝播による模倣犯の発生や、テロが社会全体に与えた効果を利用して己の目論見を果たさんとする第三者の介入を野放しにしていては秩序など成り立たなくなる。

 それ故に弁護士アルフレッド連邦議員ゼラールの声が揃って固くなったのだ。


現在いまもMMAの法規制を解かないニューヨークだからって〝アンチMMA〟に乗っかるほど間抜けじゃない――と信じたいわね。そうやってMMAの封殺を企むとしても、オランダ行政と格闘家たちの衝突よりタイの事情のほうが反対派アンチの手口を読み解き易いんじゃないかしら。大切な国技――『ムエタイ』の純度を保つのが法規制の大義名分だもの」

「ムエタイをボクシングに、格闘技としての純度をMMAとの興収格差に置き換えてみれば〝アンチMMA〟の〝顔〟も見えて来ような。夫に染まって皮肉も達者になったようではないか、ジャーメイン・バロッサ」

に染められたのは口の悪さじゃないわよ。ムエタイの場合は伝統と歴史を守る為の決断だけど、アメリカで起きようとしている事態ことは違うわ。心からボクシングを愛する一方で、MMAを苦々しく思っている人も居ないハズがないわよ? ……でも、そういう人は間違ってもテロになんかしない」

「今月半ばに開かれる例の公聴会、スポーツメディアは『MMAの行く末を占う』と触れ回っているが、案外、誇張ではないのかも知れないぞ。結果如何で欧米諸国のMMA規制も加速し兼ねない。日本も無関係でいられるはずがない。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアという盛り上がりも虚しく、来年にはキサラうちの子もシンガポールの例の団体に移籍しているかも知れないな」

「……キサラあの子の将来を考えるなら、シンガポールの『至輪パンゲア・ラウンド』と『天叢雲アメノムラクモ』のどっちが良いのやら。かと言って両親あたしたちの考えを押し付けるワケにもいかないしねぇ……」


 三者の共通認識であるが、利害関係からMMAという〝スポーツ文化〟の衰退を望む者たちにとって、この状況は千載一遇の好機でもあるのだ。

 無論、ジャーメインが指摘したようにボクシング界の反応も一様ではない。

 MMAに対して痛烈な批判を繰り返してきたカービィ・アクセルロッド――かつてプロボクサーとしてヘビー級のチャンピオンベルトを腰に巻いた上院議員も〝自国産ホームグロウンテロ〟には軽率な発言を控えているが、支持基盤であるボクシング関係者から圧力を受ければ相応のを下さないとも限らない。

 アメリカスポーツ界の象徴とも呼ぶべきボクシングと、歴史の浅い総合格闘技による利権争いは根が深い。ゼラールも鼻を鳴らしながら言及したが、『NSB』の前身――ペンシルベニア州で一九八〇年に初めて試みられたMMA大会コンテストが競技としての危険性を根拠とする法規制によって解散を余儀なくされたのは、莫大な利益を生み出していた〝ボクシング産業〟に対する優遇措置の結果という疑念が未だに払拭されていないのである。


「特に現在いまのアメリカボクシング界は、ようやく巡ってきた挽回の好機に国外そとから見ても浮足立っているのが分か。その期待を一身に背負ったボクサーが――『ガスディスク』その人が『NSB』を狙ったテロへの批判声明を堂々と出す辺り、がMMAにおくれを取った理由が透けて見えるというものだな」

はハナック・ブラウンの教育の賜物だよねぇ。既に四冠達成で、ヘビー級統一王座も含めた六冠達成がいよいよ射程距離に入った『ガスディスク』を〝王者の中の王者キング・オブ・キングス〟に導きたいなら、何より自分たちこそがボクシングに誠実でなきゃいけないのに」


 そこに込めた感情は皮肉のアルフレッドと憂慮のジャーメインで正反対ながら、夫婦ふたりの口が揃って名前を挙げたのは同じ人物である。プロデビューからこんにちに至るまで全戦無敗を誇り、ボクシングの未来を担う存在として格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルでも毎号のように特集が組まれているプロボクサーであった。

 その本名フルネームを『フェイサル・イスマイル・ガスディスク』という。

 近年のアメリカ・プロボクシング界は、各階級のチャンピオンベルトの大半が国外から挑戦してきたボクサーの腰に巻かれていた。往年かつてのヘビー級王者チャンピオンに襲い掛からんとした刑務所内の『ウォースパイト運動』は、「ボクシングは国技ではない」と怒号を吐き散らしたというが、それでもアメリカを代表する格闘競技スポーツであることに変わりはなく、〝ボクシング産業〟の面にいても自国出身の王者チャンピオンが待望され続けたのである。

 アメリカ人ボクサーが精彩を欠くという焦燥感も手伝って、MMAの成功に対する逆恨みのような空気が渦巻いていたわけだが、閉塞した状況に差し込む希望の光となったのがガスディスクであったのだ。

 二〇〇一年九月一一日に発生した『アメリカ同時多発テロ事件』では、犯人と無関係にも関わらずアラブ系アメリカ人という出自のみで理不尽な偏見に晒され、これを原因とする傷害事件で刑務所に収監されてしまった――と、バロッサの夫婦も承知している。

 更生プログラムの一部として組み込まれていたことからボクシングと出逢い、また技術指導の為に収監先を訪問していたハナック・ブラウンに類い稀なる潜在能力ポテンシャルを見出されたその天才は、約六七キロを上限とするウェルター級から出発して四階級の王者チャンピオンを次々と撃破し、近々五本目のチャンピオンベルトを掴む為の大勝負タイトルマッチへ挑むことになっている。

 闘うたび肉体からだも大きく育ち、鉄拳パンチの威力が増していくガスディスクのことを格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルは現世代の〝最強〟と断定しているが、これを誇張と批判する声は殆ど聞こえなかった。特に近年はMMAに一歩及ばない状態が続いていたPPVペイ・パー・ビューの売上も、ガスディスクの試合であれば互角に競い合えるのだから当然であろう。

 プロボクシング界からすればMMAに対抗する最強の〝切り札〟であるが、ボクシングそのものを純粋に愛するガスディスクはスポーツ利権を最優先させる人々と相容れず、意見をたがえた挙げ句、に入ってもいない内から既に二度もリングに背を向けていた。

 えて〝ボクシング産業〟の観点で捉えるならば、収支の計算が乱されるくらい安定性を欠いた〝異端児〟であるが、彼を後見するヘビー級の伝説的王者チャンピオン――ハナック・ブラウンがを容認している為、引退と復帰の反復横跳びを誰も阻止できないのだった。

 そして、そのような心根の持ち主であればこそ、如何なるテロ行為も絶対に許せないのである。『ウォースパイト運動』を批難する声明を彼が真っ先に発したことを考えれば、身の危険を秤に掛けて態度が鈍化した人々はテロリズムへ屈したにも等しかろう。

 先日、フォルサム刑務所で一部の受刑者たちが起こした暴動は、その背景に『ウォースパイト運動』への〝汚染〟があり、同地を訪れていたハナック・ブラウンが明確な攻撃対象であった。万が一、生涯の師匠が傷の一つでも負わされていたら、ガスディスクは四階級制覇という地位も投げ捨て、報復の為に〝塀の中〟へと殴り込んだことであろう。

 栄光の王座にりながら、アメリカ・プロボクシング界最大の〝商売敵〟である『NSB』を公然と激励したガスディスクの大器うつわをゼラールも高く評価しており、「生ある間にハーンズとレナードが〝過去の神話〟になるとは思わなんだ」と一等大きく高笑いした。


「目先の利益に惑わされ、己のを焼け野原に変えようなど愚の骨頂ぞ。文化も経済も片一方に偏れば、ゆくゆく社会全体の停滞を招く。ほんの小さな澱みが清流をけがし、腐らせるようにな。〝自由〟に対する冒涜以外の何物でもあるまいて。フェイサル・イスマイル・ガスディスクの爪の垢を煎じて飲ませてやったところで、ような者どもには何一つとして効くまいよ」


 娘の希更が生まれる前には日本に帰化したとはいえアメリカで生まれ育ち、〝自由〟の意味を正負両面で学んできた夫婦アルフレッドとジャーメインは、ゼラールの言葉に強く深く頷き返した。


(日米MMAの共倒れも困るが、せめてイスラエルに――に余波が及ばないで欲しいものだ。ようやくまとまったばかりだぞ。これ以上の不安材料は遠慮したい)


 その一方で、アルフレッドは旧友ゼラールの憂慮を受け止めつつも、『NSB』を血でけがした凶事とその事後処理が自身の顧客に波及し得る影響を脳内あたまのなかで計算していた。

 日本にける〝格闘技バブル〟――即ち、二〇〇〇年代半ばの黄金時代からMMAのリングで闘い続けてきたギリシャ人選手のライサンダー・カツォポリスである。

 現在も『天叢雲アメノムラクモ』と契約しており、愛する家族を養う為にはMMA選手として報酬ファイトマネーを稼ぎ続けなくてはならないのだが、日本最大の規模であるが故に心身が悲鳴を上げるような試合が組まれ、更には古豪ベテランを露骨に冷遇する樋口体制では、一人娘が大学を卒業する前に金属を埋め込んでようやく体重が支えられる足のほうがたなくなるであろう。

 精神力だけでは覆せない現状を打開する為、ライサンダーは一試合当たりの報酬ファイトマネーが低くなろうとも故障の悪化と引退を一日でも長く先延ばしに出来そうなMMA団体への〝下降移籍〟を選択した次第である。

 傷だらけの肉体からだを引き摺ってようやくリングに立っているライサンダーにとって、完治しがたい故障を抱えたままでも耐えられる試合が所属先を選ぶ上での前提条件であった。

 本来、〝プロ〟の競技選手アスリートは自身の実績に合わせて、より高い等級ランクの大会などを目指していくものだが、ライサンダーの場合は正反対である。『天叢雲アメノムラクモ』よりも遥かに小さく、己の身の丈に合った規模のMMA団体に活路を求めたわけだ。

 格闘家・武術家から相談を持ち掛けられることも多いアルフレッドであるが、他団体への移籍の支援などは請け負う機会も皆無に等しい。選手と所属先の間に立つ代理人スポーツエージェントを法律の専門家が務めることは多いものの、労使交渉に不慣れであった弁護士がこれを引き受けた結果、労働協約という制度自体の信用性を失墜させ兼ねない大問題に発展した故郷アメリカのプロフットボールの事例も知っている為、『グラウエンヘルツ法律事務所』では業務として取り扱わないようにしてきた。

 しかし、相談内容そのものは〝スポーツ法務〟の範疇には含まれる為、法律事務所の業務から逸脱しているわけでもない。変則的な依頼とはいえ、引き受けた以上は樋口郁郎から妨害工作が入ろうとも返り討ちにするつもりであった。

 その依頼人ライサンダーから一人娘が『八雲道場』に寄宿ホームステイするという連絡が入ったのは、ゼラールとの通話を開始はじめる直前である。はつまり、〝暴君〟から対戦を強要された新人選手キリサメ・アマカザリとライサンダーの家族が同じ住宅すまいで生活を共にするという意味だ。

 日本時間の七月四日一三時過ぎにいては公式発表もなく、『八雲道場』には対戦依頼オファーすら持ち掛けられていないはずだが、今後はという状況になる。そこに穏やかならざる気配を感じてしまうのは、弁護士でなくとも当然であろう。

 父親ライサンダーがMMA選手としての生き残りを賭けて、受入先ホストファミリー一員ひとり試合たたかいを挑まざるを得ない瀬戸際まで追い詰められた状況ことをメリッタ・カツォポリスは知っているのか。


(指し手によって盤面が荒れたときこそ、俺の出番と心得ているのだがな……)


 依頼人の利害を第一に考えて適切な助言を与えるのも弁護士の役割であるが、主導権を掌握して行動を支配するわけではない。当然ながら一人娘の語学留学などは依頼内容に含まれておらず、『在野の軍師』といえどもカツォポリス家の内情に指図できる立場でもないのだ。しかし、がライサンダー当人の希望を絶ってしまう危険性を孕む場合は、ほぞを噛むような気持ちが抑えられなかった。

 自分のあずかり知らないところで依頼人が暴走し、その混乱が敗訴を招くという苦い事件も経験している。同時に大切な娘を慈しむ気持ちも父親として分かち合えるからこそ、アルフレッドは眉間の皺を増やしてしまうのだった。


「とうの昔に捨てた母国の騒乱に野次馬根性を丸出しとは大した余裕ではないか。日本そちらもアメリカに負けぬほど物騒な事態ことになってきたと、余の耳にも入っておるぞ」

「何がどう物騒なのかは分からないけれど、ゼラールのほうこそユーそうじゃない。日本こっちに野次馬根性を出しながら務まるなら、あたしも下院議員を目指せば良かったわよ」


 ゼラールが掴んだという情報が『天叢雲アメノムラクモ』ひいては樋口郁郎に対する熊本武術界の〝挙兵〟であれば、最愛の妻ジャーメインが目を丸くするほどにはアルフレッドは意外と思わなかった。何しろ県を挙げてそうじょう事件を起こそうと企んでいるのだ。オリンピック・パラリンピックの開催国ということを考えれば、紛れもなく〝国家安全保障上の問題〟である。

 確かに通話相手ゼラール・カザンは他国の連邦議員だ。しかし、彼の人並外れて優れた〝耳〟が海外の治安問題を聞き漏らすはずもないと、二〇年を超える付き合いから確信していた。


(……ゼラールともあろう男が〝あのわっぱ〟の異能ちからに脅威を感じるとも思えないが……)


 比喩でなく本当に人間という種を超えたのだから当然であろうが、渡海したジャーメインが親友ジュリアナから聞いた話によれば、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリが初陣プロデビューのリングで解き放った異能スーパイ・サーキットは『NSB』の内部なかでも大きな注目を集めているそうだ。

 希更むすめのセコンドに付く為、同団体の岩手興行に赴いたジャーメインは危うくリング禍を招くところであった『スーパイ・サーキット』を現地で目の当たりにしている。主催側の事後対応にける不手際も含めて、その異能ちからは欧米ほど過激化していなかった日本国内の『ウォースパイト運動』を凶行に走らせる引き金ともなり得る――と、彼女ジャーメインは熊本へ帰り着く前から懸念を示し続けていた。

 今の日本格闘技界にいて、『スーパイ・サーキット』に勝る物騒な事態ことはあるまい。


「黙りこくって妄想に耽っているということは、『ロンギヌス社』で開発途中の試作銃を含む武器・弾薬の流出が起きた一件、大間抜けにも知らぬようだな、アルフレッド・ライアン・バロッサよ。例の探偵社も儲けにならぬ話は耳に入れぬと見えるわ」

「……今、何と言った? 『ロンギヌス社』で何があったと……ッ?」


 やがてゼラールの口から語られたのは、『スーパイ・サーキット』を例に引いた皮肉でも浴びせられると身構えていたアルフレッドにとって全く想定外のものであり、ジャーメインと顔を見合わせながら、夫婦揃って呆けたように口を開け広げてしまった。

 『ロンギヌス社』とはイタリアにいて古い歴史を持つ軍需企業である。

 二〇一四年七月現在、アルフレッドに弁護士として生きる道を開いた恩人は同社で首席法律顧問を務めているのだが、ゼラールから明かされたような事件がマスメディアで報じられた記憶はない。日頃から追い掛けている海外のニュース番組や新聞でさえ一言も触れていなかったのだ。

 イタリア軍にも銃火器を提供している『ロンギヌス社』から武器・弾薬が〝外〟に流出ながれたのであれば、それは同国イタリア内部なかに留まらない国際的な大事件であり、緊急という二字をもって報じられないわけがなかった。

 日本のマスメディアなどは『NSB』の興行イベントを狙った銃乱射事件と強引に結び付け、無責任な憶測を垂れ流したことであろう。そのように醜悪なニュースに接したなら、アルフレッドも全身を無数の虫が這い回るかのような嫌悪感と共に記憶したはずだ。


「親バカ二人が愛娘むすめの武勇伝をペラペラとひけらかしておらねば、余も聞き逃したかも知れぬがな。貴様らの可愛い一人娘を討ち取らんとした『E・Gイラプション・ゲーム』なるアマチュア団体と抗争を構えておった一味の端くれが密造銃のとがで警察に召し捕られたのよ。正確には〝善意の協力者〟が制裁を加えた上で捜査当局に突き出したと聞いておるがな」

「流出したのは試作銃だと言ったな? 開発中の……。まさか、その密造銃とやら――」

「押収物の中には一枚の紙切れも含まれておったのよ。無論、それは『ロンギヌス社』の試作銃を完成させるのに欠かせぬ設計図――専用の機械など無くとも部品などを加工できるよう独自に手が加えられておったそうだが、さて……?」

「……ゼラールがあたしたちにわざわざ忠告してくれるってコトは、その密造銃や設計図が見つかったのって、もしかして……」

「下手人を捕らえた〝善意の協力者〟は、『ジョウ』なる格闘大会の出場者と噂されておるぞ。その開催地はタウン――日本文化を誤解した欧米人の想像力を更に間違った方向へ駆り立てる地名なまえだとは思わぬか?」


 アルフレッドとジャーメインの夫婦ふたりが悲鳴にも近い声色で「タウン」と復唱したのは当然であろう。愛娘むすめの希更は熊本から上京して声優を生業としているのだ。

 ちょうは首都随一の繁華街である。つまり、愛娘むすめの暮らす東京が密造銃の脅威に塗り潰されるかも知れないのだ。標的まとが絞られている熊本武術界の〝挙兵〟とは比べ物にならない危機的状況であった。


「……トーキョーに銃社会の構図が持ち込まれるとでも言うのか……ッ⁉」

「その前にちょっと待って……さっきの事件って――」


 瞬く間に顔から血の気が消え失せたジャーメインは、壁際に立ち並ぶロッカーの上に放り出されていたリモコンを今にも取り落としてしまいそうな手付きで操作し、所長室の片隅に設置されているテレビの電源を入れた。

 焦燥感が指先まで伝達つたっている為にリモコンのボタンを幾度か押し間違え、数局のチャンネルを経たのち、ジャーメインは最後に公共放送に辿り着いた。日曜日の夜八時には一年間に亘る大型連続時代劇で日本列島を熱く沸騰させる同チャンネルであるが、平日の昼は一三時五分からトーク番組を毎日生放送している。

 しかし、重大な事件が発生した場合には直前のニュース番組を延長し、としての役割を果たすのだ。今日もその慣例に則り、一時間ほど前に京都のおん界隈・さかじんじゃ付近で一人が死傷した銃撃事件を報じ続けていた。


「――改めてお伝えします。本日正午過ぎにきょうひがしやまおんで、不動産賃貸業経営者の男性一人が散弾銃のようなもので顔面を撃たれ、搬送先の病院で死亡が確認されました。容疑者はすぐに現場を立ち去りましたが、事件発生の前後に付近を歩いていた方は不審な人物を誰も目撃しておらず、何かが破裂したような大きい音が聞こえた直後、被害者の男性は突然倒れたとのことです。近隣にお住まい皆様は不要不急の外出を控えて欲しいと、京都府警は繰り返し呼び掛けています。観光でおでに皆様も最大限にご注意ください」


 極限的な緊張状態であろうとも動転しないよう訓練された男性アナウンサーが努めて冷静に、感情を抑えて淡々と述べていく目撃情報をアルフレッドが奇妙に感じたのは、父親が故郷シカゴの寡黙な銃職人ガンスミスであった為である。

 実際に触った経験のない人間が想像するよりも、拳銃の性能を十全に使い切ることは難しい。そもそも散弾銃は狙撃に全く不向きであり、標的とも十分に接近する必要がある。警戒されないようすれ違いざまの一瞬で撃発したことも間違いないが、強烈な反動ブローバックが働くので姿勢も崩しやすくなる。狙いを外す確率が高まるだけでなく、日常生活と大きく異なる動作うごきにならざるを得ない為、その不自然さが周囲まわりの人間の目にも記憶にも留まるわけだ。

 加えて散弾銃は隠し持って扱えるような大きさではない。監視カメラの死角やひとの少ない状況を狙うとしても、おんまつりの只中という京都で誰一人として射殺の瞬間に気付かないという事態が起こり得るとは、アルフレッドにはどうしても考えられなかった。被害者は無数に飛び散る弾丸によって顔面を吹き飛ばされているのだ。

 素早く立ち去ってしまえば発砲時に拡散される硝煙の影響は最小限に抑えられるが、これを平然とやってのけるとすれば、『デラシネ』とも呼ばれる裏社会の殺し屋くらいであろう。攻撃範囲の広い散弾銃とはいえ、移動を伴いながら確実に狙いを定めるという高度な技術は一朝一夕の練習で体得できるものではない。

 アルフレッドのなかに生じた違和感が全て的中しているとすれば、銃撃犯は拳銃自体の性能によって〝プロ〟にも匹敵する射撃能力ひいてはを得たことになるのだ。


「……ゼラール。その密造銃の――いや、『ロンギヌス社』の〝試作銃〟の特徴は?」

「日本は〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟を開催している場合ではなくなる――この前置きが欲しかろう」


 アルフレッドであれば、に必ず辿り着くと信じていたのであろう。電話の向こうのゼラールが答え合わせのように一等大きく鼻を鳴らした。

 相談窓口を兼ねた事務室と所長室を隔てるドアの真上には一枚の額縁が飾られていた。「私ならこうする」と、たった一言の英文が記された色紙が収めてあるのだが、控えめに添えられた署名サインがアルフレッドの恩人による直筆であることを示している。

 思考かんがえごとが行き詰ったとき、彼はこれを見つめて「恩人ならば、どうするか?」と自問して打開策を捻り出してきたのだが、今、この瞬間ときばかりは色紙に目を向けるだけの冷静さも欠いており、真隣となりのジャーメインと片手の五指を絡め合うしかなかった。



                     *



 敵将と首級くびを狩り合う為に南北朝時代のかっせんで生み出された〝戦場武術〟――『しょうおうりゅう』の現宗家であるあいかわじんつうがバロッサの夫婦と同じ表情かおで絶句したのは、断続的なきりさめによって足元の草花や土が僅かに湿り気を帯びた一五時少し前のことであった。

 黄色いシートのローチェアから望む荒川のせせらぎで危うく押し流されそうになってしまったが、折り畳み式のテーブルの上にる作業で用いる砂時計を立てたおりみつ――親子ほど年齢が離れた『しょうおうりゅう』の師範は、地中海の軍需企業から流出した武器・弾薬が東京に辿り着き、その銃口が自分の所属する地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』に向けられている危険性を示唆したのだ。


「……意味が分からない……」


 晴れ間もない曇天の下に吐き出された神通の一言には、複数の意味が込められていた。

 そもそも、亡き父親の幼馴染みと自分のバイクが互いのテントを挟んで隣同士に並んでいることが神通には意味不明としか表しようがない。

 七月四日は鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』での勤務も、大学の講義もなかった為、単騎ひとり愛車バイクを駆ってさいたまけんよりまちのキャンプ場に赴いたのだ。

 渓谷の景色が雪化粧を纏い、ぶきまで凍り付く二月のおくではろくしゃくふんどしで滝に打たれてきたのだが、『しんげんこうれんぺいじょう』と呼ばれる山梨の隠れ里で生まれ育った神通は、都会の喧騒に煩わされない静かな時間を定期的に持たないと精神こころの調子が乱れてしまう。

 金曜日とはいえ、祝祭日に比べてひとが少ない平日をわざわざ選び、かわべりにテントを張ることの出来るキャンプ場までやって来たわけであるが、ライダースーツのまま片膝を突いてロープ留めの金具ペグを地面に打ち込み始めて間もなく、遠い日の記憶をまさぐられるような排気音が近付いてきた。

 聞き間違いと思えなかったのは、全く同じ爆音を唸らせながら大型バイクに打ち跨る女性が脳裏に甦ったである。認めるのは甚だ悔しく悔しいが、その凛々しい姿に憧れた気持ちを捨て切れなかったから自動二輪免許を取得したのだ。


「偶然ね。まさか穴場で古馴染みとバッタリ出くわすなんて。私の〝運命の人〟はじゃなくて神通のほうだったのかしら」


 果たして、神通が視線を巡らせた先には、脳内あたまのなかで思い描いた通りの女性ひとった。言わずもがな、おりみつである。

 他の利用客の邪魔にならないようエンジンを停止させ、間隔を置いて設営されたテントの脇をすり抜けながら大きな荷物が積載された愛車バイクを押し進めるみつは、この上なく辟易うんざりとした顔で立ち尽くす神通を愛想笑いの一つもなく瞳の中央に捉えていた。

 息苦しさ以外には〝何〟も感じない雑踏で疲れた精神こころを整え直す為に一人だけの時間ソロキャンプを求めたというのに、何よりも神経を逆撫でする存在が前触れもなく割り込んできたのだ。

 現在の居住地であるきちじょうから七〇キロ以上も離れた遠征先ということもあって簡単には撤収できず、金属製の骨組フレームを連結させる音が鼓膜を打つたびに殺意と呼べるくらい物騒な気持ちが膨らんでも誰にも責められまい。

 白々しく偶然を装っていたが、神通が荒川河川敷のキャンプ場に訪れることを〝何らかの手段〟で把握していたのは間違いない。可能な限り、接触を拒みたい相手に七月四日の予定など伝えるはずもなく、幾らでも設営区画が空いてるのに、わざとらしく真隣となりにテントを張り始めたみつのことが神通には悪質極まりないストーカーとしか思えなかった。

 尤も、みつが神通の行き先に飄然と出現あらわれるのは今日が初めてではない。『ないかくじょうほう調ちょうしつ』――〝ない調ちょう〟に所属する国家公務員であり、他人ひとの足取りを追跡することも含めて隠密行動に長けているのだ。

 神通自身、光海の要請を受けて〝民間にける善意の協力者〟として〝内調〟の任務に携わることが少なくない。現在いまも〝国家安全保障上の脅威〟と断定された『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行に関わる情報収集をいた。

 〝内調〟は二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックに向けたテロ対策も任務に含んでおり、『天叢雲アメノムラクモ』の樋口代表を〝国家安全保障上の脅威〟と目している。

 日本格闘技界を実効支配する〝暴君〟は、傍若無人な振る舞いによって次回興行先である熊本県の武術家たちを丸ごと敵に回し、〝挙兵〟まで招いてしまったのだが、その鎮圧を『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体と〝黒い交際〟があった指定暴力団ヤクザに依頼する事態こそ最悪の筋運びと想定し、これを未然に阻止するべくみつは文字通りに東奔西走していた。

 〝民事介入暴力〟を図らんとする指定暴力団ヤクザと熊本武術界の間でかっせんさながらの武力衝突が起きようものなら、日本国内で活動する『ウォースパイト運動』の先鋭化まで連鎖し兼ねない。格闘技を人権侵害とす過激思想の基準に照らし合わせるならば、は先般の『NSB』と同水準のテロ攻撃をもってして滅ぼすべき〝社会悪〟なのだ。

 政府にいて国防の要を支える『国家安全保障局』が設置されたのは、今年――二〇一四年一月のことである。半年と経たない内に国内で不穏分子が懸念される事態となった以上、国内外で展開される情報戦の一翼を担い、また任務の上でも『国家安全保障局』と密接に関わる〝内調〟が樋口郁郎を巡る緊張状態に最大限の警戒を払うのは当然であった。

 ホスト国としては〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟が標的であるのかは関係なく、国内で無差別テロの兆候が確認された時点で敗北――神通もそのようにみつから諭されていた。

 神通からすれば〝内調〟ひいては政府のに協力する義務など無いが、『ウォースパイト運動』が過激化すれば、異種格闘技戦の先駆けであり、その手で拓いた〝道〟をこんにち総合格闘技MMAに繋げた鬼貫道明や、己の〝半身〟にも等しいキリサメ・アマカザリを始めとする友人たちもテロ攻撃の対象に加えられてしまうだろう。

 想像するだけでも身震いが止まらなくなる末路をみつに突き付けられた為、不本意ながら〝内調〟の要請に応じたのである。『E・Gイラプション・ゲーム』の所属でありながら、神通は『天叢雲アメノムラクモ』の関係者に友人・知人が多い。近しい人々にスパイ行為を仕掛けることへの葛藤を押し殺しつつ、自らの〝立場〟を利用して熊本興行の内情を調査するわけだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体もろとも日本MMAの黄金時代を崩壊させた指定暴力団ヤクザ――『こうりゅうかい』の実働部隊を率い、『昭和』と呼ばれた時代の〝闇〟で戦った神通の父――あいかわは、数年前に熊本出身うまれの拳法家と〝あい〟を繰り広げた末に絶命している。

 その拳法家が『天叢雲アメノムラクモ』を迎え撃たんとする〝挙兵〟にせ参じたというまことしやかな風聞が流れ、これを聞き付けたの盟友が仇討ちの好機とばかりに動き始めるなど情勢は複雑化の一途を辿っており、みつにさえ全容を掴み切れていない。

 そのみつは互いの声が過不足なく聞き取れる位置に折り畳み式の赤いロッキングチェアとテーブルを設置し、自分が寝起きするテントで普段着に替えると、荷物の中から年季の入ったコーヒーミルを取り出した。同じくらい古めかしいサイフォンが隣に並んだ瞬間、神通は我知らず喉を鳴らしていた。

 手ずから香ばしい豆をき、アルコールランプを用いるサイフォンによって時間を掛けて抽出されたコーヒーは、「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように清く、愛のように甘い」というタレーラン――ナポレオンの政敵としても名高いフランスの伝説的政治家――の至言ことばを思い浮かべてしまうほど美味い。

 神通がコーヒーの味を覚えたのは小学校中学年の頃であるが、それは机上の道具を用いてみつが振る舞ってくれたものであった。初めての体験で舌が肥えてしまった為、以降はどのようなコーヒーを飲んでも物足りなく感じていたのだ。

 机上に置かれたカップは二人分であった。次いで送られたみつの目配せに前のめりとなりながら頷き返した神通は、長い付き合いの為にまで見透かされているのが悔しくてならなかったが、それでも抗えないのが〝想い出の味〟というものである。


「折角、携帯電話スマホを渡したのに満足に起動すらしていない様子ね。料金は〝内調こちら〟で持つし、る程度は自分の用事で利用つかっても構わないと言っておいたでしょう。公私混同を許さないクソ真面目も譲りで悪くないけど、もう少し図太くなるだけで、今の三倍は人生で損しなくなるわよ」

「……成る程、確か携帯電話スマートフォンにはGPSという機能がありましたね。でわたしがにいるのか、逐一確認していましたか。犬笛どころか、発信機ではありませんか。もしかして盗聴器も仕込まれているのでは?」

「相変わらず人聞きが悪いわね。さっきも言ったように単なる偶然よ。コンクリートジャングルに疲れて自然が恋しくなっただけ。格好の穴場と聞いて愛車バイクを飛ばしてみたら、おそらく同じ気持ちの顔馴染みと出くわした――それだけのことよ」


 コーヒーミルのハンドルを回す指使いに見惚れてしまった己自身に顔をしかめながらも、おりみつがキャンプ場にまで出現あらわれたのは任務上の情報交換が目的であろうと神通は推し量っていた。

 普段も上映中の映画館やカラオケボックスなど他者ひとから聞き耳を立てられない場所で密談しているのだ。平日の昼下がりという人影がまばらなキャンプ場にも同じ条件が当てまるだろう。目の前を流れる荒川も土日であれば親子連れの水遊びで賑わうはずだが、今日は人の声よりせせらぎのほうが大きい。

 そこに混じるのはアルコールランプで熱せられた球状のフラスコから上部のろうへガラス管を遡った水蒸気がコーヒーを絞り出していく音と、近くの森から流れ込んでくる気早な蝉の控えめな鳴き声であった。

 今月半ばに未稲と出掛けることになったので、『天叢雲アメノムラクモ』と熊本武術界の対立にける『八雲道場』の動向はその折に探りを入れる――と、内偵の進捗をただされたときには回答するつもりであったのだが、身構えていたところに当のみつから告げられたのが『ロンギヌス社』の銃器流出事件である。

 イタリアの軍需企業で起きた不祥事と日本で暮らす〝一般人〟に接点などあろうはずもなく、驚愕よりも当惑のほうが大きい神通は「意味が分からない」と呟くしかなかった。


「つい先日、神通あなたの友達の友達が勤め先――というよりちょうの〝裏切り者〟に全治半年以上のを加えた上、新宿署の敷地内に転がしていった一件は耳に入っているわよね? 未だにマスコミ非公開だけど、『E・Gイラプション・ゲーム情報が届いたのではないかしら」

みつさんが仰っているのはのことですね。友人というか、『E・Gイラプション・ゲーム』の〝同僚〟ですよ。そして、友人の友人は『しゃ』――足による〝あて〟の稽古相手だと、から話だけは伺っています。『サバット』を極める為に本場フランスで武者修行した使だとか」

「あら、意外。同じちょうではないけれど、『ダイニングこん』とは目と鼻の先という立地なのに『ホスト格闘技』を観戦したことはなかったみたいね」

「夜叉美濃本人よりも現在いまはサバットの蹴り技で討ち取った相手のほうが問題でしょう。ご明察の通り、半グレ集団に命じられて密造銃に関わっていたことは『E・Gイラプション・ゲーム』でも把握しています。新聞の一面トップにならなければおかしいような大事件なのに、どの局のニュースでも一言も触れなかったのは、でしたか……」

「わざわざ可愛げのない言い方を選ぶんじゃないの。『進行中の捜査に差し障る為、現時点でマスコミに提供できる情報ナシ』ということよ。……場合によっては日伊の外交問題にまで発展し兼ねないのだから慎重を期すのは当然でしょう?」


 ろう内部なかに竹べらを差し込み、必要な時間を砂時計で確かめながら、香ばしい粉末と湯を繊細な指使いでかくはんしていく最中にもみつの情報提供は続く。

 神通が名前を挙げた『しゃ』とは、しん宿じゅくちょうで開催されているホスト格闘技の興行イベント――『じょう』にいて、MMAとキックボクシングという両方のルールで活躍する花形選手エースである。

 同地で軒を連ねるホストクラブを代表して腕自慢たちが出場し、普段の接客とは異なるかおで観客を魅了するのがホスト格闘技だ。ラウンド間にスポーツドリンクの代わりとしてカクテルを飲み干すなど型破りな趣向も話題を呼んでいた。

 その出場者である夜叉美濃も当然ながらホストであり、国内外の来訪者からアジアで一番と謳われる繁華街の中で際立った賑わいを見せる『躑躅つつじさきやかた』でも花形エースであった。

 些か物々しいが、くだんのホストクラブにける従業員の呼び名は、戦国乱世にいのくにを治めたたけ家の家臣たちに由来していた。『夜叉美濃』もの虎ことたけしんげんが誇る最強軍団の一角を担った猛将にあやかったものである。

 みつも神通も『夜叉美濃』という通称なまえを口にするたびに複雑な表情を浮かべるが、『しんげんこうれんぺいじょう』が故郷であるのだから無理からぬことであろう。二人が生まれ育ったのは、近隣の大国ともしのぎを削って歴史に〝最強〟の二字を刻む武田家三代――のぶとらしんげんかつよりの進撃を支えた古い武芸の道場がひしめき合う秘境なのだ。

 『夜叉美濃』という異名の〝本来の持ち主〟であるはらとらたねは、のぶとらしんげんの二代に仕えた功臣であり、『しんげんこうれんぺいじょう』と称しながら武田家より時代ときを遡っていのくにに根付いていた二人の祖先とも同じかっせんを駆け巡ったはずである。

 だが、現在いまはホストの呼び名にこだわっている場合ではない。猛将・はらとらたねの異名を現代に受け継いだホスト格闘家が勤めホストクラブとして叩きのめした裏切り者が『E・Gイラプション・ゲーム』に大いなる厄災わざわいをもたらそうとしているのだ。

 くだんの人物は銃器密造の容疑で警察から追われる身であり、以前の勤め先であるホストクラブ『躑躅つつじさきやかた』の顧客を脅して逃走に協力させていた。その潜伏先に夜叉美濃が踏み込み、半死半生の状態で新宿署に身柄を引き渡した――誰もがこれで終結すると思っていたのだが、裏切り者の犯罪は〝氷山の一角〟に過ぎなかった。


「……マスコミにも明かされていない情報がわたしの耳にも入ってくるのは、ちょうの裏切り者が『E・Gわたしたち』と対抗戦を共催する地下格闘技アンダーグラウンド団体に逃げ込んだから――例の設計図や密造銃がその団体の中で共有されている可能性は十分に高いと思います。……そこにみつさんが首を突っ込んでくる意味が分かりません。〝ない調ちょう〟と警察庁が緊密な関係ということはわたしも承知していますが、さすがに越権行為と咎められるのでは?」

「私だって『E・Gあなたたち』の相手が真っ当な地下格闘技アンダーグラウンド団体なら無粋な横槍は控えたわ。だけど、そうではないでしょう? 正真正銘の〝組織犯罪予備軍〟よ。対抗戦の成り行き次第では新宿署が押収した物と同じ種類タイプの密造銃を持ち出すかも知れない。あるいは『ロンギヌス社』から持ち出されたまま回収されていない〝試作銃〟のほうを……」


 二人の間でも認識が共有されているように、ちょうから追放された裏切り者が身を寄せたのは『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』という地下格闘技アンダーグラウンド団体であった。

 同じ地下格闘技アンダーグラウンドに分類されながらも、危険行為を除いた〝全て〟が解放される〝実戦〟さながらの〝バーリトゥードなんでもアリ〟形式の〝正統後継〟を掲げて「強くなること」を純粋に追い求める『E・Gイラプション・ゲーム』とは異なり、『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』の側は〝競技団体〟のたいを成していない。

 抗争状態にある非行少年グループの代表者たちを集め、複数同時対戦バトルロイヤルを行わせることもある。それどころか、武器の使用までする有り様であり、主催者の思い付き一つで出場者の負担を度外視した試合が強行されてしまうのだ。

 違法行為の数々は〝格闘大会の試合動画ビデオ〟と称して『ユアセルフ銀幕』で公開され、醜悪極まりないことに大きな反響を呼んでいる。

 出場するだけでも注目を集められることから、歪んだ自己顕示欲の持ち主が格闘技未経験にも関わらず参戦し、大怪我を負う事例も増えている。大会出場権が決定される公開形式のオーディション企画でも候補者たちが罵声の浴びせ合いから乱闘騒ぎを起こしたが、そのような動画ほど再生回数が跳ね上がるのだ。

 社会通念に反した振る舞いを面白おかしくはやし立てるSNSソーシャルネットワークサービスの〝声〟は、徐々に需要と供給の関係性を帯び始め、団体の過激化を促進させるという悪循環であった。

 団体代表も所属選手も、試合の内容や勝敗には最初から関心がない。対戦相手を挑発する大言壮語ビッグマウスなどで目立ち、視聴者を自身の動画チャンネルに誘導して再生回数を伸ばすことしか考えていないのである。

 本人が出場を希望したのか、親の承認欲求を満たす為に利用されているのかは定かではないが、中学校に進学あがるか進学あがらないかという子どもを血みどろの潰し合いに押し上げんとする鬼畜の所業も漏れ聞こえてくる。次世代の命をいけにえとして差し出し、動画再生回数に応じて還元される利益カネにありつこうというわけだ。

 みつが「真っ当な地下格闘技アンダーグラウンド団体ではない」と切り捨てた瞬間とき、神通も首を頷かせることを躊躇ためらわなかった。

 『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』を運営しているのは、非行少年グループと暴力団ヤクザの邪悪な部分を掛け合わせたかのような半グレ集団である。承認欲求に餓えた選手に快楽を与えつつ、話題性によってもたらされる動画収益を〝元締め〟が吸い上げる構図であった。

 後遺症やそれ以上に深刻な事故の予防を最初から放棄して強行される全ての試合が半グレの取り仕切る賭博ベッティングの対象であり、試合場の〝外〟では八百長を強いる脅迫や、賭け金を巡る傷害事件なども後を絶たない。

 ちょうの裏切り者も、地下格闘技アンダーグラウンド団体というよりを束ねる半グレ集団に助けを求めたと表すのが正確に近いのであろう。そして、その弱みに付け込まれて銃器密造を命令された――みつが明かしたのは現時点で〝ない調ちょう〟が掴んでいるであった。

 〝ホスト崩れ〟と呼ばれる〝身分〟になった直接的な原因は麻薬クスリであるが、その入手先がくだんの半グレ集団であることも判明している。実刑を免れない犯罪へ追い立てておきながら、警察に突き止められるや否やかくまいもせず全責任を押し付けて見放したそうだ。

 悪魔の群れとの戦いに『E・Gイラプション・ゲーム』は臨もうとしている。何処かへ飛び去ったのか、力尽きて木漏れ日の下にちたのか、にびいろの空を賑わせていた気早な蝉の鳴き声は絶え、荒川のせせらぎが嵐の前の静けさのように感じられた。


「……〝試作銃〟を模倣した物と、その設計図が『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』の関係者の間に出回っていたのが事実として、がイタリアの銃器メーカーから流れ着いたというのがわたしにはなかなか飲み込めません。東京は『こうりゅうかい』の勢力圏ですよ? 都内を縄張りにしている半グレ集団に地中海の裏社会からが持ち掛けられたとして、ひょうおじさまが――『こうりゅうかい』の〝大親分〟が黙って見過ごすでしょうか……?」


 二回目のかくはんが終わって間もなく球状のフラスコはのコーヒーで満たされ、ろう内部なかでは粉カスに生じた無数の気泡が小気味よく弾けている。

 およそ一〇年ぶりという懐かしい音に暫し耳を傾けたのち、神通はろうを片付け始めたみつの背中に向かって、この先の戦いを間違いなく左右するであろう問い掛けをぶつけた。


「遠い『昭和』の昔から海外勢力と暗闘たたかってきた『こうりゅうかい』には大問題よね。〝公安〟も捜査に乗り出しているけど、それでも日本に入り込んだ経路が掴めないのよ」

「これだからインターネットはけがれている――と枕詞にしてしまいそうですが、今日きょう、密造銃や改造銃の設計図程度なら検索するだけでにも探し出せると聞いたおぼえがあります。何処いずこかで違法に公開された図面を印刷しただけ……ということは?」

「私も手製拳銃ジップガンを当たってみたけど、一般ユーザーには接続アクセスすら不可能な犯罪系のサイトにも投稿アップロードされた形跡がなかったわ。……夜叉美濃から半死半生という目に遭わされた例の男が所持していた設計図は、でなくとも汎用性の高い工作機械で部品が作り出せるようにる種のを施した物だったのよ」

「設計図の原本が日本にるのかは定かでなく、もしかすると改変版は世界中にばら撒かれているかも知れず、その内の一枚が何故か例の半グレ集団が手に渡った――いずれにしても流出元は大変ですね。試作段階で絶望的なが約束されてしまった以上、開発そのものを断念せざるを得ないと素人でも想像できますが……」

「アメリカで『ウォースパイト運動』絡みのテロ事件が立て続けに起きている今、対テロ用として市場でも大歓迎された筈なのに、その見込みも完全に絶たれたわね。株価は勿論のこと、社会的信用もガタ落ち。下手をすればイタリア軍との契約も打ち切られ、老舗の暖簾がまた一つ下ろされることになるわ」


 『パリアカカ・ジャストアナザー』という通称が与えられるはずだったそのシリーズは、欧州ヨーロッパを取り巻く社会情勢や深刻化する過激派のテロ活動から一般市民が簡単且つ素早く身を守る手段を謳って開発され、殆どがハンドバッグや雨傘といった日用品に偽装されている。

 従来の銃器と比べて、『パリアカカ・ジャストアナザー』は専門の訓練を受けた者でなくても扱い易いような改良が施されている。それ故に『ジャストアナザー』と銘打たれたのだともみつは説明を付け加えた。

 無論、イタリア軍だけでなく世界各国の警察から高い評価を受ける『ロンギヌス社』の銃器だけに性能も飛び抜けて優秀である。

 その上、日常の風景へ完全に紛れ込めるという利点がある。どこで誰が銃口を向けているのか、見極めることが不可能に近くなってしまったわけだ。神通も〝あん〟――即ち、隠し武器としての用途を連想したが、歌舞伎町の裏切り者が隠し持っていたのも脇に抱えるバッグの内側に銃弾の発射機構が仕込まれた物であった。

 外見からは銃器と判別できず、すれ違いざまに発砲されたなら自分の身に起きたことにも気付かないまま血の海に崩れ落ちるはずだ。カメレオンを連想させる機能から種類としては〝擬態銃ミミックガン〟に該当するという。


「……きちじょうを出発する直前に飛び込んできたあの臨時ニュース――おんまつりを血でけがした殺人事件にも、まさかその擬態銃ミミックガンとやらが使われたと仰るんじゃありませんよね」

神通あなたの〝同僚〟の友人が新宿署にしてくれた密造銃のはホローポイント弾を発射する種類タイプだったわ。コレだって殺傷能力は十分過ぎるくらい高いのだけれど、同時に回収された幾つかの設計図の一枚に、……散弾を装填する種類タイプが含まれていたのは事実よ」


 さかじんじゃに程近いおん界隈で顔面を吹き飛ばされた犠牲者は、不意打ちでいきなり散弾を浴びせられたことになる。歌舞伎町の実例から推察するに発射機構が内蔵されたのは小さなバッグであろうが、脇に挟んだ状態で発砲しようものなら、銃撃犯の腕も猛烈な反動ブローバックによって肩や肘の骨がまとめて破断し兼ねないのだ。

 『しょうおうりゅう』は体術と武器術を併用する〝げいひゃっぱん〟を神髄としており、その宗家である神通も幼い頃から銃器を破る修練を積んできた。分派に至ってはポルトガルから種子島への〝鉄砲伝来〟よりこんにちに至るまで、を用いた戦術の研究にも熱心である。

 なまじ銃を相手に戦う方法を知っていればこそ、おんの事件で散弾が使用されたことが神通には第一報の時点から不可解でならなかった。


「セカンドバッグ型の擬態銃ミミックガンだと仮定すると、そもそも脇に抱えた状態で標的の頭部あたまを狙い撃つのは構造的に不可能でしょう。銃口の位置に被害者の顔が来るくらい極端な身長差でもない限りは、風穴が開くのは腹部か胸部のはず」

の〝試作銃〟という一言で回答こたえに足りるかしら」

「……〝新兵器〟と仰りたいのは伝わりましたけど……」

「小型で軽量な発射機構でも耐えられるレベルまで反動ブローバックを減殺する機能は勿論、人間ひと一人を難なく即死させられる威力の散弾は信じられないことに連射対応式。おんの事件と同じ擬態銃ミミックガンを例の半グレも密造つくっていたら、『E・Gイラプション・ゲーム』との対抗戦で敗色濃厚になった瞬間ときが恐ろしいわね」

「誰かがを起こして散弾を乱射しようものなら、みつさんに手ずから淹れていただくコーヒーが少し早い死に水になりますね。尤も、そこまで高機能な新兵器はの手に余るとしか思えませんが……。〝プロ〟でもない一般市民が簡単に扱える『ジャストアナザー』はどこに行ったのですか。死地は望むところですから、中途半端に生き残りたくないものです」

にも使いやすいほど単純シンプルな銃器という理解こそ実態から掛け離れているわね。銃に触ったこともなかったの射撃能力を〝プロ〟と同等の水準レベルに補ってしまえるのが『パリアカカ・ジャストアナザー』なのよ。〝射撃管制装置〟と同じ役割の機械デバイス一組ワンセットでね」


 模倣といえども〝世界最新の銃〟によって自らの命が脅かされる事態も望むところと、交戦的に口の端を吊り上げた神通に対して、注意喚起を込めて『パリアカカ・ジャストアナザー』の説明を付け加えたみつが溜め息を抑えられなかったのは、自ら死神スーパイに手を伸ばすかのような危うさを憂慮したのと同時に、日本国内の治安を守る〝立場〟であることも大きい。

 そもそも〝射撃〟は〝ひきがねを引く〟という動作うごきのみで成り立ってはいない。〝狙いを定める〟という前段階も、を調整することだけを指しているのではない。誤射など絶対に起こさないよう撃つべき標的を確実に補足し、拳銃が最大の命中精度を発揮できる距離を見極めた上で、初めて発砲準備は完成するのだ。

 その瞬間の風速によっては銃弾が煽られ、胸を狙いながら肩に当たるくらいだんどうが逸れてしまうかも知れない。足場が悪ければ腰を落として立つこともままならず、撃発の寸前になって姿勢が傾けば必然的に照準も狂う。反動ブローバックの影響が銃を持つ手にほんの少し作用しただけでも同様の現象が起こる――あらゆる状況に即応し、コンマ一秒よりも早く誤差を修正し続けなければ射撃の成否を分けられる状態にさえ辿り着けないのだった。 

 連射の場合は銃を構え続けるという姿勢の制御すら難しくなる。そもそも標的が俊敏な緊急回避行動を何より得意としていたなら、射撃に要する前提条件は根こそぎ崩れてしまうのだ。銃弾とは発射した先に標的が偶然たまたま立っていたから命中するものではなく、同時進行する複数の計算を一つに束ねた〝結果〟に他ならないのである。

 そして、一連の動作を補佐して必中へと導くシステムこそが〝射撃管制装置〟なのだ。

 戦闘技術として生身のみで成し遂げるには、長年の訓練と経験が不可欠であるが、『ロンギヌス社』が新たに開発し、『パリアカカ・ジャストアナザー』に搭載した機能は昨日までのを〝プロ〟に変えてしまう。この擬態銃ミミックガン最大の特徴は、同時に最悪の脅威である――とみつは忌々しげに吐き捨てた。


欧州ヨーロッパの信頼できる人脈ツテにも確認したから間違いないのだけど、本来はストーカー対策を目的として開発された機能だったそうよ。警戒を要する対象が忍び寄ってきたとき、被害を受ける前に間違いなく返り討ちにする為にね。市民の防犯に役立てるはずだったのに、蓋を開けてみれば反社会的勢力の玩具オモチャ。……それで治安が悪化するなら、無関係の日本を巻き添えにしないで自国内だけメチャクチャになっていなさいよ……!」


 歌舞伎町の事件で回収されたと設計図によって確認されたが、『パリアカカ・ジャストアナザー』の発射機構本体には小型カメラが内蔵されている。レンズを通して収集した周辺の情報を人工知能AIが自動的に解析し、イヤホンのような機械デバイスを片耳に装着した使用者は、音声による誘導ナビゲーションに従ってひきがねを引くのみであった。

 標的をレンズの中央に捉えた時点で射程距離の算出や命中補正は完了しており、誤差修正もAIが実施する為、使用者に専門的な訓練が求められることはない。ちりあくたを掃除機で片付けるような感覚で発砲できる銃器は、様々な意味で〝一般市民〟向けであろう。

 軍需企業で研究が進む〝AI銃〟の要素も含んでいるが、事前に登録しておいた人間を空間内から探し当てる映像解析機能を発展させたのであろう――と、みつは自分なりの推察を付け加えた。


おんの発砲事件は真昼間でしたが、ストーカー被害は反対に夜道こそ危ういはず。ここまで教えられた話の流れからして暗視機能も当然のように組み込まれているのでは?」

「新宿署の駐車場に犯人と一緒に転がされていた模造品には搭載されなかったのだけど、設計図のほうでは暗視カメラが前提になっていたわ。それに集音マイクもね。音声解析で要注意人物の声を拾ったらイヤホンから警報が流れる仕組みになっているわ」

標的まとが闇夜に紛れようとも複数の機能を駆使して正確に位置を割り出す――ということですか。ストーカーにまで身をとした人間に仏心などは無用ですけど、問答無用の射殺が〝対策〟になるのは『銃社会だから』の一言で片付けて良いのかどうか……」

「さっきの神通の質問に答えるなら、おんの事件で使用された擬態銃ミミックガンはAIの計算に基づいて銃身が自動的に曲がる構造なのよ。蛇腹を例えにすればる程度は分かるかしら。内部に施条ライフリングの必要がないかっこう式の銃身だから可能な仕掛けギミックだけれど、銃口が頭部を仰ぐように角度を調整したのではないかと睨んでいるわ」


 種類によって有効範囲は異なるものの、読んで字の如く〝散弾〟は小さな弾丸が幾つも飛び散るという性質を有している。発射に際しては本来の標的以外を巻き込む危険性も孕むわけだが、これを完全に回避できる位置と距離もAIが割り出したはずである。


「……もはや、鉄砲ではなくロボットの話を聞いている気分ですよ……」


 みつ擬態銃ミミックガンの説明を進めるたび、神通は首を傾げる回数が増え、今や呆けたように口を開け広げながら機械的に首だけ頷かせる状態となってしまった。

 携帯電話などインターネットとしたような機器モノを忌み嫌っているだけであって、神通も〝文明の利器〟を全面的に拒絶しているわけではない。通信回線に接続しないことが前提であるが、人並みにはパソコンなども使っているのだ。

 だからといってSFサイエンスフィクションさながらの説明はなししゃくできるわけではない。擬態銃ミミックガンは余りにも現実離れしており、大半の人間が神通と同じ反応を示すことであろう。

 しかし、『パリアカカ・ジャストアナザー』ひいてはこれを模倣した密造銃が〝表〟と〝裏〟という二つの社会に影を伸ばした途端、日本国内の秩序が崩れ去ることは神通にも理解わかる。


「……極論、自他の命をようになるのが武芸の修練。それは軍隊も変わらないでしょうが、同じことを〝一般市民〟に求めるのは無理があるのでは? 銃による脅しで他者ひとを支配するのと実際に撃ち殺すのは、これに要する心の在り方が全く違うでしょう。倫理よりも法律よりも、他者ひとの命を壊してしまう恐怖がひきがねを引かせないはず。こうした考え方を〝銃社会ではない国〟の発想と鼻で笑われたらそれまでですが……」

「確かに日本と海外の銃社会は単純比較できないけれど、擬態銃ミミックガンによる銃殺事件がこの国で起きたという〝現実〟から考えるに、……本来はブレーキとして機能しなくてはならない理性を突き破る〝何か〟がシステムの一部に組み込まれている可能性が濃厚ね」

「ロボットみたいな銃ではなく、人間を感情のないロボットに変える銃……だとでも?」

「現時点で回収できた設計図はたった数枚。模造された擬態銃ミミックガンに至っては一挺のみ。機能システムの面でも解明し切れていない部分が多過ぎるわ。ハリウッド映画よろしく未知の異星人エイリアンを追跡しているみたいよ。むしろ気分はモルダーやスカリーに近いかもね」


 首都圏に留まるかと思いきや、関西にいても擬態銃ミミックガンが確認されたという〝事実〟は、〝内調〟にとって悪夢の二字以外に表しようがあるまい。〝ジャストアナザー〟――素人であっても〝プロ〟同然の射撃能力を発揮できるという特性を先程のみつは〝最悪の脅威〟と吐き捨てたが、それは日本社会全体の治安悪化を懸念する一言であったわけだ。


「……擬態銃ミミックガン――その発想や自国の外に出回ったことは、マカロニウェスタン発祥のイタリアらしくはありますが、状況が状況だけに皮肉な筋運びだとしても全く笑えませんよ」

「私自身はたったの一度だって映画館に誘って貰えなかったのだけど、は古い西部劇が趣味の一つだったわね。……擬態銃ミミックガンなどというモノが〝現実〟の世界で人の命を脅かしたら、リー・ヴァン・クリーフも草葉の陰で泣き崩れることでしょうよ」

「バンジョーとライフルを合体させたのは、クリーフではなくウィリアム・バーガーのほうですが、……そうやって特有のジメッとした未練をわたしに吹き込むような性格だから、〝あんな女〟に父をられたのではありませんか」


 神通とみつの間で共有された擬態銃ミミックガンの一例は、一九六九年に公開されたマカロニウェスタン――即ち、イタリア製西部劇だ。

 アメリカ本国の作品と比べて、西部開拓時代という歴史的背景からえて飛び出した脚色や創作が豊かなこともマカロニウェスタンの特徴である。くだんの映画では弦楽器バンジョーの内側にライフルを仕込み、外見から危険性を悟らせず弦をつまきながら敵に近付き、ペグヘッドの先端から覗いた銃口を不意打ちで向けるという奇天烈な銃器モノが登場している。

 擬態銃ミミックガンは〝架空の世界〟であればこそ楽しめるモノであった。


「私の場合、としを取って若い頃の想い出を再体験するのが趣味になってきたのだけど、近頃は大昔のゲーム機に凝っていてね。当時のRPGロールプレイングゲーム迷宮ダンジョンの宝箱に怪物モンスターが紛れ込んでいるトラップも多かったのよ。特に宝箱自体が機械仕掛けの怪物モンスターというパターンは、その時点の主人公たちには苦戦必至の強敵がお決まりでね。……擬態銃ミミックガンの特徴を聞いたとき、強力な装備と期待させられてからの全滅画面が真っ先に浮かんだわね」


 実際に起きた場合を想定し、これを撃ち破る手立てを無意識に脳内あたまのなかね返してしまうのだが、例えばみつのコーヒーミルが『パリアカカ・ジャストアナザー』の一種であったなら、ハンドルが一回りする頃には何発もの銃弾を浴びせられていることであろう。『しょうおうりゅう』の宗家といえども、防御も回避も出来ないまま全身から血を噴き出してたおれるかも知れない。

 護身用という本来の用途を欺瞞いつわりと感じてしまうほどの殺傷能力を備え、何よりも〝騙し討ち〟に最適な擬態銃ミミックガンが日常の風景に溶け込んだ瞬間とき、この国の秩序は〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟など開催していられる状態ではなくなるのだ。


「長距離からの狙撃に不向きなのが唯一の救いでしょうか……。これで狙撃銃スナイパーライフルの機能まで兼ね備えていたら、〝身も守る為のすべ〟と声高に主張されても建前にしか聞こえません」

「ゆくゆくは地球軌道上の人工衛星と通信リンクする機能も実装して、索敵能力を戦場で通用する水準レベルまで引き上げるのが『ロンギヌス社』の青写真だったみたいよ。AI性能も〝自動照準〟を飛び越えて〝自動射撃〟を狙いたいとか。……兵器メーカーの技術競争は昔から熾烈だったけど、近頃はAIやドローンの軍事転用も絡んでキナ臭いコトこの上ないわ」


 軍事技術が民生品に転用され、一般社会に広がった事例は数え切れないが、『パリアカカ・ジャストアナザー』の場合は正反対の道筋を辿るのではないかとみつは疑っていた。

 先ほど神通が口にした「建前」の一言こそ正解であり、『ロンギヌス社』は擬態銃ミミックガンを通じて〝何か〟の実験を試みようとしていたのかも知れない。『ジャストアナザー』という触れ込みさえも今では〝一般市民〟を実験台として扱うという倫理から外れた行為の隠れみのと思えてならないくらいだ。


説明はなしを聞けば聞くほど分からなくなりますよ。銃とパソコンを合体させたロボットと変わらないではありませんか。〝一般市民〟に模造つくれるとは考えられないのですが……」

「さっきも言った通り、でなくとも汎用性の高い工作機械で部品が作り出せるようにされた設計図が出回っているのよ。〝射撃管制装置〟でさえメーカーも違う市販品の組み合わせで間に合うという具合にね。映像や音声を解析するソフトは店売りのモノどころか、フリーウェアでも十分。勿論、〝本物〟の性能には全く及ばないけれど、人を撃ち殺せるなら継ぎ接ぎだらけの〝キメラ〟であっても上等といったところね」

へい禿かむろのような色の携帯電話を押し付けられた身で言うのもおかしいのですが、わたしにもカメレオンの擬態ではなく、げんよりまさに成敗されたぬえにしか思えませんよ」

「気が合うわね。余計なお世話とは思うのだけど、私は〝フランケンシュタインガン〟とでも呼び方を改めるよう駐日イタリア大使を通じて『ロンギヌス社』に提案したいわ」


 各部の機能を連動させるプログラムもくだんの設計図に添えられていたという。AIによる音声誘導を使用者に届けるイヤホン型の機械デバイスについても、ほんの少し通信技術を勉強するだけで自作できるくらい単純な構造であるという。

 映像解析による索敵と命中精度の自動補正のみに機能を絞れば、〝射撃管制装置〟そのものは高校生のアルバイト代でも十分に賄える――溜め息を挟みつつも次々と説明を並べていくみつであったが、神通のほうは一つ一つのしゃくすら間に合っておらず、再び開け広げた口を見れば、反芻を経て理解に至るまで相応の時間を要することは明らかであった。


「銃器流出というより〝最高機密トップシークレット〟の漏洩事件でしょう? スキャパレッリ家――欧州ヨーロッパの〝七星セクンダディ〟に名を連ねる『ロンギヌス社』の経営者一族も〝裏〟の工作員も投入したとに挟んだわ。マーク・アントニーに倣って『戦争の犬どもを解き放て』とでも命令したのかしら。『ロンギヌス』という社名を考えれば、皮肉以外の何物でもないわ」

「わざわざシェイクスピア劇の台詞を引用されましたけど、むしろフォーサイスの小説のような意味合いでの〝戦争の犬〟と受け取れるような言い回しでもありますね。……その工作員とやらは遠回しに『こうりゅうかい』にとっての『てんぐみ』だと仰りたいようですが、それほど差し迫った状況なのに暢気にキャンプなどしていて大丈夫なのですか?」

「ゆっくりと休日を楽しめるのは今日が最後かも知れない――とはいえ、その掛けがえのない時間を神通あなたと過ごせるのは日頃の行いへのご褒美かしらね」

「この期に及んでまだ偶然を装う人の口から〝日頃の行い〟という言葉が飛び出すと、凶兆にしか聞こえませんが……」


 『ロンギヌス社』が事態の収拾に動き始めたのであれば、〝戦争の犬〟にもたとえられた工作員に任せて解決を見物していれば良いのではないか――そのように言いかけて、神通は危うく喉の奥に押し戻した。

 他国から送り込まれた刺客が日本国内で〝何らか〟のを付けるということは、自国の法律を泥靴で踏みにじられるようなものである。政府の一員――ましてや情報戦の領域にいて国防を支える〝内調〟の任務としても看過できるはずがあるまい。

 仮におん擬態銃ミミックガンが『ウォースパイト運動』と結び付いていたとしても、に属する工作員が日本政府にその情報を提供するとも思えない。先に銃撃犯を捕捉されてしまったなら背後関係を掴めなくなり、どのように暴発するとも分からない〝火種〟だけが残されるという最悪の状況に陥るのだった。


(十中八九、銃撃犯はでしょう。逆に日本側で身柄を押さえれば、今まで組織的に結束してはいなかった『ウォースパイト運動』を芋蔓式で潰せるかも知れない。……にくに群がるハゲワシに国境の別など無いようですね……)


 空の隅々まで覆い尽くしたにびいろの雲が凶兆としか思えない神通の耳に、穏やかそのものという川のせせらぎは空虚に聞こえてならなかった。


「これから新聞などでも詳しく報じられるようになると思うけど、おん擬態銃ミミックガンの犠牲になった被害者ね、昼のニュースでは不動産賃貸業の経営者と紹介するだけで、地下格闘技アンダーグラウンド団体に練習場所や興行イベント会場を進んで提供していたことは伏せられていたわね」

「……幾らなんでも偶然――ですよね?」

「若い頃にフルコンタクト空手でこともあってよわい六〇を超えても落ち着く気配がなく、周囲まわり腕力ちからで押さえ込む『昭和』の遺物そのものみたいな性格だと言うから、それでほうぼうの恨みを買ったのかも知れない――事件発生から二時間で被害者の身辺もに入ってくるようになったのだけど……」

「その風聞ウワサを耳にした『ウォースパイト運動』の過激な活動家が義憤に駆られて〝鵺〟を密造つくった――と? ……『NSB』で起きたテロに類例を求めるならば、あの危険思想は選手こそ率先して狙うはず。次に銃口を向けられる可能性が高いのは、被害者と付き合いのあった地下格闘技アンダーグラウンドの選手では?」

「関西の警察もを前提に動き始めてはいるみたいね。……恩義のある格闘家が無謀な仇討ちに逸らないことを祈るばかりだわ。状況が状況だけに擬態銃ミミックガン存在ことを世間に公表すると却って危険――かと言って、追跡に手間取っていたら地中海から吹き寄せる暴風が真相ごと根こそぎ消し飛ばしてしまう。日本国内の『ウォースパイト運動』に誤った成功体験を与えない為には、が望ましいのかしらね……」

「政治の世界に浸かり切ったみつさんらしい考え方ですね。人の命も大局を占うコマ――」


 『ウォースパイト運動』の先鋭化によって、スポーツ観戦の場であっても凶悪極まりないテロに巻き込まれる可能性が跳ね上がった現在いま周囲まわりから気取られにくい護身用の銃を提供することは理に適っているが、おんの銃撃事件によって証明されてしまった通り、持ち主が使い方を誤った途端に暗殺などの凶事が助長されてしまうだろう。

 何の変哲もない日常の風景の片隅で格闘技への憎しみを増幅させ、人権侵害を許しておけないとは名ばかりのテロにき動かされる『ウォースパイト運動』は、正義を代行させるべく〝天〟が授けた聖なる武器と信じ込むことであろう。

 あるいは〝何者か〟がそのように刷り込むのかも知れない。


「――いえ、まさか。銃器流出と機密漏洩の両方を影で操っているのは……ッ」

「……『NSB』を狙って銃を乱射した過激思想家も、神通あなたが想像した通りのが獄中から差し向けたことがアメリカ人記者の手で暴かれたばかりだったわね」

「……『サタナス』……ッ!」


 格闘技を許しがたい〝暴力〟としておきながら、同じ手段で根絶を図ることは矛盾の極みであるが、自分たちこそ秩序の守護神と信じて疑わない『ウォースパイト運動』は残虐なテロ行為さえも正義の証明にすり替えてしまう。

 己の手に握り締めているのは〝裁きの鉄槌〟と疑わない思想活動家たちは超大国の権威すら恐れずに正義を執行した『サタナス』を神格化し、自らも殉教者にならなければならないという恍惚の中でとろけ、『平和と人道に対する罪』で〝社会悪〟を詰りながら際限なく残酷になっていくのだ。

 『サタナス』――その通称なまえは新約聖書正典に由来している。『バルトロマイの福音書』にいては地獄の管理者たる天使とされ、プロアマの別もなく格闘技を志す全ての人間にとっては不俱戴天の〝敵〟である。


おんの銃撃犯が本当に『ウォースパイト運動』の活動家だと判明した場合、その余波はたちまち東京に押し寄せるわ。神通あなた、さっき〝次〟に銃口を向けられるのは地下格闘技アンダーグラウンドの選手と予想していたけれど、が自分たちになる可能性こそ想像するべきだったわね。現実問題として既に擬態銃ミミックガンは東京に入り込んでいるのよ」

「確かに『ウォースパイト運動』からすればMMA興行イベント地下格闘技アンダーグラウンド団体も関係なく、格闘技は一まとめにして滅ぼすべき対象でしょうが、たかだか『E・Gイラプション・ゲーム』の為だけに『サタナス』が動くという推理は、余りにも現実離れしているのでは?」

「そこが問題の核心よ。模倣品であろうとなかろうと、何処どこの誰が東京に『パリアカカ・ジャストアナザー』を持ち込んだのか? 直接的な標的は『サタナス』も関知していないかも知れないけれど、幾つもの格技をプログラムに含んだ〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の開催地を銃で脅かし、これをに対する警告ひいては〝抗議〟に代えることは十分に考えられるわね」

「正気を疑う基準に照らし合わせれば、空手が正式種目化の候補に挙がるだけでも攻撃理由には十分でしょうから。……『サタナス』が動かせる手駒は『ウォースパイト運動』の活動家だけではありません。オリンピック・パラリンピックを返上するように求める反対派が首都圏だけでも数え切れない以上、例の設計図が半グレ集団の手に渡るよう〝誰〟が企んだのか、大元に辿り着くのは殆ど絶望的でしょうね」

「半グレ集団もまさか自分たちが『ウォースパイト運動』に巻き込まれているとは想像もしていないと思うわ。そういう意味では神通あなたも巻き込まれた被害者の一人ね。万が一、本当に『E・Gイラプション・ゲーム』に擬態銃ミミックガンが向けられた場合、……熊本や樋口郁郎の動向うごきにカリカリしていられた時期が懐かしくなるわね」

「顔も知らず姿も見えない〝敵〟に〝海の向こう〟からの好き勝手を許すのは、……さすがに面白くありませんね」

「その『サタナス』は〝海の向こう〟の人間を手駒に使っている自覚もないはずよ。地獄の絵図だけを描いて、後は成り行きを見物するだけ。……自分の犯した罪を罪とも思わない人間に〝純粋悪〟の烙印を押すことを私は一瞬たりともちゅうちょしないわ」


 『ロンギヌス社』から流出した〝試作銃〟やその設計図は、闇市場ブラックマーケットに新たなる〝暴力〟の種をばら蒔くことであろうが、これが主目的ではないとみつは捉えている。が大した規模でもない東京の半グレ集団に流れ着くという奇妙な筋運びも、〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟を利用して格闘技という人権侵害を根絶やしにせんとする陰謀の一環ひとつとして考えると辻褄が合ってしまうのだった。

 手先さえ小器用であれば、小さな町工場に置いてある年季の入った工作機械でも『パリアカカ・ジャストアナザー』シリーズを密造つくれるようになる〝改変版〟を書き起こす為には、そもそも一国を代表する軍需企業が技術の粋を凝らしたであろう設計図の原本を精確に読み解けなければならない。

 それはつまり、天才の二字こそ相応しい人材が格闘技を標的とするテロに加担しているという意味であった。

 一つの事実として、『ウォースパイト運動』という危険思想は、不世出の才能を既に何人も塗り潰している。くだんの銃撃事件にいて標的となり、凶弾によって全身を引き裂かれてしまったものの、『NSB』に所属する有力選手――ベイカー・エルステッドの精神こころを歪めて団体内部からMMAそのものを破綻させようとしたのだ。

 彼女の担当弁護士であるシルバーマンも、若かりし頃からアメリカの法曹界でエリートと呼ばれてきた人物であった。それにも関わらず、格闘技への憎悪が〝法の番人〟という使命を上回っており、〝正義の同志〟をした捜査当局や、損害賠償を求める『NSB』との闘争に明け暮れている。

 このシルバーマン弁護士こそが重罪犯専用のフォルサム刑務所に収監されている『サタナス』と〝外界〟の仲介役であろうと目されており、みつもそれを疑っていなかった。

 渦中の『サタナス』に至っては大統領専用機エアフォースワンにサイバー攻撃を仕掛け、雲の上でも職務を遂行できるように世界の最先端技術を結集して完成させたはずの通信システムを掌握ジャックしたのだ。それはつまり、意思さえあれば『九・一一』を考えられる最悪の形で再現できたという意味でもある。

 〝IT社会の寵児〟とはいえ、民間人に過ぎない『サタナス』が〝空飛ぶホワイトハウス〟を脅かしたのだ。正常に使えば人類の歴史を一歩も二歩も前進させられる才能を無意味な破壊へと駆り立てるのが危険思想であり、貧富の格差や社会にける立場・権能の違いで隔てられるようなこともなく、〝誰〟のあたまをも塗り潰していく。


「……『良心なき科学は魂の崩壊』とは、まさしくこのことでしょう……」


 発覚と同時に拳銃自殺を図った為に真相究明は不可能となってしまったが、『ロンギヌス社』内部で流出事件を引き起こした社員も、遺された手掛かりなどから『ウォースパイト運動』の過激活動家であった可能性が高い――そのように言い添えたみつに対して、神通はフランソワ・ラブレーの言葉を例に引くことで返答こたえに代えた。

 『パリアカカ・ジャストアナザー』――幾つもの動物の肢体が組み合わさったかのようなぬえや、フランケンシュタインの怪物にたとえられた擬態銃ミミックガンに対しても、〝良心なき科学〟という神通の言葉は向けられている。


「受けて立ちますよ。獄中とはいえ裏で糸を引いて数え切れない運命を狂わせるような卑怯者サタナスの思い通りにはさせません。『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』は愚かな真似など考えられなくなるように『E・Gイラプション・ゲーム』が責任を持って倒します。例の密造銃を持ち出すのならもっの幸い。尻尾さえ掴んでしまれば、ひょうおじさま――『こうりゅうかい』にを託すことも出来るでしょう。その為なら我が身を囮に使っても構いません」

「……その地下格闘技アンダーグラウンド団体との対抗戦から今すぐ手を引けと、自分の所属先ところの代表を説得して欲しかったのだけどね、私のほうは……」


 のコーヒーをカップに注ぎながら神通の反応を背中で受け止め、死の恐怖に引きるどころか、明らかに昂っている顔へと肩越しに振り向いたみつは、何ともたとがたい溜め息を挟んだのち、彼女の意に反することを説き聞かせようと試みた。


「身の面目にこだわって散弾で頭部あたまを吹き飛ばされたら、笑い話にもならないわよ。敵前逃亡と嘲笑わらわれるだけで済むなら安いものと割り切りなさい。『しょうおうりゅう』門下が推戴する宗家としては頼もしい限りだけど、囮は神通あなた一人では済まないのよ。私が便々と並べた憶測が本当だとしたら、……『NSB』を襲ったテロが『E・Gイラプション・ゲーム』で再現されるわ」

「なおさら『E・Gイラプション・ゲーム』は止まりませんよ。『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』も、その背後で悪だくみしている半グレ集団も、このままのさばらせておくわけにはいかないと、誰もが全面戦争のつもりではらを括っているんです。……敵前逃亡を説得する為には必然的にこの場で伺ったことを打ち明けなくてはなりませんよね? 拳と拳の腕比べに銃を持ち出すような卑怯者と『E・Gわたしたち』を分けるものがより鮮明に浮かび上がるのみです」

「……たけしんげん公曰く、『いくさは五分の勝利かちを〝上〟とし、七分を〝中〟、十分を〝下〟とする』――中野のカラーギャングを叩きのめした抗争たたかいが良い例だけど、『E・Gあなたたち』は腕力ちからに訴えて相手との〝関係〟を引っ繰り返す成功体験が強過ぎるようね」

「わたしからしらせなくても、対抗戦の相手と銃器流出事件の接点は遅かれ早かれみなの耳に入るでしょう。ひとたび、火が入った闘志は敵か味方を焼き尽くすまで天を焦がすのみ」


 理詰めで諭さんとしたことに対する返答こたえも予想通りであった為、肺一杯に吸い込みたくなるような香りが立ち上るカップへ溜め息がもう一つ滑り落ちていった。

 格闘技を金儲けの手段にしてけがすことを断じて許さず、それが為に〝客寄せパンダ〟を弄ぶ『天叢雲アメノムラクモ』と敵対関係に至った『E・Gイラプション・ゲーム』からすれば、くだん地下格闘技アンダーグラウンド団体も打倒の対象である。

 『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』は路上の腕自慢を集めて興行イベントを開催したのではなく、路上の喧嘩をそのまま見世物にしている。闘いたい者は誰であろうとも出場可能という方針は『E・Gイラプション・ゲーム』と変わらないが、社会通念から外れた暴挙で注目度を引き上げ、これに紐づく承認欲求や広告収入を目的とした〝迷惑動画投稿者〟が押し寄せている現状に格闘技への愛情や敬意は見出せず、二つの地下格闘技アンダーグラウンド団体が相容れないことは明白であった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』が煮えたぎらせる敵愾心は、〝興行イベントとしてのMMA〟に向けるモノをも遥かに凌駕している。拳をもって語らうべき試合場リングに平気で銃を持ち込むような卑怯者の群れと知れば、臆病風に吹かれるどころか、限界を超えて闘志が燃え上がるはずだ。


「ほんの半年前にも不毛な抗争あらそいを食い止めようと『こうりゅうかい』の大親分を頼ったじゃない。そのときの乱闘騒ぎと今度の対抗戦、一体、どれほど違うと言うのかしら?」

「カラーギャングとの抗争たたかいのことでしたら、そもそもみつさんの認識が誤っています。わたしがひょうおじさまに掛け合ったのは、当時はまだ『こうりゅうかい』の傘下だったカラーギャングからその後ろ盾を奪うこと――〝敵〟の有利を無効化する為の裏工作であって、和睦の仲立ちを申し入れたのではありません。『E・Gわたしたち』は戦って戦って戦うのみ」

神通あなたが乱闘の場に居合わせなかったことは私のほうでも把握しているわ。カラーギャング相手に暴れられなかった分を今度の抗争で取り返したい様子ね。宗家らしく『しょうおうりゅう』の〝本性〟を体現しているけれど、……が見たら色々な意味で苦笑いしたわよ」

「その斗獅矢ちちおやが『昭和』の裏社会で繰り広げたのと同じ戦いに踏み込めるかも知れないのですよ? 考えてもみてください。わたし自身にとって――いいえ、現代の『しょうおうりゅう』にとって実銃と戦える好機チャンスなどは滅多にありません。名ばかりの宗家とはいえ、これを逃すのは開祖以来の歴史に対する罪と心得ています」

「……『ながしのしたらがはらの合戦』では『しんげんこうれんぺいじょう』の祖先も数え切れないくらい討ち死にしたと伝わっているわね。確かに『しょうおうりゅう』は〝甲斐古流〟の筆頭だけど、武田の騎馬軍団を率いてぼうさくに突撃する最中、『鉄砲三段撃ち』の餌食になって鞍上で蜂の巣にされたやまがたまさかげに倣う必要はないでしょう。しかも、実際には三段構えどころか、もっと大量の火縄銃による〝つる撃ち〟――現在いまの『E・Gイラプション・ゲーム』はまさにこの状態なのよ」

「日本の中近世に親しんでいる学生として生意気に反論させていただくなら、無策な騎馬突撃による一方的な惨敗という通説は、研究が進んだ今、大きく見直されていますよ。武田勢も織田・徳川連合軍に負けない数の鉄砲を駆使していました。ぼうさくも奥深くまで突き破り、何よりも数時間に及ぶ激しい〝接戦〟。武田家は弾薬確保の問題こそ抱えていましたが、三代・かつより公の愚かな負け戦などでは断じてありません」

「あの合戦いくさを例に引いた時点でぐうの音も出ないくらい論破されると思ったけど、ここは神通が斗獅矢ちちおやの後を着実に追い掛けていることを素直に喜んでおくわ。勿論、私だってかつより公が先代・先々代に並ぶ名将ということは疑っていないわよ」

えて『ながしのしたらがはら』になぞらえるなら、かつより公や先祖に申し訳なくも『E・Gわたしたち』はたけを迎え撃つ側です。それもぼうさくまで取り付かせなかったという寄りになるでしょう。『鉄砲三段撃ち』に代わる〝心技体〟のさんいったいをご覧に入れます」


 しょうとくたいの異称を冠する殺傷ひとごろし武技わざは、戦乱の中世日本から平和な現代に至るまで数世紀に亘って受け継がれてきた。首級くびを狩り合う合戦でこそ真価を発揮する〝戦場武術〟の失伝うしなわない為、現宗家は危険な〝バーリトゥードなんでもアリ〟形式を採用する『E・Gイラプション・ゲーム』のリングに飛び込んだのである。

 それ故に本物の〝命のり取り〟も望むところであった。模造とはいえ〝敵〟は擬態銃ミミックガンの所持が想定されている。銃社会でもない法治国家日本にいて、じゅうほうと渡り合う為に編み出された武技わざを試す機会は絶無に等しいのだ。ましてやSFサイエンスフィクションと錯覚するような性能を備えた『パリアカカ・ジャストアナザー』である。神通にとっては新しい玩具を目の前に差し出された状況と変わらなかった。

 体術と武器術を併用する〝武芸百般〟を掲げつつも、その神髄はあらゆる武具・武技へ完璧に対応することにあり、鎧兜で防御まもりを固めた相手すら仕留めることから〝具足殺し〟の異名を取る『しょうおうりゅう』の使い手は、人間の魂を野性に回帰させる修練を積んでいる。

 標的の認識・予想される行動の分析・これを完封し得る攻防の組み立てと実行――本来は段階的に進行する脳の処理が野性の本能にって加速し、瞬時に連動するわけだ。拳を前方に突き込んでいく動作うごきの途中で同じ側の腕による裏拳打ちバックブローに変化するなど、筋肉や骨を内部から損傷してしまいそうな身のこなしも自由自在に操れるのである。

 しかし、は死の危険を察知する防衛本能を自ら破壊してしまうことにも等しく、宗家を歴任した哀川家はそのを遺伝子という極めて深い領域にて受け継いでいる。神通はその〝血〟がよりも濃いようにみつは感じており、敵前逃亡を勧めても断られると最初から見越していた。

 それ故に一等大きな溜め息を噛み殺せず、人生にける〝最後の化粧〟が施された幼馴染みの顔をコーヒーの表面に映してしまった。

 『ミトセ』と名乗る熊本出身うまれの拳法家との〝あい〟に殉じた幼馴染み――あいかわのように、娘の神通も自らの命を軽んじる傾向がある。俄かに鼻孔をくすぐり始めた死臭にさえ昂揚してしまう様子を一瞥するだけでも瞭然であったが、四方八方から銃口を向けられるような修羅のちまたにこそ喜び勇んで飛び込んでいく。

 亡きが臨んだのと同じ〝生と死が鼻先ですれ違う戦い〟に魅入られている証左であり、みつには危うく思えてならないのだ。


(キリサメ・アマカザリ――と似た瞳の少年と神通が巡りったのは、それ自体が取り返しのつかない間違いだったわね。責任の取り方を本人に問いただしてやりたいわ)


 以前から兆候こそあったものの、近頃は度を越している。

 その原因は間違いなくキリサメ・アマカザリであった。『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー他者ひとの命を脅かすことに良心の呵責など持たず、ちりあくたでも吹き飛ばすかのように後遺症や深刻な事故の危険性に満ちた喧嘩殺法をふるうのである。つまりは殺傷ひとごろしすべを数世紀に亘って研ぎ澄ませてきた『しょうおうりゅう』に最も近いということだ。

 神通は己の〝半身〟の如くキリサメという存在に共鳴していることであろう。故郷のペルーでは殺し合いの連鎖が格差社会の〝日常〟に溶け込んでおり、常人には理解しがたい感覚によってプロデビュー戦の相手であるじょうわたマッチの命を危うく奪いかけたのである。

 法治国家日本では遭遇し得ない本物の〝命の遣り取り〟を経験していることにさえ、神通は一種の陶酔にも近い憧憬あこがれを抱いている様子であった。

 拍車を掛けたのはキリサメの身に宿る『スーパイ・サーキット』だ。人間という種の限界を超越してまで〝敵〟の命を壊すことに猛り狂った異能ちからは、〝何らか〟の回路サーキットを神通のなかで切り替えさせたのであろう。

 〝火の国〟の誇りをじゅうりんせんとする『天叢雲アメノムラクモ』を迎え撃つべく、比喩でなく本当に刀槍や弓を取って〝挙兵〟に至った熊本武術界に時代錯誤と眉をひそめるどころか、『しんげんこうれんぺいじょう』のるべき姿を求めて猛烈にき付けられている様子であった。

 同郷であるが故、くだんの〝挙兵〟に加わっている可能性が浮上した『ミトセ』に対して、僥倖さいわいとばかりに仇討ちを仕掛けようとするの戦友を阻止しなければならない状況にも関わらず、脳天から一刀両断にされ兼ねない〝実戦〟を『しんげんこうれんぺいじょう』にいて無双の呼び声も高い剣豪に挑めると武者震いしていたのだ。

 今度は無数の凶弾によって全身を穴だらけにされるような抗争に獰猛としか表しようのない喜びを感じている。漫画であったなら、瞳の中央に快楽を象徴する紋様でも浮かび上がっているはずだ。

 死神スーパイの息吹に自ら手を伸ばすくらいただひとり、これを引き留められるはずであった妻の裏切りによって死への衝動は際限なく加速し、ついには実娘むすめの成人を見届けることなく獅子の瞳を閉ざしたのである。


「――としを食ったら一回り程度の違いなんて誤差の範囲かもだけど、哀川君には俺の弔辞を読んでもらうつもりだったのになァ。のうただたかみたいに諸国漫遊していた若い頃のバカ話と一緒にね。何を喋ってるか分からないくらいボロ泣きの彼を眺めるのが楽しみだったのに、……冠婚葬祭のスピーチは祝辞以外はお断りだって釘を刺し忘れちゃったよ」


 との共著も多い歴史学の師匠――『げんしょく』とは、肩を並べながら火葬場の古びた煙突から天に昇っていく一筋の煙を仰いだのだが、似合いもしない喪服姿で彼が絞り出した一言は、現在いまの神通に対しても当てまるのだった。

 人使いの荒さや性格の不一致などを神通から弔辞で延々と罵倒されるという〝先に旅立つ者〟の最期の楽しみすら今のままでは叶わなくなるだろう。幼馴染みのみならず、その娘の顔まで棺の窓越しに見つめる事態だけは何があっても避けなければならなかった。


「潮時と捉えて、いっそ『E・Gイラプション・ゲーム』と手を切りなさい」

「今の話をどう解釈したら、そこまで脈絡のない言い草になるのですか……」


 その言葉を受けれることが難しい神通はコーヒーが注がれたカップを差し向けられても手を伸ばせなかったが、みつは半ば強引にを押し付けた。


「あなたが〝何〟を志して地下格闘技アンダーグラウンドに身を投じているのか、同じ『しょうおうりゅう』として理解しているつもりだけど、はセシルの――あなたの義兄あにが立つ鋼鉄はがね競技たたかいでも果たせるわ。あの子に招待されて何度か見学したけれど、あの〝中世の祭典〟でこそ武器術併用の〝武芸百般〟が生かし切れる。そのことは神通にも理解わかっているハズよね?」

「そもそも義兄にい様とは別の〝道〟で中世の武技わざを研ぐにはどうすれば良いのか、考えた末に地下格闘技アンダーグラウンドを選んだのですよ? 本末転倒じゃないですか……っ」

「あなたは〝いましょうとく〟が『しょうおうりゅう』をおこして以来の麒麟児よ。よちよち歩きを始める前に武神のてんぴんを示したからこそ、げんさんから――慕ってやまない師匠から一字を貰い受けた最初の名前を『神通』に改めた。……その麒麟を喪失うしなうわけにはいかないと、門下一同に成り代わってさせてもらうわ」

「……改名が幼稚園や小学生に入る前で良かったです。周囲まわりに事情を説明するのが面倒ですし、何よりわたし自身が覚える前でしたから……」

ぎょう思想によれば麒麟が司るのは〝〟で、対応するしきは〝黄〟。これらを併せて地の底にみのくにと捉える考え方もあるわね。他説では墓所の女神にも置き換わるとか。例えそれでも哀川神通は戦なき世に降り立つ麒麟のままでいなさい」

「その麒麟は角の尖端さきを肉で包んで誰も傷付けないと言い伝えられています。血に餓えて舌なめずりが止まらないわたしと一緒にしたら、怒って地上を去ってしまいますよ」

義兄セシルのもとで『しょうおうりゅう』をふるえば、往時の有りさまを留めたままでもあなたの武技わざは肉の鞘に包まれたのと同じになる。南北朝時代に誕生してから数世紀、歴史のを見つめ直すことは次の時代まで続くずいちょうとなるわ」


 ソーサーごと渡されたカップとその中で波紋を作るコーヒーに目を落とし、神通は声もなく唇を噛んだ。砂糖やミルクの類いが添えられていないのはみつの手抜かりではなく、それが好みとおぼえている為だ。

 思わず舌打ちしてしまいそうになるくらい細やかな心配りに両のまぶたを閉ざした神通は、暫しの沈黙を挟んだのち、互いの声を過不足なく聞き取れる位置に設置されているロッキングチェアが微かに軋んだのを合図に首を横に振った。


「……『そうじゅ』のような裏切りは真っ平御免被ります。それだけは死んでも……」


 その名前を神通が呻くようにして吐き出すと、今度はみつのほうが唇を噛んだ。

 彼女の脳裏をよぎったのは栗色の長い髪を襟足のところで二房に結んだ女性である。最悪の裏切りによっての心を完全に壊した許されざる裏切り者――神通をも捨てた実母ははそうじゅという。

 くだんの女性が『しんげんこうれんぺいじょう』から姿を消した頃には既にみつは〝内調〟に属し、東京で暮らしていたのだが、結婚指輪と離婚届が哀川家へ一方的に送り付けられ、あまつさえ神通の親権すら無責任に放棄されたことは承知している。

 〝別の男〟と逃げた先を暴き出し、復讐を誓うの戦友たちに密告しようか、どれほど迷ったか分からない。彼の愛弟子である『しょうおうりゅう』のじゅくとうから追跡を強く請われたこも一度や二度ではなかった。

 舌を小さく出して見せるという無邪気な表情ばかりが印象に残っている為、想い出すたびはらわたが煮えくり返るのもまた忌々しい。緩やかで朗らかな人柄と思えたからこそ、大勢の仲間たちに囲まれながらも〝眠れる獅子〟の目付きで一人だけ違う〝何か〟を見つめていたの孤独な魂を救えると期待し、結局は騙されてしまったのだ。そうじゅの本性を見誤った自分にこそみつは腹が立ってならないのである。


「……わたしはそうじゅになりたくありません。絶対に……ッ!」


 実母ははと呼ぶに値しない裏切り者を繰り返し否定する神通であったが、その言葉にすがり付いているという自覚から現在いまの有りさまが惨めに思えてならず、みつが横に居なければ栗色の髪を滅茶苦茶に掻きむしったはずである。

 団体代表のヴィクターくろ河内こうちを総大将とし、『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちと命懸けの抗争に臨む覚悟は固めているものの、キリサメ・アマカザリやほんあいぜんといった『天叢雲アメノムラクモ』の関係者との親交によって同団体を激烈に敵視する一部の選手から裏切り者とされていた。空閑電知やかみしもしきてるひめまさただも同様の境遇であり、状況が更に悪化すれば出場停止といった措置も取られることであろう。

 対抗戦の相手ジャックポット・ビッグゲッターに関する情報を提供し、から狙ってくるのかも掴み切れない擬態銃ミミックガンへの警戒と対策を仲間たちに訴えたところで、耳を貸すのはほんの一握りに留まるはずだ。経緯や背景は異なるが、そうじゅに浴びせたものと同じ罵声が自分に向けられている〝事実〟は、これ以上ないほど惨たらしく神通の心を引き裂くのである。


「……知性と理性と品性を丸ごと堕落の向こうに置いてきたような正真正銘のクズなんて〝血〟で遺伝するものではないし、なろうと思っても決してなれないから安心しなさい。神通あなた実娘むすめで、セシルが電話のたびに自慢してくる義妹いもうと――それだけよ」


 おそらくは『E・Gイラプション・ゲーム』にける現在の〝立場〟も調査済みであろうみつから掛けられた慰めの言葉と共に、神通は淹れたてのコーヒーに口を付けた。

 生まれて初めてみつから振る舞われたときはとろけるほど甘く感じたのだが、今日はひどく苦かった。

 もはや、荒川の流れを声もなく見つめ続けるばかりとなり、インターネットに象徴される〝IT社会〟からも俄かに切り離された『しょうおうりゅう』の二人は、時代が大きくうねる瞬間にも立ち会えないのだが、日本格闘技界全体を引き裂くほどに吹きすさじょうらんを思えば、それも一つの僥倖さいわいであったのかも知れない。




                                       (続く)

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