その7:乱兆~無冠の王・総合格闘技に未来を奪われし者/反スポーツ的行為・「全国放送の試合で肘打ちを見せれば、相手のファウルは止まる」と背番号6番は助言された――死神(スーパイ)VS世界最高の総合格闘家

  七、Auerbach told Russel to throw an elbow do it one time



 二〇一四年六月二九日に日付が変わろうとする頃――その日は深夜にも関わらず、日本中の多くの家庭で特別編成のスポーツ番組がテレビから垂れ流されていた。

 予選大会の名場面を中心に編集しており、約一時間半後――日本時間で二時前後――に決勝トーナメント第一回戦が始まるサッカーワールドカップを盛り上げようとしているのだ。

 同大会の放送は東京キー局と公共放送による持ち回りである。日本でMMA興行イベントのテレビ中継が打ち切られるまで当時の最大団体――『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体と提携し、放送権を握っていた『フクジテレビ』がこの時間帯を受け持っているのだが、十種競技デカスロンの金メダリストであり、『キング』の愛称ニックネームで尊敬されるもと陸上選手――ぶすじましんを当該番組の司会進行に招聘するなど力の入れ方が並大抵ではない。

 試合開始時刻を待つ視聴者の昂揚を更に引き上げる為、現地ベロオリゾンテの映像も小刻みに差し込まれるが、開催国であるブラジルとチリの対戦だけに競技場スタジアムを埋め尽くした観客の熱狂は既に最高潮に達している様子だ。

 キリサメもテレビが設置されたリビングルームのソファに腰掛けているのだが、賑やかな画面には一瞥もくれず、弱々しく肩を落としながら疲れ果てた顔で項垂れていた。


「キリくん、本当にお疲れ様……」

「……きっと僕よりみーちゃんのほうが疲れたんじゃないかな……」


 キリサメの右隣に腰掛けているのは、言わずもがな未稲である。

 鼻を滑り落ちていく丸メガネと合わせるように、小さく開いた口から溜め息と共に吐き出されたのは労いの言葉であった。キリサメのほうも辟易という二字を貼り付けたような顔の未稲を労わったが、その声は何時にも増して活力ちからが乏しい。

 テレビの騒々しさは口数よりも溜め息のほうが多い二人とは正反対だ。彼の海外出張中は日本の気温が低下するというざれごとが流れるほどぶすじましんは熱量が高く、集音マイクの性能では対応し切れずに〝音割れ〟が頻発するなど声量も桁外れであった。

 それにも関わらず、キリサメと未稲の耳はテレビの音声が殆ど聞き取りにくくなっているのだが、原因は二人の鼓膜へに割り込んでくる喚き声である。


「――キリー相手ならまだしもオレにまで過保護にならなくたって良いぜェ? ベロベロに酔っ払っちゃったのは否定しね~けど、模擬戦スパーリングやるくらいでダメになるヤワな心臓じゃねェっつの! 逆に思考アタマ肉体からだも程よく柔らかくなるかもよ!」

「酒臭い人と〝極めっこ〟をやれるとお思いか⁉ 頑丈だから何でも平気という自己診断こそあたまが錆びている証拠だ! あらゆる医学的根拠が師匠に警報アラームを鳴らしているッ!」


 日付も変わった深夜という状況を全く考慮しない近所迷惑な二つの喚き声は、上階から聞こえてくる。夕食の席で正体をなくすまで吞み、酔っ払った勢いに任せて部屋まで押し掛けてきた岳のことを愛弟子の進士藤太が叱っている最中であった。

 『NSB』で〝上位メインカード〟を任される有力選手であり、生活の拠点もアメリカに移した藤太は、今回の一時帰国では故郷の博多に戻らず、を徹底的に磨いた『八雲道場』へ滞在することになった。

 その間、キリサメの部屋で一緒に寝起きするのだが、二人の了解も得ず無遠慮に踏み込んできた岳は、藤太の為に敷かれた布団の上で幼児のように転がり始め、とうとう我慢の限界に達した愛弟子から正座を命じられたのだった。

 デスクに向かって一日の練習トレーニング内容をノートにまとめていたキリサメからすれば、岳も藤太も等しく煩わしい。真横の言い争いを無視して筆を走らせていられるほど器用ではなく、日課を諦めて階下のリビングルームに避難した次第である。

 暫くは自室に戻れないのだから、ノートを持って階段を降りるべきであったとキリサメが後悔したのは、先にリビングルームに入っていた未稲が何やら専門性の高そうな本を何冊もテーブルの上に広げているのを目にした瞬間ときだ。

 尤も、上階の二人は未稲に階段の下から注意されても声量を抑える気配がなく、でんとの模擬戦スパーリングで試みた寝技対策の分析に意識を集中できるとも思えなかった。


「藤太こそ少しアルコール入れてアタマを柔らかくしろよ! 酒盛りの余興おあそびで相撲取ってた大らかな時代が懐かしいぜ~。一気飲みしちゃあおにつらの兄ィと組んずほぐれつよォ~!」

「酔った状態でのデタラメが持てはやされた悪しき時代を繰り返すのはいよいよ感心しませんな! 我らは昔の失敗を教訓として若い世代に伝えるべきでしょうにッ!」

「何だか良く分かんね~けど、師弟二人三脚で日本の夜明けだ、オラァッ!」


 改めてつまびらかとするまでもないが、キリサメと未稲から疲れ果てた溜め息を引き出しているのは、閉めたはずのドアを突き破って一階まで降り注ぐ喚き声であった。


「……進士氏から録画したワールドカップを見せて欲しいと頼まれなくて助かったね」


 キリサメが見るともなしにテレビ画面へ目を向けると、各国代表選手によるゴールの瞬間が次々と映し出されていた。〝世界最大〟の面目躍如と言うべきか、『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが入った試合着ユニフォームを用いていないチームのほうが少なかった。

 日本代表も『ハルトマン・プロダクツ』とサプライヤー契約を結んでいる。

 運命の巡り合わせと言うべきか、先週の試合で日本チームと対戦したギリシャの代表選手は、『NSB』のメインスポンサーでもある『ペースメイク・ブリッジ』のロゴマークを試合着ユニフォームの胸部や袖にて煌めかせていた。

 退場者二名という危機的状況でボールを追い掛けるギリシャ代表選手を瞳の中央に捉えた瞬間、丸メガネが吹き飛ばす勢いで慌てふためく未稲の姿がキリサメの脳裏を掠めた。

 言わずもがな、隣に座る現在いまの未稲ではない。進士藤太の突然の〝里帰り〟に唖然呆然と立ち尽くした昼間の騒動の一幕である。

 口を滑らせてしまったことを後悔して頬を掻くキリサメに対し、未稲が何ともたとがたい表情を返答こたえに代えたのは当然であろう。岳に背中を押し出される格好で玄関を潜ろうとする藤太に「録画しておいたワールドカップの試合を遊びに来た友達と観ている最中」と説明し、テレビが設置してあるリビングルームには近寄らないよう念入りに頼んでいたのだ。

 は一字一句に至るまで方便である。地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』に所属しながら、『天叢雲アメノムラクモ』との間に横たわる対立を超えて友人となったかみしもしきてるの来訪を騙ったが、実際に未稲とリビングルームに居たのはの弟――おもてひろたかであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントで使用される全ての動画ビデオを手掛ける国際的な映像作家――おもてみね実母ははに持った為、小さな頭部あたまに七歳とは思えないほど膨大に格闘技やスポーツの知識を蓄えたひろたかは、これを生かしてキリサメの選手活動を支える〝軍師〟を称していた。

 仕事と家庭の両立には致命的に不向きな実母ははとの生活くらしから小学校低学年にして気苦労を重ねてきたひろたかは、同い年と比べて随分と冷めた性格に育っている。それだけにキリサメへの指導は理不尽ではなくとも厳しく、一日の練習トレーニング内容や摂取カロリーをノートにまとめて管理し、効率的に〝心技体〟を鍛えるよう命じたのもこの小さな軍師であった。

 ショープロレスと――『まつしろピラミッドプロレス』の合宿と『とうあらた』の道場で学んだ理論をMMAに取り入れ、三種みっつの力を束ねて戦うという八雲岳発案の〝フェイント殺法〟を発展・改良させた『パルヘリオン・マニューバ』を実戦投入可能な段階まで磨き上げることも、花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとの試合に向けた課題として言い渡されている。

 同じ都内で暮らしながらも八雲家と住まいを別にしているひろたかは、くだんのノートだけでなく固定電話でもって三日にあけずキリサメの様子を確認していた。週末にはインラインスケートでアスファルトを切り裂き、記録係も兼ねてキリサメのロードワークに伴走するのだ。

 そのひろたかと進士藤太を接触させない為、未稲は心ならずも大嘘までいたのである。


「……キリくん、から気付いてた? その……ヒロくんと藤太さんのコト――」


 分かりやすく声を落とした未稲の問い掛けに対して、キリサメは自分の眉を指し示すという仕草ゼスチャー返答こたえに代えた。

 やや長い前髪に覆われたキリサメの眉は特徴に欠けるものの、ひろたかと藤太の二人は一目で記憶に刻み込まれるくらいごくぶとである。双方の共通点に〝血〟という名の遺伝を感じないはずがあるまい。前者の誕生は岳と嶺子の離婚とも重なっているのだ。これらを踏まえて推し測れば、八雲・表木両家の間に横たわる〝何か〟を勘付くには十分であった。


「みーちゃんや岳氏がいないところで話すのはくないとは思ったけど、……僕も家族の一員だから、ひろたかくんが軍師になってくれたこととか、さっき進士氏と少しね……」

「キリくんのお陰で助かったよ。『助かった』って言い方は語弊があるけど、正直、ヒロくん関係のは、私やお父さんの口から藤太さんに話しづらいっていうか……」


 進士藤太という存在そのものが八雲・表木両家の間で禁句タブーであることは、およそ半年の間にキリサメも察している。迂闊にも前妻の前で愛弟子の名前を口に出した岳は、烈火の如く激怒した彼女から首を絞め殺されそうになったのだ。


「二人がお揃いのごんぶと眉毛マユじゃなかったら、〝ダメ元〟で送ったもキリくんに気付いてもらえなかったし、連携コンビネーション取れずに玄関前あそこで詰んでたね。痛しかゆしっていうか、皮肉っていうか……。事前の打ち合わせナシで鉢合わせを回避できたのは奇跡だよ」

「奇跡というのは偶然と偶然の掛け合わせだよね。みーちゃんが思っているよりも、僕はずっとみーちゃんのことを考えているよ。だから、これはきっとだよ」


 藤太への対抗心もあり、本人こそが誰よりも似つかわしくないと自覚わかっている気障な言葉がキリサメの口から飛び出すと、未稲は丸メガネのレンズが曇るくらい頬を火照らせ、気恥ずかしさのやり場がなくなった挙げ句、筒状に丸めたノートで彼の肩を乱打した。

 その未稲が述べた〝救援信号〟とは、事前の連絡もないまま『八雲道場』へ〝里帰り〟してきた藤太がひろたかに最接近した瞬間、狼狽の末にキリサメに向けた眼差しのことだ。

 同じ眉を持つ二人の関係も含めて、目配せのみで危機的状況を共有できたからこそ、互いの声すら聞こえない別々の場所まで引き離す連携コンビネーションが成功した次第である。


「結局、『八雲道場ここ』を出た後はどうしたの? ひろたかくんの自宅いえで時間を潰すわけにもいかなかったはずだけど……」

「今日の今日って言う急なお願いだから、迷惑掛けちゃったかもだけど、車椅子ボクシングに挑戦してるジムへ見学に行ってきたよ。ヒロくん、モッチーパイセンに憧れてるし、それでお姉ちゃんにいてきてくれたのかなって、最初は思ってたんだけどねぇ……」

「……ひょっとして、最初からバレていた……?」


 奥歯に物が挟まったような言い方を受けて義弟おとうとの訳知り顔がキリサメの脳裏をよぎり、答え合わせを求められた未稲も白く曇った丸メガネを拭いつつ躊躇ためらいがちに頷き返した。

 キリサメ・アマカザリというMMA選手を支えんとするチームへ七歳にして加わるほどひろたかは賢い。あたまの使い方は大人よりも遥かに卓越しており、大慌ての実姉あねを一瞥しただけで『八雲道場』で起きつつあることを看破できたのかも知れない。


「進士藤太の目に入らないようインラインスケートを隠すにしても、トイレ以外に場所は幾らでもありますよね――って、七歳相手に半ベソになるくらいお説教されちゃったよ」

「……終わってみれば、僕たち二人の空回りだったのか……」


 思わず身を強張らせたキリサメに待ち受けていたは、ソファに腰掛けたままで膝から崩れ落ちる感覚を味わうほど単純であった。

 『八雲道場』の玄関は軒先に防犯カメラが設置されており、レンズで捉えた映像はリビングルームのモニターで常時確認できる。庭先の岳から大声で呼び付けられ、近所迷惑を止めさせる為に実姉あねが飛び出していった直後、幾人かの言い争う声が決して薄いとは言いがたい壁を突き破って聞こえてきた。これを不審に思ったひろたかは、場合によっては警察に通報するつもりで文明の利器を使用し、自分と全く同じ眉毛の男を見つけてしまったのだ。

 程なくしてリビングルームに戻ってきた未稲から車椅子ボクシングの見学に誘われたのである。半ば無理強いの如く外出を促す意図は、改めて問いただすまでもあるまい。

 今も愛弟子と呼んで憚らない藤太の腕を掴み、『八雲道場』に引き摺り込んだという事実だけでも、岳の後頭部をガラスの灰皿で叩き割らなければ鎮まらないくらい表木嶺子の神経は逆撫でされるだろう。殺人犯の息子になりたくないひろたかは、藤太の滞在中に限って実姉あね携帯電話スマホのみで連絡を取り合おうと提案した。

 練習トレーニング結果の報告には電子メールやチャット・アプリを利用し、藤太にも嶺子にも気取られないよう未稲を介して意見交換を行うという段取りである。激しい運動の後に計測した心拍数やMMAルールの学習進捗なども書き記しているノートは、外出の際に何処いずこかで落ち合って手渡しする――と、未稲は説明に付け加えた。


「……進士氏も何度か会わせてもらったようなことを話していたけど、そこまで明け透けに話せるということは、ヒロくんは実の父親が誰かを……」

「ほんのちょっと前まで幼稚園バスに乗ってた子が昼ドラ顔負けの家庭事情を理屈で割り切っちゃうのは、お姉ちゃん的に将来有望とは言いにくいんだよねぇ……」


 極めて繊細な問い掛けに対して未稲が首肯を返答こたえに代えると、キリサメは何から何までひろたかの手のひらの上で転がされていた気持ちになり、一日の疲労が急に押し寄せてきた。

 横から未稲に抱き締められたのは、一等深く項垂れた直後である。


「……珍しいね。みーちゃんのほうから……」


 頭部にも手が添えられ、上半身の隅々まで愛しい体温ぬくもり伝達つたっていく。再び白く曇った未稲の丸メガネを見つめながら、キリサメは安らぎの溜め息を零した。

 いつもはキリサメのほうから唇を重ねることが多い。これより前に未稲が自ら抱き着いたのは初陣プロデビューを直前に控えた頃――とらすけが仕掛けた罠に嵌り、法治国家日本とは相容れない禍々しい『聖剣エクセルシス』で『タイガー・モリ式の剣道』と斬り結んだ日である。

 〝人間らしさ〟を与えてくれた未稲を喪失うしなわない為であったとはいえ、秋葉原の中心部で故郷ペルーける〝仕事道具〟を振り回した瞬間とき指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めて『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立つ資格を一度は捨てたのだ。

 デビュー戦を迎える前とはいえ、〝プロ〟の身でありながら路上戦ストリートファイトという過ちを犯してしまった〝事実〟は、樋口代表の手による情報操作で打ち消され、契約解消といった懲罰ペナルティも免れた。しかし、を支えようとしてくれた全ての人々の信頼を裏切ったことは、他の誰でもないキリサメ自身が許せなかった。

 自他の命をちりあくたとしか感じられない〝闇〟に心を蝕まれている状態のまま、理解が及ばない〝格闘競技スポーツ〟のリングに立つことは、養父たちが闘魂たましいを注いできたリングに対する冒涜ではないか――競技選手アスリートとしての在り方を見失ったとき、血塗られた少年をMMAへの挑戦に導いた未稲が互いの唇を通して安らぎを与えてくれたのである。

 この少女と出逢わなければ、己の身に流れるものと同じ〝血〟を吸い尽くした『聖剣エクセルシス』を握ることさえ躊躇ためらわないキリサメの心に〝人間らしさ〟は芽生えなかったはずだ。

 夜食の代わりに摘まんでいたココナッツカレー味のポテトチップスの匂いが入り混じる体温ぬくもりや、鼓膜を伝達つたって脳へと染み込んでいく心臓の早鐘など、八雲未稲という全存在を感じるだけでキリサメの心身は緊張から解き放たれるのだった。


「わ、私なんかじゃ役者不足かもだけどね。その……ストレス軽減にはも効き目があるんだって。だ、だからね、私っ、私なりにね、が、頑張りたいなってっ!」


 キリサメの頭を自分の胸に掻き抱いたまま、未稲は小刻みに深呼吸を挟みながら余裕の欠片もない声で一つの決意を明かしていく。


「……あの『スーパイ・サーキット』から――キリくんが何とかしたいって思ってる〝課題〟から少しでも負担を減らせないかって私なりに調べてみたの。専門的にはきりしま先生が診てくれるけど、家族が――私がキリくんの為に出来ることをもっと増やしたくて」


 そこまで未稲の話を聞いて、キリサメの双眸と脳はテーブルに広げてある幾つもの書籍を初めて認識した。

 の医学書であるが、いずれも心理療法やリハビリ、各種セラピーなど傷付いた心に寄り添う手掛かりが記された物ばかりであった。その内の数冊は書名に心的外傷後ストレス障害PTSDやトラウマ症状と冠している。

 キリサメの目が机上に向かっていることを見て取ったのか、未稲はの状態について「ハグすると脳内あたまのなかでイイ感じのホルモンが分泌されて、リラックス効果も抜群」という科学的根拠も付け加えた。

 その間に心臓の鼓動が更に加速したように聴こえたが、キリサメの錯覚ではあるまい。


きりしま先生の説明はなしだと『スーパイ・サーキット』とPTSDは別のものとして考えたほうが良いんだよね。でも、ストレスが原因なのはきっと同じ――どうすればでキリくんと一緒に闘えるか、ヒロくんに相談に乗ってもらったんだよ」

「博識なひろたかくんもばかりは答えようがないんじゃないかな。七歳の子に助言を頼めるようなモノでもない。分からないことを知ったかぶりで誤魔化す性格でもないし……」

「私も無茶振り過ぎるだろって自分にツッコんだよ? なのにヒロくんってば今日の時点でも私より全然詳しいんだもん。分からないコトは一緒に調べるって約束してくれたし」


 未稲が続けたのはキリサメ不在の『八雲道場』に義弟おとうとがわざわざ来訪した理由である。

 屋外そとに連れ出される直前まで実姉あねと差し向かいに座りながら、机上の書籍を読んでいたのだろう。一般家庭向けに分かり易く解説された医学書とはいえ、七歳児に読み解ける内容ではない。だが、中世日本の武家社会にける判例集を愛読しているひろたかであれば、記されている症例などを全て理解し、未稲から望まれた通りの助言アドバイスも与えられるだろう。

 キリサメの練習計画も理詰めで組み立てた小さな軍師のことである。『スーパイ・サーキット』が『逃走・闘争反応』――即ち、一種の〝ストレス反応〟と把握した直後には、独自に研究を始めていたのかも知れない。

 〝心の専門医〟としてキリサメに向き合うきりしまゆうのもう一つの専門である犯罪心理学の理解も不可欠と判断し、関連する学術論文を読み耽る姿も容易く想像できた。


ひろたかくんから勧められたの? ……義弟おとうとのお膳立ては少しだけ照れ臭いな」

「じ、自分で調べて自分で考えたことだよっ。こ、を相談なんかしたら、姉弟の縁を切られるレベルでドン引き一直線まっしぐらだってば!」

「みーちゃんが自分で……。僕の〝課題〟に付き合わせてしまって申し訳ないけど、それ以上に嬉しく感じるのは変……かな?」

「だ、だめだめだめだめっ! を相手に言わせるのはレッドカードっ!」


 奇しくもサッカーワールドカップの名場面が垂れ流されるテレビ画面では、各国の代表選手による反則の場面が大写しとなっていたが、二人の耳には周囲まわりの音など一切届いていない。

 気恥ずかしさで爆発してしまいそうな言葉を求めてくるキリサメを押し止めるように、未稲は抱き締める力を強めていた。


「……夕方からずっと難しい表情かおしてたよね? 例の刑事に嫌がらせを喰らって心が苦しくなっていたらどうしようって、私、気が気じゃなくて……」


 温かい両腕を名残惜しく感じながらも上体を引き起こしたキリサメは、呆けたように口を開け広げたまま未稲を見つめ返した。危うく喉の奥から飛び出しそうになった「誰のだと思ってるのかな?」という声を飲み下せた自分を褒めたいくらいである。

 勿論、未稲の心配は真っ直ぐに受け止め、その想いを噛み締めている。

 都内で活動している地下格闘技アンダーグラウンド団体を皮切りに、最終的には日本MMAをも壊滅させようと目論む警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係の刑事――鹿しかの来襲によって、キリサメが心の均衡バランスを崩してしまったのではないかと案じているわけだ。

 次回興行の開催先である〝火の国〟――熊本の武術界と『天叢雲アメノムラクモ』の間に埋め難い溝が生じ、抜き差しならない緊張状態に立ち至ったことは、鹿しか刑事の口から語られるまで統括本部長の岳でさえ掴んでいなかった。確執の火種である樋口代表から知らされていなかったとも言い換えられるだろう。

 それだけに鹿しか刑事による情報提供は有益であったが、同じ空気さえも吸いたくない〝敵〟との接触は、許容範囲を超えるストレスとなってキリサメの心に牙を剥くのだ。

 格闘技を人権侵害と決め付けて根絶を訴え、テロ紛いの〝抗議〟を繰り返した末、一部の過激活動家が『NSB』の興行イベント開催先に対する占拠及び銃撃事件まで起こした『ウォースパイト運動』と、鹿しか刑事の間に明確な差異ちがいを見つけることは難しい。

 『NSB』の関係者が偶然たまたま同乗していただけで大統領専用機エアフォースワンにサイバーテロを仕掛け、〝同志〟たちの間で超大国アメリカの権威をも恐れない英雄の如く崇拝され始めた〝IT社会の申し子〟――『サタナス』のように、鹿しか刑事も警察官の権能を最大限に悪用し、〝組織暴力予備軍〟と蔑んでいる格闘技を攻撃することであろう。

 数え切れない凶弾によって『NSB』の興行イベント会場を阿鼻叫喚の惨状に変えてしまった銃撃事件も、『サタナス』が獄中から操ったのではないかと囁かれている。〝立場〟こそ正反対ではあるものの、鹿しか刑事も裏舞台での暗躍に長けている様子であった。

 鹿しか刑事がにじり寄ってきたことで、どれほど心を軋まされたか――これが気掛かりでならなかったという未稲の想いに触れたキリサメは、自分自身の幼稚さに呆れ果てた。

 存在自体が煩わしい鹿しか刑事には確かに心の〝闇〟も疼いたが、食卓で晒していた不機嫌な表情かおは、未稲から藤太に対する憧憬あこがれへの嫉妬ヤキモチでしかないのである。

 藤太を前にした未稲は自分のことなど視界の端にすら入れていないと勝手に決め付け、不貞腐れていたのだ。浅はかな独占欲が今となっては情けなくて仕方がなかった。

 居た堪れない気持ちで目を泳がせるキリサメに対して、未稲のほうは静かに居住まいを正していく。依然としてレンズは白く曇ったままであるが、その双眸は彼をMMAのリングにいざなったときと同じくらい真剣であった。


「……私、って幼馴染みに負けたくない」


 夢想だにしない言葉に心を貫かれたキリサメは、『スーパイ・サーキット』を発動させた瞬間よりも大きく双眸を見開いた。

 共に格差社会の最下層を這い回ってきたキリサメの幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケに向かって、未稲は以前にも増して対抗心を燃えたぎらせていた。

 故郷ペルーでは誰よりも近しい存在ひとであったとしても、今は自分がキリサメの傍らにる。彼がMMA選手として闘う姿など〝地球の裏側〟にては想像すら出来ないだろう――と、顔すら知らない相手に対して薄暗く勝ち誇ったこともあった。

 そのが既にこの世の人でないと未稲が知ったのはごく最近のこと――ケースカンファレンスの席である。キリサメもえて彼女に隠していたわけではない。そもそも自分の幼馴染みに複雑な感情を持っているとは思いも寄らなかったのだ。

 労働者の権利を脅かし得る新法を撤回させる為、何万という怒れる市民ひとびと首都リマに所在する〝大統領宮殿〟へと押し寄せた大規模反政府デモ――『七月の動乱』が昨年に発生したことは、同時期のペルーに潜入取材を敢行したネットニュース『ベテルギウス・ドットコム』から配信された動画ビデオを視聴して未稲も把握はしていた。

 しかし、ノートパソコンの画面越しに〝地球の裏側〟を覗き見るのみという彼女が知り得たのは、表層的な概略あらましのみである。

 現地では他ならぬキリサメが国家警察と共に首都リマを駆け回り、の民を内乱の尖兵に仕立て上げようと企んだテロ組織に『聖剣エクセルシス』を振り下ろしていた。別の場所で『七月の動乱』に巻き込まれたは、過激化したデモ隊に混ざって警官隊と銃撃戦を繰り広げ、その果てに全身が風穴あなだらけという惨たらしい有りさまで冷たく転がることになった。

 様々な問題こそ抱えつつも、法の秩序に支えられた平和が続く日本で生まれ育った人間にとって現実の出来事と感じることが難しい死闘たたかいがキリサメの口から語られた直後は、に対する薄暗い優越感を反省した未稲であるが、を引き取る形で続けられたきりしまゆう――〝心の専門医〟の説明はなしによって再び対抗心に火が付いた。

 大小の短剣ナイフを使いこなし、死臭が垂れ込める貧民街スラムでキリサメと互いの命を守り合ったというを睨み据え、心の中で彼に借り受けた『聖剣エクセルシス』を振りかざしたとも言えよう。

 きりしまゆうによれば、の姿を借りた幻像まぼろしや、彼女と同じ声帯を持つ異形の〝死神スーパイ〟が『イマジナリーフレンド』に近似する形でキリサメに破壊の衝動を受けれるようささやき、『スーパイ・サーキット』に秘められた暴威を更に加速させているという。

 未稲はキリサメのなかに蓄積されたストレスを心配しているが、は精神的苦痛のみを指してはいない。鹿しか刑事との遭遇によって魂に巣食う〝闇〟が揺り動かされ、暴力性を抑えるたが幻像まぼろしから外されそうになったのではないかと案じた次第である。

 ケースカンファレンスの場にいて、未稲を含むチーム全体に共有されたことだが、現在の『スーパイ・サーキット』は大きく二段階に分かれている。

 標的の動きを制する攻撃行動ブローアウェイ退避行動ゲットアウェイの組み合わせである『逃走フライト反応』は、周囲まわりの目には神速の域にまで達する究極の迎撃カウンターとしか映らず、それ故に未稲も人間という種を超越した異能ちからとして魅せられたのだ。

 しかし、ストレスの発生源に死という名の崩壊ディスインテグレーションをもたらし、危機的状況そのものを死神スーパイの生け贄に捧げんとする『闘争ファイト反応』は、初陣プロデビューのリングでじょうわたマッチの命を奪いかけた通り、〝格闘競技スポーツ〟から逸脱したさつりくに他ならないのである。

 『E・Gイラプション・ゲーム』から『天叢雲アメノムラクモ』に差し向けられた刺客とも呼ぶべきでんとの路上戦ストリートファイトを目の当たりにし、〝格闘競技スポーツ〟のリングでは許されない獰悪な喧嘩殺法に心を震わされた未稲ではあるものの、キリサメに自らの拳を罪でけがして欲しいわけではない。

 初陣プロデビューのリングを深紅あかく塗り潰したのは、まぶたが全開となった双眸から絶え間なく迸らせた鮮血だ。それほどまでに大きな反動が癒し切れない損傷として肉体からだに蓄積されていけば、文字通りに寿命を縮めてしまうだろう。

 実際、『闘争ファイト反応』が暴走状態に陥った『スーパイ・サーキット』でリングを崩壊させたのち、キリサメの四肢は正常まともに動かなくなり、緊急搬送を余儀なくされている。

 キリサメを崩壊ディスインテグレーションまで追い立てる引き金と化したと戦う――「幼馴染みに負けたくない」という一言を通じて、未稲はその決意を初めて口にしたわけだ。

 ケースカンファレンスにいて、キリサメは「の〝声〟が脳に取りたび、自他の命を守らんとする理性も感覚も壊れてしまう」と述べている。これを放置し続ければ、『スーパイ・サーキット』は未知の〝第三段階〟まで悪化するかも知れない。

 最悪の筋運びシナリオとなる前にキリサメを〝闇〟に引き戻さんとする〝声〟を断つ。これこそが未稲の戦いであった。現実の世界ではとても持ち上げられない重量おもさの『聖剣エクセルシス』だが、心の中では持ち主キリサメのように幾らでも振り回し、短剣ナイフと斬り結べるのだ。

 無論、未稲はの顔を見たことがない。『聖剣エクセルシス』を向けるのは〝死神スーパイ〟という言葉に基づいて脳内あたまのなかで捏ね繰った得体の知れない〝影〟である。


「私はさんに負けない。今、キリくんの傍にいるのは八雲未稲だもん」


 刀剣マクアフティルの扱い方など習ったこともない為、後ろに大きく仰け反ってしまったが、勢いだけは勇ましくの〝影〟に斬り掛かっていく己の姿を脳内あたまのなかで思い描きながら、もう一度、未稲は自らの決意を語った。

 これを受け止めるキリサメのなかでは、最初から勝負になっていなかった。砂色サンドベージュの風の向こうに消えた幼馴染みとは互いの深い体温ぬくもりまで知り尽くしていたが、〝人間らしさ〟を与えてくれたのは目の前の未稲なのだ。

 鼻を濡らした大量の汗で丸メガネを滑らせつつも、精一杯の力を込めた声で紡がれる一言々々にキリサメの唇が震え、今度は自分のほうから未稲を抱き寄せた。

 『スーパイ・サーキット』という〝ストレス反応〟や、幻像イマジナリーフレンドとしての前に立ちはだかったひいては異形の〝死神スーパイ〟と相対するすべを調べたのは、貧民街スラムの喧嘩殺法をMMAのリングにいざなったことへの負い目もあったはずだ。

 しかし、それだけではない。だからこそキリサメは抱き締める力を強めることで感謝の言葉に代えたのである。未稲も〝この場所〟は他の誰にも譲らないと主張するように、彼の腋下を潜らせた両手でもって背中を撫で続けた。


「……キリくんが思ってるよりも、私はずっとキリくんのコトを考えてるつもりだよ」


 この言葉に「みーちゃんは他にもが多そうだよね」と底意地悪く返すほどキリサメも不貞腐れてはいない。慕情を露にして接する進士藤太は言うに及ばず、同じゲーミングサークルに属する男友達デザート・フォックスに対しても、未稲は友情を超えた気持ちを仄めかしている。

 未稲では人付き合いに序列を設けており、自分はその中でも下位ではないかと疑うほど振り回されるキリサメだが、愛しく想う心が一方通行でないことだけは確かめられた。

 そもそも自分も『しょうおうりゅう』の現宗家であるあいかわじんつうのことを〝半身〟の如く意識し、浮ついた気持ちさえ抱いている。未稲を責める資格など最初から持ち合わせていないのだ。

 それならば、今、この瞬間の胸の高鳴りこそ素直に受けれるべきであろう。

 上階に藤太が居ることを理由にして拒絶されたなら、キリサメもあらゆる感情を消してリビングルームから立ち去ったが、真っ白に曇ったレンズの向こうの瞳は正面の一人だけを映し、そこから微動だにしない。

 暫く見つめ合った後、二人はどちらともなく唇を重ね合った。

 キリサメが少しばかり前傾姿勢になると、未稲は丸メガネがずり上がるのも構わずに抱き返し、僅かに開いた唇の隙間から甘い吐息を零した。

 二人分の体重を受け止めるソファの軋み音に別の物音が混ざったのは、未稲の右手がキリサメの後頭部を熱に浮かされたような調子で撫で始めた直後である。

 リビングルームの出入り口は、ある程度の体重を掛けて踏み締めると床が甲高い音を鳴らす。『八雲道場』の住人にとっては日常の風景に溶け込んでいて気に留めるまでもないものであるが、は当然ながら状況にるのだ。

 自分たち以外には誰の姿もなかったはずのリビングルームでの立てた音を聴いたわけである。二人が揃って顔を振り向かせると、視線の先では痛恨の二字を顔面に貼り付けた藤太がドアノブを握ったまま立ち尽くしていた。


「ぶ、無粋な邪魔をするつもりはなかったんだ! ワールドカップの音声が聞こえてきたものだから一緒に観戦したいと思ってだな! じ、じきにホイッスルの時間だろう⁉ た、ただそれだけで……! お、俺は退散するから後は若い二人で、ゆ、ゆっくり続けてくれッ!」

「じゃあ、お言葉に甘えて――ってなるワケないでしょっ! キ、キリくんも一回! 一回離れよう! ……あああっ、そんなに切ない表情かおしないでぇ!」


 つい先ほど上階の藤太と岳に向かって近所迷惑になる言い争いを窘めたばかりの未稲がよりも大きな声を張り上げたのは、当然ながら狼狽半分の照れ隠しである。

 一方の藤太はドアを開いて右半身を部屋に入れた状態のまま硬直しているが、その際の足音にもちょうつがいが軋む音にも気付けないほど二人は互いの唇に酔いれていたわけだ。

 彼はワールドカップ関連番組の音声を押し流すほどの大音声で己の師匠を叱り続けていた。それすらもの間にか終わっていたのである。

 開いたままのドアから割り込み、日本代表と同じ試合着ユニフォームに身を包んだぶすじましんがテレビの中で張り上げる声をしつこく邪魔するのは、階段を駆け下りてくる岳の高鼾であった。

 藤太に対する弁明が思い付かず、本当に頭を抱えながら見悶える未稲の肩を掴んだキリサメは、自分のほうへと振り向かせ、次いで不貞腐れたようなし口を見せ付けた。


「キリくんのヤキモチとか、額縁に入れて飾って愛でたいご馳走なんだけどさーッ!」


 その表情に込められた意図を察した未稲は、「キリくんの傍にいるのは自分」と告げた手前もあり、頭部あたまから蒸気を噴き出しそうな勢いでキリサメと藤太を交互に見比べ続け、ついには遠心力で丸メガネを吹き飛ばしてしまった。

 宙を舞ったをすかさず受け止めたキリサメは、自らの手で未稲の顔に掛け直し、次いで勝ち誇ったような表情を浮かべた。聞こえよがしに〝先程の続き〟を促したのも、当然ながらを藤太に見せつける為だ。

 藤太への対抗心から普段以上に前のめりになっていることはキリサメも自覚わかっており、幼稚な行動を取らざるを得ないほど焦ってしまう自分が情けなかったが、この一線だけはどうあっても譲れないのである。


「そ、そういえばですね! 車椅子ボクシングの普及に取り組んでいるジムで珍しいっていうか、意外な人に出くわしましたよっ!」


 平素いつもは猛々しいごくぶとの眉が力なく垂れ下がり、自発的に正座まで始めた藤太を見ていられなくなった未稲は、左右の手のひらを打ち鳴らしながら露骨あからさまに仕切り直しを試みた。


「向こうは私のコトを八雲岳の娘とも気付いていなかったハズですし、わざわざ声を掛けるのも微妙だったから挨拶もしませんでしたけど、……『・ガレオン・のりはる』さんも車椅子ボクシングを見学してたんですよ」

「その人って以前まえにみーちゃんやしゃもん氏が話していた……?」

「そう――前身団体バイオスピリッツや『天叢雲アメノムラクモ』には出場していないけど、MMA全体で見れば、丁度、キリくんのの先輩に当たる選手だよ。ヴァルチャーマスクさんが日本格闘技界に拓いたもう一つの〝道〟を歩んだ『シューター』って呼ぶべきかな」


 前後の脈絡を無視している為、話題の転じ方としては落第点に近いが、キリサメも藤太もこれを冷やかすようなことはなく、揃って表情を引き締めると、一字たりとも聞き漏らすまいと未稲の話に身を乗り出していった。

 ・ガレオン・のりはる――その名前はキリサメも聞きおぼえがある。

 岩手興行の直前のことであるが、瀬古谷寅之助が開催先に到着するまで身辺警護ボディーガードを代行したきょういし沙門が未稲と共に日本MMAの歴史を紐解いた際、遠慮がちな口調ながらも、七つの海を進む大型帆船を意味する通称リングネーム格闘家シューターに言及していたのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体もろとも〝格闘技バブル〟が崩壊した二〇〇〇年代半ばに日本格闘技界そのものを立て直すべく『MMA日本協会』の主導によって幾つかのMMA団体が旗揚げされ、そこに所属したという経歴キャリアはキリサメも承知している。

 世界の猛者を相手に積み重ねた異種格闘技戦や、現地修行で極めたメキシカンプロレスの『ルチャ・リブレ』など数多の実戦経験と哲学に基づき、日本で初めて『とうきょく』の理論化を成し遂げたヴァルチャーマスクが一九八〇年代に創始した〝総合格闘〟――毎週のように全国各地で試合を執り行い、統一された〝技術〟を磨き続けるという組織の体質は、『天叢雲アメノムラクモ』のような〝興行団体〟ではなく武術・格闘技の〝道場〟に近い。

 これを志す者たちは自らを厳しく律するなど武道寄りの精神性を重んじており、練習も試合も礼に始まって礼に終わる。

 『昭和』の〝スポ根〟ブームを牽引した漫画原作者――くにたちいちばんとの提携タイアップから誕生した〝超人レスラー〟の敗北を生け贄の如く捧げ、〝永久戦犯〟の汚名と引き換えに進化を促したMMAとも異なる〝新格闘技〟と、「敵を叩きのめすのではなく、己に克ってたたかいを修める」という理念を継ぐ者を『シューター』と呼ぶのだ。

 これはプロレスの用語ことばで真剣勝負を意味する『シュート』に由来し、新たに興した格闘技の名称として『シューティング』を掲げた時期もあった。

 『天叢雲アメノムラクモ』にもしんかいこうという中量級選手が出場しているが、・ガレオン・のりはるはその『シューター』たちの頂点いただきに立つような人物であろう――と、キリサメは以前に聞いた解説から把握していた。

 それ以外の情報は殆ど持っていない。未稲と沙門から教わった解説ことを振り返るならば、で試合に出場できる状態ではなくなり、リハビリの最中であるそうだ。

 黄金時代が崩壊した後の日本MMAを支え、復活の旗振り役になることを期待されながらも、重過ぎる荷によって潰されてしまった――そのように評された総合格闘技者シューターが車椅子ボクシングの見学に訪れていたというのである。


「相変わらず一緒に暮らしてるのかって疑っちゃうくらい折原さんの影響濃過ぎで、ジムの中で悪目立ちするカッだったけど、今日は自走式の車椅子に乗ってたよ。てっきり復帰に向けた準備中とばかり思ってたから、……そこまで肉体からだを悪くしてるなんて……」


 未稲が名前を口にしたのは『MMA日本協会』の理事長であるおりはらひろゆきだ。『天叢雲アメノムラクモ』といったMMA興行イベントではなく『打投極』の〝道〟にけるヴァルチャーマスクの直弟子であり、この覆面レスラーを慕う岳が一方的に宿敵として意識する相手でもあった。

 キリサメは伝聞でしか知らないが、現役時代から香水やアクセサリーなどのブランドを立ち上げ、自らファッションモデルをこなすなど「格闘家は日常生活でさえどうを纏っていて汗臭そう」という偏った誤解イメージを払拭させた最初の世代でもあるという。

 予備知識がないと総合格闘技者シューターとは思えないほど小粋な優男――と、沙門は折原浩之の為人ひととなりを高く評価していたが、着物の生地で背広を仕立てる感性から・ガレオン・のりはるが受けた影響を未稲は「悪目立ち」の一言で表した。


「ヘルニアが重傷だったとは公表されているし、杖を支えに歩く姿も写真で見たことがあるけど、足の自由が効かなくなったって話は聞いたおぼえがなかったんだよ。だから、車椅子を使っていることがショックで……」


 無意味な脱線を防ぐ為にひろたかの同行は伏せたが、未稲は車椅子ボクシングの普及に取り組むジムで目にした・ガレオン・のりはるの様子をやや躊躇ためらいがちに明かしていった。

 ボクシングの動作うごきに適応するよう改造が施された車椅子に乗って左右の拳を繰り出す未稲の友人――なしとみもちから一瞬たりとも視線を逸らさず、押し黙ったままリング内外の練習を追い掛けていたという。その間、ジムの人間と語らうこともなかったそうだ。

 目的も不明という異様さが気に掛かり、練習が一段落したなしとみもちにもたずねてみたが、車椅子ボクシングの見学にくだん総合格闘技者シューターが訪れたのも今日が初めてであった。


「モッチーパイセンを見るさんの目付きがちょっとねぇ……。日本の格闘技界に『・ガレオン・のりはる』の名前が知られていなかったら、警察に通報されてたと思うよ」


 キリサメ以上に未稲の話に耳を澄ませる藤太は、幾度も幾度も首を頷かせ、何ともたとがたい溜め息を重く長く吐き出していた。

 ・ガレオン・のりはると『MMA日本協会』理事長の関係性などを把握していることを前提とした未稲の口振りや、これに対する藤太の反応から察するに、『打投極』の先達たるヴァルチャーマスクから別れた二本の〝道〟のに立つ格闘家たちは、互いに旧友と呼び合っているのかも知れない。


「……そうか……ガレオンが……ッ!」


 まるで噛み締めるように口内くちのなか通称リングネームを繰り返したのち、藤太はキリサメに目を転じた。


「ガレオンに興味があるのか、キリー。お前はあの男に会っておくべきだ。に立つからには会っておかねばならない男と言うべきかも知れん」

「療養中……なのですよね? 急に押しかけるのは迷惑の極みではありませんか?」

「もはや、立ち止まってはいられんぞ。今こそ〝世界〟を知るとき。格闘家として名乗りを上げた瞬間から〝世界〟がお前を見ているのだ、キリー」


 キリサメのことを話していながら、眉根を寄せる本人の顔は視界に入らないのか、〝世界〟の二字を連呼したのち、藤太は鈍い音が天井に跳ね返るほど強く己の左胸を叩き、「この兄に任せておけッ!」と頼まれてもいないのに仲立ちを請け負った。

 他者ひとを思いやる気持ちが暴走し始めた藤太は、悪い意味でも豪放磊落な岳以上に厄介である。生半可な抵抗では止められないことを既に思い知らされているキリサメの顔は瞬く間に諦念で塗り潰され、今度も頭に血が上った猪の如き勢いに呑み込まれてしまった。


「エイモス・ファニング――いずれこの名がキリーの前に立ちはだかるぞ」

「エイモス・ファニング……?」

「エイモス・ファニングゥっ⁉」


 キリサメと未稲は藤太が発した人名なまえおう返しの如く復唱したが、口を揃えながらも当惑と驚愕が語尾の強弱で明確に分かれていた。

 MMA用の義足を装着して八角形の試合場オクタゴンに臨むシロッコ・T・ンセンギマナや、格闘家とアクション俳優を〝兼業〟するダン・タン・タイン、『天叢雲アメノムラクモ』にける八雲岳のような〝立場ポジション〟を担う『NSB』の絶対女王――ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンなど、望むと望まざるとに関わらず所属先を標的とするテロ事件に巻き込まれてしまった所属選手たちはキリサメの記憶に刻み込まれている。

 しかし、藤太が挙げたエイモス・ファニングは初めて聞く名前であった。

 ダン・タン・タインと共に〝季節労働者〟と揶揄されることもあるが、エイモス・ファニングはアメリカの男子プロリーグで活躍するバスケットボール選手が〝本業〟であり、試合期間以外シーズンオフに限定して『NSB』に出場している――と、藤太は説明を続けた。

 凶弾によってけがされてしまったが、MMA選手としては『ウォースパイト運動』による二重のテロ攻撃が起こった興行イベントが二〇一四年の第一戦目であった。

 試合場オクタゴンに立つのは一年の内でもごく僅かだが、バスケのコートと同じように鮮烈な闘いで観客を魅了するのだから、〝季節労働者〟という皮肉は最大の称賛でもあるわけだ。

 エイモス・ファニングはバスケットボールの技術テクニックをMMAにも生かしている。

 格闘技雑誌のインタビューにて『ナイアガラ・ワンハンド』なる名称なまえを明かしたが、対戦相手の頭部をボールに見立てて掴み、この〝捕獲〟を維持したまま金網を張る為に等間隔で立てられた支柱の一本を蹴って高く跳ね、巧みに身体からだを捻って姿勢を整えつつ跳躍の頂点からマットへ急降下する変則的トリッキーな投げ技を得意としていた。

 プロバスケットボール選手と格闘家の〝兼業〟であれば、ブルース・リーの遺作に出演したカリーム・アブドゥル・ジャバーという先例が有名である。伝説のアクションスターは頭二つ分という身長差を物ともせず、二メートルを超える巨人と好勝負を演じたのだ。

 カリームはバスケにいても〝伝説レジェント〟であり、優れたパワーフォワードとして受賞経験のあるエイモス・ファニングも同じ領域に辿り着くであろうと全米から期待されている。

 だからこそ『NSB』も〝季節労働者〟と呼ばれるような出場条件を認めているのだ。


「エイモスはキリーに運命を感じていてな。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアまで逢うのを待てんというほどワクワクしていたよ。一緒にどうかと誘わず日本に来たことを恨まれるかも知れん」

「今、この瞬間までその名前を知らなかった僕に……ですか?」


 海で隔てられた日米間には大きな時差がある為、同刻とは言い難いが、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の興行イベント開催中にじょうわたマッチの仲間が暴徒と化し、乱入事件にまで発展した同日――六月一五日にエイモス・ファニングのであるプロバスケットボールリーグは、前年の一〇月から続いていた試合期間シーズンが幕を下ろしている。

 エイモス・ファニングが他団体の新人選手ルーキーに不思議の一言では割り切れない〝巡り合わせ〟を感じるのも無理からぬことであった。

 逢ったことがないばかりか、顔も知らないMMA選手エイモス・ファニングであるが、その昂揚はキリサメにも理解できた。彼自身、父親同士が古くからの好敵手ライバルという教来石沙門には時代を変え得る才能に劣等感を抑えられなかったのだ。所属団体こそ異なるものの、沙門も同日に〝プロ〟の格闘家としてデビューを果たしたのである。


「全米で知らぬ者ナシというエイモスが闘志を刺激されたように〝世界〟はキリサメ・アマカザリという存在を知ってしまった。この事実から目を逸らすことは出来ん。ましてや後戻りなどもってのほか。それならば、キリーも〝世界〟に目を向けなくてはな」


 熱く吼えながらキリサメの両肩を掴んだ藤太は、五指に漲る力の強さに目の前の少年が顔をしかめても全く気付いていない。


ガレオン――その男は日本と〝世界〟、二つのMMAを誰よりも知っている。俺などとは比べ物にならないほど深く理解している。……が背負ったモノをキリーにこそ知って欲しいのだ。MMAが歩んできた歴史を血肉と換える為に……ッ!」


 キリサメと・ガレオン・のりはるを引き合わせるまで藤太は止まりそうにない。

 そのように確信させる熱弁で表情を曇らせたのは、キリサメ本人ではなく、彼の傍らにる未稲のほうであった。


「……MMAの歴史を勉強するのは大事ですけど、何でも背負わせれば良いってワケじゃないですよ。さん本人だって、そので人生メチャクチャにされたのに……っ」


 現在いまの未稲は藤太に抱いた憧憬あこがれも忘れ、くだん総合格闘技者シューターとの接触に控え目ながら反対し続けている。唇まで噛む姿を目の端で捉えれば、キリサメも・ガレオン・のりはるという男に異様な〝何か〟を感じずにはいられなかった。


「――日本代表、惜しくも決勝トーナメントに進むことは叶いませんでした! しかし、四年後には更なるサムライ旋風が巻き起こるでしょう! サッカー王国のワールドカップで日本は〝世界〟の壁を改めて学びました! 〝世界〟を知る者のみが〝世界〟を制するッ!」


 この瞬間まで忘れていたテレビの音声がキリサメと未稲の鼓膜をつんざき、二人には眩暈を覚えるほど大きく聞こえたが、それは動揺が一種の反響として作用している為であろう。

 番組の司会進行を務めるぶすじましんは、岳にも負けない熱烈な男だ。画面を突き破って飛び込んでくるのではないかと錯覚してしまうほど力強い声の持ち主であるが、これによって連呼される〝世界〟の一言も現在いまの二人にとっては重く突き刺さる皮肉でしかない。



                     *



 反社会的勢力ヤクザとの〝黒い交際〟が暴かれたことで破綻した『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体と、これに引き摺られる形で訪れた〝格闘技バブル〟の終焉――引責のように一度は現役を退いた八雲岳が再び統括本部長の肩書きを背負い、共に日本MMAの黄金時代を築いた仲間たちと東北復興支援にち上がるまでの僅かな狭間は〝失われた世代〟と呼ばれている。

 おにつらみちあきが掲げた実戦志向ストロングスタイルのプロレスや異種格闘技戦の延長ではなく、の世代とも言い換えられるだろう。その時期にプロデビューを控えていた選手はリングへ飛び込んでいく前後に〝格闘技バブル〟の崩壊に直面し、活躍の舞台となるはずであった大型興行イベントやテレビ地上波放送の途絶といった空白期間が生じたのである。

 ヴァルチャーマスクから始まった二本の〝道〟を束ね、一度は日本MMAを未来へ導くとまでうたわれた・ガレオン・のりはるは、夢を託したMMAに〝全て〟を奪われるという悲劇をもって〝失われた世代〟の象徴となり、それ故に〝無冠の王〟としてのちの格闘技史に刻まれることになる。

 その哀しい生きざまを通してMMAに横たわる〝負の歴史〟と対峙することになるキリサメと〝無冠の王〟の運命が初めて交わったのは、『プロレスが負けた日』から一七年目の夏――二〇一四年七月三日のこと。

 る整形外科医院のリハビリ室で歯車は動き始めた。

 体重を支える手すりが両側に設置された四段式の歩行訓練用階段に向かい、黙々と昇降運動に励んでいたのだ。窓から取り込んだ陽の光がまぶたの輪郭に合わせて陰影を落としている為か、双眸にはひと欠片かけらの輝きも見つけられなかった。

 くらい瞳の中央に執念以外にはたとえようのない炎を燃やし、渦潮とおぼしき刺青タトゥーが彫り込まれた蒼白い頬を痛々しいほど小刻みな呼吸と共に震わせていた。

 数日前、偶然にも同じボクシングジムで未稲と遭遇したときには自走式車椅子に乗っていたという。この話を事前に聞いていたからこそ、四段ののぼりおりが歯を食いしばってようやく耐えられるほどの負荷を全身に掛けているのだろうと、キリサメには察せられたのだ。

 彼は『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが刺繍された赤いハーフパンツを履き、これにビブス風のタンクトップを組み合わせている。

 独創的な前面を見れば、タンクトップが特注品オーダーメイドであることは瞭然だ。

 上下二段構造であるが、腹部が白いメッシュ素材で仕立てられているのに対し、赤いナイロン生地の胸部には虹色に煌めく小さなアルミ片が幾つも括り付けられており、遠目には魚鱗のようにも見えた。

 一枚一枚が小さく薄く、軽量なはタンクトップの胸部に糸で留めてあり、引っ張ると簡単に外すことが出来る。表面には英語で綴られた『ガレオン』という通称リングネームと、MMAデビューした年を意味する『08』という英数字の番号がそれぞれ刻み込んであるのだ。

 その内の一枚をキリサメも右の掌中に握り込んでいる。彼が自己紹介しようとした矢先にこれをタンクトップから千切った・ガレオン・のりはるは、声もなく指で弾き、放物線を描いて落下していくところを手のひらでもってのだった。

 普段から名刺の代わりに用いているのであろう。不思議な光沢のアルミ片が擦れ合って乾いた音を鳴らすさまは、現代に甦った魚鱗の鎧スケイルアーマーのように見えなくもなかった。

 タンクトップの裾はハーフパンツの外に出しているが、それだけでは内側に籠る熱を逃がし切れないようだ。ナイロン生地の背面は汗によって身体からだに貼り付いている。

 浮かび上がった輪郭シルエットも両腕も、MMA選手としては痩せ過ぎのように見える。左右の手の甲は船の錨、下腕から肩までは風の流れを意匠化した刺青タトゥーでそれぞれ飾っているが、いずれも筋肉量が最も充実していた頃に彫り込んだものであろう。往時の姿を知らないキリサメにも衰弱が顕著と分かる現在いまは形が醜く歪んでいた。

 突き込まれた直線的な一撃ストレートパンチで脆く抉れそうな胸板は、この運動がではなく、を目的としたリハビリであることを表している。

 ・ガレオン・のりはるの運動療法は 種々様々な大型機器を並べても床の半分近くが余るほど広いリハビリ室で行われている。『八雲道場』のかかりつけ医である藪整形外科医院のと比較して、単純な面積だけでも三倍は超えていた。

 看板に『ぐらどう』と冠する整形外科医院であれば、相応の規模を有しているのは当然であろう。同じ個人開業医でも手狭で機器も限定的な藪総一郎の病院とは異なるわけだ。

 日本武術興亡の瀬戸際で存続に力を尽くした歴代の功績など、今まで多くの格闘技関係者から聞かされてきた伝説的な屋号である。

 『名倉堂』は江戸時代から天下一の骨接ぎと名高く、その屋号は現代いまでも骨接ぎの代名詞だ。これを称するは全国に点在するが、本家はであり、せんじゅに根を下ろした〝業祖〟のなおかたが柔術から骨接ぎの秘伝を学んだのが始まりとされている。

 その源流たる『ようしんりゅう』では組技やあての他に負傷者に施す治療法も伝えられていた。キリサメはこれを破壊の逆回りと理解したのだが、実際に日本を代表するうきであるかつしかほくさいなおかたから人体骨格を学んだと伝わっていた。

 日本最後のけんかくと名高いさかきばらけんきちは明治維新によって急速に廃れつつあった剣術という〝文化〟を未来に繋ぐべく〝げきけんこうぎょう〟を催したのだが、江戸の顔役――しんもんたつろうと共に後ろ盾となったのも『名倉堂』であり、せんじゅ四代目・いちは日本武術の行く末を憂う彼の苦境を友人として支え続けたのである。

 ぐらいちの名前は〝げきけんこうぎょう〟の史料に出場者としても記載がある。現代の剣士である瀬古谷寅之助は、武芸の〝道〟を歩むどうとしてさかきばらけんきちの魂に共鳴したのであろうと、せんじゅ四代目に対する自らの見解を語ったこともあった。

 キリサメにとって身近な人々も〝名倉の骨接ぎ〟とは関わりが深い。

 神通が鬼貫道明の経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で働くようになった直接的なきっかけでもあるのだが、総合格闘技MMAという新時代に辿り着く〝道〟を拓いた先駆者がまだ『アンドレオ』という通称リングネームを名乗っていた一九八九年――四半世紀前に彼女の父であるあいかわと非公式の他流試合を執り行った。

 中世のかっせんで編み出された〝戦場武術〟と実戦志向ストロングスタイルのプロレスによるは、まさしく命懸けの死闘であり、双方とも医者が匙を投げそうになるほどの重傷を負った。

 鬼貫の側は自慢の顎まで真っ二つに割られたのだが、回復まで特に時間を必要としたのは左膝である。己の体重すら支えることが出来ず、せんじゅの『名倉堂』を頼り、然るべき治療を施されていなければ、リングへの復帰は五年を超えて更に延びたことであろう。

 骨接ぎの秘伝を求めて日本各地から患者が殺到したという『名倉堂』の伝説は紛れもない事実であったと、現代にいて証明した次第である。

 即ち、この病院が本家から直々に『名倉堂』と称することを許された〝名医〟という意味でもあるわけだ。その屋号を用いるは多くとも業祖以来のは珍しく、これもまた医師としての力量と実績の裏付けと言えよう。

 ・ガレオン・のりはるの傍らに立ち、タブレット端末を操作しながら運動療法を見守る女性こそが〝名倉の骨接ぎ〟の系譜を受け継ぐ一人――院長のつえむらあけであった。

 キリサメは挨拶を交わしたのも今日が初めてだったが、その名前は『名倉堂』の屋号と併せて以前に未稲や沙門から教わっていた。

 サバキ系空手の礎を築いた『くうかん』道場から理不尽な体罰や根性論などを根絶する組織改革の一環として、子どもの将来に深刻な影響を与え兼ねない故障や後遺症を回避する〝予防医学〟の観点に立った練習計画の策定に協力してもらっているきょういし沙門は、この杖村を〝格闘技専門のスポーツドクター〟と呼んでいた。

 格闘家・武道家の肉体と専門的に向き合う格闘技医学会にも名を連ね、選手生命と引退後の健康的な生活くらしを守る安全指導に取り組む一方で、〝せんじゅの初代〟に当たるなおかたまで名倉家を遡り、歴代の関わりを中心に日本格闘技界の近現代史も研究している。

 杖村医師が背負うもう一つの肩書きもキリサメは承知していた。

 国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関であり、同競技のオリンピック正式種目化に向けた推進運動の旗振り役――『MMA日本協会』に理事として参加しているのだ。同協会が管轄する競技団体の興行イベントでは医療班も指揮していた。

 多岐に亘る活動は尊敬の一言しかないが、樋口郁郎の庇護下でMMA興行イベントに出場するキリサメの〝立場〟からすれば、杖村との接触は冷や汗を抑えがたい緊張を孕むものである。

 二〇一四年七月現在にいて、キリサメが所属する『天叢雲アメノムラクモ』と『MMA日本協会』は宿敵としか呼びようがないほど関係が悪化していた。

 州の行政機関として強い権限を備えているアメリカの体育委員会アスレチックコミッションとは異なり、任意団体に過ぎない『MMA日本協会』は問題を抱えた競技団体に対してという形で働きかけるしかなく、法的拘束力を伴わない〝口頭注意〟にも等しい指導だが、『天叢雲アメノムラクモ』の樋口代表はそれすらも〝内政干渉〟として忌み嫌い、同協会を激烈に敵視しているのだ。

 日本格闘技界が一丸となって東北復興を支援する事業プロジェクトの発足当初は歩調も合わせて協力関係を築いていただけに亀裂は深く、小競り合いが頻発しつつも代表同士の電話ホットラインで事態を収拾できる地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』以上に拗れた対立と言えるだろう。

 診察が目的ではないにせよ、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーが『MMA日本協会』で理事を務める杖村の病院に足を踏み入れたわけだ。これが〝暴君〟の知るところになれば、背信行為との追及は免れず、即日の契約解消を言い渡されるかも知れない。

 その上、藤太に伴われての訪問だ。彼は『NSB』の人間でありながら『サムライ・アスレチックス』の本社ビルに乗り込み、団体代表の責任にいて守るべき所属選手の運命を弄んできた樋口郁郎に罵声を浴びせたばかりなのである。

 杖村も『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手には同様に身構えている様子であった。正面玄関で二人を出迎えたときから顔が強張っており、胸中に何らかの企みを秘めているのではないかと訝るような視線をキリサメは幾度となく感じていたのだ。『MMA日本協会』をめ付ける樋口郁郎と違って敵意を帯びていないことが唯一の救済すくいである。

 尤も、杖村の案内でに入室してからはキリサメのほうがる一点に目を凝らし、じろぎも呼吸も忘れるくらい釘付けとなっていた。


「先週より両足が更に高く上がるようになったわね! 来てるわよ、来てるわよ!」


 キリサメが視線を巡らせた先にるのは、タブレット端末の液晶画面と歩行訓練用階段を交互に見比べる杖村ではない。彼女から励ましの声を掛けられる相手――返事も一瞥もなく押し黙ったまま昇降運動を繰り返す・ガレオン・のりはるのほうであった。

 最初はじめは左右の手すりを掴むことで姿勢を維持する平行棒に向かい、直進の歩行訓練に励んでいた。彼にとっては準備運動ウォーミングアップに近いのかも知れないが、その様子を瞳の中央に捉えて以来、キリサメは魅入られたかのように蒼白い横顔だけを追い掛けている。

 魚鱗の鎧スケイルアーマーを彷彿とさせるタンクトップよりも惹き付けられるのは、群青色に染め抜かれた髪である。戦国武将のまげを彷彿とさせる養父以上に奇抜な髪形でもあるのだ。

 肩甲骨の辺りにまで達する長い髪を二房に分けながら首の付け根辺りで持ち上げ、毛先が外側に向かって放射状に拡がるようにして結わえている。その毛先だけが白く染め分けてあり、後ろ髪全体で弧を描く大波を表現しているようであった。

 額が剥き出しとなるよう前髪全体を持ち上げ、これをシーグラスのヘアピンで固定しているのだが、中央から一房分だけ引っ張り出し、鼻を通って顎先まで縦断するように垂らしてある。醜く散らばってしまわないよう毛先は小粒のビーズで留めていた。

 本人のこだわりなのであろう。一房の前髪と二房の後ろ髪、ヘアピンによる固定から零れて左右の頬に流れ込んだ横髪のみ他の部分より淡い青色に染め分けてあるのだった。

 大型帆船を意味する通称リングネームに合わせて整えたものとおぼしき髪型は、現実離れと言い表すのが最も似つかわしく、軽く一瞥しただけで網膜に焼き付いてしまう。キリサメの瞳が吸い寄せられたきっかけも、のぼりおりたびに揺れる振り子のような前髪であった。


他人ひとが汗水を撒き散らすのを見物して何が面白いのか、理解わかりたいとも思わないが、君たちの娯楽になれるのなら、僕のにも意味が生まれるというものだ」


 昇降運動が一段落して手近な椅子に座った・ガレオン・のりはるは、ストロー付きのウォーターボトルで喉を潤し、ハーフパンツと同じロゴマークが刺繍されたタオルで顔の汗を拭いながら、受け答えに窮する言葉をキリサメと藤太にぶつけた。

 タオルの端から時おり露になる瞳はキリサメだけを捉えているが、依然としてひと欠片かけらの光も宿していなかった。俯き加減の姿勢から上目遣いで視線を這わせているのだから、双眸に影が差すのは当然ではあるものの、それ以外の〝何か〟が渦巻いているようにも思える。

 不用意に覗き返そうものなら〝深淵〟まで引き摺り込まれてしまうだろう。

 このとき、キリサメ当人は〝無冠の王〟が袖も通さずマントの如く肩に引っ掛けたエンジニアコートへと意識を向けていた。白い生地の質感が瀬古谷寅之助の用いる竹刀しないぶくろと非常に良く似ているのだ。

 それはキリサメの見間違いではなく、くだんの竹刀袋よりも薄手の一一号帆布で仕立てた物であった。襟は逆三角形の輪郭を描く大振りなセーラーカラーである。青い生地に二本の白線ラインを走らせるという伝統的な水兵の出で立ちに着想を得たデザインなのであろう。デニムを用いるのは、頭髪の染め分けと同様に彼なりのこだわりであるのかも知れない。

 スカーフを結ぶのが一般的な様式であるが、彼の場合はセーラーカラーの内側に細身のベルトを通してあった。現在はほどいているものの、色合いが異なる二種類の革紐を束ねた物で胸元を留めるようだ。

 未稲から聞いた話によれば、車椅子ボクシングジムの見学先で遭遇した際にも彼の服装は周囲まわりと馴染まないほど目立っていたという。

 その未稲が強い影響を指摘した『MMA日本協会』の理事長――折原浩之は、煌びやかな刺繍が散りばめられた和服を色合いが異なる物も取り合わせて背広に仕立て直す風流人だが、一一号帆布のエンジニアコートや魚鱗の鎧スケイルアーマーのようなタンクトップも、くだんの人物の趣向に倣っているのかも知れない。

 運動が終わった直後の熱を帯びた肌に羽織るのも、キリサメには不思議でならない。しかも、襟と同じ厚手のデニム生地で袖口が作られた長袖のコートである。季節が反対に巡るペルーとは異なり、七月の東京で着用するのは不向きを通り越して無理がある。

 『八雲道場』へ襲来した鹿しか刑事も夏の太陽が呆れ返るような厚着であったが、季節に合わない装いが流行なのか――不意に浮かんだ疑問を脳内あたまのなかで捏ね返していた為、キリサメは何の前触れもなく浴びせられた言葉を咀嚼するだけでも数秒を要してしまった。

 鼻を鳴らす音が追い撃ちとして続けば、何事にも無感情なキリサメでさえ焦燥あせりが募る。双眸をしばたたかせるという反応が気に障ったのかと・ガレオン・のりはるの顔色を窺った瞬間、喉笛にい付かんとするようなくらい眼光に抉られて呼吸いきが止まりそうになった。


「ここに呼び出したのはお前だぞ、ガレオン。その言い草は矛盾の極みと言うもの。頑張る友人を見守りたくなるのは当然であるし、何よりこの場を整えてくれた杖村に失礼だ」


 〝無冠の王〟――ガレオンと視線を交わしたまま、声の一つも絞り出せずに立ち尽くすキリサメを我が身を盾にして庇い、突き立てられた皮肉に正論でやり返したのは藤太だ。

 ごくぶとの眉を吊り上げた彼は、今回の一時帰国に合わせてガレオンのもとを訪ねるつもりであった。だからこそ、己のに興味を持った――正確には藤太の一方的な思い込み――キリサメに仲立ちを買って出たわけである。

 当初は自宅を訪問する約束であったが、〝後輩〟に引き合わせたいと切り出した途端にガレオンは気まぐれを起こし、自分が罹っている病院を合流場所に指定してきた――キリサメはそのように藤太から説明されていた。

 その上、今日は休診日であり、院内には杖村以外の関係者スタッフが居ない。院長の一存で特別にリハビリ室が開放されたわけだ。普段は真っ当に利用時間を守っているという彼女の擁護が無ければ、初対面のキリサメは身勝手極まりないと不信感すら抱いたはずだ。

 尤も、極端にひとのない場所を選んだガレオンの判断は、気まぐれで藤太との取り決めを反故にしたことや、本来は無関係な杖村を巻き込んだことさえ差し引けば、全否定が相当というほど間違っているわけではなかった。

 人間の限界を超える異能スーパイ・サーキットによってリングを血で穢した『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーと、『NSB』に所属する日本人選手の筆頭とも呼ぶべき進士藤太フルメタルサムライを運動療法に励む人々で溢れ返る平日のリハビリ室に揃って招き入れようものなら、制御不可能の大騒動は免れまい。

 〝格闘技専門のスポーツドクター〟と畏敬され、『MMA日本協会』の理事も務める杖村の病院だけに、関係者スタッフにも患者にもMMAを熱烈に愛好する者が少なくないのだ。


「刹那にしか生きられない日陰者の僕と違って、進士さんの場合は世界の大舞台で脚光スポットライトを浴びているじゃないですか。自分の知名度を軽く考え過ぎでしょう。飾らない性格を自分の持ち味と勘違いしているのなら、そろそろ〝大人〟になったほうが良いですよ」

「最初からお前の自宅マンションで会えば、他人ひとの目を気にする必要もあるまいと言っているのだ。リハビリに付き合うのもやぶさかではない。手伝えることは何でも引き受けたとも」

「施しをせびっているように見えました? ……〝お子様〟なのは僕のほうかもな」


 藤太の正論が面白くなかったのだろう。ガレオンは不貞腐れたように口を窄め、額の中央から一房だけ垂らした前髪を吹き上げようと試みた。だが、運動の直後である為か、それとも別の要因か、呼吸は弱々しく、狙い定めた前髪も微かに揺れるのみであった。


「特例の計らいではあるけど、そもそも当院うちの患者よ。奥さんを紹介した縁を割り引いても、相談に乗るのは医者として当たり前。アマカザリ選手とも会ってみたかったから、私個人としては棚からもちなのよ」


 遠慮がない言葉遊びなのか、本気で険悪なのか――藤太とガレオンの関係性を読み切れないまま二つの顔を見比べるしかないキリサメの困り顔に気付いた杖村は、「少なくとも年少者こどもを置き去りにする人間を大人とは呼べないわね」と双方を窘めた。

 その配慮にこうべを垂れるキリサメであったが、杖村の側から自分に向けられる興味への適切な対応のほうが目の前に垂れ込めた穏やかならざる空気よりも遥かに難題なのだ。

 樋口郁郎の庇護下にあるMMA選手の〝立場〟からすれば、『MMA日本協会』は〝仮想敵〟にも等しい。その為、キリサメ個人としては杖村の振る舞いに好感を抱いても曖昧な愛想笑いしか返せず、後ろめたさが募るほど心苦しかった。

 その間にもキリサメは杖村を含めた三者の間柄を静かに観察し続けている。

 医師としてガレオンの運動療法に付き添った際の態度は言うに及ばず、杖村は藤太とも砕けた調子で言葉を交わしている。三人とも友人関係と考えて間違いないだろう。

 藤太と杖村は同性代であろうと察せられるが、『天叢雲アメノムラクモ』からMMAデビューを果たした選手にとって〝最も近い先輩〟という経歴キャリアを考えれば、ガレオンはこの二人よりも一回りは年少であろう。尤も、敬語で接するのは年長者に対する礼儀を重んじているというよりも、相手からの接触を制限する〝壁〟を明確に示す措置のようにも感じられた。

 キリサメも『MMA日本協会』という組織の仕組みを完全には理解できていないが、現職の文部科学大臣や日本初の女性MMA選手といった面々が要職を担っているのだ。理事として名を連ねるには、相応の実績が資格として求められるのは間違いない。

 おそらくは〝格闘技専門のスポーツドクター〟として社会的地位を築く以前まえから藤太やガレオンと親しく交流してきたのであろう。

 片や『MMA日本協会』の理事、片や『NSB』という世界のMMAを主導する団体の有力選手――国内外に名を馳せた両者と自分との間に、ガレオンは心の中で境界を引いているのかも知れない。運動療法に使用した器具の周辺に飛び散った幾つもの汗を杖村が本人に代わってモップで拭き取っているのだが、その様子をベンチから追い掛ける双眸は先程よりも更に影が濃くなった様子であった。

 これを見て取ったキリサメは、運動後の後片付けを自分以外に頼らざるを得ない現状が歯がゆいのであろうと感じ、己自身に甘えを許さない厳しい精神たましいをも見出したが、その一方で得体の知れない戦慄が背筋を冷たく駆け抜けていった事実も誤魔化しがたい。

 瞳のくらさを浮き彫りにしているのは顔中の刺青タトゥーだ。運動療法に臨む横顔ばかりを眺めていた為、頬以外の物に気付きにくかったのだが、額には燃え盛る太陽が彫り込んである。注意深く目を凝らさなければ見間違えてしまうものの、左右の眉は剃り落とされ、代わりに千切れ雲が一朶ひとつずつ浮かべてあった。

 大いなる矛盾あるいは皮肉としか表しようもないが、燦々と輝く太陽とこれを仰ぐ雲という見る者に明るい印象を与えるはずの刺青タトゥーが真逆の気配を際立たせているのだ。

 ガレオンの瞳を塗り潰した〝闇〟のいろをキリサメは過去に見たおぼえがない。

 神通の実父ちちあいかわが若き日に率いた指定暴力団ヤクザの実働部隊――『てんぐみ』の隊士なかまであった藪総一郎やきりしまゆうは言うに及ばず、隣国エクアドルとの国境紛争を軍人として戦い、後遺症によって四肢を満足に動かせなくなった故郷ペルーの知り合いなど死神スーパイの息吹を〝戦場〟で感じた人々の瞳には、戦争を知らない日本人ハポネスとは明らかに異なる〝闇〟が宿っていた。

 フランス陸軍の外国人部隊エトランジェに所属していた頃、イラク・アフガン戦争に従軍したという黒いニット帽の〝相棒〟も、悪ふざけが多い一方で他者を寄せ付けない〝何か〟が瞳の奥でうごめいていたのだ。

 ガレオンの場合は、そのいずれにも当てまらないのである。だからこそ、キリサメは視線を交えるたびに己の瞳を引き剥がせなくなってしまうのだった。


「どうして車椅子を使わないのですか――とはかないのか?」


 必要な掃除を終えてモップを片付ける杖村の背中を見つめながら、ガレオンはまたしてもキリサメにを見舞った。当人の様子など一瞥もせずに脳内あたまのなかで考えていることを看破して見せたのだ。

 己のほうに意識が向いているとは夢想だにしていなかったキリサメは、小刻みに口を開閉させながら目を丸くするばかりである。果たして、ガレオンの詰問は運動療法を目の当たりにした直後から不思議に思っていたことと一字一句に至るまで同じであった。

 彼の座る椅子の肘掛けには金属製のシャフトを短く縮めた一本杖が引っ掛けてある。三段伸縮式で長さを細かく調節できるのは市販品と変わらないが、把手の部分が魚の化石ディプロミスタスの形になっており、エンジニアコートやタンクトップと同様に特注品オーダーメイドであろうと察せられる。

 これを支えにして病院まで足を運んだことも間違いないが、ほんの数日前は自走式車椅子に乗っていたはずなのだ。


「車椅子ボクシングをやっているジムを見学したとき、八雲岳の娘と出くわしたんだよ。向こうは僕を侮っていたんだろうが、盗み見されて気付かないほど鈍感じゃない。リハビリを諦めた根性ナシが車椅子を乗り回すコツを覗き紛いのやり方で勉強していたとか、どうせ面白おかしく触れ回っていたんだろう」

「いえ、そんな話は……」

「なら、どういう話になったんだ? 好きに話してくれて構わないんだぞ。君と僕とは今日が初対面、そして、今日限り二度と会うこともない。おまけに僕は悪口陰口に慣れっこと来たものだ。気を遣われるほうが逆に腹が立つよ」


 車椅子と一本杖を使い分ける理由をなかなか推し量れず、小首を傾げそうになっていたキリサメは、負の想念が煮えたぎったような眼光に思わず仰け反ってしまった。

 ガレオンの側も未稲の存在に気付いていた――ただそれだけならば驚かなかったが、このくらい瞳は同じ場に居合わせるという状況から猛烈な悪意を勝手に見出していたのだ。

 自分の態度に落ち度があったのではないかと振り返るキリサメであったが、そもそも神経を逆撫でするほど言葉も交わしていない。それにも関わらず、侮辱のように受け止められてしまった次第である。

 弁解は逆効果であろうと判断したキリサメは未稲から聞いた話を過不足なく伝えたが、それでもガレオンは自分を欺いていると決め付けた猜疑の眼差しを止めなかった。


「相変わらず、お前は何でも悪い方向に持っていきたがるな。俺もキリーと一緒に未稲から――師匠の娘から話を聞いたが、悪しざまに言うどころか、体調悪化を心配していたぞ。あの子の名誉の為にも断言させてもらう」

「……名誉なんてモンは、他人の口から語られたって勲章代わりにもなりませんがね」


 正面から相対するキリサメと、その向こうにる未稲は僅かも受けれない様子だが、藤太の言葉には一定の信憑性を認めたのか、ガレオンは鼻を鳴らして視線を逸らした。


「……車椅子は本当に調子が悪いときだけ使うようにセーブしているんだ。あまり頼り過ぎると、自分の足で歩くのが馬鹿らしくなっちまうんでね」


 口に出してただそうと思ったわけでもない疑問が自分の手も届かないところで勝手に解消してしまった恰好のキリサメであるが、ガレオンの返答こたえに頷き返しながらも眉間に寄った皺は元通りにはならなかった。

 形が崩れた刺青タトゥーを一瞥しただけでではなくなったことが判ってしまう為、汗みずくにも関わらずエンジニアコートを肩から引っ掛けたのかも知れない。

 タンクトップの腹部もメッシュ生地の向こうに何らかの刺青タトゥーが透けて見えるが、胴周りの皮が弛んでいるのは間違いなく、蒼白く細くなった両腕のと比べても更に原形を留めていないのだろう。

 リングに立っても満足に戦えない〝現実〟が残酷なまでに表れていた。最盛期の状態に鍛え直すまでは衰えた肉体からだを人目に晒したくないという誇り高さと、これに縛られる哀しさは、瞳に執念の炎を灯してリハビリに打ち込む姿からも感じ取れるのだ。


「便利な道具は活用すべきだけど、依存し始めたら心身ともに萎えてしまうということですか……。ご自分に甘えを許さない姿勢は立派だと思います」

「心にもない言葉をおべっか代わりにしないほうが良いよ。バレてないと思っているのは本人だけだからな」


 これ程までに疑り深い人間をキリサメは他に知らない。最初から他者との関わり合いを切り捨てた人間は故郷ペルーの裏路地にも潜んでいたが、ガレオンの場合は何らかの形で接点を持った上で、自分のことを裏切る理由を一挙手一投足の中に探している様子であった。

 自分と関わることを望んでいないのであれば、名刺代わりに魚鱗のようなアルミ片など手渡すまい。それだけに相手が自分から離れる最後の一線を試すかのような振る舞いが理解できないのである。先程は初対面を殊更に強調したが、対人関係の相性を見極めるには相応の時間や理由が欠かせないはずであろう。つまるところ、キリサメやこの場に居ない未稲は、すらも飛び越えて敵意を向けられそうになったのだ。

 日本に移り住んでからこんにちまで出逢ってきた者たちは、良くも悪くも裏表がないか、腹に一物を抱えた〝裏の顔〟の持ち主で大きく分かれている。

 脳細胞がひと欠片かけらに至るまで皮肉の二字で敷き詰められた寅之助や鹿しか刑事もいるが、信用に値しない理由をわざわざ数え続ける猜疑心の塊のような人間は、故郷ペルーで這い回った格差社会の最下層でさえ記憶にない程である。自身の思い込みで一方的に害意を剥き出しにしてきたつるぎきょうや、利害によって他者と距離感を変えるきょういし沙門ともガレオンの眼差しは異なっているのだった。

 強いて挙げるならば、友好的な関係を築けるはずの格闘技関係者やメインスポンサーを〝内政干渉〟の一言で敵視し、日本MMAの黄金時代を共に支えた古豪ベテランたちも無用の長物とばかりに排除せんとする樋口郁郎が最も近いのかも知れない。

 この二人は相手を信じることから始まるという人間関係の根本をどこかに棄ててきたとしか思えないのである。

 から学ぶことが多いのはキリサメも実感として理解わかっている。だが、ガレオンと自分を引き合わせようとした藤太の意図は読み切れなかった。面と向かって言葉を交わしたこともない未稲まで陰湿な人間と決め付けるこの男は、『フルメタルサムライ』の性格を考えれば真っ先に唾棄の対象となるはずだ。


「これでも人並みには忙しいんだ。やる気がないなら、おいとましますよ。さっき僕のことを杖村さんに失礼とか詰ってくれたけど、厚意をにしているのはどっちなんですか」


 右手で握った一本杖の石突でもってガレオンが指し示した先には、電知との模擬戦スパーリングで使用しているのと同じ『ハルトマン・プロダクツ』のトレーニングマットが敷いてある。

 リハビリ室の利用者が準備・整理体操を行っている物だろうと気にも留めていなかったのだが、ガレオンの話から察するに杖村がこの集まりの為だけに用意したのであろう。

 それ故にキリサメは藤太と顔を見合わせながら小首を傾げざるを得なかった。ガレオンは明らかに言葉足らずであったが、魚の化石ディプロミスタスの杖も説明を補ってはくれなかったのだ。


「格闘家が四人も顔を合わせてお喋りだけなんて、これ以上に時間の無駄はないよな、アマカザリ選手。ましてや〝現役〟の二人は一秒だって勿体ないはず。〝何〟を惜しむべきかも分からないで棒立ちし続けるつもりか? 本当に帰りのタクシーを呼ぶぞ」

「――自分の都合しか喋らないようになったら、新しい〝後輩〟から速攻で愛想を尽かされるわよ。誤解を招くような発言も控えないと。アマカザリ選手、私のことは格闘家と認識して欲しいわ。〝プロ〟のリングに立った経験も無いのよ。それなのに『MMA日本協会』の理事を務めるなんて、あなたの不安を悪戯に煽ってしまうかしら」

「一人前未満の僕ですが、MMAを支える資格にプロ・アマの区別が関係ないことは、友人たちのお陰で理解わかっているつもりです」

「本人はひねくれたコトしか言わないけど、だって〝現役〟続行中なのよ。そこもよろしくお願いね。……結局、〝プロ〟に人間からすれば、アマカザリ選手にそう言ってもらえると気持ちが一個ラクになるわ」

「余計なお節介はやめてくれと言っていますよね。開店休業なのに〝現役〟を名乗るなんて恥の上塗りと変わらないんですよ。……というか、誰が誰の〝後輩〟なんだよ……!」


 モップを片付けて戻ってきた杖村が「大きなお世話は焼く為にあるんじゃない」と肩を竦めて見せると、ガレオンは鼻を鳴らすことで反論に代えた。

 杖村と同じ役職で『MMA日本協会』に参加するたてやま弁護士が悪名高い銭坪満吉スポーツ・ルポライターと口汚く言い争ったテレビ番組はキリサメも視聴しており、これを通じて彼女が格闘技未経験であることも把握していた。

 どれほど有能であろうとも館山弁護士と同じの人間ばかりでは、国内のMMA団体とその興行イベントを監督する中立機関は機能しないだろう。

 今し方の口振りから察するに、杖村の場合は何らかの事情で〝プロ〟の格闘家として活動する好機チャンスが巡って来なかったようである。しかし、その〝立場〟はアマチュア競技としてのMMAを普及させようとしている同協会にとって何よりも得難い財産なのだ。

 ヴァルチャーマスクの直弟子という折原理事長や、こんにちに於ける『ジョシカク』の先駆けでもある吉見副会長は言うに及ばず、筋書きに沿ってショーアップされた試合で観客を楽しませる古き良きプロレスをりきどうざんの時代から守り続ける団体の名誉会長を兼任する岡田健など、名実ともに格闘技の専門家プロフェッショナルたちも『MMA日本協会』には集結している。

 『NSB』に並ぶ〝仮想敵〟ということもあり、樋口郁郎は随分と軽んじている様子であったが、異なる経験と知識を一つに束ねる多士済々の『MMA日本協会』が国内団体の運営を邪魔するだけの集団あつまりであるはずがなかった。


「僕からMMAの講釈を受けたいんだってな。でも、格闘たたかいってのは理屈を捏ね繰り回して掴めるモンじゃない。君はより分かっているハズだな、アマカザリ


 家族ぐるみで交流の深い杖村に対してキリサメが畏敬の念を抱いたことを見抜き、これによって薄暗い引け目が鎌首をもたげたのか、ガレオンの声が一等重低ひくく鋭くなった。

 改めてつまびらかとするまでもなく、キリサメのほうからガレオンとの仲立ちを頼んだわけではない。感情の赴くままに暴走する藤太が間に入ったことで実態から掛け離れた誤解が生じたのであろうが、ガレオンの機嫌を更に損ねるであろうと判断して訂正は控えた。岳以上に向こう見ずという男の手綱を引かなかったのが間違いであったとも諦めがつく。

 思わず目を丸くしてしまったのは、そのガレオンから藤太との模擬戦スパーリングを暗に促された為である。どうやら藤太当人はMMAのリングにける体験を語って聞かせて欲しいとガレオンに要請したようだが、そこからの変化にしては余りにも突飛であろう。


「リハビリ室で模擬戦スパーリングをやられるのは院長としては考え物だけど、患者をあちこち連れ回されるのはそれはそれで困るし、私個人としてはじょうわた選手と互角の打撃戦をやってのけたアマカザリ選手の技を見学させてもらえるのは、願ったり叶ったりってワケよ」

「僕が真っ当な選手なのか、『MMA日本協会』として見極める……と?」

と前置きしたでしょう? 現役を退いたアマチュアとはいえ、私も格闘家よ」


 院長の権限にいてガレオンの要請に応じたという杖村は、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーに対する興味をいよいよ隠さなくなってきた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長が〝世界最高のMMA選手〟とまで褒め称える『フルメタルサムライ』ではなく、プロデビュー戦で最悪の反則負けを喫した新人選手ルーキーに注目するのは不可解ではあるが、そこに一種のを絡めて考えれば腑に落ちる。

 『MMA日本協会』と志を同じくする格闘家も含めて、数多の先人たちが闘魂たましいを吹き込んできたリングをけがした喧嘩殺法――即ち、〝暴力性の結晶〟は館山弁護士から公然と批難され、〝プロ〟としての資格まで疑問視されているのだ。

 身体機能そのものの拡張や人体急所を最も効果的に狙い撃つ技術など、格闘技医学の研究内容にも通じるキリサメのけんに対して杖村は純粋に興味を惹かれている様子だが、この場にける模擬戦スパーリングは確実に『MMA日本協会』の会合で話題となるだろう。

 当然ながら館山弁護士の耳にも入る。貧民街スラムの喧嘩殺法をMMAのリングでふるを彼女や同協会へ証明する為にも、ガレオンの指示に従わないわけにはいかなかった。

 これこそだ――そのように自嘲した瞬間、『八雲道場』所属選手のマネジメントも担当する麦泉の顔がキリサメの脳裏を掠めたが、いちいち主催企業サムライ・アスレチックスの決裁を仰ぐようでは『天叢雲アメノムラクモ』という組織が機能不全にも等しいほど硬直化している事実を『MMA日本協会』に晒すのと変わるまい。


(……この技がでないことを証明しようと誓ったのは、みーちゃんだけだったのにな。……僕にはただそれだけで良かったはずなのにな……)


 日本格闘技界内部に働く政治的判断を脳内あたまのなかで捏ね返し、それを杖村にまで当て嵌めてしまったキリサメであるが、タブレット端末を抱えながらガレオンより前のめりとなっている姿を見れば、彼女の前で額づいて詫びるべき邪推であったことも明らかだ。

 今まで意識したこともなく、関わりたくもなかった〝政治〟へ知らない内に片足を突っ込んでいた――MMAに対する考え方が変容しつつあることに言い知れない恐怖を抱いたキリサメは、未稲との誓いを振り返ることで自らの頬を張る目覚めの一撃に代えた。


「合流先だけでなく服装まで指定してきたのはそういう理由ワケか」

「……『八雲道場』が練習で使っているスポーツ用品に興味をお持ちなのかと、僕はそれ以外には考えもしませんでしたよ」


 納得した様子で二度三度と首を頷かせ、指貫オープン・フィンガーグローブに包まれた両拳を腰に押し当てた藤太は、『八雲道場』で岳と取っ組み合ったときと同じように黒いプロレスパンツ一丁である。上半身は剥き出しであり、素足の状態で病院のスリッパを履いている。

 連絡を取った際に普段の練習で用いる服装と、指貫オープン・フィンガーグローブの持参をガレオンから指示された為、キリサメもトレーニングウェアを着ているわけだが、プロレスパンツを横目で見る顔には辟易の二字を貼り付けていた。


の言葉を借りるようで面白くないけど、進士は自分の知名度を甘く見過ぎよ。アメリカに帰った途端に『NSB』のモニワ代表から大目玉を喰らうんじゃない?」

「何を言う。はプロレスラーの正装だぞ。如何なる視線も恥じる理由になるものか。むしろ正々堂々として振る舞わんことがプロレスへの侮辱と心得ている。この魂を理解わかってくれたのだろう。職務質問をしてきた警察も納得してお帰りになられたぞ」


 地球外生命体でも観察するような目で藤太の顔を暫し凝視したのち、杖村は無言のままキリサメのほうへと首を振り向かせ、憐憫に満ちた眼差しで彼の苦労をいたわった。


「堅物が垢抜けたモンだと感心していましたが、進士さんがアメリカで極めたのは身体からだを張ったジョークですか。〝忍ばない忍者しのび〟なんて架空フィクションの世界の一発芸でしか知りません」


 エンジニアコートのポケットから自身の携帯電話スマホを取り出したガレオンは、皮肉に満ちた笑い声を引き摺りつつ、液晶画面に表示された内容が三人に見えるよう翳して見せた。

 主として写真や動画を投稿するSNSソーシャルネットワークサービスであるが、閲覧者から高評価を受けたことや他の利用者にも共有されたことを示す数値が秒を刻むごとに増えている。液晶画面に大写しとなっているのは、周囲まわりの皆に携帯電話のカメラを向けられながらも胸を張って東京の空の下を歩くプロレスパンツ一丁の進士藤太フルメタルサムライだ。

 同行せざるを得ないキリサメは、彼の隣で現在いまの数倍は顔を歪めている。即ち、藤太はプロレスパンツのみで杖村の病院までやって来た次第である。


「僕は『八雲道場』から病院こちらまでタクシーで直接移動したいとお願いしたのですが……」

「いかん、いかんぞ。質素倹約こそ人の道だと先程も話しただろう、キリー。歩ける道は己の足でしっかりと踏み締めるのだ。電車を乗り継げば、自然と街並みや人の顔が心に刻まれる。雑踏の中で己の在り方を冷静に俯瞰することもぜんの精神なのだぞ」

「町ゆく人たちの顔がどれだけ見えたと思っているんですか。どの顔も携帯電話で隠れていましたよ。ただただ僕や進士氏の顔が晒し物になっているだけじゃないですかっ」


 キリサメの歯軋りが表す通り、露出魔同然の風貌で公共の移動手段を用いる藤太はたちまち注目の的になり、警察から取り囲まれる一幕もあった。

 当然ながらインターネット上でも大きな話題を呼び、SNSソーシャルネットワークサービスでは風貌を揶揄する文言や目撃情報が写真と共に乱れ飛ぶ事態となった。巻き込まれたキリサメは堪ったものではないが、ガレオンが液晶画面に映した一枚も高評価の数値が三万に達している。

 最初は藤太に対する当て擦りのつもりであったが、更新され続ける高評価を見ている内に自分のやっていることが不愉快でならなくなったのだろう。誰に聞かせるでもなく鼻を鳴らしたガレオンは、携帯電話スマホをエンジニアコートのポケットへと乱雑に突っ込んだ。


(僕もほうぼうから似たような目で見られているのだろうけど、こんなにも扱いに困る人が世の中に居るのかよ。それを自覚させる為、進士氏は僕とこの人を引き合わせたのか?)


 ガレオンが不機嫌そうな態度を取るたびたとえようのない不安を煽られるキリサメは、藤太を促すようにしてトレーニングマットへと向かっていった。プロレスパンツの彼はを闘魂の類いと勘違いしたようで、胸筋を小刻みに脈動させながら追い掛けていく。

 キリサメの背中に憐憫の眼差しを向けながら、杖村はガレオンの右耳を軽くつねり、日本MMAの〝後輩〟に迷惑を掛けるような振る舞いを戒めた。


「早朝稽古に続いて本日二度目だが、手加減抜きで行くぞ、キリー」

「お手柔らかにお願いします」


 スリッパを脱ぎ、トレーニングマットの上で藤太と向かい合ったキリサメは、指貫オープン・フィンガーグローブを装着しながら表情を引き締めていく。

 『フルメタルサムライ』の通称で畏怖されるMMA選手との模擬戦スパーリングはこれが初めてではない。同地の武術界を敵に回したことで開催自体が危ぶまれているものの、『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行で対戦する花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルの寝技に完封されない為、キリサメは〝世界〟の最前線を知る藤太に自分を鍛えて欲しいと頼んでいた。

 今朝も準備運動ウォーミングアップを兼ねて世田谷区下北沢の『八雲道場』から隣接する杉並区のぼりこうえんまでランニングで向かい、多数の遊具が設置された広場の一角にて薄暗い内から模擬戦スパーリング中心の特訓トレーニングをこなしている。

 口頭で解説していくより闘いの中で叩き込むほうが手っ取り早く、何よりも緊急時には思考かんがえるよりも先に反射で肉体からだが動くようになる――これが藤太の方針であった。

 情熱的な舞踊ダンスの如く変則的な『カポエイラ』の蹴り技と、『蜘蛛スパイダー』という通称の由来でもある『ブラジリアン柔術』の寝技を巧みに融合させた花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルと互角に渡り合う為には、試合運びに合わせて一秒を数えるより早く攻守を切り替え続けるほどの柔軟な対応が前提条件の如く求められるのだった。


「子どものお遊戯あそびじゃないんだぞ。『天叢雲アメノムラクモ』の水準レベルまで落ちたのか?」


 昂揚たかぶりを映して吊り上がるごくぶとの眉を見据え、両腕を垂らしながら出方を窺うキリサメであったが、その直後に甲高い音が鼓膜に割り込み、模擬戦スパーリングを中断させられてしまった。

 藤太と揃って首を振り向かせてみれば、ガレオンが椅子に腰掛けたまま魚の化石ディプロミスタスの杖を振り下ろし続けていた。普段の歩行に用いる長さまでシャフトを伸ばし、石突の辺りで床を叩いて制止の呼び掛けに代えたのだ。


「間抜けな棒立ちばかりだけど、アマカザリ選手は自分の強みを分かっているのか?」

「……自分自身では認めたくありませんが、『スーパイ・サーキット』……でしょうか」

「そこで〝路上の喧嘩殺法〟と即答できないから君はハンなんだ。下手に足を止めたら速攻で刺されるのが路上の殺し合いだろう。しかも、君が生きてきた環境は治安が悪いなんてモンじゃない。もう一度、くよ。足を止めた瞬間、死神スーパイに捕まるんじゃないのか?」


 床を傷付けないよう戒める杖村に左耳を抓られながら、ガレオンはキリサメの不足を指摘していく。相手の心に掻き傷でも作るような態度ではあるものの、喧嘩殺法が生み出された環境まで正確に言い当てたのだ。自己紹介で解説したおぼえもないキリサメは、当たり前ながら再び目を丸くした。

 『天叢雲アメノムラクモ』の公式ホームページに掲載された経歴プロフィールでは『我流』という曖昧な表記に留めており、殺傷ひとごろしすべという本質は省略されている。〝暴力性の結晶〟ともたとえるべき技に頼らなければ生き抜けなかったというキリサメの境遇は、同じ格差社会の最下層に身を置く者たちも喧嘩殺法に匹敵するで命を脅かしてくることを意味しているのだった。

 不用意に立ち止まれば、その瞬間に殺される。これを斬り払う手段こそが喧嘩殺法というガレオンの指摘を実感と共に理解できるのはキリサメただ一人である。


「ストーカー扱いはやめてくれよ。格闘技でするなら、現在いまの世代で闘っている選手の基本情報くらい頭に叩き込むのが当たり前だよ。舐められっぱなしも困るし、情報収集は馬鹿に出来ねぇと講釈を垂れておこうか」


 今まさにたずねようとしていたことをまたしても先んじて答えられてしまい、キリサメは僅かばかり口を開いた状態で立ち尽くした。

 キリサメが喧嘩殺法を編み出したペルーの貧民街スラムは、樋口郁郎の差し金による『あつミヤズ』の暴露番組で大々的に取り上げられたが、犯罪に手を染めなければ明日まで生きることさえ難しい過酷さを強調する一方で、ガレオンが言い当てたような〝戦場〟として捉えた場合の特徴については言及していない。くだんの〝キャラクター〟を運営するスタッフも環境そこまでは意識が及ばなかったのであろう。

 現役世代の情報は調査済みであると仄めかしたガレオンは、虚飾の大言壮語ではないということだ。


「最近はMMA寄りにルールが安全化されたブラジルの『バーリトゥード』も、新婚旅行で見物した頃はまだまだ野蛮な試合が多かったよ。現在いまの日本でそれくらいハードな興行イベントを打っているのは『E・Gイラプション・ゲーム』くらいじゃないか。相手の髪を力任せに引っ掴んで、もう片方の拳で殴り付ける技も見たけど、君だって本当はがお好みなんだよな?」

「好き嫌いというか、だから使っていたとしか……。首の可動うごきを制限した上で、頭部や鼻に最短距離で最大の威力を打ち込むと、それなりの確率で意識を刈り取れます」

「頭蓋骨を貫通させて脳に衝撃を伝達する原理メカニズムの最適解だけど、頚椎損傷の危険性リスクと紙一重の技はスポーツドクターとしては推奨しにくいわねぇ」

「……格闘競技スポーツ用の技ではないということでご理解いただければ幸いです」


 プロ団体のみならず、アマチュア競技に類される地下格闘技アンダーグラウンドまで網羅している様子のガレオンを薄気味悪く感じながらも、キリサメは「MMAのリングでは封印します」と、杖村に向かって『天叢雲アメノムラクモ』のルールから外れるつもりはない旨を釈明していく。

 これを聞いたガレオンが厭味のように鼻を鳴らした意図は掴めなかった。


「鬼貫先生も現役時代に同種のプロレス技を得意としていたが、必殺の『えんずい切り』が反則になるのと同じようにMMAの試合では使えんだろう。キリーも言った通り、問題だらけの『天叢雲アメノムラクモ』でさえ髪を掴むのは禁じている」

「ルールに縛られて最初から可能性を狭めてしまうのが甘いと言っているんですがね。アマカザリ選手が使うミッキー・ロークみたいなパンチ、アレを想い出してくださいよ」

「ミッキー・グッドウィンではなく……?」

「ロークより先にグッドウィンが出てくるか。君は賢そうに見えて知識が偏っているな。進士藤太や八雲岳が身近に居るのだから、むべなるかなと同情しなくもないが」


 藤太との受け答えの中でガレオンが例に引いた『ミッキー・ローク』とは、アメリカを代表するライトヘビー級プロボクサーにして俳優である。主演映画も国際的な評価を受けており、知名度も高いはずだが、主たる活動のどちらとも接点がなかったキリサメには人名であることすら分からなかった。

 ファーストネームのミッキーを聞いて、養父の好敵手ライバルであったグッドウィンのほうを連想するという反応に対し、杖村は猫が前足でもって手招きする仕草ゼスチャーで手掛かりを与えた。ボクシングにける〝先例〟では他のパンチで畳み掛ける中に織り交ぜる形であり、且つ動作自体も小さいのだが、さかさまに弧を描くようにして相手の顎に握り拳を叩き込み、衝撃が脳にまで一気に駆け上がる技をロークのほうのミッキーは得意としているのだ。

 結局、ミッキー・ローク本人には辿り着けなかったものの、ガレオンが言わんとした意味は杖村の手助けによって読み取ることが出来た。猫の手のような形で上から下に振り落とし、命中の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に叩くパンチの術理を取り上げようとしていたのだ。

 本人たちも分かっていない奇妙な筋運びだが、キリサメは杖村の仕草ゼスチャーを誤って捉え、その結果としてミッキー・ロークすら飛び越えて正解を弾き出したのだった。


「あの技はする性質モノじゃないんだろう? 石とか硬い物を手のひらの中に握り込んでおいて、それを叩き付けるのが本来の用途なんじゃないのか」

「……一体、何を見てに気付いたのですか?」

「舐められたもんだな。妙な握り方や拳の当て方を路上の喧嘩に照らし合わせてみれば、見破るのなんか大して難しくない。君の故郷で起きた暴動の映像も何本か観たけど、警官隊に石やら岩やら投げ付けていたし、じゃ使い勝手の良い武器なんだろうってね」


 何もかもガレオンの指摘通りであった。手指による打撃ではなく、掌中の石を使って頭蓋骨を叩き割る為に編み出した技なのだ。剥き出しの殺意が独創性の証左というべきか、相手の命を直接的に脅かす手段がミッキー・ロークを参考にしているはずもあるまい。

 そして、は格闘技に関する知識が大人ですら敵わないほど豊富なおもてひろたかでさえ見破れなかった性質ものである。

 ガレオンの知識量も膨大であろうが、彼は軍師ではなく『打投極』の総合格闘技者シューターだ。全ての格闘家・あらゆる格闘技の試合を己の身に置き換え、勝利に至る攻防を様々な形で試行し続ける者とも言い換えられるだろう。

 ましてや『打投極』の理論化・体系化を日本で初めて成し遂げたヴァルチャーマスクは恩師の鬼貫道明から「相手の腕を極技サブミッションで容赦なく折れる本物の戦士」と讃えられたのである。今でこそ療養の身ではあるものの、総合格闘技者シューターの〝道〟を選んだガレオンも偉大なる先人から〝じょうざいせんじょう〟の精神たましいを受け継いでいるのだ。

 格闘たたかいだけに宿る慧眼は、ひとごろしすべである喧嘩殺法すら完封し得る方策を既に見極めているのかも知れない。


「術理を踏まえた応用が例の技でネタ切れなら、君に将来さきはない」


 出来るものならやってみろと言わんばかりの挑発的な声色であるが、本来の用途で使えば即座に反則とされるくらい危険な技をMMAのルールに最適化する形で応用するようガレオンは促しているわけだ。


(人体破壊に特化した技を格闘競技スポーツ用に組み立て直すのも必須課題だしな――)


 深呼吸を一つ挟んだのち、再び藤太と向き合ったキリサメは、転がった際の衝撃を和らげてくれる柔らかな感触を確かめるようにしてトレーニングマットを踏み締めながら、少しずつ間合いを詰めていく。

 電光石火で躍動するびゃっの如き親友――空閑電知のはやさと比べれば、自分自身で牛歩のように感じてしまうほどであるが、正面からの接近と見せ掛けて側面まで回り込もうと試みるなど、ガレオンに〝棒立ち〟などと謗られた最初の攻防を改めるつもりであった。

 模擬戦スパーリングの〝流れ〟を自ら動かさんと図るキリサメを見据え、口の端を嬉しそうに吊り上げた藤太は、脇を締めつつ両手を目の高さまで持ち上げ、マットへ根を張るかのようにして重心を低く落としている。

 『NSB』の試合と比べても更に慎重な構えであるが、はキリサメがだらりと垂らした両腕から如何なる技を仕掛けても正面切って受け止めんとする意思表示なのだ。

 キリサメも浅知恵が『フルメタルサムライ』に通じるとは考えていない。ここ数日の間に重ねてきた模擬戦スパーリングでも完成には程遠い試みはことごとく跳ね返された。だからこそ傍目には消極策とも受け取れる慎重な立ち上がりにならざるを得なかったのである。

 だが、打ち負かされるたびに新たな発見があった。この模擬戦スパーリングでも藤太と同じ眉を持つ小さな軍師――ひろたかに報告できるような成果が掴めることだけは疑っていない。

 『MMA日本協会』の杖村の面前ということもあり、政治的な思惑がどうしても過りそうになってしまうものの、今まで通りに〝世界最高のMMA選手〟の胸を借りれば良いのだ――そのように己に言い聞かせた直後、キリサメはマット越しに床を蹴り付けた。

 藤太の右側面へ急激に身を移したかと思えば、対角線上へと一気に横断する――反復横跳びのような動作を幾度も繰り返し、彼の視覚ひいては平衡感覚を眼球や三半規管ごと振り回そうというわけだ。

 余りにも露骨あからさまである為に効果が望めそうにない撹乱であるが、キリサメも藤太が眩暈を起こすまで待っているわけではない。素早く飛び跳ねながら、すれ違いざまに拳や脚を横薙ぎに繰り出し、顔面や脇腹、更には膝を脅かしている。

 横殴りの風が吹き付ける中、その猛烈な勢いによって巻き上げられた物体がから飛来するのか、まるで分からない――意図的な空振りフェイントも交えてキリサメは大型台風さながらの状況を作り出したわけであるが、それでも藤太は山の如く動かず、打ち込まれてくる攻撃の全てを最小限の動作うごきで完璧に防御ガードしていく。

 自らの手で攻防の〝流れ〟を動かすか。焦れた相手が攻め手を欠くという好機まで動かず耐え凌ぐか。MMAの試合であったなら、観客席から当惑にも近いどよめきが上がる我慢比べの様相を呈していた。

 無論、杖村とガレオンの二人は静と動が鮮明に分かれた攻防を一つの動作うごきも見逃してはいない。呼吸も忘れるほど見入っている前者に対し、後者はマットを蹴る音が鼓膜を打つたびに呼応の如く鼻を鳴らしてキリサメ・アマカザリをめ付けている。

 ここに至るまでの動作うごきが〝罠〟であったかのようにキリサメの握り拳が変化したのは、マットの上に半円を描いて藤太の左側面から正面へと移った瞬間である。


「――許可を出した以上、何があっても最後まで見守ってもらわなきゃ困りますよ。それが責任ってモンでしょう、


 ガレオンが魚の化石ディプロミスタスの杖で遮っていなければ、杖村は模擬戦スパーリングを止めようと半ば反射的に飛び出していったことであろう。

 それは医師として極めて真っ当な反応である。キリサメは水平に構えた右拳から人差し指と中指を伸ばしていたのだ。疑くまでもなく目突きの予備動作であった。

 その構えを維持したまま、キリサメはここまでの攻撃の中で最も勢いよく右拳を突き込んでいく。一瞬たりともちゅうちょせず、狙い定めた部位も杖村が危惧した通りに極太の眉の下であるが、己の双眸から光が奪われる危機が迫り来ても藤太は動かない。

 傍らから見守るのみの杖村とは別の〝何か〟を正面切って見極めていたのであろう。果たして、キリサメは二本指が眼球に触れる寸前で握り拳そのものを解き、掌底でもってごくぶとの眉の上――額を打ち据えた。

 最悪の予想が外れた杖村は比喩でなく本当に安堵の溜め息を吐いたが、キリサメは一等深い踏み込みから右腕を大きく伸ばし、この動作うごきに合わせて狙いを変化させたのである。角度を付けるようにして突き上げたは、相撲の張り手に近い。

 三月に開催された『天叢雲アメノムラクモ』長野興行のリングにいて、岳が対戦相手バトーギーン・チョルモンに喰らわされた技を目突きからの派生として応用した次第である。

 当該する試合では〝平成の大横綱〟の親指が養父の目に接触してしまった為、これを模倣するキリサメは五指を完全に伸ばし切ることで同様の事故が起こる確率を抑えていた。

 六五キロ以下のフェザー級と八三キロ以下のミドル級――『NSB』の基準に照らし合わせるならば、間に二階級が挟まるほど体重が離れた両者は身長差も大きく、無理な姿勢から片腕を突き上げる張り手には威力が殆ど乗らなかった。痛手ダメージなど最小限と判断した藤太も当たるに任せている。

 キリサメの側も藤太の脳を揺さぶることは最初から見込んでいない。ほんの一瞬でもごくぶとの眉の上に彼の意識を引き付けられたなら十分なのだ。二〇キロ近い体重差の相手を弾き飛ばせずとも、掌を額に押し付けている間は頭部の動作うごきも妨げられる。

 その間に自身の左半身を開いたキリサメは、次いで藤太の股を割るようにして右足を深く踏み込み、左手で握り拳を作る――腰を捻り込むのと同時に肩から肘に至るまで左腕のバネを一気に解き放ち、直線的な一撃ストレートパンチを繰り出した。

 これが試合であったなら素早く後方うしろに飛び退いて直撃を許さず、体当たりタックルでやり返した上に馬乗りマウント状態ポジションまで持ち込んだことであろうが、えてその場に踏み止まった藤太は両腕を交差させて防御ガードを固め、自身の顔面を穿たんとする左拳を正面から受け止めた。

 繰り出す手を入れ替えながらジャンケンを一巡するような連続攻撃であったが、キリサメはガレオンに促された喧嘩殺法の応用を髪の一本すら掴まずにこなして見せたのだ。

 ほんの微かではあるものの、頬の筋肉が脈動したからにはガレオンもに気付いたのは間違いないのだが、湧き起こった感情を他者に理解させないくらい瞳のまま、額の中央から一房だけ垂らした前髪を弱々しい息吹でもって揺らしている。

 課題が達成されたことによって模擬戦スパーリングも一区切りとなるはずであったが、二人の攻防は終わらない。藤太の頭部から両手を引き戻していないキリサメは完全な無防備である。逆に両腕を繰り出して胴を〝捕獲〟し、高々と持ち上げた頂点からマット目掛けて垂直落下させる豪快なプロレス技――『パワーボム』による反撃も狙えたことであろう。

 このとき、試合と練習トレーニング差異ちがいとも関係なく、藤太のなかで捨て置けない違和感が生じていたのだ。数多の〝実戦〟で養われた勘働きが迂闊な反撃を控えさせたとも言えよう。

 目突きを狙うような右手の動作うごきが〝罠〟であることも、そこから変化した技で頭部を押さえようとすることも、『フルメタルサムライ』は読み抜いていた。対の拳による打撃で大きな痛手ダメージを狙ってくるであろうとも察知していたが、防御ガードに用いた左右の下腕を貫く衝撃は想定していたよりも小さく、鈍痛こそあったものの、骨身が軋むほどでもなかった。

 キリサメの打ち込みが浅かったわけではない。片腕のバネを引き絞った必殺の一撃と見せ掛けておいて、次なる動作うごきに最速で転じるのが本当の目的ねらいであったわけだ。


「今朝よりも更に一つ強くなるか、キリーッ!」


 ここまでが〝フェイント〟であったと気付いた瞬間、藤太の顔にあまける鳥が影を落とした。

 重心を低く落としながらマットを踏み締める藤太の両足と両肩を順繰りに蹴り付け、これらを踏み台の代わりにしたキリサメが彼の頭上よりも高く垂直に跳ね飛んだのである。

 跳躍する間際、キリサメは自身の両掌でもって藤太の頭部を押さえ付けている。軽量なフェザー級とはいえ、不意打ち同然の形で全体重を掛けられては藤太もね退けることが難しく、今まさに宙を舞わんとしている足首すら掴めなかった。


「今朝の自分にさえ情けなく思われるようでは、氏が仰る通り、僕には本当に将来さきがありません――」


 眼下の藤太に応じながらも、キリサメの脳内あたまのなかでは二つの追憶が入り混じっていた。

 何時もながらの押し付けがましい提案のように先ず意識に割り込んできたのは、昼頃に岐阜県から届いたばかりの手紙である。言わずもがな、差出人はアマチュアMMAにいて日本初の代表選手オリンピアンに選ばれることを夢見るカパブランカこうせいだ。

 大学生だけに後遺症などの不測の事態さえ起こらなければ競技選手としての活動期間は余裕が十分ではあるものの、そもそもMMAはオリンピックの正式種目として採用される見通しすら立っていない。そのような状況にも関わらず、世界の大舞台で闘えることを信じて疑わないという恐怖すら感じるほど前向きな男だけに便箋は隅々まで埋め尽くされ、そこから押し寄せてくる熱量にキリサメは幾度も眩暈に襲われていた。

 プロ・アマというそれぞれ〝道〟に分かれてMMAに取り組むキリサメとこうせいは、奇妙な筋運びながら古式ゆかしく文通で様々な意見を交換し合うようになっている。前者が一通を書いている間に、後者が返事も待たずに三、四通を一方的に送り付けるという噛み合わない関係性ではあるものの、今では互いを下の名前ファーストネームで呼ぶ程度には打ち解けていた。


「キリサメ選手はヴァルチャーマスクの技をもっと参考にするべきだと思うんですよ。あなたは鳥だ! 今こそ本当の鳥になるんだッ!」


 天井近くまで跳躍が達しようかという瞬間とき、キリサメが想い出したのはこの一文だ。

 全員がオリンピック出場を目指しているわけではないが、大学の友人とアマチュアMMAのサークルを結成し、様々な格闘技術や各国の最新情勢などを研究しているという。

 その成果を情報提供してもらう見返りとして、キリサメも自身の練習トレーニング内容を手紙で伝えているのだが、寝技対策の模擬戦スパーリングに重点を置いていることに対し、サークル内では別の攻め手も試すべきという意見が少なくなかった――と、返信の中で報告している。無論、誰よりも早く口火を切ったのはこうせい当人である。

 日本にいてMMAが本当の意味で始まったのは、一九九七年一〇月一一日の『プロレスが負けた日』であるが、はハゲワシのプロレスマスクを被った〝超人〟レスラーが呆気なく『ブラジリアン柔術』に討ち取られた歴史的屈辱を指している。

 MMAを熱烈に愛する大学生たちはヴァルチャーマスクが拓いた〝道〟の最前線に立つキリサメに対し、一七年ぶりの雪辱を果たして欲しいと願っているのかも知れない。

 若かりし頃の八雲岳がブラジリアン柔術に道場破りを仕掛け、返り討ちに遭ったことから〝超人〟レスラーはプロレスの威信を懸けてMMAのリングへ臨むことになり、その果てに〝永久戦犯〟という汚名で罵られてしまったのだ。

 ヴァルチャーマスクと八雲岳は実戦志向ストロングスタイルのプロレスの同門であり、共に異種格闘技戦を繰り広げた〝戦友〟である。二人の絆が不滅であることは『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の再会で証明された。そこでキリサメは前者から日本MMAの行く末まで託された――同大会に〝裏方〟の一員として参加し、両者を間近で見守ったこうせいにはそのように見えたという。

 無論、キリサメ当人は大学生たちの妄想に付き合うつもりはなく、ヴァルチャーマスクから掛けられた途方もない期待もこうせいの思い違いと一言で切り捨てた。

 しかし、〝超人〟レスラーを手本にするという提案には素直に首を頷かせている。

 空中殺法が鮮やかなメキシカンプロレス――『ルチャ・リブレ』を現地の武者修行で極めたというヴァルチャーマスクの技は、対戦相手の目を幻惑させる〝フェイント〟と、虚実入り乱れた連続攻撃で試合の〝流れ〟を掌握せんとする『ハルペリオン・マニューバ』を完成させる上で手掛かりにならないはずがなかった。



 アマチュアMMAに重なったもう一つの記憶は、脳に刻み込まれてからまだ二四時間も経っていない。

 キリサメが入門した道場『とうあらた』は原則的に水曜日と土曜日の週二日が稽古日であり、正規のたちによる指導のもと、若い門下生や外部の練習生が古今東西の武術を〝魅せる芸術〟に昇華させる神髄を学んでいる。

 『とうあらた』の創始者にして、という〝文化〟を日本で花開かせた大名人――がわだいぜんの新弟子であるキリサメは、日曜日にもさいたまけんあさに所在する道場へ通い、MMAと同じくらい熱心に稽古を重ねていた。

 そのがわだいぜんは一年間に亘って放送される大型連続時代劇にいて三作目から殺陣指導を担当しており、『とうあらた』の殺陣師たちも立ち回りを要する場面シーンへの出演など師匠と共に撮影に携わっている。

 くだんの番組は週末が撮休やすみであり、必然的にこの二日間に様々な予定が固まるわけだ。大型連続時代劇の出演者が稽古に訪れることも多い。見習いの立場ながら師匠や〝先輩〟の手伝いを買って出たキリサメも、数多の鎧武者が入り乱れて首級くびを奪い合う戦国時代のかっせんとして再現する試行錯誤の最前線を見学し、カメラがレンズの中央に捉えることのない〝斬られ役〟の動き一つで臨場感が大きく変わることを教わったのだ。

 稽古を十分に積んだのちには、自分もぞうひょうなどに扮してかっせんの撮影へ参加することになるだろう。その責任を思えば、MMAと同様に一秒たりとも気が抜けないのである。

 昨日――水曜日は七月最初の稽古日であった。キリサメも『とうあらた』のどうに身を包み、しろおびを締めて道場にったのだが、門を潜った時間は普段と比べて随分と早かった。

 『とうあらた』の稽古は特別な事情がない限り、夕方から始まる取り決めであった。しかし、昨日に限ってキリサメは何かと世話を焼いてくれる〝先輩〟だいらひろゆきと正午前には待ち合わせていた。

 下北沢から隣県の朝霞市へ電車で移動するには、渋谷駅で井の頭線から副都心線に乗り継ぐ必要がある。都心暮らしの真平と構内で合流するのが稽古日の習慣となっていた。未だに地下鉄の乗り方がおぼつかないキリサメは、この〝先輩〟と一緒でなければ朝霞駅まで辿り着くことも不可能なのである。

 二人が昼過ぎに入った道場は四方に暗幕が取り付けられ、燃え盛る炎の壁を彷彿とさせる金屏風の前にてる撮影が行われていた。

 白いたてがみの獅子ライオンに変身する〝くノ一〟が主人公という特撮時代劇映画の指導が『とうあらた』に依頼され、戦闘描写の方向性を定めるサンプル映像を作ることになったのである。事前に監督と打ち合わせた取り決めに基づく内容となるが、制作会議の資料にもなる為、寄せられた期待を遥かに上回るにしなければならないのである。

 自ら演じるアクションスタントだけでなく、戦闘描写を監督たちと一緒に作り上げる役割もの仕事には含まれている。

 半世紀に亘り、大型連続時代劇で指導を担当してきた師匠のような仕事を目指すのなら〝チャンバラ〟が生み出される現場には積極的に立ち会うのが良い――そう言ってくだんの撮影に誘ったのもだいらであった。演出を勉強できるまたとない機会と理解わかっているキリサメも二つ返事で応じ、それが為に他の練習生たちより早く道場に到着した次第である。

 帯の色こそ異なるものの、〝先輩〟たちと同じどうに身を包みながらも、入門から一ヶ月にも満たず基礎練習に励んでいる最中の新弟子キリサメは、立ち回りには参加せず壁際で見学するのみであった。

 平日の昼間という事情こともあってキリサメ一人の参加であるが、白帯を締める門下生全員に声を掛けたそうだ。それだけがわだいぜんは次世代の育成に熱心というわけである。

 特撮時代劇映画の指導を担当するのは、キリサメと『とうあらた』の最初の接点ともなった体験会ワークショップで講師を務めたこんどうであった。

 〝くノ一〟は後世の造語であって、本来は忍者の呼び方を男女で分ける必要はないと、キリサメにうんちくを披露した近藤を中心として、黒帯を締めるたちが稽古用の木刀で勇ましく斬り結んでいた。刀身がぶつかり合うたびに壁や天井に跳ね返る甲高い音は、打楽器の演奏のようにも聞こえるほど小気味好い。

 〝おんなだいぜん〟の異名を取るいまゆり子が主人公の役割を、だいらひろゆきひめまさただの二人が敵の忍者役をそれぞれ引き受け、跳躍の高さや床の蹴り方に至るまで所作を細かく検証する声を掛け合いながら、手に汗を握るはげしい乱戦の〝演出〟を練り上げていく。

 今井野が握り締めるのは、木を削り出したである。役柄に合わせてしのびがたなのようにの少ない物を選んでいた。ひめだいらも木刀を用いているが、前者が一般的な物であるのに対し、後者は長さが異なる大小二振りを流れるように繰り出していた。

 戦闘描写の要を担うは所作指導を押し付けるのが仕事ではない。役者が秘めた能力を最大限に引き出し、一瞬の緊張を劇的に変化させることで本当に命のやり取りをしているかのように魅せ、臨場感溢れる立ち回りを作り上げる――その試行錯誤を初めて目にしたキリサメは、この〝先輩〟たちと同じどうを纏えることが心から誇らしかった。


「斬り合いを撮る予定がなければ、必ずしもテレビ局に詰めている必要はない――考えてみれば当たり前ですが、激務の合間には身体からだを休められたほうがよろしいのでは……?」

「道場でを撮っていると思ったら、居ても立っても居られなくなってね。この映画、元々は私が若い頃にテレビで放送していた作品なんだよ。そのリメイクに『とうあらた』が関わるなんて夢みたいな話でねぇ。昨夜はワクワクし過ぎて寝れなかったよ」


 新弟子キリサメ真隣となりで椅子に腰掛けながら撮影を見学するのは、がわだいぜんその人であった。

 水曜日は大型連続時代劇の撮影が行われているはずだが、偶然にも指導が関与する場面シーンがなかった為、足取りも軽やかに見学にやって来たのだ。

 映画が無声サイレントであった頃から〝チャンバラ文化〟を支えてきたのもとで修行し、時代劇のがテレビ放送へと移ろう過渡期にも立ち会い、という一つの〝文化〟を完成に導いたがわだいぜんは、〝伝説〟の二字こそ相応しい大名人である。

 だが、現在いまは木刀が風を切り裂く音や立ち回りの変化を指示する近藤の声に耳を傾けながら、新しい遊具を前にした子どものように目を輝かせていた。

 がわ自身はくだんの特撮時代劇映画にスタッフとして名を連ねてはいない。近藤たちにも差し出口しないことを約束したのだが、弟子の仕事を心配しているわけではなく、ただ純粋に新しいが見たくて仕方がないだけなのだ。

 夕方の稽古が始まるまでは、〝立場〟も胸の鼓動も、新弟子キリサメと全く同じである。

 黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛ったがわだいぜんであるが、左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線には八〇に手が届くという年齢が顕れている。赤帯を締めたどうも『とうあらた』の歴史を感じさせるくらい使い込まれているのだ。

 を飛び越えてくる茶目っ気がキリサメには慕わしく感じられてならず、平素いつもの無感情が嘘であるかのように相好を崩すのであった。


「使える空間をフルに生かした動作うごきは文句ナシだけど、だいら君はちょっと気持ちが先に出過ぎかも知れないね。ひめさんとの連携をもう少し意識してみようか。交互に入れ替わる形で今井野さんに斬り掛かっていけるかな」


 妖怪変化といった〝人外の存在モノ〟を好み、個人活動でも幻想的な衣装のデザインなどに取り組んでいるだいらは、特撮映画に参加できることが楽しくて仕方がない様子で、けたたましい奇声を発しながら今井野の周囲まわりを飛び跳ね続けている。

 共にを演じるひめは一等高く跳躍しただいらの股の下を前傾姿勢で潜り、刺突つきの構えを取ったまま今井野目掛けて突っ込んでいったが、これを迎え撃つ太刀筋のほうが僅かに鋭かった。

 さかに構えたですれ違い様に胴を斬られたひめは、致命傷を受けたことが信じられないといった調子で目を瞬かせ、次いで傷口を押さえながら大仰に苦しんだのち、膝から崩れ落ちていった。

 これもまたに求められる技術の一つであるが、ひめは今も継続している立ち回りを邪魔せず、なおつカメラのレンズが自分の散りざまを捉える位置を確保していた。近藤が考案したの段取りを高い領域で完成させる空間認識能力に接したキリサメは、倒れ込む先まで計算し尽くすという熟練者プロフェッショナルわざに背筋が伸びる思いである。


「一口にと言っても、どこまで生々しさを求めるのかという匙加減は作品ごとに異なるだろう? 鎧兜の上から斬り付けても普通は弾かれてしまう。防具で守られていない隙間を狙う武技わざ武士サムライたちのいくさで生み出された理由とも言えるね」

「でも、監督の意向や演出の方針によっては、鉄の板へ刃を当てているのに生身を斬ったような効果音を付けて、一刀両断で倒せたことにする――この間、資料としてお借りしたビデオで拝見した時代劇も、まさにでした」

「生々しさを徹底的に突き詰めれば、その分だけ臨場感が引き立つけど、一方で際どい表現をやり過ぎるとにんじょう沙汰――もっと言えば、殺人事件の再現映像になってしまうことは私も常に気を付けているよ。本気で命を奪いに行くような凄味を欲しがる監督もたくさん知っているから、さっきの繰り返しになるけど、最終的にはやっぱり匙加減次第だね」

「……体験会ワークショップで死後痙攣をやってみたら、見回す顔の全てが引きっていましたよ。今ならの質と写実性は必ずしも一致しないと自分に言い聞かせます」

「生き死にの生々しさを誰よりも重く深く心に刻んだアマカザリ君だ。練習を積んでいけば〝五〇〇〇〇回斬られた男〟にも肩を並べる散り際を成し遂げられるよ。勿論、繊細な芝居や小刻みな斬り合いを大幅に割愛して、画面へ大写しになる必殺技一発で押し切るという直感的な迫力重視の作品も、同じくらい取り組み甲斐があるけどね」


 自身が述べた内容ことに対する反応からキリサメがという芸術ものへ真摯に向き合ってくれていると噛み締めたのであろう。地を這うかの如く低い姿勢の突進から天を狙わんとさかを一気に振り上げた今井野と、大小二刀の交差でこれを受け止め、甲高い音が床に跳ね返るより早く足裏を突き出す蹴りで彼女を引き剥がしただいらを捉えたまま、一瞬たりとも脇目を振らないがわだいぜんではあるが、勉強熱心な新弟子にも頬を緩ませていた。

 二人が論じた通り、という表現の方法は千差万別だ。往年の時代劇スターによる様式美のような太刀捌きこそ全てに勝る正解で、若手俳優が軽やかに剣を振るうのは誤っているといった認識は、の本質を見失うことにも等しい。

 今回の特撮時代劇映画は命の遣り取りという極限的な緊迫感の再現ではなく、世代を超えて親しまれる〝チャンバラ〟に近い太刀筋で統一し、直感的な昂揚に重点を置くのが監督の意向であると、こんどうも撮影を開始する前に説明していた。ともすれば残虐性を強調し兼ねない写実的な表現をえて抑え、子どもたちが安心して視聴できるくらい斬殺という状況そのものを記号化しようというわけだ。

 ひめが芝居がかった調子で崩れ落ちたのも、本来は死に満ちた斬り合いを血沸き肉躍る〝活劇〟として生まれ変わらせる為であった。

 近藤の指揮で撮影しているのは、現時点では漠然としている監督のイメージに強い輪郭を与える為のサンプル動画だ。戦闘描写に対する演出の方向性が確定し、特撮技術の担当チームも交えた本格的な検証が始まると、ピアノ線を駆使した宙吊りなども加わるのだ。

 だいらも想定しているのだろう。トランポリンを利用して今井野の頭上を超えるほど高く跳躍し、奇声を巻き込みながら空中で身を捻ってさかさまになると、その姿勢を維持したまま地上の〝おんなだいぜん〟に二刀を繰り出した。

 伝統的な〝チャンバラ時代劇〟とは異なる様式とも思えるが、その歴史は浅くない。がわだいぜんが「自分の若い頃に放送していた作品のリメイク」と述べた通り、こうした〝特撮時代劇〟はカラーテレビが普及していく過程の一九七〇年代前半に一世をふうし、現代まで遺産として語り継がれる作品が生み出されたのである。

 『とうあらた』も特撮作品を数多く手掛けている。遠方とおくへ出張中の為にこの撮影には関われないが、師匠から『ぜん』の一字を授かった兄弟子――長谷川門下の筆頭師範は、ペルーでも放送されるなど名実ともに日本を代表する特撮ドラマシリーズにも参加したのだ。


「劇中でどれくらい比重を置くのかにもるし、の捉え方は人によって全く違うからねぇ。巨大ヒーロー作品ものになると、セットのミニチュアを生かすことも考慮する必要があるし。連続時代劇の指導もね、毎年毎作、万華鏡を楽しむような感じだよ」

「だからこそ、はあらゆる要求に応えられるよう洋の東西も問わず様々な武術や格闘技を研究し、武具の扱いにも精通しなければならない――だいら氏にもそう助言アドバイスを頂きました。〝武士サムライの時代〟が専門と思われがちながわ先生も、近現代に開発された銃器の扱い方を体得されていると伺いました」

「勿論、撮影の際には鉄砲や大砲の専門家に監修を入れていただくし、私も勉強不足を感じたら教えを請いに出掛けるよ。都合が合えば、アマカザリ君も一緒に行くかい?」

「先生さえよろしければ、どこでもお供します」


 噛んで含めるような師匠の一言々々を心に刻み込むよう新弟子キリサメは首を頷かせ続けた。


「――今の攻防にもっとスパイスを効かせたいんだけど、アマカザリ君はどう思う?」


 金屏風の対角線上に設置されているカメラを停止め、長らく亡骸の役を演じていたひめを含む三人のと今しがた撮影した立ち回りを確認していた近藤から思いも寄らない言葉を掛けられたキリサメは、返事も忘れて目を丸くしてしまった。

 今井野がすれ違いざまひめを斬り捨てる間際、突き込まれてくる剣先をつかじりで弾き落とす動作うごきを差し込むというような議論が交わされているのは聞くともなく聞こえていたが、その輪に自分が手招きされるとは夢想だにしていなかったのだ。

 しかし、全く気構えがなかったわけでもない。撮影に参加しなくともの段取りを自分の頭で考え、組み立てる能力ちからを養うのが見学の目的ねらいだいらから言われていたのである。

 木を削り出して拵えた刀身がぶつかり合う音も漫然ボンヤリとは聞いていない。床に突っ伏したまま微動だにしないひめを踏み潰さないよう細心の注意を払いながら斬り結ぶ今井野とだいらを振り返ってみれば、見習いなりに試したい技が浮かび上がってくるのだ。


「僕なら――」


 片目を瞑って発言を促しただいらに頷き返し、その一言を前置きして述べた提案は、今回の特撮時代劇映画とは噛み合わなかった為に採用が見送られたものの、いつかどこかで必ず生かせるから心の引き出しへ仕舞っておくようにがわだいぜんから助言アドバイスされた。

 キリサメにとって想定外であったのは、その機会が二四時間も経たない内に巡ってきたことである。


(そうだ。僕ならこうする――)


 意識を追憶の水底へと沈めている間に、キリサメの跳躍は天井近くにまで達していた。

 改めてつまびらかとするまでもないが、『とうあらた』の道場ではなく、『MMA日本協会』に理事として名を連ねるつえむらあけの病院――そのリハビリ室の天井だ。

 空中で巧みに身を捻り、天井に両足の裏を着けたキリサメは、木造の〝何か〟が悲鳴を上げるほど強くこれを蹴り付け、今まさに己のことを仰いでいる進士藤太フルメタルサムライ目掛けて一直線に飛び掛かった。


「聞きたくない音だったな、今の! 陥没しちゃったらと『八雲道場』のどっちに修理費を請求すれば良いやら!」


 キリサメ当人ではなくガレオンに浴びせられた杖村の悲鳴を切り裂くほど急角度で空を滑っていく勢いは凄まじく、これまでは打ち込まれてくる打撃を防御ガードするのみに留めていた藤太も迎撃態勢に移らざるを得なかった。

 猛禽類の爪を彷彿とさせる蹴りではなく、『スーパイ・サーキット』が発動しているわけでもないが、キリサメがじょうわたマッチの命を奪いかけた技に限りなく近いのだ。

 藤太も挟み込まれてしまうような支柱ポールは背にしていない。それでも本能の部分が最大級の警報を鳴らすのは当然だ。くだんの一撃は四角いリングを土台もろとも破壊したのである。

 世界のMMAを牽引する『NSB』の試合場オクタゴンで鍛えられた勘働きの賜物と呼ぶべきか、藤太の迎撃はキリサメが杖村の悲鳴を引き出す直前まえから始まっていた。素早く右半身を開き、キリサメのほうへと左腕を突き上げながら、対の腕を筋肉の軋む音が聞こえてくるほど全力で引き付けている。

 腕全体のバネをづるの如く限界まで振り絞るパンチで迎撃しようというわけだが、は相手の髪こそ掴まないものの、鬼貫道明が『アンドレオ』の通称リングネームを名乗っていた現役時代のリングで得意としたプロレス技であった。

 先ほど例に引いた技を自ら再現し、『昭和の伝説』の神髄を弟分キリサメに伝えたいわけだ。

 さかさまの状態で突撃を仕掛けたキリサメも、右腕を後方うしろに引き付けている。全体重を攻撃力に換える急降下へ肩から肘に至るバネをも上乗せし、握り拳を槍の如く見立てて眉間を貫くつもりである。

 アメリカ西部開拓時代にけるガンファイターの早撃ち勝負ファストドロウに倣い、己に突き込まれてくる拳を正面から返り討ちにせんと身構える藤太であったが、轟々と唸る突風は頭部に吹き付けるどころか、僅かに頬を撫でるのみである。

 師匠の八雲岳から〝世界で最も完成された総合格闘家〟と讃えられる進士藤太フルメタルサムライは、動体視力もその呼び名に恥じないほど鍛え抜いており、自身の脇をすり抜けていくキリサメの姿も正確に捉えている。

 無論、急降下を伴う攻撃そのものが動体視力すら欺く為の見せ掛けフェイントであろうと結論付けている。最悪の結果で初陣プロデビューを終えることになった原因の一つであり、本人にとって容易には癒しがたきずあとをも武器に換えてみせたのだ。

 この覚悟を文字通りに肌で感じた藤太が口の端を吊り上げないはずもなかった。それどころか、彼の昂揚は更に燃え上がっていく。

 間もなくキリサメは藤太の背後へと降り立った。

 互いに背中合わせの状態ではあるものの、人間にとっての絶対的な死角を取られたことに変わりはなく、恩師の得意技から急旋回の裏拳打ちバックブローに切り替えた藤太であったが、横薙ぎの一撃は虚しくくうを切り、遠心力に乗ってキリサメのほうへと振り向いた瞬間ときには胸部を狙う反撃の蹴りが迫っていた。


「鬼貫先生への土産みやげばなしが増えたぞ、キリー! ここで『カンガルーキック』とは一人のプロレスラーとしても感激しかないッ!」


 直撃の寸前で間に合った防御ガードの上から藤太の身をね飛ばしたのは、言わずもがなキリサメが繰り出した蹴りであるが、喧嘩殺法ではなくプロレス技の一種ひとつであった為、ガレオンも杖村も目を剥くほどの驚愕に打ちのめされたのだ。

 藤太の背後を取りはしたものの、不用意に攻め掛かればえなく返り討ちにことは分かり切っている。空中から奇襲を試みた際にも、この『フルメタルサムライ』は戦慄すべき反応速度で迎撃態勢を整えて見せたのである。

 着地と同時に左右の腕で我が身を持ち上げて逆立ちにも近い状態となったキリサメは、藤太に背面を晒したままカンガルーの如く両足を突き出し、その胸部を脅かした。

 この蹴り技は彼の独創ではない。長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプレス』と共にすがだいら高原で強化合宿を実施した際、花形レスラーのあかぞなえにんげんカリガネイダーが練習に励んでいたのだ。

 同団体の外部コーチを務める岳の指導を受けて体得したのだが、本来は鬼貫道明の技であり、背後から襲い掛かろうとする相手をで蹴り飛ばしたのである。名は体を表すと言うべきか、プロレスのリングにいて『カンガルーキック』と呼ばれている。

 後ろ回し蹴りソバットと違ってカリガネイダー直伝ではないが、養父との模擬戦スパーリングを眺めている間に用途と術理は読み取れた。殆ど練習していない蹴り技カンガルーキックを体勢も崩さずに再現した上、藤太から不出来と窘められることもなかったのだから、落第点は免れたはずだ。

 昨日の道場で〝先輩〟に提案したのがこのカンガルーキックであった。実際の映画撮影ではピアノ線による宙吊りにも挑戦するというのだから、背後から斬り掛かられた際に暴れ馬が後ろ足を高く蹴り上げるような恰好で相手の木刀を弾き飛ばし、危機から脱するのも面白かろうと考えたのである。

 その応用が『フルメタルサムライ』をたじろがせた。ショープロレスとで学んだ理論をMMAに取り入れ、三種みっつの力を束ねるという岳の発想を具現化する形となったが、決定打には程遠い。引っ掛けフェイントこそ成功したものの、藤太の反応速度を上回ることは叶わず、結局は狙い定めた部位に対する防御ガードまで許してしまっている。

 だからこそ、キリサメは止まらない。藤太のなかの警報も止まらない。

 初陣プロデビューの場で巡りった養父の恩人ヴァルチャーマスクに心の中でこうべを垂れたキリサメは、逆立ち状態を維持したまま脳天をマットに着けた。両腕も加えて三点で体重を支えようというのではない。接地している僅かな一点を軸に据えて全身をコマの如く回転させ始めたのだ。

 実戦志向ストロングスタイルの『新鬼道プロレス』に所属していた昔日からヴァルチャーマスクの必殺技に数えられている変則的な回転投げのであった。両足でもって相手の頭部を挟み、高速旋回に巻き込みながら投げ落とすのが本来の用途だが、キリサメが着目したのは己の頭頂部を軸にすることで四肢が自由に使える点である。

 膝を素早く屈伸させて両足を二度三度と交互に突き出し、藤太の顎を脅かしたが、腰のバネを生かしたものではない為、仮に命中したところで大した痛手ダメージは与えられまい。彼の意識を少しでも蹴り足に引き付けることが出来れば、十分に成功なのだ。

 万が一にも足首を掴まれた場合、そのままマットに組み敷かれ、膝関節などを軋ませる極技サブミッションまで持ち込まれるのは間違いない。危険性リスクを囮として差し出したキリサメは、自由を保ったままの右手で握り拳を作り、藤太の左足へと振り抜いた。

 己の足首が〝捕獲〟されるより先に脛を裏拳打ちバックブローで軋ませ、耐えがたい激痛でその場に転がそうと図ったわけだ。は腕全体のバネを立ったスタンド状態と遜色のない水準レベルで発揮できる為、骨に亀裂を入れることは難しくとも相応の痛手ダメージは見込めるのだった。


「……背後バックを取っておいてプロレスの真似事とはね。膝の裏でも踏み付けて体勢を崩してやったほうが追撃の選択肢だって増えただろうに。不器用以前の問題で話にならないな」


 「ヴァルチャーマスクの技を参考にするべき」というカパブランカこうせいの押し付けがましい助言アドバイスを取り入れ、上下の半身を別々に動かすような攻撃を試したわけだが、回転中に左右の耳へと交互に滑り込んだガレオンの皮肉も一つの正解として受け止めている。

 キリサメ自身、他の人間が模擬戦スパーリングの相手であったらガレオンが鼻を鳴らしつつ述べたような攻撃を仕掛け、強制的に片膝を突かせておいて背後から絞め落とすか、無防備なこめかみを肘打ちで抉ったことであろう。

 だが、進士藤太フルメタルサムライに小細工は通じない。今度も確実に意表を突いたというのに卓抜した反射神経で有利と不利と引っ繰り返され、動体視力を振り回したはずの不意打ちカンガルーキックまで防御ガードされてしまったのだ。膝裏に蹴りを入れようと試みていたなら、上体を引き起こしたところに迎撃の裏拳打ちバックブローを合わせられたはずである。

 今し方の攻防でタイミングを見計らったのはキリサメのほうであった。背後を取られた危機に対応せんとする藤太が振り向く速度はやさ脳内あたまのなかで割り出し、裏拳打ちバックブローをすり抜けるようにして不意打ちカンガルーキックを見舞った上、絶え間なく追撃まで連ねた。急降下を試みる間際、着地の体勢から即座に転じられる技を選んだ理由もに集約されていると言えよう。

 ここ数日、幾度も模擬戦スパーリングを重ねてきた相手である。反応の鋭さも身のこなしの速度はやさる程度は読むことが出来る。キリサメに備わった頭の回転の速さを生かして、仕損じる条件を一つずつ取り除いたようなものであった。

 それにも関わらず、結局は新たな課題を突き付けられる結果となった。

 ヴァルチャーマスクの必殺技を借り受けたにも関わらず、稚拙なで終わったのだ。遠心力を乗せた打撃で刈り払わんとしていた藤太の左足は、キリサメが右腕を振り抜いたときには影も形もなく、に感じたのは無意味に風を裂いた虚しさである。


「お陰でアメリカ土産みやげも出来たぞ! おういんさん――いやさヴァルチャーマスクも己の闘魂たましいがキリーにも受け継がれていると聞けば、涙を流して喜ばれることであろうッ!」


 未だ振り上げたままの己の足よりも更に高い位置から進士藤太フルメタルサムライの声が降り注いだ瞬間、新人選手ルーキーの浅知恵では決して埋められない力量ちからの差も身震いと共に再認識させられた。

 咄嗟に後方へと身を転がすキリサメであったが、状況を確認するべく片膝を突いた直後には四肢を開いた状態で飛び込んでくる藤太によって視界の全てが塞がれてしまった。

 ペルーの貧民街スラムで襲い掛かってきた日系人ギャング団を返り討ちにした際、岳も同様の技を使ったが、これもヴァルチャーマスクが極めたルチャ・リブレ仕込みの空中殺法だ。

 『ボディプレス』という技名なまえが表す通り、空中から体当たりを仕掛ける〝飛び技〟であるが、フェザー級のキリサメからすれば、ミドル級の藤太との体重差が物理的にし掛かる状況とも言い換えられる。左右の下腕を交差させて胴を守り、直接的な痛手ダメージは減殺させたものの、それは肘を折り畳んだ状態で押さえ込まれたことをも意味するのだ。


「私の〝立場〟としては今すぐにドクターストップを掛けなければいけない状況なのよ。選手の肉体からだに限度を超える負担が確認されたときには、本人の継戦意思を無視することもやむを得ないわ。〝この場〟を用意した院長の権限でレフェリーの役目を代行しても?」

「ここでマットを叩くことが『MMA日本協会』の意向にも沿う判断ものだと理解わかっているつもりです。でも、僕自身の力で跳ね返せなければ『スーパイ・サーキット』を超えることは出来ません……!」

「あの『スーパイ・サーキット』を……超える? 自分自身の異能ちからを……?」

「僕の〝力〟はMMAの――『天叢雲アメノムラクモ』のリングで磨いていくモノ。そして、沢山の出逢いから受け取ったモノ。それを証明する為にも僕は強くなりたいんです」


 降参ギブアップを促す杖村に対し、首を横に振って返答こたえに代えたキリサメであったが、現在いまの彼にすべはない。両足だけは自由を保っているものの、四肢の隅々まで力をみなぎらせ、上から押し潰すような体勢を維持できる藤太が相手ではどれだけマットを蹴っても踏んでも劣勢を覆すことは叶わないのである。

 プロレスのリングであったなら、レフェリーはキリサメに敗北を宣言している。


「誰がプロレスをやれと言ったんだ? 誰が? 君たちの耳が揃って腐っているのでなければ、僕の言葉なんかまともに聞く気もないという意思表示にしか思えないけど?」


 ゴングの代わりに鳴り響いたのは、ガレオンが魚の化石ディプロミスタスの杖で床を叩く音だ。

 キリサメと藤太が交互に仕掛け合ったのはヴァルチャーマスクの得意技だが、いずれも実戦志向ストロングスタイルのプロレスにける異種格闘技戦ひいては統一されたルールに基づく総合格闘技MMAのリングで用いられたものである。

 MMAの試合に臨むヴァルチャーマスクは、『昭和』の〝スポ根〟ブームを漫画原作者として牽引したくにたちいちばんの作品からした〝超人〟レスラーであることを貫いている。だからこそ、一九九七年の歴史的屈辱も『プロレスが負けた日』と呼ばれるのだ。

 これに対して『シューター』を称するガレオンはヴァルチャーマスクを推戴する身だ。『打投極』つまり源流を同じくする〝総合格闘〟でありながら、たたかいを修めんとする求道的な精神性とMMAは相容れず、キリサメと藤太は恩人の哲学を軽んじているようにガレオンのには見えたのかも知れない。


「ヴァルチャーマスクを経て八雲岳が完成させた『超次元プロレス』は跡継ぎにも恵まれて将来安泰だっていう自慢大会なら、折原さんも招待してド派手にやろうじゃないか」


 創始者ヴァルチャーマスクへ直々に師事し、『打投極』を極めた『MMA日本協会』の折原浩之理事長に対して、〝超人〟レスラーから受けた恩がきっかけとなってプロレスの門を叩いた八雲岳は並々ならない対抗心を抱いている。

 と似たような感情が湧き起こったのではないかと考えたキリサメと岳は、マットから起き上がりながら何とも気まずそうな顔を見合わせた。

 リハビリテーション室の床を一本杖の石突で叩き続けたことを杖村院長に咎められ、制裁として耳朶を抓られながらも、彼女のことは一瞥もせず、くらい眼球を忙しなく動かしながらキリサメと藤太を交互にめ付けるのだ。

 初陣プロデビューのリングを血でけがし、文字通りに破壊してしまった異能スーパイ・サーキットとの訣別を志していると迷いなく言い切ったキリサメに真剣な眼差しを向ける杖村とは真逆であった。同じ言葉を受け止めて、全く別の〝何か〟が心に湧き起こったのは間違いあるまい。


「――今朝よりも更に一つ強くなるか、キリーッ!」

「今朝の自分にさえ情けなく思われるようでは、氏が仰る通り、僕には本当に将来さきがありません」


 ガレオンが最も大きく鼻を鳴らしたのは、この言葉が藤太とキリサメの間で交わされた瞬間ときである。甘えなど許さないよう自らを律し、MMAの練習トレーニングへ真摯に打ち込む新人選手ルーキーを隣の杖村が応援する間、彼は一切の感情が消え失せた顔で俯いていた。

 静かにくらく苛立ち、一房だけ垂らした前髪を小刻みに吹き上げる現在いまのガレオンは、何かの拍子に一本杖をキリサメに投げ付けてしまいそうな気配である。


「相変わらずの臆病な足さばきから自分で〝流れ〟を作りに行こうと切り替えたのも、僕にダメ出しされた技を応用アレンジしたのも悪くないよ。それは素直に認めるさ。どうして、そこで一段落せずに余計な真似をしたんだ? 天井を蹴ってどうする。『NSB』の金網も蓋をするようには張られていないんだぞ。中途半端な曲芸がMMAで役に立つとでも?」


 『とうあらた』の道場で思い付いたをMMAに生かしたということもあって、感情の起伏が薄いキリサメもこのときばかりは抗議の咳払いを抑えられなかった。

 現世代の格闘家を熟知するこの男が『八雲道場』と『まつしろピラミッドプロレス』の関係を把握していないはずがない。今し方の皮肉はを一まとめに愚弄したとしか思えないのだ。咳払いではなく目突きを抗議に代えなかった自分を褒めたいくらいである。


「さっきの言葉は取り消すとするよ、アマカザリ選手。自慢大会どころか、欠陥品の見本市に過ぎない。お養父ちちうえへのゴマりでヴァルチャーマスクの空中殺法を真似たかったんだろうが、派手そうに見えるだけで無駄の極み。無意味という言葉の玉突き事故だ。君の晒した恥は『打投極』の礎に対する侮辱にも等しい」

「無駄無意味とは聞き捨てならんぞ! キリーの進歩は他の誰でもない俺が保証する!」

「どこが無駄で、何が無意味だったのか、賢いアマカザリ選手は自分で理解わかっているはずです。余計な口を挟んだ分だけ可愛い弟は応用から掛け離れた反復作業ルーティンワークに逆戻りですよ」

「ガレオン、まさか、居眠りしてたんじゃなかろうな? たった今、目の前でキリーがせてくれたカンガルーキックにそんな寝ぼけたコトを抜かすとは信じられん」

「アマカザリ選手は他に有効な攻め手を思い付けなかっただけです。背後うしろから首を絞めに行っても返り討ちに遭うとビビッてね。好意的な言い方を選んでやればですが、アマチュア大会でさえ苦肉の策なんかでは試合の〝流れ〟を変えられません」


 次から次へと皮肉を並べるガレオンに対し、藤太は歯軋りをもって憤激を示しているが、攻防の組み立て方を理詰めで否定されたキリサメ当人は、両者が睨み合う傍らで一つも言い返せなくなっていた。

 模擬戦スパーリングが終了したものと判断した杖村から負傷の有無などを確認されている最中ではあるものの、それは口を噤まざるを得なかった理由にはならない。自ら数えた反省点とガレオンの指摘がことごとく重なった為、反論の余地がなくなってしまったわけである。

 中途半端と貶められた直後は眉をひそめたが、一つ一つの動作うごきが余りにも大きかったことも自覚している。模擬戦スパーリングという状況であったから手加減されただけであり、実際の試合であれば容易く捕まって馬乗りマウント状態ポジションに持ち込まれ、顔面を滅多打ちにされたはずだ。

 日本に総合格闘技の種を蒔いたヴァルチャーマスクへの侮辱とまでガレオンから痛罵されてしまったが、それは道場や地方プロレス団体に対しても同様――と、キリサメは声もなく猛省していた。〝小さな軍師〟には結果を焦らないよう言い付けられているが、この体たらくでは師匠たちに申し訳が立たないのである。


「――きっと今日まで関わってきた人たちの為に何がなんでも結果を出さなくてはいけないと焦っているのでは? その人たちは納得のいかない結果しか出せなかったとき、ただそれだけの理由であなたを見放すと思いますか? 現在いまのアマカザリさんはまさに涎掛けの赤ん坊と大して変わりません。成果にこだわるのではなくリングでの感覚を学ぶことに専念するのが〝格闘競技〟に慣れる近道かと」


 初陣プロデビューの前であったなら、己の拙劣を過剰に詰って心身ともに調子を崩してしまったが、現在いまは冷静な分析で踏み止まれる。じょうわたマッチとの試合へ臨む前に準備運動ウォーミングアップを手伝ってくれた友人――おおとりさと助言アドバイスは、袋小路に陥らないしるべとして胸に刻み込まれているのだ。


「無駄ばかりの動作うごきで敵を振り回すのが作戦だとしても、通じるのはみっともなくリングにしがみ付く時代遅れの遺物くらいだよ。じょうわたマッチみたいな引退待ちの爺さんなら消耗させてからいたぶるのも悪い策じゃない。でも、同じことを若くて健康優良児なタファレルに仕掛けたどうなる? 逆にアマカザリ選手のほうが体力切れで自滅するね」

「言葉が過ぎるぞ、ガレオン。日本MMAの黄金時代を築いたおとこを卑しめることは、同じリングを生きたこの俺が断じて許さん」

「友達思いで結構ですが、じょうわたマッチが五年先の『天叢雲アメノムラクモ』で闘っている姿を進士さんは本当に想像できますか? あなたや八雲岳、それにヴァルチャーマスクだって五年後も達者でしょうよ。何しろ

氏がプロレスに並々ならない敬意を持っていることは伝わりましたが……」

「そりゃソンケーしかないさ。入門以来、毎日々々血の小便を流す猛特訓で鍛えてきたプロレスラーと、所詮は不良ヤンキー上がりに過ぎないじょうわたじゃそもそもの出発点スタートラインが違うだろう? 『アンドレオ鬼貫』は何歳いくつまで現役だった? その戦歴キャリアこそが肉体からだも心臓も頑丈タフに鍛え上げたプロレスラーの証明だ。じょうわたが足元にも及ばないほど貧弱な理由でもあるね」

「湘南どころか、関東全域にまで勇名を馳せた暴走族の〝総長〟を捕まえて、素人に毛が生えた程度のように言ったのか? 捻くれ者もそこまで行くと笑えんぞ! 現在いまのキリーと大して変わらん年齢としの頃には警察とさえ乱闘に及んだ豪傑ではないか!」

「フルラウンドを闘い抜けないくらい老いて衰えた心肺機能を補えるのでしたら、幾らでも武勇伝を並べたらよろしい。僕の言っている頑丈タフ腕力ちから自慢や打たれ強さじゃないと本当は理解わかっているクセに小賢しい……。プロレスラーとの比較がお気に召さないなら、小さな頃からコツコツと肉体からだ競技選手アスリートに変更してやっても構いませんよ」


 ガレオンにはくらい目で睨み付けられているものの、プロレスパンツ一枚のみという藤太は〝筋肉の鎧〟とたとえる以外に相応しい言葉が見つからない肉体からだを汗で濡らしている。

 は八雲岳やヴァルチャーマスクも同じである。『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行にいて、キリサメが崩壊させたリングの交換を取り仕切るべく赤いフンドシ一丁となった鬼貫道明も、還暦を超えていることを忘れてしまうくらい筋骨隆々とした肉体を見せ付けていた。

 まさしく猛特訓の賜物と呼ぶべきであろう。プロレスラーは骨格の構造つくりからして常人と異なっているようキリサメには思え、それが競技選手アスリートとの歴然たる差であると突き付けられたなら首を縦に振らざるを得なかった。

 尊敬する〝先輩〟選手のじょうわたマッチを擁護したいという気持ちはキリサメも強いが、三人のプロレスラーと比べて彼のほうが贅肉が多かった事実も否定しようがないのだ。


「つい最近、あのくたばり損ないと闘ったばかりのアマカザリ選手なら、僕の言ったことが実感として理解わかるよな? たまには君も陰口を愉しめよ。ねぇ?」

「……確かにじょうわた氏は試合の途中で体力が尽きかけたと思います。打撃の威力も明らかに落ちていました。でも、それはじょうわた氏の評価を下げる理由にはなりません。僕の網膜に焼き付いているのは、最後まで闘う意志を燃やし続けた勇姿。それだけです」

「おべっか半分の美辞麗句で現実問題は誤魔化せないんだって、今日はそれをおぼえて帰るんだね。じょうわたが君のお友達と同じ『くうかん』の空手家だったことは身をもって思い知ったようだけど、結局、あの男は空手よりもラクな馴れ合いを選んだワケだよ。競技選手アスリートとしても武道家としてもいっぱしにはなれず、まともに勝負できるのは素人シロートと五十歩百歩な同類項おともだちだけと来たモンだ。アマカザリ選手もにならないようせいぜい気を付けなよ」

が俺が頼んだキリーへの指導のつもりか? ならば、お前は完全に間違っている。じょうわたマッチは〝格闘技バブル〟を迎える前からこんにちに至るまでリングに上がり続ける偉大なMMA選手だ。俺にとってプロレスラーであることは生涯の誇りだよ。だが、そんなモノで戦友と並べる肩の高さが変わろうはずもないのだ」

頑丈タフなプロレスラーの物差しで人の小突き方に少し詳しいだけの素人シロートを測るのは、相手からすればにされているのと変わりませんよ。ましてや前代表フロスト・クラントンの選手にけしかけてきた〝化け物モンスター〟を片っ端から退治した進士さんに庇われるなんて……」

「俺には幾らでも文句を言ってくれても構わんが、じょうわたへの悪口はやめろ。……お前自身を傷付けるだけだ。我が戦友ともの五年後を否定するのは、その五年後が自分にも無いと決め付けて譲らない為――えて言う。じょうわたマッチはガレオンを映す鏡ではない」

「今の発言は世界中の『シューター』への侮辱ですよね? 〝心技体〟の修練はプロレスラーにも引けを取りませんが、それを『フルメタルサムライ』ともあろう御方が嘲笑うとはね。いつぞやの『新鬼道プロレス』と『くうかん』の抗争を『NSB』で再現しますか」

「精神性に重きを置くという創始者ヴァルチャーマスクの哲学を己に問い掛けてきた世界中の『シューター』は誰もお前のデタラメな理論展開にいていけん。折原さんも笑っては見過ごすまい」


 古豪ベテランの〝立場〟を理由に樋口代表から冷遇され、悪名高い銭坪満吉スポーツ・ルポライターにも引退せずにいるのは恥さらしと中傷されているとはいえ、『天叢雲アメノムラクモ』の〝打撃番長〟として大勢の尊敬を集めるじょうわたマッチをそもそも〝プロ〟にも値しないと卑しめたガレオンは、選手生命が尽きるのも早いと一方的に決め付けた。

 藤太が戒めた通り、キリサメにも支離滅裂な言いがかりとしか思えない。

 暴走族の総長として日本MMAのリングに臨むじょうわたマッチのことをガレオンを〝子どもの殴り合い〟の延長に過ぎず、本物プロではないとまで痛罵しているが、彼が若かりし頃から率いてきた『武運崩龍ブラックホール』は、かつて関東屈指の武闘派として対立勢力を震え上がらせ、警察や指定暴力団ヤクザにも挑みかかるなど、文字通りに命懸けの抗争を潜り抜けている。

 互いの安全に配慮したルールを遵守する〝格闘競技スポーツ〟とは異なり、武器の使用を禁じる者さえ存在せず、ましてや社会の無法者アウトローが分別を持ち合わせているわけではない――MMAの試合とは比べ物にならない危険な状況に身を置いていたことは想像にかたくなく、その経験がに劣るはずもあるまい。

 多くの人々が〝映画フィルムのコマ落ち〟にたとえた『スーパイ・サーキット』の神速はやさに対し、残像すら視認できない状況でありながら自分に襲い掛かる攻撃行動ブローアウェイのタイミングを読み切って迎撃カウンターを叩き込んだ古豪ベテランの〝勝負勘〟を無視するのも評価として不当であろう。

 これに加えて、今し方の物言いでは成人おとなになってから格闘技を始めた人間を否定することにも等しいのだ。

 肉体からだを壊し兼ねない特訓トレーニングなくして本当の意味では強くなれないと吐き捨てたようなものであり、空手の未来を担う子どもたちの為に支配的な体罰や理不尽なシゴキの根絶を目指すきょういし沙門が聞いたなら、全世界の『シューター』と『くうやかた』の抗争すら辞さない覚悟で院内ここに怒鳴り込んでくることであろう。

 そもそも欧州ヨーロッパ各国では後遺症や成長期へのからぬ影響などを考慮し、未成年を対象として接触競技コンタクトスポーツへの参加に一定の制限を設けようとする動向うごきがある。ガレオンの思考かんがえは国際社会にいてさえいてくる者より批判の声のほうが多いのだった。


(僕一人を軽蔑するだけなら、一理あると認めないでもなかったのにな……)


 遠回しに自分のことも謗っているとキリサメも気付いていたが、それについての反論は今度も喉の奥へと押し込んだ。

 テロ組織の壊滅など死が鼻先を掠めるくらい危険な戦場は故郷ペルーで幾つも経験し、格差社会の最下層を生き抜かんとする意志から喧嘩殺法も編み出したが、それは殺傷ひとごろしすべに慣れただけであって、〝競技選手アスリートとしての肉体からだ〟を育てようと試みたことは一度もなかった。

 素人に毛が生えた程度というガレオンの嘲笑は、例えば『聖剣エクセルシス』を例に引いて言い訳を並べたところで、その分だけ己自身が虚しくなってしまうのだ。

 ガレオンに揶揄されるまでもなく〝MMA選手としての基礎〟が未だ十分でないことはひろたかも憂慮しており、花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとの試合が持久戦になろうとも精彩を欠かないだけの体力を付けるようキリサメに効率的な練習方法や食事を提案している。

 一方の杖村は医師としての見解に基づいてガレオンの吐いた暴論を切り捨てそうなものであったが、何故だか目の前の言い争いから距離を取っていた。

 参戦できる情況ではないのかも知れない。ガレオンが日本MMAの古豪ベテランを〝時代遅れの遺物〟と扱き下ろした際、彼女の顔には影が差し、それから口を噤み続けているのだ。

 藤太とガレオンの諍いに引き摺り込まれ、他に意識を向ける余裕もなくなったキリサメであるが、高い跳躍を経由する体当たりボディプレスし掛かられた際に内臓が痛手ダメージを負ったのではないかと面と向かって確認されている最中であれば杖村の表情かおを訝り、模擬戦スパーリングに『MMA日本協会』から厳しい評価が下された――と、不必要に焦ったことであろう。

 現在いまのキリサメが何よりも気掛かりなのは、ガレオンが喉の奥から絞り出す声の調子が皮肉を重ねるたびにやさぐれていくことだ。一本杖あるいは自走式車椅子に頼らなければ移動すらままならない己の現状と、じょうわたマッチを貶めようと例に引いたプロレスラーの強靭さを比べて、やるかたない憤懣が鋭く尖ったのかも知れない。

 心に澱みの如く溜まっていくんだ気持ちを隠したいが為、このままではリングへ挑む前に肉体からだのほうが限界を迎えるという己の境遇に近いじょうわたマッチを否定しているのではないかと藤太にも問いただされたが、傍らのキリサメにもそのように思えてならなかった。


「何か言いたそうだね、アマカザリ選手?」


 一等大きく鼻を鳴らす音と共に穿つような眼光を浴びせられたキリサメは、脳内あたまのなかで推し測っていた内容ことを一つ残らず見破られたと悟り、脇の下から冷たい汗が噴き出した。

 自分に対するからぬ感情を僅かでも感じ取った瞬間、ガレオンの勘働きが異常なほど加速することを全く失念していたのだ。今にも千切れそうな胃の痛みこそが己の迂闊さを端的に表していると、キリサメは不意の眩暈の中で唇を噛んだ。


「言いたいことを我慢するのは健康に悪いよ? リングに上がる階段ステップにさえ足が届かない分際で、じょうわたに物申す資格なんかあるわけがない――君の顔にはそう書いてあるけど?」

「……それは誤解だと、はっきり申し上げますよ。他者ひとへの侮辱が心に生まれるときは、その前に自分自身を侮辱していると死んだ母に教えられてきました。こうして氏と向き合っていられるのは、僕のなかに後ろめたいことが何一つないからとお考えください」

ようだけど、母親は関係ないんだよ。君自身のその顔が僕への本音をぶちまけているのに、恥知らずにも親を逃げ場にしないでくれ」

「いい加減にしろ、ガレオン。お前の希望のぞみを叶えるのに必要なのは八つ当たりではない」


 不気味なくらい感情を消した声でありながら、他者ではなく己を傷付ける言葉を執拗に引き出そうとするガレオンに対し、キリサメは返すべき言葉を失った。

 目の前の藤太や養父の岳など会話が噛み合わない人間は幾人か思い浮かぶが、自分の発した言葉が正確に届いているのか、本来の意図から掛け離れた形に歪められているのではないかと本気で人間は、故郷ペルーまで振り返ってもガレオンしかいない。

 今日が初対面ゆえに互いの為人ひととなりを理解し合うだけの時間が足りないということは、この男にとって関係ないだろう。そのように結論付けざるを得ないほど・ガレオン・のりはるという人間はキリサメの思考あたまでは理解できなかった。

 瀬古谷寅之助や鹿しか刑事を例に引くまでもないが、面と向かって皮肉を浴びせてくる人間自体はガレオンが初めてではない。

 『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟選手であるバトーギーン・チョルモンとはプロデビュー戦直前のリングチェックにいて一触即発の事態に陥ったのだが、この〝平成の大横綱〟の場合は以前から大会運営の在り方に強い不満を抱えており、統括本部長である岳と対戦した折にもレフェリーから注意されるような罵声を浴びせている。

 岳の養子にも矛先が向けられた恰好であるが、それだけに憤怒いかりの正体も見極めやすい。〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟と比べてガレオンは〝何〟を憎悪しているのかも読み取れないのだ。

 藤太との間で事前に取り決めていた予定を変更させられたことで『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーに不快感を抱いたのかも知れない――と、最初の内はキリサメも考えていたが、言葉を交わせば交わすほど己も含めた全ての存在へ苛立っているようにしか思えなくなってきた。

 それ以外に誰彼構わずくらい瞳でめ付ける姿をすることは不可能であろう。無限に湧き起こり続ける理由なき怒りが心の〝外〟まで焼き尽くしてしまわないよう一一号帆布のエンジニアコートで抑制しているのではないか――荒唐無稽な錯覚に見舞わるキリサメであったが、その感覚は脂汗を伴うくらい生々しかった。

 立ち居振る舞いの一つ一つが陰湿かつ理不尽でありながら、紡ぐ言葉は理路整然としている。戦慄の二字こそ相応しい洞察力は言うに及ばず、数え切れないくらい豊かな皮肉の根源みなもととも呼ぶべき知識量や特注品オーダーメイドの服装からは教養の深さも感じ取れる。

 絶えず怒りの炎で身を焦がしているというのに、つるぎきょうと同様に後先も考えずに暴れ回るのでもなく、己をき動かす激情すら冷ややかに見下しているようでもある。

 矛盾の塊――他者を揶揄するときにも、自分自身を嘲るときにも、全く同じ調子で鼻を鳴らすガレオンのことをキリサメは他に表しようがなかった。自ら進んで怨みを買うかのような態度で周囲まわりの人々を傷付けながら、年長者には敬語と敬称をもって接しているのだ。


(……悪ぶった態度の向こうに人のさを感じなくもないし、家族の前では〝外〟と別の表情かおを見せる性格タイプなのかもな……)


 額にて燃え上がる日輪や両腕を駆け抜ける風など、全身の隅々まで彫り込まれた刺青タトゥーは大型帆船がく七つの海の如く勇壮な意匠デザインであるが、そのいずれもが負の想念に塗り潰されるかのような言行と噛み合っていない。唸りを上げる大波を模った後ろ髪も、舵を取る気力すら失せて虚しく垂れているようではないか。


「……氏のは、いちいちご尤もです。基礎が整っていない内に応用を焦って無意味な動作うごきが増えたのも言い訳できません。……『型を極めて初めて型破りが出来る。型を知らなければ形無し』とはこのこと。MMAのルールさえ思考あたまに馴染んでいなかったから、〝プロ〟にあるまじき負け方に終わったわけで――」

「――タクシーを一台、お願いします」


 言い訳も挟まず己の拙劣を反省するキリサメをつまらなそうに一瞥したのち、ガレオンはエンジニアコートのポケットから携帯電話スマホを取り出し、帰路かえりのタクシーを手配し始めた。

 通話相手との受け答えから察するにキリサメを困らせる為の芝居などではなく、本当にタクシー会社へ配車依頼の電話を掛けたようだ。もはや、鼻も鳴らさないガレオンの双眸から「これ以上、付き合っても時間の無駄」と無言で突き放されてしまったのである。

 ガレオンの要請に応じてリハビリ室を提供し、運動療法も管理している杖村にさえ可否を仰がないまま立ち去ろうとしているわけだ。今しがた挙げた反省点を痛烈な当て擦りで切り捨てられると身構えていたキリサメは、己に対する興味を急に喪失うしなったかのような態度に面食らい、他の二人と共に口を開け広げて立ち尽くすしかなかった。

 その様子にぶるような視線を這わせたガレオンは、自分に遺された時間を一秒でもキリサメに使いたくないと言わんばかりの溜め息を挟み、魚の化石ディプロミスタスの杖の先を彼に向かって再び突き付けた。


「この期に及んでまだを庇おうとする小賢しさはあるクセに、君は大事なところで決定的に察しが悪いな。そこそこ上等なあたまを持っていながら、使い方が同情したくなる水準レベルで効率的じゃない。そのザマでどうやって貧民街スラムを生き抜いたのやら」

「尊敬する先輩の誇りを守りたいと思って何がいけないのですか? 逆にお伺いしたいのですが、『プロレスが負けた日』を掘り返されたら、氏はどう言い返しますか?」

「そんななんかしちゃいないけど、君の程度レベルに見合った反撃はが限界かな。右も左も分からない新人選手ルーキーらしく素直なを演じている場合か? MMAの基礎だとか、さっきも殊勝なコトを抜かしていたな。大方、世間に顔向けできない負け方を払拭するように命令されたんだろう。そんなモンに従っている暇があるとでも?」


 『打投極』の神髄をもってしてたたかいを修めんとする〝道〟の創始者が〝永久戦犯〟の烙印を押されてしまった屈辱的な敗北を引き合いに出すことは、キリサメにとっても伸るか反るかの賭けであった。ヴァルチャーマスクに対する直接的な侮辱と受け取られる危険性も極めて高いのだ。最悪の場合、誹謗中傷が乱れ飛んだ一九九七年一〇月当時の有りさまを格闘技の最前線で目の当たりにしたであろう藤太と杖村まで敵に回し兼ねなかった。

 しかし、当のガレオンは激怒するどころか、キリサメの顔を瞳の中央に再び捉えながら椅子に座り直した。無論、キリサメの側は『プロレスが負けた日』という忌まわしい一言を口にした瞬間に魚の化石ディプロミスタスの杖を投げ付けられても仕方がないと覚悟していたのだが、今のところは鼻を鳴らされるのみに留まっている。

 つまり、ガレオンの興味を引き戻せたということである。両耳へと滑り込んだ厭味な鼻息に思わず安堵の溜め息を吐いてしまった自分がキリサメには滑稽でならない。


「今まで君は相当な悪事を働いてきたんだろう? あまつさえ〝格闘競技スポーツ〟のリングでも血みどろの暴挙を仕出かしておいて、今さらになろうとしてんじゃねぇよ」


 自分を見据えるガレオンのが強さとくらさを増し、キリサメはほんの一瞬ながらも全身の震えを抑えられなかった。


じょうわたマッチを間一髪で殺すところだったあの試合を観戦た連中も、SNSソーシャルネットワークサービスなど何らかの形で伝え聞いた連中も、『あつミヤズに暴露された通りに本物ガチの凶悪犯だ』と君のことを怖がっている。日本の法律ではペルーでの犯罪を裁けないのを良いことに、のうのうと『天叢雲アメノムラクモ』のリングに上がっているけど、本当はメディアに出しちゃいけないような殺人鬼――そこまで疑われている現状を武器として利用しないのは間抜けの極みだ」


 暴論としか思えない言葉の羅列にガレオンの意図を見出したキリサメは右手で握り拳を作り、次いで躊躇ためらいがちに人差し指と中指を立てて見せた。傍目にはピースサインのように見えたことであろうが、その仕草ゼスチャーは二本指による目突きを意味している。

 これを見て取ったガレオンは「どこまでもあたまの使い方が勿体ないな。完全に使い物にならないワケじゃないから更にタチが悪い」とまたしても厭味に鼻を鳴らしたが、葛藤を煽るような反応こそがキリサメに対する答え合わせなのだ。


「『超次元プロレス』のなり損ないみたいな真似をするよりも前の攻防――直線的な一撃ストレートパンチ目突きサミング動作うごきをフェイントとして織り交ぜていたよな。進士さん相手に通じなかったのはがお互いに示し合わせた模擬戦スパーリングだからだ。本当に眼球を破裂させるつもりがないと理解わかっていたから引っ掛けフェイントにならなかった。でも、実際の試合では正反対の心理が働く。さっきの杖村先生はものだったよ」


 キリサメのことを〝格闘競技スポーツ〟とは相容れない存在と決め付けようと、ガレオンが作為的に誇張しているわけではない。実際に杖村はキリサメが二本の指で藤太の目を抉るものと誤解し、模擬戦スパーリングを止めようとしたのだ。

 自身のを論拠として取り上げられた杖村は、タブレット端末を掻き抱くような恰好で腕を組み、一本や二本では済まないほどの皺を眉間に寄せながら重苦しい溜め息を吐いたが、これを目の端で捉えるキリサメも似たような表情かおであった。

 傷害や強盗といった犯罪に手を染めてきたキリサメ・アマカザリであれば、相手から光を奪うという悪質極まりない行為にもちゅうちょなど覚えないと思われている証左であろう。

 そして、はガレオンが指摘したように大多数の認識でもあるはずだ。

 テレビ番組などでも館山弁護士が公然と批判を繰り返してきたが、選手の命を守ることを前提としたルールに適応できず、〝プロ〟と冠する競技選手アスリートの資格すら疑わしい危険人物という見解を『MMA日本協会』はキリサメに示している。

 これを杖村から取り除くというも胸に秘めて臨んだ模擬戦スパーリングであったのだが、結局、キリサメに突き付けられたのは、人間の先入観は容易にはひっくり返らないほど根深いという〝現実〟である。


ひきアイガイオンのように〝格闘競技スポーツ〟のリングでも平気で目を潰しに来る無法者アウトローという先入観を君はデビュー戦で世間に植え付けた。五体満足ではリングから帰してもらえないという恐怖感が刷り込まれている対戦相手は、君が〝格闘競技スポーツ〟とは掛け離れた動作うごきを見せた途端に腰が引けるよ。一生モンの後遺症を負わされちゃ堪らないってな」


 動物的な本能が万全であったはずの調子を狂わせる――抗いがたい恐怖こそが試合たたかいの〝流れ〟を自ら操作コントロールし得る手段ともガレオンは言い添えたが、奇しくもは八雲岳の理論を具体的に整理したものであった。

 冷静に考えてみると『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長にあるまじき発想であるが、岳も危険行為と判定され兼ねない動作うごきで相手を惑わすことを〝フェイント殺法〟の要に据えていた。プロレスの闘魂たましいの〝直系〟とも呼ぶべき四角いリングをけがすという最悪の事態によって養父ちちの思い描いた作戦を実現できる土台が整ったわけであるから、ガレオンでなくとも皮肉を飛ばさずにはいられない筋運びであろう。


「目突きの引っ掛けフェイントの後は直進運動に任せて張り手の真似事に切り替えていたけど、眼球だけは死守しようと相手が防御ガードを上げたところに、反対側の握り拳をがら空きの鳩尾に突き刺したほうが痛手ダメージも大きかったんじゃないか? 金的狙いの膝蹴りで引っ掛けフェイントを重ねるのもアリかもな。を潰される恐怖は防具ファウルカップを挟んでも耐えられるモンじゃない」


 猫の手にも似た打撃パンチも殺意で歪んだ面相というや狙い定める部位によっては焦燥を煽り、攻防を組み立てんとする相手の動作うごきを意のままに支配することも不可能ではない。

 優等生を気取りたいが為、己だけに許された武器を投げ捨てるのは愚の骨頂――と、唖然と固まるキリサメに向かってガレオンは舌打ち混じりの痛罵を続けた。


「……わざわざ反則負けの危険を冒すくらいなら、空いているほうの手で腰でも掴んで投げを狙いますよ。いずれにしても進士氏には通じなかったと思いますが……」

「少しでも長くMMAをにしたいのなら〝付け焼き刃〟に頼り切りでもいられないからな。見掛け倒しと判断されたら、他の選手も今日の進士さんと同じ反応になる。たまには本当の反則を喰らわせてやりなよ。自分のことを舐め腐る相手に思い知らせてやれ」


 ガレオンが並べ立てる一言々々は〝フェイント殺法〟の発展を目指す『ハルペリオン・マニューバ』にとって有益な手掛かりであろうと、キリサメも理屈では分かっている。しかし、その為に恥の上塗りと呼んでも差し支えのない〝反スポーツ的行為〟を求められたなら、首を縦に振れるはずもあるまい。

 『天叢雲アメノムラクモ』のリングは、故郷ペルー貧民街スラムとは違う。MMAに対する勉強不足を自覚しているキリサメであるが、〝幻の鳥ケツァール〟にたとえられた試合着ユニフォームを纏う試合たたかいが〝自分ひとりのもの〟でないことだけは二度と忘れないのだ。


「……『模擬戦スパーリングだから』という言葉をお借りしますが、目突きの〝フェイント〟も試しに使ってみただけで、実際の試合では難しいはずです。ルールなんか守る気がないという先入観を持たれている中であんなにも露骨な真似をしたら、即座に反則を言い渡されますよ。選手とレフェリーでは同じ過剰反応でも質が違うのでは?」

「……正直、はルール上でもグレーゾーンなのよ」


 呻くような差し出口は、杖村によるものだ。『MMA日本協会』の〝立場〟としては、さながら悪魔のような誘惑ささやきを咎めるべきであろうが、意外にも暴論の助長と受け取られ兼ねないことを喉の奥から絞り出したのである。


「話を前後させて申し訳ないのだけど、アマカザリ選手は『バラクーダ・シュガーベーコン』という総合格闘家を知っているかしら?」

「みーちゃん――家族が作ってくれた資料で名前と簡単な経歴は承知しています。記憶違いでなければ、現在の『NSB』で一番の問題児とか……。ですが、僕が視聴した興行イベントでも例のテロ事件でも、その名前は目に入りませんでした。何しろ家名ファミリーネームですから、この耳で聞いていたら忘れないはずですが……」

「見おぼえがないのも仕方あるまい。数ヶ月の出場停止処分で謹慎中の身だ。その為に凶弾から逃れられたという言い方は、シュガーベーコンに失礼だがな……」


 自身が所属するMMA団体の〝同僚〟のことだけに、それまで押し黙ったまま成り行きを見守っていた進士藤太フルメタルサムライも説明を補足していく。

 バラクーダ・シュガーベーコン――ドーピング汚染を招いた前代表フロスト・クラントンがアメリカ格闘技界から永久追放され、イズリアル・モニワが団体代表に就任した新体制の『NSB』でプロデビューを果たし、二〇一四年七月時点の記録にいて同団体の世界王座に最年少で到達した中量級の猛者である。

 現在は八角形の試合場オクタゴンに臨んでから僅か二年で獲得したライト級に加えて、ウェルター級の王者チャンピオンベルトも保持している。『NSB』の歴史を紐解いても一〇人といない二階級制覇を二〇代そこそこで成し遂げたカリスマ性は圧倒的であり、総合格闘技MMAPPVペイ・パー・ビューとしては世界最高の売り上げを叩き出した上、この記録は今後二度と塗り替えられることがないであろうと言われている。

 キリサメは『天叢雲アメノムラクモ』にけるレオニダス・ドス・サントス・タファレルのような存在であろうと受け止めていた。シュガーベーコンも昂奮と感動を観客席へ届けたいと熱弁するほどファンを大切にしており、その点も祖国ブラジル開催のワールドカップ観戦より日本のMMA興行イベント出場を優先させたレオニダスに重なったのだ。

 一方で、常人には理解しがたい思考回路の持ち主としても有名であった。関係が拗れていた〝同僚〟選手の食事に噛んでいた風船バブルガムを吐き捨てるなど問題行動も多く、同じ相手とは『NSB』の興行イベント会場で互いのファンを巻き込む乱闘まで起こしていた。

 この対立関係は激化の一途を辿っており、二〇一三年末には当該人物を脅かす為だけに他の〝同僚〟たちも同乗する選手送迎バスを襲撃した挙げ句、警察に逮捕されている。

 とうとう『NSB』が本拠地を置くネバダ州の体育委員会アスレチックコミッションによって〝聴聞会〟が開かれる事態に陥り、王座剥奪こそ免れたものの、五〇万ドルの罰金と九ヶ月の出場停止処分、更には社会奉仕活動が課されたのである。

 キリサメは国内外の格闘家による不祥事を取りまとめた資料の中で、バラクーダ・シュガーベーコンの名前を知ったのだ。「ラスベガスという享楽の都に奉仕ボランティアの精神もクソもあるものか」と言い張り、一時は体育委員会アスレチックコミッションと法廷で争う姿勢まで見せたという。


「聞きかじりの知ったかぶりでシュガーベーコンを考えナシの暴れ馬と他所よそで吹聴してみなよ。一生の笑い者になれるぞ。副業サイドビジネスだけでも十分に食べていける実業家だ。そして、そのは〝ルールの抜け穴〟に目敏い格闘ファイトスタイルでこそ猛威を振るう。結局、僕は対戦する機会に恵まれなかったけど、関節への打撃があんなに巧い選手を他に知らないよ」


 シュガーベーコンを〝関節に対する打撃〟の名手と評したガレオンに、キリサメは思わず首を傾げた。初陣プロデビュー前であれば反則と判定される危険行為をおぼえ切れなかったかも知れないが、現在いまはそこまで学習が進んでいないわけではない。

 〝ルールの抜け穴〟という皮肉を割り引いても、バラクーダ・シュガーベーコンを〝関節への狙撃手〟などと持てはやしたガレオンの意図が読み切れないのだ。


「……ルールで禁止されているのは関節をし折る攻撃よ。全体重を乗せて膝小僧を踏み付けようとしたらレフェリーが割り込んでくるけど、関節への打撃そのものは日米のMMA団体のどちらでも有効だと認められているわ」


 この疑問をキリサメから引き出す為にシュガーベーコンの名前を挙げた杖村は、バス襲撃事件に巻き込まれた体験談を披露しようと肺一杯に空気を吸い込んだ藤太を制し、「膝に狙いを定めた下段蹴りローキックも厳密には〝関節への打撃〟に入るでしょう。だけど、MMAでは体得必須な有効打」と畳み掛けた。


「膝への蹴りも打ち込み方次第――いや、力の掛け方次第ですか。反則にならないギリギリのラインを見極めた狙撃は、確かに〝ルールの抜け穴〟ですね。自分の足技も応用次第と理解できましたが、杖村氏はこの現状に納得していないご様子……ですよね?」

「深刻な靭帯損傷は勿論、歩行どころか、自重を支えるのも困難な後遺症に繋がるわよ。実際、シュガーベーコンの攻撃で膝の内部なかがぐちゃぐちゃに壊れた選手もいるわ。……だけど、は反則と判定できないのよ。日本のMMAで同様の技術テクニックが流行し始めたら、私も館山さんも黙ってはいないわ」


 杖村朱美は日本国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関の理事である。その矜持が込められた言葉へ耳を傾ける内に、キリサメは先程から彼女の眉間に皺が寄っている本当の理由を察した。

 目突きといった人体破壊を喧嘩殺法の一部として平然とふるうキリサメ・アマカザリに恐怖を抱いたのではない。MMAという〝格闘競技スポーツ〟のルールを知り尽くしていればこそ、その〝抜け穴〟を極めて深刻に憂慮しているのだ。

 『NSB』最大の問題児が実践している通り、ルールに〝抜け穴〟があれば、これを掻い潜らんとする〝悪知恵〟が生み出される。〝フェイントの悪用〟ということでは、明確な害意が認められない限りはも「人差し指と中指を伸ばしただけ」とすしかないのだ。

 無論、傍目には競技選手アスリートとしての倫理観を疑われる行為である。レフェリーも見咎めることであろうが、物理的接触を伴わない状況では〝悪魔の証明〟になり兼ねない。

 ルールの厳罰化だけでは埋められない〝穴〟であるからこそ対応が難しい。例えば膝関節への打撃を安全性が確保できないという理由で一括りに規制すると、下段蹴りローキックそのものが反則行為となってしまうのだ。

 ありとあらゆる可能性が無限に拡がるはずであった競技形態を自粛するようになれば、最後には総合格闘技MMAと名乗れなくなる。即ち、ガレオンは食い止めようがないルール上の欠陥を武器として利用するようキリサメに吹き込もうとしているわけだ。


「言いたいことを我慢するのは健康に悪いと先ほど教えてあげたばかりだよな。『メフィストフェレス』でも見るような目になっているよ、君」

「ファウスト博士の真似事は間に合っています。悪魔メフィストフェレスにも魂は売り渡しません。もっとタチの悪い存在モノが棲み着いていますし、〝地球の裏側〟の暗闇の底に立ち返るようなことをまでも繰り返していたら、現在いまの活動を支えてくれるみんなに顔向けできません」

「随分、杖村さんを意識しているように見えたけど、……『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の養子むすこともなると体裁にも気を遣わなきゃならないから大変だね。自分の身の振り方より『MMA日本協会』へのおべっかのほうが優先なんだから、そりゃあの話なんて右から左だよな。お互いに時間の無駄だと分かって、いっそ清々しい気分だよ」

「貧富の格差のドン底で生まれた血みどろの技が〝暴力〟とは違う〝何か〟だと確かめる為に僕はMMAのリングを選びました。きっとは『MMA日本協会』の役割にも通じるのではないでしょうか? その理事の前で胸を張れないということは、最初に掲げた目標を投げ捨てるのと変わりません。それを体裁と仰るのならお好きにどうぞ」

「騙し討ちで金星を拾おうとしているクセに、みっともなく〝善玉ベビーフェイス〟を気取るなよ。同じようなことを言うのは今ので二度目だぞ? 構えも取らずに腕をぶらぶらと垂らしているのも、すれ違いざまに襲い掛かる手口が得意だからなんだろう? 他の選手にはない経験を他の誰かが思い付くようなパターンに塗り替えようとするから、纏まり方まで小さくなるんだ。をしておいて、真っ当な格闘家人生をまだ諦めきれないのか」

をしてしまったからこそです。仲間に恥じない闘いは手放しません」

「その仲間とやらは一途な生き方だとか君を褒めそやすのだろうけど、模範的であろうとする覚悟に――ルールに囚われた人間から先に負けてちていくのが〝プロスポーツ〟だよ、アマカザリ選手。……せいぜい地獄をしゃぶり尽くすんだな」


 MMAの社会的信用を損なう問題行動に懲罰を科す一方、故障者が続出する状況でありながら関節への打撃については体育委員会アスレチックコミッションも不問に付した通り、客観的には危険性・悪質性が認められる行為であろうとも、ルール上で明確に規定されていない以上はレフェリーも反則とは断定し切れない。

 処罰対象から外れているという〝事実〟をもって己のなかに渦巻く葛藤を誤魔化し、ルールの〝抜け穴〟を正当化し始めたら、MMAを愛する人々に生じたからぬ印象は二度と払拭できないだろう。

 ガレオンには随分と歪んだ形で解釈されてしまったが、凶悪犯という罪深い過去を洗い流し、〝善玉ベビーフェイス〟としてことを望んでいるわけではない。『八雲道場』を中心とするチームの一員として、仲間たちが不利益を被る状況の回避に努めることも果たすべき責任であると心得ているのだった。

 花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとの試合たたかいに向けた作戦会議も兼ねるケースカンファレンスを振り返ってみても、出席者には一人として同じ職業の者が居なかった。現在のキリサメには主に二人の医師が関わっているが、外科医と精神科医で受け持つ領域が異なっている。試合着ユニフォームの〝開発〟を担当したたねざきいっさくに至っては、日本を代表するデザイナーなのだ。

 悪魔メフィストフェレス誘惑ささやきに甘えて〝プロ〟にあるまじき無頼な振る舞いを武器に換えてしまえば、キリサメ・アマカザリというMMA選手を支えるチーム全員にもからぬ印象が波及し、その〝本業〟に実害が発生するのである。

 『八雲道場』として雇っている身辺警護ボディーガードは言うに及ばず、『とうあらた』や『まつしろピラミッドプロレス』にも迷惑は掛けられない。万が一にも過ちを犯してしまったとき、家族や親友たちは誹謗中傷に巻き込まれることも恐れずキリサメに寄り添うことであろう。きょういししゃもんのように状況に応じて付き合い方を変えられる人間のほうが少ないのだ。

 その日だけ生き延びることが出来れば良かった故郷ペルーとは違う。〝プロ〟のリングに立つ以上、絆を育んだ全ての人たちに胸を張れる闘いにしなければならない――格差社会の最下層では必要としなかった〝責任〟の芽生えに違和感を覚えないわけでもないが、そのように変わった自分をキリサメは嫌いではなかった。


「誰も彼も〝抜け穴〟を使い始めたら、試行錯誤を重ねて整備されてきたルール自体の否定と同じでしょう。でも、日米両方の団体で決定的な崩壊は起きていません。〝抜け穴〟が有効と分かっていながら殆どの選手がルールを遵守まもり、正々堂々と腕比べをしている証拠ではありませんか。MMAという格闘競技スポーツが途絶えない理由もそこにあるのでは?」

「正直者の裏をかいて得した成功者への遠吠えを聞かせるのか? ……無意味な真似が趣味らしいな。いずれにしてもルールを踏み躙って黒星スタートになった人間の台詞とは思えないよ。初陣プロデビューから一ヶ月も経っていない新人選手ルーキーが良くぞモンだ」

をしてしまったからこそ――先程の言葉を繰り返させていただきます。初陣プロデビューから半月、『天叢雲アメノムラクモ』と契約して約三ヶ月、日本に移り住んで五ヶ月ちょっと。半年未満の〝プロ〟ですが、それまでの一六年半より遥かに深い時間だったと断言できます」


 世界のMMAを主導してきた『NSB』にける実例を餌の如く示されようとも、キリサメは悪魔メフィストフェレス誘惑ささやきに屈しない。業を煮やしたようなガレオンに幾度となく鼻を鳴らされたが、それでも一歩も譲らなかった。


「そこまで気負う一七歳、素直に立派と褒めたいのだけど、みたいに潰れてしまいそうで心配が先に来るわね。もっと伸び伸びとやって良いハズなのに……」


 心の底より見直した顔の杖村であるが、唇を滑り落ちた呟きがキリサメに向けられたものでないことは、反論代わりのように追い掛けてきた鼻を鳴らす音からも明らかである。

 『MMA日本協会』の理念にも通じることを〝プロ〟の矜持と共に語ったキリサメと、それが気に入らず一房結わえた前髪を吹き上げるガレオン――双方ふたりの様子を交互に見比べたのち、杖村は脳内あたまのなかで堂々巡りし続ける思考ことを整理するかのように深い溜め息をいた。


「進士氏が僕に知れと仰った〝世界〟は、なのですか」


 言葉の応酬を続けても平行線を辿るばかりと判断したキリサメは、押し黙ったまま筋運びを見守っている黒いプロレスパンツへと視線を巡らせた。

 が怪訝そうな眼差しとなるのも無理からぬことであろう。心的外傷後ストレス障害PTSDの疑惑が生じた〝弟〟が心配で堪らず、半月分の予定スケジュールを変更してアメリカから日本に急行するという度を越して一本気な男が騙し討ちを好んでいるとは思えない。

 ましてや卑劣な真似として真っ向から切り捨てそうな〝ルールの抜け穴〟を〝弟〟に勧める為、ガレオンと引き合わせたとはどうしても考えられなかったのだ。古くからの友人を反面教師としてにすることを思い付くような性格であれば、師匠の養子むすこに対して血の繋がった〝兄〟も同然に接するはずもあるまい。


「――〝世界〟なんて軽々しく口にするな」


 自分と共にる三者の様子を順繰りに見つめたのち、坊主頭を掻きながら口を開こうとした藤太を遮り、発言権自体を奪い取るかのように鋭く制したのはガレオンである。

 魚の化石ディプロミスタスの杖を突き出した先を辿れば瞭然であるが、奈落の底から響いてくるような声を浴びせた相手は、藤太ではなくその肩越しにめ付けるキリサメだ。

 肩に引っ掛けていたエンジニアコートの片側が一本杖を繰り出した拍子に滑り落ち、一一号帆布で覆い隠されていた右腕が剥き出しとなった。MMAの最前線で闘っていた頃と比べて筋肉が削げ落ち、そこに彫り込まれた風の刺青タトゥーは原形を留めないほど崩れている。

 身のなかから湧き起こる負の想念によって濁ったとしかたとえようのない瞳と、魚の化石ディプロミスタスの把手を握る右手の震えを見て取ったキリサメは、一本杖の石突が己の身に触れるような距離までえて歩み寄っていった。


氏が仰った〝世界〟とは、どのようなモノなのですか? そのに〝世界〟はどんな風に見えているのですか? 後学の為に是非ともお伺いしたいです」


 トレーニングマット上に取り残された藤太と、ガレオンが腰掛けた椅子のすぐ近くに立つ杖村は、驚愕の顔をキリサメの肩越しに見合わせた。

 数え切れないほどの皮肉を浴びせられてきた反撃とばかりに、キリサメは挑発的な言葉をガレオンに叩き付けたのだ。露骨あからさまに侮辱されようとも礼節を貫いてきた彼には似つかわしくない態度であればこそ、二人揃って呆けたように大口を開け広げたわけである。

 耳を澄ませば互いの息遣いが聞こえる距離でを受け止めたガレオンも、宇宙の彼方からやって来た生き物でも眺めるような目をキリサメに向けたが、首を傾げたのはほんの一瞬であり、一切の表情が消え失せた直後、魚の化石ディプロミスタスの杖を振り上げた。

 風を切り裂く音が幾度も続き、そのたびに一本杖の石突がキリサメの身を脅かした。実際にちょうちゃくされることはなく、接触の寸前に引き戻されたが、ガレオンが害意と共に魚の化石ディプロミスタスの把手を握り締めていたなら、文字通りの事態に立ち至ったことは間違いない。

 外側に向かって放射状に拡がるように結い上げた二房の後ろ髪は弧を描く大波を模っているのだが、魚の化石ディプロミスタスの杖はこれと同じように轟々と唸り、キリサメの脇腹や腰、膝など全身の至る所に振り下ろされた。

 ガレオンは最後に右の首筋を狙い、腕を前方に突き出して金属製の柄を頸動脈の辺りに宛がった。それまで一房に束ねた前髪は縦横無尽に舞い上がっていたが、一本杖を振り回す動作うごきそのものには一切の無駄がない。下から掬い上げるような恰好で左脇腹に迫り、次いで同じ側の腰へと狙いを転じたときなどは直角に煌めく稲妻と見紛うほどであった。

 どの部位へ如何にして一本杖を振り抜くか、最速最短の命中に必要な身のこなしを互いの距離感まで含めて脳内あたまのなかで完全に割り出している証左である。

 魚鱗の鎧スケイルアーマーのようなタンクトップに括り付けられた無数のアルミ片が擦れ合う不協和音に鼓膜を打たれている間、キリサメは微動だにしなかったのだが、ガレオンには本気で危害を加えるつもりがないと疑わなかっただけではなく、正確無比に連ねられたおののき、全身の隅々まで凍り付いていたのである。


「――これが……〝世界〟だ……アマカザリ選手……ッ」


 〝世界〟という一言をガレオンが吐き出す頃にはエンジニアコートは完全に滑り落ち、不格好としか表しようのない有りさまで椅子の背凭れに引っ掛かっていた。そこに覗いた両肩は乱れた呼吸に合わせて上下しているが、急激な運動の直後に見えないくらい蒼白い。

 今日が平常の診察日であり、リハビリ室が通院者で溢れ返っていたなら、その大半はガレオンが〝何〟を試みたのか、一部始終を眺めても理解できなかったはずだ。

 しかし、この場にるのは師匠から〝世界で最も完成されたMMA選手〟とまで称賛される進士藤太フルメタルサムライと、医師スポーツドクターの立場で『MMA日本協会』の理事を務める杖村朱美である。両者のはキリサメがじろぎ一つ出来なかった理由まで見極めていた。


「へそ曲がりも含めて、・ガレオン・のりはる、未だ衰えず――だな」

「リハビリさえ上手く行けば現役復帰は必ず叶う。私はその確信以外を持ち得ないわ」


 日用品である杖を武器に換えて振るう格闘術は、洋の東西を問わずに各国で発祥・発展しているが、今しがたガレオンが披露したものはじょうじゅつじょうどうの類いではない。

 を『打投極』の試行と正確に読み取れるのは、総合格闘技MMAに深く通じた者のみである。藤太と杖村が身震いと共に感嘆の溜め息を洩らしたのもというわけだ。

 実際の試合では動作うごきの小さな技に紛れさせるか、相手の意識をすり抜ける反撃カウンターの形で仕掛けるのであろうが、ガレオンが真っ先に狙ったのは左脇腹であった。アッパーカットに近い軌道で握り拳を腋下へと滑り込ませ、肋骨の上から肺を揺さぶって一時的な呼吸困難に陥らせようというわけだ。

 その腕を引き戻しながら、間髪を入れずに仕掛けるのは右の中段蹴りミドルキックである。体内を浸透する衝撃が腰にまで伝達つたうよう力点・作用点を緻密に計算していることは、足の付け根辺りに迫った一本杖の石突が証明していた。

 腰は自重を支える要である。背面へ直接的に打撃を加えることはMMAのルールでも厳禁とされているが、それ故にが耐えがた痛手ダメージを被ると試合の形勢が一気に傾くのだ。

 これだけでは不十分とばかりに、ガレオンは下肢の可動うごきを念入りに潰していく。相手の右膝に合わせた照準を寸分たりとも外さず蹴り足まで入れ替えながら、内と外の両側に二度三度と下段蹴りローキックを連ねていった。

 片側のみとはいえ膝に重い痛手ダメージを被り、腰を落とすことさえ困難になると、マットを踏み締めてもいられなくなる。緊急回避行動すら取れない状態で頭部に直線的な打撃ストレートパンチを被弾しようものなら、容易く崩れ落ちることであろう。

 キリサメの眉間に向けられていた一本杖の石突は、次に腰の両側を素早く指し、更には垂直落下の軌道を描いて見せた。これが表したのは投げ技の要点である。直線的な打撃ストレートパンチから体当たりタックルに転じ、正面切って組み付いた直後には全身を反り返らせ、相手を後方に投げ落とそうというわけだ。

 金属製のは未だにキリサメの首筋へと宛がわれたままである。頭部への強打で脳が揺さぶられ、状況判断に要する能力が著しく減退した相手は無防備に転がるしかなく、そこを一気に絞め落とさんという意味であった。

 つまり、ガレオンは歩行補助用の一本杖を振り回し、攻撃対象を速やかに制圧する〝総合格闘技術〟を順番に示した次第である。手品用のステッキではないので石突の形状を変化させることは叶わないが、この場にる者たちであれば、石突で指した部位を一瞥するだけでも仕掛ける技の種類を読み取れるものと見込んでいたわけだ。


「……安楽椅子探偵アームチェア・ディテクティブみたいなことをされるのですね」


 ノコギリで挽き切る真似であるのか、金属製のをキリサメの首に二度三度と擦り付けたのち、ガレオンは面白くなさそうに鼻を鳴らしながらを手元に戻した。

 その前後にキリサメが呟いた感嘆の言葉は、傍目には無軌道としか思えない魚の化石ディプロミスタスの杖が〝何〟を示したのか、藤太や杖村と同じように全て理解できたことを意味している。

 己の気持ちを言葉にせずにはいられない藤太とは違い、心の奥底を決して覗かせようとしないガレオンが何らかの強い念を込めて〝世界〟と吐き捨てた真意を探るべく、己自身でも似つかわしくないと感じる挑発的な言葉を選んだ次第であるが、返答の代わりに見せ付けられた桁外れの戦闘能力に身震いが抑えられなかった。

 具体的な解説もなく、攻めるべき部位を一本杖の石突で指し示すのみであったが、その通りに畳み掛けられたなら、防御も回避も間に合わずたちまち制圧されたことであろう。

 歴戦の格闘家であろうとも対応し切れるとは思えない。『打投極』という三本柱の内、関節技は今し方の攻防に含まれていなかったが、腰と膝の痛手ダメージが身体機能全体に与える影響を熟知していなければ、〝極〟の理論を応用した攻防は組み立てられないのである。

 己の行動アクションに対する相手の反応リアクションも無数に想定しているはずだ。正面から組み付く反り投げフロントスープレックスの前に仕掛けた直線的な攻撃ストレートパンチは、起死回生を図って突き込まれてくる反撃を返り討ちにすることが最大の目的ねらいであろうとキリサメは分析していた。

 この時点で下肢の可動うごきは著しく制限されているが、片膝だけは無事であり、下肢を動かすたびに脳まで駆け上がる激痛いたみさえ堪えれば前方まえには踏み出せる。退路を断たれた以上、自分のほうから攻め掛かって血路を開くしかないのだ――こうした逼迫感を煽り立てて不用意な反撃を引き出し、逆に眉間を抉ろうというわけである。

 頭部への一撃という物理的接触に加え、逆転を期した気概をし折られようものなら、間違いなく意識に空白が生じる。

 危険な状態と判断したレフェリーは制止を呼び掛けることであろうが、ガレオンは割り込む隙さえ与えずに相手を投げ落とし、絞め技に転じて仕留めるつもりであった。

 『打投極』という〝道〟を歩むこの総合格闘技者シューターは、鬼貫道明から「相手の腕を極技サブミッションで容赦なく折れる」と評されたヴァルチャーマスクの精神たましいを文字通りの〝直系〟として受け継いでいる。魚の化石ディプロミスタスの杖によって明かされたのは、〝総合格闘〟よりも遥かに深い領域のモノであったわけだ。

 脇腹を殴打して呼吸困難を引き起こす技は喧嘩殺法の中にも含まれているが、一撃をもって標的を動けなくすることを狙うものであり、これを経由して更に別の技へ派生させようとは今日まで考えもしなかった。

 軋まされた肺は時間さえ経てば徐々に落ち着いていく。だからこそ呼吸困難を起こして身動きが鈍くならざるを得ない間に、簡単には回復できない痛手ダメージを膝や腰に刻むという追い詰め方は、際どいながら理に適っているとキリサメも感じており、早くも脳内あたまのなかでは応用するすべを思案し始めていた。


(シュガーベーコンの怖さを強調していたけど、関節の潰し方は氏のほうがえげつないんじゃないか。試合だったら足だけじゃなく手も壊しに掛かる気配を感じるぞ……)


 故郷ペルー貧民街スラムで煮えたぎる〝闇〟への回帰にも通じる為、そのまま受けれることは難しいというを持ちながらも、こんにちまで喧嘩殺法を編み出してきたでは、ガレオンから示された〝ルールの抜け穴〟という視点は、相手を幻惑させる〝フェイント〟に新たな選択肢が増える手掛かりにもなり得るだろうと考えていた。

 それだけにガレオンの名前がこんにちの日本MMAにいて半ば封印されていることが甚だ不可解であり、納得しがたい気持ちがキリサメのなかで芽生え始めていた。

 自他に対する嘲りによって大半が占められた言葉の数々を整理し、彼自身の情報ことを掬い上げるのは極めて難しいが、掻き集めた一握を覗き込むだけでも尋常ならざる死線を幾つも潜り抜けてきたという確かな足跡あゆみが感じ取れるのだ。

 未稲やきょういし沙門は〝格闘技バブル〟崩壊後の日本MMAを託されながらもその復活を成し遂げられず、時代の狭間に埋もれて消えたという厳しい評価を紐解いていたが、もしも、『天叢雲アメノムラクモ』に参戦していたなら、『かいおう』――ゴーザフォス・シーグルズルソンが君臨し続ける玉座にはガレオンが腰を下ろしたであろうと思えてならない。

 尤も、〝世界〟の全てを恨みがましくめ付けるくらは高いタレント性が求められる花形選手スーパースターと相容れない為、一一号帆布のエンジニアコートといった人目を引く装いであろうとも、その称号はレオニダス・ドス・サントス・タファレルから動かなかったはずだ。


「……こんな芸当が出来たところで何の意味も成さないのが僕の見た〝世界〟だよ……」


 自重を満足に支えられないほど肉体からだを痛めている状態にも関わらず、轟々と魚の化石ディプロミスタスの杖を振り回した反動によって頸部から四肢の隅々まで軋んだガレオンは、堪り兼ねて小さくはない呻き声を洩らし、次いで悔しげに歯噛みした。

 『打投極』の直系とも呼ぶべき『シューター』とは、プロレスの用語ことばで真剣勝負を意味する『シュート』に由来している。その矜持もあり、身のうち激痛いたみに苦しむ姿は担当医にさえ晒したくなかったのであろう。

 当然ながら視界にる三人は慌てて駆け寄ろうとしたのだが、魚の化石ディプロミスタスの杖で弱々しく床を叩いて杖村と藤太を、俯き加減の状態から上目遣いでめ付けてキリサメを押し止めたガレオンは、もう一度、〝世界〟の二字を吐き捨てた。

 まるで血を吐くような重苦しい声であったが、その苦悶を生み出している根源みなもとは、骨身の上げる悲鳴とは別にる――正面のキリサメから逸らした目が言外に語っていた。


「どうやって相手を完封するか、創始者ヴァルチャーマスクから託された『打投極』の完成には〝何〟が足りないのか――それを思い付く頭脳アタマがあっても、肉体からだのほうが壊れちまったら、意味もクソもないんだよ。格闘家の値打ちは試合に出なけりゃ生まれない。何一つ始まらねぇんだ」


 頑なに拒絶しながらもキリサメは〝ルールの抜け穴〟という発想に戦術の幅を拡げる手掛かりを見出し、〝プロ〟の競技選手アスリートとしてじることのない形での応用を模索し始めている――二律背反とたとえるべき胸中を見透かした上で、ガレオンは魚の化石ディプロミスタスの杖で披露したなど無価値と嘲笑い、次いで全身を走る激痛いたみに震えつつ二度三度と咳込んだ。


「鳴り物入りでプロデビューしたクセに何時まで経っても芽が出ず、世間の白い眼から逃げ出して時代遅れの〝アメリカンドリーム〟にすがり付いた挙げ句、無様な負け犬にお似合いのオチがついた――大方、君が聞いた風聞はなしはこんなトコだろう? 笑いたきゃ思いっ切り笑い飛ばして欲しいね。そのほうが僕もスカッとするよ」

「……MMAが歩んできた歴史を学ぶ為には氏と会わなければならないと、進士氏から強く勧められて僕はここに立っています。ガレオンはMMAを誰よりも深く理解している――そう仰った進士氏の気持ちも今なら少しは理解わかるつもりです」

「無駄な気なんか遣っていないで、僕みたいに堕ちるところまで堕ちないようにアタマを働かせなよ。誰からも忘れ去られ、いつ引退したのか、いつ死んだのか、気に留める人間すらいねぇ。それが僕の――いや、の〝世界〟だ、キリサメ・アマカザリ」

「もしかして、その怪我は……」

「ご期待通りでなくて悪いけど、シュガーベーコンが八角形の試合場オクタゴンで頭角を現し始めた頃には日本へ逃げ帰っていたよ。現代表イズリアル・モニワ浴びせる恨み節も持ち合わせちゃいない」


 ガレオンを捉える自らの思考あたまが日本MMAという他者ひとから吹き込まれた限定的な視点に終始していたことを悟ったキリサメは、〝世界〟を知らなければを語る口など持ち得ないという単純な理屈にさえ思い至らなかった浅慮を心の底からじた。

 この総合格闘技者シューターが身を投じ、忌々しげに語った〝世界〟とは『NSB』だ。あるいはガレオン当人が自嘲したように託された使命の放棄と捉えて軽蔑の念を抱いているのか、未稲も沙門も言及しなかったのだが、ヴァルチャーマスクや進士藤太のように日本のリングからアメリカのオクタゴンへと闘いの場を移していたわけだ。

 ガレオンが渡海する前に所属していたのが『MMA日本協会』直轄の競技団体ということもキリサメは未稲たちから教わって把握している。当人ガレオンは国外逃亡の如く自らを卑下したが、同協会が主導したMMA団体は殆どが短期間で運営に行き詰まったのだから、活動の場を海外アメリカに求めるのは当然の選択肢であり、彼だけを問題視するのは筋違いであろう。

 名刺代わりにガレオンから渡されたアルミ片にも刻まれている通り、〝格闘技バブル〟崩壊の痛手から立ち上がるべく『MMA日本協会』が新たな競技団体を発足させ、ガレオンが初陣プロデビューを果たしたのは二〇〇八年である。

 折しも『リーマン・ショック』と、これに続く世界的金融危機の影響で出資企業スポンサー獲得が極めて難しい時期であった。指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟という一団体バイオスピリッツ――『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体である――の過ちが日本MMA全体にからぬ印象として波及したこともあり、資金難に陥っていない団体のほうが珍しいほどの〝暗黒時代〟となっていったのだ。

 『MMA日本協会』が発足に携わったる団体はシンガポールの〝スポーツファンド〟に援助を取り付けたものの、資金注入の直前になって一切が白紙撤回となり、経営破綻の末に同国の企業に買収され、現在は凍結状態にあるという。

 理事として同協会に名を連ねる杖村も、直轄団体を救えなかったばかりか、多くのMMA選手に苦労を強いてしまったことは悔やんでも悔やみ切れない様子で、ガレオンが〝世界〟の二字を口にするたびに唇を噛んでいた。その言葉はキリサメを突き放す為に発せられたものだが、聞こえよがしに『MMA日本協会』への怨念も込めていたのかも知れない。

 日本と〝世界〟、二つのMMAをガレオンは誰よりも深く知っている――数日前から鼓膜にこびり付いて一向に消えない藤太の熱弁がキリサメに重くし掛かった。


「……〝世界〟は広かったよ。果てしなく、忌々しく……」


 虚ろな呟きを受け止めつつ、キリサメが『NSB』の進士藤太フルメタルサムライに目配せでもって答え合わせを求めずにはいられなかったのは、運動療法リハビリに打ち込む理由――即ち、MMAの試合から長期に亘って離れざるを得ない原因をガレオンが自らの口で仄めかした為である。

 〝ルールの抜け穴〟から襲い掛かる関節への打撃で数々の選手を故障させたというバラクーダ・シュガーベーコンと闘い、全治数年という重傷を負ったのではないかとキリサメは推察していた。杖村もくだんの問題児によって膝の内部なかを惨たらしく破壊された者に言及しており、はガレオンのことを暗に指していると思っていたのだ。

 しかし、『NSB』に所属した日々を振り返るガレオン本人が零した「現代表イズリアル・モニワ浴びせる恨み節も持ち合わせちゃいない」という一言を手掛かりとして、口にするのも憚るほど恐ろしい事態に辿り着いたのである。

 些か遠回しな表現の意味するところは、前代表――フロスト・クラントンによって『NSB』全体が汚染されたドーピング問題である。

 尤も、ガレオンは禁止薬物という一線を超えた代償として肉体からだが壊れたのではない。人間の限界を突破する〝改造〟が施された〝化け物モンスター〟の前に引き据えられ、ルールで安全性が確保されるMMA興行イベントとは断じて認めがたい残虐なの餌食になってしまったのだ。

 前代表フロスト・クラントンは古代ローマの剣闘士グラディエーターが猛獣を相手に誉れ高き戦いを繰り広げた円形闘技場コロッセオを『NSB』で再現させたと誇らしげに語ったが、〝化け物モンスター〟へとする禁止薬物を与えたのは己と同じ白雪のような肌の色を持つ人間のみであり、〝それ以外の者たち〟は〝壊れても構わない玩具〟としかしていなかった。

 ドーピングの効果によって圧倒的な優位性が備わった〝超人〟に破壊され、再起不能にまで追い込まれたのは、如何なる試合でも前代表フロスト・クラントンとは異なる肌の色の者たちであった。そして、ガレオンはである。

 悪魔の所業に対して自覚的であったフロスト・クラントンは、或る選手アイシクル・ジョーダン過剰摂取オーバードーズを原因として急死した事件を受けてついに失脚し、アメリカ格闘技界から永久追放されたが、で復活を果たしたのは『NSB』というMMA団体のみであって、剣闘士グラディエーターに差し向けられる猛獣のように扱われた選手ひとびとが心身に刻まれた痛手ダメージは容易く癒えるはずもなかった。

 養父の好敵手ライバルであるミッキー・グッドウィンがこのときの負傷で現役引退を余儀なくされたことはキリサメも承知していた。血液ドーピングという過ちを犯し、一度は格闘技をてようと決意しながらも家族やファンの応援に背中を押されて再起した『不死鳥フェニックス』の女王――ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンの復活劇も記憶に留めている。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体が崩壊寸前まで追い詰められた最大の危機ではあるが、キリサメからするとMMA選手としてと未稲に誓った日より遥か以前の出来事であり、自分とは関わりのない遠い彼方から流れてくる風聞はなしのようにしか思えないのだ。

 不思議な巡り合わせから現代表イズリアル・モニワとも顔見知りになった。『NSB』が復活する過程への密着取材がジャーナリズム公益部門にいてピューリッツァー賞を獲得したことも現在いまは承知している。それでも同団体の〝暗黒時代〟は想像することさえ難しかった。

 ノートパソコンの画面越しではあるが、キリサメが目にした『NSB』は選手の心拍数や有効打の威力及び命中精度のリアルタイム測定といった最先端技術を結集し、MMAという格闘競技スポーツを新たな次元へ進化させていくSFサイエンスフィクションと見紛うようなMMA団体なのだ。

 物理的接触時に生じる衝撃を選手の肉体からだやマットに描画し、可視化する光の演出――プロジェクションマッピングは、聴覚が正常に働かない人へ最高の臨場感を届けるべく開発されたシステムであるという。

 今日までは現実に起きた事件という感覚すら希薄であった悲劇の爪痕が目の前にる。現在いまのキリサメはそのことに無感情ではいられないと、瞳に宿る強い光が物語っていた。

 眠たげにまぶたを半ばまで閉ざしながら、揺るぎない意志の力が双眸に溢れるキリサメをくらく睨み返したガレオンは、『NSB』の汚点に希望を潰された犠牲者に他ならないのだ。

 キリサメが脳内あたまのなかで捏ね返した憶測に過ぎないのだが、MMA興行イベントから〝化け物モンスター〟によるへと作り変えられた『NSB』で虐げられた過去を知っていればこそ、未稲も沙門も、ガレオンについて語る際にアメリカへ渡ったことを明かせなかったのかも知れない。


「エイモス・ファニングも君に熱視線を送っているんだろう。あれは快男児いいおとこだ。〝超人〟になれる好機チャンスを餌にされてもフロスト・クラントンに中指を立てたは大したモンだよ。そう褒めちぎっていたと日米合同大会コンデ・コマ・パスコアで顔を合わせたら伝えておいてくれ」

「団体挙げての大事業には、例え〝客寄せパンダ〟でも新入りの出る幕はありませんよ」

くにたちいちばんの漫画を現実リアルでやるくらい夢見がちな樋口郁郎が『スーパイ・サーキット』を放っておくとは思えないな。『天叢雲アメノムラクモサイド切り札ジョーカーとして参戦要請オファーが来るハズだよ」


 キリサメ当人からすれば薄気味悪く感じなくもないが、現世代の格闘家に関する情報は網羅しているという前言の通り、『NSB』にいてMMAとプロバスケを〝兼業〟するエイモス・ファニングが『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーに並々ならない感心を抱いていることも、ガレオンは当たり前のように掴んでいた。

 マイケル・ジョーダンのトロフィーを獲得するなど〝本業〟にいても全米の隅々まで名声が轟く花形選手スタープレイヤーが自分の頭越しにキリサメを見つめていることが気に入らないというよりも、いずれどこかで自分とに遭うと揶揄するような声色であった。

 日本格闘技界を実効支配してきた〝暴君〟――樋口郁郎のことを〝日本のフロスト・クラントン〟と批難する声は、海外メディアでも少なくない。


(これが僕に教えたかった〝世界〟だとするなら、甘やかしを一つも許さない進士氏らしいけど、……氏に対して配慮が足りないというか、余りに無神経というか……)


 〝世界〟を知る人間は、得てして陶酔に浸りながらその広さを朗々と謳うものだが、ガレオンの場合は、光が消えた瞳と形の崩れた刺青タトゥーによって声もなく物語っている。

 二〇〇七年に訪れた〝格闘技バブル〟の崩壊から『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げまでの間に横たわる歳月は、オリンピック・パラリンピックの開催間隔と同じである。日本にいてMMAという〝スポーツ文化〟が著しく衰退していた〝空白期間〟にプロデビューを果たした選手にとって、その四年は夢をも潰して砕いてしまうほど重かった。

 MMAに関わる誰もが反社会的勢力と癒着しているという誤解は短期間では晴らせないほど根深く、格闘技興行イベントの生中継が地上波三局を占めた大晦日の夜など幻であったかのようにテレビとの蜜月も終わった。

 これに加えて『MMA日本協会』主導による競技団体も振るわず、一念発起して海外雄飛を目指してみれば、〝世界〟の中心地であるはずの『NSB』はドーピングが生み出した〝化け物モンスター〟の巣窟と化しており、夢見た試合場オクタゴンとは掛け離れた地獄の最果てで悪魔フロスト・クラントンの食い物にされてしまった――MMA選手としての可能性を一つずつ壊されていくような日々であったことは想像にかたくない。


(……『おんの雑草魂』も――最末期の前身団体バイオスピリッツとうとした〝最年少選手〟も、氏に近い境遇の中でMMAそのものに絶望していったのかも知れないな……)


 ガレオンの不幸は、『NSB』唯一の日本人選手ではなかったことであろう。

 ヴァルチャーマスクや進士藤太、同団体に所属していた頃のほんあいぜんも、ガレオンと変わらない条件で白雪のような肌の色を持つ〝化け物モンスター〟を差し向けられながら、これをことごとく返り討ちにし、フロスト・クラントンという名の暗黒時代を戦い抜いたのだ。

 長期に亘るリハビリを余儀なくされたガレオンが〝世界〟を呪う中で、同じ日本人選手は誰もが健在である。『フルメタルサムライ』の異名が似つかわしい肉体からだくらで睨んだということは、心の奥底に〝何か〟が渦巻いているのは間違いあるまい。

 『打投極』の創始者であるヴァルチャーマスクに対してさえ、敬意の対極とも呼ぶべき感情を持て余していることであろう。現在いまはハゲワシとは異なるプロレスマスクを被って八角形の試合場オクタゴンに臨むその仏僧おとこは、くにたちいちばんによる荒唐無稽なプロレス漫画を現実の世界で再現できる正真正銘の〝超人〟なのだ。


現在いまも『NSB』との契約が継続しているのなら、氏の復帰戦が日米合同大会コンデ・コマ・パスコアになる可能性も低くはないのではありませんか?」

「……起きた状態で吐くのは寝言じゃなくて、正気を疑われる妄言だと知っているか?」

「もう一度、〝世界〟に挑むのですよね、氏は。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアまで一年半近くあります。十分に間に合うはずです」


 このリハビリ室へ足を踏み入れたとき、キリサメの目に真っ先に飛び込んできたのは、一心不乱に運動療法へ打ち込むガレオンの姿であった。八角形の試合場オクタゴンへ返り咲くという大志こころざしを抱いていなければ、そもそもに通わんとする気力さえ湧き起こるまい。

 そして、それこそがMMAに背を向け、リングを去った『おんの雑草魂』とガレオンの決定的な違いであろうと、キリサメは前者に関する断片的な情報から考えていた。自分も他人も等しく無価値と切り捨てるようなやさぐれた振る舞いに隠されてしまって分かりにくいが、格闘技を愛する心は今もてていないと感じられたのである。

 四段式の歩行訓練用階段へ向かうガレオンの横顔には、世界最強を夢見る親友――空閑電知にも通じる気概モノを見出していた。


「リングに上がる階段ステップへ足が届かないなんてことはありませんよね。先ほど見学させていただいたリハビリでも、氏の足は復帰への道程を力強く踏み締めているようにしか思えませんでしたよ。笑いたければ思い切り笑い飛ばせと仰いますけど、格闘技と真摯に向き合う人を僕は笑いません。笑えるはずがない」

「……君には僕がどんな風に見えているんだ……?」

「先日、車椅子ボクシングのジムに出掛けたのも、日本ではまだ始まったばかりの格闘技から新しい技術を学んで、復帰への手掛かりにする為ではありませんか? 氏のお陰で闘い方の応用が拡がりそうな今日の僕のように」


 己を嘲るつもりで発した言葉を正反対の形へと変えられたガレオンは、鼻を鳴らしてキリサメにやり返すことも、一房に束ねた前髪を吹き上げることも忘れて口を開け広げ、その手から魚の化石ディプロミスタスの杖まで取り落としてしまった。

 すぐさま拾い上げた杖村から手元に差し出されようとも、ガレオンはを受け取ることさえ忘れてキリサメを瞳の中央に捉え続けた。最初の内は不思議そうに目を丸くしていたが、間もなく己の言行が情けなくてならないような表情かおに変わり、ついには窓の外へと視線を投げ出してしまった。

 もはや、ガレオンには真っ直ぐな瞳を受け止められなかった。キリサメが車椅子ボクシングの見学に触れた瞬間には、病的なほど血色の悪い唇まで震わせたのである。


「……進士さんはどうして僕とアマカザリ選手を引き合わせようと思ったのですか? ここまで悪質な厭味をかつて味わったおぼえがありませんが……」


 これ以上の会話を拒絶するかのように渦潮の刺青タトゥーが彫り込まれた左頬をキリサメに向けたガレオンは、その彼からたずねられたことに対する返答ではなく、窓に映る藤太への文句を吐き捨てたところで、ようやく自分の手から一本杖が滑り落ちたことに気付いた。


「元々はキリーからお前に会いたいとせがまれたのだがな――」

「勝手気ままに記憶を修正するのは、出土品を捏造する考古学者と大差ないって死んだ母も言っていましたよ。僕が氏に興味を持ったという勘違いから始まって、どんどん話が大きくなっているじゃないですか……」


 ガレオンの正面を藤太に譲りつつ、キリサメは心の底から呆れ返った溜め息を聞こえよがしに吐き捨てた。肺を膨らませるより前から精一杯の厭味が通じないと理解わかっていた彼には、杖村に憐憫の眼差しを向けられたのが唯一の救いであった。

 藤太の性格上、悪意をもって実態から捻じ曲げるつもりではないとキリサメも理解している。師匠の岳に勝るとも劣らない思い込みの激しさによって、本来であれば取るに足らない会話が大幅に誇張されてしまうわけだ。つまり、悪戯いたずらよりも始末に負えないのである。


人間ひと何歳いくつになっても夢を続けるべきだ。それが真に生きるということ。だが、夢を叶える為の時間は一秒たりとも待ってくれないどころか、容赦なく突き放してくる。逆戻りを決して許さない時間は、善人にも悪人にも等しく残酷な牙を剥く」

「タイムマシンのある時代に生まれていれば良かったんですがね。、僕は車椅子ボクシングに――進士さんなら、皆まで言わずとも判るでしょう?」

「勘違いしてくれるなよ、ガレオン。一回り近く年下の選手から大いに刺激を受けて、いい加減にその不貞腐れた根性を叩き直せと言っているのだ。自分自身をキリーの踏み台などとは思うなよ。甘ったれるな。お前は踏まれるんじゃない。ケツを蹴っ飛ばされるのだ」

「自分の値打ちくらい自分でソロバンを弾きますけど、話の流れを無視して急に踏み台呼ばわりされるのは、さすがに面白くないですね。どうせ順を追って話すべき内容コトを幾つか飛ばしたんでしょう? 甘えもクソも、進士さんのほうが僕を舐め過ぎなんだよ……」

「もっと咬み付いてこいッ! お前のなかの炎で天をけッ! キリーと共に魂の根っこから鍛え直すことで、その火柱は宇宙をブチ破るほど強くなるッ! それでこそキリーのトレーナーに相応しいおとこだッ!」


 決まりの悪そうな顔で一礼しつつ杖村から受け取った一本杖をガレオンが再び取り落としてしまったのは当然であろう。じかに手渡すのを諦めた彼女が魚の化石ディプロミスタスの把手を椅子の背凭れに引っ掛けている間も、自分がやさぐれた態度を取ってきたことさえ忘れてしまったかのように目を剥いて固まり続けていた。

 リハビリ室こそ提供したものの、藤太とガレオンの間で事前に交わされたやり取りも、『八雲道場』の内情も詳しく知っているわけではない杖村は、前者の口から唐突に飛び出した〝トレーナー〟という一言に首を傾げ、怪訝な表情で後者の様子を窺ったが、視線を巡らせた先に自分と同じ顔を見つけると、発言そのものが平素いつもと同じ傍迷惑な世話焼きの暴走であろうと察しての二人に思わず合掌してしまった。

 与り知らないところで勝手ににされていた――このように表すのが正しかろう。キリサメは言うに及ばず、藤太から適任と褒め称えられたガレオンにとってもトレーナーの話は降って湧いたようなものである。


「今の話の流れからすると、アマカザリ選手にはこれまでちゃんとしたトレーナーが付いていなかったってコトになるのだけど、そうなの? ……医師スポーツドクターとしても『MMA日本協会』としても見過ごせない本物ガチの大問題じゃないの。確か『八雲道場』のマネジメント担当者って麦泉さんよね? 『天叢雲アメノムラクモ』の良心みたいな人が何をやっているのよ……」


 杖村が口にした疑問に答えられないほど思考回路が焦げ付いた二人は、呆けた顔を見合わせるばかりであった。ガレオンなどはキリサメの側が試みる接触すら拒もうとしていたはずだが、それすらも思考あたまから弾き出されるような驚愕に打ちのめされているわけだ。


「八雲岳の代理として、正式にキリーのトレーナー就任を申し込ませてもらう。……師匠から預かった言葉を伝えるときが来たようだ。俺からの言葉でもあると思って聞いてくれ。・ガレオン・のりはるまでも燻っていないで帰って来――」

「進士氏こそまでもバカやっていないで正気に返ってください」


 改めてガレオンに向き直り、トレーナーの役目を依頼しようとする藤太の右膝裏を不意打ちで踏み付け、姿勢を大きく崩した上で、その野太い首に背後から自分の右腕を巻き付けたのは、憤激によって頬が引きり続けるキリサメだ。

 右腕の内側に藤太の首を抱え込み、左の五指でもって右の手首を掴むことで絞め付けを固定して頸動脈を塞ぐつもりであった。

 今まさに首を抱えようとする寸前で素早く防御の右下腕を割り込まれ、血管も気道も完全には圧迫できなくなってしまったが、仕損じたにも構わず一向に絞め技を解こうとしないのは、それだけ藤太への憤怒いかりが深いという証左である。

 思い込みの激しさから常軌を逸した言行の多い『八雲道場』の師弟とは、元より会話はなしが噛み合わないことが多かったのだが、今し方の放言はそれ以前の問題であろう。


「キリー用の練習計画書も読ませてもらったが、所々に詰めの甘さや机上の空論があるにせよ、ひろたかが優れた軍師なのは間違いない。このまま経験を積んでいけば世界の大舞台でも通用するコーチになれる――が、付きっ切りでキリーの面倒を見るよう小学生に求めるのは現実的ではない。何より許されざる虐待だ。かと言って、師匠も自分の練習トレーニングや仕事があるし、何より養子のお前を甘やかし兼ねん。俺は来週には帰国せねばならんしな」

練習相手スパーリングパートナーは電知が居ます。寅之助にも可能な範囲で練習トレーニングを手伝ってもらっていますし」

「その二人も自分の仕事や学校があるからキリーと過ごせる時間は限られる。道場をMMAの練習トレーニングに引き込むわけにもいかん。そもそも練習方針を立てる軍師と、それを最適化して選手に指導するトレーナーは全くの別物だ。当然、練習相手スパーリングパートナーもな。その役割は髪の上の知識だけでは務まらんよ。コーチからの提案を豊富な経験に基づいて具体化する大仕事にこのガレオンは打ってつけ――それはキリーも疑わんだろう?」

氏には感服の一言しかありませんが、そこまで評価しておいでなら依頼オファーする前に話し合っておくべきでは? 僕と一緒に唖然としているのは、どう考えてもおかしい」

「話し合ったとも。ガレオンとの約束を取り付けた夜に、先程の内容ことを師匠と胸倉を掴み合いながらじっくりとな。今まさにこの男が自ら証明した通り、キリーにはガレオンが、ガレオンにはキリーが欠かせん。師匠と俺の想いが煌めく結晶となったようで、実は武者震いが抑えられんくらいモーレツに感動しているぞ……ッ!」

「岳氏と夜通し騒いでいたのはですか。気付けば止められたのに迂闊……」


 防御の為に差し込まれた右腕ごと首を絞め付ける力を強めていくキリサメであったが、これに対して藤太は悲鳴を上げるのでもなく自分に掛けられた技の完成度を褒め、また一つ大きな溜め息を真後ろから引き出した。

 ここまで話が噛み合わないのだから、話し合いの有無を問い詰めてくるキリサメに見当違いな回答を述べるのも当然と言えよう。


が呆れ果てたのは、仮にも〝プロ〟でありながらトレーナーを一日限りのアルバイトみたいに扱う進士の浅はかさに対してでしょう。改善点を横から口出しするだけじゃなくて、練習計画の進捗や心身両面の状態コンディションとかも管理する要職キーパーソンなのよ。は勿論、アマカザリ選手も交えてお互いに信頼し合っていけるのか、誰もが納得できるように話し合わなきゃトレーナーなんて怖くて決められないわよ」


 当然ながら杖村はキリサメの味方である。数え切れない格闘家たちの心身と向き合い続けてきた医師スポーツドクターとして今し方の藤太の放言は看過できないのだ。

 『八雲道場』全体に対しても、『MMA日本協会』の理事という立場からで注意を与えるつもりであるのかも知れない。〝軍師〟という奇抜な役割ではあるものの、キリサメ・アマカザリというMMA選手を支援サポートするチームに小学生が参加している事実を藤太が口を滑らせた瞬間から杖村は明らかに眉根を寄せているのだ。

 小学生の就労に抵触し兼ねないことは『八雲道場』のマネジメントを担当している麦泉も以前から危惧してきたのだが、を『MMA日本協会』とりわけ館山弁護士に問題視され、業務の是正勧告を受けたなら楽天家の岳でさえ深刻に受け止めざるを得まい。

 同協会と『天叢雲アメノムラクモ』の政治的駆け引きにも軽微と言いがたい影響を与えてしまうことは、何事か考え込んでいる様子の杖村を見れば瞭然であろう。

 誰もが反射的に振り向いてしまうほど大きな音をガレオンの椅子が立てたのは、結局は『MMA日本協会』に悪印象を植え付けるだけで終わったと考えたキリサメが「出来もしないを意識したのが誤りだった」と後悔した瞬間である。

 驚愕によって凍り付いていた思考能力が再び動き始めた途端、ガレオンの脳はドブ川としか表しようのない激情に塗り潰され、腰掛けていた椅子を蹴倒して立ち上がったのだ。

 それも一瞬のことに過ぎず、三人の双眸が変調を捉えた直後にはガレオンの足腰は自重を支え切れなくなり、余人に晒すことが屈辱というくらい無様に尻餅をいてしまった。

 噛み殺そうとして叶わなかった苦悶の呻き声からも明らかだが、両手を床に突いていないと上体を起こしていられず、ひっくり返ってしまうのだろう。崩れ落ちた拍子にヘアピンの一つが外れ、額の中央で二つに分けて持ち上げていた前髪が顔の左半分を覆った。


「……僕に得体の知れない小僧ガキの風下に立てというのか……ッ⁉」


 慌てて駆け寄らんとする三人を濁り切った右目の一睨みで押し止めると、藤太や杖村に窘められるほど自分を卑下し続けてきた人間とは思えない言葉を喉の奥から絞り出した。

 先程も自分の値打ちは自分自身で割り出すと言い捨てたガレオンであるが、心の奥底ではキリサメこそくだしていたのだろうか――眼球を忙しなく動かし、己をろす三人を幾度もめ付けながら発せられたは、矛盾と欺瞞をい交ぜにしたくらい言葉である。

 不意打ちの如く面罵されることになったキリサメは背筋を駆け抜ける冷たい戦慄に全身が震えそうになったが、それでもガレオンから顔を逸らさなかった。自虐という名の仮面を外して剥き出しとなった憎悪の念を揺るぎない意志が宿った瞳で迎え撃った。

 『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーの〝立場〟は、傍目には統括本部長の養子むすこという利点に甘えているようにしか見えない。あまつさえ〝暴君〟の庇護まで受けている。MMA選手としての希望をことごとく潰されてきたガレオンからすれば忌々しいのは当然であろう。

 それを自覚していればこそ、キリサメは息も止まりそうな憎悪から逃げないことが日本MMAの〝空白期間〟を背負う〝先輩〟への誠意だと考えたわけだが、ガレオンのには自分を小馬鹿にする態度として映ったようだ。

 右頬は憤怒いかりで引きっている。制御の限界に達するくらい負の想念が膨らんだのは間違いないが、を一回りも年下のキリサメに浴びせれば、ますます自分が惨めになることも理解わかっており、唇を震わせながら窓の外へと再び視線を投げ出した。


「キリサメ・アマカザリという新しき風を帆に受けて、今こそ再び七つの海に船出しろと誰もがお前に願っているのだ! ・ガレオン・のりはるの名を輝かしい栄光と共に格闘技史へ刻まんとちゅうちょなく豪語できるおとこがたった一度の嵐で終わるものかッ!」


 キリサメの絞め技から解放された藤太はガレオンの真正面で片膝を突くと、くされた様子で窓のほうに向いていた顎を右の五指で掴み、有無を言わせず視線を交えさせた。

 荒療治とはいえ、余りにもガレオンの意思を無視する藤太の振る舞いに杖村は眉をひそめたが、同じ気持ちで彼の運動療法を支援たすけているのも間違いなく、担当医失格と自らを批難しながら発するべき注意を喉の奥へと押し戻した。

 椅子と共に放り出されたエンジニアコートから零れ、床の上を滑った携帯電話スマホが延々と振動し続けていた。先ほど手配したタクシーが病院の駐車場に到着した合図である。



 もう一押しだった。惜しかった――己がガレオンに試みた説得を振り返り、確実な成果を噛み締めるかのように握り拳を作った進士藤太に対して、キリサメは依然として黒いプロレスパンツ一丁のみという尻を狙い撃つ後ろ回し蹴りソバットを返答に代えた。

 結局、トレーナー就任の要請に対する返事はなかった。病院の駐車場に立ち尽くして去りゆくタクシーを見送るしかない状況にも関わらず、縦にも横にも首を振らなかったガレオンの様子を藤太は自分の都合よく解釈し過ぎている。保留の旨も明言されなかったが、キリサメの耳には遠ざかるエンジン音が拒絶の表明にしか聞こえなかった。

 最晩年に寄り添った師匠――くにたちいちばん幻想ゆめに取り憑かれ、彼が手掛けたスポ根漫画を現実のリングで再現するような樋口郁郎に対して義憤を燃えたぎらせる藤太であるが、ドーピングに汚染されていた時代の『NSB』に選手生命を絶たれなかったという一種の〝成功体験〟をガレオンへ一方的に押し付けていたのだ。

 これでは樋口郁郎と何も変わらず、同じ拒否反応しかガレオンから引き出せまい。


「見ての通り、〝クセが強い〟って一言では片付けられないくらいとっつきにくいヤツだけど、……正直ぶっちゃけ、どう? がトレーナーになって上手く付き合っていけそう?」


 衝撃が尾てい骨を貫いたのであろう。「ヴァルチャーマスクも感動する切れ味!」という間の抜けた称賛ことばを引き摺りながら転げ回る藤太に肩を竦めたのち、杖村はガレオンをチームの一員として迎えた場合に連携できるのかとキリサメにたずねた。

 要請が黙殺されたことは彼女も己の双眸で見ていたはずだが、その口振りはトレーナー就任を前提としたものであり、気持ちは藤太以上に先走っている。


「さっきは基礎を軽んじるようなことを言っていたけど、あれはへそ曲がりの減らず口だから真に受けなくても構わないわよ。格闘家を骨太に支えるのが基礎訓練だと人一倍身に染みているのだだもの」

「日本で初めて『打投極』の理論を取りまとめた完成者の〝直系〟に――氏に学ぶことは数え切れないと思います。今日の僅かな時間で教わったことからも、基礎を知り尽くしているのだと理解わかりました。……『得体が知れない』と遠慮なく全否定してくれる人も現在いまの僕には必要です。簡単に胸襟を開いてもらえるとは思いませんが……」


 自分が言わんとしていたことを先んじて読み抜き、侮辱的な言葉を散々に浴びせられたというのに色眼鏡を掛けることもなくガレオンの力量を冷静に見極めたキリサメに目を細めながら、杖村は駐車場ここからタクシーが走り去る前後を想い出していた。

 一度は大きく体勢を崩したガレオンであるが、立ち上がろうとするときにさえ誰の手も借りなかった。玄関へ向かう間にも魚の化石ディプロミスタスの杖を頼りにしながらも己の足だけで歩き、身体からだを折り曲げるたびに四肢を走る激痛に耐えながらでロングブーツを履いた。

 その背中をもってして、誰のかざしもにも立たないと示したガレオンの矜持と意地をもキリサメは汲み取ったのだ。


「岳氏と同じくらい押し付けがましいから、その点は氏に同情しますが、友人の復帰を全身全霊で応援したいという進士氏の気持ちも僕なりに理解しているつもりです。即物的で品のない言い方をすれば一石二鳥。選手と向き合う時間の長いトレーナーは試合たたかいの感覚を取り戻すのに打ってつけでしょう。僕にもきっと手伝えることがあるはずです」


 口に出して認めずともガレオンがMMAへの思いを残し、復活を渇望していると己の双眸で見極めたからこそ、藤太はキリサメのトレーナーへ就任するように打診したのであろう。『シューター』としてつ意志が本当に折れてしまったと感じたときには要請自体を引っ込めることも、岳と取り決めていたはずである。

 模擬戦スパーリングとキリサメの喧嘩殺法に対する高度な分析や、魚の化石ディプロミスタスの杖を用いた〝総合格闘〟の再現など、MMA選手としての戦闘能力がガレオンのなかで少しも衰えていないことを確認できたのは、藤太にとって僥倖さいわいの一言であろう。

 岳を通じて篤志の精神こころを伝えたヴァルチャーマスクも苦笑してしまう世話の焼き方はときに辟易うんざりとさせられるが、進士藤太フルメタルサムライ友人ガレオンの健在を純粋かつ猛烈に喜べる快男児なのだ。


「今日は無視されて終わりましたし、実現には『さんの礼』の覚悟も必要でしょうが、氏にも進士氏の気持ちが伝わっていないことはないと思います。……ですから、余計に口惜しい。僕にも事前に相談してくだされば一緒に説得できたのに」

「もう一押しっていう進士の言葉を借りるわね。のヤツ、〝ルールの抜け穴〟をやたらと連呼していたでしょう? アレはアマカザリ選手の地力と地頭を高く買っている証拠よ。道祖土アイツからあなたに大きなが出ているコトだし、土俵際目前ってカンジね」


 相撲の〝ツッパリ〟を真似して見せる杖村に、キリサメが意味不明とばかりに絶句してしまったのは当たり前であろう。模擬戦スパーリングで試みたことを何から何まで否定され、ただ一度の誉め言葉でさえ口にした直後に皮肉で打ち消されてしまったのだが、突き放すような態度とは裏腹にガレオンの側は扱き下ろした相手を評価していたというのである。


「ビュビュンと杖をブン回したのもアマカザリ選手の頭脳あたまなら何をやっているのか、必ず読み解けると確信したからよ。試したかったのを〝次〟に回したんじゃないかしら」


 古い友人である杖村の目にも十分に見込みがあると映ったからこそ、トレーナー就任後の連携ことに気を回したわけであるが、当のキリサメは皺を寄せた眉間に半信半疑の四字を貼り付けながら、唖然呆然と立ち尽くすばかりであった。


「俺も杖村の言葉を借りるとしよう。へそ曲がりの減らず口も、付き合っていく内にあれほど素直なヤツはおらんと理解わかる。のキリーとはすぐに波長が合うハズだ」


 生まれたばかりの小鹿のように足腰を小刻みに震わせながら四つん這いになる藤太を静かに一瞥したのち、杖村は空を仰ぎ、物思いに耽るようにまぶたを閉ざした。

 七月三日の東京は生憎と曇天であったが、数秒を挟んで双眸を見開いたとき、杖村は今日一番といっても過言ではないほど晴れやかな表情かおに変わっていた。


「故障がないように選手をリングに送り出すのもトレーナーの仕事でしょう? その延長で話を持ち出すってワケじゃないのだけど、私も若い頃に怪我で苦い想い出があるのよ。肉体からだいじめ抜くような無茶な練習トレーニングで腰を壊しちゃってね。格闘家として一番充実していた時期を長い長いリハビリで棒に振って、そのままプロデビューの好機チャンスを逃したってワケ」

「今は大丈夫なのですか? それほどの負傷では後遺症も案じられますが……」

「一生の付き合いになった腰痛以外はノープロブレム。……誰もがよしさだには――日本初の女子MMA選手みたいにはなれないって〝現実〟には凹まされたけどね。やっぱり古傷がねぇ……。プロ団体に出場依頼オファーも貰ったけど、他の選手に〝予防医学〟を推奨しながら『医者の不養生』なんてやらかしたら、私の声は誰にも届かなくなるもの」


 リハビリ室では物憂げな気配を纏うことも少なくなかった杖村であるが、これを吹き飛ばす結論に達した様子であり、一片の影も差し込まないでキリサメを見据え、彼からすれば意外としか表しようのないことを語り始めた。

 先程も〝プロ〟選手としての経験を持たないことを仄めかしていたが、杖村朱美というこの医師スポーツドクターは大きな怪我を原因として夢を断念せざるを得なかった自分自身の経験を握り締めて『格闘技医学』の普及に力を尽くし、己と同じ挫折を他の競技選手アスリートにも味わわせないよう『MMA日本協会』に名を連ねて活動してきたのである。

 そして、その思いは『ぐらどう』の屋号を称し、ガレオンを始めとする格闘家・武術家の治療に全身全霊で向き合い続けてきた理由にも通じるのだった。


「アマカザリ選手に私と同じ無茶で一生の後悔をさせたくない。その為にも伝えておかなければならないことがあるわ。例え、裏切り者の汚名を着ようとも――」


 仰々しく感じるほど強い言葉に接したキリサメは、『MMA日本協会』直々の指導あるいは警告を杖村の口から言い渡されるのではないかと思わず身構えてしまった。

 果たして、その想像は正解である。




 のちに取りまとめられた格闘技史にいて、二〇一四年七月三日には『らんちょう』という見出しが付けられている。

 キリサメ・アマカザリと・ガレオン・のりはるの宿命的な出逢いは、全世界をしんかんさせる大動乱――『りょうていかいせん』を更なる混沌へと衝き動かすことになるのだが、『MMA日本協会』の理事が告げた言葉もまた『八雲道場』を揺るがす波乱の前触れであった。

 明けて七月四日――大嵐が天をいて逆巻き、日本格闘技界は史上最大の叛乱劇クーデターへと濁流の如く突き進んでいく。


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