スーパイ・サーキット
その7:乱兆~無冠の王・総合格闘技に未来を奪われし者/反スポーツ的行為・「全国放送の試合で肘打ちを見せれば、相手のファウルは止まる」と背番号6番は助言された――死神(スーパイ)VS世界最高の総合格闘家
その7:乱兆~無冠の王・総合格闘技に未来を奪われし者/反スポーツ的行為・「全国放送の試合で肘打ちを見せれば、相手のファウルは止まる」と背番号6番は助言された――死神(スーパイ)VS世界最高の総合格闘家
七、Auerbach told Russel to throw an elbow do it one time
二〇一四年六月二九日に日付が変わろうとする頃――その日は深夜にも関わらず、日本中の多くの家庭で特別編成のスポーツ番組がテレビから垂れ流されていた。
予選大会の名場面を中心に編集しており、約一時間半後――日本時間で二時前後――に決勝トーナメント第一回戦が始まるサッカー
同大会の放送は東京キー局と公共放送による持ち回りである。日本でMMA
試合開始時刻を待つ視聴者の昂揚を更に引き上げる為、
キリサメもテレビが設置されたリビングルームのソファに腰掛けているのだが、賑やかな画面には一瞥もくれず、弱々しく肩を落としながら疲れ果てた顔で項垂れていた。
「キリくん、本当にお疲れ様……」
「……きっと僕よりみーちゃんのほうが疲れたんじゃないかな……」
キリサメの右隣に腰掛けているのは、言わずもがな未稲である。
鼻を滑り落ちていく丸メガネと合わせるように、小さく開いた口から溜め息と共に吐き出されたのは労いの言葉であった。キリサメのほうも辟易という二字を貼り付けたような顔の未稲を労わったが、その声は何時にも増して
テレビの騒々しさは口数よりも溜め息のほうが多い二人とは正反対だ。彼の海外出張中は日本の気温が低下するという
それにも関わらず、キリサメと未稲の耳はテレビの音声が殆ど聞き取り
「――キリー相手ならまだしもオレにまで過保護にならなくたって良いぜェ? ベロベロに酔っ払っちゃったのは否定しね~けど、
「酒臭い人と〝極めっこ〟をやれるとお思いか⁉ 頑丈だから何でも平気という自己診断こそ
日付も変わった深夜という状況を全く考慮しない近所迷惑な二つの喚き声は、上階から聞こえてくる。夕食の席で正体をなくすまで吞み、酔っ払った勢いに任せて部屋まで押し掛けてきた岳のことを愛弟子の進士藤太が叱っている最中であった。
『NSB』で〝
その間、キリサメの部屋で一緒に寝起きするのだが、二人の了解も得ず無遠慮に踏み込んできた岳は、藤太の為に敷かれた布団の上で幼児のように転がり始め、とうとう我慢の限界に達した愛弟子から正座を命じられたのだった。
暫くは自室に戻れないのだから、ノートを持って階段を降りるべきであったとキリサメが後悔したのは、先にリビングルームに入っていた未稲が何やら専門性の高そうな本を何冊もテーブルの上に広げているのを目にした
尤も、上階の二人は未稲に階段の下から注意されても声量を抑える気配がなく、
「藤太こそ少しアルコール入れて
「酔った状態でのデタラメが持て
「何だか良く分かんね~けど、師弟二人三脚で日本の夜明けだ、オラァッ!」
改めて
「……進士氏から録画した
キリサメが見るともなしにテレビ画面へ目を向けると、各国代表選手によるゴールの瞬間が次々と映し出されていた。〝世界最大〟の面目躍如と言うべきか、『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが入った
日本代表も『ハルトマン・プロダクツ』とサプライヤー契約を結んでいる。
運命の巡り合わせと言うべきか、先週の試合で日本チームと対戦したギリシャの代表選手は、『NSB』のメインスポンサーでもある『ペースメイク・ブリッジ』のロゴマークを
退場者二名という危機的状況でボールを追い掛けるギリシャ代表選手を瞳の中央に捉えた瞬間、丸メガネが吹き飛ばす勢いで慌てふためく未稲の姿がキリサメの脳裏を掠めた。
言わずもがな、隣に座る
口を滑らせてしまったことを後悔して頬を掻くキリサメに対し、未稲が何とも
それは一字一句に至るまで方便である。
『
仕事と家庭の両立には致命的に不向きな
ショープロレスと
同じ都内で暮らしながらも八雲家と住まいを別にしている
その
「……キリくん、
分かりやすく声を落とした未稲の問い掛けに対して、キリサメは自分の眉を指し示すという
やや長い前髪に覆われたキリサメの眉は特徴に欠けるものの、
「みーちゃんや岳氏がいないところで話すのは
「キリくんのお陰で助かったよ。『助かった』って言い方は語弊があるけど、正直、ヒロくん関係のアレコレは、私やお父さんの口から藤太さんに話しづらいっていうか……」
進士藤太という存在そのものが八雲・表木両家の間で
「二人がお揃いの
「奇跡というのは偶然と偶然の掛け合わせだよね。みーちゃんが思っているよりも、僕はずっとみーちゃんのことを考えているよ。だから、これはきっと僕たちの必然だよ」
藤太への対抗心もあり、本人こそが誰よりも似つかわしくないと
その未稲が述べた〝救援信号〟とは、事前の連絡もないまま『八雲道場』へ〝里帰り〟してきた藤太が
同じ眉を持つ二人の関係も含めて、目配せのみで危機的状況を共有できたからこそ、互いの声すら聞こえない別々の場所まで引き離す
「結局、『
「今日の今日って言う急なお願いだから、迷惑掛けちゃったかもだけど、車椅子ボクシングに挑戦してるジムへ見学に行ってきたよ。ヒロくん、モッチー
「……ひょっとして、最初からバレていた……?」
奥歯に物が挟まったような言い方を受けて
キリサメ・アマカザリというMMA選手を支えんとするチームへ七歳にして加わるほど
「進士藤太の目に入らないようインラインスケートを隠すにしても、トイレ以外に場所は幾らでもありますよね――って、七歳相手に半ベソになるくらいお説教されちゃったよ」
「……終わってみれば、僕たち二人の空回りだったのか……」
思わず身を強張らせたキリサメに待ち受けていた真相は、ソファに腰掛けたままで膝から崩れ落ちる感覚を味わうほど単純であった。
『八雲道場』の玄関は軒先に防犯カメラが設置されており、レンズで捉えた映像はリビングルームのモニターで常時確認できる。庭先の岳から大声で呼び付けられ、近所迷惑を止めさせる為に
程なくしてリビングルームに戻ってきた未稲から車椅子ボクシングの見学に誘われたのである。半ば無理強いの如く外出を促す意図は、改めて問い
今も愛弟子と呼んで憚らない藤太の腕を掴み、『八雲道場』に引き摺り込んだという事実だけでも、岳の後頭部をガラスの灰皿で叩き割らなければ鎮まらないくらい表木嶺子の神経は逆撫でされるだろう。殺人犯の息子になりたくない
「……進士氏も何度か会わせてもらったようなことを話していたけど、そこまで明け透けに話せるということは、ヒロくんは実の父親が誰かを……」
「ほんのちょっと前まで幼稚園バスに乗ってた子が昼ドラ顔負けの家庭事情を理屈で割り切っちゃうのは、お姉ちゃん的に将来有望とは言いにくいんだよねぇ……」
極めて繊細な問い掛けに対して未稲が首肯を
横から未稲に抱き締められたのは、一等深く項垂れた直後である。
「……珍しいね。みーちゃんのほうから……」
頭部にも手が添えられ、上半身の隅々まで愛しい
いつもはキリサメのほうから唇を重ねることが多い。これより前に未稲が自ら抱き着いたのは
〝人間らしさ〟を与えてくれた未稲を
デビュー戦を迎える前とはいえ、〝プロ〟の身でありながら
自他の命を
この少女と出逢わなければ、己の身に流れるものと同じ〝血〟を吸い尽くした『
夜食の代わりに摘まんでいたココナッツカレー味のポテトチップスの匂いが入り混じる
「わ、私なんかじゃ役者不足かもだけどね。その……ストレス軽減にはこういうコトも効き目があるんだって。だ、だからね、私っ、私なりにね、が、頑張りたいなってっ!」
キリサメの頭を自分の胸に掻き抱いたまま、未稲は小刻みに深呼吸を挟みながら余裕の欠片もない声で一つの決意を明かしていく。
「……あの『スーパイ・サーキット』から――キリくんが何とかしたいって思ってる〝課題〟から少しでも負担を減らせないかって私なりに調べてみたの。専門的には
そこまで未稲の話を聞いて、キリサメの双眸と脳はテーブルに広げてある幾つもの書籍を初めて認識した。
一般家庭で参考にされる種類の医学書であるが、いずれも心理療法やリハビリ、各種セラピーなど傷付いた心に寄り添う手掛かりが記された物ばかりであった。その内の数冊は書名に
キリサメの目が机上に向かっていることを見て取ったのか、未稲は自分たちの状態について「ハグすると
その間に心臓の鼓動が更に加速したように聴こえたが、キリサメの錯覚ではあるまい。
「
「博識な
「私も無茶振り過ぎるだろって自分にツッコんだよ? なのにヒロくんってば今日の時点でも私より全然詳しいんだもん。分からないコトは一緒に調べるって約束してくれたし」
未稲が続けたのはキリサメ不在の『八雲道場』に
キリサメの練習計画も理詰めで組み立てた小さな軍師のことである。『スーパイ・サーキット』が『逃走・闘争反応』――即ち、一種の〝ストレス反応〟と把握した直後には、独自に研究を始めていたのかも知れない。
〝心の専門医〟としてキリサメに向き合う
「これも
「じ、自分で調べて自分で考えたことだよっ。こ、こ~ゆ~コトを相談なんかしたら、姉弟の縁を切られるレベルでドン引き
「みーちゃんが自分で……。僕の〝課題〟に付き合わせてしまって申し訳ないけど、それ以上に嬉しく感じるのは変……かな?」
「だ、だめだめだめだめっ! そ~ゆ~コトを相手に言わせるのはレッドカードっ!」
奇しくもサッカー
気恥ずかしさで爆発してしまいそうな言葉を求めてくるキリサメを押し止めるように、未稲は抱き締める力を強めていた。
「……夕方からずっと難しい
温かい両腕を名残惜しく感じながらも上体を引き起こしたキリサメは、呆けたように口を開け広げたまま未稲を見つめ返した。危うく喉の奥から飛び出しそうになった「誰の
勿論、未稲の心配は真っ直ぐに受け止め、その想いを噛み締めている。
都内で活動している
次回興行の開催先である〝火の国〟――熊本の武術界と『
それだけに
格闘技を人権侵害と決め付けて根絶を訴え、テロ紛いの〝抗議〟を繰り返した末、一部の過激活動家が『NSB』の
『NSB』の関係者が
数え切れない凶弾によって『NSB』の
存在自体が煩わしい
藤太を前にした未稲は自分のことなど視界の端にすら入れていないと勝手に決め付け、不貞腐れていたのだ。浅はかな独占欲が今となっては情けなくて仕方がなかった。
居た堪れない気持ちで目を泳がせるキリサメに対して、未稲のほうは静かに居住まいを正していく。依然としてレンズは白く曇ったままであるが、その双眸は彼をMMAのリングに
「……私、
夢想だにしない言葉に心を貫かれたキリサメは、『スーパイ・サーキット』を発動させた瞬間よりも大きく双眸を見開いた。
共に格差社会の最下層を這い回ってきたキリサメの幼馴染み――
その
労働者の権利を脅かし得る新法を撤回させる為、何万という怒れる
しかし、ノートパソコンの画面越しに〝地球の裏側〟を覗き見るのみという彼女が知り得たのは、表層的な
現地では他ならぬキリサメが国家警察と共に
様々な問題こそ抱えつつも、法の秩序に支えられた平和が続く日本で生まれ育った人間にとって現実の出来事と感じることが難しい
大小の
未稲はキリサメの
ケースカンファレンスの場に
標的の動きを制する
しかし、ストレスの発生源に死という名の
『
実際、『
キリサメを
ケースカンファレンスに
最悪の
無論、未稲は
「私は
これを受け止めるキリサメの
鼻を濡らした大量の汗で丸メガネを滑らせつつも、精一杯の力を込めた声で紡がれる一言々々にキリサメの唇が震え、今度は自分のほうから未稲を抱き寄せた。
『スーパイ・サーキット』という〝ストレス反応〟や、
しかし、それだけではない。だからこそキリサメは抱き締める力を強めることで感謝の言葉に代えたのである。未稲も〝この場所〟は他の誰にも譲らないと主張するように、彼の腋下を潜らせた両手でもって背中を撫で続けた。
「……キリくんが思ってるよりも、私はずっとキリくんのコトを考えてるつもりだよ」
この言葉に「みーちゃんは他にも考え事が多そうだよね」と底意地悪く返すほどキリサメも不貞腐れてはいない。慕情を露にして接する進士藤太は言うに及ばず、同じゲーミングサークルに属する
未稲では人付き合いに序列を設けており、自分はその中でも下位ではないかと疑うほど振り回されるキリサメだが、愛しく想う心が一方通行でないことだけは確かめられた。
そもそも自分も『
それならば、今、この瞬間の胸の高鳴りこそ素直に受け
上階に藤太が居ることを理由にして拒絶されたなら、キリサメもあらゆる感情を消してリビングルームから立ち去ったが、真っ白に曇ったレンズの向こうの瞳は正面の一人だけを映し、そこから微動だにしない。
暫く見つめ合った後、二人はどちらともなく唇を重ね合った。
キリサメが少しばかり前傾姿勢になると、未稲は丸メガネがずり上がるのも構わずに抱き返し、僅かに開いた唇の隙間から甘い吐息を零した。
二人分の体重を受け止めるソファの軋み音に別の物音が混ざったのは、未稲の右手がキリサメの後頭部を熱に浮かされたような調子で撫で始めた直後である。
リビングルームの出入り口は、ある程度の体重を掛けて踏み締めると床が甲高い音を鳴らす。『八雲道場』の住人にとっては日常の風景に溶け込んでいて気に留めるまでもないものであるが、それは当然ながら状況に
自分たち以外には誰の姿もなかったはずのリビングルームで第三者の立てた音を聴いたわけである。二人が揃って顔を振り向かせると、視線の先では痛恨の二字を顔面に貼り付けた藤太がドアノブを握ったまま立ち尽くしていた。
「ぶ、無粋な邪魔をするつもりはなかったんだ!
「じゃあ、お言葉に甘えて――ってなるワケないでしょっ! キ、キリくんも一回! 一回離れよう! ……あああっ、そんなに切ない
つい先ほど上階の藤太と岳に向かって近所迷惑になる言い争いを窘めたばかりの未稲がそれよりも大きな声を張り上げたのは、当然ながら狼狽半分の照れ隠しである。
一方の藤太はドアを開いて右半身を部屋に入れた状態のまま硬直しているが、その際の足音にも
彼は
開いたままのドアから割り込み、日本代表と同じ
藤太に対する弁明が思い付かず、本当に頭を抱えながら見悶える未稲の肩を掴んだキリサメは、自分のほうへと振り向かせ、次いで不貞腐れたような
「キリくんのヤキモチとか、額縁に入れて飾って愛でたいご馳走なんだけどさーッ!」
その表情に込められた意図を察した未稲は、「キリくんの傍にいるのは自分」と告げた手前もあり、
宙を舞ったそれをすかさず受け止めたキリサメは、自らの手で未稲の顔に掛け直し、次いで勝ち誇ったような表情を浮かべた。聞こえよがしに〝先程の続き〟を促したのも、当然ながら自分たちの仲を藤太に見せつける為だ。
藤太への対抗心から普段以上に前のめりになっていることはキリサメも
「そ、そういえばですね! 車椅子ボクシングの普及に取り組んでいるジムで珍しいっていうか、意外な人に出くわしましたよっ!」
「向こうは私のコトを八雲岳の娘とも気付いていなかったハズですし、わざわざ声を掛けるのも微妙だったから挨拶もしませんでしたけど、……『
「その人って
「そう――
前後の脈絡を無視している為、話題の転じ方としては落第点に近いが、キリサメも藤太もこれを冷やかすようなことはなく、揃って表情を引き締めると、一字たりとも聞き漏らすまいと未稲の話に身を乗り出していった。
岩手興行の直前のことであるが、瀬古谷寅之助が開催先に到着するまで
『
世界の猛者を相手に積み重ねた異種格闘技戦や、現地修行で極めたメキシカンプロレスの『ルチャ・リブレ』など数多の実戦経験と哲学に基づき、日本で初めて『
これを志す者たちは自らを厳しく律するなど武道寄りの精神性を重んじており、練習も試合も礼に始まって礼に終わる。
『昭和』の〝スポ根〟ブームを牽引した漫画原作者――
これはプロレスの
『
それ以外の情報は殆ど持っていない。未稲と沙門から教わった
黄金時代が崩壊した後の日本MMAを支え、復活の旗振り役になることを期待されながらも、重過ぎる荷によって潰されてしまった――そのように評された
「相変わらず一緒に暮らしてるのかって疑っちゃうくらい折原さんの影響濃過ぎで、ジムの中で悪目立ちする
未稲が名前を口にしたのは『MMA日本協会』の理事長である
キリサメは伝聞でしか知らないが、現役時代から香水やアクセサリーなどのブランドを立ち上げ、自らファッションモデルをこなすなど「格闘家は日常生活でさえ
予備知識がないと
「ヘルニアが重傷だったとは公表されているし、杖を支えに歩く姿も写真で見たことがあるけど、足の自由が効かなくなったって話は聞いた
無意味な脱線を防ぐ為に
ボクシングの
目的も不明という異様さが気に掛かり、練習が一段落した
「モッチー
キリサメ以上に未稲の話に耳を澄ませる藤太は、幾度も幾度も首を頷かせ、何とも
「……そうか……ガレオンが……ッ!」
まるで噛み締めるように
「ガレオンに興味があるのか、キリー。お前はあの男に会っておくべきだ。日本のリングに立つからには会っておかねばならない男と言うべきかも知れん」
「療養中……なのですよね? 急に押しかけるのは迷惑の極みではありませんか?」
「もはや、立ち止まってはいられんぞ。今こそ〝世界〟を知るとき。格闘家として名乗りを上げた瞬間から〝世界〟がお前を見ているのだ、キリー」
キリサメのことを話していながら、眉根を寄せる本人の顔は視界に入らないのか、〝世界〟の二字を連呼した
「エイモス・ファニング――いずれこの名がキリーの前に立ちはだかるぞ」
「エイモス・ファニング……?」
「エイモス・ファニングゥっ⁉」
キリサメと未稲は藤太が発した
MMA用の義足を装着して
しかし、藤太が挙げたエイモス・ファニングは初めて聞く名前であった。
ダン・タン・タインと共に〝季節労働者〟と揶揄されることもあるが、エイモス・ファニングはアメリカの男子プロリーグで活躍するバスケットボール選手が〝本業〟であり、
凶弾によって
エイモス・ファニングはバスケットボールの
格闘技雑誌のインタビューにて『ナイアガラ・ワンハンド』なる
プロバスケットボール選手と格闘家の〝兼業〟であれば、ブルース・リーの遺作に出演したカリーム・アブドゥル・ジャバーという先例が有名である。伝説のアクションスターは頭二つ分という身長差を物ともせず、二メートルを超える巨人と好勝負を演じたのだ。
カリームはバスケに
だからこそ『NSB』も〝季節労働者〟と呼ばれるような出場条件を認めているのだ。
「エイモスはキリーに運命を感じていてな。
「今、この瞬間までその名前を知らなかった僕に……ですか?」
海で隔てられた日米間には大きな時差がある為、同刻とは言い難いが、『
エイモス・ファニングが他団体の
逢ったことがないばかりか、顔も知らない
「全米で知らぬ者ナシというエイモスが闘志を刺激されたように〝世界〟はキリサメ・アマカザリという存在を知ってしまった。この事実から目を逸らすことは出来ん。ましてや後戻りなど
熱く吼えながらキリサメの両肩を掴んだ藤太は、五指に漲る力の強さに目の前の少年が顔を
「
キリサメと
そのように確信させる熱弁で表情を曇らせたのは、キリサメ本人ではなく、彼の傍らに
「……MMAの歴史を勉強するのは大事ですけど、何でも背負わせれば良いってワケじゃないですよ。
「――日本代表、惜しくも決勝トーナメントに進むことは叶いませんでした! しかし、四年後には更なるサムライ旋風が巻き起こるでしょう! サッカー王国の
この瞬間まで忘れていたテレビの音声がキリサメと未稲の鼓膜を
番組の司会進行を務める
*
ヴァルチャーマスクから始まった二本の〝道〟を束ね、一度は日本MMAを未来へ導くとまで
その哀しい生き
体重を支える手すりが両側に設置された四段式の歩行訓練用階段に向かい、黙々と昇降運動に励んでいたのだ。窓から取り込んだ陽の光が
数日前、偶然にも同じボクシングジムで未稲と遭遇したときには自走式車椅子に乗っていたという。この話を事前に聞いていたからこそ、四段の
彼は『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが刺繍された赤いハーフパンツを履き、これにビブス風のタンクトップを組み合わせている。
独創的な前面を見れば、タンクトップが
上下二段構造であるが、腹部が白いメッシュ素材で仕立てられているのに対し、赤いナイロン生地の胸部には虹色に煌めく小さなアルミ片が幾つも括り付けられており、遠目には魚鱗のようにも見えた。
一枚一枚が小さく薄く、軽量なそれはタンクトップの胸部に糸で留めてあり、引っ張ると簡単に外すことが出来る。表面には英語で綴られた『ガレオン』という
その内の一枚をキリサメも右の掌中に握り込んでいる。彼が自己紹介しようとした矢先にこれをタンクトップから千切った
普段から名刺の代わりに用いているのであろう。不思議な光沢のアルミ片が擦れ合って乾いた音を鳴らす
タンクトップの裾はハーフパンツの外に出しているが、それだけでは内側に籠る熱を逃がし切れないようだ。ナイロン生地の背面は汗によって
浮かび上がった
突き込まれた
看板に『
日本武術興亡の瀬戸際で存続に力を尽くした歴代の功績など、今まで多くの格闘技関係者から聞かされてきた伝説的な屋号である。
『名倉堂』は江戸時代から天下一の骨接ぎと名高く、その屋号は
その源流たる『
日本最後の
キリサメにとって身近な人々も〝名倉の骨接ぎ〟とは関わりが深い。
神通が鬼貫道明の経営する異種格闘技食堂『ダイニング
中世の
鬼貫の側は自慢の顎まで真っ二つに割られたのだが、回復まで特に時間を必要としたのは左膝である。己の体重すら支えることが出来ず、
骨接ぎの秘伝を求めて日本各地から患者が殺到したという『名倉堂』の伝説は紛れもない事実であったと、現代に
即ち、この病院が本家から直々に『名倉堂』と称することを許された〝名医〟という意味でもあるわけだ。その屋号を用いる整骨院は多くとも業祖以来の整形外科は珍しく、これもまた医師としての力量と実績の裏付けと言えよう。
キリサメは挨拶を交わしたのも今日が初めてだったが、その名前は『名倉堂』の屋号と併せて以前に未稲や沙門から教わっていた。
サバキ系空手の礎を築いた『
格闘家・武道家の肉体と専門的に向き合う格闘技医学会にも名を連ね、選手生命と引退後の健康的な
杖村医師が背負うもう一つの肩書きもキリサメは承知していた。
国内で開催されるMMA
多岐に亘る活動は尊敬の一言しかないが、樋口郁郎の庇護下でMMA
二〇一四年七月現在に
州の行政機関として強い権限を備えているアメリカの
日本格闘技界が一丸となって東北復興を支援する
診察が目的ではないにせよ、『
その上、藤太に伴われての訪問だ。彼は『NSB』の人間でありながら『サムライ・アスレチックス』の本社ビルに乗り込み、団体代表の責任に
杖村も『
尤も、杖村の案内で
「先週より両足が更に高く上がるようになったわね! 来てるわよ、来てるわよ!」
キリサメが視線を巡らせた先に
肩甲骨の辺りにまで達する長い髪を二房に分けながら首の付け根辺りで持ち上げ、毛先が外側に向かって放射状に拡がるようにして結わえている。その毛先だけが白く染め分けてあり、後ろ髪全体で弧を描く大波を表現しているようであった。
額が剥き出しとなるよう前髪全体を持ち上げ、これをシーグラスのヘアピンで固定しているのだが、中央から一房分だけ引っ張り出し、鼻を通って顎先まで縦断するように垂らしてある。醜く散らばってしまわないよう毛先は小粒のビーズで留めていた。
本人のこだわりなのであろう。一房の前髪と二房の後ろ髪、ヘアピンによる固定から零れて左右の頬に流れ込んだ横髪のみ他の部分より淡い青色に染め分けてあるのだった。
大型帆船を意味する
「
昇降運動が一段落して手近な椅子に座った
タオルの端から時おり露になる瞳は
不用意に覗き返そうものなら〝深淵〟まで引き摺り込まれてしまうだろう。
このとき、キリサメ当人は〝無冠の王〟が袖も通さずマントの如く肩に引っ掛けたエンジニアコートへと意識を向けていた。白い生地の質感が瀬古谷寅之助の用いる
それはキリサメの見間違いではなく、
スカーフを結ぶのが一般的な様式であるが、彼の場合はセーラーカラーの内側に細身のベルトを通してあった。現在は
未稲から聞いた話によれば、車椅子ボクシングジムの見学先で遭遇した際にも彼の服装は
その未稲が強い影響を指摘した『MMA日本協会』の理事長――折原浩之は、煌びやかな刺繍が散りばめられた和服を色合いが異なる物も取り合わせて背広に仕立て直す風流人だが、一一号帆布のエンジニアコートや
運動が終わった直後の熱を帯びた肌に羽織るのも、キリサメには不思議でならない。しかも、襟と同じ厚手のデニム生地で袖口が作られた長袖のコートである。季節が反対に巡るペルーとは異なり、七月の東京で着用するのは不向きを通り越して無理がある。
『八雲道場』へ襲来した
鼻を鳴らす音が追い撃ちとして続けば、何事にも無感情なキリサメでさえ
「ここに呼び出したのはお前だぞ、ガレオン。その言い草は矛盾の極みと言うもの。頑張る友人を見守りたくなるのは当然であるし、何よりこの場を整えてくれた杖村に失礼だ」
〝無冠の王〟――ガレオンと視線を交わしたまま、声の一つも絞り出せずに立ち尽くすキリサメを我が身を盾にして庇い、突き立てられた皮肉に正論でやり返したのは藤太だ。
当初は自宅を訪問する約束であったが、〝後輩〟に引き合わせたいと切り出した途端にガレオンは気まぐれを起こし、自分が罹っている病院を合流場所に指定してきた――キリサメはそのように藤太から説明されていた。
その上、今日は休診日であり、院内には杖村以外の
尤も、極端に
人間の限界を超える
〝格闘技専門のスポーツドクター〟と畏敬され、『MMA日本協会』の理事も務める杖村の病院だけに、
「刹那にしか生きられない日陰者の僕と違って、進士さんの場合は世界の大舞台で
「最初からお前の
「施しをせびっているように見えました? ……〝お子様〟なのは僕のほうかもな」
藤太の正論が面白くなかったのだろう。ガレオンは不貞腐れたように口を窄め、額の中央から一房だけ垂らした前髪を吹き上げようと試みた。だが、運動の直後である為か、それとも別の要因か、呼吸は弱々しく、狙い定めた前髪も微かに揺れるのみであった。
「特例の計らいではあるけど、そもそも
遠慮がない言葉遊びなのか、本気で険悪なのか――藤太とガレオンの関係性を読み切れないまま二つの顔を見比べるしかないキリサメの困り顔に気付いた杖村は、「少なくとも
その配慮に
樋口郁郎の庇護下にあるMMA選手の〝立場〟からすれば、『MMA日本協会』は〝仮想敵〟にも等しい。その為、キリサメ個人としては杖村の振る舞いに好感を抱いても曖昧な愛想笑いしか返せず、後ろめたさが募るほど心苦しかった。
その間にもキリサメは杖村を含めた三者の間柄を静かに観察し続けている。
医師として
藤太と杖村は同性代であろうと察せられるが、『
キリサメも『MMA日本協会』という組織の仕組みを完全には理解できていないが、現職の文部科学大臣や日本初の女性MMA選手といった面々が要職を担っているのだ。理事として名を連ねるには、相応の実績が資格として求められるのは間違いない。
おそらくは〝格闘技専門のスポーツドクター〟として社会的地位を築く
片や『MMA日本協会』の理事、片や『NSB』という世界のMMAを主導する団体の有力選手――国内外に名を馳せた両者と自分との間に、
これを見て取ったキリサメは、運動後の後片付けを自分以外に頼らざるを得ない現状が歯がゆいのであろうと感じ、己自身に甘えを許さない厳しい
瞳の
大いなる矛盾あるいは皮肉としか表しようもないが、燦々と輝く太陽とこれを仰ぐ雲という見る者に明るい印象を与えるはずの
ガレオンの瞳を塗り潰した〝闇〟の
神通の
フランス陸軍の
ガレオンの場合は、そのいずれにも当て
「どうして車椅子を使わないのですか――とは
必要な掃除を終えてモップを片付ける杖村の背中を見つめながら、ガレオンはまたしてもキリサメに不意打ちを見舞った。当人の様子など一瞥もせずに
己のほうに意識が向いているとは夢想だにしていなかったキリサメは、小刻みに口を開閉させながら目を丸くするばかりである。果たして、ガレオンの詰問は運動療法を目の当たりにした直後から不思議に思っていたことと一字一句に至るまで同じであった。
彼の座る椅子の肘掛けには金属製の
これを支えにして病院まで足を運んだことも間違いないが、ほんの数日前は自走式車椅子に乗っていたはずなのだ。
「車椅子ボクシングをやっているジムを見学したとき、八雲岳の娘と出くわしたんだよ。向こうは僕を侮っていたんだろうが、盗み見されて気付かないほど鈍感じゃない。リハビリを諦めた根性ナシが車椅子を乗り回すコツを覗き紛いのやり方で勉強していたとか、どうせ面白おかしく触れ回っていたんだろう」
「いえ、そんな話は……」
「なら、どういう話になったんだ? 好きに話してくれて構わないんだぞ。君と僕とは今日が初対面、そして、今日限り二度と会うこともない。おまけに僕は悪口陰口に慣れっこと来たものだ。気を遣われるほうが逆に腹が立つよ」
車椅子と一本杖を使い分ける理由をなかなか推し量れず、小首を傾げそうになっていたキリサメは、負の想念が煮え
ガレオンの側も未稲の存在に気付いていた――ただそれだけならば驚かなかったが、この
自分の態度に落ち度があったのではないかと振り返るキリサメであったが、そもそも神経を逆撫でするほど言葉も交わしていない。それにも関わらず、侮辱のように受け止められてしまった次第である。
弁解は逆効果であろうと判断したキリサメは未稲から聞いた話を過不足なく伝えたが、それでもガレオンは自分を欺いていると決め付けた猜疑の眼差しを止めなかった。
「相変わらず、お前は何でも悪い方向に持っていきたがるな。俺もキリーと一緒に未稲から――師匠の娘から話を聞いたが、悪し
「……名誉なんてモンは、他人の口から語られたって勲章代わりにもなりませんがね」
正面から相対するキリサメと、その向こうに
「……車椅子は本当に調子が悪いときだけ使うようにセーブしているんだ。あまり頼り過ぎると、自分の足で歩くのが馬鹿らしくなっちまうんでね」
口に出して
形が崩れた
タンクトップの腹部もメッシュ生地の向こうに何らかの
リングに立っても満足に戦えない〝現実〟が残酷なまでに表れていた。最盛期の状態に鍛え直すまでは衰えた
「便利な道具は活用すべきだけど、依存し始めたら心身ともに萎えてしまうということですか……。ご自分に甘えを許さない姿勢は立派だと思います」
「心にもない言葉をおべっか代わりにしないほうが良いよ。バレてないと思っているのは本人だけだからな」
これ程までに疑り深い人間をキリサメは他に知らない。最初から他者との関わり合いを切り捨てた人間は
自分と関わることを望んでいないのであれば、名刺代わりに魚鱗のようなアルミ片など手渡すまい。それだけに相手が自分から離れる最後の一線を試すかのような振る舞いが理解できないのである。先程は初対面を殊更に強調したが、対人関係の相性を見極めるには相応の時間や理由が欠かせないはずであろう。つまるところ、キリサメやこの場に居ない未稲は、それすらも飛び越えて敵意を向けられそうになったのだ。
日本に移り住んでから
脳細胞が
強いて挙げるならば、友好的な関係を築けるはずの格闘技関係者やメインスポンサーを〝内政干渉〟の一言で敵視し、日本MMAの黄金時代を共に支えた
この二人は相手を信じることから始まるという人間関係の根本をどこかに棄ててきたとしか思えないのである。
一つ前の世代から学ぶことが多いのはキリサメも実感として
「これでも人並みには忙しいんだ。やる気がないなら、お
右手で握った一本杖の石突でもってガレオンが指し示した先には、電知との
リハビリ室の利用者が準備・整理体操を行っている物だろうと気にも留めていなかったのだが、ガレオンの話から察するに杖村がこの集まりの為だけに用意したのであろう。
それ故にキリサメは藤太と顔を見合わせながら小首を傾げざるを得なかった。ガレオンは明らかに言葉足らずであったが、
「格闘家が四人も顔を合わせてお喋りだけなんて、これ以上に時間の無駄はないよな、アマカザリ選手。ましてや〝現役〟の二人は一秒だって勿体ないはず。〝何〟を惜しむべきかも分からないで棒立ちし続けるつもりか? 本当に帰りのタクシーを呼ぶぞ」
「――自分の都合しか喋らないようになったら、新しい〝後輩〟から速攻で愛想を尽かされるわよ。誤解を招くような発言も控えないと。アマカザリ選手、私のことは元格闘家と認識して欲しいわ。〝プロ〟のリングに立った経験も無いのよ。それなのに『MMA日本協会』の理事を務めるなんて、あなたの不安を悪戯に煽ってしまうかしら」
「一人前未満の僕ですが、MMAを支える資格にプロ・アマの区別が関係ないことは、友人たちのお陰で
「本人はひねくれたコトしか言わないけど、
「余計なお節介はやめてくれと言っていますよね。開店休業なのに〝現役〟を名乗るなんて恥の上塗りと変わらないんですよ。……というか、誰が誰の〝後輩〟なんだよ……!」
モップを片付けて戻ってきた杖村が「大きなお世話は焼く為にあるんじゃない」と肩を竦めて見せると、ガレオンは鼻を鳴らすことで反論に代えた。
杖村と同じ役職で『MMA日本協会』に参加する
どれほど有能であろうとも館山弁護士と同じ経歴の人間ばかりでは、国内のMMA団体とその
今し方の口振りから察するに、杖村の場合は何らかの事情で〝プロ〟の格闘家として活動する
ヴァルチャーマスクの直弟子という折原理事長や、
『NSB』に並ぶ〝仮想敵〟ということもあり、樋口郁郎は随分と軽んじている様子であったが、異なる経験と知識を一つに束ねる多士済々の『MMA日本協会』が国内団体の運営を邪魔するだけの
「僕からMMAの講釈を受けたいんだってな。でも、
家族ぐるみで交流の深い杖村に対してキリサメが畏敬の念を抱いたことを見抜き、これによって薄暗い引け目が鎌首をもたげたのか、ガレオンの声が一等
改めて
思わず目を丸くしてしまったのは、そのガレオンから藤太との
「リハビリ室で
「僕が真っ当な選手なのか、『MMA日本協会』として見極める……と?」
「私個人と前置きしたでしょう? 現役を退いたアマチュアとはいえ、私も格闘家よ」
院長の権限に
『
『MMA日本協会』と志を同じくする格闘家も含めて、数多の先人たちが
身体機能そのものの拡張や人体急所を最も効果的に狙い撃つ技術など、格闘技医学の研究内容にも通じるキリサメの
当然ながら館山弁護士の耳にも入る。
これこそ政治的判断だ――そのように自嘲した瞬間、『八雲道場』所属選手のマネジメントも担当する麦泉の顔がキリサメの脳裏を掠めたが、いちいち
(……この技がただの暴力でないことを証明しようと誓ったのは、みーちゃんだけだったのにな。……僕にはただそれだけで良かったはずなのにな……)
日本格闘技界内部に働く政治的判断を
今まで意識したこともなく、関わりたくもなかった〝政治〟へ知らない内に片足を突っ込んでいた――MMAに対する考え方が変容しつつあることに言い知れない恐怖を抱いたキリサメは、未稲との誓いを振り返ることで自らの頬を張る目覚めの一撃に代えた。
「合流先だけでなく服装まで指定してきたのはそういう
「……『八雲道場』が練習で使っているスポーツ用品に興味をお持ちなのかと、僕はそれ以外には考えもしませんでしたよ」
納得した様子で二度三度と首を頷かせ、
連絡を取った際に普段の練習で用いる服装と、
「
「何を言う。これはプロレスラーの正装だぞ。如何なる視線も恥じる理由になるものか。
地球外生命体でも観察するような目で藤太の顔を暫し凝視した
「堅物が垢抜けたモンだと感心していましたが、進士さんがアメリカで極めたのは
エンジニアコートのポケットから自身の
主として写真や動画を投稿する
同行せざるを得ないキリサメは、彼の隣で
「僕は『八雲道場』から
「いかん、いかんぞ。質素倹約こそ人の道だと先程も話しただろう、キリー。歩ける道は己の足でしっかりと踏み締めるのだ。電車を乗り継げば、自然と街並みや人の顔が心に刻まれる。雑踏の中で己の在り方を冷静に俯瞰することも
「町ゆく人たちの顔がどれだけ見えたと思っているんですか。どの顔も携帯電話で隠れていましたよ。ただただ僕や進士氏の顔が晒し物になっているだけじゃないですかっ」
キリサメの歯軋りが表す通り、露出魔同然の風貌で公共の移動手段を用いる藤太はたちまち注目の的になり、警察から取り囲まれる一幕もあった。
当然ながらインターネット上でも大きな話題を呼び、
最初は藤太に対する当て擦りのつもりであったが、更新され続ける高評価を見ている内に自分のやっていることが不愉快でならなくなったのだろう。誰に聞かせるでもなく鼻を鳴らしたガレオンは、
(僕も
ガレオンが不機嫌そうな態度を取る
キリサメの背中に憐憫の眼差しを向けながら、杖村はガレオンの右耳を軽く
「早朝稽古に続いて本日二度目だが、手加減抜きで行くぞ、キリー」
「お手柔らかにお願いします」
スリッパを脱ぎ、トレーニングマットの上で藤太と向かい合ったキリサメは、
『フルメタルサムライ』の通称で畏怖されるMMA選手との
今朝も
口頭で解説していくより闘いの中で叩き込むほうが手っ取り早く、何よりも緊急時には
情熱的な
「子どものお
藤太と揃って首を振り向かせてみれば、ガレオンが椅子に腰掛けたまま
「間抜けな棒立ちばかりだけど、アマカザリ選手は自分の強みを分かっているのか?」
「……自分自身では認めたくありませんが、『スーパイ・サーキット』……でしょうか」
「そこで〝路上の喧嘩殺法〟と即答できないから君は
床を傷付けないよう戒める杖村に左耳を抓られながら、ガレオンはキリサメの不足を指摘していく。相手の心に掻き傷でも作るような態度ではあるものの、喧嘩殺法が生み出された環境まで正確に言い当てたのだ。自己紹介で解説した
『
不用意に立ち止まれば、その瞬間に殺される。これを斬り払う手段こそが喧嘩殺法というガレオンの指摘を実感と共に理解できるのはキリサメただ一人である。
「ストーカー扱いはやめてくれよ。格闘技で商売するなら、
今まさに
キリサメが喧嘩殺法を編み出したペルーの
現役世代の情報は調査済みであると仄めかしたガレオンは、虚飾の大言壮語ではないということだ。
「最近はMMA寄りにルールが安全化されたブラジルの『バーリトゥード』も、新婚旅行で見物した頃はまだまだ野蛮な試合が多かったよ。
「好き嫌いというか、効率的だから使っていたとしか……。首の
「頭蓋骨を貫通させて脳に衝撃を伝達する
「……
プロ団体のみならず、アマチュア競技に類される
これを聞いたガレオンが厭味のように鼻を鳴らした意図は掴めなかった。
「鬼貫先生も現役時代に同種のプロレス技を得意としていたが、必殺の『
「ルールに縛られて最初から可能性を狭めてしまうのが甘いと言っているんですがね。アマカザリ選手が使うミッキー・ロークみたいなパンチ、アレを想い出してくださいよ」
「ミッキー・グッドウィンではなく……?」
「ロークより先にグッドウィンが出てくるか。君は賢そうに見えて知識が偏っているな。進士藤太や八雲岳が身近に居るのだから、むべなるかなと同情しなくもないが」
藤太との受け答えの中でガレオンが例に引いた『ミッキー・ローク』とは、アメリカを代表するライトヘビー級プロボクサーにして俳優である。主演映画も国際的な評価を受けており、知名度も高いはずだが、主たる活動のどちらとも接点がなかったキリサメには人名であることすら分からなかった。
ファーストネームのミッキーを聞いて、養父の
結局、ミッキー・ローク本人には辿り着けなかったものの、ガレオンが言わんとした意味は杖村の手助けによって読み取ることが出来た。猫の手のような形で上から下に振り落とし、命中の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に叩くパンチの術理を取り上げようとしていたのだ。
本人たちも分かっていない奇妙な筋運びだが、キリサメは杖村の
「あの技は手で殴打する
「……一体、何を見てそこに気付いたのですか?」
「舐められたもんだな。妙な握り方や拳の当て方を路上の喧嘩に照らし合わせてみれば、見破るのなんか大して難しくない。君の故郷で起きた暴動の映像も何本か観たけど、警官隊に石やら岩やら投げ付けていたし、向こうじゃ使い勝手の良い武器なんだろうってね」
何もかもガレオンの指摘通りであった。手指による打撃ではなく、掌中の石を使って頭蓋骨を叩き割る為に編み出した技なのだ。剥き出しの殺意が独創性の証左というべきか、相手の命を直接的に脅かす手段がミッキー・ロークを参考にしているはずもあるまい。
そして、それは格闘技に関する知識が大人ですら敵わないほど豊富な
ガレオンの知識量も膨大であろうが、彼は軍師ではなく『打投極』の
ましてや『打投極』の理論化・体系化を日本で初めて成し遂げたヴァルチャーマスクは恩師の鬼貫道明から「相手の腕を
「術理を踏まえた応用が例の技でネタ切れなら、君に
出来るものならやってみろと言わんばかりの挑発的な声色であるが、本来の用途で使えば即座に反則と
(人体破壊に特化した技を
深呼吸を一つ挟んだ
電光石火で躍動する
『NSB』の試合と比べても更に慎重な構えであるが、これはキリサメがだらりと垂らした両腕から如何なる技を仕掛けても正面切って受け止めんとする意思表示なのだ。
キリサメも浅知恵が『フルメタルサムライ』に通じるとは考えていない。ここ数日の間に重ねてきた
だが、打ち負かされる
『MMA日本協会』の杖村理事の面前ということもあり、政治的な思惑がどうしても過りそうになってしまうものの、今まで通りに〝世界最高のMMA選手〟の胸を借りれば良いのだ――そのように己に言い聞かせた直後、キリサメはマット越しに床を蹴り付けた。
藤太の右側面へ急激に身を移したかと思えば、対角線上へと一気に横断する――反復横跳びのような動作を幾度も繰り返し、彼の視覚ひいては平衡感覚を眼球や三半規管ごと振り回そうというわけだ。
余りにも
横殴りの風が吹き付ける中、その猛烈な勢いによって巻き上げられた物体が
自らの手で攻防の〝流れ〟を動かすか。焦れた相手が攻め手を欠くという好機まで動かず耐え凌ぐか。MMAの試合であったなら、観客席から当惑にも近いどよめきが上がる我慢比べの様相を呈していた。
無論、杖村とガレオンの二人は静と動が鮮明に分かれた攻防を一つの
ここに至るまでの
「――許可を出した以上、何があっても最後まで見守ってもらわなきゃ困りますよ。それが責任ってモンでしょう、院長先生」
ガレオンが
それは医師として極めて真っ当な反応である。キリサメは水平に構えた右拳から人差し指と中指を伸ばしていたのだ。疑くまでもなく目突きの予備動作であった。
その構えを維持したまま、キリサメはここまでの攻撃の中で最も勢いよく右拳を突き込んでいく。一瞬たりとも
傍らから見守るのみの杖村とは別の〝何か〟を正面切って見極めていたのであろう。果たして、キリサメは二本指が眼球に触れる寸前で握り拳そのものを解き、掌底でもって
最悪の予想が外れた杖村は比喩でなく本当に安堵の溜め息を吐いたが、キリサメは一等深い踏み込みから右腕を大きく伸ばし、この
三月に開催された『
当該する試合では〝平成の大横綱〟の親指が養父の目に接触してしまった為、これを模倣するキリサメは五指を完全に伸ばし切ることで同様の事故が起こる確率を抑えていた。
六五キロ以下のフェザー級と八三キロ以下のミドル級――『NSB』の基準に照らし合わせるならば、間に二階級が挟まるほど体重が離れた両者は身長差も大きく、無理な姿勢から片腕を突き上げる張り手には威力が殆ど乗らなかった。
キリサメの側も藤太の脳を揺さぶることは最初から見込んでいない。ほんの一瞬でも
その間に自身の左半身を開いたキリサメは、次いで藤太の股を割るようにして右足を深く踏み込み、左手で握り拳を作る――腰を捻り込むのと同時に肩から肘に至るまで左腕のバネを一気に解き放ち、
これが試合であったなら素早く
繰り出す手を入れ替えながらジャンケンを一巡するような連続攻撃であったが、キリサメはガレオンに促された喧嘩殺法の応用を髪の一本すら掴まずにこなして見せたのだ。
ほんの微かではあるものの、頬の筋肉が脈動したからにはガレオンもそのことに気付いたのは間違いないのだが、湧き起こった感情を他者に理解させない
課題が達成されたことによって
このとき、試合と
目突きを狙うような右手の
キリサメの打ち込みが浅かったわけではない。片腕のバネを引き絞った必殺の一撃と見せ掛けておいて、次なる
「今朝よりも更に一つ強くなるか、キリーッ!」
ここまでが〝
重心を低く落としながらマットを踏み締める藤太の両足と両肩を順繰りに蹴り付け、これらを踏み台の代わりにしたキリサメが彼の頭上よりも高く垂直に跳ね飛んだのである。
跳躍する間際、キリサメは自身の両掌でもって藤太の頭部を押さえ付けている。軽量なフェザー級とはいえ、不意打ち同然の形で全体重を掛けられては藤太も
「今朝の自分にさえ情けなく思われるようでは、
眼下の藤太に応じながらも、キリサメの
何時もながらの押し付けがましい提案のように先ず意識に割り込んできたのは、昼頃に岐阜県から届いたばかりの手紙である。言わずもがな、差出人はアマチュアMMAに
大学生だけに後遺症などの不測の事態さえ起こらなければ競技選手としての活動期間は余裕が十分ではあるものの、そもそもMMAはオリンピックの正式種目として採用される見通しすら立っていない。そのような状況にも関わらず、世界の大舞台で闘えることを信じて疑わないという恐怖すら感じるほど前向きな男だけに便箋は隅々まで埋め尽くされ、そこから押し寄せてくる熱量にキリサメは幾度も眩暈に襲われていた。
プロ・アマというそれぞれ〝道〟に分かれてMMAに取り組むキリサメと
「キリサメ選手はヴァルチャーマスクの技をもっと参考にするべきだと思うんですよ。あなたは鳥だ! 今こそ本当の鳥になるんだッ!」
天井近くまで跳躍が達しようかという
全員がオリンピック出場を目指しているわけではないが、大学の友人とアマチュアMMAのサークルを結成し、様々な格闘技術や各国の最新情勢などを研究しているという。
その成果を情報提供してもらう見返りとして、キリサメも自身の
日本に
MMAを熱烈に愛する大学生たちはヴァルチャーマスクが拓いた〝道〟の最前線に立つキリサメに対し、一七年ぶりの雪辱を果たして欲しいと願っているのかも知れない。
若かりし頃の八雲岳がブラジリアン柔術に道場破りを仕掛け、返り討ちに遭ったことから〝超人〟レスラーはプロレスの威信を懸けてMMAのリングへ臨むことになり、その果てに〝永久戦犯〟という汚名で罵られてしまったのだ。
ヴァルチャーマスクと八雲岳は
無論、キリサメ当人は大学生たちの妄想に付き合うつもりはなく、ヴァルチャーマスクから掛けられた途方もない期待も
しかし、〝超人〟レスラーを手本にするという提案には素直に首を頷かせている。
空中殺法が鮮やかなメキシカンプロレス――『ルチャ・リブレ』を現地の武者修行で極めたというヴァルチャーマスクの技は、対戦相手の目を幻惑させる〝
アマチュアMMAに重なったもう一つの記憶は、脳に刻み込まれてからまだ二四時間も経っていない。
キリサメが入門した
『
その
稽古を十分に積んだ
昨日――水曜日は七月最初の稽古日であった。キリサメも『
『
下北沢から隣県の朝霞市へ電車で移動するには、渋谷駅で井の頭線から副都心線に乗り継ぐ必要がある。都心暮らしの真平と構内で合流するのが稽古日の習慣となっていた。未だに地下鉄の乗り方が
二人が昼過ぎに入った道場は四方に暗幕が取り付けられ、燃え盛る炎の壁を彷彿とさせる金屏風の前にて
白いたてがみの
自ら演じるアクションスタントだけでなく、戦闘描写を監督たちと一緒に作り上げる役割も
半世紀に亘り、大型連続時代劇で
帯の色こそ異なるものの、〝先輩〟
平日の昼間という
特撮時代劇映画の
〝くノ一〟は後世の造語であって、本来は忍者の呼び方を男女で分ける必要はないと、キリサメに
〝おんな
今井野が握り締めるのは、木を削り出した
戦闘描写の要を担う
「斬り合いを撮る予定がなければ、必ずしもテレビ局に詰めている必要はない――考えてみれば当たり前ですが、激務の合間には
「道場でコレを撮っていると思ったら、居ても立っても居られなくなってね。この映画、元々は私が若い頃にテレビで放送していた作品なんだよ。そのリメイクに『
水曜日は大型連続時代劇の撮影が行われているはずだが、偶然にも
映画が
だが、
夕方の稽古が始まるまでは、〝立場〟も胸の鼓動も、
黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛った
それを飛び越えてくる茶目っ気がキリサメには慕わしく感じられてならず、
「使える空間をフルに生かした
妖怪変化といった〝人外の
共に斬られ役を演じる
これもまた斬られ役に求められる技術の一つであるが、
「一口に
「でも、監督の意向や演出の方針によっては、鉄の板へ刃を当てているのに生身を斬ったような効果音を付けて、一刀両断で倒せたことにする――この間、資料としてお借りしたビデオで拝見した時代劇も、まさにそういう方向性でした」
「生々しさを徹底的に突き詰めれば、その分だけ臨場感が引き立つけど、一方で際どい表現をやり過ぎると
「……
「生き死にの生々しさを誰よりも重く深く心に刻んだアマカザリ君だ。練習を積んでいけば〝五〇〇〇〇回斬られた男〟にも肩を並べる散り際を成し遂げられるよ。勿論、繊細な芝居や小刻みな斬り合いを大幅に割愛して、画面へ大写しになる必殺技一発で押し切るという直感的な迫力重視の作品も、同じくらい取り組み甲斐があるけどね」
自身が述べた
二人が論じた通り、
今回の特撮時代劇映画は命の遣り取りという極限的な緊迫感の再現ではなく、世代を超えて親しまれる〝チャンバラ〟に近い太刀筋で統一し、直感的な昂揚に重点を置くのが監督の意向であると、
近藤の指揮で撮影しているのは、現時点では漠然としている監督のイメージに強い輪郭を与える為のサンプル動画だ。戦闘描写に対する演出の方向性が確定し、特撮技術の担当チームも交えた本格的な検証が始まると、ピアノ線を駆使した宙吊りなども加わるのだ。
それを
伝統的な〝チャンバラ時代劇〟とは異なる様式とも思えるが、その歴史は浅くない。
『
「劇中でどれくらい比重を置くのかにも
「だからこそ、
「勿論、撮影の際には鉄砲や大砲の専門家に監修を入れていただくし、私も勉強不足を感じたら教えを請いに出掛けるよ。都合が合えば、アマカザリ君も一緒に行くかい?」
「先生さえよろしければ、どこでもお供します」
噛んで含めるような師匠の一言々々を心に刻み込むよう
「――今の攻防にもっとスパイスを効かせたいんだけど、アマカザリ君はどう思う?」
金屏風の対角線上に設置されているカメラを
今井野がすれ違い
しかし、全く気構えがなかったわけでもない。撮影に参加しなくとも
木を削り出して拵えた刀身がぶつかり合う音も
「僕なら――」
片目を瞑って発言を促した
キリサメにとって想定外であったのは、その機会が二四時間も経たない内に巡ってきたことである。
(そうだ。僕ならこうする――)
意識を追憶の水底へと沈めている間に、キリサメの跳躍は天井近くにまで達していた。
改めて
空中で巧みに身を捻り、天井に両足の裏を着けたキリサメは、木造の〝何か〟が悲鳴を上げるほど強くこれを蹴り付け、今まさに己のことを仰いでいる
「聞きたくない音だったな、今の! 陥没しちゃったら
キリサメ当人ではなく
猛禽類の爪を彷彿とさせる蹴りではなく、『スーパイ・サーキット』が発動しているわけでもないが、キリサメが
藤太も挟み込まれてしまうような
世界のMMAを牽引する『NSB』の
腕全体のバネを
先ほど例に引いた技を自ら再現し、『昭和の伝説』の神髄を
アメリカ西部開拓時代に
師匠の八雲岳から〝世界で最も完成された総合格闘家〟と讃えられる
無論、急降下を伴う攻撃そのものが動体視力すら欺く為の
この覚悟を文字通りに肌で感じた藤太が口の端を吊り上げないはずもなかった。それどころか、彼の昂揚は更に燃え上がっていく。
間もなくキリサメは藤太の背後へと降り立った。
互いに背中合わせの状態ではあるものの、人間にとっての絶対的な死角を取られたことに変わりはなく、恩師の得意技から急旋回の
「鬼貫先生への
直撃の寸前で間に合った
藤太の背後を取りはしたものの、不用意に攻め掛かれば
着地と同時に左右の腕で我が身を持ち上げて逆立ちにも近い状態となったキリサメは、藤太に背面を晒したままカンガルーの如く両足を突き出し、その胸部を脅かした。
この蹴り技は彼の独創ではない。長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプレス』と共に
同団体の外部コーチを務める岳の指導を受けて体得したのだが、本来は鬼貫道明の技であり、背後から襲い掛かろうとする相手をこれで蹴り飛ばしたのである。名は体を表すと言うべきか、プロレスのリングに
昨日の道場で〝先輩〟
その応用が『フルメタルサムライ』をたじろがせた。ショープロレスと
だからこそ、キリサメは止まらない。藤太の
膝を素早く屈伸させて両足を二度三度と交互に突き出し、藤太の顎を脅かしたが、腰のバネを生かしたものではない為、仮に命中したところで大した
万が一にも足首を掴まれた場合、そのままマットに組み敷かれ、膝関節などを軋ませる
己の足首が〝捕獲〟されるより先に脛を
「……
「ヴァルチャーマスクの技を参考にするべき」というカパブランカ
キリサメ自身、他の人間が
だが、
今し方の攻防でタイミングを見計らったのはキリサメのほうであった。背後を取られた危機に対応せんとする藤太が振り向く
ここ数日、幾度も
それにも関わらず、結局は新たな課題を突き付けられる結果となった。
ヴァルチャーマスクの必殺技を借り受けたにも関わらず、稚拙な曲芸で終わったのだ。遠心力を乗せた打撃で刈り払わんとしていた藤太の左足は、キリサメが右腕を振り抜いたときには影も形もなく、そこに感じたのは無意味に風を裂いた虚しさである。
「お陰でアメリカ
未だ振り上げたままの己の足よりも更に高い位置から
咄嗟に後方へと身を転がすキリサメであったが、状況を確認するべく片膝を突いた直後には四肢を開いた状態で飛び込んでくる藤太によって視界の全てが塞がれてしまった。
ペルーの
『ボディプレス』という
「私の〝立場〟としては今すぐにドクターストップを掛けなければいけない状況なのよ。選手の
「ここでマットを叩くことが『MMA日本協会』の意向にも沿う
「あの『スーパイ・サーキット』を……超える? 自分自身の
「僕の〝力〟はMMAの――『
プロレスのリングであったなら、レフェリーはキリサメに敗北を宣言している。
「誰がプロレスをやれと言ったんだ? 誰が? 君たちの耳が揃って腐っているのでなければ、僕の言葉なんかまともに聞く気もないという意思表示にしか思えないけど?」
ゴングの代わりに鳴り響いたのは、
キリサメと藤太が交互に仕掛け合ったのはヴァルチャーマスクの得意技だが、いずれも
MMAの試合に臨むヴァルチャーマスクは、『昭和』の〝スポ根〟ブームを漫画原作者として牽引した
これに対して『シューター』を称するガレオンは格闘家としてのヴァルチャーマスクを推戴する身だ。『打投極』つまり源流を同じくする〝総合格闘技術〟でありながら、
「ヴァルチャーマスクを経て八雲岳が完成させた『超次元プロレス』は跡継ぎにも恵まれて将来安泰だっていう自慢大会なら、折原さんも招待してド派手にやろうじゃないか」
それと似たような感情が湧き起こったのではないかと考えたキリサメと岳は、マットから起き上がりながら何とも気まずそうな顔を見合わせた。
リハビリテーション室の床を一本杖の石突で叩き続けたことを杖村院長に咎められ、制裁として耳朶を抓られながらも、彼女のことは一瞥もせず、
「――今朝よりも更に一つ強くなるか、キリーッ!」
「今朝の自分にさえ情けなく思われるようでは、
ガレオンが最も大きく鼻を鳴らしたのは、この言葉が藤太とキリサメの間で交わされた
静かに
「相変わらずの臆病な足さばきから自分で〝流れ〟を作りに行こうと切り替えたのも、僕にダメ出しされた技を
『
現世代の格闘家を熟知するこの男が『八雲道場』と『まつしろピラミッドプロレス』の関係を把握していないはずがない。今し方の皮肉はそれらを一まとめに愚弄したとしか思えないのだ。咳払いではなく目突きを抗議に代えなかった自分を褒めたいくらいである。
「さっきの言葉は取り消すとするよ、アマカザリ選手。自慢大会どころか、欠陥品の見本市に過ぎない。お
「無駄無意味とは聞き捨てならんぞ! キリーの進歩は他の誰でもない俺が保証する!」
「どこが無駄で、何が無意味だったのか、賢いアマカザリ選手は自分で
「ガレオン、まさか、居眠りしてたんじゃなかろうな? たった今、目の前でキリーが
「アマカザリ選手は他に有効な攻め手を思い付けなかっただけです。
次から次へと皮肉を並べるガレオンに対し、藤太は歯軋りを
中途半端と貶められた直後は眉を
日本に総合格闘技の種を蒔いたヴァルチャーマスクへの侮辱とまでガレオンから痛罵されてしまったが、それは
「――きっと今日まで関わってきた人たちの為に何がなんでも結果を出さなくてはいけないと焦っているのでは? その人たちは納得のいかない結果しか出せなかったとき、ただそれだけの理由であなたを見放すと思いますか?
「無駄ばかりの
「言葉が過ぎるぞ、ガレオン。日本MMAの黄金時代を築いた
「友達思いで結構ですが、
「
「そりゃ
「湘南どころか、関東全域にまで勇名を馳せた暴走族の〝総長〟を捕まえて、素人に毛が生えた程度のように言ったのか? 捻くれ者もそこまで行くと笑えんぞ!
「フル
ガレオンには
それは八雲岳やヴァルチャーマスクも同じである。『
まさしく猛特訓の賜物と呼ぶべきであろう。プロレスラーは骨格の
尊敬する〝先輩〟選手の
「つい最近、あのくたばり損ないと闘ったばかりのアマカザリ選手なら、僕の言ったことが実感として
「……確かに
「おべっか半分の美辞麗句で現実問題は誤魔化せないんだって、今日はそれを
「今のが俺が頼んだキリーへの指導のつもりか? ならば、お前は完全に間違っている。
「
「俺には幾らでも文句を言ってくれても構わんが、
「今の発言は世界中の『シューター』への侮辱ですよね? 〝心技体〟の修練はプロレスラーにも引けを取りませんが、それを『フルメタルサムライ』ともあろう御方が嘲笑うとはね。いつぞやの『新鬼道プロレス』と『
「精神性に重きを置くという
藤太が戒めた通り、キリサメにも支離滅裂な言いがかりとしか思えない。
暴走族の総長として日本MMAのリングに臨む
互いの安全に配慮したルールを遵守する〝
多くの人々が〝映画フィルムのコマ落ち〟に
これに加えて、今し方の物言いでは
そもそも
(僕一人を軽蔑するだけなら、一理あると認めないでもなかったのにな……)
遠回しに自分のことも謗っているとキリサメも気付いていたが、それについての反論は今度も喉の奥へと押し込んだ。
テロ組織の壊滅など死が鼻先を掠めるくらい危険な戦場は
素人に毛が生えた程度というガレオンの嘲笑は、例えば『
ガレオンに揶揄されるまでもなく〝MMA選手としての基礎〟が未だ十分でないことは
一方の杖村は医師としての見解に基づいてガレオンの吐いた暴論を切り捨てそうなものであったが、何故だか目の前の言い争いから距離を取っていた。
参戦できる情況ではないのかも知れない。ガレオンが日本MMAの
藤太とガレオンの諍いに引き摺り込まれ、他に意識を向ける余裕もなくなったキリサメであるが、高い跳躍を経由する
心に澱みの如く溜まっていく
「何か言いたそうだね、アマカザリ選手?」
一等大きく鼻を鳴らす音と共に穿つような眼光を浴びせられたキリサメは、
自分に対する
「言いたいことを我慢するのは健康に悪いよ? リングに上がる
「……それは誤解だと、はっきり申し上げますよ。
「お育ちがよろしいようだけど、母親は関係ないんだよ。君自身のその顔が僕への本音をぶちまけているのに、恥知らずにも親を逃げ場にしないでくれ」
「いい加減にしろ、ガレオン。お前の
不気味なくらい感情を消した声でありながら、他者ではなく己を傷付ける言葉を執拗に引き出そうとするガレオンに対し、キリサメは返すべき言葉を失った。
目の前の藤太や養父の岳など会話が噛み合わない人間は幾人か思い浮かぶが、自分の発した言葉が正確に届いているのか、本来の意図から掛け離れた形に歪められているのではないかと本気で怖くなる人間は、
今日が初対面ゆえに互いの
瀬古谷寅之助や
『
岳の養子にも矛先が向けられた恰好であるが、それだけに
藤太との間で事前に取り決めていた予定を変更させられたことで『
それ以外に誰彼構わず
立ち居振る舞いの一つ一つが陰湿かつ理不尽でありながら、紡ぐ言葉は理路整然としている。戦慄の二字こそ相応しい洞察力は言うに及ばず、数え切れないくらい豊かな皮肉の
絶えず怒りの炎で身を焦がしているというのに、
矛盾の塊――他者を揶揄するときにも、自分自身を嘲るときにも、全く同じ調子で鼻を鳴らすガレオンのことをキリサメは他に表しようがなかった。自ら進んで怨みを買うかのような態度で
(……悪ぶった態度の向こうに人の
額にて燃え上がる日輪や両腕を駆け抜ける風など、全身の隅々まで彫り込まれた
「……
「――タクシーを一台、お願いします」
言い訳も挟まず己の拙劣を反省するキリサメをつまらなそうに一瞥した
通話相手との受け答えから察するにキリサメを困らせる為の芝居などではなく、本当にタクシー会社へ配車依頼の電話を掛けたようだ。もはや、鼻も鳴らさないガレオンの双眸から「これ以上、付き合っても時間の無駄」と無言で突き放されてしまったのである。
その様子に
「この期に及んでまだ用済みの爺さんを庇おうとする小賢しさはあるクセに、君は大事なところで決定的に察しが悪いな。そこそこ上等な
「尊敬する先輩の誇りを守りたいと思って何がいけないのですか? 逆にお伺いしたいのですが、『プロレスが負けた日』を掘り返されたら、
「そんな小さな話なんかしちゃいないけど、君の
『打投極』の神髄を
しかし、当のガレオンは激怒するどころか、キリサメの顔を瞳の中央に再び捉えながら椅子に座り直した。無論、キリサメの側は『プロレスが負けた日』という忌まわしい一言を口にした瞬間に
つまり、ガレオンの興味を引き戻せたということである。両耳へと滑り込んだ厭味な鼻息に思わず安堵の溜め息を吐いてしまった自分がキリサメには滑稽でならない。
「今まで君は相当な悪事を働いてきたんだろう? あまつさえ〝
自分を見据えるガレオンの
「
暴論としか思えない言葉の羅列にガレオンの意図を見出したキリサメは右手で握り拳を作り、次いで
これを見て取ったガレオンは「どこまでも
「『超次元プロレス』のなり損ないみたいな真似をするよりも前の攻防――
キリサメのことを〝
自身の直感的な行動を論拠として取り上げられた杖村は、タブレット端末を掻き抱くような恰好で腕を組み、一本や二本では済まないほどの皺を眉間に寄せながら重苦しい溜め息を吐いたが、これを目の端で捉えるキリサメも似たような
傷害や強盗といった犯罪に手を染めてきたキリサメ・アマカザリであれば、相手から光を奪うという悪質極まりない行為にも
そして、それはガレオンが指摘したように大多数の認識でもあるはずだ。
テレビ番組などでも館山弁護士が公然と批判を繰り返してきたが、選手の命を守ることを前提としたルールに適応できず、〝プロ〟と冠する
これを杖村から取り除くという政治的意図も胸に秘めて臨んだ
「
動物的な本能が万全であったはずの調子を狂わせる――抗い
冷静に考えてみると『
「目突きの
猫の手にも似た
優等生を気取りたいが為、己だけに許された武器を投げ捨てるのは愚の骨頂――と、唖然と固まるキリサメに向かってガレオンは舌打ち混じりの痛罵を続けた。
「……わざわざ反則負けの危険を冒すくらいなら、空いているほうの手で腰でも掴んで投げを狙いますよ。いずれにしても進士氏には通じなかったと思いますが……」
「少しでも長くMMAを商売にしたいのなら〝付け焼き刃〟に頼り切りでもいられないからな。見掛け倒しと判断されたら、他の選手も今日の進士さんと同じ反応になる。たまには本当の反則を喰らわせてやりなよ。自分のことを舐め腐る相手に思い知らせてやれ」
ガレオンが並べ立てる一言々々は〝フェイント殺法〟の発展を目指す『ハルペリオン・マニューバ』にとって有益な手掛かりであろうと、キリサメも理屈では分かっている。しかし、その為に恥の上塗りと呼んでも差し支えのない〝反スポーツ的行為〟を求められたなら、首を縦に振れるはずもあるまい。
『
「……『
「……正直、そこはルール上でもグレーゾーンなのよ」
呻くような差し出口は、杖村によるものだ。『MMA日本協会』の〝立場〟としては、さながら悪魔のような
「話を前後させて申し訳ないのだけど、アマカザリ選手は『バラクーダ・シュガーベーコン』という総合格闘家を知っているかしら?」
「みーちゃん――家族が作ってくれた資料で名前と簡単な経歴は承知しています。記憶違いでなければ、現在の『NSB』で一番の問題児とか……。ですが、僕が視聴した
「見
自身が所属するMMA団体の〝同僚〟のことだけに、それまで押し黙ったまま成り行きを見守っていた
バラクーダ・シュガーベーコン――ドーピング汚染を招いた
現在は
キリサメは『
一方で、常人には理解し
この対立関係は激化の一途を辿っており、二〇一三年末には当該人物を脅かす為だけに他の〝同僚〟たちも同乗する選手送迎バスを襲撃した挙げ句、警察に逮捕されている。
とうとう『NSB』が本拠地を置くネバダ州の
キリサメは国内外の格闘家による不祥事を取りまとめた資料の中で、バラクーダ・シュガーベーコンの名前を知ったのだ。「ラスベガスという享楽の都に
「聞きかじりの知ったかぶりでシュガーベーコンを考えナシの暴れ馬と
シュガーベーコンを〝関節に対する打撃〟の名手と評したガレオンに、キリサメは思わず首を傾げた。
〝ルールの抜け穴〟という皮肉を割り引いても、バラクーダ・シュガーベーコンを〝関節への狙撃手〟などと持て
「……ルールで禁止されているのは関節を
この疑問をキリサメから引き出す為にシュガーベーコンの名前を挙げた杖村は、バス襲撃事件に巻き込まれた体験談を披露しようと肺一杯に空気を吸い込んだ藤太を制し、「膝に狙いを定めた
「膝への蹴りも打ち込み方次第――いや、力の掛け方次第ですか。反則にならないギリギリのラインを見極めた狙撃は、確かに〝ルールの抜け穴〟ですね。自分の足技も応用次第と僕は理解できましたが、杖村氏はこの現状に納得していないご様子……ですよね?」
「深刻な靭帯損傷は勿論、歩行どころか、自重を支えるのも困難な後遺症に繋がるわよ。実際、シュガーベーコンの攻撃で膝の
杖村朱美は日本国内で開催されるMMA
目突きといった人体破壊を喧嘩殺法の一部として平然と
『NSB』最大の問題児が実践している通り、ルールに〝抜け穴〟があれば、これを掻い潜らんとする〝悪知恵〟が生み出される。〝フェイントの悪用〟ということでは、明確な害意が認められない限りは目突きのように見える構えも「人差し指と中指を伸ばしただけ」と
無論、傍目には
ルールの厳罰化だけでは埋められない〝穴〟であるからこそ対応が難しい。例えば膝関節への打撃を安全性が確保できないという理由で一括りに規制すると、
ありとあらゆる可能性が無限に拡がるはずであった競技形態を自粛するようになれば、最後には
「言いたいことを我慢するのは健康に悪いと先ほど教えてあげたばかりだよな。『メフィストフェレス』でも見るような目になっているよ、君」
「ファウスト博士の真似事は間に合っています。
「随分、杖村さんを意識しているように見えたけど、……『
「貧富の格差のドン底で生まれた血みどろの技が〝暴力〟とは違う〝何か〟だと確かめる為に僕はMMAのリングを選びました。きっとそれは『MMA日本協会』の役割にも通じるのではないでしょうか? その理事の前で胸を張れないということは、最初に掲げた目標を投げ捨てるのと変わりません。それを体裁と仰るのならお好きにどうぞ」
「騙し討ちで金星を拾おうとしているクセに、みっともなく〝
「あれだけのことをしてしまったからこそです。仲間に恥じない闘いは手放しません」
「その仲間とやらは一途な生き方だとか君を褒めそやすのだろうけど、模範的であろうとする覚悟に――ルールに囚われた人間から先に負けて
MMAの社会的信用を損なう問題行動に懲罰を科す一方、故障者が続出する状況でありながら関節への打撃については
処罰対象から外れているという〝事実〟を
ガレオンには随分と歪んだ形で解釈されてしまったが、凶悪犯という罪深い過去を洗い流し、〝
『八雲道場』として雇っている
その日だけ生き延びることが出来れば良かった
「誰も彼も〝抜け穴〟を使い始めたら、試行錯誤を重ねて整備されてきたルール自体の否定と同じでしょう。でも、日米両方の団体で決定的な崩壊は起きていません。〝抜け穴〟が有効と分かっていながら殆どの選手がルールを
「正直者の裏をかいて得した成功者への遠吠えをこの僕に聞かせるのか? ……無意味な真似が趣味らしいな。いずれにしてもルールを踏み躙って黒星スタートになった人間の台詞とは思えないよ。
「あれだけのことをしてしまったからこそ――先程の言葉を繰り返させていただきます。
世界のMMAを主導してきた『NSB』に
「そこまで気負う一七歳、素直に立派と褒めたいのだけど、どこかの誰かさんみたいに潰れてしまいそうで心配が先に来るわね。もっと伸び伸びとやって良いハズなのに……」
心の底より見直した顔の杖村であるが、唇を滑り落ちた呟きがキリサメに向けられたものでないことは、反論代わりのように追い掛けてきた鼻を鳴らす音からも明らかである。
『MMA日本協会』の理念にも通じることを〝プロ〟の矜持と共に語ったキリサメと、それが気に入らず一房結わえた前髪を吹き上げるガレオン――
「進士氏が僕に知れと仰った〝世界〟は、こういうことなのですか」
言葉の応酬を続けても平行線を辿るばかりと判断したキリサメは、押し黙ったまま筋運びを見守っている黒いプロレスパンツへと視線を巡らせた。
それが怪訝そうな眼差しとなるのも無理からぬことであろう。
ましてや卑劣な真似として真っ向から切り捨てそうな〝ルールの抜け穴〟を〝弟〟に勧める為、ガレオンと引き合わせたとはどうしても考えられなかったのだ。古くからの友人を反面教師として晒し物にすることを思い付くような性格であれば、師匠の
「――〝世界〟なんて軽々しく口にするな」
自分と共に
肩に引っ掛けていたエンジニアコートの片側が一本杖を繰り出した拍子に滑り落ち、一一号帆布で覆い隠されていた右腕が剥き出しとなった。MMAの最前線で闘っていた頃と比べて筋肉が削げ落ち、そこに彫り込まれた風の
身の
「
トレーニングマット上に取り残された藤太と、ガレオンが腰掛けた椅子のすぐ近くに立つ杖村は、驚愕の顔をキリサメの肩越しに見合わせた。
数え切れないほどの皮肉を浴びせられてきた反撃とばかりに、キリサメは挑発的な言葉をガレオンに叩き付けたのだ。
耳を澄ませば互いの息遣いが聞こえる距離でこれを受け止めたガレオンも、宇宙の彼方からやって来た生き物でも眺めるような目をキリサメに向けたが、首を傾げたのはほんの一瞬であり、一切の表情が消え失せた直後、
風を切り裂く音が幾度も続き、その
外側に向かって放射状に拡がるように結い上げた二房の後ろ髪は弧を描く大波を模っているのだが、
ガレオンは最後に右の首筋を狙い、腕を前方に突き出して金属製の柄を頸動脈の辺りに宛がった。それまで一房に束ねた前髪は縦横無尽に舞い上がっていたが、一本杖を振り回す
どの部位へ如何にして一本杖を振り抜くか、最速最短の命中に必要な身のこなしを互いの距離感まで含めて
「――これが……〝世界〟だ……アマカザリ選手……ッ」
〝世界〟という一言をガレオンが吐き出す頃にはエンジニアコートは完全に滑り落ち、不格好としか表しようのない有り
今日が平常の診察日であり、リハビリ室が通院者で溢れ返っていたなら、その大半はガレオンが〝何〟を試みたのか、一部始終を眺めても理解できなかったはずだ。
しかし、この場に
「へそ曲がりも含めて、
「リハビリさえ上手く行けば現役復帰は必ず叶う。私はその確信以外を持ち得ないわ」
日用品である杖を武器に換えて振るう格闘術は、洋の東西を問わずに各国で発祥・発展しているが、今しがたガレオンが披露したものは
それを『打投極』の試行と正確に読み取れるのは、
実際の試合では
その腕を引き戻しながら、間髪を入れずに仕掛けるのは右の
腰は自重を支える要である。背面へ直接的に打撃を加えることはMMAのルールでも厳禁とされているが、それ故にここが耐え
これだけでは不十分とばかりに、ガレオンは下肢の
片側のみとはいえ膝に重い
キリサメの眉間に向けられていた一本杖の石突は、次に腰の両側を素早く指し、更には垂直落下の軌道を描いて見せた。これが表したのは投げ技の要点である。
金属製の
つまり、ガレオンは歩行補助用の一本杖を振り回し、攻撃対象を速やかに制圧する〝総合格闘技術〟を順番に示した次第である。手品用の
「……
ノコギリで挽き切る真似であるのか、金属製の
その前後にキリサメが呟いた感嘆の言葉は、傍目には無軌道としか思えない
己の気持ちを言葉にせずにはいられない藤太とは違い、心の奥底を決して覗かせようとしないガレオンが何らかの強い念を込めて〝世界〟と吐き捨てた真意を探るべく、己自身でも似つかわしくないと感じる挑発的な言葉を選んだ次第であるが、返答の代わりに見せ付けられた桁外れの戦闘能力に身震いが抑えられなかった。
具体的な解説もなく、攻めるべき部位を一本杖の石突で指し示すのみであったが、その通りに畳み掛けられたなら、防御も回避も間に合わずたちまち制圧されたことであろう。
歴戦の格闘家であろうとも対応し切れるとは思えない。『打投極』という三本柱の内、関節技は今し方の攻防に含まれていなかったが、腰と膝の
己の
この時点で下肢の
頭部への一撃という物理的接触に加え、逆転を期した気概を
危険な状態と判断したレフェリーは制止を呼び掛けることであろうが、ガレオンは割り込む隙さえ与えずに相手を投げ落とし、絞め技に転じて仕留めるつもりであった。
『打投極』という〝道〟を歩むこの
脇腹を殴打して呼吸困難を引き起こす技は喧嘩殺法の中にも含まれているが、一撃を
軋まされた肺は時間さえ経てば徐々に落ち着いていく。だからこそ呼吸困難を起こして身動きが鈍くならざるを得ない間に、簡単には回復できない
(シュガーベーコンの怖さを強調していたけど、関節の潰し方は
それだけにガレオンの名前が
自他に対する嘲りによって大半が占められた言葉の数々を整理し、彼自身の
未稲や
尤も、〝世界〟の全てを恨みがましく
「……こんな芸当が出来たところで何の意味も成さないのが僕の見た〝世界〟だよ……」
自重を満足に支えられないほど
『打投極』の直系とも呼ぶべき『シューター』とは、プロレスの
当然ながら視界に
まるで血を吐くような重苦しい声であったが、その苦悶を生み出している
「どうやって相手を完封するか、
頑なに拒絶しながらもキリサメは〝ルールの抜け穴〟という発想に戦術の幅を拡げる手掛かりを見出し、〝プロ〟の
「鳴り物入りでプロデビューしたクセに何時まで経っても芽が出ず、世間の白い眼から逃げ出して時代遅れの〝アメリカンドリーム〟に
「……MMAが歩んできた歴史を学ぶ為には
「無駄な気なんか遣っていないで、僕みたいに堕ちるところまで堕ちないようにアタマを働かせなよ。誰からも忘れ去られ、いつ引退したのか、いつ死んだのか、気に留める人間すらいねぇ。それが僕の――いや、僕らの〝世界〟だ、キリサメ・アマカザリ」
「もしかして、その怪我は……」
「ご期待通りでなくて悪いけど、シュガーベーコンが
この
ガレオンが渡海する前に所属していたのが『MMA日本協会』直轄の競技団体ということもキリサメは未稲たちから教わって把握している。
名刺代わりにガレオンから渡されたアルミ片にも刻まれている通り、〝格闘技バブル〟崩壊の痛手から立ち上がるべく『MMA日本協会』が新たな競技団体を発足させ、ガレオンが
折しも『リーマン・ショック』と、これに続く世界的金融危機の影響で
『MMA日本協会』が発足に携わった
理事として同協会に名を連ねる杖村も、直轄団体を救えなかったばかりか、多くのMMA選手に苦労を強いてしまったことは悔やんでも悔やみ切れない様子で、ガレオンが〝世界〟の二字を口にする
日本と〝世界〟、二つのMMAを
「……〝世界〟は広かったよ。果てしなく、忌々しく……」
虚ろな呟きを受け止めつつ、キリサメが『NSB』の
〝ルールの抜け穴〟から襲い掛かる関節への打撃で数々の選手を故障させたというバラクーダ・シュガーベーコンと闘い、全治数年という重傷を負ったのではないかとキリサメは推察していた。杖村も
しかし、『NSB』に所属した日々を振り返るガレオン本人が零した「
些か遠回しな表現の意味するところは、前代表――フロスト・クラントンによって『NSB』全体が汚染されたドーピング問題である。
尤も、ガレオンは禁止薬物という一線を超えた代償として
ドーピングの効果によって圧倒的な優位性が備わった〝超人〟に破壊され、再起不能にまで追い込まれたのは、如何なる試合でも
悪魔の所業に対して自覚的であったフロスト・クラントンは、
養父の
不思議な巡り合わせから
ノートパソコンの画面越しではあるが、キリサメが目にした『NSB』は選手の心拍数や有効打の威力及び命中精度のリアルタイム測定といった最先端技術を結集し、MMAという
物理的接触時に生じる衝撃を選手の
今日までは現実に起きた事件という感覚すら希薄であった悲劇の爪痕が目の前に
眠たげに
キリサメが
「エイモス・ファニングも君に熱視線を送っているんだろう。あれは
「団体挙げての大事業には、例え〝客寄せパンダ〟でも新入りの出る幕はありませんよ」
「
キリサメ当人からすれば薄気味悪く感じなくもないが、現世代の格闘家に関する情報は網羅しているという前言の通り、『NSB』に
マイケル・ジョーダンのトロフィーを獲得するなど〝本業〟に
日本格闘技界を実効支配してきた〝暴君〟――樋口郁郎のことを〝日本のフロスト・クラントン〟と批難する声は、海外メディアでも少なくない。
(これが僕に教えたかった〝世界〟だとするなら、甘やかしを一つも許さない進士氏らしいけど、……
〝世界〟を知る人間は、得てして陶酔に浸りながらその広さを朗々と謳うものだが、ガレオンの場合は、光が消えた瞳と形の崩れた
二〇〇七年に訪れた〝格闘技バブル〟の崩壊から『
MMAに関わる誰もが反社会的勢力と癒着しているという誤解は短期間では晴らせないほど根深く、格闘技
これに加えて『MMA日本協会』主導による競技団体も振るわず、一念発起して海外雄飛を目指してみれば、〝世界〟の中心地であるはずの『NSB』はドーピングが生み出した〝
(……『
ヴァルチャーマスクや進士藤太、同団体に所属していた頃の
長期に亘るリハビリを余儀なくされたガレオンが〝世界〟を呪う中で、同じ日本人選手は誰もが健在である。『フルメタルサムライ』の異名が似つかわしい
『打投極』の創始者であるヴァルチャーマスクに対してさえ、敬意の対極とも呼ぶべき感情を持て余していることであろう。
「
「……起きた状態で吐くのは寝言じゃなくて、正気を疑われる妄言だと知っているか?」
「もう一度、〝世界〟に挑むのですよね、
このリハビリ室へ足を踏み入れたとき、キリサメの目に真っ先に飛び込んできたのは、一心不乱に運動療法へ打ち込むガレオンの姿であった。
そして、それこそがMMAに背を向け、リングを去った『
四段式の歩行訓練用階段へ向かうガレオンの横顔には、世界最強を夢見る親友――空閑電知にも通じる
「リングに上がる
「……君には僕がどんな風に見えているんだ……?」
「先日、車椅子ボクシングのジムに出掛けたのも、日本ではまだ始まったばかりの格闘技から新しい技術を学んで、復帰への手掛かりにする為ではありませんか?
己を嘲るつもりで発した言葉を正反対の形へと変えられたガレオンは、鼻を鳴らしてキリサメにやり返すことも、一房に束ねた前髪を吹き上げることも忘れて口を開け広げ、その手から
すぐさま拾い上げた杖村から手元に差し出されようとも、ガレオンはこれを受け取ることさえ忘れてキリサメを瞳の中央に捉え続けた。最初の内は不思議そうに目を丸くしていたが、間もなく己の言行が情けなくてならないような
もはや、ガレオンには真っ直ぐな瞳を受け止められなかった。キリサメが車椅子ボクシングの見学に触れた瞬間には、病的なほど血色の悪い唇まで震わせたのである。
「……進士さんはどうして僕とアマカザリ選手を引き合わせようと思ったのですか? ここまで悪質な厭味をかつて味わった
これ以上の会話を拒絶するかのように渦潮の
「元々はキリーからお前に会いたいとせがまれたのだがな――」
「勝手気ままに記憶を修正するのは、出土品を捏造する考古学者と大差ないって死んだ母も言っていましたよ。僕が
ガレオンの正面を藤太に譲りつつ、キリサメは心の底から呆れ返った溜め息を聞こえよがしに吐き捨てた。肺を膨らませるより前から精一杯の厭味が通じないと
藤太の性格上、悪意を
「
「タイムマシンのある時代に生まれていれば良かったんですがね。そうではないから、僕は車椅子ボクシングに――進士さんなら、皆まで言わずとも判るでしょう?」
「勘違いしてくれるなよ、ガレオン。一回り近く年下の選手から大いに刺激を受けて、いい加減にその不貞腐れた根性を叩き直せと言っているのだ。自分自身をキリーの踏み台などとは思うなよ。甘ったれるな。お前は踏まれるんじゃない。
「自分の値打ちくらい自分でソロバンを弾きますけど、話の流れを無視して急に踏み台呼ばわりされるのは、さすがに面白くないですね。どうせ順を追って話すべき
「もっと咬み付いてこいッ! お前の
決まりの悪そうな顔で一礼しつつ杖村から受け取った一本杖をガレオンが再び取り落としてしまったのは当然であろう。
リハビリ室こそ提供したものの、藤太とガレオンの間で事前に交わされたやり取りも、『八雲道場』の内情も詳しく知っているわけではない杖村は、前者の口から唐突に飛び出した〝トレーナー〟という一言に首を傾げ、怪訝な表情で後者の様子を窺ったが、視線を巡らせた先に自分と同じ顔を見つけると、発言そのものが
与り知らないところで勝手に当事者にされていた――このように表すのが正しかろう。キリサメは言うに及ばず、藤太から適任と褒め称えられたガレオンにとってもトレーナーの話は降って湧いたようなものである。
「今の話の流れからすると、アマカザリ選手にはこれまでちゃんとしたトレーナーが付いていなかったってコトになるのだけど、そうなの? ……
杖村が口にした疑問に答えられないほど思考回路が焦げ付いた二人は、呆けた顔を見合わせるばかりであった。ガレオンなどはキリサメの側が試みる接触すら拒もうとしていたはずだが、それすらも
「八雲岳の代理として、正式にキリーのトレーナー就任を申し込ませてもらう。……師匠から預かった言葉を伝える
「進士氏こそ
改めてガレオンに向き直り、トレーナーの役目を依頼しようとする藤太の右膝裏を不意打ちで踏み付け、姿勢を大きく崩した上で、その野太い首に背後から自分の右腕を巻き付けたのは、憤激によって頬が引き
右腕の内側に藤太の首を抱え込み、左の五指でもって右の手首を掴むことで絞め付けを固定して頸動脈を塞ぐつもりであった。
今まさに首を抱えようとする寸前で素早く防御の右下腕を割り込まれ、血管も気道も完全には圧迫できなくなってしまったが、仕損じたにも構わず一向に絞め技を解こうとしないのは、それだけ藤太への
思い込みの激しさから常軌を逸した言行の多い『八雲道場』の師弟とは、元より
「キリー用の練習計画書も読ませてもらったが、所々に詰めの甘さや机上の空論があるにせよ、
「
「その二人も自分の仕事や学校があるからキリーと過ごせる時間は限られる。
「
「話し合ったとも。ガレオンとの約束を取り付けた夜に、先程の
「岳氏と夜通し騒いでいたのはそういうことですか。気付けば止められたのに迂闊……」
防御の為に差し込まれた右腕ごと首を絞め付ける力を強めていくキリサメであったが、これに対して藤太は悲鳴を上げるのでもなく自分に掛けられた技の完成度を褒め、また一つ大きな溜め息を真後ろから引き出した。
ここまで話が噛み合わないのだから、話し合いの有無を問い詰めてくるキリサメに見当違いな回答を述べるのも当然と言えよう。
「
当然ながら杖村はキリサメの味方である。数え切れない格闘家たちの心身と向き合い続けてきた
『八雲道場』全体に対しても、『MMA日本協会』の理事という立場から然るべき形で注意を与えるつもりであるのかも知れない。〝軍師〟という奇抜な役割ではあるものの、キリサメ・アマカザリというMMA選手を
小学生の就労に抵触し兼ねないことは『八雲道場』のマネジメントを担当している麦泉も以前から危惧してきたのだが、これを『MMA日本協会』とりわけ館山弁護士に問題視され、業務の是正勧告を受けたなら楽天家の岳でさえ深刻に受け止めざるを得まい。
同協会と『
誰もが反射的に振り向いてしまうほど大きな音をガレオンの椅子が立てたのは、結局は『MMA日本協会』に悪印象を植え付けるだけで終わったと考えたキリサメが「出来もしない政治を意識したのが誤りだった」と後悔した瞬間である。
驚愕によって凍り付いていた思考能力が再び動き始めた途端、ガレオンの脳はドブ川としか表しようのない激情に塗り潰され、腰掛けていた椅子を蹴倒して立ち上がったのだ。
それも一瞬のことに過ぎず、三人の双眸が変調を捉えた直後にはガレオンの足腰は自重を支え切れなくなり、余人に晒すことが屈辱というくらい無様に尻餅を
噛み殺そうとして叶わなかった苦悶の呻き声からも明らかだが、両手を床に突いていないと上体を起こしていられず、ひっくり返ってしまうのだろう。崩れ落ちた拍子にヘアピンの一つが外れ、額の中央で二つに分けて持ち上げていた前髪が顔の左半分を覆った。
「……僕に得体の知れない
慌てて駆け寄らんとする三人を濁り切った右目の一睨みで押し止めると、藤太や杖村に窘められるほど自分を卑下し続けてきた人間とは思えない言葉を喉の奥から絞り出した。
先程も自分の値打ちは自分自身で割り出すと言い捨てたガレオンであるが、心の奥底ではキリサメこそ
不意打ちの如く面罵されることになったキリサメは背筋を駆け抜ける冷たい戦慄に全身が震えそうになったが、それでもガレオンから顔を逸らさなかった。自虐という名の仮面を外して剥き出しとなった憎悪の念を揺るぎない意志が宿った瞳で迎え撃った。
『
それを自覚していればこそ、キリサメは息も止まりそうな憎悪から逃げないことが日本MMAの〝空白期間〟を背負う〝先輩〟への誠意だと考えたわけだが、ガレオンの
右頬は
「キリサメ・アマカザリという新しき風を帆に受けて、今こそ再び七つの海に船出しろと誰もがお前に願っているのだ!
キリサメの絞め技から解放された藤太はガレオンの真正面で片膝を突くと、
荒療治とはいえ、余りにもガレオンの意思を無視する藤太の振る舞いに杖村は眉を
椅子と共に放り出されたエンジニアコートから零れ、床の上を滑った
もう一押しだった。惜しかった――己が
結局、トレーナー就任の要請に対する返事はなかった。病院の駐車場に立ち尽くして去りゆくタクシーを見送るしかない状況にも関わらず、縦にも横にも首を振らなかったガレオンの様子を藤太は自分の都合よく解釈し過ぎている。保留の旨も明言されなかったが、キリサメの耳には遠ざかるエンジン音が拒絶の表明にしか聞こえなかった。
最晩年に寄り添った師匠――
これでは樋口郁郎と何も変わらず、同じ拒否反応しかガレオンから引き出せまい。
「見ての通り、〝クセが強い〟って一言では片付けられないくらいとっつきにくいヤツだけど、……
衝撃が尾てい骨を貫いたのであろう。「ヴァルチャーマスクも感動する切れ味!」という間の抜けた
要請が黙殺されたことは彼女も己の双眸で見ていたはずだが、その口振りはトレーナー就任を前提としたものであり、気持ちは藤太以上に先走っている。
「さっき
「日本で初めて『打投極』の理論を取りまとめた完成者の〝直系〟に――
自分が言わんとしていたことを先んじて読み抜き、侮辱的な言葉を散々に浴びせられたというのに色眼鏡を掛けることもなくガレオンの力量を冷静に見極めたキリサメに目を細めながら、杖村は
一度は大きく体勢を崩したガレオンであるが、立ち上がろうとするときにさえ誰の手も借りなかった。玄関へ向かう間にも
その背中を
「岳氏と同じくらい押し付けがましいから、その点は
口に出して認めずとも
岳を通じて篤志の
「今日は無視されて終わりましたし、実現には『
「もう一押しっていう進士の言葉を借りるわね。
相撲の〝ツッパリ〟を真似して見せる杖村に、キリサメが意味不明とばかりに絶句してしまったのは当たり前であろう。
「ビュビュンと杖をブン回したのもアマカザリ選手の
古い友人である杖村の目にも十分に見込みがあると映ったからこそ、トレーナー就任後の
「俺も杖村の言葉を借りるとしよう。へそ曲がりの減らず口も、付き合っていく内にあれほど素直なヤツはおらんと
生まれたばかりの小鹿のように足腰を小刻みに震わせながら四つん這いになる藤太を静かに一瞥した
七月三日の東京は生憎と曇天であったが、数秒を挟んで双眸を見開いたとき、杖村は今日一番といっても過言ではないほど晴れやかな
「故障がないように選手をリングに送り出すのもトレーナーの仕事でしょう? その延長で話を持ち出すってワケじゃないのだけど、私も若い頃に怪我で苦い想い出があるのよ。
「今は大丈夫なのですか? それほどの負傷では後遺症も案じられますが……」
「一生の付き合いになった腰痛以外はノープロブレム。……誰もが
リハビリ室では物憂げな気配を纏うことも少なくなかった杖村であるが、これを吹き飛ばす結論に達した様子であり、一片の影も差し込まない
先程も〝プロ〟選手としての経験を持たないことを仄めかしていたが、杖村朱美というこの
そして、その思いは『
「アマカザリ選手に私と同じ無茶で一生の後悔をさせたくない。その為にも伝えておかなければならないことがあるわ。例え、裏切り者の汚名を着ようとも――」
仰々しく感じるほど強い言葉に接したキリサメは、『MMA日本協会』直々の指導あるいは警告を杖村理事の口から言い渡されるのではないかと思わず身構えてしまった。
果たして、その想像は半分だけ正解である。
キリサメ・アマカザリと
明けて七月四日――大嵐が天を
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます