スーパイ・サーキット
その6:兄弟~格闘一家VS捜査一課・名探偵スーパイ、下北沢(シモキタ)夏の陣/迷惑動画投稿者の成れの果て・半グレに寄生された地下格闘技(アンダーグラウンド)──世界に「ミミック」が放たれた
その6:兄弟~格闘一家VS捜査一課・名探偵スーパイ、下北沢(シモキタ)夏の陣/迷惑動画投稿者の成れの果て・半グレに寄生された地下格闘技(アンダーグラウンド)──世界に「ミミック」が放たれた
六、Gun Shot or Cork Pop
『
人間という種の限界を超え、神の領域に達する
鮮血が迸る裂傷や
打撃から寝技まであらゆる格闘技術が解放されるMMAのリングに
組み敷いた相手に拳を振り下ろす
『
藪総一郎からキリサメに紹介され、『スーパイ・サーキット』――即ち、『逃走・闘争反応』の引き金となる〝
〝心の専門医〟――
精神科医の診察は患者と医師の
治療と連動させながら段階的に肉体への負荷を戻していく
〝心の専門医〟の初診に
『
『
幅の広い先端が〝
映像作品や舞台劇の
自分の命を脅かさんとする存在を一撃で制し、緊急回避行動に転じる『スーパイ・サーキット』へ〝急性ストレス反応〟の原因を断ち切る血塗れの暴走状態が加わったこと、今は亡き幼馴染み――
己が抱える課題の全てをさらけ出し、目標達成に向けて協力を求められるようになったことこそが〝プロ〟のMMA選手としての意識が芽生えた証左であろう。二体の
もはや、
そのケースカンファレンスの場に
修学時間中である為に出席できないキリサメの〝軍師〟が記した物であり、中長期計画書と呼ぶのが最も相応しいほど整理され、個々の内容も充実している。
キリサメの独創性が生み出した喧嘩殺法の技術体系が変容することを恐れる岳は、MMAに最適化する
キリサメが秘めた
『
樋口は体重別階級制度を設けず、完全無差別級の試合形式で所属選手の安全を脅かしていた。他団体では反則として判定される
岳が大雑把にしか考えていなかった〝フェイント殺法〟を虚実が入り乱れる技術体系として完成させる道筋も、提案書の中で示されていた。
改めて
世界中にその名を轟かせる当代随一の映像作家であり、選手入場や各種セレモニーなど『
家庭の事情によって、MMAどころか、格闘技そのものを好意的に受け止められない
強靭な肉体を育てるカロリー管理まで細かく設定された提案書に感嘆の溜め息を漏らした藪総一郎は、皮肉ではなく本心から〝神童〟と讃え、〝義理の父〟に当たる岳は
大人の半分程度の大きさしかない頭に隙間なく詰まった知識を十全以上に使いこなす
自分たちの半分も生きていない七歳児の意見を侮らず真剣に向き合う大人の様子を見回しながら、キリサメはケースカンファレンスの健全性を実感していた。年齢や立場に関わりなく、誰の声でも平等に取り上げる建設的な体制が自然と出来上がっていたのだ。
無論、必然的な筋運びではある。対戦相手との
誰もがこの〝小さな軍師〟をチームの一員として対等に扱っていた。ブラジリアン柔術の使い手であるレオニダスとの決戦に備え、『コンデ・コマ式の柔道』を現代に甦らせた
「もう一人の自慢の
真逆としか表しようのない性格は言うに及ばず、
極めて繊細な問題を孕んでいる為、口に出して確かめたことは一度もないが、
しかも、
今年の二月に家族として迎え入れられたばかりのキリサメは、当然ながら八雲・表木両家の間に横たわる事情の全てを知っているわけではない。それにも関わらず、進士藤太が禁忌の存在であることは察せられたのだ。
今、その藤太が
「……『去る者は日々に疎し』というが、よもや小田急線の駅舎が丸ごと消滅するとは。いや、駅自体は地下に
「浸っておられる感傷を切り捨てるようで申し訳ないのですが、僕が『
「それでも
「岳氏とはまた違う意味で噛み合わないんだよなぁ……」
「
「岳氏まで加わると、噛み合う噛み合わない以前の脱線事故が起こるんだよなぁ……」
鎌倉に所在する
『
その姫若子はキリサメにとって
「……師匠も五〇に手が届くような
「こっちの都合を考えねぇで突っ込んできた藤太がそれを言うのか~⁉ サプライズってのは人が喜ぶモンじゃなきゃいけねーんだぞ!」
「ジャングルジムの頂点によじ登る四〇代のほうがよっぽどサプライズでしょう。文多先輩も頭を抱えていたではありませんか」
「よく言うぜ。あのまま電知と一緒に泊まることになってたら、お前、真っ先にジャングルジムで遊んだろ。師匠は何でもお見通しだぜ~」
「お、俺は別に……遊びに行ったのではないのですから……」
出稽古を解散させた張本人にも関わらず、藤太は姫若子が庭に拵えた野外運動器具に誰よりも後ろ髪を引かれていた。
(今すぐ鎌倉に引き返したいけど、みーちゃんにこの人たちの
隣県の
八雲岳と進士藤太――数年ぶりの再会にも関わらず、二人の間に流れる空気は離れ離れという空白期間があったとは思えないほど〝自然〟で、後からやって来た
この二人の関係は、忍術の師弟のみには留まらない。
苦楽を分かち合った年月の長さからして必然であろうが、文句をぶつけ合いながらも互いへの親愛の情が満ち溢れており、傍目には本物の親子のようにしか見えなかった。
その
「……懐かしの我が家……」
最初の内は〝里帰り〟の提案を固辞していた藤太も、MMA選手としての出発点である『八雲道場』の看板を仰ぐとさすがに懐かしさが込み上げてきたようで、今にも蕩けそうな表情を浮かべ、感慨深げに
郷愁に背中を押された藤太のことはキリサメにも責められない。だが、浅草を経由して下北沢に向かうタクシーへと愛弟子を押し込んだ養父の神経は本気で理解できなかった。
〝小さな軍師〟の
『スーパイ・サーキット』の反動も含めた
大陸の知識量は格闘技の最前線で働く
混沌とした親子関係への反発もあって格闘技を忌み嫌う
未稲は容姿こそ嶺子に似ているものの、性格は岳の影響が色濃い。あらゆる意味で半分だけ〝血〟の繋がりがある
それ故にキリサメは自分を浅学非才と責めることを止められず、
傍目には己の焦燥感を勝手に煽っているように見えたかも知れないが、キリサメには考えられる最悪の状況だ。土曜日の『八雲道場』に
岳と藤太の間に割り込めないという奇妙な浮揚感を持て余すキリサメは、首都高を走るタクシーの
タクシーから降りて八方塞がりを認識した瞬間、キリサメは比喩でなく本当に膝から崩れ落ちた。鎌倉から休憩も挟まない長時間乗車で足が痺れたのかと笑いながら同時に手を差し伸べてくる岳と藤太が恨めしくてならず、両方の五指をまとめて噛み千切らなかった自分を褒めてやりたかった。
「――お
同じ下北沢でも演劇街とは味わいが異なる風を噛み締め、
土曜日の住宅街だ。当然ながら勤め先や学校が休みという住民も多く、様子を窺うような視線が隣近所より岳に降り注いだ。
騒音トラブルにまで発展し兼ねない大声はチャイムを鳴らすよりも
「
不名誉な言い回しでもって直接的に呼び付けられた未稲は、本心では聞こえない
未稲は満足に手入れもされず痛んで乱れた前髪を飾り気のないヘアバンドで持ち上げ、剥き出しとなった額は油でも塗ったかのような光沢を放っていた。一日中、外出せず季節限定販売のポテトチップスでも摘まんでいたのだろう。
上下ともにジャージという自宅で寛ぐ為の緩やかな出で立ちだ。前開き型の上着はファスナーが完全に下ろされており、『爆死の痛みも遠くなって月が変わったから、今日はガチャ負債リセット日』という
ケースカンファレンスの際に着ていたシャツは『おマエの
岳が指摘した通り、ゲーミングサークルの
これを開発したのは格闘技を人権侵害と忌み嫌い、アメリカ合衆国大統領をも巻き込んで『NSB』の関係者にテロ攻撃を仕掛けた過激思想家の『サタナス』である。
〝MMAの天敵〟との関わりが深いモノに喜んで触れられる神経が信じられない――心が著しく荒んでいる為、何事も悪いほうに考えてしまうキリサメは無意識の内に舌打ちを披露しそうになったが、その小さな動きをも巻き込むようにして顔が強張った。更なる動揺を引き起こす事態を視線の先に捉えたのだ。
「未稲――か? 見違えるくらい大きくなったな……ッ!」
藤太の姿を見つけた瞬間から未稲は双眸と口を開け広げ、唖然呆然と立ち尽くした。事前の連絡など受けていなかったのだから、それも無理からぬことであろう。『八雲道場』どころか、日本に
鎌倉の
近頃は芸能界とは無関係な一般人を大混乱の状況へと誘導し、衝撃に打ちのめされる様子を
つまり、『八雲道場』と訣別したはずの進士藤太が
「こういうところも変わらんな、未稲」
「と、と、と、ととと――」
地面に自由落下した丸メガネを拾い、手渡してくれた藤太と暫く見つめ合った
ドアの向こうからも同程度の音が聞こえてきた。動転した未稲は丸メガネを掛け直すことさえ忘れていたのだ。遠近の距離感が狂い、上がり
「何やってんだよ、お前は。ようやく藤太がオレたちの家に帰ってきたんだぜ? いきなり逃げるコトはね~だろが。もっと歓迎してやれよ、オイ」
「だ、だって、そんな話、一言も聞いてないし! 一体全体、どうなってるのっ⁉」
有名人が暮らす居宅でもある為、『八雲道場』の玄関は当然の如く
一旦は玄関の
玄関の軒先には防犯カメラも取り付けられており、リビングルームにはレンズで捉えた映像を確認するモニターも置いてあるのだが、混乱し切った
「これでお父さんが『大成功』のプラカード持ってたら、月曜日の朝イチで訴えを起こすよ」という弱々しい一言を挟んだ
もはや、二度と会えないだろうと思っていた相手が何の前触れもなく〝里帰り〟してきたのだから、取り乱すのは当然であろう。その上、人前に出る恰好でもない。瞬間的に羞恥心が爆発し、咄嗟に隠れてしまったわけである。
「ただいま」
依然として状況を飲み込めていない様子の未稲と目を合わせた藤太は、ごく自然にその一言を口にしていた。本人にとっても意外であったらしく、我知らず右手で口元を覆っている。双眸も大きく見開かれていた。
岳のもとで修業に励んでいた頃は、『八雲道場』が彼にとって〝故郷〟であった。帰宅を告げる一言が心の奥底から溢れ出したとしても、それこそが寧ろ自然なのだ。
「お、おかえりなさいぃぃぃ……」
ただでさえ大きな藤太の声は未稲の心の奥底まで響いたようだ。ドアの裏に引っ込めてしまった顔をわざわざ覗き込まなくとも、良く熟れた林檎と同じ色に染まっていることが察せられる声が返ってきた。
どうにも照れ臭く、けれども言葉では表せないほどの喜びに満ちた声色に耳を澄ませていれば、藤太の前から逃げ出してしまった理由が服装だけではないことが察せられる。
「こいつめ、一丁前に色気づいてやがらぁ。乙女ぶっても全ッ然似合わね~ぞ」
「師匠、そういうのはハラスメントですよ。例え
(どうなっているのかを
岳も未稲も八雲家の家族として迎え入れてくれた。そのことは少しも疑っていないが、目の前で笑い合う三人のような関係ではないことも間違いなく〝事実〟なのだ。
何年離れていても『八雲道場』の三人は深い絆で結ばれている。だからこそ、空白の期間があっても瞬時にして埋められる。そして、その輪の中に割り込んでいく一歩をどうしても踏み出せない――歳月の重みが
これから重ねていく日々が藤太と同じような絆を育むはずだが、打ちひしがれて捨てられた子犬のようになった瞳は、目の前に開かれた〝道〟を捉えていない。『八雲道場』にとって、自分などは俯き加減の視線の先に転がった取るに足らな小石ほどの値打ちしかないのだ――
(……今すぐ
端的に表すならば、自分の居場所を見失って拗ねてしまった次第である。
そこまでは心の機微を切り取ったすれ違いの
顔を合わせてはならない二人の対処も放棄してやろうかと、ほんの一瞬だけ邪悪な考えが鎌首をもたげたものの、感情表現を大幅に誇張する漫画やアニメのように引き
その藤太や岳に気取られない形で
今し方とは性質の異なる狼狽と察せられたのは、この場でキリサメただ一人である。おそらく未稲は眩暈を堪えながらインラインスケートを隠しているのであろう。ドア越しに聞こえてくる物音だけで事態の把握には十分であった。
「い、今! 友達が遊びに来てて! リビングも私たちが占拠してて、それで……!」
肩で息をしながら庭に出てきた未稲は、傍目にも痛々しいほど足取りがおぼつかない。
所有者に気付かれないよう細心の注意を払いながらインラインスケートを片付けなければならなかったのだ。実際には一分程度であったものの、それを数時間にも感じるくらい神経をすり減らしたのは間違いなかった。当該人物からほんの少しでも怪しまれただけで最悪の展開がやって来るのである。
「友達だァ~? ネット上の付き合いならいざ知らず、
「お二人が知らないだけでみーちゃんの交友関係はかなり広いですよ。僕と電知がそうであったように、団体同士の問題を乗り越えて『
「おっとォ、予想外の方向から
「
「ど、ど~しちゃったの、キリくん? 私よりもアツくなってない?」
「みーちゃんのコトには黙っていられないからね。岳氏の大声を聞いても家の中に引っ込んだままということは、さしずめ遊びに来ているのは
「そっ⁉ ……そーなんだよ、うん――キリくんたちが出掛けて
「日本では今日、中継があるのか? そもそも今日は試合などあったかな……。俺は何しろ
「あッ、録画! 録画ですよ、藤太さん! 録画しといた日本対ギリシャ戦ですっ!」
極限に近い混乱状態から捻り出された未稲の言葉が自分たちへの牽制とは気付かず、先程と同じように揶揄を交えて笑い飛ばした岳の胸部が藤太の
これに負けじとキリサメは自分が知っている限りの未稲の交友関係を明かしていく。師匠の暴言を窘めながらも意外そうな
そもそも三人のやり取りを妬ましく感じている場合ではないのだ。「友達が遊びに来ている」と出まかせを述べながら、未稲は肩を並べて立つ『八雲道場』の師弟の間をすり抜けるようにして助けを求める眼差しを向けてきたのである。
彼女の言う友達が〝誰〟なのか、口に出して確かめるまでもない。それ故にキリサメは
「今日の
「今夜と言わず、世話になる間は俺が炊事を全部引き受けるつもりでいたのですが」
「はっぁぁぁァァァァァァッ⁉」
裏返った悲鳴へ乗るかのようにして、未稲の丸メガネが再び地面に転がった。
未稲が驚かされたのは外食の提案などではない。突然の〝里帰り〟だけでも
対抗心に
「やはり、急に押しかけてきて迷惑だったか?」
「そッ、それは……、だ、大歓迎……です……けどッ!」
器用なことであるが、林檎のような紅潮と病的な蒼白といった具合に未稲の頬は交互に
「藤太が使ってた布団一式はまだ押し入れにあるからよ、キリーの部屋へ運んでおくぜ」
「それも自分でやりますから。師匠、実家に帰ったときのお袋と
「何をごく自然に意味不明な会話をしているんですか。まさかと思いますが、進士氏、僕の部屋で寝起きするつもりですか……⁉」
「贅沢を言える立場でないことは重々承知しているが、さすがに師匠との相部屋だけは俺も遠慮したくてな。師匠の弟子はキリサメにとって兄も同然。気兼ねはいらんぞ」
「そういう問題ではなく……ッ!」
キリサメに宛がわれた部屋は、元々は藤太が使っていた。それ自体は以前に岳から説明されており、本人も了承していたのだが、同じ天井を眺めながら並んで眠ることは簡単に受け
家族でもない人間との寝食は、互いの
二時間近く同じタクシーに乗りながら、今まで一言の相談もなかったのだ。〝最悪の事態〟を数分置きに更新され続けるキリサメは堪ったものではなく、未稲の手に返す寸前で丸メガネを無意識に放り投げてしまった。
「……とりあえず、二人とも僕の部屋に行きましょう。進士氏も長旅でお疲れですよね。一息
「後でお茶とか運んでいきますから! 私と照ちゃんの都合で本当にごめんなさいっ!」
丸メガネはともかくとして、この抜き差しならない事態への対処まで放り出せないのがキリサメという生真面目な少年である。忌々しい気持ちに折り合いをつけると、岳と藤太がリビングルームに立ち入らないよう誘導を試みた。
落下してくる丸メガネを空中では掴み損なったものの、天を仰ぐ顔に普段の掛け方と同じように
今にも物理的に抱えそうになる頭を働かせたキリサメは、互いに目配せでもって合図を送りながら、未稲と連携して〝会ってはならない二人〟の切り離しを進めていく。
「みんな一緒だって良いじゃね~か。キリーがマッチの舎弟どもに囲まれたときに助太刀してくれたろ、照代。どっかで礼を言わなきゃならねェって思ってて――」
まるで趣味であるかのように〝余計な真似〟へと元気よく突っ込んでいく岳は、今度も無自覚で事態を拗らせようとする。とうとうキリサメも我慢の限界に達し、『八雲道場』の師弟がMMAの試合でも用いるプロレス式の
不意打ちとはいえ、日本MMAの先駆者である岳を一撃で蹴倒したキリサメに感心し、称賛を込めて両の手のひらを打ち鳴らし始めた藤太は能天気の一言でしか表せず、これを送られた本人は「迷惑の振り撒き方まで似た者師弟」と心の中で吐き捨てた。
*
八雲家の人々は二階にそれぞれの部屋を持っている。幼稚な気まぐれを起こしてリビングルームへ飛び込むことがないよう特に岳を急かし、〝似た者師弟〟に階段を
他に打つ手がなかったとはいえ、二人を自分の部屋に押し込んだことも既に後悔し始めている。世話の焼ける年上の弟たちの子守りをしているような気分なのだ。
かつては一日の始まりと終わりを過ごした空間へ数年ぶりに足を踏み入れた藤太は、感慨深げにゆっくりと室内を見回し、自分が去った
カーテンが夏色に掛け替えられるなどキリサメが住み始めてからの変化も多い。ベッドの上には未稲がパソコンの
身体を休めるときにもこれを読み、
窓から差し込む陽の光の
蔵書の先頭に固められているのは
頼まれてもいないのに養父が気を利かせて用意したテレビやDVDプレイヤーは埃を被るくらい放置されていたのだが、ここ最近は
観葉植物の一つもなく、依然として味気ない印象ではあるが、日々の営みがキリサメの
やがて一枚の絵が藤太の目に留まった。
壁に掛けられた額縁入りのそれは、幼い頃にキリサメが模写したハチドリである。移住に際して
(どいつもこいつも……日本人はハチドリの何たるかが分かっていない……ッ!)
師弟は感性まで似通うのか、岳にもトウモロコシと間違われたことがある。個性的な絵柄ではなく、本人の意気込みが形となったような筆致こそ注目すべきであろう――理不尽な言行の目立つ二人に対してさえ、道理に合わない文句を心の中で垂れた直後、キリサメは冷たい汗が背筋を滑り落ちるような迂闊に思い至った。
衣類の収納ボックスが下の空間に押し込んであるベッドの真隣には、大小四段の引き出しと一体化した木製の
急な来客など想定していなかった為、
運が悪いことに〝小さな軍師〟が注意点や提案を書き込む通信欄のページである。藤太の視界に入ってしまう前にこれを引き出しに片付けなければならなくなったのだ。
「これはよもや『マクアフティル』?
「キリーの〝仕事道具〟だよ。『
「
壁に立て掛けておいた
角張った剣先が天井に当たるのも構わず、岳は両手でもって『
岳も語った通り、『
二枚重ねた平べったい木の板に
確かに
擦れた痕跡や汚れによって原形を留めていないが、木の板の表面には何らかの紋様が彫り込まれていた。『
この
実際、岳は来訪先のペルーで日系人ギャング団から襲われたときに火柱を起こして追跡を阻み、その隙に逃げを打つ忍法――いわゆる
中南米の〝組織〟から差し向けられた人身売買ブローカーの手でペルーに持ち込まれ、一言では語り尽くせない死闘を経てキリサメの手に渡った『
その藤太は
「筋肉が程よく悲鳴を上げる
刀身の内側に石の板を挟んだ『
一定の規則性に従って筋肉を刺激する運動器具で育てた
キリサメが目を丸くして
「バカデカい剣だけに『
「……
「今のは『
「キリーってば『ビルバンガー』の熱狂的なファンなんだぜ! オレたちがガキの頃に好きだったアニメを今の子も楽しんでるのはやっぱ嬉しいよなァ!」
「……ペルーでも放送していただけです。岳氏は余計なことを言わないように……っ!」
『
三機の戦闘機が合体して人型ロボットとなるのだが、その組み合わせによって三種の形態に変化する。草色のマントを翻しながら天空を翔け、不思議なオーラが漲った
岳が昂奮した調子で述べた『
「丁度、この場にオレたち三人だ! おいおいおい、〝グッドバンガーチーム〟を結成できるじゃねーか! オレは『ビルトーピード』を貰うからな~! 『ビルバンガーT』はどっちにするッ⁉ 藤太はイメージ的に『ビルドリラー』っぽいけどよ!」
「やはり、
「か、勝手に決めないでください! 第一、こんな禍々しい
岳と藤太は自分たちのことを『
〝ビルバンガーごっこ〟に興じた旧友たちは、暴力が支配する格差社会の最下層に
キリサメにとって『
『八雲道場』の師弟が交代で『
「もしや、これが
「……それには触らないでください。僕もまだ数えるほどしか袖を通していないんです」
『
「……進士氏の目から見ると、〝兼業〟でMMA
「まさか! 俺が世話になっている『NSB』も〝兼業格闘家〟は珍しくないぞ。世界経済が上向いていかない
『NSB』の代表的な〝兼業格闘家〟として真っ先にキリサメが思い浮かべたのは、つい先月に日本でも主演映画が封切られたダン・タン・タインであった。
『NSB』の
「MMAとの〝兼業〟に迷いを感じているのなら、〝両立〟と言い換えれば心に垂れ込めた霧も晴れるのではないか? 例えばンセンギマナ――MMA専用に
シロッコ・T・ンセンギマナ――
日本のマスメディアは『ウォースパイト運動』のテロに二度も立て続けに晒された人物という点を繰り返し報じ、キリサメもその印象を強く持っている。半月前の事件では先鋭化した思想家グループが銃乱射という凶行に走るや否や、同じMMA団体に属する仲間のもとへと駆け付け、凶弾の餌食となる寸前で藤太に救い出されたという。
二五歳という年齢から察するに
〝同僚〟の
キリサメは完全な門外漢だが、数ある義肢装具の中でもスポーツ義足は特殊性・専門性が極めて高いのであろうと察せられる。名実ともに世界最高のMMA団体で得られるデータは唯一無二といっても過言ではないほど貴重であろう。自分の後に続くパラアスリートを支える為にモニターを務めているのかも知れない。
ドレッドヘアーを荒々しく巻き上げ、
無論、このときのキリサメにはニュースや他者からの伝聞でしか知らない他団体のMMA選手と、
「ンセンギマナの場合はスポーツ義足が当て
「
「
「
「無論、
「
「良い師匠との出逢いは一生の財産だ。今、心に湧き起こった
『
これによって両手が塞がった為、口元も隠せなくなっているが、『
「――
「……進士氏にとって岳氏は〝良い師匠〟なのか、詳しく伺ってもよろしいですか?」
「……反面教師の極みということは、
藤太も三〇秒前とは矛盾する言葉をキリサメに返さざるを得なかった。
前者の師匠にして後者の養父――日本MMAの先駆者にして『
何枚もの便箋を
無神経極まりない岳の行動こそがノートを片付けておいて正解であったことの証明であろう。練習計画がまとめられたページを目の端で捉えたなら、彼は便箋よりも先にそちらへ飛び付き、かつての妻から絞め殺されそうになったことさえ忘れて
キリサメが『
「……この人のMMAに対する思いは煩わしいくらい伝わりましたから、脇目も振らずにそちらへ専念して欲しいですよ。半人前が名乗るのは不遜ですが、〝プロ〟の団体である『
「アマチュアMMAと言わなかったか、今……ッ⁉」
「アマチュアMMAの選手としてオリンピック初出場を目指すイキの良い若いのがいるんだよ。『
「仲の良い友人に向けるような台詞、僕が一度でも吐きましたか……っ?」
愛弟子から折られそうになった右肘を痛そうに撫でつつ、岳は手紙の差出人を〝日本MMAの第一号
これが
二〇一四年六月末現在、候補に挙がるどころか、協議すら始まっていない
封筒に記された県庁所在地からも察せられる通り、岐阜県の
地肌が露出しない程度に短く切り揃えた髪を茶色く染め、『ハルトマン・プロダクツ』のジャージを着ていたことをキリサメは
以前に
MMAという競技からオリンピックへの出場を目指す限り、極めて優れた
藤太が所属する『NSB』や、日本国内で開催されるMMA
MMAの発祥地であるアメリカでオリンピック・パラリンピックが開催されるときには可能性もあるだろうが、そもそも同国は近年の招致活動で
正式種目を呼び掛ける声が国際社会でも高まるという条件が全て整えば、最も早くて二〇二四年のプログラムにMMAという
MMAの歴史を紐解くと、世界を経巡って他流試合を繰り広げた
MMAの礎とも呼ぶべき『ブラジリアン柔術』の発祥地でさえ正式種目採用は見込みがないと最初から諦めていた。それこそが厳然たる〝現実〟だが、心が折れてもおかしくない状況にも関わらず、カパブランカ
限りなく岳に近い方向性で常識という枠から著しくはみ出した性格だけに思い込みの強さは尋常ではなく、MMAに対する思い入れの深さも同様に底なしであった。
一九九七年の歴史的屈辱――『プロレスが負けた日』に我が身を生け贄として捧げ、この洗礼を
『打投極』を日本で初めて体系化した偉大な
その
一通目はキリサメがMMA選手として至らない部分を一つ一つ指摘する内容だったが、読んだ相手が暑苦しさに嫌気が差すとは想像もしていない押し付けがましさはともかくとして、二度と『
便箋の端から端まで綴られた内容には、咀嚼だけで疲れるほどの熱量が迸っている。
大学でスポーツ科学を専攻している
「キリサメはこの山ほどの一通一通に返事を出しているのか? ……俺なら最初に二通目くらいで
「返事を書いている間に次の手紙が送られてくるような
「
「……ときには痛みで
キリサメ・アマカザリとカパブランカ
ここ最近はキリサメの返事を待ち切れないのか、一方的に送り付ける回数が増え続け、次なる対戦相手にして『
〝軍師〟たる
『
*
岩手興行の第七試合を受け持った日本人選手――ギリシャ文字を思い起こさせる
『
自身が経営する事務所にて〝高校時代の武勇伝〟を
〝煽りVTR〟の作成に要するインタビューの収録ということで
「――
我慢して説明に耳を傾けていれば、インタビューを受ける必然性が一つは見つけられるだろうと考えていた
彼女から「お願いだから、もう帰って欲しい」という直接的にも程がある呻き声を引き出したのは、
「ウワサには聞いてましたけど、社長って昔、ヤンチャだったんですね~」
「ちょっと待って⁉ ウワサに聞いてたの⁉ どこで⁉ 誰に⁉ いつから⁉」
応接スペースとの間には
事務所内には壁際に何台ものパソコンが設置され、一〇人を超えるスタッフが液晶画面と向き合っていた。
『
一つとしてボタンの外れていないブレザーを着こなし、模様もないスカートの裾は膝よりも下――生徒会長という当時の肩書きも含めて、その生真面目さは
しかし、隠し撮りされたものと
彼と同じ高校の学ランに身を包んだ仲間たちはこれを取り囲みながらも完全に腰が引けており、助けようにも足が動かない様子であった。写真である為、男子高校生を持ち上げた場景で静止してしまっているが、
別の写真ではスカートが
生徒会長として非行少年と接し、同じ目線で語らうべく
一〇〇人を超える仲間たちを引き連れて勝負を挑んできた隣県の非行グループを〝東京連合〟とも
俄かには信じ
「――『
社内で一度も語らなかった過去を暴露され、比喩でなく本当に頭を抱えている。学生鞄で金属バットを軽く受け止め、相手を戦慄させた写真が部下たちには最も好評であった。
「私は別に喧嘩したかったわけではないんですよ。人生を棒に振るような過ちだけはいけないとお話しをさせて貰っただけです。今さら昔のことを掘り返されても」
疲れ切った顔で腕を組む
その変化を見逃さなかった
「私に殴り掛かってきた皆さんの心持ち……ですか?
『昭和』の荒んだ時期に多用された呼び名――〝ツッパリ〟という言葉にも表れている通り、現代の非行少年も意地の張り合いに命を懸けている。かつて〝東京最強の番長〟と畏敬された
*
心の奥底に触れられるくらい非行少年たちと向き合ってきた
同じ喧嘩殺法を
「……何でもかんでも押し付けていたら、出会い頭の事故みたいな事態も起きますよね」
鞘代わりの麻袋に『
ヴァルチャーマスクが日本で闘っていた頃に記した著書――『打投極』の真髄を誰にでも咀嚼しやすいよう理論立てて解説した本である。四角いリングではなく学校の教壇に立つ〝超人〟レスラーの
これを読んで日本に
プロレスの誇りを背負って挑みながら、ブラジリアン柔術に惨敗を喫した歴史的屈辱以来、一部の心無い人々に〝永久戦犯〟と謗られ、また日本MMAの黄金期が最悪の形で崩壊した直後にアメリカへ去ったことを恨む者も多い中、岳はヴァルチャーマスクを大恩人と公言して憚らない。
そのような男が
全く同じ表紙の二冊を交互に見比べた藤太は、師匠に対して吊り上がることの多い
藤太が翳した物は一目で分かるほど年季が入っている。
「三人で一冊ずつ交換し合うのはどうだ?
「いえ、有難く頂戴します。本は〝版違い〟で内容も変わりますから、進士氏からお譲りいただいた物と手元にある二冊を読み比べて勉強させていただきますよ」
藤太から譲られた本を受け取り、三冊重ねて机上に置いたキリサメは、底抜けの
「ゆくゆくあの人はどうやって生計を立てるつもりなのでしょう。
「裕福な家に生まれたお坊ちゃんみたいなコトは
「言い換えれば、
「先立つものが無けりゃ
「先ほど伺った進士氏の話をお借りしますが、
収入面の安定性は欠くものの、一旦は〝プロ〟選手となり、MMAが正式種目に採用された時点でアマチュアに転向するという選択肢も賢明であろう。目的・経緯・出場競技のいずれも異なるが、『NSB』の所属選手であったブラボー・バルベルデもオリンピック出場を目指してMMAの〝プロ〟からアマチュアボクシングへと闘いの場を変えている。
一九八四年ロサンゼルス大会以来、本格的に商業化へと舵を切った現在のオリンピックは〝プロ〟の
〝プロ〟経験者と学生スポーツの延長が同じリングで拳をぶつけ合うことは危険極まりなく、MMAの正式種目採用を推進する諸団体でも慎重な議論が重ねられているものの、プロからアマチュアへの転向自体には邪道と批難される理由はなかった。
「その
「自分の人生を
「だが、誰かが最初の一歩目を踏み出さなければ後に続く者はない。師匠が名を挙げた
キリサメからすれば二人の意識を階下に向けさせなければ如何なる雑談でも構わず、日本のアマチュアMMAやカパブランカ
「……そうか、アマチュアMMAの火は日本で絶えていなかったか……ッ!」
想像もしていなかった激しい反応にキリサメと岳は揃って面食らったが、喉の奥から絞り出された震える声に接して落涙の理由と意味を悟った。
地上に存在するあらゆる格闘技を深刻な人権侵害と
〝
近代オリンピックで採用されたスポーツが人口に
万が一にもMMAがその恩恵に浴し、広く一般まで普及した場合、他の〝格闘競技〟と比較してもすこぶる高い暴力性によって人間の破壊本能が増幅され、これが第三次世界大戦の火種になり得ると過激活動家たちは本気で懸念していた。
無論、科学的根拠を著しく欠いた独り善がりの強迫観念に過ぎないのだが、例え虚言であろうとも強烈な背景を持つ言説は人の心に深い傷を作り、鋭い痛みと共に記憶へ刷り込まれてしまう。それによって社会の変容を図るのがテロリズムである。
『NSB』に襲い掛かったテロは、同じ『ウォースパイト運動』の過激活動家でありながら
『ウォースパイト運動』の〝同志〟たちの間で神格化されつつある『サタナス』が『NSB』関係者の同乗する
MMAとの関わりのみでテロの標的になり得るという恐怖が世界中に伝播しようものなら、アマチュア選手は一人も居なくなるはずだ。〝プロ〟のように契約した競技団体による庇護などは望むべくもなく、無防備のまま我が身を危険に晒すようなものであった。
夥しい発砲音が轟いたとき、藤太は巻き込まれた仲間を追い掛けて銃弾の只中へと飛び込み、ただ一つの命を救い出す代償として右頬を抉られている。その傷は事件から半月が経った
MMAそのものを狙ったテロが原因となってアマチュア選手が委縮してしまうことは、事件の最前線で『ウォースパイト運動』と相対した藤太にとって何よりも耐え
しかし、アマチュアMMAは忌むべきテロリズムに屈しなかった。テロ事件の後もオリンピックという夢に全力で突き進んでいた。キリサメを介して希望の灯火を手渡された恰好であり、余人には想像できない感情が藤太の双眸から溢れ出した次第である。
(アマチュアMMAがどうなっていくのか、僕には見当も付かないけれど、あの人――カパブランカ氏は曇ることなく自分が進むと決めた〝道〟を見つめるべき人なんだろうな)
試合中の
アマチュアMMAの火は日本でも消えていなかった――藤太が呟いたその一言を手紙に書けば、
あるいは藤太のほうから
「その青年に『NSB』を代表して礼を言いたい。いや、団体の名を出すのは大袈裟か。しかし、今の話をモニワ代表が聞けば、間違いなく俺と同じことを願い出るはずだ」
「モニワ氏なら、きっと進士氏の思いを尊重してくださると思います」
果たして、想像した通りの言葉を受け止めたキリサメは、深く強く頷き返した。人柄を知れば知るほど最初に抱いた
その藤太の首を左腕でもって抱えた岳は、対の手で頭を乱暴に撫で、更には握り拳で軽く小突いていく。今にも蕩けそうな笑顔で愛情を示す養父を見ていれば、〝良い弟子〟に恵まれることも人生の幸せなのであろうと感じ取れるが、キリサメの
代わりに湧き起こったのは、自分も
「――キリく~ん、私たち、これで出掛けるからね~っ! モッチー
極めて情緒的な場景に割り込んだのは、階下から突き抜けてきた未稲の大音声である。
キリサメに対する呼び掛けのみが玄関から階段まで駆け上がってきた恰好であった。委細は
返事を持たず、部屋のドアを開いて「お茶を用意してくれるんじゃなかったっけ⁉」と逆に質してくる
「……『モッチー』というのもみーちゃんの友人なのですか? ジムへの見学ですから、格闘技関係者ということは何となく掴めましたけど」
まず間違いなく
「おう!
「ああ――岩手興行を手伝っていただいたスタッフの方ですね。確かにお会いしたことはありませんが、みーちゃんから話を聞いた
「おう、その
『
二〇〇八年
「日本にも車椅子ボクシングの選手がいるのですかッ⁉」
背広の袖でもって涙を拭った
一九四〇年東京大会の返上から夏季オリンピックは〝戦争の時代〟に至って一二年も中断され、その終結後に一九四八年のロンドン大会でようやく復活した。同じ年のことであるが、
『ストーク・マンデビル競技大会』――
運営費が退役軍人の協力によって支えられるなど、酸鼻を極める戦場から帰還した傷痍軍人のリハビリと社会復帰を目的として開催された同大会のプログラムは、車椅子競技のみで構成されていた。
全世界を二つに割る〝戦争の時代〟に脊椎損傷によって生きる気力を
それから半世紀余りが経ち、〝パラスポーツの祭典〟も多種多様となったが、
ルートヴィヒ・グットマンとストーク・マンデビル競技大会の理念が育まれたイギリスや、心身にハンデを持つ人々の機会均等を法律で約束し、物心つく前から〝全て〟の子どもたちが共に学ぶ環境のあるアメリカ――〝パラスポーツとしての格闘技〟が発展する土壌が整った欧米で知名度を高め、競技大会も盛んに開催されているが、車椅子ボクシングそのものは八年前に世界初の競技団体が創設されたばかりであった。
二〇〇三年に京都のジムが黎明の鐘を鳴らした日本も発展途上の段階である。全国的な普及には一〇年という歳月でも足りず、イギリスのように大勢の選手が集う大会は二〇一四年六月末時点で一度も開催されていない。
まだ一握りに過ぎない〝新時代〟の挑戦が東京でも始まっている――アメリカを主戦場としている藤太が岳の話へ前のめりになるのは当然であろうが、目を輝かせて昂奮する姿を呆然と見つめるキリサメは、己の油断を悟って打ちのめされていた。
「さっき話した
「道なき道を切り開くとはまさしく本物の
「だったら、どうする? 未稲たちを追い掛けるぜ、藤太ッ! キリーも来いッ!」
およそ二〇分ぶりに膝から崩れ落ちたキリサメの目の前で、『八雲道場』の師弟は固い握手を交わした。
先程は「バカで助かった」とキリサメを安堵させた子どものような無邪気さが最悪の形で反転した。しかも、二人の意識を
「ちょっと! よろしいでしょうか! 車椅子ボクシングも大変勉強になろうかと思いますが、僕は今日の
未稲たちを引き留めるべく窓に向かっていく岳と藤太をまとめて釘付けにしなくてはならなくなったキリサメは、抑え
他に
悔恨と疲弊を抱えたキリサメが玄関のドアの前に座り込み、自分に嫌気が差したような溜め息と共に項垂れるのは、未稲たちが出掛けてから小一時間後のことであった。
ほんの五ヶ月前までは亡き母の遺骨を納めたロッカー式の集合墓地を
しかし、
「――違う違う違う違うッ! 師匠は
「バカ野郎、この野郎! 瀬戸際からのロープワークは無限に臨機応変だぜ⁉ 相手に退路を断ったと思わせといて、そっから形勢を引っ繰り返すのがリングの華ってコト、まさか忘れたとは言わせねーぞ! 『
「その瀬戸際を
「キリーは
「キリサメがこれから先のMMAを担う人材だとお忘れで? 『
「そこまで文句を垂れるんなら、今日限りで『超次元プロレス』を返上しやがれ! ちなみに『NSB』っつう世界の大舞台でも〝忍者レスラー〟が通用するコトを証明してくれたのは、それを肴に酒を酌み交わしたいくらい嬉しいぜッ!」
「こちらこそ恐悦至極! 鬼貫先生もお招きして吞み明かしましょうッ!」
音楽施設ほどではないにせよ、気合いの吼え声が漏れて隣近所に迷惑を掛けないよう防音壁などの対策を取っているにも関わらず、道場のほうから庭先まで遠慮なく飛び出してくるのは、岳と藤太の言い争いであった。
鼓膜が破れるのではないかと本気で心配になるような二重の騒音に耐えられなくなり、道場から逃げ出してきた次第である。
しかし、仲裁を諦めざるを得ないくらい厄介な状況を引き寄せてしまうとは、全く読み切れなかった。
鎌倉に所在する〝先輩〟
挑発行為でもって
これに対し、プロレスパンツに穿き替えて取っ組み合う『八雲道場』の師弟は『昭和の伝説』――鬼貫道明に導かれ、
藤太も他の選手が相手であれば、もう少し控えめな語調であったかも知れないが、岳との関係の気安さから意見も鋭さを増してしまうわけである。
互いの主戦場が日米に分かれたことも水掛け論の原因であろう。
四隅に立てた
同じMMAとはいえ、『
現在も『
何しろ藤太は『
それだけならキリサメも麦泉文多のように上手く取り捌けない己の不足に歯噛みするだけで済んだが、よりにもよって二人はどちらの主張が
挙げ句の果てに岳と藤太は自分たちが
支離滅裂の一言で突っ
頼んでもいないのにMMAの
ルールによって互いの命を守る〝
ただひたすらに暑苦しい『八雲道場』の師弟に付き合い続けていると、精神的に疲れ果ててしまうという不安も偽らざる本音であった。おそらく藤太の滞在中はこれが常に続くのであろう。そのように思うと、キリサメは悲鳴にも近い溜め息を抑えられなかった。
「――随分とお疲れのご様子ですね。こちらとしてはお誘いするのが楽になりますが」
項垂れたまま地面を眺めるキリサメのつむじに足音の一つも挟まず声が掛けられた。
素裸の全身を無数の蟻が這い回るような嫌悪感が一瞬にして湧き起こる声とも言い換えられるだろう。寅之助が好むものと同種の厭味であるが、慇懃無礼な物言いが
その声を認識することさえ脳が拒否反応を示しているようなものであり、瞬間的に
顔を上げると、そこには記憶の水底より引き摺り出された通りの男が立っていた。
バッジホルダー形式の警察手帳を
「電話番号を差し上げたのに一向に連絡して下さらないのですもの。寂しさが募って私のほうから会いに来てしまいましたよ」
「お前は……ッ!」
「ご無沙汰しておりました、アマカザリさん。ご健勝は私の耳にも届いておりますよ」
吐き気を催すと言わんばかりの
警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係の
薄気味悪い笑みを貼り付けた顔には極端に細いフレームのメガネを掛けており、レンズの向こう側の両目は糸としか表しようがない。
仮にレンズが透き通っていても、双眸が開いていようとも、本心などは断片的にすら読み取れまい。三ヶ月前に一度しか邂逅したことがないキリサメにまで底知れない曲者と、迎撃態勢を伴って警戒される男――それが
*
南米・ペルーは赤道近くに位置し、年間降水量は〝砂漠の国〟という印象が強いエジプトよりも更に少ない。最も代表的な例であろう『ナスカの地上絵』や
その一方で首都のリマは海に面しており、寒流の強い影響によってエジプトのような灼熱地獄とはならず、至って湿潤という変わった気候であった。
しかし、キリサメが生まれ育った
それでもサソリの生息地には含まれていないのだが、砂漠まで足を運んだ者か、あるいは観光客の荷物などに紛れて
キリサメも毒針に脅かされた経験があった。
一先ず危機は去ったので追跡は翌朝に持ち越そうと母に提案したのだが、油断して寝直したなら、その静寂を縫うようにしてサソリは再び蠢き出し、今度こそ不意打ちの毒針を突き立てられてしまうだろうと脅かされた。
八本の足で廊下を這う音も聞こえている。それこそ窮地が続いている証拠であった。
睡眠中に致死性の猛毒に冒される事態を回避する為、満足に電気を使えない
サソリは居場所を特定できている間に始末することが最善策と、その眠れぬ夜にキリサメは身に染みたわけだ。数ヶ月前まで寝起きしていた集合墓地でも足元を這うサソリとは幾度も遭遇したが、亡き母に倣って物陰に逃げ込まれるより早く踏み潰している。
少し散歩にお付き合い願えませんか――手招きを
悪だくみの一つもなく、下北沢を散策しようと訪ねてくる男ではない。
サソリの毒針と同じように正面から相対することが可能な状況であれば、嫌悪感を優先させて追い散らすより
「アマカザリさんも今は〝演劇街〟に通い詰める日々なのでしょう? この街で時代劇がどれくらいの頻度で上演されているのかは存じ上げないのですが、素人の私にも観劇が
「……僕が『
「
「どうせしらばっくれているのだろうが、僕が一緒に戦った国家警察のチームは対テロが専門だ。そういう類いの諜報活動は日本でも認められているはず。……あまり妙な詮索ばかりしていると、〝地球の裏側〟からカラシニコフ銃を構えた影が伸びてくるぞ」
「ご忠告、痛み入ります。私も果たさなければいけない〝使命〟がありますのでね。それまでは命も惜しみたいと思っています」
下北沢で暮らし始めて
街を包む雰囲気に腰が引けている未稲の気持ちはキリサメにも分からなくもなかった。工事が続く下北沢駅の周辺だけでも、明るい表情の若者たちに埋め尽くされているのだ。
日本の大地を生まれて初めて踏み締めた日――『平成二六年豪雪』によって白銀に塗り潰された新宿御苑の
これに対して下北沢で群れを成す若者たちは、誰もが青春を一直線に謳歌している様子であり、他のことに意識を向ける暇など無さそうだ。
ライブハウスが多い下北沢は、音楽を愛する人々も集まっている。ケースに収納された状態のエレキギターを肩に担ぎ、裏路地へと吸い込まれていくバンドマン風の少年は、おそらくキリサメと同い年であろう。
「……『スーパイ・サーキット』のことで厭味を言いたいのなら、もう間に合っている。お前が喜びそうな反応をしてやれないくらい慣れてしまった」
「試合の直後にはそういう気持ちがなかったとは申せませんが、少なくとも
「……ごく自然と差別意識を滲ませるような人間に警察官を名乗って欲しくはないな」
「本音を打ち明けますと、血の涙を流しながら暴れ狂った姿とは全くの別人で、二重人格者ではないかと疑ってしまいましたよ。
「……まさか、客席の
「
『
三月の長野に
その陰湿さは
「どうもアマカザリさんは同じ下北沢でも
「僕が
「アマカザリさんと年齢の変わらない若者たちが自分の好きなように着飾り、夢を目指して一心不乱に取り組んでおられる。〝ガリ勉〟一辺倒だった私には実に眩しいですね。もしも、私と同じように彼らに気後れを感じているのなら、それは感じる必要のない錯覚と
「……何が言いたい」
「わざわざ質問し返さずとも、英明なアマカザリさんは既に自覚なさっているのでは?」
「これだけは言っておく。
「真っ先に
「誘導尋問のような真似をしておいて、どの口が……ッ!」
「貴方は心が望むまま、この街の若者と同じように夢を一途に追うべきです。
「人の心を勝手に決め付けた上に履き違えるな。僕は――僕たちは〝兼業格闘家〟だ」
あくまでも格闘技を卑しめんとする
夢のみを見つめて突き進む若者たちの街とはいえ、すれ違い
大晦日の夜に格闘技
『
『スーパイ・サーキット』によって引き起こされたリングの破壊と凶悪極まりない反則負けが知れ渡っている為か、『
カラオケ店や食堂が軒を連ね、
七月の足音が間近まで近付き、道
一方のキリサメは『八雲道場』のロゴマークが刺繍されたジャージ姿であり、脱いだ上着を腰に巻いている。清涼な潮風が吹き抜ける出稽古先の鎌倉とは違って纏わり付くような暑さの都心では、半袖から熱を逃がしていないと蒸れて仕方がなかった。
尤も、キリサメと似たような服装はこの街では珍しくない。土曜日の部活動帰りに下北沢に立ち寄ったものと
〝演劇街〟の風景にも良く馴染んだ出で立ちの少年と連れ立っている分だけ
「……見ているだけで
「そうやってアマカザリさんが突っかかって来られるから、何時までも本題に入れないのですよ。そうまでして私と談笑していたいのでしたら、やぶさかではありませんがね」
「お前以外には過不足なく通じているから今日まで気付けずにいたが、ひょっとすると僕の日本語、相当にデタラメなのか?」
「本日はアマカザリさんに〝事件予告〟をお伝えに伺った次第ですよ」
「はァッ?」
〝小劇場演劇の聖地〟としての歴史を感じさせる風情が味わい深い小劇場の正面玄関から出てきた観客たちは、予想外としか表しようのない〝本題〟に双眸を見開いたキリサメの素っ頓狂な声に驚き、じっくりと噛み締めるつもりであった
律儀にも一人々々に
「余談と申しますか、付帯情報と申しましょうか。
改めて
公平中立が求められる警察官としてあるまじきことであるが、
〝
しかし、『
あるいは『
「流れで伺いますが、アマカザリさんは『ユアセルフ銀幕』は嗜まれます?」
言わずもがな、
文字通りに嗜む程度であるが、『NSB』の
「昨年辺りから『ユアセルフ銀幕』に〝迷惑動画投稿者〟が増え始めましてね。ニュースでも
「話題作りになるのか、それは? 素人の僕には逆効果としか思えないが……」
「有名人の
今まさに『スーパイ・サーキット』を実例として思い浮かべていたキリサメは「アレは〝黒幕〟が仕掛けた情報工作だから、比較対象にならない」と腹立ち紛れに言い返した。
「
「つまり、刺激的な内容で大衆の反響を引き出せば、それに見合った金額が懐に入るというわけか。過激化の引き金としては十分過ぎるな」
演劇スタジオに差し掛かったとき、
そもそもキリサメは動画配信サイト自体に詳しくはなく、〝一般〟の投稿者も『ユアセルフ銀幕』にネットニュースのチャンネルを開設している
日本で迷惑動画投稿者が急増し始めたという昨年は、格差社会の実態を取材するべくペルーを訪れた
『ユアセルフ銀幕』は一般人と企業の別もなく誰でも
「いずれは
「……半グレ?」
「非行少年グループとヤクザの中間みたいな犯罪者集団ですよ。古くは〝ツッパリ〟と呼ばれた非行少年より凶悪な一方で、
〝半グレ〟という言葉は耳慣れないキリサメであるが、
集団と個人の
『
「……察するに密造銃関係の疑いが持たれている
「仰る通り、仲間の半グレが取り仕切る
小さく短い呻き声を洩らしながら、またしても双眸を見開き、次いで不機嫌の三字を顔面に貼り付けたキリサメに
この男は意地の悪い弁舌を駆使して意図的にキリサメの
「おやおや、ご存知ではない? 醜い自己顕示欲から『デカいコトやってやるゼ団』と書いて『ジャックポット・ビッグゲッター』とフリガナを添える――それがアマカザリさんのお友達と対抗戦を執り行う相手の
「……『
陰湿としか表しようのない調子で肩を揺らし、喉の奥で笑う
しかし、対抗戦の相手については電知から教わった
『
団体代表のヴィクター
それを事件化して『
「アマカザリさんの目には二つの
注意していないと聞き漏らしてしまうほど重低な声で吐き捨てた直後、
写真撮影のスタジオも併設している為か、狭い路地に押し込まれたかのような
*
貸衣装店の
通り沿いの全面がガラス張りである為、
下北沢で時代劇を上演する場合、多くの劇団はこの店で衣装や小道具を準備しているのだろう。扱う品が充実しているだけでなく、着物の裾が擦れて痛まないようマネキン人形の台座は畳を敷いた上に設えられているのだ。隅々まで行き届いた気配りを一目見れば、客から寄せられる信頼の厚さも感じ取れるのだった。
口に出して真意を確かめようとも思わないが、貸衣装店の雰囲気からリングの〝外〟で生きる人々との関わり合いを意識させ、キリサメ・アマカザリという少年が居場所として定めるべきは野蛮な格闘技などではなく
「都内の
一階を見て回る
キリサメからすれば友人たちを人質に取られたようなものであるが、その〝事件予告〟に『
「わざわざ半グレとやらを強調したということは、『
「マスコミが無責任に触れ回った影響なのか、違法なスポーツ賭博全般が一まとめで『トトカルチョ』と呼ばれていますが、本来、それはサッカーのみに限定する
「手緩いというより怪しいな。
「美味しいモノは後で頂くタイプでしてね。何しろ〝一人っ子〟なので、ええ」
あるいは
心の奥底から湧き起こった痛みに見悶えるかのような
「……半グレ集団は賭博行為の隠蔽工作が巧く、なかなか尻尾を掴めませんでね。例の男の身柄を確保して芋蔓式で突き崩そうという寸法ですよ。そのほうが『
団体が壊滅すれば『
発祥地のブラジルでもMMAに近い形で安全性の高いルールが整備された
これに対して『
抗争状態にある非行少年グループの代表者たちを集め、
「路上の腕自慢を集めて
命の
『
出場するだけでも注目を集められることから、近頃は格闘技未経験という〝迷惑動画投稿者〟が参戦することも増えてきた。試合の勝敗などに関心はない。対戦相手を挑発する
大会出場権が決定される公開形式のオーディション企画でも候補者たちが罵声の浴びせ合いから乱闘騒ぎを起こしたのだが、そのような動画ほど再生回数が跳ね上がる。社会通念に反した振る舞いを面白おかしく
承認欲求に餓えた選手たちに快楽を与えながら、話題性によってもたらされる動画収益を〝元締め〟の半グレが吸い上げるという構図である。歪んだ自己顕示欲の成れの果てに対する理解を促す為、
格闘技を金儲けの手段にして
そして、そのような相手に立ち向かうときこそ空閑電知は野性を剥き出しにする。格闘技を直向きに愛する魂も親友の美徳とキリサメも認めているが、犯罪者集団に対しては裏目に出てしまう可能性も高く、それが為に心配でならないのである。
中世日本の
『ミトセ』と名乗る拳法家との〝
これを
「どうやら中学校に
「……幾らなんでも冗談だろう……?」
「本人が出場を希望したのか、親の見栄っ張りに利用されたのか。万が一にも試合
「皮肉を飛ばしている場合か⁉ 先手を打って止めなければならない虐待じゃないか!」
「……アマカザリさんが共同戦線を張った対テロの専門家チームならいざ知らず、日本の警察は事件が起きた後にしか現場に踏み込めないものですよ。ご批判は甘んじて受けますけれど、その基本原則はペルーもきっと同じではありません?」
「はした金で無罪を売るような腐敗警官と一緒にして貰って嬉しいのか、お前は」
下腕に
格差社会の最下層に生まれ、暴力を
その一方で、例え〝富める側〟であろうとも幼い子どもから生きる糧を奪い取ることはなかった。無論、自分を狙う〝敵〟として現れたときには二度と同じことを考える気が起きなくなるほど徹底的に返り討ちにしている。
それ故、義憤を燃え
例え本人の強い希望であったとしても、
その顔に
「合同大会の共催相手から一人でも犯罪者が出れば、貴方のご友人たちも対抗戦自体を考え直すかも知れませんよ? 警察も団体内部に切り込みやすくなりますし、そんな状況では誰が
揺れ動く心を見透かし、食い付かずにはいられない〝餌〟を示すという
「銃器の密造・密売まで行ったら〝組織暴力予備軍〟どころじゃない。テロ対策を専門に扱う部署の出番だろう。まるで捜査の主導権を握っているような口振りだが、本当は勝手に首を突っ込んでいるだけなんじゃないのか?」
「私は特別に許可を頂き、遊撃隊よろしく単独捜査を受け持っているのですよ。コロンボ警部を想像していただけると分かりやすいのではないかと」
「物は言いようだな。お前の場合、どうせ仲間外れに遭っているだけだろう。確かに『刑事コロンボ』も
キリサメの推察通り、反社会的勢力を含んだ組織犯罪の取り締まりは、捜査一課とは異なる部署が受け持っている。その〝組織〟がテロリズムや反政府的な性質を有している場合には公安部が出動する。
それにも関わらず、捜査一課所属の刑事が組織犯罪対策部や公安部への協力でもなく、独自に〝暴力装置〟の壊滅に狂奔している。こうした警察内部の〝縦横の繋がり〟など知る由もないキリサメでさえ『組織暴力予備軍対策係』の名簿に
捜査一課の誰にも制御できなくなった結果、二〇代半ばにして閑職に追いやられたのであろう――事件捜査の前にキリサメは
無論、この程度の当て擦りでは
存在自体が厭味という二字で出来ているような人間に同じ手段でやり返しても更に腹立たしい反撃に遭うのみと、瀬古谷寅之助との付き合いを通じて知っていたはずだ――そのように己に言い聞かせたキリサメは、やり場のない憤懣を溜め息に乗せて吐き捨てた。
「その推理力を生かさない手はありませんね。ここから先は謎解き形式で話を進めるとしましょうか。是非とも張り切ってくださいね」
「ふざけるのは季節感を無視した厚着だけにしろ。国家警察に入り浸っていたわけじゃなくても、〝事件予告〟は遊び半分で扱って良いモノではないコトくらい分かるぞ」
「私のほうから一方的にお話ししているだけでは、アマカザリさんも張り合いがなくて飽きてしまうでしょう? お互いに空白の時間を作らないのが楽しい会話の秘訣ですよ。これから〝何〟が起きようとしているのか、頑張って見破らないと大事な人たちにも不幸なアクシデントが降り掛かるかも知れませんからねぇ~」
一等鋭い眼光を叩き付けることによって、警察官にあるまじき悪ふざけを食い止めようと試みるキリサメであったが、
心の底から
寅之助が
「話が前後してしまいましたが、拳銃の密造とその密売の容疑者は、少し前まで歌舞伎町で〝ホスト格闘技〟に出場していた
「問題を起こして居場所がなくなり、犯罪組織に拾われるという落ちぶれ方は万国共通らしい。
(……三人掛かりなら力ずくで帰ってもらうのも難しくはないが、警察手帳を盾にされたら厄介な
追い詰められた人間が反社会的勢力に助けを求めたことも、密造銃に関する嫌疑が掛けられたことも、矛盾なく繋がる――眉間から頬までを覆う
「ホスト崩れとやらは元々の居場所を追われる
「これから続けるつもりだった
「
「それを激しく追及された末、
「そして、
「手先だけは称賛に値しますよ。実物ではなく写真でしか拝見できませんでしたが、脇に抱えるバッグの内側に仕込んで撃つ隠し武器のような物を
バッグの金具の一部が開閉し、そこから現れた銃口で撃発するという仕組みを解説されたキリサメは、暗殺に最適化した銃器と感じている。
一方、ホスト崩れが拵えた密造銃は一撃必殺に特化しているはずだ。何より不意討ちや騙し討ちを目的とする銃は一撃離脱が前提となる。その特性ゆえに利便性が高いようで使用できる機会や状況が却って狭まるのである。バッグの種類と大きさから推察して、
「一般人にはセカンドバッグと銃器の区別が付けられなくても、私たち警察は目撃情報などから既に特徴を割り出していますからねぇ。〝決定的な証拠〟を小脇に抱えて出歩くというコトは、『自分が犯人です』と大声で自供して回っているのと同じでしょう。発見などは時間の問題――ですのに、長らく身柄を確保できずにおりました。どこに逃げていたと思います? ちなみに潜伏先のご近所に発砲音を聞かれてしまうような間抜けはしておりませんでした。小器用な人間は得てして小狡いものです」
鼻先へ餌のように差し向けられた〝事件予告〟は、高い違法性にも関わらず密造銃との関連が薄いのかも知れない。
「私のような紳士は口に出して説明するのを憚ってしまうのですがねぇ。骨の髄まで〝盛り場〟にどっぷり浸かった人間が最後に
「
「惜しいところまでは来ていますよ。もう
「ホスト崩れが雲隠れする前後に病院に罹った客……か」
胴と腕に装着した防具との組み合わせを考慮し、眉間の部分が
これを被りつつ並べられた推理に対し、
「僕が戦ったのは改革の幻想に溺れたテロ組織だ。そんなヤツらにも匿ってくれる協力者がいた。犯罪者ではなく〝
「自発的な協力でなければ、力ずくで言いなりにさせている――そのように続けたいのですね。私がお話を伺ったとき、ホスト時代からお付き合いのあった女性たちに暴行の痕跡は確認できませんでした。眼鏡が不安を煽りそうですが、それを見逃すほど節穴ではないつもりですよ。この点にもう
キリサメの言葉に耳を傾ける
一方のキリサメも逃亡先を割り出す手掛かりを求めて幼馴染みが惨死した日を想い出している為、その
『七月の動乱』に
「
「……それで病院に罹った客に焦点を当てたのですか。声なき悲鳴へ耳を傾けるように」
「患者の状態に犯罪性を感じ取った場合、医療機関は警察に連絡を入れると世話になっている医師から教わった。……しかし、腹や胸の
「逆らうことが許されない状態ですと、そもそも病院に行きたくても行けないのでは?」
「そのときはお前にも一目で分かるくらい
「……そして、その痛みが正常な感覚を麻痺させ、被害者を絶対服従させてしまうわけですね。密造した銃を突き付けるのは一過性の恐怖ですが、痛みは延々と骨身に響いて絶望感を膨らませる――銃口の前に立たせて脅すよりも精神的な支配には効果的でしょう」
逃亡・隠避の協力者として目星が付いている人物の通院先で成果が得られないのなら、普段から利用しているドラッグストアなどに
「アマカザリさんは本当に面白い方だ。格闘技などから足を洗って私と組みましょう。非常勤扱いになりますが、貴方一人を警視庁にねじ込むくらいは何とかしてみせますよ」
拍手を
何者かの
羽虫が耳元で飛び回るような不快感が湧き起こる一方、
警視庁内での孤立という〝敵〟の弱点を見つけた恰好であるが、同じ真似などしたくもないキリサメは、拍手を終えた
何より格闘技を犯罪同然の〝暴力〟と蔑み、否定することしか考えていない
「顔も知らない人間を心配してやる義理もないが、例の男は無事なのか?」
「逃亡に協力させられた方々の被害を言い当てたのと同じ口で、容疑者の安否まで気遣うとは。アマカザリさんの慈悲深さを知ったら、奉仕の精神に富んだヴァルチャーマスクさんも感動の拍手を惜しまないでしょう」
「歌舞伎町のホストクラブに身を置いた男だろう。ホスト格闘技にも出場していたと」
「有名店が
キリサメの思考を惑わせる為、意図的に明言を避けてきた様子であるが、密造銃の容疑者は既に警察が身柄を押さえているとこれで確定した。
つまり、逃避行とその経路も
これまで以上の不信感を募らせながらも、キリサメは
「歌舞伎町について無知にも等しいから、
「歌舞伎町は実際に〝横の繋がり〟がとても重い意味を持つ場所ですよ。あの一角には東京都とは別の社会があるようなものですから。利害関係が食い込んでいることもあって、仲間意識という美徳では片付けられませんがね」
「そこも似ているな。仲間意識だけで終わらないということは、自治体制のルールに反した裏切り者は自分たちで
元々の所属先が私的制裁に打って出るという暴力的な発想がキリサメの口から飛び出しても、
「
「
「小さな綻びが大きな損失に直結するなら尚更だ」
「着眼点は悪くありませんよ。あの街のネットワークをフルに駆使すれば、我々より先に逃亡先を探り当てることも簡単です。しかし、『
「ホストクラブとしての建前と、歌舞伎町で生きるホストたちの気持ちが一緒とも限らないはずだ。僕が電知から教わった話によれば、ホスト格闘技は猛者揃いだ。そのホスト崩れとやらは、警察に突き出されることよりも、裏切り者が迎える末路に恐れをなして逃げ回っていたんじゃないか?」
「ホストという仕事に泥を塗った裏切り者への個人による制裁は、
背中で受け止めているキリサメの推理に
フロックコートと
「結論から述べますと、アマカザリさんの推理力に惚れ直しましたよ。私には手錠を掛ける機会は巡って参りませんでね、例の男は新宿警察署が身柄を確保しました。正確には袋叩きに遭ったような姿で正面玄関付近に転がされているのを発見されたようです」
殆どの歯が折れた口にバッグから引き抜かれた銃身を咥えさせられ、その銃口には丸めた設計図が無理矢理に突っ込まれていた――
キリサメも新聞やテレビで毎日のニュースを確認しているが、
依然として
「答え合わせに写真を見せろとは言わないが、全身の至る所に蹴りを入れられた痕跡があるはずだ。数人掛かりで踏み付けられたのではなく、きっと靴の種類は一つだけ」
「……先程は冗談半分でしたが、少しだけ本気でアマカザリさんを警視庁にスカウトしたくなりましたよ。まさか、ホスト格闘技にも詳しいとはね。随分と勉強されたご様子で」
無数の蹴りを喰らったものと
僅かばかりの情報を与えられただけの少年が歌舞伎町という事件の〝背景〟を深く理解し、犯人の末路まで正確に言い当てた事実に何とも
「歌舞伎町のホスト格闘技といえば『
「そもそも良識ある方々は野蛮な私的制裁に走らず、犯罪捜査は警察に委ねるもの――という
「まさかとは思うが、善意で重罪人を突き出してくれた協力者が暴行罪に問われることはないだろうな。僕の経験上、〝表〟の社会から切り離されたコミュニティに泥を引っ掛けるような真似は、人里離れた山奥で後悔する羽目になるぞ」
「事件自体が私の手を離れている以上、確定的なことは申し上げられませんが、新宿署で内々に処理されると思いますよ。
それにも首を頷かせた
似つかわしくないくらい強張った顔は、それ自体が何らかの〝事件予告〟と受け取れるわけだ。歌舞伎町で生きる人々へ思いを馳せている最中の変調だけに、今度の事件の直接的な当事者であるホストクラブやホスト格闘技の
足を踏み入れたことがない歌舞伎町がそこまで気に掛かるのは、以前に親友の電知が一人のホストについて熱弁を振るい、彼の
(電知の友人だったら、仮にトラブルが押し寄せてきても残らず蹴り返すと思うけどな)
半死半生という状態のホスト崩れ――即ち、歌舞伎町の裏切り者を新宿警察署まで引き摺っていったのも、電知から教わった
小柄な電知とはまた微妙に違う形で幼さを残し、不意に視界に入ると女性と見間違えてしまう甘い蜜のような顔立ちの青年は、『サバット』という格闘術の使い手であった。
発祥地であるフランスでは『サファーデ』とも発音し、暴風雨の如き蹴り技を主体としていた。打撃系立ち技格闘技団体『
適性のサイズより二回り上の物を間違えて選んだとしか思えないほど幅広で、風を受けて波打つと裾から逆巻く炎の刺繍が一等映えるズボンを穿き、左右の脚を振り回して風を切り裂くその青年は、
キリサメが目にした
〝サバキ系空手〟の先駆けたる『
腕自慢のホストたちが歌舞伎町から集まり、
写真で見る限りでは変声期を経ているのかも分からないが、成人式は数年前に済ませており、ホストクラブへの勤務に差し障るモノは一つとしてなかった。
容疑者が嫉妬を仄めかした相手と同一人物であろうとも察せられた為、キリサメは
『
電知との
タンクトップとズボンの僅かな隙間に覗いた腹筋などは、『
『
光の当たり方や染料の落ち具合などから梅桃桜のいずれにも見える
春風を映したかのような
本人なりのこだわりなのか、〝何か〟の強い念が込められた物なのか。右側の横髪は半ば辺りに一目で女物と判るレースのリボンを結んでいた。
「いずれにしてもアマカザリさんには好都合でしょう。私としては共倒れのほうが余計な手間も省けて好都合だったのですが、
「暴力に訴えて人に言うことを聞かせた手口は似ていなくもないが、自分は何をしても許されると本気で信じていた
「……今、何と……?」
「インパラ
格闘家が暴力で他者を屈服させた事件について、
当時のフライ級
もう一方のインパラ
余りにも残虐な家庭内暴力に耐え兼ねた家族から警察に通報があり、逃避行の末、やはり恫喝によって協力を強要していた恋人の
未稲がパソコンの
テレビ局と所属ジムが虐待の事実を逆境克服の美談に歪め、この〝物語〟に基づく国民的英雄として祭り上げられる中で、
インパラ
そこに他意などはあろうはずもなかった。
この場に
レンズの向こうに初めて覗いた瞳は、自他の感情を吸い込んでしまうほどに酷く
「……随分と勉強なさったご様子ですね……」
「お前が
先程と同じ言葉を繰り返しながら
「結局、お前の悪ふざけに付き合わされただけのくたびれ儲けか。餌みたいにぶら下げてきた〝事件予告〟なんか
「切れ味鋭い推理力とは裏腹に案外と
「
「……ほう? その
相容れない〝敵〟の
今し方の口振りでは、あたかも『
一方の
「クイズ番組の締めくくりには正解者へのご褒美が欠かせません。賞金一〇〇万円や豪華海外旅行の代わりに、とっておきの情報を差し上げると致しましょう。アマカザリさんが
「熊本のことなら聞き捨てならないが、……ここまでの全部が僕にろくでもない〝何か〟を吹き込む前の余興みたいに思えて不愉快だな」
「
「その希更氏の生まれ故郷というくらいしか熊本のことは知らないし、何より話が大き過ぎて殆ど意味が掴めないが、
「この平和な日本で〝暴君〟と呼ばれる樋口さんに庇護されるアマカザリさんなら、体感として
〝寝耳に水〟という状況でもあり、『
日本MMAの黄金時代を共に支えた
支配的な上下関係や、昭和の〝スポ根〟ブームの成れの果てとも呼ぶべき根性論などを根絶やしにするべく『
『
「堕落する一方の
「……今のは『
一七年前――即ち、一九九七年はワインの〝当たり年〟であり、この年に作られたシャンパンも評価がすこぶる高い。日本MMAの失墜を
一九九七年は日本のリングに
「
「先程も言ったでしょう? 〝一人っ子〟は美味しいモノを後に取っておくと。私が薄汚い
「統括本部長の
「――おう! だから! オレたちもご一緒させてもらうぜッ!」
何者かの大音声が天井に跳ね返った直後、朱塗りの鞘に納められた一振りの
その
数多の鎖が擦れ合う音を引き摺りながらフロックコートの裾を鋭く
とうとう『
穏やかならざる会話を長々と続ける二人を遠巻きに見守っていた店員や、いずこかの劇団に所属しているものと
鞘を肩に担いだ状態から刃を抜くという
「私もこれを〝犯罪予告〟と申し上げたつもりはなかったのですがねぇ。東京都の迷惑防止条例か、公然わいせつ罪か、どちらで現行犯逮捕するべきか、悩ましいところです。いずれにしても明日のスポーツ新聞は大盛り上がりですね」
一方の
先程の大音声から八雲岳その人であろうと既に察していたのだが、プロレスの異種格闘技戦から
この
「――自分たちは正当な
キリサメと岳に意識が向き、
剥き出しのまま脈打つ胸板などを
苦笑いを引き摺りつつキリサメと向き直った
「お前と『八雲道場』の庭先で話しているとき、途中から二人の言い争う声が聞こえなくなったからな。
「もっと言ったれ、キリー! オレたちゃプロレスラーであるのと同時に忍者だぞ?
「なかなかどうして……アマカザリさんも食えない方ですね」
「僕のことを不用心だとか小馬鹿にしてくれたが、これでも気を緩めた瞬間に撃ち殺されるような環境で生きてきたんだ。知ったかぶっていたクセにお前は
先程からキリサメの皮肉と併せて風を切り裂くような音が
キリサメが突き出し続ける
軽い材質とはいえ、鎌の取っ手の底から伸びている鎖は金属製なのだ。そして、鎖鎌は〝
「
「ぬけぬけと良く言うぜ、
「久方ぶりに顔を合わせたというのに仰いますねぇ。
「道すがら師匠にお前のことは教わった。……
「何だって構いませんよ。この男は『ウォースパイト運動』と大差ない〝敵〟です。『NSB』を襲ったテロリストと同じ過激思想に染まっていると見て間違いありません」
『
しかし、改めて本人と向き合ったことで、
階段を降りるのも面倒とばかりに二階の手すりを飛び越え、縦回転を経て一階に着地した岳は、面と向かって
この前後にレンズの向こうの双眸が再び開かれたが、それが『ウォースパイト運動』という罵声への反応であったのか、岳から〝一人っ子〟という嘘を暴かれた瞬間に心の奥底より湧き起こった〝何か〟であったのか、余人には推し測る
「規模の大小と関係なく、公権力が特定の活動を攻撃し始めたら、それは弾圧以外の何物でもない。正気を疑うのは当たり前だ」
銀箔が貼られた木製の刀身を朱塗りの鞘へと納めながら、更なる面罵を重ねたキリサメは
そもそも、眼前の〝敵〟が〝一人っ子〟であるか否かなど関心すら持たないのだ。
「……大型連続時代劇から飛び出してきたように
またしても脈絡なく
翻せばそれは、格闘家など今すぐに辞めるべきおぞましい存在とする持論だけは一歩たりとも譲るつもりはないと、キリサメに宣言したようなものであった。
「
「ようやく絞り出したのが月並みな説得とは、底意地の悪さも種切れのようだな。希更氏や愛染氏がお前の皮肉を全て最初から否定している。ダン・タン・タインの
「ちなみに
「僕たち〝現代の格闘家〟にとって〝兼業〟は当たり前のことだと心得ている。幾つもの経験を組み合わせて、初めて掴めることだってある。
「親子愛でやり返されてしまうと、何を申し上げても私のほうが悪者ですねぇ。後悔先に立たず――早い内に覚悟を決められますようもう一度だけ
つまるところ、
現役として活動できる期間が限られてしまう格闘家とは異なり、
「覚悟もなく〝兼業格闘家〟は名乗らない。僕は『
数多の先達が示してくれた〝道〟こそ己が生きる場であると、キリサメは強い光を湛えた双眸で見極めている。もはや、
キリサメの双眸は
*
キリサメ・アマカザリにとって
異種格闘技戦という〝道〟を拓いた
車椅子ボクシングの練習を見学しようと友人と一緒に外出していた未稲が帰路にて買い出しを済ませ、アメリカでの
藤太の滞在については事前の連絡がなく、準備不足もあって大した
キリサメからすると腹立たしくなるくらい未稲の気遣いは藤太の胃袋を直撃したようである。大根と白身魚の煮付けや鶏のから揚げ、肉じゃがに焼き鮭、豆腐の味噌汁など〝日本の味〟を前にした
「懐かしい未稲の味だよ。なんだか……本当に帰ってきた気がするなぁ……」
「わ、私を褒め殺してどうするんですか~」
「そうだぜ、感謝されるならお前を誘ったオレだろ! 帰ってきて良かっただろ⁉」
「俺は未稲のメシに感動してるんです。師匠が割り込んでくる余地なんかありません」
大喜びで一品々々を頬張る藤太を見つめて、未稲は身体を揺すりながら笑うのだった。
二人のやり取りからも察せられるが、藤太が『八雲道場』で暮らしていた頃から未稲は台所に立っていたわけだ。彼がいつ帰ってきても良いように茶碗や箸なども捨てずに残してあり、使い慣れた食器が運ばれてきたときなど藤太は感動で声を詰まらせていた。
「しっかし、マジで美味そうに食うじゃねーの。向こうにも日本食の店は多いだろ。おまけにオレを除け者にして、帰国の
「未稲のメシは俺にとって〝お袋の味〟みたいなモンですから」
「ちょっと~。
「その〝バブみ〟とやらは分からんが、物の
懐かしい
八雲家の食卓に三人分の椅子が置かれているとして、自分はその内の一脚をただ貸し出されていただけで、本来の持ち主が帰ってきた途端に押し出されてしまった。ここを居場所のように思ってはいけなかったのかも知れないと、未稲の笑い声が鼓膜を揺さぶる
決して口には出さないが、彼にとって何より面白くないのは未稲の態度である。
再会の直後は照れ臭さがあって受け答えも躊躇いがちであったが、夕食が始まる頃には昔の感覚を取り戻し、冗談を飛ばし合うようになっている。その合間に恥じらったように藤太から顔を背けており、この反応がキリサメの顔を引き
彼女の顔を林檎のように彩るのは、感情の発露ばかりではない。紅が差された唇など過去に見た
それはつまり、少しでも綺麗な自分を見せたいという意識が藤太には向けられるということである。このような未稲をキリサメが微笑ましく見ていられるわけがなかった。
普段は奇妙な
(……普段、我慢している分、気持ちが昂った瞬間に大きく弾けるのだとしたら、とやかく言う資格なんかこの場の誰にもないのだけど……)
八雲家の食卓に接するキリサメの胸中には、ドス黒い
進士藤太が『八雲道場』を離れたのは、日本MMAの黄金時代が終焉を迎えて間もなくの頃であるという。彼や養父、ヴァルチャーマスクといった異種格闘技戦以来の有力選手が旗揚げ当初から参戦し、〝格闘技バブル〟を担った『
その頃の未稲はようやく一〇歳になったばかりである。つまり、『八雲道場』の一員であった藤太に食事を用意したのは、それよりも更に幼い頃ということになる。
母一人子一人の家庭環境であった為、キリサメも出来る範囲で家事を手伝っていたが、おそらくはたった一人で炊事洗濯を切り盛りしてきたであろう未稲の場合は、本来ならば自分の為に使うべき時間も労力も家族に捧げてしまったわけだ。
キリサメを新しい家族に迎えてからは家事も分担制に切り替わったが、それでも勝手が分からない移住当初は、食事当番すら未稲に頼り切っていたのである。
ブラジリアン柔術の道場に異種格闘技戦を挑み、その惨敗が火種となってヴァルチャーマスクがプロレスの〝誇り〟を賭した頂上決戦に駆り出され、その果てに大恩人に〝永久戦犯〟の汚名を着せてしまったという負い目がある岳は、残りの人生を日本MMAの為に使う覚悟で四角いリングへ臨んできた。
一方の
岳も嶺子も、その性格からして家庭のことを省みるとは思えない。多忙を極めていたことも十分に察せられるのだが、だからといって、それを幼い未稲に犠牲を強いる理由にしてはならないはずだ。それこそ大人の責任として
一〇歳にも満たない我が子に甘えてしまったという〝事実〟は、岳の
五ヶ月近く共に暮らす中でキリサメも薄々と気付いていたが、離婚によって八雲・表木の二家に別れてからも繋がりが深く、良好な関係を保っている一方で、岳と嶺子の間では家庭というものがそもそも成り立っていなかったのであろう。
キリサメも家族の在り方など
「――お父さん、食事中のテレビはダメだっていつも言ってるでしょっ!」
「
今まで意識していなかったことが進士藤太という存在を挟んで次々と浮き彫りになっていく――その分析を進める内に、食事の最中でありながら口を真一文字に結んでしまったキリサメとは対照的に、上機嫌でビールを呷る岳がテレビのリモコンを操作し始めれば、未稲と藤太は声を揃えて注意を飛ばすのだった。
息の合った姿にも在りし日に育んだ絆が感じられ、不貞腐れた気持ちがぶり返しそうになるキリサメであったが、贔屓にしているトリオ芸人がテレビ画面に登場した為、聞き分けのない子どものようにそっぽを向くのを踏み止まった。
しかも、その三人と共に『
大食いで名を馳せた
共演するトリオ芸人の内、リーダーの男性は自他共に認めるMMA好きであり、レオニダスの大ファンも公言している。番組内で彼を迎えるや否や、『スーパイ・サーキット』で一躍有名になった
「――オレはキリサメ・アマカザリのことを魂のブラザーだと思ってるんですよ。今風に言うとソウルメイトかな? 深いふか~い共鳴で結ばれてっからブラザーの弱点だって一発で見破っちゃいましたしね。〝ゲームチェンジャー〟とか持て
次戦への意気込みを
人間という種の限界を超越する
「……『
その問いかけは、岳がずっと自身の
〝新人いじめ〟という批判が起こり兼ねず、ともすれば
師匠がテレビの電源を入れた理由を悟り、茶碗のフチに箸を置いた藤太は「正直、自分のステータスを安売りする意味が分かりませんね」と率直に答えた。
「今度の対戦カードはアメリカでも話題になってますよ。タファレルのブラジル時代からの
「この間、
「
『NSB』の現代表であるイズリアル・モニワは、MMA自体を見世物としか考えていなかった
話題性だけで〝格闘競技〟を捉えず、新時代の〝スポーツ文化〟という矜持を持っている証左であろう。MMA団体の代表としては、
「タファレルの宣戦布告はVTRで見ましたが、『NSB』ならば、あれは場を盛り上げる余興にしかなりません。例え選手同士が乗り気になっても実際には各々のステータスに見合った対戦カードが組まれます。個人の趣味に付き合うほど客も甘くはありません」
決して安くはないチケット代を払ってまで足を運んでくれた観客を満足させられなければ開催する意味もないという〝
そもそも、自己主張が強い選手たちの勝手を許していては、MMA
「ブラザーなどと尤もらしく聞こえる理由を付けていましたが、表に出した建前とは別の思惑を隠していると見て間違いないでしょう」
テレビの画面内で芸人トリオをからかうレオニダスを指さした藤太は、「俺の見たところ、他の誰よりも
「
「人好きのする顔を作っておいて、腹に
今季の新商品というフルーツサンドを美味そうに頬張り、「負け犬はこ~ゆ~幸せも
「だから、お前に意見を
「何も分からないときは、当たって砕けるしかないんじゃないですか」
意外としか表しようのない言葉に驚いた岳が藤太の横顔を窺うと、愛弟子はテレビ画面へ視線を注がせながら口元に不敵な笑みを浮かべていた。
「八雲岳という男は何時からそんなにクレバーになったのですか? 誰も師匠に頭脳労働など期待してはいませんよ」
「……バカはバカなりに考えてんだよ、大事な
「
「……勝負すんのがオレ自身ならそれで良いけど、
迷いが生じているところに「自分らしさ」を愛弟子に説かれた岳は、悪態を
「無論、忘れるわけがありませんよ。だから、オレはあの
キリサメが
露骨としか表しようのない行動は相手をいたずらに刺激するだけであり、未稲も「何なんですか、今の」と訝るような表情で首を傾げた。
「……何でもない。未稲が気にすることではないんだ」
「ふぎゃあっ⁉」
「――あッ⁉ す、すまん!」
謝罪を述べつつ無意識に未稲の頭を撫でた藤太は、自分のしていることに気付くと慌てて手を引っ込めた。彼女を宥めようとする際、子どもの頃と同じやり方で接してしまったのだ。一七歳に対して、それは失礼以外の何物でもあるまい。
「と、藤太さんのばかぁ……」
子ども扱いされたことが恥ずかしかったのか、それとも別の感情が働いたのか――未稲は藤太に撫でられた箇所へ自分の手を添えつつ、満面を真っ赤に染めて俯いてしまった。
悲鳴を上げた拍子に未稲の丸メガネは吹き飛び、放物線を描いてキリサメの頭頂に落下した。その一部始終を見せ付けられた彼は
「……僕の試合を心配してくださるのは
キリサメの手元では箸が豆腐の味噌汁を掻き回す勢いが一層増している。レオニダスの思惑を推し測らんとする『八雲道場』の師弟に対し、自分でも抑えられないほどの刺々しい調子で『
改めて
岩手興行の
その熊本興行が無事に開催を迎えられるのか、全く見通せなくなってきた。
天下無双の大剣豪・
通すべき筋を踏み
時代錯誤な〝挙兵〟などと笑い飛ばすわけにはいかない差し迫った状況であった。
東日本大震災のチャリティー大会として旗揚げした『
岩手興行まで開催先の企業や行政、地方プロレス団体との協力体制を取りまとめてきた『サムライ・アスレチックス』の渉外担当――
「――この
過激思想に染まったテロリストと、〝暴君〟を迎え撃たんとする誇り高き武術家という
抑え
(例の犯人を
もう一つ、遅効性の毒のように意識に割り込んできたのは、親友たちが所属先している
密造及び密売の実行犯は
結局、理由を
進行中の捜査に支障を
その
共にテロ組織と戦ったペルー国家警察や、フランス陸軍の
皮膚を食い破って体内に達した
もう一つの散弾は猟銃にも用いられる為、然るべき専門店にて流通しているが、ホローポイント弾のほうは銃社会でもない日本で暮らす〝一般人〟が簡単に入手できるモノではない。何しろ『ハーグ条約』によって〝戦争行為での使用〟を禁じられるほど非人道的な銃弾なのである。
完全という二字から最も遠い
「熊本興行まで三ヶ月近く猶予があるんだぜ?
現時点では『
「俺も柴門さんには
「僕も岩手興行で柴門氏の〝仕事〟に驚きました。それを疑う理由はないのですが……」
何事も気難しく考える傾向が強い藤太でさえ熊本の情勢を楽観視しており、この食卓に
「その浮かぬ顔……柴門さんとは別のところに悩みの種があるということか」
「熊本の
労働者の権利を侵害し兼ねない新法を阻止するべく数万もの怒れる民が立ち上がった大規模反政府デモ――『七月の動乱』の
銃器が民間人の手に渡ったことで引き起こされる惨劇をこの場の誰よりも思い知っているキリサメだけに、親友たちが脅かされる可能性も完全には消滅していない密造銃の事件は気掛かりでならないのだが、己の身に差し迫っているのは
「……己にこそ正義ありと信じたとき、傍目には狂気としか思えん一線を踏み越えてしまえる生き物のが人間だ。しかし、今度の相手は『ウォースパイト運動』などではなく〝火の国〟の武人。真に誇り高き人々は、その誇りを自ら
「
「汚名を着ようとも
「そんな『
「何万という群衆が〝大統領宮殿〟に殺到していくデモを何度も目の当たりにしたので、それに近い状況は深刻に受け止めてしまうんです。杞憂とは
『昭和』と呼ばれた時代に吹き
共通の大敵を睨み据える者たちの中で破壊的な衝動が増幅され、理性という名の
完全に食事の手を止めてキリサメを見つめる藤太は、塞がり切るまで相当な時間を要するであろう右頬の傷を撫でながら、
「オレの代わりにお前ら二人がクソ真面目だから助かるけどよ、霧で隠れて見えねェ向こうのコトをあ~でもねェこ~でもねェって悩んでたらくたびれちまって仕方ねェぜ」
大盛りの皿が何枚も並べられた夕食の席には相応しくない雰囲気を醸し出す
「キリくんが心配するくらい熊本が差し迫った状況だったら、速攻で希更さんが連絡くれるよ。板挟みになるとしても『
「――『
すぐ近くに落下した丸メガネを拾って欲しいと、心許なくなった視力を振り絞るかのような目でキリサメへと言外に訴えつつ、渦中の熊本で生まれ育った希更・バロッサとの信頼関係を説いて実父の言葉を補足しようとする未稲であったが、その声をテレビ画面のレオニダスによって遮られてしまった。
静岡県のサービスエリアに辿り着いた『
垂れ流されているバラエティー番組は、表示された日付からも察せられる通り、半月前に撮影したものである。当然ながらレオニダスの発言は偶然に過ぎず、未稲を揶揄したわけではないが、IT社会とは言いつつも遠く離れた場所で起きている〝全て〟を詳細に把握し切ることなど不可能という趣旨はこの状況と余りにも重なっており、
一つの実例であるが、日本MMAのリングを
「己の命を預ける先が不安定だと様々に気を揉んでしまうのも
テレビの
「師匠の言葉を繰り返すが、大局のことは柴門さんに任せておけ。勿論、樋口郁郎が無駄にしゃしゃり出て更に拗らせないことが事態を収める大前提だと
「おいおいおいおい! カッコいいトコを根こそぎ持ってくつもりか、藤太~? 一個くらい見せ場を都合してくれよなァ~! これじゃ
「そこも含めて岳氏は平常運転だったじゃないですか。勿論、みーちゃんも」
「なになになになに⁉ いきなりこっちに矛先⁉ お父さんと同じ扱いはキツいよ!」
所属先と
それ故に
夕方までこの
進士藤太と向き合うとき、未稲の顔にはほのかな
猪突猛進な傾向には「この師匠にしてこの弟子あり」と言いたくなるくらい岳の影響を色濃く感じ、『フルメタルサムライ』という通称すら名折れのように思う瞬間もあった。しかし、口に出せないまま抱え続ける煩悶を察し、ただ甘やかすのではなく厳しさを
性格という点では依然として波長が合わず、八雲家から爪弾きにされてしまったかのような疎外感が跡形もなく消え去ったわけでもないが、それでも同じ部屋で寝起きすることへの反発は鎮まっていた。
日付が変わるまで残り三〇分程度である。部屋は消灯され、藤太もベッドの
愛弟子の帰還に浮かれはしゃぎ、普段よりも飲酒量が多かった養父は自室の床で大の字となって
良くも悪くも濃密な一日であった。〝先輩〟
同じ浜辺では空閑電知や瀬古谷寅之助も交えた
そこに飄然と現れた進士藤太から『スーパイ・サーキット』を
よくぞ一日の内にここまで立て続けに事件が起きたものだと、キリサメは
熊本武術界の〝挙兵〟という震天動地の報に接して頭が混乱していたということもあるのだが、
そのような状況の中で同じ眉を持つ
(運命の
「……俺は少し――いや、だいぶ焦り過ぎたな、キリー」
ブラジリアン柔術の寝技を想定した
その日にこなした
自分は焦り過ぎた――喉の奥から絞り出されたその一言をキリサメは懺悔のように受け止めている。それ故、暗がりでも判るくらい
「無論、今は師匠を信じている。然るべき相談相手を頼ったこともな。我が師を侮った己を恥じ入るばかりだよ。真に説教を受けるべきはこの俺だ。……誰よりも近くでキリーを見守っていたのは他の誰でもない師匠だと言うのに」
「ああ言った懸念を進士氏が持ってしまうのも当然です。
「例のテロ事件のときに俺も銃弾に晒されたが、あんなことが日常茶飯事になったら俺は正気を保てんかも知れん。……師匠の
「ミッキー・グッドウィン……でしたね。同じ銃社会でもアメリカの
「国家警察と組んでテロ組織を狩っていたという話は、余りにも現実離れしていて呑み込めておらんのだが、死の影が常に垂れ込める戦場の如き土地で命を繋いできたことは、俺なりに受け止められたと思う」
「戦場も同然の土地というのは合っているかも知れません。僕が一歳になる頃まで
「……俺の故郷でも暴力団事務所からロケットランチャーが押収された事件はあったが、実際に撃った
「樋口氏に晒し物にされたような
しかし、一七年という人生の中で逼迫した状況が絶え間なく続いても、藤太が案じたような症状に見舞われることは一度もなかった。
確かに『スーパイ・サーキット』は喧嘩殺法と同様に極限状態の殺し合いの中で宿った
仮に心の
「僕も岳氏を信じます。海を渡ってまで駆け付けてくれた進士氏のことも」
「……すまん、キリー……」
双眸を瞑りながらキリサメの言葉を噛み締めた
「キリーに多大な迷惑を掛けてしまったのは間違いない。謝って済むものでもないくらい厭な思いをさせてしまって、俺は……ッ!」
「深く傷付けた罪滅ぼしには少しも足りんと分かっているが、償いは幾らでも申し付けてくれ、キリー。ケジメの一発で病院送りにしてくれても構わんッ!」
「……それなら、……僕のほうからも進士氏に質問してよろしいですか?」
「何でも
「……
「ひろ――」
この反応まで予想していたキリサメは、衝撃を与えてしまったことを申し訳なく思いつつも話を続けていく。
「一緒に合宿へ行った縁で、
キリサメが自分に何を質問しようとしているのか、藤太にもある程度の察しが付いたのだろう。「師匠か、それとも未稲から何か聞いたのか?」と、反対に
「……いや、あの二人が下世話な真似をするハズもないか……」
「ええ、僕の勝手な想像です。……進士氏と
「……名推理――とだけ言っておく」
八雲家に対して明らかに一線を引いている態度や、藤太と瓜二つとしか表しようのない
「DNAと気を遣った言い方などしなくとも、誰の子どもか見分けられる特徴を挙げてくれて構わんのだぞ。ここまで来たら、俺も腹を括るとしよう」
「……その
「ぐ、軍師? 参謀みたいな意味か? まだ七歳だろうっ?」
「その上、レオニダス氏との試合ではセコンドにも付いてくれる約束でして」
「合わせ技にも程がある! セコンドだとォッ⁉」
「だ、だが、セコンドなど認められるのか? 少なくとも『NSB』は――いや、アメリカの
「セコンドは語弊があったかも知れません。基本的にはリングサイドに詰めているのですけど、実際にセコンドに立ってくださる岳氏や麦泉氏を経由して僕に
「そ、それはそれで前代未聞のシステムだが、それをルールで認めたのか……」
奇抜としか表しようのない発想に驚愕し、へたり込むようにして布団の上に胡坐を掻いた藤太は、天井を仰ぎつつ両手で頭を掻き
「……あの子は俺と関係する全てのことを忌み嫌っているんじゃないかと思っていた」
「……申し上げにくいのですが、格闘技は大嫌いだと心の底から言っていました」
「あっ……、やはり、そうか……? だ、だよな? 嫌っておらん筈がないな……」
藤太を更に追い詰めることを
「そういう環境で生まれ育ったからでしょうか、『
「し、しかしだな、まだピカピカのランドセルを背負う小学校低学年じゃないか」
「頭の回転だって大人顔負けですよ。
「人形と来たか……。随分とひねくれて育ってしまったものだな……」
「
キリサメと藤太の間に暫しの沈黙が訪れた。
さりとて重苦しいものではなく、どこか心地良い空気であった。八雲・表木両家の〝暗部〟としか表しようのない領域へついに足を踏み入れてしまったというのに気持ちが和らぐとは奇妙な筋運びであるが、
それ故、キリサメは
「……立ち入ったことを伺いますが、どうして一緒に暮らさないのですか?」
「愛しているからだよ。愛しているから、離れねばならなかったんだ」
口にするのも相当な勇気を要した質問に対し、藤太は迷いなく即答した。繊細な問題にまで踏み込んでいる為、
藤太が
「愛しているのに別れなければいけないなんて、哲学みたいですね」
「それほど難しいことではないぞ。いつかキリーにも分かる日が来る。誰かに本気で惚れたらな――あ、いやッ! わ、分からなくていい! こんなことはッ!」
自らの口で語っておきながら真っ赤な顔で訂正した辺り、「誰かに本気で惚れる」という歯が浮くような台詞さえ藤太は本音として紡いでいたのであろう。
眉の動きと心の内側が直結している通り、この男は
「そ、それにしても、アレだな!
露骨に話題を変えた藤太には何事にも無感情なキリサメも吹き出してしまった。さりとて彼が避けたことを蒸し返す理由もなく、そのまま
「
「俺からもよろしく頼む。……俺が言えた義理ではないのは重々承知しているが、
元から
「
「
今度はキリサメが頭を下げる番であった。
師匠の岳が〝世界で最も完成された総合格闘家〟と称賛する藤太の試合には、寝技の巧者たるレオニダスに立ち向かう為の手掛かりが数え切れないほど詰まっていた。
何よりも『スーパイ・サーキット』を発動させないように闘って勝つ為には『
しかも、相手はキリサメの弱点を見破ったとまで豪語している。三ヶ月足らずという短時間で互角にまで持っていくのは難しかろうが、何か一つでもレオニダスを上回る戦術を身に付けなくては、そもそも勝負になるまい。
その教えを乞う相手として、
「滞在中の僅かな時間だけでも構いません。別の団体に所属している進士氏に頼むことではありませんが、色々とご指導ご
「――何なら今から始めても構わねェぜッ! おうともッ! 今すぐやろうぜッ!」
居住まいを正して頼み込むキリサメに了解と答えたのは、
爆睡していたはずだが、
「……休憩も取らずに
「それより何より泥酔者に激しい運動などさせられるか。師匠、
「うるッせェやい! 二人だけで面白そうな相談しやがってからに~! 仲間外れは二度と許さねぇぞ~ッ! オレたちはみんな家族なんだからよォッ!」
岳が加わった途端に
そもそも、岳は養子と愛弟子の
「――うるッさいのはお父さんのほうでしょっ! 一体、何時だと思ってんの⁉ ただでさえ近所迷惑で肩身が狭いのに……! 最悪、お父さんだけ家から追い出すからねッ⁉」
一階に居るらしい未稲の声が階段から駆け上がり、開いたままのドアへ飛び込んだが、注意が背中に突き刺さっても岳は止まらない。野太い両腕を養子と愛弟子の肩に回し、自分のほうへと力任せに引き寄せながら、二人と同時に頬を擦り合わせた。
酒臭い息を至近距離で浴びせられ、鼻孔から脳まで耐え
心穏やかとは言い
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