その6:兄弟~格闘一家VS捜査一課・名探偵スーパイ、下北沢(シモキタ)夏の陣/迷惑動画投稿者の成れの果て・半グレに寄生された地下格闘技(アンダーグラウンド)──世界に「ミミック」が放たれた

  六、Gun Shot or Cork Pop



 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行――波乱のプロデビュー戦でキリサメ・アマカザリの肉体からだに刻まれた痛手ダメージは、一〇代に備わる回復力をもってしても数日で癒え切らないほど深刻であった。

 人間という種の限界を超え、神の領域に達する異能ちから――『スーパイ・サーキット』を発動させた反動は全身の筋組織や内臓にも及んだが、そもそも日本MMAを黎明期から支えてきた古豪ベテラン――じょうわたマッチの鉄拳で滅多打ちにされて無事で済むはずがない。

 鮮血が迸る裂傷やあおあざの痛々しい全身打撲に加え、亀裂骨折も確認されている。己の拳と対戦相手の命を防護する指貫オープン・フィンガーグローブのクッション材でさえ、『天叢雲アメノムラクモ』が誇る〝打撃番長〟の破壊力を完全には緩衝できなかったわけだ。

 打撃から寝技まであらゆる格闘技術が解放されるMMAのリングにって、えて『こんごうりき』のような立ち技にこだわり続けてきた古豪ベテランの矜持とも言い換えられるだろう。

 馬乗りマウント状態ポジションでも幾度となく『パウンド』を叩き込まれている。

 組み敷いた相手に拳を振り下ろす打撃パウンドは、逃げ場がない状態で頭部あたまがマットに叩き付けられる為、その衝撃は頭蓋骨を貫通し、脳まで激しく揺さぶる。それだけに『八雲道場』のかかりつけ医――やぶそういちろうは、慎重を期してキリサメの外傷を診ていった。

 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体全体の人気を支える花形選手スーパースターから挑戦状を叩き付けられた次戦――熊本興行に焦点を当てたケースカンファレンスが実施されたのは、そのかかりつけ医がきょうじまに構えた整形外科医院だ。洋館風の建物には手狭ながらも会議室が設けられており、そこにキリサメ・アマカザリという新人選手ルーキーに関わる人々が集まった次第である。

 藪総一郎からキリサメに紹介され、『スーパイ・サーキット』――即ち、『逃走・闘争反応』の引き金となる〝心の傷トラウマ〟の再体験症状フラッシュバックや、異能ちからの〝暴走〟に駆り立てる幻像イマジナリーフレンドといった心理面での課題を担当することになったもう一人の主治医も出席している。

 〝心の専門医〟――きりしまゆうは、〝戦友〟の藪総一郎と共に指定暴力団ヤクザの実働部隊に身を投じ、裏社会の暗闘たたかいを渡り歩いてきた男である。りし日のなまぐさい経験を犯罪心理学の研究に生かすという奇抜な医師だが、それ故に格差社会の最下層で〝暴力〟のみを頼りに生きてきたキリサメも自身の魂を蝕む〝闇〟を隠さずさらけ出せたのだ。

 精神科医の診察は患者と医師の一対一マンツーマンで行われ、付き添いの岳も立ち会っていない。これに対してケースカンファレンスはキリサメの選手活動を支援サポートするチーム全体で情報共有と意見交換を行う場である。

 治療と連動させながら段階的に肉体への負荷を戻していく練習トレーニング計画、更にはMMA選手としての経歴キャリア等級ランクも吊り合っていないレオニダス・ドス・サントス・タファレルとの対戦に向けた準備が具体的に話し合われ、出席者のみな作戦会議ブリーフィングのように感じていた。

 〝心の専門医〟の初診にいて、キリサメは己を死神スーパイさながらに変身させてしまう異能ちからを〝急性ストレス反応〟の症例として客観視することが出来た。ケースカンファレンスの場で己を支援たすけてくれる人たちの顔を確かめられたことも一種ひとつの気構えとなり、進士藤太から心的外傷後ストレス障害PTSDを疑われた際にも狼狽せず立ち向かえたのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立つまでは何事にも無感情で、他者とも積極的に関わろうとしなかったキリサメであるが、初陣プロデビューを経たケースカンファレンスでは今後の展望などを自らの口で述べている。

 『幻の鳥ケツァールの化身』なる異名の由来となった試合着ユニフォームを〝開発〟したデザイナーのたねざきいっさくも多忙を極めるスケジュールを調整してケースカンファレンスに駆け付けたのだが、でんから贈られたなんてんの守り袋を着衣の何処かに忍ばせ、親友の存在を身近に感じることで異能スーパイ・サーキットの〝暴走〟を抑止する効果が望めるのではないかというキリサメの提案には、目の下に真っ黒な隈が生じるほどの睡眠不足も吹き飛ぶ思いであった。

 幅の広い先端が〝幻の鳥ケツァール〟の尾羽根のような輪郭を作る腰の帯を武器として利用するなど、貧民街スラムで喧嘩殺法を編み出した瞬間の〝感覚〟に近付ける工夫が試合着ユニフォーム全体に凝らされている。たねざきいっさくが立てた基本方針を生かしつつ、破壊的な衝動を〝暴走〟させないよう〝次〟なる一歩を踏み出したいと表明したわけだ。

 映像作品や舞台劇の業務しごといて、自身がデザインした扮装と役者を感性の領域から合致させていくたねざきがキリサメの提案を歓迎しないはずがあるまい。『キリサメ・デニム』の内側に仕込むという岳の一言が手掛かりとなり、取っ組み合いのなかに引き剥がされないよう頑丈な糸を用いてシャツの左袖に縫い付けることでまとまった。

 自分の命を脅かさんとする存在を一撃で制し、緊急回避行動に転じる『スーパイ・サーキット』へ〝急性ストレス反応〟の原因を断ち切る血塗れの暴走状態が加わったこと、今は亡き幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケや異形の〝死神スーパイ〟が幻像イマジナリーフレンドの形で出現し、相手の命を破壊せんとする〝闇〟を膨らませることもきりしまゆうと二人でチームの皆に説明していったのだ。

 己が抱える課題の全てをさらけ出し、目標達成に向けて協力を求められるようになったことこそが〝プロ〟のMMA選手としての意識が芽生えた証左であろう。二体の幻像イマジナリーフレンドは暴力以外に頼るものがないペルーの〝闇〟こそがキリサメ・アマカザリの真実と、故郷ペルー公用語ことばで囁いてくる。しかし、キリサメ自身はルールで命を守る〝格闘競技スポーツ〟のリングに真実を超えた偽りを見出している。

 もはや、故郷ペルーには戻らない――自分を支えてくれる人々に日本の言語ことばで応じたとき、キリサメの瞳は眩いばかりの決意を湛えていた。

 そのケースカンファレンスの場にいて、未稲はる代読を託されていた。キリサメがこれまで切り抜けてきた命の遣り取りと、これから積み重ねていく格闘競技スポーツの経験を最高の形で融合させる練習計画がまとめられた提案書である。

 修学時間中である為に出席できないキリサメの〝軍師〟が記した物であり、中長期計画書と呼ぶのが最も相応しいほど整理され、個々の内容も充実している。

 キリサメの独創性が生み出した喧嘩殺法の技術体系が変容することを恐れる岳は、MMAに最適化する練習トレーニングえて課さなかった。この基本方針を踏襲しつつ、二度と試合中にルールを失念しないよう思考と行動を一致させる反復学習などが組み込まれているのだ。

 新人選手ルーキーの対戦相手として妥当と言いがた花形選手スーパースター――レオニダスと相対する方策も含まれていたが、一方でをMMA選手としての〝通過点〟と強調しており、番狂わせジャイアントキリングなどの〝短期的な成果〟を求めないようにも明記されている。

 キリサメが秘めた潜在能力ポテンシャルを損ねることなく〝有力選手〟に育て上げる――この一点こそ〝軍師〟は重視していた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表にして日本格闘技界の〝暴君〟――ぐちいくから理不尽な要求を強いられた場合には、セコンドの責任にいて拒絶するよう提案書を通じて強く要請している。これはケースカンファレンスの出席者にも共有されるわけであり、新人選手ルーキーを潰し兼ねない圧力プレッシャーの遮断なくして正常な育成は有り得ないと全員に突き付けたのである。

 樋口は体重別階級制度を設けず、完全無差別級の試合形式で所属選手の安全を脅かしていた。他団体では反則として判定される頭突きバッティングや垂直落下の肘打ちも認めている。MMA団体を率いる代表として果たさなければならない責任を放棄した〝暴君〟との対決姿勢を鮮明にする〝げきぶん〟も兼ねているのだ。

 岳が大雑把にしか考えていなかった〝フェイント殺法〟を虚実が入り乱れる技術体系として完成させる道筋も、提案書の中で示されていた。のちの格闘技史に『てんのう』の一角への畏怖と共に刻まれる『パルヘリオン・マニューバ』の名称を初めて世に発したのも、代読を任された未稲というわけである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、キリサメの〝軍師〟とはおもてひろたかその人であった。

 世界中にその名を轟かせる当代随一の映像作家であり、選手入場や各種セレモニーなど『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントで使用される動画ビデオを手掛けるおもてみね実母ははに持つひろたかは、彼女の胎内はらのなかで〝ヒトのカタチ〟に育つ間、さながら胎教の如く格闘技の知識を吸収し続けてきた。

 によって、MMAどころか、格闘技そのものを好意的に受け止められないひろたか本人からすれば甚だ不本意であろうが、大人が長い歳月を費やして蓄積していく知識量を僅か七歳にして手に入れてしまった次第である。

 強靭な肉体を育てるカロリー管理まで細かく設定された提案書に感嘆の溜め息を漏らした藪総一郎は、皮肉ではなく本心から〝神童〟と讃え、〝義理の父〟に当たる岳はひろたかの才能を誇るように胸を張って見せた。

 大人の半分程度の大きさしかない頭に隙間なく詰まった知識を十全以上に使いこなすひろたかの賢さは、くだんの提案書を挟んだ二人のやり取りかも瞭然と言えよう。

 自分たちの半分も生きていない七歳児の意見を侮らず真剣に向き合う大人の様子を見回しながら、キリサメはケースカンファレンスの健全性を実感していた。年齢や立場に関わりなく、誰の声でも平等に取り上げる建設的な体制が自然と出来上がっていたのだ。

 実姉あねの未稲による提案書の代読を境としてケースカンファレンス――即ち、治療計画を含んだ事例検討会から各部門担当者会議に性質が変わっていったのだが、こそがチーム全体の〝風通し〟を端的に表している。

 無論、必然的な筋運びではある。対戦相手との接触コンタクトの強弱に関わらず、競技選手アスリートは怪我の治療やリハビリテーションが〝競技生活〟と不可分であり、これらを勘案した練習トレーニングを実施できてこそ成長と実績が得られるのだ。ひょっとするとひろたかが記した提案書は、その意識をケースカンファレンスの出席者に芽生えさせる為の一計であったのかも知れない。

 誰もがこの〝小さな軍師〟をチームの一員として対等に扱っていた。ブラジリアン柔術の使い手であるレオニダスとの決戦に備え、『コンデ・コマ式の柔道』を現代に甦らせたでん練習相手スパーリングパートナーに推薦したのは岳であったが、その際にもひろたかに相談している。

 「もう一人の自慢の息子せがれ」と殊更に強調する岳であったが、であるひろたかに対しては、親権どころか血の繋がりもあるまい――そのように養子キリサメは確信していた。

 真逆としか表しようのない性格は言うに及ばず、両者ふたりかおかたちにさえ遺伝の形跡を見つけられないのだ。ひろたかの双眸の上にて黒々と茂る極太の眉は、むしろ岳の愛弟子であり、以前かつては『八雲道場』でしんとうと瓜二つであった。

 極めて繊細な問題を孕んでいる為、口に出して確かめたことは一度もないが、ひろたかと血を分けた父親にキリサメが気付くまでそれほど時間は掛からなかった。アメリカ最大規模を誇る競技団体にして世界のMMAの旗頭――『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の興行イベントPPVペイ・パー・ビューで視聴した際に一目で直感したと表すべきであろう。

 しかも、ひろたかである嶺子は、離婚わかれた岳が自分の前で進士藤太の名前を口にしたとき、首を絞め殺し兼ねない勢いで激怒していた。それはつまり、ひろたかと藤太の二人を決して対面させてはならないという意味である。

 今年の二月に家族として迎え入れられたばかりのキリサメは、当然ながら八雲・表木両家の間に横たわる事情の全てを知っているわけではない。それにも関わらず、進士藤太が禁忌の存在であることは察せられたのだ。



 今、その藤太がしもきたざわの住宅街に所在する『八雲道場』の庭先に立っていた。


「……『去る者は日々に疎し』というが、よもや小田急線の駅舎が丸ごと消滅するとは。いや、駅自体は地下にるのだったな。理屈では分かるのだが、感情が置いてきぼりにされてしまったというか、……キリサメは線路のない下北沢シモキタの景色にもう慣れたか?」

「浸っておられる感傷を切り捨てるようで申し訳ないのですが、僕が『八雲道場ここ』へ越してきた頃には駅前の工事もかなり進んでいたので、前の景色がそもそも分かりません」

「それでもだけは変わらずにいてくれた。知らぬ間に終わっていた青春が想い出の彼方に過ぎようとも、その日々を刻んできた心の故郷はこうして色褪せない……ッ!」

「岳氏とはまた違う意味で噛み合わないんだよなぁ……」

藤太おめーが荷物まとめて出ていったあの日から新しい入門者だって取っちゃいねーんだぜ。毎日が青春っつっても愛弟子と一緒でなけりゃ味気ねぇモンだぞ? 師匠オレに寂しい思いをさせちまったって、ちょっとは反省してくれたみて~だけどよォ~」

「岳氏まで加わると、噛み合う噛み合わない以前の脱線事故が起こるんだよなぁ……」


 鎌倉に所在するひめ宅への出稽古が『スーパイ・サーキット』を巡る議論の終結と共に打ち切りとなったのは、言わずもがな思いも寄らない乱入者――藤太が原因である。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の〝同僚〟として姫若子と長い付き合いでもある電知は、「やもめ暮らしが不憫でならねぇ」と理由を付けて一泊するという。

 その姫若子はキリサメにとって道場『とうあらた』の先輩であり、折角の機会だから電知と一緒に泊まるよう誘われた。未稲に留守番を任せていることもあって帰宅せざるを得なかったのだが、今となってはその判断が大失敗であったと心の底から後悔している。


「……師匠も五〇に手が届くような年齢トシなんですから、ガキ大将気取りは本当に直すべきではありませんか。俺の意向も殆ど聞かずに『八雲道場ここ』まで引き摺ってくるなど有り得んでしょう。博多の実家に帰る予定だったら、どうするつもりだったので?」

「こっちの都合を考えねぇで突っ込んできた藤太がそれを言うのか~⁉ サプライズってのは人が喜ぶモンじゃなきゃいけねーんだぞ!」

「ジャングルジムの頂点によじ登る四〇代のほうがよっぽどサプライズでしょう。文多先輩も頭を抱えていたではありませんか」

「よく言うぜ。あのまま電知と一緒に泊まることになってたら、お前、真っ先にジャングルジムで遊んだろ。師匠は何でもお見通しだぜ~」

「お、俺は別に……遊びに行ったのではないのですから……」


 出稽古を解散させた張本人にも関わらず、藤太は姫若子が庭に拵えた野外運動器具に誰よりも後ろ髪を引かれていた。居宅いえの持ち主に迷惑を掛けた直後である為、比喩でなく本当に歯を食いしばって堪えたが、傍から見ていてキリサメにも分かるくらいジャングルジムへ登りたい気持ちが溢れ出していた。


(今すぐ鎌倉に引き返したいけど、みーちゃんにこの人たちの制御コントロールを押し付けるのは可哀想だし――そもそもに何とかできるか? ……やっぱり逃げ出したほうが良いか)


 隣県のひめ宅からの帰路につき、大人気ないやり取りが鼓膜を打つたびにキリサメは奇妙な浮遊感に見舞われていた。

 八雲岳と進士藤太――数年ぶりの再会にも関わらず、二人の間に流れる空気は離れ離れという空白期間があったとは思えないほど〝自然〟で、からやって来た養子キリサメは割って入ることを躊躇してしまうのだった。

 この二人の関係は、忍術の師弟のみには留まらない。実戦志向ストロングスタイルのプロレスを掲げたおにつらみちあきのもとで異種格闘技戦を繰り広げた『鬼の遺伝子』の〝同志〟であり、『とうきょく』の体系化を成し遂げたヴァルチャーマスクと一緒に総合格闘技MMAという新時代の〝スポーツ文化〟を日本に根付かせた〝戦友〟である。

 苦楽を分かち合った年月の長さからして必然であろうが、文句をぶつけ合いながらも互いへの親愛の情が満ち溢れており、傍目には本物の親子のようにしか見えなかった。

 そのさま養子キリサメは気後れしてしまったわけであるが、これもまたの原因である為、切なく感傷に浸っている場合ではない。


「……懐かしの我が家……」


 最初の内は〝里帰り〟の提案を固辞していた藤太も、MMA選手としての出発点である『八雲道場』の看板を仰ぐとさすがに懐かしさが込み上げてきたようで、今にも蕩けそうな表情を浮かべ、感慨深げにまぶたを閉じていた。

 郷愁に背中を押された藤太のことはキリサメにも責められない。だが、浅草を経由して下北沢に向かうタクシーへと愛弟子を押し込んだ養父の神経は本気で理解できなかった。

 〝小さな軍師〟のおもてひろたか練習トレーニングの進行状況や体調を確認する為、日に一度は連絡してくることを岳が知らないはずがあるまい。週末には朝日を跳ね返すアスファルトをインラインスケートで切り付け、自宅から『八雲道場』にやって来るのだ。

 『スーパイ・サーキット』の反動も含めた初陣プロデビューの疲労が癒えたキリサメがロードワークを再開してからは、記録係も兼ねて伴走も務めている。当初は未稲が自転車を漕いで並走する予定であったが、初日にして生き地獄も同然の筋肉痛で動けなくなってしまった。そのような実姉あねには大切な役目を任せておけなくなったわけである。

 大陸の知識量は格闘技の最前線で働く実母ははの影響にるところが大きいが、脳内あたまのなかの計算だけに頼ってはおらず、練習トレーニングメニューも自分なりに試した上で提案しているのだ。

 ひろたか本人は気に食わないはずだが、これも〝世界で最も完成された総合格闘家〟の遺伝子から花開いた才能であろう。その上、岳の師匠でもある祖父――おもてらくさいは戦国乱世を忍術の奥義で渡り歩いた『さなにんぐん』の末裔だ。実母ははの嶺子を経て忍者の〝血〟も継いだ彼は、垂直の壁をローラーで駆け上がり、更に高く跳ね飛んで宙返りを披露するなど類い稀なる身体能力を生まれ持っていた。

 への反発もあって格闘技を忌み嫌うひろたかだが、一方でスポーツ自体は好んでいる。『八雲道場』の広報担当としてMMAに直接関わりながら、一日中、自宅いえに籠り切って運動不足を解消する意欲も絶無という実姉あねの未稲とは正反対なのだ。

 未稲は容姿こそ嶺子に似ているものの、性格は岳の影響が色濃い。あらゆる意味で半分だけ〝血〟の繋がりがあるていであるが、感性の領域にいては実母ははの遺伝子によって強く深く結び付いているのだろう。凶器を振り回すこともちゅうちょしない喧嘩殺法に心を震わされてMMA参戦をキリサメに勧めた姉に対し、弟は『スーパイ・サーキット』が四角いリングをけがしたプロデビュー戦に触れて、格闘技そのものを初めて楽しく感じたという。

 ひろたかと同じように母親から高い教育を施されたキリサメも分野を問わず知識が豊富で、日秘両国の言語ことばを過不足なく紡ぐことが出来る。しかし、彼自身は義弟おとうとのように思考あたまが柔軟ではないと思っており、例えば〝サバキ系〟の空手道場『くうかん』に巣食った前時代的な指導の改革を目指すきょういししゃもんの才覚に劣等感を抱くこともあった。

 それ故にキリサメは自分を浅学非才と責めることを止められず、義弟おとうとひろたかと進士藤太を遭遇させない為の妙策もついに捻り出せなかった。

 傍目には己の焦燥感を勝手に煽っているように見えたかも知れないが、キリサメには考えられる最悪の状況だ。土曜日の『八雲道場』にひろたかないはずもあるまい。もはや、その玄関と〝招かれざる客〟は一メートルも離れていないのである。

 ず浅草へと向かい、切羽詰まった様子を無言の笑顔で揶揄する身辺警護ボディーガードとらすけをタクシーから降ろしたのち、首都高都心環状線を周回するようにして下北沢の『八雲道場』に到着したのだが、その道程をキリサメは殆どおぼえていなかった。

 岳と藤太の間に割り込めないという奇妙な浮揚感を持て余すキリサメは、首都高を走るタクシーの車窓まどの外へと投げ出していた視線の先に日本の娯楽エンターテインメントを牽引するゲームメーカー『ラッシュモア・ソフト』の本社ビルを捉えたことにも気付かず、の間にやら『八雲道場』の庭先に立っていたのだ。

 タクシーから降りて八方塞がりを認識した瞬間、キリサメは比喩でなく本当に膝から崩れ落ちた。鎌倉から休憩も挟まない長時間乗車で足が痺れたのかと笑いながら同時に手を差し伸べてくる岳と藤太が恨めしくてならず、両方の五指をまとめて噛み千切らなかった自分を褒めてやりたかった。


「――おてんサマの顔色も知らねェまま二四時間、父親おやのカネで〝ファミコン〟を遊び倒す放蕩娘ェッ! 出てこいやァッ!」


 同じ下北沢でも演劇街とは味わいが異なる風を噛み締め、ごくぶとの眉を平らにしながら立ち尽くす愛弟子の頭を乱暴に撫でた岳は、次いで肺一杯に空気を吸い込み、玄関まで出てくるよう屋内の未稲に向かって庭先から大音声で呼び掛けた。

 土曜日の住宅街だ。当然ながら勤め先や学校が休みという住民も多く、様子を窺うような視線が隣近所より岳に降り注いだ。無法者アウトローたちが手頃な獲物を見繕い、物陰から舌なめずりする貧民街スラムの習性でを感じ取ったキリサメであるが、故郷ペルーのように反撃するわけにもいかず、父親がはた迷惑な真似を仕出かした際の未稲に倣って四方八方にこうべを垂れた。

 騒音トラブルにまで発展し兼ねない大声はチャイムを鳴らすよりもこう覿てきめんであり、間もなく未稲その人が「これ以上、肩身の狭い思いしたくないんだけどっ」と文句を垂れつつ玄関から飛び出してきた。


父親おやのカネって言い方、人聞き悪過ぎでしょ。『八雲道場』の業務しごとをこなした正当な報酬を使い込み呼ばわりでご近所に触れ回るなんて訴訟大国なら裁判所にご招待だよっ」


 不名誉な言い回しでもって直接的に呼び付けられた未稲は、本心では聞こえない芝居ふりで切り抜けたかったはずである。しかし、実父ちちの近所迷惑を食い止めるには自ら出向くしかなく、キリサメも憐憫の念を禁じ得ないが、この状況を切り抜けるには彼女との連携が不可欠であり、巻き込むことを胸中にて詫びながらもこの上なく望ましい筋運びであった。

 未稲は満足に手入れもされず痛んで乱れた前髪を飾り気のないヘアバンドで持ち上げ、剥き出しとなった額は油でも塗ったかのような光沢を放っていた。一日中、外出せず季節限定販売のポテトチップスでも摘まんでいたのだろう。

 上下ともにジャージという自宅で寛ぐ為のだ。前開き型の上着はファスナーが完全に下ろされており、『爆死の痛みも遠くなって月が変わったから、今日はガチャ負債リセット日』という文言フレーズの刷り込まれたシャツが覗いている。

 ケースカンファレンスの際に着ていたシャツは『おマエの性癖ヘキを解体新書』という文言フレーズが目立つ物で、会議の途中から出席者の目に触れないようノートで隠していた。そのときにはジャージではなく裾が折り返されたジーンズを穿き、頭髪かみも櫛でいていたはずだ。

 岳が指摘した通り、ゲーミングサークルの男友達デザート・フォックスに付き合ってネットゲーム――大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームで遊び続けていたのかも知れない。

 これを開発したのは格闘技を人権侵害と忌み嫌い、アメリカ合衆国大統領をも巻き込んで『NSB』の関係者にテロ攻撃を仕掛けた過激思想家の『サタナス』である。

 〝MMAの天敵〟との関わりが深いモノに喜んで触れられる神経が信じられない――心が著しく荒んでいる為、何事も悪いほうに考えてしまうキリサメは無意識の内に舌打ちを披露しそうになったが、その小さな動きをも巻き込むようにして顔が強張った。更なる動揺を引き起こす事態を視線の先に捉えたのだ。


「未稲――か? 見違えるくらい大きくなったな……ッ!」


 藤太の姿を見つけた瞬間から未稲は双眸と口を開け広げ、唖然呆然と立ち尽くした。事前の連絡など受けていなかったのだから、それも無理からぬことであろう。『八雲道場』どころか、日本にるはずのない人間が目の前に立っていたのだ。

 鎌倉のいなむらさきで藤太と遭遇した瞬間のキリサメと大差のない反応であったが、実父ちちに持つ未稲は続けて〝ドッキリ番組〟ではないかと疑い、丸メガネが吹き飛ぶ勢いで頭を振り回しながらかに設置されているだろう隠しカメラを探し求めた。

 近頃は芸能界とは無関係なを大混乱の状況へと誘導し、衝撃に打ちのめされる様子を観察モニタリングするバラエティー番組が好評を博している。実父ちちが〝仕掛け人〟となって自分を陥れているという疑惑にすっかり支配されてしまったわけだ。

 つまり、『八雲道場』と訣別したはずの進士藤太が飄然ふらりと現れた事実は、心理的動揺を引き出す罠でなければ未稲のなかで説明が付かないのである。


も変わらんな、未稲」

「と、と、と、ととと――」


 地面に自由落下した丸メガネを拾い、手渡してくれた藤太と暫く見つめ合ったのち、未稲は玄関の中へと勢いよく引き返し、父の喚き声に負けないくらい近所迷惑な音を辺りに轟かせながらドアを閉めてしまった。

 ドアの向こうからも同程度の音が聞こえてきた。動転した未稲は丸メガネを掛け直すことさえ忘れていたのだ。遠近の距離感が狂い、上がりかまちつまずいて転んだのかも知れない。


「何やってんだよ、お前は。ようやく藤太がに帰ってきたんだぜ? いきなり逃げるコトはね~だろが。もっと歓迎してやれよ、オイ」

「だ、だって、そんな話、一言も聞いてないし! 一体全体、どうなってるのっ⁉」


 が暮らす居宅でもある為、『八雲道場』の玄関は当然の如く自動施錠オートロック機能が完備されている。もはや、ノブを回しただけでは開扉できず、痺れを切らした岳がドアを乱暴に叩くと、瞳一つ分の覗き穴から小さな悲鳴が漏れ出した。

 一旦は玄関の内側なかへ逃げ込んだ未稲だが、退避は踏み止まっていた。外の様子を窺っている最中、頬を貼り付けていた金属の板越しに実父の握り拳が額に当たった次第である。

 玄関の軒先には防犯カメラも取り付けられており、リビングルームにはレンズで捉えた映像を確認するモニターも置いてあるのだが、混乱し切ったあたまでは文明の利器に頼ることまでは思い付かなかったようだ。

 「これでお父さんが『大成功』のプラカード持ってたら、月曜日の朝イチで訴えを起こすよ」という弱々しい一言を挟んだのち、観念したようにドアが少しだけ開き、その間隙から未稲が額を撫でつつ顔を出した。

 もはや、二度と会えないだろうと思っていた相手が何の前触れもなく〝里帰り〟してきたのだから、取り乱すのは当然であろう。その上、人前に出る恰好でもない。瞬間的に羞恥心が爆発し、咄嗟に隠れてしまったわけである。


「ただいま」


 依然として状況を飲み込めていない様子の未稲と目を合わせた藤太は、ごく自然にその一言を口にしていた。本人にとっても意外であったらしく、我知らず右手で口元を覆っている。双眸も大きく見開かれていた。

 岳のもとで修業に励んでいた頃は、『八雲道場』が彼にとって〝故郷〟であった。帰宅を告げる一言が心の奥底から溢れ出したとしても、こそが寧ろなのだ。


「お、おかえりなさいぃぃぃ……」


 ただでさえ大きな藤太の声は未稲の心の奥底まで響いたようだ。ドアの裏に引っ込めてしまった顔をわざわざ覗き込まなくとも、良く熟れた林檎と同じ色に染まっていることが察せられる声が返ってきた。

 どうにも照れ臭く、けれども言葉では表せないほどの喜びに満ちた声色に耳を澄ませていれば、藤太の前から逃げ出してしまった理由が服装だけではないことが察せられる。


「こいつめ、一丁前に色気づいてやがらぁ。乙女ぶっても全ッ然似合わね~ぞ」

「師匠、はハラスメントですよ。例えおやの間であっても見過ごせん。どれだけ説教の数を増やすおつもりか。一晩中の正座はお覚悟を」


 実娘むすめを冷やかすように岳が腹を抱えて大笑いし、その鳩尾を肘で抉りながら藤太が厳しく戒める後方うしろでは、すっかり置き去りにされたキリサメが無感情で立ち尽くしている。

 まぶたが半分近く閉ざされた双眸は初陣プロデビューの前まで戻ってしまったかのように空虚うつろで、三人の様子を瞳の中央に映しているのかも定かではない。


(どうなっているのかをきたいのはこっちだよ。ゲーム仲間デザート・フォックスだけじゃ飽き足らず……!)


 岳も未稲も八雲家の家族として迎え入れてくれた。そのことは少しも疑っていないが、目の前で笑い合う三人のような関係ではないことも間違いなく〝事実〟なのだ。

 何年離れていても『八雲道場』の三人は深い絆で結ばれている。だからこそ、空白の期間があっても瞬時にして埋められる。そして、その輪の中に割り込んでいく一歩をどうしても踏み出せない――歳月の重みがえざる壁と化してキリサメに立ちはだかっていた。

 これから重ねていく日々が藤太と同じような絆を育むはずだが、打ちひしがれて捨てられた子犬のようになった瞳は、目の前に開かれた〝道〟を捉えていない。『八雲道場』にとって、自分などは俯き加減の視線の先に転がった取るに足らな小石ほどの値打ちしかないのだ――現在いまのキリサメは、少しばかり情況に陥っている。


(……今すぐ故郷ペルー帰国かえるって言い放ったら、みーちゃん、どんな表情かおするかな……)


 端的に表すならば、自分の居場所を見失って拗ねてしまった次第である。

 そこまでは心の機微を切り取ったすれ違いの喜劇コメディであったが、〝何か〟に思い至った未稲が火照った顔を蒼白に一変させた瞬間から〝流れ〟が切り替わった。

 顔を合わせてはならない二人の対処も放棄してやろうかと、ほんの一瞬だけ邪悪な考えが鎌首をもたげたものの、感情表現を大幅に誇張する漫画やアニメのように引きった未稲の顔を見てしまっては、藤太に対する気後れを心の片隅へと押しやるしかない。

 その藤太や岳に気取られない形でひろたかの来訪を確かめる必要もあったのだが、これも未稲の表情かおを一瞥した時点で終わっている。間もなく彼女は再び玄関の内側へと飛び込み、大慌ての背中から互いの顔に目を転じた『八雲道場』の師弟は呆けた様子で首を傾げた。

 今し方とは性質の異なる狼狽と察せられたのは、この場でキリサメただ一人である。おそらく未稲は眩暈を堪えながらインラインスケートを隠しているのであろう。ドア越しに聞こえてくる物音だけで事態の把握には十分であった。


「い、今! 友達が遊びに来てて! リビングも私たちが占拠してて、それで……!」


 肩で息をしながら庭に出てきた未稲は、傍目にも痛々しいほど足取りがおぼつかない。

 に気付かれないよう細心の注意を払いながらインラインスケートを片付けなければならなかったのだ。実際には一分程度であったものの、それを数時間にも感じるくらい神経をすり減らしたのは間違いなかった。当該人物からほんの少しでも怪しまれただけで最悪の展開がやって来るのである。


「友達だァ~? ネット上の付き合いならいざ知らず、未稲おまえ現実リアルで遊んでくれる友達なんかいね~だろ。せいぜい『天叢雲オレら』の興行イベントを手伝ってくれてるもちくらいじゃねーの」

が知らないだけでみーちゃんの交友関係はかなり広いですよ。僕と電知がそうであったように、団体同士の問題を乗り越えて『E・Gイラプション・ゲーム』のかみしもしき氏と友人になれたようですし、『八雲道場』として仕事を依頼したとちない氏や、甲冑格闘技アーマードバトルつか氏とも親しいと記憶しています。それに勿論、じんつう氏やさら氏も」

「おっとォ、予想外の方向から迎撃カウンターを喰らった気分だぜ⁉」

いまふくという『サムライ・アスレチックス』の広報担当者だって岳氏は忘れていますよ。名前が挙がらなかったことをあいぜん氏が知ったら、厄介なくされ方になるはずです」

「ど、ど~しちゃったの、キリくん? 私よりもアツくなってない?」

「みーちゃんのコトには黙っていられないからね。岳氏の大声を聞いても家の中に引っ込んだままということは、さしずめ遊びに来ているのはかみしもしき氏かな?」

「そっ⁉ ……そーなんだよ、うん――キリくんたちが出掛けてうちに誰も居ないからっててるちゃんを呼んでワールドカップを観てたトコ」

「日本では今日、中継があるのか? そもそも今日は試合などあったかな……。俺は何しろがくがないから、ブラジル現地時間と日本の時差をすぐには割り出せん」

「あッ、録画! 録画ですよ、藤太さん! 録画しといた日本対ギリシャ戦ですっ!」


 極限に近い混乱状態から捻り出された未稲の言葉が自分たちへのとは気付かず、先程と同じように揶揄を交えて笑い飛ばした岳の胸部が藤太の裏拳打ちバックブローで叩かれた。

 に負けじとキリサメは自分が知っている限りの未稲の交友関係を明かしていく。師匠の暴言を窘めながらも意外そうな表情かおを抑えられなかった藤太に対して、キリサメは心の中で優越感という名の牙を剥いたが、すぐさま矮小な対抗心が情けなくなり、却って居た堪れない気持ちが強まってしまった。

 そもそも三人のやり取りを妬ましく感じている場合ではないのだ。「友達が遊びに来ている」と出まかせを述べながら、未稲は肩を並べて立つ『八雲道場』の師弟の間をすり抜けるようにして助けを求める眼差しを向けてきたのである。

 彼女の言う友達が〝誰〟なのか、口に出して確かめるまでもない。それ故にキリサメは地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の選手でもあるかみしもしきてるの来訪という的中していないと分かり切っている予想を述べ、これを引き取って巧く誤魔化すよう未稲に促したのだ。


「今日のばんメシ、確か未稲の当番だったよな? 折角だし、『ダイニングこん』に繰り出すとしようぜ! これから暫く『八雲道場ここ』で寝泊まりするんだもんよ、藤太も初日くらいは家庭料理じゃねェご馳走を食いてェだろ?」

「今夜と言わず、世話になる間は俺が炊事を全部引き受けるつもりでいたのですが」

「はっぁぁぁァァァァァァッ⁉」


 裏返った悲鳴へ乗るかのようにして、未稲の丸メガネが再び地面に転がった。

 未稲が驚かされたのは外食の提案などではない。突然の〝里帰り〟だけでも脳内あたまのなかを掻き回されるような衝撃であったが、日本に滞在している間は『八雲道場』を拠点にするというではないか。次々と驚愕を上乗せされた彼女は思考回路が焼き切れる寸前であった。

 対抗心にき動かされ、藤太を制して未稲の丸メガネを拾うキリサメであったが、その間にもひろたか庭先ここに呼び寄せてやりたくなるくらいうっぷんが溜まっていく。


「やはり、急に押しかけてきて迷惑だったか?」

「そッ、それは……、だ、大歓迎……です……けどッ!」


 器用なことであるが、林檎のような紅潮と病的な蒼白といった具合に未稲の頬は交互に血色いろが塗り替えられ、これを数秒ごとに繰り返している。その様子を丸メガネを手渡そうとする際に至近距離から見つめる羽目になったキリサメも、気を緩めた瞬間に暴発してしまう苛立ちと、義弟おとうとの為にこれを抑えんとする理性が忙しなく乱高下し続けていた。


「藤太が使ってた布団一式はまだ押し入れにあるからよ、キリーの部屋へ運んでおくぜ」

「それも自分でやりますから。師匠、実家に帰ったときのお袋と一緒おなじですよ。あれも食えこれも食えみたく世話を焼かれると、逆に気持ちが落ち着かんのです」

「何をごく自然に意味不明な会話をしているんですか。まさかと思いますが、進士氏、僕の部屋で寝起きするつもりですか……⁉」

「贅沢を言える立場でないことは重々承知しているが、さすがに師匠とのだけは俺も遠慮したくてな。師匠の弟子はキリサメにとって兄も同然。気兼ねはいらんぞ」

「そういう問題ではなく……ッ!」


 キリサメに宛がわれた部屋は、元々は藤太が使っていた。それ自体は以前に岳から説明されており、本人も了承していたのだが、同じ天井を眺めながら並んで眠ることは簡単に受けれられるものではない。

 家族でもない人間との寝食は、互いの体温ぬくもりまで知っている幼馴染みのとさえ共にした経験ことがない。しかし、に不慣れだから難色を示したわけでもない。猪突猛進の好漢ということも理解しているが、それだけで性格の不一致は補えないのだ。

 二時間近く同じタクシーに乗りながら、今まで一言の相談もなかったのだ。〝最悪の事態〟を数分置きに更新され続けるキリサメは堪ったものではなく、未稲の手に返す寸前で丸メガネを無意識に放り投げてしまった。


「……とりあえず、二人ともに行きましょう。進士氏も長旅でお疲れですよね。一息いてください」

「後でお茶とか運んでいきますから! 私と照ちゃんの都合で本当にごめんなさいっ!」


 丸メガネはともかくとして、この抜き差しならない事態への対処まで放り出せないのがキリサメという生真面目な少年である。忌々しい気持ちに折り合いをつけると、岳と藤太がリビングルームに立ち入らないよう誘導を試みた。

 落下してくる丸メガネを空中では掴み損なったものの、天を仰ぐ顔に普段の掛け方と同じようにはまった未稲は、ツルの位置などを整えつつ二重の意味で救われた表情になった。

 今にも物理的に抱えそうになる頭を働かせたキリサメは、互いに目配せでもって合図を送りながら、未稲と連携して〝会ってはならない二人〟の切り離しを進めていく。


「みんな一緒だって良いじゃね~か。キリーがマッチの舎弟どもに囲まれたときに助太刀してくれたろ、照代。どっかで礼を言わなきゃならねェって思ってて――」


 まるで趣味であるかのように〝余計な真似〟へと元気よく突っ込んでいく岳は、今度も無自覚で事態を拗らせようとする。とうとうキリサメも我慢の限界に達し、『八雲道場』の師弟がMMAの試合でも用いるプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを養父の臀部に叩き込んだ。

 不意打ちとはいえ、日本MMAの先駆者である岳を一撃で蹴倒したキリサメに感心し、称賛を込めて両の手のひらを打ち鳴らし始めた藤太は能天気の一言でしか表せず、を送られた本人は「迷惑の振り撒き方まで似た者師弟」と心の中で吐き捨てた。



                     *



 八雲家の人々は二階にそれぞれの部屋を持っている。幼稚な気まぐれを起こしてリビングルームへ飛び込むことがないよう特に岳を急かし、〝似た者師弟〟に階段をのぼらせたキリサメは、階下の玄関からインラインスケートが片付けられているのを我が目で確かめたときには誇張ではなく本当に息も絶え絶えとなっていた。

 他に打つ手がなかったとはいえ、二人を自分の部屋に押し込んだことも既に後悔し始めている。世話の焼けるの子守りをしているような気分なのだ。

 かつては一日の始まりと終わりを過ごした空間へ数年ぶりに足を踏み入れた藤太は、感慨深げにゆっくりと室内を見回し、自分が去ったのちの変化を噛み締めていく。

 カーテンが夏色に掛け替えられるなどキリサメが住み始めてからの変化も多い。ベッドの上には未稲がパソコンの文章作成ワープロソフトで作成した資料が置いてあるが、これは古今東西の格闘家や競技選手アスリートが起こしてしまった不祥事の概略を取りまとめた物であった。

 身体を休めるときにもを読み、初陣プロデビューける己の過ちを省みているのだが、日本へやって来た当初には考えられなかった行動であろう。

 窓から差し込む陽の光のまばゆい跳ね返し方を見れば明らかな通り、本棚はここ半月の間に購入した物である。未稲が拵えたMMA用の資料や、キリサメが自分の意思で買い求めた格闘技・スポーツの関連書籍が分野別に整理して収納してあった。間違えて手に取ったのか、著者の項目にヴァルチャーマスクの名前が刷り込まれた同じ本が二冊並んでいる。

 蔵書の先頭に固められているのはの師匠――がわだいぜんの著書であり、所属先の道場『とうあらた』から提供された参考書籍がこれに続いている。

 頼まれてもいないのに養父が気を利かせて用意したテレビやDVDプレイヤーは埃を被るくらい放置されていたのだが、ここ最近はがわだいぜんと『とうあらた』のたちによる〝剣劇チャンバラ〟のDVDが繰り返し再生されており、部屋の片隅で眠り続ける家庭用ゲーム機や少年漫画の単行本とは正反対であった。

 観葉植物の一つもなく、依然として味気ない印象ではあるが、日々の営みがキリサメのなかで充実し始めたことが窺える。『八雲道場』で暮らし始めた当初は、でも引き払えるよう必要以上に物を置かなかったのだ。

 やがて一枚の絵が藤太の目に留まった。

 壁に掛けられた額縁入りのは、幼い頃にキリサメが模写したハチドリである。移住に際して故郷ペルーから持ち込んだ数少ない物の一つだが、こともあろうに藤太は〝良く実ったトウモロコシ〟と評したのである。正解を教えても「成る程、ナスカの地上絵をスケッチしたのだな」と失礼を上乗せする始末だった。


(どいつもこいつも……日本人はハチドリの何たるかが分かっていない……ッ!)


 師弟は感性まで似通うのか、岳にもトウモロコシと間違われたことがある。個性的な絵柄ではなく、本人の意気込みが形となったような筆致こそ注目すべきであろう――理不尽な言行の目立つ二人に対してさえ、道理に合わない文句を心の中で垂れた直後、キリサメは冷たい汗が背筋を滑り落ちるような迂闊に思い至った。

 衣類の収納ボックスが下の空間に押し込んであるベッドの真隣には、大小四段の引き出しと一体化した木製のデスクが置いてある。

 急な来客など想定していなかった為、デスクも雑然としている。練習トレーニングの進捗や摂取カロリーの管理を目的としたノートをひろたかから手渡されたのだが、それも開いたままであった。

 運が悪いことに〝小さな軍師〟が注意点や提案を書き込む通信欄のページである。藤太の視界に入ってしまう前にを引き出しに片付けなければならなくなったのだ。


「これはよもや『マクアフティル』? 中米マヤ・アステカの? 写真どころか、今まで絵でしか見たことがなかったが、この時代に実物があるとは! 俺は今、鳥肌が止まらん……ッ!」

「キリーの〝仕事道具〟だよ。『聖剣コイツ』をブン回してるトコもペルーで見たぜ! 今日はあちこち部品が外されてるみて~だから、ちょいと物足りなさもあるけどよォ~!」

故郷ペルーでの〝仕事道具〟を法治国家日本で振るう理由がありません。……寅之助相手に本気で斬り掛かった僕が言っても、説得力なんかゼロですけど……」


 壁に立て掛けておいた故郷ペルー以来の――『聖剣エクセルシス』に藤太と岳の興味が移ったことは何よりの僥倖さいわいである。厄介なくらい好奇心が強い師弟ふたりの注意を引かないよう気を付けつつ、キリサメはデスクへにじり寄っていった。

 角張った剣先が天井に当たるのも構わず、岳は両手でもって『聖剣エクセルシス』を高く振りかざし、藤太も船のオールを彷彿とさせる形状の刀身を興味深そうに仰いでいる。

 岳も語った通り、『聖剣エクセルシス』はキリサメにとって指貫オープン・フィンガーグローブに替わるまでの〝仕事道具〟である。ラテン語で〝神聖な場所〟や〝天〟を意味するなまえが皮肉でしかないが、格差社会の最下層で生き延びる為に無数の血を吸い尽くし、罪にけがれた〝暴力性の顕現あらわれ〟とも呼ぶべき禍々しい刀剣モノであった。

 二枚重ねた平べったい木の板につかじりがリング状となっている取っ手を組み合わせ、板の端から尖った石や鉄片がノコギリの刃のように幾つも迫り出すのだ。内側には重い石の板を二枚も挟み、斬り付けた標的の骨肉を治療できないくらい破壊してしまうのである。

 確かに現在いまは等間隔に並べて取り付ける鉄片などを全て外し、石による重量のみを残した状態であるが、深刻な事故や後遺症を回避し得る安全なルールに則って〝心技体〟を競い合うMMA選手の理念スポーツマンシップと正反対のモノであることに変わりはない。それだけに玩具で遊ぶ子どものように目を輝かせる師弟ふたりは、滑稽の二字でしか表しようがなかった。

 擦れた痕跡や汚れによって原形を留めていないが、木の板の表面には何らかの紋様が彫り込まれていた。『聖剣エクセルシス』を貧民街スラムの〝仕事道具〟と認識している岳や、彼の説明はなしに頷き返す藤太は、刀身に染み付いた斑模様が返り血であることを想像しているのだろうか。

 この師弟ふたりが極めた忍術も、起源を辿れば戦乱の時代の〝影〟を渡り歩いた〝闇〟の技であるという。鎧武者たちが入り乱れるかっせんで敵将の首級くびを狩るべく編み出された『しょうおうりゅう』――あいかわじんつうが宗家を務める〝戦場武術〟とも同質なのであろう。彼女と同じように〝純粋な競技選手アスリート〟より殺傷ひとごろしの武具にことはキリサメにも察せられた。

 実際、岳は来訪先のペルーで日系人ギャング団から襲われたときに火柱を起こして追跡を阻み、その隙に逃げを打つ忍法――いわゆるとんの術――を使ったのだ。おそらく『さなにんぐん』の〝にん〟だけでなく、古今東西の武具も研究しているのだろう。

 中南米の〝組織〟から差し向けられた人身売買ブローカーの手でペルーに持ち込まれ、一言では語り尽くせない死闘を経てキリサメの手に渡った『聖剣エクセルシス』のを藤太は『マクアフティル』と言い当てている。

 その藤太は持ち主キリサメの許可もないまま岳から『聖剣エクセルシス』を手渡され、握り心地や重量を確かめると昂揚に全身を震わせながら感嘆の溜め息を吐いた。


「筋肉が程よく悲鳴を上げる重量ウェイトが全身の隅々までし掛かる上に、ダンベルより使いやすいとは恐れ入った。余計な制限のない自由な身のこなしと、強い負荷を一体化させたほうが〝使う筋肉〟を育てやすい。運動器具マシーンに頼り切りでは鍛えられる部分が限定されて不格好になりがちだ。幾ら頑丈になっても、柔軟性が損なわれたらとは言えん」


 刀身の内側に石の板を挟んだ『聖剣エクセルシス』は、生半可な筋力では持ち上げることすら叶わないほど重い。キリサメの強靭な筋肉はを振り回すことによって鍛えられたものであろうと〝小さな軍師〟のひろたかは分析しており、今後も同じ練習トレーニングを継続するべきと、ケースカンファレンスの出席者と共有された提案書にも記されている。

 一定の規則性に従って筋肉を刺激する運動器具で育てた肉体からだと比べて、キリサメは柔軟性に富んでいる。彼自身は他の練習トレーニングを殆ど試していないのでひろたかの提案は実感に至らないのだが、MMAの最前線で闘い続ける進士藤太フルメタルサムライは同じことを考えたようである。

 キリサメが目を丸くして返答こたえに窮してしまったのは、ひろたかと藤太の見解が完全に一致した為である。〝血〟は争えないということであろうか、開かれたままのノートにも重量おもみのある『聖剣エクセルシス』を練習トレーニングに用いる利点や見込める効果が明記されていた。

 中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルとは大きく異なる形状だが、日本刀も見た目より遥かに重い。そのを養うの稽古と筋肉トレーニングは有機的に連動できるという。


「バカデカい剣だけに『ちょうねつしんくうオーラざん』を真似したくなるな!」

「……以前まえつるぎ氏にも似たようなことを言われましたよ。そのときと同じようにえて無粋なことを申し上げますが、『ちょうねつしんくうオーラざん』は専用の騎士剣バンガーバスタードでしか撃てません」

「今のは『せいれいちょうねつビルバンガーT』の話だろう? 大昔のスーパーロボットなのにキリサメ、随分と詳しいな。俺も再放送でしか観たことがないぞ。いや、ビデオだったかな」

「キリーってば『ビルバンガー』の熱狂的なファンなんだぜ! オレたちがガキの頃に好きだったアニメを今の子も楽しんでるのはやっぱ嬉しいよなァ!」

「……ペルーでも放送していただけです。岳氏は余計なことを言わないように……っ!」


 『聖剣エクセルシス』を挟んで三者の話題の中心に飛び出した『せいれいちょうねつビルバンガーT』とは、一九七〇年代に日本で制作・放送されたロボットアニメである。

 三機の戦闘機が合体して人型ロボットとなるのだが、その組み合わせによって三種の形態に変化する。草色のマントを翻しながら天空を翔け、不思議なオーラが漲った騎士剣バンガーバスタードを振り回す『ビルバンガーT』、右腕の超巨大ドリルで大地を貫くスピード型の『ビルドリラー』、野性味溢れる格闘戦と水中戦が得意な『ビルトーピード』――一体ひとつにして三種みっつ戦闘能力ちからを臨機応変に使い分け、悪の宇宙帝国と戦うのだった。

 岳が昂奮した調子で述べた『ちょうねつしんくうオーラざん』は、本編の主人公がパイロットを務める『ビルバンガーT』が騎士剣バンガーバスタードから放つ最強の必殺技だ。


「丁度、この場にオレたち三人だ! おいおいおい、〝グッドバンガーチーム〟を結成できるじゃねーか! オレは『ビルトーピード』を貰うからな~! 『ビルバンガーT』はにするッ⁉ 藤太はイメージ的に『ビルドリラー』っぽいけどよ!」

「やはり、主人公機ビルバンガーTはキリサメでしょう。あの勇姿は剣を携えし者こそ相応しい」

「か、勝手に決めないでください! 第一、こんな禍々しい刀剣モノ騎士剣バンガーバスタードを一緒にするなんて『ビルバンガーT』に失礼です……っ!」


 岳と藤太はのことを『せいれいちょうねつビルバンガーT』になぞらえ、ひろたかと同じ年齢にまで戻ったかのように盛り上がっている。キリサメも幼い頃には同じ非合法街区バリアーダスの友人たちと同作の登場人物やロボットになり切って遊んだのだが、そのときには決まって『ビルドリラー』の役を演じていた。

 〝ビルバンガーごっこ〟に興じた旧友たちは、暴力が支配する格差社会の最下層にいて僅かなかてり合う敵に変わり、キリサメも養父が『ちょうねつしんくうオーラざん』の騎士剣バンガーバスタードに見立てた『聖剣エクセルシス』で薙ぎ払っている。

 キリサメにとって『せいれいちょうねつビルバンガーT』は愉快なだけの追憶とはなり得ず、この話題はなしを持ち出した岳に反応したことが失敗であったと、心臓が凍り付くような思いで悔恨している。デスクの前に立つ自分のほうに二人を振り向かせてしまったのだ。

 『八雲道場』の師弟が交代で『ちょうねつしんくうオーラざん』を真似し合っている間にノートを手早く引き出しに片付けていなければ、おそらくひろたかの細かい字で埋め尽くされた通信欄を見られてしまったことであろう。二人に対して無礼と理解しながらも、心の中で「バカで助かった」と毒気に満ちた安堵の溜め息を吐いた。


「もしや、の……?」

「……には触らないでください。僕もまだ数えるほどしか袖を通していないんです」


 『聖剣エクセルシス』に続いて藤太はハンガーに真っ白いどうを見つけ、師匠のがわだいぜんから授けられた道場『とうあらた』の物であるというキリサメの説明がその背中を追い掛けた。


「……進士氏の目から見ると、〝兼業〟でMMA興行イベントに出場するのは邪道でしょうか?」

「まさか! 俺が世話になっている『NSB』も〝兼業格闘家〟は珍しくないぞ。世界経済が上向いていかない現代いまは、安定した収入が得られる手段を別に持つのも普通だ。格闘技に限らず、スポーツ界全体で出資者スポンサー確保が難しい状況が続いている」


 『NSB』の代表的な〝兼業格闘家〟として真っ先にキリサメが思い浮かべたのは、つい先月に日本でも主演映画が封切られたダン・タン・タインであった。

 道場『とうあらた』との接点から猿真似を企んでいるとつるぎきょうに誤解されたこともあったが、その男ダン・タン・タインはベトナム史上最高のアクションスターだ。スタントマンを用いずに超人的な身体能力で危険なシーンを演じ、ハリウッド映画にも進出している。

 『NSB』の興行イベント会場が占拠されたテロ事件に居合わせたことは日本のニュースでも報じたが、万が一にも銃弾を撃ち込まれていたら映画関係者は泡を吹いて卒倒したはずだ。


「MMAとの〝兼業〟に迷いを感じているのなら、〝両立〟と言い換えれば心に垂れ込めた霧も晴れるのではないか? 例えばンセンギマナ――MMA専用に改良チューンナップされた義足を装着して八角形の試合場オクタゴンに立つルワンダの選手もな、故郷では日本人技師が開いた義肢装具の工房で働いていたのだ。今も自分で使用した経験から助言アドバイスするなどスポーツ用義足の研究開発に貢献しているぞ。ゆくゆくはの指導員も務めることになろうな」


 シロッコ・T・ンセンギマナ――きょういししゃもんがアメリカへ〝武道留学〟した際にサバキ系空手とアメリカン拳法という垣根を超えて友情を育んだ義足のパラアスリートであり、『NSB』にける進士藤太フルメタルサムライの〝同僚〟選手である。

 日本のマスメディアは『ウォースパイト運動』のテロに二度も立て続けに晒された人物という点を繰り返し報じ、キリサメもその印象を強く持っている。半月前の事件では先鋭化した思想家グループが銃乱射という凶行に走るや否や、のもとへと駆け付け、凶弾の餌食となる寸前で藤太に救い出されたという。

 二五歳という年齢から察するに祖国ルワンダを引き裂いた内戦の生き残りであることは間違いない。左足の膝から下は一〇〇日にも及んだ虐殺ジェノサイドに遭って欠損うしなってしまったのであろう。

 〝同僚〟の進士藤太フルメタルサムライが語った通り、国家的悲劇を背負いながら『NSB』で闘うンセンギマナがMMAとの〝両立〟の手本になることはキリサメにも異論はなかった。何しろ彼はスポーツ用義肢装具の発展に貢献しているのだ。

 キリサメは完全な門外漢だが、数ある義肢装具の中でもスポーツ義足は特殊性・専門性が極めて高いのであろうと察せられる。名実ともに世界最高のMMA団体で得られるデータは唯一無二といっても過言ではないほど貴重であろう。自分の後に続くパラアスリートを支える為にモニターを務めているのかも知れない。

 ドレッドヘアーを荒々しく巻き上げ、試合場オクタゴンに〝水流〟を作り出すかのようにしてアメリカン拳法をふるう勇姿と同時に、二枚の〝板バネ〟を組み合わせ、五色の水玉模様を全体に散りばめたMMA用義足がキリサメの脳裏に甦った。

 無論、このときのキリサメにはニュースや他者からの伝聞でしか知らない他団体のMMA選手と、紫水晶アメジストいろの左義足――『ライジング・ポルカドット』が生涯の好敵手ライバルになることなど夢想だにしていない。


「ンセンギマナの場合はスポーツ義足が当てまろうが、〝別々の世界〟での経験などを組み合わせたとき、他の選手を寄せ付けん独創性が生まれる。それもまただ。きっとキリサメにも出来る。お前にはそれだけの潜在能力ポテンシャルがある」

との〝両立〟は道場の〝先輩〟のひめ氏も同じような助言アドバイスを頂きました。試合という筋書きのない状況での経験を反映させることで、という文化そのものにも貢献できる――と。僕は何しろ不器用ですから、そのンセンギマナという選手のような〝二足の草鞋〟に慣れるまで時間が掛かるでしょうが、日々に張り合いが出た思いですよ」

道場で良い師匠に出逢えたようだな」

がわ先生のことはまだ殆ど話していなかったはずですが、早くもその結論に? 先生はの第一人者ですから、進士氏が為人ひととなりをご存知でも不思議ではありませんが……」

「無論、がわさんのことは以前から知っていたさ。らくさい老師の盟友でもあるから、じかに挨拶させていただいたこともある。しかし、大事なのはではない。のことを話す表情かおを見れば、一生の出逢いがあったと理解わかるとも」

喧嘩殺法このわざを〝暴力〟以外に使えるなんて故郷ペルーでは考えたこともありませんでした。死んだ幼馴染みには嘲笑わらわれるでしょうが、化けて出たらどう姿で胸を張ってやりますよ」

「良い師匠との出逢いは一生の財産だ。今、心に湧き起こった感情きもちを大切にな」


 『聖剣エクセルシス』を藤太から受け取りつつ、キリサメはその一言に強く深く頷き返した。

 これによって両手が塞がった為、口元も隠せなくなっているが、『とうあらた』のどうがわだいぜんから手渡された日の喜びが甦り、頬が緩んでいくのを抑えられなかった。


「――こうせいのヤツ、また手紙を送り付けてきたのかよ! 今週だけで三通届いてたハズだけど、こりゃ隔日どころか、連日ペースだなァ~。MMAに熱心なのは大いに結構ッ!」

「……進士氏にとって岳氏は〝良い師匠〟なのか、詳しく伺ってもよろしいですか?」

「……反面教師の極みということは、養子キリサメも最初の一週間で理解できたと思うぞ」


 藤太も三〇秒前とは矛盾する言葉をキリサメに返さざるを得なかった。

 前者の師匠にして後者の養父――日本MMAの先駆者にして『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長という責任ある〝立場〟でありながら、岳は養子キリサメに届いた手紙を勝手に読んでいたのだ。

 何枚もの便箋をデスクに広げたままにしておいたのはキリサメだが、それはプライバシーの侵害を許可する合図ではない。

 無神経極まりない岳の行動こそがノートを片付けておいて正解であったことの証明であろう。練習計画がまとめられたページを目の端で捉えたなら、彼は便箋よりも先にそちらへ飛び付き、かつての妻から絞め殺されそうになったことさえ忘れてひろたかという〝小さな軍師〟を藤太に熱弁したはずである。

 キリサメが『聖剣エクセルシス』を横薙ぎに振り抜いて臀部をつよりも藤太の動作うごきのほうが僅かに早く、手紙を取り上げるようにして岳の片腕を捻った。


「……のMMAに対する思いは煩わしいくらい伝わりましたから、脇目も振らずにそちらへ専念して欲しいですよ。半人前が名乗るのは不遜ですが、〝プロ〟の団体である『天叢雲アメノムラクモ』と、が夢を抱くアマチュアMMAは似て非なるものでしょうに……」

「アマチュアMMAと言わなかったか、今……ッ⁉」

オリンピック初出場を目指すイキの良いがいるんだよ。『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントもリハーサル関係のバイトで手伝ってもらってるんだけどよ、まさか、キリーと心が通じ合うなんてなぁ~。何がどうなるか、分からねぇモンだぜ!」

「仲の良い友人に向けるような台詞、僕が一度でも吐きましたか……っ?」


 愛弟子から折られそうになった右肘を痛そうに撫でつつ、岳は手紙の差出人を〝日本MMAの第一号五輪代表選手オリンピアン〟と説明し、すかさずキリサメが「その志望者です」と養父が欠いた情報を補った。

 デスクうずたかく積み上がるほど大量の手紙を『八雲道場』に送り続けるのは、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行にてキリサメと遭遇したカパブランカこうせいである。

 これが本名フルネームであるのか、封筒に記されたこうせいの名前は、前に『カパブランカ』、後ろに『ヨトゥエル』と、二つの姓によって挟まれていた。

 二〇一四年六月末現在、候補に挙がるどころか、協議すら始まっていない総合格闘技MMAのオリンピック正式種目化が近い将来に成し遂げられると揺るぎなく信じ、その出場を目指して猛烈かつ一直線に突き進む大学生だ。

 封筒に記された県庁所在地からも察せられる通り、岐阜県の出身うまれであるが、その起源ルーツはカリブ海に浮かぶキューバへ辿り着き、キリサメも故郷ペルーの〝日系人社会〟で見慣れた顔立ちや肌の色であったと記憶している。

 地肌が露出しない程度に短く切り揃えた髪を茶色く染め、『ハルトマン・プロダクツ』のジャージを着ていたことをキリサメはず想い出すのだが、各種セレモニーのリハーサル要員として参加したこうせいは、日本で最大の勢力を誇るMMA団体の興行イベント会場に立ち、その空気を肺一杯に吸えることが嬉しくて仕方がない様子であった。

 以前に模擬戦スパーリングを目にした岳はこうせいの力量を〝未来の金メダリスト〟と絶賛し、同じ場に居合わせた麦泉もこれを否定しなかった。二人の会話では『ステート・アマ』の〝血〟を引くことも仄めかされている。

 MMAという競技からオリンピックへの出場を目指す限り、極めて優れた潜在能力ポテンシャルも迸る情熱も、最後まで報われないのではないかと、キリサメは未だ疑問に思っていた。

 藤太が所属する『NSB』や、日本国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関の『MMA日本協会』も競技化の推進運動を展開し、代表選手オリンピアン候補の育成に注力しているが、それらはであり、現時点でMMAがオリンピック正式種目に採用される目途は立っていない。

 MMAの発祥地であるアメリカでオリンピック・パラリンピックが開催されるときには可能性もあるだろうが、そもそも同国は近年の招致活動でおくれを取り続けている。

 正式種目を呼び掛ける声が国際社会でも高まるという条件が全て整えば、最も早くて二〇二四年のプログラムにMMAという競技名なまえが記載されることであろうが、これは〝運命の気まぐれ〟でも起きない限りは有り得ない。

 MMAの歴史を紐解くと、世界を経巡って他流試合を繰り広げた前田光世コンデ・コマの伝説に辿り着くのだが、彼が没したブラジルで二〇一六年に開催されるリオオリンピックでも同競技は正式種目に推す候補にすら入っていなかった。

 MMAの礎とも呼ぶべき『ブラジリアン柔術』の発祥地でさえ正式種目採用は見込みがないと最初から諦めていた。それこそが厳然たる〝現実〟だが、心が折れてもおかしくない状況にも関わらず、カパブランカこうせいは己の夢が叶うことを少しも疑っていない。

 限りなく岳に近い方向性で常識という枠から著しくはみ出した性格だけに思い込みの強さは尋常ではなく、MMAに対する思い入れの深さも同様に底なしであった。

 一九九七年の歴史的屈辱――『プロレスが負けた日』に我が身を生け贄として捧げ、この洗礼をもってして日本MMAを真の覚醒へと導いたヴァルチャーマスクから直々に激励されたにも関わらず、その思いへ応じたように見えなかったキリサメに対し、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行を〝裏方〟として支えるアルバイトの〝立場〟も忘れて文句を浴びせたのである。

 『打投極』を日本で初めて体系化した偉大な先駆者ヴァルチャーマスクへの愚弄にも等しい態度であると、MMAが青春そのものというこうせいの目には映ったわけだ。

 そのこうせいが最も神聖視しているであろう闘魂のリングを血でけがし、最後には破壊してしまったキリサメは憎まれて当然と考えていたのだが、プロデビュー戦から程なくして最初の手紙が『八雲道場』に届いた。

 一通目はキリサメがMMA選手として至らない部分を一つ一つ指摘する内容だったが、読んだ相手が暑苦しさに嫌気が差すとは想像もしていない押し付けがましさはともかくとして、二度と『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントに出場できなくなるほど精神的に追い詰めることが目的の誹謗中傷カミソリレターではなく、古今東西の格闘家たちを例に引いた改善案が幾つも併記されていた。

 便箋の端から端まで綴られた内容には、咀嚼だけで疲れるほどの熱量が迸っている。

 大学でスポーツ科学を専攻しているこうせいは、アマチュアMMAの同好会サークル仲間メンバーと研究した内容ことも書き添え、返事を待たず日も置かずにキリサメへ手紙を送付し続けていた。


「キリサメはこの山ほどの一通一通に返事を出しているのか? ……俺なら最初に二通目くらいでデスクからジムに逃げ出したくなるぞ」

「返事を書いている間に次の手紙が送られてくるような間隔ペースなので、数通分をまとめて返していますが、……このうっとうしさを除けば、大学で教わるような専門知識を共有していただけるのは素直に助かりますしね。死んだ母にも人から貰った手紙は、例えそれが果たし状であっても必ず返事するように言い付けられてきましたよ」

さとさん――キリーの実母かあちゃんな、デタラメな腕力ちから自慢のクセしてマナー全般には厳しかったんだよ。キリーを見てりゃ、しつけもビシッとキマッてるのが分かるだろ、藤太」

「……ときには理解わかってもらう教育も辞さない人でしたから、実子むすことしては誉め言葉も複雑なのですけどね。ここに沙門氏が居なくて良かったですよ」


 キリサメ・アマカザリとカパブランカこうせい――起源ルーツこそ異なるものの、共に日系人という出自であり、同じMMAの〝道〟という志しながらもプロ・アマで分かれた二人の間では古めかしくも奇妙な文通が続いている。

 ここ最近はキリサメの返事を待ち切れないのか、一方的に送り付ける回数が増え続け、次なる対戦相手にして『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルの攻略に向けた助言アドバイスは三日連続で届いていた。

 〝軍師〟たる義弟おとうとの役割とも重なりそうなものだが、競技選手アスリートの資本となる肉体や精神の育て方など具体性の高いひろたかに対して、こうせいの側は敬愛してやまない格闘家の逸話などを中心にMMAが持つ〝筋書きのないドラマ〟の側面を熱弁することが圧倒的に多い。

 『天叢雲アメノムラクモ』の試合にいて、入場リングインの際に使用される選手紹介のPVプロモーションビデオ――〝煽りVTR〟を二〇一一年の旗揚げ興行から岩手興行の分まで全て網羅したDVDが参考資料と称して届けられたこともあった。



                     *



 岩手興行の第七試合を受け持った日本人選手――ギリシャ文字を思い起こさせる通称リングネームを名乗る『』というその女性は、肩の辺りで切り揃えた髪の先を三つ編みに束ね、格闘技とは距離を置いていそうにも見える温和な面持ちであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』に吸収合併されるまで日本で最大の勢力を誇る女子MMA団体であった『メアズ・レイグ』が最後に迎えた新人選手ルーキーでもある。つまり、契約直後に現在の所属先へ移籍する状況に陥ったわけだ。

 自身が経営する事務所にて〝高校時代の武勇伝〟をたずねられたは、意味不明と示すように幾度も双眸をしばたたかせ、次いで周囲まわりの人々に聞かれていないかと心配した。

 〝煽りVTR〟の作成に要するインタビューの収録ということでおもてみねを事務所の応接スペースへ迎え入れたのだ。それにも関わらず、試合との関連性が定かではない質問を投げ掛けられたのだから、「生憎と本日は予定が詰まっているんです」と、遠回しに退出を求めたのは当然であろう。


「――選手は東京最強と恐れられた〝番長〟ですよね?」


 我慢して説明に耳を傾けていれば、インタビューを受ける必然性が一つは見つけられるだろうと考えていたは、この瞬間に淡い期待と己の甘さを後悔した。

 彼女から「お願いだから、もう帰って欲しい」という直接的にも程がある呻き声を引き出したのは、表木嶺子インタビュアーが応接室のテーブルに並べた十数枚の写真であった。


「ウワサには聞いてましたけど、社長って昔、ヤンチャだったんですね~」

「ちょっと待って⁉ ウワサに聞いてたの⁉ どこで⁉ 誰に⁉ いつから⁉」


 応接スペースとの間には衝立パーテーションも置かれていない為、二人の会話はえて聞き耳を立てなくとも筒抜けとなっている。それぞれの業務に勤しんでいた人々も〝東京最強と恐れられた番長〟という一言には好奇心が抑えられなかったようである。

 事務所内には壁際に何台ものパソコンが設置され、一〇人を超えるスタッフが液晶画面と向き合っていた。は二三歳の大学院生でありながら、インターネットを中心に運動教育の事業プロジェクトを立ち上げ、これを取り仕切る社長でもあった。

 『天叢雲アメノムラクモ』への参戦こそが〝兼業〟であればこそ、はスーツ姿でインタビューに臨んでおり、胸ポケットに着けた名札ネームプレートにもおけくすという本名が記されている。

 の部下が目にした写真は〝知られざる姿〟というわけだ。

 一つとしてボタンの外れていないブレザーを着こなし、模様もないスカートの裾は膝よりも下――生徒会長という当時の肩書きも含めて、その生真面目さは現在いまと大きく変わるものではない。肩甲骨の辺りまで伸ばした頭髪かみを首の付け根のところで結わえていたが、それに用いるのも味気ないゴムであった。

 しかし、隠し撮りされたものとおぼしき写真が切り取った場景は、およそ生徒会長という肩書きから掛け離れていた。頭髪かみを赤く染めた男子高校生に正面から組み付き、胴に回した両腕の力だけで相手の身体からだを高々と持ち上げているのだ。

 彼と同じ高校の学ランに身を包んだ仲間たちはを取り囲みながらも完全に腰が引けており、助けようにも足が動かない様子であった。写真である為、男子高校生を持ち上げた場景で静止してしまっているが、周囲まわりの人々の引きった表情かおが末路を物語っていた。

 別の写真ではスカートがめくれないよう両手で裾を押さえつつ左右の足を突き出し、大量の血飛沫と共に相手の顔面をね飛ばしていた。その標的――ブレザーを羽織った高校生は相当な長身である。ドロップキックで鼻を潰せる高さまで跳ね飛んでいるわけだ。

 現在いまより数年前のは、いずれの写真でも「私の話を聞いて下さい」と訴えるような表情かおであった。喧嘩を楽しんでいるというよりは、自分の言葉に耳を傾ける気になるまで非行少年のにとことん付き合うという意思表示のようにも見える。

 生徒会長として非行少年と接し、同じ目線で語らうべく肉体からだを鍛えている内に〝番長〟と呼ばれる立場ポジションになっていったのだ。他校との揉め事にも駆り出されるようになり、これを解決し続けた果てに〝東京最強〟と恐れられるようになってしまったのである。

 一〇〇人を超える仲間たちを引き連れて勝負を挑んできた隣県の非行グループを〝東京連合〟ともたとえるべき大軍団で壊滅させ、自校の生徒が反社会的勢力ヤクザに囚われたときには相手側の幹部と単身ひとりで話を付けて救出したという。

 俄かには信じがたい伝説を次々と打ち立て、〝東京最強の番長〟と畏怖されたのだが、MMA選手であることを把握している事務所の人々も〝高校生の頃の武勇伝〟までは知らされていなかったようだ。


「――『天叢雲アメノムラクモ』の〝煽りVTR〟では〝番長〟として大立ち回りが何度も取り上げられたのに、社員の皆さんは知らなかったのですか?」


 表木嶺子インタビュアーによる無神経極まりない質問には、さしものも「社長の課外活動を社員に押し付けるような社風ではありませんので!」と苛立ちを隠さなかった。

 社内で一度も語らなかった過去を暴露され、比喩でなく本当に頭を抱えている。学生鞄で金属バットを軽く受け止め、相手を戦慄させた写真が部下たちには最も好評であった。


「私は別に喧嘩したかったわけではないんですよ。人生を棒に振るような過ちだけはいけないとお話しをさせて貰っただけです。今さら昔のことを掘り返されても」


 疲れ切った顔で腕を組むであったが、隠しておきたかった過去を「最高にイケてますよ!」と事務所の部下たちに称賛されたことで多少は機嫌を直したようだ。

 その変化を見逃さなかった表木嶺子インタビュアーは、すかさず質問を続けた。


「私に殴り掛かってきた皆さんの心持ち……ですか? 人それぞれケースバイケースですから、あくまでも一つの傾向を抜き出す形になりますし、あくまで私見ですが、意地を張ることと命を張ることが表裏一体という部分はあったかと思います」


 『昭和』の荒んだ時期に多用された呼び名――〝ツッパリ〟という言葉にも表れている通り、現代の非行少年も意地の張り合いに命を懸けている。かつて〝東京最強の番長〟と畏敬されたは、肌で感じた非行少年ツッパリたちの魂を回答こたえに代えた。



                     *



 心の奥底に触れられるくらい非行少年たちと向き合ってきたの姿勢こそカパブランカこうせいはキリサメに伝えたかったのであろう。この言葉へ重ねたいが為に『天叢雲アメノムラクモ』で過去に使用された〝〝煽りVTR〟を参考資料のDVDに収録したわけだ。

 同じ喧嘩殺法をふるうにしても、のように拳を交える相手の気持ちに寄り添うことこそ大切という呼び掛けはキリサメが自らの想像で補っており、肝心の手紙からは本人の意図が抜け落ちている。言葉としてまとめ切れないほど思い入れが先走るところもこうせいは岳と似ているのだった。


「……何でもかんでも押し付けていたら、出会い頭の事故みたいな事態も起きますよね」


 鞘代わりの麻袋に『聖剣エクセルシス』を納め、再び壁に立て掛けたキリサメは本棚から引き抜いたる本を両手に一冊ずつ持ち、これを藤太に掲げて見せた。

 ヴァルチャーマスクが日本で闘っていた頃に記した著書――『打投極』の真髄を誰にでも咀嚼しやすいよう理論立てて解説した本である。四角いリングではなく学校の教壇に立つ〝超人〟レスラーの威容すがたが目を引く表紙であった。

 これを読んで日本にける〝総合格闘〟の成り立ちを勉強するようこうせいから送られてきたのだが、キリサメは全く同じ本を初陣プロデビューより前に岳から貰っていたのである。

 プロレスの誇りを背負って挑みながら、ブラジリアン柔術に惨敗を喫した歴史的屈辱以来、一部の心無い人々に〝永久戦犯〟と謗られ、また日本MMAの黄金期が最悪の形で崩壊した直後にアメリカへ去ったことを恨む者も多い中、岳はヴァルチャーマスクを大恩人と公言して憚らない。

 そのような男が大恩人ヴァルチャーマスクの著書を養子に買い与えることは、ほんの少しでも想像力を働かせれば察せられるはずだ。

 全く同じ表紙の二冊を交互に見比べた藤太は、師匠に対して吊り上がることの多いごくぶとの眉を眉を落としながら旅行鞄を開き、「……〝総合格闘〟の成り立ちを勉強して欲しいと思ったのだが……」と、この上なく気まずそうな調子でを取り出した。

 藤太が翳した物は一目で分かるほど年季が入っている。ページめくる方向に反り返るくらい読み続けてきた自分の本を譲ろうと思い、ロサンゼルスの居宅すまいから持ってきたのだろう。


「三人で一冊ずつ交換し合うのはどうだ? あにィの本はオレも自分用を持ってるし!」

「いえ、有難く頂戴します。本は〝版違い〟で内容も変わりますから、進士氏からお譲りいただいた物と手元にある二冊を読み比べて勉強させていただきますよ」


 藤太から譲られた本を受け取り、三冊重ねて机上に置いたキリサメは、底抜けのはつらつさが眩しくてならないこうせいの笑顔を思い返しながら、辟易の二字を顔面に貼り付けた。


「ゆくゆくあの人はどうやって生計を立てるつもりなのでしょう。興行イベントを支えていただいている選手が言うべきではありませんが、大学を卒業した後まで『天叢雲アメノムラクモ』でアルバイトというわけにはいかないでしょうし……」

「裕福な家に生まれたお坊ちゃんみたいなコトは虹晴アイツのバイト仲間が言ってたっけな。いわゆる、〝実家が太い〟ってヤツ」

「言い換えれば、ごくつぶしじゃないですか」

「先立つものが無けりゃにっさっもだろ? 前人未到に挑戦チャレンジしようってヤツの中には、も珍しくないぜ。日本で初めてオリンピックに出場した二人の内、しまひこは名門の出身うまれだし。当時は現代いまみたいに出資者スポンサー後援バックアップしてくれるワケじゃねェもん」

「先ほど伺った進士氏の話をお借りしますが、現代いまは逆に出資者スポンサーを募るのも大変な時代でしょう。今後の十年内にオリンピック競技化が見込めないアマチュアMMAをたすけようと名乗りを上げる企業などあるのでしょうか」


 収入面の安定性は欠くものの、一旦は〝プロ〟選手となり、MMAが正式種目に採用された時点でアマチュアにするという選択肢も賢明であろう。目的・経緯・出場競技のいずれも異なるが、『NSB』の所属選手であったブラボー・バルベルデもオリンピック出場を目指してMMAの〝プロ〟からアマチュアボクシングへと闘いの場を変えている。

 一九八四年ロサンゼルス大会以来、本格的に商業化へと舵を切った現在のオリンピックは〝プロ〟の競技選手アスリートも出場しているのだ。そもそも一九七四年にはオリンピック憲章からアマチュアリズムが公式に外されている。

 〝プロ〟経験者と学生スポーツの延長が同じリングで拳をぶつけ合うことは危険極まりなく、MMAの正式種目採用を推進する諸団体でも慎重な議論が重ねられているものの、プロからアマチュアへの転向自体には邪道と批難される理由はなかった。


「そのこうせいという大学生、文字通りにアマチュアMMAの発展へ命を懸ける覚悟を決めているのだろう。俺にはそう思えてならん」

「自分の人生を種銭もとでにしながら勝ち目の見えない大博打に挑むのと同じですから、確かに生半可な覚悟ではないでしょう。でも、それを最善策と受け止めるのは難しいですよ」

「だが、誰かが最初の一歩目を踏み出さなければ後に続く者はない。師匠が名を挙げたしまひこかなくりそうと共にストックホルム大会に出場したからこそ、日本にオリンピックの歴史は続いている。一九六四年東京大会でパラリンピック開催に力を尽くしたなかむらゆたかもまた然り。黎明の鐘を鳴らす勇気は、それ自体が時代を繋げるということだ、キリサメ」


 キリサメからすれば二人の意識を階下に向けさせなければ如何なる雑談でも構わず、日本のアマチュアMMAやカパブランカこうせいのことも何の気なしに話したのだが、これを受け止める藤太のほうは神妙の二字こそ似つかわしい面持ちとなり、一言一言を噛み締めるように瞑目したまま大粒の涙まで流し始めた。


「……そうか、アマチュアMMAの火は日本で絶えていなかったか……ッ!」


 想像もしていなかった激しい反応にキリサメと岳は揃って面食らったが、喉の奥から絞り出された震える声に接して落涙の理由と意味を悟った。

 地上に存在するあらゆる格闘技を深刻な人権侵害とし、その根絶を呼び掛ける思想活動――『ウォースパイト運動』の過激活動家たちが『NSB』にの域を超えたテロ攻撃を仕掛けたとき、藤太もこれを迎え撃っている。

 〝抗議の笛ブブゼラ〟を吹き鳴らしながら八角形の試合場オクタゴンに殺到し、これを占拠した過激活動家たちは『NSB』を『平和と人道に対する罪』で糾弾したのだが、アマチュア選手の育成を含んだMMAのオリンピック競技化運動も許されざる罪悪に数えていた。

 近代オリンピックで採用されたスポーツが人口にかいしゃする〝事実〟は、一八九六年開催の第一回アテネ大会から始まる長い歴史が証明している。

 万が一にもMMAがその恩恵に浴し、広く一般まで普及した場合、他の〝格闘競技〟と比較してもすこぶる高い暴力性によって人間の破壊本能が増幅され、が第三次世界大戦の火種になり得ると過激活動家たちは本気で懸念していた。

 無論、科学的根拠を著しく欠いた独り善がりの強迫観念に過ぎないのだが、例え虚言であろうとも強烈なを持つ言説は人の心に深い傷を作り、鋭い痛みと共に記憶へ刷り込まれてしまう。によって社会の変容を図るのがテロリズムである。

 『NSB』に襲い掛かったテロは、同じ『ウォースパイト運動』の過激活動家でありながら八角形の試合場オクタゴンを占拠した者たちとは別の一派によって銃撃事件に発展し、容疑者全員の死亡という最悪の幕切れとなった。

 『ウォースパイト運動』の〝同志〟たちの間で神格化されつつある『サタナス』が『NSB』関係者の同乗する大統領専用機エアフォースワンへサイバーテロを仕掛けたばかりでもある。大衆の心を掻き乱し、格闘技根絶へと社会を扇動する効果は十分に見込めるわけだ。

 MMAとの関わりのみでテロの標的になり得るという恐怖が世界中に伝播しようものなら、アマチュア選手は一人も居なくなるはずだ。〝プロ〟のように契約した競技団体による庇護などは望むべくもなく、無防備のまま我が身を危険に晒すようなものであった。

 夥しい発砲音が轟いたとき、藤太は巻き込まれた仲間を追い掛けて銃弾の只中へと飛び込み、ただ一つの命を救い出す代償として右頬を抉られている。その傷は事件から半月が経った現在いまも生々しさを留めていた。

 MMAそのものを狙ったテロが原因となってアマチュア選手が委縮してしまうことは、事件の最前線で『ウォースパイト運動』と相対した藤太にとって何よりも耐えがたい。

 しかし、アマチュアMMAは忌むべきテロリズムに屈しなかった。テロ事件の後もオリンピックという夢に全力で突き進んでいた。キリサメを介して希望の灯火を手渡された恰好であり、余人には想像できない感情が藤太の双眸から溢れ出した次第である。


(アマチュアMMAがどうなっていくのか、僕には見当も付かないけれど、――カパブランカ氏は曇ることなく自分が進むと決めた〝道〟を見つめるべき人なんだろうな)


 くだんのテロによって進士藤太の心に刻まれた痛手ダメージをこれまでキリサメは掴めずにいたが、カパブランカこうせいという存在を挟んでその深さを初めて理解できた。

 試合中の八角形の試合場オクタゴンに乗り込んだのは、『NSB』の所属でありながら『ウォースパイト運動』という過激思想に取りかれた〝同僚〟であった。完治には至るまいが、その衝撃ショックこうせいによって癒されたことであろう。

 アマチュアMMAの火は日本でも消えていなかった――藤太が呟いたその一言を手紙に書けば、こうせいにとっても大きな励みとなるだろう。調子付かせるのは煩わしいが、MMAそのものへ貢献する為にも必ず伝えなければならないと、キリサメは強く感じていた。

 あるいは藤太のほうからこうせいに向けた手紙を同封して欲しいと申し出るかも知れない。


「その青年に『NSB』を代表して礼を言いたい。いや、団体の名を出すのは大袈裟か。しかし、今の話をモニワ代表が聞けば、間違いなく俺と同じことを願い出るはずだ」

「モニワ氏なら、きっと進士氏の思いを尊重してくださると思います」


 果たして、想像した通りの言葉を受け止めたキリサメは、深く強く頷き返した。人柄を知れば知るほど最初に抱いた印象イメージが揺らいでいったが、道義を重んじ、物事の上辺に振り回されることのない性根は、やはり『フルメタルサムライ』という通称こそが相応しい。

 その藤太の首を左腕でもって抱えた岳は、対の手で頭を乱暴に撫で、更には握り拳で軽く小突いていく。今にも蕩けそうな笑顔で愛情を示す養父を見ていれば、〝良い弟子〟に恵まれることも人生の幸せなのであろうと感じ取れるが、キリサメのなかで先程のような疎外感がぶり返すことはなかった。

 代わりに湧き起こったのは、自分もがわだいぜんにとってそのような弟子になりたいという気持ちであった。入門から間もない現在いまのキリサメに理解できなくとも仕方ないが、この心の働きこそが時代ときを継ぐということである。


「――キリく~ん、、これで出掛けるからね~っ! モッチーパイセンの練習を見学しにジムまで行ってくるから、ね~っ!」


 極めて情緒的な場景に割り込んだのは、階下から突き抜けてきた未稲の大音声である。

 キリサメに対する呼び掛けのみが玄関から階段まで駆け上がってきた恰好であった。委細はたずね返せないが、上手い具合にひろたかを言いくるめ、藤太と接触する前に屋外へ連れ出すことに成功した様子だ。

 返事を持たず、部屋のドアを開いて「お茶を用意してくれるんじゃなかったっけ⁉」と逆に質してくる実父ちちにも答えず、未稲が玄関を閉ざしたのはが成立していることを疑わない為であった。

 自動施錠オートロックの音を両耳で確かめた時点で、憂慮すべき事態は去ったはずであったのだが、気の緩みからキリサメは一つの痛恨事を仕出かした。


「……『モッチー』というのもみーちゃんの友人なのですか? ジムへの見学ですから、格闘技関係者ということは何となく掴めましたけど」


 まず間違いなく愛称ニックネームであろうが、耳慣れない名前であった為、未稲が口にした人物のことを岳に向かって無意識にたずねてしまったのである。


「おう! 本名フルネームなしとみもち。日本でも『車椅子ボクシング』を広めようと頑張ってる最高にカッコいい挑戦者チャレンジャーだぜ! または未稲の数少ないダチ公って言い方もあるな。そうか、キリーはプロデビュー戦直前だったし、もちと挨拶する余裕もなかったか」

「ああ――岩手興行を手伝っていただいたスタッフの方ですね。確かにお会いしたことはありませんが、みーちゃんから話を聞いたおぼえがありますよ」

「おう、そのもちだ! オレも練習トレーニング模擬戦スパーリングを見学させてもらったけど、もちのハードパンチャーっぷりもあって、そりゃあド迫力だったぜ、車椅子ボクシング!」


 『天叢雲アメノムラクモ』はえて首都圏に拠点を持たず、全国各地の運動施設で〝旅興行〟を行う形態を取っている。雇用創出事業の一環として、会場設営のスタッフは主に開催先の土地で募集しているが、一方で興行イベントそのものを進行させるスタッフの割合は団体の性質に対する理解度が求められる為、提携する人材派遣会社の人員が大きな比率を占めていた。

 二〇〇八年キンパラリンピックの代表選手が舵を取り、心身にハンデを持つ人たちが安心して働ける社会の実現を目指す人材派遣会社も提携先の一つだ。その社員と未稲が親しいことをキリサメは想い出していた。それが『モッチーパイセン』――なしとみもちであろう。


「日本にも車椅子ボクシングの選手がいるのですかッ⁉」


 背広の袖でもって涙を拭ったのち、師匠に向かって身を乗り出した藤太は、一分前までの雰囲気とは打って変わってごくぶとの眉を上下に忙しなく動かしている。誰の目にも強い興味の顕現あらわれであることは明らかであった。

 一九四〇年東京大会の返上から夏季オリンピックは〝戦争の時代〟に至って一二年も中断され、その終結後に一九四八年のロンドン大会でようやく復活した。同じ年のことであるが、その地ストーク・マンデビルに所在する病院にいて一つの競技大会が執り行われた。

 『ストーク・マンデビル競技大会』――こんにちのパラリンピックの礎である。

 運営費が退役軍人の協力によって支えられるなど、酸鼻を極める戦場から帰還した傷痍軍人のリハビリと社会復帰を目的として開催された同大会のプログラムは、車椅子競技のみで構成されていた。

 全世界を二つに割る〝戦争の時代〟に脊椎損傷によって生きる気力を喪失うしなった戦傷者たちと向き合い、スポーツという効果的な運動を通じたリハビリを提唱した医師――ルートヴィヒ・グットマンがイギリスのストーク・マンデビル病院にて始めた偉大な挑戦は、六六年を超えたこんにちにも受け継がれ、となる一九六〇年ローマ大会から車椅子フェンシングが採用されている。

 それから半世紀余りが経ち、〝パラスポーツの祭典〟も多種多様となったが、直接打撃フルコンタクトを伴うボクシングは車椅子競技に追加されていない。

 ルートヴィヒ・グットマンとストーク・マンデビル競技大会の理念が育まれたイギリスや、心身にハンデを持つ人々の機会均等を法律で約束し、物心つく前から〝全て〟の子どもたちが共に学ぶ環境のあるアメリカ――〝パラスポーツとしての格闘技〟が発展する土壌が整った欧米で知名度を高め、競技大会も盛んに開催されているが、車椅子ボクシングそのものは八年前に世界初の競技団体が創設されたばかりであった。

 二〇〇三年に京都のジムが黎明の鐘を鳴らした日本も発展途上の段階である。全国的な普及には一〇年という歳月でも足りず、イギリスのように大勢の選手が集う大会は二〇一四年六月末時点で一度も開催されていない。

 まだ一握りに過ぎない〝新時代〟の挑戦が東京でも始まっている――アメリカを主戦場としている藤太が岳の話へ前のめりになるのは当然であろうが、目を輝かせて昂奮する姿を呆然と見つめるキリサメは、己の油断を悟って打ちのめされていた。


「さっき話したこうせいが日本で初めてMMAのオリンピアンになる男だとすれば、もちは日本のパラリンピアンとして初めて車椅子ボクシングのリングに上がる女ってワケだ! どちらもまだオリ・パラの正式種目になってねぇけど、あの二人なら夢のほうが放っちゃおかねぇさ! オレたちも負けてらんね~ぜッ!」

「道なき道を切り開くとはまさしく本物の挑戦者チャレンジャーですね! ますます興味深い!」

「だったら、どうする? 未稲たちを追い掛けるぜ、藤太ッ! キリーも来いッ!」


 およそ二〇分ぶりに膝から崩れ落ちたキリサメの目の前で、『八雲道場』の師弟は固い握手を交わした。

 先程は「バカで助かった」とキリサメを安堵させた子どものような無邪気さが最悪の形で反転した。しかも、二人の意識を屋外そとに向けさせてしまったのは、自分が他意もなく発した一言なのだ。この場にける最大の粗忽者バカを見極めたキリサメは、両の五指でもって自身の頭部あたまを掻きむしった。


「ちょっと! よろしいでしょうか! 車椅子ボクシングも大変勉強になろうかと思いますが、僕は今日の練習トレーニングをおさらいしたくてですね! 種類が違う模擬戦スパーリングなどを忘れない内に再現してみたいのですが! それでその! 岳氏と進士氏にご指導をお願いしたく!」


 を引き留めるべく窓に向かっていく岳と藤太をまとめて釘付けにしなくてはならなくなったキリサメは、抑えがたい焦燥感にき動かされ、瞬間的に思い浮かんだ一つの策を少しも練り込まないまま口にしてしまった。

 他にすべがなかったのは間違いあるまいが、挙手と共に述べたことが自らを生け贄に差し出すようなものであったとキリサメが悟ったのは、勢いよく振り返った二人の顔を一瞥した後である。岳も藤太も、獲物を前にした肉食獣さながらに双眸を輝かせていた。



 悔恨と疲弊を抱えたキリサメが玄関のドアの前に座り込み、自分に嫌気が差したような溜め息と共に項垂れるのは、が出掛けてから小一時間後のことであった。

 ほんの五ヶ月前までは亡き母の遺骨を納めたロッカー式の集合墓地をねぐらにし、軒下で雨風を凌いでいた為、感覚的に慣れず幾度となく繰り返してしまうのだが、今度も自動施錠オートロック機能を失念して自宅いえの鍵を持たずに屋外そとへ出てしまった。もはや、チャイムを鳴らすか、未稲の帰宅かえりを待つ以外に金属製のドアは開けない。

 しかし、屋内なかに留まっている二人を呼び出すことは、どうしても躊躇ためらってしまうのだ。


「――違う違う違う違うッ! 師匠は思考アタマが固過ぎます! 余りにもリングへの対応に偏り過ぎている! マットの端から端まで全部使い切るくらいでなければ! さてはロープ際さえ相手を追い詰める程度にしか考えていませんね⁉」

「バカ野郎、この野郎! 瀬戸際からのロープワークは無限に臨機応変だぜ⁉ 相手に退路を断ったと思わせといて、そっから形勢を引っ繰り返すのがリングの華ってコト、まさか忘れたとは言わせねーぞ! 『NSBおめーら』のオクタゴンにも引けは取らね~っつの!」

「その瀬戸際を寝転んだグラウンド状態での攻防で生かすほうに持っていけないから惜しいと申し上げておるのです! ロープの隙間から転げ落ちてリングアウトすることを恐れていては、キリサメの柔軟な発想が生かし切れんと! 四方八方が金網で壁のように仕切られていたら、その分だけ思い切った攻防が広がるのですよ!」

「キリーは養父とうちゃんのあとを継いで四角いジャングルを背負って立つんだい!」

「キリサメがこれから先のMMAを担う人材だとお忘れで? 『天叢雲アメノムラクモ』がリングにこだわり抜く理由――実戦志向ストロングスタイルの闘魂を消さない覚悟は俺だって誇りに思っておりますが、キリサメにはプロレスの延長ではなくMMAの最前線を知ってもらいたい!」

「そこまで文句を垂れるんなら、今日限りで『超次元プロレス』を返上しやがれ! ちなみに『NSB』っつう世界の大舞台でも〝忍者レスラー〟が通用するコトを証明してくれたのは、それを肴に酒を酌み交わしたいくらい嬉しいぜッ!」

「こちらこそ恐悦至極! 鬼貫先生もお招きして吞み明かしましょうッ!」


 音楽施設ほどではないにせよ、気合いの吼え声が漏れて隣近所に迷惑を掛けないよう防音壁などの対策を取っているにも関わらず、道場のほうから庭先まで遠慮なく飛び出してくるのは、岳と藤太の言い争いであった。

 鼓膜が破れるのではないかと本気で心配になるようなに耐えられなくなり、道場から逃げ出してきた次第である。

 実姉あねに連れられて車椅子ボクシングに取り組むジムへと見学に出掛けていったひろたかと、〝世界で最も完成された総合格闘家〟とも謳われる進士藤太フルメタルサムライ――同じ形の眉を持つ二人を遠ざけるには、岳をも巻き込んで後者をMMAの練習トレーニングに誘うのが最善の策であったと、今ならばキリサメも自分自身で納得できる。

 しかし、仲裁を諦めざるを得ないくらい厄介な状況を引き寄せてしまうとは、全く読み切れなかった。

 鎌倉に所在する〝先輩〟居宅すまいいなむらさきで繰り広げた模擬戦スパーリングは、総合格闘技MMA訓練トレーニングに主眼を置いていたとはいえ、振り返ってみると日本武道三種と喧嘩殺法が入り乱れる〝異種格闘技戦〟に性質が近かった。それ故に砂浜の片隅に靴を並べた四人は、互いのを尊重しながら自身の技をふるったのだ。

 挑発行為でもって他者ひとの心を動揺させ、感情が爆発するさまを見物して愉しむことを趣味としているとらすけでさえ、〝空手屋〟という誤解を招きそうな愛称ニックネームきょういししゃもんを呼びつつも、彼が極めたサバキ系空手は一度たりとも貶めなかったのである。

 これに対し、プロレスパンツに穿き替えて取っ組み合う『八雲道場』の師弟は『昭和の伝説』――鬼貫道明に導かれ、実戦志向ストロングスタイルのプロレスラーとして異種格闘技戦を経験したというのに、互いのを尊重するどころか、己の〝MMA理論〟をぶつけ合っていた。

 藤太も他の選手が相手であれば、もう少し控えめな語調であったかも知れないが、岳との関係の気安さから意見も鋭さを増してしまうわけである。

 互いの主戦場が日米に分かれたことも水掛け論の原因であろう。実戦志向ストロングスタイルのプロレスと異種格闘技戦の時代から受け継いできた四角いリングで闘い続ける岳に対して、愛弟子の岳は世界各国のMMA団体で主流となった八角形の金網――オクタゴンに立っている。

 四隅に立てた支柱ポールをロープで結んだリングと、八角形となるよう等間隔に立てた柱に金網を張り巡らせた〝ケージ〟の如きオクタゴンでは、当然ながら試合を組み立てる理論自体が変わる。ましてや双方は面積も大きく違う。

 同じMMAとはいえ、『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』は競技形態自体が異なっているようなものだ。それにも関わらず、日米のMMA選手は一方通行の自己主張を繰り返している。

 現在も『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長を務める岳は、日本MMAを支えてきた誇りをなかなか譲れないが、理詰めの勝負では愛弟子に対して劣勢である。

 何しろ藤太は『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体でも〝上位メインカード〟を引き受けていたのだ。MMAの経験ということでは師匠よりも。こうなると岳のほうは感情きもちの強さに頼って張り合うしかなくなり、師弟ふたりは噛み合うことなく平行線へとまっしぐらに進んでいった。

 だけならキリサメも麦泉文多のように上手く取り捌けない己の不足に歯噛みするだけで済んだが、よりにもよって二人はどちらの主張が正解ただしいか、二者択一を求めてきた。

 身辺警護ボディーガードの寅之助がこの場にったなら、不毛としか表しようのない言い争いを「教育方針が合わずに揉める夫婦みたいなもんだね」と鼻先で笑い飛ばしたことであろう。

 挙げ句の果てに岳と藤太は自分たちが極技サブミッションを延々と掛け合う模擬戦スパーリング――実戦志向ストロングスタイルを掲げた『新鬼道プロレス』時代と同じ〝極めっこ〟を絵として描き残すよう求めてきた。

 支離滅裂の一言で突っねようとも誰にも責められない筋運びであるが、キリサメにはむし僥倖さいわいであった。自室へスケッチブックを取りに戻ると断りを入れ、そのまま道場から庭先へと避難した次第である。

 頼んでもいないのにMMAの助言アドバイスを列挙した手紙を送りつけてくるカパブランカこうせいにも当てまるが、余りにも熱量が高過ぎる相手とは今でもなかなか噛み合わない。

 ルールによって互いの命を守る〝格闘競技スポーツ〟に違和感しか持ち得なかった初陣プロデビュー前とは異なり、現在いまはMMAのリングこそと見極め、熱意に溢れた選手たちから〝心技体〟の真髄を学ぶべく前のめりになってはいるものの、キリサメも生身の人間である以上は許容の限度があるわけだ。

 ただひたすらに暑苦しい『八雲道場』の師弟に付き合い続けていると、精神的に疲れ果ててしまうという不安も偽らざる本音であった。おそらく藤太の滞在中はが常に続くのであろう。そのように思うと、キリサメは悲鳴にも近い溜め息を抑えられなかった。


「――随分とお疲れのご様子ですね。こちらとしてはお誘いするのが楽になりますが」


 項垂れたまま地面を眺めるキリサメのつむじに足音の一つも挟まず声が掛けられた。

 素裸の全身を無数の蟻が這い回るような嫌悪感が一瞬にして湧き起こる声とも言い換えられるだろう。寅之助が好むものと同種の厭味であるが、慇懃無礼な物言いがしゃくに障ったわけではない。

 その声を認識することさえ脳が拒否反応を示しているようなものであり、瞬間的に初陣プロデビュー前と同じ〝感覚〟に引き戻され、自室に『聖剣エクセルシス』を置いてきたことを後悔してしまった。日本で出会ってきた人々の中で、抜き身の敵意を抑えられなくなる存在はキリサメもただ一人しか思い当たらなかった。

 顔を上げると、そこには記憶の水底より引き摺り出された通りの男が立っていた。

 バッジホルダー形式の警察手帳をかざすことはなかったが、四六時中、刃物ナイフ拳銃ハンドガンで狙われるという故郷ペルーでの経験から法治国家日本の市民ひとびとと比べて気配察知に長けたキリサメにさえ足音の一つも拾わせず、瞬間移動の如く目の前に出現するさまは、異種格闘技食堂『ダイニングこん』で初めて接触を図ってきた日と腹立たしいくらい変わらなかった。


「電話番号を差し上げたのに一向に連絡して下さらないのですもの。寂しさが募って私のほうから会いに来てしまいましたよ」

「お前は……ッ!」

「ご無沙汰しておりました、アマカザリさん。ご健勝は私の耳にも届いておりますよ」


 吐き気を催すと言わんばかりの表情かおで「お前」と冷たく呼び付けるは、故郷ペルーにて相対した人々まで遡ってもごく僅かである。

 警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係の鹿しか刑事――親友の電知や〝先輩〟の姫若子、己の〝半身〟の如く意識してきた哀川神通が所属する地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』を一方的に〝暴力装置〟とし、その壊滅を仄めかす〝敵〟であった。

 薄気味悪い笑みを貼り付けた顔には極端に細いフレームのメガネを掛けており、レンズの向こう側の両目は糸としか表しようがない。まぶたの開閉が見分けられないくらい細いわけだが、今はそのレンズが西に傾きつつある陽の光を反射している為、立ち上がったキリサメにさえを覗き込むことは叶わなかった。

 仮にレンズが透き通っていても、双眸が開いていようとも、本心などは断片的にすら読み取れまい。三ヶ月前に一度しか邂逅したことがないキリサメにまで底知れない曲者と、迎撃態勢を伴って警戒される男――それが鹿しかという刑事である。



                     *



 南米・ペルーは赤道近くに位置し、年間降水量は〝砂漠の国〟という印象が強いエジプトよりも更に少ない。最も代表的な例であろう『ナスカの地上絵』や沿岸部コスタなど国土の一割以上が砂漠地帯であり、外国人観光客が同国の名称なまえを聞いてず連想するアンデス山脈や空中楼閣マチュピチュとは正反対の〝乾いた大地〟が広がっていた。

 その一方で首都のリマは海に面しており、寒流の強い影響によってエジプトのような灼熱地獄とはならず、至って湿潤という変わった気候であった。

 しかし、キリサメが生まれ育った非合法街区バリアーダスは、山肌が露となっている『サン・クリストバルの丘』から吹き付けた砂色サンドベージュの風によって町全体が薄茶色の化粧を施されていた。傾斜を貫く石段を踏み付けるたびに粉塵の如く舞い上がるほどだ。

 それでもサソリの生息地には含まれていないのだが、砂漠まで足を運んだ者か、あるいは観光客の荷物などに紛れて首都リマにまで入り込み、長い尾を持ち上げて市民ひとびとに恐怖を刻み込むという事件もごく稀ながら発生する。

 キリサメも毒針に脅かされた経験があった。現在いまは瓦礫と化した自宅で亡き母と暮らしていた頃であるが、寝床にサソリが忍び込んできたのだ。素肌を這う冷たい感触によって跳ね起き、猛毒を撃ち込まれる事態は免れたものの、咄嗟にね飛ばした為、何処いずこに逃げ込んだのか、全く見失ってしまった。

 一先ず危機は去ったので追跡は翌朝に持ち越そうと母に提案したのだが、油断して寝直したなら、その静寂を縫うようにしてサソリは再び蠢き出し、今度こそ不意打ちの毒針を突き立てられてしまうだろうと脅かされた。

 八本の足で廊下を這う音も聞こえている。それこそ窮地が続いている証拠であった。

 睡眠中に致死性の猛毒に冒される事態を回避する為、満足に電気を使えない貧民街スラムの深夜にも関わらず、キリサメと母のサトは家具を片端から引っ繰り返してたった一匹のサソリを探し回ったのである。

 サソリは居場所を特定できている間に始末することが最善策と、その眠れぬ夜にキリサメは身に染みたわけだ。数ヶ月前まで寝起きしていた集合墓地でも足元を這うサソリとは幾度も遭遇したが、亡き母に倣って物陰に逃げ込まれるより早く踏み潰している。

 鹿しか刑事はキリサメにとって故郷ペルーのサソリと同じであった。

 少し散歩にお付き合い願えませんか――手招きを退けたくなるほど忌まわしい相手だが、一瞥のみで〝偽りの仮面〟と看破できる笑顔の裏で何を企んでいるのか、分かったものではない。下手を打てば『八雲道場』ひいては『天叢雲アメノムラクモ』まで『E・Gイラプション・ゲーム』に向けるのと同等の害意でもって、何らかの〝罠〟を仕掛けられるかも知れなかった。

 悪だくみの一つもなく、下北沢を散策しようと訪ねてくる男ではない。

 サソリの毒針と同じように正面から相対することが可能な状況であれば、嫌悪感を優先させて追い散らすより目的ねらいを探るほうが得策であった。接触自体に高い危険性リスクも伴うが、〝敵〟の情報は多ければ多いほど反撃の糸口に繋がるのだ。


「アマカザリさんも今は〝演劇街〟に通い詰める日々なのでしょう? この街で時代劇がどれくらいの頻度で上演されているのかは存じ上げないのですが、素人の私にも観劇がの勉強にうってつけだと理解わかりますからね。よろしければ、道案内をお願いしても?」

「……僕が『とうあらた』に――道場に入門したことも調査済みか。『八雲道場』に盗聴器を設置しているんじゃないだろうな」

架空フィクションの警察と違って日本では違法捜査ですよ。ああ、アマカザリさんのご友人でもあるペルーの国家警察とで盗聴器などと仰られたとか?」

「どうせしらばっくれているのだろうが、僕が一緒に戦った国家警察のチームは対テロが専門だ。そういう類いの諜報活動は日本でも認められているはず。……あまり妙な詮索ばかりしていると、〝地球の裏側〟からカラシニコフ銃を構えた影が伸びてくるぞ」

「ご忠告、痛み入ります。私も果たさなければいけない〝使命〟がありますのでね。それまでは命も惜しみたいと思っています」


 鹿しか刑事に促されてキリサメが足を運んだのは、線路が撤去された跡地の工事が進むフェンスの〝向こう側〟――『八雲道場』が所在する住宅街とは比べものにならないほどの若者たちが集う繁華街であった。

 下北沢で暮らし始めてじきに五ヶ月を迎えるキリサメだが、繁華街そちらに出掛けたことは一度もなかった。未稲に至っては平素の出不精に加えて、「夢にときめく光のオーラに焼き尽くされるゥ!」などと悲鳴を上げて頑なに近寄ろうとしない。

 街を包む雰囲気に腰が引けている未稲の気持ちはキリサメにも分からなくもなかった。工事が続く下北沢駅の周辺だけでも、明るい表情の若者たちに埋め尽くされているのだ。

 日本の大地を生まれて初めて踏み締めた日――『平成二六年豪雪』によって白銀に塗り潰された新宿御苑の門前まえに一人で取り残されたとき、そこから吐き出されてくる人波に飲まれたのだが、互いの肩がぶつかろうとも他人の視線を殆ど感じなかった。東京というこの都市まちは他者に対して根本的に無関心なのであろうと思ったものである。

 これに対して下北沢で群れを成す若者たちは、誰もが青春を一直線に謳歌している様子であり、他のことに意識を向ける暇など無さそうだ。

 ライブハウスが多い下北沢は、音楽を愛する人々も集まっている。ケースに収納された状態のエレキギターを肩に担ぎ、裏路地へと吸い込まれていくバンドマン風の少年は、おそらくキリサメと同い年であろう。

 道行く人々に向けてアコースティックギターを爪弾く未稲の友人ストリートミュージシャン――電知の以前かつての交際相手でもある――のとちないこまが混ざっていても不思議ではない情景であった。


「……『スーパイ・サーキット』のことで厭味を言いたいのなら、もう間に合っている。お前が喜びそうな反応をしてやれないくらい慣れてしまった」

「試合の直後にはがなかったとは申せませんが、少なくとも現在いまは違いますよ。ご自身の過ち――もっと言えば、凶悪な暴力性から目を逸らさずに改めようと励んでおられるアマカザリさんは〝暴力装置〟などとは根本的に違います。そのように善良な市民を取り締まる理由が何処にあります?」

「……ごく自然と差別意識を滲ませるような人間に警察官を名乗って欲しくはないな」

「本音を打ち明けますと、血の涙を流しながら暴れ狂った姿とは全くの別人で、二重人格者ではないかと疑ってしまいましたよ。じょうわたさんがリングごと壊されていく様子を拝見しながら、〝変身〟とはこういうときに使う言葉であろうと初めて腑に落ちたくらいです」

「……まさか、客席のかに潜んでいたのか?」

場外観戦パブリックビューイングの会場にお邪魔させて頂きました。『スーパイ・サーキット』――空閑電知からを迫られたときにご披露なさったが今や時代の寵児のように持てはやされているのですから、世の中は分からないことだらけです」


 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行に足を運んだという鹿しか刑事の言葉にキリサメの裡では不快感が一等膨らんだものの、一方で驚きはなかった。

 三月の長野にいて『E・Gイラプション・ゲーム』の空閑電知と繰り広げ、親友として絆を結ぶ最初の一歩となった路上戦ストリートファイトも、闇夜に紛れて気配すら感じ取らせないまましていた男である。

 その陰湿さはりし日の故郷ペルーで寝床に忍び寄ってきたサソリと何ら変わらない。


「どうもアマカザリさんは同じ下北沢でも繁華街こちらのエリアは落ち着かないご様子ですねぇ」

「僕が繁華街こちらと無縁だと調べも付いているのだろう。そんな人間と一緒で落ち着けるか」

「アマカザリさんと年齢の変わらない若者たちが自分の好きなように着飾り、夢を目指して一心不乱に取り組んでおられる。〝ガリ勉〟一辺倒だった私には実に眩しいですね。もしも、私と同じようにに気後れを感じているのなら、それは感じる必要のない錯覚と助言アドバイスさせていただきますよ。貴方もいずれ繁華街こちらのエリアが居心地良くてならなくなるでしょう」

「……何が言いたい」

「わざわざ質問し返さずとも、英明なアマカザリさんは既になさっているのでは?」

「これだけは言っておく。がわ先生や『とうあらた』の先輩方を侮辱するつもりなら、どんな罪に問われようとも五体満足では帰さない」

「真っ先にをお挙げになられるのは大変よろしい兆候ですよ。早くも格闘技を優先順位で上回るとは、いやはや良いお師匠様とお仲間に恵まれたご様子。何より何より」

「誘導尋問のような真似をしておいて、どの口が……ッ!」

「貴方は心が望むまま、この街の若者と同じように夢を一途に追うべきです。は人を傷付けるだけの暴力などとは違い、人の心を感動で満たせる現代の芸術なのですから。アマカザリさんご自身が見切りを付けておられるように、格闘技など生業になろうはずもありません。そういう意味では声優を〝本業〟にしておられるバロッサさんや、音楽活動がすこぶる順調な本間さんも、に頼らない賢い人生設計ですね」

「人の心を勝手に決め付けた上に履き違えるな。僕は――は〝兼業格闘家〟だ」


 あくまでも格闘技を卑しめんとする鹿しか刑事をキリサメは横目で鋭く睨んだ。

 夢のみを見つめて突き進む若者たちの街とはいえ、すれ違いざまに奇異の目で見られることもないわけではないが、物騒な言葉が飛び交う二人への興味本位でもなかった。

 大晦日の夜に格闘技興行イベントの生中継が地上波三局を占めた黄金時代の想い出も今となっては輪郭すら消えつつあるが、二〇一四年六月末現在、日本のテレビでMMA興行イベントの放送は再開されておらず、キリサメのことをそのリングで初陣プロデビューを果たしたばかりの新人選手ルーキーと気付いた人間はほんの一握りである。

 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体に突き付けられた〝現実〟とも言い換えられるだろうが、キリサメ・アマカザリというMMA選手の知名度は、日本でタレント活動にも精を出している花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとは文字通りに雲泥の差があった。

 『スーパイ・サーキット』によって引き起こされたリングの破壊と凶悪極まりない反則負けが知れ渡っている為か、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーにサインや握手を求める者は一人もらず、キリサメの〝正体〟を知る誰もが引きった表情かおで遠巻きに眺めるのみである。親しみ易さという点にいてさえレオニダスとは勝負にならないわけだ。

 カラオケ店や食堂が軒を連ね、何処いずこからかカレーの香りが漂ってくる通り沿いに不意打ちのように顔を出す大きな建物――数多の劇場や演劇スタジオが集まる〝小劇場演劇の聖地〟としての下北沢を象徴するほんげきじょうに差し掛かってにわかに注目を集め始めたのは、キリサメを誘導するようにして歩く鹿しか刑事の風貌であった。

 七月の足音が間近まで近付き、道く誰もが薄着であるのに対して、鹿しか刑事は初めて遭遇した三ヶ月前と同じように分厚いジャケットを羽織り、首にはスカーフまで巻いている。黒革の手袋もりし日のままであり、色白な肌の露出を極端に減らした風袋は、雪国から間違って舞い降りてしまった場違いな渡り鳥としか表しようがない。

 一方のキリサメは『八雲道場』のロゴマークが刺繍されたジャージ姿であり、脱いだ上着を腰に巻いている。清涼な潮風が吹き抜ける出稽古先の鎌倉とは違って纏わり付くような暑さの都心では、半袖から熱を逃がしていないと蒸れて仕方がなかった。

 尤も、キリサメと似たような服装はこの街では珍しくない。土曜日の部活動帰りに下北沢に立ち寄ったものとおぼしき高校生は言うに及ばず、昔ながらの演劇スタジオで稽古に励む舞台俳優も動きやすさからジャージを好んでいるのだ。

 〝演劇街〟の風景にも良く馴染んだ出で立ちの少年と連れ立っている分だけ鹿しか刑事の異様さが際立つわけであった。


「……見ているだけでうっとうしい。お互いの声がギリギリ聞き取れる程度に離れて歩くぞ」

「そうやってアマカザリさんが突っかかって来られるから、何時までも本題に入れないのですよ。そうまでして私と談笑していたいのでしたら、やぶさかではありませんがね」

「お前以外には過不足なく通じているから今日まで気付けずにいたが、ひょっとすると僕の日本語、相当にデタラメなのか?」

「本日はアマカザリさんに〝事件予告〟をお伝えに伺った次第ですよ」

「はァッ?」


 〝小劇場演劇の聖地〟としての歴史を感じさせる風情が味わい深い小劇場の正面玄関から出てきた観客たちは、予想外としか表しようのない〝本題〟に双眸を見開いたキリサメの素っ頓狂な声に驚き、じっくりと噛み締めるつもりであった昼公演マチネの余韻を台無しにされたと言わんばかりの表情かおめ付けた。

 律儀にも一人々々にこうべを垂れるキリサメであったが、何事にも無感情な彼にしては珍しいくらい反応が大きくなってしまったのも当然であろう。鹿しか刑事が脈絡もなくぶつけてきたのは〝事件予告〟なのだ。


「余談と申しますか、付帯情報と申しましょうか。地下格闘技アンダーグラウンド団体の選手に拳銃の密造及び密売の容疑が掛かりましてね。行方をくらました上に雲隠れ先が割り出せず、長いこと立ち往生しておりました。警察の怠慢というご批判は甘んじてお受けしますよ」


 改めてつまびらかとするまでもなく、日本は個人による銃の所持も製造も法律で規制されている。〝密造銃〟と聞いてキリサメの顔が強張っていくのは当然であろう。

 公平中立が求められる警察官としてあるまじきことであるが、鹿しか刑事は地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』を破滅させるべく異常な執念を燃やしている。

 〝たいじん〟の尊称で敬われる台湾武術界の重鎮――こうれいも同じ場に居合わせ、この古老の国際社会に対する影響力によって警察上層部を巻き込む問題に発展し兼ねないことから断念した様子であるが、キリサメと電知の路上戦ストリートファイトを遠くで眺めていたのも、所属選手による傷害罪・決闘罪を追及して『E・Gイラプション・ゲーム』を突き崩す為であったのだろう。

 しかし、『E・Gイラプション・ゲーム』に関わる者たちが密造銃という裏社会の〝仕事〟に手を染めるとはキリサメには考えられなかった。団体代表を務めるヴィクターくろ河内こうちが反社会的勢力の介入を徹底的に遮断シャットアウトし、純粋に強さを追い求めるリングを作り上げたことも知っている。

 あるいは『天叢雲アメノムラクモ』よりも直向きな気持ちで〝心技体〟を競い合う体制が疑いようのない真実ほんものであることは、幾人もの所属選手とってきたキリサメも深く理解している。そもそも『E・Gイラプション・ゲーム』が〝裏の顔〟を持つ団体であったなら、元から麦泉が交流を認めるはずもあるまい。幾つもの事実が同団体の健全性を証明しているのだった。


「流れで伺いますが、アマカザリさんは『ユアセルフ銀幕』は嗜まれます?」


 言わずもがな、鹿しか刑事が口にしたは動画配信サイトである。地下格闘技アンダーグラウンド団体と結び付きようのない話題に切り替えた意図を掴み兼ねているキリサメは、置き去りにも等しい情況で首だけ頷き返した。

 文字通りにであるが、『NSB』の興行イベントやロボットアニメ『せいれいちょうねつビルバンガーT』など、それぞれの公式チャンネルから配信されている動画ビデオの視聴に『ユアセルフ銀幕』を利用したことを隠す理由もない。


「昨年辺りから『ユアセルフ銀幕』に〝迷惑動画投稿者〟が増え始めましてね。ニュースでもたびたび取り上げられていたのですが、ご存知ありません? 公序良俗に反する行為をえて撮影して世界最大規模の登録者ユーザーを抱える動画サイトに投稿アップロードし、センセーショナルな話題性から再生回数を稼いで歪んだ承認欲求を満たす――SNSソーシャルネットワークサービスのほうではバイト先の冷蔵庫に入るいたずら動画などが出回るようになりましたねぇ~」

「話題作りになるのか、それは? 素人の僕には逆効果としか思えないが……」

「有名人の私生活プライベート醜聞スキャンダルにする週刊誌が何時までも廃れないように、大衆は社会の常識からみ出すくらい過激な話題ネタ愉悦たのしみを見出すものですよ。奇しくもアマカザリさんの異能スーパイ・サーキットがMMAの〝ゲームチェンジャー〟などと持てはやされるようにね」


 今まさに『スーパイ・サーキット』を実例として思い浮かべていたキリサメは「は〝黒幕〟が仕掛けた情報工作だから、比較対象にならない」と腹立ち紛れに言い返した。


芸能人タレントでもない〝一般人〟が顔も知らない大勢からチヤホヤされたら、自制心が壊れるほどの快楽でしょう。例えば悪質クレーマーの土下座強要といった犯罪性が確認されない限り、民事不介入の警察はに目くじらは立てませんよ。しかしながら、『ユアセルフ銀幕』は人気投稿者に利益を還元するシステムが導入されておりましてね」

「つまり、刺激的な内容で大衆の反響を引き出せば、それに見合った金額が懐に入るというわけか。過激化の引き金としては十分過ぎるな」


 演劇スタジオに差し掛かったとき、屋外そとで台詞合わせに精を出す男女一組の若い舞台俳優がキリサメの視界に入った。

 収益カネが目当てか否かはともかくとして、他者の称賛こえに己の存在意義を委ね、その為に法治国家の前提を踏みにじるのは、〝舞台ステージの上でしか成り立たない表現〟へ真摯に打ち込む二人とは正反対と言えるのかも知れない。

 そもそもキリサメは動画配信サイト自体に詳しくはなく、〝一般〟の投稿者も『ユアセルフ銀幕』にネットニュースのチャンネルを開設しているありぞのしか知らなかった。

 日本で迷惑動画投稿者が急増し始めたという昨年は、格差社会の実態を取材するべくペルーを訪れたありぞの身辺警護ボディーガードとして付き従っていた。労働者の権利を侵害し兼ねない新法の発布によって起こった大規模な反政府デモ――『七月の動乱』に巻き込まれたの惨たらしい亡骸も、その日本人記者と共に確認したのだ。

 『ユアセルフ銀幕』は一般人と企業の別もなく誰でも動画ビデオを投稿・配信できるが、我が身を危険に晒してでも〝真実〟を追い求めんとするありぞののような気高い人間ばかりが集まるわけではないということである。


「いずれは暴力団ヤクザの〝シノギ〟にも利用されるとニラんでいますよ。実際、〝半グレ〟の連中は『ユアセルフ銀幕』に入り込んでいます。ますます無法地帯になっていくでしょう」

「……半グレ?」

「非行少年グループとヤクザの中間みたいな犯罪者集団ですよ。古くは〝ツッパリ〟と呼ばれた非行少年より凶悪な一方で、暴力団ヤクザのような分別など持ち合わせない。〝中間〟というよりも両方の邪悪な部分の掛け合わせと表すほうが正しいのかも知れません」


 〝半グレ〟という言葉は耳慣れないキリサメであるが、故郷ペルーいては性質の近似する無法者アウトローたちは良くも悪くも身近な存在であり、少年強盗団や日系人ギャング団と鹿しか刑事の説明を照らし合わせることによって、暴力団ヤクザさえ上回る凶悪性を理解していった。

 集団と個人の差異ちがいを除けば、己もも半グレと変わるまい――胸中で吐き捨てた一言が鹿しか刑事に見透かされたことは、隣で聞こえた鼻を鳴らす音が証明している。

 『天叢雲アメノムラクモ』に対する妨害行為も多く、収益目的ねらいの〝客寄せパンダ〟とした希更・バロッサのことは集団で襲撃しようとした為、厳密な境い目は些か怪しく思えるものの、半グレと『E・Gイラプション・ゲーム』を同一視することはキリサメには難しかった。


「……察するに密造銃関係の疑いが持たれている地下格闘技アンダーグラウンド団体の選手は、その半グレとやらの一味でもあるわけか。そうでなければ、今の説明に意味がない」

「仰る通り、仲間の半グレが取り仕切る地下格闘技アンダーグラウンド団体の――『ジャックポット・ビッグゲッター』の構成員メンバーです。〝ホスト格闘技〟から追い出されて流れ着いた先ですがね」


 小さく短い呻き声を洩らしながら、またしても双眸を見開き、次いで不機嫌の三字を顔面に貼り付けたキリサメにねぶるような視線を這わせた鹿しか刑事は、目突きでもって反撃されなかったのが奇跡というくらい口の端をいやらしそうに吊り上げている。

 この男は意地の悪い弁舌を駆使して意図的にキリサメの誤認識ミスリードを誘っていたわけだ。


「おやおや、ご存知ではない? 醜い自己顕示欲から『デカいコトやってやるゼ団』と書いて『ジャックポット・ビッグゲッター』とフリガナを添える――それがアマカザリさんのお友達と対抗戦を執り行う相手の名称なまえですよ」

「……『E・Gイラプション・ゲーム』と勘違いしたことを茶化す目をやめろ」


 陰湿としか表しようのない調子で肩を揺らし、喉の奥で笑う鹿しか刑事を睨み返したキリサメも、親しい人々の所属先である『E・Gイラプション・ゲーム』が次回の興行イベントで別の地下格闘技アンダーグラウンド団体と対決することは承知していた。

 しかし、対抗戦の相手については電知から教わったおぼえがなく、今、初めて詳細な情報を得たわけだ。鹿しか刑事の舌が紡ぐことは一字一句に至るまで信用していないが、説明はなしを聞く限りでは密造銃に手を染める本物の犯罪者が与する団体ということになる。対立関係にある『天叢雲アメノムラクモ』の所属とはいえ、『E・Gイラプション・ゲーム』に親しい人間の多いキリサメにも由々しき事態としか言いようがなかった。

 きびすを返される前に相手が関心を持たざるを得なくなる話題を矢継ぎ早に繰り出し、動揺する心理を制御コントロールしやすい〝流れ〟に引き込んでいく――言葉巧みに人間の思考あたまを誘導せんとする態度は、ペルー政府に対する不満を扇動しての民を〝大統領宮殿〟へ差し向けた『七月の動乱』の首謀者を彷彿とさせ、キリサメのなかくら憤怒いかりが激しく揺らめいた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』は以前にも非行少年が結成した〝カラーギャング〟と抗争を繰り広げたそうだが、今度の〝敵〟はその比ではないほど危険である。親友たちが半グレの餌食になり得ると脅かされては、嫌気が差しても鹿しか刑事の話に付き合うしかないのである。

 団体代表のヴィクターくろ河内こうちを始めとする『E・Gイラプション・ゲーム』の面々には、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行にけるプロデビュー戦の直後に救急車へと向かう行く手を阻まれ、引き抜き行為ヘッドハンティングを仕掛けられている。

 を事件化して『E・Gイラプション・ゲーム』を追い込む策略に巻き込まれるのではないかと身構えていたキリサメは、鹿しか刑事と斬り結ぶ選択肢が一つ一つ奪い取られていくのを感じながらも、忌々しい背中にいていくしかなかった。


「アマカザリさんの目には二つの地下格闘技アンダーグラウンド団体は別物として見えているのでしょう。私に言わせれば、どちらも所詮は〝暴力装置〟に過ぎませんよ。確かに半グレを後ろ盾にするほうが分かり易く非合法的イリーガルですが、その挑戦を受けた『E・Gイラプション・ゲーム』がどれほど違うのですか? ……等しく法治国家から消し去るべき組織暴力予備軍です」


 注意していないと聞き漏らしてしまうほど重低な声で吐き捨てた直後、鹿しか刑事は古着屋と全国チェーンのコンビニの間に挟まれたる店の前で足を止めた。

 くわがたが勇ましいほしかぶとに大鎧と、火縄銃のなまりだまさえ弾き返しそうなとうせいそく――用いられた時代が大きく異なる二種の甲冑が正面玄関の左右にそれぞれ飾られ、視界に入った瞬間の驚愕をもって客を招き入れるは、時代劇を専門に取り扱う貸衣装店であった。

 写真撮影のスタジオも併設している為か、狭い路地に押し込まれたかのような周囲まわりの建物と比べて明らかに大きい。キリサメのほうを振り返りもせずに入店していったのは、それ自体が後に続けという指示であろう。

 辟易うんざりした調子でし口を作りながら鹿しか刑事の背中をめ付けたキリサメは、次いで自分たちが歩いてきた道へと目を転じ、そこに〝何か〟を見つけると、反撃の選択肢が残されていることを確認するかのように軽く首を頷かせた。



                     *



 貸衣装店の内部なかは吹き抜けの二階建てとなっており、平安時代のじゅうひとえから明治時代の洋装まで数世紀に亘る日本の歴史が絵巻物から飛び出してきたかのように並んでいた。

 通り沿いの全面がガラス張りである為、店外そとからも分かったのだが、時代ごとの装束を纏うマネキン人形が文字通りに林立するのは一階であり、二階には扇や槍刀といった小道具が種類も豊富に陳列されている。

 下北沢で時代劇を上演する場合、多くの劇団はこの店で衣装や小道具を準備しているのだろう。扱う品が充実しているだけでなく、着物の裾が擦れて痛まないようマネキン人形の台座は畳を敷いた上に設えられているのだ。隅々まで行き届いた気配りを一目見れば、客から寄せられる信頼の厚さも感じ取れるのだった。

 口に出して真意を確かめようとも思わないが、貸衣装店の雰囲気からリングの〝外〟で生きる人々との関わり合いを意識させ、キリサメ・アマカザリという少年が居場所として定めるべきはなどではなくという芸術なのだと突き付ける為に、る種の皮肉を込めてここまで誘導してきたのであろう。


「都内の地下格闘技アンダーグラウンド団体の中でも『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』が飛び抜けて危険なのは間違いありません。興行イベントもルール上の危険性を論じる以前の問題という有り様ですよ」


 一階を見て回る鹿しか刑事は、忍者も装備したとされるくさり帷子かたびら――編み込んだ鎖まで全て模造品である――の一種ひとつを手に取り、キリサメに試着を促しながら〝事件予告〟という本題へ入る為に必要な説明を続けていく。

 キリサメからすれば友人たちを人質に取られたようなものであるが、その〝事件予告〟に『E・Gイラプション・ゲーム』がどれほど関わっているのかを確認しない内は黙って従うしかなかった。


「わざわざ半グレとやらを強調したということは、『E・Gイラプション・ゲーム』が闘う相手は〝試合賭博トトカルチョ〟で荒稼ぎでもしているのか? ……昔の日本MMAでが横行したように」

「マスコミが無責任に触れ回った影響なのか、全般が一まとめで『トトカルチョ』と呼ばれていますが、本来、それはサッカーのみに限定する用語ことば。日本MMAにトドメを刺した〝試合賭博〟も『スポーツベッティング』と呼び分けませんと」

「手緩いというより怪しいな。地下格闘技アンダーグラウンド全体が気に食わないお前が〝試合賭博スポーツベッティング〟で例の団体を叩き、腐った願望を満たさないのは不自然でしかない。別の企みでもあるのか?」

「美味しいモノは後で頂くタイプでしてね。何しろ〝一人っ子〟なので、ええ」


 あるいはくさり帷子かたびらを押し付けたのも、を余人に晒すことを嫌った為であるのかも知れない。袖がない種類のくさり帷子かたびらをこの上なく面倒臭そうに身に着けたキリサメは、装備に意識を向けていたので気付けなかったが、〝一人っ子〟と自ら口にした際、瞬きほどの時間ながら鹿しか刑事の顔が酷く歪んだ。

 心の奥底から湧き起こった痛みに見悶えるかのような表情かおであった。


「……半グレ集団は賭博行為の隠蔽工作が巧く、なかなか尻尾を掴めませんでね。例の男の身柄を確保して芋蔓式で突き崩そうという寸法ですよ。そのほうが『E・Gイラプション・ゲーム』にお友達の多いアマカザリさんにも好都合ですよね? それだから、本当は付き合う義理もない私の話し相手を涙ぐましいくらい我慢しながら続けておられるのでしょう?」


 団体が壊滅すれば『E・Gイラプション・ゲーム』との対抗戦もなくなり、電知たちと反社会的勢力の接触も避けられる――この筋運びを期待して『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』への直接攻撃を促したキリサメにとって、鹿しか刑事が続けた説明はなしは不安を更に膨らませるものであった。

 発祥地のブラジルでもMMAに近い形で安全性の高いルールが整備されたこんにち様式スタイルではなく、危険行為を除いた〝全て〟が解放される〝実戦〟さながらの〝バーリトゥードなんでもアリ〟形式の〝正統後継〟を掲げ、流血必至となる素手の試合まで敢行するなど、『E・Gイラプション・ゲーム』も十分に危険である。

 これに対して『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』の側は最初から〝競技団体〟のたいを成していない。時間無制限の一本勝負は『E・Gイラプション・ゲーム』あるいは『天叢雲アメノムラクモ』でも選手間の同意のもとで特別ルールとして執り行われることもあるのだが、同団体ジャックポット・ビッグゲッターでは主催者の思い付き一つで出場者の負担を度外視した試合が強行されてしまうのだ。

 抗争状態にある非行少年グループの代表者たちを集め、複数同時対戦バトルロイヤルを行わせることもある。それどころか、武器の使用までする有りさまであった。乱闘が常態化しているような『E・Gイラプション・ゲーム』でさえ、いずれもルール上で厳禁としている。


「路上の腕自慢を集めて興行イベントを開催したのではなく、路上の喧嘩を見世物にしたわけか。この団体に関してだけは〝組織暴力予備軍〟というお前の物言いにも反対しない」


 命のり取りが〝ありふれた日常〟と一体化した貧民街スラムで血と汚泥どろまみれ、生き延びる為に『聖剣エクセルシス』を振るってきたキリサメだからこそ、ルール策定が〝プロ〟の競技団体ほど徹底されない地下格闘技アンダーグラウンドの〝闇〟を生々しく感じ、険しい表情を抑えられなかった。

 鹿しか刑事が付け加えた説明によれば、後遺症やそれ以上に深刻な事故の予防を最初から放棄して強行される全ての試合が賭博ベッティングの対象であるという。それ故に試合場の〝外〟では八百長を強いる脅迫や、賭け金を巡る傷害事件なども後を絶たなかった。

 『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』は法治国家日本では決して許されない違法行為の数々を〝格闘大会の試合動画ビデオ〟と称して『ユアセルフ銀幕』で公開し、そこに溢れる醜悪さはともかくとして大きな反響を呼んでいる。

 出場するだけでも注目を集められることから、近頃は格闘技未経験という〝迷惑動画投稿者〟が参戦することも増えてきた。試合の勝敗などに関心はない。対戦相手を挑発する大言壮語ビッグマウスなどで目立ち、視聴者を自身の動画チャンネルに誘導して再生回数を伸ばすという腹積もりであった。

 大会出場権が決定される公開形式のオーディション企画でも候補者たちが罵声の浴びせ合いから乱闘騒ぎを起こしたのだが、そのような動画ほど再生回数が跳ね上がる。社会通念に反した振る舞いを面白おかしくはやし立てるSNSソーシャルネットワークサービスの〝声〟は、次第に需要と供給の関係性を帯び始め、団体も過激化に歯止めが効かなくなるという悪循環であった。

 承認欲求に餓えた選手たちに快楽を与えながら、話題性によってもたらされる動画収益を〝元締め〟の半グレが吸い上げるという構図である。歪んだ自己顕示欲の成れの果てに対する理解を促す為、鹿しか刑事は〝迷惑動画投稿者〟の説明も添えたわけだ。

 格闘技を金儲けの手段にしてけがすことを断じて許さない『E・Gイラプション・ゲーム』からすれば、くだん地下格闘技アンダーグラウンド団体は『天叢雲アメノムラクモ』にも匹敵する打倒の対象であろう。

 そして、そのような相手に立ち向かうときこそ空閑電知は野性を剥き出しにする。格闘技を直向きに愛する魂も親友の美徳とキリサメも認めているが、犯罪者集団に対しては裏目に出てしまう可能性も高く、それが為に心配でならないのである。

 中世日本のかっせんで編み出された〝戦場武術〟を平和な現代で錆び付かせない為、えて地下格闘技のリングに臨んでいる古武術宗家の哀川神通は、生と死が鼻先ですれ違う戦いに魅入られている様子であり、電知以上に案じられた。

 『ミトセ』と名乗る拳法家との〝あい〟に殉じた実父ちち――あいかわの如く自らの命を軽んじるような危うさを感じさせる神通は、死臭が垂れ込める〝戦場〟にこそ喜び勇んで飛び込んでいくはずである。

 これをもって〝事件予告〟と仰々しく言い表したのだろうと一瞬だけ考えたキリサメであるが、鹿しか刑事の口は止まらない。それどころか、耳を疑うような説明はなしが続いた。


「どうやら中学校に進学あがるか進学あがらないかという子どもを選手に仕立てようという動きもあるようですね。ネット上で批判が爆発するのは間違いありませんが、再生回数さえ稼げれば何だって構わない組織暴力予備軍は蚊に刺されたくらいにしか思わないでしょう」

「……幾らなんでも冗談だろう……?」

「本人が出場を希望したのか、親の見栄っ張りに利用されたのか。万が一にも試合動画ビデオ投稿アップロードされた場合には『ユアセルフ銀幕』も処罰に乗り出すと思いますがね。そういえば、『天叢雲アメノムラクモ』でも格闘技経験ナシというローカルアイドルの選手採用を大々的に発表しましたねぇ。子どもをリングに上げることの是非をぐち代表にお伺いしたいものです」

「皮肉を飛ばしている場合か⁉ 先手を打って止めなければならない虐待じゃないか!」

「……アマカザリさんが共同戦線を張った対テロの専門家チームならいざ知らず、日本の警察は事件が起きた後にしかに踏み込めないものですよ。ご批判は甘んじて受けますけれど、その基本原則はペルーもきっと同じではありません?」

「はした金で無罪を売るような腐敗警官と一緒にして貰って嬉しいのか、お前は」


 鹿しか刑事から投げ渡されたを無意識に装着しようとしたキリサメは、その内側に右の五指を差し込んだところで一切の動作うごきを止めてしまった。

 下腕にめる種類のも鎖が編み込まれている。『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』を野放しにしておけば、このような武具が義弟おとうとひろたかと大して年齢が変わらない子どもに向けられてしまうのだ。

 格差社会の最下層に生まれ、暴力をふるわなければ野良犬の胃袋が墓場になる貧民街スラムで血路を開いてきたキリサメは、ひろたかと同じ年齢としの頃から命を脅かされることに慣れている。

 その一方で、例え〝富める側〟であろうとも幼い子どもから生きる糧を奪い取ることはなかった。無論、自分を狙う〝敵〟として現れたときには二度と同じことを考える気が起きなくなるほど徹底的に返り討ちにしている。

 それ故、義憤を燃えたぎらせること自体を恥ずべき偽善と思わなくもないのだが、その自嘲や罪を犯さなければ〝誰〟であろうと生きていけない故郷ペルーでの経験は、子どもが自分と同じ目に遭うことを是認する理由にはならないのである。

 例え本人の強い希望であったとしても、周囲まわりが断じて認めてはならない事態をが起きるまで傍観せざるを得ないと言って肩を竦める鹿しか刑事の胸倉を掴みそうになった。

 その顔に平素いつもいやとは異なる苦い感情が滲んでいなければ、実際に右の五指を繰り出したことであろう。は警察官の限界に対する煩悶としてキリサメの瞳に映っている。


「合同大会の共催相手から一人でも犯罪者が出れば、貴方のご友人たちも対抗戦自体を考え直すかも知れませんよ? 警察も団体内部に切り込みやすくなりますし、そんな状況では誰が興行イベント出場ても動画の再生回数など稼げません」


 揺れ動く心を見透かし、食い付かずにはいられない〝餌〟を示すという鹿しか刑事の物言いが切り替えの早さと共にしゃくに障ったキリサメは、複雑に入り混じった気持ちを追い散らすかのように乱暴な調子で左右のを装着し、聞こえよがしの舌打ちを浴びせた。


「銃器の密造・密売まで行ったら〝組織暴力予備軍〟どころじゃない。テロ対策を専門に扱う部署の出番だろう。まるで捜査の主導権を握っているような口振りだが、本当は勝手に首を突っ込んでいるだけなんじゃないのか?」

「私は特別に許可を頂き、遊撃隊よろしくを受け持っているのですよ。コロンボ警部を想像していただけると分かりやすいのではないかと」

「物は言いようだな。お前の場合、どうせ仲間外れに遭っているだけだろう。確かに『刑事コロンボ』も単独捜査スタンドプレーだが、部下にも慕われていたと記憶しているぞ」


 キリサメの推察通り、反社会的勢力を含んだ組織犯罪の取り締まりは、捜査一課とは異なる部署が受け持っている。その〝組織〟がテロリズムや反政府的な性質を有している場合には公安部が出動する。鹿しか刑事がうそぶいてみせた単独捜査は他部署の職掌に対する侵害にほかならず、警察組織内部にいても看過し得ない問題行動だ。

 それにも関わらず、捜査一課所属の刑事が組織犯罪対策部や公安部への協力でもなく、独自に〝暴力装置〟の壊滅に狂奔している。こうした警察内部の〝縦横の繋がり〟など知る由もないキリサメでさえ『組織暴力予備軍対策係』の名簿に鹿しか以外の名前が載っていないことは十分に察せられた。

 捜査一課の誰にも制御できなくなった結果、二〇代半ばにして閑職に追いやられたのであろう――事件捜査の前にキリサメは鹿しか刑事の境遇を推理して見せた。そのような危険人物から捜査権を剥奪しない警視庁はのだろうという皮肉を付け加えることも忘れなかった。

 無論、この程度の当て擦りでは鹿しか刑事を動揺させることなど叶うまいと、キリサメ当人が誰よりも分かっている。案の定、「国家警察のもとで推理力も磨かれたご様子。その経歴と頭脳を映画会社や出版社に売り込めば、アマカザリさんご本人が探偵モノの題材になりますよ」という拍手が反論の代わりであった。

 存在自体が厭味という二字で出来ているような人間に同じ手段でやり返しても更に腹立たしい反撃に遭うのみと、瀬古谷寅之助との付き合いを通じて知っていたはずだ――そのように己に言い聞かせたキリサメは、やり場のない憤懣を溜め息に乗せて吐き捨てた。


「その推理力を生かさない手はありませんね。ここから先は謎解き形式で話を進めるとしましょうか。是非とも張り切ってくださいね」

「ふざけるのは季節感を無視した厚着だけにしろ。国家警察に入り浸っていたわけじゃなくても、〝事件予告〟は遊び半分で扱って良いモノではないコトくらい分かるぞ」

「私のほうから一方的にお話ししているだけでは、アマカザリさんも張り合いがなくて飽きてしまうでしょう? お互いに空白の時間を作らないのが楽しい会話の秘訣ですよ。これから〝何〟が起きようとしているのか、頑張って見破らないと大事な人たちにも不幸なアクシデントが降り掛かるかも知れませんからねぇ~」


 一等鋭い眼光を叩き付けることによって、警察官にあるまじき悪ふざけを食い止めようと試みるキリサメであったが、鹿しか刑事の饒舌は却って勢いを増してしまい、話し飽きて口をつぐむとも思えない。

 心の底から辟易うんざりした表情かおかぶりを振りつつも、もはやキリサメには憤激を飲み下す以外に選択肢がなかった。一〇割の本音では断りたいが、その場合は延々と付き纏われ、『八雲道場』に帰り着いても解放されない可能性が高い。それならば求められたことに応じて退散させるほうが疲弊を最小限に抑えられると判断した次第である。

 寅之助がふるう『タイガー・モリ式の剣道』と『聖剣エクセルシス』で斬り結んだ際にも同種の挑発で冷静さを奪われそうになったものだが、他者ひとの心を弄んで愉悦に浸る享楽家は思考もも似通うのであろう。


「話が前後してしまいましたが、拳銃の密造とその密売の容疑者は、少し前まで歌舞伎町で〝ホスト格闘技〟に出場していた男性おとこです。その格闘技興行イベントからも、勤務先のホストクラブからも追い出され、問題児大歓迎の『デカいコトやってやるゼ団ジャックポット・ビッグゲッター』に流れ着いたわけです。地下格闘技アンダーグラウンドの選手というより〝ホスト崩れ〟と呼ぶのが似つかわしいでしょうね」

「問題を起こして居場所がなくなり、犯罪組織に拾われるという落ちぶれ方は万国共通らしい。で犯罪者に身を落としたのではなく、弱り目に足元を見られたのでは?」


 頭部あたまの装備は自分自身で選ぶように促されたキリサメは、不承々々ながらも一階の各所あちこちを巡り、時代の流れに合わせて変化していく種々様々な兜や鉢巻などを試しつつ、鹿しか刑事から提示された容疑者の情報を脳内あたまのなかで反芻し始めた。


(……なら力ずくで帰ってもらうのも難しくはないが、警察手帳を盾にされたら厄介な事態ことになる。警察のクセに強請ゆすたかりの類いと何が違うんだ……ッ!)


 追い詰められた人間が反社会的勢力に助けを求めたことも、密造銃に関する嫌疑が掛けられたことも、矛盾なく繋がる――眉間から頬までを覆うはっぷりを手に取りつつ、キリサメはテロリストと戦った経験に基づいて自分なりの推理をまとめていった。


「ホスト崩れとやらは元々の居場所を追われる以前まえから半グレと群れていたのか? 昔からの悪事がホストクラブにバレて、共犯者のところに逃げ込んだのではないか?」

「これから続けるつもりだった出題なぞなぞまで先読みしていただけると、手間が省けて助かりますよ。仰る通り、勤務先ホストクラブに隠れて色々な悪事わるさをしていました。歌舞伎町を追われた一番の原因は、ホスト格闘技の尿検査で明るみになった麻薬クスリの常用ですがね」

勤務先ホストクラブのほうでも〝何か〟を、証拠を押さえる為にホスト格闘技と組んで尿検査という罠を仕掛けたんじゃないか。顔色は化粧で誤魔化せなくもないが、麻薬常用者ジャンキーにありがちな体臭は強い香水を隠れみのにしても人間には通用しない」

「それを激しく追及された末、麻薬クスリの調達先である半グレ集団に泣き付きました。ここで片付いていたら、落ち目の小悪党という珍しくもないオチだったのですけどね」

「そして、地下格闘技アンダーグラウンドとは名ばかりの野蛮なと共に、密造銃の仕事を任されるようになった――そんなところか。構造や種類にもよるが、部品と設計図さえあれば、小器用な人間は苦もなく組み立てられるからな」

「手先だけは称賛に値しますよ。実物ではなく写真でしか拝見できませんでしたが、脇に抱えるバッグの内側に仕込んで撃つ隠し武器のような物を密造つくっていました。外見からは銃器だと全く判りませんね」


 バッグの金具の一部が開閉し、そこから現れた銃口で撃発するという仕組みを解説されたキリサメは、暗殺に最適化した銃器と感じている。

 故郷ペルーけるテロ組織との戦いで突き付けられ、奪い取って自分でもひきがねを引いたことがあるカラシニコフ銃は、取り回しの良さと連射性能の両立による広い範囲への掃射にも適しており、この機能こそが多数の敵と銃口を向け合う戦場では求められている。

 一方、ホスト崩れが拵えた密造銃は一撃必殺に特化しているはずだ。何より不意討ちや騙し討ちを目的とする銃は一撃離脱が前提となる。その特性ゆえに利便性が高いようで使用できる機会や状況が却って狭まるのである。バッグの種類と大きさから推察して、拳銃ハンドガンと同程度の連射性能を備えていても広範囲に撃発する戦い方には不向きだろう。


「一般人にはセカンドバッグと銃器の区別が付けられなくても、私たち警察は目撃情報などから既に特徴を割り出していますからねぇ。〝決定的な証拠〟を小脇に抱えて出歩くというコトは、『自分が犯人です』と大声で自供して回っているのと同じでしょう。発見などは時間の問題――ですのに、長らく身柄を確保できずにおりました。どこに逃げていたと思います? ちなみに潜伏先のご近所に発砲音を聞かれてしまうような間抜けはしておりませんでした。小器用な人間は得てして小狡いものです」


 弾倉マガジンの交換といった即時の装填リロードが不可欠となる銃撃戦などは、最初から想定しているとも思えない。少しばかり指先が器用であろうと専門家ガンスミスでもないに組み立てられるのだから、簡略化された構造の単発式かも知れない――と、自らの経験に基づいて密造銃の性能を考察するキリサメを置き去りにして、鹿しか刑事は勝手に〝次〟へと進んでいく。

 鼻先へ餌のように差し向けられた〝事件予告〟は、高い違法性にも関わらず密造銃との関連が薄いのかも知れない。


「私のような紳士は口に出して説明するのを憚ってしまうのですがねぇ。骨の髄まで〝盛り場〟にどっぷり浸かった人間が最後にすがり付く先としては納得の一言でしてねぇ」

手掛かりヒントにしてはややこしく、引っ掛けブービートラップとしてはわざとらしい。……ホストクラブというのは主に女性を相手にする接客業だったな。追放前に抱え込んでいた常連客を頼るのが安全だとは思う。情に訴えれば相手を押し切れる確率も高まるだろう」

「惜しいところまでは来ていますよ。もうひとこえ欲しいところですね。勿論、ホスト時代の交友関係は片端から当たりましたが、釣りに出掛けたお父さんの夕暮れ間際の気持ちを味わいました――コレが手掛かりヒントと申し上げれば、ピンと来るのではございません?」

「ホスト崩れが雲隠れする前後に病院に罹った客……か」


 胴と腕に装着した防具との組み合わせを考慮し、眉間の部分がいたがねで補強されたくさりきんを選びつつも、容疑者の逃走経路よりも密造銃のほうが〝銃社会ではない日本〟にとっては深刻な問題であろうと首を傾げそうになるキリサメであったが、指摘すれば無駄話が増えると思い直し、問われたことのみに絞って答えていく。

 これを被りつつ並べられた推理に対し、鹿しか刑事は興味深げに片眉を動かした。


「僕が戦ったのは改革の幻想に溺れたテロ組織だ。そんなヤツらにも匿ってくれる協力者がいた。犯罪者ではなく〝一般ただ〟の市民の中にな。非合法街区バリアーダス暮らしの最下層ひとたちが貧富の格差がひっくり返ることを夢見て支援を買って出た連中だが、そういう手合いはお前の好きな〝組織暴力予備軍〟として国家警察も足取りを掴みやすい」

「自発的な協力でなければ、力ずくで言いなりにさせている――そのように続けたいのですね。私がお話を伺ったとき、ホスト時代からのあった女性たちに暴行の痕跡は確認できませんでした。眼鏡が不安を煽りそうですが、を見逃すほど節穴ではないつもりですよ。この点にもうひとこえ、頂戴したいところですがねぇ」


 キリサメの言葉に耳を傾ける鹿しか刑事は依然として口の端を吊り上げていたが、その薄笑いには硬さを感じるようになっている。無意識の行動であろうか、地肌を覆い隠すマフラーの上から右の五指にて自身の首を掴んでいた。

 一方のキリサメも逃亡先を割り出す手掛かりを求めて幼馴染みが惨死した日を想い出している為、その表情かおくらく曇っており、鹿しか刑事の変調に勘付く余裕もない。

 『七月の動乱』にけるの全身が銃弾に引き裂かれている頃、彼は格差社会の具現化ともたとえるべき〝恥の壁〟を背にした非合法街区バリアーダスへ国家警察と共に討ち入り、その住人に支援たすけられたテロリストたちを『聖剣エクセルシス』で薙ぎ払っていたのだ。


あおあざ、暴行の事実は口頭でも誤魔化せるんじゃないか。捜査令状を持っていっても、その場で服を脱がせるのは無理だろう。……卑怯者は他者ひとを支配する方法ばかり無限に思い付く」

「……それで病院に罹った客に焦点を当てたのですか。声なき悲鳴へ耳を傾けるように」

「患者の状態に犯罪性を感じ取った場合、医療機関は警察に連絡を入れると世話になっている医師から教わった。……しかし、腹や胸の外傷ケガを殴られた痕跡と疑われても絶対に認めてはならないと、その痛みで洗脳されていたら病院側も手出しできないはずだ」

「逆らうことが許されない状態ですと、そもそも病院に行きたくても行けないのでは?」

はお前にも一目で分かるくらい表情かおに出ると思うぞ。相手を支配しようというときの暴力に手加減などは望めない。軽傷で済むと思うか? 痛くない芝居フリを強要されたとしても、脂汗や顔色は化粧くらいでは隠し切れない。……犯人は建物に籠り切りで良くても、協力者のほうは仕事や買い物で外出しなければならない。用事のついでに病院へ駆け込む可能性に賭けても悪い勝負にはならないはずだ」

「……そして、その痛みが正常な感覚を麻痺させ、被害者を絶対服従させてしまうわけですね。密造した銃を突き付けるのは一過性の恐怖ですが、痛みは延々と骨身に響いて絶望感を膨らませる――銃口の前に立たせて脅すよりも精神的な支配にはでしょう」


 逃亡・隠避の協力者として目星が付いている人物の通院先で成果が得られないのなら、普段から利用しているドラッグストアなどに標的まとを拡げていく。治療に使う品を購入していれば、更に容疑者へ近付ける――そのようにキリサメは付け加えた。


「アマカザリさんは本当に面白い方だ。格闘技などから足を洗って私と組みましょう。非常勤扱いになりますが、貴方一人を警視庁にねじ込むくらいは何とかしてみせますよ」


 拍手をもって称賛してくる鹿しか刑事をキリサメは冷たく睨み返した。自分と同じ手順を踏んで凶悪犯の行動分析プロファイリングを進めるのか、最初からのつもりで喋らせ、結論まで変わらなかったことを面白がって冷やかしているわけだ。

 何者かの支援たすけを受けて犯罪者がかに隠れ潜んでいる場合、近隣住民が異変に気付くであろう。真意はともかくとして好き勝手に〝組織暴力予備軍〟の周辺を嗅ぎ回っている鹿しか刑事には警視庁に味方などらず、誰の助言も得られない状況であろうが、腐っても捜査一課の刑事である。聞き込み調査で重要な手掛かりを掴み損ねるはずもあるまい。

 羽虫が耳元で飛び回るような不快感が湧き起こる一方、鹿しか刑事の底意地の悪さに慣れてしまったこともあって、キリサメも挑発的な物言いには腹が立たなかった。いちいち猛烈な反応を示していては疲れて仕方がないという諦念とも言い換えられるだろう。

 警視庁内での孤立という〝敵〟の弱点を見つけた恰好であるが、同じ真似などしたくもないキリサメは、拍手を終えた鹿しか刑事のように口の端を吊り上げることもなかった。

 何より格闘技を犯罪同然の〝暴力〟と蔑み、否定することしか考えていない鹿しか刑事の思考あたまは、容疑者の背後関係を歌舞伎町まで遡る前に袋小路に陥ってしまったようだ。それ故に〝もう一つの推理〟も双方ふたりの間で共有されていない。


「顔も知らない人間を心配してやる義理もないが、例の男は無事なのか?」

「逃亡に方々の被害を言い当てたのと同じ口で、容疑者の安否まで気遣うとは。アマカザリさんの慈悲深さを知ったら、奉仕の精神に富んだヴァルチャーマスクさんも感動の拍手を惜しまないでしょう」

「歌舞伎町のホストクラブに身を置いた男だろう。ホスト格闘技にも出場していたと」


 鹿しか刑事から手で促され、くさり帷子かたびらの上から羽織る物を別々に探すことになったキリサメは、彼と背中合わせになったのち、〝もう一つの推理〟を切り出した。


「有名店がひしめく歌舞伎町でもトップレベルの『躑躅つつじさきやかた』というクラブの売れっ子ホストでしたよ。指名数でも、ホスト格闘技の戦績でも、同じ店のエースにどうしても勝てないとボヤいて腐っていたようです。上昇志向の高さが仇になりましたかねぇ。残念ながら私は取り調べに関わっていませんが、その宿敵を撃ちたくて銃の密造を買って出たという動機ことも供述し始めているようです」


 キリサメの思考を惑わせる為、意図的に明言を避けてきた様子であるが、密造銃の容疑者は既に警察が身柄を押さえているとで確定した。

 つまり、逃避行とその経路も鹿しか刑事が仄めかしていた〝事件予告〟とは無関係ということである。を推理力で拾い上げるように促されたのだが、その為に必要な情報など本当は最初から含まれていないと疑い始めている。

 これまで以上の不信感を募らせながらも、キリサメは鹿しか刑事の反応を確かめるべく〝もう一つの推理〟を述べ続けた。


「歌舞伎町について無知にも等しいから、故郷ペルーの類例と確実に一致するとは限らないが、〝表〟の社会とがあるコミュニティは〝横の繋がり〟が強いはずだ。故郷ペルーには〝表〟の社会と違う独自のルールで結び付き、お互いを守っている非合法街区バリアーダスもあった。そういう自治体制にも近い〝輪〟の中ではの裏切りは絶対に許されないはずだ」

「歌舞伎町は実際に〝横の繋がり〟がとても重い意味を持つ場所ですよ。あの一角には東京都とは別の社会があるようなものですから。利害関係が食い込んでいることもあって、仲間意識という美徳では片付けられませんがね」

も似ているな。仲間意識だけで終わらないということは、自治体制のルールに反した裏切り者は自分たちで決着ケリをつけるという意味でもある。……同じがやることだ。〝表〟の社会から離れたコミュニティの〝裏の顔〟は、にちで大きく変わらないだろう」


 元々の所属先が私的制裁に打って出るという暴力的な発想がキリサメの口から飛び出しても、鹿しか刑事は否定とも肯定とも受け取れる薄笑いを崩さなかった。


古巣ホストクラブの常連客が巻き込まれ、そんな状態を放置していたら、店としての信用までガタ落ちになる。歌舞伎町というコミュニティとしても野放しにはしておけないと思うがな」

麻薬クスリの一件で自首もせずに半グレのもとに逃れた往生際の悪さは捨て置くとしても、客に危害が加えられた場合は、歌舞伎町全体の信頼を守る為の行動を取る――と?」

「小さな綻びが大きな損失に直結するなら尚更だ」

「着眼点は悪くありませんよ。あの街のネットワークをフルに駆使すれば、より先に逃亡先を探り当てることも簡単です。しかし、『躑躅つつじさきやかた』は警察に協力的でした。全幅の信頼を置いて裏切り者の始末を委ねてくださったのに、それとは正反対の暴挙を強行すると思いますか? 暴行傷害の逮捕者が出たら、それこそ店の沽券に関わるのに?」

と、が一緒とも限らないはずだ。僕が電知から教わった話によれば、ホスト格闘技は猛者揃いだ。そのホスト崩れとやらは、警察に突き出されることよりも、裏切り者が迎える末路に恐れをなして逃げ回っていたんじゃないか?」

「ホストという仕事に泥を塗った裏切り者へのは、所属先ホストクラブも止めないと仰りたいわけですね。そして、その猛者とやらは密造銃を持つ危険な相手にも怯まず――」


 背中で受け止めているキリサメの推理に鹿しか刑事がかぶりを振りつつ肩を揺らして笑い始めた矢先、彼の背広の内側から〝何か〟の振動する音が漏れてきた。改めてつまびらかとするまでもなく、携帯電話スマホに何らかの連絡が入った合図だ。

 鹿しか刑事が掛けたメガネのレンズに携帯電話スマホの液晶画面が映り込んでいる間に、キリサメは明治時代の衣装が固められたコーナーで選んだフロックコートを片腕に引っ掛けながら階段近くまで移動し、姿すがたを二階のほうへと傾けたのちに袖を通した。

 フロックコートとくさり帷子かたびらの組み合わせを確認する為に覗き込んだ姿すがたには、上階の〝何か〟も映っている。これを見て取ったキリサメは歩み寄ってくる鹿しか刑事に聞こえないくらい小さく安堵の溜め息をいた。


「結論から述べますと、アマカザリさんの推理力に惚れ直しましたよ。私には手錠を掛ける機会は巡って参りませんでね、例の男は新宿警察署が身柄を確保しました。正確には袋叩きに遭ったような姿で正面玄関付近にのを発見されたようです」


 殆どの歯が折れた口にバッグから引き抜かれた銃身を咥えさせられ、その銃口には丸めた設計図が無理矢理に突っ込まれていた――鹿しか刑事が付け加えた説明によれば、密造銃の一挺も弾丸と併せて警察が回収したようである。

 キリサメも新聞やテレビで毎日のニュースを確認しているが、鹿しか刑事から教えられたような報道に接したおぼえがなかった。半グレ集団による銃器の密造および密売という耳目を惹く重大事件であれば、警察が大手柄の如く発表しないはずがない。

 依然として鹿しか刑事は携帯電話スマホに目を落としたままであるが、液晶画面に表示された内容を朗読しているわけではないだろう。くだんのホスト崩れがニュースに登場しなかった理由がにあるのだろうと勘繰ってしまったのは、背広の内側で振動音が鳴ってから彼の声が明らかに硬くなった為である。


「答え合わせに写真を見せろとは言わないが、全身の至る所に蹴りを入れられた痕跡があるはずだ。数人掛かりで踏み付けられたのではなく、きっと靴の種類は一つだけ」

「……先程は冗談半分でしたが、でアマカザリさんを警視庁にスカウトしたくなりましたよ。まさか、ホスト格闘技にも詳しいとはね。随分と勉強されたご様子で」


 無数の蹴りを喰らったものとおぼしきあおあざだらけの容疑者は、ただちに警察病院へと搬送されたが、怯え切った様子で自分がを自供している――キリサメの推理が的中したことを示すように頷き返しながら喉の奥で笑って見せる鹿しか刑事であったが、新宿警察署へ手柄を譲ることになった悔しさを紛らわせたくて肩を揺すり続けているわけではない。自らを嘲っているのでもない。

 僅かばかりの情報を与えられただけの少年が歌舞伎町という事件の〝背景〟を深く理解し、犯人の末路まで正確に言い当てた事実に何ともたとがたい苦笑を抑えられないのだ。


「歌舞伎町のホスト格闘技といえば『じょう』だろう。出場者の誰もが良識的なようで安心した。丁度、興行イベントを観戦しようと電知と約束したばかりだったしな」

「そもそも良識ある方々は野蛮な私的制裁に走らず、犯罪捜査は警察に委ねるもの――という指摘ツッコミの極みでしょうね」

「まさかとは思うが、善意で重罪人を突き出してくれた協力者が暴行罪に問われることはないだろうな。僕の経験上、〝表〟の社会から切り離されたコミュニティに泥を引っ掛けるような真似は、で後悔する羽目になるぞ」

「事件自体が私の手を離れている以上、確定的なことは申し上げられませんが、新宿署で処理されると思いますよ。薬物クスリの件で半グレ集団を叩くにしても、本庁で身柄を押さえることが出来ていれば、もっとやり易かったというのが本音ですがねぇ」


 にも首を頷かせた鹿しか刑事であるが、キリサメには無理矢理に厭味な薄ら笑いを浮かべて取り繕っているように思えてならず、携帯電話スマホを背広の内ポケットへ仕舞う様子まで双眸で追い掛けずにはいられなかった。

 似つかわしくないくらい強張った顔は、それ自体が何らかの〝事件予告〟と受け取れるわけだ。歌舞伎町で生きる人々へ思いを馳せている最中の変調だけに、今度の事件の直接的な当事者であるホストクラブやホスト格闘技の興行イベントに害が及ぶ事態でないことをキリサメは我知らず祈っていた。

 足を踏み入れたことがない歌舞伎町がそこまで気に掛かるのは、以前に親友の電知が一人のホストについて熱弁を振るい、彼の携帯電話スマホに表示された何枚かの写真を目にして顔を知っていた為である。


(電知の友人だったら、仮にトラブルが押し寄せてきても残らずと思うけどな)


 半死半生という状態のホスト崩れ――即ち、歌舞伎町の裏切り者を新宿警察署まで引き摺っていったのも、電知から教わった人物ホストであろうとキリサメは確信していた。

 小柄な電知とはまた微妙に違う形で幼さを残し、不意に視界に入ると女性と見間違えてしまう甘い蜜のような顔立ちの青年は、『サバット』という格闘術の使い手であった。

 発祥地であるフランスでは『サファーデ』とも発音し、暴風雨の如き蹴り技を主体としていた。打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』に出場すれば、バロッサ家が選手を送り込んでいる『ムエ・カッチューア』に勝るとも劣らない猛威を振るうであろうと、電知は握り拳と共に断言していた。

 適性のサイズより二回り上の物を間違えて選んだとしか思えないほど幅広で、風を受けて波打つと裾から逆巻く炎の刺繍が一等映えるズボンを穿き、左右の脚を振り回して風を切り裂くその青年は、本場フランスへ武者修行に赴いてサバットの深奥に達した猛者である。

 キリサメが目にした模擬戦スパーリングの写真では格闘競技用のローカットシューズを用いていたのだが、この格闘術はそもそも靴を履いた状態での攻防を想定しているという。

 〝サバキ系空手〟の先駆けたる『くうかん』道場にいて、日本選手権三連覇を成し遂げたきょういししゃもんに対してさえ互角に渡り合った電知の蹴り技は、その人物と模擬戦スパーリングを重ねて鍛え上げたのだ。

 腕自慢のホストたちが歌舞伎町から集まり、ラウンド間にスポーツドリンクの代わりとしてカクテルを飲み干すなど型破りな趣向で観客を魅了するホスト格闘技の興行イベント――『じょう』に出場する花形選手エースでもある。

 写真で見る限りでは変声期を経ているのかも分からないが、成人式は数年前に済ませており、ホストクラブへの勤務に差し障るモノは一つとしてなかった。

 容疑者が嫉妬を仄めかした相手と同一人物であろうとも察せられた為、キリサメは鹿しか刑事に蹴られた痕跡を確認した次第である。曲がったことが許せない電知と親しく交流してきた青年だ。凶悪犯罪で歌舞伎町をけがし、あまつさえ勤務先ホストクラブの顧客を暴力で脅かして逃亡への協力を無理強いした卑劣な人間を野放しにしておくとは思えない。

 『じょう』の興行イベントはMMAとキックボクシングという二種ふたつのルールで実施されるが、彼はその両方で常勝を誇っていた。密造銃を向こうに回しても怯まず突っ込み、『パルチザン』と名付けた必殺の後ろ回し蹴りで裏切り者の顎を砕いたのであろう。

 電知との模擬戦スパーリングでは黒いタンクトップを着用しており、汗を吸って生地が纏わりついた上半身をキリサメは一瞬だけ痩せぎすと見間違えてしまったものの、目を凝らしてみるとが〝実戦〟を通じて鋼鉄はがねの如く引き締まった筋肉であることが分かった。

 タンクトップとズボンの僅かな隙間に覗いた腹筋などは、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーよりも遥かに強靭そうであった。

 『しゃ』――それが勤務先ホストクラブでの呼び名であったとキリサメは記憶している。

 光の当たり方や染料の落ち具合などから梅桃桜のいずれにも見えるいろの髪で人目を強く惹き付け、日々の生活くらしで疲れた女性たちの心を優しく癒しているが、上下とも放射状に広がるくらい睫毛の長い双眸を細めた瞬間の獰猛さを見れば瞭然のように、その〝本質〟は紛れもなく格闘家なのだ。

 春風を映したかのような頭髪かみは強い整髪料でもって固めてある。首筋を境として左右に分け、それぞれ跳ねるように大きく反り返らせた後ろ髪は逆さに開いた扇ともたとえられるだろう。柔軟性を保っているのは胸元まで流れるほど長く伸ばした横髪のみであり、蹴り技を放つたびにうねるような恰好で荒々しく舞い上がるのだった。

 本人なりのこだわりなのか、〝何か〟の強い念が込められた物なのか。右側の横髪は半ば辺りに一目で女物と判るレースのリボンを結んでいた。


「いずれにしてもアマカザリさんには好都合でしょう。私としては共倒れのほうが余計な手間も省けて好都合だったのですが、地下格闘技アンダーグラウンド団体同士の全面戦争は白紙撤回が現実味を帯びて参りました。悪名高い『ひきアイガイオン』を想い出すような事件でしたが、所詮は格闘家の浅知恵。……幕切れもチンケなほうがお似合いです」

「暴力に訴えて人に言うことを聞かせた手口は似ていなくもないが、自分は何をしても許されると本気で信じていたひきアイガイオンの場合、問題を起こしてもふんぞり返っていたはずだ。えて今度の事件に当てめるなら、同じプロボクサーでも『インパラけいいち』のほうが近いんじゃないか」

「……今、何と……?」

「インパラけいいちだ。『E・Gイラプション・ゲーム』代表のヴィクターくろ河内こうちが現役だった頃の好敵手ライバルだろう。暴行事件で警察から逃げ回る最中、恋人や友人を力ずくで従わせて匿わせていたと聞いている。……『E・Gイラプション・ゲーム』潰しに躍起になるお前がくろ河内こうち氏の関連人物を知らないのか?」


 格闘家が暴力で他者を屈服させた事件について、鹿しか刑事とキリサメは別々の例を引いた。前者が挙げたひきアイガイオンとは、言わずもがな〝格闘技界の汚点〟である。

 当時のフライ級王者チャンピオン――ヴィクターくろ河内こうちに挑戦する立場であったにも関わらず大一番タイトルマッチで彼の片目から光を奪うという最悪の反則を仕出かし、日本ボクシング界を追われた挙げ句、凶器たる拳で幼い我が子を死に至らしめ、服役中の現在いまも鬼畜と忌み嫌われている。

 もう一方のインパラけいいちも、ひきアイガイオンと同じ日本のプロボクサーであった。キリサメも未稲が拵えた資料に記された情報ことしか知らないのだが、現役の身でありながら家族に拳を振るい、〝格闘技界の汚点〟よりも随分と先にリングを追われたという。

 余りにも残虐な家庭内暴力に耐え兼ねた家族から警察に通報があり、逃避行の末、やはり恫喝によって協力を強要していた恋人の居宅すまいにて手錠を掛けられたのである。

 ひきアイガイオンと入れ違うような恰好で刑期を終えたはずだが、拳を凶器として用いたことでプロの資格ライセンスを剥奪された以上はボクシング界への復帰など望むべくもなく、現在では消息すら不明であった。

 未稲がパソコンの文章作成ワープロソフトで作成した資料では、古今東西の格闘家や競技選手アスリートが起こした不祥事の概略がまとめられている。そこにも記されていたが、ひきアイガイオンの場合は父親に酷い虐待を受け、その反動からより強い力で支配し返したそうである。

 テレビ局と所属ジムが虐待の事実を逆境克服の美談に歪め、この〝物語〟に基づく国民的英雄として祭り上げられる中で、暴力ちからの信奉者の如く理性が壊されていったひきアイガイオンを今度の事件と重ねるのは些か迂遠であろう。

 インパラけいいちも家庭内暴力という点では〝格闘技界の汚点〟と似通っているものの、親しい人間を巻き込んだ逃亡などホスト崩れとの共通点が分かり易く、それ故にキリサメも類例として思い浮かべたのだった。

 に他意などはあろうはずもなかった。くだんの資料には家庭内暴力という〝事実〟こそ記されていたものの、極めて繊細な他者の〝事情〟を弄ぶことをはばかった未稲によって具体的な家族構成などは省かれている。キリサメも携帯電話を含むインターネット環境を持たない為、インパラけいいちに関する情報は紙の上で完結しているわけだ。

 この場にいても更に踏み込もうというつもりはなく、そもそも手掛かりが乏しいのだから掘り下げようがない。それ故に鹿しか刑事が糸のように細い双眸を見開くほど強い反応を示したのは、キリサメとしても全くの想定外である。

 レンズの向こうに初めて覗いた瞳は、自他の感情を吸い込んでしまうほどに酷く空虚うつろであった。絶望の影を湛えていると表すのが最も正確に近いことであろう。

 にわかには信じがたいが、邪悪と呼んでも差し支えがないような男でさえ、家庭内暴力や虐待には心を痛めるようだ――のキリサメは、皮肉を挟まずに内面を推し測れるほど鹿しかという人間を理解していなかった。下の名前さえ未だ知らずにいるのだ。


「……随分と勉強なさったご様子ですね……」

「お前が故郷ペルーの国家警察を嗅ぎ回ったのと同じようにな」


 先程と同じ言葉を繰り返しながらかぶりを振り、仕切り直しを試みる鹿しか刑事であったが、少しばかり気を引き締めたところで声の震えは抑えようがない。


「結局、お前の悪ふざけに付き合わされただけのくたびれ儲けか。餌みたいにぶら下げてきた〝事件予告〟なんかにもなかったじゃないか。着せ替え人形扱いも我慢するだけ無駄だったな。……日本ここが法治国家であることにせいぜい感謝しろ」

「切れ味鋭い推理力とは裏腹に案外と鈍感ニブチンですね。これ以上ないほど露骨あからさま私としては心外としか申し上げようがありません。きっとアマカザリさんであれば、ご友人一同がホローポイント弾や散弾の餌食になる寸前だった半グレ集団の一件と、『天叢雲アメノムラクモ』が熊本相手にかっせん不可避という差し迫った現状をオーバーラップさせて、重大な事件性を掬い上げるだろうと信じていたのですがねぇ。いやはや私の買い被りだったようです」

かっせん? ……それはどういう意味だ?」

「……ほう? その反応リアクションは実に意外で、それ以上に面白いですよ」


 相容れない〝敵〟の為人ひととなりなどは記憶しておくべき情報として認識しないのだから、鹿しか刑事の変調などキリサメは気にも留めないが、不意討ちのように発せられた熊本という一言には反応せざるを得なかった。

 今し方の口振りでは、あたかも『天叢雲アメノムラクモ』が次回興行の開催先と極めて深刻な敵対関係に陥っているようではないか。あろうことか、武力衝突の可能性まで仄めかしたのだ。

 一方の鹿しか刑事も自分の言葉がキリサメから驚愕と動揺を引き出すとは想像していなかった様子であるが、唖然呆然としか表せない顔を覗き込んだ直後、形勢逆転とばかりに厭味な薄笑いが戻った。


「クイズ番組の締めくくりには正解者へのご褒美が欠かせません。賞金一〇〇万円や豪華海外旅行の代わりに、とっておきの情報を差し上げると致しましょう。アマカザリさんが次回つぎに出場される熊本興行の行く末を左右するの〝予告〟をね」

「熊本のことなら聞き捨てならないが、……ここまでの全部が僕にろくでもない〝何か〟を吹き込む前の余興みたいに思えて不愉快だな」

さんと言いましたか――身辺警護ボディーガード屋内なかに居たのかは存じ上げませんが、彼や八雲さんを呼び出しもせず単身ひとりで私にいてくる不用心を拝見して、『天叢雲アメノムラクモ』の代表が情報統制をにしていることを想い出せなかった自分が恥ずかしくてなりませんよ。その樋口さんが熊本城乗っ取り計画を発表した瞬間から熊本全県で『天叢雲アメノムラクモ』が〝敵〟として認定されたことすら、まだ耳に入っていませんね? つまり、養父おとう様も他の〝同僚おなかま〟も、誰もご存知ないということ。状況を掴んでいそうなのはバロッサさんくらいでしょうか」

「その希更氏の生まれ故郷というくらいしか熊本のことは知らないし、何より話が大き過ぎて殆ど意味が掴めないが、興行イベントの為にやって来た『天叢雲ぼくたち』を全県総出で迎え撃つ構えということか? ……地下格闘技アンダーグラウンド団体同士の小競り合いなど比較にならない事態を愉しそうに話す人間が警察官を名乗るな」

「この平和な日本で〝暴君〟と呼ばれる樋口さんに庇護されるアマカザリさんなら、体感として理解わかっておられるのでは? 早い話、あの人はということです」


 〝寝耳に水〟という状況でもあり、『天叢雲アメノムラクモ』が熊本を敵に回した経緯が掴めないキリサメであるが、スポーツメディアやネットニュースへの影響力を利用した情報戦によって日本格闘技界を実効支配する樋口郁郎は、それこそ苦楽を共にした〝戦友〟にまで恨まれても仕方がないことだけは分かっている。

 日本MMAの黄金時代を共に支えた古豪ベテラン――じょうわたマッチたちを露骨あからさまに冷遇し、団体全体のの為だけに『天叢雲アメノムラクモ』から追い出そうとまで画策しているのだ。

 支配的な上下関係や、昭和の〝スポ根〟ブームの成れの果てとも呼ぶべき根性論などを根絶やしにするべく『くうかん』の組織改革を強硬に推し進めた結果、日本中の支部道場から刺客まで差し向けられるようになったきょういし沙門の境遇を考えれば、これまで樋口郁郎や『天叢雲アメノムラクモ』が同じ状況に陥らずにいたことが不思議なくらいであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』と契約して一大会しか経験していないキリサメでさえ火守鹿刑事の指摘ことばは重くし掛かり、については一言もはんばくできなかった。


「堕落する一方の地下格闘技アンダーグラウンドと違って『MMA日本協会』の監視と指導がありますから、総合格闘技MMAのほうはこのまま健全化に突き進んで私には手出しできなくなるかと諦めていたのですけどねぇ。〝格闘技バブル〟が弾けたときと同じように自滅してくださるのならのシャンパンを開けながら、それを見物させていただくとしましょう」

「……今のは『天叢雲ぼくたち』への宣戦布告と受け取っても構わないな」


 一七年前――即ち、一九九七年はワインの〝当たり年〟であり、この年に作られたシャンパンも評価がすこぶる高い。日本MMAの失墜をさかなにして〝一七年物〟を楽しむという鹿しか刑事の皮肉に対し、キリサメは目突きをはんばくに代えなかった自分を褒めたかった。

 一九九七年は日本のリングにいて初めて大規模なMMA興行イベントが開催され、『打投極』を理論化・体系化したヴァルチャーマスクがブラジリアン柔術に完敗を喫した年である。それを踏まえた上で〝一七年物〟のシャンパンを引き合いに出した鹿しか刑事の皮肉は、今も『プロレスが負けた日』を背負って生きる八雲岳を養父ちちに持つキリサメにとって、断じて聞き流せるものではない。


地下格闘技アンダーグラウンドの次にMMAを潰すつもりなら、今の〝事件予告〟は何だ? 『天叢雲アメノムラクモ』の選手に情報提供などしないで、興行イベントの開催先と揉めて壊滅するのを〝外〟から眺めていたほうがお前には都合が良かったはずだ。……魂胆は何だ?」

「先程も言ったでしょう? 〝一人っ子〟は美味しいモノを後に取っておくと。私が薄汚い地下格闘技アンダーグラウンドを始末している間に、アマカザリさんは〝格闘技バブル〟崩壊の再現を阻止してくださる。嫌いで仕方のない私の目的を達成させることだと理解わかっていながら、養父おとう様や〝同僚おなかま〟を守る為に駆けずり回る姿が今から楽しみでなりませんよ」

「統括本部長の養子むすこなら『天叢雲アメノムラクモ』と熊本の直接対決を回避する為に動く……と? お前がそう信じるのは勝手だが、こんなに重大な決断は僕一人では下せない。だから――」

「――おう! だから! もご一緒させてもらうぜッ!」


 何者かの大音声が天井に跳ね返った直後、朱塗りの鞘に納められた一振りの日本刀かたながキリサメの頭上に降ってきた。後方に素早く旋回しつつ左の五指でを掴み取った彼は、両肩を通すようにして鞘を担ぎ、同時に白刃を抜き放った。

 その剣先きっさき鹿しか刑事の鼻に触れる寸前で止まった。刀を振るう右腕は大きく伸ばされており、相手の皮膚を裂いてしまわないよう慌てて剣先きっさきを引き戻したわけではないことを端的に表している。

 数多の鎖が擦れ合う音を引き摺りながらフロックコートの裾を鋭くなびかせるという大きな動作うごきを経由した為、鹿しか刑事の目にも分からなかったようだが、キリサメは日本刀かたなを受け取る瞬間に刃渡りを見極め、絶対に刀身が当たらない位置まで飛び退いたのである。

 とうとう『天叢雲アメノムラクモ』ひいてはMMAへの害意を剥き出しにした〝敵〟に対し、相手に怪我を負わせないもってして牽制を試みたのだ。

 穏やかならざる会話を長々と続ける二人を遠巻きに見守っていた店員や、いずこかの劇団に所属しているものとおぼしき買い物客は、キリサメの抜刀を〝芝居の練習〟と捉えたようで、見事な太刀捌きに心を震わされて拍手まで送っている。鹿しか刑事の鼻頭からひとしずくでも血が滴っていたなら、称賛ではなく悲鳴が店内を埋め尽くしたはずである。

 鞘を肩に担いだ状態から刃を抜くという所作うごきは、『とうあらた』の〝先輩〟であるだいらひろゆきる〝剣劇チャンバラ〟にいて披露したものの模倣であったが、上半身が鎖だらけという軽武装にフロックコートを組み合わせた出で立ちとあいって、突発的な再現にも関わらずとして成立させられたのだ。


「私もを〝犯罪予告〟と申し上げたつもりはなかったのですがねぇ。東京都の迷惑防止条例か、公然わいせつ罪か、どちらで現行犯逮捕するべきか、悩ましいところです。いずれにしても明日のスポーツ新聞は大盛り上がりですね」


 一方の鹿しか刑事は文字通りに眼前に突き付けられた剣先きっさきから吹き抜けの二階へと目を転じ、階上そこに見つけた声の主に芝居がかった調子で肩を竦めて見せた。

 先程の大音声から八雲岳その人であろうと既に察していたのだが、プロレスの異種格闘技戦から総合格闘技MMAに至るまで四角いリングの上で常に用いてきた黒いプロレスパンツを穿き、剥き出しの上半身に袖のない陣羽織を纏っていたのである。

 この貸衣装店みせで見繕ったのであろう。頭部を覆うかぶとばちと呼ばれる部分が二股に別れて垂直に高く伸び、ウサギの耳のような形で突き出した〝変わり兜〟を被っている。

 平素いつもは戦国武将さながらに頭頂部よりやや後ろの位置で花弁於の如く結い上げた髪は、愛弟子と模擬戦スパーリングの為に解いている。試合と同様に首の付け根の辺りで一房に束ね直したわけだが、奇しくもまげを結わえた者が兜を被る際の様式の一つであった。


「――自分たちは正当な訓練トレーニングの為、プロレスパンツ一丁となっているのだ。誰に恥じる理由があろうか。これを卑猥と罵る者こそ偏った物の見方を改めるべき」


 鹿しか刑事に対する牽制を更に重ねたのは、足音も気配もなく、の間にか彼の背後に立っていた八雲岳の愛弟子――進士藤太だ。

 キリサメと岳に意識が向き、周囲まわりへの警戒心が薄くなった瞬間を狙って回り込んだのである。師匠と色違いではあるものの、藤太もまたプロレスパンツのみであった。

 剥き出しのまま脈打つ胸板などを他者ひとに向かって見せびらかしていれば、鹿しか刑事が並べた罪状も適用されることであろうが、運動靴を履いて堂々と立つ姿は変質的な快楽に耽る人間とは根本的に異なる。それ故にパトカーのサイレンも聞こえてこないわけだ。

 苦笑いを引き摺りつつキリサメと向き直った鹿しか刑事は、この二人が自分たちをけていることにから気付いていたのかと眼差しでもってたずねた。


「お前と『八雲道場』の庭先で話しているとき、途中から二人の言い争う声が聞こえなくなったからな。屋内いえのなかのモニターで玄関の様子を確かめているのはすぐに読めた。そして、岳氏と進士氏の性格上、追い掛けてこないはずがない。……街中でも目立っていたのに本当に分からなかったのか? 日本の警察も底が知れるな」

「もっと言ったれ、キリー! オレたちゃプロレスラーであるのと同時に忍者だぞ? 鹿しかに気付かれず隠れ潜むことなんざあさメシ前だぜッ!」

「なかなかどうして……アマカザリさんも食えない方ですね」

「僕のことを不用心だとか小馬鹿にしてくれたが、これでも気を緩めた瞬間に撃ち殺されるような環境で生きてきたんだ。知ったかぶっていたクセにお前は貧民街スラムを舐め過ぎだ」


 先程からキリサメの皮肉と併せて風を切り裂くような音が鹿しか刑事の鼓膜を劈いているが、それは背後の藤太が鳴らしているものだ。岳が養子に投げ渡した日本刀かたななど、武具が並ぶ二階から持ってきたくさりがまを両手に構え、頭上にて分銅を振り回しているのである。

 キリサメが突き出し続ける日本刀かたなと同じく木材と銀箔で拵えた模造品だ。左手で握る鎌にも、鎖の先に取り付けられた分銅にも、当然ながら殺傷力は備わっていない。それでも十分に制圧できると、藤太の目が静かに鹿しか刑事を威圧していた。

 軽い材質とはいえ、鎌の取っ手の底から伸びている鎖は金属製なのだ。そして、鎖鎌は〝にん〟にも数えられている。鎖を操る右手首の回し方も慣れており、藤太がその取り扱いに長けていることは一目瞭然であった。


貸衣装店おみせのご迷惑となる前に場所を変えましょうか。この期に及んで情報提供を渋るつもりはございませんのでご安心を。持ちつ持たれつギブアンドテイクこそ良好な関係の秘訣ですからね」

「ぬけぬけと良く言うぜ、鹿しか。〝一人っ子〟だァ? ……真っ直ぐな目で大嘘きやがるヤツと良好な関係もクソもね~だろ」

「久方ぶりに顔を合わせたというのに仰いますねぇ。鹿しかの戸籍に我が父の子として記された名前は一人。それ以上でもそれ以下でもございませんよ、八雲さん」

「道すがら師匠にお前のことは教わった。……なる事情があろうとも、我が弟も同然のキリサメに害なす者は容赦ならんぞ」

「何だって構いませんよ。この男は『ウォースパイト運動』と大差ない〝敵〟です。『NSB』を襲ったテロリストと同じ過激思想に染まっていると見て間違いありません」


 『E・Gイラプション・ゲーム』だけでなく、あらゆる格闘技を暴力と卑しめるような鹿しか刑事の声を振り返り、とも呼ぶべき喧嘩殺法はルールで安全性を約束する〝格闘競技スポーツ〟に相応しくないのではないかと、これまでキリサメは自問自答し続けてきた。

 しかし、改めて本人と向き合ったことで、鹿しかという男のくらい行動理念は『ウォースパイト運動』のと殆ど変わらないと確認した。思わず〝生きていてはいけない存在〟と認識しそうになるくらい敵意が強まったとも言い換えられるだろう。

 階段を降りるのも面倒とばかりに二階の手すりを飛び越え、縦回転を経て一階に着地した岳は、面と向かって鹿しか刑事を嘘きと呼んだ。

 この前後にレンズの向こうの双眸が再び開かれたが、それが『ウォースパイト運動』という罵声への反応であったのか、岳から〝一人っ子〟という嘘を暴かれた瞬間に心の奥底より湧き起こった〝何か〟であったのか、余人には推し測るすべもなかった。


「規模の大小と関係なく、公権力が特定の活動を攻撃し始めたら、それは弾圧以外の何物でもない。正気を疑うのは当たり前だ」


 銀箔が貼られた木製の刀身を朱塗りの鞘へと納めながら、更なる面罵を重ねたキリサメは鹿しか刑事のみを睨み据えていた為、彼の嘘を暴いてしまったことを後悔するかのような養父の表情には気付かなかった。

 そもそも、眼前の〝敵〟が〝一人っ子〟であるか否かなど関心すら持たないのだ。


「……大型連続時代劇から飛び出してきたようにさまになっていますよ、アマカザリさん。の第一人者に弟子入りできたのですから、真剣に打ち込むことを強くお勧めします」


 大統領専用機エアフォースワンにサイバーテロを仕掛けたサタナスや、『NSB』の所属選手にも関わらず試合場オクタゴンを占拠した空手家ベイカー・エルステッドと同じように、警察官の権限を悪用する『ウォースパイト運動』の過激活動家ではないかと侮辱的な嫌疑うたがいが掛けられた鹿しか刑事であるが、に対して言い返すことはなかった。

 またしても脈絡なく話題はなしが飛んだが、頭部から胴体に至るまで無数の鎖で防護まもられたキリサメにねぶるような視線を這わせたのちを〝本業〟にするよう促し始めた。

 翻せばは、格闘家など今すぐに辞めるべきおぞましい存在とする持論だけは一歩たりとも譲るつもりはないと、キリサメに宣言したようなものであった。


を追う者はいっも得ずという日本のことわざ、お分かりになります? この国の情勢ことをせいぜい半年分程度しかご存知でないアマカザリさんは、そもそも想像力が不足しておられるようにお見受けしますが、手に職もない一七歳が食べていけるくらい社会は甘くありません。ペルーの貧民街スラムのほうがまだ優しかったと思う日がきっとやって来ますよ」

「ようやく絞り出したのが月並みな説得とは、底意地の悪さも種切れのようだな。希更氏や愛染氏がお前の皮肉を全て最初から否定している。ダン・タン・タインの経歴キャリアをどう説明する? 僕の〝先輩〟は地下格闘技アンダーグラウンドのリングとを問題なく両立させているぞ」

「ちなみに養父とうちゃんは社会人プロレスの外部コーチだぜ! おまけにネットで健康運動の実演もやってらァ! MMA選手をナメんなよ、この野郎ッ!」

〝現代の格闘家〟にとって〝兼業〟は当たり前のことだと心得ている。幾つもの経験を組み合わせて、初めて掴めることだってある。とプロレスをMMAと組み合わせて新しい戦闘能力ちからに換えるという岳氏の理屈はなしも、今なら実感と共に信じられるんだ」

「親子愛でやり返されてしまうと、何を申し上げても私のほうが悪者ですねぇ。後悔先に立たず――早い内に覚悟を決められますようもう一度だけ助言アドバイスを差し上げておきますよ」


 つまるところ、鹿しか刑事はキリサメを時代劇専門の貸衣装店に連れ込んだ意図を言外に明かしたわけだ。くさり帷子かたびらなどを次々と手渡し、今から〝剣劇チャンバラ〟の舞台へ臨むかのように扮装させたのもなのであろう。

 現役として活動できる期間が限られてしまう格闘家とは異なり、は生涯の仕事ともなり得る。安定して生計を立てる為、後者への注力を推し続ける麦泉の気持ちにも通じると受け止めたからこそ、キリサメのなかに首を縦に振るという選択肢はなかった。


「覚悟もなく〝兼業格闘家〟は名乗らない。僕は『天叢雲アメノムラクモ』の選手で、がわだいぜん門下の見習いだ」


 数多の先達が示してくれた〝道〟こそ己が生きる場であると、キリサメは強い光を湛えた双眸で見極めている。もはや、鹿しか刑事の皮肉などは心が揺らぐ理由にはならない。

 キリサメの双眸は平素いつもと同じようにまぶたが半ばまで閉ざされているものの、その瞳に湛えた光は眩いばかりに強く、鹿しか刑事は皮肉でやり返すこともなく顔を背けた。



                     *



 キリサメ・アマカザリにとって初陣プロデビューの岩手興行と同じくらい長い一日が終わろうとしている。しかし、それは穏やかな夜を迎えることを意味するわけでもない。

 異種格闘技戦という〝道〟を拓いた実戦志向ストロングスタイルのプロレスラーにして、民間単位のスポーツ外交を幾つも成し遂げた『昭和の伝説』――おにつらみちあきが経営し、『しょうおうりゅう』宗家の哀川神通がアルバイトとして勤務する『ダイニングこん』に出掛けようと岳から提案されていたのだが、結局、夕食は八雲家でることになった。

 車椅子ボクシングの練習を見学しようとと一緒に外出していた未稲が帰路にて買い出しを済ませ、アメリカでの生活くらしが長い藤太にとっては恋しさすら感じるであろう日本食を振る舞いたいと申し出たのである。

 藤太の滞在については事前の連絡がなく、準備不足もあって大した料理ものは作れないと困り顔であったが、食卓に並べられた皿の数は普段との比較どころか、四人で食べる量としても明らかに多かった。それは気合いの表れとしか呼びようがない。

 キリサメからすると腹立たしくなるくらい未稲の気遣いは藤太の胃袋を直撃したようである。大根と白身魚の煮付けや鶏のから揚げ、肉じゃがに焼き鮭、豆腐の味噌汁など〝日本の味〟を前にした姿の藤太は、比喩でなく本当に生唾を呑み込んだ。


「懐かしい未稲の味だよ。なんだか……本当に帰ってきた気がするなぁ……」

「わ、私を褒め殺してどうするんですか~」

「そうだぜ、感謝されるならお前を誘ったオレだろ! 帰ってきて良かっただろ⁉」

「俺は未稲のメシに感動してるんです。師匠が割り込んでくる余地なんかありません」


 大喜びで一品々々を頬張る藤太を見つめて、未稲は身体を揺すりながら笑うのだった。

 二人のやり取りからも察せられるが、藤太が『八雲道場』で暮らしていた頃から未稲は台所に立っていたわけだ。彼がいつ帰ってきても良いように茶碗や箸なども捨てずに残してあり、使い慣れた食器が運ばれてきたときなど藤太は感動で声を詰まらせていた。


「しっかし、マジで美味そうに食うじゃねーの。にも日本食の店は多いだろ。おまけにオレを除け者にして、帰国のたびに鬼貫の兄ィのトコで宴会ドンチャンやってるクセしてよォ。そんなにありがたがって食うもんか~?」

「未稲のメシは俺にとって〝お袋の味〟みたいなモンですから」

「ちょっと~。藤太とーたさ~ん。私と二〇歳くらい離れてるんですよ? 藤太とーたさんって、年下に母性バブみを感じちゃうタイプでしたっけ?」

「その〝バブみ〟とやらは分からんが、物のたとえを突っ込まれると困ってしまうな」


 懐かしい団欒だんらんを満喫するに対して、またしてもキリサメは会話に加われずにいる。手持ち無沙汰とばかりに黙々と食事を口に運ぶばかりなのだ。自分の発言など求められてはいないと考え、カレー風味の浅漬けの感想すら述べようとしなかった。

 の椅子が置かれているとして、自分はその内の一脚をただ貸し出されていただけで、本来の持ち主が帰ってきた途端に押し出されてしまった。ここを居場所のように思ってはいけなかったのかも知れないと、未稲の笑い声が鼓膜を揺さぶるたびに虚しさが押し寄せてくるのである。

 くさり帷子かたびら一式を貸衣装店に返却し、新しいシャツとジーンズに着替えたキリサメは、見知らぬ荒野にたった一人で取り残されたような孤独感に心を軋ませ、箸で味噌汁を掻き回しているが、結局は不貞腐れているだけであり、大して深刻な事態でもない。

 決して口には出さないが、彼にとって何より面白くないのは未稲の態度である。

 再会の直後は照れ臭さがあって受け答えも躊躇いがちであったが、夕食が始まる頃には昔の感覚を取り戻し、冗談を飛ばし合うようになっている。その合間に恥じらったように藤太から顔を背けており、この反応がキリサメの顔を引きらせるのだ。

 彼女の顔を林檎のように彩るのは、感情の発露ばかりではない。紅が差された唇など過去に見たおぼえがなかった。浮かれた調子で楽しみにしていたゲーミングサークルのオフ会に参加したときでさえ、傍目にも鮮明に見えるほどの化粧は施していなかったはずだ。

 それはつまり、少しでも綺麗な自分を見せたいという意識が向けられるということである。このような未稲をキリサメが微笑ましく見ていられるわけがなかった。

 普段は奇妙な文言フレーズのシャツを好んでいるが、この食卓では季節の花々が刺繍された物である。数年ぶりに愛弟子と組み合った余韻に浸りたいのか、プロレスパンツ一丁のままでビールジョッキを傾ける実父ちちとは好対照と言えよう。


(……普段、我慢している分、気持ちが昂った瞬間に大きく弾けるのだとしたら、とやかく言う資格なんかこの場の誰にもないのだけど……)


 に接するキリサメの胸中には、ドス黒いもやにも似た複雑な感情が垂れ込めていたが、その原因は子どもじみた嫉妬一つではない。

 進士藤太が『八雲道場』を離れたのは、日本MMAの黄金時代が終焉を迎えて間もなくの頃であるという。彼や養父、ヴァルチャーマスクといった異種格闘技戦以来の有力選手が旗揚げ当初から参戦し、〝格闘技バブル〟を担った『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体は『プロレスが負けた日』から数えて一〇年目の二〇〇七年に指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟が暴かれ、坂道を転げ落ちるかのように解散という最悪の筋運びに立ち至った。

 その頃の未稲はようやく一〇歳になったばかりである。つまり、『八雲道場』の一員であった藤太に食事を用意したのは、それよりも更に幼い頃ということになる。現在いまひろたかと大して変わらない年頃の子どもに家事の負担を強いることは、育児放棄あるいは虐待にも等しいという糾弾を免れない異常事態であろう。

 母一人子一人の家庭環境であった為、キリサメも出来る範囲で家事を手伝っていたが、おそらくはたった一人で炊事洗濯を切り盛りしてきたであろう未稲の場合は、本来ならば自分の為に使うべき時間も労力も家族に捧げてしまったわけだ。

 キリサメを新しい家族に迎えてからは家事も分担制に切り替わったが、それでも勝手が分からない移住当初は、食事当番すら未稲に頼り切っていたのである。

 ブラジリアン柔術の道場に異種格闘技戦を挑み、その惨敗が火種となってヴァルチャーマスクがプロレスの〝誇り〟を賭した頂上決戦に駆り出され、その果てに大恩人に〝永久戦犯〟の汚名を着せてしまったという負い目がある岳は、残りの人生を日本MMAの為に使う覚悟で四角いリングへ臨んできた。

 一方のおもてみねも、映像作家の仕事に熱中し始めると、身の周りのことにさえ気が回らなくなる。副流煙による健康被害を考えてひろたか本人の前では控えている様子だが、口寂しさもあって作業中は何本もの煙草をい続けるという。前夫の岳や実娘むすめの未稲と『八雲道場』で暮らしていた頃は、その我慢が出来たのであろうか。

 岳も嶺子も、その性格からして家庭のことを省みるとは思えない。多忙を極めていたことも十分に察せられるのだが、だからといって、それを幼い未稲に犠牲を強いる理由にしてはならないはずだ。それこそ大人の責任として周囲まわりが二人を諫めるべきであろうに、家族の友人でもある麦泉でさえ止めなかったのか。

 一〇歳にも満たない我が子に甘えてしまったという〝事実〟は、岳のなかで拭い切れない悔恨となっているのかも知れない。実父ちち収入カネをネットゲームに注ぎ込むという未稲の放蕩を小言程度で許している現状とも合致してしまうのだ。

 五ヶ月近く共に暮らす中でキリサメも薄々と気付いていたが、離婚によって八雲・表木の二家に別れてからも繋がりが深く、良好な関係を保っている一方で、岳と嶺子の間では家庭というものがそもそも成り立っていなかったのであろう。

 キリサメも家族の在り方など他者ひとに押し付けようとは思わない。しかし、子どものように無邪気な両親の皺寄せが本来はもっと無邪気に過ごせたはずの子どもを蝕んでいるとしたら、問題の根幹は一〇歳にも満たない小学生を〝実戦〟のリングに押し上げようとする悪質な地下格闘技アンダーグラウンド団体や、体罰も同然という〝シゴキ〟によって次世代の人材をふるいに掛けるような『くうかん』の支部道場と同じであるのかも知れない。


「――お父さん、食事中のテレビはダメだっていつも言ってるでしょっ!」

食事中メシどきに行儀が悪いというか、無粋なところは昔から一向に変わりませんね、師匠」


 今まで意識していなかったことが進士藤太という存在を挟んで次々と浮き彫りになっていく――その分析を進める内に、食事の最中でありながら口を真一文字に結んでしまったキリサメとは対照的に、上機嫌でビールを呷る岳がテレビのリモコンを操作し始めれば、未稲と藤太は声を揃えて注意を飛ばすのだった。

 息の合った姿にも在りし日に育んだ絆が感じられ、不貞腐れた気持ちがぶり返しそうになるキリサメであったが、贔屓にしているトリオ芸人がテレビ画面に登場した為、聞き分けのない子どものようにそっぽを向くのを踏み止まった。

 しかも、その三人と共に『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルの姿まで画面に映し出されているではないか。

 大食いで名を馳せた芸能人タレントが高速道路のサービスエリアを巡りつつ、フードコートの新作メニューをひたすら食べ尽していくバラエティー番組があり、レオニダスは前回も出演していた。今日はその続編を放送するようである。

 共演するトリオ芸人の内、リーダーの男性は自他共に認めるMMA好きであり、レオニダスの大ファンも公言している。番組内で彼を迎えるや否や、『スーパイ・サーキット』で一躍有名になった新人選手ルーキーとの試合に注目していると切り出し、次回の興行イベントには熊本現地まで応援に駆け付けるとも約束したのだ。


「――オレはキリサメ・アマカザリのことを魂のブラザーだと思ってるんですよ。今風に言うとソウルメイトかな? 深いふか~い共鳴で結ばれてっからブラザーの弱点だって一発で見破っちゃいましたしね。〝ゲームチェンジャー〟とか持てはやされてる『スーパイ・サーキット』もド楽勝って感じ? 面白い試合になるとだけ言っときますよ! 後悔はさせませんから、テレビの前のみんなも応援、ヨロシクぅ~!」


 次戦への意気込みをたずねられたレオニダスの返答こたえに、食卓の誰もが神妙な面持ちで聞き入っている。抱負の形を借りたキリサメへの挑発行為に他ならないのだ。芸能人タレントとしても活動する人間ならではの情報戦とも言い換えられよう。

 人間という種の限界を超越する異能ちからでさえ完封するという自信を見せつけたわけだが、日本MMA最高の花形選手スーパースターの言葉だけに単なる大言壮語ビッグマウスでは片付けられまい。番組内では多くは語らなかったものの、弱点を見破ったと言い切れるだけの根拠もあるはずだ。


「……『天叢雲アメノムラクモ』とは無関係な藤太おまえの意見を聞かせて欲しいんだがよ。レオは何が狙いだと思う? 何を思ってキリーに喧嘩売って来やがったんだ、この野郎は……⁉」


 その問いかけは、岳がずっと自身のなかで繰り返してきたことであった。

 じょうわたマッチの仲間による報復を引き受けたという経緯はともかくとして、『天叢雲アメノムラクモ』に君臨する絶対王者――『かいおう』の玉座を狙う地位の男がプロデビュー戦を終えたばかりの新人選手ルーキーを対戦相手に指名するということは、本人にとっても不利益デメリットしか考えられない。

 〝新人いじめ〟という批判が起こり兼ねず、ともすれば芸能人タレントとしての印象悪化イメージダウンにまで直結してしまうだろう。キリサメとの対戦によるレオニダス側の利益メリットが一つも思い当たらないのである。だからこそ、対戦交渉マッチメイク現在いまも、花形選手スーパースターの真意を掴み兼ねているのだった。

 師匠がテレビの電源を入れた理由を悟り、茶碗のフチに箸を置いた藤太は「正直、自分のステータスを安売りする意味が分かりませんね」と率直に答えた。


「今度の対戦カードはアメリカでも話題になってますよ。タファレルのブラジル時代からの宿敵ライバルが『NSB』と契約しているのですが、今し方の芸能人タレントと同じように熊本まで飛んで試合を見届けると息巻いています」

「この間、藤太おまえがブッ倒したルタ・リーブリ使いだな。会場に乗り込んでくるってか」

周囲まわりが過剰反応するくらい有り得ないカードということですよ。『NSB』であったら絶対に成立しません。イズリアル・モニワ代表が承認しないでしょう」


 『NSB』の現代表であるイズリアル・モニワは、MMA自体を見世物としか考えていなかった前代表フロスト・クラントンとは違って選手たちの気持ちに寄り添う人物である。しかし、世界のMMAの旗頭とも呼ぶべき団体を率いる〝立場〟でもある為、ビジネスとして成り立つ見込みのない試合は、なる嘆願があろうとも絶対に許さないと藤太は続けた。

 話題性だけで〝格闘競技〟を捉えず、新時代の〝スポーツ文化〟という矜持を持っている証左であろう。MMA団体の代表としては、むしろ頼もしく感じる人物であった。


「タファレルの宣戦布告はVTRで見ましたが、『NSB』ならば、あれは場を盛り上げる余興にしかなりません。例え選手同士が乗り気になっても実際には各々のステータスに見合った対戦カードが組まれます。に付き合うほど客も甘くはありません」


 決して安くはないチケット代を払ってまで足を運んでくれた観客を満足させられなければ開催する意味もないという〝興行イベントとしての観点〟から考えると、格闘技ビジネスとしての重要度を優先させる『NSB』の方針は正解に近いとも思える。

 そもそも、自己主張が強い選手たちの勝手を許していては、MMA興行イベントとしても収拾がつかなくなる。手綱を握って巧みに取り仕切るのもスタッフの仕事なのだ。それにも関わらず、新人選手キリサメ花形選手レオニダス対戦交渉マッチメイクは、本来のプロモーターである樋口郁郎が制御できない状況で成立したようなものであった。


「ブラザーなどと尤もらしく聞こえる理由を付けていましたが、表に出した建前とは別の思惑を隠していると見て間違いないでしょう」


 テレビの画面内で芸人トリオをからかうレオニダスを指さした藤太は、「俺の見たところ、他の誰よりも頭脳アタマが切れる男ですよ」と、称賛とは聞こえがたい声色で言い捨てた。


芸能人タレント活動からも分かるように、持って生まれたスター性を自覚して、それをフルに生かし切っています。変な言い方になりますが、格闘家を引退した後にも食っていけるポジションを抜かりなく築いている。それを台無しにするバカげた真似は絶対にしないタイプだと俺は踏んでます。……キナ臭いウワサはアメリカにまで聞こえていますがね」


 つるぎきょうを始めとする暴走族チームの暴徒化という緊急事態に便乗し、言葉巧みにキリサメとの対戦を取り付けてしまったレオニダスの姿は、藤太の目にも不可解に映っていたわけである。そして、『NSB』に所属する大勢も同じ印象を共有しているようだ。


「人好きのする顔をおいて、腹にいちもつなどというレベルではない危険人物です」


 今季の新商品というフルーツサンドを美味そうに頬張り、「負け犬はこ~ゆ~幸せもられちまうぜェ」とおどけるレオニダスの声に、岳と藤太は猜疑の念を強めていった。


「だから、お前に意見をいたんだよ。レオが何を企んでやがるのか、オレにはさっぱり分からねぇ。カネだって地位だって満ち足りてるだろうに、これ以上、何が欲しいってんだろうな。ファン人気だって『かいおう』――ゴーザフォスを余裕で上回ってらァ」

「何も分からないときは、当たって砕けるしかないんじゃないですか」


 意外としか表しようのない言葉に驚いた岳が藤太の横顔を窺うと、愛弟子はテレビ画面へ視線を注がせながら口元に不敵な笑みを浮かべていた。


「八雲岳という男は何時からそんなにクレバーになったのですか? 誰も師匠に頭脳労働など期待してはいませんよ」

「……バカはバカなりに考えてんだよ、大事な養子むすこのコトをよォ」

えて『バカの考え休むに似たり』とを言わせて貰いますよ。小細工ナシの真っ向勝負でぶつかって、本音を引き出せば良いんですよ。それが師匠のやり方でしょう」

「……勝負すんのがオレ自身ならそれで良いけど、るのはキリーなんだぜ?」


 迷いが生じているところに「自分らしさ」を愛弟子に説かれた岳は、悪態をきながらも喜びを隠し切れなかった。師匠らしく威厳に満ちた表情を作ろうとしても、どうにも顔が綻んでしまうのである。


「無論、忘れるわけがありませんよ。だから、オレはあの異能ちからに反対を――」


 キリサメが心的外傷後ストレス障害PTSDを患っているのではないかと懸念して日本に駆け付けた藤太は、その発作と捉えていた『スーパイ・サーキット』に頼らないよう改めて念を押そうとしたが、「あの異能ちから」と口から出かかったところで未稲の存在を想い出し、咳払いでもって慌てて誤魔化した。

 露骨としか表しようのない行動は相手をいたずらに刺激するだけであり、未稲も「何なんですか、今の」と訝るような表情で首を傾げた。


「……何でもない。未稲が気にすることではないんだ」

「ふぎゃあっ⁉」

「――あッ⁉ す、すまん!」


 謝罪を述べつつ無意識に未稲の頭を撫でた藤太は、自分のしていることに気付くと慌てて手を引っ込めた。彼女を宥めようとする際、子どもの頃と同じやり方で接してしまったのだ。一七歳に対して、それは失礼以外の何物でもあるまい。


「と、藤太さんのばかぁ……」


 子ども扱いされたことが恥ずかしかったのか、それとも別の感情が働いたのか――未稲は藤太に撫でられた箇所へ自分の手を添えつつ、満面を真っ赤に染めて俯いてしまった。

 悲鳴を上げた拍子に未稲の丸メガネは吹き飛び、放物線を描いてキリサメの頭頂に落下した。その一部始終を見せ付けられた彼は平素いつもとは別の意味で一切の表情を消しており、卓上に滑り落ちた丸メガネを拾おうともしなかった。


「……僕の試合を心配してくださるのはありがたいのですが、それは『天叢雲アメノムラクモ』が熊本に受けれてもらえることが大前提ですよね。取り越し苦労に終わりそうなくらい雲行きが怪しくなってきましたが、……とMMA、どちらの練習に比重を置けば良いのでしょう」


 キリサメの手元では箸が豆腐の味噌汁を掻き回す勢いが一層増している。レオニダスの思惑を推し測らんとする『八雲道場』の師弟に対し、自分でも抑えられないほどの刺々しい調子で『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行を巡る緊迫した情勢を突き付けた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、それは鹿しか刑事による情報提供で判明したことだ。

 岩手興行の閉会式クロージングセレモニーいて樋口代表が大々的に発表した通り、『天叢雲アメノムラクモ』第一四回興行の開催地は熊本城二の丸広場に決定し、キリサメとレオニダス以外の対戦交渉マッチメイクも着々と進んでいた。欧米の道場を荒らし回る正体不明の〝道場破り〟――『ばくおうまる』に瀕死の重傷を負わされたヴォズネセンスキーは、治療へ専念する為に次回も欠場するという。

 その熊本興行が無事に開催を迎えられるのか、全く見通せなくなってきた。

 天下無双の大剣豪・みやもとさしが晩年にりんのしょを記し、武芸を奨励する気風で満たされた〝火の国〟である。その〝誇り〟である熊本城でMMA興行イベントを催すならば、同県武術界の協力を取り付けることが不可欠であったが、諸流派を統括する団体にさえ『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業から事前連絡がなかったのだ。

 通すべき筋を踏みにじった上で熊本城二の丸広場をせんとする〝暴君〟の傲慢さに古武術諸道場は烈火の如く激怒し、一致団結して徹底抗戦を叫んでいるという。

 時代錯誤な〝挙兵〟などと笑い飛ばすわけにはいかない差し迫った状況であった。

 東日本大震災のチャリティー大会として旗揚げした『天叢雲アメノムラクモ』は、えて特定の拠点を持たず、全国各地の運動施設で〝旅興行〟を実施する形態を取っている。地域振興・雇用創出も含んだ事業を実施する為には地方自治体との連携が必須であり、これを仕損じるのは最悪の二字を冠するほど致命的なのだ。

 岩手興行まで開催先の企業や行政、地方プロレス団体との協力体制を取りまとめてきた『サムライ・アスレチックス』の渉外担当――さいもんきみたかとは思えない失態であった。ふくしまけんあいわかまつつるじょうけるMMA興行イベントを実現させた経験もある為、熊本城での開催も問題なく成し遂げるであろうと、誰もが信じて疑わなかったはずである。


「――この情報はなしを信じるも信じないも、生かすも殺すも、アマカザリさんの自由です。しかし、十分過ぎるほど信憑性は高いと思いますよ。『天叢雲アメノムラクモ』へのからぬ感情は、熊本城のお膝元に留まらず全県隅々まで広がったことも間違いありません」


 鹿しか刑事の意見に従うようで甚だ面白くないが、次回の興行イベントは開催地を変更せざるを得ないだろうとキリサメは考えていた。熊本城から締め出されるだけで済めば上等というものである。下手を打てば、現地に入った選手や関係者が危険に晒されてしまうのだ。

 過激思想に染まったテロリストと、〝暴君〟を迎え撃たんとする誇り高き武術家という差異ちがいこそあれども、今や『NSB』と『天叢雲アメノムラクモ』は揃って興行イベントける安全が保障できなくなっている。それでも熊本城二の丸広場での開催を強行すれば、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体どころか、全世界のMMA団体ひいてはスポーツメディアから危機管理能力の破綻を罵倒されるような事態を招くであろう。

 抑えがたい不安を際限なく膨らませることこそが日本MMAを混乱に陥れんとする鹿しか刑事の計略であるのかも知れない。〝敵〟によって仕掛けられた罠であろうと危惧しながらも、その情報はなしに基づいて対策を練らなければならないことがまた腹立たしい。キリサメには仕留め損ねたサソリの毒が回ってきたようにも感じられた。


(例の犯人を鹿しかは器用と言っていたが、腐っても現役の警察官が脅威を感じるくらい半グレ集団の手先が密造つくった銃は厄介なのか? たかが銃職人ガンスミスの真似事で、まさか……)


 もう一つ、遅効性の毒のように意識に割り込んできたのは、親友たちが所属先している地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』を脅かす危険性おそれがあった密造銃への懸念である。

 密造及び密売の実行犯は以前かつての宿敵であるホスト格闘技の〝最強〟――『サバット』を極めた夜叉美濃に叩きのめされ、そのまま警察に突き出された。最悪の事態を免れたと安堵しても差し支えがないはずだが、密造銃について語らっているなか鹿しか刑事が見せた表情がキリサメにはどうしても気掛かりなのだ。

 結局、理由をきそびれてしまったが、平素の厭味な薄笑いとは正反対というくらい鹿しか刑事は顔を強張らせていたのである。密造銃自体に対して、尋常ならざる事態が起きているとしか考えられなかった。凶悪犯を逮捕したにも関わらず、この手柄を警察が大々的に公表しないでいるのは、事件が未だ解決していない為であるのかも知れない。

 に支障をきたし兼ねないと判断したからこそ、鹿しか刑事も警察関係者から送信おくられてきたものとおぼしき急報メッセージ部外者キリサメにひけらかすことをはばかったのであろう。

 その鹿しか刑事の口から『ホローポイント弾』の使用が仄めかたことをキリサメは聞き逃さなかった。

 共にテロ組織と戦ったペルー国家警察や、フランス陸軍の外国人部隊エトランジェに属した経験のある〝相棒〟から教わった聞きかじりの知識だが、が特殊な加工を必要とする銃弾であることは承知している。

 皮膚を食い破って体内に達したのち、弾頭がマッシュルームのような形状に変形して縫合が難しくなるくらい肉体や血管、更には内臓をも破壊してしまうのが特徴であった。

 もう一つの散弾は猟銃にも用いられる為、然るべき専門店にて流通しているが、ホローポイント弾のほうは銃社会でもない日本で暮らす〝一般人〟が簡単に入手できるモノではない。何しろ『ハーグ条約』によって〝戦争行為での使用〟を禁じられるほど非人道的な銃弾なのである。

 銃職人ガンスミスでもないが有り合わせの部品から手製銃ジップガンなどは銃撃戦に向かず、すぐに壊れる粗雑品に過ぎないと、キリサメも最初の内は考えていた。その予想を悪い意味で裏切る銃器という事実が鹿しか刑事の緊迫した面持ちに表れていたのかも知れない。

 完全という二字から最も遠い手製銃ジップガンがホローポイント弾に対応するはずもあるまい。


「熊本興行まで三ヶ月近く猶予があるんだぜ? 現在いまはこんがらがっちまってるみてェだけど、最後は必ずきみたかが上手い具合にシキッてくれるって!」


 現時点では『天叢雲アメノムラクモ』に銃口が向いているわけでもない密造銃に胸騒ぎを覚えたキリサメとは正反対に、岳のほうは〝火の国〟の憤怒いかりが『天叢雲じぶんたち』を焼き尽くさんと燃え盛っている事実を聞かされても全く動じなかった。

 さいもんきみたかの手腕に全幅の信頼を寄せていることに加えて、主催企業サムライ・アスレチックスと『八雲道場』の橋渡し役でもある麦泉が熊本興行の危機をしらせてこない以上は慌てる段階でもないのだろうと判断したわけだ。


「俺も柴門さんには前身団体バイオスピリッツの頃から世話になってきたよ。どんなに困難な交渉であろうとも魔法のように解決していくのを何度も見させてもらった。小石に躓いただけなのに失敗と決め付けるのは、柴門さんへの侮辱にもなり兼ねんぞ、キリサメ」

「僕も岩手興行で柴門氏の〝仕事〟に驚きました。それを疑う理由はないのですが……」


 何事も気難しく考える傾向が強い藤太でさえ熊本の情勢を楽観視しており、この食卓にいて顔面に憂慮の二字を貼り付けているのはキリサメただ一人であった。


「その浮かぬ顔……柴門さんとは別のところに悩みの種があるということか」

「熊本の武術家ひとたちが怒りに任せて東京に攻め寄せてくるような事態は、幾らなんでも考え過ぎでしょうか? ……進士氏に辛いことを想い出させるようで申し訳ないのですが、『NSB』を襲った例の事件は歪んだ怒りが暴発の引き金になったと聞いています」


 労働者の権利を侵害し兼ねない新法を阻止するべく数万もの怒れる民が立ち上がった大規模反政府デモ――『七月の動乱』のなか、デモ隊を内乱の尖兵に仕立て上げようと企むテロ組織から持ち込まれた銃を手に取った幼馴染みのは、これを取り締まらんとする国家警察と文字通りの死闘を繰り広げている。

 銃器がの手に渡ったことで引き起こされる惨劇をこの場の誰よりも思い知っているキリサメだけに、親友たちが脅かされる可能性も完全には消滅していない密造銃の事件は気掛かりでならないのだが、己の身に差し迫っているのは鹿しか刑事が「合戦不可避」などと仰々しく言い表した熊本と『天叢雲アメノムラクモ』の敵対である。

 地下格闘技団体E・Gとの小競り合いや、共催団体NSB出資企業ハルトマン・プロダクツとの張り合いとは比較にならない緊張状態を不意打ち同然で知らされて、眉間に皺を寄せないはずがあるまい。熊本の武術家たちに「許すまじ、樋口郁郎」という激烈な雄叫びを上げさせているのは、その首級くびらない限りは鎮まりそうにもない烈火の如き憤怒いかりなのだ。


「……己にこそ正義ありと信じたとき、傍目には狂気としか思えん一線を踏み越えてしまえる生き物のが人間だ。しかし、今度の相手は『ウォースパイト運動』などではなく〝火の国〟の武人。真に誇り高き人々は、その誇りを自らけがすような真似もしないものだ」

けがれを知らないから高潔なのではなく、自分に恥じることを断固として許さない魂を高潔と呼ぶ――と? 希更氏を見ていれば、は良く理解わかります」

「汚名を着ようとも大志こころざしを果たす覚悟を決めた人間ほど恐ろしい存在ものもない。……キリサメの憂慮、俺にも少し理解わかってきたぞ。ときに〝誇り〟は人間を修羅に変えてしまう」

「そんな『はまぐりもんの変』のちょうしゅうはんじゃねぇんだからよォ! キリーにしちゃあ珍しく大袈裟だなァ~。藤太の心配性が伝染うつったかァ?」

「何万という群衆が〝大統領宮殿〟に殺到していくデモを何度も目の当たりにしたので、それに近い状況は深刻に受け止めてしまうんです。杞憂とは自覚わかっているんですが……」


 『昭和』と呼ばれた時代に吹きすさんだ安保闘争や大学紛争が〝歴史上の出来事〟として遠く過ぎ去った『平成』を生きる多くの日本人ハポネスとは違い、キリサメは憤怒いかりに取りかれた群衆の恐ろしさを肌で感じて知っている。

 共通の大敵を睨み据える者たちの中で破壊的な衝動が増幅され、理性という名のたがさえ弾け飛んでしまうのだ。一個のおおきな塊と化した暴力性は法律などで抑えられるモノではなく、自分たちが何の為に決起したのかも忘れてしまうほどの狂乱に呑み込まれた末、は全身の隅々まで致命傷を受けることになったのである。

 完全に食事の手を止めてキリサメを見つめる藤太は、塞がり切るまで相当な時間を要するであろう右頬の傷を撫でながら、ごくぶとの眉を物憂げな形に変えていった。


「オレの代わりにお前ら二人がクソ真面目だから助かるけどよ、霧で隠れて見えねェ向こうのコトをあ~でもねェこ~でもねェって悩んでたらくたびれちまって仕方ねェぜ」


 大盛りの皿が何枚も並べられた夕食の席には相応しくない雰囲気を醸し出す養子むすこと愛弟子を交互に見比べて肩を竦め、行儀悪く指で摘まんだエビフライを頬張る岳であったが、能天気に聞こえるその言葉も一つの真理ではある。


「キリくんが心配するくらい熊本が差し迫った状況だったら、速攻で希更さんが連絡くれるよ。板挟みになるとしても『かいしんイシュタロア』の主人公みたいに仲間想いは変わらないハズだもん。半月経ってもがナシってコトは、もう柴門さんが揉め事を解決しちゃったんじゃないかな」

「――『天叢雲アメノムラクモ』が〝旅興行〟をやってくれてるお陰で、日本の色んな町へ遊びに出掛ける機会が激増しましたね。ご当地グルメの情報もネットで楽チン検索だけど、やっぱ現地行かなきゃホントのトコロは分かんないって。緑茶ラーメンが自分の中でメガヒット飛ばすなんて、口コミ読むだけじゃ予想できないもん。オレ、おかわりしちゃおっと」


 すぐ近くに落下した丸メガネを拾って欲しいと、心許なくなった視力を振り絞るかのような目でキリサメへと言外に訴えつつ、渦中の熊本で生まれ育った希更・バロッサとの信頼関係を説いて実父の言葉を補足しようとする未稲であったが、その声をテレビ画面のレオニダスによって遮られてしまった。

 静岡県のサービスエリアに辿り着いた『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターは、同地の名産物である緑茶でスープのを取ったラーメンをすすり、その美味さに見悶えてブロッコリーのような輪郭シルエットのアフロ頭を上下左右に大きく揺さぶっている。

 垂れ流されているバラエティー番組は、表示された日付からも察せられる通り、半月前に撮影したものである。当然ながらレオニダスの発言は偶然に過ぎず、未稲を揶揄したわけではないが、IT社会とは言いつつも遠く離れた場所で起きている〝全て〟を詳細に把握し切ることなど不可能という趣旨はこの状況と余りにも重なっており、花形選手スーパースターに食卓を覗かれているような気分になった彼女は薄気味悪そうに身震いした。

 一つのであるが、日本MMAのリングをけがした貧民街スラムの喧嘩殺法と異能スーパイ・サーキットが遠く離れたオランダにける格闘技の法規制や、〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟にける難民選手団に悪影響を与えるとされ、危険視されているとはキリサメ当人にさえ想像できないのだ。


「己の命を預ける先が不安定だと様々に気を揉んでしまうのも理解わかる。心配事を捨て去れとはオレも言わんが、その中ですべきことに専念するのも〝プロ〟の条件で、自分を応援してくれる人たちへの責任だ。それはキリサメにしか果たせないことだろう?」


 テレビの画面内なかのレオニダスを右の人差し指で示した藤太に対し、キリサメは「僕を迎えてくれた『天叢雲アメノムラクモ』への恩返しとも心得ています」と凛然とした声で応じた。緊急事態に浮足立ち、見上げるほどの挑戦に向けて積み上げるべき練習トレーニングを疎かにしないよう諫めてくれたことはすぐさまに理解できたのだ。


「師匠の言葉を繰り返すが、大局のことは柴門さんに任せておけ。勿論、樋口郁郎が無駄にしゃしゃり出て更に拗らせないことが事態を収める大前提だと理解わかっている。万が一のときには俺がまた本社に怒鳴り込もう。熊本に出向いて仲立ちしても構わんぞ」

「おいおいおいおい! カッコいいトコを根こそぎ持ってくつもりか、藤太~? 一個くらい見せ場を都合してくれよなァ~! これじゃ養父とうちゃん、ビールかっくらいながら適当なコトを吹きまくる酔っ払いと変わらないぜェ~!」

「そこも含めて岳氏は平常運転だったじゃないですか。勿論、みーちゃんも」

「なになになになに⁉ いきなりこっちに矛先⁉ お父さんと同じ扱いはキツいよ!」


 所属先と興行イベント開催先の確執を深刻に考えるべきとするキリサメの直感が正解であったことはのちに証明されるのだが、その彼にも危機感を周囲まわりの人々に押し付けるくらい強情を張るのは迷惑でしかないと分かっている。

 それ故におやの喚き声を左右の頬で受け止めながら再び藤太と視線を交わし、一先ずは納得した表情かおで静かに頷き合った。

 夕方までこのごくぶとの眉に振り回されていたのが嘘のようであるが、大真面目という言葉を体現する形に吊り上がったを眺めているだけで、鹿しか刑事の言葉によって揺さぶられた心が落ち着いていく自分にキリサメは驚いていた。



 進士藤太と向き合うとき、未稲の顔にはほのかな憧憬あこがれを明らかに超えた感情が滲み出す為、キリサメの側もこの男にだけは負けたくないという幼稚な嫉妬が拭えないのだが、一方で実の弟も同然に扱ってくれることは純粋に嬉しく思っている。

 猪突猛進な傾向には「この師匠にしてこの弟子あり」と言いたくなるくらい岳の影響を色濃く感じ、『フルメタルサムライ』という通称すら名折れのように思う瞬間もあった。しかし、口に出せないまま抱え続ける煩悶を察し、ただ甘やかすのではなく厳しさをもって𠮟咤激励してくれる真っ直ぐな人柄を憎めるはずもあるまい。

 PPVペイ・パー・ビューで視聴した『NSB』の試合からは想像できないほど喧しかったものの、道理を重んじる姿は八角形の試合場オクタゴンける立ち居振る舞いと完全に重なったのだ。

 性格という点では依然として波長が合わず、八雲家から爪弾きにされてしまったかのような疎外感が跡形もなく消え去ったわけでもないが、それでも同じ部屋で寝起きすることへの反発は鎮まっていた。むしろ、自分の都合に藤太を付き合わせてしまうことをキリサメは申し訳なく思い始めている。

 日付が変わるまで残り三〇分程度である。部屋は消灯され、藤太もベッドの真隣となりに敷かれた布団に入っているが、キリサメは卓上照明ライトスタンドを点けてデスクに向かっていた。

 愛弟子の帰還に浮かれはしゃぎ、普段よりも飲酒量が多かった養父は自室の床で大の字となってたかいびきをかいているが、キリサメには練習トレーニングの進捗などを管理するノートに一日の出来事をまとめるという日課が残っていた。

 良くも悪くも濃密な一日であった。〝先輩〟であるひめが鎌倉に構えた自宅へ野外運動器具が目当ての出稽古に赴き、ロードワークの最中にはいなむらさききょういししゃもんとまで遭遇したのだ。

 同じ浜辺では空閑電知や瀬古谷寅之助も交えた複数同時対戦バトルロイヤル形式の模擬戦スパーリングを行ったが、これは沙門の激励が目的であった。全くの濡れ衣ながら、彼は『NSB』を血でけがしたテロ事件の黒幕と誤解され、興行イベント開催先のネバダ州体育委員会アスレチックコミッションが再発防止の為に実施するこうちょうかいに召喚されてしまったのである。

 そこに飄然と現れた進士藤太から『スーパイ・サーキット』を心的外傷後ストレス障害PTSDの発作と疑われ、を巡る激烈な言い争いの中で、〝心の専門医〟の助言アドバイスを得ながら魂を蝕む〝闇〟に立ち向かっていることも親友たちに打ち明けた。

 よくぞ一日の内にここまで立て続けに事件が起きたものだと、キリサメは他人ひとごとのように呆れてしまった。鎌倉から『八雲道場』に帰り着いた直後には『ウォースパイト運動』のように格闘技を憎む〝敵〟――警視庁の鹿しか刑事まで襲来したのだ。

 熊本武術界の〝挙兵〟という震天動地の報に接して頭が混乱していたということもあるのだが、おもてひろたかの顛末も未だに未稲から聞き出せていない。そもそも彼女自身が岳と同じくらい藤太の帰還に舞い上がっており、キリサメとは夕食のときにも二言三言しか会話がなかった。出稽古の感想すらたずねてこなかったくらいだ。

 そのような状況の中で同じ眉を持つひろたかと藤太を接触させない為、未稲と連携して両者ふたりを引き離したのだが、出掛けた先から弟を伴って帰宅しなかったということは、際どいところで丸め込めたのであろう。


(運命の悪戯いたずらとは良く言うけど、さすがにもう種切れだろう。〝天〟が暇であるものか)


 肉体からだは心地好く疲れているが、夜更けに西和辞書を開きながらも睡魔に襲われない程度にはあたまの回転が維持されており、紙の上を縦横無尽に走るシャープペンシルも小気味の良い音を立てていた。


「……俺は少し――いや、だいぶ焦り過ぎたな、キリー」


 ブラジリアン柔術の寝技を想定した模擬戦スパーリングを通じて発見したことをまとめる参考にしようと、今日の午前中に押し付けがましい文通仲間ペンフレンド――カパブランカこうせいから届いたばかりの手紙に目を落とそうとした背中に控えめな声が掛けられた。

 その日にこなした練習トレーニングの効果を言語化できるくらい整理するよう指示してきた〝小さな軍師〟への報告を記している途中であった為、咄嗟にノートの全体を両腕で隠すほど身構えてしまったものの、岳とは違ってデスクを覗き込んでくるような素振りもなく、肩越しに振り返ると藤太は布団の上で正座していた。

 卓上照明ライトスタンドが眩しくて眠れないのでも、遅効性の時差ボケにやられているのでもない。強烈な思い込みから先走った挙げ句、心的外傷後ストレス障害PTSDを叩き付けてしまったことを後悔し、煩悶を持て余して寝返りを繰り返していた様子である。

 自分は焦り過ぎた――喉の奥から絞り出されたその一言をキリサメは懺悔のように受け止めている。それ故、暗がりでも判るくらいごくぶとの眉を落とした藤太に応じるよう椅子の上にて正座したのだ。


「無論、今は師匠を信じている。然るべき相談相手を頼ったこともな。我が師を侮った己を恥じ入るばかりだよ。真に説教を受けるべきはこの俺だ。……誰よりも近くでキリーを見守っていたのは他の誰でもない師匠だと言うのに」

を進士氏が持ってしまうのも当然です。心的外傷後ストレス障害PTSDを患う条件が何でもないような街角にも転がっていたのが僕の故郷です。一週間の内に何度も刃物で斬り付けられ、寝ている最中に鈍器で殴り殺されそうにもなった経験ことも、銃で撃たれた経験ことも、一回や二回ではありません。……この指でひきがねを引いたことも」

「例のテロ事件のときに俺も銃弾に晒されたが、あんなことが日常茶飯事になったら俺は正気を保てんかも知れん。……師匠の好敵手ライバルが銃犯罪の被害者ということも聞いたか?」

「ミッキー・グッドウィン……でしたね。同じ銃社会でもアメリカの事情ことは完全には理解わかりませんが、僕の場合は銃声が胎教音楽のようなものでした。旧ソ連から流れ着いた『カラシニコフ銃』も視界に入らない日のほうが珍しかったです」

「国家警察と組んでテロ組織を狩っていたという話は、余りにも現実離れしていて呑み込めておらんのだが、死の影が常に垂れ込める戦場の如き土地で命を繋いできたことは、俺なりに受け止められたと思う」

「戦場も同然の土地というのは合っているかも知れません。僕が一歳になる頃まで隣国エクアドルと国境紛争が続いていましたし、当時の軍事施設の廃墟を拠点アジトにするテロリストも多かったですよ。ペルーという国家くににとっての〝負の遺産〟は、ロケットランチャーで吹き飛ばしても文句を言われないから手っ取り早くはありました」

「……俺の故郷でも暴力団事務所からロケットランチャーが押収された事件はあったが、実際に撃った経験ことのある人間と会ったのはさすがに初めてだな……」

「樋口氏に晒し物にされたような犯罪ことで食い繋ぐしかなくなったのは母の死後ですが、この世に生まれる前からずっと生命の危機が続いていたのは間違いありませんよ」


 しかし、一七年という人生の中で逼迫した状況が絶え間なく続いても、藤太が案じたような症状に見舞われることは一度もなかった。

 確かに『スーパイ・サーキット』は喧嘩殺法と同様に極限状態の殺し合いの中で宿った異能ちからであり、発動すら己の意思で制御できない点から〝心の病〟の発作と思われてしまうのは当然であろう。

 仮に心の損傷ダメージに起因する異能ちからであったなら、母の〝血〟を吸い尽くした『聖剣エクセルシス』に耐えられず気が狂い、ペルーまで訪ねてきた岳は集合墓地を捜し歩いたはずだ。そのような場所こそが貧民街スラムひいては格差社会の最下層であり、心的外傷後ストレス障害PTSDという疑惑を打ち消す根拠でもあった。


「僕も岳氏を信じます。海を渡ってまで駆け付けてくれた進士氏のことも」

「……すまん、キリー……」


 双眸を瞑りながらキリサメの言葉を噛み締めたのち、藤太は己の勇み足を改めて詫びた。


「キリーに多大な迷惑を掛けてしまったのは間違いない。謝って済むものでもないくらい厭な思いをさせてしまって、俺は……ッ!」


 の間にやら藤太にまで『キリー』と愛称ニックネームで呼ばれるようになっており、キリサメは何ともたとがたい気持ちで頬を掻いた。急に馴れ馴れしくなったというよりは岳の呼び方が伝染うつってしまった様子である。


「深く傷付けた罪滅ぼしには少しも足りんと分かっているが、償いは幾らでも申し付けてくれ、キリー。ケジメの一発で病院送りにしてくれても構わんッ!」

「……それなら、……僕のほうからも進士氏に質問してよろしいですか?」


 愛称ニックネームで呼ばれることに抵抗を感じない藤太が自分自身を追い詰めていくのはキリサメとしても居た堪れず、彼が額づいて謝罪し始める前に仕切り直しを試みようとした。

 ひろたかの顔が脳裏に浮かんだのは、まさしくその瞬間のことである。


「何でもいてくれッ! ちなみに好きな健康生活は一糸纏わぬ寒風摩擦だッ!」

「……ひろたかくんのことです。嶺子氏のお子さんの……」

「ひろ――」


 おもてみねの一人息子の名前が語られた直後、藤太は立ち上がって声を詰まらせ、その直後に文字通りの意味で腰を抜かした。

 この反応まで予想していたキリサメは、衝撃を与えてしまったことを申し訳なく思いつつも話を続けていく。ひろたかとの関係を真っ向から藤太に確かめる機会は今しかない。これを逃せば、好機は二度と得られないかも知れないのだ。


「一緒に合宿へ行った縁で、ひろたかくんとは仲良くさせてもらっているんです。最初はあまり好かれていない様子でしたが、最近はそうでもなくて……」


 キリサメが自分に何を質問しようとしているのか、藤太にもある程度の察しが付いたのだろう。「師匠か、それとも未稲から何か聞いたのか?」と、反対にたずね返した。


「……いや、あの二人が下世話な真似をするハズもないか……」

「ええ、僕の勝手な想像です。……進士氏とひろたかくんの顔がそっくりだから、もしかしたらと思っていたんです。岳氏と嶺子氏の離婚ことも聞きましたが、ひろたかくんにはどこにも岳氏のDNAを感じませんし、何と言いますか、その……」

「……名推理――とだけ言っておく」


 八雲家に対して明らかに一線を引いている態度や、藤太と瓜二つとしか表しようのないごくぶとの眉から疑問に思ってきたひろたかの出自は、どうやら予想した通りであったらしい。


「DNAと気を遣った言い方などしなくとも、誰の子どもか見分けられる特徴を挙げてくれて構わんのだぞ。ここまで来たら、俺も腹を括るとしよう」

「……そのひろたかくん、岩手の大会以来、〝軍師〟を名乗って僕の活動を支援サポートしてくれているんです。練習トレーニングメニューなども一緒に考えてくれる厳しい軍師ですよ」

「ぐ、軍師? 参謀みたいな意味か? まだ七歳だろうっ?」

「その上、レオニダス氏との試合ではセコンドにも付いてくれる約束でして」

「合わせ技にも程がある! セコンドだとォッ⁉」


 ひろたかの近況を聞いた途端に素っ頓狂な声を引き摺りながら再び立ち上がり、混乱を持て余すようにその場で回り始めた。その様子を見る限り、嶺子と一切連絡を取り合っていないのは本当なのであろう。

 新人選手ルーキーの〝軍師〟としてMMAに関わることをひろたかから聞かされた瞬間、嶺子は「アタシの英才教育は間違ってなかったねぇ!」と狂喜乱舞したという。現在も藤太との繋がりを保っていたなら、そのことをしらせないはずがなかった。


「だ、だが、セコンドなど認められるのか? 少なくとも『NSB』は――いや、アメリカの体育委員会アスレチックコミッションは未成年の子どもがスタッフに加わることなど絶対に認めんぞ⁉」

「セコンドは語弊があったかも知れません。基本的にはリングサイドに詰めているのですけど、実際にセコンドに立ってくださる岳氏や麦泉氏を経由して僕に助言アドバイスを飛ばしてくれるそうです。無線機トランシーバーみたいな機械ものを使ってやり取りするとか……」

「そ、それはそれで前代未聞のシステムだが、それをルールで認めたのか……」


 奇抜としか表しようのない発想に驚愕し、へたり込むようにして布団の上に胡坐を掻いた藤太は、天井を仰ぎつつ両手で頭を掻きむしった。


「……あの子は俺と関係するを忌み嫌っているんじゃないかと思っていた」

「……申し上げにくいのですが、格闘技は大嫌いだと心の底から言っていました」

「あっ……、やはり、そうか……? だ、だよな? 嫌っておらん筈がないな……」


 藤太を更に追い詰めることをはばかって伏せたが、ひろたかはまだそれほど長くはない人生を格闘技によって滅茶苦茶に壊されたと語っていたのである。『格闘技』という三字を借りて当該あたる進士藤太をそしっていたわけだ。


「そういう環境で生まれ育ったからでしょうか、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長曰く、自分よりもずっと格闘技の知識が豊富とのことです。リングサイドで試合運びを分析して、リアルタイムで助言アドバイスしてくれるなんて、ひろたかくんにしか出来ないと思います」

「し、しかしだな、まだピカピカのランドセルを背負う小学校低学年じゃないか」

「頭の回転だって大人顔負けですよ。ひろたかくんに言わせれば、僕は出来だけは良い操り人形なのだそうです。上手い具合に糸で操ってやると言われましたよ」

「人形と来たか……。随分とひねくれて育ってしまったものだな……」

ひろたかくんがそれを聞いたら、僕の『聖剣エクセルシス』でも使って進士氏の後頭部を狙いますよ」


 キリサメと藤太の間に暫しの沈黙が訪れた。

 さりとて重苦しいものではなく、どこか心地良い空気であった。八雲・表木両家の〝暗部〟としか表しようのない領域へついに足を踏み入れてしまったというのに気持ちが和らぐとは奇妙な筋運びであるが、ひろたかという存在が先程まで渦巻いていた疎外感をキリサメのなかから拭い去ってくれたのである。

 それ故、キリサメはひろたかを取り巻く環境についてたずねずにはいられないことを続けた。


「……立ち入ったことを伺いますが、どうして一緒に暮らさないのですか?」

「愛しているからだよ。愛しているから、離れねばならなかったんだ」


 口にするのも相当な勇気を要した質問に対し、藤太は迷いなく即答した。繊細な問題にまで踏み込んでいる為、回答こたえを保留するかも知れないとキリサメは考えていたが、「愛している」という一言には逡巡すら挟まなかったのである。

 藤太がひろたかや嶺子と別離する道を選んだ理由もキリサメは知らず、また詮索するつもりもない。それでも、素直に信じ切れるほど今の言葉は潔かった。

 義弟おとうとが親に疎まれ、呪われながら生まれてきたのではないと確かめることが出来て、キリサメは安堵の溜め息を吐いた。心の底から絞り出すかのような深い吐息であった。


「愛しているのに別れなければいけないなんて、哲学みたいですね」

「それほど難しいことではないぞ。いつかキリーにも分かる日が来る。誰かに本気で惚れたらな――あ、いやッ! わ、分からなくていい! こんなことはッ!」


 自らの口で語っておきながら真っ赤な顔で訂正した辺り、「誰かに本気で惚れる」という歯が浮くような台詞さえ藤太は本音として紡いでいたのであろう。

 眉の動きと心の内側が直結している通り、この男はでも本音以外を語らない。それ故にキリサメの側も全ての発言を真っ直ぐに受け止められるのだった。


「そ、それにしても、アレだな! ひろたかも軍師とは大きく出たものだなっ!」


 露骨に話題を変えた藤太には何事にも無感情なキリサメも吹き出してしまった。さりとて彼が避けたことを蒸し返す理由もなく、そのままひろたかの話を続けていく。


ひろたかくんの気持ちを裏切りたくありません。『自分が軍師になってアマカザリさんを勝たせてあげましょう』と胸を張って言ってくれたんです」

「俺からもよろしく頼む。……俺が言えた義理ではないのは重々承知しているが、ひろたかの思いを託させて欲しい」


 八角形の試合場オクタゴンの試合で勝利を掴んだのち、担架で運ばれていく対戦相手にも礼儀を尽くす進士藤太フルメタルサムライは、布団の上に正座し直し、キリサメに向かって深々とこうべを垂れた。

 元からひろたかの為に全力を傾けるつもりであったキリサメは、これで藤太との約束まで背負ったわけだ。新人選手ルーキーにとっては大変な重荷のはずだが、肩を軋ませる圧迫プレッシャーとして感じることもなく、先程の藤太へ倣うかのように逡巡の一つも挟まず頷き返したのである。


大陸ひろたかがチームの一員に加わるからには、尚更、『スーパイ・サーキット』はご法度とするべきだな。己にもチームにも胸を張れる試合たたかいは、でしか成し遂げられん」

ひろたかくんの作戦にあの異能ちからは組み込まれていませんよ。でも、念を押して禁止を命じるのでしたら、異能あんなモノに頼らずレオニダス氏に勝てるよう一対一マンツーマンで稽古を付けてください」


 今度はキリサメが頭を下げる番であった。

 師匠の岳が〝世界で最も完成された総合格闘家〟と称賛する藤太の試合には、寝技の巧者たるレオニダスに立ち向かう為の手掛かりが数え切れないほど詰まっていた。寝転んだグラウンド状態の相手に叩き込む打撃パウンドを絡めた攻防に至っては、未だMMAの知識が十分とは言えないキリサメの目から見ても完璧と分かるものであったのだ。

 現在いま練習相手スパーリングパートナーである電知の協力のもと、寝技に持ち込ませない防御の体得に励んでいるが、目論見通りに試合が進まず、レオニダスが圧倒的に有利となる恰好で寝転んだグラウンド状態になってしまったとき、これを覆し得る技術テクニックは喉から手が出るほど欲しい。

 何よりも『スーパイ・サーキット』を発動させないように闘って勝つ為には『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターを完全に凌駕する実力ちからを備えていなくてはならなかった。

 しかも、相手はキリサメの弱点を見破ったとまで豪語している。三ヶ月足らずという短時間で互角にまで持っていくのは難しかろうが、何か一つでもレオニダスを上回る戦術を身に付けなくては、そもそも勝負になるまい。

 その教えを乞う相手として、進士藤太フルメタルサムライは空閑電知と同じくらい望ましい格闘家なのだ。


「滞在中の僅かな時間だけでも構いません。別の団体に所属している進士氏に頼むことではありませんが、色々とご指導ごべんたつのほどを――」

「――何なら今から始めても構わねェぜッ! おうともッ! 今すぐやろうぜッ!」


 居住まいを正して頼み込むキリサメに了解と答えたのは、室内なかの二人を驚かせるのが目的としか思えない勢いでドアを開き、高笑いと共に乱入してきた岳である。藤太が握り拳でもって己の胸を叩かんとする寸前のことであった。

 爆睡していたはずだが、の間にか起き出し、話し込む養子と愛弟子に気付いて廊下から聞き耳を立てていたようである。顔を真っ赤に染めるほどの酒気を帯びていようとも忍者としての技量は減退しないということか、人並み外れて気配に敏感なキリサメでさえ分厚いとは言いがたい木の板一枚向こうに養父が張り付いていたことに気付けなかった。


「……休憩も取らずに肉体からだをいじめたところで鍛えたことにはならないと助言アドバイスしてくれたのは岳氏でしょう。しかも、今日の昼間に。忘れるには早過ぎると思いますが……」

「それより何より泥酔者に激しい運動などさせられるか。師匠、養子むすこの前で醜態ばかり晒し続けるのは青少年教育の上でも全く褒められませんよ。反面教師はもう腹一杯だ」

「うるッせェやい! 二人だけで面白そうな相談しやがってからに~! 仲間外れは二度と許さねぇぞ~ッ! なんだからよォッ!」


 岳が加わった途端に鹿しか刑事が襲来する直前まで繰り広げられていた幼稚な喧嘩が再現される為、キリサメはえて「一対一マンツーマンで」と強く訴えたのだ。その根回しは練習トレーニングを始める前に脆くも崩れ去ってしまった。

 そもそも、岳は養子と愛弟子の会話はなし聞いていたのであろうか。


「――うるッさいのはお父さんのほうでしょっ! 一体、何時だと思ってんの⁉ ただでさえ近所迷惑で肩身が狭いのに……! 最悪、お父さんだけ家から追い出すからねッ⁉」


 一階に居るらしい未稲の声が階段から駆け上がり、開いたままのドアへ飛び込んだが、注意が背中に突き刺さっても岳は止まらない。野太い両腕を養子と愛弟子の肩に回し、自分のほうへと力任せに引き寄せながら、二人と同時に頬を擦り合わせた。

 酒臭い息を至近距離で浴びせられ、鼻孔から脳まで耐えがたい不快感に貫かれたキリサメが二本指の目突きでもって反撃を試みるのは、「イイとしした男同士の頬擦りなど、大根おろしの代用かわりとしても最悪だッ!」という藤太の喚き声が鼓膜をつんざいた直後である。




 心穏やかとは言いがたいものの、賑々しくも平和な夜を迎えたキリサメは、MMA選手として果たさなければならない課題と向き合う為、鹿しか刑事から知らされた密造銃事件をあたまの片隅に仕舞い込んでいた。

 現在いまは認識を改めたものの、鹿しか刑事も犯人の口に丸めた状態で突っ込まれた紙切れを最初は密造銃の組み立て方を解説する物としか考えていなかった。しかし、新宿警察署が容疑者の身柄と共に確保した何枚かのに記されていたのは〝設計図〟の範疇には留まらず、全世界をしんかんさせる厄災わざわいの火種にほかならない。

 専門の銃職人ガンスミスでもないが鉄パイプやこっで拵えた粗雑な〝手製銃ジップガン〟などではなく、やがて〝擬態銃ミミックガン〟と総称されることになるは、格闘技を愛する者たちと、これを滅ぼさんとする過激思想との果てしなき生存闘争という側面を持つ『りょうていかいせん』すら血の色のごうで呑み込んでいく。

 進士藤太フルメタルサムライの右頬を抉った生々しい銃創キズが未だ癒えないように、『NSB』の興行イベントが凶弾によってけがされてからまだ半月しか経っていない。


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