スーパイ・サーキット
その5:魔王~永久牢獄の中心で愛を叫ぶ滅びの聖女・調査対象:サタナス・フィールド/「未完の天下人」の旗が「火の国」に翻る時・四面楚歌の総合格闘技──予言と預言・それは1984年のサラエボから始まった
その5:魔王~永久牢獄の中心で愛を叫ぶ滅びの聖女・調査対象:サタナス・フィールド/「未完の天下人」の旗が「火の国」に翻る時・四面楚歌の総合格闘技──予言と預言・それは1984年のサラエボから始まった
五、I Shot a man in Reno, Just to watch him die
恋人との逢瀬の直前のように鼻息が荒い老境の弁護士に伴われ、真新しさを留める廊下に靴音を響かせる間、その記者の
列車が愉しそうにレールを駆け抜けていくような演奏が印象に残っているが、それは今まさに左右の足で踏み締めているこの地に捧げられた
一九五五年七月に初めて披露され、やがてジョニー・キャッシュ自身の代名詞として知れ渡ることになる
薬物中毒や逮捕といった醜聞を数え切れないほど繰り返した
それがカリフォルニア州に所在する『フォルサム刑務所』であった。
その栄光を同誌にもたらした記者――マリオン・マクリーシュは格闘技とスポーツが専門である為、フォルサム刑務所に関しては〝カントリー
カントリーやロカビリーはエルヴィス・プレスリーを好むマリオンだけに、この取材が決まらなければ身を入れて『フォルサム・プリズン・ブルース』を聞く機会もなかった。
無論、取材に支障など
一九七〇年には〝塀の外〟のような労使交渉権を有していないにも関わらず、受刑者たちが労働環境の改善を求めるという大規模かつ組織的なストライキ運動を起こしている。
いわゆる〝刑務所ギャング〟も〝塀の中〟で恐るべき勢力を誇っているという。取材対象がそこに属していようがいまいが、自分からは絶対に接触を図らないよう情報提供者と編集部の主幹からしつこく釘を刺された事実が〝全て〟を物語っていると言えるだろう。
チャールズ・マンソンといった凶悪殺人犯や、愛すべき
設立は一八八〇年七月二六日である。一三四年という歴史を持ちながら、マリオンと同行の弁護士が進む廊下も、二つの靴音を跳ね返す天井も経年劣化が殆ど見受けられないのだが、ジョニー・キャッシュの余韻を感じることが難しいのは当然であろう。
二人が訪れたのはフォルサム刑務所の中でも女性受刑者のみが収監される施設であり、敷地内の北端に位置するこちらは昨年一月に完成したばかりなのだ。重罪人を引き受ける刑務所とはいえ、一年半しか経っていない内から〝刑務所ギャング〟より厄介な〝爆弾〟を押し付けられたものだ――と、マリオンはすれ違う刑務官に心の底から同情した。
その〝爆弾〟こそが今日の取材対象である。アメリカという国家にとって扱いを誤れば致命傷を負い兼ねない存在だけに、監守が鋭く目を光らせる中、強化ガラスで仕切られた密室での対峙を予想していたマリオンは、
混乱を持て余す彼を更に打ちのめしたのは、分厚い扉の向こうから姿を現し、「刑務作業の片手間に取材をお受けする非礼をお許しください」と詫びた小柄な女性である。
青い作業シャツは他の受刑者と
一本の
マリオンも妻が日本人でなかったなら、その一字が『愛』という漢字であることに気付けなかったかも知れない。額に彫り込まれたものが最も大きく、日本の鎧武者が被る兜の前立てのように思えなくもなかった。他は罪の烙印のように黒いのだが、それのみが鮮やかな血の
本来ならば受刑者に装飾品など許されないはずだが、彼女は首飾りのような〝何か〟を着けている。
胸元に垂らされたのはペンダントトップではなく不思議な縦笛であった。白色に近い管状の〝何か〟の表面には等間隔に幾つかの穴が穿たれている。刳り貫かれた内部に息を吹き込んで鳴らすのであろう――と、マリオンに構造が分析できたのは、以前に鳥獣の骨片を加工した
『エッジワス・カイペル』が
ハーバード大学在学中に開発した大規模多人数同時参加型
あらゆる格闘技を深刻な人権侵害と決め付け、その根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』の象徴的な過激活動家という呼び方も裁判記録にしばしば登場している。
アメリカ社会からすれば〝空飛ぶホワイトハウス〟で『九・一一』を再現しようとした〝国家の敵〟でしかないが、〝同志〟の
個々の活動家は〝組織〟として連帯しているわけではない。
それにも関わらず、今や『サタナス』は全世界の『ウォースパイト運動』を束ね、意のままに操ることも不可能ではない影響力を有するに至ったのである。彼女が人権侵害に対する抗議を込めて骨笛を吹き鳴らせば、その対象にテロリストが殺到することであろう。
何らかの意図があるわけでもない
「代表作の『エストスクール・オンライン』は勿論、それ以外のネットサービスやソフトウェアの開発でもカイペルさんのことは以前から存じ上げていました。お母様に手解きを受けて、小さな頃からフィギュアスケートに親しんでおられたとか。スポーツはご自分での参加も観戦も趣味と認識しておりましたし、格闘技との接点も多かったのでは? それでも、特別に強烈な感情を持っておられるのがどうにも不思議でございまして」
幾つも並べられたテーブルの一つに『サタナス』と向かい合って腰掛けたマリオンは、慎重に言葉を選びながら、格闘技を否定する思想活動に傾倒していった経緯を
そもそもカリフォルニアは格闘技が非常に盛んな土地である。
男女両方の施設での共有を情報提供者に確認することは失念してしまったが、他の刑務所と同様に
格闘技を『平和と人道に対する罪』と
「
その一方で、彼の隣席に腰掛けた弁護士は首の骨が軋むのではないかと案じてしまうほど頷き続けている。
「その『エストスクール・オンライン』を
マリオンが先に
その名の通りに
『
キャラクターの頭上には横罫線のノートを模した小さな吹き出しが表示されるのだが、これはプレイヤーの発言が即座に反映されたものであり、チャットツールに相当する機能を果たすのだ。インターネット上の繋がりでありながらも、日常生活を共にするような感覚が双方に芽生え、その関係から交際・結婚にまで発展する事例も少なくなかった。
あらかじめプログラムされている
〝ゲーム〟である以上は進行を妨げるキャラクターが欠かせず、運営側もプログラムに基づいてプレイヤーの前に立ちはだかる〝敵〟を用意している。
「多くのテレビゲームがそうであったように、〝敵〟を倒して操作キャラを育てるという
「手に手を取って心通わせ、青春の喜びを分かち合うクラブ活動の尊さを誰にでも気軽に体験していただきたかった。……その一心が判断を致命的に誤らせたのですから、わたくしは如何なる謗りも甘んじて受ける覚悟でございます」
「開発者の反省と遊ぶ側の感想は往々にして一致しないものではありますが、クラブ活動というシステムこそがキャラクター育成の自由度を無限に広げたと、特に好評であったように記憶していますよ。カイペルさんの願った通りに実現されたのではないかと」
「ときとして〝気軽さ〟という心理状態は麻薬にも勝りましょう?
『
〝現実〟のクラブ活動に即したシステムも『エストスクール・オンライン』の遊び方を大きく左右するのだが、その在り方を指して考案した
「
老境の弁護士が身を乗り出して手を差し伸べたが、罪と罰の意識に苛まれる姿は、アメリカの歴史に最悪の二字と共に名を残すテロリストとは思えなかった。『愛』の一字で全身を埋め尽くすという奇抜な
翻せばそれは、自らが起こしたテロ事件を〝正義〟と信じて疑わない証拠でもある。
『サタナス』が攻撃したのは
「人間という生き物は愚かで哀しいと、つくづく噛み締めておりました。わたくし自身は言うまでもございませんが、ドイツのザイフェルト家も、オランダのオムロープバーン家も、大罪の埋め合わせに善行を積んだところで現実逃避に過ぎません。挙げ句の果てには故郷を追われた難民を新たな戦争の尖兵に仕立て上げようとは……。
「……ひょっとするとカイペルさんは『ハルトマン・プロダクツ』が傘下の競技団体に難民
「難民高等弁務官が戦争の火種に息を吹き込むのも嘆かわしい限りです。ましてやアメリカ人が……。ゆくゆく
『ウォースパイト運動』のおぞましさを改めて思い知らされたマリオンの眼前で、『サタナス』は
*
ドイツ経済の一翼を担う世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』の本拠地と同じニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属し、ヴェーザー川を挟んで隣接する小村には、同企業が資金・物資両面で支援する難民キャンプが設置されていた。
中世に
一方的に毛嫌いしている難民高等弁務官のマイク・ワイアットから手招きされ、アフリカ大陸で盛んなボードゲームの対戦相手を不本意ながら務めることになったのだ。
政治的混乱が続くウクライナに対してロシアが強行した軍事介入と、これによってクリミア半島に大量発生した難民が
再来年開催のリオオリンピック・パラリンピックに〝難民
「……私一人を揶揄して弄ぶだけなら構いませんが、くれぐれも『ガダン』の前でキリサメ・アマカザリの話題を出さないようにお願いします。あの選手の全存在は
「心外だなァ。別にストラールの集中力を乱そうと思って、
対戦が一段落し、難民キャンプの子どもたちが手作りしたボードゲーム一式を
キリサメ・アマカザリとは記念すべきプロデビュー戦で自身の立つリングを血と暴力で
余人には意味不明であるが、その
『スーパイ・サーキット』自体にもオムロープバーン家とこれに関わる〝身内〟以外には理解できない感情を抱いているが、それ以上に〝最年少選手〟と大々的に喧伝されながらプロデビューを果たしたキリサメが〝難民
二年前に大統領選挙が実施され、統一政府も発足したものの、依然として各国の外務省が退避勧告を取り下げないほど不安定なソマリアからこの難民キャンプに逃れてきた十代半ばの少年だ。アラビアの
ストラール自身も賛成しているが、
即時には
〝客寄せパンダ〟を好んで弄する『
発砲時の強烈な
体重別階級制度を設定せず、他団体では反則に定められている危険行為を認め、MMA
海の彼方のMMA
キリサメ・アマカザリも〝
「ガダンがキリサメ・アマカザリに自分を投影させるような事態は断じて避けなければなりません。MMA発祥のアメリカで生まれた貴方ならご理解いただけるはず」
ストラールより早くガダンを見出したのがマイク・ワイアットである。難民キャンプを視察している最中に
その上、マイク・ワイアットは既成事実を作り上げて思い通りの筋運びに誘導するような計略を涼しげな
「そんなに引っ掛かるのかい、例の『スーパイ・サーキット』が。失礼を承知で言わせてもらうがよ、警戒を通り越してキリサメ・アマカザリに怯えているようにも見えるぜ?」
次期国連事務総長の最有力候補と目されるほどの大人物をストラールが信用し切れない理由は、こうした言行に集約されていた。
己の記憶力が信じられないストラールであるが、『スーパイ・サーキット』に抱いた
それにも関わらず、心の奥で渦巻く懊悩を目の前の
オムロープバーン家の〝深淵〟を覗き込むことになる為、昼食時の炊事場を手伝っている
おそらくはキリサメ・アマカザリひいては『スーパイ・サーキット』にまつわる断片的な情報をかき集め、これに基づいて黒いレンズの向こうに隠された葛藤を推し量ったのであろう。ストラールにはそれが不愉快でならなかった。
「……私の瞳は未来を予見する魔眼の類いではありませんが、知識や経験に基づいて一本の道筋を
年齢不詳の若々しい顔に悪ふざけのような表情を貼り付けていたマイク・ワイアットが神妙の二字こそ相応しい形で眉根を寄せたのは当然であろう。
重々しい声でストラールが述べた「トラウマの発作」とは、
「神懸かった
「名を口に出すと舌が穢れる例のスポーツ・ルポライターの宣伝文句を借りるなら、〝火事場のクソ力の究極進化形〟――『闘争・逃走反応』の一種と言い換えたほうが正確に近いことであろうと、私は〝あの
ストラールが口にしたのは我知らず『ラグナロク・チャンネル』と呼んでしまった
それでも難民高等弁務官は僅かな説明から「トラウマの発作」という一言に込められた意味に辿り着いた様子であり、二度三度と躊躇いがちに首を頷かせていた。
人間に限らず、動物は死に瀕するほどの窮地に立たされた瞬間、想像を絶する〝力〟を身の
オムロープバーン家は言うに及ばず、『ハルトマン・プロダクツ』でさえ『スーパイ・サーキット』を研究対象と認定していない現段階では、あくまでもストラール自身の知識と経験を材料とする仮説に過ぎないが、その状態に
「わざわざ『トラウマの発作』を持ち出したのはそういうコトか。ガダンが〝心の傷〟を
答え合わせを求めるかのようなマイク・ワイアットの眼差しに対して、ストラールは声なく頷き返した。
捨て駒同然の〝少年海賊〟として望んでもいない略奪に差し向けられ、幼い魂を引き裂かれたガダンは、それが原因で一切の言葉を紡げなくなっている。普段の立ち居振る舞いは快活だが、〝心の傷〟は
それ故にストラールはキリサメ・アマカザリの〝全存在〟から
忘れたくても忘れようがない〝
急性ストレス反応が脳や心臓に
「オレはガダン以上にキリサメ・アマカザリが心配になってきたぜ。
「……それが私にも信じられないのです。日本での報道をそのまま信用するならば、プロデビュー戦の窮地で初めて覚醒したのではなく、
人間という種を超越しているのは
快活という二字を体現するかのような足音が難民たちの暮らすテントの向こうから勢いよく近付いてきたのだ。
『格闘技界の聖家族』の御曹司と難民高等弁務官の会話に
短い黒髪は小さく縮れ、丸く大きな双眸が幼さを際立たせている。思春期を迎えたばかりと
赤く
著しく統一感を欠いた組み合わせだが、いずれも日本から送られた支援物資である。
紐に括り付けて首からぶら下げている小さな布袋を振り回すようにして駆けてきたガダンは、ストラールの正面に立つや否や呼吸を整えるのも忘れて
成長期の終わっていない未成年と慎重に向き合う
ストラールの提案を承諾した後は、海賊のような〝
その封印を解いてまで『格闘技界の聖家族』の御曹司に訴えたいことがあるわけだ。心の奥底から噴き出した衝動とも言い換えられるだろう。顔の隅々まで紅潮するほど昂っており、命懸けで目的を果たさんとする表情であった。
「――悪い悪い、ストラール! お前、まだキリサメ・アマカザリのことをガダンに話してなかったんだよな~! 兄貴分の見せ場をうっかり
ガダンの後から追い掛けてきた
その隣に立つマイク・ワイアットも力瘤が〝何〟を要求していたのかを悟り、ガダン当人と
復活したのは力瘤という
難民高等弁務官事務所の
ガダンより背が高く、ストラールと比べれば頭一つ分小さい――欧米の基準ではやや小柄と表すのが相応しい
口を滑らせてしまった旨をストラールに詫びる一方、悪びれた様子もなく、それが痛恨という二字を添えるべき失言であったことにさえ気付いていないのだろう。
陸に打ち上げられた魚のように口を開閉させ続けていたストラールは、次いで気品ある立ち居振る舞いが求められる御曹司の〝立場〟をかなぐり捨てて頭を掻き
「一七世紀を代表する哲学者にあやかった名前とは思えないその浅慮……! 昔ッから一向に治りませんね⁉ 何とかは死ななきゃ治らないと聞きますけど、どうしますッ⁉」
「俺には選択肢がなさそうな感じだな、おい! 質問の恰好で死刑宣告してくるなんざ、昔のストラールに戻ったみたいで懐かしさに
歯を食いしばりながらバールーフの首を絞めるストラールのすぐ近くでは、ガダンが自身の背中を両の親指でもって示していた。
〝心の傷〟が原因で声を発せられなくなっているものの、耳は健常である。バールーフが喋っているのは全世界で広く通じる英語であったが、勉強の成果もあって近頃のガダンはソマリアの
『格闘技界の聖家族』とも畏敬されるオムロープバーン家であるが、その格闘技界から〝外〟に出ると、
二〇〇八年
尤も、ストラールの場合は
オランダ
その発起人となったアムステルダム市長に対し、オムロープバーン家は格闘技
ストラールには最強の味方であるが、軽はずみな言行の全てを擁護することも難しい。
用心棒稼業の最中に凶弾の犠牲となったキックボクサーを市庁舎側のスポーツ政策担当者から侮辱された際には愛嬌ある顔を狂気に染め上げ、殺意を漲らせた五指でもって相手の胸倉を掴み上げたのだ。
市長がすぐさま非礼を謝罪して収まったが、仮に背負い投げでも繰り出していたら、これまでの交渉が吹き飛ぶだけでは済まず、
「オランダは勿論、
「もはや、うっかりというレベルじゃないな⁉ わざとか? わざとやっているのか⁉」
「ストラールは真面目に考え過ぎなんだよ。何時でも何処でも闘ってやるっていう気概は格闘家にとって何より大事じゃね~か。それに火を入れるのも先輩の務めじゃん!」
この上なく楽しそうに首を絞められるバールーフは、ガダンが胸に秘めた
初対面ながらガダンとバールーフは大して時間を要さずに意気投合し、先程まで肩を並べてロードワークに励んでいた。ストラールも二人に合流するつもりでいたのだ。
怒り狂うストラールの右腕を両手で引き、自分のほうへと意識を向けさせたガダンは、バールーフの助言に従うと言わんばかりに胸を張ってみせた。それはつまり、『ハルトマン・プロダクツ』傘下の競技団体ではなく、日本の『
日本の〝
「やはり、こういう筋運びになった……! どう責任を取るおつもりですか⁉」
「俺にだって多少は日本にツテがあるんだぜ? 『MMA日本協会』にも掛け合ってこのコの希望を叶えてみせるさ! これぞ大人の責任の取り方だろう?」
「私が申し上げているのはそういうことじゃないし、それより何よりオランダを発つ前からガダンにキリサメ・アマカザリの話だけはするなと言い付けておきましたよね? 此処へ立ち入る直前にも自重しろと念を押しましたよね?」
「俺もバカじゃないからランニングに出発する前はちゃんと
「つまり、一通り話し終えた後か。……良いかい、ガダン。この人は手に負えない虚言癖の持ち主なんだ。現実と妄想が区別できない末期まで進んでいる。先ほど吹き込まれたことは残らず忘れなさい。まともに取り合ったらキミまでおかしくなってしまうよ」
後頭部に回したバンドは正常な位置を保っておらず、黒いレンズで覆われているのは左目のみとなり、鼻を挟んだ対の側は翡翠色の瞳が露になっていた。それどころか、美しく束ねていたはずの三つ編みまで
「ストラールってば意外と行儀の悪いトコがあるんだな。普段の優等生っぷりはひょっとして芝居か? オレと話してるときはちょくちょく地が出ちゃいたけどさ」
聞き
「相手によって態度を変えるような〝仮面〟を被っているわけでもありませんが、彼なりに自分の責任を全うするべく懸命なのです。彼の〝立場〟は生半可な覚悟では背負えないこと、立派な肩書きをお持ちのワイアットさんにはご理解いただけるのでは?」
「ストラールは真面目過ぎると思うんだよなァ。ちゃらんぽらんなオレを真似ろとも
生まれた病院も同じであり、隣同士のベッドで産声を上げてから
「でも、ストラールが〝仮面〟を外したかのように振る舞うのは、それほど珍しくもありませんよ。公的な場で砕けた接し方になるほど器用ではないというだけのことですし」
「レーナはそう言うけど、お茶目な顔は俺の前でも滅多に見せてくれないんだぜ? 幼馴染みって条件は一緒なのに、俺とバールーフで微妙に距離感が違うんだよなぁ~」
「あら、それはそれは……。私の前ではもっとこう――ふにゃふにゃな顔だって見せてくれますよ? そうですか、ギュンターはそういう顔をご存知でなかったのですね」
「ここぞとばかりに
突如として優越感という名の牙を剥いた
キリサメ・アマカザリと同じリングに挑むことを認めるまで離さないという意志が五指に込められており、ストラールは息苦しさとは異なる呻き声を抑えられなかった。
傍目には
叶うならば記憶から消し去ってしまいたいキリサメ・アマカザリが己一人ではなく
これはガダンが成人の後に〝難民
*
一つの事実として『ハルトマン・プロダクツ』は
両家の暗部を罪深いと批難することはマリオンも否定するつもりはなかった。保身ではなく格闘技ひいてはスポーツ界全体を後退させてしまう為に公表できない
しかし、ザイフェルト家がスポーツの発展に貢献してきたことも揺るぎない〝真実〟である。オムロープバーン家は格闘技
この功績すらも「悪行の埋め合わせ」の如く乱暴に切り捨てた『サタナス』は、格闘技そのものにとって相容れない〝敵〟である。最初から
〝敵〟に取材を申し入れたのは、『ウォースパイト運動』の過激活動家が『NSB』を標的とした最悪のテロ事件に遭遇した為である。
〝その日〟もマリオンは
よりにもよって『NSB』の選手が『ウォースパイト運動』の過激思想に洗脳された乱入事件は、団体代表のイズリアル・モニワが
妻の
『ウォースパイト運動』の同士討ちという性質を内包した二段構えのテロ事件は、現在も捜査が進められている。『NSB』の本拠地が所在するネバダ州の
シルバーマン弁護士が情報工作を試みたのかも知れないが、ベイカー・エルステッドの同門であり、『
『サタナス』こそが惨劇の場を仕立て上げた本当の首謀者――それがマリオンの結論である。おそらくはシルバーマン弁護士を通じて〝塀の外〟の過激活動家たちに働きかけ、凶行に駆り立てたのであろう。
空手衣を纏った乱入者は言うに及ばず、現地警察を巻き添えにしてこれを全滅させた銃撃犯もその場で全員が自害した為、『サタナス』が関与した明確な証拠を確保するのも難しい。捜査当局も獄中からの指令を確信しながら、その背景に辿り着けずにいるのだ。
だからこそマリオンは過激活動家の新たな標的に選ばれる
「哀しいすれ違いとしか表しようもございませんが、わたくしの思いに限りなく近付いてくださったのはエルステッド様でした。しかし、
心の中で歯を食いしばり、私憤を抑えながら二段構えのテロへの関与を
拍子抜けという状態を通り越して薄気味悪くてならないマリオンは
「……お認めになるのですか? 改めて申し上げますが、これは雑談ではなく取材です。聞いてしまった以上は、私にも記者として今の話を公表する義務が生じるのですが……」
「一つ一つの銃弾に呪いの言葉を刻んで撃ち放した亡者たちは、わたくしとエルステッド様が分かち合えた『平和と人道に対する罪』を犯してしまった為、〝主〟の
「……〝
「わたくしも本当は『エストスクール・オンライン』でスポーツの素晴らしさを広くお伝えしたかったのです。それまでスポーツの喜びを趣味としてこなかった方々にも……」
あくまでも趣味の範疇であって、冬季オリンピックを目指すようなことはなかったが、幼い頃から最高のコーチのもとでフィギュアスケートを楽しんできた『サタナス』は、スポーツそのものに対する理解は過激思想の〝同志〟と比べて遥かに深いのである。
〝旧友〟がボート競技で活躍する
国の垣根を超えて有望なスポーツ関連事業に大胆な投資を行うシンガポールのファンド会社『
ハーバード大学の同期生でもあり、
その〝旧友〟は二〇〇八年
「凶弾の嵐が吹き
少なくとも、この場に
刑務所内には録音機を持ち込めない為、物的証拠としては十分と言い
だが、既に獄中に
「ご無念はエルステッドさんのご遺族でしょう。昨年、結婚したばかりの奥様は
「創造の対極に狂ったお父上を見ずに済むのは不幸中の幸いでございましょう。願わくば間違った感傷に惑わされて
今までの裁判に
〝国家の敵〟となるサイバーテロの計画に加担した
「ヴェロニカ・マルグルー、ビアルタ・ハン、フランク・ボガード、ジョアンナ・イマイズミ、アブラヴァネル・ジュニア、アブラヴァネル・シニア、ラトク
「是非とも全米に――いいえ、全世界に知らしめてください、マクリーシュさん! 〝聖女サタナス〟はご自身の資産を
『ウォースパイト運動』の過激活動家たちが銃を乱射したのは、
先に起こった乱入事件の対応に当たっていた警察官も殆ど全滅にも近い状態まで追い込まれたのだが、その全員に『サタナス』は見舞金を準備したという。拍手と共に褒め称えたシルバーマン弁護士の口振りから察するに、いずれは格闘技で被害に遭った全ての者を救済の対象として取り扱うようである。
ましてや
先ほど得意げに暗誦して見せた被害者たちの名前も、テロさえ起こらなければこの場で挙がることはなかったのである。全員が軽傷で済んだのは不幸中の幸いだが、仮に死者が出たとしても、まるで
フォルサム刑務所への収監理由とも言い換えられるが、『サタナス』が最初に問われたのは法廷侮辱罪や司法妨害罪である。サイバーテロの裁判に
裁判官や検察官はアメリカの司法制度に対する挑戦と受け取ったのであろうが、そもそも『サタナス』は人間界の法則を外れているのだから、双方の間で意思疎通が成り立つ見込みなど絶無であったのだと、
何よりも彼を
捜査資料以外で確認しようがない銃弾の細工まで『サタナス』は把握している。彼らを〝亡者〟と蔑むからには自ら仕向けた物ではあるまいが、それならば世界中を飛び交う情報を一つ残らず傍受できるアンテナが
流れ弾の被害に遭ってしまった統合リゾートの客の名前まで正確に諳んじたのである。
実際にはシルバーマン弁護士が〝塀の外〟の情勢を逐一報告しているのだろうが、自ら見聞きしたわけではない情報を実体験の如く分析してしまえる能力とその精度に、マリオンは身震いを抑えられなかった。
獄中から世界の果てまで見通す『サタナス』の双眸は、未だに
*
いずれも
それにも関わらず、メーカーから取り寄せた既製品は皆無に等しい。稀代の映画俳優にして伝説の武術家――ブルース・リーが創始した近代総合格闘技術の結晶『
最愛の妻が結婚指輪を置いて出ていくという悲劇を引き寄せたものの、強さを追い求める情熱の賜物は格闘家たちの心を大いに震わせ、
夏の香りが濃さを増した
「空手屋の言う通りだったな! いけ好かねェ野郎だと思ったけど、嫌いになれねェどころか、気持ちの良いバカだぜ、あんた!」
「感心ということならば、同じ言葉を別の意味で送らせてもらうぞ。
「
「それでその
「この野郎、ますます気に入ったぜ! その内、おめーにも挑戦状を叩き付けてやっから首を洗って待ってろよ、
先を争ってボルダリング用の人工壁をよじ登り、
国際社会に
類い稀なる
映画のフィルムで
その
藤太がPTSD疑惑の根拠として『アイシクル・ジョーダン』を挙げたことも相互理解を促した。
『NSB』へ導いてくれた人々の期待に応えたいが為、真っ当とは言い
藤太も電知の
黎明期の様式を再現した
年齢の差も〝立場〟の違いも超えた友情を瞬く間に育んだ次第であるが、人工壁からは両者の汗が大量に飛び散り、その真下で競争を見守っていた〝空手屋〟――
〝サバキ系空手〟の先駆けである『
頭上の両者に文句を垂れる沙門も、既に全身が汗みずくであった。スラックスと一揃いであるシルバーグレーの背広も脱ぎ、桃色のシャツ一枚となっているが、こちらも両手で絞れば小さいとは言い
彼も姫若子の
空中で自由自在に姿勢を変える
「今日、初めて会った電知のほうが師匠のオレより藤太と心が通じ合ってねぇか⁉ もうちょっと
沙門の肩越しに愛弟子と
ある程度の位置まで達すると足裏が地面から完全に離れてしまうほど
『NSB』の公式チャンネルが開設された動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』の
二本の鉄パイプを等間隔に立て、細いロープと小さな木板を組み合わせて足場を設けた運動器具に藤太が挑戦したときにも後ろから追い掛けていったのである。
その岳に師事した藤太もまた忍者なのだ。
姫若子も素直に拍手を送ったものの、
事前の根回しもなく大勢で押し掛けられただけでも迷惑であるのに、小一時間前までキリサメのPTSD疑惑を密談する場としてリビングルームを占拠されていたのだ。
『
子どもたちが戯れる遊具に見えなくもない運動器具が辺り一面に設置されてはいるものの、実際に
〝この師匠にして、この弟子あり〟といったところであろうか。『NSB』の
「利用料を請求すれば小遣い稼ぎになるじゃないの。アスレチックを満喫した直後なら、ぼったくり価格でも気前良く払ってくれると思うよ。こんなボロい商売、羨ましいねェ」
常識を弁えている麦泉であれば彼らの暴挙を戒めたことであろうが、この肝心なときに
紺の
この幼馴染みを独り占めする藤太を
もはや、四人を止める
遊具ではなく
(どんどん『フルメタルサムライ』の
姫和子の隣に腰掛けて庭の様子を眺めるキリサメ・アマカザリは、親友の電知が発した『世界最強』という一言を
このときに振り返ったのは、言葉では語り尽くせない〝共鳴〟から己の〝半身〟の如く感じている古武術宗家の
関東に覇を唱えんとする武闘派の
その
これまでに様々な人々から断片的に受け取ってきた情報を一つに繋ぎ合わせて考察していくと、『ミトセ』という名は『アメリカン拳法』の〝源流〟まで遡るようだ。
日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させ、アメリカ本土に伝えたのが同拳法の始まりであり、
アメリカン拳法と
『
ハワイもブラジルと同様に豊かな移民文化が育まれた土地である。空手・拳法・柔術といった東洋武術が移民と共に伝来したとすれば、戦前の日本から渡った『ミトセ』家伝の
アメリカン拳法を完成に導き、〝現代アメリカで最大の功績を成し遂げた武術家〟と呼ばれる英傑――エド・パーカーも移民文化が花開いたハワイで生まれ育ち、彼や弟子たちによる研究と発展を経て技術体系そのものが幾つもの〝流れ〟に分かれていったのだ。
ブラジリアン柔術も
エド・パーカーのもう一つの功績は、ブルース・リーを見出したことであった。まだ無名であった彼を自身が開催する格闘大会に招き、このときに披露した演武が注目を浴びて永遠なるアクションスターへの〝道〟が開かれたのだ。
孤高の
「――因縁というヤツかな。……いや、〝この道〟を志した人間の運命とも言い換えられるのかも知れん」
かつて
MMAを〝富める者〟の道楽と
アメリカン拳法さえも記憶に留める必要のない情報として切り捨てたであろう。
「沙門氏は『
これもキリサメの
賑々しい
塀に沿うような形で庭全体を一周する
「――感情がリミットをオーバーしてドライブするのもメンタルのエマージェンシーッスよね? ぶっちゃけ、藤太さんのほうこそ俺は心配ッスよ。声がスーパービッグになっているのは岳さんも気付かれたようッスけど、トゥデイはアベレージを突き破るボリュームでエクスプロージョンしてるじゃないッスか」
その沙門が抑えた声で進士藤太に確かめたのは、彼がキリサメに突き付けたものと全く同じ疑惑である。
『
傍目には冷静沈着な佇まいに見えるものの、実際には喧しいことで有名な師匠と同じくらい感情の起伏が猛烈という
粗忽な性格もあって
進士藤太も出場した『NSB』の
『ウォースパイト運動』に感化された『NSB』の選手たちによる
MMAそのものへの攻撃とも呼ぶべき未曽有のテロを引き起こした『ウォースパイト運動』の思想活動家は、一人残らず死亡が確認されている。
高い暴力性を秘めたMMAのオリンピック正式種目化を目指す『NSB』を『平和と人道に対する罪』で糾弾し、
進士藤太は両方の事件に巻き込まれた〝当事者〟の一人なのだ。
占拠事件の容疑者たちが地元警察によって連行されていった先――試合会場と隣接する駐車場に数え切れない銃口が向けられたとき、嵐の如く銃弾が降り注ぐ只中に取り残されてしまった仲間を救出するべく分厚い硝煙の壁を突き破ったのである。
今日の密談の
〝超人〟と畏怖される領域まで鍛え抜こうとも、〝
阿鼻叫喚の惨状が絶えず脳裏に甦るほど
この場に
「……気持ちの整理がついたと言えば嘘になるし、どう転がるかは分からんが、カウンセリングのお陰で沙門が心配する事態は
自分の身を案じてくれた友人を安心させるよう柔らかな
自分はPTSDを発症しなかった――藤太の
日本のマスメディアも報じたが、『ウォースパイト運動』の同士討ちという側面を持つ今回のテロは、二〇〇七年にバージニア州工科大学で発生した銃乱射事件の犠牲者数をも上回り、二〇一四年現在に
藤太がそれを
「……ついでにクエスチョンッスけど、ンセンギマナはどうしてるッスか? 藤太さんのことッスからヴィンテージな
沙門が
『NSB』を狙ったテロに
シロッコ・T・ンセンギマナ――MMAを否定する過激思想に染まった〝同僚〟たちに
ニュースには試合映像も挿入されたが、竜巻でも起こすかのようにドレッドヘアーを振り回し、太陽に
アフリカ大陸に知り合いなど居ないはずだが、キリサメはンセンギマナの顔を
MMAという〝世界〟へ足を踏み込んで以来、名前や経歴は幾度か聞いたことがある。断片的な情報に基づいて我知らず
ニュースではンセンギマナをルワンダ
キリサメが知る限り、『
試合映像は僅か数秒であったが、それでも実力伯仲の好勝負であったとキリサメには伝わっている。
「どうして俺にそれを
半ばまで言い終えたところで藤太は己の愚問を悟り、咳払いを挟んで口を噤んだ。
『NSB』そのものを糾弾した乱入騒ぎの首謀者はベイカー・エルステッドという名前であり、『
一方、『
我が命を空手に捧げんとする覚悟の
アメリカへの〝武道留学〟の際に沙門はニューヨーク支部を拠点としており、暴走した空手家たちと交流したことも否定し
しかも、
今度の公聴会がMMAの行く末を占うと報じるメディアも多いが、その責任を〝テロ事件と無関係な一個人〟に負わせる世論形勢には、沙門も法的措置で反撃する予定である。
過熱する報道はともかくとして、公聴会はあくまでも事件の真相究明と再発防止が目的である為、ンセンギマナもテロの被害者として証言を求められている。『NSB』の〝同僚〟であるベイカー・エルステッドとその仲間たちを救うべく銃声が入り乱れる只中へ急行したのだが、その行動の是非も問われることであろう。
公聴会は裁判ではないものの、州の行政機関である
しかし、
藤太は彼を「人付き合いを何よりも大切にしている」と評したが、その一方で情に流されて判断を誤ることもない。仮にも同門の旧友であるベイカー・エルステッドたちを〝自分にはかかわりのない人間〟と突き放したばかりか、
『
藤太の咳払いを受け止めた沙門は弱々しく頷き返すしかなかったが、その顔に貼り付けたのは薄情者の自分を嘲る表情であった。
「
「マインドセットは〝コミュニティガーデン〟のほうッスか。サンノゼのどこかに手頃な畑を一枚レンタルしたって
「土いじりは心の静養にも良いと聞く」とも付け加え、これを沙門への
正確にはIT社会の最前線で生き急ぐ人々を
主に利用しているのは非農業者だ。二〇一一年に『食品安全近代化法』という連邦法が施行され、一時は全米で家庭菜園が禁じられるとの誤解も広まったが、栽培した青果物の個人消費には何ら問題がなく、青少年教育にもコミュニティガーデンは活用されている。
ンセンギマナが契約している農園は、貸与可能な農具だけでなく、家族や友人でバーベキューを楽しむ為の設備も整っていた。
シリコンバレーとして発展する以前からサンノゼは農業が盛んであり、土壌そのものが農耕に適しているわけだ。カリフォルニア州に属する他の
シロッコ・T・ンセンギマナが生まれたルワンダも農業大国である。
多くの
藤太が訪ねたとき、程よく使い込まれたオーバーオールに農作業用の義足を組み合わせたンセンギマナはフェンスで仕切られた内側に立ち、遠目にも良く耕されたことが分かる畑に牡蠣殻肥料を手ずから撒いている最中であった。
ナスやトマトといった夏野菜の生育に向けた準備を進めているわけだ。同じ畑ではサボテンやナッツ類も順調に育っている。
〝心の専門医〟である
ルワンダで生まれ育ったというンセンギマナの出自も重く感じている。
ニュースでは
キリサメも亡き母の私塾で学んだ程度しかルワンダの国家的悲劇に関する知識を持たないが、自分の
カラシニコフ銃の発砲音が鼓膜にこびり付いて離れなくなるような経験を持つ者が銃撃に晒されたならば、〝
しかも、ンセンギマナは『ウォースパイト運動』の過激思想家による〝テロ攻撃〟に短期間で二度も遭遇している。およそ一ヶ月前に発生したエアフォースワンへのサイバーテロはアメリカ合衆国大統領自身ではなく同乗していた『NSB』の関係者が
『ウォースパイト運動』が先鋭化の一途を辿っているのは、〝同志〟たちの間で神格化されつつあるサイバーテロの首謀者――『サタナス』の影響が大きい。
『サタナス』という存在から連鎖するテロ事件へ立て続けに巻き込まれたンセンギマナの精神的な疲弊は余人には計り知れまい。しかも、『サタナス』は〝シリコンバレーの申し子〟である。
「コミュニティガーデンでは一人で黙々と土いじりに励んでいたが、試合と同じくらい楽しそうでな。底なしに眩しくて、声を掛けようにもなかなか踏ん切りが付かんかったよ」
「一人ってコトはポンチョのパートナーも連れてきていないってワケッスね。サンノゼのエブリバディに迷惑をバラ撒かない為のストッパーがお留守番とはサプライズだなァ」
「その日に収穫した野菜は世話になっている
成果物の栽培は新たな命が芽吹く瞬間を見守ることにも等しい。〝外〟の声に煩わされることのない一人きりの時間を通じて、命とは何かを見つめ直していたのだろう――藤太が示したその見解に、沙門は強く深く頷き返した。決して広いとは言えない一枚の畑は、ンセンギマナにとって己の心と向き合う為の聖域に他ならないのである。
友人の傷付いた心が回復に向かっていることを確かめた沙門がやや厚めの唇から安堵の溜め息を滑らせる一方、キリサメは進士藤太の行動力に何よりも感心していた。
他団体の
仁愛という二字がプロレスパンツを穿いているような男としか表しようがあるまい。人生の恩人である『ヴァルチャーマスク』から預かった義の
感極まって熱い涙を流し始めた養父に薄く微笑んだ
藤太が他意もなく口にした「アメリカン拳法の
ンセンギマナは義足のパラアスリートであるのと同時に、アメリカン拳法家として『NSB』の
ニュースに挿入された試合映像は実力の一端を切り取るのみであったが、世界のMMAの旗頭たる『NSB』に選ばれたのだから、現世代に
幸せな家庭を引き換えにしてまで鍛え上げた
『
それほどまでに強く意識してきた
彼の視線の先では沙門と藤太が長大な
「……今は
「逃したことを後悔するのが分かり切っている状況で、生け捕りに出来る網を握っているのなら、影を見失わない内に放つことをお勧めします。……同じ船の乗組員は、仲間が釣り上げた魚に抜け駆けなんて思ったりしません」
「俺は武術家である前にキミの〝先輩〟であるつもりだよ。それに自分の
アメリカン拳法の使い手のことを
「真面目っつーか、融通が利かないっつーか、サメちゃんが損するワケでもないんだから取れるモノは取っちゃえばイイのに。それこそ迷惑料の取り立てって具合に自分を納得させてさ。アメリカン拳法とやらへの対抗心でしょ、今の話。
キリサメがアメリカン拳法の祖とも呼ぶべき『ミトセ』の名を口にした
自分たちがロードワークへ出掛けている間に問い
〝後輩〟の事情を優先できる〝大人〟であったればこそ、
その当人からすれば余りにも過剰な心配りは空回りも同然であり、わざわざ天秤に掛けて思い悩む必要など無い。そのようにして割り切ってもらったほうが互いに気楽と説得したかったのだが、師匠――
これを覆す
「……〝先輩〟といえば、精神科医への通院は
もはや、〝先輩〟
成り行きから姫若子が覗くことになった『スーパイ・サーキット』の〝深淵〟を
〝心の専門医〟を初めて訪れた数日後、キリサメ・アマカザリというMMA選手に関わる人々が一堂に会するケースカンファレンスが設けられ、プロデビュー戦で刻まれた
キリサメにとってはMMA選手との〝兼業〟であり、『八雲道場』所属選手のマネジメントを担当する麦泉も適職として推しているのだが、『
しかし、『
何よりも人生で初めて「先生」と慕う相手――
その一方で、MMA選手としての弱点が格闘技界全体にまで知れ渡る
「何でも話せる相手と、何でも打ち明けなければいけない相手はイコールではないよ。俺も
「生意気を申し上げるようで恐縮ですが、自分が経験してきたことは、必ず
「仮に〝兼業〟のほうで悩みや迷いを抱えたとしても、それを伏せたまま
「それでも出口に辿り着けないときには、
「なぁ~るほど、〝
「自分の気持ちに蓋をして強引に抑え込むのは、何よりも心の具合を悪化させる原因だと精神科医から釘を刺されたんだよ、寅之助。秘密を隠したままの中途半端な相談でも
会話に割り込んでキリサメを冷やかそうとする寅之助であったが、返ってきた言葉が想定を上回るほど生真面目であった為に冗談でやり返すことも難しくなり、如何にもつまらなそうに唇を窄めて見せた。
「他の誰でもない
〝先輩〟殺陣師の助言にキリサメが二度三度と首を頷かせると、寅之助はますます面白くなさそうな
このとき、キリサメは『スーパイ・サーキット』の暴走が闘魂のリングを血で
亡き母の私塾で机を並べた友人とさえその日を生き延びる為の糧を争い、例え身内であろうとも
「――アメリカの硬貨にゃ『イン・ゴッド・ウィー・トラスト』って
『
尋常ならざる『闘争・逃走反応』という見立てが
血の海に身を横たえ、今まさに息絶えようとしている
この前後にキリサメから持ち掛けられた相談に対する
「先ほど話した通り、『
「先っちょが長い尾っぽみたいに広がる帯を二、三本組み合わせたヤツだよな? ズボンのほうは『キリサメ・デニム』って
意味が通じずキリサメに首を傾げさせた
『タリホー・ボウイ』とは、『MMA日本協会』の
丈の長いランチコートを切れ味鋭く
タリホー・ボウイの
トレードマークとして被る先祖代々の羽根付き帽子が現実の企業の
「多忙を極める状況にも関わらず、
『ケツァールの化身』という異名を体現するキリサメの
二〇一〇年と二〇一二年の大型連続時代劇にもスタッフの一員として参加しており、同作を
股下から裾に掛けて空洞を作るような形で大きく膨らみ、頑丈な紐を使って足首の辺りで縛るという『キリサメ・デニム』は、ズボンの内側――即ち、膝の
日本の古武術に
戦闘能力の補強に
乾いた大地から吹き付ける砂塵と、血溜まりの底より飛び散った汚泥を浴びる〝殺し合い〟で身に着けてきた物だ。喧嘩殺法が編み出される過程と共に
『キリサメ・デニム』の裾を縛る紐にアンデス山中のチチカカ湖に浮かぶタキーレ島の伝統工芸品を用いるという徹底したこだわりには頭が下がるが、
映像作品や舞台劇に携わる際、種崎の仕事はデザインを作るだけでは完結しない。現場にも待機し、美容界で養われた技術と感性で微調整を繰り返して登場人物の扮装を完成させていく。役者の前髪の長さまで観察し、ミリ単位で切り揃えるのだ。扮装と役者の感覚を極めて深い領域で結び付ける工夫である。
〝心の在り方〟に左右される『スーパイ・サーキット』の暴威を
「跳ね返ってくるストレスとの兼ね合いが大前提だけど、〝
己に宿った『スーパイ・サーキット』を余人が持ち得ない
過去の〝全て〟を否定するのが心理療法の目的でないことも言い添えた。
「これから
「先ほど伺った〝プロ化した犯罪者〟というヤツですね、犯罪心理学の。確かに打撃を加えたときの感触や相手の
「そして、〝プロ〟のMMA選手だ。相手を思いっ切りブン殴ろうって
「その〝感覚〟を研ぎ澄ませた狭間で腰が引けたら台無し――そういうことですね。文字通りに打つ手を誤ったらMMAのリングから追放される〝ギリギリ〟は、死臭が染み付いた
「下手すりゃ奈落の底にっつう綱渡りがアマカザリ君の強みだぜ。他の格闘家が持っていねェモンをキミは拳に握ってる。それを手放してまで
つまるところ、
それは八雲岳も同じであった。既にペルーの
医師の見解ということであれば、
親友の電知から贈られた揃いの守り袋も〝闇〟の底まで
数多の出会いが光り輝く輪を結び、進むべき〝道〟を照らしてくれる――運命の二字こそ相応しい巡り合わせを振り返る
ここに至るまでの追憶に
電知に至っては『
別々の〝世界〟で生きてきたはずの人々が繋がる場景は、他者との関わり合いを自分から遮断してきた
同じ血族が代々に亘って宗家を務める古武術『
その
しかし、〝局長〟を慕う
それならば、
義理の兄という家族や、異種格闘技食堂『ダイニング
発祥した国や時代こそ違えども、同じ
「アタマがおかしくなるくらい思い入れの深い相手でも何だってブチまけて良いワケじゃないってのは、姫若子さん本人にブッ刺さるんじゃないの? 見ず知らずの他人から一方通行な気持ちを押し付けられたら
「お前の神経を疑うのも疲れたが、さっきの
「電知への執着を拗らせに拗らせた寅之助が言って良い台詞でもないだろう、それ……」
絆の広がりを実感するほど、その対極として捉えざるを得なくなる『聖王流』の
先ほどやりこめられて以来、逆襲の好機を窺い続けていたのだろう。姫若子の反撃を完全に封じ込める一手を思い付いたのが痛快で堪らないのか、キリサメから窘められても勝ち誇った顔を隠さなかった。
仮に藤太や沙門を通じて姫若子が挑戦状を送り付けたとしても、ンセンギマナは不気味という一言で破り捨てるかも知れない。
寅之助が厭味な言い回しで指摘した通り、接近禁止命令といった措置を求める裁判に発展し兼ねないのが〝訴訟大国〟と
未遂とはいえ、
「姫若子氏の
「あ~、今のタイミングでストーカー行為をイジッたら、サメちゃんに飛び火しないワケなかったねぇ。幾らこの先輩サンが気色悪くたって、例のアレは超えないと思うよ」
傍らに立つ
「話が見えないのだが、二人は進士藤太の暴走のコトを言っているのか……? それとも八雲さんがまた何かやらかしたのか?」
「……思い込みだけでここまで突っ走った進士氏も大概ですが、別の人から最近――」
「――ますます気に入ったぜ、藤太ッ! そこまで気合いが入ってんのに、キリサメより先に『
聞き流すには余りも不穏当な発言に接して眉根を寄せたものの、その背景を掴めずにいる姫若子のことを「可愛い後輩のコトなのに何も知らないの?」と寅之助がせせら笑い、キリサメ当人が眼差しでもって無礼な態度を戒める――先程から続く三竦みのような構図に割り込んだのは、三者全員にとっての〝共通の友人〟が発した大音声である。
横向きで四肢を大きく伸ばしたまま左右それぞれの手で
互いに相手を突き放すほど差を付けられないままゴールと定めた中央に辿り着き、勝負を見守っていた岳も引き分けを宣言した。汗みずくで
どれほど肉体を鍛え上げようとも、
尤も、キリサメたちの会話を押し流すくらい大きな声を張り上げた理由は、昂揚とは別にある。同じ庭に
口を開く
『フルメタルサムライ』は『スーパイ・サーキット』の在り方や、これを取り巻く日本格闘技界の情勢を憂慮して師匠の
「勿論、鎌倉の前に乗り込んできたとも。空港から『サムライ・アスレチックス』の本社に直行だ。お天道様が真上にある間に
「……今、なんつった?」
「弁も知恵も向こうのほうが優れているが、口八丁如きに譲れぬ思いが折られるものか。こちらは
藤太の
海を突き抜けるほど一直線で、何事にも屈しない胆力の持ち主からすれば、大仰に構えるほどでもなかったのであろう。皆が目を丸くする理由が分からず、腹を抱えて笑う岳に助けを求めたが、
己の
「――それの
尻餅を
午前中から姫若子宅に同行しており、その場に居合わせたわけではないのだが、キリサメと電知が
麦泉に引き起こされたキリサメは、日本人にしては大きな鼻の頭を掻きつつ
「
「
麦泉と同じく『
電知も藤太の気概に共鳴したようで、
何事にも思慮の足りない岳や曲がったことを嫌う電知だけでなく、麦泉もどこか嬉しそうな様子であったが、〝暴君〟に楯突いた〝後輩〟が痛快でならないのかも知れない。
*
『NSB』ひいてはMMAという〝スポーツ文化〟が銃弾の嵐によって
それは『愛』という漢字一字の
仮にも『ウォースパイト運動』の〝同志〟である
それはつまり、世界平和を脅かす人権侵害に対して感情を昂らせることもなく〝正義の鉄槌〟を振り下ろせるという意味だ。その為に虐殺にも近い状況を作り出すとしても、血の海の只中で亡骸の山を築くのが自分と同じ命であったとは感じないのである。
この土地で刑に服する人々にジョニー・キャッシュが捧げた『フォルサム・プリズン・ブルース』の主人公は、人を撃ち殺してしまったことを泣きながら悔やんだが、命が消えゆく
記者としての矜持ではなく人間としての本能に従うならば、一秒たりとも目を向けていたくない〝純粋悪〟であった。『サタナス』という存在に理解が及ばない限りは人間として真っ当――と、取材内容を取りまとめた記事でも訴えるしかあるまい。
マリオンの
脱獄防止のフェンスで厳重に囲われているとはいえ、運動や屋外行事が行われる中庭にも自由に出入りしていた。
〝塀の外〟から聞こえてくる
著しく不自由を強いられる状況下で、この時間も刑務に従事している他の受刑者の目に気ままな姿はどのように映るのか。〝刑務所ギャング〟は〝塀の中〟の秩序を乱す存在として
「初めて
『サタナス』が右の人差し指で示したのは〝
二〇一四年は五月一一日がこれに該当しており、彼女の収監日より前に過ぎていたが、刑務所では
『サタナス』が見つけたのは、小学校に
「わたくしも幸せな家庭に生まれました。今年は
両親を過激思想に塗り潰し、自死へと導いた口で感謝を捧げるのか――矛盾を突いても何一つとして響かない相手でなかったら、マリオンは幾通りも皮肉を浴びせたはずだ。
「子どもはまさしく創造性の象徴でございます。欲にまみれた打算も、他者承認に餓えて歪むこともない無垢なる創造を無限に広げていく子どもたちは、格闘技という意味なき破壊の対極に位置してございましょう。わたくし自身は今日まで子を得る機会を得られずにおりますが、人類の歴史から暴力の連鎖を断ち切り、子どもたちの未来の為に世界平和を実現することが大人の責任であろうと心得てございます」
「我々の手できっと成し遂げましょうッ!」
やかましい呼応など右耳から入って左耳へと素通りしたのか、『サタナス』当人はシルバーマン弁護士を一瞥することもなく、愛で満ち溢れた絵に頬擦りし続けている。
「例えば、その絵を描いたお子さんが『ウォースパイト運動』の忌み嫌う――いえ、ここは
壁の表面の凹凸で皮膚が傷付いても構わない『サタナス』であるが、他所の家庭の母子に対する感情移入としては明らかに常軌を逸しており、マリオンは質問を続けることで洩れそうになる呻き声を打ち消した。
「そこに愛があるならば、我が子に大罪を犯させるような真似は親として有り得ません。〝主〟の
間の抜けた問い掛けと言わんばかりに目を瞬かせる『サタナス』は、その反応を
子煩悩なジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンがこの場に居合わせたなら、私刑と謗られようとも『NSB』が誇る〝絶対女王〟の鉄拳を『サタナス』の顔面にめり込ませたことであろうが、ベイカー・エルステッドの遺族へ追い撃ちを掛けるような先程の暴言とも矛盾はしていない。即ち、吐き気を催すくらい一貫しているわけだ。
不思議そうに小首を傾げるサタナスの右頬は引っ搔き傷のように裂け、首を伝って作業シャツを濡らすほど血が滴っていた。改めて
「母の愛は創造の源、産声を上げるよりも前に交わした永遠の約束でございます。破壊への誘惑に
「……言葉が他に見当たらず、このような言い方はご無礼に当たることでしょうが、今年の
「幸いにもわたくしと母は平和への願いで心が通じ合ってございました。消えゆく
二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない――最愛の母から
「母は今も〝平和を告げる福音〟として、破壊なき創造への勇気をわたくしに与えてくださるのです。これほど勇気が
紐を通して首から下げている骨笛を『サタナス』が愛おしそうに両手で包んだ瞬間、マリオンは一つの憶測に行き当たり、その直後に胃袋の中身が逆流しそうになった。
「まさか、それはサラエボのスケートリンクを切り裂いて滑った――」
「ああ……ああ――今、また母の愛が一つの天啓をわたくしへお授けに……ッ」
その呟きの通り、脳裏に〝何か〟が閃いたのであろう。勢いよく打ち鳴らした左右の手でもって再び人骨笛を持ち上げた『サタナス』は、不変の愛と無限の感謝を亡き母へ捧げるように口付けを落とした。
*
世界のMMAを主導する『NSB』に
日本の格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』の販促キャンペーンの一環として生み出された〝キャラクター〟にも関わらず、過去に編集長を務めた樋口から『
社会に与える衝撃が高い事件は慎重な裏付け調査が必須であるはずだが、
しかし、
樋口郁郎にしては意外なほど手緩い措置であるが、日本MMAの黄金時代を共に築いた〝旧友〟に対する温情などではあるまい。そのような〝人間らしさ〟を一握でも持っているのであれば、
一つでも打つ手を誤れば、開催地が東京ドームに決定したばかりの
「守るべき選手を今までさんざん追い詰めてきた
現時点で得られた手掛かりに基づく推察を交えながら、『
雨に濡れた烏を彷彿とさせる
背広と同色のチョッキとスラックスの組み合わせによって、清潔感に満ちた
称する
試合中の事故や競技大会を巡る契約上の問題、古武術道場の継承権を争う内紛など格闘技・スポーツに関する訴訟を幾つも解決してきた実績は〝在野の軍師〟という仰々しい異名と併せて首都圏にまで届いているが、海を超えた向こう側――
アメリカ政界に明るい人間であれば、戦場を離れた将兵の生活を支援する退役軍人委員会に身を置くゼラール・カザン下院議員との親交も把握していることであろう。
先天性の四肢欠損という個性を武器に換え、全米で初めてパラアスリートとしてMMAデビューを果たしたクノク・フィネガンや、彼が拓いた〝道〟に続いて『NSB』に出場する義足選手――シロッコ・T・ンセンギマナとも
日米格闘技界の情勢を法律家の目で捉えてきたアルフレッドにとって、樋口郁郎という〝暴君〟は唾棄の二字が真っ先に思い浮かぶ存在なのだ。
「――半端者って決め付ける基準がそもそもおかしいんだよ。ていうか、
「パパが油断や慢心とは無縁の面白味がない人間だと、
「あたしが問題にしてるのは、パパがそれに付け込んで悪だくみしてるってコトよ!」
「一方的な決め付けはよろしくないようなことを自分で言ったばかりではなかったか。少なくとも俺の企みはまだ
「そういうコトを
「理解ある娘で助かる」
そのアルフレッドはスピーカーフォン状態の
既に一〇分を超えた合計通話時間と併せて、
「事前の連絡もなく急に上京してきた
「……一応、確認しておくが、今は
「さっきも言ったでしょ。あのコ、
「
希更から熊本武術界の緊張状態を問い詰められたときには、この場に居合わせていない
明治維新ひいては廃藩置県を迎えるまで熊本藩士に伝授されていた古流剣術――
「
「うっさい、黙って!
今も猛々しい吼え声がアルフレッドの鼓膜に突き刺さり、兵馬が踏み進む
二〇一一年の旗揚げ以来、『
これを成立させる為には開催先と良好な関係を保つことが前提条件であるが、熊本県内の古武術諸流派を統括し、その伝承を支える協会にさえ一言の相談もないまま、樋口郁郎は次回の
岩手興行までは地方プロレス団体とも協力体制を整え、雇用創出も含めた地域振興を事業の中にも組み込んできた『
今なお『せいしょこさん』の呼び名で慕われる戦国随一の名将・
〝外〟から乗り込んできたMMA
「俺も
「
武士にとって〝誇り〟を傷付けられることは一戦に及ぶほど許し
かつて肥後・熊本藩を治めた細川家は武芸を奨励し、その猛き武士の魂が山にも海にも宿っている。元々はアメリカに
発端は江戸時代まで遡る。
改めて
他藩と〝国境〟を接する
およそ四〇キロという距離に横たわる禍根は二つの城下町で道場を構えた武芸者たちの対抗意識と結び付き、熊本武術界を分断する緊張状態が
互いに誇り高い〝肥後武士〟である。その矜持は譲れず、一定の世代より上の人々は今でも張り合い続けていた。アルフレッドの法律事務所に属する二人の弁護士も〝火の国〟に根差した古武術の担い手であり、それぞれ熊本と八代の二派に分かれている。この二人が長年の親友であることは奇跡的な例外というわけだ。
希更の幼馴染みが家伝の技として学んだ八代の古流剣術と、細川家に従って京都から移り住み、藩主側近への指南を担った鎌倉時代発祥の〝戦場武術〟は特に対立関係を拗らせていた。県内諸流派を統括し、その伝承を支える協会が仲裁しなければ、潰し合いを繰り返した末に共倒れになっていたであろう――と、バロッサ家の入り婿も承知している。
数世紀に及ぶ感情面の摩擦を乗り越えさせたのが樋口郁郎という共通の敵なのである。「確執を取り払い、巨大な塊に纏めさせたのは〝暴君〟の手柄」というアルフレッドの皮肉には、熊本武術界と共に歩む者としての僅かな自嘲が込められていた。
無論、
〝幻の剣〟を
熊本武術界全体の動向として分析するならば、バロッサ家の内情を探るというよりも一族に〝義挙〟への合流を促さんとする揺さぶりであるのかも知れない。「許すまじ、樋口郁郎」という声が最初に熊本の空を貫いてから半月余りが経とうとしている。それほどの時間を置いた
いずれにせよ、この筋運びの中で希更は故郷の抜き差しならない状況を初めて把握し、同時に
両親とも樋口体制の『
熊本武術界を敵に回したことを一種の好機と捉え、
樋口郁郎が握る絶対的な権力は、格闘技界とそれに関連するスポーツメディアのみに通じるものであって、法曹界に身を置くアルフレッドには効果がない。翻せればそれは〝在野の軍師〟にも日本MMAにトドメを刺すことを
「一族みんな口裏を合わせてあたしに熊本のことを黙ってたのもムカつくわねぇ。どうせパパの差し金でしょ。何なの?
「
「前時代的な二者択一を迫る辺り、パパは
「得意の〝相互理解〟で解決しようとでも? ……甘いな」
「
「屁理屈を――と言いたいところだが、父親譲りと返されるオチが読めたな」
「悪だくみばっかしてるからママもアメリカに
「要らぬ心配だな。ママの一時帰国は別に理由がある。何よりも家族を騙して悪だくみの
「やっぱちょっかい出してんじゃんっ!」
希更の〝本業〟は声優である。主演作の『
結局は「人の口に戸は立てられない」という
MMA選手としての希更が所属する競技団体と、バロッサ家が帰属する故郷の武術界の間で生じた対立だ。過去に彼女が巻き込まれた『
およそ半月前であるが、樋口郁郎が熊本興行を一方的に宣言した日、アルフレッドのもとには
電話を掛けてきたのは県内に道場を構える古武術家たちである。希更が『
それは
「あの三好が直々に
「二者択一の次は脅迫⁉ 一族の意向に逆らうなら勘当ってワケ?
その
現代に
明治維新を迎えるまで熊本藩の土台を支えてきた名門は、そのまま江戸時代を通じて武芸を奨励した細川家の功臣をも意味する。往時の藩校でも限られた一部にしか伝授されなかった鎌倉時代発祥の〝戦場武術〟を現代まで継承してきたのも三好家であった。
その歴史の中で武術界との結び付きも深まり、現代に
熊本城を
希更の幼馴染みが生を
その三好家の〝当代〟が屋敷の庭に集結した誰よりも大きく強い声で「許すまじ、樋口郁郎」と吼えたことは、希更も幼馴染みを通じて把握している。
「幸いなことに身の振り方を考える時間はそれほど短くないようだぞ。
「
「……『NSB』を襲ったテロ事件の影響を甘く考えている人間は、自分のバカさ加減に気付いていない。そういうことだ」
自分は弁護士であってフィクサーではない――
『NSB』のMMA
事件関係者全員の死亡という凄惨な結末を迎えたこともあり、再発防止を目的として実施される
希更もアルフレッドも、当該する場面をそれぞれニュースで確認しているが、伸縮式の特殊警棒を振り
先般のテロ事件が〝格闘競技〟の団体代表たちに植え付けたのは、肩書きの為に先鋭化の一途を辿る『ウォースパイト運動』の攻撃対象になり得るという恐怖であった。
『破壊活動防止法』の発動さえも議論されたカルト集団が地下鉄や住宅街でのサリンガス散布といった凶行を繰り返したのは一九九〇年代半ばである。およそ二〇年の歳月が流れゆく中、二〇〇一年の『九・一一』を挟みつつもテロの脅威が身近ではなくなった日本では、テロリズムそのものに対する認識が緩んでいた。
これを一変させたのが『NSB』を脅かしたテロ攻撃だ。次に『ウォースパイト運動』が矛先を向けるのは、
無防備に歩き回っていた人間が鎧を着込んで
例えとしては些か時代錯誤であろうが、幕末に起きた『
「
かつて日本屈指の人気を誇った『メアズ・レイグ』という女子MMA団体がある。
『MMA日本協会』とも歩調を合わせていた
編集長の座を退いた後も古巣である
日本初の女性MMA選手にして『MMA日本協会』の副会長である
『メアズ・レイグ』の恨みに加えて、〝懲罰人事〟にも等しい不遇を被り続ける倉持であれば〝火の国〟の刺客を手引きしても不思議ではないはずだが、現実には正反対の言行で〝暴君〟を守らんとしている。
「恨みを超えて手を携えるってコトでしょ。
「恨みを超えた判断という点は俺も
「……『
「耳が良くなければ弁護士は務まらない。それ以外の何物でもない」
「友達んトコの探偵社に法律スレスレな
一口に経理といっても倉持有理紗の仕事は収支の計算や帳簿の管理だけではない。かつてMMA団体の代表を務めた経験を生かし、
会社という組織を人体に
樋口郁郎の専横に含むところがないとは考えにくいが、日本MMAの将来にとって最も望ましい判断を優先できる
(今、
薄笑いを浮かべるアルフレッドの背中から肩に引っ掛けていた背広が滑り落ちていく。
手を伸ばしても届くはずがなく、高度なIT社会とはいえ実情を探る手掛かりも断片的にしか得られない〝海の向こう〟の事件に翻弄されるという事態は往々にして起こるものだが、その〝大きな流れ〟は日本の片隅の熊本も逃しはしないようだ。
命に替えてでも〝火の国〟の誇りを守り抜く覚悟で先制攻撃を狙っていた三好家の〝当代〟が足踏みを余儀なくされている。〝幻の剣〟を携えて〝暴君〟の喉元にまで迫った希更の幼馴染みは、熊本が次なる一手を迷うほどの混乱状態に陥ったことも知らないまま偵察の任務を遂行しているのかも知れない。
共通の敵に立ち向かうべく肩を並べはしたものの、江戸時代から拗らせ続けてきた対立関係によって開いた溝が気持ち一つで埋まろうはずもなく、おそらくは連絡すら満足に取り合えていない。こうした綻びもまた歴史の証であろう――アルフレッドが口に出して希更に伝えたのは、熊本・八代二派の連携が噛み合わない原因の分析のみであった。
野獣さながらの大きな唸り声が
「ねぇ、ちょっと――さっきから誰か暴れてるの? ていうか、その声、お
先ほど父の皮肉に付き合う暇はないと述べた通り、希更は現場マネージャーの
『バロッサ・フリーダム』と実家の道場のロゴマークが刺繍されたトレーニングウェアを身を包み、フローリングの床に股を開いて関節を伸ばす希更の鼓膜は、唸り声や木板を踏み付けるような音で打ち据えられている。そこには風を切り裂く音も混ざっていた。
ビデオ通話ではないので父の現在地は不明であるが、その頭越しに飛び込んでくる声には聞き
「事務所じゃなくて、今、
「その声は
「腐っても
「……パパや
全体的には流暢であるものの、少しばかりたどたどしさを残した英語で答えたのは、アルフレッド本人ではなく法律事務所の部下――
父一人ではなくその部下たちも通話の相手に含まれていたことを察した希更は、すぐさま紡ぐ
両親ひいてはバロッサ家の
床の上の
奈良県奈良市に所在する
熊本市内に所在する少弐の屋敷内で江戸時代の風情を留めた道場は、
天井を横断する
袴の裾を捌く音を引き摺りつつ
踏み込みと吼え声によって生み出された力を
国外から
やがてアルフレッドと二人の部下は少弐家の屋敷で合流し、程なくして希更から電話が掛かってきた次第である。
(……次に会ったとき、
前方に輪を描くような槍の動きを氷の
「
「
外的要因に阻まれて暗礁に乗り上げさえしなければ、熊本武術界の〝覚悟〟は本物の炎に換わり、『
その覚悟の体現者こそが三好家の〝当代〟であることもアルフレッドは把握している。
〝火の国〟の誇りは命に替えてでも守り抜く人物であり、細川家功臣の末裔としての本懐を果たす為ならば、比喩でなく本当に樋口郁郎と刺し違えることであろう。
先ほど希更には「大昔から続く対立関係は一朝一夕で解消できるものではなく、両者は連絡すら滞っている」と吹き込んだものの、実際は意思疎通に支障など生じていないとアルフレッドは読んでいる。
〝昨日の敵〟とはいえ、三好家の〝当代〟は決して捨て石のようには使わない。希更の幼馴染みによる決死の行動にも相応の覚悟で報いることであろう。上に立つべき
旧家という出自によって担ぎ出されたのではない。『
「濡れ衣だとしたら、
「東京オリンピックの追加競技で空手が最有力候補ってコトが絡んでるの? 思った以上に生臭い話じゃない。オリンピック競技としての空手と『
「長年の悲願達成ってェときですからねぇ、お偉方も
「それでも断ったら
『
つまるところ、希更から悪し
『
もはや、樋口郁郎の横暴は
「――バロッサ家の立場は重々承知しているつもりです。しかし、そこを曲げてお力添えを賜りたいのです。〝人柱〟を引き受けるのは私一人でなくてはなりません。
しかし、〝在野の軍師〟には三好家の〝当代〟を頷かせることは叶わなかった。それどころか、〝火の国〟の本懐が果たされた
平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件――〝火の国〟に伝わる古流剣術の正統後継者が争点という極めて難しい訴訟を解決に導いた手腕を見込まれ、額づきながら請われてしまっては、アルフレッドのほうが首を縦に振らざるを得なかった。
(……死ぬ覚悟が出来ている
狡猾に立ち回るのであれば「持ち帰って相談する」と明確な回答は避けるべきであったのだ。それを
三好家の〝当代〟が示した〝火の国〟の覚悟に魂を震わされ、身の
「
「お坊ちゃん、あの
「レオ様――『
「……一九六四年の東京オリンピックみたいにデタラメな強制退去が
「……その六年後だけど、仮にもオリ・パラの開催地で日本を代表するMMA団体と一県総出の武術家連合がぶつかりでもしたら、警察どころか、政府が動くんじゃない? そのレベルのリスクを
「そこはまぁ……東京と熊本の温度差ってヤツですかねぇ」
焼き討ち計画の一時断念を決めたという三好家の〝当代〟であるが、その表明自体が本懐を遂げる為の
〝未完の天下人〟と畏敬され、一時は中央政権を取り仕切った
正攻法とは真逆の手段を取った
細川忠興の
その藤孝は細川の氏族に
細川忠興の流れを汲む茶人であり、江戸幕府の
八代の地で最期の
織田家臣として〝
室町幕府より
その歴史こそ〝当代〟が三好家の
藤孝にとっての
(MMAを狙ったテロの
三好家の〝当代〟も東京の情報提供者からアルフレッドと同程度には『
『
〝暴君〟が『
〝火の国〟の歴史そのものとも呼ぶべき三好家の〝当代〟がこれを逃すとは思えない。
そして、それこそが守孝の槍を荒くさせる一番の理由であった。彼の覚悟に魂を震わされながらも、弁護士という立場では助太刀という〝暴力〟への加担など許されるはずがない。ましてや熊本武術界の
何よりも守孝の左手の薬指には他の二人と同様に指輪が煌めいている。少弐の先祖に顔向けできない振る舞いと
「そんなワケなんで、お嬢も
〝暴君〟と刺し違える覚悟を三好家の〝当代〟と分かち合っているであろう〝幻の剣〟が抜き放たれないよう諫めて欲しい――そう言って電話の向こうを拝み倒す源八郎へ呼応するようにして、アルフレッドも我知らず首を頷かせた。
「
「……バロッサ家だけではない。熊本と八代の別もなく良識ある人々の判断だ。しかし、思い違いをするな。手段こそ異なるが、〝樋口潰し〟という最終的な目的は熊本全体の既定路線だ。……だから先程も言ったのだ。どちらを敵に回すか、選ぶときが来ると」
「さっきよりも言い方が意地悪くなってんのよねぇ~!」
依然として面白くなさそうな声色の
純粋に三好家の〝当代〟を惜しんでいた。実の娘にさえ二枚舌や鉄面皮と罵倒される程度には〝隠し事〟の多い〝在野の軍師〟が胸に秘めた別の打算も見抜いていたはずだ。腹に一物を抱えた油断できない人間と承知した上で、熊本武術界に被害を拡大させない為の手助けを求めてきたのである。
選手と取り交わす契約の中で、『
「一つ
「露骨に話題を変えたわね~。
「お嬢、
「勿論、
「
「イズリアル・モニワは選手の安全対策を最優先していると聞くぞ。任意ながら
「意地でも『
「俺はどう思われても構わないが、『NSB』の友人を案じるママの心は
熊本県八代市で産声を上げた希更を除き、入り婿のアルフレッドも含めてバロッサ家はアメリカから日本に移住したのだが、一族の
果てしなく広がる大地と温暖な気候から地球上で最もスポーツに適した国である。民の大半がこれを
南半球に
それはつまり、オーストラリアという
バロッサ家も二〇〇〇年代半ばから年に一度という
『冷戦』で悪化した日ソ関係の正常化を図るべく一九八九年一二月のモスクワでプロレス興行を開催した鬼貫道明や、『ハルトマン・プロダクツ』が開発したスポーツ用ヒジャブの発表会に
バロッサ家も
そのジュリアナも『ウォースパイト運動』によるテロ攻撃に巻き込まれた一人なのだ。
『NSB』の事後対応を確かめたのはあくまでも
僅かな時間で混乱と動揺を最小限に抑えたイズリアルの手腕を
七月半ばにネバダ
「お前の『
「いやいやいや! 『
「だが、当事者意識は持てるだろう。リーダーの〝器〟と組織力は分けて考えるものだ。次は『
「自粛すれば良いワケでもないでしょ。
「お嬢、自粛と自重も別々に考えたほうが良い塩梅になりますぜ」
『NSB』の
アルフレッドの耳に入ってきた情報によれば〝内政干渉〟にも等しい形で『
秘書に背中を押され、
かつて希更にも危害を加えようとした
『NSB』が露見させたテロ対策の脆弱性は直ちに是正されなければならないが、これをシンガポールで台頭した新興団体のように教訓として受け止められず、反対に
「一旦、熊本の事情やバロッサ家の意向は取っ払うとして、……パパは『
「仮にお前が想像した通りの結末を迎えるなら、そもそも日本のMMAは二〇〇〇年代のような体力を取り戻せていなかっただけのこと。樋口郁郎が詐欺師のように化粧したところで、空洞同然の中身までは誤魔化し切れない」
「自分の父親がデタラメやってくれた
「ムエ・カッチューアは立ち技主体の格闘術だ。バロッサ家の選手派遣も『
「鼻先に美味しそうな餌をぶら下げて、人の興味を別の方向に誘導するのもパパが嫌われる理由の一つだよ。あたし一人に居場所があっても意味ないのよ」
「お前の友人の受け皿になりそうな団体は日本国内にも少なくないだろう。『
自身の率いる団体に塞ぎようのない大穴が空いていることにも気付かない愚かしさは、手のひらの上で転がせればアルフレッドの目論見にとって都合が良い。一方、それが
代表を挿げ替えた直後には混乱も起こるであろうが、
今でこそ関係が断絶してしまっているが、樋口郁郎さえ取り除いてしまえば『MMA日本協会』も『
『MMA日本協会』の会合にオブザーバーとして出席した『ハルトマン・プロダクツ』経営者一族の御曹司――ギュンター・ザイフェルトも、既に樋口体制終焉後を見据えているそうだ。言わずもがな、
(俺の腹を読んで上手く回してくれるとはな。あの小僧が〝大人〟になったものだ)
私事を優先させた場合、間違いなく一つの家族が八方塞がりとなる。
(……流れは悪くない。『ハルトマン・プロダクツ』はこちら側と考えて構うまい。『MMA日本協会』も今度こそ重い腰を上げた。
国内で開催されるMMA
日本格闘技界による東北復興支援
(それにしても進士藤太は考えられる最高のタイミングでダメ押しをしてくれたものだ。偶発的な〝ワイルドカード〟を当て込むのは危ういが、あれは使い道がありそうだ)
『NSB』に参戦した日本人選手の〝筆頭〟――『フルメタルサムライ』の異名で呼ばれる進士藤太が『
熊本武術界は言うに及ばず、通話の様子から察するに希更も自身の所属先で吹き荒んだ〝大嵐〟を把握していないのだろう。同じ場所へ偵察に向かった彼女の幼馴染みも、進士藤太とは入れ違いであったようだ。
アルフレッドとて
「――恥を知れ」
MMAのリングにさえ不慣れという
「俺を見捨てておいて、今さら偉そうに説教を垂れるなッ!」
「この期に及んで未だに『見捨てられた』と被害者意識なのか⁉ 己を省みない言い訳がそれか⁉ 心得違いを恥とも思わない貴様を『見限った』のだッ!」
社長室に乗り込まれた直後は旧交を温めるかのような態度を取り、
民間単位の〝スポーツ外交〟である
この
いよいよ樋口郁郎は自らに後戻りを許せなくなる。組織力も規模も桁違いという『NSB』に張り合わんとする水面下の
〝暴君〟に回った〝毒〟は、それが〝何者か〟の手によって鼻先に差し出された餌と疑う
(裏切り者――か。死んだ師匠が遺した
通話を維持したままの
「親バカ丸出しのパパのコトだから、可愛い
その
真っ向から指摘されたことも胸に秘めた打算の一つである為、アルフレッドは答えに詰まってしまった。
独り立ちした以上は自分自身の足で〝道〟を踏み歩くという頼もしい決意と併せて、父親の愛情を理解し、感謝もしていると言外に示してくれた
そのとき、この
希更の友人であるキリサメ・アマカザリも、アルフレッドにとっては謀略を進める為の
「レオ様」などと呼んで
関わった者全てが傷だらけとなるであろう動乱を予感させる激しい音は、何時の間にか止まっていた。荒れ狂うのが目的であるかのように振り回していた
「それでも修羅の道を進む覚悟であらば、自分も
声なく問い掛ける守孝の眼差しを正面から受け止め、揺るぎない意志を示すべく頷き返したアルフレッドは、床の上の
*
『ラフレシア・ガルヴァーニ』という格闘家が全米を震え上がらせるのは、マリオン・マクリーシュ記者がフォルサム刑務所を訪れた数日後である。
その
ともすれば人格攻撃や名誉毀損と表裏一体である為、格闘技雑誌の記者も食い下がって
自宅でも幾度か異臭騒ぎを起こし、近隣住民と揉めていたのも事実であるが、この時点では違法行為は確認されなかった。彼を
六月末もドバイの世界貿易センターで開催される
容疑は拉致監禁と殺人並びに死体損壊――より正確に表すならば、
通常の捜査と同じように身の毛もよだつ猟奇殺人事件を解決に導いた〝協力者〟の名前が公表されることはないが、その〝正体〟を全米が知れば誰もがトマス・ハリスの小説を原作とする映画を連想することであろう。
実際、目の前で推理の一部始終を聞かされたマリオンも、「ハンニバル・レクターがハンニバル・レクターを捜査したみたいになっていやがる」と呻いてしまったのだ。
「い、一旦、整理させてください! ガルヴァーニの居住地付近で失踪事件が断続的に発生しているのはニュースで見たから私も
事件の背景の再確認を求めると、亡き母から天啓を授けられたことが嬉しくてならない様子の『サタナス』がおままごとを褒められた幼児のような笑顔で無邪気に頷き返した。隣に立つシルバーマン弁護士は高鳴る胸を抑えながら鼻血を噴いたが、マリオンのほうは正反対に心臓が凍り付くような思いでこれを見据えている。
獄中の
「わたくしも同じニュースを拝見しました。あの方は近隣住民の代表として、素知らぬ顔でレポーターの取材を受けておられましたが、ガレージハウスを背にしていたと記憶しています。シャッターを下ろしますと、隣近所の目に触れることなく自宅まで被害者を誘導できるのではないか――わたくしなりに考えてみた次第でございます」
「……異臭騒ぎの原因とも辻褄が合います。その……〝残った〟という言い方は語弊があるかも知れませんが、……骨はどう片付けたとお考えですか? 庭先に埋めるのは目撃される
「骨粉にしてからトイレか洗面所で流したのでございましょう。ハンマーで叩くだけではサラサラになりませんので、改造された粉砕機でも調達したのではないかと。ミキサーのような音が聞こえても、普通の皆様はケーキでも焼いているのかとしか思いませんわ」
アメリカの『NSB』は
フロスト・クラントンからドーピングを強いられたMMA選手の多くは
しかし、彼の爆発的な昂揚は
特定の文化圏に限らず、古代と呼ばれる時代に戦士が打ち負かした相手などの人肉を喰らい、心身を増強したという伝説は世界各地に残っている。ラフレシア・ガルヴァーニは自身の試合に向けてこれを模倣していたのだ。
尤も、古代の戦士にとって敵の肉体を喰らうという行為は、その勇敢なる魂を自らの
タンパク質を摂取できる手段が限定されていた古代に
あくまでも自らの攻撃性を引き上げることが目的である為、偏食に基づく人肉嗜好ではないと『サタナス』は付け加えた。
そして、それ故に容疑者を絞り込み易くなったという。被害者たちが姿を消した日付とラフレシア・ガルヴァーニの試合履歴が
「想像するだけで吐きそうですが、粉末にした
身震いしながら自分なりの推理を披露したマリオンに対し、『サタナス』は答え合わせのように頷き返した。人間離れした頭脳と同じ結論に達した恰好であるが、マリオンの側は一つとして嬉しくない。ドーピング汚染から再起した格闘家として、ラフレシア・ガルヴァーニを密かに応援していたのだから当然であろう。
捜査が進めば、おそらくは『NSB』に出場していた時期の余罪も暴かれるはずだ。今日まで気付けなかった自分の洞察力をマリオンは恥じるばかりであるが、元より歪んだ魂の持ち主であったからこそ嗜虐性を刺激するようなフロスト・クラントンの誘惑に乗ったのだと考えると、これもまた辻褄が合う。
鮮血の滴る頬を拭う為のハンカチを差し出し続けるシルバーマン弁護士に対し、『サタナス』はこれを受け取らないまま今し方の推理を直ちに警察へ連絡するよう言い渡した。
『ランズエンド・サーガ』の
果たして、ラフレシア・ガルヴァーニは『サタナス』の目論見通りに警察の囮捜査で現行犯逮捕され、長年に亘って隠し続けてきた〝本性〟を暴かれることになる。
紐で括って首から下げている人骨笛に目を落とした瞬間、それ自体が手掛かりとなって
しかし、これこそがフォルサム刑務所に
捜査当局から依頼されたものと
そして、これこそが受刑者の身分とは思えない特別待遇の理由というわけである。監視の目もなく刑務所内を気ままに歩き回り、首飾りまで黙認されているのは、警察でも手を焼くような異常性の高い事件の捜査に協力する報酬としか考えられなかった。
IT長者としての資産は虚業のあぶく銭も同然だが、〝外界〟と完全に遮断された獄中にありながら、ほんの小さな情報のみを手掛かりにして常人の想像力では最初の一歩すら踏み出せない領域まで辿り着く頭脳は〝本物〟である。〝
ラフレシア・ガルヴァーニの事件のように、「格闘家は人の皮を破った野獣である」と知らしめる捜査を
ジョニー・キャッシュがミステリードラマ『刑事コロンボ』シリーズで犯人役を演じたことを思えば、これに勝る皮肉はあるまい。
しかも宗教団体の広告塔として利用される悲劇のカントリー歌手という筋立てなのだ。追い詰められた末に殺人を犯し、逮捕の瞬間に安堵の表情を浮かべるという余りにも哀しい姿に同情を禁じ得なかったファンも多い。言わずもがな、マリオンもその一人である。
「マリオンさんの生業からすれば、我々の崇高なる理想は簡単に飲み込めるものではありますまい。ですが、格闘家による悪魔の所業が後を絶たないのもまた事実。先ほど〝聖女サタナス〟がオムロープバーン家を例に挙げましたが、格闘技など破壊と殺戮しか生まないと誰もが認めていなければ、オランダ全土に及ぶ規制網など有り得ないでしょう」
古代の戦士に倣った
「カイペルさんの
「わたくしは無差別な破壊など少しも望んでございません。一九八四年の冬と、それ以降のサラエボを知る母が戦争も同然の有り様を許すはずもございません。エルステッド様のように志を同じくできる方とはどなたとでも手を携えて進めると信じてございます」
そのベイカー・エルステッドに『NSB』は存在自体が『平和と人道に対する罪』と刷り込み、
尤も、想い出の彼方から現れたその人物は現在の
(サラエボという一言は軽々しく口にするモンじゃないと、お袋さんから教わらなかったのか? 教わってこの
もはや、骨片のみとなってしまった『サタナス』の母親をマリオンは良く知っている。それどころか、スポーツを趣味とする人間ならば一度は名前を耳にしたはずだ。
ワーズワス・カイペル――フィギュアスケート・女子シングルのアメリカ代表として一九八四年サラエボ冬季オリンピックに出場し、首に銀メダルを掛けられた選手であった。往年のオリンピアンが
『第一次世界大戦』の発端となった地であることは言うに及ばず、一九八四年冬季大会の八年後に勃発した『ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争』で激戦地となり、オリンピック関連施設も壊滅的な被害を免れなかった。
『サタナス』の母が創造性に満ちた演技でもって世界を魅了したゼトラ・オリンピックホールも砲撃や爆撃に晒された。国家の垣根を超えて
一九九五年の紛争終結後も犠牲者の墓地と隣接する形で廃墟のまま放置されていたが、一九九七年に再建が始まり、翌々年から
サラエボ冬季オリンピック出場選手の一人娘は、攻撃対象の情報を膨大に蓄えている様子だが、
「二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない」と遺言したワーズワス・カイペルが尊敬すべき
『ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争』が終息の気配すら見せない一九九四年に開催されたリレハンメル冬季オリンピックの
人生初の金メダルを授かるなど想い出がとても深いサラエボを飲み込んだ戦火に心を痛めた
テレビを通して目にした一九九四年二月二八日の場景は、今でもマリオンの網膜に焼き付いて離れないのだ。
元々は今年の一月に没した〝アメリカンフォーク
ウクライナのコサック民謡を
旧東ドイツの
スポーツの〝聖域〟が戦争の狂気によって
「同じ志を持つ人間には握手を求めるといった旨を仰いましたね? そこまでの友愛をお持ちであるなら、ンセンギマナ選手は〝抗議〟の
ありとあらゆる攻撃手段が有効である為、身のこなし自体が必然的に複雑となるMMAでしか得られない貴重な検証結果とも言い換えられる。『九・一一』に端を発する対テロ戦争によって増加した傷痍軍人の社会復帰は言うに及ばず、パラアスリートの活動を
「
「ンセンギマナ様ほど哀しい方は、わたくしも他に存じ上げません」
「……哀しい……?」
「マクリーシュ様も仰せの通り、ンセンギマナ様は戦争の虚しさ、人が人の命を壊してゆく恐ろしさを他の誰よりもご存知でしょう。それなのに平和な世界を歩む為の義足を暴力に変えて再び戦争に回帰なさろうとしておられるのです。人間という生き物は果てしなく哀しい――だからこそ、義足の
この
ンセンギマナは二度に亘って『ウォースパイト運動』のテロに遭遇したのではない。その二度とも『サタナス』から明確な標的とされていたわけだ。内戦の悲劇を乗り越えてMMAの
彼女は創造性の有無で排除対象を選り分けている様子であるが、これを紡ぎ出す感性すら個々人で異なるのだから、判断基準など存在しないにも等しいだろう。そして、明確な輪郭を持ち得ない境界線が無限の残虐性にそのまま置き換わるわけだ。
「……異常性の高い犯罪者は、自らの犯行自体を芸術のように捉える傾向が強いと聞きました。カイペルさんの仰る創造性もそれと同じなのでしょうか?」
「わたくしは世界を愛でいっぱいにしたいのです」
他人の命を玩具の兵隊のように弄び、
背の高い建物の向こうから何やら喚き声が聞こえてきたのは、辟易しながらも次の質問を重ねようとした
女性用の施設とは随分と離れた場所で騒ぎが起きた様子だ。それ故に同じフォルサム刑務所の敷地内でありながら、最初の内は男性の声ということしか分からなかったのだが、次第に言葉の輪郭を掴めるようになり、やがて「ボクシングはアメリカの国技なんかではない」という一際大きな怒号がマリオンの鼓膜を打ち据えた。
「――ハナック・ブラウンを生かして帰すな! そいつは何十年もアメリカ国民に暴力性を植え付けてきた〝社会悪〟だ! 自分の罪深さを思い知らせてやれッ!」
更生プログラムに組み込まれたボクシングを指導するべくフォルサム刑務所を訪れている元ヘビー級
「バカなッ! それは……ッ⁉」
立ち竦んだマリオンが膝から崩れ落ち、その場に尻餅を
格闘家どもは皆殺し――
*
熊本城に『
『
熊本を
正真正銘の
国防の要として二〇一四年一月に政府内に設置された『国家安全保障局』とも密接に関わり、国内外で展開される情報戦の一翼を担う『
欧米の過激活動家に影響された日本国内の『ウォースパイト運動』が先鋭化する原因にもなり得ると予測し、〝内調〟は暴発寸前としか
尤も、現実の〝内調〟は〝
『NSB』を代表する〝兼業格闘家〟のダン・タン・タインも、先月に公開されたアクション映画で世界のブラックマーケットを牛耳る麻薬組織に
『昭和』と呼ばれた時代の風情を残し、話題作からインディーズ作品まで幅広く様々なフィルムを掛けるような場末の映画館は、密談に最適な環境というわけだ。
〝ベトナムのブルース・リー〟とまで謳われるアクションスターの地位を築いたダン・タン・タイン主演作だけに封切り当初は連日満席であったが、公開から一ヶ月以上も経つと客足はまばらとなる。つまり、奥まった場所に腰掛けると映画自体の大音量が隠れ
〝内調〟の協力者――
神通は
この
今回は『
現在の〝内調〟は〝
それは先般の『NSB』と同水準のテロ攻撃に晒される危険性とも言い換えられる。
ホスト国としては〝
神通からすれば〝内調〟ひいては政府の都合に協力する義理も義務もないのだが、国内の『ウォースパイト運動』が過激化すれば、『ダイニング
己の〝半身〟の如く感じているキリサメ・アマカザリや、実の姉のように慕っている
この最悪の事態を
南北朝時代を発祥とする〝戦場武術〟の宗家ではあるものの、内偵調査の
ダン・タン・タイン扮する
内容に集中できない状況で映画館に入ることは苦痛でしかなかった。しかも、吹替版ではなく字幕版だ。
機密情報を伝え合うわけでもないのだから、電話で足りるだろうと文句を言いたかったのだが、本編の開始前に次々と流れる予告映像の最中に告げられたことが理解を超越するモノであった為、
「……熊本の
「熊本の
もう一度、同じ言葉を重ねた
双眸と口を呆けたように開け広げながら
〝内調〟の要請を固辞できなくなるよう言葉巧みに退路を断ってきた
「――今日は情報提供よ。……哀川家に対するね」
この一言を
「まだ裏が取れたわけではないのだけど、〝あの拳法家〟――『アップルシード』と三好家の間は深く繋がっているそうなのよ。そう言う報告が届いたわ」
追憶の中でしか手を触れることが叶わない父――
その顔からはすっかり血の色が失せていた。如何なる言葉を掛けることが最も望ましいのか、自らに問い掛ける
自分自身が正義だと信じられることを貫けば、明日の朝も寝覚めが爽快――
「……あのとき、警察からは三好という
「あのときは全く関わっていなかったから、裁判のときでさえ三好の
「……『アップルシード』が……」
中学生の頃には俗に〝最終奥義〟などと呼ばれる深奥まで極めた為、哀川家の血筋とも関係なく正統後継者の資格を有してはいたが、大学生という若年で一流派の宗家を担わなければならなかったのは継承の道筋も作らないまま先代の
他流試合の末、血の海に
それが異称であることも二人は承知している。先代最期の戦いに対する傷害致死事件としての警察の捜査や、その後の刑事裁判に
「……『アップルシード』が――」
熱に浮かされているかのような調子で神通は同じ
「三好家――つまり、同郷の有力者の庇護を受けているのなら、例の決起集会に『アップルシード』も混ざっていたかも知れないわ。出所していることは間違いないもの」
「……父の仇を逃がす手伝いをさせられるなんて、これ以上の皮肉はありませんよ……」
「法治国家に生きる人間の
情報提供に
拳を交えた二人の間で決着がついたのだから、余人が〝
それどころか、警察の介入すら不要と考えていた。『
仇討ちなど人生の選択肢として考えたこともない――その気持ちを
僅かな言葉だけで神通との意思疎通は十分であると、
認めてしまうのは腹立たしいものの、幼き日の神通が誰よりも憧れたのは、眩いほど凛と立つ
その気持ちを共有できればこそ、情報提供の名目で神通に協力を求めたわけだ。彼女もまた
「……『アップルシード』が熊本に留まっているかも知れない――と、そのような風聞が僅かに流れただけで、『
「時間が鎮めてくれるのは怒りだけで、怨みは逆に歳月を養分にして育っていくものよ。
神通が喉の奥から絞り出した『
二人が生まれた
法治国家と相容れない〝力〟を束ね、銃弾を浴びることも厭わない『
『
激烈な抗争が繰り返された『昭和』の〝闇〟で〝甲斐古流〟の
かつて
『ヴァルチャーマスク』の利権などを巡って確執が深まっていた鬼貫道明を
〝甲斐古流〟の筆頭という『
『
悪徳の二字こそ冠するものの、室町時代後期に巨万の富を築いた豪商の〝血〟を引く副長は、祖先より受け継いだ才覚を存分に発揮して組織体制を整えたそうだ。
隊の中核とも呼ぶべき『
それぞれの〝道〟に別れたからといって、背中を預け合った戦友の絆まで失われるわけではない。とりわけ〝哀川局長〟に導かれて自らの運命を切り開いた隊士たちにとって、絶命の衝撃は
〝裏〟の社会の暗闘に身を投じていた日々も遠い昔となり、
誰よりも激烈に復讐を訴えたのは、
宗家道場の
抜け目のない人柄で『
このときは神通の
「……厄介なことに
「
常識では有り得ない転身であるが、『
「
「……わたしの目には
しかし、
『
彼の妻や亡き父は怒鳴ることが
しかし、局長の
〝腕落とし〟の別名を持つ刀はムカデの胴体の継ぎ目を彷彿とさせる彫り込みが全体に施された鞘に納まっているが、
『
その『
戦国乱世の武田家よりも古い歴史を持つ〝甲斐古流〟の誇り高さを一身に背負うような
何事にもガムシャラであり、己が正しいと信じた道を決して曲げない一徹者であった。哀川局長や藪副長の方針に刃向かうことも多く、重鎮として隊を引き締める一方で
何時でも目が据わっているような〝ガムシン〟が
背筋が冷たくなる偶然だが、
「世の中に肉親の情に勝るものはないけれど、
「……結ばれなかった幼馴染みの恨み節を聞かされているような……」
「下種の勘繰りはおよしなさいな。
未来を仰ぐ力を父から奪い、〝眠れる獅子〟に変えた
〝表〟の社会に居場所がない者と知れば、同郷でなくとも〝哀川局長〟は『
隊士として生きる糧を保障されたという恩や、死線を共にした絆が
師匠である
その樋口の依頼による〝民事介入暴力〟であれば、哀川家にも止める権利はない。大義名分を
神通と
「正直、わたしには東京オリンピック・パラリンピックの成否など知ったことではありません。でも、自分の親しい人たちが合戦に及ぶような事態だけは断じて見過ごせない。ましてや
『
命を
樋口郁郎と結び付かないよう『
「万が一、
それが
己の身に流れる〝血〟を今日ほど煩わしく思った
『アップルシード』が『
気付いたことをノートに細かく書き留めながら稽古を見つめ、武術家の談話をテープレコーダーに録音する姿は、取材目的の学者のようであった――と、神通は記憶している。
麦わらのカンカン帽に
白樫を削り出し、ツカ全体に牛革を巻いた木刀に使い古された荷物袋の紐を引っ掛け、これを右肩に担いでいなければ、拳法家とは思わなかったはずだ。
七日間にも及ぶ交流の
「戦前から数えて半世紀を超える『ミトセ』と『
「……『ジェームズ・ミトセ』の系譜を継ぐ者――か」
『ミトセ』もまた『アップルシード』が背負った
その称と共に悠久の誓いとも呼ぶべき〝思い〟を託され、これを拳に握り締めたからこそアップルシードは『
ジェームズ・ミトセ――
「
「望むところですよ。こちらこそ大義名分を得たようなものです」
相手は『
何よりも『
*
カリフォルニアの大地に照り付ける太陽の下で、フォルサム刑務所が混沌の渦に呑み込まれていく。
マリオン・マクリーシュ記者が
断片的な手掛かりから察するに、男性受刑者の中に紛れ込んでいた『ウォースパイト運動』の過活動家数名がボクシングによる更生の是非を巡って〝抗議〟を始めたようだ。この思想活動は笛を吹き鳴らすことによって同志的結合を分かち合い、対象を威圧するのが特徴であったが、〝塀の中〟に潜んでいた者たちは楽器の代わりに指笛で連帯していた。
不愉快な声や音が幾つも重なってマリオンの鼓膜を打ち据えたこともあり、ボクシングの指導中に襲撃されたものと
労働環境の改善を求めて一九七〇年に起こった大規模なストライキ運動では受刑者全体が連携したが、今度の
今、このフォルサム刑務所で起きていることは、『サタナス』による〝汚染〟としか表しようがあるまい。極度に先鋭化した過激思想が〝塀の中〟という封鎖空間を猛毒の如く侵し始めている。
受刑者一人が射殺されるほどの激しい乱闘は、二〇一二年にも発生している。そこから更に二年ほど遡れば、二〇〇人もの受刑者と刑務官が衝突した暴動もあったが、このいずれとも今回の
程なくして全館に緊急事態を報せる警報音が鳴り響き、これに合わせて刑務官たちも鎮圧に動き始め、「格闘家どもは皆殺し」というシェイクスピア劇『ヘンリー六世』を模倣した文言の連呼に激しく揉み合う声が混ざり始めた。
更生プログラムから
それどころか、やるせないほど悲しそうに唇を噛んでいる。その面持ちが彼女の意図に反した暴発であることを表していた。
「誰よりも早くボクシングは害悪と呼び掛け、シェイクスピア劇の物真似を始めたのは、学生時代に同級生のアマチュアボクサーから恐喝を受けたドニ・ヘンリキューで間違いございません。苦い想い出として刻まれた屈辱を今度は自分が味わわせる番だ――と、無関係なハナック・ブラウン様に謂れなき怨念をぶつけたのでございましょう」
「カイペルさんご自身の画策による暴動でなくとも、『サタナス』という
「亡者さながらに
「指笛の吹き方まで
〝IT長者〟に対して薄暗い部屋に籠ってコンピューターを玩具にして遊んでいるという偏った先入観に凝り固まる人間の中には、同じ
IT時代の利器に頼れば一瞬で情報を得られるというのに、
創造性の対極に位置する格闘技と、これが生み出す暴力をただ純粋に悲しみ、「世界を愛でいっぱいにしたい」ということである。
「……『ウォースパイト運動』の本懐とは痛ましい破壊などではなく、母なる世界に新たなる秩序で終わりなき平和をもたらすことでありますのに……。罪深き十字架を子々孫々まで背負わせるザイフェルト家の過ちを見ればお分かりいただけると存じますけれど、人の思いや成し遂げるべき志は〝血〟で縛るものではございません。人類普遍の理想だからこそ何よりも自由であるべきです。……それが為に運命がすれ違い、全ての人と愛の心で通じ合えないという事実に、わたくしの心がどれほど切り裂かれたことか……」
格闘家どもは皆殺し――〝牢破り〟に行き着くほど勢いを増すかと思われた怒号に、発砲音が混ざり始めた。
暴徒化した受刑者に対する発砲は、刑務官の職務執行として幾例も記録がある。二年前を振り返るまでもなく、フォルサム刑務所でも暴動の鎮圧に銃器が使用されてきた。
その上、今度の
あるいは過激活動家への見せしめとする為、強硬かつ迅速な制圧が命じられたのかも知れない。刑務官たちから拳銃を奪い取ろうという雄叫びも聞こえてきたが、それは建物の間で反響する発砲音がマリオンの鼓膜を
同じ声が二度と聞こえなくなった理由は、入れ替わるようにして上がり始めた数多の悲鳴が表している。自身の遭遇したテロ事件が
「どうか目を逸らさないでくださいませ、マクリーシュ様。格闘技とは
道理という
建物から飛び出してきたのは揃いの作業シャツの女性たちだけではない。刑務官までもが先を争って『サタナス』の
刑務所内に
誰かの母親が愛する我が子ではなく『サタナス』の盾になることを進んで選んでしまうような〝汚染〟を目の当たりにしたマリオンは、口を拭うのも忘れて身を強張らせた。
産みの親であろうとも接触した人間の思想を全く塗り替えてしまう尋常ならざる影響力について、スティーブ・ジョブズに備わるような『
巧みな言葉やその場の雰囲気などを駆使して強烈に精神へと働きかけ、熱にでも浮かされたような状態で〝定められた目的〟に突き進むという狂気を対象の
当然ながら、
崇高なる理想の旗頭である『サタナス』を守る為、我が身を差し出そうとする誰もが脳の
小規模とは言い
もはや、それは『サタナス・フィールド』としか呼びようがなかった。
「……本当に……同じ人間……なのか……ッ⁉」
その一言をマリオンは先程も喉の奥に押し戻したが、正気を保つ為には今度こそ吐き捨てずにはいられなかった。
暴走した女性受刑者や同僚を追い掛けてきた刑務官たちも、マリオンと同じ恐怖で心を塗り潰されているのだろう。建物の向こうの過激活動家に同調しないよう警告を発するのが本来の職務であるが、誰もが怯え切った目付きで『サタナス』たちを遠巻きに眺めるばかりであった。
そして、その有り様こそが〝社会悪〟を〝必要悪〟として取り込もうと目論んだ結果であり、相応の報いというものであろう。
『サタナス』という通称は新約聖書正典に由来し、『バルトロマイの福音書』に
「先ほどシルバーマンが仰ったようにオランダは正しい選択をしました。わたくしはその善性を――人間の善なる本質を信じます。良心という名の自浄能力が世界を満たしているのですから、尊い命を拳で
自分を取り囲んだ〝同志〟たちを二つに割った『サタナス』は、地べたに座り込んだままのマリオンへ胸元の人骨笛を揺らしながら歩み寄ると、吐瀉物の上に片膝を突きつつ彼の頬に左右の手を添えた。
「マクリーシュ様の奥様は日本の方でございましたね。ご安心くださいませ。六年後の東京オリンピックまでに愛溢れる世界から格闘技は消滅していることでございましょう。第一回のアテネで掛けられた呪いから〝平和の祭典〟も解き放たれるのでございます」
近代オリンピックで初めて実施された格闘競技はレスリングである。これは一八九六年開催の第一回アテネ大会から今日まで実施され続けており、二〇一三年の
その歴史を紐解き、格闘競技が一世紀以上に亘って〝平和の祭典〟を蝕んできたと『サタナス』は説いたわけだ。これはオリンピックそのものに対する『ウォースパイト運動』の認識とも言い換えられるだろう。『NSB』の
「……それは〝予言〟ですか? それとも〝予言〟という方便を使って、格闘技から足を洗うように私の妻を恫喝しておられるのですか?」
「記者であるマクリーシュ様へ勝手ながら託させていただく〝預言〟でございます」
「……二度目の東京大会の前に、再来年のリオ大会がありますが? ブラジリアン柔術やバーリトゥードなどの好例から明らかな通り、格闘技の〝市民権〟は東京と――日本と比較になりません。何よりもレオニダス・ドス・サントス・タファレルという飛びっきりの化け物がいますよ?」
「ブラジルに『スーパイ・サーキット』はおりませんよね」
『サタナス』から返されたその一言で、マリオンの心臓は凍り付いた。
『スーパイ・サーキット』を発動させたのは、日本のMMA団体『
彼と同じ岩手興行に出場した妻の
リングを血で
万人を『サタナス・フィールド』で〝汚染〟するには、格闘技への恐怖感を共有し得る一種の象徴が必要である。『スーパイ・サーキット』ほど相応しい
日本人のMMA選手を妻に持つマリオンからすれば、二〇二〇年東京オリンピックまでに格闘競技が消滅するという〝予言〟どころではない。日本の『ウォースパイト運動』が一気に過激化するという最も恐れていた事態が今まさに起ころうとしているのだ。
(……この〝預言〟は編集部の主幹に報告するのでも記事にするのでもなくて、……ハーメルンの〝スポーツマフィア〟に
刑務所に面するアメリカン川を辿っていくと、昨年までの
二〇一四年現在、墓石には受刑者番号のみが刻まれている。これを偽ってしまえば彼女を狂信する過激思想家たちに亡骸を掘り返されることもあるまい。〝汚染〟の完了した刑務官による情報漏洩を憂慮するならば、ラフレシア・ガルヴァーニと同様の手段を
いずれにしてもフォルサム刑務所が魔王の宮殿に作り変えられてしまう前に〝始末〟を付けるべきではないか――『ウォースパイト運動』の暴威が最愛の妻へ及ぶ前に食い止めなければならないという私情も含めて、もはやマリオンは『サタナス』のことを〝生きていてはいけない存在〟としか思えなかった。
彼の
(格闘技だけの問題じゃない! このままにしておいたら、『ウォースパイト運動』の活動家までもが〝
『サタナス』の右頬に並んだ『愛』という漢字一字は、皮膚が
*
首都高湾岸線を几帳面と感じるくらい法定速度で走るタクシーの
助手席に座るのは紺色の
姫和子宅を発つ前に藤太がプロレスパンツから旅装に戻っていなかったら、キリサメは重度の車酔いを味わわされたことであろう。
『NSB』の体重別階級制度と照らし合わせるならばフェザー級に属するキリサメと比較して、ヘビー級の岳とミドル級の藤太は身の丈が一回りも二回りも大きい。
MMAを愛好する人々からすれば、昂奮する気配もない
無関心な
その一方で藤太が『
女子MMA団体『メアズ・レイグ』を破綻に追い込んだ
「――己の不利益を恐れて、どうして
樋口郁郎に喧嘩を売った――まるで友人宅へ遊びに出掛けたかのように軽く言い放つ藤太に対し、キリサメは謀略を
それどころか、「中身のない言葉で騙されるのは、利害しか価値観を持たぬ者のみ」と反対に諭されてしまった。初めて言葉を交わしてから半日も経っていないが、
〝暴君〟に逆らっては格闘技界で生きていけないと
藤太本人は信念一つを見失わなければ胸を張って生きられるだろうが、板挟みとなった麦泉は後輩の堂々たる立ち居振る舞いを眩しく眺めてはいられない。
その足で
お前の舌は悪口しか作れないのか――と、逢う人全員から呆れられる寅之助は、麦泉の後ろ姿を見送りながら、日本格闘技界に孤高の勇気を示した藤太に「捨て身でぶつかりさえすれば、何でも正当化されるってワケじゃないでしょ」と痛烈な皮肉を飛ばしていた。
〝外〟からの圧力にさえ揺るがない信念に基づいて生きることは気高いが、それを
これに対して藤太は「魔道に魅入られたときには腹を切って始末を付ける覚悟」と、己に一切の甘えを許さないという強い決意を示すことで応じた。
互いの波長が合ったのか、たちまち電知と打ち解け、長年の親友の如く心を通わせるようになった藤太が気に入らない寅之助は、タクシーに乗り込む前から厭味な言葉を浴びせ続けてきたが、揚げ足取りに勤しむ一方で事実を捻じ曲げた誹謗中傷は控えている。
一途な覚悟に潜む弊害を指摘したつもりであったが、その問い掛けにまたしても覚悟の二字で返す藤太に呆れ果てたのか、更なる皮肉を叩き付けることはなかった。
「……このまま日本に帰っちゃ来れねぇか? 樋口のバカに喧嘩を売るなら、海の向こうじゃなくて
時速八〇キロで流れていく
一瞬の驚愕を挟んでからキリサメが横目で様子を窺うと、岳にしては珍しく思い詰めた顔を窓ガラスに映していた。好意的に表すならば豪放磊落という彼なりに口に出すまいかと悩み抜いた末、最後は勢いに任せて喉の奥から絞り出したようだ。
それはつまり、『八雲道場』への帰還という意味である。
八雲岳らしからぬ弱々しい声からも明らかな通り、天地がひっくり返っても有り得ないのだと、彼自身が誰よりも理解している。
それでも抑えられなかったと
「……少なくとも、キリサメを〝客寄せパンダ〟として使い潰そうとする『
愛弟子の返事も予想通りであった為、岳は反駁を飲み下し、長く重い溜め息を
『八雲道場』の師弟は本心から互いを避けているわけではない。決して一方通行ではない親愛の情も受け止め合っている。何事にも無感情なキリサメでさえ頭越しに
「日本に居る間は世話にはなりますが、……どうしたって昔に帰ることは出来ませんよ」
外国人選手が主戦場を異境に移すということは、祖国で築いた生活の基盤を捨て去るという意味でもある。長期休暇を利用して外国の別荘に滞在することとは根本的に異なり、二つの〝居場所〟は気軽に往復できないのである。
しかし、進士藤太の場合は日本への帰還を不可能としている決定的な理由が別にある。そして、それをキリサメは随分と前から察していた。
もう一度、同じリングに立とうと師匠から打診された際、ほんの一瞬ながら藤太は自嘲の二字こそ似つかわしい表情を挟んでいた。その理由が極太の眉に集約されているのだ。
瓜二つの眉を持ちながら『進士』とは異なる家名を称し、八雲岳から息子と呼ばれる男の子がキリサメの
その嶺子は前夫が迂闊にも愛弟子のことを口にしたとき、首を絞め殺さんばかりに激怒していた。〝家族〟として迎え入れられたとはいえ、踏み込んではならない領域があることをキリサメは弁えている。だからこそ未稲にさえ確かめていないのだが、八雲・表木両家の間で進士藤太の名前が禁句になった経緯は己の想像通りと疑っていなかった。
その
「でも、『ダイニング
「日本に用事があるときは異種格闘技食堂にも顔を出していますから、別に久方振りでもありませんが。博多に
「初耳ッ! マジでオレだけ仲間外れだったんじゃねーかよッ!」
師弟の会話は沈黙に沈んで途絶えることはなく、程なくして再開された。岳も
口が上手いわけでもない
「第一、
「住み込みでサメちゃんのお世話してあげられるほどボクもヒマじゃないよ」
弁舌で
その藤太が親しくなったと認識した相手を
丁度、
「予断を許さぬ状況が続いているだけに誰かが何時でも
「何でだよッ⁉ この流れでまたオレに矛先だァッ⁉」
「意味不明という
「
「岳氏に同意せざるを得ません。〝例の道場破り〟が
藤太が呻くように口にした『
僅か一枚ながらキリサメも隠し撮りされた写真を見たことがあるが、MMAのリングは言うに及ばず、
黒い
彫りが深い顔は無機質とさえ思えるほど涼しげであり、自己主張が激しい肉体との落差がひたすらに薄気味悪かった。解き放った残虐性に酔い
栗色の髪の毛を短く刈り上げ、眉間の部分に怒れる鬼の顔が染め抜かれた鉢巻を締める
道場破りを始めたのがここ一、二年のことであり、勝利を得た
『
『
「ならば、その
「人権侵害という罪を犯し続けてきたと自分で自分を追い詰め、それを償いたくて歪んだ正義に
「俺の一にも満たない説明を十を超える形で補ってくれるキリサメも
「てめー、藤太。喧嘩の続きでもおっ
「キリサメの
「ボクも
藤太が述べた仮説は、格闘技界にとって聞き逃せないほど重い意味を持っている。
〝同志〟たちと共に『NSB』の
人智を超える格闘能力を備えた者が独り善がりな正義に狂い、枷もなく野に放たれたとすれば、それは
『ヨーロピアン柔術』という欧州発祥の〝近代総合格闘技術〟を
藤太が語る一字一句を聞き漏らすまいとする
自身にプロデビューへの〝道〟を拓いたきっかけとも呼ぶべき事件だけにキリサメは握り拳まで作っているが、岳が顔を強張らせたのは別の理由である。
諜報活動の専門家に力も借り、独自に足取りを追い掛けたというビェールクト・ヴォズネセンスキーの情報提供によって、
〝
ドーピングによって作られた重厚な筋肉の鎧を纏いながら、敏捷性や跳躍力が損なわれないのはバッソンピエール家の〝血〟が成せる
その
アメリカを追われた
仮にヴォズネセンスキーが予想した通りであるならば、己の手で産み落とした〝負の遺産〟をも
それはつまり、
ましてや藤太の所属先の裏事情まで絡んでいる。母親がフランス貴族の末裔という日仏
「しからば、寅之助不在の間は俺がキリサメを守ると誓おう。幸いなどと言うと語弊もあろうが、今回は博多に
「いつぞやの空手屋みたいなコトを言ってるよ。そんなに過保護だとサメちゃんにウザがられておしまいでしょ。『八雲道場』から蹴り出されないようせいぜい頑張りなよ」
「何を言うか。師匠の
「弟子の弟子なら我が弟子も同然みたいな謎理論まで始まっちゃったよ。愛され気質のサメちゃん的にはどうなの? 空手屋と恭ちゃんの掛け合わせみたいになってきたけどさ」
「進士氏を御剣氏と並べるのは幾らなんでも失礼だろう。あの人から弟分扱いされた意味が未だに分からないんだぞ、僕は。その上、勝手気ままに兄貴分を辞められて――」
自分と同じように両親がいないキリサメの孤独を思って涙まで流したというのに、その気持ちが届いていない
少なくとも
「――さっき『日本に居る間は世話にはなる』と仰いました……?」
「滞在中は東京での常宿に頼るつもりだったのだが、折角なら『八雲道場』に〝里帰り〟しろと師匠に言ってもらえたのでな。俺にとっては第二の故郷。……敷居を跨ぐことが許されたのなら、断る理由などあろうはずもない」
「こいつめ、何が敷居だよ。今さら水臭ェコトを言ってんじゃねーっつの。〝世界で最も完成されたMMA選手〟と一つ屋根の下で同じ釜のメシを喰ったら、キリーも対レオ戦のヒントが掴めること間違いナシ! 一緒に観た藤太の試合、『ルタ・リーブリ』の使い手が対戦相手だったろ? アイツ、レオの幼馴染みで昔っからの
「キリサメもジョアキンとの
「次戦に向けた準備と言うのなら、その僕に相談があって然るべきではっ」
「え~、キリーのド忘れじゃねェの? オレ、言っといたと思うぜ。多分。きっと」
事前に聞かされていたなら、一七年という人生の中でも過去最大というほど大きく口を開け広げて絶句することはない。
世界のMMAを牽引する『NSB』に
しかし、その藤太を『八雲道場』へ招き入れることに伴う
その
(というか、里帰りを受け
キリサメは〝犬笛〟と吐き捨てるくらい携帯電話を疎ましく感じており、岳から所持するよう持ち掛けられたときにも断ったのだが、今になってそれを後悔していた。未稲に連絡を取り、藤太と
暑苦しい二人から
頼りになる〝先輩〟
寅之助を自宅へ送り届ける為、下北沢の前に浅草へ向かっているのだから、彼と連携して本来の宿所に誘導する策も取りようがない。何よりも悪趣味極まりない享楽家のことである。この筋運びを見越した上で「ボクみたいな部外者が『八雲道場』の水入らずを邪魔しちゃ悪いし、一足先にお暇するよ」と鎌倉を発つ前に申し出たのかも知れない。
「折角の〝家族団欒〟なんだから
脳裏を
いっそ藤太の目を突いて病院送りにすれば、
後部座席の
摩天楼群の隙間を覗ける高架橋ならではの景色と言うべきか――
日本の
ましてや『
『ラッシュモア・ソフト』の
日本格闘技界の〝暴君〟と『
スポーツ医学の中でも格闘家・武道家の肉体を専門的に研究する〝格闘技医学会〟に在籍し、日常生活を蝕んでしまう後遺症や
「成長期の
「切羽詰まった状況だけに策を弄するのはやむを得ませんが、格闘技を愛する人たちに胸を張れなくなったら本末転倒。杖村さんの仰る通り、その一線だけは断じて譲れません」
「お前の
撮影用ドローンを両手で抱えたまま杖村医師と館山弁護士の猛抗議に晒され、目配せでもって擁護を求めた岡田会長にまで厳しい警告を受けてしまい、困り顔で肩を竦めるその男は、
進士藤太と共に日本MMAの黄金時代を支え、その
日本初の女子MMA選手でもある
奇策を講じる直前に足並みが揃わなくなった『MMA日本協会』を愉快そうに眺め、靴下も履いていない両足裏を打ち鳴らして
彼も
樋口体制の『
艶やかな着物の生地で仕立てた背広を羽織り、静かな微笑を浮かべつつも先程から一言も意見を述べていない
サッカー王国と名高いブラジルは現在もサッカー
下劣にも聞こえる笑い声を上座で受け止めたホワイトボードには、キリサメとライサンダー・カツォポリスの顔写真が並んで貼り付けられているのだが、これが格闘技雑誌の記事であったなら、
同じホワイトボードに黒いマーカーで大きく書かれた『
窓の向こうの高架橋を通り過ぎていくタクシーの
もはや、『スーパイ・サーキット』は逃げられない。その
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