その5:魔王~永久牢獄の中心で愛を叫ぶ滅びの聖女・調査対象:サタナス・フィールド/「未完の天下人」の旗が「火の国」に翻る時・四面楚歌の総合格闘技──予言と預言・それは1984年のサラエボから始まった

  五、I Shot a man in Reno, Just to watch him die



 恋人との逢瀬の直前のように鼻息が荒い老境の弁護士に伴われ、真新しさを留める廊下に靴音を響かせる間、その記者の脳内あたまのなかでは〝カントリー音楽ミュージックの王様〟と名高いジョニー・キャッシュの甘い歌声と、彼がつまくアコースティックギターの音色が流れ続けていた。

 列車が愉しそうにレールを駆け抜けていくような演奏が印象に残っているが、は今まさに左右の足で踏み締めているこの地に捧げられたナンバーであった。

 一九五五年七月に初めて披露され、やがてジョニー・キャッシュ自身の代名詞として知れ渡ることになるナンバーは『フォルサム・プリズン・ブルース』という。つまり、記者が首から下げているカードホルダーは、それ自体が重犯罪者専用の刑務所に面会として訪れた〝身分〟の証明書というわけだ。

 薬物中毒や逮捕といった醜聞を数え切れないほど繰り返した経験こともあって、社会から爪弾きにされた無法者アウトローの心に寄り添っていたジョニー・キャッシュは刑務所の慰問コンサートにも精力的に取り組んでおり、一九六八年一月一三日に自身のナンバーの〝舞台地〟でを催した際には、受刑者たちの口笛や歓声をも取り入れる形で『フォルサム・プリズン・ブルース』の公開録音を敢行し、全米で大反響を呼んだのである。

 がカリフォルニア州に所在する『フォルサム刑務所』であった。

 北米アメリカ最大の勢力を誇り、世界のMMAを主導してきた団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の忌むべき汚点であるドーピング汚染の実態と再起を入念に密着取材した『ゴッドハンド・ジャーナル』は、格闘技雑誌としては異例中の異例ながらジャーナリズム公益部門にいて二〇一三年にピューリッツァー賞を獲得している。

 その栄光を同誌にもたらした記者――マリオン・マクリーシュは格闘技とスポーツが専門である為、フォルサム刑務所に関しては〝カントリー音楽ミュージックの王様〟のアルバムに同じ名称を冠した物があったというおぼろげな記憶しか持ち合わせていなかった。

 カントリーやロカビリーはエルヴィス・プレスリーを好むマリオンだけに、この取材が決まらなければ身を入れて『フォルサム・プリズン・ブルース』を聞く機会もなかった。

 無論、取材に支障などきたさないようこの地の概略は事前に調べてある。

 一九七〇年には〝塀の外〟のような労使交渉権を有していないにも関わらず、受刑者たちが労働環境の改善を求めるという大規模かつ組織的なストライキ運動を起こしている。

 いわゆる〝刑務所ギャング〟も〝塀の中〟で恐るべき勢力を誇っているという。取材対象がそこに属していようがいまいが、自分からは絶対に接触を図らないよう情報提供者と編集部の主幹からしつこく釘を刺された事実が〝全て〟を物語っていると言えるだろう。

 チャールズ・マンソンといった凶悪殺人犯や、愛すべきこわもて俳優のダニー・トレホなどかれ悪しかれ全米に知れ渡るような受刑者ひとびとも服役したことがあり、マリオンの専門分野と接するところでは、『NSB』にいて〝パラスポーツとしてのMMA〟の発展を託された義足の選手――シロッコ・T・ンセンギマナが極めた『アメリカン拳法』の祖たる人物の名前も終身刑囚として記録に残っていた。

 設立は一八八〇年七月二六日である。一三四年という歴史を持ちながら、マリオンと同行の弁護士が進む廊下も、二つの靴音を跳ね返す天井も経年劣化が殆ど見受けられないのだが、ジョニー・キャッシュの余韻を感じることが難しいのは当然であろう。

 二人が訪れたのはフォルサム刑務所の中でも女性受刑者のみが収監される施設であり、敷地内の北端に位置するは昨年一月に完成したばかりなのだ。重罪人を引き受ける刑務所とはいえ、一年半しか経っていない内から〝刑務所ギャング〟より厄介な〝爆弾〟を押し付けられたものだ――と、マリオンはすれ違う刑務官に心の底から同情した。

 その〝爆弾〟こそが今日の取材対象である。アメリカという国家にとって扱いを誤れば致命傷を負い兼ねない存在だけに、監守が鋭く目を光らせる中、強化ガラスで仕切られた密室での対峙を予想していたマリオンは、談話室コモンルームのような部屋に案内されて面食らった。

 混乱を持て余す彼を更に打ちのめしたのは、分厚い扉の向こうから姿を現し、「刑務作業のに取材をお受けする非礼をお許しください」と詫びた小柄な女性である。

 青い作業シャツは他の受刑者と同一おなじだが、服装以外は異形としか表しようがない。

 一本の毛髪かみのけもなく皮膚が剥き出しとなった頭部や顔面にる一字を無数に彫り込んでいるのだ。部位に応じて大きさを調整しながら、全身に同じ刺青タトゥーちりばめているようである。は耳や指先にまで及び、遠目には夥しいアリが群がっているようにしか見えなかった。

 マリオンも妻が日本人でなかったなら、その一字が『愛』という漢字であることに気付けなかったかも知れない。額に彫り込まれたものが最も大きく、日本の鎧武者が被る兜の前立てのように思えなくもなかった。他は罪の烙印のように黒いのだが、のみが鮮やかな血のいろである為、余計に視線を吸い寄せられてしまうのだ。

 本来ならば受刑者に装飾品など許されないはずだが、彼女は首飾りのような〝何か〟を着けている。

 胸元に垂らされたのはペンダントトップではなく不思議な縦笛であった。白色に近い管状の〝何か〟の表面には等間隔に幾つかの穴が穿たれている。刳り貫かれた内部に息を吹き込んで鳴らすのであろう――と、マリオンに構造が分析できたのは、以前に鳥獣の骨片を加工した鷲の翼の骨笛イーグルボーンホイッスルを見たことがあった為である。

 『エッジワス・カイペル』が本名フルネームだが、で呼称される機会は裁判以外にはない。刑務所内では受刑者番号で、彼女のことを神格化する〝同志〟や、〝国家の敵〟として危険視する者たちの間では『サタナス』という通称ハンドルネームが用いられているのだ。

 ハーバード大学在学中に開発した大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームで全世界を夢中にさせるなど〝IT時代の寵児〟として大成功を収めながらも、現在はアメリカ合衆国大統領が搭乗している専用機エアフォースワンにサイバー攻撃を仕掛けた罪で服役中である。このテロ事件に関する余罪も数え切れず、今後は国家反逆罪に問われる公算も高いという。

 あらゆる格闘技を深刻な人権侵害と決め付け、その根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』のな過激活動家という呼び方も裁判記録にしばしば登場している。

 アメリカ社会からすれば〝空飛ぶホワイトハウス〟で『九・一一』を再現しようとした〝国家の敵〟でしかないが、〝同志〟のには超大国すら恐れずに格闘技という人権侵害に〝抗議〟した勇気と正義の守護聖人として映っており、その影響を受けた『ウォースパイト運動』は先鋭化の一途を辿っていた。

 個々の活動家は〝組織〟として連帯しているわけではない。SNSソーシャルネットワークサービスを通じて連絡を取り合い、群集心理の中で過激思想を膨らませ、攻撃すべき対象を発見した〝誰か〟の呼び掛けに応じてどこからともなく這い出して徒党を組むのが特徴であった。

 それにも関わらず、今や『サタナス』は全世界の『ウォースパイト運動』を束ね、意のままに操ることも不可能ではない影響力を有するに至ったのである。彼女が人権侵害に対する抗議を込めて骨笛を吹き鳴らせば、その対象にが殺到することであろう。

 格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルの記者であればこそ、マリオンは『サタナス』本人に確かめなければならないことがあり、担当弁護士を通じて取材を申し込んだのだが、拍子抜けしてしまうくらい簡単に承諾を得られ、当惑を抱えたまま収監先のフォルサム刑務所を訪れた次第である。

 何らかの意図があるわけでもないまばたきすら『ウォースパイト運動』の過激活動家を駆り立てる存在と化した『サタナス』は、担当弁護士を除いた面会が厳しく制限されている。その言葉を全米に発信し、新たな混乱を引き起こす原因となり兼ねない雑誌記者の取材などはそもそも刑務所側が許すまいと、マリオン自身が考えていたくらいなのだ。


「代表作の『エストスクール・オンライン』は勿論、それ以外のネットサービスやソフトウェアの開発でものことは以前から存じ上げていました。お母様に手解きを受けて、小さな頃からフィギュアスケートに親しんでおられたとか。スポーツはご自分での参加も観戦も趣味と認識しておりましたし、格闘技との接点も多かったのでは? それでも、特別に強烈な感情を持っておられるのがどうにも不思議でございまして」


 幾つも並べられたテーブルの一つに『サタナス』と向かい合って腰掛けたマリオンは、慎重に言葉を選びながら、格闘技を否定する思想活動に傾倒していった経緯をたずねた。

 そもそもカリフォルニアは格闘技が非常に盛んな土地である。彼女サタナスの本拠地であるパロアルトと同じシリコンバレーに属するサンノゼも、アメリカン拳法の道場スタジオがンセンギマナを中心として大いに賑わっているのだ。

 男女両方の施設での共有を情報提供者に確認することは失念してしまったが、他の刑務所と同様にでもボクシングを更生プログラムに組み込んでいるという。今日はヘビー級王者チャンピオンにも輝いた元プロボクサーのハナック・ブラウンがコーチとして訪問するそうだ。

 格闘技を『平和と人道に対する罪』としているであろう『サタナス』にとって、この環境は正気を手放し兼ねないほどの苦痛ではないか――そのように質問を重ねようとしたところで、マリオンは取材用の手帳を取り落としそうになってしまった。


しょくざい以外の何物でもございません。自らの過ちを罰し、決して許されぬと悟っていながらも罪を償いたい。心臓を食い破らんとする良心の脈動こそが最初はじまりしるべでございます」


 けがれを知らない少女が大人へと移ろっていくなかに突如として成長が止まってしまったとしか表しようのない不思議な顔を悲しみに染めながら、りし日の悔恨を紐解いていく『サタナス』であるが、小さな口で紡がれる一言々々が常人には咀嚼も反芻も難しく、記者としての経歴キャリアが長いマリオンでさえ受け答えを忘れて絶句するばかりであった。

 その一方で、彼の隣席に腰掛けた弁護士は首の骨が軋むのではないかと案じてしまうほど頷き続けている。少女こどものあどけなさと大人の思慮深さを綯い交ぜにしたような『サタナス』を中央に捉えた瞳は陶酔の二字で満たされており、その様子が視界に映り込んだマリオンは、身のうちより込み上げた嫌悪感が引き金の如く作用して冷静さを取り戻した。


「その『エストスクール・オンライン』を開発つくったときも学園生活の疑似体験で完結させるべきだったのです。それなのに既存の遊び方ルールに囚われ、プレイヤー間で暴力性を増幅させ合うシステムを組んでしまいました。豊かな創造性を提供するのが使命であったのに、正反対の破壊を世界中に蔓延させてしまったのですよ。これが創造の喜びに対するぼうとく、背負うべき大罪でないなら〝何〟と定義すればよろしいのでしょう」


 マリオンが先に題名タイトルを上げ、『サタナス』が懺悔と共に語った『エストスクール・オンライン』とはインターネット回線を通じて世界中のプレイヤーと一緒に遊ぶ大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームである。

 その名の通りに仮想空間バーチャルの広大な『学校』を舞台としており、『生徒』になりきったプレイヤーが力を合わせて様々な事件イベントを解決していくのだ。ゲーム内では行動を共にするグループを『学級クラス』と呼称し、そのメンバーを『同級生クラスメート』と呼称している。

 『仮想空間バーチャルの学生』という基本ルールに則っている為、ゲーム画面で動き回る夥しい数のキャラクターは性別を問わず色とりどりの学生服を纏っている。学ランやブレザーなど制服の種類やデザインも自由に選べるのも魅力の一つであった。

 キャラクターの頭上には横罫線のノートを模した小さな吹き出しが表示されるのだが、これはプレイヤーの発言が即座に反映されたものであり、チャットツールに相当する機能を果たすのだ。インターネット上の繋がりでありながらも、日常生活を共にするような感覚が双方に芽生え、その関係から交際・結婚にまで発展する事例も少なくなかった。

 あらかじめプログラムされている事件クエストを定められた法則に従って解決クリアするだけでなく、プレイヤーの数だけ遊び方が生まれるという生身の人格と仮想空間バーチャルの一体化を取り上げて〝創造の喜び〟と言い表したのであろうが、開発者サタナス本人はそこに負の側面を見出し、生涯を費やして償うべき大罪とまで煩悶していた。

 〝ゲーム〟である以上は進行を妨げるキャラクターが欠かせず、運営側もプログラムに基づいてプレイヤーの前に立ちはだかる〝敵〟を用意している。同作エストスクール・オンラインでは『生徒』が溜め込んだ不満やストレスによって生み出されたという設定の怪物がこれに該当するのだが、一人ではとても太刀打ちできない強敵を『学級クラス』一丸となって撃破するオンラインゲームの醍醐味そのものを開発者サタナス自ら否定し始めたわけだ。


「多くのテレビゲームがそうであったように、〝敵〟を倒して操作キャラを育てるという典型的ポピュラー遊び方システムを踏襲し、奇抜に走らなかったのが大ヒットの秘訣だと幾つものメディアで絶賛されていますよ。しかも、は残虐な描写を排除して子どもでも安心して遊べる環境を企画立案の当時からスタッフに徹底させたのですよね。〝敵〟を倒すのでなく『懲らしめる』というように。他のオンラインゲームよりも暴力性が格段に低いことを評価する声は国内外から聞こえていますよ」

「手に手を取って心通わせ、青春の喜びを分かち合うクラブ活動の尊さを誰にでも気軽に体験していただきたかった。……その一心が判断を致命的に誤らせたのですから、わたくしは如何なる謗りも甘んじて受ける覚悟でございます」

「開発者の反省と遊ぶ側の感想は往々にして一致しないものではありますが、クラブ活動というシステムこそがキャラクター育成の自由度を無限に広げたと、特に好評であったように記憶していますよ。の願った通りに実現されたのではないかと」

「ときとして〝気軽さ〟という心理状態は麻薬にも勝りましょう? NPCノンプレイヤーキャラクターとはいえボクシングや空手といった破壊の〝力〟で〝敵〟を虐げる内に暴力の快楽が芽生え、やがては〝現実〟の社会でも攻撃性の高い手段が正当と錯覚するようになる――仮想空間バーチャルと人格を〝同じ世界〟としてシンクロさせながら、クラブ活動を敬意の交換という平和な競争ではなく、戦争の火種にしてしまった罪は極刑こそ相応しいと心得てございます」


 代表作エストスクール・オンラインに対する好意的な評価をどれほど例に引いても、がね色の長い睫毛で伏し目となる『サタナス』の憂い顔は変えられなかったが、その理由はただすまでもあるまい。

 『生徒プレイヤーキャラクター』は種々様々な『クラブ』に所属することが可能であり、経験値を積み重ねることによって戦闘バトルを有利に進められる特殊能力スキルを体得できる。柔道JUDOを選択した場合、投げ技や寝技によって通常攻撃よりも大きな痛手ダメージを〝敵〟に与えられるというわけだ。科学系の『クラブ』では知力が伸びやすくなるなど能力パラメータの成長率とも関係が深いのである。

 〝現実〟のクラブ活動に即したシステムも『エストスクール・オンライン』の遊び方を大きく左右するのだが、その在り方を指して考案した本人サタナスは「プレイヤー同士で暴力性を増幅させ合うモノ」と嘆き続けていた。


かないでください。貴女あなたの崇高な魂はこの私が他の誰よりも理解しています」


 老境の弁護士が身を乗り出して手を差し伸べたが、罪と罰の意識に苛まれる姿は、アメリカの歴史に最悪の二字と共に名を残すテロリストとは思えなかった。『愛』の一字で全身を埋め尽くすという奇抜な刺青タトゥーさえ意識しなければ、七難八苦の試練を自らに課す聖女のように錯覚してしまうことであろう。

 翻せばは、自らが起こしたテロ事件を〝正義〟と信じて疑わない証拠でもある。

 『サタナス』が攻撃したのは大統領専用機エアフォースワンだが、真の標的は大統領本人ではない。政府の仕事を見学する為に名門学校から選抜された仲間たちと共に同乗していた少女――『NSB』副代表の孫娘と、祖国ルワンダを代表して機内で表敬訪問する予定であったンセンギマナの二人を精神的に追い詰めることだけを狙い、を巻き込む形で常人の理解を超えた凶行に及んだのである。

 しょくざいと仰々しく連呼しながらも、自分が重犯罪者専用の刑務所に収監された意味は全く理解できていないのではないか――マリオンにはそのようにしか考えられなかった。

 無法者アウトローに心を寄せたジョニー・キャッシュでさえ手に負えないであろう狂乱を「崇高な魂」などと擁護した弁護士も間違いなく〝同類項〟である。シルバーマンというこの老人は〝法の番人〟でありながら〝正義の同志〟をした捜査当局や、損害賠償を求める『NSB』との闘争に明け暮れているのだ。


「人間という生き物は愚かで哀しいと、つくづく噛み締めておりました。わたくし自身は言うまでもございませんが、ドイツのザイフェルト家も、オランダのオムロープバーン家も、大罪の埋め合わせに善行を積んだところで現実逃避に過ぎません。挙げ句の果てには故郷を追われた難民を新たな戦争の尖兵に仕立て上げようとは……。欧州ヨーロッパ社会の救済どころか、戦雲を自ら呼び込んでおられるようなものでございましょう」

「……ひょっとするとは『ハルトマン・プロダクツ』が傘下の競技団体に難民選手アスリートの出場枠を新設できないか、模索していることを仰っているのですか? 同社の難民支援は篤志以外の何物でもありませんし、支援先の難民キャンプとの連動からスポーツ用ヒジャブの開発という国の垣根を超えた新時代に辿り着いたと思うのですが……」

「難民高等弁務官が戦争の火種に息を吹き込むのも嘆かわしい限りです。ましてやアメリカ人が……。ゆくゆく欧州ヨーロッパの秩序は〝自由〟を建前とする暴力に壊され、狂気のうねりはアメリカに帰ってくることでしょう。〝誰か〟がそれを食い止めなくては……」


 『ウォースパイト運動』のおぞましさを改めて思い知らされたマリオンの眼前で、『サタナス』は欧州ヨーロッパの情勢に憂色を濃くしていく。現実問題として出場そのものが困難な〝難民選手アスリート〟の競技大会参加を実現させようと力を注ぐ『ハルトマン・プロダクツ』や難民高等弁務官に取材したことがあるマリオンは、シルバーマン弁護士から咳払いで注意され、〝プロ〟の記者失格と自覚しようとも、不愉快な表情かおを抑えられなかった。



                     *



 ドイツ経済の一翼を担う世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』の本拠地と同じニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属し、ヴェーザー川を挟んで隣接する小村には、同企業が資金・物資両面で支援する難民キャンプが設置されていた。

 中世にいて〝笛吹き男〟の伝説の舞台となったぐんハーメルンから訪れた『ハルトマン・プロダクツ』の社員と難民高等弁務官事務所の職員による合同視察のなか、前者に所属する『格闘技界の聖家族』の御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンもこの地で暮らす人々と運動する予定だったのだが、トレーニングウェアへ替えた直後、〝天敵〟に捕まってしまった。

 一方的に毛嫌いしている難民高等弁務官のマイク・ワイアットから手招きされ、アフリカ大陸で盛んなボードゲームの対戦相手を不本意ながら務めることになったのだ。

 政治的混乱が続くウクライナに対してロシアが強行した軍事介入と、これによってクリミア半島に大量発生した難民が欧州ヨーロッパ全体に与える影響など、雑談と呼びがたを交えながらの対戦である。

 再来年開催のリオオリンピック・パラリンピックに〝難民選手アスリート〟が出場できるよう東奔西走し、IOC国際オリンピック委員会などに働きかける難民高等弁務官と、同大会にも『ハルトマン・プロダクツ』は、今後も強固な協力体制を維持する方針であるが、ストラールも〝接待試合〟のつもりはない。それにも関わらず、一勝すら挙げられなかった。

 難民高等弁務官マイク・ワイアットは〝プロ〟並みの腕前であり、手も足も出なかった。こういった遊戯ゲームが得意な兄であったら、きっと返り討ちにしてくれたはず――心の中で呟いた負け惜しみが情けなくなり、ストラールはがね色の三つ編みが上下左右に暴れる勢いでかぶりを振った。


「……私一人を揶揄して弄ぶだけなら構いませんが、くれぐれも『ガダン』の前でキリサメ・アマカザリの話題を出さないようにお願いします。あの選手の全存在はガダンの将来に暗い影を落とし、真っ直ぐに進むはずであった〝道〟を狂わせます。難民選手アスリートの権利拡大に力を尽くしておられる難民高等弁務官あなたにとっても、それは望むところではないでしょう」

「心外だなァ。別にストラールの集中力を乱そうと思って、遊戯ゲーム中に例の新人選手ルーキーを持ち出したワケじゃないんだぜ。つまんねぇ真似してまでに勝ちたいとも思わねぇし」


 対戦が一段落し、難民キャンプの子どもたちが手作りしたボードゲーム一式をきずなど付けないよう細心の注意を払って片付けながら、遊戯ゲームの最中には外していたゴーグル型のサングラスを装着し直したストラールは、黒いレンズを挟んでも分かるくらい鋭い眼光でマイク・ワイアットの軽挙妄動を牽制した。

 キリサメ・アマカザリとは記念すべきプロデビュー戦で自身の立つリングを血と暴力でけがした『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーである。人間という種を超越する異能ちから――『スーパイ・サーキット』によって格闘技界に激震を走らせた少年とも言い換えられるだろう。

 余人には意味不明であるが、その異能スーパイ・サーキットを『ラグナロク・チャンネル』などと呼んでいるストラールにとっては、目の前の天敵マイク・ワイアットにも匹敵するほど忌まわしい存在であった。

 『スーパイ・サーキット』自体にもオムロープバーン家とこれに関わる〝身内〟以外には理解できない感情を抱いているが、それ以上に〝最年少選手〟と大々的に喧伝されながらプロデビューを果たしたキリサメが〝難民選手アスリート〟としてつことを希望している少年にからぬ影響を与えてしまうことをストラールは恐れていた。

 二年前に大統領選挙が実施され、統一政府も発足したものの、依然として各国の外務省が退避勧告を取り下げないほど不安定なソマリアからこの難民キャンプに逃れてきた十代半ばの少年だ。アラビアの言語ことばで〝明日〟を意味する『ガダン』という名を称している。

 祖国ソマリアでは心無い大人たちから〝少年海賊〟に仕立て上げられ、略奪と殺戮の場に送り込まれていたのだが、現在は同じ境遇の同世代こどもたちをまとめるリーダーとして立ち回っており、仲間を支える為に報酬ファイトマネーが見込める〝プロ〟の格闘家を目指していた。

 ストラール自身も賛成しているが、生命いのちに関わる事故や将来を壊してしまう後遺症を防ぐというから欧州ヨーロッパでは未成年こどもの格闘技参加に規制を設ける国が少なくない。

 即時には希望のぞみを叶えられない理由を諭され、数年先のプロデビューに焦点を合わせるという提案を受けれたガダンであるが、自分と何歳いくつも変わらない選手が日本MMAのリングに立っている事実を知ってしまったなら、『天叢雲アメノムラクモ』に出場すると言い始めるはずだ。

 〝客寄せパンダ〟を好んで弄する『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表――ぐちいくが世界のMMAの先駆けである『NSB』でさえ現時点では出場枠を設けていない〝難民選手アスリート〟に興味を持たないはずもあるまい。〝暴君〟からに選ばれ、『天叢雲アメノムラクモ』であれば出場条件を満たしているといった甘言によってガダンが籠絡されることこそ最悪の筋運びシナリオであった。

 発砲時の強烈な反動ブローバックと成長期半ばの体格が合致していない突撃銃アサルトライフル――カラシニコフ銃を担ぎ、襲撃対象の甲板に乗り込んでいく海賊行為を通じてガダンはを豊富に積んでいる。波で動揺する船上の〝実戦たたかい〟から独特の〝感覚〟も養っていたが、は選手の命を守るルールに基づいて執り行われる〝格闘競技スポーツ〟の試合とは全く異なるのだ。

 体重別階級制度を設定せず、他団体では反則に定められている危険行為を認め、MMA興行イベントとしての在り方を疑問視される『天叢雲アメノムラクモ』ではなく、『ハルトマン・プロダクツ』傘下の競技団体で望み通りの成果を得られるようガダンを大切に育てたいと思っている。

 海の彼方のMMA興行イベントからドイツの難民キャンプに波及する悪しき影響を受けて、『格闘技界の聖家族』の御曹司による目標設定が破綻させられる可能性も低くはなかった。

 キリサメ・アマカザリも〝格闘競技スポーツ〟の試合場リングとは掛け離れた〝闇〟の底で血と汚泥どろまみれ、生と死が鼻先ですれ違う〝実戦〟の中で殺傷ひとごろしの技を編み出したという。一国の首都の裏路地と海賊船という差異ちがいこそあれども、ガダンの出自と似通っているわけだ。


「ガダンがキリサメ・アマカザリに自分を投影させるような事態は断じて避けなければなりません。MMA発祥のアメリカで生まれた貴方ならご理解いただけるはず」


 ストラールより早くガダンを見出したのがマイク・ワイアットである。難民キャンプを視察している最中にガダンと出逢い、格闘家デビューという希望ゆめを受け止め、『格闘技界の聖家族』の御曹司に引き合わせたのも、この難民高等弁務官なのだ。

 その上、マイク・ワイアットは既成事実を作り上げて思い通りの筋運びに誘導するような計略を涼しげな表情かおでやってのける曲者だ。だからこそ、ストラールはガダンを惑わす名前を決して口にしないよう念入りに釘を刺さずにはいられなかった。


「そんなに引っ掛かるのかい、例の『スーパイ・サーキット』が。失礼を承知で言わせてもらうがよ、警戒を通り越してキリサメ・アマカザリに怯えているようにも見えるぜ?」


 次期国連事務総長の最有力候補と目されるほどの大人物をストラールが信用し切れない理由は、に集約されていた。

 己の記憶力が信じられないストラールであるが、『スーパイ・サーキット』に抱いたくらい感情どころか、その異能ちからについては彼の前で口にしていないことは断言できる。

 それにも関わらず、心の奥で渦巻く懊悩を目の前の天敵マイク・ワイアットから言い当てられてしまったストラールは、品性を疑われるような舌打ちを抑えられなかった。

 オムロープバーン家の〝深淵〟を覗き込むことになる為、昼食時の炊事場を手伝っている伴侶マフダレーナ親友ギュンターが『スーパイ・サーキット』に対する過剰反応の真相や、を『ラグナロク・チャンネル』と呼んでしまった原因きっかけ部外者マイク・ワイアットに明かすとは思えない。

 おそらくはキリサメ・アマカザリひいては『スーパイ・サーキット』にまつわる断片的な情報をかき集め、これに基づいて黒いレンズの向こうに隠された葛藤を推し量ったのであろう。ストラールにはそれが不愉快でならなかった。


「……私の瞳は未来を予見する魔眼の類いではありませんが、知識や経験に基づいて一本の道筋を脳内チャンネルに付ける演算には多少なりとも自負があります。このの見立てが誤りでなければ、キリサメ・アマカザリの異能ちからはトラウマの発作に近い〝何か〟を引き金として発動させているはずです。生半可な手段で人間という種を超えられるわけがありません」


 年齢不詳の若々しい顔に悪ふざけのような表情を貼り付けていたマイク・ワイアットが神妙の二字こそ相応しい形で眉根を寄せたのは当然であろう。

 重々しい声でストラールが述べた「トラウマの発作」とは、心的外傷後ストレス障害PTSDに伴うパニック発作か、これに相当する精神状態を指しているのだ。


「神懸かったはやさで飛び回れるようにフラッシュバックか何かが無理矢理に肉体からだを動かしたってのか? 心理的な負荷が強烈な身体的反応を引っ張り出すコトはオレも承知しちゃいるがなァ……」

「名を口に出すと舌が穢れる例のスポーツ・ルポライターの宣伝文句を借りるなら、〝火事場のクソ力の究極進化形〟――『闘争・逃走反応』の一種と言い換えたほうが正確に近いことであろうと、私は〝あの異能ちから〟を読み解きました」


 ストラールが口にしたのは我知らず『ラグナロク・チャンネル』と呼んでしまった異能ちからに対する憶測であり、その概略に過ぎない。

 初陣プロデビューのリングでキリサメが解き放った『スーパイ・サーキット』を一種の急性ストレス反応と読み解いた理由は、詳細に解説すれば半日ほどの時間を費やしても全く足りない。そもそもストラールには天敵マイク・ワイアットに対してそこまでの労力を割く義理もない。

 それでも難民高等弁務官は僅かな説明から「トラウマの発作」という一言に込められた意味に辿り着いた様子であり、二度三度と躊躇いがちに首を頷かせていた。

 人間に限らず、動物は死に瀕するほどの窮地に立たされた瞬間、想像を絶する〝力〟を身のうちから引き出し、奇跡を起こすことがある。闘争をもってして自身を脅かす要因を排除するか、〝神速〟ともたとえられるほどのはやさで死地から逃走するか。情況によって心身に生じる反応は異なるものの、がアメリカの生理学者――ウォルター・ブラッドフォード・キャノンが提唱した『闘争・逃走反応』である。

 オムロープバーン家は言うに及ばず、『ハルトマン・プロダクツ』でさえ『スーパイ・サーキット』を研究対象と認定していない現段階では、あくまでもストラール自身の知識と経験を材料とする仮説に過ぎないが、いて確認される様々な身体的反応は異能の名付け親である銭坪満吉スポーツ・ルポライターや、『天叢雲アメノムラクモ』が広報戦略として盛んに喧伝する〝火事場のクソ力の究極進化形〟とも多くの部分で重なるのだった。


「わざわざ『トラウマの発作』を持ち出したのはか。ガダンが〝心の傷〟を穿ほじくり返して『スーパイ・サーキット』の真似事に走るのはオレも賛成できねェわ」


 答え合わせを求めるかのようなマイク・ワイアットの眼差しに対して、ストラールは声なく頷き返した。

 捨て駒同然の〝少年海賊〟として望んでもいない略奪に差し向けられ、幼い魂を引き裂かれたガダンは、それが原因で一切の言葉を紡げなくなっている。普段の立ち居振る舞いは快活だが、〝心の傷〟は周囲まわりの仲間でさえ完全には理解できないほど深いのであろう。

 それ故にストラールはキリサメ・アマカザリの〝全存在〟からガダンを遠ざけたかった。万が一にも『スーパイ・サーキット』という異能ちからを知り、難民高等弁務官マイク・ワイアットが懸念した通りの行動を取ってしまったなら、考えられる最悪の事態を迎えることは間違いない。

 忘れたくても忘れようがない〝心の傷トラウマ〟を意識的に反復させれば、人間は容易く壊れてしまう――その〝末路〟まで含めて、『格闘技界の聖家族』の御曹司は『スーパイ・サーキット』に内在する危険性を誰よりも理解していた。

 深紅あか血涙しずくを撒き散らしながら〝幻の鳥ケツァール〟の如くけ、対戦相手のじょうわたマッチをリングごと粉砕したが、おそらくは類例と目される『闘争・逃走反応』を遥かに凌駕する負荷がキリサメ・アマカザリの心身に牙を剥いたはずだ。

 急性ストレス反応が脳や心臓に損傷ダメージを与えることは医学的見地からも判明している。手足が伸び切っていないガダンが〝心の傷トラウマ〟の悪化も厭わずに『スーパイ・サーキット』を試みた場合の代償など二人には恐ろしくて想像できなかった。


「オレはガダン以上にキリサメ・アマカザリが心配になってきたぜ。競技選手アスリートは故障を誤魔化しながら闘う宿命だけどよ、今の話を聞く限り、とても五体満足とは思えねぇよ」

「……それが私にも信じられないのです。日本での報道をそのまま信用するならば、プロデビュー戦の窮地で初めてしたのではなく、祖国ペルーで戦っていた頃には既に宿っていたそうで……。頻度は不明ながら、あのような異能ちからを繰り返し発動させて肉体からだが、……脳が壊れないとはとても思えません。仮に無事であるなら〝天〟は不平等な――」


 人間という種を超越しているのは死神スーパイの名を冠した異能ちからではなく、その〝器〟として選ばれたキリサメ・アマカザリの肉体ではないのか――虚ろとしか表しようのない薄笑いを浮かべながら金髪ブロンドの三つ編みを弄ぶストラールであったが、呻き声と共に紡がれた言葉はマイク・ワイアットの反応を待たずに遮られてしまった。

 快活という二字を体現するかのような足音が難民たちの暮らすテントの向こうから勢いよく近付いてきたのだ。

 『格闘技界の聖家族』の御曹司と難民高等弁務官の会話にいてを務めていたソマリアの〝少年海賊〟――ガダンその人である。

 短い黒髪は小さく縮れ、丸く大きな双眸が幼さを際立たせている。思春期を迎えたばかりとおぼしき顔を見つめるたび、ソマリアの首都モガディシオで人身売買ブローカーに誘拐され、海賊船に売り飛ばされたという壮絶な生い立ちが脳裏に甦り、ストラールは胸が締め付けられた。

 赤くけた褐色の大地を彷彿とさせる肌をくたびれたからで包み、その上からはっと呼ばれる日本の上着を羽織るという様式スタイルも、以前に逢ったときと変わっていなかった。

 著しく統一感を欠いた組み合わせだが、いずれも日本から送られた支援物資である。

 紐に括り付けて首からぶら下げている小さな布袋を振り回すようにして駆けてきたガダンは、ストラールの正面に立つや否や呼吸を整えるのも忘れてからの袖を捲り、両腕にちからこぶを作って見せた。

 成長期の終わっていない未成年と慎重に向き合う欧州ヨーロッパ格闘技界の現状が理解できず、仲間たちの為に報酬ファイトマネーを求めてプロデビューを焦っていた頃は、大人が相手でも互角以上に渡り合えると戦闘能力を誇示する仕草ゼスチャーでもって即日の興行イベント出場を訴えていたのだ。

 ストラールの提案を承諾した後は、海賊のような〝実戦たたかい〟ではなく格闘家の試合に欠かせない基礎的な訓練トレーニングと勉強に専念し、ちからこぶを通じた強硬な要求も控えていた。

 その封印を解いてまで『格闘技界の聖家族』の御曹司に訴えたいことがあるわけだ。心の奥底から噴き出した衝動とも言い換えられるだろう。顔の隅々まで紅潮するほど昂っており、命懸けで目的を果たさんとする表情であった。


「――悪い悪い、ストラール! お前、まだキリサメ・アマカザリのことをガダンに話してなかったんだよな~! 兄貴分のをうっかりっちまってすまなかった!」


 ガダンの後から追い掛けてきたじゅうどう姿の男性が頭を掻きつつ発した一言によって、ストラールはくだん仕草ゼスチャーが急に復活した理由を悟り、膝から崩れ落ちてしまった。

 その隣に立つマイク・ワイアットも力瘤が〝何〟を要求していたのかを悟り、ガダン当人とじゅうどう姿の男性を交互に見比べながら双眸を幾度もしばたたかせ、先程までの饒舌を忘れたかのように呆然と大口を開け広げた。

 復活したのは力瘤という仕草ゼスチャーだけではない。プロデビューへの渇望が再びガダンを衝き動かしていた。その火をけた張本人は、改めてつまびらかとするまでもなかろう。

 難民高等弁務官事務所の職員スタッフではないが、『ハルトマン・プロダクツ』へ所属しているわけでもない。〝難民選手アスリート〟として〝プロ〟の格闘家を目指すガダンに興味を持ち、今回の視察へ特別に加わったストラールの古い友人である。

 ガダンより背が高く、ストラールと比べれば頭一つ分小さい――欧米の基準ではやや小柄と表すのが相応しいじゅうどう姿の男性はオランダ出身うまれの武道家であり、ファーストネームは『バールーフ』という。

 口を滑らせてしまった旨をストラールに詫びる一方、悪びれた様子もなく、が痛恨という二字を添えるべき失言であったことにさえ気付いていないのだろう。

 陸に打ち上げられた魚のように口を開閉させ続けていたストラールは、次いで気品ある立ち居振る舞いが求められる御曹司の〝立場〟をかなぐり捨てて頭を掻きむしり、失態に無自覚で底抜けに能天気なバールーフの首へと両手を繰り出した。


「一七世紀を代表する哲学者にあやかった名前とは思えないその浅慮……! 昔ッから一向に治りませんね⁉ 何とかは死ななきゃ治らないと聞きますけど、どうしますッ⁉」

「俺には選択肢がなさそうな感じだな、おい! 質問の恰好で死刑宣告してくるなんざ、昔のストラールに戻ったみたいで懐かしさにむせび泣きそうだ!」


 歯を食いしばりながらバールーフの首を絞めるストラールのすぐ近くでは、ガダンが自身の背中を両の親指でもって示していた。

 はっの背面には幾何学模様のように角張った字体で『天飾』と白く染め抜かれている。藍色の布地と鮮やかな好対照になっている二字がキリサメ・アマカザリの家名ファミリーネームと同じ読み方であることまで吹き込まれたのであろう。

 〝心の傷〟が原因で声を発せられなくなっているものの、耳は健常である。バールーフが喋っているのは全世界で広く通じる英語であったが、勉強の成果もあって近頃のガダンはソマリアの公用語ことば以外も聞き取れるようになっている。

 欧州ヨーロッパの格闘技団体への参戦に向けた勉強だが、今日はが裏目に出てしまった――ストラールにはそのようにしか思えなかった。

 ちからこぶによる戦闘能力の誇示と、『天飾』の二字を指し示す仕草ゼスチャー――二つの行動から導き出される答えは一つである。はバールーフの首を絞め上げる理由にも通じるわけだ。

 『格闘技界の聖家族』とも畏敬されるオムロープバーン家であるが、その格闘技界から〝外〟に出ると、家名ファミリーネームを耳にしたこともない人間が圧倒的に多くなる。一方でバールーフ・デ・ハウアーという本名フルネームは四年に一度、全世界の人々が必ず目にするのだ。

 二〇〇八年キンオリンピックと二〇一二年ロンドンオリンピックで二連覇を成し遂げた柔道家である。一九六四年東京オリンピックで日本代表をくだし、柔道競技の国際化を加速させた金メダリストを師匠に持ったバールーフは、で〝格闘技王国〟たるオランダの威信を守り続けてきたのである。

 尤も、ストラールの場合は祖国オランダを代表する武道家ではなく亡き兄の親友として接してきた時間のほうが遥かに長い。度を越した軽率さに口汚い文句を垂れながら、実兄同然に慕うバールーフが悪意をもって告げ口する人間でないことも理解していた。

 オランダ出身うまれの格闘家による犯罪が多発したことを背景として、同国では二〇一一年から格闘技興行イベントが行政単位で規制され続けている。つまり、〝格闘技王国〟に生まれながら傭兵の如く国外に活動の場を求めなければならない選手で溢れているという意味だ。

 その発起人となったアムステルダム市長に対し、オムロープバーン家は格闘技興行イベントの規制解除と格闘技そのものに対する誤解を晴らすべく直接交渉などを繰り返してきたが、国際社会の最前線でオランダの〝誇り〟を守るバールーフも交渉団に名を連ねていた。

 ストラールには最強の味方であるが、軽はずみな言行の全てを擁護することも難しい。

 用心棒稼業の最中に凶弾の犠牲となったキックボクサーを市庁舎側のスポーツ政策担当者から侮辱された際には愛嬌ある顔を狂気に染め上げ、殺意を漲らせた五指でもって相手の胸倉を掴み上げたのだ。

 市長がすぐさま非礼を謝罪して収まったが、仮に背負い投げでも繰り出していたら、これまでの交渉が吹き飛ぶだけでは済まず、むらただひろに続く三連覇が期待されている二〇一六年リオオリンピックへの出場権まで剥奪されたことであろう。

 憤怒いかりのみに限らずバールーフは昂揚するほど自制心が効かなくなる傾向が強く、二〇年近く付き合ってきたストラールでさえ〝何〟を仕出かすか、完全には読み切れなった。


「オランダは勿論、欧州ヨーロッパ全体で〝少年格闘家〟が認められる目途は立たねぇけど、日本のMMAっつうか、『天叢雲アメノムラクモ』には前例が出来たからガダンの夢を最短距離で叶えられるって助言アドバイスしたら、やる気もグングンと跳ね上がってさぁ~」

「もはや、うっかりというレベルじゃないな⁉ わざとか? わざとやっているのか⁉」

「ストラールは真面目に考え過ぎなんだよ。何時でも何処でも闘ってやるっていう気概は格闘家にとって何より大事じゃね~か。それに火を入れるのも先輩の務めじゃん!」


 この上なく楽しそうに首を絞められるバールーフは、ガダンが胸に秘めた大志こころざしを純粋に応援している。それはストラールも理解している。いずれ〝難民選手アスリート〟としてつ少年の特訓トレーニングに協力する為、オランダからドイツの難民キャンプまで足を運んだのだ。

 初対面ながらガダンとバールーフは大して時間を要さずに意気投合し、先程まで肩を並べてロードワークに励んでいた。ストラールも二人に合流するつもりでいたのだ。天敵マイク・ワイアットの手招きを無視して直行していたなら、あるいは最悪の事態を防げたのかと思うと、腹立たしさが極まって脳の血管が張り裂けそうであった。

 怒り狂うストラールの右腕を両手で引き、自分のほうへと意識を向けさせたガダンは、バールーフのに従うと言わんばかりに胸を張ってみせた。それはつまり、『ハルトマン・プロダクツ』傘下の競技団体ではなく、日本の『天叢雲アメノムラクモ』からプロデビューを目指すという方針転換の主張である。

 日本の〝少年格闘家キリサメ・アマカザリ〟がやってのけた挑戦ことを大して年齢も変わらない自分には不可能だと決め付ける理由はない――そのように訴える眼差しを受け止めたストラールは、言うまでもなくバールーフの首を絞める力を強めた。


「やはり、こういう筋運びになった……! どう責任を取るおつもりですか⁉」

「俺にだって多少は日本にツテがあるんだぜ? 『MMA日本協会』にも掛け合ってこのコの希望を叶えてみせるさ! これぞの責任の取り方だろう?」

「私が申し上げているのはじゃないし、それより何よりオランダを発つ前からガダンにキリサメ・アマカザリの話だけはするなと言い付けておきましたよね? 此処へ立ち入る直前にも自重しろと念を押しましたよね?」

「俺もバカじゃないからランニングに出発する前はちゃんとおぼえてたぞ。どの辺を通過した頃かなぁ、爽やかな風を全身で浴びてる間に気持ちが大らかになっちまってさ。口止めされてたコトを想い出したのは、昼メシのイイ匂いが鼻とアタマを直撃したときだったわ」

「つまり、一通り話し終えた後か。……良いかい、ガダン。この人は手に負えない虚言癖の持ち主なんだ。現実と妄想が区別できない末期まで進んでいる。先ほど吹き込まれたことは残らず忘れなさい。まともに取り合ったらキミまでおかしくなってしまうよ」


 えてオランダの言語ことばに切り替えてバールーフを糾弾し、次いでアラビアの言語ことばを用いてガダンを宥め、これを交互に繰り返して頭を左右に振り続けたストラールは、ゴーグル型のサングラスが半ば外れそうになっている。

 後頭部に回したバンドは正常な位置を保っておらず、黒いレンズで覆われているのは左目のみとなり、鼻を挟んだ対の側は翡翠色の瞳が露になっていた。それどころか、美しく束ねていたはずの三つ編みまでほどけそうになっているのだ。


「ストラールってば意外と行儀の悪いトコがあるんだな。普段の優等生っぷりはひょっとして芝居か? オレと話してるときはちょくちょく地が出ちゃいたけどさ」


 聞きおぼえのある喚き声が壁を突き破ってきた為、炊事場が設置されたプレハブ小屋から飛び出して様子を窺っているストラールの伴侶と親友――マフダレーナとギュンターに向かって難民高等弁務官マイク・ワイアットが素朴な疑問をぶつけると、昼食の支度を手伝っていたエプロン姿の二人は互いの顔を見合わせて苦笑を浮かべた。


「相手によって態度を変えるような〝仮面〟を被っているわけでもありませんが、彼なりに自分の責任を全うするべく懸命なのです。彼の〝立場〟は生半可な覚悟では背負えないこと、立派な肩書きをお持ちのワイアットさんにはご理解いただけるのでは?」

「ストラールは真面目過ぎると思うんだよなァ。ちゃらんぽらんなオレを真似ろとも助言アドバイスできねぇけど、バカ話でもしながら気楽に一杯りてェよ」


 生まれた病院も同じであり、隣同士のベッドで産声を上げてから現在いまに至るまで結ばれるべき運命の如く日々を積み重ねてきた伴侶マフダレーナが『格闘技界の聖家族』の御曹司としての生き方を控えめに説くと、難民高等弁務官マイク・ワイアットは二度三度と頷き返しながら、「オランダ格闘技界の現状を考えたら、そこまで張り詰めるのも仕方ねぇけどさ」と肩を竦めて見せた。


「でも、ストラールが〝仮面〟を外したかのように振る舞うのは、それほど珍しくもありませんよ。公的な場で砕けた接し方になるほど器用ではないというだけのことですし」

「レーナはそう言うけど、お茶目な顔は俺の前でも滅多に見せてくれないんだぜ? 幼馴染みって条件は一緒なのに、俺とバールーフで微妙に距離感が違うんだよなぁ~」

「あら、それはそれは……。私の前ではもっとこう――ふにゃふにゃな顔だって見せてくれますよ? そうですか、ギュンターはそういう顔をご存知でなかったのですね」

「ここぞとばかりにノロ話を始めるの、やめてくれる?」


 突如として優越感という名の牙を剥いた友人マフダレーナに顔を引きらせるギュンターの視線の先では、バールーフを折檻するストラールのほうがガダンから首を絞められていた。

 キリサメ・アマカザリと同じリングに挑むことを認めるまで離さないという意志が五指に込められており、ストラールは息苦しさとは異なる呻き声を抑えられなかった。

 傍目にはからじゅうどうをそれぞれ着込んだ二人にストラールが揉みくちゃにされているようであり、難民キャンプで暮らす人々も滑稽としか表しようのない有りさまを眺めながら楽しげに笑っていた。ガダンの仲間たちに至っては賑々しい声援まで送っている。

 叶うならば記憶から消し去ってしまいたいキリサメ・アマカザリが己一人ではなく周囲まわりの人々まで侵食し始めた事実に心が軋んだストラールは、我知らず洩らしそうになった溜め息をオムロープバーン家の矜持で噛み殺した。

 これはガダンがに〝難民選手アスリート〟としてつまで世界に格闘技という〝文化〟を残す為の試練なのだ――己自身に向かって言い聞かせた直後、『格闘技界の聖家族』の御曹司の頭部からゴーグル型のサングラスが吹き飛び、その呼び名には全く似つかわしくない不機嫌そうな目付きが露となった。



                     *



 一つの事実として『ハルトマン・プロダクツ』は国際競技大会メガスポーツイベントの莫大な利権を独占的に貪りらっており、経営者一族のザイフェルト家を〝スポーツマフィア〟と軽蔑する声は数え切れない。『格闘技界の聖家族』と畏敬されるオムロープバーン家も、用心棒を兼業するオランダの格闘家のまとめ役という〝立場〟から裏社会との関係も浅くはない。

 両家の暗部を罪深いと批難することはマリオンも否定するつもりはなかった。保身ではなく格闘技ひいてはスポーツ界全体を後退させてしまう為に公表できない情報ネタや、知っていることを周囲まわりに気取られただけで命が危うくなるような情報ネタも隠し持っている。

 しかし、ザイフェルト家がスポーツの発展に貢献してきたことも揺るぎない〝真実〟である。オムロープバーン家は格闘技興行イベントの法規制に苦しむ同胞を救済する為、アムステルダム市庁舎と抜き差しならない政治的駆け引きを繰り広げていた。

 この功績すらも「悪行の埋め合わせ」の如く乱暴に切り捨てた『サタナス』は、格闘技そのものにとって相容れない〝敵〟である。最初から理解わかっていたが、アメリカ格闘技界の趨勢を追い掛けてきた記者として、マリオンはその〝現実〟を改めて認識させられた。

 〝敵〟に取材を申し入れたのは、『ウォースパイト運動』の過激活動家が『NSB』を標的とした最悪のテロ事件に遭遇した為である。

 〝その日〟もマリオンは平素いつもと変わらず金網で仕切られた〝ケイジ〟の如き八角形の試合場オクタゴンを記者席で見守っていたが、同団体の所属選手であるベイカー・エルステッドが空手道場『くうかん』の仲間を率いてンセンギマナの試合に乱入した瞬間から歯車が狂い始めた。

 よりにもよって『NSB』の選手が『ウォースパイト運動』の過激思想に洗脳された乱入事件は、団体代表のイズリアル・モニワがじきじきに説得して一旦は終息したが、警察車両への連行中に別の一派が乱入者ベイカー・エルステッドたちを銃撃するという予想外の惨状に発展し、ついには容疑者全員の死亡という最悪の結末を迎えた。

 興行イベント会場内で足止めされたマリオンが事件現場に足を踏み入れたときには発砲音も止んでいたが、血の海に築かれた遺骸の山は現在いまも網膜に焼き付いたままだ。

 妻のおおいし・マクリーシュ・は『天叢雲アメノムラクモ』の試合場リングに臨むMMA選手である。同様のテロ事件が日本で起こり得る可能性を想像し、マリオンは身震いを抑えられなかった。

 『ウォースパイト運動』の同士討ちという性質を内包した二段構えのテロ事件は、現在も捜査が進められている。『NSB』の本拠地が所在するネバダ州の体育委員会アスレチックコミッションも関係者を対象とする〝公聴会〟の開催を発表したが、マリオンは記者としてもMMA選手の夫としても己の手による真相究明にき動かされたのだ。

 シルバーマン弁護士が情報工作を試みたのかも知れないが、ベイカー・エルステッドの同門であり、『くうかん』の組織改革を強硬に推し進めているという一点を理由にしてきょういししゃもんというを〝黒幕〟と疑うメディアも多い。しかし、マリオンの調査では彼とくだんのテロを結び付ける接点をどうしても見つけられなかった。

 『サタナス』こそが惨劇の場を仕立て上げた本当の首謀者――それがマリオンの結論である。おそらくはシルバーマン弁護士を通じて〝塀の外〟の過激活動家たちに働きかけ、凶行に駆り立てたのであろう。

 は言うに及ばず、現地警察を巻き添えにしてこれを全滅させた銃撃犯もその場で全員が自害した為、『サタナス』が関与した明確な証拠を確保するのも難しい。捜査当局も獄中からの指令を確信しながら、その背景に辿り着けずにいるのだ。

 だからこそマリオンは過激活動家の新たな標的に選ばれる危険性リスクを覚悟してまで、『サタナス』本人に肉薄したのである。


「哀しいすれ違いとしか表しようもございませんが、わたくしの思いに限りなく近付いてくださったのはエルステッド様でした。しかし、からを纏うことで魂の隅々まで罪でけがしてしまった以上、わたくしたちの〝道〟が交わることはございません。〝主〟の身許を仰ぐ階段を埋め尽くした天使たちにも、二挺の銃を組み合わせた十字架を背負って地獄に堕ちゆく亡者の群れにも、分け隔てなく追悼の祈りを捧げるのみでございます」


 心の中で歯を食いしばり、私憤を抑えながら二段構えのテロへの関与をたずねたマリオンであるが、当の『サタナス』は身構えたのが馬鹿々々しくなるほど素直に頷き返した。

 拍子抜けという状態を通り越して薄気味悪くてならないマリオンは隣席となりのシルバーマン弁護士を横目で伺ったが、その老人は一字たりとも『サタナス』の言葉を聞き漏らすまいと瞑目しながら耳を澄ませ、高潔な覚悟と感じ入ったのか、頬を涙で濡らしている。


「……お認めになるのですか? 改めて申し上げますが、これは雑談ではなく取材です。聞いてしまった以上は、私にも記者としてを公表する義務が生じるのですが……」

「一つ一つの銃弾に呪いの言葉を刻んで撃ち放した亡者たちは、わたくしとエルステッド様が分かち合えた『平和と人道に対する罪』を犯してしまった為、〝主〟のに選ばれませんでした。夕陽の向こうから影のように迫り来る私怨を晴らしたくて、彼らは銃爪ひきがねを引いたのです。スポーツで不愉快な想い出が亡者を作り出したことも、マクリーシュ様は既にご承知でございましょう?」

「……〝外界そと〟との通信手段をお持ちでないはずのが銃撃犯のグループに共通する犯行動機を、それも世間一般にはまだ公表されていない情報をどうやってお知りになったのか。……シルバーマン先生のご様子が素朴な疑問に対する明確な回答こたえですね」

「わたくしも本当は『エストスクール・オンライン』でスポーツの素晴らしさを広くお伝えしたかったのです。それまでスポーツの喜びを趣味としてこなかった方々にも……」


 あくまでも趣味の範疇であって、冬季オリンピックを目指すようなことはなかったが、幼い頃からのもとでフィギュアスケートを楽しんできた『サタナス』は、スポーツそのものに対する理解は過激思想の〝同志〟と比べて遥かに深いのである。

 りし日に全身で味わった氷上を駆ける躍動感や、更生プログラムに組み込まれた運動を振り返ろうというのか、祈りを捧げるように胸の前で両の五指を組み合わせながら『サタナス』は静かにまぶたを閉ざし、見る者におぞましさを植え付ける微笑みを浮かべた。

 〝旧友〟がボート競技で活躍する勇姿すがたを追憶の水面に映しているのかも知れない。

 国の垣根を超えて有望なスポーツ関連事業に大胆な投資を行うシンガポールのファンド会社『アキレウスヒール・パートナーズ』の経営最高責任者CEOはアメリカ人であり、『エストスクール・オンライン』の開発にも『共同設立者』という肩書きで参加していた。

 ハーバード大学の同期生でもあり、最高財務責任者CFOの役職で彼女を支えたのだが、外部投資家の参入を境に放逐され、策略で希薄化された持株の保有率や名誉を奪還せんとする法廷闘争にまで発展している。

 その〝旧友〟は二〇〇八年キンオリンピックにも八人の漕手と一人の舵手による〝ボート競技の華〟――『エイト』に出場していた。同大会が開催された頃には両者は断絶していたが、『サタナス』の側は相手に対する仕打ちを惨いものとは認識しておらず、〝男女の関係〟という風聞うわさがあった彼の熱闘へ無邪気にときめいていたのかも知れない。


「凶弾の嵐が吹きすさぶ間際、人権侵害の手先でありながら『ウォースパイト運動』を騙る格闘家の成敗――と、新聞社などに声明が送付されたそうですね。エルステッド様もさぞやご無念だったでしょう。『ウォースパイト運動』の大志こころざしが腹癒せの口実に利用されてしまったことは拭いがたきずあととして永遠に残ります。自分の怒りを正当化する為、無関係な他者ひとの悲劇を巻き込む人間こそ暴力の化身。世界秩序を一個の生命体に見立てますと、病原体として取り除かれるのは自己治癒力が順調に回復している証拠でございましょう」


 まぶたを閉ざしたまま悲しげに眉根を寄せ、凶弾の犠牲となった〝同志ベイカー・エルステッド〟へ思いを馳せる内に、図らずも本当に追悼の祈りを捧げる恰好となった『サタナス』は、仕草だけならば見えるものの、小さな口で紡ぐ一言々々は常人の思考から掛け離れていた。

 少なくとも、この場にいては嗚咽と共に頷き返すシルバーマン弁護士しか彼女の言葉に共感できまい。差し向かいに座りながら置き去りにされた形のマリオンであるが、それでもくだんのテロの扇動を自供したことだけは理解できる。

 刑務所内には録音機を持ち込めない為、物的証拠としては十分と言いがたいものの、人の命を弄ぶ凶行すら〝暴力のない平和な世界〟への祈りだと疑わない『サタナス』ならば、今と同じことを法廷で問われても自ら進んで朗々と語るはずだ。

 だが、既に獄中にる彼女がでどれ程の影響を受けるというのか。〝塀の内外〟を仲介しているものとおぼしきシルバーマンには弁護士資格を奪うほどの痛手ダメージを与えられるはずだが、は見込めそうにない。自分の半分も生きていない『サタナス』に執心する老人には気の毒ながら、彼に代わるコマなどは幾らでも用意できるはずだ。


「ご無念はエルステッドさんのご遺族でしょう。昨年、結婚したばかりの奥様は胎内おなかのなかに第一子を宿したばかりと伺いました。……を批難する意図はありませんが、今し方の発言を私が記事にし、これを読まれたご家族は〝何〟を思われるのか……」

「創造の対極に狂ったお父上を見ずに済むのは不幸中の幸いでございましょう。願わくば間違った感傷に惑わされてからに袖を通すような悲劇が起きませぬように……」


 今までの裁判にける本人の証言に基づいて推察するならば、その存在をもって『ウォースパイト運動』を正真正銘のテロリストに変えていく『サタナス』から真っ先に感化されたのは、彼女の両親であったという。

 〝国家の敵〟となるサイバーテロの計画に加担したのち、〝正義〟を執行せんとする娘の足枷にならないよう互いの眉間を拳銃で撃ち抜いたのだが、家族関係すら原形を留めないほど歪めてしまうのだから、ベイカー・エルステッドの遺族に対する無神経な言葉も、道徳に基づくは不可能でもは出来なくもなかった。


「ヴェロニカ・マルグルー、ビアルタ・ハン、フランク・ボガード、ジョアンナ・イマイズミ、アブラヴァネル・ジュニア、アブラヴァネル・シニア、ラトクすう――高名な建設会社の『レイフェル&ウィリアムスンオーダー』は慰安旅行の最中でございましたね。けがれた破壊の催しとは無関係でありましたのに、ただその場に居合わせただけで亡者の群れに巻き込まれた方々こそお救いしなくてはなりません」

「是非とも全米に――いいえ、全世界に知らしめてください、マクリーシュさん! 〝聖女サタナス〟はご自身の資産をなげうち、を一人残らず救済する基金を立ち上げられたのです! 真の『ウォースパイト運動』とは破壊のみにあらずッ!」


 『ウォースパイト運動』の過激活動家たちが銃を乱射したのは、八角形の試合場オクタゴンが設置された興行イベント会場そのものではなく、『NSB』に一二〇〇〇人収容の屋内アリーナを提供した統合型リゾートの屋外駐車場である。他の施設とも隣接しており、同じ場所でMMA興行イベントが開催されていることすら知らなかった宿泊客も負傷してしまったのだ。

 先に起こった乱入事件の対応に当たっていた警察官も殆ど全滅にも近い状態まで追い込まれたのだが、その全員に『サタナス』は見舞金を準備したという。拍手と共に褒め称えたシルバーマン弁護士の口振りから察するに、いずれは格闘技で被害に遭った全ての者を救済の対象として取り扱うようである。

 に手が届いたばかりでありながら、〝IT長者〟として一生を費やしても使い切れない資産カネを手に入れた『サタナス』にしか成し得ない構想であろう。に基づく社会奉仕であることは間違いないが、犠牲者救済を声高に打ち出したのと同じ口で、格闘家という犯罪者ひいてはこれに準ずる思想の持ち主など間引かれるのは当然とでも言うような態度を取ったのだ。

 ましてやくだんの基金も『サタナス』は自らの画策によるテロに巻き込んだことへの贖罪つぐないとは捉えていない。あくまでもに対する憐憫あわれみなのだ。マリオンは「本当に同じ人間なのか」という罵声を口から飛び出す前に飲み込んだ自分を褒めたかった。

 先ほど得意げに暗誦して見せた被害者たちの名前も、テロさえ起こらなければこの場で挙がることはなかったのである。全員が軽傷で済んだのは不幸中の幸いだが、仮に死者が出たとしても、まるで他人ひとごとのように哀悼の言葉を垂れ流したはずだ。

 フォルサム刑務所への収監理由とも言い換えられるが、『サタナス』が最初に問われたのは法廷侮辱罪や司法妨害罪である。サイバーテロの裁判にいて審理の進行を妨げる妄言ばかりを並べ立てた為、の実刑を先に言い渡されたのであった。

 裁判官や検察官はアメリカの司法制度に対する挑戦と受け取ったのであろうが、そもそも『サタナス』は人間界の法則を外れているのだから、双方の間で意思疎通が成り立つ見込みなど絶無であったのだと、現在いまのマリオンは実感と共に理解できる。

 何よりも彼をおののかせたのは、『サタナス』が獄中にりながら己の双眸で見たかのように一連の事件を語ったことだ。絵図を描いた彼女サタナスには突き放されたが、MMAに対する銃撃犯の異常な憤怒いかりであり、「格闘家どもは皆殺し」というシェイクスピア劇『ヘンリー六世』の一幕を改変した文言を銃弾の一発々々に書き記していた。

 捜査資料以外で確認しようがない銃弾の細工まで『サタナス』は把握している。を〝亡者〟と蔑むからには自ら仕向けた物ではあるまいが、それならば世界中を飛び交う情報を一つ残らず傍受できるアンテナが脳内あたまのなかに埋め込まれているとしか思えなくなるのだ。

 の被害に遭ってしまった統合リゾートの客の名前まで正確に諳んじたのである。

 実際にはシルバーマン弁護士が〝塀の外〟の情勢を逐一報告しているのだろうが、自ら見聞きしたわけではない情報を実体験の如く分析してしまえる能力とその精度に、マリオンは身震いを抑えられなかった。

 獄中から世界の果てまで見通す『サタナス』の双眸は、未だにまぶたで覆われている。



                     *



 指貫オープン・フィンガーグローブで拳を防護しない殴り合いなど、競技性の強い総合格闘技MMAとは比較にならないほど危険な興行イベントが敢行される地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手にして、日曜日の夜八時に一年間に亘って放送される大型連続時代劇を支えてきた道場『とうあらた』のでもあるひめまさただは、鎌倉の潮風かぜが吹き寄せる自宅の庭に野外運動器具を無数に設置している。

 いずれも訓練トレーニング用である為、子どもの遊具に適しているとは言いがたいものの、「かんげきもないほど敷き詰めた」と表すのが最も相応しい数量かずは、野外運動施設アスレチックパークを開園できそうだ。

 それにも関わらず、メーカーから取り寄せたは皆無に等しい。稀代の映画俳優にして伝説の武術家――ブルース・リーが創始した近代総合格闘技術の結晶『ジークンドー』の使い手でもある姫若子が手ずから拵えた物が殆どであった。

 最愛の妻が結婚指輪を置いて出ていくという悲劇を引き寄せたものの、強さを追い求める情熱の賜物は格闘家たちの心を大いに震わせ、地下格闘技アンダーグラウンドの仲間どころか、日米両国のMMA団体を代表する有力選手までもが姫若子の野外運動施設アスレチックパークに目を輝かせていた。

 夏の香りが濃さを増した青空そらでは、白雲くもさえ焼き尽くすように太陽がさんさんと燃え盛っている。灼熱の洗礼を受け止める古都の大地には互いの首級くびを狩り合う〝ばんどうしゃ〟の再現とも思える荒々しい吼え声が跳ね返り、まばらな天気雨にも似た雫がを追い掛けた。


「空手屋の言う通りだったな! いけ好かねェ野郎だと思ったけど、嫌いになれねェどころか、だぜ、あんた!」

「感心ということならば、同じ言葉を別の意味で送らせてもらうぞ。短時間わずかとはいえ波打ち際の複数同時対戦バトルロイヤルも見させてもらったが、打撃と組技を巧みに連ねるその身のこなし、〝プロ〟団体でも間違いなく一線級だろう。惜しく思わないといえば嘘になる」

正直ぶっちゃけ、〝プロ〟とか〝アマ〟みてーな小せェ括り方にこだわっちゃいねーよ! おれより強ェヤツと闘えるか、コレに尽きるぜ! おれの夢はまえみつ大先生! 『世界最強』だッ! 試合場リングの違いなんか気にするほどのモンでもねェぜッ!」

「それでそのじゅうどうか! 若い格闘家にも前田光世コンデ・コマと同じスピリットが宿っているのなら、それに負けじとも奮い立つ! 世代を超えた切磋琢磨こそが格闘技を未来へ推し進めると俺は揺るぎなく信じているぞッ!」

「この野郎、ますます気に入ったぜ! その内、おめーにも挑戦状を叩き付けてやっから首を洗って待ってろよ、しんとう! 何なら今からるか⁉ 猛烈にノッてきたぜッ!」


 先を争ってボルダリング用の人工壁をよじ登り、頂点いただきへ同時に手を掛けたしんとうはつらつな笑顔を向け合うのは、地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』が誇る花形選手エース――でんだ。

 国際社会にいてもMMAの旗頭を務める北米アメリカ最大の団体『NSB』で活躍する日本人選手の〝筆頭〟――進士藤太フルメタルサムライは、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーであるキリサメ・アマカザリのなかに宿り、〝ゲームチェンジャー〟という喧伝で全世界の格闘技関係者をしんかんさせた『スーパイ・サーキット』を心的外傷後ストレス障害PTSDの発作と疑っていた。

 類い稀なる潜在能力ポテンシャルを完全覚醒させることによって人間という種を超越し、神の領域にまで達する異能ちからを指して『スーパイ・サーキット』と呼ぶのである。

 映画のフィルムでたとえるならば、幾つかのコマが抜け落ちたかのような速度スピードでリングを駆け、猛禽類さながらに飛翔する威容すがたは〝人外〟の二字を除いて表しようがあるまい。

 その異能スーパイ・サーキットを藤太は〝心の病〟と一方的に決め付け、永久に封印するようキリサメに迫っている。を親友に対する侮辱と受け取った電知は最初こそ狂わんばかりに憤怒いかりを爆発させたが、藤太の言葉へ耳を傾ける内に『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーを本気で心配していることを理解し、キリサメが一つの結論を示す頃にはすっかり意気投合していた。

 藤太がPTSD疑惑の根拠として『アイシクル・ジョーダン』を挙げたことも相互理解を促した。くだんのMMA選手はかつてアメリカ陸軍に属しており、イラク・アフガン戦争のなかに起きた民間人への誤射事件に遭遇したことで精神こころに深刻な傷を刻まれていた。

 『NSB』へ導いてくれた人々の期待に応えたいが為、真っ当とは言いがたくも発作を抑え得る薬物クスリに手を伸ばし、過剰摂取オーバードーズが原因となって若い命を散らしてしまったのである。亡き友アイシクル・ジョーダンと同じ悲劇を阻止せんとする藤太の気持ちが電知に酌めないはずもあるまい。

 藤太も電知の為人ひととなりを随分と気に入ったようで、彼が挑んできたボルダリングの勝負にも全力で応じている。試合着の規定に反する為、所属団体NSBの試合では使用できない真っ赤なプロレスパンツを旅行鞄から引っ張り出し、胸筋を脈動させつつ着替えていた。

 黎明期の様式を再現したじゅうどうに上半身を剥き出しにしたプロレスパンツという異種格闘技戦さながらの両者は、勝負が引き分けになると片手を引っ掛けて人工壁の頂点からぶら下がったまま対の手のひらを叩き合い、互いの健闘を称えた。

 年齢の差も〝立場〟の違いも超えた友情を瞬く間に育んだ次第であるが、人工壁からは両者の汗が大量に飛び散り、その真下で競争を見守っていた〝空手屋〟――きょういししゃもんへ雨粒の如く降り注いだ。

 〝サバキ系空手〟の先駆けである『くうかん』道場の全日本選手権で三連覇を成し遂げ、打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』で迎えたプロデビュー戦も第一ラウンドで完勝――名実ともに日本最強の空手家であるが、言葉にならない悲鳴を引き摺りながら後方うしろに飛び退すさっていく姿は、仰々しい呼び名の持ち主とは思えないくらい情けなかった。

 頭上の両者に文句を垂れる沙門も、既に全身が汗みずくであった。スラックスと一揃いであるシルバーグレーの背広も脱ぎ、桃色のシャツ一枚となっているが、も両手で絞れば小さいとは言いがたい滝を作り出すことであろう。

 彼も姫若子の野外運動施設アスレチックパークを堪能しているわけだ。先程も切り立つ崖を模したものとおぼしき高い壁を駆け上がり、横から仰ぐと円形にいたようにも見える湾曲した形状を生かして芸術性の高い宙返りを試みていた。

 空中で自由自在に姿勢を変える訓練トレーニングの為に用意されたのであろう。ブルース・リーは旋回する飛燕のように宙返りを伴う蹴りも披露していたのだ。ジークンドーを極めた姫若子が同様の技を稽古するとしても不思議ではない。〝本業〟であるいても、作品や監督によっては比喩ではなく本当に宙を舞いながら刀を振るうことが求められるのだった。


「今日、初めて会った電知のほうが師匠のオレより藤太と心が通じ合ってねぇか⁉ もうちょっと師匠オレにも構えよ、藤太ァ! 照れ臭くて素直になれねェ恥ずかしがり屋さんも行き過ぎると反対にそっぽ向かれるモンだぜ⁉ オレはハグの準備して待ってるけどッ!」


 沙門の肩越しに愛弟子と養子キリサメの親友の交流を眺め、そこに混ざれなかった悔しさを持て余して駄々を捏ねる幼児のように両足を振り回す八雲岳は、鉄骨と無数の鉄パイプを組み合わせた特製のろくぼくにぶら下がっていた。

 ある程度の位置まで達すると足裏が地面から完全に離れてしまうほどろくぼくは背が高い。最上部の取っ手からは太いロープも垂れ下がっているのだが、せめて二人と同じ景色を分かち合いたい岳は、これを引っ掴んで両腕だけでよじ登っていった。

 『NSB』の公式チャンネルが開設された動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』のPPVペイ・パー・ビューなどで活躍は見守り続けていたものの、愛弟子と再び顔を合わせ、言葉を交わすまでには八年もの歳月を要している。その間に溜め込んできた気持ちが抑えられない様子だ。

 二本の鉄パイプを等間隔に立て、細いロープと小さな木板を組み合わせて足場を設けた運動器具に藤太が挑戦したときにも後ろから追い掛けていったのである。

 しなののくに(現在の長野県)のうえに根を張ったさな家が小さな〝くにしゅう〟――地方領主からまつしろはん一〇万ごくという〝近世大名〟に栄進する以前より仕え、乱世を渡り歩いた『さなにんぐん』の末裔であるおもてらくさいに弟子入りした岳は、忍術の極意を叩き込まれている。

 その岳に師事した藤太もまた忍者なのだ。くだんの運動器具は極限的な状況に身を置いて平衡感覚を養うものであり、互い違いの足場も極めて不安定であったが、『八雲道場』の師弟は一瞬たりとも視線を落とさずに全速力で駆け抜けてみせた。

 姫若子も素直に拍手を送ったものの、家屋いえの主という〝立場〟からすれば誰も彼も〝招かれざる客〟でしかない。

 事前の根回しもなく大勢で押し掛けられただけでも迷惑であるのに、小一時間前までキリサメのPTSD疑惑をする場としてリビングルームを占拠されていたのだ。

 『とうあらた』の後輩にして、がわだいぜん門下の弟弟子が直面する課題の解決に向けたものであるから、については姫若子も一つ二つの愚痴を垂れるだけで不問に付すつもりであったが、『E・Gイラプション・ゲーム』の〝同僚〟である電知が親睦を深めるべく藤太を野外運動施設アスレチックパークへ進士藤太を促したときには、さすがに制止の声を飛ばした。

 子どもたちが戯れる遊具に見えなくもない運動器具が辺り一面に設置されてはいるものの、実際に野外運動施設アスレチックパークとして開放しているわけではなく、あくまでも姫若子のである。彼の許可を得ないままの使用は権利侵害を問われ兼ねないのだが、電知は友達から玩具おもちゃを借りるかのように軽く笑って済ませ、岳と沙門も同じ調子でその背中に続き、程なくして目の前の情景に至った次第である。

 〝この師匠にして、この弟子あり〟といったところであろうか。『NSB』の試合場オクタゴンでは物静かに振る舞う進士藤太フルメタルサムライも、摩天楼の如く鎌倉の青空そらを目指して組み上げられた鉄骨と、その全面に頑丈そうな木の板を取り付けた縦長の直方体へ鼻息荒く飛び付き、姫若子に向かって幼児こどものように上擦った声で説明を求める有りさまであった。


「利用料を請求すれば小遣い稼ぎになるじゃないの。アスレチックを満喫した直後なら、ぼったくり価格でも気前良く払ってくれると思うよ。こんなボロい商売、羨ましいねェ」


 常識を弁えている麦泉であれば彼らの暴挙を戒めたことであろうが、この肝心なときに携帯電話スマホの着信音が鳴り響き、現在いまも緊急連絡に対応するべく席を外している。代わりに姫若子目掛けて飛んできたのは、キリサメの身辺警護ボディーガードを務めるとらすけの皮肉だ。

 紺のけんどうを纏い、地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋に納められた得物を肩に担いだ寅之助は、警護対象キリサメの傍らに立ったまま野外運動施設アスレチックパークの喧騒には加わらず、頬を緩めながら視線のみで電知を追い掛けていた。

 この幼馴染みを独り占めする藤太を露骨あからさまに不機嫌な表情かおめつける瞬間もあり、首から上だけは忙しそうであったが、片手間に姫若子の胸中まで見抜いたわけだ。目の前の場景に対する憤りを煽り立てる言葉の選び方も憎たらしいほど適格で、キリサメが咳払いで押し止めなければ、皮肉は延々と続いたことであろう。

 もはや、四人を止めるすべはない――諦念が苛立ちを上回った姫若子は、疲れと呆れをい交ぜにした表情かおで縁側に腰掛け、の無断使用にも放任を決め込んでいた。

 遊具ではなく訓練トレーニングを目的として拵えた物である為、安全対策は殆ど施していない。高所から足を滑らせて選手生命の危機を迎えてもつもりであった。


(どんどん『フルメタルサムライ』の印象イメージが壊れていくけど、世界ではなく世界の〝競技選手アスリート〟ということなら、自分の趣味に素直なくらいが良い塩梅なんだろうな)


 姫和子の隣に腰掛けて庭の様子を眺めるキリサメ・アマカザリは、親友の電知が発した『世界最強』という一言を脳内あたまのなかで反芻し、次いで〝心の専門医〟を初めて受診した日のことを想い出していった。

 このときに振り返ったのは、言葉では語り尽くせない〝共鳴〟から己の〝半身〟の如く感じている古武術宗家の実父ちち――あいかわという存在である。

 関東に覇を唱えんとする武闘派の指定暴力団ヤクザこうりゅうかい』の実働部隊を率いたその男は、命を預け合った同胞なかまから『世界最強』と畏敬されていた。『スーパイ・サーキット』とこれに関係する精神面の課題へ共に取り組むことになった〝心の専門医〟――きりしまゆうあいかわの同郷であり、『最強』の二字を体現する凄まじき戦いを幼い頃からすぐ近くで目にしてきた様子であった。

 そのあいかわが『ミトセ』を称する拳法家ととして向き合い、〝あい〟の果てに絶命したのは数年前のことである。

 これまでに様々な人々から断片的に受け取ってきた情報を一つに繋ぎ合わせて考察していくと、『ミトセ』という名は『アメリカン拳法』の〝源流〟まで遡るようだ。

 日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させ、アメリカ本土に伝えたのが同拳法の始まりであり、ジークンドーが最大の〝仮想敵〟ひいては好敵手ライバルとして意識していることも姫若子から教わったのである。

 アメリカン拳法とジークンドーの関係性についてキリサメも詳しいいきさつは確かめていないが、同じ〝近代〟に成立した〝総合格闘技術〟として〝心技体〟を切磋琢磨し合い、更に高い領域を目指さんと望んでいるのかも知れない。

 『けんぽうさい』とも称したというアメリカン拳法の祖は、『ブラジリアン柔術』の歴史にける前田光世コンデ・コマのような存在であろうともキリサメは推察していた。

 ハワイもブラジルと同様に豊かな移民文化が育まれた土地である。空手・拳法・柔術といった東洋武術が移民と共に伝来したとすれば、戦前の日本から渡った『ミトセ』家伝の武技わざがそれらと合わさり、新たな技術体系へ進化したとする仮説も荒唐無稽ではない。

 アメリカン拳法を完成に導き、〝現代アメリカで最大の功績を成し遂げた武術家〟と呼ばれる英傑――エド・パーカーも移民文化が花開いたハワイで生まれ育ち、彼や弟子たちによる研究と発展を経て技術体系そのものが幾つもの〝流れ〟に分かれていったのだ。

 ブラジリアン柔術も前田光世コンデ・コマという偉大なる祖を出発点とし、日本武道の〝免許皆伝〟ともたとえられる認可を授かった孫弟子――ドナト・ピレス・ドス・ヘイスを経て、彼の道場を引き継いだ先駆者一族が大成に導いたのである。

 エド・パーカーのもう一つの功績は、ブルース・リーを見出したことであった。まだ無名であった彼を自身が開催する格闘大会に招き、このときに披露した演武が注目を浴びて永遠なるアクションスターへの〝道〟が開かれたのだ。

 孤高の求道者ブルース・リーが〝総合格闘〟の体系化を成し遂げ、ジークンドーを創始したのは一九六〇年代後半のことである。エド・パーカーによるアメリカン拳法の完成は僅かに早い。に時代を超えた〝腕比べ〟が始まり、が拓いた〝道〟も現代まで途絶えることなく続いているのだった。


「――因縁というヤツかな。……いや、〝この道〟を志した人間の運命とも言い換えられるのかも知れん」


 かつてジークンドーに対する思いを吐露したとき、姫若子も〝道〟という一言を用いている。たった一度だけ聞いたその言葉を手掛かりとし、キリサメはジークンドーとアメリカン拳法ひいては『ミトセ』の歩んだ歴史の考察を進めていた。

 MMAを〝富める者〟の道楽とし、格闘技について甚だ不勉強であった頃と現在いまのキリサメはあたまの使い方そのものが違う。初陣プロデビュー以前まえであったなら、現役時代のおにつらみちあきの異種格闘技戦でくだし、〝身内〟に限られるとはいえ『最強』の二字で呼ばれたあいかわと、の『ミトセ』が繰り広げた〝あい〟に辿り着く〝源流〟を紐解こうとも思わなかったはずだ。

 アメリカン拳法さえも記憶に留める必要のない情報として切り捨てたであろう。


「沙門氏は『こんごうりき』の選手ですし、『とうあらた』とも接点がありません。勿論、仲介は幾らでも引き受けますが、今、アメリカン拳法の使い手のことをたずねておかないと、次の好機チャンスは随分と先になるのではないかと。……僕のことは気にしなくても大丈夫ですから」


 もキリサメのなかに起こったもう一つの変化だ。何事にも無感情で、他者とも積極的に関わろうとしなかった少年が〝先輩〟のに渦巻く激しい葛藤を見抜き、無理に押し殺して悔いを残さないよう気遣っていた。

 賑々しい野外運動施設アスレチックパークを見据える姫若子は依然として険しい表情を崩さないが、そこに顕れているのは、自宅の庭を文字通りに踏み荒らす者たちへの憤激のみではない。視線の先を辿ると、そこにはきょういし沙門の姿がる。

 塀に沿うような形で庭全体を一周するうんていに左右の端からそれぞれ飛び付き、どちらが先に中央まで到達するのかを藤太と競っている最中だ。毛先に至るまで螺旋を描く頭髪かみを勢いよく振り乱し、熱い吐息を引き摺るようにして進む姿から一瞬たりとも離れない姫若子の瞳は、何ともたとがたい感情で揺れていた。


「――感情がリミットをオーバーしてドライブするのもメンタルのエマージェンシーッスよね? ぶっちゃけ、藤太さんのほうこそ俺は心配ッスよ。声がスーパービッグになっているのは岳さんも気付かれたようッスけど、トゥデイはアベレージを突き破るボリュームでエクスプロージョンしてるじゃないッスか」


 その沙門が抑えた声で進士藤太に確かめたのは、彼がキリサメに突き付けたものと全く同じ疑惑である。

 『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーは自覚もないまま心的外傷後ストレス障害PTSDに蝕まれているのではないか――その問い掛けから始まった密談はなしが一段落する頃、全ての発端である藤太は浅慮を反省し、精強さの象徴である極太の眉を左右の肩と揃えて落としながら正座していた。

 傍目には冷静沈着な佇まいに見えるものの、実際には喧しいことで有名な師匠と同じくらい感情の起伏が猛烈という為人ひととなりきょういし沙門は古くからの友人として理解している。それにも関わらず、密談の場にける立ち居振る舞いには違和感を禁じ得なかった。

 粗忽な性格もあって養子キリサメに適切な治療を受けさせていないのではないかと難詰する大音声を傍らにて聞きながら、藤太当人に対するPTSD疑惑を深めていったのである。

 きりしまゆう病院もとを訪ね、診察と共に〝心の傷〟について詳しく教わったキリサメは、本来ならば直線的に届くというのに独特な表現ので迂遠に聞こえてしまう言葉から即座に真意を汲み取ったのだが、感情の抑制が効かなくなり、親しい人たちにまで理不尽に攻撃性の高い怒鳴り声を浴びせるのもPTSDの顕著な症状の一つである。

 進士藤太も出場した『NSB』の興行イベントが凄惨という二字と共に格闘技史に刻まれる〝テロ攻撃〟を受けたのは、その初診と同じ週の土曜日であった。

 『ウォースパイト運動』に感化された『NSB』の選手たちによる試合場オクタゴンの占拠と、人類平和への大志こころざしを騙ったせんとする別の活動家グループによる銃乱射という二段階で展開された凶事である。

 MMAそのものへの攻撃とも呼ぶべき未曽有のテロを引き起こした『ウォースパイト運動』の思想活動家は、一人残らず死亡が確認されている。

 高い暴力性を秘めたMMAのオリンピック正式種目化を目指す『NSB』を『平和と人道に対する罪』で糾弾し、興行イベントを破綻に追いやろうとした直後に凶弾の標的まととなった者たちは言うに及ばず、「格闘家どもを皆殺し」とシェイクスピア劇『ヘンリー六世』の登場人物を気取った銃撃の容疑者も全員が自ら命を絶つという最悪の筋運びシナリオであった。

 進士藤太は両方の事件に巻き込まれた〝当事者〟の一人なのだ。

 占拠事件の容疑者たちが地元警察によって連行されていった先――試合会場と隣接する駐車場に数え切れない銃口が向けられたとき、嵐の如く銃弾が降り注ぐ只中に取り残されてしまった仲間を救出するべく分厚い硝煙の壁を突き破ったのである。

 今日の密談のなか、沙門が痛ましそうに窺っていた右頬の生々しい傷は、銃による〝テロ攻撃〟で肉を抉られた痕跡というわけだ。

 〝超人〟と畏怖される領域まで鍛え抜こうとも、〝架空フィクション登場人物キャラクター〟とは違って人間の肉体は銃弾には敵わない。鋼鉄の如く引き締まった胸部の筋肉も容易く食い破られ、その裏側にある心臓など耐え得るすべもなく破裂してしまう。

 進士藤太フルメタルサムライがテロの渦中で取った行動は全米の称賛を集めるほど勇敢であったが、死の危険を冒しても救えた命はただ一つ――乱入騒ぎの罪さえ償えば再起できたはずの人々が全身を貫かれていくさまを銃声と断末魔の叫びが入り混じる状況で目の当たりにしたのだ。

 阿鼻叫喚の惨状が絶えず脳裏に甦るほど精神こころが傷付いた可能性は、決して低くない。

 この場にいて進士藤太の情況を誰よりも深く理解できるのは、奇しくも彼からPTSDを疑われたキリサメである。鼻や頬の薄皮が銃弾で裂かれるような死地を幾度も経験しただけでなく、命を脅かされる体験が本人の自覚もないまま徐々に精神こころを蝕んでいく恐ろしさも、医学的根拠と共に〝心の専門医〟から教わったのだ。


「……気持ちの整理がついたと言えば嘘になるし、どう転がるかは分からんが、カウンセリングのお陰で沙門が心配する事態はひとず免れたはずだ。……大丈夫だ、俺は」


 自分の身を案じてくれた友人を安心させるよう柔らかな表情かおを作る藤太であったが、根が真正直である為、心の有り様が端的に表れる声の重苦しさはどうしても誤魔化せず、途中で〝何か〟を言い淀む頃には、極太の眉も再び苦悶の形に変わってしまった。

 PTSDを発症しなかった――藤太の回答ことばは「他の人間が受けた心理的影響はこの限りではない」という〝現実〟を含んだものである。どれだけの人間が死屍累々を目にしたのか、キリサメには見当も付かないが、銃によるテロの余波が深刻であることは疑いなく、〝立場〟を問わずくだんのMMA興行イベントに参加した大勢が〝心の傷〟を負ったのだろう。

 日本のマスメディアも報じたが、『ウォースパイト運動』のという側面を持つ今回のテロは、二〇〇七年にバージニア州工科大学で発生した銃乱射事件の犠牲者数をも上回り、二〇一四年現在にけるアメリカ史上最悪の銃犯罪となっていた。

 藤太が他人ひとごととして割り切れる性格であったなら、師匠の養子むすことはいえ挨拶すら交わしたことがない少年を心配し、あまつさえ海を渡って駆け付けようとは思うまい。


「……ついでにクエスチョンッスけど、ンセンギマナはどうしてるッスか? 藤太さんのことッスからヴィンテージな自動車プジョーを飛ばして、アイツの道場スタジオまで訪ねたんスよね?」


 沙門がたずねたのは藤太との共通の友人の近況であった。この場に居ない人間のことである為に直接的な表現を避けたが、もまたPTSD疑惑である。

 『NSB』を狙ったテロにいて、藤太以外にも銃撃に晒されたMMA選手がいることをキリサメは海外ニュースで把握している。そもそも右頬の銃創キズが生々しい『フルメタルサムライ』は、当該人物を追い掛けて銃弾の嵐の中へ飛び込んでいったという。

 シロッコ・T・ンセンギマナ――MMAを否定する過激思想に染まった〝同僚〟たちに八角形の試合場オクタゴンへ乱入され、好敵手ライバルとの試合を破綻させられた選手である。進士藤太フルメタルサムライが惨劇の場から救い出すことが出来たただひとりの命とも言い換えられるだろう。

 ニュースには試合映像も挿入されたが、竜巻でも起こすかのようにドレッドヘアーを振り回し、太陽にかれたアフリカの大地の如く逞しき肉体からだを躍動させていた。

 アフリカ大陸に知り合いなど居ないはずだが、キリサメはンセンギマナの顔をかで見たおぼえがあった。己の双眸で捉えたという生々しい感覚も残っている。しかし、邂逅した〝場〟という肝心な部分がどうしても記憶の水底に見つけられない。

 MMAという〝世界〟へ足を踏み込んで以来、名前や経歴は幾度か聞いたことがある。断片的な情報に基づいて我知らず脳内あたまのなか想像図イメージを描いていたのかも知れない――もはや、キリサメにはそのように割り切るしかなかった。

 ニュースではンセンギマナをルワンダ出身うまれの〝パラアスリート〟と紹介していた。

 キリサメが知る限り、『天叢雲アメノムラクモ』のリングにいては前例がなかったが、『NSB』のオクタゴンに臨んだンセンギマナは、MMAの動作うごきに対応し得るように調整が施されているスポーツ用義足を左足に装着し、五体を自由に使える選手とで拳を交えていた。

 試合映像は僅か数秒であったが、それでも実力伯仲の好勝負であったとキリサメには伝わっている。ひざつぎの先――足部は二枚の板状のバネを組み合わせた構造となっており、その表面に散りばめられた五色の水玉模様の鮮やかさも網膜に焼き付いたのだ。


「どうして俺にく? よもや、あの事件の後、ンセンギマナに連絡を入れておらんのか? 人付き合いを何よりも大切にする沙門にしては珍しいな――」


 半ばまで言い終えたところで藤太は己の愚問を悟り、咳払いを挟んで口を噤んだ。

 『NSB』そのものを糾弾した乱入騒ぎの首謀者はベイカー・エルステッドという名前であり、『くうかん』ニューヨーク支部に籍を置く空手家である。彼と共に試合場を占拠した共犯者も全員が同門であった。

 一方、『くうかん』本部道場のきょういし沙門は、体罰や根性論といった『昭和』からの悪習を根絶するべく支部道場の恨みを買うほど急進的な組織改革を断行していた。

 我が命を空手に捧げんとする覚悟の顕現あらわれに他ならないのだが、その強硬姿勢に感化された為、ベイカー・エルステッドたちも凶行に走ったのではないかという嫌疑が沙門に掛けられてしまった。挙げ句の果てには『NSB』の興行イベントが開催されたネバダ州の体育委員会アスレチックコミッションによる〝こうちょうかい〟に重要参考人として招致されたのだ。

 アメリカへの〝武道留学〟の際に沙門はニューヨーク支部を拠点としており、暴走した空手家たちと交流したことも否定しがたい事実ではある。しかし、凶行テロの場に居合わせたわけでもなく、同門を焚き付けたわけでもない彼からすれば、責任を問われること自体が不名誉なのだ。からぬ風聞によって本来の使命まで阻害され兼ねず、甚だ憂鬱であった。

 しかも、現在いまはフランスを始めとする各国でMMAの法規制が進みつつある状況だ。公聴会の結果次第では黎明期のMMA大会コンテストを活動停止に追い込んだ『ペンシルベニア州上院法案第六三二号』の再現ともなり兼ねない。

 今度の公聴会がMMAの行く末を占うと報じるメディアも多いが、その責任を〝テロ事件と無関係な一個人〟に負わせる世論形勢には、沙門も法的措置で反撃する予定である。

 過熱する報道はともかくとして、公聴会はあくまでも事件の真相究明と再発防止が目的である為、ンセンギマナもテロの被害者として証言を求められている。『NSB』の〝同僚〟であるベイカー・エルステッドとその仲間たちを救うべく銃声が入り乱れる只中へ急行したのだが、その行動の是非も問われることであろう。

 公聴会は裁判ではないものの、州の行政機関である体育委員会アスレチックコミッションの裁定は非常に重い意味を持つ。だからこそ公平性を保たなくてはならず、証言台に立つ予定の者たちが接触を持つことは適切とは言いがたいのである。沙門は友人ンセンギマナの安否確認も許されないわけだ。

 しかし、体育委員会アスレチックコミッションの目を欺いて秘密裏に連絡を入れようと思わないのもきょういし沙門というである。

 藤太は彼を「人付き合いを何よりも大切にしている」と評したが、その一方で情に流されて判断を誤ることもない。仮にも同門のであるベイカー・エルステッドたちを〝自分にはかかわりのない人間〟と突き放したばかりか、初陣プロデビューの場で世間の非難を集める反則負けを喫したキリサメのことも〝同類項〟とされないよう遠ざけていたのだ。

 『くうかん』の組織改革を後退させ得る事柄は切り捨てる――ともすれば狡賢い姿勢を一貫しているからこそ、今度も私情を殺してンセンギマナとの接触を断っている。

 藤太の咳払いを受け止めた沙門は弱々しく頷き返すしかなかったが、その顔に貼り付けたのは薄情者の自分を嘲る表情であった。


沙門おまえの想像は半分正解アタリだな。最初に訪ねたのはアメリカン拳法の道場スタジオのほうだ。結局、ルブリンに――彼の師匠に案内されたのは、博多の港町で生まれた俺には何もかも珍しい場所だったがな。勘の良いお前のこと、これだけ話すだけで閃くものがあるのだろう?」

「マインドセットは〝コミュニティガーデン〟のほうッスか。サンノゼのどこかに手頃な畑を一枚レンタルしたって以前まえに聞いたッスよ」


 「土いじりは心の静養にも良いと聞く」とも付け加え、これを沙門への返答こたえに代えた藤太が〝テロ攻撃〟の直後に足を運んだのは、異郷アメリカいてンセンギマナが生活の拠点を置くカリフォルニア州サンノゼである。

 正確にはIT社会の最前線で生き急ぐ人々をせ返るような土の匂いで緑豊かな桃源郷に迎え入れるコミュニティガーデンだ。オアシスさながらに都市の片隅に所在する農園の一区画を借り受け、自らの手で畑を耕し、季節の野菜などを育てるのである。

 主に利用しているのは非農業者だ。二〇一一年に『食品安全近代化法』という連邦法が施行され、一時は全米で家庭菜園が禁じられるとの誤解も広まったが、栽培した青果物のには何ら問題がなく、青少年教育にもコミュニティガーデンは活用されている。

 ンセンギマナが契約している農園は、貸与可能な農具だけでなく、家族や友人でバーベキューを楽しむ為の設備も整っていた。

 シリコンバレーとして発展する以前からサンノゼは農業が盛んであり、土壌そのものが農耕に適しているわけだ。カリフォルニア州に属する他の都市まちと同じように日系移民も多く、海を渡った人々が魅せられたという歴史そのものが肥沃な大地の証左であった。

 シロッコ・T・ンセンギマナが生まれたルワンダも農業大国である。

 多くの市民ひとびとと共に分かち合うコミュニティガーデンは、当然ながら利用規約が定められており、例えば栽培に大量の水を要するタロイモを作付けすることは出来ない。

 祖国ルワンダと同じ青果物を異郷アメリカで育てられないことを意味するのだが、土の温もりを感じる時間こそが大切なのだろう。キリサメが目にした報道では〝義足のMMA選手〟となる以前のことは言及しなかったが、物心が付く前から農業が身近であったのかも知れない。

 藤太が訪ねたとき、程よく使い込まれたオーバーオールに農作業用の義足を組み合わせたンセンギマナはフェンスで仕切られた内側に立ち、遠目にも良く耕されたことが分かる畑に牡蠣殻肥料を手ずから撒いている最中であった。

 ナスやトマトといった夏野菜の生育に向けた準備を進めているわけだ。同じ畑ではサボテンやナッツ類も順調に育っている。

 〝心の専門医〟であるきりしまゆうから心理療法の一種ひとつとして解説され、藤太も同様のことを述べていたが、傷だらけの魂には『ガーデンセラピー』も有効なのだ。特に現在いまのンセンギマナには格闘技そのものから離れる時間こそ必要であろうとキリサメも察していた。

 ルワンダで生まれ育ったというンセンギマナの出自も重く感じている。

 ニュースでは字幕テロップで二五歳という年齢を紹介していた。それはつまり、祖国ルワンダを引き裂いた内戦と虐殺ジェノサイドを幼い頃に経験したという意味である。

 キリサメも亡き母の私塾で学んだ程度しかルワンダの国家的悲劇に関する知識を持たないが、自分の故郷ペルーと同じように旧ソ連で開発された突撃銃アサルトライフル――『カラシニコフ銃』が大量に流れ着き、アフリカの太陽のもとに惨たらしい屍の山を築いたという。

 カラシニコフ銃の発砲音が鼓膜にこびり付いて離れなくなるような経験を持つ者が銃撃に晒されたならば、〝再体験症状フラッシュバック〟が発動のスイッチとなっている『スーパイ・サーキット』とも比較にならないほどの〝トラウマ心の傷〟が再発ひらいてしまうはずだ。

 しかも、ンセンギマナは『ウォースパイト運動』の過激思想家による〝テロ攻撃〟に短期間で二度も遭遇している。およそ一ヶ月前に発生したエアフォースワンへのサイバーテロはアメリカ合衆国大統領自身ではなく同乗していた『NSB』の関係者が標的ねらいであったのだが、攻撃対象には機内で表敬訪問を行う予定であったンセンギマナも含まれていたのである。

 『ウォースパイト運動』が先鋭化の一途を辿っているのは、〝同志〟たちの間で神格化されつつあるサイバーテロの首謀者――『サタナス』の影響が大きい。

 『サタナス』という存在から連鎖するテロ事件へ立て続けに巻き込まれたンセンギマナの精神的な疲弊は余人には計り知れまい。しかも、『サタナス』は〝シリコンバレーの申し子〟である。攻撃者サタナスが拠点としていたパロアルトと、被害者ンセンギマナがアメリカン拳法を磨くサンノゼは同じカリフォルニア州サンタクララ郡に属し、三〇キロも離れていないのだ。


「コミュニティガーデンでは一人で黙々と土いじりに励んでいたが、試合と同じくらい楽しそうでな。底なしに眩しくて、声を掛けようにもなかなか踏ん切りが付かんかったよ」

「一人ってコトはポンチョのパートナーも連れてきていないってワケッスね。サンノゼのエブリバディに迷惑をバラ撒かない為のストッパーがお留守番とはサプライズだなァ」

「その日に収穫した野菜は世話になっている伝道所ミッションへ届けると話していたが、相棒パートナーと落ち合うようなことは言っていなかった筈だ。も俺たち格闘家には欠かせまい」


 成果物の栽培は新たな命が芽吹く瞬間を見守ることにも等しい。〝外〟の声に煩わされることのない一人きりの時間を通じて、命とは何かを見つめ直していたのだろう――藤太が示したその見解に、沙門は強く深く頷き返した。決して広いとは言えない一枚の畑は、ンセンギマナにとって己の心と向き合う為の聖域に他ならないのである。

 友人の傷付いた心が回復に向かっていることを確かめた沙門がやや厚めの唇から安堵の溜め息を滑らせる一方、キリサメは進士藤太の行動力に何よりも感心していた。

 新人選手ルーキーの行く末を案じたのと同じように『NSB』の〝同僚〟であるンセンギマナの痛手ダメージも心配で堪らず、その衝動に身を任せてサンノゼに駆け付けたのであろう。

 仁愛という二字がプロレスパンツを穿いているような男としか表しようがあるまい。人生の恩人である『ヴァルチャーマスク』から預かった義の精神たましいを真っ直ぐに受け継いでくれた愛弟子の横顔を岳も誇らしげに見つめていた。

 感極まって熱い涙を流し始めた養父に薄く微笑んだのち、キリサメは場違いとしか表しようがないくらい顔を強張らせている〝先輩〟に気遣わしげな眼差しを向けた。

 きょういし沙門が共通の友人シロッコ・T・ンセンギマナの近況を進士藤太にたずねた直後から複雑な表情を浮かべていたのだが、これを見て取った瞬間にキリサメは〝先輩〟の心を暴風雨の如き有りさまに変えてしまった葛藤を察したのである。

 藤太が他意もなく口にした「アメリカン拳法の道場スタジオ」という一言に対し、肩を大きく上下させた反応こそがであろう。

 ンセンギマナは義足のパラアスリートであるのと同時に、アメリカン拳法家として『NSB』の試合場オクタゴンに臨んでいる。姫若子からすれば、彼もジークンドーの〝仮想敵〟なのだ。

 ニュースに挿入された試合映像は実力の一端を切り取るのみであったが、世界のMMAの旗頭たる『NSB』に選ばれたのだから、現世代にけるアメリカン拳法家の中でも最強を競う一角であることは間違いない。

 幸せな家庭を引き換えにしてまで鍛え上げたジークンドーが〝世界水準レベル〟のアメリカン拳法に通用するか、姫若子が想像しないはずがあるまい。道場『とうあらた』の仲間にも「である前に一人の武術家」と評される男なのだ。

 『とうあらた』の体験会ワークショップに参加した日のことだが、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する『天叢雲アメノムラクモ』であれば、インターネットの検索では掴めない情報も把握しているのではないかと期待し、まだ初陣プロデビューすら迎えていなかったキリサメにまでンセンギマナの詳細ことたずねてきたのだ。

 それほどまでに強く意識してきた相手ンセンギマナきょういし沙門や進士藤太を挟んで最接近している状態なのである。それどころか、どちらかに頼めば手が届くかも知れない。比喩でなく本当に喉を鳴らす音も耳で拾ったからこそ、キリサメは野外運動施設アスレチックパークに飛び付いていく二人を見送ったのち、身のうちから湧き起こる衝動を受けれるよう姫若子に促したのだった。

 彼の視線の先では沙門と藤太が長大なうんていで勝負を続けている。生半可な挑戦者を振り落とすかの如く山なりにうねり、その難易度が両者から野性的な笑顔を引き出していた。


「……今は他者ひとよりも自分のことを大事にするときだよ、アマカザリ君。〝後輩〟の課題を全力で支援サポートするのも〝先輩〟の責任つとめだ。オールフォーワンみんなは一人の為に――だろう?」

「逃したことを後悔するのが分かり切っている状況で、生け捕りに出来る網を握っているのなら、影を見失わない内に放つことをお勧めします。……同じ船の乗組員は、仲間が釣り上げた魚に抜け駆けなんて思ったりしません」

「俺は武術家である前にキミの〝先輩〟であるつもりだよ。それに自分の事情ことを優先させたほうが却って落ち着かないのも〝先輩〟って立場ものでね。……『待てば海路の日和あり』ということわざは、『俺が俺が』という前傾姿勢に希望と正反対の結果をぶつけてくる――人と人の繋がりが作り出す荒波にアマカザリ君より長く揉まれてきた大人おっさんの教訓だ」


 アメリカン拳法の使い手のことをたずねておかないと、次の好機チャンスは随分と先になる――この一言を紡ぐ前から〝先輩〟の返答こたえも予想できた。それ故に自分のことは気にしないよう前置きしたのだ。


「真面目っつーか、融通が利かないっつーか、サメちゃんが損するワケでもないんだから取れるモノは取っちゃえばイイのに。それこそ迷惑料の取り立てって具合に自分を納得させてさ。アメリカン拳法とやらへの対抗心でしょ、今の話。スジを通すコトに美学を感じてそ~だけど、今の時代、そのテの自己満足は後の祭りってオチしか待っちゃいないよ」


 平素いつもは耳障りでしかない寅之助の皮肉も、このときばかりは姫若子が腹立ち紛れに翻意するまで続けて欲しかった。意固地になったところで誰も得るものがないのだ。

 キリサメがアメリカン拳法の祖とも呼ぶべき『ミトセ』の名を口にした瞬間とき、その場の誰よりも強い反応を示したのは岳であった。あるいは『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の肩書きを持つ養父も、姫若子の心を更に熱くさせる情報を握っているのかも知れない。

 自分たちがロードワークへ出掛けている間に問いただしたのではないかとキリサメも一瞬だけ考えたのだが、うんていに向ける眼差しがを否定している。義足のアメリカン拳法家に伸ばしたくなる手も、今し方の言葉を己に突き付けて引き戻すはずだ。

 うんていにぶら下がる二人を今すぐにでも呼び寄せ、彼らを介してンセンギマナに挑戦状を叩き付けたい――これこそがジークンドーの使い手としての偽らざる本音であろう。しかし、その一線を踏み越えた瞬間から藤太や沙門との関わりが深いキリサメにとってもではなくなってしまう。〝心の在り方〟と一体化した異能スーパイ・サーキットの克服に立ち向かう〝後輩〟を更に煩わせるような筋運びを自分に許せる姫若子ではない。

 〝後輩〟の事情を優先できる〝大人〟であったればこそ、ジークンドーの大望とも呼ぶべき挑戦を断念するに違いないとキリサメは推し量っていた。

 その当人からすれば余りにも過剰な心配りは空回りも同然であり、わざわざ天秤に掛けて思い悩む必要など無い。そのようにして割り切ってもらったほうがと説得したかったのだが、師匠――がわだいぜんから弟子入りの日に賜った「オールフォーワンみんなは一人の為に」という言葉を持ち出されては引き下がるしかなかった。

 を覆すすべなどがわ門下に名を連ねたばかりという〝駆け出し〟のが持ち合わせているはずもあるまい。


「……〝先輩〟といえば、精神科医への通院はがわ先生やだいら氏にも伝えたほうがよろしいでしょうか? 僕としては特別に隠しておく理由もないのですが……」


 もはや、〝先輩〟の矜持と決心は変えられないと諦めたキリサメは、別の悩みをぶつけることで仕切り直しを図った。

 成り行きから姫若子が覗くことになった『スーパイ・サーキット』の〝深淵〟を道場『とうあらた』にも報告するべきか否か、キリサメは判断し兼ねている。

 〝心の専門医〟を初めて訪れた数日後、キリサメ・アマカザリというMMA選手に関わる人々が一堂に会するケースカンファレンスが設けられ、プロデビュー戦で刻まれた痛手ダメージの回復状況や今後の課題が共有されたのだが、そこにがわだいぜんは同席していない。

 キリサメにとってはMMA選手との〝兼業〟であり、『八雲道場』所属選手のマネジメントを担当する麦泉もとして推しているのだが、『天叢雲アメノムラクモ』の試合に対する道場『とうあらた』の関わり方は直接的とは言いがたく、加えてケースカンファレンスが実施された時点では正式な入門の前後でもあった為、師匠の席を用意できなかったのである。

 しかし、『とうあらた』ひいてはという〝道〟はキリサメにとってもう一つの居場所であり、どうも生半可な気持ちで袖を通したわけではない。殺傷ひとごろしの為に編み出した技をMMAとも異なる形で昇華できると思えばこそ、PTSD疑惑も含めた〝全て〟を打ち明けるのが道理であろうと考えていた。

 何よりも人生で初めて「先生」と慕う相手――がわだいぜんに隠し事をしたくない。

 その一方で、が格闘技界全体にまで知れ渡る危険性リスクも承知している。キリサメ自身は信頼できる相手には明かしても構わないと思っているが、悪意ある誰かがどこで聞き耳を立て、SNSソーシャルネットワークサービスなどで暴露されるか分からない時代でもある。万が一にも対戦相手に把握されようものなら、考えられる最悪の事態を招くはずだ。

 の〝兼業〟を応援している麦泉も不測の漏洩を憂慮し、例え親しい相手であろうとも、MMAひいて『天叢雲アメノムラクモ』との関わりが薄ければ話すべきではないとケースカンファレンスの場で強く主張していた。


「何でも話せる相手と、何でも打ち明けなければいけない相手はイコールではないよ。俺も地下格闘技アンダーグラウンドのことは殆どがわ先生に話さないし、道場の誰も根掘り葉掘りいてこない。試合で学んだことをに生かすのがのお土産――それはきっとアマカザリ君も同じ考えだろう?」

「生意気を申し上げるようで恐縮ですが、自分が経験してきたことは、必ずという表現に貢献できると信じています。特に僕の場合は総合格闘技MMAの融合が最重要課題に設定されていますしね」

「仮に〝兼業〟のほうで悩みや迷いを抱えたとしても、それを伏せたままがわ先生や他の殺陣師なかまたちと汗を流したり、一緒にの知恵を出し合っている間にも突破口は見えてくるモンだ。別の分野で学んだことの中にこそヒントや閃きの種は埋もれている。こいつはアマカザリ君自身が現在進行形で実感しているのではないだろうか」

「それでも出口に辿り着けないときには、がわ先生にすれば良い――〝何でも話せる相手〟というのは……ですよね」

「なぁ~るほど、〝暴露ゲロ〟じゃなくて〝相談おしゃべり〟が落としどころってワケね。それならクソ真面目なサメちゃんにもやれなくもないっしょ。先輩サンよりずっと図太いしさ~」

「自分の気持ちに蓋をして強引に抑え込むのは、何よりも心の具合を悪化させる原因だと精神科医から釘を刺されたんだよ、寅之助。秘密を隠したままの中途半端な相談でもがわ先生は――僕の師匠は必ず応えてくださる。それなら素直に旨をお借りするだけだ」


 会話に割り込んでキリサメを冷やかそうとする寅之助であったが、返ってきた言葉が想定を上回るほど生真面目であった為に冗談でやり返すことも難しくなり、如何にもつまらなそうに唇を窄めて見せた。

 がわだいぜんへの思いを語る間にどんどん輝きを増していくキリサメの瞳を覗き、だらしないと自覚するほど頬を緩めた姫若子は、次いで無粋な横槍を入れてきた寅之助に「自慢の弟弟子を茶化しても無駄」と眼差しでもって揶揄し返した。


「他の誰でもないがわ先生ご自身がアマカザリ君を強く信じている。信頼の糸が師弟のお互いから伸びているのだから、通じ合うのに言葉だって要らないくらいだ」


 〝先輩〟殺陣師の助言にキリサメが二度三度と首を頷かせると、寅之助はますます面白くなさそうな表情かおで窄めた口の先を震わせた。

 このとき、キリサメは『スーパイ・サーキット』の暴走が闘魂のリングを血でけがさまを目の当たりにしながら道場『とうあらた』に迎え入れてくれた〝がわ先生〟の顔を思い浮かべている。

 亡き母の私塾で机を並べた友人とさえその日を生き延びる為の糧を争い、例え身内であろうともただちに信じることが難しい無法の貧民街スラムを〝暴力〟で切り抜けてきたキリサメであるが、自分を信じてくれる人に応える勇気を今は疑わず、僅かな躊躇ためらいもなかった。


「――アメリカの硬貨にゃ『イン・ゴッド・ウィー・トラスト』って文言フレーズが浮き彫りされてるって知ってたかい? 直訳すると『我らを信じる』って具合のな。アマカザリ君とに当てめてもバッチシ意味が通じると思わねェ?」


 『とうあらた』の白いどうに赤帯を締め、〝真剣〟の一太刀でわらたばを斬り捨てるがわだいぜん威容すがたに重なるような形でキリサメの脳裏にこだましたのは、アメリカ合衆国が掲げる標語を一種の言葉遊びと共に諳んじた〝心の専門医〟――きりしまゆうの声であった。

 尋常ならざる『闘争・逃走反応』という見立てがきりしまゆうから示された『スーパイ・サーキット』は、じょうわたマッチとの死闘のなかる種の暴走状態を含む二段階に分かれた。

 血の海に身を横たえ、今まさに息絶えようとしている実母はは――天飾見里ミサト・アマカザリから叩き付けられた「生きろ」という命令と、幼馴染みと同じ声で「破壊こそがキリサメ・アマカザリの真実」などと囁きかける異形の〝死神スーパイ〟――未だ正体の掴めない幻像イマジナリーフレンドがそれぞれ鍵となる『逃避か、崩壊かゲットアウェイ・オア・ディスインテグレーション』の頭文字を取り、『GOD』にたとえた〝心の専門医〟は、初診が終わる間際に『イン・ゴッド・ウィー・トラスト』という一言を発したのである。

 この前後にキリサメから持ち掛けられた相談に対する回答こたえでもあったのであろう。


「先ほど話した通り、『天叢雲アメノムラクモ』の方針に逆らうことになりますが、段階的にでも異能アレを抑えていきたいと思っています。……それに当たっての懸念事項はMMA用に〝開発〟していただいた試合着ユニフォームです」

「先っちょが長い尾っぽみたいに広がる帯を二、三本組み合わせたヤツだよな? ズボンのほうは『キリサメ・デニム』って名称なまえだっけ。正直ぶっちゃけ、本物のリングにも『タリホー・ボウイ』みて~のが出てきたってビックリしたぜ」


 意味が通じずキリサメに首を傾げさせたきりしまゆうの言葉を意訳するならば、〝格闘家らしさ〟を感じない出で立ちということになる。

 『タリホー・ボウイ』とは、『MMA日本協会』の徳丸とくまる副理事長が一代で築き上げた日本のゲームメーカー『ラッシュモア・ソフト』が開発・販売する対戦型格闘ゲーム『ハリアーズギャンビット』の主人公であった。

 丈の長いランチコートを切れ味鋭くなびかせ、中世貴族から伝わる狩猟技術を駆使して闘うタリホー・ボウイが〝看板〟を背負った同作ハリアーズギャンビットは、架空の格闘家が一対一で対戦し、二本先取で勝敗を決するビデオゲームだが、どうに身を包む猛者の腕比べといった趣の〝正統派〟とは一線を画したカジュアルな風貌とユニークな立ち居振る舞いの登場人物キャラクターたちが話題を呼び、一九九〇年代初期にゲームセンターを賑わせた第一作から現在まで二〇年に亘ってシリーズが継続し続けている。

 タリホー・ボウイの好敵手ヒロインである日本人女子プロレスラーも、同作ハリアーズギャンビットがハリウッドで実写映画化した際に主役の座を射止めるなど絶大な人気を誇っていた。

 トレードマークとして被る先祖代々の羽根付き帽子が社章ロゴマークに取り入れられるなど、タリホー・ボウイは名実ともに『ラッシュモア・ソフト』の象徴シンボルなのである。


「多忙を極める状況にも関わらず、試合着ユニフォームを手掛けてくださった方の――たねざき氏の恩に報いる為にも、可能であれば今後も着続けていきたいのですが、……それはそれで異能アレにマイナスな影響をもたらす自己矛盾を加速させそうで……」


 『ケツァールの化身』という異名を体現するキリサメの試合着ユニフォームを〝開発〟したのは、現代日本を代表するデザイナーであり、『人物デザイン』などの役職で数多の映像作品・舞台劇に携わってきたたねざきいっさくである。

 二〇一〇年と二〇一二年の大型連続時代劇にもスタッフの一員として参加しており、同作を指導の立場で支えたがわだいぜんの〝仕事仲間〟でもあった。

 股下から裾に掛けて空洞を作るような形で大きく膨らみ、頑丈な紐を使って足首の辺りで縛るという『キリサメ・デニム』は、ズボンの内側――即ち、膝の可動うごきが見極めにくいのだが、これは相手の目から足さばきを隠すというはかまの利点に着想を得たものである。

 日本の古武術にける袴の有用性をたねざきいっさくに教えたのががわだいぜんその人なのだ。

 の補強にいても『キリサメ・デニム』は合理性の結晶であるが、翻せば使用者キリサメの喧嘩殺法を〝正規の格闘技術〟から掛け離れたモノと認識した上で、不意討ちの工夫を凝らしたという意味でもある。

 故郷ペルーの頃から使い続けてきた紺色のシャツを『天叢雲アメノムラクモ』のリングでも着用しようと提案したのも種崎であった。

 乾いた大地から吹き付ける砂塵と、血溜まりの底より飛び散った汚泥を浴びる〝殺し合い〟で身に着けてきた物だ。喧嘩殺法が編み出される過程と共にったシャツを通じて己の原点ルーツと意識し、闘争心を昂らせる――命を遣り取りする〝場〟へと感覚を溶け込ませ、全神経を研ぎ澄ませるには死の香りが最も濃い物こそ相応しかろうと考えたわけである。

 『キリサメ・デニム』の裾を縛る紐にアンデス山中のチチカカ湖に浮かぶタキーレ島の伝統工芸品を用いるという徹底したこだわりには頭が下がるが、故郷ペルーに感覚を近付ければ近付けるほど格差社会の最下層で魂に宿った〝闇〟が膨らみ、『スーパイ・サーキット』の暴力性を爆発させる危険性も高まってしまう。そのことをキリサメは懸念していた。

 映像作品や舞台劇に携わる際、種崎の仕事はデザインを作るだけでは完結しない。現場にも待機し、美容界で養われた技術と感性で微調整を繰り返してを完成させていく。役者の前髪の長さまで観察し、ミリ単位で切り揃えるのだ。扮装と役者の感覚を極めて深い領域で結び付ける工夫である。

 〝心の在り方〟に左右される『スーパイ・サーキット』の暴威を初陣プロデビューの前に把握していれば、種崎は現行の物とは異なる試合着ユニフォームを提案したかも知れなかった。


「跳ね返ってくるストレスとの兼ね合いが大前提だけど、〝心の傷トラウマ〟の原因になった記憶を反復することで状態の安定化を図る治療法もあるんだよ。ショックの再体験を通じてストレス反応に慣れていくって説明はなしたほうが理解わかり易いかもな。キミのなかで作り出されたとおぼしき幻像イマジナリーフレンドの声に耳を傾けるよう助言アドバイスしたのも広い意味ではそれと同じってワケ」


 試合着ユニフォームに対する懸念を医学的見地に基づいて解消してみせたきりしまゆうの声は、当のキリサメが肩透かしと感じてしまうほど軽やかであった。重苦しい宣告の正反対とも言えよう。

 己に宿った『スーパイ・サーキット』を余人が持ち得ない異能ちからとして誇るどころか、破滅をもたらす呪いのように恐れ、永遠に付き纏われることを憂えていたキリサメに〝急性ストレス反応〟というを示したときと同様である。

 過去の〝全て〟を否定するのが心理療法の目的でないことも言い添えた。


「これからの道場に入門はいるんだったよな。きっと〝せいさつだつ〟の境い目を見極める手掛かりになると思うぜ。何しろキミはどれくらい暴行を加えたら相手が死ぬのかっていう基準をしっかり持っただ」

「先ほど伺った〝プロ化した犯罪者〟というヤツですね、犯罪心理学の。確かに打撃を加えたときの感触や相手の腕力ちからから〝壊れやすさ〟を読めなくもありませんが……」

「そして、〝プロ〟のMMA選手だ。相手を思いっ切りブン殴ろうって瞬間とき、命が砕けない〝ギリギリ〟まで潜在能力ポテンシャルを引っ張り出すが見極められたら、『スーパイ・サーキット』が抱えた問題点にも良い方向に転がるハズだぜ」

「その〝感覚〟を研ぎ澄ませた狭間で腰が引けたら台無し――ですね。文字通りに打つ手を誤ったらMMAのリングから追放される〝ギリギリ〟は、死臭が染み付いた試合着ユニフォームからやって来るという理屈も分かるつもりです。……良く研いだ短刀ナイフで相手の頸動脈を狙いながら致命傷は与えないなんて真似、殺気の制御コントロールより遥かに難しいな」

「下手すりゃ奈落の底にっつう綱渡りがアマカザリ君の強みだぜ。他の格闘家が持っていねェモンをキミは拳に握ってる。を手放してまで周囲まわりに合わせる必要なんかねぇよ」


 つまるところ、試合着ユニフォームを〝開発〟した種崎一作と異能スーパイ・サーキットしたきりしまゆうは、キリサメの〝闇〟を戦闘能力に反映させるという発想を分かち合っているわけだ。初診の数日後に実施されたケースカンファレンスでも両者は『キリサメ・デニム』などが生み出す心理的影響について意見を交換し合い、連携の強化を約束していた。

 は八雲岳も同じであった。既にペルーの貧民街スラムで完成されている喧嘩殺法から本来の攻撃力を奪い兼ねないと危惧した彼は、MMAのルールに適応させる訓練トレーニングえて指示しなかったのである。

 ということであれば、きりしまゆうと藪総一郎の間にも大きな隔たりはない。他者の心を弄んで愉しむ瀬古谷寅之助を一種の鏡に代え、己の〝闇〟に向き合うという後者の考えは医学的に無根拠ではなかったわけだ。

 親友の電知から贈られた揃いの守り袋も〝闇〟の底までちないように心の軸を支えてくれる。南天の加護は異形の〝死神スーパイ〟の誘惑すら跳ね除けることであろう。

 数多の出会いが光り輝く輪を結び、進むべき〝道〟を照らしてくれる――運命の二字こそ相応しい巡り合わせを振り返るたび、キリサメは心の中で感謝の言葉を述べている。

 イン・ゴッド・ウィー・トラスト誰もがキリサメ・アマカザリを信じている――きりしまゆうから掛けられた言葉も、一方通行の重荷プレッシャーではなく双方向の信頼関係の証として受け止めていた。

 ここに至るまでの追憶にいても、目の前の野外運動施設アスレチックパークいても、普段は交わる機会のない人々がそれぞれの分野や立場を超えて接続し得る領域を見出し、新たな絆を育んでいる。自分が繋ぎ目の役割を果たしていることがキリサメには何とも不思議であり、同時に頬が痒くなるくらい誇らしかった。

 電知に至っては『天叢雲アメノムラクモ』と激烈に敵対する『E・Gイラプション・ゲーム』のロゴマークを風変わりなじゅうどうの背面に刷り込んでいるのだ。

 別々の〝世界〟で生きてきたはずの人々が繋がる場景は、他者との関わり合いを自分から遮断してきた故郷ペルーでは見たおぼえがない。ほんの一時期、身辺警護ボディーガードを引き受けた日本人記者――ありぞのに対し、共通の大敵であるテロ組織を壊滅させる為に共闘してきたペルー国家警察が接触を図ったこともあるが、それは任務への協力要請に過ぎなかった。

 きりしまゆうが『世界最強』と讃えたあいかわも、おそらく自分と同じ場景を見たはずだ。

 が代々に亘って宗家を務める古武術『しょうおうりゅう』は、同郷諸流派の〝旗頭〟の如き立場も兼任し、〝先代〟のも歴史の闇にしか生きる場のない武術家たちの命を預かって指定暴力団ヤクザの鉄火場に飛び込んでいったのである。

 そのが『ミトセ』なる拳法家と繰り広げた最期の死闘から数年が経ち、遺された人々の気持ちが落ち着いた現在いまも、りし日の親友を紐解くきりしまゆうの声は尋常ならざる熱を帯びていた。『てんぐみ』を名乗って裏社会の暗闘に臨んだ隊士なかまがどれだけ生き残っているのかはキリサメにも分からないが、誰もが彼と同等の熱量を留めているのであろう。

 しかし、〝局長〟を慕う隊士なかまたちに囲まれながら、あいかわが自分と同じ感情を抱いたとはキリサメには思えなかった。数多の人々と揺るぎない絆で結ばれながらも、その男は学問の師匠にさえ心を開き切れないまま一生を終えたときりしまゆうは語っていた。

 ただひとり、己の〝全て〟をさらけ出せた最愛の妻に裏切られたことが致命傷となり、は完全にのであろうと、〝心の専門医〟としての見立ても付け加えている。

 それならば、実娘むすめあいかわじんつう――『しょうおうりゅう』の現宗家はどうか。

 しょうとくたいの異称を冠する古武術流派を絶やさない為、南北朝時代から数世紀に及ぶ歴史を背負って過酷な地下格闘技アンダーグラウンドに臨む神通には、キリサメ・アマカザリにとってのがわだいぜんのような存在が居るのだろうか。

 義理の兄という家族や、異種格闘技食堂『ダイニングこん』にける雇用主の鬼貫道明に対し、遠慮もちゅうちょもなく胸の内を明かせる関係性を築いているか否かで、孤独ひとりぼっちのまま落命した実父ちちとの〝道〟が分かれるはずだ。

 発祥した国や時代こそ違えども、同じ殺傷ひとごろしの技を研ぐ神通のことをキリサメは己の〝半身〟とも感じているが、今は淡い憧憬あこがれよりもと同じきゅうの孤独に取りかれる危険性こそ案じられてならなかった。


「アタマがおかしくなるくらい思い入れの深い相手でも何だってブチまけて良いワケじゃないってのは、姫若子さん本人にブッ刺さるんじゃないの? 見ず知らずの他人から一方通行な気持ちを押し付けられたらツーはドン引きだもん。しかも、向こうは訴訟大国にお住まいと来たもんだ。その内に空手屋みたく出廷のお呼び出しが届くんじゃない?」

「お前の神経を疑うのも疲れたが、さっきの発言ことばをよくそこまで歪められるものだな。怒りを通り越して感心してしまうくらいだ。きょういし君も提訴されたわけではなかろうに」

「電知への執着を拗らせに拗らせた寅之助が言って良い台詞でもないだろう、それ……」


 絆の広がりを実感するほど、その対極として捉えざるを得なくなる『聖王流』のおやに思いを馳せるキリサメをしかめ面に変えたのは、言わずもがな寅之助の無粋な皮肉である。

 先ほどやりこめられて以来、逆襲の好機を窺い続けていたのだろう。姫若子の反撃を完全に封じ込める一手を思い付いたのが痛快で堪らないのか、キリサメから窘められても勝ち誇った顔を隠さなかった。

 仮に藤太や沙門を通じて姫若子が挑戦状を送り付けたとしても、ンセンギマナは不気味という一言で破り捨てるかも知れない。ジークンドーにとってアメリカン拳法は切磋琢磨し合う〝仮想敵〟だが、その逆回しを証明し得る人間は此処に居合わせていないのである。

 寅之助が厭味な言い回しで指摘した通り、接近禁止命令といった措置を求める裁判に発展し兼ねないのが〝訴訟大国〟とたとえられる所以ゆえんであった。

 未遂とはいえ、ジークンドーの使い手としての私情おもいが先走ってしまった己を浅慮と猛省したからこそ、寅之助の狙い通りに姫若子は反駁を飲み下し、忌々しげな表情かおのまま威嚇としか聞こえない唸り声を絞り出したのだ。悪意に満ちた曲解が正論となった次第である。


「姫若子氏の為人ひととなりでしたら、相手から嫌がられるような事態には陥らないと思います。距離感を適切に保つことすら考慮しない無理強いだって想像できませんし……」

「あ~、今のタイミングでストーカー行為をイジッたら、サメちゃんに飛び火しないワケなかったねぇ。幾らこの先輩サンが気色悪くたって、は超えないと思うよ」


 傍らに立つ身辺警護ボディーガードの腹部へ軽い裏拳打ちバックブローを見舞い、〝先輩〟に対する侮辱を押し止めたキリサメは、元からの顰め面に辟易うんざりという二字まで上乗せしていた。寅之助の言行に嫌気が差したというよりも想い出したくない記憶に意識を食い破られ、を酷く持て余している様子だ。


「話が見えないのだが、二人は進士藤太の暴走のコトを言っているのか……? それとも八雲さんがまた何かやらかしたのか?」

「……思い込みだけでここまで突っ走った進士氏も大概ですが、別の人から最近――」

「――ますます気に入ったぜ、藤太ッ! そこまで気合いが入ってんのに、キリサメより先に『天叢雲アメノムラクモ』の〝本丸〟へ殴り込まなかったのが不思議でならねぇくらいだ! 樋口のクソ野郎に面と向かって中指立てそうな根性の持ち主なのによォ~!」


 聞き流すには余りも不穏当な発言に接して眉根を寄せたものの、その背景を掴めずにいる姫若子のことを「可愛い後輩のコトなのに何も知らないの?」と寅之助がせせら笑い、キリサメ当人が眼差しでもって無礼な態度を戒める――先程から続く三竦みのような構図に割り込んだのは、三者全員にとっての〝共通の友人〟が発した大音声である。

 横向きで四肢を大きく伸ばしたまま左右それぞれの手でろくぼくの棒を掴み、地面に接した右足で姿勢を維持しながら対の足を開閉させる器械体操に興じていた電知が昂揚した様子で声を掛けたのは、きょういし沙門とうんていを進み切る速度はやさを競い合っていた進士藤太だ。

 互いに相手を突き放すほど差を付けられないままゴールと定めた中央に辿り着き、勝負を見守っていた岳も引き分けを宣言した。汗みずくでうんていから手を離し、沙門と健闘を称え合う藤太の姿が電知の目には一等眩しく映っているのであろう。

 どれほど肉体を鍛え上げようとも、に手が届く頃には心肺機能が全盛期より実感わかりやすく衰え始める。それにも関わらず肉体的に最も充実している沙門と拮抗し、ゴールにも同時に到達した事実が電知を猛烈に感動させた。

 尤も、キリサメたちの会話を押し流すくらい大きな声を張り上げた理由は、昂揚とは別にある。同じ庭にるとはいえ、塀に沿うような形で全体を一周するうんていの中央と、ろくぼくが設置された場所は随分と離れており、半端な声量では藤太の耳まで届かないのだ。

 口を開くたびに皮肉が飛び出す寅之助とは異なり、電知に他意などなかった。ただ純粋に褒め称えたつもりであったのだが、その言葉は意図せず藤太に道理を説くものとなった。

 『フルメタルサムライ』は『スーパイ・サーキット』の在り方や、これを取り巻く日本格闘技界の情勢を憂慮して師匠の養子むすこに警告を与えたのだが、電知から指摘されたように本当に食い止めなければならないのは、『天叢雲アメノムラクモ』のを吊り上げる為に〝MMAのゲームチェンジャー〟を利用せんと企む〝暴君〟――ぐちいくのほうであろう。


「勿論、鎌倉の前に乗り込んできたとも。空港から『サムライ・アスレチックス』の本社に直行だ。お天道様が真上にある間に鎌倉こっちまで来られて良かった」

「……今、なんつった?」

「弁も知恵も向こうのほうが優れているが、口八丁如きに譲れぬ思いが折られるものか。こちらは人間ひとの道を踏み外した事実ことを突き付けるのみ。それで十分だ」


 藤太の返答こたえが想像を絶するものであった為、驚愕に打ちのめされた電知はろくぼくから両手を離しそうになってしまった。地べたに座って両者の顔を見比べていた沙門も、このやり取りを縁側で眺めていたキリサメたちも、誰もが唖然呆然と口を開け広げるしかない。

 海を突き抜けるほど一直線で、何事にも屈しない胆力の持ち主からすれば、大仰に構えるほどでもなかったのであろう。皆が目を丸くする理由が分からず、腹を抱えて笑う岳に助けを求めたが、周囲まわりの反応こそである。進士藤太フルメタルサムライはコンビニに寄ってきた報告のような口振りで『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』の全面戦争に突入し兼ねない事態を明かしたのだ。

 己のなかに宿った『スーパイ・サーキット』を巡り、進士藤太フルメタルサムライが日本格闘技界の〝暴君〟と怒鳴り合ったことを不意打ちのように知らされたキリサメは、腰を浮かせた拍子に足がもつれ、縁側から転げ落ちてしまった。


「――で本社は大荒れさ。〝嵐を呼ぶ男〟とはよくぞ言ったものだよ」


 尻餅をいたキリサメに手を差し伸べつつ、藤太の発言が紛れもない事実であることを証明したのは、緊急連絡の電話を終えて戻ってきた麦泉である。

 午前中から姫若子宅に同行しており、その場に居合わせたわけではないのだが、キリサメと電知が模擬戦スパーリングに励んでいる最中にも麦泉の携帯電話スマホは幾度も電子音を鳴らしていた。液晶画面を睨むたびに何ともたとがたい表情を浮かべたのは、出社していたスタッフが社長室で起きた緊急事態とその経過を詳細にしらせていた為であろう。

 麦泉に引き起こされたキリサメは、日本人にしては大きな鼻の頭を掻きつつし口を作り、周囲まわりの空気が理解できないと言わんばかりに眉根を寄せた藤太に改めて呆れ返った。


藤太こいつの生き様を目に焼き付けろよ、キリーッ! 頭のカタさはハンパじゃねェ気合いの証ってな具合よォッ! 我が弟子ながら魂を熱くしてくれやがらァッ!」

他者ひとに自慢なんかしねェで通すべきスジをきっちり通す! 悔しくなっちまうくらい見上げた根性じゃねぇか! こんな弟子を育て上げるたァ、岳のおっさんも見直したぜッ!」


 麦泉と同じく『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業に吹き荒んだ〝大嵐〟を承知しているらしい岳は、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアという自らの夢が座礁し兼ねない筋運びにも関わらず、愛弟子フルメタルサムライの勇気を見習うよう養子キリサメに呼び掛けた。

 電知も藤太の気概に共鳴したようで、ろくぼくの棒を左右の五指にて握り直すと、昂揚に衝き動かされるまま腕力のみで己の肉体を持ち上げ、両足を打ち鳴らして拍手に代えた。

 何事にも思慮の足りない岳や曲がったことを嫌う電知だけでなく、麦泉もどこか嬉しそうな様子であったが、〝暴君〟に楯突いた〝後輩〟が痛快でならないのかも知れない。



                     *



 『NSB』ひいてはMMAという〝スポーツ文化〟が銃弾の嵐によってけがされたテロの真相を突き止めるべく、収監先のフォルサム刑務所にその首謀者を訪ねたマリオン・マクリーシュ記者であったが、取材を進めれば進めるほど、『サタナス』という存在が異次元のように理解できなくなっていく。

 は『愛』という漢字一字の刺青タトゥーを全身に彫り込んだ奇抜な風貌のことではない。

 仮にも『ウォースパイト運動』の〝同志〟である二派ふたつのグループを自分の理想とは異なるというだけでまとめて滅ぼしてしまう残虐性を宿しながらも、三七年という人生にいてマリオンが出逢ってきたあらゆる人間の中で最も穏やかに感じたのだ。

 それはつまり、世界平和を脅かす人権侵害に対して感情を昂らせることもなく〝正義の鉄槌〟を振り下ろせるという意味だ。その為に虐殺にも近い状況を作り出すとしても、血の海の只中で亡骸の山を築くのが自分と同じ命であったとは感じないのである。

 この土地で刑に服する人々にジョニー・キャッシュが捧げた『フォルサム・プリズン・ブルース』の主人公は、人を撃ち殺してしまったことを泣きながら悔やんだが、命が消えゆくさまを見つめて、銃で遊んではいけないという母親との約束を振り返るような〝人間らしさ〟は『サタナス』の心に宿っていないのだろう。

 記者としての矜持ではなく人間としての本能に従うならば、一秒たりとも目を向けていたくない〝純粋悪〟であった。『サタナス』という存在に理解が及ばない限りは人間として真っ当――と、取材内容を取りまとめた記事でも訴えるしかあるまい。

 マリオンのなかに生じた違和感はそれだけではない。『サタナス』は刑務所内を我が城の如く気ままに闊歩しているのだ。その間にも監視が付くことはない。刑務官が一人も立ち会わない談話室コモンルームに通されたときから不思議でならなかったが、国家反逆罪に問われようとしているとは思えない特別待遇ではないか。

 脱獄防止のフェンスで厳重に囲われているとはいえ、運動や屋外行事が行われる中庭にも自由に出入りしていた。

 〝塀の外〟から聞こえてくる栄えた町サン・アントニオ行きの列車の汽笛に思いを馳せ、食事や葉巻を楽しむ乗客と暗い監獄で自由を奪われた己を比べて嘆き苦しむ『フォルサム・プリズン・ブルース』の主人公とは正反対である。

 著しく不自由を強いられる状況下で、この時間も刑務に従事している他の受刑者の目に気ままな姿はどのように映るのか。〝刑務所ギャング〟は〝塀の中〟の秩序を乱す存在として私刑リンチの好機を狙っているのではないか――不穏当な事態を思い浮かべるマリオンの視線の先では、当の『サタナス』が建物の壁を指差しながら微笑みと共に手招きしていた。


「初めてに足を踏み入れた日、なんて愛に満ち溢れた場所なのでしょうと胸がいっぱいになりました。わたくし、一つの天啓を授かりましたの。何物にも縛られる必要がなくなったときに、人と人は互いを慈しむ気持ちが初めて素直に通い合うのです」


 『サタナス』が右の人差し指で示したのは〝母の日マザーズデイ〟の名残である。

 二〇一四年は五月一一日がこれに該当しており、彼女の収監日より前に過ぎていたが、刑務所では母の日マザーズデイ父の日ファーザーズデイに受刑者の家族を招き、一緒に過ごす時間を設けている。中庭もおやが愛情を確かめ合う場として解放され、気軽に会うことの叶わない母親への思いを子どもたちが建物の壁にチョークで書きつづっていた。

 け付くような太陽のもとで二ヶ月近く経過している為、随分と薄くなってしまったものの、周辺あたりを見回してみれば、同様の言葉や母親の似顔絵が中庭の至るところに消されず残っていた。これが更生を支える励みとなり、出所ののちは二度と道を踏み外すまいという誓いにもなるわけだ。

 『サタナス』が見つけたのは、小学校に進学あがったばかりの小さな子どもが母親に贈ったものであろう。小柄な彼女でさえ片膝を突かなければ正面から見つめられないような場所に仲睦まじく手を繋ぐおやの絵が描かれていた。そこに添えられているのは、一分一秒でも早く家族みんなで暮らしたいと願う言葉である。


「わたくしも幸せな家庭に生まれました。今年は母の日マザーズデイにも父の日ファーザーズデイにも親孝行が叶いませんでしたが、あの両親のもとに生をけたことは生涯の誇りでございます。願わくば、この子たちが母親の胸の中へ無事に戻りますように」


 両親を過激思想に塗り潰し、自死へと導いた口で感謝を捧げるのか――矛盾を突いても何一つとして響かない相手でなかったら、マリオンは幾通りも皮肉を浴びせたはずだ。

 彼女サタナスの逮捕と時を同じくして確認されたその死を〝アメリカの損失〟と悲痛に報じるスポーツメディアは多く、マリオンも同様の記事を格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルに掲載していた。


「子どもはまさしく創造性の象徴でございます。欲にまみれた打算も、他者承認に餓えて歪むこともない無垢なる創造を無限に広げていく子どもたちは、格闘技という意味なき破壊の対極に位置してございましょう。わたくし自身は今日まで子を得る機会を得られずにおりますが、人類の歴史から暴力の連鎖を断ち切り、子どもたちの未来の為に世界平和を実現することが大人の責任であろうと心得てございます」

の手できっと成し遂げましょうッ!」


 やかましい呼応など右耳から入って左耳へと素通りしたのか、『サタナス』当人はシルバーマン弁護士を一瞥することもなく、愛で満ち溢れた絵に頬擦りし続けている。


「例えば、その絵を描いたお子さんが『ウォースパイト運動』の忌み嫌う――いえ、ここはえて個人ということにしましょう。貴女が創造性を否定する格闘技を習い始めたら、そのときはどうなさるのですか? 二重のテロ事件で大切な試合を台無しにされたンセンギマナ選手が少年部の指導員を任されているアメリカン拳法の道場スタジオも、同じカリフォルニアに所在ります。創造性に満ちた子どもがそちらへ通うようになったら?」


 壁の表面の凹凸で皮膚が傷付いても構わない『サタナス』であるが、に対する感情移入としては明らかに常軌を逸しており、マリオンは質問を続けることで洩れそうになる呻き声を打ち消した。


「そこに愛があるならば、我が子に大罪を犯させるような真似は親として有り得ません。〝主〟のもとへ昇る天使にを委ねることこそ愛情の証明でございます」


 間の抜けた問い掛けと言わんばかりに目を瞬かせる『サタナス』は、その反応をもって親が我が子の命を害することも〝正義〟の執行にはと語ったようなものである。

 子煩悩なジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンがこの場に居合わせたなら、私刑と謗られようとも『NSB』が誇る〝絶対女王〟の鉄拳を『サタナス』の顔面にめり込ませたことであろうが、ベイカー・エルステッドの遺族へ追い撃ちを掛けるような先程の暴言とも矛盾はしていない。即ち、吐き気を催すくらい一貫しているわけだ。

 不思議そうに小首を傾げるサタナスの右頬は引っ搔き傷のように裂け、首を伝って作業シャツを濡らすほど血が滴っていた。改めてつまびらかとするまでもなく、それはに捧げられた絵をドス黒く汚してしまっている。


「母の愛は創造の源、産声を上げるよりも前に交わした永遠の約束でございます。破壊への誘惑にけがされてしまったとき、聖なる浄化を施すのが母の愛でございましょう。その逆もまた然り――一族の罪を絶てないでいるザイフェルト家とオムロープバーン家の皆様もの日かお気付きになられることを祈るばかりでございます」

「……言葉が他に見当たらず、このような言い方はご無礼に当たることでしょうが、今年の母の日マザーズデイを一緒に過ごせなかったは、お母上を『ウォースパイト運動』のいけにえに捧げた――と、そのように承ってよろしいのでしょうか?」

「幸いにもわたくしと母は平和への願いで心が通じ合ってございました。消えゆく体温ぬくもりでわたくしを抱き締めながら最後の一瞬まで『ウォースパイト戦争を軽蔑する』と唱え続けた母の思い、全ての家族が純粋無垢でいられる暴力なき世界を成し遂げる誓いは永遠に共にございます」


 二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない――最愛の母から永別わかれ瞬間ときに託されたのも平和への祈りであったと『サタナス』は誇らしく語った。


「母は今も〝平和を告げる福音〟として、破壊なき創造への勇気をわたくしに与えてくださるのです。これほど勇気がりんりんみなぎるモノを他に知りません……!」


 紐を通して首から下げている骨笛を『サタナス』が愛おしそうに両手で包んだ瞬間、マリオンは一つの憶測に行き当たり、その直後に胃袋の中身が逆流しそうになった。


「まさか、はサラエボのスケートリンクを切り裂いて滑った――」


 鷲の翼の骨笛イーグルボーンホイッスルの一種であろうと深く考えずにいたのだが、白色に近い管状のは人の骨から拵えた物なのであろう。部位や加工方法を推察するだけでも眩暈を抑えられなくなるが、用いた骨の〝正体〟は、今し方の『サタナス』の口振りから明らかであろう。


「ああ……ああ――今、また母の愛が一つの天啓をわたくしへお授けに……ッ」


 その呟きの通り、脳裏に〝何か〟が閃いたのであろう。勢いよく打ち鳴らした左右の手でもって再びを持ち上げた『サタナス』は、不変の愛と無限の感謝を亡き母へ捧げるように口付けを落とした。



                     *



 世界のMMAを主導する『NSB』にいて、日本人選手の〝筆頭〟とも呼ぶべき立場に進士藤太フルメタルサムライが『スーパイ・サーキット』の在り方を巡って日本格闘技界の〝暴君〟のもとに怒鳴り込んだ――スポーツ新聞がこぞって号外を発行するような報道価値ニュースバリューだが、現時点ではネットニュースの片隅にすら概略あらましの一文も記載されていなかった。

 日本の格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』の販促キャンペーンの一環として生み出された〝キャラクター〟にも関わらず、過去に編集長を務めた樋口から『天叢雲アメノムラクモ』の広告塔の如く利用されている『あつミヤズ』でさえ、キリサメの罪深い過去を暴露したときのような緊急特番を動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』で実施する気配もない。

 社会に与える衝撃が高い事件は慎重な裏付け調査が必須であるはずだが、購買うりあげの為だけに報道関係者の矜持さえ放り出して無責任な速報に踏み切るメディアも少なくない。『NSB』の進士藤太フルメタルサムライと『天叢雲アメノムラクモ』の〝暴君〟による論争などは、捏造としか表しようのない事実無根の〝物語〟が付け足されたニュース記事が乱れ飛んでも不思議ではないわけだ。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集長であった頃から世界中に築いてきた人脈と、これに基づく情報戦によって日本格闘技界を意のままに動かす〝暴君〟であれば、スポーツメディアを操って藤太の暴挙を触れ回り、『NSB』ひいては団体代表イズリアル・モニワの社会的信用を傷付けた上で、同団体と共催する日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの主導権を奪い取れるように仕向けたことであろう。

 しかし、SNSソーシャルネットワークサービスなどで情報工作が仕掛けられた形跡は現時点で確認されていない。

 主催企業サムライ・アスレチックスの本社で相対し、藤太が迸らせた怒号から居合わせた人々が竦み上がるほどの罵り合いに発展していったというが、外部そとには漏らさず内々に処理するつもりのようだ。

 樋口郁郎にしては意外なほど手緩い措置であるが、日本MMAの黄金時代を共に築いた〝旧友〟に対する温情などではあるまい。そのような〝人間らしさ〟を一握でも持っているのであれば、前身団体バイオスピリッツ以来の〝同志〟であるベテラン選手を露骨あからさまに冷遇し、『天叢雲アメノムラクモ』から追い出そうと画策するはずもない。

 一つでも打つ手を誤れば、開催地が東京ドームに決定したばかりの日米合同大会コンデ・コマ・パスコアは計画自体が白紙撤回される。そして、そのときには世界最高のMMA団体を敵に回している。忌々しい〝内政干渉〟を食い止めるべく『NSB』に損害ダメージを与えることと、『天叢雲アメノムラクモ』が差し出すことになる代償を天秤に掛ければ、どれだけ腹が立とうとも樋口郁郎は進士藤太との一件を表沙汰には出来ないわけである。


「守るべき選手を今までさんざん追い詰めてきた圧力プレッシャーが自分に向いた途端、腹を括れず腰が引けるとはな。樋口郁郎イクオ・ヒグチめ、存外につまらない半端者だったな」


 現時点で得られた手掛かりに基づく推察を交えながら、『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業で吹きすさんだ〝大嵐〟を整理したのち、僅かな間を置いて繰り返される振動が伝達つたう板張りの床に胡坐を掻いた中年の男性おとこは、〝暴君〟に対する軽蔑を感情の乗らない声で吐き捨てた。

 雨に濡れた烏を彷彿とさせるいろの背広を袖に腕を通さないまま肩から掛けている。その左襟でがね色に煌めく天秤の徽章バッジが弁護士という身分を表していた。

 背広と同色のチョッキとスラックスの組み合わせによって、清潔感に満ちた襟なしノーカラーシャツや〝白い物〟が幾つも混じったアッシュグレーの頭髪かみとの好対照を生み出しているその男は、くまもとけんやつしろに法律事務所を構えるアルフレッド・ライアン・バロッサである。

 称する家名ファミリーネームの通り、天下の大剣豪・みやもとさしも愛したほど武芸が盛んな熊本の地にいて、古代ビルマに由来する伝統武術ムエ・カッチューアを教え広める名門――バロッサ家の入り婿だ。

 試合中の事故や競技大会を巡る契約上の問題、古武術道場の継承権を争う内紛など格闘技・スポーツに関する訴訟を幾つも解決してきた実績は〝在野の軍師〟という仰々しい異名と併せて首都圏にまで届いているが、海を超えた向こう側――祖国アメリカでは女性として初めて統合参謀本部議長の座に就いた陸軍大将の実子むすこと記憶している者も少なくない。

 アメリカ政界に明るい人間であれば、戦場を離れた将兵の生活を支援する退役軍人委員会に身を置くゼラール・カザン下院議員との親交も把握していることであろう。

 先天性の四肢欠損という個性を武器に換え、全米で初めてパラアスリートとしてMMAデビューを果たしたクノク・フィネガンや、彼が拓いた〝道〟に続いて『NSB』に出場する義足選手――シロッコ・T・ンセンギマナともくだんの下院議員は深く関わっている。

 日米格闘技界の情勢を法律家の目で捉えてきたアルフレッドにとって、樋口郁郎という〝暴君〟は唾棄の二字が真っ先に思い浮かぶ存在なのだ。


「――半端者って決め付ける基準がそもそもおかしいんだよ。ていうか、樋口代表プレジデント・ヒグチのコトを低く見積もっていたら、パパのほうこそ足元を掬われるわよ? 『天叢雲こっち』で見聞きしている限り、あの人、全然甘くないもの」

「パパが油断や慢心とは無縁の面白味がない人間だと、希更おまえはママと同じくらい知っているはずだ。客観的な事実として樋口郁郎イクオ・ヒグチ代表プレジデントと呼ぶに値しない半端者だ」

「あたしが問題にしてるのは、パパがに付け込んで悪だくみしてるってコトよ!」

「一方的な決め付けはよろしくないようなことを自分で言ったばかりではなかったか。少なくとも俺の企みはまだ外部そと漏洩れていなかったと思うのだがな」

素面シラフで言ってのける人間が熊本の荒れっぷりを知ったら、ここぞとばかりに利用しようと考えるハズだし、そんなの悪だくみ以外に思い付かないでしょ! パパが樋口代表プレジデント・ヒグチを潰したくて仕方ないの、あたしが気付いていないと思った⁉」

「理解ある娘で助かる」


 そのアルフレッドはスピーカーフォン状態の携帯電話スマホから飛び掛かってくる文句に何ともたとがたい苦笑いを浮かべている。本体は床の上に置いてあるのだが、小刻みに伝達つたってくる振動の為に何度も浮き上がり、それが憤激の強さを表しているようにも見えた。

 既に一〇分を超えた合計通話時間と併せて、携帯電話スマホの液晶画面に表示された名前はさら・バロッサ――〝アメリカンイングリッシュ〟を用いて批難の言葉を並べ立てるのは、アルフレッドの一人娘であった。


「事前の連絡もなく急に上京してきたにもビックリしたけど、『バロッサ家に参戦する気はないのか』って問い質されたときはもっと意味不明だったわよ。『天叢雲アメノムラクモ』が熊本城をめちゃくちゃにするつもりだっていうあのコのキレっぷりこそ半端じゃないわ」

「……一応、確認しておくが、今はギリの娘と一緒ではないのだな?」

「さっきも言ったでしょ。あのコ、主催企業サムライ・アスレチックスの本社が入居はいったビルの立地を調査しらべに渋谷まで行ってるって。……『NSB』であんなテロが起こったばかりなのにの勢いを止めらんなかったし、焼き討ち計画の片棒を担いだ気がしてキツいわね」

理解わかっていると思うが、声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラのほうにはしらせるな。あくまでも無関係を貫け」


 希更から熊本武術界の緊張状態を問い詰められたときには、この場に居合わせていない愛妻つま――ジャーメイン・バロッサが〝全て〟を明かしたのかと疑ってしまったが、愛娘むすめが「」という幼馴染みの名前を口にしたことで情報源を特定することが出来た。

 明治維新ひいては廃藩置県を迎えるまで熊本藩士に伝授されていた古流剣術――ごのくにの〝幻の剣〟と謳われる流派――を受け継ぐ道場の娘こそが希更に怒りの電話を掛けさせたということである。


樋口あれがクソの役にも立たないとは俺も思ってはいない。熊本城と八代城――二派の間に江戸時代から横たわってきた確執を一夜で取り払い、一個の巨大な塊に纏め上げたのは大手柄だ。尤も、容易く一枚岩になれるわけでもないのが〝現実〟だな。樋口郁郎イクオ・ヒグチ首級くびを上げようといきり立つ声がお前の耳に届いたのも綻びの一つと言えなくもない」

「うっさい、黙って! 午後これから収録もあるし、パパの皮肉に付き合う暇はないのよ!」


 今も猛々しい吼え声がアルフレッドの鼓膜に突き刺さり、兵馬が踏み進むかっせんの如き振動が板張りの床を伝達つたって骨身に染み込んでいるのだが、武の都・熊本は大動乱のなかである。同地の武術史にいて永遠に語り継がれる事態といっても過言ではあるまい。

 二〇一一年の旗揚げ以来、『天叢雲アメノムラクモ』は特定の拠点を持たず、全国各地の運動施設を経巡るという〝旅興行〟の形態を採り続けている。

 これを成立させる為には開催先と良好な関係を保つことが前提条件であるが、熊本県内の古武術諸流派を統括し、その伝承を支える協会にさえ一言の相談もないまま、樋口郁郎は次回の興行イベントを熊本城二の丸広場で執り行うと一方的に宣言したのだ。

 岩手興行までは地方プロレス団体とも協力体制を整え、雇用創出も含めた地域振興を事業の中にも組み込んできた『天叢雲アメノムラクモ』とは思えない無礼であった。

 今なお『せいしょこさん』の呼び名で慕われる戦国随一の名将・とうきよまさが大改修を執り行い、細川家の統治に移ってからもはんちょうとして〝火の国〟を見守り続けた熊本城は、同地で生まれ育った人々にとっては時代を超えた誇りである。

 〝外〟から乗り込んできたMMA興行イベントが通すべき〝筋〟を蔑ろにした挙げ句、熊本の誇りを泥靴で踏み荒らすようなものであろう。〝火の国〟で育まれた武芸のすえは仁義にもとる〝暴君〟を迎え撃つべく一致団結し、県内各地の武道場や旧家の屋敷で「許すまじ、樋口郁郎」という雄叫びを上げていた。


「俺もギリの人々がヨシの屋敷に足を運んだことは掴んでいる。八代と熊本に割れた二派の事実上の休戦協定だ。『オウウンリュウ』が『サンカイビシイツクギヌキ』の家紋とまみえた姿は、を知らしめる象徴ないしは儀式セレモニーだな。……でもなければ絶対に有り得ないということは、希更が――小出切音流ネル・オデギリの親友が誰より理解わかるはずだ」

ホウゾウインリュウアシキタゴオリヅツの両方とよろしくやってるパパにを言われたら、悔しいけど、何も言い返せなくなるわねぇ~!」


 武士にとって〝誇り〟を傷付けられることは一戦に及ぶほど許しがたいのだが、樋口に対する憤怒いかりの炎で満たされているとはいえ、熊本武術界が一丸となって立ち上がる場景をアルフレッドは奇跡の二字でしか表せなかった。

 かつて肥後・熊本藩を治めた細川家は武芸を奨励し、その猛き武士の魂が山にも海にも宿っている。元々はアメリカにいて『ムエ・カッチューア』を教え広めていたバロッサ家が一族で移住したことも、同地の武術界に対する〝共鳴〟が大きな要因であった。

 やりかたなが武勇の証であった乱世から現代まで〝しょう〟の気風を留める一方、熊本藩の教育機関であるはんこうしゅうかん』にて伝授されていた流派は熊本城下に道場を構え、それ以外の地域に根を下ろした武芸者との間には埋め難い溝があった。

 発端は江戸時代まで遡る。とよとみのひでよしからごのくにを与えられた加藤家に代わり、江戸幕府に五二まんごくの統治を任されたはんの親子ははんちょうが置かれた熊本城と、父・ただおきの隠居先である八代城に別れて暮らすことになったが、双方の家臣の間で派閥争いが起こったのだ。

 しょう二年(一六四六年)に忠興が没したのち、八代城は筆頭家老の松井家に任されたが、その頃には遠く熊本城を見据える眼差しに互いの〝格〟を競う意識が芽生えていた。

 改めてつまびらかとするまでもないが、藩庁との距離で武勇に差が開くことはない。

 他藩と〝国境〟を接するあしきた防御まもりを強化する為、熊本藩は一六三〇年代に在地の侍たちを中心とするてっぽうたいを組織し、『ごおりづつ』と呼ばれた彼らは江戸時代の九州を激震させた〝内戦〟――『しまばらの乱』にいても細川軍の一角を担って勇名を馳せている。

 およそ四〇キロという距離に横たわる禍根は二つの城下町で道場を構えた武芸者たちの対抗意識と結び付き、熊本武術界を分断する緊張状態がこんにちまで根深く残ってしまった。

 互いに誇り高い〝肥後武士〟である。その矜持は譲れず、一定の世代より上の人々は今でも張り合い続けていた。アルフレッドの法律事務所に属する二人の弁護士も〝火の国〟に根差した古武術の担い手であり、それぞれ熊本と八代の二派に分かれている。この二人が長年の親友であることは奇跡的な例外というわけだ。

 希更の幼馴染みが家伝の技として学んだ八代の古流剣術と、細川家に従って京都から移り住み、藩主側近への指南を担った鎌倉時代発祥の〝戦場武術〟は特に対立関係を拗らせていた。県内諸流派を統括し、その伝承を支える協会が仲裁しなければ、潰し合いを繰り返した末に共倒れになっていたであろう――と、バロッサ家の入り婿も承知している。

 数世紀に及ぶ感情面の摩擦を乗り越えさせたのが樋口郁郎という共通の敵なのである。「確執を取り払い、巨大な塊に纏めさせたのは〝暴君〟の手柄」というアルフレッドの皮肉には、熊本武術界と共に歩む者としての僅かな自嘲が込められていた。

 無論、そうじょう事件にまで過激化しないよう諫める道場・流派もあり、個々の思惑はともかくとしてバロッサ家もこの立場を取っている。

 〝幻の剣〟をもってして〝暴君〟を成敗せんと逸る希更の友人は、その煮え切れない態度に痺れを切らし、東京まで押し掛けてバロッサ家の一族の去就をただしたのであろう。

 熊本武術界全体の動向として分析するならば、バロッサ家の内情を探るというよりも一族に〝義挙〟への合流を促さんとするであるのかも知れない。「許すまじ、樋口郁郎」という声が最初に熊本の空を貫いてから半月余りが経とうとしている。それほどの時間を置いたのちに希更へ接触を図った事実ことこそが傍証とアルフレッドは推し量っていた。

 いずれにせよ、この筋運びの中で希更は故郷の抜き差しならない状況を初めて把握し、同時にアルフレッドの暗躍が脳裏を過った次第である。

 両親とも樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』に穏やかならざる感情を抱いていることは希更も察していた。ジャーメインに至ってはセコンドの名目で岩手興行に入り込み、リングの安全性から選手同士の感染症予防に至るまで大会運営の実態を探っていたのだ。

 熊本武術界を敵に回したことを一種の好機と捉え、愛娘むすめの所属するMMA団体を消滅させようと企むかも知れない――〝在野の軍師〟の思考を読んだ希更は、最悪の想定が現実となる前に釘を刺そうとしたわけである。

 樋口郁郎が握る絶対的な権力は、格闘技界とそれに関連するスポーツメディアのみに通じるものであって、法曹界に身を置くアルフレッドには効果がない。翻せればそれは〝在野の軍師〟にも日本MMAにトドメを刺すことを躊躇ためらう理由がないという意味だ。


「一族みんな口裏を合わせてあたしに熊本のことを黙ってたのもムカつくわねぇ。どうせパパの差し金でしょ。何なの? 樋口代表プレジデント・ヒグチへの騙し討ちか何かに利用するつもり?」

希更おまえもいずれ……いや、近い将来に決断を求められる。あくまでも『天叢雲アメノムラクモ』にしがみ付くか、家族や幼馴染みが生きる故郷を選ぶか。用意された選択肢は二つに一つ」

「前時代的な二者択一を迫る辺り、パパは思考アタマが古いのよ。声優業しごとに差し障る真似は控えろって助言アドバイスは否定しないけど、のときにはあたしは両方を選ぶわ。選択肢は他者ひとから配ってもらうものじゃない。自分自身の手で作ってこそ意味があるのよ」

「得意の〝相互理解〟で解決しようとでも? ……甘いな」

嘉納治五郎ジゴロー・カノーが熊本で校長先生をやってたのは、たったの一世紀前前よ。そのときに蒔かれた〝自他共栄〟の種が芽吹いていることを想像できないほうがアマアマでしょ」

「屁理屈を――と言いたいところだが、父親譲りと返されるオチが読めたな」

「悪だくみばっかしてるからママもアメリカに帰国かえっちゃうのよ。エアメールで離婚届を叩き付けられたら、あたしはバロッサ家に残るわよ。ど~せパパのことだから『MMA日本協会』で副会長やってる知り合いにちょっかいでも入れさせたんじゃないの?」

「要らぬ心配だな。ママの一時帰国は別に理由がある。何よりも家族を騙して悪だくみのコマに利用するほど俺も腐ってはいない。十分に打ち合わせた上で協力し合っている」

「やっぱちょっかい出してんじゃんっ!」


 希更の〝本業〟は声優である。主演作の『かいしんイシュタロア』ではぶつかり合った末の相互理解を主題として掲げているが、彼女自身も同じ理想を信じて疑わなかった。それ故にペルーからやってきた得体の知れない新人選手ルーキーにも迷わず手を差し伸べるのだ。

 結局は「人の口に戸は立てられない」ということわざが示す通りの筋運びとなり、親心は脆くも吹き飛ばされてしまったが、この優しい心を煩わせるのが忍びなく、いずれ露見すると分かっていながら熊本武術界の一件を今日まで伏せ続けてきたのである。

 が所属する競技団体と、バロッサ家が帰属する故郷の武術界の間で生じた対立だ。過去に彼女が巻き込まれた『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の小競り合いとは深刻さの度合いが違う。だからこそ、父親として頼もしく感じる理想の高さを「甘い」と一言で切り捨てなければならなかった。

 およそ半月前であるが、樋口郁郎が熊本興行を一方的に宣言した日、アルフレッドのもとにはる問い合わせが絶え間なく続いた。

 電話を掛けてきたのは県内に道場を構える古武術家たちである。希更が『天叢雲アメノムラクモ』に出場していることは広く知れ渡っており、その父親ならば同団体の内情にも通じていると誤解した人々からくだんの発表について説明を求められたのだ。

 それは愛娘むすめに対する故郷の人々のである。親としては楽観視できない。


が直々にって旗を振る以上、どっち付かずの半端者ではいられない。暴走を諫めるバロッサ家も足並み自体は三好と揃えている。既に『天叢雲アメノムラクモ』の敵と心得ておけ」

「二者択一の次は脅迫⁉ 一族の意向に逆らうなら勘当ってワケ? 他人ひとの選択肢を奪い取るパパのやり方、グレずに独り立ちした自分を褒めたいくらい気に入らないわ!」


 おやの間で飛び交う売り言葉と買い言葉に『三好』という家名なまえが混ざった瞬間、前者アルフレッドが腰を下ろしている板張りの床に一等大きな振動が走った。

 その家名なまえを遡っていくと、末期室町幕府の中枢を担ったの名門に辿り着く。後世にいて〝未完のてんびと〟とも謳われるよしながよしは、幕府を支える立場でありながら、その権勢は主君たるあしかが将軍家をも上回り、いっときは幕政を取り仕切っていた大人物である。

 のぶながとよとみのひでよしとくがわいえやすという〝戦国三英傑〟に先駆けて天下の采配を振るった稀代の名将とも言い換えられるだろう。

 現代にける〝婚外子〟という出自ゆえ正式な家系図には記されていないが、熊本藩士として同地に根を下ろした三好家はながよしおとしだねから始まり、藩祖の父――ほそかわただおきそば近くつかえ、幼少の頃から大往生に至るまでのみちのりを共に過ごした竹馬の友であったという。

 明治維新を迎えるまで熊本藩の土台を支えてきた名門は、そのまま江戸時代を通じて武芸を奨励した細川家の功臣をも意味する。往時の藩校でも限られた一部にしか伝授されなかった鎌倉時代発祥の〝戦場武術〟を現代まで継承してきたのも三好家であった。

 その歴史の中で武術界との結び付きも深まり、現代にいても県内諸流派や道場の相談役も果たしていた。バロッサ家とムエ・カッチューアを熊本に招いたのも三好家なのだ。

 熊本城をけがそうとする『天叢雲アメノムラクモ』への憤怒いかりに打ち震えた武術家たちも、その多くが三好の屋敷に詰め寄せていた。〝未完のてんびと〟も掲げた『さんかいびしいつくぎぬき』の家紋は、今や〝暴君〟を迎え撃たんとする団結の旗印となっている。

 希更の幼馴染みが生をけた〝幻の剣〟の道場は八代市に所在している。ぎりという名の剣士は熊本城を守護まもるような位置に構えた三好の屋敷までわざわざ赴き、相剋の歴史を超えた共闘を知らしめたわけだ。

 その三好家の〝当代〟が屋敷の庭に集結した誰よりも大きく強い声で「許すまじ、樋口郁郎」と吼えたことは、希更も幼馴染みを通じて把握している。


「幸いなことに身の振り方を考える時間はそれほど短くないようだぞ。樋口郁郎イクオ・ヒグチが凶刃に脅かされることも当面は先送り――そう言い換えたほうが分かりやすかろうな」

が本社焼き討ちの下見にまで行ってる状況で? もパパの差し金なワケ?」

「……『NSB』を襲ったテロ事件の影響を甘く考えている人間は、自分のバカさ加減に気付いていない。だ」


 自分は弁護士であってフィクサーではない――愛娘むすめの皮肉に対する返答こたえを前置きの代わりに述べ、その後にアルフレッドが続けた説明はなしは『天叢雲アメノムラクモ』の選手である希更にとって短絡的に幸運とは判断しがた内容ものであった。

 『NSB』のMMA興行イベントが『ウォースパイト運動』の過激思想家たちに襲われたテロ事件は、二派ふたつ集団グループが入り乱れる二段階の攻撃であった。

 事件関係者全員の死亡という凄惨な結末を迎えたこともあり、再発防止を目的として実施される体育委員会アスレチックコミッションこうちょうかいも銃撃事件が焦点であろうとマスメディアが予想を立てているのだが、その前に発生した興行イベント会場への乱入事件は、MMAのオリンピック競技化やアマチュア選手の育成を根拠に『NBS』の活動を『平和と人道に対する罪』として糾弾するものであり、団体代表のイズリアル・モニワも明確な〝抗議〟の対象となっている。

 希更もアルフレッドも、当該する場面をそれぞれニュースで確認しているが、伸縮式の特殊警棒を振りかざして八角形の試合場オクタゴンを占拠したに対し、イズリアル・モニワは臆することなく立ち向かったという。

 先般のテロ事件が〝格闘競技〟の団体代表たちに植え付けたのは、肩書きの為に先鋭化の一途を辿る『ウォースパイト運動』の攻撃対象になり得るという恐怖であった。

 『破壊活動防止法』の発動さえも議論されたカルト集団が地下鉄や住宅街でのサリンガス散布といった凶行を繰り返したのは一九九〇年代半ばである。およそ二〇年の歳月が流れゆく中、二〇〇一年の『九・一一』を挟みつつもテロの脅威が身近ではなくなった日本では、テロリズムそのものに対する認識が緩んでいた。

 これを一変させたのが『NSB』を脅かしたテロ攻撃だ。次に『ウォースパイト運動』が矛先を向けるのは、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催相手という懸念が高まっていた。その対応として『天叢雲アメノムラクモ』の主催団体でも樋口郁郎に身辺警護ボディーガードを付けることが検討されたのだった。

 無防備に歩き回っていた人間が鎧を着込んで防御まもりを固め始めたわけである。〝暴君〟を成敗しようといきり立っていた人々も、襲撃計画自体を練り直すしかなくなった。

 例えとしては些か時代錯誤であろうが、幕末に起きた『さくらもんがいの変』は不意討ちが成功した為にたいろうなおすけの殺害という最悪の結末となった。その後、模倣犯的に実行された『さかしたもんがいへん』では標的となったろうじゅうあんどうのぶまさの側も警護体制を強化しており、それが為に襲撃犯たちは返り討ちとなっている。

 思考かんがえること停止めて激情の赴くままに刀を振るうのではなく、『さかしたもんがいへん』と同じてつを踏まない判断を冷静かつ適切に下せるのが三好家の〝当代〟であった。


身辺警護ボディーガードを付けるように提案し、渋るグチへ執拗に食い下がったのは倉持有理紗アリサ・クラモチだ。あの男の卑劣な罠で『メアズ・レイグ』を――自分が愛したMMA団体を破滅させられた恨みはどこかに置き忘れてきたのか、あるいは……」


 かつて日本屈指の人気を誇った『メアズ・レイグ』という女子MMA団体がある。

 『MMA日本協会』とも歩調を合わせていたくだんの団体はこんにちでいう〝ジョシカク〟の先駆者であったのだが、経営不振から『天叢雲アメノムラクモ』との吸収合併を余儀なくされてしまった。その裏では樋口郁郎が暗躍していたともささやかれており、これを〝真実〟と疑わない者はアルフレッドを含めて一人もいなかった。

 編集長の座を退いた後も古巣である格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部を意のままに動かしてしまえる男である。『メアズ・レイグ』の社会的信用が悪化する情報を流し、『天叢雲アメノムラクモ』が救いの手を差し伸べなければ団体活動が立ち行かなくなる状況に追い込んでいったわけだ。

 日本初の女性MMA選手にして『MMA日本協会』の副会長であるよしさだが現役引退まで所属したのも『メアズ・レイグ』であり、これを率いた代表がくらもちであった。

 主催企業サムライ・アスレチックスいて経理の仕事を一手に引き受けているが、〝樋口社長〟の一存によって役員の座には列せられず、MMA団体の代表という前歴を持ちながら興行イベントの運営に関わることも禁じられていた。

 『メアズ・レイグ』の恨みに加えて、〝懲罰人事〟にも等しい不遇を被り続ける倉持であれば〝火の国〟の刺客を手引きしても不思議ではないはずだが、現実には正反対の言行で〝暴君〟を守らんとしている。


「恨みを超えて手を携えるってコトでしょ。クラモチさんは女子選手あたしたちの相談も親身になって聞いてくれる人格者よ? 〝自他共栄〟だってパパなんかよりずっと深く理解してるわ」

「恨みを超えた判断という点は俺も希更おまえと同じだが、受け取った意味は別だな。おそらくそれはに近い。大きな目的の為なら私情を殺せる人間だと俺は睨んでいる。殺したくて仕方ない敵だろうと、利用できる内は利用し尽くす。大器うつわだ」

「……『天叢雲アメノムラクモ』で選手やってるあたしよりもパパのほうが主催企業サムライ・アスレチックスの内情に詳しいなんて、ジャンルで言えばホラーでしかないんだけど」

が良くなければ弁護士は務まらない。それ以外の何物でもない」

「友達んトコの探偵社に法律スレスレな依頼シゴトを回しただけでしょ、いつもみたいに」


 一口に経理といっても倉持有理紗の仕事は収支の計算や帳簿の管理だけではない。かつてMMA団体の代表を務めた経験を生かし、興行イベント運営に関する予算の管理と計画まで策定しているのだ。これらに基づいて取引銀行との交渉にも当たっている。

 会社という組織を人体にたとえるならば指先に至るまで血を通わせる心臓が倉持有理紗であり、実質的には樋口に次ぐ地位にる。彼女が最高財務責任者CFOの肩書きを名乗っていないのは企業そのものの損失とも言えよう。

 樋口郁郎の専横に含むところがないとは考えにくいが、日本MMAの将来にとって最も望ましい判断を優先できる大器うつわの持ち主とアルフレッドは認めていた。無論、は国内外の格闘技関係者による倉持有理紗への評価とも一致している。


(今、グチ首級くびを取っても、せいぜい熊本の武術家たちが溜飲を下げる程度。利用価値が残っている間は生かして転がしてこそ得がある。いざ消えてもらうときにも世の中の憎しみを丸ごと引き受けるいけにえくらいでなければ、災いの火種が残って煩わしい)


 薄笑いを浮かべるアルフレッドの背中から肩に引っ掛けていた背広が滑り落ちていく。

 手を伸ばしても届くはずがなく、高度なIT社会とはいえ実情を探る手掛かりも断片的にしか得られない〝海の向こう〟の事件に翻弄されるという事態は往々にして起こるものだが、その〝大きな流れ〟は日本の片隅の熊本も逃しはしないようだ。

 命に替えてでも〝火の国〟の誇りを守り抜く覚悟で先制攻撃を狙っていた三好家の〝当代〟が足踏みを余儀なくされている。〝幻の剣〟を携えて〝暴君〟の喉元にまで迫った希更の幼馴染みは、熊本が次なる一手を迷うほどの混乱状態に陥ったことも知らないまま偵察の任務を遂行しているのかも知れない。

 共通の敵に立ち向かうべく肩を並べはしたものの、江戸時代から拗らせ続けてきた対立関係によって開いた溝が気持ち一つで埋まろうはずもなく、おそらくは連絡すら満足に取り合えていない。こうした綻びもまたであろう――アルフレッドが口に出して希更に伝えたのは、熊本・八代二派の連携が噛み合わない原因の分析のみであった。

 野獣さながらの大きな唸り声が携帯電話スマホで繋がるおやの鼓膜をまとめて貫いたのは、その直後である。


「ねぇ、ちょっと――さっきから誰か暴れてるの? ていうか、その声、おタカさん?」


 先ほど父の皮肉に付き合う暇はないと述べた通り、希更は現場マネージャーのおおとりさとが迎えに来る前に出勤の準備を済ませなければならない。自室のテーブルに携帯電話スマホを置き、心身の調子を整えるべく柔軟体操ストレッチしながらスピーカーフォン状態で通話はなしている。

 『バロッサ・フリーダム』と実家の道場のロゴマークが刺繍されたトレーニングウェアを身を包み、フローリングの床に股を開いて関節を伸ばす希更の鼓膜は、唸り声や木板を踏み付けるような音で打ち据えられている。そこには風を切り裂く音も混ざっていた。

 ビデオ通話ではないので父の現在地は不明であるが、その頭越しに飛び込んでくる声には聞きおぼえがあり、脳裏に「おタカさん」という名前が閃いたのだ。


「事務所じゃなくて、今、ダンと一緒におたかさんの道場なんですよ、おじょう

「その声はげんさん? 日曜日なのに何で? パパに休日出勤を命令されたの⁉」

「腐ってもごおりづつの伝統を守ってきた端くれですからねぇ、今度の一件にケリがつくまでは休日返上じゃなくて常在戦場ってな具合でさぁ。熊本城を好き放題にされちまったら、あしきたのご先祖様にも顔向け出来ませんって」

「……パパやはともかく、げんさんまで『天叢雲アメノムラクモ』の一件コトに関わってるとなると、さすがにあたしもわね。必然的におたかさんもそっち側ってコトだし……」


 全体的には流暢であるものの、少しばかりたどたどしさを残した英語で答えたのは、アルフレッド本人ではなく法律事務所の部下――ごんげんぱちろうであった。その声も耳に馴染んでいた為、希更は「げんさん」と親しみが込められた愛称ニックネームで呼んだのである。

 父一人ではなくそのも通話の相手に含まれていたことを察した希更は、すぐさま紡ぐ言語ことばを〝アメリカンイングリッシュ〟から日本語に切り替えた。

 両親ひいてはバロッサ家の一族ひとびとはアメリカ出身であり、希更も家族の前では英語アメリカンイングリッシュで喋っている。その感覚で父と通話はなしていたのだが、二つの言語ことばの間で生じる微妙な意味合いの差異ちがいを取り除き、自身の意図を源八郎に真っ直ぐ伝えられるよう配慮したわけだ。

 床の上の携帯電話スマホを挟み、同じイグサの渦円座を敷いて左隣に座っている権田源八郎から「に育ってくれましたねぇ」と眼差しでからかわれたアルフレッドは、右の親指でもって鼻の頭を擦りつつ目を逸らした。

 両者ふたりの目の前では「おたかさん」と呼ばれた男性が地響きを立てるような勢いで板張りの床を踏み、気合いの吼え声を発しながら稽古用の木槍を振り回している。

 しょうもりたか――アルフレッドの法律事務所に所属するもう一人の部下だ。鎌倉時代中期の『もうしゅうらい』に出陣した西さいごく――いわゆるきゅうしゅうにん――の末裔であり、轟々と繰り出す技は父親から直伝されたほうぞういんりゅうそうじゅつである。

 奈良県奈良市に所在するこうふくで編み出された同流派は江戸時代を通して熊本藩士が修めていたのだが、戦後には道場そのものが絶えてしまった。しょう家は藩主直臣の末裔たる矜持として昭和より以前の武技わざを〝家伝〟の如く子孫に受け継がせてきたのだ。

 熊本市内に所在する少弐の屋敷内で江戸時代の風情を留めた道場は、ほうぞういんりゅうを教え広める施設ではなく守孝の稽古場というわけである。

 天井を横断するはりに沿うような恰好で設けられた格子窓は、手入れの行き届いた床に眩いばかりの光を降り注がせている。赤樫を削り出した木槍がを切り裂いているのだ。その穂先はほうぞういんりゅうそうじゅつの様式に則り、十文字の形を取っていた。先端が鎌の如く上向きに湾曲した刃が左右から張り出し、みつまたの輪郭を作っている。

 袴の裾を捌く音を引き摺りつつじゅうもんかまやりを突き出すたび、禿げ上がった頭部あたまからは大量の汗粒が飛び散っており、鼻の下や顎全体を豊かな覆うひげも湿り気を帯びて重そうだ。

 踏み込みと吼え声によって生み出された力をみつまたの穂先に漲らせる姿は、まさしく〝肥後武士〟という古来よりの呼び名の体現であるが、槍捌きそのものは平素いつもより荒々しい。

 肉体からだより発する技は内なる心を端的に映すものであり、アルフレッドも源八郎も、守孝の槍が激情で満たされた理由を知っている。

 国外からる連絡を受ける為、事務所々長室で待機せざるを得なかったアルフレッドは同行していないが、一目で骨太と分かる少弐守孝と、痩せ気味な権田源八郎という好対照の二人組は、この日の午前中に三好の屋敷を訪ね、〝当代〟の様子を窺っていた。

 現在いまは稽古の為に紺色のどうに替えたが、顎の下に蓄えた髭を撫でる源八郎と同じように守孝も背広姿で熊本武術界の旗頭と対面している。その際には両者ふたりとも所長アルフレッドと同じ徽章バッジを左襟にて煌めかせていた。

 やがてアルフレッドと二人の部下は少弐家の屋敷で合流し、程なくして希更から電話が掛かってきた次第である。


(……次に会ったとき、希更おまえから軽蔑の眼差しを向けられるのは間違いないな……)


 前方に輪を描くような槍の動きを氷ので追い掛けながら、アルフレッドはあくまでも〝相互理解〟を貫かんとする希更の言葉を振り返り、東京という遠く離れた都市まちで暮らす愛娘むすめが熊本を文字通りの〝火の国〟に変えた憤怒いかりを甘く見積もっていることに何ともたとがたい溜め息をいた。


葦北じもとの焼酎を担いで、おたかさんと陣中見舞いに行ってきたんですがね、まぁ~、三好の大将、でしたよ。きょういししゃもんも考えられる最悪の時期にこれ以上ないくらい余計な真似してくれたって。いざ反撃ってときに足を引っ掛けられたようなモンだから、大将の気持ちも分からねぇでもないんですがね」

きょういしが『NSB』で起きたテロの黒幕って風聞ウワサは眉唾と思っておいたほうが無難だけどなぁ。てゆーか、樋口代表を狙う陰謀自体が例のテロと変わらないじゃない。それで腹を立てるなんて二重規範ダブスタの極みよ」


 外的要因に阻まれて暗礁に乗り上げさえしなければ、熊本武術界の〝覚悟〟は本物の炎に換わり、『天叢雲アメノムラクモ』主催企業の焼き討ちに踏み切ったことであろう。そうでなければ、血気に逸る〝幻の剣〟を偵察として差し向けるはずもあるまい。

 その覚悟の体現者こそが三好家の〝当代〟であることもアルフレッドは把握している。

 〝火の国〟の誇りは命に替えてでも守り抜くであり、細川家功臣の末裔としての本懐を果たす為ならば、比喩でなく本当に樋口郁郎と刺し違えることであろう。

 先ほど希更には「大昔から続く対立関係は一朝一夕で解消できるものではなく、両者は連絡すら滞っている」と吹き込んだものの、実際は意思疎通に支障など生じていないとアルフレッドは読んでいる。

 〝昨日の敵〟とはいえ、三好家の〝当代〟は決して捨て石のようには使わない。希更の幼馴染みによる決死の行動にも相応の覚悟で報いることであろう。上に立つべき大器うつわを備えていればこそ、数え切れないほどの武術家たちが彼の屋敷に詰め寄せたのである。

 旧家という出自によって担ぎ出されたのではない。『さんかいびしいつくぎぬき』の家紋を掲げるに値する信頼が三好の屋敷に樋口成敗の〝本陣〟を構えさせた次第である。


「濡れ衣だとしたら、きょういしのお坊ちゃんも気の毒ですなぁ。小耳に挟んだウワサ程度ですがね、例の公聴会も本人は行きたくねぇってゴネたのに、協会だか連盟だか、デカい空手関係者から圧力を喰らっちまって、とうとうベガスまで出張る羽目になったとか」

「東京オリンピックの追加競技で空手が最有力候補ってコトが絡んでるの? 思った以上に生臭い話じゃない。と『くうかん』の〝サバキ〟はが違うけど、垣根を超えて何が何でも正式種目化を目指すって協力体制はに潔白を証明してこいって圧力に換わるワケね」

「長年の悲願達成ってェときですからねぇ、なりり構っちゃいられねぇんでしょうな。『くうかん』最高師範のお坊ちゃんって〝立場〟もあっちゃ折れる以外にねぇや」

「それでも断ったらからを着られなくなる……か。オリンピックは国家事業だもんね。それに絡んだ圧力なんて想像したくもないわ。そういう裏事情でもなきゃ立ち技団体の選手が総合格闘技MMAの公聴会に付き合わされる理由もないんだろうけど、聞いてるだけで胸クソ悪くなる陰湿なやり口はパパだけで十分よ」


 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行――即ち、熊本城二の丸広場にMMAのリングを特設するという発表の翌日、アルフレッドは今度の一件に対するバロッサ家の意向を携えて三好の屋敷を訪ねたのだが、その際に〝当代〟へを持ち掛けていた。

 つまるところ、希更から悪しざまに扱き下ろされた陰湿なやり口である。

 『天叢雲アメノムラクモ』代表の首は間もなく挿げ替えられる――そのように〝在野の軍師〟が口火を切った交渉の中で、〝暴君〟の追い落としに向けた計画は包囲網とたとえるのが似つかわしいくらい多角的に進んでいることも明かしたのだ。

 もはや、樋口郁郎の横暴はまかり通らないことを他の誰より強い説得力で証明できる〝同席者〟も、その根拠を交えながらアルフレッドの交渉に加わり、『天叢雲アメノムラクモ』も主催企業サムライ・アスレチックスも本来は熊本との友好的な関係を望んでいると訴えた。


「――バロッサ家の立場は重々承知しているつもりです。しかし、そこを曲げてお力添えを賜りたいのです。〝人柱〟を引き受けるのは私一人でなくてはなりません。さんさいただおき公に従って熊本に移り住み、細川家の守護まもりとして根を張った三好の宿命さだめとご理解ください。……さんさいただおき公以来、再び八代と手を取り合うことが叶った今、残していく未練など一つも無い晴れやかな気持ちですよ」


 しかし、〝在野の軍師〟には三好家の〝当代〟を頷かせることは叶わなかった。それどころか、〝火の国〟の本懐が果たされたのちに己以外は誰一人として罪に問われない手配りを要請されたのである。

 平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件――〝火の国〟に伝わる古流剣術の正統後継者が争点という極めて難しい訴訟を解決に導いた手腕を見込まれ、額づきながら請われてしまっては、アルフレッドのほうが首を縦に振らざるを得なかった。


(……死ぬ覚悟が出来ているを突き放せるものかよ……)


 狡猾に立ち回るのであれば「持ち帰って相談する」と明確な回答は避けるべきであったのだ。それを躊躇ためらってしまった理由を自問するアルフレッドの眼前では、守孝がでも起こしたかのような勢いで幾度も槍を突き出している。

 三好家の〝当代〟が示した〝火の国〟の覚悟に魂を震わされ、身のうちより湧き起こる義憤が抑え切れないからこそ、彼もじゅうもんかまやりを振り回して気を紛らわせるしかないのだ。


最初ハナから最高師範の顔に泥を塗るレベルで醜聞スキャンダルまみれなんだから、今さらきょういししゃもんに潔白も何もない気がするけど、……国家事業に振り回されるのだけは素直に同情するわ」

「お坊ちゃん、あの年齢トシにしちゃあ敵が多過ぎるみたいですしねぇ。九州に所在る『くうかん』の支部道場からもおっかねぇハナシが流れてきますし」

「レオ様――『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟がブラジル出身うまれだから、興味が湧いて再来年開催のリオも調べたんだけど、……日本こっちにバトンを渡してくるほうも国家事業のゴリ押しで大混乱みたいね。決勝トーナメントが絶賛開催中のワールドカップとも組み合わさって、もうボコボコ」

「……一九六四年の東京オリンピックみたいにデタラメな強制退去がまかり通ってるっつうのは聞いたおぼえがありますが、やっぱり本当マジですかい。二〇二〇年でも同じコトが繰り返されたらシャレになんねぇなァ。東京暮らしのお嬢には他人ひとごとじゃねぇでしょ」

「……その六年後だけど、仮にもオリ・パラの開催地で日本を代表するMMA団体と一県総出の武術家連合がぶつかりでもしたら、警察どころか、政府が動くんじゃない? そのレベルのリスクを音流あのコはちゃんと理解わかってるのかしら……」

「そこはまぁ……東京と熊本の温度差ってヤツですかねぇ」


 せきはら決戦やおおざかの陣といった〝天下分け目〟を戦った細川忠興の武勇が時代を超えて息衝く八代で共に生まれ育ち、徒手空拳ムエ・カッチューアと剣術の違いこそあれども腕を磨き合ってきた幼馴染みの心を読み切れない希更は、源八郎が苦笑交じりで呟いた〝温度差〟の象徴だ。

 焼き討ち計画の一時断念を決めたという三好家の〝当代〟であるが、その表明自体が本懐を遂げる為のけいではないかとアルフレッドは考えている。敵の油断を誘うに当たって味方をも欺くのは、騙し討ちの常套手段である。陣中見舞いに赴き、〝当代〟の言葉をじかに受け止めた二人の部下も同意見であった。

 〝未完の天下人〟と畏敬され、一時はを取り仕切ったよしながよし――熊本に根を下ろした三好家の祖先は言うに及ばず、細川家の一族も終わりなき政治闘争の渦巻くむろまちばくで舵取りを担い、ついには戦乱の世を渡り切った〝もうりょう〟なのだ。

 正攻法とは真逆の手段を取った暗闘たたかいも一度や二度ではない。

 細川忠興の実父ちちであり、いにしえの文学の秘伝を極めるなど朝廷すら一目を置いた中近世の代表的文化人――ほそかわふじたかゆうさい)がむろまちばくしんであった頃、領地のやましろのくに西にしのおか(現在の長岡京市)では対抗勢力との緊張状態が続いていた。

 西にしのおかの武士たちはとして室町幕府を支えてきたという誇りも高い。そこで藤孝は対抗勢力の筆頭であったそうにゅうただしげ)を自身の城に招き入れ、細川家の軍門に降らない者たちへの見せしめとして騙し討ちにしたのである。

 その藤孝は細川の氏族にいてに過ぎなかったが、足利将軍家と織田信長双方のもとで力を増し、本来は宗家(けいちょう)の権威を世に示す〝儀式〟であった連歌会――『ほそかわせん』を強行して一門内部の栄枯盛衰ひいては下剋上を知らしめたという。

 細川忠興の流れを汲む茶人であり、江戸幕府のしょいんばん――いわゆる親衛隊――も務めたはたもといちおりみちひさが取りまとめた書物によれば、天にも届く山より京を見守るたごしゃおおはらで催された『細川千句』を通じて藤孝の大器うつわを見極め、古くから関わりの深かった細川宗家(けいちょう)を離れて新しきえにしを結んだという。

 八代の地で最期のひとときを過ごした細川忠興もまた実父ちちと同じ修羅の道を歩んでいる。

 織田家臣として〝てんせいひつ〟の戦いに明け暮れた忠興は、実父ちちと共にたんごのくに(現在の丹後半島)の平定も成し遂げたが、舅のあけみつひでが『本能寺の変』を起こすと織田政権の混乱を見逃さず対抗勢力が息を吹き返し、その鎮圧の為に更なる血を浴びることになった。

 室町幕府よりたんごのくにの支配(しゅしき)を任じられてきたいっしきには忠興の妹が嫁ぎ、その当主とも義兄弟として心を通わせたが、対抗勢力と連動した裏切りが発覚すると、実父ちちそうにゅうただしげ)を始末したときと同じ策をもってこれを討ち取った。

 いちおりの書物によれば、三好家の祖先は熊本藩の礎である細川親子の血塗られた戦いを誰よりも近くで支えたという。たんごのくにでも最強と謳われ、細川家も手綱を捌けなかった豪傑・高屋十郎兵衛を忠興が騙し討ちにした際にも関与したと同書は伝えている。

 その歴史こそ〝当代〟が三好家の宿命さだめと語ったであり、己ただ一人を〝火の国〟の〝人柱〟にせんとするであった。

 藤孝にとっての西にしのおか、忠興にとっての丹後・いっしきに倣い、樋口郁郎を騙し討ちにするつもりではないのか――〝在野の軍師アルフレッド・ライアン・バロッサ〟にはそのようにしか思えなかった。


(MMAを狙ったテロので目算が狂ったと表向きは憤り、グチが『NSB』や代表イズリアル・モニワに剥き出しにする浅はかな対抗心は抜かりなく利用する――食えない人だ)


 三好家の〝当代〟も東京の情報提供者からアルフレッドと同程度には『天叢雲アメノムラクモ』主催企業のを掴んでいる。倉持有理紗による進言が退けられ、逆に〝暴君〟の警戒が手薄になっていることも把握していないわけがない。その上で守孝と源八郎に焼き討ち断念と告げたのである。これを決起の兆しと捉えないのは余りにも浅慮であろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体との〝黒い交際〟によって、日本MMAそのものを一度は破滅に追いやった関東の指定暴力団ヤクザ――『こうりゅうかい』と樋口郁郎の〝裏〟の繋がりをアルフレッドは疑い続けている。この〝暴君〟の師匠に当たるくにたちいちばんも同じ『こうりゅうかい』とは浅からぬ関係であり、三〇年も昔のことであるが、裏社会の実働部隊を呼び寄せて利害の対立が生じていた鬼貫道明を恫喝したがあるのだ。

 〝暴君〟が『こうりゅうかい』に熊本武術界の鎮圧ないしは自身の身辺警護ボディーガードを依頼したという情報はアルフレッドの耳に入っていない。それはつまり、指定暴力団ヤクザを敵に回して揉めるようなこともなく樋口郁郎ただ一人の首級くびを狙うには、今が絶好の機会ということである。

 〝火の国〟の歴史そのものとも呼ぶべき三好家の〝当代〟がを逃すとは思えない。

 そして、こそが守孝の槍を荒くさせる一番の理由であった。彼の覚悟に魂を震わされながらも、弁護士という立場では助太刀という〝暴力〟への加担など許されるはずがない。ましてや熊本武術界の同胞なかまたちとも志を違えるような形でこの一件と相対しているのだ。

 何よりも守孝の左手の薬指には他の二人と同様に指輪が煌めいている。少弐の先祖に顔向けできない振る舞いと理解わかっていながらも、己のなかでのたうち回る矛盾と葛藤を振り払うには、くうに映した気鬱の黒いもやじゅうもんかまやりで切り裂くしかないのである。


なんで、お嬢もきりの娘さんには単騎ピンでデタラメやらねぇようくれぐれも言い聞かせといてくださいな。平成も四半世紀を超えたってぇのに昭和より更に昔の手段に訴えるのは見過ごせねぇでしょ。思い上がった野郎に二度と悪さできねぇくらい分からせてやるにしたって、ってのがあるじゃねぇですかい」


 〝暴君〟と刺し違える覚悟を三好家の〝当代〟と分かち合っているであろう〝幻の剣〟が抜き放たれないよう諫めて欲しい――そう言って電話の向こうを拝み倒す源八郎へ呼応するようにして、アルフレッドも我知らず首を頷かせた。


げんさんやおたかさんが強引に付き合わされてたら申し訳ないんだけど、がバロッサ家の意向ってワケ? さっきからダンマリを決め込んでる人、そこのところ、どうなの?」

「……バロッサ家だけではない。熊本と八代の別もなく良識ある人々の判断だ。しかし、思い違いをするな。手段こそ異なるが、〝樋口潰し〟という最終的な目的は熊本全体の既定路線だ。……だから先程も言ったのだ。どちらを敵に回すか、選ぶときが来ると」

「さっきよりも言い方が意地悪くなってんのよねぇ~!」


 依然として面白くなさそうな声色の愛娘むすめに対し、努めて冷静に接するアルフレッドではあるが、状況自体は落ち着き払っている自分を現実逃避と嘲りたくなるほど芳しくない。

 純粋に三好家の〝当代〟を惜しんでいた。実の娘にさえ二枚舌や鉄面皮と罵倒される程度には〝隠し事〟の多い〝在野の軍師〟が胸に秘めたも見抜いていたはずだ。腹に一物を抱えた油断できない人間と承知した上で、熊本武術界に被害を拡大させない為の手助けを求めてきたのである。

 選手と取り交わす契約の中で、『天叢雲アメノムラクモ』は試合を原因とする故障を自己責任と定義していた。その上で同団体は体重別階級制度をえて設定せず、互いの命を壊し合うかのような攻撃までルールで許可している。契約書を盾に代えて安全の確保を放棄する〝暴君〟と比較しても、三好家の〝当代〟はここで喪失うしなって良い人物ではなかった。


「一つく。『NSB』のテロ被害を受けて、お前に対する警護は何か変わったか?」

「露骨に話題を変えたわね~。脳内あたまのなかで急に電球が光ったみたいな言い回し、誰が聞いても建前としか思わないし、家族以外の場合はバカにされたと感じるよ。ただでさえパパは敵を作り易いんだから気を付けたほうが良いよ」

「お嬢、ダンの気持ちも察してあげてくださいや。自分も似たようなもんですがね、子どもの心配はどこまでも尽きねぇのが親心なんでさぁ」

「勿論、声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラからはこれまで以上に警戒するよう念を押されたし、警棒で西洋剣術をやるおもしろマネージャーも自宅から現場、現場から現場ってカンジ。直行直帰の送迎で付きっ切りね。お陰で埃を被っちゃった愛車が可哀想だわ。……『天叢雲アメノムラクモ』はに自己責任でよろしくってね」

ダンはきっと『不用心で無責任』とか言いたくなってるハズですよ。その気持ちが分からなくもねぇなぁ。そりゃあ日本の『ウォースパイト運動』は今のところ、静かなモンですし、欧米みたいな実害だって出ちゃいねぇけど――どうですかい、アルのダン?」

「イズリアル・モニワは選手の安全対策を最優先していると聞くぞ。任意ながら身辺警護ボディーガードも手配するそうだ。必要経費も含めてを押し付けないということだな」

「意地でも『天叢雲アメノムラクモ』の欠陥を炙り出したいみたいだけど、テロに巻き込まれた被害者なんだから、『NSB』が後始末に必至になるのはそもそも当然でしょ――ていうか、ママがアメリカに飛んだ理由ってこれ? 自分の奥さんに調査員の真似事させてんの?」

「俺はどう思われても構わないが、『NSB』の友人を案じるママの心は理解わかってやれ」


 熊本県八代市で産声を上げた希更を除き、入り婿のアルフレッドも含めてバロッサ家はアメリカから日本に移住したのだが、一族の起源ルーツを遡るとオーストラリアに辿り着く。

 果てしなく広がる大地と温暖な気候から地球上で最もスポーツに適した国である。民の大半が生活ライフスタイルの一部としており、一九八一年には国を挙げてアスリートの育成を支援する研究所まで設置されていた。

 南半球にける初開催となった一九五六年メルボルン大会、併催されたパラリンピックにてルワンダより出場した水泳選手が内戦で傷付いた祖国の為に奮闘し、世界中から称賛を贈られた二〇〇〇年シドニー大会と、二度もの夏季オリンピックを成功させている。

 それはつまり、オーストラリアという国家くにを形作る環境の〝全て〟がスポーツを通じた国際交流を促進させる土壌とも言い換えられるわけだ。

 バロッサ家も二〇〇〇年代半ばから年に一度という間隔ペースでムエ・カッチューアが誕生したミャンマーの有力選手と五対五の交流戦を執り行っていた。『ムエタイ』の聖地と名高いタイのラジャダムナン・スタジアムの試合には希更も出場している。

 『冷戦』で悪化した日ソ関係の正常化を図るべく一九八九年一二月のモスクワでプロレス興行を開催した鬼貫道明や、『ハルトマン・プロダクツ』が開発したスポーツ用ヒジャブの発表会に立会人プレゼンターとして招かれたよしさだと同じ単位の〝スポーツ外交〟だ。

 バロッサ家も発祥地オーストラリアで育まれた理念を体現する一族であり、これを通じて国際社会に広い人脈を持っている。希更の母――ジャーメインも『NSB』に〝絶対女王〟として君臨するジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンとは古くからの親友であった。

 そのジュリアナも『ウォースパイト運動』によるテロ攻撃に巻き込まれた一人なのだ。八角形の試合場オクタゴンを占拠した過激活動家とも直接対峙し、これに続いて銃が乱射されたときにも会場にった。心身を案じて駆け付けるのは当然であろう。

 『NSB』の事後対応を確かめたのはあくまでも余禄おまけであるが、は格闘技に関わる者たちにとって傾聴に値するものであった。

 団体代表イズリアル・モニワはテロ攻撃の直後を受けた当夜の内に所属選手・団体関係者の護衛やカウンセリングといった支援体制を整え、同時に『NSB』の熱狂的なファンが『ウォースパイト運動』の活動家を私刑リンチにかけた傷害致死事件の再現を食い止めるべく公式サイトに動画ビデオ投稿アップロードし、〝暴力〟の応酬では何も解決しないと全米に訴えている。

 僅かな時間で混乱と動揺を最小限に抑えたイズリアルの手腕を愛妻ジャーメインからしらされたアルフレッドは、柄にもなく口笛まで吹いて感心してしまった。

 七月半ばにネバダ州体育委員会アスレチックコミッションが実施する公聴会の準備と並行しながら速やかに体勢を立て直したのだ。『NSB』という巨大組織のを改めて見せ付けられた思いである。


「お前の『天叢雲アメノムラクモ』に『NSB』と同じ善後策が打てるのか? シンガポールの〝新興団体〟はすぐさま警備体制などを見直したと聞くが、樋口郁郎は何をした?」

「いやいやいや! 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』じゃ資金力も規模も文字通りに桁違いなんだから、同じコトをやれっていうのは公平フェアじゃないわよ。例え『MMA日本協会』の手を借りたって不可能でしょっ! 『NSBあっち』はベガスに自前の社屋持ってんのよ⁉」

「だが、当事者意識は持てるだろう。リーダーの〝器〟と組織力は分けて考えるものだ。次は『天叢雲アメノムラクモ』がテロの標的になると誰もが予想する状況下でお前の友人を――『スーパイ・サーキット』を叩き売りするのは団体丸ごと巻き込んだ自殺行為でしかない。リングを破壊するような異能ちからが『ウォースパイト運動』に与える影響を考えないのは愚の骨頂」

「自粛すれば良いワケでもないでしょ。新人選手ルーキーのキリキリには大事な時期なんだから」

「お嬢、自粛と自重も別々に考えたほうが良い塩梅になりますぜ」


 『NSB』の興行イベントを血の惨劇に変えたテロは、『天叢雲アメノムラクモ』にとって遠い国の〝対岸の火事〟ではない。アルフレッドも指摘した通り、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体に飛び火する可能性は十分に考えられるのだ。それにも関わらず、を巡って物議を醸す『スーパイ・サーキット』を〝MMAのゲームチェンジャー〟などとはやし立てる広報戦略の危うさを理解していればこそ、希更の返事も歯切れが悪いのである。

 アルフレッドの耳に入ってきた情報によれば〝内政干渉〟にも等しい形で『天叢雲アメノムラクモ』の危機管理能力を問題視しておいて、所属選手の中からテロリストが現れた『NSB』を樋口郁郎は転げ回る勢いで嘲笑わらったという。

 秘書に背中を押され、身辺警護ボディーガードを呼び掛ける倉持有理紗も突っ撥ねたそうだが、それすらもイズリアル・モニワへの対抗心であろう。己の足元すら見えていない証左であった。

 かつて希更にも危害を加えようとした地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』が初陣プロデビューを終えて病院に運ばれる新人選手キリサメ・アマカザリの行く手を阻んだそうだが、それを手引きしたすら『天叢雲アメノムラクモ』は捜し出せていない。それどころか、主催企業サムライ・アスレチックスの内情まで多方面に漏洩している。

 『NSB』が露見させたテロ対策の脆弱性は直ちに是正されなければならないが、これをシンガポールで台頭した新興団体のように教訓として受け止められず、反対に厄災わざわいを引き寄せるような人間が上に立つ状況は『天叢雲アメノムラクモ』にとって不幸でしかあるまい。


「一旦、熊本の事情やバロッサ家の意向は取っ払うとして、……パパは『天叢雲アメノムラクモ』をどうするつもりなの? もう樋口代表の首級くびったくらいじゃ済まない感じじゃない」

「仮にお前が想像した通りの結末を迎えるなら、そもそも日本のMMAは二〇〇〇年代のような体力を取り戻せていなかっただけのこと。樋口郁郎が詐欺師のように化粧したところで、空洞同然の中身までは誤魔化し切れない」

「自分の父親がデタラメやってくれたで『天叢雲アメノムラクモ』が解散なんてコトになったら、マルガやあいぜんさん、キリキリたちに顔向けなんか出来ないわよっ」

「ムエ・カッチューアは立ち技主体の格闘術だ。バロッサ家の選手派遣も『こんごうりき』が中心だったことを忘れたか。お前も『金剛力あちら』で出直せ。一門としても現状いまより安心だ」

「鼻先に美味しそうな餌をぶら下げて、人の興味を別の方向に誘導するのもパパが嫌われる理由の一つだよ。あたし一人に居場所があっても意味ないのよ」

「お前の友人の受け皿になりそうな団体は日本国内にも少なくないだろう。『天叢雲アメノムラクモ』より活動期間が遥かに長く、社会的信頼と実績を兼ね備えた団体もある。つまり、樋口が消えたところで日本の総合格闘技MMAは終わらないということだ。そこを良く考えろ」


 自身の率いる団体に塞ぎようのない大穴が空いていることにも気付かない愚かしさは、手のひらの上で転がせればアルフレッドの目論見にとって都合が良い。一方、愛娘むすめの参戦する『天叢雲アメノムラクモ』ということを考えれば、熊本興行の成立も自分に課せられた使もかなぐり捨てて三好家の〝当代〟に協力し、今すぐにでも〝暴君〟を抹殺したかった。

 代表を挿げ替えた直後には混乱も起こるであろうが、前代表フロスト・クラントンが主導したドーピング汚染によって社会的信頼が地に堕ち、解散の瀬戸際まで追い詰められた『NSB』を現代表イズリアル・モニワ復活させたように然るべき人物がてば『天叢雲アメノムラクモ』は日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催前に正常化も間に合うはずだ。

 今でこそ関係が断絶してしまっているが、樋口郁郎さえ取り除いてしまえば『MMA日本協会』も『天叢雲アメノムラクモ』を全面的に協力することであろう。それはつまり、今まで野放しにされてきたルール上の問題が改善されることをも意味するのだった。

 『MMA日本協会』の会合にオブザーバーとして出席した『ハルトマン・プロダクツ』経営者一族の御曹司――ギュンター・ザイフェルトも、既に樋口体制終焉後を見据えているそうだ。言わずもがな、同企業ハルトマン・プロダクツは『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである。


(俺の腹を読んで上手く回してくれるとはな。が〝大人〟になったものだ)


 愛娘むすめの安全を守る為なら、取るべき選択肢に迷う必要もない――を天秤に掛けた上、理性で踏み止まってきた一線をで超えそうになったアルフレッドは、二人の部下が三好の屋敷へ出向いているなかにおよそ六時間の時差がある国とやり取りしたチャットを振り返り、主にヘブライ語で記された文面を自分の頬を叩く平手に代えた。

 私事を優先させた場合、間違いなく一つの家族が八方塞がりとなる。総合格闘技ミクスド・マーシャル・アーツの略称が入り混じったヘブライ語によると、愛娘むすめの為にも『天叢雲アメノムラクモ』から逃げ出したいと救いを求めてきたギリシャ人の男性おとこを交互に思い浮かべ、三好家の〝当代〟にも見抜かれたは〝暴君〟を利用して初めて成り立つのだと己に言い聞かせた。


(……流れは悪くない。『ハルトマン・プロダクツ』はと考えて構うまい。『MMA日本協会』も今度こそ重い腰を上げた。たてやま理事が〝あんな茶番〟に打って出たのも、の思惑と大きく変わらない証拠と信じたいがな)


 国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立の機関『MMA日本協会』で理事を務め、法律の専門家としてMMAのルール策定などに携わるたてやまさちと、悪名高い銭坪満吉スポーツ・ルポライターがテレビ番組で繰り広げた醜い口論すら策謀であったと突き止めた瞬間、樋口郁郎は己に対する包囲網に初めて勘付くのかも知れない。

 日本格闘技界による東北復興支援事業プロジェクトの為、一度は協力体制を整えた樋口郁郎の排除に『MMA日本協会』が傾くよう一計を案じたのは、他の誰でもないアルフレッド自身だ。

 愛娘むすめが抱いた疑惑は的中していた。同協会の副会長であるよしさだとジャーメインの交流に目を付けたアルフレッドは、熊本武術界が暴走する可能性を愛妻つまの電話連絡で吹き込み、〝最悪の事態〟の回避に向けて行動せざるを得なくなるよう仕向けた次第である。


(それにしても進士藤太は考えられる最高のタイミングでをしてくれたものだ。偶発的な〝ワイルドカード〟を当て込むのは危ういが、あれは使い道がありそうだ)


 『NSB』に参戦した日本人選手の〝筆頭〟――『フルメタルサムライ』の異名で呼ばれる進士藤太が『天叢雲アメノムラクモ』主催企業の本社ビルに乗り込んだのは、『MMA日本協会』に回った〝毒〟の効き目をアルフレッドが確かめているなかであった。

 熊本武術界は言うに及ばず、通話の様子から察するに希更も自身の所属先で吹き荒んだ〝大嵐〟を把握していないのだろう。同じ場所へ偵察に向かった彼女の幼馴染みも、進士藤太とは入れ違いであったようだ。

 アルフレッドとて主催企業サムライ・アスレチックスの内情を伝えてくれる情報提供者から連絡を受けなければ、進士藤太フルメタルサムライ乱入を把握するまで相応の時間を要したはずだ。


「――恥を知れ」


 MMAのリングにさえ不慣れという新人選手ルーキーとその異能スーパイ・サーキットを『天叢雲アメノムラクモ』のを吊り上げる為に利用する〝暴君〟に肉薄した進士藤太は、単純明快な為人ひととなりあらわれた一言で鋭く面罵したという。


「俺を見捨てておいて、今さら偉そうに説教を垂れるなッ!」

「この期に及んで未だに『見捨てられた』と被害者意識なのか⁉ 己を省みない言い訳がそれか⁉ 心得違いを恥とも思わない貴様を『見限った』のだッ!」


 社長室に乗り込まれた直後は旧交を温めるかのような態度を取り、新人選手キリサメ・アマカザリ異能スーパイ・サーキットを封印するよう求める大音声ものらりくらりとかわそうとしていたが、貼り付けたような薄笑いも徐々に消え、人を食ったような平素いつもの立ち居振る舞いからは想像も出来ないかんしゃくを起こした挙げ句、真っ赤な顔で進士藤太を「裏切り者」と詰り返した――と、情報提供者の速報メッセージには記されている。

 主催企業サムライ・アスレチックスの社長室に飾られた掛け軸には「士道不覚悟は切腹」と大書されている。荒々しく筆を走らせたのは生前のくにたちいちばん――即ち、樋口郁郎の師匠である。その物々しい文言が意味するところをサムライと呼ばれる男に問いただされた恰好であった。

 民間単位の〝スポーツ外交〟である日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを通じ、同団体が開発したシステムを掠め盗らんと企てるほど日本格闘技界の〝暴君〟は世界のMMAを主導する『NSB』にくらい敵愾心を燃え滾らせている。その有力選手であり、黄金時代の終焉と共に日本MMAを離れた進士藤太フルメタルサムライから「恥知らず」と罵られることは、何にも勝る屈辱なのであろう。

 この速報メッセージがアルフレッドの携帯電話スマホに届いたのはヘブライ語を用いるチャットの最中であったが、仮にビデオ形式であったなら交渉の相手が眉根を寄せるくらい悪辣な笑みを浮かべてしまったのである。

 いよいよ樋口郁郎は自らに後戻りを許せなくなる。組織力も規模も桁違いという『NSB』に張り合わんとする水面下の計画プロジェクトも血走った眼で進めるしかなくなるはずだ。

 〝暴君〟に回った〝毒〟は、が〝何者か〟の手によって鼻先に差し出された餌と疑う思考あたますら奪うことであろう。そして、その〝何者か〟は〝誰〟を指すのか――が脳裏を掠めると、またしてもアルフレッドは笑いが込み上げた。


(裏切り者――か。死んだ師匠が遺した幻想ゆめに取りかれているのかと思ったが、よもやここまで底が浅いとはな。なまじ振り回されただけに余計に腹立たしいぞ、樋口郁郎)


 通話を維持したままの携帯電話スマホを挟んで隣に座る源八郎から脇腹を肘で小突かれたが、それはつまり、部下にまで諫められるような表情かおであったということだ。無論、口元を引き締め直したアルフレッドもビデオ電話でなかったことに安堵している。


「親バカ丸出しのパパのコトだから、可愛いあたしがバカを見ないように〝仮想敵〟をあらかじめ潰しておこうってハラなのかもだけど、は親子の縁を切るレベルの迷惑だからね? あたしの人生はあたしが自分の力で切り開くわ。これまでもこれからもね」


 その携帯電話スマホからアルフレッドにぶつけられたのは、際限なく暴走する親心にせきを設けるような言葉であった。ともすれば娘を溺愛する父親を揶揄しているように聞こえなくもないのだが、希更の声は真剣そのものである。

 真っ向から指摘されたことも胸に秘めた打算の一つである為、アルフレッドは答えに詰まってしまった。

 独り立ちした以上は自分自身の足で〝道〟を踏み歩くという頼もしい決意と併せて、父親の愛情を理解し、感謝もしていると言外に示してくれた愛娘むすめに照れているのではない。

 ジャーメインと同じように真っ直ぐな心根に育ってくれたからこそ、これから日本格闘技界で巻き起こることを目の当たりにして傷付くに違いないのである。彼女が案じる『天叢雲アメノムラクモ』と熊本武術界の衝突は、より広い範囲を焼き尽くす火種に過ぎないのである。

 そのとき、この愛娘むすめは物心が付く前から親しんできた格闘技を恨むかも知れない。それを思うとアルフレッドは我が身を切り刻まれるよりも遥かに苦しくなる。

 希更の友人であるキリサメ・アマカザリも、アルフレッドにとっては謀略を進める為のこまであった。樋口郁郎でさえ使がなくなるまでは利用し続ける腹積もりだ。怒りと恨みを買うのは間違いないが、くらい激情が父親じぶん一人に集中しているほうがかえって愛娘むすめの心とも向き合い易い。しかし、それだけでは割り切れない情況が目の前に迫っているのだ。

 「レオ様」などと呼んで憧憬あこがれを隠さない相手――『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターであるレオニダス・ドス・サントス・タファレルも、希更の掲げる〝相互理解〟とは相容れない形で立ちはだかることであろう。

 関わった者全てが傷だらけとなるであろう動乱を予感させる激しい音は、何時の間にか止まっていた。荒れ狂うのが目的であるかのように振り回していたじゅうもんかまやりを垂直に立てた少弐守孝は、静かにアルフレッドを見つめていた。


「それでも修羅の道を進む覚悟であらば、自分もげんさんも所長におともつかまつる」


 声なく問い掛ける守孝の眼差しを正面から受け止め、揺るぎない意志を示すべく頷き返したアルフレッドは、床の上の携帯電話スマホに向かって「親バカを舐めるな」とだけ答えた。



                     *



 『ラフレシア・ガルヴァーニ』という格闘家が全米を震え上がらせるのは、マリオン・マクリーシュ記者がフォルサム刑務所を訪れた数日後である。

 くだんの男性選手は数年前まで『MMA』の試合場オクタゴンで活躍していたのだが、前代表のフロスト・クラントンに引き立てられ、また彼が蔓延させたドーピングにも手を染めてしまった為にアメリカ格闘技界から永久追放され、現在はイギリス・ロンドンに本拠地を置く欧州ヨーロッパ最大の格闘技団体『ランズエンド・サーガ』と契約している。

 その通称リングネームの通り、彼と対戦した選手は団体を問わず誰もが口臭と体臭を〝強烈に独特〟と振り返り、鼻先まで顔を近付けるような状況は避けたいと異口同音に断言していた。

 ともすれば人格攻撃や名誉毀損と表裏一体である為、格闘技雑誌の記者も食い下がってたずねることははばかったが、食生活に対する疑問が常に付き纏う選手だったのは間違いない。

 自宅でも幾度か異臭騒ぎを起こし、近隣住民と揉めていたのも事実であるが、この時点では違法行為は確認されなかった。彼を化け物モンスターに変身させた禁止薬物は試合場オクタゴンからの追放に値する不正行為ではあるものの、麻薬ではないので犯罪として捜査されることもない。

 六月末もドバイの世界貿易センターで開催される興行イベントに出場予定であったが、出発直前になって状況が一変し、自宅に踏み込んだ警察に現行犯逮捕された。

 容疑は拉致監禁と殺人並びに死体損壊――より正確に表すならば、食人カニバリズムの為の犯行だ。

 通常の捜査と同じように身の毛もよだつ猟奇殺人事件を解決に導いた〝協力者〟の名前が公表されることはないが、その〝正体〟を全米が知れば誰もがトマス・ハリスの小説を原作とする映画を連想することであろう。

 実際、目の前で推理の一部始終を聞かされたマリオンも、「ハンニバル・レクターがハンニバル・レクターを捜査したみたいになっていやがる」と呻いてしまったのだ。


「い、一旦、整理させてください! ガルヴァーニの居住地付近で失踪事件が断続的に発生しているのはニュースで見たから私もおぼえていますが、その全部が彼の犯行だったと仰るのですか⁉ しかも、〝古代の戦士〟の真似事が動機ですって⁉」


 事件の背景の再確認を求めると、亡き母からを授けられたことが嬉しくてならない様子の『サタナス』がを褒められた幼児のような笑顔で無邪気に頷き返した。隣に立つシルバーマン弁護士は高鳴る胸を抑えながら鼻血を噴いたが、マリオンのほうは正反対に心臓が凍り付くような思いでを見据えている。

 獄中の彼女サタナスこそが猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニによるおぞましい犯行を暴いた協力者というわけだ。


「わたくしも同じニュースを拝見しました。あの方は近隣住民の代表として、素知らぬ顔でレポーターの取材を受けておられましたが、ガレージハウスを背にしていたと記憶しています。シャッターを下ろしますと、隣近所の目に触れることなく自宅まで被害者を誘導できるのではないか――わたくしなりに考えてみた次第でございます」

「……異臭騒ぎの原因とも辻褄が合います。その……〝残った〟という言い方は語弊があるかも知れませんが、……骨はどう片付けたとお考えですか? 庭先に埋めるのは目撃される危険性リスクが高過ぎますし……」

「骨粉にしてからトイレか洗面所で流したのでございましょう。ハンマーで叩くだけではサラサラになりませんので、改造された粉砕機でも調達したのではないかと。ミキサーのような音が聞こえても、はケーキでも焼いているのかとしか思いませんわ」


 アメリカの『NSB』は総合格闘技MMAであり、『ハルトマン・プロダクツ』の傘下でもある『ランズエンド・サーガ』は打撃系立ち技格闘技の団体であった。にも近い転向であるが、ラフレシア・ガルヴァーニは参戦以来、好調を堅持し続けていた。

 フロスト・クラントンからドーピングを強いられたMMA選手の多くは化け物モンスターと化した反動に苦しめられ、オクタゴンを追われるまでもなく引退せざるを得ない状態に陥っている。たちの脱落を尻目にラフレシア・ガルヴァーニは高い戦意モチベーションで『ランズエンド・サーガ』のリングに新たな居場所を築いたのである。

 しかし、彼の爆発的な昂揚は食人カニバリズムによって引き出されたものであった。

 特定の文化圏に限らず、古代と呼ばれる時代に戦士が打ち負かした相手などの人肉を喰らい、心身を増強したという伝説は世界各地に残っている。ラフレシア・ガルヴァーニは自身の試合に向けてを模倣していたのだ。

 尤も、古代の戦士にとって敵の肉体を喰らうという行為は、その勇敢なる魂を自らのなかに迎え入れる儀式の側面が強く、ラフレシア・ガルヴァーニの場合は表層をなぞっただけの愚かな倒錯に過ぎない。

 タンパク質を摂取できる手段が限定されていた古代にいて、強靭な肉体を育てる為に取られた措置であろうとする説は現在の研究では否定されていた。それどころか、異常プリオンの摂取によって脳を蝕まれる危険性が指摘されているのだ。余りにも犠牲者が浮かばれないが、医学的にもラフレシア・ガルヴァーニの食人カニバリズムは無意味であった。

 あくまでも自らの攻撃性を引き上げることが目的である為、偏食に基づく人肉嗜好ではないと『サタナス』は付け加えた。

 そして、それ故に容疑者を絞り込み易くなったという。被害者たちが姿を消した日付とラフレシア・ガルヴァーニの試合履歴が脳内あたまのなかで合致し、更には食人文化とも結び付いて連続猟奇殺人事件の全容が浮かび上がった――『サタナス』は亡き母への感謝を挟んだのちに推理を締め括った。


「想像するだけで吐きそうですが、粉末にした人骨ほねを流して棄てたということは、それが下水管の隙間などに付着して残留している可能性も高いですよね。それをこそぎ取ってDNA鑑定に掛ければ、失踪者のモノと一致するという寸法ですか」


 身震いしながら自分なりの推理を披露したマリオンに対し、『サタナス』は答え合わせのように頷き返した。人間離れした頭脳と同じ結論に達した恰好であるが、マリオンの側は一つとして嬉しくない。ドーピング汚染から再起した格闘家として、ラフレシア・ガルヴァーニを密かに応援していたのだから当然であろう。

 捜査が進めば、おそらくは『NSB』に出場していた時期の余罪も暴かれるはずだ。今日まで気付けなかった自分の洞察力をマリオンは恥じるばかりであるが、元より歪んだ魂の持ち主であったからこそ嗜虐性を刺激するようなフロスト・クラントンの誘惑に乗ったのだと考えると、これもまた辻褄が合う。

 鮮血の滴る頬を拭う為のハンカチを差し出し続けるシルバーマン弁護士に対し、『サタナス』はこれを受け取らないまま今し方の推理を直ちに警察へ連絡するよう言い渡した。

 『ランズエンド・サーガ』の興行イベント前後に食人衝動を解き放つという法則性は読み解いたのだから、ラフレシア・ガルヴァーニの試合予定を確認すれば、新たな悲劇を防げるだけではなくその異常行動を逆手に取ることも可能であろう。

 果たして、ラフレシア・ガルヴァーニは『サタナス』の目論見通りに警察の囮捜査で現行犯逮捕され、長年に亘って隠し続けてきた〝本性〟を暴かれることになる。

 紐で括って首から下げている人骨笛に目を落とした瞬間、自体が手掛かりとなって食人カニバリズムという猟奇殺人事件が脳裏に浮かび上がった様子であるが、亡き母ので拵えた物ということを考えると、マリオンはどうしても拍手を躊躇ためらってしまうのだった。

 しかし、これこそがフォルサム刑務所にける彼女の刑務しごとなのである。挨拶を交わした際にも「刑務作業のに取材をお受けする非礼をお許しください」などと奇妙なことを話していたのだが、作業に必要な道具は一つも持っていなかった。

 捜査当局から依頼されたものとおぼしき犯罪の推理をマリオンの取材と同時に進めていたわけだ。脳を二つ備え、別々の思考を同時に処理しているようなものであった。

 そして、これこそが受刑者の身分とは思えない特別待遇の理由というわけである。監視の目もなく刑務所内を気ままに歩き回り、首飾りまで黙認されているのは、警察でも手を焼くような異常性の高い事件の捜査に協力する報酬としか考えられなかった。

 IT長者としての資産は虚業のあぶく銭も同然だが、〝外界〟と完全に遮断された獄中にありながら、ほんの小さな情報のみを手掛かりにして常人の想像力では最初の一歩すら踏み出せない領域まで辿り着く頭脳は〝本物〟である。〝自国産ホームグロウンテロ〟とはいえ、野放しにするよりも手を組んだほうがアメリカにとって得策という超法規的措置なのであろう。

 ラフレシア・ガルヴァーニの事件のように、「格闘家は人の皮を破った野獣である」と知らしめる捜査を支援たすけることは『ウォースパイト運動』としても一挙両得なのだ。

 ジョニー・キャッシュがミステリードラマ『刑事コロンボ』シリーズで犯人役を演じたことを思えば、これに勝る皮肉はあるまい。

 しかも宗教団体の広告塔として利用される悲劇のカントリー歌手という筋立てなのだ。追い詰められた末に殺人を犯し、逮捕の瞬間に安堵の表情を浮かべるという余りにも哀しい姿に同情を禁じ得なかったファンも多い。言わずもがな、マリオンもその一人である。


「マリオンさんの生業からすれば、の崇高なる理想は簡単に飲み込めるものではありますまい。ですが、格闘家による悪魔の所業が後を絶たないのもまた事実。先ほど〝聖女サタナス〟がオムロープバーン家を例に挙げましたが、格闘技など破壊と殺戮しか生まないと誰もが認めていなければ、オランダ全土に及ぶ規制網など有り得ないでしょう」


 猟奇殺人者ラフレシア・ガルヴァーニの犯行に関する推理を警察へ伝達つたえる為、中庭から立ち去ろうとする間際のシルバーマン弁護士に言われたことが脳裏に甦ったマリオンは、危うく取材対象の前で舌打ちしてしまうところであった。

 古代の戦士に倣った食人カニバリズムという極端な事例で全ての格闘家を一括りに否定されては堪らない。むしろ異常性の傍証ということであれば、今し方の推理は『サタナス』にこそ当てまるだろう。

 行動分析プロファイリングはこれを実行する人間の知識や経験に依存するところが大きい。捜査当局が囲い込もうと考えるくらい『サタナス』の分析力や推理の確度が高いことはマリオンも素直に認めているが、そもそも彼女自身の思考回路がへ限りなく近くなければ、瞬く間に猟奇殺人事件へ辿り着くこともあるまい。


脳内あたまのなかを開けば、きっと百科事典のようになっているのでしょうね。世界の隅々までかき集めたような知識が推理を支えていると拝察いたしますが、軽蔑する格闘家の情報をご自分のなかに蓄えておくのは、それだけでも苦痛ではありませんか? それとも敵を知らねばナントヤラというものでしょうかね」

「わたくしは無差別な破壊など少しも望んでございません。一九八四年の冬と、それ以降のサラエボを知る母が戦争も同然の有り様を許すはずもございません。エルステッド様のように志を同じくできる方とはどなたとでも手を携えて進めると信じてございます」


 そのベイカー・エルステッドに『NSB』は存在自体が『平和と人道に対する罪』と刷り込み、八角形の試合場オクタゴンの占拠という暴走へ追い立てた上、別の一派グループに惨殺させた張本人の言葉とは思えず、マリオンは脳内あたまのなかに浮かべた彼女の母親に向かって鼻を鳴らした。

 尤も、想い出の彼方から現れたその人物は現在の一人娘サタナスよりも一回りは若く、煌びやか衣装で氷上を優雅に滑る姿であった。


(サラエボという一言は軽々しく口にするモンじゃないと、お袋さんから教わらなかったのか? 教わってこのザマなら、……らしくもなく育て方を間違えたようだな……ッ)


 もはや、骨片のみとなってしまった『サタナス』の母親をマリオンは良く知っている。それどころか、スポーツを趣味とする人間ならば一度は名前を耳にしたはずだ。

 ワーズワス・カイペル――フィギュアスケート・女子シングルのアメリカ代表として一九八四年サラエボ冬季オリンピックに出場し、首に銀メダルを掛けられた選手であった。往年のオリンピアンが一人娘サタナスによってを施され、テロリストの一味として夫と互いの眉間を撃ち抜いたのである。

 彼女ワーズワスが〝平和の祭典〟の一員となったのはサラエボだ。

 『第一次世界大戦』の発端となった地であることは言うに及ばず、一九八四年冬季大会の八年後に勃発した『ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争』で激戦地となり、オリンピック関連施設も壊滅的な被害を免れなかった。

 『サタナス』の母が創造性に満ちた演技でもって世界を魅了したゼトラ・オリンピックホールも砲撃や爆撃に晒された。国家の垣根を超えて代表選手オリンピアンたちが友情を育んだその場所には数え切れないほどの遺体が運び込まれ、木製の観客席は解体ののちに棺として作り変えられた。

 一九九五年の紛争終結後も犠牲者の墓地と隣接する形で廃墟のまま放置されていたが、一九九七年に再建が始まり、翌々年から競技施設スポーツアリーナという本来の姿で甦ったのである。

 サラエボ冬季オリンピック出場選手の一人娘は、攻撃対象の情報を膨大に蓄えている様子だが、亡き母ワーズワス・カイペルと女子シングルの金メダルを争った旧東ドイツ代表のアイススケーターが旧ユーゴスラビアを文字通りに引き裂いた内戦に向けて、公然と反戦の祈りを捧げたことを知らないのであろうか。

 「二一世紀にサラエボの悲劇を再現させてはいけない」と遺言したワーズワス・カイペルが尊敬すべき好敵手ライバルの勇気を一人娘に教えなかったとも思えない。『サタナス』自身が幼い頃から親しんできた競技フィギュアスケートにも関わらず、暴力とは正反対の手段を選んだをどうして本当の意味での「戦争への軽蔑ウォースパイト」と感じ取れなかったのであろうか。

 『ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争』が終息の気配すら見せない一九九四年に開催されたリレハンメル冬季オリンピックのひとまくである。

 人生初の金メダルを授かるなど想い出がとても深いサラエボを飲み込んだ戦火に心を痛めたくだん代表選手オリンピアンは、一大会を挟んで復帰したオリンピックという〝平和の祭典〟にいて、マレーネ・ディードリッヒが唄う『花はどこへ行った』に乗せて場内を圧倒する演技を披露したのである。

 テレビを通して目にした一九九四年二月二八日の場景は、今でもマリオンの網膜に焼き付いて離れないのだ。

 元々は今年の一月に没した〝アメリカンフォーク音楽ソングの父〟――ピート・シーガーの作品であり、『ベトナム戦争』反対運動の中で注目を浴びた反戦歌であった。

 ウクライナのコサック民謡を起源ルーツとし、戦争によって失われる命と、その尊さを幾度も幾度も訴える歌を〝平和の祭典〟で用いることは、まさしく勝敗を超越した祈りである。

 旧東ドイツの好敵手ライバルと同じ思いをサラエボに抱いたであろうワーズワス・カイペルの一人娘が独善的な〝正義〟を振りかざし、数多のテロリストを破壊へと駆り立てている事実に悲憤を抑え切れない人間はマリオンだけではない。

 彼女の亡き母ワーズワス・カイペルが銀メダルという生涯の栄光を授けられた表彰台は、戦時中に処刑場として転用されたのだ。未来の遺産レガシーとなるはずであった選手村は刑務所となり、トレベヴィチ山に作られたボブスレーの競技場からは人間を砕く砲弾が降り注いだ。

 スポーツの〝聖域〟が戦争の狂気によってけがされてしまったのだが、『サタナス』ひいては『ウォースパイト運動』が繰り返す凶行は、ワーズワス・カイペルが最期の瞬間まで憂えたというサラエボの再現とどれほど違うのか。


「同じ志を持つ人間には握手を求めるといった旨を仰いましたね? そこまでの友愛をお持ちであるなら、ンセンギマナ選手は〝抗議〟の標的ターゲットから外すべきだったのではありませんか? 平和の尊さを誰よりも何よりも体現しているのは、シロッコ・T・ンセンギマナその人であろうと私は信じて疑いません。……戦争がもたらす破壊と、そこからの再生を知り尽くした彼が平和の創造者ではなくて何だと言うのですか?」


 故郷ルワンダを襲った内戦と虐殺ジェノサイドによって左膝から下を欠損うしなったンセンギマナは、総合格闘技MMA動作うごきに対応できるよう改良が施されたスポーツ用義足を装着して八角形の試合場オクタゴンに臨んでいるが、試合を通して計測されたデータは義肢装具の開発に反映フィードバックされるのだ。

 ありとあらゆる攻撃手段が有効である為、身のこなし自体が必然的に複雑となるMMAでしか得られない貴重な検証結果とも言い換えられる。『九・一一』に端を発する対テロ戦争によって増加した傷痍軍人の社会復帰は言うに及ばず、パラアスリートの活動を支援たすけることにも繋がるのだ。

 「戦争への軽蔑ウォースパイト」を謳いながら未来の可能性を叩き潰そうとすることは、欺瞞という糾弾を免れまい。


「ンセンギマナ様ほど哀しい方は、わたくしも他に存じ上げません」

「……哀しい……?」

「マクリーシュ様も仰せの通り、ンセンギマナ様は戦争の虚しさ、人が人の命を壊してゆく恐ろしさを他の誰よりもご存知でしょう。それなのに平和な世界を歩む為の義足を暴力に変えて再び戦争に回帰なさろうとしておられるのです。人間という生き物は果てしなく哀しい――だからこそ、義足の競技選手パラアスリートにも破壊なき未来を約束しなくてはいけません」


 この返答こたえに『サタナス』が込めた意味を読み取ったマリオンは、ワーズワス・カイペルが娘の育て方を間違えてしまったのではなく、独り立ちののちに〝外界そと〟から悪しき影響を受けて歪んだのでもなく、根本的におやの間で心など通い合っていなかったのではないかと疑わしく思えてきた。

 ンセンギマナは二度に亘って『ウォースパイト運動』のテロに遭遇したのではない。その二度とも『サタナス』から明確な標的とされていたわけだ。内戦の悲劇を乗り越えてMMAの試合場オクタゴンに立つ男を執拗に狙う異常性から〝平和の祭典〟の一員に受けた薫陶を見出すことなど不可能である。

 彼女は創造性の有無で排除対象を選り分けている様子であるが、これを紡ぎ出す感性すら個々人で異なるのだから、判断基準など存在しないにも等しいだろう。そして、明確な輪郭を持ち得ない境界線が無限の残虐性にそのまま置き換わるわけだ。


「……異常性の高い犯罪者は、自らの犯行自体を芸術のように捉える傾向が強いと聞きました。の仰る創造性もそれと同じなのでしょうか?」

「わたくしは世界を愛でいっぱいにしたいのです」


 他人の命をのように弄び、死神スーパイのもとへ葬送おくる破滅的なテロ計画がお前の言う創造性なのか――マリオンは質問の形を借りてそのように糾弾したつもりであったが、『サタナス』の返答こたえはまたしても常人と噛み合わない。

 亡き母ワーズワス・カイペルから貰った肉体からだに殆ど隙間なく並べた『愛』という漢字一字の刺青タトゥーで理想郷を表しているのだとすれば、自己のなかで破綻しないのが不思議というほどの矛盾であろう。

 背の高い建物の向こうから何やら喚き声が聞こえてきたのは、辟易しながらも次の質問を重ねようとした瞬間ときである。

 女性用の施設とは随分と離れた場所で騒ぎが起きた様子だ。それ故に同じフォルサム刑務所の敷地内でありながら、最初の内は男性の声ということしか分からなかったのだが、次第に言葉の輪郭を掴めるようになり、やがて「ボクシングはアメリカの国技なんかではない」という一際大きな怒号がマリオンの鼓膜を打ち据えた。


「――ハナック・ブラウンを生かして帰すな! そいつは何十年もアメリカ国民に暴力性を植え付けてきた〝社会悪〟だ! 自分の罪深さを思い知らせてやれッ!」


 更生プログラムに組み込まれたボクシングを指導するべくフォルサム刑務所を訪れている元ヘビー級王者チャンピオンを暴力の扇動者と決め付けて面罵する声が轟いたかと思えば、同じ〝抗議〟と連帯を示す指笛がを追い掛けた。


「バカなッ! それは……ッ⁉」


 立ち竦んだマリオンが膝から崩れ落ち、その場に尻餅をいてしまったのも無理からぬことであろう。ベイカー・エルステッドの肉体からだが無数の凶弾によって惨たらしく引き裂かれたテロ事件のとき、留め置かれたMMA興行イベントの会場内にいて発砲音と共に嫌というほど聞かされたる文言が元プロボクサーへの罵声に続いたのだ。

 格闘家どもは皆殺し――からや警察の制服を真っ赤に染めた屍の山という再体験症状フラッシュバックが引き起こされるその一言は、不可視の銃撃と化してマリオン精神こころに無数の風穴を開けた。



                     *



 熊本城に『天叢雲アメノムラクモ』を一歩たりとも踏み入れさせまいと、細川家功臣の末裔を中心として同地の武術家たちが樋口打倒に立ち上がった。一方の〝暴君〟は指定暴力団ヤクザとの繋がりが疑われている。刃物ヤッパ拳銃チャカで武装した実働部隊を雇い入れ、東京の中心部で合戦さながらの事態を引き起こそうものなら、日本という国家くににとって致命的な失態であろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体もろとも日本MMAの黄金時代を崩壊に追い込んだ指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟は事実である。それは強い説得力を伴う根拠となり、武力衝突の可能性も荒唐無稽な妄想ではなくなるのだ。

 熊本を憤怒いかりで満たした異常事態が政府の知るところになれば、二〇二〇年のを妨げると断定して対処に動くのではないか――指定暴力団ヤクザの影に気付いていない希更でさえも、そのような見解を示していた。

 正真正銘のそうじょう事件である。テロ対策も含めた良好な治安確保が義務の如く求められるホスト国として看過できようはずもなく、ましてや架空フィクションの世界で風刺的に描かれるような無能ばかりが政府に顔を揃えているわけでもない。

 国防の要として二〇一四年一月に政府内に設置された『国家安全保障局』とも密接に関わり、国内外で展開される情報戦の一翼を担う『ないかくじょうほう調ちょうしつ』――〝ない調ちょう〟は、熊本が穏やかならざる空気に包まれた直後には状況の確認に動き始めている。

 欧米の過激活動家に影響された日本国内の『ウォースパイト運動』が先鋭化する原因にもなり得ると予測し、〝内調〟は暴発寸前としかたとえようがないほど緊張感が高まった熊本武術界に最大限の警戒を払っていた。〝全て〟の発端である樋口郁郎に至っては〝国家安全保障上の脅威〟として危険視しているくらいであった。

 尤も、現実の〝内調〟は〝架空フィクション〟にける役回りや、これによって膨らんだ印象イメージとは異なり、ジェームズ・ボンドのようなスパイアクションというわけにはいかない。日夜、国益の為に地道で泥臭い情報戦を積み重ねているのである。

 『NSB』を代表する〝兼業格闘家〟のダン・タン・タインも、先月に公開されたアクション映画で世界のブラックマーケットを牛耳る麻薬組織に単独ひとりで立ち向かう国際警察インターポール潜入刑事アンダーカバーコップを演じ、自分自身ノースタントでヘリコプターから高層ビルに飛び移っていく大立ち回りを披露しているが、日本の〝内調〟は人目を忍んで協力者と落ち合うのだ。

 『昭和』と呼ばれた時代の風情を残し、話題作からインディーズ作品まで幅広く様々なフィルムを掛けるような場末の映画館は、密談に最適な環境というわけだ。

 〝ベトナムのブルース・リー〟とまで謳われるアクションスターの地位を築いたダン・タン・タイン主演作だけに封切り当初は連日満席であったが、公開から一ヶ月以上も経つと客足はまばらとなる。つまり、奥まった場所に腰掛けると映画自体の大音量が隠れみのの代わりを果たし、誰が何を喋っていても気付かれなくなるのだった。

 〝内調〟の協力者――あいかわじんつうが指定された座席に腰掛けたときにも、日曜日でありながら一〇〇人収容に対して数名しか居なかった。上映時間を迎えるまで増えてもいない。

 神通は隣席となりおりみつから要請を受けて情報収集に協力している。あくまでも〝民間の協力者〟という立場に過ぎない為、日常生活ひいてはその延長の中で知り得たことを報告するのだが、夕方から異種格闘技食堂『ダイニングこん』へ出勤する昼下がりに呼び出されてしまうと、予定を変更せざるを得なくなって迷惑極まりないのである。

 このおりみつこそが〝内調〟の職員だ。同郷かつ『しょうおうりゅう』の同門であり、亡き父の幼馴染みでもあった。古くから付き合いのある神通のことも深く理解しており、彼女の性格上、断り切れないように仕向けて幾度も情報戦を手伝わせていた。

 今回は『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行に関する情報収集だ。二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックに深刻な損害ダメージを与え兼ねない〝爆弾〟への対処とも言い換えられるだろう。

 現在の〝内調〟は〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟のテロ対策も任務に含んでいる。格闘技を人権侵害として根絶やしにせんとする『ウォースパイト運動』の基準に照らし合わせるならば、樋口郁郎の傍若無人な振る舞いは〝抗議の笛〟を吹き鳴らすべきものである。

 それは先般の『NSB』と同水準のテロ攻撃に晒される危険性とも言い換えられる。

 ホスト国としては〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟が標的であるのかは関係なく、国内で無差別テロの兆候が確認された時点で敗北――神通もそのようにみつから諭されていた。

 神通からすれば〝内調〟ひいては政府のに協力する義理も義務もないのだが、国内の『ウォースパイト運動』が過激化すれば、『ダイニングこん』の経営者である鬼貫道明も攻撃対象に加えられてしまうのだ。恩人は異種格闘技戦の先駆けであり、その手で拓いた〝道〟こそがこんにち総合格闘技MMAに繋がっているのである。

 己の〝半身〟の如く感じているキリサメ・アマカザリや、実の姉のように慕っているほんあいぜんも『NSB』のテロと同じように逃げ場のない銃撃に晒されるかも知れない。八雲未稲も希更・バロッサも、そのときには照準の向こうにるだろう。

 この最悪の事態をみつに突き付けられた為、甚だ不本意ながら〝内調〟の要請に応じるしかなかった。『E・Gイラプション・ゲーム』の所属でありながら、神通は『天叢雲アメノムラクモ』の関係者に友人・知人が多い。この立場を利用して熊本興行の内情を調べるわけだ。

 南北朝時代を発祥とする〝戦場武術〟の宗家ではあるものの、内偵調査の熟練者プロフェッショナルなどではない。自分を友人と認めてくれた相手に対するスパイ行為にはなかなか踏み切れず、探りの入れ方に頭を悩ませていたとき、未稲のほうから西洋剣術に関する催し物イベントに誘われ、ようやく糸口を掴んだ矢先におりみつの呼び出しを受けた次第である。

 ダン・タン・タイン扮する国際警察インターポール潜入刑事アンダーカバーコップが一〇〇人もの荒くれ者たちを叩きのめしていく冒頭の見せ場が銀幕スクリーンに映し出されている。ベトナムの伝統武術を生かした彼自身ノースタントのアクションは古武術宗家としても大変に興味深いのだが、現在いまは驚異的な身体能力を振り絞った飛び蹴りに目を凝らすことも叶わない。

 内容に集中できない状況で映画館に入ることは苦痛でしかなかった。しかも、吹替版ではなく字幕版だ。

 機密情報を伝え合うわけでもないのだから、電話で足りるだろうと文句を言いたかったのだが、本編の開始前に次々と流れる予告映像の最中に告げられたことが理解を超越するモノであった為、みつに対する蟠りも含めて脳内あたまのなかの〝全て〟が吹き飛んでしまった。


「……熊本のへんに『アップルシード』が関わっているかも知れない……?」


 オウ返しに問い質す神通の声は喉の奥から絞り出されたものであり、真隣のみつにさえも小さく呻いているようにしか聞こえなかった。ともすれば、銀幕スクリーンにて麻薬王に握り拳を突き出す潜入刑事ダン・タン・タイン啖呵セリフに押し流されそうであったが、それでも『アップルシード』という一言だけは鮮明に聞き取ることが出来た。

 その一言アップルシードを発する瞬間だけ神通の声が大きくなったわけではない。隣り合わせに腰掛けた二人にとって、他の何よりも大きな意味を持つという意味である。


「熊本のへんに『アップルシード』が関わっているかも知れない。……現時点では憶測の域を出ないけど、彼と熊本の関係を考えれば、黙って見過ごすのは余りにも能天気ね」


 もう一度、を重ねたみつは、心身を丸ごと貫く驚愕にき動かされた神通が座席から立ち上がらなかったことに拍手を送りたいくらいであった。『アップルシード』と口にする自分自身が腰を浮かせそうになったのだ。

 双眸と口を呆けたように開け広げながら隣席となりに視線を巡らせた神通は、その先に露骨あからさまなほど曇ったみつ表情かおを見つけ、からぬ意味で目を細めた。

 〝内調〟の要請を固辞できなくなるよう言葉巧みに退路を断ってきたみつが珍しく神通の反応を窺う眼差しになっている。平素であれば「自分を選ばなかった幼馴染みに何時までも執着し続ける未練には吐き気すら催す」などと厭味でやり返すところだが、現在いまの神通には脳内あたまのなかで二つ三つの単語を組み合わせることさえ難しい。


「――今日は情報提供よ。……哀川家に対するね」


 この一言をもって切り出された話が神通の心を掻き乱していた。彼女を何よりも打ちのめすと理解わかっていたからこそ、光海もその様子を無表情で眺めてはいられなかった。


「まだ裏が取れたわけではないのだけど、〝あの拳法家〟――『アップルシード』と三好家の間は深く繋がっているそうなのよ。そう言う報告が届いたわ」


 躊躇ためらいがちに紡がれていくみつ情報提供はなしを受け止めた瞬間、神通は左右の目玉が飛び出すのではないかと心配になるほどまぶたを開き、人間の言葉として成立していない呻き声を喉の奥から絞り出したのち、小刻みに震える右の人差し指でもって己の左頬を撫でた。

 宇宙そらを翔ける流れ星のような軌道を指先で描いていた。

 追憶の中でしか手を触れることが叶わない父――の左頬には痛々しいほど血の色が透けて見える一筋の傷が刻まれていた。神通はを無意識の内になぞったのである。

 その顔からはすっかり血の色が失せていた。如何なる言葉を掛けることが最も望ましいのか、自らに問い掛けるみつは、答えに行き着けない迷いの中で苦々しくまぶたを閉じた。

 自分自身が正義だと信じられることを貫けば、明日の朝も寝覚めが爽快――国際警察インターポールの上司と麻薬組織の癒着を知ってしまい、告発するか、握り潰すかを迷う同僚に潜入刑事ダン・タン・タインから掛けられた台詞が神通と光海の間を虚しく通り過ぎていく。


「……、警察からは三好という家名なまえなど一度も聞いたおぼえが……」

は全く関わっていなかったから、裁判のときでさえ三好の家名なまえは一度も出ていなかったわ。……『こうりゅうかい』――というよりひょうさんも〝あの拳法家〟を調べたと聞いたけど、おそらく細川家の功臣までは辿り着けなかったはず」

「……『アップルシード』が……」


 しょうとくたいの異称を冠する〝戦場武術〟の現宗家は、言わずもがな哀川神通である。

 中学生の頃には俗に〝最終奥義〟などと呼ばれる深奥まで極めた為、哀川家の血筋とも関係なく正統後継者の資格を有してはいたが、大学生という若年で一流派の宗家を担わなければならなかったのは継承の道筋も作らないまま先代のが急死した為であった。

 他流試合の末、血の海にしかばねを沈めたのである。そのときに神通の父と戦い、絶命せしめたのが『アップルシード』と呼ばれる拳法家であった。

 それが異称であることも二人は承知している。先代最期の戦いに対するとしての警察の捜査や、その後の刑事裁判にいて本名も聞いたが、神通の記憶が誤りでなければ、家名は三好ではなかったはずだ。


「……『アップルシード』が――」


 熱に浮かされているかのような調子で神通は同じ異称なまえを繰り返している。不意討ちの如く父のかたきと再び向き合ったにも等しいのだ。正気を失うほど狼狽しても不思議ではなく、むしろこの情況で冷静さを保てる精神力こそ驚愕すべきであった。


「三好家――つまり、の庇護を受けているのなら、例の決起集会に『アップルシード』も混ざっていたかも知れないわ。出所していることは間違いないもの」

「……父の仇を逃がす手伝いをさせられるなんて、これ以上の皮肉はありませんよ……」

「法治国家に生きる人間の責任つとめだと思って割り切れば、気持ちもラクになるものよ」


 みつが『アップルシード』と三好家の関係に触れた瞬間、えて明言を避けた部分まで含めて神通はその意図を察していた。

 情報提供にかこつけて仇討ちをけしかけようというわけではない。『しょうおうりゅう』の在り方を揺るがし兼ねない裁判を取り仕切り、控訴審へ持ち込まれることなく決着させたみつは、幼馴染みの落命をとして受け止めている。実娘むすめの神通も同じ気持ちであった。

 拳を交えた二人の間で決着がついたのだから、余人が〝あい〟に立ち入る理由などあるまい。法律が許さなかった為に刑事起訴という形になってしまったものの、父を殺めた罪を償わせたいという気持ちなど神通のなかでは一度も湧き起こらなかった。

 それどころか、警察の介入すら不要と考えていた。『しんげんこうれんぺいじょう』で火葬してしまえば、〝全て〟が問題なく完結できるだろうと、子どもながらも主張したくらいである。死亡診断書の偽造といった裏工作は『こうりゅうかい』も協力してくれたはずだ。

 仇討ちなど人生の選択肢として考えたこともない――その気持ちをみつは誰よりも理解してくれていると、神通は今日まで一瞬たりとも疑わなかった。

 僅かな言葉だけで神通との意思疎通は十分であると、みつの側も考えているはずだ。そのように信じている自分も、ほんの小さな仕草から彼女の心を感じ取れる。

 認めてしまうのは腹立たしいものの、幼き日の神通が誰よりも憧れたのは、眩いほど凛と立つおりみつだったのである。

 あいかわの仇と付け狙う刺客に捕捉されるより早く『アップルシード』を熊本から脱出させなくてはならないと、みつは考えている。少なくとも〝内調〟で身柄を保護できれば血が流れるような事態は避けられるだろう。

 その気持ちを共有できればこそ、情報提供の名目で神通に協力を求めたわけだ。彼女もまた父の仇アップルシードを助けるべきを即座に読み解いている。


「……『アップルシード』が熊本に留まっているかも知れない――と、そのような風聞が僅かに流れただけで、『てんぐみ』の生き残りは必ずつ。『しんげんこうれんぺいじょう』をも巻き込んで熊本城下に討ち入る。今度はきっとも止まりませんよね」

「時間が鎮めてくれるのは怒りだけで、怨みは逆に歳月を養分にして育っていくものよ。が死んだ直後にも思い知らされたけれど、ときとして人徳は始末に負えないわね」


 神通が喉の奥から絞り出した『てんぐみ』という一言に対して、みつはこの上なく重苦しい溜め息と共に頷き返した。

 二人が生まれたやまざとたけが誇る名将――たけしんげん法号なまえを冠しているものの、彼が急死したのちそうりょうを継ぎ、武勇をもって最大の領地を切り開いたかつよりいくさいても存分に〝力〟を発揮していた。信玄の父・のぶとらが成し遂げたいのくに統一をも支えている。

 こんにちいて〝甲斐古流〟と呼ばれるようになった武士たちの奥義わざは、いずれも乱世の合戦場でこそ真価を発揮するものであり、死の臭いが絶えず垂れ込める歴史の〝闇〟にしか生きる場所がなかった。

 法治国家と相容れない〝力〟を束ね、銃弾を浴びることも厭わない『こうりゅうかい』の武闘派路線にを求めたのが『てんぐみ』であった。

 『の虎』の異名を取る武田信玄は、通り抜けた道には焼け跡しか残らない厄災とも恐れられているが、『仏捨』の二字が刺繍された隊旗を〝裏〟の社会まちに掲げ、揃いの黒装束を纏った『てんぐみ』も、戦国最強と名高い軍勢を彷彿とさせる暴威であった――と、神通は伝え聞いている。

 激烈な抗争が繰り返された『昭和』の〝闇〟で〝甲斐古流〟の奥義わざふるい、国内の暴力団だけでなく日本のを狙って手を伸ばしてきた海外の犯罪組織とも死闘を演じた『てんぐみ』は、名実ともに先鋒として『こうりゅうかい』の勢力拡大を支えたのである。

 銀幕スクリーン潜入刑事ダン・タン・タインが壊滅を狙う麻薬組織のような架空フィクションの存在ではない。〝最凶〟の二字をもっに血の海を作り出した武闘集団なのだ。

 かつてが鎮圧に駆り出された学生運動の行き着く〝先〟――革命戦士の一派による都市破壊計画を秘密裏に阻止する〝特命〟を受け、〝テロとの戦い〟に捨て駒同然で組み込まれたこともある。

 『ヴァルチャーマスク』の利権などを巡って確執が深まっていた鬼貫道明をくにたちいちばんが監禁した際、『こうりゅうかい』から差し向けられた実働部隊も『てんぐみ』である。そのときに生まれた縁が『平成』まで続いているわけであった。

 〝甲斐古流〟の筆頭という『しょうおうりゅう』の風習ならわしもあり、『きょくちょう』と称して『てんぐみ』を率いたのが神通の実父――あいかわだ。

 ほんあいぜんつるぎきょうの父親は言うに及ばず、『しょうおうりゅう』の宗家道場でじゅくとうを務めたの一番弟子や『しんげんこうれんぺいじょう』を取り仕切る〝そうだい〟、なまぐさい経験を心理療法や犯罪心理学に生かすきりしまゆうも旗揚げから参加していた。

 現在いまは裏社会を離れ、すみきょうじまにて整形外科医院を営んでいるやぶそういちろうは、『ふくちょう』として局長を補佐し、自らも血にまみれながらじゅうもんやりふるったという。

 『てんぐみ』結成を父に持ちかけたのが藪総一郎であることも、神通は承知していた。

 悪徳の二字こそ冠するものの、室町時代後期に巨万の富を築いた豪商の〝血〟を引く副長は、祖先より受け継いだ才覚を存分に発揮して組織体制を整えたそうだ。

 隊の中核とも呼ぶべき『しょうおうりゅう』という流派そのものと宿敵関係にあった怪人――『どう』を倒したのち、『てんぐみ』は消滅したのだが、歴史学者に転身したを始めとして、生き残った隊士の大半が〝表〟の社会に帰還かえっていった。

 それぞれの〝道〟に別れたからといって、背中を預け合った戦友の絆まで失われるわけではない。とりわけ〝哀川局長〟に導かれて自らの運命を切り開いた隊士たちにとって、絶命の衝撃は実娘むすめのように己のなかで折り合いを付けることなど出来なかったのだ。

 〝裏〟の社会の暗闘に身を投じていた日々も遠い昔となり、県外そとに根を下ろした者も少なくなかったのだが、『アップルシード』が警察に身柄を拘束された直後には『しんげんこうれんぺいじょう』に再集結し、〝哀川局長〟の仇討ちを企てたのである。

 誰よりも激烈に復讐を訴えたのは、くさきよというの一番弟子だ。

 宗家道場のじゅくとうを務め、公民館の片隅を借りて稽古する保存会まで規模を縮小しながら現在いまも『しょうおうりゅう』の存続に力を注いでいるその一番弟子は、刺し違えてでも仇敵アップルシード首級くびを捧げて見せると、師の亡骸に誓っていた。

 抜け目のない人柄で『しんげんこうれんぺいじょう』の〝そうだい〟を務めるかみ家の現当主は、と竹馬の友であり、『てんぐみ』でも隊内の調整役を任されていた。その才覚も一番弟子と共に牙を剥き、勾留先に討ち入るべくから討手をかき集めようと画策したのだ。

 このときは神通の義兄あにや藪総一郎が説得に奔走し、暴発は未然に防がれたが、〝哀川局長〟の仇が熊本武術界の狂騒へ関わっている可能性に『てんぐみ』の誰かが勘付いたなら、己を偽るかの如く蓋で閉ざした激情が再び噴き出し、『しんげんこうれんぺいじょう』も熊本と同様にやりかたなの擦れ合う音で満たされることであろう。

 反社会的勢力ヤクザの実働部隊であったとはいえ、『てんぐみ』は無法者の掃き溜めではない。厳しい規律を設け、礼節を重んじていた。しかし、実力行使によって現状変更を強いる武闘集団に変わりはなく、法治国家のことわりから外れる殺戮も平然とやってのけたのである。


「……厄介なことにつくえが『アップルシード』の気配を嗅ぎ付けた様子なのよ。彼の任務を考えれば、熊本の騒擾さわぎが耳に入るのは時間の問題だったのかも知れないけれど……」

つくえって……つくえしんろう――ですか? 厄介どころか、最悪ではありませんか……」


 常識では有り得ない転身であるが、『てんぐみ』の生き残りの中にはの立場という者も含まれている。それこそが呻き声と共にみつが名前を挙げ、神通を絶句させた『つくえしんろう』なる隊士おとこであった。


つくえ自身も確たる証拠を掴めてはいないはずだから、今日明日に熊本へ乗り込む可能性は限りなく低いわ。筋を通すことにかけては以上に融通が利かない彼のこと、無闇に暴れ回る心配だけは要らないわね」

「……わたしの目にはつるぎと大差がない暴れ馬にしか見えませんでしたよ、あの方……」


 しかし、仇敵アップルシードを討ち果たす大義名分が得られた瞬間、一生安泰という現在の地位を捨てることも厭わず〝腕落とし〟を抜き放つ――暗がりの中でも鮮明に判るくらい忌々しそうな表情で言い添えたみつに対し、神通も顔を引きらせながら即座に頷き返した。

 『てんぐみ』を含めて亡き父の友人たちに蟠りなど抱いていない神通だが、それでも感情を持つ人間である。少ないながら例外もあり、その一人がつくえしんろうであった。

 やまざとの誰よりも無骨で大きな顔から発せられる圧力が幼心に恐ろしく、四六時中、一本に繋がった眉を吊り上げて〝何か〟に怒りをぶつける言行が不愉快でならなかった。

 彼の妻や亡き父は怒鳴ることが意思疎通コミュニケーションなどと笑っていた。つるぎきょうのような野卑ではなく、口から出るのは必ず正論であったのだが、他者の心へ強引に割り込む立ち居振る舞いに付き合わされるのは迷惑でしかない。

 しかし、局長のを除く『てんぐみ』隊士の〝三強〟に数えられる戦闘能力は神通も認めていた。『しんげんこうれんぺいじょう』の歴史を紐解いても二人と居ない〝けん〟なのだ。

 〝腕落とし〟の別名を持つ刀はムカデの胴体の継ぎ目を彷彿とさせる彫り込みが全体に施された鞘に納まっているが、ひとたび抜き放てば、四肢どころか、鉄兜さえ叩き割る。

 『てんぐみ』にけるというが、自身も左の親指を根本から失っている。要の左手が指四本ではツカを握るのも力を込める加減も難しくなるはずだが、つくえしんろうという達人にはそれすら些末なことであった。裂帛の気合いと共にかぜを起こすと、それが縦一文字であれば脳天から真っ二つに、横一文字であれば胴を輪切りにしてしまうのだ。

 つくえしんろうと相対したとき、ツカの軋む音が鼓膜を打ったら最期と恐れられていた。

 いっとうりゅう系より生まれた一撃必殺の太刀筋は『いちてんさくの』という。開祖はソロバン計算に倣ったかいぎゃくのつもりで付けたのであろうが、それを武辺一途の〝けん〟が発するのだから時代を超えた皮肉でしかあるまい。

 その『いちてんさくの』と〝腕落とし〟が私怨うらみを宿して熊本に向けられようとしている。

 戦国乱世の武田家よりも古い歴史を持つ〝甲斐古流〟の誇り高さを一身に背負うようなつくえしんろう他者ひとは〝ガムシン〟と呼んでいる。本人は気に入っていた様子であるが、おそらく『てんぐみ』の隊内なかでは陰口を叩く際に用いられたことであろう。

 何事にもガムシャラであり、己が正しいと信じた道を決して曲げない一徹者であった。哀川局長や藪副長の方針に刃向かうことも多く、重鎮として隊を引き締める一方で隊士なかまたちから腫れ物のように扱われていた。は『しんげんこうれんぺいじょう』にいても同様である。

 何時でも目が据わっているような〝ガムシン〟が仇敵アップルシードへの私怨うらみを爆発させたならば、『てんぐみ』の生き残りは言うに及ばず、『こうりゅうかい』の大親分にさえ手綱を引けまい。仇討ちの本懐を果たした直後、その場で腹を切ってしまいそうな男なのだ。

 背筋が冷たくなる偶然だが、国際警察インターポールの上司が口封じの為に差し向けた刺客に襲われ、すべもなく殺された同僚を抱き締める潜入刑事ダン・タン・タイン銀幕スクリーンの中でカタキ討ちを誓っていた。


「世の中に肉親の情に勝るものはないけれど、と過ごした時間の長さや、共にした戦いの数が隊士たちのなかで絶対的な意味を持っていることは想像にかたくない。それに肉親ではないからこそ割り切れない気持ちだって否定できないもの」

「……結ばれなかった幼馴染みの恨み節を聞かされているような……」

「下種の勘繰りはおよしなさいな。に関わった皆の共通点を話しているのよ。そもそも『てんぐみ』と別の道を選んだから、今、こうして神通あなた密談はなしているわけでしょう」


 未来を仰ぐ力を父から奪い、〝眠れる獅子〟に変えた女性ものを振り返るたびに神通自身が痛感することだが、心の奥深くまで根を張った怨みは絶望的なほど断ち切り難いのである。

 机愼太朗ガムシンただ一人を止めれば終息するわけではない。仇敵アップルシードとの接点を理由として『仏捨』の隊旗が三好の屋敷へ突入する可能性も神通には否定できなかった。逆恨みでしかない上、〝一般人カタギ〟へ危害を加えることは仁義に反する禁忌であるが、〝哀川局長〟に導かれた隊士たちはすらも踏み越えるはずだ。

 〝表〟の社会に居場所がない者と知れば、同郷でなくとも〝哀川局長〟は『てんぐみ』に迎え入れ、敵対者の身辺を探る密偵などの役目を与えていた。

 隊士として生きる糧を保障されたという恩や、死線を共にした絆がこんにちの暴走を引き起こすのだから、遺された神通むすめは亡き父の人徳を誇らしく思ってなどはいられない。

 師匠であるくにたちいちばんと接点のあった『てんぐみ』を樋口郁郎が把握していないとは神通には考えられなかった。三好の屋敷へ討ち入らんとする気配を感じ取ったなら、まず間違いなく熊本武術界の制圧に利用することであろう。

 その樋口の依頼による〝民事介入暴力〟であれば、哀川家にも止める権利はない。大義名分をもって討ち入った三好の屋敷に仇敵アップルシードも居合わせていた――このような建前で押し切ることであろう。『こうりゅうかい』も躊躇いことなくかつての〝戦友〟を支援たすけるはずだ。

 神通とみつが想定する最悪の事態に対し、火種となり得るのがつくえしんろうである。双眸で正面しか捉えないような性格だけに樋口郁郎の口車に乗せられる危険性も高い。先ほど神通が口にした通り、厄介という二字でまとめ切れる存在ではなかった。


「正直、わたしには東京オリンピック・パラリンピックの成否など知ったことではありません。でも、が合戦に及ぶような事態だけは断じて見過ごせない。ましてやつくえしんろうの暴走が想定される以上、打てる手を全て打たなければ間に合いません」


 『天叢雲アメノムラクモ』代表の差し金によって小競り合いでも起きようものなら、その瞬間に『てんぐみ』ひいては『しんげんこうれんぺいじょう』と熊本武術界の全面戦争が勃発する。〝火の国〟で生まれ育った友人――希更・バロッサやその家族と、幼い頃から親しんできた故郷の人々が互いの命をらう惨状など想像したくもなかった。

 命をり取りする修羅場へ猛烈に惹き付けられる神通ではあるものの、死神スーパイの群れともたとえるべき『てんぐみ』を希更の故郷へ放つことなど許せるはずがなかった。何よりも仇討ちそのものが父の最期の戦いに対する侮辱でしかないのだ。

 みつと二人で共有する最悪の想定が現実となる前に火種を潰さなければなるまい。

 樋口郁郎と結び付かないよう『こうりゅうかい』の〝大親分〟へ直談判する為にも、『てんぐみ』が仇討ちを成し遂げる大義名分を断つことが急務であった。


「万が一、つくえさんを通じてかみ惣代やくさ塾頭の耳に仇敵アップルシード風聞うわさが入ったとしても、他ならぬ局長の実娘むすめが調査に乗り出していれば、その事実が浮足立った『てんぐみ』への牽制になるはず。……は藪のおじさまにもお願いできませんね」


 あいかわのもとに生をけた娘の宿命さだめであろうと神通は悟っている。

 己の身に流れる〝血〟を今日ほど煩わしく思ったおぼえはなかった。『しょうおうりゅう』宗家としても、『てんぐみ』局長の実娘むすめとしても、何より哀川神通という一人の古武術家としても、否応なく因縁の地――〝火の国〟と向き合わなければならなくなったのだ。

 『アップルシード』が『しんげんこうれんぺいじょう』まで父を訪ねてきたとき、神通も挨拶を交わしている。それどころか、〝彼〟は暫く哀川家で寝泊まりし、山里にひしめく道場を見学して回っていた。

 気付いたことをノートに細かく書き留めながら稽古を見つめ、武術家の談話をテープレコーダーに録音する姿は、取材目的の学者のようであった――と、神通は記憶している。

 麦わらのカンカン帽にあさいろを基調とするアロハシャツを組み合わせた風貌は、南国旅行帰りのようにしか見えなかった。その出で立ちとは不似合いなシューズを履いていたのが強く印象に残っている。

 白樫を削り出し、ツカ全体に牛革を巻いた木刀に使い古された荷物袋の紐を引っ掛け、を右肩に担いでいなければ、拳法家とは思わなかったはずだ。

 七日間にも及ぶ交流ののち、父との〝あい〟に臨んだ〝彼〟は『しんげんこうれんぺいじょう』に勝るとも劣らないしょうの気風がいきく〝火の国〟――熊本で生まれ育ったと話していた。


から数えて半世紀を超える『ミトセ』と『しょうおうりゅう』の宿命さだめには未だ決着がついていないのかも知れません。独り歩きを始めた宿命さだめはわたしも、……アップルシード・ミトセさえも既に通り越しているように思えてなりません」

「……『ジェームズ・ミトセ』の系譜を継ぐ者――か」


 『ミトセ』もまた『アップルシード』が異称なまえの一つであった。

 その称と共に悠久の誓いとも呼ぶべき〝思い〟を託され、を拳に握り締めたからこそアップルシードは『しょうおうりゅう』の宗家にの〝決着〟を求めたのである。

 ジェームズ・ミトセ――おりみつが静かに呟いた人名なまえもまた『しょうおうりゅう』の歴史を巻き込みながら〝火の国〟へと辿り着き、やがて新たな宿命さだめを呼び起こすことになるのだ。

 銀幕スクリーンでは復讐の戦いを決意した潜入刑事ダン・タン・タイン国際警察インターポールの本部に単身ひとりで突入し、同僚を死に至らしめた数十人もの刺客から一斉に銃口を向けられていた。


つくえが熊本に乗り込む気配を見せたら、〝同族殺し〟を覚悟してでも止めなければならないわよ。……の誇り高い死をけがした見せしめとして必要もあるわ」

「望むところですよ。こちらこそ大義名分を得たようなものです」


 相手は『てんぐみ』にいて強襲の任務を引き受けた〝けん〟であり、まさしく命懸けの戦いとなるだろうが、勝機は己の側にこそあると神通は確信している。怒りという生々しい感情に取りかれるような人間が旧友の実娘むすめを斬れるとは考えられない。その弱点を突けば、小細工を弄さずとも仕留められるだろう。

 つくえしんろうの妻はみつの親友である。それ故に彼のに言及した際、一瞬のちゅうちょを挟んだわけであるが、神通の側からすれば、情けを掛ける理由もなかった。

 何よりも『いちてんさくの』が己の脳天に襲い掛かる瞬間を想像するだけで、神通の背筋を快楽にも似た稲妻が駆け抜けるのだ。餓えた心ののようであった地下格闘技アンダーグラウンドのリングなどではない。亡き父と『ミトセ』の系譜を継ぐ拳法家アップルシードが繰り広げたのと同じ〝あい〟の機会が巡ってきた昂揚に、我知らず薄笑いまで浮かべていた。

 銀幕スクリーンより浴びせられる強い光を受けて暗闇から浮かび上がった神通のかおを目の端で捉えたみつは、「とは二人で映画に出掛けたこともなかったわ」と、余人には意味の分からない呟きを溜め息に溶け込ませた。



                     *



 カリフォルニアの大地に照り付ける太陽の下で、フォルサム刑務所が混沌の渦に呑み込まれていく。

 マリオン・マクリーシュ記者がる女性施設の中庭は実態を掴みにくい立地であり、建物の向こうから飛び込んでくる怒号などに耳を傾けて推し測るしかないのだが、男性施設のほうで何らかの騒動さわぎが起きたことだけは間違いなさそうだ。

 断片的な手掛かりから察するに、男性受刑者の中に紛れ込んでいた『ウォースパイト運動』の過活動家数名がボクシングによる更生の是非を巡って〝抗議〟を始めたようだ。この思想活動は笛を吹き鳴らすことによって同志的結合を分かち合い、対象を威圧するのが特徴であったが、〝塀の中〟に潜んでいた者たちは楽器の代わりに指笛で連帯していた。

 不愉快な声や音が幾つも重なってマリオンの鼓膜を打ち据えたこともあり、ボクシングの指導中に襲撃されたものとおぼしきハナック・ブラウンが無事に退避できたのかも定かではなく、格闘技雑誌の記者としてはも気掛かりでならない。

 労働環境の改善を求めて一九七〇年に起こった大規模なストライキ運動では受刑者全体が連携したが、今度の騒動さわぎは間違いなく『サタナス』に感化されて格闘技への憎悪が破裂した人間の暴走であろう。無論、収監される以前まえから『ウォースパイト運動』に染まっていた可能性も低くはない。しかし、刑事事件によって捜査当局に逮捕され、実刑を受けた活動家が収監先で暴れたという前例をマリオンは聞いたおぼえがなかった。

 今、このフォルサム刑務所で起きていることは、『サタナス』による〝汚染〟としか表しようがあるまい。極度に先鋭化した過激思想が〝塀の中〟という封鎖空間を猛毒の如く侵し始めている。

 受刑者一人が射殺されるほどの激しい乱闘は、二〇一二年にも発生している。そこから更に二年ほど遡れば、二〇〇人もの受刑者と刑務官が衝突した暴動もあったが、このいずれとも今回の騒動さわぎは性質が異なるわけだ。

 程なくして全館に緊急事態を報せる警報音が鳴り響き、これに合わせて刑務官たちも鎮圧に動き始め、「格闘家どもは皆殺し」というシェイクスピア劇『ヘンリー六世』を模倣した文言の連呼に激しく揉み合う声が混ざり始めた。

 更生プログラムから格闘技ボクシングを排除する為、己の影響下にある〝同志〟をけしかけたのかと、地面に尻餅をいたまま憤怒の混じった眼差しでもって『サタナス』に問いただすマリオンであったが、視線の先に捉えた〝汚染源〟は、吹き鳴らせば更に勢いが増すであろうに亡き母ので拵えた人骨笛を口に咥えようともしない。

 それどころか、やるせないほど悲しそうに唇を噛んでいる。その面持ちが彼女の意図に反した暴発であることを表していた。


「誰よりも早くボクシングは害悪と呼び掛け、シェイクスピア劇の物真似を始めたのは、学生時代に同級生のアマチュアボクサーから恐喝を受けたドニ・ヘンリキューで間違いございません。苦い想い出として刻まれた屈辱を今度は自分が味わわせる番だ――と、無関係なハナック・ブラウン様に謂れなき怨念をぶつけたのでございましょう」

ご自身の画策による暴動でなくとも、『サタナス』という通称なまえに触発された可能性は現時点では否定できません。……そのはどのようにお考えですか?」

「亡者さながらにけがれた模倣犯を『ウォースパイト運動わたくしども』は歓迎し兼ねます。個人の憎悪ヘイトを正当化する手段でもございません。最初に指笛を吹いたドクター・バンバンはボクシングと政財界が癒着する有害性とへの圧迫を指摘した論文で一石を投じるなど、格闘技は社会を蝕む癌であると主張し続けてきた偉人でございます。あの方のように真っ当な〝同志〟が幾人も巻き添えになったのかと思うと、わたくしは……」

「指笛の吹き方まで脳内あたまのなかの百科事典に書き込んであるというのか……」


 〝IT長者〟に対して薄暗い部屋に籠ってコンピューターを玩具にしてという偏った先入観に凝り固まる人間の中には、同じ家名ファミリーネームや韻を踏んだ名前ファーストネームといった手掛かりにも気付かず、一九八四年サラエボ冬季オリンピックのアメリカ代表選手と『サタナス』――エッジワス・カイペルを結び付けられない者も多い。

 IT時代の利器に頼れば一瞬で情報を得られるというのに、その母親ワーズワス・カイペルが銀メダルに輝いた競技フィギュアスケートを趣味としていることなど想像すら出来ず、パソコン以外に友達のいない人間はスポーツという〝青春〟を憎悪していないわけがないと一方的に断定するは、『サタナス』の犯行動機を逆恨みと決めてかかるが、マリオンの目には彼女の異常性はそのように底の浅いモノとしては映っていない。

 創造性の対極に位置する格闘技と、これが生み出す暴力をただ純粋に悲しみ、「世界を愛でいっぱいにしたい」ということである。


「……『ウォースパイト運動』の本懐とは痛ましい破壊などではなく、母なる世界に新たなる秩序で終わりなき平和をもたらすことでありますのに……。罪深き十字架を子々孫々まで背負わせるザイフェルト家の過ちを見ればお分かりいただけると存じますけれど、人の思いや成し遂げるべき志は〝血〟で縛るものではございません。人類普遍の理想だからこそ何よりも自由であるべきです。……それが為に運命がすれ違い、全ての人と愛の心で通じ合えないという事実に、わたくしの心がどれほど切り裂かれたことか……」


 格闘家どもは皆殺し――〝牢破り〟に行き着くほど勢いを増すかと思われた怒号に、発砲音が混ざり始めた。

 暴徒化した受刑者に対する発砲は、刑務官の職務執行として幾例も記録がある。二年前を振り返るまでもなく、フォルサム刑務所でも暴動の鎮圧に銃器が使用されてきた。

 その上、今度の騒動さわぎは『NSB』の興行イベントを狙ったテロ事件の直後という緊迫した状況下での発生である。これは二〇一四年現在にけるアメリカ史上最悪の銃犯罪にもなってしまった為、刑務官の側も『ウォースパイト運動』に対して過敏にならざるを得ないのだ。

 あるいは過激活動家への見せしめとする為、強硬かつ迅速な制圧が命じられたのかも知れない。刑務官たちから拳銃を奪い取ろうという雄叫びも聞こえてきたが、それは建物の間で反響する発砲音がマリオンの鼓膜をつんざいた直後にんだ。

 同じ声が二度と聞こえなくなった理由は、入れ替わるようにして上がり始めた数多の悲鳴が表している。自身の遭遇したテロ事件が再体験症状フラッシュバックとして押し寄せてきたマリオンは足元を吐瀉物で汚してしまったが、それも無理からぬことであろう。


「どうか目を逸らさないでくださいませ、マクリーシュ様。格闘技とはくの如く戦争の火種でしかございません。『ウォースパイト運動わたくしども』が『平和と人道に対する罪』と申し上げているのは、確たる理由があってのことでございます。それと同時に人間とは愛ある生き物。だからこそ、自らの決意のもとで戦争の火種を世界から根絶させられるでしょう」


 道理という概念ものを投げ捨てたとしか表しようのない論法を摂理のように切々と語り続ける『サタナス』のもとに、数え切れないほどの足音が近付いてきた。刑務しごとの最中に制止を振り切ってきたであろう受刑者たちが彼女サタナス周辺まわりに立って我が身を盾に換えたのだ。

 建物から飛び出してきたのは揃いの作業シャツの女性たちだけではない。刑務官までもが先を争って『サタナス』のる中庭へと馳せ参じていた。発砲音が続く騒動さわぎの渦中から流れ弾が飛んでくる確率は万に一つであろう。それにも関わらず、中央の彼女サタナスが声高に命令を発するまでもなく数十人が集結したのだ。

 刑務所内にける〝立場〟と年齢は言うに及ばず、言葉の訛りも肌の色もそれぞれに異なる人々が受刑者番号でも本名でもなく『サタナス』という通称ハンドルネームを一斉に唱えていた。

 が愛する我が子ではなく『サタナス』の盾になることを進んで選んでしまうような〝汚染〟を目の当たりにしたマリオンは、口を拭うのも忘れて身を強張らせた。

 産みの親であろうとも接触した人間の思想を全く塗り替えてしまう尋常ならざる影響力について、スティーブ・ジョブズに備わるような『現実歪曲空間リアリティ・ディストーション・フィールド』の一種であろうとマリオンは分析していた。

 巧みな言葉やその場の雰囲気などを駆使して強烈に精神へと働きかけ、熱にでも浮かされたような状態で〝定められた目的〟に突き進むという狂気を対象のなかに芽吹かせるモノだが、範囲も進行速度も、『サタナス』の〝汚染〟は人間という種を超越した異能ちからとしか思えなかった。

 当然ながら、SFサイエンスフィクションに登場するような超能力などではない。格闘技に対する悪感情や実害を被った記憶、これを許容する社会への不安といったあらゆる心理状態を膨らませ、破壊を伴う〝抗議〟に躊躇ためらいを感じさせる理性から解き放つわけだ。

 崇高なる理想の旗頭である『サタナス』を守る為、我が身を差し出そうとする誰もが脳の回路サーキット死神スーパイさながらに切り替えられたのであろう。催眠術や暗示の類いであれば、合図一つで解けるが、彼らは自らの意思にって行動しているのだ。が群集心理と入り混じって〝汚染〟を際限なく拡大させるのだった。

 小規模とは言いがたい暴走に至ったのは、直接的に働きかける機会すらなかったであろう男性受刑者である。現在いまは刑に服す身の母親が我が子のもとへ無事に帰ることを祈っておきながら、狂った妄念の為に喜んで命を差し出すようあたまを作り変えているではないか。

 もはや、は『サタナス・フィールド』としか呼びようがなかった。


「……本当に……同じ人間……なのか……ッ⁉」


 その一言をマリオンは先程も喉の奥に押し戻したが、正気を保つ為には今度こそ吐き捨てずにはいられなかった。

 暴走した女性受刑者や同僚を追い掛けてきた刑務官たちも、マリオンと同じ恐怖で心を塗り潰されているのだろう。建物の向こうの過激活動家に同調しないよう警告を発するのが本来の職務であるが、誰もが怯え切った目付きで『サタナス』たちを遠巻きに眺めるばかりであった。

 そして、その有り様こそが〝社会悪〟を〝必要悪〟として取り込もうと目論んだ結果であり、相応の報いというものであろう。

 『サタナス』という通称は新約聖書正典に由来し、『バルトロマイの福音書』にいては地獄の管理者とされている。この場に居ないシルバーマン弁護士は恍惚とした面持ちで〝聖女〟などと崇めていたが、マリオンには〝魔王〟という二字を除いて似つかわしい言葉が見つけられなかった。


「先ほどシルバーマンが仰ったようにオランダは正しい選択をしました。わたくしはその善性を――人間の善なる本質を信じます。良心という名の自浄能力が世界を満たしているのですから、尊い命を拳でつ快楽に一度は惑わされようとも、必ず最後には悔い改めることが出来るでしょう。愛の心にて新世界が創造されるのでございます」


 自分を取り囲んだ〝同志〟たちを二つに割った『サタナス』は、地べたに座り込んだままのマリオンへ胸元の人骨笛を揺らしながら歩み寄ると、吐瀉物の上に片膝を突きつつ彼の頬に左右の手を添えた。


「マクリーシュ様の奥様は日本の方でございましたね。ご安心くださいませ。六年後の東京オリンピックまでに愛溢れる世界から格闘技は消滅していることでございましょう。第一回のアテネで掛けられた呪いから〝平和の祭典〟も解き放たれるのでございます」


 近代オリンピックで初めて実施された格闘競技はレスリングである。これは一八九六年開催の第一回アテネ大会から今日まで実施され続けており、二〇一三年のIOC国際オリンピック委員会理事会で除外が議論される危機に陥ったものの、実際に採用が見送られたのは一九〇〇年パリ大会のみである。

 その歴史を紐解き、格闘競技が一世紀以上に亘って〝平和の祭典〟を蝕んできたと『サタナス』は説いたわけだ。これはオリンピックそのものに対する『ウォースパイト運動』の認識とも言い換えられるだろう。『NSB』の興行イベントがテロの標的となった理由には、同団体がMMAのオリンピック競技化運動を推進していたことも含まれている。


「……それは〝予言〟ですか? それとも〝予言〟という方便を使って、格闘技から足を洗うように私の妻を恫喝しておられるのですか?」

「記者であるマクリーシュ様へ勝手ながら託させていただく〝預言〟でございます」

「……二度目の東京大会の前に、再来年のリオ大会がありますが? ブラジリアン柔術やバーリトゥードなどの好例から明らかな通り、格闘技の〝市民権〟は東京と――日本と比較になりません。何よりもレオニダス・ドス・サントス・タファレルという飛びっきりの化け物がいますよ?」

「ブラジルに『スーパイ・サーキット』はおりませんよね」


 『サタナス』から返されたその一言で、マリオンの心臓は凍り付いた。

 『スーパイ・サーキット』を発動させたのは、日本のMMA団体『天叢雲アメノムラクモ』に所属する新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリである。

 彼と同じ岩手興行に出場した妻のからマリオンもくだん異能ちからの凄まじさを教えられたが、人智をも超越したMMAの〝ゲームチェンジャー〟という『天叢雲アメノムラクモサイドの喧伝とは正反対に〝格闘競技〟のリングに上げてはならない暴力性の成れの果てと認識している。

 リングを血でけがし、日本MMAに恐怖を刻み込んだ『スーパイ・サーキット』を『サタナス』も把握していたのだ。この魔王が備えた『現実歪曲空間サタナス・フィールド』は格闘技に対する負の想念へ強く作用し、暴走を誘発するという性質である。

 万人を『サタナス・フィールド』で〝汚染〟するには、格闘技への恐怖感を共有し得る一種の象徴が必要である。『スーパイ・サーキット』ほど相応しい存在モノは他にあるまい。

 日本人のMMA選手を妻に持つマリオンからすれば、二〇二〇年東京オリンピックまでに格闘競技が消滅するという〝予言〟どころではない。日本の『ウォースパイト運動』が一気に過激化するという最も恐れていた事態が今まさに起ころうとしているのだ。


(……この〝預言〟は編集部の主幹に報告するのでも記事にするのでもなくて、……ハーメルンの〝スポーツマフィア〟に密告げるのがなんじゃないか……ッ?)


 刑務所に面するアメリカン川を辿っていくと、昨年までのかんばつで水位が激減し、底に沈んだ町がおよそ六〇年ぶりに姿を現して話題を呼んだフォルサム湖に到達する。を管理するダムの近くには服役中にで死亡した受刑者を埋葬する墓地が広がっているのだが、一刻も早く『サタナス』をその冷たい墓穴にするべきであろう。

 二〇一四年現在、墓石には受刑者番号のみが刻まれている。これを偽ってしまえば彼女を狂信する過激思想家たちに亡骸を掘り返されることもあるまい。〝汚染〟の完了した刑務官による情報漏洩を憂慮するならば、ラフレシア・ガルヴァーニと同様の手段をもってして骨粉に変え、地上から一切の痕跡を消し去るべきかも知れない。

 いずれにしてもフォルサム刑務所が魔王の宮殿に作り変えられてしまう前に〝始末〟を付けるべきではないか――『ウォースパイト運動』の暴威が最愛の妻へ及ぶ前に食い止めなければならないという私情も含めて、もはやマリオンは『サタナス』のことを〝生きていてはいけない存在〟としか思えなかった。

 彼のはらわたを震わせる警報音と発砲音は、どちらもまでも鳴り止まない。「格闘家どもは皆殺し」と訴える声や〝正義〟を知らしめんとする指笛も途絶えないのだが、狂乱を生み出した張本人サタナスはこれに振り向こうともしないのである。


(格闘技だけの問題じゃない! このままにしておいたら、『ウォースパイト運動』の活動家までもが〝魔王コイツ〟に根絶やしにされちまうぞ……ッ!)


 『サタナス』の右頬に並んだ『愛』という漢字一字は、皮膚がめくれるほど抉れた傷から噴き出す鮮血によってドス黒くけがれている。



                     *



 首都高湾岸線を几帳面と感じるくらい法定速度で走るタクシーの運転手ドライバーが熱烈なMMAファンであったなら、熱病にでも浮かされたような目付きで後部座席を幾度も振り返り、前方不注意を覆面パトカーに咎められたはずだ。

 僥倖さいわいというべきか、ハンドルを握る女性は並んで座った三人の名前も顔も分からないようで、遥か向こうに頭を覗かせ始めた首都の摩天楼群を寡黙に見据えている。後部座席の会話を邪魔しない配慮でもあるのだろう。

 助手席に座るのは紺色のけんどうから程よく色褪せたジーンズに替えた瀬古谷寅之助だ。ルームミラーで後部座席うしろの様子を窺うと、如何にも窮屈そうな表情かお警護対象キリサメ・アマカザリが中央に見つかり、「その、抜群に快適そうじゃん」という揶揄がこの上なく厭らしい笑い声に混じって口から洩れた。

 しかめ面のキリサメがルームミラーを介して寅之助を睨み返したのも無理からぬことであろう。左隣には八雲岳が、右隣には進士藤太がそれぞれ乗り込んでいる。つまり、この地球上でも群を抜いて暑苦しい師弟から挟まれてしまったわけだ。

 姫和子宅を発つ前に藤太がプロレスパンツから旅装に戻っていなかったら、キリサメは重度の車酔いを味わわされたことであろう。

 『NSB』の体重別階級制度と照らし合わせるならばフェザー級に属するキリサメと比較して、ヘビー級の岳とミドル級の藤太は身の丈が一回りも二回りも大きい。車窓まどを開けたくとも片腕すら伸ばせず、逃げ場を完全に塞がれた状態である。

 MMAを愛好する人々からすれば、昂奮する気配もない運転手ドライバーと今すぐに交替したいはずだ。『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体からリングに立ち続けてきた日本MMAの先駆者と、彼から受け継いだ魂が世界でも通用することを『NSB』のオクタゴンで証明した愛弟子、更にはMMAという〝スポーツ文化〟の次世代を担う新人選手ルーキーが文字通りに肩を並べていた。日本格闘技界にける三つの世代の象徴的な顔が揃ったとも言い換えられるだろう。

 無関心な運転手ドライバーは当該記事に気付いてもいないだろうが、『NSB』の進士藤太フルメタルサムライ飄然ふらりと鎌倉に現れたことはネットニュースやSNSソーシャルネットワークサービスでも大きな話題となっている。キリサメたちがいなむらさきで繰り広げた複数同時対戦バトルロイヤルと併せて過剰に注目を集めてしまった為、東京への帰路かえりは電車ではなくタクシーを選ぶことになった次第である。

 その一方で藤太が『天叢雲アメノムラクモ』主催企業の本社ビルに乗り込み、樋口代表と聞くに堪えない口論に及んだことは、不自然とも思えるほど外部そとに漏れていない。

 女子MMA団体『メアズ・レイグ』を破綻に追い込んだ疑惑ことからも瞭然であるが、〝暴君〟は標的の社会的信用を貶める情報工作に長けている。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催相手でありながらくらい憎悪を燃えたぎらせている『NSB』に損害ダメージを与える好機とし、進士藤太フルメタルサムライの〝暴挙〟を全世界に触れ回っても不思議ではないだろう。


「――己の不利益を恐れて、どうして他者ひとの為にてる。向こうが小賢しい策を仕掛けてきたなら、正々堂々と受けて立つのみ。反撃の届かない場所で陰口悪口を並べようとも、死地に身を投じるたった一度の行動で全て覆される。覚悟なき者に人はいてこない」


 樋口郁郎に喧嘩を売った――まるで友人宅へ遊びに出掛けたかのように軽く言い放つ藤太に対し、キリサメは謀略をもって日本格闘技界に君臨する〝暴君〟を敵に回す危険性リスクこそ心配であったのだが、当人には後悔も恐怖もなく、ごくぶとの眉に宿した意志の力で『フルメタルサムライ』という異称を体現している。

 それどころか、「中身のない言葉で騙されるのは、利害しか価値観を持たぬ者のみ」と反対に諭されてしまった。初めて言葉を交わしてから半日も経っていないが、進士藤太フルメタルサムライ大言壮語ビッグマウスを好まず、有言実行を己に定めていることはキリサメにも伝わっていた。

 〝暴君〟に逆らっては格闘技界で生きていけないと周囲まわりの誰もが恐れおののいても、藤太にとってはMMAの新たな仲間を食い物にせんとする忌むべき寄生虫――それ以上でもそれ以下でもないのだ。

 藤太本人は信念一つを見失わなければ胸を張って生きられるだろうが、板挟みとなった麦泉は後輩の堂々たる立ち居振る舞いを眩しく眺めてはいられない。日米合同大会コンデ・コマ・パスコアに向けて『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』を決裂させるわけにもいかず、一足早く東京に戻っていった。

 その足で主催企業サムライ・アスレチックスの本社に急行し、秘書にさえ手が付けられないほど『NSB』への敵意を剥き出しにする樋口郁郎を全力で宥めることであろう。

 お前の舌は悪口しか作れないのか――と、逢う人全員から呆れられる寅之助は、麦泉の後ろ姿を見送りながら、日本格闘技界に孤高の勇気を示した藤太に「捨て身でぶつかりさえすれば、何でも正当化されるってワケじゃないでしょ」と痛烈な皮肉を飛ばしていた。

 〝外〟からの圧力にさえ揺るがない信念に基づいて生きることは気高いが、それを他者ひとにまで無理矢理に押し付けてしまうと、惨たらしいテロで『NSB』を否定しようとした『ウォースパイト運動』の過激活動家と何ら変わらないと指摘したわけである。

 これに対して藤太は「魔道に魅入られたときには腹を切って始末を付ける覚悟」と、己に一切の甘えを許さないという強い決意を示すことで応じた。

 互いの波長が合ったのか、たちまち電知と打ち解け、長年の親友の如く心を通わせるようになった藤太が気に入らない寅之助は、タクシーに乗り込む前から厭味な言葉を浴びせ続けてきたが、揚げ足取りに勤しむ一方で事実を捻じ曲げた誹謗中傷は控えている。

 一途な覚悟に潜む弊害を指摘したつもりであったが、その問い掛けにまたしても覚悟の二字で返す藤太に呆れ果てたのか、更なる皮肉を叩き付けることはなかった。


「……このまま日本に帰っちゃ来れねぇか? 樋口のバカに喧嘩を売るなら、海の向こうじゃなくて日本こっちで中指立てンのがお前らしいと思うんだけどよ……」


 時速八〇キロで流れていくかべこうらんを暫し眺めたのち車窓まどの外に視線を投げだしたまま岳が思い掛けないことを呟いた。養子キリサメの頭越しに藤太へと向けられた言葉である。

 一瞬の驚愕を挟んでからキリサメが横目で様子を窺うと、岳にしては珍しく思い詰めた顔を窓ガラスに映していた。好意的に表すならば豪放磊落という彼なりに口に出すまいかと悩み抜いた末、最後は勢いに任せて喉の奥から絞り出したようだ。

 それはつまり、『八雲道場』への帰還という意味である。

 八雲岳らしからぬ弱々しい声からも明らかな通り、天地がひっくり返っても有り得ないのだと、彼自身が誰よりも理解している。引き抜き行為ヘッドハンティングという禁忌に抵触する危険性おそれがあることも、『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長として承知している。

 それでも抑えられなかったとおぼしき師匠の言葉に藤太は予想外の贈り物を受け取った子どものように顔を綻ばせ、一瞬の後にはままならない現実を突き付けられる大人の表情かおに戻り、極太の眉を切なげに落としながら首を横に振った。


「……少なくとも、キリサメを〝客寄せパンダ〟として使い潰そうとする『天叢雲アメノムラクモ』とは絶対に相容れません。を見て見ぬフリしているような現在いまの日本MMAにだって戻りたいとも思えん。……師匠も結局、樋口の暴挙を野放しにしているじゃないですか」


 愛弟子の返事も予想通りであった為、岳は反駁を飲み下し、長く重い溜め息をもって未練がましい気持ちを切り捨てた。

 『八雲道場』の師弟は本心から互いを避けているわけではない。決して一方通行ではない親愛の情も受け止め合っている。何事にも無感情なキリサメでさえ頭越しに双方ふたりの絆を感じ取っており、だからこそ養父の名誉を守る為の差し出口も控えたのである。


「日本に居る間は世話にはなりますが、……どうしたってことは出来ませんよ」


 外国人選手が主戦場を異境に移すということは、祖国で築いた生活の基盤を捨て去るという意味でもある。長期休暇を利用して外国の別荘に滞在することとは根本的に異なり、二つの〝居場所〟は気軽に往復できないのである。

 しかし、進士藤太の場合は日本への帰還を不可能としている決定的な理由が別にある。そして、それをキリサメは随分と前から察していた。

 もう一度、同じリングに立とうと師匠から打診された際、ほんの一瞬ながら藤太は自嘲の二字こそ似つかわしい表情を挟んでいた。その理由が極太の眉に集約されているのだ。

 瓜二つの眉を持ちながら『進士』とは異なる家名を称し、岳から息子と呼ばれる男の子がキリサメの義弟おとうとである。岳と離婚したおもてみねが親権を持つ〝実子〟とも言い換えられるだろう。

 その嶺子は前夫が迂闊にも愛弟子のことを口にしたとき、首を絞め殺さんばかりに激怒していた。〝家族〟として迎え入れられたとはいえ、踏み込んではならない領域があることをキリサメは弁えている。だからこそ未稲にさえ確かめていないのだが、八雲・表木両家の間で進士藤太の名前が禁句になった経緯は己の想像通りと疑っていなかった。

 その義弟おとうと――おもてひろたかが頻繁に訪れている『八雲道場』に進士藤太が帰還する余地などあろうはずもないのである。


「でも、『ダイニングこん』には行くぜ! 鬼貫の兄ィにも顔を見せてやってくれ! 暫くぶりでお互いに照れ臭いかも知れねぇけど、絶対喜ぶからよ、あの兄ィ!」

「日本に用事があるときは異種格闘技食堂にも顔を出していますから、別に久方振りでもありませんが。博多に帰郷かえらず鬼貫先生のご自宅に泊めて頂いたことも多いですし」

「初耳ッ! マジでオレだけ仲間外れだったんじゃねーかよッ!」


 師弟の会話は沈黙に沈んで途絶えることはなく、程なくして再開された。岳も平素いつもと同じ調子に戻った為、車内が重苦しい雰囲気に包まれることもなかったのだが、それを誰よりも安堵したのはキリサメである。

 口が上手いわけでもないキリサメは、感情が先走る二人の間を取り持つのは荷が重いと怯んでいた。胸を撫で下ろす代わりに小さく溜め息をいたのも無理からぬことであろう。


「第一、現在いまの『八雲道場』には俺が寝泊まりできる部屋も余っておらんのでは。寅之助はキリサメの護衛に付いていると聞いたが、布団一式を稽古場に持ち込んで寝起きしているとでも? ひょっとしてキリサメが使っている部屋に二段ベッドを運び入れたのか?」

「住み込みでサメちゃんのお世話してあげられるほどボクもヒマじゃないよ」


 弁舌で他者ひとの心を掻き乱し、狂わんばかりの憤激を見物することが趣味という寅之助からすれば、それを突き破る藤太のような人間は苦手を通り越して〝天敵〟にも等しい。

 その藤太が親しくなったと認識した相手を下の名前ファーストネームで呼び捨てにするのは師匠の影響であろうが、心の距離を勝手気ままに詰められるのも寅之助は好きではなかった。

 露骨あからさま辟易うんざりとした声の調子からして最悪の二字を用いなければ相性を言い表せない人間とは関わりたくなさそうであるが、藤太の側は相手の鬱屈など気にも留めず、キリサメの鼻先を横断するようにして後部座席から左腕を伸ばし、助手席から振り返ろうともしない寅之助の右肩を掴んだ。

 丁度、周囲まわりの人々の神経を逆撫でして愉しむ平素いつもの寅之助とはさかさまであり、キリサメは自身の悪趣味を戒めながらも「少しは思い知れ」という胸中の一言を抑えられなかった。


「予断を許さぬ状況が続いているだけに誰かが何時でもそばいているべきなのだがな。寅之助と電知が一緒だったとはいえ、誰が何処で襲い掛かって来るか分からん場所にキリサメを無防備で放り出すのも、師匠の認識が甘すぎる証拠。また一つ説教が増えたな」

「何でだよッ⁉ この流れでまたオレに矛先だァッ⁉」

「意味不明という表情かおをするのが師匠の――いや、『天叢雲アメノムラクモ』全体の認識不足を端的に表しています。もはや、『ばくおうまる』という名の無差別テロは街角や軒先に隠された時限爆弾と変わらんのです。『ウォースパイト運動』の誰かが『スーパイ・サーキット』を人権侵害などと言い始めたら、次に『NSB』と同じ目に遭わされるのはキリサメだ……ッ!」

藤太おめーはいちいち端折り過ぎなんだよッ! クソデカい主語をブチかます前に二、三個説明をすっ飛ばしてるんじゃねーかってェを疑いやがれッ!」

「岳氏に同意せざるを得ません。〝例の道場破り〟が異能あれに興味を持つのは理屈として分かりますが、デタラメな理由で大統領専用機エアフォースワンを狙う思想活動と絡めるのは突飛では?」


 藤太が呻くように口にした『ばくおうまる』とは、欧米の武道場や格闘技のジムに飄然と現れては有力選手に腕比べを挑み、人間離れした格闘能力をもっしてしまう流浪の〝道場破り〟であった。

 僅か一枚ながらキリサメも隠し撮りされた写真を見たことがあるが、MMAのリングは言うに及ばず、故郷ペルーの裏路地にさえ居なかった種類タイプであった。

 黒いどう下穿ズボンのみを用いており、そこに同色の帯を締めていた。剥き出しの上半身は〝超人〟の二字が浮かぶほど逞しかったが、胸や肩の筋肉はいびつに盛り上がり、不自然としか表しようのない輪郭に揺り動かされた本能的な恐怖が手放しの称賛を躊躇わせるのだ。

 彫りが深い顔は無機質とさえ思えるほど涼しげであり、自己主張が激しい肉体との落差がひたすらに薄気味悪かった。解き放った残虐性に酔いれているのでも、圧倒的な勝利を誇示するのでもなく、己のけんさえも虚しく感じているようなでもあった。

 栗色の髪の毛を短く刈り上げ、眉間の部分に怒れる鬼の顔が染め抜かれた鉢巻を締めるばくおうまるは、肌の色や顔立ち、通称の響きも日本人のであるが、現時点では出身地どころか、道場破りに励む理由すら不明であるという。

 道場破りを始めたのがここ一、二年のことであり、勝利を得たのち道場ジムに対して金銭なども要求しない――その程度しか判明していないのだ。余人は謎めいた横顔にこそマンを禁じ得ず、「純粋な腕試しを目的とし、かつての前田光世コンデ・コマを彷彿とさせる〝世界巡業〟に挑んでいる」などと無責任な想像を膨らませるのだった。

 『天叢雲アメノムラクモ』や『NSB』といった〝表〟の格闘技興行イベントに出場した記録は確認されていないが、両団体からすれば死神スーパイの如き存在である。ばくおうまるが狙いを定める道場ジムには契約選手の所属先も含まれており、既に何人も道場破りのに遭っているのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』も六月開催の岩手興行直前にロシア人選手のビェールクト・ヴォズネセンスキーが瀕死の重傷を負わされている。その代理としてじょうわたマッチが仁王立ちするリングに臨んだのが新人選手キリサメ・アマカザリ初陣プロデビューであった。


「ならば、そのばくおうまるが『ウォースパイト運動』の活動家だとしたら、どうだ? あるいは道場破りのなかに格闘技そのものを〝暴力〟としか思えなくなり、それを否定する思想にとするならば? 俺はこれに勝る恐怖を他に知らん」

「人権侵害という罪を犯し続けてきたと自分で自分を追い詰め、それを償いたくて歪んだ正義に救済すくいを求める……ベイカー・エルステッドを例に引くのが進士氏の見立てなら、僕にも脅威の輪郭を掴むことが出来ます」

「俺の一にも満たない説明を十を超える形で補ってくれるキリサメも理解わかってくれたようだが、格闘技を濁ったでしか見られん『ウォースパイト運動』からすれば『スーパイ・サーキット』は排撃の一番候補だろう。それ即ち、更なる厄災わざわいの第一歩だ」

「てめー、藤太。喧嘩の続きでもおっぱじめようってのか? 『スーパイ・サーキット』が火種になって『天叢雲アメノムラクモ』全体が炎上するような言い草じゃねェかよ」

「キリサメのではなく、団体が請け負う責任という話です。狭い了見に基づく正義に酔いれた連中には倫理もへったくれもあったもんじゃないですからね、……『NSB』を手本にして、関係者の警護などを全面的に見直すべきでしょう。そのことは樋口郁郎にも怒鳴り付けておきましたが、果たして、どこまで響いたか」

「ボクも樋口あのおっさんが生理的に無理だし、面と向かってにされてるトコを想像するだけでお釣りが来るけど、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎し』ってことわざよろしくマジで全面戦争を吹っ掛けてきたんだねぇ。サメちゃんもこの人との付き合いを考え直したほうが良いかもよ」


 藤太が述べた仮説は、格闘技界にとって聞き逃せないほど重い意味を持っている。

 〝同志〟たちと共に『NSB』の試合場オクタゴンを占拠し、〝抗議の笛ブブゼラ〟を吹き鳴らしながらMMAそのものを『平和と人道に対する罪』として糾弾したベイカー・エルステッドは、同団体の所属選手にも関わらず『ウォースパイト運動』の過激思想に染まり、格闘技を世界から根絶やしにするべく凶行テロに走ったのである。

 ばくおうまるの行動理念がベイカー・エルステッドと同じであれば、欧米を経巡る道場破りは〝腕試し〟ではなく『平和と人道に対する罪』を犯す人間を標的としただ。

 人智を超える格闘能力を備えた者が独り善がりな正義に狂い、枷もなく野に放たれたとすれば、それは殺人キリングマシーンと変わらない――ベイカー・エルステッドというと直接対峙した進士藤太フルメタルサムライの見立てだけに皮肉屋の寅之助でさえ誇大妄想とは切り捨てなかった。

 『ヨーロピアン柔術』という欧州発祥の〝近代総合格闘技術〟をふるばくおうまるは、鋭く激しい打撃で動きを封じ、跳躍を伴う投げ技や関節技でロシアのコマンドサンボを完封している。半死半生の目に遭わせたのはビェールクト・ヴォズネセンスキーが最初はじめてであるが、過激思想の先鋭化がその原因だとすれば、が広がる可能性は極めて高い。

 藤太が語る一字一句を聞き漏らすまいとするおやは、揃って神妙な面持ちであった。

 自身にプロデビューへの〝道〟を拓いたきっかけとも呼ぶべき事件だけにキリサメは握り拳まで作っているが、岳が顔を強張らせたのは別の理由である。

 に力も借り、独自に足取りを追い掛けたというビェールクト・ヴォズネセンスキーの情報提供によって、ばくおうまるの正体が過去に『NSB』と契約していたMMA選手――ルイ・アベル=ユマシタ・バッソンピエールであることを岳は把握している。

 〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟をスポンサーの立場で支える医療・福祉機器メーカーの経営者一族であり、同大会に代表選手オリンピアンも送り込むフランススポーツ界の名門――バッソンピエール家の人間であるが、『NSB』が禁止薬物で汚染されていた時期に道を踏み外し、を首謀した前代表フロスト・クラントンと共に永久追放されたという。

 ドーピングによって作られた重厚な筋肉の鎧を纏いながら、敏捷性や跳躍力が損なわれないのはバッソンピエール家の〝血〟が成せる潜在能力ポテンシャル訓練トレーニングの賜物であろうが、一族のような五輪代表選手オリンピアンになりたくとも叶わない現代医学のというわけである。

 その爆煌丸ルイ・アベル=ユマシタ・バッソンピエールが未だに『NSB』の前代表――フロスト・クラントンから手駒の如く利用されている可能性もヴォズネセンスキーは疑っていた。

 アメリカを追われたのちクラントンが代表に就任した欧州の打撃系立ち技格闘技団体『ランズエンド・サーガ』は、水面下で『NSB』に敵対的な買収工作まで仕掛けている。復讐を誓ったを更に追い詰める為、道場破りの名目でばくおうまるを所属選手への刺客として差し向けたという推察であった。これを勘付かれない為に『天叢雲アメノムラクモ』といった他団体の選手も巻き込んでいるが、本当の標的ねらいはイズリアル・モニワ体制の『NSB』というわけだ。

 仮にヴォズネセンスキーが予想した通りであるならば、己の手で産み落とした〝負の遺産〟をも古巣NSBへの攻撃に利用する正真正銘の外道であろう。ドーピングの効力は永続するものではない。〝人外〟としか表しようのない肉体から察するに、を維持し続けることへの協力がフロスト・クラントンから提示された交換条件であろう。

 それはつまり、爆煌丸ルイ・アベル=ユマシタ・バッソンピエールにとって逆らえない命令ということである。

 車内ここで口を滑らせ、ばくおうまるの正体を明かしてしまわないよう岳は口を真一文字に引き締めた。ビェールクト・ヴォズネセンスキーはあくまでも『天叢雲アメノムラクモ』に情報を提供したのであって、外部への漏洩は戦友の信頼を裏切ることにも等しいのだ。

 ましてや藤太の所属先の裏事情まで絡んでいる。母親がフランス貴族の末裔という日仏混血ハーフ、二人の兄のような期待を両親から受けられなかったという生い立ちは弟子の仮説を補強し得る情報ものであろうが、岳は一つの手掛かりも与えられないのである。


「しからば、寅之助不在の間は俺がキリサメを守ると誓おう。幸いなどと言うと語弊もあろうが、今回は博多に帰郷かえる予定はないからな、お前の為にありったけ時間を使える」

「いつぞやの空手屋みたいなコトを言ってるよ。そんなに過保護だとサメちゃんにウザがられておしまいでしょ。『八雲道場』から蹴り出されないようせいぜい頑張りなよ」

「何を言うか。師匠の養子むすこならば我が弟も同然。おのが身を盾に換えるのは当然の責任だ」

「弟子の弟子なら我が弟子も同然みたいな謎理論まで始まっちゃったよ。愛され気質のサメちゃん的にはどうなの? 空手屋と恭ちゃんの掛け合わせみたいになってきたけどさ」

「進士氏を御剣氏と並べるのは幾らなんでも失礼だろう。あの人から弟分扱いされた意味が未だに分からないんだぞ、僕は。その上、勝手気ままに兄貴分を辞められて――」


 自分と同じように両親がいないキリサメの孤独を思って涙まで流したというのに、その気持ちが届いていないつるぎきょうも不憫ではあるものの、決裂の舞台となった『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行まで弟分として扱っていた少年が自称兄貴分の真意に辿り着くことは難しかった。

 少なくとも現在いまは恭路のことを考えている余裕はない。「高校生である寅之助がそばに居られない時間帯は自分が身辺警護ボディーガードを務める」といった趣旨の発言を振り返った瞬間、キリサメは無意識に聞き流していたる一言に思い至り、まるで未確認飛行物体に出くわしたかのような顔で藤太と岳を交互に見比べたのである。


「――さっき『日本に居る間は世話にはなる』と仰いました……?」

「滞在中は東京での常宿に頼るつもりだったのだが、折角なら『八雲道場』に〝里帰り〟しろと師匠に言ってもらえたのでな。俺にとっては第二の故郷。……敷居を跨ぐことが許されたのなら、断る理由などあろうはずもない」

「こいつめ、何が敷居だよ。今さら水臭ェコトを言ってんじゃねーっつの。〝世界で最も完成されたMMA選手〟と一つ屋根の下で同じ釜のメシを喰ったら、キリーも対レオ戦のヒントが掴めること間違いナシ! 一緒に観た藤太の試合、『ルタ・リーブリ』の使い手が対戦相手だったろ? アイツ、レオの幼馴染みで昔っからの好敵手ライバルなんだよ!」

「キリサメもジョアキンとの試合たたかいを観てくれたのか? 嬉しいのと同時に照れ臭いな」

「次戦に向けた準備と言うのなら、その僕に相談があって然るべきではっ」

「え~、キリーのド忘れじゃねェの? オレ、言っといたと思うぜ。多分。きっと」


 事前に聞かされていたなら、一七年という人生の中でも過去最大というほど大きく口を開け広げて絶句することはない。

 世界のMMAを牽引する『NSB』にいて上位メインカードを務める進士藤太フルメタルサムライと共に過ごすことは、キリサメにとって得難い機会である。養父が語った通り、MMA選手としても学ぶことが多いはずだ。

 しかし、その藤太を『八雲道場』へ招き入れることに伴う危険性リスクは、新人選手ルーキーを触発する〝世界〟の息吹などでは釣り合いが取れないのである。

 おもてひろたかとは岩手興行の終了後にる約束を交わし、その延長として日に一度は連絡を取り合っている。しかも小学校が休みとなる週末だ。彼がインラインスケートで歩道を切り裂き、『八雲道場』を訪れない理由がなかった。

 そのひろたかが瓜二つの眉を持つ進士藤太と遭遇した場合に起こり得る事態を全く想像していない様子の岳にキリサメは眩暈すら覚えた。


(というか、里帰りを受けれる進士氏の神経も僕には理解できない……。無神経なところまで師匠譲りの〝超次元〟にならなくたって良いじゃないか……)


 キリサメは〝犬笛〟と吐き捨てるくらい携帯電話を疎ましく感じており、岳から所持するよう持ち掛けられたときにも断ったのだが、今になってそれを後悔していた。未稲に連絡を取り、藤太とひろたかを接触させないように取り計らうすべを一つも持っていないわけだ。

 暑苦しい二人からじろぎにも苦労する恰好で挟まれた車内では、寅之助の携帯電話スマホを借りることも不可能に近い。電子メールを介した伝言も一瞬だけ考えたが、他者ひとの心を弄ぶことを趣味とする享楽家にを晒す真似などもってのほかであろう。

 頼りになる〝先輩〟の姫若子は言うに及ばず、彼の自宅いえに泊まって野外運動施設アスレチックパークを満喫するという電知も、気を取り直して鎌倉の海へを探しに出掛けていった沙門も、タクシーには同乗していない。孤立無援の八方塞がりであった。

 寅之助を自宅へ送り届ける為、下北沢の前に浅草へ向かっているのだから、彼と連携して本来の宿所に誘導する策も取りようがない。何よりも悪趣味極まりない享楽家のことである。この筋運びを見越した上で「ボクみたいな部外者が『八雲道場』の水入らずを邪魔しちゃ悪いし、一足先にお暇するよ」と鎌倉を発つ前に申し出たのかも知れない。


「折角の〝家族団欒〟なんだから満喫エンジョイしなきゃダメだよ、サメちゃん」


 脳裏をよぎった疑問へ答えるかのように助手席から厭味の二字以外に表現のしようがない笑い声が起こった。バックミラーを使って覗いた寅之助は満面の笑みを浮かべており、キリサメは思わず座席越しに蹴りを入れそうになってしまった。

 いっそ藤太の目を突いて病院送りにすれば、義弟おとうとと会わせずに済むのではないか――能天気な『八雲道場』の師弟を横目で睨む気力すら失ったキリサメは、物騒極まりない強硬策を考えてしまうくらい頭を抱えている。



 後部座席の喧騒さわぎに無反応を貫く寡黙な運転手ドライバーがハンドルを握るタクシーは、既に湾岸線から都心環状線に入っており、今は京橋JCTジャンクションに差し掛かっていた。

 摩天楼群の隙間を覗ける高架橋ならではの景色と言うべきか――車窓まど越しながらキリサメの視界に入ったのは、目立って背が高い『ラッシュモア・ソフト』の本社ビルである。

 日本の娯楽エンターテインメントを背負う国内有数のゲームメーカーの会議室にいて、大勢の人々が自分の名前を口にしていることなどキリサメに想像できるはずもあるまい。

 ましてや『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟という以外には何ら接点のないギリシャ人選手――ライサンダー・カツォポリスと並べるような形で語られているのだ。

 『ラッシュモア・ソフト』のとくまる会長は『MMA日本協会』の副理事長も兼ねており、その会合に自社の会議室を提供している。そうとは知らずにキリサメたちが最接近したときにも、同協会の理事たちが楕円形の長大なテーブルの左右に分かれて着席していた。

 日本格闘技界の〝暴君〟と『天叢雲アメノムラクモ』熊本興行を巡る緊迫した情勢が続く中、『ハルトマン・プロダクツ』やバロッサ家など数多の人々がその動向に目を光らせる『MMA日本協会』の会合は、過去に例がないほど荒れている。

 スポーツ医学の中でも格闘家・武道家の肉体を専門的に研究する〝格闘技医学会〟に在籍し、日常生活を蝕んでしまう後遺症や接触競技コンタクトスポーツける感染症などの予防も積極的に推進するつえむら医師がテーブルを挟んで向こうに立つ男を睨み据えているのだ。


「成長期の少年こどもの健康を使い潰すようなやり方だけは断じて間違っています! それを認めてしまったら、ルールなんか何の意味もなくなってしまうじゃないですかっ!」

「切羽詰まった状況だけに策を弄するのはやむを得ませんが、格闘技を愛する人たちに胸を張れなくなったら本末転倒。杖村さんの仰る通り、その一線だけは断じて譲れません」

「お前の頭脳アタマには感心させられてばっかだが、オレらは『天叢雲アメノムラクモ』と足の引っ張り合いがしたいんじゃねェ。新人選手ルーキーを餌にはしねェし、そもそも樋口アイツを守る作戦ってコトを忘れてくれんなよ」


 撮影用ドローンを両手で抱えたまま杖村医師と館山弁護士の猛抗議に晒され、目配せでもって擁護を求めた岡田会長にまで厳しい警告を受けてしまい、困り顔で肩を竦めるその男は、じゃどうねいしゅうである。

 進士藤太と共に日本MMAの黄金時代を支え、その好敵手ライバルと謳われながらも『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体である『バイオスピリッツ』の解散に伴って現役を引退し、沖縄クレープの移動販売に転向して大成功を収めた男が『MMA日本協会』の会合に出席しているわけだ。

 日本初の女子MMA選手でもあるよし副会長は三人の言葉にいちいち頷き、徳丸副理事長も人並み以上に豊かな耳朶を指先で弄びながら、〝何か〟を犠牲にした娯楽エンターテインメントは、やがて後ろめたさに潰されてしまうとじゃどうに諭していく。

 奇策を講じる直前に足並みが揃わなくなった『MMA日本協会』を愉快そうに眺め、靴下も履いていない両足裏を打ち鳴らしてはやし立てるのは、ビデオ通話の形で参加し、室内のモニターにブロッコリーと見紛うほど大きなアフロを映す男――『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターと名高いレオニダス・ドス・サントス・タファレルであった。

 彼もじゃどうも、会合に対する意見や主張に効力が伴わないオブザーバーとは異なる〝立場〟での出席である。

 樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』と『MMA日本協会』の間には埋め難い溝がある。それにも関わらず、前者の花形選手スーパースターが後者の理事たちに混ざることは背信行為にも等しいはずだが、アフロを揺らして笑う彼に罪悪感など一欠けらも滲んではいない。

 艶やかな着物の生地で仕立てた背広を羽織り、静かな微笑を浮かべつつも先程から一言も意見を述べていないおりはら理事長は、会議室の喧騒さわぎする一方、おぞましく感じる瞬間も多いレオニダスの面相を興味深そうにしていた。

 サッカー王国と名高いブラジルは現在もサッカーワールドカップに熱狂しているが、レオニダスには祖国の人々に痛みを強いるメガスポーツイベントよりも密室を呑み込む混沌のほうが遥かに愉悦であり、リオのカーニバルの如く感じているのかも知れない。

 下劣にも聞こえる笑い声を上座で受け止めたホワイトボードには、キリサメとライサンダー・カツォポリスの顔写真が並んで貼り付けられているのだが、これが格闘技雑誌の記事であったなら、両者ふたりの対戦決定を盛り上げるような構図であった。

 同じホワイトボードに黒いマーカーで大きく書かれた『テンソンコウリン』――『天叢雲アメノムラクモ』と同じく日本神話に由来するその言葉が〝暴君〟に対する叛乱の狼煙と同義であることは、のちの格闘技史にも刻まれている。

 窓の向こうの高架橋を通り過ぎていくタクシーの車内なかで自分の目と意識が届く範囲の問題に頭を痛めるキリサメは、本人の与り知らぬところで時代の激流に呑み込まれていた。



 もはや、『スーパイ・サーキット』は逃げられない。その異能ちからには独善的な『愛』のもとに格闘技を滅ぼさんとする〝魔王サタナス〟までもが手を伸ばそうとしている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る