スーパイ・サーキット
その4:アビス~「世界最強」と呼ばれた獅子・パットン将軍の「一分間」を超えしケモノ/「目覚めよ」と呼ぶ声の正体・プロファイリング対象:スーパイ・サーキット──ウォルター・B・キャノンはかく語りき
その4:アビス~「世界最強」と呼ばれた獅子・パットン将軍の「一分間」を超えしケモノ/「目覚めよ」と呼ぶ声の正体・プロファイリング対象:スーパイ・サーキット──ウォルター・B・キャノンはかく語りき
四、Deadman’s Galaxy Days
人間という種の限界を超え、神の領域にまで達する
天下無双の強さを誇り、〝平成の大横綱〟と讃えられた『
角界との癒着といったキナ臭い
日本スポーツ界の御意見番のような顔で新聞やワイドショーに出没し、〝キレ芸〟などとも揶揄される粗暴な言い回しで持論を展開させるのが銭坪の商売だが、世の中の全てに否定的な見解をぶつける男にしては珍しく、キリサメのことだけは褒めちぎっていた。
定期的に出演している深夜のラジオ番組では、
しかも、キリサメを称賛する際にはプロデビュー戦の相手である
〝スポーツ界の現状を嘆く正義の男〟の如く振る舞う銭坪満吉だが、彼自身は五輪メダリストでもプロ野球の名監督でもない。格闘技
風刺と呼ぶには余りにも拙劣で、選手の一側面だけを
日本MMAの黄金時代を支えた
銭坪にとって〝公平性〟という言葉ほど遠いものはなく、それ故に格闘技とスポーツを愛する全ての人々に「中身がない」と白けた眼で睨まれているのだった。
メディアへの露出が多いことから世論に対する影響力が強いのも
泥酔状態でワイドショーに出演して暴言を吐こうとも「これが銭坪満吉のキャラクターだから」という一言で済まされてしまう点にこそ歪んだ影響力が窺えるだろう。
キリサメ・アマカザリというMMA選手の〝全て〟を理解していると言わんばかりの顔で『スーパイ・サーキット』を語ってはいるものの、銭坪が『八雲道場』を訪れたことは一度もなく、取材もせず好き勝手に放言しているに過ぎないのである。
このような男が味方に付いたという事実は、キリサメ本人にとって
『
その日はゲストコメンテーターとして『MMA日本協会』で理事を務める
日本MMAで適用されるルールの守護者とも呼ぶべき存在なのだが、その館山弁護士が示した見解にさえ銭坪は「部外者が口を挟むとロクなことにならないのは歴史が証明している」と噛み付いたのだ。
中立の立場から国内の競技団体を監督する『MMA日本協会』としては、失格に至るまでのキリサメ・アマカザリの行動は看過し
『スーパイ・サーキット』によって引き起こされたリングの崩壊はあくまでも不測の事故であり、設営時の不備として
現時点では断定し得るだけの材料に乏しいものの、VTRを検証した結果、試合終盤には右目へ蹴りを加えようとしていた可能性があることも確認されたという。両耳や喉に対する直接攻撃については、医師の診断書が証拠して提示されていた。
あまつさえ意識不明状態の
任意団体である『MMA日本協会』とは異なり、州の行政機関として強い権限を有するアメリカ合衆国の
格差社会の最下層を生き抜く為だけに編み出された喧嘩殺法の問題点を国際社会の事例と共に指摘していく館山弁護士に対し、銭坪は小馬鹿にしたような態度で鼻を鳴らした。
「人体破壊も格闘技の立派なテクニックじゃないですか。
「選手個々の気構えと、ルールを策定し、正しい運用を見極める『MMA日本協会』の立場では捉え方が根本的に異なります。大会運営に関わる皆が同じ考え方であったら、
「
「心理状態に左右されて見境がなくなるようではMMA選手としての適性を疑わざるを得ません。アマカザリ選手の出場資格をどうするべきか、当協会では慎重に議論を重ねて参ります。レフェリーによる反則判定に関わらず、いかなる危険行為も我々は認めません。これを擁護しようとする向きにも賛同し兼ねます」
抽象論を振り
「アマカザリ選手が失格となった試合で
「法律書の朗読みたいな言い方をしやがって! あんたにMMAの何が分かるんだッ⁉」
「ご子息とは違い、銭坪さんご自身は格闘技経験をお持ちでないと伺っておりますが、それで今の発言は如何なものでしょうか。私にも経験はありませんが、適切なアドバイザーに頼りますし、
館山弁護士が「ご子息」という一言を述べた瞬間、更なる言及を食い止めるべく銭坪は握り拳で机を叩いたが、怒りに任せた威嚇行為は半分ほど水が残っていたグラスを倒しただけで、肝心の相手には全く効果がなかった。
「失礼を承知で申し上げますが、銭坪さんの場合はただ私見――というより私情を並べ立てているだけではありませんか? 自分以外の意見を排除することに気を取られて、理論の根拠になる要点が疎かになっているようにお見受けしましたが?」
「その決め付けこそ不適切じゃないか! 私はアマカザリ選手に直接取材をした上で述べているんです! あんたとは違うんだ、あんたとはッ!」
「
「これは名誉棄損だ! 今日の収録テープは裁判の証拠物件だから厳重に保管しろ! 良く聞け、館山!
これ以上は不毛な口喧嘩になるだろうと誰もが思った瞬間に映像が消えた。
放送事故と判断されて打ち切られたわけではない。数日前の放送を録画したDVDの再生が終了したのである。
「取材してねぇヤツが『取材した』って胸張って言いやがったな。公共の電波であんなウソぶちかましたら、フツーに詐欺なんじゃねェ? どの口で名誉棄損とかほざくんだよ。それともおれが知らねぇだけで『八雲道場』に押し掛けてきやがったのか、
「ボクが
「相も変らぬ面の皮の厚さはアメリカにも聞こえていたが、代わり映えのなさにも程があるぞ! あの男がMMAと口にするだけで虫唾が走るッ!」
驚愕に打ちのめされ、唖然呆然と立ち尽くすばかりのキリサメたちに
キリサメは動画サイト『ユアセルフ銀幕』の
ノートパソコンの画面越しに見つめたのは『フルメタルサムライ』という異名が素直に納得できる佇まいであり、本来は傍若無人な振る舞いから一番遠いところにいる物静かな人物という印象を持ったのだ。
銭坪満吉にMMAを侮辱された怒りで冷静さを欠いてしまったからこそ、
我を忘れていると一目で分かるくらい藤太の双眸は血走っていたのである。
「俺は『
「万が一にも血管が切れそうになったら、裂け目を気合いで閉じてみせるッ!」
日本MMAのリングに挑んでいた頃であるが、藤太は相当な頻度で『
沙門は困惑の表情で藤太を見つめ続けている。『NSB』を襲ったテロ事件による精神的な
彼のことを〝世界で最も完成されたMMA選手〟と称した師匠の岳や、かつての所属先である『新鬼道プロレス』以来の付き合いであろう麦泉は、余りにも前のめりな勢いに気圧されて苦笑しながらも、どこか懐かしそうに目を細めている。
弟子入りの
沙門が〝武道留学〟の拠点に据えたニューヨーク州と、藤太が
アメリカで暮らす上での注意点といった
「実の息子を
「……ザッツに関しちゃ俺も
反応は人それぞれ異なっているが、爆発的としか表しようのない藤太の熱量に呑まれてしまったキリサメたちは、呼び付けられるままに
室内にはガラステーブルを挟んで左右に一つずつソファが設えられており、それぞれにキリサメ・電知・寅之助、岳・麦泉・沙門という組み合わせで座ることになった。
突然に押し掛けてきた藤太はともかくとして、
(銭坪満吉への文句は今まで何度も聞いたけど、その息子がMMA選手だなんて誰も話していなかったよな。『
「関係者だったら、この傍迷惑な男をどうにかしてくれ」と無言の目配せで訴えてくる〝先輩〟
藤太との受け答えから察するに、MMA選手であるという銭坪満吉の息子と沙門が友人関係ということは間違いないだろう。『
沙門は実父が競技統括プロデューサーを務める打撃系立ち技格闘技団体『
『NSB』を揺るがすテロ事件で凶弾に
一方、銭坪満吉の息子は『NSB』ではなく
日本の『
しかしながら、
銭坪の
しかし、そうすると今度は積年の恨みを翻して『スーパイ・サーキット』を褒めそやし始めた意図が掴めなくなる――銭坪
「銭坪満吉が恥の上塗りを晒した今だからこそ! 師匠へ問わずにはいられん! 一体、どういうつもりでこの子を――キリサメを預かっているのですか⁉ 何を考えてこのような真似を……無責任にも程があるッ!」
剥き出しの額に青筋を立てながら師匠の岳に向き直った藤太は、再会の挨拶も満足に挟まないまま怒号を張り上げたのである。
自分の
サムライと呼ばれるのも頷ける冷静沈着な人物と思っていたのだが、実際に相対してみると、岳をも上回る大声によって今までの印象が跡形もなく吹き飛ばされてしまった。
「感動の師弟再会だっつーのに、ジ~ンと来る言葉の一つもね~のかよ、藤太。お前から師匠って呼んでもらうのだって八年ぶりくらいなんだぜ?」
「今は一分一秒を争うときですッ! そんなことすら認識おられんとは……こんな人を師匠と呼ばねばならんことが俺は
「相変わらず声でけぇな! まァ、何も昔と全く同じで安心したけどよォ~」
「師匠こそ何年経っても変化がなくて情けないやら哀しいやらッ!」
「だから、声でけェってのッ!」
他の人間と比べて身のこなしや感情表現が大仰な岳でさえ飲み込まれてしまうほど進士藤太の存在感は圧倒的である。どうやら現在の主戦場であるアメリカの
袂を分かった日と変わらない弟子を愛おしそうに見つめる岳は両手で頭を掻き、止まる気配のない文句を受け止めつつ
さすがは愛弟子というべきか、師匠の
「師匠を説教できるようにセッティングを頼んだんです! 文多先輩に送ってもらった岩手の
「ちょちょちょ、ちょっと待てよ! そんな一気にまくし立てられたら、何を言いてェのかも分からねェって! 今、お前、『スーパイ・サーキット』っつったか⁉」
「樋口さんもあの頃から何も変わっちゃいないと来たもんだ! それどころか、悪い方向に転がったか⁉ おまけにマスコミの無責任っぷりたるや! しかし、
「次から次へと新たな登場人物を増やすなっつーのッ!」
頭突きを繰り出す予備動作と見間違うほど前のめりとなった愛弟子の勢いに気圧され、大きく仰け反った岳は、顔を引き攣らせつつ
「最初は『八雲道場』で――と考えたのですけど、未稲ちゃんが居るところでは話しにくいと条件を付けられたもので、どうしたもんかなって……。そうしたら姫若子さんの
「オレが訊きてェのは、そ~ゆ~コトじゃねーよっ!」
「土地勘のない鎌倉で果たして目的地まで辿り着けるか、甚だ心細かったのですが、沙門が
それがキリサメたちと稲村ガ崎の浜辺で遭遇した真相である。
父親同士も
「不用意な発言を一瞬でも申し訳ないと思ったボクがバカみたいだよ。腹黒さでは
寅之助の辛辣な皮肉に対して、沙門は肩を竦めながら小さく舌を出した。
藤太が稲村ガ崎の
「足で稼ぐという基本もなっちゃいないライターが好き勝手な妄想をバラ撒いているが、俺は空手に愧じることなんかしちゃいない。だから、トレーニングもお天道様のもとで堂々とやれる。俺を信じてくれるフレンズがいる。それでオーケーコラル!」
この一文に添えられたのは、稲村ガ崎の砂浜を踏み締める友人たちの後ろ姿を捉えた写真である。言わずもがな、
これによって『
テロの犠牲となった
ともすれば「自分の犯した罪を反省すらしていない」と、『ウォースパイト運動』の過激活動家が怒り狂う原因にもなり兼ねないのだが、進士藤太にはキリサメ・アマカザリとの運命を手繰り寄せる糸となったわけだ。
「アマカザリ君に関わることだから自分と無関係とも言えないが、密談したかったら『ダイニング
「謝罪の言葉もありません……。当初の
「僕からもお詫びします。姫若子氏をこんな
「知らない内に巻き込まれていたのはお互い様さ。気にしないでくれよ、アマカザリ君。本当に色々と弁えて頂きたい方々は、ご覧の通りの好き放題だがね」
恐縮する麦泉と
改めて
穏やかならざる空気に包まれる三団体の人間が奇妙としか表しようのない構図で顔を突き合わせているのだ。その上、キリサメと姫若子の二人は
この場に『
ただでさえ電知はキリサメやその養父の岳と深く関わり過ぎており、『
寅之助の恋人である
樋口体制に
神通に至っては
姫若子自身は団体間の対立をも超える若者たちの友情を尊重し、背信の片割れと面罵されようとも応援する
「やもめ暮らしも長ェんだから、『妻子に逃げられて辛気臭いお家に友達たくさん遊びに来て嬉し~』っつって、素直に喜んだらどーッスか、正忠サン?」
「他人に
当の電知は
その姫若子にとって招かれざる客――進士藤太の一時帰国は、「居ても立っても居られなくなった」という先程の言葉通り、
電知もまた最悪の形で
当の電知は自身の行動との類似点に気付いていないようで、「ここまで来ると行動派通り越してただのバカだな」と、左右の
己のことを棚に上げたような電知の放言にキリサメは苦笑いを浮かべるしかなかった。寅之助も同じことを思ったようだが、こちらは良くも悪くも裏表のない幼馴染みが微笑ましくて堪らないのか、今にも蕩けそうな
いずれにせよ、師匠を叱責したいが為に
(同じ眉毛の
先ほど麦泉が仄めかした〝未稲の居るところで話しにくいこと〟とは、父親が叱り飛ばされる
しかし、それ以外のことは何一つとして思い当たらないのだ。
ここに至るまでの筋運びや、『スーパイ・サーキット』について言及があったことから自分自身の
『スーパイ・サーキット』が大きく取り上げられたスポーツ番組を半ば強制的に視聴させたことからも明らかな通り、キリサメの身に宿った
それを差し引いても、『スーパイ・サーキット』のことで岳を批難するのは的外れとしか思えなかった。
「岳氏はこの人と――進士氏と音信不通だったのですよね? でも、今し方の会話を聞く限り、麦泉氏とは……」
「おう! それよ、それそれ! オレもず~っと気になってんだよ! 何? お前ら、文通でもしてんの? ず~っと連絡を取り合ってたんか? オレに内緒で⁉」
キリサメの頭に浮かんだ別の疑問は、ガラステーブルの向こうのソファに腰掛けた養父も共有していたようである。首が捻じ切れてしまうのではないかと心配になるほどの勢いで麦泉と藤太の顔を交互に見比べていた。
「
「オレだけ仲間外れかよ! いじめか? 寂しいわッ! てゆ~か、文多もよぉ、他の団体に――よりにもよって『NSB』の選手に『
「今更ッスよ、岳さん。俺も知り合いにアマカザリの試合ビデオをシークレットでギフトして貰ったッスもん。それくらいエブリバディがやってるッス。そういう岳さんだってウチの親父に『
「お前ら、みんなズルいぜ! おい、岳のおっさん! キリサメの
「統括本部長の肩書きが吹っ飛ぶコトをあらゆる角度から叩き込んでくんなよ~!」
『八雲道場』の師弟が別々の〝道〟を歩むようになった後も藤太と連絡を取り合っていた事実を麦泉はあっけらかんと白状した。
藤太の口振りから察するに、岳が四角いリングへ上げる
つまるところは〝似た者師弟〟であろうと、キリサメにも二人の関係性が少しずつ飲み込めてきた。日米で離れ離れになっても、腹に据え兼ねることがあっても、藤太は師匠のことが気になって仕方がないわけだ。
一方の岳も愛弟子の試合は『ユアセルフ銀幕』の
「……結局、
藤太を突然の一時帰国に踏み切らせたきっかけは察せられたものの、『スーパイ・サーキット』を巡る真意は今もって判然とせず、キリサメは会話の脱線を正すよう促した。
激しい感情ばかりが先立つ藤太は理詰めの説明を著しく欠いており、果たして〝何〟を改めようとしているのか、その目的すら測り兼ねているのだ。話が噛み合わないという意思疎通の問題点まで〝似た者師弟〟であった。
「心理状態に左右されて見境がなくなるようではMMA選手としての適性を疑わざるを得ません――館山先生が先程のVTRで話した
たった数分前に視聴したDVDである。内容など忘れようがなく、藤太から復唱まで交えて記憶の有無を問い返されたキリサメは、少しばかり不機嫌そうに首を頷かせた。
「銭坪満吉は『スーパイ・サーキット』のことを一種の極限状態と推理していたが、これも
「記憶力のテストなら、もう間に合っていますよ」
「
「定着したかどうかを
「極限的な心理状態に対する肉体の反応として、俗に〝火事場のクソ力〟と呼ばれるモノが引き出されることは科学的にも証明されている。刹那の奇跡とはいえ、身体能力が神の領域にまで達する
「……ひょっとして、今のは独り言だったのですか……」
針が振り切れてしまうほど鋭い山なりの波形とも
『スーパイ・サーキット』が発動する瞬間に決まって〝魂〟を塗り潰す血塗られた追憶や、
危ういところで踏み止まったものの、この不毛な時間を終わらせるべく二本指の目突きまで繰り出しそうになってしまった。
「……銭坪満吉が勝手に『スーパイ・サーキット』と名付けた症状というか、……心の具合のことを言っているのだ。別の言い方をするなら、……『PTSD』だ」
逡巡を挟んだ
思わずソファから立ち上がったキリサメ本人は言うに及ばず、彼の身に宿った〝何か〟を
PTSD――心的外傷後ストレス障害である。
この発症と『スーパイ・サーキット』の相似については、『
道場破りとの試合によって瀕死の重傷を負い、キリサメに
『
「PTSD疑惑まで話したのか」と目配せでもって岳に問い
自分の健康問題ならばいざ知らず、これはキリサメに掛けられた疑惑である。ましてやケースカンファレンスの場でもない。部外者に軽々しく話すわけがなかった。
藤太の側も
「待てや、進士藤太ッ! 今、何を言ったか、自分で
「……仮にも友達が面と向かって
投げ掛けられた言葉を脳が処理し切れず、呆けたように硬直してしまったキリサメ本人の代わりに怒鳴り声を張り上げたのは、言わずもがな電知である。それは当然であろう。親友の心が〝異常〟であると決め付けられて腹を立てない人間などいるはずがなかった。
「フィーリングは分かるけど、二人ともウェイト。藤太さんは決してバッドな人じゃないんだ。きっとリーズンがあるハズだから、ピリオドまで話を聞くとしよう。……その上でのジャッジなら、俺もブレーキは掛けないからさ」
すかさず沙門が二人の
沙門もキリサメを大切な友人と思っている。古くから親しく交流してきた相手であり、アメリカの
無論、藤太が己自身を斬り付けるような覚悟でPTSDと口にしたことも察している。沙門の瞳は彼の右頬――ごく最近に肉を抉られたものと
「当たり前だッ! こんなに重大なこと、冗談で喋るはずがないッ!」
これに応じる藤太の声は、三人の視線をまとめて押し返してしまえるほど大きい。
聞く者の鼓膜が張り裂けそうになる声量こそがキリサメのPTSD疑惑を真剣に案じている証拠だとすぐさま理解した岳は、
「もしも、キリサメが心に重い
「
己の身に宿った
キリサメが心に負った傷を更に広めることにも繋がり兼ねないものの、これだけは何があっても
「心に深手を負った疑いのある人間をMMAのリングに上げるなんて正気の沙汰じゃありませんッ! 日本を一歩でも外に出た瞬間、『
異能の
それでいて顔には苦悶の二字が滲み出しており、自分が叩き付ける言葉の一つ一つが不可視の刃となる危険性も十分に承知しているようだ。キリサメの心に新たな血を流させることへの迷いは、決意の力で押し殺しているのだろう。
キリサメやその仲間が抱く憎悪を受け止める覚悟をも固めているのだろうと、
「親父のほうの銭坪に同調するみてェで胸糞悪いったらありゃしねぇがよ、人間ってなァ脳内麻薬がしこたま出たときにバカとしか言いようがねぇパワーを発揮するじゃねーか。
「医師の診断をきちんと受けさせた上での発言でしょうね⁉ 師匠の自分勝手な決め付けだけで問題ナシと言っているとしたら、俺は絶対に許さないッ!」
天井の照明に亀裂が入っても不思議ではないほどの大喝で反論を遮られてしまった岳はさすがに
戦国武将さながらに頭頂部よりやや後ろの位置で花弁の如く結い上げた髪を解き、首の付け根の辺りで一房に束ね直したのだが、それはつまり、万が一のときには
沙門をも向こうに回し、一対四で包囲され兼ねない状況となったわけだが、『NSB』が誇る『フルメタルサムライ』は少しも怯まず、師匠を正面から睨み返した。
「
「信じるって言葉は! そんな何の根拠もない言葉は! 今、この場では何の意味も持たないんですよッ! だから無責任だって、俺は……ッ!」
「こいつめ、言わせておけば! 無責任は藤太も一緒じゃねーか! いや、もっとタチが悪いぜ! キリーの話を聞きもしねぇで、手前ェだけで一方的に決め付けやがってッ!」
「誰も決め付けてなんかいないッ! 仮に何らかの発作であった場合、MMA選手として余りにも大変な事態を招いてしまうという話をしているんじゃありませんか! 師匠、本当に俺の話を聞いてましたかッ⁉」
「何事もスパッと一刀両断で決めるのが
「最悪の事態を前提にするのは我ら忍者の基本でしょうがッ!
「――お二人ともこの辺で深呼吸しましょうか。八雲さんもご自分の主張を途中で断ち切られてお腹立ちのことと思いますが、自分はまだ進士さんの真意を量り兼ねていますよ。それは八雲さんも同じでしょう? 教来石君の言葉を借りるならば、ピリオドまで話を聞いた上でジャッジする。……取っ組み合いはその後でも遅くないのでは?」
感情のぶつけ合いとしか表しようのない様相を呈し、「僕の目にはどちらも思い込みが激し過ぎるし、何から何まで一方通行なのも似た者同士」と当事者のキリサメまで呆れさせる師弟に口を挟んだのは、
キリサメどころか、『
しかし、腰が引けているわけではない。もはや、逃げるつもりもない。図らずも立ち合うことになってしまったが、
願ってもいないと頷き返したキリサメは、親友や養父に次々と激情が伝播していく只中に
師匠と胸倉を掴み合ったところで姫和子から自重するよう促され、拳を握る前に踏み止まった進士藤太が『スーパイ・サーキット』をPTSDと同一視した瞬間には言葉を失うほどの驚愕に打ちのめされてしまったが、臨戦態勢を整えた電知や寅之助と入れ替わるように冷静さを取り戻していったのである。
岩手興行の幕間に
その際にキリサメは打ち合わせもなく
沙門も舌を巻いたが、キリサメは〝表〟の社会より切り離された
「進士さんは『NSB』で長く闘ってきた選手だ。その人が〝心の具合〟と口にした意味を冷静に考えてみるべきだと思います」
〝先輩〟
氷の矢とも
「正忠サンまで何を言い出すんだよ! だって、
「ひょっとすると進士さんは『アイシクル・ジョーダン』とアマカザリ君を重ねているんじゃないのか? ……空閑君、キミだってジョーダンの
横から口を挟んだ電知は言うに及ばず、姫若子が口にした一つの名前にその場の誰もが息を飲んだ。
アイシクル・ジョーダン――格闘技に携わる人間にとって忘れ難い悲運の名である。
二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロ事件を戦端とするイラク・アフガン戦争の帰還兵にして、『NSB』からドーピングが撲滅される引き金となった運命の人物とも言い換えられるだろう。
陸軍で体得した近接格闘術の才能と戦場で鍛えられた勘の鋭さは他の選手を寄せ付けない
『NSB』の現代表であるイズリアル・モニワが自ら見出した選手であったが、その恩に報いたいと焦った結果、取り返しのつかない悲劇を招いたとも報じられている。
その頃の『NSB』はフロスト・クラントンの画策によって〝肉体改造を施されたモンスターの見世物〟に歪められていた。ネバダ州
『NSB』復活を託されて新代表に就任したイズリアル・モニワは、
イズリアルとしても理不尽に未来を奪われた有望選手の無念を晴らしたかったはずだ。
MMAの旗頭が再生に至るまでを取材し、ジャーナリズム公益部門でピューリッツァー賞を獲得したアメリカの格闘技雑誌は、アイシクル・ジョーダンのことを「邪悪な存在によって
姫若子が
「藤太、お前、まさか……ッ」
「アイシクルとは
「ちょ、ちょっと待ってって! ジョーダンが心を病んじまったのは戦争中の誤射事件が原因じゃねぇのか⁉ そう言うモンでも罹っちまうのかよ⁉」
動転して再びソファから立ち上がった電知も、その背中を目で追い掛けるキリサメも、アイシクル・ジョーダンが精神的に追い詰められていたことは承知していた。それが原因で禁止薬物に手を出してしまったことも、
長野県に根差した地方プロレス団体が誇る花形レスラーの
PTSDは主に生命が脅かされた被害者が発症すると電知は記憶していたが、誤射事件に関わった当事者の一人という〝立場〟を考えると、アイシクル・ジョーダンは間違いなく加害者の側である。だからこそ、藤太の言わんとしている意味が理解できなかった。
「ボクは〝心の専門医〟じゃないから正確ではないかもだけど、
「剣道屋のアナライズは大きくアウトしていないと思うぜ。例えとしてベターでないのは重々承知しているが、『三・一一』を経験した俺たちは、……手を差し伸べることも叶わないテレビモニターの向こう側の〝現実〟がPTSDに繋がると身を
大きく首を傾げながら頭を掻き
背後に立つ沙門が驚くほど寅之助は慎重に言葉を選んでいるが、それも当然であろう。電知を落ち着かせている間にもキリサメの顔色を窺い、傷付けられた様子でないことを確かめると、誰にも聞こえないほど小さく安堵の溜め息を洩らした。
「誤射事件は軍を辞める直接の引き金になったし、最も心に
適切な治療も受けずに平気な
そして、PTSDの発作を抑えられる即効性の強い薬物の使用を
アイシクル・ジョーダンが重度のPTSDを患っていたこと。パニック発作の深刻さを友人である藤太が目の当たりにしていたこと。それらの様子が『スーパイ・サーキット』の発動と類似しているように見えたこと――全てが藤太の帰国理由に繋がっている。
「先程と正反対に自分から話を脱線させるような真似をして申し訳ないのですが、……アイシクル・ジョーダンは傭兵ではなく正規の軍人だったのですよね? アメリカ軍には治療やリハビリのプログラムは用意されていなかったのですか?」
古くから存在している〝戦争神経症〟という言葉が表す通り、戦地での経験を原因とする〝心の傷〟も脊椎損傷や四肢切断などと同じ戦争の後遺症である。姫若子は軍事面の知識が豊かではないが、それでも〝世界の警察〟を標榜するほど高度に完成されたアメリカ軍が命懸けで祖国に尽くした末、心を患うことになってしまった将兵を自己責任として放り出すとは思えなかった。
〝戦争の時代〟に深刻な後遺症を負った傷痍軍人のリハビリテーションを目的としてパラリンピック――正確にはその前身となった車椅子競技大会――が始まったのは、一九四八年のイギリスである。それから半世紀が経ったアメリカでは心身にハンデを持った人々とそうでない人々が同じ条件でスポーツを楽しむ土壌が育ち、〝パラスポーツとしてのMMA〟も花開かんとしていた。
アイシクル・ジョーダンのような傷痍軍人こそ手厚い社会保障が受けられるのではないかと、姫和子は考えた次第である。二度の世界大戦と
「俺の調べた範囲でしかお答えできなくて申し訳ありませんが、仰るように
「……それだけ傷痍軍人が増えたということか……。それなのにアイシクル・ジョーダンはどうして……。PTSDといった〝心の傷〟は個々で症例が違いますから、自分も迂闊なことは申し上げられませんがね」
「PTSDは
「進士さんと並んで滝行するジョーダン選手の写真を見たことがあります。お互いに生真面目な性格だから波長が合ったというお二人の
「……万全の支援体制が整っていたとしても、本人が心を患っていると認めねば、
呻き声を引き摺りながら姫若子に頷き返した藤太は、アメリカに
心の治療に向けたプログラムも話し合い、ついに
本人に気取られないよう控えめに顔を窺った〝
想い出の彼方へ去った人物のことだけに姫若子も深くは踏み込めなかったが、アイシクル・ジョーダンは
この〝後輩〟もアイシクル・ジョーダンと同じ情況に陥ったとき、自分の痛みを隠して
心の治療こそ最優先と訴える藤太にも一理あると認めた姫若子に対し、岳のほうは「忍法爆裂妄想なんて教えてねェぞ!」と床が軋むほど強く地団駄を踏み続けている。
「僕の
「そんなに行儀良く受け答えしなくたって構わねぇんだぜ、キリー! こじ付けと決め付けで、よくぞここまで
藤太が並べ立てた言葉はいずれも『スーパイ・サーキット』を宿した少年を追い詰めるものでしかなかったが、これを受け止めるキリサメ当人は
一方的に心を揺さぶられた
「自分の心が正常と言えないことは、他の誰でもない僕が一番
養父を制して藤太に話の続きを促すキリサメの声は事務的と表すのが最も相応しく、自分自身に掛けられたPTSD疑惑に対してさえ無感情なのかと、沙門は何とも
己の心に巣食う〝闇〟を藤太にまでPTSDと決め付けられたことに動揺がなかったと言えば嘘になるが、得体の知れない〝何か〟を乗り越える為の手掛かりこそ
無理だけは禁物と気遣う麦泉に対しても、彼と同じ気持ちを込めた眼差しを向けてくる姫若子に対しても、
「例えばカラシニコフ銃のように軍隊が使う銃なんか、僕は所持したこともありません。その代わりに同じ用途の『
「寅相手に秋葉原でブン回したバカデカいノコギリみてェな
「電知の気遣いは素直に嬉しいよ。その気持ちに応える為にも、僕は一歩でも〝先〟に進みたいんだ。
藤太が指摘した〝加害者の立場〟から推し量ってみても、アイシクル・ジョーダンの心が壊れた原因をキリサメは幾つでも挙げられる。
有志連合による
今は亡き実父を含めた二五人名もの日本人を人質に取り、突入部隊との最終決戦まで一二七日に亘って在ペルー日本大使公邸に立て籠もった犯人グループの〝同類項〟であるテロ組織とは、『
ペルー国家警察とも手を組み、共通の敵であるテロ組織の壊滅に狂奔したのだ。
青年海外協力隊の任務中であるが、亡き母でさえ国境を巡って紛争を繰り広げる
ましてや一九九六年末から翌一九九七年にかけて『日本大使公邸人質占拠事件』が発生している
(……アイシクル・ジョーダンか。次から次へと見ず知らずの格闘家たちが立ちはだかるもんだ。これで何人目だ? しかも、今度は〝
有志連合軍による誤射事件は、偶然に居合わせた戦場カメラマンが犠牲者と家族を撮影したことで国際社会に波紋を起こし、『嘆きの銃弾』と題された写真はピューリッツァー賞にも選ばれている。
尤も、当のカメラマンは遺族の心情に配慮して本名を明かさず、授賞式にも通信社の人間が代理として出席したという。
黒いニット帽をトレードマークにしていた日本人傭兵も骨董品さながらの古いカメラを趣味としており、キリサメにも乾いた大地の戦地で撮影した写真を何枚か披露している。
アイシクル・ジョーダンと同じ誤射事件に遭遇したかも知れない相棒は、『
二度と会いたくない相棒の
しかし、今のキリサメは己が背負った〝全て〟を超えて〝先〟を目指す覚悟である。だからこそ不躾かつ無神経としか表しようのない藤太に激昂せず、過剰に強い言葉で提起される問題にもMMA選手として真摯に向き合っているのだった。
決意の強さを態度で示す
「俺に一発喰らわせたいなら師匠がやってください。拳を握って貰ったって構いません」
「回りくどい言い方しねェで、
「そうは言っても、お手柔らかにお願いしますよ、センパイ。本気で殴って
常日頃から何事にも無感情であり、自分自身の〝心の在り方〟すら淡々と処理しているように見えて、キリサメは
その瞳に揺るぎない意志の力を感じ取った藤太は、キリサメと相対し続けるには己にも更なる覚悟を重ねなくてはならないと考え、岳に向かって右頬を差し出した。
プロレスを愛する全ての人々の間で一種の〝
かつて『鬼の遺伝子』に名を連ねた同志として〝立会人〟を引き受けた麦泉は、この上なく迷惑そうな姫若子に一礼を
ペルーで生まれ育ったが為に『昭和の伝説』との接点もなく、プロレスファンであった母が折に触れて熱弁していた数々の逸話も殆ど聞き流したキリサメは、それが気合いを入れ直す
「……『心理状態に左右されて見境なくなるようではMMA選手としての適性を疑わざるを得ません』――」
赤く晴れ上がった右頬を呆れたように凝視してくるキリサメと向き直った進士藤太は、先ほど再生させたスポーツ番組の中で『MMA日本協会』の理事――館山弁護士が述べていたことを再び繰り返した。
「――『スーパイ・サーキット』に関する報道は、調べられる限りの全部に目を通した。『
「僕
「藪先生の
「それを拡大解釈された挙げ句、知らない間に名付けられた『スーパイ・サーキット』が広まったわけです。〝有名税〟ということなら、これが一番高く付いた気がしますね」
電知とは違って寅之助は未だに藤太への警戒を解かず、竹刀袋から得物を抜き放つ好機を窺い続けていた。
彼らが横に並んで腰掛けているソファの真後ろに沙門は陣取っているが、それは〝剣道屋〟や〝柔道屋〟の暴走を即座に押し止める為の措置だけではなく、藤太の様子を正面から見据えられる位置から離れないという意味でもある。
おそらく藤太自身も無意識なのであろうが、PTSDという疑惑をキリサメに対して突き付ける
先程の
依然として
「もはや、この時点で自分の心を自分で
禁止薬物を投与する肉体改造は『NSB』の
「キリーがMMA界を震え上がらせたのは、絶体絶命のピンチにブッ放す超必殺技だってさっきから何度も言ってるだろ⁉ 特撮ヒーローの必殺光線と一緒だぜッ! 化け物退治はお手の
あくまでも『スーパイ・サーキット』を
この愛弟子と同じ『NSB』に所属していた
若かりし頃から
だが、顔面に貼り付けたのは空元気に過ぎず、どこか虚ろな瞳はとても留飲を下げたようには見えない。人間という種を超えた『スーパイ・サーキット』がドーピングの
同じリングに上がる瞬間が限りなく近付きながら、運命の
藤太のほうは先程の言葉に称賛とは反対の意味を込めている。それは酷く硬質な声色からも瞭然であった。
「万が一、『スーパイ・サーキット』が俺の危惧する
「その小賢しい断定口調にもいい加減、飽き飽きだよ。そもそもサメちゃんを追い詰めて
ここに至って、キリサメを精神的に痛め付けることが『フルメタルサムライ』の目的と断定したのであろう。帆布製の竹刀袋を放り捨てながら立ち上がった寅之助は、右手一本で構えた竹刀の剣先を藤太の喉元に向けた。
口の端を微かに吊り上げてはいるものの、両目は少しも笑っていない。幼馴染みの寅之助でさえ過去に数えるほどしか見た
彼は『八雲道場』から雇われたキリサメの
尤も、今の寅之助は
そのキリサメから「僕をいたぶるのが
「仮に嫌がらせ以外の魂胆があったとしても、時間切れで締め切っちゃうよ。下手な一人漫談みたいに喋り倒しておいて、そのテの言い訳も並べられないバカにこれ以上、耳を貸してあげるのは無駄の極みだよ、サメちゃん。限りある時間は有意義に使わなくちゃ」
この場に居合わせた者たちの中でも、昨年のペルーを震撼させ、キリサメの幼馴染みである
労働者の権利を脅かし兼ねない新法の撤回を求めて〝大統領宮殿〟を目指すデモ隊と、これを阻まんとする国家警察の衝突は銃撃戦にまで発展し、その犠牲者数は両手両足の指を使い切っても全く足りないほどであった。
〝テロとの戦い〟に勝利を歴史的栄光として喧伝してきたペルーにとって、国家警察長官の交代劇を含んだ『七月の動乱』は最悪の痛恨事であり、各国のニュースや新聞でも相応の大きさで報じられている。
〝地球の裏側〟で起こった惨劇にキリサメとその近親者が巻き込まれていた事実を誰よりも早く突き止めたのは、秒を刻む
キリサメが
寅之助が不似合いとも思えるほど義憤を燃え
明確に害意が宿った剣先を突き付けられている藤太からすれば、本来はキリサメ自身が浴びせるべき憤激を寅之助が代弁しているようなものであった。
キリサメやその仲間たちから敵視されて当然という
それどころか、「俺がキリサメをいびっていると感じたら、迷わず突け」と一等強い眼差しで言外に促してもいる。
その竹刀はキリサメの心を映す鏡として藤太の
過去という名の足枷を振り落とすような勢いで未来への〝道〟を踏み締めんとする
無論、それは藤太とも共有している。自重の呼び掛けに代え、拾い上げた竹刀袋を寅之助に手渡さんとした麦泉でさえ、三者の意を酌んだ岳によって押し止められていた。
「アイシクルと同じ苦しみが繰り返されそうになってるんだぞッ⁉ しかも、未来ある少年が……ッ! 無関係だからと黙って見過ごせるかッ⁉ 放っておけるものかよッ!」
藤太が全力で迸らせた吼え声は凄まじく、寅之助が構えた竹刀の剣先も微かに揺れた。
一触即発の状況を注視していた姫若子も思わず両耳を塞いでしまったが、その熱量こそが友を想って怒りに震えた寅之助に対する藤太の誠意というわけだ。
腹の底から張り上げられた大音声を
(どこまでも似た者師弟なんだな。世界で最も完成された総合格闘家――それを育てることが出来るのは世界で岳氏だけだ)
現状のまま『
〝師匠の養子〟という間接的な繋がりがあるとはいえ、進士藤太にとってキリサメ・アマカザリは今日まで挨拶を交わしたこともなかった他人である。ましてや『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の時代から数多の闘魂が吹き込まれてきたリングを『スーパイ・サーキット』によって破壊してしまったのだ。
日本のリングに立つプロレスラーひいてはMMA選手全ての〝天敵〟と
しかし、
キリサメとの間を直線的に結び付ける絆の有無など藤太には些末なことに過ぎない。例え己と何の繋がりのない相手であろうとも、そこに苦しみの形を見つけたならば、全身全霊で救いの手を差し伸べずにはいられない。
人を助けるのに理由など持たない。そう言い切れるほどの情熱を燃え
初対面に加えて、
数え切れないほどの観光客が餌食となっているペルーの
東日本大震災発生の直後には支援物資を満載したトラックで被災地に駆け付け、東京に戻るや否や、団体の垣根を取り払って一丸となり、東北復興を支援しようと日本格闘技界全体を動かしたのが八雲岳なのである。
キリサメが
それが師匠にとっては『忍法体術』ひいては『超次元プロレス』を極めてくれたことよりも遥かに嬉しかったのであろう。PTSD疑惑に対する反論を
歩む〝道〟こそ分かれたものの、今でも岳が実兄の如く慕うヴァルチャーマスクは、児童養護施設などを援助する篤志家であった。プロレスの門を叩くきっかけとなった
場違いな笑い声まで洩らし始めた岳を諫めるべき立場の麦泉も頬を緩めていたが、眉を顰める者などこの場にはいない。三人の様子を順繰りに見比べるキリサメも、進士藤太という存在をライトヘビー級の体躯以上に大きく感じていた。
それはつまり、人間としての〝器〟が岳に勝るとも劣らないほど大きい証左である。
指一本をただ動かすだけで満員の観客席を沸騰させることが出来るレオニダス・ドス・サントス・タファレルとは種類が異なるものの、これもまた
近ごろ聞いた『世界最強』はその称号で畏怖される代償であるかの如く〝人間らしさ〟を喪失してしまったようであるが、〝世界最高のMMA選手〟と、彼を育て上げた師匠はまさしく対極であり、これからも変わらずに
そして、キリサメは『八雲道場』の師弟と同じ
藤太に竹刀を向け続ける寅之助は、キリサメより僅かに早くその結論に達していた。小学生の頃だが、風変わりな
「……『地獄への道は善意で敷き詰められている』とはよくぞ言ったものだよ。すっかりサメちゃんの守護神気取りだけど、貧乏神にならないようせいぜい気を付けなさいな」
藤太がキリサメに向ける
一方で、麦泉から納めるべき竹刀袋を受け取ることは拒んでいる。藤太が敵でないことには納得したものの、それとキリサメの心を傷付け得る可能性は別問題であり、臨戦態勢を完全に解くつもりもない。
何もかもが
「進士氏の助言と、あのDVDを見せて頂いた意味も重く受け止めています。『
極太の眉を吊り上げたままキリサメの言葉を受け止める藤太であったが、〝心の傷〟が完治するまでMMA
キリサメは過度に感情を昂らせず、〝次〟に
それを「克服」とも言い表したが、この二字は急場しのぎや時間稼ぎを試みる人間の口から発せられるものではない。致命的な事態を招き兼ねない
『
それこそが〝暴力〟に頼らなければ格差社会の最下層で生き残れなかった
自分の提案に従わないというだけで機嫌を損ね、真摯の二字を体現する姿勢で〝次〟を目指しているキリサメを更に叱り飛ばすような人間であったなら、そもそも進士藤太は鎌倉へ急行することなどなかったはずだ。
「その前に一つだけ、岳氏の名誉の為にも申し上げたいのですが、〝心の専門医〟への相談というか、心理療法は既に始めています。進士氏が心配してくださったPTSDの検査も受けましたし……」
「キリサメ君、それは……」
〝心の専門医〟――つまり、
『スーパイ・サーキット』が
麦泉を除けばキリサメ本人と岳のみだ。繊細な領域の話し合いである為、
何しろ会議の焦点は〝心の在り方〟そのものである。治療の経過などを部外者に知られることで心理的な負担が更に
所属団体間の対立関係を超えて親友となった電知や、魂に巣食った〝闇〟を映し出す鏡の役割をも託した寅之助は言うに及ばず、次世代の空手家たちが理不尽な体罰に苦しめられないよう根性論といった古い悪習を断ち切らんとする沙門のことは、ときに劣等感を覚えてしまうほど尊敬している。
〝先輩〟
初めて言葉を交わしてから数時間と経っていないものの、八雲岳がヴァルチャーマスクや鬼貫道明の生き様から学んだ
心から信じられる人々へ己の〝全て〟を晒すことにキリサメは抵抗などなかった。
壊れてしまった
だからこそ麦泉はキリサメによる不意の告白に身を強張らせたのだが、彼を取り巻く仲間たちから奇異の目を向ける者は現れなかった。電知に至っては「キリサメの話にそんな
具体的な症例や治療方法に至るまで〝心の病〟が広く知られるようになった
「
「ボクの記憶違いかなぁ? 『
「
「……上出来どころのハナシじゃねーわ。一ミリも反論の余地がねーわ……」
切れ味鋭い寅之助の
一つの事実として『
こればかりは猛省以外には有り得ないが、
肉体と同じく
ボクシングジムの関係者とテレビ局の思惑によって国民的
『NSB』の〝同僚〟であるジュリアナが実父という呪縛によって追い詰められていく姿を間近で目の当たりにしてきた進士藤太であったればこそ、
その藤太は目を剥いたまま呆けたように立ち尽くしている。つまるところ、岳の
「病院に連れてくだけじゃなくて、オレなりにPTSDのコトを色々と調べてみたとも。諸々と照らし合わせた上で、『スーパイ・サーキット』は
「し、師匠の主観で物を語ってるんじゃないでしょうねェッ⁉」
「
「お前が心配してるのはパニックの発作だけじゃねーよな? ……自傷行為とか睡眠障害とか、命の危険に繋がっちまう症状にキリーは当て
「文多先輩……?」
「例えば睡眠障害の疑いなんかは、センパイ自らキリサメ君に添い寝して確かめたから大丈夫だよ。……性格が豹変して誰かに当たり散らす姿だって、僕たちは過去に一度も
「今、なんで文多に真偽を確かめんだよ⁉ 口から出まかせなんて言うかッ!」
「い、いえ……、そ、そんな気配りが出来るようになっているなんて、昔の師匠を知っている人間は、俺だけじゃなくて、誰も信じられんのではないかと……」
「岳氏は日頃の行いがよろしくないですから、進士氏の判断は当然の帰結ではないかと」
岩手興行当日の様子を寅之助に揶揄された直後ということもあり、キリサメ本人の
いずれにせよ、豪放磊落と粗忽を履き違えたような師匠はキリサメの〝心の傷〟に気付かず、適切な治療も施さないまま放置しているに違いないと一方的に決め付け、その反論を否定し続けたのが藤太の大失態であることは疑いなかった。
実際には独り善がりの民間療法によって症状を悪化させることもなく、〝心の専門医〟にも頼っていたのである。その事実を確認しても師匠の言葉が信じられず、
ここに至って度を越した早とちりを悟った藤太はアヒルのように唇を窄め、それまで吊り上げていた極太の眉を正反対の気弱な形に変えた。血の気が引いた顔からは大量の汗も噴き出している。
精強の二字を人の形と取っているかのような偉丈夫だけに、気概が崩れた途端に情けなさが際立つわけだ。『フルメタルサムライ』という異名とは裏腹に案外と打たれ弱いことが露見した恰好でもあり、数分前との落差にキリサメはただただ驚かされた。
見る者を圧倒する体躯以上の存在感すら錯覚であったのかと混乱してしまうのだが、藤太は酷くしょぼくれた様子で岳の隣に正座し始めた。
『NSB』の
「結局、間抜けを晒す為に日本まで飛んできたってオチかな。雰囲気だけは御大層だったけど、拝聴してきたのがバカらしくなるくらい意味なかったね、これまでの
「マーシレスにスラッシュしてやらないでくれよ、剣道屋。人間のハートはロジカルにコントロールしきれないモンだろ? とりわけストロングにチャージしてくるエモーションには素直になっちまうもん。感情ある生き物のエビデンスってワケさ」
「なになに? 今のって二股三股がバレたときの言い訳? 尤もらしい言い回しで他人のことを庇うより先に
腹を三文字に切り裂いて謝罪の言葉に代えそうな藤太を揶揄する寅之助を窘め、逆に手痛い反撃を受けてしまった沙門であるが、結果的に擁護しようのない空回りとなった原因は察しているようだ。
「ストロングなエモーションには素直ってのがジェントルの哲学」と、自己弁護にすらなっていない妄言と共に左頬を掻きつつも、瞳の中央には依然として藤太の右頬を捉えている。顔面が蒼白になったことで、肉を抉られた痕跡が一等生々しく感じられた。
「岳のおっさんがキリサメにべったりだった理由だけは判明したじゃねーか。さっきの寅の話からてっきりデビュー戦の罪滅ぼしなのかもって思ったんだがよ、直球勝負の〝
〝大人〟たちの間で交わされる言葉へ耳を傾ける内に、電知も近頃の岳が
その電知も今や汗みずくとなった藤太のことを無駄な勇み足などと嘲ってはいない。沙門とは異なって右頬の傷には注目していないのだが、心の底から
肩を並べながら揃って項垂れた岳と藤太に対する〝似た者師弟〟という印象も、そこに抱いた親しみの気持ちも、キリサメと分かち合っているのだった。
「空閑君の言う通り、子どもの些細な変化まで気を配るのが〝大人〟の
その電知に同意したのは姫若子である。
『スーパイ・サーキット』にまつわる疑惑や、〝
「アマカザリ君もお年頃だから、
「
「……子どもは大人が思っている以上に〝大人〟だということをうっかり忘れていたよ」
岳や麦泉が自ら口にした場合、自慢話のように感じ取られてしまう可能性があることを第三者的立場の分析として言い諭し、〝大人に頼ること〟への遠慮をキリサメから取り払う――それこそが己の役割であろうと姫若子は考えたのだ。
例えばプロデビュー戦の直前に起きたという混乱も、「余所見して
〝家族〟にも相談し
「そういう意味では貴方は大人失格ですよ、進士さん。率直に物を言うことと、人の気持ちを省みないこと、この二つの違いを自分自身に問い直してください。大人を標榜して年少者に訓示を垂れるのはそれからでしょう」
「うぬ……ッ!」
「しかも、これは非常に繊細な問題のはず。亡き友人を思う気持ちは痛いくらい伝わってきましたが、だからといって感情任せでぶつかるのは、自分には配慮を欠いているとしか思えませんよ。……日本が世界に誇る『フルメタルサムライ』がこの有り様とは、情けないやら哀しいやら。貴方こそ八雲さん――お師匠から厳しく説教されるべきでは?」
姫若子は正論しか述べておらず、藤太はますます恐縮して押し黙った。己の浅はかさを理解できないほど愚かではない証拠というべきか、急激に小さくなった背中には悔恨の二字が滲んでいる。
第三者の一喝によって思考も冷静さを取り戻し、ここに至るまでの様々なことを省みたらしい藤太は、これ以上ないほど神妙な面持ちで姫若子に向き直ると深く
「……お邪魔しています」
「この流れで言うのがそれかッ⁉」
前後の脈絡を完全に無視して飛び出した藤太の挨拶に面食らい、顎が外れそうになるくらい大きく口を開け広げた姫若子が素っ頓狂な声を迸らせると、その滑稽としか表しようのない場景を笑い声が満たしていった。
賑々しい只中に
「――キミはおいらの親友みたいなコトにはならないよ。アイツとは
不意に通り過ぎていったその声は、目の前で笑っている仲間や家族の物ではない。
『八雲道場』のかかりつけ医である
例えば『
*
PTSD疑惑の診断から始まり、魂に根を張った〝闇〟の克服に向けて協力を仰ぐことになった『
〝心の専門医〟に罹ること自体がそもそも初めてというキリサメには他の病院は分からないが、
何事にも無感情なキリサメでさえ気付かない内に優しい雰囲気に包まれ、浸ってしまう環境が整えられていた。
医師と患者はL字型のテーブルを挟んで向かい合う形であるが、レントゲン
これらを除くと、机上には
柔らかな内装とは反対に、
どちらも横縞柄であるが、上が淡い緑と深い紫、下が空色に鮮やかなピンクと、彼の辞書には統一感という言葉が載っていない様子であった。
その上、眉間を覆い隠すようにしてバンダナを巻いている。サングラスを掛けて陽気に笑う笑顔の模様が全体に散りばめられており、心が荒んだ人間は馬鹿にされているものと感じる
この奇天烈としか表しようのない風貌は、見る者の心を和ませる顔立ちを一層際立たせる役割を果たしているのかも知れない。
しかし、自分の夢に一直線で突き進む電知のように無垢とは言い
今まで
同じ
それ故、
「――〝
初対面でありながら、互いの顔に郷愁にも近い感情を抱くという奇妙な構図であった。
自分の病院をキリサメに紹介した藪総一郎を
同郷であることも間違いあるまい。それはつまり、〝甲斐古流〟の筆頭たる
キリサメの通院日を狙って病院に押し掛けてきた無礼な記者たちを総一郎は十文字槍を振り回して追い払ったが、
これを荒唐無稽な妄想という一言で片付けられないのは、キリサメが
主として被告人の精神状態を分析し、事件に対する責任能力の有無や審理継続の可否を判断する『精神鑑定』に対して、『犯罪心理鑑定』は事件当日の精神状態ではなく人格形成の基盤となった過去の生活環境や、家族を含めた周辺人物との関係性などを調査し、犯罪に至った道筋を多角的に探っていく手法である。
『
「総さんから同じ説明を受けたかもだけど、おいらたち医師は患者の個人情報に対して守秘義務がある。勿論、〝ヤバい話〟を聞いちまったら法治国家の一員として通報の義務が生じる――と思うだろ?
「誘導尋問のように聞こえる――という野暮は置いておくとして、事前に頂いたチェックリストでは犯罪心理研究への協力に同意することを求められなかったような……」
「総さんにヘンな冗談を吹き込まれたのかも知んね~けど、少なくとも
かかりつけ医による紹介を信用していないわけではなかったが、その語感に何とも
どちらも犯罪者が主たる研究対象であり、藪総一郎から教わった
「――犯罪研究の成果という言い方は怖いけど、それに基づいた
麦泉が示した見解の〝裏〟を取る為、今し方の質問をぶつけたようなものである。
そのことを踏まえれば、
強盗傷害などの罪を犯さなければ格差社会の最下層を生き抜けなかったという事実は、既に
そもそも〝命の遣り取り〟を前提とする発想自体、法治国家日本で開業している医師が辿り着くモノとも思えないのだが、過去に身を置いた環境まで遡って犯行時の状況を解き明かしていくことは、寧ろ
事前に記入したPTSDのチェックリストは受付の窓口に提出しており、その結果に基づいて診察が進められるものとキリサメは想像していたのだが、この精神科医が最初に試みたのは
「
「不勉強ながらも格闘技医学の
「つまり、全部はアマカザリ君の独創性の賜物ってワケか。個人的な興味をペラペラお喋りするのは医者失格かもだけど、ますます面白いじゃん、アマカザリ君。それくらい頭の回転がキレなきゃ鉄火場で命を拾えないもんな」
おそらく
猫の手のような形で上から下に振り落とし、命中の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に叩くパンチについて触れたときには、ほんの少し術理を解説だけでも相手に最大の
暴行・傷害や殺人など身体が攻撃を加えられる刑事事件の知識が豊富ということだけではない。自分自身の感覚として馴染むくらい〝命の壊し方〟を熟知しているという意味である。この点も藪総一郎と同じであった。
己と同じ〝血〟を吸い尽くしたノコギリ状の禍々しい
年齢差にもこだわらないらしい
「今でこそ〝小太りじいさん〟になっちまったけど、おいらもキミと同じくらいの
テーブルを挟んで控えめに向けられる怪訝そうな眼差しに気付いた
槍を水平に突き込むような
若かりし頃に藪総一郎と繰り広げた模擬戦の一幕と察せられるが、穂先が喉笛を食い破る
それはつまり、法治国家の一員でありながら攻守の組み立てを一つでも誤った瞬間に命を落としてしまう苛烈な〝場〟に身を置いてきた何よりの証左である。
具体的な地名などは明かされなかったものの、キリサメは断片的な情報を繋ぎ合わせることで『
以前に神通から教わった話によれば、戦国乱世に
歴史の彼方から受け継ぎ、宗家として背負い続けてきた
彼女と同じ『
若くして哀川神通が宗家を継いだ『
「そもそも人間は、年齢一桁の頃からありとあらゆる経験や知見を組み合わせて心を作り上げていく生き物さ。生まれ付いた環境一つで人生の全てが決まるって臆面もなく断言するヤツは眉唾だけど、物心つく前に遭遇する強烈な〝何か〟はやっぱしデカいってワケ」
「無分別――という言い方は適切じゃないか。
「常識っつうのは言い得て妙かもな。あらゆる物事の判断基準みたいにそいつの頭ン中に
「……〝感覚〟ということなら、僕は生まれる前から歪んでいたのかも知れません。大勢の日本人が人質にされましたし、
「生まれたのが一九九七年だから、もしやと思ったんだけど、
「母と同じく故人ですが、遺伝学上の父親が日本人側の人質に含まれていたこともあって銃声や爆発音の類いは生まれる前から身近でした」
「親父さん、二五人の内の一人? つーコトはお袋さん、キミと一緒に包囲側と籠城側が睨み合う最前線まで出張ってたってワケか。内戦同然の物騒なモンが胎教音楽の代わりなら、
「両親が巻き込まれた占拠事件は氷山の一角に過ぎません。射殺体が裏路地に転がり、野良犬の餌になるのが僕の故郷です。〝
「四六時中、どこから狙われるのかも分かんねぇ環境で寝起きしてたんだよな? 耳が銃声に慣れるどころか、寝ている間に銃を突き付けられた回数は両手両足の指を全部使っても足りないだろ。現在は睡眠不足はないみたいだけど、日本で暮らし始めた直後は調子が狂って寝付けなかったんじゃないか?」
「……相手の心を読み取れる精神科医が殺人事件を解決していく探偵ドラマの犯人にでもなったような気持ちです……」
「さっき言ったろ? 若い頃は
「強烈なストレスが掛かる状況や環境は人それぞれでも、精神が蝕まれる原因やその引き金になる反応に大きな差はない――と? 素人考えで申し訳ありませんが、脳に及ぼす影響は負荷の重さで測れるものでもないと思いますし……」
「もう一つ加えるなら、戦場とアマカザリ君が生まれ育った環境も単純に一緒にも出来ないんだけどな。キミが言った通りに
「何となく
科学的・医学的な試験など伴わない個人の想像に過ぎないが、母親の
差し向かいの医者はそれさえも過去の経験に基づいて理解した様子であり、反応を窺いながら〝表〟の社会と相容れない〝感覚〟を仄めかしたキリサメのほうが困り顔で苦笑いを浮かべてしまった。
発砲音や爆発音が子守歌の代わりであったことを根拠として〝感覚〟が歪んだとするキリサメの主張など普通の医師であれば困惑するのみであろう。想像できるとしても、〝戦争の音〟という〝非現実〟に慣れていることが限界のはずだ。
これに対して、
「懐古趣味の武勇伝も意外と役立つだろ?」と、
藪総一郎もキリサメの心と向き合うのは
実際に言葉を交わすまでは少年犯罪や非行少年の矯正に携わった人材はこれ以上ないほど適任と、皮肉と自嘲を
だからこそキリサメも察した〝全て〟を冷めてしまった
「バカな獲物が自分たちの縄張りに迷い込むのを物陰から窺う強盗団も、革命の
「デビュー戦の
二〇〇九年に裁判員制度が開始されて以来、日本でも〝一般人〟の手に刑事裁判の行方が委ねられる機会が増えた。例え凶悪犯であろうとも血の通った人間であることに変わりはなく、その人生を左右する決断はただでさえ難しいが、ときには犯罪捜査の専門家にさえ理解し
被告人自身にも動機を明確化できない犯行は、当然ながら〝一般人〟にとって読み解くことが不可能に近い。常人の思考から逸脱する狂気の本質ひいては凶行に走らせた背景事情を理論的に解き明かし、裁判員が事件の全体像を把握することと、これに基づく有罪無罪や量刑の判断を支援することも、犯罪心理学に期待される役割であった。
『犯罪心理鑑定』を依頼された鑑定人も裁判所へ報告書を提出するだけに留まらず、審理に携わる人々に対して犯行の実態を法廷で解説することもある。
しかし、それも犯罪の機序・動向の研究に
再犯・累犯・常習犯――罪を償ったにも関わらず、過ちを繰り返してしまう人間に社会不適合の烙印を押し、生き直す為の居場所を奪うのではなく、〝道〟を外れる方向に吸い寄せられてしまう心理的な働きを分析した上で、更生・矯正を成し遂げるプログラムを具体化することこそ、今後ますます重要性を増していく犯罪心理学の使命なのだ。
それはつまり、社会復帰を阻み兼ねない人間関係の把握や、法に触れる手段へ手を伸ばさずとも真っ当に暮らしていける生活環境の確立に
「気を悪くしないで聴いてくれよ。犯罪心理学には犯行の傾向を幾つかに類型化して整理する考え方もあってな。常習性ってコトならキミは〝プロ化〟した段階に当て
「さしずめ〝プロの犯罪者〟といったところでしょうか。〝プロのMMA選手〟として
「故郷のアレコレはともかく、移り住んだ日本ではキチッと法律を
「
「アマカザリ君にとって喧嘩技が――殺傷行為が良くも悪くも空腹を満たす手段っつうコトは十分に伝わってきたさ。餓えた心の埋め合わせじゃなくね。必要な分だけ〝暴力〟を
樋口郁郎の〝師匠〟にして『
他者を遠ざけるように平素から無差別な暴力性を剥き出しにする人間ではない――そのように認めた根拠が〝国舘漫画〟との比較であったことに自嘲の笑みを浮かべる
増長が極まったそのボクサーは、虐待を受けてきた幼少期の反動とも呼ぶべき欲望の暴走どころか、己に宿る暴力性をも抑え切れず、幼い我が子に凶器も同然の拳を叩き付けて死に至らしめていた。
MMA選手ではなく
「腕利きの猟師は鉛玉も無駄撃ちせず、必要な分だけ獲物を狩る。狙った通りに命を奪えたとしても、快楽なんか微塵も感じねぇ。人はそれをプロフェッショナルって呼ぶのさ」
「……僕も例え話の猟師に合致するわけですね。それが〝プロ〟の定義だとすれば、
「犯罪のエスカレーションというよりは、経験に基づくステップアップってトコだな。スキルと稼ぎの両面で〝セミプロ〟から〝プロ〟へ段階的に移行するのは、日本もペルーもどっちも似たり寄ったりってワケだ」
経済不況や治安悪化など穏やかならざる社会情勢が〝一般人〟を犯罪に駆り立てるという観点も犯罪心理学には含まれており、ペルーという
「軽犯罪程度なら
「おいらたちもアマカザリ君と変わらない
「……僕の場合はどんなことにも〝何か〟を感じなくなっていた――ただそれだけです」
「血の臭いも慣れると平気になるもんなぁ~、色々な意味で」
バラック小屋が
ペルー社会の問題点を日本人が糾弾することは許されざる傲慢と弁えてはいるものの、
あるいはキリサメと同じ年齢の頃を想い出し、己の放り込まれた地獄が〝地球の裏側〟でも常態化しているという事実に悲憤のような感情が湧き起こったのかも知れない。
一握りの人間しか真っ当な生活を享受できない絶望的な格差社会に
犯罪心理学の観点では帰属する社会の体質そのものが人間に罪を犯させるという原理とも慎重に向き合っている。貧富の格差が是正されないまま拡がっていくペルーで犯罪を生業とする子どもたちの人格も破綻という一言で単純化するわけにはいかないのだった。
「……さしずめ〝善悪の彼岸〟ってトコだな。アマカザリ君の故郷についてはまだまだ不勉強で申し訳ねぇんだけど、おいらも『昭和』っつう狂った時代を経験したんでさ、正義だの悪だのがグチャグチャになった
「日本と
「なるべくして犯罪者になる脳の持ち主ってワケかい? そういう犯罪研究がないワケでもねーけど、
「僕自身はサイコパス呼ばわりこそ似つかわしいと考えていますよ。自嘲とか自虐ではなく経験に基づく事実として」
その旧友たちが結成した少年強盗団から反対に襲撃されたときには、関節への踏み付けや目突きを容赦なく繰り出し、何人かを再起不能にしている。必要がなかった為に最後の一線は踏み越えなかったが、幼い頃から共に過ごしてきた人々も殺そうと思えば無感情に殺せてしまう人間なのだ。
キリサメはそのような自分を〝プロの犯罪者〟である以上に脳の
「さっきも言った通り、キミは日本に馴染んで暮らしてるじゃん。『サイコパス』って異常殺人犯と混同されがちだけど、社会に適応して生きるのが極端に難しい人格の持ち主が本来の意味に近いんだぜ。キミは喧嘩技を解説するときに一度も自慢しなかった。自分の〝力〟に疑問さえ持ってる――これだけでもサイコ野郎じゃねぇ証拠としては十分だよ」
思考パターンが歪んだ犯罪者は、脳の
これは裁判員の理解度を深める解説のみを指しているのではない。精神破綻としか表しようのない異常な衝動で理性が壊されたのではなく、己の意思として罪を犯したという事実の認識も被告人に促すのだ。
本人だけでは整理できなかった心理状態を一つ一つ拾い上げ、これを組み立てることによって犯行の本質に辿り着く――これもまた犯した罪と向き合うことである。
そして、『サイコパス』に分類される人格とは理性がブレーキとして働く〝思考〟よりも遥かに根が深く、軽々しく言行の異常性と混同できないことも
「漫画やゲームの暴力表現が犯罪を凶悪化させる原因だって決め付けて、一方的に潰そうとする連中が後を絶たねーんだよ。実証も論拠もなく、
「……自分が身を置くMMAで例えるなら、『ウォースパイト運動』が最も近そうです」
「攻撃対象が違うだけで、根っこは目クソ鼻クソだよ。〝自分が気持ち悪く思う相手〟を排除することしかアタマにねぇ連中は、ぶっちゃけ犯罪者の傾向や特徴を理詰めで説明できた試しがねぇんだわ。
次いで
このスポーツ・ルポライターは今でこそ『
以前に出演したバラエティー番組でMMA選手の不祥事を取り上げた際には「格闘家なんてのは暴力を振るって
歯に衣着せぬ批判とは呼び
「あの人ならそういうことをやっても不思議ではありません。過去の暴言も
「感情任せの思い込みは、自分の行動を都合よく上書きするって好例が
「攻撃性が高い
「
「まさにそれと同じ原理さ。誰に手解きを受けたわけでもねぇのに次々と〝実戦向き〟の喧嘩技を編み出し、相手のどこをブン殴れば一撃必殺を狙えるか、自分の
「……言葉遊びみたいに聞こえるという感想は失礼に当たりますか? 『スポーツと〝闘うこと〟も広い意味では重なる』といった言葉が続くようでしたら、僕は不躾な
「要は
「資格に見合う実力と人格の持ち主――といったところでしょうか」
「ちゃんと
先ほど
それが〝プロのMMA選手〟にあるまじき振る舞いとして飛び出し、
キリサメの場合は生きる為に冒し続けた罪を見つめ直すことで、格差社会の最下層で繰り返される殺し合いと〝
「……家族に危害が加えられると思ったとき、僕はその相手を本気で殺そうとしました。秋葉原という賑やかな街で、大勢の野次馬が居る前で頸動脈を切断しようとしたんです。それでもサイコパスの脳じゃないというのは、言葉遊びの極みのような気がしますよ」
「キミからのヒアリングやネットに出回ってる情報も含めて、
「……
「本物のサイコ野郎は社会的道義や
「……人を壊すことに〝何か〟を感じる時期はとっくに過ぎていました」
「キミの場合は〝殺したいから殺す〟ってんじゃなくて、〝殺す理由があるから殺す〟んだろ?
キミは理屈で人を殺すタイプだ――キリサメに突き付けられた
〝地球の裏側〟で起きた犯罪は日本の法律では裁けず、診察室も治外法権。〝何〟を聞いても警察に通報する気はないと約束する一方で、犯罪心理学に携わる者としての姿勢はおどけた物言いとは正反対にどこまでも厳かであった。
今し方の言葉とバンダナに散りばめられた笑顔は余りにも乖離しており、この両方を正面から受け止めるキリサメは、何とも
瑞々しい若葉の
「でもな、
サイコパスの脳に支配されているといった甘えた認識を捨て去るように促し、それでも席を立たないキリサメの瞳に揺るぎない決意を認めた
「……〝ストレス反応〟というと、傍迷惑な〝名付け親〟がテレビなどで得意げに話している火事場のなんとか――でしょうか?」
「
「確かにアレは僕自身には全く制御不能ですし、身も心も支配された後は張り裂けそうなくらい心臓の鼓動もおかしくなりますが、原因はストレス……? まさか、こんな簡単に解き明かせるわけが……」
「永遠に餓え続ける野獣みたいな攻撃性に脳が取り
キリサメがこの病院へ足を運ぶことになった発端――
名付け親である
昂奮や私憤といった感情が入り混じることで実態から掛け離れた形に想像が膨らみ、これに基づく誤解が拡散される
歪んだ
「人によって程度の差こそあれども、『闘争・逃走反応』は生きとし生ける全ての
生き物は命を失う危険といった極限状態に直面した瞬間、これを脱するべく尋常ならざる〝力〟を発揮することがある。医学的には『逃走・闘争反応』に分類されており、本能の領域にて心身に危機回避行動を促す『防衛機制』の一種とも捉えられていた。
アメリカの生物学者であるウォルター・ブラッドフォード・キャノンが一世紀近く前に
「神の力を借りて武器やら鎧やらを創り出して戦うアニメがあるだろ? キミの〝
「まさか、こちらでもその
「神サマを自分の
友人の
医学的・科学的な考察が差し挟まれる余地もなかった
改めて
キリサメの場合は意識して
そして、それ故に過去の症例とは比べ物にならないほどの消耗を発動の代償として差し出さなければならないのであろうとも彼は言い添えた。
原理の究明によって尋常ならざる〝力〟から神秘性が引き剥がされた現代に
対するキリサメは『スーパイ・サーキット』を〝武器〟として扱われたことに何よりも驚いている。MMAのリングに適応しようとする努力を水泡に帰し、ありとあらゆる〝感覚〟を
そもそもキリサメにとっては己を圧倒的な破壊に衝き動かす
「事前に渡されたチェックリストにも書きましたが、僕以外の時間の流れが
発動の抑止に向けた原因究明という方針を明確に示した恰好だが、それは『スーパイ・サーキット』をキリサメに与えられた〝武器〟と言い表した
あるいは
首から胸元に至るまで巨大なノコギリでもって肉も骨も抉り取られ、血の海に身を横たえた一人の女性が「生きろ」という一言で追憶の彼方よりキリサメの心を貫くのだ。
「――例えどんなことがあっても、……どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ! キリサメ! 生きろッ!」
助かる見込みがないと一目で
次いでキリサメの意識を塗り潰したのは、暴力性の
二つの記憶が
血の泡を吐きながら
〝偽り〟の
余りにもおぞましい為、口に出すことはないが、亡き母の恋人とも言い換えられる。
聖職者を装って
尤も、恋慕の情は亡き母の一方通行に過ぎず、おそらく
「身内の死に際を看取ったのは母だけなので、他の人はどうだか分かりませんが、少なくとも僕は『生きろ』と繰り返した最後の吼え声が耳に――脳にこびり付いて消えません」
正面の精神科医は『スーパイ・サーキット』という
「……『生きろ』――か……」
何とも
「過去に負った〝心の傷〟と同じか、限りなく近い状況に遭遇した瞬間、想い出したくない記憶がフラッシュバックする
一拍置いた
「何が何でも生き延びる為に全神経――いや、全身がフル稼働して潜在能力を引っ張り出すのは、さっき話した『逃走・闘争反応』のパターンだよ。肉親が自然とは言い
「フラッシュバックによる〝
「おいらが知る限り、『逃走・闘争反応』は偶発的な
「死んだ母の授業で教わった『パブロフの犬』を何となく想い出しました。僕の
「
「……『生きろ』という
「そいつは〝誰か〟の言い付けで〝生かされる〟んじゃなく、キミ自身の意思で〝生きたい〟――そういう
笑顔のバンダナが場違いとも感じられる真剣な声で
「生きろ」と命じる吼え声を
〝富める者の道楽〟という皮肉が
キリサメが望んだのは、亡き母の存在を否定するようなものである。
肉親の情を思えば、あの声を
キリサメの瞳に宿る光を見極めた
「僕には真似できませんが、親から託されたモノを背負う生き様は気高いと思います。親しくさせて頂いている人も、自分が受け継いだ武術の歴史に人生を捧げていますし――」
肉親の命を目の前で絶たれる体験が強い念と化して遺された子の心に食い込むという一種の症例を咀嚼する
発祥した時代や国こそ違えども、共に
それ故に『
もはや、
流派の歴史に己の人生を捧げる継承者という今し方の一言から
机上に飾ってあるヨーヨーの一つを手に取った
親友の電知よりも小さなその背中には、
バンダナは後頭部に結び目がある為、その模様は正面からでなくとも見て取ることが出来る。普段は
「便宜上、僕も『スーパイ・サーキット』と呼ばざるを得ない
「チェックリストに書いてあった〝
キリサメ自ら別の
それはMMAのリングに立ったキリサメを〝地球の裏側〟の闘牛場へと連れ去り、偽りの
キリサメも記憶に残っている限りの特徴をチェックリストに列記したのだが、まさしく世界の
愛しい雛を抱き留める親鳥のように大きく広げた
老婆を彷彿とさせる白髪を貫く頭部の角は欠けた月の如く湾曲し、逆巻く炎の如く捩じれていた。亀裂の走った仮面のようにも思える顔は様々な
虫の
胴体を覆い隠す漆黒の布は人間界の喪服のようにも見え、焼け焦げたような穴が無数に穿たれていた。
蔦の
「常に命を脅かされていた
今まで発動の瞬間には『
既に故人となっている実父も、人質として日本大使公邸に囚われた際に鼓膜が震えるほどの間近で聞いたのであろうカラシニコフ銃の発砲音とも言い換えられる。
しかし、それは新たに生じた変化の一つに過ぎなかった。異形の
「――おかえり」
幼馴染みと同じ声帯でそのように囁く
泥濘に打ち付ける烈しい雨音は、地上を舐め尽くす『カラシニコフ銃』の咆哮――母の
故郷と同じ破壊を肯定されたキリサメは選手の命を守るルールすら踏み
これを根拠として、キリサメは窓辺の精神科医から指摘されたストレス反応が深刻な段階まで悪化したものと考えた次第である。思考も意識も飛び越え、
岩手興行を終えた時点では二段階に留まっているが、九月に熊本城で予定されている試合――『
そのときに発生するであろう異常事態は、命を壊すという〝自由〟を
「俗に〝火事場のクソ力〟と呼ばれる身体強化はホルモンが大きく関わっているんだが、元々のストレス反応が比較的落ち着いている状態に新たな刺激が上乗せされると、その分泌が爆発的に増幅されるってェ研究データもある。キミが第二段階と心配している『スーパイ・サーキット』の変化は、それに近い原理だと
「試合会場から病院まで救急車で直行でしたが、その間も
「さっき話した犯行の傾向みてェにストレス反応も幾つかの段階に分かれるんだ。死の危機に瀕して〝
口にしたことのないキリサメには説明の半分も伝わらなかったが、カフェインが多く含まれた栄養ドリンクを
「
「でも、僕はMMAのリングに――闘いの場に身を置く人間です。
「そのことを自覚できているキミはまだ間に合うよ。ストレスマネジメントとかの対処を一緒に考えていける。……おいらの
今度こそ妄想の一言で切り捨てられるかも知れないと、自嘲と諦念を綯い交ぜにしながら
「何より記憶障害が出ていなくて良かったぜ。トラウマ症状やストレスは脳の負担もすこぶるデカいから、解離性健忘の併発も少なくないんだよ。いわゆる記憶喪失ってヤツ」
「……いや、まさか――試合中にMMAのルールが
「反則負けをやらかした原因の一つは、格闘技自体に対する不勉強っていうアマカザリ君のコメントをネットニュースで読んだ
「……何もかもサイコパスの脳という一言にこじ付けて逃げるなという先程の
「治療を要することに悩んでると、普段なら気にも留めねぇ小さい変化を深刻な症状みたいに怪しんじまうのも人間の心理だけどよ、いちいち不安の種に結び付けて焦燥感に苦しむ必要なんかないぜ。危ない兆候を感じたら、おいらのほうからちゃんと言うし」
右手でヨーヨーを操りながら振り返り、その一言を強く言い切った
もはや、亡き母の命令には縛られないという決意を固め、また未稲と誓い合った約束も果たせないまま
〝心の専門医〟の
尤も、
「恐怖に一分長く耐えることを勇気という。……でも、それが行き過ぎると
「最初のほうはジョージ・パットン将軍の名言だと記憶していますが、それ以降は
「付け足したのは古馴染み――いや、親友のコトだよ。今と似たような話になったとき、あいつ、パットンの戦車戦を熱弁してよォ……。専門は日本の中世なんだけど、古今東西の戦史も併せて研究してたんだ。いわゆる歴史学者ってヤツな」
「アマカザリ君は度が過ぎた勇気の
古馴染みの親友という人物の横顔を
再び正面から見据えた
「
「今の語感から察するに、『ゲットアウェイ』と『ディスインテグレーション』という具合にそれぞれ言い換えられるように思えますが……」
「しかも、
「ストレスの発生源からの緊急退避というコト……でしょうか? 一撃を見舞って敵の追跡を断ち切るといったような原理なら、これまで体験してきた
「身体強化が一瞬で収まるのも、
忍術の一つを口頭にて説明しつつ、
これを見てキリサメが想い出したのは、親友の忘れ形見を日本に引き取るべく八雲岳が初めてペルーを訪れた日のことである。金銭目的で襲い掛かってきた日系人ギャング団を
手品の一種と思っていたのだが、あれこそが〝
八雲岳が若かりし日に極め、『超次元プロレス』を礎として支えている『
奇しくも『スーパイ・サーキット』と養父の忍術が一本の線で繋がり、キリサメは何とも
「あらゆる手段を用いる『ゲットアウェイ』に対して、プロデビュー戦で新たに出てきたのが『ディスインテグレーション』――崩壊を意味する言葉の通りに、コイツは
「敵の目を惑わすか、骨まで残さず焼き尽くすか。岳氏が〝
同じ『スーパイ・サーキット』によって衝き動かされた攻撃であっても、
キリサメ当人も彼の言わんとする意味をすぐさまに呑み込んでいる。己の双眸から絶えず流れ続けた
それはもはや、殺意の二字で括り切れる状態ではなかった。コークスクリューフックを放った拳に今も生々しく残り続ける〝事実〟として、永遠に消せない罪の
〝心の専門医〟の言葉を借りるならば、ストレスの発生源であろう。
己の生存を脅かす存在を完全に消し去ることでしか鎮静化しない心の働きが『ディスインテグレーション』あるいは
「
「極度のストレスに晒された人間がギャンブルに依存しちまう傾向は、説明する手間が省けるみてェだな。キミの
血路を開く
狂乱の追撃を察知し、我が身を盾に換えて
『
「……まさに『
〝生きていてはいけない存在〟に対する徹底的な殺戮は、標的を問わず
快楽目的ではなく〝理由〟があるから
決して突然変異などではない。
「……アマカザリ君は許容範囲を超える恐怖を正常に認識して、逃げを打てる。きっとキミ自身は死を恐れない勇気の持ち主だろうけど、より動物的な本能の部分では命が絶たれそうになった
〝生きろ〟という亡き母の命令を守る為ではなく、己の意思で〝生きたい〟と願う
『
「さっきも話したおいらの親友はキミの正反対だったよ。防衛本能ってのは、言い換えれば死の危険を察知するセンサーだ。アイツはそれを
一つの症例と前置きを挟んだ
「疑惑を持たれた僕が言うのもおかしいのですが、自分で自分を
「仕留めるべき標的の認識、そいつの行動パターンを経験や知識も総動員して分析、相手を完封し切る攻防の実行――それら全部を一瞬の内に合致させるのがアイツの継いだ流派の神髄だったんだよ。本来は別々に、
「的外れな想像であったら申し訳ありませんが、獲物に狙いを定めた肉食獣のように精神を研ぎ澄ませて、脳の処理すら加速させるということでしょうか?」
「普通は相手の得意技を探る小手調べとか、技の駆け引きを通じて戦い方自体を組み立てていくモンだろ? それをアイツは――あの流派は一瞬で短縮しちまうのさ。
「拳を突き込んだ後の追撃ではなく、途中で切り替えるということですよね?
「そういうデタラメな
親友が極めた古武術流派と『スーパイ・サーキット』には通じる部分があるのではないかという
「おいらの親友は正統後継者の一族でさぁ、
肉体は至って健康――その先を
「手負いの獣が傷を癒しもせずにひたすら血を求めて牙を剥き続ける――闘争本能に
「何の目標も持てず、一週間先にまだ生きているのかも読めず、その日を食い繋ぐ為に他者の命を壊す――心が何一つ感じられなくとも理屈で無意味と割り切ってしまえる日々が淡々と繰り返される……のではないでしょうか?」
「
地上の誰よりも武神に愛された〝戦いの申し子〟――字面のみを抜き出せば親友の武勇を誇っているようにも思えるが、
キリサメが喉を鳴らすようにして大粒の唾を呑み込んだのは、
その称号を追い掛ける電知とは違い、数多の格闘家たちの頂点に立つという
〝症例〟という前置きの通り、そこに
「銭坪が吹聴して回っているけど、確か『スーパイ』ってのは死を司る神だったよな、インカ神話の。……
「……
疲れたように椅子に座り直したキリサメは
「……
「白昼夢みたいな
「確かに
「打撃による脳の
「メキシコ奥地の
日本への移住後に起こったことであるが、昨年の
瀬古谷寅之助と斬り結んだ〝
バレッタで結い上げた黒い髪も、薄手のチュニックからタイトスカートに至るまで黒一色という葬式帰りの喪服のような出で立ちも、何もかもが銃撃で
左目全体をガーゼで覆うなど自動車に撥ねられた直後のように痛ましく、折れた右腕はハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだスカーフで吊っていた――永遠の別れになるとは知らずに背中を向けた日と〝全て〟が同じである。
心霊体験としか表しようのない現象も事前提出のチェックリストで打ち明けたのだが、幼馴染みの亡霊に祟り殺されるのではないかという悩みを〝心の専門医〟から錯覚の如く否定されたキリサメは、大口を開け広げたまま硬直してしまった。
〝貧しき者〟の
その上、キリサメを〝地球の裏側〟の闘牛場まで一瞬にして連れ去った異形の
インカ帝国がスペインという
そもそも
「例の親友もさ、何度となく枕元に立ってくれたよ。医者として食っていけてんのか心配だって言ってな。目が醒めた直後は嬉しいんだ。遊びに来てくれたってさ。でも、次の瞬間には医者としてのアタマが『お前の願望を脳が拾っただけに過ぎない』ってブン殴ってくるんだ。お人好しな
それどころか、
彼女から教わっていた断片的な情報と、キリサメに対する
古馴染みの親友について振り返り始めたとき、
「深層心理……というものでしょうか? でも、僕が
自分と全く同じ目を持つとされる
「その受け答えが来たっつうコトは、
相槌を打つことさえ
正確にはキリサメの
この説明によってイマジナリーフレンドに対する理解が捗ったキリサメではあるが、今度は別の疑問が浮かび上がり、同時に戦慄にも近いモノが背筋を駆け抜けた。
「仮に僕の
得体の知れない
数え切れない弾痕が刻まれた闘牛場で血の海に沈んだ幼馴染みも、まさしくその場に降臨した異形の
イマジナリーフレンドには分類されない
キリサメ自身、〝暴力〟が生きる糧を得る手段とは認められない法治国家への違和感が拭い切れたわけではなかった。それでも〝真実を超えた偽り〟を掴もうと、血と罪に
それにも関わらず、結局は
「
無意識の内に我が身を抱いてしまうほどの不安に苛まれたキリサメであるが、
「環境の変化は本人が考えている以上に脳のほうで割り切れなくってな。気付かない内に深刻なストレスとして溜まっちまうんだよ。〝地球の裏側〟から移住したアマカザリ君の場合は生活環境どころか、身を投じる〝戦い〟の性質まで変わったろ? 何重もの心理的負担が神経を直撃することは、ここまでの話で
「心の乱れが僕に現実離れした
「死に慣れ切ったキミにそこまでの恐怖を抱かせるイマジナリーフレンドってワケだな。ついつい悪く考えそうになっちまうが、〝本当の心〟を自問する機会が与えられたとも言えるだろ?
自己矛盾によって精神崩壊の危機を迎えたとき、人間の脳は因果関係や
キリサメの
だからこそ、最も強烈な
「日本には『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という
「
〝人間らしさ〟と呼ぶべき感情を与えてくれた未稲が所属するゲーミングサークルの仲間に拉致・監禁されたと信じ込まされたキリサメは、その首謀者である瀬古谷寅之助に本気で『
それはつまり、法治国家日本で人を殺すことに踏み込もうとしたという意味であった。
電知と繰り広げた
果たして、それが異形の
「――サミーの絵心なら最低限、その日を食い繋ぐことくらいできるでしょ。自分一人を食べさせれば良いんだし」
「サミーのヘタクソな絵なんて売り物にならないよ。……これからどうするの?」
未だに幽霊こそが正体ではないかと疑う気持ちも捨て切れないのだが、イマジナリーフレンドという〝心の専門医〟の見立てを呑み込む手掛かりもないわけではなかった。
ルールによって選手の命を守るMMAを〝富める者の道楽〟などと貶めてきた
甘やかな声で逃避の肯定を繰り返す
二つの声を比べてみれば、耳に心地好い言葉を連ねるほうが幼馴染みの亡霊ではないことは瞭然であろう。そこに思い至ったキリサメはヨーヨーの扱いを誤り、右の手のひらで受け止め損なった円盤が眉間にぶつかってしまった。
幼馴染みの
「……幽霊や神霊の類いでないのなら、アレはこの先も僕に付き纏うのでしょうか?
「イマジナリーフレンドが〝何〟を訴えているのか、落ち着いて耳を傾けるところから始めるとしよう。すんなり飲み込むのは難しいけど、深層心理はキミの一部。無闇に否定すれば心の具合が余計に悪くなっちまうよ。勿論、今日明日での解決を約束するほどおいらも無責任じゃねぇ。でも、『スーパイ・サーキット』をこの間みたいに暴走させないよう
「心の
「心の
『スーパイ・サーキット』の発動に附随するものと
心霊体験を披露したくて彼の病院まで足を運んだのではない。これから先も〝プロ〟のMMA選手として『
差し向かいの椅子に座り直した
深層心理が形を成した
「キミはおいらの親友みたいなコトにはならないよ。アイツとは
「そう……なのでしょうか?」
「正直、目付き自体はそっくりさんかってくらいビックリしたけど、
〝心の傷〟は極めて繊細であり、治療過程に
キリサメの側も口に出して
「……あれ? ちょっと待てよ。地球上で誰よりも強かったヤツのようにはなれねぇって言い切っちまうのは、格闘家のアマカザリ君にはとんでもねぇ失礼だったな⁉」
「他意がないことは勿論、承知していますよ」
そもそも昔日の友を懐かしむ
一九八九年――即ち、四半世紀も昔のことであるが、『
治療に当たった担当医も落命しなかったことが奇跡と戦慄したそうだが、全身を血の色に染めた鬼貫は自慢の顎が真っ二つに割れ、頭蓋骨にも数ヶ所の亀裂が確認されていた。
回復まで特に時間を必要としたのは左膝であり、江戸時代から続く骨接ぎの名門――
空前絶後としか表しようのない一戦は、日本格闘技界に公式の記録としては残されていなかった。そして、それは
『
日本MMAの仇敵とも
つまるところ、
差し向かいの男もまた『
側近として〝哀川局長〟を支えたものと
常軌を逸した殺人者の心理に詳しいのも当然であろう。色こそ異なるものの、白衣の下に着ている横縞柄の上下が古い様式の囚人服に思えてきたキリサメは、「ミイラ取りがミイラになったのではなく、ミイラがミイラ取りしている」と心の中で呻いてしまった。
そのキリサメも数ヶ月前まで『
一つの事実として、キリサメと
〝命の遣り取り〟によって
今日まで人智を超えた
ルールによって安全性が約束される〝
暴力が支配する格差社会の最下層から〝
今までの態度から察するに、キリサメが『
「
キリサメが口にした〝無茶〟とは、
暗に
「――無闇に自分を苛め抜かなくても効率的な練習メニューを組みさえすれば、
「おいらたちがガキの頃は
「友人の空手家は
「人間が壊れるってのはどういうコトなのか、おいらの親友の話で初めて理解できたってワケね。それでこそアイツのデタラメっぷりを聞いてもらった甲斐があるよ。おいらたちの
「先ほど少しだけお話しをさせていただいた古武術宗家の友人も古式ゆかしい武術家ですので、
「何世代にも亘って守られてきた伝統は大事にしなくちゃだけど、アマカザリ君の考え方がこの先の時代では正解だよ。……アイツもな、もうちょっとだけ生き方が器用だったら逃げるって選択肢が人生に出てきたんじゃねぇかって思うよ」
「……人間、誰もが〝超人〟になれるわけじゃない。〝超人〟を求めてくるような奴は追い払って欲しかった。……でも、
裏社会が主戦場という類似点があるとはいえ、『
それは〝哀川局長〟だけでなく、
『
「だって『世界最強』だぜ? 人間から野性の魂に戻るような修練積んできたヤツは、心まで最強なんだっておいらも他の仲間たちも信じて疑わなかったよ。普通の人間ならアタマがおかしくなるような状況さえ平気な顔で乗り越えたしな。……結局、それはおいらたちの勝手な思い込みに過ぎなかったんだよ」
「一流派を背負った僕の友人と似た者同士なのかも知れません。逃げ方を知らず、……いえ、誰かに逃げ道を用意されても、それを断って恐怖の最前線に一分以上踏み止まる覚悟の持ち主です。
「そのお友達に助けが必要だと思ったら、速攻で連絡してくれよな。罪滅ぼしや埋め合わせなんかじゃねぇけど、もう誰にもアイツと同じ目に遭って欲しくねぇんだ」
自分が話している古武術家の友人とは
そのような〝立場〟から〝甲斐古流〟の筆頭たる『
「
本当は〝心の専門医〟を名乗るのも
そのような神通であるから、
「おいらの親友と似た者同士っつう人をせいぜい大事にしてやんなよ、アマカザリ君。例え喧嘩別れする羽目になっちまっても、向こうが生きてさえいてくれたら、それだけで十分って思える日が必ず来るからさ」
吐き出すようにしてキリサメに諭した
ほんの一瞬だけ肩を震わせた
折に触れて甦る
人間の魂を野性に回帰させるような荒々しい修練を物心が付く前から積んできたのであれば、純粋な格闘技ではなく
〝
彼女が
そもそも〝人間らしさ〟を
そのことに助言を仰ぎたかったものの、「これじゃ精神科医失格だ」と自嘲を吐き捨てるくらい心が揺れている
「岳氏や麦泉氏も、それくらいの覚悟でPTSDのことを話してくださったのだと、今なら思えます。……正直な気持ちを打ち明けると、最初はロシアの〝先輩〟を恨みました」
哀川家の事情に対する差し出口は控えるべき――今一度、己に言い聞かせて
「勿論、僕のことを純粋に心配してくださっているのは分かっています。……分かっていても、怖くて仕方がありませんでした。だって『お前は異常者だ』と宣告されたようなものですから。自分が
例えば岳などは
差し向かいの相手にも言明した通り、それが
標的の血を吸い尽くす『
だが、〝内〟なる自問と〝外〟からの宣告では、異常性の受け止め方も全く違う。
何事にも無感情なキリサメであるが、己が抱える〝闇〟を概念的な〝何か〟から
「その
初診を迎えるまでの
そして、ここまでが「キミはおいらの親友みたいなコトにはならない」と
「僕はもう
「そうとも。アマカザリ君にはみんなが
〝MMAのゲームチェンジャー〟などと持て
焦げる臭いを感じるくらい思考回路が空回りし始めたら、どれだけ慌てていようとも足を止めて考える。それで大抵のことには突破口が開ける――亡き母から授けられた知恵を自分の置かれた状況に適応させる形で使いこなすという選択肢も、移り住んだ日本での経験や出逢いを経て掴み取った変化であった。
物思いに耽っている間に白刃や銃弾の餌食にされてしまう
どうせ抱いてもらうのなら、みーちゃんのほうが気持ちいい――検査結果が判るまで未稲にもPTSD疑惑を伏せることになり、彼女が出掛けた日を狙って〝
これもまた
「アイツもおいらたちの――ヤンチャ連中のリーダーでなぁ。いっつもどこ見てんのか分かんね~ような遠い目してるクセに、
「人の上に立つ
「仲間の為に
口に出して確かめることはキリサメも踏み止まったが、『
今まで幾つかの手掛かりを拾い上げてきたキリサメも、〝
正確には〝甲斐古流〟そのものが『
遠く過ぎ去った『昭和』は無頼の振る舞いが
それはつまり、
自分をハンニバルの生まれ変わりと信じて疑わず、その伝説を再現するかの如く戦車部隊の指揮・作戦運用で軍神の二字こそ相応しい才能を発揮したパットン将軍であるが、その一方で他者への配慮を欠いた言動も多く、失脚の原因も問題行動の積み重ねと言われている。軍事的な知識が豊かとはいえないキリサメでさえ「戦場でしか役に立たない男」という辛辣な評価を耳にした
「父は
これを初めて聞いたときにキリサメは『
ひょっとすると
その
幼い頃から共に育った親友でさえ、ついに理解し切れなかったという孤高の魂に
「アマカザリ君は
彼は精神科医であって
既にこの世の人でないことを仄めかしながらも、
しかし、キリサメは『ミトセ』と名乗る拳法家と〝
それ故に孤独死を連想させるような
ついに閉ざされたまま終わった
電知には別の〝道〟からその称号に辿り着いて欲しいと願わずにはいられないが、
そこまで己を追い詰めて、ようやく掴んだ『最強』の〝力〟でさえ愛の喪失という〝心の傷〟の前には意味を成さなかったようだ。神通の
キリサメ自身、未稲を
しかし、
「……気負うなよ、アマカザリ君。〝超人〟なんかにならなくたって人間は面白おかしく生きていける。キミなら
「僕の故郷で放送された内容は本国と変わらないはずですが、『バイオグリーン』の最終回を
「小型ミサイルを撃ち込んで大逆転勝利を収めるヤツな。〝昭和シリーズ〟の最終回は主人公が変身しないで、人間の手でラスボスを倒すパターンが珍しくなかったよなぁ」
「怪獣を最後に倒すのは〝超人〟ではなく人間――今日から
愛が『世界最強』を殺すのか――これを
概ねエメラルドグリーンを基調とした
キリサメが口にしたのは、間もなく放送開始から半世紀を迎えるシリーズの記念すべき第一作目――その最終回である。
特撮作品そのものに明るくない人間の耳には意味不明な
あたかもバンダナの模様と本人が互いを呼び合ったかのような
「そして、シリーズ二作目の最終回では長きに渡る戦いでズタボロになった主人公と、人類が力を合わせて最後の敵に挑むんだ。五作目では主人公が
〝昭和シリーズ〟を締め括った九作目の最終回では主人公の正体に気付いた地球防衛組織の隊長がバイオグリーンへの変身を引き留め、
「正直、全く馴染めると思えなかった頃は、帰国したほうが良いと何度も考えました。今ならまだ迷惑を掛けても最小限で済むだろうって。……でも、
キリサメの力強い
「これじゃどっちの診療か分かんね~や。途中からおいらの昔話になっちまったし」
「犯罪に対する自己認識を促進させるのも、
猛烈な勢いで鼻を
対戦の夢を果たせないまま亡くなった
悪しき『昭和』の根絶に人生を捧げんとする沙門の対極に位置するであろう樋口郁郎もまた恩人の死に取り憑かれた一人と言えよう。最晩年に師事した
師匠の〝世界観〟に
何よりも
キリサメと同じように瞼を半ばまで閉ざし、洞穴に
大切な人の喪失が遺された者の心に二度と癒えない傷を刻み、生き方そのものを大きく変えてしまうことは珍しくない。テーブルを挟んで向かい合う
「――私が睨みを利かせているこの事実もまた〝黙示〟だろう? キリサメ・アマカザリという人間は広い世界に独りぼっちなんかではない。……しかし、
その愛染は『
しかし、
「とんだ
「埋め合わせしなくてはならない事態に陥らないように最大限の努力をする――その為に僕は今、
「……あいつも『バイオグリーン』の最終回はアマカザリ君と同じ
ヨーヨーを台座へ戻した
獅子から
そして、〝眠れる獅子〟の左頬には、痛々しいほど血の色が透けて見える一筋の
親友の
誰かを信用した瞬間に身の破滅が始まるような〝世界〟で生きてきた自分でさえ、半年足らずの内に心を開ける人間が両手の指を使っても数え切れないほど出来たというのに、
『ミトセ』の
名前も〝血〟の繋がりもキリサメは聞いていないが、神通には義理の兄がいる。おそらくは哀川家の長男であろう。そして、考古学者としての成果も遺した
親友や
その一方、神通が語ったところによれば、
〝心の専門医〟が挙げたサイコパスの特徴に当て
刹那にしか居場所を持てない人間である。刹那の狭間に生き抜く道を切り開き、〝今〟に居場所を作った『
〝眠れる獅子〟の生き方は〝孤高〟と
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