その4:アビス~「世界最強」と呼ばれた獅子・パットン将軍の「一分間」を超えしケモノ/「目覚めよ」と呼ぶ声の正体・プロファイリング対象:スーパイ・サーキット──ウォルター・B・キャノンはかく語りき

  四、Deadman’s Galaxy Days



 人間という種の限界を超え、神の領域にまで達する異能ちからに『死神の回路スーパイ・サーキット』という名称を付けた上、総合格闘技MMAの概念すら一変させる〝ゲームチェンジャー〟の如く触れ回っているのは、日本でスポーツ関係のルポライター業を営むぜにつぼまんきちである。

 天下無双の強さを誇り、〝平成の大横綱〟と讃えられた『鬼馬鋼バトーギーン・チョルモン』が不当としか表しようのない罵声の中で角界から追放される原因を作った人物とも言い換えられるだろう。

 角界との癒着といったキナ臭い風聞うわさも根深く、格闘技・スポーツ関係者には唾棄すべき存在とされているのだが、突如として『天叢雲アメノムラクモ』に降り立って壮絶な初陣プロデビューを果たした新人選手ルーキーの衝撃は凄まじく、銭坪が火を付けた『スーパイ・サーキット』の喧伝は、今や日本国外のスポーツメディアでも取り上げられている。

 日本スポーツ界の御意見番のような顔で新聞やワイドショーに出没し、〝キレ芸〟などとも揶揄される粗暴な言い回しで持論を展開させるのが銭坪のだが、世の中の全てに否定的な見解をぶつける男にしては珍しく、キリサメのことだけは褒めちぎっていた。

 定期的に出演している深夜のラジオ番組では、司会進行パーソナリティを無視してまで「キリサメ・アマカザリの登場が『天叢雲アメノムラクモ』という興行イベントの膠着を撃ち破った」と語り続けたほどである。

 しかも、キリサメを称賛する際にはプロデビュー戦の相手であるじょうわたマッチを必ず比較対象として持ち出し、「自分のへ耳を貸さず現役にしがみつくから見るに堪えない負け戦を繰り返す」などと口汚く貶めるのだ。

 じょうわたマッチの〝進化〟を認めたおにつらみちあきとは正反対の見解といえよう。

 こんにち総合格闘技MMAにまで繋がる異種格闘技戦に留まらず、プロレスを通じた民間単位の〝スポーツ外交〟など数々の偉業を成し遂げたことから『昭和の伝説』と謳われる鬼貫のことまで「平成も二〇年以上経っているのに、未だに昭和から頭が抜け出せていない。格闘技の理論でさえ錆び付いていて全く現代にそぐわない」と軽んじる始末であった。

 〝スポーツ界の現状を嘆く正義の男〟の如く振る舞う銭坪満吉だが、彼自身は五輪メダリストでもプロ野球の名監督でもない。格闘技興行イベントの実況や解説を務めた経験すらない。

 風刺と呼ぶには余りにも拙劣で、選手の一側面だけをいびつに誇張したルポルタージュがテレビのワイドショーで持てはやされ、いつの間にか〝辛口評論家〟として定着した男だ。

 日本MMAの黄金時代を支えた古豪ベテラン――じょうわたマッチに対する無礼極まりない態度からも察せられる通り、悪感情を抱く人間を徹底的に扱き下ろしているのである。

 銭坪にとって〝公平性〟という言葉ほど遠いものはなく、それ故に格闘技とスポーツを愛する全ての人々に「がない」と白けた眼で睨まれているのだった。

 メディアへの露出が多いことから世論に対する影響力が強いのもたちが悪い。歯に衣着せぬ物言いを面白がる人間は多いが、そういった大衆を味方に付けて敵視する相手を破滅させてきたのだ。日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟――ぐちいくの情報工作を罵りながら、他の誰でもない銭坪自身が批判の資格を疑われるような偏向報道を繰り返していた。

 泥酔状態でワイドショーに出演して暴言を吐こうとも「これが銭坪満吉のだから」という一言で済まされてしまう点にこそ歪んだ影響力が窺えるだろう。

 キリサメ・アマカザリというMMA選手の〝全て〟を理解していると言わんばかりの顔で『スーパイ・サーキット』を語ってはいるものの、銭坪が『八雲道場』を訪れたことは一度もなく、取材もせず好き勝手に放言しているに過ぎないのである。

 このような男が味方に付いたという事実は、キリサメ本人にとって印象悪化イメージダウンの引き金ともなり兼ねなかった。銭坪満吉は小銭を稼ぐのに使えるとして〝客寄せパンダ〟である新人選手ルーキーに寄生しただけ――そのような批判がSNSソーシャルネットワークサービスでも乱れ飛んでいる。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行が終了して間もないスポーツ番組でも銭坪は救いようのない浅慮を披露していた。

 その日はゲストコメンテーターとして『MMA日本協会』で理事を務めるたてやま弁護士も招かれていた。法律の専門家としての知識と経験を活かし、日本国内にけるMMA興行イベントの安全かつ適切な運営を監視する役割を担う人物だ。

 日本MMAで適用されるルールの守護者とも呼ぶべき存在なのだが、その館山弁護士が示した見解にさえ銭坪は「部外者が口を挟むとロクなことにならないのは歴史が証明している」と噛み付いたのだ。

 中立の立場から国内の競技団体を監督する『MMA日本協会』としては、失格に至るまでのキリサメ・アマカザリの行動は看過しがたいほど問題点が多い。

 『スーパイ・サーキット』によって引き起こされたリングの崩壊はあくまでも不測の事故であり、設営時の不備として主催企業サムライ・アスレチックスに厳重注意を行うことが決定されたものの、〝リング禍〟を招き兼ねない危険行為の数々は選手キリサメ個人への是正勧告に相当すると、館山弁護士はスポーツ番組にて主張していた。

 現時点では断定し得るだけの材料に乏しいものの、VTRを検証した結果、試合終盤には右目へ蹴りを加えようとしていた可能性があることも確認されたという。両耳や喉に対する直接攻撃については、医師の診断書が証拠して提示されていた。

 じょうわたマッチの鼓膜はで破れたのではない。意図的に破壊されたからこそ『MMA日本協会』は深刻に問題視しているのだ。キリサメのふるう喧嘩殺法そのものが選手の安全性を最大限確保するという現行の『天叢雲アメノムラクモ』のルールに反していると言えよう。

 あまつさえ意識不明状態のじょうわたマッチに追撃を仕掛けようとした事実は、誰にも擁護できなかった。し折った肋骨を更に踏み付けようとした為、レフェリーから反則負けを言い渡されたのである。

 引退後の生活セカンドライフにまで影響を及ぼす後遺症や、それを上回る深刻な事故を選手ので片付けてしまう不当な契約の監視にも力を注いでいる『MMA日本協会』としては、何一つとして看過できないのだ。

 任意団体である『MMA日本協会』とは異なり、州の行政機関として強い権限を有するアメリカ合衆国の体育委員会アスレチックコミッションであったなら、是正勧告に留まらず罰金や出場停止サスペンドといった懲罰を科したことであろうとも館山弁護士は言い添えている。

 格差社会の最下層を生き抜く為だけに編み出された喧嘩殺法の問題点を国際社会の事例と共に指摘していく館山弁護士に対し、銭坪は小馬鹿にしたような態度で鼻を鳴らした。


「人体破壊も格闘技の立派なテクニックじゃないですか。極技サブミッションだって本来は相手の関節をダメにする為のモノでしょう? 危険なのは当然なんです! それを館山先生はなんですか、臭い物に蓋をするのと同じ理論で否定するおつもりなんですか⁉ 格闘家という生き方をナメてンじゃないか、あんた⁉ 命懸けだから我々も感動するんじゃないか!」

「選手個々の気構えと、ルールを策定し、正しい運用を見極める『MMA日本協会』の立場では捉え方が根本的に異なります。大会運営に関わる皆が同じ考え方であったら、興行イベントそのものが正常に成立しなくなるという理論はお分かり頂けますか? 第三者的な視点を設けないと、たちまち危険行為が蔓延まんえんします」

主催企業サムライ・アスレチックスの役員でもないクセして選手のことに言い掛かりを付けるなって言ってるんですよ! あんたね、私の話を理解できてないでしょ⁉ それにね、じょうわたが轢かれたカエルみたいにザマときには、アマカザリ選手はもう『スーパイ・サーキット』を発動させていたんですよ⁉ 人間じゃなく死神スーパイと化していたんだ! あんたのような素人には分からんだろう⁉ 極限状態の真剣勝負に誰かが水を差して良いワケがないんだ!」

「心理状態に左右されて見境がなくなるようではMMA選手としての適性を疑わざるを得ません。アマカザリ選手の出場資格をどうするべきか、当協会では慎重に議論を重ねて参ります。レフェリーによる反則判定に関わらず、いかなる危険行為も我々は認めません。これを擁護しようとする向きにも賛同し兼ねます」


 抽象論を振りかざしてキリサメの闘い方が正当であると言い張る銭坪に対し、館山弁護士は『スーパイ・サーキット』を問題視する根拠や、『MMA日本協会』としての見解を理論立てて並べていく。これが討論会であったなら、勝敗は明らかであろう。


「アマカザリ選手が失格となった試合でじょうわた選手の生命が著しく脅かされたとき、危険行為を『若さゆえの過ち』などという不適切な発言で庇った実況担当者には口頭で注意を済ませております。〝若さ〟とは経験不足とも言い換えられますが、それは今回の事態を容認する理由にはなりませんし、暴力とMMAを同一視していると受け取られ兼ねない発言は断じて許されません」

「法律書の朗読みたいな言い方をしやがって! あんたにMMAの何が分かるんだッ⁉」

「ご子息とは違い、銭坪さんご自身は格闘技経験をお持ちでないと伺っておりますが、それで今の発言は如何なものでしょうか。私にも経験はありませんが、適切なアドバイザーに頼りますし、おか会長やよし副会長など『MMA日本協会』は格闘技関係者が名を連ねています。私が述べたことは関係各位の確認を既に受けたものとご理解ください」


 館山弁護士が「ご子息」という一言を述べた瞬間、更なる言及を食い止めるべく銭坪は握り拳で机を叩いたが、怒りに任せた威嚇行為は半分ほど水が残っていたグラスを倒しただけで、肝心の相手には全く効果がなかった。


「失礼を承知で申し上げますが、銭坪さんの場合はただ私見――というより私情を並べ立てているだけではありませんか? 自分以外の意見を排除することに気を取られて、理論の根拠になる要点が疎かになっているようにお見受けしましたが?」

「その決め付けこそ不適切じゃないか! 私はアマカザリ選手に直接取材をした上で述べているんです! あんたとは違うんだ、あんたとはッ!」

えて私情を私怨と言い返させて頂きましょう。欧州ヨーロッパの団体に活躍の場を求めたご子息の戦績が芳しくなく、面目を潰されたMMAを逆恨みしているという風聞は未だに根強く残っていますよね? 今までさんざん『天叢雲アメノムラクモ』を貶してきたというのに、それを急に翻した理由を失礼ついでにお伺いしてもよろしいでしょうか?」

「これは名誉棄損だ! 今日の収録テープは裁判の証拠物件だから厳重に保管しろ! 良く聞け、館山! 欧州ヨーロッパから逃げ帰ってきたとオレを一緒にするな! あの面汚しのでオレがどれだけ他人ひと嘲笑わらわれたか――」


 これ以上は不毛な口喧嘩になるだろうと誰もが思った瞬間にが消えた。

 放送事故と判断されて打ち切られたわけではない。数日前の放送を録画したDVDの再生が終了したのである。


「取材してねぇヤツが『取材した』って胸張って言いやがったな。公共の電波であんなウソぶちかましたら、フツーに詐欺なんじゃねェ? どの口で名誉棄損とかほざくんだよ。それともおれが知らねぇだけで『八雲道場』に押し掛けてきやがったのか、銭坪満吉あのバカ?」

「ボクがいていない時間帯は分からないけど、がサメちゃんににじり寄ってきたら、片手突きでお帰りいただくよ。じょうわたの舎弟連中を撫で斬りにするのはご法度でも、を病院送りにするのは誰も止めないでしょ」

「相も変らぬ面の皮の厚さはアメリカにも聞こえていたが、代わり映えのなさにも程があるぞ! あの男がMMAと口にするだけで虫唾が走るッ!」


 ちゅうちょなく平然と嘘をく銭坪に呆れ返ったでんと、その親友から目配せで答え合わせを求められたキリサメ本人に成り代わり、肩を竦めつつ頷き返したとらすけを交互に見つめ、憤然と鼻を鳴らしたのは、彼らの前に飄然と現れたしんとうである。

 くだんのDVDを持ち込んだ張本人とも言い換えられるだろう。

 北米アメリカで最大の規模を誇るMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』に所属する日本人選手の〝筆頭〟とも呼ぶべき存在が何の脈絡もなくいなむらさきに登場したのは、およそ一時間前のことだ。

 驚愕に打ちのめされ、唖然呆然と立ち尽くすばかりのキリサメたちにひめ宅までの道案内を頼んだ藤太は、事前連絡もない再会に目を丸くする師匠――八雲岳を有無を言わさずリビングルームに引っ張り込むと、家主から許可を得ることも忘れて備え付けのDVDプレーヤーを操作し始めたのである。

 キリサメは動画サイト『ユアセルフ銀幕』のPPVペイ・パー・ビューで視聴した試合でしか進士藤太という養父の愛弟子を知らないが、弱肉強食を標榜する『NSB』にいても、己がくだした対戦相手に礼節を尽くしていた。

 ノートパソコンの画面越しに見つめたのは『フルメタルサムライ』という異名が素直に納得できる佇まいであり、本来は傍若無人な振る舞いから一番遠いところにいる物静かな人物という印象を持ったのだ。

 銭坪満吉にMMAを侮辱された怒りで冷静さを欠いてしまったからこそ、周囲まわりの都合など一切考えずに「全員、ここに集まれッ!」と、でテレビの前に招集を掛けたのであろう――キリサメは八角形の試合場オクタゴンでの姿とは似ても似つかない豹変をそのように推し量っていた。

 我を忘れていると一目で分かるくらい藤太の双眸は血走っていたのである。


「俺は『天叢雲アメノムラクモ』じゃなくて『こんごうりき』をフィールドにセレクトしましたけど、藤太さんのフィーリングは痛いくらいに理解わかるッスよ? でも、血管がブレイクするのだけは堪忍してくださいッス。に日本のホスピタルでご厄介になるのはハードルが高いでしょ。アメリカを発つ前に保険とかの手続き、やってきたんスか?」

「万が一にも血管が切れそうになったら、裂け目を気合いで閉じてみせるッ!」


 日本MMAのリングに挑んでいた頃であるが、藤太は相当な頻度で『くうかん』本部道場へ出稽古に赴いており、キリサメたち三人と稲村ガ崎で複数同時対戦バトルロイヤル形式の訓練トレーニングを行っていたきょういししゃもんとも旧知の間柄であった。

 沙門は困惑の表情で藤太を見つめ続けている。『NSB』を襲ったテロ事件による精神的な痛手ダメージが深刻ではないかと心配している様子でもあり、その顔を窺うだけでも静かなる『フルメタルサムライ』にしては珍しい姿なのだと、傍らのキリサメにも察せられた。

 彼のことを〝世界で最も完成されたMMA選手〟と称した師匠の岳や、かつての所属先である『新鬼道プロレス』以来の付き合いであろう麦泉は、余りにも前のめりな勢いに気圧されて苦笑しながらも、どこか懐かしそうに目を細めている。

 弟子入りの以前まえ――互いに『新鬼道プロレス』の所属であった頃、進士藤太は先輩レスラーの岳に真剣勝負を直訴したことがあった。活動の場が日米に別れて数年が経ち、顔を合わせるのも久方振りであったが、若き日の反骨精神とマグマよりも熱い闘魂は少しも衰えておらず、それが師匠には眩しかったようだ。

 沙門が〝武道留学〟の拠点に据えたニューヨーク州と、藤太が住居すまいを構えたカリフォルニア州は大陸の東西に分かれる形で四〇〇〇キロ近く離れている為、機会こそ限られたものの、両者はアメリカでも食事を共にしていた。

 アメリカで暮らす上での注意点といった助言アドバイスを藤太に求めるなど沙門も古くからの交流を大切に保っていたが、岳の表情かおに顕れているのは〝友人〟という関係性より更に深く、あるいは身に流れる〝血〟よりも濃い繋がりである。


「実の息子をおおやけの場で負け犬呼ばわりするとは言語道断! ましてや怒りの火種が自分の顔に泥を塗られたこととは、呆れを通り越して義憤しかないッ!」

「……ザッツに関しちゃ俺もはらわたがボイルドッスよ。一緒に汗を流したフレンドをディスまでディスられたんスから……はファザーを名乗る資格もねぇッスよ」


 反応は人それぞれ異なっているが、爆発的としか表しようのない藤太の熱量に呑まれてしまったキリサメたちは、呼び付けられるままにくだんのDVDを姫若子宅のリビングルームで視聴する羽目になったのだ。

 室内にはガラステーブルを挟んで左右に一つずつソファが設えられており、それぞれにキリサメ・電知・寅之助、岳・麦泉・沙門という組み合わせで座ることになった。

 突然に押し掛けてきた藤太はともかくとして、ひめまさただは家主にも関わらず立ったままテレビを睨むことになり、銭坪満吉に対する嫌悪とは別の意味でし口を作っている。


(銭坪満吉への文句は今まで何度も聞いたけど、その息子がMMA選手だなんて誰も話していなかったよな。『天叢雲アメノムラクモ』に敵意をぶつけるのは、やっぱりなのか?)


 「関係者だったら、この傍迷惑な男をどうにかしてくれ」と無言の目配せで訴えてくる〝先輩〟の姫若子へ困ったようにかぶりを振りながら、キリサメはスポーツ番組から拾い上げた一つの情報を反芻していた。

 藤太との受け答えから察するに、MMA選手であるという銭坪満吉の息子と沙門が友人関係ということは間違いないだろう。『くうかん』の同門であるのかも知れない。

 沙門は実父が競技統括プロデューサーを務める打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』でプロデビューを果たしたが、相手の打撃を巧みに受け流して姿勢を傾かせるほか、組技併用で攻防を組み立て、無防備化させた上で必殺の一撃を叩き込むというサバキ系空手はMMAでこそ真価を発揮すると言われているのだ。

 『NSB』を揺るがすテロ事件で凶弾にたおれた沙門の――ベイカー・エルステッドも、世界のMMAの頂点たる試合場オクタゴンで〝サバキ〟の可能性を証明してきたのである。

 一方、銭坪満吉の息子は『NSB』ではなく欧州ヨーロッパのMMA団体を選んだという。以前とは比較にならないほど格闘技の勉強に励んでいるキリサメは、詳細はともかくとして東南アジアに〝独自勢力〟を築きつつあるシンガポールの新興団体は把握していた。

 日本の『こんごうりき』と同じ打撃系立ち技格闘技団体だが、『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』の傘下――イギリス・ロンドンに本拠地を置く『ランズエンド・サーガ』が欧州ヨーロッパ最大の規模ということも承知している。

 しかしながら、欧州ヨーロッパを拠点とするMMA団体がどうしても思い当たらなかった。少なくともキリサメが目を通した参考資料の中には日本の『天叢雲アメノムラクモ』やアメリカの『NSB』に比肩する規模の団体は記されていなかったはずである。

 銭坪の家名ファミリーネームを称する日本人選手を目にしたおぼえもない。日本MMAから参戦を拒絶された為に欧州ヨーロッパを拠点にせざるを得なかったと仮定すれば、銭坪満吉が『天叢雲アメノムラクモ』やその関係者たちを貶める動機へ直線的に辿り着く。

 しかし、そうすると今度は積年の恨みを翻して『スーパイ・サーキット』を褒めそやし始めた意図が掴めなくなる――銭坪おやの謎に我知らず首を傾げたキリサメであるが、巡らせていた想像は進士藤太フルメタルサムライの大音声によって断ち切られてしまった。


「銭坪満吉が恥の上塗りを晒した今だからこそ! 師匠へ問わずにはいられん! 一体、どういうつもりでこの子を――キリサメを預かっているのですか⁉ 何を考えてこのような真似を……無責任にも程があるッ!」


 剥き出しの額に青筋を立てながら師匠の岳に向き直った藤太は、再会の挨拶も満足に挟まないまま怒号を張り上げたのである。

 自分の処遇ことが持ち出されるとは夢想だにしていなかったキリサメは、今日まで言葉を交わしたこともない相手から下の名前ファーストネームで呼び捨てにされた憤りさえ突き抜け、ただただ唖然呆然と口を開け広げるばかりであった。

 サムライと呼ばれるのも頷ける冷静沈着な人物と思っていたのだが、実際に相対してみると、岳をも上回る大声によって今までの印象が跡形もなく吹き飛ばされてしまった。


「感動の師弟再会だっつーのに、ジ~ンと来る言葉の一つもね~のかよ、藤太。お前から師匠って呼んでもらうのだって八年ぶりくらいなんだぜ?」

「今は一分一秒を争うときですッ! そんなことすら認識おられんとは……こんな人を師匠と呼ばねばならんことが俺はモーレツに恥ずかしいッ!」

「相変わらず声でけぇな! まァ、何も昔と全く同じで安心したけどよォ~」

「師匠こそ何年経っても変化がなくて情けないやら哀しいやらッ!」

「だから、声でけェってのッ!」


 他の人間と比べて身のこなしや感情表現が大仰な岳でさえ飲み込まれてしまうほど進士藤太の存在感は圧倒的である。どうやら現在の主戦場であるアメリカの文化カルチャーに染まったわけではなく、元から桁外れの声量であったようだ。

 袂を分かった日と変わらない弟子を愛おしそうに見つめる岳は両手で頭を掻き、止まる気配のない文句を受け止めつつ真隣となりの麦泉に「お前が呼んだのか」と目配せでたずねた。

 さすがは愛弟子というべきか、師匠の思考かんがえていることを一目で見抜き、「俺のほうから文多先輩に連絡したんです」と麦泉当人に成り代わって返答した。


「師匠を説教できるようにセッティングを頼んだんです! 文多先輩に送ってもらった岩手の興行イベントの動画データを視聴たら、速攻で居ても立っても居られなくなりましてね! 師匠も『天叢雲アメノムラクモ』の為に『スーパイ・サーキット』をにするおつもりかッ⁉」

「ちょちょちょ、ちょっと待てよ! そんな一気にまくし立てられたら、何を言いてェのかも分からねェって! 今、お前、『スーパイ・サーキット』っつったか⁉」

「樋口さんもから何も変わっちゃいないと来たもんだ! それどころか、悪い方向に転がったか⁉ おまけにマスコミの無責任っぷりたるや! しかし、えて一番悪いのは師匠と断言させてもらう! 『スーパイ・サーキット』がハイエナ連中からメシの種にされるのを止めもせず野放しにし続けるのは、親の責任を放棄したのも同然だッ!」

「次から次へと新たな登場人物を増やすなっつーのッ!」


 頭突きを繰り出す予備動作と見間違うほど前のめりとなった愛弟子の勢いに気圧され、大きく仰け反った岳は、顔を引き攣らせつつ救援たすけを求めるような眼差しを麦泉に送った。


「最初は『八雲道場』で――と考えたのですけど、未稲ちゃんが居るところでは話しにくいと条件を付けられたもので、どうしたもんかなって……。そうしたら姫若子さんの自宅おたくへ出稽古に行く流れになったので、そちらで待ち合わせようと決まったんです。鎌倉駅に着いたら携帯電話ケータイ宛てに連絡してもらう段取りだったんですけどねぇ……」

「オレが訊きてェのは、そ~ゆ~コトじゃねーよっ!」

「土地勘のない鎌倉で果たして目的地まで辿り着けるか、甚だ心細かったのですが、沙門がSNSソーシャルネットワークサービスに打ち立ててくれた道標を頼りにキリサメのもとへ駆け付けることが出来ました。おういんさん――いや、この場ではえて『ヴァルチャーマスク』と旧名かつてのなまえで呼ばせてもらうが、の人の如く信心深くない俺でも神仏の導きを感じましたよ」


 がキリサメたちと稲村ガ崎の浜辺で遭遇した真相である。

 父親同士も好敵手ライバル同士という『天叢雲アメノムラクモ』と『こんごうりき』の新人選手ルーキーが所属先の垣根を超えて拳を交える複数同時対戦バトルロイヤルが注目を集めないわけがなく、SNSソーシャルネットワークサービスの利用者は写真や動画まで添えて疑似的な実況中継を行っていた。

 SNSソーシャルネットワークサービス上に投稿された内容を無許可で書き写すようなネットニュースで速報されるなど四人の複数同時対戦バトルロイヤルはたちまちインターネットで話題となり、藤太は携帯電話スマホの液晶画面から読み取った情報を手掛かりにしてキリサメの居場所を突き止めたのだ。


「不用意な発言を一瞬でも申し訳ないと思ったボクがバカみたいだよ。腹黒さではぐちいくと良い勝負なんじゃないの。電ちゃんに気を遣わせるくらいヘコんだ表情かおしておいて、ちゃっかり観客の呼び込みをやってんだもん。空手屋キミのコト、一個も信じらんないよ」


 寅之助の辛辣な皮肉に対して、沙門は肩を竦めながら小さく舌を出した。

 藤太が稲村ガ崎の複数同時対戦バトルロイヤルに気付いたのは、SNSソーシャルネットワークサービス上でも相互に繋がっている沙門が投稿した短文つぶやきがきっかけである。


「足で稼ぐという基本もなっちゃいないライターが好き勝手な妄想をバラ撒いているが、俺は空手に愧じることなんかしちゃいない。だから、トレーニングもお天道様のもとで堂々とやれる。俺を信じてくれるフレンズがいる。それでオーケーコラル!」


 この一文に添えられたのは、稲村ガ崎の砂浜を踏み締める友人たちの後ろ姿を捉えた写真である。言わずもがな、複数同時対戦バトルロイヤルを開始する直前に投稿された短文つぶやきだ。

 これによって『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーを交えたのような状況を作り出し、一部の海外メディアが報じているようなテロの黒幕ではないと広く知らしめたわけである。

 じることがないから罪悪感も持たずに『くうかん』の空手をふるえる。断罪を恐れて自宅いえに篭もり、部屋の片隅で震えることもない――これらの体現にる印象操作であった。

 テロの犠牲となった旧友ベイカー・エルステッドたちに思いを馳せて酷く気落ちしながらも、濡れ衣を晴らす好機を自ら作り出した〝空手屋〟のしたたかさには〝剣道屋〟でなくとも皮肉をぶつけたくなるだろう。

 ともすれば「自分の犯した罪を反省すらしていない」と、『ウォースパイト運動』の過激活動家が怒り狂う原因にもなり兼ねないのだが、進士藤太にはキリサメ・アマカザリとの運命を手繰り寄せる糸となったわけだ。


「アマカザリ君に関わることだから自分と無関係とも言えないが、密談したかったら『ダイニングこん』の個室でも押さえれば済むだろうに……」

「謝罪の言葉もありません……。当初の作戦プランでは僕が姫若子宅こちらでセンパイを引き付けておいて、合流後に喫茶店にでも強制連行する手筈だったのですが、藤太このコ、すっかり火が付いてしまったみたいで……」

「僕からもお詫びします。姫若子氏をこんな事態ことに巻き込んでしまって……」

「知らない内に巻き込まれていたのはお互い様さ。気にしないでくれよ、アマカザリ君。本当に弁えて頂きたい方々は、ご覧の通りの好き放題だがね」


 恐縮する麦泉といかれる藤太を交互に見据える姫若子がこの上なく迷惑そうなのは、事前の根回しもなく殺到してきた人々への苛立ちとは別の理由であった。

 改めてつまびらかにするまでもないが、『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』は長らく対立関係が続いている。それと同時に前者は藤太の所属先である『NSB』と強い帯同パートナーシップを示しながら、来年末開催の日米合同大会コンデ・コマ・パスコアにも関わるテロ対策の方針を巡って緊張状態に陥っていた。

 穏やかならざる空気に包まれる三団体の人間が奇妙としか表しようのない構図で顔を突き合わせているのだ。その上、キリサメと姫若子の二人は道場『とうあらた』の兄弟弟子という関係でもある。もはや、混沌という二字を除いて状況を表しようがなかった。

 この場に『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間が訪ねてきたら、団体間に横たわる敵対意識の悪化は免れないだろう。殊更強く『天叢雲アメノムラクモ』を憎悪する一部の選手に今日のことを知られた場合、成り行きとはいえ藤太を姫若子宅ここまで案内してきた電知の立場まで危うくなり兼ねない。

 ただでさえ電知はキリサメやその養父の岳と深く関わり過ぎており、『E・Gイラプション・ゲーム』内部では裏切り者という陰口まで聞こえ始めている。SNSソーシャルネットワークサービスで行われた複数同時対戦バトルロイヤルの実況も姫若子には心配の種であった。

 寅之助の恋人であるかみしもしきてるや、古武術の奥義を錆び付かせない為に地下格闘技アンダーグラウンドへ飛び込んだあいかわじんつうも、裏切り者と悪意に満ちた声で呼ばれ始めている。

 樋口体制にける『天叢雲アメノムラクモ』の拝金主義を心の底から憎む彼女も岳の実娘むすめである未稲とは親密に付き合っており、キリサメが初陣プロデビューの場で対戦相手の舎弟たちから取り囲まれたときには観客席から飛び出して本来の身辺警護ボディーガードに加勢し、彼を守護まもろうとしたのだ。

 神通に至ってはキリサメに対する強い〝共鳴〟と、焦がれるような憧憬あこがれを『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちの前でさえ隠そうとしない。

 姫若子自身は団体間の対立をも超える若者たちの友情を尊重し、背信の片割れと面罵されようとも応援する覚悟つもりである。だからこそ、眼前の状況を憂慮しているのだ。


「やもめ暮らしも長ェんだから、『妻子に逃げられて辛気臭いお家に友達たくさん遊びに来て嬉し~』っつって、素直に喜んだらどーッスか、正忠サン?」

「他人に自宅いえを占拠されたことを問題にしないほど私もお人好しではないが……」


 当の電知は花形選手エースでありながら『E・Gイラプション・ゲーム』にける〝立場〟に無頓着である。そうした彼の美徳が余計に姫若子の表情かおを渋くさせるのだった。

 その姫若子にとって招かれざる客――進士藤太の一時帰国は、「居ても立っても居られなくなった」という先程の言葉通り、予定スケジュールの調整が破綻しそうになるくらい慌ただしいものであった。アメリカの格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルによる取材インタビューまで日延べしたという。

 くだんのDVDを取り出したのも旅行鞄であり、あるいは宿泊先にも立ち寄らずに空港から鎌倉まで直行してきたのかも知れない。思い立ったら一直線という気質は、自転車ママチャリでどこにでも駆け付ける電知と似ているようキリサメには感じられた。

 電知もまた最悪の形で初陣プロデビューを終えた親友を心配し、東京から岩手県奥州市まで駆け付けてくれたのである。

 当の電知は自身の行動との類似点に気付いていないようで、「ここまで来ると行動派通り越してただのバカだな」と、左右の素足あしを打ち鳴らしながら藤太を笑い飛ばしていた。

 己のことを棚に上げたような電知の放言にキリサメは苦笑いを浮かべるしかなかった。寅之助も同じことを思ったようだが、こちらは良くも悪くも裏表のない幼馴染みが微笑ましくて堪らないのか、今にも蕩けそうな表情かおで二度三度と首を頷かせている。

 いずれにせよ、師匠を叱責したいが為に予定スケジュールを変更してまで日本行きの旅客機へ飛び込んだとすれば、藤太のうちにて渦巻く怒りは相当に激烈なのであろう。


ひろたかくんが抜き打ちでやって来たときに鉢合わせる可能性を潰すよう『八雲道場』から遠ざける根回しを仕掛けるのなら、まだ分かるんだけどな……)


 先ほど麦泉が仄めかした〝未稲の居るところで話しにくいこと〟とは、父親が叱り飛ばされるさまを娘に見せるのは忍びないという配慮であろうとキリサメにも察せられた。

 しかし、それ以外のことは何一つとして思い当たらないのだ。

 ここに至るまでの筋運びや、『スーパイ・サーキット』について言及があったことから自分自身の処遇ことに含まれているのだろうが、そもそも藤太のなかに湧き起こった衝動が理解できないのである。

 進士藤太フルメタルサムライとは今日が初対面である。『あつミヤズ』による暴露番組を含んだ『天叢雲アメノムラクモ』の広報やマスメディアの報道など、IT社会だけに判断材料を集めるのは難しくないが、それだけでキリサメ・アマカザリという人間を理解できるとも思えない。

 えて推察するならば、藤太をき動かしたのは義憤であろう。だが、〝師匠の養子〟という一点しか互いを結び付けるモノのないに過剰反応すること自体がキリサメには不可解でならなかった。

 『スーパイ・サーキット』が大きく取り上げられたスポーツ番組を半ば強制的に視聴させたことからも明らかな通り、キリサメの身に宿った異能ちからに対して藤太は肯定しがたい思いがあるのだろう。稲村ガ崎でも発動を戒めるような言葉を投げ掛けたのである。

 それを差し引いても、『スーパイ・サーキット』のことで岳を批難するのは的外れとしか思えなかった。


「岳氏はこの人と――進士氏と音信不通だったのですよね? でも、今し方の会話を聞く限り、麦泉氏とは……」

「おう! それよ、それそれ! オレもず~っと気になってんだよ! 何? お前ら、文通でもしてんの? ず~っと連絡を取り合ってたんか? オレに内緒で⁉」


 キリサメの頭に浮かんだは、ガラステーブルの向こうのソファに腰掛けた養父も共有していたようである。首が捻じ切れてしまうのではないかと心配になるほどの勢いで麦泉と藤太の顔を交互に見比べていた。


とーはセンパイの弟子であるのと同時に、僕にとっても可愛い後輩なんですよ? 所属団体が別々になったところで付き合いが変わるハズないじゃないですか」

「オレだけ仲間外れかよ! いじめか? 寂しいわッ! てゆ~か、文多もよぉ、他の団体に――よりにもよって『NSB』の選手に『天叢雲うち』のVTRを横流しすんなよ~。もしも、樋口にバレちまったら無事タダじゃ済まねぇぞ~」

「今更ッスよ、岳さん。俺も知り合いにアマカザリの試合ビデオをシークレットでギフトして貰ったッスもん。それくらいエブリバディがやってるッス。そういう岳さんだってウチの親父に『こんごうりき』のビデオ、ちょくちょくリクエストしてるッスよね?」

「お前ら、みんなズルいぜ! おい、岳のおっさん! キリサメの動画ヤツだけで良いから、おれにも横流しを頼むぜ! 代わりに『E・Gイラプション・ゲーム』の動画ヤツ送信おくるからよ!」

「統括本部長の肩書きが吹っ飛ぶコトをあらゆる角度から叩き込んでくんなよ~!」


 『八雲道場』の師弟が別々の〝道〟を歩むようになった後も藤太と連絡を取り合っていた事実を麦泉はあっけらかんと白状した。

 藤太の口振りから察するに、岳が四角いリングへ上げるたびに動画データを送信おくっていたのであろう。スポーツ番組のDVDを用意したのも麦泉と考えて間違いあるまい。

 つまるところは〝似た者師弟〟であろうと、キリサメにも二人の関係性が少しずつ飲み込めてきた。日米で離れ離れになっても、腹に据え兼ねることがあっても、藤太は師匠のことが気になって仕方がないわけだ。

 一方の岳も愛弟子の試合は『ユアセルフ銀幕』のPPVペイ・パー・ビューで必ず確認していたのである。


「……結局、進士氏あなたは何を仰りたいのですか?」


 藤太を突然の一時帰国に踏み切らせたきっかけは察せられたものの、『スーパイ・サーキット』を巡る真意は今もって判然とせず、キリサメは会話の脱線を正すよう促した。

 激しい感情ばかりが先立つ藤太は理詰めの説明を著しく欠いており、果たして〝何〟を改めようとしているのか、その目的すら測り兼ねているのだ。話が噛み合わないという意思疎通の問題点まで〝似た者師弟〟であった。


「心理状態に左右されて見境がなくなるようではMMA選手としての適性を疑わざるを得ません――館山先生が先程のVTRで話した内容ことおぼえているか?」


 たった数分前に視聴したDVDである。内容など忘れようがなく、藤太から復唱まで交えて記憶の有無を問い返されたキリサメは、少しばかり不機嫌そうに首を頷かせた。


「銭坪満吉は『スーパイ・サーキット』のことを一種の極限状態と推理していたが、これもおぼえているな?」

「記憶力のテストなら、もう間に合っていますよ」

おぼえているなら問題ナシ。銭坪は例の『スーパイ・サーキット』を〝火事場のクソ力〟が進化した異能ちからし、今では定着したように思えるが、それも間違いないのだな?」

「定着したかどうかをかれても答えようがありません。誤解がある様子ですけど、自分から異能アレを売り込んだわけではないのですよ? 進士氏が〝何〟を疑っておられるのか、そこからして僕には少しも分からないのですが……」

「極限的な心理状態に対する肉体の反応として、俗に〝火事場のクソ力〟と呼ばれるモノが引き出されることは科学的にも証明されている。刹那の奇跡とはいえ、身体能力が神の領域にまで達する強化ブーストアップは、と同じ原理で説明できるが、やはり、最大の問題はその異能ちからを発動させる条件ひきがねのほうか……」

「……ひょっとして、今のは独り言だったのですか……」


 他者ひとに質問をぶつけておいて、藤太は返答こたえも聞かずで物思いに耽り始めた。

 針が振り切れてしまうほど鋭い山なりの波形ともたとえるべき心の振幅が人間の肉体からだにもたらす様々な効果を呪文でも唱えるかのように口にしていたが、それはキリサメに対する説明ではなく、仮説を整理するべく脳内あたまのなかに思い浮かべた言葉が零れたに過ぎないのだ。

 『スーパイ・サーキット』が発動する瞬間に決まって〝魂〟を塗り潰す血塗られた追憶や、砂色サンドベージュの風と共に心のなかに降臨した〝異形の死神スーパイ〟のことも明かすべきかと身構えていただけに、キリサメは藤太と真面目に向き合い続けるのが馬鹿らしくなってきた。

 危ういところで踏み止まったものの、この不毛な時間を終わらせるべく二本指の目突きまで繰り出しそうになってしまった。


「……銭坪満吉が勝手に『スーパイ・サーキット』と名付けたというか、……心の具合のことを言っているのだ。別の言い方をするなら、……『PTSD』だ」


 逡巡を挟んだのち、藤太は『スーパイ・サーキット』に関する一つの仮説を述べた。

 思わずソファから立ち上がったキリサメ本人は言うに及ばず、彼の身に宿った〝何か〟を一種ひとつ異能ちからとして捉えてきた誰もが呻いて絶句した。

 PTSD――心的外傷後ストレス障害である。

 この発症と『スーパイ・サーキット』の相似については、『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手であるビェールクト・ヴォズネセンスキーから既に指摘されており、麦泉と岳は表情筋が壊れるほど引きった顔を互いに見合わせた。

 道場破りとの試合によって瀕死の重傷を負い、キリサメにじょうわたマッチとの対戦を譲った山岳部隊所属のロシア軍人は、正常な歩行すらままならない身を押して岩手興行の会場に駆け付け、自分の代わりにリングに上がった新人選手ルーキー初陣プロデビューを見届けている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体にいて、共に日本MMAを支えた藤太とヴォズネセンスキーが同じ疑念を抱いたわけだ。しかも、後者は闘魂たましいを預けてきたリングが『スーパイ・サーキット』によって破壊される瞬間を観客席にて目の当たりにしたのである。

 興行イベント終了後、ヴォズネセンスキーは余人に聞き耳を立てられる心配のない環境で『スーパイ・サーキット』に対する疑惑を岳と麦泉に訴えたのだが、真紅あか血涙しずくでマットをけがしながら暴れ回る狂気を肌で感じたということもあり、現在いまの藤太にも匹敵するくらい事態を深刻に受け止めていた。

 「PTSD疑惑まで話したのか」と目配せでもって岳に問いただされた麦泉は、すかさず首を横に振った。腹を割って語り合える間柄とはいえ、互いに明かしても構わない話とそうでない話の分別は付いているのだ。

 自分の健康問題ならばいざ知らず、これはキリサメに掛けられた疑惑である。ましてやケースカンファレンスの場でもない。に軽々しく話すわけがなかった。

 藤太の側も所属団体NSBの機密情報を漏洩するような真似は一度もしていない。

 興行イベント運営に携わっていない選手の立場ではそもそも知り得なかったのかも知れないが、『NSB』を追放された前代表フロスト・クラントンの『ランズエンド・サーガ』から〝古巣〟に買収工作を仕掛けていることも、ごく最近まで麦泉の耳に入っていなかったのだ。


「待てや、進士藤太ッ! 今、何を言ったか、自分で理解わかってんだろうな⁉ 事と次第によっちゃ、おれの命を捨ててでもてめェをブッ殺すぞッ!」

「……仮にも友達が面と向かってにされるのをヘラヘラ笑いながら眺めていられるほどボクも腐れてはいないつもりだよ」


 投げ掛けられた言葉を脳が処理し切れず、呆けたように硬直してしまったキリサメ本人の代わりに怒鳴り声を張り上げたのは、言わずもがな電知である。それは当然であろう。親友の心が〝異常〟であると決め付けられて腹を立てない人間などいるはずがなかった。

 他者ひとを怒らせて反応を愉しむという悪趣味極まりない享楽家の寅之助も珍しくまなじりを吊り上げ、地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋を掴んだ。居合い抜きさながらに得物を藤太の喉元に突き付けようというわけだ。

 じょうわたマッチのカタキ討ちにいきり立つつるぎきょうを阻止した瞬間と比べても、全身から漂わせる怒気は遥かに鋭い。侮辱の意図がなかろうとも、無神経で軽率な発言であったことは間違いないのだ。四ツ割の竹片を組んだ刀身の隅々まで殺意を漲らせることも躊躇ためらうまい。


「フィーリングは分かるけど、二人ともウェイト。藤太さんは決してバッドな人じゃないんだ。きっとリーズンがあるハズだから、ピリオドまで話を聞くとしよう。……その上でのなら、俺もブレーキは掛けないからさ」


 すかさず沙門が二人の背後うしろに回り込み、それぞれの肩を掴んで押し止めていなければ、間違いなく二対一の潰し合いに発展したことであろう。

 沙門もキリサメを大切な友人と思っている。古くから親しく交流してきた相手であり、アメリカの生活くらしに関する様々な助言にも感謝しているが、万が一のときには藤太の味方に付くことは難しかった。

 無論、藤太が己自身を斬り付けるような覚悟でPTSDと口にしたことも察している。沙門の瞳は彼の右頬――ごく最近に肉を抉られたものとおぼしき傷を捉えて離さないのだ。


「当たり前だッ! こんなに重大なこと、冗談で喋るはずがないッ!」


 これに応じる藤太の声は、三人の視線をまとめて押し返してしまえるほど大きい。

 聞く者の鼓膜が張り裂けそうになる声量こそがキリサメのPTSD疑惑を真剣に案じている証拠だとすぐさま理解した岳は、養子むすこの為に怒ってくれた電知と寅之助に心の中で感謝しつつ、愛弟子を一喝で黙らせることも出来なかった。


「もしも、キリサメが心に重い痛手ダメージを負っているならッ! ……今なら、今ならまだ間に合うんだッ! 適切な治療を受ければ必ず完治するッ!」

とーは、その、……『スーパイ・サーキット』に違和感を覚えたのかい? それでセンパイに説教したいって言ってきたのかい?」


 己の身に宿った異能ちからを心因性の症状と断定されて以来、一言も発していないキリサメを気遣いながらも、麦泉は進士藤太とビェールクト・ヴォズネセンスキーが別々に提示した疑問の符合を確かめていく。

 キリサメが心に負った傷を更に広めることにも繋がり兼ねないものの、これだけは何があってもただしておかなければならなかった。


「心に深手を負った疑いのある人間をMMAのリングに上げるなんて正気の沙汰じゃありませんッ! 日本を一歩でも外に出た瞬間、『天叢雲アメノムラクモ』はMMAを名乗る資格もないと袋叩きにされる理由がキリサメへの扱いに集約されているッ!」


 異能のスーパイ・サーキットを口にすることさえ躊躇ためらってしまった麦泉に対して、返答こたえを紡ぐ藤太の声は腹を括ったかのように決然としており、頷き返す力も強い。

 それでいて顔には苦悶の二字が滲み出しており、自分が叩き付ける言葉の一つ一つが不可視の刃となる危険性も十分に承知しているようだ。キリサメの心に新たな血を流させることへの迷いは、決意の力で押し殺しているのだろう。

 キリサメやその仲間が抱く憎悪を受け止める覚悟をも固めているのだろうと、進士藤太フルメタルサムライの胸中を察する麦泉であったが、二人の格闘家が同じ見解を示した事実が極めて重くし掛かり、『新鬼道プロレス』の頃から目に掛けてきた後輩を気遣わんとする言葉が低い呻き声に変わった挙げ句、両手で顔面を覆ってしまった。


に同調するみてェで胸糞悪いったらありゃしねぇがよ、人間ってなァ脳内麻薬がしこたま出たときにバカとしか言いようがねぇパワーを発揮するじゃねーか。藤太おまえだって経験がないとは言わせねぇぜ? キリーの場合はそいつが人並み外れて強ェんだよ。それが『スーパイ・サーキット』なんだって――」

「医師の診断をきちんと受けさせた上での発言でしょうね⁉ 師匠の自分勝手な決め付けだけで問題ナシと言っているとしたら、俺は絶対に許さないッ!」


 天井の照明に亀裂が入っても不思議ではないほどの大喝で反論を遮られてしまった岳はさすがにし口を作り、愛弟子をめ付けつつソファから立ち上がった。

 戦国武将さながらに頭頂部よりやや後ろの位置で花弁の如く結い上げた髪を解き、首の付け根の辺りで一房に束ね直したのだが、それはつまり、には日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの交渉が吹き飛ぶようなに発展するという意味である。

 沙門をも向こうに回し、で包囲され兼ねない状況となったわけだが、『NSB』が誇る『フルメタルサムライ』は少しも怯まず、師匠を正面から睨み返した。


藤太おめーがどう思おうと、オレはキリーに宿った潜在能力を信じてるぜ! うちの養子せがれの超必殺技をナメんなよ、この野郎ォッ!」

「信じるって言葉は! そんな何の根拠もない言葉は! 今、この場では何の意味も持たないんですよッ! だから無責任だって、俺は……ッ!」

「こいつめ、言わせておけば! 無責任は藤太も一緒じゃねーか! いや、もっとタチが悪いぜ! キリーの話を聞きもしねぇで、手前ェだけで一方的に決め付けやがってッ!」

「誰も決め付けてなんかいないッ! 仮に何らかの発作であった場合、MMA選手として余りにも大変な事態を招いてしまうという話をしているんじゃありませんか! 師匠、本当に俺の話を聞いてましたかッ⁉」

「何事もスパッと一刀両断で決めるのが藤太おめーの良いトコだけどよ! 人間は一かゼロかじゃねぇって昔ッから口を酸っぱくして教えてきたじゃねーか! おめーこそ師匠オレの話を聞き流してたんじゃねェの⁉ 今の言い方はが行き過ぎだったぜッ!」

「最悪の事態を前提にするのは我ら忍者の基本でしょうがッ! らくさい老師だって――」

「――お二人ともこの辺で深呼吸しましょうか。八雲さんもご自分の主張を途中で断ち切られてお腹立ちのことと思いますが、自分はまだ進士さんの真意を量り兼ねていますよ。それは八雲さんも同じでしょう? 教来石君の言葉を借りるならば、ピリオドまで話を聞いた上でジャッジする。……取っ組み合いはその後でも遅くないのでは?」


 感情のぶつけ合いとしか表しようのない様相を呈し、「僕の目にはどちらも思い込みが激し過ぎるし、何から何まで一方通行なのも似た者同士」と当事者のキリサメまで呆れさせる師弟に口を挟んだのは、えて傍観者の立場を貫いてきた姫若子である。

 キリサメどころか、『E・Gイラプション・ゲーム』の〝同僚〟である電知でさえ初めて目の当たりにするくらい神妙な面持ちで師弟の様子を交互に確かめるのは当然であろう。に掛けられたPTSD疑惑という極めて繊細な問題に触れようとしているのだ。

 しかし、腰が引けているわけではない。もはや、逃げるつもりもない。図らずも立ち合うことになってしまったが、がわだいぜん道場『とうあらた』の皆で大切に育てていく〝後輩〟が抱えた問題なのだ。

 地下格闘技アンダーグラウンドの選手ではなく一人のとして、眼前の言い争いに関わる覚悟を決めた姫和子は『八雲道場』の師弟を宥めつつ、その承諾を眼差しでもってキリサメに求めた。

 願ってもいないと頷き返したキリサメは、親友や養父に次々と激情が伝播していく只中にって、姫和子が違和感すら覚えてしまうほど落ち着き払っていた。

 師匠と胸倉を掴み合ったところで姫和子から自重するよう促され、拳を握る前に踏み止まった進士藤太が『スーパイ・サーキット』をPTSDと同一視した瞬間には言葉を失うほどの驚愕に打ちのめされてしまったが、臨戦態勢を整えた電知や寅之助と入れ替わるように冷静さを取り戻していったのである。

 初陣プロデビューの直後に会場内で『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表――ヴィクターくろ河内こうちから引き抜き行為ヘッドハンティングを受けたときと同様であった。

 岩手興行の幕間に剣劇チャンバラを披露することになっていた『とうあらた』のたちは、同道場の体験会ワークショップに参加したキリサメが地下格闘技アンダーグラウンド団体から包囲されたと聞き付けるなり加勢に走り、強硬な引き抜き行為ヘッドハンティングを退けるべく本人に詳細も伝えないままの知略を仕掛けたのだ。

 その際にキリサメは打ち合わせもなくがわだいぜんの奇策を読み抜き、たちとも連携してヴィクターくろ河内こうちを追い返していた。

 沙門も舌を巻いたが、キリサメは〝表〟の社会より切り離された貧民街スラムで生まれ育ちながら、生前に同地で私塾を開いていた母から学校にも劣らない教育を施されている。これによって養われたあたまは、進士藤太の真意を探ることに思考を切り替えていた。


「進士さんは『NSB』で長く闘ってきた選手だ。その人が〝心の具合〟と口にした意味を冷静に考えてみるべきだと思います」


 〝先輩〟会話はなしの筋道を整えようと試みる間も、キリサメの双眸は極太の眉が微かに動くのも見逃すまいと藤太の顔を捉え続けた。

 氷の矢ともたとえるべき静かな眼差しを頬で受け止めた藤太は、キリサメを見つめ返すことこそなかったものの、口元を引き締めて返答こたえに代えた。


「正忠サンまで何を言い出すんだよ! だって、進士藤太このヤロウは……ッ!」

「ひょっとすると進士さんは『アイシクル・ジョーダン』とアマカザリ君を重ねているんじゃないのか? ……空閑君、キミだってジョーダンの悲劇ことは知っているだろう」


 横から口を挟んだ電知は言うに及ばず、姫若子が口にした一つの名前にその場の誰もが息を飲んだ。

 アイシクル・ジョーダン――格闘技に携わる人間にとって忘れ難い悲運の名である。

 二〇〇一年九月一一日のアメリカ同時多発テロ事件を戦端とするイラク・アフガン戦争の帰還兵にして、『NSB』からドーピングが撲滅される引き金となった運命の人物とも言い換えられるだろう。

 陸軍で体得した近接格闘術の才能と戦場で鍛えられた勘の鋭さは他の選手を寄せ付けない水準レベルであり、〝戦場帰り〟という異色の経歴と共に全米の注目を集めながらも、禁止薬物の過剰摂取オーバードーズによって大成を待たずに急逝してしまったのだ。

 『NSB』の現代表であるイズリアル・モニワが自ら見出した選手であったが、その恩に報いたいと焦った結果、取り返しのつかない悲劇を招いたとも報じられている。

 その頃の『NSB』はフロスト・クラントンの画策によって〝肉体改造を施されたモンスターの見世物〟に歪められていた。ネバダ州体育委員会アスレチックコミッションの是正勧告さえもね付けられる〝暗黒時代〟であったが、ドーピングに汚染された側にまで命を落とす者が現れたことでが変わり、〝諸悪の根源フロスト・クラントン〟もアメリカ格闘技界から永久追放されたのである。

 『NSB』復活を託されて新代表に就任したイズリアル・モニワは、体育委員会アスレチックコミッションやアンチドーピング機構と連携して前代表フロスト・クラントンによる〝負の遺産〟を取り除き、〝MMA団体としての社会的信用〟を取り戻すべく力を尽くしてきたのだった。

 イズリアルとしても理不尽に未来を奪われた有望選手の無念を晴らしたかったはずだ。

 MMAの旗頭が再生に至るまでを取材し、ジャーナリズム公益部門でピューリッツァー賞を獲得したアメリカの格闘技雑誌は、アイシクル・ジョーダンのことを「邪悪な存在によってけがされた『NSB』を浄化する為に〝天〟が遣わした聖者」と記している。

 姫若子がえて悲運の名を口にした意味を悟った岳は、「バカ言え」と擦れた声で洩らしながらかぶりを振り、次いで愛弟子へと弾かれたように首を向けた。


「藤太、お前、まさか……ッ」

「アイシクルとは八角形の試合場オクタゴンで拳を交えましたし、親友でもありました。地下鉄サブウェイのプラットホームでPTSDのパニック発作に見舞われた彼を介抱したことも……」

「ちょ、ちょっと待ってって! ジョーダンが心を病んじまったのは戦争中の誤射事件が原因じゃねぇのか⁉ でも罹っちまうのかよ⁉」


 動転して再びソファから立ち上がった電知も、その背中を目で追い掛けるキリサメも、アイシクル・ジョーダンが精神的に追い詰められていたことは承知していた。それが原因で禁止薬物に手を出してしまったことも、すがだいら合宿の折にあかぞなえ人間カリガネイダーから教わったのだ。

 長野県に根差した地方プロレス団体が誇る花形レスラーの解説はなしによれば、イラクにける作戦行動中に味方の部隊が現地の民間人を誤射し、死に至らしめる事件と遭遇した衝撃ショックでアイシクル・ジョーダンの精神こころは壊れてしまったという。

 PTSDは主に生命が脅かされた被害者が発症すると電知は記憶していたが、誤射事件に関わった当事者の一人という〝立場〟を考えると、アイシクル・ジョーダンは間違いなく加害者の側である。だからこそ、藤太の言わんとしている意味が理解できなかった。


「ボクは〝心の専門医〟じゃないから正確ではないかもだけど、人間ひとの脳が〝何〟を痛手ダメージとして認識するのかは、本人にも制御コントロールできないんじゃないかな。自分の目の前で仲間が民間人を犠牲にしてしまったら、衝撃ショックで心が潰されてしまったとしても不思議じゃないよ。自分の指でひきがねを引いたかどうかは大きな差にならないのかも知れないね」

「剣道屋のアナライズは大きくアウトしていないと思うぜ。例えとしてベターでないのは重々承知しているが、『三・一一』を経験した俺たちは、……手を差し伸べることも叶わないテレビモニターの向こう側の〝現実〟がPTSDに繋がると身をもって知っている」


 大きく首を傾げながら頭を掻きむしる幼馴染みに向かって、寅之助は人間の〝心の働き〟が理屈では解き明かせないくらい複雑であるのと同様に、PTSDの原因も一概には定められないと控えめな声で諭した。

 背後に立つ沙門が驚くほど寅之助は慎重に言葉を選んでいるが、それも当然であろう。電知を落ち着かせている間にもキリサメの顔色を窺い、傷付けられた様子でないことを確かめると、誰にも聞こえないほど小さく安堵の溜め息を洩らした。


「誤射事件は軍を辞める直接の引き金になったし、最も心に痛手ダメージを受けたことは間違いないがな、……アイシクルの心はもっと前から戦争によって壊されていたのだ。心に深手を負ったまま戦地に留まり続け、その為にアイツは……ッ!」


 適切な治療も受けずに平気な芝居フリで自他を誤魔化したまま、誤射事件で自責の念に苛まれ続けたアイシクル・ジョーダンは、MMA選手として『NSB』の試合場オクタゴンへ立つ頃には取り返しのつかない状態まで心の具合を悪化させてしまっていた。

 そして、PTSDの発作を抑えられる即効性の強い薬物の使用を前代表フロスト・クラントンに強いられ、依存の末に落命した――と、藤太は喉の奥から絞り出した。

 アイシクル・ジョーダンが重度のPTSDを患っていたこと。パニック発作の深刻さを友人である藤太が目の当たりにしていたこと。それらの様子が『スーパイ・サーキット』の発動と類似しているように見えたこと――全てが藤太の帰国理由に繋がっている。


「先程と正反対に自分から話を脱線させるような真似をして申し訳ないのですが、……アイシクル・ジョーダンは傭兵ではなく正規の軍人だったのですよね? アメリカ軍には治療やリハビリのプログラムは用意されていなかったのですか?」


 脳内あたまのなかに思い浮かんだ一つの疑問が口をいて出た姫若子であるが、無意識に割り込んでしまうのも無理からぬことであろう。

 古くから存在している〝戦争神経症〟という言葉が表す通り、戦地での経験を原因とする〝心の傷〟も脊椎損傷や四肢切断などと同じである。姫若子は軍事面の知識が豊かではないが、それでも〝世界の警察〟を標榜するほど高度に完成されたアメリカ軍が命懸けで祖国に尽くした末、心を患うことになってしまった将兵をとして放り出すとは思えなかった。

 〝戦争の時代〟に深刻な後遺症を負った傷痍軍人のリハビリテーションを目的としてパラリンピック――正確にはその前身となった車椅子競技大会――が始まったのは、一九四八年のイギリスである。それから半世紀が経ったアメリカでは心身にハンデを持った人々とそうでない人々が同じ条件でスポーツを楽しむ土壌が育ち、〝パラスポーツとしてのMMA〟も花開かんとしていた。

 アイシクル・ジョーダンのような傷痍軍人こそ手厚い社会保障が受けられるのではないかと、姫和子は考えた次第である。二度の世界大戦とGWOT対テロ戦争の間には、泥沼の消耗戦が一四年以上も続いたベトナム戦争と湾岸戦争も挟んでいるのだ。〝名誉の負傷〟に報いる体制が整えられていないはずがなかった。


「俺の調べた範囲でしかお答えできなくて申し訳ありませんが、仰るように国防総省ペンタゴンや行政機関も傷痍軍人の回復を全力で支援サポートしていますよ。……イラク・アフガン戦争以降、アメリカでは保障制度そのものが大幅に拡充されたとも把握しています」

「……それだけ傷痍軍人が増えたということか……。それなのにアイシクル・ジョーダンはどうして……。PTSDといった〝心の傷〟は個々で症例が違いますから、自分も迂闊なことは申し上げられませんがね」

「PTSDは外部そとに攻撃性の強いエネルギーをすることがあります。しかし、アイシクルはそれが原因で軍を除隊になったわけではない。退役はあくまで本人の意思。……そして、傷付いた心の治療ケアを受け入れなかったのも本人の意思でした」

「進士さんと並んで滝行するジョーダン選手の写真を見たことがあります。お互いに生真面目な性格だから波長が合ったというお二人の発言コメントも。……自分の後遺症を認めなかったのは、周囲まわりの人たちに心配を掛けたくないから――……ですか?」

「……万全の支援体制が整っていたとしても、本人が心を患っていると認めねば、周囲まわりも強制は出来んのです。……アイツは不器用な生き方しか選べなかった……ッ!」


 呻き声を引き摺りながら姫若子に頷き返した藤太は、アメリカにける傷痍軍人の支援体制を紐解くに当たり、自分自身で調べた範囲と前置きしている。おそらく〝心の傷〟に苦しみ続ける友人アイシクル・ジョーダンの為、の社会保障制度などを片端から学んだのであろう。

 心の治療に向けたプログラムも話し合い、ついに友人アイシクル・ジョーダンを心変わりさせられなかった藤太の無念が姫若子には痛いほど伝わってきた。

 本人に気取られないよう控えめに顔を窺った〝後輩キリサメ〟も真摯な少年である。それ故に藤太が懸念する事態を引き寄せてしまう可能性は決して低くないのだ。

 想い出の彼方へ去った人物のことだけに姫若子も深くは踏み込めなかったが、アイシクル・ジョーダンは進士藤太フルメタルサムライに勝るとも劣らない真面目さで命を縮めたのであろう。

 この〝後輩〟もアイシクル・ジョーダンと同じ情況に陥ったとき、自分の痛みを隠して周囲まわりの心配には「平気」の一言しか答えないはずだ。そのような〝道〟にキリサメを迷い込ませない為、〝大人おとな〟たちが力を尽くさなければならない――これだけは自宅に居座る傍迷惑な男と通じ合っているつもりであった。

 心の治療こそ最優先と訴える藤太にも一理あると認めた姫若子に対し、岳のほうは「忍法爆裂妄想なんて教えてねェぞ!」と床が軋むほど強く地団駄を踏み続けている。


「僕のなか異能コレを進士氏が憂慮する理由も掴めてきましたよ。る種の発作と認識されても仕方ないかも知れません。それくらいおかしなモノであることも否定できません」

「そんなに行儀良く受け答えしなくたって構わねぇんだぜ、キリー! こじ付けと決め付けで、よくぞここまで暴走デタラメできるもんだって一発喰らわせちまえ! オレが許すぜ!」


 藤太が並べ立てた言葉はいずれも『スーパイ・サーキット』を宿した少年を追い詰めるものでしかなかったが、これを受け止めるキリサメ当人は周囲まわりの誰もが目を丸くするほど冷静であった。

 一方的に心を揺さぶられた養子キリサメが全身を小刻みに震わせているものと思い込んだ岳は、正面から抱き締めようと図り、鬱陶しそうに肘打ちでもって引き剥がされている。


「自分の心が正常と言えないことは、他の誰でもない僕が一番理解わかっているつもりです。それがMMA選手としてのであれば、目を逸らさずに改善していくしかありません。〝何〟がおかしいのかを見極める材料は、多いに越したことはありませんよ」


 養父を制して藤太に話の続きを促すキリサメの声は事務的と表すのが最も相応しく、自分自身に掛けられたPTSD疑惑に対してさえ無感情なのかと、沙門は何ともたとえ難い苦笑いを抑えられなかった。

 己の心に巣食う〝闇〟を藤太にまでPTSDと決め付けられたことに動揺がなかったと言えば嘘になるが、得体の知れない〝何か〟を乗り越える為の手掛かりこそ現在いまのキリサメは求めている。

 無理だけは禁物と気遣う麦泉に対しても、彼と同じ気持ちを込めた眼差しを向けてくる姫若子に対しても、平素いつもと変わらない調子で頷き返した。


「例えばカラシニコフ銃のように軍隊が使う銃なんか、僕は所持したこともありません。その代わりにの『聖剣エクセルシス』を握り締めてきたんです。アイシクル・ジョーダンと同じ状態になり得る条件は間違いなく揃っています」

「寅相手に秋葉原でブン回したバカデカいノコギリみてェな刀剣ヤツだよな、『聖剣エクセルシス』って。進士藤太このヤロウの話は耳を傾ける値打ちがあるってか? でもよ、キリサメ……」

「電知の気遣いは素直に嬉しいよ。その気持ちに応える為にも、僕は一歩でも〝先〟に進みたいんだ。現状いまのままじゃ海辺で交わした約束も果たせない」


 藤太が指摘した〝加害者の立場〟から推し量ってみても、アイシクル・ジョーダンの心が壊れた原因をキリサメは幾つでも挙げられる。

 故郷ペルーに横たわる格差社会の最下層を血と汚泥に塗れながら這い回り、暴力性の顕現あらわれともたとえるべき『聖剣エクセルシス』を振るい続けたキリサメは実感と共に理解しているが、生と死が鼻先ですれ違う〝場〟で倫理や道徳が吹き飛ぶほど圧倒的な〝現実〟に晒されていれば、〝人間らしい心〟など容易く喪失うしなってしまうのだ。

 有志連合によるGWOT対テロ戦争とは比較にならないほど限定的な規模であり、戦火が天をいたのもペルー国内の局地であったが、一七年というまだ長いとは言いがたい人生の中でキリサメも戦争と全く無関係でいられたわけではない。

 今は亡き実父を含めた二五人名もの日本人を人質に取り、突入部隊との最終決戦まで一二七日に亘って在ペルー日本大使公邸に立て籠もった犯人グループの〝同類項〟であるテロ組織とは、『聖剣エクセルシス』を手にするきっかけとなった事件以来、互いを潰し合う激烈な敵対関係となっている。

 ペルー国家警察とも手を組み、共通の敵であるテロ組織の壊滅に狂奔したのだ。密林アマゾン非合法街区バリアーダス拠点アジトまで攻め入り、奪い取った自動小銃で屍の山を築いたことも一度や二度ではなかった。

 青年海外協力隊の任務中であるが、亡き母でさえ国境を巡って紛争を繰り広げる隣国エクアドルのスパイではないかと首都リマの人々に疑われたのだ。キリサメが生まれた非合法街区バリアーダスにも隣国エクアドルとの武力衝突で瀕死の重傷を負い、後遺症で肉体からだの自由が利かなくなってしまった退役軍人が暮らしていた。

 ましてや一九九六年末から翌一九九七年にかけて『日本大使公邸人質占拠事件』が発生しているなかに母の胎内はらのなかで〝ヒトのカタチ〟に育ったキリサメにとっては、カラシニコフ銃といった〝戦争の音〟こそ子守歌の代わりであったのだ。


(……アイシクル・ジョーダンか。次から次へとが立ちはだかるもんだ。これで何人目だ? しかも、今度は〝相棒アイツ〟と同じ戦場に立った帰還兵かよ)


 故郷ペルーのテロ組織を壊滅させるに当たり、奇妙な成り行きから〝相棒〟として背中を預け合うことになった日本人傭兵も、フランス軍の外国人部隊エトランジェに所属していた頃、イラク・アフガン戦争に従軍していた。

 有志連合軍による誤射事件は、偶然に居合わせた戦場カメラマンが犠牲者と家族を撮影したことで国際社会に波紋を起こし、『嘆きの銃弾』と題された写真はピューリッツァー賞にも選ばれている。

 尤も、当のカメラマンは遺族の心情に配慮して本名を明かさず、授賞式にも通信社の人間が代理として出席したという。

 黒いニット帽をトレードマークにしていた日本人傭兵も骨董品さながらの古いカメラを趣味としており、キリサメにも乾いた大地の戦地で撮影した写真を何枚か披露している。

 アイシクル・ジョーダンと同じ誤射事件に遭遇したかも知れない相棒は、『聖剣エクセルシス』の刃で他者の血を吸い尽くすことに慣れ過ぎたキリサメを〝表〟の社会には適合できないと事あるごとに揶揄し、日本へ帰国した後に立ち上げる民間軍事会社PMSCで雇うとも誘ったのだ。

 二度と会いたくない相棒の揶揄ことばも、『聖剣エクセルシス』を握り締める手を血と罪にけがした過去も、〝表〟の戦場リングに立つことを望むキリサメにとっては呪いの鎖でしかない。逃れがたい事実として、これまでに幾度も『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーの心を縛り付けてきたのである。

 しかし、今のキリサメは己が背負った〝全て〟を超えて〝先〟を目指す覚悟である。だからこそ不躾かつ無神経としか表しようのない藤太に激昂せず、過剰に強い言葉で提起される問題にも真摯に向き合っているのだった。

 決意の強さを態度で示す親友キリサメの顔を誇らしげに見つめた電知は、これを応援するように肩を叩き、己の出る幕ではないと認めてソファに座り直した。


「俺に一発喰らわせたいなら師匠がやってください。拳を握って貰ったって構いません」

「回りくどい言い方しねェで、イッパツ気合いを注入してくれって頼めば良いだろ。〝元祖〟のおにつらあにィと違って手加減なんかしてやれねェから、本気マジで歯ァ食いしばれッ!」

「そうは言っても、お手柔らかにお願いしますよ、センパイ。本気で殴ってとーを怪我なんかさせた日には、法廷で日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを開催する羽目になりますからね」


 常日頃から何事にも無感情であり、自分自身の〝心の在り方〟すら淡々と処理しているように見えて、キリサメはまぶたを半ばまで閉ざした双眸に強い光を湛えている。

 その瞳に揺るぎない意志の力を感じ取った藤太は、キリサメと相対し続けるには己にも更なる覚悟を重ねなくてはならないと考え、岳に向かって右頬を差し出した。

 プロレスを愛する全ての人々の間で一種の〝儀式パフォーマンス〟となっているが、『アンドレオ』という通称リングネームを冠していた現役時代から鬼貫道明は平手打ちビンタでもって闘魂を注入するのがであった。彼が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』や、プロレス・格闘技に関連する催し物イベントいて、自ら望んで頬を差し出すファンも少なくないのだ。

 憤怒いかりとは別の感情で極太の眉を吊り上げた藤太は、偉大な恩人と同じ平手打ちビンタもって活を入れて欲しいと、師匠に願ったわけである。

 かつて『鬼の遺伝子』に名を連ねた同志として〝立会人〟を引き受けた麦泉は、この上なく迷惑そうな姫若子に一礼をもって詫びたのち、「元気があればやらいでか」という鬼貫の名文句を借りながら両者の間に立ち、乾いた音が天井に跳ね返る瞬間を見届けた。

 ペルーで生まれ育ったが為に『昭和の伝説』との接点もなく、プロレスファンであった母が折に触れて熱弁していた数々の逸話も殆ど聞き流したキリサメは、が気合いを入れ直すすべとも気付かず、「このマザーアースで誰よりも岳さんにを注入されたかったのは、マイファザーなんだけどな」と冷やかす沙門の口笛も、唖然と口を開け広げながら背中で受け止めた。


「……『心理状態に左右されて見境なくなるようではMMA選手としての適性を疑わざるを得ません』――」


 赤く晴れ上がった右頬を呆れたように凝視してくるキリサメと向き直った進士藤太は、先ほど再生させたスポーツ番組の中で『MMA日本協会』の理事――館山弁護士が述べていたことを再び繰り返した。


「――『スーパイ・サーキット』に関する報道は、調べられる限りの全部に目を通した。『天叢雲アメノムラクモ』の広報戦略も文多先輩から詳しく教えて頂いた。……〝プロ〟の洗礼を受けたらしいな。〝有名税〟と切り捨てるには胸糞の悪いものを……」

「僕個人ひとりなら迷惑を被っても別に構わないのですが、みーちゃんや『とうあらた』の皆さんが巻き込まれる事態だけは避けなければいけないと考えているところです」

「藪先生の医院ところまで押し寄せてきたマスコミ連中にお前が答えた内容こと――俺の記憶違いでなければ、自分の意思では発動させられないと言っていたな? 命の危険を感じた瞬間、自動的にスイッチが入ると」

を拡大解釈された挙げ句、知らない間に名付けられた『スーパイ・サーキット』が広まったわけです。〝有名税〟ということなら、これが一番高く付いた気がしますね」


 電知とは違って寅之助は未だに藤太への警戒を解かず、竹刀袋から得物を抜き放つ好機を窺い続けていた。

 彼らが横に並んで腰掛けているソファの真後ろに沙門は陣取っているが、それは〝剣道屋〟や〝柔道屋〟の暴走を即座に押し止める為の措置だけではなく、藤太の様子を正面から見据えられる位置から離れないという意味でもある。

 おそらく藤太自身も無意識なのであろうが、PTSDという疑惑をキリサメに対して突き付けるたび、右頬を抉った生々しい傷を左の人差し指で撫でているのだ。

 先程の平手打ちビンタで傷口が開いてしまうかも知れない右頬を声もなく見つめる沙門は、藤太に対する憐憫を顔に滲ませており、その念は時間が経つにつれて強くなっていく。

 依然として周囲まわりの空気は張り詰めているが、当のキリサメは藤太と真っ直ぐに向き合いながら、まるで座学のような受け答えを前のめりで続けていた。


「もはや、この時点で自分の心を自分で制御コントロールできなくなっているのは間違いない。……確かに『スーパイ・サーキット』は驚異的だ。同調するようで腹立たしいが、銭坪満吉が吹聴して回っている通り、〝MMAのゲームチェンジャー〟になり得るとも思う。瞬間移動テレポーテーションとしか言いようがない速度スピードも、大袈裟でなく本当に空をけた身体能力も、ドーピングが蔓延していた頃の『NSB』でさえ見たおぼえがない」


 禁止薬物を投与する肉体改造は『NSB』の試合場オクタゴンに人間の限界を突破する化け物モンスターを産み落としたが、『スーパイ・サーキット』はそれすらも凌駕していると藤太は断言した。

 前代表フロスト・クラントンの手で汚染され、MMA団体として成立していなかった時期の『NSB』からも退せず、己が立つ主戦場と心に決めた八角形の試合場オクタゴン化け物モンスターたちと闘い続けた孤高の『フルメタルサムライ』にしか辿り着けない見解であろう。


「キリーがMMA界を震え上がらせたのは、絶体絶命のピンチにブッ放す超必殺技だってさっきから何度も言ってるだろ⁉ 特撮ヒーローの必殺光線と一緒だぜッ! 化け物退治はお手のモン――キリーがもうちょっと早くMMAの世界に飛び込んで、『NSB』に中指を立ててたら、『スーパイ・サーキット』で現在いまとは違う決着ケリをつけてたかもな」


 あくまでも『スーパイ・サーキット』を養子キリサメに宿った異能ちからとして扱い、本人に代わって胸まで張る岳であったが、その一方で藤太の言葉を誰よりも神妙に受け止めている。

 この愛弟子と同じ『NSB』に所属していた旧友ミッキー・グッドウィンは、化け物モンスターが跋扈する〝見世物〟に貶められたMMAに失望して八角形の試合場オクタゴンに別れを告げたのだ。

 前代表フロスト・クラントンがアメリカ格闘技界から追放され、新代表イズリアル・モニワのもとで日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催が決定するまで現役に留まっていたなら、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長と拳を交える機会も巡ってきたことであろう。

 若かりし頃から好敵手ライバルとして意識し合ってきた旧友ミッキー・グッドウィンとの対戦という生涯の夢を絶たれた岳にとって、養子キリサメ異能スーパイ・サーキット化け物モンスターたちを超えたという事実は、その無念を晴らすものに違いなかった。

 だが、顔面に貼り付けたのは空元気に過ぎず、どこか虚ろな瞳はとても留飲を下げたようには見えない。人間という種を超えた『スーパイ・サーキット』がドーピングの化け物モンスターまさったところで、喪失うしなわれた夢は二度と取り戻せない――ぶり返した痛みを紛らわせようと、岳はやたら大仰な振る舞いで養子キリサメ異能ちからを誇るのだった。

 同じリングに上がる瞬間が限りなく近付きながら、運命の悪戯いたずらに妨げられてついに対戦が叶わなかった旧友ミッキー・グッドウィンは、現役引退から程なくしてこの世の人ではなくなってる。

 藤太のほうは先程の言葉に称賛とは反対の意味を込めている。それは酷く硬質な声色からも瞭然であった。


「万が一、『スーパイ・サーキット』が俺の危惧する発作モノであったならば、諸刃の剣などと恰好付けてはいられん。……波打ち際でも言ったな? あの異能ちからに頼り続ければ、お前の身を滅ぼし、周囲まわりにいる師匠たちまで不幸にする。それだけは絶対にまかりならんッ!」

「その小賢しい断定口調にもいい加減、飽き飽きだよ。そもそもサメちゃんを追い詰めてアソんでも許されるのはボクだけなんだよね。あんた、サメちゃんの何なのさ?」


 ここに至って、キリサメを精神的に痛め付けることが『フルメタルサムライ』の目的と断定したのであろう。帆布製の竹刀袋を放り捨てながら立ち上がった寅之助は、右手一本で構えた竹刀の剣先を藤太の喉元に向けた。

 口の端を微かに吊り上げてはいるものの、両目は少しも笑っていない。幼馴染みの寅之助でさえ過去に数えるほどしか見たおぼえがない面相であった。四ツ割の竹片を組んだ刀身に漲るのは剥き出しの殺意であり、それははげしい義憤から発しているのだ。

 彼は『八雲道場』から雇われたキリサメの身辺警護ボディーガードである。その警護対象キリサメに心を斬り裂く不可視の刃が振り下ろされたなら、竹刀をもって受け止めるのは当然であろう。

 尤も、思考あたまから身辺警護ボディーガードの任務が抜け落ちている。ただ純粋に友人キリサメの為、『タイガー・モリ式の剣道』を解き放とうとしていた。

 そのキリサメから「僕をいたぶるのが目的ねらいだったら、それこそ寅之助おまえみたいに逃げ場を絶つ罠を仕掛けてきたはずだ」と宥められても寅之助は竹刀を引こうとしない。それどころか、徐々に剣先を下げ、斜めの軌道を描くような突きで喉笛を食い破ろうとしている。


「仮に嫌がらせ以外の魂胆があったとしても、時間切れで締め切っちゃうよ。下手な一人漫談みたいに喋り倒しておいて、そのテの言い訳も並べられないバカにこれ以上、耳を貸してあげるのは無駄の極みだよ、サメちゃん。限りある時間は有意義に使わなくちゃ」


 この場に居合わせた者たちの中でも、昨年のペルーを震撼させ、キリサメの幼馴染みである・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの命を奪った反政府デモ――『七月の動乱』を詳細に把握している人間はごく一部に限られる。親友の電知でさえ知らないのだ。

 労働者の権利を脅かし兼ねない新法の撤回を求めて〝大統領宮殿〟を目指すデモ隊と、これを阻まんとする国家警察の衝突は銃撃戦にまで発展し、その犠牲者数は両手両足の指を使い切っても全く足りないほどであった。

 の民を政府転覆の尖兵に仕立て上げるべくペルー社会の不満を煽ったのは、キリサメと幾度も殺し合ってきたテロ組織の一派だが、将来的に政府を脅かすであろう不穏分子をしたい国家警察長官までもがこの陰謀を利用している。テロリストを取り締まるべき国家警察の長がペルーの民に無意味な犠牲を強いるテロ計画に関与したのだ。

 〝テロとの戦い〟に勝利を歴史的栄光として喧伝してきたペルーにとって、国家警察長官の交代劇を含んだ『七月の動乱』は最悪の痛恨事であり、各国のニュースや新聞でも相応の大きさで報じられている。

 〝地球の裏側〟で起こった惨劇にキリサメとその近親者が巻き込まれていた事実を誰よりも早く突き止めたのは、秒を刻むごとに殺意が膨らんでいく寅之助である。

 キリサメが故郷ペルーを探り、『七月の動乱』との死を挑発に利用したこともあったが、幼馴染みを喪失うしなった痛手ダメージが寅之助の想定を遥かに超えて深刻であると知って以来、怒れる民が銃を取った為に引き起こされた悲劇には二度と言及しなかった。

 他者ひとの〝誇り〟をし折って弄ぶような享楽家ではあるものの、祖父の代からの恩人に当たる森寅雄タイガー・モリの名を口にする際には一礼を忘れず、性根から邪悪というわけでもない。だからこそ、戦場の誤射事件に遭遇して〝心の傷〟が致命的な域に達してしまったアイシクル・ジョーダンとキリサメを無神経に結び付ける藤太の前に立ちはだかったのだ。

 寅之助が不似合いとも思えるほど義憤を燃えたぎらせる理由と、余人に気取られないよう胸の奥に隠した繊細さが竹刀を凶器に変えたことを察していればこそ、キリサメは短慮を諫めずにはいられないのだった。

 明確に害意が宿った剣先を突き付けられている藤太からすれば、本来はキリサメ自身が浴びせるべき憤激を寅之助が代弁しているようなものであった。

 キリサメやその仲間たちから敵視されて当然という内容ことを口にしている自覚もある。だからこそ藤太は竹刀をもって割り込んできた寅之助を無礼と面罵せず、己の急所に狙いが定められた剣先から逃れようともしないのだ。

 それどころか、「俺がキリサメをいびっていると感じたら、迷わず突け」と一等強い眼差しで言外に促してもいる。

 その竹刀はキリサメの心を映す鏡として藤太のに映っているのだろう。奇しくも『八雲道場』のかかりつけ医であるやぶそういちろうが寅之助に託した役割と重なっていた。

 過去という名の足枷を振り落とすような勢いで未来への〝道〟を踏み締めんとする親友キリサメを真っ直ぐに信じる空閑電知と、まるで自分自身を切り刻むようにして言葉を連ね続ける藤太から目を離さないきょういし沙門は、案じる相手こそ異なっているものの、寅之助の振る舞いを「暴挙」の一言で切り捨てない理由は一致していた。

 無論、は藤太とも共有している。自重の呼び掛けに代え、拾い上げた竹刀袋を寅之助に手渡さんとした麦泉でさえ、三者の意を酌んだ岳によって押し止められていた。


「アイシクルと同じ苦しみが繰り返されそうになってるんだぞッ⁉ しかも、未来ある少年が……ッ! 無関係だからと黙って見過ごせるかッ⁉ 放っておけるものかよッ!」


 藤太が全力で迸らせた吼え声は凄まじく、寅之助が構えた竹刀の剣先も微かに揺れた。

 一触即発の状況を注視していた姫若子も思わず両耳を塞いでしまったが、その熱量こそが友を想って怒りに震えた寅之助に対する藤太の誠意というわけだ。

 腹の底から張り上げられた大音声をじろぎ一つせずに受け止めたキリサメは、亡き友に思いを馳せる藤太の右頬を滑り落ちた一筋の涙も両の瞳で追い掛けている。は師匠の平手打ちビンタを受けて真新しい傷から滲み出した小さな血の粒を洗い流していった。


(どこまでも似た者師弟なんだな。世界で最も完成された総合格闘家――それを育てることが出来るのは世界で岳氏だけだ)


 天叢雲アメノムラクモ』のリングに上がることが果たして適切なのかと疑ったのも、MMAの概念を覆し得る『スーパイ・サーキット』に頼ってはならないと強く戒めたのも、キリサメの心身を本気で心配している為であった。

 〝師匠の養子〟という間接的な繋がりがあるとはいえ、進士藤太にとってキリサメ・アマカザリは今日まで挨拶を交わしたこともなかった他人である。ましてや『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の時代から数多の闘魂が吹き込まれてきたリングを『スーパイ・サーキット』によって破壊してしまったのだ。

 日本のリングに立つプロレスラーひいてはMMA選手全ての〝天敵〟とされても異を唱える資格すらない少年のもとに海まで超えて駆け付け、周囲まわりが呆れるほどの勢いで案じる理由がキリサメ本人にさえ分からなかった。

 しかし、脳内あたまのなかで捏ね繰り返す理屈など『フルメタルサムライ』には関係ないのである。

 キリサメとの間を直線的に結び付ける絆の有無など藤太には些末なことに過ぎない。例え己と何の繋がりのない相手であろうとも、そこに苦しみの形を見つけたならば、全身全霊で救いの手を差し伸べずにはいられない。

 人を助けるのに理由など持たない。そう言い切れるほどの情熱を燃えたぎらせ、一直線にぶつかっていく――それが進士藤太という男なのだろう。何処かより耳に泣き声が飛び込んできたなら、これが聞こえてくる方角を確かめるより先に肉体からだのほうが動くはずだ。

 初対面に加えて、為人ひととなりすら僅かな伝聞でしか知らなかったキリサメだが、藤太の突拍子もない言行を今では得心している。その精神たましいに八雲岳が重ならないわけがなかった。

 数え切れないほどの観光客が餌食となっているペルーの貧民街スラムへ自ら飛び込み、ギャング団に襲撃される危険を冒しながら親友の忘れ形見を捜し当て、養子として日本に迎えてくれたことだけではない。

 東日本大震災発生の直後には支援物資を満載したトラックで被災地に駆け付け、東京に戻るや否や、団体の垣根を取り払って一丸となり、東北復興を支援しようと日本格闘技界全体を動かしたのが八雲岳なのである。

 キリサメがPPVペイ・パー・ビューで視聴した『NSB』の試合では、師匠直伝の『超次元プロレス』を巧みに使いこなして対戦相手を撃破していたが、この愛弟子が最も強く受け継いだのは、人間として何よりも大切な精神たましいであったのだ。

 が師匠にとっては『忍法体術』ひいては『超次元プロレス』を極めてくれたことよりも遥かに嬉しかったのであろう。PTSD疑惑に対する反論をね付けられたときには怒り狂っていた岳も、キリサメを放っておけないと藤太が吼えた瞬間、ハチミツを一気飲みしたかのような表情かおに変わってしまった。

 歩む〝道〟こそ分かれたものの、今でも岳が実兄の如く慕うヴァルチャーマスクは、児童養護施設などを援助する篤志家であった。プロレスの門を叩くきっかけとなった恩人ヴァルチャーマスクから受け取った精神たましいを愛弟子にも伝え切れたという証が瞳の中央に映っているのだ。

 場違いな笑い声まで洩らし始めた岳を諫めるべき立場の麦泉も頬を緩めていたが、眉を顰める者などこの場にはいない。三人の様子を順繰りに見比べるキリサメも、進士藤太という存在をライトヘビー級の体躯以上に大きく感じていた。

 それはつまり、人間としての〝器〟が岳に勝るとも劣らないほど大きい証左である。

 指一本をただ動かすだけで満員の観客席を沸騰させることが出来るレオニダス・ドス・サントス・タファレルとはが異なるものの、これもまた花形選手スーパースターの資質であろう。

 近ごろ聞いた『世界最強』はその称号で畏怖される代償であるかの如く〝人間らしさ〟を喪失してしまったようであるが、〝のMMA選手〟と、彼を育て上げた師匠はまさしく対極であり、これからも変わらずにって欲しいと願わずにはいられなかった。

 そして、キリサメは『八雲道場』の師弟と同じ精神たましいの持ち主をもう一人知っている。亡き友人アイシクル・ジョーダンに思いを馳せ、同じ悲劇を繰り返させまいと旅客機に飛び込む情熱は、藤太の吼え声をこの上なく嬉しそうに聴いていた親友と重なるのである。

 藤太に竹刀を向け続ける寅之助は、キリサメより僅かに早くその結論に達していた。小学生の頃だが、風変わりなじゅうどうを纏う幼馴染みは過酷な修練を児童虐待と誤解し、これを食い止めるべく『タイガー・モリ式の剣道』の道場に乗り込んできたことがあるのだ。


「……『地獄への道は善意で敷き詰められている』とはよくぞ言ったものだよ。すっかりサメちゃんの守護神気取りだけど、貧乏神にならないようせいぜい気を付けなさいな」


 藤太がキリサメに向ける精神たましいは、幼馴染みのそれと何も変わらない――しかし、素直に認めてしまうのも面白くない寅之助は、悪態をきながら竹刀の剣先を下げた。

 一方で、麦泉から納めるべき竹刀袋を受け取ることは拒んでいる。藤太が敵でないことには納得したものの、それとキリサメの心を傷付け得る可能性は別問題であり、臨戦態勢を完全に解くつもりもない。

 何もかもがしゃくに障ると言わんばかりにそっぽを向いてしまった寅之助に対し、沙門はその右肩に手を添え、いたわるようにして二度三度と軽く叩いた。


「進士氏の助言と、あのDVDを見せて頂いた意味も重く受け止めています。『天叢雲アメノムラクモ』のルールが試合中に頭から抜け落ち、MMAそのものを踏みにじったことは経験不足で言い訳できるものではありません。〝プロ〟を名乗るに値しない未熟をどうやって克服すれば良いのか、何が最良の選択なのか。少し時間をください」


 極太の眉を吊り上げたままキリサメの言葉を受け止める藤太であったが、〝心の傷〟が完治するまでMMA興行イベント出場を見合わせるべきという自分の呼び掛けに反するような返答こたえを怒号で切り捨てることはなかった。

 キリサメは過度に感情を昂らせず、〝次〟にすべきことを淡々と述べた。

 それを「克服」とも言い表したが、この二字は急場しのぎや時間稼ぎを試みる人間の口から発せられるものではない。致命的な事態を招き兼ねない現在いまの不足を直視し、一歩たりとも逃げない姿に〝プロ〟と名乗るに相応しい誠意を感じ取ったからこそ、聞きようによっては結論の先延ばしとも思える言葉に藤太は深く頷き返したのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』がの如く扱い、銭坪満吉も持てはやした貧民街スラムの喧嘩殺法を『MMA日本協会』が懸念していることにもキリサメは言及していた。安全性を確保する為に定められたルールへの無理解が危険行為の乱発という事態を招いたと自覚しているのだ。

 こそが〝暴力〟に頼らなければ格差社会の最下層で生き残れなかった新人選手ルーキーに問われる根本的な〝問題〟であった。人間という種を超える〝力〟などと喧伝される『スーパイ・サーキット』は、のである。

 自分の提案に従わないというだけで機嫌を損ね、真摯の二字を体現する姿勢で〝次〟を目指しているキリサメを更に叱り飛ばすような人間であったなら、そもそも進士藤太は鎌倉へ急行することなどなかったはずだ。


「その前に一つだけ、岳氏の名誉の為にも申し上げたいのですが、〝心の専門医〟への相談というか、心理療法は既に始めています。進士氏が心配してくださったPTSDの検査も受けましたし……」

「キリサメ君、それは……」


 〝心の専門医〟――つまり、心的外傷後ストレス障害PTSDの治療も担う精神科医のもとで心理療法が進んでいることをキリサメはちゅうちょなく口にしたが、傍らで見守っていた麦泉はこれに慌てふためいた。

 『スーパイ・サーキット』が使用者キリサメの心身に与える影響を医療の視点から見極めようというケースカンファレンスにも担当マネージャー及びセコンドの〝立場〟として出席した麦泉は、当然ながら心理療法の概略も把握しているが、この場には会議が設けられたこと自体を知らない人間のほうが多かった。

 麦泉を除けばキリサメ本人と岳のみだ。繊細な領域の話し合いである為、身辺警護ボディーガードとして『八雲道場』に雇われた寅之助や、新天地とも呼ぶべき道場『とうあらた』にもケースカンファレンスのことは通知していない。

 何しろ会議の焦点は〝心の在り方〟そのものである。治療の経過などをに知られることで心理的な負担が更にし掛かるのではないかと案じる麦泉に対し、キリサメは今度もちゅうちょなく頷いて見せた。

 所属団体間の対立関係を超えて親友となった電知や、魂に巣食った〝闇〟を映し出す鏡の役割をも託した寅之助は言うに及ばず、次世代の空手家たちが理不尽な体罰に苦しめられないよう根性論といった古い悪習を断ち切らんとする沙門のことは、ときに劣等感を覚えてしまうほど尊敬している。

 〝先輩〟の姫若子は〝兼業〟の形で身を置く地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』がキリサメを取り込もうと図ったとき、その仲間たちを裏切ってまで引き抜き行為ヘッドハンティングの阻止に動いたのである。

 初めて言葉を交わしてから数時間と経っていないものの、八雲岳がヴァルチャーマスクや鬼貫道明の生き様から学んだ精神たましいを真っ直ぐに受け継ぐ進士藤太フルメタルサムライは、信頼性を疑うほうが難しいくらいであった。

 心から信じられる人々へ己の〝全て〟を晒すことにキリサメは抵抗などなかった。

 壊れてしまった精神こころは二度と快癒しないという誤解や、その治療に対する無理解が生み出す偏見は未だに根深く、周囲まわりからの不当な仕打ちを恐れて家族にさえ苦しみを打ち明けられない者が多い。

 だからこそ麦泉はキリサメによる不意の告白に身を強張らせたのだが、彼を取り巻く仲間たちから奇異の目を向ける者は現れなかった。電知に至っては「キリサメの話にそんな狼狽うろたえる要素なんかあったか」と首まで傾げている。

 具体的な症例や治療方法に至るまで〝心の病〟が広く知られるようになった現在いまは、特殊とも異常とも扱われず、として認識されているわけだ。

 脳内あたまのなかで思い返すことさえ憚るほどおぞましい言葉が〝心の病〟に平気で浴びせられていた時代を知る麦泉だけに、肺の中身を空にするような安堵の溜め息は一等重かった。


養父とうちゃんが養子キリーのことを放っておくわけねーだろ。藤太から見たら上出来じゃねぇかもだけどよ、オレなり寄り添ってるつもりだぜ。格闘家にとっちゃ肉体からだと同じくらい精神メンタルのケアが欠かせねェって、ちゃんと理解わかってらァ」

「ボクの記憶違いかなぁ? 『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長サマってば前回の興行イベントの間、浮かれ気分でサメちゃんを半ば放置してなかったっけ? これからデビュー戦を迎える新人選手ルーキーをさ。アイドル声優のマネージャーのほうがよっぽどサメちゃんの面倒見てたおぼえがあるんだけどねぇ。準備運動ウォーミングアップすら大鳥聡起サトさんが付き合ったって言うじゃないの」

本当マジかよ、それ。おれが託した武神の守り袋も試合開始までに届かなかったし、思ってた以上に大混乱ガタガタな中でのデビュー戦だったんだな。をキリサメは特に愚痴っちゃいねーけどよ、ひっくり返せば養子こどもに気ィ遣わせてる証拠だろ。……養父とうちゃんを名乗りてェなら真剣マジに反省したほうが良いぜ、岳のおっさん」

「……上出来どころのハナシじゃねーわ。一ミリも反論の余地がねーわ……」


 切れ味鋭い寅之助の指摘ツッコミと、心の底から呆れ果てたような電知の注意に叩き伏せられた岳は、誰に促されるでもなくソファの真横に正座した。

 一つの事実として『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行当日の岳は恩人ヴァルチャーマスク来訪に浮足立ち、迷走といっても過言ではない情況であった養子に気付かず、初陣プロデビュー焦燥あせりを更に煽る浅慮な言行を繰り返してしまった。

 こればかりは猛省以外には有り得ないが、興行イベント終了後の対応は真逆である。

 現在いまのキリサメよりも若い年齢でプロレスのリングに立ち、異種格闘技戦を経てMMAまで闘い続けてきた岳は、格闘技の試合で受ける損傷ダメージの深刻さが肉体と精神の双方で大きな差がないことを痛いほど実感しているのだ。

 肉体と同じく精神メンタルの負傷も早期発見・早期治療が不可欠と理解していればこそ、ビェールクト・ヴォズネセンスキーが抱いたPTSD疑惑をキリサメにも伝え、彼自身の意思を確認した上で〝心の専門医〟を訪ねた次第である。

 ボクシングジムの関係者とテレビ局の思惑によって国民的英雄ヒーローの如く仕立て上げられ、その虚飾に何もかも狂わされていったひきアイガイオンや、トレーナーでもあった実父から花形選手スーパースターであることを強要されて一度は道を誤ってしまった『NSB』の絶対女王ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンとはこの点が決定的に異なっていた。

 『NSB』の〝同僚〟であるジュリアナが実父という呪縛によって追い詰められていく姿を間近で目の当たりにしてきた進士藤太であったればこそ、養子むすこに寄り添う意思と覚悟を岳に問わずにはいられなかったのである。

 その藤太は目を剥いたまま呆けたように立ち尽くしている。つまるところ、岳の返答こたえは彼のなかで全く想定していなかったものというわけだ。


「病院に連れてくだけじゃなくて、オレなりにPTSDのコトを色々と調べてみたとも。諸々と照らし合わせた上で、『スーパイ・サーキット』は藤太おまえが心配するようなと違うっつってんだ」

「し、師匠の主観で物を語ってるんじゃないでしょうねェッ⁉」

とーもお世話になった藪先生から信頼できる精神科医も紹介して貰っているよ。その先生の助言アドバイスありきだから、決してセンパイの独り善がりなんかじゃないよ。調べものだって僕が一緒だったから、それは安心して欲しいかな」

「お前が心配してるのはパニックの発作だけじゃねーよな? ……自傷行為とか睡眠障害とか、命の危険に繋がっちまう症状にキリーは当てまらなかったよ。当然ながら、コレは『きりしま』っつう先生にもちゃんと確認してもらっているぜ」

「文多先輩……?」

「例えば睡眠障害の疑いなんかは、センパイ自らキリサメ君に添い寝して確かめたから大丈夫だよ。……性格が豹変して誰かに当たり散らす姿だって、僕たちは過去に一度もおぼえがないんだ。経過観察に変わりはないけれど、僕もセンパイと同じ気持ちだよ」

「今、なんで文多に真偽を確かめんだよ⁉ 口から出まかせなんて言うかッ!」

「い、いえ……、そ、そんな気配りが出来るようになっているなんて、昔の師匠を知っている人間は、俺だけじゃなくて、誰も信じられんのではないかと……」

「岳氏は日頃の行いがよろしくないですから、進士氏の判断は当然の帰結ではないかと」


 岩手興行当日の様子を寅之助に揶揄された直後ということもあり、キリサメ本人の指摘ツッコミに対して岳は歯軋りを反論に代えるしかない。

 いずれにせよ、豪放磊落と粗忽を履き違えたような師匠はキリサメの〝心の傷〟に気付かず、適切な治療も施さないまま放置しているに違いないと一方的に決め付け、その反論を否定し続けたのが藤太の大失態であることは疑いなかった。

 実際には独り善がりの民間療法によって症状を悪化させることもなく、〝心の専門医〟にも頼っていたのである。その事実を確認しても師匠の言葉が信じられず、かぶりを振り続ける藤太の脇腹を麦泉が諫めるように肘で小突いた。

 ここに至って度を越した早とちりを悟った藤太はアヒルのように唇を窄め、それまで吊り上げていた極太の眉を正反対の気弱な形に変えた。血の気が引いた顔からは大量の汗も噴き出している。

 精強の二字を人の形と取っているかのような偉丈夫だけに、気概が崩れた途端に情けなさが際立つわけだ。『フルメタルサムライ』という異名とは裏腹に案外と打たれ弱いことが露見した恰好でもあり、数分前との落差にキリサメはただただ驚かされた。

 見る者を圧倒する体躯以上の存在感すら錯覚であったのかと混乱してしまうのだが、藤太は酷くしょぼくれた様子で岳の隣に正座し始めた。

 『NSB』の試合場オクタゴンでは、叩き伏せた対戦相手が応急手当を受けている間にも正座で待機しており、背中に芯棒を通したかのような姿勢によって武士サムライを冠する異名を体現していたが、現在いまは真逆の印象である。


「結局、間抜けを晒す為に日本まで飛んできたってオチかな。雰囲気だけは御大層だったけど、拝聴してきたのがバカらしくなるくらい意味なかったね、これまでのハナシにさ」

「マーシレスにスラッシュしてやらないでくれよ、剣道屋。人間のハートはロジカルにコントロールしきれないモンだろ? とりわけストロングにチャージしてくるエモーションには素直になっちまうもん。感情ある生き物のエビデンスってワケさ」

「なになに? 今のって二股三股がバレたときの言い訳? 尤もらしい言い回しで他人のことを庇うより先に空手屋キミ制御コントロールできるようになろうか」


 腹を三文字に切り裂いて謝罪の言葉に代えそうな藤太を揶揄する寅之助を窘め、逆に手痛い反撃を受けてしまった沙門であるが、結果的に擁護しようのない空回りとなった原因は察しているようだ。

 「ストロングなエモーションには素直ってのがジェントルの哲学」と、自己弁護にすらなっていない妄言と共に左頬を掻きつつも、瞳の中央には依然として藤太の右頬を捉えている。顔面が蒼白になったことで、肉を抉られた痕跡が一等生々しく感じられた。


「岳のおっさんがキリサメにべったりだった理由だけは判明したじゃねーか。さっきの寅の話からてっきりデビュー戦の罪滅ぼしなのかもって思ったんだがよ、直球勝負の〝養子むすこ思い〟をぶつけられちまったら、しつこ過ぎるのは嫌われる原因もととも冷やかせないぜ」


 〝大人〟たちの間で交わされる言葉へ耳を傾ける内に、電知も近頃の岳が養子キリサメに過干渉であった意味を理解したようだ。

 その電知も今や汗みずくとなった藤太のことを無駄な勇み足などと嘲ってはいない。沙門とは異なって右頬の傷には注目していないのだが、心の底から親友キリサメを案じてくれたことへの感謝は彼が正座し始めた後も微動だにしていないのである。

 肩を並べながら揃って項垂れた岳と藤太に対する〝似た者師弟〟という印象も、そこに抱いた親しみの気持ちも、キリサメと分かち合っているのだった。


「空閑君の言う通り、子どもの些細な変化まで気を配るのが〝大人〟の責任つとめなんだよ」


 その電知に同意したのは姫若子である。地下格闘技アンダーグラウンド団体の仲間に首を頷かせながらも、〝大人の責任つとめ〟を説くかのような一言は、道場の〝後輩〟に向けたものであった。

 『スーパイ・サーキット』にまつわる疑惑や、〝後輩キリサメ〟を取り巻く人々のぶつかり合いを第三者的な〝立場〟から見守り続けてきた姫若子は、この瞬間にける己の〝役割〟を見定め、の差し出口という逡巡を踏み潰すようにして身を乗り出した次第である。


「アマカザリ君もだから、へ出掛けるにも付き纏われたり、四六時中、見張られているように感じてうっとうしいかも知れないがね、〝大人〟というのは自分が若い頃に味わった痛い思いなんかを振り返って、ついつい子どもの一挙手一投足に全神経を集中させてしまうものなんだよ。それをどうか束縛とは思わないであげて欲しい。八雲さんもキミを大切に想っていればこそなんだよ」

うっとうしいというか、岳氏の場合は暑苦しいですね。進士氏がこの人の弟子というのも納得の一言ですよ。……そして、その一つ一つに僕は感謝以外の言葉がありません」

「……子どもは大人が思っている以上に〝大人〟だということをうっかり忘れていたよ」


 岳や麦泉が自ら口にした場合、自慢話のように感じ取られてしまう可能性があることをとして言い諭し、〝大人に頼ること〟への遠慮をキリサメから取り払う――それこそが己の役割であろうと姫若子は考えたのだ。

 例えばプロデビュー戦の直前に起きたという混乱も、「余所見して新人選手ルーキー補佐サポートを疎かにするな」と、セコンドという〝大人〟たちに気兼ねなく文句を浴びせられるくらい心を通い合わせていたなら、おそらくは回避できたはずなのだ。

 道場『とうあらた』の〝先輩〟として、姫若子もまたキリサメの抱える課題と真剣に向き合っている。

 〝家族〟にも相談しにくいような悩みを抱えたときには、自分や師匠のがわだいぜんを頼れば良い――そのことを眼差しでもって告げられた〝後輩キリサメ〟は、一秒たりとも躊躇ためらうことなく〝先輩〟に頷き返した。

 現在いまのキリサメは迷走を重ねた初陣プロデビューのときより〝大人に頼ること〟を受けれている。だからこそ、進士藤太が一方的に並べ立てた言葉の一つ一つも彼のなかで成長の糧に換わることであろう――と、姫若子は信じて疑わなかった。


「そういう意味では貴方は大人失格ですよ、進士さん。率直に物を言うことと、人の気持ちを省みないこと、この二つの違いを自分自身に問い直してください。大人を標榜して年少者に訓示を垂れるのはそれからでしょう」

「うぬ……ッ!」

「しかも、これは非常に繊細な問題のはず。亡き友人を思う気持ちは痛いくらい伝わってきましたが、だからといって感情任せでぶつかるのは、自分には配慮を欠いているとしか思えませんよ。……日本が世界に誇る『フルメタルサムライ』がこの有り様とは、情けないやら哀しいやら。貴方こそ八雲さん――お師匠から厳しく説教されるべきでは?」


 姫若子は正論しか述べておらず、藤太はますます恐縮して押し黙った。己の浅はかさを理解できないほど愚かではない証拠というべきか、急激に小さくなった背中には悔恨の二字が滲んでいる。

 の一喝によって思考も冷静さを取り戻し、ここに至るまでのを省みたらしい藤太は、これ以上ないほど神妙な面持ちで姫若子に向き直ると深くこうべを垂れた。


「……お邪魔しています」

「この流れで言うのがそれかッ⁉」


 前後の脈絡を完全に無視して飛び出した藤太の挨拶に面食らい、顎が外れそうになるくらい大きく口を開け広げた姫若子が素っ頓狂な声を迸らせると、その滑稽としか表しようのない場景を笑い声が満たしていった。

 賑々しい只中にって、キリサメの脳裏には〝大人に頼ること〟を諭した姫若子に揺り動かされる形でる言葉が甦っていた。


「――キミはおいらの親友みたいなコトにはならないよ。アイツとはが違う。正直、目付き自体はそっくりさんかってくらいビックリしたけど、の力は似ても似つかないよ」


 不意に通り過ぎていったその声は、目の前で笑っている仲間や家族の物ではない。故郷ペルーや『天叢雲アメノムラクモ』で関わった〝誰か〟の物でもない。

 『八雲道場』のかかりつけ医であるやぶそういちろうから紹介を受け、初めて〝心の専門医〟を訪ねた日に聞いた言葉がキリサメを追憶の水底へと引き込んでいった。

 例えば『天叢雲アメノムラクモ』が好んで触れ回るような誇張の類いではなく、この世界にいて真に『最強』の称号が相応しい傑物おとこと初めてした日の記憶とも言い換えられる。



                     *



 PTSD疑惑の診断から始まり、魂に根を張った〝闇〟の克服に向けて協力を仰ぐことになった『きりしまゆう』という名の精神科医は、日本MMAにける己の〝立場〟を〝得体の知れない新人選手ルーキー〟と捉えているキリサメの目から見ても相当に風変わりであった。

 〝心の専門医〟に罹ること自体がそもそも初めてというキリサメには他の病院は分からないが、きりしまの診察室は若葉を基調とするアースカラーの壁紙で彩られ、窓から差し込む陽の光も診察を受ける者に圧迫感を与えない程度にアルミブラインドで抑えられている。

 何事にも無感情なキリサメでさえ気付かない内に優しい雰囲気に包まれ、浸ってしまう環境が整えられていた。

 医師と患者はL字型のテーブルを挟んで向かい合う形であるが、レントゲン写真フィルムを貼り付ける板状の投影機シャウカステンが設置されていた藪整形外科医院に対して、きりしまの手元にはノートパソコンと電話機以外には筆記用具くらいしか見受けられない。

 きりしま個人の趣味であるのか、それとも患者との会話の糸口を作る為に用いるのか、二枚の天板を嵌め合わせる境い目の辺りには、年季の入った二つのヨーヨーがそれぞれ台座に乗せられた状態で飾ってある。

 これらを除くと、机上には紅茶ハーブティーの注がれたティーカップが二つのみ――診察は対話が中心であり、数分では完了しない為に喉を潤す飲み物が用意されるわけだ。初診の場合は一時間近く要することもある。

 柔らかな内装とは反対に、きりしまゆう自身は医師の資格を疑ってしまう風変わりな出で立ちであった。白衣こそ羽織っているものの、その下はTシャツに半ズボンという普段着さながらの組み合わせなのだ。

 どちらも横縞柄であるが、上が淡い緑と深い紫、下が空色に鮮やかなピンクと、彼の辞書には統一感という言葉が載っていない様子であった。

 その上、眉間を覆い隠すようにしてバンダナを巻いている。サングラスを掛けて陽気に笑う笑顔の模様が全体に散りばめられており、心が荒んだ人間は馬鹿にされているものと感じる危険性おそれがあった。

 この奇天烈としか表しようのない風貌は、見る者の心を和ませる顔立ちを一層際立たせる役割を果たしているのかも知れない。

 義弟おとうとおもてひろたかと同い年ではないかと間違えそうになる童顔である上、小柄な電知よりも更に頭一つ分は背が低いのだが、腹から大きく突き出した贅肉は中年以上であることを強く主張しており、その落差にキリサメは少しばかり面食らってしまった。

 しかし、自分の夢に一直線で突き進む電知のようにとは言いがたい。目元の皺さえ慈悲深さの表れと感じてしまうのだが、瞳の奥に湛えたが親友とは正反対なのだ。

 今までってきた人間に照らし合わせてみると、ペルー政府転覆を企てるテロ組織壊滅の為に共闘した国家警察のワマン警部や、フランス軍外国人部隊エトランジェの一員としてイラク・アフガン戦争にも従軍したニット帽の相棒と同じ雰囲気を纏っていた。

 同じ非合法街区バリアーダスで暮らしていたペルー・エクアドル国境紛争の傷痍軍人も、キリサメは併せて想い出している。

 それ故、きりしまゆうに対して懐かしさすら感じてしまった。それは相手も同様だったのか、テーブルを挟んで対面した瞬間に椅子から立ち上がるほど驚き、次いで診察室ここではない遠くを眺めるように目を細めたのだ。


「――〝そうさん〟もそっくりってビックリするハズだわな。いや、背格好やかおかたちは似ても似つかないのに〝そっくり〟はおかしいか。それにしたって、たった一つの顔のパーツだけでここまでの面影を感じるとは思わなかったよ」


 初対面でありながら、互いの顔に郷愁にも近い感情を抱くという奇妙な構図であった。きりしまゆうのほうは〝誰か〟の生き写しと錯覚したような反応とも言い換えられるだろう。藪総一郎との間で事前に取り交わされていたものとおぼしき私信を振り返った呟きにも、が表れている。

 自分の病院をキリサメに紹介した藪総一郎をきりしまゆうは「総さん」と愛称で呼んでいた。実年齢より二回り近く老けて見える『八雲道場』のかかりつけ医と目の前の医師を顔立ちだけで比べてしまうと、祖父と孫のように間違えそうになるが、二人は同世代なのだ。

 同郷であることも間違いあるまい。それはつまり、〝甲斐古流〟の筆頭たるあいかわじんつうと同じ『しんげんこうれんぺいじょう』で生まれ育ったということでもあった。

 キリサメの通院日を狙って病院に押し掛けてきた無礼な記者たちを総一郎は十文字槍を振り回して追い払ったが、きりしまが飾っているヨーヨーも円盤の内側に仕込まれた無数の刃が回転に合わせて飛び出し、標的を切り裂く〝隠し武器〟ではないかと疑ってしまった。

 これを荒唐無稽な妄想という一言で片付けられないのは、キリサメが故郷ペルーで繰り広げてきた〝実戦たたかい〟をきりしまゆうがまるでかの如く理解した為である。

 きりしまゆうは〝一般〟の精神科医だが、藪総一郎の説明によると犯罪心理学も専門的に研究しており、依頼に応じて『犯罪心理鑑定』という〝立場〟から公判にも携わるそうだ。

 主として被告人の精神状態を分析し、事件に対する責任能力の有無や審理継続の可否を判断する『精神鑑定』に対して、『犯罪心理鑑定』は事件当日の精神状態ではなく人格形成の基盤となった過去の生活環境や、家族を含めた周辺人物との関係性などを調査し、犯罪に至った道筋を多角的に探っていく手法である。

 『しんげんこうれんぺいじょう』の特異性も加味するならば、きりしまゆう殺傷ひとごろしすべを知り尽くし、実際に他者ひとを死に至らしめた経験者との対話にも慣れている。キリサメと向き合うのに打ってつけという藪総一郎の推薦は、誇張ではなく事実というわけであった。


「総さんから同じ説明を受けたかもだけど、おいらたち医師は患者の個人情報に対して守秘義務がある。勿論、〝ヤバい話〟を聞いちまったらの一員として通報の義務が生じる――と思うだろ? 他国ペルーでの武勇伝ヤンチャは日本の法律では裁けねぇ。ひょっとすると裁けんのかな? 専門外のコトには〝障らぬ神〟ってのがおいらのポリシーでね、この診察室では治外法権よろしくしていこうってワケ」

「誘導尋問のように聞こえる――という野暮は置いておくとして、事前に頂いたチェックリストでは犯罪心理研究への協力に同意することを求められなかったような……」

「総さんにヘンな冗談を吹き込まれたのかも知んね~けど、少なくとも当院ここじゃ患者のカルテを研究材料に転用なんかしね~って。信用第一の秘訣は守秘義務第一。過去の症例なんかも秘匿性がないモンや、公になってるコトしか話さないしね」


 かかりつけ医による紹介を信用していないわけではなかったが、その語感に何ともたとえ難い不安を覚えたキリサメは、きりしまゆうが取り組んでいるという犯罪心理学の資料を麦泉に用意してもらっていた。

 どちらも犯罪者が主たる研究対象であり、藪総一郎から教わったきりしまゆうの職務経歴とも合致する。開業前には刑務所や少年院に法務技官として勤務しており、の人々と向き合う中で培った経験が研究を支えているのだろう。つまるところ、罪を犯してもいない患者の診療記録は守秘義務を論じる以前に研究材料へ用いる意味がないということだ。


「――犯罪研究の成果という言い方は怖いけど、それに基づいた助言アドバイスは頂戴できてもキリサメ君自身が実験動物モルモット扱いされる心配はないと思うよ。下手な真似をすれば倫理規定違反で医師免許剥奪に一直線というコトは向こうも弁えているはずだからね」


 麦泉が示した見解の〝裏〟を取る為、今し方の質問をぶつけたようなものである。

 そのことを踏まえれば、貧民街スラムで編み出した喧嘩殺法や『聖剣エクセルシス』といった暴力性の顕現あらわれへ踏み込まんとする際にきりしまゆうが切り出した前置きは、意外ではないのかも知れない。

 強盗傷害などの罪を犯さなければ格差社会の最下層を生き抜けなかったという事実は、既に格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの広報活動を担当する『あつミヤズ』の暴露番組やマスメディアによって日本中に広まっている。

 自分の患者キリサメ・アマカザリが〝札付き〟であることを承知していたのは間違いないが、に照らし合わせるならば、「日本の司法機関が他国ペルーで発生した刑事事件を取り扱う可能性は絶無に等しい」などと言い含めるはずがあるまい。

 そもそも〝命の遣り取り〟を前提とする発想自体、開業している医師が辿り着くモノとも思えないのだが、過去に身を置いた環境まで遡って犯行時の状況を解き明かしていくことは、寧ろきりしまゆうの専門領域というべきであろう。

 事前に記入したPTSDのチェックリストは受付の窓口に提出しており、その結果に基づいて診察が進められるものとキリサメは想像していたのだが、この精神科医が最初に試みたのは殺傷ひとごろしけんが編み出された過程を遡ることである。


肉体からだのどの部位をどうやって使えば、最大の攻撃力を作り出せるか。相手のどこを狙えば骨の耐久性や筋肉の柔軟性をブチ破って内側まで痛手ダメージを通せるか。それこそ関節単位で考え抜いているみたいだな。ペルーで普及してるのかは知らないけど、『格闘技医学』の理念にも近いような気がするぜ、アマカザリ君の喧嘩技」

「不勉強ながらも格闘技医学の概略あらましは承知していますが、僕が離れる以前まえ故郷ペルーでは耳にしたことがありませんでした。……僕の技は真っ当とは言えませんから、格闘家の後遺症予防にも尽力している格闘技医学と一緒にするのは差し支えがあるのではないかと……」

「つまり、全部はアマカザリ君の独創性の賜物ってワケか。個人的な興味をペラペラお喋りするのは医者失格かもだけど、ますます面白いじゃん、アマカザリ君。それくらい頭の回転がなきゃ鉄火場で命を拾えないもんな」


 おそらくきりしまゆうは破壊のみに研ぎ澄まされた〝力〟の根源に対する理解を深め、これを手掛かりとして最大の懸案である『スーパイ・サーキット』の本質に迫らんとしているのであろうが、キリサメの側も目の前の医師が〝命の遣り取り〟に慣れていることを感じ取っていった。

 猫の手のような形で上から下に振り落とし、命中の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に叩くパンチについて触れたときには、ほんの少し術理を解説だけでも相手に最大の損傷ダメージを与えられる部位まで思い付いた様子であったのだ。

 暴行・傷害や殺人など身体が攻撃を加えられる刑事事件の知識が豊富ということだけではない。自分自身のとして馴染むくらい〝命の壊し方〟を熟知しているという意味である。この点も藪総一郎と同じであった。

 己と同じ〝血〟を吸い尽くしたノコギリ状の禍々しい刀剣マクアフティル――けがれた『聖剣エクセルシス』や、テロ組織との間で繰り返された殺戮の応酬も、心理療法に必要と考えて明かしたのだが、その際にもきりしまゆうは世間話のような調子で相槌を打っていた。

 総合格闘技MMAのルールが脳内あたまのなかから消し飛ぶという〝プロ〟にあるまじき失態と、その末の暴走とも呼ぶべき反則行為の乱発などではなく、明確な殺人である。法治国家の〝表〟の社会で生きているが死臭に満ちた話を聞かされたなら、顔を引きらせておののくのが自然な反応であろうが、この精神科医は紅茶ハーブティーと共に用意したカステラを頬張りながら、表情の一つも変えずに頷いているのだ。

 年齢差にもこだわらないらしいきりしまゆうは敬語を用いず、他者ひととの距離を遠慮なく縮めてくる。そうした為人ひととなりは親友の空閑電知と似ていなくもないが、キリサメは少しずつこの男から〝同類項〟とされているように思えてきた。


「今でこそ〝小太りじいさん〟になっちまったけど、おいらもキミと同じくらいの年齢としの頃はそこそこ武闘派ヤンチャだったんだよ。懐古趣味の武勇伝に若者わかいのを付き合わせるのはじいさんになっちまった証拠か。総さんの槍さばきを見たことあるかい? ガキの頃にで喉を貫通されそうになってから、おいらも腹ァ据わった気がするよ」


 テーブルを挟んで控えめに向けられる怪訝そうな眼差しに気付いたきりしまゆうは、キリサメが口には出さず胸の奥に留めておくつもりであった疑問に自分のほうから答え始めた。

 槍を水平に突き込むような仕草ゼスチャーと共に披露した思い出話の一つも、〝命の遣り取り〟に対する理解の根拠というわけだ。

 若かりし頃に藪総一郎と繰り広げた模擬戦の一幕と察せられるが、穂先が喉笛を食い破る危険性おそれがあったということは、相手に致命傷を与えないよう先端を布で覆った木製の槍ではなく、名実ともで行われた稽古なのであろう。布の内側に綿を詰めた物であれば、貫通という物騒な二字がきりしまゆうの口から飛び出すはずもあるまい。

 それはつまり、でありながら攻守の組み立てを一つでも誤った瞬間に命を落としてしまう苛烈な〝場〟に身を置いてきた何よりの証左である。きりしまゆうは自分自身の生い立ちをキリサメの疑問に対する回答こたえに代えたのだ。

 具体的な地名などは明かされなかったものの、キリサメは断片的な情報を繋ぎ合わせることで『しんげんこうれんぺいじょう』という先程の推察を確信に変えつつあった。

 以前に神通から教わった話によれば、戦国乱世にいのくにを治め、大国ともしのぎを削って歴史に〝最強〟の二字を刻む武田家三代――のぶとらしんげんかつよりの進撃を支えた古い武芸の道場がひしめき合う秘境であり、同地に根差した人々は明治維新で『はいとうれい』が発せられた後も日本刀かたなを腰に帯び続けたそうだ。

 かっせん首級くびり合う中世の気概を現代に留める土地とも言い換えられるだろう。

 歴史の彼方から受け継ぎ、宗家として背負い続けてきた殺傷ひとごろし武技わざを失伝させないよう限りなく〝実戦〟に近い地下格闘技アンダーグラウンドのリングに身を投じる哀川神通の理念を思えば、現行法で認められるはずもない危険な稽古が『しんげんこうれんぺいじょう』では未だ日常的に実施されていることは想像にかたくない。

 彼女と同じ『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する電知から伝え聞いたことであるが、神通は手綱も握らずに馬を駆りながら、弓や槍を用いる修練も積んでいるそうだ。

 若くして哀川神通が宗家を継いだ『しょうおうりゅう』は〝甲斐古流〟――即ち、たけを盛り立てた古武術諸流派の筆頭である。その同胞たる藪総一郎やきりしまゆうも彼女と同じように古き武者たちの振る舞いを叩き込まれて育ったのであろう。


「そもそも人間は、年齢一桁の頃からありとあらゆる経験や知見を組み合わせて心を作り上げていく生き物さ。生まれ付いた環境一つで人生の全てが決まるって臆面もなく断言するヤツはだけど、物心つく前に遭遇する強烈な〝何か〟はやっぱしデカいってワケ」

「無分別――という言い方は適切じゃないか。無垢まっさらな状態で吸収するモノがその人の中で一種の常識になり、ごく当たり前の感覚として心に馴染んでいくということでしょうか」

「常識っつうのは言い得て妙かもな。あらゆる物事の判断基準みたいにそいつの頭ン中に設定セッティングされるんだからよ。おいらを例にするなら、稽古でうっかり総さんに一生分の後悔をさせちまうトコだった武勇伝はなしだな。おいらの故郷くにじゃ日常茶飯事だけど、の稽古を〝外〟で話すと、申し訳なくなるくらいドン引きされちまうし」

「……〝感覚〟ということなら、僕は生まれる前から歪んでいたのかも知れません。大勢の日本人が人質にされましたし、日本こちらでも大きく報じられたと思いますが、ペルーの日本大使公邸がテロ集団に占拠された時期に母は臨月を待っていたそうです」

「生まれたのが一九九七年だから、もしやと思ったんだけど、本当マジにあの占拠事件の頃に母ちゃんの胎内はらのなかに居たのか。成る程、で個性的な〝感覚〟云々か。……あの頃の首都リマは銃声が絶えなかったよなぁ。救出部隊が強行突入したときは派手な爆発もあったし」

「母と同じく故人ですが、遺伝学上の父親が日本人側の人質に含まれていたこともあって銃声や爆発音の類いはから身近でした」

「親父さん、二五人の内の一人? つーコトはお袋さん、包囲側と籠城側が睨み合う最前線まで出張ってたってワケか。内戦同然の物騒なモンが胎教音楽の代わりなら、あたまの使い方も自然とに特化していくわな」

「両親が巻き込まれた占拠事件は氷山の一角に過ぎません。射殺体が裏路地に転がり、野良犬の餌になるのが僕の故郷です。〝格闘競技スポーツ〟のリングでは相手の命を気遣う必要がありますが、僕にとって〝戦い〟はと正反対の〝感覚〟でしたから――だから、初陣プロデビューであのような結果を招いてしまった……」

「四六時中、どこから狙われるのかも分かんねぇ環境で寝起きしてたんだよな? 耳が銃声に慣れるどころか、寝ている間に銃を突き付けられた回数は両手両足の指を全部使っても足りないだろ。睡眠不足はないみたいだけど、日本で暮らし始めた直後は調子が狂って寝付けなかったんじゃないか?」

「……相手の心を読み取れる精神科医が殺人事件を解決していく探偵ドラマの犯人にでもなったような気持ちです……」

「さっき言ったろ? 若い頃は武闘派ヤンチャだったってさ。凶器で寝起きドッキリを仕掛けてくる連中をした経験も両手両足じゃ数え切れねぇってワケ。勿論、おいらの個人的な想い出だけを例にしているワケじゃないぜ? 長期間に亘って命の危険に晒され続けた人間にも同様の症例が確認されている。戦場帰りの兵士にもな」

「強烈なストレスが掛かる状況や環境は人それぞれでも、精神が蝕まれる原因やその引き金になる反応に大きな差はない――と? 素人考えで申し訳ありませんが、脳に及ぼす影響は負荷の重さで測れるものでもないと思いますし……」

「もう一つ加えるなら、戦場とアマカザリ君が生まれ育った環境も単純に一緒にも出来ないんだけどな。キミが言った通りに人それぞれケースバイケースだから、あくまで一つの仮説だけどね」

「何となく理解わかるような気がします。拳銃ハンドガンで襲ってきたギャング団と、カラシニコフ銃を携えているテロリストの両方に銃口を向けられましたが、そのときに感じた戦慄ものは確かに同じでした。そして、も、……僕だって死ねばただの肉の塊だ」


 科学的・医学的な試験など伴わない個人の想像に過ぎないが、母親の胎内はらのなかで〝ヒトのカタチ〟に育つ間から脳に〝戦争の音〟が染み込んでいたからこそ、他の人間とは明らかに異質な〝感覚〟が宿ったのであろうとキリサメは考えていた。

 他者ひとの命を壊すことに躊躇ためらいを覚えない〝感覚〟である。ちりあくたを掃いて捨てるような行為に罪悪感を抱く理由などあるまい。

 差し向かいの医者はさえも過去の経験に基づいて理解した様子であり、反応を窺いながら〝表〟の社会と相容れない〝感覚〟を仄めかしたキリサメのほうが困り顔で苦笑いを浮かべてしまった。

 発砲音や爆発音が子守歌の代わりであったことを根拠として〝感覚〟が歪んだとするキリサメの主張などであれば困惑するのみであろう。想像できるとしても、〝戦争の音〟という〝非現実〟に慣れていることが限界のはずだ。

 これに対して、きりしまゆうは威嚇ではなく命を撃ち抜く為にひきがねを引ける〝感覚〟がキリサメのなかで養われた要因として咀嚼している。患者のへ適当に合わせているわけでないことは、他の誰でもないキリサメが察していた。先ほど彼が述べた〝個人的な想い出〟は双方のと呼ぶべきかも知れない。

 「懐古趣味の武勇伝も意外と役立つだろ?」と、きりしまゆうはおどけた調子で片目を瞑って見せたが、彼の故郷が『しんげんこうれんぺいじょう』ではなく、また犯罪者の過去にまで遡って事件発生に至る要因を分析していく犯罪心理学の研究者でなかったなら、キリサメ・アマカザリの〝深淵〟に想像を巡らせるどころか、一一〇番通報の為に受話器を取ったはずだ。

 藪総一郎もキリサメの心と向き合うのはきりしまゆうこそ誰より相応しいと判断し、この病院を紹介したのであろう。

 実際に言葉を交わすまでは少年犯罪や非行少年の矯正に携わった人材はこれ以上ないほど適任と、皮肉と自嘲をい交ぜにした気持ちも抱えていたが、今はかかりつけ医に額づいて詫びたかった。

 だからこそキリサメも察した〝全て〟を冷めてしまった紅茶ハーブティーと共に飲み込んだ。己の心が如何なる状態であるのかを見極めることは、未だ果たせない殺気の制御コントロールの手掛かりに繋がるかも知れないという期待も徐々に膨らみ始めている。


「バカな獲物が自分たちの縄張りに迷い込むのを物陰から窺う強盗団も、革命の幻想ゆめを捨て切れずに非合法街区バリアーダス密林ジャングルに潜む反政府組織も関係なく、……〝富める者〟だって〝貧しき者〟だって死ねばただの肉の塊――それ以外の〝感覚〟を他人ひとの命に持てないから、恩人たちの期待に応えられず、親友との約束さえ守れなかった。……こんな風に考えること自体、僕を迎えてくれた人たちへの裏切りだと自覚わかってはいるのですが……」

「デビュー戦の動画ビデオも観させてもらったけど、キミが自覚している通り、限界を超えて高まった攻撃本能が理性すら上回ったのは間違いないし、それを破壊の衝動を抑えられないの問題みたいに思い詰めるのも無理はない」


 二〇〇九年に裁判員制度が開始されて以来、日本でも〝一般人〟の手に刑事裁判の行方が委ねられる機会が増えた。例え凶悪犯であろうとも血の通った人間であることに変わりはなく、その人生を左右する決断はただでさえ難しいが、ときには犯罪捜査の専門家にさえ理解しがたいほど異常性・猟奇性の強い事件の裁判員に選出されることもあるのだ。

 被告人自身にも動機を明確化できない犯行は、当然ながら〝一般人〟にとって読み解くことが不可能に近い。常人の思考から逸脱する狂気の本質ひいては凶行に走らせた背景事情を理論的に解き明かし、裁判員が事件の全体像を把握することと、これに基づく有罪無罪や量刑の判断を支援することも、犯罪心理学に期待される役割であった。

 『犯罪心理鑑定』を依頼された鑑定人も裁判所へ報告書を提出するだけに留まらず、審理に携わる人々に対して犯行の実態を法廷で解説することもある。

 しかし、それも犯罪の機序・動向の研究にいては、ほんの一側面に過ぎない。

 再犯・累犯・常習犯――罪を償ったにも関わらず、過ちを繰り返してしまう人間に社会不適合の烙印を押し、生き直す為の居場所を奪うのではなく、〝道〟を外れる方向に吸い寄せられてしまう心理的な働きを分析した上で、更生・矯正を成し遂げるプログラムを具体化することこそ、今後ますます重要性を増していく犯罪心理学の使命なのだ。

 それはつまり、社会復帰を阻み兼ねない人間関係の把握や、法に触れる手段へ手を伸ばさずとも真っ当に暮らしていける生活環境の確立にいても有用という意味である。


「気を悪くしないで聴いてくれよ。犯罪心理学には犯行の傾向を幾つかに類型化して整理する考え方もあってな。ってコトならキミは〝プロ化〟した段階に当てまるよ」

「さしずめ〝プロの犯罪者〟といったところでしょうか。〝プロのMMA選手〟としてたなければならなかった試合を〝プロの犯罪者〟そのものとしか言えない凶行で壊してしまったのですから、これに勝る皮肉は思い付きません」

「故郷のアレコレはともかく、移り住んだ日本ではキチッと法律を遵守まもる社会性を保ってるじゃんよ。ていうか、ペルーでも自分や身内を爪弾きにした〝表〟の社会をブッ壊そうとしたり、どうにもならねぇうっぷんを他人にぶつけてたワケでもねーんだろ?」

首都リマではそれなりの頻度で〝大統領宮殿〟がデモ隊に取り囲まれましたが、僕は〝表〟の社会に〝何か〟を期待することもありませんでした。八つ当たりで餓えは凌げません。意識して背を向けるほどペルーという国家くにに強い気持ちを持ったおぼえもありませんし」

「アマカザリ君にとって喧嘩技が――が良くも悪くも空腹を満たす手段っつうコトは十分に伝わってきたさ。餓えた心の埋め合わせじゃなくね。必要な分だけ〝暴力〟をふるうけど、暴力そのものは好きじゃないんだな、キミの場合」


 樋口郁郎の〝師匠〟にして『くうかん』空手創始者の実兄であり、『昭和』と呼ばれた時代に日本中を熱狂させた〝スポ根〟ブームの火付け役でもある漫画原作者――くにたちいちばんが手掛けたボクシング漫画の主人公はキリサメと生い立ちだけは似ているが、喜々として敵を作るかのような無頼の振る舞いが多く、大言壮語ビッグマウスで日本MMAの古豪ベテランを挑発することもなかった『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーとは正反対と言えよう。

 他者を遠ざけるように平素から無差別な暴力性を剥き出しにする人間ではない――そのように認めた根拠が〝国舘漫画〟との比較であったことに自嘲の笑みを浮かべるきりしまゆうであったが、当該作品を読んだことのないキリサメには彼の意図を読み取ることが難しく、その代わりにボクシングという一言から別の人物の記憶が引き出されていた。

 大勝負タイトルマッチなかに当時のフライ級王者チャンピオンの片目を意図的に指で突き、光を奪った末に〝格闘技界の汚点〟として刻まれる反則負けを喫したひきアイガイオンである。

 増長が極まったそのボクサーは、虐待を受けてきた幼少期の反動とも呼ぶべき欲望の暴走どころか、己に宿る暴力性をも抑え切れず、幼い我が子に凶器も同然の拳を叩き付けて死に至らしめていた。

 MMA選手ではなく殺人キリングマシーンと罵倒されても反駁できないキリサメであるが、それでも数多の格闘技関係者から鬼畜と吐き捨てられたひきアイガイオンと同じ〝底〟まで堕ちてはいないつもりであった。


「腕利きの猟師は鉛玉も無駄撃ちせず、必要な分だけ獲物を狩る。狙った通りに命を奪えたとしても、快楽なんか微塵も感じねぇ。人はそれをプロフェッショナルって呼ぶのさ」

「……僕も例え話の猟師に合致するわけですね。それが〝プロ〟の定義だとすれば、故郷ペルー無法者アウトローも大半が一緒おなじですよ。同世代も窃盗や強盗で生計を立てていましたが、観光客の財布から始まって富裕層の自家用車といった具合に、狙いを高価たかい品に連中も少なくありませんでした」

「犯罪のエスカレーションというよりは、経験に基づくステップアップってトコだな。スキルとの両面で〝セミプロ〟から〝プロ〟へ段階的に移行するのは、日本もペルーもどっちも似たり寄ったりってワケだ」


 経済不況や治安悪化など穏やかならざる社会情勢が〝一般人〟を犯罪に駆り立てるという観点も犯罪心理学には含まれており、ペルーという国家くにを蝕む過酷な格差社会を語っていくキリサメにもきりしまゆうは苦しげな溜め息と共に頷き返した。


「軽犯罪程度なら賄賂カネで無罪を買い取れますが、警察に突き出されることなく銃で返り討ちにされる間抜けも多かったですよ。僕自身、悪運が強かったに過ぎませんけどね」

もアマカザリ君と変わらないとしの頃には、鉛玉に頬っぺたの皮を裂かれるような経験コトを腐るほど味わったから、恐怖ってェ想念がどーやって人間を壊していくのかも少しは知ってるつもりなんだが、自我を守り切ったキミはマジで強ェよ」

「……僕の場合はにも〝何か〟を感じなくなっていた――ただそれだけです」

「血の臭いも慣れると平気になるもんなぁ~、で」


 バラック小屋がひしめく非合法街区バリアーダスを遮断する『恥の壁』の向こう――高級住宅地で暮らす〝富める者〟の財産を脅かすことが少年強盗団の〝夢〟であったことをキリサメが言い添えると、きりしまゆうの口から洩れる呻き声は更に大きくなった。

 ペルー社会の問題点を日本人が糾弾することは許されざる傲慢と弁えてはいるものの、二〇歳はたちにも満たない子どもでさえ自らの手を罪にけがさなくては生きていけない現状が年長者として心苦しいのであろう。

 あるいはキリサメと同じ年齢の頃を想い出し、己の放り込まれた地獄が〝地球の裏側〟でも常態化しているという事実に悲憤のような感情が湧き起こったのかも知れない。

 一握りの人間しかを享受できない絶望的な格差社会にいては、最下層に追いやられた人々は〝生きること〟と犯罪が一体化しているのだ。労働を毛嫌いして反社会的行為に走るのではなく、社会自体がそれ以外の選択肢を用意できないのである。

 犯罪心理学の観点では帰属する社会の体質そのものが人間に罪を犯させるという原理とも慎重に向き合っている。貧富の格差が是正されないまま拡がっていくペルーで犯罪を生業とする子どもたちのも破綻という一言で単純化するわけにはいかないのだった。


「……さしずめ〝善悪の彼岸〟ってトコだな。アマカザリ君の故郷についてはまだまだ不勉強で申し訳ねぇんだけど、おいらも『昭和』っつう狂った時代を経験したんでさ、正義だの悪だのがグチャグチャになった混沌カオス理解わからねぇでもねーよ」


 きりしまゆうによるニーチェの引用にキリサメは頷かなかった。〝善悪の彼岸〟が意味するところは亡き母から教わっている。に同調を示すのは、血と罪でけがれた我が身にゆるしを与えることにも等しいのであった。


「日本と故郷ペルーに限らず、どんな国でも犯罪者は脳の構造つくりが大して変わらないのではないかと素人なりに分析しています。〝心の傷PTSD〟じゃなくてそのものが異能アレと紐づいているとしたら、下手をすると手の施しようがないのかも知れませんが……」

「なるべくして犯罪者になる脳の持ち主ってワケかい? そういう犯罪研究がないワケでもねーけど、脳内あたまンなかをイジるだけでパターン化できるくらい人間の心がカンタンなら、おいらも食い上げだぜ。つか、アマカザリ君だって別にサイコパスじゃねーじゃん」

「僕自身はサイコパス呼ばわりこそ似つかわしいと考えていますよ。自嘲とか自虐ではなく経験に基づく事実として」


 現在いまのような〝人間らしさ〟が芽生えていなかった頃であるが、母の私塾で机を並べ、共に学んだ非合法街区バリアーダスたちを飢えを凌ぎたいが為に叩き伏せ、なけなしの小銭カネを奪い取ったこともあった。

 そのたちが結成した少年強盗団から反対に襲撃されたときには、関節への踏み付けや目突きを容赦なく繰り出し、何人かを再起不能にしている。必要がなかった為に最後の一線は踏み越えなかったが、幼い頃から共に過ごしてきた人々も殺そうと思えば無感情に殺せてしまう人間なのだ。

 キリサメはそのような自分を〝プロの犯罪者〟である以上に脳の構造つくりからして『サイコパス』以外の何物でもあるまいと捉えている。


「さっきも言った通り、キミは日本に馴染んで暮らしてるじゃん。『サイコパス』って異常殺人犯と混同されがちだけど、社会に適応して生きるのが極端に難しい人格の持ち主が本来の意味に近いんだぜ。キミは喧嘩技を解説するときに一度も自慢しなかった。自分の〝力〟に疑問さえ持ってる――これだけでもサイコ野郎じゃねぇ証拠としては十分だよ」


 思考パターンが歪んだ犯罪者は、脳の構造つくりが正常な〝一般人〟と分類して取り扱うべきという犯罪自体に対するから解き放つ役割も、犯罪心理学は担っている。

 これは裁判員の理解度を深める解説のみを指しているのではない。精神破綻としか表しようのない異常な衝動で理性が壊されたのではなく、己の意思として罪を犯したという事実の認識も被告人に促すのだ。

 本人だけでは整理できなかった心理状態を一つ一つ拾い上げ、これを組み立てることによって犯行の本質に辿り着く――これもまた犯した罪と向き合うことである。

 そして、『サイコパス』に分類される人格とは理性がブレーキとして働く〝思考〟よりも遥かに根が深く、軽々しく言行の異常性と混同できないこともきりしまゆうは言い添えた。


「漫画やゲームの暴力表現が犯罪を凶悪化させる原因だって決め付けて、一方的に潰そうとする連中が後を絶たねーんだよ。実証も論拠もなく、自分てめーの感情と思い込みだけで犯罪者をパターン化しやがるんだ。デタラメなレッテル貼りって言い方が正解かもな」

「……自分が身を置くMMAで例えるなら、『ウォースパイト運動』が最も近そうです」

「攻撃対象が違うだけで、は目クソ鼻クソだよ。〝自分が気持ち悪く思う相手〟を排除することしかアタマにねぇ連中は、ぶっちゃけ犯罪者の傾向や特徴を理詰めで説明できた試しがねぇんだわ。自分てめーらが問題提起してる対象モンの本質すら見ちゃいねーよ」


 次いできりしまゆうが例に引いたのは『スーパイ・サーキット』の〝名付け親〟でもある銭坪満吉であった。

 このスポーツ・ルポライターは今でこそ『天叢雲アメノムラクモ』の味方の如く振る舞っているが、キリサメが〝人外〟の異能スーパイ・サーキットを解き放って格闘技界を激震させた岩手興行まではMMAという〝スポーツ文化〟を口汚く侮辱し続けていたのである。

 以前に出演したバラエティー番組でMMA選手の不祥事を取り上げた際には「格闘家なんてのは暴力を振るって報酬カネを貰う犯罪者予備軍。肉欲スケベしか考えてない」と、明確な職業差別を展開したのだ。

 歯に衣着せぬ批判とは呼びがたい誹謗中傷は、こんにちまで撤回されていない。それにも関わらず、銭坪満吉スポーツ・ルポライターは『スーパイ・サーキット』を〝MMAのゲームチェンジャー〟などと触れ回り、『天叢雲アメノムラクモ』に擦り寄っているわけだ。


「あの人ならをやっても不思議ではありません。過去の暴言も脳内あたまのなかから抜け落ちてしまった様子――おぼえていながら忘れた芝居フリを決め込んでいる可能性も高いか」

「感情任せの思い込みは、自分の行動を都合よく上書きするって好例が銭坪満吉アイツだよ。実態から掛け離れた形でほど人間ヒトは流されちまうってのも込みでね。移ろいやすい人の心の中に変わらないモノを見つけ出すのもおいらの研究ってワケよ」


 きりしまゆうが口にした〝変わらないモノ〟こそが人間を犯罪に向かわせる心理とその本質を指しているのだろうと、キリサメは控えめに頷き返しながら咀嚼していった。


「攻撃性が高い異能ちからを〝犯罪者の脳〟ってコトにして片付けたくなる気持ちも分からないでもないさ。人として当たり前の自己防衛だもん。ただもうちょい〝心の専門医〟として踏み込ませてもらえるんなら、キミの脳は〝闘うこと〟に適応しているように思えるよ」

競技選手アスリートの脳がスポーツに特化する形で変化していくという学説はなしは、みーちゃん――家族に用意してもらった資料に書いてありました。死んだ母の授業だったはずですが、人間の脳は力を注いでいる分野に適合する形で感覚などが研ぎ澄まされるようなことを聞いたおぼえもありますよ。それが僕にも当て嵌まるというのはピンと来ませんけど……」

「まさにと同じ原理さ。誰に手解きを受けたわけでもねぇのに次々と〝実戦向き〟の喧嘩技を編み出し、相手のどこをブン殴れば一撃必殺を狙えるか、自分の身体からだをどう使えば最大の効果が引き出せるのかを思い付けるのは、バキバキに鍛えられた競技選手アスリートの脳と変わんねーと思うぜ。古武術カジッた身としちゃ、ちとけるくらいだ」

「……言葉遊びみたいに聞こえるという感想は失礼に当たりますか? 『スポーツと〝闘うこと〟も広い意味では重なる』といった言葉が続くようでしたら、僕は不躾な反応リアクションを返事にしなければならなくなります」

「要は気の持ち方マインドセット次第ってコト。それだって大事な〝プロ〟の条件だろ? アマカザリ君にとって〝プロ〟って何だい? ライセンスかい?」

「資格に見合う実力と人格の持ち主――といったところでしょうか」

「ちゃんと理解わかってるなら問題ナシ。〝プロ〟はライセンスでもキャリアでもねぇ。現状いまを超えて新たな一歩を踏み出し続けられる人間のコトだっておいらは思うぜ。つまり、キミの脳機能はすっかり〝プロ〟の競技選手アスリート仕様ってコトさ」


 先ほどきりしまゆう故郷ペルーけるキリサメについて、犯罪の〝プロ〟であるという見立てを示していた。

 他者ひとから〝生きる糧〟を奪い取れるくらい殺傷ひとごろしの術に熟達したという意味ではない。暴力の快楽に酔い痴れることなく、返り血を浴びようとも悲鳴が鼓膜にこびり付こうとも、無感情に目的を完遂できる心理状態と行動を常習性と併せて〝プロ〟に分類したわけだ。

 が〝プロのMMA選手〟にあるまじき振る舞いとして飛び出し、周囲まわりの期待を裏切る結果を招いたキリサメからすれば、〝プロの犯罪者〟とされることは最大級の皮肉であるが、こうしたこそが犯罪心理学が目指す更生プログラムの要なのである。

 キリサメの場合は生きる為に冒し続けた罪を見つめ直すことで、格差社会の最下層で繰り返される殺し合いと〝格闘競技スポーツ〟との差異ちがいを再認識し、まさしくあたまを〝プロのMMA選手〟に切り替えるというわけであった。


「……家族に危害が加えられると思ったとき、僕はその相手を本気で殺そうとしました。秋葉原という賑やかな街で、大勢の野次馬が居る前で頸動脈を切断しようとしたんです。それでもじゃないというのは、言葉遊びの極みのような気がしますよ」

「キミからのヒアリングやネットに出回ってる情報も含めて、秋葉原アキバの一件をおいらなりに分析するなら、その瞬間にキミが下したのはだったハズだよ」

「……故郷ペルーとは違う法治国家でやってはならないことを認識した上で、そのちゅうちょを踏み越えたんです。踏みにじったというべきかも知れない。十分にサイコパスの脳だと思います」

「本物のサイコ野郎は社会的道義や人間ヒトとしての倫理なんか振り返ったりしねぇよ。キミと違って最初ハナッから持ち合わせちゃいね~んだ。断言して構わね~けど、キミは自分以外の命を脅かすことに〝生きる実感〟を求めたコトなんかね~だろ?」

「……人を壊すことに〝何か〟を感じる時期はとっくに過ぎていました」

「キミの場合は〝殺したいから殺す〟ってんじゃなくて、〝殺す理由があるから殺す〟んだろ? 秋葉原アキバでモメた相手だって息の根を止める必要があると、が冷静に判断を下したんだ。犯罪をゲージュツとして野次馬ギャラリーに見せびらかそうとしたワケでもねぇ。理詰めで人を殺すヤツはイカれたサイコ野郎より無慈悲になれるんだよ。標的コイツを確実に消さねぇと自分てめーにとっちゃ災いでしかねぇって、他でもねぇ理性で決めるんだからな」


 キミは理屈で人を殺すタイプだ――キリサメに突き付けられたきりしまゆうの言葉は、胸の奥深くまで突き刺さるくらい鋭かった。

 〝地球の裏側〟で起きた犯罪は日本の法律では裁けず、診察室も治外法権。〝何〟を聞いても警察に通報する気はないと約束する一方で、犯罪心理学に携わる者としての姿勢はおどけた物言いとは正反対にどこまでも厳かであった。

 今し方の言葉とバンダナに散りばめられた笑顔は余りにも乖離しており、この両方を正面から受け止めるキリサメは、何ともたとがたい薄気味悪さに軽度の眩暈すら覚えていた。

 瑞々しい若葉のいろによって生命いのちの温もりに満たされているはずの診察室も、夏の訪れを予感させる日差しを取り込んでいるとは思えないほど寒々しい。


「でもな、専門家おいらの目には、キミを暴走させた異能アレは人格そのものがスイッチっつうよりも〝急性ストレス反応〟の一種じゃないかって見えるんだよ」


 に支配されているといったを捨て去るように促し、それでも席を立たないキリサメの瞳に揺るぎない決意を認めたきりしまゆうは、犯罪心理学の研究者ではなく〝本業〟――精神科医としての見解を重ねた。


「……〝ストレス反応〟というと、傍迷惑な〝名付け親〟がテレビなどで得意げに話している火事場のなんとか――でしょうか?」

銭坪満吉あのヤロウが抜かしてんのは思い込みの当てずっぽうだけど、根拠を著しく欠いてるクセして完全な間違いとも切り捨てられない絶妙なトコを突いてくるんだよなぁ。おいらが思うにあの野郎が『スーパイ・サーキット』と名付けたキミの異能ちからは『闘争・逃走反応』と呼ばれるモノがイチバン近いハズだ。さっきも言った通りに瞬間的なストレス反応がね」

「確かには僕自身には全く制御不能ですし、身も心もされた後は張り裂けそうなくらい心臓の鼓動もおかしくなりますが、原因はストレス……? まさか、こんな簡単に解き明かせるわけが……」

「永遠に餓え続ける野獣みたいな攻撃性に脳が取りかれない為の安全装置を自分てめーでブチ壊したヤツをね、……おいらは良く知ってるけど、キミが格闘技のリングに合致しないと恐れている〝感覚〟は、とは別物だったよ。とりあえず『スーパイ・サーキット』とは切り離して個別に考えるとしよう」


 キリサメがこの病院へ足を運ぶことになった発端――心的外傷後ストレス障害PTSDの発作という疑惑を生じさせた『スーパイ・サーキット』へ本格的に踏み込んだ際にも、きりしまゆうはあくまでも過去の症例・事例に基づいて冷静に分析を進めていった。

 名付け親である銭坪満吉スポーツ・ルポライターや『天叢雲アメノムラクモ』を取り仕切る主催企業サムライ・アスレチックスまでもが『スーパイ・サーキット』を超能力の如く持てはやし、事態を憂慮する『MMA日本協会』が過熱に歯止めを掛けんと図るくらいマスメディアで無責任な報道が目立ち始めた時期である。

 昂奮や私憤といった感情が入り混じることで実態から掛け離れた形に想像が膨らみ、これに基づく誤解が拡散される危険性リスクの高い個人による情報発信パーソナルメディア――即ち、SNSソーシャルネットワークサービスいても『スーパイ・サーキット』に対する憶測の殆どは、生身でありながら〝神速〟に到達するという強烈なから抜け出していない。

 歪んだ印象イメージが刷り込まれ兼ねない状況にも関わらず、きりしまゆうは焦燥感を募らせるキリサメにも異能スーパイ・サーキットの〝本質〟に焦点を絞るよう諭し、周囲まわりには耳も貸さなかった。


「人によって程度の差こそあれども、『闘争・逃走反応』は生きとし生ける全ての存在ものに共通するだよ。勿論、おいらだって武闘派ヤンチャやってた頃は数え切れないくらい経験したさ。決してキミ一人が背負っていかにゃあならないモンじゃないってワケ」


 生き物は命を失う危険といった極限状態に直面した瞬間、これを脱するべく尋常ならざる〝力〟を発揮することがある。医学的には『逃走・闘争反応』に分類されており、本能の領域にて心身に危機回避行動を促す『防衛機制』の一種とも捉えられていた。

 アメリカの生物学者であるウォルター・ブラッドフォード・キャノンが一世紀近く前に提唱となえて以来、様々な研究が進み、カナダのハンス・セリエによって〝の自己防衛反応〟であることも解き明かされている。


「神の力を借りて武器やら鎧やらを創り出して戦うアニメがあるだろ? キミの〝同僚ともだち〟が主人公をってるヤツ。『かいしんイシュタロア』だっけ?」

「まさか、こちらでもその題名タイトルを聞くとは……」

「神サマを自分のなかに降ろす乙女戦士イシュタロアとは違って、『スーパイ・サーキット』はキミが自分自身に秘められた力を引っ張り出すモノだ。一回当たりの負担がデカ過ぎるし、キミの目標設定に反するのならゴリ押しで勧めるワケにもいかないけど、それは一種ひとつの〝武器〟として受けれても構わないと思うぜ」


 友人のさら・バロッサがいのちを吹き込むアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』が引き合いに出されたキリサメは目を丸くしてしまったが、きりしまゆうが明言した通り、急性ストレス反応によって生み出される〝力〟は架空フィクションのように天から降ってくるモノではない。身のうちに秘められた潜在能力が瞬間的に覚醒するのだ。

 医学的・科学的な考察が差し挟まれる余地もなかったいにしえの時代では〝神懸かり〟などと表され、畏敬の対象ともなっていたが、破裂するほどに膨らみ切った恐怖が一種の引き金となって交感神経系が急激に活性化し、これに起因するアドレナリンの大量分泌が人間という種を超越するほど身体能力や心肺機能を強化することが判明している。

 改めてつまびらかとするまでもなく、これらは心身が極端なを強いられる状態であり、鼻先まで死が迫るというストレスが過ぎ去った直後には、筋肉から内臓に至るまで全身の隅々が悲鳴を上げるほどの疲弊が反動として跳ね返ってくるわけだ。

 キリサメの場合は意識してふるうことの叶わない潜在能力が桁外れであり、これを『スーパイ・サーキット』が限界すら超えて解き放つ為、〝人外〟としか表しようのない領域に到達する――それがきりしまゆうの見立てであった。

 そして、それ故に過去の症例とは比べ物にならないほどの消耗を発動の代償として差し出さなければならないのであろうとも彼は言い添えた。

 原理の究明によって尋常ならざる〝力〟から神秘性が引き剥がされた現代にいても、『スーパイ・サーキット』は未知の二字こそ相応しく、だからこそきりしまゆうも『闘争・逃走反応』と断定はせず、「限りなく近い」という見解に留めたのである。〝心の在り方〟はまさしく人それぞれケースバイケースである為、過去の症例のみに頼って結論を急げば致命的な誤診を招いてしまうと、彼は医師として痛感しているわけだ。

 対するキリサメは『スーパイ・サーキット』を〝武器〟として扱われたことに何よりも驚いている。MMAのリングに適応しようとする努力を水泡に帰し、ありとあらゆる〝感覚〟を故郷ペルーの〝闇〟に引き戻さんとする呪いにも等しい〝何か〟を〝武器〟と捉えたことなど過去に一度もなかった。

 そもそもキリサメにとっては己を圧倒的な破壊に衝き動かす異能ちからが医学的な見地から検証されること自体が初めてであり、先ほど示された犯罪心理学の観点から引き続いて目の覚めるような発見ばかりである。


「事前に渡されたチェックリストにも書きましたが、僕以外の時間の流れが静止とまったように感じるほど遅くなる間際には、……血の海に転がされた母が遺言を叫びながら息絶える瞬間が決まって浮かび上がります。記憶のフラッシュバックという現象ものでしょうか。あれが引き金なら、僕としては何とか封じ込める方法を模索していきたい」


 初陣プロデビューける過ちを繰り返さない為にも、死神スーパイの誘惑とも呼ぶべき異能ちからに立ち向かわなければならないと決意しているキリサメは、組み合わせた左右の五指を机上に乗せつつ無意識の内に前のめりとなり、自分のほうからも『スーパイ・サーキット』に踏み込んだ。

 発動の抑止に向けた原因究明という方針を明確に示した恰好だが、それは『スーパイ・サーキット』をキリサメに与えられた〝武器〟と言い表したきりしまゆうへの返答こたえでもある。

 あるいは路上戦ストリートファイトで空閑電知と組み合ったまま高い場所から急降下したとき、あるいはプロデビュー戦のリングでじょうわたマッチの鉄拳に晒されたとき――生け贄を求める死神スーパイの指が頬に触れた瞬間、キリサメの意識には地獄の二字こそ相応しい記憶が割り込む。

 首から胸元に至るまで巨大なノコギリでもって肉も骨も抉り取られ、血の海に身を横たえた一人の女性が「生きろ」という一言で追憶の彼方よりキリサメの心を貫くのだ。


「――例えどんなことがあっても、……どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ! キリサメ! 生きろッ!」


 助かる見込みがないと一目で理解わかるほど夥しい血に濡れ、今にも息絶えそうだというのに瞳の力は誰よりも何よりも強く、〝闇〟を射貫く光輝ひかりの矢のようであった。

 次いでキリサメの意識を塗り潰したのは、暴力性の顕現あらわれ――『聖剣エクセルシス』が禍々しい刃で常闇を切り裂く一閃だ。

 神父パードレおぼしき男性が征服者コンキスタドール言語ことばで喚きながら船のオールを彷彿とさせる刀剣マクアフティルを振り回したかと思えば、〝何か〟が破断する音を合図に赤黒く染まった川へとが替わり、その水面に惨い有り様の遺骸が漂っていた。言わずもがな、聖職者の装束を纏っている。

 二つの記憶が脳内あたまのなかで乱れ飛び、キリサメの魂を撹拌するのだ。

 血の泡を吐きながらキリサメ日本ハポン言語ことばで「生きろ」と命じたのは、生前に開いていた私塾で多岐に亘る学識を授け、例え血と罪にけがれようとも人間として守るべき指針を示した実母――天飾見里ミサト・アマカザリその人である。

 ただひとりの肉親である母から最後に託された教えが響き渡るたび、格差社会の最下層で他者の命を貪り喰らっていたときと同じ〝感覚〟で四肢も五感も満たされるのだ。

 きりしまゆうの眼差しを頭部で受け止めつつ俯き加減となり、声もなく見つめた両手も硬い物を叩き壊す感触――生まれて初めて人を殺した日に染み込んだ感触に包まれるのである。

 〝偽り〟の神父パードレは母をで殺めた仇敵であり、『聖剣エクセルシス』の前の持ち主であり、中米から故郷ペルーに入り込んだ人身売買ブローカーがその正体であった。

 余りにもおぞましい為、口に出すことはないが、亡き母の恋人とも言い換えられる。

 聖職者を装って非合法街区バリアーダスの子どもたちを誑かし、中米の仲間を通じて売り飛ばしていたのだ。私塾の教え子が人攫いの被害に遭ったことから自ら調査に乗り出し、真相に辿り着いた恋人ミサト・アマカザリを『聖剣エクセルシス』で斬殺したのもこの神父パードレであった。

 尤も、恋慕の情は亡き母の一方通行に過ぎず、おそらく神父パードレのほうは子どもたちが通う私塾を人攫いの為に利用しただけであろう。ペルー政府転覆を謀るテロ組織とも結び付いており、その仇敵からキリサメの手に『聖剣エクセルシス』が渡った瞬間に国家警察をも巻き込む暗闘の火蓋が切られた次第である。


「身内の死に際を看取ったのは母だけなので、他の人はどうだか分かりませんが、少なくとも僕は『生きろ』と繰り返した最後の吼え声が耳に――脳にこびり付いて消えません」


 正面の精神科医は『スーパイ・サーキット』という異能ちからを急性ストレスに起因する『逃走・闘争反応』の一種と捉えていた。命を壊され兼ねない窮地で呼び起こされる二つの記憶と体験は極限の二字こそ似つかわしい心理的負荷であり、脳が痺れる瞬間にフラッシュバック現象が起こる原因としてもキリサメ当人には何より得心できるのだった。


「……『生きろ』――か……」


 何ともたとえ難い溜め息をいたのちに天井を仰いだきりしまゆうは、亡き母からキリサメが言い渡された最後のを口に出して反芻した。

 きりしま自身の想い出の中にも、生きることを訴える言葉から強い感情を引き出される〝何か〟があったのかも知れない。おそらくはも〝命の在り方〟が問われる状況であったのだろう。今日が初対面のキリサメでさえ、たずねずとも察せられる表情なのだ。


「過去に負った〝心の傷〟と同じか、限りなく近い状況に遭遇した瞬間、想い出したくない記憶がフラッシュバックする現象ことも多くの人に見られるよ。トラウマ症状の一種ひとつだね。キミの場合はその〝再体験〟が『スーパイ・サーキット』のスイッチになるみたいだ」


 一拍置いたのち、改めてキリサメと向き合ったきりしまゆうは、要らざる動揺を与えないように〝再体験症状フラッシュバック〟が確認されただけで直ちにPTSDと断定することもないと言い添えた。


「何が何でも生き延びる為に全神経――いや、全身がフル稼働して潜在能力を引っ張り出すのは、さっき話した『逃走・闘争反応』のパターンだよ。肉親がとは言いがたい状況で亡くなる姿というのは、誰にとっても〝心の傷トラウマ〟と呼ぶべき体験だ」

「フラッシュバックによる〝心の傷トラウマ〟の反復が爆発的なストレスとしてし掛かり、その反応で火事場のなんとかが飛び出すのなら、僕に抑えられないことにも辻褄は合います」

「おいらが知る限り、『逃走・闘争反応』は偶発的な現象ものであって、条件が整ったら確実に起こるモンじゃない。〝再体験症状フラッシュバック〟もな。人間の脳や神経を走る電気信号をプログラムにたとえる向きもあるが、おいらに言わせりゃ精神こころはそんなに単純化できねぇよ」

「死んだ母の授業で教わった『パブロフの犬』を何となく想い出しました。僕のあたまを掻き乱すあの吼え声はメトロノームの代わりということか……」

原理メカニズムとしては条件反射と〝再体験症状フラッシュバック〟の組み合わせだろうな。〝心の傷トラウマ〟の記憶は実際の体験とも無関係な〝何か〟にさえ反応して甦ることが少なくないよ」

「……『生きろ』という命令プログラムから抜け出す方法はあるのでしょうか? 生みの親の遺言を脳内あたまのなかから追い出そうなんて、薄情の極みと祟られそうですが……」

「そいつは〝誰か〟の言い付けで〝生かされる〟んじゃなく、で〝生きたい〟――そういう解釈ことで良かったね?」


 笑顔のバンダナが場違いとも感じられる真剣な声でただしたきりしまゆうに対して、キリサメは同じくらい神妙に頷き返した。

 「生きろ」と命じる吼え声を脳内あたまのなかから打ち消したいという望みは、ともすれば生への執着を絶つことにも繋がり兼ねず、〝心の傷〟に寄り添う医師としてはキリサメの言葉に込められた意味を確認せずにはいられなかったのである。

 〝富める者の道楽〟という皮肉が砂色サンドベージュの想い出の彼方から懐かしい声と征服者コンキスタドール言語ことばで押し寄せてきたが、総合格闘技MMAの〝世界〟で生きるという決意は亡き母の遺言とは関わりがない。拳を満たす〝感覚〟が故郷ペルーの〝闇〟へと強制的に引き戻されてしまう以上、その吼え声によって呼び起こされる異能スーパイ・サーキット妨げでしかないのだ。

 キリサメが望んだのは、亡き母の存在を否定するようなものである。

 肉親の情を思えば、喪失うしないたくないという防衛本能が働きそうにもなるが、己が進むべき〝道〟を見定めているキリサメは、先ほど触れた犯罪心理学の手法に倣い、数多の先達が闘魂たましいを吹き込んできたリングを無惨に破壊してしまった過ちを振り返ることで前進への意思を挫かんとする〝全て〟を踏み越えた。

 キリサメの瞳に宿る光を見極めたきりしまゆうは、「って見間違えること自体、とんでもねぇ失礼だったな」と、余人には意味の分からない呟きを儚い声で零した。


「僕には真似できませんが、親から託されたモノを背負う生き様は気高いと思います。親しくさせて頂いている人も、自分が受け継いだ武術の歴史に人生を捧げていますし――」


 肉親の命を目の前で絶たれる体験が強い念と化して遺された子の心に食い込むという一種の症例を咀嚼するなか、キリサメの脳裏に浮かんだのは『しょうおうりゅう』の若き宗家――あいかわじんつうであった。

 発祥した時代や国こそ違えども、共に殺傷ひとごろしの技を研ぎ澄ませてきた神通とは自分の〝半身〟としか表しようのない〝共鳴〟で結ばれている。その名前が鼓膜を打つたび、彼女のスカートがめくれた瞬間ときに目撃した純白のふんどしが条件反射で意識に割り込んでくるのだが、今のキリサメが思いを馳せるのは、古武術宗家という〝立場〟そのものである。

 しょうとくたいの異称を冠する〝戦場武術〟は敵将の首級くびを狩り合う中世日本のかっせんに端を発し、その流派は数世紀に亘って受け継がれてきた。己の身に流れるのと同じ〝血〟と共にる念を背負うという点では『スーパイ・サーキット』と重なるのではないか――と、キリサメは〝半身〟との〝共鳴〟が一層深まるような仮定を脳内あたまのなかね返していた。

 それ故に『しょうおうりゅう』宗家を匂わせるような言葉が口をいて出てしまったわけだ。

 もはや、きりしまゆうが神通と同じ『しんげんこうれんぺいじょう』の出身うまれであることは疑いない。ましてや『しょうおうりゅう』は〝甲斐古流〟の筆頭なのだ。その宗家とも旧知ではないかとたずねようとしたキリサメに他意などなかったのだが、彼の顔へと視線を巡らせるや否や、今まさに飛び出しかけていた言葉を慌てて呑み込んだ。

 流派の歴史に己の人生を捧げる継承者という今し方の一言からきりしまゆうが『しょうおうりゅう』を思い起こしたことは間違いないとキリサメも察したが、その顔には初めて顔を突き合わせた瞬間と同じように郷愁の念が滲んでいる。

 机上に飾ってあるヨーヨーの一つを手に取ったきりしまゆうは、奇妙と感じるほど緩やかに椅子から立ち上がると、そのまま窓辺に向かっていった。自然とキリサメに背を向ける恰好となったが、先程の言葉に腹を立てたというわけではなく、過ぎ去った昔に囚われたかのような表情かおを晒したくなかったのであろう。

 親友の電知よりも小さなその背中には、義弟おとうとひろたかと同い年ではないかと間違えそうになる童顔とは違って白衣の上からでも明らかなが感じ取れた。

 バンダナは後頭部に結び目がある為、その模様は正面からでなくとも見て取ることが出来る。普段はきりしまゆうの顔立ちを更に賑やかにしているのだが、今だけは元気の二字を体現する絵柄が虚しかった。


「便宜上、僕も『スーパイ・サーキット』と呼ばざるを得ない異能あれが〝心の傷トラウマ〟にる瞬間的なストレス反応ということは呑み込めました。僕のなかに生まれた原理も何となく掴めましたが、それを悪化させたはストレスでは片付けられないような……」

「チェックリストに書いてあった〝死神スーパイ〟ってヤツかい」


 キリサメ自ら別の話題はなしに切り替えた理由を察したのであろう。ほんの軽く鼻を啜ったきりしまゆうは、窓の向こうの〝遠いか〟を見つめたまま首を頷かせた。

 はMMAのリングに立ったキリサメを〝地球の裏側〟の闘牛場へと連れ去り、偽りの神父パードレのような〝生きていてはいけない存在〟を破壊し尽くすことこそ〝真実〟と囁いて『スーパイ・サーキット』から最後のたがを外した〝異形の死神スーパイ〟である。

 キリサメも記憶に残っている限りの特徴をチェックリストに列記したのだが、まさしく世界のことわりから外れたまことの異形としか表しようがない。

 愛しい雛を抱き留める親鳥のように大きく広げた砂色サンドベージュの両腕は異様にし、大振りなナイフの剣先さきにも見える突起物が肩とおぼしき部位から幾つも飛び出していた。

 老婆を彷彿とさせる白髪を貫く頭部の角は欠けた月の如く湾曲し、逆巻く炎の如く捩じれていた。亀裂の走った仮面のようにも思える顔は様々ないろが調和することもなく毒々しく入り混じり、金属のような光沢を放っていたのだ。

 虫のはねのように律動し続ける左右の耳で命の鼓動を感じ取り、冥府の門としか思えないほど大きな口から突き出した牙でもって生け贄を喰らうのであろう。

 胴体を覆い隠す漆黒の布は人間界の喪服のようにも見え、焼け焦げたような穴が無数に穿たれていた。

 胸部むねの中央には美しい白薔薇が咲き、から飛び出した何本ものツタおおきな両腕に絡まっていた。脈動に合わせて真紅の明滅を繰り返す長い尾は〝何か〟を吸い上げる植物の茎のようでもある。

 蔦のトゲが食い込んだ部分には〝血〟に相当するであろう体液が滲み、赤黒い皮膚の表面で結晶化していた――何もかも現実の存在モノとは思えなかったのだが、キリサメの心臓を一等激しく揺さぶったのは、血の色が異様に濃く、歪なほどおおきい二つの目玉であった。

 目玉そこから頬へと流れ落ちた深紅の雫が大粒の雨に変わり、頭頂あたまから足の爪先さき初陣プロデビューのリングで纏った試合着ユニフォームを〝幻の鳥ケツァール〟にたとえられた尾羽根まで濡らしたのである。


「常に命を脅かされていた故郷ペルーとは違って数える程度ですが、日本でもプロデビュー戦までの間にを引き摺り出される機会がありました。……でも、本物の〝死神スーパイ〟が出現あらわれるなんてことは一度もなかったんです。この異能ちからが僕のなかに生まれてから一度も……」


 にちりょうこくの〝戦い〟を比べたとき、明確な変化として挙げられるのは『スーパイ・サーキット』のであった。

 今まで発動の瞬間には『聖剣エクセルシス』に骨身を抉られて血の海に沈んだ母と、川の水面を漂う偽りの神父パードレの亡骸の記憶がフラッシュバックするのみであったのだが、じょうわたマッチの鉄拳に死の恐怖を刻み込まれて以来、脳内あたまのなかに鳴り響く〝戦争の音〟が加わったのだ。

 既に故人となっている実父も、人質として日本大使公邸に囚われた際に鼓膜が震えるほどの間近で聞いたのであろうカラシニコフ銃の発砲音とも言い換えられる。

 しかし、は新たに生じた変化の一つに過ぎなかった。異形の死神スーパイもまた故郷ペルーでは巡りったことがなかったのだ。


「――おかえり」


 幼馴染みと同じ声帯でそのように囁く死神スーパイが闘牛場に降り注がせた深紅の雨は口内にまで流れ込み、眠っているときでさえ身近に感じていた甘やかな死の味がキリサメ・アマカザリの全存在を満たした。その瞬間、『スーパイ・サーキット』は過去に経験したおぼえのないに切り替わったのである。

 泥濘に打ち付ける烈しい雨音は、地上を舐め尽くす『カラシニコフ銃』の咆哮――母の胎内はらのなかった頃から脳に馴染んでいた〝戦争の音〟と入り混じってぜ、そこに重ねられた幼馴染みと同じ声と共に〝帰還〟の祝福へと変わっていった。

 を肯定されたキリサメは選手の命を守るルールすら踏みにじる暴走状態に陥り、今度は自らが真紅あか血涙しずくを迸らせてMMAのリングをけがしたのだ。

 これを根拠として、キリサメは窓辺の精神科医から指摘されたストレス反応が深刻な段階まで悪化したものと考えた次第である。思考も意識も飛び越え、肉体からだのほうが危機回避行動を実行したことは過去に幾度もあったが、破壊の衝動を完全に制御できなくなった経験は初めてであった。

 岩手興行を終えた時点では二段階に留まっているが、九月に熊本城で予定されている試合――『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターであるレオニダス・ドス・サントス・タファレルと闘うなかす術もなく追い詰められたなら、更なる〝変化〟が生じるかも知れない。

 そのときに発生するであろう異常事態は、命を壊すという〝自由〟を死神スーパイから許された初陣プロデビューのリングをも遥かに凌駕するはずである。


「俗に〝火事場のクソ力〟と呼ばれる身体強化はホルモンが大きく関わっているんだが、元々のストレス反応が比較的落ち着いている状態に新たな刺激が上乗せされると、その分泌が爆発的に増幅されるってェ研究データもある。キミがと心配している『スーパイ・サーキット』の変化は、それに近い原理だとニラんでるよ。血の涙を流すくらいだから肉体からだの負荷も過去最大だったろ?」

「試合会場から病院まで救急車で直行でしたが、その間も他人ひとから車椅子を押して貰わないと満足に動けないくらい消耗してしまいました。少しずつ回復しては来ましたが、今日も歩行補助杖に頼らないと厳しいくらいで……」

「さっき話した犯行の傾向みてェにストレス反応も幾つかの段階に分かれるんだ。死の危機に瀕して〝再体験症状フラッシュバック〟が起こらない限り、『逃走・闘争反応』が飛び出さないっつうコトは、ストレスとこれに抗うエネルギーが釣り合って安定はしているんだろう。その状態で極限的なストレス刺激が持続し続けると身も心もボロボロになって、循環器系までやられるって寸法さ。心不全まで引き起こすのは説明せずともキミ自身が理解わかるだろ?」


 口にしたことのないキリサメには説明の半分も伝わらなかったが、カフェインが多く含まれた栄養ドリンクを過剰摂取オーバードーズあるいは常飲した結果、ホルモンの異常分泌などが肉体を蝕み、多臓器不全を引き起こした症例もある。『スーパイ・サーキット』の反動はと大きく変わらないのだろうと、きりしまゆうは缶飲料を呷る仕草ゼスチャーと共に言い添えた。


はいの段階まで進行しちまう主な原因は、ストレスの発生源が常に身近にある状態さ。神経が昂り続け、心臓が軋むレベルのな。アマカザリ君の場合は、四六時中、命の危険に晒されるペルーだな。上等な社会まちとは言えないかもだけど、いきなり銃で撃たれる心配のない日本で暮らしていれば、ストレス状態は回復に向かうとニラんでるよ」

「でも、僕はMMAのリングに――闘いの場に身を置く人間です。じょうわた氏との試合がそうだったように脳が〝何〟を新しいストレス刺激として認識するのか、読み切れません。そして、それを避けて通ることも出来ません」

を自覚できているキミはまだ間に合うよ。ストレスマネジメントとかの対処を一緒に考えていける。……おいらの病院トコを訪ねてくれて良かった」


 今度こそ妄想の一言で切り捨てられるかも知れないと、自嘲と諦念を綯い交ぜにしながら異能スーパイ・サーキットの段階化を明かしたキリサメであるが、左右の手のひらの上でヨーヨーを転がすきりしまゆうは医学的な見地や過去の症例に基づいてを受け止めた。


「何より記憶障害が出ていなくて良かったぜ。トラウマ症状やストレスは脳の負担もすこぶるデカいから、解離性健忘の併発も少なくないんだよ。いわゆる記憶喪失ってヤツ」

「……いや、まさか――試合中にMMAのルールが脳内あたまのなかから抜け落ちたのは……ッ」

「反則負けをやらかした原因の一つは、格闘技自体に対する不勉強っていうアマカザリ君のコメントをネットニュースで読んだおぼえがあるよ。自分のアタマに馴染んでいねぇモンが瞬間的にんじまうのは珍しくもないさ」

「……何もかもという一言にこじ付けて逃げるなという先程の助言アドバイスに再び横っつらはたかれたような気持ちです」

「治療を要することに悩んでると、普段なら気にも留めねぇ小さい変化を深刻な症状みたいに怪しんじまうのも人間の心理だけどよ、いちいち不安の種に結び付けて焦燥感に苦しむ必要なんかないぜ。危ない兆候を感じたら、おいらのほうからちゃんと言うし」


 右手でヨーヨーを操りながら振り返り、その一言を強く言い切ったきりしまゆうにキリサメは安堵の溜め息を洩らした。

 もはや、亡き母のには縛られないという決意を固め、また未稲と誓い合った約束も果たせないままたおれるつもりもないが、キリサメは死を恐れているわけではない。耐えがたいのは長期間に亘るストレス状態の代償――脳の損傷ダメージが引き起こす記憶障害だ。

 〝心の専門医〟の説明はなしを聞く限り、生死に関わる疾患と背中合わせの状態ではない。新たな〝家族〟や仲間と積み重ねた想い出を喪失うしなうという最悪の事態は避けられるだろう。

 尤も、きりしまゆうが口にした「まだ間に合う」という一言は、患者がストレス反応の最終段階へ達する前に治療を始められるといった意味ではないだろう。再び向き合った彼はキリサメを瞳の中央に映しながらも、遠い彼方へ意識を飛ばしているような表情かおであった。


「恐怖に一分長く耐えることを勇気という。……でも、それが行き過ぎると精神こころは簡単にブッ壊れる。人間、誰もが〝超人〟になれるワケじゃねぇんだ。……〝超人〟を求めてくるようなヤツには、あっかんべーを返答こたえにしてやるくらいで良いんだ」

「最初のほうはジョージ・パットン将軍の名言だと記憶していますが、それ以降はきりしま氏のオリジナル……ですよね?」

「付け足したのは古馴染み――いや、親友のコトだよ。今と似たような話になったとき、あいつ、パットンの戦車戦を熱弁してよォ……。専門は日本の中世なんだけど、古今東西の戦史も併せて研究してたんだ。いわゆる歴史学者ってヤツな」


 きりしまゆうがキリサメに確かめたかったのは、脳が損傷ダメージを受けていない正常な記憶力か、それとも亡き母の私塾にける教育の水準レベルであったのか。あるいはその両方が彼のなかで入り混じったのかも知れない。


「アマカザリ君度が過ぎた勇気の精神こころが壊れちまう前に、許容範囲を超える恐怖をちゃんと認識して逃げを打つことが出来る。だから、大丈夫。……おいらの親友は〝超人〟になることを求められた結果、〝一分間〟の代償が取り返しも付かないほどデカいコトに気付けないまま、とうとう潰れちまったんだ」


 古馴染みの親友という人物の横顔をきりしまゆうが語るたびにキリサメは座面から腰を浮かせ、〝戦争の時代〟にを指揮して軍神ともたとえるべき活躍を見せたアメリカ陸軍の大将――ジョージ・スミス・パットンの名言になぞらえた〝一分間〟という三字が語られる頃には、窓の間近まで歩み寄っていた。

 再び正面から見据えたきりしまゆうの顔は、それまで感じていた印象から一変して酷く老いた様子であった。少なくともキリサメの瞳には、心身から精力を奪い取ってしまう歳月の重みが映っている。


えて『スーパイ・サーキット』を段階に分けるなら、ストレス反応の種類そのままに〝逃走フライト〟と〝闘争ファイト〟の二つだな。さっきも話した通り、心理的負担の度合いとは切り離して考えてくれよ。銭坪満吉に乗っかるようでシャクだが、精神メンタルの悪化じゃなく回路サーキットの切り替えみたいなモンだっておいらはニラんでるんだからさ」

「今の語感から察するに、『ゲットアウェイ』と『ディスインテグレーション』という具合にそれぞれ言い換えられるように思えますが……」

「しかも、逃避ゲットアウェイには漏れなく攻撃行動ブローアウェイがくっ付く――血の臭いが濃い〝再体験症状フラッシュバック〟が単体ピンでスイッチになる場合の『スーパイ・サーキット』は、原則的に危機回避行動に特化したモノだと思うぜ」

「ストレスの発生源からの緊急退避というコト……でしょうか? 一撃を見舞って敵の追跡を断ち切るといったような原理なら、これまで体験してきた現象コトと辻褄も合います」

「身体強化が一瞬で収まるのも、逃避ゲットアウェイにはで十分だからってね。こじ付けみたいに聞こえるかもだけど、そのときにポンと出ちまう攻撃行動ブローアウェイは、ざっくり言えば森の中で出くわした熊をやり過ごす為の死んだ芝居フリみたいなモン。アマカザリ君にとっちゃ忍者が使う〝とんの術〟って例えのほうが理解わかり易いかもな」


 忍術の一つを口頭にて説明しつつ、きりしまゆうは全身を用いる仕草ゼスチャーでもって地面から火柱が立ったことを表現した。

 これを見てキリサメが想い出したのは、親友の忘れ形見を日本に引き取るべく八雲岳が初めてペルーを訪れた日のことである。金銭目的で襲い掛かってきた日系人ギャング団をのち養子むすこと背中を預け合いながら迎え撃ったのだが、その際に岳は炎の壁を作って追いすがる敵を阻んでいた。

 手品の一種と思っていたのだが、あれこそが〝とんの術〟であったのだろうと、キリサメは今になって理解した。八雲岳が〝忍者レスラー〟であることは日本列島に知れ渡っている為、その養子には火を用いてを図る忍術が最も通じ易い例であろうときりしまゆうは判断した次第である。

 八雲岳が若かりし日に極め、『超次元プロレス』を礎として支えている『にんぽうたいじゅつ』も潜入先で遭遇した敵を徒手空拳で仕留めることを目的とした武術ものではなく、本来は遁走の手段であったと伝わっている。

 奇しくも『スーパイ・サーキット』と養父の忍術が一本の線で繋がり、キリサメは何ともたとえようのない溜め息を交えながら目を細めた。


「あらゆる手段を用いる『ゲットアウェイ』に対して、プロデビュー戦で新たに出てきたのが『ディスインテグレーション』――崩壊を意味する言葉の通りに、コイツは闘争ファイトそのものだ。ストレスの発生源を気配の一片も感じないくらい粉々に叩き壊し、自分の精神メンタルを正常に保てる状態まで強引に戻しちまうって寸法だな」

「敵の目を惑わすか、骨まで残さず焼き尽くすか。岳氏が〝とんの術〟とやらを使うところも見たことがありますが、油を撒いたのは地面のみ。でも、二度と追い掛けられない為には標的に油を浴びせてから火を放ったほうが良い。……僕ならを選びます」


 同じ『スーパイ・サーキット』によって衝き動かされた攻撃であっても、逃避ゲットアウェイに附随する行動ブローアウェイとは心の働き自体が全く異なっているという分析をきりしまゆうは付け加えた。

 キリサメ当人も彼の言わんとする意味をすぐさまに呑み込んでいる。己の双眸から絶えず流れ続けた血涙しずくと、喧嘩殺法をふるたびに浴びる返り血でもって全身を真紅あかく染め上げるなかには、〝生きていてはいけない存在〟と断定した標的――じょうわたマッチの命を咬み砕かんとする狂奔だけが痺れた脳を支配していたのだ。

 それはもはや、殺意の二字で括り切れるではなかった。コークスクリューフックを放った拳に今も生々しく残り続ける〝事実〟として、永遠に消せない罪のあとの如く生物の原始的な部分に根を張った破壊の本能によって四肢の隅々まで支配されたのである。

 〝心の専門医〟の言葉を借りるならば、ストレスの発生源であろう。

 己の生存を脅かす存在を完全に消し去ることでしか鎮静化しない心の働きが『ディスインテグレーション』あるいは闘争ファイト反応であるならば、人体が持つ耐久性を遥かに超えた負荷よりも脳が身体強化の持続を優先させ、破壊の本能を研ぎ澄ませる為に自他の命に対する思考力・判断力を著しく鈍化させた原理も呑み込めるのだ。


故郷ペルーというか、非合法街区バリアーダスで暮らす貧困層の中には僅かな稼ぎを競馬で増やそうとした挙げ句、首を括った人が多かったです。僕は賭博ギャンブルに近寄りませんでしたが、極端な二者択一に走るという意味では、残りの命数で外れ馬券を買った人間と一緒おなじですね」

「極度のストレスに晒された人間がギャンブルに依存しちまう傾向は、説明する手間が省けるみてェだな。キミの異能ちからも〝イチかバチかハイリスク・ハイリターン〟に逃げ場を求める衝動の肥大化っつう側面を含んでるんじゃねぇかな」


 血路を開く逃走フライト反応の場合、追いすがってくる相手を沈黙させる攻撃行動ブローアウェイは一度限りで構わない。相手が二度と自分の生存に影響を及ぼさないよう完全に滅ぼす闘争ファイト反応がその対極であることは、血涙の滴る双眸でもってじょうわたマッチの失神を確認しながら、折れた肋骨を内臓へ押し込むべく振り上げた片足が証明している。

 狂乱の追撃を察知し、我が身を盾に換えてじょうわたマッチを庇ったレフェリーもろともキリサメは躊躇なく踏み潰そうとしたのだ。制止を訴える未稲の声が一秒でも遅かったなら、ひきアイガイオンを上回る格闘技界の汚点が日本MMAに終止符を打ったことであろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』より以前まえからMMA興行イベントの実況を務めてきた仲原アナは、〝格闘競技スポーツ〟と呼ぶに値しない惨状に接して「総合格闘技MMAが殺される」と呻いたのである。


「……まさに『逃走フライト闘争ファイト反応』ですね。本人にも意味不明だった現象ことを自分以外の人から解説されるのは不思議な感覚というか、……正直、気持ち悪いくらいですが……」


 〝生きていてはいけない存在〟に対する徹底的な殺戮は、標的を問わず故郷ペルーで幾度も繰り返してきた。対象の崩壊ディスインテグレーションのみに己の全存在が駆り立てられる『闘争ファイト反応』は、その延長として得心できるわけだ。

 快楽目的ではなく〝理由〟があるから他者ひとの命を壊す――理屈で人を殺すタイプというきりしまゆうの指摘とも合致している。

 決して突然変異などではない。こんにちまで重ね続けた〝暴力〟という名の罪と、格差社会の最下層で生き残る為に膨らませてきた〝闇〟の成れの果てである。無意識の内に征服者コンキスタドール言語ことばを紡いでしまった点にもは顕れているだろう。


「……アマカザリ君は許容範囲を超える恐怖を正常に認識して、逃げを打てる。きっとキミ自身は死を恐れない勇気の持ち主だろうけど、より動物的な本能の部分では命が絶たれそうになった瞬間ときに緊急回避行動を取れる。それを臆病とか恥に思わないでくれよ。人間として極めて真っ当な反応なんだ」


 〝生きろ〟という亡き母の命令を守る為ではなく、己の意思で〝生きたい〟と願う少年キリサメに目を細め、きりしまゆうは念を押すようにして先程と同じ言葉を繰り返した。

 『逃走フライト反応』という言葉を反芻するなか、かつて故郷ペルーで共闘した日本人の〝相棒〟からを揶揄されたことも想い出したが、キリサメは心の中で「死ねない理由があるんだから当たり前だ」と胸を張り、黒いニット帽の厭味な顔を意識の外へ追い出した。


「さっきも話したおいらの親友はキミの正反対だったよ。防衛本能ってのは、言い換えれば死の危険を察知するセンサーだ。アイツはそれを自分てめーでブッ壊しやがったんだ」


 一つの症例と前置きを挟んだのち、古馴染みの親友について切り出したきりしまゆうの顔は、郷愁ではなく哀切に塗り潰されていた。


「疑惑を持たれた僕が言うのもおかしいのですが、自分で自分を心的外傷後ストレス障害PTSDに追い込むようなものでは……? 内臓や神経系の損傷ダメージも想像できますし……」

「仕留めるべき標的の認識、そいつの行動パターンを経験や知識も総動員して分析、相手を完封し切る攻防の実行――それら全部を一瞬の内に合致させるのがアイツの継いだ流派の神髄だったんだよ。本来は別々に、つ段階的に進んでいくコトを人間ヒトならぬ野性の魂ですっ飛ばすって寸法さ」

「的外れな想像であったら申し訳ありませんが、獲物に狙いを定めた肉食獣のように精神を研ぎ澄ませて、脳の処理すら加速させるということでしょうか?」

「普通は相手の得意技を探る小手調べとか、技の駆け引きを通じて戦い方自体を組み立てていくモンだろ? それをアイツは――あの流派は一瞬で短縮しちまうのさ。自分てめーに降り掛かる負担なんか最初ハナッから度外視でな。例えば直線的な一撃ストレートパンチを渾身の力でブチ込む最中に内から外へ振り抜く裏拳打ちバックブローに変化させたら、その腕はどうなると思う?」

「拳を突き込んだ後の追撃ではなく、途中で切り替えるということですよね? 動作うごきに無理があり過ぎて腕全体の筋を痛めますし、最悪の場合、肘と肩まで脱臼し兼ねません。逆回転する瞬間ときに腰にだって相当な負荷が掛かるでしょうし……」

「そういうデタラメな動作うごきも自由自在なんだよ。動物が人間の想像を上回る姿勢を取るのと同じようにな。トシ喰った今、振り返ってもチビりそうになるくらいおっかねェの極みだったぜ」


 親友が極めた古武術流派と『スーパイ・サーキット』には通じる部分があるのではないかというきりしまゆうの指摘に対して、キリサメは声もなく首を頷かせるしかなかった。


「おいらの親友は正統後継者の一族でさぁ、人間ヒトが野性に戻すような修練をずーっと積んできたんだよ。そうやって赤ン坊の頃から適応させてきた賜物なのか、先祖代々の遺伝子が成せるわざなのか、……至って健やかだったよ」


 肉体は至って健康――その先をきりしまゆうえて述べなかったが、死の危険から自己の命を守る為に機能しなければならない防衛反応センサーを意図的にという事実と、PTSD疑惑より始まったここまでのやり取りを照らし合わせれば、部外者であるキリサメにも〝心の有りさま〟は察せられた。


「手負いの獣が傷を癒しもせずにひたすら血を求めて牙を剥き続ける――闘争本能にすがることでしか餓えを満たせなくなった人間は、……アマカザリ君、どうなると思う?」

「何の目標も持てず、一週間先にまだ生きているのかも読めず、その日を食い繋ぐ為に他者の命を壊す――心が何一つ感じられなくとも理屈で無意味と割り切ってしまえる日々が淡々と繰り返される……のではないでしょうか?」

自分てめーの心が死に絶えたことにさえ気付けないまま狂ったように戦って戦って戦い続け、ある日、全身に負った傷という傷からいきなり血が噴き出してブッ壊れるんだ。防衛反応が正常に働く人間と違って壊れることを恐れないから、……バカみたいに強かったよ。プロの格闘家を相手に話したら鼻で笑われそうだけど、『世界最強』の称号はアイツにこそ相応しいって、おいらは今でも本気で信じてるんだ」


 地上の誰よりも武神に愛された〝戦いの申し子〟――字面のみを抜き出せば親友の武勇を誇っているようにも思えるが、きりしまゆうが吐き出した声は悲しみと憤りをい交ぜにしており、「医者の不養生」ということわざが似つかわしい色に変わった唇も小刻みに震えている。

 キリサメが喉を鳴らすようにして大粒の唾を呑み込んだのは、故郷ペルーで見知った戦争経験者とを持つであろう人々が現代にいてもかっせん武技わざを研ぎ続ける『しんげんこうれんぺいじょう』に生まれたきりしまゆうが『世界最強』と讃えた存在に対し、昂揚した為ではない。

 その称号を追い掛ける電知とは違い、数多の格闘家たちの頂点に立つという大志こころざしなどキリサメはそもそも抱いていない。

 〝症例〟という前置きの通り、ったのは、やがて『スーパイ・サーキット』が行き着く〝先〟である。


「銭坪が吹聴して回っているけど、確か『スーパイ』ってのは死を司る神だったよな、インカ神話の。……逃避か、崩壊かゲットアウェイ・オア・ディスインテグレーション――それぞれの頭文字を組み合わせると、丁度、『GOD』になるんだな」

「……他者ひとの笑いのツボを押せなければ、シャというのは品性を疑われる皮肉にしかならないと、死んだ母が良く言っていましたよ……」


 疲れたように椅子に座り直したキリサメはもたれを氷の柱の如く感じ、思わず腰を浮かせそうになってしまったのだが、それは背中に噴き出した冷たい汗が原因である。


「……GODか。非科学的で笑われてしまうかも知れませんが、僕はてっきり死神スーパイの呪いに掛かったものとばかり思っていました。それ以外には説明が付きませんし……」

「白昼夢みたいな死神スーパイや幼馴染みの女の子の幻像まぼろしえるってヤツな。そいつはイマジナリーフレンドと同じ現象だとニラんでるよ。キミの目の前に出現あらわれたように見えるだけで、実際には心の内側なかで作り出された幻像イメージが視界に貼り付けられているに過ぎないハズだ」

「確かにの――幼馴染みの幻像まぼろしは僕以外にえていなかったようですが、……今の言い方ですと、僕の意識と関係なく脳が勝手に作った幻覚のように聞こえます」

「打撃による脳の損傷ダメージ薬物ドラッグによる幻覚症状だったら、直ちに治療に取り掛からなくちゃならねぇけど、キミの場合は純粋な想像力の産物だよ。幻像まぼろしの幼馴染みちゃんに感謝だ。試合前から既に兆候があったコトを証明してくれたのはそのコだもん」

「メキシコ奥地の呪術師シャーマンに除霊を頼みたいくらいだった深刻な悩みがのようになってしまって、さすがに気持ちの整理が置いてきぼりを喰らっていますよ……っ」


 日本への移住後に起こったことであるが、昨年の故郷ペルーを震撼させた反政府デモ『七月の動乱』に巻き込まれて全身を銃弾で引き裂かれ、砂色サンドベージュの想い出の彼方に渡ったはずの素足はだし幻像まぼろしという形で時おり飄然ふらり出現あらわれるようになったのだ。

 瀬古谷寅之助と斬り結んだ〝げきけんこうぎょう〟は言うに及ばず、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の会場や初陣プロデビューのリングにも浮かび上がり、幼馴染みの少年キリサメと決意したMMAを〝富める者の道楽〟とあざわらっていた。じょうわたマッチの息の根を止めなければ、亡き母の命令を守れないと甘やかに囁いたのも幻像まぼろしであった。

 バレッタで結い上げた黒い髪も、薄手のチュニックからタイトスカートに至るまで黒一色という葬式帰りの喪服のような出で立ちも、何もかもが銃撃で頭部あたまの半分を吹き飛ばされる前と変わらない。

 左目全体をガーゼで覆うなど自動車に撥ねられた直後のように痛ましく、折れた右腕はハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだスカーフで吊っていた――永遠の別れになるとは知らずに背中を向けた日と〝全て〟が同じである。

 心霊体験としか表しようのない現象も事前提出のチェックリストで打ち明けたのだが、幼馴染みの亡霊に祟り殺されるのではないかという悩みを〝心の専門医〟から錯覚の如く否定されたキリサメは、大口を開け広げたまま硬直してしまった。

 〝貧しき者〟の非合法街区バリアーダスに産まれ落ちながら、日本で〝富める者〟に染まった幼馴染みを許せずに化けて出た亡霊としか思えなかったのである。を自分自身の脳が意識に割り込ませた正真正銘の幻像まぼろしと軽い調子で切り捨てられたわけだ。

 その上、キリサメを〝地球の裏側〟の闘牛場まで一瞬にして連れ去った異形の死神スーパイさえも幼馴染みと同じ幻像まぼろしと断定したのである。人智では計り知れない力に触れた感覚を生々しくおぼえているキリサメは、きりしまゆうを〝心の専門医〟として信用していても今し方の言葉をそのまま受けれることは難しかった。

 インカ帝国がスペインという征服者コンキスタドールから侵略される過程にいて、アンデスの土着信仰とキリスト教の悪魔という二つの概念が混ざり合って現れたのが『スーパイ』と呼ばれる存在である。そのいびつな成り立ちの顕現あらわれとしかたとえようのない異形を己が脳内あたまのなかで作り出したともキリサメには信じられなかった。

 そもそもきりしまゆう幻像まぼろしの正体として挙げた『イマジナリーフレンド』すらキリサメには理解わからない。母の教育の賜物として知恵が働く少年ではあるものの、〝想像上の友人〟といった語感のみを手掛かりとして実態に辿り着くのは不可能であろう。


「例の親友もさ、何度となく枕元に立ってくれたよ。医者として食っていけてんのか心配だって言ってな。目が醒めた直後は嬉しいんだ。遊びに来てくれたってさ。でも、次の瞬間には医者としてのアタマが『お前の願望を脳が拾っただけに過ぎない』ってブン殴ってくるんだ。お人好しな親友アイツの人格を借りて都合よく作り出した幻でしかないってな」


 説明はなしの流れを断ち切り兼ねない質問を堪えながら耳を傾けるキリサメであったが、患者の〝本当の心〟を引っ張り出す為にきりしまゆうが架空の人物をでっち上げているわけでないことだけは理解していた。

 それどころか、きりしまゆうを話しているのか、初めて顔を見た瞬間に〝誰〟の生き写しと錯覚したのか、その確信を強めている。

 あいかわ――〝甲斐古流〟の筆頭たる『しょうおうりゅう』の〝先代〟にして、現代日本とは相容れない中世の〝戦場武術〟を錆び付かせないよう危険な地下格闘技アンダーグラウンドのリングに挑み続けるあいかわじんつう実父ちちである。

 彼女から教わっていた断片的な情報と、キリサメに対するきりしまゆうの言行がことごとく一致したのだ。「実父ちちと同じ目をしている」と神通から告げられ、これが一つのきっかけとなって互いを〝半身〟の如く意識する〝共鳴〟が生まれたのだから、キリサメには忘れられるはずもなかった。

 きりしまゆうの紐解く親友があいかわその人であろうと直感したのは、歴史学者という経歴に言及があった為である。聖徳太子の異称を冠する流派の発祥期と同じ中世日本を専門に研究し、彼が携わった学術書は義弟おとうとひろたかも愛読していたのだ。

 古馴染みの親友について振り返り始めたとき、きりしまゆうは顔を覗き込まれないようキリサメに背を向けていたが、想い出の彼方へと去って久しい名前を己のなかに響かせようというのだから、それも無理からぬことであろう。

 あいかわる拳法家との他流試合の末に絶命したこともキリサメは承知していた。


「深層心理……というものでしょうか? でも、僕がたのは夢ではなく――いや、白昼夢ということなら起こり得るのか……? 幻覚や幻聴が脳に蓄えられた情報データに基づく症状だと考えれば、あるいは……?」


 自分と全く同じ目を持つとされる存在モノと出会い頭に衝突した恰好のキリサメは、当該人物の娘と親しく交わっていることをきりしまゆうに明かしそうになったのだが、秒を刻むごとに哀切が深まっていく顔を見てしまうと、を呑み込んで自身の心理現象について話し続けるしかなかった。

 あいかわの辿った末路をより深く語らうことは、きりしまゆうの心に今も残り続ける傷を無慈悲に抉るという意味である。これをはばかったキリサメには神通から何一つとして教わっていないという芝居フリが求められるわけだが、他者ひとを欺き通せるほど器用ではない為、不自然と感じられないよう注意し始めた途端に言葉の一つ一つがしどろもどろになり、ついにはしかめ面となってしまった。


「その受け答えが来たっつうコトは、人間ヒトる夢が大なり小なり深層心理に影響されているのも把握済みって承るぜ。キミの場合ケースはつい耳を傾けてしまう〝誰か〟が心の奥底から叫びをぶつけてくるパターンだろう。言葉のやり取りを通じて行動を変えられるのは、当然ながら覚醒時のみ――そこもイマジナリーフレンドと近似しているよ」


 相槌を打つことさえちゅうちょするキリサメの様子から自身の説明に不足があったと悟ったきりしまゆうは、イマジナリーフレンドという現象が起こる原因へと更に踏み込んだ。

 正確にはキリサメのなかに生まれた〝何か〟と表すべきであろう。

 この説明によってイマジナリーフレンドに対する理解が捗ったキリサメではあるが、今度は別の疑問が浮かび上がり、同時に戦慄にも近いモノが背筋を駆け抜けた。


「仮に僕の幻像まぼろしが深層心理の発露なら、は『天叢雲アメノムラクモ』を――いいえ、日本で新しく絆を結んだ全ての人たちを拒絶しようと思っているのでしょうか……?」


 得体の知れない新人選手ルーキー実力ちからを認め、『天叢雲アメノムラクモ』の新たな仲間として迎え入れてくれたじょうわたマッチに絶対的な崩壊ディスインテグレーションもたらすよう煽ったと、〝生きていてはいけない存在〟に対する理性のたがを引き千切った異形の死神スーパイ――〝心の専門医〟の分析をそのまま信じるとすれば、より発せられた二つの誘惑は、キリサメ自身が日本でことを拒んでいる証左になってしまうだろう。

 数え切れない弾痕が刻まれた闘牛場で血の海に沈んだ幼馴染みも、まさしくその場に降臨した異形の死神スーパイも、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては〝格闘競技スポーツ〟を〝実戦ほんもの〟から掛け離れた偽物まがいものに過ぎないと征服者コンキスタドール言語ことばで否定し続けていた。

 イマジナリーフレンドには分類されない幻像まぼろしと察せられるが、きりしまゆうの枕元に浮かび上がって行く末を案じたというあいかわとは奇しくも正反対である。

 キリサメ自身、〝暴力〟が生きる糧を得る手段とは認められない法治国家への違和感が拭い切れたわけではなかった。それでも〝真実を超えた偽り〟を掴もうと、血と罪にまみれた手を伸ばしてきたのだ。

 それにも関わらず、結局は故郷ペルーの〝闇〟へ回帰することを望んでいるのか――じょうわたとの試合で『スーパイ・サーキット』を多重発動させた代償の為によろめき、テーブルに両手を突いて体重を支えながら、キリサメは再び椅子から立ち上がった。


むしろ日本での生活くらしに慣れてきた証拠だと思うぜ。もっと言えば、常にストレスで張り詰めていなくても〝世界〟にな。キミ自身の言葉を借りるなら、新しく絆を結んだ人たちと生きていきたいって、心の底から求めているのさ」


 無意識の内に我が身を抱いてしまうほどの不安に苛まれたキリサメであるが、肉体からだを労わって椅子に座り直すよう促したきりしまゆうが事も無げに発した一言によって、心に垂れ込める黒いもやから解き放たれた。


「環境の変化は本人が考えている以上に脳のほうで割り切れなくってな。気付かない内に深刻なストレスとして溜まっちまうんだよ。〝地球の裏側〟から移住したアマカザリ君の場合は生活環境どころか、身を投じる〝戦い〟のまで変わったろ? 何重もの心理的負担が神経を直撃することは、ここまでの話で理解わかって貰えてるんじゃねぇかな」

「心の乱れが僕に現実離れした幻像ものせたということは呑み込めましたよ。……ストレス状態の慢性化は内臓疾患に行き着くとも先ほど仰っていましたね。それを思えば、これ以上ない皮肉ですよ。死からの逃避ゲットアウェイが自分を崩壊ディスインテグレーションに導く片道切符だなんて」

「死に慣れ切ったキミにそこまでの恐怖を抱かせるイマジナリーフレンドってワケだな。ついつい悪く考えそうになっちまうが、〝本当の心〟を自問する機会が与えられたとも言えるだろ? 自分てめーの尻に火を付けるようなモンとは真剣マジに向き合うのが人間だしさ」


 現在いまのキリサメのなかで大きな渦を巻いている混乱は、決意を固める過程で生じた矛盾に原因があるのではないかと、きりしまゆうは新たな分析を付け加えた。

 自己矛盾によって精神崩壊の危機を迎えたとき、人間の脳は因果関係やびゅうを上書きするような形で修正を図り、強引に整合性を取ることがある。認知を捻じ曲げることで心の均衡を保つわけであるが、それがキリサメにとっては二つの幻像まぼろしであったのだ。

 キリサメのなかに生まれたイマジナリーフレンドは、人を殺してはならない法治国家日本への違和感をによって書き換え、禍々しい『聖剣エクセルシス』が〝仕事道具〟であった状態まで心の在り方を引き戻そうとしている。

 だからこそ、最も強烈な幻像イメージを構成し得る情報データが脳内から引き摺り出されたという原理であり、を持つ存在モノが執拗に纏わり付いてきたわけだ。


「日本には『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ということわざがあるそうですが、その国が錯覚同然の死神スーパイに振り回される現在いまの状況は、皮肉を通り越して馬鹿馬鹿しいの一言ですね」

道徳モラルの面じゃ注意しなくちゃならねぇけど、娯楽として愉しまない程度の陰口悪口は人間として実に健やかだよ」


 きりしまゆうが放り投げてきたヨーヨーを両の手のひらで受け止め、先程まで眺めていた遊び方を右手でもって真似しながら、キリサメは初めて・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの幻像まぼろし出現あらわれたときのことを想い出していた。

 〝人間らしさ〟と呼ぶべき感情を与えてくれた未稲が所属するゲーミングサークルの仲間に拉致・監禁されたと信じ込まされたキリサメは、その首謀者である瀬古谷寅之助に本気で『聖剣エクセルシス』を振りかざしたのだ。

 それはつまり、法治国家日本で人を殺すことに踏み込もうとしたという意味であった。

 電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトとは比較にならないほど殺意が膨らんだ瞬間とも言い換えられるだろう。〝戦い〟に対する感覚が限りなく故郷ペルーに近付いていく中で、幼馴染みの幻像まぼろしが浮かび上がったのである。

 果たして、それが異形の死神スーパイの降臨に至る前兆であったとすれば、きりしまゆうが示した分析は何もかも辻褄が合ってしまうのだった。


「――サミーの絵心なら最低限、その日を食い繋ぐことくらいできるでしょ。自分一人を食べさせれば良いんだし」

「サミーのヘタクソな絵なんて売り物にならないよ。……これからどうするの?」


 未だに幽霊こそが正体ではないかと疑う気持ちも捨て切れないのだが、イマジナリーフレンドという〝心の専門医〟の見立てを呑み込む手掛かりもないわけではなかった。

 ルールによって選手の命を守るMMAを〝富める者の道楽〟などと貶めてきた幻像まぼろしはキリサメが描いた絵は必ず高値で売れると断言し、偽物まがいもの戦場リングに背を向け、『八雲道場』から離れても生活には困らないと囁いていた。

 甘やかな声で逃避の肯定を繰り返す幻像まぼろしに対して、記憶の中のはキリサメの絵を「芸術に対する冒涜」「ここまで絵心がないのは逆に生まれ持った才能」などと生前から情け容赦なく扱き下ろしてきたのである。

 二つの声を比べてみれば、耳に心地好い言葉を連ねるほうが幼馴染みの亡霊ではないことは瞭然であろう。そこに思い至ったキリサメはヨーヨーの扱いを誤り、右の手のひらで受け止め損なった円盤が眉間にぶつかってしまった。

 幼馴染みのかおかたちを真似した幻像まぼろしから発せられる言葉が己の深層心理を映しているのであれば、絵に対する素養を過信している何よりの証拠であろう。突如として自意識の高さを暴き出された恰好であり、その気恥ずかしさに動揺して手元が狂った次第である。


「……幽霊や神霊の類いでないのなら、アレはこの先も僕に付き纏うのでしょうか? きりしま氏からご説明いただいたストレス反応を抑え込むには、忌々しい幻像まぼろしを片付けるのが先決と思うのですが、それも素人考えでしょうか?」

「イマジナリーフレンドが〝何〟を訴えているのか、落ち着いて耳を傾けるところから始めるとしよう。すんなり飲み込むのは難しいけど、深層心理はキミの一部。無闇に否定すれば心の具合が余計に悪くなっちまうよ。勿論、今日明日での解決を約束するほどおいらも無責任じゃねぇ。でも、『スーパイ・サーキット』をこの間みたいに暴走させないよう制御コントロールすることは不可能じゃねぇさ。それを支援たすける為に〝心の専門医〟が居るんだ」

「心のなかで絶縁宣言するだけじゃ効果が薄いなんて、どこまでウザいんだ、芽葉笑アイツ……」

「心のなかの対話を通じてアマカザリ君が揺るぎない答えに辿り着いたら、おそらくイマジナリーフレンドの役目は終わるはずだよ。過去の事例に反して、それでもまだ化けて出るようなら正真正銘の幽霊だ。いっそ〝霊媒格闘家〟って名乗りを上げるのもアリかもよ」


 『スーパイ・サーキット』の発動に附随するものとおぼしき幻像まぼろしの正体を見極めたキリサメは、ヨーヨーをきりしまゆうに返しながら再び前のめりとなった。

 心霊体験を披露したくて彼の病院まで足を運んだのではない。これから先も〝プロ〟のMMA選手として『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立ち続けることを望み、その課題の解決を目指しているのである。

 差し向かいの椅子に座り直したきりしまゆうは、キリサメの双眸を満たした決意の光に応えるよう任せておけと言わんばかりに自身の胸を叩いて見せた。

 深層心理が形を成した幻像イマジナリーフレンドと相対し、乱麻の如き自己矛盾を突破すれば、〝心の在り方〟と結び付いた『スーパイ・サーキット』にも前向きな効果が及ぶだろう――きりしまゆうが示した一つの目標設定に対して、キリサメは一瞬たりとも迷わずに首を頷かせた。


「キミはおいらの親友みたいなコトにはならないよ。アイツとはが違う」

「そう……なのでしょうか?」

「正直、目付き自体はそっくりさんかってくらいビックリしたけど、の力は似ても似つかないよ。勿論、ポジティブな意味でね。……だから、さっき話したような壊れ方までは行かない。眩しいくらいのキミと違って、アイツのは洞穴としか言えなかったもん」


 まぶたを半ばまで閉ざしている為に眠たげな印象でありながら、強い光を湛えたキリサメの双眸を覗き込み、きりしまゆうは古馴染みの親友と同じは辿らないと断言した。

 〝心の傷〟は極めて繊細であり、治療過程にいてもほんの小さな刺激から大きく変化してしまう為、本来であれば患者の症状を断定することは望ましくないが、それでもえて「間違いない」と言い切ってしまえるだけの確信を得たというわけだ。

 キリサメの側も口に出してたずねることは控えたものの、PTSD疑惑から始まって急性ストレス反応やイマジナリーフレンドについて言葉を交わす間にあいかわと瓜二つという第一印象が覆った次第である。自他を崩壊ディスインテグレーションに追い込み兼ねない『逃走・闘争反応』と向き合うキリサメにとって、死から逃れる防衛本能センサーを己の意思で壊してしまう狂気との隔絶へだたりが確認されたことは大きな第一歩にもたとえられるのだった。


「……あれ? ちょっと待てよ。地球上で誰よりもヤツのようにはなれねぇって言い切っちまうのは、格闘家のアマカザリ君にはとんでもねぇ失礼だったな⁉」

「他意がないことは勿論、承知していますよ」


 そもそも昔日の友を懐かしむきりしまゆうと現在の自分では、『最強』を測る基準自体が異なることをキリサメは心得ていた。差し向かいの彼が思い浮かべているであろう〝強さ〟も、格闘家としての実績を指してはいないはずだ。

 一九八九年――即ち、四半世紀も昔のことであるが、『しょうおうりゅう』を極めたあいかわが一人の古武術家として若かりし頃のおにつらみちあきと異種格闘技戦を繰り広げたことはキリサメも承知していた。

 模擬戦スパーリングではなく、ましてや観客を招き入れる『新鬼道プロレス』の興行でもなく、日本で初めて総合格闘技の理論を体系化したヴァルチャーマスクただ一人が立会人となり、互いに生死の境を彷徨うほどの重傷を負った激闘であったという。

 治療に当たった担当医も落命しなかったことが奇跡と戦慄したそうだが、全身を血の色に染めた鬼貫は自慢の顎が真っ二つに割れ、頭蓋骨にも数ヶ所の亀裂が確認されていた。

 回復まで特に時間を必要としたのは左膝であり、江戸時代から続く骨接ぎの名門――せんじゅの『ぐらどう』を頼らなければ、復帰する目途すら立たなかったことであろう。然るべき治療を施されても、『アンドレオ鬼貫』が再び異種格闘技戦のリングに立つまでには五年という歳月を要したのである。

 空前絶後としか表しようのない一戦は、日本格闘技界にとしては残されていなかった。そして、あいかわがキリサメ・アマカザリのような〝プロ〟の格闘家ではないことをも意味している。

 地下格闘技アンダーグラウンドに身を投じた実娘むすめのようなアマチュア選手ということでもない。あいかわが主戦場としていたのは、指定暴力団ヤクザの抗争――『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体と〝黒い交際〟を持ち、日本MMAの絶頂期を崩壊へと一転させた『こうりゅうかい』傘下の実働部隊を『きょくちょう』という肩書きで率いていたのである。

 『てんぐみ』という実働部隊の隊名なまえを騙ったことがある寅之助や、消息不明となった実父ちち以前かつて隊士なかまであったというつるぎきょうの話は、きりしまゆうが〝哀川局長〟を讃える際に用いた『最強』という二字が前田光世コンデ・コマの背中を追い掛ける空閑電知の目標とも異質であることを端的に表していた。

 日本MMAの仇敵ともたとえるべき『こうりゅうかい』は、関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団ヤクザである。敵対組織と血みどろの抗争に明け暮れ、警視庁公安部どころか、海外の警察機関にまで危険視される当代随一の武闘派であり、〝関東最強〟と畏怖する声も少なくない。

 つまるところ、きりしまゆうが先ほど口にした二字はに近い意味合いというわけだ。

 差し向かいの男もまた『てんぐみ』の隊士なかまであろうと、もはやキリサメは疑わなかった。

 側近として〝哀川局長〟を支えたものとおぼしき藪総一郎がこの病院を紹介した一番の理由にようやく辿り着いた心持ちでもある。

 常軌を逸した殺人者の心理に詳しいのも当然であろう。色こそ異なるものの、白衣の下に着ている横縞柄の上下が古い様式の囚人服に思えてきたキリサメは、「ミイラ取りがミイラになったのではなく、ミイラがミイラ取りしている」と心の中で呻いてしまった。

 そのキリサメも数ヶ月前まで『てんぐみ』に近い境遇で『聖剣エクセルシス』を振り回しており、だからこそきりしまゆうによる突飛な昔語りにも現実感という名の輪郭を見出すことが出来た。る種の相互理解が『てんぐみ』との間で成り立っていなければ、命を守る防衛本能センサーを自ら破壊した〝哀川局長〟の狂気など信じられるものではあるまい。

 一つの事実として、キリサメときりしまゆうは初めて挨拶を交わしてから一時間も経過していないというのに〝表〟の社会で生きてきた人々と比べて深い領域まで理解わかり合えている。

 やぶそういちろうから『てんぐみ』のことには決して深入りしないよう釘を刺されている為、隊内にける役割など確認できるはずもないのだが、〝命の遣り取り〟のを熟知し、生と死が鼻先ですれ違う極限状態を経験した者が悩まされる症例にも詳しいきりしまゆうは、〝一般の開業医〟ではなく軍医に近いのではないかとキリサメは考え始めていた。

 〝命の遣り取り〟によって精神こころに変調をきたした者たちに寄り添ってきたからこそ、キリサメの『スーパイ・サーキット』を急性ストレス反応の一種であろうと看破し、この異能ちからじょうわたマッチとの死闘を経て二段階に分かれてしまった原因にも今後の対策を前提とした仮説を立てられたのである。

 今日まで人智を超えた現象ものとしか思えなかった二体ふたつ幻像まぼろしに対してさえ、取り乱すことなく向き合っていく為の手掛かりを与えてくれたのだ。

 ルールによって安全性が約束される〝格闘競技スポーツ〟は、比喩でなく本当に互いの命を壊し合う戦場とは確かに掛け離れているが、死の恐怖に直面して人間の内部に働く生体反応や脳が認識する精神こころ痛手ダメージ、害意を浴びせてくる対象と向き合う心理的圧迫プレッシャーは、競技選手アスリートと将兵の間で断絶されているわけではない。幻像イマジナリーフレンドの形を取った自己矛盾も、永遠に続くことはない――そのように助言できる〝心の専門医〟と出逢えたこと自体がキリサメには何よりの僥倖さいわいであろう。

 暴力が支配する格差社会の最下層から〝格闘競技スポーツ〟のリングへと立つべき〝場〟を移した以上、最期まで〝命の遣り取り〟に殉じたあいかわと同じ〝道〟を辿ってはならないのである。その自覚をキリサメに促す為、やぶそういちろうは血よりも濃い絆で結ばれた〝戦友〟と引き合わせたのかも知れない。

 今までの態度から察するに、キリサメが『てんぐみ』の概要を把握していることをやぶそういちろうはこの〝戦友〟に伝えていないのであろう。それだけに部外者キリサメの側が受け答えの言葉に気を付けなければならなかった。


周囲まわりの期待に応えられるのなら、僕も無茶を厭いませんが、きっと誰一人として許してくれません。……そういう意味でもきりしま氏のご友人のようにはと思います――」


 キリサメが口にした〝無茶〟とは、故郷ペルーいて生きる糧を得る〝仕事道具〟であった『聖剣エクセルシス』を再び握り直すという意味ではない。

 暗にあいかわを指した一言も、日本で絆を結んだ家族や仲間をきりしまゆうと同じ表情かおに変えないという意思の表明あらわれなのだ。


「――無闇に自分を苛め抜かなくても効率的な練習メニューを組みさえすれば、肉体からだの負担を最小限に抑えながら最高の効果が見込めると、未来の格闘家を守るべく知恵を絞る人たちの声を僕は大事にしたいと考えています」

がガキの頃は肉体からだがブッ壊れるくらいの修行に耐えられないようじゃ強くなれねぇって信じ込んでたからなぁ~。今にして思えば精神論だけで根拠もクソも皆無に等しかったんだけど、骨だって折って鍛えるって具合だよ。血の小便が出ようとも自分てめーを殴り続けるのがて、途中で力尽きたら根性ナシの烙印を押された時代さ」

「友人の空手家は現在いまも道場に根深く残った前時代的なやり方を改めようと、文字通りに東奔西走していますよ。過酷な訓練トレーニングは頑丈な人間を選り分けるふるいといったことも話していたのですが、初めて聞いたときは意味を掴み兼ねていました。でも……」

「人間がってのはどういうコトなのか、おいらの親友の話で初めて理解できたってワケね。それでこそアイツのデタラメっぷりを聞いてもらった甲斐があるよ。故郷くには〝外界そと〟と切り離された山奥でなぁ……、未だに『昭和』のスポ根性ブームみたいな価値観が塗り替わっていかねぇから、キミのお友達の苦労が痛いくらい理解わかるよ」

「先ほど少しだけお話しをさせていただいた古武術宗家の友人も古式ゆかしい武術家ですので、きりしま氏のご友人のように古い時代の修行を自分に課せられた使命のように続けているみたいです。……背負うべき歴史を持たない僕には、きっとの気持ちは永遠に理解できません。その代わりに古い時代からこんにちまで研究が積み重ねられてきたスポーツ医学などを手掛かりに出来ます」

「何世代にも亘って守られてきた伝統は大事にしなくちゃだけど、アマカザリ君の考え方がこの先の時代では正解だよ。……アイツもな、もうちょっとだけ生き方が器用だったら逃げるって選択肢が人生に出てきたんじゃねぇかって思うよ」

「……人間、誰もが〝超人〟になれるわけじゃない。〝超人〟を求めてくるような奴は追い払って欲しかった。……でも、きりしま氏のご友人は逃げなかった」


 裏社会が主戦場という類似点があるとはいえ、『てんぐみ』と政府転覆の幻想に取り憑かれた尖兵を並べて扱うことはキリサメも気が咎めたものの、『聖剣エクセルシス』で薙ぎ払ったテロリストたちと同じように『仏捨』の隊旗はたを掲げる黒装束たちも逃げることなど許されない戦いに身を投じていたのであろう。

 は〝哀川局長〟だけでなく、きりしまゆうやぶそういちろうも変わらないはずだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟選手であるあいぜん実父ちちにして、世界的な作曲家として名高いほんかつひさにも『てんぐみ』の隊士なかまという疑惑がある。極限の二字をもってしても語り尽くせない情況で感性を研ぎ澄ませた末、その遺伝子を持つ愛染むすめなかで常人には想像すら叶わない才能がしたのであれば、これほどごうの深いこともあるまい。


「だって『世界最強』だぜ? 人間から野性の魂に戻るような修練積んできたヤツは、心まで最強なんだっておいらも他の仲間たちも信じて疑わなかったよ。普通の人間ならアタマがおかしくなるような状況さえ平気な顔で乗り越えたしな。……結局、それはおいらたちの勝手な思い込みに過ぎなかったんだよ」

「一流派を背負った僕の友人と似た者同士なのかも知れません。逃げ方を知らず、……いえ、誰かに逃げ道を用意されても、それを断って恐怖の最前線に一分以上踏み止まる覚悟の持ち主です。きりしま氏のご友人の話を聞いて、……心配になってきました」

「そのお友達に助けが必要だと思ったら、速攻で連絡してくれよな。罪滅ぼしや埋め合わせなんかじゃねぇけど、もう誰にもアイツと同じ目に遭って欲しくねぇんだ」


 自分が話している古武術家の友人とはあいかわ実娘むすめであり、同郷のきりしまゆうとも旧知の間柄であろうと察せられる神通なのだ――喉の奥から飛び出しそうになったその一言をキリサメは力ずくで飲み下した。

 殺傷ひとごろしの技を研ぎ続ける人々の精神構造こそ想像できるものの、『しんげんこうれんぺいじょう』で生まれ育ったわけではなく、『てんぐみ』の内情も断片的にしか把握していない自分は完全な部外者だ。ましてや格闘技そのものへの勉強も足りておらず、武術家たちが過酷な鍛錬に臨んでいく気概も理解し切れていない。

 そのような〝立場〟から〝甲斐古流〟の筆頭たる『しょうおうりゅう』現宗家に口を挟むことは、神通たちの〝起源ルーツ〟そのものを土足で踏み荒らす行為にも等しいのではないかと躊躇ためらってしまった次第である。


故郷くにでバカやってたガキの頃からアイツはんだと思う。それをおいらたちは何にも負けねぇ強さと履き違えて、本当は心が悲鳴を上げていたことに気付けなかった。アイツが迷ったときには無神経に背中までどやしつけちまった。……おいらの目が節穴でなけりゃ、別の生き方だって一緒に考えてやれたかも知れねぇのによ」


 本当は〝心の専門医〟を名乗るのもがましい――懺悔とも受け取れる昔語りに一区切りを付ける間際、きりしまゆうはこれまでで最も重苦しい溜め息を挟んだ。

 実娘むすめと友人ではあいかわとの関係性も大きく変わる為、キリサメと比べた際の印象が異なるのも当然であろうが、それを差し引いても神通ときりしまゆうの見立ては全くといっても過言ではないくらい重なっていなかった。

 あいかわ実娘むすめとしてキリサメと相対した神通は、両者の目を「全く同じ」としている。それ故に初めて顔を合わせた日から一瞬たりとも忘れられなくなるほど惹かれ、『しょうおうりゅう』と同様に殺傷ひとごろしを目的として編み出された喧嘩殺法と『スーパイ・サーキット』には身も心も昂ってならないとも熱弁していた。

 そのような神通であるから、実父ちちが全身全霊で互いの命を喰らい合う〝あい〟に殉じたことも武術家が迎える必然として割り切っていた。これを打ち明けた際にもキリサメのほうが面食らってしまうほど落ち着き払っていたのだが、実の娘より長い歳月を共に重ねてきた古馴染みの親友――きりしまゆうにとって、あいかわという男の死はまた別の意味と重みを持つのである。


「おいらの親友と似た者同士っつう人をせいぜい大事にしてやんなよ、アマカザリ君。例え喧嘩別れする羽目になっちまっても、向こうが生きてさえいてくれたら、それだけで十分って思える日が必ず来るからさ」


 吐き出すようにしてキリサメに諭したきりしまゆうの双眸からは今にも涙が零れそうである。もはや、バンダナの模様と正反対の感情を押し殺せなくなっている様子であった。

 ほんの一瞬だけ肩を震わせたのち、その上下運動に引き摺られるような格好で首を頷かせたキリサメであるが、その動作うごきは先程のように力強くはなかった。

 折に触れて甦るふんどしの記憶という浮ついた気持ちも含めて、己の〝半身〟の如く感じていた神通に〝共鳴〟を乱すような不安を初めていだいたのだ。

 人間の魂を野性に回帰させるような荒々しい修練を物心が付く前から積んできたのであれば、純粋な格闘技ではなく殺傷ひとごろしの手段に過ぎない喧嘩殺法や〝格闘競技スポーツ〟のリングに破壊を撒き散らした『スーパイ・サーキット』の暴走に精神こころが強く反応してしまうのも理解できる。数世紀に及ぶ『しょうおうりゅう』の歴史に己の人生を捧げることさえ厭わない覚悟は、防衛本能の破壊も喜んで受けれることであろう。

 〝半身キリサメ〟の戦いが頭から離れないという神通の昂揚は、崩壊ディスインテグレーションそのものに魅入られている可能性を示唆していた。

 彼女がと同じように戦いに殉じる〝道〟から引き返せなくなったと感じたとき、破壊の胎動ともたとえるべき〝共鳴〟で結ばれた自分は、それを止めるべきなのか。制止の言葉など思い付くのであろうか。

 そもそも〝人間らしさ〟を喪失うしなわないよう引き留めたところで神通が聞き入れてくれるとも思えない。『しょうおうりゅう』宗家の有りさまを言い表すには〝サイコパスの脳〟こそ最も近いのではないか――先ほど触れた犯罪心理学によって引き起こされた胸騒ぎをキリサメはどうしても抑えられなかった。

 そのことに助言を仰ぎたかったものの、「これじゃ精神科医失格だ」と自嘲を吐き捨てるくらい心が揺れているきりしまゆうに対して、今さら哀川家との接点など切り出せなかった。


「岳氏や麦泉氏も、それくらいの覚悟でPTSDのことを話してくださったのだと、今なら思えます。……正直な気持ちを打ち明けると、最初はロシアの〝先輩〟を恨みました」


 哀川家の事情に対する差し出口は控えるべき――今一度、己に言い聞かせて思考あたまを整理したキリサメは、厭味と受け取られても言い訳できないほどあざとい仕切り直しという自覚を抑え込むと、周囲まわりから心的外傷後ストレス障害PTSDを疑われていると初めて気付いた日のことを紐解き始めた。


「勿論、僕のことを純粋に心配してくださっているのは分かっています。……分かっていても、怖くて仕方がありませんでした。だって『お前は異常者だ』と宣告されたようなものですから。自分が他人ひとと違っておかしいなんて最初から理解わかっていたはずなのに、それを家族から怪しまれた途端に、僕は……」


 例えば岳などはじょうわたマッチに殴られ続けた頭部あたま損傷ダメージが心配と理由を付け、幾度となく添い寝を強行してきたのだが、実際には精神こころの異常を調べていたのだ。

 差し向かいの相手にも言明した通り、養父ちちの不器用な気遣いであることは養子キリサメも十分に分かっているのだが、理屈ではどうしても割り切れない蟠りが黒いもやと化して胸中に垂れ込めてしまった事実も誤魔化しようがない。

 標的の血を吸い尽くす『聖剣エクセルシス』と同じ暴力性の顕現あらわれ――『スーパイ・サーキット』を身に宿していることは言うに及ばず、命というモノを儚く吹き飛ぶちりあくたとしか考えられない〝感覚〟も、白昼の市街地でギャング団から襲われる心配がない日本ハポンへ馴染めずにいる原因だと自覚している。

 だが、〝内〟なる自問と〝外〟からの宣告では、異常性のも全く違う。

 何事にも無感情なキリサメであるが、己が抱える〝闇〟を概念的な〝何か〟から精神こころの疾患というに置き換えられた瞬間は動揺を抑えられず、自覚できるほど血の気の引いた顔で我が身を掻き抱いてしまった。

 現在いま故郷ペルーには一人としてらず、移り住んだ〝地球の裏側〟で初めて巡り逢えた信頼できる人々との間には、どのように足掻いてもあいれない断絶がある――は〝人間らしさ〟の支柱ともたとえるべき絆を断ち切るという宣告の如くキリサメには聞こえたのだ。


「その瞬間ときに心を食い破ろうとした恐怖こそ、キミが新しい家族や仲間と生きていきたいと願っている証拠。そして、自分を大切に想ってくれる人たちの誠意と愛情をキミ自身の手で迷いの中からすくい取った証拠でもある。そうでなきゃ、こうしておいらとお喋りしているワケがねぇ――だよな?」


 初診を迎えるまでのいきさつが明かされた途端、〝心の専門医〟の表情かおに戻ったきりしまゆうの言葉に対して、キリサメの側も一等深く頷き返した。

 そして、が「キミはおいらの親友みたいなコトにはならない」とあいかわが辿った末路みちからの分岐を指摘してくれたきりしまゆうに対するキリサメなりの返答こたえである。


「僕はもう孤独ひとりじゃありません。自分以外と喜びや苦労を分かち合えない人生は具なしカレーみたいなものだと、死んだ母も良く言っていました。……遺言の呪縛は振り切るとしても、こういう人生訓おしえは忘れずにいたいです」

「そうとも。アマカザリ君にはみんながいてる。自分から学んだ〝全て〟を息子キミが将来の礎にしてくれるってんだから、お袋さんも本望さ。……キミはそれでイイんだぜ」


 どうじょうとうあらた』ひいてはがわだいぜんへの弟子入りという再出発の出鼻を挫くような形で告げられたPTSD疑惑におののき、怯えて震える養子むすこの身体を岳は正面から骨が軋むほど強く抱き締めた。背後うしろに回った麦泉も両肩に手を置き、その体温ぬくもりもってこれからも全力で支援サポートすることを約束した。

 〝MMAのゲームチェンジャー〟などと持てはやすことがそもそも誤っている〝何か〟を抱えた少年のそばを一瞬たりとも離れない二人の思いが響いたからこそ、キリサメも自身の心に巣食う〝闇〟と向き合うことを決意し、『八雲道場』のかかりつけ医であるやぶそういちろうにも相談して彼のの病院へと赴いたのである。

 焦げる臭いを感じるくらい思考回路が空回りし始めたら、どれだけ慌てていようとも足を止めて考える。それで大抵のことには突破口が開ける――亡き母から授けられた知恵を自分の置かれた状況に適応させる形で使いこなすという選択肢も、移り住んだ日本での経験や出逢いを経て掴み取った変化であった。

 物思いに耽っている間に白刃や銃弾の餌食にされてしまう故郷ペルーの裏路地とは違うのだ。

 どうせ抱いてもらうのなら、みーちゃんのほうが気持ちいい――検査結果が判るまで未稲にもPTSD疑惑を伏せることになり、彼女が出掛けた日を狙って〝先輩ビェールクト・ヴォズネセンスキー〟のを告げられた為、最初から望むべくもなかったが、養父ちち体温ぬくもりを感じながら当人キリサメは感謝よりも先に減らず口を胸中にて叩いていた。

 これもまた故郷ペルーで暮らしていた頃には起こりようのない感情こころであり、亡き母も、互いの深い体温ぬくもりまで知り尽くした幼馴染みも見たことがないキリサメ・アマカザリである。


もおいらたちの――ヤンチャ連中のリーダーでなぁ。いっつもどこ見てんのか分かんね~ような遠い目してるクセに、他人ひとのコトはバカみたいに細かいところまで気が付くヤツだったよ。おまけに責任感の塊と来たもんだ」

「人の上に立つ大器うつわということは伝わってきましたよ。でも、……ここまでお話しいただいた内容ことから想像すると、疲れる生き方ばかりを選ばれた――のですよね?」

「仲間の為にタマを捨てる覚悟がキマッてる反面、自分てめーのことはまるで大事にしねぇんだ。防衛本能が壊れてるもんだからマジで危なっかしくてさ。……死神スーパイを呼び込むような真似もは落ち着いてたんだけど、晩年は輪を掛けてデタラメだったよ。もう誰にも止められなかったんだ。……誰にもな」


 口に出して確かめることはキリサメも踏み止まったが、『てんぐみ』を率いる局長リーダーとしての責任がし掛かり、神経をすり減らす日々が続いていたことも間違いあるまい。

 今まで幾つかの手掛かりを拾い上げてきたキリサメも、〝こうしゅうばく〟を起源に持つという『こうりゅうかい』が山梨県で旗揚げし、同地の隠れ里にて〝戦場武術〟を研ぎ続ける『しんげんこうれんぺいじょう』と深く結び付いたことは把握している。

 正確には〝甲斐古流〟そのものが『こうりゅうかい』の一部なのであろう。『しんげんこうれんぺいじょう』で生まれた武術家たちは、歴史の〝闇〟に生きてきたと神通によって明かされていた。

 遠く過ぎ去った『昭和』は無頼の振る舞いがる種の憧憬あこがれであり、あらゆる物事を強引に片付けてしまう〝暴力〟は社会を動かす歯車の一枚であった。それほどまでに荒んだ時代の裏社会で成り上がる為には他を圧倒する武力が欠かせない。『こうりゅうかい』の〝大親分〟と呼ばれる人物は『しんげんこうれんぺいじょう』にを求め、修羅の巷にしか生きる〝場〟のない人々が『てんぐみ』結成という形で応じたことも想像にかたくなかった。

 それはつまり、あいかわの命を預かったという意味である。幼い頃から共に野原を駆け回り、家族ぐるみの付き合いも深い者たちを率いる重責は計り知れず、その隊士なかまであったきりしまゆうが〝哀川局長〟に〝パットン将軍〟を重ねたことがキリサメには大いなる皮肉に思えてきた。

 自分をハンニバルの生まれ変わりと信じて疑わず、その伝説を再現するかの如く戦車部隊の指揮・作戦運用で軍神の二字こそ相応しい才能を発揮したパットン将軍であるが、その一方で他者への配慮を欠いた言動も多く、失脚の原因も問題行動の積み重ねと言われている。軍事的な知識が豊かとはいえないキリサメでさえ「戦場でしか役に立たない男」という辛辣な評価を耳にしたおぼえがあった。


「父は他人ひととの諍いを好まない性格でしたので腰が重かったのですが、一度、と草の一本さえ残さないような人でした」


 あいかわの気性について、かつて実娘むすめの神通はそのように言い表していた。

 これを初めて聞いたときにキリサメは『てんぐみ』という武闘集団を劫火とたとえるべき攻撃力に換える〝局長〟としての大器うつわと解釈したのだが、隊士なかまの昔語りとも照らし合わせるならば、〝重い腰〟は思慮深さのあらわれとも言い換えられるだろう。

 ひょっとするときりしまゆうは、反面教師としてパットン将軍を例に引いたのかも知れない。先程も〝戦いの申し子〟と勇ましさが強調されたが、あいかわは歴史学者として〝表〟の社会に功績を残しており、決して血の海でしかできないわけではないのだ。

 そのきりしまゆうの枕元に現れたというあいかわは、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー貧民街スラムの如き殺戮をけしかけると同じように過去の記憶に基づいて作り出された幻像まぼろしと考えて間違いないだろうが、翻せば同胞なかまたちに寄り添ってきた為人ひととなりの具現化である。

 あいかわが〝壊れる〟のを止められなかったことを仄めかすきりしまゆうは、果たして彼に〝心の傷〟を癒すように諭せたのであろうか。『てんぐみ』ひいては『しんげんこうれんぺいじょう』の同胞なかまとは相容れない〝異質な存在〟と付き付けられた瞬間とき、自分のように世界からの断絶としかたとえようのない恐怖を覚えたのであろうか――こればかりはキリサメの想像力では補えず、結論を下せるだけの材料も乏しい。

 幼い頃から共に育った親友でさえ、ついに理解し切れなかったという孤高の魂に部外者キリサメが触れられるはずもあるまい。だが、の賑々しい笑い声を眺めながらきゅうの孤独をにせざるを得ないという意味だけは分かる。

 同胞なかまの一人々々に気を配り、ことと、自分以外の〝誰か〟に覗かれまいと本当の心を孤独のに隠すことは、相反しているようで両立できてしまうのだ。


「アマカザリ君は周囲まわりの人たちの優しさを受けれて、バラバラになりそうな心を繋ぎ止めた。自分の弱さを〝誰か〟にさらけ出す勇気の持ち主だ。そこがおいらの親友との一番の違いだよ。……おいらは結局、アイツを孤独ひとりぼっちのまま逝かせちまったようなもんさ」


 あいかわは死線を共にした『てんぐみ』の隊士なかまにさえも、〝本当の心〟をさらけ出せなかったのか――哀川家の内情へ無神経に踏み込むことを憚り、口には出来ずにいるキリサメの疑問を解いたのは、他ならぬきりしまゆうであった。

 彼は精神科医であって超能力者エスパーではない為、亡き友の末路を辿る追憶がキリサメの疑問と偶然に重なっただけであるが、両の手のひらの上で転がしていたヨーヨーを右の五指にて掴んだきりしまゆうは、円盤が軋み音を立てるほど強く握り締めた。

 既にこの世の人でないことを仄めかしながらも、きりしまゆうは『世界最強』の男であるところのあいかわがどのように絶命したのか、〝そのとき〟の状況を一切語らなかった。振り返るだけで己の心が引き裂かれそうになる為、「語れなかった」のであろう。

 しかし、キリサメは『ミトセ』と名乗る拳法家と〝あい〟を繰り広げた果てに冷たいむくろを血の海に横たえたことを実娘むすめの神通から教わっている。

 それ故に孤独死を連想させるようなきりしまゆうの言い方は実態から掛け離れているのではないかと、一瞬だけ首を傾げそうになったのだが、「孤独ひとりぼっちの心を抱えたまま最期の瞬間を迎えた」と解釈すれば得心が行く。

 ついに閉ざされたまま終わったあいかわの心を巡る実娘むすめと親友の言葉は、る共通点によって繋がっている。詳しい経緯こそ明かさなかったものの、決定的に原因は最愛の妻に裏切られたことであると前者は吐き捨てていた。後者も孤独ひとりぼっちという一言に同じ意味を込めていたはずだ。

 電知には別の〝道〟からその称号に辿り着いて欲しいと願わずにはいられないが、あいかわは〝人間らしさ〟を犠牲にして初めて『最強』の頂点いただきに手が届いたのであろう。取り戻せない代償の先に〝人外の力〟が得られることは、忌まわしい異能スーパイ・サーキットに翻弄されるキリサメには生々しい感覚と共に理解できる。

 そこまで己を追い詰めて、ようやく掴んだ『最強』の〝力〟でさえ愛の喪失という〝心の傷〟の前には意味を成さなかったようだ。神通の実母ははにとっておそらく〝本当の心〟を開いたただひとりの存在であったのだろう。人生そのものとも呼ぶべき相手ひとに背を向けられた事実ことは、実娘むすめが語ったように決定的なトドメとなっても不思議ではない。

 キリサメ自身、未稲を喪失うしなうと思い込まされた〝撃剣興行たたかい〟では、半ば狂乱に近い状態で寅之助に『聖剣エクセルシス』を叩き付けたのだ。

 しかし、には神通がいる。実娘むすめを慈しむことも愛の喜びに変わりはなく、彼女も実父ちちの歩んだ〝道〟を継承するほど慕っていたのだから二人の間に孤独の影など滑り込む余地もあるまい。きっと妻の裏切りをも塗り替えるはずだ――と、足し引きで測ってしまうキリサメであるが、は一七歳という少年には想像し得ない領域であった。


「……気負うなよ、アマカザリ君。〝超人〟なんかにならなくたって人間は面白おかしく生きていける。キミなら異能スーパイ・サーキットにだって心を喰い尽くされたりしねぇさ」

「僕の故郷で放送された内容は本国と変わらないはずですが、『バイオグリーン』の最終回をきりしま氏はおぼえていますか? 最強最後の怪獣にたおされた主人公バイオグリーンに代わって、それまでずっと助けられる側だった人間たちが勝負を決めるんです」

「小型ミサイルを撃ち込んで大逆転勝利を収めるヤツな。〝昭和シリーズ〟の最終回は主人公が変身しないで、人間の手でラスボスを倒すパターンが珍しくなかったよなぁ」

「怪獣を倒すのは〝超人〟ではなく人間――今日から将来さきへの目標を一つ掲げるとすれば、僕は『バイオグリーン』の最終回を目指します」


 愛が『世界最強』を殺すのか――これをただすことこそ禁忌と弁えているキリサメは、代わりに日本を代表する特撮ドラマを例に引いた。

 概ねエメラルドグリーンを基調とした威容すがたの人型巨大超生命体が主人公であり、複数の生物や兵器などが合体した巨大怪獣――『ごうじゅう』や、これを操る侵略宇宙人から地球の平和を守るべく戦うという特撮作品の金字塔であった。

 キリサメが口にしたのは、間もなく放送開始から半世紀を迎えるシリーズの記念すべき第一作目――その最終回である。

 概要あらましキリサメ自身が語った通りであるが、一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇度の火球を吐く最後の敵に苦戦を強いられた主人公バイオグリーン必殺光線バイオフラッシュを破られ、弱点まで破壊されてしまう。巨大ヒーローが大活躍する特撮ドラマを締め括るのは、地球防衛組織の隊員ひとびと――即ち、視聴者と同じ生身の人間が自らの手で平和を勝ち取る姿であった。

 特撮作品そのものに明るくない人間の耳には意味不明な雑談はなしにしか聞こえなかったことであろうが、正体を隠して地球の為に命懸けで戦ってくれたバイオグリーンが宇宙の彼方の故郷へ帰っていく姿に号泣したきりしまゆうには、〝超人〟とは異なる〝道〟を進むというキリサメの決意表明として真っ直ぐに伝わっている。

 あいかわのようにはならないという意思を示すことによって、きりしまゆうの心も慰められるとキリサメは確信していた。果たして、正面の小柄な医師は大粒の涙を零し始め、これを手の甲や白衣の袖で拭いながら真っ白な歯を見せるようにして笑顔を弾けさせた。

 あたかもバンダナの模様と本人が互いを呼び合ったかのような表情かおである。


「そして、シリーズ二作目の最終回では長きに渡る戦いでズタボロになった主人公と、人類が力を合わせて最後の敵に挑むんだ。五作目では主人公がえて変身せず生身のまま侵略宇宙人を倒し、地球の未来を担う子どもたちに人間の可能性を教える――おいらと総さんがいてる以上、キミに二作目の主人公バイオフェンサーみたいな目には遭わせないけどね」


 〝昭和シリーズ〟を締め括った九作目の最終回では主人公の正体に気付いた地球防衛組織の隊長がバイオグリーンへの変身を引き留め、惑星ほし生命いのちを吸い尽くす『ごうじゅう』を人類のみの力で粉砕し、彼を宇宙の彼方の故郷に送り出した――そのように付け加えたのちきりしまゆうは「ペルーには帰ってくれるなよ」とも釘を刺した。


「正直、全く馴染めると思えなかった頃は、帰国したほうが良いと何度も考えました。今ならまだ迷惑を掛けても最小限で済むだろうって。……でも、現在いまは拭い切れていない違和感も含めて日本ここが僕のふるさとだと思えます。〝人外の何か〟なんかじゃなく闘えるようになったとき、実感を込めて初めて胸を張れると信じています」


 キリサメの力強い返答こたえに「シリーズ七作目の主人公も、やっぱり最終回で似たような台詞をキメてたよ」と頷き返しつつ、きりしまゆうは卓上ボックスから何枚ものティッシュを勢いよく引っ張り出した。


「これじゃどっちの診療か分かんね~や。途中からおいらの昔話になっちまったし」

「犯罪に対する自己認識を促進させるのも、きりしま氏が取り組んでおられる犯罪心理学の役割でしたよね。僕にとってこの時間は自分の行く末を問い直す機会でした。やぶ氏の紹介が正解だったとも分かりましたしね」


 猛烈な勢いで鼻をむ合間に涙声で自嘲の言葉を連ねるきりしまゆうのことをキリサメが批難できようはずもなかった。

 対戦の夢を果たせないまま亡くなった友人ミッキー・グッドウィンを想い、彼が所属したMMA団体『NSB』との日米合同大会コンデ・コマ・パスコア開催に尽力した養父・八雲岳や、骨髄性白血病で急逝した恩人テオ・ブリンガーへ報いる為にも『くうかん』空手の組織改革を成し遂げんと奔走する教来石沙門が全身から迸らせる熱情をキリサメは間近で感じてきたのだ。

 悪しき『昭和』の根絶に人生を捧げんとする沙門の対極に位置するであろう樋口郁郎もまた恩人の死に一人と言えよう。最晩年に師事したくにたちいちばんが漫画の中で創り上げた命懸けの〝スポ根〟を『天叢雲アメノムラクモ』のリングで再現していた。

 師匠の〝世界観〟に拘泥こだわる日本格闘技界の〝暴君〟は、時代錯誤という批難を自身が率いるMMA団体への〝内政干渉〟とし、傍目には狂気とも思えるほどに抗い続けているのだった。

 何よりもあいかわの死そのものを背負って『しょうおうりゅう』という殺傷ひとごろし奥義わざを継いだ現宗家――神通のことを己の〝半身〟の如く感じているのだ。そもそもキリサメ自身が魂を蝕まれるくらい実母はは天飾見里ミサト・アマカザリや幼馴染みの――即ち、想い出の彼方へ渡った人々に囚われている。

 キリサメと同じように瞼を半ばまで閉ざし、洞穴にたとえられるほど虚ろな瞳に死の影を映すのみとなったあいかわも〝喪失〟という一点にいては、実娘むすめに含まれることであろう。

 大切な人の喪失が遺された者の心に二度と癒えない傷を刻み、生き方そのものを大きく変えてしまうことは珍しくない。テーブルを挟んで向かい合う医師と患者このふたりも、二度と再会が叶わない存在に手を伸ばし、己のなか幻像まぼろしまで作り出してしまったのである。

 喪失なくした存在ものに執着し、自分がことにさえ気付けないまま甘やかな想い出の中で朽ち果てるのか。〝何か〟の拍子に溢れ出してしまうほどこらがたい痛みを抱えながらも、〝今〟を共に生きる人々が自分の名を呼ぶ声に耳を澄ませるか――先ほどきりしまゆうも述べたように人間の精神こころは単純ではないと理解わかってはいるのだが、キリサメにはこの二者択一が自分とあいかわを分けたのではないかと思えてならなかった。


「――私が睨みを利かせているこの事実もまた〝黙示〟だろう? キリサメ・アマカザリという人間は広い世界に独りぼっちなんかではない。……しかし、ひきアイガイオンは孤独だった。哀しくも孤独であることを選び続けたのかも知れん」


 あいかわの孤独に思いを馳せた瞬間にキリサメの脳裏を駆け抜けたのは、『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟選手――ほんあいぜんから𠮟咤激励の如く掛けられた一言である。

 その愛染は『てんぐみ』の〝哀川局長〟ではなく、〝格闘技界の汚点〟――ひきアイガイオンになぞらえていたが、親友の声にも耳を塞ぎ、故郷ペルーの〝闇〟に振り向くようであったなら、あるいはキリサメもきゅうの孤独をに選んだかも知れない。

 しかし、現在いまのキリサメは、頼もしい〝先輩〟の言葉を思い切り広げた両手でもって受け止められるのだ。『てんぐみ』隊士の実娘むすめと推察される人間の言葉として捉えれば、まさしく世代を超えた教訓のようにも深くのである。


「とんだざまを晒しちまったけど、アマカザリ君を診ることがあいつの供養になるなんて考えちゃいねぇから、そこは安心してくれよ? つーか、ダセェ姿も教訓になるかな。心に空いた穴は他の〝何か〟を代用かわりにしようとしたって埋められねぇっていうさ」

「埋め合わせしなくてはならない事態に陥らないように最大限の努力をする――その為に僕は今、きりしま氏の正面に座っています」

「……あいつも『バイオグリーン』の最終回はアマカザリ君と同じ場面トコが気に入ってたハズなんだけどな……」


 ヨーヨーを台座へ戻したのちきりしまゆうは右の人差し指でもって左頬に斜線を描いた。

 あいかわに関わった人間は、その足跡を振り返るたびに左頬を撫でずにはいられないのかも知れない。全く同じ仕草を披露する神通の姿がキリサメの脳裏に焼き付いているが、そのときに彼女が紐解いていたのも実父ちちの最期であった。

 獅子からけた一字によって魂が燃え上がったのか、たてがみのように雄々しくうねる癖毛は百獣の頂点に立つ王の威容そのものであり、〝戦いの申し子〟と畏怖されるに相応しい野性がそこにあらわれていた。

 そして、〝眠れる獅子〟の左頬には、痛々しいほど血の色が透けて見える一筋のきずあとが走っていたという。

 親友のきりしまゆう実娘むすめの神通が口を揃えてそっくりと言い表した目付きや、『スーパイ・サーキット』と『しょうおうりゅう』の類似点など、他人と思えなくなるような情報が幾つも手元に集まったにも関わらず、キリサメのなかでは『世界最強』の〝顔〟が未だに判然としない。

 誰かを信用した瞬間に身の破滅が始まるような〝世界〟で生きてきた自分でさえ、半年足らずの内に心を開ける人間が両手の指を使っても数え切れないほど出来たというのに、あいかわの心を塗り潰した孤独はどれほど深かったのであろうか。

 『ミトセ』のけんによって散ったのは数年前のこと――神通の成人を見届けずに逝ってしまったのだ。翻せばは、実娘むすめを育て上げる喜びにも孤独ひとりぼっちの〝闇〟を埋められなかったということでもあった。

 名前も〝血〟の繋がりもキリサメは聞いていないが、神通には義理の兄がいる。おそらくは哀川家の長男であろう。そして、考古学者としての成果も遺したあいかわは、学問の師匠にも恵まれたようである。

 親友や実娘むすめ、あるいは裏切りの妻とも異なる〝時間〟をと重ねた二人は、自分たちにも開かれない心に〝何〟を思ったのであろうか。

 ただひとり、愛した妻の手で一度は開かれたであろう扉は、受け入れがたい裏切りによって更に固く閉ざされてしまったのであろうか――傷の痛みが落ち着いた〝心〟に新たな衝撃を重ねられた場合、より強い生体反応が生じ、やがては崩壊ディスインテグレーションに至るはいを迎えると、きりしまゆうも述べていたのである。

 その一方、神通が語ったところによれば、ひとたび戦いの場に立つと〝眠れる獅子〟はまぶたを大きく開き、〝死んだ魚のような目〟に燃え盛る生命力を宿したという。

 〝心の専門医〟が挙げたサイコパスの特徴に当てめることは躊躇ためらわれたが、死神スーパイの息吹が頬に吹き付けるような状況にでも身を置かない限り、己の生を実感できなかったのは間違いあるまいと、他ならぬ神通が認めていたのだ。

 刹那にしか居場所を持てない人間である。刹那の狭間に生き抜く道を切り開き、〝今〟に居場所を作った『てんぐみ』の同胞なかまからも掛け離れた異質の魂としか呼びようがない。

 あいかわ――この男の〝深淵〟を〝人外〟にたとえるならば、それは『最強』の二字などではなく、他者の想像さえも寄せ付けないきゅうの孤独を指すべきであろう。

 〝眠れる獅子〟の生き方は〝孤高〟とうたうには余りにも哀しかった。


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