その3:凶弾~日本武道バトルロイヤル!柔道VS剣道VS空手VS死神(スーパイ)/格闘家どもは皆殺し──その「正義」を法はテロと呼ぶ・罪なる色でオクタゴンを穢(けが)した銃火の果てに

  三、First Thing We Do, Let’s Kill All the Fighters.



 アメリカ合衆国カリフォルニア州に所在し、同州サンノゼの教区教会としても機能する『ミッション・サンタクララ・デ・アシス』――目の守護聖人の教えを広めるべくアメリカ開拓時代に設立された伝道所ミッションは、同地の大学敷地内に所在している。その為、特別講義として学生たちを礼拝堂に招くことも少なくない。

 設立当時の様式を復元した礼拝堂には祭壇への道を開ける形で木製の椅子が何脚も並べられている。横に長いベンチを据えるのではなく、二〇〇近い数が個別に整列していた。

 祭壇の最も高い位置に立つ守護聖人の像は、聖なる燈火によって数限りない迷える者たちの進路を照らしてきたが、今はたった二人を見守っている。

 胸元の辺りまで伸ばした髪を編み込み、これを『ダイダロス』とラテン語で刷り込まれたバンダナで持ち上げるルワンダ出身うまれの青年は、普段着と呼び難い出で立ちであった。

 どうであるが、うわに帯を締める様式とは掛け離れており、白黒チェック柄のうわは着丈の短いジャケットにも似た構造つくりとなっている。黒一色の下穿ズボンへ直接、帯を締めているのだ。羽織ったうわの下に着る白いシャツは汗で濡れそぼっていた。

 下穿ズボンの左側は太腿辺りまで裾上げが施され、そこからスポーツ用の義足が伸びている。

 カーボン繊維ファイバーの一枚板を動物の後ろ足を思わせる輪郭シルエットに折り曲げたは、地面を踏み込んだ際に生じる荷重を反発力に転化して走ることを可能とした物だ。

 この青年は心身を鍛え上げる訓練トレーニングの一環としてサンノゼの町を毎日欠かさず走っているのだが、そのようなときに板バネ型の義足を装着するわけだ。それはつまり、彼がロードワークの途中で伝道所ミッションに立ち寄ったことを意味している。

 最前列の椅子に腰掛け、瞑目したまま静かに祈りを捧げるルワンダ人の青年を真隣となりの席で見守るのは、加齢によって刻まれた皺が独特の陰影を作り出している強面こわもての老神父だ。

 若かりし頃、世界で最もストレスが蓄積される環境で働いていた為、険しい表情から元の状態へ戻らなくなってしまった――と、本人も冗談にすることが少なくない。

 二人の間柄を知らない者にも血の繋がりがないことは一目で分かるだろう。カナディアンロッキーを覆う白雪のような肌を持つ老神父に対し、青年のほうは太陽にかれたアフリカの大地を彷彿とさせるのだった。

 一〇年来の付き合いである二人は、血縁の有無に関わらず肉親も同然という強い絆で結ばれており、老神父は青年を我が子のように慈しんでいた。事前に電話を貰ったわけでもないのに伝道所ここを訪ねてきた理由は一目で察せられる。

 敬虔なカトリック教徒でもある彼は普段から礼拝に熱心だが、進むべき〝道〟に迷ったときや鎮めがたいほど心が揺れたときにも老神父を訪ね、こうして守護聖人を仰いでいた。

 数日前、この青年は全米を震撼させる惨劇に巻き込まれている。

 狂乱としか表しようのない事件が発生した直後、電話で彼の安否を確かめたが、声の調子から今日明日にも守護聖人の導きを求めるであろうと、老神父は察していたのだ。

 その青年の名はシロッコ・T・ンセンギマナ――移民文化から近代総合格闘技術へと昇華された『アメリカン拳法』の使い手であり、北米アメリカ最大のMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』にいて新時代を担う一人と目されている〝プロ〟の格闘家であった。

 ンセンギマナが〝アメリカ英語〟に慣れていない頃から我が子の成長を見守るようなとしつきを重ねてきた老神父――ルロイ・トスカーニだが、モルヒネの点滴ボトルを持ち歩きたいと嘆くほどの腰痛を患っている為、『NSB』の観戦はテレビ放送に頼っていた。

 それ故にンセンギマナと『NSB』を襲った凶事については、新聞やニュース番組を通して〝外部そと〟から覗き込む以外に情報を得るすべがなく、未だに全容を掴み兼ねている。

 ンセンギマナの試合中に『ウォースパイト運動』の過激活動家が乱入し、〝ケージ〟の如く金網を張り巡らせた八角形の試合場オクタゴンを破壊したという概略あらましは当夜の緊急ニュースで速報されたのでルロイ神父も把握しているが、で得られる情報はそれが限界であった。

 大昔に合衆国大統領に仕えた頃の人脈ツテも残っていないわけではないが、最愛の我が子ンセンギマナの心が引き裂かれた凶事だけに情報収集にも慎重とならざるを得ないのだ。

 二年後のリオオリンピックで故郷プエルトリコ栄光メダルをもたらすべく〝プロ〟のMMA選手から〝アマチュア〟のボクサーにする好敵手ライバルとの最終決戦ラストマッチ我が子ンセンギマナは蹂躙されてしまった。

 しかも、凶事を引き起こしたのは『NSB』の現役選手と、同門の空手家たちであったという。『くうかん』ニューヨーク支部に籍を置く首謀者――ベイカー・エルステッドに対してンセンギマナは好感を抱いており、対戦も望んでいたのである。

 興行イベントの〝上位メインカード〟を任される有力選手が地上に存在する全ての格闘技を人権侵害として忌み嫌う過激思想に染まり、〝抗議〟の笛を吹き鳴らしたことは衝撃をもって報じられたが、ンセンギマナ個人が受けた心の傷はルロイ神父にさえ想像できないのだ。

 血を分けた親子の間でさえ知られたくないことがある。そして、誰にも打ち明けられない苦しみから人々を救う為にも〝天〟との橋渡しである教会は存在するのである。

 普段の賑やかさは偽りの姿ではないかと錯覚してしまうほど静かに祈る間、ンセンギマナは幾度となく顔を歪めていた。

 報道によれば、は『NSB』そのものを『平和と人道に対する罪』とし、団体代表のイズリアル・モニワを面罵したそうだ。

 ンセンギマナにとっては己が心血を注いできた格闘技を否定されたようなものである。MMA選手として尊敬の念を抱いていた相手の言葉だけに堪えないはずがなかった。

 あるいはその凶事が迎えた恐ろしい結末と、二〇年前の祖国ルワンダを夥しい血で満たした国家的悲劇が脳内あたまのなかで入り混じり、魂が声なくき叫んでいるのかも知れない。

 左の義足が鳴らす甲高い音と共に礼拝堂へ入り、守護聖人を仰いだンセンギマナは、ベイカー・エルステッドを救えなかった――と、懺悔の如き声で吐き出していた。



 『ウォースパイト運動』の活動家は『NSB』に対して以前から悪質な〝抗議〟を繰り返しており、興行イベント会場への火炎瓶投擲や放水といったテロ紛いの行為も少なくない。

 選手やスタッフのみならず、観客にも被害が及び兼ねない状況を憂慮した団体代表イズリアル・モニワは、会場の警備とは別に『ウォースパイト運動』への対処を専門に受け持つ〝即応部隊〟を結成し、特殊警棒を振り回しながら『NSB』を〝断罪〟せんと気炎を吐くベイカー・エルステッドたち――即ち、も一人残らず制圧したのである。

 ハワイの出身者が多いように見受けられる〝即応部隊〟は、いずれも近接戦闘に長けており、武器など持たず徒手空拳のみで次々と乱入者たちを組み伏せていった。特に蜥蜴の鱗を彷彿とさせるタトゥーで両腕を彩った女性は豪傑の二字こそ相応しく、他の隊員と比べて頭二つ三つは大きい体躯を生かして猛烈に暴れ回っていた。

 片手で成人男性の片足を掴み、軽々と振り回して床に叩き付けるなど人間離れした戦い方である。『NSB』が禁止薬物で汚染された時期に前代表フロスト・クラントンが生み出した〝怪物モンスター〟を彷彿とさせ、忌まわしい記憶が生々しく残る者たちは呻き声を抑えられなかった。

 世界最高のMMA団体で高く評価されてきた首謀者ベイカー・エルステッドの抵抗はさすがに激しかったが、同志たちが全滅するに至り、潔く投降――これをもって過激思想の暴走は終息を迎えた。

 興行イベントの中断や試合場オクタゴンの損壊といった運営上の問題こそ発生したものの、統合型リゾート併設の屋内アリーナに詰め寄せていた一二〇〇〇人の観客も全員が無事であった。

 程なくして駆け付けた地元警察に引き渡された乱入者は、場内の伏兵も含めて三〇人以上である。観客の罵声を浴びながら連行される間、誰もが信念に殉じる表情かおで胸を張っており、にこそ過激思想に基づくテロの本質を感じずにはいられなかった。


「どいつもこいつも反省の足りねェ顔しやがって! 殉教者気取りかよ! ……『サタナス』の影響は俺たちが想像している以上にデカいのかも知れねぇな、ンセンギマナ」


 自分の犯した罪を誇らしく思っているかのような立ち居振る舞いに戸惑い、その精神構造を理解し切れないンセンギマナは、唖然呆然と立ち尽くすしかなかった。

 好敵手ンセンギマナの隣で乱入者たちの顔を睨むブラボー・バルベルデの口からは恨み言ばかりが吐き出されていたが、それも無理からぬことであろう。何しろ退を台無しにされてしまったのだ。

 首謀者ベイカー・エルステッドただ一人が空虚うつろであった。義挙を仕損じた無念か、『NSB』の仲間を裏切った後悔か――別れ際に一瞬だけ目が合ったンセンギマナにも感情おもいの欠片さえ酌めなかった。


に罹って熱に浮かされるのも若者の経験だからねぇ。……頭を冷やしたら、必ずやり直せるわよ。ヤンチャな想い出を教訓に換えられる真面目なコだと信じているわ」


 ブラボー・バルベルデを宥めたのは、現在の『NSB』で最強の二字を冠せられるジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』にける統括本部長のような立場に彼女ジュリアナは、面と向かって首謀者ベイカー・エルステッドと相対したときには容赦なく突き放したものの、長年に亘って苦楽を共にしてきた仲間との絆を断ち切るつもりはなかったようだ。

 生きている限り、何度でもやり直せることをジュリアナは誰よりも知っている。ドーピング汚染の暗黒時代に自らも過ちを犯し、一度は現役引退を覚悟しながらも伴侶や仲間に支えられて復活を遂げ、『ザ・フェニックス』と畏敬されるようになったのである。

 あくまでも希望を手放さない〝先輩〟選手にンセンギマナもバルベルデもちゅうちょなく頷き返していた。前代表フロスト・クラントンが『NSB』に禁止薬物をもたらした際、人並み外れて正義感の強いベイカー・エルステッドは悪魔の誘惑を敢然と拒絶したのだ。


「――エルステッド選手、先程の提案はまだ無効になっていないわ。『NSB』は仲間に手を差し伸べ続ける。それだけは忘れないで欲しい」


 戦友ジュリアナの言葉を引き取るようにして、現代表のイズリアル・モニワもまるで燃え尽きてしまったかのような首謀者エルステッドの背中に復活への道筋を示した。

 エルステッドの公明正大な為人ひととなりを認めているイズリアルは、最悪の形で裏切られた後もその評価を覆さず、MMAに対する不満はテロ紛いの〝抗議〟ではなく『NSB』の運営スタッフとなって内側から正すよう促したのだ。

 そのを用意して、帰還かえりを待っている――イズリアルの言葉を背中で受け止めたエルステッドは、振り向いて返答を口にすることこそなかったものの、一瞬だけ足を止め、頬と肩を震わせていた。

 そうして去っていった背中にか細いながらも希望を感じたからこそ、この興行イベントに関わる誰もがテロ事件ではなく〝乱入騒ぎ〟として決着するであろうと信じて疑わなかった。

選手の不祥事に対して処分を決定する権限を持つ州の行政機関――体育委員会アスレチックコミッションにもイズリアルは罰金や一時的な出場停止処分に留めるよう働きかけるつもりであったのだ。

 未来への思いが絶望の底に叩き落とされたのは、僅か数分後である。

 団体代表イズリアル・モニワや上級スタッフが興行イベント再開に向けた段取りを相談し始めて間もなく、何処からか奇妙な音が聞こえてきた。その直後には悲鳴が混ざるようになり、一旦は落ち着きを取り戻した屋内アリーナが再び騒然となった。


「――会場ここから誰一人として動くな! 銃だッ! ベイカー・エルステッドたちが銃で襲われたッ! 何があっても屋外そとには……駐車場には出るなッ!」


 警察に対する犯行グループの身柄引き渡しを担当し、連行にも立ち合ったVVヴァルター・ヴォルニー・アシュフォード――〝即応部隊〟のリーダーが耳を疑う凶報を携えて興行イベント会場に駆け込んできたのは、ンセンギマナがセコンドと共に控室へ戻ろうとする間際のことであった。

 セコンドの制止を振り切り、試合に臨んだままの姿で興行会場アリーナから管内の連絡通路に飛び出したンセンギマナは、る方向より逃げてくる人々の波に押し流されそうになった。誰もが「ガン」と絶叫し、衝撃の為にうずくまって嘔吐する者も少なくない。

 人波へ逆らうようにして通路を進む間にも〝何か〟が破裂するような音は続いている。は一つの記憶をンセンギマナのなかに甦らせた。

 旧ソビエト連邦から祖国ルワンダに流れ着き、内戦と虐殺ジェノサイドなかには発砲音を耳にしない日がなかった突撃銃アサルトライフル――カラシニコフ銃である。

 〝現実リアル〟の世界で鼓膜を貫く音と、〝追憶〟の底から響いて心を切り裂く音は大して似ていないが、それでも通路を進み切った先に広がっているだろう場景は〝同じモノ〟として想像できる。だからこそ、ルワンダで生まれた義足のMMA選手は引き返せなかった。

 警察車輛が停められている屋外駐車場にンセンギマナが辿り着いたときには、辺り一面は既に血の海と化していた。

 幼き日の忌まわしい記憶を引き摺り出す音――銃火の轟く音も途絶えていない。これに併せて闇夜に冥府へいざなう燈火と錯覚しそうな火花が飛び散るのだ。

 鼻孔を突き刺してあたまを掻き乱す鉄錆の臭いまでもがカラシニコフ銃の追憶と同じ――ルワンダを引き裂いた国家的悲劇にいて目の当たりにした場景と変わらなかった。

 ただ一つ、発砲音と悲鳴に奇妙な〝笛〟の音が入り混じる点だけは異なっている。鼓膜から伝達つたって全身を震わせるその音色は、ベイカー・エルステッドたちが〝乱入騒ぎ〟を起こした際にンセンギマナも聴いたばかりだ。

 ブブゼラである。サッカーワールドカップなどのスポーツ大会の応援に用いられ、議論を呼びながらも一般に馴染んだ吹奏楽器が現在いまは惨たらしい殺戮をはやし立てていた。

 闇夜の彼方にも発砲音や目障りな火花が確認できるということは、屋外駐車場だけでなく統合リゾートの建物から銃口を向ける者も少なくないのであろう。地元警察も懸命におうしゃしているが、四方から押し寄せてくるブブゼラの騒音によって距離感や方向感覚が著しく狂わされており、銃撃者たちの位置すら殆ど把握できていなかった。

 三〇人余りを連行する為に相応の人数で駆け付けはしたが、銃撃戦を想定した準備などあろうはずもなく、極限的な混乱の中で心許ない拳銃ハンドガンひきがねを引き続けるのみであった。

 平常心を保ったままであったなら、ブブゼラの音を聴き分けて襲撃者の総数などを割り出したであろうが、自分たちが包囲されていることにも気付けないまま殉職者を増やし、これを上回る速度はやさでベイカー・エルステッドの同志たちが命を吹き飛ばされていった。

 彼らは『NSB』の興行イベントをテロ紛いの行為で脅かした容疑者だ。当然ながら手錠が後ろ手に掛けられており、自らを守る行動が著しく制限されていた。逃げる間もなく血のいろの花を散らすことになったのである。

 警察側の指揮系統も機能せず、そのなかに〝新米〟とおぼしき若い男性警官が銃弾を撃ち尽くし、放心状態となって無防備に立ち尽くしてしまった。

 その瞬間、ベイカー・エルステッドが我が身を盾に換えて彼を庇った。

 『くうかん』の〝サバキ〟をもってしても銃弾を受け流すことなど不可能だ。そもそも手錠で自由な身のこなしが封じられているエルステッドには取り得る選択肢も限られている。

 それにも関わらず、彼は仲間の血で染まった地面に伏せて凶弾から逃れるのではなく、目の前で脅かされた命を守ることを即座に選んだのである。

 鋼鉄はがねの如く鍛え上げた肉体とはいえども、生身である以上は銃弾など跳ね返せるはずもなく、胸部と腹部から噴き出した鮮血が真っ白なからをドス黒く染めていく。若い制服警官に逃げるよう訴えながら、とうとうその場に崩れ落ちた。

 流れ弾がアスファルトの地面を跳ねる只中へ飛び出し、全力で腕を伸ばせば届くほどの距離まで近付いていたンセンギマナの目の前で全身を執拗に身を撃ち抜かれた。


「友情を無謀の言い訳にするな! 一緒に助かるよう行動するのが友の務めだろうッ⁉」


 ンセンギマナの後を追い掛けてきたしんとうも霧の如く垂れ込めた硝煙を突き破るようにして屋外駐車場へ飛び込み、二人を警察車両パトカーの裏に引き摺り込んだ。

 無線連絡で加勢を要請し、返事を待つ間にこめかみを撃ち抜かれた女性警官の一人がサイドミラーに片腕を引っ掛け、両足を力なく放り出していたが、安否を確認できるような状況でもない。そもそも無事とは考えられない出血量である。

 その直後に回転灯の一つが砕け散った。一秒でも長く留まっていたなら、ンセンギマナの頭部が弾け飛ぶ火花と同じ有りさまになっていたことであろう。後輩を叱り付ける藤太自身も完全には銃弾を避け切れず、右頬の肉を少しばかり水平に抉られていた。

 イズリアルもエルステッドのもとに駆け寄ろうとしたが、その寸前でジュリアナに止められ、VV・アシュフォードに羽交い締めされたまま連絡通路へ引き戻されてしまった。

 に涙声で自制を訴えるジュリアナこそが本当は誰よりも長年の仲間ベイカー・エルステッドのもとに駆け付けたかったはずだ。


「――格闘家どもは皆殺しにしろッ!」


 あらん限りの憎しみを込めた罵声が命を吹き飛ばす発砲音やブブゼラの音色と共に何度も何度もンセンギマナの鼓膜を貫いた。

 その言葉を耳にしたからこそ〝即応部隊〟のリーダーはベイカー・エルステッドたちを標的とする銃撃であることを見抜いたのであろう。テロ紛いの〝抗議〟を強行した人々はいずれも『くうかん』のからを纏っていたのである。


「これが……格闘技の真実……我々の……愛してきたモノの……正体だ……人間の暴力性を剥き出しにし……平和を……壊す……世界を……死で満たして……いく……ッ!」


 肺を撃たれ、正常な呼吸が困難となりながらも『ウォースパイト運動』の活動家としての言葉を絞り出すベイカー・エルステッドは、自分が守ろうとした若い男性警官の姿を捉えていた。正確にはその亡骸を瞳の中央に映したと言うべきであろう。

 三人が警察車両パトカーの裏に身を隠した直後、喉や眉間を撃ち抜かれ、助けられた感謝でも、それに堪えられなかった悔しさでもなく、己に起きたことを最期まで理解できなかったような目をエルステッドに向けていた。


「……自分は……こんなことの為に……空手を……志したんじゃ……ない――」


 大量の血と共に吐き出した「こんなこと」とは、全身が赤黒く塗り潰されるという末路を指すのか、MMAを『平和と人道に対する罪』と一方的に決め付けた独り善がりな失望を指すのか――もはや、その真意をただす機会は永遠に失われた。

 剥き出しの上半身が深紅あかく染まることも構わずにエルステッドを抱き起こしたンセンギマナは、「格闘家どもは皆殺しにしろ」という罵声を頬や背中に浴びせられながら、いつか拳を交えるはずだった仲間の肉体からだから抜け落ちていく体温ぬくもりを両手で受け止めていた。

 己が歩んできた〝道〟を心の底から後悔しているとしか思えない表情かおのまま、微動だにしなくなってしまった仲間ベイカー・エルステッドの魂を慰める言葉の一つさえ見つけられなかった。


「貴様にとって空手とは何だったのだ、ベイカー・エルステッドッ⁉」


 慟哭を迸らせた藤太がたとえようのない感情に衝き動かされてアスファルトの路面を殴り付けると、に溜まった大量の血が飛沫となって顔面にドス黒い斑模様を散らした。



 直接的にスポーツを標的とするテロとしては、昨年四月にマサチューセッツ州ボストンで開催された市民マラソン大会の爆破事件にも匹敵する惨劇であった。それどころか、二〇〇七年にバージニア州工科大学で発生した銃乱射事件を上回る犠牲者数によって、アメリカ史上最悪の銃犯罪となってしまったのである。

 『NSB』の興行イベントを脅かした乱入者たちは、全身の死亡が確認された。致命傷を受けながら屋外駐車場に隣接するリゾートプールまで逃げ延び、血のいろに染まった水面に浮かんでいるところを発見された射殺体もある。

 銃撃が完全に収まったのは、主犯格ベイカー・エルステッドが息絶えてから一時間近く経った後である。

 ンセンギマナ自身は〝即応部隊〟から縦長の防弾盾シールドを借りて突っ込んできた師匠シルヴィオ・T・ルブリン相棒シード・リングの二人に守られ、進士藤太と共に建物内へ引き戻された為、掠り傷程度で済んだのだが、屋外駐車場へ置き去りにせざるを得なかったエルステッドの遺体は死後も銃弾を浴びることになり、昨日まで空手家として握り拳を作っていた指が何本もれ飛んだ。

 『アイ・ドント・ライク・マンデイズ』――三〇年を超えて歌い継がれてきた名曲誕生の手掛かりとなった銃乱射事件と八角形の試合場オクタゴンへの〝乱入騒ぎ〟を重ね合わせる形で浅慮を批判されたエルステッドたちにとって、これほど運命的な幕切れはあるまい。

 全米のマスメディアが最悪の展開と報じたのは、『NSB』と関わりのない一般客にまで多数の重軽傷者が確認されたことではない。銃撃犯までもが全滅したことである。

 犯人たちは銃撃の最中に新聞各社やテレビ局へ犯行声明が届くよう電子メールを手配していたが、その中で「人権侵害を繰り返しておきながら、正義の使徒を真似る格闘家に裁きの鉄槌を叩き落とす」と、この〝私刑〟が正当であることを強く主張している。

 『ウォースパイト運動』の過激な思想活動家が真っ二つに割れた〝同士討ち〟の如き構図であったわけだ。

 最初から〝殉教者〟となるつもりであったことは、銃撃後の行動から明らかとなった。

 警察のおうしゃを切り抜けた者や、屋外駐車場から離れた建物内で狙いを定めていた者は、統合リゾート専属の警備員から取り押さえられる前に自らの心臓に銃口を向けた。筒先を口に銜えた状態でライフルのひきがねを引いた者も確認されている。

 の舞台となったのはラスベガスを代表する統合リゾートだ。内部からの手引きがなければ銃火器を運び込めるはずもない。警備部門の一人が『ウォースパイト運動』の思想に染まっていた事実は、当該人物が目的達成を見届けたのちに敷地内の建物屋上から身を投げたことで判明した。肉の塊と化すまで〝抗議の笛ブブゼラ〟を吹き続けていたという。

 銃撃を阻止するべく駆け付けた警備員や、偶然に居合わせてしまった目撃者の証言も報道されたが、乱射に及んだ犯人は誰一人として自死を躊躇ためらわず、最期の瞬間にも「格闘家どもは皆殺し」と憤怒いかりに満ちた声で吼え続けた。

 極めて酷似する状況をンセンギマナは二〇年前にも味わっている。

 国民の一〇人に一人が命を失った虐殺ジェノサイドがルワンダの大地を血で染めていた頃、ラジオからは同じ国に生まれた隣人を憎悪するよう煽り立てる言葉や歌が垂れ流されていたのだ。そのときのように怨念が世界を喰い尽くしていく恐怖がンセンギマナの心を蝕んでいた。

 二〇年前の祖国ルワンダも、『ウォースパイト運動』という思想活動が招いた凶事も、怨嗟の声が「人を殺してはならない」という理性のたがを壊し、命を砕く〝力〟に対する感覚を死神スーパイ回路サーキットへと切り替えていったのだ。

 来月初旬のことであるが、国家的悲劇の終結から二〇年という節目を記念する式典がルワンダの首都キガリの開催され、ンセンギマナはそこで祖国を代表する空手家と特別試合エキシビションマッチを執り行う予定となっている。

 他者と争い、その命を壊すことに〝戦う力〟をふるうのではなく、敬意と友情を握り締めて心技体を競い合える時代になった証明というわけである。

 世界のMMAを牽引する『NSB』の試合場オクタゴンにスポーツ用義足を装着して立ち、四肢を自由に使える選手とで闘うンセンギマナは、〝戦争のない時代〟の体現者だ。

 〝パラスポーツとしてのMMA〟の可能性を示すことは、虐殺ジェノサイドなかに行われた拷問や地雷などで国民の一割が手足を欠損しているルワンダの人々にとって、内戦後に初めて参加した二〇〇〇年シドニーパラリンピックに勝るとも劣らない希望でもあるのだ。

 二度と国家的悲劇を繰り返させない為にも開催される記念式典にいて、平和の象徴という大役を任せられるのは、シロッコ・T・ンセンギマナをいて他には居なかった。

 その節目に人間という種の根底に巣食う暴力の狂気を再び突き付けられてしまった。

 手を伸ばせた届く距離でベイカー・エルステッドを救えなかった惨劇の夜、紫水晶アメジストいろ左義足ライジング・ポルカドットに散りばめられた水玉模様は、真紅あかく塗り潰されていた。


「……オレにとっての拳法と、ベイカーにとっての空手は〝何〟が違うのか――」


 耳を澄ませていなければ聞き逃してしまう小さな呻き声を洩らし、緩やかなまばたきを挟みながらまぶたを開いたンセンギマナは、己の瞳で守護聖人を仰いだが、後に続く言葉はない。

 平素いつもたずねられてもいないのに際限なく熱弁し続ける日本のアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』と、一人の格闘家としても強く深く共鳴している「ぶつかり合った先の相互理解」という主題テーマを今日のンセンギマナは一度も口にしていない。

 そこにこそ言葉では表しがたい苦しみが察せられ、ルロイ神父は唇を噛んだ。

 今回の凶事をもって、『ウォースパイト運動』はンセンギマナにとって明確なかたきとなったことであろうが、その根絶を望んでいるとはルロイ神父には思えなかった。

 「格闘家どもは皆殺し」という怨念を銃弾の一発一発に書き記すような狂気が誰の心からも消え去ることは望んでも、自分と異なる思想の持ち主を滅ぼしたいとは考えもしないはずだ。ンセンギマナの左足も虐殺ジェノサイドの渦中にいて欠損けてしまったのである。

 是正を求める方法こそ間違えてしまったものの、ベイカー・エルステッドは不道徳を断じて許さず、心から平和を愛する空手家であった。暴力性の助長によって国際秩序が崩壊する未来を憂い、MMAと『NSB』の影響力に警鐘を鳴らしていた。

 最期の瞬間に他者ひとの命を守る心根の持ち主を看取ってなお破壊と表裏一体の報復を選ぶような為人ひととなりであれば『かいしんイシュタロア』が掲げる相互理解に心を寄せることも、守護聖人に救いを求めるほど血の惨劇で魂が傷付くこともなかったはずだ。

 ベトナム戦争が東西冷戦の〝代理戦争〟とも呼ぶべき局面を迎えた時期に国家安全保障担当次席補佐官としてホワイトハウスに勤務していたルロイは、〝死の鳥〟と呼ばれる米軍の戦略爆撃機が美しい田園風景を焼け野原に変えていくさまに心を軋ませ、大統領ではなく神に仕える道を選んだのである。

 そのときの自分と愛する我が子ンセンギマナが重なったルロイ神父は、何時までも寄り添い続けると伝えるよう彼の肩に皺だらけの手を重ね、その心が少しでも癒されるよう静かに祈った。

 考えるな、感じろ――現在いまのンセンギマナをこの激励ことばで慰めるのは余りに残酷である。



                     *



 ブラジル最大の都市――リオデジャネイロ郊外の山の斜面には、今にも朽ち果てそうなバラック小屋が数え切れないくらいひしめき合っている。

 謝肉祭カルナヴァウの時期に巨大な山車だしを押し引きながら数万人が市街地を練り歩く仮装行列や〝太陽と青空の楽園〟を求めてバカンス客が詰め寄せるコパカバーナビーチなど、ブラジルという国家くには底抜けに明るい印象イメージで語られることが多い。

 ブラジルを〝サッカー王国〟と認識している者も少なくないだろう。六月末で折り返し地点を迎えたワールドカップは、世界でも最大級のサッカースタジアムが所在する開催都市の一つリオデジャネイロだけでなく、灼熱の太陽が照らす全土を沸騰させていた。

 だが、その〝裏〟には世界最悪とも言われる貧富の格差が横たわっている。

 強盗傷害や麻薬売買など、犯罪に手を染めなければ生きていけないほど困窮する人々の追いやられた先こそがバラック小屋であり、不法占拠された土地にがへばり付いた貧民街スラム――『ファヴェーラ』なのだ。

 リオデジャネイロが二〇一六年夏季オリンピック・パラリンピックの開催地に決定して以来、治安の悪さの象徴としてくだん貧民街スラムを取り上げる報道は日本でも増えたが、そこを根城にする人々のが認知されているとは言いがたい。

 人権を踏みにじる悪しき制度が一八八八年に廃止されるまで頻発していた〝逃亡奴隷〟の潜伏先など起源ルーツは諸説あり、山肌を埋め尽くすほどバラック小屋が急増したのは二〇世紀半ばであるが、ファヴェーラは一〇〇年を超えてブラジル社会に根を張っていた。

 それ故に変わらざる格差社会の象徴として、と化したのだ。

 ブラジルという国家くにの歴史から滲み出し、よどんだ〝闇〟のように社会と一体化したファヴェーラとその住人が存亡の危機に立たされたのは、ここ数年のことである。

 六年の間に相次いで開催される国際競技大会メガスポーツイベントへ外国から選手や観客を迎える為、ブラジル政府が大都市の治安回復を計画し、凶悪犯罪の温床と化していたファヴェーラの撤去にも乗り出したのだ。

 ワールドカップ開催の二ヶ月前には警察だけでなく軍隊までもが大規模な制圧作戦の為に同地ファヴェーラへ送り込まれている。の取り締まりはこの半世紀の間にも幾度か試みられたが、社会に急激な変化を強いるほどの強硬手段は前例がなかった。

 麻薬カルテルや人身売買シンジケートといった犯罪組織の撲滅を大目的としている為、社会全体の治安も改善されることであろう。世界中から訪れた人々が満足できる体制の整備というホスト国の責任はおそらく達成されるはずだ。

 だが、ファヴェーラ自体の解体は、やむにやまれぬ事情でバラック小屋での生活くらしを選ばざるを得ない人々から生きる場所を奪うという意味でもある。ブラジルに貧富の格差が横たわる限り、変わりようがないと誰もが信じていた社会の〝影〟が外国人客による経済効果の確保――即ち、『インバウンド』の名目で根こそぎ消し飛ばされようとしていた。

 一九六四年東京オリンピックでも開催に先立って都市改造が実行され、大会関連施設や首都高速道路などの建設用地確保の為、国家の威信という大義名分のもとに都民への強制退去が繰り返されたのだ。

 およそ半世紀ぶりに同じ東京で開催される二〇二〇年オリンピック・パラリンピックにも突き付けられたこの問題は日伯両国で共有しているはずだが、〝運動会〟と違ってスポンサー企業ひいては広告利権が複雑に入り組んでいる為か、海を挟んだ二つの都市を揺さぶる混乱を紐付けて社会に是非を問うマスメディアは絶無に等しかった。

 社会のり方まで捻じ曲げるモノはスポーツの祭典などではなく、国家くにを挙げて国民に強いる〝暴力〟も同然――国家事業としての〝メガスポーツイベント〟に虐げられたとしか表しようのないリオデジャネイロの貧困層はいつか剥くべき牙に怨念を宿らせ、復讐の好機を窺うかのような恰好で国内最大規模のリゾート地を見下ろしている。

 社会の〝影〟から競技場目掛けて叩き付けられる憤怒いかりの声よりも、〝外〟から招き入れる経済効果インバウンドを選んだブラジルは、いずれ大きな代償を支払うのかも知れない――見せ掛けの治安回復によって、夥しい量の怨念を外国人客の視界に入らない暗闇へ封じ込めた国家くにを『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターは生まれ故郷としている。

 そのレオニダス・ドス・サントス・タファレルもファヴェーラに生まれた一人だが、裕福ではなくとも家族は健在であり、浮浪児ストリートチルドレンとして犯罪に手を染める必要こともなかった。

 しかし、住居すまいに雨風を凌げる屋根があろうとも、壁を撃ちく銃弾は防ぎようがない。レオニダス本人が無法者アウトローに身を落とさずともファヴェーラ全体が〝犯罪多発地域〟であることに変わりはなく、銃口の先に立たされるような経験も一度や二度ではなかった。

 今でこそ世界に勇名を馳せる花形選手スーパースターとなったが、眩いばかりのスポットライトを浴びる以前まえは絶望的な貧困と〝暴力〟の応酬の中で常に死の危険と闘い続けていたのだ。

 幼い頃のレオニダスが隣人たちと比べて少しだけ恵まれていたのは、父親が『ブラジリアン柔術』の師範と親しかったことであろう。手足が伸び切る前から道場アカデミアに通い、その当時から既に総合格闘技MMAを席巻しつつあった最新にして最強の寝技ひいては寝転んだグラウンド状態で〝敵〟を完封する攻防を体得していったのである。

 この僅かな運の差がレオニダスを格差社会の最下層からばたかせた。

 油断した瞬間、昨日までの友人から身ぐるみ剥がされてしまう過酷な環境を生き抜く護身術のつもりで学び始めたブラジリアン柔術であったが、一〇代半ばを迎える頃には国内開催の公式大会にいて指折りの柔術家にまで成長し、路上戦ストリートファイトでも負け知らずとなった。

 日本格闘技界で一時代を築いたレスラーたちを次々と撃破した功績から〝地上最強〟と呼ばれるようになったブラジリアン柔術の英雄の経歴キャリアをなぞるようになり、ブラジル国内でもその後継者の如く注目され始めた。

 レオニダスが稽古を積んだ道場アカデミアは、ブラジリアン柔術という格闘技の隆盛を担い、世界のMMAを牽引する『NSB』の旗揚げにも携わった一族のである。ブラジルに〝ジウジツ〟の礎を築いた前田光世コンデ・コマの〝直弟子〟たる一族と直線的に繋がる道場アカデミアで黒帯を授けられたことは人生の誇りであると、公式大会で初優勝した際にも熱烈に語っている。

 現在は巨大なブロッコリーと見紛うばかりのアフロと、上半身の隅々まで彫り込まれたの巣のタトゥーをトレードマークにしているが、その当時は外見上の自己主張など殆ど確認できず、やがて芸能人タレントとして人気を博す姿は想像も出来なかった。

 情熱的な舞踊ダンスの如く次々と流麗に足技を繰り出していく『カポエイラ』もブラジリアン柔術と同時期に師匠メストレのもとで極めたのだが、その頃からレオニダスのなかで格闘技のが変わり始めたようだ。

 カポエイラそのものがブラジルでは非常に盛んであり、観光客向けのパフォーマンスや野試合がリオデジャネイロの各所で行われている。

 声を一つ発するだけで万人の注目を集められるスター性や、冗談ジョークを巧みに織り交ぜた話術で聴衆の心を豊かに出来るサービス精神など、日本のテレビ業界で重宝される芸能人タレントとしての才能は、〝パフォーマーとしてのカポエイリスタ〟との交流を通じて磨いたモノであると、レオニダス本人が半生を振り返るドキュメンタリー番組で語っていた。

 MMAの試合で披露する変幻自在の蹴りもレオニダスの独創性が支えているのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースターは、二〇代半ばという経歴キャリアにも関わらず、前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAに君臨してきた絶対王者――『かいおう』とも畏怖されるゴーザフォス・シーグルズルソンの玉座を狙う〝立場〟にった。MMA選手としての人気は『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』と肩を並べたか、あるいは上回ったという分析が格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの記事にて示されている。

 花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルの来歴を未稲や岳から教わった新人選手ルーキーは、主催企業サムライ・アスレチックスにとってさえ異例としか表しようのない対戦交渉マッチメイクで似た者同士の『ブラザー』と馴れ馴れしく扱われた意味を少しずつ理解し始めた。

 同じ南米であり、なおつ国境を接する国で生まれ育ったキリサメとレオニダスは、共に社会の〝闇〟で無法の〝暴力〟に晒され、血と汚泥の最底辺そこで生き残る為に〝戦う力〟を手にしなければならなかったのだ。

 『ブラザー』という呼称が似つかわしいであることは間違いない。

 キリサメは暴力性の顕現あらわれとも呼ぶべきノコギリ状の『聖剣エクセルシス』に加えて〝我流〟で喧嘩殺法を編み出し、レオニダスは道場アカデミアに通って師匠メストレからブラジリアン柔術とカポエイラをそれぞれ学んでいる。体得の経緯に差異ちがいこそあるものの、〝生存闘争〟という動機にいては全く同じであった。

 尤も、キリサメのほうは故郷ペルーでサーカス学校に関心を持ったおぼえもない。幼馴染みのと行動を共にしていた頃は『聖週間セマナ・サンタ』にいて聖書に記された受難劇を巨像で再現する『聖行列プロセシオン』を見物し、母に連れられて日系社会が催した日本風の夏祭りに参加したこともあったが、その二人が記憶の彼方に去ってからは華やかな〝場〟に背を向けていた。

 身に備えた〝力〟の使い方も、キリサメとレオニダスは正反対と言えよう。前者は生きる糧を得るべく強盗傷害などの犯罪に手を染め、後者はそうした被害から己の身を守り、洗練された格闘技術をもって公式大会優勝といった輝かしい経歴キャリアを積んできたのである。

 同じ格差社会の最下層で生まれ育ちながら、正反対の〝道〟を歩んできた『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースター新人選手ルーキーは、あらゆる点でプラスマイナスに分かれている。

 こんにちまで積み重ねてきた人生の縮図とも言い換えられるだろう。少なくとも現在いまのキリサメには試合中にカメラのレンズを意識するという〝パフォーマンス〟など不可能だ。

 開戦のゴングが鳴り響く直前にレフェリーがルールの確認をする間、レオニダスは自分に向けられたカメラと、その先にるファンたちに何事かを喋り続け、勝利を得た後にはリングに寝そべって記者たちにグラビア撮影をねだっていた。もまた芸能人タレントとしての才能であるが、新人選手ルーキーには花形選手スーパースターの言行が一つとして理解できないのである。

 人を魅せる技術とはいえ、生まれて初めての師匠――がわだいぜんについてキリサメが学び始めたとは大きく異なるのだから、も無理からぬことであろう。

 レオニダス・ドス・サントス・タファレルは、舌の表面にも〝毒蜘蛛タランチュラ伝説〟を模ったものとおぼしきタトゥーを刻んでいた。言い伝えによれば、その毒牙に咬まれた生き物はたちまち神経を冒され、狂わんばかりの幻覚に苦しみ抜いて絶命するそうだ。

 見る者の思考あたまを麻痺させてしまう毒蜘蛛タランチュラのタトゥーすらレオニダスにとってはパフォーマンスの一つなのであろう――顎の端まで届くほど長い彼の舌を想い出したキリサメの全身を何ともたとえ難い悪寒が襲った。


「――ブラジルでは『ルタ・リーブリ』っつう格闘技も有名なんだよ。コレとブラジリアン柔術の間には『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』みたいに深~い因縁があってな。双方の使い手たちが町ン中で抗争をおっぱじめるようなコトもあるみてェなんだわ。つまりだな、レオの野郎、ルール無用の喧嘩にはキリーと同じくらい慣れてると思ったほうが良いぜ」


 ブラジルを発祥とする幾つかの格闘技と、その間で生じた勢力争いを例に引きつつ、レオニダス・ドス・サントス・タファレルの来歴を養子キリサメに説明していく岳の顔は、平素いつもの向こう見ずな立ち居振る舞いを芝居と錯覚してしまうほど神妙であった。

 ブラジリアン柔術の歴史を紐解いていくと、必然的に『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体『バイオスピリッツ』が一九九七年に執り行った旗揚げ興行イベントを想い出さざるを得ない。〝とうきょく〟の三大要素を体系化し、実戦志向ストロングスタイルのプロレスにいても異種格闘技戦を積み重ねてきた岳の恩人――ヴァルチャーマスクが〝目玉メインイベント〟でブラジリアン柔術に惨敗し、〝永久戦犯〟という心無い罵声を浴びせられた歴史的屈辱――『プロレスが負けた日』である。

 その三年前には若き日の岳もブラジリアン柔術に道場破りを仕掛け、返り討ちに遭っていた。いずれも〝古傷〟として割り切るには苦い想い出であるが、これを振り返るという精神的な自傷行為に及んでもいられないほどの緊急事態が目の前に迫っているのだ。

 MMAデビュー戦で危険行為を繰り返し、闘魂のリングを〝暴力〟でけがした末に反則負けとなった新人選手キリサメに対して花形選手レオニダス対戦交渉マッチメイクを持ち掛け、MMA選手としての人気も等級ランクも釣り合いの取れない試合が団体代表のぐちいくによって承認されてしまった。

 どれほど憂慮しても足りないほどの危機的状況であった。初陣プロデビューの岩手興行にて対戦したじょうわたマッチの仲間たちが仕掛けようとしていた報復を〝代行〟の如く引き受けたレオニダスの真意は、未だに本人以外には理解わからない。

 に加えて、頭を悩ませなくてはならない〝何か〟が別にるだろうか――原因は定かではないのだが、花形選手ルーキーから次なる標的に選ばれてしまった養子キリサメと向き合う岳の表情かおは珍しくくらかった。

 キリサメの表情かおもまた神妙である。養父の言葉の一つ一つを咀嚼し、反芻するようにして幾度も首を頷かせていた。

 『天叢雲アメノムラクモ 第一四せん~奥州りゅうじん』――即ち、次回の熊本興行は九月に開催が予定されている。準備期間は二ヶ月以上も余裕があるはずだが、それでも対策が間に合わないという危機感が『八雲道場』を包んでいるのだった。

 岩手興行の物も含めて、過去にレオニダスが臨んだ試合動画ビデオを視聴したキリサメは、対戦要請を固辞し切れなかった後悔の溜め息を抑えられなかった。

 二〇〇〇年代半ばに訪れた日本MMAの黄金時代を八雲岳やゴーザフォス・シーグルズルソンと分かち合い、〝プロ〟選手としての経歴キャリアも一〇年を超える古豪ベテランでありながら、未だに粗削りな部分を残すじょうわたマッチとは比較にならないほどレオニダスは攻防の組み立て方が洗練されていた。技から技への連携・派生も現在いまのキリサメには想像が付かないほど変幻自在トリッキーであり、第一弾として岳に用意して貰った動画ビデオだけでも眩暈を覚えてしまった。

 MMA興行イベントや関連事業の売り上げにまで影響を及ぼす〝芸能人タレントとしての人気〟だけで、レオニダスは花形選手スーパースターと持てはやされているわけではない。ファンに付けられた『蜘蛛スパイダー』という通称の由来も、試合動画ビデオを視聴すれば瞭然だ。

 彼にとってカポエイラの足技は、蜘蛛が吐き出す〝糸〟にも等しいのだ。舞踊ダンスさながらの動作うごきで変則的な蹴りを立て続けに繰り出し、体勢を崩すや否や、ブラジリアン柔術の寝技で〝捕獲〟するのである。

 根を張るようにしてマットを踏み締め、力強く構えて鉄拳を打ち込んでいくじょうわたマッチに対してレオニダスは殆ど足を止めず、ときにはレフェリーから注意を受けるような軽口を叩きながら対戦相手の目を惑わすのだ。

 上下左右に肉体からだを忙しなく揺すり、急激に低い姿勢へ転じたかと思えば、長身の相手を飛び越えるほどの高度たかさで宙を舞う――パフォーマーとしても国際大会で通じるような動作うごきであった。気付いたときには背後まで回り込まれているのだから、迎え撃つ側にとっては恐怖の対象であろうが、片手で側転するだけでも観客を魅了してしまうのである。

 幾重にも張り巡らされた『蜘蛛スパイダー』の糸から逃れることは不可能に近い。強靭かつ柔軟性に富んだ全身のバネによって生み出されるカポエイラの足技は、寝転んだグラウンド状態での攻防に派生せずとも自体の破壊力が尋常ではなく、突き込まれてきた拳を避けつつ上体を低く沈み込ませ、その姿勢から相手の横面目掛けて片足を振り上げるという変則的な回し蹴りでノックアウト勝ちを収める試合も少なくなかった。

 半月前の岩手興行もまた戦慄の二字こそ似つかわしい試合たたかいであった。新人選手ルーキーへの対戦要請の後で臨んだ第九試合セミファイナルであるが、クロアチア出身うまれのイヴィツァ・マクシモヴィッチを逆立ちした状態を迎え撃ったのだ。

 『昭和』と呼ばれた時代に〝スポ根〟ブームの火付け役を担った漫画原作者――くにたちいちばんが生前の作品で取り上げた際、カポエイラを「逆立ちしたまま闘う様式スタイル」と誤った認識のもとで紹介してしまい、日本ではが根深く残っていた。

 実際には逆立ちで放つ技を体系に含んでいるだけであって、常にこの状態を維持し続けるわけではない。それにも関わらず、レオニダスは開戦のゴングが鳴り響くなり豊かなアフロがマットを撫でるような姿勢となったのだ。

 改めてつまびらかとするまでもなく、言葉を用いない挑発行為であった。えて逆立ち状態を取ることで、対戦相手イヴィツァ・マクシモヴィッチに埋めがたい実力差を突き付けようというわけだ。

 レオニダスが愛するサッカーでは『マランダラージ』と言い表されることであろう。知略を意味する用語ことばには『マリーシア』というものもあるが、奸計マランダラージのほうは競技自体を卑しめるほど邪悪な行為として忌み嫌われている。

 国際ルールに準拠する『JUDOジュードー』とブラジリアン柔術のどうは、上衣の袖と下穿の裾の長さも大きく変わらない。レオニダスも白いじゅうじゅつを纏って『天叢雲アメノムラクモ』のリングに上がるのだが、道場アカデミアの〝誇り〟を体現する出で立ちでありながら邪悪な奸計マランダラージを仕掛けるのは一種の背信行為であろう。

 パンフレットや公式サイトに掲載する経歴プロフィールでも憚ることなく公表しているが、マクシモヴィッチはユーゴスラビアの動乱を背景として一九九〇年代前半に勃発した『クロアチア紛争』で祖国を追われた離散民ディアスポラである。

 故郷クロアチアを巡る複雑な政治情勢の中で帰還かえるべき場所を喪失うしなった離散民ディアスポラとして数え切れないほどの死線を潜り抜け、じょうわたマッチと同じようにかつての黄金時代から日本MMAのリングに立ってきた古豪ベテランでもあるマクシモヴィッチは、奸計マランダラージに激昂することもなかった。

 経歴キャリアを通じて鍛え抜かれた鋼鉄はがね精神こころもってしても花形選手スーパースターに歯が立たないという〝現実〟は、誰もが言葉を失った試合結果リザルトが示している。

 立ったスタンド状態に戻り、丸みのある毒蜘蛛タランチュラが彫り込まれた舌を出した直後、レオニダスはMMAのリングをパフォーマンスの舞台ステージと履き違えたかのように踊り始めた。レフェリーの注意が追い付かない速度スピードであり、間もなく対戦相手マクシモヴィッチの動体視力もいていけなくなった。

 勝敗の天秤が傾いたのは、その瞬間のことである。レオニダスはマットの上を滑るようなパフォーマンスから再び逆立ち状態へと転じ、右の足裏を連続して突き上げ、マクシモヴィッチの顎をね飛ばしたのだ。

 この時点で意識に空白が生じていることは誰の目にも明らかであったが、『蜘蛛スパイダー』の毒牙は止まらない。右足を蹴り上げる動作うごきと合わせ、肉体からだを支えていた両腕の屈伸のみで高く跳ねると、脳天をマットに向けるという姿勢を維持したまま対の左足を振り回し、マクシモヴィッチの横面にかかとを浴びせた。

 防御も回避も不可能というマクシモヴィッチは竜巻に激しく回転風車の如き有りさまとなってしまったが、レオニダスのほうは蹴りによるノックアウトを狙ったわけではない。

 自身の左足をマクシモヴィッチの首に巻き付け、折り畳んだ膝裏で一等強くくわえ込み、その足先を右太腿へ引っ掛けることで頭部に対する〝拘束〟を完成させたレオニダスは、無防備なにも両手を伸ばしていく。

 この時点で首と肩を両太腿で挟み込む状態となっているのだが、上体を大きく傾かせたマクシモヴィッチの右腕に対して、レオニダスは左の五指で下腕を、右の五指で手首をそれぞれ繰り出し、これを掴むことによって右手一本を完全に〝拘束〟したのである。

 獲物を搦め取る蜘蛛の糸ともたとえるべき妙技であった。の〝拘束〟を完成させながら互いの身をマットに放り出し、マクシモヴィッチを仰向けに組み伏せたのだ。

 勢いよく落下させられた衝撃によって脳を揺さぶられ、マクシモヴィッチは意識を取り戻したのだが、それは更なる苦痛に苛まれる不幸でしかなかった。神経を破壊されながら絶命に至るのが〝毒蜘蛛タランチュラ伝説〟の結末である。

 両足による締め込みでもって首と右肩を、両手によっての全体を、身じろぎなどでは振り解けないほど強く〝拘束〟したレオニダスは、その状態を維持したまま相手の肘関節を可動域の反対側へと引き延ばした。

 軋み音が聞こえるほど関節を反り返らせることで降参ギブアップを引き出す寝技だが、レオニダスはレフェリーが制止を呼び掛けるより早く己の身を大きく捻り、マクシモヴィッチの右腕を破壊した。肩の脱臼と肘の骨折に加え、どちらの靭帯も惨たらしくじ切られていた。

 意図的に腕を壊したことは明白だが、キリサメのような反則行為を働いたわけでもない以上、本人レオニダスがそれを認めなければ立証は不可能である。マクシモヴィッチのセコンドによる猛抗議を受けながらも、レフェリーはとして決着せざるを得なかった。

 無駄口を好まないマクシモヴィッチでさえ抑えられなかった苦悶の声が損傷の深刻さを表している。『蜘蛛スパイダー』の寝技に手加減など一切なかった。それはつまり、が出発点であったはずのブラジリアン柔術を人体破壊の手段に転用することに対して、僅かな葛藤すら持たないという意味でもあるのだ。

 髪型がアフロに変わるよりも以前まえ――公式大会で頭角を現し始めた一〇代半ばの頃に熱弁していた柔術家としての〝誇り〟をけがしているような所業ものであろう。尤も、忌まわしい奸計マランダラージ遊戯あそびのように好む現在いまのレオニダスが自己否定を省みるとも思えない。

 彼は激痛に耐え兼ねてのたうち回る対戦相手マクシモヴィッチなど一瞥もせず、残虐行為を働いたことさえ頭から抜け落ちたように冗談めかした態度でファンに応じていた。


自分てめーの思い通りにキリーとの対戦交渉マッチメイクがまとまったモンだから、テンションが天井をブチ破ったのかも知れねェな。それか、イヴィツァをブッ壊すコトが正式な挑戦状のつもりだったりして。『次はブラザーがんだぜ』ってな」

「僕の場合は要求に応じたというか、断ろうにも断れない状況に持ち込まれたようなものですけど、そので『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟に大怪我をさせてしまったのなら、申し訳ないの一言です。いえ、僕が謝るのもちょっとおかしいのでしょうが……」

「キリーが来る以前まえからあぶねェ奴だったよ。故郷ブラジルでのキナ臭いウワサも耳に入っちゃいたしな。それを踏まえたって岩手の試合は酷かったぜ。一個前の試合でオレと対戦相手ハリドが会場の空気を温めたってのに、何もかもメチャクチャにしてくれやがってよ」

で喧嘩殺法にも――いえ、〝路上の潰し合い〟にも慣れているのなら、勝ち目を見出すには〝殺気の制御コントロール〟という課題を突破するだけでは全く追い付きませんね。何とかしなくては、じょうわた氏との試合と同じ事態が繰り返されてしまう……ッ!」


 それがレオニダスに対するキリサメの偽らざる印象であった。『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターに付き纏う〝喧嘩慣れ〟という評価への反応とも言い換えられるだろう。

 じょうわたマッチから伝え聞いたことだが、過去に養父が在籍し、実戦志向ストロングスタイルの異種格闘技戦を繰り広げた『新鬼道プロレス』は極技サブミッションの熟達者が揃っており、中でもヴァルチャーマスクは師匠のおにつらみちあきに「相手の腕を本気で折れる精神の持ち主」と言わしめたそうだ。

 これに対してレオニダスは骨をし折ったときの音や感触に無上の快楽を感じているのかも知れない。少なくとも岩手興行の試合動画ビデオ視聴る限り、ペルーの格差社会が産み落とした喧嘩殺法とも違う意味で他者ひとの痛みに無自覚としかキリサメには思えなかった。

 岳は愛弟子のしんとう――即ち、『NSB』で〝上位メインカード〟を任される『フルメタルサムライ』を指して〝世界で最も完成された総合格闘家〟と評していたが、キリサメには選手の命を守る為に定められたルールさえ弄ぶレオニダスのほうが恐ろしく感じられた。

 あるいは国こそ違えども暴力と犯罪が支配する〝闇〟の最下層で生きてきた者たちの間に閃くと呼ぶべきかも知れない。

 ブラジリアン柔術やカポエイラといった祖国の格闘技について、からぬ誤解を蔓延させかねない剥き出しの残虐性は差し引くとしても、『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターは掠り傷の一つも負わないまま城渡マッチと歩みを同じくする古豪ベテランに完勝したのである。

 勝敗を決した寝技へ持ち込む以前まえには、自身に迫る打撃を冗談や口笛を交えながら全てかわし、MMAのリングで〝パフォーマンスとしてのカポエイラ〟を披露したかと思えば、突如としてマクシモヴィッチの足首を刈って横転させ、追撃の蹴りで鼻を潰したのだ。

 そのときは血飛沫だけで済んだが、直撃を被った部位によってはもうまくはくや外傷性クモ膜下出血といった深刻な事態に直結する危険行為であった。

 しかし、これは奸計マランダラージには該当しない。寝転んだグラウンド状態となった相手の顔面や頭部を蹴り飛ばす行為――いわゆる〝サッカーボールキック〟は『NSB』といった他のMMA団体では禁じられているが、『天叢雲アメノムラクモ』ではルール上で使用を許可しているのだった。

 イヴィツァ・マクシモヴィッチは最上位ファイナルに近い試合を任される強豪選手である。度重なる挑発もいきり立つことなく受け流し、冷静に攻防を組み立てようと努めていた。長期戦になるほど重くし掛かる痛手ダメージを度外視してまで打撃にこだわるじょうわたマッチとは違って、状況に応じて防御に徹する柔軟性も持ち合わせている。

 長年の経験に基づく手堅い試合運びをレオニダスが強引に覆したようなものであった。

 〝格闘技バブル〟とも呼ばれた日本MMAの黄金時代といえども、既に想い出の彼方に過ぎ去った埃まみれの栄光でしかなく、これから迎える〝新時代〟の前に〝道〟を譲るのみであろう――遠くない将来さきにて『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』から王座を奪い取ると予想されるレオニダスは、古豪ベテランという名の〝過去の遺物〟に負ける理由がないと公言して憚らなかった。

 素行こそ不良であるものの、『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターは養父の盟友とも呼ぶべき古豪ベテランを撃破し、あまつさえ一〇年以上も日本MMAに君臨し続けてきた絶対王者に手が届くのだ。新人選手ルーキーとの間に開いた実力差が絶望的であることを認識できない人間はいないだろう。

 だからこそ、樋口直々の裁定で両者の対戦交渉マッチメイクが成立した後も議論を呼び続けている。身の程を弁えない新人選手ルーキーの挑戦は花形選手スーパースターに対するにも等しいと、そのレオニダスからの要請という経緯を無視して憤る彼個人のファンも少なくなかった。

 岩手興行ではセコンドとの見解の相違から試合中に戦略そのものが暗礁に乗り上げてしまったが、数段階もの等級ランクを飛び越える次戦はさんな態勢では第一ラウンドすらたず、「格闘家失格」という汚名を返上することも難しかろう。

 じょうわたマッチと繰り広げたプロデビュー戦の前後には〝フェイント殺法〟などと呼ばれていた作戦の完成度を高めることも道場『とうあらた』で学び始めた理由の一つである。

 見習いの身分とはいえを〝兼業〟しているキリサメからすれば、〝パフォーマンスとしてのカポエイラ〟を併用して対戦相手に〝虚〟と〝実〟を悟らせないレオニダスの戦法を上回ることが超えられなければ勝機も見えないのだが、きょういししゃもんとの落差に苦しみ続けた時期のように過度の圧迫プレッシャーを感じて憔悴してはいなかった。

 脳が認知する視覚情報をも惑わしてしまうカポエイラへの対策をに講じるべきか。その手立てを師匠のがわだいぜんや先輩のたちに相談しようと考えている。慌てふためく岳や麦泉とは正反対に、〝次〟に取るべき行動を具体的に模索し始めていた。

 無論、幻惑を見破るがんりきを養っただけでは足りないことも強く自覚している。

 組技や寝技に打撃を連ねる点にいては、『コンデ・コマ』の別名でも知られる伝説の柔道家――まえみつが得意とした戦法に近い。それならば、練習相手スパーリングパートナーとして相応しいのはただ一人である。

 キリサメの親友――でんだ。

 独自の研究と修練を重ねて現代に『コンデ・コマ式の柔道』を甦らせた電知は、所属団体間の対立も超えて『八雲道場』の依頼を快諾。大工という〝本業〟があるので平日は夕方と夜のみに限られるが、毎日のように親友キリサメのもとを訪れ、レオニダスとの試合を想定した模擬戦スパーリングを重ねていた。

 岳が技術指導を務める長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』に混ざる形で実施したすがだいら合宿のとなったわけだが、電知が所属する『E・Gイラプション・ゲーム』でも別の地下格闘技アンダーグラウンド団体との対抗戦を控えている為、練習相手スパーリングパートナーは願ってもないという。

 六月最後の日曜日も適度に休憩を挟みつつ、朝から組み合い続けていた。

 足技を主体とするカポエイラではなく、日本の古武術に由来する〝あて〟なので〝完全な再現〟とは言いがたいものの、立ったスタンド状態で打撃を放ち、姿勢を崩した瞬間に素早く寝技へ引き込む特訓トレーニングを数え切れないほど繰り返すのだった。

 打撃から寝転んだグラウンド状態の攻防へと転じる際には、投げ技だけでなく立ったスタンド状態で四肢を脅かす関節技も挟んでいた。

 練習用の指貫オープン・フィンガーグローブを装着し、MMAの試合に限りなく近い状況を整えている。模擬戦スパーリングとはいえ、双方とも本気の体勢で臨んでいるわけだ。これもまたすがだいら高原にける合宿と同じであった。

 電知は黎明期のこうどうかんで使用されていた様式に合わせて下穿ズボンを裾膝下九センチ程度と短くし、肌に密着するよう調整したじゅうどうを纏っている。うわの袖も肘が露出するくらい短いので相手キリサメにとって非常に掴みにくく、まさしく実戦仕様なのだ。

 これに対してキリサメのほうは『天叢雲アメノムラクモ』のリングで用いる試合着ユニフォームが〝開発者〟のもとで修繕中である為、『八雲道場』のロゴマークが刺繍されたジャージで親友の技を受け止めている。互いに熱が入っていることもあり、背負い投げを凌ごうとした際に片袖が縫い目から裂け、先ほど二着目に替えたばかりであった。

 『ケツァールの化身』なる通称の由来ともなった尾羽根の如き三枚の布切れも現在いまは手元になく、代用として同じ数の帯を腰に締め込み、その先端を臀部に垂らしている。

 二人が折り重なるようにして身を転がしたトレーニングマットは、世界最大のスポーツメーカーと名高い『ハルトマン・プロダクツ』の製品であり、衝撃吸収の素材がすこぶる優良だが、ポリ塩化ビニル製のカバーで覆われた表面は、数分ごとにモップで拭わなければ滑って危険なほど大量の汗で濡れていた。


「――もう一丁、行くぜ、キリサメッ!」

「お手柔らかに頼むよ」


 やや離れた位置から一気に踏み込む下段蹴りローキックでキリサメの右内膝を脅かした電知は、蹴り足をその場に留め置きつつ軸足一つで側面まで跳ねると、続けざまに身を放り出した。

 背中からマットに飛び込む体勢となり、同時に左右の足でキリサメの両太腿を挟み込んだ。次いで電知は地面に突いた右掌を支点として身を捻り、彼をうつ伏せに薙ぎ倒した。

 『JUDOジュードー』とブラジリアン柔術では〝禁じ手〟とされているが、常に〝実戦〟を志向する電知にとっては持ち前の敏捷性と小柄を生かした得意技である。

 寝転んだグラウンド状態での攻防に移行したわけだが、追い撃ちを試みる側も、これを迎え撃たんとする側も、気を緩めた途端に見落としてしまうほど動作うごきが速い。右足を掴んで関節を極めようと図る電知に対し、うつ伏せの状態から片膝立ちになったキリサメは地面に接する一点を軸に据えて全身を旋回させ、辛うじて〝捕獲〟から逃れた。

 互いに屈んだ状態で向き合う恰好である。電知は低い姿勢から両手を繰り出し、キリサメの右手首と腰の帯の内の一本を掴んだ。

 二人分の体重を横方向へと振り回し、転がるような形で寝技まで持ち込むつもりなのであろう――そのように読んだキリサメはじゅうどうの両襟を掴み返し、更には四肢に力を入れて重心の保持を試みた。

 下段蹴りローキックを受けた瞬間こそ体重を支え切れないほど力が抜けてしまった右膝であるが、現在いまは鈍痛を残しつつも攻防に支障がない状態に戻っていた。命中の寸前に右足を僅かに動かして直撃を被る〝芯〟を外し、蹴りの威力を大きく減殺させていたのである。


「――そんなにチョロく引っ掛かっていると本番が心配だよ、サメちゃん。日本の微温ぬるまに浸かっている間に、ペルーの裏路地で養った勘が鈍ったんじゃない?」

「珍しく寅がまともなコトを言ってらァ。おれも地下格闘技アンダーグラウンドの試合でり合ったコトがあるけど、ブラジリアン柔術は寝技への引き込み方を無限に知ってやがる。寝技に持ち込んだ後もバリエーション豊富と来たもんだ。攻略パターンの丸暗記だと裏をかかれておしまいだぜ。臨機応変にやり返せる勘を養うとしようぜ、キリサメ!」


 身辺警護ボディーガードとしてキリサメに同行し、紺のけんどうを纏って一部の練習にも付き合っているとらすけがトレーニングマットの傍らから指摘した通り、この反応を引き出すことが電知の本当の狙いであった。

 電知の追い撃ちを警戒する反応こそ鋭かったものの、全身に力を込めた結果、キリサメは静止状態も同然となっている。

 そして、刹那の好機を見逃す電知ではない。掴む部位を帯から右肘に切り替えた瞬間、キリサメの身体を自分の側へと強く引き付けたのである。これと同時に両足を振り上げ、彼の右腕ごと首を挟み込もうとした。


「考えるな、感じろ――今またじょうわた氏の教えを想い出したよ……ッ!」


 腕の関節を極めつつ首を絞めようというわけだが、キリサメは技が完成する寸前で左下腕を自分の首と電知の右足の隙間に差し入れ、巧みに凌いでみせた。

 すかさず電知は仕切り直しを図る。手首を掴んだ左の五指はそのままに、右の五指を肘から襟に移し、その流れと合わせるように左足の裏でキリサメの腹を蹴り付けると、これを押し当てつつ後方へ転がり、膝の屈伸運動でもって彼を投げ捨てた。

 柔道のともえ投げである。本来は互いに立った状態で仕掛けるものだが、今は投げ自体による痛手ダメージや寝技への派生などは考えず、緊急回避の手段として用いていた。

 尤も、電知の場合は巴投げと同じ体勢に持ち込んだのち、投げ捨てるのではなく〝捕獲〟を維持したまま車輪の如く地面を転がり続けるという一種の応用を試みることが多い。三半規管を激しく揺さぶる不思議な技は、キリサメもかつての路上戦ストリートファイトで味わわされていた。

 親友との馴れ初めとも呼ぶべき想い出を引き摺りながら放り出されたキリサメは、身を捻りつつ着地し、反撃の蹴りに転じようとしたが、その寸前で動きを止めた。


はやいな。どんどんはやくなっていくんだな」

「そりゃおれの台詞だぜ。今の三角絞めは完璧だと思ったんだけどなァ」


 キリサメが着地したときには既に電知も身を起こしていたのである。迂闊に蹴りを打とうものならカカトを掴まれ、投げ落とされた上に今度こそ膝関節を極められたはずだ。

 電知との模擬戦スパーリングを通じてキリサメが体得しようと励んでいるのは、寝転んだグラウンド状態での攻防に持ち込まれた場合の対処であった。レオニダス本人は言うに及ばず、寝技を磨き上げたブラジリアン柔術も脅威であるが、関節や頸動脈さえ攻めさせなければ、新人選手ルーキーであろうとも互角の勝負に持ち込める――それが岳の考えであった。

 ブラジリアン柔術の黒帯を締めるレオニダスに寝転んだグラウンド状態で勝負を挑むなど自殺行為でしかあるまい。だからこそ、寝技の外し方に特化するという逆転の発想である。

 カポエイラの足技も油断できないが、キリサメは『天叢雲アメノムラクモ』の『打撃番長』であるじょうわたマッチと互角の殴り合いを演じたがある。競り勝ったとは言いがたいものの、ヒサシのように突き出したリーゼント頭を一度はコークスクリューフックで吹き飛ばしたのだ。

 打撃という唯一の利点を最大限に生かし、これを勝機に変える為、一方的に畳み掛けられない水準レベルまで寝転んだグラウンド状態に慣れること――それが八雲岳の掲げた最終目標である。


「簡単に勘を掴んでくれるから、やり易いぜ。工夫する楽しみを作ってくれるのだって嬉しいもんよ。キリサメ、関節技も使えたよな? 寝技の要点ツボ理解わかってるみたいだし」

「正確にはだけどね。関節を極めて降参ギブアップさせる技は僕には使えないよ」

「つまり、二戦連続で失格になろうものなら、愛しの未稲ちゃんやひろたかくんに本気マジで顔向けできなくなるってワケね。悪意ある関節攻撃は〝レオ様〟も得意だろ~し、壊し合いで勝負しても面白いコトになると思うんだけどねぇ~」

「邪悪なサブミッション大会みたいな試合コトをやらかしたら、勝ち負け以前にひろたかくんからリング上で叱られてしまうよ。麦泉氏だってお説教の順番待ちするだろうし……」


 寅之助の冗談に対して神妙な面持ちで頷き返したキリサメに電知は腹を抱えて笑った。

 本人が大真面目に述べた通り、キリサメが編み出した貧民街スラムの喧嘩殺法は殺傷ひとごろしが本質であり、〝格闘競技スポーツ〟以外でこそ真価を発揮する。MMAのリングで〝全て〟を解き放とうものなら、即座に危険行為とされてしまう技ばかりであった。

 言わずもがな、関節を狙う攻撃も後遺症の危険性リスクなど考慮していない。寅之助は冗談めかしていたが、汚名返上の場で初陣プロデビューを上回る残虐性を晒そうものなら、まず間違いなく樋口代表から契約解除を宣告されるだろう。

 得体の知れない喧嘩殺法を『天叢雲アメノムラクモ』に迎え入れてくれた樋口たちへの恩を仇で返すような事態だけは、キリサメとしても絶対に避けたかった。


故郷ペルーでは関節技を必要はなかったし、組んでからの駆け引きが少しでも上達しているとしたら電知のお陰だよ」

「そこはキリサメ自身の努力の成果だって! ちょっと手合わせしない間に、目ん玉飛び出すかっつーくらいの精度が跳ね上がってたぜ!」

道場での稽古の成果――と言い切るのは勇気が要るかな。入門から一ヶ月も経っていないし、現在いまは基礎練習や座学が中心だけど、の相手に怪我をさせないこと、自分も刀や槍に当たらないことが大事だから、前よりも距離感に神経を使うようになったよ。間近で見させて貰えるがわ先生や先輩たちのは一つ一つが財産だ」


 親友から「簡単に勘を掴んでいく」と褒められたキリサメであるが、本人は『コンデ・コマ式の柔道』による寝技に必死で喰らい付いているような状態である。ほんの僅かでも油断すれば、彼は容赦なく首を絞め落とすはずだ。それほどの緊張感が持続する練習相手スパーリングパートナーこそ花形選手スーパースターへ挑戦する猛特訓には相応しかった。

 その模擬戦スパーリング開始はじめて以来、キリサメは電知の技の冴えに瞠目し続けている。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の〝代理戦争〟ともたとえるべき形で繰り広げられた路上戦ストリートファイトから半年も経っていないというのに、すがだいら合宿のときと比べても格段にはやく、そして、強くなっているのだ。

 先程も鳩尾を狙う右の肘打ちから投げに連ねていく動作うごきに半分も反応できなかった。

 後方に半歩ばかり退すさって肘打ちこそかわしたものの、左襟と右肘を掴まんとする両の五指にはえなく捉えられてしまった。この直後には電知の側へと引き付けられる力の作用によって姿勢と重心を崩され、凌ぐ間もなく右足を払われていた。

 辛うじて後頭部を強打することは避けられたが、マットへ叩き付けられた後には背後から首を絞められてしまったのである。今し方の三角絞めも模擬戦スパーリングではなく〝実戦〟の場であったなら、小細工にも等しい防御など容易く突破されたはずだ。

 背中から投げ倒されたキリサメであるが、電知が覆い被さるような体勢で拳を振り下ろしてきたならば、素早く防御や反撃に切り替えられたことであろう。前田光世コンデ・コマこうどうかんの門を叩く以前に極めたという古流柔術も訪ね歩いたこの少年は、MMAの『パウンド』にも似たあても得意としている。

 しかし、これはブラジリアン柔術の『蜘蛛スパイダー』を想定した模擬戦なのだ。背後に回り込まれるという失態をキリサメは苦く噛み締めた。

 『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形選手スーパースター――レオニダスの前に立つ資格を練習相手スパーリングパートナーから突き付けられたような思いであった。あるいは電知こそが最もに相応しかろう。

 キリサメ自身、プロデビュー戦で刻まれた損傷ダメージと疲弊が癒える前から練習を欠かしておらず、MMAとの〝兼業〟による相乗効果も実感している。

 最近はMMAの練習メニューを専門に提案・管理する〝軍師〟も付いてくれている。

 性格上、己の力量を過信することもないのだが、それでもキリサメはほんの短時間で親友と大きな差が開いていた〝事実〟が信じられなかった。


「絶好調という言葉は電知に相応しいんじゃないかな。技の切れ味が桁違いだよ。さっきも『うでがらみ』だっけ――柔道のアームロックに反応し切れなかった」

「電ちゃんってばとっておきの新技も鋭意開発中みたいだよ。あてを発展させたらしいんだけど、ボクにも教えてくれないの。一緒にあての稽古を積んだ仲なのに寂しいなぁ」

「地獄耳とはこのコトだな。その話、どこで聞いてきやがったんだよ。おめーは勿論、かみしもしきにだって話したおぼえがねぇぞ」

「話の流れから察するに模擬戦スパーリングでも使っていないんだよな? 秘密にしているワケじゃなくて、練習相手スパーリングパートナーに試しても大丈夫なところまで完成していないだけだと思うよ。電知が中途半端を許さず、自分の技を安売りしないコトは寅之助だって理解わかっているだろう?」

「うんうん、サメちゃんも順調に〝電ちゃん色〟に染められてきて、ボクは嬉しいよっ」


 口をつぐめと言い付けるように幼馴染みをめ付けつつ顔だけは親友に向け、垂直に立てた右の人差し指を口に押し当てている。キリサメが推し測った通りということであろう。

 電光石火のはやさと前田光世コンデ・コマに倣って研鑽し続けてきたあてを融合させた電知の〝新技〟が『かさて』という名であることをキリサメが知るのは、もう少し先である。


「――MMA選手として〝次〟にステップアップするには、アマカザリさんしか持っていない武器を徹底的に伸ばすべきです。ケンカ技に頼り切りの現状では少しも足りません。勿論、〝幻の鳥ケツァール〟みたいなも一本残らず操れるようになって頂きます」


 新技という言葉の響きに引き寄せられ、キリサメの脳裏に〝軍師〟の声が甦った。

 見る者の心を奪うショープロレスやに着想を得て岳が提案した〝フェイント殺法〟を踏襲しつつ、これを更に洗練させた〝発展型〟を熊本興行までに必ず完成させるよう小さな〝軍師〟から厳命されたのである。

 さりとて岳のように結果を性急に求めることもない。三ヶ月という時間を最大限に生かして段階的な〝進化〟を目指していく――キリサメ・アマカザリというMMA選手の活動を全面的に補佐サポートすることを約束した〝軍師〟は、義兄が通い始めた道場にも練習計画を相談するつもりのようである。

 キリサメの自室に格闘技とスポーツに関連する参考書を何箱も運び入れたとき、小さな〝軍師〟は「ぼくは未稲さんのように甘やかしませんよ」と極太の眉を吊り上げていた。


の世界に『型を極めて初めて型破りが出来る。型を知らなければ形無し』という教えがあるそうです。基礎なくして応用ナシ。段階的に練習を進めなくてはいけない理由もアマカザリさんならお分かりいただけますよね」


 思考かんがえるより先に肉体からだが動く為、八方塞がりとなり兼ねない問題も後から追い掛けてくる養父とは異なり、その〝軍師〟は目標達成に至る道筋を理論的に示していた。

 全くの偶然であるが、師匠のがわだいぜんや、誰よりも親身になって世話を焼いてくれる先輩のだいらひろゆきも、小さな〝軍師〟と同じ言葉で見習いを激励してくれたのだ。

 型を極めてこその型破り。型を知らねば形無し――大小の焦燥を具体的な課題に換えてくれる教訓をキリサメは心の中で唱えた。


こそキリサメのお陰だぜ! 新しい目標が出来たっつーの? 親友に置いていかれるワケにゃいかねぇもん! そりゃあ、ノリノリでキレキレにもなるぜッ!」

「そこでボクの存在を眼中にも入れてくれないなんて、電ちゃんってば冷たいなぁ~。ヤキモチ極まって『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場を焼き討ちしちゃうかも?」

おめーが言うと冗談に聞こえねぇし、『ウォースパイト運動』のバカどもみたいな真似をすんのはシャレにならねーだろうが! アメリカの事件、忘れるには早過ぎらァッ!」


 格闘家としての在り方と、その志を貫かんとする大器うつわの落差を思い知らされたきょういし沙門と、目の前で真っ白な歯を見せながら笑う空閑電知は違うのだ。

 二人とも尊敬の対象ということに変わりはないが、電知は肩を並べて切磋琢磨する親友である。『コンデ・コマ式の柔道』と相対するのは路上戦ストリートファイトすがだいら合宿に続いて三度目となるが、この模擬戦スパーリングでも多くのことを学んでいる。

 それは電知の側も同様であろう。彼自身が絶賛したの鋭さ――即ち、反応速度と適応能力が『コンデ・コマ式の柔道』を更に鍛え、キリサメが置き去りにされるのではないかと感じてしまうほど加速度的に強くなっていくのだ。

 電知の成長に貢献できることが何より嬉しく、同時にほんの少しだけ悔しい。これもまた〝親友〟という存在モノであろうか――と、キリサメは無性にくすぐったい気持ちとなり、口元を緩めながら頬を掻いた。


「――爽やかな青春は結構なんだが、それをどうして我が家でやる必要があるんだ?」


 トレーニングマットの上で微笑み合う二人の少年に向けて、寅之助とは別の傍観者が溜め息を一つ零した。

 築数十年とおぼしき一軒家の縁側に腰掛けながら肩を竦めたのは道場『とうあらた』に籍を置くキリサメの〝先輩〟であり、また電知と同じ『E・Gイラプション・ゲーム』に出場する地下格闘技アンダーグラウンドの格闘家――ひめまさただその人である。

 彼も訓練トレーニングなかであり、剥き出しの上半身から大量の汗が噴き出している。がわだいぜん門下のとして、伝説の武術家ブルース・リーが創始した『ジークンドー』の使い手として、日々隅々まで全身を使い切っている為、使が完成されていた。


「こんなに良いモン、正忠サン一人で使うだけじゃ勿体ないじゃん。『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間で共有財産にしようぜ~。それより何よりキリサメは可愛い後輩でしょうよ」

「私が作った物なのだから、独り占めは当然だろう。連絡もなく大勢で押しかけてきて、何を言っているんだ、空閑君は……」

「友達が遊びに来ない家だって評判じゃねーか、正忠サン。たまには賑やかなのも良いモンだろ? キリサメだって、、すげーって目ェ輝かせてたぜ!」

「お世辞でも何でもなく度肝を抜かれました。使い勝手は勿論、全部を自作する熱意は尊敬の一言しかありませんよ。甲冑格闘技アーマードバトルとデザイン関係を掛け持ちするだいら氏にも言えることですが、『とうあらた』は本当に多芸な方ばかりですね」

「……そう? アマカザリ君もそう思うかい? そんな直球で褒められてしまうと、おもてなしをしないワケにはいかなくなってしまうなぁ」


 キリサメや電知が揃って褒め称えた〝使い勝手の良い物〟とは、庭先に設置された無数の野外運動器具のことである。

 鉄骨と無数の鉄パイプを組み合わせた特製のろくぼくは、ある程度の位置まで登ると足が地面に着かなくなるほど背が高い。最上部の取っ手からは太いロープが垂れ下がっており、これだけを両手で掴んでよじ登っていくことも出来るようだ。

 山なりにうねるうんていも難易度が高そうだった。塀に沿うような形でカーブを描き、庭全体まで伸びている為、最後まで進み切るには相当な体力と気力を要することだろう。

 二本の鉄パイプを等間隔に立て、細いロープと小さな木板を組み合わせて足場を設けた器具も印象的だ。姫若子は一気に走り抜けたが、互い違いの足場は極めて不安定であり、支柱にも細い鉄パイプを用いているので、体重の掛け方を誤れば倒壊する恐れがある。

 えて極限的な状況に身を置いて平衡感覚を養おうというわけだ。当然ながら命綱などは使わない。格子状のネットを下に張って転落時の怪我を防止することもない。一見すると野外運動施設アスレチックパークのようであるが、これらは遊具ではなく訓練の為に設えた物なのだ。

 驚くべきことにボルダリング用の人工壁といった大型の物まで全てが姫若子の手作りであった。木製の太い支柱からサボテンの針のように無数の棒が飛び出した器具も置いてあるが、わざわざ樫の丸太から削り出して拵えたという。

 種類豊富な器具がひしめいている為、広い庭にも関わらず窮屈に感じるくらいだ。キリサメと電知は家屋に面した僅かな隙間にトレーニングマットを敷いて模擬戦スパーリングを行っていた。

 果たして、近隣住民はどのような目で珍妙な家を見ているのだろうか。

 かつて武士の都と呼ばれたかまくら――その山際に所在する中古物件を購入した姫若子は、海を見下ろす絶景ではなく二階建ての家屋に広大な土地が目当てだった。

 脱サラして手に入れたに訓練用の器具を設置し、思いのままにジークンドーの技を磨き上げたかった。己の肉体を鍛え抜きたかった。その夢果たされたが、工事費以外の代償を払うことになったのは想像にかたくない。夫のに耐え兼ねた妻とは数年前に離婚し、決して狭くはない家屋に一人寂しく住む羽目になったのである。

 最愛の人に理解されなかった悲しみを背負っていることもあり、一回り以上は年下の少年から野外運動器具を褒められた姫若子は、満更でもない調子で顎の辺りを親指で撫で、身のうちから湧き起こる感動を持て余した挙げ句、鉄パイプを加工した登り棒に掴まった。

 複雑な家庭事情を抱えているとは知らず、姫若子の家まで出稽古に赴きたいと提案したのは意外にもキリサメであった。

 〝共通の知人〟である電知から聞かされた野外運動器具への関心は言うに及ばず、は表向きの顔であり、地下格闘技アンダーグラウンドの選手こそ本性なのか、あるいは二つの〝顔〟を両立させているのか、そのことを尋ねたかったのだ。

 じょうわたマッチとの試合後、キリサメは会場内でヴィクターくろ河内こうちら『E・Gイラプション・ゲーム』の人々に行く手を阻まれたのだが、その中に姫若子正忠も混ざっていた。『とうあらた』のと認識していた彼が、電知と同じ団体に所属する地下格闘技アンダーグラウンドの格闘家であることをその場で初めて知ったのである。

 そのことを模擬戦スパーリングの合間に尋ねると、傍らの電知は「今更かよッ⁉」と大仰なくらい目を丸くした。

 『とうあらた』の体験会ワークショップでキリサメと知り合ったことは姫若子本人から教わっていたそうだが、『E・Gイラプション・ゲーム』との〝兼業〟も初対面の挨拶で明かしたと思い込んでおり、「仲間の前だから、地下格闘技アンダーグラウンドのことは喋りにくかったんかな」としきりに首を傾げている。


現在いまのキリサメと同じ〝二足の草鞋〟ってヤツだよ。表も裏もねぇ。どっちにも同じくらい正忠サンは力を入れてんのさ」


 「他人様ひとのことをペラペラ喋るのは趣味じゃねェけどな」と前置きしつつ、許される範囲で明かした電知によると、会社勤めを辞めたきっかけも『E・Gイラプション・ゲーム』であったという。

 当時、営業職で働いていた姫若子は、平凡かつ単調ながらも〝出世街道〟を順調に進んでいたそうだ。そのような折に友人のヴィクター黒河内から『E・Gイラプション・ゲーム』の興行イベントに招待されたことで人生が一変してしまう。気まぐれに観戦した地下格闘技アンダーグラウンドは一世を風靡したMMAとは比較にならないほど過激なルールのもとで格闘家が命を削り合う真の闘いであり、壮絶の二字こそ似つかわしいリングに心を奪われたのだった。

 もはや、中年へ差し掛かろうというのに、若かりし日に志したジークンドーの魂が情熱の塊へと姿を変えてしまったのである。

 『とうあらた』の門を叩いたのは『E・Gイラプション・ゲーム』への参加より後のことだ。より格闘技に近い感覚を維持できる稼業しごとを選んだ結果というが、今では地下格闘技アンダーグラウンドに於けるなまぐさい経験がにも反映されるようになり、二枚の歯車が巧く噛み合っていた。


「見た目はジジ臭いし、大人ぶった空気出しまくりだけど、中身は電ちゃんとあんまり変わらないからね、このおじさん。でもサメちゃんの〝お仲間〟ってワケさ」


 電知の説明はなしに皮肉を言い添えたのは瀬古谷寅之助である。森寅雄タイガー・モリの直系を称する道場の跡取り息子は、当然ながら『E・Gイラプション・ゲーム』の構成員メンバーではないのだが、電知や上下屋敷など同団体との接点が多く、姫若子とも知り合いのようであった。

 実際、『とうあらた』の道場で寅之助と顔を合わせた姫若子は、露骨に顔を顰めた上、「アマカザリ君の身辺警護ボディーガードだから同行は断れないが、ここで〝何か〟をやったら無事では帰さんぞ」と何度も何度も警告しており、『E・Gイラプション・ゲーム』との間に穏やかならざる問題を起こしたことがキリサメにも察せられた。

 今日も自分の家が荒らされてしまうのではないかと、寅之助の一挙手一投足を警戒している様子である。


(姫若子氏はである前に一人の武術家――と、近藤氏も話しておられたけれど、会社役員との〝兼業〟だったら、……順風満帆な生活くらしとも両立させられたんじゃないかな)


 かつての黄金時代から日本MMAを支えてきた古豪ベテランに『天叢雲アメノムラクモ』の仲間と認められ、その思いに応えるべく〝格闘競技〟への理解も大幅に進んだキリサメではあったが、生活の基盤と家庭を犠牲にしてまで地下格闘技アンダーグラウンドのリングにのめり込んでしまうことはさすがに理解でき兼ねるものであり、電知の説明はなしにも想像力のほうが追い付かなかった。

 人生の半ばで生き方を変えるという選択は、『世界最強』を夢見て一直線に突き進む電知とも似て非なる志であろう。

 地下格闘技アンダーグラウンドとの向き合い方も、中世日本の合戦が生んだ殺傷ひとごろしの奥義を錆び付かせないことを使命とするあいかわじんつう――流派の歴史に殉じる覚悟の古武術宗家とも異なるはずだ。

 しかし、『百聞は一見に如かず』というべきか、姫若子宅の庭を双眸で捉えた瞬間、何もかも腑に落ちた。強引に納得だけの衝撃とも言い換えられるだろう。

 道場の体験会ワークショップにて垣間見た高次の格闘技術にも得心が行ったのだ。

 己が専念すると決めたこと以外の全てを切り捨て、余人が理解に苦しむほどその環境を整え、鍛錬を重ねてきたからこそ、キリサメが未だに到達していない殺気の制御コントロールまで使いこなせるようになったのである。

 それも学ぶべき生き方であろう。同時に八雲家の将来に暗い影を落とさない為の教訓である。尊敬すべき〝先輩〟とはいえ、全てを肯定するのも危うかった。


「――水分補給含めて一休みとしようや! 若いヤツは肉体からだをいじめりゃ鍛えたことになるって思い込みがちだが、メリハリしっかりしねぇと身に付くモンも身に付かねぇぜ!」


 右拳であてを放つ構えを見せた電知と、これを迎え撃たんとするキリサメを制し、休憩の指示を飛ばしたのは後者の養父にして『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長――八雲岳だ。

 高い位置から声が聞こえてきたのは、姫若子自慢の野外運動施設アスレチックパークを見下ろすようにジャングルジムの頂上に腰掛けている為だ。キリサメと同じジャージの上から纏った木賊とくさいろの陣羽織の裾と、戦国武将の如く結わえたまげを鎌倉の海より吹き付ける風になびかせていた。

 道場『とうあらた』の〝先輩〟のもとへ稽古に出掛けるとはいえ、格闘技団体としての在り方を巡って『天叢雲アメノムラクモ』と対立する『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手でもある。半ば敵地潜入にも近い構図でもある為、万が一に備えて引率者という名目で随伴してきたわけだ。

 小さな〝軍師〟と共にキリサメの練習メニューをマネジメントする麦泉も一緒である。

 ジャングルジムの下に立った彼は、模擬戦スパーリングの内容を観察しながら非常に細かく記録を取り続けている。現在のキリサメに不足している技術モノを洗い出し、これを解消するよう助言アドバイスするのが主な役割であった。

 怪我が原因で早期の現役引退を余儀なくされたものの、実戦志向ストロングスタイルのプロレスを掲げる鬼貫道明のもとに集い、世界中の猛者と異種格闘技戦を繰り広げた『鬼の遺伝子』の一員レスラーだけあって麦泉の観察眼は正確かつ適切である。

 模擬戦スパーリングに於ける攻防も麦泉の助言に従って柔軟に変化させるのだが、課題を乗り越える度に身のこなし自体が巧みになっていくのだ。

 麦泉自身はキリサメがMMAを生業とすることに必ずしも賛成しておらず、セコンドには付いたものの、初陣前の練習にも積極的には関与しようとはしなかった。現在いまも老境まで勤め上げられるこそ〝本業〟にするべきと勧めているくらいであった。

 しかし、次戦の相手は日本MMAの絶対王者とも肩を並べる花形選手スーパースターである。新人選手ルーキーにとって再起不能の重傷が想定されるほど危うい激闘になることは必至であり、寝技対策も含めて補佐サポートに全力を注いでいた。


「空閑君の言った通り、キリサメ君の動きも順調に無駄がなくなってきているよ。ここ何日かで体重移動への反応も速くなっているし、そこは寝技に引き込まれそうになったときに重要なポイントになるから、しっかりにしていこう」


 実際に模擬戦スパーリングを行う電知の直感的な言葉と、これを見守る麦泉の客観的な助言アドバイスを照らし合わせることによってキリサメは自分の進歩を実感し、同時に三ヶ月足らずで解決しなければならない課題を見つめ直すのだった。


肉体からだを痛め付けて悦に入るような練習コトばっかりやってきた『昭和』のが口にして良い台詞じゃない――どこぞの空手屋がここに居たら、きっとそう言うだろうねぇ。昔のプロレスラーがデタラメやってる動画ビデオ、ちょいとネットを漁れば山ほど出てくるよ?」

「あ、はテレビ向けの演出だぜ! 実態とは全ッ然違うの! 『新鬼道プロレス』だって練習は死ぬほどハードだったけどなァ、休憩も許さねェ〝シゴキ〟や、暴行紛いの〝可愛がり〟と一緒にされたくねェよッ!」


 トレーニングマットの傍らに立つ寅之助はけんどうに替えてはいるものの、口を開けば揶揄が飛び出すだけで、麦泉のように建設的な意見を述べることなど皆無である。

 その麦泉は休憩になると、携帯電話スマホを握ったまま家屋の裏手へ回っていった。

 彼は『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業である『サムライ・アスレチックス』の一員でもあり、これを率いる樋口郁郎の信任も厚い。重要な連絡も頻繁に入ってくるわけだ。わざわざ皆の居る場所から離れたということは、に内容を聞かれてはならない通話はなしなのであろう。


「柔術対策をやり始めて数日でその出来栄えだ! 本番にはマジでレオの野郎を寄せ付けなくなってるかも知れねぇな! とにかく焦りは禁物だぜ。じっくり取り掛かれよ!」

「岳氏にしては珍しい助言アドバイスですね。普段は他人ひとのことを短絡的に急かすのに」

「くっそゥ! ンなコトねェって言い返せねェ自分の性格がツラいぜッ!」


 の鋭い返答ツッコミを受けてジャングルジムから転落しそうになった養父に対して、キリサメは二重の意味で冷ややかな表情かおである。

 この数日、岳は外出を要する仕事以外ではキリサメに付き纏っていた。自宅道場で練習トレーニングする最中には真隣に寄り添い、ロードワークに出掛けると必ず後からいてくるのだ。

 事あるごとに心身の状態を確かめ、両の五指を忙しなく開閉させつつマッサージを試みようとしていた。もキリサメは頼んだおぼえがない。

 身辺警護ボディーガードの寅之助にも「そろそろボクはお役御免かな」と鼻で笑われる有り様であり、何事にも無感情なキリサメでさえうっとうしくて仕方がなく、おや二人で風呂に入ろうと提案されたときには目突きを返答こたえに代えたくらいであった。

 出稽古の引率についても麦泉の随伴を理由にして最初は断ったのだが、それで引き下がる岳ではない。

 異様としか表しようのない過干渉の発端は明白である。つい先日、『八雲道場』のかかりつけ医であるやぶそういちろうや、も出席する一つの会議が設けられたのだ。

 八雲家の他、マネジメント担当の麦泉や試合着ユニフォームの開発を手掛けたたねざきいっさくなど、キリサメ・アマカザリの試合へ直接的に関わった者たちが一堂に会し、本人の与り知らないところでマスメディアから『スーパイ・サーキット』と名付けられてしまった異能ちからと、人間という種を超えた反動について話し合われたのである。

 極めて繊細な問題を孕むという性質上、親友の電知は言うに及ばず、岩手興行にいても身辺警護ボディーガードを務めた寅之助でさえ、その会議は知らされていない。〝MMAのゲームチェンジャー〟などと持てはやされるようになった異能スーパイ・サーキット使用者キリサメの心身に与える影響を医療の視点から見極めようというケースカンファレンスであった。

 藪総一郎から紹介された〝もう一人の医師〟の診察を受けた際、伏せておく理由もないと考えて『スーパイ・サーキット』が発動する瞬間に起きた全てを明かしたのだが、ケースカンファレンスの出席者に共有されたその内容こそが養父を変調させた原因であろう。

 たずねられていないことまで自ら告白しようとは思わないが、家族に対して隠し事もしないつもりである。と岳に辟易させられるのは別の問題というわけだ。

 何よりケースカンファレンスで論じられた〝る議題〟を嫌でも想い出してしまう為、を全身で体現するような岳の同行をキリサメは好意的には受け止められなかった。

 先輩殺の面前での過干渉は目突きで止めさせるしかないと、鎌倉に向かう電車の中で溜め息を吐き続けていたキリサメであるが、姫若子宅に到着してからは野外運動施設アスレチックパークこそが岳の目当てではないかと考えを改めていた。

 『八雲道場』にける模擬戦スパーリングの合間に電知が姫若子手製の器具について話したとき、岳はキリサメの隣で子どものように目を輝かせていたのだ。実際、引率者を標榜しながら誰よりも野外運動施設アスレチックパークを堪能している。

 養子キリサメが模擬戦に励む傍らで野外運動器具を尽くし、総仕上げの如くジャングルジムの頂上を目指したのだ。寅之助でさえ皮肉を忘れ、「わざわざ公園に出掛けなくてもネトゲで友達と遊べる昨今、鼻息荒く遊具を楽しめる人材ヒトは貴重かもね」と呆れ返っていた。


(中途半端なみーちゃんもどうかと思うけどな。選手の活動報告が役割しごとならを優先してくれたって良いだろう。気を持たせるような態度をしておいて、……何なんだよ)


 〝遊び〟といえば、未稲はネットゲームの約束がある為に出稽古には同行していない。問いただすような真似は控えたのだが、誰よりも親しく交流している『デザート・フォックス』にでも誘われたのかも知れない。

 他人ひとの趣味に口出しすることは、相手の心を踏み躙ることと変わらない――亡き母の教えを想い出し、喉の奥へと文句を押し込めたキリサメであったが、黒いもやの如く胸の中に垂れ込めた善からぬ感情を打ち消すことはなかなか難しかった。

 電知と組み合っている間は忘れていられたが、それが途絶えた途端に「相談にも親身なんだもん。ステキな人なんだろうな」と、陶酔したように会ったこともない男友達デザート・フォックスへの想像を膨らませる未稲の顔を想い出してしまい、疲労とは異なる溜め息を吐き捨てた。


「八雲さんも面白いことを考えるものですよ。ブラジリアン柔術の対抗策に空閑君をアテるとはね。コンデ・コマ――前田光世のことを考えたら、最善ベストの人選でしょうが」


 冷蔵庫から持ってきたスポーツドリンクのボトルを三人の少年に手渡しながら、姫若子はジャングルジムの岳を仰いだ。一度は足を滑らせ、骨組みに片足を引っ掛けて裏返る状態となったが、忍者に相応しい身のこなしで姿勢を立て直し、再び頂上に腰掛けていた。

 岳と並んで名前を挙げられた電知も「先祖返りだもんよ」と即座に反応し、生涯の目標コンデ・コマを讃えるようにして胸を張って見せた。


「考えてみると、不思議な巡り合わせだな。同じ前田光世コンデ・コマから生まれた二つの技が敵味方に分かれたような状況だ。しかも、僕がMMAに関わることになったきっかけは、ブラジリアン柔術より。歴史の流れを今、とても身近に感じるよ」

「あれあれ~? サメちゃんってば、そのテのマンに浸る人だったっけ~?」

「寅之助の言葉を借りるなら、『電知の色に染まった』ってところかな」


 姫若子と電知の会話を受けて模擬戦スパーリングに必要ない思考こと脳内あたまから追い出したキリサメは、前田光世コンデ・コマがブラジルに築いた歴史を振り返ったのち、得心したように首を頷かせた。

 〝地球の裏側〟から日本へ移り住んだ直後の彼であったなら、ブラジリアン柔術の対策として『コンデ・コマ式の柔道』の使い手である電知を練習相手スパーリングパートナーに招聘した理由すら分からなかったことであろう。

 格闘技全般への勉強が初陣プロデビューの以前より進んだ現在いまのキリサメならば、姫若子が仄めかした〝因縁めいた理由〟にも想像が及ぶのだ。親友の口から幾度も発せられた前田光世コンデ・コマの名前も、総合格闘技MMAの礎と呼ばれるに至った功績も、今や脳に刷り込まれているのである。


「そうとも! ブラジリアン柔術自体、『コンデ・コマ』こと偉大なる前田光世大先生が始祖なんだからなァ!」


 親友キリサメが自分の思いを酌んでくれたことが何よりも嬉しいのであろう。電知は蕩けるような笑顔で右の親指を垂直に立てた。

 コンデ・コマ――そのまえみつという。

 世界を経巡りながら一〇〇〇回もの異種格闘技戦を繰り広げ、生涯無敗を貫いた伝説の柔道家が海を渡ったきっかけは、日本が誇る武技・柔道を振興する為であった。

 長い鎖国の幕引きとなった明治維新と、これに伴う文明開化を経て日本は西欧列強と関わることになる。時代の潮流と前後し、古流柔術から発する形でのうろうの『柔道』が成立。前田光世も新時代・明治に産声を上げ、こうどうかんの門を叩いた一人である。

 間もなく頭角を現した前田光世は、世界に通じる〝文化〟として柔道を普及するべく講道館の先達と共に渡米、大統領の計らいによってホワイトハウスでも試合を行った。


「前田光世大先生以外にも世界に向けて柔道普及に力を尽くした人も多かったんだ。キリサメは『スモール・タニ』って名前、聞いたことがあるか?」

「不勉強ながら、その名前は聞きおぼえがないな。何となく森寅雄タイガー・モリを思い起こさせるけど、剣道家じゃなくて柔道家なんだよな?」


 キリサメが素直に首を横に振る一方、岳は「さすがに詳しく調べてるじゃねーか」と、勉強熱心な電知へ感心したように微笑んでいる。


「スモール・タニことたにゆき大先生! 前田光世大先生に先駆けて欧州ヨーロッパに渡ったもう一人の〝伝説〟だよ。谷幸雄大先生も向こうで他流試合をやってのけて、天下無双の強さを誇ったんだ。その結果、欧州ヨーロッパに柔道っていう文化が根付いたってワケさ」


 現在いまでこそ『JUDOジュードー』として全世界に浸透したものの、二〇世紀初頭の欧州ヨーロッパでは柔道という呼称ではなく『ジウジュツ』として広まっていたことも電知は言い添えた。

 にも関わらず、『ジウジュツ』と表記されていたそうである。のうろうと深い交流のあった小泉八雲ラフカディオ・ハーンも随筆集の中で『柔術』と題し、している。


「柔術史――いや、武術史に残る偉人だぜ! ちなみに『スモール・タニ』は欧州むこうで付けられた愛称ニックネームな。実際問題、欧米の体格と比べたら、日本人はちっちゃいモンじゃん? そのチビがどんな相手も千切っては投げ千切っては投げ――そりゃウワサになるさ。『あの日本人が使う技は何なんだ』ってなァ!」


 世界一有名な名探偵のシャーロック・ホームズは『バリツ』という日本武術の心得があり、これをもって宿敵・モリアーティ教授をライヘンバッハの滝壺に投げ落としている。

 一八九三年に一度は衝撃の結末を迎えたシャーロック・ホームズシリーズの〝復活〟にコナン・ドイルが取り掛かった同時期、まさしく谷幸雄スモール・タニはロンドンにて異種格闘技戦を繰り広げており、『バリツ』は柔道の影響を受けて作り出された設定ではないかという推理も、電知は「諸説ある内の一つ」として付け加えた。

 そして、電知の熱弁はなし谷幸雄スモール・タニの同志――前田光世コンデ・コマに戻る。

 ホワイトハウスにける試合は前田光世にとって満足できるものではなく、使節団の帰国後もアメリカに留まり続け、柔道の強さを証明するべく全米で異種格闘技戦を行った。

 その後、前田光世は〝格闘巡業〟の如く欧州ヨーロッパや中米にまで闘いの場を求め、世界各地で猛者たちを撃墜していった。

 千戦無敗という異種格闘技戦の中で、現代の空閑電知が『コンデ・コマ式』と称する技術体系を確立させていったわけだ。古流柔術に組み込まれながらも・柔道として完成される過程で省かれた〝あて〟などの復活を通して、前田光世は伝説という二字を武術史に刻んだのである。

 〝世界最強の格闘家〟は未だに決していないが、候補として必ずコンデ・コマ――前田光世が挙がる。この鮮烈な生き様を一つの道標として据えるべく、日米MMA団体共催による格闘技興行イベントも偉大なる名をけたのだ。

 伝説の男が最後にたどり着き、生涯を終えることになったのがブラジルという南米の国であった。同国では柔道普及だけでなく開拓移民事業にも尽力し、日本から移り住んできた同胞と共にアマゾンの原生林を切り開いていった。

 『コンデ・コマ』とは世界各国を経巡っているなかに名乗った通称であるが、ブラジルへ帰化したのちはこれを本名としたのである。

 コンデ・コマ伝説の最終章は、その志を継ぐ者たちによって総合格闘技MMAという新時代へ繋がっていくことになる。ブラジルの人々に己の技を伝授したことから『ブラジリアン柔術』が誕生したのだった。


「前田光世からコンデ・コマに名前を改めて、ブラジルに腰を据えた頃には『柔道』じゃなくて『柔術』を名乗っていたそうなんだけどな」

「ブラジリアンではない理由が調べても分からなかったのだけど、今の話で謎が解けたよ。だから、電知も『コンデ・コマ式の柔道』と呼び分けているんだな」

「ついでにもう一つ説明を上乗せするとブラジル現地だと『ジウジツ』って名前で通っているらしいぜ。日本人が伝えた『柔術』を、何とか日本式の呼び方をしようって頑張った結果の『ジウジツ』ってな。おれなんかはこの健気さが堪らねぇんだなぁ~!」

「その気持ち、全部じゃないけど、理解わかるつもりだよ。そういう風に起源ルーツに寄せた呼び方はペルーの日系社会でも少なくなかったんだ。ブラジルと地続きの故郷ペルーでも……」


 谷幸雄スモール・タニに惹かれて柔道を志すようになった二〇世紀初頭の欧州ヨーロッパの人々が『ジウジュツ』という表記を用いたのは、あるいはブラジルで『ジウジツ』なる呼称が広まった経緯と同じように、発祥地の文化性や精神性をで受け継ぎたいと願った誠意の表れではないかと、キリサメは日系ペルー人としてを推し測っていた。


「おれが色々な手掛かりから辿り着いた〝コマの技〟はブラジル移住前に使ってたモンが殆どなんだけどな。欧米で異種格闘技戦やってた頃っていう説明が分かり易いか」


 それ故にブラジリアン柔術と『コンデ・コマ式の柔道』は完全に一致する様式ものではないと〝事実〟を言い添える電知であったが、前田光世という偉大な系譜に連なる格闘技であることもまた間違いない。岳もこれを見込んで養子キリサメ練習相手スパーリングパートナーを要請したのである。

 『忍法体術』を極めた実戦志向ストロングスタイルのプロレスラーであり、極技サブミッションを日本に伝えた〝プロレスの神様〟から直々に鍛えられた岳自身も寝転んだグラウンド状態での攻防に長けているが、『コンデ・コマ式の柔道』のほうがブラジリアン柔術に感覚も近く、『蜘蛛スパイダー』という通称の如く寝技を操る花形選手スーパースターの対策に適任という判断であった。


「不勉強だから僕の誤解かも知れないけど、ブラジルで開催される『バーリトゥード』にもブラジリアン柔術は関わっているのか?」

「前田光世大先生のの一族は世界で闘った師匠に倣って〝なんでもアリバーリトゥード〟の対戦形式で異種格闘技戦をやってたそうだぜ! ブラジリアン柔術の宿敵は知ってるか?」

「ルタ・リーブリのことだよな? 岳氏から名前だけなら……」

「その宿敵ルタ・リーブリとも〝なんでもアリバーリトゥード〟で真剣勝負ガチンコやりまくったらしいぜ。対戦形式ってだけだから闘り合う場所はどこでも構わねェ。格闘技同士の抗争まで持ち込みOKなんだから気合い入りまくりな喧嘩マッチだと思わねーか? おれら、『E・Gイラプション・ゲーム』もその心意気を現代の日本に受け継いでるってワケだぜッ!」

「電ちゃん、それでシメたいが為にサメちゃんにルタ・リーブリの話題を振ったよね」

「こちとら前田光世大先生の志を追い掛けてんだ! 当ッたりェよォッ!」


 地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の理念は、代表を務めるヴィクター黒河内も対峙の際に熱弁していた。流血必至となる素手の試合を許可するなど苛烈なルールの採用をもってして、今や本国ブラジルでも安全化が進みつつあるバーリトゥードの〝正統〟を称したのだ。

 ブラジルのバーリトゥードも、『E・Gイラプション・ゲーム』の興行イベントもキリサメは過去に観戦した経験ことがなかったが、『スーパイ・サーキット』を発動せざるを得ないほどの窮地にまで追い詰められた電知との路上戦ストリートファイトや、自分を侮辱した人間に対する哀川神通の制裁などを傍証として、彼らが限りなく〝実戦〟に近いリングに立っているのだろうとは想像していた。


「――いやいやいやいや! その心意気を真に継いでるのは『天叢雲アメノムラクモ』! MMAのほうだぞ、電知! 旗揚げ当時の『NSB』もバーリトゥードを参考にしたんだぜ⁉ 現在いまのMMA興行イベントの雛形ってワケだ、ブラジルのバーリトゥードはッ!」


 『E・Gイラプション・ゲーム』が掲げる理念の体現者と呼ぶべき電知の主張に異を唱えたのは、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長である。バーリトゥードとMMAの接点を示したかと思えば、「今度の相手はMMAのルーツと思えよ」と、いきなり表情を引き締めた。


「ブラジリアン柔術が本格的に普及し始める前後でMMAの有りさまも随分と違うんだよ。ある意味、格闘技界の勢力図が塗り替えられたくらいの衝撃インパクトでなァ」


 格闘技術の変遷という実例を挙げ、MMAが辿った歴史の一端を紐解く岳であったが、自身や大恩人ヴァルチャーマスクがブラジリアン柔術に味わわされた歴史的屈辱――『プロレスが負けた日』を想い出さざるを得ない為か、その説明には幾度も低い呻き声が挟まれた。

 一方の電知は、前田光世コンデ・コマが格闘技史に遺した功績の再確認ということもあって目を輝かせながら胸を張っている。


「そんなとんでもねェ格闘技を〝なんでもアリバーリトゥード〟の激闘で徹底的に磨き上げたのが前田光世大先生のの一族ってワケだ! 大先生の息吹が現代のMMAにまで届いているのかと思えば、こんなにも胸が熱くなるコトはねェッ!」

「そして、その一族に『ジウジツ』を授けたのが世界で闘ってきた前田光世コンデ・コマなのか。電知と岳氏の説明はなしが今、脳内で一本の〝道〟として繋がり始めたよ」

「イイぜ、キリサメ! そこまで理解わかってるんなら、次の試合、勝ったも同然だぜッ!」


 『NSB』の発足に協力し、『鬼の遺伝子』に名を連ねる実戦志向ストロングスタイルのプロレスラーたちを日本MMAの黎明期に次々と撃破していったブラジリアン柔術家の一族こそが前田光世コンデ・コマの直弟子の〝系譜〟なのであろうと、キリサメは脳内あたまのなかで整理している。

 洋の東西を問わずMMA初期は立ったスタンド状態での打撃に比重が置かれていたが、寝転んだグラウンド状態の技で相手を完封するブラジリアン柔術の有効性が証明されたことを転機として、技術体系そのものが大きく見直された――と、岳は電知を遮るようにして語った。

 反則行為を除いてあらゆる攻撃手段が認められるMMAでは、必ずしも相手をノックアウトさせる必要はない。打撃を制して関節を極めるか、首を絞めて降参ギブアップさせれば良いのだ。

 その戦略がMMAのルール下で猛威を振るい始めると、キックボクシングなどの打撃系格闘技を基盤ベースにしてきた選手たちもブラジリアン柔術の体得に勤しんだのである。

 互いの関節を攻め合う〝極めっこ〟という特訓トレーニングを『新鬼道プロレス』所属時代に数え切れないくらい経験し、絶対の自信を持っていた極技サブミッションをブラジリアン柔術に破られた八雲岳は、一九九〇年代末期から二〇〇〇年代初頭の格闘技界に起こった大転換期を生々しい感覚と共に記憶しているのだった。


「ブラジリアン柔術のお陰でMMAは新時代に突入したんだけどよ、それもそろそろ超えなきゃいけねぇ。前田光世コンデ・コマから『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』に受け継がれた『ジウジツ』を極め、世界的な隆盛を成し遂げた一族――オレたちプロレスと因縁深い柔術家の一門まで連綿と続いてきた伝説の〝系譜〟を現代の喧嘩殺法でブチ破れ、キリーッ!」


 ジャングルジムの頂点から縦回転と共に飛び降り、軽やかな着地と同時に養子キリサメの両肩に手を添えた岳は、汚名返上の試練としてこれ以上の相手はいないと締め括った。

 僅かな逡巡を差し挟むことなく養父に頷き返したキリサメも、次の熊本興行こそが本当の正念場であると強く意識している。

 電知との模擬戦スパーリングを通してブラジリアン柔術を破る手掛かりを掴み、何としてもレオニダス・ドス・サントス・タファレルをくださなければならない――所属団体の花形選手スーパースターという〝壁〟は余りにも高いが、立ち竦んでなどいられないのである。


「今度こそ期待に応えたいと思います」


 気を引き締め直すキリサメとその養父の顔を交互に見比べたのち、何故だか電知は眉根を寄せつつ首を傾げた。親友の決意表明に水を差す無粋な少年ではないのだが、〝何か〟が引っ掛かってならない様子だ。


「岳のおっさん、ドナトなんちゃらってのは、どういう意味だよ? 前田光世大先生から何を継いで、それを誰に伝えたって? レオニダスに対抗心を燃やしてるからって、キリサメに柔術の歴史を誤解させるような与太話を吹き込むんじゃねーよ」


 電知が意味不明の四字を顔面に貼り付けたのは、『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』という人名とおぼしき言葉が岳の口から飛び出した直後である。写真にも残った前田光世コンデ・コマと同じ様式のじゅうどうを纏う少年は、を岳が脳内あたまのなかで捏ね繰った妄想と認識したようだ。


「オレもさっきから気になってたんだよ。日米のMMAを覚醒に導いてくれた例の一族を〝前田光世コンデ・コマ〟っつったか? 未だにに踊らされてるのは意外だったぜ」


 果たして、は先ほど岳が電知の説明はなしを遮った理由にも通じていた。

 『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』という名前を聞いても当該する人物まで辿り着けなかった様子の電知に対し、岳は如何にも拍子抜けといった表情かおで肩を竦めて見せた。


「一族の最長老兄弟が前田光世大先生の直弟子ってのは格闘技界の常識だろーが。スポーツ新聞のガセ情報ネタにでも騙されたのか? よりにもよって『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長サマが何やってんだか……。あんま息子キリサメにダセーとこ、見せんなよな」

「可哀相なおっさんを見る生暖かい目をやめろよ! オレがさっき言った『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』っつーのは前田光世コンデ・コマの孫弟子だ! コマから柔術指導を直々に認められた〝免許皆伝〟みてーな人だよ! 一族の最長老はその柔術家の教え子とも、兄弟弟子とも言われてんだ。ドナトの道場を引き継いでブラジリアン柔術を世界中に知らしめたのは勿論、最長老とのその一族だけどな」

「おっさん、マジで大丈夫か? 柔術最強の一門、前田光世大先生の直弟子でなきゃ説明つかねぇコトばかりだぜ? サッカーワールドカップの翌年に最長老とむらまさひこ大先生がマラカナンスタジアムで繰り広げた大決闘、『ユアセルフ銀幕』に動画ビデオだって投稿アップロードされてらァ」

「一九五一年の決闘を持ち出されなくても、あの一族の強さは誰よりも知ってらァ! ブラジリアン柔術の振興も、MMA誕生への貢献も、幾ら感謝したって足りねェぜ!」

「なのに前田光世大先生のであることを〝誇り〟にしている一族の歴史だけは頑なに認めねぇってか? 幾ら何でも無粋の極みだぞ、岳のおっさん」

「オレだって根拠もナシにこんなコトは言わねェって! 大昔、『新鬼道プロレス』に所属していたブラジル出身のレスラーから教わったんだよ! ブラジリアン柔術の達人からなァ! ……正確には鬼貫の兄ィ経由でその話を聞いたんだけど」

「根拠は又聞きかよ⁉ それをアタマから信じてこのザマかよ⁉ 一族の最長老を興行イベントに招いたり、前身団体バイオスピリッツの頃から世話になりまくっておいて、恩知らずも良いトコだぜ!」

「だ、大体よォ、ブラジルに柔術を伝えた日本人は前田光世コンデ・コマだけじゃねぇし! こうどうかん最強ともウワサされるとくさんぽうが撃沈した〝ブラジル艦隊〟はお前、どう説明するんだよ⁉」

とくさんぽう大先生が返り討ちにした道場破りは〝ブラジリアン柔術家〟じゃなくて、〝日本の古流柔術を学んだブラジル人水兵〟だろ~が! 似てるようで全ッ然似てねぇよ! しかも、それ、前田光世大先生のブラジル到着前の武勇伝だろっ!」


 である先駆者の一族が前田光世コンデ・コマより授けられた教えに基づき、ブラジリアン柔術を完成させた――これがキリサメの理解であったが、双方の主張に耳を傾けていると、黎明期の内情は脳内あたまのなかで〝伝説〟の系譜が一直線に繋がらなくなるほど複雑であったようだ。


「歴史好きはとやらが火種になって揉めるからねぇ。サメちゃんも迂闊に近寄らないようにね。特に一流派の〝正統〟争いは裁判になる程度には厄介だよ」

「仮にも養子むすことしては、岳氏の子どもじみた意地っ張りは捨て置けないけどな……」


 寅之助にも言い争う養父と親友から離れるように促されてしまったが、双方とも己が信頼する根拠に基づいてブラジリアン柔術の歴史を紐解いている為、出口すら見えないまま平行線を辿ることは必至である。

 電知は旧来からの通説を、岳はとは異なる切り口をぶつけ合っているのだが、学術的検証ではなく感情が先行している状態では、を判別できるはずもない。


(……タファレル氏の事情は分からないけど、〝直系〟の道場で学んできた柔術家が後になって岳氏の言う人物を知ったら、〝何〟を思うのだろうな)


 岳から聞かされた説明はなしによれば、レオニダス・ドス・サントス・タファレルは前田光世コンデ・コマの〝直系〟の道場アカデミアでブラジリアン柔術を体得したという。それはつまり、〝通説〟にけるの一族の〝系譜〟ということだ。

 ブラジリアン柔術の〝系譜〟は本国でも様々な憶測と議論を呼んでいることであろう。

 前田光世コンデ・コマの〝直系〟を継ぐ先駆者一族に対する『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』という存在を『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターはどのように受け止めているのか――瞬間的に浮かんだその疑問は、レオニダス・ドス・サントス・タファレルの人格と向き合う上で極めて大きな意味を持つのだが、そのようなことなど知る由もないキリサメの意識は、既にブラジリアン柔術とも関わりのない人物へと移っている。

 幾度か目の前を通り過ぎていった〝系譜〟という二字が前田光世コンデ・コマの功績と結び付き、姫若子にも関わる〝一つの名前〟を記憶の水底から引き揚げたのである。


「海を渡って新しい格闘技を生み出す礎になるなんて、体験会ワークショップのときに姫若子氏に聞かせて頂いた『ミトセ』みたいですよね、前田光世コンデ・コマは――」


 それは姫若子の修めたジークンドーが〝仮想敵〟と想定している近代総合格闘技術――『アメリカン拳法』の祖ともいうべき武術家の名前である。

 日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させてアメリカ本土に伝えたのが発祥であることも、キリサメは『ミトセ』という名前と共に姫和子から教わったのだ。

 その姫若子に向かって話しかけたキリサメは、互いの眉間を擦り合わせながら己の主張を譲ろうとしない電知と岳の存在ことなど眼中に入れていなかった。『ミトセ』という名前を耳にした二人が殆ど同時に過剰反応を示したことにさえ気付いていない。


「ミ、ミトセだぁッ⁉」


 ブラジリアン柔術の〝系譜〟を巡って大人おとななく言い争っていた二人は揃って素っ頓狂な声を上げ、電話を終えて戻ってきた麦泉を驚かせるのだった。



                     *



 潮の香りと共に古都の余韻が吹きつけてくるかのような鎌倉の海岸線を空閑電知と瀬古谷寅之助、そして、キリサメ・アマカザリの三人が心地よさそうに駆けていた。

 出稽古先の姫若子宅から海沿いの道路へランニングに出掛けた三人は、はまを抜けると江の島を折り返し地点にしていなむらさきまで辿り着き、そこで休憩を取ることにした。

 本来の予定では模擬戦スパーリングを続けるつもりであったのだが、キリサメが『ミトセ』の名前を口にした瞬間から岳と姫若子の間に奇妙な空気が垂れ込めた為、厄介事に巻き込まれないようロードワークの名目で逃れてきた次第である。

 先導するようにして水平線を望む場所まで走った電知は「岳のおっさんのでトンズラするの、これで何度目だよ」と苦笑したものだ。すがだいら合宿でも似たようなことがあり、その際にも入れ替わりでやって来た麦泉に後を託して離脱したのだった。

 穏やかならざる電話連絡を受けたのか、麦泉は良いニュースと悪いニュースを同時に聞かされたような表情かおであったが、岳とひめを宥める役は問題なくこなすことであろう。

 稲村ガ崎は岬の上に展望台があり、長い階段を登り切ると果てしない太平洋を背にする鎌倉の風光を味わうことができる。風景画などを趣味とするキリサメは、スケッチブックを持参していないことを悔やんだくらいである。

 高台である為か、平地より風を強く感じられ、火照った身体に心地良い。キリサメも水平線の彼方を眺めながら肺一杯に潮の香りを吸い込んだ。ランニングの邪魔になるので出発前に一本残らず外してしまったが、今も帯を締めたままであったなら、岳の陣羽織のように音を立ててなびいたことであろう。

 展望台の東屋に設えられたベンチへと腰掛け、じゅうどうの袖で汗を拭った電知は「ここいらも古戦場なんだぜ」とおもむろに語り始めた。


「鎌倉幕府が滅ぼされたいくさでは、猛将・にっよしさだがこの辺りから突撃してったんだよ」


 電知が語ったにっよしさだはペルー出身うまれのキリサメには聞きおぼえもないが、日本史の概略あらましは亡き母親の私塾で習っており、かまくらばくが攻め滅ぼされたことも授業内容に含まれていたはずだ。それでも、何処の誰が鎌倉を火の海に変えたのかは初耳であった。

 日本が中世へ突き進んでいく過渡期にいて、へいおうしゅうふじわらなど敵対勢力を次々と滅ぼしたみなもとのよりともが開き、彼の没後に朝廷との間で勃発した『じょうきゅうの乱』に勝利したことで全国支配を確立させた鎌倉幕府――だいてんのうによる討幕運動が結実するまで一世紀半に亘って日本を治めた最初の武家政権だ。

 俗に『もうしゅうらい』と呼ばれる〝対外戦争〟をも戦い抜いた猛き武士もののふたちの夢の跡は、鎌倉市内に点在する遺構ばかりでなく、その面影を海にも見出すことができる。三方を山で囲まれ、きりどおし防御まもりも固く、更には海にも面した鎌倉は天然の要害という呼び名こそ相応しい地形であり、中世には難攻不落とうたわれていた。

 尤も、潮風を目当てに古都を訪れる者の殆どは、己の足で踏み締めるこの〝場〟が数世紀の昔に修羅の巷と化したことなど、キリサメと同じように夢想だにしないだろう。

 中世から現代へと移ろい、煌めくような波が打ち寄せる鎌倉の海は、六月最後の日曜日の昼下がりということもあり、波乗りを満喫するサーファーたちに埋め尽くされていた。

 浜辺からやや離れた位置に目を転じると、セイルボードの帆が横に連なって壁を作っているようであった。


「鎌倉幕府だってバカの寄せ集めじゃねぇからよ、討幕軍が攻め寄せてきたときには海一面に軍船を並べて警戒していたんだけどな。そこは日本史の不思議っつーか、にっよしさだが祈りを込めて太刀を海へ投げ入れた途端に干潮になったそうだよ」

「モーセの十戒みたいな話だな……」

「奇跡ってのはあるもんだよな。潮が引いたら岬沿いに鎌倉市街まで続く道が開けたって言うんだからよ。にっ軍はそこから侵入していって、ほうじょうを追い詰めたんだよ。説明がややこしくなるから大幅に割愛すっけど、『ほうじょう』は鎌倉幕府の元締めみたいな存在だと思ってくれ。そんでもって、よしさだが海に道を開いたのが稲村ガ崎っつーワケだ」


 転落防止用の柵から少しばかり身を乗り出した電知は、海に向かって大きく迫り出している崖の辺りを指さしながら、「きっと、あの辺りに道ができたんだよ。そこをにっよしさだは駆け抜けたんだ」と〝鎌倉攻め〟の解説を付け加えた。


「迎え撃つ側が予想もしていない一点を突いたということか。干上がると浜辺に道が出現することを事前に調べておいて、潮の満ち引きを読んだのかも知れないな」

「サメちゃんってば、関ヶ原決戦の布陣図から勝敗を読み解いたメッケルみたいじゃん。あっ、コレ後世の創作だっけ。ファンタジー顔負けの逸話は誇張を引き剥がさないと実態が掴めないもんだよ。鎌倉は難攻不落って通説もアヤしいみたいだしねぇ~」

「敵の侵入を四方から妨げるということは、一旦、懐深くまで攻め込まれたら、立て籠もる側が袋の鼠になり兼ねないという意味でもあるよな。それはそれで防御まもりの欠陥か」

マンの分からねぇヤツらは粋じゃねぇなァ~」


 これ見よがしにし口で肩を竦めた電知は、次いで展望台への登り口付近に立つ石碑を指さした。キリサメは気付かなかったのだが、そこには『新田義貞徒歩傳説地』と刻まれている。つまりはこの場所こそが電知の言う〝マン〟の出発点というわけだ。


「正忠サンがりたがってるアメリカン拳法の起源ルーツも、その鎌倉時代にあるんだってさ」

「……時代が合わなくないか? 僕は日本史に明るくないけど、鎌倉幕府と日系移民に数世紀の隔たりがあるコトくらいは理解わかるつもりだよ」

「正忠サンにどこまで聞いたか知らねぇけど、アメリカン拳法の祖と伝わる『ミトセ』は御先祖が日本人でよ。『よし』の一族って言ったかな――ともかく、鎌倉時代に編み出された古武術の継承者らしいんだよ。が海に渡ってブラジリアン柔術にとっての前田光世大先生みてェな存在になったっつーんだから、歴史のマンだよなぁ」


 そこまで聞いてキリサメは電知がにっよしさだの逸話を持ち出した理由を悟った。

 鎌倉を攻め落とした武将と同じ時代を起源ルーツとする『ミトセ』を紐解く為、幕府滅亡の顛末にちなんだ稲村ガ崎の伝説を取っ掛かりに代えたわけである。


「……岳氏の様子もおかしかったし、あの場で『ミトセ』という名前を出したのはやっぱり良くなかったのかも知れないな。まさか、禁句だとは……」

「岳のおっさんが過剰反応した理由は分かんねーけど、正忠サン的にはアメリカン拳法の手掛かりを探りたくてお前に『ミトセ』の話をしただけだと思うぜ。気にすんなって」


 東屋を出て落下防止の柵まで歩み寄った電知は、キリサメと寅之助が両隣に並ぶのを確かめてから鎌倉の海へと視線を移した。

 サーファーたちの笑い声が聞こえてくる水平線ではなく、もっと遠くの〝何か〟を見るような眼差しであった。


「……神通の――哀川のオヤさんの話、……聞いたか?」


 最寄りの高校のバスケットボール部とおぼしき一団が歩道を走り抜けていく。東屋の真下から威勢の良い掛け声が駆け上がってくるまで逡巡したのち、電知が切り出したのは意外としか表しようのない話であった。

 なんぼくちょう動乱の時代にかっせんで生まれたとされる古武術『しょうおうりゅう』――しょうとくたいの異称とされる『ひじりのきみ』を冠した〝戦場武術〟の宗家について語ろうとしているわけだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体とも因縁が深い〝武闘派ヤクザ〟の実働部隊を率いたとされるあいかわは、『しょうおうりゅう』の――若くして古武術流派の宗家となった神通の亡き父親とも言い換えられる。

 歴史学者でもあったともいう『しょうおうりゅう』のが迎えた最期を承知しているか――親友からたずねられたキリサメは、油が切れたブリキ細工のようにぎこちなく頷き返した。


「……る拳法家との他流試合の末に亡くなったことは聞いたけど、……まさか――」

「そのまさかってヤツ。哀川のオヤさんをもつさかに送ったのがのミトセなんだ」


 何事にも無感情なキリサメもこれには双眸を見開き、小さな呻き声を洩らした後には全く言葉を失った。

 宗家継承の経緯いきさつは神通本人から教わったが、先代ちちおやを死に至らしめた相手のことまでは聞いていない。彼女もは意図的に伏せたように思えた。

 だからこそ、哀川神通と『ミトセ』が一本の線で繋がった衝撃にキリサメは打ちのめされたのである。今、この瞬間まで想像すらしなかった筋運びなのだ。

 実父ちちの最期を神通が明かしていった場にも居合わせた寅之助のほうへと電知の頭越しに視線を巡らせたキリサメは、そこに珍しく目を丸くして大口を開け広げる顔を見つけた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』とも関わりがある寅之助も『しょうおうりゅう』の先代が他流試合を原因として絶命したことは把握していた。しかし、その果てに法に則って人殺しの罪を償うことになった相手の正体は全くの初耳であったようだ。

 その哀川斗獅矢が『局長』なる肩書きで束ねたとされる〝武闘集団〟について、寅之助は指定暴力団ヤクザの傘下という危険性リスクにも怯まず調べたことがあった。呆けたような表情かおを見る限り、その折にも『ミトセ』の名前は確認できなかったのであろう。


「姫若子氏は『ミトセ』のことを神通氏に――」


 ジークンドーが〝仮想敵〟として姫若子正忠が捜し求めているのはアメリカン拳法であって、その祖に当たる『ミトセ』ではないようだが、『E・Gイラプション・ゲーム』の〝同僚〟が父の仇と接触する可能性が高いと知れば、神通も心穏やかではいられまい。

 共に殺傷ひとごろしすべを身に宿した〝共鳴〟によって己の〝半身〟の如く感じている神通と、格闘技とを兼業する〝先輩〟としても背中を追い掛けたいと思っている姫若子――その双方と親しくなったキリサメにとって、『ミトセ』ひいてはアメリカン拳法を巡って対立し合う姿など想像したくもないものであった。


「――話しちゃねぇと思うぜ。おれだって『ミトセ』のことは偶然知ったくらいだもん。ブラジリアン柔術と前田光世大先生の話をしたときに、正忠サンのほうから似たような人物がいるって切り出してきてな。丁度、さっきのキリサメと同じ流れだったよ」

「その場に神通氏は……?」

「一緒だったら、きっとキリサメが心配しているような事態に陥ってたと思うぜ? 今のところは取り越し苦労だって安心しとけよ。……哀川だって『ミトセ』との因縁はごく限られた人間にしか喋ってねぇと思うぜ。ペラペラ話すような内容モンでもねぇし」


 電知の言う通りであった。双方とも納得の上で執り行われた他流試合――〝死合〟の結果とはいえども、何しろ哀川家の運命を狂わせた発端とも呼ぶべき存在である。忌むべき名を軽々しく口に出来ようはずもあるまい。

 宗家継承の経緯いきさつを語ったときも神通は『ミトセ』の名前までは明かさず、〝拳法家〟と述べるに留めていたのだ。

 姫若子のほうもアメリカン拳法との接点があるとも思えない神通の前で、わざわざ『ミトセ』の名前など口にしないだろう。「お前がそんなに心配性だったなんて知らなかったぜ」と愉しそうに笑う親友にもキリサメは言い返せなかった。


「さっきからず~っと考えているのに一向に分からないんだけど、どうして電ちゃんは哀川さんと『ミトセ』とやらのハナシを知っているんだい? ボク、名前の一文字だって聞いたおぼえがないよ。何なの? あの人、相手によって付き合い方を変えるタイプ?」

おめーは人に付き合い方を考え直されるような生き方を振り返るのが先だろうが!」

「それでも離れずにいてくれる電ちゃんと照ちゃんが好きだよ。ついでにサメちゃんも」

「このバカは勿論、他の連中もどうだか分からねーけど、おれとかみしもしき、それには哀川本人から教わったんだよ。あいつのオヤさんと『ミトセ』の宿命ってヤツをな。何だかんだ言って、おれら三人、コイツより遥かに哀川との付き合いが深いしよ」


 訳知り顔で他人ひとを揶揄し、腹を立てた様子を眺めて愉悦に浸ることを趣味としている寅之助が今日は蚊帳の外に置かれているのだ。それが気に障って仕方がないらしく、「二重の意味でヤキモチだよ」と子どものように頬を膨らませていた。

 友人である哀川神通のちちおやの死に関わることだけに、かみしもしきてるは寅之助の前でさえ『ミトセ』のことは一度も話さなかったわけだ。その口の堅さから彼女に対する信頼を更に強めるキリサメであったが、一方で電知が他意もなく口にした「付き合いが長い」という一言が小さな棘の如く心に突き刺さっている。

 言葉を交わすようになって間もない自分と『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間を比べれば、後者のほうが神通との絆が深いのは当たり前ではないか――そのように言い聞かせてみても、心の奥で疼く悔しさをキリサメはどうにも振り払えなかった。


(……でも、僕は神通氏と名前で呼び合っているし、それにあの純白のフンドシだって――)


 神通のスカートがめくれた瞬間に目撃し、網膜に焼き付いて消えないフンドシの記憶を親友への対抗心で思い浮かべてしまった邪な自分が余りにも情けなく、キリサメは展望台から飛び降りたくてならなかった。

 未稲と男友達デザート・フォックスの関係に攻撃的な感情すら抱いておきながら、『E・Gイラプション・ゲーム』の構成員メンバーが自分より神通と親しく交わっていることも面白くない――二股などはの極みと亡き母にも釘を刺されてきたというのに、このままでは醜聞スキャンダルと不誠実がからを着て歩いているようなきょういししゃもんまで堕ちてしまうだろう。

 亡き母が夜な夜な枕元に立ち、「こんなクソ野郎に育てたおぼえはない」と、平手打ちビンタやバックドロップを交えながら実子むすこの不道徳を詰り続けるかも知れない。


「いずれにしても、正忠サンがアメリカン拳法を探ってることは哀川にゃ黙っといたほうが良いと思うぜ。……せめて、『ミトセ』の名前は出さないでおけよ。まァ、っといても哀川のほうからお前に告白してくると思うけどな」

「こ、告白……⁉」

「何しろお前に惚れ込んでるからなぁ、哀川のヤツ。『E・Gおれら』が他所の地下格闘技アンダーグラウンド団体と対抗戦でぶつかる次の興行イベントの打ち合わせで久々に顔を見たんだけどよ、そのときだって延々とキリサメの話を聞かされたんだぜ」

「そんなこと、あるわけが……! じょ、冗談……だよな? 冗談じゃ……ない?」

「哀川のヤツ、自分の口で伝えたいハズだぜ? 『ミトセ』のコトをな。おれやとか、『天叢雲おめーら』の岩手興行に行けなかった留守番の面々にキリサメの初陣プロデビューで味わった昂奮を何回も熱弁してくれたもんよ。それに関しちゃくろ河内こうちのおっさんも一緒おなじだったけどよ」

「……え? あっ? ああ……、そ、での告白か……」

「お前がで告白って言葉を勘違いしたのかは聞かねェでおいてやるけど、未稲にバレて自宅いえを叩き出されたら、おれんトコに転がり込んでくれて構わないぜ」

「そ、それこそ電知の勘違いだよ。僕と神通氏は別にそういう間柄じゃなくて……ッ!」

「キリサメもそんな風に慌てるんだな。こんなに面白ェ新発見はないぜ。喧嘩は負けナシでも年上のお姉さんには弱いってか~?」

「……とちない氏に会ったとき、今日のことを報告してやるからおぼえておけよ」

「しまった! そういう反撃が来るのを忘れてたぜっ!」


 両頬が火照るほどに狼狽させられたキリサメは、「普段の無表情はどこへやら」と冷やかすようにして大笑いする電知と互いの胸を小突き合った。

 照れ隠しのつもりなのか、電知当人は頑として認めないが、キリサメが名を挙げたとちないこま以前かつての交際相手であるという。

 ストリートミュージシャンのとちないと『八雲道場』も不思議な成り行きから接点を持つことになり、友人である未稲の仲介によってキリサメの応援歌を依頼していた。次なる熊本興行までに完成する約束となっており、七月には試作版が披露される予定であった。

 一〇代の少年らしいじゃれ合いであるが、依然として不貞腐れている寅之助はこれに加わらず、口を窄めたまま二人に背を向けるような恰好で砂浜を見下ろしていた。

 青空から燦々と降り注ぐ陽の光を鏡の如く反射するを寅之助が発見したのは、まさしくその瞬間のことであった。


「ご覧よ、サメちゃん。あれがキミの未来の姿だよ」

「……そんなことは有り得ないと言い返せない自分が辛いな……」


 寅之助の魂に根を張った〝闇〟を何よりも身近な戒めに換え、己のなかるモノを律するようキリサメはかかりつけ医のやぶそういちろうから諭されていた。他人ひとの心を踏み躙ることに愉悦を見出す歪んだ享楽家であり、たびたび騒動トラブルの原因となっている危険人物を身辺警護ボディーガードとして雇い続ける理由とも言い換えられるだろう。

 本来の意味とは些か異なるものの、藪総一郎の訓戒が現在いまのキリサメには一等重くし掛かっている。何しろその寅之助が指し示した人物を快楽を貪る堕落の象徴と捉え、未稲と神通の間で揺れ動く己の不道徳と照らし合わせたばかりなのだ。

 三人の少年が視線を巡らせた先では、シルバーグレーの背広を羽織って歩く醜聞スキャンダルと不誠実の塊――きょういししゃもんがサーファーとおぼしき女性を波打ち際で口説こうとしていた。

 平手打ちの乾いた音が鎌倉の青空を切り裂くのは、それから間もなくのことである。




 ほんの小一時間前にきょういし沙門を罵る怒号が轟いた稲村ガ崎の砂浜を現在は四者四様のはつらつとした吐息と、これを取り囲んで見物する人々の歓声が埋め尽くしていた。拳が肉をつ音や竹刀が風を切る音もには混じっている。

 猛き白虎とらの如く瞬く間に懐深くまで飛び込んで『コンデ・コマ式の柔道』の技を仕掛ける空閑電知と、〝現代剣道〟の規則では認められない打撃――幼馴染みと同種の〝あて〟である――を併用して竹刀をふるう瀬古谷寅之助に加えて、『くうかん』道場にける日本選手権三連覇を成し遂げ、〝日本最強の空手家〟との呼び声が高いきょういし沙門も、シルバーグレーのスラックスに海水交じりの砂を纏わせながら〝サバキ〟の妙技を披露している。

 〝幻の鳥ケツァール〟を彷彿とさせる尾羽根こそ装着していないものの、鎌倉の空を翔けて柔剣道と空手という三種の〝日本武道〟を振り回すのは、キリサメ・アマカザリであった。

 下心を見透かされてサーファーの女性を昼食へ誘うことに失敗し、返答代わりの平手打ちで両頬を腫らす羽目になった沙門と合流したキリサメたち三人は、彼の憂さ晴らしに付き合うことになり、浜辺の砂を荒々しく巻き上げながら風変わりな模擬戦スパーリングに興じていた。

 波によってさらわれる心配のない場所に四足の靴が揃って並んでいる。素足の四人が全員で入り乱れて技を掛け合っていく疑似的な複数同時対戦バトルロイヤルというわけだ。


「友達になりたいとは一ミリも思わないけど、ばっかりは〝空手屋〟に感謝かな~。電ちゃんってばイケズして全然ボクのをしてくれないんだもん」

おめーと真っ向からり合うと、どうしたって本気マジにならざるを得ねーし、周囲まわりに迷惑掛けたかねェんだよ。いざとなったら誰かが止めてくれる複数同時対戦バトルロイヤルくらいで丁度良いぜ」


 縦一文字に閃いた寅之助の竹刀を内から外へと振り抜く左裏拳で弾き、すかさず彼の懐まで飛び込んだ電知は、対の右拳を直線的に突き出した。

 鳩尾を抉らんとするあてであることを即座に見抜いた寅之助は、両腕を急速に引き戻しながら半歩ばかり飛び退すさり、一連の動作うごきの中で竹刀を再び垂直に落とした。

 今度は四ツ割の竹片を組んだ刀身で脳天を打とうとしたのではない。今まさに己の身に喰らい付こうとする電知の右拳を鹿革で覆われているツカ尻で叩き落としたのである。

 寅之助が左手一本でツカを握り、竹の刀身に対の右手を添え、力任せにを押し込もうとすると、電知は両下腕を交差させ、水牛革のまるつばの辺りで打突こうげきの勢いを押し止めた。

 寅之助が真剣カタナを握っていたなら、電知の眉間を刃が掠め、キリサメと路上戦ストリートファイトを繰り広げた痕跡――虎の縞模様を彷彿とさせるじゅうどうのドス黒い染みが数を増したことであろう。

 じゅうどうを纏いながらあてを放つなど、では考えられない攻防である。そもそも柔剣道による〝異種格闘技戦〟自体が〝現代の常識〟では成立しがたい。前田光世コンデ・コマが一〇〇〇回に及ぶ〝他流試合〟の中で完成させた技と、森寅雄タイガー・モリの〝直系〟として受け継がれてきた技――〝古い時代〟の柔剣道が鎌倉の空の下で交錯していた。

 この場の誰よりも小柄な電知に対し、寅之助は痩せ気味の長身である。体格差だけならば前者には競り勝てまいが、両足を砂浜にめり込ませた後者は一歩も下がらなくなった。

 これを見て取った寅之助は互いの片足をからめ、電知を横転させようと試みたが、後者の迎撃は足払いの動作うごき開始はじまるより早く前者を捉えていた。竹刀による打突こうげきを制するようにして寅之助の左手首を掴み返し、対の五指をもけんどうの襟に伸ばしたのだ。

 反対に足首を刈り、寅之助を投げ落とすという反撃であるが、完成の寸前で真横からキリサメが飛び込んできた為、攻守両方が体勢を崩してしまった。


イチバン面白くなってきた直後にブチ壊しにしてくれるなんて、サメちゃんも人が悪いよ。後でたぁ~っぷり報復おかえししてあげるからね。海水でこれでもかと首を洗っておきなよ~」

「おい、空手屋! おれの親友、ればるほどワクワクするだろ⁉」

「八雲岳ときょういしともがついに実現させられなかったドリームマッチを二人の息子が叶えたんだぜ? 今日のメモリアルを親父に聞かせたら、ジェラシーで首を絞められるよ」


 背広の裾をめくり上げながらキリサメを追い掛けるのは、言わずもがな沙門である。

 先にキリサメと拳を交えていた沙門は、彼の身を防御ガードの上から右の後ろ回し蹴りでね飛ばしたのだ。自らが引き出した歓声をも轟然と薙ぎ払っている。

 砂浜を蹴り付けた瞬間はキリサメに追い撃ちを仕掛けるつもりであったのだが、どう姿の二人が視界に入ると即座に標的を変えた。

 キリサメの瞳に宿った力を視認し得る距離まで迫った沙門は、足を入れ替えつつ左右の前回し蹴りを繰り出したが、彼の肋骨を両方から脅かすのが目的ねらいではない。蹴り足はキリサメの鼻先をすり抜け、その近くに立つ電知と寅之助にそれぞれ一撃を見舞った。

 尤も、二人の武道家は〝空手屋〟の長い足でさえ届かない位置まで飛び退すさり、直撃を被ることはなかった。仮に命中したとしても、大きな痛手ダメージにはならなかったであろう。先に後ろ回し蹴りを打ち込まれたキリサメも、防御ガードに用いた腕の骨にヒビ一つ入っていない。

 命中の寸前で攻撃を止めるか、あるいは相手に負傷させない程度に力を抑える〝セミコンタクト〟の約束で執り行われる複数同時対戦バトルロイヤルなのだ。

 毛の一本一本が螺旋を描いた巻き髪を沙門が掻き上げると、その毛先から真珠のような汗が飛び散った。先程は醜態を晒したものの、やや厚めの唇から吐息を零しただけで艶が生み出される青年おとこだ。光の粒子を帯びるかのような姿にたちまち黄色い声が上がった。

 平素いつもであれば片目を瞑って応じたことであろうが、現在いまはキリサメただ一人に意識を集中させ、正面切って仕掛けられた打ち下ろしのパンチを油断なく迎え撃っている。

 肩と肘のバネを引き出すことによって勢いを付け、握り締めた指と掌底を同時に叩き込むというキリサメの得意技であるが、直撃の瞬間にスナップを効かせるはずの手首へと精確にしゅとうを打ち込み、技の勢いと破壊力を軽やかに受け流すのだった。


(結局、俺はどうしようもなく空手家なんだな。でも空手がポリッシュアップされるコトがバーニングで仕方ないんだからよ)


 巧みに着地するキリサメを双眸で追い掛けつつ、『コンデ・コマ式の柔道』のあてと、『タイガー・モリ式の剣道』のとつを警戒して後方に飛び退すさった沙門は、黒いもやの如く心に垂れ込める気鬱の底にて空手家としての在り方を自問していた。

 北米アメリカ最大のMMA団体『NSB』が開催した興行イベントいて、惨劇としか表しようのない〝テロ事件〟が起きたのは先週末である。

 地上に存在する全ての格闘技を人権侵害とし、根絶を訴える過激思想活動『ウォースパイト運動』が絡んだ事件であるが、凶行に及んだ全員テロリストが『くうかん』ニューヨーク支部の門下生であったことから『NSB』に関与すらしていない沙門に対して、裏で糸を引く黒幕の嫌疑が掛かってしまったのだ。

 〝武道留学〟の最中に沙門はニューヨーク支部に滞在し、ここを拠点としてアメリカ各地の格闘家や武術家を訪ねていた。当然ながら同支部在籍の空手家たちとも稽古を共にしており、親しく交わる中でテロ事件を起こした犯人グループに思想面で大きな影響を与えたのではないかと、疑われ始めた次第である。

 世界のMMAを牽引する最大団体でありながら、興行イベント全体を巻き込むテロを予防できなかった『NSB』への裁定を担当するネバダ州体育委員会アスレチックコミッションは、『くうかん』最高師範の実子むすこが日本にいて強硬路線の組織改革に狂奔していることも既に把握していた。

 全容究明の為、体育委員会アスレチックコミッションは捜査機関とは別に事件関係者の意見を聴き取る〝公聴会〟の実施を決定したが、沙門までもがとして招致されてしまったのだ。

 支部道場で既得権益を貪る人々から恨みを買う強硬策を弄してでも、〝次〟の世代により良い練習環境を約束するべく闘ってきた沙門からすれば甚だ心外であった。

 支配的な上下関係や理不尽な体罰といった古い悪習を改め、空手の未来を切り開かんとする挑戦を『ウォースパイト運動』の過激思想と結び付けられた挙げ句、テロの扇動者の如く報じられたことには法的措置で反撃するくらい腹を立てている。

 沙門個人ひとりの名誉が毀損されるだけでは済まないのだ。行政機関である体育委員会アスレチックコミッションがMMA団体の活動を法律で規制するような裁定を下した場合、世界規模で同競技MMAに善からぬ影響が及ぶであろう。それは格闘技自体をテロ事件の火種と認めることにも等しく、『くうかん』の組織改革までもが連鎖的に頓挫し兼ねないのである。

 顔も声も忘れがたいニューヨークの同門は空手の未来を呪縛する足枷と化していた。それにも関わらず、連夜に亘って夢に出現あらわれ、凶事テロを義挙として認めるよう迫ってくるのだ。

 誰の目にも明らかなほど気力が消耗している〝空手屋〟を心配した〝柔道屋〟が「痛くもない腹を探られる鬱憤は汗に流して発散しよう」と提案した次第であった。

 無論、気軽な遊戯あそびなどではない。気を緩めると先程のように予期しない接触が起こり、負傷しない程度の攻撃セミコンタクトという大前提が吹き飛んでしまうを招き兼ねないのである。


「今日のサメちゃん、顔に砂をぶっ掛けて視界を封じる真似は控えているんだねぇ。砂浜なんだから、先月このあいだの〝げきけんこうぎょう〟以上にやりたい放題できるでしょ。勿体ないよ~」

「これは練習トレーニングだ。そもそもMMAに限らず、目潰し行為は〝格闘競技〟全般で禁じられている。なんでもアリバーリトゥード形式の『E・Gイラプション・ゲーム』でさえ許可されないと聞いているぞ」

「ボクなんかウズウズしてるよ? 最初の取り決めをブッちぎりたくってさぁ~」

「キリサメとるのは最高にワクワクすっけど、くだらねーコトを企んでコレをブチ壊してくれやがったら、マジで絶交を覚悟しやがれよ、寅ァッ!」


 正面から対峙したキリサメの右脇腹に狙いを定め、寅之助は外から内へと竹刀を振り抜こうとしたが、半歩ばかり踏み込んだところで両者ふたりの間に電知が割り込んできた。

 竹刀が水平の軌道を描く先に意図せずして立ってしまったような恰好である。相対する沙門が繰り出してきた前蹴りに対し、その踵を掴み返そうと試みている様子であったが、寅之助からすれば、自身の横薙ぎが幼馴染みの両目を直撃し兼ねない事態なのだ。

 「このまま打ち込んだら、キレた電ちゃんが本気でボクを殺しに来てくれるかな」という欲望を危うく堪え、今まさに振り抜かんとする寸前で竹刀を引き戻した寅之助は、左手一本でツカを握り直しながら狙いを変えた。

 傍目にはキリサメの脳天目掛けて縦一文字を放つ構えと見て取れたことであろう。正面のキリサメに向かって踏み込んでいったのだ。しかし、四ツ割の竹片を組んだ刀身は斜めの軌道を描き、電知の頭部をすり抜けて沙門に襲い掛かった。

 完全な不意打ちである。やや前傾姿勢になるほど左腕を大きく突き出し、互いの吐息が聞き取れない程度に離れた位置で電知と闘っていた沙門まで竹刀を届かせたのだ。

 性悪の二字が紺色のどうを着て歩いているような〝剣道屋〟の竹刀が己の頭部あたまを狙っていると見極めた沙門は、半身を開くことによって振り下ろされたかわすと、不意打ちを仕掛けてきた相手に側面を晒した状態から反撃に転じた。

 少しばかり姿勢を傾けながら左足一本を突き出し、小指とかかと中間あいだの側面を刃に見立てて寅之助の顎を脅かそうというわけだ。

 竹の刀身と交差するような恰好で放たれたそくとう蹴りを軽く首を横に振って避け切った寅之助は、更なる追い撃ちを警戒して飛び退すさるどころか、竹刀を引き戻しながら一等深く踏み込み、沙門の鳩尾に左の肘打ちを突き立てようと試みた。

 左半身を開く状態でそくとう蹴りを放った沙門もこれに応じ、同じ側の肘を突き出しながら寅之助にぶつかっていく――最後には互いの肘を重ね合う格好となった〝剣道屋〟と〝空手屋〟は、腕全体に伝達つたう鈍痛を噛み締めた。


「大叔父が警視庁に所属たから〝警察剣道〟も少しは知っているが、足払いや投げ技なんてレベルじゃないな、。こんなにヒットがハードなエルボー、……ベイカー以来だ」


 沙門が不意に洩らしてしまった名前を揶揄せず自重した寅之助は、左肘打ちの体勢を維持しながら竹刀を水平に構え直している。双方の力がし合う〝一点〟が僅かでも外れた瞬間、外から内へと閃く横薙ぎが沙門の左脇腹を抉ることであろう。

 不必要なまばたきでさえ敗因に繋がってしまう鍔迫り合いにも等しい状況が続く二人の背後には、何時の間にかキリサメと電知が回り込んでいた。

 尤も、こちらは寅之助のように先程まで対峙していた相手に死角から奇襲しようというわけではない。姫若子宅にける模擬戦スパーリングの延長の如く打撃の応酬を繰り広げていた。

 両手両足を絶え間なく繰り出しながらも、吐息だけで肉をつ音が伴わないのは、全ての攻撃を命中する寸前で止めている為だ。

 電知の身のこなしは数段はやく、親友キリサメを後から追い掛けてもが間に合っている。傍目には屈辱を刻んで心をし折っているかのように映ったかも知れないが、キリサメの思考あたまは嫉妬に狂うのではなく、この状況を最大限に利用する方向に働いている。

 命中しても大した痛手ダメージにならない浅い攻撃を先に仕掛け、そこに電知の意識を引き付けておいて、陽動フェイントと勘付かれるより早く深い踏み込みを伴う〝本命〟を仕掛けていく。

 親友の反応速度をも計算に入れた〝フェイント殺法〟だ。右足による前回し蹴りと、左足によるプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを組み合わせた瞬間など電知は目を輝かせた。

 一撃目によって起こされた風は電知の短い前髪を僅かに撫でるのみであったが、次に襲い掛かった後ろ回し蹴りソバットは鼻先を掠めたのだ。

 キリサメは蹴り足を入れ替えないまま〝軸〟を維持し、二撃目よりも更に鋭く全身を捻り込んで同じ後ろ回し蹴りソバットを重ねたが、今度は腰に締めた黒帯を揺らした。


「これまでの模擬戦スパーリングは寝技に対する防御が中心メインだったけど、これからは打撃でレオニダスを完封する練習も加えようぜ! 道場に通ってる成果を伸ばさないのは勿体ねェ!」


 この上なく嬉しそうな電知の笑い声は、そのままキリサメが遂げた成長の証である。

 激しい動作うごきの中で半歩ずつ間合いを調整し、迎え撃つ側の距離感を狂わせていた。ほんの僅かな差ではあるものの、それ故に相手からすれば読み切ることが難しいのだ。

 蹴り足と軸足を途中で入れ替え、更には狙いを定める部位をも変えながら組み立てていく複雑な連続攻撃にも関わらず、をキリサメは明確に使い分けている。

 今回は直接的な接触を抑えた練習トレーニングだが、『天叢雲アメノムラクモ』のリングでは一撃目で相手の防御と姿勢を同時に崩し、あかぞなえ人間カリガネイダーを経由して伝授された八雲岳とヴァルチャーマスクの〝伝家の宝刀〟で顎を精確に撃ち抜くはずだ。

 その二撃目を辛うじて凌いだとしても、遠心力を上乗せした追撃の後ろ回し蹴りソバットが脇腹に突き刺さり、数本の肋骨もろとも深い穴を穿たれることであろう。

 相対する組み合わせも、攻防の展開も、目まぐるしく入れ替わる複数同時対戦バトルロイヤルだった。

 は〝格闘競技スポーツ〟のリングでは感じる機会が絶無に等しい種類の昂奮である。浜辺の片隅の出来事でありながらも、稲村ガ崎に集った皆の注目を集めてしまうわけだ。

 興行イベントの地上波放送は〝格闘技バブル〟の終焉によって途絶えたまま復活していないが、異なる団体から同日にプロデビューを果たし、試合結果リザルトも好対照という二人の新人選手ルーキーを取り上げたスポーツ番組は多く、SNSソーシャルネットワークサービスによる情報の拡散も手伝って世間にける認知度は跳ね上がっていた。

 キリサメは人間という種を超えた異能ちからとも喧伝される『スーパイ・サーキット』、沙門は『ウォースパイト運動』のテロ行為に影響を与えたという疑惑――と、この二人は良くも悪くも報道価値ニュースバリューが高いのである。

 今まさに日本格闘技界を騒がせている最中の二人がリングから遠く離れた場所で拳を交えていれば、見物人の群れが横に広がって壁を作るのは必然であろう。その大半が許可も取らずに携帯電話をかざし、SNSソーシャルネットワークサービス投稿アップロードしようと内蔵カメラによる撮影に興じているのだが、キリサメも沙門もえて咎めようとはしなかった。

 これは所属団体を挟んだ〝代理戦争〟の如き路上戦ストリートファイトなどではなく練習トレーニングなのだ。特にキリサメは秋葉原の中心地で寅之助と繰り広げた〝げきけんこうぎょう〟のに始まり、SNSソーシャルネットワークサービスには口が裂けても愉快と言えない状況に幾度も追い込まれている。

 しかし、今度は心にやましいことなど一つもなく、レンズから逃れようとも思わない。キリサメは己と仲間の〝道〟へ胸を張るようにして複数同時対戦バトルロイヤルに臨んでいた。

 その一方で、には名前も顔も知られていない地下格闘技アンダーグラウンドの選手と、キリサメの身辺警護ボディーガードは、最初こそ誰も気に留めていなかったのだが、〝プロ〟の格闘家と互角に渡り合う勇姿への歓声は次第に増えていき、複数同時対戦バトルロイヤルの簡易的な実況が行われている短文つぶやき形式のSNSソーシャルネットワークサービスでは、本人たちの与り知らないところで話題となっていた。


「密かにアマカザリと城渡さんの試合、コネを使ってビデオをゲットしたんだけどさ、実況のマダムが『ガンギマリ』ってコメントしていた頃、……実はかなりデンジャラスなコンディションだったんだろう? ピンチという意味じゃなく、ブチギレのベクトルで」


 砂浜に足をめり込ませながらキリサメと互いの両手を組み合い、涼しげな顔立ちには不似合いとさえ思える力比べを始めた沙門は、逡巡の溜め息を挟んだのち、汗が噴き出す瞬間すら見て取れる至近距離に立った彼に初陣プロデビューの顛末をたずねた。

 控えめな声で沙門が切り出したのは、大きく見開いた双眸から深紅あかい血涙しずくを迸らせ、供物を求める死神スーパイさながらにじょうわたマッチを咬み砕かんと猛り狂ったときのこと――『スーパイ・サーキット』によって剥き出しとなった暴力性の苛烈化を指している。

 〝神速〟を引き出した瞬間ときとは明らかに異なる状態へと移った姿について、スポーツメディアは人間という種を超えた代償という一面のみを報じているが、日本最強の空手家と謳われる沙門の勘は、極限的な負荷の〝先〟にある本質まで辿り着いたわけだ。

 「人を殺してはならない」という理性のたがから解き放たれ、魂の隅々まで破壊の衝動に塗り潰された〝暴走〟――異種格闘技戦の頃より受け継がれてきた闘魂たましいのリングを醜くけがした深紅あかい血涙しずくは、キリサメのなか残存のこっていた〝人間らしさ〟を〝闇〟の淵から押し流した成れの果てである。

 理性と一体化して最悪の過ちを踏み止まらせる思考も、人の命と相対する感覚も、キリサメ・アマカザリという人間を構築する〝全て〟が死神スーパイ回路サーキットに切り替わっていた。


でみーちゃんが止めてくれなかったら、……どこまで行き着いたのか、僕にも分かりません」


 眉間や両腕に血管が浮かび上がるほどはげしい力比べを続けながら、心の奥底を覗き込まんとする沙門の眼差しを受け止めたキリサメは、〝格闘競技スポーツ〟という概念を根底から否定する〝暴走〟であったことを静かに認めた。

 所属先の『天叢雲アメノムラクモ』どころか、同団体を敵視していたはずの銭坪満吉スポーツ・ルポライターまでもが『スーパイ・サーキット』という異能ちからを持てはやすという異様な状況が続いているが、その中で〝暴走〟という危険性は誰も指摘していなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』の信用を失墜させる要因ものとして、キリサメの異能スーパイ・サーキットに対する問題提起は樋口が封殺しているのかも知れない。恐るべき情報戦と人脈ネットワークもって日本格闘技界を支配する〝暴君〟であれば、の報道規制など片眉を動かすだけでやってのけるだろう。

 『スーパイ・サーキット』の〝暴走〟は、現時点ではおおやけに取り沙汰されていないが、僥倖さいわいとして沙門の問い掛けから逃れるという選択肢はキリサメにはなかった。

 まさしくその異能ちからを原因として一度は距離を置かれてしまった相手だが、キリサメには尊敬する友人に変わりはない。結んだ絆を裏切る真似だけは自らに許さないのである。

 相手の四肢や試合着を掴んで姿勢を崩し、無防備化させた上で一撃必殺の打撃を叩き込む〝サバキ〟を極めておきながら、キリサメの重心を乱して投げ倒すようなこともなく、左右の五指を組み合う姿勢を維持し続ける意図も受け止めていた。


で記者連中に『脳が痺れる』っつってたワケか。物騒な言い回しが最高にお前らしいけど、ひょっとして総合格闘技MMAのルールに一番向いてねぇのかもな。『スーパイ・サーキット』ってのは」


 幼稚な悪戯心が疼き、二人の腕に竹刀を打ち込んで会話を邪魔しようとする寅之助を前方に足裏を突き出すような蹴りで引き剥がし、親友キリサメの言葉を引き取ったのは電知である。

 大工という〝本業しごと〟が多忙であった為、岩手興行を観戦するべく奥州市の会場まで赴いた『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちに同行できなかった電知は、大切な親友のプロデビュー戦について、格闘技を中心とする衛星放送パンプアップ・ビジョンやスポーツ番組、ひいてはネットニュースなどで紹介された断片的な情報しか持っていない。

 これを哀川神通やヴィクターくろ河内こうち感想はなしで補うしかないわけだ。砂の上を滑るようにして急激に身を沈め、紺色のけんどうはかまが汚れることも構わずに片膝を突き、標的の脛を打ち据えんとする寅之助の竹刀を迎撃の中段蹴りミドルキックで弾き返した電知は「そのビデオ、今度見せてくれ!」と合掌しながらこうべを垂れ、沙門の了承を引き出した。


「別に『E・Gイラプション・ゲーム』へ勧誘しようってワケじゃねーからな? キリサメは養父オヤジさんと同じリングで生きていくのがイチバンだと思うし、のほうに本腰を入れるようになったって、おれたちが親友ってコトに変わりはねぇもん」


 二人の邪魔を諦めない様子の寅之助を追い回しながら、顔だけ親友キリサメに向けた電知は「所属先なんて小せェモンにおれたちの絆が変えられるか!」と、熱烈な声で繰り返した。

 わざわざ口に出したことからも明らかな通り、電知もまた所属団体の代表がキリサメに仕掛けた引き抜き行為ヘッドハンティングを苦々しく思っているわけだ。そうした親友の気遣いの一つ一つがキリサメの心に優しく染み込み、清らかな泉の如く溜まっていくのである。

 プロデビュー戦を勝利で飾るという約束は守れなかった。それにも関わらず、反則負けを喫した親友キリサメを心配し、岩手興行の翌朝に東北行きの新幹線へ飛び乗る少年なのだ。

 互いの勝利を讃え合えなくなったことを悔やんでいるに違いない――おそらく口には出さないまま心の奥底に独りで抱えてしまうであろうと、キリサメの懊悩と苦しみの形を理解し、寄り添えるのが電知であった。

 試合前から迷走し、リング上で脳内あたまのなかからMMAのルールが抜け落ちるという〝プロ〟にあるまじき失態をキリサメが打ち明けたときには、自分も地下格闘技アンダーグラウンドデビュー戦で同じような情況に陥ったと語り、「誰だって最初の一歩は似たような不格好もの」と励ましている。

 身の丈を遥かに超える挑戦に追い込まれてしまったキリサメは、練習相手スパーリングパートナーを快諾してくれた親友によって大いに奮い立ったのだ。

 初めて出逢いは最悪の一言であったが、今では空閑電知という存在が心を支える軸の一本となっている。血みどろの路上戦ストリートファイトから始まった絆は、生きる為だけに〝暴力〟をふるっていた故郷ペルーの〝闇〟の底では想像もしなかった〝世界〟へとキリサメを導いていた。


「あ~! でも、『スーパイ・サーキット』をまで引っ張り出せなかったのは素直に悔しいな! 悔しいったらありゃしねぇぜ! じょうわたは日本のMMAを背負ってきた本物マジの〝プロ〟だもんなぁ~! 現在いまのおれじゃそこまで届かねぇわなぁ~! 何時までも〝アマチュア団体〟で微温ぬるまに浸かってんじゃねェって一発喰らった気持ちだぜ!」

「ま、待ってくれ。別に僕は電知のことをそんな風に思っていないよ」


 じょうわたマッチとの試合たたかいいて一種の〝暴走〟に陥った『スーパイ・サーキット』を振り返る内に、本人にしか理解し得ない悔しさが込み上げてきた様子の電知と、気に障ることをしてしまったのではないかと慌てるキリサメを交互に見比べた沙門は、「リミットを知らない謙遜はイヤミとイコールだぞ」という一言ツッコミを喉の奥へと押し戻した。

 電知の追跡を振り切り、右側面まで回り込むや否や、下腕に狙いを定めて竹刀を繰り出してきた寅之助に対するキリサメの迎撃は、〝プロ〟に相応しい反応であった。

 寅之助の不意打ちに全く気付いていない様子で正面の沙門を見据えつつ、素早く右手を振り払うと、鋭く腰を捻り込んで腕全体を水平にしならせたのである。

 自分のほうを一瞥もしないことから虚をいたものと判断を誤り、完全に裏をかかれた寅之助は竹刀を垂直の形に引き戻すと、刀身でキリサメの右裏拳打ちバックブローを受け止めた。

 までが目的ねらいである。咄嗟に竹刀を構え直した際に脇を強く締め、四肢の動作うごきも完全に固まってしまっている。すかさず寅之助に向かって跳ね飛んだキリサメは、その右肩を裏拳打ちバックブローに用いた側の五指で掴み、ここを〝軸〟に据えて己の身を空中で大きく振り回した。

 先程の報復とばかりに背後まで回り込み、地面と両足裏が大きく離れている状態から左拳を打ち下ろさんと試みるキリサメであったが、剣道史にいて〝最強〟と名高い森寅雄タイガー・モリの技を継ぐ者に露骨あからさまとしか表しようのない不意打ちが通用するはずもない。

 左手で竹刀のツカを握った寅之助は、己の後頭部に迫っていたキリサメの左手首を対の五指にて掴み返し、拳を振り下ろさんとする勢いをも利用して砂上に投げ落とした。

 〝現代剣道〟では当然の如く悪質な反則行為とされてしまうのだが、砂を巻き上げながら身を横たえたキリサメに向かって獰猛な笑い声と共に右足を振り上げた寅之助は、全体重を乗せて彼の顔面を踏み潰そうとしている。

 対するキリサメは砂まみれの身をね起こしながら右足裏を突き上げ、顎を脅かすことで寅之助の反撃を断ち切った。対の足でもって脛をも狙っている。後方に飛び退すさっていなければ、寅之助は顎への強打で意識に空白が生じた直後、片足を蹴倒されていたはずだ。


「剣道屋~、スタート前に決めたルールからアウトするのはノーサンクスだぞ。ラフはラフでも気軽なほうでなけりゃ満員御礼のギャラリーもエンジョイできないぜ」

「文句はサメちゃんに言ってよね。電ちゃんと違った意味で熱くさせてくれるんだもん」


 沙門が寅之助に対する注意を終える前にはキリサメの両足は砂浜を踏み締め、立ったスタンド状態に戻っていた。見物人から拍手が起こるほど迅速に体勢を立て直したのは、倒れたままでは更なる危険を招くという〝路上の実戦たたかい〟の教訓であろう。

 電知と共に取り組んでいるブラジリアン柔術の寝技対策もキリサメのなかで実を結び始めている。練習相手スパーリングパートナーが間近にったなら、互いの拳を突き合わせていたことであろう。

 その電知と再び対峙することになった沙門は「リミットを知らない謙遜はイヤミ」と、先程の言葉を心の中で繰り返した。

 路上戦ストリートファイトいて一度は『スーパイ・サーキット』を目の当たりにしながら、真紅あか血涙しずくが迸る極限的な〝領域〟を引っ張り出せなかったことが電知は悔しくてならず、『所詮はアマチュアレベルか』と己の至らなさを省みている様子だ。

 確かに打ち込まれる一撃は二〇キロ近い体重差があるじょうわたマッチのほうが遥かに重い。だが、『コンデ・コマ式の柔道』を自由自在に使いこなすなど、総合的な戦闘力を勘案するならば、電知は〝プロ〟のリングに立っていないのがおかしい水準レベルの格闘家であった。

 大いに粗削りではあるものの、キリサメの喧嘩殺法は身のうちに宿した異能スーパイ・サーキットに頼らなくとも〝プロ〟として十分に通用する。沙門に至っては初めて臨んだ『こんごうりき』のリングで完封勝利ワンサイドゲームを成し遂げている。

 その二人をもの電知は明確に凌駕する瞬間が少なくなかった。沙門個人ひとりの見立てとなるが、あて単体のみで闘っても『こんごうりき』で上位ランカーを狙えるはずだ。

 気持ちが塞いでいた自分を憂さ晴らしに導いてくれた〝柔道屋〟に対する返礼として、沙門は『くうかん』空手の象徴たる〝サバキ〟を出し惜しみしなかった。

 ときには投げを打つなど組技全般を巧みに駆使して相手の姿勢を崩し、空手の直接打撃へ転じるという〝サバキ〟と、あてを起点として組技・寝技に連ねていく『コンデ・コマ式の柔道』は、求めるこそ同じでありながら仕掛け方は正反対にも近い。

 それでいて攻防を組み立てる原理は相通じるものがある。互いの手の内が読めてしまうからこそ、電知と沙門は袖を掴んでは素早く振り解き、組み合ってはどちらともなく引き剥がすという傍目には奇妙な舞踊おどりを楽しんでいるかのような動作うごきを繰り返していた。

 双方とも決定打を欠くという膠着状態を打ち破ったのは、キリサメという名の衝撃だ。

 〝空手屋〟と〝柔道屋〟を左右に見据える位置にて相対した寅之助が両の五指で竹刀のツカを握り直し、もろ突きの構えを取った瞬間、キリサメはえて一歩踏み込んだ。

 鹿革によって覆われた剣先で貫くよう自ら喉を差し出したのだ。

 今まさにわざを放たんとしていた寅之助は「やってくれるよ、サメちゃん」と苦笑交じりの呻き声を洩らし、少量と言いがたい砂を巻き上げながら一連の動作うごきを急停止した。

 尋常ではない運動量が求められる競技選手アスリートの〝命綱〟とも呼ぶべき呼吸機能と喉の損傷は直接的に結び付くものであり、では何があろうとも絶対に避けなくてはならない。子どもたちに剣道を指導する〝立場〟としてを理解していればこそ、度を越した享楽家の欲求を抑えて剣先を引き戻したのだ。

 キリサメががわだいぜんのもとで学び始めたは、刀の振り方一つとっても相手を傷付けないことが肝要であるが、これと併せて相手に刃をも養われる。その術理を応用した奇策をもってして、『タイガー・モリ式の剣道』を封じて見せたのである。

 る意味にいて、今し方の奇策は寅之助に対する信頼の表れとも言えよう。あの状況で取り得る選択を見透かされた本人もかぶりを振りながら苦笑するしかなかった。

 無論、は相手を落とし穴に嵌める悪戯のような性質ものではない。意表を突くという行為は一側面に過ぎず、互いの攻撃が届く範囲の見極めや、間合いによってもたらされる有利を最大限に生かす思考が道場入門の以前まえと比べて遥かに鋭さを増しているのだ。

 しかも、キリサメは過去に対決した相手のことを良く学び取っている。今度も〝げきけんこうぎょう〟の経験に基づいてもろ突きの射程距離を割り出し、寅之助が超えてはならない一線を踏み止まると確信した上でえて標的まとを晒したである。

 親友と幼馴染みによる高次の攻防を目の端で捉えた電知は、己も負けてはいられないと発奮し、日本最強の空手家目掛けて一等深く踏み込んでいった。

 あてを経由せず、低い姿勢から一気に組み付くつもりか――そのように推し量る沙門の目の前で電知は更に身を沈め、背中から砂浜へ落下するような形でを放り出し、次いで左右の足をはさみの如き動作うごきで繰り出した。

 シルバーグレーの背広の上から胴を挟み込み、その場に薙ぎ倒すつもりだ。電知の身のこなしは疲れを知らないかのようにはやく、沙門も大きく飛び退すさる以外に応じるすべがない。

 〝捕獲〟は免れたものの、電知の両足が再び砂浜を踏み締め、上体を引き起こすまでに沙門の反撃は間に合わない。全体重を乗せて右足を振り上げ、小さな身体を蹴り飛ばすつもりであったが、腰を深く落としつつ両足で強く大地を踏み締める動作うごきへと切り替えた。

 果たして、その判断こそ正解であった。腰を大きく捻り込みながら前方に鉄拳を突き入れる空手の王道――腕全体を後方に引き、絞りに絞った上半身のバネを解き放ちながら繰り出す正拳突きは、風に攫われた塵芥のように電知の身を吹き飛ばした。

 木の葉の如く宙を舞わされた電知であるが、正拳突き自体は重ね合わせた両掌で受け止め、接触の寸前に力が強く作用する方向へ自ら跳ねて技の威力と勢いを減殺させている。

 その寸前に電知は右の下段蹴りローキックによるまで仕掛けていた。

 沙門は更なる追撃で畳み掛けるつもりであったが、瞬時に二度蹴り付けられた左外膝の痛手ダメージを許さず、空中で身を捻って着地する電知を双眸で追い掛けるしかなかった。


「軽量級の見た目をナメたツケを払わされたでしょ? 本気の下段蹴りローキックだったら空手屋の膝、で終わってるよ」


 ほんの一瞬ながら足を止めてしまった沙門に対して、寅之助が幼馴染みに成り代わって胸を張った。

 一つの事実として、『くうかん』空手の試合でさえ味わったことがない不思議な痛手ダメージなのである。瞬きをも上回る速度はやさで全く同じ部位に重ねられた二つの衝撃が一つの束と化して骨身を貫き、関節の内側まで深く浸透していった――そのように沙門は感じたのだ。

 二重の衝撃を押し込むとしか表しようのない今し方のあては、刹那を掌握した者にしか到達し得ない領域であった。

 〝サバキ〟の動作うごきと併せて関節の内外旋かいてんを最大限に生かす打撃を磨いてきた沙門には、えて求める必要もなかったのだが、〝最速最短〟で標的を制するあてを極めた電知は、その名の如くまばたきよりも〝先〟にまで手を伸ばすを得たのかも知れない。

 『うらて』と呼ばれる空手のとの類似点を脳内あたまのなかで思い浮かべる沙門であったが、二連続の下段蹴りローキックに働いた〝力の作用〟を考察していられる時間はない。一足飛びで間合いを詰めた電知は、そのまま沙門の懐に潜り込み、左右の五指でもって背広の襟を掴んだ。

 沙門の上体が前方に大きく傾き、左脇腹に電知の右膝が押し当てられたのは、その直後のことである。両襟を捉えた相手を自身の側へと引き付け、姿勢を崩したところに叩き込む膝蹴りというわけだ。

 無論、負傷しない程度の攻撃セミコンタクトという取り決めがあるので、電知も膝を軽く押し当てるのみであったが、背広の襟を掴まれた直後から沙門には殆ど反応できなかった。動作うごき自体は双眸で追い掛けていたが、防御や回避へ転じる前に技が完成してしまったのである。

 ムエ・カッチューアのような一撃必殺の膝蹴りとはならないだろうが、斜めの軌道を描きながら脇腹を抉り、瞬間的な呼吸困難を引き起こすことは間違いない。

 悶え苦しむ相手の腹部へ膝蹴りに用いた側の足裏を素早く押し当て、追撃の投げ技に派生するのであろう。あてと寝技の組み合わせも前田光世コンデ・コマは得意であったという。

 ともえ投げでもって砂浜に転がしたのち、腕関節を極める寝技に持ち込む腹積もりと直感した沙門は、膝蹴りの体勢のまま〝軸〟として据えられている電知の左足に己の右足を絡め、これを払って反対に押し倒してしまうと試みた。

 果たして、この反撃は空振りに終わった。沙門の動作うごきよりも早く電知の両足が地面から離れ、彼の胴に巻き付けられたのである。クワガタが大きな顎でもって獲物を挟んだような体勢ともたとえられるだろう。背面に回した左右の足先も強く組み合っている為、力ずくで引き剥がすことも容易ではあるまい。

 それどころか、反撃に転じるより早く沙門の視界から電知の姿が掻き消えた。

 己の身を車輪の如く振り回した電知は、器用にも沙門の腋下を潜り抜けるような恰好で背後をったのである。汗と香水の匂いが複雑に入り混じった背中にへばり付き、その状態を維持したまま彼の首に右腕を巻き付け、冗談の続きを断ち切った。

 試合たたかいリングであったなら、肘の内側で頸動脈を絞め、瞬く間に意識を刈り取ったことであろう。左の五指にて右手首を強く掴み、己より体格で勝る沙門が幾らもがいても決して外れない〝拘束〟も抜かりなく完成させたはずである。


「さすがは『くうかん』の最強だけあるぜ。もっと早く仕留めるつもりだったのに、いちいちおれの技を先読みしてきやがる。本気マジの勝負だったら、正直、こっちがヤバかったな」


 しかし、これはあくまでも練習なのだ。首を圧迫しないまま四肢を隅々まで使った絞め技を解き、後方に撥ね飛ぶことで〝空手屋〟から離れた電知は、額から噴き出した汗を手の甲で拭いつつ溌溂な笑顔を弾けさせた。


「……はもうこんなエキサイティングなテンションも体験できねぇんだな……」


 血に餓えた野獣の如く口の端を吊り上げながら手早く帯を締め直す〝柔道屋〟のほうに振り返った沙門は、陽の光を跳ね返して煌めく海とは正反対の表情かおである。

 攻守が目まぐるしく入れ替わる中にって、一瞬たりとも判断を誤らずあてと組技・寝技を複雑に組み合わせていく『コンデ・コマ式の柔道』の奥深さに肌が粟立っていた。技の連ね方が読み切れない上に、電知自身のはやさが反応自体を困難にさせるのだ。

 サバキ系空手という相通じる術理の技を極めた沙門だからこそ、目の前に立つ電知と同じ時代に生まれたことが誇らしいのだが、空手家としての感動を噛み締める前にを分かち合えなくなった〝旧友〟への思いが湧き起こる昂揚に蓋をしてしまうのだった。


「シケた顔してくれんなよ、空手屋~。とは違う〝プロ〟のリングを経験したヤツにはおれなんか物足りねぇかもだけどよぉ~」

「誤解させてソーリー。俺自身は剣道屋を注意できなくなるレベルでエクスプロードしてんだけどよ、……もう二度とリユニオンできないフレンズを想い出しちまったのさ」


 電知は『スーパイ・サーキット』に秘められた真の暴威を引き出せなかったことを〝プロ〟であるじょうわたマッチとの実力差こそ原因であろうと嘆いていたが、なりり構わず破壊の〝力〟を開放しなくてはならなくなる窮地は試合運びに加えて選手同士の相性や心身の調子といった複雑な状況の積み重ねであり、特定の条件に基づいて発生するものではない。

 そもそも、プロとアマなどは〝立場〟の違いに過ぎず、必ずしも実際の戦闘力を反映しているとは言いがたいのだ。じょうわたマッチと空閑電知――その双方の強さを己の身に刻み込まれた沙門は、心の中で後者に軍配を上げていた。


(こんなジャッジ、じょうわたさんに怒られるかな。……怒らないだろうな。きょうのヒステリーはともかく、あの人が自分をロストするワケがない。だからこそ、きっと――)


 電知との間に優劣を付けざるを得なかったことをじょうわたに心の中で詫び、「きっと」という一言の後に続けようとした「引き際」の三字を胸の奥へと押し戻した沙門に対して、寅之助がキリサメを振り切るような恰好で背後から襲い掛かった。


「電ちゃんが見下されるのを黙って眺めるなんて真似、ボクにはちょっと無理だなぁ。それとも負け惜しみかい? だったら、もっと分かり易く絶望に打ちひしがれなよ」

「柔道屋がミレニアムにワンのアメイジングなのは俺だってディスカバリー済みだぜ!」


 振り向きざま防御ガードを固めた沙門の下腕に狙いを定め、竹の刀身が叩き込まれたのだが、鎌倉の青空を切り裂いた音からも明らかな通り、負傷しない程度の攻撃セミコンタクトとは言いがた痛手ダメージであった。同等の力で両腕を軋ませたのだから、事故などではあるまい。

 直ちに複数同時対戦バトルロイヤルを取りやめるべきところであろうが、竹刀に込められた寅之助の静かな憤りを思えば、沙門は骨身の悲鳴と共に受け止めざるを得なかった。〝サバキ〟を駆使して威力を受け流してしまったなら、彼との絆もこの瞬間をもって断ち切られるはずだ。


「空手屋がノり切れねぇ理由、おまえもとっくに気付いてんだろ。簡単に断ち切れねェモンは誰だって抱えてらァ。それでもちょびっと気が紛れたら、ダチとして嬉しいじゃねぇか」


 電知当人の注意にも耳を傾けず、くらい眼光を引き摺るようにして竹刀を振りかぶり、更なる踏み込みから沙門の頭部に縦一文字を見舞わんとする寅之助であったが、その顔を突如として鳥の影が覆った。

 その鳥の名はキリサメ・アマカザリである。寅之助の背後まで素早く回り込んだのち、一等高い跳躍でもって彼の頭上を飛び越えたのだ。

 緊張感が著しく高まった両者の間に割り込みながら着地するのであろうと、見物人の誰もが予想していた。果たして、は半分だけ正解である。

 地上の獲物に爪を突き立てんとする猛禽類の如く両足を開いたキリサメは、寅之助と沙門の双方へ蹴りを見舞った。足先まで十全の力を込められる姿勢ではない為、与えられる痛手ダメージも大して高くはない。それでも膝のバネを振り絞って双方を踏み付ければ、強制的に引き離すことは可能なのだ。

 無論、防御ガードされることも最初から見越している。沙門がかざした右下腕と、寅之助が水平に構え直した竹刀にそれぞれ足裏を押し当て、持ち得る限りの力を込めたキリサメは、望んだ通りの結果を見届けつつ、三人から間合いを取るような恰好で一等高く跳ね飛んだ。

 空中にて軽やかな宙返りを披露したキリサメが次いで水飛沫を上げたのは、言わずもがな降り立った先が波打ち際であった為である。

 複数同時対戦バトルロイヤルに興じる内、四人は波の音を足元に聞く場所まで辿り着いていた。脱いで並べた靴からも遠く離れており、悪質な人間に置き引きされても止められまい。


「さっきの質問に答えるよ、電知。じょうわた氏の打撃は全身の骨がバラバラにならずに済んだのが不思議なくらい猛烈だった。〝プロ〟と称する格闘技の洗礼を受けた。……だからこそ僕のなかに在るも最悪の形で暴れたんだ」

「おれのあてより――『コンデ・コマ式の柔道』よりヤバかったってか?」

「電知とは組み合ったまま高いところから一緒に墜落ちたよな? じょうわた氏から殴り付けられるたびに、あれを超える恐怖で心臓が凍り付いたよ。それくらい重い拳だった」


 電知は単純かつ一方的に選り分けられるはずもない〝格闘家としての優劣〟をたずねてきたわけだが、彼とじょうわたマッチの両方と拳を交え、これを通じて感じたモノを率直に答えることこそ親友に対する礼儀であろうと、キリサメは考えていた。

 前田光世コンデ・コマを追い掛け、『世界最強』という夢に向かって真摯な挑戦を続ける電知には、馴れ合い半分の気遣いによって誤魔化されることが何にも勝る侮辱となるはずだ。


「勉強不足な僕には〝プロとアマ〟を選別することなんか出来ない。そもそもが目を覚まさなかったら、電知と闘ったときに投げ殺されていたよ。……だからこそ思うんだ。異能スーパイ・サーキットを持てはやされている内は、僕は〝プロ〟のリングでは絶対に通じない」

「その『スーパイ・サーキット』だって、キリサメの立派な〝武器〟だと思うぜ?」

「岳氏やじょうわた氏、それに希更氏――僕みたいなを仲間として迎えてくれた先輩たちと同じリングに立つには、僕がで闘えなくてはいけないんだ。努力と試行錯誤を積み重ねて『コンデ・コマ式の柔道』を完成させた電知は、間違いなく〝プロ〟だよ。〝プロ〟という言葉は、報酬カネを稼ぐ生業だけを指してはいないはずだ」


 やや離れた位置から見つめ合うキリサメと電知の鼓膜を波の音が静かに打った。


「いつか電知と模擬戦スパーリングではなく本当の試合をするときが来るかも知れない。路上の潰し合いでもない本気の腕比べを。そのときに異能スーパイ・サーキット頼みのままだったら、きっと胸を張って向き合えない。……電知と肩を並べられる自分でいたいんだ。それが親友――だろう?」


 な言葉を並べ立てている自覚はあったが、その全てがキリサメの偽らざる本心だ。そして、それを受け止めた電知もとろけるような笑顔で拳を鳴らしている。

 様子を窺うまでもなく、キリサメは電知の反応を確信していた――幼馴染みの寅之助が妬いてしまうほど心を通い合わせる親友は、照れ隠しのように右の親指で鼻を撫でたのち、今し方の言葉に応えるべく大地を蹴り付けた。

 自身の気持ちが真っ直ぐに伝わったことを見て取ったキリサメも表情かおを引き締め、正面切って突っ込んでくる電知に自ら飛び掛かっていく。

 陽の光を跳ね返して煌めく波を背にしながら駆け、この助走をもって再び高く青空に舞い上がったキリサメは、眼下の電知に狙いを定めて右足裏を突き出した。

 脳天を揺さぶる飛び蹴りに備え、電知が足を止めつつ左右の腕を交差させて防御ガードを固めると、当のキリサメはを踏み付けにして更に高く跳ね飛んだ。親友と示し合わせたかのような跳躍に大歓声が爆発したことは、改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 親友を飛び越え、余りにも想定外な状況に唖然呆然と立ち尽くす寅之助と沙門のほうに急降下していくわけだが、宿敵・へいを攻め滅ぼしただんうら決戦にいて、げんろうほうがんよしつねが披露したと伝わる〝はっそう飛び〟のようではないか。

 やまぐちけんしものせきの古戦場跡にも名場面を切り取った銅像が建てられているが、〝げんぺい最終決戦〟の総大将にも関わらず自ら薙刀を携え、船から船へと飛び移って勇猛果敢に戦ったという〝義経伝説〟をキリサメは鎌倉の海で再現したのである。

 その義経は異母兄である鎌倉幕府初代将軍・みなもとのよりともと、とうごくで興った武家政権を京の朝廷より睨むてんきみしらかわほうおうの政治抗争に翻弄され、逆賊の汚名を着せられた末に鎌倉から遠く離れた地でだんうらの勇姿が幻であったかのような非業の死を遂げている。

 へい打倒の大望を掲げて西に進発し、生前の凱旋を果たせなかった鎌倉である。その海を見下ろすかのように飛翔する姿こそがげんろうほうがんよしつねへの供養になるはずだ。

 しかも、鎌倉幕府は滅亡を迎える間際に数え切れないほどの軍船で近海を埋め尽くし、討幕軍を迎え撃ったのだ。にっよしさだが海の守備まもりの裏をかいたいなむらさきへいの大船団を翻弄しただんうらの〝はっそう飛び〟が再現されたことは、数世紀越しの皮肉であろう。

 親友キリサメの背中を見送る電知はそのような歴史のマンを噛み締めているが、沙門と寅之助の二人は顔を引きらせるばかりであった。

 跳躍の頂点に達したキリサメは雲一つ掛からない太陽を背にし、反射的に彼を仰いだ二人は剥き出しの光で目が眩んでしまったのだ。多くの見物人も同じ状況に陥っていた。

 どちらが標的に選ばれたのか、誰にも分からない。寅之助と沙門の力量を思えば極めて珍しい失態であろうが、キリサメの姿すら追い切れなくなっている。


「――やっぱりフィナーレは八雲ときょういしの息子同士がスパークってかァッ⁉」


 驚愕と戦慄をい交ぜにしたような声を上げたのは沙門のほうであった。〝白い闇〟の彼方より舞い降りたキリサメは、彼に向かって縦回転を伴いつつカカトを振り下ろしたのだ。

 八雲岳が『天叢雲アメノムラクモ』の試合場リングで、彼の愛弟子である『フルメタルサムライ』――しんとうが『NSB』の試合場オクタゴンでそれぞれ繰り出した『超次元プロレス』のカカト落としである。

 この技をキリサメが目にしたのは今までに二回――養父が〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟に叩き込んだ長野興行はリングサイドで観戦し、進士藤太フルメタルサムライの試合は動画サイト『ユアセルフ銀幕』のPPVペイ・パー・ビューでノートパソコンの画面越しに視聴していた。

 最速最小の動作うごきで最大の破壊力を生み出す空手のカカト落としとは異なり、空中から急降下の勢いを乗せて全体重を浴びせる様式である。余りにも大振りな攻撃である為、熟達者でもなければ命中させることは難しいが、〝白い闇〟の影響で反応が著しく遅れた沙門は、回避行動を取れないままキリサメという猛禽類とりの影で顔面を覆われてしまったのだ。

 沙門にとってカカト落としは亡き恩人テオ・ブリンガーから授けられた〝伝家の宝刀〟である。その誇りにかけて直撃を許すわけにはいかず、有効な返し技カウンターも知り尽くしていた。

 キリサメの右かかと落としに対し、沙門は己の左足を垂直に突き上げた。標的の顎をカカトで撥ね上げる蹴り技を応用し、脳天への一撃を足裏全体で受け止めようというわけだ。

 最速最小で最大の破壊力を生み出せるということは、その逆回しも同様である。小さいはりあなに細糸を通すような精密性が求められる迎撃であったが、沙門はキリサメよりも随分と遅れて仕掛けながら、くだん返し技カウンターを間に合わせた。

 しかし、左足裏に接触したのは急降下してきたカカトではない。沙門の反応を見て取ったキリサメは縦回転からさかさまの姿勢となった瞬間、左右の掌をに重ねたのだ。相手が左足を突き上げる勢いと、己の両肘の屈伸という二つの〝力の作用〟を巧みに掛け合わせ、これを跳躍力に換えて再び空中に逃れたのである。

 その間に電知と寅之助の二人が〝空手屋〟の両脇から迫り、左足を突き上げた為に無防備となった胴へ前回し蹴りと竹刀を打ち込んだ。言わずもがな負傷しない程度の攻撃セミコンタクトだ。先程の憤激を引き摺る後者は本気で横一文字を仕掛けるつもりであった様子だが、前者の一喝によって食い止められた。

 二人掛かりの挟撃は空中のキリサメが差し向けたようなものであろう。両腕は自由に動かせるが、片足を振り上げた状態では胴を狙った攻撃に殆ど対応できない。沙門の意識を上空へ引き付ける為、えて『超次元プロレス』のカカト落としを選んだのだ。

 〝柔道屋〟も〝剣道屋〟も、沙門が今までの人生で数えるほどしか出逢ったおぼえがないほどの猛者である。付け入る隙が生じたなら、これを見逃すはずがあるまい。

 『くうかん』道場の組織改革が忌々しくてならない反対勢力から刺客を頻繁に送り込まれる為、望むと望まざるとに関わらず沙門も複数人による乱闘に慣れざるを得なかったが、路上の喧嘩殺法に長けたキリサメはその比ではなさそうだ。

 四六時中、大勢から命を脅かされる環境で培われた経験と才能は、一対一が前提となる〝格闘競技スポーツ〟のリングで生かせるものではなく、『スーパイ・サーキット』の性質を取り上げて「MMAに一番向いていない」という見解を示した電知は、る意味にいて限りなくに近付いていたのである。


(親子二代に亘る因縁対決と言ったって、で張り合ってもハートはヒートしないんだがね。アップテンポなビートはリング上のトークからやって来るんだからさ)


 他者ひとに自慢できるものでもないが、大勢から取り囲まれた際にこれを速やかに平らげるという経験は、沙門も積んでいる。

 電知の制止を振り切り、剣先を下げた構えから左手一本による刺突つき技を放たんとしていた寅之助に振り返りながら、沙門は突き上げたままであった左足を轟然と振り下ろした。

 『こんごうりき』にける初勝利をもたらしたカカト落としである。

 〝世界一の名手〟と謳われたテオ・ブリンガーの直伝であり、初陣プロデビューの対戦相手の頭蓋骨に亀裂を入れたことは寅之助も把握している。それでも竹刀を水平に構え直し、水牛革のまるつばカカトを受け止めようとはしなかった。

 カカト落としは風を切り裂くのみという》に留めようと思っていた沙門だが、寅之助の踏み込みが巻き上げた砂の量に尋常ならざる気配を感じ、竹刀の剣先に狙いを変えた。

 一瞬の切り替えは正解であった。殺意こそ漲らせていなかったものの、この片手突きは森寅雄が得意とした奥義わざの一つ――比喩でなく正真正銘の『タイガー・モリ式の剣道』なのだ。紫電一閃のカカトで刀身を叩き落としていなければ、喉を抉られたことであろう。

 目と鼻の先で交差した二筋の閃きに武者震いを抑えられない電知であったが、余韻には浸っていられない。カカト落としに用いたのと同じ側の足で前回し蹴りに転じた沙門は防御ガードごと彼の身をね飛ばし、間近に立っていた寅之助に横合いから衝突させた。

 ここが畳張りないしは板張りの道場であったなら、両足の五指に渾身の力を込めて耐え凌げたかも知れないが、砂浜では足裏を張り付かせることさえ難しい。寅之助もろとも横倒しにされてしまった電知は「負傷しない程度の攻撃セミコンタクトの基準が人によってバラバラなのはやっぱり大問題だぜ!」と〝空手屋〟に向かって文句を垂れた。

 尤も、その言葉は〝軸〟に据える足を入れ替えながら繰り出された後ろ回し蹴りの轟音によって押し流されてしまった。電知や寅之助に対する追撃ではない。未だ両足で地面を踏み締めていないキリサメを薙ぎ払おうというわけだ。

 彼が視界内に落下してくる頃合いを抜かりなく見計らっていたのだが、当のキリサメは器用にも空中で四肢を開き、水平姿勢に変化することで後ろ回し蹴りをかわした。胸から腹までを撫でるようにして沙門の右足がすり抜けていった。

 全身を投げ伏すようにして着地し、極端に低い姿勢を維持したまま沙門の股の下を潜り抜け、ようやく片膝を突いた電知と寅之助のもとに辿り着いたキリサメは、急激に身体を撥ね上げながら左右の腕を繰り出した。


「サメちゃんさぁ、数少ない友達はもっと大切に扱ったほうが――」


 電知の右腋と寅之助の左腋――それぞれに片腕を引っ掛けたキリサメは、上体を反り返らせる勢いに乗せて二人の身を後方に放り投げた。友人たちを沙門に叩き付け、その身動きを封じるという奇策である。

 片腕一本で全身を持ち上げ、これを〝軸〟に据えたまま横回転して沙門に向き直ったキリサメであるが、そのときには鼻先まで反撃が迫っていた。砂の上を揃って転がっていく電知と寅之助の僅かな間隙をすり抜けるようにして跳ね飛んだ日本最強の空手家は、全身を放り出すような恰好で右足を旋回させた。


「スペシャルがカカト落とし一発だけだと思われるのはクリティカルな心外だな。ましてや一芸だけで頂点をゲットできるほど『くうかん』空手もスイーツじゃないぜ」


 内から外へと片足を振り回し、全体重を乗せて相手にかかとを浴びせるどうまわし回転蹴りだ。

 〝伝家の宝刀〟にも匹敵する一撃が己に向かって振り下ろされる間、キリサメは微動だにしなかった。全身に砂塵を被りながらも、まばたき一つしないまま沙門を見据え続けた。

 カカト頭部あたまに突き刺されば、その衝撃は脳まで貫き、痛みにのたうち回る間もなく意識を失うことであろう。影が落ちただけで冷たい戦慄が背中を駆け抜けるほどの威力と確信しながらも、キリサメは防御も回避も試みなかった。

 この複数同時対戦バトルロイヤルはあくまでも練習である。四人入り乱れての模擬戦スパーリングとも言い換えられるだろう。空手の未来を担う子どもたちの為に体罰や根性論の根絶を進める沙門ならば、負傷しない程度の攻撃セミコンタクトという取り決めを順守するとキリサメは信じて疑わなかったのだ。

 その信頼へ応えようというのか、猛然と急降下したカカトはキリサメの前髪を僅かに揺らすのみに留まり、誰を傷付けることもなく砂を巻き上げた。

 砂浜に尻餅をきつつ覗き込んだキリサメの瞳に沙門は強い光を見つけた。

 潮の香りによって引き出されたのは、キリサメやその家族、偶然に合流した『NSB』の団体代表イズリアル・モニワと一緒にりくぜんたかの海沿いを歩いた日の記憶である。

 先程から感じていたが、自分は養父のようなMMA選手になれないのではないかと悩んでいたときとは比べ物にならないほどキリサメの眼差しは強い。まぶたを半ばまで閉ざすという目付き自体は変わっておらず、だからこそ迷いなき瞳が際立っている。

 己が進むべき〝道〟を見定めた者の表情かおだった。


「親しい人間を自然ではない形で亡くした喪失感は簡単に塞がるものではありません。もしかすると、ずっと抱えていくことになるかも知れない。だけど、沙門氏が両手両足に感じている痛みは幻なんかではありません。……は今、目の前で生きています」


 キリサメの瞳がかげることはなかったが、心が軋むような喪失を味わった経験から絞り出された言葉であろうと沙門にも察せられた。想い出せば〝古傷〟がうずかないはずもない。それを堪えて寄り添ってくれたのである。

 強くなるはずだ。これからもっと強くなる――キリサメの変化と優しさを受け止めた沙門は、複数同時対戦バトルロイヤルの開始以来、初めて作り物ではない心からの微笑みを浮かべた。

 花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルとの試合を想定した電知との模擬戦スパーリングや、という〝文化〟の偉大な先駆けであるがわだいぜんのもとで学ぶことも成長を促しているのだろう。MMA選手としてもじょうわたマッチと闘った岩手興行より格段に強くなっているはずだ。

 おそらく見物人の目には曲芸のように見えたことであろうが、実際に相対した沙門は幾度も慄かされている。〝超人〟の異名に相応しい空中殺法を繰り出し、世界中を熱狂させたヴァルチャーマスクの対戦相手が味わったであろう恐怖が理解わかるようであった。

 プロレスの〝飛び技〟を独自に発展させたような動作うごきは、格闘技の攻防をしたようにも感じられたのだ。今日は用いていないが、試合着ユニフォームの一部である五枚の尾羽根がに加われば、の中で対戦相手を強烈な錯覚で幻惑することであろう。


「空手屋を独り占めはズルいぜ、キリサメ! はおれたちも混ぜて貰わねぇと!」


 砂まみれの二人が視線を交わしつつ立ち上がる頃には、電知と寅之助も体勢を整え直していた。示し合わせたわけでもなくそれぞれが体当たりを仕掛け、辺りに汗粒を飛び散らせながら四つの左肩がぶつかり合った。

 鈍い痛みと肩全体に広がる体温ぬくもりこそがキリサメから掛けられた言葉の意味である。

 二度と感じることは叶わなくなったが、ニューヨークの友より撃ち込まれた拳を通じて心の奥深くまで伝達つたった熱量は歳月を経ても鮮明におぼえている。の生きた証を、これからも共に生きていく仲間たちが拾い上げてくれた形であった。


「サンクスな、柔道屋。格闘技は人を殺すモノなんかじゃない。人生を豊かにしてくれるトレジャーだってコトを今一度、レクチャーしてもらったよ。……いや、ビギニングから分かっていたハズなんだけどな……」


 四方より中央の一点に向かって力を押し込め合うような姿勢を維持したまま、沙門はこの状況を噛み締めるようにして厚めの唇から熱量の高い溜め息を滑らせた。

 〝武道留学〟の最中に『くうかん』ニューヨーク支部で心を通わせた多くの空手家たちが〝教来石沙門の思想〟に触発されたと称し、世界のMMAを牽引する『NSB』に対してテロという最悪の凶行に及んだ。

 あろうことか、『くうかん』のからを纏い、格闘技を人権侵害と一方的に否定したテロリストを許すつもりはないが、その一方で自分から思想的影響と受けたという同門への気持ちも未だに整理できていない。

 肘打ちを得意としていた旧友ともの名前は、この世で二度と呼ぶことはない。『NSB』を襲った凶事テロの結末は惨たらしく、それ故に「格闘技は人生を豊かにするかて」という当たり前の如く理解していたことを見失いそうになってしまった。

 今なら公聴会でもテロリストの無惨な死を利用し、出席者全員に『くうかん』を健全化する正当性を刷り込めるはずだ。改革の味方に引き込めるかも知れない。狡猾な逆転策は空手を通じて絆を結んだ旧友に対する裏切りだが、それこそが沙門なりの〝決着〟である。

 肩で分かち合う三人の体温ぬくもりが空手の未来を守る為に己が果たすべき使命と、危機的状況さえ逆手に取るしたたかさを取り戻させてくれたのだ。きょういし沙門という空手家の生きる〝道〟を揺るぎなく見定めた表情かおで大地を踏み締めるのが返礼であった。


「人権派のモラリストを気取ったって、格闘技は普通に人が死ぬでしょ。競技化に伴ってルールが設定されただけであって、そもそもを目的にしているんだからさ」

空手屋コイツはそういうコトを言ってんじゃねェよ。つうか、分かってて言ってんだろ、寅」


 寅之助の皮肉を〝空手屋〟に代わって切り捨てた電知も全身を昂揚で満たしており、二つの瞳で輝く光も親友キリサメに負けないほど強い。


「おれも良い目標ができたよ! おうとも、これからの課題がハッキリと見えたぜ!」

「鼓膜が破れそうな大声で宣言するのだから前田光世コンデ・コマの〝道〟を辿ることや『世界最強』の夢とは別の〝何か〟を見つけたということだよな?」


 親友の心を推し量るようなキリサメに対して、電知は強く深く頷き返した。


「まだまだおれは修行が足りねぇ! だから、最初にり合ったときも『スーパイ・サーキット』は〝本気〟で牙を剥かなかった! そりゃあ、やっぱり悔しいじゃねーか!」

「水を差すようで気が引けるのだけど、は〝本気〟とはまた違うモノで……」

「いつかじょうわたマッチみたいに最強の『スーパイ・サーキット』を引っ張り出す! お前のなかに秘められた〝本気〟が覚醒めざめるくらいおれは強くなってみせるッ!」

「電知……」

「それがおれの課題だ! 親友が目標なんて、こんなに幸せなこたァねぇぜッ!」


 すぐに追いついてやるから首を洗って待っていろ、死神スーパイ――太陽まで駆け上がるような電知の大音声にキリサメは魂が震わされていた。

 〝人外の力〟を喧伝材料として利用する『天叢雲アメノムラクモ』ひいては主催企業サムライ・アスレチックスと同じように電知もキリサメに『スーパイ・サーキット』を望んでいる。しかし、そこにるのは純粋な力比べである。互いに死力を尽くすという〝本気〟の勝負をただ真っ直ぐに希望のぞんでいる。

 いつか迎える〝その日〟の為、今よりもっと強くなりたい。本当の意味で親友と肩を並べたい――電知の想いは、その一言に集約されていた。

 だから、応じるキリサメの答えもただ一つである。


「僕も負けてはいられないな。電知に置いていかれたくないし、失望させたくない」

「イイ返事じゃねーか! ますます燃えてきたぜッ!」

「こんな僕だけど、もっと頑張るよ。先程も言った通り、『スーパイ・サーキット』なんか使わなくても、〝僕自身の力〟で電知と渡り合えるようにね」

「そこも含めて力比べと行こうぜ、キリサメ! おれは意地でも全力全開ガンギマリの『スーパイ・サーキット』を引き出して――」

「――いいや、『スーパイ・サーキット』など使わないほうがいいッ!」


 未来への約束を果たそうという瞬間ときに割り込んでくる声があった。

 四人を取り囲んだ見物人たちは拍手や口笛をもって電知の決意を讃えており、無粋な横槍など入れるはずもない。何者かと視線を巡らせた四人は、そこに見つけた人影に揃って双眸を見開き、全く言葉を失ってしまった。

 驚愕に打ちのめされるのも無理からぬことであろう。見物人が作った壁を真っ二つに割る形でいなむらさきの浜辺に現われたのは、鎌倉どころか、日本に居るはずのない男である。


「あんな危険なものに頼っていては、自分も、周りにいる人間まで必ず不幸にしてしまうだろう。『死神スーパイ』という言葉の意味をもっと真剣に考えるべきだ」


 競技用のトランクスではなく小奇麗な背広を着用し、大きな旅行鞄を携えているが、意志の強さを表すかのように極太の眉をキリサメは見間違うはずがなかった。

 その求道的な佇まいから他者ひとは彼のことを『フルメタルサムライ』と呼んでいる。


「――しん……とう……?」


 これまで『NSB』の試合映像でしか見たことがなかった男の名前フルネームをキリサメは呆けたような声で呟いていた。

 四人の前に飄然と現われ、険しい表情かおで『スーパイ・サーキット』への警告を並べ立てるその男は、八雲岳が〝世界で最も完成された総合格闘家〟と称賛した一番弟子――右頬に走る真新しい傷が酷く生々しいしんとうであった。



                     *



 日独には八時間もの時差が横たわっている為、同日同刻とは言いがたいが、キリサメ・アマカザリが夢想だにしていなかった出逢いに戸惑っている頃、彼の身に宿る『スーパイ・サーキット』に対して『ラグナロク・チャンネル』と余人には意味不明な呼び名をぶつけた『格闘技界の聖家族』の御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンは、ドイツの片隅に位置する難民キャンプで厄介極まりない男の相手を

 難民高等弁務官のマイク・ワイアットである。

 その日は難民キャンプを支援する『ハルトマン・プロダクツ』の視察が行われ、同企業所属のストラールも経営者一族の御曹司にして親友――ギュンター・ザイフェルトと共に現地へ足を運んでいた。伴侶パートナーのマフダレーナ・エッシャーや祖国オランダの友人も伴う訪問だ。

 世界各地の難民キャンプで暮らすイスラムの女性から託された要望を伝え、『ハルトマン・プロダクツ』がスポーツ用ヒジャブの開発に着手するきっかけを作るなど、難民高等弁務官は同企業との協力体制を強めており、ギュンターとは友人関係まで築いていた。

 難民高等弁務官事務所と『ハルトマン・プロダクツ』の合同視察は以前から決まっていたが、ギュンターの補佐役を務めるストラールは、陽気の二字を絵に描いたような風貌とは裏腹に油断のならないマイク・ワイアットが世界最大のスポーツメーカーから資金や物資を引き出す計略を張り巡らせているのではないかと、露骨あからさまなくらい警戒している。

 共同の炊事場から漂ってくる香辛料の匂いに胃袋をくすぐられて仕方がないのだが、そろそろ昼食時である。ギュンターとマフダレーナは難民高等弁務官事務所の職員スタッフたちと共にそれを手伝っており、ダークブルーのトレーニングウェアに着替える最中であったストラールは出遅れた挙げ句に意図せず天敵マイク・ワイアットと二人きりになってしまったのだ。

 その瞬間を見計らっていたかのようにマイク・ワイアットから手招きされたストラールは地べたに腰を下ろし、先程から難民キャンプの娯楽に興じている。

 道具一式は子どもたちの手作りだが、アフリカで盛んに遊ばれているボードゲームだ。双方とも前衛・後衛の如く分かれた水平二列に六つずつ穴をり貫き、その中に〝種〟と呼ばれるコマを置き、総数六四個のを一定の法則に従って奪い合うのだ。前列右から四つ目の穴だけ正方形で、試合開始時に六粒の〝種〟を溜めておく場所ニュンバであった。

 親しく交わっているソマリア難民の少年からルールを教わったストラールも幾度か遊んだ経験ことがあり、先々の戦局を読みつつ〝種〟の置き方や奪い方を考えなくては勝負にならない戦略性の高いボードゲームと理解していた。

 手元の〝種〟を順繰りにのだが、最後の一粒を置くのが前列の穴であり、且つ隣接する相手側の穴に〝種〟が残っていた場合はそれを奪う――片方が続行不可能となるまでを繰り返すのだった。

 世界各地の難民キャンプを巡り、そこで暮らす人々と娯楽を通じて心を通わせてきた難民高等弁務官は熟達者エキスパートとも呼ぶべき水準レベルだ。自陣側の穴に〝種〟を蒔いていく手付きは芸術性すら感じられ、心外ながらストラールもそれを認めないわけにはいかなかった。

 そもそもマイク・ワイアットと二人きりになったのは、伴侶マフダレーナ親友ギュンターの計らいではないかとストラールは勘繰っていた。

 『ハルトマン・プロダクツ』としては難民高等弁務官との協力体制をより強固にしたいと考えている。関係を深めるべきときにストラールがマイク・ワイアットに対する蟠りを解消できずにいるのは、将来的な不利益に繋がるという判断なのであろう。

 『格闘技界の聖家族』の御曹司としての旨味メリットに気付いていないわけではない。〝格闘技王国〟と謳われながらも、現在のオランダは格闘技興行イベントの開催が著しく制限されている。

 格闘家による犯罪の多発を背景として格闘技自体が野蛮という偏見が全国的に広まり、競技団体に対する運動施設の使用許可などが行政単位で認可されなくなっていた。

 オランダの格闘家は用心棒を兼業することも多く、ストラールと親交のあったキックボクサーもの仕事のなかに凶弾にたおれている。『ウォースパイト運動』の思想にも通じる偏見が生み出されてしまう背景を否定しがたいのも事実であった。

 麻薬などで道を踏み外さないよう目を光らせ、用心棒稼業を取り仕切ってきたのも『格闘技界の聖家族』――即ち、オムロープバーン家である。〝御曹司〟の立場を継いだ後は一族の者に託したが、かつてはストラールが荒くれ者たちのまとめ役を担っていたのだ。

 〝格闘技王国〟で生まれ育ちながら自国開催の大会に出場できず、他国の競技団体に活躍の場を求めざるを得ない格闘家たちの嘆きも重く受け止めている。


「これじゃ〝格闘技王国〟じゃなくて〝傭兵国家〟じゃねぇか――そんな哀しいことを仲間たちに言わせない為、オランダの〝誇り〟を取り戻す為、踏ん張ろうじゃねぇか!」


 難民キャンプにも同行している亡き兄の親友――〝柔道競技〟の国際化に貢献した一九六四年東京オリンピック金メダリストを師匠に持つ当代随一の柔道家によるは、まさしく祖国オランダの〝現実〟であり、『格闘技界の聖家族』の御曹司が背負うものだ。

 格闘技不遇の潮流を作り出したのが首都アムステルダムの市長であった。オランダの格闘家たちを束ねるオムロープバーン家は、規制解除の交渉を何年も重ねてきたのである。

 亡き兄の親友たちと共に交渉の最前線に立つストラールは、例えば〝東西冷戦〟の時代や湾岸戦争にいてプロレスによる〝民間外交〟を成し遂げてきた鬼貫道明のような〝格闘技の公益性〟を証明しなくてはならなかった。

 マイク・ワイアットとの親交という〝事実〟は、を裏付ける傍証として利用できるわけだ。格闘技が犯罪の温床であるならば、国連機関は接触自体を遮断シャットアウトするであろう。

 何よりも難民高等弁務官は各国政府と太い繋がりを持っている。それを利用できれば、一進一退を繰り返すアムステルダム市庁舎との攻防も新たな展開が望めるはずだ。


(……本当なら持ちつ持たれつの関係すら願い下げなのだけどな……)


 普段はゴーグル型のサングラスで双眸を覆っているストラールだが、今は翡翠色の瞳を晒していた。ボードゲームの〝種〟は難民キャンプの敷地内で拾った木の実が使われている為、黒いレンズ越しではすこぶる見えにくく、外さざるを得なかったのだ。

 この一揃いを選んだのも自分に素顔を晒させる為の画策であろうと、『格闘技界の聖家族』の御曹司は疑っている。

 度を越した疑心暗鬼と自覚もしているが、上等な仕立てのスラックスが汚れるのも構わず草の上に腰を下ろし、手のひらの上で〝種〟を弄ぶ難民高等弁務官マイク・ワイアットは、年齢不詳で人好きのする顔立ちさえも油断を誘うではないかと身構えてしまう食わせ物なのだ。

 盤上でも大量の〝種〟をストラールの手が届かない後列に下げ、彼が手詰まりとなった直後に反撃を仕掛けて相手の前列から〝種〟を根こそぎ奪っていった。

 自分とはやや色艶の違う金髪ブロンドを襟足の辺りで小さな尻尾のように縛り、革のジャケットを羽織ったマイク・ワイアットが口を開くたびに歓迎しがたい事態が起こる為、ストラールは一字一句に神経を尖らせている。

 先ほどマフダレーナと二人で話し込んでいたのも気に入らない。

 国際競技大会への出場を夢見る難民選手たちを資金面で支援する方策など、マイク・ワイアットは様々な話題を矢継ぎ早に繰り出してきたが、そのなかに難民高等弁務官の任務とは無関係な一言が唐突に放り込まれ、目を剥いて驚いたストラールは〝種〟を蒔く穴を誤った挙げ句、またしても前列全てが空になる反撃を許してしまった。


「――『格闘家どもは皆殺し』か。アタマの中身がな連中はシェイクスピア劇に自分を重ねて酔っぱらうのがお約束だけど、『ヘンリー六世』をパクりやがるとはな。どうせならハムレットに倣って自分てめーを省みろってんだい」


 マイク・ワイアットが話し相手の反応を探るような形で言及し、そのストラールが「ハムレットを気取ろうとも誇大妄想を膨らませるだけで結果は同じでしょう」と苦々しげに頷き返したのは、先週末に北米アメリカ最大のMMA団体『NSB』を襲ったテロ事件である。

 悪夢の二字をもってしても表し切れない悲劇は、欧州ヨーロッパいて『ウォースパイト運動』の〝同士討ち〟として報じられることが多かったが、二段階に分かれて発生した事件の〝実態〟は有識者であっても理解し切れないほど複雑怪奇であった。

 アマチュアMMAや同競技のオリンピック種目化を推進する『NSB』を糾弾した一派の興行イベント乱入事件が第一段階だ。その直後、MMAの象徴である八角形の試合場オクタゴンを破壊した一派が空手家――即ち、汚らわしい格闘技に関わる人間であったことを理由として、別の一派が辺り一面を血の海に変えるほど凄まじい銃撃を加えたのだ。

 『NSB』の有力選手でありながら団体代表イズリアル・モニワに異を唱えた主犯格ベイカー・エルステッドと、その〝同志〟である空手家たちを襲った一派は、シェイクスピアが紡いだ『ヘンリー六世』のる一節を改変し、標語の如く吼え続けたという。

 本来は「弁護士どもを皆殺し」であり、イングランド王ヘンリー六世への叛逆に燃える民衆の台詞であった。

 罪なき子羊を殺して羊皮紙を作り、そこに記した内容で他者の人生を破滅に追いやる弁護士こそ手始めに皆殺しにしよう――このような意味合いのやり取りが登場する。

 激烈な標語の通り、全世界の格闘技関係者をしんかんさせたテロ事件も銃口の先に立った側とひきがねを引いた側の双方が全滅するという最悪の結末となった。


「あの事件は副産物だよ、〝自由の国〟の。何でもかんでも自由だからな。その権利を履き違えるのも自由って寸法さ。は自由の意味を理解できちゃいねぇがな」


 現在、マイク・ワイアットは難民高等弁務官事務所の本部が設置されたジュネーブで暮らしているが、生まれ育ったのはアメリカの貿易港ボルチモアだ。〝自由の国〟そのものへの皮肉は自嘲を含むという点にいても彼が口にしてこそ最も深く突き刺さるのだった。

 同じ皮肉が喉から飛び出す寸前で先手を打たれたストラールは、思わずし口を作ってしまったが、〝自由の副産物〟という捉え方は目の前の忌々しい男と共有している。

 『ウォースパイト運動』は格闘技を憎悪する思想活動であってテロ組織ではない。〝同志〟たちは必要に迫られない限りは徒党を組まず個別に活動している為、今回のような凶悪事件の引き金になったとしても一網打尽に取り締まることは不可能なのだ。

 ましてや思想活動への規制は〝自由の国〟の根底を覆すものである。が過激化を抑えがたい攻撃性に結び付くとしても、罪を犯していない活動家には〝思想の自由〟を約束しなければならなかった。


「合衆国大統領を巻き込むサイバーテロを仕掛けた『サタナス』が裏で糸を引いていたのではないと疑う声がアメリカ本国でも多いようですね。証拠は見つかっていませんが」

「オレが聞いた範囲だが、『ランズエンド・サーガ』の代表が『ウォースパイト運動』の過激派を密かに唆したってウワサも欧州ヨーロッパで出始めているらしいな」

古巣NSBへの復讐として? もしも、その男――フロスト・クラントンがテロに関与していたなら、今頃は交通事故にでも遭っているはずですよ」

「遠回しに『ふざけた真似をしたら、お前も車輪の下敷き』って警告されてる気分だぜ」


 二人も〝仮定〟として語らったが、超大国の権威すら恐れずに大統領専用機エアフォースワンを攻撃し、〝同志〟たちの間で神格化されつつある『サタナス』が『NSB』を血でけがすテロ事件の絵図を描いた可能性は十分に有り得るのだ。

 麻薬カルテルの首領が獄中から組織を動かすことなど珍しくもない。『サタナス』の場合は重罪犯専用のフォルサム刑務所へ収監されている為、外部と直接的に連絡を取り合うことは難しかろうが、担当弁護士などが仲介すれば麻薬王の采配も模倣できる。

 『NSB』を禁止薬物で汚染し、アメリカ格闘技界から永久追放された前代表フロスト・クラントンの差し金という疑惑にも一定以上の信憑性があった。

 祖国アメリカから逃げ落ちたのち、彼が代表に就任した欧州ヨーロッパ最大の打撃系立ち技格闘技団体『ランズエンド・サーガ』は、水面下で『NSB』に買収工作を仕掛けているのだ。同団体NSBの社会的信用が落ちるほどその計画も進め易くなるというものである。

 いずれにしても、事件全体があらかじめ用意された筋書きシナリオの通りに展開したことだけは疑いようがあるまい。

 MMA興行イベントに乱入した容疑で逮捕・拘束されたベイカー・エルステッドたちは、警察車両が停められている屋外駐車場へ出た直後に銃弾を浴びせられたのだ。

 乱入騒ぎの発生から地元警察に身柄を引き渡されるまで一時間程度である。急報に接した過激活動家が仲間を募ってMMA興行イベントの開催先へ赴き、銃撃の実行犯を統合リゾートの各所に配置できたとは考えられない。まず間違いなく事前に潜伏し、エルステッドの一派がに現れるまで待機していたはずだ。

 銃撃犯の中には統合リゾートの警備スタッフも含まれている。銃火器の搬入は言うに及ばず、〝敵〟を確実に全滅させられる〝持ち場〟の選定にも関与したことであろう。

 〝誰か〟が『ウォースパイト運動』の二つの集団を操ったとしか思えなかった。乱入騒ぎの容疑者たちは地元警察から手錠を嵌められ、逃げられるような状況ではない。あるいはその構図へ辿り着くように『NSB』の興行イベント騒動さわぎを起こさせたのかも知れない。

 汚らわしい格闘家でありながら、の崇高な正義を気取ろうとする偽善者が現れたなら、『サタナス』の影響を受けて先鋭化した過激活動家は、抑えられない殺意を燃えたぎらせることであろう。ひきがねに引っ掛けた指の感覚も死神スーパイ回路サーキットに切り替わるのだ。

 忌むべき〝敵〟を殲滅したのち、絶対的な正義を貫き通す為にその場で自殺するよう銃撃犯たちに者など世に二人と居ないだろう。それ故、一部の〝同志〟から神格化された『サタナス』こそが黒幕であろうと疑われ始めたのである。

 銃撃犯までもが全滅したことで真相究明は事実上不可能となっており、裏舞台の黒幕が判明するとしても捜査は一日や二日では完了できないだろう。


反乱軍の長ジャック・ケイドを真似しておいて自分てめーで命を絶つのも改変として中途半端なんだよ。……本気で何かを変えたいのなら、みっともねぇくらい生きるコトにしがみつきやがれ」

「ヘンリー六世に歯向かった民衆も王家の殺戮ではなく政治体制の変革を求めたわけですからね。『格闘家は皆殺し』――余程の筋書きシナリオを書いたと見えます」


 怒れる民衆の叛逆が発端となって王朝交代の『戦争』に突入していった歴史的背景に基づき、〝創作〟も交えてシェイクスピアが紡ぎ上げたのが『ヘンリー六世』である。台詞の引用だけでなく、テロ事件全体をこの史劇に重ねていることは間違いあるまい。

 三〇年に亘る覇権争いに敗れ、幽閉先のロンドン塔で暗殺されたヘンリー六世と同じ末路を迎えるのだと、『NSB』の団体代表イズリアル・モニワに突き付ける腹積もりでもあるのだろう。


「手ェ組んだ団体の悲劇を『天叢雲アメノムラクモ』の樋口郁郎イクオ・ヒグチ、腹を抱えて笑い転げたらしいな。格闘技は門外漢のオレが言うのもどうかと思うが、ぜ、あの大将はよ」

「……『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを臨時視察したばかりですよ、『NSB』も、我々ハルトマン・プロダクツも。危機管理能力を疑い、〝内政干渉〟まで図ろうとした『NSB』のほうがテロ対策で脆弱性を露見したら、の性格上、人格を疑われるような発言を抑えられないかと」


 『NSB』を揺るがすテロ事件から続いた難民高等弁務官マイク・ワイアットの言葉は更に意外であり、会話を途絶えさせないよう相槌を打ちながらも、ストラールは攻勢であることも忘れて自陣の穴に〝種〟を蒔く手を止めてしまった。

 難民高等弁務官マイク・ワイアットの口から日本のMMA団体を率いる樋口郁郎の名前が批判的な声色で飛び出したのだ。両者が身を置くそれぞれの〝世界〟は、その範囲内で活動している限りは交わる理由が思い当たらないのである。


「今後、六年間のトーキョーは――いや、日本は一瞬だってテロリストに付け入る隙を見せちゃならねぇってのに、例の大将は随分と暢気なもんだ。そうは思わねぇかい?」

「成る程。祖国アメリカ自国産ホームグロウンテロが多発する状況を憂えておられるものとばかり思っていましたが、『NSB』を脅かした一件もで見ておられるわけですか」

「別に日本を悪く言うつもりはねぇけど、ブラジルみてェに犯罪の温床を丸ごと消し飛ばすような〝浄化作戦〟は不可能だろうしな。それはそれで平和な国の証拠だけどよ」


 難民高等弁務官マイク・ワイアットは二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックにいて、一九七二年ミュンヘン大会や一九九六年アトランタ大会の惨劇が再現される事態を恐れているのだ。

 即ち、「史上最悪」と冠せられる規模のテロ事件である。彼はリオオリンピック・パラリンピックに『難民選手』が出場できるようIOC国際オリンピック委員会に働きかけてきた。異境の空の下でも夢を手放さない競技選手アスリートが更なる悲しみを背負う事態を見過ごせるはずもあるまい。

 祖国に戻って代表選手オリンピアンに選ばれることが最も望ましかろうが、本来の帰属先から離れた難民という状態は、離散民ディアスポラに変わる可能性を孕みつつ長期化する傾向にある。これに対して競技選手アスリートの全盛期は残酷なくらい短い。その〝現実〟を冷静に捉えているからこそマイク・ワイアットは難民選手の〝立場〟と権利を拡大するべく東奔西走しているのだった。

 傘下企業に該当たる『ランズエンド・サーガ』にも難民選手の出場枠を新設することを求め、彼は『ハルトマン・プロダクツ』との交渉を繰り返していた。

 数多の難民問題を抱えた欧州ヨーロッパの人間としても、競技選手アスリートたちの将来を憂慮する『格闘技界の聖家族』の御曹司としても、難民高等弁務官の提案そのものには賛成の立場である。


故郷くにを離れて闘うに競技選手アスリートにこれ以上の苦しみを味わわせたくねぇ。ストラールから見たら、オレなんか寄生虫みたいなモンだろうけど、難民として暮らす人たちの生き甲斐が増えるんなら汚名だって大歓迎だぜ。ストラールも同じ気持ちだって信じているがね」

「……今の言葉を否定したら難民に見向きもしない人でなし、賛成したら都合の良い小切手代わりのお人好し。相手の退路を奪うやり口は率直に申し上げて好きではありません」


 忌み嫌う相手の言行に細心の注意を払うということは、その対象を深く理解することと表裏一体である。言外の会話が成り立ってしまう関係性に不快感が込み上げる一方、想像した通りの言葉をマイク・ワイアットが口にした瞬間、ストラールの脳裏にから姿で格闘技の稽古に励むソマリア難民の少年が浮かんだ。

 アラビアの言語ことばで『明日』を意味するガダンという名前である。

 心無い大人たちから海賊行為を強要され、魂を傷付けられて言葉が紡げなくなってしまうほどの死地からこの難民キャンプに逃れてきた少年だ。年少者グループのリーダーでもあり、仲間たちを支える為に〝プロ〟の格闘家となることを志していた。

 法律で規制する国家くにが少なくないなど、浅慮にも〝最年少選手〟という謳い文句を好んで用いる日本とは異なって欧米は未成年の格闘技興行イベント出場に極めて慎重である。それ故にソマリア難民のがプロデビューを迎えるまでには数年を待たなければならないが、ガダンの決意に心打たれたストラールは何かと気に掛けるようになり、今日も基礎練習に付き合うべくトレーニングウェアに着替えた次第である。

 胸元には〝格闘技王国〟の要にしてオランダ式キックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』の紋章が煌びやかな金糸でもって刺繍されていた。


「例の事件に巻き込まれちまった義足のMMA選手、きっとストラールも知ってるんじゃねぇかな? ルワンダ出身うまれのさ」

「シロッコ・T・ンセンギマナ選手……ですか? これから先、〝パラスポーツとしてのMMA〟を担っていく逸材であることは間違いないかと」

「そのンセンギマナがパラスポーツと祖国ルワンダの両方を元気付けているように、難民選手が晴れの舞台で世界を相手に堂々と闘う姿は、同じ〝立場〟で生きるみんなに勇気を与えてくれるんだ。そこから生きる目標を新しく見つけてくれる人も居るハズさ」

「未来の可能性に暗い影を落とし得る不安材料は――トーキョーをテロの多発する都市まちに変えてしまう樋口郁郎だけは黙って見過ごせない。そのように承ってよろしいのですね?」


 難民高等弁務官が取るべき〝立場〟に対し、ストラールがこれまで以上に踏み込んだ問い掛けを投げると、マイク・ワイアットは無言を返答こたえに代えた。

 その双眸は遊戯ゲーム用のボードから俄かに離れ、二人が腰掛けている場所から難民キャンプを見回していた。

 この地の難民が暮らすテントの間を子どもたちが元気よく駆け回り、不意打ちの如く友達の前に飛び出して驚かせる不思議な遊びに興じていた。これを通じて健脚を養い、陸上競技の〝難民選手〟として国際競技大会に出場する人材が現れるかも知れないのだ。

 あらゆる可能性に未来を約束するのが難民高等弁務官マイク・ワイアットの使命なのである。その思いを天敵としか呼びようがない男と分かち合っていることはストラールも否定できなかった。


(……この高潔さと腹黒さを両立させられる怪物ということも、忘れてはいけないな)


 どこの誰に日本格闘技界の裏事情を教わったのか――そのように問い質しそうになったストラールは愚問以外の何物でもないと思い直し、最初の一字から喉の奥に押し戻した。

 日本国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立の機関――『MMA日本協会』で会長を務めるおかけんとマイク・ワイアットは古くからの友人であり、共にスポーツ用ヒジャブの発表会へ招かれた同協会のよしさだ副会長とも面識がある。

 『NSB』の上級スタッフに幼馴染みの親友が名を連ねていることもストラールは把握していた。IOC国際オリンピック委員会との関わりを通じ、スポーツ界に豊かな人脈も築いたことであろう。

 日本最大のMMA団体を率いる樋口郁郎が格闘技界にいて〝暴君〟と憎まれている事実を知らないはずがあるまい。それどころか、熊本城での興行イベント開催を強引に推し進めた挙げ句、同地の武術家たちを敵に回したことも掴んでいるはずだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』という存在そのものが『ウォースパイト運動』に「格闘技は暴力という名の人権侵害である」と否定させる口実を与えている。『NSB』が巻き込まれた事件ものと同規模のテロが難民選手を巻き込む形で起きてしまう前に樋口郁郎を〝暴君〟の玉座から引き摺り下ろすしかないのである。

 未来さきを見据えて先手を打つ――〝種〟を奪い合うボードゲームで難民高等弁務官マイク・ワイアットが『格闘技界の聖家族』の御曹司を完膚なきまでにやっつけたのと同じであった。


「その樋口が歪めたMMAを〝るべき姿〟に正す計画が『MMA日本協会』を中心とする有志によって進められています。我々ハルトマン・プロダクツとしてもあの男に日本MMAの旗振り役を任せてはおけません。メインスポンサーの責任を果たすときが来たとご理解頂ければ」

「樋口郁郎からMMAを取り戻す秘密作戦の鍵を握るのが『キリサメ・アマカザリ』っつう総合格闘家だっけな。樋口から随分と目を掛けられてるって岡田健オカケンにも聞いたよ」


 この流れで難民高等弁務官マイク・ワイアットの口から飛び出すとは夢想だにしていなかった名前に鼓膜を打ち据えられたストラールは、掌中に握っていた〝種〟をまたしても零してしまった。

 間の抜けた反応を覗くような目付きに変わったマイク・ワイアットを御曹司という〝立場〟には似つかわしくない舌打ちと共に睨み返しながら、ストラールはこの天敵が自分の伴侶パートナーと話し込んでいた理由に辿り着いた。


(ハムレット気取りなどやめろというショック療法だとしても限度があるよ、レーナ)


 岩手興行の視察で人間という種を超える異能ちから――『スーパイ・サーキット』を目の当たりにして以来、キリサメ・アマカザリには精神こころの調子を狂わされ続けている。

 『格闘技界の聖家族』の御曹司にとって、本来は記憶しておく必要もない『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー脳内あたまのなかから消える日がない。

 『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーの一員として樋口郁郎の〝全て〟を日本格闘技界から取り除く計画に関わる限り、キリサメ・アマカザリと向き合わなければならないのだ。


「――〝例の異能ちから〟は人類の夢ではなく格闘技を貶めるモノだ。オムロープバーン家の為にも捨て置く気はない。でも、今の優先事項は〝樋口政権〟を終わらせることだろう。アマカザリはその為に必要なコマだ。自分の手で動かすコマの一個と思ったほうがラクだぜ」


 マスメディアに『スーパイ・サーキット』と名付けられた異能ちからを余人には意味の通じない『ラグナロク・チャンネル』と呼んだ瞬間から心を蝕み続けている苦悩は親友ギュンターにも見抜かれ、似たような助言アドバイスを受けていたのだが、伴侶マフダレーナは彼ほど甘やかしてはくれない。

 難民高等弁務官マイク・ワイアットがストラールの天敵であることを理解した上で、マフダレーナはる種の荒療治を託したのであろう。先程の密談は『格闘技界の聖家族』の御曹司に活を入れる段取りの打ち合わせであったわけだ。

 親友ギュンターから掛けられた助言ことばの通り、キリサメ・アマカザリが深紅あか血涙しずくを撒き散らしながら解き放った『スーパイ・サーキット』は、初陣プロデビューのリングを文字通りに破壊している。暴力性の顕現あらわれと呼ぶべき異能ちからであった。

 格闘技は野蛮な暴力ではないことを証明し、オランダに格闘技興行イベントを復活させるべく心血を注いできた『格闘技界の聖家族』にとっても偏見を助長し兼ねない不安材料だが、祖国の格闘家たちの将来を背負えばこそ、キリサメ・アマカザリに対するなど振り捨てて前進しなければならなかった。

 時代が大きく動く狭間では、人間ひと感情こころなど何の意味もなさずに振り落とされるのだ。


「鍵はアマカザリだけではありません。もう一人も――レオニダス・ドス・サントス・タファレルも『MMA日本協会』と足並みを揃えて動き始めました。……『スーパイ・サーキット』などと触れ回っている銭坪満吉スポーツ・ルポライター実益エサで釣れる間はコマと思ってよろしいかと」

「そうやって権力の頂点から引き摺り下ろした後、樋口郁郎イクオ・ヒグチの〝始末〟をどう考えているんだ? トーキョーにロンドン塔の代わりでも用意するつもりかい?」


 今度はマイク・ワイアットのほうがを投げる番であった。

 難民高等弁務官事務所は国連機関――正確には補助機関――の一つだ。「万が一にもテロへの関与が発覚した瞬間に『NSB』の前代表は交通事故に遭う」というストラールの発言を先程は笑い飛ばしたが、『ハルトマン・プロダクツ』の明確な〝標的〟となっている樋口郁郎の〝始末〟に関しては受け流すわけにはいかなかった。

 莫大な利権を手中に収める為には〝裏〟の手段すら厭わない〝スポーツマフィア〟とは違い、人命を軽んじる〝始末〟などは許容の余地もないのだ。次期つぎの国連事務総長に推す声も少なくない。

 ストラールの瞳を覗き込む難民高等弁務官マイク・ワイアットは〝種〟を盤上ではなく地面に置き、表情を引き締めた。


「あの男が煉瓦を積み上げているのはロンドン塔ではなくバベルの塔。〝天〟の怒りに触れたなら、〝硫黄と火〟を放つまでもなく自ずと崩れ去るでしょう」


 余人には意味不明な返答こたえであろうが、不本意ながら以心伝心の関係になってしまったマイク・ワイアットであれば、そこに込めた意図を読み抜くとストラールは確信していた。

 果たして、難民高等弁務官は言質を取ったような笑顔となり、馴れ馴れしく握手を求めることで返答こたえに代えた。

 『格闘技界の聖家族』の御曹司は友好的な印象を与える笑みを浮かべながらも差し出された手は握り返さず、ゴーグル型のサングラスを装着し直し、乱れた髪を風に流すようにしてかぶりを振って見せた。一房に結わえた三つ編みが大きく上下に揺れ、がね色の美しい軌跡を描いている。


樋口郁郎イクオ・ヒグチが崩れた煉瓦の下敷きになったとき、その庇護を受けて『天叢雲アメノムラクモ』に迎えられたキリサメ・アマカザリが〝何〟を知り、どう動くのか――それ次第で日米両国の格闘技界はソドムとゴモラとしかたとえようのない有りさまになると、私は懸念しています」

「そのとき、『格闘技界の聖家族』の御曹司が〝塩の柱〟になっちゃ困るぜ」


 「アタマの中身がな連中はシェイクスピア劇に自分を重ねて酔っぱらう」というマイク・ワイアットの言葉が今になってストラールの心に突き刺さった。ハムレット気取りで煩悶し、『創世記』を引用した自分は『ウォースパイト運動』と〝何〟が違うのか。

 銃ではなく〝別の力〟を〝裁きの火〟に代えようとしているのだ。



 歴史を動かす〝力〟と資格を持つ者は、それを持たざる者にときとして血よりも惨い犠牲を強いる。そして、運命というモノはしばしば本人の与り知らないところで動くのだ。

 ドイツから遠く離れた鎌倉の空の下で青春と呼ぶべきひとときを過ごすキリサメ・アマカザリは、本人が何一つ知らない間に陰謀という名の盤上でコマの如く弄ばれていた。


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