スーパイ・サーキット
その3:凶弾~日本武道バトルロイヤル!柔道VS剣道VS空手VS死神(スーパイ)/格闘家どもは皆殺し──その「正義」を法はテロと呼ぶ・罪なる色でオクタゴンを穢(けが)した銃火の果てに
その3:凶弾~日本武道バトルロイヤル!柔道VS剣道VS空手VS死神(スーパイ)/格闘家どもは皆殺し──その「正義」を法はテロと呼ぶ・罪なる色でオクタゴンを穢(けが)した銃火の果てに
三、First Thing We Do, Let’s Kill All the Fighters.
アメリカ合衆国カリフォルニア州に所在し、同州サンノゼの教区教会としても機能する『ミッション・サンタクララ・デ・アシス』――目の守護聖人の教えを広めるべくアメリカ開拓時代に設立された
設立当時の様式を復元した礼拝堂には祭壇への道を開ける形で木製の椅子が何脚も並べられている。横に長いベンチを据えるのではなく、二〇〇近い数が個別に整列していた。
祭壇の最も高い位置に立つ守護聖人の像は、聖なる燈火によって数限りない迷える者たちの進路を照らしてきたが、今はたった二人を見守っている。
胸元の辺りまで伸ばした髪を編み込み、これを『ダイダロス』とラテン語で刷り込まれたバンダナで持ち上げるルワンダ
カーボン
この青年は心身を鍛え上げる
最前列の椅子に腰掛け、瞑目したまま静かに祈りを捧げるルワンダ人の青年を
若かりし頃、世界で最もストレスが蓄積される環境で働いていた為、険しい表情から元の状態へ戻らなくなってしまった――と、本人も冗談にすることが少なくない。
二人の間柄を知らない者にも血の繋がりがないことは一目で分かるだろう。カナディアンロッキーを覆う白雪のような肌を持つ老神父に対し、青年のほうは太陽に
一〇年来の付き合いである二人は、血縁の有無に関わらず肉親も同然という強い絆で結ばれており、老神父は青年を我が子のように慈しんでいた。事前に電話を貰ったわけでもないのに
敬虔なカトリック教徒でもある彼は普段から礼拝に熱心だが、進むべき〝道〟に迷ったときや鎮め
数日前、この青年は全米を震撼させる惨劇に巻き込まれている。
狂乱としか表しようのない事件が発生した直後、電話で彼の安否を確かめたが、声の調子から今日明日にも守護聖人の導きを求めるであろうと、老神父は察していたのだ。
その青年の名はシロッコ・T・ンセンギマナ――移民文化から近代総合格闘技術へと昇華された『アメリカン拳法』の使い手であり、
ンセンギマナが〝アメリカ英語〟に慣れていない頃から我が子の成長を見守るような
それ故にンセンギマナと『NSB』を襲った凶事については、新聞やニュース番組を通して〝
ンセンギマナの試合中に『ウォースパイト運動』の過激活動家が乱入し、〝
大昔に合衆国大統領に仕えた頃の
二年後のリオオリンピックで
しかも、凶事を引き起こしたのは『NSB』の現役選手と、同門の空手家たちであったという。『
血を分けた親子の間でさえ知られたくないことがある。そして、誰にも打ち明けられない苦しみから人々を救う為にも〝天〟との橋渡しである教会は存在するのである。
普段の賑やかさは偽りの姿ではないかと錯覚してしまうほど静かに祈る間、ンセンギマナは幾度となく顔を歪めていた。
報道によれば、空手衣を纏った思想活動家たちは『NSB』そのものを『平和と人道に対する罪』と
ンセンギマナにとっては己が心血を注いできた格闘技を否定されたようなものである。MMA選手として尊敬の念を抱いていた相手の言葉だけに堪えないはずがなかった。
あるいはその凶事が迎えた恐ろしい結末と、二〇年前の
左の義足が鳴らす甲高い音と共に礼拝堂へ入り、守護聖人を仰いだンセンギマナは、ベイカー・エルステッドを救えなかった――と、懺悔の如き声で吐き出していた。
『ウォースパイト運動』の活動家は『NSB』に対して以前から悪質な〝抗議〟を繰り返しており、
選手やスタッフのみならず、観客にも被害が及び兼ねない状況を憂慮した
ハワイの出身者が多いように見受けられる〝即応部隊〟は、いずれも近接戦闘に長けており、武器など持たず徒手空拳のみで次々と乱入者たちを組み伏せていった。特に蜥蜴の鱗を彷彿とさせるタトゥーで両腕を彩った女性は豪傑の二字こそ相応しく、他の隊員と比べて頭二つ三つは大きい体躯を生かして猛烈に暴れ回っていた。
片手で成人男性の片足を掴み、軽々と振り回して床に叩き付けるなど人間離れした戦い方である。『NSB』が禁止薬物で汚染された時期に
世界最高のMMA団体で高く評価されてきた
程なくして駆け付けた地元警察に引き渡された乱入者は、場内の伏兵も含めて三〇人以上である。観客の罵声を浴びながら連行される間、誰もが信念に殉じる
「どいつもこいつも反省の足りねェ顔しやがって! 殉教者気取りかよ! ……『サタナス』の影響は俺たちが想像している以上にデカいのかも知れねぇな、ンセンギマナ」
自分の犯した罪を誇らしく思っているかのような立ち居振る舞いに戸惑い、その精神構造を理解し切れないンセンギマナは、唖然呆然と立ち尽くすしかなかった。
「流行り病に罹って熱に浮かされるのも若者の経験だからねぇ。……頭を冷やしたら、必ずやり直せるわよ。ヤンチャな想い出を教訓に換えられる真面目なコだと信じているわ」
ブラボー・バルベルデを宥めたのは、現在の『NSB』で最強の二字を冠せられるジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンであった。
『
生きている限り、何度でもやり直せることをジュリアナは誰よりも知っている。ドーピング汚染の暗黒時代に自らも過ちを犯し、一度は現役引退を覚悟しながらも伴侶や仲間に支えられて復活を遂げ、『ザ・フェニックス』と畏敬されるようになったのである。
あくまでも希望を手放さない〝先輩〟選手にンセンギマナもバルベルデも
「――エルステッド選手、先程の提案はまだ無効になっていないわ。『NSB』は仲間に手を差し伸べ続ける。それだけは忘れないで欲しい」
エルステッドの公明正大な
その椅子を用意して、
そうして去っていった背中にか細いながらも希望を感じたからこそ、この
選手の不祥事に対して処分を決定する権限を持つ州の行政機関――
未来への思いが絶望の底に叩き落とされたのは、僅か数分後である。
「――
警察に対する犯行グループの身柄引き渡しを担当し、連行にも立ち合った
セコンドの制止を振り切り、試合に臨んだままの姿で
人波へ逆らうようにして通路を進む間にも〝何か〟が破裂するような音は続いている。それは一つの記憶をンセンギマナの
旧ソビエト連邦から
〝
警察車輛が停められている屋外駐車場にンセンギマナが辿り着いたときには、辺り一面は既に血の海と化していた。
幼き日の忌まわしい記憶を引き摺り出す音――銃火の轟く音も途絶えていない。これに併せて闇夜に冥府へ
鼻孔を突き刺して
ただ一つ、発砲音と悲鳴に奇妙な〝笛〟の音が入り混じる点だけは異なっている。鼓膜から
ブブゼラである。サッカー
闇夜の彼方にも発砲音や目障りな火花が確認できるということは、屋外駐車場だけでなく統合リゾートの建物から銃口を向ける者も少なくないのであろう。地元警察も懸命に
三〇人余りを連行する為に相応の人数で駆け付けはしたが、銃撃戦を想定した準備などあろうはずもなく、極限的な混乱の中で心許ない
平常心を保ったままであったなら、ブブゼラの音を聴き分けて襲撃者の総数などを割り出したであろうが、自分たちが包囲されていることにも気付けないまま殉職者を増やし、これを上回る
彼らは『NSB』の
警察側の指揮系統も機能せず、その
その瞬間、ベイカー・エルステッドが我が身を盾に換えて彼を庇った。
『
それにも関わらず、彼は仲間の血で染まった地面に伏せて凶弾から逃れるのではなく、目の前で脅かされた命を守ることを即座に選んだのである。
流れ弾がアスファルトの地面を跳ねる只中へ飛び出し、全力で腕を伸ばせば届くほどの距離まで近付いていたンセンギマナの目の前で全身を執拗に身を撃ち抜かれた。
「友情を無謀の言い訳にするな! 一緒に助かるよう行動するのが友の務めだろうッ⁉」
ンセンギマナの後を追い掛けてきた
無線連絡で加勢を要請し、返事を待つ間にこめかみを撃ち抜かれた女性警官の一人がサイドミラーに片腕を引っ掛け、両足を力なく放り出していたが、安否を確認できるような状況でもない。そもそも無事とは考えられない出血量である。
その直後に回転灯の一つが砕け散った。一秒でも長く留まっていたなら、ンセンギマナの頭部が弾け飛ぶ火花と同じ有り
イズリアルもエルステッドのもとに駆け寄ろうとしたが、その寸前でジュリアナに止められ、VV・アシュフォードに羽交い締めされたまま連絡通路へ引き戻されてしまった。
団体代表に涙声で自制を訴えるジュリアナこそが本当は誰よりも
「――格闘家どもは皆殺しにしろッ!」
あらん限りの憎しみを込めた罵声が命を吹き飛ばす発砲音やブブゼラの音色と共に何度も何度もンセンギマナの鼓膜を貫いた。
その言葉を耳にしたからこそ〝即応部隊〟のリーダーはベイカー・エルステッドたちを標的とする銃撃であることを見抜いたのであろう。テロ紛いの〝抗議〟を強行した人々はいずれも『
「これが……格闘技の真実……我々の……愛してきたモノの……正体だ……人間の暴力性を剥き出しにし……平和を……壊す……世界を……死で満たして……いく……ッ!」
肺を撃たれ、正常な呼吸が困難となりながらも『ウォースパイト運動』の活動家としての言葉を絞り出すベイカー・エルステッドは、自分が守ろうとした若い男性警官の姿を捉えていた。正確にはその亡骸を瞳の中央に映したと言うべきであろう。
三人が
「……自分は……こんなことの為に……空手を……志したんじゃ……ない――」
大量の血と共に吐き出した「こんなこと」とは、全身が赤黒く塗り潰されるという末路を指すのか、MMAを『平和と人道に対する罪』と一方的に決め付けた独り善がりな失望を指すのか――もはや、その真意を
剥き出しの上半身が
己が歩んできた〝道〟を心の底から後悔しているとしか思えない
「貴様にとって空手とは何だったのだ、ベイカー・エルステッドッ⁉」
慟哭を迸らせた藤太が
直接的にスポーツを標的とするテロとしては、昨年四月にマサチューセッツ州ボストンで開催された市民マラソン大会の爆破事件にも匹敵する惨劇であった。それどころか、二〇〇七年にバージニア州工科大学で発生した銃乱射事件を上回る犠牲者数によって、アメリカ史上最悪の銃犯罪となってしまったのである。
『NSB』の
銃撃が完全に収まったのは、
ンセンギマナ自身は〝即応部隊〟から縦長の
『アイ・ドント・ライク・マンデイズ』――三〇年を超えて歌い継がれてきた名曲誕生の手掛かりとなった銃乱射事件と
全米のマスメディアが最悪の展開と報じたのは、『NSB』と関わりのない一般客にまで多数の重軽傷者が確認されたことではない。銃撃犯までもが全滅したことである。
犯人たちは銃撃の最中に新聞各社やテレビ局へ犯行声明が届くよう電子メールを手配していたが、その中で「人権侵害を繰り返しておきながら、正義の使徒を真似る格闘家に裁きの鉄槌を叩き落とす」と、この〝私刑〟が正当であることを強く主張している。
『ウォースパイト運動』の過激な思想活動家が真っ二つに割れた〝同士討ち〟の如き構図であったわけだ。
最初から〝殉教者〟となるつもりであったことは、銃撃後の行動から明らかとなった。
警察の
二つの凶行の舞台となったのはラスベガスを代表する統合リゾートだ。内部からの手引きがなければ銃火器を運び込めるはずもない。警備部門の一人が『ウォースパイト運動』の思想に染まっていた事実は、当該人物が目的達成を見届けた
銃撃を阻止するべく駆け付けた警備員や、偶然に居合わせてしまった目撃者の証言も報道されたが、乱射に及んだ犯人は誰一人として自死を
極めて酷似する状況をンセンギマナは二〇年前にも味わっている。
国民の一〇人に一人が命を失った
二〇年前の
来月初旬のことであるが、国家的悲劇の終結から二〇年という節目を記念する式典がルワンダの首都キガリの開催され、ンセンギマナはそこで祖国を代表する空手家と
他者と争い、その命を壊すことに〝戦う力〟を
世界のMMAを牽引する『NSB』の
〝パラスポーツとしてのMMA〟の可能性を示すことは、
二度と国家的悲劇を繰り返させない為にも開催される記念式典に
その節目に人間という種の根底に巣食う暴力の狂気を再び突き付けられてしまった。
手を伸ばせた届く距離でベイカー・エルステッドを救えなかった惨劇の夜、
「……オレにとっての拳法と、ベイカーにとっての空手は〝何〟が違うのか――」
耳を澄ませていなければ聞き逃してしまう小さな呻き声を洩らし、緩やかな
そこにこそ言葉では表し
今回の凶事を
「格闘家どもは皆殺し」という怨念を銃弾の一発一発に書き記すような狂気が誰の心からも消え去ることは望んでも、自分と異なる思想の持ち主を滅ぼしたいとは考えもしないはずだ。ンセンギマナの左足も
是正を求める方法こそ間違えてしまったものの、ベイカー・エルステッドは不道徳を断じて許さず、心から平和を愛する空手家であった。暴力性の助長によって国際秩序が崩壊する未来を憂い、MMAと『NSB』の影響力に警鐘を鳴らしていた。
最期の瞬間に
ベトナム戦争が東西冷戦の〝代理戦争〟とも呼ぶべき局面を迎えた時期に国家安全保障担当次席補佐官としてホワイトハウスに勤務していたルロイは、〝死の鳥〟と呼ばれる米軍の戦略爆撃機が美しい田園風景を焼け野原に変えていく
そのときの自分と愛する
考えるな、感じろ――
*
ブラジル最大の都市――リオデジャネイロ郊外の山の斜面には、今にも朽ち果てそうなバラック小屋が数え切れないくらい
ブラジルを〝サッカー王国〟と認識している者も少なくないだろう。六月末で折り返し地点を迎えた
だが、その〝裏〟には世界最悪とも言われる貧富の格差が横たわっている。
強盗傷害や麻薬売買など、犯罪に手を染めなければ生きていけないほど困窮する人々の追いやられた先こそがバラック小屋であり、不法占拠された土地にこれらがへばり付いた
リオデジャネイロが二〇一六年夏季オリンピック・パラリンピックの開催地に決定して以来、治安の悪さの象徴として
人権を踏みにじる悪しき制度が一八八八年に廃止されるまで頻発していた〝逃亡奴隷〟の潜伏先など
それ故に変わらざる格差社会の象徴として、大都市のありふれた風景と化したのだ。
ブラジルという
六年の間に相次いで開催される
麻薬カルテルや人身売買シンジケートといった犯罪組織の撲滅を大目的としている為、社会全体の治安も多少は改善されることであろう。世界中から訪れた人々が満足できる体制の整備というホスト国の責任はおそらく達成されるはずだ。
だが、ファヴェーラ自体の解体は、やむにやまれぬ事情でバラック小屋での
一九六四年東京オリンピックでも開催に先立って都市改造が実行され、大会関連施設や首都高速道路などの建設用地確保の為、国家の威信という大義名分のもとに都民への強制退去が繰り返されたのだ。
およそ半世紀ぶりに同じ東京で開催される二〇二〇年オリンピック・パラリンピックにも突き付けられたこの問題は日伯両国で共有しているはずだが、〝運動会〟と違ってスポンサー企業ひいては広告利権が複雑に入り組んでいる為か、海を挟んだ二つの都市を揺さぶる混乱を紐付けて社会に是非を問うマスメディアは絶無に等しかった。
社会の
社会の〝影〟から競技場目掛けて叩き付けられる
そのレオニダス・ドス・サントス・タファレルもファヴェーラに生まれた一人だが、裕福ではなくとも家族は健在であり、
しかし、
今でこそ世界に勇名を馳せる
幼い頃のレオニダスが隣人たちと比べて少しだけ恵まれていたのは、父親が『ブラジリアン柔術』の師範と親しかったことであろう。手足が伸び切る前から
この僅かな運の差がレオニダスを格差社会の最下層から
油断した瞬間、昨日までの友人から身ぐるみ剥がされてしまう過酷な環境を生き抜く護身術のつもりで学び始めたブラジリアン柔術であったが、一〇代半ばを迎える頃には国内開催の公式大会に
日本格闘技界で一時代を築いたレスラーたちを次々と撃破した功績から〝地上最強〟と呼ばれるようになったブラジリアン柔術の英雄の
レオニダスが稽古を積んだ
現在は巨大なブロッコリーと見紛うばかりのアフロと、上半身の隅々まで彫り込まれた
情熱的な
カポエイラそのものがブラジルでは非常に盛んであり、観光客向けのパフォーマンスや野試合がリオデジャネイロの各所で行われている。
声を一つ発するだけで万人の注目を集められるスター性や、
MMAの試合で披露する変幻自在の蹴りもレオニダスの独創性が支えているのだ。
『
同じ南米であり、
『ブラザー』という呼称が似つかわしい隣人であることは間違いない。
キリサメは暴力性の
尤も、キリサメのほうは
身に備えた〝力〟の使い方も、キリサメとレオニダスは正反対と言えよう。前者は生きる糧を得るべく強盗傷害などの犯罪に手を染め、後者はそうした被害から己の身を守り、洗練された格闘技術を
同じ格差社会の最下層で生まれ育ちながら、正反対の〝道〟を歩んできた『
開戦のゴングが鳴り響く直前にレフェリーがルールの確認をする間、レオニダスは自分に向けられたカメラと、その先に
人を魅せる技術とはいえ、生まれて初めての師匠――
レオニダス・ドス・サントス・タファレルは、舌の表面にも〝
見る者の
「――ブラジルでは『ルタ・リーブリ』っつう格闘技も有名なんだよ。コレとブラジリアン柔術の間には『
ブラジルを発祥とする幾つかの格闘技と、その間で生じた勢力争いを例に引きつつ、レオニダス・ドス・サントス・タファレルの来歴を
ブラジリアン柔術の歴史を紐解いていくと、必然的に『
その三年前には若き日の岳もブラジリアン柔術に道場破りを仕掛け、返り討ちに遭っていた。いずれも〝古傷〟として割り切るには苦い想い出であるが、これを振り返るという精神的な自傷行為に及んでもいられないほどの緊急事態が目の前に迫っているのだ。
MMAデビュー戦で危険行為を繰り返し、闘魂のリングを〝暴力〟で
どれほど憂慮しても足りないほどの危機的状況であった。
これに加えて、頭を悩ませなくてはならない〝何か〟が別に
キリサメの
『
岩手興行の物も含めて、過去にレオニダスが臨んだ試合
二〇〇〇年代半ばに訪れた日本MMAの黄金時代を八雲岳やゴーザフォス・シーグルズルソンと分かち合い、〝プロ〟選手としての
MMA
彼にとってカポエイラの足技は、蜘蛛が吐き出す〝糸〟にも等しいのだ。
根を張るようにしてマットを踏み締め、力強く構えて鉄拳を打ち込んでいく
上下左右に
幾重にも張り巡らされた『
半月前の岩手興行もまた戦慄の二字こそ似つかわしい
『昭和』と呼ばれた時代に〝スポ根〟ブームの火付け役を担った漫画原作者――
実際には逆立ちで放つ技を体系に含んでいるだけであって、常にこの状態を維持し続けるわけではない。それにも関わらず、レオニダスは開戦のゴングが鳴り響くなり豊かなアフロがマットを撫でるような姿勢となったのだ。
改めて
レオニダスが愛するサッカーでは『マランダラージ』と言い表されることであろう。知略を意味する
国際ルールに準拠する『
パンフレットや公式サイトに掲載する
勝敗の天秤が傾いたのは、その瞬間のことである。レオニダスはマットの上を滑るようなパフォーマンスから再び逆立ち状態へと転じ、右の足裏を連続して突き上げ、マクシモヴィッチの顎を
この時点で意識に空白が生じていることは誰の目にも明らかであったが、『
防御も回避も不可能というマクシモヴィッチは竜巻に激しく回転させられた風車の如き有り
自身の左足をマクシモヴィッチの首に巻き付け、折り畳んだ膝裏で一等強く
この時点で首と肩を両太腿で挟み込む状態となっているのだが、上体を大きく傾かせたマクシモヴィッチの右腕に対して、レオニダスは左の五指で下腕を、右の五指で手首をそれぞれ繰り出し、これを掴むことによって右手一本を完全に〝拘束〟したのである。
獲物を搦め取る蜘蛛の糸とも
勢いよく落下させられた衝撃によって脳を揺さぶられ、マクシモヴィッチは意識を取り戻したのだが、それは更なる苦痛に苛まれる不幸でしかなかった。神経を破壊されながら絶命に至るのが〝
両足による締め込みでもって首と右肩を、両手によって利き腕の全体を、身じろぎなどでは振り解けないほど強く〝拘束〟したレオニダスは、その状態を維持したまま相手の肘関節を可動域の反対側へと引き延ばした。
軋み音が聞こえるほど関節を反り返らせることで
意図的に腕を壊したことは明白だが、キリサメのような反則行為を働いたわけでもない以上、
無駄口を好まないマクシモヴィッチでさえ抑えられなかった苦悶の声が損傷の深刻さを表している。『
髪型がアフロに変わるよりも
彼は激痛に耐え兼ねてのたうち回る
「
「僕の場合は要求に応じたというか、断ろうにも断れない状況に持ち込まれたようなものですけど、その
「キリーが来る
「これで喧嘩殺法にも――いえ、〝路上の潰し合い〟にも慣れているのなら、勝ち目を見出すには〝殺気の
それがレオニダスに対するキリサメの偽らざる印象であった。『
これに対してレオニダスは骨を
岳は愛弟子の
あるいは国こそ違えども暴力と犯罪が支配する〝闇〟の最下層で生きてきた者たちの間に閃く直感と呼ぶべきかも知れない。
ブラジリアン柔術やカポエイラといった祖国の格闘技について、
勝敗を決した寝技へ持ち込む
そのときは血飛沫だけで済んだが、直撃を被った部位によっては
しかし、これは
イヴィツァ・マクシモヴィッチは
長年の経験に基づく手堅い試合運びをレオニダスが強引に覆したようなものであった。
〝格闘技バブル〟とも呼ばれた日本MMAの黄金時代といえども、既に想い出の彼方に過ぎ去った埃まみれの栄光でしかなく、これから迎える〝新時代〟の前に〝道〟を譲るのみであろう――遠くない
素行こそ不良であるものの、『
だからこそ、樋口直々の裁定で両者の
岩手興行ではセコンドとの見解の相違から試合中に戦略そのものが暗礁に乗り上げてしまったが、数段階もの
見習いの身分とはいえ
脳が認知する視覚情報をも惑わしてしまうカポエイラへの対策を
無論、幻惑を見破る
組技や寝技に打撃を連ねる点に
キリサメの親友――
独自の研究と修練を重ねて現代に『コンデ・コマ式の柔道』を甦らせた電知は、所属団体間の対立も超えて『八雲道場』の依頼を快諾。大工という〝本業〟があるので平日は夕方と夜のみに限られるが、毎日のように
岳が技術指導を務める長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』に混ざる形で実施した
六月最後の日曜日も適度に休憩を挟みつつ、朝から組み合い続けていた。
足技を主体とするカポエイラではなく、日本の古武術に由来する〝
打撃から
練習用の
電知は黎明期の
これに対してキリサメのほうは『
『ケツァールの化身』なる通称の由来ともなった尾羽根の如き三枚の布切れも
二人が折り重なるようにして身を転がしたトレーニングマットは、世界最大のスポーツメーカーと名高い『ハルトマン・プロダクツ』の製品であり、衝撃吸収の素材がすこぶる優良だが、ポリ塩化ビニル製のカバーで覆われた表面は、数分
「――もう一丁、行くぜ、キリサメッ!」
「お手柔らかに頼むよ」
やや離れた位置から一気に踏み込む
背中からマットに飛び込む体勢となり、同時に左右の足でキリサメの両太腿を挟み込んだ。次いで電知は地面に突いた右掌を支点として身を捻り、彼をうつ伏せに薙ぎ倒した。
『
互いに屈んだ状態で向き合う恰好である。電知は低い姿勢から両手を繰り出し、キリサメの右手首と腰の帯の内の一本を掴んだ。
二人分の体重を横方向へと振り回し、転がるような形で寝技まで持ち込むつもりなのであろう――そのように読んだキリサメは
「――そんなにチョロく引っ掛かっていると本番が心配だよ、サメちゃん。日本の
「珍しく寅がまともなコトを言ってらァ。おれも
電知の追い撃ちを警戒する反応こそ鋭かったものの、全身に力を込めた結果、キリサメは静止状態も同然となっている。
そして、刹那の好機を見逃す電知ではない。掴む部位を帯から右肘に切り替えた瞬間、キリサメの身体を自分の側へと強く引き付けたのである。これと同時に両足を振り上げ、彼の右腕ごと首を挟み込もうとした。
「考えるな、感じろ――今また
腕の関節を極めつつ首を絞めようというわけだが、キリサメは技が完成する寸前で左下腕を自分の首と電知の右足の隙間に差し入れ、巧みに凌いでみせた。
すかさず電知は仕切り直しを図る。手首を掴んだ左の五指はそのままに、右の五指を肘から襟に移し、その流れと合わせるように左足の裏でキリサメの腹を蹴り付けると、これを押し当てつつ後方へ転がり、膝の屈伸運動でもって彼を投げ捨てた。
柔道の
尤も、電知の場合は巴投げと同じ体勢に持ち込んだ
親友との馴れ初めとも呼ぶべき想い出を引き摺りながら放り出されたキリサメは、身を捻りつつ着地し、反撃の蹴りに転じようとしたが、その寸前で動きを止めた。
「
「そりゃおれの台詞だぜ。今の三角絞めは完璧だと思ったんだけどなァ」
キリサメが着地したときには既に電知も身を起こしていたのである。迂闊に蹴りを打とうものなら
電知との
ブラジリアン柔術の黒帯を締めるレオニダスに
カポエイラの足技も油断できないが、キリサメは『
打撃という唯一の利点を最大限に生かし、これを勝機に変える為、一方的に畳み掛けられない
「簡単に勘を掴んでくれるから、やり易いぜ。工夫する楽しみを作ってくれるのだって嬉しいもんよ。キリサメ、関節技も使えたよな? 寝技の
「正確には似たような物だけどね。関節を極めて
「つまり、二戦連続で失格になろうものなら、愛しの未稲ちゃんや
「邪悪なサブミッション大会みたいな
寅之助の冗談に対して神妙な面持ちで頷き返したキリサメに電知は腹を抱えて笑った。
本人が大真面目に述べた通り、キリサメが編み出した
言わずもがな、関節を狙う攻撃も後遺症の
得体の知れない喧嘩殺法を『
「
「そこはキリサメ自身の努力の成果だって! ちょっと手合わせしない間に、目ん玉飛び出すかっつーくらい見切りの精度が跳ね上がってたぜ!」
「
親友から「簡単に勘を掴んでいく」と褒められたキリサメであるが、本人は『コンデ・コマ式の柔道』による寝技に必死で喰らい付いているような状態である。ほんの僅かでも油断すれば、彼は容赦なく首を絞め落とすはずだ。それほどの緊張感が持続する
その
『
先程も鳩尾を狙う右の肘打ちから投げに連ねていく
後方に半歩ばかり
辛うじて後頭部を強打することは避けられたが、マットへ叩き付けられた後には背後から首を絞められてしまったのである。今し方の三角絞めも
背中から投げ倒されたキリサメであるが、電知が覆い被さるような体勢で拳を振り下ろしてきたならば、素早く防御や反撃に切り替えられたことであろう。
しかし、これはブラジリアン柔術の『
『
キリサメ自身、プロデビュー戦で刻まれた
最近はMMAの練習メニューを専門に提案・管理する〝軍師〟も付いてくれている。
性格上、己の力量を過信することもないのだが、それでもキリサメはほんの短時間で親友と大きな差が開いていた〝事実〟が信じられなかった。
「絶好調という言葉は電知に相応しいんじゃないかな。技の切れ味が桁違いだよ。さっきも『
「電ちゃんってばとっておきの新技も鋭意開発中みたいだよ。
「地獄耳とはこのコトだな。その話、どこで聞いてきやがったんだよ。おめーは勿論、
「話の流れから察するに
「うんうん、サメちゃんも順調に〝電ちゃん色〟に染められてきて、ボクは嬉しいよっ」
口を
電光石火の
「――MMA選手として〝次〟にステップアップするには、アマカザリさんしか持っていない武器を徹底的に伸ばすべきです。ケンカ技に頼り切りの現状では少しも足りません。勿論、〝
新技という言葉の響きに引き寄せられ、キリサメの脳裏に〝軍師〟の声が甦った。
見る者の心を奪うショープロレスや
さりとて岳のように結果を性急に求めることもない。三ヶ月という時間を最大限に生かして段階的な〝進化〟を目指していく――キリサメ・アマカザリというMMA選手の活動を全面的に
キリサメの自室に格闘技とスポーツに関連する参考書を何箱も運び入れたとき、小さな〝軍師〟は「ぼくは未稲さんのように甘やかしませんよ」と極太の眉を吊り上げていた。
「
全くの偶然であるが、師匠の
型を極めてこその型破り。型を知らねば形無し――大小の焦燥を具体的な課題に換えてくれる教訓をキリサメは心の中で唱えた。
「それこそキリサメのお陰だぜ! 新しい目標が出来たっつーの? 親友に置いていかれるワケにゃいかねぇもん! そりゃあ、ノリノリでキレキレにもなるぜッ!」
「そこでボクの存在を眼中にも入れてくれないなんて、電ちゃんってば冷たいなぁ~。ヤキモチ極まって『
「
格闘家としての在り方と、その志を貫かんとする
二人とも尊敬の対象ということに変わりはないが、電知は肩を並べて切磋琢磨する親友である。『コンデ・コマ式の柔道』と相対するのは
それは電知の側も同様であろう。彼自身が絶賛した見切りの鋭さ――即ち、反応速度と適応能力が『コンデ・コマ式の柔道』を更に鍛え、キリサメが置き去りにされるのではないかと感じてしまうほど加速度的に強くなっていくのだ。
電知の成長に貢献できることが何より嬉しく、同時にほんの少しだけ悔しい。これもまた〝親友〟という
「――爽やかな青春は結構なんだが、それをどうして我が家でやる必要があるんだ?」
トレーニングマットの上で微笑み合う二人の少年に向けて、寅之助とは別の傍観者が溜め息を一つ零した。
築数十年と
彼も
「こんなに良いモン、正忠サン一人で使うだけじゃ勿体ないじゃん。『
「私が作った物なのだから、独り占めは当然だろう。連絡もなく大勢で押しかけてきて、何を言っているんだ、空閑君は……」
「友達が遊びに来ない家だって評判じゃねーか、正忠サン
「お世辞でも何でもなく度肝を抜かれました。使い勝手は勿論、全部を自作する熱意は尊敬の一言しかありませんよ。
「……そう? アマカザリ君もそう思うかい? そんな直球で褒められてしまうと、おもてなしをしないワケにはいかなくなってしまうなぁ」
キリサメや電知が揃って褒め称えた〝使い勝手の良い物〟とは、庭先に設置された無数の野外運動器具のことである。
鉄骨と無数の鉄パイプを組み合わせた特製の
山なりにうねる
二本の鉄パイプを等間隔に立て、細いロープと小さな木板を組み合わせて足場を設けた器具も印象的だ。姫若子は一気に走り抜けたが、互い違いの足場は極めて不安定であり、支柱にも細い鉄パイプを用いているので、体重の掛け方を誤れば倒壊する恐れがある。
驚くべきことにボルダリング用の人工壁といった大型の物まで全てが姫若子の手作りであった。木製の太い支柱からサボテンの針のように無数の棒が飛び出した器具も置いてあるが、わざわざ樫の丸太から削り出して拵えたという。
種類豊富な器具が
果たして、近隣住民はどのような目で珍妙な家を見ているのだろうか。
かつて武士の都と呼ばれた
脱サラして手に入れた庭に訓練用の器具を設置し、思いのままに
最愛の人に理解されなかった悲しみを背負っていることもあり、一回り以上は年下の少年から野外運動器具を褒められた姫若子は、満更でもない調子で顎の辺りを親指で撫で、身の
複雑な家庭事情を抱えているとは知らず、姫若子の家まで出稽古に赴きたいと提案したのは意外にもキリサメであった。
〝共通の知人〟である電知から聞かされた野外運動器具への関心は言うに及ばず、
そのことを
『
「
「
当時、営業職で働いていた姫若子は、平凡かつ単調ながらも〝出世街道〟を順調に進んでいたそうだ。そのような折に友人のヴィクター黒河内から『
もはや、中年へ差し掛かろうというのに、若かりし日に志した
『
「見た目はジジ臭いし、大人ぶった空気出しまくりだけど、中身は電ちゃんとあんまり変わらないからね、このおじさん。そういう意味でもサメちゃんの〝お仲間〟ってワケさ」
電知の
実際、『
今日も自分の家が荒らされてしまうのではないかと、寅之助の一挙手一投足を警戒している様子である。
(姫若子氏は
かつての黄金時代から日本MMAを支えてきた
人生の半ばで生き方を変えるという選択は、『世界最強』を夢見て一直線に突き進む電知とも似て非なる志であろう。
しかし、『百聞は一見に如かず』というべきか、姫若子宅の庭を双眸で捉えた瞬間、何もかも腑に落ちた。強引に納得させられてしまうだけの衝撃とも言い換えられるだろう。
己が専念すると決めたこと以外の全てを切り捨て、余人が理解に苦しむほどその環境を整え、鍛錬を重ねてきたからこそ、キリサメが未だに到達していない殺気の
それも格闘家として学ぶべき生き方であろう。同時に八雲家の将来に暗い影を落とさない為の教訓である。尊敬すべき〝先輩〟とはいえ、全てを肯定するのも危うかった。
「――水分補給含めて一休みとしようや! 若いヤツは
右拳で
高い位置から声が聞こえてきたのは、姫若子自慢の
小さな〝軍師〟と共にキリサメの練習メニューをマネジメントする麦泉も一緒である。
ジャングルジムの下に立った彼は、
怪我が原因で早期の現役引退を余儀なくされたものの、
麦泉自身はキリサメがMMAを生業とすることに必ずしも賛成しておらず、セコンドには付いたものの、初陣前の練習にも積極的には関与しようとはしなかった。
しかし、次戦の相手は日本MMAの絶対王者とも肩を並べる
「空閑君の言った通り、キリサメ君の動きも順調に無駄がなくなってきているよ。ここ何日かで体重移動への反応も速くなっているし、そこは寝技に引き込まれそうになったときに重要なポイントになるから、しっかりモノにしていこう」
実際に
「
「あ、あーゆーのはテレビ向けの演出だぜ! 実態とは全ッ然違うの! 『新鬼道プロレス』だって練習は死ぬほどハードだったけどなァ、休憩も許さねェ〝シゴキ〟や、暴行紛いの〝可愛がり〟と一緒にされたくねェよッ!」
トレーニングマットの傍らに立つ寅之助は
その麦泉は休憩になると、
彼は『
「柔術対策をやり始めて数日でその出来栄えだ! 本番にはマジでレオの野郎を寄せ付けなくなってるかも知れねぇな! とにかく焦りは禁物だぜ。じっくり取り掛かれよ!」
「岳氏にしては珍しい
「くっそゥ! ンなコトねェって言い返せねェ自分の性格がツラいぜッ!」
切れ味の鋭い
この数日、岳は外出を要する仕事以外ではキリサメに付き纏っていた。自宅道場で
事ある
出稽古の引率についても麦泉の随伴を理由にして最初は断ったのだが、それで引き下がる岳ではない。
異様としか表しようのない過干渉の発端は明白である。つい先日、『八雲道場』のかかりつけ医である
八雲家の他、マネジメント担当の麦泉や
極めて繊細な問題を孕むという性質上、親友の電知は言うに及ばず、岩手興行に
藪総一郎から紹介された〝もう一人の医師〟の診察を受けた際、伏せておく理由もないと考えて『スーパイ・サーキット』が発動する瞬間に起きた全てを明かしたのだが、ケースカンファレンスの出席者に共有されたその内容こそが養父を変調させた原因であろう。
何よりケースカンファレンスで論じられた〝
『八雲道場』に
(中途半端なみーちゃんもどうかと思うけどな。選手の活動報告が
〝遊び〟といえば、未稲はネットゲームの約束がある為に出稽古には同行していない。問い
電知と組み合っている間は忘れていられたが、それが途絶えた途端に「相談にも親身なんだもん。ステキな人なんだろうな」と、陶酔したように会ったこともない
「八雲さんも面白いことを考えるものですよ。ブラジリアン柔術の対抗策に空閑君をアテるとはね。コンデ・コマ――前田光世のことを考えたら、
冷蔵庫から持ってきたスポーツドリンクのボトルを三人の少年に手渡しながら、姫若子はジャングルジムの岳を仰いだ。一度は足を滑らせ、骨組みに片足を引っ掛けて裏返る状態となったが、忍者に相応しい身のこなしで姿勢を立て直し、再び頂上に腰掛けていた。
岳と並んで名前を挙げられた電知も「先祖返りだもんよ」と即座に反応し、
「考えてみると、不思議な巡り合わせだな。同じ
「あれあれ~? サメちゃんってば、そのテの
「寅之助の言葉を借りるなら、『電知の色に染まった』ってところかな」
姫若子と電知の会話を受けて
〝地球の裏側〟から日本へ移り住んだ直後の彼であったなら、ブラジリアン柔術の対策として『コンデ・コマ式の柔道』の使い手である電知を
格闘技全般への勉強が
「そうとも! ブラジリアン柔術自体、『コンデ・コマ』こと偉大なる前田光世大先生が始祖なんだからなァ!」
コンデ・コマ――その日本名を
世界を経巡りながら一〇〇〇回もの異種格闘技戦を繰り広げ、生涯無敗を貫いた伝説の柔道家が海を渡ったきっかけは、日本が誇る武技・柔道を振興する為であった。
長い鎖国の幕引きとなった明治維新と、これに伴う文明開化を経て日本は西欧列強と関わることになる。時代の潮流と前後し、古流柔術から発する形で
間もなく頭角を現した前田光世は、世界に通じる〝文化〟として柔道を普及するべく講道館の先達と共に渡米、大統領の計らいによってホワイトハウスでも試合を行った。
「前田光世大先生以外にも世界に向けて柔道普及に力を尽くした人も多かったんだ。キリサメは『スモール・タニ』って名前、聞いたことがあるか?」
「不勉強ながら、その名前は聞き
キリサメが素直に首を横に振る一方、岳は「さすがに詳しく調べてるじゃねーか」と、勉強熱心な電知へ感心したように微笑んでいる。
「スモール・タニこと
柔道の教本にも関わらず、『ジウジュツ』と表記されていたそうである。
「柔術史――いや、武術史に残る偉人だぜ! ちなみに『スモール・タニ』は
世界一有名な名探偵のシャーロック・ホームズは『バリツ』という日本武術の心得があり、これを
一八九三年に一度は衝撃の結末を迎えたシャーロック・ホームズシリーズの〝復活〟にコナン・ドイルが取り掛かった同時期、まさしく
そして、電知の
ホワイトハウスに
その後、前田光世は〝格闘巡業〟の如く
千戦無敗という異種格闘技戦の中で、現代の空閑電知が『コンデ・コマ式』と称する技術体系を確立させていったわけだ。古流柔術に組み込まれながらも新時代の武技・柔道として完成される過程で省かれた〝
〝世界最強の格闘家〟は未だに決していないが、候補として必ずコンデ・コマ――前田光世が挙がる。この鮮烈な生き様を一つの道標として据えるべく、日米MMA団体共催による格闘技
伝説の男が最後にたどり着き、生涯を終えることになったのがブラジルという南米の国であった。同国では柔道普及だけでなく開拓移民事業にも尽力し、日本から移り住んできた同胞と共にアマゾンの原生林を切り開いていった。
『コンデ・コマ』とは世界各国を経巡っている
コンデ・コマ伝説の最終章は、その志を継ぐ者たちによって
「前田光世からコンデ・コマに名前を改めて、ブラジルに腰を据えた頃には『柔道』じゃなくて『柔術』を名乗っていたそうなんだけどな」
「ブラジリアン柔道ではない理由が調べても分からなかったのだけど、今の話で謎が解けたよ。だから、電知も『コンデ・コマ式の柔道』と呼び分けているんだな」
「ついでにもう一つ説明を上乗せするとブラジル現地だと『ジウジツ』って名前で通っているらしいぜ。日本人が伝えた『柔術』を、何とか日本式の呼び方をしようって頑張った結果の『ジウジツ』ってな。おれなんかはこの健気さが堪らねぇんだなぁ~!」
「その気持ち、全部じゃないけど、
「おれが色々な手掛かりから辿り着いた〝コマの技〟はブラジル移住前に使ってたモンが殆どなんだけどな。欧米で異種格闘技戦やってた頃っていう説明が分かり易いか」
それ故にブラジリアン柔術と『コンデ・コマ式の柔道』は完全に一致する
『忍法体術』を極めた
「不勉強だから僕の誤解かも知れないけど、ブラジルで開催される『バーリトゥード』にもブラジリアン柔術は関わっているのか?」
「前田光世大先生の直弟子の一族は世界で闘った師匠に倣って〝
「ルタ・リーブリのことだよな? 岳氏から名前だけなら……」
「その
「電ちゃん、それでシメたいが為にサメちゃんにルタ・リーブリの話題を振ったよね」
「こちとら前田光世大先生の志を追い掛けてんだ! 当ッたり
ブラジルのバーリトゥードも、『
「――いやいやいやいや! その心意気を真に継いでるのは『
『
「ブラジリアン柔術が本格的に普及し始める前後でMMAの有り
格闘技術の変遷という実例を挙げ、MMAが辿った歴史の一端を紐解く岳であったが、自身や
一方の電知は、
「そんなとんでもねェ格闘技を〝
「そして、その一族に『ジウジツ』を授けたのが世界で闘ってきた
「イイぜ、キリサメ! そこまで
『NSB』の発足に協力し、『鬼の遺伝子』に名を連ねる
洋の東西を問わずMMA初期は
反則行為を除いてあらゆる攻撃手段が認められるMMAでは、必ずしも相手を
その戦略がMMAのルール下で猛威を振るい始めると、キックボクシングなどの打撃系格闘技を
互いの関節を攻め合う〝極めっこ〟という
「ブラジリアン柔術のお陰でMMAは新時代に突入したんだけどよ、それもそろそろ超えなきゃいけねぇ。
ジャングルジムの頂点から縦回転と共に飛び降り、軽やかな着地と同時に
僅かな逡巡を差し挟むことなく養父に頷き返したキリサメも、次の熊本興行こそが本当の正念場であると強く意識している。
電知との
「今度こそ期待に応えたいと思います」
気を引き締め直すキリサメとその養父の顔を交互に見比べた
「岳のおっさん、ドナトなんちゃらってのは、どういう意味だよ? 前田光世大先生から何を継いで、それを誰に伝えたって? レオニダスに対抗心を燃やしてるからって、キリサメに柔術の歴史を誤解させるような与太話を吹き込むんじゃねーよ」
電知が意味不明の四字を顔面に貼り付けたのは、『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』という人名と
「オレもさっきから気になってたんだよ。日米のMMAを覚醒に導いてくれた例の一族を〝
果たして、それは先ほど岳が電知の
『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』という名前を聞いても当該する人物まで辿り着けなかった様子の電知に対し、岳は如何にも拍子抜けといった
「一族の最長老兄弟が前田光世大先生の直弟子ってのは格闘技界の常識だろーが。スポーツ新聞のガセ
「可哀相なおっさんを見る生暖かい目をやめろよ! オレがさっき言った『ドナト・ピレス・ドス・ヘイス』っつーのは
「おっさん、マジで大丈夫か? 柔術最強の一門、前田光世大先生の直弟子でなきゃ説明つかねぇコトばかりだぜ? サッカー
「一九五一年の決闘を持ち出されなくても、あの一族の強さは誰よりも知ってらァ! ブラジリアン柔術の振興も、MMA誕生への貢献も、幾ら感謝したって足りねェぜ!」
「なのに前田光世大先生の直弟子であることを〝誇り〟にしている一族の歴史だけは頑なに認めねぇってか? 幾ら何でも無粋の極みだぞ、岳のおっさん」
「オレだって根拠もナシにこんなコトは言わねェって! 大昔、『新鬼道プロレス』に所属していたブラジル出身のレスラーから教わったんだよ! ブラジリアン柔術の達人からなァ! ……正確には鬼貫の兄ィ経由でその話を聞いたんだけど」
「根拠は又聞きかよ⁉ それをアタマから信じてこのザマかよ⁉ 一族の最長老を
「だ、大体よォ、ブラジルに柔術を伝えた日本人は
「
直弟子である先駆者の一族が
「歴史好きは自分なりの解釈とやらが火種になって揉めるからねぇ。サメちゃんも迂闊に近寄らないようにね。特に一流派の〝正統〟争いは裁判になる程度には厄介だよ」
「仮にも
寅之助にも言い争う養父と親友から離れるように促されてしまったが、双方とも己が信頼する根拠に基づいてブラジリアン柔術の歴史を紐解いている為、出口すら見えないまま平行線を辿ることは必至である。
電知は旧来からの通説を、岳はそれとは異なる切り口をぶつけ合っているのだが、学術的検証ではなく感情が先行している状態では、主張の正しい側を判別できるはずもない。
(……タファレル氏の事情は分からないけど、〝直系〟の道場で学んできた柔術家が後になって岳氏の言う人物を知ったら、〝何〟を思うのだろうな)
岳から聞かされた
ブラジリアン柔術の〝系譜〟は本国でも様々な憶測と議論を呼んでいることであろう。
幾度か目の前を通り過ぎていった〝系譜〟という二字が
「海を渡って新しい格闘技を生み出す礎になるなんて、
それは姫若子の修めた
日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させてアメリカ本土に伝えたのが発祥であることも、キリサメは『ミトセ』という名前と共に姫和子から教わったのだ。
その姫若子に向かって話しかけたキリサメは、互いの眉間を擦り合わせながら己の主張を譲ろうとしない電知と岳の
「ミ、ミトセだぁッ⁉」
ブラジリアン柔術の〝系譜〟を巡って
*
潮の香りと共に古都の余韻が吹きつけてくるかのような鎌倉の海岸線を空閑電知と瀬古谷寅之助、そして、キリサメ・アマカザリの三人が心地よさそうに駆けていた。
出稽古先の姫若子宅から海沿いの道路へランニングに出掛けた三人は、
本来の予定では
先導するようにして水平線を望む場所まで走った電知は「岳のおっさんの
穏やかならざる電話連絡を受けたのか、麦泉は良いニュースと悪いニュースを同時に聞かされたような
稲村ガ崎は岬の上に展望台があり、長い階段を登り切ると果てしない太平洋を背にする鎌倉の風光を味わうことができる。風景画などを趣味とするキリサメは、スケッチブックを持参していないことを悔やんだくらいである。
高台である為か、平地より風を強く感じられ、火照った身体に心地良い。キリサメも水平線の彼方を眺めながら肺一杯に潮の香りを吸い込んだ。ランニングの邪魔になるので出発前に一本残らず外してしまったが、今も帯を締めたままであったなら、岳の陣羽織のように音を立てて
展望台の東屋に設えられたベンチへと腰掛け、
「鎌倉幕府が滅ぼされた
電知が語った
日本が中世へ突き進んでいく過渡期に
俗に『
尤も、潮風を目当てに古都を訪れる者の殆どは、己の足で踏み締めるこの〝場〟が数世紀の昔に修羅の巷と化したことなど、キリサメと同じように夢想だにしないだろう。
中世から現代へと移ろい、煌めくような波が打ち寄せる鎌倉の海は、六月最後の日曜日の昼下がりということもあり、波乗りを満喫するサーファーたちに埋め尽くされていた。
浜辺からやや離れた位置に目を転じると、セイルボードの帆が横に連なって壁を作っているようであった。
「鎌倉幕府だってバカの寄せ集めじゃねぇからよ、討幕軍が攻め寄せてきたときには海一面に軍船を並べて警戒していたんだけどな。そこは日本史の不思議っつーか、
「モーセの十戒みたいな話だな……」
「奇跡ってのはあるもんだよな。潮が引いたら岬沿いに鎌倉市街まで続く道が開けたって言うんだからよ。
転落防止用の柵から少しばかり身を乗り出した電知は、海に向かって大きく迫り出している崖の辺りを指さしながら、「きっと、あの辺りに道ができたんだよ。そこを
「迎え撃つ側が予想もしていない一点を突いたということか。干上がると浜辺に道が出現することを事前に調べておいて、潮の満ち引きを読んだのかも知れないな」
「サメちゃんってば、関ヶ原決戦の布陣図から勝敗を読み解いたメッケルみたいじゃん。あっ、コレも後世の創作だっけ。ファンタジー顔負けの逸話は誇張を引き剥がさないと実態が掴めないもんだよ。鎌倉は難攻不落って通説もアヤしいみたいだしねぇ~」
「敵の侵入を四方から妨げるということは、一旦、懐深くまで攻め込まれたら、立て籠もる側が袋の鼠になり兼ねないという意味でもあるよな。それはそれで
「
これ見よがしに
「正忠サンが
「……時代が合わなくないか? 僕は日本史に明るくないけど、鎌倉幕府と日系移民に数世紀の隔たりがあるコトくらいは
「正忠サンにどこまで聞いたか知らねぇけど、アメリカン拳法の祖と伝わる『ミトセ』は御先祖が日本人でよ。『
そこまで聞いてキリサメは電知が
鎌倉を攻め落とした武将と同じ時代を
「……岳氏の様子もおかしかったし、あの場で『ミトセ』という名前を出したのはやっぱり良くなかったのかも知れないな。まさか、禁句だとは……」
「岳のおっさんが過剰反応した理由は分かんねーけど、正忠サン的にはアメリカン拳法の手掛かりを探りたくてお前に『ミトセ』の話をしただけだと思うぜ。気にすんなって」
東屋を出て落下防止の柵まで歩み寄った電知は、キリサメと寅之助が両隣に並ぶのを確かめてから鎌倉の海へと視線を移した。
サーファーたちの笑い声が聞こえてくる水平線ではなく、もっと遠くの〝何か〟を見るような眼差しであった。
「……神通の――哀川の
最寄りの高校のバスケットボール部と
『
歴史学者でもあったともいう『
「……
「そのまさかってヤツ。哀川の
何事にも無感情なキリサメもこれには双眸を見開き、小さな呻き声を洩らした後には全く言葉を失った。
宗家継承の
だからこそ、哀川神通と『ミトセ』が一本の線で繋がった衝撃にキリサメは打ちのめされたのである。今、この瞬間まで想像すらしなかった筋運びなのだ。
『
その哀川斗獅矢が『局長』なる肩書きで束ねたとされる〝武闘集団〟について、寅之助は
「姫若子氏は『ミトセ』のことを神通氏に――」
共に
「――話しちゃねぇと思うぜ。おれだって『ミトセ』のことは偶然知ったくらいだもん。ブラジリアン柔術と前田光世大先生の話をしたときに、正忠サンのほうから似たような人物がいるって切り出してきてな。丁度、さっきのキリサメと同じ流れだったよ」
「その場に神通氏は……?」
「一緒だったら、きっとキリサメが心配しているような事態に陥ってたと思うぜ? 今のところは取り越し苦労だって安心しとけよ。……哀川だって『ミトセ』との因縁はごく限られた人間にしか喋ってねぇと思うぜ。ペラペラ話すような
電知の言う通りであった。双方とも納得の上で執り行われた他流試合――〝死合〟の結果とはいえども、何しろ哀川家の運命を狂わせた発端とも呼ぶべき存在である。忌むべき名を軽々しく口に出来ようはずもあるまい。
宗家継承の
姫若子のほうもアメリカン拳法との接点があるとも思えない神通の前で、わざわざ『ミトセ』の名前など口にしないだろう。「お前がそんなに心配性だったなんて知らなかったぜ」と愉しそうに笑う親友にもキリサメは言い返せなかった。
「さっきからず~っと考えているのに一向に分からないんだけど、どうして電ちゃんは哀川さんと『ミトセ』とやらのハナシを知っているんだい? ボク、名前の一文字だって聞いた
「
「それでも離れずにいてくれる電ちゃんと照ちゃんが好きだよ。ついでにサメちゃんも」
「このバカは勿論、他の連中もどうだか分からねーけど、おれと
訳知り顔で
友人である哀川神通の
言葉を交わすようになって間もない自分と『
(……でも、僕は神通氏と名前で呼び合っているし、それにあの純白の
神通のスカートが
未稲と
亡き母が夜な夜な枕元に立ち、「こんなクソ野郎に育てた
「いずれにしても、正忠サンがアメリカン拳法を探ってることは哀川にゃ黙っといたほうが良いと思うぜ。……せめて、『ミトセ』の名前は出さないでおけよ。まァ、
「こ、告白……⁉」
「何しろお前に惚れ込んでるからなぁ、哀川のヤツ。『
「そんなこと、あるわけが……! じょ、冗談……だよな? 冗談じゃ……ない?」
「哀川のヤツ、自分の口で伝えたいハズだぜ? 『ミトセ』のコトをな。おれや
「……え? あっ? ああ……、そ、そっちの意味での告白か……」
「お前がどーゆー意味で告白って言葉を勘違いしたのかは聞かねェでおいてやるけど、未稲にバレて
「そ、それこそ電知の勘違いだよ。僕と神通氏は別にそういう間柄じゃなくて……ッ!」
「キリサメもそんな風に慌てるんだな。こんなに面白ェ新発見はないぜ。喧嘩は負けナシでも年上のお姉さんには弱いってか~?」
「……
「しまった! そういう反撃が来るのを忘れてたぜっ!」
両頬が火照るほどに狼狽させられたキリサメは、「普段の無表情はどこへやら」と冷やかすようにして大笑いする電知と互いの胸を小突き合った。
照れ隠しのつもりなのか、電知当人は頑として認めないが、キリサメが名を挙げた
ストリートミュージシャンの
一〇代の少年らしいじゃれ合いであるが、依然として不貞腐れている寅之助はこれに加わらず、口を窄めたまま二人に背を向けるような恰好で砂浜を見下ろしていた。
青空から燦々と降り注ぐ陽の光を鏡の如く反射する物体を寅之助が発見したのは、まさしくその瞬間のことであった。
「ご覧よ、サメちゃん。あれがキミの未来の姿だよ」
「……そんなことは有り得ないと言い返せない自分が辛いな……」
寅之助の魂に根を張った〝闇〟を何よりも身近な戒めに換え、己の
本来の意味とは些か異なるものの、藪総一郎の訓戒が
三人の少年が視線を巡らせた先では、シルバーグレーの背広を羽織って歩く
平手打ちの乾いた音が鎌倉の青空を切り裂くのは、それから間もなくのことである。
ほんの小一時間前に
猛き
〝
下心を見透かされてサーファーの女性を昼食へ誘うことに失敗し、返答代わりの平手打ちで両頬を腫らす羽目になった沙門と合流したキリサメたち三人は、彼の憂さ晴らしに付き合うことになり、浜辺の砂を荒々しく巻き上げながら風変わりな
波によって
「友達になりたいとは一ミリも思わないけど、コレばっかりは〝空手屋〟に感謝かな~。電ちゃんってばイケズして全然ボクの相手をしてくれないんだもん」
「
縦一文字に閃いた寅之助の竹刀を内から外へと振り抜く左裏拳で弾き、すかさず彼の懐まで飛び込んだ電知は、対の右拳を直線的に突き出した。
鳩尾を抉らんとする
今度は四ツ割の竹片を組んだ刀身で脳天を打とうとしたのではない。今まさに己の身に喰らい付こうとする電知の右拳を鹿革で覆われているツカ尻で叩き落としたのである。
寅之助が左手一本でツカを握り、竹の刀身に対の右手を添え、力任せにこれを押し込もうとすると、電知は両下腕を交差させ、水牛革の
寅之助が
この場の誰よりも小柄な電知に対し、寅之助は痩せ気味の長身である。体格差だけならば前者には競り勝てまいが、両足を砂浜にめり込ませた後者は一歩も下がらなくなった。
これを見て取った寅之助は互いの片足を
反対に足首を刈り、寅之助を投げ落とすという反撃であるが、完成の寸前で真横からキリサメが飛び込んできた為、攻守両方が体勢を崩してしまった。
「
「おい、空手屋! おれの親友、
「八雲岳と
背広の裾を
先にキリサメと拳を交えていた沙門は、彼の身を
砂浜を蹴り付けた瞬間はキリサメに追い撃ちを仕掛けるつもりであったのだが、
キリサメの瞳に宿った力を視認し得る距離まで迫った沙門は、足を入れ替えつつ左右の前回し蹴りを繰り出したが、彼の肋骨を両方から脅かすのが
尤も、二人の武道家は〝空手屋〟の長い足でさえ届かない位置まで飛び
命中の寸前で攻撃を止めるか、あるいは相手に負傷させない程度に力を抑える〝セミコンタクト〟の約束で執り行われる
毛の一本一本が螺旋を描いた巻き髪を沙門が掻き上げると、その毛先から真珠のような汗が飛び散った。先程は醜態を晒したものの、やや厚めの唇から吐息を零しただけで艶が生み出される
肩と肘のバネを引き出すことによって勢いを付け、握り締めた指と掌底を同時に叩き込むという
(結局、俺はどうしようもなく空手家なんだな。こんなときでも空手がポリッシュアップされるコトがバーニングで仕方ないんだからよ)
巧みに着地するキリサメを双眸で追い掛けつつ、『コンデ・コマ式の柔道』の
地上に存在する全ての格闘技を人権侵害と
〝武道留学〟の最中に沙門はニューヨーク支部に滞在し、ここを拠点としてアメリカ各地の格闘家や武術家を訪ねていた。当然ながら同支部在籍の空手家たちとも稽古を共にしており、親しく交わる中でテロ事件を起こした犯人グループに思想面で大きな影響を与えたのではないかと、疑われ始めた次第である。
世界のMMAを牽引する最大団体でありながら、
全容究明の為、
支部道場で既得権益を貪る人々から恨みを買う強硬策を弄してでも、〝次〟の世代により良い練習環境を約束するべく闘ってきた沙門からすれば甚だ心外であった。
支配的な上下関係や理不尽な体罰といった古い悪習を改め、空手の未来を切り開かんとする挑戦を『ウォースパイト運動』の過激思想と結び付けられた挙げ句、テロの扇動者の如く報じられたことには法的措置で反撃するくらい腹を立てている。
沙門
顔も声も忘れ
誰の目にも明らかなほど気力が消耗している〝空手屋〟を心配した〝柔道屋〟が「痛くもない腹を探られる鬱憤は汗に流して発散しよう」と提案した次第であった。
無論、気軽な
「今日のサメちゃん、顔に砂をぶっ掛けて視界を封じる真似は控えているんだねぇ。砂浜なんだから、
「これは
「ボクなんかウズウズしてるよ? 最初の取り決めをブッちぎりたくってさぁ~」
「キリサメと
正面から対峙したキリサメの右脇腹に狙いを定め、寅之助は外から内へと竹刀を振り抜こうとしたが、半歩ばかり踏み込んだところで
竹刀が水平の軌道を描く先に意図せずして立ってしまったような恰好である。相対する沙門が繰り出してきた前蹴りに対し、その踵を掴み返そうと試みている様子であったが、寅之助からすれば、自身の横薙ぎが幼馴染みの両目を直撃し兼ねない事態なのだ。
「このまま打ち込んだら、キレた電ちゃんが本気でボクを殺しに来てくれるかな」という欲望を危うく堪え、今まさに振り抜かんとする寸前で竹刀を引き戻した寅之助は、左手一本でツカを握り直しながら狙いを変えた。
傍目にはキリサメの脳天目掛けて縦一文字を放つ構えと見て取れたことであろう。正面の
完全な不意打ちである。やや前傾姿勢になるほど左腕を大きく突き出し、互いの吐息が聞き取れない程度に離れた位置で電知と闘っていた沙門まで竹刀を届かせたのだ。
性悪の二字が紺色の
少しばかり姿勢を傾けながら左足一本を突き出し、小指と
竹の刀身と交差するような恰好で放たれた
左半身を開く状態で
「大叔父が警視庁に
沙門が不意に洩らしてしまった名前を揶揄せず自重した寅之助は、左肘打ちの体勢を維持しながら竹刀を水平に構え直している。双方の力が
不必要な
尤も、こちらは寅之助のように先程まで対峙していた相手に死角から奇襲しようというわけではない。姫若子宅に
両手両足を絶え間なく繰り出しながらも、吐息だけで肉を
電知の身のこなしは数段
命中しても大した
親友の反応速度をも計算に入れた〝フェイント殺法〟だ。右足による前回し蹴りと、左足によるプロレス式の
一撃目によって起こされた風は電知の短い前髪を僅かに撫でるのみであったが、次に襲い掛かった
キリサメは蹴り足を入れ替えないまま〝軸〟を維持し、二撃目よりも更に鋭く全身を捻り込んで同じ
「これまでの
この上なく嬉しそうな電知の笑い声は、そのままキリサメが遂げた成長の証である。
激しい
蹴り足と軸足を途中で入れ替え、更には狙いを定める部位をも変えながら組み立てていく複雑な連続攻撃にも関わらず、その間合いをキリサメは明確に使い分けている。
今回は直接的な接触を抑えた
その二撃目を辛うじて凌いだとしても、遠心力を上乗せした追撃の
相対する組み合わせも、攻防の展開も、目まぐるしく入れ替わる
それは〝
キリサメは人間という種を超えた
今まさに日本格闘技界を騒がせている最中の二人がリングから遠く離れた場所で拳を交えていれば、見物人の群れが横に広がって壁を作るのは必然であろう。その大半が許可も取らずに携帯電話を
これは所属団体を挟んだ〝代理戦争〟の如き
しかし、今度は心にやましいことなど一つもなく、レンズから逃れようとも思わない。キリサメは己と仲間の〝道〟へ胸を張るようにして
その一方で、世間一般には名前も顔も知られていない
「密かにアマカザリと城渡さんの試合、コネを使ってビデオをゲットしたんだけどさ、実況のマダムが『ガンギマリ』ってコメントしていた頃、……実はかなりデンジャラスなコンディションだったんだろう? ピンチという意味じゃなく、ブチギレのベクトルで」
砂浜に足をめり込ませながらキリサメと互いの両手を組み合い、涼しげな顔立ちには不似合いとさえ思える力比べを始めた沙門は、逡巡の溜め息を挟んだ
控えめな声で沙門が切り出したのは、大きく見開いた双眸から
〝神速〟を引き出した
「人を殺してはならない」という理性の
理性と一体化して最悪の過ちを踏み止まらせる思考も、人の命と相対する感覚も、キリサメ・アマカザリという人間を構築する〝全て〟が
「あそこでみーちゃんが止めてくれなかったら、……どこまで行き着いたのか、僕にも分かりません」
眉間や両腕に血管が浮かび上がるほど
所属先の『
『
『スーパイ・サーキット』の〝暴走〟は、現時点では
まさしくその
相手の四肢や試合着を掴んで姿勢を崩し、無防備化させた上で一撃必殺の打撃を叩き込む〝サバキ〟を極めておきながら、キリサメの重心を乱して投げ倒すようなこともなく、左右の五指を組み合う姿勢を維持し続ける意図も受け止めていた。
「それで記者連中に『脳が痺れる』っつってたワケか。物騒な言い回しが最高にお前らしいけど、ひょっとして
幼稚な悪戯心が疼き、二人の腕に竹刀を打ち込んで会話を邪魔しようとする寅之助を前方に足裏を突き出すような蹴りで引き剥がし、
大工という〝
これを哀川神通やヴィクター
「別に『
二人の邪魔を諦めない様子の寅之助を追い回しながら、顔だけ
わざわざ口に出したことからも明らかな通り、電知もまた所属団体の代表がキリサメに仕掛けた
プロデビュー戦を勝利で飾るという約束は守れなかった。それにも関わらず、反則負けを喫した
互いの勝利を讃え合えなくなったことを悔やんでいるに違いない――おそらく口には出さないまま心の奥底に独りで抱えてしまうであろうと、キリサメの懊悩と苦しみの形を理解し、寄り添えるのが電知であった。
試合前から迷走し、リング上で
身の丈を遥かに超える挑戦に追い込まれてしまったキリサメは、
初めて出逢いは最悪の一言であったが、今では空閑電知という存在が心を支える軸の一本となっている。血みどろの
「あ~! でも、『スーパイ・サーキット』をあのレベルまで引っ張り出せなかったのは素直に悔しいな! 悔しいったらありゃしねぇぜ!
「ま、待ってくれ。別に僕は電知のことをそんな風に思っていないよ」
電知の追跡を振り切り、右側面まで回り込むや否や、下腕に狙いを定めて竹刀を繰り出してきた寅之助に対するキリサメの迎撃は、〝プロ〟に相応しい反応であった。
寅之助の不意打ちに全く気付いていない様子で正面の沙門を見据えつつ、素早く右手を振り払うと、鋭く腰を捻り込んで腕全体を水平にしならせたのである。
自分のほうを一瞥もしないことから虚を
自分の思い通りの形で防御させるまでが
先程の報復とばかりに背後まで回り込み、地面と両足裏が大きく離れている状態から左拳を打ち下ろさんと試みるキリサメであったが、剣道史に
左手で竹刀のツカを握った寅之助は、己の後頭部に迫っていたキリサメの左手首を対の五指にて掴み返し、拳を振り下ろさんとする勢いをも利用して砂上に投げ落とした。
〝現代剣道〟では当然の如く悪質な反則行為と
対するキリサメは砂まみれの身を
「剣道屋~、スタート前に決めたルールからアウトするのはノーサンクスだぞ。ラフはラフでも気軽なほうでなけりゃ満員御礼のギャラリーもエンジョイできないぜ」
「文句はサメちゃんに言ってよね。電ちゃんと違った意味で熱くさせてくれるんだもん」
沙門が寅之助に対する注意を終える前にはキリサメの両足は砂浜を踏み締め、
電知と共に取り組んでいるブラジリアン柔術の寝技対策もキリサメの
その電知と再び対峙することになった沙門は「リミットを知らない謙遜はイヤミ」と、先程の言葉を心の中で繰り返した。
確かに打ち込まれる一撃は二〇キロ近い体重差がある
大いに粗削りではあるものの、キリサメの喧嘩殺法は身の
その二人をもアマチュア選手の電知は明確に凌駕する瞬間が少なくなかった。沙門
気持ちが塞いでいた自分を憂さ晴らしに導いてくれた〝柔道屋〟に対する返礼として、沙門は『
ときには投げを打つなど組技全般を巧みに駆使して相手の姿勢を崩し、空手の直接打撃へ転じるという〝サバキ〟と、
それでいて攻防を組み立てる原理は相通じるものがある。互いの手の内が読めてしまうからこそ、電知と沙門は袖を掴んでは素早く振り解き、組み合ってはどちらともなく引き剥がすという傍目には奇妙な
双方とも決定打を欠くという膠着状態を打ち破ったのは、キリサメという名の衝撃だ。
〝空手屋〟と〝柔道屋〟を左右に見据える位置にて相対した寅之助が両の五指で竹刀のツカを握り直し、
鹿革によって覆われた剣先で貫くよう自ら喉を差し出したのだ。
今まさに
尋常ではない運動量が求められる
キリサメが
無論、それは相手を落とし穴に嵌める悪戯のような
しかも、キリサメは過去に対決した相手のことを良く学び取っている。今度も〝
親友と幼馴染みによる高次の攻防を目の端で捉えた電知は、己も負けてはいられないと発奮し、日本最強の空手家目掛けて一等深く踏み込んでいった。
シルバーグレーの背広の上から胴を挟み込み、その場に薙ぎ倒すつもりだ。電知の身のこなしは疲れを知らないかのように
〝捕獲〟は免れたものの、電知の両足が再び砂浜を踏み締め、上体を引き起こすまでに沙門の反撃は間に合わない。全体重を乗せて右足を振り上げ、小さな身体を蹴り飛ばすつもりであったが、腰を深く落としつつ両足で強く大地を踏み締める
果たして、その判断こそ正解であった。腰を大きく捻り込みながら前方に鉄拳を突き入れる空手の王道――腕全体を後方に引き、絞りに絞った上半身のバネを解き放ちながら繰り出す正拳突きは、風に攫われた塵芥のように電知の身を吹き飛ばした。
木の葉の如く宙を舞わされた電知であるが、正拳突き自体は重ね合わせた両掌で受け止め、接触の寸前に力が強く作用する方向へ自ら跳ねて技の威力と勢いを減殺させている。
その寸前に電知は右の
沙門は更なる追撃で畳み掛けるつもりであったが、瞬時に二度蹴り付けられた左外膝の
「軽量級の見た目をナメたツケを払わされたでしょ? 本気の
ほんの一瞬ながら足を止めてしまった沙門に対して、寅之助が幼馴染みに成り代わって胸を張った。
一つの事実として、『
二重の衝撃を押し込むとしか表しようのない今し方の
〝サバキ〟の
『
沙門の上体が前方に大きく傾き、左脇腹に電知の右膝が押し当てられたのは、その直後のことである。両襟を捉えた相手を自身の側へと引き付け、姿勢を崩したところに叩き込む膝蹴りというわけだ。
無論、
ムエ・カッチューアのような一撃必殺の膝蹴りとはならないだろうが、斜めの軌道を描きながら脇腹を抉り、瞬間的な呼吸困難を引き起こすことは間違いない。
悶え苦しむ相手の腹部へ膝蹴りに用いた側の足裏を素早く押し当て、追撃の投げ技に派生するのであろう。
果たして、この反撃は空振りに終わった。沙門の
それどころか、反撃に転じるより早く沙門の視界から電知の姿が掻き消えた。
己の身を車輪の如く振り回した電知は、器用にも沙門の腋下を潜り抜けるような恰好で背後を
「さすがは『
しかし、これはあくまでも練習なのだ。首を圧迫しないまま四肢を隅々まで使った絞め技を解き、後方に撥ね飛ぶことで〝空手屋〟から離れた電知は、額から噴き出した汗を手の甲で拭いつつ溌溂な笑顔を弾けさせた。
「……あいつらはもうこんなエキサイティングなテンションも体験できねぇんだな……」
血に餓えた野獣の如く口の端を吊り上げながら手早く帯を締め直す〝柔道屋〟のほうに振り返った沙門は、陽の光を跳ね返して煌めく海とは正反対の
攻守が目まぐるしく入れ替わる中に
サバキ系空手という相通じる術理の技を極めた沙門だからこそ、目の前に立つ電知と同じ時代に生まれたことが誇らしいのだが、空手家としての感動を噛み締める前にそれを分かち合えなくなった〝旧友〟への思いが湧き起こる昂揚に蓋をしてしまうのだった。
「シケた顔してくれんなよ、空手屋~。アマチュア選手の遊び場とは違う〝プロ〟のリングを経験したヤツにはおれなんか物足りねぇかもだけどよぉ~」
「誤解させてソーリー。俺自身は剣道屋を注意できなくなるレベルでエクスプロードしてんだけどよ、……もう二度とリユニオンできないフレンズを想い出しちまったのさ」
電知は『スーパイ・サーキット』に秘められた真の暴威を引き出せなかったことを〝プロ〟である
そもそも、プロとアマなどは〝立場〟の違いに過ぎず、必ずしも実際の戦闘力を反映しているとは言い
(こんなジャッジ、
電知との間に優劣を付けざるを得なかったことを
「電ちゃんが見下されるのを黙って眺めるなんて真似、ボクにはちょっと無理だなぁ。それとも負け惜しみかい? だったら、もっと分かり易く絶望に打ちひしがれなよ」
「柔道屋がミレニアムにワンのアメイジングなのは俺だってディスカバリー済みだぜ!」
振り向き
直ちに
「空手屋がノり切れねぇ理由、
電知当人の注意にも耳を傾けず、
その鳥の名はキリサメ・アマカザリである。寅之助の背後まで素早く回り込んだ
緊張感が著しく高まった両者の間に割り込みながら着地するのであろうと、見物人の誰もが予想していた。果たして、それは半分だけ正解である。
地上の獲物に爪を突き立てんとする猛禽類の如く両足を開いたキリサメは、寅之助と沙門の双方へ同時に蹴りを見舞った。足先まで十全の力を込められる姿勢ではない為、与えられる
無論、
空中にて軽やかな宙返りを披露したキリサメが次いで水飛沫を上げたのは、言わずもがな降り立った先が波打ち際であった為である。
「さっきの質問に答えるよ、電知。
「おれの
「電知とは組み合ったまま高いところから一緒に
電知は単純かつ一方的に選り分けられるはずもない〝格闘家としての優劣〟を
「勉強不足な僕には〝プロとアマ〟を選別することなんか出来ない。そもそもあれが目を覚まさなかったら、電知と闘ったときに投げ殺されていたよ。……だからこそ思うんだ。
「その『スーパイ・サーキット』だって、キリサメの立派な〝武器〟だと思うぜ?」
「岳氏や
やや離れた位置から見つめ合うキリサメと電知の鼓膜を波の音が静かに打った。
「いつか電知と
様子を窺うまでもなく、キリサメは電知の反応を確信していた――幼馴染みの寅之助が妬いてしまうほど心を通い合わせる親友は、照れ隠しのように右の親指で鼻を撫でた
自身の気持ちが真っ直ぐに伝わったことを見て取ったキリサメも
陽の光を跳ね返して煌めく波を背にしながら駆け、この助走を
脳天を揺さぶる飛び蹴りに備え、電知が足を止めつつ左右の腕を交差させて
親友を飛び越え、余りにも想定外な状況に唖然呆然と立ち尽くす寅之助と沙門のほうに急降下していくわけだが、宿敵・
その義経は異母兄である鎌倉幕府初代将軍・
しかも、鎌倉幕府は滅亡を迎える間際に数え切れないほどの軍船で近海を埋め尽くし、討幕軍を迎え撃ったのだ。
跳躍の頂点に達したキリサメは雲一つ掛からない太陽を背にし、反射的に彼を仰いだ二人は剥き出しの光で目が眩んでしまったのだ。多くの見物人も同じ状況に陥っていた。
どちらが標的に選ばれたのか、誰にも分からない。寅之助と沙門の力量を思えば極めて珍しい失態であろうが、キリサメの姿すら追い切れなくなっている。
「――やっぱりフィナーレは八雲と
驚愕と戦慄を
八雲岳が『
この技をキリサメが目にしたのは今までに二回――養父が〝
最速最小の
沙門にとって
キリサメの右
最速最小で最大の破壊力を生み出せるということは、その逆回しも同様である。小さい
しかし、左足裏に接触したのは急降下してきた
その間に電知と寅之助の二人が〝空手屋〟の両脇から迫り、左足を突き上げた為に無防備となった胴へ前回し蹴りと竹刀を打ち込んだ。言わずもがな
二人掛かりの挟撃は空中のキリサメが差し向けたようなものであろう。両腕は自由に動かせるが、片足を振り上げた状態では胴を狙った攻撃に殆ど対応できない。沙門の意識を上空へ引き付ける為、
〝柔道屋〟も〝剣道屋〟も、沙門が今までの人生で数えるほどしか出逢った
『
四六時中、大勢から命を脅かされる環境で培われた経験と才能は、一対一が前提となる〝
(親子二代に亘る因縁対決と言ったって、こんなので張り合ってもハートはヒートしないんだがね。アップテンポなビートはリング上のトークからやって来るんだからさ)
電知の制止を振り切り、剣先を下げた構えから左手一本による
『
〝世界一の名手〟と謳われたテオ・ブリンガーの直伝であり、
一瞬の切り替えは正解であった。殺意こそ漲らせていなかったものの、この片手突きは森寅雄が得意とした
目と鼻の先で交差した二筋の閃きに武者震いを抑えられない電知であったが、余韻には浸っていられない。
ここが畳張りないしは板張りの道場であったなら、両足の五指に渾身の力を込めて耐え凌げたかも知れないが、砂浜では足裏を張り付かせることさえ難しい。寅之助もろとも横倒しにされてしまった電知は「
尤も、その言葉は〝軸〟に据える足を入れ替えながら繰り出された後ろ回し蹴りの轟音によって押し流されてしまった。電知や寅之助に対する追撃ではない。未だ両足で地面を踏み締めていないキリサメを薙ぎ払おうというわけだ。
彼が視界内に落下してくる頃合いを抜かりなく見計らっていたのだが、当のキリサメは器用にも空中で四肢を開き、水平姿勢に変化することで後ろ回し蹴りを
全身を投げ伏すようにして着地し、極端に低い姿勢を維持したまま沙門の股の下を潜り抜け、ようやく片膝を突いた電知と寅之助のもとに辿り着いたキリサメは、急激に身体を撥ね上げながら左右の腕を繰り出した。
「サメちゃんさぁ、数少ない友達はもっと大切に扱ったほうが――」
電知の右腋と寅之助の左腋――それぞれに片腕を引っ掛けたキリサメは、上体を反り返らせる勢いに乗せて二人の身を後方に放り投げた。友人たちを沙門に叩き付け、その身動きを封じるという奇策である。
片腕一本で全身を持ち上げ、これを〝軸〟に据えたまま横回転して沙門に向き直ったキリサメであるが、そのときには鼻先まで反撃が迫っていた。砂の上を揃って転がっていく電知と寅之助の僅かな間隙をすり抜けるようにして跳ね飛んだ日本最強の空手家は、全身を放り出すような恰好で右足を旋回させた。
「スペシャルが
内から外へと片足を振り回し、全体重を乗せて相手に
〝伝家の宝刀〟にも匹敵する一撃が己に向かって振り下ろされる間、キリサメは微動だにしなかった。全身に砂塵を被りながらも、
この
その信頼へ応えようというのか、猛然と急降下した
砂浜に尻餅を
潮の香りによって引き出されたのは、キリサメやその家族、偶然に合流した『NSB』の
先程から感じていたが、自分は養父のようなMMA選手になれないのではないかと悩んでいたときとは比べ物にならないほどキリサメの眼差しは強い。
己が進むべき〝道〟を見定めた者の
「親しい人間を自然ではない形で亡くした喪失感は簡単に塞がるものではありません。もしかすると、ずっと抱えていくことになるかも知れない。だけど、沙門氏が両手両足に感じている痛みは幻なんかではありません。……僕たちは今、目の前で生きています」
キリサメの瞳が
強くなるはずだ。これからもっと強くなる――キリサメの変化と優しさを受け止めた沙門は、
おそらく見物人の目には曲芸のように見えたことであろうが、実際に相対した沙門は幾度も慄かされている。〝超人〟の異名に相応しい空中殺法を繰り出し、世界中を熱狂させたヴァルチャーマスクの対戦相手が味わったであろう恐怖が
プロレスの〝飛び技〟を独自に発展させたような
「空手屋を独り占めはズルいぜ、キリサメ! 穴埋めはおれたちも混ぜて貰わねぇと!」
砂まみれの二人が視線を交わしつつ立ち上がる頃には、電知と寅之助も体勢を整え直していた。示し合わせたわけでもなくそれぞれが体当たりを仕掛け、辺りに汗粒を飛び散らせながら四つの左肩がぶつかり合った。
鈍い痛みと肩全体に広がる
二度と感じることは叶わなくなったが、ニューヨークの友より撃ち込まれた拳を通じて心の奥深くまで
「サンクスな、柔道屋。格闘技は人を殺すモノなんかじゃない。人生を豊かにしてくれるトレジャーだってコトを今一度、レクチャーしてもらったよ。……いや、ビギニングから分かっていたハズなんだけどな……」
四方より中央の一点に向かって力を押し込め合うような姿勢を維持したまま、沙門はこの状況を噛み締めるようにして厚めの唇から熱量の高い溜め息を滑らせた。
〝武道留学〟の最中に『
あろうことか、『
肘打ちを得意としていた
今なら公聴会でもテロリストの無惨な死を利用し、出席者全員に『
肩で分かち合う三人の
「人権派のモラリストを気取ったって、格闘技は普通に人が死ぬでしょ。競技化に伴ってルールが設定されただけであって、そもそもそういうのを目的にしているんだからさ」
「
寅之助の皮肉を〝空手屋〟に代わって切り捨てた電知も全身を昂揚で満たしており、二つの瞳で輝く光も
「おれも良い目標ができたよ! おうとも、これからの課題がハッキリと見えたぜ!」
「鼓膜が破れそうな大声で宣言するのだから
親友の心を推し量るようなキリサメに対して、電知は強く深く頷き返した。
「まだまだおれは修行が足りねぇ! だから、最初に
「水を差すようで気が引けるのだけど、あれは〝本気〟とはまた違うモノで……」
「いつか
「電知……」
「それがおれの課題だ! 親友が目標なんて、こんなに幸せなこたァねぇぜッ!」
すぐに追いついてやるから首を洗って待っていろ、
〝人外の力〟を喧伝材料として利用する『
いつか迎える〝その日〟の為、今よりもっと強くなりたい。本当の意味で親友と肩を並べたい――電知の想いは、その一言に集約されていた。
だから、応じるキリサメの答えもただ一つである。
「僕も負けてはいられないな。電知に置いていかれたくないし、失望させたくない」
「イイ返事じゃねーか! ますます燃えてきたぜッ!」
「こんな僕だけど、もっと頑張るよ。先程も言った通り、『スーパイ・サーキット』なんか使わなくても、〝僕自身の力〟で電知と渡り合えるようにね」
「そこも含めて力比べと行こうぜ、キリサメ! おれは意地でも
「――いいや、『スーパイ・サーキット』など使わないほうがいいッ!」
未来への約束を果たそうという
四人を取り囲んだ見物人たちは拍手や口笛を
驚愕に打ちのめされるのも無理からぬことであろう。見物人が作った壁を真っ二つに割る形で
「あんな危険なものに頼っていては、自分も、周りにいる人間まで必ず不幸にしてしまうだろう。『
競技用のトランクスではなく小奇麗な背広を着用し、大きな旅行鞄を携えているが、意志の強さを表すかのように極太の眉をキリサメは見間違うはずがなかった。
その求道的な佇まいから
「――
これまで『NSB』の試合映像でしか見たことがなかった男の
四人の前に飄然と現われ、険しい
*
日独には八時間もの時差が横たわっている為、同日同刻とは言い
難民高等弁務官のマイク・ワイアットである。
その日は難民キャンプを支援する『ハルトマン・プロダクツ』の視察が行われ、同企業所属のストラールも経営者一族の御曹司にして親友――ギュンター・ザイフェルトと共に現地へ足を運んでいた。
世界各地の難民キャンプで暮らすイスラムの女性から託された要望を伝え、『ハルトマン・プロダクツ』がスポーツ用ヒジャブの開発に着手するきっかけを作るなど、難民高等弁務官は同企業との協力体制を強めており、ギュンターとは友人関係まで築いていた。
難民高等弁務官事務所と『ハルトマン・プロダクツ』の合同視察は以前から決まっていたが、ギュンターの補佐役を務めるストラールは、陽気の二字を絵に描いたような風貌とは裏腹に油断のならないマイク・ワイアットが世界最大のスポーツメーカーから資金や物資を引き出す計略を張り巡らせているのではないかと、
共同の炊事場から漂ってくる香辛料の匂いに胃袋をくすぐられて仕方がないのだが、そろそろ昼食時である。ギュンターとマフダレーナは難民高等弁務官事務所の
その瞬間を見計らっていたかのようにマイク・ワイアットから手招きされたストラールは地べたに腰を下ろし、先程から難民キャンプの娯楽に興じている。
道具一式は子どもたちの手作りだが、アフリカで盛んに遊ばれているボードゲームだ。双方とも前衛・後衛の如く分かれた水平二列に六つずつ穴を
親しく交わっているソマリア難民の少年からルールを教わったストラールも幾度か遊んだ
手元の〝種〟を順繰りに蒔くのだが、最後の一粒を置くのが前列の穴であり、且つ隣接する相手側の穴に〝種〟が残っていた場合はそれを奪う――片方が続行不可能となるまでこれを繰り返すのだった。
世界各地の難民キャンプを巡り、そこで暮らす人々と娯楽を通じて心を通わせてきた難民高等弁務官は
そもそもマイク・ワイアットと二人きりになったのは、
『ハルトマン・プロダクツ』としては難民高等弁務官との協力体制をより強固にしたいと考えている。関係を深めるべきときにストラールがマイク・ワイアットに対する蟠りを解消できずにいるのは、将来的な不利益に繋がるという判断なのであろう。
『格闘技界の聖家族』の御曹司としての
格闘家による犯罪の多発を背景として格闘技自体が野蛮という偏見が全国的に広まり、競技団体に対する運動施設の使用許可などが行政単位で認可されなくなっていた。
オランダの格闘家は用心棒を兼業することも多く、ストラールと親交のあったキックボクサーもそちらの仕事の
麻薬などで道を踏み外さないよう目を光らせ、用心棒稼業を取り仕切ってきたのも『格闘技界の聖家族』――即ち、オムロープバーン家である。〝御曹司〟の立場を継いだ後は一族の者に託したが、かつてはストラールが荒くれ者たちのまとめ役を担っていたのだ。
〝格闘技王国〟で生まれ育ちながら自国開催の大会に出場できず、他国の競技団体に活躍の場を求めざるを得ない格闘家たちの嘆きも重く受け止めている。
「これじゃ〝格闘技王国〟じゃなくて〝傭兵国家〟じゃねぇか――そんな哀しいことを仲間たちに言わせない為、オランダの〝誇り〟を取り戻す為、踏ん張ろうじゃねぇか!」
難民キャンプにも同行している亡き兄の親友――〝柔道競技〟の国際化に貢献した一九六四年東京オリンピック金メダリストを師匠に持つ当代随一の柔道家による代弁は、まさしく
格闘技不遇の潮流を作り出したのが首都アムステルダムの市長であった。オランダの格闘家たちを束ねるオムロープバーン家は、規制解除の交渉を何年も重ねてきたのである。
亡き兄の親友たちと共に交渉の最前線に立つストラールは、例えば〝東西冷戦〟の時代や湾岸戦争に
マイク・ワイアットとの親交という〝事実〟は、これを裏付ける傍証として利用できるわけだ。格闘技が犯罪の温床であるならば、国連機関は接触自体を
何よりも難民高等弁務官は各国政府と太い繋がりを持っている。それを利用できれば、一進一退を繰り返すアムステルダム市庁舎との攻防も新たな展開が望めるはずだ。
(……本当なら持ちつ持たれつの関係すら願い下げなのだけどな……)
普段はゴーグル型のサングラスで双眸を覆っているストラールだが、今は翡翠色の瞳を晒していた。ボードゲームの〝種〟は難民キャンプの敷地内で拾った木の実が使われている為、黒いレンズ越しではすこぶる見え
この一揃いを選んだのも自分に素顔を晒させる為の画策であろうと、『格闘技界の聖家族』の御曹司は疑っている。
度を越した疑心暗鬼と自覚もしているが、上等な仕立てのスラックスが汚れるのも構わず草の上に腰を下ろし、手のひらの上で〝種〟を弄ぶ
盤上でも大量の〝種〟をストラールの手が届かない後列に下げ、彼が手詰まりとなった直後に反撃を仕掛けて相手の前列から〝種〟を根こそぎ奪っていった。
自分とはやや色艶の違う
先ほどマフダレーナと二人で話し込んでいたのも気に入らない。
国際競技大会への出場を夢見る難民選手たちを資金面で支援する方策など、マイク・ワイアットは様々な話題を矢継ぎ早に繰り出してきたが、その
「――『格闘家どもは皆殺し』か。アタマの中身が大袈裟な連中はシェイクスピア劇に自分を重ねて酔っぱらうのがお約束だけど、『ヘンリー六世』をパクりやがるとはな。どうせならハムレットに倣って
マイク・ワイアットが話し相手の反応を探るような形で言及し、そのストラールが「ハムレットを気取ろうとも誇大妄想を膨らませるだけで結果は同じでしょう」と苦々しげに頷き返したのは、先週末に
悪夢の二字を
アマチュアMMAや同競技のオリンピック種目化を推進する『NSB』を糾弾した一派の
『NSB』の有力選手でありながら
本来は「弁護士どもを皆殺し」であり、イングランド王ヘンリー六世への叛逆に燃える民衆の台詞であった。
罪なき子羊を殺して羊皮紙を作り、そこに記した内容で他者の人生を破滅に追いやる弁護士こそ手始めに皆殺しにしよう――このような意味合いのやり取りが登場する。
激烈な標語の通り、全世界の格闘技関係者を
「あの事件は副産物だよ、〝自由の国〟の。何でもかんでも自由だからな。その権利を履き違えるのも自由って寸法さ。そのテの連中は自由の意味を理解できちゃいねぇがな」
現在、マイク・ワイアットは難民高等弁務官事務所の本部が設置されたジュネーブで暮らしているが、生まれ育ったのはアメリカの
同じ皮肉が喉から飛び出す寸前で先手を打たれたストラールは、思わず
『ウォースパイト運動』は格闘技を憎悪する思想活動であってテロ組織ではない。〝同志〟たちは必要に迫られない限りは徒党を組まず個別に活動している為、今回のような凶悪事件の引き金になったとしても一網打尽に取り締まることは不可能なのだ。
ましてや思想活動への規制は〝自由の国〟の根底を覆すものである。それが過激化を抑え
「合衆国大統領を巻き込むサイバーテロを仕掛けた『サタナス』が裏で糸を引いていたのではないと疑う声がアメリカ本国でも多いようですね。証拠は見つかっていませんが」
「オレが聞いた範囲だが、『ランズエンド・サーガ』の代表が『ウォースパイト運動』の過激派を密かに唆したってウワサも
「
「遠回しに『ふざけた真似をしたら、お前も車輪の下敷き』って警告されてる気分だぜ」
二人も〝仮定〟として語らったが、超大国の権威すら恐れずに
麻薬カルテルの首領が獄中から組織を動かすことなど珍しくもない。『サタナス』の場合は重罪犯専用のフォルサム刑務所へ収監されている為、外部と直接的に連絡を取り合うことは難しかろうが、担当弁護士などが仲介すれば麻薬王の采配も模倣できる。
『NSB』を禁止薬物で汚染し、アメリカ格闘技界から永久追放された
いずれにしても、事件全体があらかじめ用意された
MMA
乱入騒ぎの発生から地元警察に身柄を引き渡されるまで一時間程度である。急報に接した過激活動家が仲間を募ってMMA
銃撃犯の中には統合リゾートの警備スタッフも含まれている。銃火器の搬入は言うに及ばず、〝敵〟を確実に全滅させられる〝持ち場〟の選定にも関与したことであろう。
〝誰か〟が『ウォースパイト運動』の二つの集団を操ったとしか思えなかった。乱入騒ぎの容疑者たちは地元警察から手錠を嵌められ、逃げられるような状況ではない。あるいはその構図へ辿り着くように『NSB』の
汚らわしい格闘家でありながら、自分たちの崇高な正義を気取ろうとする偽善者が現れたなら、『サタナス』の影響を受けて先鋭化した過激活動家は、抑えられない殺意を燃え
忌むべき〝敵〟を殲滅した
銃撃犯までもが全滅したことで真相究明は事実上不可能となっており、裏舞台の黒幕が判明するとしても捜査は一日や二日では完了できないだろう。
「
「ヘンリー六世に歯向かった民衆も王家の殺戮ではなく政治体制の変革を求めたわけですからね。『格闘家は皆殺し』――余程の粋人が
怒れる民衆の叛逆が発端となって王朝交代の『
三〇年に亘る覇権争いに敗れ、幽閉先のロンドン塔で暗殺されたヘンリー六世と同じ末路を迎えるのだと、『NSB』の
「手ェ組んだ団体の悲劇を『
「……『
『NSB』を揺るがすテロ事件から続いた
「今後、六年間の
「成る程。
「別に日本を悪く言うつもりはねぇけど、ブラジルみてェに犯罪の温床を丸ごと消し飛ばすような〝浄化作戦〟は不可能だろうしな。それはそれで平和な国の証拠だけどよ」
即ち、「史上最悪」と冠せられる規模のテロ事件である。彼はリオオリンピック・パラリンピックに『難民選手』が出場できるよう
祖国に戻って
傘下企業に
数多の難民問題を抱えた
「
「……今の言葉を否定したら難民に見向きもしない人でなし、賛成したら都合の良い小切手代わりのお人好し。相手の退路を奪うやり口は率直に申し上げて好きではありません」
忌み嫌う相手の言行に細心の注意を払うということは、その対象を深く理解することと表裏一体である。言外の会話が成り立ってしまう関係性に不快感が込み上げる一方、想像した通りの言葉をマイク・ワイアットが口にした瞬間、ストラールの脳裏に
アラビアの
心無い大人たちから海賊行為を強要され、魂を傷付けられて言葉が紡げなくなってしまうほどの死地からこの難民キャンプに逃れてきた少年だ。年少者グループのリーダーでもあり、仲間たちを支える為に〝プロ〟の格闘家となることを志していた。
法律で規制する
胸元には〝格闘技王国〟の要にしてオランダ式キックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』の紋章が煌びやかな金糸でもって刺繍されていた。
「例の事件に巻き込まれちまった義足のMMA選手、きっとストラールも知ってるんじゃねぇかな? ルワンダ
「シロッコ・T・ンセンギマナ選手……ですか? これから先、〝パラスポーツとしてのMMA〟を担っていく逸材であることは間違いないかと」
「そのンセンギマナがパラスポーツと
「未来の可能性に暗い影を落とし得る不安材料は――
難民高等弁務官が取るべき〝立場〟に対し、ストラールがこれまで以上に踏み込んだ問い掛けを投げると、マイク・ワイアットは無言を
その双眸は
この地の難民が暮らすテントの間を子どもたちが元気よく駆け回り、不意打ちの如く友達の前に飛び出して驚かせる不思議な遊びに興じていた。これを通じて健脚を養い、陸上競技の〝難民選手〟として国際競技大会に出場する人材が現れるかも知れないのだ。
あらゆる可能性に未来を約束するのが
(……この高潔さと腹黒さを両立させられる怪物ということも、忘れてはいけないな)
どこの誰に日本格闘技界の裏事情を教わったのか――そのように問い質しそうになったストラールは愚問以外の何物でもないと思い直し、最初の一字から喉の奥に押し戻した。
日本国内で開催されるMMA
『NSB』の上級スタッフに幼馴染みの親友が名を連ねていることもストラールは把握していた。
日本最大のMMA団体を率いる樋口郁郎が格闘技界に
『
「その樋口が歪めたMMAを〝
「樋口郁郎からMMAを取り戻す秘密作戦の鍵を握るのが『キリサメ・アマカザリ』っつう総合格闘家だっけな。樋口から随分と目を掛けられてるって
この流れで
間の抜けた反応を覗くような目付きに変わったマイク・ワイアットを御曹司という〝立場〟には似つかわしくない舌打ちと共に睨み返しながら、ストラールはこの天敵が自分の
(ハムレット気取りなどやめろというショック療法だとしても限度があるよ、レーナ)
岩手興行の視察で人間という種を超える
『格闘技界の聖家族』の御曹司にとって、本来は記憶しておく必要もない『
『
「――〝例の
マスメディアに『スーパイ・サーキット』と名付けられた
格闘技は野蛮な暴力ではないことを証明し、オランダに格闘技
時代が大きく動く狭間では、
「鍵はアマカザリだけではありません。もう一人も――レオニダス・ドス・サントス・タファレルも『MMA日本協会』と足並みを揃えて動き始めました。……『スーパイ・サーキット』などと触れ回っている
「そうやって権力の頂点から引き摺り下ろした後、
今度はマイク・ワイアットのほうが踏み込んだ問い掛けを投げる番であった。
難民高等弁務官事務所は国連機関――正確には補助機関――の一つだ。「万が一にもテロへの関与が発覚した瞬間に『NSB』の前代表は交通事故に遭う」というストラールの発言を先程は冗談として笑い飛ばしたが、『ハルトマン・プロダクツ』の明確な〝標的〟となっている樋口郁郎の〝始末〟に関しては受け流すわけにはいかなかった。
莫大な利権を手中に収める為には〝裏〟の手段すら厭わない〝スポーツマフィア〟とは違い、人命を軽んじる〝始末〟などは許容の余地もないのだ。
ストラールの瞳を覗き込む
「あの男が一人で煉瓦を積み上げているのはロンドン塔ではなくバベルの塔。〝天〟の怒りに触れたなら、〝硫黄と火〟を放つまでもなく自ずと崩れ去るでしょう」
余人には意味不明な
果たして、難民高等弁務官は言質を取ったような笑顔となり、馴れ馴れしく握手を求めることで
『格闘技界の聖家族』の御曹司は友好的な印象を与える笑みを浮かべながらも差し出された手は握り返さず、ゴーグル型のサングラスを装着し直し、乱れた髪を風に流すようにして
「
「そのとき、『格闘技界の聖家族』の御曹司が〝塩の柱〟になっちゃ困るぜ」
「アタマの中身が大袈裟な連中はシェイクスピア劇に自分を重ねて酔っぱらう」というマイク・ワイアットの言葉が今になってストラールの心に突き刺さった。ハムレット気取りで煩悶し、『創世記』を引用した自分は『ウォースパイト運動』と〝何〟が違うのか。
銃ではなく〝別の力〟を〝裁きの火〟に代えようとしているのだ。
歴史を動かす〝力〟と資格を持つ者は、それを持たざる者にときとして血よりも惨い犠牲を強いる。そして、運命というモノはしばしば本人の与り知らないところで動くのだ。
ドイツから遠く離れた鎌倉の空の下で青春と呼ぶべき
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます