スーパイ・サーキット
その2:アウフヘーベン(後編)~ルワンダ内戦を生き抜いた義足アスリートの祈りよ、届け──ある少女がライフルを撃った月曜日の朝・第三次世界大戦の引き金/平和と人道に対する罪・格闘技という名の「世界の敵」
その2:アウフヘーベン(後編)~ルワンダ内戦を生き抜いた義足アスリートの祈りよ、届け──ある少女がライフルを撃った月曜日の朝・第三次世界大戦の引き金/平和と人道に対する罪・格闘技という名の「世界の敵」
二、PA SB 632 Act.2
潮目と同様に運勢というモノは、流れが向いていないときには世の中の〝全て〟が自分を見放したのではないかと感じてしまう。
創設から三四年を経て欧米にまで支部道場を展開するほどの組織に育ったサバキ系空手の先駆け――『
六月最後の日曜日の昼下がりということもあり、鎌倉の水平線は波乗りを満喫するサーファーたちに埋め尽くされている。風の強さも程よく、浜辺からやや離れた位置に視線を巡らせると、セイルボードの帆が横に連なって壁を作っているようであった
海開きには一週間ほど早い為に水着姿は見られないが、サーファーだけでなく
背広の内側に熱が籠る為、両眉を僅かに覆う辺りで切り揃えられた前髪は汗を吸って額に張り付いている。毛の一本一本が細かく螺旋を描くような巻き髪の先からは大粒の雫が舞い散り、何とも例え
「かなりパッションを込めたボード、使ってるよね。ひょっとしてカッティングもオリジナルだったりする? 今日は見舞いの
ところが、ウェットスーツの女性は沙門の顔を覗き込むなり血相を変え、両手でサーフボードを振り回しながら「これ以上、テオ・ブリンガーの顔に泥を塗るなッ!」と怒鳴り声を叩き付けたのだ。
彼女が口にした『テオ・ブリンガー』とは『
『
『
テオ・ブリンガーが『
二〇一四年の日本ではテレビのスポーツ番組で取り上げられる機会が少なくなった名前を憤激の理由として挙げた女性は、相当に熱心な格闘技ファンと察せられるわけだ。日本格闘技界の未来を担い得る人材とは胸襟を開いて語り合えるはずだが、それはつまり、プロデビュー前から浮名を流してきた沙門の
声を掛けた直後には下心を見透かされていたわけである。片手による往復の
目論見が失敗する一部始終を遠巻きに見物し、侮蔑交じりの口笛で
四方八方から浴びせられる嘲笑の中には「たった一度、勝ったくらいで調子に乗ってんじゃね~ぞ」といった旨の声も混ざっている。
第一
二の腕が剥き出しになるほど袖を短くした特別誂えの
二〇〇〇年代半ばに日本の〝格闘技バブル〟が崩壊した
これに対して『
言わずもがな出場者は空手家だけではない。アムステルダムを本拠地とするオランダ式キックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』や、全身凶器などと恐れられる古代ビルマの伝統武術『ムエ・カッチューア』を武術の都・熊本県で教え広めるバロッサ家も有力選手を送り込んでいた。
〝プロ〟の
危急存亡の試練こそ経験したものの、〝格闘技バブル〟と共に一度は崩壊した日本MMAとも異なって『
尤も、沙門自身にとっては本人が持て余すほどの名声も悩みの種であった。根性論や支配的な〝シゴキ〟の根絶といった『
(今頃、アマカザリも似たような苦労をしてるんだろうなぁ。……あっちは俺よりずっと大変か。
背広やスラックスの内側に入ってしまった砂を払いつつ沙門が思いを馳せたのは、日本格闘技に
キリサメのほうは前身団体の頃から日本MMAを支えてきた
マスメディアや『
四肢を動かせば、映画のフィルムのコマが急に飛んでしまったかのような〝神速〟に達する『スーパイ・サーキット』は〝超人〟という
キリサメの
しかし、それだけで選手の評価が決まらないのが〝格闘競技〟――即ち、スポーツだ。
組技や寝技の使用も認められるMMAのリングに
そもそも『
『我流』の喧嘩殺法はラフプレーの域をも踏み越えており、
不思議な巡り合わせから一時的に彼の
それにも関わらず、岩手から東京に帰ってきたキリサメと互いの健闘を讃え合うようなこともなかった。
つまり、キリサメに対する批判的な声が
「――派手なの一発、
付着した砂を払い終えた沙門の背中に聞き
直接、会ったことは一度もないので
『
電話越しの自己紹介を想い出しながら声が聞こえてきたほうに振り返ると、袖と裾が少しばかり短い風変わりな
紺色の
そちらの顔には沙門も
即ち、〝剣道屋〟の隣に立つのは幼い頃からの付き合いであるという〝柔道屋〟――
闘いやすいように短く切り揃えた黒髪を目にするのも初めてだが、明治時代に日本から世界へと
柔道黎明期の様式を再現した
国際ルールに準拠する〝
〝剣道屋〟こと瀬古谷寅之助のほうは『タイガー・モリ式の剣道』を使うという。『タイガー・モリ』とは日本剣道史上に傑出した最強の剣士――
浅草に構えた瀬古谷の道場は
瀬古谷の道場が継いできた『タイガー・モリ式の剣道』とも異なり、寅之助自身も一種の仮想敵と忌み嫌っている様子だが、太平洋戦争の
電知の右隣には、二人の武道家と同い年であろうと察せられる少年が立っていた。
『八雲道場』と所属先の名称が刺繍されたジャージを着ているが、
「ご無沙汰しています――という挨拶に続いて、お互いの近況を確認し合うのが普通なのかも知れませんが、沙門氏はその必要もなくお元気そうですね」
「……このバッドルッキングに言う台詞じゃないぜ、アマカザリ」
居た堪れなくなるほどの気まずさが押し寄せ、思わず目を逸らしてしまったのも無理からぬことであろう。視線を巡らせた先に沙門が見つけたのは、半月もの間、連絡を取っていなかったキリサメ・アマカザリである。
*
生まれてから今日まで野郎四人でメシ食う趣味を持った
「城渡氏の容態はどうでした? ……最近、ちょっとしたことがあって個人情報の保護云々を教えられたのですが、出来れば沙門氏が話せる範囲だけでも教えて頂けませんか」
キリサメの問い掛けは真っ直ぐに沙門の心を貫き、口に含んだばかりのシーフードピラフを吹き出しそうになった。
カクテルグラスに盛り付けられたフルーツジェラートをスプーンで
一緒にレストランに
沙門以外の三人は鎌倉で暮らす友人を訪ね、
海岸線を
「天文学的な確率のミラクルはボーイズと体験したくなかったぜ。その上、一番ダサいトコを目撃されちまうんだもん。このレストランにはテーブルサイズのおみくじ器は置いてないけど、今、引いたら
腫れが引き始めた左右の頬を順番に撫でつつ自虐的な薄笑いを浮かべた沙門は、湘南の知人に会いに行った
それにも関わらず、『
恭路から聞かされなくとも、『
己自身の
初めて出逢った
陸前高田市では彼の養父――八雲岳が東北復興支援
しかし、今日は『
己の意思で
「――僕もあの人のようになれるでしょうか。岳氏のように……」
今日の自分たちと同じように陸前高田市の震災遺構――『奇跡の一本松』にて偶然の邂逅を果たし、復興半ばの町並みを一緒に見つめた『NSB』のイズリアル・モニワ代表に
「サメちゃんってば自分でブチ壊した相手がず~っと気になってるみたいでね。
「……アマカザリのフレンドシップに口出しする資格なんか持っちゃいないけど、そのセレクトは遠慮しておいたほうが良いと思うぜ」
「沙門氏の仰る通りですよ。手を差し伸べてくれた城渡氏の気持ちを僕は台無しにしてしまいました。だけど、〝あの結果〟をリングの外で詫びることこそ一番の侮辱でしょう。仮に訪ねたとしても、顔を洗って出直してこいって蹴り出されるだけだと思います」
『スーパイ・サーキット』が引き起こしたリングの崩壊に巻き込まれ、瀕死の状態で緊急搬送された対戦相手の
「最近のサメちゃんってば、電ちゃんみたいにカッコ良すぎて張り合いないんだよねぇ。素直過ぎて面白味がないって言うの?」
「おれを持ち出すなよ、寅。そもそも、おれはキリサメみてーにカッコ良くねーし」
キリサメの言葉を受けて互いの顔を見合わせる寅之助と沙門であったが、反応そのものは真逆である。物足りなさそうに肩を竦めた前者に対して、後者は双眸と口を大きく開くことによって驚愕の度合いを表している。
樋口郁郎が印象操作の為に仕向けた『
ルールによって暴力性を抑制し、〝
その上、
沙門の記憶の中に
今、沙門の目の前に腰掛けているキリサメは違う。
ヒサシの如く突き出したリーゼント頭が震えるほどの怒号を恐れて謝罪を
そもそも試合結果について選手という個人間で謝罪が行われることが〝プロ〟では珍しい。今回のように危険行為を繰り返した末の反則負けは異常事態であり、感情のやり取りで状況が拗れないよう所属先が応対し、〝然るべき措置〟を取るのが常識であった。
幼少の頃より親しく付き合い、この場の誰よりも
〝プロ〟の
それだけに沙門の
それはつまり、『八雲道場』に電話を掛けようとも思わなかった半月の間にも、キリサメの近況が半ば自動的に沙門の耳に入ってきたという意味でもあった。
日本でも最高の
(見掛けによらず生き方がテクニカルで羨ましいぜ。マイライフの上乗せなんてさぁ)
〝地球の裏側〟から日本へ移り住んでから半年も経っていないはずだが、この短期間で経験した〝全て〟を着実に積み重ね、道に迷うことがあろうとも必ず次の一歩を踏み出していくのである。
キリサメの実の両親については一つとして情報を持たず、詮索するつもりもない沙門であるが、八雲岳の養子となったことで一七年という人生が賑やかなものに変わったのであろうと揺るぎなく確信していた。
誰に対しても胸襟を開いて無邪気にぶつかっていく行動力の塊のような
「やけにスマイリーじゃないか、柔道屋。恵比須様みたいな
「嬉しいときに顔に出さないよう我慢するのは一番つまんねーコトだぜ、空手屋。おれの親友、イイ
キリサメの隣に座った電知はイカスミソースのパスタをフォークに絡める動きを止め、芽生え始めた格闘家としての自覚を示す親友の横顔を誇らしげに見つめていた。
『コンデ・コマ式の柔道』とはMMAデビューよりも
電知と直に語らうのは今日が初めてだが、言葉を交わせば交わすほど何年も昔から友人として付き合ってきたと錯覚してしまうような親しみや好感が湧き起こるのだ。
膨大な文献を調べ、偉大な足跡も訪ね歩き、修練の末に
「トンガった面白味が消え失せたって言ったほうが合ってる気がするけどねぇ」と、電知の言葉に芝居がかった調子で
「岩手県のイベントって奥州市で
「僕は日本の病院を良く知らないのですが、思い付きで脱走できるものなのですか……」
「
MMA選手であるのと同時に〝総長〟という肩書きで湘南の暴走族チーム『
ガレージに
今でこそ『
夫が生死の境を彷徨うことにも、満身創痍でありながら入院先を脱走することにも慣れているのだろう。バイク店で彼を出迎えた妻は、呆れながらも苦笑のみに留めたという。
怒鳴り声を張り上げたのはセコンドとして
剛毅の二字が〝ボンタン〟を穿いているかのような〝先輩〟選手である。担当医から厳命された絶対安静を無視するなど自殺行為としか表しようもないが、怪我など物ともせず前方に突き出したリーゼント頭を躍動させる姿はキリサメにも容易く想像できた。
考えるな、感じろ――そのように
「大したおっさんだぜ、ホント。『
「土産に持っていった
沙門の話に耳を傾けていた電知とも同じ想像を共有できたのであろう。
「後遺症ってほどシリアスなものじゃないから、アマカザリも気に病まなくて良いって前置きしておくけどな、ハイアングルなジャンプキックでやられた喉や、見事にクラッシュした鼓膜がリカバリーするまではもう少し時間が掛かりそうだったよ。両耳を覆うガーゼはさすがに痛々しかったかな」
喧嘩殺法が破壊した部位の経過報告には
「さすがに折れたアバラは庇っていたし、筆談やボディーランゲージでなきゃトークが成り立たないのは本人もウザったそうだったよ。とは言え、力仕事は恭路が居るし、コミュニケーションなら
「……ありがとうございます。見舞いに行ける立場ではありませんが、怪我の具合はどうしても気になりますから……」
「今の流れで想い出したよ。本人はアマカザリを恨んでも怒ってもいないけど、恭路のほうはずっとノイジーだったよ。試合が終わった後、城渡さんの仲間とトラブったんだろ。リベンジに手を貸せって、俺にまで言ってきやがってさ」
「まだサメちゃんを狙ってるっての? 恭ちゃんも懲りないねぇ。ボクも気持ちを折りに行ったつもりだったんだけど、役者不足だって
岩手興行の会場まで応援に駆け付けた『
その意趣返しは『
未だに己自身の手による
抑え
「おいコラ、寅。
「電知も代弁してくれたけど、頼むから余計な真似は控えてくれ。……お前と斬り合ったときとは何もかもが違うんだ。僕も僕の責任を果たさなければならない」
「
「万が一のときには沙門氏の力をお借りしますよ。直接、連絡を入れると差し障りがあるようですし、岳氏を経由して空手道場のほうに伝言を頼む形にします」
「ダイレクトにコンタクト取ってくれて構わないって! 言葉にトゲがあるんだよ、アマカザリ~! いや、それを言わせたのは他でもない俺なんだけどさっ!」
『タイガー・モリ式の剣道』で〝辻斬り〟を働いてしまいそうな
思い込み激しさや他人の事情など一顧だにしない傍若無人な振る舞いは迷惑以外の何物でもなく、関わり合うのは大変に煩わしい御剣恭路であるが、一方的に兄貴分を称するなどキリサメに対して友情を抱いていたことは間違いない。
その絆を裏切られた悔しさもあり、引っ込みが付かなくなっているのだろう。だからこそキリサメには『タイガー・モリ式の剣道』を差し向けるという選択肢はなかった。
「みんな優しいねぇ。てゆーか、サメちゃんの場合、そのテのお情けが命取りになるって経験から痛感してるハズでしょ。敵は根絶やしにするのが一番じゃん」
〝傍迷惑な知人〟を叩きのめす好機を逃した寅之助が窓の外へとつまらなそうに視線を投げ出し、他意もなく呟いた一言が鼓膜を打った瞬間、沙門の顔から笑みが消え、表情そのものが凍り付いた。
敵は根絶やし――この一言を今の沙門がどのように受け取るか、口に出した後に気付いた寅之助は、電知が正面からぶつけてきた戒めるような眼差しに小さく頷き返すと、珍しく失言を
*
〝パラスポーツとしてのMMA〟の未来を背負い、『NSB』の
その日、
この
祖国ルワンダを襲った国家的悲劇によって左太腿から下を失ったンセンギマナは、『ライジング・ポルカドット』と呼称されるMMA用の義足を装着し、カーボン
第一
それも一つや二つではない。しかしながら、合奏とも
『ヨハネの黙示録』第八章には、世界の終末を告げる七人の天使たちが記されている。順番にラッパを吹き鳴らし、その
如何なる怪異かと場内の全員が一斉に巡らせた視線は、ベイカー・エルステッドに辿り着く――『
選手の集中を妨げる原因にもなり兼ねない物として、サッカー
空手家たちが正気を疑わざるを得ないような調子で吹き続けるプラスチック製のブブゼラは、正確には管楽器の一種として取り扱うべきであろうが、この場の誰もが共有する忌まわしい記憶に引き摺られて〝笛〟と認識してしまった。
エルステッドのセコンドと
他のMMA団体と同じように楽器を用いた応援は『NSB』のルールでも全面的に禁止している。それ以前に笛ひいては管楽器を吹き鳴らすという行為そのものが
その一人が
大統領の警備体制に対する信頼性を著しく損ねたテロ事件の首謀者ということもあり、地獄の管理者たる天使に由来する
格闘技という名の暴力なき平和な世界を実現させる為ならば、超大国の大統領すら恐れない抗議活動は数え切れない〝同志〟の先鋭化を招き、『サタナス』と同等のテロが引き起こされるのではないかと各国で警戒が高まっている。
『ウォースパイト運動』の〝同志〟は、笛や管楽器を吹き鳴らすことによって人権侵害に対する抗議と思想活動の連帯を示している。『
「――まさか、転んだっていうのか⁉ 『NSB』の選手がッ!」
聴覚を狂わされるような騒音と全世界の格闘技にとって共通の〝敵〟とも呼ぶべき思想活動が
『NSB』のロゴマークが刷り込まれたシャツを着るスタッフたちが呆然と立ち尽くしている間にも『
「カリエンテ、今日は得物を持参してねェだろ。
「ルブリンさんにも先に釘を刺しておくけれど、アタシを庇う必要はないわよ。動作の怪しくなった機械は、昔から一発ブン殴って直してきたでしょう? トボけた連中の
「
ベイカー・エルステッドに取り
バルベルデを
伏兵は多く、試合中であった
もはや、試合の再開など望めまい。プロジェクションマッピングによる光の演出は言うに及ばず、実況も歓声も途絶え、ブブゼラの騒音に混じるのは発狂にも近い悲鳴である。
本日の
その内の一人――ベトナム
「試合会場への直接攻撃は今までにもありましたが、この規模の人数で徒党を組んできたのは初めてです。『
ダン・タン・タインが冷静なのは、〝同僚〟たちに向ける言葉のみではない。
極めて身近な場所でテロ事件が起こり、運悪くこれに居合わせてしまった人間とは思えないほど涼しげな
危険な撮影も自らの
「
出演作品では血気に逸る正義の
『ウォースパイト運動』の制圧に乗り出すつもりはなさそうだが、自らも〝抗議〟の対象に加えられたときには全力で迎え撃つことであろう。目と鼻の先でブブゼラを吹く者たちを効率的に平らげていく手立てを
北軍の民兵として『ベトナム戦争』に従軍した祖母は少年兵を率いて南軍の地上部隊を強襲し、メコン
彼もベトナムに生まれた人間である。美しい田園風景に『東西冷戦』の代理戦争を持ち込み、大破壊をもたらしたアメリカという国に複雑な感情を全く持っていないと言えば嘘になる。『NSB』への出場についてさえ、戦中・戦後の惨状を体験した親類の一部から裏切り者と面罵されたこともあった。
戦死した家族の服を着てゲリラ戦に身を投じた祖母が旧ソ連から流れ込んだ
しかし、アメリカ人の〝同僚〟たちと〝スポーツマンシップ〟を分かち合える時代に生きていればこそ、ハリウッド映画にも出演できる。それもまたダン・タン・タインの〝事実〟であった。
その
それ故に彼は臨戦態勢を整えず、腕組みも解かなかった。
「
誰に聞かせるでもなく苦々しげに吐き捨てたダン・タン・タインは、二〇一五年末に開催される
MMA選手には
日本に
エルステッドも
「どうしてこんな暴挙に出たのか、
『NSB』を代表する〝兼業格闘家〟が容易くは割り切れない思いを胸に秘めつつ視線を巡らせた先では、シロッコ・T・ンセンギマナでもブラボー・バルベルデでもない別の人間がベイカー・エルステッドに向かって乱入の理由を
四方八方から怒気を浴びせられようとも全く怯まず、テロ事件の主犯格と相対しているのは、最強の二字を
「大事な試合をブチ壊しにされたのは俺とンセンギマナなんですから、こっちで責任を取らせますよ。たかだか二〇人、多く見積もって三〇人。俺たちだけで片付けられます。この後に出番が控えているジュリアナ
そのジュリアナから庇われたバルベルデは、礼を述べるより先に苦笑いで肩を竦めた。
ブブゼラが鳴り始めた直後は迷惑客と判断し、『NSB』のスタッフに対処を任せて円軌道の打撃を
その是非についてはレフェリーとも確認し合い、次いでンセンギマナと背中を預け合う形で迎撃態勢を整えたのだ。主犯格が〝
「ここは〝先輩〟にカッコ付けさせて頂戴な。MMAの――いいえ、格闘技界全体の未来を背負って立つ貴方たちに指一本触れさせないわよ」
「お忘れかも知れませんけど、
「
「
「その拳に譲れない夢を握り締めているのなら、それを育てることだけを考えなさい。未来の種を芽吹かせ、満開の花が咲くよう助けるのも〝先輩〟の役目なのよ。……だからこそ誰かの夢を踏み躙る人間は許さない。今の私は夢とは別の意志を握っているわ」
先程の問い掛けに対する返答次第では、空手衣を纏った思想活動家たちを一人として五体満足で帰さない――言外に突き付けるジュリアナの眼光を受け止めた
ンセンギマナとバルベルデの試合を見学している最中と同じ様子で、生真面目の四字を体現するかの如く口を真一文字に引き締めている。
目が乾いてしまうのも構わずに全く
「――ジュリアナにだって頼むわけにはいかないわ。その責任は私が果たすべきもの。何よりも彼は『NSB』に籍を置く選手よ。如何なる影響のもとで今までと別の〝道〟に分かれようとも、訴える手段を誤ったとしても、その声はこの身一つで受け止めるわ。私は逃げも隠れもしない」
軽く腕を突き出すだけで拳が届いてしまう距離で相対するジュリアナとエルステッドの間に凛と張る声が割り込んだのは、ダン・タン・タインが
その声が投げ込まれた方角は、日本人の〝先輩〟選手が立つ位置から少しばかり離れている。場内の皆と共に視線を巡らせた先には『NSB』の現代表――イズリアル・モニワの姿が
左右の肩を大きく上下させながら、額に噴き出した汗を手の甲でもって乱雑に拭い続けるのは、緊急事態を確認して全速力で駆け付けた為であろう。
幾人かの上級スタッフを引き連れてはいるものの、『
それどころか、自らも凄まじき戦闘能力を備えた特別顧問たち――かつてヴァルチャーマスクと名乗り、
前者はそもそも今日の
ともすれば、無防備のまま我が身を危険に晒しているような状態であった。初動の遅れを取り戻すべく危険分子の制圧に向けて速やかに準備を進めていく警備員たちにも、観客の安全を最優先で確保するよう指示を飛ばした。
空手衣を纏った思想活動家の一人は自らを守る
ペンシルベニア州の法規制に屈した黎明期の
静かに燃え盛る炎の如き眼光で心を貫かれた空手家は、呻き声を洩らすことさえ忘れてその場にへたり込んでしまった。すぐ近くでブブゼラを吹きつつイズリアルを威嚇していた〝同志〟たちも左右に分かれて道を譲っている。
「全体の指揮を執る代表こそ、一番安全な
「つまり、〝よっぽどのコト〟が起きたときには、誰よりも早く撃って出なくてはならないということね。今がその
その意を汲んだンセンギマナの
困った様子で眉根を寄せながらも、激烈な敵意を浴びせてくる『ウォースパイト運動』に一瞬たりとも怯まない団体代表の姿を誇らしそうに見つめていた。
「テロリストは贖罪などしない。我々は『NSB』という罪を滅ぼす為に
共に『NSB』の復活を成し遂げた
「これは人権侵害に対する
〝抗議の笛〟を
「今日まで『NSB』を支えてきた全ての人々の代表として
「自分とて罪に
「随分と高い見積もりだわ。『平和と人道に対する罪』か。〝ウォースパイト〟を名乗る思想活動に似つかわしい主張と言うべきかしら。貴方に〝断罪の剣〟を託したのは国際社会の秩序であり、勇気ある正義の執行者――犯行声明はそのように締め括るつもりね」
「その覚悟で我らは
『平和に対する罪』は他国への侵略といった国際秩序の崩壊を、『人道に対する罪』は狂気に冒された暴君による人権侵害をそれぞれ国際法の枠組みに
乱暴にもこれらを一括りにし、MMA団体の活動内容に当て
そもそも過激思想は大義名分を実態から掛け離れるほど誇張する傾向があり、口にする主語も異常に大きい。かつて
格闘技を人権侵害と
『NSB』を『平和と人道に対する罪』で裁かんとしていることからも明らかな通り、空手衣を纏った思想活動家たちは、内在する暴力性という一点のみを拡大解釈して格闘技と戦争を並べて語っている。
言行も思考も際限なく過激化していく『ウォースパイト運動』の〝抗議〟は、〝戦争犯罪〟を裁く国際法にさえ基づかない私刑である。格闘技という〝暴力〟を人権侵害と罵りながら、より深刻な破壊をもたらすテロ行為を〝社会正義〟と主張する――傍目には狂乱の一言でしか表せないが、自らの振る舞いを何もかも正当化する者たちの
『
「我らが〝真実〟に目覚めたきっかけはバルベルデ選手のお陰だ。先ずは御礼を申し上げたい。あなたに託された問い掛けが欺瞞に満ちた格闘技から目を
「礼を言われる筋合いなんかねぇし、言ってるコトとやってるコトが正反対のデタラメだろうが。俺があんたらに何を託したってんだ? 妄言も大概にしておかねぇと、顔面が原形を留めねェくらい陥没しまくった遺体を警察へ引き渡すことになるぜ、オイ」
「ならば、お答えしよう。金メダルという栄光を
「本人を置き去りにして、
相対するイズリアルにも、
『ウォースパイト運動』の〝同志〟にとっては正義と秩序を奪還せしめる笛の
「
「アマチュアボクシングに復帰するボクサーとしちゃあ、競技自体をバカにされてるようで聞き捨てならねェな。〝プロ〟よりも強いアマ選手、こっちは両手の指を使っても数え切れないくらい知ってるぜ」
「
「
「この
その間、
「ゆくゆくは日本の〝同志〟も決起する。サムライたちの勇気も〝
「悲劇としか表しようがないけれど、私が〝何か〟を述べたところで、貴方の耳には見下げ果てた言い逃れにしか聞こえないでしょう」
「もはや、貴女の口は欺瞞しか作り出せないようになっている。未だに〝真実〟に気付いていないのか。気付いていながら、オリンピックという幻想に目が眩んで見て見ぬ
それは無念の発露なのか。大粒の涙を双眸から迸らせている。
「国家の威信を争うオリンピックにありとあらゆる〝暴力〟が剥き出しとなる
ベイカー・エルステッドが解説も交えないまま「一九五六年の再現になる」とだけ述べて
事件が起きたのは、『ハンガリー動乱』の直後に開催された一九五六年メルボルンオリンピックの水球競技の
国論の分裂といった政治的混乱を抱えながらも枢軸国側として〝戦争の時代〟を迎えたハンガリーは、連合国側のソビエト連邦に侵攻と占領を許し、戦後も内政干渉といった圧迫が続いた。
ソビエト連邦の影響が強い政府中枢はともかくとして、国民の間では穏やかならざる感情が膨らみ、一九五六年一〇月二三日に至って国土の隅々まで
自由を求めて決起したハンガリーの民がソビエト連邦の軍事介入によって鎮圧されたのは同年一一月一〇日のこと――オーストラリアで初めて開催されるオリンピックが開会式を迎える一二日前であった。
緊張の二字ではとても表し切れない関係の
そもそも水球は「水中の格闘技」と呼ばれるほど選手同士の接触も激しい競技だが、一二月六日に繰り広げられた因縁の一戦は、両チームが入り乱れて殴り合う惨状と化した。ハンガリーの
点数の上ではハンガリーの完勝であったが、試合後には応援に駆け付けた観客までもが乱闘騒ぎを起こしており、祖国の雪辱を果たしたとも言い
文化・国籍といった選手間の違いを越え、フェアプレーによって育まれる友情を通じて世界平和に貢献するというピエール・ド・クーベルタン男爵の
甚だ説明不足であったものの、殊更にMMAの暴力性を強調するような口振りから『メルボルンの流血戦』を例に引いたのであろうとイズリアルも察している。
一つの事実として一九五六年のハンガリー選手団はソビエト連邦による暴動の鎮圧を祖国に対する弾圧と捉え、同胞の怒りと悲しみを背負ってメルボルンオリンピックを戦っている。反ソ連の旗頭は言うに及ばず、死屍累々と表すしかないほどのハンガリー国民が犠牲となり、これを遥かに上回る難民が国外脱出を余儀なくされたのだ。
「プエルトリコがアメリカからの完全独立を宣言した後にも先程と同じように反論できるのか、バルベルデ選手。両チームがオリンピックで対戦することになったとき、そして、その競技がMMAだった場合、自治領に
「今度は
「バルベルデ選手は〝プロ〟だから一個人として『NSB』のリングに立てるのだ。その立場があったればこそ、政治と無関係でいられたのである。
「またしても一方的な決め付けか? それと騒音妨害以外に芸はねェのかよ。がっかりさせてくれるぜ、エルステッド。随分と
二〇一四年現在、プエルトリコはアメリカの〝準州〟であり、一部の政治家や活動家が本国からの完全独立を目指してはいるのだが、社会全体の方針でもない運動を持ち出した挙げ句、MMAが秘める暴力性の協調に結び付けるのは、発想の飛躍ではなく論理的思考の破綻としか表しようがなかった。
「国の垣根を超えて人材が集まる競技団体への所属という一言を盾に代え、政治とスポーツを切り離せるのも〝プロ〟の特権である。だが、その言い訳はアマチュアの〝立場〟には適用されないし、報酬の代わりとして祖国の〝誇り〟を背負わされる
「――
バルベルデと入れ替わるようにして金網の外から鋭い大音声を叩き付けたのは、ダン・タン・タインである。
随分と都合の良い耳であろうが、最初の一言さえエルステッドには届いていない。仮に聞こえていたとしてもダン・タン・タインが紡いだのはベトナム語であり、言葉の裏側に秘められた真意だけでなく、己が纏う
メコン
「拳という名の凶器を振り回すボクシングでさえ危険であるのに、MMAは相手を絞め殺すことも、関節を圧し折って人生を狂わせる後遺症も与えられる。ボクシングとの決定的な違いは
「MMAがオリンピックで採用されたら俺と同じように〝プロ〟から転向したヤツらがアマ選手を
「蛮行を正当な競技と容認する人間の想像力はその程度か? ……失望させられたのは自分のほうだ、バルベルデ選手。MMAがアマチュアスポーツとして全世界で普及すれば、覇権争いに狂奔する為政者たちは〝代理戦争〟の手段として利用する。それが何を意味するのか? 全人類の暴力性が一斉に爆発する! 〝
自らが並べ立てた言葉によって、魂に根を張った
尤も、この場に
強い言葉で他者の感情を刺激し、行動理念を上書きするプロパガンダとしても、〝戦争の時代〟に常軌を逸した選民思想でドイツを操り、全世界の敵となった独裁者の足元にさえ及ばないわけだ。
「メルボルンオリンピックの頃――即ち、カラーテレビが一般家庭に普及していなかった一九五六年と違って現代は情報社会。甚だ悲しくも全人類が等しく生まれ持った破壊の本能を
「情報社会の
MMAが第三次世界大戦の火種になるという暴論に接して絶句させられたバルベルデに代わり、痛烈な皮肉を吐き捨てたのは、
二〇一六年開催のリオオリンピックでは追加種目の候補に挙がっていないが、将来的に
商業化に拍車が掛かった一九八四年ロサンゼルス大会以降はスポーツ利権という生臭い思惑が顕著となり、これに絡んだ議論や汚職事件も絶えないが、依然としてオリンピックは世界最高の競技大会であり続けている。だからこそ、世界中の
会場まで足を運ばずともテレビのチャンネルを合わせるだけで誰でも観戦できるオリンピックの影響力が絶大であることも事実である。試合が大きな話題を呼び、マスメディアで取り上げられた途端に当該種目の競技人口が激増していく。
オリンピックとは競技自体の社会的地位が大幅に変わる機会でもあるわけだ。
そのような場でMMAが注目を集めれば、子どもたちのクラブ活動や学校教育に採用されるほど〝一般化〟する危険性が高まる。これは分別の付かない年頃から暴力性が助長される事態に他ならず、半世紀も経てば理性なき蛮行が横行し、国際秩序は崩壊する――ベイカー・エルステッドは断定的な語調で言い添えた。
世界終末の〝真実〟に辿り着いたきっかけであればこそ、
独り善がりな妄念に付き合わされる羽目になったバルベルデからすれば、人生最悪の迷惑でしかないが、空手衣を纏った思想活動家が『NSB』に対して『平和と人道に対する罪』という結論に至った辻褄は合うのだ。
「……
ンセンギマナの
ベイカー・エルステッドの
ありとあらゆる格闘技術がルールの範囲内で認められるMMAには高い暴力性が内在しており、黎明期に
かつてはアマチュアMMAの育成にも携わった
国家間の確執が選手を苛烈な試合へ追いやる可能性や、その解決策を話し合っているのは『NSB』内部のスタッフだけではない。そもそもMMAのオリンピック正式種目採用を目指す推進運動は、各国の関連団体が歩調を合わせながら実施しているのだ。
その中には日本国内で開催されるMMA
エルステッドが言及した通り、アマチュアの
脳や内臓、関節の損傷は言うに及ばず、無限の選択肢が用意されているはずの将来に暗い影を落とす後遺症も想定されるのだ。
『NSB』も『MMA日本協会』も、二度と〝人間闘鶏〟などと扱き下ろされないような社会的地位の確保を目的としているわけではない。競技対象年齢の法規制といった議論を共有する各国団体は、推進運動を担う責任に
自らの〝心技体〟を振り絞る労働の対価として
〝プロ〟は
MMAの更なる発展を推し進めんと努める人々の〝事実〟に意識を向けようともしない『ウォースパイト運動』の活動家は、己の
「勝利至上主義と民族意識が
一九〇八年ロンドンオリンピックのマラソン競技の
同大会のマラソン競技はイタリア代表の長距離走の選手――ドランド・ピエトリが一着でゴールしたのだが、その前後には猛暑と極限の疲弊によって何度も倒れ、その
結局、競技中に他者の助けを借りたことが問題視されてドランド・ピエトリは失格扱いで一九〇八年のオリンピックを終えることになったが、ゴール地点で彼を出迎えた観客たちはスポーツそのものの信頼を揺るがし兼ねない事態を感動的な
あまつさえ、同大会のマラソン競技で二着となったアメリカの
スポーツ選手は〝何の為〟に闘うのか。その勝利は〝誰の為〟に
オリンピックのマラソン競技では、この四年後のストックホルム大会に
ベイカー・エルステッドが怒れる声で語った通り、祖国を代表して国際大会へ出場する
「もしも、オリンピックでMMAの試合が強行され、
「今のはイズリアルがハリウッドで働いていたコトを揶揄しているのかしら? ……MMAへの〝抗議〟ですらない侮辱は一言だって許さないわよ。ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンの名前で喧嘩を買ってやろうじゃない」
「自分以外の誰かに〝女神の生まれ変わり〟という物語を押し付けられたヴィヴィアン選手に理解できないハズがない。大衆は劇的な
ンセンギマナの
一九九三年の旗揚げ興行以来、使用し続けてきた
長期療養を余儀なくされるほどの深刻な故障や有力選手の離脱を招き、
〝人種のサラダボウル〟とも呼ばれる
古代ローマの
ドーピングの効果によって圧倒的な優位性が備わった〝超人〟に破壊され、再起不能にまで追い込まれたのは、如何なる場合に
フロスト・クラントンには師匠と呼ぶべき存在がいた。彼と同様にショービジネスの世界で大成し、師弟二人三脚のマーケティング戦略や
現在はラテンアメリカに
それが為に
古代ローマの歴史を振り返ると、
結局のところ、
〝超人ショー〟の餌食にされてしまった人々とは異なる肌の色でありながら、恥ずべき所業に与せず、ドーピングも断固たる態度で拒絶した選手は一握りではない。MMAそのものの〝敵〟となったベイカー・エルステッドもその一人であった。
だからこそ、清廉潔白な人物として誰からも厚い信頼を寄せられてきたのだ。翻せば、澄み切った清流ほど濁るのも早いということである。
「人が感情で生きる動物である限り、
あたかも
例えば、国威の浮沈や外交問題を抱えた相手国への制裁を選手へ託す
国威発揚への貢献と引き換えに政府から身分の保障を含めた援助を受けるアマチュア選手――『ステート・アマ』を過去に擁していた
テロの危うさとは被害の大きさで効果を判定する破壊活動のみを指すのではない。社会がひた隠しにする〝真実〟を抉り出すようにも聞こえ、また
筋の通らない主張を並べ続けるエルステッドに徒党を組むだけの〝同志〟が付き従っていることこそ何よりの証左であろう。理性的な判断力すら押し流してしまう熱量に
「オリンピックが与える影響だけが問題なのではない。
世界のMMAを牽引し続けてきた『NSB』と、一度は日本のMMAを崩壊させるほどの過ちを犯しながら〝暴君〟の奸計によって甦った『
「蛮族覚醒の
これは贖罪だ――もう一度、空手衣を纏った思想活動家は全身を震わせながら吼えた。
己の言行に一点の疑いもない立ち居振る舞いだが、〝贖罪〟とは呼んで字の如く自らが犯した罪に対する償いを意味している。それにも関わらず、エルステッドが最も声高に主張しているのは将来的な可能性なのだ。あるいは惨劇の予防とも言い換えられるだろう。
自らの発する言葉の一つ一つが矛盾に満ちていると気付けないことも異常性の
『ウォースパイト運動』が人類滅亡の危機と訴えるような事態は、必ず引き起こされるとは限らない。ともすれば〝闇〟の底より垂れ込めた
「――月曜日は嫌い。盛り上げたかったの」
おもむろに口を開いたイズリアルが紡いだ一言は、ンセンギマナとバルベルデの試合を断ち切ったブブゼラの騒音に負けないくらい前後の脈絡を無視するものであった。
試合場に乱入してきた『ウォースパイト運動』の活動家や、これと対峙する『NSB』の選手たちは言うに及ばず、金網の外から成り行きを見守っていた人々までもが意味不明な筋運びに面食らい、揃って目を丸くしたのは無理からぬことであろう。
今日が土曜日ということも含めて場違いとしか表しようのない「月曜日は嫌い」という言葉に続けて、イズリアルは急に歌を口ずさみ始めたのである。
アイルランドのロックバンド――『ブームタウン・ラッツ』が一九七九年七月に発売した『アイ・ドント・ライク・マンデイズ』である。尤も、哀愁が深く染み込むような節回しは本来のボーカリストであるボブ・ゲルドフよりも、同性のトーリ・エイモスによる二〇〇一年のカバー版に近い。
趣味の
これ以上ないほどの皮肉であろうが、イズリアルが
今までとは異なる様子で瞳に
歌詞の上でも「
その空手家が握り締めたのは、三本の
内部が空洞となっている
昨年の七月にペルーで発生した大規模な反政府デモでも国内のテロ組織から怒れる
「――その歌、目立ちたがり屋のテロリストの耳には死ぬほど突き刺さるだろッ!」
少しずつではあるが、『NSB』のスタッフや観客もイズリアルが『アイ・ドント・ライク・マンデイズ』を唄う意味に気が付き、これを
網目の〝外〟から投げ込まれる痛罵が引き金となり、警棒を振り
その火炎旋風はジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンという名である。今まさにイズリアルへ届かんとしていた特殊警棒をすり抜けるようにして右拳を直線的に突き込み、空手家の鼻骨を叩き潰した。
尤も、それは大きな
関節全体の破壊を免れたのが不思議に思える轟音と共に片膝を揺さぶられ、その一撃のみで足の
桁外れに優れた動体視力を持つバルベルデにさえ直撃の回数が捉え切れない猛襲は、頭部ひいては脳を激しく揺さぶり、数秒と経たない内に空手家の意識を刈り取ったが、特殊警棒を阻止した程度で火炎旋風は止まらない。
中・軽量級とは言い
両足裏でもって胸部を打ち据えようというわけだ。直撃を回避する
「地獄の底から復活した亡者や怪物は聖なる言葉に苦しむのが映画の定番だけど、
現在の『NSB』に
殆どの者が視認できなかったが、右アッパーカットを放つ寸前には横薙ぎの左拳で脇腹を穿ち、相手の
そもそも最初の一撃――
見るも無残な形で返り討ちに遭った空手家は、勢いよく激突した支柱からも跳ね返されてしまったが、落下したマットに〝光の波紋〟が描画されることはなかった。
『NSB』の〝絶対女王〟が慈悲で頭を踏み潰さなかったということではない。MMAを新たな次元へと導くべく開発された『
その沈黙が示すのは、今から始まるのが〝格闘技の試合〟から掛け離れた命の遣り取りということである。
得物を放り出して失神した空手家を冷たく見下ろした
その中心には
自分たちを盾に換えてでも、空手衣を纏った思想活動家から過剰反応を引き出した歌声を守ろうというわけだ。金網の内外に関わらず、
「浅はかな功名心を満足させる為に闘争する者など、我が〝同志〟には――『ウォースパイト運動』には一人としていない……ッ!」
「深刻な人権侵害でしかない格闘技を根絶して世界平和を取り戻す」という本来の思想活動とは異なる憎悪をイズリアルに向け始めた〝同志〟たちを短慮に走らないよう一喝で戒めた
一九七九年一月二九日――全英シングルチャートの
道路を挟んで小学校の向かい側に住む良家の少女がライフル銃の
素行不良は見受けられなかったという声や、日頃から
事件前年のクリスマスに父親からプレゼントされたライフル銃で凶行に及んだ〝少女〟は二〇一四年で五二歳となるが、全ての仮釈放申請が却下され、未だに刑務所で服役し続けている。一八歳の誕生日を迎えた翌日に終身刑が言い渡されていた。
狂乱の有り
銃犯罪の歴史に〝地獄〟という二字と共に刻まれる惨状を〝少女〟が作り出したのは、退屈と吐き捨てた月曜日の朝である。
この乱射事件に着想を得て作られた『アイ・ドント・ライク・マンデイズ』を唄うこと自体が空手衣を纏った思想活動家たちに対する『NSB』代表の反論であった。
逮捕後の取り調べに対してさえ〝少女〟は反省した素振りも見せず、一一人の死傷者も動物――即ち、狩猟の獲物に
その犯行動機は愉快犯や快楽殺人に当て嵌まるようで、本質的にはどちらとも異なっているように思える。嫌いな月曜日をライフル銃で撃ち落とし、退屈という名の憂鬱を盛り上げたい――銃や弾丸へ異常に執着する精神構造はともかくとして、無分別としか表しようのない主張は、一六歳という〝少女〟の幼稚性に衝き動かされた〝理由なき凶行〟の証左であろう。
イズリアルが唄い上げた『アイ・ドント・ライク・マンデイズ』は、二二口径の銃口が狙いを定めた〝月曜日〟を〝格闘技〟に、
仰々しい言葉を多用していた為、立派な題目のように聞こえなくもないが、格闘技という人権侵害の根絶を訴えながら特殊警棒を振り
自己矛盾に満ちた〝暴力〟には一歩たりとも譲らず、『NSB』が育んだ
尤も、思想を全否定されることには『ウォースパイト運動』も慣れている。活動家たちは〝暴力〟なき世界の守護神を気取っているが、その国際社会からはテロリストに準じる過激な思想活動として危険視されてきたのだ。当然ながらこれを認め、擁護する声のほうが圧倒的に少なく、格闘技関係者以外にも〝社会悪〟と痛罵され続けている。
理解されない苦しみさえ信念を支える力に換えて貫くのが思想活動家である。他者から浴びせられる否定の言葉は、憤激の導火線にはなり得なかった。テロには屈しないという
つまり、空手衣を纏った思想活動家から過剰反応を引き出したのは、イズリアルの歌声に秘められたもう一つの意図である。
「――テレビに出たいの。その為に〝デカいコト〟をやってやるわ」
それはライフル銃の乱射事件を起こす前週に〝少女〟が同級生に語った決意表明のような言葉である。
オリンピックと
三五年前の凶行に関する記憶が
犯行動機を
「大好きな校長先生が校門を開けてくれるのを待ち侘びていた
「同じ
「貴方たちが聖人のように崇め奉る『サタナス』も『NSB』副代表の孫娘を――年端も行かない子どもをいたぶるのが
ジュリアナもまた
嫌いなモノを破壊して〝理想の世界〟を創らんとする主張は、『ウォースパイト運動』が謳う〝暴力〟なき平和と秩序から最も掛け離れているが、この矛盾を指摘したところで過激思想に取り
そもそも異なる思想の
しかも、無伴奏の独唱だ。打撃に対するのであれば防御も回避も出来るが、歌声には抗う
それ故に空手衣を纏った思想活動家たちは特殊警棒を振り回してでも忌まわしい歌を打ち消し、三五年前の凶行と誇り高き義挙は根本的に異なると抗わなければならなかった。
本当に自己顕示欲の塊のような集団であれば、あるいは過剰反応など起こさなかったはずだ。MMAという〝暴力〟が国際社会に与える悪しき影響と、その成れの果てを心の底から憂えて決起したことだけは否定させるわけにいかない。
エルステッドとその〝同志〟たちが一斉に眦を裂いたのは、『ブームタウン・ラッツ』の
全英シングルチャートの
血の惨劇より
アメリカという
「この歌に怒りを覚えるのなら、きっとまだ引き返せるわ。理性も知性も品性も――人として大切なモノを失っていない証拠だもの。そして、それは
「私の場合、イズリアルとは正反対の意図で三五年前の戯言を持ち出したのだけどねぇ。このテロリストたちに恥知らずだってコトを思い知らせてやりたかっただけよ」
「同じ国で生きる人間だもの、テロを憎む気持ちは
再びベイカー・エルステッドと視線を交わした『NSB』代表の
「――格闘技の未来を本気で憂いているのであれば、『NSB』を
「……モニワ代表はご自分の口から如何なる言葉が漏れ出ているのか、分かっておいでなのですか? 自分たちは〝格闘技の未来〟ではなく〝格闘技によって壊される未来〟に我慢ならず『NSB』に宣戦布告したつもりなのですが……」
「格闘技――つまり、他者を傷付け、脅かす手段を得た人間による犯罪率の増加や、勝利至上主義が競技スポーツ全体に与える悪影響は、私たちにとっても懸念事項だったわ。頭を悩ませるだけで解決に至っていないという批難も甘んじて受ける覚悟よ。格闘技から暴力性を取り除けていない体たらくに貴方たちが怒りを覚えるのも仕方ないと思っている。けれど、目的を同じくする〝同志〟ということだけは変わらないはずよ」
「……今一度、先程の言葉を繰り返させて頂きます。……モニワ代表はご自分が〝何〟を喋っているのか、お分かりですか?」
「志を分かち合う人間を
共に手を取り合ってより完成されたMMAを目指してくれるのならば、代表の権限に於いて今度の一件は不問に付す――イズリアルから真っ直ぐに向けられた言葉は全く想定していなかったものであり、〝同僚〟たちによる批難すら
何よりも彼を驚愕させたのは、徒党を組んでテロ行為に及んだ主犯格に対して、オンブズマンに相当する部門を『NSB』に新設し、今まさに
特殊警棒を握り締める空手家は、全員が『ウォースパイト運動』の活動家である。自らが率いる『NSB』に実害まで与えてきた過激思想の〝同志〟を団体運営へ影響を及ぼし得る役職に据えるなど極大の〝爆弾〟を抱えることにも等しかろう。
数分と経たずに場内がどよめきの声で埋め尽くされたが、それも無理からぬことであろう。戸惑いの顔を見合わせるのは、観客やスタッフばかりではない。『NSB』の団体代表を世界平和の大敵と一方的に決め付け、大義を貶められたことで
現時点に
「一九八〇年にペンシルベニア州のチェーンホテルの
「……『
戸惑いから別の
「三四年の進化を経てチェーンホテルのボールルームから統合型リゾートのアリーナへと
「またそんな大事な約束を軽々しく……。後で副代表から説教されるわよ」
団体代表による異例の
エルステッドも語った通り、『
生きるか死ぬかという極限的な環境に適応し、進化できないモノには未来を生きる資格すら許されない――それは弱肉強食の標榜であるのと同時に、例え隆盛を極めようとも現状維持など望まず、常に〝新たな遺伝子〟を取り入れ、更なる〝先〟に手を伸ばし続けるという
ジュリアナが言及した副代表――孫娘が『ウォースパイト運動』から標的にされたばかりである――は、旗揚げ当初から『NSB』と深く関わってきた
来年末に『
MMA
試行錯誤の歴史を積み重ねてきたMMA団体だけに内部に働く自浄能力は
〝人種のサラダボウル〟とも
下手を打てば自らを破滅に追いやり兼ねない〝爆弾〟すら進化への〝力〟に換えてしまえる組織としての成熟度――それこそが『NSB』の強さであった。
今まさにイズリアルは『
選手一人々々の人生と真摯に向き合うという団体代表としての姿勢を心から尊敬し、共にMMAの発展に尽くせることを『NSB』のスタッフたちは生涯の誇りと感じている。それが証拠に
「MMAのオリンピック競技化が問題だと言うのなら、〝何〟を
マーガレット・サッチャーに重ねて〝鉄の女〟と畏怖される
怒りに任せて中指まで立てようとしたジュリアナとは違い、現時点に
愉快犯の如く破壊の快楽に酔い
善悪の判断はともかくとして、人権侵害を食い止めんとする思想活動に己の命を懸けられるということは、それだけ社会の有り
『NSB』に所属するベイカー・エルステッド一人ではなく、『
『ウォースパイト運動』の思想活動とは切り離し、格闘技という〝暴力〟が行き着く先を憂う一人々々と向き合っているわけだ。それもまた数え切れない思想や信教が共存する
イズリアル・モニワは紛れもなく〝鉄の女〟である。それはMMAひいては格闘技に関わる人々のありとあらゆる思いを受け止め、有識者の誰もが口を揃えて不可能と断言した『NSB』の〝新生〟を成し遂げた
無論、イズリアルの判断は理想主義と鼻で笑われてしまうほど甘い。
外周から金網の向こうを見つめるダン・タン・タインは、人並み以上に高いプロ意識もあって苦笑を抑えられず、視線の先ではバルベルデも呆れ顔で
それでも異論を唱える者はなく、まばらであったが、客席ではイズリアルへの支持を示す拍手が起こり始めている。四方の様子を見回すジュリアナたちの
おそらく僅かでもテロ紛いの〝抗議〟に怯むような
イズリアル・モニワの声は凛々しさが一向に衰えず、聴く者の心を掴み続けている。例えば日本格闘技界を情報戦で牛耳る〝暴君〟――
「人間を
「おそらく
エルステッドの口振りは『NSB』の由来となった『自然選択説』を
アウフヘーベン――『
「アタシの記憶違いでないのなら、この間のエルステッドさんの試合では既にプロジェクションマッピングが導入されていましたよね。ウチのンセンギマナ
我慢の限界を超えたかのような声色で金網の外から割り込んだのは、青
機能の一つとして『
パラアスリートひいては心身にハンデを持つ人々に寄り添う義肢装具士であればこそ、選民意識や優生思想という実態から掛け離れた言葉で『NSB』が卑しめられることを見過ごせず、抗議の表明として床を蹴り続けているのだった。
人権侵害という批判から大衆の意識を逸らす情報工作の為だけに莫大な設備投資などするはずもあるまい。そして、それは破壊行為でしか思想を示すことが出来ない『ウォースパイト運動』とは真逆の精神ではないか。
「
「……もはや、叶わぬ願いだが、その気持ちは自分も同じだ。
「エルステッド選手は恥ずかしくないのですか? あなたが親友と慕う
サバキ系空手の先駆けである『
その沙門が日本の打撃系立ち技格闘技団体『
『
二〇〇八年の『リーマン・ショック』と、これに連鎖して起こった世界的金融危機の影響もあってチャリティー
沙門のプロデビュー戦も、白血病治療や骨髄バンクを支援する為のチャリティー
その様子を見据えるイズリアル・モニワの祖先は、明治維新の前後から
移民団の
更に時代を遡ると、
偉大なる祖先から時代を超えて受け継いだ〝力〟を二〇一四年の格闘技界で遺憾なく発揮するイズリアル・モニワは、日本の〝暴君〟である
つまり、
純粋にエルステッドたちの才能を惜しんだことも間違いなかろうが、『ウォースパイト運動』の思想と『NSB』の間で折り合いなど付けられるはずもあるまいと提案が
今や〝同志〟たちの間で超大国の権力すら恐れない勇気の象徴と化した『サタナス』による
社会を脅かす危険分子に対して、イズリアルの提案は過分なほど寛大と言えよう。これを無下に踏み躙られたなら、世論は間違いなく『NSB』の味方に付く。つまり、それが鎮圧の大義名分となるわけだ。
万が一、『ウォースパイト運動』の側に死傷者が出るような事態に陥ったとしても、マスメディアは正当な判断であったと盛んに報じ、過剰防衛という批判が噴出しないよう社会全体を誘導していくはずだ。
オリンピック正式種目化に向けた推進運動や『
『ウォースパイト運動』ではなく、自分たちこそ手を組むべき〝同志〟であると、ベイカー・エルステッドに訴える頃には
VVは観客の安全を守り抜く為に決死の
今後も『ウォースパイト運動』の〝抗議〟が続くであろうと想定し、会場警備とは別に『NSB』内部で結成されたばかりの〝
これを率いるVV・アシュフォードは『
そこにVVが率いる〝
警備員と連携して一斉に攻め掛かれば、例え別の場所に伏兵が潜んでいたとしても根こそぎ鎮圧できる――四分にも及ぶ
VVは
どのように転んでも『NSB』の有利に働く筋運びを整えはしたものの、これはイズリアルにとって極めて危険な賭けである。
如何なる事情があれども、テロリストと交渉を持たないことは人間社会の前提だ。これを破ってまで仲間に迎え入れると持ち掛けたのだから、世論対応を仕損じれば『NSB』はテロに屈したという烙印を押され、再び国際社会に
今ならば社会悪の
ジュリアナに叩き伏せられ、マットに転がったまま依然として意識を取り戻さない〝同志〟を見下ろし、片膝を突きつつ抱きかかえたエルステッドは、もう一度、
やがて五指を垂直に立てた状態で右手を持ち上げたが、それは降伏の合図ではない。主犯格の決意を感じ取り、『平和と人道に対する罪』と口々に喚き始めた空手家たちの行動がイズリアルひいては『NSB』に関わる
『
右腕を突き上げるというエルステッドの
観客やスタッフが聞くに堪えない怒号と痛罵を降り注がせる渦中では、鼓膜から脳まで一直線に突き刺す耳障りな金属音が絶え間なく鳴り響いていた。人権侵害に対する怒りを先端まで
昨年七月にペルーで発生した大規模な反政府デモに
あるいは力任せに引き千切ると表すほうが正確に近いだろう。生じた切れ目に数人で飛び付き、野獣の如き吼え声と共に力ずくで引き裂いていく。MMAに関わる者を蛮族と侮辱しておきながら、自分たちこそが粗暴という二字を体現しているのだった。
そもそも〝テロ〟とは民間人を標的とする破壊行為そのものを指しているのではない。自らの主張・主義の強要と一体化して、初めて〝テロリズム〟は成立するのである。MMAによって世界平和が乱されると訴えてきた乱入者たちは、この瞬間から正真正銘の〝テロリスト〟に成り果てたのだ。
「やはり、貴女の口から吐き出されるのは欺瞞だけのようだ、モニワ代表。『NSB』を内側から変える? それは問題を先送りにせんとする時間稼ぎでしかありますまい。しかし、我らの
果たして、それがイズリアルに対するベイカー・エルステッドの
おそらくテロの主犯格は、
『NSB』の現役選手が過激思想に呑み込まれた事実は言うに及ばず、
一方、VVが指揮を執る〝
誰よりも好戦的に拳を鳴らすのは、先程までVVの傍らに立っていた女性だ。
他の人々と比べて頭二つ三つは大きく、ジャケットの上からでも瞭然なほど逞しい巨躯を
袖口から覗く手首や剥き出しとなっている手の甲には蜥蜴の鱗を彷彿とさせるタトゥーが彫り込まれていた。おそらくそれは腕全体を彩っていることであろう。
「モニワ代表に恨み言をぶつけるのは筋違いだが、結局は何もかもブチ壊しってオチか。今こそ俺は声を大にして『暴力反対!』と呼びかけたいぜ。仕切り直すったってMMAの
目の前の〝敵〟を〝第三勢力〟が横から奪い取ろうとしていることなど夢想だにしないブラボー・バルベルデは、何とも
それも無理からぬことであろう。足元にまで残骸が飛び散り、〝
ましてやMMA選手としての最後の一戦は、人生の中で掛けがえのない節目となるはずであった。もはや、試合再開など望めまい――諦念の二字こそ似つかわしい声で
それも仕方のないことであろうと、バルベルデも理解している。当のンセンギマナは団体代表を
愛してやまないアニメシリーズ『
ドレッドヘアーを荒々しく巻き上げながら、
いつか拳を交えたいと望んでいたベイカー・エルステッド――即ち、
「なァ、ンセンギマナ。畏まって試合を組むってのは難しくなるけど、『NSB』の〝同僚〟でなくなれば
「――これ以上、『
危害が及ばない場所へ退くよう『NSB』のスタッフたちに促しつつ、
角刈りにした髪の毛に意志の強さを表すかのような極太の眉、全身を包むのは古銭を上下に三枚ずつ並べた『
『NSB』内部に隠れ潜んでいた『ウォースパイト運動』の襲撃という急報に接するや否や、控室から場内に駆け付け、一旦は
日本人にしてはかなり高い鼻を赤く染めているのは、言わずもがな身の
「黙って聞いていれば、好き勝手なことばかりベラベラと! 『恥知らずという言葉が服を着て歩いている』と言いたいところだが! 『
独特の愛嬌を生み出している垂れ気味の双眸も、今日ばかりは激烈な感情によって吊り上がっていたが、さりとて藤太自身の沸点は決して低いわけではない。それどころか、滅多なことでは腹を立てないのだ。
生き馬の目を抜く競争社会で生きるには甚だ不向きと笑われてしまうくらい道理を重んじる人物でもあった。
この場はイズリアルに譲るのが道理と己に言い聞かせ、気を抜いた途端に『ウォースパイト運動』への寝返り者に殴り掛かってしまいそうになる衝動を堪えていたのだ。団体代表の温情までもが踏み
「沙門の御父上――
東京に所在する本部道場で後進の育成に励み、『競技統括プロデューサー』という要職で『
岳の愛弟子である藤太にとっても
怒号を張り上げる中で言及した沙門の恩人――スイス
〝世界一の
己を倒して成り上がらんとする野心家にさえ真剣に応えるなど謹厳実直にして清廉潔白な人物であり、打撃系立ち技格闘技団体とMMA団体で〝道〟が分かれた為に〝プロ〟の格闘家としては拳を交える機会が得られなかったものの、藤太もテオ・ブリンガーという存在を一日たりとも忘れたことがない。
偉大なる人々が磨き上げた『
「ましてや、貴様らは気に食わないモノを否定する理由まで
藤太は
「突き付けられた〝現実〟が受け
『フルメタルサムライ』という仰々しい異名の通り、腰に
「
「……お言葉を返すようですが、進士選手、我らは断じてテロリストではない……ッ!」
「独善的な理想しか認めないばかりか、暴力に頼ってでも
存在自体を全否定された『ウォースパイト運動』の活動家たちは当然の如く怒り狂い、特殊警棒を振り回しながら進士藤太に飛び掛かっていったが、この報復は鼻先を掠めることもなかった。
側面から攻め寄せた男は、今まさに特殊警棒を振り抜かんとしていた側の手首を掴み返され、その場に素早く投げ落とされてしまった。腕を捻られた状態で全身が宙を舞ったのである。肘関節が折れる音と肩の脱臼は殆ど同時であった。
〝同志〟と連携して正面から襲い掛からんとしていた男も、その直後には血飛沫を撒き散らしながら意識を失った。
投げ技を披露したばかりの藤太は、当然ながら前傾姿勢となっている。次いで急角度から飛び上がるような頭突きへと転じ、耳障りな音と共に顎を割られた相手に半歩の踏み込みで追い
『超次元プロレス』を授けられた師匠から〝世界最高のMMA選手〟とも評される進士藤太であるが、
これがMMAの試合であったなら関節を極めた状態での投げ技や
最後に返り討ちとなった男は背後から忍び寄り、脳天を叩き割るつもりであったが、藤太は後頭部にも目が付いているかのような反応を見せ、相手が特殊警棒を構えるよりも早くプロレス式の
その勢いは凄まじく、〝同志〟の手によって破られた金網の裂け目から
〝
肩と肘を破壊する生々しい感覚が手から
「信念とは己を支える魂の柱であって、
空手衣を纏った思想活動家を次々と返り討ちにし、
「革命への意志とその本質を他でもない
「沙門が目指してきたのは『
一等大きな口から迸った藤太の怒鳴り声は、マイクなど用いずとも一二〇〇〇人を収容する
「……ならば、よろしかろう。我らの義挙がテロでないことをご覧に入れる。
『
「――オレが
いきり立つ〝同志〟たちを冷静に制した
「第一シーズン第九回ラスト五分の感動を想い出せ。ロアノークちゃん様の『
「ご指名を賜った身分で大変に申し訳ないのですが、ンセンギマナ選手、自分には今の話がさっぱり分かりません……」
「我らがつむぎちゃんがほしみちゃんの『
「さも共通認識のようにお話しになられていますが、そもそも『イア・サーク』とは何なのですか? 『いあ! いあ! はすたあ!』のご親戚か何か……ッ⁉」
「お前もオレたちと同じ『
傍から見ていて哀れになるくらいベイカー・エルステッドは置き去りとなっているが、改めて
仲間の武器を借り受けて絶体絶命の窮地を切り抜けるというアニメの一場面を取り上げることで両者の間に割り込み、交戦を押し止めた次第である。
「どこの誰とも知らないが、そのご立派な眉毛だけは何となく
ンセンギマナが〝どこの誰とも知らない人間〟の如く呼んだのは、言わずもがな進士藤太である。
愛してやまない『
「その
「オレたちが日本の
このときのンセンギマナにとっては〝名前も知らない相手〟であるが、それでも同じ結論に達することは不可能ではない。だからこそ、藤太の言葉を引き取るような恰好でベイカー・エルステッドと相対しているのだ。
MMAの試合では反則と判定されてしまうような
この無礼極まりない〝後輩〟に決着を委ねても、最悪の間違いだけは起こるまいと納得したのであろう。間もなく左右の拳を腰に押し当て、ぶつけ合う言葉の効果を確かめるように双方の顔を交互に窺い始めた。
「
ンセンギマナが試みようとしている説得の内容を悟ったエルステッドは、〝革命〟という強い一言でその声を遮った。
それは共通の友人が日本で取り組んでいる『
有力選手を
権益を手放したくない為、あくまでも旧体制にしがみ付かんとする支部道場の古参たちを罠に
強硬な態度で挑まない限り、長い歳月をかけて作り上げられた仕組みが根を張る全国組織は変えられないと公言して憚らず、支部道場と密接な関係にある地方のメディアは沙門を〝壊し屋〟などと悪し
尤も、沙門は己に向けられる批判すら〝革命〟の武器として利用している。
『
プロデビュー戦の勝利を剥奪されてもおかしくない行為であり、場合によっては競技統括プロデューサーを務める父の地位をも揺るがし兼ねなかったのだが、その一言が引き金となって『
沙門による組織改革の賛同者はこれを取りまとめるコミュニティをインターネット上で立ち上げ、情報戦によって支部道場の足元を脅かし始めている。
『
それは同時に進士藤太が怒りを爆発させた理由とも言い換えられる。
稽古中に耐え
沙門の〝革命〟を『ウォースパイト運動』にとって都合が良いように捻じ曲げられたといっても過言ではない。藤太やンセンギマナ以外に『
「
恨みを買う強硬策を
時間がない――国際社会のスポーツ文化に絶対的な影響力を持つ〝
沙門が一刻も早く『
ときに根性論は勝利至上主義とも混ざり合うものだ。心を磨く武道の在り方まで歪め、道場や指導者の名誉の為に子どもたちが犠牲となる事例は少なくなかった。
その根絶に突き進む
「ンセンギマナ選手の仰る通り、全ては未来の為です。次の世代に暴力なき平和な世界を約束する為に。……その完成には生みの苦しみが必要なことを示したのも我らの友。種の一粒も
空手衣を纏った思想活動家は、格闘技に内在する暴力性を助長してはならないと主張している。強迫観念によって膨らんだ誇大妄想に他ならないが、その根底には自分たちと同じように次世代をより良い未来へ導かんとする強い気持ちがあり、これだけは相通じるとンセンギマナは信じていた。
だが、
「肩を並べるべき友や、肉や骨を分け合った親兄弟と血で血を洗う殺し合いを繰り広げることになろうとも、譲れない覚悟で屍を踏み越えゆく。それこそが〝革命〟ではありませんか。我らが
沙門による〝革命〟の意義を己の〝立場〟と重ねて語ろうとするンセンギマナを遮り、
翻せばそれは〝血〟を流さなければ人間社会に新たな可能性を拓く余地などないと、最初から諦めているという意味でもあった。
「内戦はアニメのようにカッコいいモンじゃない」
〝革命〟という尤もらしい一言を〝
今でこそ
年齢は二五歳――
武力衝突を伴う内戦はルワンダに更なる国家的悲劇を巻き起こし、一九九四年に至って昨日まで親しく交わっていた人々が命を奪い合う
およそ一〇〇日に亘って続けられた
「――戦争は
シロッコ・T・ンセンギマナの名前は、〝義足のアメリカン拳法家〟として全米のMMAファンに知れ渡っている。
しかし、
戦争反対という一言は、それを紡ぐ人間によっては酷く空疎なモノとなり兼ねない。しかし、『
青
この混乱自体を一歩引いたところで眺めていたダン・タン・タインも、自身の家族と同じ〝戦災者〟であるンセンギマナが「内戦はアニメのようにカッコいいモンじゃない」と訴えた瞬間、誰よりも早く強く深く首を頷かせていた。
アフリカの大地を
ルワンダの日常が引き裂かれたおよそ四年間の悲劇は、何があっても風化させてはならないという決意と共に全世界が記憶に留めている。
「自分たちの反対に立つ相手を
『
日本最強の空手家が自分を育ててくれた道場から古き悪習を取り除くべく具体的な行動を始めたのは、アメリカでの〝武道留学〟が終わり、日本に帰国した後のことである。
つまり、彼という存在を挟んで対峙する二人との交流から大して月日も経っていないわけだ。その短期間で常人の一生分を超える憎悪に晒されるようになったという事実は、極めて深刻に受け止めるべきであろう。
その沙門を手本とするエルステッドたちの義挙も、今日だけで数え切れない人々から恨みを買ったことであろう。狂信的なMMAファンたちが『ウォースパイト運動』の活動家を
サバキ系の『
ありふれた日常の如く空手が溶け込んだ風景を見て育ったンセンギマナも、
「……内戦はアニメではない。心を通わせた人たちの亡骸は、……決して踏み越えられはしない。立派なお題目で己を誤魔化したところで、
彼の故郷を死の影で覆い尽くした国家的悲劇は、ルワンダの大地に根付いた幾つかの民族を分断するという
ンセンギマナの場合は父親が多数派民族、母親が少数派民族であった。様々な問題を抱えつつも同じルワンダに生まれた民として絆を育んできたはずの人々が互いに対する憎悪に呑み込まれていく
内戦期に当たる一九九〇年代のルワンダは
父母それぞれの
茂みに隠れ潜む
「戦争は
再び繰り返したンセンギマナは、〝何か〟の追憶を映すかのように左右の手のひらへと目を落としていた。
国家的悲劇が終結した後は民族間の断絶を乗り越えて共に
国民の分断ひいては国家的悲劇の引き金となった
憎悪という一言では表し切れない葛藤を乗り越えたンセンギマナであったればこそ、
完全には蟠りを拭えない者も少なくないという〝現実〟を抱えながらも、ルワンダは再び一つの輪で結ばれた。ンセンギマナと実母も刑期を終えて村落に帰ってきた父の友人や隣人たちを同じ祖国に生きる一員として迎え、謝罪の言葉も受け
しかし、空手衣を纏った思想活動家たちは絆を取り戻す可能性さえも〝革命〟には無用と決め付け、自ら切り捨てようとしているのだ。義足のアメリカン拳法家にとって、これほど哀しいことはなかった。
「――まだ日本で闘っていた頃、俺も『
身内同士で相争う虚しさとおぞましさを自分以外の人間に味わわせてはならないと、言葉を尽くして制止を試みるンセンギマナに加勢したのは、彼らよりも
外周から
日本人である藤太にはルワンダで生まれた人々が経験した国家的悲劇を完全に理解することは不可能である。しかし、ンセンギマナが訴える言葉を『
「今、この場に
「
合金製とは言えども、特殊警棒を振り下ろせば人を殴打した感覚が手に
しかし、〝現代の戦場〟に投入される兵器は違う。カラシニコフ銃の発砲音と、銃口の先でアフリカの空を引き裂いた断末魔の
「……〝ウォースパイト〟とは〝戦争への軽蔑〟を意味する言葉であったはず。その通りだとも。心を持つ生き物が対話の可能性まで投げ捨てることは断じていかん。〝革命〟を望むのなら、……戦いの果てに虚しさだけを残すような真似はしてくれるな」
肌の色も生まれた国も――
対話による解決を最初に試みた
オリンピック・パラリンピックに限らず、格闘技やスポーツは一まとめにして〝平和の祭典〟と呼ばれることが多い。無秩序に力を
民族間に横たわる断絶の歴史が火種となった大破壊と、罪と罰の意識をも超越して
対するベイカー・エルステッドは、格闘技に内在する暴力性が子どもたちの未来を壊してしまうことを何よりも懸念していた。まさしく次世代を思って組織改革に踏み切った
『
祈りにも似た眼差しを受け止めるベイカー・エルステッドの頬を一粒の涙が滑り落ちていった。果たして、その冷たい
「……戦争の火種を平らげるには戦争しかない。先程も申し上げましたよ、ンセンギマナ選手。我らは
〝非戦〟の意義を呼び掛けられただけで拳を下ろすようであれば、『NSB』の内側からMMAを変革しようというイズリアル・モニワの
もはや、武力衝突は免れなくなったが、議論で勝ち切れなかった為に自暴自棄を起こしたと
事ここに至った以上、ンセンギマナは無念の
丁度、
両頬を濡らし続けた大粒の涙は、MMA選手として『NSB』に出場していた己自身との決別あるいは葬送を意味していたのかも知れない。
五体を自由自在に使いこなせる選手と、MMA用義足を装着する
「ここから先は任せて貰うぞ、ンセンギマナ。モニワ代表に加えて、お前が差し伸べた手まで振り払われたとあっては我慢ならん。ベイカー・エルステッドは俺の手で成敗する」
「喧嘩を買ったのは私たちが先よ、
進士藤太とジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアン――『NSB』を代表する二人のMMA選手による正式な宣戦布告を見届け、団体代表としての最後の決断を下さなければならなくなったイズリアルにとって、
それどころか、
その迷走こそが『サタナス』と同じ本物の〝悪魔〟にまで堕ちていない証拠であった。重罪犯専用のフォルサム刑務所に収監されたその思想活動家は、小さな子どもを精神的に追い詰める為だけに国家反逆罪にも等しいサイバーテロを起こしたのだ。
自分と同じ肌の色とそうでない人間を選り分け、後者の絶滅を目論んだ
それほどの人物と相容れなくなったことは哀しいが、だからといって征圧を
〝
詳しい内容まで把握しているわけではないが、『NSB』所属選手の趣味であり、ハワイ
ぶつかり合った末の相互理解がシリーズを貫く
心を通わせて育んだ絆が一瞬にして引き裂かれてしまう惨たらしい内戦と、憎しみすら乗り越えていく人と人の結び付きを誰よりも深く知っているルワンダの拳法家にとって、『
彼の気持ちを理解していればこそ、現実の
それならばイズリアル・モニワは――未だ臨戦態勢を取らず、願いを込めた哀しい
(
わざわざ己に言い聞かせずとも、現在の『NSB』が戦争状態にも等しいということは理解している。
日本の情報提供者から知らされたことであるが、来年末に
熊本と似たような兆候は『
絶対的権力を握って日本格闘技界に君臨しながら、足元が少しずつ崩れ始めている〝暴君〟と同じ過ちを犯すわけにはいかなかった。たった一つ打つ手を間違えただけでもシンガポールで新たに興ったMMA団体に勢力図を塗り変えられてしまうだろう。
内憂外患としか表しようもないが、MMAを法規制で葬り去らんと図る政治家はアメリカ国内にも少なくない。付け入る隙を与えようものなら、ペンシルベニア
自分たちが繰り広げているのは、紛れもなく〝戦争〟なのだ。もはや、『ウォースパイト運動』という煩わしいだけの存在に足踏みなどしていられなかった。
「アイ・ドント・ライク――」
我知らず呟いたイズリアル・モニワの視線の先では、VV・アシュフォードたち〝
*
格闘技に携わる全ての人々の心に暗い影を落としたテロ事件から一週間が経ち、その影響はアメリカ国外にまで広く深く波及し始めている。
「……アメリカで執り行われる〝
「図らずもアマカザリが勉強熱心になったコトをチェックするマイルストーンになったみたいだな、俺……」
抑えられないほど唇が震える理由をキリサメに見抜かれた沙門は、不細工な苦笑いで取り繕った
MMA選手としての
それを実態から掛け離れた取り越し苦労として否定できないのが沙門にも苦しかった。
先ほど訪ねた
このテロ事件を巡り、沙門はアメリカ合衆国ネバダ州で実施される〝公聴会〟での証言を求められていた。
呼んで字の如く〝公聴会〟とは
「……どこもかしこもMMA団体は乱入騒ぎが大流行りだね。先週末に『NSB』の
「人聞きがバッドだぜ、剣道屋。俺だって〝寝耳にウォーター〟だったんだ。例の試合を観戦していたワケでもないんだからさ」
先程の失言以降は皮肉も控え、居た堪れない気持ちを誤魔化すように電知と同じイカスミソースのパスタを注文していた寅之助も、沙門が巻き込まれてしまった公聴会と、その発端となったテロ事件について、
キリサメのプロデビュー戦でも
ドーピング汚染に匹敵するほど『NSB』というMMA団体の信頼を傷付け兼ねないテロ事件であり、寅之助が何気なく口にした「敵は根絶やし」という一言に沙門が過剰反応してしまった理由とも言い換えられるだろう。
「
「不勉強でお恥ずかしいのですが、僕は
「格闘技
テロの舞台となったMMA
今回の公聴会は事件の真相究明と再発防止が大目的となるだろう。
主犯格が『
沙門はアメリカに〝武道留学〟している間、同支部を拠点にしていた。事件の中心人物たちとの関わり合いも
沙門自身に罰則を科すことが目的の公聴会ではない為、テレビ電話やウェブカメラによるオンライン参加を希望したのだが、重要参考人という〝立場〟もあって弁護士を介した交渉は実を結ばず、とうとう
「陰口みたいで自分の気持ちもダウンしちまうけど、『
「僕もこの目で見たわけではないのですが、……岳氏と麦泉氏がそういう話をしていたのは事実です。特に麦泉氏の溜め息は気の毒になるくらい大きくて……」
「仮にもトップがそういう態度を晒していたら、味方はワープスピードで減っていくモンだけどな。何しろ試合中に起こったテロだ。現役バリバリの岳さんにとっちゃ他人事ではないし、ウチの親父も『岳に何かあったら樋口をブチのめす』ってヒートしてるよ」
「いつも疑問なのですけど、沙門氏の御父上は僕の
二つの意味で眉根を寄せつつ、キリサメは首を傾げてみせた。
一つの事実として、彼が所属する『
『ウォースパイト運動』が全世界で過激化する事態を懸念し、共催相手の危機管理能力を確認するべく『NSB』が
その『NSB』が
だが、『
この公聴会こそが
あらゆる格闘技術を有効と認める競技形態が災いし、黎明期のMMAは〝
公聴会の結果次第ではネバダ州の
『NSB』も他の格闘技団体も、アメリカ社会に組み込まれた歯車の一つに過ぎない。行政機関の命令には逆らえず、裁定を無視して
アメリカ以外に目を向けると、タイやノルウェー、更にはフランスでもMMAに法規制を掛けている。〝格闘技王国〟と名高く、数々の有力選手を輩出してきた
空手家である沙門にとってオランダの情勢は酷く肌触りが生々しい。同国は日本から伝えられた
格闘家や格闘技関係者による犯罪の多発を背景とした措置である。『格闘技の聖家族』と畏敬されるオムロープバーン家も撤回を求めてアムステルダム市長やオランダ政府に働きかけてはいるものの、法律を盾にせずとも各都市が開催申請を承認しなければ、そこで〝格闘技王国〟の名折れとも
『九・一一』――同時多発テロを一三年前に経験したアメリカである。テロ対策に過敏となってしまうのはやむを得ないのだが、
ましてや『NSB』は世界のMMAを牽引する旗頭である。競技の在り方そのものに否定的な国が存在する中で
「当事者の
「おれが読んだネットニュースでも
「そんなワケないだろ。風説の流布をやりやがった連中には近い内に裁判所からコールが行くぜ。俺のフレンドは試合をクラッシュされたほうだよ。正反対にされちまってらァ」
「そして、日本では事件自体がニュースにならないから、実態から掛け離れた誤解がまるで事実のように浸透してしまっている――そういうコトですか」
「エブリバディがアマカザリみたいなリテラシーの持ち主だったら、世の中、もっと呼吸し易いのにな。『NSB』で偉大なトライを続ける友人に代わって礼を言わせてくれ」
両手両足の指を全て用いても数えられないほどの乱入者が金網をよじ登ったのは、
「……自分が所属する団体の代表を例にしなくてはならないのが心苦しいのですが、どのような事情があったとしても、テロを肯定するようなことだけはあってはならないはず。沙門氏が出席する公聴会も、そこが焦点なのでは?」
「バカをやらかしてくれやがった連中――というか、……〝笛吹き仲間〟に間違った成功体験を与えるようなジャッジになるのが最悪のシナリオさ。
「テロ発生の危険性を理由にしてMMAの活動に何らかの制限を設けたら、それ自体がテロの成功と変わらないでしょうしね」
「だからといって内側からテロが起こるのを防げなかった『NSB』に対してアクションを起こさないワケにもいかないってな。その辺りを
キリサメが生まれ育ったペルー国内では長らく〝テロとの戦い〟が続いており、昨年に発生した大規模反政府デモ『七月の動乱』も国家転覆を目論む武装組織が裏で糸を引き、民間人に過ぎないデモ隊の手に銃火器が渡っていた。
彼が実母の
銃声や爆発音が子守唄の代わりであり、〝身内〟と呼ぶべき人たちをテロリストに奪われたキリサメだけにテロの成否を占う公聴会は、重要参考人と目された沙門に匹敵するほど深刻に考えているわけだ。
「ブチ壊された試合もデリケートなモノだったしな。空手屋の
憤然と鼻を鳴らした電知に、キリサメと沙門は揃って首を頷かせた。分かり易い
「……社会に与える影響が大きくなればなるほどテロリストの思うツボだからな。電知が睨んだ通り、無差別テロじゃなく例の試合を標的に選んだのは間違いないはずだよ」
乱入者たちが〝
名前はシロッコ・T・ンセンギマナ――MMA用の義足を装着して『NSB』に出場する男である。
ハンデの有無に関わらず全ての人々が一緒になってスポーツに興じる土壌がアメリカという
「そりゃ『
電知や寅之助から顔を逸らすようにして窓の向こうへと目を転じた沙門は、レストランへ
「おまけにマインドコントロール?
沙門の横顔をキリサメの双眸が捉え続けている。その真っ直ぐな眼差しに込められた意味を察していればこそ、沙門は視線を交わすことを
「実際の関わり合いは僕には分かりませんが、ニューヨーク支部の方々がテロ事件を起こしたのは言い逃れできない事実。影響を与えたと疑われている状況なら、僕だって沙門氏と同じように交流を否定したと思います。『
「……ね? サメちゃんってば、すっかり常識人になっちゃってつまんないでしょ?」
「まさしく常識的な判断だよ、寅之助。
キリサメも指摘した通り、乱入騒ぎというテロとの関わりは、現体制が覆されることで古くからの権益が損なわれる人々にとって格好の攻撃材料である。
だからこそ、親しく交わった人間も友情ごと切り捨てなくてはならなかった。そして、それはキリサメから距離を置いた理由とも重なっている。
ただでさえ『
だからこそ、意図的に接触を断っていた――そのことに罪悪感を抱いている沙門はキリサメの一言々々が避けられたことに対する抗議のように聞こえてしまうのである。
皮肉家の寅之助とは違って、キリサメは弁を弄して
先程から横顔に突き刺さっているのは、極めて難しい立場に置かれた沙門を案じる眼差しである。自分が交流を否定された側と悟り、その理由にまで理解が及んでいなければ、二つの瞳を憐憫の情で満たすことなど出来まい。
人との繋がりを何よりも大切にする沙門の姿は、キリサメも初めて遭遇した日から目の当たりにしている。
改革反対派が差し向けてきた刺客を支部道場の門下生と看破した沙門は、目出し帽で顔を隠した一人々々の名前を順番に言い当てた上、身のこなしの特徴まで正確に把握していたのである。〝武道留学〟の間、寝食を共にしたニューヨーク支部の空手家たちとも同じように接していたことは想像に
『
「あっさり往復ビンタを喰らう当たり、空手屋は〝サバキ〟よりも〝組織内政治〟のほうがお得意みたいだからね。自分が不利益を被ると判った途端、人間関係だって見直すよ。国際交流を屁とも思わない〝損切り〟の鋭さはボクも見習いたいな」
「レディからのプレゼントは何だって受け取るのがジェントルマンだよ、剣道屋。ライバルとのラストマッチを台無しにされちまった友人が心配だから、七面倒臭い公聴会にも出掛けるんだぜ? 薄情者みたいに言われるのはユニークじゃないな」
『八雲道場』に
これに対して沙門当人は見苦しいほど自分が友情に厚いことを強調している。尤も、これは本気の自己弁護などではなく、先に発していた薄情者の一言で面罵して欲しいというキリサメへの目配せであった。
「沙門氏が薄情でないことは
「……オーバードーズな褒め殺しは、
愛想の良い
愛する『
『
あるいは格差社会の最下層で生き延びる為に〝暴力〟を振るい続けてきたキリサメ・アマカザリは、血と罪に
「察しと聞き分けがシャープになるのと、……変な気遣いのテクニシャンは別問題だぜ。アマカザリの趣味とも違うだろうけど、ときにはストレートに文句をシュートするのもスカッとするもんだぜ」
後ろめたい気持ちに耐え兼ねた沙門は、前後の脈絡も無視して「薄情者」の一言を引き出そうとしたが、それすらもキリサメは真摯な
洋の東西に関わらず、己が身を置く格闘技界で起こる〝全て〟を見つめ、心に刻み込む覚悟を決めたのであろう。依然として
元から賢い少年という印象は沙門も持っていた。道路は満足に舗装されず、家を建てる材料にも事欠くような
知識や経験を余さず血肉に換えられる応用力、これを支える観察眼と学習能力も人並み外れて優れている。そうした頭の使い方を今までとは違う形に切り替えた様子であった。
「ナマの感情をストレートにぶつけると沙門氏が巻き込まれた事件のようになり兼ねませんから、理性を突き抜ける衝動も調節できるようになりたいですよ。〝気の練り方〟を学ぶことも
「俺の目にはアマカザリは十分過ぎるくらいパッションをコントロールできているように見えるぜ? お前さんにとって
己の心臓を捧げることになっても本望と思える使命を妨げるのであれば、人間関係すら切り捨てられる非情な判断力は確かに持っているが、
『NSB』の
「スカした顔しちゃいるが、憂さ晴らしには大暴れが
「頭のカタい連中へのプレッシャーとしてもマストだから、ネット上で晒し物にされるのもぶっちゃけウェルカムだけどな。たまにマイホームを特定して押し掛けてくるのも居るけど、正座させれば後腐れもなくクローズできるし」
イカスミソースのパスタを一気に平らげた電知は、明らかに
それでも三人のやり取りに耳を澄ませていれば
〝客寄せパンダ〟を並べるかのような樋口体制の『
その
幼少期の寅之助が瀬古谷の道場に
「
生まれ育った
沙門を取り巻く事情と己の感情を全て飲み込んだ上で、電知は憂さ晴らしの相手を引き受けようと呼び掛けた。
その電知のことを間接的ながら「カッコ良すぎる」と褒めそやした寅之助の言葉が沙門の脳裏に甦っている。彼自身は「おれはキリサメみてーにカッコ良くねーし」などと否定したが、そのような
「……公聴会の準備が忙し過ぎてストレスフルみたいになってたのは間違いないよ。フラストレーションのリセットは難しいけど、スピリットを引き締めるにはベストかもな」
電知の誘いに対し、沙門は窓越しに夏の海を指差すことで
その意図を察した電知は右の握り拳と左の手のひらを打ち合わせ、「そう来なくちゃ面白くねェッ!」と店内の人々が思わず振り返ってしまうほど大きく笑った。
沙門の正面に腰掛けるキリサメは、心を蝕む気鬱はおそらく発散しようがないとも洩らした彼の顔を静かに見つめ続けている。
崇高な理想を胸に秘める沙門に対して表しようのない劣等感を覚え、MMA選手としての在り方に迷っていた頃からは想像できないが、これを乗り越えた
第三者としての分析ではあるものの、己の情況を明かさんとする際に
シロッコ・T・ンセンギマナの試合に乱入し、『NSB』の活動そのものを『平和と人道に対する罪』によって糾弾した『ウォースパイト運動』の過激活動家――ベイカー・エルステッドたちは、鎮圧された後に全員の死亡が確認されている。
先ほど寅之助が口を滑らせ、沙門の
(
鮮血の終焉へと至った経緯こそ異なるものの、〝戦争の音〟を子守歌の代わりにしながら母の
キリサメの亡き父も人質として拘束された一二七日間の〝籠城戦〟が迎えた結末は〝テロとの戦い〟に
敵は根絶やし――誰の耳にも届かないほど小さな声で呟いた瞬間、キリサメは旧ソ連から
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