スーパイ・サーキット
その1:アウフヘーベン(前編)~スーパイ・サーキット誕生・「伝説」に導かれしヒヨッコ殺陣師/義足のアメリカン拳法家、見参!パラスポーツとしての総合格闘技――やがて宿命のライバルとなる両雄(ふたり)
第四章 トライアウト
スーパイ・サーキット誕生~激化する「格闘技三國志」──日本格闘技史上最大の「叛乱」が始まる!
その1:アウフヘーベン(前編)~スーパイ・サーキット誕生・「伝説」に導かれしヒヨッコ殺陣師/義足のアメリカン拳法家、見参!パラスポーツとしての総合格闘技――やがて宿命のライバルとなる両雄(ふたり)
一、PA SB 632 Act.1
例えば
空手は立った状態での打撃を
互いの〝領域〟を踏み越えず、己が選んだ〝道〟の中にて相手の技を捉えるとき、初めて〝異種格闘〟が成り立つのだ。現代の柔道家による殴打や
これに対して、ボクシングやムエタイといった打撃系立ち技格闘技の技術と、レスリングやブラジリアン柔術に代表される組技・寝技を併用しても「流儀を外れた邪道」と
地上に存在する全ての格闘技の要素を取り入れ、統一されたルールのもとに技術体系の〝総合化〟を達成した
〝
新しい挑戦は無理解が引き起こす数多の妨害に苦しめられるが、黎明期のMMAは文字通りに明日をも知れない状況下での活動を余儀なくされた次第である。
試行錯誤の段階である為、当然ながらルール自体は
その事態は理不尽の三字を
〝プロ〟のライセンスなど持つはずもない
同じ会場ではMMAの
格闘技経験のない人間をリングに押し上げる
何しろ同法案には死亡事故を引き起こしたボクシングへの規制が含まれていないのだ。
結局、『ペンシルベニア州上院法案第六三二号』は一九八三年一一月三日に至って可決承認され、同州内で活動していた黎明期のMMA
アメリカ合衆国に
それはオリンピックという〝平和の祭典〟が
一九八〇年代にも歴史に名を残す
耐え
既に故人となっているが、あらゆる格闘技術が有効となる競技形態に『ミクスド・マーシャル・アーツ』という正式名称を付けたのも『NSB』誕生に携わった一人である。
元ヘビー級
アメリカで最初のMMA
アメリカスポーツ界に
二〇〇〇年代半ばといえば、日本に
日米
『NSB』もまた世界の規範たる地位から転げ落ちる危機に瀕していた。
禁止薬物で選手の心身を改造し、文字通りの〝モンスター〟による見世物に作り変えんとした
新代表に就任したイズリアル・モニワが団体内の〝浄化〟を迅速かつ徹底的に成功させていなければ、『NSB』はMMAそのものを巻き添えにして破滅したことであろう。
奇跡の二字こそ相応しい復活劇の前後にMMAデビューを果たした義足の拳法家は、生まれ変わった『NSB』を象徴する存在であろうと、アメリカの格闘技雑誌『ゴッドハンド・ジャーナル』でも大きく取り上げていた。
心身にハンデを持つ人々の機会均等を法律で約束するアメリカは、物心つく前から〝全て〟の子どもたちが共に学ぶ環境も整えられている。それはつまり、〝全て〟の選手が同じ条件のもとで運動に興じる機会も多いという意味だ。殆どの場合はパラスポーツを一緒に楽しむのだが、『NSB』では義足の拳法家と四肢が健常な選手によるMMAの試合が組まれていた。
イズリアル・モニワは二年前に現在の肩書きを背負うまでアマチュア選手の育成と試合を統括する部門に属していた。更に遡るとMMA団体に
世の中で起きる全てが歪んで見える皮肉屋の中には法律を悪用した〝客寄せパンダ〟と批判する者も少なくない。一つの事実として
傲慢にも彼を〝客寄せパンダ〟と決め付けた者は、見立て自体が誤りと思い知ることになった。ドーピング汚染の
ロープの代わりに金網が張り巡らされ、
「――ゴアァッ! グイィンッ!」
右拳を横薙ぎに閃かせれば、ドレッドヘアーに編み上げた
二〇一四年の科学力は
パネルは上下二層に分かれており、下段には
『NSB』の未来を担う義足の拳法家は、その名を『シロッコ・T・ンセンギマナ』という。出身地であるルワンダの国旗も
上段に嵌め込まれた心電図は、ンセンギマナの左足裏がマットを擦って甲高い音を鳴らす
稲妻と見紛うばかりの
顔面に直撃を被らないよう
無論、バルベルデも止まらない。更に深く踏み込むと、対の左拳を横薙ぎに振り抜き、右下腕による
「ジャキンッ! シャキィィィンッ!」
力ずくで後退させられた恰好であるが、ンセンギマナにとっては腕に突き刺さった痛みさえも昂揚に換わるようであり、外から内へと半円を描く右の前回し蹴りでもってバルベルデの追撃を断ち切りながら、厚めの唇をこの上なく嬉しそうに吊り上げている。
デジタル時計を模したホログラムを挟んで表示されるパネルは二色に分けられ、赤がバルベルデ、青がンセンギマナ――と、
双方とも『NSB』のルールに則り、競技用トランクスを穿いて試合に臨んでいる。
ンセンギマナは白黒チェック柄の物を、バルベルデは夕陽が沈みゆくカリブ海を模様として刺繍した物をそれぞれ用いており、色合いからして好対照である。その一方で、剥き出しとなった上半身は筋肉の盛り上がり方にも大きな差がなく、釣り合いが取れているような印象であった。
それは数値として示された身長・体重にも表れており、『NSB』の体重別階級制度に
「――カリブ海のトランクス、綻び一つないのは目の錯覚ではありません。今日という日の為に新調したと聞き及んでいます。これからは
英語でもって紡がれた実況の通り、ブラボー・バルベルデはこの一戦を締め括りとしてMMAから離れ、アマチュアボクシングに転向することを発表している。
ウィルフレド・ベニテスやヘクター・カマチョなど、プエルトリコはその腰に
故郷の期待を背負って闘わんとする
ンセンギマナ自身、地獄という二字を
だからこそ、ンセンギマナは
バルベルデの側も
弱点となり得る部位など狙わず、ただ純粋に持てる限りの〝心技体〟を競いたい――溢れんばかりの尊敬を拳に乗せて撃ち合う
「――我が全身で受け止めたブラボー・バルベルデという名の衝撃、我らを魂の兄弟にしてくれた『
左太腿から下が機械仕掛けの義足というンセンギマナは、八角形となるよう敷き詰められたマットをブラックゴールドのカバーに覆われたそれで踏み締めている。
激しい攻防の最中に義足そのものが外れてしまう可能性を抑える為、太腿から収納するソケットは吸着型を採用し、圧縮率を高める機能も取り入れていた。
膝に相当する
足部には生身の足を模したカバーを嵌めることが多く、ンセンギマナ自身も日常生活に
脛から踵、足先に至るまで生身と同じ
それ故にンセンギマナが左足一本を〝軸〟に据えて前回し蹴りを放った瞬間にも、
剥き出しのままではマットの損壊し、対戦相手の肌も傷付けてしまう為、直接的に地面と接するもう一枚の板は爪先が流線型のカバーで防護され、裏側も全面をゴムで覆ってあるのだが、摩擦によって滑ることがないようスポーツシューズの靴底と同様に極めて繊細な調整が施されていた。
地面を踏み締める感覚や、そこに生じる力の作用を再現できるように板全体が少しばかり弧を描いている。こちらも弾力性に富んでいる為、体重が掛かると形状も水平に近付いて接地し、もう一枚の〝板バネ〟と連動して負荷を
横転の危険性は言うに及ばず、下肢で定めたはずの〝軸〟にズレが生じてしまうと、重心の崩壊や攻防時の要である勢いの減殺を招くことになる。コンマ一ミリの差に勝敗を左右される
『ライジング・ポルカドット』――
二枚の〝板バネ〟は全体が
それぞれの水玉模様には金の縁取りが施されている為、激しい
これに由来してンセンギマナは『ライジング・ポルカドット』という総称を付けたわけであるが、義足と一口に言ってもソケットや
意識せずとも刷り込まれてしまうほどに『ライジング・ポルカドット』がアメリカMMA界に与えた衝撃は大きかったというわけである。
『NSB』の〝同僚〟たちも人間に新しき可能性を示す『ライジング・ポルカドット』を意識せずにはいられないのだろう。
ベイカー・エルステッド――
東京に本部道場を構える『
その沙門は打撃のみで勝敗を競い合う日本の打撃系立ち技格闘技『
その考察を体現するのがベイカー・エルステッドその人なのである。
出稽古の名目で
尤も、
『NSB』の現行ルールでは
試合の見学にしては同行者も多い。誰もがエルステッドと同じ出で立ちである為、『
確かに珍妙ではあったが、観客たちは言うに及ばず、金網の
『NSB』のルールで規定された人数制限に従い、ンセンギマナの試合には三人のセコンドが付いている。先頭に立つ男性は彼をカリフォルニア州サンノゼの
相当な童顔である為、
その隣で試合を見守るフランス系の女性は、
もう一人はンセンギマナの親友である。サボテンを模った複雑なビーズ刺繍が施されたポンチョを纏う姿は西部劇の
戸籍に登録された
「何が『
「やたら詳しいじゃね~の。おれも
「……アイツの相棒を務めるというのはこういうコトですよ、マスター・シルヴィオ」
愛してやまない日本のアニメシリーズの台詞を引用し、やたらと仰々しい言葉を発した
自らも握り拳を作り、ベイカー・エルステッドと同じように
「
「お前が『
「……ん? んん? んんん? 待ってくれ、何だよ、今の会話? ンセンギマナ、さてはバルベルデにまで『イシュタロア』を押し付けたんじゃないだろうな? 布教活動の類いは『NSB』のルールで禁止されているんじゃ――」
「――キュイィィィンッ! ジャドゴォンッ!」
尤も、直接的にシード・リングの
試合に臨む精神状態を高く維持する為か、攻防を組み立てる
地面を蹴り付けるという
同作は主要な登場人物が光と闇の軍勢に分かれ、ヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神々と同化し、甲冑や武器を具現化して戦うという設定である。
最後の勝利者が高笑いするのではなく、相互理解を
必然的に戦闘描写が作品全体の要となるのだが、『
高校生ながら日本舞踊の次期家元と認められた『
各舞踊の身のこなしを
『乙女戦士』たちが大地を蹴り付ける
この眩いばかりの現象を劇中では『
つまるところ、ンセンギマナは『NSB』の
改めて
〝
その腰に
オランダ式キックボクシングの名門ジム――『バーン・アカデミア』のアムステルダム本部まで遠征し、
相手の回避動作を妨げる小技の一つも経由しない大振りの
対するシロッコ・T・ンセンギマナは、
根を張るかの如く右の足と
「――ズドッシャアアアァァァッ!」
バルベルデの
磨き上げた刃物を突き入れようと試みても、切っ先が滑って小さな刺し傷一つ負わせられない甲羅とも
『
そこに追い掛けてくるのは、横薙ぎというより円軌道を描く左の鉄拳――水流を切り裂いて追尾してきた蛇が鋭い牙を剥くわけだ。
バルベルデもまた『
「――『
腕の表面に血管が浮き上がるほど硬く握り締めた拳を轟々と振り回すンセンギマナが高らかに吼えたのは、『
本来は
無論、プロジェクションマッピングではなく追憶に基づいて視せられた錯覚である。
身を入れて視聴した
「――私の
相棒が模倣した『
「ゴッオォォォォォォンッ!」
傍目には奇行としか見えない一方、〝神の槍〟に見立てられたンセンギマナの拳は虚飾などではない。一つの事実として仰々しい咆哮に相応しいだけの威力を秘めている。
すぐさま両腕で
ンセンギマナの右足が振り下ろされた直後にマットの隅々まで広がっていった波紋と同じプロジェクションマッピングである。光の輪による〝演出〟自体はここに至る打撃の応酬でも施されてきたが、『
中心部に表示された数値がその証明であろう。肉
接触の瞬間にバルベルデは僅かに
『NSB』の試合では
即ち、己が最大の攻撃力を発揮し得る位置まで相手を強制的に移動させるわけだ。
『
円運動によって試合運びを支配する拳法はプロデビュー前のンセンギマナが出演したリアリティ番組でも大反響を呼び、これを完璧に使いこなす戦闘能力への評価が『NSB』との正式な契約に結び付いたことは間違いない。
しかしながら、バルベルデは通算四度目の対戦だ。渦を巻く水流に抗えなかった時点で蛇の牙が追い掛けてくることも承知している。一瞬で体勢を立て直し、骨をも軋ませる破壊力を左右の腕に分散するという
試合開始直後の攻防に
ンセンギマナの右拳も半円を描いて襲い掛かったが、バルベルデは自身の左拳を垂直に振り下ろすことで
「ピキィィィィンッ! ブォゥンッ!」
まさしく以心伝心の関係と呼ぶべきであろう。最愛の
必然的に
拳から
「いつか言おうと思ってたんだがよ、ンセンギマナは『つむぎ』より『ひまわり』のほうが役として合ってるんじゃねぇかな。お前の拳法と重なるのは直球猛進の『
「案ずるな。同じツッコミはお世話になっている神父様にも何回か頂戴している」
互いの拳を軋ませる交錯であったが、それで怯むようであれば『NSB』の
「フォンッ! ブウォォォンンンッ!」
マットに落ちた二つの影も片足を勢いよく振り回していたが、その軌道を光の螺旋が追い掛けた。描画された形状からして、吹き
僅かに競り負けてしまったバルベルデではあるものの、空中で大きく姿勢を崩すようなこともなく巧みに着地し、呼吸を整えつつ
言葉では表し切れない想いを『
「……〝次〟へ行く前に謝るぜ、ンセンギマナ。ツッコミそのものが
「おうとも、ブラボーッ! オレたちは今! 初めて『つむぎ』と『ひまわりお姉様』の
左右の四肢が立て続けに交錯する攻防が俄かに止まると、ンセンギマナとバルベルデは互いの顔を覗き込み、マウスピースで
『
自身に迫る打撃を巧みに捌き、互いの身に作用する勢いを受け流す技法そのものは珍しいわけではない。
しかし、ンセンギマナが
それは
『アメリカン
技術体系を完成させたハワイの英傑――エド・パーカーは、それ故に〝現代アメリカで最大の功績を成し遂げた武術家〟と語り継がれている。
エド・パーカーより更に遡った源流たる人物から数えておよそ一世紀――研究と進化の中でアメリカン拳法そのものが様々な〝流れ〟に分かれていった。パーカーが最も信頼を寄せていた弟子によって開かれた
ミドルネームの如く称する『T』の一字は、その
「
「――ご陽気なキメ台詞を邪魔してすまないけどな、
「自分の
「事故以外の
またしても『
シード・リングが肩を落とすほど自分自身に
試合中という状況すら忘れたように
異世界より降臨した神々の
第一シーズン最強最後の敵から精神汚染攻撃を受け、
先ほどンセンギマナが引用した「
『NSB』の試合はプロジェクションマッピングによって彩られているが、それとは別にシード・リングの双眸は、『
脳に刷り込まれた『
同じ
一方、闇の力が創り出した銀の『
そして、生物さながらに脈打つ装甲と、魔獣の毛皮を組み合わせた謎の甲冑を纏う〝第三〟の『乙女戦士』――『ディンギル・ウッグゥの化身』は、
その本質とは、次元も宇宙も超えた〝全てのモノ〟を滅ぼさんとする魔獣――〝影〟から這い寄って光と闇の対立を煽り、
事あるごとに『
自分たちのことを『
「……共感できる部分だってないワケじゃないんだよ。手口はギャングスタ―も真っ青なくらい
普段はンセンギマナと同じ部屋で寝食を共にしている為、必然的に『
それにも関わらず、
読んだ記憶のない本を何故だか一字一句に至るまで
『
『アメリカン拳法』と同じハワイの
その前提が崩壊したような恰好であり、だからこそシード・リングの葛藤は深かった。
全編に亘って相互理解を訴え続ける『
しかし、それと
「――ンセンギマナは今日も日本のカートゥーンに――『
「……ヴィヴィアンさんのご家族まで巻き込んでいるんですか、うちの相棒は。モニワ代表は寛大な方ですけど、その内に強引な布教活動だって問題視されそうだなぁ……」
「自分の愛する
溜め息の絶えないシード・リングに
その女性が担当する試合は今回の
彼が敬称を添えて
『ジュリアナ』という
偽りの
そのような過去を持っているとは想像できないほど落ち着いた
来年――二〇一五年末に
そのジュリアナが口にした『
二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックに
「――バルベルデ選手の動き、私の目には今までの全て試合で最もキレがあるように見えますね。今日という日の為、二度と拳を交えることが叶わなくなる
日本の
試合を見守る全ての人々の魂は
しかし、
直線的に突き込まれる拳をンセンギマナが垂直に立てた五指――
無論、これで攻撃が完結するはずもない。バルベルデは対の手も伸ばし、これをンセンギマナの右腕に巻き付けると互いの身をマットの上へ放り出すような投げ技を仕掛けた。
柔道で
投げ落として
身体のハンデがある者と、そうでない者が互角の勝負を繰り広げる為に設定された特別ルールでは、如何なる場合に
その一方で、これは『
マットへ投げ付けられた際に〝受け身〟を失敗して衝撃を減殺できないと、それが原因となって義足が外れる危険性も高まる。それどころか、関節部の破損も起こり得るのだ。
不慮の事故が発生したときには再装着や交換を行う為、試合の進行を一時的に停止することが特別ルールで認められている。試合中に
とりわけMMA用の義足は装着に際して繊細な調整が不可欠であり、相応の時間を要することになる。これは試合の膠着化を招く直接的な要因となる上、立て続けに発生すると観客の熱狂にも水を差し兼ねないわけだ。
試合には勢いというものがある。義足を原因とする〝仕切り直し〟でそれが
これでは選手にも観客にも不満が
尤も、ンセンギマナに関しては、そういった懸念など杞憂に過ぎず、レスリング式の
バルベルデが
「――ガギャッ! ギュイィィィィィィンッ!」
渦潮さながらの水流で相手を呑み込むアメリカン拳法の使い手も、この
大規模な映像投射を俯瞰で眺めるのであれば、観客の
「キッキュウゥゥゥゥゥゥン――オレたちがこの
一瞬にして右側面まで回り込んだンセンギマナは、先程の返礼とばかりに両の五指を繰り出していく。右腕を捻じり上げてマットに組み伏せようと試みたわけであるが、その意図を読み切ったバルベルデは手首を掴まれるより早く後方へと身を転がし、回避が成功した直後には再び
吐息が地面に届くほど低い姿勢での体当たりである。両膝を前後に動かすことでマットの上を巧みに滑り、ンセンギマナに組み付いていく。左右の腕を腰に巻き付けると、金網際から引き離すようにして
技が完成する前に両腕を振り解かれてしまわないよう右の五指にて左の手首を掴み、足裏でマットに根を張りながら、引っこ抜くようにしてンセンギマナを放り投げた次第であるが、それは緊急回避の措置にも近い。
「バルベルデ選手、さすがに反撃を警戒したようですね。数秒の間に攻守が目まぐるしく逆転し続けていますが、これを魅せてくれる選手たちは観客席の昂奮とは正反対に落ち着き払っているのでしょう。二人とも試合の組み立てが乱れる気配もありません」
実況の通りにバルベルデは追撃を控え、上体を引き起こしながら後方へと飛び
ンセンギマナのほうは見上げた
レスリングの
だからこそ、金網を利用できない位置へとンセンギマナを強制的に移動させたのだ。
祖の系譜を継いだエド・パーカーが完成させ、ンセンギマナやその
ときには投げ技をも駆使し、打撃を叩き込む前に相手を無防備状態に陥らせるという攻守の組み立てには似通う部分がありながら、『
「今は俺が『つむぎ』だぜ、ンセンギマナ! 『
深刻な事故を防ぐ為に『NSB』では
傍目には寝技に引き込まれてしまう危険性が一気に跳ね上がったように見えるのだが、当のバルベルデからすれば、捨て身の
無論、ンセンギマナにも
バルベルデの
今日の
ンセンギマナとバルベルデは互いに背中を向け合ったまま後方へと両肘を突き込み、その衝突を合図に換えて再び向き合った。
「ンセンギマナ選手も完成度が桁違いですね。第一
「当然だ。親友への返礼に手など抜けるものかよ。オレたちは永遠に親友だ」
実況が迸らせた熱量の高い
先程の跳躍に
二度と拳を交える機会が巡って来ない可能性が高い
場内の隅々まで届けと言わんばかりに〝同僚〟が輻射させる熱量に触れ、魂が震えたのであろうか、ベイカー・エルステッドは双眸から熱い雫を流し続けている――左右の頬から顎先まで濡らす姿が視界に入ったシード・リングはそのように捉えたのだが、そもそも
少なくとも、アメリカン拳法に対して己の空手が通じないと思い詰める劣等感や、その悔し涙ではあるまい。『NSB』に義足のMMA選手が誕生したことを祝福し、ンセンギマナの
ンセンギマナひいては〝パラアスリート〟の〝進化〟を歓迎こそすれども、嫉妬に狂うようなことは有り得なかった。
リアルタイムで測定される打撃力の数値などに基づき、形状やその大きさが変化していく
ブラジルではあらゆる技が解放される〝実戦〟さながらの自由な格闘大会――『バーリトゥード』が盛んであり、一族の勇者たちも命懸けの試合によってブラジリアン柔術を鍛え上げていった。
やがて
ブラジリアン柔術の強さを全世界に知らしめた一族最強の勇者が日本を代表するプロレスラーを次々と撃破し、歴史的屈辱とも呼ぶべき洗礼によって同国のMMAが〝覚醒〟を迎えた事実は、
そのブラジリアン柔術に
五感や四肢など個々の条件に合わせてルールも整えられるのだが、相手と組み合うことによって真価を発揮するブラジリアン柔術は、
ブラジリアン柔術ではなくアメリカン拳法であるが、五感も四肢も健常であるバルベルデに寝技で勝負を挑まんとしたンセンギマナも〝実例〟に含めて差し支えないだろう。
失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ――〝パラリンピックの父〟と呼ばれるルートヴィヒ・グットマン医師の理想が花開いた柔術を
実際、二〇〇八年
日本人のブラジリアン柔術家ということであれば、ンセンギマナとは真逆に義足を装着せず五体満足の選手との試合に臨む片足のパラアスリートも活躍が目覚ましい。
「試合中ですが、皆さんの時間を少しお預かりして一つだけ昔話をさせてください。二〇〇九年四月にアラバマでMMAに新時代を告げる挑戦が始まりました。皆さんもご存じでしょう。クノク・フィネガン――他の人々とは異なる個性を手足に持って生まれ、神の恩恵を唯一無二の武器に換えてMMAの
ンセンギマナとバルベルデの
心身のハンデを持つ者と持たざる者が一緒になってスポーツに興じるアメリカで生まれ育ち、子どもの頃から取り組み続けてきたレスリングではハイスクール時代にアマチュア
それはつまり、四肢が自由に使える選手と同じ条件で闘い、数多の強豪を
膝から下がない為、
デビュー戦は判定負けという結果に終わったものの、クノク・フィネガンは
相手が仕掛けてきた攻撃を巧みに凌ぎ、マットの上を高速で滑ることによって双眸と感覚を惑わし続けたのである。
両足でマットを踏み締めることが可能な対戦相手との間には、決して小さいとは言い
膝から下がなくとも、義足を装着せずとも、左右の太腿を使えば
即ち、
〝プロ〟ではなく〝アマチュア〟の選手であり、現在までに『NSB』への出場経験はなかったが、いずれ何らかの形で関わって欲しいという旨は
無論、選手としての〝参戦〟であれば、試合の可否を巡って
当初、フィネガンはジョージア州の大会にてMMAデビューを目指していた。しかし、パラスポーツとしての意義を
義足を装着するンセンギマナと、義肢を一切使用せず生身のみで闘うフィネガンでは条件自体が異なるであろうが、『NSB』の
〝パラスポーツとしてのMMA〟に直系の〝道〟を拓いたクノク・フィネガンは言うに及ばず、ブラジリアン柔術の取り組みなど様々な先例が結実し、
そのンセンギマナもまた自分たちより後に続くパラアスリートに手本となり得る先例を積み重ねていた。これはMMA用の義足を準備する過程で全面的に協力した『NSB』の方針も同様であろう。
激しい
客席には
試合を見守る実況担当がンセンギマナとクノク・フィネガンを重ね合わせたのは、後者が傷痍軍人の心へ寄り添う活動に取り組んでいることを知っていた為でもある。
レスリングを始めとする
傷痍軍人の〝現実〟を目の当たりにしたフィネガン自身も彼らを積極的に支援し、アフガン戦争に従軍した経験を持つゼラール・カザン下院議員とも親交を深めている。
二〇一二年のキリマンジャロ登頂も、傷痍軍人に寄り添う
アフガンで戦没した兵士の遺灰を抱えてアフリカ最高峰という険しい山に挑戦し、天国を間近に感じる場所から散骨する
パラスポーツの祭典――パラリンピックはイギリス・ロンドン郊外の病院で開催された『ストーク・マンデビル競技大会』が前身である。『第二次世界大戦』最大規模の激戦と名高い『ノルマンディー上陸作戦』に参加し、深刻な後遺症を負った傷痍軍人たちのリハビリテーションとして始まっている。
一九九〇年より数年に亘って
そのンセンギマナが一四年前のパラリンピアンの
「――共催の
『
日米両国の最大団体による〝決戦〟は、来年末の開催でありながら早くも全世界の格闘技関係者から注目を集めている。MMAという〝文化〟の行く末を占うであろう大勝負の舞台でクノク・フィネガンから
ジュリアナやシード・リングから少しばかり離れた場所にて見学している為、鼓膜まで届かなかった様子だが、空手衣姿の
「
「私は別の問題も感じているわよ。『
「……あんまり他所の陰口は
相棒に対する誇らしさと、それを簡単に認めてしまうのは面白くない気持ちが複雑に入り混じった
「……大したモンでしょ、ボクの相棒……」
ンセンギマナも己が闘う姿を通して
それでは己以外の誰かに〝何か〟を伝えることも出来ない。
だからこそ、ンセンギマナは自らの心を誰よりも自由に解き放ち、愛してやまないアニメシリーズ――『
「ズドゴオオオオオオォォォォォォンッ!」
「あなたが死ぬときは私も死ぬときッ! 大地に立てた『
今度は右脚が『
改めて
〝軸〟として据えた
これこそ〝板バネ〟の特性である。ンセンギマナの場合は
〝エネルギー蓄積型〟と呼ばれる
MMA黎明期に猛威を振るったブラジリアン柔術も、攻略の手立てが研究された
無論、課題が存在しないわけではない。機械が作り出す運動エネルギーと、肉体そのものから生み出される〝力〟を同等に扱うべきか、スポーツ界で絶えず物議を醸していた。
とりわけ跳躍競技や短距離走では成績を直接的に左右する為、義足の性能自体に公平性を問う声が増えつつある。
機械と肉体の高度な融合は技術進化の成果であり、歓喜に値するものであるが、競技者間の有利と不利に与える影響をルール上でどのように扱うべきかという課題は、
格闘技に
〝劇的に変化〟する速度を見極め、両下腕を交差させて完全に
飛び蹴りが接触した一点は描画領域として設定するには余りにも狭く、それが為に打撃力の数値はンセンギマナの背中へ表示されたが、一トンを軽々と超えている。
左右の腕に破壊力を分散させたとはいえ、その衝撃は深く貫通して骨にも悲鳴を上げさせたはずであるが、バルベルデは機械と肉体の融合を喜びと共に噛み締めている様子だ。
この
散弾銃とも速射砲とも
四半円を描く反撃の右手刀は、少しばかり
「クンッ! ズドッシュゥッ!」
右掌による打撃で
その間に高く持ち上げていた右拳を
鉄槌さながらの一撃は無防備のこめかみを鋭角に撃ち抜くものと、観客の誰もが予想したことであろう。しかし、鍛錬が行き届いた一流のボクサーの勘働きに隙はなく、危機を察知した直後には
射程圏外に逃れられてしまっては側面まで回り込んでも意味がなく、ンセンギマナの右拳も虚しく
彼は左右の腕で小さな円運動を連ね、バルベルデを押し流さんと図った次第であるが、幾度となく拳を交えた
飛び
接触した部位や強く踏み締めた足元に投射される光の波紋――プロジェクションマッピングは打撃力の計測値と共に
あるいは〝精密狙撃〟と言い換えるべきであろう。強い光が誤って選手の網膜に直撃しないよう最適な描画領域を超高速で計算しているのだ。例えば頭部や顔面に打撃が命中した場合、攻め掛かった側の背中に打撃力を表示するわけである。
これに用いる機械の精度は、嵐とも濁流とも
「……オレもまだまだ甘いな。一生の不覚と悔やむべきかも知れん。この
「そこまで
以心伝心の
それは第二シーズン第七回「体温よりも熱くキミを感じて」の一幕であった。
バレンタインデーの些細な行き違いからすれ違った『
喜びに打ち震えて溢れ出した『
『
互いに致命傷を与えられない拮抗状態は、心を覗き合うことさえ受け
右拳による
「チョコレートより甘い――と、
果たして、実況担当の予想通りとなった。右腕の
次いで左掌をンセンギマナの胸部に押し当て、ここを支点として右腕を拘束から引き抜いたバルベルデは、
義足への直接攻撃は反則となるが、生身の足を
対するンセンギマナも左の
八角形に敷き詰められたマットを時計盤に見立てるならば、バルベルデは三時から九時まで身を移されてしまった格好である。
またしても無防備に近い状態となっているが、意識まで断ち切られたわけではない。右側頭部に迫る左肘打ちにもすぐさま反応し、命中の寸前で身を沈めて
半円の軌道を描くその肘打ちは、ンセンギマナ自身が右足でもって生み出した円運動に逆らう形で繰り出されている。外から内へと上半身を捻り込んだ際に引き絞ったバネを一気に解き放つ――ンセンギマナが極めた円軌道の打撃は、身体構造と運動エネルギーの結晶である。
人体急所であるこめかみに突き刺されば、その衝撃は脳をも貫くことであろう。頭頂をすり抜けていく音は冷たい戦慄が走るほど大きかったが、バルベルデは止まらない。ンセンギマナの胴へ巻き付けるべく回避と同時に両腕を繰り出した。
脇の下に自身の両腕を滑り込ませるような恰好で正面から組み付き、上体を大きく反り返らせて相手を後方に放り投げるフロントスープレックスを仕掛けようというわけだ。
マットに投げ落とした
高い耐久性を誇るチタン製の
だが、ンセンギマナにとってはその負荷こそが〝武器〟となる。
声優であるのと同時に、古代ビルマ由来の
あるいは『ライジング・ポルカドット』という名の
「ドギャギャギャオォォォゥゥゥンッ!」
無防備のまま五色の泡に包まれようものなら失神
『ライジング・ポルカドット』が生み出す反発力は文字通りに人間離れしていた。左腕全体が
体勢を立て直さんとする
第一
クノク・フィネガンが拓いた〝道〟を真っ直ぐに見据え、人間の可能性と医療技術の進化が綾を成したンセンギマナと、アメリカン拳法による絶え間ない猛攻を一つ残らず見極めていくボクサーの動体視力と
「我らがアメリカン拳法の完成者――エド・パーカーは、
「俺の魂はボクシングこそが
「リオの晴れ舞台でお前が金メダルを獲得した暁には、『ブラボー・バルベルデを育てたのはこのオレ』と胸を張るとしよう。……
「リオでも
目の前の
ブラジリアン柔術に
そのもう一つの功績は「考えるな、感じろ」という名台詞で世界中の人々の胸を熱くさせた稀代の映画俳優にして伝説的な武術家――ブルース・リーを見出したことである。
ブルース・リーがまだ無名であった一九六四年八月――エド・パーカーがカリフォルニア州ロングビーチで開催した格闘大会に彼も招かれ、このときに披露した演武が注目を浴び、武術の達人という設定でアクションドラマの助演俳優に大抜擢されたのである。
伝説と
そして、
〝超人〟レスラーとして畏怖されるヴァルチャーマスクは異種格闘技戦の経験と『
奇しくも世界に先駆けてアメリカ・ペンシルベニア州で開催された〝
あらゆる動作に対応し得る機能性から今や国際基準となった
『NSB』では一九九七年七月から正式に採用されている。ンセンギマナとバルベルデの拳は偉大な先人たちの夢の結晶を纏っているのだった。
そして、夢はただ甘受するだけのモノではない。ブルース・リーとヴァルチャーマスクが四半世紀も先の
赤・青両陣営のセコンドには『NSB』から一枚のタブレット端末が貸与されている。簡易的な
有効な攻撃が成功する
タブレット端末自体が
特にンセンギマナとバルベルデは互いに決定的な状況まで持ち込めずにいる。
僅差のまま試合が進行し続け、最終
かつては自らも『NSB』に出場していたンセンギマナの
サンノゼに開いた
浅知恵や小細工など挟まず、
「アタシが割り出した計算だと『ライジング・ポルカドット』はまだまだ全然負荷に耐えられるわよ。アメリカン拳法の反動を恐れずにドンと行っちゃいなさい。万が一、限界突破して板バネが割れちゃったとしても、ちょちょいのちょいって交換してあげるから」
「……ジョルジェット、
「悪ふざけみたいな真似でおかしなコトになったら、三日間は食事が喉を通らなくなるようなお説教だけど、全身全霊を傾けた勝負で粉々になるのは話が別じゃない。ンセンギマナ
「絶対に言い返せないところをいちいち突いてくるんだもんなぁ。キミ、底意地悪いよ」
「人生で一番大切な
もう一人のセコンド――
修理や調整を担う
何しろジョルジェットは片目を瞑りながら「でしょ?」とジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンに同意を求め、親指を垂直に立てる
現在の『NSB』を代表する選手であり、一回りは年長であるジュリアナに対してさえ同世代の友人の如く接してしまえる肝の据わり方には、シード・リングも呆気に取られることが多い。
内戦が終結して間もなくの頃からルワンダの人々を
ンセンギマナが日常生活で用いている義足を手掛けた恩人でもある。それ故に彼の仲間たちとも気さくに接してくれるのだが、ルワンダという
『NSB』に限定せず、ンセンギマナが格闘技の試合へ出場する際に〝出張〟という形で同行しているジョルジェットは、アメリカの義肢装具メーカーに籍を置いている。コンピューター制御の
改めて
決して無責任な声援ではない。如何なる故障が発生しようとも問題なく試合を継続させてみせるという宣言にも近いものであった。
先程の声援は飛び抜けて優れた技能に裏打ちされる確信とも言い換えられるだろう。
「――ズドッシャァァァァァァンッ!」
だからこそジョルジェットの激励に応えるべく〝板バネ〟の反発力を全開で解き放ち、口から発する効果音を引き摺るようにして
これまでの攻防よりも更に鋭い飛び蹴りを放つと見せ掛けておいて、右足を繰り出す寸前でマットを踏み付けたンセンギマナは、義足の〝板バネ〟で再び跳ね、瞬時にしてバルベルデの背後まで回り込んだ。
これと同時にンセンギマナが繰り出したのは、右の
後頭部ひいては背面への意図的な打撃を『NSB』では反則行為に定めているが、鞭の如く腕をしならせ、風を薙いで半円を描いた拳はバルベルデの左側頭部まで届いている。横面に対する死角からの奇襲であれば、レフェリーも止める理由がないわけだ。
競技用義足の〝板バネ〟はただ取り付けるのみでそこに蓄積される運動エネルギーを利用できるわけではない。引き絞った
特にアメリカン拳法の大きな円運動は、膝の関節部の屈伸運動だけでなく様々な方向から猛烈な負荷が掛かる。これを
機械と肉体を高度に融合させた拳法を〝実戦〟で使いこなすのは、それだけ難しいのである。急激な旋回を伴う跳躍で相手の双眸を惑わす奇襲にこそンセンギマナというMMA選手の戦闘能力が表れているのだった。
湾曲した〝板バネ〟に必要なだけの負荷を掛け、瞬間的に運動エネルギーを蓄積し、アメリカン拳法の
「今日の為に『
「その内に新しい
「ブラボー以上の
後頭部にも目が付いているかのような反応である。『
『NSB』の試合では打撃力と同様に特殊カメラなどを駆使することで顔の緊張状態や表面体温などから心拍数を測定している。計測値やこれに基づく心電図を
そのモニターは
「あれだけ激しい運動を続けても外れる兆候すらないスポーツ義足は勿論、……医療技術の進歩が格闘技そのものを〝未来の姿〟に作り変えていくのね。口さがない連中はイズリアルを『MMA界のサッチャー』なんて呼ぶけど、組織改革の姿勢は正反対よ――」
モニターに表示された心電図や計測値を仰ぎ見た
「――それをイズリアルに背負わせてしまったのは、私たちの過ちなのだけど……」
試合中にリアルタイムで測定される各種の生体データは、選手の異常を逸早く検知する為の措置であった。常に新しい波形を描き続ける心電図も、雰囲気を盛り上げる為の装飾などではない。
心拍数とは心臓の働きを表す
ありとあらゆる角度から八角形の
そして、それは禁止薬物の投与に
当然ながら、ドーピング検査は現在も厳密に実施されている。主催
ドーピング汚染の後遺症というよりも、許されざる罪と理解していながら禁断の誘惑に手を伸ばさざるを得なくなってしまう根本的な原因と呼ぶべきであろう。結果が芳しくなければ、契約解除は免れない――鍛え抜いた〝心技体〟を頼りとして報酬を得る〝プロ〟の
成績不振や故障など理由は様々であるが、極限まで追い詰められた
情状酌量の余地を残してはいても断じて看過できない過ちを白日の
生まれ変わった『NSB』の象徴とするべく団体代表に就任したイズリアルの主導で開発され、
測定された打撃力などに基づくプロジェクションマッピングでさえ聴覚にハンデのある観客へ寄り添うことを目的として搭載されたものであり、
『
一度は引退を決意したものの、イズリアルから直々に慰留され、同じ『NSB』の選手であった
モニワ体制のもとで過去に一度だけ開催された掟破りの男女混成トーナメントを制し、名実ともに『NSB』の王座に君臨したとき、ジュリアナ・オーケアノス・ヴィヴィアンは『ザ・フェニックス』と呼ばれるようになっていた。
かつてヴァルチャーマスクと呼ばれ、異なる
生まれ変わらんとする意志さえあれば、人間は絶対にやり直せる――『NSB』の再生に貢献し、〝競技人生〟を全うすることこそ己が果たすべき
「ボクシングとレスリング――MMAの二大要素である
ますます熱量が高まっていく実況担当は、
〝総合格闘〟の団体でありながら『NSB』は〝異種格闘〟の影響を否定していない。
敗戦によって心まで焼け野原と化していた日本人を奮い立たせた〝戦後プロレス〟の象徴――
『昭和の伝説』と畏敬されるプロレスラーが『アンドレオ鬼貫』の
『アンドレオ鬼貫』が切り拓いた〝道〟には日本国内外を問わず数多の競技団体が続くわけであるが、〝
何しろ『アンドレオ鬼貫』が率いたプロレス団体は、今まさに
現在の日本で最大の勢力を誇るMMA団体『
そして、その互恵関係は
日米両国の格闘技界にとって『コンデ・コマ・パスコア』は一つの集大成であろう。
実際、『NSB』は
特にここ数年はシンガポールで台頭した新興団体への警戒を緩められない状況が続いている。主にアジア系のMMA選手を中心として
海外への映像配信を担う放送事業者も、興行運営を支えるスポーツメーカーも、『NSB』と関わりのないアメリカ企業を業務提携の相手に選んでいる。それはつまり、国内最大団体を迂回する形でシンガポールに〝アメリカ資本〟が流れ込んでいるという意味だ。
『NSB』代表のイズリアル・モニワが最大の脅威として意識するのは当然であろう。経営陣はオリンピックなど様々な国際大会に携わっており、スポーツビジネスを知り尽くしている。他の競技団体と異なる理念・展望も明確に打ち出し、
出場者を大切に育てようとする運営方針や、武道の精神を重んじる競技体制などに興味を持つMMA選手が欧米双方に多い。資金調達の面でも盤石であり、『NSB』でも大規模な人材流出が起こり兼ねない状況なのだ。
『NSB』の基盤にまで影響が及ぶと想定されるアジア圏の勢力図を〝仮想敵〟の自由にさせない為にも日米の
「――かの有名な
「さすがは『NSB』が誇る絶対王者、アンテナの受信レベルまで最強ね。MMAにも匹敵するくらい
「どれだけルールの整備に気を配っても、
「ハンデとなり得る部分が深刻な後遺症を引き寄せる
「子どもを持つとそういうところに目が届くようになるのよ。意識という点でもね。私個人は勿論、貴女の考えと
世界各国のMMA団体が『NSB』に倣って
一方で発展的な影響を与え合う分野も少なくはない。〝パラスポーツとしてのMMA〟に挑戦する人々も大いに触発されたようだ。
〝パラスポーツとしてのMMA〟に深く踏み込んでいく実況に反応した『NSB』最強のMMA選手と
第一
試合を見守るレフェリーは未だに一度もダウンを宣言していなかった。
「――キュキュキュキュウゥゥゥゥゥゥンッ! ギャリィィィィィィッ!」
身を浮かされたまま意図しない位置まで移されてしまったバルベルデであるが、その間にも追撃が六時の側から迫り来ることを読んでいる。果たしてンセンギマナは一二時から八時へと
『NSB』のルールでは首への直接打撃は危険行為として禁じられており、ンセンギマナの手刀も左側頭部に狙いを絞っている。それすら見極めていたバルベルデは掌底打ちによって骨身まで軋まされていた左下腕を小さな吼え声と共に持ち上げ、一二時から八時まで居合い抜きの如く閃いた一撃を
「――金網で仕切られた
改めて
手首の〝捕獲〟が完成した瞬間に腕全体を捻り上げられると直感したバルベルデは、巧みな
これを見て取ったンセンギマナは左側面という位置を維持したまま追い
いずれも小さく円軌道を描く打撃である。左側面を
一方のンセンギマナも
互いの
身の
このとき、彼は腰を深く落としていた。軸として据えた
「ちょい待て、もう
「マスター・シルヴィオの現役時代の試合はボクもテレビで観ましたし、相棒が
「
重心を落とすという構えから弟子の意図を読み取った
「
片足を高く振り上げ、相手の頭部を狙う
即ち、この
右足を振り上げるには不向きな姿勢から腰を捻り込む〝横〟の動作と、〝縦〟に作用するカーボン
その瞬間に計測された打撃力は、二トンに迫っていたのだ。
二重に働く力の作用を
「バゴォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!」
五色の泡が
ンセンギマナというMMA選手を作り上げる全ての〝力〟を結集した右の
『
ブラボー・バルベルデが突出した動体視力を持つボクサーでなかったなら、おそらくは二月の
「気を緩めた瞬間に失神しちまうようなスリルは『NSB』でしか味わえねぇッ! それだけはちょっと未練かもな――」
直撃の寸前まで引き付けてから急激に身を沈め、桁外れと評されてきた
限りなく二トンに近い数値を叩き出した打撃力も、その餌食となって
この瞬間、バルベルデの
「友より借り受けた『
「そんなに謙遜すんなって。円軌道に組み込まれた
必殺の
絶対の信頼を置いて繰り出した
友人の空手家から借りた技であり、練習も足りていなかった――そのように反省を口にするンセンギマナであったが、ヘビー級の体重を乗せた
着地を待たずに左の五指でもって
肘を折り畳んだ状態から最小限の身のこなしで鋭く突き上げるショートアッパーは、傍目には反撃と映ったことであろうが、実際には相手の
物理的に押し返された上、体内にまで
顎を押さえた掌を支点とし、その場に投げ倒そうと試みるンセンギマナであったが、その意図を
レスリングの
「やはり、ブラボー以上の
その様子を〝
先程の言葉から察するに
「理屈ではなく直感で心を震わせるようなモノにこそ
余人には真意が測れないほど奇妙なエルステッドの呟きは誰かの耳に届くことはなく、一向に収まる気配のない大歓声によって押し流されていった。
「
「人体に秘められし星々に
「俺が冥土の土産に持っていくのは金メダルさ。そして、
シロッコ・T・ンセンギマナとブラボー・バルベルデ――互いを生涯の
*
アクション映画に限定されたことではないが、戦闘描写を含む映像・舞台作品にはこれを指導・監修する専門家が必ずといって良いほど参加している。
日本では古くから時代劇や特撮作品が盛んであり、迫真の大立ち回りが目玉の一つとして取り上げられる場合も多い。古今東西の武術とその表現方法に精通した専門家が細かな所作などを役者や監督に指導し、臨場感溢れる名場面を作り上げていく。
役者の個性を見極め、秘められた能力を最大限に引き出し、一瞬の緊張を劇的に変化させることで本当に命のやり取りをしているかのように魅せる領域を指して
そして、武の芸術を担う
日本刀で胸を貫かれ、その場に膝から崩れ落ちるという時代劇の定番とも呼ぶべき場面に
カメラの位置あるいは観客の視点まで意識し、本気で斬り合っているとしか思えないほど臨場感を作り込んでいくのが
〝チャンバラ〟という一つの美学が花開いた日本では、
『
毎週日曜日に一年間に亘って放送される大型連続時代劇に
高度な立ち回しが必要とされる場面では
その
四方を取り囲むような形で設えられた木製の棚には種々様々な武具が収納され、運動用のマットも丸めた状態で垂直に立てられている。身のこなしを確認する為の姿見まで揃えてあるのだ。
特に目を引くのは、壁際で仁王立ちする特撮ヒーローの巨大フィギュアだ。エメラルドグリーンを基調とした造形の巨人が地球と宇宙の平和を守る為に戦う『バイオグリーン』シリーズ――日本を代表する特撮番組の一体である。
一九六六年に特撮ヒーローの金字塔を打ち立てた初代バイオグリーンではなく、史上初のMMA
壁の高い位置には神棚があり、『
日本に
床の全面に灰色のクッションシートを敷き詰めた道場の中央で差し向かいに正座する少年――今日から正式に『
南米・ペルーの
無論、そこには
少しでも気を緩めた途端、法治国家である日本の社会とは相容れない〝闇〟に魂を塗り潰されてしまう己自身に
MMAデビュー戦を反則負けで終えたキリサメは、リングから引き揚げる途中で
格闘技本来の暴力性を
あわや激突という寸前にキリサメの加勢に駆け付けてくれたのも、
MMA選手と
亡き母にも人から受けた恩は何があろうとも忘れず、必ず返すよう教えられてきたが、それを差し引いても
「――
『
強大なノコギリと見紛うばかりの禍々しい『
〝貧しき者〟として世に生まれ落ちた己がその出自から目を逸らし、〝富める者たち〟に混ざってみたところで、最後は歪みに耐え切れなくなる。偽りの〝家族〟から押し付けられた〝人間らしさ〟も持て余すくらいなのだから、一刻も早く
両親が生まれ育ち、己にとっても
MMA選手としての活動を維持する難しさや、現役引退後に抱える
キリサメが編み出した喧嘩殺法をMMAの試合で生かすには、
「
日米間には一〇時間を超える時差がある為に同日同刻とは言い
晴れてキリサメは
これはMMAとの〝兼業〟に配慮したものでもある。あくまでも〝本業〟は『
格闘技の試合で経験したことが
過分としか表しようのない厚意に対しても、キリサメは
今週末に至ってようやく歩行補助杖を用いず一人で歩けるようになったのだが、プロデビュー戦――
怪我の具合を悪化させないよう稽古の見学や軽度の運動から
今日は午前と午後に
「アマカザリ君だけの
おどけた調子で片目を瞑り、恐縮するキリサメを解きほぐしたのは、
新弟子の〝世話役〟を称する
岩手興行への出演が好例であるが、『
所属先の許諾を得て個人活動に力を注いでいる
『
『
「格闘技を金儲けの手段としか考えていない」と活動自体を批判し、あまつさえ所属選手に対する攻撃を企てるなど、『
所属団体間に渦巻く敵対意識はともかくとして、この二人は互いに憎しみなど抱いておらず、それもまた
正面に仰いだ師匠も、二人の兄弟子も、キリサメと同じ白い
左の胸元には『
(……この恰好を
今日までの道程を振り返ったキリサメは、身の引き締まる思いと共に一等深い息吹を唇から滑らせ、
キリサメが『
一七年という
指導員の人数が不足していることもあり、基本的なルールが正確に呑み込めていない子どもも少なくなかったようである。柔道の稽古にも関わらず、空手の模倣と
師匠や兄弟子と向き合っていることもあって頬を掻きたくなる衝動は堪えたが、キリサメは
『ケツァールの化身』という異名を体現するMMA用の
二〇一〇年と二〇一二年の大型連続時代劇にスタッフの一員として参加し、共に撮影を支えた種崎も
キリサメが「先生」と敬称を付けて呼んだ相手も、
師弟関係と呼ぶには出会ってからの日が余りにも浅い。それでも心の底から敬慕する人を追い掛け、一挙手一投足に学びたいという衝動は共に過ごした時間の長さとは関わりなく芽生えるものである。そして、それは抑え切れないほど膨らんでいくのだ――半年前の自分であったら鼻先で笑い飛ばしていたような感情が絶えず湧き起こることに、他の誰でもないキリサメが最も驚いている。
「今日のキリくんをお父さんが見たら、悔し涙が止まらないんじゃないかな。『
どこからどう見ても緊張した様子の背中を丸メガネのレンズに映し、からかい気味に笑う少女は
今日もまた『課金額に命を懸けるな! コンマ一のドロップ率に賭けろ!』などと意味不明な
「八雲家の皆サマから強引に押し上げられたMMAのリングと、サメちゃんが自分自身で選んだ
未稲の隣ではキリサメの
今日は
彼の右側には
日本のみならず全米にまで勇名を轟かせた伝説的な剣道家――
武芸百般について学べないことはないと謳われる『
人の心を踏み
(
この二人が正式入門の日に同行していることは、キリサメとしても甚だ不本意である。
未稲の場合は家族であるのと同時にキリサメの所属先――『八雲道場』の広報担当という肩書きも背負っている。主に公式ブログで所属選手の活動報告などを行っており、その取材という名目で『
今しがた寅之助も口にした『
一週間前は『
MMAデビューを果たす
幸いなことに誰よりも大騒ぎしそうな養父は仕事の為に同行していない。
キリサメも親友と共に合宿に加わった長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』に
一年三六五日、種々様々な〝楽しいコト〟をほぼ毎日欠かさずに発信し続けるインターネット事業に岳は発足当初から参加しており、現在も健康体操のコンテンツを受け持っていた。キリサメの
一九九九年の大晦日――
インターネット事業の代表者――
鬼貫道明と、この偉大なる先駆者のもとに集ったプロレスラーたち――『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦では実況を務めたこともあり、岳との親交は日本で
二〇年来の〝友人〟が主催する事業の一環として請け負った仕事であり、更には収録数日前の急展開ということもあって日程変更を交渉する余地もなく、「未稲ばっかりズルいんだよなァ~。
岳が『まつしろピラミッドプロレス』の外部コーチに就任したのは、『
その際に一度は現役を退き、MMAとの関わりも全面的に遮断していたのだが、当時の八雲岳は隠棲を決め込むにはまだ若過ぎた。無職では
七月には岳にとって〝人生の先輩〟に当たる作家が半世紀前から主宰してきた野外キャンプの活動に参加する為、暫く家を空ける予定である。尤も、そちらは仕事ではなく完全な趣味であった。
「――キリくんだけじゃ道場まで絶対に辿り着けないって。確か朝霞市だったよね、埼玉県の。
キリサメの脳裏に甦ったのは、他者が同行することへ難色を示した際に未稲から突き付けられた〝現実問題〟である。
無論、未稲の心配はキリサメも受け止めており、愛しい唇を貪ることで応えている。
日本に移り住んでから五ヶ月近くが経とうとしているが、
それどころか、
格差社会の最下層という境遇とも関わりなく、そもそもキリサメは自らの行動範囲を拡げたいという意欲に欠けており、日本へ移り住んだ後も誰かに連れ出されない限りは、積極的に玄関を開けようとしなかったのである。MMAの
下北沢から朝霞市までの移動時間は、電車とその乗り換えを合計して約五〇分。そこから道場までは更に徒歩で約一五分の道程だ。未稲に指摘されるまでもなくキリサメとて県境を跨いで一時間という移動には不安が大きく、そのことも
都内で暮らしているという彼が道場までの案内を申し出てくれたのだが、未稲と寅之助の同行が決まった時点でそれを断らざるを得ず、何事にも無感情なキリサメも意気込みに水を差されたかのような状況にはさすがに不満であった。
(みーちゃんは岳氏や麦泉氏に僕の観察を頼まれたのだろうけどな。……PTSDだか何だか知らないけど、ワケの分からない疑いを掛けられるのなら親切心だって迷惑だよ)
自身を取り巻くもう一つの〝変化〟まで想い出し、不意に眉根を寄せそうになったキリサメは、師匠や兄弟子に勘付かれて余計な気を遣われるのは申し訳ないと、
「――例のルポライターか。何かと身辺が騒がしいときに
「……こちらこそ、申し訳ありません。もう一つのほうの事情で長谷川先生や皆さんにもご迷惑をお掛けしてしまって……」
「それは言いっこナシとしようよ、アマカザリ君。
結局のところ、キリサメの浅知恵は最初から通用していなかった。
養父の岳は
恐縮する必要はないという
「無駄にカッコつけた
「……例えとしてもユリ・ゲラーは大外れだと思うんだけど、そもそも例の件に関連した報道は事実から掛け離れた無責任な妄想ばかりで、僕も訂正を求める気にならないよ。そもそも『スーパイ・サーキット』という名付け方だってデタラメじゃないか」
「そのデタラメを一般常識としてお茶の間に刷り込むのがマスコミさ。今や立派に〝時の人〟なんだし、サメちゃんもせいぜい気を付けなよ」
「……おこがましいのは百も承知だけど、どうせなら、ユリ・ゲラーじゃなくて『バイオグリーン』になぞらえて欲しかったよ……」
キリサメが肩越しに言い返したことからも瞭然であるが、寅之助の口から発せられた皮肉は
『スーパイ・サーキット』――当事者であるはずのキリサメでさえ全く耳慣れないその言葉こそが気鬱の種であった。
インカ帝国より舞い降りた黄金の鳥が魅せる『スーパイ・サーキット』――『
「……結局、哀川さんも
「それは『
「本当に空を翔けているような身軽さを見せられたら、俺でなくてもそうなりますって。
「……和気藹々とした雰囲気が羨ましいなぁ……。自分も『
「僕が謝るのもおかしな話ですけど、何だかすみません……」
『
哀川神通とは、南北朝時代――即ち、日本という国を真っ二つに割った戦乱の中世にて誕生し、敵将の
ともすれば法治国家の社会と相反する存在に対してキリサメは強く共鳴し、自らの〝半身〟の如く感じているのだ。
「一応の名付け親らしい銭坪がスポーツ番組で喚いているのを観た程度しか自分も知らないのだが、『スーパイ・サーキット』の意味は、確か『死神の回路』――だったかな?」
「可能であるなら、その銭坪氏を問い詰めたいくらいです。『スーパイ・サーキット』なんて僕が言ったわけではありませんし、銭坪氏が勝手に付けて、マスコミが好き放題に触れ回っている状態なんですよ」
言及したことを後悔している様子の
「それは聞き捨てならないな。俺はてっきりアマカザリ君か、『
「南米出身なのに中米に棲む鳥の名前を押し付けられるより迷惑ですよ。
キリサメの口から『
『
友人の神通が古武術宗家として培った経験と知識は、
鼻の下に白髭を蓄えた『
キリサメの入門当日に無粋な真似は控えるべきと分かってはいるものの、この武者に哀川神通という逸材を売り込むことも隣県の
未稲自身は立ち会っていないのだが、『
以前にも未稲は日本の
「まだまだこれから伸び盛りな
「……報道関係者を操って『スーパイ・サーキット』を触れ回っているのは、どうやら樋口氏のようですから、……『
未稲の目論見はともかくとして――兄弟弟子の会話から『スーパイ・サーキット』と名付けられた経緯を把握した
キリサメも困惑と憂鬱と空虚を綯い交ぜにしたような
師匠に聞かせるべきではないと後悔してしまうほど重苦しい溜め息であった。
それは数日前――怪我の治療の為に
後になって判明したことであるが、その記者たちを差し向けたのは『
この事実を突き止めた麦泉は、血管が破裂しても不思議ではない勢いで樋口に猛抗議したのだが、逃れることの許されない状況で一斉にマイクを向けられたキリサメのほうは、意味不明としか表しようのない筋運びに唖然呆然と立ち尽くすしかなかった。
平日の昼間ということもあり、高校生の寅之助は
戸惑うばかりのキリサメに問われたのは、試合自体の見解などではなく、
大切なプロデビュー戦を反則負けで終えたことを追及するような声は、誰からも聞こえなかった。それどころか、人間という種の限界を超越した〝力〟を
〝異質な存在〟として好奇の目に晒され、比喩でなく本当に〝客寄せパンダ〟にされてしまったような気持ちであった。
岳や未稲を始めとする大勢の期待を裏切ってしまった負い目もあり、キリサメは話せる範囲で記者たちに〝あの力〟のことを明かしていった。
死を意識した瞬間に脳が痺れ、思考を超越して肉体が勝手に動いていたこと。その影響下に
そこからキリサメの手を離れて勝手に話が膨らみ、
『スーパイ・サーキット』――そう名付けたのは〝
キリサメ本人が異常と感じるほど岩手興行に
『
『ケツァールの化身』の評価を吊り上げる為、対戦相手の
何よりも忌々しいのは銭坪に付けられた
世界の競技団体を牽引する『NSB』の歴史よりも更に遡り、ペンシルベニア州で執り行われた黎明期の
憎悪を燃え
『スーパイ』とはインカ神話に登場する死神のこと――銭坪は得意満面で名付けの由来を触れ回っていた。「死を意識する」という発動条件や、その寸前に起こる脳の痺れから着想し、死を司る神に変貌する極限的な心理状態を一種の
銭坪に言わせれば、この
(どうしてあんな風になるのか、僕にだって
〝火事場のクソ力の究極進化形〟などとこじ付けだらけの持論を展開する銭坪満吉は不愉快でしかなかったが、その一方で『
そもそも
その一方で、銭坪がインカ神話ひいては『スーパイ』の成り立ちを深く理解しているとはキリサメには思えなかった。おそらくはインターネットの検索で発見したインカの死神を適当に当て嵌めただけであろう。
駐車場での
『スーパイ・サーキット』の喧伝が始まって数日の間に、『八雲道場』から外に出ただけで様々な眼差しを浴びせられるようになってしまったのだ。好意的に握手やサインを求める者も、無礼極まりない態度で揶揄する者も、寅之助が
初めて東京に降り立った日にキリサメが感じたのは、獲物に舌なめずりする気配が絶えず物陰に潜むような
それ故、岩手興行のポスターが貼られた開催先のコンビニに立ち寄っても、店員から声を掛けられることさえなかったのだ。今やキリサメ・アマカザリの名前は
旧約聖書の『創世記』によれば、神は七日間で天地を
銭坪満吉が〝
(日本大使公邸の人質事件とか、国家警察と一緒になってテロリストを潰して回ったこととか、説明の厄介なモノが騒がれずにいるのも樋口氏のお陰だろうけどな……)
カラシニコフ銃の発砲音を子守歌の代わりにしながら母親の
吹き
それ故にキリサメは日本へ移り住んだ
人間という種を超え、自らに捧げられた生贄を貪り
試合そのものは『
ルールによって選手の命を守る〝格闘競技〟ひいては法治国家とは相容れない存在としか表しようがあるまい。
(……文字通りの〝人外〟で、『バイオグリーン』とも正反対の化け物なのに、……それなのに――)
試合中にキリサメの
愛しい雛を抱き留める親鳥のように大きく広げた
老婆を彷彿とさせる白髪を貫く頭部の角は欠けた月の如く湾曲し、逆巻く炎の如く捩じれていた。亀裂の走った仮面のようにも思える顔は様々な
虫の
胴体を覆い隠す漆黒の布は人間界の喪服のようにも見え、焼け焦げたような穴が無数に穿たれていた。
蔦の
キリサメ・アマカザリという
傍目には『
それにも関わらず、
『スーパイ・サーキット』などは煩わしいだけであるが、その向こうに差し込んだ
血と罪で
『
現在のキリサメが思い浮かべるのは、生まれる前から
二度と
日本で掴んだ〝全て〟を否定してくる
矛盾に満ちた身勝手さはいずれ歪みと化し、
それすらも〝富める者〟の道楽と蔑むのなら好きにしろ――どこかで聞き耳を立てているだろう幼馴染みの少女に向かって心の中で吐き捨てながら、キリサメは
(もう
キリサメの脳裏には
未稲の実弟でありながら、両親の離婚によって母親――映像作家の
『
物心がつく前から身近にあったればこそ、MMAそのものに
この一週間、
「先ほど
「俺でさえ何足も草鞋を履き分けられているんだから、アマカザリ君だってきっと大丈夫だよ。キミは俺よりもずっと頭の回転が速いもん。そりゃ慣れない内は迷うことだらけだろうけど、自分なりのペースを掴んだら、応用の道筋だって見つけられるハズだよ」
弟弟子の不安を打ち消そうというのか、
「行き届かないところばかりですが、右も左も分からないという現状から逃げ出さず、一つ一つ学んでいく所存です」
真摯の二字が
キリサメ・アマカザリという少年は、自らの弱点をさらけ出すことを恐れなかった。何事にも無感情という
何よりも大勢の人々に支えられていることを自覚し、その恩に報いようと励んでいる。師匠の
「――分からないことは誰でも何でもお答えしますから、安心して下さいね。とは言え、道場に
「何卒お手柔らかにお願いします……っ」
朗らかな笑い声と共に道場に入ってきたのは、黒帯を締めた
今日も指導員の一人として
「質問が許されるのでしたら、……今日の稽古以外のことでもよろしいでしょうか?
「
帯に差していた扇子でもって自らの右太腿を打ち、芝居がかった調子で
改めて
一礼を挟んで
「先週の試合の後、……僕が『
どちらも一度きりのことである。良好な関係であることは間違いないが、さりとて〝友人〟と呼べるほど絆は深くもない。キリサメの
「ご縁だよ、アマカザリ君。
固唾を吞んで見守るキリサメに向けられた
「えっ、それだけ……っ? こんなご時世ですよ? 『人助けに理由はいらない』みたいな
呆れ返りながら目を丸くする寅之助は、一字一句に至るまでキリサメの代弁者である。
例えば、旧知の間柄である八雲岳の
その言葉を素直に呑み込めるほどキリサメは生温い環境で育ってきたわけではない。実母が絶命し、独りきりで格差社会の最下層に放り込まれた直後には見せ掛けの優しさに騙された挙げ句、古くから見知った人間の血を『
だからこそ、何事も歪んで受け取る寅之助と一緒になって首を傾げてしまった。
盛大に面食らっている
古い付き合いとはいえ頻繁に連絡を取り合っているわけではなく、『八雲道場』が『
『
『
『
それだけにキリサメが『タイガー・モリ式の剣道』に
それもまたキリサメが自らの力で手繰り寄せた縁である。
「大上段に構える感じになるから年の功とは言いたくないのだけど、皺首から一つ
「死んだ母から『袖すり合うも他生の縁』という日本の
人生の碑文とも
『
〝
「こういうのをスポーツの世界ではどう言い表したら良いのかな? 打ってつけの言葉をラグビーで聴いた
「アレクサンドル・デュマ……ですか?」
「デュマの『三銃士』でも合い言葉になっていたね。ワンフォーオール・オールフォーワン――一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」
それは
『
自分のことを友と認めてくれた人たちも、相容れない存在と
「
「
一九八〇年の春から放送された『バイオグリーン』シリーズ九作目の主人公は、仏像をモチーフとして面立ちのデザインが完成されている。窓から差し込む陽の光を受けた巨大フィギュアも、人生の
『袖すり合うも他生の縁』という諺を教えてくれた亡き母には、人から受けた恩は必ず返さねばならないとも言い付けられている。
その双眸には強い光が宿っている。
しばしば『みんなは一人の為に』と解釈されるオールフォーワンには『みんなは一つの目的の為に』という意味合いもある。
その〝目的〟には
無論、それはキリサメ自身がまだ気付いてもいない〝
「サメちゃんってばMMAは一戦限りで
「まぁ……、今ならちょっとだけお父さんの気持ちが分かりますよ」
寅之助が真横から投げ付けてきた皮肉に対して肩を竦めて見せる未稲であったが、言葉とは裏腹に大して動揺もしていない。
MMAを蔑ろにしてしまいそうなほど
未稲は
(昨日までの想い出には太刀打ちできないけど、これから積み重ねていく新しい想い出には勝ち筋しか見えないもんね。少しずつでもキリくんの中から削り取ってみせるよ)
日本に移り住んでから半年近く経った
キリサメの
(後編へ続く)
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