スーパイ・サーキット
その22:謝肉祭(後編)~「格闘技新時代」において『四天王』と呼ばれる者たち・岩手競馬が生んだ雑草馬の奇跡/それは武の都・火の国へ突き進む軌跡—―そして戦なき世の『麒麟』に忍び寄るオリンピックの【影】
その22:謝肉祭(後編)~「格闘技新時代」において『四天王』と呼ばれる者たち・岩手競馬が生んだ雑草馬の奇跡/それは武の都・火の国へ突き進む軌跡—―そして戦なき世の『麒麟』に忍び寄るオリンピックの【影】
二二、Casus Belli Act.3
防犯面の課題を抱えてはいるものの、学生食堂を部外者に開放している大学は多く、東京都内だけでも一〇校近くに上る。昼食時ともなれば、ビジネスパーソンなど卒業生でもない人々で混み合うのだ。
名称から日本国内の最高学府と間違われやすい『
翻せばそれは密談に適した環境とも言い換えられる。
年若い大学生ともなれば、同じ
それ故、自分たちと比べて二回りは年長であろうスーツ姿の女性がカレー風味のワッフルを頬張っていても誰一人として気に留めないのである。同じような風貌は飲食スペースに幾つも見つけられる為、カフェテリアの景色にもすっかり埋もれていた。
あるいは娘と食事を
実際、四角いテーブルに友人を見つけた学生は「こんにちは、哀川さんのお母さん」と挨拶していった。訂正する間もなく去られてしまった為、苦虫を嚙み潰したような顔を見合わせた
「母親代わりを務めた
「それはわたしの台詞です。母親代わりなんて想像しただけでも身の毛がよだちますよ」
ついには出会い
「普段は別に気にしていなかったのだけど、
「それは諦めて下さい。
「年長者の悩みをとりあえず慰めるのも若者の務めよ。一流派を背負う〝宗家〟の立場でしょう。
「……軽々しく〝宗家〟の称を持ち出すと、聞くに堪えない口喧嘩にまで拗れるから控えるように――と、
「それなら社会人としての
スーツ姿の女性が顔を
「そもそも学食を使うからいけないのですよ。『あの人は母ではなく赤の他人』と説明して回らなければならなくなった私の気持ちも考えてください。……ただでさえ
「大学から離れた店まで学生を呼び出すわけにはいかないわよ。午後の講義に間に合わなくなったら申し訳ないもの。それに騒がしい場所のほうが話しやすい内容でもあるしね」
「……ストーカーみたいな真似をしておいて、どの口が言うのですか……」
後から付け加えられた一言こそ本題であろうと読み抜いた神通は、差し向かいの女性が考えていることを即座に理解できてしまう己自身への嫌悪感に耐えられなくなり、この上なく不愉快そうな溜め息をもう一つ重ねた。
傍目には気忙しいビジネスパーソンとしか思えないだろうが、彼女の肩書きを知れば、今しがたの言葉も、向き合った相手を威圧するかのような振る舞いも、受け取る印象の一切が大きく変わる。
同じ『
ストーカーでなければ〝秘密情報員〟と呼ぶのが最も似つかわしい女性は、名前を
神通を〝宗家〟と呼んだことからも察せられる通り、
現在の所属先――
その一方で、やはり『
ごく
今日も同様であった。午前中の講義が終わり、友人たちと連れ立って講堂から出た直後に
尤も、
「社会で心穏やかに過ごす為のもう一つの秘訣は、
宗家に対して心配りの重要性を説いておきながら、後進の育成を担うべき師範には不適任と思えるほど愛想のない
過剰反応は
それはつまり、
「……それは、
「傘下のカラーギャングと事を構えるのなら『
数世紀に亘って受け継がれてきた〝戦場武術〟を錆び付かせない為、
しかしながら、
〝
神通が目を剥いたのは、東京の片隅で繰り広げられた小競り合いが政府機関に捕捉されていたという事実である。間接的に
『
山梨県を根拠地とする『
その『
これによってカラーギャング側は最大の後ろ盾を失い、大敗の末に今や『
「幾ら〝
「立場上、大っぴらに話すことは
「……
暴力性の利用などを含めた
興行先で生じる様々な権利と、これに基づく交渉を円滑に進める為、『昭和』と呼ばれた時代には反社会的勢力が興行主を担った事例も多い。抜き差しならない問題が生じた際には実力行使で解決するわけであり、土地々々の〝顔役〟が難しい話を取りまとめるという単純なことでもなかった。
芸能・格闘技など分野を問わず、興行と反社会的勢力は表裏一体とも呼ぶべき関係性であった。巨大な
諸問題を抱えつつも法治国家としての体制が整った〝現代〟に
その一方で、「蛇の道は蛇」という
〝
日本のマスメディアが取り上げない裏社会の
国家間の問題にも関わる〝
(
彼女が帯びている任務は理解できずとも、目的の為には手段を選ばない人間であることは幼い頃から知っている。ここまでの会話も雑談などではなく情報戦というわけである。『
明るい印象の名前とは真逆に生き方は陰険の極み――と、神通は心の中で吐き捨てた。
「近頃、『
「は、はいっ?」
「同じ日に『
「どうして、そんなことまで、調べているのですか? 〝
「暇呼ばわりは公務員批判の常套句ね。もっと捻りを加えなさいな。勿論、〝仕事〟の一環よ。一人の指導者としては、
一市民に情報戦を仕掛ける真意を探っていた矢先に不意討ちを受けたようなものだ。
キリサメ・アマカザリ――発祥した国や時代、様式の
MMAよりもルール上の自由度・危険度が高いバーリトゥード形式の『
何より〝眠れる獅子〟とも
戦なき国を生きる常人には想像も及ばない〝闇〟が魂に根を張る者の
「あのですね、誤解があるようですがね、キリサメさんとは
「愛染が激怒しそうな
キリサメとの関係を揶揄されたと思い、
〝サバキ系〟空手の全国組織『
つまり、今し方の話は
必要があってキリサメの名前を挙げたものの、『
昨日から『
「そのアマカザリ君やバロッサ家のホープが出場している『
国家安全保障上の脅威――と、一字一句に至るまで
仮に
「
「……もう少し分かるようにお願いします。余りにも話が大き過ぎて、取っ掛かりさえ掴めていないのですが……」
おそらくは新品であろう。
辺りは夜の闇に包まれている。分厚い雲によって蓋をされているのか、一筋の月明りも差し込んでいない。数ヶ所に設けられた
すぐさまに〝錯覚〟と気付くだけの手掛かりも液晶画面の中に少なくなかった。
神通もまた同じ〝立場〟である。だからこそ、抜き身の刃が跳ね返した赤い輝きの鋭さから〝
「どなたの顔も存じ上げませんが、
山梨奥地に位置する二人の故郷――『
年に一度の例祭として、『
戦国時代に
「伝承の彼方」と表すのが似つかわしいほど遠い昔には軍事演習の側面を持ち、相応の規模も誇った〝
それでも〝
現在の〝
昨年などは鉄錆の味に興が乗ってしまい、試合場の破壊など想い出すだけでも全身が羞恥心で火照るほどやり過ぎている。
「私の小さな頃だってカラー写真だったわよ、……ギリギリね。そもそも今の話の流れで想い出の一枚なんか見せるわけないでしょう。これはデジカメで撮った昨晩の写真。熊本県からツテで送ってもらった物よ」
「これ、熊本なのですか? しかも、今朝……っ?」
「熊本城下の
一部の住民が戦後まで刀を差し続けていたという極めて特殊な環境で生まれ、物心が付く前から武芸百般と親しんできた神通にとっては、
郷里の場景と間違えてしまったのも無理からぬことであろう。槍刀を携えた武術家の中には、中世の武者が被った
無論、このような感覚は一歩でも『
『
「俗に言う『ストロベリームーン』から三日と過ぎていないのにこの暗さ。大きく見えるはずの月が雲で覆い隠されてしまう辺り、如何にもお
「そんなことより熊本で何があったのですか? わざわざ写真を見せてくるからには、先ほどお話しになった安全保障の問題とも無関係ではありませんよね?」
神通にとって熊本県は所属団体間の対立をも超えた友人――希更・バロッサの故郷だ。
無論、『
(それに熊本は哀川家にとって――)
熊本という地名が鼓膜に突き刺さって脳をも揺さぶった瞬間、〝
我知らず俯き加減となった直後には、
〝
「古い歴史を積み重ねてきた道場は、その重みが守るべき〝誇り〟になること、
「……樋口郁郎は、
「手遅れという結論しか持ち得ないわ。熊本を山梨に置き換えてみなさい。〝甲斐古流〟が打ち揃うより早く
「樋口と刺し違えてくれるのなら、あの見下げ果てた
「……幼馴染みという事実すら耐えられないという
特定の拠点を持たず、全国各地の運動施設を経巡るという〝旅興行〟の形態を採っている『
それにも関わらず、樋口は熊本県に対する配慮を欠いたまま開催地発表を強行したというのである。
熊本県の
熊本武術界を侮辱する振る舞いが火種となり、県内の隅々まで樋口に対する
狂騒の勃発から一日と経っておらず、〝
それぞれの得物を掲げながら大きく口を開けた人々は、「許すまじ、樋口郁郎」と一斉に雄叫びを上げているのだろう。
武士にとって〝誇り〟を傷付けられることは、一戦に及ぶほど許し
日本史上、最も有名な剣豪――
それ故に武蔵が興した流派――『
バロッサ家の一族と
〝外〟から乗り込んできたMMA団体が
明治維新の
その〝誇り〟を踏み躙らんとする〝暴君〟に刃を
(……こんな気持ち、希更さんに申し訳なくて仕方ありませんが……)
神通の心に湧き起こったのは、義憤だけではない。
歴代宗家と同じように彼女も『
〝
過激なルールを採用する
「熊本の武道場が戦国時代みたいな真似をしたくなる気持ちは分からないでもないわ。その怒りが『
「樋口さんが『
亡き父にとっては大切な〝
自分の都合が良いように物事を動かす有効な手段として〝暴力〟を講じる者とも言い換えられるだろう。これまで卑劣としか表しようのない悪行を重ねてきたからこそ〝暴君〟と呼ばれるのだ。〝ジョシカク〟という一種のブランドを手に入れる為、競合団体を罠に
『
だが、日本格闘技界を理不尽に振り回してきた〝暴君〟ならば、最悪の一線でさえ
『
神通も〝大親分〟とその家族との個人的な付き合いは保っているものの、『
〝反社会的勢力〟と呼ばれる存在について、神通も全くの無知ではない。
『昭和』の高度経済成長期まで遡るのだが、日本全国で過激化の一途を辿っていた『学生運動』の鎮圧が暴力団に依頼されるという事態も珍しくなかった。
現在ほどの勢力ではなかった頃の『
『昭和』から『平成』に至るまで武闘派として恐れられてきた『
「裏社会の縄張り争いならいざ知らず、徒党を組んだ武道家と暴力団関係者が熊本城のお膝元で
「……その報道によって日本国内の『ウォースパイト運動』が刺激される――と?」
忌むべきモノを探るような神通の眼差しに対して、
『ウォースパイト運動』とは格闘技そのものを深刻な人権侵害と
イズリアル・モニワが代表を務める『NSB』では、屋外興行の試合場に火炎瓶を投げ込むという〝抗議〟を受けたことがある。
熊本の全土で想定される武力衝突は、日本国内に存在する全ての古武術を『ウォースパイト運動』に否定させる引き金となるはずだ。その背後で
『NSB』関係者の同乗を動機として
ありとあらゆる格闘技を許し
己の手に握り締めているのは〝裁きの鉄槌〟と疑わない者たちは、
「……健全とは言えない関係の『
法治国家という枠組みに
現時点でさえ『
格闘技を偏狭な目でしか捉えられない過激思想は論外だが、
団体代表の樋口自身が人権侵害という決め付けに
他の選手から
神通も述べた通り、ほんの小さなきっかけ一つで『ウォースパイト運動』の〝抗議〟が暴発する状況とも言い換えられるだろう。
(テロの被害は断じて許せないけれど、あの
『ウォースパイト運動』の〝抗議〟に屈して『
ヴィクター
『
何時の間にか、苦くも甘やかな〝罪〟の味が口の中に広がっていた。
「――わたしと違って
社会の根幹を揺るがす『ウォースパイト運動』の脅威を語らっている
友人たちがテロに巻き込まれることを望んでいるかのような本音を
「ホスト国の責任として、テロに準ずる危険分子を抱えた状態でオリンピック・パラリンピックを迎えるわけにはいかない――これで
「……やはり、そちらが〝
「六年後のテロ対策を開催直前に実施しても間に合わないわ。この理屈、私たちが『
「……
「オリンピック・パラリンピックを狙った事件であるかどうかは関係ない。国内で無差別テロの兆候が確認された時点で、国家の敗北も同じなのよ。それを未然に防ぐのが政府の使命。同じ言葉を繰り返すけど、ホスト国が果たすべき責任というわけ」
学生食堂全体が賑々しい笑い声に包まれているということもあり、
活動家自身の主張はともかくとして、『ウォースパイト運動』がテロリストと何ら変わらない手段で〝抗議〟に狂奔していることは間違いない。しかも、
このように予断を許さない状況下で日本国内の活動家を更なる暴走へと駆り立てる危険性が高い『
政府に
国内外で展開される情報戦の一翼を担い、また任務の上でも『国家安全保障局』と密接に関わる〝
全世界に散らばる『ウォースパイト運動』の〝同志〟は、過激思想を共有しながらも組織的に活動しているわけではない。最初に格闘技廃絶を呼び掛けた活動家も、これを率いる指導者ではなかった。
匿名性の高い
巨大な人権団体でもない為、
「どのような犠牲を払ってでも〝復興五輪〟という大義は達成しなくてはならない――
「父親の背中を追い掛けて歴史学を志した神通なら、きっとそれを持ち出してくると信じていたわ。個人的には脳の動かし方にはもう少し可愛げがあったほうが安心するけれど」
〝復興五輪〟――『東日本大震災』を経験した日本でオリンピック・パラリンピックを成し遂げる意義へと踏み込むに当たって、神通が前例として挙げたのは昭和五年(一九三〇年)三月二四日から五日間に亘って開催された運動競技会である。
国立競技場の前身である明治神宮外苑競技場や、日比谷公会堂など東京各所で試合が行われ、一七にも及ぶ競技の中には東京在住者という出場条件しか設けられていないものもあった。小学校連合による体操だけでなく、学生選抜チームも数多く出場している。
『関東大震災』からの復興を指揮した東京市長・
子どもたちの心に寄り添いながら、これを見守る大人たちの健康体操も促したという。狭い避難所に籠ってばかりでは基礎体力が落ち、エコノミー症候群の
『関東大震災』では
これに対して『
大義という仰々しい言葉を選んだが為に皮肉めいた調子となってしまったことを神通も密かに反省したが、〝復興五輪〟という発想そのものは『昭和』初期の『
その一方で、『平成』に招致が実った東京オリンピック・パラリンピックと、『昭和』初期に執り行われた『
『
オリンピックということでは、一九六四年の大会も〝戦争の時代〟に瓦礫の山となった東京の再建と、国際社会への復帰を満天下に示すという使命を帯びていた。こちらは敗戦から一九年後の開催である。この時期の日本は高度経済成長期の只中に
『昭和』の二例に対して二〇二〇年オリンピック・パラリンピックの場合は『東日本大震災』発生から半年と経たない内に〝復興五輪〟を掲げ、招致に乗り出している。東北の被災地が具体的な道筋を定められていない状況にも関わらず、未曽有の大災害から甦った姿を披露して見せると、東京にて宣言されたわけである。
紆余曲折を経て勝ち取りながら、『太平洋戦争』の勃発によって
東京は二〇一六年大会の開催地に名乗りを上げた際、最終候補四都市に残りながらブラジル・リオデジャネイロに完敗を喫している。今度こそ〝招致合戦〟に勝つ為、同情票に狙いを定めて『東日本大震災』を利用したという
同じ
生活圏の復旧や新たな防潮堤の建設に不可欠な人材も同様であった。国立競技場の建て替えが発表されたのは『東日本大震災』から一年後――二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定されるよりも
それはつまり、限りある資源の奪い合いが首都と被災地の間で起こることをも意味しているのだ。東京によって独占されてしまう前に助成金を確保する為、〝復興五輪〟より早い時期に開催される〝メガスポーツイベント〟を招致しようと呼び掛ける声が東北で起こり始めたことは、神通と
『
同じ東京で開催される〝復興五輪〟は、九〇年前にも通じる使命を携えている。それにも関わらず、正式決定から一年も経っていない内に『
被災地から遠く離れた安全な首都でスポーツ利権を食い物にする為、復興の二字を弄んでいるだけであろうという疑惑は、東北復興を圧迫し兼ねない矛盾と溶け合って膨らみ、大義の名のもとに目を逸らすには余りにも醜い
「
〝復興五輪〟に浴びせられる敵意について、その起源を九〇年前まで時間を遡って紐解いていた神通は、『
「日本国内の活動家による
「空手と柔道が〝暴力〟? 素直な気持ちを申し上げるなら、……狂っていますね」
「私たちには意味が分からない思考パターンだけど、向こうからすれば極めて理性的で正当なのよ。……テロリズムとは、そういうもの。邪悪な人権侵害を取り除き、本当の意味での〝平和の祭典〟を取り戻す為なら何でもやるわよ」
「暴力的な手段に訴えてでもオリ・パラ開催を阻止したい過激な否定派は、全てとは言えなくとも『ウォースパイト運動』と利害が一致していると言えなくもありません。……空手や柔道の廃絶を餌にして、過激な活動家を政府や都庁に差し向ける尖兵に
「神通の予想と私たちの懸念は概ね同じよ。『ウォースパイト運動』を隠れ
憎むべき〝何か〟を存在する事実さえ否定し、滅ぼさんとする思想ほど同調し易く、暴力の連鎖と化して速やかに増殖していくものである。オリンピック・パラリンピックの中止を強硬に求める否定派の中には、各界の著名人も少なくない。それは社会的地位や経済力、個々の能力が特別に秀でた人間とも言い換えられるだろう。
〝空飛ぶホワイトハウス〟とも呼ばれる
IT社会の申し子であった
格闘技を人権侵害と
「日本の復興を国際社会に示すことを政府は重視しているし、その実現が今後六年の重要な任務であることも否定しないわ。でも、過激思想と相対する理由はもっとシンプルよ。数万単位の人間が
「……その直後に『ウォースパイト運動』が格闘技の
「そのテの印象操作は放っておいてもマスコミがやってくれるわね。オリ・パラ否定派にも踊らされて、格技系スポーツの追放を呼び掛けるようになるはずよ。民衆の味方の
アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで開催された市民マラソン大会に於いて爆弾テロが発生し、二九〇名にも近い人々が死傷させられたのは、二〇一三年四月一五日――ほんの一年前のことである。
犯人の兄弟はチェチェン紛争から逃れるべくアメリカに移り住んだ難民であり、その事実は難民問題に揺れ動いていた
オリンピックを標的としたテロ事件も神通は忘れていない。
一九九六年アトランタ大会ではメイン会場内の屋外コンサート施設を狙った卑劣な爆弾テロが発生し、死傷者は一〇〇名を超えていた。
一九七二年ミュンヘン大会でも国家間の敵対関係が選手村に持ち込まれたことによって鮮血の悲劇に発展してしまったが、これに対してアトランタ大会は容疑者個人の思想が暴走したテロ事件であり、凶行に至る性質は『ウォースパイト運動』に限りなく近い。
「政府や都の
私たちはテロの犠牲を絶対に防がなくてはならない――
「女性として初めてアメリカの統合参謀本部議長になった人物が以前にこう言ったわ。二〇〇一年の同時多発テロ以来、世界は戦時と平時の間に明確な区別が付かない――と」
「希更さんの父方の
重苦しい溜め息を一つ挟んだ
テロに準ずる危険分子を看過しないというオリンピック・パラリンピック開催国の責任を強調する一方、
『
「
「そう警戒しないで欲しいわね。別に潜入捜査を依頼しようというわけではないのよ。この間のような荒事でもないわ。
「……わたしに〝
つまるところ、
このような
〝
退路を一つずつ塞いでいくかのような回りくどいやり方や、友人に対するスパイ行為を強いられることへの腹立たしさは決して小さくないのだが、神通自身にとって捨て置けない状況であることも間違いなかった。
忌まわしい笛の音が『
それどころか、関係者という理由だけで八雲未稲や
二〇〇一年の同時多発テロ以来、世界は戦時と平時の間に明確な区別が付かない――先ほど
極端な例であるが、戦争に
サイバーテロを仕掛けた
異種格闘技食堂『ダイニング
それはつまり、『ウォースパイト運動』にとって生かしておくべきではない諸悪の根源ということだ。『サタナス』に触発されて日本国内の活動家が過激化した場合、真っ先に命を狙われることであろう。
そして、そのときには『ダイニング
店内に特設された四角いリングでは地方レスラーの巡業なども行われている。格闘技を憎悪する活動家からすれば、文字通りの
(店で演武を披露して下さった熊本の古流剣士の方も、樋口郁郎が招いた
中世の
「十割の本音を申し上げれば、『
大恩ある鬼貫道明と『ダイニング
『
格闘技も武道も社会悪の象徴であり、滅ぼすべき人権侵害に過ぎないと、一般社会へ訴える材料を『ウォースパイト運動』に与えることにもなる。
〝プロ〟の競技団体としては異例というほどチャリティー
『
猛烈な寒波の爪痕が刻まれた二月のことであるが、アメリカのマンハッタンでは、悪質な〝抗議〟に怒り狂った『NSB』のファンが『ウォースパイト運動』の活動家を殺害する事件が発生していた。その思想活動が国内でも過激化すれば、格闘技を愛してやまない『
神通が任された任務上、空閑電知と
その瞬間から『
歪んだ正義を執行する為に
何よりもテロは〝暴力〟の恐怖で社会の在り方を作り変えんとする行為である。民衆の
だからこそオリンピックを始めとする大規模な競技大会が攻撃対象となる。
非戦闘員に狙い定めることを禁じた戦時国際法など関係なく、これを踏み破るのがテロである。そして、それは『ウォースパイト運動』も同様であった。
「……この拗れた状況を〝
「ドラマや映画では謎の秘密結社みたいな
「……今日も法治国家が守られている証と割り切れば、それも誇らしいのでは?」
「今の気遣いは一〇〇点満点中七〇点ね」
テロに相当する計画を未然に防げなかったときには、オリンピック・パラリンピックの開催国としても最悪の汚点になる――『ウォースパイト運動』が吹き鳴らす笛の
『
第一次世界大戦もサラエボの片隅から始まったのである。
(死地に臨んで恍惚を味わうのは、あくまでもわたし一人のこと。……戦なき世に息の詰まるような人間と親しくして下さる方々には、指の一本とて触れさせない――)
『
「今回も哀川の
「わたし以外の誰も巻き込まない約束ですよ。大して自由に動けるわけでもない大学生をスパイに仕立て上げるのは甚だ疑問ですが……。
『
新潟県上越市に所在する『
その『
「この一件は
「それを言い出したら、『寺院での武術指南は最悪の人権侵害』と真っ先に決め付けられると思いますが……。落ちぶれた宗家よりもずっと危機感を共有して頂けるのでは」
極めて身近な人々にテロの被害が及び兼ねない状況だけに要請を断るはずもないと、揺るぎなく確信している
購入したばかりと一目で分かるくらい真新しい携帯電話であった為、最初から不自然に感じていたのである。つまり、
インターネットに接続できる物は、忌むべき顔が記憶の水底から引き摺り出されてしまう為、友人たちに時代遅れと揶揄されても触れないようにしていたのだが、即時の情報連絡が不可欠となる任務だけに受け取らないわけにもいかなかった。
(父が愛用していた赤シャツに合わせたのだとすれば、半世紀分の執着を拗らせた怨念でしかありませんし、そうでなくとも悪意ある仕込みとしか思えませんよ、
意図的に選んだ物であるのかを
平安時代末期に朝廷すら圧倒する権勢を誇った
「
「今のところ、武術家たちは土地や流派の重鎮のもとに寄り集まって、その
「先程の写真は『
「詳細は掴み切れていないけど、否定し切れないわ。特に大きな
『
生涯の
明治維新を迎えるまで細川家の歴史と共に歩んできた名門であれば、熊本城を
最も神通を驚かせたのは、この三好家こそがバロッサ家を熊本に招いたことである。江戸時代を通じて武芸を奨励した細川家の功臣だけに熊本武術界との結び付きも深く、県内諸流派や道場の相談役も果たしている――と、
三好が支えた忠興は、額を割られながらも怯むことな修羅の
(昨日の試合、お母上がセコンドに付いておられたはずですけど、希更さんはどこまで事態を把握しておられるのかしら。最悪の場合、ご実家と対立し兼ねない状況ですし……)
九月の開催が予定されている『
人と人との調和や相互理解を主題とするアニメシリーズ『
神通自身の〝立場〟も友人と
もはや、友人として正面から向き合えなくなるかも知れないのだ。気兼ねのない親交が遠のいてしまった懊悩を任務の一言で割り切れるほど神通も達観してはいなかった。
「……わたしに断られるとは思わなかったのですか? よりにもよって熊本に差し向けるような真似を……。まさか、父が命を落とした理由を忘れたわけではありませんよね?」
「
「ねっとりと気色悪い言い方、本当に堪忍して下さい。……横から
「……一緒になれなかった女の負け惜しみみたいになったのは否定できないわ」
神通が小さな声で連ねた言葉は酷く抽象的であり、
「あいつの――
まるで不意討ちの如く
日本格闘技界に君臨してきた〝暴君〟を迎え撃たんと勇み立った熊本武術界の狂騒や、これが火種となって大きく燃え上がることが想定される『
乱世さながらに
ルールで安全が約束されたはずのMMAで死の気配を撒き散らしたキリサメ・アマカザリと、
おそらく
『
しかし、
『昭和』と呼ばれた時代に血の海を作り出した〝眠れる獅子〟と、戦なき世の〝底〟でも試しているかの如く血に餓えた麒麟――哀川の
「わたしに付き纏うのは、ひょっとして父を救えなかった罪悪感を慰める為ですか?」
「惨めな想いを抱えて生きなければならない幼馴染みの意地かもね」
ガラスに映った顔は感情を
顔ということならば、正面の
先程は腹立ち紛れに「
そのように思ってしまう自分自身が神通は心の底から煩わしかった。十割の本音を晒すならば、訳知り顔で接してくる
しかし、〝
これもまた亡き父――
甚だ悔しいが、
(……結局、わたしも熊本から――あの名前から逃れられぬ
目の前の
今は追憶の中でしか手を触れることが叶わない父の左頬には、痛々しいほど血の色が透けて見える一筋の傷が刻まれていた。これを無意識の内になぞっていたのである。
大学食堂は相変わらず賑々しく、
*
公営競技に馴染みのない者には誤解されることも多いが、日本の競馬場は年齢による入場制限を行っていない。義務教育が完了していない子どもでさえ競馬は拒まないのだ。これは〝中央〟であろうと〝地方〟であろうと変わらなかった。
未成年者が禁じられているのは、馬券の購入――即ち、賭け事への参加である。
同じ〝人馬一体〟でありながら、馬術競技とも異なる疾走感に満ちた
一二時五分発走の
腰に締めた黒帯を揺らしながら軽やかに進むのは、世界を相手に闘った『明治』の伝説的柔道家――
親友のキリサメ・アマカザリを引き連れ、奥州市に所在する〝地方〟の競馬場を訪れたのだ。やや距離を取ってはいるものの、八雲未稲も二人の後から
彼らより一回り近く年長者である本間愛染は、
興味を惹かれた物へと鼻息荒く駆け寄っていく愛染の言行は半ば幼児に近く、後から追い掛けていった未稲が迷子にならないよう引き留める有り
「おれもまだペルーのことは全然知らねぇんだけど、競馬って流行ってたのか?」
「リマにも――故郷にも競馬場はあったよ。そういえば
「キリくん、乗馬経験あるの⁉ ますます時代劇の適性バッチリじゃんっ!」
「身近なトコじゃ哀川も馬をやるんだぜ。競馬や乗馬と違う
「電知の話を聞いているだけで簡単に想像できるのが神通氏らしいよ」
「同門の仲間と全速力で馬を走らせながら槍をカチ合わせる稽古もやってたぜ――って、何時から
「……それは成り行きというか――説明し始めるとややこしくなるから、また今度な」
〝中央〟と〝地方〟で共通することであるが、競馬に
キリサメたちが訪れた競馬場の場合は、正門と一体化した建物の裏側に円形の
二〇一四年六月現在の
肩を並べて
ただただ呆気に取られた為、未だに
あるいは『
とうとう約束を果たせずに終わってしまったわけであるが、それで腹を立てる電知でないことはキリサメが誰よりも理解している。一緒に取り組んだ
『
全く想像していなかった一言にキリサメはすっかり面食らってしまい、気付いたときには奥州市唯一の競馬場に足を踏み入れていた次第である。
「
「本間氏、そもそも電知のことを良く知りませんよね? 会話にならないのでは……」
「まァな。
「そう言っていられるのも今の内だぞ、
「何だよ、それ⁉ 哀川の野郎、見かけによらずお喋りじゃねーか!」
「私のニラんだところ、元カノのご実家へ挨拶に行く途中なのだろう? 青森直行は味気ないから岩手でふらりと途中下車といったところか? 親友と二股とは知れ者め!」
「そんな
「情報網と言えば、僕たちが体育館に居ることをみーちゃんに
「おれだって驚いたんだぜ? 寅から聞き出した病院に行ってみたら、
「本当に偶然なのか? 勘だけで足を向けたら本当に出くわしたって?」
「歩き出した後に八雲と
あるいは神仏の導きかも知れないと愉しそうに笑う電知に対して、キリサメはまたしても目を丸くしてしまった。
格差社会の最下層で生きてきたキリサメは、神の加護など信じた
加えて何事にも無感情であったのだが、短期間に二度までも親しい人間と引き合わされては、その偶然に〝運命〟という二字を意識せざるを得なかった。
一方の未稲は二人から少しだけ離れた位置で会話に耳を傾けていたのだが、電知が「神仏の導き」と口にした瞬間、この上なく気まずそうな
ここに至る流れから神仏へ心を寄せる合掌と捉えるべきであろうが、
尤も、未稲の不可解な様子には同行者の誰も気付いていなかった。
奥州市の競馬場では、馬場――
「みーちゃんに確認もせず
「おれは地方競馬を観戦しに来ただけだぜ?
「……大工の仕事を放り出して? 今日は平日だぞ」
「職人にも有給休暇はあるんだぜ。『
地方競馬の観戦が奥州市を訪れた理由と電知は語ったが、休日と比べて集客に差のある平日に東京から足を運ばなくてはならないほど重要な
彼の行動が意味するものを心の深い部分で受け止めたキリサメにとっては、他の
その瞬間を視界の端で捉えたらしい愛染には、何時になく優しい調子で肩を叩かれた。
全国に点在する他の競馬場と同様に奥州市の施設も屋内外のそれぞれに観戦席が設置されている。キリサメたち四人がゴールに程近い
競馬といえば、血統も恵まれた優駿と百戦錬磨の名
『昭和』の風情を色濃く残す奥州市の競馬場は、外国人観光客も興味を惹かれてならないのだろう。キリサメたちの前列にも海外から訪れたものと
男性のほうは光を跳ね返して輝く美しい
赤褐色の
その電知が以前に交際していた女性のことで愛染から冷やかされている最中にも未稲は参戦を控えていた。
何人もの競馬ファンと一団となって
「
「……同じ名前を昨日の
電知の口から『メイセイオペラ』という
その
会話にも加わっていない
第一試合の準備がある為に
「〝地方競馬〟の壁をブチ破って〝中央競馬〟に殴り込みを掛けた名馬だよ。伝説の一戦はおれたちが二歳の頃だから、ビデオでしか知らねぇんだけどさ」
「一九九九年のフェブラリーステークスだな。神通とまだ巡り逢えていなかった一一歳の私は人生そのものが味も素っ気もない灰色だったが、テレビの前で奇跡を見届けた瞬間はさすがに胸が熱くなったよ。あの日、天を
電知の言葉を引き取った愛染が当時の想い出を交えながら語った通り、メイセイオペラとは〝地方〟の所属でありながら〝中央〟の晴れ舞台で優勝した唯一の競走馬である。
一九九九年一月三一日に東京競馬場の
出走した一六頭の中で〝地方〟から臨んだのはメイセイオペラただ一頭のみであった。
日本では一九九五年から〝地方〟の競走馬が〝中央〟の
競走馬生命を危ぶまれるほどの重傷を負いながらも復活を遂げ、〝地方〟が〝中央〟で勝利するという快挙を成し遂げた〝栗毛の伝説〟は、まさしく
「……本間氏、浮世離れしているように見えて、案外、俗っぽいですよね」
「私は仙人を気取った
メイセイオペラの生き
キリサメは二人の話を繋ぎ合わせることで〝
〝中央〟と〝地方〟に分かれた日本競馬の仕組みは、予備知識がないキリサメには口頭の説明だけでは殆ど分からなかったのだが、それでも〝岩手最強〟と
「今日という日にこの競馬場を訪れることになったのは、まさしく運命。ないしは宿命。丁度、二〇年前の今頃に神の流れ星が降臨したのだよ」
愛染の答え合わせでもするように自身の
その電知はメイセイオペラの写真が表示された
「まさしく流れ星となって東京競馬場を貫いた〝栗毛の来訪者〟以来、今年で一五年。伝説を継ぐ者を今でも誰もが待ち続けている。如何なる者にも機会は等しく舞い降り、その刹那の煌めきを掴んだ者が歴史を動かすと、私に――いや、世界に教えてくれたのがメイセイオペラだ。それは偶然の奇跡ではなく、全身全霊の結晶だと
間もなく
地上波キー局でテレビ放送される重賞レースでは、発走の合図でもあるファンファーレは生演奏される。その
最後の一頭が
ゴールから二〇〇メートル手前に設置されたゲート式発馬機は、競走馬の収まる枠が番号ごとに細かく分かれている。六頭の三歳馬はそれぞれに割り当てられた枠の中で発走の瞬間を待つわけだ。
慣れたと言い難いコースに緊張しているのか、あるいは気に障ることでもあったのか、枠の内側で荒れている馬がおり、少しばかり発走が遅れていた。
繊細な生き物である馬を宥め、共に
「
「競馬は『血のスポーツ』とも呼ばれるほど両親ひいては累代の血統が影響する。潜在する
一方で、父親の血統を遡ると良血に行き着く――そのように付け加える愛染の双眸は、何時になく虚ろであった。鉄製の骨組みに頭部などをぶつけて怪我などしないよう
世界的な作曲家のもとに生を
あるいは名門の令嬢という〝血〟の
「遠征前にも地元の水を持っていって、それを飲んで落ち着いたって
「元々、メイセイオペラは賢い子だ。母親の性格は引き継いでいたが、経験を重ねる
不意に愛染の口から零れ落ちた『バッソンピエール』という
前列に座っている外国人の
遡ること四ヶ月前――日本移住と同じ時期にソチ冬季オリンピック・パラリンピックが開催されていたのだが、熱闘の模様を放送するテレビから幾度も『バッソンピエール』という
右隣の電知に穏やかならざる面持ちの理由を
〝中央〟に決して引けを取らない迫力で砂埃を巻き上げながら、〝地方〟の新星たちが 一四〇〇メートルを駆け抜けるのだ。
「きっと〝中央競馬〟の基準じゃ恵まれた血統とは言えねぇんだろうな、メイセイオペラは。おれの知る限り、練習環境や設備を整えるのも一苦労だったみてェだしな。いよいよこれからって
「地元の人たちの愛によって支えられる〝地方競馬〟がエリート揃いの〝中央〟と互角に闘うのは、あらゆる意味で試練の連続であったと聞く。……〝雑草魂〟に希望を抱いた人たちの期待も重く圧し掛かったはずだよ」
「それでもメイセイオペラは闘って闘って闘い抜いて、空前の〝道〟を切り拓いた。夢を掴む資格は〝血〟に縛られねぇってコトを〝雑草魂〟で証明してくれたワケだぜ」
「血統――あるいは才能を裏付ける出自と言い換えたほうが分かり易いか。〝地方〟から出張ってきた得体の知れない一頭の下馬評二番人気は、熱心な競馬好き以外には
「
人間の思惑に関心などあろうはずもない六頭は、耳障りとさえ思える声援を振り切り、瞬く間にコースの半周に差し掛かった。
今のキリサメにはメイセイオペラの生き様が手掛かりになると、電知は言外に伝えているわけだ。〝栗毛の伝説〟を育んだ競馬場へ導いたことは言うに及ばず、〝地方〟と〝中央〟の壁を貫いた一九九九年の『フェブラリーステークス』を紐解いたのも彼なりの
その電知と競うようにして〝
常人とは掛け離れた感性の持ち主であり、良くも悪くも心の赴くままに生きている愛染であるから、電知の意図など興味すら持たず、
いずれにしても、二人の熱弁がもたらした
決してエリートと呼ばれるような出自ではない。栄光の舞台で一つの時代を築くような
親友と〝先輩〟選手がここまで重ねてきた言葉も、そこから溢れ出す優しさもキリサメは心の中心で受け止めている。
養父が『超次元プロレス』で〝
無論、伝説の名馬と功績の面で並び立てると驕っているわけでもなかった。
依然として不勉強とはいえ、格闘技界全体が大きな転換期に差し掛かっていることも、その狭間に自分が立たされていることも、
同じ日に打撃系立ち技格闘技団体『
その沙門から教わったことの一つであるが、近年の日本ではスポーツ医学の中でも格闘家・武道家の肉体と専門的に向き合う分野――〝格闘技医学〟が提唱され、多くの同志による
同医学会では症例に応じた最善の治療とリハビリ、未然に故障を防ぐ工夫などが様々な視点から議論され、選手生命と引退後の健康を守る〝予防医学〟も重んじられている。
格闘技術及び戦闘能力の向上や、効率的かつ安全な
『
養父や〝先輩〟選手も放逐の対象である為、受け
将来の選択肢を無分別に狭めてしまう生き方には危うさを禁じ得ないが、アマチュアMMAがオリンピック正式種目として採用される日が来ることを信じて疑わず、その第一号
中世の武具を再現し、温故知新の精神で〝心技体〟を競い合う
だが、全速力で疾走する馬を見つめてキリサメが想い出すのは、新しき時代の想像図などではなく、
労働者の権利を脅かし兼ねない新法に反発した数万もの市民が
しかし、扇動の張本人が絶命したところで、政府に怒りを燃え
誰にも
物心が付く前から格差社会の最下層を共に生きてきた
警官隊が非致死性のゴム弾が装填された
最前線では警官隊の
我らは自由――と、ペルー国歌の大合唱と共に展開される異様な
同じ
デモ隊が放ったロケット花火を掻い潜り、催涙弾による煙幕を突き破り、その果てに鞍上のキリサメが見下ろしたのは、何枚もの新聞紙で覆い隠された少女の射殺体である。
新聞紙の上から掛けられていたのは、ハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだ伝統織物のスカーフである。ほんの少し前まで幼馴染みであったモノの身元証明であり、『七月の動乱』という狂気の成れの果てとも言い換えられるだろう。
冷たいアスファルトの路面に流れ出した大量の血によって突き付けられたのは、互いの
六頭にメイセイオペラを重ねて〝復活〟の手掛かりとなる
彼らは地上の四分の一をそれぞれ支配する権威と、人類を死に至らしめる全ての〝力〟が与えられていた。同章第八節に登場するのは第四のモノである。青白い馬に跨ったそれは名を〝死〟と云い、黄泉が付き従っていた。
愛染からは〝黙示の仔〟などと呼ばれているが、己のことを新約聖書に記されたモノたちに重ねることは、それ自体が冒涜にも等しかろう。しかし、
左手一本で手綱を握り締めながら、その禍々しい刃で数多の命を破壊してきた暴力性の
奥州の
自覚できるほどに壊れた人間が〝誰か〟の系譜を継ぐとすれば、『
城渡マッチとも肩を並べて
鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
キリサメのMMA参戦を最初から反対し続けてきた麦泉でさえ具体的なことは一つとして口にせず、それが為に限られた情報に基づいて想像するしかないのだが、おそらく『
同じ〝雑草魂〟でも『
しかし、競馬場のスタッフによって片付けられる発馬機を視界の端に捉えた瞬間、今までに感じたことのない〝何か〟が一粒の雫となってキリサメの
場内の解説によると、
即ち、
(――僕の出発点はどうだ? 僕が
今日から明日へ命を繋いでいく
プロデビュー戦に
ペルーではなく
だからこそ、スポーツとしての格闘技〟に対する理解が一向に捗らず、暴走の果てに数多の先人たちが
背負うべき
牽引車輛のタイヤと発馬機の車輪が回転する
己と同じ〝血〟を吸い尽くした『
日本列島を凍て付かせた豪雪被害の爪痕であったのか――雪解けを迎える時期にも関わらず、冬の名残が白く煌めく山肌もキリサメの網膜に焼き付いていたのだ。
標高二〇〇〇メートル級の山々に囲まれ、豊かな自然にも恵まれた清涼な地は、喧騒とは無縁の静けさから〝日本のダボス〟とまで呼ばれる国内有数の別荘地であった。
スポーツに適した環境の条件も満たしており、全国各地から
キリサメが真っ先に思い浮かべるのは、当然ながら親友――空閑電知との想い出だ。
ナイフや
養父の岳は既に完成されつつある喧嘩殺法の改悪を憚り、放任主義に近い姿勢を取っていたが、電知との
『まつしろピラミッドプロレス』の花形レスラーである
これは日本で初めて〝総合格闘技術〟の体系化を成し遂げたヴァルチャーマスクの得意技であった。生涯の大恩人から授けられたという岳と、その彼に技術指導を受けたカリガネイダーを経て、〝伝家の宝刀〟が
キャンプファイヤーを囲んだバーベキューや温泉など、笑顔に彩られた想い出を大勢の人々と分かち合う経験も初めてであった。
母の私塾で机を並べた旧友とは
共通の〝仇敵〟を滅ぼすべく手を組んだペルー国家警察の警部とは友好関係を保ち続けていたが、〝正業〟に導かんとする厚意にはどうしても応えられなかった。
「――お前さんは一匹狼と来たもんだ。カッコ良く思えるのは若い内だけでな、一つ二つと年齢を重ねる
国家警察の要請を受け、共通の〝仇敵〟――ペルー国内に潜伏するテロ組織の残党を駆逐するべく一時的に〝相棒〟を組んだ日本人には孤独な境遇を揶揄されたが、
生まれて初めて親友と呼び合える存在に巡り
古武術の歴史に
キリサメ自身、夢にも思っていなかった事態だが、〝城渡総長〟の
〝人間らしさ〟とも言い換えられる心の働きは、父母の
己を取り巻く環境も、双眸で見据えるべき未来の形も、何もかもが
(
己の意志で飛び込んでいく〝世界〟の正当性を主張する対象はただ一人――
今日は声も姿もまだ確認していないが、ひょっとすると観客席の片隅から一敗地に塗れた幼馴染みを愉しげに眺めているのかも知れない。
「――正々堂々とした勝負なんてのは〝富める者〟の
キリサメの手に『
MMAのルールが馴染まないキリサメにとって思わず手を伸ばしそうになるほど甘い誘惑であったことは間違いない。しかし、日溜まりのように感じる
喧嘩殺法は無法の〝暴力〟ではないと、『
教来石沙門や哀川神通のように信念へ殉じる覚悟を持たず、
生真面目な性分だけに
そして、食い破られた魂の隙間からは日溜まりのような温かさが注ぎ込んでくるのだ。キリサメ・アマカザリが歩んできた〝道〟は間違いではないと、
(……これから〝先〟のことは、母さんにだって口出しされる筋合いはない……ッ!)
三歳馬六頭が一四〇〇メートルを一気に駆け抜ける
二〇一一年四月以来、〝地方競馬〟も馬の命を守る形にルールが改正され、過剰な鞭の使用が禁じられるようになった。当然ながら、それは最後の追い込みであろうとも適用されるわけだが、無理強いなどせずとも〝人馬一体〟の接戦は秒を刻む
大勢を決する攻防が目と鼻の先で繰り広げられているのだから、観戦席も地鳴りの如き歓声に包まれるわけだ。
「出発点は僕の思い通りに決めて良いんだよな。進み切った〝先〟に待ち構えているモノは分からないけど、走り出す場所まで〝誰か〟に決められて
血と罪で
命の危機と直面した瞬間、血の海に身を横たえる女性の追憶と共に「どんなことをしてでも絶対に生きろ」という吼え声が
〝全て〟がキリサメ・アマカザリの〝自由〟であった。
あるいはそれこそが「真実を超えた偽り」であるのかも知れない。MMAひいては〝格闘競技〟をあくまでも否定し、〝
「――今日のデビュー戦に寄せて、空閑さんと何らかの約束でもしていたのではありませんか? ……空閑さん一人のことではありませんよね? きっと今日まで関わってきた人たちの為に何がなんでも結果を出さなくてはいけないと焦っているのでは? その人たちはデビュー戦で納得のいかない結果しか出せなかったとき、ただそれだけの理由であなたを見放すと思いますか?」
プロデビュー戦の直前に
その大鳥が現場マネージャーを担当する希更は、民間単位の〝スポーツ外交〟に尽力してきたバロッサ家の一族としても、主演するアニメシリーズに
「――考えるな、感じろッ!」
メイセイオペラの
もはや、扉は開かれたのだ。全神経を研ぎ澄ませる発馬機の
「……〝天〟の
前列にて紡がれた言葉は一字一句に至るまでオランダ語であり、ペルーで生まれ育ったキリサメには全く意味の通じないものである。
尤も、喉の奥から絞り出したかのような声は余りにも小さく、沸騰する大歓声に咬み砕かれて
出発点は〝誰か〟ではなく己自身が思い通りに決める――キリサメの言葉に〝何か〟を感じたのか、前列の男性は
「私は海洋学の専門家ではありませんし、物覚えも頼りになりませんが、水が変わった途端に生きられなくなる魚を今すぐにでも何種類か上げられます。……水温の違う川を自由に泳ぎ回れるほど魚は強くありません」
「今、
図らずも前列の男性が吐き出した言葉への返答となったこの呟きは、キリサメが自分自身に驚いてしまうほど自然と唇から滑り落ちていた。
右隣に座っていた電知はたちまち蕩けるような笑顔となり、左腕を親友の肩に回した。キリサメが自らの力でその言葉に辿り着くことを信じ、
その電知との接近を避けようと愛染を挟んで座った為、未稲にはキリサメの手を握ることさえ叶わず、肩を組む二人の様子を比喩でなく本当に指を
この僅かな距離感が未稲にもたらした発見もある。
丸メガネとその向こうの瞳に映るのは横顔だが、「出発点は僕の思い通りに決める。走り出す場所まで〝誰か〟に決められて
口元は決然と引き締められ、瞳に湛えた光が
〝東北の雄〟の再来を求め、
三歳馬の六頭が
一つの手掛かりは「走り出す場所まで〝誰か〟に決められて
(ひょっとして
未稲の推察は半分だけ正解であった。キリサメの幼馴染みに対抗心を抱いている為、
「
「分かっててメイセイオペラの話に乗っかってきたんじゃねーのかよ、
浄化されていない生水の危険性を真顔で諭し始めた愛染に対し、
事前に打ち合わせたわけではないが、キリサメを鼓舞する目的は愛染と共有しているつもりでいた。だからこそ、競い合うようにしてメイセイオペラの逸話を披露したのだ。
しかし、相手は常人には理解し難い感性の持ち主だ。電知の意図など汲み取ろうとも思わず、ただ単純に〝中央〟を制した伝説の〝地方馬〟の
その愛染は電知の反応を確かめると、悪戯っぽく口の端を吊り上げて見せた。
「見届けたぞ、奥州に舞い降りし〝黙示〟の行方。甚だ腹立たしいが、我が愛しの神通と絆結ぶ者だ。奈落の底へ真っ逆様に堕ちるようでも困るがな」
何事か得心した様子で幾度も首を頷かせて微笑む理由は、改めて
会話の組み立て方も言葉の選び方も独特である為、面と向かって話している最中でさえ本筋を見失いそうにもなるのだが、本間愛染もまたキリサメの
「
日本格闘技界に
その上で愛染は自らの警告を取り下げたのだ。リングの破壊を伴う反則負けは間近で見届けている。考えられる最悪の
「……ご覧の通り、僕は間違いだらけの人間です。いつか
「それもまた〝先輩〟を標榜する人間の責任だからな。ちなみに愛しの神通と別の意味の過ちをやらかしそうになったときには、八つ裂きなんてものでも済まさんから覚悟しろ」
キリサメと愛染の間でしか通じておらず、二人の
「私が睨みを利かせているこの事実もまた〝黙示〟だろう? キリサメ・アマカザリという人間は広い世界に独りぼっちなんかではない。〝
テレビ局に祭り上げられ、虚飾の中で国民的
素行不良を正すべき所属ジムでさえ監督責任を放棄している。あまつさえテレビ局と癒着し、合理性を欠いた練習など大衆の注目を集める
キリサメの境遇に置き換えてみれば、敬愛する〝城渡総長〟の誇りを踏み
同胞であるプロボクシング界の諫言に耳を貸さず、欺瞞に満ちた称賛だけを身の周りに敷き詰めていたからこそ、
しかし、キリサメ・アマカザリには日本に迎えてくれた家族がいる。『
自他の命を
現在は『
(
喧嘩殺法の凶悪性すら容認してしまう声によって誤った自尊心を植え付けられ、MMA選手としての気構えが狂ってしまわないよう自らを厳しく律しながら、同時に〝人間らしさ〟を与えてくれる人々を真っ直ぐに信じ抜く――対極とも矛盾とも思える数多の声が等しく釣り合う
(――
もはや、キリサメ・アマカザリは
〝地球の裏側〟の〝闇〟の最下層にこの先も永遠に囚われ続けるであろう幼馴染みの声で
このようなときこそ
「何しろ、ありのままの私に偽りの
「……僕はまだ神通氏ほど愛染氏の詩的な喋り方に慣れていないのですが、ひょっとして今の長台詞は『腹が減った』と翻訳すればよろしいのですか?」
「本日は三本勝負の予定だ。ドデカ焼き鳥と焼きそば、真打ちのホルモン煮込み――真冬はストーブでおでんを煮ていそうな風情の食堂、あれが
四人が観戦した
牛タン定食も含む
自分のことを心から心配してくれた〝先輩〟選手の背中に深く一礼するのみである。
彼女は「日本格闘技界に
その〝全て〟が本間愛染という〝先輩〟なのだ。奇抜な言行を除けば裏表がなく、ときとして無垢な子どものように思えるくらい自分の心に素直な人間である。真っ直ぐにぶつかってくれる人だから、キリサメも『ダモクレスの剣』を委ねたのだ。
「そもそもキリサメには武神の加護があるんだからよ、
「美味しいトコ、
一方のキリサメは親友の話に小首を傾げていた。「武神の加護」という馴染みのない言葉だけでなく、〝
「こー、こここ、これからは南天の
「みーちゃん、たまにニワトリみたいな鳴き声を出すよね。ひょっとして前世?」
「
未稲の
小さな守り袋である。錦の布には南天の赤い実が刺繍されていた。
浅草の
〝
南天の刺繍も武士の間で永く好まれてきた。〝
武神から授かったのは揃いの守り袋である。キリサメと分け合った一つを電知は己の
双眸と口の両方を唖然呆然と開け広げる反応こそ、電知に近付くまいと未稲が避け続けていた理由と言えるだろう。
岩手大会の会場で顔を合わせた上下屋敷に二人で一つという守り袋を預けられながら、キリサメに手渡す機会を逃してしまい、プロデビュー戦にも間に合わなかったのだ。
最も必要な局面で渡しそびれてしまうと、その話を切り出すことにさえ相当な勇気が必要となる。時間が経過する
この守り袋に電知が熱い友情を込めていたことも上下屋敷から教わっている。洗いざらい白状せざるを得なくなってしまった未稲は、今にも胃の内容物が逆流しそうであった。
「おれの視界に入らねぇようにしてやがると思ったら、そういうコトかよ。
「――あッ! 眩しい! 少年漫画の主人公みたいなオーラに網膜焼かれるゥッ!」
上下屋敷を経由して預けられた守り袋を届けられずにいたのは、完全な手落ちである。怒鳴られて当然だろうと身構えていた未稲であるが、当の電知は
プロデビュー戦の前に守り袋を手渡せていれば、あるいは最悪の結末は免れたかも知れないという罪悪感も未稲の
神聖なリングをキリサメに破壊させてしまった責任は自分自身にあると未稲は思い詰めていたのだが、その葛藤を電知は明るい笑い声で軽く吹き飛ばしてしまったのである。
自分から他人に心を開くことの少ないキリサメが電知だけは躊躇いなく〝親友〟と呼んでいる。瀬古谷寅之助は病的に執着し、かつての交際相手である
それも当然であろうと、今の未稲には素直に頷ける。
武神の加護は言うに及ばず、南天の守り袋が親友からの贈り物であることも知らないキリサメは、二人の顔を交互に見つめながら先程の親友と同じ表情を浮かべるのだった。
すれ違いコントのオチとしては、もう一捻り欲しいトコだな――おどけた調子で未稲をからかう電知の笑い声を背中で受け止めながら、彼らの前列に腰掛けている男性は、三つ編みに束ねた
ほんの数分前までゴーグル型のサングラスに映していたのは、赤いヘルメットの
『
オランダ式キックボクシングの名門ジムとして全世界に名声を轟かせる『バーン・アカデミア』を率い、また同国の格闘家たちを束ねる〝顔役〟として畏れられてきた『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家の御曹司であった。
アムステルダム
双眸を完全に覆い隠す
挨拶すら交わしたことのない人々の会話を盗み聞きして笑うことは、そもそも品性を疑われるような行為である。浅ましい振る舞いにならないよう己自身を律しているのであろうと、
ストラールの心を掻き乱したのは、キリサメ・アマカザリとの不意の遭遇である。
臨時視察の主目的である岩手興行では
〝内政干渉〟を図らんとするイズリアル・モニワを世界最大のスポーツメーカーの威光で牽制せんとした小賢しさは不愉快だが、日本の〝暴君〟が世界の〝
そもそも今回の臨時視察は先鋭化が著しい『ウォースパイト運動』が日本でも抗議の笛を吹き鳴らし始めた場合、『
死霊のような目付きや
ときには同胞と共にマフィアとも対峙する〝裏〟の仕事を担い、社会の〝闇〟を
城渡マッチを〝神速〟の
キリサメ・アマカザリという名の衝撃に打ちのめされたまま、『格闘技の聖家族』の御曹司は一向に立ち直れずにいる。臨時視察の報告書も手に付かない有り
平素のストラールは冷静沈着であり、ザイフェルト家の御曹司に迂闊な振る舞いがあれば、これをすかさず諫めている。世界最大のスポーツメーカーから協力を引き出さんとする
それ故にギュンターは気晴らしに岩手を旅して回るようストラールに勧めたのである。『MMA日本協会』の緊急会合にも同行するはずであったが、その予定もザイフェルト家の権限に
ストラールを見守る役目は、その傍らに幼少の頃から寄り添い続けてきた
その
洋の東西を問わず競馬は『血のスポーツ』と呼ばれており、競走馬の
ペルーとオランダ――南半球と北半球に分かれた
『格闘技の聖家族』という呼び名は、累々と折り重なった聖なる犠牲を踏み締め、その上に格闘家として立ち続けなくてはならない覚悟を意味するのである。
最愛の
ストラールとマフダレーナは共通の趣味として乗馬を嗜んでいる。しかし、異境の馬に触れて気を紛らわせるといった生温い考えを後者は持っていない。己の身に流れる〝血〟の
マフダレーナは幼い頃から共に生きることを誓い合ったストラールに添い遂げる覚悟であるが、それは彼にとって都合の良いように甘やかすという意味ではない。
本人も〝薬草魔術〟を現代に受け継いでいるのだが、深い森の奥で自然と共に歩む一族であったマフダレーナの祖先は、人権意識が皆無であった中世の基準に照らし合わせても凄惨としか表しようのない迫害を受け、祖国を捨ててオランダに流れ着いたのである。
マフダレーナは『格闘技の聖家族』よりも〝血〟の
無論、脳に深刻な負荷を与えてしまう動揺を鎮めることこそ最優先と、マフダレーナも心得ている。だからこそ
その
心を乱す原因とは限りなく離れるべきであったのに、よりにもよってキリサメが腰を下ろしたのはストラールの真後ろである。偶然の一言では片付けようのない筋運びに
挨拶も交わしていないオランダ
信仰の心が日々の営みと結び付いているストラールでさえ、このときばかりは〝天〟の
一方のキリサメたちは前列に座る二人が『ハルトマン・プロダクツ』の一員であり、
ビジネスパーソンらしい風貌であった昨日とは異なり、今日は私服である。揃って『ハルトマン・プロダクツ』が手掛けたジーンズを穿き、ストラールは『バーン・アカデミニア』の紋章が左胸に添えられた長袖のポロシャツを、マフダレーナは袖を通さず肩に掛けるジャケットを、それぞれ組み合わせていた。
ゴーグル型のサングラスは
つまるところ、
「
「競馬は『血のスポーツ』とも呼ばれるほど両親ひいては累代の血統が影響する。潜在する
本間愛染が同行していることにも驚いたが、それ以上に傷口を拡げたのは、競馬との接点がないものと
彼女は電知と二人掛かりで血統に基づく遺伝子の継承を語ったのだ。国際的な音楽家である父親と同様に天才と謳われる愛染は、それが自らに突き刺さる皮肉に他ならないと理解しているのか、ストラールには甚だ疑問であった。
我が子に、その〝先〟に――より進歩的な〝血〟を繋げていく為、名門に生まれた
それほどの犠牲を払わなければ、人間という種を超えて〝神の領域〟に触れることなど不可能であったのだ。
「
メイセイオペラを例に引きつつ電知が述べたのは、資金や練習環境などあらゆる面に
〝血〟を守り抜くことは、まさしく一族全ての
「きっと〝中央競馬〟の基準じゃ恵まれた血統とは言えねぇんだろうな、メイセイオペラは。おれの知る限り、練習環境や設備を整えるのも一苦労だったみてェだしな。いよいよこれからって
「地元の人たちの愛によって支えられる〝地方競馬〟がエリート揃いの〝中央〟と互角に闘うのは、あらゆる意味で試練の連続であったと聞く。……〝雑草魂〟に希望を抱いた人たちの期待も重く圧し掛かったはずだよ」
「それでもメイセイオペラは闘って闘って闘い抜いて、空前の〝道〟を切り拓いた。夢を掴む資格は〝血〟に縛られねぇってコトを〝雑草魂〟で証明してくれたワケだぜ」
「血統――あるいは才能を裏付ける出自と言い換えたほうが分かり易いか。〝地方〟から出張ってきた得体の知れない一頭の下馬評二番人気は、熱心な競馬好き以外には
聖なる犠牲の果てにしか辿り着けないはずの〝力〟を格差社会の最下層で生きてきたという
家門という名の
「〝血〟を超える瞬間に立ち会えるのも競馬の醍醐味であろうよ」
『格闘技の聖家族』の御曹司が岩手興行の第一試合で目の当たりにしたのは、まさしく〝雑草魂〟によって〝血〟の重みが超えられてしまった瞬間である。
その〝雑草魂〟から浴びせられた衝撃を〝屈辱〟として受け
「出発点は僕の思い通りに決めて良いんだよな。進み切った〝先〟に待ち構えているモノは分からないけど、走り出す場所まで〝誰か〟に決められて
電知と愛染の言葉を受け止めたキリサメは、己の意思に
ストラールの心を一等激しく掻き乱したのは、この一言である。彼は自らの決意を示しただけであり、一つとして非はないと理解しているのだが、〝血〟と名門の
「……〝天〟の
「私は海洋学の専門家ではありませんし、物覚えも頼りになりませんが、水が変わった途端に生きられなくなる魚を今すぐにでも何種類か上げられます。……水温の違う川を自由に泳ぎ回れるほど魚は強くありません」
「今、
キリサメの口から飛び出したその一言は偶然にも皮肉への
日本語ではなく
「……『
『ラグナロク・チャンネル』という余人には意味不明な言葉を織り交ぜながら、マフダレーナは顔から生気が消え失せた
オランダの
『
三人の足音が聞こえなくなった直後に振り返ったストラールは、キリサメが腰掛けていた座席に双眸を見開いた。彼の〝神速〟を初めて目の当たりにした瞬間と同様にゴーグル型のサングラスを引き剥がし、翡翠色の瞳でもって
奥州に舞い降りた〝黙示〟の行方を見届けた――と、本間愛染は一つの結論をキリサメに示していた。それならば、名門の
「例えこの
逆恨みと呼ぶには余りにも哀しく、劣等感と割り切るには激し過ぎる感情を持て余し、『格闘技の聖家族』の御曹司は小刻みに震える唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
名門の〝血〟を十字架の如く背負うストラールは、やがてキリサメや電知と併せて『
*
『
試合で実際に用いられた
これは
日本格闘技界全体による東北復興支援
『
義援金の取りまとめと管理は、競技団体の利益とは関わりがなく、透明性の高い中立機関として『MMA日本協会』が引き受けている。同機関による〝内政干渉〟を撥ね付け、決裂状態に陥っている樋口郁郎も『日本晴れ応援團』の活動では歩調を合わせていた。
『
都内の撮影スタジオにて物品の写真などを撮影し、
岳と麦泉は正午を少し過ぎた頃から
自ら写真撮影を行う今福ナオリも午後から合流することになっている。岳と麦泉だけが随分と早くスタジオに入ったわけだ。
ともすれば殺風景のように見える撮影スタジオには、差し向かいとなる形でパイプ椅子が二脚ずつ並べられ、それぞれに『
顔を突き合わせた四人の表情は一様に重苦しい。触れた瞬間に肌が裂けてしまいそうなくらい張り詰めた空気の中で、岳は
余人に気取られないよう密かに撮影スタジオへと招き入れられた
「――さて、どこから……いや、何を話すべきかな。説明しなくてはならないことが多過ぎて、自分でもまだ整理し切れていない状態なのだ」
彼が何かを喋ると隣の女性が日本語に換えていく。ロシアの
「その前に心から御礼申し上げます。本来なら隊員も――いいえ、渡海すら難しい状況にも関わらず、わざわざロシアから
麦泉が二人に心からの感謝を述べ、岳もまた敬意を示すように深々と
やや言葉を選ぶようにして麦泉は「渡海すら難しい状況」と述べたが、まさしくその通りにロシア人男性は満身創痍なのだ。
頭部の大部分を包帯で覆っているだけでなく、左目には眼帯を当て、右足は膝の下から爪先までギブスで固定されている。傍らには松葉杖も置かれているが、首に引っ掛けた三角巾でもって左腕を吊っている為、右手で使う一本分でしか体重を支えられない状態だ。
車椅子で移動するほうが安全であろうと思えるほどに痛ましい有り
極寒の大地に生を
「マジで大丈夫か? このレベルの怪我と思わねェで東京まで来て貰っちまったが……」
岳から掛けられた言葉にロシア人男性は首を横に振った。彼の日本語が理解できるようなら通訳に頼る必要もないだろう。その反対も然りである。
しかし、このときばかりは通訳を介さずとも互いの気持ちが伝わるのだ。
岳の心配と、これに応じる「気にするな」という
「試合は出られないが、大会自体には出席できる。私も『
「だけどよ、ビェールクト……」
「……自分なりの罪滅ぼしでもあるのだよ、ガク。気を遣わないでくれ」
これほどの重傷を押してまで日本に駆け付け、〝罪滅ぼし〟と告げたロシア人男性は、ビェールクト・ヴォズネセンスキーである。岩手興行を目前にして『
彼が離脱した穴を埋める形でキリサメの参戦が決まったわけだが、欠場した本人が岩手興行へ駆け付けるからには相応の理由があるのだろう。
「では、遠慮なくお伺いします。……『
麦泉が通訳を経由して
欧米の武道場やジムを荒らし回る正体不明の道場破り――『
その道場破りは『
ヴォズネセンスキーは最初に岩手興行の会場で樋口に接触を図り、密談の約束を取り付けたのだが、直前になって
ヴォズネセンスキー本人も気心の知れた岳のほうが樋口よりも接し易かったであろう。長年の戦友だけに互いの話も理解が早いのだ。
「でも、どうやって? こっちの情報網は浅い当たりがあったくらいだぜ?」
爆煌丸に関しては岳の師匠――『
「……軍の諜報部門にツテがあるのでね」
通訳の口から飛び出した「軍の諜報部門」という重い一言に岳と麦泉は揃って呻いた。
ヴォズネセンスキーはロシア陸軍・山岳部隊に籍を置く現役軍人でもあるのだ。忍者とはいえ民間人に過ぎない岳の師匠よりも情報収集の精度が高いのは当然であろう。
岳と麦泉が揃って返すべき言葉を逡巡したのは、ロシア軍という本来の所属を意識してしまった為である。
スポーツと政治は決して混同するべきではないと、
自分たちが立ち入るわけにはいかない軍人としての彼と、前身団体の頃から共にMMAを盛り上げてきた
二〇一四年二月にウクライナで勃発した政権崩壊劇と、これに続くクリミア半島の緊張状態に端を発し、ロシアは軍事介入を強行している。その模様が報じられたのは
ロシア軍によるクリミア侵攻に関しては、六月に至っても様々な疑惑と憶測が飛び交い続けている。軍事の専門家でもなく、ましてやヴォズネセンスキーの所属する山岳部隊がクリミア半島で何らかの任務を遂行しているのかも分からない為、麦泉は紡ぐべき言葉を悩んだ末、「渡海すら難しい状況」と言い表したのである。
岳も麦泉も、
「……爆煌丸と名乗った例の男は、間違いなくドーピングで身体能力を強化しているぞ」
二人の動揺が鎮まったのを見計らい、ヴォズネセンスキーは道場破りを迎え撃った際の印象と、これに基づく自身の見解を示した。断定に近い語調である。己の見立ては絶対に間違ってはいないと、揺るぎなく確信している様子であった。
「負けた私が言っても説得力を欠くだろうが……。いや、負けたからこそ分かったのだ。あれは人工的に作られた肉体に他ならない」
ヴォズネセンスキーが紡ぐ一字一句を正確かつ迅速に日本の
ロシアスポーツ界では古くから大規模かつ組織的なドーピング疑惑が垂れ込めており、実際に
通訳の女性が言葉を詰まらせてしまった理由を察した岳は、気遣わしげな眼差しを向けた
皮肉屋の耳には揶揄のように聞こえたかも知れないが、岳は真っ直ぐな気持ちで戦友への信頼を述べている。国際競技大会に
ロシア
二人のレスラーの大恩人であり、
国家の在り方を大きく変えてしまう
東西に分断されていたドイツに
〝東西の代理戦争〟という側面を持っていた『ベトナム戦争』の終結から一四年もの歳月が過ぎ、『冷戦』の構図の中でも日ソの外交関係は正常化に向かいつつあった。これを民間単位でも押し進めるべく、鬼貫は
鬼道道明とヴァルチャーマスクは場内を大いに沸騰させ、岳も異種格闘技戦形式でサンボの使い手と相対し、三
そして、それこそが闘魂に基づく〝スポーツ外交〟であった。
〝格闘技地球連合〟とも呼ぶべき鬼貫道明の理想は、モスクワで闘った岳だけでなく麦泉にも受け継がれ、希望の火もまた『新鬼道プロレス』から『
無論、ソビエトからロシアに変わった
生まれた国で〝立場〟や思想を推し量るのではなく、あくまでも一人の戦友を見つめ、その言葉を信じる岳と麦泉に対して、通訳の女性は心から安堵の溜め息を零した。
『
「注射の痕があったんですか? 僕たちが先に手に入れた写真だと解像度が低くて皮膚の状態まではよく分かりませんでしたけど……」
「勿論、針の痕跡もあったよ。ごく小さな物だったがね。だが、それも本人がこの場にいなければ確認することはできない。そこで一目瞭然の分かり易い証拠を揃えたということだよ。……まずは資料を見てくれ」
極めて
二〇枚程度の紙束が綴じられたハードカバーのファイルである。
これを受け取った岳は、横から覗き込んでくる麦泉と一緒に目を通し、その詳細な調査内容に瞠目させられた。顔写真など一部の内容は師匠の報告書とも被っていたが、ヴォズネセンスキーのファイルには本名から出身地、家族構成まで事細かに記されているのだ。
「ルイ=アベル・ユマシタ? おい、ノルマンディー地方出身っつうコトは、これだけ東洋系の顔しといてコテコテのフランス人なのかよ⁉」
「日本の〝血〟を引きつつもフランス人で、その上、『NSB』の元選手……ですか?」
岳と麦泉が同時に発した疑問へ一遍に答えるようヴォズネセンスキーは首を頷かせた。
「顔写真をよく見てくれ。丁度、右眉の辺りだ」
「いや、分かんねぇよ。眉毛が何だってんだよ」
「目を凝らすんだ。端の辺りに手術した形跡があるだろう? 抜糸の痕が……」
「――あァッ!」
ヴォズネセンスキーから言われた箇所を注視していた麦泉が突如として素っ頓狂な声を上げた。後輩のように大袈裟には反応しなかったものの、岳もすぐに縫合の痕を見つけることができた。
岳たちが入手した物も、ヴォズネセンスキーのファイルに添付されている物も、どちらの写真も画質が粗く、誰かに指摘されなければ確実に見落としてしまうのだが、爆煌丸の右眉の辺りには確かに古傷を見て取ることが出来た。
斜めに走った傷痕は、鋭利な刃物で切り裂かれたものと察せられる。
互いの鼻息が掛かるほど間近で対決した経験があるとはいえ、微かな古傷の一つすら見逃さない洞察力は、MMA選手としても軍人としても、極めて優れている証左であろう。
「いわゆる、〝クイーンズイングリッシュ〟を喋っていたし、本人としては上手く隠し通したつもりなのだろうが、少しばかりフランス訛りがあったのだよ」
ヴォズネセンスキーが口にした〝クイーンズイングリッシュ〟が何を意味するのか伝わらない可能性も考慮した通訳の女性は、次の翻訳へ移る前に自らの判断で「イギリスの中でも上流階級の人々の間で浸透している英語のことです」と解説を付け足した。
「厳つい見掛けと裏腹に随分とキザだな。おフランス生まれだから気取ってみたってか」
「というか、正体を掴ませない為の隠蔽工作かも知れませんね。……ただの道場破りにしては手が込み過ぎています」
「育ちの良さから、無意識に
「どーゆー意味だよ、育ちってのは? ノルマンディー地方って独立王国みたいな場所なのか? 自慢じゃねぇが、フランスの地理はちんぷんかんぷんなんだぜ、オレ。具体的なイメージっつったら、大昔に映画にもなった上陸作戦くらいしか――」
迂闊にも口に出しそうになり、岳が慌てて喉の奥に引っ込めたのは、第二次世界大戦の末期に連合軍が敢行した侵攻作戦である。その当時、ノルマンディーは枢軸国のドイツに支配されており、これを奪還することによって戦局を動かさんと試みたのだ。
やがてパラリンピックに繋がっていく『ストーク・マンデビル競技大会』の誕生とも直接的に結び付いている為、岳はノルマンディーという地名を
〝侵攻〟という一点に過剰反応してしまったと、岳も頭を掻いて反省したが、今なおウクライナを揺るがし続ける情勢が気にならないわけがない。
岳が『ノルマンディー上陸作戦』へ言及しそうになったとき、通訳の女性も眉根を寄せることで無神経な振る舞いであろうと戒めたが、ヴォズネセンスキー本人は気にせず自らの話を進めていった。
「まぁ、聞け。腕や肩の注射痕からドーピングの可能性を疑ったことは話したな? 逆に
「……『NSB』……」
今度は岳が眉間に皺を寄せる番であった。麦泉も忌々しげな呻き声を絞り出している。
「私もすぐに『NSB』を連想したよ。
「そして、ホシに行き着いたっつうワケか……」
岳の問いに対し、ヴォズネセンスキーは「ダー」と通訳を介さずにロシア語で答えた。肯定を意味する一言だ。次いで彼はファイルの二五ページ目を確認するよう促した。
『プレリミナリカード』とは、〝
同じ東洋系ではあるものの、ルイ=アベルと爆煌丸の顔は似ても似つかない為、二人は揃って首を傾げた。その反応も予想済みであったヴォズネセンスキーは、「顔全体を整形しているから簡単には見分けがつかない」とも付け加えた。
彼の言葉に閃くものがあった二人は、ルイ=アベルの右眉の辺りに目を凝らしていく。果たして、爆煌丸の顔写真に見られた物と同じ古傷を確認することができた。
「……これで身元は判明。ルイ=アベル・ユマシタという本名や、訛りの通りにフランス出身だということも、二〇一〇年に『NSB』と契約したことまで分かったよ」
「……『NSB』でいよいよ改造人間が幅を利かせ始めた頃だな」
「そして、その数年後にドーピング不正で追放された事実も突き止めた。……これらを手掛かりにして知り合いに調べてもらったのだが、どうやら親がフランス貴族の末裔らしいのだよ。正確には母方のほうがな。今も両親は
「それで〝育ちの良さ〟と言うワケですね……」
「てゆーか、何だかスケールのデカい話になってきたな、おい。マジな貴族サマかよ」
「兄は二人。ルイ=アベルは末っ子だったようだな。更に言うなら、体力以外は取り柄がなく、両親から期待もされていなかった憐れな青年だ。……それはバッソンピエール家に生まれついた人間にとって何より重く圧し掛かるだろう」
「バッソンピエールゥッ⁉」
岳と麦泉が口を揃えて絶叫した『バッソンピエール』とは、ソチ冬季オリンピック・パラリンピックをスポンサーとして支えた医療・福祉機器メーカーの経営者一族の家名だ。メダル争いでは他国に
日本代表が金メダルを獲得したフィギュアスケート男子フリーでもバッソンピエールの家名を持つフランス代表が健闘していたが、その
俄かにソチ冬季オリンピックの記憶が甦った岳と麦泉は、驚愕の二字を貼り付けた顔を見合わせ、次いで答え合わせを求めるような眼差しをヴォズネセンスキーに向けた。
ルイ=アベルはフランス代表
だが、彼から渡された資料にはバッソンピエール家との関係に触れるような記載は見当たらない。それはつまり、『NSB』内部の記録から抹消された情報という意味である。
「詳しい
「エンタメ的に盛り上がるなら選手の安全だって投げ捨てる
本来、ルイ=アベル・ユマシタ・バッソンピエールと名乗るべき男は過去の経歴を抹消した上で『NSB』に出場していたということである。
その道場主曰く、ルイ=アベルは入門当初から気性に難があり、
ただし、武術の才能には目を見張るものがあり、これを惜しんだ道場主は素行不良も寛大に許していたのだが、結局は庇い切れなくなり、破門せざるを得なくなったという。
道場を追われるという失態はフランススポーツ界の名門にとって拭い難い汚点となる。
あるいはバッソンピエールの家名を捨てざるを得ない状況まで追い込まれたのかも知れない。ルイ=アベルが『NSB』に姿を現わしたのは、それから半年後のことだ。
「顔と一緒に性格まで変えちまったのか? それとも、ドーピングの副作用なのかよ。師匠が調べた限りじゃ、どっちかっつーと無口で大人しそうだったらしいけどよォ」
「いや、ルイ=アベル――
顔写真や資料から爆煌丸の気性について、岳は物静かと読み取っていたのだが、それをヴォズネセンスキーは静かに否定した。
「メンタルトレーニングの賜物か、薬物の効力かは定かではないが、感情を抑制している様子だったし、機械のような立ち居振る舞いを気取っていたが、それもこれも化けの皮というものだろう。……だが、眼光だけは本人の意識を離れていて誤魔化せない」
刻み込まれた戦慄が甦ったのだろうか、ヴォズネセンスキーは大きく身震いした。
その様子を心配そうに見つめ、彼の手の甲に自分の手の平を重ねながら、
「飛び付き腕十字を仕掛けたときのことだ。ヤツは極められた腕を振り回して、私を力任せに引き剥がした。……それは恐怖以外の何物でもなかったよ」
「同じ光景を『NSB』でも見たよな。……ちょっと前の『NSB』でよ」
「尋常な目ではなかった。試合中に殺気立つ選手も多いが、私に立ち向かってくるあれは違う。……例えば、そう――戦場の緊張感に心が壊れて錯乱した兵士に近い。敵兵を殺すことで正気を保とうとする目だよ。もはや、その時点で異常なのだがな」
それでも自分が生き延びたのは、一握りでも
「……『NSB』の〝負の遺産〟っつうコトかよ……」
短く呻いた岳は両腕を組んだ黙り込んだ。
狂気を
「諜報機関を私的に頼るのは限界がある。これくらいしか調べられなかったが……」
現在の拠点や所属先は依然として不明であり、整形手術を受けてまで道場破りを繰り返す目的も判明はしていない。そのことをヴォズネセンスキーは調査不足と謝ったのだが、岳も麦泉も、ただただ恐縮するばかりであった。
十二分という一言でも足りないほどの成果である。下手をすれば軍に
道場破りという不測の事態とはいえ、軍事作戦の展開中に瀕死の重傷を負わされたのである。彼が所属する山岳部隊の参加はともかくとして、軍人にあるまじき大失態と
「それにしても、爆煌丸の――『NSB』を追い出された野郎の狙いが分からねェよ」
爆煌丸と名を変えたルイ=アベルの目的として考えられるのは、自分のことを利用しておきながら追放処分を突き付けてきた『NSB』に対する嫌がらせであろうか。
そのように予想を立てた岳に対し、麦泉は「それを言い出したら、ヴォズネセンスキーさんはどうなるんですか」と異論を唱えた。
『NSB』の所属選手も道場破りの被害には遭っているものの、爆煌丸の標的はかつての所属先だけではないのだ。『
「……『ランズエンド・サーガ』が刺客に仕立てた可能性は考えられませんか?」
「何ィ? 『ランズエンド・サーガ』だぁ? いきなりブッ飛んだな。『NSB』と微妙な関係だけどよォ、『ランズエンド・サーガ』の刺客ってのはさすがにナシじゃねェ?」
麦泉が語った『ランズエンド・サーガ』とは、二〇〇〇年代半ばにイギリスで旗揚げされた打撃系立ち技格闘技の団体である。
ロンドンを拠点として
「センパイもご承知の通り、ドーピング騒動で『NSB』から追放された打撃系選手の受け皿になったのが『ランズエンド・サーガ』です。その上、フロスト・クラントンが代表に就任してからは両団体の間で〝仁義なき戦い〟が始まったじゃありませんか」
「確かに去年辺りまで
『NSB』にドーピングを蔓延させ、団体の体質そのものを真剣勝負の
その『ランズエンド・サーガ』を運営する企業の親会社は『ハルトマン・プロダクツ』である。禁止薬物によって選手の肉体を改造するという前科は、スポーツ事業を通じて国際社会に貢献してきた
先ほど岳が述べた通り、バッソンピエール家が仲介役を果たしたのかも知れない。
「例えば『NSB』と契約交渉に入っている格闘家とか他の団体の選手に刺客を差し向けて故障させれば、欧米では『ランズエンド・サーガ』の独り勝ちになるじゃないですか」
「その刺客が爆煌丸だってか?」
「道場破り自体が隠れ蓑だとしたら? ……さっきも言ったように『NSB』と『ランズエンド・サーガ』は〝仁義なき戦い〟をやっているんですよ」
「
「……
麦泉と岳の議論に口を挟んだヴォズネセンスキーは、
「今、『ランズエンド・サーガ』の運営会社は『NSB』に買収提案をしている最中だ。
「文多、お前、今の話は知ってたか⁉」
「まさか! 初耳ですよ! モニワ代表は勿論、
欧米の二大格闘技団体の間で買収騒ぎが浮上している――この衝撃的な
『
これは『
世界最大のスポーツメーカーを後ろ盾としながら、
欧米の格闘技界が〝仁義なき戦い〟という揶揄すら憚るほどの緊張状態に陥っているとも知らず、日本の〝暴君〟は『NSB』と『ハルトマン・プロダクツ』双方の
「でもよ、だとしたら、ビェールクトの怪我は……」
「無関係の抗争のとばっちりで全治三か月。迷惑極まりない話だが、突き詰めていけば、自分が未熟だっただけのことだよ。誰を恨むわけでもない」
ヴォズネセンスキーの推理は、他ならぬ彼自身の誇りを傷付け兼ねないものであったのだが、この静かなる男は憤激することもなく淡々と現状を分析していく。
「いざとなれば昵懇にしているドバイの大富豪が〝オイルマネー〟を繰り出して、札束でモニワの顔でも引っ
「……クラントン個人の思惑を割り引いて考えるなら、『ランズエンド・サーガ』は『NSB』というブランドを欲しがっているように思えますね」
キックボクシングや空手といった打撃系立ち技格闘技が欧州では非常に盛んであり、その頂点たる『ランズエンド・サーガ』が栄華を極めるのはごく自然の流れであった。
一方で、寝技も含めた総合格闘技――MMAそのものは、二〇一四年の
『
同団体には
おそらく『ランズエンド・サーガ』は名実ともに〝世界〟の牽引役である『NSB』の
〝世界〟に撃って出て『NSB』を脅かす
「『ランズエンド・サーガ』による業務拡大――本当にキナ臭いことになりましたね」
「ブランド欲しさとは思えないほど回りくどいやり方は、フロスト・クラントンが主導しているのだろうな。……逃亡先でも団体を私物化している証拠とも
「いやいやいや、爆煌丸は刺客ってセンで話が進んじまってるけど、オレはもっと単純に腕試しじゃねぇかと踏んでるぜ。それが妥当じゃねーの?」
「一つの可能性として十分に考えられる。
「証明……ですか?」
「
「早ェ話が
ヴォズネセンスキーが語った〝証明〟の二字が何を意味するのか、岳には即座に理解できたようである。
「不当な手段だろうと何だろうと、ヤツは強さの限界を試してやがる。それだけは間違いねぇ。
「ギネスブックのように公式な記録として認められるかどうかは、闘いの場に生きる人間には大きな問題ではない。強いか、弱いか――それだけだ。手段こそ間違っているが、
「超人っぷりならヴァルチャーの兄ィだって負けてねェけどな!」
フロスト・クラントンと
「ヴァルチャーマスクとも異質な超人が何を目的にこんな真似を繰り返しているのか、本当に『ランズエンド・サーガ』と繋がりがあるのかも想像の域を出ないが、……
眼帯で覆われていない側の目で岳を見据えたヴォズネセンスキーは、「いずれお前が標的にされる」と改めて繰り返した。
「
「……『
「そういう事態も想定すべきだな。刺客という可能性を脇に置いて純粋な道場破りとして考えても、
その言葉から岳はヴォズネセンスキーが重傷を押してまで来日した理由を悟った。
軍の諜報部門を頼って作成した極秘資料だけに電話で内容を伝えることを憚り、直接、ファイルを持参したものと考えていたのだが、実際に日本の
「……バカヤロ……お前……お前ってヤツはァ……ッ!」
長年の
格闘技を〝平和の祭典〟と信じて疑わない岳にとって、
与党議員で文部科学大臣を務める旧友――『MMA日本協会』の岡田会長とは異なり、岳は政界との関わりが薄い。ときに大問題を起こすほど無鉄砲な性格ではあるものの、他国の政情について軽々しく口を挟むべきでないことは弁えている。
日本を代表するプロレスラーだけに、ロシアスポーツ界と政財界の間に横たわる疑惑は聞き耳を立てずとも自然と聞こえてくる。『ステート・アマ』という旧ソ連以来の事実を背景としている為、邪推を抑え込みながら慎重に向き合わざるを得ない部分があるのも否定できなかった。
それでも、一九八九年のモスクワで大勢の人々と心を通わせた想い出は消せない。
ロシア軍人ではなく、ビェールクト・ヴォズネセンスキーという一人の人間を見つめているからこそ、岳の頬を流れる涙も真っ直ぐであった。
東日本大震災の発生時、ヴォズネセンスキーは誰よりも早く
岳も麦泉も、軍事力によって主権を脅かされたウクライナにこそ心を寄せ、その痛みを我が事のように感じている。
この場には居合わせていないが、騒乱の報に接した未稲の話によれば動画サイト『ユアセルフ
岳も軍事侵攻が民間人の日常を押し潰していく〝現実〟から目を逸らすつもりはない。しかし、
心が通い合った
さすがに照れ臭くなって岳から顔を背けたヴォズネセンスキーだったが、
「それはそうと、私の代理を務めてくれた少年のことだが……」
爆煌丸――ルイ=アベル・ユマシタ・バッソンピエールとは全く無関係の
「うちのキリーかッ! 試合に負けて勝負に勝ったみてェな幕引きになっちまったけど、特撮番組顔負けの超絶スピードまで飛び出して、お前のハートも最高に燃えたよなッ⁉」
城渡マッチと拳を交える中で
代理として出場しておきながら、反則負けに終わったキリサメのことを不愉快に思っているのではないかと、麦泉は脇の下に汗が噴き出してしまったが、ヴォズネセンスキーの顔に憤怒の色はなく、何か告げにくいことを
「キリサメ・アマカザリ――あの少年もまた超人に違いはないだろう。持って生まれた才能か、どんな
「……ほ、発作?」
重々しく語り始めたヴォズネセンスキーの言葉に岳は低く呻いて絶句した。それは聞き捨てならない一言であったのだ。
「もしかすると、彼は『PTSD』を患っているのではないか?
ヴォズネセンスキーの推察を耳にした瞬間、岳と麦泉は
*
都道府県庁所在地を直線距離で結んだ場合、岩手県と東京都はおよそ四六〇キロ――その間には平成初頭にかけて鉄道が敷かれ、新幹線での往復が可能となった。
美しい水平線を楽しめる沿岸部のローカル線とは異なり、新幹線は内陸部を走る為、津波の直撃こそ免れたものの、三年前の東日本大震災では甚大な被害を受けていた。
乗客乗員は地震感知による緊急停車から翌日まで車内での立ち往生を余儀なくされ、点検・復旧作業が完了して運転が再開されるまでには一ヶ月以上もの時間を要したのだ。
二〇一四年六月現在は、全線が正常に運行されている。
『
奥州市の競馬場を離れた
土地々々の風情に遠い昔の面影を見出す感性が通じ合った様子であるが、何事にも感動の薄いキリサメは、
自家用車で東京に戻る本間愛染と別れたキリサメたち三人が
仙台駅での乗り継ぎの必要もなく、一本で東京駅まで駆け抜ける車輛である為、乗客たちは気を楽にして鉄道の旅を楽しむことが出来るのだ。
東京までは二時間弱という道程である。三人掛けの座席にキリサメや電知と並んで腰を下ろし、宮城県へ差し掛かる頃になると、未稲はうつらうつらと船を漕ぎ始めた。
岩手興行の開催地は奥州市であるが、旅の始まりは
『奇跡の一本松』や『
それから
張り詰めていた糸が切れた途端、数日分の疲労が堰を切って未稲に
希更が主演するアニメシリーズ『
一瞬にして睡魔が吹き飛び、丸メガネが曇るほど焦った未稲は
「――アマカザリさんもお気の毒ですね。ようやくデビューしたっていうのに団体代表があのザマじゃあ『
未稲が翳した
小学校の授業は全て終わり、帰宅して宿題まで済ませたという。それも当然であろう。
キリサメたちが乗り込んだ新幹線は東日本の山々を貫いて走る為、長短のトンネルを断続的に抜けることになる。一昔前までは暗闇の只中へ飛び込む
またしても窓の外は暗闇に塗り潰されたが、
「
「あなたが見せたかったものって何ですか?」
僕の出発をみーちゃんと一緒にキミにも見届けて欲しい――その一言をキリサメは自らの口で
生と死が鼻先ですれ違うペルーの
何よりも
プロデビュー戦を観戦して貰えたなら、
キリサメ自身も養父の試合をきっかけとして、生き直す一歩を踏み出したのである。
今となっては余計な真似をしてしまったのではないかという自問の声が心の奥底から湧き上がってくる。結局、
幼馴染みと同じ声を持つ異形の
時速三二〇キロで走る新幹線でありながら、通過まで数分を要するほど長いトンネルが終わると、俯き加減となったキリサメの頬が
「慰めて貰うのを待ってる男って、最悪にカッコ悪いですよ」
「そこまでいじけているつもりはないんだけどね」
「それじゃ、ぼくが見たものを教えてあげたら良いですかね――」
七歳とは思えないほど大人びた苦笑いと共に紡がれた
「――生まれて初めて
「面白いって……えっ?」
城渡マッチの〝舎弟〟が文字通りの暴走に至るまでの一部始終を
新幹線は再びトンネルに入り、デッキからも
正面で
「途中からMMAというよりサーカスみたいになってましたよね。ペルーにサーカス団があるのか、勉強不足で存じ上げないのですけど、そこで修行でも積まれたのですか?」
「確かに
「それであのアクロバットですか。どういう身体の
「
「会場の大盛り上がりが証明した通り、ヴァルチャーマスクをも超える〝超人〟を見せ付けられて気持ちが昂らない人はいませんよ」
意外としか表しようのない言葉を重ねられたキリサメは、困惑するばかりである。
その想像が「面白い」という感想によって吹き飛ばされた次第である。
「お察しのことかと思いますけど、ぼくは『
とても七歳児が背負うようなものではない重い事情を
その途端に未稲が呻き声を洩らしつつ顔を
『NSB』を主戦場とする八雲岳の愛弟子――『フルメタルサムライ』の異名で恐れられる
「そんなぼくなのにアマカザリさんの試合だけは面白かったんです。国内外問わず、今まで腐るほどMMAの動画を観てきましたけど、……これがどうにも悔しいのだけど、生まれて初めて面白いって感じてしまったんです」
「キミの場合はお母さんが人気の試合とか選手を教えてくれるんじゃ……」
「あの人の話を聞いていても、雑学が頭に入るだけでちっとも楽しくありません。一方的に自分の話をするだけだし、いちいち押し付けがましいんですよ。あの試合は絶対に観ておけだの、この選手の動きは要チェックだのと……。人の
そのように続ける
「確かにラストは散々でした。これでトドメというときに頭真っ白になってしまって、自分で自分を止められなかったのではないですか?
ましてや
無論、
全身を血の色に染めるような者は〝スポーツとしての格闘技〟にとって危険極まりない存在である。御剣恭路たちを暴発させた事実からも明らかであるように、『
だが、危険過ぎる一方で、MMA選手としての資質は『
〝神速〟にも達する動きや、
忌み嫌っていた『
(……あの日、岳氏の手を握り返していなかったら、自分以外の誰かに手を差し伸べようなんて思わなかった。……僕の振り出しは、もうペルーじゃない)
一〇年も生きていない内から鬱屈しているように見えた
敗北直後に向けられた眼差しを振り返れば、
未稲の
それは
「みっともないたらありゃしない負け
「
「出発を見届けて欲しいって言っておいて、思いっ切り
止まる気配のない
親友に導かれた奥州市の競馬場に
「それなら、スタート自体をやり直さなきゃだね、キリくん!」
間もなく未稲が
樋口郁郎による様々な暴挙はともかくとして、『
「可愛げのねぇガキだなぁって思ってたけど、ツレねェ態度は照れ隠しってワケかよ。
未稲を追い掛けた楽しげな笑い声は、電知のものである。
新幹線内では座席での通話は禁じられており、それが為にデッキへと移動したわけであるが、
「ちょ、ちょっと待って下さい! 今の声、どなたですか? 喋り方からしてアマカザリさんじゃありませんよね⁉ ……ひょっとして空閑さんっ⁉ なッ、何故に⁉」
「おう、おれだとも。野暮用で岩手まで出掛けてたんでな。その
「まさかと思いますが、未稲さん、ぼくとアマカザリさんの会話を盗み聞きしていたのですかっ⁉ 前々から恥知らずと分かってはいましたけど、覗き趣味まで……っ! あの両親のダメな部分の煮凝り状態じゃないですかっ!」
「いやいやいやいや、人聞き悪いにも程があるでしょ⁉ お姉ちゃん、
キリサメ以外の声が受話口から聞こえてきたことへ俄かに混乱した
それはつまり、
当然ながら傍目には八つ当たり以外の何物でもない。これを眺める電知は他の乗客の迷惑になると注意もせず、不毛極まりない姉弟の言い争いを愉快そうに笑い飛ばしていた。
その間にもトンネルの出入りが小刻みに続く。無味乾燥な暗闇と
キリサメ・アマカザリというMMA選手も新幹線と同じように他者が敷いたレールの上を走らされているようなものだろう。さしずめ現在は所属団体の代表と
例え他者の手のひらの上で転がされる状況であったとしても、己の意志さえ手放さなければ、為せることは幾らでもある。それが証拠にレールの上を前進するしかない新幹線の車内でも、キリサメは
このまま事態が進めば、次戦の対戦相手になるであろうレオニダス・ドス・サントス・タファレルはプロデビュー戦とその後に勃発した騒動を一まとめにして〝謝肉祭〟と揶揄していた。そして、自分との試合こそが
〝謝肉祭〟と
しかし、これは日々の営みを委縮させるという意味ではない。祈りや奉仕の精神を
聖書に記された審問と十字架への
ともすれば、『
「仕切り直した後の出発点、
「これ以上、アマカザリさんの〝何〟に驚くというのですか。まさか、まだ隠し玉をお持ちと言うのではありませんよね?」
「サーカス学校に通っていたら、
正面に立つ未稲と、傍らにて上体を支える電知は、競馬場でも放たれた光に目を細め、この上なく嬉しそうに微笑みながら、キリサメの〝決断〟を受け止めている。
歩行補助杖を壁に立て掛けた
三人を乗せた新幹線は、暗闇の只中を走り続けている。長いトンネルを突き抜け、窓の向こうに一条の光を見据えるのは、もう間もなくのことであった。
この中には日米欧にシンガポールという独自勢力を加えた四つ巴の生存闘争も含まれ、格闘技とスポーツの大転換期を焼け野原に変えるまで
〝格闘技バブル〟の崩壊と前身団体の没落を乗り越え、日本最大のMMA団体として不死鳥の如く甦った『
やがて
ブラジリアン柔術の祖となった伝説の柔道家・
限りなく
運命の〝流れ〟に呑み込まれていく三人と共に『
『ウォースパイト運動』の過激派が飛行中の
左太腿から下が機械仕掛けの義足というそのMMA選手は、
脛から踵、足先に至るまで生身と同じ
剥き出しではマットを損壊し、対戦相手の肌も傷付けてしまう為、地面と接するもう一枚の板は爪先が流線型のカバーで防護され、裏側も全面をゴムで覆ってある。踏み込みの感覚や、そこに生じる力の作用を再現できるように板全体が少しばかり弧を描いていた。
一般的に〝スポーツ用義足〟に分類される物を装着し、
彼の祖国――ルワンダにとって、二〇一四年は大きな節目であった。
一九九〇年から激しい内戦が
この二月には内戦と
ルワンダは日本の青年海外協力隊によって伝えられた空手が盛んな国であり、ンセンギマナも『
白黒チェック柄の競技用トランクスを穿き、手首の部分に青いラインの入った
二本の足で軽く跳ね、臨戦態勢を整えているのは『ブラボー・バルベルデ』という名のプエルトリコ
プエルトリコはその腰に
ルワンダの
『NSB』は名実ともに世界最高のMMA団体だが、プエルトリコで生まれ育ったボクサーにとって故郷に金メダルをもたらすことは悲願なのだ。次にスポーツメディアがバルベルデを取り上げるときには、赤いラインの
「今は二つの〝世界〟に離れるとても、決して一期一会の別れとは思うまい。我らが結んだ絆は絶頂にして永遠。肩を抉られ、腹に穴を開けられ、頭を半分吹き飛ばされた痛みが生命震わす波動となって、二人を再び引き寄せるのだから……」
これに対してバルベルデは苦笑を浮かべ、金網の外に立つポンチョ姿の青年――ンセンギマナのセコンドは「昨夜からブツブツと練習していたのはソレか」と呆れ返っていた。
『
しかし、
希更・バロッサが
故郷すら異なる二人のMMA選手が
選手の心拍数・有効打の威力及び命中精度をリアルタイムで測定する機械など、最先端技術の結晶とも呼ぶべき『
ンセンギマナが装着する左の義足は〝格闘競技〟に最適化された物だが、四肢が全く健常な選手と同じ条件で闘うことには現実問題として困難が少なくない。義足に対する直接攻撃などを禁じる特別ルールが対戦相手に了承されて初めて試合も成立するわけだ。
無論、ブラボー・バルベルデは今回も快諾している。心身のハンデに関わらず、共有する条件に基づいて〝心技体〟を競い合う環境を
〝戦争の時代〟に傷痍軍人たちのリハビリテーションと向き合い、パラリンピックの礎を築いたルートヴィヒ・グットマン医師は「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」と提唱している。
文化・国籍といった選手間の違いを越え、フェアプレーによって育まれる友情を通じて世界平和に貢献する――これは〝近代オリンピックの父〟と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵の示した
〝
ルワンダとプエルトリコの
ンセンギマナの祖国が初めてパラリンピックに参加したのは、内戦終結の数年後に開催された二〇〇〇年シドニー大会であった。ただ一人の
内戦で左足を失った水泳選手が五〇メートルを泳ぎ切る姿に
内戦によって惨たらしく引き裂かれたルワンダは数年で目覚ましい復興を遂げ、〝アフリカの奇跡〟と全世界に讃えられた。その誇りを胸に秘め、犠牲となった同胞たちの魂を背負い、シロッコ・T・ンセンギマナは世界最高のMMA団体で闘っている。
「いずれ新しい
「寂しいことを言ってくれるなよ。お前と出逢い、拳を交えることが出来た
「そこまでの
間もなくレフェリーが試合開始を宣言し、これに応じた
開戦に当たって、『NSB』では『
『
格闘技の〝新時代〟を担う四つの〝流れ〟は
恩人の為、友の為、そして、亡き父の誇りを守る為――
あるいは大いなる始まりの予感であったのか――ンセンギマナとバルベルデが同時に蹴り付けたマットには、『
(第一部・完)
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