その22:謝肉祭(後編)~「格闘技新時代」において『四天王』と呼ばれる者たち・岩手競馬が生んだ雑草馬の奇跡/それは武の都・火の国へ突き進む軌跡—―そして戦なき世の『麒麟』に忍び寄るオリンピックの【影】

  二二、Casus Belli Act.3



 防犯面の課題を抱えてはいるものの、学生食堂を部外者に開放している大学は多く、東京都内だけでも一〇校近くに上る。昼食時ともなれば、ビジネスパーソンなど卒業生でもない人々で混み合うのだ。

 名称から日本国内の最高学府と間違われやすい『とうしょうだいがく』の場合は、ガラス張りのカフェテリアがの人気も高く、飲食店の評価レビュー投稿サイトには外光を取り込むという建物の構造まで含めて好意的な声ばかりが寄せられている。

 翻せばは密談に適した環境とも言い換えられる。外部そとへの漏洩が絶対に許されない情報などは、聞き耳を立てることさえ難しい密室の内部なかで交換されているように想像してしまうが、喧騒の只中のほうがかえって安全という場合もあるのだ。

 年若い大学生ともなれば、同じテーブルに座った友人との会話に全神経を注ぐ為、周囲まわりの情報など耳にも入らなくなる。

 それ故、自分たちと比べて二回りは年長であろうスーツ姿の女性がカレー風味のワッフルを頬張っていても誰一人として気に留めないのである。同じような風貌は飲食スペースに幾つも見つけられる為、カフェテリアの景色にもすっかり埋もれていた。

 あるいは娘と食事をる母親と思われているのかも知れない。構内キャンパスを行き交う若者たちの賑々しさが飛び込んでくる窓際の席に一人の学生と差し向かいで座っているのだ。

 実際、四角いテーブルに友人を見つけた学生は「こんにちは、哀川さんのお母さん」と挨拶していった。訂正する間もなく去られてしまった為、苦虫を嚙み潰したような顔を見合わせたのち、互いの鼻に溜め息を吹き付ける状況となった。


「母親代わりを務めたおぼえだってないのに、とんだ勘違いがあったものね」

「それはわたしの台詞です。母親代わりなんて想像しただけでも身の毛がよだちますよ」


 大人おとななく即座にしかめ面となった通り、母親と間違われたほうはそもそも愛想笑いが得意ではない。対する学生はウェイトレスとして飲食店に勤務しているので当たり障りのない対応が出来なくもないのだが、現在いま他者ひとに気を配るだけの余裕がない。

 ついには出会いがしらの不幸な事故としか表しようのない情況となり、〝似た者おや〟という誤解へと至った次第である。


「普段は別に気にしていなかったのだけど、神通あなたくらいの年の子を持つように見られたのは素朴にショックだわ」

「それは諦めて下さい。みつさんにとっては認められない現実かと思いますが、他者ひとから恨みを買い続ける人生の疲れが顔面に出ています」

をとりあえず慰めるのも若者の務めよ。一流派を背負う〝宗家〟の立場でしょう。他者ひとへの心配りは神通あなたが想像している一〇〇倍は凝らさないと通用しないわ」

「……軽々しく〝宗家〟の称を持ち出すと、聞くに堪えない口喧嘩にまで拗れるから控えるように――と、哀川うち義兄あににも釘を刺されていませんでしたか?」

「それなら社会人としての助言アドバイスと言い換えるわ。私をいやでやり込めたいなら小言じゃなくて致命傷になる一発を狙い定めて来なさい」


 スーツ姿の女性が顔をしかめるよりも「哀川さん」と呼ばれた学生――哀川神通が忌々しげな溜め息を吐くほうが早かった。自身の注文したカレーソースのサラダにフォークを突き刺す音も大きい。


「そもそも学食を使うからいけないのですよ。『あの人は母ではなく赤の他人』と説明して回らなければならなくなった私の気持ちも考えてください。……ただでさえみつさんの話はややこしくなるというのに……」

「大学から離れた店まで学生を呼び出すわけにはいかないわよ。午後の講義に間に合わなくなったら申し訳ないもの。それに騒がしい場所のほうが話しやすい内容でもあるしね」

「……ストーカーみたいな真似をしておいて、どの口が言うのですか……」


 後から付け加えられた一言こそであろうと読み抜いた神通は、差し向かいの女性が考えていることを即座に理解できてしまう己自身への嫌悪感に耐えられなくなり、この上なく不愉快そうな溜め息をもう一つ重ねた。

 傍目には気忙しいビジネスパーソンとしか思えないだろうが、彼女の肩書きを知れば、今しがたの言葉も、向き合った相手を威圧するかのような振る舞いも、受け取る印象の一切が大きく変わる。

 ないかくじょうほう調ちょうしつ――通称〝ない調ちょう〟。即ち、情報機関に身を置く国家公務員であった。

 同じ『しんげんこうれんぺいじょう』の出身うまれであり、亡き父の幼馴染みでもあった女性のことは神通も幼少の頃から良く知っているが、〝ない調ちょう〟にける所属先などは把握しておらず、言葉のやり取りからに就いているのだろうと推察するのみであった。

 ストーカーでなければ〝秘密情報員〟と呼ぶのが最も似つかわしい女性は、名前をおりみつという。尤も、任務で関わる人々の間では偽名で認識されていることであろう。

 神通を〝宗家〟と呼んだことからも察せられる通り、みつもまた南北朝時代のかっせんで生み出された武器術併用の〝戦場武術〟――『具足殺し』とも呼ばれる『しょうおうりゅう』の使い手であり、免許皆伝の古参師範でもある。

 よわい五〇を超え、『しょうおうりゅう』にとっては〝けんばん〟と呼ぶべき立場である。それにも関わらず、宗家との関係は芳しくない。から神通は携帯電話を使っていないが、仮に所有していたとしても、みつの電話番号やメールアドレスは登録されていなかったことであろう。

 現在の所属先――地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』のロゴマークが入った手帳にも彼女の連絡先は載っていない。即ち、関わり合いになることを避けたい人物ということであった。

 その一方で、やはり『しょうおうりゅう』の免許皆伝に達した義兄とおりみつは、蟠りもなく交流している。どうしても必要がある場合には、その義兄を介して連絡を取ってきたのだ。

 ごくまれみつのほうから神通に接触を図ることがある。何の前触れもなく飄然と目の前に現れるのだ。

 今日も同様であった。午前中の講義が終わり、友人たちと連れ立って講堂から出た直後にみつの待ち伏せに遭ったのである。微笑もせずに手を振る姿を見つけた瞬間などは、不審者として通報しようかと思ったほどである。

 尤も、みつであれば本当に不法侵入であったとしても速やかに無罪放免となるだろう。〝ない調ちょう〟――国家の情報戦を担うの職員なのだ。


「社会で心穏やかに過ごす為のもう一つの秘訣は、指定暴力団ヤクザとの関係は早めに清算しておくこと。身内感覚で頼み事をしているようでは、いずれ鬼貫道明にも迷惑が及び兼ねないわよ。頼るなら『アンドレオ鬼貫』だけにしておきなさい」


 宗家に対して心配りの重要性を説いておきながら、後進の育成を担うべき師範には不適任と思えるほど愛想のないみつは、何時も世間話すら挟まずに本題を叩き付けてくる。彼女の為人ひととなり理解わかっていればこそ、遭遇の瞬間から神通も身構えていたのだが、その警戒すら容易く突き崩されてしまった。

 過剰反応はかえって怪しまれる為、首を振ることだけは堪えたものの、誰かに聞き耳を立てられてはいなかったかと、神通は辺りを見回しそうになったほどである。

 それはつまり、おりみつが昼食時という一日の内で最も賑わう大学食堂を〝密談〟の場として選び、構内で神通に待ち伏せを仕掛けた理由とも言い換えられるだろう。余人に聞かれてしまう危険性の回避は言うに及ばず、立ち話で済ませられるような内容でもない。


「……それは、みつさん、ひょっとして……」

「傘下のカラーギャングと事を構えるのなら『こうりゅうかい』というを先に押さえておかなくては余計な飛び火は免れないし、策としては悪くなかったと思うわ。『E・Gイラプション・ゲーム』は反社会的勢力の排除を徹底しているわけだから、グレーと言えばグレーかしら」


 数世紀に亘って受け継がれてきた〝戦場武術〟を錆び付かせない為、地下格闘技アンダーグラウンド団体の試合場リングで『しょうおうりゅう』をふるっていることをみつに明かしたおぼえはない。ましてや義兄が告げ口するとも考えられなかった。

 しかしながら、地下格闘技アンダーグラウンドへの出場自体は『E・Gイラプション・ゲーム』に加わった段階でみつに把握されているだろうと、神通も想定していた。この古参師範と向き合う際、しょうとくたいの異称を冠する流派をけがしたとして厳しく糾弾されることを何時でも覚悟してきたのだ。

 〝ない調ちょう〟は諜報活動の専門家プロフェッショナルである。個人情報を洗い出すことなど造作もあるまい。

 神通が目を剥いたのは、東京の片隅で繰り広げられた小競り合いが政府機関に捕捉されていたという事実である。間接的に指定暴力団ヤクザが関わっていたとはいえ、地下格闘技アンダーグラウンド団体とカラーギャングの抗争などはしょかつしょが取り扱うべき事件であろう。

 『こうりゅうかい』とは関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団ヤクザである。敵対組織と血みどろの抗争に明け暮れるなど当代随一の武闘派であり、警視庁公安部どころか、海外の警察機関にまで危険視されるほど激烈な体質であった。

 山梨県を根拠地とする『こうりゅうかい』は、江戸時代に同地で発祥したにんきょう――〝こうしゅうばく〟が起源であり、歴史を紐解けば戦乱の時代にたけの武勇を支えてきた『しんげんこうれんぺいじょう』との関わりも決して浅くはない。

 その『こうりゅうかい』をたった一代で巨大勢力に育て上げた〝大親分〟――名前をみなかみひょうという――は神通と同じ〝血〟を持つ一族であり、哀川家より以前の代では『しょうおうりゅう』の宗家も務めた家門でもある。亡き父と親子二代に亘って親しく交わってきたのだ。

 みつに看破された通り、『こうりゅうかい』傘下であったカラーギャングと『E・Gイラプション・ゲーム』が全面抗争に陥った際、神通は関東最強の指定暴力団ヤクザまで敵に回す事態とならないよう〝大親分〟に執り成しを直談判したのである。

 これによってカラーギャング側は最大の後ろ盾を失い、大敗の末に今や『E・Gイラプション・ゲーム』から〝舎弟〟も同然の扱いを受けている。一介の大学生に過ぎない哀川神通が『こうりゅうかい』の〝大親分〟を動かした顛末まで含めて〝ない調ちょう〟は抗争の一部始終を把握しているわけだ。


「幾ら〝ない調ちょう〟とはいえ、小さな縄張り争いにまで密偵を差し向けるほど暇ではありませんよね? みつさん、今の話はひょっとしてひょうおじさまから直に聞いたのでは……?」

「立場上、大っぴらに話すことははばかられるのだけど、ひょうさんとの付き合いは神通あなたよりもずっと長いもの」

「……おりみなかみも遠縁だということ、もっと早く想い出すべきでした……」


 暴力性の利用などを含めた反社会的勢力ヤクザとの交際を社会から一切排除することは、官民問わず法治国家の道義として常に呼び掛けられてきた。間もなく三〇年に達する『平成』という時代を通じて行われてきた法整備や地方公共団体単位にける条例の制定を経て、近年は更に厳格化している。

 興行先で生じる様々な権利と、これに基づく交渉を円滑に進める為、『昭和』と呼ばれた時代には反社会的勢力が興行主を担った事例も多い。抜き差しならない問題が生じた際には使で解決するわけであり、土地々々の〝顔役〟がを取りまとめるという単純なことでもなかった。

 芸能・格闘技など分野を問わず、興行と反社会的勢力は表裏一体とも呼ぶべき関係性であった。巨大な予算カネが動くこともあり、後者にとっては重要な収入源シノギでもあるが、社会倫理を歪める構図は〝暴力〟がありふれた日常の中に自然と溶け込んでいた『昭和』でしか成り立たないものである。

 諸問題を抱えつつも法治国家としての体制が整った〝現代〟にいて許されるはずもない。時代が変わったというを認識できなかったからこそ『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体は〝黒い交際〟を断てず、ついにはこれを暴かれて〝格闘技バブル〟もろとも崩壊したのだ。

 その一方で、「蛇の道は蛇」ということわざもある。例えば捜査に必要な情報を警察が反社会的勢力から入手する行為もは違法だが、〝裏〟の社会に最も通じているのは、血と罪の死臭においが垂れ込める常闇の底で生きる人々である。

 〝ない調ちょう〟の実態を知らない神通にも、情報機関の人脈ネットワークが無限に近いことは想像できる。諜報活動の中には非合法な手段も当然の如く含まれているのだろう。と呼ぶべき『こうりゅうかい』との間にみつが繋がりを持っていないと考えるほうが不自然であった。

 日本のマスメディアが取り上げない裏社会の暗闘ことであり、神通も伝え聞いた程度の情報しか持ち得ないのだが、『こうりゅうかい』は海外から蚕食を図る勢力とも血みどろの武力衝突を繰り広げているという。

 国家間の問題にも関わる〝ない調ちょう〟からすれば、『こうりゅうかい』の〝大親分〟は是が非でも押さえておくべき人材であろう。


おりみつが真っ直ぐな目で嘘をける人ということも忘れていたわ。人を欺いて甘い汁を吸う詐欺師でなく、国家の為という大義名分で動いているから始末に負えない……)


 彼女が帯びている任務は理解できずとも、目的の為には手段を選ばない人間であることは幼い頃から知っている。ここまでの会話も雑談などではなく情報戦というわけである。『こうりゅうかい』への言及にも何らかの意図があるはずだ。『しょうおうりゅう』の宗家が地下格闘技アンダーグラウンドに深入りしないよう釘を刺さんとしているわけでもあるまい。

 明るい印象の名前とは真逆に生き方は陰険の極み――と、神通は心の中で吐き捨てた。


「近頃、『天叢雲アメノムラクモ』に籍を置く選手や関係者と親しくしているそうね。特に新人選手のキリサメ・アマカザリ君。男性おとこの趣味にとやかく口出しするほどヤボではないけど、あのテのタイプとは一緒になっても幸せになれないわよ」

「は、はいっ?」

「同じ日に『こんごうりき』からプロデビューした『くうかん』最高師範のせがれ――きょういししゃもんは距離を取り始めたみたいね。試合前のインタビューではアマカザリ君にエールを送るようなことを話していたのに、その彼が反則負けした途端に名前すら出さなくなったわ。〝女の敵〟と呼ぶしかない醜聞スキャンダルの多さはともかく生き方そのものはなかなかクレバーね」

「どうして、そんなことまで、調べているのですか? 〝ない調ちょう〟は暇なのですか⁉」

「暇呼ばわりは公務員批判の常套句ね。もっと捻りを加えなさいな。勿論、〝仕事〟の一環よ。一人の指導者としては、きょういし君が取り組んでいる『くうかん』の組織改革には以前から注目しているのだけれど」


 おりみつの口からキリサメ・アマカザリという名前を聞くことになるとは、さしもの神通も夢想だにしておらず、今まさに口に含んだばかりのカモミールティーを噴き出しそうになってしまった。

 に情報戦を仕掛ける真意を探っていた矢先に不意討ちを受けたようなものだ。

 キリサメ・アマカザリ――発祥した国や時代、様式の差異ちがいこそあれども、互いに殺傷ひとごろしの技を研ぎ澄ませてきたペルーの少年に対して『しょうおうりゅう』の宗家は言葉では語り尽くせないほどの〝共鳴〟を感じている。おそらくは同門のみつとも分かち合えないだろう。

 MMAよりもルール上の自由度・危険度が高いバーリトゥード形式の『E・Gイラプション・ゲーム』以外にを解き放つ〝場〟がない『しょうおうりゅう』とは異なり、生と死が鼻先ですれ違う〝実戦〟で命を壊す喧嘩殺法をふるってきたキリサメのことを羨ましいとさえ感じているくらいだ。

 何より〝眠れる獅子〟ともたとえるべきくらい目付きに心を惹かれてならなかった。

 まぶたを半ばまで閉ざし、まるで生霊の如く虚ろに彷徨さまよう姿は、亡き実父ちち――『しょうおうりゅう』の先代宗家であるあいかわと全く同じなのだ。

 戦なき国を生きる常人には想像も及ばない〝闇〟が魂に根を張る者のであった。

 実父ちちもまた〝戦場武術〟の本質――敵将の首級くびり合った中世の武者たちと同じ命のり取りに殉じたのである。ながき歴史と共に殺傷ひとごろしの技を継ぐ古武術家としての本懐を遂げたと言うべきであろう。


「あのですね、誤解があるようですがね、キリサメさんとはみつさんの想像しているようなものではなくて、もっとこう――闘いの場に身を置く者の宿命さだめとでも申しましょうか」

「愛染が激怒しそうな反応リアクションは実に興味深いのだけど、そろそろ本題はなしを続けさせて貰って良いかしら? 公務員ほどじゃないにせよ神通あなただって暇じゃないでしょう」


 キリサメとの関係を揶揄されたと思い、たまり兼ねて過剰反応してしまった神通だが、そのような自分が恥ずかしくなるほどみつ表情かおは冷淡であった。

 〝サバキ系〟空手の全国組織『くうかん』が誇る日本最強の空手家であり、キリサメとは父親の代から因縁のあるきょういししゃもんの動向も含めて、この〝ない調ちょう〟の職員は〝仕事〟の一環として調べたと述べている。

 つまり、今し方の話はみつにとって冗談ではないということだ。

 必要があってキリサメの名前を挙げたものの、『しょうおうりゅう』の宗家とペルーの喧嘩殺法の間に結ばれた〝共鳴〟とて関心もあるまい。彼のことに触れておきながら、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本格闘技界を激震させた〝神速〟――人間という種を超越する〝力〟については一言も話さないのである。

 昨日から『しょうおうりゅう』の奥義と修練を振り返り続け、幾度も幾度もキリサメの〝力〟と重ねてきた神通とは正反対であった。


「そのアマカザリ君やバロッサ家のホープが出場している『天叢雲アメノムラクモ』――すこぶる雲行きが怪しいのよ。現状のまま暴走し続けるようなら、〝国家安全保障上の脅威〟にまで発展し兼ねないわ。今日か明日にもという逼迫度でね」


 みつが本題に踏み込んだのは、憤怒と憎悪を綯い交ぜにしたような眼光が正面から突き立てられた直後である。またしても予想し難い衝撃に打ちのめされた神通は両手で持っていたティーカップを危うく取り落としそうになってしまった。

 国家安全保障上の脅威――と、一字一句に至るまでおう返しでただしたのも無理からぬことであろう。『E・Gイラプション・ゲーム』との対立など不穏当な気配は周辺に漂っているものの、あくまでも『天叢雲アメノムラクモ』はMMAの競技団体に過ぎない。日本政府から危険視されるような人材を起用しているわけでもないはずだ。

 仮に前身団体バイオスピリッツの頃からの〝黒い交際〟が密かに続いていたとしても、〝国家安全保障上の脅威〟という発想は突飛としか表しようがあるまい。


神通あなたも知っていると思うけど、『天叢雲アメノムラクモ』の代表、以前から倫理を疑うような悪行ばかり繰り返してきたでしょう? 勿論、業界の中で完結するトラブルには〝ない調ちょう〟も関わらないわ。でも、樋口郁郎は本人も無自覚のまま越えてはならない一線を越えてしまった」

「……もう少し分かるようにお願いします。余りにも話が大き過ぎて、取っ掛かりさえ掴めていないのですが……」


 みつ返答こたえに代える形で赤い携帯電話スマホを神通の手元に差し出した。

 おそらくは新品であろう。きずも汚れも一つとして見当たらない液晶画面に表示されているのは、隠し撮りしたものとおぼしき一枚の写真だ。

 どうを纏ったろうにゃくなんにょの一団である。江戸時代の趣を留めた古めかしい屋敷の中庭に並んでいる様子だが、各々が太刀や槍などの武具を携えていた。動画ビデオではない為、当然ながら音声は聞こえないものの、鞘から抜き放った太刀や薙刀を高々とかざした人々は天に向かって何事か吼えているようだ。

 辺りは夜の闇に包まれている。分厚い雲によって蓋をされているのか、一筋の月明りも差し込んでいない。数ヶ所に設けられたかがりによって浮かび上がった場景は、はいとうれいが布かれためいしんよりも以前まえの時代という錯覚を神通に植え付けるものであった。

 すぐさまに〝錯覚〟と気付くだけの手掛かりも液晶画面の中に少なくなかった。みつから見せられた写真はフルカラーであり、まげを結わえている者は一人も居ない。居並ぶ誰も彼も〝現代〟を生きる武術家というわけだ。スラックスを穿いた者に至ってはワイシャツの上からを嵌めて大弓を構えている。

 神通もまた同じ〝立場〟である。だからこそ、抜き身の刃が跳ね返した赤い輝きの鋭さから〝真剣ほんもの〟であることを見抜いたのだ。


「どなたの顔も存じ上げませんが、みつさんの小さな頃に執り行われた〝ぜんあい〟の写真でしょうか? それにしては鮮明ですし、そもそもモノクロでもありませんし……」


 山梨奥地に位置する二人の故郷――『しんげんこうれんぺいじょう』は数多の道場がひしめくほど武芸が盛んであり、『しょうおうりゅう』も同地に根を張る〝りゅう〟の一つに数えられていた。

 年に一度の例祭として、『しんげんこうれんぺいじょう』では〝甲斐古流〟が総出となって他流試合を行う風習ならわしがある。一対一による立ち合いや、紅白二組に分かれた大人数が一斉にぶつかる乱戦など種々様々であるが、徒手空拳と武器術の隔たりをも取り払い、鍛え上げてきた〝心技体〟を〝合戦いくさ〟さながらの状況で試すのである。

 戦国時代にいのくにを治めたたけ家より授けられた鎧兜を本陣に据え、これにしょうらんを願う形で行われる為に〝ぜんあい〟と呼ばれている。

 「伝承の彼方」と表すのが似つかわしいほど遠い昔には軍事演習の側面を持ち、相応の規模も誇った〝ぜんあい〟であるが、現代にいては自体が減っている。

 それでも〝そうだい〟と呼ばれる集落のまとめ役が取り仕切り、一度として欠かした年はなかった。あくまでも武芸の奨励が目的であり、諸流派の奥義を晒し物としない為、集落の外部そとから見物客を招き入れることもないが、名実ともに〝例祭〟というわけである。

 現在の〝そうだい〟は哀川家と親子二代に亘ってふんけいの交わりであり、ちんの神職を担ってきたかみ家が務めている。資金難など様々な事情から宗家の道場を閉めざる得なかった神通も一個人として参加し、〝甲斐古流〟の筆頭たる『しょうおうりゅう』の武威を示していた。

 昨年などは鉄錆の味に興が乗ってしまい、試合場の破壊など想い出すだけでも全身が羞恥心で火照るほどている。


「私の小さな頃だってカラー写真だったわよ、……ギリギリね。そもそも今の話の流れで想い出の一枚なんか見せるわけないでしょう。これはデジカメで撮った昨晩の写真。熊本県からツテで送ってもらった物よ」

「これ、熊本なのですか? しかも、今朝……っ?」

「熊本城下のる屋敷で起きたことよ。世が世ならそうじょうけんの一歩手前といったところ」


 一部の住民が戦後まで刀を差し続けていたという極めて特殊な環境で生まれ、物心が付く前から武芸百般と親しんできた神通にとっては、携帯電話スマホに映し出された写真は少しも珍しくはない。

 郷里の場景と間違えてしまったのも無理からぬことであろう。槍刀を携えた武術家の中には、中世の武者が被ったほしかぶとと現代のジャージを組み合わせた者も混ざっているのだ。

 無論、このようなは一歩でも『しんげんこうれんぺいじょう』の外に出た瞬間から世の中の非常識に変わることを神通も弁えている。だからこそ、くだんの写真が故郷ではなく熊本の現状を切り取った物と教えられて目を丸くしたわけである。

 『しんげんこうれんぺいじょう』にける〝ぜんあい〟と同じように〝真剣ほんもの〟の太刀を用いるということは、時代劇の写真ものでもあるまい。みつが述べた通り、〝現実〟のなのだ。

 何処いずこかに討ち入る直前としか思えないほどみなの顔が殺気立っており、警察に発覚しようものならそうらんざいの容疑で一斉検挙されることだろう。


「俗に言う『ストロベリームーン』から三日と過ぎていないのにこの暗さ。大きく見えるはずの月が雲で覆い隠されてしまう辺り、如何にもおあつらえ向きといった雰囲気ね」

「そんなことより熊本で何があったのですか? わざわざ写真を見せてくるからには、先ほどお話しになった安全保障の問題とも無関係ではありませんよね?」


 神通にとって熊本県は所属団体間の対立をも超えた友人――希更・バロッサの故郷だ。

 無論、『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントが次に開催される地ということも忘れてはいない。同県の象徴である熊本城二の丸広場を借り切り、MMAの試合場を特設するという樋口郁郎直々の発表を神通は『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちと共に岩手興行の閉会式クロージングセレモニーで聞いたばかりなのだ。


(それに熊本は哀川家にとって――)


 熊本という地名が鼓膜に突き刺さって脳をも揺さぶった瞬間、〝る名前〟が口から飛び出しそうになり、神通は歯を食いしばって喉の奥まで押し戻している。

 我知らず俯き加減となった直後には、みつの視線を眉間の辺りに感じた。先ほど飲み下した〝る名前〟が再び込み上げてくることを恐れた神通には確かめられなかったが、おそらく彼女の脳裏にも全く同じモノがよぎったのであろう。

 〝る名前〟によって揺さぶられる感情を少なからずみつと共有していることも、神通には愉快とは言いがたい。


「古い歴史を積み重ねてきた道場は、その重みが守るべき〝誇り〟になること、神通あなたは実感として理解わかっているはずよね。『しょうおうりゅう』に限った話ではなく、それは〝甲斐古流〟のいずれも一緒。諸流派のメンツを立てながら〝ぜんあい〟を取りまとめなければならないしゅうの――現惣代の苦労は生半可ではないわ」

「……樋口郁郎は、かみのおじさまを見習うべき――と?」

「手遅れという結論しか持ち得ないわ。熊本を山梨に置き換えてみなさい。〝甲斐古流〟が打ち揃うより早くきょうが『サムライ・アスレチックス』の本社にバイクで突っ込んでいくかも知れないわね」

「樋口と刺し違えてくれるのなら、あの見下げ果てた御剣おとこも少しは世の中に役立つと言えなくもありませんが……」

「……幼馴染みという事実すら耐えられないという表情かおね。『を言う資格がみつさんにありますか』と皮肉られそうだから、これについては口を噤んでおくとするわ」


 携帯電話スマホに表示させた写真は『天叢雲アメノムラクモ』ひいては樋口郁郎の犯した失態の証拠――と、みつ説明はなしを続けた。

 特定の拠点を持たず、全国各地の運動施設を経巡るという〝旅興行〟の形態を採っている『天叢雲アメノムラクモ』の場合、これを成立させる為には開催先と適切かつ良好な関係を保つことが前提条件であった。

 それにも関わらず、樋口は熊本県に対する配慮を欠いたまま開催地発表を強行したというのである。

 熊本県の人脈ツテを通じてみつが得た情報によれば、MMA興行イベントの開催について『天叢雲アメノムラクモ』から熊本の武術界に対する説明は一度たりともなかったという。県内の古武術諸流派を統括し、その伝承を支える協会にも相談すらなかったそうだ。

 熊本武術界を侮辱する振る舞いが火種となり、県内の隅々まで樋口に対する憤怒いかりの炎で満たされたのであろう――と、みつは確信にも近い調子で述べた。

 狂騒の勃発から一日と経っておらず、〝ない調ちょう〟でさえ完全な把握には至っていないが、写真と同じ場景が熊本各地の武道場や旧家の屋敷で確認されたそうである。

 それぞれの得物を掲げながら大きく口を開けた人々は、「許すまじ、樋口郁郎」と一斉に雄叫びを上げているのだろう。

 武士にとって〝誇り〟を傷付けられることは、一戦に及ぶほど許しがたいのである。神通自身、キリサメたち友人の前で幼馴染みのつるぎきょうから侮辱された際には殺意を剥き出しにして『しょうおうりゅう』の技を叩き込んだのである。

 やりかたなが武勇の証であった乱世から現代まで〝しょう〟の気風を留める熊本県は、猛き武士の魂が山にも海にも宿っている。オーストラリアを起源ルーツに持ち、元々はアメリカにいて『ムエ・カッチューア』を教え広めていたバロッサ家が一族で移住したことも、同地の武術界に対する〝共鳴〟が大きな要因であった。

 日本史上、最も有名な剣豪――みやもとさしが最晩年を過ごし、現代人に多くの教訓おしえを与える『りんのしょ』を記したのも熊本である。とうきよまさの次に同地を治めた細川家から〝客分〟として招かれたわけだが、愛すべき武辺者たちに心を寄せたことは疑う理由もあるまい。

 それ故に武蔵が興した流派――『てんいちりゅう』も熊本に馴染んで広く普及したのだ。

 バロッサ家の一族とみやもとさし――古代ビルマ由来の伝統武術ムエ・カッチューアと、二刀流の威容すがたで世界にまで知れ渡ったてんいちりゅうという差異ちがいこそあれども、両者の魂は武辺一途の地に対する〝共鳴〟によって結ばれた次第である。

 〝外〟から乗り込んできたMMA団体がみやもとさしも愛した武芸のすえを蔑ろにして熊本城を乗っ取ることは、〝縄張り意識〟の一言では決して片付けられない最悪の愚弄なのだ。岩手興行が開幕した後は顔を合わせる機会に恵まれなかったものの、自分が恭路に抱いたものと同質の激情が希更・バロッサの心を引き裂いていたのかも知れない。

 こんにちでも『せいしょさん』と慕われるとうきよまさが大改修を行い、細川家の統治に移ってからもはんちょうとして〝火の国〟を見守り続けた熊本城は同地で生まれ育った人々にとっては時代を超えた誇りである。

 明治維新ののち西さいごうたかもりが不平士族を率いて挙兵したことから勃発した『西南戦争』では大惨事に見舞われたものの、勇壮なる天守閣を頂いた気高い城は、何時の世にいても心の拠り所であったのだ。

 その〝誇り〟を踏み躙らんとする〝暴君〟に刃をもって抗うことは、例え余人から時代錯誤のように揶揄されるとしても、神通には道理としか思えない。


(……こんな気持ち、希更さんに申し訳なくて仕方ありませんが……)


 神通の心に湧き起こったのは、義憤だけではない。

 歴代宗家と同じように彼女も『しょうおうりゅう』の歴史と同化し、その継承に己の人生を捧げることにちゅうちょはない。即ち、中世のかっせんで敵将の首級くびを狩る蛮性を精神たましいの一部として受けれるということでもある。

 〝真剣ほんもの〟の武器を振りかざし、比喩でなく本当に〝暴君〟の首級くびを狙わんとする人々を羨ましく感じ、その熱狂に触れたいと渇望してしまう気持ちが抑えられないのだ。

 過激なルールを採用する地下格闘技アンダーグラウンドであっても、武器術は禁じられている。


「熊本の武道場が戦国時代みたいな真似をしたくなる気持ちは分からないでもないわ。その怒りが『天叢雲アメノムラクモ』以外に向けられていたのなら、対処は県警に任せて静観の一手だったわね。……でも、彼らの標的ターゲットが樋口郁郎である以上、見過ごすわけにはいかないわ」

「樋口さんが『こうりゅうかい』に熊本興行のを依頼するのではないかと、みつさんは恐れているのですね。確かに悪い風聞うわさの絶えない方ですが。そこまで恥知らずな真似は――」


 みつが明言を避けた懸念を察し、突飛な発想であろうと頭を振ろうとする神通であったが、樋口が〝暴君〟と憎まれる由縁が脳裏をよぎった瞬間、否定の言葉を自ら打ち消した。

 亡き父にとっては大切な〝戦友とも〟の一人であり、その縁から一人娘じぶんにも世話を焼いてくれる大恩人――鬼貫道明をホテルの一室に押し込め、恫喝せんとしたくにたちいちばんの〝最後の弟子〟なのだ。

 自分の都合が良いように物事を動かす有効な手段として〝暴力〟を講じる者とも言い換えられるだろう。これまで卑劣としか表しようのない悪行を重ねてきたからこそ〝暴君〟と呼ばれるのだ。〝ジョシカク〟という一種のを手に入れる為、競合団体を罠にめた一件には神通も憤怒いかりを禁じ得なかったのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が日本MMAの黄金時代に破滅したのは、『こうりゅうかい』との〝黒い交際〟が暴かれた為である。樋口自身はその一件に関わっておらず、身の潔白も一応は証明されたのだが、直系とも呼ぶべき後継団体の代表としては同じ指定暴力団ヤクザとの接触など断じて避けるべき禁忌であろう。

 だが、日本格闘技界を理不尽に振り回してきた〝暴君〟ならば、最悪の一線でさえわらいながら踏み越え兼ねないのである。

 『こうりゅうかい』としても日本最大のMMA団体と結び付くことは、莫大な収入源シノギを確保する好機でもある。〝暴君〟と癒着し、二度と切り離せないほど〝格闘技ビジネス〟に深く食い込んでいくはずだ。

 神通も〝大親分〟とその家族とのは保っているものの、『こうりゅうかい』そのものには深入りしないよう一線を引いている。〝大親分〟のほうもくみするよう手招きしたことはなかった。

 〝反社会的勢力〟と呼ばれる存在について、神通も全くの無知ではない。

 『昭和』の高度経済成長期まで遡るのだが、日本全国で過激化の一途を辿っていた『学生運動』の鎮圧が暴力団に依頼されるという事態も珍しくなかった。

 現在ほどの勢力ではなかった頃の『こうりゅうかい』も類例に漏れず、当時から〝大親分〟と共にった神通の父も社会に反旗を翻した学生たちのもとに差し向けられ、全身を血の色に染めたという。

 『昭和』から『平成』に至るまで武闘派として恐れられてきた『こうりゅうかい』だ。〝民事介入暴力〟を樋口郁郎に求められたなら、亡き父のような刺客を熊本に放つことであろう。


「裏社会の縄張り争いならいざ知らず、徒党を組んだ武道家と暴力団関係者が熊本城のお膝元でり合ったら報道機関もカメラを向けないわけにはいかないし、背後関係を洗っただけでも、『天叢雲アメノムラクモ』と『こうりゅうかい』の繋がりを嗅ぎ付けるはず。日本MMAが反社会的勢力との関係を断ち切れなかったと、ぜにつぼまんきちが騒ぐだけならマシなのだけどねぇ」

「……その報道によって日本国内の『ウォースパイト運動』が刺激される――と?」


 忌むべきモノを探るような神通の眼差しに対して、みつは首肯をもっ返答こたえに代えた。

 『ウォースパイト運動』とは格闘技そのものを深刻な人権侵害とし、その根絶を訴える思想活動である。抗議の笛を吹き鳴らしながら格闘家や試合会場を取り囲んだかと思えば、テロ紛いの手段で危害を加えるのだ。

 イズリアル・モニワが代表を務める『NSB』では、屋外興行の試合場に火炎瓶を投げ込むという〝抗議〟を受けたことがある。欧州ヨーロッパでは格闘技関係者という理由一つでナイフによる襲撃事件が発生していた。

 熊本の全土で想定される武力衝突は、日本国内に存在する全ての古武術を『ウォースパイト運動』にさせる引き金となるはずだ。その背後でうごめき、反社会的勢力の〝暴力ちから〟に頼ってを乱した『天叢雲アメノムラクモ』は、可及的速やかに法治国家から排除すべき――と、思想活動家の誰もが〝正義〟の怒りを燃えたぎらせることであろう

 『NSB』関係者の同乗を動機として大統領専用機エアフォースワンにサイバーテロを仕掛け、現在は重罪犯の刑務所に収監されている首謀者――『サタナス』を英雄として祭り上げた『ウォースパイト運動』は、思想活動全体に先鋭化の兆しが確認されていた。この事実は情報機関に身を置くおりみつだけでなく、民間人である神通も承知しているのだった。

 ありとあらゆる格闘技を許しがたい〝暴力〟と一方的に決め付けておきながら、同じ手段でもって根絶を図ることは矛盾以外の何物でもないが、自分たちこそ秩序の守護神と信じて疑わない思想は、残虐なテロ行為さえも正義の証明にすり替えてしまうのだ。

 己の手に握り締めているのは〝裁きの鉄槌〟と疑わない者たちは、とろけるような恍惚の中で際限なく残酷になれる――超大国の権威すら恐れずに正義を執行した『サタナス』が〝同志〟の中で神格化され始めた理由とも言い換えられるだろう。


「……健全とは言えない関係の『E・Gイラプション・ゲーム』に籍を置いているから、このようなことを申し述べるわけではありませんが、『天叢雲アメノムラクモ』はデタラメな積み木も同然の団体です。どこかの一点がバランスを崩した瞬間に倒壊すると思っていましたが、……今のわたしには友人の所属先。テロ事件に巻き込まれる事態は見過ごせません」


 法治国家という枠組みにいては、銃火器で武装した指定暴力団ヤクザを蹂躙することこそ最悪の事態であろう。これに対して日本格闘技界はより逼迫した状況にる。樋口郁郎が『こうりゅうかい』に接触を図らずとも、『天叢雲アメノムラクモ』と熊本武術界の諍いが〝表〟の社会に知れ渡った瞬間に格闘技を糾弾する笛が列島各地で吹き鳴らされるはずだ。

 現時点でさえ『天叢雲アメノムラクモ』が『ウォースパイト運動』から標的とされる事態は避けがたいのである。

 格闘技を偏狭な目でしか捉えられない過激思想は論外だが、地下格闘技アンダーグラウンド団体との抗争など『天叢雲アメノムラクモ』が社会秩序を乱しているとされてしまう条件もまた枚挙にいとまがない。

 団体代表の樋口自身が人権侵害という決め付けにはんばくできない〝悪行〟を幾度となく繰り返してきた〝暴君〟なのだ。昨日の岩手興行では格闘技経験を一つとして持たない岩手県奥州市のローカルアイドルにMMAデビューを約束している。

 他の選手から格好の的サンドバッグのように扱われると容易く想像できるを『客寄せパンダ』としてリングに押し上げんとする暴挙は、『NSB』が晒されてきたものと同規模のテロを『天叢雲アメノムラクモ』に引き寄せるということである。

 神通も述べた通り、ほんの小さなきっかけ一つで『ウォースパイト運動』の〝抗議〟が暴発する状況とも言い換えられるだろう。


(テロの被害は断じて許せないけれど、あの死神スーパイがわたしを殺しに来てくれるなら――)


 『ウォースパイト運動』の〝抗議〟に屈して『天叢雲アメノムラクモ』が解散に至った場合、格闘技界に居場所も築いていない新人選手ルーキーは行き先を見失うかも知れなかった。日本国内では樋口の愛弟子が代表を務めるMMA団体も活動しているが、プロデビュー戦で反則負けを喫するような少年に救いの手を差し伸べることは逡巡するはずだ。

 ヴィクターくろ河内こうちの説得をれて総合格闘技MMAから地下格闘技アンダーグラウンドへ――即ち、『E・Gイラプション・ゲーム』へ移籍する可能性も絶無ではないという意味である。

 『E・Gイラプション・ゲーム』は男女混合試合も実施している。キリサメと拳を交える機会が巡ってきたなら、四角いリングごとじょうわたマッチを叩き壊した人外の〝力〟を味わえるかも知れない。あまかける死の鳥の爪によって命が脅かされる瞬間を想像するだけでも本能に根差した蛮性が舌なめずりし、彼を〝半身〟の如く感じる〝共鳴〟が一等深くなるのだ。

 何時の間にか、苦くも甘やかな〝罪〟の味が口の中に広がっていた。


「――わたしと違ってみつさんの場合、『天叢雲アメノムラクモ』の行く末を心配する理由はありませんよね? 『MMA日本協会』の会長を兼任している文部科学大臣ならいざ知らず」


 社会の根幹を揺るがす『ウォースパイト運動』の脅威を語らっているなかにするりと割り込んできたのは、偽らざる願望である。

 友人たちがテロに巻き込まれることを望んでいるかのような本音をじた神通は、脳内あたまのなかからこれを追い出そうと、みつが明言を避けていることに踏み込んでいった。


「ホスト国の責任として、テロに準ずる危険分子を抱えた状態でオリンピック・パラリンピックを迎えるわけにはいかない――これで返答こたえに足りるかしら?」

「……やはり、が〝内調あなたたち〟が――いえ、政府が『天叢雲アメノムラクモ』の動向を気にする理由ですか。どんな建前よりも納得できますが、……焦るにしても早過ぎるのでは? 東京開催が決定してから一年と経っていませんよ」

「六年後のテロ対策を開催直前に実施しても間に合わないわ。この理屈、私たちが『しょうおうりゅう』で学んできた合戦いくさならいにも通じると、神通あなたはもう呑み込んでいるはずよ」

「……昼食ランチの席で『そん』を諳んじる気はありませんけれど……」

「オリンピック・パラリンピックを狙った事件であるかどうかは関係ない。国内で無差別テロの兆候が確認された時点で、国家の敗北も同じなのよ。それを未然に防ぐのが政府の使命。同じ言葉を繰り返すけど、ホスト国が果たすべき責任というわけ」


 学生食堂全体が賑々しい笑い声に包まれているということもあり、みつの言葉は一等重く響き、得心は別として神通も首を頷かせるしかなかった。

 活動家自身の主張はともかくとして、『ウォースパイト運動』がテロリストと何ら変わらない手段で〝抗議〟に狂奔していることは間違いない。しかも、大統領専用機エアフォースワンへのサイバーテロに影響され、元から苛烈であった攻撃性に歯止めが効かなくなっている。

 このように予断を許さない状況下で日本国内の活動家を更なる暴走へと駆り立てる危険性が高い『天叢雲アメノムラクモ』と樋口郁郎は、紛れもなく〝国家安全保障上の脅威〟であろう。少なくとも東京オリンピック・パラリンピックを六年後に控えた日本政府にとって、熊本全土に振り撒かれた憤怒いかりの火種は断じて看過できないものである。

 政府にいて国防の要を支える『国家安全保障局』が設置されたのは、今年――二〇一四年一月のことである。それから半年と経たない内に日本国内でテロに準ずる思想活動の激化が懸念される事態となったわけだ。

 国内外で展開される情報戦の一翼を担い、また任務の上でも『国家安全保障局』と密接に関わる〝ない調ちょう〟が樋口郁郎を巡る緊張状態に最大限の警戒を払うのは当然であった。

 全世界に散らばる『ウォースパイト運動』の〝同志〟は、過激思想を共有しながらも組織的に活動しているわけではない。最初に格闘技廃絶を呼び掛けた活動家も、を率いる指導者ではなかった。

 匿名性の高いSNSソーシャルネットワークサービスで格闘家や競技団体を誹謗中傷し、閉鎖的な環境に働く群集心理によって攻撃性を膨張させてはいるものの、活動自体はあくまでも個々に実行されている。ける抗議は十数人程度という小さな集まりが殆どであった。

 でもない為、拠点アジトを急襲して一網打尽にすることも叶わないわけだ。各個撃破を試みようにも、過激思想に感化された人間の判別など不可能であろう。


「どのような犠牲を払ってでも〝復興五輪〟という大義は達成しなくてはならない――みつさんの〝立場〟も多少は理解しているつもりです。外交に目を向ければ、政府の方針も『関東大震災』の後に開催された『ていふっこうねんたいいくたいかい』と変わらないでしょうし」

「父親の背中を追い掛けて歴史学を志した神通なら、きっとを持ち出してくると信じていたわ。個人的には脳の動かし方にはもう少し可愛げがあったほうが安心するけれど」


 〝復興五輪〟――『東日本大震災』を経験した日本でオリンピック・パラリンピックを成し遂げる意義へと踏み込むに当たって、神通が前例として挙げたのは昭和五年(一九三〇年)三月二四日から五日間に亘って開催された運動競技会である。

 国立競技場の前身である明治神宮外苑競技場や、日比谷公会堂など東京各所で試合が行われ、一七にも及ぶ競技の中には東京在住者という出場条件しか設けられていないものもあった。小学校連合による体操だけでなく、学生選抜チームも数多く出場している。

 『関東大震災』からの復興を指揮した東京市長・ながひでろうが健康づくりの一環として奨励した〝市民体育〟の結実であり、スポーツそのものが庶民の娯楽であった時代を映している――と、神通は理解していた。

 えて八八年後の『東日本大震災』と比べたとき、神通の脳裏に浮かんだのは、〝あの日〟から一週間ほど経過した頃にりくぜんたかの避難先で実施された〝青空道場〟である。

 どうも地面に敷く畳も満足に準備できない状況であったが、同地の柔道家が子どもたちに呼びかけて稽古を再開したのだ。

 子どもたちの心に寄り添いながら、これを見守る大人たちの健康体操も促したという。狭い避難所に籠ってばかりでは基礎体力が落ち、エコノミー症候群の危険性リスクも高まってしまうのだ。二〇一一年の〝青空道場〟は、八八年前にながひでろうが掲げた〝市民体育〟にも通じることであろう。

 『関東大震災』では仮設住宅バラックの並ぶ上野公園にいて老若男女問わず罹災者が参加する『慰安運動会』も開催されていた。当時の新聞も「震災以来の賑わい」と報じている。

 これに対して『ていふっこうねんたいいくたいかい』は、その名称が示す通り、東京復活を全世界に知らしめんとする一大事業であった。そもそもは『関東大震災』に際して各国から寄せられた支援への返礼を目的とする『ていふっこうさい』の催し物の一つなのだ。

 大義という仰々しい言葉を選んだが為に皮肉めいた調子となってしまったことを神通も密かに反省したが、〝復興五輪〟という発想そのものは『昭和』初期の『ていふっこうねんたいいくたいかい』と大きくは変わるまい。

 その一方で、『平成』に招致が実った東京オリンピック・パラリンピックと、『昭和』初期に執り行われた『ていふっこうねんたいいくたいかい』の間には、極めて近い大義を掲げているとは思えないほどの隔たりがある。

 『ていふっこうねんたいいくたいかい』は『関東大震災』の発生から七年という歳月を経て計画・実施されたものである。取材に訪れた外国人記者も驚愕と共に報じているが、この頃には火の海と化したとは想像できないほど東京という街は復活を果たしていた。

 オリンピックということでは、一九六四年の大会も〝戦争の時代〟に瓦礫の山となった東京の再建と、国際社会への復帰を満天下に示すという使命を帯びていた。は敗戦から一九年後の開催である。この時期の日本は高度経済成長期の只中にり、都民の生活を根こそぎ変えてしまうほどの都市改造も達成されたのである。

 『昭和』の二例に対して二〇二〇年オリンピック・パラリンピックの場合は『東日本大震災』発生から半年と経たない内に〝復興五輪〟を掲げ、招致に乗り出している。東北の被災地が具体的な道筋を定められていない状況にも関わらず、未曽有の大災害から甦った姿を披露して見せると、宣言されたわけである。

 紆余曲折を経て勝ち取りながら、『太平洋戦争』の勃発によってIOC国際オリンピック委員会に返上せざるを得なくなったものの、東京では一九四〇年にもオリンピックが開催されるはずであった。招致活動はながひでろう市長が先鞭を着け、『ていふっこうねんたいいくたいかい』の成果を更に発展させるという目的も含めていた。

 東京は二〇一六年大会の開催地に名乗りを上げた際、最終候補四都市に残りながらブラジル・リオデジャネイロに完敗を喫している。今度こそ〝招致合戦〟に勝つ為、に狙いを定めて『東日本大震災』を利用したというからぬ風聞が立つのは必然であろう。

 同じけんちょうらいながらも、幻となった一九四〇年東京オリンピックとは背景そのものが異なる為、日本国内に生じた反発も尋常ではない。本来は東北復興に充当されるべき予算や物資が国家事業という大義名分によって東京に回されてしまうわけだ。

 生活圏の復旧や新たな防潮堤の建設に不可欠な人材も同様であった。国立競技場の建て替えが発表されたのは『東日本大震災』から一年後――二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定されるよりも以前まえのことである。

 それはつまり、限りある資源の奪い合いが首都と被災地の間で起こることをも意味しているのだ。東京によって独占されてしまう前に助成金を確保する為、〝復興五輪〟より早い時期に開催される〝メガスポーツイベント〟を招致しようと呼び掛ける声が東北で起こり始めたことは、神通とみつ双方の耳に入っている。

 『ていふっこうねんたいいくたいかい』ひいては『ていふっこうさい』の際も大規模な反対運動は起こっていた。罹災者救済の為に拠出された予算より復興記念事業のほうが遥かに潤沢であり、街並みばかり整ったところで市民生活は改善されないという痛烈な皮肉が乱れ飛んだのだ。

 同じ東京で開催される〝復興五輪〟は、九〇年前にも通じる使命を携えている。それにも関わらず、正式決定から一年も経っていない内に『ていふっこうねんたいいくたいかい』の比ではない批判に晒されていた。

 被災地から遠く離れたな首都でスポーツ利権を食い物にする為、復興の二字を弄んでいるだけであろうという疑惑は、東北復興を圧迫し兼ねない矛盾と溶け合って膨らみ、大義の名のもとに目を逸らすには余りにも醜いひずみとなっている。


みつさんたち〝ない調ちょう〟が――というより、政府が最も恐れているのは、〝復興五輪〟を真っ向から否定する反対派と『ウォースパイト運動』の結託ですか……」


 〝復興五輪〟に浴びせられる敵意について、その起源を九〇年前まで時間を遡って紐解いていた神通は、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては樋口郁郎が政府の情報機関から〝国家安全保障上の脅威〟と警戒される最大の原因に辿り着いた。


「日本国内の活動家によるSNSソーシャルネットワークサービス上でのやり取りで判明した事実だけど、『ウォースパイト運動』の思想を基準とするなら、オリンピック正式種目に空手という〝暴力〟が追加される事態は断じて認められないそうよ。一九六四年以来、半世紀に亘って柔道が〝平和の祭典〟をけがしてきたことは国辱とまで言われていたわ」

「空手と柔道が〝暴力〟? 素直な気持ちを申し上げるなら、……狂っていますね」

「私たちには意味が分からない思考パターンだけど、からすれば極めて理性的で正当なのよ。……テロリズムとは、。邪悪な人権侵害を取り除き、本当の意味での〝平和の祭典〟を為なら何でもやるわよ」

「暴力的な手段に訴えてでもオリ・パラ開催を阻止したい過激な否定派は、全てとは言えなくとも『ウォースパイト運動』と利害が一致していると言えなくもありません。……空手や柔道の廃絶を餌にして、過激な活動家を政府や都庁に差し向ける尖兵に利用つか危険性おそれもあるわけですか」

「神通の予想との懸念は概ね同じよ。『ウォースパイト運動』を隠れみのにしても、逆に過激思想に感化されるパターンでも、厄介なことに変わりないわね。例えが歪んだ錯覚であっても、〝正義の執行〟を他者から承認されたとき、人間は理性という枷から完全に解き放たれるわ」


 憎むべき〝何か〟を存在する事実さえ否定し、滅ぼさんとする思想ほど同調し易く、暴力の連鎖と化して速やかに増殖していくものである。オリンピック・パラリンピックの中止を強硬に求める否定派の中には、各界の著名人も少なくない。は社会的地位や経済力、個々の能力が特別に秀でた人間とも言い換えられるだろう。

 〝空飛ぶホワイトハウス〟とも呼ばれる大統領専用機エアフォースワンのシステムが一時的かつ限定的な範囲ながらもテロリストに支配ジャックされるという最悪の事例と照らし合わせれば、〝ない調ちょう〟の逼迫感が神通にも理解できた。

 IT社会の申し子であった首謀者サタナスのように、何らかの能力を常人の手が届かない領域まで高めた人間が『ウォースパイト運動』と手を結んだ場合、くだんのサイバーテロに匹敵する〝抗議〟が日本で起こってしまうわけだ。その逆もまた然りというわけである。

 格闘技を人権侵害とす思想活動も、オリンピック・パラリンピック否定派も、実際にテロ事件を起こすまでは過激な主張さえ法によって認められている。活動家を未然に拘束しようものなら不当な弾圧となってしまう為、捜査当局も手詰まりに近い。


を国際社会に示すことを政府は重視しているし、その実現が今後六年の重要な任務であることも否定しないわ。でも、過激思想と相対する理由はもっとシンプルよ。数万単位の人間がひとところに固まるスポーツ大会を狙ったテロは被害も甚大。市街地を走るマラソン競技の場合は、沿道に詰め寄せた人たちがまとめて攻撃対象となってしまうわ」

「……その直後に『ウォースパイト運動』が格闘技のでテロが起きたと犯行声明を出したら、敵意は事件そのものから原因へと向けられる……」

「そのテの印象操作は放っておいてもマスコミがやってくれるわね。オリ・パラ否定派にも踊らされて、格技系スポーツの追放を呼び掛けるようになるはずよ。民衆の味方の芝居フリをしながら、犠牲者には目も向けない連中がね」


 アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで開催された市民マラソン大会に於いて爆弾テロが発生し、二九〇名にも近い人々が死傷させられたのは、二〇一三年四月一五日――ほんの一年前のことである。

 犯人の兄弟はチェチェン紛争から逃れるべくアメリカに移り住んだ難民であり、その事実は難民問題に揺れ動いていた欧州ヨーロッパで善からぬ疑心暗鬼を生み出しているという。

 オリンピックを標的としたテロ事件も神通は忘れていない。

 一九九六年アトランタ大会ではメイン会場内の屋外コンサート施設を狙った卑劣な爆弾テロが発生し、死傷者は一〇〇名を超えていた。

 一九七二年ミュンヘン大会でも国家間の敵対関係が選手村に持ち込まれたことによって鮮血の悲劇に発展してしまったが、これに対してアトランタ大会は容疑者個人の思想が暴走したテロ事件であり、凶行に至る性質は『ウォースパイト運動』に限りなく近い。


「政府や都のメンも丸潰れだって、マスコミは大騒ぎするでしょうね。自分たちがテロリズムの片棒を担いでいることにも無自覚でね。……私も他人ひとに誇れるような生き方はしていないけど、の民が流した血をメシタネにするほど落ちぶれたくはないわ」


 はテロの犠牲を絶対に防がなくてはならない――みつは一等強く言い添えた。


「女性として初めてアメリカの統合参謀本部議長になった人物が以前にこう言ったわ。二〇〇一年の同時多発テロ以来、世界は戦時と平時の間に明確な区別が付かない――と」

「希更さんの父方の祖母ばあさまでしたよね、確か。格闘技雑誌パンチアウト・マガジンで読んだおぼえがありますよ」


 重苦しい溜め息を一つ挟んだのち、神通は完全に冷めてしまったカモミールティーを飲み干した。

 テロに準ずる危険分子を看過しないというオリンピック・パラリンピック開催国の責任を強調する一方、みつは「大義」の二字だけは口にしなかった。あくまでもテロによって生じる犠牲のみを憂慮しているのだ。

 『しょうおうりゅう』宗家と古参師範の間柄でありながら、連絡を取ろうと思わないほどいけ好かない相手ではあるものの、歯車の一つとなって法治国家の秩序を支えてきた信念だけは認めないわけにはいかなかった。


きょういししゃもんを見習って『天叢雲アメノムラクモ』から距離を取れと伝える為だけに、わざわざ大学ここまで来るはずもありませんよね。注意喚起なら義兄あにに伝言を頼むだけで済みますし……」

「そう警戒しないで欲しいわね。別に潜入捜査を依頼しようというわけではないのよ。この間のようなでもないわ。神通あなたは『天叢雲アメノムラクモ』とも近しいでしょう? 友人から見聞きした情報を提供して貰いたいだけよ。『ウォースパイト運動』――というか、過激思想を爆発させ兼ねない熊本に関する情報ことをね」

「……わたしに〝かんさつがた〟を――スパイを務めろということですか……」


 つまるところ、みつは〝ない調ちょう〟への協力を神通に要請しているわけだ。

 このような相談はなしを持ち掛けられるのだろうと、神通も薄々察していた。今回が初めてではない。みつが飄然と姿を現わすときには、決まって〝何らか〟の依頼を携えてくる。

 〝ない調ちょう〟内部の処理は神通にも不明であり、そもそも〝一般人〟の関知できる領域でもないのだが、今度もまた〝民間の協力者〟として扱われるのだろうと想像していた。

 退路を一つずつ塞いでいくかのような回りくどいやり方や、友人に対するスパイ行為を強いられることへの腹立たしさは決して小さくないのだが、神通自身にとって捨て置けない状況であることも間違いなかった。

 大統領専用機エアフォースワンを狙ったサイバーテロという事例からも明らかな通り、『ウォースパイト運動』は格闘技に人間を執拗に追い詰めていく。〝抗議〟の対象も無差別に拡大させるのだ。

 忌まわしい笛の音が『天叢雲アメノムラクモ』を捉えたならば、キリサメ・アマカザリを始めとする所属選手は確実にテロの標的となる。熊本武術界との関わりも深かろうと察せられる希更・バロッサは、最も激しい攻撃に晒されるかも知れなかった。

 それどころか、関係者という理由だけで八雲未稲やおもてひろたかまで脅かされるはずだ。

 二〇〇一年の同時多発テロ以来、世界は戦時と平時の間に明確な区別が付かない――先ほどみつが例に引いたアメリカ統合参謀本部議長の見解は、神通にも重くし掛かった。

 極端な例であるが、戦争にいて非戦闘員を意図的に殺傷することは、戦時国際法で禁じられている。これに対して『ウォースパイト運動』の活動家は、自分たちこそ人権侵害を裁く資格の持ち主であると信じて疑わない。平和を乱す〝社会悪〟に人道的な措置など必要ないと考えていることは、『サタナス』の所業からも明白だ。

 サイバーテロを仕掛けた首謀者サタナスの目的は、政府の仕事を見学する為に名門学校から選抜された仲間たちと大統領専用機エアフォースワンに同乗していた『NSB』副代表の孫娘を精神的に追い詰めることであった。

 異種格闘技食堂『ダイニングこん』が狂ったように笛を吹き鳴らす者たちから取り囲まれる可能性も決して低くはない。経営者オーナーの鬼貫道明は異種格闘技戦の先駆けとなり、やがて総合格闘技に繋がっていく〝道〟を拓いた伝説のレスラーである。

 それはつまり、『ウォースパイト運動』にとって生かしておくべきではない諸悪の根源ということだ。『サタナス』に触発されて日本国内の活動家が過激化した場合、真っ先に命を狙われることであろう。

 そして、そのときには『ダイニングこん』が大統領専用機エアフォースワンと置き換わるはずである。 

 店内に特設された四角いリングでは地方レスラーの巡業なども行われている。格闘技を憎悪する活動家からすれば、文字通りのふく殿でんであろう。食事を楽しんでいるだけの客も人権侵害を助長する〝社会悪〟の一味とされるはずだ。


(店で演武を披露して下さった熊本の古流剣士の方も、樋口郁郎が招いた騒動さわぎに関わっているのかしら。オーナーの耳に入ったら、手を回して更なる大事になりそうだけど……)


 中世のいくさならいに照らし合わせるならば、激烈な感情のみにき動かされる群衆は文字通りに一族郎党に至るまで根絶やしとする〝ぞくめつ〟にも等しい所業を喜々としてやってのけることであろう。


「十割の本音を申し上げれば、『天叢雲アメノムラクモ』の行く末などはわたしの知るところではありません。……ですが、親しい人たちの凶事だけは見過ごせません」


 大恩ある鬼貫道明と『ダイニングこん』も、所属団体の垣根を超えた友人たちも、我が身を盾に代えてでも守らなければならなかった。海の向こうの遠い出来事としか感じられなかった『サタナス』という名前とその凶行が現実的な脅威として目の前に立ち上がり、神通は身震いを抑えられなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』と熊本武術界――どちらが生き残るにせよ、反社会的勢力ヤクザを巻き込む諍いに発展すれば、みつの危惧する国家安全保障上の問題まで速やかに連鎖してしまうのだ。

 格闘技も武道も社会悪の象徴であり、滅ぼすべき人権侵害に過ぎないと、一般社会へ訴える材料を『ウォースパイト運動』に与えることにもなる。

 〝プロ〟の競技団体としては異例というほどチャリティー興行イベントなどの社会奉仕に力を注ぐ『こんごうりき』さえ偽善の一言で切り捨てられ、更には同団体の運営に最高師範が携わっているという理由だけで空手道場『くうかん』も〝抗議〟の対象に加えられるのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』からMMAデビューを果たすと宣言したローカルアイドルを迎え入れ、競技選手として育成すると表明した『ちょうじょうプロレス』にも同様の事態が起こるだろう。

 猛烈な寒波の爪痕が刻まれた二月のことであるが、アメリカのマンハッタンでは、悪質な〝抗議〟に怒り狂った『NSB』のファンが『ウォースパイト運動』の活動家を殺害する事件が発生していた。その思想活動が国内でも過激化すれば、格闘技を愛してやまない『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちは、海の向こうの悲劇を日本で再現するはずだ。

 神通が任された任務上、空閑電知とかみしもしきてるにもスパイの真似事をしなくてはならないが、この二人は仲間が危険に晒された場合、自らの立場も顧みず『天叢雲アメノムラクモ』の加勢に向かうことであろう。

 その瞬間から『E・Gイラプション・ゲーム』の興行イベント会場も耳障りな笛ので包囲されるわけだ。

 歪んだ正義を執行する為に自国アメリカの大統領をも巻き添えにした『サタナス』の行動を振り返れば、テロ紛いの〝抗議〟が際限なく拡大することは火を見るより明らかである。

 何よりもテロは〝暴力〟の恐怖で社会の在り方を作り変えんとする行為である。民衆のなかで影響を膨らませる為には、残虐な大量破壊が有効であるとテロリストも知っている。犠牲者数を抑えることが前提となる戦争とは、勝利条件の基準が真逆ということだ。

 オリンピックを始めとする大規模な競技大会が攻撃対象となる。

 非戦闘員に狙い定めることを禁じた戦時国際法など関係なく、を踏み破るのがテロである。そして、それは『ウォースパイト運動』も同様であった。


「……この拗れた状況を〝ない調ちょう〟の力で操作コントロールすることは出来ないのですか?」

「ドラマや映画では謎の秘密結社みたいな権限ちからを持っているけど、それなら私の仕事もどれほどラクなコトか。きっと顔の小皺だってもっと少なかったわね」

「……今日も法治国家が守られている証と割り切れば、も誇らしいのでは?」

「今の気遣いは一〇〇点満点中七〇点ね」


 テロに相当する計画を未然に防げなかったときには、オリンピック・パラリンピックの開催国としても最悪の汚点になる――『ウォースパイト運動』が吹き鳴らす笛のは〝復興支援〟という大義まで吹き飛ばしてしまうのだった。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行から一夜が明けた現時点にいては、九州の片隅で起こった小さな騒動さわぎに過ぎない。今はまだ小競り合いも確認されていない。しかし、ほんの些細なきっかけから全世界が震撼する動乱に発展することを神通は歴史から学んできた。

 第一次世界大戦もサラエボの片隅から始まったのである。


(死地に臨んで恍惚を味わうのは、あくまでもわたし一人のこと。……戦なき世に息の詰まるような人間と親しくして下さる方々には、指の一本とて触れさせない――)


 みつが昼食時の大学食堂を選んだ本当の意図を神通はようやく理解した。テロは日常の風景を引き裂いて発生すると突き付ける為なのだ。

 『しょうおうりゅう』の宗家は他の地下格闘技アンダーグラウンド団体と比べても暴力性が高い『E・Gイラプション・ゲーム』の選手であり、鬼貫道明の世話にもなっている。これを『ウォースパイト運動』の活動家に嗅ぎ付けられたなら、平和な学生食堂が格闘技と接点のない友人もろとも爆破されるはずだ。

 えて説明しない真意まで必ず辿り着くと、光海から信頼されているわけだが、翻せばそれは友人たちを人質に取られたようなものであり、神通は一つとして嬉しくなかった。


「今回も哀川の義兄あにや『しょうおうりゅう』門下には内密という条件で良かったのかしら?」

「わたし以外の誰も巻き込まない約束ですよ。大して自由に動けるわけでもない大学生をスパイに仕立て上げるのは甚だ疑問ですが……。みつさんご自身の教え子を熊本に差し向けたほうが手っ取り早いのではありませんか?」


 『しょうおうりゅう』の古参師範であるおりみつも免許皆伝の立場であった。自らの道場を構えることはなかったものの、これまでに大勢の教え子を育てている。

 新潟県上越市に所在する『しん』なる寺院でもみつの直弟子が清廉なる精神を養う一環として、他の僧侶たちに『しょうおうりゅう』を伝授していると、宗家の神通も把握していた。

 その『しん』から相応の人数を動員して情報収集に当たらせたほうが合理的であろうという皮肉は、現在いまの神通に可能な唯一の反撃である。中部地方と九州地方で遠く離れてはいるものの、『天叢雲アメノムラクモ』の友人たちに聞き耳を立てるしかない大学生よりも、寺院間の情報網を頼ったほうが遥かに有効であるはずだ。


「この一件は神通あなた以外に適任は居ないわ。『ウォースパイト運動』の脅威を身近に感じる人間でなければ、死に物狂いにはならないもの」

「それを言い出したら、『寺院での武術指南は最悪の人権侵害』と真っ先に決め付けられると思いますが……。落ちぶれた宗家よりもずっと危機感を共有して頂けるのでは」


 極めて身近な人々にテロの被害が及び兼ねない状況だけに要請を断るはずもないと、揺るぎなく確信しているみつの態度が神通には一等腹立たしかった。熊本武術界の有りさまを表示する携帯電話スマホを自分との連絡用に使うよう指示された瞬間には、「使い方が分からないモノを渡されても困る」と付き返してやりたくなったほどである。

 購入したばかりと一目で分かるくらい真新しい携帯電話であった為、最初から不自然に感じていたのである。つまり、みつは承諾を前提として、を用意していたわけだ。

 インターネットに接続できる物は、忌むべき顔が記憶の水底から引き摺り出されてしまう為、友人たちに時代遅れと揶揄されても触れないようにしていたのだが、即時の情報連絡が不可欠となる任務だけに受け取らないわけにもいかなかった。


(父が愛用していた赤シャツに合わせたのだとすれば、半世紀分の執着を拗らせた怨念でしかありませんし、そうでなくとも悪意あるとしか思えませんよ、みつさん……)


 意図的に選んだ物であるのかをみつただす気も起きなかったが、携帯電話スマホの赤い色合いすら神通には皮肉としか思えない。

 平安時代末期に朝廷すら圧倒する権勢を誇ったへいしょうこくきよもりは、十代半ばの子どもたちを密偵として放ち、へいに悪意を抱く者たちを捜し出して捕らえたという。

 「へいにあらずんば人にあらず」とまでおごり高ぶった恐怖政治の象徴は、誰も彼も頭髪を禿かむろ――現代でいう〝おかっぱ〟に切り揃え、赤い装束を纏っていた――と、古典『へいものがたり』も伝えている。


「今のところ、武術家たちは土地や流派の重鎮のもとに寄り集まって、その集団グループごとに固まっているらしいわ。今後は少しずつ連携する方向に進んでいくでしょうけど、武術界の中でも熊本城下とそれ以外の地域で張り合ってきたようだから、目的は一致していても団結が完成するまでにはそれなりの時間が掛かる公算よ」

「先程の写真は『天叢雲アメノムラクモ』を熊本城に近付けさせないと誓い合う決起集会の一幕ということですか。樋口さんの発表を受けての反応ということは間違いありませんし、昨夜から今朝に掛けて熊本県内の各所あちこちで同じことがあったのでしょうけれど、……県警のがあったとしか思えませんね」

「詳細は掴み切れていないけど、否定し切れないわ。特に大きな集団グループを束ねる『よし』という古い名家は、とうきよまさの次に熊本藩を治めたほそかわ家の功臣だったというわ。明治維新から遠くなった現代いまでもを保っているはずよ」


 『よし』という家名なまえは神通も聞きおぼえがあった。時代を遡ると、末期室町幕府の中枢を担ったの名門に辿り着く。後世にいて〝未完のてんびと〟とも謳われるよしながよしは、幕府を支える立場でありながら、その牽制は主君たるあしかが将軍家をも上回り、いっときは幕政を取り仕切っていた大人物である。

 のぶながとよとみのひでよしとくがわいえやすという〝戦国三英傑〟に先駆けて天下の采配を振るった稀代の名将とも言い換えられるだろう。

 ながよしの行政手腕や『三好政権』にける訴訟の判例は、歴史学者であった父の書物でもたびたび取り上げていた。それが為に神通の記憶にも強く刻まれていたわけだ。尤も、みつが付け加えた説明はなしは亡き父の研究でも網羅していない事柄が多く、とうしょうだいがくで日本史を専攻している学生としても前のめりとならざるを得なかった。

 みつが目を通した史料によると、熊本藩士として同地に根を下ろした三好家はながよしおとしだねを祖としているという。現代にける〝婚外子〟という出自ゆえに正式な家系図にも記されていないが、熊本藩祖の父――ほそかわただおきそば近くつかえ、幼少の頃から大往生に至るまでのみちのりを共に過ごした竹馬の友であるそうだ。

 ただおき乳母めのとを務めた中村家から妻を迎えるなども同然の扱いであり、けいちょう九年(一六〇六年)に起こった細川家中の内部粛清では、瀕死の重傷を負いながらもうっの大任を果たしている。

 生涯のあるじが没したのちも細川家を支えたが、熊本藩三代藩主の家督相続を巡って発生したかいえきの危機を切り抜けると、として数年越しのじゅんを遂げたと伝わっている。

 明治維新を迎えるまで細川家の歴史と共に歩んできた名門であれば、熊本城をけがさんとする『天叢雲アメノムラクモ』の討滅に臨むべく大勢が三好の屋敷に詰め寄せるのも当然であろう。かつては〝未完のてんびと〟も掲げた『さんかいびしいつくぎぬき』の家紋が旗印であった。

 最も神通を驚かせたのは、この三好家こそがバロッサ家を熊本に招いたことである。江戸時代を通じて武芸を奨励した細川家の功臣だけに熊本武術界との結び付きも深く、県内諸流派や道場の相談役も果たしている――と、みつは言い添えた。

 三好が支えた忠興は、額を割られながらも怯むことな修羅のかっせんを突き進み、信長から称賛された勇将である。その魂を受け継いだ人々が猛き吼え声を上げたわけだ。


(昨日の試合、お母上がセコンドに付いておられたはずですけど、希更さんはどこまで事態を把握しておられるのかしら。最悪の場合、ご実家と対立し兼ねない状況ですし……)


 九月の開催が予定されている『天叢雲アメノムラクモ』次回興行は、希更にとって故郷に錦を飾る〝凱旋試合〟となったはずなのだ。それにも関わらず、生まれ育った熊本と所属団体の間に埋めがたい断絶が生じてしまったのである。

 人と人との調和や相互理解を主題とするアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の主演としても、この板挟みは何より堪えるだろう。

 神通自身の〝立場〟も友人と一緒おなじである。今や己の〝半身〟の如く感じるほど深い〝共鳴〟で結ばれたキリサメや、法治国家で廃れゆくしかなかった古武術を応援してくれる未稲に対して、その動向に探りを入れなければならない状況に陥ってしまったのである。

 もはや、友人として正面から向き合えなくなるかも知れないのだ。気兼ねのない親交が遠のいてしまった懊悩を任務の一言で割り切れるほど神通も達観してはいなかった。


「……わたしに断られるとは思わなかったのですか? よりにもよって熊本に差し向けるような真似を……。まさか、父が命を落とした理由を忘れたわけではありませんよね?」

神通あなたは父親の〝血〟が濃いもの。性格を利用しようと企むほど私も性悪ではないつもりだけど、それでも恩人や仲間の危機に黙っていられる人間ではないと、他の誰より知っているつもりよ。もしかすると、神通あなた以上にね」

「ねっとりと気色悪い言い方、本当に堪忍して下さい。……横からられた幼馴染みへの未練をその子どもに語って聞かせるようで、父も草葉の陰で凍り付いていますよ」

「……一緒になれなかった女の負け惜しみみたいになったのは否定できないわ」


 神通が小さな声で連ねた言葉は酷く抽象的であり、隣席ちかくの誰かが聞き耳を立てていたとしても、正確には意図を掴めなかったことであろう。しかし、差し向かいで腰掛けるみつにはでも十分であり、何とも喩えがた表情かおで口の端を吊り上げて見せた。


「あいつの――あいかわの〝血〟を引く神通なら、一触即発の狭間に飛び込むときでさえ魂が昂ると信じていたのも間違いないわ。〝眠れる獅子〟なんて言われていたも、らんらんと輝いていたもの」


 まるで不意討ちの如くみつから一つの指摘を突き立てられ、神通は言葉を失った。誰にも気取られないよう心の奥に押し隠していたモノを見破られてしまったのである。

 日本格闘技界に君臨してきた〝暴君〟を迎え撃たんと勇み立った熊本武術界の狂騒や、が火種となって大きく燃え上がることが想定される『天叢雲アメノムラクモ』との争乱に心を惹かれてならなかった。

 乱世さながらにやりかたなを振りかざした武術家の群れが心の底から羨ましかった。『しんげんこうれんぺいじょう』にける〝御前試合〟のようなではなく、命が砕けて散る〝本物のいくさ〟に撃って出ようとしているのだ。

 ルールで安全が約束されたはずのMMAで死の気配を撒き散らしたキリサメ・アマカザリと、バーリトゥードなんでもアリ形式で命のり取りが出来るかも知れない――そのように想像した瞬間には、快楽としかたとえようのない衝動が全身を駆け抜けている。

 おそらくみつは、その〝全て〟を見透かしていることであろう。一つとして言い逃れできなかった。地下格闘技アンダーグラウンドでさえ満たせない〝何か〟を本能が求めたとしか表しようがなく、神通自身にも抑え込めないのだ。

 『E・Gイラプション・ゲーム』のリングで無双の二字こそ相応しい強さを誇る神通を指して『りん』と呼ぶ仲間も少なくなかった。極めて優れた者に与えられる〝麒麟児〟と同じ意味合いの異名であるが、そもそも由来となったせいじゅうは、平和な時代に訪れるものと伝承されている。

 しかし、いくさなき『平成』に出現あらわれた麒麟は血を求めて彷徨っており、ほんの小さなせっしょうすらいとう聖獣の伝説とは掛け離れていた。鞘の如く肉でもって角を覆い、何物をも傷付けなかったとされるが、神通は剥き出しの暴力性が唸る地下格闘技アンダーグラウンドのリングで命を壊す奥義わざを研ぎ澄ませ、それ故にペルーの死神スーパイに余人の立ち入れない〝共鳴〟を感じているのだ。

 『昭和』と呼ばれた時代に血の海を作り出した〝眠れる獅子〟と、戦なき世の〝底〟でも試しているかの如く血に餓えた麒麟――哀川のおやをそれぞれの幼少期から見つめてきたおりみつの指摘だけにはんばくしようもなく、神通は呻き声を引き摺りつつ窓へと目を転じるしかなかった。


「わたしに付き纏うのは、ひょっとして父を救えなかった罪悪感を慰める為ですか?」

「惨めな想いを抱えて生きなければならない幼馴染みの意地かもね」


 ガラスに映った顔は感情を制御コントロールできない子どものようなし口であり、神通自身が誰よりも呆れ返った。

 顔ということならば、正面のみつも健やかとは言いがたい。数ヶ月に一度という間隔でしか会わない為、段々と濃くなっていく疲弊の度合いを強く感じ取ってしまうのだ。元から見る人に険しい印象を与える面持ちの女性であったが、近頃はますます感情を表に出すことが少なくなってきたように思える。

 先程は腹立ち紛れに「他者ひとから恨みを買い続ける人生の疲れが顔面に出ている」といやをぶつけたものの、みつの変化がどうしても気に掛かってしまうのだ。

 そのように思ってしまう自分自身が神通は心の底から煩わしかった。十割の本音を晒すならば、訳知り顔で接してくるみつには一日も早く死んで欲しい。

 しかし、〝ない調ちょう〟という立場で日本社会の安全を守らんとする彼女の信念は高潔とさえ思っていた。他者ひとから忌み嫌われることもいとわない覚悟を湛えた瞳で見つめられると、協力するしかなくなってしまうのである。

 これもまた亡き父――あいかわから受け継いだ〝血〟にき動かされているのかと考えると、ガラス窓の顔はますます見苦しい有りさまとなっていくのだった。

 甚だ悔しいが、みつの凛然たる面持ちが神通には見惚れてしまうほど美しかった。


(……結局、わたしも熊本から――から逃れられぬ宿命さだめということでしょうか。父の命も、……『しょうおうりゅう』の歴史も、丸ごと呑み込んだ〝火の国〟からは……)


 目の前の女性ひとにだけは聞かれたくない言葉を心の中で呟きながら、神通は右の人差し指でもって己の左頬を撫でた。宇宙そらを翔ける流れ星のような軌道を指先で描いていた。

 今は追憶の中でしか手を触れることが叶わない父の左頬には、痛々しいほど血の色が透けて見える一筋の傷が刻まれていた。を無意識の内になぞっていたのである。

 大学食堂は相変わらず賑々しく、普段いつもと変わらない昼食時の風景であった。そのありふれた日常から神通ただ一人が切り離され、後戻りできない状況に放り出されている。



                     *



 公営競技に馴染みのない者には誤解されることも多いが、日本の競馬場は年齢による入場制限を行っていない。義務教育が完了していない子どもでさえ競馬は拒まないのだ。これは〝中央〟であろうと〝地方〟であろうと変わらなかった。

 未成年者が禁じられているのは、馬券の購入――即ち、賭け事への参加である。

 同じ〝人馬一体〟でありながら、馬術競技とも異なる疾走感に満ちた競走レースを純粋に楽しむ権利は、年齢も肩書きも関係なく平等であった。

 一二時五分発走の競走レースに間に合うよう正門を潜った少年をすれ違う人々が不思議そうに目で追ってしまうのは、競馬場には不似合いなじゅうどうを纏っている為だ。裾や袖が四肢の長さに合っていないのではないかと誰もが小首を傾げていたが、それが黎明期の様式を再現した物と気付かないのは無理からぬことであろう。

 腰に締めた黒帯を揺らしながら軽やかに進むのは、世界を相手に闘った『明治』の伝説的柔道家――前田光世コンデ・コマの柔道を現代に甦らせたでんである。

 親友のキリサメ・アマカザリを引き連れ、奥州市に所在する〝地方〟の競馬場を訪れたのだ。やや距離を取ってはいるものの、八雲未稲も二人の後からいてくる。

 彼らより一回り近く年長者である本間愛染は、周囲まわりから〝未成年こどもの引率者〟と誤解されることが甚だ不満の様子だが、色褪せた壁が深い味わいを生み出している建物や、醤油の香りが漂ってくるプレハブのような外見の食堂など、『昭和』の趣を色濃く残した風情が琴線が触れたのか、携帯電話スマホのカメラ機能を使って端から端まで撮影して回っていた。

 興味を惹かれた物へと鼻息荒く駆け寄っていく愛染の言行は半ば幼児に近く、後から追い掛けていった未稲が迷子にならないよう引き留める有りさまであった。


「おれもまだペルーのことは全然知らねぇんだけど、競馬って流行ってたのか?」

「リマにも――故郷にも競馬場はあったよ。そういえば入場はいったことは一度もないな。馬に乗る機会は何度かあったけど、……競馬に注ぎ込める種銭カネもなかったし」

「キリくん、乗馬経験あるの⁉ ますます時代劇の適性バッチリじゃんっ!」

「身近なトコじゃ哀川も馬をんだぜ。競馬や乗馬と違ういくさの為の馬術をな。手綱を持たずに馬を走らせて大弓を使う『しゃ』の動画、以前まえに見せて貰ったことがあるぜ。まで嵌めてな。さすがはたけ騎馬軍団のお膝元だけあるぜ」

「電知の話を聞いているだけで簡単に想像できるのが神通氏らしいよ」

「同門の仲間と全速力で馬を走らせながら槍をカチ合わせる稽古もやってたぜ――って、何時から哀川アイツのことを下の名前で呼ぶようになったんだよ?」

「……それは成り行きというか――説明し始めるとややこしくなるから、また今度な」


 〝中央〟と〝地方〟で共通することであるが、競馬にいては競走レースの前に下見場パドックと呼ばれる場所で出走馬が披露される。観客たちにとっては競走馬の状態コンディションを己の目で確かめる為の貴重な時間でもあるのだ。

 キリサメたちが訪れた競馬場の場合は、正門と一体化した建物の裏側に円形の下見場パドックが設けられており、次の競走レースに出走する全六頭の三歳馬が現在いまも厩務員に引かれながら周回している最中であった。

 あしあお鹿くろ鹿がそれぞれ一頭ずつ。鹿が三頭という組み合わせだ。

 二〇一四年六月現在の下見場パドックは、全面が砂地ダートである。馬券を握り締めた成人おとなに混ざって柵の裏側に立つキリサメは、六頭の競走馬を双眸で順繰りに追い掛けながらも、に化かされたような気持ちを持て余していた。

 肩を並べて下見場パドックを眺める電知は、そもそも奥州市ここに居るはずのない人間なのだ。

 ただただ呆気に取られた為、未だにたずねていないのだが、身辺警護ボディーガードとして『八雲道場』に雇われている幼馴染み――とらすけから敗戦の報を受けたことは間違いあるまい。

 あるいは『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間から〝何らか〟の連絡が届いたのかも知れない。試合直後にキリサメの行く手を阻んだ人々と同じロゴマークを電知はじゅうどうに背負っているのだ。

 総合格闘技MMAの『天叢雲アメノムラクモ』と地下格闘技アンダーグラウンドの『E・Gイラプション・ゲーム』で出場する興行イベントは異なるが、近い時期に試合が行われる為、キリサメと電知は勝利を交換し合おうと誓っていた。

 とうとう約束を果たせずに終わってしまったわけであるが、それで腹を立てる電知でないことはキリサメが誰よりも理解している。一緒に取り組んだ特訓トレーニングを生かし切れず、危険行為を繰り返した末の反則負けという最悪の結果を詰ることもあるまい。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表――ヴィクター黒河内が一方的かつ強引な接触を図ったことについて〝何らか〟の言及があるのではないかと少しばかり身構えたものの、『天叢雲アメノムラクモ』岩手大会が開催された総合体育館に飄然と現れた電知は「地方競馬行こうぜ!」と真っ白な歯を見せて笑うばかりであったのだ。

 全く想像していなかった一言にキリサメはすっかり面食らってしまい、気付いたときには奥州市唯一の競馬場に足を踏み入れていた次第である。


競馬場ここまで私を引き連れ回しておいて、会話から仲間外れとは宝の持ち腐れだな。エリザベス二世女王陛下が観戦した日のケンタッキーダービーにも居合わせた人間だぞ。〝人馬一体〟の感動が与えてくれる閃きインスピレーションを聞かれもしないのにご披露と行こう」

「本間氏、そもそも電知のことを良く知りませんよね? 会話にならないのでは……」

「まァな。本間コイツとはすがだいらで睨み合って以来だぜ」

「そう言っていられるのも今の内だぞ、前田光世コンデ・コマ柔道わざ現代いまに継ぎし少年よ。我が愛しの神通から話は聞かせて貰っている」

「何だよ、それ⁉ 哀川の野郎、見かけによらずお喋りじゃねーか!」

「私のニラんだところ、元カノのご実家へ挨拶に行く途中なのだろう? 青森直行は味気ないから岩手でふらりと途中下車といったところか? 親友と二股とは知れ者め!」

「そんな与太話デタラメ、誰から吹き込まれたんだ⁉ 上下屋敷から哀川の耳に入って、そっから回り回ったのか⁉ 情報網、怖ッ! 風説の流布ってこ~ゆ~風に始まんのかよッ!」


 下見場パドックと隣接する建物の壁には出走表が掲示されているのだが、馬名から馬場の状態に至るまで白墨でもって手書きされていた。周回中の六頭を飛び越えて古めかしい看板に跳ね返ったのは、電知の悲鳴と愛染の高笑いである。


「情報網と言えば、僕たちが体育館に居ることをみーちゃんにいたのか? まさか、偶然じゃないだろうし……」

「おれだって驚いたんだぜ? 寅から聞き出した病院に行ってみたら、あさ一番イチで退院してたって言うじゃねーか。どうすっかって思った瞬間、ピンと来たんだよ!」

「本当に偶然なのか? 勘だけで足を向けたら本当に出くわしたって?」

「歩き出した後に八雲と携帯電話ケータイの番号を交換してたって想い出したんだけどよ、文明の利器より自分の勘を信じるのも悪くねぇってな」


 あるいは神仏の導きかも知れないと愉しそうに笑う電知に対して、キリサメはまたしても目を丸くしてしまった。くだんの総合体育館が所在する多目的運動広場では、岩手興行の開催前日にも哀川神通と思いがけず遭遇していた。

 格差社会の最下層で生きてきたキリサメは、神の加護など信じたおぼえはない。

 加えて何事にも無感情であったのだが、短期間に二度までも親しい人間と引き合わされては、その偶然に〝運命〟という二字を意識せざるを得なかった。

 一方の未稲は二人から少しだけ離れた位置で会話に耳を傾けていたのだが、電知が「神仏の導き」と口にした瞬間、この上なく気まずそうな表情かおで左右の掌を擦り合わせた。

 ここに至る流れから神仏へ心を寄せる合掌と捉えるべきであろうが、露骨あからさまに電知から目を逸らした為、謝罪の仕草と思えなくもない。

 尤も、未稲の不可解な様子には同行者の誰も気付いていなかった。下見場パドックでは色取りりのヘルメットを被った六人の騎手ジョッキーが整列ののちに一礼し、それぞれが担当する競走馬へと向かっていた。鞍に跨る姿は鮮やかで、柵の裏側に立つ皆が釘付けとなっているのだ。

 奥州市の競馬場では、馬場――競走レースを行う楕円形のコースと下見場パドックが直通している。両方とも全面が砂地ダートであり、〝人馬一体〟の後ろ姿を見送るキリサメの鼻孔にも故郷ペルーのものとは異なる砂色サンドベージュの風の匂いが届いていた。


「みーちゃんに確認もせず奥州市こっちまで来るなんて、幾らなんでも無茶が過ぎるだろう。僕たちが東京に出発した後だったら、笑い話にもならないすれ違いじゃないか」

「おれは地方競馬を観戦しに来ただけだぜ? 偶然たまたまお前らも奥州市こっちに居たってだけさ」

「……大工の仕事を放り出して? 今日は平日だぞ」

「職人にも有給休暇はあるんだぜ。『空閑組ウチ』は急な申請も文句ナシで即対応だもんよ」


 地方競馬の観戦が奥州市を訪れた理由と電知は語ったが、休日と比べて集客に差のある平日に東京から足を運ばなくてはならないほど重要な競走レースなど行われるわけがあるまい。

 平素いつもであれば、訓練トレーニングを兼ねてどこまでも自転車ママチャリで旅する電知が今日は新幹線を利用していた。早朝の東京駅に大慌てで駆け込んだことは間違いないだろう。

 彼の行動が意味するものを心の深い部分で受け止めたキリサメにとっては、他の観客ひとびと下見場パドックから観戦席に移る〝流れ〟を作ってくれたことは僥倖さいわいであったに違いない。感情によって唇が震える瞬間は、親友にも家族にも見せたくないものである。

 その瞬間を視界の端で捉えたらしい愛染には、何時になく優しい調子で肩を叩かれた。



 全国に点在する他の競馬場と同様に奥州市の施設も屋内外のそれぞれに観戦席が設置されている。キリサメたち四人がゴールに程近い屋外オープン席へと並んで腰掛けた頃には、コースでもスタート地点となるゲート式発馬機の準備が進められていた。間もなく当該競走レースの馬券発売を締め切るという連絡が場内に放送されることであろう。

 競馬といえば、血統も恵まれた優駿と百戦錬磨の名騎手ジョッキーが打ち揃い、地上波テレビでも毎週の如く生中継される〝中央〟の重賞競走レースばかりが注目されるが、その土地々々に根付いた〝地方〟の競走レースも大勢から愛されているのだ。

 『昭和』の風情を色濃く残す奥州市の競馬場は、外国人観光客も興味を惹かれてならないのだろう。キリサメたちの前列にも海外から訪れたものとおぼしき男女ふたりが腰掛けていた。

 男性のほうは光を跳ね返して輝く美しい金髪ブロンドを三つ編みに結わえ、隣席にて寄り添う女性は赤褐色の頭髪かみが緩やかに波打っている――意識しなくとも視界に入り込む後ろ姿から欧米の客人であろうとはキリサメも察している。

 赤褐色の頭髪かみを風に靡かせる女性の真後ろに腰掛けた未稲は、先程から異様に口数が少なかった。キリサメと愛染を挟んで距離を取った電知に対し、妙に気まずそうなのだ。

 その電知が以前に交際していた女性のことで愛染から冷やかされている最中にも未稲はを控えていた。

 くだんの女性――とちないこまとは奇妙な成り行きで知り合い、ストリートミュージシャンである彼女にキリサメの応援歌を依頼するほど親しくなっている。前のめりで電知を揶揄しても不思議ではないが、何故だかコースの外に立ち並ぶ木々を眺め、口を噤み続けていた。

 何人もの競馬ファンと一団となって下見場パドックから屋外オープン席に移動した為、人並みに埋もれた未稲が電知への接近を避けている理由に勘付く者もいなかった。


本物ガチの競馬ファンに叱られるかもしれねぇけど、目の前のコースで『メイセイオペラ』が走ったんだって思うと、さすがに武者震いしてくらぁ」

「……同じ名前を昨日の開会式オープニングセレモニーでも聞いた気がするけど、競走馬……なんだよな?」


 電知の口から『メイセイオペラ』という馬名なまえが語られた瞬間、前列に座っている男性は三つ編みが跳ねる勢いで身体を揺らしたが、キリサメは日本競馬と接点がなかったということもあって反応は至って薄い。

 その馬名なまえをキリサメが初めて耳にしたのは、自身のMMAプロデビューとなった岩手興行の開会式オープニングセレモニーであった。卑劣な脅迫によって活動を阻まれた奥州市出身のローカルアイドルを『天叢雲アメノムラクモ』のリング上へと導き、未だ逮捕されていない犯人への宣戦布告を手助けした樋口郁郎が彼女の闘志をメイセイオペラの生きざまになぞらえていたのだ。

 会話にも加わっていない部外者ブロンドの心が馬名なまえを聴いただけで揺さぶられてしまうほどの優駿とはキリサメも推察しているが、まさむねと同じ〝東北の雄〟の異名で呼ばれた奇跡を知らない為、所属団体の代表がローカルアイドルを〝仲間〟として紹介した際にえて引用した理由も、隣席となりの親友が比喩でなく本当に身震いした意味も理解できなかった。

 第一試合の準備がある為に開会式オープニングセレモニーには参加せず、待機場所のモニターで僅かに眺めたのみであるが、くだんのローカルアイドルはメイセイオペラと並べられた瞬間、誇らしげな表情に変わったのだ。当然ながら、その想いにもキリサメは寄り添えない。


「〝地方競馬〟の壁をブチ破って〝中央競馬〟に殴り込みを掛けた名馬だよ。伝説の一戦はが二歳の頃だから、ビデオでしか知らねぇんだけどさ」

「一九九九年のフェブラリーステークスだな。神通とまだ巡り逢えていなかった一一歳の私は人生そのものが味も素っ気もない灰色だったが、テレビの前で奇跡を見届けた瞬間はさすがに胸が熱くなったよ。あの日、天をいた〝オペラコール〟は永遠の想い出だ」


 電知の言葉を引き取った愛染が当時の想い出を交えながら語った通り、メイセイオペラとは〝地方〟の所属でありながら〝中央〟の晴れ舞台で優勝した唯一の競走馬である。

 一九九九年一月三一日に東京競馬場の砂地ダートコースで開催された重賞競走レース――『フェブラリーステークス』にいて、やはり〝地方〟で闘う旗手ジョッキーの鞭で栄光を掴んだのだ。

 出走した一六頭の中で〝地方〟から臨んだのはメイセイオペラただ一頭のみであった。

 日本では一九九五年から〝地方〟の競走馬が〝中央〟の競走レースに挑戦する機会が増えていた。その転換期にメイセイオペラは前例なき〝道〟を拓き、〝中央〟を駆け抜けて〝栗毛の伝説〟となったのである。

 競走馬生命を危ぶまれるほどの重傷を負いながらも復活を遂げ、〝地方〟が〝中央〟で勝利するという快挙を成し遂げた〝栗毛の伝説〟は、まさしくとうくつの体現なのだ。


「……本間氏、浮世離れしているように見えて、案外、俗っぽいですよね」

「私は仙人を気取ったおぼえなど過去に一度もないぞ。最悪で最高な俗世を楽しまなくてはあっという間にことだまも底を尽きる。競馬をカジッたのは父の悪友の影響だがな。家族ぐるみでカラオケに繰り出したときには『さらばハイセイコー』涙の合唱がお約束だ」


 メイセイオペラの生きざまをキリサメに語って聞かせる解説役は、電知から愛染が横取りしていた。無論、前者も全くの無知というわけではなく、屈腱炎が主な原因となって二〇〇〇年に競走馬引退を迎えたことは二人が声を揃えて話している。

 キリサメは二人の話を繋ぎ合わせることで〝栗毛の伝説メイセイオペラ〟の概略あらましを理解していった。

 〝中央〟と〝地方〟に分かれた日本競馬の仕組みは、予備知識がないキリサメには口頭の説明だけでは殆ど分からなかったのだが、それでも〝岩手最強〟とうたわれるくらい連勝を重ねたからこそ、特別な一種の挑戦権が得られたということは辛うじて飲み込めた。


「今日という日にこの競馬場を訪れることになったのは、まさしく運命。ないしは宿命。丁度、二〇年前の今頃に神の流れ星が降臨したのだよ」


 愛染の答え合わせでもするように自身の携帯電話スマホからインターネット上の百科事典へと接続アクセスし、不特定多数の有志が書き込んだ記事によって基本情報を確認した電知も嬉しそうに唸ったが、メイセイオペラは一九九四年六月六日の誕生うまれである。

 しゅとなった現在は海外の牧場で過ごしているが、現役時代には競馬場ここからすぐ近くの厩舎を本拠地ホームグラウンドしていた――愛染に負けまいと、電知も次々と説明を重ねていく。

 その電知はメイセイオペラの写真が表示された携帯電話スマホをキリサメの眼前に翳した。液晶画面の中で静かに佇む〝栗毛の伝説〟は、鼻筋に真っ白な流れ星が走っていた。


「まさしく流れ星となって東京競馬場を貫いた〝栗毛の来訪者〟以来、今年で一五年。伝説を継ぐ者を今でも誰もが待ち続けている。如何なる者にも機会は等しく舞い降り、その刹那の煌めきを掴んだ者が歴史を動かすと、私に――いや、世界に教えてくれたのがメイセイオペラだ。それは偶然の奇跡ではなく、全身全霊の結晶だとえて言い切ろう」


 間もなく発走委員スターターが馬場に姿を現わし、どこからでも良く見える高い台の上で真っ赤な旗を振った。曇天の下で風になびくと、それは炎の揺らめきのようにも見える。次いで場内のスピーカーから管楽器が軽妙に弾むファンファーレが放送され、何人かの観戦客が勝利に賭けたであろう馬名を叫んだ。

 地上波キー局でテレビ放送される重賞レースでは、発走の合図でもあるファンファーレは生演奏される。その印象イメージしか持っていなかった未稲は、録音されたものが頭上から降り注いだ瞬間、前列の女性の脳天に丸メガネが吹き飛ぶくらい驚いていた。

 最後の一頭が発走準備ゲートインを完了したのは、今すぐ馬場に穴を掘って隠れたいと言いたげな表情かおの未稲が赤褐色の頭髪かみの女性から丸メガネを受け取っている最中であった。

 ゴールから二〇〇メートル手前に設置されたゲート式発馬機は、競走馬の収まる枠が番号ごとに細かく分かれている。六頭の三歳馬はそれぞれに割り当てられた枠の中で発走の瞬間を待つわけだ。

 慣れたと言い難いコースに緊張しているのか、あるいは気に障ることでもあったのか、枠の内側で荒れている馬がおり、少しばかり発走が遅れていた。

 繊細な生き物である馬を宥め、共に競走レースへ臨むのも鞍上の役目である。


本間コイツと違っておれは後追いの上に聞きかじりみて~なモンだけどよ、メイセイオペラも結構な気性難だったんだよな。確か母親譲りなんだっけか」

「競馬は『血のスポーツ』とも呼ばれるほど両親ひいては累代の血統が影響する。潜在する能力ちからとして歴史が積み重なっていく。優駿の血が次なる優駿を生み出すという遺伝子の循環とも言えような。〝人馬一体〟の芸術を財布で語るのは好きではないが、莫大な予算が唸りを上げる〝中央競馬〟の世界にエリート馬が揃うのは、つまりはだ。メイセイオペラの場合は母親の荒ぶる〝血〟が濃かったわけだな」


 一方で、父親の血統を遡ると良血に行き着く――そのように付け加える愛染の双眸は、何時になく虚ろであった。鉄製の骨組みに頭部などをぶつけて怪我などしないよう騎手ジョッキーから宥められる競走馬を見つめながら、競馬場ここではないどこか遠くに意識を飛ばしているような表情は、『血のスポーツ』と口にした直後から始まっている。

 世界的な作曲家のもとに生をけ、自身も作詞家を〝本業〟としている本間愛染は、人と競馬の違いこそあれども、〝血〟によって左右される運命に対して余人には計り知れない思いを抱いているのだろう。

 あるいは名門の令嬢という〝血〟の宿命さだめを背負っていればこそ、哀川神通のことを溺愛しているのかも知れない。彼女は古武術宗家として流派の歴史としており、数世紀に亘る継承の維持に己の人生を捧げることさえ厭わないのである。


「遠征前にも地元の水を持っていって、それを飲んで落ち着いたって逸話ハナシもテレビで観たおぼえがあるぜ、おれ。伝説の『フェブラリーステークス』の直前まえとかな」

「元々、メイセイオペラは賢い子だ。母親の性格は引き継いでいたが、経験を重ねるたびに変わっていったぞ。〝血〟を超える瞬間に立ち会えるのも競馬の醍醐味だろう。……優れた〝血〟のみを選り分けるバッソンピエール家とは違う」


 不意に愛染の口から零れ落ちた『バッソンピエール』という家名ファミリーネームにキリサメは聞きおぼえがなかった。電知と未稲も揃って顔をしかめた為、キリサメだけが取り残された恰好である。

 前列に座っている外国人の男女ふたりも、その家名ファミリーネームに反応して小さく呻いたようだ。

 遡ること四ヶ月前――日本移住と同じ時期にソチ冬季オリンピック・パラリンピックが開催されていたのだが、熱闘の模様を放送するテレビから幾度も『バッソンピエール』という家名ファミリーネームが聞こえてきたことをキリサメは完全に忘れている。

 右隣の電知に穏やかならざる面持ちの理由をたずねようとするキリサメであったが、口を開くよりも発走のほうが僅かばかり早かった。

 くだんの競走馬も落ち着きを取り戻したようだ。間もなく発馬機の枠ごとに設けられた扉が一斉に開き、六頭の三歳馬が勢いよく飛び出していった。

 〝中央〟に決して引けを取らない迫力で砂埃を巻き上げながら、〝地方〟の新星たちが 一四〇〇メートルを駆け抜けるのだ。


「きっと〝中央競馬〟の基準じゃ恵まれた血統とは言えねぇんだろうな、メイセイオペラは。おれの知る限り、練習環境や設備を整えるのも一苦労だったみてェだしな。いよいよこれからって時期ときに頭蓋骨をやっちまったって言うし……」

「地元の人たちの愛によって支えられる〝地方競馬〟がエリート揃いの〝中央〟と互角に闘うのは、あらゆる意味で試練の連続であったと聞く。……〝雑草魂〟に希望を抱いた人たちの期待も重く圧し掛かったはずだよ」

「それでもメイセイオペラは闘って闘って闘い抜いて、空前の〝道〟を切り拓いた。夢を掴む資格は〝血〟に縛られねぇってコトを〝雑草魂〟で証明してくれたワケだぜ」

「血統――あるいは才能を裏付ける出自と言い換えたほうが分かり易いか。〝地方〟から出張ってきた得体の知れない一頭の下馬評二番人気は、熱心な競馬好き以外にはおどしとも侮られたかも知れないな。しかし、競馬を愛する人たちは、その〝地方馬〟が大勝負を制してきたことを知っている。……見ている人はちゃんと見てくれているわけだ」

本間コイツに乗っかるようで面白くねぇけど、『全身全霊の結晶』ってのは、まさにその通りドンピシャだぜ。物珍しさの客寄せ目的で〝中央〟に引っ張り出されたワケじゃねぇ。〝地方競馬〟の歴史を動かした大金星だって幸運ラッキーなんかじゃねぇ。メイセイオペラと、その闘いを支えた全員で掴んだ必然の勝利だぜ」


 人間の思惑に関心などあろうはずもない六頭は、耳障りとさえ思える声援を振り切り、瞬く間にコースの半周に差し掛かった。競走レースに臨む作戦もそれぞれ異なる為、全ての競走馬が一個ひとつの塊となる瞬間は少ない。観戦席の人々は抜きつ抜かれつを繰り返す色とりどりのヘルメットを遠くに眺めるしかないのだ。

 どき曇天そらの下で繰り広げられる砂地ダートの熱戦に電知が如何なる思いを託したのか、えて確かめずとも親友キリサメの心には真っ直ぐに届いている。

 今のキリサメにはメイセイオペラの生き様が手掛かりになると、電知は言外に伝えているわけだ。〝栗毛の伝説〟を育んだ競馬場へ導いたことは言うに及ばず、〝地方〟と〝中央〟の壁を貫いた一九九九年の『フェブラリーステークス』を紐解いたのも彼なりの激励はげましなのだ。どのタイミングで話を切り出せば良いのか、探り続けていたに違いない。

 その電知と競うようにして〝栗毛の伝説メイセイオペラ〟を振り返った愛染は、おそらく彼の言葉へ耳を傾けている内に真意を悟ったのだろう。二人が事前に打ち合わせたはずもないのだが、何時しかとうくつ精神たましいをキリサメに向かって諭すようになっていたのだ。

 常人とは掛け離れた感性の持ち主であり、良くも悪くも心の赴くままに生きている愛染であるから、電知の意図など興味すら持たず、脳内あたまに浮かんだことを思うがままに喋り、それが偶然に噛み合っている状態なのかも知れない。

 いずれにしても、二人の熱弁がもたらした影響ものは大きい。競馬と接点すらなかったキリサメのなかで今やメイセイオペラは強い輪郭を伴うようになっている。

 決してエリートと呼ばれるような出自ではない。栄光の舞台で一つの時代を築くような花形スターの目には得体の知れない存在として映っていることだろう。余人には理解しがた精神こころの働きに振り回されようとも、汚泥どろまみれてつまずこうとも構わない。闘いの場で挑戦し続ければ、いずれメイセイオペラと同じように必ず〝道〟は開ける――最悪の敗戦には一言も触れず、電知は復活への道筋を親友キリサメに示していた。

 親友と〝先輩〟選手がここまで重ねてきた言葉も、そこから溢れ出す優しさもキリサメは心の中心で受け止めている。

 養父が『超次元プロレス』で〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟を討ち取った『天叢雲アメノムラクモ』長野興行と、その直後に発生した電知との路上戦ストリートファイトを出発点として、今日までに触れてきた格闘技界の有りさまを振り返ってみれば、〝中央〟の門戸が〝地方〟に対して開かれ始めた時期に偉大なる先駆けとなったメイセイオペラと己の境遇は似ていなくもない。

 無論、伝説の名馬と功績の面で並び立てると驕っているわけでもなかった。

 依然として不勉強とはいえ、格闘技界全体が大きな転換期に差し掛かっていることも、その狭間に自分が立たされていることも、現在いまのキリサメには理解できる。

 同じ日に打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』からプロデビューを果たし、圧勝を収めたきょういししゃもんは、二〇代前半という若さでありながら、全国組織である空手道場の組織改革を推し進めている。『昭和』から続く悪しき精神論や〝シゴキ〟を断ち切る覚悟なのだ。

 その沙門から教わったことの一つであるが、近年の日本ではスポーツ医学の中でも格闘家・武道家の肉体と専門的に向き合う分野――〝格闘技医学〟が提唱され、多くの同志による研究機関シンクタンクも設立されていた。

 同医学会では症例に応じた最善の治療とリハビリ、未然に故障を防ぐ工夫などが様々な視点から議論され、選手生命と引退後の健康を守る〝予防医学〟も重んじられている。

 格闘技術及び戦闘能力の向上や、効率的かつ安全な訓練トレーニングの研究も〝格闘技医学〟の役割であり、洋の東西を問わず格闘技界全体の発展に貢献しているのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』と日米合同大会を共催する『NSB』は、試合場オクタゴンで闘う選手の心拍数や打撃力をリアルタイムで測定し、その結果をプロジェクションマッピングなどの形で試合に反映させるという最先端技術の結晶によって総合格闘技MMAという競技そのものを更なる次元へと進化させようとしていた。

 養父や〝先輩〟選手も放逐の対象である為、受けれたいとは思わないが、樋口郁郎が強行に推し進める『天叢雲アメノムラクモ』の世代交代も、時代の変わり目に含まれるのであろう。

 将来の選択肢を無分別に狭めてしまう生き方には危うさを禁じ得ないが、アマチュアMMAがオリンピック正式種目として採用される日が来ることを信じて疑わず、その第一号選手オリンピアンを夢見て突き進むカパブランカこうせいは、次世代の申し子と呼ぶのに相応しい。

 中世の武具を再現し、温故知新の精神で〝心技体〟を競い合う甲冑格闘技アーマードバトルも、黎明期かつて総合格闘技MMAと同じように〝スポーツ文化〟の新機軸へと一気に駆け上がっていくはずだ。

 だが、全速力で疾走する馬を見つめてキリサメが想い出すのは、新しき時代の想像図などではなく、故郷ペルーが内戦勃発の危機に瀕した反政府デモ――『七月の動乱』なのである。

 労働者の権利を脅かし兼ねない新法に反発した数万もの市民が首都リマの〝大統領宮殿〟を包囲するべく集結し、昼も夜もなく警官隊と衝突した事件であるが、社会の〝裏〟からデモ隊を扇動したのは、革命の名のもとに政府転覆を目指すテロ組織であった。

 の民を反乱軍に仕立て上げようと企んだテロ組織とキリサメは〝る事情〟から激烈に敵対しており、『七月の動乱』にける最大の激戦となった日には共闘関係にある国家警察と共に首謀者の拠点アジトを攻め落としている。

 しかし、扇動の張本人が絶命したところで、政府に怒りを燃えたぎらせている市民が止まるはずもない。手綱を引き千切って暴走する荒馬と同様だ。くだんのテロ組織も最初から支配下に置こうとは考えておらず、で内戦を起こすように仕向けたわけである。

 誰にも制御コントロールできないほどに狂気を破裂させる為、ペルー国外から運び入れた銃器までデモ隊の一部に融通したのである。抗議活動の域を超える異常事態には、キリサメの幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケも巻き込まれていた。

 物心が付く前から格差社会の最下層を共に生きてきたを救出する為、キリサメは国家警察が拠点アジト制圧の為に投入していた馬を借り受け、反政府デモの本隊と警官隊がぶつかり合う市街地を狂わんばかりの勢いで駆け抜けたのだ。

 警官隊が非致死性のゴム弾が装填された散弾銃ショットガンや放水をもってして鎮圧を試みれば、デモ隊は大小の石や炎に包まれたタイヤを投擲して応戦する――『七月の動乱』はかっせんさながらの凄まじい様相である。

 最前線では警官隊のかざした強化プラスチック製の盾が特殊警棒で叩き割られていた。これによって隊列が崩れようものなら、過去の大統領選挙の看板を組み合わせて作った一枚の盾を数人がかりで押し出し、反撃も恐れずに突っ込んでいくのだ。

 我らは自由――と、ペルー国歌の大合唱と共に展開される異様なかっせんであった。くだんの看板には大統領選挙のポスターが貼り付けられたままであり、これをもってゴム製の散弾を防ぐことも政府に対する抗議というわけである。

 同じ国家くにに生まれ付いた民だけにデモ隊の憤怒いかりが理解できないわけがなく、警官隊の中には涙ながらに暴挙を止めるよう訴える者も少なくなかった。

 死神スーパイが舌なめずりと共によろこびそうな阿鼻叫喚の只中を突破するようにして、キリサメはただひたすらに馬を飛ばした。戦闘訓練の行き届いた〝警察馬〟でなかったなら、天をも引き裂く怒号と銃声に錯乱し、この世の地獄に放り込ませた者を振り落としたはずだ。

 デモ隊が放ったロケット花火を掻い潜り、催涙弾による煙幕を突き破り、その果てに鞍上のキリサメが見下ろしたのは、何枚もの新聞紙で覆い隠された少女の射殺体である。

 新聞紙の上から掛けられていたのは、ハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだ伝統織物のスカーフである。ほんの少し前まで幼馴染みであったモノの身元証明であり、『七月の動乱』という狂気の成れの果てとも言い換えられるだろう。

 冷たいアスファルトの路面に流れ出した大量の血によって突き付けられたのは、互いの体温ぬくもりまで深く知り尽くした存在との永別である。格差社会の最下層を這いずり回る〝貧しき者〟は、無様に足掻いたところで何一つとして報われないのである。

 貧民街スラムを生きる者たちに定められた運命が最も残酷な形でらい付いても、キリサメの頬からは一粒の涙も滑り落ちることがなかった。己の命を引き換えにしてでも差し伸べたかった手が間に合わなかったという現実さえも、半ば他人事のように感じていたのだ。

 死神スーパイによって支配された虚ろなる追憶とは正反対に、轟音と共に砂色サンドベージュの風を巻き起こす競走馬たちは生命の躍動を鮮やかに体現している。

 六頭にメイセイオペラを重ねて〝復活〟の手掛かりとなるとうくつ精神たましいを受け取るどころか、キリサメは遠い昔に故郷ペルーいずで聞かされた『ヨハネの黙示録』第六章を想い出し、脳内あたまのなかには世界の終末を象徴するモノの幻像まぼろしまでもが浮かび上がっていた。

 は地上の四分の一をそれぞれ支配する権威と、人類を死に至らしめる全ての〝力〟が与えられていた。同章第八節に登場するのは第四のモノである。青白い馬に跨ったは名を〝死〟と云い、黄泉が付き従っていた。

 愛染からは〝黙示の仔〟などと呼ばれているが、己のことを新約聖書に記されたモノたちに重ねることは、それ自体が冒涜にも等しかろう。しかし、警察馬うまを駆ってのもとに急ぐ姿は、黙示録の〝死〟と同じようなモノとして〝天〟の目に映ったはずだ。

 左手一本で手綱を握り締めながら、その禍々しい刃で数多の命を破壊してきた暴力性の顕現あらわれ――『聖剣エクセルシス』を右肩に担いでいたのである。

 奥州の曇天そらに轟く馬蹄の音がキリサメのなかで引き起こしたのは喪失の反復でしかない。国家警察の銃弾によって頭部あたまを吹き飛ばされた幼馴染みを目の当たりにしても、〝何〟も感じない心の持ち主であることまで再び突き付けられたのだ。

 自覚できるほどに人間が〝誰か〟の系譜を継ぐとすれば、『天叢雲アメノムラクモ』と契約してからプロデビュー戦に至るまで様々な人々に聞かされてきた日本MMAもう一人の〝最年少選手〟――『おんざっそうだましい』しかいない。

 城渡マッチとも肩を並べて前身団体バイオスピリッツのリングに臨んだ〝彼〟は、『天叢雲アメノムラクモ』には名を連ねていない。〝最年少選手〟の呼び名は数年前も広報戦略に利用されたはずだが、同団体のホームページも興行イベントのパンフレットも、存在そのものに言及していなかった。

 鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』ではビデオライブラリーに保存された古い格闘技の試合を自由に視聴できるのだが、キリサメの知る限り、〝彼〟の動画ものは一本も登録されていなかったのである。

 キリサメのMMA参戦を最初から反対し続けてきた麦泉でさえ具体的なことは一つとして口にせず、それが為に限られた情報に基づいて想像するしかないのだが、おそらく『おんざっそうだましい』は〝格闘技バブル〟の崩壊に巻き込まれ、その果てに日本MMAの歴史から一切の痕跡を消されるような悲劇に見舞われたのであろう。

 同じ〝雑草魂〟でも『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーとメイセイオペラは全く違う。〝再来〟ということであれば、愛染から突き付けられたようにひきアイガイオンにしかなれず、最後には七年前の〝最年少選手〟と同じ末路を辿るのだ――その結論をもってして、キリサメの思考は行き詰まるはずであった。

 故郷ペルーける血塗られた記憶や小賢しい引用まで交えて己の可能性を否定し、〝闇〟に蝕まれた魂を懊悩と諦念で満たして未来なき運命を受けれるのだ。

 しかし、競馬場のスタッフによって片付けられる発馬機を視界の端に捉えた瞬間、今までに感じたことのない〝何か〟が一粒の雫となってキリサメのなかに落ち、意識の水面に大きな波紋を生み出した。

 競走レースの為に設置された発馬機は車輪が取り付けられているとはいえ、人力のみで動かせる重量ではない。柵で仕切られたコースの内側まで牽引車輛によって移動させるのだ。

 場内の解説によると、砂地ダートコースは一周一二〇〇メートルである。これに対して三歳馬六頭によって争われる今回の競走レースは一四〇〇メートルと設定されている。自由に移動できる発馬機によって二〇〇メートルの差を調整するわけだ。

 即ち、競走レースの出発点を思い通りに変えられるという意味である。を認めたキリサメは我知らず息を飲み、〝神速〟を発動させた瞬間と同じくらい大きく双眸を見開いた。


(――僕の出発点はどうだ? 僕が最初はじめの一歩を踏み出したのはだった……?)


 今日から明日へ命を繋いでいくすべとして喧嘩殺法を格差社会の最下層こそが〝全て〟の始まりである。この揺るがし難い事実から目を逸らせば、自己否定という無限の責め苦によって魂が悲鳴を上げるのだ。

 プロデビュー戦にいては〝神速〟という形で人間の種を超越し、『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業には早くも喧伝材料として利用されつつある〝力〟をもたらしたのは、幼馴染みと同じ声を持つ異形の死神スーパイが舌なめずりするような〝闇〟である。

 ペルーではなく隣国ブラジルを出身地としながら、極めて酷似する環境で生まれ育ち、キリサメのことを『ブラザー』と魂の片割れソウルメイトの如く呼ぶ花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルも、命を壊す〝暴力〟に支配された貧民街スラムと、その底で煮えたぎる〝闇〟こそがの出発点と高く哄笑わらっていた。

 だからこそ、スポーツとしての格闘技〟に対する理解が一向に捗らず、暴走の果てに数多の先人たちが闘魂たましいを吹き込んできたリングをけがしてしまったのである。

 背負うべき原罪つみから逃れることなど断じて許されはしない。だが、をMMA選手としての出発点と決め付けてしまうこともまた誤りではないのだろうか。

 牽引車輛のタイヤと発馬機の車輪が回転するたびにキリサメの脳内あたまも掻き回され、気付いたときには未来なき諦念とも異なる眼差しで己の軌跡を振り返るようになっていた。故郷ペルーは社会全体が〝貧しき者〟の運命を永久に閉じ込めておくケイジのようなモノであったが、その最下層では持ち得ない思考かんがえかたの切り替えがキリサメなかで生まれていた。

 己と同じ〝血〟を吸い尽くした『聖剣エクセルシス』に呪われ、その禍々しい刃でもって更なる血溜まりを作ってきた貧民街スラムの〝墓守〟ではなく、『天叢雲アメノムラクモ』と契約する〝プロ〟のMMA選手としての原点はじまりを辿ったとき、キリサメの脳裏に浮かんだのは、砂色サンドベージュの乾いた風が吹き付ける故郷ペルーでは見たこともないしらかばの木々が立ち並んだすがだいら高原である。

 日本列島を凍て付かせた豪雪被害の爪痕であったのか――雪解けを迎える時期にも関わらず、冬の名残が白く煌めく山肌もキリサメの網膜に焼き付いていたのだ。

 標高二〇〇〇メートル級の山々に囲まれ、豊かな自然にも恵まれた清涼な地は、喧騒とは無縁の静けさから〝日本のダボス〟とまで呼ばれる国内有数の別荘地であった。

 スポーツに適した環境の条件も満たしており、全国各地から競技選手アスリートが集結する合宿地としても有名である。MMAデビューを控えたキリサメも、長野県で活動する地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』のレスラーに混じって強化合宿を張ったのだ。

 すがだいらは町の各所あちこちに運動施設が点在しており、体育館を併設するホテルも少なくない。キリサメたちは木立に囲まれた古い山荘を合宿の拠点に据え、広い庭に設置したプロレス用のリングでプロデビューに向けた訓練トレーニングに励んだのである。

 キリサメが真っ先に思い浮かべるのは、当然ながら親友――空閑電知との想い出だ。

 地下格闘技アンダーグラウンドの試合が迫っていることを理由にすがだいら高原へ同行し、打撃や防御技術などMMA選手にとって欠くべからざる基礎訓練の相棒パートナーを務めてくれたのである。

 ナイフや拳銃ハンドガンが当たり前のように使用される故郷ペルーの〝実戦〟では、たった一度の直撃がそのまま致命傷となる。その為、相手の攻撃を防御し、威力と衝撃を受け流すという技術など殆ど想定すらしていなかったのだ。

 養父の岳は既に完成されつつある喧嘩殺法の改悪を憚り、放任主義に近い姿勢を取っていたが、電知との訓練トレーニングがなければ、プロデビューのリングで城渡マッチから軽蔑されるような事態に陥っていたはずである。

 『まつしろピラミッドプロレス』の花形レスラーであるあかぞなえ人間カリガネイダーには、プロレス式の後ろ回し蹴りソバットを直伝された。

 は日本で初めて〝総合格闘〟の体系化を成し遂げたヴァルチャーマスクの得意技であった。生涯の大恩人から授けられたという岳と、その彼に技術指導を受けたカリガネイダーを経て、〝伝家の宝刀〟が新人選手ルーキーに受け継がれた次第である。

 すがだいら合宿にける特訓トレーニングを完全には生かし切れず、それが為に親友たちを裏切る負け方となってしまったが、この失態をもって想い出を否定することなど出来ようはずもあるまい。

 キャンプファイヤーを囲んだバーベキューや温泉など、笑顔に彩られた想い出を大勢の人々と分かち合う経験も初めてであった。

 母の私塾で机を並べた旧友とは愛称ニックネームで呼び合うほど楽しく過ごしていたが、自宅いえが災害によって倒壊し、非合法街区バリアーダスの集合墓地で寝起きし始めた頃には、誰一人として信じられなくなっていた。彼らが結成した少年強盗団とは互いの小銭カネと命を奪い合ってきたのだ。

 共通の〝仇敵〟を滅ぼすべく手を組んだペルー国家警察の警部とは友好関係を保ち続けていたが、〝正業〟に導かんとする厚意にはどうしても応えられなかった。


「――お前さんは一匹狼と来たもんだ。カッコ良く思えるのは若い内だけでな、一つ二つと年齢を重ねるたび、それに比例して敵ばかりが増えていくモンさ。あるときに突然、逃げ場がないくらい大勢から取り囲まれるってオチがつく。古くから付き合いのあるご近所さんが顔を揃えてるってコトも多かったりするんだな、これが」


 国家警察の要請を受け、共通の〝仇敵〟――ペルー国内に潜伏するテロ組織の残党を駆逐するべく一時的に〝相棒〟を組んだ日本人には孤独な境遇を揶揄されたが、現在いまのキリサメは同じ言葉を浴びせられてもすぐさま首を横に振るはずだ。

 生まれて初めて親友と呼び合える存在に巡りえた。でもある『天叢雲アメノムラクモ』では尊敬できる〝先輩〟も少なくない。旧友や知人とさえ殺し合いを演じた故郷ペルーとは真逆であるが、心から信頼の置ける人間も、報いるべき恩義を感じている人間も、今や両手の指を使ってさえ数え切れないくらいであった。

 古武術の歴史にする孤高の魂におののかされてはいるものの、同じ殺傷ひとごろし武技わざを宿した哀川神通とは、己の〝半身〟と錯覚してしまうほど深い〝共鳴〟によって結ばれている。

 キリサメ自身、夢にも思っていなかった事態だが、〝城渡総長〟のカタキ討ちに逸るつるぎきょうから絶縁を言い渡された瞬間には、言葉で表し切れない喪失感を味わったのだ。

 〝人間らしさ〟とも言い換えられる心の働きは、父母の起源ルーツたる日本に移り住むまでは想像したこともなかった。キリサメのなかる歯車はすがだいら高原の合宿を境にして他の人々と噛み合い、ときに軋み音を立てながら回り始めたのである。

 どうじょうとうあらた』は一秒たりとも頭から離れない。がわだいぜんや、この大名人のもとに集うとは運命の糸で結び付いたのだと、現在いまは揺るぎなく確信している。

 どうじょう体験会ワークショップは言うに及ばず、澄んだ夜空のもとで電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトも大いなる〝助走〟であったわけだ。砂埃でもって奥州の曇天そらく六頭も下見場パドックから発馬機へ向かうなかには準備運動ウォーミングアップの如く軽やかに駆けていたのである。

 己を取り巻く環境も、双眸で見据えるべき未来の形も、何もかもが故郷ペルーとは違うのだ。こそが新しき出発点と受けれることを〝誰〟にはばかる必要があるというのか。


いやなんか知ったことか。僕が僕であるコトを決められるのはお前じゃない)


 己の意志で飛び込んでいく〝世界〟の正当性を主張する対象はただ一人――幻像まぼろしという形で出現あらわれては〝富める者〟の道楽に付き合うキリサメを嘲笑うだ。

 今日は声も姿もまだ確認していないが、ひょっとすると観客席の片隅から一敗地に塗れた幼馴染みを愉しげに眺めているのかも知れない。


「――正々堂々とした勝負なんてのは〝富める者〟の遊戯おあそびじゃん。そんなの、に何か関係ある? 遊戯おあそびなんかじゃ生きていけないから、サミーもわたしも、にくに群がるハゲワシみたいな真似をしてきたんでしょ? 鼻先にぶら下げられたかりそめの幸せにすがり付いても矛盾に殺されるだけだよ」


 キリサメの手に『聖剣エクセルシス』が渡ったいきさつも知っているは、デビュー戦のリングにまで姿を現わし、格差社会の最下層を生き抜く為だけに編み出された喧嘩殺法と、選手の安全に配慮された〝格闘競技スポーツ〟は決してあいれないと囁いてきたのである。

 MMAのルールが馴染まないキリサメにとって思わず手を伸ばしそうになるほど甘い誘惑であったことは間違いない。しかし、日溜まりのように感じる存在ひとかたわらで見守っていてくれる限り、〝最後の一線〟だけは踏み越えまい。

 喧嘩殺法は無法の〝暴力〟ではないと、『天叢雲アメノムラクモ』のリングで証明しよう――未稲と交わしたこの約束がなければ、そもそも新しき出発点に立つことさえなかったのだ。

 教来石沙門や哀川神通のように信念へ殉じる覚悟を持たず、前田光世コンデ・コマを追い掛ける電知のような夢もなく、身近な友人と比べて格闘家としてのり方が余りにも空虚である為、キリサメは初陣のゴングが鳴り響くまで目も当てられないほど迷走し続けていた。

 生真面目な性分だけにキリサメの懊悩は深く、これに翻弄される中で未稲との約束すら脳内あたまから零れ落ちてしまったのである。その悔恨が鋭い棘に換わり、誓い合った言葉を魂の最も深い領域に突き刺している。

 そして、食い破られた魂の隙間からは日溜まりのような温かさが注ぎ込んでくるのだ。キリサメ・アマカザリが歩んできた〝道〟は間違いではないと、故郷ペルーける罪深き生存闘争さえ受け止めてくれた未稲の声を二度とは忘れないだろう。

 平素いつもの無感情からは想像しがたいほど熱い吐息を一つ滑らせたのち、キリサメは左の親指でもって己の唇を撫でた。体温ぬくもりを感じた相手も未稲が初めてであった。


(……これから〝先〟のことは、母さんにだって口出しされる筋合いはない……ッ!)


 三歳馬六頭が一四〇〇メートルを一気に駆け抜ける競走レースは、最後の直線に入っている。

 二〇一一年四月以来、〝地方競馬〟も馬の命を守る形にルールが改正され、過剰な鞭の使用が禁じられるようになった。当然ながら、は最後の追い込みであろうとも適用されるわけだが、無理強いなどせずとも〝人馬一体〟の接戦は秒を刻むごとに白熱していく。

 大勢を決する攻防が目と鼻の先で繰り広げられているのだから、観戦席も地鳴りの如き歓声に包まれるわけだ。


「出発点は僕の思い通りに決めて良いんだよな。進み切った〝先〟に待ち構えているモノは分からないけど、走り出す場所まで〝誰か〟に決められてたまるかよ」


 周囲まわり喧騒さわぎを鋭く切り裂いたキリサメの呟きは、「社会の底辺で生き延びる為に」と小賢しく理由を付けて重ねてきた罪から目を逸らすようなものではない。ましてや、気を緩めた瞬間に魂が囚われてしまう故郷ペルーの〝闇〟を否定する自己弁護いいわけでもない。

 血と罪で深紅あかく染まった過去を背負った上で、他の誰でもない己自身の意志によって立つべき〝場〟を定めた次第である。

 る意味にいて、格差社会の最下層を支配してきた〝暴力〟を引き寄せる媒介となるよう〝開発者〟のたねざきいっさくが工夫を凝らした試合着ユニフォームはこれからも纏い続けるつもりだ。

 命の危機と直面した瞬間、血の海に身を横たえる女性の追憶と共に「どんなことをしてでも絶対に生きろ」という吼え声が脳内あたまのなかに響き、その命令に支配されてしまうのだが、新しき出発点は〝誰か〟に強要されて定めたのではない。

 〝全て〟がキリサメ・アマカザリの〝自由〟であった。

 あるいはそれこそが「真実を超えた偽り」であるのかも知れない。MMAひいては〝格闘競技〟をあくまでも否定し、〝実戦ほんもの〟から掛け離れた偽物まがいものに過ぎないとせせら笑う幻像まぼろしに浴びせた反駁ことばが今になって確かな輪郭を伴い始めたのだ。


「――今日のデビュー戦に寄せて、空閑さんと何らかの約束でもしていたのではありませんか? ……空閑さん一人のことではありませんよね? きっと今日まで関わってきた人たちの為に何がなんでも結果を出さなくてはいけないと焦っているのでは? その人たちはデビュー戦で納得のいかない結果しか出せなかったとき、ただそれだけの理由であなたを見放すと思いますか?」


 プロデビュー戦の直前に準備運動ウォーミングアップを手伝ってくれた友人――おおとりさとの言葉もキリサメの脳裏に甦った。生真面目が過ぎる為に何事も思い詰め、時おりいじけているように見えるとも案じられたのだが、次に顔を合わせたときには違う言葉を引き出せるだろう。

 その大鳥が現場マネージャーを担当する希更は、民間単位の〝スポーツ外交〟に尽力してきたバロッサ家の一族としても、主演するアニメシリーズにいても、〝相互理解〟の精神を体現してきた。今ならば彼女にも強く深く頷き返せるはずだ。


「――考えるな、感じろッ!」


 メイセイオペラのとうくつに自らを重ねるとするならば、得体の知れない新人選手ルーキーを同じリングに立つ戦友ともとして認めくれた城渡マッチの激励ことばは、発走の前に鳴り響いたファンファーレにも等しかろう。

 もはや、扉は開かれたのだ。全神経を研ぎ澄ませる発馬機の枠内なかから出発点の向こう側へと駆け出したのである。風を切って飛び出したのは、禍々しい『聖剣エクセルシス』を担いで警察馬を走らせるペルーの墓守ではない。


「……〝天〟のおぼし召しを超えたと言ってのける傲慢さえも定められた運命に他ならないでしょう。心の赴くままに振る舞っているようで生きとし生ける皆が〝何か〟に縛られ、〝誰か〟の敷いたレールを走らされている。ましてや〝血〟という名の鎖は歴史にも等しい。ザイフェルト家を例に引くまでもなく、〝血〟の歴史は永久に背負う十字架です」


 前列にて紡がれた言葉は一字一句に至るまでオランダ語であり、ペルーで生まれ育ったキリサメには全く意味の通じないものである。

 尤も、喉の奥から絞り出したかのような声は余りにも小さく、沸騰する大歓声に咬み砕かれてキリサメの耳まで届かなかった。一頭の競走馬が抜きん出たままゴール寸前に達したのである。騎手ジョッキーが被るヘルメットは赤く、閃光を走らせる灼熱の塊を鞍上に灯したかのようであった。競馬を愛する人々が天井を貫くほど沸き立つのも無理からぬことであろう。

 出発点は〝誰か〟ではなく己自身が思い通りに決める――キリサメの言葉に〝何か〟を感じたのか、前列の男性は金髪ブロンドの三つ編みも大きく揺らしている。隣席の女性は労わるように彼の手を握り締めたのだが、その様子を後列から覗き込むことは難しかった。


「私は海洋学の専門家ではありませんし、物覚えも頼りになりませんが、水が変わった途端に生きられなくなる魚を今すぐにでも何種類か上げられます。……水温の違う川を自由に泳ぎ回れるほど魚は強くありません」

「今、すがだいら高原の水が無性に恋しいよ」


 図らずも前列の男性が吐き出した言葉への返答となったこの呟きは、キリサメが自分自身に驚いてしまうほど自然と唇から滑り落ちていた。

 右隣に座っていた電知はたちまち蕩けるような笑顔となり、左腕を親友の肩に回した。キリサメが自らの力でその言葉に辿り着くことを信じ、きたるべき瞬間を待っていたのだ。

 その電知との接近を避けようと愛染を挟んで座った為、未稲にはキリサメの手を握ることさえ叶わず、肩を組む二人の様子を比喩でなく本当に指をくわえて眺めるしかなかった。

 この僅かな距離感が未稲にもたらした発見もある。

 丸メガネとその向こうの瞳に映るのは横顔だが、「出発点は僕の思い通りに決める。走り出す場所まで〝誰か〟に決められてたまるか」と、何事にも無感情なキリサメにしては珍しく強い言葉を発した瞬間、今まで見たことのない表情を浮かべていたのだ。

 口元は決然と引き締められ、瞳に湛えた光が平素いつもと全く異なっている。今は遠くへ意識を飛ばすような寝ぼけ眼に戻ったが、その瞬間はる一点を強く見据えていたのである。

 〝東北の雄〟の再来を求め、競走レースの行方を追い掛けていたわけではないだろう。赤いヘルメットの騎手ジョッキーを乗せた青鹿毛の馬が最後まで逃げ切り、好敵手ライバルたちを突き放して圧勝を収めたが、周囲まわり喧騒さわぎが最高潮に達したゴールの瞬間さえキリサメは無反応であった。

 三歳馬の六頭が砂地ダートのコースに刻んだひづめの跡にキリサメは〝何か〟をたのか。こればかりは未稲にも分からない。

 一つの手掛かりは「走り出す場所まで〝誰か〟に決められてたまるかよ」という先程の言葉である。そのままの意味で受け取るならば、ほんの一瞬だけ双眸にて煌めかせた光は、その〝誰か〟に示した反逆の意志であったのかも知れない。


(ひょっとしてっては束縛がキツいタイプ? 『八雲道場うち』じゃなくて主催企業サムライ・アスレチックスに連絡入れてキリくんにちょっかい出してるなら、弁護士通してでも手を切らせなきゃ)


 未稲の推察は半分だけ正解であった。キリサメの幼馴染みに対抗心を抱いている為、存在ことを真っ先に連想したわけだが、『七月の動乱』にける犠牲者名簿に彼女も記されていることは未だ知らずにいる。


すがだいらの水が恋しいとは面妖な。自然豊かでインスピレーションに満ちた聖域だが、それはそれとして山の生水はお腹に悪いぞ。それとも幻の鳥ケツァールではなく蛍が正体か?」

メイセイオペラの話に乗っかってきたんじゃねーのかよ、本間あんた⁉」


 浄化されていない生水の危険性を真顔で諭し始めた愛染に対し、当人キリサメに成り代わって電知が口を開け広げた。

 すがだいら高原の水を恋しがるキリサメの言葉は、競走レースの前に故郷の水を飲んで気持ちを落ち着けたというメイセイオペラの逸話をなぞらえたものである。それはつまり、に対する回答こたえとも言い換えられるだろう。

 事前に打ち合わせたわけではないが、キリサメを鼓舞する目的は愛染と共有しているつもりでいた。だからこそ、競い合うようにしてメイセイオペラの逸話を披露したのだ。

 しかし、相手は常人には理解し難い感性の持ち主だ。電知の意図など汲み取ろうとも思わず、ただ単純に〝中央〟を制した伝説の〝地方馬〟のうんちくを並べていただけなのかも知れない。電知が呆れ返ったようにかぶりを振るのは、今まで何一つ噛み合っていなかった可能性が高まった為である。

 その愛染は電知の反応を確かめると、悪戯っぽく口の端を吊り上げて見せた。


「見届けたぞ、奥州に舞い降りし〝黙示〟の行方。甚だ腹立たしいが、我が愛しの神通と絆結ぶ者だ。奈落の底へ真っ逆様に堕ちるようでも困るがな」


 何事か得心した様子で幾度も首を頷かせて微笑む理由は、改めてつまびらかとするまでもあるまい。気早にも次の競走レースの馬券を買い求めんとする観客の人流ながれに合わせて立ち上がった愛染を目で追いかけながら、電知は苦笑いと共に肩を竦めた。

 会話の組み立て方も言葉の選び方も独特である為、面と向かって話している最中でさえ本筋を見失いそうにもなるのだが、本間愛染もまたキリサメの戦友とも――同じ『天叢雲アメノムラクモ』に所属する〝先輩〟選手というわけだ。


すがだいら高原でキミに手渡した預言、少しばかり訂正するとしよう。キリサメ、キミは何があってもひきアイガイオンにはならない。それが奥州で最後に受け取った〝黙示〟だ」


 王者チャンピオンへの挑戦という晴れがましい大舞台タイトルマッチいて、後代まで〝格闘技界の汚点〟と忌み嫌われる最悪の反則行為を仕出かしたフライ級プロボクサーと貧民街スラムの喧嘩殺法を重ね、いずれ必ずMMAのリングで同じ所業ことを再現させる――と、愛染は初めて出逢った日から当人キリサメに対して警告を発し続けてきたのである。

 日本格闘技界に厄災わざわいを振りまく〝暴君〟との結び付きが深まるようであれば、この国からMMA自体が滅びる――そのように繰り返してきた愛染は、前代表フロスト・クラントンの手引きによってドーピングが蔓延していた『NSB』の暗黒時代を目の当たりにしている。

 その上で愛染は自らの警告を取り下げたのだ。リングの破壊を伴う反則負けは間近で見届けている。考えられる最悪の初陣プロデビューであったにも関わらず、〝MMAのアイガイオン〟になることはないと結論付けた次第であった。


「……ご覧の通り、僕は間違いだらけの人間です。いつか周囲まわりの人たちを失望させるような過ちだって犯すかも知れません。ですから、本間氏――いえ、愛染氏にはこれからも僕のことを厳しく見張っていて頂きたい。必要なら脳天を突き刺して貰っても構いません」

「それもまた〝先輩〟を標榜する人間の責任だからな。ちなみに愛しの神通と別の意味の過ちをやらかしそうになったときには、八つ裂きなんてものでも済まさんから覚悟しろ」


 キリサメと愛染の間でしか通じておらず、二人の隣席となりに腰掛けた電知と未稲は互いの顔を見合わせながら首を傾げたが、〝先輩〟の役目を語らう中で引用されたのは、剣先を脳天に向ける形で天井から吊るし、軽挙妄動を戒めんとする『ダモクレスの剣』であった。


「私が睨みを利かせているこの事実もまた〝黙示〟だろう? キリサメ・アマカザリという人間は広い世界に独りぼっちなんかではない。〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟だってキミを甘やかしてはくれないだろう。……しかし、ひきアイガイオンは孤独だった。哀しくも孤独であることを選び続けたのかも知れん」


 テレビ局に祭り上げられ、虚飾の中で国民的英雄ヒーローに仕立てられたひきアイガイオンの傍らには、コミッショナーを激怒させる傲岸不遜な態度や、対戦相手の片目から光を奪う反則行為まで肯定してくれる人間が常にはべっていた。

 素行不良を正すべき所属ジムでさえ監督責任を放棄している。あまつさえテレビ局と癒着し、合理性を欠いた練習など大衆の注目を集める筋書きシナリオに加担する有りさまであった。

 キリサメの境遇に置き換えてみれば、敬愛する〝城渡総長〟の誇りを踏みにじられて怒りに燃える暴走族チームを侮辱にも近い言葉で扱き下ろし、乱闘にまで加わろうとした一部のファンや、先ほど顔を合わせた小日向義助がに該当することであろう。

 同胞であるプロボクシング界の諫言に耳を貸さず、欺瞞に満ちた称賛だけを身の周りに敷き詰めていたからこそ、ひきアイガイオンは真の孤独にちていった。

 しかし、キリサメ・アマカザリには日本に迎えてくれた家族がいる。『天叢雲アメノムラクモ』の同僚や協力者は言うに及ばず、団体間の対立をも超える親友まで出来た。本間愛染もその一人であるが、気付いたときには下の名前ファーストネームで呼び合う交友の輪が大きく広がっていたのだ。

 自他の命をちりあくたと同じようにしか考えられない感覚と〝格闘競技スポーツ〟はあいれるはずもないのだと、冷たく突き付けてくる人々も日本には多い。法治国家の倫理と道徳を軽んじ、心の赴くまま嗜虐性を剥き出しにするとらすけはキリサメの〝闇〟を映す鏡である。

 現在は『E・Gイラプション・ゲーム』のみを標的としているようだが、根本的に格闘技そのものを暴力と蔑み、『ウォースパイト運動』さながらに廃絶を企んでいるとしか思えない警視庁の火守鹿刑事も、広い意味ではと捉えて構わないはずだ。


発走スタートの前に馬たちが入っていった機械デカブツだって大勢で運んでいたんだ。出発点は僕が決めるけど、だって背中を押してくれた人たちのお陰なんだ――)


 喧嘩殺法の凶悪性すら容認してしまう声によって誤った自尊心を植え付けられ、MMA選手としての気構えが狂ってしまわないよう自らを厳しく律しながら、同時に〝人間らしさ〟を与えてくれる人々を真っ直ぐに信じ抜く――対極とも矛盾とも思える数多の声が等しく釣り合う現在いまの情況こそ何よりの僥倖さいわいであろうと、キリサメは深く噛み締めていた。


(――、お前の思い通りにはならないからな……ッ!)


 もはや、キリサメ・アマカザリは孤独ひとりぼっちではない。

 〝地球の裏側〟の〝闇〟の最下層にこの先も永遠に囚われ続けるであろう幼馴染みの声で嘲笑わらわれようとも、今度こそ心を乱されることはないはずだ。

 このようなときこそ砂色サンドベージュの彼方から幻像まぼろしの形で訪れ、自分と同じ〝闇〟に引きずり込まんと試みそうであるが、死神スーパイから与えられたものとおぼしき〝力〟でもって奥州の競馬場を故郷ペルーの闘牛場に換えてしまう気配は感じられなかった。

 の手のひらの上で転がされているのではないかという疑念も鎌首をもたげたが、腹を立てた分だけ〝闇〟が滑り込む隙が生じることに気付き、危ういところで激情を抑え込んだ。互いの脆さまで知り尽くした幼馴染みがを狙わないはずもあるまい。


「何しろ、ありのままの私に偽りのことだまをぶつけるようなものだ。恋敵に塩を送るのは胃袋に大変よろしくないと見える。人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られると、どなたが仰せかこの真理、自分で自分を邪魔した場合の反動にはノーコメントだったな。しからば私は心が――ていうか、すっからかんのお腹がさえずるままに真剣勝負ガチンコシャ込むとしよう」

「……僕はまだ神通氏ほど愛染氏の詩的な喋り方に慣れていないのですが、ひょっとして今の長台詞は『腹が減った』と翻訳すればよろしいのですか?」

「本日は三本勝負の予定だ。ドデカ焼き鳥と焼きそば、真打ちのホルモン煮込み――真冬はストーブでおでんを煮ていそうな風情の食堂、あれが競走レース中に何度も過ってしまって我慢ならんの極みだ。牛タンの調べに酔い痴れる前祝いも兼ねてペロリと行っとくぜッ!」


 四人が観戦した競走レースは、一二時五分の発走である。昼食を後回しにした為、胃袋が悲鳴を上げてもおかしくはないが、この後に牛タン定食が評判の店に繰り出す予定となっているのだ。愛染が挙げた三品は、空腹を紛らわせる軽食としては余りにも量が多い。

 牛タン定食も含む全品すべてを平らげる自信でも示そうというのか、両腕にちからこぶを作ったのち、愛染は鼻歌を引き摺りながら歩き始めた。三人を置き去りにして観戦席ここから立ち去ろうとしているわけだが、キリサメはえて引き留めなかった。

 自分のことを心から心配してくれた〝先輩〟選手の背中に深く一礼するのみである。

 彼女は「日本格闘技界にもたらされし〝黙示〟の行方をただ見届けたい」と話していた。席を立ったのは、その目的が達せられた証左と言えるだろう。無論、小腹を満たしたいだけなのかも知れない。小腹を満たしたいだけなのかも知れない。ホルモン煮込みを山のように盛り付けた皿を両手で持ち、箸を銜えて戻ってくる嬉しそうな顔も容易く想像できた。

 その〝全て〟が本間愛染という〝先輩〟なのだ。奇抜な言行を除けば裏表がなく、ときとして無垢な子どものように思えるくらい自分の心に素直な人間である。真っ直ぐにぶつかってくれる人だから、キリサメも『ダモクレスの剣』を委ねたのだ。


「そもそもキリサメには武神の加護があるんだからよ、ひきアイガイオンと同じトコなんかに落っこちるワケねぇんだよ。まもりの刺繍と合わせ技一本で邪悪なモンは一発で蹴散らせるぜ。『難を転じる』って書いて南天ってな!」


 「本間アイツられちまった」と鼻を鳴らしながらも、電知は去りゆく背中を頼もしそうに見つめていた。初めて邂逅したときには親友キリサメの将来を否定するかのような言葉を浴びせられた為、印象も最悪に近かったが、現在いまは友愛を眼差しに湛えている。

 一方のキリサメは親友の話に小首を傾げていた。「武神の加護」という馴染みのない言葉だけでなく、〝まもり〟の意味さえ掴み兼ねているのだ。空いた椅子を一つ挟んでキリサメそばに座る未稲にしか電知の発言は通じなかったようである。

 親友キリサメの反応に対し、電知は訝るような表情を浮かべるばかり――二人の顔を交互に見比べる未稲はこの上なく居た堪れない様子であり、比喩でなく本当に頭を抱え始めた。


「こー、こここ、これからは南天の防御ブロックも確実に効くと思うよっ⁉」

「みーちゃん、たまにニワトリみたいな鳴き声を出すよね。ひょっとして前世?」

臆病者チキンって意味なら前世確定かもね⁉ ……ここっ、こーこここ、今度は、ここっこ、このまもりがキリくんに障壁バリアーを張ってくれるんだよっ!」


 未稲のなかで張り詰めていた糸が音を立てて切れたのであろう。自棄を起こしたとしか思えない勢いでポケットから〝何か〟を取り出し、そのままキリサメの眼前に突き出した。

 小さな守り袋である。錦の布には南天の赤い実が刺繍されていた。

 浅草のる神社で授けられている物だが、そこでは関東を拠点としたげんの軍勢が奥州へ攻め上らんとした際に戦勝祈願を執り行ったと、平安・鎌倉時代から伝承されてきた。鎌倉幕府初代将軍・みなもとのよりともも武門を守護まもりし神として篤く帰依したという。

 〝本業しごと〟で東京を離れられない電知は、くだんの神社に祀られた武神の加護をキリサメに届けるべく朝日も昇り切らない内から自転車ママチャリを走らせ、社務所にて守り袋を授かり、これを岩手興行の観戦に赴く上下屋敷に託したのだった。

 南天の刺繍も武士の間で永く好まれてきた。〝しょう〟――即ち、武勇の誉れを同じ読み方をするしょうに託したのと同じように、南天に対して「難を転じる」という武運の願いを込めてきたのである。

 武神から授かったのはである。キリサメと分け合った一つを電知は己のじゅうどうの内側に縫い付け、東京都岩手に離れ離れであっても、二人で一緒に初陣プロデビューのリングへ臨んでいる気持ちでいた――そのはずであったのだが、親友キリサメに手渡してもらう段取りまでつけたもう一つを何故だか未稲が持っていたのである。

 双眸と口の両方を唖然呆然と開け広げる反応こそ、電知に近付くまいと未稲が避け続けていた理由と言えるだろう。

 岩手大会の会場で顔を合わせた上下屋敷に二人で一つという守り袋を預けられながら、キリサメに手渡す機会を逃してしまい、プロデビュー戦にも間に合わなかったのだ。

 最も必要な局面で渡しそびれてしまうと、その話を切り出すことにさえ相当な勇気が必要となる。時間が経過するたび躊躇ためらう気持ちばかりが大きく膨らみ、ポケットの奥で永久に封印するべきかと真剣に迷うような情況に陥った次第である。

 この守り袋に電知が熱い友情を込めていたことも上下屋敷から教わっている。洗いざらい白状せざるを得なくなってしまった未稲は、今にも胃の内容物が逆流しそうであった。


「おれの視界に入らねぇようにしてやがると思ったら、かよ。興行イベント当日に無茶ぶりしたおれのほうがいけねぇんだから、八雲が責任感じる理由もね~だろが。勿論、上下屋敷にも罪はねェ。おれが二人に詫びなきゃならねぇトコだぜ」

「――あッ! 眩しい! 少年漫画の主人公みたいなオーラに網膜焼かれるゥッ!」


 上下屋敷を経由して預けられた守り袋を届けられずにいたのは、完全な手落ちである。怒鳴られて当然だろうと身構えていた未稲であるが、当の電知は過失これを一笑に付した。

 プロデビュー戦の前に守り袋を手渡せていれば、あるいは最悪の結末は免れたかも知れないという罪悪感も未稲のなかで疼き続けていた。彼女も〝現代人〟である為、神仏の加護は疑っているが、親友の存在を常に意識できる物を身に着けていれば、すがだいら合宿の想い出が心の軸として機能し、反則行為そのものを抑えられたはずだ。

 神聖なリングをキリサメに破壊させてしまった責任は自分自身にあると未稲は思い詰めていたのだが、その葛藤を電知は明るい笑い声で軽く吹き飛ばしてしまったのである。

 自分から他人に心を開くことの少ないキリサメが電知だけは躊躇いなく〝親友〟と呼んでいる。瀬古谷寅之助は病的に執着し、かつての交際相手であるとちないこまも未だに彼を慕い続けている様子であった。

 も当然であろうと、今の未稲には素直に頷ける。周囲まわりを明るく照らすような為人ひととなりであったればこそ、一度は襲撃対象に選んだ希更・バロッサとさえ和解できたのである。

 武神の加護は言うに及ばず、南天の守り袋が親友からの贈り物であることも知らないキリサメは、二人の顔を交互に見つめながら先程の親友と同じ表情を浮かべるのだった。



 すれ違いコントのオチとしては、もう一捻り欲しいトコだな――おどけた調子で未稲をからかう電知の笑い声を背中で受け止めながら、の前列に腰掛けている男性は、三つ編みに束ねた金髪ブロンド毛先さきを両手で弄んでいた。

 ほんの数分前までゴーグル型のサングラスに映していたのは、赤いヘルメットの騎手ジョッキーが鞍上にて腕を突き上げる勝ち馬である。

 『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』を代表し、創始者一族の御曹司や、左隣に腰掛けている伴侶パートナーと共に岩手興行の臨時視察に訪れたストラール・ファン・デル・オムロープバーンだ。

 オランダ式キックボクシングの名門ジムとして全世界に名声を轟かせる『バーン・アカデミア』を率い、また同国の格闘家たちを束ねる〝顔役〟として畏れられてきた『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家の御曹司であった。

 アムステルダム出身うまれながら日本語も堪能である為、真後ろで交わされる言葉は一字一句に至るまで理解できる。それ故に赤褐色の頭髪かみ伴侶パートナーが心配になるほどの真顔であった。

 双眸を完全に覆い隠す種類タイプのサングラスを用いている為、心の働きを覗き込むことは不可能に近いのだが、さりとてキリサメのように何事にも無感情というわけではなく、分野を問わず様々な学問に親しんでいる。

 伴侶パートナーに対する愛情表現も人目を憚らないほど熱烈であり、感性はむしろ豊かである。現在いまは全く凍り付いている様子なのだ。

 挨拶すら交わしたことのない人々の会話を盗み聞きして笑うことは、そもそも品性を疑われるような行為である。浅ましい振る舞いにならないよう己自身を律しているのであろうと、周囲まわりの目には映ったかも知れないが、その涼しげな面持ちとは裏腹に当人ストラールの胸中は大嵐としか表しようのない有りさまであった。

 ストラールの心を掻き乱したのは、キリサメ・アマカザリとの不意の遭遇である。

 臨時視察の主目的である岩手興行では主催企業サムライ・アスレチックスが用意した特等VIP席にり、『NSB』とえつどうしゅうの如き状況で観戦することになった。

 〝内政干渉〟を図らんとするイズリアル・モニワを世界最大のスポーツメーカーの威光で牽制せんとした小賢しさは不愉快だが、日本の〝暴君〟が世界の〝潮流ながれ〟に取り残されている証拠を掴んだようなものであり、は十分であった。

 そもそも今回の臨時視察は先鋭化が著しい『ウォースパイト運動』が日本でもの笛を吹き鳴らし始めた場合、『天叢雲アメノムラクモ』に対応できるか否かという危機管理能力の確認が任務である為、ストラールは試合自体には無関心にも等しかった。

 開会式オープニングセレモニーで新たな〝客寄せパンダ〟を披露し、喜色満面であった樋口への憎悪を抱いたまま第一試合を迎えた次第であるが、を担当する新人選手ルーキーの名前など限りある記憶の要領に含めるつもりもなかった。

 死霊のような目付きや貧民街スラムで編み出された〝我流〟の技を主催企業サムライ・アスレチックスは盛んに喧伝していたが、実兄あにの急死に伴って跡取りの〝立場〟がまでオランダ出身うまれの格闘家たちの用心棒稼業を取り仕切っていたストラールは、新人選手ルーキーなど見飽きている。

 ときには同胞と共にマフィアとも対峙する〝裏〟の仕事を担い、社会の〝闇〟をねぐらにしていた名門の次男坊には大して珍しくもなく、取るに足らない存在に過ぎなかった――そのはずであったのだが、人間という種を超える〝力〟が『天叢雲アメノムラクモ』のリングで解放された瞬間、キリサメ・アマカザリの名前はストラールの魂に刻み込まれた。

 城渡マッチを〝神速〟の反撃カウンターで返り討ちにした際にキリサメは双眸を大きく見開いていた。ゴーグル型のサングラスに覆われている為、伴侶パートナー親友ギュンターしか気付かなかったが、想像を絶する逆転劇を瞳の中央に映したストラールも全く同じ状態となっていたのである。

 キリサメ・アマカザリという名の衝撃に打ちのめされたまま、『格闘技の聖家族』の御曹司は一向に立ち直れずにいる。臨時視察の報告書も手に付かない有りさまであった。

 平素のストラールは冷静沈着であり、ザイフェルト家の御曹司に迂闊な振る舞いがあれば、これをすかさず諫めている。世界最大のスポーツメーカーから協力を引き出さんとする難民高等弁務官マイク・ワイアットとの交渉にいても、主導権を握られないよう睨みを利かせていた。

 それ故にギュンターは気晴らしに岩手を旅して回るようストラールに勧めたのである。『MMA日本協会』の緊急会合にも同行するはずであったが、その予定もザイフェルト家の権限にいて強制的に変更させている。

 ストラールを見守る役目は、その傍らに幼少の頃から寄り添い続けてきた伴侶パートナー――今も隣席となりから彼の手を握るマフダレーナ・エッシャーに託されていた。

 その伴侶マフダレーナに手を引かれ、奥州市の競馬場まで足を運ぶことになったストラールは「古代スパルタのような容赦なき愛情も刺激的だよ」と、口元を引きらせるばかりである。

 洋の東西を問わず競馬は『血のスポーツ』と呼ばれており、競走馬の潜在能力ポテンシャルに於いてさえ血統が大きな意味を持っている。

 親友ギュンターと同じように名門の〝血〟に運命を左右されるストラールは、伴侶パートナーの気遣いに口付けをもって感謝しながらも、キリサメ・アマカザリの〝力〟に抉り出された懊悩が『血のスポーツ』によって鋭さを増すのではないかと恐れていた。

 ペルーとオランダ――南半球と北半球に分かれたりょうこくの首都は、一〇〇〇〇キロ以上も離れている。社会の〝闇〟で生きてきた過去こそ分かち合っているものの、〝立場〟と境遇は正反対といっても過言ではない。決して交わるはずのなかった貧民街スラムの少年が一枚の〝鏡〟となり、ストラールの身に流れる〝血〟の宿命さだめを映し出しているのだ。

 『格闘技の聖家族』という呼び名は、累々と折り重なった聖なる犠牲を踏み締め、その上に格闘家として立ち続けなくてはならない覚悟を意味するのである。

 最愛の伴侶ストラールが今まで接点の一つもなかった少年キリサメから名門に生まれ付いた苦しみを抉り出され、魂を軋まされていると察していればこそ、マフダレーナはを更に悪化させ得る『血のスポーツ』をえて選んだのである。

 ストラールとマフダレーナは共通の趣味として乗馬を嗜んでいる。しかし、異境の馬に触れて気を紛らわせるといった生温い考えを後者は持っていない。己の身に流れる〝血〟の宿命さだめから逃れるすべはなく、打ちひしがれた心を強引に奮い立たせてでも克服するしかないのだ――と、伴侶パートナーに叩き付けた次第であった。

 マフダレーナは幼い頃から共に生きることを誓い合ったストラールに添い遂げる覚悟であるが、それは彼にとって甘やかすという意味ではない。

 本人も〝薬草魔術〟を現代に受け継いでいるのだが、深い森の奥で自然と共に歩む一族であったマフダレーナの祖先は、人権意識が皆無であった中世の基準に照らし合わせても凄惨としか表しようのない迫害を受け、祖国を捨ててオランダに流れ着いたのである。

 マフダレーナは『格闘技の聖家族』よりも〝血〟の宿命さだめを重く受け止めている。

 無論、脳に深刻な負荷を与えてしまう動揺を鎮めることこそ最優先と、マフダレーナも心得ている。だからこそ隣席となりに腰掛けても責めるような言葉は発さず、最愛のストラールが自らの意志で立ち上がることを信じて待ち続けていたのだ。

 その伴侶ストラールの心を引き裂いた張本人キリサメが同じ競馬場に出現する事態は、彼女マフダレーナにとっても全くの計算外である。『天叢雲アメノムラクモ』に所属するMMA選手は興行イベントの当夜ないしは翌朝には引き揚げているのだから、未だ開催地に留まり続けていたことさえ予想できなかった。

 心を乱す原因とは限りなく離れるべきであったのに、よりにもよってキリサメが腰を下ろしたのはストラールの真後ろである。偶然の一言では片付けようのない筋運びにストラールの表情が凍り付いたのは無理からぬことであろう。

 挨拶も交わしていないオランダ出身うまれの二人は名前すら把握していないが、風変わりなじゅうどうを纏った少年――電知もキリサメと偶然に落ち合ったようで、「神仏の導きかも知れない」と愉快そうに笑っていたが、仕組まれた悪戯いたずらにしては手が込み過ぎているだろう。

 信仰の心が日々の営みと結び付いているストラールでさえ、このときばかりは〝天〟のおぼし召しとしても悪趣味極まりないと胸中にて吐き捨てた。

 一方のキリサメたちは前列に座る二人が『ハルトマン・プロダクツ』の一員であり、なおつ岩手興行の特等VIP席にったことさえ気付いていない様子だ。

 ビジネスパーソンらしい風貌であった昨日とは異なり、今日は私服である。揃って『ハルトマン・プロダクツ』が手掛けたジーンズを穿き、ストラールは『バーン・アカデミニア』の紋章が左胸に添えられた長袖のポロシャツを、マフダレーナは袖を通さず肩に掛けるジャケットを、それぞれ組み合わせていた。

 おおきな連帯を象徴する『七星セクンダディ』の徽章も外しており、傍目には外国人観光客にしか見えないはずだ。

 ゴーグル型のサングラスは周囲まわりに馴染まないほど目立っているが、古豪ベテランの経験と技量に苦戦を強いられていたキリサメは、リングから特等VIP席を窺う余裕すら持ち得まい。

 つまるところ、ストラールは一方的にキリサメを意識し、聞き流せば痛手ダメージを受けることもない後列の会話をわざわざ背中で受け止め、一人で勝手に心臓を軋ませる情況であった。


本間コイツと違っておれは後追いの上に聞きかじりみて~なモンだけどよ、メイセイオペラも結構な気性難だったんだよな。確か母親譲りなんだっけか」

「競馬は『血のスポーツ』とも呼ばれるほど両親ひいては累代の血統が影響する。潜在する能力ちからとして歴史が積み重なっていく。優駿の血が次なる優駿を生み出すという遺伝子の循環とも言えような。〝人馬一体〟の芸術を財布で語るのは好きではないが、莫大な予算が唸りを上げる〝中央競馬〟の世界にエリート馬が揃うのは、つまりはだ。メイセイオペラの場合は母親の荒ぶる〝血〟が濃かったわけだな」


 本間愛染が同行していることにも驚いたが、それ以上にを拡げたのは、競馬との接点がないものとおぼしきキリサメに『血のスポーツ』の概略あらましを説き聞かせた言葉である。

 彼女は電知と二人掛かりで血統に基づく遺伝子の継承を語ったのだ。国際的な音楽家である父親と同様に天才と謳われる愛染は、が自らに突き刺さる皮肉に他ならないと理解しているのか、ストラールには甚だ疑問であった。

 我が子に、その〝先〟に――よりな〝血〟を繋げていく為、名門に生まれた一族ひとびとは数え切れない生け贄を捧げてきた。〝戦争の時代〟に財を成したザイフェルト家は言うに及ばず、『格闘技の聖家族』も人間ひととしての倫理を差し出さなくてはならなかった。

 それほどの犠牲を払わなければ、人間という種を超えて〝神の領域〟に触れることなど不可能であったのだ。


本間コイツに乗っかるようで面白くねぇけど、『全身全霊の結晶』ってのは、まさにその通りドンピシャだぜ。物珍しさの客寄せ目的で〝中央〟に引っ張り出されたワケじゃねぇ。〝地方競馬〟の歴史を動かした大金星だって幸運ラッキーなんかじゃねぇ。メイセイオペラと、その闘いを支えた全員で掴んだ必然の勝利だぜ」


 メイセイオペラを例に引きつつ電知が述べたのは、資金や練習環境などあらゆる面にいて〝中央〟に太刀打ちできない〝地方〟の苦境と、これを乗り越える一致団結の創意工夫であろうが、名門エリートとて高みの見物を決め込んでいられるほど余裕があるわけでもない。

 〝血〟を守り抜くことは、まさしく一族全ての闘争たたかいなのである。


「きっと〝中央競馬〟の基準じゃ恵まれた血統とは言えねぇんだろうな、メイセイオペラは。おれの知る限り、練習環境や設備を整えるのも一苦労だったみてェだしな。いよいよこれからって時期ときに頭蓋骨をやっちまったって言うし……」

「地元の人たちの愛によって支えられる〝地方競馬〟がエリート揃いの〝中央〟と互角に闘うのは、あらゆる意味で試練の連続であったと聞く。……〝雑草魂〟に希望を抱いた人たちの期待も重く圧し掛かったはずだよ」

「それでもメイセイオペラは闘って闘って闘い抜いて、空前の〝道〟を切り拓いた。夢を掴む資格は〝血〟に縛られねぇってコトを〝雑草魂〟で証明してくれたワケだぜ」

「血統――あるいは才能を裏付ける出自と言い換えたほうが分かり易いか。〝地方〟から出張ってきた得体の知れない一頭の下馬評二番人気は、熱心な競馬好き以外にはおどしとも侮られたかも知れないな。しかし、競馬を愛する人たちは、その〝地方馬〟が大勝負を制してきたことを知っている。……見ている人はちゃんと見てくれているわけだ」


 聖なる犠牲の果てにしか辿り着けないはずの〝力〟を格差社会の最下層で生きてきたという少年キリサメが発動させたのである。

 貧民街スラム出身うまれというキリサメの境遇や、〝雑草魂〟という言い回しに込められたモノを見下す意識などストラールは持ち合わせていないが、『格闘技の聖家族』が世代を超えて捧げ続けてきた犠牲を侮辱されたように感じてしまった事実もまた否定できない。

 家門という名の宿命さだめも、歴史と意味を同じくする〝血〟も、何一つとして背負わずに生きてきたであろう少年は、如何なる犠牲を踏み付けて神の頬に手を伸ばしたというのか。


「〝血〟を超える瞬間に立ち会えるのも競馬の醍醐味であろうよ」


 『格闘技の聖家族』の御曹司が岩手興行の第一試合で目の当たりにしたのは、まさしく〝雑草魂〟によって〝血〟の重みが超えられてしまった瞬間である。

 その〝雑草魂〟から浴びせられた衝撃を〝屈辱〟として受けれることはストラール自身の倫理が許さなかったが、別の〝何か〟にもすり替えがたいのだ。


「出発点は僕の思い通りに決めて良いんだよな。進み切った〝先〟に待ち構えているモノは分からないけど、走り出す場所まで〝誰か〟に決められてたまるかよ」


 電知と愛染の言葉を受け止めたキリサメは、己の意思にって〝出発点〟を定めると強く語っている。

 ストラールの心を一等激しく掻き乱したのは、この一言である。彼は自らの決意を示しただけであり、一つとして非はないと理解しているのだが、〝血〟と名門の宿命さだめを背負う御曹司の〝立場〟がキリサメに対する反発をどうしても抑えられなかった。


「……〝天〟のおぼし召しを超えたと言ってのける傲慢さえも定められた運命に他ならないでしょう。心の赴くままに振る舞っているようで生きとし生ける皆が〝何か〟に縛られ、〝誰か〟の敷いたレールを走らされている。ましてや〝血〟という名の鎖は歴史にも等しい。ザイフェルト家を例に引くまでもなく、〝血〟の歴史は永久に背負う十字架です」


 伴侶パートナーの精神状態を察したマフダレーナに左手を握り締められ、愛しい体温ぬくもりはストラールの心にまで染み込んでいったが、堰を切った醜い感情はそれでも止められない。


「私は海洋学の専門家ではありませんし、物覚えも頼りになりませんが、水が変わった途端に生きられなくなる魚を今すぐにでも何種類か上げられます。……水温の違う川を自由に泳ぎ回れるほど魚は強くありません」

「今、すがだいら高原の水が無性に恋しいよ」


 キリサメの口から飛び出したその一言は偶然にも皮肉への返答こたえとなり、からぬ反発心によって冷静さを欠いてしまったことを悟ったストラールは、これを恥じ入るような面持ちで口をつぐんだ。

 日本語ではなく祖国オランダ言語ことばで皮肉を並べ立てた己自身がストラールには許せなかった。相手の耳に届いても意味を勘付かれない陰口は、人として最も恥ずべき行為なのだ。


「……『神々の黄昏ラグナロク・チャンネル』は先人の智慧と〝血〟を背負う貴方のなかでしか完成されないモノ、貴方だけしか成し遂げられなかった〝力〟よ、ストラール。自らの〝血〟を撒き散らし、自らの寄る辺まで壊してしまったキリサメ・アマカザリとは似て非なるモノ。貴方に宿るのは破壊ではなく創造の〝力〟――貴方を愛する全ての人たちが支える結晶よ」


 『ラグナロク・チャンネル』という余人には意味不明な言葉を織り交ぜながら、マフダレーナは顔から生気が消え失せた伴侶ストラールをいたわっている。

 オランダの言語ことばに堪能な人間が居合わせていたなら、二人の間でのみ通じる『ラグナロク・チャンネル』が『天叢雲アメノムラクモ』のと同義であろうと察したかも知れない。

 『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーが〝神速〟をもっ古豪ベテランを圧倒した瞬間、ストラール自身も特等VIP席にて『ラグナロク・チャンネル』と叫んでいた。

 くだん新人選手ルーキーは先に立ち去った愛染を追い掛け、後列の席を離れた。場内では一二時四〇分に発走となる競走レースの準備も進められているが、馬券を買い求める為ではないだろう。

 三人の足音が聞こえなくなった直後に振り返ったストラールは、キリサメが腰掛けていた座席に双眸を見開いた。彼の〝神速〟を初めて目の当たりにした瞬間と同様にゴーグル型のサングラスを引き剥がし、翡翠色の瞳でもって死神スーパイの残照を睨み据えた次第である。

 奥州に舞い降りた〝黙示〟の行方を見届けた――と、本間愛染は一つの結論をキリサメに示していた。それならば、名門の宿命さだめなど想像し得ない環境で生まれ育った少年が『格闘技の聖家族』に突き付けた〝黙示〟とは、『神々の黄昏ラグナロク・チャンネル』を開く為にこんにちまで捧げられてきた聖なる犠牲は、何もかも無意味であったというなのか。


「例えこの精神こころが想い出の一切を感じ取れなくなろうとも、私の身に流れる〝血〟がその名を忘れはしないぞ、キリサメ・アマカザリ……ッ!」


 逆恨みと呼ぶには余りにも哀しく、劣等感と割り切るには激し過ぎる感情を持て余し、『格闘技の聖家族』の御曹司は小刻みに震える唇を血が滲むほど強く噛み締めた。



 名門の〝血〟を十字架の如く背負うストラールは、やがてキリサメや電知と併せて『てんのう』と並び称されることになる。魂が引き裂かれるような邂逅をのちに〝天〟のおぼし召しと述懐するのだが、現在いまはそのような未来など夢想だにしていなかった。



                     *



 『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントは撤収作業を済ませて開催先から引き揚げた時点で完結するわけではなく、翌日には関連事業としてネットオークションが催されることになっている。

 試合で実際に用いられた指貫オープン・フィンガーグローブなどを選手のサインを添えて販売するわけである。呆れ返るほど逞しい〝商魂〟としか表しようもないのだが、キリサメが破壊したリングの残骸も一部を出品することになっていた。

 これは主催企業サムライ・アスレチックスが収益を目的として実施しているものではない。東日本大震災のチャリティーオークションなのだ。

 日本格闘技界全体による東北復興支援事業プロジェクト『日本晴れおうえんだん』の一環である。

 興行イベント当日は正面玄関エントランスに募金箱が設置され、観客から預けられた義援金も被災地に寄付する手筈となっていた。公式オフィシャル観戦ツアーで得られた収益の数割もに含まれるのだった。

 『天叢雲アメノムラクモ』を筆頭として『こんごうりき』など『日本晴れ応援團』に賛同する全ての競技団体で同様の活動が行われている。岩手興行の物販コーナーにも陳列されていたが、『日本晴れ応援團』の公式オフィシャルグッズの売り上げも寄付される仕組みなのだ。

 義援金の取りまとめと管理は、競技団体の利益とは関わりがなく、透明性の高い中立機関として『MMA日本協会』が引き受けている。同機関による〝内政干渉〟を撥ね付け、決裂状態に陥っている樋口郁郎も『日本晴れ応援團』の活動では歩調を合わせていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の八雲岳や、主催企業サムライ・アスレチックスの役員である麦泉は、チャリティーオークションの準備がある為、キリサメたちを奥州市に残して一足早く東京へと戻っている。

 都内の撮影スタジオにて物品の写真などを撮影し、主催企業サムライ・アスレチックスで経理の業務を一手に引き受けているくらもちや、広報戦略を担当するいまふくナオリの手配りによって取引が進められる段取りであった。

 岳と麦泉は正午を少し過ぎた頃からくだんの撮影スタジオで待機しているが、今のところ、棚や台には一個ひとつの品とて飾られていない。指貫オープン・フィンガーグローブなどは接触競技コンタクトスポーツで使用された物だけに消毒作業が必須であり、それが完了しないことには搬入も不可能というわけだ。

 自ら写真撮影を行う今福ナオリも午後から合流することになっている。岳と麦泉だけが随分と早くスタジオに入ったわけだ。

 ともすれば殺風景のように見える撮影スタジオには、差し向かいとなる形でパイプ椅子が二脚ずつ並べられ、それぞれに『天叢雲アメノムラクモ』と関わりの深い人間が座っていた。尤も、その内の一人は通訳であって同団体と直接的に契約を結んでいるわけではない。

 顔を突き合わせた四人の表情は一様に重苦しい。触れた瞬間に肌が裂けてしまいそうなくらい張り詰めた空気の中で、岳は東欧スラヴ系の男性と日本人女性を正面に迎えていた。麦泉に至っては、丸々と肥えた身体を落ち着かない様子で揺すり続けている。

 余人に気取られないよう密かに撮影スタジオへと招き入れられた男女ふたりは、チャリティーオークションとは無関係である。つまり、岳と麦泉は気が焦って今福ナオリより早く到着したのではない。人目をはばかる会合に臨まんとしているわけだ。


「――さて、どこから……いや、何を話すべきかな。説明しなくてはならないことが多過ぎて、自分でもまだ整理し切れていない状態なのだ」


 東欧スラヴ系の男性が口にしたのは祖国の言語ことば――ロシア語だった。

 彼が何かを喋ると隣の女性が日本語に換えていく。ロシアの言語ことばを漏らさず聞き取り、パソコンさながらの速度で通訳するのだ。


「その前に心から御礼申し上げます。本来なら隊員も――いいえ、渡海すら難しい状況にも関わらず、わざわざロシアから日本こちらまで足を運んで頂いて……本当、恐縮です」


 麦泉が二人に心からの感謝を述べ、岳もまた敬意を示すように深々とこうべを垂れた。

 やや言葉を選ぶようにして麦泉は「渡海すら難しい状況」と述べたが、まさしくその通りにロシア人男性は満身創痍なのだ。

 頭部の大部分を包帯で覆っているだけでなく、左目には眼帯を当て、右足は膝の下から爪先までギブスで固定されている。傍らには松葉杖も置かれているが、首に引っ掛けた三角巾でもって左腕を吊っている為、右手で使う一本分でしか体重を支えられない状態だ。

 車椅子で移動するほうが安全であろうと思えるほどに痛ましい有りさまである。

 極寒の大地に生をけた人間らしく肌は色白だが、それだけに抉れた傷痕が際立ち、一等生々しく感じられる。集中治療室ICUから脱走してきたようにしか見えないのだ。


「マジで大丈夫か? このレベルの怪我と思わねェで東京まで来て貰っちまったが……」


 岳から掛けられた言葉にロシア人男性は首を横に振った。彼の日本語が理解できるようなら通訳に頼る必要もないだろう。その反対も然りである。

 しかし、このときばかりは通訳を介さずとも互いの気持ちが伝わるのだ。

 岳の心配と、これに応じる「気にするな」という返答こたえは正確に通じていた。表情だけで分かり合えるくらい付き合いが長いわけである。


「試合は出られないが、大会自体には出席できる。私も『天叢雲アメノムラクモ』の一員だ。自分の代わりに出場してくれる選手を見届けないわけにはいかない。今度のことは観戦のだ」

「だけどよ、ビェールクト……」

「……自分なりの罪滅ぼしでもあるのだよ、ガク。気を遣わないでくれ」


 これほどの重傷を押してまで日本に駆け付け、〝罪滅ぼし〟と告げたロシア人男性は、ビェールクト・ヴォズネセンスキーである。岩手興行を目前にして『ばくおうまる』を名乗る道場破りに惨敗し、全治三ヶ月の怪我を負わされた『天叢雲アメノムラクモ』の契約選手であった。

 彼が離脱した穴を埋める形でキリサメの参戦が決まったわけだが、欠場した本人が岩手興行へ駆け付けるからには相応の理由があるのだろう。

 補欠選手キリサメ・アマカザリの試合を見守ることが目的と前置きしているものの、それ以外の重大事がなければ、〝罪滅ぼし〟などという強烈な言葉をわざわざ口にするわけもない。


「では、遠慮なくお伺いします。……『ばくおうまる』の尻尾を掴んだそうですね?」


 麦泉が通訳を経由してたずねると、ヴォズネセンスキーは無言で頷き返し、これに反応するようにして岳の表情が険しさを増した。

 欧米の武道場やジムを荒らし回る正体不明の道場破り――『ばくおうまる』の手掛かりを掴んだと、被害に遭った本人ヴォズネセンスキーから連絡が入り、の機会を設けた次第である。

 その道場破りは『天叢雲アメノムラクモ』ばかりでなく、『NSB』など様々な競技団体の所属選手たちを次々に故障させているという。海外に戦友の多い岳としても極めて憂慮すべき事態であり、自身の情報網ツテを使って追跡を試みていたのである。

 ヴォズネセンスキーは最初に岩手興行の会場で樋口に接触を図り、の約束を取り付けたのだが、直前になって主催企業サムライ・アスレチックスの誰も把握していない用事が入ってしまい、統括本部長の岳と麦泉が代理を任されたのだ。

 ヴォズネセンスキー本人も気心の知れた岳のほうが樋口よりも接し易かったであろう。長年の戦友だけに互いの話も理解が早いのだ。


「でも、どうやって? こっちの情報網は浅いがあったくらいだぜ?」


 爆煌丸に関しては岳の師匠――『さなにんぐん』の末裔が欧州を経巡って消息を辿っていたのだが、断片的な情報と顔写真程度しか入手できなかったのである。


「……軍の諜報部門にツテがあるのでね」


 通訳の口から飛び出した「軍の諜報部門」という重い一言に岳と麦泉は揃って呻いた。

 ヴォズネセンスキーはロシア陸軍・山岳部隊に籍を置く現役軍人でもあるのだ。忍者とはいえ民間人に過ぎない岳の師匠よりも情報収集の精度が高いのは当然であろう。

 岳と麦泉が揃って返すべき言葉を逡巡したのは、ロシア軍という本来の所属を意識してしまった為である。

 スポーツと政治は決して混同するべきではないと、前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAを牽引してきた二人も理解していた。〝戦争の時代〟に起こった前例も教訓となっている。

 自分たちが立ち入るわけにはいかない軍人としての彼と、前身団体の頃から共にMMAを盛り上げてきた競技選手アスリートとしての彼は分けて考えるべきと努めてきたが、面と向かって〝現実〟を突き付けられた瞬間に心が揺れてしまったのである。

 二〇一四年二月にウクライナで勃発した政権崩壊劇と、これに続くクリミア半島の緊張状態に端を発し、ロシアは軍事介入を強行している。その模様が報じられたのは同国ロシアのソチで開催されていた冬季オリンピックの直後である。時系列では同パラリンピックのなかであり、〝平和の祭典〟の意義を信じて疑わない岳にとっては衝撃的な事態であった。

 ロシア軍によるクリミア侵攻に関しては、六月に至っても様々な疑惑と憶測が飛び交い続けている。軍事の専門家でもなく、ましてやヴォズネセンスキーの所属する山岳部隊がクリミア半島で何らかの任務を遂行しているのかも分からない為、麦泉は紡ぐべき言葉を悩んだ末、「渡海すら難しい状況」と言い表したのである。

 岳も麦泉も、相手ヴォズネセンスキーの反応を探るような言い方にならざるを得なかった。


「……爆煌丸と名乗った例の男は、間違いなくドーピングで身体能力を強化しているぞ」


 二人の動揺が鎮まったのを見計らい、ヴォズネセンスキーは道場破りを迎え撃った際の印象と、これに基づく自身の見解を示した。断定に近い語調である。己の見立ては絶対に間違ってはいないと、揺るぎなく確信している様子であった。


「負けた私が言っても説得力を欠くだろうが……。いや、負けたからこそ分かったのだ。あれは人工的に作られた肉体に他ならない」


 ヴォズネセンスキーが紡ぐ一字一句を正確かつ迅速に日本の言語ことばへと換えてきた女性であるが、ドーピングに触れる部分だけは訳すことを躊躇していた。

 ロシアスポーツ界では古くから大規模かつ組織的なドーピング疑惑が垂れ込めており、実際に五輪選手オリンピアンからメダルが剥奪される事件も立て続けに発生していた。ここ数年は内部告発まで起こり、ロシア人選手の〝立場〟を巡って国際社会でも物議を醸している。

 国家くにぐるみのドーピング汚染とまで取り沙汰されており、疑惑にまみれたロシア人選手はスポーツ界から一人残らず追放するべしという声まで上がっていた。仮にも二〇一四年冬季オリンピック・パラリンピックの開催国である。

 通訳の女性が言葉を詰まらせてしまった理由を察した岳は、気遣わしげな眼差しを向けたのち、「その道場破りを取っ捕まえたら、ビェールクトの爪の垢を煎じて飲ませてやらなきゃな!」と右の親指を垂直に立てて見せた。

 皮肉屋の耳には揶揄のように聞こえたかも知れないが、岳は真っ直ぐな気持ちで戦友への信頼を述べている。国際競技大会にける失格者は許すべきではないものの、ヴォズネセンスキーは『天叢雲アメノムラクモ』が実施するドーピング検査も問題なく突破しているのだ。

 ロシア出身うまれというだけで偏見を持ち、短絡的な排斥に走るべきではない――この姿勢は岳の言葉に強く深く頷き返した麦泉も同様であった。

 二人のレスラーの大恩人であり、実戦志向ストロングスタイルを掲げる『新鬼道プロレス』を率いてきた鬼貫道明は、格闘技やプロレスで世界中を一つに結ぶという壮大な夢を思い描いている。

 国家の在り方を大きく変えてしまう大改革ペレストロイカに揺れていた一九八九年一二月のソビエト連邦にも鬼貫は志を同じくする精鋭レスラーたちを引き連れて赴き、プロレスを通じた国際交流を試みている。

 東西に分断されていたドイツにいて、『ベルリンの壁』が崩壊した僅か一ヶ月後のことである。

 〝東西の代理戦争〟という側面を持っていた『ベトナム戦争』の終結から一四年もの歳月が過ぎ、『冷戦』の構図の中でも日ソの外交関係は正常化に向かいつつあった。を民間単位でも押し進めるべく、鬼貫は首都モスクワでプロレス興行を開催したのだ。

 鬼道道明とヴァルチャーマスクは場内を大いに沸騰させ、岳も異種格闘技戦形式でサンボの使い手と相対し、三ラウンドにも及ぶ激闘を演じた。のちに『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長となる若きレスラーは、言語ことばが通じなくともプロレスの熱狂を分かち合い、その昂揚から絆が育まれることを自らの経験によって学んだのである。

 そして、それこそが闘魂に基づく〝スポーツ外交〟であった。

 〝格闘技地球連合〟とも呼ぶべき鬼貫道明の理想は、モスクワで闘った岳だけでなく麦泉にも受け継がれ、希望の火もまた『新鬼道プロレス』から『天叢雲アメノムラクモ』まで絶えることなく続いている。

 無論、ソビエトからロシアに変わった現在いまも、北の大地で生きる人々との想い出は岳のなかで少しも色褪せてはいない。

 生まれた国で〝立場〟や思想を推し量るのではなく、あくまでも一人の戦友を見つめ、その言葉を信じる岳と麦泉に対して、通訳の女性は心から安堵の溜め息を零した。

 『天叢雲アメノムラクモ』のMMA選手である前に彼はロシア軍人なのだ。東欧の動乱に対する感情的な反応が前身団体バイオスピリッツの頃から育んできた信頼を断ち切る事態には至らなかったのである。


「注射の痕があったんですか? 僕たちが先に手に入れた写真だと解像度が低くて皮膚の状態まではよく分かりませんでしたけど……」

「勿論、針の痕跡もあったよ。ごく小さな物だったがね。だが、それも本人がこの場にいなければ確認することはできない。そこで一目瞭然の分かり易い証拠を揃えたということだよ。……まずは資料を見てくれ」


 極めて繊細デリケートな問題だけに言葉を慎重に選ぶ麦泉との受け答えを続けながら、ヴォズネセンスキーは通訳の女性に一冊のファイルを渡すよう促した。

 二〇枚程度の紙束が綴じられたハードカバーのファイルである。

 これを受け取った岳は、横から覗き込んでくる麦泉と一緒に目を通し、その詳細な調査内容に瞠目させられた。顔写真など一部の内容は師匠の報告書とも被っていたが、ヴォズネセンスキーのファイルには本名から出身地、家族構成まで事細かに記されているのだ。


「ルイ=アベル・ユマシタ? おい、ノルマンディー地方出身っつうコトは、これだけ東洋系の顔しといてコテコテのフランス人なのかよ⁉」

「日本の〝血〟を引きつつもフランス人で、その上、『NSB』の元選手……ですか?」

 岳と麦泉が同時に発した疑問へ一遍に答えるようヴォズネセンスキーは首を頷かせた。

「顔写真をよく見てくれ。丁度、右眉の辺りだ」

「いや、分かんねぇよ。眉毛が何だってんだよ」

「目を凝らすんだ。端の辺りに手術した形跡があるだろう? 抜糸の痕が……」

「――あァッ!」


 ヴォズネセンスキーから言われた箇所を注視していた麦泉が突如として素っ頓狂な声を上げた。後輩のように大袈裟には反応しなかったものの、岳もすぐに縫合の痕を見つけることができた。

 岳たちが入手した物も、ヴォズネセンスキーのファイルに添付されている物も、どちらの写真も画質が粗く、誰かに指摘されなければ確実に見落としてしまうのだが、爆煌丸の右眉の辺りには確かに古傷を見て取ることが出来た。

 斜めに走った傷痕は、鋭利な刃物で切り裂かれたものと察せられる。

 互いの鼻息が掛かるほど間近で対決した経験があるとはいえ、微かな古傷の一つすら見逃さない洞察力は、MMA選手としても軍人としても、極めて優れている証左であろう。


「いわゆる、〝クイーンズイングリッシュ〟を喋っていたし、本人としては上手く隠し通したつもりなのだろうが、少しばかりフランス訛りがあったのだよ」


 ヴォズネセンスキーが口にした〝クイーンズイングリッシュ〟が何を意味するのか伝わらない可能性も考慮した通訳の女性は、次の翻訳へ移る前に自らの判断で「イギリスの中でも上流階級の人々の間で浸透している英語のことです」と解説を付け足した。


「厳つい見掛けと裏腹に随分とキザだな。生まれだから気取ってみたってか」

「というか、正体を掴ませない為の隠蔽工作かも知れませんね。……ただの道場破りにしては手が込み過ぎています」

「育ちの良さから、無意識に上流階級クイーンズイングリッシュのほうを選んだのかも知れんな」

「どーゆー意味だよ、育ちってのは? ノルマンディー地方って独立王国みたいな場所なのか? 自慢じゃねぇが、フランスの地理はちんぷんかんぷんなんだぜ、オレ。具体的なイメージっつったら、大昔に映画にもなった上陸作戦くらいしか――」


 迂闊にも口に出しそうになり、岳が慌てて喉の奥に引っ込めたのは、第二次世界大戦の末期に連合軍が敢行した侵攻作戦である。その当時、ノルマンディーは枢軸国のドイツに支配されており、これを奪還することによって戦局を動かさんと試みたのだ。

 やがてパラリンピックに繋がっていく『ストーク・マンデビル競技大会』の誕生とも直接的に結び付いている為、岳はノルマンディーという地名をおぼえていた。

 〝侵攻〟という一点に過剰反応してしまったと、岳も頭を掻いて反省したが、今なおウクライナを揺るがし続ける情勢が気にならないわけがない。前身団体バイオスピリッツ以来の付き合いだ。ヴォズネセンスキーの母親が同国ウクライナの出身であることも承知していた。

 岳が『ノルマンディー上陸作戦』へ言及しそうになったとき、通訳の女性も眉根を寄せることで無神経な振る舞いであろうと戒めたが、ヴォズネセンスキー本人は気にせず自らの話を進めていった。


「まぁ、聞け。腕や肩の注射痕からドーピングの可能性を疑ったことは話したな? 逆にたずねよう。禁止薬物による汚染と聞いて何が真っ先に思い浮かぶ?」

「……『NSB』……」


 今度は岳が眉間に皺を寄せる番であった。麦泉も忌々しげな呻き声を絞り出している。


「私もすぐに『NSB』を連想したよ。現代表イズリアル・モニワによる綱紀粛正の際、前代表フロスト・クラントンと共に追放された選手も少なくなかっただろう? その中に該当する人間が居ないものか、自分なりに調べてみたのだ。病院のベッドでただ寝転がっていると老け込む気がしたのでね」

「そして、に行き着いたっつうワケか……」


 岳の問いに対し、ヴォズネセンスキーは「ダー」と通訳を介さずにロシア語で答えた。肯定を意味する一言だ。次いで彼はファイルの二五ページ目を確認するよう促した。

 書類そこには爆煌丸――ルイ=アベル・ユマシタが『NSB』の八角形の檻オクタゴンで闘う姿を捉えた写真が何点か刷り込まれていた。調査内容が正しければ、彼は『プレリミナリカード』の選手であったらしく、それ故に岳にも麦泉にもおぼえがなかった。

 『プレリミナリカード』とは、〝目玉メイン〟と対比して下位アンダーカードとも呼ばれている。

 同じ東洋系ではあるものの、ルイ=アベルと爆煌丸の顔は似ても似つかない為、二人は揃って首を傾げた。その反応も予想済みであったヴォズネセンスキーは、「顔全体を整形しているから簡単には見分けがつかない」とも付け加えた。

 彼の言葉に閃くものがあった二人は、ルイ=アベルの右眉の辺りに目を凝らしていく。果たして、爆煌丸の顔写真に見られた物と同じ古傷を確認することができた。


「……これで身元は判明。ルイ=アベル・ユマシタという本名や、訛りの通りにフランス出身だということも、二〇一〇年に『NSB』と契約したことまで分かったよ」

「……『NSB』でいよいよが幅を利かせ始めた頃だな」

「そして、その数年後にドーピング不正で追放された事実も突き止めた。……これらを手掛かりにしてに調べてもらったのだが、どうやら親がフランス貴族の末裔らしいのだよ。正確には母方のほうがな。今も両親は古城しろ暮らしだそうだ」

「それで〝育ちの良さ〟と言うワケですね……」

「てゆーか、何だかスケールのデカい話になってきたな、おい。マジな貴族サマかよ」

「兄は二人。ルイ=アベルは末っ子だったようだな。更に言うなら、体力以外は取り柄がなく、両親から期待もされていなかった憐れな青年だ。……それはバッソンピエール家に生まれついた人間にとって何より重く圧し掛かるだろう」

「バッソンピエールゥッ⁉」


 岳と麦泉が口を揃えて絶叫した『バッソンピエール』とは、ソチ冬季オリンピック・パラリンピックをスポンサーとして支えた医療・福祉機器メーカーの経営者一族の家名だ。メダル争いでは他国におくれを取ったものの、同大会にも有力選手を送り込んだフランススポーツ界の名門でもある。

 日本代表が金メダルを獲得したフィギュアスケート男子フリーでもバッソンピエールの家名を持つフランス代表が健闘していたが、その選手オリンピアンも日仏混血ハーフであった。

 俄かにソチ冬季オリンピックの記憶が甦った岳と麦泉は、驚愕の二字を貼り付けた顔を見合わせ、次いで答え合わせを求めるような眼差しをヴォズネセンスキーに向けた。

 ルイ=アベルはフランス代表選手オリンピアンの弟ではないか――通訳を介さずとも二人がたずねたい内容ことを察したヴォズネセンスキーは、「ダー」と重々しく頷き返した。

 だが、彼から渡された資料にはバッソンピエール家との関係に触れるような記載は見当たらない。それはつまり、『NSB』内部の記録から抹消された情報という意味である。


「詳しいいきさつまでは掴めなんだが、バッソンピエールの子弟であることは間違いない。注目を集められる家名ファミリーネームえて外した理由もな。かの名門の側から何らかの交渉を持ちかけられたとも察せられるが、……悪名高い前代表フロスト・クラントンならば、裏取引にも応じるだろう」

「エンタメ的に盛り上がるなら選手の安全だって投げ捨てる前代表あのヤロウがバッソンピエールの家名なまえを利用しねェってのもよな。……アメリカを追い出されたときにもフランスから逃避行トンズラに手ェ貸したんじゃねェか」


 本来、ルイ=アベル・ユマシタ・バッソンピエールと名乗るべき男は過去の経歴を抹消した上で『NSB』に出場していたということである。

 現在いまは爆煌丸と称する道場破りの正体を暴いていくヴォズネセンスキーは、彼が学生時代に通っていた『ヨーロピアン柔術』の道場にも探りを入れていた。

 その道場主曰く、ルイ=アベルは入門当初から気性に難があり、一度ひとたび火が付くと模擬戦スパーリングであろうとも相手が壊れるまで執拗に攻撃を繰り返す〝暴れ馬〟であったようだ。

 ただし、武術の才能には目を見張るものがあり、これを惜しんだ道場主は素行不良も寛大に許していたのだが、結局は庇い切れなくなり、破門せざるを得なくなったという。

 道場を追われるという失態はフランススポーツ界の名門にとって拭い難い汚点となる。祖国フランスに居場所を失ったことは容易に想像できた。

 あるいはバッソンピエールの家名を捨てざるを得ない状況まで追い込まれたのかも知れない。ルイ=アベルが『NSB』に姿を現わしたのは、それから半年後のことだ。


「顔と一緒に性格まで変えちまったのか? それとも、ドーピングの副作用なのかよ。師匠が調べた限りじゃ、どっちかっつーと無口で大人しそうだったらしいけどよォ」

「いや、ルイ=アベル――バクオウマルは、まさしく〝暴れ馬〟だよ」


 顔写真や資料から爆煌丸の気性について、岳は物静かと読み取っていたのだが、それをヴォズネセンスキーは静かに否定した。


「メンタルトレーニングの賜物か、薬物の効力かは定かではないが、感情を抑制している様子だったし、機械のような立ち居振る舞いを気取っていたが、それもこれも化けの皮というものだろう。……だが、眼光だけは本人のを離れていて誤魔化せない」


 刻み込まれた戦慄が甦ったのだろうか、ヴォズネセンスキーは大きく身震いした。

 その様子を心配そうに見つめ、彼の手の甲に自分の手の平を重ねながら、隣席となりの女性は通訳を続けていく。


「飛び付き腕十字を仕掛けたときのことだ。ヤツは極められた腕を振り回して、私を力任せに引き剥がした。……それは恐怖以外の何物でもなかったよ」

「同じ光景を『NSB』でも見たよな。……の『NSB』でよ」

「尋常な目ではなかった。試合中に殺気立つ選手も多いが、私に立ち向かってくるは違う。……例えば、そう――戦場の緊張感に心が壊れて錯乱した兵士に近い。敵兵を殺すことで正気を保とうとする目だよ。もはや、その時点で異常なのだがな」


 それでも自分が生き延びたのは、一握りでも爆煌丸ルイ=アベルに理性が残っていた証拠かも知れない――とヴォズネセンスキーは締め括り、自分に添えられた気遣いへ応えるように通訳の女性の手を握り返した。


「……『NSB』の〝負の遺産〟っつうコトかよ……」


 短く呻いた岳は両腕を組んだ黙り込んだ。

 狂気をはらんだ眼光というものは、写真や伝聞では感じ取ることが難しい。実際に闘ったヴォズネセンスキーにしか得られない見識といえよう。


「諜報機関を私的に頼るのは限界がある。これくらいしか調べられなかったが……」


 現在の拠点や所属先は依然として不明であり、整形手術を受けてまで道場破りを繰り返す目的も判明はしていない。そのことをヴォズネセンスキーは調査不足と謝ったのだが、岳も麦泉も、ただただ恐縮するばかりであった。

 十二分という一言でも足りないほどの成果である。下手をすれば軍にける立場を危うくし兼ねない状況の中で『天叢雲アメノムラクモ』に協力しているのだ。

 道場破りという不測の事態とはいえ、軍事作戦の展開中に瀕死の重傷を負わされたのである。彼が所属する山岳部隊の参加はともかくとして、軍人にあるまじき大失態とされ、周囲まわりから批判の目を向けられているのかも知れない。


「それにしても、爆煌丸の――『NSB』を追い出された野郎の狙いが分からねェよ」


 爆煌丸と名を変えたルイ=アベルの目的として考えられるのは、自分のことを利用しておきながら追放処分を突き付けてきた『NSB』に対する嫌がらせであろうか。

 そのように予想を立てた岳に対し、麦泉は「それを言い出したら、ヴォズネセンスキーさんはどうなるんですか」と異論を唱えた。

 『NSB』の所属選手も道場破りの被害には遭っているものの、爆煌丸の標的はかつての所属先だけではないのだ。『天叢雲アメノムラクモ』のヴォズネセンスキーは言うに及ばず、特定の団体に所属していないフリーの格闘家まで餌食にされている状況であった。


「……『ランズエンド・サーガ』が刺客に仕立てた可能性は考えられませんか?」

「何ィ? 『ランズエンド・サーガ』だぁ? いきなりブッ飛んだな。『NSB』と微妙な関係だけどよォ、『ランズエンド・サーガ』の刺客ってのはさすがにナシじゃねェ?」


 麦泉が語った『ランズエンド・サーガ』とは、二〇〇〇年代半ばにイギリスで旗揚げされた打撃系立ち技格闘技の団体である。

 ロンドンを拠点として欧州ヨーロッパ全土で興行イベントを行っていたが、近年では〝オイルマネー〟とも結び付くようになり、中東にも活動の場を拡大させつつある。名実ともに欧州ヨーロッパ最大規模の格闘技団体であった。


「センパイもご承知の通り、ドーピング騒動で『NSB』から追放された打撃系選手の受け皿になったのが『ランズエンド・サーガ』です。その上、フロスト・クラントンが代表に就任してからは両団体の間で〝仁義なき戦い〟が始まったじゃありませんか」

「確かに去年辺りまで引き抜き行為ヘッドハンティングの応酬で、そりゃあ酷ェ有り様だったがなァ……」


 『NSB』にドーピングを蔓延させ、団体の体質そのものを真剣勝負の総合格闘技MMAから〝モンスター〟による〝見世物〟に歪めた前代表――フロスト・クラントンは、アメリカ格闘技界から永久追放されたのち欧州ヨーロッパへ逃れ、経緯は不明瞭ながら『ランズエンド・サーガ』の団体代表に就任していた。

 その『ランズエンド・サーガ』を運営する企業の親会社は『ハルトマン・プロダクツ』である。禁止薬物によって選手の肉体を改造するという前科は、スポーツ事業を通じて国際社会に貢献してきた同企業ハルトマン・プロダクツひいてはザイフェルト家にとって許し難い所業ものであろう。常識に照らし合わせて考えるならば、後ろ盾になることなど絶対に有り得なかった。

 先ほど岳が述べた通り、バッソンピエール家が仲介役を果たしたのかも知れない。


「例えば『NSB』と契約交渉に入っている格闘家とか他の団体の選手に刺客を差し向けて故障させれば、欧米では『ランズエンド・サーガ』の独り勝ちになるじゃないですか」

「その刺客が爆煌丸だってか?」

「道場破り自体が隠れ蓑だとしたら? ……さっきも言ったように『NSB』と『ランズエンド・サーガ』は〝仁義なき戦い〟をやっているんですよ」

前代表フロスト・クラントンからすれば古巣NSBに対する〝復讐戦争〟ってコトになるわな。あのクサれた野郎ならェを追い出した『NSB』にツルもうとしてる選手は、それこそ大喜びでブチ壊しそうだぜ。……いや、確かにその通りかも知れねェがな、やっぱり発想が極端過ぎるぜ。大体、立ち技系とMMAじゃ客層が完全一致ってワケでもねェし」

「……モンの言い分、一概には否定できない気もするぞ」


 麦泉と岳の議論に口を挟んだヴォズネセンスキーは、爆煌丸ルイ=アベルと『NSB』の接点を調査する段階で掴んだ副次的な情報と前置きした上で、驚くべき事実を二人に打ち明けた。


「今、『ランズエンド・サーガ』の運営会社は『NSB』に買収提案をしている最中だ。バクオウマルを使って『NSB』の力を削げば、イズリアル・モニワも交渉に同意するしかなくなるだろう。選手が使い物にならなくなったら、物理的に興行イベントを維持できなくなる」

「文多、お前、今の話は知ってたか⁉」

「まさか! 初耳ですよ! モニワ代表は勿論、こうたいじんも、ヴァルチャーのあにさんも、そんな話は一度だって……ッ!」


 欧米の二大格闘技団体の間で買収騒ぎが浮上している――この衝撃的なしらせを受けて岳と麦泉は驚愕の顔を見合わせた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長も、主催企業サムライ・アスレチックスでさえも、『NSB』が身売りの危機に瀕していることなど聞き憶えがなかった。この場には居ない樋口とて把握していないはずだ。

 これは『天叢雲アメノムラクモ』にも全く無関係という話ではない。言わずもがな『ハルトマン・プロダクツ』は同団体のメインスポンサーであり、指貫オープン・フィンガーグローブやリング用の機材一式など試合で使う物品の殆どを提供されている。

 世界最大のスポーツメーカーを後ろ盾としながら、北米アメリカ最大のMMA団体と合同大会を共催せんとしているのが『天叢雲アメノムラクモ』の〝立場〟である。それはつまり、板挟みの状態で欧米の覇権争いに巻き込まれる危険性が高いという意味だ。

 欧米の格闘技界が〝仁義なき戦い〟という揶揄すら憚るほどの緊張状態に陥っているとも知らず、日本の〝暴君〟は『NSB』と『ハルトマン・プロダクツ』双方の重要人物キーパーソンたちを岩手興行の特等VIP席に招き入れ、互いを牽制し合う構図を作り出したわけである。麦泉の顔が病的に青くなってしまうのも無理からぬことであった。


「でもよ、だとしたら、ビェールクトの怪我は……」

「無関係の抗争のとばっちりで全治三か月。迷惑極まりない話だが、突き詰めていけば、自分が未熟だっただけのことだよ。誰を恨むわけでもない」


 ヴォズネセンスキーの推理は、他ならぬ彼自身の誇りを傷付け兼ねないものであったのだが、この静かなる男は憤激することもなく淡々と現状を分析していく。


「いざとなれば昵懇にしているドバイの大富豪が〝オイルマネー〟を繰り出して、札束でモニワの顔でも引っぱたくのだろうが、今のところは友好的買収で進めているそうだよ。その態度も見せ掛けで、裏を掻いて刺客を差し向けたといったところかな」

「……クラントン個人の思惑を割り引いて考えるなら、『ランズエンド・サーガ』は『NSB』というを欲しがっているように思えますね」


 キックボクシングや空手といった打撃系立ち技格闘技が欧州では非常に盛んであり、その頂点たる『ランズエンド・サーガ』が栄華を極めるのはごく自然の流れであった。

 一方で、寝技も含めた総合格闘技――MMAそのものは、二〇一四年の欧州ヨーロッパ全土にいて〝スポーツ文化〟としての地位を確立しているとは言いがたい。

 『天叢雲アメノムラクモ』を上回る規模の競技団体もポーランドを拠点として活動している。二〇〇〇年代半ばの旗揚げから現在まで興行イベントも定期的に開催してきたが、『NSB』も含めて欧州ヨーロッパ以外の有力団体とは半ば相互不干渉に近く、〝外部そとの目〟には盛り上がりを欠いているように映ってしまうのだ。

 同団体には日本出身うまれの友人が出場しており、岳も麦泉も決して細いとは言いがたい〝パイプ〟を持っている。それにも関わらず、運営方針すら満足に掴めないことが高い独立性の傍証であろう。地政学的には隣国という近しい関係でありながら、『ハルトマン・プロダクツ』でさえ内部へ入り込めずにいるという。

 おそらく『ランズエンド・サーガ』は名実ともに〝世界〟の牽引役である『NSB』の看板ブランドを買い取り、これをもってMMAという〝文化〟を欧州ヨーロッパ全土で普及・定着させることが目的であろうと、麦泉とヴォズネセンスキーは直感したのだ。

 〝世界〟に撃って出て『NSB』を脅かす勢力ちからを得ることは、フロスト・クラントンの復讐とも一致するのである。


「『ランズエンド・サーガ』による――本当にキナ臭いことになりましたね」

「ブランド欲しさとは思えないほど回りくどいやり方は、フロスト・クラントンが主導しているのだろうな。……逃亡先でも団体を私物化している証拠ともせるか」

「いやいやいや、爆煌丸は刺客ってセンで話が進んじまってるけど、オレはもっと単純に腕試しじゃねぇかと踏んでるぜ。それが妥当じゃねーの?」

「一つの可能性として十分に考えられる。ガクの見立てが正しいのなら、もしかするとバクオウマルは一つの証明を目指しているのかも知れない。ドーピングで改造された人間にしかできないことを……」

「証明……ですか?」

モンも昔はプロレスラーだったのだろう? ならば、きっと分かるはずだ」

「早ェ話が人間ヒトはどこまで強くなれるかっつーコトだよ」


 ヴォズネセンスキーが語った〝証明〟の二字が何を意味するのか、岳には即座に理解できたようである。


「不当な手段だろうと何だろうと、ヤツは強さの限界を試してやがる。それだけは間違いねぇ。以前まえの『NSB』で見世物にされた改造人間さえブッ飛ばして、更に上の〝次元〟に行こうとしてるのかも知れねぇ。〝超人願望〟はの永遠のテーマだからな」

「ギネスブックのように公式な記録として認められるかどうかは、闘いの場に生きる人間には大きな問題ではない。強いか、弱いか――それだけだ。手段こそ間違っているが、バクオウマルは世界最強に誰よりも近い。やられた人間の感想ながら私にはそう思えるよ」

「超人っぷりならヴァルチャーの兄ィだって負けてねェけどな!」


 爆煌丸ルイ=アベルを衝き動かすものが〝超人願望〟であったなら、それは岳のように純粋な憧憬あこがれではなく、と言い換えるのが最も正解に近いだろう。

 祖国フランスを代表してオリンピックに出場する二人の兄や、一族の者たちに及ばないという理由で己の存在意義を否定したバッソンピエール家に対する復讐である。例え下等の烙印を押された人間であろうとも、禁忌の〝力〟を受けれさえすれば、名門の〝血〟をも超えられるという狂気の証明であるのかも知れない。

 フロスト・クラントンと爆煌丸ルイ=アベル――二つの復讐が結び付いた末路を想像し、麦泉は思わず身震いしてしまった。


「ヴァルチャーマスクともな超人が何を目的にこんな真似を繰り返しているのか、本当に『ランズエンド・サーガ』と繋がりがあるのかも想像の域を出ないが、……ガク、いずれお前もバクオウマルから狙われるかも知れないぞ。くれぐれも気を付けることだ」


 眼帯で覆われていない側の目で岳を見据えたヴォズネセンスキーは、「いずれお前が標的にされる」と改めて繰り返した。


八雲岳ガク・ヤクモといえば、前身団体バイオスピリッツから現在に至るまで日本MMAの旗振り役だ。それを疑う人間は世界中のどこを捜してもいないだろう。バクオウマルが日本に足を踏み入れたとき、一番有名な格闘家を狙うに決まっている」

「……『天叢雲アメノムラクモ』という看板ブランドを潰すにはセンパイを撃墜するのが手っ取り早い――と?」

「そういう事態も想定すべきだな。刺客という可能性を脇に置いて純粋な道場破りとして考えても、八雲岳ガク・ヤクモのネームバリューは並び立つものがない。ガクのことだから、どんな挑戦でも受けてしまうのだろうが、お前が再起不能にされるところなど私は見たくはないぞ」


 その言葉から岳はヴォズネセンスキーが重傷を押してまで来日した理由を悟った。

 軍の諜報部門を頼って作成した極秘資料だけに電話で内容を伝えることを憚り、直接、ファイルを持参したものと考えていたのだが、実際に日本の戦友ともが自分と同様の脅威に晒されてはいないか、心配になって様子を確かめに来てくれたのだ。


「……バカヤロ……お前……お前ってヤツはァ……ッ!」


 長年の戦友ともの想いに触れて感極まった岳は、ついに双眸から熱い雫を滴らせ始めた。

 格闘技を〝平和の祭典〟と信じて疑わない岳にとって、現在いまも東欧で続く騒乱は胸が張り裂けそうである。ウクライナ出身うまれのMMA選手も前身団体バイオスピリッツで活躍していたのだ。

 与党議員で文部科学大臣を務める旧友――『MMA日本協会』の岡田会長とは異なり、岳は政界との関わりが薄い。ときに大問題を起こすほど無鉄砲な性格ではあるものの、他国の政情について軽々しく口を挟むべきでないことは弁えている。

 日本を代表するプロレスラーだけに、ロシアスポーツ界と政財界の間に横たわる疑惑は聞き耳を立てずとも自然と聞こえてくる。『ステート・アマ』という旧ソ連以来の事実を背景としている為、邪推を抑え込みながら慎重に向き合わざるを得ない部分があるのも否定できなかった。

 それでも、一九八九年のモスクワで大勢の人々と心を通わせた想い出は消せない。

 ロシア軍人ではなく、ビェールクト・ヴォズネセンスキーという一人の人間を見つめているからこそ、岳の頬を流れる涙も真っ直ぐであった。

 東日本大震災の発生時、ヴォズネセンスキーは誰よりも早く格闘技雑誌パンチアウト・マガジンに激励の言葉コメントを寄せている。『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が解散した後は、アメリカのMMA興行イベントに活動の拠点を移していたのだが、日本国内で東北復興支援のチャリティー大会が計画されるとすぐさま出場を表明し、報酬ファイトマネーも全額を寄付していた。

 岳も麦泉も、軍事力によって主権を脅かされたウクライナにこそ心を寄せ、その痛みを我が事のように感じている。

 この場には居合わせていないが、騒乱の報に接した未稲の話によれば動画サイト『ユアセルフぎんまく』にダンスの映像を投稿アップロードし、その完成度から世界中で話題を呼んでいたクリミア出身のネットアイドルもすっかり更新が途絶えているという。

 彼女ネットアイドルが消息不明となったのは、を頼って留学する旨を発信して間もなくである。如何なる事態に見舞われたのか、未稲は限られた情報から穏やかならざる憶測を捏ね繰り、今日か明日にも安否報告の動画ビデオ投稿アップロードされよう祈っていた。

 岳も軍事侵攻がの日常を押し潰していく〝現実〟から目を逸らすつもりはない。しかし、戦友ヴォズネセンスキーと同じように震災復興に力を尽くしてくれたロシアの人々を忘れることも出来なかった。

 祖国ロシアの為だけでなく国際社会の一員としてその発展に貢献し、芸術やスポーツなど様々な分野で世界を感動させる者もまた数え切れない。そこに出身うまれ起源ルーツ差異ちがいもない。

 心が通い合った戦友ともを信じる思いは、麦泉の頬にも迸っている。

 さすがに照れ臭くなって岳から顔を背けたヴォズネセンスキーだったが、隣席となりに座る女性から慈しむような眼差しを向けられていることに気付き、いよいよ居た堪れなくなってしまった。麦泉にも優しげな瞳で見つめられており、背中が痒くて仕方がない。


「それはそうと、私の代理を務めてくれた少年のことだが……」


 爆煌丸――ルイ=アベル・ユマシタ・バッソンピエールとは全く無関係の話題はなしを切り出したのも、気恥ずかしい雰囲気を切り替えたい為である。


「うちのキリーかッ! 試合に負けて勝負に勝ったみてェな幕引きになっちまったけど、特撮番組顔負けの超絶スピードまで飛び出して、お前のハートも最高に燃えたよなッ⁉」


 城渡マッチと拳を交える中で養子キリサメが発動させた〝神速〟について岳が胸を張った瞬間、ヴォズネセンスキーは表情を曇らせてしまった。

 代理として出場しておきながら、反則負けに終わったキリサメのことを不愉快に思っているのではないかと、麦泉は脇の下に汗が噴き出してしまったが、ヴォズネセンスキーの顔に憤怒の色はなく、何か告げにくいことを躊躇ためらっている様子である。


「キリサメ・アマカザリ――あの少年もまた超人に違いはないだろう。持って生まれた才能か、どんな訓練トレーニングを積んできたのかは分からんが、彼こそ〝超人〟と呼び、バクオウマルのほうは〝魔人〟と呼び分けるべきかも知れない。……しかし、どうしても気になるのだよ。人間離れした〝力〟を覚醒させる仕方――いや、あの発作が……」

「……ほ、発作?」


 重々しく語り始めたヴォズネセンスキーの言葉に岳は低く呻いて絶句した。それは聞き捨てならない一言であったのだ。


「もしかすると、彼は『PTSD』を患っているのではないか? 貧民街スラムという危険な環境に身を置いていたそうが、……精神こころを痛め付けられる経験など聞いていないか?」


 ヴォズネセンスキーの推察を耳にした瞬間、岳と麦泉は脳内あたまが真っ白になった。逡巡を重ねたのちに戦友が口にした『PTSD』とは、心的外傷後ストレス障害のことである。



                     *



 都道府県庁所在地を直線距離で結んだ場合、岩手県と東京都はおよそ四六〇キロ――その間には平成初頭にかけて鉄道が敷かれ、新幹線での往復が可能となった。

 美しい水平線を楽しめる沿岸部のローカル線とは異なり、新幹線は内陸部を走る為、津波の直撃こそ免れたものの、三年前の東日本大震災では甚大な被害を受けていた。

 乗客乗員は地震感知による緊急停車から翌日まで車内での立ち往生を余儀なくされ、点検・復旧作業が完了して運転が再開されるまでには一ヶ月以上もの時間を要したのだ。

 二〇一四年六月現在は、全線が正常に運行されている。

 『天叢雲アメノムラクモ 第一三せん~奥州りゅうじん』の開催地である奥州市から乗車した場合、東京駅まではおよそ三時間という長旅である。

 奥州市の競馬場を離れたのち、キリサメたちは本間愛染の自家用車で移動することなり、電知の希望もあってひらいずみちょうの史跡を巡ってきた。ちゅうそんこんじきどうたかだちけいどうなど、同地で命の炎を燃やし尽くしたおうしゅうふじわらみなもとのろうほうがんよしつねの足跡を辿り、時代の英雄たちの生きざまと散りざまを「なつくさつわものどもが夢のあと」と詠んだまつしょうの心情を追体験する間に電知と愛染はすっかり意気投合していた。

 土地々々の風情に遠い昔の面影を見出す感性が通じ合った様子であるが、何事にも感動の薄いキリサメは、さしぼうべんけい守護まもられながらみなもとのろうほうがんよしつねが自刃を遂げたと伝わる終焉の地に立っても、建物の構造を眺めるのみであった。

 として大成すればみなもとのろうほうがんよしつねのスタントを任されるだろうと麦泉から評されたものの、古典『へいものがたり』をと捉えている日系ペルー人にとっては『げんぺいかっせん』のいくさがみも身近には感じがたい人物なのである。

 自家用車で東京に戻る本間愛染と別れたキリサメたち三人が帰路かえりの新幹線へ乗り込む頃には、岩手県は夕暮れ時を迎えようとしていた。

 仙台駅での乗り継ぎの必要もなく、一本で東京駅まで駆け抜ける車輛である為、乗客たちは気を楽にして鉄道の旅を楽しむことが出来るのだ。

 東京までは二時間弱という道程である。三人掛けの座席にキリサメや電知と並んで腰を下ろし、宮城県へ差し掛かる頃になると、未稲はうつらうつらと船を漕ぎ始めた。

 岩手興行の開催地は奥州市であるが、旅の始まりはりくぜんたかだ。

 『奇跡の一本松』や『まんにん宿しゅくとう』など東北復興のしるべとも呼ぶべき象徴を訪ね、震災直後に設けられた避難先で子どもの健康維持に貢献した〝青空道場〟の精神こころにも触れた。

 それから家族キリサメのMMAデビュー戦となった岩手興行まで途方もなく長い道を歩き続けたような旅であった。その間、色々な意味で気の休まる暇もなかったのだ。〝城渡総長〟のカタキ討ちに逸る暴走族チームに包囲された昨夜などは、命の危険まで感じたのである。

 張り詰めていた糸が切れた途端、数日分の疲労が堰を切って未稲にし掛かった。そのようなときには座席から伝達つたう振動が揺り籠の代わりとなるわけだ。

 まぶたを半分ほど開き、おかの上に打ち上げられた魚の如く口を開閉させつつ深い眠りに落ちようとしている未稲の携帯電話スマホから希更・バロッサの歌声が大音量で流れ始めたのは、キリサメが東北最後の強敵――車内販売のカップアイスとの死闘を終えた直後であった。

 希更が主演するアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の主題歌『イン・ゴッデス・ウィー・トラスト』である。座席に落ち着いた時点で気が緩んでしまった為、携帯電話スマホをマナーモードに切り替えることも忘れていたのだ。

 一瞬にして睡魔が吹き飛び、丸メガネが曇るほど焦った未稲は携帯電話スマホを取り落としそうな勢いでデッキに飛び出していった。ドアから顔を出してキリサメに手招きしたのは、およそ一分後のことである。


「――アマカザリさんもお気の毒ですね。ようやくデビューしたっていうのに団体代表があのザマじゃあ『天叢雲アメノムラクモ』の先行きも芳しくありません」


 未稲が翳した携帯電話スマホは、スピーカーモードに切り換えられている。そこから聞こえてきたのは彼女とキリサメの弟――おもてひろたかの皮肉であった。

 小学校の授業は全て終わり、帰宅して宿題まで済ませたという。それも当然であろう。携帯電話スマホの液晶画面に表示される現在時刻は、既に一七時を過ぎているのだ。デッキの窓から差し込む夕焼けの色も秒を刻むごとにその色が濃くなっていく。

 キリサメたちが乗り込んだ新幹線は東日本の山々を貫いて走る為、長短のトンネルを断続的に抜けることになる。一昔前までは暗闇の只中へ飛び込むたびに電波が遮断され、携帯電話そのものが殆ど使えなかったが、現在はその問題も大きく改善されていた。

 またしても窓の外は暗闇に塗り潰されたが、ひろたかとの通話が途切れることはなかった。


ひろたかくん、あの……」

「あなたが見せたかったものって何ですか?」


 義弟おとうとの問い掛けは、距離を無視して放たれた一本の矢の如くキリサメの鼓膜を貫いた。

 僕の出発をみーちゃんと一緒にキミにも見届けて欲しい――その一言をキリサメは自らの口でひろたかに伝えていた。

 生と死が鼻先ですれ違うペルーの貧民街スラムと法治国家の日本では、社会通念からして大きく断絶しているだろうが、母一人子一人という境遇に相通じるものを感じたのである。

 何よりもひろたかは自分の置かれた環境に鬱屈しているように見えた。現在いまの居場所がどうしようもなく息苦しく、けれども自立するだけの力を持ち得ない――状況を打開できない辛さにもがいていると感じられたからこそ、手を差し伸べずにはいられなかったのだ。

 プロデビュー戦を観戦して貰えたなら、義弟おとうとなかで〝何か〟が変わるかも知れない。少しでも勇気を与えられるのではないか――その想いで初陣の地にいざなったのだ。

 キリサメ自身も養父の試合をきっかけとして、一歩を踏み出したのである。

 今となっては余計な真似をしてしまったのではないかという自問の声が心の奥底から湧き上がってくる。結局、ひろたかに晒したのは〝格闘競技〟から掛け離れた〝闇〟であった。

 幼馴染みと同じ声を持つ異形の死神スーパイに惑わされたとはいえ、異種格闘技戦の時代から受け継がれてきた闘魂のリングを破壊してしまったのは、キリサメ自身の過ちだ。

 時速三二〇キロで走る新幹線でありながら、通過まで数分を要するほど長いトンネルが終わると、俯き加減となったキリサメの頬が黄昏たそがれの色で染まった。


「慰めて貰うのを待ってる男って、最悪にカッコ悪いですよ」

「そこまでいじけているつもりはないんだけどね」


 義兄キリサメ返答こたえに窮したものと直感し、更なる皮肉で畳み掛けた大陸ひろたかは、おそらく電話の向こうで小さな肩を竦めていることであろう。


「それじゃ、ぼくが見たものを教えてあげたら良いですかね――」


 七歳とは思えないほど大人びた苦笑いと共に紡がれたひろたかの言葉は、「蛙の子は蛙」という小さな呟きを前置きとしている。その一言の中で〝親蛙〟と想定されているのは、おそらく八雲岳ではないだろう。


「――生まれて初めて総合格闘技MMAを面白いと感じました」

「面白いって……えっ?」


 城渡マッチの〝舎弟〟が文字通りの暴走に至るまでの一部始終をひろたかの段階からリングサイドの関係者席で見据えていたのだ。その義弟おとうとから伝えられた言葉は、マットに刷り込まれたMMAの正称を血で穢した本人キリサメにとって全く理解に苦しむものであった。

 新幹線は再びトンネルに入り、デッキからも黄昏たそがれの色が消え失せた。

 正面で携帯電話スマホを翳している未稲は通話を開始したときに実弟おとうとから真意を教えられたようだ。唖然呆然と口を開け広げているキリサメに耳を傾き続けるよう優しく頷き返した。


「途中からMMAというよりサーカスみたいになってましたよね。ペルーにサーカス団があるのか、勉強不足で存じ上げないのですけど、そこで修行でも積まれたのですか?」

「確かに首都リマにはサーカス学校もあったけど、そんなところにかよっていたら、……現在いまよりも真っ当に生きていたと思うよ」

「それであのアクロバットですか。どういう身体の構造つくりしてるんですか。細かい分析が欲しいけど、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの次号で出るのかな。目にも止まらぬは秒速何キロとか」

ひろたかくん、何だか鼻息が荒くないかな? ……みーちゃん、彼は大丈夫なのか?」

「会場の大盛り上がりが証明した通り、ヴァルチャーマスクをも超える〝超人〟を見せ付けられて気持ちが昂らない人はいませんよ」


 意外としか表しようのない言葉を重ねられたキリサメは、困惑するばかりである。故郷ペルー貧民街スラムと法治国家日本が相容れないという〝事実〟を象徴する喧嘩殺法を汚らわしいモノとして蔑まれると思っていたのだ。

 その想像が「面白い」という感想によって吹き飛ばされた次第である。平素いつもと同じ理屈屋ではあるものの、声色は明らかに上擦っていた。これほどまでに感情が伴ったひろたかの声をキリサメは過去に聞いたおぼえもない。


「お察しのことかと思いますけど、ぼくは『天叢雲アメノムラクモ』なんか大嫌いです。MMA自体、存在すら認めたくありません。……未稲さんに聞いていませんか? 表木うちの家庭も、まだ短いぼくの人生も、MMAのでメチャクチャになっているのですよね」


 とても七歳児が背負うようなものではない重い事情をひろたかが仄めかした。

 その途端に未稲が呻き声を洩らしつつ顔をしかめたのは当然であろう。表木家ひいては八雲家に横たわるなのだ。ひろたかも具体的に打ち明けることはなかったが、今日まで〝新しい家族〟と接してきたキリサメには何となく察しが付いていた。

 『NSB』を主戦場とする八雲岳の愛弟子――『フルメタルサムライ』の異名で恐れられるしんとう表木大ひろたかは、顔立ちが極めて似ているのだ。そして、岳と嶺子の離婚という一つの事実がある。そこに〝開かずの扉〟を感じ取るのは自然であろう。


「そんなぼくなのにアマカザリさんの試合だけは面白かったんです。国内外問わず、今まで腐るほどMMAの動画を観てきましたけど、……これがどうにも悔しいのだけど、生まれて初めて面白いって感じてしまったんです」

「キミの場合はお母さんが人気の試合とか選手を教えてくれるんじゃ……」

「あの人の話を聞いていても、が頭に入るだけでちっとも楽しくありません。一方的に自分の話をするだけだし、いちいち押し付けがましいんですよ。あの試合は絶対に観ておけだの、この選手の動きは要チェックだのと……。人の反応リアクションに無関心なところは岳さんと似た者夫婦って感じですよ。もうとっくに別れていますけど」


 そのように続けるひろたかの声が困惑を深めるキリサメの心を覗き込んでいた。


「確かにラストは散々でした。これでトドメというときに頭真っ白になってしまって、自分で自分を止められなかったのではないですか? 新人選手ルーキーにはありがちですよね」


 ひろたかが例に引いた新人選手ルーキーの陥り易いらしい失態と全部すべてが一致するわけではないが、己自身を制御コントロールできないという情況は、キリサメの初陣プロデビューとも重なるのである。

 まぶたの裏に浮かび上がる〝血〟の記憶が引き金となり、喉元まで迫った死の脅威を理性もろとも吹き飛ばす暴力性と、人間という種を超越する〝力〟を暴走させてしまった。

 ましてや初陣プロデビュー舞台リングには異形の死神スーパイまで降臨し、格差社会の最下層で『聖剣エクセルシス』を握り締めてきた意味をキリサメ・アマカザリという人間の〝真実〟として突き付けられ、その果てにひろたかが指摘した通りの事態を招いたのだ。

 無論、ひろたか義兄キリサメ砂色サンドベージュの風にさらわれ、死神スーパイの支配する領域まで引き摺り込まれたことなど知る由もない。その上でキリサメ本人にさえ抑えられない〝力〟の暴走を「面白い」と、はばかることなく断言したのである。

 全身を血の色に染めるような者は〝スポーツとしての格闘技〟にとって危険極まりない存在である。御剣恭路たちを暴発させた事実からも明らかであるように、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMAにとって一七年の歴史を吹き飛ばす〝爆弾〟にしかなり得ないだろう。

 だが、危険過ぎる一方で、MMA選手としての資質は『天叢雲アメノムラクモ』史上最高である――自分の目にはそのように映っていると、本人キリサメを置き去りにしてひろたかは続けた。

 現在いまはルール内で許可された攻撃と反則の区別も付いていないが、正しい知識に基づいた経験を積めば、花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルでさえ恐れる理由がなくなるとまでひろたかは言い切った。

 〝神速〟にも達する動きや、幻の鳥ケツァールを彷彿とさせる試合着ユニフォームの尾羽根を利用した変則的な技を調整し、MMAに適した形へと応用する。ただそれだけで『天叢雲アメノムラクモ』の絶対王者たる『かいおう』をも脅かすことであろう。史上最高の可能性が如何なる進化を遂げるのか、見守るだけでは面白くない――ひろたかは己のなかに芽生え始めた欲求まで義兄キリサメにぶちまけた。

 忌み嫌っていた『天叢雲アメノムラクモ』に自ら関わろうとしている。生まれて初めて格闘家という存在を面白く感じている。劇的な試合たたかいを目の当たりにして昂ってしまう自分の〝血〟を意識しないわけにはいかない――その想いが「蛙の子は蛙」という一言を紡がせたのである。


(……あの日、岳氏の手を握り返していなかったら、自分以外の誰かに手を差し伸べようなんて思わなかった。……僕の振り出しは、もうペルーじゃない)


 一〇年も生きていない内から鬱屈しているように見えた義弟おとうとの変化を期し、キリサメは養父にならうようにして己の試合へと導いたのである。考えられる最悪の幕引きであり、大勢の期待を裏切ってしまったものの、小さいながらも一つだけ“成果〟があったのだと、ひろたかから伝えられたわけだ。

 敗北直後に向けられた眼差しを振り返れば、義弟おとうとの言葉が形だけの慰めでないことも分かる。血みどろの義兄キリサメに怯えることもなく、ひろたかは瞳に強い光を宿していた。

 未稲の携帯電話スマホを通じて伝えられた数々の言葉によって、キリサメは余りにも真っ直ぐであった為に顔を背けざるを得なかった眼差しの意味を初めて悟ったのである。

 それはひろたかがキリサメに電話を掛けてきた理由にも通じることであろう。


「みっともないたらありゃしない負けいくさのまま終わってよろしいのですか? それで本当にアマカザリさんは納得するんですか? ぼくは納得しません。『見届けて欲しい』という言葉に責任を持って下さい。大口叩いておいて逃走トンズラなんて結末オチ、真っ平御免です」

ひろたかくんはみーちゃんに手厳しいと思っていたけど、いよいよが僕にも向いたか」

「出発を見届けて欲しいって言っておいて、思いっ切りつまずいたじゃないですか。徒競走かけっこならスタートラインまで戻されていますよ」


 止まる気配のないひろたかの言葉を噛み締めるようにして受け止め続けるキリサメは、口元が緩んでいくのを抑えられなかった。

 親友に導かれた奥州市の競馬場にいて、己の出発点に対する一つの結論に辿り着いたばかりなのだ。半日と経たない内に義弟おとうとにまで同じようなことを問われるとは、偶然の運命と呼ぶには甚だ滑稽であろう。


「それなら、スタート自体をやり直さなきゃだね、キリくん!」


 間もなく未稲が実弟おとうとの加勢に入った。携帯電話スマホを翳しつつ正面切ってキリサメを見つめた彼女は、姉弟の二人掛かりで再出発を促そうと図っているわけだ。

 樋口郁郎による様々な暴挙はともかくとして、『天叢雲アメノムラクモ』という日本最高のリングは、ただ一度の失敗で未来の可能性を絶たれてしまう場所ではないことも訴えんとしている。


「可愛げのねぇガキだなぁって思ってたけど、ツレねェ態度は照れ隠しってワケかよ。ひろたかもキリサメのコト、大好きじゃね~か」


 未稲を追い掛けた楽しげな笑い声は、電知のものである。

 新幹線内では座席での通話は禁じられており、それが為にデッキへと移動したわけであるが、かへ体重を預けるには壁にもたれるしかなくなる。疲弊から完全回復したとは言いがたいキリサメの場合は歩行補助杖一本で立ち続けることも苦しく、携帯電話スマホを持つ未稲に代わって電知が上体を支えていたのだ。


「ちょ、ちょっと待って下さい! 今の声、どなたですか? 喋り方からしてアマカザリさんじゃありませんよね⁉ ……ひょっとして空閑さんっ⁉ なッ、何故に⁉」

「おう、おれだとも。野暮用で岩手まで出掛けてたんでな。その帰路かえりだぜ」

「まさかと思いますが、未稲さん、ぼくとアマカザリさんの会話を盗み聞きしていたのですかっ⁉ 前々から恥知らずと分かってはいましたけど、覗き趣味まで……っ! あの両親のダメな部分の煮凝り状態じゃないですかっ!」

「いやいやいやいや、人聞き悪いにも程があるでしょ⁉ お姉ちゃん、ツー携帯電話スマホの機能を使っただけだよ⁉ キリくんとのナイショ話とも言ってなかったじゃんっ!」


 キリサメ以外の声が受話口から聞こえてきたことへ俄かに混乱したひろたかであるが、事前の通知もなく携帯電話スマホが多人数と会話を行うスピーカーモードに切り換えられたことを悟ると、液晶画面がヒビ割れるのではないかと心配になる金切り声で実姉あねを批難し始めた。

 義兄キリサメと直接的に言葉を交わしていると、ひろたかのほうでは考えていたわけだ。それ故に波乱の初陣プロデビューから感じ取ったものを素直にぶつけられたのである。

 それはつまり、本人キリサメ以外には聞かせたくないような感情の発露でもある。気恥ずかしさもあって、ひろたかは普段よりも遥かに切れ味の鋭い言葉の刃で実姉あねに斬り掛かっていった。

 当然ながら傍目には八つ当たり以外の何物でもない。これを眺める電知は他の乗客の迷惑になると注意もせず、不毛極まりない姉弟の言い争いを愉快そうに笑い飛ばしていた。

 その間にもトンネルの出入りが小刻みに続く。無味乾燥な暗闇とやまあいの夕焼けを交互に眺めたのち、キリサメは左右のまぶたを閉じて足元から伝達つたう振動へと意識を向けた。

 キリサメ・アマカザリというMMA選手も新幹線と同じように他者が敷いたレールの上を走らされているようなものだろう。さしずめ現在は所属団体の代表と花形選手スーパースターによって降りることの許されない車輛に放り込まれた恰好である。

 例え他者の手のひらの上で転がされる状況であったとしても、己の意志さえ手放さなければ、為せることは幾らでもある。それが証拠にレールの上を前進するしかない新幹線の車内でも、キリサメは義弟おとうとと自由に通話はなしていられるのだ。

 このまま事態が進めば、次戦の対戦相手になるであろうレオニダス・ドス・サントス・タファレルはプロデビュー戦とその後に勃発した騒動を一まとめにして〝謝肉祭〟と揶揄していた。そして、自分との試合こそが復活祭イースターであると、観客の昂奮を煽ったのである。

 〝謝肉祭〟と復活祭イースターの間に横たわる四〇日は、いにしえの伝承に基づいて豪華な食事や娯楽を控え、人類の罪を背負った〝主〟の受難に寄り添わんとする期間である。

 しかし、これは日々の営みを委縮させるという意味ではない。祈りや奉仕の精神をもってして信仰の在り方を自らの心に問い掛け、聖なる日を迎えるのだ。未だに真意を測り兼ねる花形選手レオニダスの宣戦布告――復活祭イースターに向けて、偉大なる先駆者たちが積み重ねてきた闘魂たましいけがすという大罪を犯したキリサメもまた己が成すべきことと向き合うのみであった。

 復活祭イースターという言葉からは故郷ペルーける『聖週間セマナ・サンタ』を想い出さざるを得ない。

 聖書に記された審問と十字架への磔刑はりつけ、復活の場景を表す巨象が作られ、大勢の人々がを担いで市内を進む『聖行列プロセシオン』はと二人で見物に繰り出したものである。その幼馴染みと同じ声を持つ異形の死神スーパイは、赤黒い泥人形で〝主〟の受難劇を再現していた。

 ともすれば、『天叢雲アメノムラクモ』を〝富める者〟の道楽と貶めるの嘲笑がからともなく聞こえてきそうだが、キリサメは故郷ペルーした幼馴染みの幻像まぼろしなど捜し求めようとも思わなかった。

 まぶたを再び半ばまで開いたとき、キリサメは瞳の中央に強い光を湛えていた。


「仕切り直した後の出発点、ひろたかくんを少し驚かせるかも知れないな」

「これ以上、アマカザリさんの〝何〟に驚くというのですか。まさか、まだ隠し玉をお持ちと言うのではありませんよね?」

「サーカス学校に通っていたら、現在いまより真っ当に生きていた――そういうことだよ」


 正面に立つ未稲と、傍らにて上体を支える電知は、競馬場でも放たれた光に目を細め、この上なく嬉しそうに微笑みながら、キリサメの〝決断〟を受け止めている。

 歩行補助杖を壁に立て掛けたのち、キリサメは右の五指をポケットに突っ込んだ。次いで掌中に握り締めた物は、改めてつまびらかとするまでもないだろう。錦の守り袋に刺繍された南天の赤い実は、「難を転じる」という武運の願いから鎧武者に愛されてきたのである。

 三人を乗せた新幹線は、暗闇の只中を走り続けている。長いトンネルを突き抜け、窓の向こうに一条の光を見据えるのは、もう間もなくのことであった。




 のちの格闘技史にいて『りょうていかいせん』と呼ばれる大動乱は、読んで字の如く二つのおおきな勢力による覇権争いであり、最終局面に至って〝天下分け目〟とたとえるべき決戦を迎えることになるが、それは全世界を混沌で呑み込んだ果ての極限である。

 この中には日米欧にシンガポールというを加えた四つ巴の生存闘争も含まれ、格闘技とスポーツの大転換期を焼け野原に変えるまではげしい火花を撒き散らすのだ。

 〝格闘技バブル〟の崩壊と前身団体の没落を乗り越え、日本最大のMMA団体として不死鳥の如く甦った『天叢雲アメノムラクモ』が〝暴君〟を発端とする混乱に苦しめられている頃、『りょうていかいせん』の一翼を担う『NSB』でも新しき〝流れ〟が生まれようとしていた。

 やがて死神スーパイの名を冠する〝力〟に蝕まれ、歴史的汚点と忌み嫌われる元プロボクサーと同様に〝格闘技ビジネス〟の光と闇に翻弄されるキリサメ・アマカザリ。

 ブラジリアン柔術の祖となった伝説の柔道家・前田光世コンデ・コマの技と夢を現代に受け継ぎながらも地下格闘技アンダーグラウンド団体の抗争に巻き込まれ、望まぬ戦いに身を投じることになる空閑電知。

 限りなく死神スーパイに近い〝力〟をその身に宿したが為、名門という〝血〟の宿命さだめに衝き動かされて貧民街スラムの喧嘩殺法と同じ戦場リングに臨まざるを得なくなるストラール・ファン・デル・オムロープバーン。

 運命の〝流れ〟に呑み込まれていく三人と共に『てんのう』と呼ばれることになる最後の一人――シロッコ・T・ンセンギマナ。

 『ウォースパイト運動』の過激派が飛行中の大統領専用機エアフォースワンにサイバーテロを仕掛けた事件にける標的の一人とも言い換えられるだろう。

 左太腿から下が機械仕掛けの義足というそのMMA選手は、八角形オクタゴンケージとも思える試合場の内側なかに立ち、ブラックゴールドのカバーに覆われたでマットを踏み締めている。

 ひざつぎと呼ばれる部分の先――足部はカーボン繊維ファイバーで作られた二枚の板を組み合わせている。全体が紫水晶アメジストいろで塗装され、その内側には赤・青・黄・黒・白という五色の水玉模様が金の縁取りを施された形で散りばめられていた。

 脛から踵、足先に至るまで生身と同じ輪郭シルエットを描く一枚は、弾力性と耐久性を生かし切る計算に基づいて湾曲させた物であり、〝板バネ〟とも呼称されている。

 剥き出しではマットを損壊し、対戦相手の肌も傷付けてしまう為、地面と接するもう一枚の板は爪先が流線型のカバーで防護され、裏側も全面をゴムで覆ってある。踏み込みの感覚や、そこに生じる力の作用を再現できるように板全体が少しばかり弧を描いていた。

 一般的に〝スポーツ用義足〟に分類される物を装着し、頭髪かみをドレッドヘアーに編み上げた男性おとこは、太陽にかれたアフリカの大地の如く逞しい肉体からだで歓声を受け止めている。

 彼の祖国――ルワンダにとって、二〇一四年は大きな節目であった。

 一九九〇年から激しい内戦が勃発ぼっぱつし、政治的混乱が悪化の一途を辿る中、一九九四年に至って隣人と命を奪い合う虐殺ジェノサイドへ突入――生き延びた人々の多くも拷問などによって手足を欠損するという国家的悲劇は、終結から二〇年目を迎えようとしている。

 この二月には内戦と虐殺ジェノサイドいて重大な役割を果たし、人道に反する罪に問われた男の裁判がパリ重罪院で始まっている。逮捕の数年前に遭遇した交通事故の後遺症によって、車椅子に座った状態での出廷であった。

 ルワンダは日本の青年海外協力隊によって伝えられた空手が盛んな国であり、ンセンギマナも『くうかん』道場のきょういししゃもんと親しく交わっていた。尤も、彼自身が極めたのは日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させ、その系譜を継ぐ者たちによって完成された近代総合格闘技術――『アメリカン拳法』である。

 白黒チェック柄の競技用トランクスを穿き、手首の部分に青いラインの入った指貫オープン・フィンガーグローブを装着するンセンギマナは、今、好敵手ライバルとして認め合った男との別離わかれを迎えようとしていた。

 二本の足で軽く跳ね、臨戦態勢を整えているのは『ブラボー・バルベルデ』という名のプエルトリコ出身うまれのMMA選手である。『NSB』が誇る鉄拳ハードパンチャーであり、ンセンギマナとは勝敗を一つずつ分け合っていた。続く三戦目は引き分けドロー判定で終わっている。互いに完全決着を期し、四度目の対戦に臨んでいるわけだ。

 プエルトリコはその腰に王者チャンピオンのベルトを巻くプロボクサーを数え切れないほど輩出する一方、アマチュアボクシングの頂点であるオリンピックではおくれを取り続けている。同競技でのメダル獲得は一九八四年ロサンゼルス大会――三〇年前が最後であった。

 ルワンダの好敵手ライバルと向き合うバルベルデは、二年後の開催であるリオオリンピックの期待を背負い、〝プロ〟のMMAからアマチュアボクシングに転向すると発表している。

 『NSB』は名実ともに世界最高のMMA団体だが、プエルトリコで生まれ育ったボクサーにとって故郷に金メダルをもたらすことは悲願なのだ。次にスポーツメディアがバルベルデを取り上げるときには、赤いラインの指貫オープン・フィンガーグローブからボクシンググローブに変わっていることであろう。


「今は二つの〝世界〟に離れるとても、決して一期一会の別れとは思うまい。我らが結んだ絆は絶頂にして永遠。肩を抉られ、腹に穴を開けられ、頭を半分吹き飛ばされた痛みが生命震わす波動となって、二人を再び引き寄せるのだから……」


 最終決戦ラストマッチの火蓋が切られる瞬間を待つなか、ンセンギマナが英語でもってバルベルデに贈った惜別の言葉は、喋り口調こそ変えていたが、日本で制作されているアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の主人公――『あさつむぎ』の台詞を引用したものだ。

 これに対してバルベルデは苦笑を浮かべ、金網の外に立つポンチョ姿の青年――ンセンギマナのセコンドは「昨夜からブツブツと練習していたのはか」と呆れ返っていた。

 『かいしんイシュタロア』を愛してやまず、出演者によるトークイベントに参加するべく日本の秋葉原まで出掛けていくンセンギマナは、同作の台詞や出来事などを日常会話にも好んで織り交ぜている。つまりはというわけである。

 しかし、好敵手バルベルデもセコンドも、ンセンギマナの言葉そのものは否定しない。

 くだんのアニメシリーズは主要な登場人物が光と闇の軍勢に分かれ、ヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神と同化し、甲冑や武器を具現化して戦うという設定であるが、最後の勝利者が高笑いする筋書きシナリオではなく、ぶつかり合った先に生まれる相互理解を根幹の主題テーマに据えていた。

 希更・バロッサがいのちを吹き込むあさつむぎは、光の軍勢を率いる立場でありながら、闇の破壊神に選ばれた幼馴染みを実姉の如く慕い続け、二人で手を取り合って両軍の調和を成し遂げている。

 故郷すら異なる二人のMMA選手が好敵手ライバルとして向き合う試合場オクタゴンは『かいしんイシュタロア』と同じ理想によって完成されていた。

 選手の心拍数・有効打の威力及び命中精度をリアルタイムで測定する機械など、最先端技術の結晶とも呼ぶべき『CUBEキューブ』の確立によって全世界の格闘技関係者から感嘆の声を引き出している『NSB』であるが、は進化の一側面に過ぎない。

 ンセンギマナが装着する左の義足は〝格闘競技〟に最適化された物だが、四肢が全く健常な選手と同じ条件で闘うことには現実問題として困難が少なくない。義足に対する直接攻撃などを禁じる特別ルールが対戦相手に了承されて初めて試合も成立するわけだ。

 無論、ブラボー・バルベルデは今回も快諾している。心身のハンデに関わらず、共有する条件に基づいて〝心技体〟を競い合う環境を現代表イズリアル・モニワは推進し、『NSB』の試合場オクタゴンにて実現されたのだ。MMAに適した競技用義足の選定など団体としての支援も手厚い。

 〝戦争の時代〟に傷痍軍人たちのリハビリテーションと向き合い、パラリンピックの礎を築いたルートヴィヒ・グットマン医師は「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ」と提唱している。

 文化・国籍といった選手間の違いを越え、フェアプレーによって育まれる友情を通じて世界平和に貢献する――これは〝近代オリンピックの父〟と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵の示した精神オリンピズムである。

 〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟の先駆者たちが目指した理想は、こんにちの『NSB』によって成し遂げられている。選手も主催者も、誰もが希望の体現者であった。

 ルワンダとプエルトリコの両雄ふたりを深く結び付け、異なる〝道〟へと導いたのも、あるいは〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟と言えるのかも知れない。

 ンセンギマナの祖国が初めてパラリンピックに参加したのは、内戦終結の数年後に開催された二〇〇〇年シドニー大会であった。ただ一人の代表選手パラリンピアンが祖国に〝心の復興〟をもたらすべく開催国オーストラリアへ向かったのだ。

 内戦で左足を失った水泳選手が五〇メートルを泳ぎ切る姿に祖国ルワンダの人々は未来を諦めない勇気を与えられた。虐殺ジェノサイドを生き延びながらも将来の展望さえままならない状況に陥り、抜け殻同然に気力を喪失うしなっていたンセンギマナもその一人である。

 内戦によって惨たらしく引き裂かれたルワンダは数年で目覚ましい復興を遂げ、〝アフリカの奇跡〟と全世界に讃えられた。その誇りを胸に秘め、犠牲となった同胞たちの魂を背負い、シロッコ・T・ンセンギマナは世界最高のMMA団体で闘っている。


「いずれ新しい好敵手ライバルがンセンギマナの前に立つだろうけど、そのときにオレとの想い出を少しでも振り返ってくれたら嬉しいぜ」

「寂しいことを言ってくれるなよ。お前と出逢い、拳を交えることが出来た幸福しあわせは何にも勝る財産たからだ。お前が居てくれたから我が拳法も『神槍ダイダロス』の高みへ更に近付いた。ありったけの感謝を捧げよう」

「そこまでのはなむけの言葉は、お前の恩人に――『アップルシード』に申し訳ないな」


 間もなくレフェリーが試合開始を宣言し、これに応じた両雄ふたりは一握の寂しさが滲む笑顔で互いの掌を重ね合わせた。

 開戦に当たって、『NSB』では『天叢雲アメノムラクモ』のようにゴングを打ち鳴らすことはない。互いの拳を衝突させる轟音がの代わりに試合場オクタゴンの隅々まで響き渡り、一〇〇〇〇人を超える大歓声をも突き破るのだった。

 『てんのう』と呼ばれる者たちの運命が交わる瞬間は、目の前に迫っていた。

 格闘技の〝新時代〟を担う四つの〝流れ〟は死神スーパイの復活祭で初めて一つとなり、歴史の転換期に打ち寄せるおおきな〝うねり〟を生み出していく。

 恩人の為、友の為、そして、亡き父の誇りを守る為――厄災わざわいを断ち切るべく〝平和の祭典〟の陰で奔走しながらも、猛き野性によって血を求めてしまう『しょうおうりゅう』のりんは、その〝うねり〟に魅入られた末、歴史の〝闇〟へと深く踏み込むことになる。

 あるいは大いなる始まりの予感であったのか――ンセンギマナとバルベルデが同時に蹴り付けたマットには、『CUBEキューブ』のシステムに組み込まれたプロジェクションマッピングによって光の波紋が広がっていった。




                                    (第一部・完)

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