その21:謝肉祭(中編)~死神(スーパイ)の岐路・伝説の殺陣師か、バーリトゥードの地下格闘技か/熊本のサムライたち、いざ挙兵──日本格闘技界の暴君を討て!

  二一、Casus Belli Act.2



 〝永久戦犯〟――それは日本格闘技界にいて、極めて強い毒を込めた蔑称である。

 日本で初めて〝総合格闘〟の体系化を成し遂げた〝超人〟――ヴァルチャーマスクが『ブラジリアン柔術』との決戦に挑み、惨敗を喫したことで「プロレスこそ最強」という幻想ゆめを砕かれたファンによる心無い批判とも言い換えられるだろう。

 実戦志向ストロングスタイルを掲げて世界中の猛者たちと異種格闘技戦を繰り広げた『鬼の遺伝子』最強の覆面レスラーであった為、くだんの蔑称は『プロレスが負けた日』という歴史的屈辱と併せて格闘技史に刻まれたのだ。

 日本が初めて総合格闘技MMAの〝洗礼〟を受けたのは、アメリカの『NSBナチュラル・セレクション・バウト』にける発祥から遅れること四年――一九九七年のことである。

 同じ年に〝地球の裏側〟で生をけた『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリもMMAを愛する人々から〝永久戦犯〟の蔑称を叩き付けられてもおかしくはなかった。

 りきどうざんがりさだが日本人を奮い立たせた〝戦後プロレス〟から現代の『天叢雲アメノムラクモ』に至るまで、数え切れない戦士たちが闘魂を吹き込んできた四角いリングを罪深い〝力〟で破壊してしまった死神スーパイにとって、〝永久戦犯〟は何よりも似つかわしいだろう。

 『八雲道場』のジャージに身を包んだキリサメが無防備のまま歩いているのは、岩手県奥州市の駅前である。月曜日の混雑時を過ぎたとはいえ、行き交う人々が途切れない場所であったが、誰にも〝永久戦犯〟とは罵倒されなかった。

 プロデビュー戦で反則を繰り返した新人選手ルーキーに軽蔑の眼差しを浴びせるどころか、一人として気に留めていなかった。傷だらけあざだらけの顔を遠慮がちに一瞥するのみである。

 二〇一四年六月一六日の東北は、明け方の五時一四分に福島県沖を震源として最大震度四という地震が発生し、奥州市でも震度二を観測している。直ちに激甚な被害を引き起こす大きさではなかったが、前日未明にも同程度の地震が岩手県内陸南部で起こっており、多くの人々が更なる揺れを警戒して神経を尖らせていた。

 東日本大震災の余震を案じて気持ちが落ち着かない朝に、そもそも見ず知らずの少年を振り返る余裕などあるまい。

 そのキリサメは四肢の可動うごきを支える為に一本の歩行補助杖を用いていた。試合後に搬送された病院で精密検査と適切な治療を受け、休息も十分に取ったのだが、人間という種の限界を超えた反動が一晩で癒えるわけがなかった。

 まぶたが半ばまで閉じた双眸は、負傷と疲弊を押してでも向かうべき先を見据えている。

 キリサメの容態に気を配りつつ、その真隣となりを歩く未稲のほうが人目を引いているようであった。シャツに刷り込まれた『半ズボン名探偵が暴くべきはイケオジ怪盗のヘキ』という意味不明な文言フレーズからぬ意味で目立つのだ。

 であるおもてひろたかは昨夜には東京に帰り着いていたが、仮にこの場にも居合わせていたなら、奇天烈なシャツを好む実姉あねには近寄らず、「親族と思われること自体が深刻な名誉棄損」と吐き捨てたことであろう。

 一泊二日の入院先を引き払った後、奥州の街を歩いて回りたいと希望したキリサメに対しても、現時点では群衆から囲まれるほどの認知度ではないと冷静に分析したはずだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行――第一三せん奥州りゅうじんは、県内数ヶ所の公会堂などで場外観戦パブリックビューイングこそ実施したものの、テレビで生中継されたわけではない。深夜のスポーツ番組で興行イベントの一部は取り上げられたが、画面に映し出されたのは花形選手スーパースターが観客に刻み込んだ冷たい戦慄や、絶対王者の二大会ぶりの復活といった報道価値ニュースバリューが高い試合のみである。

 さら・バロッサが自分と同じく足技に長けた〝先輩〟と全三Rフルラウンドを戦い抜いた末、こめかみを貫く肘打ちでノックダウン勝利を得た瞬間は「鮮烈なるスカ勝ち」という文言フレーズと共に幾度も紹介されたが、もまた声優としての人気に『天叢雲アメノムラクモ』が依存している証左であろう。

 無論、主催企業サムライ・アスレチックスはキリサメが激闘のなかに発動させた〝神速〟を早くも売り物として利用し始めている。リング崩壊や乱闘未遂といった異常事態さえも人間という種を超越した〝力〟の副産物として触れ回っていた。

 それにも関わらず、テレビ番組やスポーツ新聞ではに広く名前が知れ渡っている絶対王者――『かいおう』や、日本にけるタレント活動にも熱心で、格闘技ファン以外の知名度が高い花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルしか取り上げられていない。後者が触れ回った〝謝肉祭〟という言葉とその意味も、インターネット以外のメディアでは一度も紹介されなかった。

 耳目を集める情報を多角的に提示して『天叢雲アメノムラクモ』の人気を底上げせんとする〝暴君〟の画策なのであろう。

 キリサメ・アマカザリという〝人外〟の喧伝は、主にネットニュースを中心に展開されている。衝撃度の高い情報が受け手の想像力を刺激し、群集心理の中で際限なく膨らんでいくというSNSソーシャルネットワークサービスの特性を当て込んでいるわけだ。

 尤も、現在は『よさこい』という文化から誕生したローカルアイドル――いいざかぴんによるMMAデビューの宣言に注目が集まっているようだ。場外観戦パブリックビューイングの参加者やネットニュースを熱心に追い掛けている者は顔をおぼえていたかも知れないが、〝格闘競技〟の概念すら理解できない無法者アウトローの名前など日本社会の殆どが認識すらしていなかった。

 それ故に変装もせず白昼堂々と散歩していても、誰も〝プロ〟のMMA選手とは気付かないのだ。SNSソーシャルネットワークサービスや動画サイトなどが一般に普及したIT社会とはいえ、全人類が同じ情報を共有しているわけでもない。

 身辺警護ボディーガードとらすけは一足先に奥州市から引き揚げている『八雲道場』に雇われているとはいえ、彼は高校生なのだ。平日まで拘束することは雇い主も望んでいなかった。

 〝城渡総長〟の仇打ちに逸った暴走族チームも更なる凶行には及ばず、誰より激しく怒り狂っていた親衛隊長――つるぎきょうが入院先まで追撃することもなかった。遺恨の解決には至らなかったものの、岩手興行にける身辺警護ボディーガードは完了したとも判断できるのだった。


「……本間さんもご一緒しませんか? 後をけられているみたいで落ち着きません。ていうか、その内に警察から〝職質〟されるんじゃないですか?」

「私も存在ことは奥州の山々から吹き降ろす風か何かと思って構わないでくれ、未稲くん。日本格闘技界にもたらされし〝黙示〟の行方をただ見届けたいだけなのだよ。それより何よりそろそろ『あいぜん』と、愛を込めて下の名前ファーストネームで呼んで貰えないだろうか。ハダカの付き合いも済んだ仲なのに他人行儀で寂しさが胸に突き刺さるのだよ。正直ぶっちゃけ、半ベソ寸前だ」

「キリくんのコトを見張ってるんだろうな~っていうのはバレバレなんですから、それでもまだ本間さんが私たちと別行動する意味はないですよね?」

「半ベソ寸前だ」

了解わかりましたって、愛染さんっ!」


 秋葉原でげきけんこうぎょう〟や〝八雲岳の秘蔵っ子〟という謳い文句もあり、〝客寄せパンダ〟も同然の形で初陣プロデビューを迎えた新人選手ルーキーの知名度は決して低くはなかったが、それは日本格闘技界に限定されたものである。未稲が振り返って声を掛けた相手――ほんあいぜんとは比較すること自体が大いなる身の程知らずであった。

 キリサメからすれば愛染は『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟だが、世界的作曲家の実娘むすめであり、その素養を受け継いだ彼女にとって音楽活動こそ〝本業〟なのだ。一〇年を超えるMMAの経歴キャリア北米アメリカ最大団体の『NSB』を主戦場としていた経験も〝副業〟に過ぎない。

 彼女は歌手でも演奏家でもなく〝裏方〟である為、殆どの人間は手掛けた楽曲と本人の顔が一致しない。無論、存在感が絶無というわけではなく、通りすがりに気付いて握手やサインを求めた者もったが、愛染の地位ステータスを勘案するならば、決して多いとは言い難い。

 そこにも暗黒時代としか表しようのない日本MMAの現状が表れている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体と指定暴力団ヤクザの〝黒い交際〟が暴かれ、MMA自体の社会的信用が失墜して以来、同競技は日本のテレビ業界から忌避される状態が続いていた。二〇〇〇年代の〝格闘技バブル〟には地上波で頻繁に生中継された興行イベントも、現在いまではスポーツ番組の一コーナーか、衛星放送の専門チャンネルでしか取り上げられることもない。

 いずれの場合も事前に収録されたVTRの一部が使用されるのみであり、プロ野球中継と同等の扱いで放送プログラムに組み込まれていた時代を想像できない者も増えている。

 『天叢雲アメノムラクモ』にて広報戦略を担当するいまふくナオリも試合の内容をSNSソーシャルネットワークサービスへ逐次投稿する疑似的な実況放送を実施し、生中継が望めない状況の打開策を講じてはいるものの、閲覧者は格闘技ファンに留まる為、その効果は限定的であった。

 大晦日の夜に格闘技興行イベントの生中継が地上波三局を占める黄金時代が現在いまも続いていたならば、新人選手キリサメでさえ即座に大勢から取り囲まれたことであろう。

 仮にも〝プロ〟の競技選手アスリートに注目する人間が驚くほど少ないという現状は、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては主催企業サムライ・アスレチックスが地上波テレビ放送への復帰を悲願とする理由とも一致するのだ。

 コンビニに立ち寄って飲み物を買い求めた際にも、『天叢雲アメノムラクモ』の選手が来店したことを誰も分かっていなかった。一夜明けたばかりということもあって店の窓には岩手興行のポスターが貼られたままであったのだが、店員でさえ気付かないのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』はえて特定の拠点を持たず、全国各地の運動施設を経巡る〝旅興行〟の形態を採り続けていた。開催先にける雇用創出や経済振興も事業に含めているのだが、MMAに興味のない人間からすれば視界に映り込もうとも脳が認識しないわけだ。

 在りし日の熱狂すら風化してしまった時代であればこそ、キリサメも愛染も、身辺警護ボディーガードすら付けないまま平日の街を散歩していられるのだった。


「キリくん、何気にモテモテだよね……。希更さんに続いて愛染さんまで引き寄せちゃうんだもん。イケない〝道〟に迷い込んだりしないか、ちょっと真剣に心配だよ……」

「言っている意味は半分も理解わからないけど、本間氏の場合は敵視に近いんじゃないかな」


 本間愛染というMMA選手は、日本古来の武術である『こっぽう』と、持って生まれた絶対音感を組み合わせて摩訶不思議な試合たたかいを展開する正真正銘の〝天才〟であった。

 常人には理解し難い感性によってキリサメ・アマカザリの〝闇〟を感じ取り、彼こそが日本MMAを破滅に導く存在として警鐘を鳴らし続けてきたのだ。

 言葉遣いも独特である為、本人キリサメには伝わりにくかったのだが、〝黙示の仔〟という意味不明な呼び名も〝先輩〟選手による注意喚起――即ち、新人選手ルーキーへの応援の一種ひとつであった。

 果たして愛染の予言は最悪の形で的中し、その期待を裏切ってしまったキリサメは尽きることのない罪悪感に苛まれているのだが、常日頃から奇行の目立つ〝先輩〟は早朝の病院に押し掛けて以来、一定の距離を保ったまま尾行をめないのである。

 四肢の痛みとも異なる溜め息がキリサメの口から止め処なく滑り落ちるのだが、それも無理からぬことであろう。背中を抉り続ける視線を力ずくで追い払うわけにもいかない。

 希更・バロッサは奥州市の宿所で肉体からだを休め、今朝の新幹線で東京に戻っている。本人の意思とは関わりなく検査入院せざるを得なくなったキリサメの見舞いに訪れたのは、波乱の岩手興行が閉会式クロージングセレモニーまで全て終了した昨晩である。

 希更に同行する現場マネージャーのおおとりさとの説明によれば、月曜日は午前中から収録の予定が入っており、興行イベント後は一秒たりとも余裕がないという。

 その希更と同じように愛染も〝本業〟が多忙を極めているはずだが、一日の内にこなす予定スケジュールが細かく決まっている声優よりも時間の融通が利き、自由に動き回れるそうだ。


「昼食は牛タン定食にするか。ここは〝先輩風〟を吹かせて二人に御馳走しよう。いや、待てよ? 貴重な余暇を愛しの神通ではなく〝MMAのアイガイオン〟に費やすのは不条理の極みではないか? やはり、割り勘で行こう」

「僕が無理矢理に本間氏を付き合わせているみたいな言い方、やめて貰えませんか……」


 愛染から向けられる眼差しは敵愾心を含むほど鋭くはないが、現在いまのキリサメは〝MMAのアイガイオン〟という〝プロ〟失格の烙印にも等しい見立てを否定できない〝立場〟でもある為、好ましいものとして受け止めることも難しい。

 居た堪れない気持ちを持て余しつつキリサメが足を向けたのは、岩手興行が開催された奥州市最大の総合体育館――振り返るたびに心が軋む結果となった初陣プロデビューの舞台である。

 興行イベントの前日にも希更に促されるまま〝下見〟として訪れ、日本に総合格闘技の〝道〟を切り拓いた先駆者ヴァルチャーマスクとも遭遇したのだ。正面玄関を挟んで二棟のアリーナが並立する大きな運動施設をキリサメは屋外そとから静かに仰いだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』が岩手興行を開催した総合体育館では、一九九九年に大相撲の地方巡業も執り行われている。現在いまは本名でMMAのリングに挑んでいる男が『はがね』ので初土俵を踏んだのも同年であり、くだんの巡業にも参加していた。

 〝廻し〟を締めていた頃とは違う〝立場〟で想い出の地へ再来訪した〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟は、正面玄関へ向かう前に二棟を見渡せる場所に立ち、静かに一礼していた。

 奇しくもキリサメは激しい敵意を浴びせてきたバトーギーン・チョルモンと同じ場所にて初陣の地を見つめたのである。無論、その胸に去来する想いは双方とも異なっている。


(……僕なんかに寂しく感じる資格はないけど、この気持ちは否定できるものでもない)


 昨日は駐車場から運動施設に至るまでの道筋に看板やのぼりが立ち並び、正面玄関の付近では名物を振る舞う屋台が軒を連ねていた。『天叢雲アメノムラクモ 第一三せん奥州りゅうじん』と、興行イベントの名称が記された大きな横断幕でもって選手と観客を迎えたのだ。

 今ではMMA興行イベントを彩っていた全てが撤去され、に戻っていた。パラボラアンテナなど場外観戦パブリックビューイングに必要な機材を載せた車輛も既に岩手県を離れている。

 昨日と今日の有りさまを比べて重なるものは、もはや、どきの曇天のみであった。


「今日はこの後、サブアリーナで健康体操の教室があるって聞いたけど、参加する人たちも隣のメインアリーナで格闘大会を開催っていたなんて、きっと想像できないだろうね」

なつくさつわものどもが夢のあと――僕も死んだ母さんに日本の俳句を幾つか教わったけど、それはんだのだろうな」

えいせいすい宿命さだめひらいずみと共にしたおうしゅうふじわらみなもとのよしつねに捧げられたまつしょうの名句と来たか。キミは案外、古めかしいモノへの造詣も深いと見える。成る程、そうやって歴史と縁の深い神通をたぶらかしたのだな? 許せん、妬ましい、羨ましい。あのコの心を一発で掴んだ秘訣コツを私にも教えたまえよ。そういう〝黙示〟は諸手を挙げて大歓迎ウェルカムだ」


 未稲の説明によれば『天叢雲アメノムラクモ』は興行イベント会場の撤収作業を深夜の間に完了させるという。冬季オリンピック関連施設を借り切った前回の長野興行も、今回の岩手興行も、夜明け前には原状復帰が済んでいたそうだ。

 何台もの大型トラックを会場に横付けし、分解された機材を次から次へと運び込んでいくという。興行イベントの最中にも運営スタッフの間では怒号が飛び交っていたが、撤収作業もMMAの試合に負けないくらい荒れるのだ――そのように言い添える未稲に対して、キリサメは心の底から納得した様子で頷き返した。

 何十人ものスタッフで一斉に作業に取り掛かるという人海戦術は、昨日のリング交換でも垣間見たのだ。その完了を待たずに救急車でもって市内の病院に搬送された為、キリサメも以降の展開は未稲からの伝聞でしか知らなかったが、致命的な遅延に至らず興行イベントが再開され、第二試合から閉会式クロージングセレモニーまで無事に進行したという。

 新人選手キリサメ・アマカザリに不釣り合いな挑戦状を叩き付けた花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルが臨み、文字通りの完封勝利を収めた第九試合セミファイナルでは通算三台目の救急車を呼ぶことになった為、〝無事〟という二字は必ずしも正確とは言いがたいのだが、興行イベントそのものは第一試合の惨状から巻き返していた。


(……我ながら人格を疑われるくらい身勝手だよな。昨夜は本気で『天叢雲アメノムラクモ』のリングから逃げ出そうとしていたじゃないか……)


 現在の日本で最大の勢力を誇るMMA団体そのものを崩壊させ兼ねない大混乱に陥った第一試合をキリスト教の〝謝肉祭〟と重ね、この上なく愉しそうに笑っていたレオニダスへ同調することは憚られるのだが、興行イベントの余韻が影も形もなく消え失せた風情には、故郷ペルーでも盛んであった仮装行列パレードが過ぎ去った後と同じ寂寥感を抑えられないのである。

 先達の闘魂たましいけがしてしまった原罪つみの意識と、じょうわたマッチを尊敬する気持ちさえも破壊させた異形の死神スーパイに対する畏怖おそれが甦りはするものの、想い出であることにも変わりはない。

 華やかな宴に水を差した側であり、花形選手レオニダスとは違って興行イベントを愉しめるような精神状態でもなかったが、会場との一体感を味わえないまま初陣プロデビューの祭り騒ぎが通り過ぎてしまったという感傷は、奥州の風を一等静かなものと感じさせていた。

 総合体育館と隣接する多目的運動広場には、サッカーやラグビーの試合が行われるグラウンド、見上げるほど背の高いクライミング競技のウォールが設置されていた。築山のような形状の巨大トランポリンなど子どもたちの遊戯施設も多い。

 〝下見〟の折にはパターゴルフのコースに程近い水路にも足を向けたが、彩り豊かなタイルやガラス玉が敷き詰められた池では子どもたちが水遊びに興じていたのだ。

 平日の午前中ということもあって人影そのものはまばらであったが、辺りを見回してみれば、親子連れで遊びに訪れている客が各所あちこちに認められる。とても五〇〇〇人以上が詰め寄せ、熱狂の渦を作り出していたとは思えないほど牧歌的な情景である。

 異形の死神スーパイに魅入られて自らも同じ存在モノと化した新人選手ルーキーが鮮血の惨劇を繰り広げたことは殆どの人が知らないだろう。地元新聞社の朝刊でも『天叢雲アメノムラクモ』の岩手興行は取り上げられたが、やはり奥州市出身の飯坂稟叶ローカルアイドルに関する急報が大部分を占めている。

 彼女が所属するローカルアイドルの五人組グループを標的とした脅迫事件は未だに解決していない。『天叢雲アメノムラクモ』と接触しないよう要求してきた犯人を刺激し兼ねない記事であるが、飯坂本人が状況を明かしたのだから、マスメディアとしても隠しておく理由がないのだろう。

 キリサメも退院前にくだんの朝刊を一読し、興行イベント会場の内外で『天叢雲アメノムラクモ』の行く末を左右するような事件が立て続けに起こっていたことを確認したのである。

 子どもたちの笑い声が賑々しい広場の物陰にローカルアイドルを脅かした張本人が隠れ潜んでいるのかも知れない。犯罪者は事件現場まで戻ってくる習性があるのだ――そこまで考えたところで、キリサメは今の自分にも当て嵌まると気付き、我知らず天を仰いだ。

 自嘲ではなく一つの〝現実〟として、『天叢雲アメノムラクモ』を脅かしたの中心人物なのだ。

 空は前日から変わらずにびいろに塗り潰されている。分厚い雲の隙間から一条たりとも光が差し込むことはなく、愚かな新人選手ルーキーの前途を表わしているとしか思えなかった。

 あるいはこれこそがキリサメ・アマカザリの犯した原罪つみあかしであるのかも知れない。


「前々から薄々何となく感じていたが、この少年はアレか? 自分の〝世界〟に意識を溶け込ませ、脳内あたまのなか独白モノローグを延々と並べ続けるタイプか? 自分は神から主人公の役割を与えられたと信じて満喫エンジョイできるのも青春真っ盛りだから、生暖かく見守ってやりたいがな」

「自分の〝世界〟云々って部分トコはキリくんも『本間氏にだけは言われたくない』ってジト目になりそうですけど、たまに〝遠いトコロ〟に飛んじゃってるからなぁ……」


 二棟のアリーナを挟む位置に所在する小さな広場には、円形ベンチも設置されている。そこに腰掛けて犯した罪の深さを己に問い掛けようとするキリサメであったが、二人の同行者は感傷に浸る時間を許してはくれなかった。

 消耗が回復し切っていないキリサメは両足で踏ん張ることも難しく、二人掛かりで背中を押されてしまうと、歩行補助杖を強く突いても抗えないのだ。とうとう正面玄関へと押し込まれ、およそ半日ぶりにプロデビュー戦の舞台を訪れる羽目に陥った次第である。


「勘違いしてくれるなよ、私を狂おしいほどに衝き動かすのは愛しの神通だ。キミの選択を見届けるようあのコに託されたからこそ、私は人生の喜びを一つ切り捨ててまで滅びの波動に手を触れようとしているのだ。神通の前では〝黙示〟でさえ余禄おまけに過ぎない」


 余人に理解し得ない〝共鳴〟でキリサメと結ばれた古武術の若き宗家――あいかわじんつうは、彼の初陣プロデビューを見届けたのち、昨夜の内に東京への帰路についていた。

 父親同士が親友という愛染とは古い付き合いであり、奥州市にも彼女が運転する自動車に同乗して赴いたのである。無論、二人で同じ宿所に泊っていた。

 その神通は鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で働きつつ、都内の大学にかよっている。平日は講義もあり、何時までも奥州市に留まってはいられないのだ。

 愛染も彼女を助手席に乗せ、夜更けの長距離走行ロングドライブを愉しむつもりであったのだが、傍に寄り添えない自分に代わってキリサメの様子を確かめて欲しいと請われた為、同地に留まらざるを得なくなったという。

 溺愛する神通の頼み事だけは断れないそうだが、「日本格闘技界にもたらされた〝黙示〟の行方を見届けたい」という先程の言葉から察するに、誰かに要請されるまでもなく最初から愛染自身の意思でキリサメを追い掛けるつもりであったのかも知れない。

 何しろ愛染は〝暴君〟の庇護下にるキリサメが日本MMAを滅亡ほろびに導くと危険視してきたのだ。愛染が事あるごとに口にする〝黙示〟とは終末の災厄わざわいと同義なのである。

 一方の未稲は、既に神通が奥州市を離れた後であることを教わると、つかよりを紹介できなかったと丸メガネが吹き飛ぶくらい悔しがっていた。

 数多の道場がひしめくほど武芸が盛んな山梨県のやまざと――『しんげんこうれんぺいじょう』に伝わり、神通が宗家の大任を担う『しょうおうりゅう』は南北朝時代の合戦で生まれた〝戦場武術〟である。

 鎧武者の武技わざと知識はつかよりが選手として参加している甲冑格闘技アーマードバトルでこそ生かせると未稲は確信しており、しょうとくたいの異称を冠する古武術とその宗家を新しき可能性へと導くべく両者を引き合わせたいと狙い続けていた。

 神通は携帯電話の類いを所持しておらず、連絡を取り合うことさえ容易ではない。千載一遇の好機を逃してしまったわけだ。


(……その〝選択〟というのはに対する答え――僕の結論だよな。神通氏が気にしてくれているのか、それとも背後にいる仲間があの人を使って探りを入れてきたのか)


 深き憂いを瞳に秘め、哀しさと凛々しさを織り交ぜたような神通の面持ちと共に想い出されるのは、彼女のスカートがめくれた際に覗いてしまった純白のふんどしではなく、キリサメ本人の意思を黙殺する形で花形選手レオニダスとの対戦交渉マッチメイクが進められた直後のこと――『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントに侵入してきた対立団体の者たちと総合体育館の片隅で邂逅したのである。

 爆発する火山を模ったロゴマークとする一団――神通だけでなく、でんかみしもしきといったキリサメとも近しい人々が選手として所属する地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』との対峙は、る意味にいては乱闘未遂よりも遥かに深刻な事態であった。

 原則的に誰をも平等に受けれる観客席ではなく、『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフ以外は立ち入りが禁じられた区域にて『E・Gイラプション・ゲーム』はキリサメを待ち構えていたのだ。興行イベントの主催側である麦泉などは顔面蒼白であったが、その理由は改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 地下格闘技アンダーグラウンド団体との対峙が引き金となり、現在いまのキリサメは自らの〝半身〟のように感じていた神通とまで思惑を探り合わなければならない状況に陥っている。



                     *



 『E・Gイラプション・ゲーム』がキリサメと接触を図り、同時に『天叢雲アメノムラクモ』の足元を揺るがしたのは前夜のこと――第一試合終了後の混乱を脱した直後である。

 人間という種の限界を超えた反動で四肢が満足に動かず、介助式車椅子に乗せられた状態で試合場メインアリーナから医務室へ運ばれている最中、同団体はキリサメの行く手を遮ったのだ。

 統括本部長の養子という〝立場〟が運命の〝流れ〟を引き寄せたのか、選手契約を締結する以前からキリサメは『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』との抗争に巻き込まれており、電知や上下屋敷とも闘っている。所属選手を倒された地下格闘技アンダーグラウンド団体からすれば名誉を傷付けられた恰好であり、希更・バロッサに続く襲撃対象に選ばれても不思議ではなかった。

 もはや、肉体そのものが耐えられないことは誰の目にも明らかである。キリサメを取り囲むのであれば、またとない好機であろう。彼が割り込んで襲撃者を返り討ちにした為、結果的には未遂で終わったものの、希更も前回の長野興行にける自らの試合を終えた直後に『E・Gイラプション・ゲーム』から狙われている。

 セコンドとして試合を見守っていた岳と麦泉は言うに及ばず、車椅子のハンドグリップを握るリングドクターのぼとけも、医療行為が妨げられた場合には〝大人の対応〟も辞さないと強い口調で牽制していた。

 暴走族チームとの対峙にも匹敵する緊張が走ったのだが、地下格闘技アンダーグラウンド団体が総合格闘技MMA新人選手ルーキーを待ち伏せしていた理由は、誰もが唖然呆然となるほど意外なものであった。

 一団の先頭に立ち、岳から『ヴィクターくろ河内こうち』と呼ばれた眼帯アイパッチの男性は、キリサメに向かって『E・Gイラプション・ゲーム』への移籍を持ち掛けたのである。

 言い逃れも出来ない直接的な引き抜き行為ヘッドハンティングであるが、そもそもヴィクター黒河内は発言の一つ一つが奇妙であった。キリサメの身に宿る暴力性は総合格闘技MMAではなく地下格闘技アンダーグラウンドのリングにこそ適していると断言し、それ故に『E・Gイラプション・ゲーム』――の仲間として迎えたいと熱弁を振るったのだ。


「空閑君とも拳を交えたそうだが、MMAの試合と比べて、どうだい? 『E・Gイラプション・ゲーム』はルール的にも君が慣れ親しんだ路上戦ストリートファイトと大差がないのだよ。さっきの試合で君は相手の髪を掴もうとして躊躇ためらっただろう? 命懸けの喧嘩では有効でもではご法度だ」

「人ン養子せがれを堂々と勧誘してんじゃねーよ、黒河内ィ! 晩メシに誘うくらいの気軽さだったからキレるより先にビックリしちまったわッ!」

「我々――『E・Gイラプション・ゲーム』では〝本物の闘い〟が解禁されているのだよ。見たところ、君はMMAのルールに馴染めていない。『天叢雲アメノムラクモ』では本来の喧嘩殺法を生かし切れない。おそらく半分も実力を出せていないのではないかな?」

「てめー、マジでいい加減にしとけよ。ぼとけセンは〝大人の対応〟で済ませてくれるくらい優しいがな、オレは子どもの為なら〝大人気ない対応〟だってやったるぞ」

「八雲、〝大人気ない〟のはセコンドの役割にこそ当て嵌まるんじゃないか? 今日の自分を振り返ってから、その言葉を口にする資格があるのか、考えてみることだな。選手を真っ当に導けないようでは、身体からだを張って守ると言った養子こどもに間違った道を歩かせることになるぞ。……オレの片目を抉ったボクサーは、が一番の不幸だったのだからな」

「……〝その話〟を持ち出されちまったら、こっちだって強く出られねェじゃねーか」


 岳から睨み付けられたヴィクターくろ河内こうちは、眼帯アイパッチによって覆われていない側のでキリサメの試合たたかいを薄気味悪いくらいに詳しく観察していた。その上で喧嘩殺法に秘められた暴力性を肯定したのである。

 選手の命を守る為にMMAのルールで禁じられた〝実戦向け〟の様式スタイルが『E・Gイラプション・ゲーム』では有効であり、地下格闘技アンダーグラウンドこそがキリサメ・アマカザリという格闘家をできる〝世界〟とまでヴィクター黒河内は語っていた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表という肩書きを聞かされたときには、さしものキリサメも仰天したものだが、説得の最後に付け加えられた言葉はそれ以上に衝撃が大きかった。


「MMAという狭い世界に押し込められて窮屈な想いをする姿は不憫でならない。オレはね、君のような若者には伸び伸び闘って欲しいんだよ。もっと自由な世界に導いてあげたい――ただそれだけなんだッ!」

「……岳氏、この人は一体、何を言っているんですか……?」

「キリーとレオの〝謝肉祭〟談義トークいていけなかったくらいオレは南米の文化が不勉強ちんぷんかんぷんなんだがよ、ペルーにも怪しげなカルト集団って蔓延はびこってんのか? ……その勧誘と似たようなモンだぜ。他の連中はともかく黒河内の野郎に限ってはな……ッ!」

「全面的にセンパイの言う通りだよ、キリサメ君。耳なんか貸しちゃダメだっ」

「言葉が君の心に上手く届かないのであれば、オレは心で伝えるとしよう。君の拳を束縛の鎖から解き放ってあげたいんだ。……未来ある若者に可能性と選択肢を用意することこそ大人おとな責任つとめなのだから……ッ!」


 自分自身が連ねた言葉に感極まったのか、ヴィクター黒河内は眼帯アイパッチで覆われた右目からも熱い雫を迸らせ、最後には鼻水まで垂れ流していた。

 神通もひめも居た堪れなさそうに顔を顰めたが、『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表は新人選手ルーキーを引き抜いて『天叢雲アメノムラクモ』に損害を与えたいのではなく、〝本来の生き方〟が理不尽な規則ルールによって若者を本気で救済すくわんが為に現れた様子なのだ。

 キリサメの真後ろに立ったままヴィクター黒河内の言葉を受け止めるぼとけドクターは、唾が飛び散る勢いで怒鳴り返すことだけは堪えたようだが、そのおもてに滲み出している憤怒いかりは決して小さくはない。

 そもそも地下格闘技アンダーグラウンドとは、つい先ほど御剣恭路たち暴走族チームが起こしかけたような乱闘騒ぎが常態化している〝世界〟なのだ。これに加えて『E・Gイラプション・ゲーム』は素手ベアナックルで殴り合う流血試合も歓迎しており、相手に向かって肘を垂直に落とす打撃もルールで認めている。

 肘は人体の中でも膝と並んで硬い部位であり、これを用いた打撃が古今東西の武術や格闘技の体系に組み込まれているのは必然といえよう。

 腰や肩のバネも利かせ易く、歯車の如く連動させたときには恐るべき破壊力を生み出すのだが、それはつまり凶器に等しいという意味でもあり、胸部や頚椎といった急所へ直撃させた際に相手の命を奪ってしまう危険性が爆発的に高まるのだ。

 過激としか表しようのないルールのもとに試合が執り行われる『E・Gイラプション・ゲーム』では肘打ちにも角度制限を設定していないが、に関しては競技団体によって対応も様々である。

 時計盤に見立てるならば、一二時から六時の方向へと垂直落下する肘打ちは、深刻な事故の原因となり得る為に『NSB』では全面的に禁止している。ドーピングで汚染され、競技団体としての秩序が破綻していた時期でさえ、このルールは遵守されたのだ。

 〝ケイジ〟の如く金網に囲まれた八角形オクタゴンの試合場が国際的な主流となるなど『NSB』は名実ともにMMAという〝スポーツ文化〟の規範である。肘打ちの取り扱いと危機意識に関しても、各国の団体は『NSB』に追従していた。

 脳天目掛けて肘を落とすという危険な打ち方さえ反則と判定されないMMA団体は、全世界を探しても樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』くらいである。選手の安全を省みず、『MMA日本協会』による是正提案すら〝内政干渉〟と断定して跳ね付けるという団体の体質が国内外の批判を招いているわけだが、地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』は輪をかけて苛烈なのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』とも選手の安全性を脅かす部分ばかりが共通している。体重別階級制度も設定されておらず、体格差の大きな選手同士が真っ向からぶつかり合う試合が常態化していることは、キリサメも電知自身に聞かされている。


「……不勉強な僕にも段々と掴めてきましたよ。タイトルマッチの挑戦者に――ひきアイガイオンに片目を潰されたボクシングの王者チャンピオンというのはあんたか」

「今となってはフライ級王者チャンピオンという呼び名も懐かしくなったがね。腰のベルトを外して身軽になって、……世界の景色が右半分になったことで初めて見えるようになったことも山ほどあるよ。目の届く範囲はかえって広くなったと感じているくらいだ」

「取り返しのつかない被害に遭ったにも関わらず、自分と同じような後遺症を増やし兼ねない団体を作った――そういうコトですか。……僕が本当は目突きを得意にしていることだって見極めたのでは?」

「目突きは『E・Gイラプション・ゲーム』でも認めていないがね、オレと同じ目に遭っても後悔しない〝本物の戦士〟が集まっているのも事実だよ。空閑もその覚悟で地下格闘技アンダーグラウンド戦場リングに挑んでいること、君は他の誰よりも理解しているはずだ。拳を交えて親友になったのだろう?」

「……それは……」

「生きるか死ぬか、その極限の狭間に解き放たれた刹那を見出す――『天叢雲アメノムラクモ』のように中途半端ではない真の〝自由〟を『E・Gイラプション・ゲーム』は君に約束しよう。間違いなくは君がペルーという国で潜り抜けてきた〝本物の闘い〟と同じものだ。空閑との路上戦ストリートファイトで君が感じたものが何よりのあかし報告はなしで聴くのみだったのが悔やまれてならないよ」


 キリサメの心を動かすべくヴィクター黒河内は格差社会の最下層で起こる過酷な生存闘争と『E・Gイラプション・ゲーム』の共通点を語り始めたが、車椅子のハンドグリップから指を離さないぼとけドクターは、彼が一方的に共感している〝本物の闘い〟にこそ危うさを禁じ得ない。

 前身団体バイオスピリッツの頃からリングドクターの立場で日本MMAと関わり、自身も格闘技を嗜んできたが、関節を極めたまま投げを打つことをルールで認める競技団体など『E・Gイラプション・ゲーム』を除いて聞いたことがなかった。他の地下格闘技アンダーグラウンド団体でさえ有り得まい。

 作用する力の逃げ場がないくらい固定された可動域へ強烈な負荷が掛かれば、人体は脆く壊れてしまう――選手の安全を最初から放棄した攻撃手段を承認することはそれ自体が蛮行にも等しく、スポーツ医療の従事者として看過できようはずもなかった。


「空閑にとっての夢であり、その技を極めた前田光世――コンデ・コマの最終到達点がブラジルであることは、おそらく君も聞いたことがあるハズだ」

前田光世コンデ・コマか……。日本に来て初めておぼえた武道家の名前です」

「そこで興った命懸けの『バーリトゥード』こそが総合格闘技MMAの源流とこんにちでは常識のように喧伝されているが、〝なんでもアリ〟の魂を本当の意味で継いだのは地下格闘技アンダーグラウンドだ。で行われる見世物なんかではない。片目と引き換えに得られた悟りだよ、これが」


 ヴィクター黒河内は〝本物の闘い〟や〝自由〟という聞こえの良い言葉を弄しながら、自身が眼帯アイパッチを持ち要らざるを得なくなった原因をリングで再現しているようなものだ。自らが苦しめられた〝痛み〟を他の選手に振り撒く所業とも言い換えられるだろう。

 総合格闘技MMA地下格闘技アンダーグラウンドという一種のとも関係なく、『E・Gイラプション・ゲーム』を現代の〝スポーツ文化〟に類することさえはばかられる。極端な例だが、武功の証明あかしとして敵将の首級くびを奪い合った中世の合戦ともその本質は大きく変わるまい。

 〝プロ〟のリングでも十分に通用する猛者がひしめいてはいるものの、地下格闘技アンダーグラウンドはアマチュア競技である。〝プロ〟の団体とは異なって予算などの事情から医療体制も不十分と指摘する声も多かったが、万全の状態が整っていれば良いというわけではない。選手の安全を軽んじる体質が問題の根幹なのだ。

 ヴィクター黒河内が述べた通り、世界各地を経巡って二〇〇〇回にも及ぶ異種格闘技戦を繰り広げた前田光世コンデ・コマは、最後にブラジルへと辿り着き、同地に『ジウジツ』を伝えた。この伝説的な柔道家の教えから技と精神スピリットを磨き上げた者たちは〝ありとあらゆる格闘技術〟を解き放つルールへと向かっていった。

 これこそが『バーリトゥード』であり、そこは前田光世コンデ・コマが挑み続けた他流試合より更に〝自由〟な戦場であった。ときには急所への攻撃まで認められてしまうのだ。代表自らが語ったように『E・Gイラプション・ゲーム』の体質にも通じるものがあり、彼らが『バーリトゥード』の後継者を自負するのは当然と言えるのかも知れない。

 しかし、〝地球の裏側〟の〝感覚〟をそのまま日本に持ち込むことは余りにも乱暴であろう。そもそも『バーリトゥード』のルールが過激性を帯びていたのは昔のことであり、少なくとも〝表〟で開催される興行イベントは安全性に配慮した様式スタイルへと変わりつつある。

 『バーリトゥード』の系譜と称しつつ、時代の流れから目を逸らしているようにしか思えない――それ故にぼとけドクターは「せめて『古き良き様式スタイルを採用』くらいに留めておけば良かったのに」と、ヴィクター黒河内の言葉を切り捨てたのである。


「……知ったような口を叩かないで下さい。故郷ペルーのことなんてインターネットの動画ビデオで観た程度しか知らないでしょう? 僕が晒し物になった例の放送ヤツでしか。……〝何〟を〝自由〟に感じるのか、他人に決め付けられるのだって面白くありません」

「しかし、オレは少なくとも樋口のように選手を強権で縛ったりはしない。『E・Gイラプション・ゲーム』に必要なのは闘う意志一つ。誰もが自由に力比べを謳歌できるリングには、他に資格ライセンスも要らない。強くなりたいと願う純粋な気持ちにオレは全身全霊で応えてきたつもりだよ」

「……電知に出会っていなければ、今の台詞も綺麗事だって皮肉れたのですけどね……」


 〝格闘〟という破壊的な行為そのものが暴力性の強い本能を揺り起こすことは、ぼとけドクターも否定しない。『昭和の伝説』のもとに集った異種格闘技戦から総合格闘技MMAに至るまで、それぞれの立場で格闘技の最前線に立ち続けてきた岳と麦泉も同様であろう。

 殺傷ひとごろしを目的として編み出されたすべを命の安全に配慮したルールによって純粋な力比べに最適化させたのが〝格闘競技スポーツ〟である。そして、そのたがを生物本来の暴力性を揺り動かす形で外したのが『E・Gイラプション・ゲーム』であった。

 ではなく、真の強者を見極めんとする求道的な意志のもと、両者納得ずくで危険極まりない試合が執り行われているのだが、暴力性を制御コントロールする基盤として運用されるルールがそもそも緩やかな競技団体のは、観客の傾向にも顕れる。

 収容人数キャパシティが少ない会場で興行イベントを開催する為、リングと客席の距離も物理的に近く、攻撃性の強い空気は隅々まで充満する。高まり切った激情が群集心理の中で膨らみ切った末、試合結果への不服といった火種によって暴発し、乱闘騒ぎを招くのだ。

 法令遵守コンプライアンスという概念を持たない無秩序状態ともたとえられるだろう。他ならぬ選手がを体現していればこそ、観客も暴力的な衝動を抑え切れなくなるのだった。

 それはいびつな解放感でもある。たがの外れた群衆が熱狂の中で暴走するさまは、〝謝肉祭〟の乱痴気騒ぎを例として挙げるまでもあるまい。

 上下屋敷は哀川神通の試合を撮影した写真を未稲の携帯電話スマホ宛てに送信おくっていたが、掲載権・広告権といった〝利権〟が事業と一体化している〝プロ団体〟の興行にいては、資格を持たざる人間はカメラを持ち込むことさえ認められていない。

 『しょうおうりゅう』のどうを纏った神通が対戦相手を殴り倒す写真は、未稲の携帯電話スマホに保管されているが、この一枚には法令遵守コンプライアンス意識の低さと競技団体としての脆弱性が写っていた。


「我らが花形選手エースと団体の垣根を超えて親しくしてくれているのだろう? 空閑との絆、空閑との路上戦ストリートファイトで君の心に響いたモノ――それが『E・Gイラプション・ゲーム』なのだよ」


 血みどろの〝暴力〟以外の何物でもないとされ、警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係から危険視マークされている『E・Gイラプション・ゲーム』の現状をヴィクター黒河内は大いに誇り、を奨励するような発言まで繰り返している。

 同係に所属する鹿しか刑事がキリサメに接触し、『E・Gイラプション・ゲーム』を暴力装置の如く扱き下ろした上でまで与えたことをヴィクター黒河内が把握しているのかは定かではない。

 仮に鹿しか刑事の動向を承知していたとしても、血の臭いが濃いリングへ手招きすることを躊躇ためらわなかったはずだ。〝暴力〟しか頼れるものがない弱肉強食の貧民街スラムを生き抜くべく編み出した殺傷ひとごろしすべには『天叢雲アメノムラクモ』ではなく『E・Gイラプション・ゲーム』こそが相応しいと断言する態度は堂々という二字こそ似つかわしかったのだ。

 己の行動に迷いがない証であり、不愉快そうに眉根を寄せるキリサメでさえ地下格闘技アンダーグラウンド団体を率いる大器うつわを認めるしかなかった。ただ純粋に本当の強さを追い求めんとする格闘家の意思おもいを受け止められる男であれば、電知も心を通い合わせることであろう。

 こうどうかん黎明期の様式を再現したじゅうどうを常日頃より纏うほど格闘技を愛し、世界最強という夢を真っ直ぐに追い掛ける親友が舌先三寸で選手の命を弄ぶ人間に従うはずもない。

 『E・Gイラプション・ゲーム』と同じように国内外の格闘技関係者から疑問視されるルールを運用し、団体の方針を巡って所属選手から敵愾心まで向けられる樋口郁郎とは正反対だ。前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAを支えてきた古豪ベテランを貶める発言もキリサメは目の前で聴いている。

 一方のヴィクター黒河内には『E・Gイラプション・ゲーム』の選手とおぼしき人々が従っていた。片目の光を失った為に現役を退いたものの、彼はボクサーである。「誰よりも何よりも強くなりたい」と願う格闘家の気持ちとはで向き合えるに違いない。


「泣き落としなんざ卑怯者のやるコトだぜ、黒河内。お前らしくもねぇ。……そもそもココがどーゆー場所だか理解わかってんのか? 仮にも『E・Gイラプション・ゲーム』の代表が『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場で試合帰りの選手を囲むなんざ、ヤクザ映画なら〝出入りカチコミ〟のシーンだぞ!」

「裏切りにまみれた内部闘争を繰り広げるマフィア映画を思い出しますよ、僕は。黒河内さんたちが客席に居ることは承知していましたが、誰の誘導で我々の目の前に立っているのですか? 代表同士の繋がりホットラインはともかく、樋口社長が通路ここに招き入れるとは思えません」


 岳に続いて麦泉が畳み掛けるようにしてヴィクター黒河内に迫ったのは当然であろう。

 主催企業サムライ・アスレチックスの麦泉も『E・Gイラプション・ゲーム』の人間が岩手興行を観戦していることは把握しており、先程の暴走族チームと同じような暴挙を警戒していたのだが、その網目まで素通りされてしまったのである。『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフの〝誰か〟がキリサメの通過するであろう場所にヴィクター黒河内を手引きしたのは間違いあるまい。

 『NSB』と『ハルトマン・プロダクツ』の両方から疑いの目を向けられている危機管理体制とも異なる問題を突き付けられたようなものである。


「若者の才能が潰されるかも知れない瀬戸際で団体の違いなどという些末なことに気にしてはいられないだろう。前途ある格闘家にを歩ませたくない。ましてや、オレのボクサー生命を終わらせた男のようにもなって欲しくない」


 結局、『E・Gイラプション・ゲーム』代表は麦泉の問い掛けに答えず、先程の言葉を更なる熱量で続けた。


「……クソッたれた連中にプロボクサーの道を断たれたことにはオレだって腹が立って仕方ねェぜ? キリーを同じ目に遭わせたくねェとも思ってる。だがよ、その気持ちを無理やり押し付けるのは違うと思うぜ。大体、お前、キリーと無関係じゃねェか」

「誤った道に迷い込もうとしている少年を目の当たりにしてしまった以上、もう無関係とは言えないのさ。オレは何があっても救ってみせる。八雲、お前こそもう手を引いたほうが良い。……お前自身の為にもな」

「まんまストーカーの思考じゃねーか! 相変わらず思い込み激しいな、お前ッ!」


 率いる団体の体質はともかくとして、ヴィクター黒河内は本当に聖人君子のような為人ひととなりであるのかも知れないが、キリサメには差し伸べられた手を握り返す理由がない。車椅子から立ち上がれる状態であったなら、その手を叩き落としたいほど嫌悪感が募っていた。

 状況説明を求めるような眼差しを神通に向けたとき、聞き流して欲しいと言わんばかりにかぶりを振ったのが唯一の救いであった。

 ひめも苦笑を浮かべながら肩を竦めている。彼も神通も団体代表の思考かんがえいていけないらしく、偏執的としか表しようのない引き抜き行為ヘッドハンティングにも明らかに戸惑っていた。これによって〝他人〟とは言いがたい関係の二人まで憎悪の対象に含めなくて済んだのである。

 その一方、ヴィクター黒河内の左隣にはべった背広姿の男性は殆ど狂信者に近い。代表の側近なのかも知れないが、キリサメの救済というに同調して涙を流しているのだ。


「君は必ず我々、『E・Gイラプション・ゲーム』の同志になる。いずれきっと、オレの言っていた意味を理解する日が来るはずだ。そのとき、ヴィクター黒河内は手を差し伸べているんだと、必ず想い出してくれ。……勇敢なるドン・キホーテ、オレは君を救いたいんだよ」

「僕は救って欲しいなんて願ってもいませんが、あんたの言うことが『天叢雲アメノムラクモ』では達成できないと決め付けるのですか? 僕のことはどう言って頂いても構いませんが、岳氏や他の〝先輩〟たちを侮辱する気なら、……その手を喰い千切ってやる」

「……キリサメさん、黒河内代表は――」

「――〝プロ〟という名乗りは確かに聞こえが良いけど、そこには団体の名誉や興行収入というしがらみが付き纏うわ。その為に『天叢雲あなたたち』の代表がしていることは? 話題性先行の〝客寄せパンダ〟を見世物にして、セレモニーの演出を無駄に凝っている。リングをしないと満足できないお客サマを抱えているって意味よ」

「誰だか知らないが、気ままに長々と……。電知も闘う前に名前くらい名乗ったけどな」

「樋口郁郎がしがみ付く名誉もカネも『E・Gイラプション・ゲーム』には関係ないのよ。団体の都合が選手を縛るなんてバカバカしいにも程があるわ。代表が仰った〝自由〟とは。闘うこと自体にストイックでなければ格闘家を名乗る資格もないわ」


 〝プロ〟という立場の弊害を言い添え、ヴィクター黒河内が掲げた救済の意味を強調したのは、神通の近くに立っていた女性である。年の頃は二〇代前半と察せられるが、鼻筋を跨いで両頬までそばかすが残っている。

 キリサメに〝何事か〟を伝えようとした神通を遮り、挑発的な言葉を並べ立てた女性もまた『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手だ。つきわらび――『しょうおうりゅう』宗家の宿と称する者の名前をキリサメが毒々しい芳香かおりと共に記憶するのは、もう少し先のことである。


「若者の前には無数の選択肢を用意するべきだし、彼らが前進していく力はオレたちのようなロートルにも止められないくらい強い。翻せば、道を誤ったときには奈落の底に落ちるまで突っ走ってしまうというコト。最悪のシナリオを迎える前に君を救うのは大人としての責任――果たすべき使命なんだよ」

「……同情なんかで腹は満たされない。それが故郷ペルーの貧困層です。打つ手を一つでも間違えれば、裏路地をうろつく野良犬の餌だ。……そんな格差社会の最底辺と『E・Gあんたたち』が似ているとでも? 突き付けられたナイフは、どれだけゴングを鳴らしても止まりません」


 なおも畳み掛けてくるヴィクター黒河内に対し、キリサメは敵意を剥き出しにすることを抑えられなかった。

 一挙手一投足に至るまで理不尽というつるぎきょうにさえキリサメは腹を立てなかった。何事にも無感情な彼にしては珍しい姿であり、神通は言うに及ばず養父の岳までもが目を丸くしたが、あたかも天より遣わされた聖者の如く振る舞い、他者の運命を意のままに操らんとする傲慢な人間を前にすると、魂に巣食う〝闇〟が一等強くうずくのだ。

 眼帯アイパッチの男性はキリサメの意思など一度たりとも確認しなかった。一方的に『天叢雲アメノムラクモ』が不幸の原因だと決め付け、『E・Gイラプション・ゲーム』以外に救済すくいはないと繰り返し続けたのである。

 だからこそキリサメはヴィクター黒河内の顔を正面から見据え、「あんたなんかに理解わかられて堪るか」と憎々しげに吐き捨てた。

 先ほど岳はヴィクター黒河内の言行をカルト集団にたとえていたが、今ならば即座に頷き返すことであろう。〝集団〟で一括りにしてしまうと神通や姫若子、ここには居ない上下屋敷と電知まで含まれるので心苦しさは否めない。しかし、狂信者めいた側近の姿を見る限り、代表のに染まった人間も『E・Gイラプション・ゲーム』には少なくないはずだ。

 生前の実父が巻き込まれ、一二七日目もの監禁生活を強いられた日本大使公邸人質占拠事件の犯人グループと同じような反政府テロ組織は、一時期ほどの勢力こそないものの、故郷ペルーの〝闇〟で突撃銃カラシニコフに弾を装填め、〝革命〟への闘争を続けている。

 ヴィクター黒河内とその狂信者を目の当たりにしてキリサメが想い出したのは、反政府組織の一派を率いるリーダーであった。国政に対する不満を叫ぶデモ隊に銃火器を渡し、の尖兵に仕立てて〝大統領宮殿〟に差し向けようと画策しておきながら、犠牲と罪を背負う聖なる殉教者のように振る舞っていたのだ。

 正しい〝道〟へと言わんばかりの態度は、テロ組織のリーダーも『E・Gイラプション・ゲーム』の代表も、キリサメのなかでは一つとして変わらない。最初からヴィクター黒河内の手を握り返す可能性など無かったわけである。

 現在いま幻像まぼろしの形で飄然ふらり出現あらわれる幼馴染みの少女――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケが頭部あたまを惨たらしく吹き飛ばされた『七月の動乱』は、くだんのテロ組織が糸を引き、反政府デモの域を超えて〝市民戦争〟に達する寸前まで激化させたのだ。


「ゴングを鳴らしても止まらないのは『E・Gイラプション・ゲーム』の選手ファイターも同じだよ。『バーリトゥード』の試合もレフェリーには止められないと聞く。生と死が最も深く交わる極限の境地でオレたちは〝心技体〟を極めようとしているんだ。そして、一瞬でも気を緩めれば命を落とし兼ねない〝本物の闘い〟にしかドン・キホーテと呼ぶべき格闘家の救済はない」

「医師の立場でかせて貰いますがね、若者を救いたいとうたう人間が救急車待ちのアマカザリ選手を通せんぼとは矛盾の極みではありませんかね? 今、何よりも必要なのは適切な検査と治療であって議論じゃない」


 ヴィクター黒河内の主張をぼとけドクターは憤怒いかりが滲む声で切り捨てたが、車椅子という逃げ場のない状況で双方ふたりの言葉に耳を傾けながら、キリサメは『E・Gイラプション・ゲーム』の体質に一種の〝共感〟を覚えてしまう自分がいることも否定できなかった。

 電知との路上戦ストリートファイトは言うに及ばず、神通に教わった話からも『天叢雲アメノムラクモ』より『E・Gイラプション・ゲーム』のほうが〝自由〟であろうと察している。総合格闘技MMAでは反則行為と見なされる技が解放されるのだから、喧嘩殺法を十全に使い切るには地下格闘技アンダーグラウンドこそ向いているとも思える。

 ヴィクター黒河内が指摘した通り、死神スーパイの手が眼前を通り過ぎていくような〝実戦〟の中で喧嘩殺法を作り上げていったのも事実だ。

 〝城渡総長〟の仇討ちに逸る暴走族チームから脅かされたときにも、恭路たちを全滅させる戦略を無意識の内に考えていた。故郷ペルーで岳と出逢った日には日系人ギャング団の襲撃を受けたが、非合法街区バリアーダスの只中を駆け巡りながら背中を預け合い、を撃退している。

 それはつまり、乱闘騒ぎが頻発する地下格闘技アンダーグラウンドにこそ適しているという傍証であった。

 冷たく硬いアスファルトへ叩き付けるようにして一本背負いを繰り返すなど、電知も相手の肉体からだを破壊する〝実戦〟に慣れていた。命を奪い兼ねない技をちゅうちょなく仕掛けられる〝感覚〟もまた『E・Gイラプション・ゲーム』にける危険度の高い試合で研ぎ澄ませたのであろう。

 キリサメ自身の〝感覚〟も、ルール無用の路上戦ストリートファイトを電知と繰り広げる中で故郷ペルーの〝闇〟まで引き戻されたのだ。

 しかしながら、キリサメは己の魂にまで染み込んだ暴力性を〝自由〟に解き放てる場を求めていたわけではない。未稲との約束を果たし、数多の人々から受けた恩に報いて期待に応える為、『天叢雲アメノムラクモ』を選んだのである。

 故郷ペルーける〝実戦〟から総合格闘技MMAのリングへと至る道程を振り返ったキリサメは、姫和子が地下格闘技アンダーグラウンドに身を置こうとした動機が気になり始めていた。

 彼と共に道場『とうあらた』の体験会ワークショップの講師を務めた近藤の話によると、は様々な武術を学び、そこで培ったモノをに反映させるという。哀川神通が殺傷ひとごろしすべとしての古武術を錆び付かせない為に『E・Gイラプション・ゲーム』を選んだように、姫若子も限りなく〝実戦〟に近い場へ〝何か〟を求めているのかも知れない。

 迫真のに辿り着く修行と想像できなくもないが、成果と代償の釣り合いが取れないほど無謀ではないだろうか。という〝本業〟にまで支障をきたし兼ねないのである。



                     *



 キリサメにとって『天叢雲アメノムラクモ 第一三せん奥州りゅうじん』から一夜が明けたメインアリーナは、〝謝肉祭カルナバル〟の喧騒さわぎが過ぎ去った後の故郷ペルーを想い出さずにはいられない情景であった。

 隣国ブラジルと比較すれば控え目であるが、それでも貧富のをも超えて盛り上がる乱痴気騒ぎは賑々しく、翌朝の首都リマには町全体が燃え尽きて灰色になったと錯覚してしまうような寂寥感が横たわっていたのだ。何事にも反応の薄いキリサメでさえ、サン・クリストバルの丘から吹き付ける砂色サンドベージュの風を別離わかれの調べと感じてしまうほどである。

 が起こった為に一度取り換えられたリングは言うに及ばず、その戦場を目指して入場口から直通していた花道ランウェイも、海賊船の船首部分を再現した特設ステージも、MMAの興行イベントを成立させる為に必要な機材の一切が既に運び出されていた。

 何もかも〝下見〟の折にキリサメが確認した状態に戻っていた。特別な仕掛けは一つもない〝普通〟の屋内運動場アリーナであるが、市民の運動が目的なのだから当然であろう。

 九人制のバレーボールで換算すると三面分もある競技用コートは二階の窓から差し込む光を静かに跳ね返しているが、キリサメの双眸はその中央に座禅を組む仏僧の後ろ姿をるようであった。

 言わずもがな、脳内あたまのなかの想像を映しているに過ぎない。〝下見〟で訪れた際に邂逅したヴァルチャーマスクは、現在の所属先である『NSB』の仲間とは別行動でアメリカに戻るそうだが、数日は東北に留まり、日本を離れている間に起こった震災の爪痕を己の目で確かめるという。

 その話を養父から教わったのは、精密検査を終えて病室に戻った後――つまり、昨晩のことであった。

 『NSB』による臨時視察の一員として『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行に足を運んだヴァルチャーマスクは、絆が永遠に喪失うしなわれたはずの八雲岳や鬼貫道明と歴史的な和解を果たし、『昭和』からのプロレスファンを大粒の涙と共に驚愕させたのである。


「――元気があれば、やらいでか。闘魂を拳に握り締めている限り、成せんことはない」


 岩手興行が閉幕した後、僅かながらも旧交を温める時間に恵まれたようで、養父を通して先達ヴァルチャーマスクの激励が新人選手キリサメに伝えられた。異種格闘技食堂『ダイニングこん』の経営者オーナーが『アンドレオ鬼貫』という通称リングネームを名乗っていた頃の口癖を引用したものだ。

 螺旋を描くようなきずあとが無数に刻まれた禿頭あたまと、プロペラの先端としかたとえようのない形で飛び出したもみあげを想い出したキリサメは、我知らず俯き加減となっていた。


の屍を超えてゆけ。前へ前へと常に進む時代は、若き力にこそ味方する」


 初めて言葉を交わしたとき、現在いまはハゲワシのプロレスマスクを仏僧おとこは、次世代への期待も込めて迷える新人選手ルーキーを励ましたが、キリサメ本人は先達を裏切ってしまった罪悪感に押し潰されそうなのだ。

 猛き鷲を彷彿とさせる双眸にはげしい光を湛えた〝超人〟レスラーは、『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦を経たのち、〝とうきょく〟の理論に基づいて日本で初めて総合格闘技MMAの体系化を成し遂げたのである。

 一九九七年の『プロレスが負けた日』では己を生け贄として捧げ、これと引き換えに日本MMAを〝覚醒〟に導いている。

 その上、ヴァルチャーマスクは養父の大恩人である。彼と出逢っていなかったなら、この世に八雲岳というプロレスラーも誕生しなかった。通称リングネームと共に捨て去られたハゲワシのプロレスマスクは、現在いまも『八雲道場』にて保管されているのだ。

 日本でMMAを志す者にとっても、ヴァルチャーマスクは見果てぬ荒野に新しき〝道〟をひらいたしるべである。依然として格闘技全般の知識が乏しいキリサメであるが、彼の目の前で闘魂のリングを破壊した罪の重みには無感情ではいられず、振り返るたびうずくような痛みが心を苛むのだった。

 未稲と愛染に背中を押され、抗えないままメインアリーナに足を踏み入れてしまったキリサメは、一昨日の〝下見〟とは異なって二階から競技用コートを眺めている。三〇〇〇人を収容できる固定席は東西南北から一階を見下ろしている為、奈落の底を覗いているような気持ちになっていた。

 MMA興行イベントの開催中にはひしめくような形で一階に並んでいた可動席・補助席も、現在いまは倉庫内に収納されているのだろう。二階のガラス窓も昨夜までは『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークが刺繍されたカーテンを掛けていたのだが、それも通常の物に戻されている。

 時おり俯きながら、もぬけの殻ともたとえられるメインアリーナの有りさまを見つめ続けるキリサメの姿は、底意地の悪い人間の目には反則負けという最悪の結果を受けれられない未練がましさとして映るかも知れない。

 競技用コートの中央で座禅を組んだヴァルチャーマスクの模倣にも近く、余人にはその意図が推し量れない奇行とも言えるだろう。

 暴走族チームの攻撃が現実味を帯びたとき、加勢に入った上下屋敷とつかよりは比喩でなく本当に二階からのだが、その二人の視線をなぞっているようであった。


「……キリくんさ、〝兼業〟の踏ん切りはもうついたのかな? 私個人としてはね、一つのご縁でもあるし、乗ってみるのもアリだって思うよ」


 胸の内をこわごわと探るような声色で未稲がたずねたのは、貧民街スラムの喧嘩殺法は地下格闘技アンダーグラウンドこそ似つかわしいと断言したヴィクター黒河内に対する〝返答〟ではない。一方的で傲慢な〝救済〟に割って入り、助け舟を出してくれた人々への〝返礼〟である。


「地獄に仏とはよくぞ言ったものだな。愛しの神通と君の距離が物理的に近寄る心配がなくなるのだから、私としても未稲くんと声を揃えて推奨したいぞ」


 自分は伝聞でしか知らないという前置きに続いて愛染が述べた言葉に対して、キリサメは躊躇ためらいがちに頷き返した。僅かではあるものの、表情かおの険しさも和らいでいる。

 キリサメが反応を示したのは「地獄に仏」という一言である。姫和子というのことを振り返ったばかりの彼にとっては、何よりも深く心に染み入るのだ。



                     *



 敗北の痛手ダメージへ付け込んでキリサメを『E・Gイラプション・ゲーム』に引き入れようとするヴィクター黒河内は執拗としか表しようがなく、他の仲間たちと共に同行していた哀川神通は、口元を引きらせながら『天叢雲アメノムラクモサイドの人々に謝罪するような眼差しを向けていた。

 救急搬送を待っている新人選手ルーキーを廊下に引き留め続けるだけでも異常事態であるが、それに加えて周囲まわりの人々まで攻撃的に昂り始めたのだ。


「何時までもと煮え切らない。そもそもとしてアマカザリさんに『E・Gイラプション・ゲーム』と手を携えていく以外の選択肢があるとでも? 未だにみっともなくテレビ放送にしがみ付こうとする『天叢雲アメノムラクモ』に暴力しか能がない人間の居場所はない。それが現実だ」


 新人選手ルーキーに対戦交渉を持ちかけた『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルは、キリサメが脱出した後も場内に留まり、リング交換が完了するまでの間、故郷ブラジルで外国人観光客向けに披露されてきた〝見世物パフォーマンスとしてのカポエイラ〟を実演し、観客の脱落を防いでいる。

 芸能人タレントとしても活動しているレオニダスは観客の気持ちを盛り上げるのも巧く、彼が引き出した大歓声は壁を突き破って廊下にまで届いている。故郷ペルーの喧嘩殺法で同じ真似が出来るのかとせせら笑ったのは、ヴィクター黒河内の傍らに侍っている側近であった。

 格差社会の最下層にける生存競争は、血と泥にまみれながら互いの命を喰らい合う殺意の応酬であり、花形選手のように照明スポットライトを浴びて眩く輝くようなものではない。〝格闘競技〟の興行イベントと相容れない存在である事実をキリサメ本人が自覚し、気が狂わんばかりに葛藤しながら返答に窮すると見抜いた上で、背広姿の男性おとこは底意地悪く挑発したわけだ。

 〝半身〟の如く感じている相手キリサメを目の前で貶された神通は「言葉を選んで下さい、かげうらさん」とすかさず諫めたが、名字なまえで呼ばれた男性おとこは聞こえない芝居フリで受け流していた。

 挑発これに誰よりも激烈な怒りをあらわにしたのは麦泉である。キリサメに対する面罵は言うに及ばず、MMAという〝スポーツ文化〟を日本で復権させるべく尽力してきた者としても今し方の発言は聞き捨てならないのである。

 背広姿の男性おとこが『天叢雲アメノムラクモ』を見下し切っているのは、物言いの一つ一つからも明らかであった。爆発する火山を模った『E・Gイラプション・ゲーム』のロゴマークが左胸ポケットに刺繍されているのだが、彼が誇示しているものに麦泉は軽蔑の眼差しを浴びせ返した。


「……テレビにしがみ付く? 文化が広く普及するにはが欠かせないことすら理解できない方ほどテレビの〝力〟を軽んじますね。たまたまチャンネルを回したときに流れている――ありふれた日常に自然と溶け込んでこそ文化は成熟するのですよ」

主催企業サムライ・アスレチックスは相変わらずの時代錯誤だな。未だに〝格闘技バブル〟の幻想に取りかれ、娯楽エンタメの中心がネットに移行シフトしたことも理解わかっていない。『NSB』に張り合おうと背伸びしながら、未だにPPVペイ・パー・ビューすら対応していない体たらくをどう言い訳する気だ?」

「今、口にした言葉が〝誰〟にとって最大の侮辱になるのか、よくよく考えてみることですね。大衆のプロボクシング人気を育てたのは、インターネットではなくだ。勿論、ひきアイガイオンという〝副産物〟も付いてきましたがね」

で誰を論破できると言うんだ? でなければ、満足に客も呼べないのはの誰だ? そんなモノは虚飾に過ぎない。格闘技でもスポーツでもなく遊戯おあそびだと言っている。都合が悪いからと話題はなしをすり替えるな、樋口郁郎の飼い犬が」


 麦泉の反駁は真隣となりの岳がすくみ上がるくらい猛烈であったが、ヴィクター黒河内の側近はこれを正面から浴びせられても鼻先で笑い飛ばしている。

 他者を愚弄する態度は甚だ品性を欠いており、陰険そのものであったが、この男性おとこなかで『E・Gイラプション・ゲーム』の一員という誇りは〝何〟があろうとも揺るがないのであろう。


「逆に伺いたいのだが、キリサメ・アマカザリはテレビに映しておける選手か? 今日の試合も生中継だったら、今ごろ主催企業サムライ・アスレチックスの電話回線は苦情と批難でパンクしていたぞ。虚飾にすがらなければ活動も維持できない『天叢雲アメノムラクモ』の体質そのものがアマカザリさんの足を引っ張り、格闘家としての可能性を潰していると黒河内代表は仰せなのだ」

地下格闘技アンダーグラウンドを――いや、『E・Gイラプション・ゲーム』を物差しにして格闘技を語るなッ!」


 物腰の穏やかな麦泉が聞き苦しい口論に及び、怒号まで張り上げたことにキリサメはず驚愕し、戦慄は後から追い掛けてきた。介助式車椅子の車輪が一瞬だけ床から浮かび上がったのは、ハンドグリップを握るぼとけドクターも立ちすくんで身震いした為である。

 乱闘騒ぎを免れたばかりにも関わらず、総合体育館の廊下は暴走族チームとの対峙に匹敵するほど空気が張り詰めていた。


「とにもかくにもかげうらの無礼を陳謝したい。『E・Gイラプション・ゲーム』への愛情が誰よりも深いのでね、時おりやり過ぎてしまうことがあるんだよ。しかし、この男の言い分にも一理あると、他ならぬアマカザリ君が誰よりも分かるだろう? 君は空閑と同じようにまだ若い。それなら可能性を最も伸ばしていける選択肢こそ真剣に考えるべきだ」


 口が過ぎた側近を嗜め、付き従っている『E・Gイラプション・ゲーム』の選手たちにも短慮を起こさないよう釘を刺すヴィクター黒河内であったが、キリサメに対する手招きはその舌の根も乾かない内に再開しており、『天叢雲アメノムラクモ』側の全員が怒りを通り越して呆れ返ってしまった。


「――可能性を花開かせる選択肢なら、彼はとっくの昔に自分の意思で決めているよ」


 かつて鬼貫道明のもとで闘ったプロレスラーだけに麦泉の怒号は凄まじい迫力であり、レオニダスが起こさせた歓声をも押し流すくらい大きかった。これを聞き付けた警備員が肩に警棒を担いで駆け付けても不思議ではない。

 程なくして数名分の足音がキリサメたちに近付いてきたが、その一団を視界に捉えた途端に『E・Gイラプション・ゲーム』の全員が目を丸くし、神通も口を開け広げた状態で固まってしまった。

 『天叢雲アメノムラクモ』側の肩越しに未確認生命体でも発見したかのような反応である。これを見て取ったキリサメたちも『E・Gイラプション・ゲーム』側の視線が向かう先を大慌てで辿ったのだが、誰も彼も同じ表情かおになったことは改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 ぼとけドクターは驚愕の余り上体を仰け反らせ、キリサメは車椅子の背凭れバックレストの向こうを立て続けに二度も振り返ってしまった。

 鎧兜に身を包んだ一団が廊下の向こうから歩いてくるではないか。

 欧州ヨーロッパの歴史絵巻から抜け出してきたかのような板金鎧プレートアーマーの騎士にはメインアリーナで遭遇したが、今度は草鞋わらじを履いた戦国日本の武者たちが時空を超えてやって来たのだ。

 兜の正面に取り付けられた〝前立て〟と呼ばれる装飾は、三日月や毛虫など各人で大きく異なっているが、殆どの者が戦国時代後期の開発である〝とうせいそく〟を纏っていた。

 のぶながとよとみのひでよしとくがわいえやすという〝戦国三英傑〟が歴史の表舞台へ立つ頃には火縄銃も日本に伝来しており、紀州ごろけんもつかずながを経て大量生産が始まっている。

 さつまのくに島津家や室町幕府第一二代将軍・あしかがよしはるも着目した火縄銃はかっせんの在り方を様変わりさせ、防具にも鉛玉たまに対する防御が求められるようになった。鎧もまた紐や鋲で板金を組み合わせ、全身を堅牢に固めるという様式へと変化していったのである。

 鎌倉時代の主流であったおおよろいほしかぶとと比べて全体的に小振りであり、洗練の二字を見る者に印象付けている。これが〝とうせいそく〟であった。

 鎧武者の一団を神通が首を傾げながら凝視しているのは、自身が宗家を務める古武術の流派にいても用い方と破り方が伝えられてきた武具である為か、それとも〝別〟に気掛かりでもあるのか。これを確かめる余裕など現在いまのキリサメにあろうはずもない。

 鎧の下に着る装束やも往時の物であり、何人かは岳が愛用する物と同じ袖のない陣羽織も用いていた。

 誰よりも異彩を放つのは、一枚の板金を鍛えた胴鎧の上から死装束を彷彿とさせるいろのマントを羽織った武将である。かつて欧州ヨーロッパの貴族が用いていたひだえり――放射状に広がるフリルの塊を首に嵌めているのだ。

 重武装ばかりではなく、軽装の者も混ざっていた。薙刀を携えた女性は袴を穿き、肩を防護する〝袖〟のないどうまるを纏っている。袴を穿かない着流し姿の男性は片肌を脱ぎ、剥き出し肩に抜き身の太刀を担いでいた。帯に差し込んでいるのは鉄扇である。

 キリサメを挟んでヴィクター黒河内と差し向かいの位置に立った中央の男性は、〝当世具足〟の上から白い陣羽織を纏い、木彫りとおぼしきめんを被っている。老いた鬼をかたどっているのだろう。鼻の下と顎を白髭でもって装飾していた。

 左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛った男性の〝正体〟がキリサメには一目で分かった。開会式オープニングセレモニーが始まる前に挨拶を交わしたばかりなのだ。木彫りのめんで覆われた素顔も鮮明におぼえている。


がわ先生ッ⁉」


 キリサメと声を揃え、敬称を添えてその名を呼んだのは『E・Gイラプション・ゲーム』側に立つ姫和子である。彼の声のほうが大きく、切羽詰まったように裏返ったのは当然であろう。

 ここがかっせんであったとしても、怒涛の如きかんせいを貫いて隅々まで届くであろう活力ちからに満ちた声を『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の間に滑り込ませたのは、道場『とうあらた』の創始者にして、という〝文化〟そのものの先駆者――がわだいぜんであった。

 毛虫を模した前立ての兜を被り、長谷川の右脇を固める鎧武者は、キリサメが参加した殺陣道場の体験会ワークショップいて姫和子と共に講師を務めたこんどうだ。

 『とうあらた』はアクションスタントの事務所プロダクションも兼ねており、主催企業サムライ・アスレチックスの依頼を受けた岩手興行ではステージイベントとして〝剣劇チャンバラ〟を披露することになっていた。『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手であるキリサメは、開会式オープニングセレモニーの前にリハーサルを見学していたのである。

 豪華絢爛な刺繍を散りばめた赤地の着流しで太刀を振るう――だいらひろゆきは、本番さながらのリハーサルで〝ケツァールの化身〟にも匹敵するような軽業を披露していた。

 いきさつ自体がキリサメには想像できないが、〝剣劇チャンバラ〟の支度を済ませて出番を待っていた『とうあらた』のたちは、で対峙の場に駆け付けたわけである。

 平安時代の昔から弓矢と併せて武士の〝表道具〟であった太刀や、つかより逆三角盾ヒーターシールドと共に携えていたような中世ヨーロッパの長剣ロングソードなど〝得物〟もまた人によって様々だが、誰一人として真剣ほんものは持ち込んでいない。鎧兜でさえ戦国乱世の実物などではなく、本来より軽量な素材による再現レプリカであった。

 それでも本物さながらの質で完成されたことは変わりがなく、鎧武者たちが鉄の壁の如く横一列に並ぶと、言葉として表しがたい威圧感が〝現代人〟に押し寄せてくるのだ。


「ダイさん⁉ 一体全体、コレはどういう……⁉ 出番はまだまだ先のハズじゃあ?」


 『とうあらた』の創始者とは古くからの付き合いであり、ステージイベントへの出演依頼を仲立ちした岳でさえ鎧武者の一団が目の前に現れた理由を全く掴めなかった。道場による〝剣劇チャンバラ〟は岩手興行の中盤に予定されており、第一試合の時点ではスタッフ用の控室にて待機しているという認識だったのだ。

 『E・Gイラプション・ゲーム』を追い払う為の加勢を頼んだおぼえなどあろうはずもない。互いの顔を見合わせて首を傾げている麦泉とぼとけドクターもは同様であろう。運営スタッフの誰かが『天叢雲アメノムラクモ』と敵対的な関係にある地下格闘技アンダーグラウンド団体の侵入に気付いたとしても、警備員ではなくを差し向ける理由があるまい。

 「ダイさん」と愛称で呼ばれた長谷川大膳は、後頭部に回した紐でもって固定する木彫りのめんを外し、岳に向かって茶目っ気たっぷりに片目をつむって見せた。質問への回答を避けつつ、協力の意思のみを示した恰好である。

 その様子は〝隣近所の好々爺〟といった印象だが、キリサメの試合着ユニフォームを〝開発〟したたねざきいっさくも同じ時代劇に携われたことを財産のように語っており、とは異なる分野で活動する人々からも尊敬を集める偉人――まさしく〝生きた伝説〟なのだ。


「岳ちゃんから預けて貰った若い子が妙なちょっかいを出されていると、さっき小耳に挟んでね。保護者も一緒なのだから、お節介の焼き過ぎも良くないとは思いつつも、やっぱり心配になって駆け付けちゃったってワケだよ」

「お預かり? ……ダイさん? さっきから話が読めねェんですけど……」

「元フライ級王者チャンピオンのヴィクター黒河内――ですよね? 残念ながら一足違いですよ。アマカザリ君は『とうあらた』が既に練習生としてお預かりしています。一人前のを目指す本格的な稽古や、時代劇の仕事エキストラは夏から開始はじめる段取りですけれど」


 意味不明とかぶりを振り続ける岳からヴィクター黒河内に目を転じたのち、長谷川大膳が発した言葉を受けて、この場の誰より驚いたのは他の誰でもないキリサメ当人だ。

 左右の五指でもって肘掛けアームレストを掴み、辛うじて堪えたものの、呆気に取られて車椅子の座面から転げ落ちそうになったほどである。


「今後はとの〝兼業〟になりますが、協力体制スクラムを組んでいる『天叢雲アメノムラクモ』以外での掛け持ちは現実問題として難しいかと。総合格闘技MMA地下格闘技アンダーグラウンド二種ふたつの大会へ出場するのは肉体からだの負担が大きいので事務所プロダクションとしてもご遠慮願いたいし――ああ、『E・Gイラプション・ゲーム』の皆様には自己紹介が遅れましたか。自分がアマカザリ君の面倒を見させて頂くだいらです」


 長谷川大膳の言葉を引き継いだだいらひろゆきも、キリサメの混乱を加速させた。澄み渡った青空から何の前触れもなく降り注いだ稲妻に撃たれ続けているようなものである。

 以前までは御剣恭路にもMMA選手としての訓練トレーニングを疎かにして通い詰めていると誤解されていたのだが、道場の体験会ワークショップに参加したのは一度のみであり、『とうあらた』の練習生に登録したおぼえもなかった。

 それにも関わらず、長谷川とだいらには事務所プロダクションの一員の如く扱われてしまっているのだ。あまつさえの基礎に少しばかり触れたのみというにアクションスタントまで任せようとしているではないか。

 くだん体験会ワークショップに全く関わっていない麦泉は岳の顔を覗き込み、目配せでもって事実関係をただしている。それはつまり、『とうあらた』の動向を『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業も把握していないという証左であろう。

 『NSB』に所属するベトナム出身うまれのダン・タン・タインもアクション俳優とMMA選手の〝兼業〟であり、生死に関わるほど危険な場面シーンもスタントを用いずにやってのけ、三〇歳の若さで世界的スターの地位を不動の物にしている。

 ハリウッドにも進出を果たしたダン・タン・タインは自身の〝本業〟を映画俳優と公言してはばからないそうだが、人並み外れて思い込みの激しい恭路は、道場の体験会ワークショップへの参加という一点を判断材料にして、キリサメが彼のようなアクションスターを目指していると決め付けたのである。

 という〝文化〟の第一人者でもある長谷川大膳が恭路と同じ思考であるはずがない信じたいキリサメであるが、万が一にも誤解ではなかった場合には、彼や真平が発した一字一句に至るまでまんということになってしまうのだ。


(そこで詐欺と決めてかかったら、御剣氏と変わらないか。……僕からすれば見え透いた嘘でも、『E・Gイラプション・ゲーム』には違うように聞こえる――そういう知略ことですね、長谷川先生)


 『とうあらた』は口先で丸め込んだ人々から大金を巻き上げるような悪党ではない――長谷川と交わした言葉や体験会ワークショップの想い出からそのことを信じられると思い至った瞬間、キリサメは目の前で起きている全てが『E・Gイラプション・ゲーム』を制する為の奇策であると気付いた。

 岳よりも麦泉よりも早く〝長谷川先生〟の真意を読み抜いた次第である。

 介助式車椅子の背凭れバックレストの向こうにたちを見つめるということは、『E・Gイラプション・ゲーム』に背中を向けた状態をも意味している。当然ながらヴィクター黒河内には顔を覗き込むことが不可能であり、この構図こそがキリサメに『とうあらた』のを悟らせたのだ。

 長谷川大膳の発言に対するキリサメの反応を見て取ったなら、ヴィクター黒河内も『とうあらた』が『E・Gイラプション・ゲーム』を翻弄しようとしていることに勘付いたはずである。

 毎週日曜日に一年間に亘って放送される大型連続時代劇にいて、長谷川大膳は指導を半世紀近く担当してきた。二〇一四年の題材はとよとみのひでよしの天下統一を支えた名軍師であるが、徳川家康が最も恐れたとされる乱世の智将にあやかるような奇策が『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』のをまとめて呑み込もうとしていた。


「まだ公には発表していないことなので『天叢雲アメノムラクモ』の経歴プロフィールにも載せていませんが、体験会ワークショップがきっかけで、長谷川先生が仰った通りに話が進んでいます。見習い期間中、きっとだいら氏に大変なご迷惑をお掛けすることになろうかと思いますが……」

「楽しい仲間が増えるんだからね。俺としては迷惑どころか、嬉しい限りだよ」


 眼帯アイパッチで覆われていない側の目を大きく見開いたヴィクター黒河内に向き直り、背中で受け止めただいらの言葉に頷き返したキリサメは、小遣い程度の賄賂カネで犯罪者を放免していた故郷ペルーの腐敗警官と現在いまの自分を重ねてしまい、心の中で『とうあらた』の皆に詫びた。

 己の〝半身〟を横からられるとは想像もしていなかったのか、神通は幾度となく双眸をしばたたかせながらだいらの顔を凝視し、次いで「よもや、最も遠いと思っていたが繋がるとは」と、余人には聞こえないほど小さな呟きと共に苦笑を浮かべた。

 「寝耳に水」としか表しようのない筋運びに顎が外れそうなくらい大口を開け広げ、半ば放心状態の顔で鎧武者の一団を見つめ続ける岳と麦泉への説明は後回しになるが、キリサメはこのまま大芝居を続けるしかなかった。

 太刀筋一つでもって人を魅せることに長けた〝プロ〟のとは異なり、キリサメは芝居の経験など持ち合わせていない。

 友好的な笑顔で他者ひとと接しておきながら、相手が背を向けた瞬間に舌を出し、懐から掠め盗った財布の中身を確かめるのような騙し討ちも得意ではない。

 しかし、生来の不愛想が長谷川大膳のめんと同じ役割を果たし、結果的に腹の底が相手から悟られにくくなっている。だからこそ『E・Gイラプション・ゲーム』側も急展開に面食らいつつキリサメたちの言行を一時逃れの嘘とは断定し切れないのだ。


「先に声を掛けたほうの勝ちとか抜け駆けという話でもありませんが、アマカザリ君がやる気になってくれたのだから、私も前途有望なを大切に育てたいし、『とうあらた』も彼の活動を全力で支援たすけて参ります。人間ひとは自らの意思で選んだ〝道〟でこそ輝けるということ、〝一軍の将〟ならば――黒河内さんならば、ご理解頂けるのではないかと」


 再び背中を向ける恰好となった為、双眸で様子を窺うことは叶わないが、一等嬉しそうな声色から〝長谷川先生〟が己の意図に気付いてくれたものとキリサメは確信していた。

 不慣れな演技の為にどこかでつまずくかも知れないが、拙劣それすらも『とうあらた』のたちは地下格闘技アンダーグラウンド団体を丸ごと振り回す〝大きな流れ〟として整えてくれるに違いない。

 長谷川大膳とは半日ほど前に初めて挨拶を交わしたばかりである。為人ひととなりすら彼の弟子による伝聞でしか知らなかったのだが、そのような相手へ無条件に心を開いてしまった自分自身にキリサメは驚いている。

 当事者の意思を黙殺しながら既成事実を積み上げ、逆らえない状況を作り出した樋口とレオニダスは言うに及ばず、MMAと貧民街スラムの喧嘩殺法は相容れないと独善的な価値観で決め付けるヴィクター黒河内の引き抜き行為ヘッドハンティングも、当人キリサメからすれば不信感しかない。

 『とうあらた』の奇策も無理筋に近い点は変わらないが、剣に生きた武士サムライの魂を時代すら超えて芸術の域にまで昇華せんとするの心意気を体験会ワークショップで教わり、「芝居とはいえ命を奪い合うことに変わりはなく、それを軽く考えてはならない」という〝長谷川先生〟の理念にも触れた経験ことがキリサメのなかでは何より大きかったのである。

 初陣プロデビューまでには完成できなかったものの、身のうちから噴き出しそうな殺気を制御コントロールする工夫を体験会ワークショップで姫和子から学んだキリサメは、これを繰り返し練習し続けてきた。養父が必勝の策として打ち出した〝フェイント殺法〟を試みようとする際にも、紙一重で刃を当てずに魅せるというに手掛かりを求めたのである。

 本人の意識はともかくとして、試合開始直後に脳内あたまからルールが抜け落ちてしまうほど理解の捗らないMMAよりも、道場のほうが心の距離感が近いのかも知れない。

 だからこそキリサメもたちの大芝居が自分を助けるものと、少しの疑いを差し挟むことなく信用できたのだ。電知から向けられる友情や、八雲家で育んだ親愛にも似た想いがを受け止めさせたといっても過言ではなかった。


「……アマカザリ君が自分と同じ『とうあらた』の所属になったことは先程も話したつもりなのだが、黒河内代表も含めて誰一人、聞いていなかったのか。『E・Gイラプション・ゲーム』の中での自分の立場を思い知らされたようで、地味に哀しいな」


 キリサメを巡る『とうあらた』側の発言は、明らかに動揺しているセコンド二人の反応からして疑うべき部分が多い。真偽を確かめんとする眼差しを仲間たちから一斉に向けられた姫和子は、如何にも気落ちしたような表情かおで肩を竦めて見せた。

 無論、これはの芝居である。〝長谷川先生〟がキリサメのことを『とうあらた』の一員と紹介した際には、姫和子も地下格闘技アンダーグラウンドの仲間たちと同様に面食らっていたのだ。

 に化かされたような事態を眺めている間に道場の仲間たちの意図に勘付き、素知らぬ顔で大芝居にくみした次第である。

 くだん体験会ワークショップで共に講師を務めた近藤は「である前に一人の武術家」と姫和子のことを評している。MMAをしたいが為、岩手興行の客席にも『E・Gイラプション・ゲーム』の一員として座っていたが、この場で味方すべき相手と己がすべきことは理解しているのだ。


「――成る程。試合開始前に姫和子さんがもごもごと仰っていたのは、キリサメさんがと二足の草鞋を履くということだったのですね。母音が一緒ですから今までを聞き間違えていました。てっきりまさむね公のうんちくを披露されているとばかり……」

「場内の歓声には大声出したって敵わないし、聞き間違えられても仕方ないが、それはそれとして哀川さんも自分の話を聞き流していたわけか。いや、別に構わないがな……」


 〝剣劇チャンバラ〟を演じる仲間たちと別行動であった状況を姫和子は利用せんとしている。双方の狭間に立ったの機転に同調する者が『E・Gイラプション・ゲーム』の内部なかからも現れた。

 さも聞きおぼえがあるような芝居で姫和子に頷き返したのは哀川神通だ。

 一六世紀半ばの『鉄砲伝来』や〝当世具足〟の開発よりも古い時代のかっせんで編み出された『しょうおうりゅう』と同じ殺傷ひとごろしの技――貧民街スラムの喧嘩殺法と、〝なんでもアリバーリトゥード〟の正統なる後継者を自負する地下格闘技アンダーグラウンドの相性を確かめたいという気持ちは神通も否定できない。

 その反面、姫和子と同じようにヴィクター黒河内による強硬な引き抜き行為ヘッドハンティングにも納得していない。己の〝半身〟とも錯覚してしまうほど共鳴しているキリサメを窮地から救いたいという想いが強い義憤と結び付き、姫和子に加勢した次第である。

 『E・Gイラプション・ゲーム』のリングで神通と幾度も対戦してきた〝宿敵〟――つきわらびはすぐさまに魂胆を見抜いたようで、彼女に背を向けつつ白けた表情かおかぶりを振った。


「自分たちの事務所プロダクションと先に契約していたのだから、アマカザリさんからは手を引けというそちらの主張には些か無理があるのでは? それを仰るのなら、他ならぬ姫和子さん本人が地下格闘技アンダーグラウンドの両立も可能だと証明しています。『E・Gイラプション・ゲーム』に口を挟まれることも甚だ不愉快ですが、それ以前に論理が破綻しているではありませんか」

成人おとなとして責任が取れる立場であり、つ〝プロ〟のである姫和子君と、『とうあらた』では練習生のアマカザリ君――二人の〝立場〟を同等に語るのは乱暴ではありませんかね。未成年をたぶらかすのは、若い者の規範となるべき成人おとなとしてもよろしくない」


 ヴィクター黒河内の傍らにはべった側近の指摘にも長谷川大膳は動じず、「未成年」という一言に強い力を込めてはんばくした。

 空閑電知や上下屋敷照代もキリサメと同い年であるが、二人の場合は自らの意思と判断で『E・Gイラプション・ゲーム』に参加している。〝なんでもアリバーリトゥード〟形式の試合へ出場するよう強いられそうになっているキリサメとは決定的に違うわけだ。

 やりかたなによって生き延びる〝道〟を切り拓いてきた武者が現代の法理を説く構図である。

 長谷川大膳は声こそ穏やかであったが、理非をただす瞳には地下格闘技アンダーグラウンドの選手さえも押し止める凄味が宿っている。ここまで強硬に引き抜き行為ヘッドハンティングを進めてきたヴィクター黒河内も静かなる気迫にてられて口を噤まざるを得なくなった。

 あるいは神通と姫和子がくみしたことを悟り、自らの過ちを省みたのかも知れない。キリサメの境遇を想って涙まで流した眼帯アイパッチ男性おとこは、恐るべき権力ちからに物を言わせて日本格闘技界を支配し、選手の命運をも弄ぶ〝暴君〟とは異なるのだ。


との接点がないから事情を掴み兼ねていますがね、未成年を守るのが大人の使命ということは分かります。……ヴィクター黒河内、周囲まわりの大人が自分たちの都合で〝道〟を歪めたら、未成年は簡単に転げ落ちてしまうと、あなたは誰よりも知っているはずだ」


 決定打になったのは、ぼとけドクターの一言であろう。

 物事の分別が付かない未成年の頃からテレビという虚飾の世界に人生を狂わされ、欲望と凶暴性を煽られた挙げ句、コミッションにさえ手綱を引けないほど暴走していったひきアイガイオンの存在ことを持ち出されては、『E・Gイラプション・ゲーム』側の誰も言い返せなかった。

 ヴィクター黒河内もキリサメに向かって差し伸べていた手を引き戻し、同じ側の人差し指でもって眼帯アイパッチを撫でた。中央の部分にボクシンググローブの紋様が刺繍されている。

 救急車のサイレンが近付いてきたのは、その直後のことである。



                     *



 救急車へ乗せられる前に起こった騒動を遡ったキリサメは、「一つのご縁だし、乗ってみるのもアリだって思うよ」という未稲の言葉を瞑目しながら噛み締めた。

 総合体育館を去った後の筋運びはキリサメも完全には掴んでいないが、『とうあらた』と『E・Gイラプション・ゲーム』の間で乱闘に発展しなかったのは間違いあるまい。

 勢力圏を巡ってカラーギャングと抗争を繰り広げるなど、〝表〟の社会からみ出した無法者アウトローも同然の振る舞いは御剣恭路たち暴走族チームとも重なるのだが、少なくとも昨晩は団体代表であるヴィクター黒河内が暴発を抑えたのであろう。

 本間愛染がキリサメと未稲に同行している状況も一つの傍証となった。溺愛している神通が裏切り行為を糾弾され、団体内部で制裁を受けたのであれば、〝プロ〟の立場も作曲家としての仕事も投げ捨てて『E・Gイラプション・ゲーム』の拠点に殴り込んでいったはずである。

 神通の亡父にして『しょうおうりゅう』の先代宗家――あいかわの〝表〟の顔は歴史学者だが、若き日には武闘派の指定暴力団ヤクザの実働部隊を〝局長〟という肩書きで率いていた。

 その繋がりが現在も残っているとすれば、制裁に関わった者だけでなくヴィクター黒河内までもがとなるはずだ。愛染が手を下すまでもあるまい。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体ひいては日本MMAの黄金時代を崩壊させた〝黒い交際〟の当事者でもある指定暴力団ヤクザ――『こうりゅうかい』は、読んで字の如く山梨県を発祥としている。神通とその父親は言うに及ばず、『しょうおうりゅう』という〝戦場武術〟を育んだのも戦国最強と名高かったたけの旧領なのだ。


(……MMAのルールはおぼえ切れていないっていうのに、日本の格闘技の裏事情には随分と詳しくなってしまったな。意識して耳を澄ませてきたわけでもないのに……)


 『E・Gイラプション・ゲーム』の内部事情はともかくとして、『とうあらた』が無事に〝剣劇チャンバラ〟を披露し、帰路についたことを岳から病室でしらされたキリサメは、安堵の溜め息と共に胸を撫で下ろしたのである。姫和子も今日から道場に合流したことであろう。

 見習いのという〝立場〟は、あくまでもヴィクター黒河内を丸め込む為の吹聴に過ぎなかったのだが、奇策の種明かしをされた麦泉は、意外にも『E・Gイラプション・ゲーム』に対する嘘をき続けるようキリサメに勧めた。

 それはつまり、道場『とうあらた』へ正式に入門するということである。


「長谷川さんに〝五〇〇〇〇回斬られた男〟の話は聞いたよね? 海老反りみたいな斬られっぷりが評価されてハリウッドからお呼びが掛かった時代劇俳優だよ。夢を大きくし過ぎるのも良くないけど、キリサメ君もとして同じ領域ステージまで行けるんじゃないかな」


 未成年のキリサメが『天叢雲アメノムラクモ』へ出場することには最初から否定的であり、高校進学や正業を推奨してきた麦泉にとっては、海外にまでという〝文化〟を知らしめた長谷川大膳との間に強い接点が生まれたことは一種のぎょうこうであったのだろう。

 アクションスタントには危険が付き纏うものであり、〝安全な仕事〟とは言いがたい側面もある。それは麦泉も理解しているが、正真正銘の〝超人〟と呼んでも差し支えのないキリサメの身体能力をに換えるのであれば、こそ相応しいと考えたわけである。

 長谷川大膳本人を例に引くまでもなく、は高齢となっても活躍の場がある。枯れた風情と熟練の太刀筋は、数多の時代劇で求められるのだ。

 撮影される作品の数は最盛期とは比べ物にならないほど減少しているが、海外でも人気の高い時代劇が絶滅することは有り得ない。毎週日曜日に一年間に亘って放送される大型連続時代劇は二年先の企画も発表されており、主人公が生まれ育ったながけんうえを中心として大いに盛り上がっている。

 昔日の勢いを取り戻せていない状況は日本MMAも共通しているが、成績不振や年齢を理由に呆気なく活躍の場が奪わてしまう『天叢雲アメノムラクモ』のリングよりも、時代劇に欠かせないのほうが生業として長く続けられる――麦泉はそのように考えていた。

 大型連続時代劇で平安・鎌倉時代が題材となったときには、本来の俳優に代わってキリサメがみなもとのろうほうがんよしつねに扮し、馬を駆って峻険な崖を駆け降りるというスタントを担当するかも知れない。〝ケツァールの化身〟ならば、げんぺいかっせん最後の見せ場とも名高い〝はっそうび〟も語り継がれてきた〝義経伝説〟の通りに再現できるはずだ。

 大型連続時代劇での指導を担当している長谷川大膳のように、自ら演じるだけでなく戦闘描写そのものを作るという仕事もには含まれている。演出の勉強も必須となるが、文字通りの〝我流〟で喧嘩殺法を編み出してきたキリサメの才覚をもってすれば、役者ごとの個性を引き出す太刀筋も考案できるだろう。

 アクション俳優と差異ちがいこそあるものの、MMAとの掛け持ちという実例は『NSB』のダン・タン・タインが示している――と熱弁し続けた麦泉は、当のキリサメが仰け反ってしまうくらい前のめりであった。


「親バカっぷりはオレだって負けねぇぞ⁉ 『まつしろピラミッドプロレス』で教わったコトとを掛け合わせようっつったのは養父とうちゃんが先だし! を進化させられる可能性に反対なんかするもんか! ハセさんの道場トコなら安心して預けられるしなッ!」


 その麦泉とは正反対の発想であるが、との〝兼業〟には養父の岳も諸手を挙げて賛成していた。

 長谷川大膳に師事しての神髄を学べば、プロデビュー戦で仕損じてしまった〝フェイント殺法〟の完成度が高まると信じて疑わない様子なのだ。無論、『とうあらた』がを志す者にとって最高の環境ということは、キリサメも実感と共に理解している。

 日本では古くから時代劇や特撮作品が盛んであり、『チャンバラ』という一つの美学が花開いた演劇の黎明期から〝魅せる立ち回り〟の極意を研ぎ澄ませてきたのが長谷はせがわだいぜんと『とうあらた』なのだ。


「長谷川さんの道場に入門はいっちゃえば、後から『E・Gイラプション・ゲーム』にインチキ呼ばわりされる心配もなくなるじゃん。それにさ、お父さんに無理矢理連れていかれた体験会ワークショップでも講師の人に筋が良いって、キリくん、褒められたでしょ? きっと大歓迎で迎えてくれるよ」

「ただそれだけで浮かれることが出来たら、僕の人生、きっともっと楽しかったよ」

「でもでも、キリくん、絵も描くじゃん! この間、見せて貰った長屋の風景も味わい深かったよ! 芸術の素養はとの相性もバッチリだし!」

「……みーちゃんが言ってるのは、駅前で描いた電車の絵のコトかな……」

「ときとして余人に理解されないのが芸術というものだ。時代を揺り動かす〝黙示〟のようにすぐさま人々の心に届くとも限らない。一〇〇年後の評価に期待するべし」


 メインアリーナの天井南側に設置された大型モニターは、画面の脇に二針式時計もいている。その長針が一回りする前までMMAの興行イベントが開催されていたとは思えないほど静かな競技用コートを二階席から覗き込むキリサメは、頬でもって未稲と愛染の言葉を頬で受け止めたのち、微かに震える唇から何ともたとえようのない溜め息を洩らした。

 現時点でさえ血と罪にまみれた貧民街スラムの喧嘩殺法と、選手の安全に配慮したルールに基づく〝格闘競技スポーツ〟が己のなかで分裂し、〝敵〟をめ付ける感覚が故郷ペルーに引き戻された瞬間、双方を分ける境い目が壊れてしまうのだ。

 そして、その果てに最悪の結果を招いたばかりである。胸に秘めた大望を目指して迷いなく突き進む空閑電知やきょういししゃもんのような格闘家としての〝軸〟を定められない情況でまで加わったなら、更なる混沌によって魂が掻き回されるのは間違いない。

 三機の戦闘機が一つに合体して人型のスーパーロボットとなるテレビアニメ『せいれいちょうねつビルバンガーT』のようにはなれないのだ。己が振り回してきた刀剣マクアフティルは、悪の宇宙帝国を斬り裂く騎士剣バンガーバスタードでもない。

 今なお愛するスーパーロボットのように異なる特性が備わった使闘えるほど器用でないことは、キリサメ自身が誰よりも理解しているつもりであった。

 己の至らなさに理由を見つけ、首を横に振ることは容易い。しかし、すら躊躇ためらってしまうほど長谷川大膳という男にかれていることも否定できないのだ。

 キリサメが一七年という人生の中で、自発的に〝先生〟という敬称を付けて呼んだのも長谷川大膳が初めてであった。

 結局、岩手興行のなかには確かめる機会が巡って来なかったのだが、『とうあらた』が得体の知れないMMA選手を助けるべく駆け付けてくれた理由も気になっている。対立団体の選手を襲撃するような地下格闘技アンダーグラウンド団体との対峙は、道場の看板にきずが付く危険を背負うことと同義なのだ。

 だからこそ、キリサメは首を振る方向に迷っていた。

 とのは、そのままMMA選手も継続するという意味であった。花形選手スーパースターによる対戦要求マッチメイクでリングに縛り付けられてしまったが、『天叢雲アメノムラクモ』から去るべきだと一度は本気で決意したキリサメにとって極めて難しい選択なのである。

 MMAとの両立が有効であることを分かっている。岳が大喜びで訴えた通り、本物の刃が直撃したようにしか見えないには〝フェイント殺法〟の手掛かりが数え切れないほど眠っているはずだ。

 今後もMMA選手を続けるのであれば、より深く殺気の制御コントロールを学ぶことは急務である。

 体験会ワークショップにて刀や槍を用いる立ち回りを披露した二人のは、本当に人の命が奪われたと錯覚してしまう殺気を。そのような〝気〟の練り方こそが己の課題であると、キリサメは考え続けてきたのだ。

 殺戮の衝動は魂に巣食う〝闇〟を揺り動かす鍵である。これを完全に制御コントロールできるようになれば、幼馴染みと同じ声で破壊をささやきかける異形の死神スーパイとて退しりぞけられるかも知れない。

 死神スーパイの支配から逃れる努力など不必要という甘言を弄し、救済すくいの手を差し伸べてきたのがヴィクター黒河内というわけであった。

 発祥した国と時代こそ異なるものの、キリサメの喧嘩殺法と同じ殺傷ひとごろし武技わざをその身に宿した哀川神通は、数世紀という歴史を持つ〝戦場武術〟を錆び付かせない為、最も〝実戦〟に近い『E・Gイラプション・ゲーム』のリングで闘っているという。

 『しょうおうりゅう』の歴史へするかのような宗家の生き様は、彼女に〝半身〟の如き共鳴を抱くキリサメと地下格闘技アンダーグラウンドの相性がすこぶる良好という証左でもあった。当人キリサメには腹立たしいことだが、両者を深く結び付ける精神たましいは、ヴィクター黒河内が並べ立てた言葉とそのまま一致してしまうのである。

 憎悪にも近い感情が抑えられない相手に心の奥底を覗き込まれたようなものであり、だからこそキリサメはしゃくに触って仕方がなかった。


(二度と会いたくないくらい忌々しい相手のほうが自分の所属先の代表よりも信用できそうって言うのは、困ったなんてもんじゃないけどな……)


 ヴィクター黒河内は『E・Gイラプション・ゲーム』と『天叢雲アメノムラクモ』の差異ちがいを強調してキリサメをろうらくせしめんと図っていた。彼に付き従う地下格闘技アンダーグラウンドの選手たちにも同じことが当て嵌まるのだが、格闘技そのものに対して〝プロ〟よりも誠実に向き合っているという自負心のあらわれとも言い換えられるだろう。

 これによって『天叢雲アメノムラクモ』への敵対意識が膨らみ、対比の相手を斬り付ける刃に変わっていくのだが、それは拘泥の裏返しでもある。〝なんでもアリバーリトゥード〟という〝自由〟を謳いながらも、結局は『E・Gイラプション・ゲーム』の対極に位置する総合格闘技MMAに囚われ続けているわけだ。


「――や~っぱし聞き間違えじゃなかったし。二階そこにいるの、キリーだよな~?」


 である前に一人の武術家という姫和子も、古武術の宗家と同じようにジークンドーの鍛錬を目的として地下格闘技アンダーグラウンドへ身を投じるのかも知れない――MMAへの挑戦にも匹敵するほど大きな決断を迫られることになった経緯を紐解いていくキリサメの追想は、妙に馴れ馴れしい声によって断ち切られてしまった。

 養父以外には使わない愛称ニックネームで急に呼び掛けられた為、歩行補助杖を取り落としてしまうくらい面食らったと表すほうが正確に近いだろう。

 声は間違いなく一階から聞こえてきたのだが、競技用コートには人影がない。注意しつつ歩行補助杖で体重を支え、転落防止柵の柵から身を乗り出して窺うと、キリサメたちが腰掛けていた場所からは死角となっている壁際にて一人の青年が両手を振っていた。

 二階から見下ろすという状況に加えて、相手がツバの広いチューリップハットを被っている為、キリサメの側からは表情を読み取りにくいのだが、元気よく飛び跳ねる姿を見れば陽気という二字を顔面に貼り付けているのだろうと察せられた。


「お~うおう! 両手に花たァキリーも隅に置けね~じゃん! 未稲ちゃんとは二人一組ニコイチだったけど、愛染選手ともなんてねぇ~。てか、希更選手は? ネットで怪しまれるくらい仲良しだったじゃん、キリー!」


 左右の人差し指をキリサメに向かって突き出し、明らかに距離感を誤った調子で話しかける青年は、背面に『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークが刷り込まれたジャンパーを羽織っている。


「ただれた大学キャンパス生活ライフを送っていそうなこの若造、どこを見ても何を聞いても世界観が合わなそうだが、本当にキミたちの友人か? 親友と言わんばかりのフレンドシップだぞ」

「……みーちゃんが一緒にゲームを遊んでいる人たちではないかと」

「声掛けられたのはそっちでしょ。キリくんが知らなきゃ、私が知ってるハズないって。下北沢シモキタの演劇街で見掛けるタイプだけど、に友達なんか居ないし」

「つまり、知り合いでもないワケか。よろしい。一発ぶちカマしに行くとしよう。我が愛しの神通と〝黙示の仔〟の間にろくでもない風聞ウワサが垂れ込むより僅差でマシな程度の勘違いは、『昭和』の家電よろしく暴力に訴えて正すに限る」


 チューリップハットのツバを揺らして笑う青年にキリサメはおぼえがなかった。過去に故郷ペルーで遭遇したということもないだろう。それは未稲も同様であり、名前を知られていることに恐怖を抱きながら首を傾げ、「警察呼ぶ?」と携帯電話スマホまで取り出していた。

 かでったという記憶は、脳内あたまのなかを片端から探しても見つけられなかった。それにも関わらず、奇妙な違和感だけは押し寄せてくる。だからこそ、キリサメと未稲の目には軽薄な調子で笑い続ける青年が薄気味悪く映るのだった。


「あれ~? その有り得ないくらい淡白な反応リアクション――もしや、忘れ去られてる? 俺っち、忘れられてるよね? 『誰、てめー』って顔されちゃってるよね?」

「忘れるも何も、お会いしたことがありません」

「面識ありまくりっしょ! めっちゃ友情キメたじゃんか! ツレねぇなぁ、キリーってばよぉ~。未稲ちゃんとは『ろくもんせんたいへい』の話題はなしで盛り上がったのにぃ~」


 二階との温度差が寂しくてならなかったのか、スタッフジャンパーの青年は「アフターサービスとファンサービスはバッチシやんなきゃダメだぜ」と悲鳴を上げ、チューリップハットを脱いで頭を掻きむしり始めた。


「……その頭髪かみは辛うじて記憶に残っているような……」

頭髪かみだけかよ~! それでもになったんだから結果オーライにしとこうか⁉」


 帽子チューリップハットの下が露になったことでキリサメはようやくその青年のことを想い出した。モスグリーンに染めた頭髪かみをパイナップルの葉のような形に固めた輪郭が手掛かりとなり、記憶が繋がったというべきであろう。

 メインアリーナの構造上、一階にて発せられた喚き声は天井に跳ね返る為、二階の人々の鼓膜へ直接的に突き刺さる。絶対音感の持ち主である愛染にとっては、比喩でなく本当に吐き気を催すような異音として聴こえるのであろう。キリサメと神通の仲睦まじい様子をめ付けているときよりも遥かに不愉快な表情を浮かべていた。

 天才に意図せぬ猛攻を加えた青年は、つい先程までキリサメが想い出していた道場『とうあらた』の体験会ワークショップにも参加し、『きょうかんけん』なるなまえの木刀を振り回していた。

 この瞬間まで存在そのものがキリサメの脳内あたまから抜け落ちていたのだが、一階で騒いでいるのは共にの基礎を学んだ日向ひなたすけである。

 先ほど押し寄せてきた違和感の正体とは、「おぼえがない」と決め付けてしまった思考に対する記憶からの警告であったわけだ。本当に顔を合わせたことがなければ、この地上でたった一人しか使っていない『キリー』という愛称ニックネームなど知っているはずがあるまい。

 未稲のほうはキリサメよりも僅かに早く小日向のことを想い出していた。彼が口にした『ろくもんせんたいへい』とは『八雲道場』の活動報告を行う公式ブログの名称であり、未稲が管理の一切を担当している。

 自分の〝業務〟が引き金となって体験会ワークショップける偶然の出会いまで追想が辿り着いたのだが、辟易うんざりとした表情で顔を背けたということは、我知らず脳内あたまから風化させようと努めていた記憶を無理矢理に引き摺り出されてしまったわけである。

 初めて顔を合わせた際にも当該ブログの感想を一方的に押し付けられ、その勢いに未稲は圧迫感すら覚えたのだ。毎日閲覧してくれるファンは感謝と共に大切にしなければならないが、人と人を繋げる波長の不一致は如何ともしがたいのだった。


「や~っと想い出してくれたみたいだな~。名前のほうもオーケー? ちなみに愛称ニックネームは可愛らしい『こひなっちゃん』だぜ~」

「……すみません。あの体験会ワークショップとは服装が違ったので、どなたか分かりませんでした」


 ようやく手繰り寄せた記憶の中の小日向は、派手はでなアロハシャツを着ていた。これに加えてネックレスやブレスレットなどで過剰に飾っていたのだ。『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフジャンパーは背面のロゴマークを除くと見る者に地味な印象を与える物であり、その差が別人の如く錯覚させた次第である。

 普段着アロハシャツでないと想い出せなかったキリサメに対し、養父の岳は体験会ワークショップで遭遇したときにスタッフジャンパーを着ていなかったので認識できなかった――小日向が全身をくねらせながら「めんどくせーな、この親子!」と嘆くのも無理からぬことであろう。


「そもそも小日向氏はここで何をしているのですか? お住まいが東北とか?」

「俺っち? 総合体育館ここには昨夜の落とし物を回収しに寄ったんだよ。うっかり自宅いえの鍵を落としちまってさ~。いやぁ~、バタついているときは全ッ然気が付かないし、連絡貰えないまま東京まで帰ってたらアウトだったわ~」


 『あつミヤズ』のキーホルダーに取り付けられた鍵を二階席に向かってかざしたのち、今度は小日向のほうが首を傾げた。


「んん~? あれ~? 何かキリーの言ってるコトが引っ掛かるな? ひょっとして、八雲さんから俺っちの話って……?」

「あれから一度も出ていません」

「かなり劇的ドラマチックな出会いだったんだからさぁ~、体験会ワークショップの帰り道に『こひなっちゃんはあんなヤツなんだよー』みたいな説明してくれてもいいじゃねぇですか、八雲さ~ん!」

「ここにいない岳氏に苦情を言っても無意味では……? どうしても腹に据え兼ねるようでしたら、みーちゃんの携帯電話で連絡を取れると思いますが」

「待って待って、キリくん! 確かに小日向さんとは顔見知りかもだけど、個人情報の塊を他人ひとに貸すのはちょっと……。せいぜい伝達係メッセンジャーくらいなら……」

「こりゃあ単なるボヤきだから! 二人一組ニコイチで冷静にツッコまなくてイイから! こんなコトで八雲さんに文句言ってたら、次から雇って貰えなくなっちまうぜ~。愛染選手も見物してないで止めてやってくださいよ~」

「自己紹介もそこそこに下の名前ファーストネームで呼ばわってくる不届き者には、ファンサービス抜きの本気ガチンコで行かせて貰おう。黙れ、若造。パイナップルの苗木から出直してこい」


 初陣プロデビューの舞台を再び訪れるという養子キリサメに対し、〝戦士の通過儀礼イニシエーション〟ともたとえるべきマンを感じ取って大喜びで同行しそうな岳は、統括本部長としての業務しごとがある為、キリサメの退院に立ち会ったのち、麦泉と共に一足早く東京へ戻っている。

 団体代表の樋口郁郎は言うに及ばず、興行イベントの〝煽りVTR〟を一手に引き受けるおもてみねも、広報戦略を担当するいまふくナオリも、既に奥州市を発った後だ。渉外担当のさいもんきみたかは早くも次回興行の開催地へ向かっていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』という日本最大のMMA団体を取り仕切る主要なスタッフは、誰もが岩手興行の翌朝には〝次〟を目指して動き始めている。海外に拠点を持つ所属選手も同様だ。

 余人には理解しがたい感性の持ち主である本間愛染はともかくとして、反則負けの痕跡を辿るかのようなキリサメが異例ということである。

 同じ場所に『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフジャンパーを羽織って現れた小日向も同様であろう。滑稽あるいは矛盾としか表しようもないが、彼のことを二階から見下ろすキリサメが怪訝の二字を顔面に貼り付けるのは当然であった。


「俺っち、『天叢雲アメノムラクモ』の超絶大ファンでさぁ。興行イベント開催ひらかれるたびに現場スタッフのバイトに入ってんのよ~。会場の設営や撤去作業の〝裏方〟がメインだけどね」


 道場の体験会ワークショップでも妙に親密そうであった実父ちちと小日向の関係を未稲は今日まで確かめようとも思わなかったのだが、興行イベントの翌日にも普段着の如くスタッフジャンパーを用いていることからおおよその察しが付いていた。

 正式種目として採用されてもいない内からMMAの第一号五輪選手オリンピアンを目指している前のめりな青年――カパブランカこうせいと同じように、小日向義助もまた『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを支える〝裏方〟の一員なのだ。

 先程も遺失物と前置きしながら鍵を翳していたが、特設ステージなどを撤去している間にメインアリーナのかで落としてしまったのだろう。混乱のなかということもあって気付かなかったが、キリサメが破壊したリングの交換にも駆け付けたのかも知れない。


「さっきの質問に時間差スパイクで答えるけど、自宅いえは原宿! 『天叢雲アメノムラクモ』の開催先にはいつも長距離バスに揺られて旅気分! 三月の長野大会でも〝裏方〟やってたんだぜ!」

「何を仰っているのか、僕には分かり兼ねるのですが、小日向氏は興行イベントたびに現地までアルバイトに出掛けているんですか? ……失礼ですが、学校や会社は……?」

「コレがおゴトなんだって。バイト三つ掛け持ちしてるけどね。基本的には『天叢雲アメノムラクモ』に全人生賭けてるからね。時間の都合が付けられるように他のバイトを調整すんのが一苦労だけどさ、下手に就職なんかしちまったら、そっちのほうが融通効かなくなるしねぇ~」


 体験会ワークショップでの初対面から珍妙な青年とは思っていたが、今の一言で奇人という印象が一等強まった。二〇代も半ばに差し掛かる年齢であろうが、定職にも就かず趣味に没頭しているようなのだ。胸を張って自慢できるということは、キリサメとは世の中の捉え方そのものが断絶しているのだろう。

 さかしらにを語らんとしたヴィクター黒河内の訳知り顔を想い出しているなかであったなら、餓えて野垂れ死ぬこともない〝富める者〟の道楽の象徴であろうと、胸中にて小日向の生き方を切り捨てたことであろうが、現在いまのキリサメは軽佻浮薄な笑顔から押し寄せてくる違和感に心を乱されており、皮肉を飛ばすことも叶わない。

 時計の長針をおよそ一周分ほど巻き戻した頃、キリサメは小日向と同じスタッフジャンパーを着るスタッフから怯えたような目を向けられていた。岩手興行の開催中、別室にて待機していたのであれば、彼もモニターなどを通して惨劇を目の当たりにしたはずだ。

 闘魂と共に壊されたリングに至っては、その残骸をじかに手に取ったことであろう。それにも関わらず、『天叢雲アメノムラクモ』を血でけがした張本人と話すことを少しも躊躇ためらわないのだ。


「いやぁ~、昨日のキリーを想い出してドキドキしてきた! 俺っちも長いコト、MMAを追っかけてるけど、〝神〟としか言えねェファイトは日本でもなかなかお目に掛かれないぜ~! 八雲さんの『超次元プロレス』とも一味違ったし! チラッと『NSB』の選手がよぎったんだけどさ、アレは真似しちゃならねェ邪道だからなァ~」

「ドーピング問題のこと……ですよね」


 二〇一一年にける『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げ興行に合流するまでは日本ではなくアメリカのMMA団体で闘っていた本間愛染は、前代表フロスト・クラントンの主導によって禁止薬物が蔓延していた時期の『NSB』をこの場の誰よりも知っている。

 人の命が見世物同然に扱われてしまうプロスポーツの悪しき側面も垣間見たことであろう愛染の顔色を気遣わしげに窺うキリサメに対して、小日向は禁句タブーに触れる危険性すら思い至らない様子である。

 無神経としか表しようのない小日向の態度には、一階と二階という高低差の中で言葉を交わし続ける二人を傍らにて眺めていた未稲のほうが胃が痛くなる始末であった。当の愛染は先程から一言も喋らない。その沈黙が何より恐ろしいのだ。


「それよ、それそれ! 存在自体が反則チートっつう不届きな連中だよ~! そういう意味じゃ昨夜のキリーの大活躍は一〇〇〇〇点! 一〇〇点満点中の一〇〇〇〇点な!」

「……数値がおかしいですよね」

「これでオッケーだぜぇ~! どこぞの外道連中と違ってドーピングなんぞに頼らず人間を超えちまったキリーだもんよ~、点数だって上限カンストブッチギリに決まってらぁ~!」


 言葉の選び方を一つ間違えただけで愛染の逆鱗に触れるだろうと、脇の下に噴き出した冷や汗を自覚しつつ、控えめな声でプロデビュー戦のことをたずねたキリサメに対し、小日向は大興奮といった調子で健闘を褒め千切った。

 想い出すだけでも全身を流れる血が沸騰し、居ても立っても居られなくなるのか、キリサメから求められたわけでもないのに、小日向は喧嘩殺法の模倣まで始めている。

 第一試合の記憶を頼りとする再現は拙劣の極みであり、宙返りサマーソルトキックを真似しようとしたときには姿勢を崩して後頭部から床に叩き付けられてしまったが、陽気さが弾ける笑顔には死神スーパイさながらの〝暴力〟に対する戦慄など一欠片も感じないのだ。

 リングの破壊や暴走族チームとの対峙など、興行イベント破綻の危機を招いたことについて厳しく批難されると身構えていたキリサメだけに小日向の反応には戸惑うばかりであった。


「次の試合も絶頂バトルを楽しみにしてるぜ~! レオなんかとっちめちまえ! 最近のアフロ野郎、調子に乗ってっからさァ~、MMAはタレント活動の片手間にやるモンじゃねェって教えてやってくれ!」

「その試合、まだ正式に決まったわけじゃないんです。僕自身は断ったほうが良いとさえ思っているくらいで、だから……」

「頼むぜ~! 次もキリーの為に丹精込めてリングを設営つくってやっからさ~!」

「……僕の日本語、おかしいのかな? この人、話が通じてないのか?」


 選手の安全が守られなければならないMMAのリングは言うに及ばず、法治国家日本という観点にいても許されまいと考えてきた〝暴力〟を小日向は肯定的に受け止めてしまうのだ。危険行為を繰り返した末の反則負けという〝プロ〟にあるまじき試合も心の底から満喫した様子であるが、その理由すらキリサメには全く理解できなかった。

 ヴィクター黒河内も語った通り、暴力性の高さでは『E・Gイラプション・ゲーム』こそキリサメの喧嘩殺法には似つかわしく、『天叢雲アメノムラクモ』には疎まれて然るべきなのだ。

 る意味にいて、の後始末を引き受けたとも言える人間にまでMMAとは相容れない〝暴力〟を称賛されたキリサメは、ついに返すべき言葉を失ってしまった。

 『天叢雲アメノムラクモ』か、『E・Gイラプション・ゲーム』か。安全性に配慮されたルールの中でを偽るのか、暴力性と共に本来の〝力〟を解き放つべきなのか――〝闇〟に塗り潰され、死神スーパイとも同化してしまう己に適合するのはどちらなのか、いよいよ結論が出せない。

 小日向の声を判断材料とするべきでないことも、キリサメは理解している。愛染の顔が依然として険しいのは、無神経極まりない言行に対する苛立ちだけが原因ではあるまい。

 〝格闘競技〟の対極にる〝暴力〟の容認が産み落とすのは、言わずもがなひきアイガイオンである。禁止薬物によって文字通りのモンスターと化した選手が八角形オクタゴンの〝ケイジ〟を破らんばかりに暴れ回り、これがにされていた頃の『NSB』も同様であろう。

 樋口が呪いの如く囚われ続け、『天叢雲アメノムラクモ』のリングで再現を試みているくにたちいちばんの〝世界観〟――〝スポ根〟の名のもとに選手の破滅をとして劇的に昇華し、再起不能や絶命に追い立てるという架空フィクションの中でしか許されない極限の境地に辿り着くのかも知れない。

 MMAを愛してやまないファンの純粋な想いを受け止めつつ、そこに混じった危うさを冷静かつ正確に見極め、心に取り込んでしまわないよう己を律することも〝プロ〟の選手には求められるわけだ。

 小日向の声に自己肯定を委ねるほど気を緩めれば、身のうちに抑え込んでいる〝闇〟は間違いなく決壊し、愛染が〝MMAのアイガイオン〟という言葉をもって戒め続けてきた事態に陥ることであろう。

 長谷川大膳のもとでを学び、プロデビュー戦以前からの課題であった殺気の制御コントロールが完成されたときには、人の命をちりあくた同然に扱ってしまう感覚も〝闇〟と共に抑え込めるのかも知れない。今までにキリサメが出逢ってきた『とうあらた』のたちは誰もが精神こころの強さを瞳に湛えていたのである。

 何ともたとがたい溜め息一つを滑らせた後、キリサメはまるで吸い寄せられるかのように後方から差し込んでくる光へと目を転じた。

 を辿っていけば最後には大きなガラス窓に行き当たるのだが、二階の全面がカーテンによって覆われている為、奥州の空に答えを求めることも叶わなかった。そもそもどきの分厚い雲で蓋を閉ざされているのだから、光の差し込む向こう側に目を凝らしたところで幸先の悪さしか捉えられないはずだ。

 えてにびいろの空を仰ごうと思ったからこそ、キリサメは何時の間にか自分たちの背後に立っていた一つの影に双眸を見開いたのである。

 驚いた拍子に歩行補助杖まで突き離してしまい、未稲と愛染が慌てて両脇から上体を支えなかったら、その場に横転したことであろう。


「――後ろからこっそり忍び寄ってビックリさせようと思ったのに、あっさり気付かれちまった。勘の鋭さも元気に平常運転で安心したぜ、親友キリサメ!」


 冗談めかして笑った小柄な少年は、うわの袖から肘が露出するという風変わりなじゅうどうを着ていた。下穿ズボンも裾膝下九センチ程度と短く調整してあるのだが、上下とも柔道が誕生して間もない頃の様式を再現した物であった。

 同様のどうを纏って『明治』の日本からばたき、世界中を経巡って異種格闘技戦を繰り広げ、生涯無敗を誇ったのが伝説の柔道家――『コンデ・コマ』ことまえみつである。

 全てが黎明期の様式もので統一されているわけではない。どうの上から締めた黒い帯は現代の段位に応じた物であり、『ハルトマン・プロダクツ』のスニーカーを履いていた。

 差し向かいの恰好で立っている為、キリサメの位置から覗き込むことは不可能だが、じゅうどうの背面には爆発する火山を模したロゴマークが刷り込まれている。

 うわから下穿ズボンに掛けて付着し、虎の縞模様を彷彿とさせるドス黒い染みは、〝プロ〟のMMA選手となる以前まえのキリサメと路上戦ストリートファイトを繰り広げた痕跡だ。


「――電知ッ⁉」


 平日の奥州にるはずのない親友が――空閑電知がガラス窓より差し込む微かな光を背にしながらキリサメを見つめ、真っ白な歯を剥き出しにして笑っていた。



                     *



 横に大きく広がる形で隊列を組んだその軍勢は、勇ましい小太鼓の音色に背中を押されながら草原を行進していった。

 馬を駆る将軍たちは抜き放ったサーベルを振りかざし、不揃いの身なりで大地を踏み締める歩兵たちは銃剣を肩に担ぎ、一二〇〇〇を超える命を巨大な壁に換えている。これを敵の陣地に叩き付けようというのである。

 彼らが掲げるのはX型の紋様に星を散りばめた赤い旗であり、これを迎え撃たんとする敵陣には星条旗が翻っていた。

 近代アメリカを四年に亘って真っ二つに引き裂いた『なんぼくせんそう』は、今、その勝敗を分ける一八六三年七月の〝決戦〟――『ゲティスバーグの戦い』を迎えようとしていた。

 その名の通り、ペンシルベニア州に所在するゲティスバーグを舞台として、南北に別れた両軍は三日間にも及ぶ総力戦を繰り広げている。

 全体の趨勢を決することになるのかは誰にも見通せなかったが、ゲティスバーグ自体は補給路の確保にも欠かせない交通の要衝であり、南北両軍にとっては是が非でも手に入れなければならなかった。

 だからこそ、双方合わせて五〇〇〇〇人もの死傷者を数える凄惨な激突にまで発展してしまったのだ。

 そして、劣勢明らかとなった南軍は、ゲティスバーグ開戦の三日目に起死回生の一手を試みることになる。二時間にも及ぶ激烈な砲撃を挟んだのち、北軍の陣地を目指して決死の正面突撃を敢行したのである。

 同地ゲティスバーグは丘陵地帯に所在り、両軍の陣地の間に多少の高低差もあったが、戦場となった草原には銃弾から身を隠せる障壁もない。南軍の将兵は己に命を守るすべを持たないまま、一キロ以上も離れた敵陣へ突き進むしかなかったのである。

 南軍――アメリカ連合国の旗のもとで我が身を銃弾に換えるようなこの突撃は、作戦指揮に関わったジョージ・ピケット少将に由来し、『ピケットチャージ(ピケットの突撃)』として広く知れ渡ることになった。

 『南北戦争』以前から勇猛果敢と名高く、数々の戦場で豪快に立ち回ったジョージ・ピケットであれば、無謀な作戦も成功に導いてくれると幻想ゆめたのかも知れない。

 〝死の行進〟を立案した張本人でもないのに自らの名を付けられてしまったことについて、のちに彼自身は生涯の不名誉と吐き捨てている。

 何百何千という犠牲を払ってでも前進だけは決して止めず、例え少数であろうとも北軍の陣地まで侵入できた者たちの手によって戦局を覆す――仲間の命で劣勢挽回の賭けに出ようというのだから、ピケットが武勇として誇れなかったのは当然であろう。

 果たして、その賭けはさいを投げる前から勝負がついていたようなものであった。

 両軍が銃火を交えた草原には街道を仕切る長大な柵が立てられており、これが南軍の行方を阻んでいた。

 決して低いとは言い難い柵をよじ登って乗り越えるか、あるいは僅かな隙間に身をねじ込んで潜り抜けるか――いずれにしても姿勢そのものが不安定となり、その間は動かないまとも同然となる。

 そこに迎撃の銃砲が一斉に撃ち込まれるのだから、数多の命がちりあくたも同然に散っていくのはであった。大砲が轟音を鳴らせば、落下してきた砲弾が柵の残骸と兵士を巻き込みながら大地を抉るのだ。

 北軍の兵士たちもまた横一列に並び、石積みの胸壁に銃身を固定した状態でライフルを構えている。個々を仕留める〝点〟の狙撃ではなく広範囲を舐め尽くす〝面〟の斉射は、銃火器の進歩がもたらした大量殺戮の側面を残酷に示している。

 改めてつまびらかとするまでもなく、柵は身を隠す遮蔽物にはなり得ない。目指すべき北軍の陣地から銃弾や砲弾が絶え間なく降り注ぐ状況では、立ち止まってを取り壊していられる余裕もあるまい。その街道は戦場の只中を横に貫いているのである。

 産業革命を経た一九世紀後半の勃発である『南北戦争』は、西部劇のようにリボルバー拳銃を撃ち合う〝決闘〟ではない。兵器のひきがねをただ引くだけで数多の命が簡単に砕け散る〝近現代の戦争〟なのだ。

 空中で炸裂した砲弾が無数の散弾を広い範囲に降り注がせ、突撃中の南軍兵を惨たらしく引き裂いていく。北軍の陣地に肉薄しながらも至近距離で大砲の直撃を受け、文字通りに吹き飛ばされる兵士も少なくなかった。

 照準を合わせる瞬間には敵意や憎悪の介在などは関わりがなく、それ故に慈悲の心も意味を持つことがない。〝敵〟と認識したを血の通わない兵器で無感情に破壊し尽くしてしまえるのが〝近現代の戦争〟であった。

 爆弾やミサイルが雨の如く降り注ぎ、己の双眸で遺体を確認する必要すらなくなる時代はもう少し先のことであるが、兵器の発展は互いに返り血を浴びない攻防を実現させた。

 その一方、返り血を浴びる距離で心をもぶつけ合い、戦いを通じて辿り着けた相互理解が感情の働きに左右されない合理性と引き換えに戦場から消え失せていくことになる。

 〝戦うということ〟そのものを新たなる時代へと導き、かれ悪しかれ全世界に示したのが『南北戦争』であった。

 自身の帽子をサーベルに突き刺し、これを掲げながら正面突破を盛んに呼び掛ける南軍の将軍たちはさながら死神スーパイであろう。

 正面突撃は無意味に犠牲者を増やす〝死の行進〟になるであろうと反対する声は、指揮官の間でさえ少なくなかった。一進一退の状況こそあったものの、二日目までに勝利の天秤を傾かせることが叶わなかった南軍は、三日目に至って無謀な賭けを強行せざるを得ないほど追い詰められていたのである。

 だが、を割り引いても供物を求めて地上を彷徨う死神スーパイのようにしか見えないのだ。

 死屍累々の惨状を遥か後方から眺める南軍作戦本部は気付いていなかったのかも知れないが、〝死の行進〟は酸鼻を極める有りさまである。

 敵兵の顔を間近に確認できるようになると南軍の応射もいよいよ激しさを増し、草原の一帯がにびいろの硝煙に包まれた。その後方には柵を乗り越えられなかった死傷者が数え切れないほど転がっている。

 アメリカ連合国の旗を〝死の行進〟に駆り立てる勇ましい小太鼓の音色は、この時点で既に戦場には聞こえていない。もはや、将兵の耳にさえ届くことはないだろう。

 仲間の亡骸を踏み越え、南軍の一部は大小の岩を積み上げた胸壁の向こう側へと雪崩れ込んでいく。たちまちの内に北軍の最前線は敵味方が隊列も何もなく入り乱れ、銃剣で胸や腹に突き刺し合う大混戦と化した。

 互いに心臓の鼓動が伝達つたわるような状況で撃発すれば、流れ弾で味方に致命傷を与えてしまう危険性が高い。ひきがねを引くことが極めて困難となり、南軍に死をばら撒いてきた北軍の銃砲は一時的にその機能を失ったのである。

 の性能の優劣から切り離される白兵戦は、気魄で勝る側が命を拾う状況とも言い換えられる。ライフルの銃床ストックで殴打し、石積みの胸壁にぶつかった敵兵を串刺しにして仕留めていく。筒先には槍を彷彿とさせる鋭利な部品パーツが取り付けられているのだ。

 取っ組み合いとなった者は相手を地面に薙ぎ倒し、握り拳で撲殺するという極めて原始的な攻防を繰り広げていた。このときだけに近い形へ回帰したわけである。

 戦いの最前線では南北両軍の誰もが泥にまみれ、押し合い圧し合いの様相となっている。

 乾坤一擲の白兵戦によって南軍はついに勝機を引き寄せた――その瞬間は誰一人として形勢逆転を疑わなかったことであろう。ジョージ・ピケットの勇名は窮地にいても輝きを失わず、中央突破を成し遂げたように見えた。

 は南軍の〝最高到達点〟と呼ばれるようになったが、前線の一角を突き崩しただけで戦況が覆るほど〝現実〟は生易しいものではない。

 北軍の陣地にアメリカ連合国の旗が翻ったのは、ほんのいっときに過ぎなかった。最前線に侵入できた南軍兵は二〇〇人にも満たない。交戦する兵力は絶望的に劣っており、〝死の行進〟で心身ともに疲弊し切っている。敵が体勢を立て直すと一転して総崩れとなり、胸壁の外へと押し戻されてしまった。

 サーベルに突き刺した帽子をゲティスバーグの空に掲げ、死地に臨む兵士たちを鼓舞し続けたルイス・アーミステッド准将も大混戦のなかに致命傷を受けて指揮の継続が不可能となり、ここに至って『ピケットチャージ』は完全に崩壊した。

 身を守るすべもない草原で砲弾に脅かされ続けるという恐怖は、戦意を喪失する理由としても十分であろう。街道の柵を超える前に隊伍を崩して逃げ惑う歩兵も多く、一致団結しているように見えて、綻びのない箇所を探すほうが難しいほど脆弱な有りさまであった。

 そして、は南軍全体にも伝播し、敗者として『南北戦争』の終結を迎えるまでに全軍の士気を回復できなかったという。こうした影響をもってして、ゲティスバーグの戦いは『南北戦争』の趨勢を決した重大な分岐点と目されたのである。

 ゲティスバーグは銃火が止んで俄かに静寂が訪れていた。野花に彩られた長閑な草原に戻っていた。それだけに街道の柵と北軍陣地の胸壁の間で野晒しとなった夥しい死傷者が無情の二字を突き付けるのだった。


「――ハワイに『じゅうけんけんぽう』をもたらしたアシュフォード家の端くれとしてはマスケット銃が世の中を作り替えるような映像は、どうしたって心が落ち着かなくなるもんだ」


 鞍に跨る者を失った馬がのんとも思える様子で彷徨うゲティスバーグに呻き声を割り込ませたのは、辛うじて決戦を生き延びた将兵ではない。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行を視察する為に来日した『NSB』の団体代表へ身辺警護ボディーガードの如く同行していた男――VVヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードである。

 濃霧さながらに硝煙の垂れ込める戦場から視線を引き剥がし、眉根を寄せつつVVの横顔を見据えたのは、改めてつまびらかとするまでもなくイズリアル・モニワその人であった。

 彼女イズリアルもVVも、『ピケットチャージ』の崩壊を見届けたゲティスバーグの戦場に取り残されているわけではない。日本をった旅客機内で『南北戦争』を題材とするアメリカの映画を視聴していたのである。

 『ゲティスバーグの戦い』から一五〇年という節目を記念して制作され、昨年に公開されたばかりの映画であった。最新作に近いものを自由に視聴できることも機内サービスのと言えよう。

 尤も、を観ていたのはイズリアルのみである。VVは隣席にてノートパソコンを起動し、今回の来日には同行していない彼女イズリアルの秘書に提出する報告書レポート文章作成ワープロソフトでしたためている。

 映画視聴に用いるモニターは座席ごとに設置されており、音声もヘッドフォンからイズリアルの鼓膜へと直接的に流れ込んでいるが、真隣に腰掛けていれば、意識して覗こうとしなくても視界の端に映像が割り込んでくるわけだ。

 大勢の人々が鑑賞できるよう映像は写実性を抑える〝演出〟が施されている為、明らかな致命傷であろうとも過剰に出血することはない。〝現実〟の戦場ゲティスバーグでは無残な肉塊と化したことであろうが、生身に砲撃を浴びせられても役者が後方に跳ね飛ぶのみである。

 両軍の銃弾が嵐の如く荒れ狂う武力衝突を描きながら、残虐性を打ち出すような表現にもなっていないわけだが、今し方の口振りから察するにVVはそもそも『南北戦争』の再現に抵抗がある様子であった。

 モニターに映し出されているのは、戦争の虚しさや命の儚さを際立たせる静かな草原の点描だ。台詞や劇伴のない場面シーンであった為、VVの呻き声もヘッドフォンを突き破ってイズリアルの耳に届いてしまったわけである。


「それを言い出したら、カメハメハ一世はどうなるのかしら? 偉大なる王も鉄砲と大砲をもってしてハワイ統一を成し遂げたのに、その歴史まで否定しなくてはならなくなるわ。第一、『南北戦争』と『ホノルル・ライフルズ』を重ねて気に病むのは、……でしかないでしょう? 胸に秘めたモノに圧し潰されない為にも、割り切って考えるべきところは線引きしないとね」

「映画の邪魔して悪かったな。……お前さんと違って自分は繊細デリケートなのさ」


 後世まで〝大王〟の尊称をもって敬われるカメハメハ一世が群雄割拠の島々を従えたのは一八世紀末のこと――〝大王の血〟が途絶えるなど様々な混乱に見舞われながらも、ハワイ王国は地上の楽園に百年の栄華を築いた。

 しかし、入植者であるはずのアメリカが政治的影響力を強めると陰りが見え始め、一九世紀末には王家が銃剣をもって脅かされる事態となり、その実権が奪い取られる修正憲法の承認を強いられてしまった。

 ホノルルの王宮に星条旗が掲揚されたのは、二〇世紀を迎える直前の一八九八年八月一二日――奇しくも、同じ旗を翻す軍勢がスペインとの戦争にいて極めて有利な状況で休戦協定を結んだのと同日のことであった。

 起源ルーツこそ違えども、イズリアルとVVは共にハワイの出身うまれであり、それぞれの〝立場〟でハワイ王国の悲劇を背負って生きている。それが証拠に『じゅうけんけんぽう』は前者イズリアル、『ホノルル・ライフルズ』は後者VV――と、隣り合わせて座る二人の間でしか意味が通じない言葉を紡いでいた。

 二人とも英語を用いているが、周囲まわりの座席にる欧米系の人々は誰も反応を示さなかったのである。『南北戦争』の有りさまとハワイ王国滅亡の経緯を重ね、に穏やかならざる感情を抱いてしまうVVを理解できるのは、この場にいてイズリアル一人であった。

 血筋を遡っていくとまさむねの重臣・にわつなもとに辿り着く日系移民の子孫とはいえ、ハワイ王国の興亡に思いを馳せて呻き声まで洩らしたVVの心情がイズリアルには痛いほど理解できる。彼女自身、王家の無念を一日たりとも忘れたことはない。

 だからこそ、が背負い続ける歴史から目を逸らさず、心を軋ませる音すらも噛み殺す覚悟で立ち向かってきたのだ。

 イズリアル・モニワも『南北戦争』の再現を漫然と眺めていたわけではない。服装すら不揃いという南軍の兵士が選ばざるを得なかった起死回生の正面突撃ピケットチャージと、統一された軍服姿でを迎撃する北軍の将兵を見比べながら、ハワイという楽園を呑み込んだアメリカの歴史を紐解いていたのである。

 『ゲティスバーグの戦い』に焦点を絞った為か、くだんの映画では冒頭で概略あらましを解説する程度に留められたものの、主題である『南北戦争』にはアメリカ国内の労働力を巡る争乱として論じるべきとする声も少なくない。

 無論、は限定的な条件から捉えた一側面に過ぎないが、労働の在り方が武力衝突の火種になることをイズリアルは自らの団体運営を通じて実感しており、支持はともかくとして一定の説得力は認めざるを得なかった。

 『南北戦争』の火蓋が切って落とされたのは一八六一年である。イギリスからの独立ひいてはアメリカの建国が宣言された一七七六年とは一世紀近くも離れており、移民が本格化した一六二〇年はそこから更に一世紀半も遡る。

 別々の文化ひいては伝統が育つには十分な歳月といえよう。これによって支えられる社会の仕組みも異なる形で確立されていったのである。

 その間に北部では工業が、南部では農業がそれぞれ経済の基盤となり、外国との交易にいてさえ双方の方針は正反対であった。イギリスから安価な品々が輸入されることで自国の生産力と競争力にからぬ影響が及ぶという状況を恐れた前者は関税を駆使した保護貿易を、同じイギリスでの需要が高い綿花の輸出によって利益を得る後者は関税を挟まない自由貿易を、それぞれ断じて譲らなかった。

 産業構造の差異ちがいは北と南に埋め難い溝を生じさせ、おおきな領土の中で二つの異なる国家くにが分かれたような構図となっていく。

 工業の発展に伴って商業も盛んとなった北部と比較した場合、当時の南部は経済的にも停滞としか表しようがなく、そこに生じた格差が諍いの原因となることも少なくなかったのである。それだけに南部は確実な利益が見込める自由貿易を死守せざるを得ない。

 北部が産業構造という境界線を越えて南部に労働力を求めたのは、そのようななかのことであった。それはつまり、一触即発の問題を抱えながらも折り合いを付けて〝連邦〟を支えてきた南北のひずみが後戻りのできない断絶に至ったという意味である。

 この頃の南部では人間ひとを一個の命というよりも〝資産〟としてし、支配的に隷属される旧来の社会制度が疑念を差し挟む理由も必要もないまま運用されていた。南部経済を支える農場もに基づいて労働力を確保していたのだ。

 輸出先の需要が高まれば高まるほど、綿花の栽培に従事する人材もそれに比例して必要となる。入植者と共にアメリカ大陸にも持ち込まれたくだんの社会制度と、これによって生き死に至る〝全て〟がに支配される人々は、心さえも否定されてしまう立場とは裏腹に南部経済にとって不可欠であった。

 一方の北部側も工場の機械化に伴い、国内生産力の担い手を欲していた。そして、この急務の打開策が『南北戦争』に至る最初の一歩であったと唱える者も多い。

 州単位ではなく連邦全体でくだんの社会制度を廃止し、南部にいて隷属的な労働状況に身を置いてきた人々を〝自由〟のもとに解放することで、北部の工業社会に招き入れようという声が高まったのである。

 による支配は、貴重な人材を一定の土地に縛り付けるということでもある。を廃止すれば、隷属を余儀なくされてきた人々にも労働力を提供する場を己の意思で選ぶという〝自由〟が生まれるのだ。

 一八六二年九月二二日の予備宣言と翌年一月一日の本宣言という二段階を経て、くだんの社会制度からの解放が進められた。どちらも『南北戦争』のなかに実行されたのだが、それまでに隷属するしかなかった大勢の人々が南部から離脱し、己の意思で北軍に加わった――これも一つの事実である。

 無論、人材の確保という打算だけが目的であったわけではあるまい。アメリカ北部のみならず、旧宗主国であるイギリスでも古い制度の廃止に向けた動きが活発化していた。中世の影響が根深く残る〝近世〟から産業革命が起こった〝近代〟へと進む中で、こんにちのような人権意識が芽生えていったのである。

 一八六一年に就任し、合衆国大統領として『南北戦争』へ臨むことになるアブラハム・リンカンもを訴え続けてきた。それ故に〝自由〟を約束するという彼の宣言に誰もが耳を傾けたのだ。


「――内戦の犠牲になった全ての人を自分たちは絶対に忘れない。ここで散った命を無駄にしない為にも、生き残った自分たちは彼らが完成できなかった事業を受け継がなくてはならない」


 イズリアルが見つめるモニターにも髭面の男が現れた。『ピケットチャージ』からおよそ四ヶ月後にアブラハム・リンカンがゲティスバーグで行った演説の再現である。

 同地で戦没した兵士たちを埋葬する国立墓地が新たに作られ、その奉献式典にて披露された声明スピーチおおきな国の礎となった戦没者ひとびとの遺志を継がんとする表明であり、アメリカ史上最も偉大な大統領として語り継がれる伝説の象徴となった。

 「人間ひとは誰もが平等に創られた」という理念に支えられた声明スピーチは〝自由〟の意義を強く呼び掛け、を新たに生み出していく決意をも言い添えていた。

 リンカンが貫き通した〝自由〟とは北部の思想に基づいたものであるが、その理想はこんにちまで多くの人々のなかで生き続けている。

 我らの父祖は自由の精神に育まれ、全ての人々は平等に創られたという命題に捧げられた新しい国家くにをこの大陸に誕生させた――この言葉からゲティスバーグの演説は始まったのだが、ハワイ出身うまれの日系人には素直に受け取ることが難しい。VVに気付かれないよう右手でもって口元を覆い隠したイズリアルは、何ともたとがたい苦笑いを浮かべた。

 リンカンによる解放宣言の結果が表しているが、は南部にける労働の在り方を根底から覆す政策ものに他ならない。経済破綻の回避は言うに及ばず、産業構造を守る為にも承認できるものではなく、ついには南部数州がから離脱する事態に立ち至った。

 南部の人々からすれば、存在意義アイデンティティーの侵害にも等しい状況であった。根を下ろした土地の隅々にまで行き届く制度とは、文化や伝統ひいては価値観の礎ともなり得るのである。

 間もなく南部連合はジェファーソン・デイヴィスを大統領として選出し、〝アメリカ連合国〟の発足を宣言――おおきな国家くにの〝自由〟が経済の循環と切り離せない労働によって問い質され、異なる社会を構築していた南と北に一つの答えを示した。

 親と子や親友同士が〝権利〟という弾丸を込めた銃を向け合う地獄がった。アメリカというおおきな大陸は、南北の決着と引き換えに〝血〟というもつを求めたのだ。

 これが『南北戦争』であり、労働の在り方を立脚させる思想そのものが南北で相容れなかったことに端を発している為、〝市民戦争〟という別称も付けられている。

 尤も、この捉え方は近代アメリカにける労働力ひいては産業構造に焦点を置き、そこから分断と争乱の背景を読み解いた場合の一例に過ぎない。

 この時代はアメリカというおおきくとも未成熟な国家くにが〝連邦〟として各州の権限と独立性を重んじる体制から中央集権にされていく過程でもあったのだ。

 別々それぞれの形で発展した文化・伝統と、これに衝き動かされた感情の衝突など、二つの社会を構成するあらゆる要因が複雑に絡み合った末に勃発した〝内戦シヴィルウォー〟という点は、イズリアルは言うに及ばずVVも失念してはいない。

 領土拡大を図って隣国と戦った時期の反動や、州の集合体という仕組みを育てる段階で生じた確執など二世紀の間に積み重なったモノは余りにも大きかった。〝労働力〟という焦点についてさえ、南部から引き入れるまでもなく北部では移民が酷使されていたのだ。

 その事実をイズリアルは――不当な条件のもとで過酷な労働を強いられた日本人ハワイ移民最初の世代の子孫は、『南北戦争』を読み解く為の一側面として忘れてはいない。

 何よりもイズリアル・モニワは、アメリカ最大のMMA団体『NSB』を率いる代表プレジデントである。それはつまり、〝人種のサラダボウル〟と呼ばれる複合社会にいて、行動理念も肌の色も異なる数多の人々が一丸となって支える競技団体の旗頭という意味だ。

 かつて『NSB』にドーピング汚染を招いた原因も偏った思想であり、が複合社会の調和と秩序を歪めてしまうと痛感させられたからこそ、イズリアルはおおきなアメリカが〝合衆国〟と〝連合国〟に別れた背景と慎重に向き合い続けている。

 自らの信条とは相容れないモノがあると認めた上で、『NSB』の代表は労働はたらくことの在り方が揺らいだときに人間は銃を取ってでも抗うという気持ちを否定しなかった。

 『NSB』はスポーツ産業であり、所属団体と契約選手の間で報酬が発生する商業活動ビジネスである。

 それぞれの生活を等しく保障する構造が破綻したとき、所属選手もスタッフも、誰もが生きる場所を失ってしまう。同団体にはアメリカ国外から参加している者も多い。世界経済にも対応し得る仕組みを作り、組織としても進化し続けなくては同胞なかまたちの〝自由〟すら守れないのだ。

 だからこそ、MMA興行イベントを一方的に禁止する州法の改善を求め、所属選手との契約内容を独占禁止法違反と決め付ける批判にも抗ってきたのだ。いずれもMMA団体としての独立性を堅持する戦いであった。

 ならば、汚名を着ることもイズリアルは厭わない。如何なる策を講じてでも『NSB』を死守せんとする意志はなんびとたりとも揺るがせないのである。

 ラスベガスの本社で帰国かえりを待つ上級スタッフには叱声と共に押し止められてしまうだろうが、同胞なかまたちを支える為ならば、ゲティスバーグに散ったルイス・アーミステッド准将に倣うことも躊躇ためらわず、『ピケットチャージ』も一人で再現するつもりだ。


(――『NSB』の〝自由〟が守れるなら、……手段など選んではいられない。が繰り広げているのは、れっきとした戦争なのだから……ッ!)


 産業革命と機械化の恩恵を受けられたとは言い難い南軍は、武器の調達を欧州ヨーロッパからの輸入に頼っていた。しかし、それは北軍の海上封鎖によって途絶えてしまった。

 これに対して北軍――〝アメリカ合衆国〟の北部は、工業の発展によって銃火器の大量生産も可能となり、『南北戦争』にいても武器の調達と修理が迅速に行われている。

 それは大量の兵器を短期間で揃え、間断なく戦場へ投入できるようになったという意味でもある。結果的に〝近現代の戦争〟が持つ大量殺戮の側面も加速していった。

 極端な事例を思い浮かべてしまった――と、かぶりを振りながら自嘲の薄笑いを浮かべるイズリアルであったが、情勢がを望むのであれば、戦禍のゲティスバーグと同じように己の足元を血の海にも変える覚悟である。

 ドーピング汚染を乗り越えた『NSB』は、イズリアル・モニワによる新体制のもとでMMAという競技の在り方を大きく発展させ得るシステムを開発し、世界の牽引役に返り咲いている。これもまた彼女イズリアルが成し遂げた功績の一つであるが、そのとでも喩えるべきか、組織としての進化が新たな〝敵〟を呼び寄せるような状況に陥っていた。

 今やアメリカ国外からも様々な脅威が迫っている。中でも際立って忌々しく感じるのは『天叢雲アメノムラクモ』の樋口代表だ。

 る情報提供者にれば二〇一五年末に『NSB』と共催する日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを利用し、『CUBEキューブ』と呼称されるくだんのシステムを盗み取らんと画策しているそうだ。

 指貫オープン・フィンガーグローブに内蔵されているICチップで測定した打撃力のデータや、特殊カメラで取り込んだ選手の動作に基づき、攻撃が接触した部位などにプロジェクションマッピングを施すという『CUBEキューブ』の〝演出〟は、〝くにたち漫画〟の世界観を〝現実リアル〟のMMAに持ち込む樋口が好みそうであるが、はそもそも聴覚が正常に働かない人たちへ最高の臨場感を届けるべく開発されたシステムである。

 試合中にリアルタイムで心拍数を測定・解析するのも、選手の命を守る措置であった。生体データの公開は未だに付き纏うドーピング疑惑を払拭する役割も果たしているのだ。

 樋口郁郎は『CUBEキューブ』の本質を理解しようともせず、表層的かつ副次的な部分のみに注目しているわけだが、代表就任と共に『NSB』のを期してシステムの開発を計画したイズリアルからすれば、心外の一言である。

 日本を代表するMMA団体の代表でありながら、のうろうが体現したきょうえいの精神を少しとして理解できない様子であり、団体代表という〝立場〟から離れた一個人としても樋口郁郎には憤怒いかりを抑えられなかった。

 アメリカ連合国の旗が翻った〝最高到達点〟は、南軍の魂のあかしであろう。胸壁を突破して敵陣深くまで攻め入るという『ピケットチャージ』は、例え戦争に敗れようとも永遠に消えることのない〝誇り〟を打ち立てたのだ。

 内戦の犠牲になった全ての人を自分たちは絶対に忘れない――アブラハム・リンカンによる『ゲティスバーグ演説』の通りになったことは、こんにちに至る歴史が証明している。

 樋口郁郎も『NSB』の懐に飛び込んでくるつもりである。しかし、その目的ねらいは薄汚い強盗と変わらないのだ。『CUBEキューブ』が日本の〝暴君〟にとっての〝最大到達点〟ということであれば、MMAの未来を共に目指せるはずもあるまい。

 統括本部長の養子むすこであるキリサメ・アマカザリも、いよいよ〝客寄せパンダ〟として使い捨てることであろう。プロデビュー戦こそ反則負けで終わったものの、『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』にも花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレルにも備わっていない〝力〟を喧伝材料に利用できれば、興行イベントの集客効果は計り知れないのだ。


(同じ天のもとにの〝神〟が並び立つのか、私一人では結論を出せないけれど――)


 キリサメが人間という種を超越した瞬間、イズリアルは『ケ・アラ・ケ・クア』という余人には全く意味不明な叫び声を上げ、故郷ハワイで触れた〝伝説〟を脳内あたまのなかに甦らせていた。我知らず口走ってしまったその言葉ケ・アラ・ケ・クアに通じるであったなら、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーは決して〝暴君〟の手でけがさせてはならないのである。

 そのキリサメが初陣プロデビューの直前に不祥事を起こした際、樋口は団体間の交流事業と称し、彼のことを留学生の名目で『NSB』に追い払おうと企んでいる。団体代表として命懸けで守るべき選手を使い捨ての道具も同然に扱う〝暴君〟は、〝あの力〟の深層まで想像など及ぶまい――これもまたイズリアルのなかで憤りを膨らませた。


「人民の、人民による、人民の為の政治を地上から決して絶滅させてはならない――」


 やがて映画はアブラハム・リンカンの胸像がラシュモア山に彫られるきっかけの一つともなった名場面に至り、ヘッドフォンで覆われたイズリアルの鼓膜も『ゲティスバーグ演説』を締め括る至言で打ち据えられた。

 『ゲティスバーグの戦い』から数えて三五年ののちに王国を滅ぼされたハワイの人間の耳には、大いなる矛盾の如く聞こえなくもないが、それでもイズリアルはアブラハム・リンカンの言葉を我が身に置き換え、『NSB』の行く末と共に考えさせられてしまうのだ。

 MMAを愛する人々へ報いることが出来る〝場〟を未来へ繋げる為には、〝何〟が必要なのか――それが『NSB』代表の〝全て〟である。


「銃に頼って〝内戦シヴィルウォー〟を終わらせたリンカン大統が最期は自分も撃ち殺されたというのは『南北戦争』の総決算としても最高に捻りが効いているな。力ずくで抑え込んだ矛盾に自分自身が呑み込まれる――アシュフォード家に生まれた者にとって何より重い教訓だ」


 モニターの映像が再び視界に入ったものとおぼしきVVが演説を終えて去っていく髭面の男に向かって皮肉を飛ばした。

 己とアブラハム・リンカンを重ねていたイズリアルにVVの皮肉ことばえざる銃弾の如く痛烈に響いたが、その情況をわざわざ説明するのもおかしく、映画鑑賞を邪魔したことに対する抗議として咳払いを一つ挟み、次いでじろりとめ付けるのみに留めた。

 アメリカ連合国の支持者であるシェイクスピア役者が放った一発の銃弾によってアブラハム・リンカンの命が吹き飛ばされたのは、一八六五年四月一五日――『南北戦争』の終結から数えて僅か六日後のことである。

 ハワイ出身うまれから見ても偉大な大統領であることを疑う余地のないアブラハム・リンカンと己を比べるなど許されざる傲慢と、イズリアル本人も弁えてはいる。しかし、VVが底意地の悪そうな調子で語った厄災わざわいが自分にも降り掛かる可能性が高いのだ。

 アブラハム・リンカンは観劇の為に訪れたフォード劇場で後頭部を撃たれ、翌朝に息を引き取った。欧米にける『ウォースパイト運動』の先鋭化を考えれば、視察先が『NSB』代表プレジデントにとってのフォード劇場となってもおかしくはなかった。

 格闘技という人権侵害を助長していると名指しで批判されている『ハルトマン・プロダクツ』の創始者一族も、オランダ格闘技界を束ねる〝聖家族〟の御曹司と共に『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の視察に訪れていたのだ。まとめて爆弾テロの標的にならなかったことは、奇跡としか表しようがない。

 警備員の人数かずさえ増やせばテロ対策も万全であると、樋口代表は考えている様子だが、『NSB』は言うに及ばず、『ハルトマン・プロダクツ』も『天叢雲アメノムラクモ』の危機管理意識を「論外」の一言で切り捨てたことであろう。

 最悪の事態を避ける為、『NSB』の上級スタッフから請われる形で視察にVVを伴うことになったのだ。さすがに旅客機内には持ち込んでいないが、彼は日本でも背広の下に拳銃ハンドガンを隠して行動していた。こればかりは本来の秘書には不可能な任務である。

 VV・アシュフォードはMMA選手ではなく、『NSB』の上級スタッフでもない。しかし、同団体の試合場オクタゴンに立てば、生半可な者など容易く捻り潰せるほど戦闘能力が高い。

 銃器の扱いに至っては、オリンピックの射撃競技で金メダルを狙えるほど巧みである。それを見込まれ、団体代表イズリアルの来日に同行するよう『NSB』から依頼されたのだ。


「……もしかすると『ウォースパイト運動』は、『NSB』にとっての『ホノルル・ライフルズ』なのかも知れないわね……」


 隣席となりのVVにも聞き取れないほど小さな呟きは、イズリアルの唇から溜め息と共に滑り落ちていった。

 『ホノルル・ライフルズ』とは、ハワイ国王によって承認された民兵組織である。アメリカ系政治組織によるクーデターにくみして王家の権限を奪い取る修正憲法に署名させたのが同部隊ホノルル・ライフルズであり、それ故に『じゅうけんけんぽう』と呼ばれるようになったのだ。

 司令官の家名ファミリーネームはアシュフォード――カナダ出身うまれながら北軍の一員として『南北戦争』にも参戦した歴戦の軍人である。

 のちにクーデターが誤りであったと認めて王家の味方に付き、反逆罪に問われることも恐れない思いはVVにも受け継がれている。「マスケット銃が世の中を作り替える映像は落ち着かない」という先程の言葉は、彼が背負う歴史から紡ぎ出されたものであった。

 『ホノルル・ライフルズ』が構えた銃剣によって王家は脅かされ、カメハメハ大王が築き上げた楽園の王国も儚く滅び去った――現在いまのイズリアルには故郷ハワイの歴史が酷く生々しく感じられるのだ。

 彼女イズリアルが率いる『NSB』は、テロにも等しい〝抗議〟によって格闘技を根絶せしめんとする『ウォースパイト運動』の脅威に晒されている。ハワイ王国の悲劇を総合格闘技MMAの世界で再現させるわけにはいかなかった。

 映画の中のアブラハム・リンカンもフォード劇場に到着し、愛する妻の手を握りながら運命の場所へと歩を進めていた。

 リンカンと同じように銃を突き付けられようとも、『NSB』を侵害する要求にイズリアルが屈することはない。MMAへの情熱を分かち合う同胞なかまたちに己の命を捧げる覚悟である。

 代表プレジデントという肩書きは、に名乗るものではない――同じ思いで結ばれた同志は日本格闘技界にもるのだが、それは選手の運命を弄ぶ〝暴君〟などではなかった。


「ここで散った命を無駄にしない為にも、生き残った自分たちは彼らが完成できなかった事業を受け継がなくてはならない」


 イズリアルの脳裏に『ゲティスバーグ演説』の一節が甦った。

 万が一、日米合同大会コンデ・コア・パスコアへ辿り着く前に抹殺されたとして『天叢雲アメノムラクモ』の仲間から〝暴君〟の志を引き継がんとする者が現れるとは思えない。が繰り広げている〝戦争〟は独り善がりの満足を勝利条件に設定してはならないのである。

 イズリアルの〝耳〟に入る樋口郁郎という人間の振る舞いは、一代限りの功績を自ら食い潰していく愚者のであり、夥しい血を生け贄の如く捧げて歴史に永遠の〝誇り〟を刻んだ『ピケットチャージ』とは一つとして重ならなかった。




 フィットネスクラブなどの運営や将来のオリンピアンの育成支援にも力を注いでいる日本有数のゲームメーカー『ラッシュモア・ソフト』の本社ビルにて『MMA日本協会』の緊急会合が始まったのは、己が議題の一つになろうとは夢想だにしないキリサメが入院先を引き払う前後のことであった。

 同社の会長であり、『MMA日本協会』の副理事長を兼任するとくまるの厚意で提供された会議室には、重苦しい沈黙が垂れ込めている。楕円形の長大なテーブルの左右に分かれて着席した役員たちも、穏やかならざる表情かおで溜め息ばかりを零していた。

 『天叢雲アメノムラクモ』との間には樋口体制のり方を巡って深い断絶が横たわっているものの、国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関にとって岩手興行の大混乱は看過し難い問題であり、これを議論するべく緊急会合が実施された次第である。

 最初の議題が一つの節目を迎えた直後に新たなが投げ込まれ、議長として〝上座〟に腰掛けていたおかけんなどは「さすがにコイツは『MMA日本協会オレら』の手に余る事態なんじゃねェか」と天を仰いだほどである。


「今、平成何年だと思ってんだ⁉ 西暦なら二〇〇〇年ミレニアムすらとっくの昔だぜ⁉ そんな時代に暗殺計画だァ⁉ 樋口の生命タマったところで何が変わるワケでもねェのにッ!」

「誰も暗殺計画とは言ってないわよ。で襲撃される恐れがあるかもって連絡はなしじゃない。何でもかんでも大袈裟に捉えて事態をややこしくするのは悪いクセだよ、オカケン」

「今日明日にも都内に刺客が送り込まれるかも知れねェって聞かされたら、ツーは慌てるモンだろ⁉ 『ウォースパイト運動』の模倣犯みてェなコトを企むバカは、オレがこの手でとっちめてやらなきゃ気が済まねェぜ……ッ!」


 左右の拳でもって憤然とテーブルを叩く岡田健オカケン会長と、これを諫めんとするよし副会長を交互に見比べながら、ギュンター・ザイフェルトは著しく品性を欠いていると自覚しながらも、心の中でほくそ笑むことを止められなかった。

 世界最大のスポーツメーカーであり、『天叢雲アメノムラクモ』をメインスポンサーとして支えてきた『ハルトマン・プロダクツ』の創始者一族――ザイフェルト家の御曹司ギュンターは、臨時視察の為に赴いた岩手県奥州市から東京都内まで足を延ばし、『MMA日本協会』の緊急会合にオブザーバーの立場で参加している。

 次から次へと問題が噴出し続ける日本MMAの現状に呆れ果てていたギュンターは、己の領分を忘れてメインスポンサーにまで咬み付かんとする『天叢雲アメノムラクモ』の〝暴君〟に死神スーパイの手が迫っていると聞かされた途端、右手でもって口元を覆い隠した。

 面白くなってきた――偽らざる本音を思わず洩らしそうになってしまったのである。

 『ハルトマン・プロダクツ』の影響下にない新興企業に支えられながら、日米の格闘技界に楔を打ち込む〝第三勢力〟としての存在感を強めるシンガポールの新興団体など、アジアにけるMMAの勢力図を睨んでいるザイフェルト家にとって、樋口郁郎はスポーツ市場マーケットをも狂わせる厄災わざわいでしかなく、であろうと判断していた。

 『ハルトマン・プロダクツ』ひいてはザイフェルト家は、世界中の国際競技大会に入り込んで莫大な利権を貪り喰らうことから『スポーツマフィア』という蔑称をもって忌み嫌われてきた。前身団体バイオスピリッツの時代から共に歩んできた日本MMAの行く末を憂えていることも偽りではないが、その一念のみで『MMA日本協会』の役員ひとびとを見回しているわけでもない。

 謀略と情報戦をもって日本格闘技界を支配する樋口郁郎は、に関わる全ての人々に深く恨まれている。本人が勘付いているだろうが、めんと呼ぶべき状況なのである。

 団体からの放逐を図らんとする古豪ベテランへの冷遇や、〝客寄せパンダ〟の登用も『天叢雲アメノムラクモ』内部で不満を膨らませているが、は氷山の一角に過ぎないわけだ。

 ザイフェルト家が裏で手を回すまでもなく、〝暴君〟に向けられていた恨みがくらい怒りを火種として爆発するかも知れないのである。自らの手を汚さずとも望んだ通りの筋運びになることを思えば、ギュンターには込み上げてくる笑いを抑えるほうが難しかった。

 法治国家日本を生きる人々にとって甚だ現実味を欠いている〝暗殺〟の二字が『MMA日本協会』を戦慄させた原因は、副会長のよしさだる人物から預かった伝言である。

 緊急連絡の為、一時的に退室した吉見副会長はおよそ二〇分を経て戻ってきたのだが、その顔は血の気が引いていた。困惑と沈鬱を綯い交ぜにしたくらい表情が他の役員ひとびとにも伝播したような恰好であった。

 よし副会長が最初に連絡を取った相手は、樋口の手引きによって岩手興行の開会式オープニングセレモニーに現れ、無謀にもMMAデビューを宣言した飯坂稟叶ローカルアイドルを練習生として迎え入れると表明した女子プロレス団体の代表――ギロチン・ウータンである。

 旧友ギロチン・ウータンに詳しい経緯を確かめたわけであるが、通話を終えた直後に別の電話番号が液晶画面に表示され、そこに添えられた名前に吉見は首を傾げたという。


「――現状のまま熊本入りしようものなら、樋口郁郎は首級くびを狙われるかも知れないわ。もはや、今の熊本は『天叢雲アメノムラクモ』にとって敵地アウェーも同じ。きっと本人は無自覚だけど、あの男はそれだけのことを仕出かしてしまったのよ」


 一瞬だけ間違い電話であろうと考えたが、胸騒ぎを覚えて着信に応じた吉見は、緊急会合の〝流れ〟を変えてしまうようなしらせを受けたのである。


「あたしもまだ帰宅途中だから現地の空気を完全には掴めていないのだけど、夫から聞いた話では、道場や流派の垣根も取っ払って『天叢雲アメノムラクモ』を迎え撃つ覚悟を決めたとか。人の心をどこかに置き忘れたとしか思えない樋口が熊本を小馬鹿にするようなコトを抜かした瞬間、例え話じゃなくて文字通りの〝火の国〟と化すわ」


 携帯電話スマホを通して吉見に急報を告げたのは、熊本県やつしろに道場を構え、ミャンマーの伝統武術『ムエ・カッチューア』を教え広める名門――バロッサ家の一族にんげんであった。

 名前はジャーメイン・バロッサであるが、アニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の主演を務める人気声優であり、『天叢雲アメノムラクモ』にも出場する選手――希更の実母ははおやと言い換えたほうが日本MMAにいては通じ易い。

 〝火の国〟に根を張ったバロッサ家は、打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』に一族から選手を派遣するなど日本格闘技界とも繋がりが深く、『MMA日本協会』も一目置く存在感を放っていた。

 岡田会長も吉見副会長も、ジャーメインと面識がある。日本格闘技界が一丸となって東北の復興を支援たすけんとする会合にも彼女は総帥ノラ・バロッサの代理として出席していたのだ。

 鬼貫道明や八雲岳など日本格闘技界を代表する人々が居並ぶ会合でも彼女ジャーメインは堂々と熱弁を振るっていた。事業プロジェクト自体の発足も後押しした声が今日は吉見副会長を凍り付かせ、次いで会議室全体の空気が瞬く間に張り詰めていったのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』が熊本県にやって来る――通話相手の吉見副会長に対し、ジャーメインが前置きとして述べた一言から樋口郁郎の暗殺計画という異常事態へと飛躍していった。

 岩手興行にいて愛娘のセコンドを務めたジャーメインは早朝の花巻空港を発ち、経由地の名古屋空港で八代市の夫から緊急連絡を受けたそうだ。待機時間の最中に『MMA日本協会』の副会長へしらせたのは、の伝言というわけであった。


「筋を通しもしない相手には誰だって良い気がしないわ。夫が確かめた限り、行政との話は付けていたみたいだけど、それが見事に逆効果。熊本の武術界は大昔から真っ二つに分かれて張り合い続けていたのだけど、現在いまは軋轢も忘れて一致団結しているそうよ。る意味、それは樋口郁郎のと言えなくもないわね」


 吉見副会長を経由して『MMA日本協会』に伝えられた〝火の国〟の狂騒は、概略あらましのみでも〝暗殺〟という現実離れした言葉に生々しい感触を与えるほど差し迫っていた。

 許すまじ、樋口郁郎――たったの一夜にして、その怒声が〝火の国〟で生きる武術家たちの合い言葉になったともジャーメインは付け加えていた。


「樋口の野郎、マジで何の根回しもしないまま熊本大会を強行するつもりなのかよ……。第二回興行のときは――福島県のつるじょう広場で開催ったときには、地元の道場とも協力体制をガッチリ組めたってェのに、何をどう間違えて、こんなザマになっちまったんだ」


 議長席から立ち上がって窓辺まで歩み寄り、『ラッシュモア・ソフト』本社ビルに程近い東京タワーをブラインドの隙間から眺める岡田会長は、「熊本大会」と呻くように吐き捨てた。

 はそのまま『天叢雲アメノムラクモ』第一四回興行の開催地を指している。

 かつての黄金時代から日本MMAに君臨し続けていた『かいおう』の復活を〝目玉メインイベント〟とする全一〇試合が終了したのちに執り行われた閉会式クロージングセレモニーいて、団体代表の樋口は次の興行イベントを熊本県熊本市で開催すると発表したのだ。

 江戸時代から明治維新に至るまで室町幕府以来の名門であるほそかわはん統治の拠点とし、その後にへいぞくの暴発によって引き起こされた『西せいなんせんそう』でも重要な役割を果たした〝火の国〟の象徴――くまもとじょうまる広場を借り切り、試合場を特設するという計画まで公開した次第である。

 各々の席に一台ずつ設置されたタブレット端末には先程まで『あつミヤズ』の解説番組が映し出されていたのだが、議論を進める必要から途中で視聴を停止した為、に彼女が言及する場面を『MMA日本協会』の役員たちは確認していなかった。

 岩手興行の観客を沸騰させた団体代表の宣言は、熊本県内で『天叢雲アメノムラクモ』に対する反発を招き、半日と経たない内に厄災わざわいの火種と化したのである。バロッサ家の一族にんげんが現地の実情としてしらせてきたのだから、深刻さの度合いも桁外れなのだ。

 『MMA日本協会』の会長が眺める東京の空と同じように、熊本興行には早くも暗雲が垂れ込めていた。


「鹿児島と熊本の差異ちがいこそあるが、よもや『西南戦争』の再現なんてコトにはならないだろうな。主催企業サムライ・アスレチックスの事務所が焼き討ちに遭うなんてコトには……」

「九州から東京まで攻め上るという意味ですか? 『西南戦争』が起こった頃と違って、現代いまは船も飛行機も自由自在ですから、徳丸さんの心配も完全には否定できませんねぇ。理不尽な仕打ちへの不満が引き金という背景バックグラウンドも、西さいごうたかもりが兵を挙げるしかなくなった状況と似ていなくもありませんし」

「堪忍してくれよ、浩之――いや、折原理事長。『ウォースパイト運動』が似たようなバカをやらかすかも知れねぇってときに、タチの悪い冗談は心臓に悪いぜ」

「これは失敬。しかしね、自分としては脅かしのつもりでもないんです。吉見さんの伝言はなしを利かせて貰いながら、熊本でジムを営んでいる『打投極』の仲間にメールで問い合わせてみたんですがね、バロッサさんの急報通り、向こうはの様子ですよ」


 若かりし頃からショープロレスの舞台リングに立ち続けてきた岡田健は、プロレスパンツから背広へと装いを替えて国政を担っている。『MMA日本協会』の会長としてだけでなく、与党議員の〝立場〟としても、熊本県内で起こりつつある事態は看過できないのだ。

 何ともたとがたい表情を浮かべた岡田は、背中でもって正副理事長の懸念ことばを受け止めた。

 熊本で進みつつある状況は法治国家の秩序を根底から覆すほど深刻であるが、ジャーメイン・バロッサから提供された情報を除いて襲撃の企てを確認するすべがない以上は、先手を打って摘発することも不可能である。強行すれば冤罪に繋がり兼ねないのだ。

 思想活動を取り締まれば不当な弾圧となる為、テロにも等しい事件を繰り返す『ウォースパイト運動』でさえ各国の司法当局は撲滅できずにいる。と同様であった。


「まさか、『祇園の雑草魂』が――アイツが〝火元〟じゃねェよな? 日本MMAオレたちの綻びを狙って、熊本を巻き込んだ復讐戦争を仕掛けようってコトは……」

「今後、乗っかってくる可能性は無きにしも非ずですけど、何しろ偶発的な事件ですからねぇ。〝彼〟の仕込みとは考えにくいですよ、会長。……ただし、〝彼〟と同じくらい厄介な人が背後バックで動いているみたいです。その〝裏〟も取れちゃいましたよ」

「あ~、……察したわ。ウワサに名高いアルフレッド先生もやっぱり参戦してきたか。しないワケねぇわな。カミさんに経過報告するだけで終わるハズねぇもんな」


 ジャーメインの夫にして希更の父――アルフレッド・ライアン・バロッサは、武家屋敷の趣を現代に留める八代市で法律事務所を営み、古武術に関する事件も取り扱っていた。

 る流派の後継者を巡る裁判――平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件を解決に導いた名声は九州に留まらず、日本格闘技界全体に知れ渡っている。

 『MMA日本協会』の緊急会合は岩手興行の翌日に実施されたのだが、アルフレッドのもとには日付変更線を超える前から問い合わせが絶え間なく続いているという。

 電話を掛けてくるのは、熊本県内に道場を構える古武術家であった。バロッサ家の娘が『天叢雲アメノムラクモ』に出場していることは県内にも知れ渡っており、その父親ならば同団体の内情にも詳しいと誤解した人々からくだんの発表について説明を求められた次第である。

 二〇一一年の旗揚げ以来、『天叢雲アメノムラクモ』は特定の拠点を持たず、全国各地の運動施設を経巡るという〝旅興行〟の形態を採り続けている。これを成立させる為には開催先と適切かつ良好な関係を保つことが前提条件であった。

 岩手興行までは地方プロレス団体とも協力体制を整え、雇用創出も含めた地域振興を事業の中にも組み込んできた。東日本大震災で傷付いた日本中を元気付けたいという統括本部長の理想が経済活動にも反映された形である。

 それにも関わらず、樋口郁郎は〝火の国〟に対する配慮を欠いたまま開催地発表を強行してしまったのだ。

 バロッサ家の一族ジャーメインが吉見へ伝えた情報によれば、MMA興行イベントの開催について『天叢雲アメノムラクモ』から熊本の武術界に対する説明は一度たりともなかったという。個々の道場を訪ね歩いてこうべを垂れ、協力を頼み込む必要までは無かろうが、県内の古武術諸流派を統括し、その伝承を支える協会も何一つ知らされていないそうだ。

 熊本の武術家たちは根回しの類いがなかった点に憤慨している。協力金といった報酬を引き出すべく恫喝を試みているのではない。仁義にもとる〝暴君〟を許せないのである。

 〝筋を通す〟という考え方は、二〇一〇年代も半ばに至った現代にいて錆び付いたものであるのかも知れない。しかし、人と人は利害のみで繋がるわけではなく、関係性というものは誠の心なくして成り立たないこともまた事実なのだ。

 同県の武術界が軽んじられただけであったなら、『天叢雲アメノムラクモ』全体が仇敵の如く扱われるほど紛糾することもなかったはずである。修復不可能の決裂を招いたのは、熊本城を泥靴で踏み荒らさんとする行為であった。

 今なお『せいしょこさん』の呼び名で慕われる戦国随一の名将・とうきよまさが大改修を執り行い、細川家の統治に移ってからもはんちょうとして〝火の国〟を見守り続けた熊本城は、同地で生まれ育った人々にとっては時代を超えた誇りである。

 明治維新ののち西さいごうたかもりが不平士族を率いて挙兵したことから勃発した『西南戦争』では大惨事に見舞われたものの、勇壮なる天守閣を頂いた気高い城は、武士の時代から現代に至るまで心の拠り所であったのだ。

 〝火の国〟で育まれた武芸のすえを蔑ろにしたまま、〝外〟から乗り込んできた格闘技の興行イベントが熊本城を乗っ取るようなものである。同地の武術家たちに対する愚弄であり、は〝縄張り意識〟という一言で片付けられるほどではなかった。

 オーストラリアを起源ルーツに持つバロッサ家も〝外〟の人間だが、武者たちがやりかたなで武勇を示した時代から現代まで絶えることなく続く〝しょう〟の気風に共感し、古代ビルマ由来の伝統武術ムエ・カッチューアを教え広めるのに相応しい土地として祖国アメリカから移り住んだ次第である。

 猛き武士の魂が山にも海にも宿った土地だけに、事前の相談があったなら県内諸流派を統括する協会は言うに及ばず、個々の道場も積極的に協力を申し出たことであろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』は頼もしい味方となるはずであった人々をその誇りと共に切り捨てたのだ。

 中世のかっせんを発祥とする日本の古武術をアイルランド出身うまれの師範から学び、幼い頃に熊本を訪れた経験ことがあるギュンターも肌で感じた〝尚武〟の気風を鮮明におぼえている。

 日本の古武術を己の〝軸〟としているザイフェルト家の御曹司でさえ、諸流派や道場の事情まで把握しているわけではないのだ。全世界に情報網を張り巡らせている『ハルトマン・プロダクツ』も現時点では〝火の国〟の有りさまを掴んでいない。

 これについては樋口郁郎も同様であろう。日本格闘技界を支配する〝暴君〟とはいえ、その権力ちからが及ぶ範囲は自身が代表を務める『天叢雲アメノムラクモ』や、その影響下にある〝格闘競技〟の団体、スポーツ関連のマスメディアに限られるのだ。

 〝暴君〟はとは切り離された〝世界〟で修練と継承に励む古武術諸流派までもが己にひれ伏すと見誤り、権力の墓穴にはまり込んだとしか思えなかった。体制崩壊の兆しとも感じられる迂闊は、ギュンターにとって愉快の一字でしか表せないのである。


「自分のほうにも向こうの仲間から続報がどんどん届いていますし、何よりSNSソーシャルネットワークサービスの空気がねぇ……。今日だけで何十人がアカウント凍結に追い込まれることやら」


 緊急会合の出席者一同に見えるよう折原がかざした携帯電話スマホの液晶画面には、過激という二字では足りないような抗議が幾つも並んでいた。『MMA日本協会』の理事長が表示させたのは短文つぶやき形式で投稿するSNSソーシャルネットワークサービスであるが、利用者の発言の中から特定の語句を検索していく設定が施してあるわけだ。


「……SNSソーシャルネットワークサービスでの集団ヒステリーなんて、やってるコトは『ウォースパイト運動』とまんま同じよ。コレに付き合わされるバロッサ家の婿ムコ殿どのが心の底から気の毒だわ……」


 呻くような吉見の呟きには、熊本に根を張るバロッサ家の一族ジャーメインが『MMA日本協会』の副会長へ危急を知らせざるを得なくなった理由があらわれていた。

 ジャーメインの夫――アルフレッドからすれば、迷惑以外の何物でもあるまい。愛娘が出場しているだけで、バロッサ家は『天叢雲アメノムラクモ』の運営に協力しているわけでもないのだ。


「――『天叢雲アメノムラクモ』の内部なかで燻っている不満分子を焚き付けて、代表の首を挿げ替えるというもある。本当に熊本で興行イベントを開催したいのなら、樋口の首級くびを手土産にするのが望ましい。主催企業サムライ・アスレチックスの覚悟を示すことにもなるから、反発した道場も歓迎に一転するはずだ」


 電話の最中にアルフレッドが提案した解決策についても、ジャーメインは刺激性の強い表現を和らげずに吉見副会長に伝えている。声真似まで交えたものであったが、聞かされた側は苦笑する気にもなれなかった。

 名古屋空港の待合室でジャーメインが通話はなしたときには、既に何人もの古武術家がアルフレッドの法律事務所に駆け込んだ後であったという。人として守るべき仁義を嘲笑うかのような〝暴君〟への憤怒いかりをぶちまけ、アルフレッドも首肯をもってこれを受け止めたという。

 彼自身、法を軽んじているとしか考えられない〝暴君〟には憎悪しか持ち得ないのだ。

 アルフレッドの法律事務所に勤務する二人の弁護士は、熊本藩士にも伝授されてきた槍術と鉄砲術をそれぞれ嗜んでいるが、樋口来訪に備えて得物のを始めたそうだ。

 〝法の番人〟という立場を失念してしまったとしか思えない危険な行動であるが、これはおそらく所長アルフレッド冗談ブラックジョークではあるまい。


「前々から樋口さんを目の敵にいましたから、当然といえば当然かもですけど、バロッサ先生を敵に回すのは最悪だなぁ。〝在野の軍師〟ならとことんやるでしょう」


 樋口郁郎を巡る熊本武術界の狂騒にアルフレッドが関わったことを吉見副会長から明かされ、比喩でなく本当に頭を抱えたのは、理事の一員である杖村医師であった。

 スポーツ医学の中でも格闘家・武道家と専門的に向き合う分野――〝格闘技医学〟のセミナーにもアルフレッドは参加しており、同医学会を代表して『MMA日本協会』に名を連ねている杖村とも面識がある。

 その為人ひととなりを多少なりとも知っていればこそ、アルフレッドが樋口郁郎を〝敵〟として断定した事実に顔を引きらせたのだ。

 〝格闘技ビジネス〟で生計を立てる者の多くは樋口の権力ちからを恐れ、反抗そのものが委縮してしまうが、法律の世界で生きるアルフレッドは違う。彼の経営する法律事務所を貶める情報戦を樋口が仕掛けたとしても、謀略の限りを尽くして返り討ちにするはずだ。

 法律に精通していればこそ、によって許される範囲の策を使いこなす――法廷の内外でらつわんを振るうアルフレッドを〝在野の軍師〟と呼ぶ者も少なくなかった。


は娘さん――希更さんが出場している団体の方針を疑問視するだけに留めていたハズですが、は『天叢雲アメノムラクモ』を本気で潰しに掛かるかも知れません」


 冷徹の二字こそ似つかわしい頭脳で様々な事件と向き合ってきたアルフレッドは、なかぼうこうへいを生涯の目標に掲げていることもあって〝法の番人〟としては厳正であるが、一方で『ランボー』と恐れられるほど攻撃性が高い。

 敵対関係にある相手の名前を吼えながら、ステーキナイフをテーブルに突き立てる気性の持ち主なのだ。死んだ魚を新聞紙で包み、憎悪の対象に送り付けたこともある。

 明日にでも主催企業サムライ・アスレチックスの事務所に死臭を放つ贈り物が届くかも知れない。


のことですから、既に何らかの手を回していると考えたほうが良いでしょう。叩けば埃が出る身と言いますが、昵懇の探偵辺りを差し向けて樋口のまで調べ上げているはずです。……行き着くところまで行きますよ、確実にね」


 名門バロッサの入り婿ということもあって〝在野の軍師〟の雷名は『ハルトマン・プロダクツ』にまで届いているのか――切羽詰まった情況ということもあって誰も確かめなかったが、アルフレッドの動向を恐れる杖村の言葉に対して、ギュンターは想い出を噛み締めるかのような調子で首を頷かせた。


「少々突飛に聞こえるかも知れませんが、どうは女性として初のアメリカ統合参謀本部議長。親友という下院議員はアフガンでも戦った陸軍少佐です。……戦争が間近にった人の感覚は別次元と、最初から心得ておいたほうが判断を誤らないかと」


 弁護士である前に生まれついての軍略家であるのかも知れない――〝在野の軍師〟という物々しい異名の持ち主に対するギュンターの見解を受け止めた途端、館山弁護士の表情かおはますます険しくなった。

 従軍経験の有無に関わらず、育った環境に〝戦争の気配〟が垂れ込めていれば、それに応じて人は変わる――このようにもギュンターは言い添えたが、史上最悪と忌み嫌われる独裁政権に与することで〝戦争の時代〟に財を成したという原罪つみを背負うザイフェルト家の御曹司の言葉だけに、沈黙をより深くするほど重く響いた。

 『MMA日本協会』の最年長である徳丸は『太平洋戦争』開戦の前年に生まれ、幼い頃に〝戦争の時代〟ひいては戦後の焼け野原を経験している。それ故にザイフェルト家の御曹司が喉の奥から絞り出した言葉を誰よりも神妙な面持ちで受け止めていた。


「今からバロッサ家に仲裁を依頼できないものかね、吉見君? 今度の一件、ノラ総帥が動けば風向きを変えられるのではないかと思うのだが……」

「祖母は熊本の気風が気に入って移住した人――説明としてはこの一言で足りるんじゃないかって聞かされたとき、ガラにもなく背筋が凍り付くような気持ちだったわ。最初からバロッサ家に口利きの相談でもしていたら、徳丸さんの期待通りになったかもだけど、仁義をクソの役に立たないと思っている人間には、仁義なき戦いが待ってるってワケね」

「カネで解決し切れんのが信用問題の最も難しい点。今度の失態で『天叢雲アメノムラクモ』が負う損失はソロバンでも弾き出せまい。……樋口君に義理を立てる理由もないが、団体が丸ごと攻撃対象になる事態は避けねばならん。それはこの場の皆が考えていることだろう」


 日本MMAの行く末を憂う徳丸副理事長の問い掛けに対して、吉見副会長はジャーメインから聞かされたことを返答こたえに代えた。は事態の打開に向けた淡い希望を真っ向から切り捨てるものである。

 吉見自身も徳丸と同じ質問を通話のなかに投げ掛けている。それ自体が迂闊であったと後悔してしまうくらいジャーメインの声が苛立っていたことも彼女は付け加えた。

 日本での普及に際して安全面に配慮したルールを設けたが、本来のムエ・カッチューアは目突きなどの危険行為も含み、〝地上で最も恐ろしい格闘技〟と恐れられている。

 生身でという古来より受け継がれてきた様式を使いこなすものの、ジャーメイン自身の為人ひととなりは至って温和である。その彼女でさえ〝暴君〟に対する憤激を抑え切れない様子であったのだ。

 『MMA日本協会』の役員もオブザーバーも把握していないが、樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』に疑問を抱いた為、ジャーメインは愛娘のセコンドに付くという名目で岩手興行に潜入したのである。〝予防医学〟が行き届いているのかも運営スタッフに質したくらいだ。

 その果てに熊本の誇りを踏み躙られたのである。ジャーメイン本人が刺客となり、樋口郁郎の身辺を脅かしても不思議ではなかった。

 希更の所属団体ということもあり、バロッサ家は本来ならば熊本興行にいて最大の後ろ盾となったはずである。


「……それにしてもごうの深い話だ。私の記憶違いでなければ、くにたちいちばんは子どもの頃に熊本に疎開していたはず。不祥事の影響で一度は社会から抹殺されたくにたちの名誉回復に駆けずり回ったのが樋口君ではないか。その彼がこんなことを仕出かそうとは……」


 漫画原作者と格闘技雑誌パンチアウト・マガジン記者という互いの立場を超え、若き日の樋口郁郎と結び付いた『昭和』の〝スポ根〟ブームの火付け役――くにたちいちばんは戦前の東京に生まれ、〝戦争の時代〟には空襲から逃れるべく熊本県へと避難していた。つまり、樋口は〝最後の弟子〟として教えを授かっておきながら、師匠と縁の深い地を憎悪で満たしたわけである。


「……奥様の連絡そのものがバロッサ先生の策略の一手という可能性も考えられます」


 樋口暗殺計画にも直結し兼ねないバロッサ家の動向を巡り、重苦しい空気によって支配された会議室に館山弁護士の声は一等大きく響き渡った。


「熊本総出で『天叢雲アメノムラクモ』をブッ潰すようにアルフレッド先生が仕向けたってのか? 浩之の裏付け調査の通り、他の誰でもない樋口の野郎が不義理を働いた結果じゃねェのかよ」

「そこは会長が仰る通りです。あらゆる方向から樋口さんに恨みが向く状況へこれ幸いと便乗するつもりかも知れない――と、言い換えたほうが正しいかも知れません。杖村さんは勿論、私も伺っていましたが、今回のことが起こる前からバロッサ先生は『天叢雲アメノムラクモ』に疑問の目を向けておられました。……いえ、敵視と言ってしまっても差し支えないかと」

「親バカの暴走ってコトなら、オレも気持ち的に分からないでもねェけどなァ~」

「バロッサ先生に弁護士としての助言を依頼した方や、前身団体バイオスピリッツの頃から日本のリングに立ち続けてきたご友人が引き金になったのではないかと、私なりに推察しております」


 首都圏と九州で活動拠点が離れていることもあり、同じ民事訴訟専門の弁護士でありながら、館山はアルフレッドと法廷で対決したことがない。〝在野の軍師〟の恐怖を聞き及んでいればこそ、これから先も敵に回すような状況は避けたいというのが本音であった。

 その一方、同じ法曹界で生きている為に様々な風聞が遠い熊本から館山の耳に届く。

 岩手興行にも出場し、古傷の影響で試合中に足を満足に動かせなくなってしまったことを『あつミヤズ』による解説番組で容赦なく罵倒されたギリシャ出身うまれの選手――ライサンダー・カツォポリスがアルフレッドの法律事務所を訪ねたという。

 彼は以前から他団体への移籍を画策しており、〝暴君〟に契約不履行で追及されない策を〝在野の軍師〟に求めたのである。

 そのライサンダーにアルフレッドを紹介したのは、共通の友人でもあるアメリカ出身うまれの選手であった。生まれた国こそ違えども、この二人はかつての黄金時代から日本MMAを支えてきた古豪ベテランであり、じょうわたマッチと同じように樋口から不遇を被っていた。

 長引く経済危機に苦しめられ、ほんの数年で失業率が跳ね上がったギリシャでは転職も困難であり、己の命よりも大切な家族を養う為にはを受けられるMMA団体への移籍を模索してもおかしくはあるまい。

 そこまで所属選手を追い詰める『天叢雲アメノムラクモ』に『ランボー』が〝何〟を感じたのか――想像するだけでも館山の背筋に冷たい戦慄が駆け抜けるのだ。

 品性を疑われるような趣味であるが、アルフレッドは憎悪する〝敵〟の写真をダーツの的として使うと、館山は耳にしたおぼえがある。おそらく樋口のは蜂の巣としか表しようがない状態になっているのだろう。

 反目し合っているとはいえ、『MMA日本協会』にとっては『天叢雲アメノムラクモ』も樋口郁郎も、日本格闘技界で生きる同胞である。だからこそ〝内政干渉〟と疎まれながらも是正を促すのだが、〝敵〟でしかないアルフレッドは団体を滅ぼすことなど躊躇ためらうまい。

 確かに愛娘の所属先だが、あくまでも〝本業〟は声優である。『天叢雲アメノムラクモ』と共に日本MMAそのものが再び没落しても路頭に迷うことはない。友人のアメリカ人選手や、自分を頼ってきたギリシャ人選手にも何らかの救済策を用意するはずだ。


「館山さんの仰ることは納得の一言です。俺が指導した新貝君も随分と酷い目に遭わされましたからねぇ。……移籍か。しんかい君のことも然るべき団体に紹介したいくらいですよ」

「……バロッサ先生の画策によってに立ち至った場合、折原理事長はどのように動かれるおつもりですか? 今こそ『MMA日本協会』は足並みを揃えるべきとき

「火事場泥棒に走るほどさもしくはないつもりですよ。もし、何らかの行動アクションを起こす必要がある場合には、真っ先に館山さんに相談しますって。ねぇ、吉見さん?」

「行き場を失った女子選手を巻き込んで、樋口の野郎に乗っ取られた〝古巣メアズ・レイグ〟を復活させろとでも言うのかい? ……やぶさかじゃないよ、そのテの悪だくみ」


 ギリシャ人選手ライサンダー・カツォポリスの動向に関しては他言無用と前置きしたのち、館山弁護士は居並ぶ一同に自らの推察を披露していった。

 を受けて眉間に皺を寄せたのは折原理事長である。くだんのギリシャ人選手と対戦し、共に『あつミヤズ』から扱き下ろされてしまった中量級選手――しんかいこうは、彼と同じくヴァルチャーマスクが完成させた『とうきょく』の使い手シューターであり、旧知の間柄でもある。

 しんかいこうも〝暴君〟によって運命を狂わされた一人であった。別団体から中量級選手としてプロデビューする直前で『天叢雲アメノムラクモ』に引き抜かれ、体格差の埋め難い重量級選手との対戦を強いられた挙げ句、成績不振を理由に試合の機会まで減らされているのだ。

 体重別階級制度が適切に運用されるMMA団体であったなら、間違いなく花形選手エースとして活躍できたであろう同胞なかまを愚弄されたのである。おどけた表情かおの下に折原理事長が穏やかならざるモノを抱いていないはずがなかった。

 かつて自身が所属した女子MMA団体『メアズ・レイグ』を〝暴君〟による買収工作で『天叢雲アメノムラクモ』に吸収された吉見定香も同様である。


「熊本でおこったを利用して、樋口さんと『天叢雲アメノムラクモ』をまとめて焼き尽くそうとする陰謀は、あくまでも私個人の考えに基づく予想に過ぎません。とは別の意図があるのかも知れません。ただ一つだけ――もはや、『MMA日本協会』がバロッサ先生の企みに巻き込まれてしまったことだけは確信を持っています」

「樋口に負けず劣らずの性悪ワルよねぇ。きっと自分の奥さんにも悪だくみを明かしていないハズよ。通話はなした印象では、とても芝居している感じじゃなかったもの、彼女」


 もしも、樋口が熊本に足を踏み入れたなら生きては帰れないであろうと、『天叢雲アメノムラクモ』ではなく『MMA日本協会』にしらせたのは、それ自体が〝暴君〟に対する不信感のあらわれと吉見副会長は受け止めているが、「敵を欺くにはまず味方から」ということわざの通りにジャーメインも本人の気付かない内にアルフレッドの策謀に巻き込まれているのかも知れない。

 館山が身震いと共に想い出したのは、アルフレッドの瞳である。

 触れた者の心臓を凍り付かせそうな冷気を双眸から放っており、主演アニメの主人公と同じように相互理解の大切さを体現する愛娘の希更や、外国との交流試合といった民間単位の〝スポーツ外交〟に励んでいるバロッサ家とは対極の存在とさえ感じたのだ。


「樋口一人のしくじりなら仕方ねェって思うがよ、交渉上手のさいもんってェ最強の懐刀が居ながら一県丸ごと敵になるほど拗れるのは、そもそもおかしくねェか? 天下に名高い熊本城が血でけがされるかも知れねェって知ったら、自治体のほうが先に手ェ引くぜ」

「今まさに自分もを入れ始めたところですよ、会長。熊本のツテに頼み込んで、前後関係を洗い出してみます。の人間はどこかで繋がっているものですから、半日もすれば副会長が受けた電話以上のコトも判明わかるハズです」

「……内閣情報調査室に推薦したいくらいだぜ、浩之の人脈ネットワークはよ」

「情報が氾濫した社会では、些細なことでも裏を取るのが基本というだけですよ、会長。そこまで評価して頂いて光栄ですが、そもそも俺みたいな目立ちたがり屋は〝ない調ちょう〟には職務不適任でしょう」


 議長席に座り直しながら腕組みし、重苦しい溜め息を引き摺るような恰好でかぶりを振る岡田会長に頷き返して見せた折原理事長も、『天叢雲アメノムラクモ』が興行イベント開催先との連携に失敗した経緯を疑わしく感じていた。

 開催先の自治体や協力企業との交渉は、主催企業サムライ・アスレチックスさいもんきみたかが一手に引き受けている。『天叢雲アメノムラクモ』は地方振興も事業に含めており、その土地々々にもたらす経済効果は言うに及ばず、興行イベント運営に関連する雇用創出も、秘密諜報員ジェームズ・ボンドを彷彿とさせる男の任務であった。

 軽食を振る舞う屋台や地方プロレス団体との提携だけでなく、興行イベント会場すら彼なくしては確保できないだろう。『天叢雲アメノムラクモ』の〝旅興行〟は現地の運動施設を利用している。観客の移動手段とその経路まで踏まえて、行政との交渉も取りまとめなくてはならないのだ。

 さいもんは全国津々浦々を文字通りに飛び回り、自らの任務を成し遂げてきたわけだ。岩手興行までの一三大会で開催先との協力体制を万全に整えてきた男が熊本という一県のみでつまずくのは余りにも不自然であろう。何しろ説明がつけられないような落差なのである。

 首肯をもって岡田会長に同調の意を示しつつも、折原理事長は視線を交わさずに携帯電話スマホを操作し続けていたが、決して議長席を軽んじているわけではなく、熊本県にけるさいもんきみたかの足取りを掴む為の情報収集に勤しんでいる為であった。


「……バロッサ先生と柴門さんが裏で手を組み、樋口さんの失脚を謀っているのなら、辻褄は合います。柴門さんがその野心を秘めていると仮定した場合、利害も一致しますし」


 今しがた口にした最悪の筋運びも含めて、館山弁護士が述べてきたのは限られた情報に基づく憶測である。

 ジャーメインを問い詰めても、アルフレッドの法律事務所に問い合わせても、新しい手掛かりは得られまい。却って事態を悪化させてしまうだろう。

 〝在野の軍師アルフレッド・ライアン・バロッサ〟は自らのしゅんどうに勘付かれることまで見越した上で、はまれば二度とは抜け出せない策を張り巡らせている――誰一人として館山の見解に異論を唱えなかった。




 同じ弁護士であるが故、思考あたま構造つくりも似通うということか、館山は他の理事よりもアルフレッドの企みを深く読んでいる。『MMA日本協会』をおののかせた〝在野の軍師〟は、熊本城の程近くにはんぺいの如く位置する古めかしい屋敷を訪ねていた。

 手入れの行き届いた庭を望む客間へと通され、現在いまは正面の上座にからの座布団を仰いでいる。に腰を下ろす者の到着を待ち続けているわけだ。

 かがりだいが幾つも立てられ、真っ黒な炭は余韻の如くにびいろの煙を漂わせている。その真下には、何やら無数の足跡――端然と正座しながら意味ありげな眼差しで庭の様子を見つめるアルフレッドは、雨に濡れた烏を彷彿とさせる色合いの背広とチョッキに襟なしノーカラーシャツを組み合わせ、ネクタイではなく白いスカーフで首元を覆っていた。

 幾つも混じった〝白い物〟が独特の艶を生み出している為、初対面の人間はアッシュグレーの頭髪かみを銀色と見間違えそうになるのだ。

 そのアルフレッドが見据える先――とこには大小の日本刀と共に鎧兜の一揃いが飾られていた。戦国時代末期に用いられた〝とうせいそく〟と呼ばれる様式の物だが、兜には太刀で叩き割られたかのような痕跡が修復されないまま残っている。おそらく後世に美術品として誂えられた物ではないだろう。

 まさしく武勇の誉れであり、この屋敷と家門のを表しているようであった。アルフレッドが背にする襖には『さんかいびしいつくぎぬき』と呼ばれる家紋があしらわれている。


よししきへ入る直前に届いたしらせによれば、『MMA日本協会』のお歴々は今度の騒乱、所長の画策と勘繰り始めた様子。撒き餌さながらに首尾よく伝達つたわりましたな」

ダンの策が効いてきたってワケだな。切れ者なんて呼ばれるがたは、上手い具合にケツをアブッてやるだけで、勝手にに動き始めるってね」


 アルフレッドのことを「所長」と敬称で呼んだ男性はしょうもりたか。「ダン」と気さくに呼ぶのはごんげんぱちろう――後ろに控えたこの二人は、改めてつまびらかとするまでもなくアルフレッドの部下であるが、弁護士であるのと同時に熊本の武術家であった。

 鼻の下や顎全体を豊かなひげで覆う一方、頭部あたまが大きく禿げ上がった前者は槍術を、やや痩せ気味で顎の下にのみ髭を蓄えた後者は鉄砲術をそれぞれ嗜んでいる。


「アジアの主導権をり兼ねないシンガポールのMMA団体も、今日までは『MMA日本協会』にとって差し迫った脅威ではなかった。な。だが、『祇園の雑草魂』の影を意識せざるを得なくなったこれからは違う」

「想像の中で騒乱さわぎの首謀者を作り出して、勝手に焦って勝手に防衛策を捻り出すってね。切羽詰まったときに頭の中で捏ねるのは、得てしてそんなモンですからねぇ」


 シンガポールで台頭した新興団体の〝影〟となった『祇園の雑草魂』の暗躍は、あくまでも限られた情報に基づく想像に過ぎない。

 これに対し、熊本で火の手が上がった狂騒は、日本MMAにとって〝現実〟の脅威だ。前方から破滅が迫る状況では、背後に感じる影が恐慌を引き起こすことも少なくない。

 不確かな想像というは、事態を伴わないが為に焦燥を吸い上げて際限なく膨らんでいく。ましてや、日本MMAにはかつての最年少選手から報復を受けるべき理由もあるのだ。恐怖は後ろめたい気持ちからやって来るのである。


彼奴きゃつらの動向に目を光らせ、何らかの反応あらば、それに合わせて次の手を打つのみ」


 厳つい面構えの少弐守孝が重々しく吐き出した一言は、〝在野の軍師〟に対する警戒心を強めていた館山弁護士にとって答え合わせのようなものであろう。

 吉見定香がジャーメインからの着信を受けた時点で、アルフレッドの〝罠〟は始まっていた。知らない間に巻き込まれた迂闊さや、相手の真意を測り切れない現状を呪っている場合でもなく、講じるべき策を捻り出さなくては、日本MMAが立ち行かなくなるのだ。

 『MMA日本協会』の反応も、アルフレッドには想定の範囲内であった。


「探偵社の調査しらべによれば『こうりゅうかい』も現時点では動きがない。樋口も最後の〝切り札〟は温存しておきたいと見える」

「――その話、私の前でなさってもよろしいのですか?」


 たまり兼ねたようにアルフレッドの声を遮ったのは、隣り合わせて正座している男性であった。

 こくびゃくのコントラストが鮮やかなゴマ塩頭と鼻の下へ僅かに蓄えた髭が得も言われぬ色気を醸し出す佇まい――さいもんきみたかである。『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業にいて対外交渉を一手に引き受ける男性も、同じ客間にて屋敷の主を待っていた。


「樋口郁郎が未だに反社会的勢力ヤクザとの関わりを断ち切っていないのであれば、実働部隊を熊本われわれに差し向けて鎮圧を図るかも知れない」

「相手が誰であろうと熊本われらは負けん。攻め寄せてきたときには家伝の槍にて一戦つかまつる」


 達人の二字に相応しい風格を纏った少弐守孝が勇ましく握り拳を作ると、真隣に座る権田源八郎は長い銃身を左手で支え、右の人差し指でひきがねを引くような仕草を披露した。

 を見せ付けられた柴門はえて確認しなかったものの、おそらくは戦国時代から熊本県で伝承されてきた火縄銃を扱う所作であろうと察している。


「ただし、そのときには熊本から古武術道場が根こそぎ吹き飛ぶでしょうな。なんか大変だ。……この理屈からくり、〝格闘技バブル〟と一緒に経験コトのある人にはお理解わかり頂けるんじゃありませんかねぇ?」


 法律事務所々長アルフレッドと二人の部下から矢継ぎ早に畳み掛けられようとも柴門は冷静である。

 〝黒い交際〟が暴かれたことによって『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体は解散を余儀なくされ、連鎖的に〝格闘技バブル〟も崩壊し、日本格闘技界は不遇の暗黒時代を迎えたのである。

 そして、崩壊の引き金となった〝交際相手〟が『こうりゅうかい』――関東最強を標榜する武闘派の指定暴力団ヤクザであった。

 アルフレッドは日本MMA関係者にとって言い逃れしがたい実例を突き付け、前身団体バイオスピリッツから『天叢雲アメノムラクモ』に変わった現在も『こうりゅうかい』と繋がっているのか、しているわけだ。

 今し方は探偵社との連携をわざわざ強調するように言い添えている。おそらく主催企業サムライ・アスレチックスの内部調査は既に完了しており、その上で牽制しようという腹積もりかも知れない。

 アルフレッドやバロッサ家が樋口個人に敵意を抱いていることは、さいもんきみたかも自分自身の情報網によって把握している。

 それでもアルフレッドの真意を読み切れなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』を熊本城に踏み込ませまいと決起した武術家たちにごうを煮やし、樋口が本当に『こうりゅうかい』と連絡を取ってしまったなら、熊本全土を血に染める武力抗争が始まる。

 双方にとって最悪の事態を避けたいという目論見があることは間違いない。『天叢雲アメノムラクモ』は愛娘むすめの所属先なのだ。無論、指定暴力団ヤクザが熊本に襲来する動きを見せた直後には、その背景が白日の下に晒されることであろう。

 しかし、〝在野の軍師〟の目的ねらいで完結するとは柴門には思えないのである。


「随分と『MMA日本協会』の内情にお詳しいようですが、盗聴器でも仕掛けておられるのですか? いえ、それは私には関わりのないこと――ですが、そこまでしてバロッサ先生は何をされようとしておられるのですか? 『天叢雲われわれ』に対して、何を……?」

「法は人そのものであり、人もまた定められた法なくして人足り得ない――それだけだ」


 遠回しに説明を促してもかわされると判断し、えて真っ直ぐにたださんとするさいもんきみたかであったが、穿つような眼差しに対してアルフレッドが返答こたえに代えたのは謎かけである。

 余人には理解不能な言葉であったが、そこに込められた意図を柴門は即座に汲み取り、たちまち顔を歪めていった。この男には間違いなく通じるとしていればこそ、アルフレッドも本来は密談とするべき内容を真隣で話したのだ。


「今でこそ樋口郁郎の手足となって働いているが、柴門さんの〝本業〟は貿易商と聞いている。会社自体は現在いまもご家族が取り仕切っておられるとか。海外貿易は世情に明るくなければやっていけない仕事で、そこに関わる人間は目端も利く。俺たちの法律事務所のことも既に調べ上げているのではないか?」

「そもそも日本の格闘技界に『グラウエンヘルツ法律事務所』の名前を知らない人間はいませんよ。これはでもおべっかでも何でもなく一つの常識です」

「皮肉としては甘口だな」


 えて隠す理由もない為、柴門は少しばかり緩やかな動作うごきでもって頷き返した。今やアルフレッドが八代市内で経営する法律事務所は『天叢雲アメノムラクモ』の〝仮想敵〟である。最悪の事態まで想定し、その内情を調査しなければ対策も立てられないのだ。

 調査員こそ雇ってはいないものの、優秀な探偵社との業務提携によって相手の裏を掻くような情報戦を展開していることも掴んでいた。った印象のある二人の部下が抜け目のない弁護士であることも把握している。


「バロッサ先生の恩師は『ロンギヌス社』で――兵器メーカーで法律顧問を務めておられるのでしたよね? 私の会社で商ってはいませんが、……る種の究極的な〝暴力〟を法のもとに保護するというのもごうの深い話ですね」

「これほど道理に合うことも他に知らないがな。〝暴力〟を犯罪に換えてしまう手段だからこそ、法律ですることが適切だと俺は考えている。格闘技やスポーツのルールと大きく変わるものでもない」

「……そこで先程の言葉に行き着くわけですか。法という名の首輪を自ら外すようなモノは人足り得ない――〝法の番人〟としても野放しにはしておけないと?」

「野放しにはしておけないと、柴門さんが誰よりも理解わかっているはずだ。樋口を同じ目に遭わせない限り、怨みが晴れるはずもない『メアズ・レイグ』の関係者よりもな。目端の利く人間は情と道理を天秤に掛けたとき、後者を選ぶと経験から知っているつもりだ」


 火縄銃を撃つという権田源八郎の仕草からイタリアの軍需企業に辿り着くアルフレッドの人間関係を想い出し、これを例に引いて牽制する柴門であったが、反撃としては余りにも脆く、逆に得心させられそうになってしまった。


「銃も適切なルールに従って使用すれば、〝平和の祭典〟の競技になる。俺の幼馴染みがアトランタの代表選手オリンピアンになれたのは、法による管理が行き届いていた成果とも言い換えられる。……本人には傲慢な考え方と叱り飛ばされるだろうがな」


 アルフレッドが述べた旧友とは、アメリカで最も有名な喜劇女優コメディエンヌ――フィーナ・ユークリッドである。全米屈指の視聴者数を誇るトーク・バラエティーの司会進行係であり、女優としてもエミー賞やアカデミー賞に輝いた多芸多才な人物であった。

 冠番組の撮影クルーと共にアメリカ史上最悪のサイバーテロ事件に巻き込まれた一人とも言い換えられるだろう。更に経歴キャリアを遡れば一九九六年アトランタと二〇〇〇年シドニーの二大会に辿り着く。ライフルを得物として射撃競技に出場した代表選手オリンピアンなのである。

 アルフレッドの交友関係を洗い出す中で、柴門もフィーナ・ユークリッドに行き着いていた。だからこそ、「法律による〝暴力〟のは、格闘技やスポーツのルールと変わらない」という主張にはんばくできなくなってしまった。

 フィーナ・ユークリッドが出場した一九九六年アトランタオリンピックでは、メイン会場内の屋外コンサート施設を狙った爆弾テロが発生している。死傷者が一〇〇名を超える大惨事であった。

 柴門ほど知恵の働く人間であれば、旧友フィーナ・ユークリッドの名前を聞いただけで〝平和の祭典〟を引き裂いたテロ事件の記憶が甦るとアルフレッドは信じていた。つまりはを法なき凶行を捨て置けない理由として示した次第である。

 今や樋口郁郎は武力衝突――即ち、〝戦争〟の火種と化している。


「バロッサ先生の〝法の番人〟としての矜持は十分に承りました。頷かざるを得ない点が多々あったことも否めません。……ですが、法のもとに人を権利は、貴方に――銃とは違う〝暴力〟を向ける者にあるのですか?」


 少弐守孝と権田源八郎が憐憫の情を抑えられなくなるほど複雑な表情かおとなった柴門は、溜め息を一つ挟んだのち、法を振りかざした断罪の是非をアルフレッドに問い掛けた。

 庭と客間を隔てる板張りの廊下の向こうから如何にも不機嫌そうな足音が近付いてきたのは、〝法の番人〟が冷たい瞳で柴門を見つめ返した矢先のことである。


「――許すまじ、樋口郁郎ッ!」


 怒気を引き摺りながら現れた屋敷の主――少弐守孝が述べた通り、家名は『よし』であろう――を一礼をもって迎える四人であったが、顔を上げるよりも早く大音声が脳天に突き刺さり、忌々しそうに吐き捨てられた男を代表としてすいたいする柴門の顔から一切の表情が消え失せた。

 よしの屋敷を訪ねた理由が貼り付けられた顔と言い換えられるのかも知れない。

 その様子を目の端で捉えようとも、アルフレッドは薄笑い一つ浮かべなかった。『ランボー』と恐れられる男が心の中で振りかざした刃は、心臓も凍るような冷気を帯びている。




 焦燥感を煽り、心理的に『MMA日本協会』を追い込むことも〝在野の軍師〟は狙っているのだろう――それが館山弁護士の推察であった。悪辣の二字こそ相応しい策謀に打ち負かされた弁護士を何人も知っていればこそ、アルフレッドと争う機会がなかったことを彼女は幸運と感じてきたのである。

 今となってはも過去のものであろう。〝在野の軍師〟が張り巡らせた謀略は、『MMA日本協会』の理事たちを確実に侵食を始めている。


「今は熊本の中に留まっている様子だが、隣県に飛び火していけば、MMAという〝格闘競技〟そのものが九州から締め出しを喰らい兼ねん。アメリカのように州法で禁止される心配はなくとも、運動施設から『来るな』の一言で突っねられたら開催は不可能だ」


 徳丸副理事長が口にし、一等重く響いた懸念は、会議室に居並ぶ皆が共有するものだ。

 樋口郁郎という一個人への攻撃では終わらず、MMAそのものに対する憎悪が高まって不買運動が起こり、熊本も九州も飛び越えて拡大し続ければ、格闘技興行イベントの地上波テレビ放送復帰という数多の人々が分かち合う悲願は最悪の形で破れることであろう。


「いずれにせよ、岩手大会までの『天叢雲アメノムラクモ』でなくなったことは間違いあるまい。九州から締め出される状況に陥ったら最後、〝格闘技バブル〟と同じ状況が繰り返される。積み木が一気に崩れるようにな。日本中の格闘技が共倒れとなる前に先手を打たねばならん。……どれもこれも例の弁護士先生の手のひらの上かと思うと腹立たしいがな」

「図らずも副理事長が樋口体制に喰らわせようと企んでいた一計コトに戻ったワケですね。こうなったからには待ったナシですよ。自分も引き続き情報をかき集めますが、同時進行でどんどん立ち回っていかないと。交渉事ならお任せあれ」


 互いの意思を確かめるように頷き合う『MMA日本協会』の正副理事長に対し、これを見つめる杖村の顔は瞬く間に曇っていく。二人が起こさんとしている〝何か〟の行動にも気乗りしない様子である。


「裏で手を回していくような真似を杖村君が好まんのは理解わかるよ。反対に手をこまねいてはいられん状況ということがキミには理解わかっているだろう? 折角、タファレル君が開いてくれたを無駄にも出来ん。彼曰く〝謝肉祭〟から始まった道筋をね」

「これからのMMAにとっても必要なことですから、私も駄々をねたりはしません。樋口さんの暴走にくさびを打ち込む一手と、先ほど副理事長が仰った意味も分かっていますし」

「杖村君や館山君が望む『天叢雲アメノムラクモ』の抜本的な改革のつもりだったのだが、事ここに及んでは軌道修正も已む無しだ。それでいてすべきことが変わらんとは妙な気持ちだよ」


 は吉見副会長が電話を終えて会議室に戻ってくる直前まで役員たちの間で話し合われていたことである。

 徳丸副理事長は「情報戦は樋口郁郎の専売特許ではない」と口の端を吊り上げて見せ、他の役員ひとびとも頷き返したのだが、そのときにも杖村は同意を躊躇ためらってしまった。

 樋口体制の暴走に拍車が掛かる『天叢雲アメノムラクモ』に対し、『MMA日本協会』も計略を仕掛けようとしている。〝在野の軍師アルフレッド・ライアン・バロッサ〟にけしかけられる前から独自の画策が動いていたのだ。

 医師として人の心とも真っ直ぐに向き合ってきたつえむらあけは、策謀をもって状況を支配することに抵抗が強い。『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMAの未来にとって必要な措置と理屈では飲み下していても、感情の面では消化し切れずにいる様子であった。

 〝法の番人〟である館山弁護士も強硬な手口は容認し得ないはずだが、思考そのものは計略を主導する徳丸や〝在野の軍師〟に近い為、杖村の横顔を気遣わしげに見つめながらも〝立場〟を同じくすることはなかった。


「副理事長がお考えになられた策は、アマカザリ選手に対する負担が余りにも大きくなろうかと思われます。医師の立場からしますと、こればかりは見逃すわけには参りません。熊本大会までの三ヶ月を利用して『天叢雲アメノムラクモ』を内側から変えると申されるのでしたら、選手のケアに充てるべき時間も計画に含めるべきではないかと」

「アマカザリ君の働き如何で成否が分かれる以上、そこを突っつかれるとのは痛いな。彼の肉体的負担が軽減されるように調整すれば、杖村さんも乗り気になってくれるかね?」

「……本音を申し上げれば、『八雲道場』の承認を得た上で取り掛かるのが正しいと今でも思います。けれども、アマカザリ選手に知らせてしまったら成立しないのですよね?」

「人形遣いのような真似はどうにも好かんのだが、何も知らずにいるほうがアマカザリ君も心理的・精神的に楽でいられるはずだよ。……この企みが樋口に見破られたとき、〝コマにとして利用された〟という境遇そのものが彼の身を保障してくれるだろう」


 杖村は自らの手が汚れることを避けようとしているのではなかった。口先だけの理想論ではなく、具体的な行動によって日本格闘技界の将来を守らんとする覚悟は他の役員に勝るとも劣らないのだ。

 その上で、問題提起が必要な局面では年長者が相手であろうとも譲らない――〝暴君〟の一声によって運営そのものが左右され、組織に対する不満ばかりが澱みのように溜まり続ける『天叢雲アメノムラクモ』と『MMA日本協会』の根本的な差異ちがいをオブザーバーのギュンター・ザイフェルトは己の双眸で確かめていた。

 自分が離席している最中に提案されたものである為、徳丸と杖村が語らう策謀の全容を吉見副会長は未だに把握しておらず、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーの名前が挙がった際には「そこはまだ聞いてないわ~。置いてきぼりだわ~」と大仰に肩を竦めていたが、彼女については後から説明もあることだろう。


「……『天叢雲アメノムラクモ』と――いや、樋口と『MMA日本協会オレたち』がもっとマシな状態で付き合えてたら、『お前、夜道には気を付けろよ』の一言で済んだハズなのによ。何もかも遠回りになっちまうのが悔しいったらありゃしねェぜ。ああ、悔しいなッ!」


 杖村の発言を受け止めたことによって胸中に押し込んでおいた感情が堰を切ったのか、岡田会長も議長席に座ったまま盛大に頭を掻きむしり始めた。彼も樋口体制の『天叢雲アメノムラクモ』を策謀で揺さぶることを素直に承服できたわけではなかった。

 岡田当人の呻き声も表している通り、『天叢雲アメノムラクモ』と『MMA日本協会』の関係が良好かつ健全であったなら、憤怒で満たされた熊本の一件とて警戒を促すだけで事足りるのだ。

 しかし、現在いまは逆効果になってしまうだろう。忌々しい『MMA日本協会』へ自らの威光を見せ付けるかのように熊本城を訪れ、放たれた刺客の餌食となるはずだ。メインスポンサーによる助言さえ内政干渉として拒絶する樋口の頑なな態度が岡田会長にはもどかしくてならないのである。

 傍目には八方塞がりとしか思えないからこそ、策を弄して閉ざされた門をこじ開けるしか選択肢がないのである。

 その岡田の様子を眺めながら、ザイフェルト家の御曹司は何もかも〝暴君〟を気取った愚か者の自業自得と笑いそうになってしまった。

 他者の〝誇り〟を蹂躙してきた男がその因果に命運を絡め取られようとしている。当然の帰結に行き着くことこそ『ハルトマン・プロダクツ』には最も望ましいのである。

 それ故に自らの小賢しさを嘲りながらも、徳丸の策謀に差し出口を挟まなかったのだ。ただ一言、日本MMAにとって命取りになり兼ねない事態を憂慮する――と、『天叢雲アメノムラクモ』の行く末を案じるメインスポンサーの〝立場〟を示すのみに留めている。

 樋口体制の打破は『ハルトマン・プロダクツ』も急務と考えているが、肝心の〝暴君〟が影響力を残したまま代表の座を明け渡したなら、ぜんじょうした相手を裏から操ることは火を見るより明らかであった。

 がギュンターの述べた憂慮だ。浅ましいくらいの詭弁と自覚しているが、さりとて騙したわけでもない為、居並ぶ役員の目を見つめたまま口にすることが出来たのである。

 樋口郁郎の息の根は確実に止めなくてはならなかった。〝格闘競技〟を巡るアジアの勢力図は時々刻々と変化しており、たった一人の対処に時間を費やしてもいられない。〝暴君〟を狙わんとする刺客をザイフェルト家のほうでしたいくらいだ。

 樋口体制が完全に消滅したのち、『MMA日本協会』と歩調を合わせて『天叢雲アメノムラクモ』の立て直しを支援すれば、日本格闘技界そのものに対する影響力も盤石に出来るはずであった。

 経済界にもその名を轟かせる海千山千の徳丸などは、や御曹司の腹芸も見透かしているのだろうが、〝暴君〟を除いた後の展望も考えられる人間であれば気付かない芝居フリを通すはずである。

 『MMA日本協会』にとっても世界最大のスポーツメーカーは味方に付けなくてはならない存在なのだ。双方の認識が一致していなければ、部外者に聞かせるべきではない議論が続出すると予想された緊急会合に同企業ハルトマン・プロダクツからオブザーバーを招くわけがなかった。


「シンガポールも熊本も、おまけに『ウォースパイト運動』も――世の中、いよいよワケが分かねェ! だからこそ『MMA日本協会』はブレずに志を貫かなきゃならねェッ!」


 次々と降り掛かる想定外の事態に頭を抱えていた岡田会長であるが、一つの覚悟を固めたのか、テーブルの上に飛び乗り、そこで胡坐を掻くと居並ぶ役員を順繰りに見回した。

 その瞳にも紡ぐ言葉にも、迷いと呼ぶべきモノは感じられない。


「どうせどこかで、オレらの手でケリをつけなきゃならなかった問題だ。……みんな、腹を括ろうぜ。今、『MMA日本協会オレら』が浴びる返り血は、日本MMA今後一〇年の〝道〟をしっかりと固めるモンだ。皿ごと毒をう覚悟でやるしかねェッ!」

「とことん付き合いますよ、会長。こうなったからには三ヶ月後に『天叢雲アメノムラクモ』の復活祭を迎えられるように突き進むだけでしょう。、そこから始めるとしましょう」

「おうよ! 熊本の弁護士先生だろうが、『祇園の雑草魂』だろうが、オレらをハメるつもりなら受けて立とうぜ! 正々堂々と真っ向勝負だッ!」


 全ては格闘技の未来の為に――『MMA日本協会』を率いる立場に相応しい檄を飛ばした岡田会長と、これにすぐさま頷き返した折原理事長を交互に見比べるギュンターは、復活祭という一言から『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手スーパースターを想い出し、次いで祖国ドイツける〝謝肉祭〟が脳裏をよぎった。

 伝統文化が色濃く残る地方では、乱痴気騒ぎの最後に等身大の藁人形を焼き尽くす習わしがある。清貧から著しく逸脱した狂態の罪をに被せて灰へと変え、〝主〟の受難に寄り添う日々を迎えるのだ。

 徳丸副理事長と『MMA日本協会』は、花形選手レオニダス・ドス・サントス・タファレル復活祭イースターになぞらえた新人選手キリサメ・アマカザリの次戦――即ち、熊本興行に至る三ヶ月で樋口体制にせいちゅうを加える計略である。

 本来の復活祭イースターとは「肉食との別離」を執り行う謝肉祭からおよそ四〇日を経て迎える。会議室ここに居並ぶ役員たちは、ほぼ同じ期間で『天叢雲アメノムラクモ』を吞み込むほど大きな〝流れ〟を作り出そうとしていた。

 それならば、樋口郁郎が犯した罪を背負って燃やされる藁人形は『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーであろうか。レオニダスが謝肉祭にたとえた戦慄の事態は、他ならぬキリサメ・アマカザリによって引き起こされたのである。

 謝肉祭ののちにはオリーブの枝などを燃やして作った灰でもって信徒の額に十字を記す儀式がある。灰そのものを被る場合もあるが、『MMA日本協会』の役員ひとびとはさしずめ儀式を執り行う司祭ということであろう。


(傷心旅行している暇なんかないぜ、ストラール。例の小僧――キリサメ・アマカザリが鍵を握っていると来たもんだ。他の誰でもないお前が黄昏ラグナロクを見届けなくてどうするんだ)


 先程まで『あつミヤズ』による解説番組の視聴に用いられていたタブレット端末の液晶画面には、二枚の顔写真が並んで表示されている。

 片方は日本MMAの黄金時代を築き、引退後は沖縄クレープの移動販売に転向して大成功を収めた〝柔術ハンター〟――じゃどうねいしゅうだ。写真は現役時代の物ではなく、フードトラックの脇に設えた椅子に腰掛け、故郷のさんしんを奏でていた。

 もう一人は安物のヘルメットを被ってスクーターに跨る中年の日本人男性であった。

 羽織ったスカジャンは随分と年季が入っており、本来は陽の光を跳ね返して赤く煌めくであろう加工も剥げ、色褪せた末に金魚を彷彿とさせる風情となっている。

 人の好さそうな面持ちであるが、樋口郁郎の一番弟子を称し、中・軽量級選手の活躍するMMA団体の代表を務めてきたこの男に新たな秩序が期待されている。

 『MMA日本協会』は国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立機関であるが、直轄に近い団体はいずれも短命に終わっており、『天叢雲アメノムラクモ』の運営自体を任せることは『ハルトマン・プロダクツ』としても避けたかった。

 前身団体バイオスピリッツの破滅を経験した『天叢雲アメノムラクモ』や、経営不振から外資シンガポールマネーを頼る事態に陥った『こんごうりき』とも異なり、自らのMMA団体を一〇年以上も堅実に率いてきた者を旗頭として立てるのであれば、徳丸の策も分の悪い賭けではなくなると、ギュンターは得心したのだ。

 〝暴君〟に差し向けられんとしている金魚の如き男性おとこの名は、そえもつちかのりという。



 のちの格闘技史に天下分け目の大動乱として記される『りょうていかいせん』とは、読んで字の如く二つのおおきな勢力による覇権争いである。改めてつまびらかとするまでもなく、片方は世界のMMAを主導してきた『NSB』であるが、これと相対するのは『天叢雲アメノムラクモ』ではない。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催に漕ぎ着けた日本最大のMMA団体は言うに及ばず、日本格闘技界全体が長く苦しい内部闘争によって世界の〝流れ〟から取り残されていく。

 〝火の国〟で起きた変事こそが〝全て〟の発端はじまりであった。



                     *



 奇しくも日本MMAの黄金時代――〝格闘技バブル〟と重なるのだが、二〇〇〇年代に盛んに用いられた〝ヒルズ族〟という持てはやし方は、二〇一四年六月現在には既に忘却の彼方に消え去っている。

 だからといって六本木の一等地にそびえ立つ超高層タワーマンションの値打ちが下がろうはずもなく、今でも〝富める者〟の象徴であり続けている。地上からを仰ぐ人々は、首を反らしながら瞳の中央に羨望の二字を湛えるのだ。

 最上階から眺望する東京の街並みは、絶景という一言をもってしても圧倒的に足りない。夜ともなれば、美しくライトアップされた東京タワーまで独り占めできるのだ。まさしく〝特権〟と呼ぶのに相応しい。

 日本列島どころか、世界中から〝全て〟が集まるコンクリートの密林ジャングル頂点いただきから見下ろす快楽は麻薬に等しく、己こそが〝天に選ばれた者〟という錯覚に酔いれてしまうのも無理からぬことであろう。

 地上を人々がどれほど背伸びしても、誰にも〝天〟を覗くことは叶わないのである。例え望遠鏡といった道具によって室内を盗み見されようとも、些末なことと一笑に付すような解放感にあたまとろけてしまうのかも知れない。

 そして、自らを〝超越者〟と信じたとき、人間ひとは果てしなく〝自由〟となる。余人には理解し難い感覚の顕現あらわれであろうか、部屋の主は何一つ纏わぬ裸体すがたを晒していた。

 ヘアバンドを使って持ち上げていないと眉間の大部分を覆ってしまうほどアフロが豊かである為、剥き出しの肉体からだが一等際立っている。逞しい胸板からヘソに掛けて蜘蛛の巣を模るタトゥーを刻んでいた。左胸の辺りには糸に絡まって身動きの取れなくなった蝶が描かれているのだが、これこそ一番のこだわりなのであろう。

 腰にタオルの一枚を巻くこともなく、一人で使うには余りにも大き過ぎるソファーの中央に腰掛けているのはレオニダス・ドス・サントス・タファレル――現在の『天叢雲アメノムラクモ』にいて、絶対王者たる『かいおう』の玉座に最も近い花形選手スーパースターである。

 余人の手など決して届かない〝天〟にレオニダスが得た〝城〟は、人間ひとが想像し得る欲望を一〇〇坪という空間に敷き詰めてあった。

 シャンデリアや調度品など部屋の隅々まで贅の限りを尽くしてはいるものの、歪と感じてしまうほど取り合わせが乱雑であり、悪感情を抱いて入室した人間は統一性を最初から放棄した有りさまを一瞥して「成り上がり者に似つかわしい趣味」と吐き捨てるはずだ。

 窓から差し込む陽の光を鋭く跳ね返し、見る人の目を眩ませる金銀のモザイクタイルで覆われた壁はともかくとして、野獣の敷物やパルテノン神殿を彷彿とさせる飾り柱など世界中の高価たかそうな品々を片端から取り寄せ、いろの調和すら考えずに置いてあるようなものであった。美観を損ねていると感じない人間のほうが少ないだろう。

 訓練トレーニングに要する器具は一個ひとつとして見当たらず、レオニダスの素性を知らなければ〝プロ〟のMMA選手の自宅いえとも想像できなかった。

 尤も、レオニダスは他者ひとから内装を揶揄されることこそ望んでいるのかも知れない。キリスト教が戒めてきた〝七つの大罪〟をえて並べているとしか思えない男の耳にはの嫉妬として心地好く聞こえるわけだ。

 傲慢・怠惰・強欲・暴食・色欲――日本語では〝罪源〟とも訳される七つの内の殆どが部屋の至るところに転がっていた。〝天〟に立つこの超越者は〝主〟の教えが人の営みに根差したブラジルを故郷としながらも、ぼうとくと糾弾されるべき言行が目立つのである。

 食べ散らかした肉の塊やフルーツの盛り合わせは、ダイニングではなく部屋の中央のビリヤード台で放置されている。床に転がされたからの酒瓶も一本や二本ではない。

 暴食と色欲の極みとも呼ぶべき乱痴気騒ぎ――理性なき謝肉祭カルナヴァウが過ぎ去った後のような有りさまである。床には女物の着衣が幾つも脱ぎ捨てられていた。

 寝室では快楽の謝肉祭カルナヴァウに招かれた幾人かの女性が疲れ果てた肢体からだをだらしなく投げ出したまま寝息を立てている。

 住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した史上最悪レベルの金融危機の影響は、発生から数年を経た現在も世界経済を蝕み続けている。

 長期に亘る不況下では、出資者スポンサーにも格闘技やスポーツを育てるだけの余裕がない。MMAという〝文化〟自体が一度は価値を喪失うしない、マイナス成長としか表しようのない日本の場合は〝プロ〟の選手であろうとも〝兼業〟しなければ家族を養うことさえ難しいのだ。

 そもそも出資者スポンサーの獲得にさえ難渋するような時代である。如何にレオニダスが花形選手スーパースターとはいえ、『天叢雲アメノムラクモ』から支払われる報酬ファイトマネーだけでしゅにくりんに耽ることは不可能であった。

 地上一五〇メートルという頂点いただきの景色は、日本にける芸能活動の収入で得たものだ。

 格闘技を〝一般〟に普及させる為、芸能人タレントとしてテレビ番組などに出演する選手も少なくない。女子プロレスひいては〝悪玉ヒール〟レスラーの地位向上に貢献したギロチン・ウータンは、誹謗中傷カミソリレターが繰り返された黎明期からメディアの力をも駆使してイメージアップを成し遂げていったのである。

 現在も競技団体によっては知名度の向上や興行イベントの話題作りの為に有力選手へ芸能活動を要請することがある。『天叢雲アメノムラクモ』を率いる樋口郁郎が所属選手のことを〝客寄せパンダ〟の如く弄んでいると批判される理由の一つでもあった。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の八雲岳は、主宰者のエッセイや著名人による対談など様々なコンテンツを毎日提供する有名サイトに参加し、定期的に体操教室の講師を務めているが、レオニダスの場合は芸能活動のいとまにMMA興行イベントへ出場しているようなものである。

 何しろテレビCMへ出演するたびに部屋の華やかさが増していくのだ。

 最も新しいのは円形の盾を模したまとと手斧の一揃いであった。これはアイスランドから取り寄せたヴァイキング時代の物であり、壁に取り付けたまとに手斧を投げ付ける変則的なダーツとして用いている。

 室内の遊戯ゲームとして取り扱うには危険度が高く、警察から可能性もあるのだが、それすらも超越者にとっては些末なことであった。

 かつての黄金時代から日本MMAを支えてきた古参選手は、その振る舞いに眉をひそめるばかりであるが、活動費の工面にも苦労するとレオニダスの間に埋めがたいほどの格差が開いていることも事実である。

 同じ〝富める者〟に属する友人たちをこの部屋に招待したパーティーを動画サイト『ユアセルフ銀幕』で生中継した際には『天叢雲アメノムラクモ』からであった。

 リビングには映画館にも匹敵する迫力を楽しめる巨大モニターが設置してあり、現在はサッカーの試合が映し出されていた。改めてつまびらかとするまでもなく、彼の故郷にて開催されているワールドカップの映像だ。

 サンパウロの競技場スタジアムで繰り広げられるブラジルとクロアチアの一戦である――が、この試合は現地時間六月一三日には終了しており、自殺点オウンゴールという痛恨事を挟みながらも三対一という結果でレオニダスの祖国が勝利を収めている。

 あらかじめ録画しておいたビデオを再生させているわけだが、モニターにて映像を垂れ流しながらレオニダスは一瞥もくれず、大きな身体を丸めるようにして小さな携帯電話スマホの液晶画面と向き合い続けていた。

 分厚いグラスに注がれたサトウキビの蒸留酒を呷りながら覗いているのは、『ユアセルフ銀幕』で配信されているネットニュースのチャンネルであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行にいて花形選手じぶんとは比べ物にならない新人選手ルーキーに挑戦状を叩き付けた反響を眺めているわけではない。己が受け持った第九試合セミファイナルで対戦相手の腕をし折ったことに対するスポーツメディアの反応を確かめているのでもない。

 民間運営のチャンネルながらも、記者自らが危険地帯に飛び込むという勇敢な取材で国内外の支持を集める『ベテルギウス・ドットコム』を視聴するレオニダスは、豊かなアフロが揺れるほど大きく笑っていた。

 くだんのネットニュースは〝メガスポーツイベント〟の弊害を訴える題名タイトルが付いている。そして、サイト名そのままに映画館のスクリーンを模した画面内には、瓦礫の山が映し出されていた。

 レオニダスにとってはであるが、ブラジルには『ファヴェーラ』と呼ばれる貧民街スラムが点在している。例えばリオデジャネイロ周辺の山の斜面は、今にも朽ち果てそうなバラック小屋が数え切れないくらいひしめき合っているのだ。

 『ベテルギウス・ドットコム』を運営する記者――ありぞのがカメラに捉えたのは、そのバラック小屋がブラジル政府によって強制撤去された残骸である。

 ワールドカップ開催の二ヶ月前にブラジル陸軍が貧民街ファヴェーラへと送り込まれ、そこを拠点アジトとする犯罪組織への大規模な〝浄化作戦〟が敢行されたニュースは、市民の生活くらしを引き裂くような銃撃戦と共に国内外のメディアでも報じていた。

 この直後、ブラジル政府は秩序の回復という成果を国内外に発表した。

 ブラジルでは今年のサッカーワールドカップから二〇一六年開催のリオオリンピック・パラリンピックまで最大規模の競技大会が短期間で続く。

 このような〝メガスポーツイベント〟には、そもそも国家の威信を賭けた巨大事業という側面があった。一九六四年に開催された東京オリンピックが高度経済成長期を背景とする都市改造を伴ったように世界中から訪れた人々が満足できる体制の整備がホスト国には課せられるのだ。

 これは開催によって得られる経済効果という点にいても必須条件でもある。安心して過ごせる環境でなければ誰も町には繰り出さず、観光産業は成り立たない。『インバウンド』という名の起爆剤を仕損じると莫大な支出を回収する手立てまで失い、大不況として跳ね返ってくるのだった。

 〝メガスポーツイベント〟とは選手同士が互いの健闘を称え合うという爽やかな青春で完結する〝運動会〟などではなかった。はレオニダスに飽食をもたらした芸能人タレントとしての収入など比較にならない規模モノである。

 『インバウンド』――即ち、外国人客による経済効果を確保する方策には開催先の治安回復まで含まれている。犯罪多発地域には観光客も寄り付くまい。小奇麗な高級レストランを増やしたところで、そもそも滞在を誘引できなければ無意味なのだ。

 それはつまり、社会全体へ急激な変化を強いるということであった。

 ブラジルにいて最も顕著な事例は、国中に点在する貧民街ファヴェーラの取り扱いである。

 麻薬カルテルや人身売買シンジケートなど古くから犯罪の温床であり、これを取り除くことで治安の改善は実効的に見込めるだろう。バラックが撤去された跡地でインフラ整備が行われることもレオニダスの耳に入っている。大会終了後にも社会に寄与する遺産レガシーとなることは間違いないのだ。

 しかし、それはやむにやまれぬ事情で貧民街ファヴェーラ生活くらしを選ばざるを得ない人々から生きる場所を奪うことに他ならないのである。

 例え犯罪多発地域であろうとも、そこには人間の営みが根付いている。ゴミを片付けるだけの美化運動とは違うのだ。見苦しくないよう景観さえ取り繕えば済むわけでもない。

 計九年という時間を掛けてブラジル社会全体がどのように変貌させられるのか――身の危険も省みずに貧民街ファヴェーラまで潜入した『ベテルギウス・ドットコム』のありぞのは〝ワールドカップの犠牲者〟としか表しようのない人々の窮状を伝えていた。

 ワールドカップ並びにオリンピック・パラリンピックの競技施設に程近い貧民街ファヴェーラでは政府主導による強制退去が相次ぎ、これに抗わんとする住民活動も激化の一途を辿っている。

 陸軍の制圧作戦と同じ時期には、不法占拠した土地で暮らさざるを得ないと警官隊の間で逮捕者が続出する規模の衝突が発生していた。

 リオのカーニバルやバカンス客が詰め寄せるビーチなど明るいイメージで語られることの多いブラジルだが、その裏には世界最悪ともいわれる貧富の格差が横たわっている。

 犯罪行為に手を染めなければ生きていけないほど困窮する人々の追いやられた先こそがファヴェーラなのだ。山肌を埋め尽くすバラックとその住人たちは、この世のものとは思えないほどくらい眼差しでもって隣接するリゾート地を見下ろしていた。

 ブラジル政府は国家事業の名のもとに、土地を不法占拠するバラックもろとも社会を蝕む病理をにしているわけだ。


「産みの苦しみということわざは確かにありますが、ここまでの犠牲を強いられた市民にブラジルという国家くには十分に報いることが出来ますか? 直近のオリ・パラ――二〇一二年のロンドン大会は堅実な経済効果と言われていますが、同じ成果が見込める社会構造であれば現在の貧民街ファヴェーラは全ての国民が安心して暮らせる住宅街として整備されていたハズ」


 ありぞのの声にもますます力が込められていく。

 強引な〝浄化作戦〟によってインバウンドを誘引できる体制を整えたところで、ブラジル社会全体にまで経済効果が波及する可能性は皆無に等しかろう。

 メインスポンサーとして大会運営を支援しながらも〝スポーツマフィア〟と忌み嫌われる『ハルトマン・プロダクツ』が莫大な利権を独占するということだけではない。

 ありぞのは一九六四年東京オリンピックを実例に引きつつ解説したが、大会運営や関連事業に関わった〝特定の階層〟だけは恩恵を受けられるものの、開催準備の反動によって社会全体の経済が冷え込む危険性のほうが遥かに高いのだ。

 結局、最も大きな損害を被ってしまうのは、国家くにの都合でバラック小屋からも追い立てられた〝貧しき者〟たちなのである。

 六本木の一等地にそびえ立つ超高層タワーマンションの一室に設置されたモニターでは、ブラジルの至宝たるネイマールが神業のドリブルでクロアチア代表選手を次々と突破している。

 前回のワールドカップで騒音問題にまで発展した為、やや控え目となったようであるが、ブブゼラによる応援も鼓膜を打ち据えるほどに盛り上がっていった。

 世界一の〝サッカー王国〟に相応しい熱狂とは裏腹に、競技場スタジアムは国家の威信に踏み躙られた人々の憎悪によって取り囲まれている――正反対の想念が混在するという極めて不安定な社会構造がそのまま表われているようなワールドカップであった。

 『ベテルギウス・ドットコム』のニュース動画ビデオは、最初にリオデジャネイロのウォールペイントを大写しとしていた。いずれもインバウンドと引き換えに自国民の生活くらしを破壊していく〝メガスポーツイベント〟を痛烈に非難するものばかりである。

 文化財以外の建築物が対象であり、なおつ社会通念に反しない内容という条件こそあるものの、公共物にもウォールペイントを許可する法令を逆手に取った抗議活動であった。

 決して〝暴力〟には頼らず、根差した土地で生きていきたいと願う民の声を叩き潰してまで強行する〝平和の祭典〟に意味はあるのか――ありぞのは震える声で訴えていた。

 重機で取り壊された家屋の残骸と、その前にうずくまって慟哭する老人の姿はウォールペイントの映像があったればこそ重い意味を持つわけだ。あくまでも貧民街ファヴェーラに留まるならば、治安回復の使命を携えた装甲車は犯罪組織の次にを脅かすことであろう。

 レオニダスもまたリオデジャネイロのファヴェーラ出身であるが、この事実を隠してもいなかった。それどころか、『非合法街区バリアーダス』という隣国ペルー貧民街スラムで生まれ育ったキリサメにの接点として語り、『ブラザー』とまで呼んでいる。

 『ユアセルフ銀幕』の再生画面に映し出された窮状は、もしかするとレオニダスが味わうはずであったかも知れないのである。同じブラジルで生まれた〝同胞〟の悲劇を己のことのように感じ、惨たらしいまでに心を掻き乱される――が余人の想像する反応であろうが、〝地〟を這いずり回る人々を〝天〟から見下ろす超越者の目には、る種の娯楽としか見えない様子であった。

 一つの事実として、格差社会の最下層から〝天〟を仰ぐしかなかった者がその頂点いただきを自らのものにすると、まるで自らの足跡を否定するかのように、過去に立っていた〝場〟を蔑む気持ちが抑えられなくなる。は抗い難い麻薬の如く正常まとも思考あたまを壊してしまう。


「――ドナト・ピレス・ドス・ヘイスの導きで〝真実〟に覚醒めざめたオレは僥倖しあわせだぜ。自分てめーの人生を〝天〟に与えられたモノだなんて勘違いして、ゴミ溜め同然の運命まで神聖な試練みたく有難がってるから、何時まで経っても負け犬なんだよ」


 顎の端まで先が届くほど長い舌を出したレオニダスは、かつての自分と同じ境遇の人々を祖国ブラジルの公用語であるポルトガル語でもって嘲笑った。

 〝同胞〟の痛みに寄り添おうともせず、侮辱の唾でも引っ掛けるかのような悪魔ディアーボの笑顔である。見る人の心を賑やかにし、ときには優しく慰める道化役者アルルカンではない。

 舌にも丸みを帯びた蜘蛛のタトゥーが刻まれているが、これはブラジルに生息するタランチュラの一種だ。中世の伝承に基づいた誤解に過ぎないものの、この種に分類される蜘蛛は神経を冒す猛毒を持っており、咬まれた人間は狂わんばかりの幻覚に苦しみ抜いて絶命するという。

 むしろ、現在いまはレオニダス本人がありもしない〝毒蜘蛛タランチュラ伝説〟の神経毒に冒され、正常まともな思考が理性と共に壊れてしまったとしか思えない。『ベテルギウス・ドットコム』の取材先は彼の生まれた貧民街ファヴェーラではなさそうだが、さりとて画面内に哄笑を引き出されるような情報など一つとしてるまい。

 脱出に失敗していたなら、自分も〝メガスポーツイベント〟に関連する強制撤去に巻き込まれていたことであろう――『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行で新人選手キリサメ・アマカザリに対戦を要求した際、そのような旨を笑い話の如く語っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』のパンフレットや公式サイトなどで公開しているプロフィールにもレオニダスは趣味の項目にサッカーと明記しており、実際に競技プレイすることも観戦することも心の底から愛している。

 それにも関わらず、〝リオのカーニバル〟をも凌駕するであろう熱狂に包まれた故郷ブラジルには決して帰らないのである。

 花形選手スーパースターが〝帰るべき場所〟の現状は、『天叢雲アメノムラクモ』とて把握していない。


「私自身、六年後の二〇二〇年にオリンピック・パラリンピックを迎える日本人です。小学校から高校までスポーツ系のクラブでしたし、世界中のアスリートの皆さんが東北復興支援に協力してくださったことは一生忘れません。……でも――だからこそ、えて申し上げたい。社会のり方まで捻じ曲げてしまったら、それはもうスポーツの祭典なんかではありません。もはや、国家くにを挙げての〝暴力〟です」


 ありぞのの訴えに合わせて映像が切り替わり、今度は小さな子どもが大写しとなった。

 重機によって踏み潰された瓦礫の山へ飛び込もうとしたところを両親に引き留められ、泥だらけの顔で泣き叫んでいた。おそらくは想い出深い品さえ持ち出せないまま自宅いえを取り壊されてしまったのであろう。

 ありぞのもその構図を狙ったわけではないはずだが、瓦礫の向こうには政府が貧民街ファヴェーラの強制撤去を強行する〝理由〟――国内でも指折りのリゾートホテルが映り込んでいる。

 何時の間にか、レオニダスの顔から一切の表情が消え失せていた。

 空虚うつろとしか表しようのない双眸で『ユアセルフ銀幕』の画面を見据えながら、再生時間を巻き戻し、子どもが瓦礫の前で泣き崩れる場面のみを延々と繰り返していた。


「――社会のり方まで捻じ曲げてしまったら、それはもうスポーツの祭典なんかではありません。もはや、国家くにを挙げての〝暴力〟です」


 改めてつまびらかとするまでもないことだが、ありぞのが紡ぐ言葉は一字一句に至るまで日本語である。『天叢雲アメノムラクモ』出場よりも芸能活動のほうが忙しいというレオニダスは、テレビの旅番組に出演する機会も多く、聞き慣れない方言の意味合いまで即座に理解できるほど日本の言語ことばに習熟していた。

 現在いまのブラジル社会は〝メガスポーツイベント〟という大義名分のもとに国家くにを挙げての〝暴力〟が振るわれ、市民の生活くらしが壊されつつあると訴えるありぞのの声は、真っ直ぐにレオニダスの心を貫いている。


「――スポーツの祭典なんかではありません。もはや、国家くにを挙げての〝暴力〟です」


 大きなソファーは両脇に誰も侍らせず、一人だけで座っていると酷く寂しい物である。その中央で小さな携帯電話スマホに目を落とし続ける超越者は、ともすれば〝裸の王様〟のようにしか見えなかった。

 〝七つの大罪〟を順番に並べた部屋の只中に〝裸の王様〟はたった一人である。

 ブラジル代表を応援するブブゼラの音色はレオニダスの耳をすり抜け、窓の向こうの曇天へと吸い込まれていった。



                                    (後編に続く)

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