その21:謝肉祭(中編)~死神(スーパイ)の岐路・伝説の殺陣師か、バーリトゥードの地下格闘技か/熊本のサムライたち、いざ挙兵──日本格闘技界の暴君を討て!
二一、Casus Belli Act.2
〝永久戦犯〟――それは日本格闘技界に
日本で初めて〝総合格闘技術〟の体系化を成し遂げた〝超人〟――ヴァルチャーマスクが『ブラジリアン柔術』との決戦に挑み、惨敗を喫したことで「プロレスこそ最強」という
日本が初めて
同じ年に〝地球の裏側〟で生を
『八雲道場』のジャージに身を包んだキリサメが無防備のまま歩いているのは、岩手県奥州市の駅前である。月曜日の混雑時を過ぎたとはいえ、行き交う人々が途切れない場所であったが、誰にも〝永久戦犯〟とは罵倒されなかった。
プロデビュー戦で反則を繰り返した
二〇一四年六月一六日の東北は、明け方の五時一四分に福島県沖を震源として最大震度四という地震が発生し、奥州市でも震度二を観測している。直ちに激甚な被害を引き起こす大きさではなかったが、前日未明にも同程度の地震が岩手県内陸南部で起こっており、多くの人々が更なる揺れを警戒して神経を尖らせていた。
東日本大震災の余震を案じて気持ちが落ち着かない朝に、そもそも見ず知らずの少年を振り返る余裕などあるまい。
そのキリサメは四肢の
キリサメの容態に気を配りつつ、その
二人の弟である
一泊二日の入院先を引き払った後、奥州の街を歩いて回りたいと希望したキリサメに対しても、現時点では群衆から囲まれるほどの認知度ではないと冷静に分析したはずだ。
『
無論、
それにも関わらず、テレビ番組やスポーツ新聞では世間一般に広く名前が知れ渡っている絶対王者――『
耳目を集める情報を多角的に提示して『
キリサメ・アマカザリという〝人外〟の喧伝は、主にネットニュースを中心に展開されている。衝撃度の高い情報が受け手の想像力を刺激し、群集心理の中で際限なく膨らんでいくという
尤も、現在は『よさこい』という文化から誕生したローカルアイドル――
それ故に変装もせず白昼堂々と散歩していても、誰も〝プロ〟のMMA選手とは気付かないのだ。
〝城渡総長〟の仇打ちに逸った暴走族チームも更なる凶行には及ばず、誰より激しく怒り狂っていた親衛隊長――
「……本間さんもご一緒しませんか? 後を
「私も
「キリくんのコトを見張ってるんだろうな~っていうのはバレバレなんですから、それでもまだ本間さんが私たちと別行動する意味はないですよね?」
「半ベソ寸前だ」
「
秋葉原で演じた〝
キリサメからすれば愛染は『
彼女は歌手でも演奏家でもなく〝裏方〟である為、殆どの人間は手掛けた楽曲と本人の顔が一致しない。無論、存在感が絶無というわけではなく、通りすがりに気付いて握手やサインを求めた者も
そこにも暗黒時代としか表しようのない日本MMAの現状が表れている。
『
いずれの場合も事前に収録されたVTRの一部が使用されるのみであり、プロ野球中継と同等の扱いで放送プログラムに組み込まれていた時代を想像できない者も増えている。
『
大晦日の夜に格闘技
仮にも〝プロ〟の
コンビニに立ち寄って飲み物を買い求めた際にも、『
『
在りし日の熱狂すら風化してしまった時代であればこそ、キリサメも愛染も、
「キリくん、何気にモテモテだよね……。希更さんに続いて愛染さんまで引き寄せちゃうんだもん。イケない〝道〟に迷い込んだりしないか、ちょっと真剣に心配だよ……」
「言っている意味は半分も
本間愛染というMMA選手は、日本古来の武術である『
常人には理解し難い感性によってキリサメ・アマカザリの〝闇〟を感じ取り、彼こそが日本MMAを破滅に導く存在と
言葉遣いも独特である為、
果たして愛染の予言は最悪の形で的中し、その期待を裏切ってしまったキリサメは尽きることのない罪悪感に苛まれているのだが、常日頃から奇行の目立つ〝先輩〟は早朝の病院に押し掛けて以来、一定の距離を保ったまま尾行を
四肢の痛みとも異なる溜め息がキリサメの口から止め処なく滑り落ちるのだが、それも無理からぬことであろう。背中を抉り続ける視線を力ずくで追い払うわけにもいかない。
希更・バロッサは奥州市の宿所で
希更に同行する現場マネージャーの
その希更と同じように愛染も〝本業〟が多忙を極めているはずだが、一日の内にこなす
「昼食は牛タン定食にするか。ここは〝先輩風〟を吹かせて二人に御馳走しよう。いや、待てよ? 貴重な余暇を愛しの神通ではなく〝MMAのアイガイオン〟に費やすのは不条理の極みではないか? やはり、割り勘で行こう」
「僕が無理矢理に本間氏を付き合わせているみたいな言い方、やめて貰えませんか……」
愛染から向けられる眼差しは敵愾心を含むほど鋭くはないが、
居た堪れない気持ちを持て余しつつキリサメが足を向けたのは、岩手興行が開催された奥州市最大の総合体育館――振り返る
『
〝廻し〟を締めていた頃とは違う〝立場〟で想い出の地へ再来訪した〝
奇しくもキリサメは激しい敵意を浴びせてきたバトーギーン・チョルモンと同じ場所にて初陣の地を見つめたのである。無論、その胸に去来する想いは双方とも異なっている。
(……僕なんかに寂しく感じる資格はないけど、この気持ちは否定できるものでもない)
昨日は駐車場から運動施設に至るまでの道筋に看板や
今ではMMA
昨日と今日の有り
「今日はこの後、サブアリーナで健康体操の教室があるって聞いたけど、参加する人たちも隣のメインアリーナで格闘大会を
「
「
未稲の説明によれば『
何台もの大型トラックを会場に横付けし、分解された機材を次から次へと運び込んでいくという。
何十人ものスタッフで一斉に作業に取り掛かるという人海戦術は、昨日のリング交換でも垣間見たのだ。その完了を待たずに救急車でもって市内の病院に搬送された為、キリサメも以降の展開は未稲からの伝聞でしか知らなかったが、致命的な遅延に至らず
(……我ながら人格を疑われるくらい身勝手だよな。昨夜は本気で『
現在の日本で最大の勢力を誇るMMA団体そのものを崩壊させ兼ねない大混乱に陥った第一試合をキリスト教の〝謝肉祭〟と重ね、この上なく愉しそうに笑っていたレオニダスへ同調することは憚られるのだが、
先達の
華やかな宴に水を差した側であり、
総合体育館と隣接する多目的運動広場には、サッカーやラグビーの試合が行われるグラウンド、見上げるほど背の高いクライミング競技の
〝下見〟の折にはパターゴルフのコースに程近い水路にも足を向けたが、彩り豊かなタイルやガラス玉が敷き詰められた池では子どもたちが水遊びに興じていたのだ。
平日の午前中ということもあって人影そのものはまばらであったが、辺りを見回してみれば、親子連れで遊びに訪れている客が
異形の
彼女が所属するローカルアイドルの
キリサメも退院前に
子どもたちの笑い声が賑々しい広場の物陰にローカルアイドルを脅かした張本人が隠れ潜んでいるのかも知れない。犯罪者は事件現場まで戻ってくる習性があるのだ――そこまで考えたところで、キリサメは今の自分にも当て嵌まると気付き、我知らず天を仰いだ。
自嘲ではなく一つの〝現実〟として、『
空は前日から変わらず
あるいはこれこそがキリサメ・アマカザリの犯した
「前々から薄々何となく感じていたが、この少年はアレか? 自分の〝世界〟に意識を溶け込ませ、
「自分の〝世界〟云々って
二棟のアリーナを挟む位置に所在する小さな広場には、円形ベンチも設置されている。そこに腰掛けて犯した罪の深さを己に問い掛けようとするキリサメであったが、二人の同行者は感傷に浸る時間を許してはくれなかった。
消耗が回復し切っていないキリサメは両足で踏ん張ることも難しく、二人掛かりで背中を押されてしまうと、歩行補助杖を強く突いても抗えないのだ。とうとう正面玄関へと押し込まれ、およそ半日ぶりにプロデビュー戦の舞台を訪れる羽目に陥った次第である。
「勘違いしてくれるなよ、私を狂おしいほどに衝き動かすのは愛しの神通だ。キミの選択を見届けるようあのコに託されたからこそ、私は人生の喜びを一つ切り捨ててまで滅びの波動に手を触れようとしているのだ。神通の前では〝黙示〟でさえ
余人に理解し得ない〝共鳴〟でキリサメと結ばれた古武術の若き宗家――
父親同士が親友という愛染とは古い付き合いであり、奥州市にも彼女が運転する自動車に同乗して赴いたのである。無論、二人で同じ宿所に泊っていた。
その神通は鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
愛染も彼女を助手席に乗せ、夜更けの
溺愛する神通の頼み事だけは断れないそうだが、「日本格闘技界に
何しろ愛染は〝暴君〟の庇護下に
一方の未稲は、既に神通が奥州市を離れた後であることを教わると、
数多の道場が
鎧武者の
神通は携帯電話の類いを所持しておらず、連絡を取り合うことさえ容易ではない。千載一遇の好機を逃してしまったわけだ。
(……その〝選択〟というのは例の件に対する答え――僕の結論だよな。神通氏が気にしてくれているのか、それとも背後にいる仲間があの人を使って探りを入れてきたのか)
深き憂いを瞳に秘め、哀しさと凛々しさを織り交ぜたような神通の面持ちと共に想い出されるのは、彼女のスカートが
爆発する火山を模ったロゴマークとする一団――神通だけでなく、
原則的に誰をも平等に受け
*
『
人間という種の限界を超えた反動で四肢が満足に動かず、介助式車椅子に乗せられた状態で
統括本部長の養子という〝立場〟が運命の〝流れ〟を引き寄せたのか、選手契約を締結する以前からキリサメは『
もはや、肉体そのものが耐えられないことは誰の目にも明らかである。キリサメを取り囲むのであれば、またとない好機であろう。彼が割り込んで襲撃者を返り討ちにした為、結果的には未遂で終わったものの、希更も前回の長野興行に
セコンドとして試合を見守っていた岳と麦泉は言うに及ばず、車椅子のハンドグリップを握るリングドクターの
暴走族チームとの対峙にも匹敵する緊張が走ったのだが、
一団の先頭に立ち、岳から『ヴィクター
言い逃れも出来ない直接的な
「空閑君とも拳を交えたそうだが、MMAの試合と比べて、どうだい? 『
「人ン
「我々――『
「てめー、マジでいい加減にしとけよ。
「八雲、〝大人気ない〟のはセコンドの役割にこそ当て嵌まるんじゃないか? 今日の自分を振り返ってから、その言葉を口にする資格があるのか、考えてみることだな。選手を真っ当に導けないようでは、
「……〝その話〟を持ち出されちまったら、こっちだって強く出られねェじゃねーか」
岳から睨み付けられたヴィクター
選手の命を守る為にMMAのルールで禁じられた〝実戦向け〟の
『
「MMAという狭い世界に押し込められて窮屈な想いをする姿は不憫でならない。オレはね、君のような若者には伸び伸び闘って欲しいんだよ。もっと自由な世界に導いてあげたい――ただそれだけなんだッ!」
「……岳氏、この人は一体、何を言っているんですか……?」
「キリーとレオの〝謝肉祭〟
「全面的にセンパイの言う通りだよ、キリサメ君。耳なんか貸しちゃダメだっ」
「言葉が君の心に上手く届かないのであれば、オレは心で伝えるとしよう。君の拳を束縛の鎖から解き放ってあげたいんだ。……未来ある若者に可能性と選択肢を用意することこそ
自分自身が連ねた言葉に感極まったのか、ヴィクター黒河内は
神通も
キリサメの真後ろに立ったままヴィクター黒河内の言葉を受け止める
そもそも
肘は人体の中でも膝と並んで硬い部位であり、これを用いた打撃が古今東西の武術や格闘技の体系に組み込まれているのは必然といえよう。
腰や肩のバネも利かせ易く、歯車の如く連動させたときには恐るべき破壊力を生み出すのだが、それはつまり凶器に等しいという意味でもあり、胸部や頚椎といった急所へ直撃させた際に相手の命を奪ってしまう危険性が爆発的に高まるのだ。
過激としか表しようのないルールのもとに試合が執り行われる『
時計盤に見立てるならば、一二時から六時の方向へと垂直落下する肘打ちは、深刻な事故の原因となり得る為に『NSB』では全面的に禁止している。ドーピングで汚染され、競技団体としての秩序が破綻していた時期でさえ、このルールは遵守されたのだ。
〝
脳天目掛けて肘を落とすという危険な打ち方さえ反則と判定されないMMA団体は、全世界を探しても樋口体制の『
『
「……不勉強な僕にも段々と掴めてきましたよ。タイトルマッチの挑戦者に――
「今となってはフライ級
「取り返しのつかない被害に遭ったにも関わらず、自分と同じような後遺症を増やし兼ねない団体を作った――そういうコトですか。……僕が本当は目突きを得意にしていることだって見極めたのでは?」
「目突きは『
「……それは……」
「生きるか死ぬか、その極限の狭間に解き放たれた刹那を見出す――『
キリサメの心を動かすべくヴィクター黒河内は格差社会の最下層で起こる過酷な生存闘争と『
作用する力の逃げ場がないくらい固定された可動域へ強烈な負荷が掛かれば、人体は脆く壊れてしまう――選手の安全を最初から放棄した攻撃手段を承認することはそれ自体が蛮行にも等しく、スポーツ医療の従事者として看過できようはずもなかった。
「空閑にとっての夢であり、その技を極めた前田光世――コンデ・コマの最終到達点がブラジルであることは、おそらく君も聞いたことがあるハズだ」
「
「そこで興った命懸けの『バーリトゥード』こそが
ヴィクター黒河内は〝本物の闘い〟や〝自由〟という聞こえの良い言葉を弄しながら、自身が
〝プロ〟のリングでも十分に通用する猛者が
ヴィクター黒河内が述べた通り、世界各地を経巡って二〇〇〇回にも及ぶ異種格闘技戦を繰り広げた
これこそが『バーリトゥード』であり、そこは
しかし、〝地球の裏側〟の〝感覚〟をそのまま日本に持ち込むことは余りにも乱暴であろう。そもそも『バーリトゥード』のルールが過激性を帯びていたのは昔のことであり、少なくとも〝表〟で開催される
『バーリトゥード』の系譜と称しつつ、時代の流れから目を逸らしているようにしか思えない――それ故に
「……知ったような口を叩かないで下さい。
「しかし、オレは少なくとも樋口のように選手を強権で縛ったりはしない。『
「……電知に出会っていなければ、今の台詞も綺麗事だって皮肉れたのですけどね……」
〝格闘〟という破壊的な行為そのものが暴力性の強い本能を揺り起こすことは、
見世物としての格闘大会ではなく、真の強者を見極めんとする求道的な意志のもと、両者納得ずくで危険極まりない試合が執り行われているのだが、暴力性を
それは
上下屋敷は哀川神通の試合を撮影した写真を未稲の
『
「我らが
血みどろの〝暴力〟以外の何物でもないと
同係に所属する
仮に
己の行動に迷いがない証であり、不愉快そうに眉根を寄せるキリサメでさえ
『
一方のヴィクター黒河内には『
「泣き落としなんざ卑怯者のやるコトだぜ、黒河内。お前らしくもねぇ。……そもそもココがどーゆー場所だか
「裏切りに
岳に続いて麦泉が畳み掛けるようにしてヴィクター黒河内に迫ったのは当然であろう。
『NSB』と『ハルトマン・プロダクツ』の両方から疑いの目を向けられている危機管理体制とも異なる問題を突き付けられたようなものである。
「若者の才能が潰されるかも知れない瀬戸際で団体の違いなどという些末なことに気にしてはいられないだろう。前途ある格闘家にオレのような道を歩ませたくない。ましてや、オレのボクサー生命を終わらせた男のようにもなって欲しくない」
結局、『
「……クソッたれた連中にプロボクサーの道を断たれたことにはオレだって腹が立って仕方ねェぜ? キリーを同じ目に遭わせたくねェとも思ってる。だがよ、その気持ちを無理やり押し付けるのは違うと思うぜ。大体、お前、キリーと無関係じゃねェか」
「誤った道に迷い込もうとしている少年を目の当たりにしてしまった以上、もう無関係とは言えないのさ。オレは何があっても救ってみせる。八雲、お前こそもう手を引いたほうが良い。……お前自身の為にもな」
「まんまストーカーの思考じゃねーか! 相変わらず思い込み激しいな、お前ッ!」
率いる団体の体質はともかくとして、ヴィクター黒河内は本当に聖人君子のような
状況説明を求めるような眼差しを神通に向けたとき、聞き流して欲しいと言わんばかりに
その一方、ヴィクター黒河内の左隣に
「君は必ず我々、『
「僕は救って欲しいなんて願ってもいませんが、あんたの言うことが『
「……キリサメさん、黒河内代表は――」
「――〝プロ〟という名乗りは確かに聞こえが良いけど、そこには団体の名誉や興行収入というしがらみが付き纏うわ。その為に『
「誰だか知らないが、気ままに長々と……。電知も闘う前に名前くらい名乗ったけどな」
「樋口郁郎がしがみ付く名誉もカネも『
〝プロ〟という立場の弊害を言い添え、ヴィクター黒河内が掲げた救済の意味を強調したのは、神通の近くに立っていた女性である。年の頃は二〇代前半と察せられるが、鼻筋を跨いで両頬までそばかすが残っている。
キリサメに〝何事か〟を伝えようとした神通を遮り、挑発的な言葉を並べ立てた女性もまた『
「若者の前には無数の選択肢を用意するべきだし、彼らが前進していく力はオレたちのようなロートルにも止められないくらい強い。翻せば、道を誤ったときには奈落の底に落ちるまで突っ走ってしまうというコト。最悪のシナリオを迎える前に君を救うのは大人としての責任――果たすべき使命なんだよ」
「……同情なんかで腹は満たされない。それが
なおも畳み掛けてくるヴィクター黒河内に対し、キリサメは敵意を剥き出しにすることを抑えられなかった。
一挙手一投足に至るまで理不尽という
だからこそキリサメはヴィクター黒河内の顔を正面から見据え、「あんたなんかに
先ほど岳はヴィクター黒河内の言行をカルト集団に
生前の実父が巻き込まれ、一二七日目もの監禁生活を強いられた日本大使公邸人質占拠事件の犯人グループと同じような反政府テロ組織は、一時期ほどの勢力こそないものの、
ヴィクター黒河内とその狂信者を目の当たりにしてキリサメが想い出したのは、反政府組織の一派を率いる
正しい〝道〟へ導いてやると言わんばかりの態度は、テロ組織の
「ゴングを鳴らしても止まらないのは『
「医師の立場で
ヴィクター黒河内の主張を
電知との
ヴィクター黒河内が指摘した通り、
〝城渡総長〟の仇討ちに逸る暴走族チームから脅かされたときにも、恭路たちを全滅させる戦略を無意識の内に考えていた。
それはつまり、乱闘騒ぎが頻発する
冷たく硬いアスファルトへ叩き付けるようにして一本背負いを繰り返すなど、電知も相手の
キリサメ自身の〝感覚〟も、ルール無用の
しかしながら、キリサメは己の魂にまで染み込んだ暴力性を〝自由〟に解き放てる場を求めていたわけではない。未稲との約束を果たし、数多の人々から受けた恩に報いて期待に応える為、『
彼と共に
迫真の
*
キリサメにとって『
異常事態が起こった為に一度取り換えられたリングは言うに及ばず、その戦場を目指して入場口から直通していた
何もかも〝下見〟の折にキリサメが確認した状態に戻っていた。特別な仕掛けは一つもない〝普通〟の
九人制のバレーボールで換算すると三面分もある競技用コートは二階の窓から差し込む光を静かに跳ね返しているが、キリサメの双眸はその中央に座禅を組む仏僧の後ろ姿を
言わずもがな、それは
その話を養父から教わったのは、精密検査を終えて病室に戻った後――つまり、昨晩のことであった。
『NSB』による臨時視察の一員として『
「――元気があれば、やらいでか。闘魂を拳に握り締めている限り、成せんことはない」
岩手興行が閉幕した後、僅かながらも旧交を温める時間に恵まれたようで、養父を通して
螺旋を描くような
「小生たちの屍を超えてゆけ。前へ前へと常に進む時代は、若き力にこそ味方する」
初めて言葉を交わしたとき、
猛き鷲を彷彿とさせる双眸に
一九九七年の『プロレスが負けた日』では己を生け贄として捧げ、これと引き換えに日本MMAを〝覚醒〟に導いている。
その上、ヴァルチャーマスクは養父の大恩人である。彼と出逢っていなかったなら、この世に八雲岳というプロレスラーも誕生しなかった。
日本でMMAを志す者にとっても、ヴァルチャーマスクは見果てぬ荒野に新しき〝道〟を
未稲と愛染に背中を押され、抗えないままメインアリーナに足を踏み入れてしまったキリサメは、一昨日の〝下見〟とは異なって二階から競技用コートを眺めている。三〇〇〇人を収容できる固定席は東西南北から一階を見下ろしている為、奈落の底を覗いているような気持ちになっていた。
MMA
時おり俯きながら、
競技用コートの中央で座禅を組んだヴァルチャーマスクの模倣にも近く、余人にはその意図が推し量れない奇行とも言えるだろう。
暴走族チームの攻撃が現実味を帯びたとき、加勢に入った上下屋敷と
「……キリくんさ、〝兼業〟の踏ん切りはもうついたのかな? 私個人としてはね、一つのご縁でもあるし、乗ってみるのもアリだって思うよ」
胸の内を
「地獄に仏とはよくぞ言ったものだな。愛しの神通と君の距離が物理的に近寄る心配がなくなるのだから、私としても未稲くんと声を揃えて推奨したいぞ」
自分は伝聞でしか知らないという前置きに続いて愛染が述べた言葉に対して、キリサメは
キリサメが反応を示したのは「地獄に仏」という一言である。姫和子という殺陣師のことを振り返ったばかりの彼にとっては、何よりも深く心に染み入るのだ。
*
敗北の
救急搬送を待っている
「何時までも
格差社会の最下層に
〝半身〟の如く感じている
背広姿の
「……テレビにしがみ付く? 文化が広く普及するには一般性が欠かせないことすら理解できない方ほどテレビの〝力〟を軽んじますね。たまたまチャンネルを回したときに流れている――ありふれた日常に自然と溶け込んでこそ文化は成熟するのですよ」
「
「今、口にした言葉が〝誰〟にとって最大の侮辱になるのか、よくよく考えてみることですね。大衆のプロボクシング人気を育てたのは、インターネットではなくブラウン管だ。勿論、
「それで誰を論破できると言うんだ? 口当たりの良い試合でなければ、満足に客も呼べないのは
麦泉の反駁は
他者を愚弄する態度は甚だ品性を欠いており、陰険そのものであったが、この
「逆に伺いたいのだが、キリサメ・アマカザリはテレビに映しておける選手か? 今日の試合も生中継だったら、今ごろ
「
物腰の穏やかな麦泉が聞き苦しい口論に及び、怒号まで張り上げたことにキリサメは
乱闘騒ぎを免れたばかりにも関わらず、総合体育館の廊下は暴走族チームとの対峙に匹敵するほど空気が張り詰めていた。
「とにもかくにも
口が過ぎた側近を嗜め、付き従っている『
「――可能性を花開かせる選択肢なら、彼はとっくの昔に自分の意思で決めているよ」
かつて鬼貫道明のもとで闘ったプロレスラーだけに麦泉の怒号は凄まじい迫力であり、レオニダスが起こさせた歓声をも押し流すくらい大きかった。これを聞き付けた警備員が肩に警棒を担いで駆け付けても不思議ではない。
程なくして数名分の足音がキリサメたちに近付いてきたが、その一団を視界に捉えた途端に『
『
鎧兜に身を包んだ一団が廊下の向こうから歩いてくるではないか。
兜の正面に取り付けられた〝前立て〟と呼ばれる装飾は、三日月や毛虫など各人で大きく異なっているが、殆どの者が戦国時代後期の開発である〝
鎌倉時代の主流であった
鎧武者の一団を神通が首を傾げながら凝視しているのは、自身が宗家を務める古武術の流派に
鎧の下に着る装束や
誰よりも異彩を放つのは、一枚の板金を鍛えた胴鎧の上から死装束を彷彿とさせる
重武装ばかりではなく、軽装の者も混ざっていた。薙刀を携えた女性は袴を穿き、肩を防護する〝袖〟のない
キリサメを挟んでヴィクター黒河内と差し向かいの位置に立った中央の男性は、〝当世具足〟の上から白い陣羽織を纏い、木彫りと
左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛った男性の〝正体〟がキリサメには一目で分かった。
「
キリサメと声を揃え、敬称を添えてその名を呼んだのは『
ここが
毛虫を模した前立ての兜を被り、長谷川の右脇を固める鎧武者は、キリサメが参加した殺陣道場の
『
豪華絢爛な刺繍を散りばめた赤地の着流しで太刀を振るう
平安時代の昔から弓矢と併せて武士の〝表道具〟であった太刀や、
それでも本物さながらの質で完成されたことは変わりがなく、鎧武者たちが鉄の壁の如く横一列に並ぶと、言葉として表し
「ダイさん⁉ 一体全体、コレはどういう……⁉ 出番はまだまだ先のハズじゃあ?」
『
『
「ダイさん」と愛称で呼ばれた長谷川大膳は、後頭部に回した紐でもって固定する木彫りの
その様子は〝隣近所の好々爺〟といった印象だが、キリサメの
「岳ちゃんから預けて貰った若い子が妙なちょっかいを出されていると、さっき小耳に挟んでね。保護者も一緒なのだから、お節介の焼き過ぎも良くないとは思いつつも、やっぱり心配になって駆け付けちゃったってワケだよ」
「お預かり? ……ダイさん? さっきから話が読めねェんですけど……」
「元フライ級
意味不明と
左右の五指でもって
「今後は
長谷川大膳の言葉を引き継いだ
以前までは御剣恭路にもMMA選手としての
それにも関わらず、長谷川と
『NSB』に所属するベトナム
ハリウッドにも進出を果たしたダン・タン・タインは自身の〝本業〟を映画俳優と公言して
(そこで詐欺と決めてかかったら、御剣氏と変わらないか。……僕からすれば見え透いた嘘でも、『
『
岳よりも麦泉よりも早く〝長谷川先生〟の真意を読み抜いた次第である。
介助式車椅子の
長谷川大膳の発言に対するキリサメの反応を見て取ったなら、ヴィクター黒河内も『
毎週日曜日に一年間に亘って放送される大型連続時代劇に
「まだ公には発表していないことなので『
「楽しい仲間が増えるんだからね。俺としては迷惑どころか、嬉しい限りだよ」
己の〝半身〟を横から
「寝耳に水」としか表しようのない筋運びに顎が外れそうなくらい大口を開け広げ、半ば放心状態の顔で鎧武者の一団を見つめ続ける岳と麦泉への説明は後回しになるが、キリサメはこのまま大芝居を続けるしかなかった。
太刀筋一つでもって人を魅せることに長けた〝プロ〟の
友好的な笑顔で
しかし、生来の不愛想が長谷川大膳の
「先に声を掛けたほうの勝ちとか抜け駆けという話でもありませんが、アマカザリ君がやる気になってくれたのだから、私も前途有望な
再び背中を向ける恰好となった為、双眸で様子を窺うことは叶わないが、一等嬉しそうな声色から〝長谷川先生〟が己の意図に気付いてくれたものとキリサメは確信していた。
不慣れな演技の為にどこかで
長谷川大膳とは半日ほど前に初めて挨拶を交わしたばかりである。
当事者の意思を黙殺しながら既成事実を積み上げ、逆らえない状況を作り出した樋口とレオニダスは言うに及ばず、MMAと
『
本人の意識はともかくとして、試合開始直後に
だからこそキリサメも
「……アマカザリ君が自分と同じ『
キリサメを巡る『
無論、これは即興の芝居である。〝長谷川先生〟がキリサメのことを『
「――成る程。試合開始前に姫和子さんがもごもごと仰っていたのは、キリサメさんが
「場内の歓声には大声出したって敵わないし、聞き間違えられても仕方ないが、それはそれとして哀川さんも自分の話を聞き流していたわけか。いや、別に構わないがな……」
〝
さも聞き
一六世紀半ばの『鉄砲伝来』や〝当世具足〟の開発よりも古い時代の
その反面、姫和子と同じようにヴィクター黒河内による強硬な
『
「自分たちの
「
ヴィクター黒河内の傍らに
空閑電知や上下屋敷照代もキリサメと同い年であるが、二人の場合は自らの意思と判断で『
長谷川大膳は声こそ穏やかであったが、理非を
あるいは神通と姫和子が向こう側へ
「
決定打になったのは、
物事の分別が付かない未成年の頃からテレビという虚飾の世界に人生を狂わされ、欲望と凶暴性を煽られた挙げ句、コミッションにさえ手綱を引けないほど暴走していった
ヴィクター黒河内もキリサメに向かって差し伸べていた手を引き戻し、同じ側の人差し指でもって
救急車のサイレンが近付いてきたのは、その直後のことである。
*
救急車へ乗せられる前に起こった騒動を遡ったキリサメは、「一つのご縁だし、乗ってみるのもアリだって思うよ」という未稲の言葉を瞑目しながら噛み締めた。
総合体育館を去った後の筋運びはキリサメも完全には掴んでいないが、『
勢力圏を巡ってカラーギャングと抗争を繰り広げるなど、〝表〟の社会から
本間愛染がキリサメと未稲に同行している状況も一つの傍証となった。溺愛している神通が裏切り行為を糾弾され、団体内部で制裁を受けたのであれば、〝プロ〟の立場も作曲家としての仕事も投げ捨てて『
神通の亡父にして『
その繋がりが現在も残っているとすれば、制裁に関わった者だけでなくヴィクター黒河内までもが行方不明となるはずだ。愛染が手を下すまでもあるまい。
『
(……MMAのルールは
『
見習いの
それはつまり、
「長谷川さんに〝五〇〇〇〇回斬られた男〟の話は聞いたよね? 海老反りみたいな斬られっぷりが評価されてハリウッドからお呼びが掛かった時代劇俳優だよ。夢を大きくし過ぎるのも良くないけど、キリサメ君も
未成年のキリサメが『
アクションスタントには危険が付き纏うものであり、〝安全な仕事〟とは言い
長谷川大膳本人を例に引くまでもなく、
撮影される作品の数は最盛期とは比べ物にならないほど減少しているが、海外でも人気の高い時代劇が絶滅することは有り得ない。毎週日曜日に一年間に亘って放送される大型連続時代劇は二年先の企画も発表されており、主人公が生まれ育った
昔日の勢いを取り戻せていない状況は日本MMAも共通しているが、成績不振や年齢を理由に呆気なく活躍の場が奪わてしまう『
大型連続時代劇で平安・鎌倉時代が題材となったときには、本来の俳優に代わってキリサメが
大型連続時代劇で
アクション俳優と
「親バカっぷりはオレだって負けねぇぞ⁉ 『まつしろピラミッドプロレス』で教わったコトと
その麦泉とは正反対の発想であるが、
長谷川大膳に師事して
日本では古くから時代劇や特撮作品が盛んであり、『チャンバラ』という一つの美学が花開いた演劇の黎明期から〝魅せる立ち回り〟の極意を研ぎ澄ませてきたのが
「長谷川さんの道場に
「ただそれだけで浮かれることが出来たら、僕の人生、きっともっと楽しかったよ」
「でもでも、キリくん、絵も描くじゃん! この間、見せて貰った長屋の風景も味わい深かったよ! 芸術の素養は
「……みーちゃんが言ってるのは、駅前で描いた電車の絵のコトかな……」
「ときとして余人に理解されないのが芸術というものだ。時代を揺り動かす〝黙示〟のようにすぐさま人々の心に届くとも限らない。一〇〇年後の評価に期待するべし」
メインアリーナの天井南側に設置された大型モニターは、画面の脇に二針式時計も
現時点でさえ血と罪に
そして、その果てに最悪の結果を招いたばかりである。胸に秘めた大望を目指して迷いなく突き進む空閑電知や
三機の戦闘機が一つに合体して人型のスーパーロボットとなるテレビアニメ『
今なお愛するスーパーロボットのように異なる特性が備わった三形態を使い分けて闘えるほど器用でないことは、キリサメ自身が誰よりも理解しているつもりであった。
己の至らなさに理由を見つけ、首を横に振ることは容易い。しかし、それすら
キリサメが一七年という人生の中で、自発的に〝先生〟という敬称を付けて呼んだのも長谷川大膳が初めてであった。
結局、岩手興行の
だからこそ、キリサメは首を振る方向に迷っていた。
MMAとの両立が有効であることを理屈では分かっている。岳が大喜びで訴えた通り、本物の刃が直撃したようにしか見えない
今後もMMA選手を続けるのであれば、より深く殺気の
殺戮の衝動は魂に巣食う〝闇〟を揺り動かす鍵である。これを完全に
発祥した国と時代こそ異なるものの、キリサメの喧嘩殺法と同じ
『
憎悪にも近い感情が抑えられない相手に心の奥底を覗き込まれたようなものであり、だからこそキリサメは
(二度と会いたくないくらい忌々しい相手のほうが自分の所属先の代表よりも信用できそうって言うのは、困ったなんてもんじゃないけどな……)
ヴィクター黒河内は『
これによって『
「――や~っぱし聞き間違えじゃなかったし。
養父以外には使わない
声は間違いなく一階から聞こえてきたのだが、競技用コートには人影がない。注意しつつ歩行補助杖で体重を支え、転落防止柵の柵から身を乗り出して窺うと、キリサメたちが腰掛けていた場所からは死角となっている壁際にて一人の青年が両手を振っていた。
二階から見下ろすという状況に加えて、相手がツバの広いチューリップハットを被っている為、キリサメの側からは表情を読み取り
「お~うおう! 両手に花たァキリーも隅に置けね~じゃん! 未稲ちゃんとは
左右の人差し指をキリサメに向かって突き出し、明らかに距離感を誤った調子で話しかける青年は、背面に『
「ただれた
「……みーちゃんが一緒にゲームを遊んでいる人たちではないかと」
「声掛けられたのはそっちでしょ。キリくんが知らなきゃ、私が知ってるハズないって。
「つまり、知り合いでもないワケか。よろしい。一発ぶちカマしに行くとしよう。我が愛しの神通と〝黙示の仔〟の間にろくでもない
チューリップハットのツバを揺らして笑う青年にキリサメは
「あれ~? その有り得ないくらい淡白な
「忘れるも何も、お会いしたことがありません」
「面識ありまくりっしょ! めっちゃ友情キメたじゃんか! ツレねぇなぁ、キリーってばよぉ~。未稲ちゃんとは『
二階との温度差が寂しくてならなかったのか、スタッフジャンパーの青年は「アフターサービスとファンサービスはバッチシやんなきゃダメだぜ」と悲鳴を上げ、チューリップハットを脱いで頭を掻き
「……その
「
メインアリーナの構造上、一階にて発せられた喚き声は天井に跳ね返る為、二階の人々の鼓膜へ直接的に突き刺さる。絶対音感の持ち主である愛染にとっては、比喩でなく本当に吐き気を催すような異音として聴こえるのであろう。キリサメと神通の仲睦まじい様子を
天才に意図せぬ猛攻を加えた青年は、つい先程までキリサメが想い出していた
この瞬間まで存在そのものがキリサメの
先ほど押し寄せてきた違和感の正体とは、「
未稲のほうはキリサメよりも僅かに早く小日向のことを想い出していた。彼が口にした『
自分の〝業務〟が引き金となって
初めて顔を合わせた際にも当該ブログの感想を一方的に押し付けられ、その勢いに未稲は圧迫感すら覚えたのだ。毎日閲覧してくれるファンは感謝と共に大切にしなければならないが、人と人を繋げる波長の不一致は如何ともし
「や~っと想い出してくれたみたいだな~。名前のほうもオーケー? ちなみに
「……すみません。あの
ようやく手繰り寄せた記憶の中の小日向は、
「そもそも小日向氏はここで何をしているのですか? お住まいが東北とか?」
「俺っち?
『
「んん~? あれ~? 何かキリーの言ってるコトが引っ掛かるな? ひょっとして、八雲さんから俺っちの話って……?」
「あれから一度も出ていません」
「かなり
「ここにいない岳氏に苦情を言っても無意味では……? どうしても腹に据え兼ねるようでしたら、みーちゃんの携帯電話で連絡を取れると思いますが」
「待って待って、キリくん! 確かに小日向さんとは顔見知りかもだけど、個人情報の塊を
「こりゃあ単なるボヤきだから!
「自己紹介もそこそこに
団体代表の樋口郁郎は言うに及ばず、
『
余人には理解し
同じ場所に『
「俺っち、『
正式種目として採用されてもいない内からMMAの第一号
先程も遺失物と前置きしながら鍵を翳していたが、特設ステージなどを撤去している間にメインアリーナの
「さっきの質問に時間差スパイクで答えるけど、
「何を仰っているのか、僕には分かり兼ねるのですが、小日向氏は
「コレがお
時計の長針をおよそ一周分ほど巻き戻した頃、キリサメは小日向と同じスタッフジャンパーを着るスタッフから怯えたような目を向けられていた。岩手興行の開催中、別室にて待機していたのであれば、彼もモニターなどを通して惨劇を目の当たりにしたはずだ。
闘魂と共に壊されたリングに至っては、その残骸を
「いやぁ~、昨日のキリーを想い出してドキドキしてきた! 俺っちも長いコト、MMAを追っかけてるけど、〝神〟としか言えねェファイトは日本でもなかなかお目に掛かれないぜ~! 八雲さんの『超次元プロレス』とも一味違ったし! チラッと『NSB』の選手が
「ドーピング問題のこと……ですよね」
二〇一一年に
人の命が見世物同然に扱われてしまうプロスポーツの悪しき側面も垣間見たことであろう愛染の顔色を気遣わしげに窺うキリサメに対して、小日向は
無神経としか表しようのない小日向の態度には、一階と二階という高低差の中で言葉を交わし続ける二人を傍らにて眺めていた未稲のほうが胃が痛くなる始末であった。当の愛染は先程から一言も喋らない。その沈黙が何より恐ろしいのだ。
「それよ、それそれ! 存在自体が
「……数値がおかしいですよね」
「これでオッケーだぜぇ~! どこぞの外道連中と違ってドーピングなんぞに頼らず人間を超えちまったキリーだもんよ~、点数だって
言葉の選び方を一つ間違えただけで愛染の逆鱗に触れるだろうと、脇の下に噴き出した冷や汗を自覚しつつ、控えめな声でプロデビュー戦のことを
想い出すだけでも全身を流れる血が沸騰し、居ても立っても居られなくなるのか、キリサメから求められたわけでもないのに、小日向は喧嘩殺法の模倣まで始めている。
第一試合の記憶を頼りとする再現は拙劣の極みであり、
リングの破壊や暴走族チームとの対峙など、
「次の試合も絶頂バトルを楽しみにしてるぜ~! レオなんかとっちめちまえ! 最近のアフロ野郎、調子に乗ってっからさァ~、MMAはタレント活動の片手間にやるモンじゃねェって教えてやってくれ!」
「その試合、まだ正式に決まったわけじゃないんです。僕自身は断ったほうが良いとさえ思っているくらいで、だから……」
「頼むぜ~! 次もキリーの為に丹精込めてリングを
「……僕の日本語、おかしいのかな? この人、話が通じてないのか?」
選手の安全が守られなければならないMMAのリングは言うに及ばず、法治国家日本という観点に
ヴィクター黒河内も語った通り、暴力性の高さでは『
『
小日向の声を判断材料とするべきでないことも、キリサメは理解している。愛染の顔が依然として険しいのは、無神経極まりない言行に対する苛立ちだけが原因ではあるまい。
〝格闘競技〟の対極に
樋口が呪いの如く囚われ続け、『
MMAを愛してやまないファンの純粋な想いを受け止めつつ、そこに混じった危うさを冷静かつ正確に見極め、心に取り込んでしまわないよう己を律することも〝プロ〟の選手には求められるわけだ。
小日向の声に自己肯定を委ねるほど気を緩めれば、身の
長谷川大膳のもとで
何とも
これを辿っていけば最後には大きなガラス窓に行き当たるのだが、二階の全面がカーテンによって覆われている為、奥州の空に答えを求めることも叶わなかった。そもそも
驚いた拍子に歩行補助杖まで突き離してしまい、未稲と愛染が慌てて両脇から上体を支えなかったら、その場に横転したことであろう。
「――後ろからこっそり忍び寄ってビックリさせようと思ったのに、あっさり気付かれちまった。勘の鋭さも元気に平常運転で安心したぜ、
冗談めかして笑った小柄な少年は、
同様の
全てが黎明期の
差し向かいの恰好で立っている為、キリサメの位置から覗き込むことは不可能だが、
「――電知ッ⁉」
平日の奥州に
*
横に大きく広がる形で隊列を組んだその軍勢は、勇ましい小太鼓の音色に背中を押されながら草原を行進していった。
馬を駆る将軍たちは抜き放ったサーベルを振り
彼らが掲げるのはX型の紋様に星を散りばめた赤い旗であり、これを迎え撃たんとする敵陣には星条旗が翻っていた。
近代アメリカを四年に亘って真っ二つに引き裂いた『
その名の通り、ペンシルベニア州に所在するゲティスバーグを舞台として、南北に別れた両軍は三日間にも及ぶ総力戦を繰り広げている。
全体の趨勢を決することになるのかは誰にも見通せなかったが、ゲティスバーグ自体は補給路の確保にも欠かせない交通の要衝であり、南北両軍にとっては是が非でも手に入れなければならなかった。
だからこそ、双方合わせて五〇〇〇〇人もの死傷者を数える凄惨な激突にまで発展してしまったのだ。
そして、劣勢明らかとなった南軍は、ゲティスバーグ開戦の三日目に起死回生の一手を試みることになる。二時間にも及ぶ激烈な砲撃を挟んだ
南軍――アメリカ連合国の旗のもとで我が身を銃弾に換えるようなこの突撃は、作戦指揮に関わったジョージ・ピケット少将に由来し、『ピケットチャージ(ピケットの突撃)』として広く知れ渡ることになった。
『南北戦争』以前から勇猛果敢と名高く、数々の戦場で豪快に立ち回ったジョージ・ピケットであれば、無謀な作戦も成功に導いてくれると
〝死の行進〟を立案した張本人でもないのに自らの名を付けられてしまったことについて、
何百何千という犠牲を払ってでも前進だけは決して止めず、例え少数であろうとも北軍の陣地まで侵入できた者たちの手によって戦局を覆す――仲間の命で劣勢挽回の賭けに出ようというのだから、ピケットが武勇として誇れなかったのは当然であろう。
果たして、その賭けは
両軍が銃火を交えた草原には街道を仕切る長大な柵が立てられており、これが南軍の行方を阻んでいた。
決して低いとは言い難い柵をよじ登って乗り越えるか、あるいは僅かな隙間に身をねじ込んで潜り抜けるか――いずれにしても姿勢そのものが不安定となり、その間は動かない
そこに迎撃の銃砲が一斉に撃ち込まれるのだから、数多の命が
北軍の兵士たちもまた横一列に並び、石積みの胸壁に銃身を固定した状態でライフルを構えている。個々を仕留める〝点〟の狙撃ではなく広範囲を舐め尽くす〝面〟の斉射は、銃火器の進歩がもたらした大量殺戮の側面を残酷に示している。
改めて
産業革命を経た一九世紀後半の勃発である『南北戦争』は、西部劇のようにリボルバー拳銃を撃ち合う〝決闘〟ではない。兵器の
空中で炸裂した砲弾が無数の散弾を広い範囲に降り注がせ、突撃中の南軍兵を惨たらしく引き裂いていく。北軍の陣地に肉薄しながらも至近距離で大砲の直撃を受け、文字通りに吹き飛ばされる兵士も少なくなかった。
照準を合わせる瞬間には敵意や憎悪の介在などは関わりがなく、それ故に慈悲の心も意味を持つことがない。〝敵〟と認識した物体を血の通わない兵器で無感情に破壊し尽くしてしまえるのが〝近現代の戦争〟であった。
爆弾やミサイルが雨の如く降り注ぎ、己の双眸で遺体を確認する必要すらなくなる時代はもう少し先のことであるが、兵器の発展は互いに返り血を浴びない攻防を実現させた。
その一方、返り血を浴びる距離で心をもぶつけ合い、戦いを通じて辿り着けた相互理解が感情の働きに左右されない合理性と引き換えに戦場から消え失せていくことになる。
〝戦うということ〟そのものを新たなる時代へと導き、
自身の帽子をサーベルに突き刺し、これを掲げながら正面突破を盛んに呼び掛ける南軍の将軍たちはさながら
正面突撃は無意味に犠牲者を増やす〝死の行進〟になるであろうと反対する声は、指揮官の間でさえ少なくなかった。一進一退の状況こそあったものの、二日目までに勝利の天秤を傾かせることが叶わなかった南軍は、三日目に至って無謀な賭けを強行せざるを得ないほど追い詰められていたのである。
だが、これを割り引いても供物を求めて地上を彷徨う
死屍累々の惨状を遥か後方から眺める南軍作戦本部は気付いていなかったのかも知れないが、〝死の行進〟は酸鼻を極める有り
敵兵の顔を間近に確認できるようになると南軍の応射もいよいよ激しさを増し、草原の一帯が
アメリカ連合国の旗を〝死の行進〟に駆り立てる勇ましい小太鼓の音色は、この時点で既に戦場には聞こえていない。もはや、将兵の耳にさえ届くことはないだろう。
仲間の亡骸を踏み越え、南軍の一部は大小の岩を積み上げた胸壁の向こう側へと雪崩れ込んでいく。たちまちの内に北軍の最前線は敵味方が隊列も何もなく入り乱れ、銃剣で胸や腹に突き刺し合う大混戦と化した。
互いに心臓の鼓動が
飛び道具の性能の優劣から切り離される白兵戦は、気魄で勝る側が命を拾う状況とも言い換えられる。ライフルの
取っ組み合いとなった者は相手を地面に薙ぎ倒し、握り拳で撲殺するという極めて原始的な攻防を繰り広げていた。このときだけ前時代の決闘に近い形へ回帰したわけである。
戦いの最前線では南北両軍の誰もが泥に
乾坤一擲の白兵戦によって南軍はついに勝機を引き寄せた――その瞬間は誰一人として形勢逆転を疑わなかったことであろう。ジョージ・ピケットの勇名は窮地に
そこは南軍の〝最高到達点〟と呼ばれるようになったが、前線の一角を突き崩しただけで戦況が覆るほど〝現実〟は生易しいものではない。
北軍の陣地にアメリカ連合国の旗が翻ったのは、ほんの
サーベルに突き刺した帽子をゲティスバーグの空に掲げ、死地に臨む兵士たちを鼓舞し続けたルイス・アーミステッド准将も大混戦の
身を守る
そして、それは南軍全体にも伝播し、敗者として『南北戦争』の終結を迎えるまでに全軍の士気を回復できなかったという。こうした影響を
ゲティスバーグは銃火が止んで俄かに静寂が訪れていた。野花に彩られた長閑な草原に戻っていた。それだけに街道の柵と北軍陣地の胸壁の間で野晒しとなった夥しい死傷者が無情の二字を突き付けるのだった。
「――ハワイに『
鞍に跨る者を失った馬が
『
濃霧さながらに硝煙の垂れ込める戦場から視線を引き剥がし、眉根を寄せつつVVの横顔を見据えたのは、改めて
『ゲティスバーグの戦い』から一五〇年という節目を記念して制作され、昨年に公開されたばかりの映画であった。最新作に近いものを自由に視聴できることも機内サービスの特権と言えよう。
尤も、これを観ていたのはイズリアルのみである。VVは隣席にてノートパソコンを起動し、今回の来日には同行していない
映画視聴に用いるモニターは座席ごとに設置されており、音声もヘッドフォンからイズリアルの鼓膜へと直接的に流れ込んでいるが、真隣に腰掛けていれば、意識して覗こうとしなくても視界の端に映像が割り込んでくるわけだ。
大勢の人々が鑑賞できるよう映像は写実性を抑える〝演出〟が施されている為、明らかな致命傷であろうとも過剰に出血することはない。〝現実〟の
両軍の銃弾が嵐の如く荒れ狂う武力衝突を描きながら、残虐性を打ち出すような表現にもなっていないわけだが、今し方の口振りから察するにVVはそもそも『南北戦争』の再現に抵抗がある様子であった。
モニターに映し出されているのは、戦争の虚しさや命の儚さを際立たせる静かな草原の点描だ。台詞や劇伴のない
「それを言い出したら、カメハメハ一世はどうなるのかしら? 偉大なる王も鉄砲と大砲を
「映画の邪魔して悪かったな。……お前さんと違って自分は
後世まで〝大王〟の尊称を
しかし、入植者であるはずのアメリカが政治的影響力を強めると陰りが見え始め、一九世紀末には王家が銃剣を
ホノルルの王宮に星条旗が掲揚されたのは、二〇世紀を迎える直前の一八九八年八月一二日――奇しくも、同じ旗を翻す軍勢がスペインとの戦争に
二人とも英語を用いているが、
血筋を遡っていくと
だからこそ、自分たちが背負い続ける歴史から目を逸らさず、心を軋ませる音すらも噛み殺す覚悟で立ち向かってきたのだ。
イズリアル・モニワも『南北戦争』の再現を漫然と眺めていたわけではない。服装すら不揃いという南軍の兵士が選ばざるを得なかった起死回生の
『ゲティスバーグの戦い』に焦点を絞った為か、
無論、それは限定的な条件から捉えた一側面に過ぎないが、労働の在り方が武力衝突の火種になることをイズリアルは自らの団体運営を通じて実感しており、支持はともかくとして一定の説得力は認めざるを得なかった。
『南北戦争』の火蓋が切って落とされたのは一八六一年である。イギリスからの独立ひいてはアメリカの建国が宣言された一七七六年とは一世紀近くも離れており、移民が本格化した一六二〇年はそこから更に一世紀半も遡る。
別々の文化ひいては伝統が育つには十分な歳月といえよう。これによって支えられる社会の仕組みも異なる形で確立されていったのである。
その間に北部では工業が、南部では農業がそれぞれ経済の基盤となり、外国との交易に
産業構造の
工業の発展に伴って商業も盛んとなった北部と比較した場合、当時の南部は経済的にも停滞としか表しようがなく、そこに生じた格差が諍いの原因となることも少なくなかったのである。それだけに南部は確実な利益が見込める自由貿易を死守せざるを得ない。
北部が産業構造という境界線を越えて南部に労働力を求めたのは、そのような
この頃の南部では
輸出先の需要が高まれば高まるほど、綿花の栽培に従事する人材もそれに比例して必要となる。入植者と共にアメリカ大陸にも持ち込まれた
一方の北部側も工場の機械化に伴い、国内生産力の担い手を欲していた。そして、この急務の打開策が『南北戦争』に至る最初の一歩であったと唱える者も多い。
州単位ではなく連邦全体で
所有者による支配は、貴重な人材を一定の土地に縛り付けるということでもある。これを廃止すれば、隷属を余儀なくされてきた人々にも労働力を提供する場を己の意思で選ぶという〝自由〟が生まれるのだ。
一八六二年九月二二日の予備宣言と翌年一月一日の本宣言という二段階を経て、
無論、人材の確保という打算だけが目的であったわけではあるまい。アメリカ北部のみならず、旧宗主国であるイギリスでも古い制度の廃止に向けた動きが活発化していた。中世の影響が根深く残る〝近世〟から産業革命が起こった〝近代〟へと進む中で、
一八六一年に就任し、合衆国大統領として『南北戦争』へ臨むことになるアブラハム・リンカンもこれを訴え続けてきた。それ故に〝自由〟を約束するという彼の宣言に誰もが耳を傾けたのだ。
「――内戦の犠牲になった全ての人を自分たちは絶対に忘れない。ここで散った命を無駄にしない為にも、生き残った自分たちは彼らが完成できなかった事業を受け継がなくてはならない」
イズリアルが見つめるモニターにも髭面の男が現れた。『ピケットチャージ』からおよそ四ヶ月後にアブラハム・リンカンがゲティスバーグで行った演説の再現である。
同地で戦没した兵士たちを埋葬する国立墓地が新たに作られ、その奉献式典にて披露された
「
我らの父祖は自由の精神に育まれ、全ての人々は平等に創られたという命題に捧げられた新しい
リンカンによる解放宣言の結果が表しているが、それは南部に
南部の人々からすれば、
間もなく南部連合はジェファーソン・デイヴィスを大統領として選出し、〝アメリカ連合国〟の発足を宣言――
親と子や親友同士が〝権利〟という弾丸を込めた銃を向け合う地獄がそこに
これが『南北戦争』であり、労働の在り方を立脚させる思想そのものが南北で相容れなかったことに端を発している為、〝市民戦争〟という別称も付けられている。
尤も、この捉え方は近代アメリカに
この時代はアメリカという
領土拡大を図って隣国と戦った時期の反動や、州の集合体という仕組みを育てる段階で生じた確執など二世紀の間に積み重なったモノは余りにも大きかった。〝労働力〟という焦点についてさえ、南部から引き入れるまでもなく北部では移民が酷使されていたのだ。
その事実をイズリアルは――不当な条件のもとで過酷な労働を強いられた日本人ハワイ移民最初の世代の子孫は、『南北戦争』を読み解く為の一側面として忘れてはいない。
何よりもイズリアル・モニワは、アメリカ最大のMMA団体『NSB』を率いる
かつて『NSB』にドーピング汚染を招いた原因も偏った思想であり、それが複合社会の調和と秩序を歪めてしまうと痛感させられたからこそ、イズリアルは
自らの信条とは相容れないモノがあると認めた上で、『NSB』の代表は
『NSB』はスポーツ産業であり、所属団体と契約選手の間で報酬が発生する
それぞれの生活を等しく保障する構造が破綻したとき、所属選手もスタッフも、誰もが生きる場所を失ってしまう。同団体にはアメリカ国外から参加している者も多い。世界経済にも対応し得る仕組みを作り、組織としても進化し続けなくては
だからこそ、MMA
その為ならば、汚名を着ることもイズリアルは厭わない。如何なる策を講じてでも『NSB』を死守せんとする意志は
ラスベガスの本社で
(――『NSB』の〝自由〟が守れるなら、……手段など選んではいられない。私たちが繰り広げているのは、れっきとした戦争なのだから……ッ!)
産業革命と機械化の恩恵を受けられたとは言い難い南軍は、武器の調達を
これに対して北軍――〝アメリカ合衆国〟の北部は、工業の発展によって銃火器の大量生産も可能となり、『南北戦争』に
それは大量の兵器を短期間で揃え、間断なく戦場へ投入できるようになったという意味でもある。結果的に〝近現代の戦争〟が持つ大量殺戮の側面も加速していった。
極端な事例を思い浮かべてしまった――と、
ドーピング汚染を乗り越えた『NSB』は、イズリアル・モニワによる新体制のもとでMMAという競技の在り方を大きく発展させ得るシステムを開発し、世界の牽引役に返り咲いている。これもまた
今やアメリカ国外からも様々な脅威が迫っている。中でも際立って忌々しく感じるのは『
試合中にリアルタイムで心拍数を測定・解析するのも、選手の命を守る措置であった。生体データの公開は未だに付き纏うドーピング疑惑を払拭する役割も果たしているのだ。
樋口郁郎は『
日本を代表するMMA団体の代表でありながら、
アメリカ連合国の旗が翻った〝最高到達点〟は、南軍の魂の
内戦の犠牲になった全ての人を自分たちは絶対に忘れない――アブラハム・リンカンによる『ゲティスバーグ演説』の通りになったことは、
樋口郁郎も『NSB』の懐に飛び込んでくるつもりである。しかし、その
統括本部長の
(同じ天のもとに二柱の〝神〟が並び立つのか、私一人では結論を出せないけれど――)
キリサメが人間という種を超越した瞬間、イズリアルは『ケ・アラ・ケ・クア』という余人には全く意味不明な叫び声を上げ、
そのキリサメが
「人民の、人民による、人民の為の政治を地上から決して絶滅させてはならない――」
やがて映画はアブラハム・リンカンの胸像がラシュモア山に彫られるきっかけの一つともなった名場面に至り、ヘッドフォンで覆われたイズリアルの鼓膜も『ゲティスバーグ演説』を締め括る至言で打ち据えられた。
『ゲティスバーグの戦い』から数えて三五年の
MMAを愛する人々へ報いることが出来る〝場〟を未来へ繋げる為には、〝何〟が必要なのか――それが『NSB』代表の〝全て〟である。
「銃に頼って〝
モニターの映像が再び視界に入ったものと
己とアブラハム・リンカンを重ねていたイズリアルにVVの
アメリカ連合国の支持者であるシェイクスピア役者が放った一発の銃弾によってアブラハム・リンカンの命が吹き飛ばされたのは、一八六五年四月一五日――『南北戦争』の終結から数えて僅か六日後のことである。
ハワイ
アブラハム・リンカンは観劇の為に訪れたフォード劇場で後頭部を撃たれ、翌朝に息を引き取った。欧米に
格闘技という人権侵害を助長していると名指しで批判されている『ハルトマン・プロダクツ』の創始者一族も、オランダ格闘技界を束ねる〝聖家族〟の御曹司と共に『
警備員の
最悪の事態を避ける為、『NSB』の上級スタッフから請われる形で視察にVVを伴うことになったのだ。さすがに旅客機内には持ち込んでいないが、彼は日本でも背広の下に
VV・アシュフォードはMMA選手ではなく、『NSB』の上級スタッフでもない。しかし、同団体の
銃器の扱いに至っては、オリンピックの射撃競技で金メダルを狙えるほど巧みである。それを見込まれ、
「……もしかすると『ウォースパイト運動』は、『NSB』にとっての『ホノルル・ライフルズ』なのかも知れないわね……」
『ホノルル・ライフルズ』とは、ハワイ国王によって承認された民兵組織である。アメリカ系政治組織によるクーデターに
司令官の
『ホノルル・ライフルズ』が構えた銃剣によって王家は脅かされ、カメハメハ大王が築き上げた楽園の王国も儚く滅び去った――
映画の中のアブラハム・リンカンもフォード劇場に到着し、愛する妻の手を握りながら運命の場所へと歩を進めていた。
「ここで散った命を無駄にしない為にも、生き残った自分たちは彼らが完成できなかった事業を受け継がなくてはならない」
イズリアルの脳裏に『ゲティスバーグ演説』の一節が甦った。
万が一、
イズリアルの〝耳〟に入る樋口郁郎という人間の振る舞いは、一代限りの功績を自ら食い潰していく愚者のそれであり、夥しい血を生け贄の如く捧げて歴史に永遠の〝誇り〟を刻んだ『ピケットチャージ』とは一つとして重ならなかった。
フィットネスクラブなどの運営や将来のオリンピアンの育成支援にも力を注いでいる日本有数のゲームメーカー『ラッシュモア・ソフト』の本社ビルにて『MMA日本協会』の緊急会合が始まったのは、己が議題の一つになろうとは夢想だにしないキリサメが入院先を引き払う前後のことであった。
同社の会長であり、『MMA日本協会』の副理事長を兼任する
『
最初の議題が一つの節目を迎えた直後に新たな火種が投げ込まれ、議長として〝上座〟に腰掛けていた
「今、平成何年だと思ってんだ⁉ 西暦なら
「誰も暗殺計画とは言ってないわよ。向こうで襲撃される恐れがあるかもって
「今日明日にも都内に刺客が送り込まれるかも知れねェって聞かされたら、
左右の拳でもって憤然とテーブルを叩く
世界最大のスポーツメーカーであり、『
次から次へと問題が噴出し続ける日本MMAの現状に呆れ果てていたギュンターは、己の領分を忘れてメインスポンサーにまで咬み付かんとする『
面白くなってきた――偽らざる本音を思わず洩らしそうになってしまったのである。
『ハルトマン・プロダクツ』の影響下にない新興企業に支えられながら、日米の格闘技界に楔を打ち込む〝第三勢力〟としての存在感を強めるシンガポールの新興団体など、アジアに
『ハルトマン・プロダクツ』ひいてはザイフェルト家は、世界中の国際競技大会に入り込んで莫大な利権を貪り喰らうことから『スポーツマフィア』という蔑称を
謀略と情報戦を
団体からの放逐を図らんとする
ザイフェルト家が裏で手を回すまでもなく、〝暴君〟に向けられていた恨みが
法治国家日本を生きる人々にとって甚だ現実味を欠いている〝暗殺〟の二字が『MMA日本協会』を戦慄させた原因は、副会長の
緊急連絡の為、一時的に退室した吉見副会長はおよそ二〇分を経て戻ってきたのだが、その顔は血の気が引いていた。困惑と沈鬱を綯い交ぜにした
「――現状のまま熊本入りしようものなら、樋口郁郎は
一瞬だけ間違い電話であろうと考えたが、胸騒ぎを覚えて着信に応じた吉見は、緊急会合の〝流れ〟を変えてしまうような
「あたしもまだ帰宅途中だから現地の空気を完全には掴めていないのだけど、夫から聞いた話では、道場や流派の垣根も取っ払って『
名前はジャーメイン・バロッサであるが、アニメシリーズ『
〝火の国〟に根を張ったバロッサ家は、打撃系立ち技格闘技団体『
岡田会長も吉見副会長も、ジャーメインと面識がある。日本格闘技界が一丸となって東北の復興を
鬼貫道明や八雲岳など日本格闘技界を代表する人々が居並ぶ会合でも
『
岩手興行に
「筋を通しもしない相手には誰だって良い気がしないわ。夫が確かめた限り、行政との話は付けていたみたいだけど、それが見事に逆効果。熊本の武術界は大昔から真っ二つに分かれて張り合い続けていたのだけど、
吉見副会長を経由して『MMA日本協会』に伝えられた〝火の国〟の狂騒は、
許すまじ、樋口郁郎――たったの一夜にして、その怒声が〝火の国〟で生きる武術家たちの合い言葉になったともジャーメインは付け加えていた。
「樋口の野郎、マジで何の根回しもしないまま熊本大会を強行するつもりなのかよ……。第二回興行のときは――福島県の
議長席から立ち上がって窓辺まで歩み寄り、『ラッシュモア・ソフト』本社ビルに程近い東京タワーをブラインドの隙間から眺める岡田会長は、「熊本大会」と呻くように吐き捨てた。
それはそのまま『
かつての黄金時代から日本MMAに君臨し続けていた『
江戸時代から明治維新に至るまで室町幕府以来の名門である
各々の席に一台ずつ設置されたタブレット端末には先程まで『
岩手興行の観客を沸騰させた団体代表の宣言は、熊本県内で『
『MMA日本協会』の会長が眺める東京の空と同じように、熊本興行には早くも暗雲が垂れ込めていた。
「鹿児島と熊本の
「九州から東京まで攻め上るという意味ですか? 『西南戦争』が起こった頃と違って、
「堪忍してくれよ、浩之――いや、折原理事長。『ウォースパイト運動』が似たようなバカをやらかすかも知れねぇってときに、タチの悪い冗談は心臓に悪いぜ」
「これは失敬。しかしね、自分としては脅かしのつもりでもないんです。吉見さんの
若かりし頃からショープロレスの
何とも
熊本で進みつつある状況は法治国家の秩序を根底から覆すほど深刻であるが、ジャーメイン・バロッサから提供された情報を除いて襲撃の企てを確認する
思想活動を取り締まれば不当な弾圧となる為、テロにも等しい事件を繰り返す『ウォースパイト運動』でさえ各国の司法当局は撲滅できずにいる。それと同様であった。
「まさか、『祇園の雑草魂』が――アイツが〝火元〟じゃねェよな?
「今後、乗っかってくる可能性は無きにしも非ずですけど、何しろ偶発的な事件ですからねぇ。〝彼〟の仕込みとは考えにくいですよ、会長。……ただし、〝彼〟と同じくらい厄介な人が
「あ~、……察したわ。
ジャーメインの夫にして希更の父――アルフレッド・ライアン・バロッサは、武家屋敷の趣を現代に留める八代市で法律事務所を営み、古武術に関する事件も取り扱っていた。
『MMA日本協会』の緊急会合は岩手興行の翌日に実施されたのだが、アルフレッドのもとには日付変更線を超える前から問い合わせが絶え間なく続いているという。
電話を掛けてくるのは、熊本県内に道場を構える古武術家であった。バロッサ家の娘が『
二〇一一年の旗揚げ以来、『
岩手興行までは地方プロレス団体とも協力体制を整え、雇用創出も含めた地域振興を事業の中にも組み込んできた。東日本大震災で傷付いた日本中を元気付けたいという統括本部長の理想が経済活動にも反映された形である。
それにも関わらず、樋口郁郎は〝火の国〟に対する配慮を欠いたまま開催地発表を強行してしまったのだ。
バロッサ家の
熊本の武術家たちは根回しの類いがなかった点に憤慨している。協力金といった報酬を引き出すべく恫喝を試みているのではない。仁義に
〝筋を通す〟という考え方は、二〇一〇年代も半ばに至った現代に
同県の武術界が軽んじられただけであったなら、『
今なお『せいしょこさん』の呼び名で慕われる戦国随一の名将・
明治維新の
〝火の国〟で育まれた武芸の
オーストラリアを
猛き武士の魂が山にも海にも宿った土地だけに、事前の相談があったなら県内諸流派を統括する協会は言うに及ばず、個々の道場も積極的に協力を申し出たことであろう。
『
中世の
日本の古武術を己の〝軸〟としているザイフェルト家の御曹司でさえ、諸流派や道場の事情まで把握しているわけではないのだ。全世界に情報網を張り巡らせている『ハルトマン・プロダクツ』も現時点では〝火の国〟の有り
これについては樋口郁郎も同様であろう。日本格闘技界を支配する〝暴君〟とはいえ、その
〝暴君〟はプロスポーツとは切り離された〝世界〟で修練と継承に励む古武術諸流派までもが己にひれ伏すと見誤り、権力の墓穴に
「自分のほうにも向こうの仲間から続報がどんどん届いていますし、何より
緊急会合の出席者一同に見えるよう折原が
「……
呻くような吉見の呟きには、熊本に根を張るバロッサ家の
ジャーメインの夫――アルフレッドからすれば、迷惑以外の何物でもあるまい。愛娘が出場しているだけで、バロッサ家は『
「――『
電話の最中に
名古屋空港の待合室でジャーメインが
彼自身、法を軽んじているとしか考えられない〝暴君〟には憎悪しか持ち得ないのだ。
アルフレッドの法律事務所に勤務する二人の弁護士は、熊本藩士にも伝授されてきた槍術と鉄砲術をそれぞれ嗜んでいるが、樋口来訪に備えて得物の手入れを始めたそうだ。
〝法の番人〟という立場を失念してしまったとしか思えない危険な行動であるが、これはおそらく
「前々から樋口さんを目の敵にいましたから、当然といえば当然かもですけど、バロッサ先生を敵に回すのは最悪だなぁ。〝在野の軍師〟ならとことんやるでしょう」
樋口郁郎を巡る熊本武術界の狂騒にアルフレッドが関わったことを吉見副会長から明かされ、比喩でなく本当に頭を抱えたのは、理事の一員である杖村医師であった。
スポーツ医学の中でも格闘家・武道家と専門的に向き合う分野――〝格闘技医学〟のセミナーにもアルフレッドは参加しており、同医学会を代表して『MMA日本協会』に名を連ねている杖村とも面識がある。
その
〝格闘技ビジネス〟で生計を立てる者の多くは樋口の
法律に精通していればこそ、これによって許される範囲の策を全て使いこなす――法廷の内外で
「これまでは娘さん――希更さんが出場している団体の方針を疑問視するだけに留めていたハズですが、ここからは『
冷徹の二字こそ似つかわしい頭脳で様々な事件と向き合ってきたアルフレッドは、
敵対関係にある相手の名前を吼えながら、ステーキナイフをテーブルに突き立てる気性の持ち主なのだ。死んだ魚を新聞紙で包み、憎悪の対象に送り付けたこともある。
明日にでも
「あの人のことですから、既に何らかの手を回していると考えたほうが良いでしょう。叩けば埃が出る身と言いますが、昵懇の探偵辺りを差し向けて樋口の叩き方まで調べ上げているはずです。……行き着くところまで行きますよ、確実にね」
「少々突飛に聞こえるかも知れませんが、あの人の
弁護士である前に生まれついての軍略家であるのかも知れない――〝在野の軍師〟という物々しい異名の持ち主に対するギュンターの見解を受け止めた途端、館山弁護士の
従軍経験の有無に関わらず、育った環境に〝戦争の気配〟が垂れ込めていれば、それに応じて人は変わる――このようにもギュンターは言い添えたが、史上最悪と忌み嫌われる独裁政権に与することで〝戦争の時代〟に財を成したという
『MMA日本協会』の最年長である徳丸は『太平洋戦争』開戦の前年に生まれ、幼い頃に〝戦争の時代〟ひいては戦後の焼け野原を経験している。それ故にザイフェルト家の御曹司が喉の奥から絞り出した言葉を誰よりも神妙な面持ちで受け止めていた。
「今からバロッサ家に仲裁を依頼できないものかね、吉見君? 今度の一件、ノラ総帥が動けば風向きを変えられるのではないかと思うのだが……」
「祖母は熊本の気風が気に入って移住した人――説明としてはこの一言で足りるんじゃないかって聞かされたとき、ガラにもなく背筋が凍り付くような気持ちだったわ。最初からバロッサ家に口利きの相談でもしていたら、徳丸さんの期待通りになったかもだけど、仁義をクソの役に立たないと思っている人間には、仁義なき戦いが待ってるってワケね」
「カネで解決し切れんのが信用問題の最も難しい点。今度の失態で『
日本MMAの行く末を憂う徳丸副理事長の問い掛けに対して、吉見副会長はジャーメインから聞かされたことを
吉見自身も徳丸と同じ質問を通話の
日本での普及に際して安全面に配慮したルールを設けたが、本来のムエ・カッチューアは目突きなどの危険行為も含み、〝地上で最も恐ろしい格闘技〟と恐れられている。
生身で壊し合うという古来より受け継がれてきた様式を使いこなすものの、ジャーメイン自身の
『MMA日本協会』の役員もオブザーバーも把握していないが、樋口体制の『
その果てに熊本の誇りを踏み躙られたのである。ジャーメイン本人が刺客となり、樋口郁郎の身辺を脅かしても不思議ではなかった。
希更の所属団体ということもあり、バロッサ家は本来ならば熊本興行に
「……それにしても
漫画原作者と
「……奥様の連絡そのものがバロッサ先生の策略の一手という可能性も考えられます」
樋口暗殺計画にも直結し兼ねないバロッサ家の動向を巡り、重苦しい空気によって支配された会議室に館山弁護士の声は一等大きく響き渡った。
「熊本総出で『
「そこは会長が仰る通りです。あらゆる方向から樋口さんに恨みが向く状況へこれ幸いと便乗するつもりかも知れない――と、言い換えたほうが正しいかも知れません。杖村さんは勿論、私も伺っていましたが、今回のことが起こる前からバロッサ先生は『
「親バカの暴走ってコトなら、オレも気持ち的に分からないでもねェけどなァ~」
「バロッサ先生に弁護士としての助言を依頼した方や、
首都圏と九州で活動拠点が離れていることもあり、同じ民事訴訟専門の弁護士でありながら、館山はアルフレッドと法廷で対決したことがない。〝在野の軍師〟の恐怖を聞き及んでいればこそ、これから先も敵に回すような状況は避けたいというのが本音であった。
その一方、同じ法曹界で生きている為に様々な風聞が遠い熊本から館山の耳に届く。
岩手興行にも出場し、古傷の影響で試合中に足を満足に動かせなくなってしまったことを『
彼は以前から他団体への移籍を画策しており、〝暴君〟に契約不履行で追及されない策を〝在野の軍師〟に求めたのである。
そのライサンダーにアルフレッドを紹介したのは、共通の友人でもあるアメリカ
長引く経済危機に苦しめられ、ほんの数年で失業率が跳ね上がったギリシャでは転職も困難であり、己の命よりも大切な家族を養う為には真っ当な待遇を受けられるMMA団体への移籍を模索してもおかしくはあるまい。
そこまで所属選手を追い詰める『
品性を疑われるような趣味であるが、アルフレッドは憎悪する〝敵〟の写真をダーツの的として使うと、館山は耳にした
反目し合っているとはいえ、『MMA日本協会』にとっては『
確かに愛娘の所属先だが、あくまでも〝本業〟は声優である。『
「館山さんの仰ることは納得の一言です。俺が指導した新貝君も随分と酷い目に遭わされましたからねぇ。……移籍か。
「……バロッサ先生の画策によって万が一の事態に立ち至った場合、折原理事長はどのように動かれるおつもりですか? 今こそ『MMA日本協会』は足並みを揃えるべき
「火事場泥棒に走るほどさもしくはないつもりですよ。もし、何らかの
「行き場を失った女子選手を巻き込んで、樋口の野郎に乗っ取られた〝
これを受けて眉間に皺を寄せたのは折原理事長である。
体重別階級制度が適切に運用されるMMA団体であったなら、間違いなく
かつて自身が所属した女子MMA団体『メアズ・レイグ』を〝暴君〟による買収工作で『
「熊本で
「樋口に負けず劣らずの
もしも、樋口が熊本に足を踏み入れたなら生きては帰れないであろうと、『
館山が身震いと共に想い出したのは、アルフレッドの瞳である。
触れた者の心臓を凍り付かせそうな冷気を双眸から放っており、主演アニメの主人公と同じように相互理解の大切さを体現する愛娘の希更や、外国との交流試合といった民間単位の〝スポーツ外交〟に励んでいるバロッサ家とは対極の存在とさえ感じたのだ。
「樋口一人のしくじりなら仕方ねェって思うがよ、交渉上手の
「今まさに自分も探りを入れ始めたところですよ、会長。熊本のツテに頼み込んで、前後関係を洗い出してみます。界隈の人間はどこかで繋がっているものですから、半日もすれば副会長が受けた電話以上のコトも
「……内閣情報調査室に推薦したいくらいだぜ、浩之の
「情報が氾濫した社会では、些細なことでも裏を取るのが基本というだけですよ、会長。そこまで評価して頂いて光栄ですが、そもそも俺みたいな目立ちたがり屋は〝
議長席に座り直しながら腕組みし、重苦しい溜め息を引き摺るような恰好で
開催先の自治体や協力企業との交渉は、
軽食を振る舞う屋台や地方プロレス団体との提携だけでなく、
首肯を
「……バロッサ先生と柴門さんが裏で手を組み、樋口さんの失脚を謀っているのなら、辻褄は合います。柴門さんがその野心を秘めていると仮定した場合、利害も一致しますし」
今しがた口にした最悪の筋運びも含めて、館山弁護士が述べてきたのは限られた情報に基づく憶測である。
ジャーメインを問い詰めても、アルフレッドの法律事務所に問い合わせても、新しい手掛かりは得られまい。却って事態を悪化させてしまうだろう。
〝
同じ弁護士であるが故、
手入れの行き届いた庭を望む客間へと通され、
幾つも混じった〝白い物〟が独特の艶を生み出している為、初対面の人間はアッシュグレーの
そのアルフレッドが見据える先――
まさしく武勇の誉れであり、この屋敷と家門の由緒を表しているようであった。アルフレッドが背にする襖には『
「
「
アルフレッドのことを「所長」と敬称で呼んだ男性は
鼻の下や顎全体を豊かな
「アジアの主導権を
「想像の中で
シンガポールで台頭した新興団体の〝影〟となった『祇園の雑草魂』の暗躍は、あくまでも限られた情報に基づく想像に過ぎない。
これに対し、熊本で火の手が上がった狂騒は、日本MMAにとって〝現実〟の脅威だ。前方から破滅が迫る状況では、背後に感じる影が恐慌を引き起こすことも少なくない。
不確かな想像という心理現象は、事態を伴わないが為に焦燥を吸い上げて際限なく膨らんでいく。ましてや、日本MMAにはかつての最年少選手から報復を受けるべき理由もあるのだ。恐怖は後ろめたい気持ちからやって来るのである。
「
厳つい面構えの少弐守孝が重々しく吐き出した一言は、〝在野の軍師〟に対する警戒心を強めていた館山弁護士にとって答え合わせのようなものであろう。
吉見定香がジャーメインからの着信を受けた時点で、アルフレッドの〝罠〟は始まっていた。知らない間に巻き込まれた迂闊さや、相手の真意を測り切れない現状を呪っている場合でもなく、講じるべき策を捻り出さなくては、日本MMAが立ち行かなくなるのだ。
『MMA日本協会』の反応も、アルフレッドには想定の範囲内であった。
「探偵社の
「――その話、私の前でなさってもよろしいのですか?」
「樋口郁郎が未だに
「相手が誰であろうと
達人の二字に相応しい風格を纏った少弐守孝が勇ましく握り拳を作ると、真隣に座る権田源八郎は長い銃身を左手で支え、右の人差し指で
これを見せ付けられた柴門は
「ただし、そのときには熊本から古武術道場が根こそぎ吹き飛ぶでしょうな。旦那のトコなんか大変だ。……この
〝黒い交際〟が暴かれたことによって『
そして、崩壊の引き金となった〝交際相手〟が『
アルフレッドは日本MMA関係者にとって言い逃れし
今し方は探偵社との連携をわざわざ強調するように言い添えている。おそらく
アルフレッドやバロッサ家が樋口個人に敵意を抱いていることは、
それでも
『
双方にとって最悪の事態を避けたいという目論見があることは間違いない。『
しかし、〝在野の軍師〟の
「随分と『MMA日本協会』の内情にお詳しいようですが、盗聴器でも仕掛けておられるのですか? いえ、それは私には関わりのないこと――ですが、そこまでしてバロッサ先生は何をされようとしておられるのですか? 『
「法は人そのものであり、人もまた定められた法なくして人足り得ない――それだけだ」
遠回しに説明を促しても
余人には理解不能な言葉であったが、そこに込められた意図を柴門は即座に汲み取り、たちまち顔を歪めていった。この男には間違いなく通じると評価していればこそ、アルフレッドも本来は密談とするべき内容を真隣で話したのだ。
「今でこそ樋口郁郎の手足となって働いているが、柴門さんの〝本業〟は貿易商と聞いている。会社自体は
「そもそも日本の格闘技界に『グラウエンヘルツ法律事務所』の名前を知らない人間はいませんよ。これはゴマすりでもおべっかでも何でもなく一つの常識です」
「皮肉としては甘口だな」
調査員こそ雇ってはいないものの、優秀な探偵社との業務提携によって相手の裏を掻くような情報戦を展開していることも掴んでいた。
「バロッサ先生の恩師は『ロンギヌス社』で――兵器メーカーで法律顧問を務めておられるのでしたよね? 私の会社で商ってはいませんが、……
「これほど道理に合うことも他に知らないがな。〝暴力〟を犯罪に換えてしまう手段だからこそ、法律で管理することが適切だと俺は考えている。格闘技やスポーツのルールと大きく変わるものでもない」
「……そこで先程の言葉に行き着くわけですか。法という名の首輪を自ら外すようなモノは人足り得ない――〝法の番人〟としても野放しにはしておけないと?」
「野放しにはしておけないと、柴門さんが誰よりも
火縄銃を撃つという権田源八郎の仕草からイタリアの軍需企業に辿り着くアルフレッドの人間関係を想い出し、これを例に引いて牽制する柴門であったが、反撃としては余りにも脆く、逆に得心させられそうになってしまった。
「銃も適切なルールに従って使用すれば、〝平和の祭典〟の競技になる。俺の幼馴染みがアトランタの
アルフレッドが述べた旧友とは、アメリカで最も有名な
冠番組の撮影クルーと共にアメリカ史上最悪のサイバーテロ事件に巻き込まれた一人とも言い換えられるだろう。更に
アルフレッドの交友関係を洗い出す中で、柴門もフィーナ・ユークリッドに行き着いていた。だからこそ、「法律による〝暴力〟の管理は、格闘技やスポーツのルールと変わらない」という主張に
フィーナ・ユークリッドが出場した一九九六年アトランタオリンピックでは、メイン会場内の屋外コンサート施設を狙った爆弾テロが発生している。死傷者が一〇〇名を超える大惨事であった。
柴門ほど知恵の働く人間であれば、
今や樋口郁郎は武力衝突――即ち、〝戦争〟の火種と化している。
「バロッサ先生の〝法の番人〟としての矜持は十分に承りました。頷かざるを得ない点が多々あったことも否めません。……ですが、法のもとに人を裁く権利は、貴方に――銃とは違う〝暴力〟を向ける者にあるのですか?」
少弐守孝と権田源八郎が憐憫の情を抑えられなくなるほど複雑な
庭と客間を隔てる板張りの廊下の向こうから如何にも不機嫌そうな足音が近付いてきたのは、〝法の番人〟が冷たい瞳で柴門を見つめ返した矢先のことである。
「――許すまじ、樋口郁郎ッ!」
怒気を引き摺りながら現れた屋敷の主――少弐守孝が述べた通り、家名は『
その様子を目の端で捉えようとも、アルフレッドは薄笑い一つ浮かべなかった。『ランボー』と恐れられる男が心の中で振り
焦燥感を煽り、心理的に『MMA日本協会』を追い込むことも〝在野の軍師〟は狙っているのだろう――それが館山弁護士の推察であった。悪辣の二字こそ相応しい策謀に打ち負かされた弁護士を何人も知っていればこそ、アルフレッドと争う機会がなかったことを彼女は幸運と感じてきたのである。
今となってはそれも過去のものであろう。〝在野の軍師〟が張り巡らせた謀略は、『MMA日本協会』の理事たちを確実に侵食を始めている。
「今は熊本の中に留まっている様子だが、隣県に飛び火していけば、MMAという〝格闘競技〟そのものが九州から締め出しを喰らい兼ねん。アメリカのように州法で禁止される心配はなくとも、運動施設から『来るな』の一言で突っ
徳丸副理事長が口にし、一等重く響いた懸念は、会議室に居並ぶ皆が共有するものだ。
樋口郁郎という一個人への攻撃では終わらず、MMAそのものに対する憎悪が高まって不買運動が起こり、熊本も九州も飛び越えて拡大し続ければ、格闘技
「いずれにせよ、岩手大会までの『
「図らずも副理事長が樋口体制に喰らわせようと企んでいた
互いの意思を確かめるように頷き合う『MMA日本協会』の正副理事長に対し、これを見つめる杖村の顔は瞬く間に曇っていく。二人が起こさんとしている〝何か〟の行動にも気乗りしない様子である。
「裏で手を回していくような真似を杖村君が好まんのは
「これからのMMAにとっても必要なことですから、私も駄々を
「杖村君や館山君が望む『
それは吉見副会長が電話を終えて会議室に戻ってくる直前まで役員たちの間で話し合われていたことである。
徳丸副理事長は「情報戦は樋口郁郎の専売特許ではない」と口の端を吊り上げて見せ、他の
樋口体制の暴走に拍車が掛かる『
医師として人の心とも真っ直ぐに向き合ってきた
〝法の番人〟である館山弁護士も強硬な手口は容認し得ないはずだが、思考そのものは計略を主導する徳丸や〝在野の軍師〟に近い為、杖村の横顔を気遣わしげに見つめながらも〝立場〟を同じくすることはなかった。
「副理事長がお考えになられた策は、アマカザリ選手に対する負担が余りにも大きくなろうかと思われます。医師の立場からしますと、こればかりは見逃すわけには参りません。熊本大会までの三ヶ月を利用して『
「アマカザリ君の働き如何で成否が分かれる以上、そこを突っつかれるとのは痛いな。彼の肉体的負担が軽減されるように調整すれば、杖村さんも乗り気になってくれるかね?」
「……本音を申し上げれば、『八雲道場』の承認を得た上で取り掛かるのが正しいと今でも思います。けれども、アマカザリ選手に知らせてしまったら成立しないのですよね?」
「人形遣いのような真似はどうにも好かんのだが、何も知らずにいるほうがアマカザリ君も心理的・精神的に楽でいられるはずだよ。……この企みが樋口に見破られたとき、〝
杖村は自らの手が汚れることを避けようとしているのではなかった。口先だけの理想論ではなく、具体的な行動によって日本格闘技界の将来を守らんとする覚悟は他の役員に勝るとも劣らないのだ。
その上で、問題提起が必要な局面では年長者が相手であろうとも譲らない――〝暴君〟の一声によって運営そのものが左右され、組織に対する不満ばかりが澱みのように溜まり続ける『
自分が離席している最中に提案されたものである為、徳丸と杖村が語らう策謀の全容を吉見副会長は未だに把握しておらず、『
「……『
杖村の発言を受け止めたことによって胸中に押し込んでおいた感情が堰を切ったのか、岡田会長も議長席に座ったまま盛大に頭を掻き
岡田当人の呻き声も表している通り、『
しかし、
傍目には八方塞がりとしか思えないからこそ、策を弄して閉ざされた門をこじ開けるしか選択肢がないのである。
その岡田の様子を眺めながら、ザイフェルト家の御曹司は何もかも〝暴君〟を気取った愚か者の自業自得と笑いそうになってしまった。
他者の〝誇り〟を蹂躙してきた男がその因果に命運を絡め取られようとしている。当然の帰結に行き着くことこそ『ハルトマン・プロダクツ』には最も望ましいのである。
それ故に自らの小賢しさを嘲りながらも、徳丸の策謀に差し出口を挟まなかったのだ。ただ一言、日本MMAにとって命取りになり兼ねない事態を憂慮する――と、『
樋口体制の打破は『ハルトマン・プロダクツ』も急務と考えているが、肝心の〝暴君〟が影響力を残したまま代表の座を明け渡したなら、
これがギュンターの述べた憂慮だ。浅ましいくらいの詭弁と自覚しているが、さりとて騙したわけでもない為、居並ぶ役員の目を見つめたまま口にすることが出来たのである。
樋口郁郎の息の根は確実に止めなくてはならなかった。〝格闘競技〟を巡るアジアの勢力図は時々刻々と変化しており、たった一人の対処に時間を費やしてもいられない。〝暴君〟を狙わんとする刺客をザイフェルト家のほうで用意したいくらいだ。
樋口体制が完全に消滅した
経済界にもその名を轟かせる海千山千の徳丸などは、ザイフェルト家の真意や御曹司の腹芸も見透かしているのだろうが、〝暴君〟を除いた後の展望も考えられる人間であれば気付かない
『MMA日本協会』にとっても世界最大のスポーツメーカーは味方に付けなくてはならない存在なのだ。双方の認識が一致していなければ、部外者に聞かせるべきではない議論が続出すると予想された緊急会合に
「シンガポールも熊本も、おまけに『ウォースパイト運動』も――世の中、いよいよワケが分かねェ! だからこそ『MMA日本協会』はブレずに志を貫かなきゃならねェッ!」
次々と降り掛かる想定外の事態に頭を抱えていた岡田会長であるが、一つの覚悟を固めたのか、テーブルの上に飛び乗り、そこで胡坐を掻くと居並ぶ役員を順繰りに見回した。
その瞳にも紡ぐ言葉にも、迷いと呼ぶべきモノは感じられない。
「どうせどこかで、オレらの手でケリをつけなきゃならなかった問題だ。……みんな、腹を括ろうぜ。今、『
「とことん付き合いますよ、会長。こうなったからには三ヶ月後に『
「おうよ! 熊本の弁護士先生だろうが、『祇園の雑草魂』だろうが、オレらをハメるつもりなら受けて立とうぜ! 正々堂々と真っ向勝負だッ!」
全ては格闘技の未来の為に――『MMA日本協会』を率いる立場に相応しい檄を飛ばした岡田会長と、これにすぐさま頷き返した折原理事長を交互に見比べるギュンターは、復活祭という一言から『
伝統文化が色濃く残る地方では、乱痴気騒ぎの最後に等身大の藁人形を焼き尽くす習わしがある。清貧から著しく逸脱した狂態の罪をこれに被せて灰へと変え、〝主〟の受難に寄り添う日々を迎えるのだ。
徳丸副理事長と『MMA日本協会』は、
本来の
それならば、樋口郁郎が犯した罪を背負って燃やされる藁人形は『
謝肉祭の
(傷心旅行している暇なんかないぜ、ストラール。例の小僧――キリサメ・アマカザリが鍵を握っていると来たもんだ。他の誰でもないお前が
先程まで『
片方は日本MMAの黄金時代を築き、引退後は沖縄クレープの移動販売に転向して大成功を収めた〝柔術ハンター〟――
もう一人は安物のヘルメットを被ってスクーターに跨る中年の日本人男性であった。
羽織ったスカジャンは随分と年季が入っており、本来は陽の光を跳ね返して赤く煌めくであろう加工も剥げ、色褪せた末に金魚を彷彿とさせる風情となっている。
人の好さそうな面持ちであるが、樋口郁郎の一番弟子を称し、中・軽量級選手の活躍するMMA団体の代表を務めてきたこの男に新たな秩序が期待されている。
『MMA日本協会』は国内で開催されるMMA
〝暴君〟に差し向けられんとしている金魚の如き
〝火の国〟で起きた変事こそが〝全て〟の
*
奇しくも日本MMAの黄金時代――〝格闘技バブル〟と重なるのだが、二〇〇〇年代に盛んに用いられた〝ヒルズ族〟という持て
だからといって六本木の一等地に
最上階から眺望する東京の街並みは、絶景という一言を
日本列島どころか、世界中から〝全て〟が集まるコンクリートの
地上を這いずり回る人々がどれほど背伸びしても、誰にも〝天〟を覗くことは叶わないのである。例え望遠鏡といった道具によって室内を盗み見されようとも、些末なことと一笑に付すような解放感に
そして、自らを〝超越者〟と信じたとき、
ヘアバンドを使って持ち上げていないと眉間の大部分を覆ってしまうほどアフロが豊かである為、剥き出しの
腰にタオルの一枚を巻くこともなく、一人で使うには余りにも大き過ぎるソファーの中央に腰掛けているのはレオニダス・ドス・サントス・タファレル――現在の『
余人の手など決して届かない〝天〟にレオニダスが得た〝城〟は、
シャンデリアや調度品など部屋の隅々まで贅の限りを尽くしてはいるものの、歪と感じてしまうほど取り合わせが乱雑であり、悪感情を抱いて入室した人間は統一性を最初から放棄した有り
窓から差し込む陽の光を鋭く跳ね返し、見る人の目を眩ませる金銀のモザイクタイルで覆われた壁はともかくとして、野獣の敷物やパルテノン神殿を彷彿とさせる飾り柱など世界中の
尤も、レオニダスは
傲慢・怠惰・強欲・暴食・色欲――日本語では〝罪源〟とも訳される七つの内の殆どが部屋の至るところに転がっていた。〝天〟に立つこの超越者は〝主〟の教えが人の営みに根差したブラジルを故郷としながらも、
食べ散らかした肉の塊やフルーツの盛り合わせは、ダイニングではなく部屋の中央のビリヤード台で放置されている。床に転がされた
暴食と色欲の極みとも呼ぶべき乱痴気騒ぎ――理性なき
寝室では快楽の
住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した史上最悪レベルの金融危機の影響は、発生から数年を経た現在も世界経済を蝕み続けている。
長期に亘る不況下では、
そもそも
地上一五〇メートルという
格闘技を〝一般〟に普及させる為、
現在も競技団体によっては知名度の向上や
『
何しろテレビCMへ出演する
最も新しいのは円形の盾を模した
室内の
かつての黄金時代から日本MMAを支えてきた古参選手は、その振る舞いに眉を
同じ〝富める者〟に属する友人たちをこの部屋に招待したパーティーを動画サイト『ユアセルフ銀幕』で生中継した際には『
リビングには映画館にも匹敵する迫力を楽しめる巨大モニターが設置してあり、現在はサッカーの試合が映し出されていた。改めて
サンパウロの
あらかじめ録画しておいたビデオを再生させているわけだが、モニターにて映像を垂れ流しながらレオニダスは一瞥もくれず、大きな身体を丸めるようにして小さな
分厚いグラスに注がれたサトウキビの蒸留酒を呷りながら覗いているのは、『ユアセルフ銀幕』で配信されているネットニュースのチャンネルであった。
『
民間運営のチャンネルながらも、記者自らが危険地帯に飛び込むという勇敢な取材で国内外の支持を集める『ベテルギウス・ドットコム』を視聴するレオニダスは、豊かなアフロが揺れるほど大きく笑っていた。
レオニダスにとっては懐かしい風景であるが、ブラジルには『ファヴェーラ』と呼ばれる
『ベテルギウス・ドットコム』を運営する記者――
この直後、ブラジル政府は秩序の回復という成果を国内外に発表した。
ブラジルでは今年のサッカー
このような〝メガスポーツイベント〟には、そもそも国家の威信を賭けた巨大事業という側面があった。一九六四年に開催された前回の東京オリンピックが高度経済成長期を背景とする都市改造を伴ったように世界中から訪れた人々が満足できる体制の整備がホスト国には課せられるのだ。
これは開催によって得られる経済効果という点に
〝メガスポーツイベント〟とは選手同士が互いの健闘を称え合うという爽やかな青春で完結する〝運動会〟などではなかった。それはレオニダスに飽食をもたらした
『インバウンド』――即ち、外国人客による経済効果を確保する方策には開催先の治安回復まで含まれている。犯罪多発地域には観光客も寄り付くまい。小奇麗な高級レストランを増やしたところで、そもそも滞在を誘引できなければ無意味なのだ。
それはつまり、社会全体へ急激な変化を強いるということであった。
ブラジルに
麻薬カルテルや人身売買シンジケートなど古くから犯罪の温床であり、これを取り除くことで治安の改善は実効的に見込めるだろう。バラックが撤去された跡地でインフラ整備が行われることもレオニダスの耳に入っている。大会終了後にも社会に寄与する
しかし、それはやむにやまれぬ事情で
例え犯罪多発地域であろうとも、そこには人間の営みが根付いている。ゴミを片付けるだけの美化運動とは違うのだ。外国人客から見苦しくないよう景観さえ取り繕えば済むわけでもない。
計九年という時間を掛けてブラジル社会全体がどのように変貌させられるのか――身の危険も省みずに
陸軍の制圧作戦と同じ時期には、不法占拠した土地で暮らさざるを得ない一般市民と警官隊の間で逮捕者が続出する規模の衝突が発生していた。
リオのカーニバルやバカンス客が詰め寄せるビーチなど明るいイメージで語られることの多いブラジルだが、その裏には世界最悪ともいわれる貧富の格差が横たわっている。
犯罪行為に手を染めなければ生きていけないほど困窮する人々の追いやられた先こそがファヴェーラなのだ。山肌を埋め尽くすバラックとその住人たちは、この世のものとは思えないほど
ブラジル政府は国家事業の名のもとに、土地を不法占拠するバラックもろとも社会を蝕む病理を無かったことにしているわけだ。
「産みの苦しみという
強引な〝浄化作戦〟によってインバウンドを誘引できる体制を整えたところで、ブラジル社会全体にまで経済効果が波及する可能性は皆無に等しかろう。
メインスポンサーとして大会運営を支援しながらも〝スポーツマフィア〟と忌み嫌われる『ハルトマン・プロダクツ』が莫大な利権を独占するということだけではない。
結局、最も大きな損害を被ってしまうのは、
六本木の一等地に
前回の
世界一の〝サッカー王国〟に相応しい熱狂とは裏腹に、
『ベテルギウス・ドットコム』のニュース
文化財以外の建築物が対象であり、
決して〝暴力〟には頼らず、根差した土地で生きていきたいと願う民の声を叩き潰してまで強行する〝平和の祭典〟に意味はあるのか――
重機で取り壊された家屋の残骸と、その前に
レオニダスもまたリオデジャネイロのファヴェーラ出身であるが、この事実を隠してもいなかった。それどころか、『
『ユアセルフ銀幕』の再生画面に映し出された窮状は、もしかするとレオニダスが味わうはずであったかも知れないのである。同じブラジルで生まれた〝同胞〟の悲劇を己のことのように感じ、惨たらしいまでに心を掻き乱される――これが余人の想像する反応であろうが、〝地〟を這いずり回る人々を〝天〟から見下ろす超越者の目には、
一つの事実として、格差社会の最下層から〝天〟を仰ぐしかなかった者がその
「――ドナト・ピレス・ドス・ヘイスの導きで〝真実〟に
顎の端まで先が届くほど長い舌を出したレオニダスは、かつての自分と同じ境遇の人々を
〝同胞〟の痛みに寄り添おうともせず、侮辱の唾でも引っ掛けるかのような
舌にも丸みを帯びた蜘蛛のタトゥーが刻まれているが、これはブラジルに生息するタランチュラの一種だ。中世の伝承に基づいた誤解に過ぎないものの、この種に分類される蜘蛛は神経を冒す猛毒を持っており、咬まれた人間は狂わんばかりの幻覚に苦しみ抜いて絶命するという。
むしろ、
脱出に失敗していたなら、自分も〝メガスポーツイベント〟に関連する強制撤去に巻き込まれていたことであろう――『
『
それにも関わらず、〝リオのカーニバル〟をも凌駕するであろう熱狂に包まれた
「私自身、六年後の二〇二〇年にオリンピック・パラリンピックを迎える日本人です。小学校から高校までスポーツ系のクラブでしたし、世界中のアスリートの皆さんが東北復興支援に協力してくださったことは一生忘れません。……でも――だからこそ、
重機によって踏み潰された瓦礫の山へ飛び込もうとしたところを両親に引き留められ、泥だらけの顔で泣き叫んでいた。おそらくは想い出深い品さえ持ち出せないまま
何時の間にか、レオニダスの顔から一切の表情が消え失せていた。
「――社会の
改めて
「――スポーツの祭典なんかではありません。もはや、
大きなソファーは両脇に誰も侍らせず、一人だけで座っていると酷く寂しい物である。その中央で小さな
〝七つの大罪〟を順番に並べた部屋の只中に〝裸の王様〟はたった一人である。
ブラジル代表を応援するブブゼラの音色は
(後編に続く)
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