スーパイ・サーキット
その20:謝肉祭(前編)~「格闘技社会」を狂わせる毒の牙・MMAドリームの闇に棲むタランチュラ/MMAに希望を絶たれし暗殺拳──秩序の鎖で封印されたケモノたちは「死神(スーパイ)」に解き放たれ……
その20:謝肉祭(前編)~「格闘技社会」を狂わせる毒の牙・MMAドリームの闇に棲むタランチュラ/MMAに希望を絶たれし暗殺拳──秩序の鎖で封印されたケモノたちは「死神(スーパイ)」に解き放たれ……
二〇、Casus Belli Act.1
全世界に
「――第一三
映画館のスクリーンを模した画面内で『
巫女の用いる
動き易さを重視して袴の代わりにスパッツを履き、美しく割れた腹筋を誇示ように着物の前面も大きく開いている。胸部を覆うタンクトップには雑誌名がプリントされており、『パンチアウト・マガジン』に帰属する〝キャラクター〟であることを強調していた。
三次元描画される〝キャラクター〟の
「ハッジ選手のベースは
柔軟に形を変える口から発せられるのは外見と同じように愛くるしい声であるが、これによって紡がれるのは格闘技術の検証であった。
現在は第八試合――『
そもそも『
統括本部長の肩書きすら軽んじる毒舌に加えて、滑稽さを際立たせる演出も人気の理由であった。
彼女の
これらは全て三次元描画である。床と接触した髪飾りが折れてしまうこともないが、製作者の
「モロッコは柔道もメジャー。ハッジ選手もカサブランカで一番の道場に通ってますね。フルコン空手と柔道の
己と同じ身の丈の人形に正面から組み付いた『
即時の三次元描画では動作の取り込みとその処理に限界があるのか、実際の
その攻防を再現するべく『
「八雲統括本部長が
光沢のある質感からして、件の人形はビニール製として描画されているのだろう。表面にはミヤズを模倣したと思しき絵柄が刷り込まれている。
本人との対比を強調しているのか、同じデザインの衣装は紫色であり、肌は陽に
しかも、ビニール
「ブラジリアン柔術に
質感そのものは三次元描画でも再現できるが、本物のビニール人形ではない為、『
「城渡選手みたくバカ丸出しで無限に殴り続ける気はなかったと思いますよ。我らが統括本部長、アメリカで活躍中のお弟子さんと同じようにセコンドを付けませんよね? 一人でも攻防をカンペキに組み立てられるってコト。ハッジ選手はそこも見誤ったわね。足を
己の力量をひけらかすのではなく、あくまでも『
両足が
そこまでが八雲岳の戦略であったと『
彼女がビニール人形を相手に再現した通り、『
場内ひいては
片膝を突く恰好でマットに舞い降りながら〝忍者レスラー〟は右の五指を繰り出し、背後からハリド・ハッジの左腕を捻り上げた。当然ながらモロッコ最強の空手家は
左手首を掴み上げていた五指は既に離れており、ハリド・ハッジの意識が背後に向いた直後、岳は自由になった右腕でもって相手の頭部を抱え込んだ。
凹凸の少ないビニール人形に仕掛けても効果は解り
『チキンウィング・フェイスロック』――
ハリド・ハッジは依然として尻餅を
岳が組み合わせた両の五指は貨物列車の連結器さながらに固く、どれほど身を
「プロレスじゃないMMAのリングで、わざわざ見栄えのする『チキンウィング・フェイスロック』を仕掛けたのはレスラーの意地ってより場内を恐怖のドン底に叩き落としてくれやがったバカ
試合の再現に用いたビニール人形を部屋の隅へと蹴飛ばした『
『
それにも関わらず、『
話題性の為だけに〝客寄せパンダ〟としか表しようのない選手を投入するなど格闘技を愛する
『ユアセルフ銀幕』は配信される
八雲岳とハリド・ハッジの試合を開設した際には、第一試合の終盤に起きてしまったリングの崩壊に言及しないことへの批判も混ざっていた。
「何でもかんでも取り上げりゃ良いってモンじゃないでしょ。重箱の隅を突っつくヒマがあるなら、ネタにして面白いモンと、拾ってみても一部の連中が騒ぐだけで大して
クッション材で覆われた
『
「
悪質なコメントを書き込んだ視聴者へ激しい憤りを見せつけるかのように山吹色の髪を掻き
画面の向こうから壁を叩くような効果音が飛び込んできたのは、この直後である。
隣室から苦情が入ったという設定であり、『
四畳半の『
間もなくカメラの前に戻ってきた『
「あのバカ、この事態をどこまで深刻に考えてンのかしらねぇ! リング全損の被害額やクレーム対応だけでも一大会分の興収が余裕でブッ飛ぶし、そうなりゃ東北復興支援
再びカメラに向き直った『
プロデビューを控えたキリサメ・アマカザリが秋葉原で不祥事を起こした際、『
絶望的な貧富の格差に社会全体が蝕まれ、法治国家日本とは比較にならないほど治安の悪いペルーの
『
「無責任な連中は『リングを吹き飛ばすなんて漫画みたい』って能天気にアオッてくれやがるんでしょうが、ぶっちゃけ、そこは大した問題じゃねェのよ! あのとき、城渡選手の意識は吹き飛んでいた! 追及しなくちゃなのはそこそこそこォッ! どこからどう見ても気絶してると判る相手に殺意剥き出しの蹴りを入れるのがアウトッ!
対戦相手である
そもそも岩手興行は
それにも関わらず、第八試合の終了と共に再生が停止されたのは、画面を見つめる人々にとって『
日本では
「――ただでさえ東南アジアからの突き上げが厳しいってときに樋口のヤツ、何してくれちゃってんのよ。こんなことだから海外のMMAに水を開けられるんじゃないのさ」
軋み音が起こる勢いで
京都・
女子
〝プロ〟選手としての活動こそ終えたものの、技術指導が共通言語に代わるほどMMAの実践は継続しており、格闘家としては生涯現役を貫く覚悟なのであろう。
同じデニムを用いながら、新しい生地のブラウスと、
その吉見定香が憂えているのは、言わずもがな日本MMAの行く末であった。
『
テレビ局がMMAの地上波放送を打ち切ったのも同時期のことだ。
今ではスポーツ番組の一コーナーか、衛星放送の専門チャンネルでもなければテレビ画面に映ることもない。日本国内で開催されるMMA
旗揚げ当初こそ『MMA日本協会』と歩調を合わせながらも、方針の違いによって道を
かつて吉見が所属していた女子MMA団体『メアズ・レイグ』は、その『
おそらくはそれが真相であろうと、〝暴君〟を忌み嫌う誰もが考えている。中立機関の副会長という立場ではあるものの、『
「個人的には俄然応援したくなったわね、アマカザリ君。イキの良さじゃバロッサ家の新星も負けてないけど、常識の枠をブチ壊してくれるかも知れない期待感で
『MMA日本協会』に名を連ねる他の役員たちと同様に吉見副会長もキリサメ・アマカザリのことは試合前から注視していたのだが、それは組織間の政治的理由が大きい。
何しろ
秋葉原の路上戦は、あくまでも
財政状況まで含む運営の体質やルール策定など、ありとあらゆる面に
格闘技やスポーツと向き合う医学ひいては法律の観点から捉えても〝暴挙〟の二字こそ似つかわしい団体が日本MMAの象徴として祭り上げられたなら、いずれ
〝スポーツ文化〟としての信用失墜である。『
MMAそのものが今度こそ日本から消滅するかも知れないのである。
ましてや樋口郁郎はレフェリーの派遣すら内政干渉として反発し、『MMA日本協会』に敵愾心を叩き付けてくるのだ。それ故に樋口体制の〝爆弾〟ともなり得るキリサメ・アマカザリの動向には、吉見も含めて役員の誰もが注視せざるを得なかった。
〝暴君〟との関係修復は望まないとして、『MMA日本協会』も『
日本MMAをあるべき状態へと正す際には統括本部長が〝架け橋〟の役割を果たすはずであり、だからこそ
副会長という要職を担い、MMAという〝スポーツ文化〟を世界に広めるべく尽力してきた吉見定香である。〝裏〟の事情が
秋葉原で起こした不祥事を受けて、「野放しにしておくのはよろしくない」と警戒を口にしたこともあったが、『
「停止なんかしねェで
〝最年少選手〟という一言で四方八方から重苦しい溜め息を引き出したのは『MMA日本協会』の会長を務める
〝日本プロレスの父〟である
物言いこそ〝大人〟になり損ねた少年のようであるが、
「……同じ〝最年少選手〟が娯楽のように消費されてしまう状況も、その触れ込みが話題性を煽るような体質も、野放しにすれば七年前の自分たちに笑われてしまいます。一〇年後の格闘技界の為に今こそ変えなくては」
理事の
白いブラウスに合わせたブレザーと、ベルトを用いる
会議室に集まった人々は楕円形の長大なテーブルの左右に分かれて着席しており、岡田会長はこれを見渡す上座――即ち、議長席に
読んで字の如く日本MMAの行く末を見守る
常会の会期中である岡田会長は、この場の誰よりも時間に追われている。彼も名を連ねた委員会が開かれる午後に『MMA日本協会』の会合が割り込んでいたなら、始発の新幹線で京都から駆け付けた吉見副会長が議事進行を代わらなければならなかったはずだ。
一秒たりとも無駄に出来ない状況に加えて、心情的にも岩手興行の解説番組を最後まで視聴する余裕がないことは、会議室に充満する数多の溜め息が表していた。
各々の席には一台ずつタブレット端末が設置されており、『
尤も、岩手興行の終了後に実施される生放送ではない。ガラス窓を覆うアルミブラインドの隙間からは陽の光も差し込んでいるのだ。タブレット端末で再生されたのは、『
普段は社内プレゼンなどが行われる会議室の使用許可申請書には、『
「――『ハルトマン・プロダクツ』の懸念は先程も申し上げた通りです。
〝暴君〟に対する嫌悪が色濃く滲んだ言葉で皆の意識をタブレット端末ひいては『
頭髪全体を短く刈り込み、眉間と頭頂部の間に茂みのような塊を残すという風貌からは想像し難いのだが、オブザーバーとして『MMA日本協会』の緊急会合に招かれていた。
『
「守るべき選手でさえ使い捨ての道具も同然に扱う団体を『ウォースパイト運動』の思想家連中はどう見るのかしらね。……私たちの目から見ても契約を免罪符の代わりに使う人権侵害でしかないわ」
ザイフェルト家の御曹司による問題提起を受ける恰好で発せられた吉見定香の言葉に対し、居並ぶ役員たちは揃って首を頷かせた。
ありとあらゆる格闘技を許し難い人権侵害と見做し、如何なる手段に訴えてでも根絶すべしと訴える思想活動――『ウォースパイト運動』の脅威は、MMAの普及活動を通じて〝スポーツ外交〟に携わる吉見も肌で感じている。それ故にギュンターの懸念に誰よりも早く首を頷かせたのだ。欧米では試合場に対する火炎瓶の投擲や放水といった過激な抗議が繰り返されている。
暴力と批難する格闘技を同じ暴力で攻撃することは矛盾以外の何物でもないのだが、人権擁護という名の〝正義〟を妄信する活動家たちは傲慢にも世界秩序の守護者を自負しており、罪悪感に苛まれるどころか、何をしても許されると疑わない。
二〇一四年六月現在に
「有力議員が『NSB』の現状に批判的な声明を出していることからも明らかな通り、テロ事件を呼び起こすMMA団体を社会がどう見るのかも憂慮すべきでしょう。そこに来てシンガポールの〝新風〟です。『ウォースパイト運動』でさえ抗議を渋る安全体制との比較――相対的な評価が日本のMMAに与える影響は深刻と、ご注進申し上げます」
『ハルトマン・プロダクツ』は世界中の競技大会に影響力を及ぼし、そこに生じる莫大な利権を貪ってきた〝スポーツマフィア〟でもある。日本MMAという
全ては『ハルトマン・プロダクツ』の利害を制御下に置く為である。
主にアジア系のMMA選手を中心として
アジア圏のみならず、欧米の企業も名を連ねるなどスポンサー構成も分厚いのだが、シンガポールの
『MMA日本協会』の
こんなことだから海外のMMAに水を開けられる――先ほど吉見も呻いたが、『MMA日本協会』も複雑な気持ちと共に
経営陣はオリンピックにも携わり、スポーツビジネスを知り尽くしている。他の競技団体と異なる理念・展望も明確に打ち出し、アメリカのメディアも数年後には『NSB』と勢力を二分すると予想していた。
〝東西冷戦〟の延長とも
日本格闘技界の秩序を乱し続ける〝暴君〟への対処は、『
格闘技を根絶すべき人権侵害として忌み嫌う思想活動と、アジア全体のスポーツ
それ故にザイフェルト家の御曹司も役員たちの危機感を煽り立てる物言いとなるのだ。
「このまま事態が泥沼化して一番辛い立場になるのは
岡田会長が頭を掻きつつ口にしたのは、ゲストとして岩手興行に招待されながらも脅迫電話によって出演を断念せざるを得なかったローカルアイドルの名前である。
未だに犯人逮捕には至っていない為、『ウォースパイト運動』との関連性は不明だが、玩具の弾丸が添えられた脅迫状からは『
『ウォースパイト運動』に更なる先鋭化の兆候が感じられる中、『ハルトマン・プロダクツ』は『
同日に臨時視察を行った『NSB』は、
『
数え切れない人間が集まる〝メガスポーツイベント〟はテロの標的に選ばれる可能性も高い。格闘技・スポーツに
「この一連の事件、七年前に〝最年少選手〟と呼ばれた〝彼〟の画策という可能性はありませんか? シンガポールのスポーツ
「例の〝最年少選手〟が食い込んだのは
「可能性は高いというわけですね。……欧米がこぞって群がるスポーツ利権の
館山弁護士はシンガポールに関する〝全て〟を疑わしく感じ始めている様子であった。
『
東南アジアで第三勢力の存在感を示し始めたMMAの新興団体を旗揚げ当初から支えているのは、
そもそも〝シンガポールマネー〟は『MMA日本協会』にとって天敵にも近い。岡田会長たちが発足に携わったMMA団体の一つが
『MMA日本協会』の役員が恐怖を
〝彼〟はシンガポールの〝スポーツファンド〟に日本格闘技界の財政的欠陥を説き聞かせ、
キリサメ・アマカザリと同じように〝最年少選手〟の異名で呼ばれた〝彼〟は、己を受け
「――大きな出来事にフォーカスするのは仕方ありませんが、
会議室の空気を一変させるように新たな問題提起を行ったのは、スポーツ医学の中でも格闘家・武道家の肉体を専門的に扱う分野――〝格闘技医学〟から『MMA日本協会』に参加する
同協会が管轄するMMA団体の
格闘技・武道に
裾全体を外に出す
「飯坂さんをリングに引っ張り上げたことで再確認させられましたが、樋口さんの根っこは
「杖村さんが
「副会長のご指摘はご尤もですが、……彼の場合は
「あのコが『よさこい』で鍛え上げた身体能力と運動神経は間違いなく格闘技にも生かせるけど、それだって一朝一夕じゃ不可能ね。格闘技をカジッた人間なら実感として
震災復興を支援するべく二〇一一年に奥州市で結成されたローカルアイドルのグループは同地でも盛んな『よさこい』の文化を骨子に持っており、ダンスの
だが、格闘家としての経験はない。試合に
ありとあらゆる格闘技術が解き放たれるMMAには、同じ数のリスクが潜在している。マットへ投げ落とされたときに受け身を取り損ねれば、日常生活に支障を
〝心技体〟の全てを尽くして競い合う格闘技であればこそ、たった一度の失敗が取り返しのつかない致命傷となってしまうのだ。
杖村の本業は整形外科である。〝格闘技専門のスポーツドクター〟として数え切れないほどの選手を診察しており、格闘技や武道に関連する事故も自然と彼女の耳に届くのだ。
本人の意思を尊重したいとは杖村も思っているが、〝客寄せパンダ〟として利用されることが明白な以上、『MMA日本協会』の役割としても、若者の将来を守る為にも、格闘技未経験の
『よさこい』のローカルアイドルは大手芸能事務所に所属しているわけではない。飯坂が所属するグループも地域の活性化を目的とした非営利団体であり、半ばボランティアに近い。『
「卑劣な脅迫にも屈しないローカルアイドル出身の
「お
吉見と言葉を交わしながら、杖村は苦々しそうな左右の拳を握り締めていく。
『MMA日本協会』は
脳の損傷や関節の変形といった後遺症は、大人が想定する安全対策だけでは予防し切れないのだ。子どもの頭蓋骨はとても柔らかく、
「年端も行かない選手をリングに平気で上げてしまう点も含めて、杖村さんの心配は尤も至極です。樋口体制に危機意識が欠落している動かぬ証拠。練習不足のまま強引に試合を組まれ、それが原因で飯坂さんが重傷を負っても自己責任の一言で切り捨てるでしょう」
眉間の皺に表れた杖村の苦悩を慰めるように幾度も頷き返す館山は、法律の専門家の立場から〝格闘技専門のスポーツドクター〟の使命を受け止めていた。
パステルグリーンの杖村と紺色の館山――二人の装いは好対照であったが、飾りボタンやスカーフなど後者のほうが装飾品を多く身に着けているようだ。逆に前者は磁気の効果が期待できるだろうスポーツネックレス一つのみである。
「
現在の『
選手と取り交わす契約の中で、『
ルールと契約内容の両面で所属選手の安全性を放棄しているようなものであった。これらの不備を原因とする負傷さえも樋口という名の〝暴君〟は契約書を盾に代え、自己責任で片付けてしまうのである。
そのような体制を法律の専門家が許せるはずがなく、館山は法整備にも通じる組織改革の必要性を強く訴えるのだった。
資金のみならず、試合で使用される様々な物品の提供など『
その必要性を理解している館山弁護士と杖村医師は
このとき、ギュンター・ザイフェルトの脳裏を掠めたのは、マイク・ワイアットという現職の難民高等弁務官である。
吉見副会長が
国際社会に
紛争や弾圧などやむにやまれぬ理由から故郷を離れざるを得なかった人々にとって、避難先から競技大会へ挑戦する〝難民選手〟は大いなる希望である。難民問題に揺れ動くドイツにとっても積極的にならない理由のない提案であった。
純粋な〝難民選手〟が
その
仲間たちを養う為、その〝少年海賊〟はまとまった金を必要としていた。リーダーとしてグループの
成長期が終わっていない子どもの格闘技参加を巡る論争は、洋の東西を問わないのだ。法律でこれを規制し、幼い命と将来を守らんとする国も欧米には少なくない。その観点を『MMA日本協会』と分かち合えることが確認できただけでも、ザイフェルト家の御曹司には大きな収穫であった。
その一方で〝最年少選手〟という喧伝に対する『MMA日本協会』の過剰反応に己が吹き込んだ〝毒〟の効果も見極めている。
『MMA日本協会』が発足したのは『
その末期にも一人の
大陸より伝わったとされる
日本の〝格闘技バブル〟が終焉を迎えたのは、血塗られた過去と訣別した『祇園の雑草魂』が栄光のリングで生き直そうとしていた二〇〇七年のことであった。
当時の日本で最大の勢力を誇ったMMA団体が僅かな時間で沈没する
(日本MMAにとって永遠に癒せない
樋口郁郎の手配りによって日本MMAの歴史からも抹殺されてしまった〝彼〟は、格闘技界で必要とされなかった〝
居並ぶ役員は言うに及ばず、日本格闘技界全体が今日まで『祇園の雑草魂』の消息を見失っていたのだろう。放逐された
七年という歳月を経て戻ってきた〝彼〟――『祇園の雑草魂』は、今や日本格闘技界にとって最大最悪の〝仮想敵〟なのだ。
「……口にするだけで吐き気を催すくらい悪趣味極まりない話だが、見目好い子が打ちのめされる姿を好んで眺める輩も世の中には少なくない。樋口君が
「徳丸のとっつぁんよぉ、発言にはくれぐれも気を付けてくれよなぁ~。ハラスメント裁判が起こったら、オレは迷うコトなくとっつぁんを向こうに回すぜ」
「だから、先に『口にするだけで吐き気を催す』と言っただろう? 私だってね、そんな趣味は許容しようとも理解したいとも思わんよ。しかしね、娯楽というモノがときに人間の邪悪な嗜好を刺激するという事実から目を逸らすわけにもいかんのだよ、岡田会長」
岡田の
「やっとのことでドーピング汚染を切り抜けた現体制の『NSB』がどんな声に晒されているのか、岡田会長も忘れてはおるまい。自分にとって甚だ不愉快であっても、臭い物に蓋をするばかりでは改めるべき点まで見失うぞ」
徳丸が例に引いた通り、『NSB』は前代表――フロスト・クラントンによって崩壊寸前まで追い詰められたことがあった。
同団体を世界最高のMMA団体にまで成長させた功労者であることは間違いないが、エンターテインメント業界で生きてきたクラントンは骨の髄までショービジネスに染まっており、命を懸けて闘う選手すら高値が付く見世物という価値観でしか捉えていなかった。
代表就任後には団体内にドーピングを蔓延させ、禁止薬物を用いた肉体改造による〝超人ショー〟の舞台へと『NSB』を作り替えてしまったのである。
若手選手が
現代表――イズリアル・モニワの努力が実を結んでドーピングは駆逐され、『NSB』はMMA団体としての信頼を取り戻したのだが、一部の
フィットネスクラブを全国展開させ、将来の有力選手を育てるスポーツ支援活動にも力を注ぐ『ラッシュモア・ソフト』であるが、主たる事業はテレビゲームの開発である。
『昭和』の後期にファミコンが登場して以来、テレビゲームは老若男女を問わずに娯楽の王道となった。国内の老舗メーカーとして業界を牽引してきたからこそ、徳丸はありとあらゆる娯楽に広く目を向け、それらが国際社会で果たす役割を考え続けているのだ。
格闘技経験がないローカルアイドルの悲劇的な破滅を
「……『NSB』の前代表が白日の下に晒したのは、人間という生き物に秘められたどうしようもない嗜虐性――徳丸副理事長はそう仰りたいのね」
「無論、〝人種のサラダボウル〟が抱えた問題と表裏一体であるから『NSB』のケースをそのまま日本のMMA団体に当て嵌めるのは無神経が過ぎるがね。若い
暴力性を娯楽に換えて愉悦に浸るような所業は、何があろうとも食い止める――その言葉に誰よりも強く頷き返したのは〝スポーツ外交〟という立場で国際社会と関わってきた吉見副会長である。
「……徳丸副理事長の願いを嘲笑う声がシンガポールから聞こえてくるようです。〝彼〟は
事実の列挙に基づいて闘う弁護士には似つかわしくない心霊的な現象を口にする館山であるが、日本MMAが直面しているのは現実の脅威だ。
アジアに
神出鬼没としか表しようのない〝彼〟にはギュンターも少なからず恐怖を抱いている。
世界最大のスポーツメーカーが誇る情報網を
密かに奥州市へと
「――格闘のいろはも知らないまま『
口笛を挟んだ
会合の最中にも関わらず自身の
皆に見えるよう折原が
〝暴君〟の手で運命を狂わされそうになっていた
机上のタブレット端末を用いて記事を読み取った徳丸は、人一倍大きな耳朶を指で弄りつつ「それでこそギロチン・ウータン」と、この上なく嬉しそうに微笑んでいる。
吉見定香は
『ハルトマン・プロダクツ』の一員として国際社会の動向にも常に目を光らせているザイフェルト家の御曹司でさえ今し方の
復興支援という岳の呼び掛けに応じ、『
勝利者インタビューの為に向けられていた手持ちマイクの一本を愛染がもぎ取り、敗者であるはずのギロチン・ウータンに手渡したのである。
プロレス興行であったなら、ファンを昂揚させるマイクパフォーマンスが始まったことであろうが、その夜のギロチン・ウータンが語り掛けた相手はMMAへの挑戦を宣言したばかりの
飯坂本人は
有言実行でMMAデビューを果たすのか、それともプロレスとローカルアイドルの〝兼業〟で活動していくのか。飯坂が下した最終的な選択について余人は限られた情報に基づいて想像するのみであるが、いずれにしても最悪の事態は回避されたのである。
樋口郁郎の暴挙は言うに及ばず、『祇園の雑草魂』が岩手興行に仕掛けたかも知れない画策もこれによって挫かれたことであろう。裏舞台より張り巡らされた糸を良心の刃が断ち切ったという事実には、ザイフェルト家の御曹司も心の中で素直に拍手を送った。
この筋運びに胸を撫で下ろしたのは杖村医師である。『
「いよいよ『
日本で初めて〝総合格闘技術〟の理論を完成させたヴァルチャーマスクは、『
己に克って
『MMA日本協会』の理事長である折原浩之も〝シューター〟の一人であり、
おどけた調子を崩さず、自らに賞金を懸けて挑戦者を募り、
現役引退後の
今日の出で立ちも奇抜に近い。背広姿という点は岡田会長や徳丸副理事長と同様だが、上下とも着物の生地で仕立てているのだ。しかも、左右で色が違う。赤地と黒地を組み合わせ、更には背広とスラックスで互い違いとなっているのだ。
赤地には空を目指して伸びゆく季節の草花が、黒字には横殴りに吹く風の模様が、それぞれ色糸でもって刺繍されていた。いずれも下品ではない数に留めており、自らデザインを手掛けた折原の美学が感じ取れた。
ともすれば悪目立ちしてしまう服を自然に着こなせるのも〝粋人〟の証であろう。
その一方で東日本大震災が発生した際には逸早くチャリティー
人好きのする笑顔の裏で〝何〟を考えているのか、掴みどころのない曲者であるが、その行動理念は揺るぎない良識に基づいていた。
「何でもアリって状況は、選択肢が多過ぎて
折原浩之が「
第二
あまつさえキリサメ・アマカザリは、自らの蹴りでもって骨を
「……日本のMMAを監督する協会が倫理と道徳を弁えた
ザイフェルト家の御曹司が『MMA日本協会』の良識を一等強く実感できたのは、キリサメ・アマカザリが場内を戦慄させた〝神速〟――人間という種を超越したとしか思えない〝力〟を折原理事長も含めて役員の誰一人として持て
人並外れた身体能力による
それが証拠に同誌の編集部が運営する『
一世紀近く世界の
若手選手の将来を一過性の娯楽として弄ばせるわけにはいかないという断固たる決意が役員たちの言行に顕れていた。
「本人の練習不足も大きいとはいえ、ルールの咀嚼が足りない
ヴァルチャーマスクの直弟子であり、『
その一方で、キリサメ・アマカザリに対する個人的なこだわりも強かった。
ヴァルチャーマスクが自らを生け贄に捧げて礎を築いた〝
傍目には他者へ強く執着するようには見えない折原だが、宿敵の
「樋口のバカさ加減もひっくるめて
岡田会長が左右の拳を叩き付けながら紡いだ言葉には、オブザーバーも含めて誰もが頷き返した。電話の為に一時的に退室している吉見副会長は、この場に居合わせたなら誰よりも早く反応を示したことであろう。
競技団体に求められる〝危機管理能力〟は、様々な側面を持っている。『ウォースパイト運動』という過激な思想活動によって格闘技そのものが脅かされる情勢下でもあり、テロ対策も包括する警備体制が最初に連想されることであろうが、そこには所属選手の命と将来を守る安全管理も含まれるのだ。
ルールのもとで安全に執り行われるべき〝格闘競技〟を理解できず、対戦相手を本気で殺めんとしたキリサメ・アマカザリも、彼のような危険人物や格闘技経験のないローカルアイドルを〝客寄せパンダ〟に仕立て上げる樋口郁郎も、安全意識欠如の象徴である。その存在こそが〝歪んだ正義〟に抗議の口実を与えるのだった。
樋口体制の危機管理能力は『ハルトマン・プロダクツ』が臨時視察を実施する
選手の安全管理に対する社会的信用は日米双方のMMA団体がシンガポールの第三勢力に敵わなかった。巨額の予算が唸る華やかな
世界最大のスポーツメーカーでさえ切り崩せないほど盤石なスポンサー構成に支えられていればこそ維持できる事業形態であろうが、試合の成果として興行収益を求めないMMA団体は国際社会でも稀有であろう。これによって選手に与える心理的負担の大幅な軽減も成し遂げていた。
所属選手一人一人を
シンガポールの新興団体が第三勢力として台頭したのは、日米双方のMMA団体から大量の人材流出が懸念される為であった。良好な環境を求めることもMMA選手の正当な権利である。これを阻むことは法律が許さないのである。
ザイフェルト家の御曹司とイズリアル・モニワが臨時視察という強硬手段を駆使してまで『
「……〝謝肉祭〟と冗談めかしていたが、現状としてはタファレル君のお陰で『
徳丸副理事長が
ザイフェルト家の御曹司は
MMA団体としての信用性を揺るがし兼ねない危機的状況が発生したのは、〝プロ〟の自覚を著しく欠いた
第一試合の顛末を
岩手まで応援に駆け付けた〝舎弟〟たちも正常な試合の果てに決した勝敗であれば〝城渡総長〟の敢闘を称えるのみで、対戦相手に憎悪を叩き付けることはなかったはずだ。
だが、キリサメ・アマカザリは違う。得体の知れない
城渡マッチに対する侮辱以外の何物でもなかった。
血走った目で
ブラジリアン柔術とルタ・リーブリ――ブラジルを代表する格闘技の勢力争いといった〝場外戦〟が過去に無かったわけではない。
しかし、日本に
『
しかし、衆人環視のもとで正面から衝突してしまったなら、樋口郁郎の情報工作を
ブラジル格闘技界が全面抗争で揺れていた時代にも『ウォースパイト運動』が蔓延していたならば、血みどろの潰し合いを悪質な人権侵害と見做し、根絶を訴えて抗議の笛を吹き鳴らしたことであろう。
つまるところ、昨夜の『
考えらえれる最悪の状況を奇策で取り鎮めたのは、『
暴力的な混沌を〝謝肉祭〟と愉しげに
「個人的な気持ちとしては〝謝肉祭〟を大騒ぎするのも危ういと思うのですよ。アマカザリ君へのお膳立てが過ぎれば過ぎるほど、その反動は
「……『祇園の雑草魂』の意趣返しがオレたちの想像じゃなくなるってコトか、浩之?」
「自分と同じ〝最年少選手〟と呼ばれる人間が、自分には許されなかった
折原理事長が感情のない声でもって紡いだその言葉は、面と向かってこれを受け止めた岡田会長のみならず、オブザーバーも含めて会議室の皆に重苦しい沈黙をもたらした。
『祇園の雑草魂』と『ケツァールの化身』――日本MMA一七年の歴史の中で〝最年少選手〟と喧伝された二人は、〝暴力〟の〝闇〟に塗り潰された生い立ちも酷似している。
七年前にその異名を冠した前者は〝表〟の社会で生き直す希望を託した
アジアで最も有力なMMA団体に返り咲いた旧友たちを穏やかな気持ちで応援できるとは考えられなかった。日本格闘技界そのものの滅亡を望んだとしても不思議ではない。
『祇園の雑草魂』が〝毒手〟と共に極めた『
〝亡霊の帰還〟とは過去から迫り来る毒の刃とも言い換えられるのだった。
*
この国から
一九九七年一〇月の『プロレスが負けた日』から
青
無論、
その一方、急降下の勢いに乗せた猛烈な蹴りでもって抉られた喉は、内側が腫れて呼吸困難を引き起こし兼ねない。それどころか、患部から出血した場合には窒息死の危険性も跳ね上がるのだ。迅速な精密検査と、より高度な治療を要すると判断した
既に出動要請を済ませてある救急車の到着を医務室で待ち、然るべき医療機関に引き継ぐのである。
猛特訓を重ねて編み出した〝切り札〟も破られ、
ほんの些細な行動ではあるが、ただそれだけで〝舎弟〟の怒りは抑えられたであろう。
キリサメの反則負けが木村レフェリーから宣言された直後には、観客席の隅々まで騒がしくなっていた。〝プロ〟としての自覚が疑われるような危険行為を繰り返した末に失格となった
「――よくも総長の顔に泥を塗ってくれやがったな、アマカザリィッ! てめーだけは絶対に生かして帰さねェッ! ヤキ入れたるッ! 総長の
粗暴の二字こそ似つかわしいダミ声を張り上げ、崩壊させたリングの傍らに立つキリサメを威嚇するのは、城渡マッチが
総長を応援するべく岩手県奥州市まで駆け付けた暴走族チームは、人間という種の限界を超えた〝力〟によって打ちのめされた思考が時間の経過と共に落ち着いた途端、それまでの驚愕が憤怒に塗り替わったわけである。
誰よりも早く吼え声を張り上げたのも御剣恭路である。それは油の如く仲間たちの怒りを燃え上がらせ、〝城渡総長〟を慕う全員が揃って逆上した。比喩でなく文字通りに親衛隊長を先頭にして立ち上がり、観客席からリングサイドへ飛び出していったのだ。
MMAの試合ばかりではなく、暴走族チームに
今まさに暴徒と化そうとしている恭路たちの手綱を締められる人間は、この場に一人も居なくなってしまった。
暴走族チームが怒り狂うのも当然ではある。傍目には〝城渡総長〟の差し伸べた手が振り払われ、包容力とも言い換えられる
顔の筋肉が引き
本能の領域から噴き出す破壊の衝動さえ凌駕した怒りが両者の間に奇妙な真空状態を作り出している。怒りに取り
場内各所に配置された警備員は双方の対峙に割って入るべきか、誰も彼も判断し兼ねていた。常識に照らし合わせて判断するならば、明らかに正気を失っている暴走族チームこそ止めるべきであろう。しかし、眼前で繰り広げられているのは『
乱闘騒ぎという名の〝内輪揉め〟に対する介入が警備の業務に当て嵌まるのか、警備員には軽々しく結論を出せないわけである。
『
正々堂々とした〝試合〟を放棄し、これによって〝城渡総長〟の顔に泥を塗った〝敵〟へ仁義を貫く理由など暴走族チームの
「てめぇなんか格闘家じゃねぇ! ただの腐れた犯罪者だッ!」
口汚い罵声と共に暴走族の誰かが履いていた革靴を投げ付けたが、キリサメはこれを
人間という種の限界を超えた反動で
関係者の為に用意されたリングサイドの席から駆け付け、
「……そんなこと、誰に言われなくたって分かっているさ……」
「お前は立派に闘っただろ。キリーは城渡マッチが認めた総合格闘家なんだぜ?」
虚ろな声で己の存在意義を否定しようとするキリサメの頭を岳は乱暴に撫で付けたが、養父の
「本物のバカにバカ呼ばわりされるのって、こんな感じなんだね、サメちゃん。犯罪者と紙一重の連中が何を偉そうにほざいてんだって言い返してやりなよ。面倒臭いのならボクのほうでやっちゃおうか? 勿論、
「ま、待ってくれ、瀬古谷君! 本当に場外乱闘まで拗れるのだけは止めてくれ! センパイが――統括本部長が殴り返したら一巻の終わりなんだ! キリサメ君だってもう闘えない! この場の全員が巻き込まれるというのは、そういうコトなんだよ!」
「自慢じゃないけど、ボクも大人数での潰し合いには慣れっこでね、そのテのリスクは実体験で
「頼んでもいないコトを勝手にやって報酬まで要求するなんて、キミ、前世は山賊⁉」
全員が目を血走らせた暴走族を先制攻撃で蹴散らさんとする寅之助を大慌てで引き留めた麦泉は、確かに賢明ではある。しかし、睨み合うだけで自然と解決する問題でもない。
『NSB』の団体代表――イズリアル・モニワは、
たったの一度でも岳が口を滑らしただけで暴徒化し兼ねない暴走族チームと対峙する麦泉は、全身から冷たい汗が噴き出していた。共催団体とメインスポンサーの双方に背を向けられるような事態だけは何としても避けなくてはならなかった。
城渡が率いる暴走族チーム――『
その特攻隊長が応援に駆け付けていた事実も、麦泉の胃を鋭く突き刺していた。
一〇代前半の頃から敵対する暴走族チームとの抗争に明け暮れてきた特攻隊長は六気筒のモンスターバイクで突撃し、車体ごと敵を薙ぎ倒す姿を破壊神にも
自分を追跡してきた白バイに飛び掛かり、高速回転する後輪でもって車体を真っ二つにしたという実しやかな武勇伝は、立ちはだかる敵を躊躇なく撥ね飛ばす血も涙もない〝処刑人〟の気性と併せて麦泉も把握していた。
部外秘であるが、選手関係者に
眉間に極太の血管を浮かび上がらせながら
「――こちらのアブない皆さんと穏便に話を付けちゃくれないか、岳ちゃん。今こそ統括本部長の出番だと思うんだよ。いぶし銀のカリスマを発揮して貰いたいねぇ~」
差し迫った状況を認識できていないのか、千切れたロープといった残骸が散乱するリングサイドに秘書を伴ってやって来た『
八雲岳がキリサメ・アマカザリの養父であることは広く公表され、『
つまり、この緊張状態を作り出した当事者の一人なのである。
しかも、岳は人並み外れて口を滑らせ易い。そのことを厭というくらい思い知らされてきた麦泉は、彼と城渡の舎弟が直接的に言葉を交わすことを最も恐れているのだ。
「社長、理性のない相手を刺激するアクションは控えるべきかと。今はアマカザリさんに留まって頂くべきではないでしょうか? 退場はほとぼりが冷めてからということで」
「そうさ、
「それも道理とは思うのですが、ここは社長ご自身が日本の
「内政干渉を目論むヤツらに見張られている状況を逆手に取れってコトかな? 控え目な声とは正反対に
眉間に脂汗まで滲ませている麦泉へ助け舟を出したのは、パンツスーツに身を包んで樋口郁郎の傍らに
「社長が愛してやまない『
肩にも手を添える囁きが快感へと
麦泉は言うに及ばず、実況席に留まっていた仲原アナも慌ただしく駆け回るスタッフたちも、ただ一言で他人の人生を狂わせてしまえる〝暴君〟に恐怖を抱いた誰もが、その蕩けるような笑顔に目を丸くしていた。
「あ~、アマカザリ君。お疲れのところ、大変にすまないが、控室に引き揚げるのはもう少し待って貰ってだね、とりあえず今はその場に留まっていなさいよ。理性が吹き飛んじまった連中とは会話がそもそも成り立たんから反論も控えておくようにね」
樋口の指示に逡巡もなく頷き返したキリサメであるが、そもそも最初から反論するつもりなどなかった。城渡マッチを思って怒りに打ち震える
大勢の期待と信頼を裏切り、プロデビュー戦で許されざる罪を犯してしまったという事実を突き付けるのは、キリサメ自身が崩壊させたリングである。
彼が待機する白
『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』――マット全体を覆うシートに英字で刷り込まれたMMAの正称は、悍ましい
その間にも彼の両耳には絶え間なくカメラのシャッター音が飛び込んでくる。つい先程までリングサイドで第一試合の攻防を追い掛けてきた記者たちが屍肉に群がるハゲタカの如くキリサメ一人にレンズを向けているのだ。
『
岩手興行には足を運んでいないようだが、『
己自身が磔刑さながらの状況に追い込まれることは、当然の報いと受け止めているキリサメであるが、これと同時に連座のような恰好で岳や未稲まで罵声を浴びせられるのではないかと案じていた。
交友関係を洗い出した記者などは『
『八雲道場』のかかりつけ医である
奇妙な筋運びから
大量の港湾労働者が殺戮されたばかりの港町や、革命という大義のもとに政府転覆を企むテロリストの潜伏先――『恥の壁』によって富裕層の居住区と隔てられた
その当時は日本のことにも無関心であった為、うろ覚えに近いのだが、
リングサイドで砲列を作る記者の大半は、有薗思穂と同じような使命感を胸に秘めているわけではなさそうであった。
キリサメに向けられるのはカメラだけであり、手持ちマイクや録音機能を起動させた携帯電話を差し出して反則負けの
リングの残骸が飛び散った際に逃げ遅れて負傷した人間は、一人や二人ではない。木村レフェリーに至っては倒れてきた
(……有薗氏はMMAの記事なんか書かないだろうから、顔を合わせることはないハズだけど、……〝
ペルーという
怒れる民を内乱の尖兵に仕立て上げるべくテロリストが持ち込んだ銃を手に取り、国家警察との戦いに及んだ末、無惨にも
「――人間は誰にでも幸せになる資格があると話したことが誤りだったとは思いません。
キリサメの脳裏に甦った有薗思穂の言葉は、
己の命を脅かさんとする
寅之助から危害を加えられると信じ込まされたときには、〝プロ〟のMMA選手という立場も忘れて『
そのあってはならない事実に辿り着いた瞬間、キリサメは身の
肩も肘も軋む右腕を揺り動かし、親指でもって左右の頬を撫でてみれば、先程まで流れ続けていた血の涙は既に乾き始めている。
今回だけはリングの崩壊という最小限の損害に留められたが、このままMMA
城渡マッチの
脳の痺れと共に
(……今から思えば、
鼻先まで
その女性は首から胸元まで巨大なノコギリによって肉も骨も抉られていた。助かる見込みがないと一目で
纏わり付く死の気配が一等濃いような場合は、かつての『
例えどんなことがあっても、どんなことをしてでも、絶対に生きろ――格差社会の最下層に
あるいは血の
死に瀕した瞬間に少年の魂を喰らい尽くす追憶に対して、
MMAに
その『
異種格闘技戦から出発し、
無様なほど生き汚くさせる追憶も同様である。血
人から期待を寄せられたときには全力で応えろ。それが
「――この場での待機という指示には同意し兼ねます! 先程までアマカザリ選手は両目から血を流し続けていたのですよ? 城渡選手の
「木村君こそ
「はぐらかさないで頂きたい。城渡選手の処置を終えて
自分が〝プロ〟の
土台から潰れてしまったリングに身を投げ出し、誰の目にも意識を失っていることが明らかであった城渡を見下ろして無感情に右足を振り上げたとき、反則行為を重ねんとする
このときのキリサメは
無論、双眸で捉えたモノは一つ残らず記憶に刻まれるわけだ。城渡を庇った際の木村レフェリーの
それにも関わらず、失格負けした
MMAを愛する一個人としての悪感情と、レフェリーとしての使命を完全に分けて考えられる〝プロ〟ということだ。しかも、相手は日本格闘技界を思うが
それを承知した上で立ち向かってきた木村レフェリーの
「どいつもこいつもナメ腐りやがってッ! 勝手に話を進めンじゃねェよッ! どこの誰がアマカザリを五体満足で帰すっつったッ⁉ ココがバカの墓場っつってんだよッ!」
もはや、この場にキリサメを留め置くべきではないとする木村レフェリーの主張に噛み付いたのは、言わずもがな暴走族チームの側――御剣恭路である。
〝城渡総長〟の
「選手を無事に帰すかどうか、それは我々の責任であってそちらの判断ではないッ! 格闘技のリングをバカにするのもいい加減にして貰おうかァッ!」
殺気を漲らせる暴走族チームから凄まれようとも、木村レフェリーは一歩も譲らず、一喝された恭路のほうがたじろいでしまったほどである。
〝城渡総長〟に対する尊敬と同じくらい自尊心の強い恭路からすれば、大勢の前で顔に泥を塗られた恰好である。怒鳴り返された直後には金髪のパンチパーマを掻き
荒れ狂う激情を増幅させたのは他の
狂わんばかりの怒りによって生み出された真空状態で隔てられているとはいえ、未だに敵味方が入り乱れて殴り合う事態に発展していないのが不思議なくらいであった。
無論、暴徒への刺激を最小限に抑えるという対応策は裏目に出ている。
電話一本で『
「想像以上のキレ方だなぁ。城渡とアマカザリ君、
「……社長がそれを言いますか? 何もしないよう仰ったのはご自分でしょう⁉ あまつさえ城渡さんの仲間を説き伏せようともしないのですから、拗れて当然ですッ!」
「ですから! 自分もアマカザリ選手を引き離すべきだと言っているのです! 今の有り
樋口郁郎が口を滑らせてしまったのは、日本MMAを代表する競技団体の代表にはあるまじき失言である。乱闘に発展し兼ねない危機的状況さえ他人事のように思っていると、
実際に麦泉は平素の穏やかな顔を投げ捨てて樋口に詰め寄り、木村レフェリーも傷口から再び血が噴き出すのではないかと案じてしまうほどの剣幕で畳み掛けた。
「逃げ場塞がれてお説教喰らったら、イイ
「オレに矛先かよ⁉ つーか、オレが行ったら逆効果だって、絶対! 恭路なんか『ガキのやったことに親が出てくるのか!』っつって大暴れすんぞ⁉ それでこいつらの気持ちが晴れるんなら、オレだって喜んで付き合うがよォ~!」
「待て待て待て待て、……軽い冗談だって。統括本部長に、それも試合を控えた岳ちゃんにそんな危ない真似させられんよ。俺が代表の責任でキチッと
「オレらを丸め込めるって思い上がりもムカつくがよッ! この状況で冗談ぶっこきやがる余裕っぷりがイチバン腹立つぜッ! アマカザリの前に
ついには統括本部長まで巻き込み、怒れる暴走族チームを置き去りにして樋口たちが言い争う中、キリサメは苦悶の呻き声を噛み殺しながら未稲のもとへと歩み寄っていく。危害を加えられることがないよう我が身を盾に代えようというわけだ。
開戦のゴングが鳴り響いて以来、未稲は関係者席で試合を見守っていたのだが、キリサメが
「――スポーツマンシップに欠ける行為は一番やっちゃいけないコトだよッ!」
観客席から飛び出した暴走族チームがキリサメを取り囲まんと図ったのはこの直後である。少しばかり離れた位置に立っている未稲もリングサイドから身動きが取れなくなり、とうとう残骸の只中に取り残されてしまった。
御剣恭路はMMAデビューに向けてキリサメが強化合宿を実施していた
この状況で恭路の視界に未稲が入ってしまったなら、標的に加えられる危険性が高い。キリサメ自身も辟易するほど思い知らされているが、御剣恭路という
「……みーちゃんには指一本、触れさせないから……」
城渡の思いを叩き潰した自分自身は暴力による制裁を受けるべきである。しかし、そこに未稲が巻き込まれることだけは断じて認められなかった。依然として肉体の消耗は回復せず、四肢を僅かに動かすだけでも肺や心臓が張り裂けそうになるが、例え骨身が粉々に砕けようとも彼女だけは守り抜く覚悟であった。
この〝陽だまり〟だけは失うわけにいかない――寅之助の策略によって喪失の恐怖を刻まれてからというもの、その想いは変わるどころか、際限なく膨らみ続けているのだ。
双眸から
「大事なみーちゃんに教わったスポーツマンシップは理解しなかったクセして、本人からフラれそうになったら必死になって
「――だめだよ、キリくん。私は良いから、自分のことをもっと考えて」
どこからともなく聞こえてきた芽葉笑の嘲笑を掻き消し、焦燥に駆られたキリサメの心を優しく包み込んだのは、他ならぬ未稲の
両肩に飛び乗って視界をも塞ぎ、その状態を維持したまま
生け贄に求めて獰悪に舌なめずりする
試合終了のゴングが鳴り響く前から極限の混乱状態に陥っていた為、岳も麦泉も、頭頂から足の
しかし、
それを見て「キリくんが戻ってきた」と安堵してしむ自分に小さいとは言い難い嫌悪感を抱きつつも、未稲は先ほど
シャツにも血の臭いが移ってしまったが、未稲は構わずに彼の体重を受け止めた。
右の掌中に
(……これさえ間に合っていたら、キリくんも反則技だけはギリギリで踏み止まったかも知れないのに。……悔しいけど、今の私じゃ空閑さんには全然勝てないもんね)
キリサメに気付かれないよう俯き加減で唇を噛む未稲が左手で引っ張ったのは、尾羽根の如き帯の一本である。
MMAデビュー戦で反則負けを喫し、ただでさえ〝プロ〟としての資格を疑われている状況にも関わらず、万が一の場合には暴走族チームを迎え撃つことも辞さないというキリサメを宥めようというのだ。
未稲の
八雲未稲という存在が
その幼馴染みはキリサメを除いた誰の目にも映ることのない
城渡を見下ろしながら右足を振り上げんとする間際のことであり、
暴走族チームの凶行を許せば、未稲の
「僕なんかどうなっても構わない。みーちゃんだけは……」
「自分を大切にしない人は好きじゃないよ。キリくんのこと、嫌いにさせないでね」
「うっ……」
前回の長野興行の直後――『
団体同士の対立関係に加えて、希更を襲撃しようとした電知たちは『
しかし、暴走族チームは〝許容〟の範囲に含まれない可能性が高い。刑法の観点では先に危害を加えない限りは〝正当防衛〟も成立し得るが、その一方で城渡の舎弟たちは〝一般〟の観客である。暴走しているとはいえ、〝一般人〟に〝プロ〟が拳を向けてしまったなら、反則負けの比ではない重大な制裁が課せられることだろう。
危険行為を繰り返した事実と組み合わされば、『
理不尽極まりない言い掛かりとはいえ、キリサメが暴走族チームに殴り返してしまったなら、団体の存亡に関わる事態を迎えるのも間違いない。万が一のときには『
「てめーら、さては状況分かってねぇな⁉ 乳繰り合ってる場合か、コラァッ! こちとら先週も告白大爆死したばっかりだっつーのによォッ! もう勘弁ならねェぜッ!」
恭路の言行がいよいよ理不尽の極みに達し、未稲の懸念も一気に現実味を帯びた。
正義の鉄槌で裁かれるべきキリサメが『
暴走族チームの仲間と比べて身勝手極まりない激情に駆られた恭路は、ベルトの代わりとして巻き付けていたバイクのチェーンをズボンから引き抜き、観客たちの悲鳴を切り裂くようにしてこれを振り回そうとした。
恭路は『メリケンサック』の俗称で広く知られる
親指を除く四指に嵌め込み、拳の前面を金属で覆う
「――ヤクザごっこの悪ふざけ程度は笑って見過ごしてあげられたけどね、本気で一線を踏み越えようってつもりなら、その先は覚悟してもらうよ、恭ちゃん」
「て、てめぇ……! 瀬古谷ァッ!」
今まさに不可視の真空状態を踏み越えようとしていた恭路の
奇しくも恭路を苛立たせたキリサメと未稲に近似する恰好となったが、寅之助は接触するか否かという紙一重を見極め、肩でもって胸を
右半身を開く形で恭路の正面に突進した寅之助は、彼の股を割るようにして左足を深く踏み込んでいる。
両足の間に他者の片足が滑り込んだ状態は、恭路からすれば
現代のルールでは反則に該当する打撃技――〝
「今日の客の入りは五〇〇〇人だっけ? 大勢お集りの皆さんの前でのたうち回る屈辱に恭ちゃんってば耐えられるかな?」
「ほ、ほざくな、てめーッ!
右肩の辺りまで引き付けるようにして竹刀を垂直に構えていた寅之助は、互いの鼻息が掛かる至近距離で恭路を恫喝すると、四ツ割の竹片を組んだ刀身を水平に下げていく。
気圧されて
寅之助は『八雲道場』に雇われた
ましてや寅之助は人並み外れて嗜虐性が強いのだ。武道を志す者にあるまじき振る舞いも多く、キリサメに向かって「五体満足では帰さない」と吠えていた恭路のほうこそ再起不能にも等しい目に遭わされるのかも知れなかった。
鼻の下に蓄えた髭によって一等際立つ威圧感にまるで実力が追い付いていないのだが、御剣恭路も古武術家の端くれではある。数多の道場が
互いの肌すら触れていない状態にも関わらず、寅之助によって身動きの一切が封じ込められてしまった事実を認識できないほど恭路も遅鈍ではなく、たちまちの内に戦慄と驚愕が憤激を塗り替えていった。
「
「二度とバカな気を起こせなくなるくらい徹底的にツブしておくほうが後腐れもなくて良いじゃん。イイ歳して社会のはみ出し者を気取る連中だよ? 死なない程度に手加減しておけば、警察も大目に見てくれるでしょ。寧ろゴミ掃除の感謝状が頂けるんじゃないの」
「二度とこんな事態が起きないよう話し合いで決着をつけるのは
視界に入った
「ちょ、ちょっと待ちやがれッ! てめーら、誰に断ってお開きみてーな空気を作ってやがるんだッ⁉ 上等だぜッ! とことんやったらァッ! 『
「ドモりながら啖呵を切る時点で結果なんか見えてるでしょ。ボクと本気で
寅之助が吐き捨てた言葉は侮辱にも等しいほど厳しかったが、さりとて今は恭路の心を弄んで愉しむつもりはない。虚勢を張っても戦闘力の差は埋められないという〝現実〟を冷たく突き付けているのだ。
キリサメと寅之助が秋葉原の中心部で繰り広げた〝
彼自身も寅之助とは小競り合いを演じており、全米にまで勇名を馳せた
人並外れて自尊心の高い恭路にとっては見悶えるほどの屈辱であろうが、寅之助との間に開いた戦闘力の差は実感として無視できない。だからこそタバコのヤニで汚れた歯を剥き出しにし、その隙間から悔しげな呻き声を漏らすのだ。
至近距離ということもあって攻撃手段の選択肢は確かに狭まってしまったが、四肢の自由を完全に奪われたわけではない。腕さえ伸ばせば寅之助の胸倉を掴み上げることも、力任せに突き飛ばすことも出来る。反撃を恐れなければ右手で握り締めたままのチェーンを鞭の如く繰り出せるのだ。その気配を全く感じられないことが恭路の結論といえよう。
「
命を狩る
遊び相手にもならない恭路一人を滅多打ちにしても不完全燃焼は免れなかったことであろうが、
かつては関東屈指の武闘派として恐れられた『
寅之助から威圧された程度で勢いが衰えるはずもなかった。無言で拳を鳴らし続ける特攻隊長を筆頭に誰もが高い戦意を維持しているのだ。
麦泉の期待などは最初から虚しい妄想に過ぎず、城渡の舎弟たちはその場で一斉に床を踏み鳴らし始めた。彼らが暴走族チームということを考えると〝ゾク車〟のエンジンを
「
「この期に及んでてめーの口じゃ何も答えねぇってかッ⁉ 一度でもこんなカスを〝兄弟分〟だなんて思っちまった自分が恥ずかしいったらありゃしねェッ! ……こうなったら絶交だ、絶交ッ! てめーなんかもう弟分でも何でもねェよッ! 裏切り者がァッ!」
「間接的に二人の間を取り持ったようなボクが言うのもなんだけど、恭ちゃん一人が勝手に盛り上がって、一方的に〝兄貴分〟を名乗ってただけじゃん」
「ンなワケねーだろッ! 〝兄弟分〟に入れて貰えなくてムカついてたのは分かるがよ、やっかみで適当ブッこくんじゃねェやッ! 未稲からもコイツに何か言ったれッ!」
「下の名前で馴れ馴れしく呼び捨てにされるのも、平行線まっしぐらな口喧嘩に巻き込まれるのも、どっちも迷惑なんですけど。十中八九、キリくんも私と同じ気持ちですよ」
寅之助の皮肉と未稲の溜め息はともかくとして、キリサメ自身は恭路から浴びせられた「絶交」という二字を静かに受け止めている。
寅之助が指摘した通り、恭路のほうから一方的に決め付けられただけであって、キリサメも彼のことを一瞬たりとも〝兄弟分〟と思った
何時にも増して吊り上がった双眸は、熱い雫を迸らせている。これに加えて見苦しいほど垂れた鼻水も断絶の証左であろう。
犯罪が生計を立てる
共闘関係にあった国家警察から非公式の依頼を受け、ペルー国内に潜伏している反政府組織の追跡と殲滅を連れ立って遂行した〝相棒〟――ニット帽がトレードマークという日本人傭兵が帰国する日にも惜別の念など湧き起こらなかったのである。
それにも関わらず、
恭路が駆る
趣味を分かち合う機会が永久に失われたことが寂しいとでも言うのか――己自身に問い掛けても、関係修復など望むべくもない事態に至った原因しか思い浮かばなかった。
『
(――それが『真実を超えた偽り』だったら、無意識でも最後の一線は踏み止まったはずじゃないか。……結局、踏み越えてしまったじゃないか、僕は……)
裏切り者という蔑称は一方通行な感情の成れの果てに過ぎないのかも知れないが、それでもキリサメ・アマカザリという見下げ果てた
自分の側からも絆という名の糸を恭路に差し向けていたことと、これを今さら自覚しても取り返しが付かないほど手遅れであることを同時に悟ったキリサメは、力なく自嘲の薄笑いを浮かべるしかなかった。
その惨めな気持ちを絶え間なく刻まれる地響きが追い立てているようだ。
「何だ、その薄笑い? 何だ、その薄笑いッ!
キリサメの口角が吊り上がった直後、己の落涙さえも鼻先であしらわれたものと受け止めた恭路は再び頭に血が
改めて
「何時でも誰かに咬み付いていないと自信を保てない人に限って、
「るせぇんだよ、未稲ェッ! オレとアマカザリが深いトコで繋がってたって
「口喧嘩に引っ張り込んだかと思ったら、今度は口出しするなって? 手のひら返しが忙しいったらありゃしないなぁ。大体、バカと思われても仕方のないコトばっかりやってるじゃないですか。フザけるのはその前時代丸出しなコスプレだけにしてください」
「うっせぇ! うっせぇッ! うるっせぇぇぇぇぇぇッ! てゆーか、未稲は同じ台詞を自分の
「陣羽織は紳士服と同じなんだぜ、恭路! 時代を超えた武人の正装ってヤツだァ!」
「……お互いにイキり散らすコスプレ大会になってるし、お父さんは黙ってて……」
八雲親子との言い争いに耳を傾けても察せられるが、親友である空閑電知と同じように恭路もまた感情の発露が直線的であるとキリサメは理解していた。言葉の裏に計算を張り巡らせることもなく、
皮肉の味が舌に染み込んでいるような寅之助とは違って言動が捻くれることもない。
勢いがある代わりに弁舌による駆け引きなどは望むべくもない。幼稚とも言い換えられるが、無垢なる心で突き刺されるが故に言葉を受け止める側には一等堪えるのだった。
「――これからどんなコトが起きるとしても! オレの背中で燃え盛る『
プロデビュー戦の直前に秋葉原で起こしてしまった不祥事――寅之助と斬り結ぶ
本人に根掘り葉掘りと
今日までの言動を振り返ってみると、二〇一三年に
闘牛場の駐車場へと運び出された数多の犠牲者も、あるいは
生みの親と早くに
「だーかーらァッ! てめーは
「――口を開けば駄々を捏ねるガキみてーなコトしか言わねぇクセにカッコ付けて
もはや、言葉の刃で斬り刻まれるしかないとキリサメ自身は受け入れていた。その批難を本人の了解も得ないまま真っ向から否定したのは、比喩でなく本当に頭上から降り注いだ少女の声である。
聞き
天上より振り下ろされた鉄槌がリングの残骸を揺らした――そのようにしか
金属音が耳を
この出で立ちに由来してインターネット上では『ヘヴィガントレット』なる
間もなく、その場所にて立ち尽くしている
何事かを
大鳥がキリサメへと向ける眼差しには、自分が御剣恭路たちを食い止める為に西洋剣術を
友人としての関係よりも〝社会の一員〟としての立場を優先させるという大鳥の判断こそキリサメには望ましいものであった。これを見て取ったからこそ安堵の溜め息と共に頷き返したのである。
「よ、
双眸の辺りに設けられた覗き穴や、口元に等間隔で並んだ縦長の通気穴を除いて、
丸メガネの向こうから未稲の双眸が追い掛けているのは、騎士の真隣に立つ一人の少女である。彼女の怒鳴り声こそが御剣恭路の
右の側面に添えられた水玉模様のリボンが目を引くデニムのキャスケットを被り、袖なしのキャミソールにオーバーオールを組み合わせた少女に対して、未稲は「照ちゃん」と親しそうに呼び掛けていた。
乱入者が上下屋敷一人であったなら、五〇〇〇もの人々を一まとめに驚愕させることは不可能であったはずだ。しかし、もう一人は中世ヨーロッパの騎士である。人智を超えた筋運びは地響きをも止めさせ、暴走族チームは激烈な怒りの反動で呆けたように立ち尽くすばかりであった。
「て、照代ッ! 依枝ッ! てめーらまでアマカザリに付くってかッ⁉ どいつもこいつも仁義ってモンを
当事者でもない二人が張り詰めた空気の渦中へ飛び込んだ理由は、恭路の喚き声が解き明かしたようなものであろう。
この二人は未稲と同じゲーミングサークルに属し、共にネットゲームを楽しんでいる。これに対してキリサメとは友人と呼べるほど親しく付き合っているわけではない。距離感としては〝友人の友人〟と言い表すのが最も相応しいことであろう。
さりとて挨拶を交わした程度の知人ではなく、一言では説明し難い不思議な絆で結ばれていることも間違いない。それ故に恭路たちの暴挙を看過できず、キリサメ側の加勢に駆け付けたのだった。
「どちらに味方をするというわけではありませんよぉ。暴力沙汰を止めたいだけです。特に御剣さんとアマカザリさんはお友達じゃありませんか。喧嘩別れなんて悲し過ぎます」
臨戦態勢を解く気配もない寅之助の隣に立ちながら恭路を睨み据え、これ見よがしに拳を鳴らし始めた上下屋敷はともかくとして、加勢といっても筑摩依枝には
「私も詳しくは存じ上げないのですけれど、こういうのは専門用語で『ケジメを取る』と言うのではなかったでしょうか? スポーツマンシップに反する行為がアマカザリさんの側にあったことは私も否定しませんし、御剣さんや皆さんのお腹立ちはご尤もです」
「そこまで
「法律上、現代で認められていないことは大前提として、正当な理由のない仇討ちは不当な暴力と何ら変わるものではありませんよぉ。仮に意趣返しを成し遂げたとしても、御剣さんが尊敬してやまない御方は喜んで下さるのでしょうか? 最後まで正々堂々とリングで闘い抜いた選手の誇りを傷付けはしませんかぁ?」
「て、て、てめーに総長の何が分かるんだよ……ッ!」
「勿論、私には分かり兼ねますよぉ。でも、御剣さんは違うはずです。貴方が〝総長〟と呼んで慕う御方が自分の仇討ちを喜ぶ
「くっそう……ゴツい見た目に反してチクチクと小賢しい攻め方しやがって……ッ!」
鞘に納まったままであるとはいえ、中世の戦場で威力を発揮する
鞭の如きチェーンや『
城渡の試合を貶めてはならないと言い諭した声には、一等強い力が込められている。
身じろぎの
「照ちゃんも、依枝さんも、……マズいでしょ、こんなコトに関わったら……」
「今日のオレたちゃただのお客サマだし、寅に任せるのがスジだって分かっちゃいるんだけどよ、知った顔がバカやってるもんだから、どうにも見てらんなくなっちまったぜ」
友人たちの加勢に感謝しつつも、未稲には手放しに喜ぶことが出来なかった。
希更・バロッサ襲撃計画を企てるなど『
洋の東西を問わず一四~一五世紀の間で実際に用いられた例のある武具を可能な限り、往時の素材で再現する
「依枝の言う通りだぜ。特にオレは『
「し、し、知ったような口を叩くじゃねーか……ッ!」
「知ったような口なんだよ、恭ちゃん。ボクの可愛い照ちゃんが『てめーらと近い』って言い切った意味、分からないワケないよね?」
「ンが……ッ⁉」
「変な勘違いされちゃったら、ボク個人の事情で恭ちゃんを病院送りにしなくちゃならなくなるから釘を刺しておくけどさ、誰よりも照ちゃんに近いのはボクだよ? キミは根がストーカー予備軍だし、意味を履き違えられたら困るんだよなぁ~」
「勝手に口を挟んで勝手にノロケて、トドメにストーカー呼ばわりかァッ⁉ アマカザリと未稲も、瀬古谷も照代も……ッ! ちょっと前にフラれたオレに何の厭味だよッ!」
「え~、私とサトちゃんを忘れないでくださいねぇ~。全国の新婚さんがゲストに招かれるテレビ番組にペア
「……僕が口を挟むことではありませんが、その
「てめー、アマカザリィッ! オレのコトはガン無視なのに、そんな下らねーハナシにはツッコミ入れるってかッ⁉ てめーの中で優先順位、ど~なってやがんだァッ⁉」
キリサメに対する憤激とは別の理由でも目を剥いて歯軋りする恭路は、これらに合わせて頭を上下に大きく振り始めた。
『
試合を行う選手と観客が血の臭いが充満するほど狭い空間に揃って詰め込まれると〝実戦〟の臨場感が極限まで高まるのだが、たちまちの内に攻撃的な感情が伝播してしまうという弊害もあり、これによって穏やかならざる事態が幾度も引き起こされてきた。
挑発的な言動がファン同士の口論にすり替わった挙げ句、乱闘にまで発展してしまった模様は、動画サイト『ユアセルフ銀幕』にも数多く
刑事事件と紙一重という様々な問題を抱えてはいるものの、観客たちが選手の間近まで接近できる距離感は、グローブを嵌めない
〝場慣れ〟の一言で完結させてしまうのは二つの意味で乱暴であろうが、乱闘の火種となり得る人間との向き合い方を上下屋敷も心得ているわけだ。
それが証拠に「意趣返しに逸る恭路たちが城渡に恥を掻かせている」という指摘は、筑摩依枝の説得を引き継いで畳み掛けた場合に暴走族チームを大きく動揺させるのである。
恭路を凌駕するくらいに殺気を先鋭化させていた暴走族チームの特攻隊長までもが筑摩と上下屋敷の言葉には素直に耳を傾けているのだ。
「てめーらの根性がいけ好かねぇんだよな。
「半グレ紛いの暴力集団の分際で〝走り〟に命を懸けてる『
「てめー、今、『
「てめー、さては記憶力ゼロだな⁉ 『
「鼻と
「苦し紛れの逆ギレもそろそろ品切れみてーだなァッ! ど~せ『
一対一の言い争いは上下屋敷と恭路の激情に拍車を掛け、穏やかならざる方向へと突き進んでいる。一度は和らぎかけた空気が暴言の応酬によって再び張り詰めていく。
「横から口挟んで申し訳ないけど、その
「そ、そ、それだけは勘弁しやがれ、瀬古谷ァッ!」
憤怒の色に染まった二つの顔を交互に見比べた
歪んだ享楽家である寅之助は、『八雲道場』の
ここに至って未稲は、衝突回避の希望と感じたものが最悪の事態へ陥る凶兆であったのだと思い知らされた。
「
「照ちゃん、それ、宣戦布告になっちゃってるっ!」
キリサメの
様々な事例が示している通り、選手と観客の距離が物理的にも心理的にも限りなく接近する
先程の口論の中でも恭路によって言及されたが、非行少年が寄り集まったカラーギャングとの抗争に
以前に寅之助は「
乱闘の鎮圧や敵対者の制圧など、上下屋敷も拗れた状況を
「そうだそうだ! 黙って聞いていれば図に乗りがやって! 結果に関係なく選手の熱闘に拍手するのがファンの務めじゃねーか! 腹癒せを許す城渡と一緒に辞めちまえ!」
「害悪という言葉を簡単には使いたくないが、それ以外の結論を自分も持ち得ないな。誇り高き『
上下屋敷の宣戦布告へ呼応するかのように新たな声が一階・可動席で上がった。
『
いずれの顔にもキリサメは
〝プロ〟のMMA選手にはあるまじき反則を繰り返し、あまつさえ闘魂の象徴とも呼ぶべきリングまで破壊してしまった愚かな
何事にも無感情なキリサメも少なからず感謝の念を抱いたのだが、その全てが心に滲み出す気鬱によって塗り潰される情況であった。
二〇代半ばという若さで通算六〇〇勝に達し、
この場に
一階・可動席から〝優待客〟が飛び出せば、他の
(……僕一人が制裁を受ければ済むハズなのに、良く分からない間に
暴力によって支配されるような状況を『
進退
亡き母による外国文学の授業で僅かに触れたのみであるが、平安時代末期に栄えた名門の栄枯盛衰と
武家の棟梁として名乗りを上げ、朝廷を圧倒するほどに権勢を強めた〝驕る
日系ペルー人であるキリサメにとって儒教に
親を敬うという〝孝〟であれば、己自身の感覚として理解できなくもないのだが、誠心から主君に仕えるという〝忠〟の
暴走族チームが憤激という形で迸らせたのは、まさしく城渡マッチへの忠誠心だが、同じ観念が芽生えようのない〝世界〟でキリサメは禍々しい『
共闘関係であった国家警察も内紛の果てに長官が挿げ替えられたばかりである。貧困層の一部は政府転覆を目論むテロ組織に与しているが、革命の理想に心服した者は皆無に等しく、絶望的な格差社会の打開という実益を期待して協力しているに過ぎなかった。
ペルー政府による掃討作戦を受けて勢力が衰退する以前が顕著であったが、テロ組織の内部に
東洋の文学作品に記される誠忠をキリサメは絵空事と嘲笑った
そもそも現在は
しかし、己の手が届かない
「上等だぜ、
「バカは死ななきゃ治らないっつーよなぁ?
恭路と上下屋敷による悪感情のぶつけ合いは、まさしく最後の火種であった。中世ヨーロッパの騎士から叩き付けられた衝撃が一時的なブレーキとして機能し、暴走族チームを食い止めてきたのだが、またしても燃え上がった怒りの炎がこれを焼き尽くしたのだ。
とうとう〝最後の一線〟と呼ぶべき真空状態も消滅し、
道理を
より正確に表すならば、
だからこそ、引くに引けない状態に追い込まれたとも言い換えられるだろう。もはや、チーム全体の体面を傷付けられた恰好であり、このまま引き下がろうものなら関東最強の威信までもが再起不能というくらい失墜してしまうのだ。
どちらにも味方せず事態を静観し続ける大半の観客は、口こそ噤みながらも携帯電話に内蔵されたレンズでもって暴走族チームを捉えている。恭路の怒号と重なって聞こえる無数のシャッター音は、あるいは面罵よりも遥かに神経を逆撫でするものであろう。珍獣を見つけた記念撮影などではなく、
自業自得という謗りを受けることは承知の上で、この場に
再び起こった地響きは更に大きく、鼓膜を揺さぶる吼え声までもが加わったのだが、それこそが決定的に理性を失った証左である。
依然として恭路に対しては返事一つも控えているキリサメであったが、その代わりに双眸でもって彼らの
聞くに堪えない罵詈雑言を迸らせ、野獣さながらに鼻息を荒くした姿は『
理性を何処か遠くに置いてきたとしか思えない御剣恭路でさえ従順に従うという点からも一目瞭然であるが、〝城渡総長〟の統率力には疑念を差し挟む余地もない。しかし、乱闘では全体の指揮を取らず、攻防の組み立て方も個々の判断に委ねているはずだ――と、キリサメは推察していた。
誰よりも強い威圧感を漂わせているのは特攻隊長だが、脳天への一撃で致命傷を与え得る
(現役の格闘家である城渡氏より体力が劣っているはずだから、持久戦になったら勝手に自滅するな。
未稲に
生兵法という言葉が示す通り、怪気炎を上げている一部の〝優待客〟を戦力として当て込むのは、被害を無意味に拡大させることと同義であった。
そもそも数で圧倒する必要もなかった。逆上した相手は視野狭窄にも等しい状態で突進してくることをキリサメは経験から知っている。これに加えて城渡マッチの舎弟たちは一対一という状況にこだわる余り、標的を取り囲んで畳み掛けるという思考が全く抜け落ちているのだ。連携の一つも取れない集団など、個別に踏み潰していくのみである。
尤も、それは実行へ移される前に終わった。自ら酷く嘲るような薄笑いを浮かべた
乱戦の巻き添えとなり得る〝誰か〟へ想像が及んだ直後のことである。邪念を捨て去るように
「――集団に囲まれたときは辺り構わず大暴れして、巻き込まれた人たちも盾の代わりに使ってきたじゃん。今日は満員御礼で、しかも援軍まで見込めるんでしょ? わたしのアタマが吹っ飛ばされた日と同じようにさ、みんなでぐちゃぐちゃになっちゃいなよ」
鼓膜に滑り込んでくる
二人が窺ったのは自分たちの弟――
四角いリングが倒壊した際に起こった轟音は、その間近に用意された関係者席を直撃している。これによって錯乱状態に陥り、椅子を蹴倒しながら逃げ出す者も少なくなかったのだが、
彼の傍らには何時の間にか
それが〝大人〟の
未稲が安堵の溜め息を吐き出したのは当然であろう。御剣恭路に
城渡マッチの身に降り掛かった
〝珍走団〟という蔑称が喉の奥から飛び出しかけたくらいだ。とりわけ恭路は試合前のキリサメを襲撃している。その上、私怨と呼ぶにも値しないほど幼稚な動機であった。
口では古式ゆかしい〝
しかし、その安堵も一度の瞬きという刹那しか
一応の義弟に当たる
まだ七歳とは思えないほど世情に通じ、莫大な知識をも備えた小さな賢者は、極太の眉毛を吊り上げて批難するのでもなく、「誰にでも過ちはある」と身贔屓で擁護するのでもなく、ただ静かに義兄の有り
一〇歳にも満たない内から末恐ろしいくらい肝が据わっていると言うべきか、血みどろの姿に怯えるようなこともない。強い光を宿した瞳は余りにも真っ直ぐであり、先程までリングであった残骸の只中に立つキリサメには
顔を逸らした義兄を情けないと思いつつも、
比喩でなく本当に歯噛みせざるを得ないのは、幼い
己の過ちが発端という事実から逃れようとは思わず、制裁を求める恭路たちに我が身を差し出す覚悟もあった。しかし、暴力的な衝動が数百数千という範囲にまで伝播してしまうと、例え一人を十字架に磔としたところで完全には終息しないのだ。
夥しい量の人間が一斉に理性を失って暴力に酔い痴れる
それ故に「進退
「お客様におかれましては、ここが関ヶ原でないことをお忘れなく! 平安時代に黄金で栄えた奥州ですっ! 合戦と無縁の穏やかな土地柄だったと想い出してください! とか言ってる間に私も想い出してきました! その平安時代に黄金を丸ごと焼き尽くす大合戦が起きてますよね、ここ奥州で! 敵も味方も入り乱れるド派手なラッシュアワーに似つかわしいのかっ⁉ ええい、鬼貫さんがいないとツッコミ不在でボケ倒すだけになってしまう! とにかく皆様、深呼吸でもして落ち着いてください! 落ち着けやァァァッ!」
唖然呆然と成り行きを眺めるばかりであった仲原アナもマイクを掴み直し、場内の隅々にまで自重を訴えたが、敵と味方に分かれてぶつかり合う事態は避けようがないと、彼女自身も理解しているようだ。喧しさこそ平素の実況と変わらないものの、その声色はこれ以上ないというくらい焦燥感で張り詰めていた。
「――ここから先、お前さんの役目はオレが引き受けさせて貰うぜ」
言わずもがな、八雲岳である。キリサメと未稲の父親であり、また『
「まぁまぁ、そう仰らずに。一人より二人ですと更に安全、これぞ万全の
「気持ちだけ有難く貰っておくってコトには出来ねぇか? オレも
ここまで事態が悪化してしまった以上は、岳にも覚悟というものがある。
『
若かりし頃――『新鬼道プロレス』の主力レスラーであった頃には、今や日本を代表するサバキ系空手の道場となった『
無論、襲い掛かってきた恭路たちに対し、『超次元プロレス』で応戦することはない。頬に滴る血の味を己の舌で確かめるような状況になろうとも、歯を食い縛って耐え凌ぐのみである。〝一般人〟に振るう拳など持ち合わせてはいない――良識に基づく判断もまた〝プロ〟のMMA選手としての矜持なのだ。
『
だからこそ、
ただひたすら前へ前へと突き進み、見据えた〝先〟に伸ばす手も、新しき可能性を踏み固めていく足も、一瞬たりとも止まらない――彼女が携えた
「心配ご無用ですよぉ。私、人より欲張りなので、
岳が言わんとしていることを受け止めながらも、筑摩は頑として譲らなかった。声の調子こそ穏やかだが、金属が擦れ合う音を引き摺りながら
「この剣に賭けて」という一言を岳への
「……腰の得物を抜かなきゃ済むってハナシでもねェんだけどな。もしも、〝何か〟が起きちまったときには、然るべき皆さんのトコに
己の子どもたちとの揺るぎない友情が
『
『
他団体と同様に『
江戸時代の発祥とされる
「半分は寅に任せるぞ。この期に及んで警棒の一本も持ち出さねーってコトは、警備の連中、高みの見物を決め込むつもりと見えるぜ。清々しいくらいの給料泥棒じゃねーか」
「だったら
「イチバン面白い獲物を独り占めすんのかぁ? ガキが落としていった飴玉にしゃぶり付く
「恭ちゃんを甘く見ちゃダメだよ、照ちゃん。そんな風に小賢しく立ち回れるなら、二度も
「黙って聞いてりゃ、オレを掛け算割り算も出来ねぇ本物のバカみてーに言いやがってからにッ! 三角形の面積だって足し算使って軽く割り出せらァッ! ナメてくれた分、伝説の『
標的の討ち取り方を相談し始めたことからも察せられる通り、上下屋敷も寅之助も、自分たちが立つ位置より〝先〟には
過去には寅之助も『
「――キミたち、ちょっと小遣い稼ぎをしてみないか? 緊急かつ臨時のアルバイトだからね、それなりの報酬をこの場で約束しようじゃないの。何なら言い値で支払おう」
いきり立つ恭路には一瞥もくれず、仕留めていく順番を確認していた寅之助と上下屋敷に背後から声を掛ける者があった。
日本格闘技界を実質的に支配する〝暴君〟も、すっかり理性が吹き飛んだ暴走族チームを抑え込めずに肩を竦めるばかりであったのだが、キリサメを守らんとする人々を眺めている間に〝何か〟を閃いたのか、傍らに
「……あんた、
一瞬たりとも〝敵〟の
詳細については曖昧な表現に留め、その代わりに
「何しろ今日の
「キミんトコの代表とは電話友達だよ。妙にいがみ合ったりせず〝持ちつ持たれつ〟で行こうじゃないの。お小遣いに加えて、希更ちゃんを狙った一件もすっぱり水に流そう。期待の大型新人に不祥事を起こさせてくれたそちらの剣道青年も同じようにね」
「面白いね、それ。ボクとサメちゃんの〝
「結構結構! 皮肉は飛ばしても要請そのものは拒絶しない――仕事が済んだら、この
「お手本みたいな〝大人の対応〟だね。どのみち耳障りなコレは止めなきゃならないし、〝棚から牡丹餅〟を断る理由もないさ。照ちゃん、臨時収入で熱海温泉に行こうよ」
「……気に食わねェ野郎に手のひらの上で転がされたみたいで釈然としねーがな……」
喜色満面で「商談成立」と囁く樋口に上下屋敷は鳥肌が立つ思いであったが、寅之助も述べたように〝暴君〟の提案へ頷かざるを得ない状況なのだ。
「向こう見ずな思い切りの良さは若者の特権だろう? 責任は私が持ってあげるから、元気良くやっちまってくれ。こういう場合、派手なほうが大衆も納得し易いってモンさ」
「さっきから何をコソコソやってやがんだァッ⁉
「……アホも大概にしとけよっ! 口を開く
上下屋敷が舌打ちを止められないのは当然であろう。今から起きる〝何か〟を情報工作で揉み消すと、樋口郁郎はこの上なく愉しそうな声色で仄めかしたのだ。今すぐにでも耳を洗いたいという衝動が彼女の全身を駆け抜けていった。
〝暗愚な大衆〟など意のままに操れると言わんばかりの傲慢な振る舞いは、格闘技という〝文化〟そのものへの冒涜である――このように義憤を燃やす人間が『
情報戦に長けた樋口が『
少しばかり離れた位置で樋口郁郎の横顔を見据えていた麦泉も、かつてないほど険しい
耳打ちにも近い密談であった為、三人の声は麦泉まで届かなかったが、
主として外部からの侵入者を防ぐべく場内に配置された警備員を〝内輪揉め〟の範疇に含まれる乱闘騒ぎへ差し向けることが難しいのであれば、『八雲道場』が雇った
格闘技はスポーツであって暴力ではない――その大前提を代表自らが否定したのだ。
『昭和』と呼ばれた時代を代表する漫画原作者であり、精神論に基づく〝シゴキ〟という形で現代に悪しき影響を及ぼし続ける〝スポ根〟ブームの火付け役――
ヴァルチャーマスクとの
高度経済成長期を支えた情熱の残滓の如き夕陽と共に〝古き良き時代〟として持て
社会や経済が隆盛していく〝裏〟で、これを促す為の〝必要悪〟は間違いなく存在していた。歴史書に記されることは少ないが、戦後日本を発展に導いた様々な事業へ反対の声を挙げた人々も暴力によって押し退けられた。
『昭和』と呼ばれた時代では何ら珍しいものではないという事実を
その復権に尽力したのが最後の弟子――樋口郁郎であった。最愛の師匠が晩節を汚すことになった経緯を誰よりも熟知していながら、剥き出しの暴力によって〝白〟を〝黒〟に変えてしまうという禁忌の一手を受け継いだのである。
あるいは弱肉強食の『昭和』を終われなかった人間の哀しい残照でもあろうが、そのような感傷を『NSB』と『ハルトマン・プロダクツ』が酌量するはずもあるまい。成果を示すかのように秘書の
樋口が仕掛けたのは、地響きの如き威嚇すら
久方振りの帰国にも関わらず、日本MMAの病理を目の当たりにすることとなったヴァルチャーマスクに対して、麦泉は今すぐに額づいて詫びたい気持ちだった。
脇目など有り得ない状況の為、
「……
信じ難いものを目にしたような
「……ブッ殺せ」
感情的に喚き散らすのみであった恭路のダミ声は、暴走族チームの仲間にとってさえ既に雑音でしかなく、戦局に与える影響も微少である。だが、ここに至るまで押し黙ったまま憤怒を燃え
『
あたかも血に餓えた猛獣たちが一斉に解き放たれたかのような場景である。
「キリーからは絶対手ェ出すなよ。お前はまだまだこれからなんだ。将来までひっくるめて
「お父さんにだけは言われたくないんだよなぁっ! ここを無事に切り抜けられたら、試合中にどれだけアホやってたか、大反省会だからねっ!」
上下屋敷は言うに及ばず、張り詰めた空気すら愉悦に換えてしまえる享楽家の寅之助までもが薄笑いを消して竹刀を
もはや、ここは
「――太鼓の音色でラテンの血が騒いだから駆け付けてみれば、最高に面白そうなコトが始まってるじゃないの! お祭り騒ぎはオレにも声を掛けてくれなくちゃ! 何せカーニバルの国からやって来た男だよ、オレ!」
場内の隅々にまで素っ頓狂な声が響き渡ったのは、今まさに張り詰めた空気が大爆発を起こさんとする寸前のことであった。
混沌の渦中に中世ヨーロッパの騎士を上回る爆弾が落とされたようなものであり、五〇〇〇を超える視線が声のした方角へ――一階・南側の壁際へ一斉に集束していく。
「ど、ど、どこのどいつだァッ⁉
寅之助と上下屋敷に飛び掛からんとしていた恭路は、出鼻を挫かれた拍子に顔面から床に突っ込んでしまった。鼻血を噴きつつ起き上がると、一等喧しいダミ声を引き摺りながら仲間たちが振り返ったほうを睨ね付けたのだが、そこに見つけた人物によって憤激を驚愕で塗り替えられ、大きく口を開け広げながら立ち尽くすばかりとなってしまった。
果たして、数多の視線を抱き留めるような恰好で立っていたのは、本来ならばこの場に居合わせるはずのない男――レオニダス・ドス・サントス・タファレルであった。
場内の誰もが格闘競技とは真逆の事態に全神経を注いでいた為、姿を現わしたことにも気付かなかったのだが、各種セレモニーを実施する為の特設ステージから『
船首の一部分のみであるが、海賊船を模した大掛かりなステージは、
家族に不幸があった為、前回の長野興行を含む二大会を欠場していたアイスランドの巨人にとっては復活の舞台でもある。岩手興行の〝目玉〟とするべく樋口郁郎によって仕掛けられた〝演出〟なのだ。ヴァイキングの奥義を
その『
本人に
尤も、救世主と呼ぶことを躊躇ってしまう珍妙な出で立ちだ。
虹色の模様が染め抜かれたズボンは表面にはラメ加工が施してあり、照明を跳ね返すとミラーボールのように毒々しく煌めくのだ。
救世主の佇まいということであれば、『
改めて
それ故に格闘技を愛する人々は、レオニダスのことを〝タレント気取りの紛い物〟などと侮らず、期待と羨望の眼差しを
逞しい胸板からヘソに掛けて蜘蛛の巣を象ったタトゥーを刻んでいる。一番のこだわりであろうか、左胸の辺りには糸に絡まって身動きの取れなくなった蝶が描かれていた。
「リオを想い出せば分かり易いけど、〝謝肉祭〟といったら、やっぱり思い切りの良い乱痴気騒ぎでなくっちゃな~。今、オレたちの目の前で起きているコレこそ最高の祭り騒ぎだもんよ~。呼んで貰えないと寂しいぜェ~」
観客の注意がキリサメから自分に移ったことを見て取ったレオニダスは、おもむろに右腕を持ち上げ、次いで握り拳を作り、天を示すかのようにして人差し指を立てた。天啓の如く〝謝肉祭〟と口にしたのは、その瞬間のことだ。
芝居がかった振る舞いは一瞬にして人々の心を掴み、我を忘れて荒れ狂っていた暴走族チームでさえも、
生来のスター性であろう。マイクを使わずとも場内の隅々まで行き届く声量であったから注目を集めたわけではない。レオニダスの発する声は心地良く耳に染み込むのだ。
奇抜な衣装さえ埋もれてしまう雑踏の中で〝何か〟を小さく呟いたとしても、レオニダスの声だけは聞き分けられるだろう。
その上、垂直に立てた右の人差し指に五〇〇〇を超える視線を惹き付けている。外見を除いて大仰なパフォーマンスを試みたわけでもなく、ただ腕を突き上げただけで大勢の人間が魅せられてしまうのだ。このような芸当は『
右腕を下ろした後も人々の視線は決して離れない。海賊船という名の玉座を降りたレオニダスは、〝全て〟の眼差しを引き連れながら崩壊したリングの残骸が散乱している会場中央へと向かっていった。その
激突寸前に虚を衝かれ、勢いまで断ち切られた恰好だが、彼が足を向ける先では依然として暴走族チームが寅之助や上下屋敷と対峙し続けている。良くも悪くも誰より目立つ恭路の前で歩みを止めたレオニダスは、まるで親友と接するかのように明るく笑い掛けた。
「キミたちが売ろうとしている喧嘩、オレに譲っちゃくれないかい?
「な、何ィッ⁉」
恭路の発した素っ頓狂な声と入り混じるようにして天井に跳ね返った鈍い音には、暴走族チームの驚愕が表れている。レオニダスの提案が鼓膜を打った瞬間、特攻隊長が凶器の代わりとして担いでいた
彼らの返事を待たないまま寅之助と上下屋敷のほうに振り返ったレオニダスは、肩を並べて立つ二人の間におどけた調子で割り込み、小気味好い鼻歌を引き摺りながらそこをすり抜けていく。
八雲岳と筑摩依枝に対しては、二人の頭上を越えるようにして高く飛び跳ね、次いで派手な宙返りを披露しつつキリサメの背後に降り立った。
予想外としか表しようのない展開に面食らい、やや反応が遅れてキリサメと未稲が振り向くと、今度は二人と目線の高さを合わせながら愉快そうに片目を瞑り、茶目っ気たっぷりに舌まで出して見せた。
顎の端まで先が届くほど長い舌にもタトゥーが刻まれていたが、丸みを帯びた輪郭からしてブラジルに生息するタランチュラの一種であろう。この種に分類される蜘蛛は神経を冒す猛毒を持っており、咬まれた人間は狂わんばかりの幻覚に苦しみ抜いて絶命すると、
舌のタトゥーは毒蜘蛛の牙にも等しかったのか、これを瞳の中央に捉えた瞬間、キリサメも脳の働きが石の如く固まり、指先一つまで動かなくなってしまった。
尤も、タランチュラが体内に致死性の神経毒を蓄えているというのは、中世の伝承に基づいた誤解に過ぎない。それにも関わらず、キリサメの
神経毒という実際にはありもしない幻覚に翻弄される人々を笑い飛ばす為、〝
「キリサメ・アマカザリ、『ブラザー』と呼ばせてもらえないかい? オレたち、きっと気が合うと思うぜ!」
「……ブ……ラザー?」
先程とは異なる形で脳が痺れてしまったキリサメの肩を両手でもって馴れ馴れしく撫で回した
〝
それは事実上の宣戦布告であった。
『
〝プロ〟にはあるまじき敗因を差し引いても〝優待客〟との同行を特典とする
当然ながら会場内はどよめきで埋め尽くされ、至近距離で聞かされた未稲などは、自分の鼻から丸メガネが滑り落ちたことにも気付かず茫然と固まり続けている。
「個性って言葉を履き違えているとしか思えないアフロ君、タレント活動の片手間っていう典型的な『客寄せパンダ』かと思ったけど、見た目に反して〝本業〟もきっちりこなすタイプかい。テレビで観る
「バカ言え、レオニダスだぞ。
「アフロさんとアマカザリさんの場合、格闘家の
「ボクもサトさんも、気配り上手の
辛うじてリングの残骸に埋まらなかった丸メガネを拾い上げ、未稲の鼻に掛け直してやりながら、上下屋敷は眼前で起きた事態への理解を促すであろう一例を寅之助に示した。
彼女が例に挙げ、寅之助が敬意を表すように一礼した『
格下の選手が
筑摩も二人に歩み寄りながら補足説明を言い添えたが、実力の差が絶望的に開いている試合は『ワンサイドゲーム』とも呼び難い〝
キリサメと城渡が繰り広げた第一試合を振り返るまでもなく、
「普通の選手、
三人の会話がレオニダスの耳に届いていないはずもない。
「タ、タファレル選手は確か『ファヴェーラ』の出身――でしたよね? ヤンチャな方々を宥めるのもお手の物というコトでしょうか? いえ、ブラジルの皆さんには私、
他の人々と同様に仲原アナも混乱した調子で的外れなことを口走っている。
『ファヴェーラ』とはブラジルに於ける
高級リゾート地を見下ろす丘陵地帯に貧困層の掘っ立て小屋がへばり付くという都市部の景色も、『ファヴェーラ』と呼ばれる土地の大半が不法占拠されている事実も、リマと大きくは変わらない――と、亡き母が教えてくれたのだ。
強盗や殺人などの凶悪事件が
この場に
外国の
キリサメは両親が日本人であり、母が亡くなるまで日常会話に用いていたから日本語を習得できたようなものである。〝戦争の時代〟に一度は引き裂かれてしまったが、日秘の交流は歴史が深く、神輿や盆踊りの再現など〝日系文化〟の催し物も少なくなかった。
生活に不可欠なものでなければ、〝外国の
「マットってコパカバーナの波みたいにウネウネするもんなんだな! いっそ爽快なくらいブッ壊れたリングは、さしずめ〝謝肉祭の皿〟ってところかァ~!」
仲原アナが述べたようにブラジル
城渡を冥府に
『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』――自分たちが〝プロ〟として貫くべき
「……無知を晒すようですが、ブラジルには〝カルナバル〟――〝謝肉祭〟に皿を叩き割る風習があるのですか?
〝謝肉祭の皿〟という独特の言い回しに対し、岳は「焼肉屋の広告か?」と小首を傾げたが、その傍らに立つ
あるいはブラジルの隣国で生まれ育った
「日本で学んだ〝
「……
「風習じゃなくて風情のハナシだぜ、オレのは。分かる?
「……会う人会う人に言われているのは、間違いありません……」
「
〝謝肉祭〟はキリサメが生まれた
つまるところ、キリサメにだけは伝わるだろうと確信して送った一種の信号というわけである。尤も、『ブラザー』と馴れ馴れしく呼ばれている
国境を接したペルーとブラジルの共通点を見つけようとしたのかも知れないが、
それと同時に日本人に囲まれた状況に
キリサメ自身はこの世に生まれ落ちてから神など一度も信じたことはないが、ペルーもブラジルも、キリスト教が広く信仰される
これに対してレオニダスの故郷であるリオデジャネイロは、灼熱の太陽によって輝き、その底に果てしなき〝闇〟を生み出す街並みをコルコバードの丘の
先ほど思い浮かべた『
「私なりの想像っていうか、いかにもな妄想に近いんですけど、壊れてしまったリングを〝謝肉祭〟のご馳走を盛り付けた皿に見立てるってコトは、タファレルさんとの試合はキリくんの〝復活祭〟――そう仰りたいんですか?」
キリサメ当人に成り代わって〝謝肉祭〟の本質を紐解いたのは、彼の身を支えながらレオニダスの様子を窺う未稲であった。
己が言わんとした
未稲の実父である岳は〝謝肉祭の皿〟に「焼肉屋の広告」という率直極まりない感想を述べていたが、キリスト教の文化と深く関わる機会のない人間の反応としては、ごく自然と言うべきであろう。
「何だぁ? 復活祭ぃ? 無駄にスケールのデカい話になってねェか? おめーらが話してんのはカーニバルだろ? 浅草でも――寅の地元でも毎年八月に本場リオみてーなサンバパレードやってるぜ。オレ、一度も誘われたコトがね~けど」
「祭り騒ぎが大好物な電ちゃんはともかく、あんまり騒がしいイベントはボクの趣味に合わないって照ちゃんは知ってるでしょ。どうせ踊り狂うなら二人きりのときにしようよ」
俗に『リオのカーニバル』と呼ばれる世界最大のサンバの祭典が最たる例だが、同時期には各国で華やかな
ブラジル以外でもイタリアの
しかし、カーニバル――〝謝肉祭〟とは、そもそもキリスト教に
新約聖書に
信仰の在り方を自らの心に問い掛ける風習もまた伝統の
レオニダスはリングが潰れてしまった
報復という名の凶行に及ばんとした御剣恭路たち暴走族チームなどは、ブラジルという
そもそも『
「野暮を承知の上で口を挟むのですけれど、
「そうそれ! 依枝さん、私が入れたかったツッコミを代わってくれてありがとう! キリくんを評価して貰えるのは家族としても素直にお礼を言わなきゃですけど、天罰がブチ当たりそうなコトに巻き込むつもりでしたら話は別ですよっ」
「な~んか
「ツッコむの、そこ⁉ 斜め上過ぎて私のメガネも吹き飛びますよっ」
未稲を追い掛けるようにして
およそ一ヶ月半前に開催された
その筑摩が訝るような声色で述べた通り、二〇一四年の
本来ならば挑戦権など認められるはずもない
「か、勝手なコトばっか言うんじゃねぇよッ! ケジメはオレたち自身の手で――」
「――今のは冗談ではないのですね? それは対戦交渉と考えてよろしいのですね?」
取り落としてしまったチェーンを再び拾うことも忘れ、神経毒に冒されたとしか思えない足取りでリングに近寄っていく御剣恭路のダミ声を遮ってレオニダスと対峙したのは、険しい
『八雲道場』に所属する選手のマネジメントを担当する者としても、『
「怖い顔しなさんなって。悪いようにはしねぇからさ。日本の昔話に〝打ち出の小槌〟とかいうのが出てくるっしょ? それがオレ! どんな風に振っても必ず
突き刺すような眼光をレオニダスは軽い調子で笑い飛ばし、涼しげに受け止めている。
己の提案が『
何しろ
「ブラザーは
「……ええ、まあ……」
「生まれた国は違うがよ、オレたちの
「……比べるものでもないと思います。大体、
「生存闘争の絶望感ってモンは、ヤバけりゃヤバいほど人間はよりしぶとく、より強くなれる――それはブラザーも実感してるだろ。だってオレたちが生きてきたのは、
「……それは……」
「本物の地獄を味わったのはどっちか? 最後に生き残るのはどっちなのか? オレはそれに興味ビンビンなんだよなぁ~。お前さんたちも同じ気持ちじゃね~かい?」
格差社会の最下層を
岩手興行を破綻寸前まで追い込んだ原因から報復の委託を引き出そうというわけだ。特攻隊長がほんの短くとも「叩き潰せ」という
この
〝謝肉祭〟という共通の話題でもって互いの距離を縮めようとしていたはずの陽気な笑い声は、何時の間にか冷酷の二字こそ相応しい
反則負けを言い渡された
「……サッカーでいう『マリーシア』なのかな、これって……」
天井から降り注ぐ
日本MMAの黄金時代に〝柔術ハンター〟として名を馳せた
逞しい胸板からヘソに掛けて刻まれた蜘蛛の巣のタトゥーには、糸に絡まって喰われる瞬間を待つのみとなった蝶が添えられている。その哀れな獲物が
バラエティー番組で披露する屈託のない姿とは真逆の曲者であり、それ故に頭脳で相手を翻弄するというサッカーの
奇抜な衣装は依然として
この
凶悪な外見が紛い物のように思えてくる情けない視線を頬で受け止めながら、寅之助が無反応を貫くのは、敵味方に別れたという〝現実〟を突き付けるのが目的ではなく、威勢の良さまで吹き飛んだ恭路を更に追い詰めて弄ばんとする底意地の悪さであろう。
「恭路たちの喧嘩を代行するってのは
恭路と同様にキリサメとの対戦を望む理由が掴めずにいる岳に対して、当のレオニダスは「それを考えるのもあんたの役目だろう、
「ひょっとしてレオ、お前――
八方塞がりの窮地に陥った
人好きのする笑顔の向こうに妖気としか表しようのないモノを感じ取れないほど岳も遅鈍ではなかった。
「こんな簡単な問題を答えるのに時間掛けちゃダメだぜ、
「だから、そこが分かんねぇっつってんだよ!
「さっきも話したじゃん? 社会の掃き溜めにゴミ同然で放り出された者同士、どっちが〝生きること〟に餓えて生きてきたのか、そいつを試してみたいってさ。オレがブラザーと
万が一の場合には暴走族チームを押し止めるべく我が身を盾に代えていた人々を文字通りに飛び越えたときと同等の跳躍力を発揮し、リングを降りたレオニダスは、キリサメへと歩み寄りつつその
「ブラザーは一つ勘違いしてるぞ? それもデッケェ勘違いをな」
ますます意味が分からずキリサメが眉根を寄せると、レオニダスは「認識の違いってヤツかもな」と口の端を吊り上げた。
「
キリサメが呻き声を挟んで絶句してしまったのは当然であろう。〝外国の
「駅前留学も上等な服も『
「ありません。興味もないです」
地上五四階という超高層ビル――赤坂のランドマークであるミッドタウン・タワーの一室に設けられた
「それなら今夜にでも試すべきだ。きっと〝宇宙〟が変わるぜェ。オレほどじゃねぇが、ブラザーなら見た目もバッチリ。オンナは向こうからすり寄ってくらぁ。気持ちいいコトもカネ次第なんだからよォ~」
下卑た笑いに切り替わったレオニダスの意図もキリサメは掴み兼ねている。死の危険に晒されることのない環境ということであれば、『八雲道場』の暮らしだけで過分なほどに足りている。わざわざ
この四ヶ月の間で家事は三人の持ち回りで行うことに決まった為、亡き母から教わった料理を思い出しながら自分自身が振る舞う日も、岳の創作料理に付き合わされる日もあるのだが、未稲が食事を担当する日はキリサメにとって何よりの楽しみである。
何事にも無感情なキリサメは
「……テレビでも危うい兆候を感じましたけれど、ここまで品のない方とは……」
レオニダスの言わんとしていることに気付いた筑摩は、
「最高のオンナを侍らせながら窓辺に立ってみなァ。最上階のVIPルームから覗き込んでみるとな、地上は真っ暗で何が何だか分からねぇんだ。……その〝闇〟のドン底で野垂れ死んで、どことも知れねぇ墓穴へ適当に放り込まれる。それならまだマシなほうで、もしかしたら野良犬の胃袋が墓穴になるかも知れねェ――星を掴もうと伸ばした手が虚しく
思わず眉を顰めてしまうような事例をひけらかしているが、レオニダスが延々と語り続けているのは成功者の栄光であった。絶望的な貧富の格差が横たわるブラジルの
見事に〝MMAドリーム〟を掴んだ
「問題なのは似た者同士が『
おどけた調子で笑っているが、レオニダスは今までにないほど獰悪で傲慢な
甚だ無軌道ではあるものの、
それ故に
己の技を頼りに
この
キリサメの現状からすれば、
レオニダスは親しまれる
〝カポエイリスタ〟としての力量は〝空中戦〟を展開して
しかも、『IQファイター』と謳われる智勇兼備の戦闘力がキリサメを追い詰めれば、またしてもリングの崩壊を引き起こし兼ねないのである。『
「試合そのものだって観客には退屈させねぇさ。オレとブラザーは似た者同士だからな。きっと相性イイと思うぜっ!」
どれほど麦泉が焦りを募らせようとも、この場で
「お
「どさくさに紛れてキリーをコケにすんなよ、おいッ! オレがこの目で確かめたキリーの
キリサメの養父にして『八雲道場』の責任者でもある岳の意思表示は、対戦交渉を成立させるものであった。少なくとも、この場に居合わせた五〇〇〇人はレオニダスの要請が了承されたと受け止めるはずだ。
それが証拠に一等大きな歓声がアリーナ全体を震わせたのである。キリサメ支持を貫いてきた〝優待客〟の
何もかもが
岳や麦泉が撤回を試みても状況は覆せまい。
『マランダラージ』もサッカーの
その
「さぁ~、大変なことになりましたぁ~! 『
明らかに混乱が入り混じる仲原アナの実況へ満足げに首を頷かせた
「……僕はもうここまでです――」
しかし、キリサメはその手を静かに押し返し、無表情のまま首を横に振った。それはつまり、自身の再起にも繋がるであろう〝流れ〟に顔を背けたことを意味している。
そもそも、キリサメには再び『
多くの人々から寄せられた期待を最も愚かな形で裏切ってしまったのだ。今日まで
喧嘩殺法は卑劣な〝暴力〟などではなく、過酷な環境を生き抜く為の
数多の先達が
自らの意思で人生を変えようとする初めての決断は、結局のところ、〝闇〟の最果てへと続く〝道〟から逃げられないという現実を突き付けるものであった。
「新しい家族から押し付けられた〝人間らしさ〟なんか法治国家に紛れる為の〝
先ほどリングに
「キ、キリくん⁉ そこでスルー⁉ スルーしちゃうの⁉」
「……僕はここまでだよ、みーちゃん。もうここにはいられない……」
尽きることのない絶望感を双眸に湛えたキリサメは、MMAのリングどころか、『八雲道場』から去ろうとしている。誓いも期待も裏切った以上は、彼らの〝家族〟でもいられないのだ。
(……責任を取らなきゃならないときには絶対に逃げるな――か。母さん、卑怯な真似だけはするなって昔からずっと言ってたもんな……)
心の中でも己の過ちを責め続けているキリサメがレオニダスから大きな勘違いを指摘されたのは、ほんの数分前のことである。
試合の結果に拘わらず、リングを目指して
この期に及んで〝プロ〟としてデビューするという意味を理解できていなかった――とも言い換えられるだろう。
「アマカザリ選手にも色々と思うところがあるのでしょう。しかしながら、
「なッ⁉」
虚ろな瞳で俯き加減となっていたキリサメの
キリサメ当人は言うに及ばず、彼の養父である『
彼の師匠である
体重別の階級を設定しない完全無差別級の試合形式など〝現実〟のリングで
対戦の組み合わせは選手同士の関係性や話題性だけで決定されるものではない。興行収益の計算も当然の如く考慮されており、特に〝目玉〟となる試合では、人気の高い選手を引き合わせるだけでもチケットの売り上げが明確に変わるのだった。
デビュー戦で評価を落とした
経営判断より代表個人の気分が優先される体質は組織として健全とは言い難く、それ故に国内外のスポーツメディアから〝独裁政権〟という侮辱にも近い
「代表なら絶対にノッてくれると信じていましたよ!
「岳ちゃんがやる気になってくれたっていうのが決定打だったねぇ~。
「おいおいおいおい! お前らだけでハナシをデカくしてんじゃねぇよ! 先走ったオレが全面的に悪ィんだけど、やる気云々はキリー次第なんだぜ⁉」
キリサメに成り代わってレオニダスと握手を交わす樋口は、双方の合意に基づく対戦交渉の成立である点を強調していた。記者たちが構えるカメラからシャッター音が一斉に響いたということは、これが既成事実として報じられることであろう。
余りにも強引な筋運びに抗議する岳は言うに及ばず、未稲と揃って顔面に困惑の二字を貼り付けたキリサメも視界に入っているはずだが、樋口は彼の意思など確かめようともせずに片方の当事者のみと語らい続けるのだ。
「……進退
「この状況で
「みーちゃんのほうが僕なんかより遥かに物知りだと思うよ」
「私の場合はサブカル趣味っていうか……。
「……みーちゃんは賢いよ。だから、……ここに出口がないコトも分かるんじゃないか」
己を庇護してくれる樋口郁郎が〝暴君〟と忌み嫌われる
キリサメ・アマカザリというMMA選手は、既に個人の感傷が容易く押し流される〝プロ〟のリングに上がってしまったのだ。
年齢を理由に所属団体から不当に冷遇され、あまつさえ〝暴君〟が興味を失った瞬間に格闘技界で生きる場所を
もはや、統括本部長の
本人の意思を置き去りにして累々と積み重なっていく既成事実に面食らうのは、格闘技を生業とする〝プロ〟に対して理解と認識が甘過ぎる証左であった。
樋口郁郎が団体代表の〝立場〟としてレオニダスの提案を後押しするのは、当然ながら間近に迫った窮地――城渡マッチの舎弟たちによる凶行を未然に封じ込める為だが、『NSB』と友好関係を築きつつ、水面下では同団体の
肩を組みつつ
一個人としての愉悦を満たすだけではなく、一挙に複数の利益が見込めると確信できたからこそ、秘書の
会話すら成り立たない恭路たち暴走族チームを制御できず、肩を竦めるばかりだった男が
数多の運命を狂わせていく悪だくみを〝暴君〟に閃かせてしまったのは、他ならぬキリサメ・アマカザリなのである。その自覚すら彼には全く足りていない。
一方、彼と同じ境遇から身を起こしたレオニダスは樋口郁郎の悪だくみを間違いなく見抜いている。〝暴君〟と化かし合いを演じられる才覚の持ち主でなければ、異郷のMMA団体で『IQファイター』と持て
岳を口車に乗せ、交渉に
その城渡が不在の状況下で懸念が的中してしまった格好である。無論、彼の舎弟たちが火種となったことは大いなる皮肉としか表しようがない。
「自分も長いこと、格闘技に関わってきましたが、未知なる領域への期待でここまで胸が高鳴るのは、ひょっとしたら今日が初めてかも知れません! ド派手なコトになったリングも景気付けに思えて来ましたよ! MMAというカーニバルはここからが本番ッ!」
マイクを片手に五〇〇〇もの昂奮を更に煽らんとする樋口については、認識の甘さが皆無というわけではなかった。
暴走族チームが〝城渡総長〟の報復に乗り出した直後は肝を冷やしたものの、この場さえ凌いでしまえば、一時的な激情など自然と鎮火するであろうと見積もっていた。
これは明確な誤りであり、〝暴君〟の驕りであった。大切な
暴走族チームは誰もが
その上、レオニダスの提案は一方的に押し付けられたものに過ぎず、暴走族チームには彼に勝負を託す義務も責任もない。木村レフェリーを始めとする『
迫力と
驕れる者久しからず――キリサメが
「――どいたどいたどいたァッ! リング交換と行くぜェッ!」
もはや、キリサメも自分に正当な制裁を加えようとしていた恭路と呆けた様子で顔を見合わせるしかない。その二人の鼓膜を今度は鬼貫道明の大音声が貫いた。
揃って振り返ると
背広を脱ぎ捨てた意図はともかくとして、鬼貫道明は人間という種を超越する〝力〟によってリングが破壊された直後に実況席から
〝筋書きのないドラマ〟とは、不測の事態と表裏一体でもある。天文学的な確率でしか起こり得ない状況にも即応できるよう予備のリングまで用意されているのだ。
余りにも大仰だが、闘魂の
「とりあえず一時間! 皆様の時間を我々にお預け頂ければ幸いです! 『昭和』から現代までありとあらゆるピンチを切り抜けてきた『アンドレオ鬼貫』に任せておけば間違いナシ! 必然的に
一刻の猶予も許されない状況である為、鬼貫は団体代表の決裁も仰がないまま独断でリング交換に取り掛かっている。技術解説という本来の任務から掛け離れているばかりか、他者の職域を侵害する明らかな問題行為であり、懲戒処分にも値するのだ。
尤も、当の樋口は看過するべきではない越権行為を咎めなかった。それどころか、鬼貫の意を汲むように団体としての判断を観客席に向かって説明し始めたのだ。あるいは〝独裁政権〟の副産物と
返金対応などを提案していく樋口へ不満をぶつける観客は一人もおらず、支持の意を込めた拍手を
「――そういうことならば、
かつてはヴァルチャーマスクと呼ばれ、日本のリングを去った
第一試合に乱入してキリサメと岳を鼓舞した
生涯の師のもとへと歩み寄る間にヴァルチャーマスクは焦茶色の僧衣を
間もなく互いの鼻息が掛かってしまうほどの至近距離で向き合ったヴァルチャーマスクと鬼貫道明は、両腕に大きな力瘤を作り、次いで剥き出しの胸板を律動させるという傍目には奇妙奇天烈としか表しようのない行動を取り始めた。
心が通い合う師弟の間では
ヴァルチャーマスクを実の兄のように慕ってきた岳は自分が加われない悔しさを地団駄でもって慰め、その直後には麦泉から「どうせ踏み付けるのでしたら、社長の足をやって下さい。そうでないならお静かに」という戒めの言葉と共に尻を抓られていた。
しかし、互いの筋肉を称え合いながら重い
日本MMAの礎である
「バカ騒ぎの後片付けも〝
予備のリングを運び入れる為の作業に勤しむスタッフの間隙をすり抜け、再び海賊船を模した特設ステージに上がったレオニダスは、彼らに声援を送りつつ自身が極めたもう一つの格闘技――『カポエイラ』の蹴り技を披露し始めた。
これもまたブラジルを発祥とする格闘技である。
尤も、壇上のレオニダスが披露しているのは観光を目的としてブラジルを訪れた
逆立ちの状態から全身を素早く旋回させ、左右の脚でもって竜巻まで起こしている。この
『
その真意はともかくとして、五〇〇〇という視線の大半が蹴り技と連動して揺れる
そこに意識の死角が生じ、四方より視線が注がれるアリーナの中央に
「――遅くなって申し訳ありませんでした、アマカザリ選手。詳しい状態は医務室で確認させて貰いますが、負傷の具合を少し診させて下さい。……ていうか、ほんの少し外している間に随分と騒がしいコトになっていたようだなぁ」
城渡を乗せた救急車の出発を見送った
本人は目配せで不満を示したが、全身を血の色に染めた有り
片膝を突いてキリサメと目線を合わせた
「目から大量に出血していたようだけど、問題なく見えていますか? 痛みの
「……唾でも付けておけば治るという意思表示です、これは」
「減らず口が叩ける内は大丈夫かな。ただし、病院で精密検査を受けるときに誤診を招き兼ねない発言は控えてくださいね。君の為にも、君の家族の為にもなりません」
次いで打撲傷や骨折などの確認に移ったのだが、
城渡の容体を確認した際に彼の血が付着した
先程もキリサメの診察が後回しになってしまったことを謝罪していたが、リング交換に紛れるような恰好での到着が結果的には最善であった。対峙の
「ここはボクらが引き受けるから、さっさと逃げちゃいなよ、サメちゃん。また恭ちゃんたちが騒ぎ始めたら、アフロの気配りが台無しになるかもだしね」
千載一遇の好機を逃さずに離脱するよう促したのは寅之助だ。
彼自身は竹刀を構えたまま暴走族チームを見据えている。攻撃対象が場内から掻き消えれば、激怒した恭路が再び暴れ始めるかも知れないが、そのときには酒と煙草で焼けたダミ声がキリサメの背中を追い掛けることがないよう食い止めるとも言い添えた。
「てめーに何かあったら未稲が辛いからな。今日のところは貸しにしといてやらぁ」
「もしかすると岩手ではこれでお別れで、次にお会いするのは暫く先になるかも知れませんね。少し早いのですが、『また今度』と申し上げておきましょう」
上下屋敷と筑摩の二人も寅之助と肩を並べて〝壁〟を作り、キリサメの脱出を助けようとしている。親友たちの背中を見つめる未稲は〝預かり物〟を握った右手を自分の胸元に添え、「みんなの気持ちに応えてあげて!」と何時になく強い声を発した。
これを見て取った
「何しろ現場の混乱がハンパじゃなかったから、城渡選手と入れ替わりみたいになってしまったんだけど、救急車は手配済みです。既に到着しているのなら、このまま救急隊員にお願いしましょう。そうでないなら医務室へ。控室では満足な診察も難しい」
「……病院で診て貰わなければならないほど悪くないと思いますけど……」
「良い機会なので肝に銘じておいて下さい、アマカザリ選手。『大丈夫』という本人の自己申告を鵜呑みにして血みどろの選手を放置するリングドクターは、医師免許の剥奪まで検討しなくちゃならないレベルの
「……
「以前は以前、今は今。運良く命を落とさなかったという結果論は、リングドクターに全く通じないということも
「諦めな、キリー。
状況はキリサメを置き去りにして速やかに移ろっていく。両足でもって床を踏み付け、この場に留まろうとする
養父から説かれたように
人命を最優先とする医師の判断として正当であったことは疑う余地もないが、リングから引き離されたことによって、己の意思と無関係に積み重なっていった既成事実を断ち切る機会が奪われてしまったのである。キリサメに残されたのは〝大きな流れ〟に抗い切れなかった虚脱感のみであった。
「――次、頑張りましょう! アマカザリ選手! 格闘技とタレント活動をごちゃ混ぜにしていやがるナメたアフロを引き千切ってやって下さいッ!」
車椅子を見送る〝優待客〟たちの眼差しは温かいが、
*
今日に限って『
拍手を受けながら
十割の本音では付き添いを断って一人になりたかったが、そのような感傷が受け
キリサメの鼓膜を叩く数名分の靴音に未稲のものは混ざっていない。リングサイドから離れる際に彼女は弟の
通路には『
結局、自分が
『
格闘技と言い換えても暴力は暴力――警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係の刑事から突き付けられた言葉がまたしても脳裏に甦り、キリサメの心は瞬く間に凍り付いた。
全て
スタッフの顔を視界に入れないよう俯き加減で瞑目するキリサメであったが、
より正確に状況を表すならば、前方に奇妙な気配を感じた
果たして、通路の先には不可思議な男が立っていた。
年齢は養父と同じくらいであろうか。ダークグレーの背広に身を包み、右目に
先鋭化の一途を辿る『ウォースパイト運動』を警戒し、今までの
「初陣、お見事でした。そして、本当にお疲れ様でした。……暫く、キリサメさんのことしか考えられない日が続きそうです」
「……神通氏……」
古くからの友人である
左隣に控えた背広姿の男は初めて見るが、こちらは爆発する火山を模った『
ここは『
つまるところ、職務怠慢を追及されてしまうほど無防備な有り様というわけである。スタッフたちも怪訝そうに首だけは傾げているが、『
「次から次へと今日は忙しいな。見ての通り、負傷者の緊急搬送中なんだよ。速やかに道を譲ってくれ。さもなきゃ〝大人の対応〟で
それは麦泉も同様であるが、
(神通氏の性格上、御剣氏と同じ真似だけは死んでもやらないと思うけど、……最悪の事態を考えたら、みーちゃんが一緒のときでなくて良かったか――)
少し離れた場所に立っている別の男性にキリサメが気付いたのは、三人の顔を順繰りに確かめた直後のことであった。
「衝撃」という一言を除いて、この状況を端的に表す言葉を彼は知らなかった。驚愕の余り、四肢に力が入らないことも忘れて車椅子から立ち上がろうとしてしまったのだ。
「ひ、
「……思いがけない再会になったものだな……」
やや離れた位置からキリサメの様子を窺っているフライトジャケットの男性は、
『八雲道場』が揃って参加した
稀代の映画俳優にして伝説的な武術家であるブルース・リーが三二歳という余りにも短い生涯の中で作り上げた近代格闘技――『
電知や上下屋敷から
これはつまり、過去にキリサメと遭遇した『
「……哀川君の言うようにアマカザリ君のデビュー戦、心が満たされる想いで観戦させて貰ったよ。君がお目当てで
二重に押し寄せた衝撃で打ちのめされ、思考が
「お前、キリーに何の用だってんだ? 何が言いてェんだよ、ヴィクター
「――やはり、君に一番相応しい闘いの舞台は『
岳が右の人差し指でもって示し、『ヴィクター
〝格闘技界の汚点〟と忌み嫌われる
キリサメは『
ドン・キホーテ――親友の絆を育む前のことだが、かつて空閑電知が挑発を込めてキリサメに叩き付けた呼び名を
やがて握り拳を解いた
(中編に続く)
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