その19:迫撃~総合格闘技が殺される──死の鳥に穢(けが)された闘魂(たましい)・格闘家になってはならなかったモノ/やがてリングを焼け野原に変える死神(スーパイ)

  一九、迫撃



 破天荒な登場人物と物語によって『昭和』の〝スポ根〟ブームを強く牽引した漫画原作者であるくにたちいちばんとの提携タイアップから誕生し、やがてを果たしたヴァルチャーマスク――日本で初めて〝総合格闘〟の理論を完成させ、『とうきょく』として体系化した〝超人〟レスラーが『ブラジリアン柔術』に惨敗し、〝永久戦犯〟の烙印を押されたのは、現在いまから一七年も遡った一九九七年一〇月である。

 日本の総合格闘技MMAは戦後のりきどうざん以来、列島に夢と元気を与え続けてきたプロレスそのものの敗北を生贄の如く捧げることで最初はじめの一歩を踏み出した。

 華々しい出発ではなく歴史的屈辱から這い上がった日本のMMAは、実戦志向ストロングスタイルのプロレスによる異種格闘技戦とも次元が違う試合たたかいを重ねるたびに新たな〝スポーツ文化〟として受けれられ、〝格闘技バブル〟と呼ばれた黄金時代には大晦日に地上波三局で興行イベントが生中継されるという快挙を成し遂げた。

 世界の〝格闘技社会〟でも高く評価された熱狂ブームしたのは、旗頭を担った『バイオスピリッツ』が指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟を暴かれた二〇〇〇年代半ばのこと――奇しくも、同団体の旗揚げ一〇周年という節目であった。

 格闘技を愛してやまないファンの信頼を失い、メインスポンサーでもある世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』にも見放された『バイオスピリッツ』は解散を余儀なくされ、ヴァルチャーマスクも引責に近い形で故郷のリングを去っていった。

 旗頭の醜聞はMMAそのものに対する不信感となり、国内の興行イベントも連鎖的に人気が低迷していく。『MMA日本協会』が発足と監督に携わった幾つもの団体が短期間で活動を終えたことも「日本MMAは反社会的勢力の資金源」という偏見と無関係ではあるまい。

 黄金時代の昂揚を知らない人間も少なくなってきた現在いまは、スポーツ番組の一コーナーか、衛星放送の専門チャンネルでもなければテレビに映る機会すら巡ってこないほど日本にける格闘技という〝文化〟は隅にまで追いやられている。

 反社会的勢力との繋がりを見過ごせるはずもないテレビ局が『バイオスピリッツ』の放送を打ち切ったのは、くだんの醜聞が明るみとなった二〇〇六年のことである。それ以来、MMA興行イベントの生中継は途絶えてしまっているのだった。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行で初めて試験的に導入された場外観戦パブリックビューイングは、前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAと深く関わってきた映像制作会社と提携し、試合の映像を各会場のモニターに生中継の如く送信しているが、その中に各家庭のテレビやパソコンは含まれないのである。

 二〇一一年の『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げをもって日本MMAは〝復活〟を宣言したが、〝スポーツ文化〟としての信頼が直ちに回復するものではなく、現時点で日本のテレビ局が試合の生中継を再開する見通しは立っていない。

 動画サイト『ユアセルフ銀幕』に開設された専門チャンネルにいて格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの販促活動キャンペーンを実施している〝キャラクター〟の『あつミヤズ』が『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント終了後に解説番組を配信するのは、る種の埋め合わせというわけであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』団体代表――樋口郁郎は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンで編集長を務めた経験があり、同誌の事業である『熱田ミヤズ』すら操り人形の如く扱えるほどの影響力を未だに残している。

 その格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部から出向という形で『天叢雲アメノムラクモ』主催企業に属し、広報戦略を担当するいまふくナオリも生中継が望めない状況の打開策を講じていた。

 短文つぶやき形式でメッセージを書き込むツールが主軸であるが、場内に設置された大会本部で進行を見守りつつ、試合の内容をSNSソーシャルネットワークサービスへ逐次投稿することで閲覧者に疑似的な実況放送を行っているのだ。ノートパソコンに接続された撮影機材も駆使する為、選手の写真を添えることも容易であり、今福が記した文章に陰影も豊かな臨場感を付与していた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の公式アカウントを管理し、ツールごとに運営するのも今福ナオリである。現在いまも瞬きすら忘れてキーボードを打鍵ち続けている。

 八雲岳の実娘むすめが師事し、広報戦略を学んでいる今福ナオリは、国家くにの垣根を超えて相互に作用し合う情報社会で勝ち抜くすべに長けていた。費用対効果に対する慎重論から未だに主催企業サムライ・アスレチックスの事業として採用されていないが、欧米の格闘技興行イベントで主流となったPPVペイ・パー・ビューの導入を熱心に推し進めているのも彼女である。


「アマカザリ選手はゴング直後に見せた電光石火のスピードよりだいぶ抑え始めた。たいさばきに無駄がない一方で、試合の組み立て方に経験不足がそのまま表れているよう。一撃必殺狙いばかりなのに稚拙にならないというこのデタラメなスタイルが古代インカの奥義なのか。ケツァールは確かに飛んだ」

「城渡選手は良くも悪くも特筆すべきコトがなく、いつも通りのインファイト。ラッシュで畳み掛けるのはさすがだが、カウンターで割り込まれた挙げ句、二度もダウンを取られるなど課題の多いラウンドだった。駆け引き下手が改善されない限り、ジリ貧は免れないだろう。トサカが崩れない理由を知りたい」


 第一ラウンドが終了した直後、今福ナオリはSNSソーシャルネットワークサービス新人選手ルーキー古豪ベテランそれぞれの状態を二分割で投稿していた。前者がふるう『我流』の技――即ち、喧嘩殺法についてはフェイントの拙劣を指摘する一文も付け加えていた。「相手を引っ掛けようにも、見え透いたやり方では駆け引きとは程遠い」と手厳しい。

 その新人選手ルーキーとは違って古豪ベテランはMMAのリングに幾度となく臨み、経験を積み重ねたはずであるが、試合にける駆け引きの拙劣は大差がないとも読み取れる一文であった。

 この分析は城渡への侮辱にも等しく、彼が率いる暴走族チームで親衛隊長を務めるつるぎきょうが目にすれば、怒りに任せて携帯電話スマホを地面に叩き付けたはずである。

 同様の批判はスポーツ・ルポライターのぜにつぼまんきちから幾度もぶつけられていた。MMAに激しい敵愾心を抱き、職業差別にも近い偏見に凝り固まった男の主張には城渡の名誉を不当に貶めんとする意図が感じられるが、一方的な悪感情を取り除いていくと、「戦略の組み立て方が極めて幼稚」という指摘が残るのだ。


「試合の途中で体力を使い果たすのは、殴る蹴るの幼稚な闘いしか能がない証拠。総合格闘家を名乗る資格もなく、自分だったら恥ずかしくてリングに立てない」


 銭坪満吉スポーツ・ルポライターから浴びせられた罵詈雑言は悪意に満ちているが、そこで挙げられた問題点は今福ナオリの見立てと大きく変わるものではない。実況席で技術解説を行っている鬼貫道明も、興行イベント全体の解説番組を配信する『熱田ミヤズ』も、過去にはに近い論調で城渡に弱点の克服を促していた。

 古豪ベテランを引退に追い込むのが目的としか思えない批判が格闘技雑誌パンチアウト・マガジンに掲載されたこともあるが、これに関しては『天叢雲アメノムラクモ』の選手層を大きく若返らせたい樋口郁郎が心理的な揺さぶりを仕掛けるよう〝古巣〟に働きかけた可能性も否めない。

 いずれにしても、城渡マッチの肉体が衰えてしまった〝現実〟は変えようがなかった。

 日本MMAの発展期からこんにちまで十余年も闘い続けてきたのだ。どれだけ肉体からだを鍛えても老化を補うことは叶わず、一つの負傷も全快まで相応の時間を要するようになり、同じ境遇の古豪ベテランたちも長期離脱が増えている。

 第二試合を受け持つギリシャ出身うまれのライサンダー・カツォポリスに至っては完治が難しい状態まで左右のあしが損傷しており、金属ボルトを埋めなければ己の体重も支えられないのだ。

 反則行為を除き、ありとあらゆる格闘技術が解き放たれるMMAのリングで立ったスタンド状態での殴り合いにこだわる城渡マッチは、それ故に攻防の組み立て方が単調となってしまう試合も多かった。体力が有り余っていた若かりし頃には腕力ちからに任せて押し切れたが、古豪ベテランと呼ばれるようになった現在いまは疲弊の影響が四肢の動きに直結し、発汗の量と反比例して打撃の威力が落ち込んでいく。

 その〝現実〟を踏まえた上で、銭坪満吉スポーツ・ルポライターは「バカの一つ覚え」と嘲っているわけだ。

 キリサメとの試合でも城渡は力任せの体当たりを多用していた。一九キロという体重差を利用した攻撃であることは間違いないのだが、相手の体勢を打ち崩して別の技に派生するのでもなく、これ一発ひとつでは痛手ダメージを与える手段とはなり得ないのである。勢いに任せて薙ぎ倒し、頭部あたまからマットに落下させられたなら失神KOとなるだろうが、肩からぶつかるだけでは後方うしろに弾き飛ばす程度の効果しか見込めないのである。

 それにも関わらず、闘いを全身で実感できるという理由だけで体当たりを好む城渡に白けた表情を浮かべるMMAファンは少なくない。銭坪満吉も樋口郁郎も、冷笑としか表しようのない声を根拠として古豪ベテランの誇りを傷付けてきたのだ。

 一九九七年の東京ドームから出発し、止まることなく進化し続けてきた日本MMAの大きな流れに逆らい、独り善がりな試合たたかいを何年も続けてきた将来さきなどあろうはずもない。何時までも現役にしがみ付く同年代の選手と同様に肉体からだを壊し、不様にリングから押し出されるしかないのだ――そのように軽んじてきた人々は、古豪ベテランかわり目に言葉を失った。SNSソーシャルネットワークサービスにて彼の闘い方を〝駆け引き下手〟と評した今福ナオリも口を大きく開け広げ、ノートパソコンのキーボードを打鍵つ指まで止まってしまっている。

 第二ラウンドの残り時間が半分を切った頃、キリサメのコークスクリューフックが城渡の顔面に直撃し、撥ね飛ばされた勢いでリングの四隅に立てられた支柱ポールの一本へと激突した。

 その瞬間、リングを取り巻く誰もがノックアウトを確信した。ところが、膝から崩れ落ちていくように見えた城渡が低い姿勢の体当たりへと変化し、コークスクリューフックに用いた右腕を引き戻せずにいるキリサメ目掛けて突っ込んでいったのだ。

 肩からぶつかって相手を弾き飛ばすであったなら、今福ナオリも大して驚かず、SNSソーシャルネットワークサービスに「苦し紛れとしても他に技はなかったのか」と言葉短く投稿したはずだ。

 城渡が両手を伸ばしてキリサメに組み付き、その足を払ってマットに素早く押し倒したからこそ場内の隅々まで驚愕が支配したのだ。立ったスタンド状態での殴り合いをこよなく愛し、それ以外の攻防を忌避してきた古豪ベテラン馬乗り状態マウントポジションに持ち込んだ次第である。

 洋の東西を問わず、総合格闘技MMAの試合にいて馬乗り状態マウントポジションでの攻防は少しも珍しいものではない。一九九四年にブラジリアン柔術に道場破りを仕掛け、すべもなく返り討ちにされて一九九七年の歴史的屈辱――『プロレスが負けた日』の遠因を作ってしまった八雲岳もこの状態から拳を叩き込まれ、顔面を赤黒く染めたのちに首を絞め落とされたのだ。

 馬乗り状態マウントポジションはMMAの王道である。しかし、城渡が相手の腹の上にまたがる姿を今日まで誰も見たことがなかった。

 何しろ彼は一七年の間に繰り返された進化に背を向け、我が道を貫いてきた男である。馬乗り状態マウントポジションに持ち込む前段階として相手をマットに倒す『テイクダウン』という技術テクニックすら体得していないと、一部のMMAファンから見下されていたのだ。

 正当とは言い難い評価を城渡は文字通りに一瞬で覆したのである。互いの両足を絡み合わせてキリサメの身動きをも完全に封じ込め、『パウンド』――即ち、馬乗り状態マウントポジションから拳を降り注がせる体勢に入っていた。


「マ、馬乗り状態マウントポジション……? 城渡選手が……ッ?」


 喉の奥から絞り出すかのような仲原アナの呻き声は、MMA黎明期から四角いリングに熱狂し続ける人々ファンの代弁とも言えよう。

 衝撃の度合いであれば、第一ラウンド序盤にキリサメが発動させた〝神速〟にも匹敵している。新人選手ルーキーが〝未知への遭遇〟ともたとえるべき驚愕であったのに対して、古豪ベテランの場合は〝固定観念の崩壊〟と表すべきであろう。城渡というを悪意ある銭坪満吉スポーツ・ルポライターと同じ視点でしか見ていなかった人間ほど己の不明を恥じ入ったはずである。

 MMAの特徴とも呼ぶべき寝転んだグラウンド状態での攻防も含め、立ち技と親友セコンド直伝の投げ技を除いた格闘技術を切り捨てるという硬派な姿勢スタンスは研ぎ澄まされた〝美学〟でもあり、我が身を文字通りの〝肉弾〟に換える猛々しさが多くの人々を魅了してやまないのであった。

 無論、を「稚拙」の二字で切り捨てる声も完全には間違っていない。

 八雲岳とヴァルチャーマスク――『鬼の遺伝子』を代表するプロレスラーを次々に討ち取ったブラジリアン柔術の影響を受け、日本MMAでも寝技などを駆使した寝転んだグラウンド状態での攻防が重視され始めると、「骨の髄まで打撃系ストライカー」を標榜する城渡は思うように立ち回れなくなり、戦績が芳しくなかったのは隠蔽かくしようのない事実である。

 一本背負いでマットに転がされ、その直後に首を絞め落とされてしまったアンヘロ・オリバーレスとの試合が好例であるが、対戦相手が寝技に長けていた場合は完封にも近い状態で敗れることも少なくない。

 それでも己の美学を貫き続ける愚直な潔さから勇気を与えられた人間は数え切れず、城渡を応援する声の大きさはベテラン層を冷遇する樋口郁郎でさえ無視できないのである。

 MMAの進化に逆らってまで立ったスタンド状態での『スカ勝ち』――即ち、強烈な打撃で〝スカッと痛快〟なノックアウトを勝ち取る闘いにこだわり抜いてきた男が馬乗り状態マウントポジションを取ったのだ。

 腹の上に跨った相手を見下ろすというは、美学の体現から掛け離れた姿とも言い換えられるだろう。上半身のバネを引き絞る〝ゲンコツ〟とも異なる新しい〝奥の手〟を隠し持っているようなことを城渡はほのめかしていたが、あるいはこの馬乗り状態マウントポジションを指していたのかも知れない。

 前身団体バイオスピリッツ以来の古参選手が蔓延はびこり続ける現状を苦々しく感じているMMAファンに冷たい視線を浴びせられても決して己を曲げず、拳に信念を握り締めてきたからこそ戦績が振るわずとも尊敬を集めているのだ。

 観客には『スカ勝ち』の誇りを投げ捨て、に成り下がったようにも見えたのであろう。互いの肉体を削り合うような打撃の応酬と、その果てに炸裂したコークスクリューフックによって沸騰した場内の熱気は、困惑の中で凍り付いていった。

 大会本部から飛び出した今福ナオリのデジタルカメラがシャッター音を鳴らした瞬間とき、レンズの中央には有り得ないはずであったパウンドを放つ城渡がしていた。


「――キリくんッ!」


 動画ではなく写真を撮影した為、今福ナオリが情報戦の極意を授けている愛弟子の悲鳴はデジタルカメラには収録されていない。

 未稲が腰掛けているリングサイドの関係者席と大会本部はそれほど離れておらず、だからこそ新人選手ルーキー愛称なまえを呼ぶ声が師匠の耳に届いた次第である。丸メガネを吹き飛ばすくらい大きな悲鳴は今、安堵の溜め息に変わったことであろう。

 眉間を狙って振り下ろされた城渡の右拳をキリサメは両のてのひらで挟み込み、直撃の寸前に食い止めている。

 城渡に右腕を引き戻されまいと懸命に堪えているのだろう。その拳に両の五指を食い込ませたまま、キリサメは肩から手首に至るまで小刻みに震わせている。対の左拳による二撃目のパウンドも警戒している様子であった。


「城渡選手は本物の挑戦者チャレンジャーですね。総合格闘技の〝全て〟を味わい、安定して闘える自分の様式スタイルを確立したベテランとして扱ってしまうのは、彼にとって最大の侮辱に当たるのかも知れません」


 失望の空気が垂れ込めようとしていた矢先、技術解説として実況席に腰掛けている鬼貫道明の声が城渡マッチの挑戦を包み込んだ。


挑戦者チャレンジャーという発言コメントの意味が私には測り兼ねるのですが……。厳しい見方をしますと、そもそもテイクダウンに繋げる体当たりタックル自体が『スカ勝ち』を楽しみにしてきたファンへの裏切りでは? 『天叢雲アメノムラクモ』で『こんごうりき』のように殴り合う――そうでなきゃ城渡選手ではないと頭を掻きむしる人だって少なくないハズです。それなのにいきなりの変節で……」

「大昔のツッパリブームを忍ばせる風貌や剛毅な態度とは正反対に、闘うことに対してどこまでもストイックな生きざまにこそファンは惚れ込んでいるのですよ。城渡マッチという偉大な男がままならない現状に足踏みして、リングから押し出されるワケがないと信じている。自分と同じように更なる進化を心待ちにしていたハズです」

「進化……?」

「先程のコークスクリューフック、アマカザリ選手も勝負を決めるつもりで放ったことでしょう。それをまともに喰らいながら、相手が勝ちを確信した一瞬の油断を見逃さず、裏をいて仕掛けるテイクダウンが借り物や付け焼刃だと思いますか? 紛れもなく〝打撃番長〟の新技です!」


 立ち技へのこだわりを投げ捨てたようにしか見えない城渡の姿がファンに与えたであろう動揺の深さを自分なりに分析しつつ、やや混乱した調子で発言コメントの真意を探ろうとする仲原アナとは真逆に、異種格闘技戦の先駆者は「変節」を「進化」と言い換え、を好意的に受け止めていた。


「城渡選手はこの日に向けて血がにじむような猛特訓を積んだのでしょう。両足の拘束ロックも完璧ですし、アマカザリ選手はここから防御に適した体勢ガードポジションに切り替えるのも一苦労です。そこに〝打撃番長〟の鉄拳ですよ? 十分に〝ゲンコツ〟を上回る〝切り札〟になります」

「……打撃力を極めに極めた古豪ベテランまことの恐ろしさを我々は今日、初めて目の当たりにするのかも知れない――と?」

古豪ベテランという言葉が意味するのは、在りし日から今日という日まで日本MMAの〝全て〟を己の身に叩き込んできたということです。パウンドを喰らわされた回数を調べるには両手両足の指を使っても足りません。そして、殴り合いは城渡マッチの本領発揮――古豪ベテランという言葉のもう一つの意味は、昨日今日、指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めたばかりの素人シロートではないということ……ッ!」


 ファンから背を向けられる覚悟でを拡げようとする勇ましい挑戦者チャレンジャー――それこそが城渡マッチであり、彼と同じ時代に生きられることを誇りに思うとまで『昭和の伝説』は言い切った。

 を直前に控え、格闘家としてのを支える〝心技体〟の全てが限界をきたしつつあることを城渡が自覚していないわけがない。これから先もMMAのリングへ立ち続けるには現在いまが正念場であり、最後の機会であろう。

 それ故に今日まで〝誇り〟としてきた精神ものを曲げてまで〝進化〟に賭けたのである。銭坪満吉から「この期に及んで現役にしがみ付く無様でみっともない悪あがき」などと中傷されることも分かっているはずだ。それでもえて踏み込んだ覚悟こそがMMAを心の底から愛している証左であった。


「私としたことがすっかりさっぱり忘れてしまっていました! 馬乗りになって殴りまくるのは喧嘩の基本! 徒手空拳ステゴロの王道でしたね! 世界で一番強い『喧嘩師』を決める大勝負に相応しい展開になったとも言えるのか⁉ 『天叢雲アメノムラクモ』始まって以来の喧嘩マッチは天井を突き破っても足りないほど燃え上がるゥ~ッ!」


 一度、得心すれば仲原アナは切り替えが早い。〝変節〟に対する疑念が強かったときとは声の調子まで一変させ、日秘の『喧嘩師』による変則的な力比べを盛り上げ始めた。

 城渡の〝進化〟に対する鬼貫の称賛ことばを逆転させたのは間違いない。会場の隅々まで伝播しかけていた失望は、今や衰えを知らない挑戦への尊敬に塗り替えられている。


「手品の種明かしほど無粋なことはないだろうに。今日の催し物がマジックショーだったら今頃は実況席のお二人さん、まとめて外に摘まみ出されているぞ」


 様々な意味で見事としか表しようのない鬼貫道明の解説に対して、青サイドのセコンドを務めるほんまつつよしは何ともたとえ難い苦笑いを洩らした。

 青空そらの色を映した指貫オープン・フィンガーグローブを装着する城渡が馬乗り状態マウントポジションへと変化したとき、この場にいて二本松だけが驚愕という二字を顔面に貼り付けなかったのである。それどころか、親友の勝利を確信したかのように右拳を胸元で握り締めたのだ。

 鬼貫によって看破された猛特訓が実際に行われたことを知っている数少ない者の一人とも言い換えられるだろう。『くうかん』空手の同門であり、付き合いも古いきょういししゃもんが練習相手を務めたことも二本松は把握している。

 ここまで持ち込んでしまえば、勝ったも同然――城渡を蝕む疲弊と負傷を認識し、試合時間が長引くほど不利になることを誰よりも案じていた二本松は、油断は禁物と己に言い聞かせながらも安堵の溜め息を止められなかった。

 その対角線上に位置する白サイドのコーナーポストで第二ラウンドを見守っていた麦泉は、これ以上ないというほど慌てふためいている。

 前身団体バイオスピリッツの頃から共に歩み、手の内を知り尽くしていると思い込んでいた相手が想定外の技を披露したことへの驚愕は言うに及ばず、キリサメが馬乗り状態マウントポジションに対応できるのか、麦泉には全く判らないのである。

 そもそもキリサメが寝転んだグラウンド状態での攻防を体得しているのかも現在までに確認できていない。地下格闘技アンダーグラウンド団体から差し向けられた刺客――空閑電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトでは、と同様に立ち技が中心であったと未稲に教わったが、一方でキリサメが寝技を試みたという話は聞いたおぼえがない。

 『まつしろピラミッドプロレス』と共に長野県のすがだいら高原で行った強化合宿にいても寝転んだグラウンド状態での闘い方は特に練習していなかったはずだ。同団体の花形レスラーであるあかぞなえ人間カリガネイダーがキリサメに伝授したのは、同じプロレス技でも後ろ回し蹴りソバットであって極技サブミッションではなかった。

 キリサメ自身が編み出した喧嘩殺法の中に寝技の類いが含まれていなければ、マットに背を着けるという圧倒的に不利な状況を覆すことは極めて困難であろう。八一キロという体重が腹部に圧し掛かり、両足まで拘束されている状態では尾羽根の如き帯を武器に換えることもままなるまい。


「どちらかの手で右腕を掴み返して、力勝負で捻るコトはできないかな⁉ 少なくとも片腕はキリサメ君が押さえているんだ! 城渡さんの動きを巧く制御コントロールしていけば、どこかで必ずひっくり返せるよ! 焦らずに好機チャンスを待つんだ!」


 立ったスタンド状態での殴り合いを得意とする打撃系ストライカー同士であればこそ、城渡との間に横たわる経験の差を埋め、互角の勝負に持ち込むことも不可能ではあるまいと麦泉は考えていた。

 その算段が一瞬にして破綻した次第である。自らの油断を麦泉は心の底から悔恨し、対角線上の二本松と入れ替わるような形で唇を噛み締めた。

 白青双方のセコンドの視線が交錯する一点――リング上の城渡は、キリサメの顔を見下ろしながら掴まれていない左拳を回転させている。身動きを封じられたキリサメに対し、自分は何時でも好きなように次のパウンドを繰り出せるのだと挑発しているわけだ。

 傍目にも城渡が生殺与奪の権を握ったことは明らかである。左拳がキリサメの眉間に振り下ろされたなら、捉えた部位を支点とし、掴まれている右腕も引き抜くことであろう。

 白サイドのコーナーポストから飛び込んできた麦泉の助言アドバイスの通り、城渡の右拳をキリサメが両のてのひらで挟み込み、己の側に引き込みながら捉えて離さないという状態は、必ずしも絶望的な劣勢を意味してはいない。

 右腕が伸び切った状態ということは、身体からだの構造上、対の拳を振り下ろす際に腰を捻り込む動作うごきが阻害されてしまう。頭に血がのぼり易い城渡の為人ひととなりを考えれば、威力が減退するのも構わずに左拳を叩き付けてくる可能性も高いが、その拍子に姿勢が崩れ、馬乗り状態マウントポジションを跳ね除ける好機が巡ってくるかも知れないのだった。

 先に痺れを切らしたほうが不利となる――腕力ちからの鬩ぎ合いであるのと同時に、これを見守る人々も息詰まるような根競べであった。


「テンパる必要ねぇぞ、文多! キリーなら余裕で切り抜けらァ! 何しろ予習もバッチリだからなッ!」


 一方の岳は絶体絶命の状況に追い込まれた養子キリサメを見つめながらも麦泉のように狼狽えることはなく、何故だか自信満々といった様子で胸を反らしている。


「それ、初耳ですよ⁉ センパイ、いつの間にキリサメ君に馬乗り状態マウントポジションでの闘い方を教えていたんですか⁉ 彼のスタイルを崩したくないって技術指導は控えていたんじゃ……」

「ちょっと前にやった『NSB』の試合を観せておいたんだよ。確か文多おまえもパソコンで観たっつってたよな? 『八雲道場』からアメリカに飛び出した世界最高のMMA選手と、ルタ・リーブリ使いによる旋光ひかり輪舞ロンドをなッ!」


 キリサメの〝予習〟として岳が挙げたのは動画サイト『ユアセルフ銀幕』の専門チャンネルで配信されている『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の興行イベントだ。る試合をPPVペイ・パー・ビュー形式で観戦した際、彼はMMAので繰り広げられる馬乗り状態マウントポジションの攻防に目を凝らしていたのである。

 しかも、金網で囲まれた八角形オクタゴンの試合場で闘っていたのは、八雲岳の一番弟子――極太の眉が猛々しいしんとうであった。

 ブラジルで編み出された格闘技の一つ――卓越した関節技を特徴とする『ルタ・リーブリ』を極めた同国出身の選手と対戦し、剽悍な身のこなしでテイクダウンを仕掛け、次いで機関銃さながらのパウンドで絶え間なく攻め立てたのだ。

 『NSB』の試合には〝演出〟の一環としてプロジェクションマッピングが導入されている。会場に設置された無数のカメラによって選手の動きを精密に読み取り、これに合わせて投影機プロジェクターが本人の肉体からだやマットに様々な〝映像〟を投射するのだ。

 例えば、打撃の命中時には衝突した一点から光の輪が波紋のように広がっていく。物理的接触時に生じる衝撃を描画によって可視化する趣向であった。

 指貫オープン・フィンガーグローブや試合着に組み込まれた超小型ICチップなどで打撃の威力をリアルタイムに測定し、その結果を波紋の大きさにも反映していた。進士藤太がパウンドを叩き込んだときには極めて大きな光の波紋が一撃ごとにマットで爆ぜたのである。

 拡張現実をも取り入れるという最先端技術の視覚効果も相まって、『フルメタルサムライ』の異名を取る世界最高のMMA選手の戦法は、キリサメの心に深く刻み込まれたことであろう――もって岳は養子の〝予習〟が万全であると胸を張っているのだった。


「ジョアキン・アンブロジオ・ジュニオールととーの試合ですよね? その試合映像ビデオを参考にしてキリサメ君に手解きを? 確かに最良ベストの手掛かりとは思いますけど……」

「手解きィ? 自分が数秒前に言ったコトを忘れンなよって! 慣れねェコトを横から吹き込まれて調子を崩しちまったら、折角の喧嘩殺法が台無しになっちまわァ! オレが小賢しい真似なんかしなくたって、キリーの順応性と柔軟性はヴァルチャーのあにィにも引けを取らねェ! 一度でも試合映像ビデオ馬乗り状態マウントポジションを見ておけば、攻略法も閃いて――」

「キリサメ君! 片方だけでも足を引き抜くんだ! 腹を蹴ってでも引き剥がさないと危ない! さすがにぶっつけ本番とは思えないけど、城渡さんだって馬乗り状態マウントポジションには慣れていないハズだ! 付け入る隙が見つかるまで防御ガードを固めて我慢だッ!」


 岳が根拠も自覚もなく妄言を撒き散らすのは麦泉にとっても日常茶飯事であるが、現在いまはそれに付き合っていられる状況ではない。彼の唇を人差し指と親指で摘まみ、悲鳴をも断ち切るとをキリサメに指示していく。

 くだんの試合は麦泉も視聴している。馬乗り状態マウントポジションも正面から見下ろすものだけでなく、背後から動きを封じる様式スタイルなど臨機応変に使い分けており、新人選手ルーキーにとっては一本の動画ビデオだけでも貴重な糧となることであろう。それも間違いない。

 進士藤太が〝世界で最も完成されたMMA選手〟という称賛を受けるのに相応しい戦闘能力を備えていることは麦泉も認めていた。古くからの友人として誇らしく思っている。

 しかし、岳が養子キリサメに望んだことは無謀でしかない。「栄光への架け橋」という実況も大きな話題を呼んだ二〇〇四年アネテオリンピックの体操競技・男子団体総合の決勝戦を部活動の高校生に視聴させ、完全な再現を求めたようなものである。

 日本代表の男子体操チームは、一九七六年モントリオールオリンピック以来、二八年ぶりに団体総合で金メダルを獲得している。キリサメに秘められた潜在能力ポテンシャルを考えれば、この快挙にも匹敵することが実現できるだろう。

 しかし、今日がMMAデビューという新人選手ルーキーには余りにも荷が重い。馬乗り状態マウントポジションける攻防すら一つとして指導されていないのだ。

 進士藤太は対戦相手ジョアキン・アンブロジオ・ジュニオールに背後から覆い被さり、その側頭部に横薙ぎの拳を連続して叩き込んでいた。一口に『パウンド』といっても多種多様であることを動画ビデオから学び、術理は読み解けたかも知れないが、練習もないままの実践は不可能に近い。

 そもそも、現在いまのキリサメは進士藤太とは正反対に相手のパウンドを堪え凌がなくてはならないのである。


「――だとよ。オヤのほうは例によってバカとアホの掛け算みてェな有りさまだが、麦泉のダンナが真っ当で助かったな」

「無理難題という条件さえ除けば、至極真っ当な助言アドバイスなのですが……ッ!」


 改めてつまびらかとするまでもないが、白サイドのコーナーポストから飛び込んでくる麦泉の声はキリサメの耳にも届いていた。その助言アドバイスれるまでもなく、先程から幾度も下肢の拘束を外そうと試みているのだ。

 馬乗り状態マウントポジションへ持ち込まれる前には左脛と右膝に大きな痛手ダメージを与えており、己の足を引き抜くことなど容易かろうとキリサメも考えていた。一つの事実として、立ち技の威力や身のこなしは哀しく感じるほど鈍っていたのだ。

 は余りにも甘い了見と突き付けてきたのが一九キロという体重差である。負傷と疲弊が深刻にし掛かる城渡は、立ったスタンド状態では自身の体重を支え切れなくなっていた。つい先程までキリサメに対して有利に働いていた八一キロという重量おもさ馬乗り状態マウントポジションへ切り替わった瞬間に牙を剥いた次第である。

 相手の腹の上に腰を下ろした状態とは、姿勢の維持を除いて自らの体重を支える必要がなくなるということでもある。これに対してキリサメの側は八〇キロを僅かに超える体重に圧し潰され、力任せに跳ね除けることも困難となっていた。

 何しろ身体からだを殆どよじれず、マットから腰を浮かせることも叶わない有りさまなのだ。膝と足首の中間辺りに足の甲が押し当てられ、これによって股関節の可動域まで抑えられてしまった為、拘束ロックから逃れようもない。

 左拳を硬く握り締めながら即座に追撃のパウンドを見舞わなかったのは、城渡自身も両足を用いた拘束ロックに慣れていない為であろう。相応の時間を費やしてキリサメの下肢の可動うごきを封じ込めたと確信できたからこそ、挑発的な言行が増え始めたのだ。

 痛みが鎮まったわけではあるまいが、相手に跨った状態であれば膝と脛を軋ませる痛手ダメージとその影響も最小限に抑えられるのだ。そうでなければ、キリサメも力ずくで足の拘束ロックから逃れたはずである。

 それはつまり、立ったスタンド状態で立ち回ることが困難なくらい下肢の状態が悪化している証左でもある。窮状ここを凌ぎながら付け入る隙を窺うという麦泉の助言アドバイスに耳を傾けるまでもなく、キリサメもに勝機を見出している。だからこそ城渡の右拳を両の五指にて掴み、腕全体を己の側に引っ張り続けているのだった。


「ほんの一、二分前まで暴風雨さながらの殴り合いが吹き荒んでいたリングへ俄かに訪れたのはか⁉ 試合を停滞させないようレフェリーが双方に指導を入れてもおかしくないのですけど、アマカザリ選手の狙いは一目瞭然ですし、折角、ここまで追い込んだのに起立スタンドを指示されたら、城渡陣営もマジ激怒ギレなんてモンじゃありません! レフェリーを巻き込んでの乱闘騒ぎは格闘技名物ですが、万が一のときにも場内の皆様はくれぐれも参戦をお控えくださいませ!」


 仲原アナがマイクを通じて示した懸念は、場内の多くの人々が共有している。に関しては試合を見守ってきた木村レフェリーも同様であり、やむを得ず両者を引き剥がしてリングの中央に立たせ、攻防の仕切り直しを図るべく身構えた。

 しかし、木村レフェリーの両足がそこから先へと踏み出すことはなかった。注意を促されるよりも早く城渡のがキリサメの眉間へと再び振り下ろされたのである。

 その間際、キリサメは不意に左の瞼を閉じていた。

 パウンドに用いられた拳を掴んで自身の側に引き付ければ、馬乗り状態マウントポジションを維持し続ける城渡は必然的に大きく前屈みとなる。素肌が露となっている上半身より噴き出した大量の汗は、粒とは言い難い大きさの玉と化し、キリサメの顔面へと滴り落ちていく。

 その内にヒサシの如く突き出した前髪をつたって落下した一粒がキリサメの左目を直撃した。リーゼント頭を維持する為の整髪料が溶け込んだは単なる汗水よりも目に沁み、キリサメも反射的に片側の瞼を閉ざしてしまった。

 左目が塞がれたのは一瞬であり、刺激への反応として溢れた涙で汗も洗い流された。その為、俄かな視界不良には有利と不利の天秤を傾ける効果はない。驚いた拍子に両の五指が城渡の右拳から剥がれてしまい、これが最悪にも近い危機をキリサメに呼び込んだ。

 城渡が右腕を引き抜かないわけがなく、折り畳んだ肘と肩のバネを一気に解き放ち、同じ側の拳でもってパウンドを繰り出した次第である。

 先程とは異なり、今度は防御も回避も不可能な状態であった。腕を掴み返すという迎撃だけでなく、頭部あたまを横に振って逃れることさえ間に合わない。


「――〝さっきのアレ〟は今こそだよ、キリくん! そこから速攻で逃げてッ!」


 四隅の支柱ポールを結び合わせるロープの向こうから飛び込んできた未稲の悲鳴すら粉砕し、ついに城渡の鉄拳パウンドがキリサメの脳を揺さぶった。

 股関節の可動域が制限された状態にも関わらず、キリサメの両足が大きく跳ね上がったのだが、その足裏とマットの隙間にこそ眉間を貫いた威力が顕れている。


「横っ面に会心の一撃を喰らわせてくれたとき、『これで最後』っつったよな? 同じ台詞をそっくりお前に返してやんよォッ!」


 もはや、城渡は止まらなかった。

 バリバリと火を噴くバルカン砲さながらに左右の拳を繰り出し、キリサメの顔面を滅多打ちにしていく――最初の一撃は眉間を穿つものであったが、狙いを一ヶ所に定めることもなく頬や顎など文字通りに〝面〟を無差別に殴り続けるのだ。

 勢い余って空振りとなり、マットを叩く瞬間もあったが、鼓膜のすぐ近くで重低おもい音が轟くたび、振動が脳に伝達つたうほどキリサメの心臓は波打った。

 パウンドの乱れ打ちに決着を託していることは間違いなく、城渡も残った体力も使い果たす覚悟なのであろう。過剰なくらいに大きく振りかぶり、全身のバネを引き絞って放つ〝ゲンコツ〟と比べても一撃ごとの威力が高いように感じられるのだ。


「――相手の呼吸を読んで打撃の〝芯〟を引っこ抜くって防御ガードも善し悪しだから、そこは気を付けろよ、キリサメ。壁際に追い込まれた状態で後方うしろに受け流そうとすりゃあ間抜け呼ばわり間違いナシだし、例えば直線的な拳ストレート喰らって壁と挟まれちまったら、通常フツーの倍は痛い目に遭うぜ。まァ、お前にとっちゃ『釈迦に説法』だろうがな」


 頭蓋骨を軋ませる音と衝撃が呼び覚ましたのは、でんの言葉である。

 ブラジリアン柔術ひいては総合格闘技MMAの礎とも呼ぶべき明治時代の柔道家――前田光世コンデ・コマの柔道を現代に甦らせ、古い打撃技――『あて』をも極めた親友は、相手から打ち込まれてくる攻撃をかわすのではなくえて受け止め、最大の威力が発揮される一点を外すという技術をキリサメに伝授していた。

 防御の瞬間、相手のパンチやキックが推進する方向へと身を逃がし、衝撃を受け流すことで骨身に浸透する痛手ダメージを減殺させるという術理であるが、使いどころを誤るとかえって不利を招くとも電知は言い添えていた。

 回し蹴りや裏拳打ちバックブローなど全身の回転を要とする攻撃は、力の作用が働く方向も見極め易く、接触した一点を外しながら相手の姿勢を崩すことも可能であるが、直線的な打撃に対しては相応の危険性リスクと背中合わせになる。

 拳や足裏を前方へと突き出す場合、攻撃に用いた四肢を引き戻す動作が最速最短で完了する為、迂闊に後方へ退すさると追撃を重ねられ、そのまま手も足も出ないほどに畳み掛けられてしまうのだ。

 単純な術理であるが故に身のこなしも最小であり、全身を振り回す大技と比べて姿勢を制御し易い。防御に回った側も打つ手を慎重に選ばないと我が身の破滅を招く――これについてはキリサメも故郷ペルー非合法街区バリアーダスける〝実戦〟から十分過ぎるほどに理解している。立ったスタンド状態での攻防でも常に留意していたのである。

 このような形で電知の教えを痛感させられるとはキリサメも想像だにしていなかった。城渡はまさしく最速最短で肘を折り畳み、両の拳を絶え間なく降り注がせてくるのだ。


(……僕の記憶が間違いでなきゃ、『西さいゆう』のそんくうは釈迦の掌の上で間抜けを演じていたよな。……城渡氏の強さを見誤った愚か者に似合いの末路かも知れないが……ッ!)


 相手に馬乗りになってひたすら殴り続ける――格闘技に関心のない人間の目には子どもの喧嘩のようにも映ってしまう『パウンド』という攻撃手段がMMAにいて極めて有効とされる理由を新人選手ルーキーは身をもって悟っていた。

 すがだいら高原の場景を押し流すような恰好でキリサメの脳裏に浮かんだのは、養父に促されて動画サイト『ユアセルフ銀幕』にて視聴した進士藤太の試合である。

 『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長から〝世界最高のMMA選手〟の如く讃えられた『フルメタルサムライ』も、ブラジル出身うまれの対戦相手を馬乗り状態マウントポジションからのパウンドでもって追い詰めていた。ノートパソコンの液晶画面を通じて観戦したキリサメには、嬲り殺しとも思えるような場景であったのだ。

 『NSB』がMMAの試合を発展させるべく開発したシステムに組み込まれた測定機能の一つであったのか、画面内には打撃の命中回数が表示されていた。その数値が加算されるたびに対戦相手の後頭部が叩き付けられ、反動で撥ね上がっていたのである。

 試合場に敷き詰められたマットは、高い位置から投げ落とされても深刻な事故が起きないよう衝撃を和らげる材質となっている。それでも頭蓋骨を貫く威力は殆ど減殺されず、脳を幾重にも揺さぶるのだ。

 酷似する状況に追い込まれたキリサメは、養父の一番弟子が見下ろした対戦相手の強さに改めて驚嘆し、心の底から敬意を抱いた。ルタ・リーブリを極めたというその男は、パウンドではノックアウトされなかったのである。


(進士藤太はハナック・ブラウンに――ヘビー級王者チャンピオンにボクシングを習ったんだよな。そのパンチをしこたま打ち込まれて失神しないなんて、どういう耐久力なんだ……!)


 現在いまの自分も傍目にはルタ・リーブリの使い手と同じ有りさまであろう――〝姿見かがみ〟の代わりに『NSB』の試合を想い出したキリサメは、に頭部全体を蝕んでいく薄気味の悪い浮揚感の正体を見定めていた。

 想起したのはパウンドを用いた攻防ではなく、自身の置かれた危機的状況であった為、岳が望んだ形とは正反対といっても過言ではないほど異なっていたが、進士藤太フルメタルサムライの試合は麦泉が考えるよりも遥かにキリサメの記憶に焼き付いていたのである。

 くだんの試合にいて、ブラジル出身うまれの対戦相手は馬乗り状態マウントポジションによって身動きを制限されながらも、自由を保ったままの両拳で殴り返していた。パウンドを仕掛ける為に片方が前傾姿勢となった場合、互いの攻撃が命中する射程圏内に入ることを意味するのだった。


「おお、これは……ッ! かつて『不沈艦』の異名を取ったアメリカボクシング界の伝説的王者チャンピオン――カービィ・アクセルロッドが得意としたピーカーブースタイルゥッ⁉ 先程はコークスクリューまでブチかましていましたが、よもや拳闘の世界史は古代インカの殺人拳から始まっているのかァッ⁉」


 進士藤太の対戦相手と同様の反撃を試みることは現在いまのキリサメには難しかった。さりとて無抵抗のまま叩き伏せられたわけではない。麦泉の助言アドバイスや仲原アナの実況の通り、左右の下腕を揃え、盾の如く防御ガードも固めている。


「世界の格闘技や武術の起源ルーツ架空フィクションの設定に帰結させてしまう漫画ではないのですから、迂闊なことを仰ると各方面から苦情クレームが飛んできますよ、仲原さん。ボクシングのピーカーブースタイルに見えるは苦し紛れの一手でしょう」

「正座説教なんて事態に陥ったら、可愛い一人娘からまたしても幻滅されるので、今の内に全方向に陳謝しておきますね! でも、黄金伝説に膨らむ夢は理解って欲しいなぁ!」

「……『またしても幻滅される』というコトは既に何かやらかしているのか――それはともかく、現在いまの城渡選手は両腕を自由に使える状態ですから、正面攻撃だけに備えたところで防御力が上がったとは言えません。フックで側頭部をやられた瞬間にピーカーブーもどきは崩れますよ。アマカザリ選手としては、ここがあんどころでしょう」


 実況席の二人が例に引いた『ピーカーブースタイル』とは、ボクシングで用いられる構え方の一つである。両腕を揃える形で顔面への打撃パンチを防ぐ様式スタイルであり、仲原アナが述べたように大昔かつてのボクシング・ヘビー級王者チャンピオンであるカービィ・アクセルロッドも現役時代に攻防の主軸としていた。

 現在いまではボクサーではなく上院議員という肩書きが定着したその男は、『ピーカーブースタイル』による堅牢な防御まもりから『不沈艦』の異名で畏敬されたのである。

 『不沈艦』と比べれば、キリサメの防御ガードは脆弱そのものであった。致命傷を避けるべく首を引っ込めた亀の如き体勢となったわけだが、城渡から力任せに左手を引き剥がされ、こじ開けられた間隙へ右拳によるパウンドをねじ込まれてしまった。

 パンチというよりは棍棒に見立てた握り拳を原始的に叩き付けるようなものであるが、を拙劣と嘲る観客は一人としていなかった。「紛れもなく〝打撃番長〟の新技。両足の拘束ロックも完璧で、〝ゲンコツ〟を上回る〝切り札〟になる」という鬼貫道明の見解に懐疑的であった人々も今では素直に首を頷かせることであろう。

 城渡マッチのパウンドは〝付け焼き刃〟ではない。打撃にこだわり続けてきた古豪ベテランの進化であると、この場の誰もが認めたのである。

 狂乱としか表しようのない勢いで殴打し続けるなかにキリサメの防御ガードを崩したのだが、をこじ開けんとする判断も、握り拳を解いて五指を繰り出すという切り替えもはやい。それこそが馬乗り状態マウントポジションひいてはパウンドを完全に体得した証左といえるだろう。

 掴まれた腕を力ずくで引き抜き、対のてのひらでもってパウンドを受け止めようとするキリサメであったが、今度はその手首を左の五指でもって〝捕獲〟され、一瞬ののちには横薙ぎの拳でもって側頭部をたれていた。


「――すげェぞ、城渡ッ! アンタは本物ホントの漢だァッ!」


 観客席が城渡を称賛する声で溢れ返ったのは言うまでもあるまい。時代遅れの遺物の如く冷遇されてきた古豪ベテランを追い掛ける眼差しも今や一変している。


「気付くのがおせぇんだよ、どいつもこいつもなァッ! 城渡総長は生まれたときからおとこに溢れてンだよッ! うるあァーッ!」


 行動を共にする暴走族チームの仲間以外は誰も気付かなかったが、つるぎきょうはまるで自分が褒められたように胸を張っている。


「まッ! ままま、待て待て待て待て、キリーッ! この間、一緒に観た藤太の試合を想い出せッ! 『フルメタルサムライ』って呼ばれてたアイツ! マユゲからして強そうなプロレスパンツのアイツだよ! いや、正確には藤太と闘った相手のほうを記憶の底から引っ張り出して欲しいんだけどな⁉ マウント取られてボコられた状態でも自分のほうから殴り返していたろ⁉ アレだよ、アレアレアレアレッ! あの負けん気で行けェッ!」


 底抜けの楽天家である岳も、養子キリサメが一方的に攻め立てられる状況には慌てないはずもない。選手の安全を最優先する為、今すぐにでもテクニカルノックアウトを宣言し兼ねない木村レフェリーの顔色を伺いつつ、白サイドのコーナーポストから身を乗り出して反撃を呼び掛けた。

 一等大きな喚き声は城渡のパウンドをも突き抜けてキリサメの耳にまで届いたが、その指示に従うのは難しかった。

 〝世界最高のMMA選手〟にも匹敵する高次の技術を要求されて困惑しているわけではない。城渡は先に掴んだ右手をキリサメの首元に押し付け、上半身の動きまで妨げているのだ。今や自由を保っているのは左腕一本である。

 八一キロという体重によって片手ごと首を圧迫されたキリサメは、正面から突き込まれてくるパウンドを左下腕で防御ガードすることしか出来ず、城渡の右拳が側頭部を狙って横薙ぎに閃くとすべもなかった。

 体力が底を突きかけていた男の攻撃とは思えない。立ったスタンド状態にける猛襲ラッシュと同等か、それ以上の速度はやさで鉄拳を繰り出してくるのだ。せめて顔面を守ろうと左下腕で防御ガードを固めても、僅かな間隙を縫って眉間や頬を狙い撃ちされてしまうのである。

 城渡マッチがパウンドを披露するのはこの試合が初めてであるが、相手の動きに合わせて柔軟に変化し、着実に追い詰めていくは打撃にこだわり抜いてきた古豪ベテラン戦歴キャリアがそのままあらわれているようであった。


「――古豪ベテランという言葉が意味するのは、在りし日から今日という日まで日本MMAの〝全て〟を己の身に叩き込んできたということです。パウンドを喰らわされた回数を調べるには両手両足の指を使っても足りません」


 このように評した鬼貫道明の解説ことばを体現しているとも言い換えられるだろう。


「今日という日に向けて新技をきっちりと仕上げてきた城渡選手とは正反対に、アマカザリ選手は明らかこの体勢ポジションに慣れていませんね。先ほど仲原さんが仰った〝馬乗りの喧嘩〟では、乗られた側はその時点で勝負を諦めることが多いのですが、それに近い状態となりつつあります。〝練習不足〟というよりは〝調整不足〟という評価が相応しいでしょう」


 城渡の〝進化〟を称える一方、鬼貫道明は反撃すらままならないキリサメを「セコンドとの連帯責任ですが、粗削りな上に詰めが甘くては劣勢も当然」と容赦なく切り捨てた。

 馬乗り状態マウントポジションに持ち込まれてからというもの、新人選手ルーキーは殆ど手も足も出ない状態にまで追い込まれているのだ。厳しい批評は妥当であった。顔面のあおあざも増え、防御ガードすら少しずつ間に合わなくなっている。

 例え首元を押さえ込んでいる左手を引き剥がせたとしても、寝転んだグラウンド状態での闘いに慣れておらず、一九キロという体重差も跳ね除けられないキリサメには関節技などで切り返すことも難しかろう。


(僕はMMA選手として城渡氏とをしているんだ……! ここは砂色サンドベージュの風が吹き荒れる裏路地なんかじゃない……! 『聖剣エクセルシス』だって握っちゃいないだろうッ⁉)


 故郷ペルーの裏路地でも体格差の大きい巨漢に組み敷かれ、馬乗りで殴り付けられることが少なくなかった。そのようなときには相手が前傾姿勢となったところで目突きを繰り出し、危機を脱したのである。腕に咬み付いて肉を食い千切ることもあった。

 パウンドによって脳を揺さぶられるたびに城渡の双眸へ左手の指をねじ込みそうになるのだが、キリサメは〝先輩〟選手に対する尊敬の念で〝闇〟の衝動を押さえ付けている。

 『鬼の遺伝子』を率いる鬼貫道明の異種格闘技戦から始まり、ヴァルチャーマスクと八雲岳が命を懸けて育てた日本MMAのリングで人間を破壊する血塗られた技を解き放つわけにはいかないと、必死になって己に言い聞かせていた。

 共に格差社会の最下層で生をけた幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケから「己を偽っている」と嘲笑されようとも、新しくと決意した『天叢雲アメノムラクモ』で道を踏み外すことは絶対に許されないのである。


「歯ァ食いしばってるかァ⁉ オラァーッ!」

「ぐっ……は……ッ……!」


 一等大きく振りかぶった右拳が肉食獣さながらの雄叫びと共に叩き込まれた瞬間、キリサメの口内に血の味が広がった。マウスピースによって防護されていなかったなら、数本の前歯がへし折られていたかも知れない。

 サン・クリストバルの丘より吹き付ける乾いた風は、故郷ペルー死神スーパイの息吹を運んでいた。砂色サンドベージュが剥き出しとなっている丘陵地帯に非合法街区バリアーダスには、如何なるときにも冥府の気配が漂っていた。

 格差社会の最下層より飛び出した幾万もの怒れる民が〝大統領宮殿〟を目指して打ち鳴らす靴音と、「我らは自由だ! 常にそうあらんことを!」と訴える故郷ペルー国歌うたが海を超えて日本のリングに響いている。

 悲憤に満ちた歌声は、懐かしき言語ことばによって紡がれている。インカ帝国から黄金の輝きを奪った征服者コンキスタドール言語ことばが意識の空白に染み込んでいく。


は本当に日本ハポンなのか――」


 果たしては無意識であったのか。城渡の鉄拳に粉砕された呟きもまた故郷ペルー公用語ことばであったことにキリサメ自身が気付いていない。

 ははおや胎内はらのなかった頃から子守唄の代わりにしてきた〝戦争の音〟と幼馴染みの幻像まぼろしいざなわれ、虚ろなる闘牛場に迷い込んだ瞬間すら上回るほど大きく心臓が波打ち、魂に巣食う〝闇〟がうずいた。


(この……まま……じゃ……僕は日本ハポンから――)


 頭部全体を蝕む激痛よりも、血の味に反応した〝闇〟が魂を食い破って溢れ出すことをキリサメは恐れていた。

 首元に押し付けられた左手を引き剥がそうともがき、その手首を右の五指で掴むキリサメであったが、これは正面の防御ガードを完全に外すことでもある。顔面と側頭部を打ち分ける好機を城渡に差し出すようなものであった。


「上下左右縦横無尽! 今までの試合も馬乗り状態マウントポジションで勝ち名乗りを上げたんじゃないかと錯覚してしまうくらいパウンドの使い分けが巧みですね! 〝打撃番長〟の面目躍如としか私には申し上げようがありません! 絶体絶命に追い詰められたアマカザリ選手、第一ラウンドの最初に見せた〝例のアレ〟も出しようがないのか⁉ MMAという名の大空を華麗に舞ったケツァールは今! 無残にも翼をもがれてしまっているゥッ!」


 もはや、キリサメの耳に仲原アナの実況など届いていなかった。それどころか、リングサイドから飛び込んでくる未稲の悲鳴も、コーナーポストで轟く岳の応援も聞こえない。

 数え切れないくらい頭部あたまがマットに跳ね返って浮き上がり、首の骨が軋むほど振り回されるたびに脳も悲鳴を上げている。キリサメにとってみれば、瞳の開閉を繰り返すような状態にある〝闇〟を力任せに揺り起こされるようなものであった。

 そして、その果てに痺れた脳が〝闇〟の覚醒めざめを感じた。


「ボサッとしている暇なんかないだろう⁉ セコンドとしてに立っている以上、自分たちの責任を果たすべきだ! 苦い経験も新人選手ルーキーには糧になるッ!」


 勝敗が決したものと認めた二本松は、対角線上のコーナーポストで試合を見守る岳にタオルの投入を呼びかけた。前途ある新人選手ルーキーが後遺症を患うほどの重傷を負わないように降参を勧告したわけである。

 咄嗟に岳の横顔を見つめる麦泉であったが、決断を迫られた男は肩に引っ掛けてあるタオルの端を握り締めながらも、これだけは放り込むまいと堪えている様子だ。養子キリサメに秘められた潜在能力ポテンシャルと逆転劇を最後まで信じたいのであろう。

 両肩を小刻みに震わせ、歯を食い縛りながら耐える姿を目の当たりにしては、麦泉も岳からタオルを奪い取ることは出来なかった。

 日本最強の空手家――きょういししゃもんが『くうかん』道場からの根絶やしを推し進めている通り、『昭和』と呼ばれた時代にる種の美徳として持てはやされてきた〝根性論〟は、今や悪しき因習の如く否定されつつあった。

 心身が削り取られる窮状を揺るぎない気概で凌いでこそ意味があるという価値観は、健全な肉体と精神を育てるものとして長らく信じられてきたが、実態はスパルタ指導に耐え得る頑強な人間をふるいに掛ける仕組みでしかない。その上、再起不能の重傷を者は落伍者の烙印を押され、更に苦しめられてしまうのだ。

 大きな勝利を得る為ならば、その代償として犠牲を払うのも当然という〝根性論〟は、肩の故障が原因で選手生命を絶たれた麦泉にとっては、何があろうとも認めるわけにはいかないものであった。

 その一方で、『鬼の遺伝子』に名を連ねたプロレスラーとしての経験から窮状の克服を不屈の精神力が支えることも理解している。決定的な戦意喪失には至らず、劣勢を覆さんとくキリサメの意思を蔑ろにする判断は、選手の生命いのちを預かるセコンドに相応しくないと面罵されようとも躊躇ってしまうのだった。


「雅彦の気合いが生半可ではないことは付き合いの長い木村君なら知っているな? 本気マジになった雅彦はもう殴るのをめない。これ以上、続けたら最悪の事態が起きる。……それが〝喧嘩〟だッ!」


 白サイドのセコンドが説得に応じないと見て取った二本松は低く呻きながらかぶりを振ったのち、今度は木村レフェリーにテクニカルノックアウトを宣言するよう訴えた。

 試合の継続がキリサメの死を招くという強烈なは、興行イベントの成功よりも選手の安全を優先させる木村レフェリーから最善の判断を引き出すことであろう。MMAという〝格闘競技〟に求められることを彼は他の誰よりも理解しているのである。

 二本松を一瞥し、次いで白サイドのセコンドの様子を窺ったのち、木村レフェリーは己自身を納得させるように深く静かに首を頷かせた。

 果たして、二本松剛の洞察は正確であった。もはや、城渡のパウンドを防御ガードし切れなくなっているキリサメは、死神スーパイの足音を間近に聞いていたのである。


「――冥府の使つかいが頬を撫でるたびに浮かび上がるあの女性ひとと同じように、血の海に溺れながら冷たい屍と成り果てるのだ。あるいはお前の足元に転がった数え切れないほどのどくのように。死神スーパイと忌み嫌われた仔よ、その耳に届いていないはずがあるまい。お前が命を繋ぐ為に喰らってきた生贄たちは、偽りの世界に呪いの歌を捧げ続けているぞ」


 〝地球の裏側〟から舞い降りたとおぼしき死神スーパイは、征服者コンキスタドール言語ことばで囁きかけてくる。


「――どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ!」


 砂色サンドベージュの風を纏いながら『天叢雲アメノムラクモ』のリングに降り立ったのであろう死神スーパイ威容すがたを双眸で捉えることも叶わず、今にも途絶えそうなキリサメの意識に響き渡ったのは、る女性の声であった。

 日本ハポン言語ことばではあるが、〝人間らしさ〟を教えてくれた未稲の声ではない。


「キリサメ! 生きろッ!」


 血の色に塗り潰された幻像まぼろしが〝闇〟をも射貫く光輝ひかりのようにキリサメの心を真っ直ぐに捉え、ただひたすらに「生きろ」と命じた。

 今まさに木村レフェリーが戦意の喪失を宣言しようとした瞬間のことである。死神スーパイの纏う砂色サンドベージュの風をも蹴散らしたはげしい声がキリサメ・アマカザリという全存在を震わせ、普段は半ばまでまぶたを閉ざしている双眸が大きく見開かれた。

 何もかもが先程と――亡き実父が巻き込まれた銃撃戦の〝虚実〟が脳内あたまのなかで入り混じり、魂のひと欠片かけらに至るまで掻き回され、現在いまの己が立つ場所すら見失った瞬間と同じである。

 ペルー現地時間の一九九六年一二月一七日に発生し、同国の突入部隊と犯人グループによる最終決戦まで一二七日に亘って全世界を震撼させた未曽有のテロ事件――『日本大使公邸人質占拠事件』であった。

 やがて犯人全員が屍となって転がることになる豪奢な建物にちちおやが監禁されている頃、キリサメはははおや胎内はらのなかで〝人間ヒトカタチ〟に育つときを待っていた。幼馴染みのも含めて、一九九六年末から一九九七年にかけて動乱の首都リマで産まれた子どもたちは、全世界の戦場で現在いまも命を砕き続ける旧ソビエト連邦開発の突撃銃アサルトライフル――『カラシニコフ銃』の発砲音を子守歌の代わりに聞いていたのだ。

 大勢の人質を取って在ペルー日本大使公邸に立て籠もった犯人グループも、救出作戦を託された突入部隊も、双方とも『カラシニコフ銃』を構えながら相対し、同じ銃弾で互いを撃ち抜いたのである。

 何時の間にか、キリサメのなか頭部あたまつ音が『カラシニコフ銃』の発砲音に変わっていた。

 一九九七年四月二二日の最終決戦を切り取った〝虚実〟――公邸内の狂乱を題材とした映画と、作戦決行から制圧完了までを屋外で報じ続けた当日のニュース映像の両方に触れたキリサメであるが、絶え間なく轟いた発砲音は、る種の懐かしさと共に今でも鼓膜にこびり付いている。

 犯人グループの制圧に際して、ペルー軍は『ペレストロイカ』以前に開発された突撃銃アサルトライフルだけでなく、大部分がプラスチックの光沢を放つという一九九七年当時最新型の短機関銃も投入していた。〝その日〟の首都リマには二種ふたつの発砲音が入り混じって轟いた次第である。

 顔面と側頭部を巧みに打ち分ける城渡のパウンドもと変わらなかった。

 産まれ落ちる前から脳に染み付いた〝戦争の音〟が城渡の拳と溶け合うのは、これが初めてではない。第一ラウンドの開始を告げるゴングが鳴り響いた直後、殺意の塊ともたとえるべき一撃がキリサメ目掛けて放たれたのだが、風を裂いて迫る轟音がひきがねを引くだけで命を消し飛ばす現代兵器の吼え声と重なったのである。

 冥府へと手招きする死神スーパイの息吹を鼻先に感じた瞬間とも言い換えられるだろう。

 そして、全ての果てに血塗られた追憶が脳を貫き、少年の魂をも呑み込んでいった。

 彼の足元に溜まっていたのは、故郷ペルーける〝仕事道具〟であり、法治国家日本では衆目に晒すことさえ許されない禁忌の一振り――『聖剣エクセルシス』が禍々しい刃に吸い込ませたモノと同じ〝血〟である。

 その〝血〟はキリサメの身にも流れている。


「生きろッ!」


 深紅のみなに波紋を起こすほど強い命令がキリサメ・アマカザリという全存在を再び震わせた。〝地球の裏側〟の故郷ペルーではなく、今、自らの足で立つ日本ハポン言語ことばである。

 首から胸元まで巨大なノコギリによって肉も骨も抉られ、助かる見込みがないと一目で理解わかる女性が血の海の中央に身を横たえていた。今にも息絶えそうだというのに誰よりも何よりも強いその瞳は、死神スーパイに魅入られてしまうことを断じて許さないのだ。

 だからこそ、眠れる獅子ともたとえるべきキリサメの双眸が大きく見開かれたのである。


(母さん、僕は――)


 殺意を宿した城渡の拳を返り討ちにした瞬間のように、あるいは電知との路上戦ストリートファイトで空に身を投げた瞬間と同じように――生き抜くことを諦めさせてくれない命令が恐怖や戦慄を食い潰しながらキリサメの全身を駆け抜けていく。

 と全く同じであった。未来なき生に手を伸ばさなくてはならない衝動と、死神スーパイの懐へといざなわれる甘やかな死の芳香かおりがキリサメの魂を真っ二つに引き裂かんとしていた。


(――僕は何の為に命を明日へ繋がなくてはいけないんだ⁉ ……母さんッ!)


 どんなことをしてでも絶対に生き残れ――血の泡を吐きながら託された想いに背を向けることは、キリサメ・アマカザリという存在そのものを否定することにも等しく、彼のなかの天秤が死神スーパイの側に傾くことはない。


「極刑こそ相応しいほどに許されざる罪を重ねながら、それでもまだ生きることを欲するならば、これからも生贄を求め続けよ。法律の名のもとに命の在り方から自由を奪う日本ハポン故郷ペルーと同じように生きられるのかどうか、〝闇〟の底にて見物するとしよう――」


 キリサメを生ある世界にモノが死神スーパイには理解わかるのであろう。冥府の淵に佇みながら最後の一歩を踏み止まるつもりであれば、これから先も他者の命を貪り喰らわなくてはならないが、故郷ペルーの〝外〟でも叶うものか、試せるものなら試してみるよう聞こえよがしにせせら笑っていた。

 自分自身では持ち合わせていると思っていなかった郷愁を煽り立てるその笑い声は、一字一句に至るまで征服者コンキスタドール言語ことば――即ち、故郷ペルー公用語ことばによって紡ぎ出されている。


「――しっかし、お前さんほど生きぎたない人間はなかなかお目に掛かれねぇよ。何も感じないようなツラしておいて、内心では泥水を啜ってでも、そこら辺に転がってる野良犬の屍肉を喰ってでも生きてやるってギラついてるもんなァ」


 死神スーパイの高笑いによって記憶の水底より引き揚げられたのは、またしても日本ハポン言語ことばである――が、今度は男性の声であった。黒いニット帽を被った日本人ハポネス幻像まぼろしではなく追憶の形で目の前に出現あらわれたのだ。



                     *



 喋る言語ことばや風貌から日本ハポン出身うまれであることは間違いないが、国籍に関しては明確には判らなかった。数年前までフランスの外人部隊エトランジェに所属していたというその男は、退役後にフリーの傭兵へと転向し、ペルーのる『組織』に雇われる予定であったのだ。

 その『組織』こそがキリサメの宿敵であった。銃による革命と政府転覆を企むテロリストであり、〝同志〟を辿っていくと、キリサメの実父を巻き込んで『日本大使公邸人質占拠事件』を起こした犯人グループに行き着く因縁の相手でもある。

 共通の敵を壊滅させるべくペルー国家警察と共闘していた際、キリサメはニット帽の男と『組織』の拠点で遭遇し、成り行きから血みどろの殺し合いを演じたのだ。城渡マッチに破られた関節攻撃の技で片側の膝を破壊した相手でもあった。

 ペルー国家警察にいて対テロ部隊を率いるワマン警部の仲立ちによって『聖剣エクセルシス』を向ける理由も消滅し、一応の和解を迎えた後は、彼が帰国するまで行動を共にしたのだ。

 観光案内ガイドを依頼されたわけではない。ペルー国家警察からの要請を受け、僅かな期間のみ相棒パートナーの如く背中を預け合って『組織』の残党狩りを行っていたのである。

 生き残ろうとする執念が尋常ではないとニット帽の男から評されたのは、密林アマゾンの軍事基地を占拠した一団に奇襲を仕掛けたときのことであった。

 太平洋戦争と同じ一九四一年に勃発し、キリサメが一歳となる頃まで最終的な決着を迎えられずにいた『ペルー・エクアドル国境紛争』の遺物であるという。

 キリサメが生まれ育った非合法街区バリアーダスにもこの紛争に従軍し、瀕死の重傷による後遺症で肉体からだの自由が利かなくなってしまった退役軍人が暮らしていた。歴史的背景からも死の気配を強く感じざるを得ない土地で生への固執を揶揄されたのだ。

 亡き母の私塾で共に学んだたちは強盗団を結成し、観光客を餌食としているが、奪い取る金品の量や標的の〝格〟を段階的に吊り上げていくという目標を掲げていた。

 器用な指先を生かし、スリの技術わざで盗み取った品々を首都リマ闇市ブラックマーケットで売り捌いていたは、稼いだ日銭で家族の生活くらしを支えていた。

 彼女の両親は銀行強盗である。父は犯行現場で射殺され、母は生きて刑期を終えられるのかも定かではない。それ故に港湾労働者である叔父に引き取られたのだが、非合法街区バリアーダスで身を寄せ合う貧困労働層の給与では一つの家庭を養うことは不可能なのだ。

 幼馴染みのように明確な目的を持たず、守るべき家族もなく、その日を食い繋ぐ為だけに格差社会の最下層で呪われた『聖剣エクセルシス』を振り回すのみであった。

 首都リマの一角に万里の長城の如く設けられた『恥の壁』は、絶望的な貧富の格差から生じる差別意識の象徴である。ペルーには〝富める者〟の道楽に憎悪を膨らませる市民が溢れており、政府によって生活くらしが脅かされようものなら数万というデモ隊が〝大統領宮殿〟に殺到していく。

 『日本大使公邸人質占拠事件』以降はテロリストの掃討作戦も進み、二〇〇〇年代半ばには勢力そのものが大きく衰退したものの、銃による革命を目指す反政府組織や、社会の転覆を期して彼らに協力する市民ひとびとが絶えないのは、根治されないまま貧富の格差という病理が乾いた大地を蝕み続けている為であった。

 昨年には労働者の権利を脅かし兼ねない新法の公布を発端として内戦さながらの大規模デモ『七月の動乱』が発生し、その激烈な狂乱にキリサメも巻き込まれていた。それどころか、市民の暴走を裏で扇動した『組織』の拠点アジトをワマン警部らと共に襲撃している。

 首都リマを舞台に繰り広げられたデモ隊と国家警察の衝突は銃撃戦にまで発展し、キリサメは〝身内〟を喪失うしなった。ペルー社会そのものに掛けがえのない存在を奪い取られたにも関わらず、祖国に対する怒りや哀しみが湧き起こることもない。

 旧友たちが徒党を組んだ際に参加を求められなかったのは当然であろう。格差社会の最下層を這い回る貧困層ひとびとは、誰もが〝富める者〟への怨念を燃えたぎらせていたが、キリサメはすらも分かち合えなかったのだ。

 怒れる市民が〝大統領宮殿〟を取り囲んでも、政府転覆を企む『組織』が政治家に狙いを定めてひきがねを引いたとしても、乱れたペルー社会が元通りになると思っていなかった。

 そもそもキリサメはとは考えていない。富裕層と貧困層の居住区が『恥の壁』によって隔てられ、これを撤去せずに放置する国家くには、最初から仕組みが存在しないのだ。それならば、元に戻りようがない――まだ一七年しか生きていない少年は、そこまで故郷の有りさまを割り切っていた。

 くだんの『組織』と敵対に至った原因すらに過ぎない。共闘関係ではあったものの、国家警察のような治安回復の信念も持ち合わせてはいない。

 キリサメ・アマカザリという少年は、自覚するくらい何事にも無感情であった。生まれ故郷に〝何か〟を期待することがなく、それ故に未来への希望もなく、ただ漫然と流されるようにその日を生き延びていた。

 「どんなことをしてでも絶対に生き残れ」という命令さえ、機械的にこなしているだけなのだ。至上目的として意識したことなど一度もなかった。

 魂が根腐れでも起こしているのだろうと他人事のように考えていたので、ニット帽の男から生への固執を指摘されたときには唖然呆然と口を開け広げるほど驚いたのである。

 埃だらけのガラス窓から差し込む僅かな光を頼りにカラシニコフ銃を構えた『組織』の兵士を『聖剣エクセルシス』でもって仕留めた直後のことであった。

 突撃銃アサルトライフルの銃身を弾き飛ばしたのちにノコギリ状となっている刃を標的の首筋に押し当て、頸動脈を引き斬ったのだが、その内の何枚かが肉に深く食い込んでしまった。力任せに刀身を引き抜いてみれば、哀れな兵士は断末魔の叫びを巻き込みながら錐揉みし、辺り一面に血飛沫を撒き散らして崩れ落ちた。

 絶命の間際、無意識にひきがねを引いてしまったのだろう。右手で構えていた突撃銃アサルトライフルを狙いも定めず乱射する恰好となり、『組織』の何人かが回避も間に合わず餌食になった。

 そもそも二〇年以上も前に打ち捨てられた密林アマゾンの廃墟に身を隠すような調度品などあろうはずもない。ペルー・エクアドル国境紛争を戦った兵士が肉体からだを休めたものとおぼしき椅子や簡易ベッドは殆ど朽ちてしまっている。

 作戦会議ブリーフィングを開いたのであろう木製の机だけは原型を留めていたが、禍々しい『聖剣エクセルシス』によって肉体からだを抉られたか、首をし折られて物言わぬ物体と化した兵士たちが何人も折り重なっている。胴体と頭部が机と床に離れ離れになった者も混ざっていた。


「自分の命を脅かそうとする相手は一人残らずツブしていくお前さんの執念は、この社会まちで生きてる他の子どもたちと比べても、やっぱりちょっと変わってるぜ? ヌメりのある殺意って言えば良いのかな。俺だって今、こうして生きてるのが不思議なくらいだよ」


 つかじりに相当する部分がリング状となっている取っ手を二枚重ねた平べったい木の板に組み合わせ、その刀身から尖った石や鉄片がノコギリの如く幾つも迫り出した『聖剣エクセルシス』は、僅かでも触れた相手の肉を縫合し難いほど惨たらしく破壊していく。

 リング状のつかじりには一枚のスカーフが括りつけてある。ハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだペルー伝統の手織物だが、あちこちが擦り切れ、黒い染みが飛び散っている。

 斑模様のように見えなくもないは、船のオールに酷似する奇妙な刀剣がこんにちまで夥しい量の血を吸ってきたことを物語っているわけだ。

 キリサメ本人にはまるで理解できなかったが、ニット帽の男は暴力性の顕現あらわれとも呼ぶべき『聖剣エクセルシス』を振り回す姿から生への固執を感じ取った様子であった。あるいは「死なない為にはどんなことでもやってのける悍ましさ」とも言い換えられるのかも知れない。

 南米インカとは異なる中米マヤ・アステカの遺物とも呼ぶべき刀剣マクアフティルであり、またペルーの公用語ではなくラテン語のなまえを付けた〝以前まえの持ち主〟をニット帽の男も承知している。それ故に「生きぎたない」という一言がキリサメの耳には嘲りの混じった皮肉にしか聞こえなかった。


二〇歳ハタチにもなっていない内から調じゃ、俺くらいの年齢トシになったときに苦労するぞ。お前さんよりほんのちょっぴり長生きしているおっさんの経験上の話だがね、何しろはツブシが効かねェ。俺を見てみな? 食うや食わずであちこちフラフラしてるもんだから、未だフリーターに毛が生えたような生き方しか出来ねェのさ」


 突撃銃アサルトライフルの弾丸の代わりに血飛沫を浴び、頬に赤い斑模様が付着したを一瞥すると、ニット帽の男は肩を竦めながら薄笑いを浮かべて見せた。


「その上、お前さんは一匹狼と来たもんだ。カッコ良く思えるのは若い内だけでな、一つ二つと年齢を重ねるたび、それに比例して敵ばかりが増えていくモンさ。あるときに突然、逃げ場がないくらい大勢から取り囲まれるってオチがつく。古くから付き合いのあるご近所さんが顔を揃えてるってコトも多かったりするんだな、これが」

「……僕が墓場を寝床にしているのはあんたも知っているだろう。群がってくるなんて、動く白骨か、死霊くらいだ」


 日本ハポン言語ことばで喋り続けるに対して、キリサメはえて故郷ペルー公用語ことばで返答を紡いでいる。自分自身でも呆れてしまうほど回りくどい厭味であったが、ニット帽の男は内容を正確に読み解いた上で、「お出迎えにはピッタリかも知れんがね」と、またしても日本語で相槌を打っていた。

 死の臭いが垂れ込める只中にっても悪ふざけを絶やさない相棒に対して、キリサメは完全に胸襟を開いたわけではない。仇敵である『組織』に与しようとしていた傭兵だけに警戒心も解けずにいるのだが、日本ハポン言語ことばで発せられる一言一言に耳を傾けるだけの値打ちがあることは疑わなかった。

 一撃必殺の威力を求める余り、急所に狙いを定める動作うごきばかりで攻守の組み立て方が単調になってしまうという喧嘩殺法の弱点も瞬く間に看破しており、経験に裏打ちされた洞察力も信頼できるのだ。

 性格の不一致のみを理由として、戦場で鍛え上げたのであろう力量を否定することは愚の骨頂であるとキリサメも弁えている。


「故郷がどうしようもなく息苦しくなったり、食うのに困るようになったら、俺ンとこに転がり込んでくれても構わねェぜ。どうせ正業に就く気もないだろ? お天道様の下で胸を張って生きるような資格は持ち合わせちゃいないって、自分の顔に書いてるもんな」


 黒いニット帽を若い頃から愛用してきたという相棒は、に手が届くか否かという壮年であったが、そもそもキリサメは同じくらいの年齢まで生きられると考えていない。

 『聖剣エクセルシス』を振り回し、〝暴力〟に頼ってその日を生き抜く為の僅かな糧を得る無法の生き方が何時までも続かないことは他人ひとから指摘されるまでもなく理解しているが、正業という形でペルー社会に接点を持ちたいとも思えなかった。

 生まれ育った首都リマの人々から恨みを買い続け、その果てに相棒が予見するような私刑に処されたとしても、格差社会の最下層を這い回る者たちに定められた運命が自分に回ってきたに過ぎないと割り切れる。似たような末路を辿り、野良犬の胃袋が墓場となった亡骸は非合法街区バリアーダスの裏路地で見掛けない日のほうが少ないくらいだ。

 だからこそ、日本への帰国後に立ち上げる民間軍事会社PMSCで雇いたいという相棒の誘いも即座に断ったのである。

 他者から命を脅かされる状況には抗うが、未来に期待することなど一つもなく、未練に思うことすら持ち合わせてはいない――己と同じ〝血〟を吸い尽くした『聖剣エクセルシス』を携える少年は、己の人生にさえも無感情であった。


どんぶりメシをかっ食らうみたいに何も感じないで命の遣り取りをこなせる人間にはうってつけのお仕事だぜ? つーか、茶碗に盛られた飯を一粒一粒数えながら感謝の言葉を捧げる繊細デリケートな人間は、あっという間に精神メンタルをやられちまう職場なんだがね」

「無神経呼ばわりは慣れているけど、その台詞、あんたにだけは言われたくない」


 他者の命をちりあくたも同然に捉える感覚を揶揄してきた相棒に対し、キリサメが呆れ混じりの溜め息を返答に代えたのは当然であろう。

 彼は敵兵の一人を片手で羽交い絞めにすると、を盾の代わりにして周囲まわりの動揺を誘い、同士討ちを恐れた者たちを順繰りに射殺していったのだ。しかも、銃弾を必ず二発ずつ頭部に撃ち込んでいる。

 鉄製のヘルメットも被らず生身に銃撃を受けた為、頭蓋骨が弾け飛ぶ者も多かったが、無惨としか表しようのない有りさまにもニット帽の男は顔色一つ変えないのだ。

 一連の攻防の仕上げとして、羽交い絞めにしていた相手の右脇腹に銃口を押し当て、そこから心臓まで二発の銃弾で貫いている。他者の命を吹き飛ばしながら、おどけた態度で相棒キリサメと喋っていた次第である。

 実父は〝企業戦士〟としての活動中に『日本大使公邸人質占拠事件』に巻き込まれ、実母は一九九五年にペルーとエクアドルの間で軍事衝突――『セネパ戦争』が起こった際、青年海外協力隊の一員でありながらスパイの嫌疑を掛けられていた。それぞれ別の場所であるが、キリサメの両親はペルー社会の情勢によって身の安全を脅かされた経験がある。

 両親ふたりの生前と比べても穏やかならざる社会が大して改善されていないペルーにいて、実子キリサメは死の危険が常に付き纏う最下層の〝闇〟を這い回っているのだが、ニット帽の男は同じくらい過酷な〝世界〟を渡り歩いてきたはずであった。

 他者への興味が皆無に等しいのでキリサメも詳しくはたずねず、外人部隊エトランジェの任務であったのかも定かではないが、二〇〇一年九月一一日――『アメリカ同時多発テロ事件』を発端とする『アフガン戦争』に従軍したことも仄めかしていた。

 初めて邂逅し、互いの命を奪い合った日――彼は外人部隊エトランジェの所属であった頃に体得した軍隊式の近接戦闘術と、現地に赴いて伝授を受けたというイラン由来の拳法を巧みに織り交ぜながら、素手のみで『聖剣エクセルシス』を迎え撃ったのだ。

 足元に転がる夥しい遺骸をちゅうちょなく踏み超え、キリサメに向かってきたのだが、その姿こそが人道という二字が意味をさない極限状態に身を置いていた証左であろう。

 キリサメに重傷を負わされた膝が完治していない為、拳法の動作うごきは最小限に抑え、敵兵から奪った拳銃ハンドガンで戦っている。銃器の扱いは元の持ち主よりも巧く、撃発時の反動ブローバックで姿勢を崩すこともなかった。それどころか、一度たりとも狙いを外さないのである。


民間軍事会社PMSCの勧誘、ワマンのダンナにはナイショにしといてくれよ? あの警部さんもお前さんを助手にしたがってるみたいだしな。ツバ付けたのは俺が先だぞ?」

「……僕は国家警察の飼い犬になるつもりはない。勿論、日本ハポンに渡る気だってない」

「ツレねェなァ~。こっちはお前さんの可愛げがないトコ、案外、気に入ってるのに」


 相棒の笑い声と銃声を背中で受け止めながら狭い廊下に足を向けたキリサメは、歩くたびに舞い上がる埃に目を細め、次いで最も奥まった場所に位置する部屋を睨み据えた。古びた扉の向こうに人の気配を感じたのである。

 を蹴破って踏み込んでみれば、倉庫とおぼしき小さな部屋に一〇人ばかりの敵兵が隠れ潜んでいた。発見された直後は征服者コンキスタドール言語ことばでもって悲鳴を上げたものの、誰もが戦闘訓練を受けたテロリストである。瞬く間に混乱から立ち直るとキリサメを取り囲むようにして扇状に並び、一斉に銃器を構えた。拳銃ハンドガン突撃銃アサルトライフルの他に短機関銃サブマシンガンも混ざっている。

 迎撃態勢を整えるまでの動きは迅速で、決して低くはない練度がに顕れている。銃の安全装置も事前に解除してあり、襲撃者の全身に風穴を開けるはずであった。

 それにも関わらず、気付いたときには一〇人全員がまとめて床に薙ぎ倒されていた。足首や膝の骨がし折られたと悟ったのは、更に後のこと――己の身に起きた事態ことへの認識が数秒ばかり遅れて追い掛けてきたのである。

 映画のフィルムでたとえるならば、幾つかのコマが抜け落ちたようなものであるが、自らの足で蹴破った扉を踏み付け、部屋の入口に立っていた少年が中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルを水平に振り抜き終えていたのだ。とて肩に担いでいたはずである。

 しかも、己を撃ち抜かんとしていた数多の銃口から逃れるよう身を屈めている。床に突いた片膝を軸として据え、長大な刀身を振り回すことで生じる遠心力を高速旋回に生かしたことも明白であったが、その動作うごきを誰一人として視認できなかったのだ。

 一瞬の内に起こった怪異ことを物語るのは、キリサメの周囲まわりで竜巻さながらに舞い上がった埃のみである。

 その余韻によって鼻孔や喉を突き刺されている間に、死神スーパイの手が彼らに追い付いた。

 敵兵の一人が取り落としてしまったのであろう一挺の短機関銃サブマシンガンが目に留まり、肉体からだを引き摺るようにしてを拾い上げたキリサメは、中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティル――『聖剣エクセルシス』を左肩に担ぎ直しながら、右の人差し指でもってひきがねを引いた。

 相棒のような精密射撃ではなく、弾丸を無造作にばら撒くようなものであったが、一個の塊となって倒れ込んだ敵兵を屠るにはそれだけでも十分であろう。狙撃の能力など足りずとも致命傷は与えられるのだ。

 絶え間ない悲鳴と銃声が入り混じり、赤い花びらとも錯覚してしまう血飛沫がぜて散る――その間に短機関銃サブマシンガン弾倉マガジンが空となり、たった一人だけ致命傷を免れた。

 尤も、仲間の亡骸が幾つも折り重なっている為、これを跳ね除けて逃げ出すことなど叶わない。カラシニコフ銃を持つ手も満足に動かせず、被弾しなかったことが僥倖さいわいであったとも言い難い状況に置かれていた。

 使い物にならなくなった短機関銃サブマシンガンをこの上なく面倒臭そうに投げ捨てたキリサメと、彼が左肩に担いだ『聖剣エクセルシス』を交互に見比べたのち、生き残りの兵士は恐怖と驚愕を綯い交ぜにしたような様子で顔を引きらせた。


「……貴様が持つは〝神父パードレ〟の『聖剣エクセルシス』じゃないか……ッ! まさかと思ったが、やはり、人買いを邪魔してきた女の――」

「あの男を〝神父パードレ〟と呼ぶな。神への一番の冒涜だ。……もしも、本当に天罰なんてモノが実在するなら、お前にとってはきっと『聖剣コレ』なんだろう」


 くだんの敵兵は『組織』の同胞たちの血で染まった『聖剣エクセルシス』にも、以前まえの持ち主にもおぼえがあるようなことを口走ったが、室内に充満する硝煙を斬り裂くような恰好で禍々しい刀身が振り下ろされ、生涯最後の言葉を吐き出し終える前に脳天を砕かれてしまった。

 『聖剣エクセルシス』は二枚の平べったい木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出す原始的な構造であるが、石の板も上下に一枚ずつ挟んでおり、一振りで標的の骨をも砕くよう改造を施してある。頭部に直撃させれば、粘り気のある音と共に脳をも粉砕せしめるのだった。


「――ほらな? 自分が生き残る為なら他人ひとの命なんかクソ以下。そういう価値観のお前さんとは職業適性もバッチリだよ」


 哀れな亡骸にはノコギリ状の刃が深々と食い込んでおり、刀身を引き戻しただけでは離れなかった。つかじりのスカーフに新しい斑模様を作りながら『聖剣エクセルシス』を振り回し、ようやくを剥がしたキリサメに口笛と拍手を送ったのは、言わずもがなニット帽の男である。

 既に拳銃ハンドガンも持っていない。それはつまり、先程の部屋に残存のこっていた敵兵を平らげたという証左であろう。

 物陰に隠れていたものとおぼしき兵士が戦闘コンバットナイフを片手に背後から襲い掛かったが、そのきっさきをニット帽の男は振り向きもせずにかわし、勢い余って前のめりとなった相手の頭部あたまを左脇に抱え込むと、まばたき一つよりも早く首の骨をし折った。

 錆び付いたブリキ細工にもたとえるべき緩慢な動きで振り返ったキリサメは、大きな深呼吸を挟んだのちいっときだけの相棒を睨み据えた。

 砲撃や爆撃によって引き裂かれる戦場を生き抜き、傭兵とは異なる立場で再び硝煙の彼方に帰還かえらんとしているこの日本人ハポネスは、〝暴力〟しか頼れるものがない少年を「何も感じないで命の遣り取りをこなせる人間」などと評していた。

 その見立てはキリサメ当人も否定しないが、そもそも格差社会の最下層には似たような人間しかのだ。

 盗品を売り捌くことで日銭を稼いでいるは、普段こそ〝暴力〟に訴えることが少ないものの、身の危険が迫ったときには細身のナイフを投擲し、果敢に迎え撃っている。片刃の大振りなナイフを振り翳して相手に致命傷を与えることも躊躇わないのである。

 主にトドメを刺す際に用いる大振りのナイフには『サクラリッジ』なるなまえを付けていた。中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルを『聖剣エクセルシス』と呼んでいたのは以前の持ち主であるが、同じなまえを無頓着に使い続ける幼馴染みをからかう為、えて真逆の意味となる言葉を選んだという。

 『エクセルシス』が〝神聖な場所〟や〝天〟といった意味であるのに対して、『サクラリッジ』は〝神へのぼうとく〟――罪を重ねていなければ、己の命を明日に繋げることさえ難しい故郷ペルーの有りさまへの皮肉も武器銘そこに込めていたのかも知れない。

 と同じようにる種の諦念の中で己の運命すら揶揄し、生きる糧を得る為のすべとして剥き出しの暴力性を受けれる者でなければ、非合法街区バリアーダスでは一日とたずに淘汰されてしまうのだ。


「ワマンのダンナに聞いた話じゃあ、親父さん、同類おともだちに日本大使公邸が占拠されたときに人質に取られちまったんだろう? 父親のほうは長い共同生活で犯人連中と仲良しになったのに、息子は全く正反対ってのはシェイクスピア劇みたいだな」

「悪いが、リマ症候群とやらは飽きるくらい聞かされて辟易うんざりしているんだ。大体、顔を知らない父親だぞ。他の人質と一緒にテロリストとの交流会に加わったのかも分からない」


 日本とペルーという二ヶ国の言語ことばで語らったのは『日本大使公邸人質占拠事件』にいて確認された心理現象だ。日々の行動すら限定されてしまう狭い空間で四ヶ月にわたって共に暮らす内、銃による脅迫を挟んでいるはずの犯人グループと人質の間に絆にも似た感情が育まれていったのである。

 亡き母にたずねたことはないが、実父も立場を超えた友愛に目覚めていたとすれば、まさしく相棒から揶揄された通りであろう。人質を取って日本大使公邸に立て籠もった犯人グループの〝同胞〟とも呼ぶべき『組織』に己と同じ〝血〟を吸った『聖剣エクセルシス』を向け、相互理解の可能性ごと断ち切ってきたのだ。

 写真でさえ顔を見たおぼえのない実父からは『組織』に向かって浅からぬ因縁の糸が飛び出しているのかも知れないが、が手繰り寄せたのは愛する人が血の海に沈められるという惨たらしい運命である。

 実父の想いを裏切るような所業であったとしても、『聖剣エクセルシス』を鞘代わりの麻袋に納める理由などキリサメは必要としなかった。


理解わかり合う必要もない〝敵〟だ。それ以上でも、それ以下でもない。根絶やしにしなければ、僕のほうが息の根を止められる。ただそれだけに過ぎない」

「――極刑こそ相応しいほどに許されざる罪を重ねながら、それでもまだ生きることを欲するならば、これからも生贄を求め続けよ。法律の名のもとに命の在り方から自由を奪う日本ハポン故郷ペルーと同じように生きられるのかどうか、〝闇〟の底にて見物するとしよう」


 本人の意思を超越して続く砂色サンドベージュの追憶が〝敵〟とした存在モノに対する殺戮の衝動を引き摺り出した瞬間、死神スーパイの囁きが鼓膜に再び甦り、不協和音の如くキリサメの脳内あたまのなかを貫いた。無論、今度も郷愁を煽り立てる征服者コンキスタドール言語ことばであった。

 死神スーパイの声は我知らず手を伸ばしてしまうほど蠱惑的に響いたが、果たして生贄とは〝何者〟を指しているのか。追憶から現実へと意識が引き戻された瞬間に双眸が捉えたリーゼント頭の男を――日本MMAの偉大な先達を喰らうようそそのかしているのか。

 その自問に答えを導き出すよりも早くキリサメの視界から城渡マッチの姿が消失し、次いで天井より降り注ぐ照明あかりが網膜に焼き付いた。


「――頭蓋骨がイカれちまっても後悔すんな! もういっちょ、デケェの行くぜッ!」


 普段は半ばまで閉ざしているまぶたを完全に開いたキリサメは、渾身の右拳を振りかぶる城渡の姿を瞳の中央に映していた。馬乗り状態マウントポジションを維持したままパウンドを繰り出し続けてもテクニカルノックアウトを宣言しようとしない木村レフェリーに焦れたのであろうか。いずれにしても、これをもってトドメを刺そうとしていたのは間違いない。

 彼の姿が掻き消えてしまったのは、その拳がキリサメの眉間を穿つ寸前というわけだ。

 脳に霧が垂れ込めたような状態から意識を完全に覚醒させたのは、心臓や肺を突き刺す激痛である。頭頂から足の爪先さきまで鉛に換わってしまったかのような肉体からだを強引に揺り動かし、周辺あたりを見回してみれば、自分を攻め立てていたはずの城渡が何時の間にかマット上に転がっているではないか。

 急激に欠乏した酸素を補わんとする荒い呼吸の音を鼓膜で拾いながら、キリサメは己の身に起きたことを少しずつ呑み込んでいった。

 またしても無意識の反撃が。襲撃者の正体を掴めないまま『聖剣エクセルシス』の一振りで薙ぎ倒され、頭蓋骨を破壊される敵兵テロリストが追憶の中に現れたのは、己が仕出かしたことを何秒も遅れて認識したキリサメにとって亡者の報復とも呼ぶべき皮肉であろう。

 映画のフィルムでたとえるならば、幾つかのコマが丸ごと抜け落ちてしまったかのような状況が意味するところは、四肢を軋ませる極限的な疲弊が示している。白サイドのコーナーポストへと視線を巡らせ、岳や麦泉にたずねるまでもあるまい。

 本人の意思を超越し、鼻先まで迫った死から逃れる反応あるいは本能として、人間ヒトという種の限界を突き破る〝神速〟をキリサメの肉体からだが求めたのだ。



                     *



 新人選手ルーキーの腹の上に跨ったまま勝ち名乗りを上げるはずであった古豪ベテランがマットに横転させられてしまった経緯は、選手本人よりも四角いリングを取り囲む人々のほうが脳内あたまのなかで整理し易かったのかも知れない。

 己の意識から切り離される形で〝神速〟をキリサメは言うに及ばず、痛手ダメージを引き摺りつつ起き上がった城渡も釈然としない様子で首を傾げている。

 馬乗り状態マウントポジションの攻防まで遡ってみれば、大振りなパウンドが繰り出された瞬間には、場内の誰もが城渡のノックアウト勝利を疑わなかったはずだ。バリバリと火を吹くバルカン砲の如き連打によってキリサメの意識は朦朧としているようにも見え、青サイドのセコンドである二本松は木村レフェリーに決着の宣言を求めていた。


「タオルを投げろ、八雲岳ッ! 子どもに勝利や成果を求めるのが親として最低の行為だと理解わからないのか⁉ 統括本部長のメンツを保つ為に金星以外を許さないのなら、……子どもを見殺しにするつもりなら俺はあんたを許さねェぞッ!」


 高性能のカメラをもってしても捉え切れないはやさでキリサメの両腕が動いたのは、最悪の事態を回避するよう二本松が白サイドのセコンドに一等強く訴えた直後であった。城渡の左手首を両の拳でもって挟み込み、眉間に接触する寸前でパウンドを食い止めたのだ。

 叢雲くも青空そら――『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体の象徴であるいろを映した指貫オープン・フィンガーグローブがリング上で文字通りに十字を描いている。


「ンの野郎ォッ!」


 さしもの城渡も手首を押し潰されるような圧迫には苦悶の表情を浮かべた。骨が軋み音を立てれば、間もなく激痛が腕全体へと広がっていくのだ。

 骨に亀裂が入ったとしか思えない激痛を堪え、キリサメによるから腕を引き抜いた城渡は、すぐさまにパウンドを再開した。血走った眼で左右の拳を繰り出す姿は、仲原アナが実況の中でたとえた通り、〝馬乗りで殴り合う喧嘩〟そのままである。


「何してやがんだ、アマカザリィッ! 総長に恥掻かせんなっつってんだろがッ! もうケリついてんだから、黙ってタコ殴りになっとけやァッ! 幾らてめーが弟分でも、調子こきやがったらシバき倒すぞッ! あァんッ⁉」


 暴走族チームの仲間と共に観客席から城渡へ声援を送っていた御剣恭路は、眼前で繰り広げられる場景が信じられず金髪のパンチパーマを掻きむしっているが、〝総長〟を盲信するこの青年からすれば、それも無理からぬことであろう。

 先程までは肉や骨をつ鈍い音が絶え間なく続き、これが城渡の優勢を示していた。キリサメの両足に対する拘束ロックも強く、依然として下肢の可動を封じ込めている。それにも関わらず、現在いまでは狙いを外してマットを叩くばかりとなってしまったのである。

 城渡自身は一息吐くこともなく左右の拳でパウンドを連ねており、いよいよ体力を使い果たして腕を振る動きが停止まりかけているわけでもない。腰の上しか自由にならない状態でキリサメは全ての攻撃をかわし続けているのだ。

 一方的になぶられ続け、防御ガードまで間に合わなくなりつつあった先程までとは比べ物にならない――と、状況だけは簡潔に言い表せるが、反射神経そのものを人間離れした領域まで引き上げたとしか思えないのである。

 最初の内は首を横に振って拳を避けるのみであったが、徐々に突き込まれた拳や腕を掌でもって迎え撃ち、弾き飛ばすようになってきた。もはや、掠らせもしない。


「アマカザリ選手……これはなんというか……ガンギマリ状態なのか~⁉」


 仲原アナが戸惑ったような声色で述べた通り、平素いつもは眠たげな双眸が大きく開かれた直後からキリサメの反応速度は桁が一つ変わったのである。


を見せた第一ラウンド序盤でも似たような面相であったかと記憶しています。瞬きよりもはやく、VTRでチェックしても断定的なことを申し上げられないのですが……」

「何かの〝スイッチ〟が入った――みたいな? 悠久のときを超えて伝説最強のスーパーインカ人として覚醒めざめたのならば! 髪の毛が逆立ってがねいろに変わるのも間もなくかッ⁉」

「ご両親とも日本人とのことですから、スーパーインカ人なる妄想は有り得ないとして――アマカザリ選手のなかで〝何か〟が切り替わったと考えるのが自然でしょう。城渡選手の打撃力は『天叢雲アメノムラクモ』のみならず、国内団体のファイターでも最高レベル。その連打をあそこまで完全に避け切るのは尋常ではありません」

「人を超えたとしか思えない動き……! 確かに鬼貫さんが仰った通り、第一ラウンド序盤の展開と一致しますね! あるいは第六感をも上回る七番目の感覚⁉ がねいろに輝く少年伝説が天馬ペガサスの如く海を超え、インカからジパングに舞い降りるゥッ!」


 一瞬で覆った戦況を鬼貫道明と仲原アナは驚愕と共に分析していくが、実況席ふたりの見解を判断材料とするまでもなく、場内の誰もがキリサメに起きた変化を認識していた。

 〝八雲岳の秘蔵っ子〟という謳い文句や秋葉原を駆け巡る〝げきけんこうぎょう〟、更には『あつミヤズ』の特別番組など、ありとあらゆるで分不相応なくらい脚光を浴び、鳴り物入りで『天叢雲アメノムラクモ』のリングに押し上げられた新人選手ルーキーが〝客寄せパンダ〟などではないことを証明した〝力〟が再び発動されたのである。


「この局面でついに出すかよ、超必殺技ッ! 良いぜ、キリー! お前の骨は養父とうちゃんが拾ってやらァ! とことんやっちまえ! 地獄行きだって付き合うぜェッ!」

「最悪に不吉なこと、軽々しく口にしないでください! ……本当にを使って大丈夫なのか、キリサメ君⁉ 身体がつのかッ⁉」


 白サイドのコーナーポストから同時に飛び込んできた二人セコンドの声は間違いなくキリサメの耳に届いたはずだが、生と死が鼻先ですれ違う攻防のなかという状況を割り引いても、薄気味悪いほどに無反応であった。

 今まさに振り落とされようとしていた城渡の左手を掴んだキリサメは、そのまま自分のほうに引き込んだ。

 自然と城渡の上体は大きく傾き、下からの攻撃でも頭部を捉えることが可能となる。その刹那、キリサメの右掌が彼の左側頭部を打ち据えた。左耳全体を覆うような形で叩いたと表すほうがより正確に近いであろう。

 その寸前にキリサメは左手を城渡の腕から右膝へと移し、五指を関節にめり込ませている。ケツァールの尾羽根にもたとえられる帯を用いた変則的な投げ技によって大きな痛手ダメージを受け、炎症を起こしているであろう膝関節に追い撃ちを仕掛けたのだ。

 右膝を脅かされたことで、キリサメの左足に対する拘束ロックが緩んでしまった。城渡の精神力をもってすれば激痛には耐え切れるが、脱力という肉体からだの反応だけは抑えようがない。

 城渡の左側頭部を掌底打ちが捉えたのはこの直後である。

 リングサイドで砲列を作っている記者ライターたちのカメラは、その内の一台もキリサメの右手が動く瞬間を撮影できなかったはずだ。残像さえも切り取れまい。


「ぐはァッ⁉」


 城渡は片足の力が抜けた状態で〝神速〟にも匹敵する打撃を受けてしまったのである。

 どのようにして抗おうとも踏み止まれるものではなく、城渡はマットから引き剥がされるような恰好で吹き飛ばされ、キリサメも絶体絶命の馬乗り状態マウントポジションからようやく脱した。

 極めて原始的に力ずくで状況をひっくり返した次第である。


「はいッ! 何が何だか私にはもう全然わッかんないです!」


 職務放棄と紙一重ながら率直な感想を吐き出す仲原アナであったが、そもそも〝神速〟によってのみせるわざを常人の目で捉えられるはずもあるまい。隣席となりに座る『昭和の伝説』でさえ殆ど見極められなかったのである。

 城渡を転がすだけならば頬を打つだけでも足りたはずであるが、えて左耳に狙いを定めた意図は何か――鬼貫は偶然とは結論付けられず、その一点だけが引っ掛かっている。

 鬼貫が視線を巡らせた先では、木村レフェリーからダウンを宣言されるより早く起き上がった城渡が構えを取り直しているが、その様子は傍目にも明らかなほどおかしかった。


「ンだ、コレ? プールに入った直後みてぇな――」


 突如として降り掛かってきた違和感に戸惑い、大きく首を傾げた城渡と、死肉に餓えたハゲワシの如くへと振り向くキリサメの視線が衝突したのは、第二ラウンドの試合時間が残り二分を切ろうかという頃であった。

 日本MMA界が初めて〝神速〟を目の当たりにした第一ラウンドは、場内が戦慄に満たされる前にはまぶたが再び半ばまで閉ざされたのだが、現在いまは双眸を大きく見開いたままである。そのさまを仲原アナは「ガンギマリ」と独特な例え方で表したのだ。

 獲物を睨み据える猛禽類さながらに瞳孔まで開き切っているのかも知れないが、双眸を覗き込んで確かめるような余裕など城渡に有ろうはずもなかった。

 掌底突きでもって真横に吹き飛ばされた城渡とキリサメの間には相応の距離が開いていたはずだが、たった一度のまばたきを挟んだ直後には互いの呼吸が聞こえるくらいに接近していたのである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、キリサメのほうから〝神速〟をもって城渡との間合いを詰めたのだ。

 突進時と比べて僅かに低下したようであるが、場外観戦パブリックビューイングの会場と繋がった生中継用のテレビカメラでさえ追い掛けきれないほどはやい蹴りが城渡へ立て続けに直撃し、口から洩れかけていた呻き声をも吹き飛ばした。

 真っ先に狙われたのは右外膝である。深い痛手ダメージで軋んでいる部位を更に揺さぶられては〝打撃番長〟の異名を取る古豪ベテランといえども耐え切れるものではない。下段蹴りローキックが命中した直後、右足全体が脱力して片膝をマットに突いてしまった。

 下段蹴りローキックの炸裂と同時に新たな血飛沫がリング上に舞った。同じ側の足で途切れることなく放たれた中段蹴りミドルキックが上体を傾かせた城渡の鼻に亀裂を走らせたのである。

 キリサメは蹴り足を変えないまま右側頭部にも追撃を試みた。今度はてのひらではなく足の甲でもって右耳を打ち据えたのだ。

 鼻血を噴き出そうとも歯を食い縛り、マットに崩れ落ちることだけは耐えようとする城渡であったが、四肢に力を込めた瞬間、不自然な形で姿勢が崩れてしまった。腰から上が左右に揺れており、両足に負った痛手ダメージの影響でもなさそうだ。


「なかなかッ! えッげつねぇ技ァ使うじゃねーかッ! 面白くて仕方ね~ぜェッ!」


 己の痛みすらも格闘たたかいの喜びに換えられる古豪ベテランは、姿勢が定まらないなかでありながらも大音声でもってキリサメの技を褒め称えた。


「これは……? 城渡――選手、一体、どうした……ッ?」


 無論、傍らで見守る者の目には異常としか映らない。木村レフェリーも訝るような表情を浮かべながら城渡の顔に目を凝らした。

 彼の様子は慢性外傷性脳症パンチドランカーの症状とも似通っている。

 脳に蓄積された損傷ダメージが原因の一つである為、格闘家としての経歴が長い人間ほど発症する危険性リスクも必然的に高まるのだ。MMAのリングに挑むよりも、都内でも際立って風紀の乱れた高校を〝番長〟として取り仕切るよりも以前まえ――思春期を迎える前後から喧嘩に明け暮れてきた不良ツッパリは、慢性外傷性脳症パンチドランカーの条件とも合致してしまうのである。

 同疾患を発症してしまったが為に現役を退かざるを得なかった選手を木村レフェリーは何人も知っている。城渡に関しては現在までに兆候の一つも確認されていないが、何かの拍子で深刻な後遺症に至ってしまうのが脳の損傷なのだ。

 第一試合の最中だけでも尋常ならざる〝力〟によって頭部を幾度もちょうちゃくされている。第二ラウンドいては安全とは危険な状況でキリサメと頭突きも打ち合っているのだ。木村レフェリーとしても過剰なくらい神経を尖らせなくてはならないのである。

 城渡が迸らせる吼え声は八雲岳にも匹敵するほど大きいが、先程の声量は明らかに異常であった。その上、調子も外れている――耳を強打された直後に彼自身が発した言葉と推察が結び付いた瞬間、木村レフェリーは一つの結論に辿り着いた。


「鼓膜をやられたかよッ!」


 木村レフェリーの疑問が解消されたのと同時に、二本松も青サイドのコーナーポストを叩きながら絶叫した。

 掌底突きと中段蹴りミドルキック――両耳を直接的に狙った攻撃で城渡は鼓膜を破られたのである。一時的ながら外傷によって聴覚が損なわれた為、調子の外れた喚き声を張り上げたのだ。

 キリサメの本当の目的ねらいが〝鼓膜破り〟ではないという結論も、木村レフェリーと二本松は共有している。その先に位置する三半規管を揺さぶることで城渡の平衡感覚を破壊したかったのであろう。鼓膜の損傷などは副次的なものに過ぎなかった。

 現在いまの城渡は酷い目眩に襲われているはずである。


「……しているとは思ったが、どうも見立て自体を間違えていたようだな……」


 首に掛けているタオルを握り締めた二本松は、〝海の向こう〟の貧民街スラムで編み出された喧嘩殺法に初めて恐怖を感じた。は自分たちのる〝徒手空拳ステゴロの喧嘩〟ではない。

 相手の鼓膜を裂き、三半規管にまで衝撃を伝達させる技をキリサメ・アマカザリという少年は自由自在に操れるということだ。尋常ならざる〝神速〟によって打撃の威力そのものが跳ね上がっている点を差し引いても、およそ人間業とは思えなかった。

 ペルーという社会の最下層に横たわった〝闇〟を理解しようと考えること自体が日本人ハポネスの驕りに他ならない――罪を犯して逮捕されても少額の賄賂で警官から国で生きる人々は、二本松の呟きに唾棄を返答に代えることであろう。

 様々な問題を抱えながら法律によって秩序が保たれる日本ハポンの人々には、扉や窓を鉄格子で防護しなくては建物の中でさえ侵入者の恐怖に押し潰される社会など想像できまい。

 〝富める者〟の社会から弾き出された人々が身を寄せ合い、正当な許可も得ずに掘っ立て小屋を作って占拠する貧民街スラム――非合法街区バリアーダスの裏路地では馬乗りになったまま相手が沈黙するまで殴り続ける〝殺し合い〟など少しも珍しくなかった。

 内側のクッション材によって殴る側と相手の肉体からだを安全に防護まも指貫オープン・フィンガーグローブなどはめず、掌中に握り込んだ硬い石を叩き付けることで標的の命を脅かすのだ。

 ペルーの〝貧しき者〟は罪を犯すこと以外に生き抜くすべなど持ち得なかった。都市部でさえ失業者で溢れており、反政府組織が〝大統領宮殿〟を動揺させるほどの勢力を誇っていた頃には、餓えを凌ぐ為にテロ活動へ身を投じる若者も少なくなかった。

 の家族も加担した一員ひとりであるが、酷い低賃金に苦しむ港湾労働者は犯罪組織へ取り入り、麻薬などの密輸に協力して家族を養う為の報酬を得ているのだ。

 キリサメは裏路地に迷い込んだ観光客や、非合法街区バリアーダスの住民を嘲笑う〝富める者〟に狙いを付け、〝暴力〟をふるうことで〝その日〟を生き抜く糧を手に入れてきたのである。

 旧友の少年強盗団にも与せず、実母ははの遺骨が納められた〝集合墓地〟をねぐら単独ひとりで行動していたこともあって〝敵〟が多かった。大勢から恨みを買い、睡眠の最中でさえ拳銃ハンドガンやナイフで襲撃されたのだ。

 死の胎動と心臓の鼓動が溶け合うと、一瞬の後には自分に銃口を突き付けてきた〝敵〟のほうが血まみれとなってたおれている。その瞬間にはあらゆる恐怖から解放されるのだ。

 そして、時間の流れがキリサメのなかで変わってしまうのである。

 時空の法則そのものが捻じ曲げられたとしか表しようがなかった。大きく見開かれた双眸によって捉える世界は言うに及ばず、鼓膜で拾う音さえも遅く感じられるのだ。

 今も全く同じ情況であった。キリサメを除く全ての存在が時間の流れから取り残され、城渡も静止目標うごかないまとと化していた。

 捻じ曲げられた時空の法則と全身の感覚が結び合うにつれて、キリサメのなかから〝敵〟を破壊することへの罪の意識が消失していく。

 脳内あたまのなかを掻き回されるような混乱の中で一度は抜け落ちてしまい、古豪ベテランの胸を借りることで想い出したMMAのルールも、現在いまでは遵守しようという意志まで吹き飛んでいた。

 命というモノに対して無感情になった――と、言い換えられるだろう。

 互いの身を喰らい合う〝暴力〟の応酬にいて、命を保障する制約とりきめなど機能しようがあるまい。己に向けられた殺意に対し、同等の殺意で応じる――ただそれだけの為に精神こころが働き、肉体からだが動くのだ。

 それ故に少年の魂は「生きろ」という命令によって衝き動かされていた。


(……そうだ。僕は死ねない。この命にはゴミクズ以下の値打ちしかないけど、ここで死ぬわけにはいかない。をしてでも――)


 選手の安全性が最大限に考慮されるMMAのリングに立ちながら、キリサメの魂は故郷ペルーの〝闇〟に回帰していた。


「――正々堂々とした勝負なんてのは〝富める者〟の遊戯おあそびじゃん。そんなの、に何か関係ある? 遊戯おあそびなんかじゃ生きていけないから、サミーもわたしも、にくに群がるハゲワシみたいな真似をしてきたんでしょ? 鼻先にぶら下げられたかりそめの幸せにすがり付いても矛盾に殺されるだけだよ」


 今や幻像まぼろしとなった幼馴染みから『天叢雲アメノムラクモ』のリングを侮辱されるたび、キリサメはMMA選手としての矜持を己に言い聞かせ、〝地球の裏側〟まで引き戻されまいと踏み止まってきたのだが、口の中に広がる鉄錆の味と頭部あたまつ〝戦争の音〟によって脳が痺れ、〝格闘競技〟とは相容れない〝感覚〟を抉り出されてしまったのである。


「偽りに満ちた世界リングへ行ってらっしゃい。わたしは真実ホントの世界にるからね」


 拳を交えることによって成し遂げられる相互理解さえも〝富める者〟の道楽と嘲笑ったに負けまいと、「真実を超えた偽りがここにある」という一つの結論を見出したはずなのに、この幼馴染みとしか分かり合えない〝闇〟に捕まってしまった。


「――〝戦争の音〟を母親の胎内おなかのなかで聞きながら人間ヒトの形になっていったと、平和な日本ハポンで生まれ育った人間と同じ〝感覚〟であるワケがないって理屈、賢いサミーなら理解わかるよね? ミサトおばさんの教育の賜物ってヤツでさ。大事なみーちゃんとの間には生まれる前から絶望的な断絶があるってコト、認めちゃったほうがラクになるよ」


 脳裏に甦ったの笑い声にまでキリサメは首を頷かせてしまった。

 誰もが未来への希望から手を離す世界に立ち、それでも死神スーパイの影を振り切って生きたいと願うのであれば、でもするしかない――貧困の底で煮えたぎる〝闇〟に〝表〟の社会の法律を押し付けて罪とし、無感情に裁く日本人ハポネスには理解できまい。

 己のなかに根差した〝闇〟という本質しんじつを偽り、日本ハポンことなど『聖剣エクセルシス』に呪われた少年には最初から望むべくもなかった――得体の知れない新人選手ルーキーを『天叢雲アメノムラクモ』の仲間として認めてくれた古豪ベテランさえも、現在いまは生存を脅かす〝敵〟としか感じられない。

 黄金時代から日本MMAを支えてきた〝先輩〟選手に尊敬の念を抱き、〝城渡総長〟を熱烈に心酔する恭路のことも理解した新人選手ルーキーは、もはや、このリングには居ない。

 城渡氏あなたは殺したくない――生まれて初めて湧き起こった感情も掻き消えている。

 希更・バロッサが体現する〝相互理解〟の意味を路上戦ストリートファイトによって教えてくれた空閑電知との友情も、格闘家としての在り方を支えてくれるはずであった本間愛染やおおとりさとの忠告も、別々の団体で同日にプロデビューする新人選手ルーキーでありながら手の届かない〝先〟まで進んでいる教来石沙門への劣等感も――日本ハポンへ移り住んだのちに育んだ〝全て〟が吹き飛んでしまったのだ。

 ときとして〝暴力〟の快楽に酔い痴れる瀬古谷寅之助の〝闇〟を鏡に換え、自らを律するように促した教訓は、脳内あたまのなかを隅々まで探しても見つけられない。

 ペルーで編み出された喧嘩殺法と中世日本の合戦で求められた古武術の差異ちがいこそあれども共に〝殺傷ひとごろしの技〟をふるうという〝共鳴〟がかつてないほど高まっているはずの哀川神通でさえ、憂いを帯びた顔も、悩ましいふんどし幻影まぼろしも、キリサメを惑わすことはなかった。


「……もういい……」


 抑揚のない声で洩れ出した呟きは、〝富める者〟の道楽に付き合い続けることを放棄する宣言であろうか。あるいは今から始まるのがMMAでも喧嘩でもないと城渡マッチに宣告したかったのか――それはキリサメ本人にさえ理解わかっていないのかも知れない。

 考えるな、感じろ――この〝先輩〟選手から掛けられた激励も、今では伝説の武術家ブルース・リーの至言から掛け離れた意味でキリサメの脳を支配している。

 これまでにキリサメが放った〝神速〟の攻撃は、判断も動作も無意識の内に完了されている。生存本能によって引き出された緊急の行動とも言い換えられるだろう。迎撃に移ろうとする寸前から本人の意識と肉体は完全に切り離されていたのだ。

 だが、この〝先〟は違う。キリサメ自身の意思で城渡マッチを――目の前に立ちはだかった〝敵〟の息の根を止めなければ、生きて明日を迎えられないのである。


「きっとヴァルチャーのあにィもゾワゾワと肌が粟立ってるハズだぜッ! スーパーインカ人さえも超えちまえッ! こっからがクライマックスだァッ! お前の翼は黄金に輝くッ!」


 白サイドのコーナーポストで大音声を張り上げる養父にキリサメは背を向けていた。だからこそ統括本部長の養子が大粒の涙を零していることに気付けたのは、その顔を正面から睨み据える城渡と、二人の傍らに立つ木村レフェリーだけであった。

 頬に付着した血を洗い落とすような雫を双眸から流し続ける理由は分からないが、まぶたを開き切っている以外に異常は確認できないので、木村レフェリーとしても試合を停止めてまで声を掛けるべきか、さすがに逡巡している。

 しゃくり上げるようなこともなく、悲しげなし口を作ることもなく、ただただ涙のみを流し続けているのだ。


(このを付けなければ、今日を生き延びることも叶わない。……と同じだ)


 握り拳を作った右手――その手首を対の五指にて掴みつつ心の中で呟いた一言は征服者コンキスタドール言語ことばで紡がれていた。


 リングサイドに設けられている関係者席では、八雲未稲が丸メガネを掛け直していた。再び発動された〝神速〟に昂奮し、隣席となり実弟おとうと――おもてひろたかの頭の上にを吹き飛ばしてしまったのである。


「……未稲さんのメガネは、ジェットパックみたいな機能でも付いているのですか?」


 丸メガネを手渡したひろたか実姉あねが繰り返す奇行に呆れ返り、この上なく不機嫌な表情かおであったが、覗き込んだ顔に違和感を覚え、小首を傾げながら眉根を寄せた。

 極太の眉が得心を表すように上下したのは、姉が凝視する先を辿った直後である。

 八雲岳と表木嶺子の離婚という複雑な事情を挟んでいる為、関係性としては極めてややこしいのだが、ひろたかにとっても一応のに当たるキリサメが双眸を見開いたまま、滝の如く涙を流し続けているのだ。

 またしても自分の頭で軽い音を立てた丸メガネに苛立ち、苗字こそ違えども実の姉である未稲を睨み付けた所為せいで、ひろたかは最初の一粒が零れ落ちる瞬間を見逃した次第である。

 実弟おとうとと同じように未稲も当惑の表情を浮かべていたが、丸めた取材用のノートで無意識に隠した唇は微かに震えている。しかし、は一つ屋根の下で暮らす〝家族〟が初めて落涙するさまを目の当たりにしたことへの反応ではない。

 日本に移り住んでから四ヶ月の間に二回は〝神速〟を引き出しており、そのどちらも未稲は立ち会っている。

 死が間近に迫る状況での発動は電知との路上戦ストリートファイトが最も近い。『天叢雲アメノムラクモ』と敵対関係にある地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の刺客であった少年とキリサメは、致命傷が免れないほど高い位置から一緒になって急降下したのだ。

 と比べても明らかに様子がおかしい。未稲の目には『E・Gイラプション・ゲーム』を相手に闘ったときとは〝何か〟が違って見えるのだ。

 目配せでもってひろたかからたずねられても具体的には言い表せないが、リングの上で城渡と向き合っている少年が〝家族キリサメ〟ではないように思えてならないのだ。

 平素いつもは眠たげに半ばまで閉ざしたまぶたを開き続けるかおや、頬から首をつたって紺色のシャツまで濡らす涙は直感的にも理解し易いが、すらもキリサメに起こった異変の〝正体〟を明かすものではない。

 少なくとも未稲にはそのようにしか思えなかった。

 〝家族キリサメ〟に違和感を持ってしまった原因がどうしても見極められず、だからこそ未稲のなかで焦燥が昂奮を上回っていくのだ。


「アマカザリさんが馬乗り状態マウントポジションを返した瞬間は、沸騰したヤカンみたいに鼻息が気持ち悪くて血縁関係を否定したくなりましたけど、今度は呼吸停止ですか? 未稲さん、生きてます? 返事がないようなら一応の家族として救急車に同乗するしかなくなりますけど」

「う、うん……。心臓はヤバいコトになってるけど、救急隊員のお世話になるトコまでは行ってないよ。お姉ちゃん、興奮し過ぎちゃったのかなぁ……?」

「……そうやって〝姉〟を強めに自己主張してくるのも勘弁して貰いたいのですが……」


 平素いつもの通り、姉に対する悪態が七歳児とは思えないくらい辛辣であるが、言葉の端々には体調への気遣いが感じられた。

 何しろ未稲の顔から血の気が殆ど引いてしまっているのだ。ノートで隠されている為、ひろたかの目では確かめようもないが、唇も病的と思えるほど紫色に染まっているのだろう。


「心臓がビックリするのは仕方ないと、ぼくだって思いますけどね。試合の真っ最中でさえ、どこかボケーッとした表情かおの人が急に泣き出したんですから。……いや、〝泣く〟のとはちょっと違うのか。まばたきもしないでまぶたを開き続けた結果の眼精疲労で涙が分泌されている――といったところか……?」

「ヒロくんの可愛げのないところ、普段いつもはお姉ちゃんのプライドをズッタズタに引き裂かれるんだけど、には気持ちを落ち着けてくれるね」

「ぼくは未稲さんの精神安定剤トランキライザーですか……」


 突然の落涙は急激な眼精疲労が原因であろうというひろたかの分析も誤りではないと、未稲も感じてはいる。

 しかし、その一方で理詰めの考察では解き明かし難いとも思えてならなかった。


「キリくんの目は涙なんか一滴も貯めていないって思ってたから、それは私も純粋に驚いたんだけどね? この間、昼食おひるにお父さんが作った分量間違えまくりの激辛トムヤムクンも淡々と食べてたし」

「未稲さんが窒息死しそうになったヤツですよね、それ……。今、ここで目撃したのとは別の意味で人間離れしているな……」

「……城渡さんへの罪悪感がキリくんの目から涙を引き出したんじゃないかなって、お姉ちゃんは考えちゃうんだよね」

「罪悪感……ですか」

「試合中でもボ~ッとして見えるけどね、……他人ひとへの気持ちはスゴく強いんだよ」


 実弟に明かせるはずもないが、幾度となく唇を貪られた未稲には、キリサメが内面に秘めた情の深さを実感として理解できるのだ。

 唇から伝達つたった体温ぬくもりと共に未稲の脳裏に甦るのは、キリサメと初めて愛称ニックネームで呼び合った日のこと――空閑電知との路上戦ストリートファイトひいては『天叢雲アメノムラクモ』長野興行が終わり、下北沢の『八雲道場』に帰ってから数日後の出来事である。



                     *



 新しく〝家族〟にはなったものの、接し方を掴めずにいた頃は互いに敬称を付け、ともすればよそよそしい調子で名前を呼んでいた。

 長野で遭遇した様々な事件を経て心の距離が縮まったと感じた未稲は、打ち解けた証として愛称ニックネームを用いてみようと自ら提案したのだ。

 ネットゲームを一緒に楽しむ仲間を通称ハンドルネームで呼ぶことは少なくないのだが、同い年の異性を面と向かって愛称ニックネームで呼ぶという経験そのものが未稲にはなかった。

 小学生の頃は殆ど同姓としか交流せず、保健室で三年間を過ごし、修学旅行も欠席した中学校は同級生と顔を合わせる機会も皆無であった。現在はまきしょうぎょう高校に在籍しながら通信制で学んでおり、生来の出不精も手伝って生活の大半が『八雲道場』の屋内なかだけで完結しているのだ。

 『八雲道場』というMMAジムの活動報告が未稲の仕事であるが、試合や強化合宿の内容を記録する為に所属選手――岳やキリサメへ同行する場合を除いて、公式ブログの運営といった〝業務〟も自室のパソコンを使えば事足りてしまう。簡単な更新作業はベッドに寝転んだまま携帯電話スマホで済ませることも少なくなかった。

 その『八雲道場』が所在する下北沢は、小劇場がひしめき合う演劇の町でもあった。舞台に情熱を傾ける若者たちの活気に気後れする未稲は、幼い頃からに近寄ろうとしなかったが、さりとて人付き合いを嫌っているわけではない。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンから『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業に出向し、広報戦略を一手に担ういまふくナオリを師匠と仰いでいる。彼女から情報戦の極意を教わる一方、逆にネットゲームを紹介して激務の息抜きを助けていた。

 必然的に顔を合わせる機会が限られるものの、人材派遣会社から専属チームの一員として『天叢雲アメノムラクモ』のイベント運営に参加する車椅子ボクサーのなしとみもちとも敬語を使わずに喋るほど親密なのだ。

 ゲーミングサークルのオフ会にも意気揚々と出掛け、予算カネと手間暇を掛けた扮装コスプレには社交性の高さが表れているようであった。

 キリサメと電知が親友の絆を結んだのと同様に未稲もまた『E・Gイラプション・ゲーム』の選手であるかみしもしきてると打ち解け、今ではメールのやり取りが日課となっている。

 中学三年間の想い出を同級生と共有していないのは、気持ちにほんの少しだけ掛け違いがあった為――ただそれだけのことである。

 それでも面と向かって同い年の異性と話すことは得意ではなかった。

 一七年という人生を振り返ってみても、敬語を使わずに喋ることが出来たのは性別の違いを意識しなかった小学校低学年まで――未稲の側からキリサメの心へ踏み込む為には、心臓が爆発しそうになるくらい勇気を振り絞らなければならなかったのである。


「――もう一度、『キリくん』と呼んで貰えませんか。……あ、いや――呼んで欲しい」


 馴れ馴れしいにも程があると呆れられるか、反対に距離を取られてしまうか――未稲はキリサメの反応を幾通りも想像していたが、その全てが当たらなかった。「キリくん」という愛称ニックネームが驚くほど簡単に受けれられたばかりか、何度も何度もねだられる筋運びなど妄想すらしていない。

 まぶた平素いつもと同じように半ばまで閉じていたが、目元は間違いなく緩んでいた。その思いも寄らない変調に未稲の顔が良く熟れた林檎と同じ色に染まったことは、改めてつまびらかとするまでもあるまい。


「えっ? えっ⁉ へえぇッ⁉ そ、そ、それは構いませんけどどど、それならなら、キリサメさ――キリくんも『みーちゃん』って呼んでくれる……よね?」

「……みーちゃん」

「キリくん……」

「みーちゃん」

「キリくん。……あの、そんな見つめられたら困っちゃうなぁ。わ、私ってこ~ゆ~雰囲気も慣れてないし、お、女の子をね、か、か、勘違いさせるのは良くないないよよよ!」

「こういうときは相手を――というか、女の子の顔をしっかり覗き込んで話すよう死んだ母さんに教えられたから。他にも肩を掴んで逃がすなって……」

八雲家ウチ父親ちちと同じレベルでアマカザリ家の教育方針がワケ分かんないんだけど⁉ キリくんのお母さん、一級肉食系男子のトップブリーダー⁉ いや、トップブリーダーの仕事はとは違うし、話の流れからアウトに次ぐアウトな連想になっちゃうしぃっ!」

「良く分からないけど、頭がこんがらがっているみーちゃんも可愛いと思うよ」

「キリくんのお母さ~ん! よくも息子さんをこんな危険人物に育てましたねぇーッ⁉」


 頬の火照りによって未稲の丸メガネが真っ白く曇る頃には、二人の間で敬語も使われなくなっていた。



                     *



 当然ながら未稲はこの出来事を家族にも話していない。秘密にしておくよう約束を交わしたわけでもないが、キリサメも他所で口を滑らせてはいないはずだ。希更などは自分の知らない間に愛称ニックネームで呼び合うほど親密になっていた二人に目を目を丸くしたものである。

 何事にも無反応ではあるものの、キリサメ・アマカザリという少年のなかで人と人との繋がりに対する気持ちが強く深いことを未稲は実感していた。本人にたずねたことはないが、城渡の為人ひととなりに好感を持っているのだろうとも思っている。

 再び〝神速〟を発動させ、双眸を見開き続ける――この過程で〝何か〟がキリサメのなかめ、を〝先輩〟選手に叩き付けることへの罪悪感が涙という形を借りて噴き出したのかも知れない。

 未稲の想像した通りであれば、〝格闘競技〟のリングとは正反対の〝世界〟に引き戻されることを肉体からだが拒絶している証左とも言えるだろう。〝暴力〟という〝闇〟に沈みたくないという声なき悲鳴であった。


「……罪悪感? そんなに甘いものなのかな、サメちゃんのは」


 奇妙な落涙を罪悪感の発露と捉える未稲を鼻先で笑ったのは、ひろたかではなく瀬古谷寅之助である。

 かつて全米にまで勇名を轟かせた近代日本最強の剣道家――森寅雄タイガー・モリの名をけ、その直系の技を受け継ぐ青年はキリサメの身辺警護ボディーガードを務めており、姉弟と同じようにリングサイドの関係者席が用意されていた。


「滴り落ちるそれは歓喜の涙⁉ 〝打撃番長〟からガチンコの洗礼を受けたアマカザリ選手は今! モーレツに感動しているのかァー⁉ インカの恐怖で凍てついた空気からこのゲキアツな感情大爆裂はジェットコースターとしかたとえられない温度差だァ~! ペルーの寒暖差もこんなに極端なのでしょうか⁉ 手元に携帯電話スマホがあれば即検索できるのにィッ!」


 獲物へ咬み付かんとする野獣のように上体を傾けていくキリサメから目を逸らさない寅之助は、マットにまで飛び散った落涙に感傷的な〝何か〟を見出すことはなかった。

 実況用のマイクを掴んだ仲原アナも、未稲と似たようなことを感じ取ったのであろう。新人選手ルーキーの昂揚が極限に達したと場内を煽り、観客たちを一等大きく沸かせた。

 感情を激しく揺さぶられた瞬間ときには、例え負の想念でなくとも涙腺が刺激されるものである。些か過剰な実況ではあったが、仲原アナは根拠を欠いた妄言を撒き散らしているわけではない。それ故に隣席となりの鬼貫道明も口を挟まないのだ。


「キリくんの内面こころの決壊みたいなヤツでないのなら、やっぱりヒロくんが考えたように単純な疲れ目って言うんですか? 目が乾いても涙は出ますけど、それにしたって量が普通フツーじゃありませんよ。玉葱の汁が直撃したってあんな量にはなりませんし……」

「ボクの話、聞いてた? 『そんなに甘いものじゃない』って言ったばっかりでしょ。サメちゃんが生まれ故郷から背負ってきたモノ、キミらも一〇分の一くらいは理解してると思ったんだけどねぇ。どうも買い被りだったみたいだよ」

「……そ~ゆ~訳知り顔の上から目線、照ちゃんもケツを蹴飛ばしてやりたいくらいムカつくって言ってましたよ」

「そ~ゆ~ときは実際に尻を蹴飛ばされるし、何事も有言実行な照ちゃんがボクには可愛くて堪らないのさ。需要と供給がマッチした最高のカップルと祝福しておくれよ」


 地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋を抱えながら試合を見守る寅之助は、キリサメが故郷で犯してきた罪の数々をこの場の誰よりも把握している。

 『あつミヤズ』も特別番組を通じてペルーという国家くにに横たわる格差社会の過酷さや、少年犯罪の実態を暴き立てたが、そこで紹介された程度の知識しか持ち得ない隣席の姉弟と寅之助は、同じかおと落涙を見ても受け止め方が全く異なるわけだ。

 昨年のペルーで起こった大規模な反政府デモ――『七月の動乱』についてさえ、未稲よりも寅之助のほうが遥かに詳しかった。

 騒乱の最終盤には首都リマの闘牛場で一部デモ隊と国家警察が壮絶な銃撃戦を繰り広げている。近隣住民が密かに撮影した写真や動画ビデオであるが、寅之助は銃弾の犠牲者が運び出された駐車場の惨状をインターネットで目の当たりにしている。

 経済格差を拡大せんとする〝大統領宮殿〟を焼き討ちにしようと、テロ組織から銃器を入手した一部デモ隊の全滅という壮絶な結末であった。犠牲者数も国家警察の想定を大きく上回り、死者の尊厳を防護まもる為のシートまで途中で使い果たしてしまった。

 巻き込まれる形で銃を取り、その果てに命を散らした少女の亡骸をシートの代用かわりに覆い隠したのは、乱雑に重ねられた何枚もの新聞紙である。ハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだペルー伝統の手織物――大切に手入れされたスカーフがその上から掛けられていた。

 死神スーパイに魅入られた少女の名前も、キリサメとの関係も寅之助だけが知っている。

 だからこそ、眼精疲労や罪悪感とは比較にならないほどくらいモノが身のうちから溢れ出したのであろうと直感したのである。

 最初はじめの内は友人キリサメの行く末を案じ、神妙な表情かおで試合を見守っていた寅之助であるが、その口元が醜悪としか表しようがないほど吊り上げられていく。


「……この人、未稲さんやお友達一同を巻き込んでキリサメさんに不祥事をのですよね? 理由をこじ付けてでも解雇クビにしたほうがよろしいかと」

「私が提案してないと思う? ていうか、照ちゃん――瀬古谷さんのカノジョにまで『とっとと追い出さねぇと後で泣きを見る』って勧められてるよ。しかものペースで」


 る意味にいて、瀬古谷寅之助という青年に最も似つかわしい横顔を目の端で捉えた姉弟が揃って口元を引きらせたのは言うまでもあるまい。



 同じ時間に異なる場所で自分と全く変わらない笑みを浮かべる人間がるとは、さしもの寅之助も夢想だにしていない。未稲とひろたかは当該する人物のことを良く知っているが、南国を吹き抜ける陽気な風にもたとえられる性情と理解していた為、悪魔ディアーボとしか表しようのない一面を隠し持っているとは姉弟ふたり揃って考えもしなかった。

 二〇一四年六月時点の未稲とひろたかに対し、悪魔ディアーボの差し金で命を脅かされる〝近い将来〟を想像するように求めるのは、地上に存在する全ての格闘技を人権侵害と断定して根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』にも匹敵する理不尽であろう。

 五〇〇〇もの歓声が壁を突き破って聴こえてくる距離に位置しながら、場内の様子はモニターでしか確認できない部屋――白サイドの男性選手が待機する控室に悪魔ディアーボは潜んでいた。

 このとき、モニターに大写しとなっていたのは、左右の頬にこびり付く血を涙でもって洗い落としたキリサメ・アマカザリのかおである。


秋葉原アキバで起こした不祥事でもヤバい奴だとは思っていたけど、……想像以上だな。マトモな競技選手アスリートとは思えないし、少なくとも俺は闘いたくない」


 第二試合を受け持つ〝打投極〟の格闘家シューター――しんかいこう準備運動ウォーミングアップを止めてモニターに釘付けとなり、城渡の鼓膜を引き裂いたものとおぼしきキリサメの喧嘩殺法におののいている。

 ルールによって安全が確保されなくてはならないMMAで人体破壊を平然とやってのけるだから、試合拒否とも受け取れる反応は当然であろう。新貝とキリサメは体重も近く、同団体の男性選手の中では対戦を要請される可能性が最も高いのである。

 興収増加に狂奔しているとしか思えない主催企業サムライ・アスレチックスの運営方針に不満を持ち、興行イベント開催前の喧伝から〝客寄せパンダ〟としたキリサメに言い掛かりを付け、一触即発の事態に陥った〝平成の大横綱〟――バトーギーン・チョルモンは、〝神速〟が発動された直後から複雑な表情を浮かべ続けている。

 世の中の全てが気に入らないとでも言いたげな面持ちは平素と変わらないのだが、その眼差しは新人選手ルーキーの行く末を案じているようにも見えた。少なくとも、リングチェックの際に叩き付けた敵愾心は感じられない。

 その新人選手ルーキーは引退の瀬戸際まで追い込まれた古豪ベテランに貢献し、デビュー戦の敗北という苦い経験を今後の糧に換えるであろうと誰もが予想していた。主催企業サムライ・アスレチックスの喧伝とは裏腹に『天叢雲アメノムラクモ』ファンにさえ勝利を期待されていないキリサメの健闘を素直に褒め称えるのは、彼を「少年チコ」と呼んで励ましたアンヘロ・オリバーレスくらいであった。

 前回の長野興行でも対戦した城渡のことを日本で一番の〝好敵手アミーゴ〟と称賛し、その胸を借りるようキリサメに助言アドバイスしたスペイン出身うまれの男は、両手で握り拳を作りながら双方を平等に応援している。とろけるような笑顔ということは、新人選手ルーキー古豪ベテランによる世代を超えた好勝負に満足しているのだろう。

 人間ヒトは同じものに触れ、個々の思考を挟んだのちに異なる結論へと至る生き物である。キリサメ・アマカザリに対する反応も様々だが、ブロッコリーを彷彿とさせる巨大なアフロ頭の花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルは際立って異様であった。

 そこにったのは一人の悪魔ディアーボである。

 声もなく身じろぎもせず、身も心も凍り付くほどくらい笑みを浮かべていた。冷酷とたとえるには喜色が強く、残忍の二字こそ最も似つかわしいのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』というMMA興行イベントの人気を支える花形選手スーパースターは日本のテレビ番組にも定期的に出演しており、ラテン系の陽気な為人キャラクターで好評を博していた。彼が参加する『天叢雲アメノムラクモ公式オフィシャル観戦ツアーのプランも過去最速で売り切れている。

 MMA以外の分野ジャンルでも引く手数多というわけだが、今はタレントとしてのかおとは掛け離れた酷薄さを露にしていた。

 控室にってレオニダスの変調に気付いたのは、かぶりを振りつつモニターから目を逸らしたバトーギーンただ一人であった。

 真意は掴めないが、キリサメ・アマカザリという存在そのものを心の底からよろこんでいる様子であった。双眸に湛えた歓喜は残虐性を帯びて狂気的に歪み、を見る者に果てしない〝闇〟を感じさせるのだ。

 正常とは認め難い目付きに変わったキリサメに舌なめずりしている――少なくとも、バトーギーンの目には弄ぶべき〝玩具〟を見つけた悪魔ディアーボのように映っている。

 MMAファンを惹き付けてやまない花形選手スーパースターの顔しか知らなかったバトーギーンは、豹変としか表しようのない姿を静かに凝視し、何ともたとえ難い表情かおで目を細めていた。


「……〝同類項〟――か。生い立ちは似通っているかも知れんが……」


 バトーギーンが洩らした呟きはモンゴルの言語ことばで紡がれており、〝同僚〟の誰一人として理解できなかった。それどころか、彼の傍らに立つセコンドも「同類項」という一言が意味するところを掴み兼ねた様子である。

 標的を巧みに絡め取るブラジリアン柔術の寝技に由来し、『スパイダー』なる異名で呼ばれ、胸板からヘソに掛けて蜘蛛の巣と獲物の蝶をかたどったタトゥーを刻むレオニダスは、日本では底抜けに明るい〝キャラクター〟で親しまれている。

 二〇一六年のオリンピック・パラリンピック開催地でもあるリオデジャネイロの犯罪多発地域で生まれたという経歴は、印象イメージに支障をきたし兼ねない為、日本のメディアでは禁忌タブーにも近い状態で封印されていた。

 この六月から開催されているサッカーワールドカップを皮切りに、九年間に亘って続く〝メガスポーツイベント〟は外国人客による経済効果を見込んだ国家事業なのだ。政府も競技施設付近の治安改善をし、ブラジル社会全体に急激な変化が巻き起こっている。

 サッカーを趣味としながらワールドカップ開催中の故郷に帰ろうとせず、『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを優先させたレオニダスの故郷は、政府に〝祭り騒ぎ〟の障害さまたげされた町である。


「二人ともここが正念場ヨ! 勝負はどう転ぶのか、最後のゴングまで分からナイッ!」


 犯罪多発地域の大半は貧困層の居住地であり、ブラジルでは『ファヴェーラ』と呼ばれている――記憶の水底をさらうバトーギーンの耳にアンヘロの声援が割り込んだ。

 控室に設置されたモニターでは、マットに冷たい雫を撒き散らすキリサメが今まさに城渡へ飛び掛かろうとしていた。



 岩手興行の開催前日に実施された公開計量にいてキリサメ・アマカザリは六二キロ、城渡マッチは八一キロとそれぞれ測定されていた。両者の体重差は一九キロと大きく開いており、他の格闘技団体のルールに照らし合わせるとアメリカの『NSB』では三階級、教来石沙門がプロデビューを果たした『こんごうりき』では四階級も飛び越えることになる。

 ミドル級に当該する城渡マッチに対し、キリサメはフェザー級だが、体重は一つ下のバンタム級に限りなく近い。数値のみならば中量級と軽量級の中間であるものの、実質的には後者というわけだ。

 重量級に一〇キロほど足りない中量級選手だが、打撃にこだわり抜く力自慢の城渡は、マットを蹴り付けるだけでリングに悲鳴を上げさせられる。羽根フェザーのように軽いキリサメは人体破壊の技で標的の骨身に損傷ダメージを与えられても、鋼鉄の骨組みには出来ない。

 にもキリサメを苦しめ続けた一〇キロ以上もの体重差が表れているようであった。

 だからこそ、木村レフェリーは己の足元が脅かされたことに瞠目したのである。左の五指で右手首を掴んだまま前傾姿勢となったキリサメが膝を大きく屈伸させた瞬間、リング全体が波打つように揺れたのだ。

 六二キロという体重が最も深く沈み込んだ一点を〝軸〟として、衝撃が波紋のように広がっていく――城渡の〝ゲンコツ〟が本来の狙いを外してマットに突き刺さった際にも逆巻くような形で木村レフェリーの両足に揺れが伝達つたったのだが、キリサメが起こしたものはよりも遥かに大きい。

 試合にいてリングを使用するプロレスでは、耐久性を上回る衝撃あるいは設置時の不備といった要因によって土台から崩落してしまう事故がごく稀に発生する。

 の立場でハプニング映像を眺める分には笑っていられるが、弾け飛んだ支柱ポールがぶつかって選手が負傷する危険性を孕んでいる為、木村レフェリーとしては肝を冷やす思いである。

 四隅の支柱ポールを結び合わせた三本のロープも上下に激しく動揺しており、その有りさまが彼の心情を代弁しているようであった。

 しかし、〝今〟は連綿と続く格闘技史の常識が一人の少年によって破壊されている状況なのだ。体重どころか、人間という種をも超えた〝力〟が闘魂と共にプロレスより受け継いだリングを軋ませている。

 キリサメは単に地団駄を踏んだわけではない。己の涙が飛び散ったマットを蹴り付け、双眸が大きく見開かれた顔を城渡の鼻先まで近付けた次第である。

 一足飛びで肉薄するなか、キリサメは両腕を大きく振りかぶっていた。

 左右の五指を組み合わせ、両拳を巨大な鉄槌に換えて振り下ろすプロレス技――ダブルスレッジハンマーと姿勢そのものは近似しているが、握り締めたのは右拳のみである。

 同じ側の手首を左の五指で掴んでいるのは、垂直の軌道を描くよう上体を固定する為であった。背筋や肩のバネを限界まで引き絞り、これを一気に解き放つのだ。

 〝格闘競技〟とは相容れない暴力性の顕現あらわれ――『聖剣エクセルシス』を縦一文字に閃かせる動作と全く同じであった。当然ながら、には膂力の使い方といった術理も含んでいる。

 左の五指にて対の手首を掴んだのは、刀剣マクアフティルのツカを握り締めるのと同じ要領である。

 ノコギリの如く禍々しい刃で引き裂けなくとも、接触するだけで致命傷を与えられるほど『聖剣エクセルシス』は重い。ひとたび、斬り付ける部位を定めたならば、船のオールにも見える刀身を振り抜き終えるまで軌道を曲げることは不可能なのである。

 『聖剣エクセルシス』を繰り出す動作によって全身に働く〝力の作用〟を徒手空拳にて再現したものであり、養父を模倣したダブルスレッジハンマーとは似て非なる技であった。

 それはつまり、落涙と共に双眸を見開くキリサメの〝感覚〟が日本ハポンのリングから切り離されたことを意味しているわけだ。


「オレにもッ! 意地があっからよォッ! 最後までッ! とォことん付き合わァッ!」


 キリサメの跳躍は再び〝神速〟に達しており、城渡の双眸にはくうに焼き付いた残像さえも捉え切れない。ましてや三半規管を貫いた衝撃による眩暈も収まっていないのだ。一時的ながら視覚機能そのものが衰えている為、自分に向かって突進してくるキリサメが前傾姿勢から転じて胸を反り返らせるほど大きく右腕を振り上げるさまなど見極められなかった。

 どのような攻撃を仕掛けられるのかも分からない状態で再び頭部あたまを脅かされた次第であるが、頭蓋骨を軋ませる鈍痛いたみも脳に伝達つたう振動も、気構えさえ万全であれば耐え切れる。

 完全に意識の外から襲い掛かってくる不意打ち――即ち、第一ラウンドの開始直後に場内を震撼させた〝神速〟の一撃とは異なるのだ。


「しぶとい――」


 深呼吸と共にキリサメの口から吐き出された一言は、偽らざる本心であった。

 顎を防護するマウスピースに亀裂が入るほど強く歯を食い縛り、四肢の隅々まで力をみなぎらせてマットを踏み締めた城渡は、己から最初のダウンを奪った瞬間と同等の〝神速〟で繰り出された一撃も意識を刈り取られることなく耐え抜いたのである。

 当然ながら無傷では済まない。頭頂から眉間へと一直線に抉れ、そこから噴き出した鮮血によって城渡の顔が真っ赤に染まっていく――僅かに遅れて爆発した大歓声にも表れているが、五〇〇〇という観客も致命傷に近い痛手ダメージであったと確信していた。他ならぬキリサメ自身が右拳に確かな手応えを感じている。

 しかし、一つの事実として城渡は片膝を屈することもなかった。それどころか、疲弊の蓄積を感じさせない鋭さで旋回し、伸ばした状態の右腕を振り回したのである。


「ンんどォらァァァァァァッ!」


 調子の外れた吼え声を引きずるようにして内へと水平に振り抜いた右腕には猛烈な遠心力が働いており、その勢いは上半身のバネを駆使して繰り出す〝ゲンコツ〟に勝るとも劣らない。風を薙ぐ音には眩暈の影響など少しも感じられなかった。

 やや変則的な打ち方ではあるが、プロレスにける回転式ラリアットである。頭部あたまから噴き出した鮮血が赤い帯の如く城渡の動作うごきを追い掛けていったが、奇しくも『キリサメ・デニム』の臀部を覆う尾羽根と似たような軌道をくうに描いていた。

 本人の失血を案じるだけでなく、対戦相手への感染症予防という観点からも速やかに応急手当を指示すべきであったのだが、割って入ろうと身構えた直後には木村レフェリーの視界からキリサメの姿が掻き消えていた。

 対象を見失ってしまったのだから、身体からだを張って試合を止めることも出来ないわけだ。

 城渡のラリアットがキリサメの首を真正面から捉えたのは、木村レフェリーが幾度かまぶたを開閉した直後である。古豪ベテランの右腕が腰の動きと連動して振り抜かれると、新人選手ルーキーは後頭部からマットに叩き付けられ、微かに開いた口から忌々しげな呻き声が洩れた。

 『ラリアット』も種々様々である。城渡が繰り出した種類タイプは純粋な打撃ではなく、伸ばした腕を相手の首に巻き付け、勢いよく投げ落とすことを重視したものだ。


「城渡選手が持っていて、アマカザリ選手が持っていないと思われるもの――その差がここからの明暗を分けるのかも知れません。城渡選手はそれこそMMAのリングに上がる前から血だるまで闘うことに慣れています。あるいはこそが彼の本質でしょう。頭も肉体からだもフラつく状態で、それでも自分の攻撃を命中させるには〝何〟が必要なのか、彼は長年の経験から熟知している。〝底力〟と呼ばれるモノは、体力や技の完成度だけを指す言葉ではありません」


 比喩でなく文字通りの〝目にも止まらぬ早業〟を誰よりも早く看破したのは、口を大きく開け広げたまま硬直する仲原アナの隣席となりで技術解説のマイクを握っている鬼貫道明だ。

 『昭和の伝説』と畏怖される名レスラーが読み解いた通り、城渡がラリアットを命中させたというよりは、キリサメのほうから彼の右腕に吸い込まれていったようにも見えた。

 同じ現象は城渡が追い撃ちを試みた瞬間にも起こった。

 倒れ込んだキリサメを踏み潰そうと脛に走る痛みを堪えながら右足を持ち上げる城渡であったが、不意に後方うしろへと振り向き、を一本の槍の如く水平に突き出した。踏み付けストンピングから空手のそくとう蹴りに転じたのだ。

 その蹴り足がキリサメの胸部に突き刺さっていた。奇抜な試合着ユニフォームから〝ケツァールの化身〟などと喧伝されるキリサメには皮肉としか表しようのない事態であるが、〝百舌鳥もずはやにえ〟を彷彿とさせる有りさまであった。

 このときにも木村レフェリーや仲原アナはキリサメの姿を見失っていた。余人の網膜に残像すら焼き付けないはやさで城渡の背後まで回り込もうとしたのである。この古豪ベテランは視界の外から突き立てられようとしていた牙を迎え撃ったわけだ。

 無論、キリサメが引き出した〝神速〟には追い付きようもない。正面から向き直って迎撃態勢を整えることは間に合わないと判断し、相手に側面を晒すような状態から速射砲の如きそくとう蹴りに切り替えたのである。

 先程のラリアットと同様に今度もキリサメのほうから城渡の蹴りに突っ込んでいき、えなく返り討ちに遭ったのだ。胸部から背面へと突き抜けた鈍い音からも小さな痛手ダメージでないことは明らかであった。


「ぶっちゃけ、アマカザリ選手の動きは九割ほど見逃しちゃいましたけど、それに関してのご批判は一個たりとも受け付けませんよ~。私みたいな一般人パンピーに人間離れした〝力〟は荷が重過ぎますからね~。今の〝神速はやさ〟を自分の目で確かめられた方だけお叱りの言葉をぶつけてくだッさ~い!」

「誰にも仲原さんは責められませんよ。リングに向けられた全部のカメラからもアマカザリ選手の姿が消失しているハズです。勿論、この老いぼれの目にも映りませんでした」

実況はなしを本筋に戻しますが、城渡選手が『くうかん』道場で鍛えた空手キックの前に踏み付けるような動作うごきを見せたのは、〝本命〟の射程範囲までアマカザリ選手を誘き寄せる為のフェイント……ですか?」

「相手の動きが掴み切れず自分から当てられないのなら、自分の拳をよう仕向ける――力自慢というだけでは〝打撃番長〟の呼び名で尊敬を集めることもありません。新たな〝切り札〟を返された程度で狼狽うろたえないタフさにもあらわれています」


 仲原アナの分析に対し、鬼貫は補足説明を述べつつ頷き返した。普段のような訂正を求めないということは、彼女の双眸が珍しく攻防の実態を見極めていた証左である。

 補足説明として鬼貫が述べた通り、誰のにもキリサメの〝神速〟を追い掛けることは不可能であった。それにも関わらず、城渡はプロレスのラリアットと空手のそくとう蹴りで二度もの迎撃に成功したのだ。

 現在の城渡は尋常ならざるはやさを捉え切れずに立ち尽くしているわけだが、例えば瞼の内側に血が流れ込んだことで視界が遮られたときにも状況は著しく近似する。〝相手の動きが見えない〟という条件に合致するとも言い換えられるだろう。

 つまり、城渡は新人選手ルーキーが飛び込んでくるであろう場所を先んじて読み抜き、そこに腕と足をのだ。これならば相手の姿を捉え切れなくとも、打撃を命中させることが可能となる――自動車を趣味とする人間の目には、アクセルを最大まで踏み込んだ小型乗用車が障害物へ追突したようにも見えたはずである。

 『昭和』と呼ばれた時代から日本格闘技界を牽引してきた鬼貫道明が〝目にも止まらぬ早業〟を看破できたことと同様である。長い歳月の中で積み重ねてきた古豪ベテランとしての経験が残像すら映さないはやさで動き回る新人選手ルーキーを返り討ちにしたのである。

 人智を超えた〝力〟を発動させた状態とはいえ、キリサメは特撮番組の超人バイオグリーンのように両手から必殺光線を放てるわけではない。標的を仕留めるには肉薄しなくてはならず、それを見越して腕を振り回しておけば、首でなくとも肉体からだの何処かに命中するであろう。

 〝神速〟と言えども、サイエンスフィクションで描かれるような空間移動テレポーテーションでもない。仮に異なる空間へ瞬時にして身を移す異能ちからの持ち主であったとしても、向かう先を見破られては絶対的な有利が消失してしまうのだ。

 轟然たるラリアットでマットに叩き付けられた直後、キリサメの姿はリングから再び掻き消えたが、追撃を想定すれば何時までも城渡の正面に留まり続けるはずがない。さりとて追い込んだ相手から離れる理由もない――古豪ベテランとしての勘働きによって背後に回り込んだ上での反撃を読み切った次第である。

 八一キロという体重で踏み潰されることは、キリサメにとって確実に致命傷となる。右足を持ち上げるというフェイントによって絶体絶命の危機と錯覚させ、緊急回避行動を彼にのだ。

 『昭和の伝説』が明暗を分ける要因として挙げたのは、新人選手ルーキー古豪ベテランの経験の差というわけである。何しろ城渡マッチはMMAのリングに立つ以前まえから徒手空拳ステゴロの喧嘩に明け暮れてきたのだ。目隠しをされた状態でも殴り合えるほどしているのだった。

 必殺の一撃を確実に叩き込めるよう仕向けるのは、城渡が若かりし頃に体得した『くうかん』空手の神髄――〝サバキ〟にも通じる技術であろう。空間移動テレポーテーションではないのだから、左右の足が止まってしまうと当然ながらキリサメもその場に釘付けとなる。

 蹴り足と〝軸〟を入れ替え、全身を反対方向へと捻り込んだ城渡は〝ボンタン〟を波打たせながら追撃の飛び後ろ回し蹴りを繰り出し、キリサメの顔面を弾き飛ばした。

 今日がプロデビューという新人選手ルーキーには望むべくもない経験を武器に劣勢を覆しつつある城渡とは正反対に、キリサメのほうは試合中に試行錯誤を繰り返してきた〝フェイント殺法〟を切り捨て、急所に狙いを定めた力攻めしか考えられなくなっている。

 は素早い一撃で標的を破壊する喧嘩殺法の本質であるが、すがだいら合宿で親友――空閑電知と特訓トレーニングを重ねた防御技術までもが思考あたまから抜け落ちてしまったようであった。

 飛び後ろ回し蹴りによって吹き飛ばされ、支柱ポールを結び合わせるロープに背中からぶつかることになったキリサメは猛烈な弾力性によって前方に跳ね返されてしまった。しかし、その動作うごきは〝神速〟の領域には程遠い。

 前回の長野興行にいて、八雲岳はロープの反動を利用した急加速で対戦相手バトーギーン・チョルモンの背後まで回り込み、〝プロレスの神様〟から直伝された脳天逆落としジャーマンスープレックスを仕掛けたのである。

 養父が実践をもって示した通り、〝神速〟を組み合わせればロープの弾力性も強力な武器に換えられたはずである。それが出来ないくらいキリサメの痛手ダメージは深刻というわけだ。

 城渡は依然として呼吸いきが荒く、肉体からだの疲弊によって大きく衰えた攻撃力も殆ど回復していないが、突進の速度が上がれば上がるほどキリサメの側に跳ね返る痛手ダメージも大きくなる。

 しかも、現在いまは電知から伝授された防御技術も駆使していない。四肢が接触する瞬間に打撃を受け流し、最大の威力が生み出される〝芯〟も外さないのだから、そくとう蹴りで胸部を抉られたキリサメは前傾姿勢となった上に両足まで止めてしまっていた。

 無防備のまま飛び後ろ回し蹴りの直撃を許したことも、背にしたロープの弾力性を生かせなかったことも当然といえよう。胸部に亀裂が走り、瞬間的な心臓震盪が発生した可能性も否めなかった。


「立ってこい、アマカザリ! オレたちが受け持ってんのは第一試合だぜ⁉ 『天叢雲アメノムラクモ』の先鋒はKOでなくちゃいけねぇッ! レフェリーなんぞに勝敗を決めさせんなッ!」


 ついに右腕と左膝をマットに突いてしまったキリサメを燃え盛る瞳で見据えた城渡は、彼の血が付着する指貫オープン・フィンガーグローブで包まれた拳を激しく打ち合わせ、次いで両腕を大きく開いた。内なる闘魂たましいを奮い立たせて正面から突撃してくるよう新人選手ルーキーを挑発しているわけだ。これを全力で受け止めるという古豪ベテランの覚悟も同時に示していた。

 第一試合以降にリングへ臨む〝同僚〟の為にも、場内の熱気を冷ますわけにはいかないのだと古豪ベテランは心得ている。だからこそ『スカ勝ち』でなくてはならないと新人選手ルーキーに諭そうというわけだ。

 『スカ勝ち』とは強烈な打撃によって〝スカッと痛快〟なノックアウトを勝ち取るといった意味合いの用語ことばである。


「ここまで来たら、とことんブッ千切れッ! ゴングが鳴ったときにぶっ倒れちまっても養父とうちゃんが医者のトコまでおんぶしてやっからよォッ! もう長くたねェのはマッチも一緒だッ! 一気に攻め切れェッ!」

「諸刃の剣を鞘に納めるのだって一つの勇気だよ、キリサメ君! 今すぐにを止めるんだ! 一分先の金星を掴む為にも、一秒先の自滅に手を伸ばしちゃいけない! キミならに頼らなくとも十分に勝負できるだろうッ⁉」


 正面から対峙する城渡に続いて、白サイドのコーナーポストに立つ岳と麦泉も第二ラウンド最後の一分間の試合運びをキリサメに指示したが、その言葉はまたしても噛み合わない。

 尤も、二人は意見をたがえたわけではない。キリサメの肉体からだが第三ラウンドまでたず、更なる持久戦は自殺行為にも等しいという認識は一致しているのだ。

 人間という種の限界を突破する〝力〟は、その代償としてキリサメに命を削るよう求めており、『天叢雲アメノムラクモ』のリングで初めて〝神速〟を披露した直後でさえ現在いまの城渡よりも疲弊が酷かったのである。

 刹那の発動にも関わらず、心臓と肺が破裂しそうなほど悲鳴を上げたのだ。その状態を長時間に亘って維持し続ければ、肉体の損傷も相応に蓄積されていく。あるいは第二ラウンド終了の合図ゴングが鳴り響く前にたおれてしまうかも知れない。

 最悪の事態を懸念していればこそ、岳は無理を押してでも速やかに勝負を決するようキリサメに訴えたのだ。その判断については麦泉も否定する理由がなく、尻や耳朶を抓ろうとはしなかった。


「……おあああ――ッ!」


 自分を見守ってくれる二人セコンドの言葉で奮い立ったのか、MMA選手としての〝立場〟を想い出して『スカ勝ち』を求める〝先輩〟の挑発にえて応じたのか――ダウン判定を宣言するべく木村レフェリーが身を乗り出した瞬間ときには、キリサメの姿が再びリングから掻き消えた。

 片膝を突いた場所に余韻の如く残されたのは落涙なみだの痕跡と、何事にも無感情な少年には似つかわしくない吼え声のみである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、両膝の屈伸と共に再び〝神速〟を発動させたのだ。

 五枚の尾羽根をなびかせ、岳の奇声と麦泉の悲鳴を振り切ったキリサメは、ヒサシの如きリーゼント頭を歓喜で震わせている城渡に肩からぶつかっていく。

 力任せの殴り合いとは何もかもが異なる総合格闘技MMAいて、テイクダウンといった次なる技への変化を伴わない体当たりタックルは有効とは言い難い。を好んで使う城渡が今までの攻防で証明した通りである。

 ましてやであるキリサメでは、六二キロという全体重を浴びせても大した痛手ダメージは与えられまい。城渡の身を挟むようにして支柱ポールまで押し込めば、肋骨の一本くらいはし折れるだろうが、肝心の彼はリング中央にてマットを踏み締めているのだ。

 甚だ合理性を欠いた反撃は、比喩でなく本当の意趣返しなのであろう。先ほど背後に回り込んだ上で急所を狙ったのも、ラリアットによって後頭部からマットに落下させられた報復しかえしであったのかも知れない。

 〝神速〟の体当たりタックルは城渡を大きく後退させたものの、ロープ際には程遠い位置で堰き止められてしまった。今度も一九キロという体重差と、四肢にみなぎらせた力がキリサメ・アマカザリという暴威を跳ね返したのだ。


「太古の昔から人間ヒトは魂を拳の形に換えてぶつけ合ってきたッ! 二人の喧嘩師が原始の息吹を呼び起こすときッ! 現代を生きる我々は生存闘争が持つ真の意味を悟るッ! これぞッ! これぞ喧嘩マッチの華だァァァァァァッ!」


 互いの鼻息が鼓膜に吸い込まれるほどの至近距離で城渡と顔を見合わせたキリサメは、効果の薄かった体当たりタックルに続いて頭突きを仕掛けた。およそ〝神速〟には及ばない勢いであったが、紺色のシャツや顔に深紅の斑模様を飛び散らせるには十分である。

 城渡の側も負けてはおらず、後方へ弾かれた首を振り子の如く無理矢理に引き戻し、新たな血飛沫と共に互いの眉間をぶつけ合った。一等昂る仲原アナも実況で熱弁したが、それは原始的としか表しようのない力と力の激突なのだ。

 法治国家日本のから切り離された蛮性が鮮血のいろと合わさり、破壊の本能と入り混じっていく攻防は会場全体を最高潮に沸騰させたが、選手の安全性という観点では憂慮すべき展開である。『天叢雲アメノムラクモ』のルールでは禁止されていないものの、脳の損傷や深刻な後遺症と表裏一体の危険行為に変わりはない頭突きバッティングが繰り返されたこともあり、木村レフェリーも両者の間に割って入ろうとした。

 だが、心身の異常を確かめる声では城渡とキリサメを止めることは叶わない。もはや、第三者には押し止められないほど日秘の喧嘩師は野性を剥き出しにしているのだ。

 猛烈な頭突きを見舞いつつ、キリサメの胴に両腕を巻き付けた城渡は羽根フェザーのように軽い身体からだを振り回すと、さかさまの状態で高く持ち上げた。

 くうに残像すら焼き付けない〝神速〟は、直接的に対峙する者には絶望を刻み込まれる脅威でしかないが、比喩でなく物理的に抱えてしまえば、その効果を抑え込めるわけだ。

 キリサメを迎えるようにして両腕を開いたのは、この状況まで誘導する〝罠〟である。


「ウルトラ・スーパー・マイティ・ストロングス・バックブリーカーッ! 血よりも濃いおとこたちの結束と呼ぶべきかッ⁉ 親友直伝の大技が今日も嵐を呼んだァッ!」

「……何時も思うのですが、その長ったらしい技名なまえはどこの誰が付けたのですか? 自分も〝この道〟が長いのですけれども、王道的オーソドックスなバックブリーカーにしか見えませんよ」


 こそが白サイドのセコンドからキリサメに警戒を呼び掛けていた投げ技である。

 親友の二本松剛に直伝されたというが、彼は『天叢雲アメノムラクモ』のMMA選手ではない。暴走族チームの副長として乱闘に臨んだ際、立ち向かってくる敵をこの豪快な技でもって仕留めたのだろう。血気に逸る若かりし頃には警察官すら返り討ちにしたのかも知れない。

 『昭和の伝説』――鬼貫道明も慣れ親しんだプロレスのバックブリーカーである。

 抱え上げた頂点から相手を急降下させ、この動作うごきに合わせて片膝を突き、垂直に立てた側の膝頭に背中を叩き付けるのだ。それ故に『背骨折り』という別名でも呼ばれている。

 本当に背骨がし折られることはなくとも、人体の中でも特に硬い部位で背中を強打されたなら、その衝撃は肺をも貫くのである。飛び膝蹴りと異なり、急降下の勢いをも利用するのだ。身動きが取れなくなるほど激甚な痛手ダメージは免れなかった。

 〝神速〟を封殺された状態ではあるものの、依然としてキリサメの双眸は見開かれたままであった。それ故にバックブリーカーが確実な致命傷を招くと本能の領域にて直感したのであろう。今まさに投げ落とされようとする寸前で城渡の胸や肩を蹴り付け、急降下の勢いに逆らいながら両腕による拘束を引き離し、空中へと抜け出した。

 この試合がショーの要素が強い王道的なプロレスであったなら、キリサメも五枚の尾羽根を巻き込むようにして宙返りを披露し、マットへ降り立つのと同時に城渡と肩越しに睨み合う〝演出〟も有り得たことであろう。

 しかし、これはMMAという〝格闘競技〟である。ありとあらゆる格闘技術が解き放たれた〝実戦〟のリングである。親友直伝の技を仕損じた城渡はすぐさまに振り返って両腕を伸ばし、今まさに逃れようとしていたキリサメの左足首を掴んだ。


「ぬゥおおおおおおぉぉぉぉぉぉォォォォォォッ!」


 城渡の口から迸る吼え声は、リングを取り巻く人々の耳に歪曲としか表しようのない形で届いたことであろうが、その原因と鼓膜の損傷による一時的な影響は無関係である。

 キリサメの片足を両の五指にて掴んだまま、城渡はその場で猛烈に旋回し始めたのだ。竜巻でも起こすかのような動作うごきを僅かに遅れて大音声が追い掛ける恰好であった。

 変則的な様式スタイルではあるものの、ジャイアントスイングと呼ばれるプロレス技だ。〝打撃番長〟の異名を取る彼にとってはバックブリーカーよりも更に似つかわしいとは言い難い投げ技であるが、鍛え抜かれた四肢の力を駆使して轟々と遠心力を生み出している。


「――しゃあぁぁぁぁぁぁァァァァァァッ!」


 旋回を維持したまま城渡は徐々に姿勢を傾けていき、十分過ぎるほど勢いが付いた瞬間にキリサメの頭部あたまがマットを擦らないよう一等大きく跳躍すると、彼の身を己の立つ真上へと放り投げた。

 両足を執拗に痛め付けられ、更には平衡感覚まで著しく乱されていた城渡は、キリサメの片足から五指を剥がした直後に横転しそうになったが、眉間に血管が浮き上がるほど強くマットを踏み締めて堪え、空中に放り出した標的が垂直落下を始める頃には追撃の拳まで握っていた。

 そもそもジャイアントスイングはMMAの試合には不向きといっても過言ではない。遠心力によって自他の三半規管を揺さぶることは可能であるが、直接的な痛手ダメージなどは絶無に等しく、体当たりタックルのように次なる攻防へ発展させていくことも難しいのだ。

 四隅に立つ支柱ポールに狙いを定め、そこに相手を投げ付ければ激甚な痛手ダメージを与えられるはずだが、高速旋回の最中に放り出す方向を完全に制御コントロールすることは専門家プロレスラーでもないと極めて困難であり、仮に成功させられたとしても危険行為とされ、レフェリーから反則負けを言い渡されてしまうだろう。

 つまるところ、観客を楽しませる為のパフォーマンスに過ぎないのだが、標的を頭上よりも高く放り投げた場合には、攻防の筋運びが随分と変わってくる。空中にる間は満足に身動きも取れず、殆ど無防備にも等しい状態となるのだ。そこに渾身の力を叩き付けるという〝サバキ〟の応用であった。

 殴り方によっては頚椎破断まで起こり得る。文字通りの一撃必殺であり、MMAにいては何の役に立たないと決め付けられていたジャイアントスイングの評価が〝打撃番長〟との相性によって一変してしまうのだった。

 キリサメ・アマカザリは尋常ならざる〝力〟を解き放ってはいるものの、例えば希更・バロッサがアニメ作品で演じるような超能力者エスパーではない。蒼天そらを自由に飛翔できるわけでもなく、重力の法則に従わざるを得ない生身の人間と変わらないのである。

 その一方で、身体能力の優れた者であれば跳躍の頂点にて姿勢を整え直すことも不可能ではないと、ヴァルチャーマスクという前例が示している。〝超人レスラー〟と同様の才能に恵まれたキリサメも巧みに身を翻し、反対に城渡へと飛び掛かっていった。

 突き上げられた鉄拳をすり抜けながら彼に組み付き、その場に押し倒した次第である。


「……バックブリーカーの抜け方にも目ン玉飛び出るくらい驚かされたが、まさかジャイアントスイングまでとはな……。こうも豪快に〝プロレス泣かせ〟が続いたら、さすがに落ち着いてはいられんぞ……ッ!」


 ほんの一瞬ながら鬼貫は技術解説の役割を忘れて実況席から身を乗り出してしまった。

 キリサメのことを〝超次元プロレスの跡継ぎ〟と呼んだのは鬼貫自身であるが、愛弟子ヴァルチャーマスクにも匹敵する空中戦が展開されたのだから、先程の岳と同じように瞬間的な昂奮が跳ね上がっても仕方あるまい。

 その上、マットに叩き付けられた城渡も止まらないのだ。ドロップキックさながらに左右の足を揃え、自分に向かってし掛かってくるキリサメの腹部を蹴り付けたのである。

 このとき、五指を開いたキリサメの手付きは、明らかに絞殺を図るものであった。城渡の蹴りで弾き飛ばされていなかったなら、木村レフェリーから〝プロ〟のMMA選手にあるまじき蛮行として反則を言い渡されたはずである。


「考えるな、感じろ――オレとの試合たたかいで〝何か〟を感じてくれたかよ? ブルース・リーのこの至言ことば思考かんがえることを超えて肉体からだのほうが反応して電撃的に動くよう鍛えろって教訓が本来の使い方なんだけどよ。……いつかお前が辿り着く未来の手掛かりになれたか? 『自分たちの屍を超えてゆけ』ってェヴァルチャーの話に乗っかるのもシャクだがな」


 両足を高く持ち上げ、を振り落とす勢いで跳ね起きた古豪ベテランは、少しばかり離れた位置で片膝を突いている新人選手ルーキーに向かって右の人差し指を伸ばし、この試合が始まってから最も愉しげな笑顔を浮かべた。


「ぼちぼちケリつけようや、アマカザリ。この試合で感じたモンがお前にくれてやる香典の代わりだ。……マジで棺桶行きにならねェよう気合い入れ直しなァッ!」


 人間という種を超越したとしか思えない〝力〟を長時間に亘って引き出し続けた代償は余りにも大きく、キリサメ呼吸いきは木村レフェリーが様子を確かめないのがおかしいくらい荒くなっている。右の五指でもって己の左胸を掴むということは、心臓の鼓動も破裂を案じる速さとなっているのであろう。

 だからこそ、城渡は最終局面に入ったことをキリサメに言い渡したのである。

 ここまでは〝根性比べ〟ともたとえるべき攻防を続けてきたが、城渡自身の肉体からだも無理が祟って弾け飛びそうなのだ。脳内麻薬が分泌されている為、下肢を突き刺す激痛は最小限に抑えられたが、身のこなしは疲弊の影響で自覚できるほど衰えていた。万が一にも第三ラウンドまで長引かせてしまったなら、己の体重すら支えきれなくなる。

 間違いなく次の攻防で完全決着を迎える――この確信も歴戦の経験で鍛えられた古豪ベテランの勘働きによって導かれたものである。


「オレたち、MMA選手がリングに残しちゃならねェモンをバカオヤから教わったか、アマカザリ? ……悔いだけは絶対に残すなよ。同じ相手と再戦するにしても、その試合で味わえるモンや掴めるモンは一度きりの巡り合わせだ! 完全燃焼と行こうぜッ!」


 一等強く吼えた城渡は第一ラウンド最初の攻防と同じようにマットを蹴り付け、猛牛バイソンさながらの勢いで間合いを詰めていった。右拳を硬く握り締め、打撃の予備動作として外から内へと腰を大きく捻り込むさまも先程の再現に近い。

 溢れんばかりの殺意を帯びた憤怒の形相と、得体の知れない新人選手ルーキーを『天叢雲アメノムラクモ』の仲間として認めた親愛の笑顔――体力の消耗による変調はあるものの、この表情こそが第一ラウンドと現在の最大の差異ちがいなのだ。

 胸が躍る時間も〝次〟で最後と理解していればこそ、古豪ベテランの〝誇り〟として新人選手ルーキーに情けない姿は晒せない。日本MMAの歴史を背負い続けてきた人間には果たすべき責任がある。城渡マッチは決着のゴングが鳴り響くまでを貫く覚悟であった。


「……もういい」


 そのキリサメは先程と同じ言葉を怖気が走るほど無感情に呟き、で包まれている左拳を握り締めた。城渡はキリサメに背中を向けるくらい腰を捻り込んでおり、上半身のバネを振り絞って殴り掛かることであろう。

 一気に間合いを詰め、力を溜めに溜めた直線的な一撃ストレートパンチを解き放つものと見て取ったキリサメは、城渡の動作うごきと合わせるようにして自らも強く踏み込んでいく。軸足から始まって腰、肩、肘、手首に至るまで連動的に回転を加え、螺旋の力を拳に宿すコークスクリューフックで迎撃カウンターを試みようというわけだ。

 城渡が仕掛けようとしているのは『テレフォンパンチ』とも呼ばれるものであった。四肢を大きく振り回す打撃は威力も相応に高まるのだが、それだけに動作うごきも単調で容易く見破られてしまう。MMAに限らず、格闘技では自滅を招き兼ねない〝悪手〟とされることも多いのである。

 テレフォンパンチに分類される打撃を好むという荒々しい気性は、攻防を組み立てる上での選択肢を狭めるだけでなく、MMA選手としての成長そのものを阻害した――動画サイトの専門チャンネルで『あつミヤズ』が配信している『天叢雲アメノムラクモ』の解説番組にいても城渡の弱点は兼ねてから批判の対象となってきた。

 一方のキリサメも故郷ペルーにて背中を預け合っていた相棒――ニット帽の男から「一撃必殺に拘泥する余り、身のこなしも狙い定めた部位も見破られ易い」と、喧嘩殺法の欠点を指摘されている。城渡のテレフォンパンチとも大きな差異ちがいがなく、岩手興行の閉幕後に『あつミヤズ』から情け容赦なく扱き下ろされるはずだ。


「――MMAの試合でテレフォンパンチ⁉ 二〇一〇年代も半ばに入ったってゆ~のに二人揃ってテレフォンパンチ⁉ 実況では『原始の息吹』とか涙ぐましいくらいに無理くり盛り上げてましたけど、ミヤズに言わせれば原始時代に退行したようなモンですよ! 進歩のない城渡選手だけならまだしも、今日がデビューのアマカザリ選手まで目クソ鼻クソをやらかすなんて、こりゃあ『天叢雲アメノムラクモ』もお先真っ暗だぁ~!」


 歯に衣着せぬ物言いと悪口の狭間を反復横跳びする〝キャラクター〟の声が脳内あたまのなかに聴こえてくるような交錯をもって『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の第一試合は最終局面に突入した。

 〝根性比べ〟を繰り返した果てにテレフォンパンチを撃ち合う状況となった――そのようにも言い換えられるだろう。

 会場に詰め寄せた五〇〇〇という観客たちは言うに及ばず、実況席の二人コンビも両サイドのセコンドも、この場の誰もが拳によって互いの身を破壊し合う蛮性の頂点を想像していた。

 しかし、〝筋書きのないドラマ〟は往々にして大勢の予想を裏切るものである。予定調和を突き破る劇的な展開が起こるからこそ、スポーツという言葉が生まれる前から人々を熱狂させてきたのだ。

 己に迫る右腕をすり抜けながら横薙ぎの左拳を閃かせんとするキリサメであったが、螺旋の力が城渡の側頭部にねじ込まれることはなかった。新人選手ルーキーの想定以上に古豪ベテランは腰を大きく捻り、直線的な一撃ストレートパンチを放つはずであった腕を水平に振り抜いたのである。

 コークスクリューフックを迎え撃つべく同種の技に変化したわけではない。横薙ぎの拳フックパンチどころか、肘の内側を引っ掛けるようにして互いの腕を絡め合わせたのだ。

 キリサメからすれば裏の裏を掻かれた恰好であった。距離感を狂わされるほど城渡の踏み込みは深く、姿勢そのものが崩れてしまう紙一重まで上体を傾かせていた。これでは螺旋の力が宿った拳もリーゼント頭の真上を掠めるしかない。


他人ひとからザマに見えるくらいしぶとくなけりゃ、MMAのリングじゃ生き残れねェってワケさァ! ……どこまでも自分てめーを貫けよ、アマカザリ。これからはくだらねーコトを吹いて回るクソ野郎も出てくるだろうが、ンなモンは振り払っちまえッ!」


 互いの肘が悲鳴を上げるほど強烈にキリサメの左腕を〝捕獲〟したまま、城渡はマットに大きな円を描き始めた。

 下肢と上肢の差異ちがいこそあれども、先程のジャイアントスイングに続いて全身を振り回されるキリサメであったが、という体重に加え、古豪ベテランよりも酷く疲弊してしまった状態ではマットを踏み締めて耐えることも叶わない。


「例の社交ダンスの映画が公開されたのって、前身団体バイオスピリッツの旗揚げと同じ一九九七年でしたよね? あ、違うか! アマカザリ選手のふるさとで日本大使公邸占拠事件が起きた年だから一九九六年ですね! 封切りの年はともかく映画のダンス大会を想い出す光景ですよ」

「この局面で〝サバキ〟に勝負の行方を託すとは……! 城渡選手は日本MMA一七年の歴史のみならず、今日まで培ってきた〝全て〟をぶつけるつもりですね! 一分置きに新たな進化を遂げていくこの勇姿すがたこそ古豪ベテランの〝底力〟でしょうッ!」


 実況席にて二人コンビの声が入り混じるなか、キリサメは己の身から自由が奪い取られていく恐怖を感じていた。今度も鬼貫道明が看破した通りというわけである。

 社交ダンスを彷彿とさせる回転で遠心力を生み出し、これを利用して放り投げようとしたのではない。キリサメの姿勢を崩す為の〝サバキ〟であった。

 若き日の城渡が稽古を積んだ『くうかん』空手の神髄とも呼ぶべきこの技法サバキは、相手の攻撃を巧みに受け流して姿勢を傾けさせるほか、投げ技をも併用して無防備化し、必殺の一撃を叩き込むものである。

 その術理に基づく〝力の作用〟がキリサメの身体からだを呑み込んでいる。〝サバキ〟自体が殺気や害意を帯びることは皆無である為、格差社会の最下層が〝闇〟は反応せず、本人の意識を超越する〝神速〟の緊急回避も引き出されなかった。

 城渡による腕の〝捕獲〟は間もなく外れたが、そのときには片膝を突きそうになるくらいキリサメの姿勢は崩れており、マットを蹴り付ける音が鼓膜に吸い込まれた直後、視界の全てが黒く塗り潰された。

 それと同時に鎖骨が軋むほどの重量おもみが両肩へと食い込み、これによってキリサメは己の置かれた状況を直感した。

 大きく見開いているはずの双眸を塞いだのは、『昭和』と呼ばれる時代から不良ツッパリが好んできた〝ボンタン〟である。これを穿いた城渡が〝サバキ〟でもって上体を傾かせたキリサメの肩に飛び乗ったのだ。


おぼえとけよ、アマカザリ――〝とっておき〟っつーモンはよ、最後の最後まで見せちゃならねぇんだよォッ!」

「が……ッ!」


 城渡の吼え声と共にキリサメの脳天へと降り注いだのは〝戦争の音〟であった。試合を見守る人々の耳には、バリバリと火を吹くバルカン砲さながらの打撃音が聞こえている。

 両足でもって首を挟み、標的キリサメを逃がすまいと〝拘束ロック〟した状態で城渡は左右の拳を交互に叩き込んでいた。自らの姿勢も制御しており、振り子のような動作うごきで腰を捻り続けてもマットへの落下という醜態を晒すことがないのだ。

 首が固定されると、キリサメの頭部あたまも一定の位置から。左右に振り回されることがなくなれば頚椎の損傷ダメージは抑えられるのだが、その一方で頭蓋骨から伝達つたう衝撃が全く受け流されずに脳へとじかに浸透してしまうわけである。

 この状態が絶え間なく続いたなら、どれほど頑丈な人間であっても第二ラウンドの終了を告げる合図ゴングまで耐えられまい。

 立ったスタンド状態の標的に『パウンド』を仕掛けているようなものであった。そもそも『パウンド』とは組み敷いた相手に拳を振り下ろす攻撃を指している。それ故、馬乗り状態マウントポジションける最も有効な技術テクニックとして数多のMMA選手がふるってきたのだ。

 即ち、城渡は「標的の身動きを封じ込めたまま打撃によって脳を揺さぶる」という術理を咀嚼した上で、自らの闘い方に最も合致する形へと応用した次第である。鬼貫道明の瞳には古豪ベテランの〝底力〟が呼び起こした進化として映っていることであろう。

 キリサメに向かって浴びせられた宣言ことばが示す通り、こそが城渡マッチのまことの〝切り札〟というわけだ。そして、きょういし沙門の支援たすけを受けた猛特訓の賜物なのである。


「とことんバカになろうぜ、アマカザリッ! バカになったらよ、利口そうに気取ってた頃がアホらしくなるくらい何でも面白ェからなァッ!」


 最後まで温存してきた〝切り札〟をもってしてもキリサメからダウンを奪えないようであれば、二度と勝機が巡ってこないことは城渡自身も理解わかっている。残存のこりの体力を使い果たす覚悟で左右の拳を繰り出し続けているのだ。

 その脳裏を掠めたのは〝格闘技バブル〟の崩壊ひいては前身団体バイオスピリッツの解散と共にリングを去って沖縄クレープの移動販売に転向した旧友――じゃどうねいしゅうが現役時代に臨み、『柔術ハンター』の面目躍如を果たした東京ドームの一戦である。

 現在いまから一四年前のことであるが、ブラジリアン柔術を隆盛に導いた一族の強豪と対戦した謝名堂は、ヴァルチャーマスクや八雲岳をくだした寝技にも完璧に対応し、ユーモアすら感じさせるほど柔軟性に富んだ試合運びで決定的には主導権を握らせなかった。

 その試合は前田光世コンデ・コマに当たる一族の総帥が見守る中で執り行われ、樋口郁郎の影響が強い格闘技雑誌パンチアウト・マガジンも威信を賭けた一戦と盛んに喧伝していた。このとき、謝名堂は既に一族の柔術家を討ち取っており、勝敗を巡って遺恨まで生じていたのだ。明らかに仕組まれたも全くの誇張というわけではなかった。

 くだん興行イベントには城渡も参戦しており、リングに垂れ込めていた異様な空気は今でも生々しくおぼえている。その只中にって『鬼の遺伝子』最後の世代は九〇分もの長きに亘って自由闊達に闘い、ブラジリアン柔術を圧倒したのだ。

 第六ラウンドの終了後、試合続行は不可能と判断したセコンドがインターバルのなかにリングへとタオルを投げ込み、これによって『プロレスが負けた日』の雪辱が果たされたのである。『鬼の遺伝子』に名を連ねた者が総帥の面前で一族に勝利することは、快挙の二字でも足りないほど重い意味を持つのであった。


「ンどォらァァァッ! そろそろォ! 仕上げと行ッくぜェェェェェェッ!」


 依然として調子の外れた喚き声を迸らせながら両の拳を繰り出し続ける城渡は、マットの中央に落ちたタオルを静かに見つめる柔術家の姿が現在いまの己と重なってならなかった。

 仮に第二ラウンドを切り抜けられたとしても、最終ラウンドを闘うだけの余力はない。闘志は折れていないと強情を張ったところで、件の試合と同じように二本松はロープの向こうからタオルを投げ入れるはずである。

 命を預けた親友の判断に対して、城渡も逆らうつもりはない。だからこそ、キリサメの肩から振り落とされるまで殴り続けるしかなかった。

 マウスピースがヒビ割れるのも構わずに歯を食い縛っているが、ほんの僅かでも気を緩めた途端に握力を失いそうであった。それどころか、呼吸も止まりそうである。

 『昭和』と呼ばれた時代の『くうかん』道場で叩き込まれ、『平成』に生まれた教来石沙門の組織改革によって見直しが進む前時代的な根性に縋らなくては闘えない己を思うと、一抹の虚しさで胸を突き刺されてしまう。それでも腕さえ振り回していれば、引き摺られるようにして肉体からだが動くことも城渡は経験で知っているのだ。


(みっともねェ悪あがきも出来なけりゃ、自分の居場所だって守れやしねェッ!)


 心の奥底から響く声は左右の鼓膜が破れていても聞こえてくる――城渡の口元は自嘲の二字で歪んでいた。

 不良ツッパリとしての反骨心もあってブラジリアン柔術が日本のリングを席巻していた黎明期から総合格闘技MMAの主流に逆らい、立ったスタンド状態での〝スカ勝ち〟という己の流儀にしがみ付いてきたことが正解であったのか、今でも城渡は答えを出せずにいる。

 ありとあらゆる格闘技術が解放される利点をえて切り捨てた選択は誤りではなかったのか――と、年齢を重ねるたびに自らへ問い掛ける機会も増えた。

 所属団体の代表や陰湿なスポーツ・ルポライター、何よりも『天叢雲アメノムラクモ』を愛してやまないファンから引退を迫られる状況に陥らなければ、MMA選手として〝進化〟することも受けれられなかったのである。

 新たな挑戦に年齢など関係ない――この精神は人生の支えともなり得るが、一〇年以上もMMAの最前線に立ち続けてきた城渡は、気構えだけでは肉体の衰えを補い切れないという〝現実〟を痛みと共に悟っているのだ。

 己のこだわりを投げ捨てた馬乗り状態マウントポジションも、勝敗の行方を託したこの〝切り札〟も、城渡マッチのであった。愛するMMAを諦めたくないという最後の意地すら貫き通せなくては、リングに臨む資格を決定的に喪失うしなってしまうのだ。


「二ラウンド通してひたすら殴り続けてきて、更に大嵐としか表しようがない猛ラッシュをブチかます城渡選手には目玉が何個飛び出しても足りませんが、それ以上にアマカザリ選手の打たれ強さにビックリし過ぎて、私の目玉は南米辺りまで飛んでいったきり帰って来ません! 光のように速くて無敵に硬い! おまけにロケットみたいなパンチまで飛ばすなんて、まるで『せいれいちょうねつビルバンガーT』じゃないですかッ!」

「別のアニメと勘違いしていますね。〝くろがねしろ〟と謳われた元祖スーパーロボットと」


 『昭和』のロボットアニメはともかくとして――仲原アナがキリサメの頑丈さを鋼鉄にたとえておののいたのも無理からぬことであろう。防御も回避も不可能な状態で脳を震わされながら、彼は立ったスタンド状態を維持し続けているのだ。

 その上、現在いまは八一キロという体重が両肩にし掛かっている。第二ラウンド終了の合図ゴングが鳴り響く前に膝から崩れ落ちても不思議ではなかった。

 城渡の両脚によって正面から挟まれている為、表情かおも双眸の様子も確かめようがない。木村レフェリーも立ったまま失神したのではないかと案じているのだ。馬乗り状態マウントポジションでも殴打され続けており、脳の痛手ダメージが蓄積していないはずがなかった。

 キリサメの五指は〝ボンタン〟の上から城渡の太腿に食い込んでおり、気絶を免れている。それ以外の判断材料を持ち得ない木村レフェリーは、テクニカルノックアウトを宣言することで新人選手ルーキーの命を守るしかなかった。


「大丈夫だ、大丈夫だぞ、キリーッ! そこからけ出すはあらァッ! そのまま前のめりになってマットに飛び込めェッ! 背中から思いっ切り叩き付けてやりゃあ、は絶対に外れるッ! 逆に馬乗りマウントし返しちまえッ!」

「僕も途中まではセンパイに賛成だよ、キリサメ君! とにもかくにも一方的に攻め続けられる状態を引っ繰り返そう! その後は無理しなくて良い! 第二ラウンドの残り時間も僅かだからね! 仕切り直しという選択肢は臆病とは違うっ!」

「城渡総長ォーッ! 身の程を弁えねェバカの〝弟分〟に思い知らせてやっちまってくださいィッ! 総長のおとこにひれ伏しやがれ、アマカザリィィィィィィッ!」


 物理的に両耳を塞がれた状態であるから、白サイドのセコンドの助言アドバイスも、酒と煙草で焼けた御剣恭路のダミ声も、キリサメには一つとして届かない。

 そもそも頭蓋骨の内側に轟く打撃音が『カラシニコフ銃』の発砲音に換わり、〝戦争の音〟でもって脳内あたまのなかが埋め尽くされているのだ。もはや、外部そととキリサメの〝世界〟は完全に断ち切られていた。




 アメリカ大陸最大にして最古の闘牛場――古代ローマの闘技場コロッセオに近似する円形の観客席から取り囲まれた中心部でキリサメが仰いだ空には、鮮血を彷彿とさせる赤黒い砂嵐が吹き荒んでいた。

 その空に吸い込まれていくのは、数え切れないほどの新聞紙であった。いずれも砂嵐と同じ色で汚れている為、記事の詳細までは読み取れないが、一面に掲載された写真を見れば全文がペルーの公用語ことばで綴られていることは間違いあるまい。

 日付が二〇一三年七月であることも確信できた。

 〝富める者〟の傲慢に怒り狂った民衆と、非致死性のゴム弾が装填された暴徒鎮圧用の散弾銃ショットガンやプロテクターで武装したペルー国家警察が〝大統領宮殿〟に程近い市街地で入り乱れるさまを己の双眸で見つめたのだ。

 前者はイタリアにいて古い歴史を持つ軍需企業『ロンギヌス社』の特殊警棒を振り回している。ペルー社会の不安を煽り、怒れる民衆を〝内戦〟の先兵に仕立て上げようとした『組織』によって持ち込まれた物である。

 後者は強化プラスチック製の盾を翳し、憤怒に衝き動かされた一撃を防いでいる。その隊列にはヘルメットを破壊する大小の石だけでなく、火炎瓶やロケット花火までもが降り注いでいた。

 何万という怒れる民衆に対して国家警察の側はグレネードランチャーから催涙弾も発射しており、辺り一面ににびいろの煙が垂れ込めている。〝合戦〟としか表しようのない場景を切り取った写真なのだ。

 高い壁を飛び越えて闘牛場に流れ込んでくるのは、調理器具といった家庭の金属製品を打ち鳴らす奇妙な大合奏と、自由を高らかに唄い上げるペルー国歌である。

 それらを無惨に咬み砕いていく〝戦争の音〟は、果たして〝何〟をキリサメに訴えているのであろうか。現在いまは座る者などあろうはずもない雛壇状の観客席や闘牛の舞台を仕切る壁には文化財としての価値が損なわれてしまうほどの弾痕が刻まれていた。

 猛々しい牛と闘牛士マタドールが華麗に対決する舞台は、敷き詰められた砂が〝何か〟を吸い尽くして深紅の泥濘と化していた。その只中に立ち尽くすキリサメの両足首も、容易には身動きが取れないほど沈み込んでいる。

 泥濘に阻まれなくとも、彼にこの場を離れることは難しかろう。怒れる民衆とに産まれ落ちたとは思えないほど小奇麗に着飾った〝ケツァールの化身〟をも呑み込み、途方もなく大きな影が地上を覆っていた。

 キリサメが幼い頃より見慣れてきた闘牛場に、〝人外〟としか表しようのない存在モノが降り立っていた。〝神速〟を引き出した者に対する比喩などではない。世界のことわりから外れたまことの異形である。

 少年を睥睨する二つの目玉は血の色が異様に濃く、また歪なほどに巨大である。それぞれが鼻を挟んで離れており、この狭間に開いた口も冥府の門としか思えないほど大きい。

 上顎より突き出した左右の牙で生贄を捕らえ、生きたまま命を喰らうのであろう。老婆を彷彿とさせる白髪を貫く頭部の角は欠けた月の如く湾曲し、逆巻く炎の如く捩じれ、野を行き交う獣のとは似ても似つかない。

 地上の生物でいう顔面と認識することが正しいのか、キリサメには判らなかった。あるいはこの世界に晒し得ないかおを隠しておく為の仮面であるのかも知れない。様々ないろが調和することもなく毒々しく入り混じり、金属のような光沢を放っているのだ。

 眉間には決して小さいとは言い難い亀裂が走っており、その中心部に仮面の〝向こう〟が覗けるようであった。

 明らかに生身と判別できるのは、頭髪と同じ白い体毛で隅々まで覆われた左右の耳のみである。虫のはねのように律動し続けているが、命の鼓動を聞き取った反応あるいは舌舐めずりの代わりなのであろう。

 胴体に該当するはずの部位は、人間界の喪服を想起させる漆黒の布でもって覆い隠されていた。あちこちに穿たれている無数の穴には、焼け焦げたような痕跡も見て取れた。


「――おかえり」


 命を咬み砕く歯牙の〝向こう〟より降り注いだ声は、その禍々しさを忘れてしまうほどに優しく、郷愁を煽られるような懐かしさに満ちている。

 生まれる前から親しんできた征服者コンキスタドール言語ことばで紡がれているが、がキリサメの心に突き刺さったわけではない。砂色サンドベージュの風に乗って想い出の彼方から囁きかける声であったからこそ、彼は抗うことなく〝全て〟を受けれてしまったのだ。

 叢雲くもいろを映した指貫オープン・フィンガーグローブを嵌め、己の名が付けられた試合着ユニフォームを穿いて起つ理由すら跡形もないくらい溶かされてしまっていた。

 愛しい雛を抱き留める親鳥のように大きく広げた砂色サンドベージュの両腕は、胴体と釣り合いが取れないくらいしている。体内を循環する〝何か〟が凝固し、皮膚と漆黒の布をまとめて食い破ったのであろうか、大振りなナイフの剣先さきにも見える突起物が肩とおぼしき部位から幾つも飛び出していた。

 あるいは己の身をサン・クリストバルの丘に立つ物と同じ巨大な十字架に見立てているのかも知れない。

 異形なる存在モノは地上を踏み締める足を持たず、脈動に合わせて真紅の明滅を繰り返す長い尾が泥濘と一体化している。植物の茎のようにも錯覚してしまうのは、その根元に無数の泥人形が葉の如く立ち並んでいる為であった。

 キリサメが生まれ育ったペルーは、概ね三月末から四月上旬をキリスト教にとって極めて大切な一週間――『聖週間セマナ・サンタ』として定めている。その時期には聖書にも記された審問と十字架への磔刑はりつけ、そして、復活の場景を表す巨象が作られ、大勢の人々がを担いで市内を練り歩くのだ。

 信仰を捧げる上で重要な位置付けとされる受難劇の再現は『聖行列プロセシオン』と呼ばれている。

 本来は夜が明け切らない内から蝋燭だけを頼りに執り行われるものであり、心臓が揺さぶられるほど荘厳であるが、異形なる存在モノはキリストの受難から復活に至る数々の伝承を泥人形によって模倣したようである。

 尾や茎とも異なるモノであろうか――等間隔に収縮を繰り返し、泥濘から〝何か〟を吸い上げているようにも見える長大な管から胴体へと視線を巡らせていくと、胸部むねの中央に美しい白薔薇が咲いていた。

 から何本ものツタが飛び出し、おおきな両腕に絡まっているのだ。トゲの食い込んだ部分には〝血〟に相当するであろう体液が滲み、赤黒い皮膚の表面で結晶化している。遠目には色とりどりの宝石が埋め込まれているようにも見えるのだった。


「汝の手に『聖剣エクセルシス』がる意味を忘れるな――」


 もはや、キリサメには懐かしい声の正体が理解わかっている。この闘牛場で銃弾にたおれた幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケのものなのだ。

 先ほど〝富める者〟の道楽を嘲った死神スーパイの笑い声も同じであった。

 泥を捏ね繰って受難劇を再現したように砂色サンドベージュの風に攫われてしまった少女の声帯でも借りたのであろうか。目を凝らして見れば、胴体を覆う漆黒の布にはハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』が模様として編み込まれているではないか。

 冥府の玉座に死神スーパイが幼馴染みの亡骸を依り代として地上に降臨したというのか。ひび割れた眉間の〝向こう〟に覗いたのも、愉悦に歪んだの顔であったのだ。

 彼女は自分と同じペルーに生まれたである。地上を隅々まで覆ってしまえる影を落とした異形とは比較にならないのだ。を疑問にも思わず、体温ぬくもりを求めるようにして両手を伸ばすキリサメであったが、天を仰ぐ顔が真っ赤に染まった。

 死神スーパイの目玉から頬へと流れ落ちた深紅の雫が大粒の雨に変わり、頭頂あたまから足の爪先さき、更には幻のケツァールたとえられた尾羽根まで濡らしたのである。

 母の胎内はらのなかった頃から全身に染み付き、眠っているときでさえ身近に感じていた死の臭いがキリサメ・アマカザリの全存在を満たしていく。それは彼の魂から〝真実〟を引き摺り出す鍵であった。


「――おかえり」


 闘牛場に降り注ぐ深紅の雨はキリサメの口内にも流れ込んだが、は再び囁かれた言葉と同じくらい甘やかである。

 泥濘に打ち付ける烈しい雨音は、地上を舐め尽くす『カラシニコフ銃』の咆哮――〝戦争の音〟と入り混じってぜ、そこに重ねられた死神スーパイの哄笑と共に〝帰還〟の祝福へと変わっていった。




 五〇〇〇を僅かに超える驚愕の声が場内を埋め尽くしたのは当然であろう。キリサメが一九キロという体重差を物ともせずに城渡の身体からだを持ち上げ、マットに投げ落とした轟音が天井に突き刺さったのである。

 四隅の支柱ポールに張られたロープが大きく波打っただけでなく、リングの土台までもが骨組みの破断を案じてしまうほどに軋んだのである。

 実質的な軽量級選手が限りなく重量級に近い選手をであれば、歓声は上がってもどよめきには変わらなかったはずだ。

 白サイドのセコンドによる助言アドバイスが奇跡的に届いたのか、本人による咄嗟の判断だったのか、キリサメは前方へ飛び込むようにして跳ねている。城渡は背中からマットに叩き付けられる恰好となったわけだが、彼は己の身に危機が迫る状況であっても新人選手ルーキーの頭部を両足で挟み続けていたのである。

 どれほど殴打し続けても意識を刈り取れないどころか、立ったスタンド状態をも保つキリサメに致命傷を与えるべく城渡は脳天に狙いを定め、右肘を垂直に振り下ろそうとしていた。

 人体でも特に硬い部位である肘を用いた打撃は、競技団体によってルールで制限されることもある。『天叢雲アメノムラクモ』にいても脊椎といった危険な部位への直接攻撃は全面的に禁止されているが、肘を突き込む角度については指定がない。

 落雷の如き肘打ちは『天叢雲アメノムラクモ』のルールで許可されたものだ。〝打撃番長〟の猛攻に耐え抜き、を押し切る形で投げ落とした新人選手ルーキーが観客を瞠目させた次第である。

 ほんの僅かでも重心が崩れた瞬間に折れてしまっても不思議ではない両膝を屈伸させ、そらへと跳ね飛んだのは本人の意識から切り離された反応ではない。キリサメが自らの意思に基づいて実行した反撃であった。

 闘牛場に降り注いだ深紅の雨は、〝暴力〟のみを頼みとして格差社会の最下層で生きてきた少年に果てしない〝闇〟という本質を受けれさせるモノであったが、異形の死神スーパイが意のままに操ったわけでもないのだ。幼馴染みと同じ声は、窮屈にしか感じられない呪縛から己を解き放つよう促したに過ぎないのである。

 我らは自由だ。常にそうあらんことを――故郷ペルーの国歌が謳うモノに手を伸ばしたのは、キリサメ自身の意思であった。


「よッしゃあッ! 栄光に向かってべ、キリーッ!」


 今まさに足裏がマットから離れようとする寸前、岳の雄叫びが背中を追い掛けたが、この激励がキリサメに届くことはなかった。耳を貸さなかったわけでもない。もはや、〝地球の裏側〟で生まれた少年は日本ハポン言語ことばのである。


カタブツに見えてェクレバーと来たモンだァッ! 〝八雲岳の秘蔵っ子〟たァ良く言ったモンだぜェ! 鬼貫のおっさんの話じゃねェが、『超次元プロレス』も安泰かもなァッ!」


 急降下と呼べるほどの勢いは付かなかったものの、八一キロという重量おもさし掛かっているとは思えない高さまで跳ね飛び、そこから変則的な投げを打ったのだ。元から疲弊と損傷ダメージが蓄積していたこともあり、さしもの城渡も両足による頭部の拘束ロックを維持できず、キリサメから引き剥がされるような恰好でマットに投げ出されてしまった。

 すぐさま後方へと身を転がし、キリサメから離れつつ立ったスタンド状態に戻ったのは古豪ベテランの勘働きであろう。最後まで温存していた〝切り札〟をもってしても新人選手ルーキーを仕留め切れず、体力も底を突きかけていたが、それでも追撃を警戒して前蹴りヤクザキックの態勢まで整えたのだ。


「逆転に次ぐ逆転ッ! これぞ総合格闘技MMAッ! これぞ『天叢雲アメノムラクモ』ォッ! 『ナスカの地上絵』の如き古代インカの黄金投げで友情バックブリーカーに報復したアマカザリ選手、これはァ――これは……どうした⁉ あっ! ……頭部アタマたれ続けた痛手ダメージは我々が考えているよりも遥かに深刻なのか……ッ⁉」


 仲原アナの実況が前のめりな昂揚から動揺へと変調していったのは当然であろう。彼女と共にリングへ視線を巡らせる鬼貫道明も椅子から立ち上がっていた。

 キリサメの足元に赤い斑模様が飛び散っていた。『パウンド』の連打によって刻まれたあおあざも痛ましい両頬に鮮血が滴っていたのである。城渡の拳が擦れて頭部の皮膚が裂け、そこから流血しているわけでもない。双眸から零れ落ちる雫のいろが変わったのだ。

 依然として双眸を見開いたまま、キリサメは血の涙を絶え間なく流し続けていた。観客席で渦巻くどよめきにも悲鳴が混ざり始めていた。誰よりも騒々しかった恭路ですら現在いまは戸惑ったような呻き声しか絞り出せないのである。


「――もういい」


 間近で試合を見守っているのだから当然であるが、木村レフェリーが血の涙に気付いたのは実況席の二人よりも遥かに早かった。彼もまた頭部に深刻な損傷ダメージを負ったのではないかと強く懸念しており、己の身を壁に換えてでも攻防に割り込む覚悟である。

 両者の動きが止まった瞬間、この好機を逃すまいとキリサメに駆け寄る木村レフェリーであったが、彼の口から零れた短い呟きの意味は全く分からなかった。

 先程も聞いたばかりの一言である。しかし、〝そのとき〟とは違って現在いま日本ハポン言語ことばすら用いていない。そもそも常人では〝神速〟に追い付けないのだから、ペルーの公用語ことばであることを認識するどころか、唇の動きすら見て取れなかった。

 木村レフェリーの足がマットを蹴り付けたときには、眼球の損傷などを確かめるべき相手は深紅あかい雫を火花の如く撒き散らしながら城渡の背後まで回り込んでいたのである。


「木村君、今度こそ彼を止めろ! 罰則云々はどうだって良い! いや、きちんとして貰わねばMMAの信頼が地に落ちるが、今はとにかく試合を止めるのが先決だ! このまま続けたら最悪、あの悪夢のようなフライ級タイトルマッチと――ひきアイガイオンと同じ過ちが『天叢雲アメノムラクモ』でも起こってしまうッ!」


 青サイドのセコンドである二本松が〝格闘技界の汚点〟を例に引いて怒号を張り上げたのも無理からぬことである。キリサメは背後から城渡に攻撃を仕掛けたのだ。

 城渡の左膝裏を無造作に踏み付け、力ずくでマットに片膝を突かせると、完全な無防備となった後頭部へ右肘を水平に打ち込んだのである。〝ボンタン〟によって顔面を覆われていたキリサメ当人には判るはずもあるまいが、奇しくも先程の意趣返しとなっている。

 この古豪ベテランが試みた通り、肘による頭部への直接打撃は『天叢雲アメノムラクモ』のルールでも認められており、レフェリーから注意を受けるべき行為には当たらない。しかし、これを突き込む部位には制限があり、後頭部に対する意図的な攻撃は完全なる反則なのだ。

 視線を巡らせた先にて展開する有りさまを冷静に受け止めるだけの精神的な余裕ゆとりが仲原アナに残っていたならば、新人選手ルーキーの喧嘩殺法が〝禁じられた一線〟を踏み越えてしまった事実をユリウス・カエサルによるルビコン渡河になぞらえ、隣席となりの鬼貫から適切な引用とは言い難いと切り捨てられたはずだ。

 あるいは過剰な表現を控え、『天叢雲アメノムラクモ』のルールに抵触する危険行為であった旨を淡々と述べるのみに留めたかも知れない。

 日本のプロボクシング・フライ級タイトルマッチにいて、挑戦者であるひきアイガイオンが当時の王者チャンピオン目突きサミングを仕掛けて片側の光を奪った際、スポーツ利権を目的として傍若無人な問題児を国民的英雄ヒーローテレビ局の実況アナウンサーは、反則そのものを「不幸な事故」と擁護し、謝罪に追い込まれたのである。

 ボクシングとMMAの差異ちがいこそあれども、格闘技史上に残る最悪の汚点を仲原アナが忘れているはずもあるまい。キリサメによる危険極まりない肘打ちに対して「さいは投げられた」というユリウス・カエサルの名言を重ねた瞬間、二本松剛が警告した通りの事態に発展してしまうのだ。


「オ、オレはそ~ゆ~意味で『べ』って言ったんじゃねェんだよ、キリー……ッ!」


 キリサメが仕出かした愚行は白サイドのセコンドも深刻に受け止めており、岳に至っては自らの握り拳に咬み付いている。彼ほど大仰な反応ではないが、木村レフェリーに目配せでもって判断を仰ぐ麦泉も自分たちセコンドの指導不足を悔恨していた。

 主催企業サムライ・アスレチックスの一員としては、岳よりも苦悩が深いのかも知れない。瀬古谷寅之助に仕組まれた罠であったとはいえ、キリサメはデビュー戦を控えた大切な時期に路上戦ストリートファイトという〝プロ〟にはあるまじきを起こしている。

 ただでさえ団体内外から厳しい目を向けられる状況下でリングに臨み、信頼回復に徹するどころか、選手の安全を守る為のルールに違反してしまったのである。

 岳本人は己の名誉など気にも留めないだろうが、統括本部長という〝看板〟への心象悪化も免れず、被った痛手ダメージは『天叢雲アメノムラクモ』にとって看過できないほど激甚であった。

 前身団体バイオスピリッツ以来の古豪ベテランを負債の如く冷遇し、日本MMAの次世代を担うべき若手の将来すら平然と弄ぶ〝暴君〟――樋口郁郎が如何にして事態の収拾を図るのか、想像するだけでも麦泉の心臓は凍り付くのだった。


「上ッ等ォ~だぜェ、アマカザリィッ! 本気マジな喧嘩こそオレの〝土俵〟ってェコトを忘れてンなよ、この野郎~! お前がその気なら、とことん付き合ってやらァァァッ!」


 白・青両サイドのセコンドと木村レフェリーを困らせたのは城渡その人である。興行イベントの運営サイドに反則を訴えなくてはならない男が喜色満面で試合を継続させてしまったのだ。

 キリサメの足が膝裏から離れた直後、城渡は側の膝頭を〝軸〟として据え、マットの表面を撫でるような恰好で対の足を振り抜いたのである。

 〝本物の喧嘩〟に応じると宣言したが、それはMMAの〝先輩〟として新人選手ルーキーの暴走を受け止めるという意思の表明であり、自らはあくまでも『天叢雲アメノムラクモ』のルールで認められた格闘技術のみを用いるつもりなのだ。

 反撃の足払いが虚しくくうを切ろうとも、キリサメの姿が再び視界から消失しようとも、城渡はヒサシの如く突き出したリーゼント頭が揺れるほど愉快そうに笑い続けた。

 これを見据えるキリサメは平素いつもと同様に無感情である。依然として双眸を見開き続け、そこから溢れ出す血の涙も一向に止まらないが、己の身体からだを苛む苦痛も、〝敵〟の肉体からだを破壊せんとする嗜虐も、精神こころの働きを映す表情モノは一つとして浮かべていなかった。


「お前は生きていてはいけない存在だ」


 征服者コンキスタドール言語ことばで吐き捨てた呟きにも〝人間らしさ〟と呼べる感情モノは宿っていない。

 キリサメを押し止めんと身構える木村レフェリーの肩越しに〝何か〟を見つけた様子であるが、を捉える目玉の動きだけが緩慢であり、まぶたが完全に開き切った状態ということもあって酷くおぞましかった。

 くうに僅かな残像も焼き付けることのない〝神速〟で再び城渡の背後へと回り込み、後頭部に狙いを定めて拳を振り上げた動作うごきには鋭い殺意など感じ取れない。その代わりに先程まで瞳に湛えていたような敬意もない。視界に入り込んで不快なゴミを片付ける――ただそれだけのであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』にける禁止事項は未稲が自作したルールブックにも詳しく記されていたのだが、日本ハポンの文字で綴られた情報など懐かしき〝闇〟へと回帰した少年にはおぼえておく値打ちもない。だからこそ致命的な事故に直結し得る反則行為を繰り返すのだ。

 これに対して城渡は足払いを仕損じたと判断するや否や、同じ左足を〝軸〟に据えつつも体重を支える一点を片膝から足先へと〝軸〟を移し、回転を止めずに今度は裏拳打ちバックブローを試みた。

 もはや、十全の力を四肢に満たすことさえ叶わないのだが、二乗ともたとえるべき遠心力に乗せて右腕を振り回せば、『NSB』基準で三階級も体重差のある肉体からだなど容易く撥ね飛ばせるはずだ。

 マットから膝を離し、上体を引き起こすということは、裏拳打ちバックブローで狙う部位の急激な変化をも意味している。この動作に回転を組み合わせると相手の双眸に高低差の錯覚を与え得るのだ。

 思考能力が減退するほど消耗した状態で最善のを打ち続けられるのも、経験に裏打ちされた〝底力〟と呼ぶべきであろう。無論、それらも裏拳打ちバックブローを命中させられなくては全くの無意味である。そして、〝今〟のキリサメが相手では望むべくもあるまい。

 尤も、二重の高速旋回と姿勢の変化はキリサメにも想定外である。右拳による打撃も狙いを付けていた後頭部ではなく眉間を抉った為、結果的に木村レフェリーから反則判定を追加されることにはならなかった。

 城渡の額を突き破ったのは、この試合で初めて〝神速〟を披露したときと同じ技だ。

 猫の手のような形で上から下に振り落とし、直撃の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に打ち据えるこのパンチをキリサメは得意としているが、本来は掌中に握り込んだ石を叩き付け、頭蓋骨を砕く技であった。


「くッ……そォ……ッ――」


 拾うべき石が一つとして転がっていないMMAのリングは〝今〟のキリサメにとって煩わしいものでしかないが、それでも常人の想像を絶する一撃であることに変わりはなく、城渡はリーゼント頭を崩しながら凄まじい勢いでね飛ばされた。

 四隅に立つ支柱ポールの一本が耳障りな悲鳴を上げたのは、限りなく重量級に近い肉体が軽い羽根フェザーの如く宙を舞った直後である。不可視の衝撃が城渡を貫き、本人に先駆けて支柱ポールへ到達したとしか考えられなかった。

 五〇〇〇という場内全ての視線がその一点に集中したのは当然であろう。誰も接触していない支柱ポールが一トンを超える鉄球でも叩き付けられたとしか思えないほど激しく軋んだのである。僅かながらひしゃげたようであり、が錯覚や幻聴でないことを証明している。

 城渡を殴り飛ばす寸前にキリサメは血の涙が溢れる双眸で〝何か〟を見据えていた。それが後方に立つ支柱ポールであったことを察知できたのは、不気味な眼球の動きを辛うじて捉えていた木村レフェリーただ一人であった。

 そのキリサメは再びリングから姿を消したが、何の前触れもなく起こった轟音を追い掛けるように城渡が支柱ポールに激突した為、新人選手ルーキーに意識を向ける者は殆ど居なかった。

 支柱ポールを覆うクッションにもたれる恰好となった城渡は、偶然にも片腕がロープに引っ掛かり、傍目には危うくダウンを免れたように見えなくもない――が、脳が耐え得る負荷を超えてしまったことは明らかである。


「中途半端はお前が一番嫌うモンだろうが! おとこの意地は最後まで貫け、雅彦ッ!」

「総長……総長ォォォォォォッ! まだゴングも鳴っちゃいねぇッスよ! こっから大逆転ッス! 調子こいたクソガキに目に物見せてやってくれェェェェェェッ!」


 青サイドのコーナーポストから駆け付けた二本松剛がロープ越しに応答を求めても、御剣恭路が暴走族チームの仲間と共に応戦を呼び掛けても返事一つしないのだ。マットへ目を落とすように深く俯いたまま、割れた眉間から鮮血を流し続けている。

 反則判定から逃れるかのように姿を消したキリサメには私憤すら抱いたものの、優先すべき順位を見誤る木村レフェリーではない。意識を保っているとは思えない城渡へとすぐさまに走り寄っていった。

 その瞬間、リングに一つの影が落ちた。天井から降り注ぐ照明あかりがマットに映したのは、長い尾羽根を風になびかせてそらけるケツァールであった。

 〝神速〟に達する疾風がリングを駆け抜け、天高く舞い上がるさまをつぶさに追い掛けていたのは、五〇〇〇名の中でたった一人――特等VIP席にて屹立するストラール・ファン・デル・オムロープバーンである。

 オランダにいて数多の格闘家たちを束ねる名門――『格闘技の聖家族』の御曹司は、『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』の一員として、臨時視察の為に同団体の岩手興行へ訪れていた。


「――キミがその身に宿したモノは何だ⁉ 我が師の遺産にもそんなモノは……ッ!」


 上等な仕立ての背広を羽織り、『七星セクンダディ』の徽章を煌めかせるストラールと、格差社会の〝闇〟から這い出した新人選手ルーキーの間に接点など一つもない。互いに視界の端にも入れておらず、前者に至ってはキリサメ・アマカザリという選手名なまえおぼえようともしなかった。

 その少年が〝神速〟を初めて発動させた瞬間、ストラールは我を忘れたように『ラグナロク・チャンネル』などと意味不明な一言を漏らしたのである。

 今度もまた余人には理解し難いことをオランダの言語ことばで迸らせ、涼しげな顔立ちには全く似つかわしくない狼狽によって声も震えている。三つ編みにした金髪ブロンドも大きく振り乱しているのだ。

 我知らず引き剥がしてしまったゴーグル型のサングラスを装着し直すこともなく、翡翠色の瞳の中央にあまけるケツァールを捉えていた。

 オムロープバーン家はオランダ式キックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』を率いており、『格闘技の聖家族』の御曹司もこれを極めている。幼少期からのによって鍛え抜かれた動体視力があったればこそ、そのケツァール支柱ポールを蹴ってそらへと舞い上がる一部始終を追い掛けることが出来たのかも知れない。

 あるいは人間という種を超越する〝力〟というモノを場内の誰よりも深くっていればこそ、霞の如く掻き消えてから再び姿を出現あらわすまでの軌道を読み切れたのだろう。

 舞い踊る五枚の尾羽根を瞳の中央に映していなくとも、その影が浮かび上がるリングに立っていれば〝正体〟に感付かないわけがなかった。『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』――英字で刷り込まれたMMAの正称をけがすかのように悍ましいいろの斑模様がマットに幾つも飛び散ったのである。


「――キリサメ・アマカザリ……ッ! 神か、悪魔かッ⁉」


 にわか雨の如く自身の鼻に掛かった深紅あかい雫からる結論に達した木村レフェリーが戦慄の表情かおそらを仰ぐと、幻の鳥ケツァールを彷彿とさせる五枚の尾羽根と、二枚の翼さながらに広く飛び散った鮮血の火花――生み出された〝世界〟が異なる為、本当ならば交わるはずのないモノが眩い光の中心で歪に溶け合っていた。

 は間もなく二筋の尾と化してそらに閃き、灼熱の彗星が城渡マッチに降り注いだ。

 『格闘技の聖家族』の御曹司と木村レフェリーが視認みとめた通り、リングの直上から飛来したのはキリサメ・アマカザリである。

 片腕をロープに引っ掛けたまま身じろぎ一つしない城渡を血の涙に濡れた双眸でもってめ付け、地上の獲物を仕留めんとする猛禽類の如く左右の足を繰り出したのだ。

 マットの上に蹴倒すという生易しい攻撃ものではない。右足を胸部に突き立て、対の左足で喉を鋭角に抉っている。

 舞い下りた彗星は幻の鳥ケツァールなどではない。真紅あかい翼をばたかせる死の鳥であった。

 〝何か〟の破断する音が天井まで逆巻いたが、城渡の身に起きたことは改めてつまびらかとするまでもないだろう。急降下の勢いを乗せた蹴りを無防備の状態で喰らわされたのだ。その上、支柱ポールと挟まれてしまっては鍛え抜いた筋肉という鎧も防御力を発揮し得まい。

 胸部の陥没は免れたようだが、し折られた肋骨は一本や二本ではないだろう。想像を絶する衝撃と激痛で全身を打ちのめされながら息を吹き返さなかった城渡は、少量とは言いがたい血を口や鼻から噴いており、首の骨にまで深刻な損傷ダメージを負わされたかも知れない。

 意識を失ったままでの吐血は、医師リングドクターの判断で試合を中断させるべき事態である。喉を詰まらせて窒息する危険性が格段に跳ね上がるのだ。

 つまり、がキリサメの目的ねらいであった。故郷ペルーの〝殺し合い〟では標的の肉体からだを壁や大地に挟み、内臓を踏み潰す蹴り技を多用してきたのである。支柱ポールの全体が選手の身を防護するクッションで覆われている為、城渡に牙を剥く破壊力も減殺されたが、完全な形で直撃していたなら、外部そとからの圧迫で心臓は破裂していたことであろう。

 悍ましい目付きで城渡を殴り飛ばす〝先〟を探したのは、間違いなく命を絶つ為の布石というわけである。

 『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の時代から継承し続けてきた闘魂のリングが想定より遥かに脆かったことは、キリサメにとって大きな計算違いであった。長野興行で観戦した八雲岳とバトーギーン・チョルモンの試合では他団体の基準でヘビー級に属する二人が飛び跳ねても骨組みの一本とて破損せず、それ故に耐久性を見誤ったのだ。


「――ウソでしょ⁉ コレ、プロレスじゃなくてMMAですよ⁉ 筋書きシナリオナシの真剣勝負ガチンコだってのに、何だってこんな事態になっちゃうんですかァーッ⁉」


 城渡の肉体からだから離れた両足が再びマットを踏み締めようとした瞬間とき、仲原アナの絶叫を巻き込んで四角いリングが崩壊したのである。

 ヴァルチャーマスクが自らの敗北を生け贄の如く捧げた一九九七年の東京ドームから日本MMAの歴史が始まって以来、一度たりとも先例はない。

 岩手興行の会場に設置されたリングも整備メンテナンスが万全に行き届いており、老朽化といった原因で破損する可能性は限りなく低かった。ましてや設置時の不備も有り得ないのだ。

 一七年に亘って紡がれてきた日本MMAの歴史と日秘の喧嘩師による試合たたかいを照らし合わせたとき、ただひとつ差異ちがいとして浮かび上がるのは、奥州のリングが人間という種を超越する〝力〟で幾度も幾度も軋まされたことである。

 開戦のゴングが鳴り響いたのち、想定外の損傷ダメージが加速度的に蓄積されていったわけだ。その結果として、城渡が最後にもたれていた支柱ポールから倒壊が始まった。

 〝彗星〟の落下点から骨組み全体へと衝撃が伝達し、各部を繋ぎ止める金具が連鎖的に弾け飛んでいく。四隅を結び合わせていたロープも荒れ狂うように千切れ、ついにマットが敷き詰められた土台ごと潰れてしまったのだ。


「みんな、無事かッ⁉ 大丈夫なのかッ⁉ 先ずは隣同士で声を掛け合って無事を確かめてくれッ! 試合よりも怪我人の確認を最優先で頼むッ!」


 重量おもみのある物体が地面に叩き付けられる音や金属の擦れ合う耳障りな音が止んだのち、鬼貫道明が発した大音声の向こうに現れたのは、まさしく阿鼻叫喚の有りさまであった。

 『昭和の伝説』が〝痛恨〟という二字を顔面に貼り付けつつ唇を噛んだのは無理からぬことであろう。リングサイドでカメラを構えていた記者たちは下敷きになるまいと慌てて飛び退き、関係者席の最前列に腰掛けていた人々も発狂せんばかりの奇声を引き摺りながら逃げ惑っているのだ。

 四隅に立てられた支柱ポールは直撃といっても過言ではないほどの影響を受けている。岳と麦泉が唖然呆然と立ち尽くす白サイドのコーナーポストは無事であったが、対角線上の支柱ポールはリングの側へと転倒し、マットにめり込んでしまっていた。

 白・青両サイドの中間に位置する一本はリングサイドにて待機していた『天叢雲アメノムラクモ』の運営スタッフたちが一斉に飛び付いて食い止めたが、その反応が僅かでも遅れていたなら、あるいは関係者席に被害をもたらす形で横転していたかも知れない。

 ほんの数分前まで場内を埋め尽くしていた熱烈な歓声は、今や悲鳴に変わっている。

 仲原アナが述べた通り、ショープロレスの興行イベントであったなら、血気に逸る新人選手ルーキーがリングが壊してしまうという筋書きシナリオは一種の喜劇として観客の笑いを誘ったことであろう。しかし、これは真剣勝負の総合格闘技MMAである。支柱ポールから土台に至るまで一切が崩落した状況は、重大の二字を冠する規模の事故なのだ。

 身を放り出すような恰好で仰向けに倒れ、そのまま微動だにしなくなった城渡を直撃する危険性おそれのあった支柱ポールは木村レフェリーが両腕でもって受け止めている。何しろ古豪ベテランは呆けたように口を開け広げて白目を剥いており、咄嗟の判断が功を奏していなければ最悪の事態は免れなかったことであろう。

 木村レフェリーの立場からすれば、城渡の失神を確認した時点でリング内外まで届くようにノックアウトを宣言しなくてはならないはずであった。しかし、彼に敗北を言い渡すことは、それ自体が『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体の信用を決定的に貶めると思えてならないのだ。

 後頭部に続いて、喉への意図的な打撃までキリサメは行ってしまった。団体代表の樋口には気に入られている様子であるが、ルールで禁じられた反則行為を繰り返す新人選手ルーキーが正当な勝者であろうはずがない。その片腕を持ち上げて初勝利を知らしめたとしても、果たしてMMAファンがキリサメを祝福称賛するであろうか。

 二階席の観客までもが恐慌状態に陥る中、波打ったマットを踏み付けて立つ新人選手ルーキーは己の過ちを悔いてもいないように見えた。

 そもそもキリサメ・アマカザリという少年は何事にも無感情なのだ。それ故、眼下に転がる城渡に対しても、無造作としか表しようのない恰好で右足を持ち上げたのである。


「待て、キリーッ! マッチがもう闘えねェことは分かるだろ⁉ これ以上の追い撃ちは要らねぇぜ⁉ ペルーでオレと一緒に追っ払ったギャング団とは違うんだからよォ!」


 引き千切れてマット上に散乱したロープの残骸を麦泉と共に片付けていた岳は、比喩でなく本当に飛び上がって驚いた。

 養子キリサメがぐったりと身を横たえた城渡の脇腹を再び踏み付けようとしているのだから、それも当然であろう。折れた肋骨が内臓に刺さろうものなら即死は免れまい。

 しかし、表情を一切宿さないキリサメには躊躇ためらいなどなかった。血の涙が滴り続ける双眸で〝敵〟を見据え、トドメを刺すこと以外には何も考えていない。

 自分の生存を脅かす存在は誰であろうとも、何をしようとも死に至らしめる――それこそが「生きろ」という命令を守り抜くことであった。

 だからこそ、死神スーパイの囁きは甘やかな誘惑として響いたのだ。

 故郷ペルーの闘牛場に降り立った異形の存在は「汝の手に『聖剣エクセルシス』がる意味を忘れるな」と征服者コンキスタドール言語ことばで語り掛け、〝富める者〟に惑わされた魂へ救いの手を差し伸べている。

 解けることのない呪いの如くキリサメと共にり、数え切れない〝敵〟を破壊し尽くしてきた『聖剣エクセルシス』は暴力性の顕現あらわれであり、格差社会の最下層に渦巻く〝闇〟の本質なのだ。

 に手を伸ばした〝今〟は、日本ハポンに移り住んでから最も〝自由〟であった。


故郷ペルーでの生き方は知らんが、ここは日本だ! 日本のリングに今、立っていることを忘れるな! はキミの為にもならねェぞ、キリサメ・アマカザリッ!」


 二本松から浴びせられた怒号も〝真実〟という名の〝自由〟を束縛するものではない。


「聞こえた? 『ギャング団を追っ払ったときとは違う』ってさ。丸っきり一緒おなじじゃん。新しいお父さんが知らないだけで、〝あの日〟もサミーは死神スーパイって呼ばれてもんねぇ~。頭部アタマが吹っ飛んだ日系ギャングの女の子、同い年くらいだったよね」


 何時しか死神スーパイと同じ声を持つ幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケが背後に立っていた。場内の何処かで試合を眺め、最も心を抉れる好機を狙って出現あらわれたのであろうが、キリサメはもう驚かない。


「例の〝神父パードレ〟と同じようにさ、〝生きていてはいけない存在〟としたヤツは必ず殺さなくちゃ。そうしなきゃ、ミサトおばさんの命令だって守れないでしょ、サミー」


 キリサメには懐かしい体温ぬくもりを感じることなど叶わないが、は折れていない左手で幼馴染みの背中を抱き締め、シャツの上から愛おしそうに頬擦りしている。

 永別わかれた日と同じ自動車に撥ねられた直後のような痛ましい姿から少しも変わらず、肩甲骨の辺りで結び合わせたスカーフで右腕を吊っていた。『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだペルー伝統の手織物である。

 血の涙が飛び散った『天叢雲アメノムラクモ』のリングを砂色サンドベージュに汚れた素足でもって踏み付け、異形の死神スーパイと同じ笑い声でキリサメの魂に寄り添っている。彼の腋から自身の腕を通し、胸板を優しく撫でる左手は「おかえり」という一言の代わりなのであろう。


「この上、更に暴挙を重ねるつもりかッ!」


 キリサメ一人を睨み据えた木村レフェリーの様子からも瞭然であるが、の姿は余人にはえていない。先程のヴァルチャーマスクと同様に『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントへ乱入してきたというのに白・青両サイドのセコンドは言うに及ばず、実況席の二人コンビも無反応なのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の危機管理能力を確認するべく日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体とメインスポンサーが揃って臨時視察に訪れるほど『ウォースパイト運動』に対する警戒が強まっている。

 明らかな不審者であるのことを場内の警備員たちが〝人権侵害〟に当該する格闘技の根絶に乗り出した過激活動家と断定し、特殊警棒を構えても不思議ではなかった。

 岩手興行にゲストとして招かれていたローカルアイドルを脅迫し、出演辞退に追い込んだ犯人も未だに身柄を確保されていない。五人組グループ一員メンバーであるいいざかぴんが倒壊する前のリングで行ったに怒り狂い、会場まで乗り込んでくる可能性も非常に高いのだ。

 尤も、木村レフェリーの双眸が喪服の如き出で立ちの少女を捉えたとしても、現在いまに退場を言い渡すよりも新人選手ルーキーへの対処を優先させるはずだ。あるいは古豪ベテランの命を守護まもる為の措置とも言い換えられるだろう。

 キリサメが漂わせる異様な気配から最悪の事態を察知した木村レフェリーは、リングの側へと倒れそうになっている支柱ポールから両手を離し、依然として意識を取り戻さない城渡に覆い被さった。我が身を盾に換えて狂乱の踏み付けストンピングから庇わんとする決死の覚悟である。

 他の現場スタッフが飛び付く前に横倒しとなってしまった支柱ポール頭部あたまや背中を打ち据えようとも、木村レフェリーはから微動だにしなかった。


「――キリくん、だめぇーッ!」


 白・青両サイドのセコンドがリングへ足を踏み入れるよりも早くキリサメを制したのは、正面から飛び込んできた未稲の声であった。

 背後から囁きかける砂色サンドベージュ幻像まぼろしなどではない。半ば錯乱にも近い『天叢雲アメノムラクモ』の現場スタッフや記者たちを押しのけ、更なる崩壊の危険性おそれがあるリングサイドまで駆け寄った未稲がキリサメを真っ直ぐに見つめていた。


「スポーツマンシップに欠ける行為は一番やっちゃいけないコトだよッ!」


 その声がほんの数秒でも遅れていたならば、土台から崩れ落ちたリングと同じように木村レフェリーごと城渡という〝生きていてはいけない存在〟を踏み潰していたはずだ。

 日本ハポン言語ことばなど〝今〟は脳が認識しないはずなのに、未稲の声だけは届いた――その驚愕が心を貫いた瞬間、キリサメは瞼を半ばまで閉じた。

 明確な殺意を宿らせていた右足を引き戻し、そのまま動かなくなった。

 もはや、背後にの気配も感じない。〝地球の裏側〟から異形の手を伸ばした死神スーパイの影も消え失せ、キリサメの双眸を悍ましくけがし続けていた血の涙も止まった。

 左右の耳も再び日本の言語ことばを聞き取れるようになったのだが、リングを見据える者も、惨状から目を逸らす者も、誰もがキリサメ・アマカザリという存在におののき、怯え、怒り、憎しみを口にしていた。


「サメちゃんってばボクの心にもグイグイ食い込んでくるねぇ~。秋葉原アキバで斬り合ったときよりもキてるよ、今! 電ちゃんには永久に敵わないけど、それでもボクの中で順位急上昇だよぉ。この昂揚たかぶりの責任、取って欲しいなぁ~」


 五〇〇〇という声を完全に聞き分けることは不可能であるが、肯定にも等しいことを述べているのは、未稲の傍らでキリサメを眺める瀬古谷寅之助くらいであろう。抜き身の竹刀を右手に握ったまま、悪鬼としか表しようのない笑みを浮かべていた。秋葉原にける〝げきけんこうぎょう〟のなか、『聖剣エクセルシス』と斬り結ぶ享楽に酔い痴れていたときと同じ表情かおである。

 故郷にける無法の所業を法治国家のリングで再現しようとした愚かなる新人選手ルーキーに立ち竦んでしまったのか、二人の近くにひろたかの姿はない。

 次いでキリサメの双眸が捉えたのは、私憤とも義憤とも受け取れる激情を全身から噴き出させた木村レフェリーである。支柱ポールが直撃した際に裂傷を負ってしまったのであろう。こめかみから顎に掛けて真っ赤な血が滴り落ちている。

 〝正常な形〟で試合が進行していたならば、流れる必要のなかった血だ。

 依然として城渡を庇いつつ顔のみを上げ、歯を食いしばって罵詈雑言を喉の奥まで押し戻した様子の木村レフェリーが〝何〟を告げようとしているのか、それを察せられないほどキリサメもMMAのルールを理解していないわけではなかった。


「……『天叢雲アメノムラクモ』第一三せん……奥州りゅうじん……第一試合は――アマカザリ選手の反則負けとするッ!」


 反則負け――決着に際しての攻撃が看過し難い悪質な危険行為と断定されたのだ。未稲が拵えたルールブックを脳内あたまのなかで振り返るまでもない。事実上の失格であった。

 しかし、第一試合の終了を告げるゴングは何時まで経っても鳴らなかった。その役割を担うスタッフは、目の前で繰り広げられた暴挙を認めて良いのか、リング上の木村レフェリーと同じくらい躊躇っているわけだ。


「こ、これは……これが喧嘩マッチの幕引き……日秘の喧嘩師の……宴の……破滅――」


 平素いつもは過剰というほど饒舌な仲原アナの実況に勢いがなく、その大半が呻き声によって埋め尽くされているのは、この状況を適切に表し得る言葉が見つからない為であろう。

 あるいは瞬間的に閃いた文字の羅列を無意識に述べているだけなのかも知れない。興行イベントの進行が第一試合で破綻し兼ねない結末を迎えたのである。仲原アナ本人もまた放心状態に陥っているのだ。

 隣席の鬼貫道明が飛び出していき、たった一人で残されてしまった実況席から仲原アナが見回した限りでは、潰れたリングの下敷きになってしまった者は確認できない。

 無論、負傷者自体は一人や二人ではなかった。出血が見られる木村レフェリーは言うに及ばず、リングに面する関係者席で観戦していた背広姿の男性は、引き千切れた勢いで激しくうねったロープから逃げ遅れ、顔面にあおあざを作ることになってしまった。選手を仰ぐ位置でカメラを構えていた記者の中には、同じ状況で頭部あたまに切り傷を負った者も居る。

 リングサイドを取り囲むようにして並べられたパイプ椅子は、逃げ惑う人々によって数脚が蹴倒されていた。雛壇状となっている一階・補助席からの非難を試みた末、足を滑らせて危うく床まで転げ落ちるところであった者も仲原アナは視界に捉えている。

 理性を焦燥によって塗り潰されたものとおぼしき何人かの観客は、まるで火災にでも遭遇したかのように誘導灯の設置された扉へと殺到し、落ち着くように求める現場スタッフの胸倉を掴んでいた。


「……総合格闘技MMAが……殺される……っ」


 『天叢雲アメノムラクモ』以前からMMAの実況を務めてきた仲原アナでさえ、このような惨状は過去に立ち会ったおぼえがなかった。

 はリングの崩壊のみを指しているのではない。在りし日のひきアイガイオンが重なるくらい新人選手ルーキーは悪質な反則行為を繰り返していた。〝格闘競技〟と真摯に向き合ってきた人間ほどこの場で執り行われたことをMMAの試合とは認め難いのだ。

 〝平成の大横綱〟からMMAへと転向したバトーギーン・チョルモンは、主催企業サムライ・アスレチックスの方針に対する不満が桁外れに強い為、決着のゴングが鳴るまで一貫して憤然としていたが、それでも長野興行にける〝八雲統括本部長〟の試合には観客の誰も胸を熱くしたのだ。

 その養子むすこであり、〝八雲岳の秘蔵っ子〟とも喧伝された新人選手ルーキーの〝初陣プロデビュー〟は、最も身近な手本であろう統括本部長と真逆の結末を迎えた次第である。

 キリサメが自分でも不気味に思えるくらい静かな心で失格というを受けれられたのは、リングを取り囲む観客席から怯えたような眼差しで突き刺された為であった。

 日本を代表するMMA興行イベントが無事に進むよう願い、その為に〝プロ〟の仕事をこなしてきた『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフは腸が煮えくり返る思いであろう。しかし、それを口に出そうものなら城渡マッチと同じ目に遭わされてしまう――と、〝格闘競技〟の意味すら理解しない無法者アウトローに恐れをなしている。

 故郷ペルー非合法街区バリアーダスや裏路地でもキリサメは似たような視線を浴びてきた。ぶすまさながらに射掛けられる眼差しは背筋を戦慄が駆け抜けるほど冷たく、害意や殺意を帯びていた。

 数多の目に晒されるという状況は酷似しているが、『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントでは誰も彼もが心の底から楽しそうに笑い、右も左も分からない新人選手ルーキーに激励の拍手を送ってくれた。

 が反転したのである。温かい眼差しには心臓が早鐘を打つほど混乱させられたが、己を突き刺す想念がせいからに変わった瞬間、故郷と全く同じ懐かしさに包まれたのだ。

 暗闇の向こうから顔も分からない何者かが穏やかならざる気配を向けてくる〝世界〟に帰還かえってきた――その懐かしさを甘受すべきでないことは、キリサメにも理解わかっている。

 この状況こそが〝プロ〟のMMA選手という自覚を忘れ、浅慮にも死神スーパイの誘惑に身を委ねてしまった成れの果てなのだ。


「――ほつれも色褪せも、全部がアマカザリ君の歴史として残っていくんだ。歳月と共に積み重なる想い出が必ずキミを強くしてくれる」


 試合着ユニフォームの〝開発〟を手掛けたたねざきいっさくに掛けられた言葉が脳裏を掠め、その瞬間にキリサメは糸の切れた人形の如く崩れ落ちてしまった。


「お、おい⁉ キリー、大丈夫かよッ⁉」

「やっぱり負担が酷かったんじゃないか。……後でお説教だからね」


 左右から手を差し伸べてキリサメの身を支え、転倒を防いだのは岳と麦泉の二人だ。

 崩壊の巻き添えを免れ、ただ一本だけ無事に立ち続ける白サイドのコーナーポストへ戻っていくキリサメであったが、半ば二人に引き摺られるような恰好である。もはや、岳と麦泉の肩を借りなければ四肢も満足に動かせないのだ。

 ただ一度の物理的な衝撃だけで支柱ポールから土台に至るまで破壊したのだ。生身の人間が特撮番組の超人バイオグリーンにも匹敵する〝力〟をふるって無事であるはずもなかった。

 脳内麻薬の影響下にあった為、肉体も疲弊を認識していなかったが、その状態が断ち切られたことで、遅まきながら脳も消耗という信号を全身に伝達させたのであろう。

 〝人外〟と化していたときは異なり、平素いつもと同じ眠れる獅子の如き表情に戻っている。その横顔を確かめた麦泉は血の涙の痕跡に眉根を寄せ、重苦しい溜め息を洩らした。


「んじゃ、養父とうちゃんと一緒に叱られるか、キリー? オレも徹夜で説教喰らうのが確定してるらしいからなァ~。『NSBあちらさん』の予定スケジュール次第だけど、ひょっとしたらヴァルチャーのあにィも合流するんじゃねぇの? それはそれでワクワクだけどよ」

「冗談を言っている場合じゃないでしょう……。血の涙なんて尋常じゃないですよ。キリサメ君、目は問題なくえているのかい? 救急車を手配するにしても、行き先は眼科が良いのか、やっぱり総合病院で診て貰ったほうが良いのか……」


 この場で『天叢雲アメノムラクモ』との契約解除を言い渡されても拒否できない暴挙を目の当たりにしながら、〝初陣プロデビュー〟を終えた肉体からだを労わり、優しく寄り添ってくれる声にキリサメは何一つとして答えられなかった。

 俯き加減のまま二人セコンドの顔を見ることさえ叶わない。体力を使い果たして首を動かせないのではなく、『鬼の遺伝子』――のちのMMAに続く〝道〟を拓いた異種格闘技戦のプロレスラーたちと向き合う資格など自分は持ち得ないと思い詰めていた。

 心優しい養父たちから託されたはずの資格を血塗られた手で投げ捨てたようなものだ。


「……アマカザリ選手、かみワザ連発で熱闘するも最後にはが出てしまったかァ……!」


 仲原アナの慰めはキリサメの耳にも届いたが、は傷付いた肉体からだを癒すどころか、MMAのリングに立つべきではなかったという罪の意識を抉り出すものでしかない。

 ひきアイガイオンの過ちに向けられた恥ずべき擁護と大して変わらないのだ。

 ほんあいぜんから予言された通りであった。〝格闘技界の汚点〟と同じように目を覆いたくなるほど惨たらしい血で『天叢雲アメノムラクモ』のリングをけがしてしまったのである。

 希更・バロッサのマネージャーであり、今では〝友人〟として交流を持つようになったおおとりさとにはデビュー戦など勝てなくて当たり前と背中を押されたのだが、番狂わせジャイアント・キリングを成し遂げられずとも負け方というものがあるだろう。

 〝世界基準〟である『NSB』に倣い、金網で仕切られた八角形オクタゴンの試合場を各国のMMA団体が採用する中、『天叢雲アメノムラクモ』はプロレスという〝原点〟からこんにちまで四角いリングを継承し続けてきた。

 異種格闘技から総合格闘技へ――闘いの歴史を織り上げた偉大なる先達が夢と希望を託してきた闘魂の顕現あらわれとも言い換えられるだろう。それを文字通りに叩き壊してしまった罪がゆるされるわけがない。

 未稲の金遣いを正せないくらい我が子を叱ることが苦手な岳はともかくとして、麦泉は瀕死にも等しい新人選手ルーキーに負担を掛けまいと追及を控えているのだろう。己の断罪を求めて特等VIP席のヴァルチャーマスクに視線を巡らせるキリサメであったが、焦点が合わないほど双眸も疲弊している為、遠くに立つ仏僧おとこの表情までは見極められなかった。

 仏教にける『かい』の一つ――せっしょうきんを破ったのではないかと誤解されてしまうほど厳めしい顔を失望の色に塗り潰しているのだろうと、キリサメは想像している。

 控室のバトーギーン・チョルモンは〝客寄せパンダ〟に対する罵詈雑言を喚き散らしているはずだ。相互理解の体現者たる希更でさえ友人という関係性を見直すかも知れない。

 心の底から尊敬の念を抱いた城渡マッチは、四肢を投げ出して倒れたまま未だに息を吹き返していなかった。二本松剛セコンド医師リングドクター周囲まわりを取り囲んで応急手当を施しているが、その様子を見守る木村レフェリーは病的なほど蒼白であった。

 浅いとは言い難い傷口にタオルを宛がっているものの、の影響で血の気が引いたわけではあるまい。

 じゃどうねいしゅうや『かいおう』たち――日本MMAに黄金時代を築いた偉大なる先達の〝誇り〟まで貶めたという事実がルールすら守れない新人選手ルーキーに突き付けられている。

 列島各地を経巡る〝旅興行〟で日本中を元気にしたいという養父たちの願いも、経済面でもこれを成し遂げんとする地域振興の事業プロジェクトも、何もかも台無しにしてしまったのだ。


「キリくん……」

「……みーちゃん」


 城渡から顔を背けた瞬間、キリサメは再び未稲と見つめ合う格好となった。

 己が流した鮮血であるのか、浴びせられた返り血であるのか、判別がつかないほど赤黒く染まった姿に――血みどろになるまで城渡マッチを壊す姿に彼女は怯えていた。

 屋根の上に登った〝あの日〟のように未稲は恐怖で顔を歪めていた。

 未稲には何時でも楽しそうに笑っていて欲しいのに、自分のことを死神スーパイと蔑んできた日系ギャング団の少女――故郷ペルーける殺し合いで銃口を向け、原形を留めなくなるまで命を吹き飛ばした〝敵〟と同じ表情かおに変えてしまった。


「……ごめん、みーちゃん……」

「ち、違うの……キリくん、私は……」


 肩を小刻みに震わせる未稲は、反則を重ねないようキリサメに訴えた場所から一歩たりとも動いていない。「何々? 痴話喧嘩? この状況で余裕じゃん」と無神経な笑い声を引き摺りながら歩み寄る寅之助とは異なり、彼女の両足は凍り付いていた。

 キリサメから離れようとするときには問題なく動くことであろう。前に向かって進もうとした瞬間、その場に縛り付けられてしまうのである。

 五指でもって〝何か〟を包み込んでいるのか、胸元で握り拳を作ったまま未稲は虚しく立ち尽くしていた。


(ほんの少しでも希望を持ったのがバカだったんだ。僕なんかが未来を望むなんて――)


 もはや、キリサメは〝人間らしさ〟を与えてくれた陽だまりのような少女からも目を背けるしかなかった。

 この瞬間ときになってようやく自らの最大の過ちを思い知ったのである。

 養父や樋口郁郎――自分に機会を与えてくれたの人々や、特訓に付き合ってくれた空閑電知の期待に応えなくてはならないと焦り、格闘家としての〝器〟が違い過ぎる教来石沙門への劣等感に翻弄され、何よりも大切なことを忘れていた。


「――自分には〝暴力〟しかないって何回も言うけど、私はあれを〝暴力〟だなんて思わないな。本当の〝暴力〟は見ていて気持ちの良いものじゃないでしょ? 私だったら目を逸らしちゃうよ。……でもね、キリサメさんの闘いは違ったんだ。もしかしたら、お父さんの試合と同じくらい燃えたかも」


 『天叢雲アメノムラクモ』ひいては総合格闘技MMAへの挑戦を決意したのは、未稲と交わした約束を果たす為であった。

 キリサメが歩んできた道が間違いでないことを証明したい。今までキリサメを生かしてきた〝力〟は胸を張れる誇りなのだ。それを『天叢雲アメノムラクモ』で確かめて欲しい――格差社会の最下層で編み出した喧嘩殺法は、人の命を壊す為の〝暴力〟ではないと、未稲は包み込んでくれた。

 それにも関わらず、生まれて初めて芽生えた〝人間らしさ〟の支えでもある約束を〝暴力〟によって破ってしまったのである。

 〝プロ〟にあるまじき反則という所業も、これに伴うかちまけも問題ではない。未稲と誓い合ったことが脳内あたまから抜け落ちた時点で、キリサメ・アマカザリは『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立つ資格を失っていたのだ。


「――格闘技と言い換えても、所詮、暴力は暴力。……アマカザリさんはまだお若い。いっときの感情に流されず、身の振り方をよく考えておきなさい。将来というものに選択肢がない人種ほど暴力に走るのですから」


 興行イベント自体の続行が不可能としか考えられないリングへと目を落とし、思わずまぶたを閉ざしてしまったキリサメの脳裏に甦るのは、『ウォースパイト運動』と同じように格闘技そのものを無法の暴力として否定する警視庁の刑事――鹿しか皮肉ことばであった。

 格差社会の最下層という〝闇〟から這い出そうと足掻いていた少年は、叢雲そらの彩を映した指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めている。その拳は蒼い波濤を越えて日本ハポンに降り立つよりも前から深紅あか原罪つみけがれていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る