その19:迫撃~総合格闘技が殺される──死の鳥に穢(けが)された闘魂(たましい)・格闘家になってはならなかったモノ/やがてリングを焼け野原に変える死神(スーパイ)
一九、迫撃
破天荒な登場人物と物語によって『昭和』の〝スポ根〟ブームを強く牽引した漫画原作者である
日本の
華々しい出発ではなく歴史的屈辱から這い上がった日本のMMAは、
世界の〝格闘技社会〟でも高く評価された
格闘技を愛してやまないファンの信頼を失い、メインスポンサーでもある世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』にも見放された『バイオスピリッツ』は解散を余儀なくされ、ヴァルチャーマスクも引責に近い形で故郷のリングを去っていった。
旗頭の醜聞はMMAそのものに対する不信感となり、国内の
黄金時代の昂揚を知らない人間も少なくなってきた
反社会的勢力との繋がりを見過ごせるはずもないテレビ局が『バイオスピリッツ』の放送を打ち切ったのは、
『
二〇一一年の『
動画サイト『ユアセルフ銀幕』に開設された専門チャンネルに
『
その
『
八雲岳の
「アマカザリ選手はゴング直後に見せた電光石火のスピードよりだいぶ抑え始めた。
「城渡選手は良くも悪くも特筆すべきコトがなく、いつも通りのインファイト。ラッシュで畳み掛けるのはさすがだが、カウンターで割り込まれた挙げ句、二度もダウンを取られるなど課題の多いラウンドだった。駆け引き下手が改善されない限り、ジリ貧は免れないだろう。トサカが崩れない理由を知りたい」
第一
その
この分析は城渡への侮辱にも等しく、彼が率いる暴走族チームで親衛隊長を務める
同様の批判はスポーツ・ルポライターの
「試合の途中で体力を使い果たすのは、殴る蹴るの幼稚な闘いしか能がない証拠。総合格闘家を名乗る資格もなく、自分だったら恥ずかしくてリングに立てない」
いずれにしても、城渡マッチの肉体が衰えてしまった〝現実〟は変えようがなかった。
日本MMAの発展期から
第二試合を受け持つギリシャ
反則行為を除き、ありとあらゆる格闘技術が解き放たれるMMAのリングで
その〝現実〟を踏まえた上で、
キリサメとの試合でも城渡は力任せの体当たりを多用していた。一九キロという体重差を利用した攻撃であることは間違いないのだが、相手の体勢を打ち崩して別の技に派生するのでもなく、これ
それにも関わらず、闘いを全身で実感できるという理由だけで体当たりを好む城渡に白けた表情を浮かべるMMAファンは少なくない。銭坪満吉も樋口郁郎も、冷笑としか表しようのない声を根拠として
一九九七年の東京ドームから出発し、止まることなく進化し続けてきた日本MMAの大きな流れに逆らい、独り善がりな
第二
その瞬間、リングを取り巻く誰もが
肩からぶつかって相手を弾き飛ばす打撃としての体当たりであったなら、今福ナオリも大して驚かず、
城渡が両手を伸ばしてキリサメに組み付き、その足を払ってマットに素早く押し倒したからこそ場内の隅々まで驚愕が支配したのだ。
洋の東西を問わず、
何しろ彼は一七年の間に繰り返された進化に背を向け、我が道を貫いてきた男である。
正当とは言い難い評価を城渡は文字通りに一瞬で覆したのである。互いの両足を絡み合わせてキリサメの身動きをも完全に封じ込め、『パウンド』――即ち、
「マ、
喉の奥から絞り出すかのような仲原アナの呻き声は、MMA黎明期から四角いリングに熱狂し続ける
衝撃の度合いであれば、第一
MMAの特徴とも呼ぶべき
無論、これを「稚拙」の二字で切り捨てる声も完全には間違っていない。
八雲岳とヴァルチャーマスク――『鬼の遺伝子』を代表するプロレスラーを次々に討ち取ったブラジリアン柔術の影響を受け、日本MMAでも寝技などを駆使した
一本背負いでマットに転がされ、その直後に首を絞め落とされてしまったアンヘロ・オリバーレスとの試合が好例であるが、対戦相手が寝技に長けていた場合は完封にも近い状態で敗れることも少なくない。
それでも己の美学を貫き続ける愚直な潔さから勇気を与えられた人間は数え切れず、城渡を応援する声の大きさはベテラン層を冷遇する樋口郁郎でさえ無視できないのである。
MMAの進化に逆らってまで
腹の上に跨った相手を見下ろすというそれは、美学の体現から掛け離れた姿とも言い換えられるだろう。上半身のバネを引き絞る〝ゲンコツ〟とも異なる新しい〝奥の手〟を隠し持っているようなことを城渡は
観客には『スカ勝ち』の誇りを投げ捨て、凡庸なMMA選手に成り下がったようにも見えたのであろう。互いの肉体を削り合うような打撃の応酬と、その果てに炸裂したコークスクリューフックによって沸騰した場内の熱気は、困惑の中で凍り付いていった。
大会本部から飛び出した今福ナオリのデジタルカメラがシャッター音を鳴らした
「――キリくんッ!」
動画ではなく写真を撮影した為、今福ナオリが情報戦の極意を授けている愛弟子の悲鳴はデジタルカメラには収録されていない。
未稲が腰掛けているリングサイドの関係者席と大会本部はそれほど離れておらず、だからこそ
眉間を狙って振り下ろされた城渡の右拳をキリサメは両の
城渡に右腕を引き戻されまいと懸命に堪えているのだろう。その拳に両の五指を食い込ませたまま、キリサメは肩から手首に至るまで小刻みに震わせている。対の左拳による二撃目のパウンドも警戒している様子であった。
「城渡選手は本物の
失望の空気が垂れ込めようとしていた矢先、技術解説として実況席に腰掛けている鬼貫道明の声が城渡マッチの挑戦を包み込んだ。
「
「大昔のツッパリブームを忍ばせる風貌や剛毅な態度とは正反対に、闘うことに対してどこまでもストイックな生き
「進化……?」
「先程のコークスクリューフック、アマカザリ選手も勝負を決めるつもりで放ったことでしょう。それをまともに喰らいながら、相手が勝ちを確信した一瞬の油断を見逃さず、裏を
立ち技へのこだわりを投げ捨てたようにしか見えない城渡の姿がファンに与えたであろう動揺の深さを自分なりに分析しつつ、やや混乱した調子で
「城渡選手はこの日に向けて血が
「……打撃力を極めに極めた
「
ファンから背を向けられる覚悟でMMA選手としての可能性を拡げようとする勇ましい
それ故に今日まで〝誇り〟としてきた
「私としたことがすっかりさっぱり忘れてしまっていました! 馬乗りになって殴りまくるのは喧嘩の基本!
一度、得心すれば仲原アナは切り替えが早い。〝変節〟に対する疑念が強かったときとは声の調子まで一変させ、日秘の『喧嘩師』による変則的な力比べを盛り上げ始めた。
城渡の〝進化〟に対する鬼貫の
「手品の種明かしほど無粋なことはないだろうに。今日の催し物がマジックショーだったら今頃は実況席のお二人さん、まとめて外に摘まみ出されているぞ」
様々な意味で見事としか表しようのない鬼貫道明の解説に対して、青
鬼貫によって看破された猛特訓が実際に行われたことを知っている数少ない者の一人とも言い換えられるだろう。『
ここまで持ち込んでしまえば、勝ったも同然――城渡を蝕む疲弊と負傷を認識し、試合時間が長引くほど不利になることを誰よりも案じていた二本松は、油断は禁物と己に言い聞かせながらも安堵の溜め息を止められなかった。
その対角線上に位置する白
そもそもキリサメが
『まつしろピラミッドプロレス』と共に長野県の
キリサメ自身が編み出した喧嘩殺法の中に寝技の類いが含まれていなければ、マットに背を着けるという圧倒的に不利な状況を覆すことは極めて困難であろう。八一キロという体重が腹部に圧し掛かり、両足まで拘束されている状態では尾羽根の如き帯を武器に換えることもままなるまい。
「どちらかの手で右腕を掴み返して、力勝負で捻るコトはできないかな⁉ 少なくとも片腕はキリサメ君が押さえているんだ! 城渡さんの動きを巧く
その算段が一瞬にして破綻した次第である。自らの油断を麦泉は心の底から悔恨し、対角線上の二本松と入れ替わるような形で唇を噛み締めた。
白青双方のセコンドの視線が交錯する一点――リング上の城渡は、キリサメの顔を見下ろしながら掴まれていない左拳を回転させている。身動きを封じられた
傍目にも城渡が生殺与奪の権を握ったことは明らかである。左拳がキリサメの眉間に振り下ろされたなら、捉えた部位を支点とし、掴まれている右腕も引き抜くことであろう。
白
右腕が伸び切った状態ということは、
先に痺れを切らしたほうが不利となる――
「テンパる必要ねぇぞ、文多! キリーなら余裕で切り抜けらァ! 何しろ予習もバッチリだからなッ!」
一方の岳は絶体絶命の状況に追い込まれた
「それ、初耳ですよ⁉ センパイ、いつの間にキリサメ君に
「ちょっと前にやった『NSB』の試合を観せておいたんだよ。確か
キリサメの〝予習〟として岳が挙げたのは動画サイト『ユアセルフ銀幕』の専門チャンネルで配信されている『
しかも、金網で囲まれた
ブラジルで編み出された格闘技の一つ――卓越した関節技を特徴とする『ルタ・リーブリ』を極めた同国出身の選手と対戦し、剽悍な身のこなしでテイクダウンを仕掛け、次いで機関銃さながらのパウンドで絶え間なく攻め立てたのだ。
『NSB』の試合には〝演出〟の一環としてプロジェクションマッピングが導入されている。会場に設置された無数のカメラによって選手の動きを精密に読み取り、これに合わせて
例えば、打撃の命中時には衝突した一点から光の輪が波紋のように広がっていく。物理的接触時に生じる衝撃を描画によって可視化する趣向であった。
拡張現実をも取り入れるという最先端技術の視覚効果も相まって、『フルメタルサムライ』の異名を取る世界最高のMMA選手の戦法は、キリサメの心に深く刻み込まれたことであろう――これを
「ジョアキン・アンブロジオ・ジュニオールと
「手解きィ? 自分が数秒前に言ったコトを忘れンなよって! 慣れねェコトを横から吹き込まれて調子を崩しちまったら、折角の喧嘩殺法が台無しになっちまわァ! オレが小賢しい真似なんかしなくたって、キリーの順応性と柔軟性はヴァルチャーの
「キリサメ君! 片方だけでも足を引き抜くんだ! 腹を蹴ってでも引き剥がさないと危ない! さすがにぶっつけ本番とは思えないけど、城渡さんだって
岳が根拠も自覚もなく妄言を撒き散らすのは麦泉にとっても日常茶飯事であるが、
進士藤太が〝世界で最も完成されたMMA選手〟という称賛を受けるのに相応しい戦闘能力を備えていることは麦泉も認めていた。古くからの友人として誇らしく思っている。
しかし、岳が
日本代表の男子体操チームは、一九七六年モントリオールオリンピック以来、二八年ぶりに団体総合で金メダルを獲得している。キリサメに秘められた
しかし、今日がMMAデビューという
進士藤太は
そもそも、
「――だとよ。
「無理難題という条件さえ除けば、至極真っ当な
改めて
それは余りにも甘い了見と突き付けてきたのが一九キロという体重差である。負傷と疲弊が深刻に
相手の腹の上に腰を下ろした状態とは、姿勢の維持を除いて自らの体重を支える必要がなくなるということでもある。これに対してキリサメの側は八〇キロを僅かに超える体重に圧し潰され、力任せに跳ね除けることも困難となっていた。
何しろ
左拳を硬く握り締めながら即座に追撃のパウンドを見舞わなかったのは、城渡自身も両足を用いた
痛みが鎮まったわけではあるまいが、相手に跨った状態であれば膝と脛を軋ませる
それはつまり、
「ほんの一、二分前まで暴風雨さながらの殴り合いが吹き荒んでいたリングへ俄かに訪れたのは台風の目か⁉ 試合を停滞させないようレフェリーが双方に指導を入れてもおかしくないのですけど、アマカザリ選手の狙いは一目瞭然ですし、折角、ここまで追い込んだのに
仲原アナがマイクを通じて示した懸念は、場内の多くの人々が共有している。これに関しては試合を見守ってきた木村レフェリーも同様であり、やむを得ず両者を引き剥がしてリングの中央に立たせ、攻防の仕切り直しを図るべく身構えた。
しかし、木村レフェリーの両足がそこから先へと踏み出すことはなかった。注意を促されるよりも早く城渡の右拳がキリサメの眉間へと再び振り下ろされたのである。
その間際、キリサメは不意に左の瞼を閉じていた。
パウンドに用いられた拳を掴んで自身の側に引き付ければ、
その内にヒサシの如く突き出した前髪を
左目が塞がれたのは一瞬であり、刺激への反応として溢れた涙で汗も洗い流された。その為、俄かな視界不良には有利と不利の天秤を傾ける効果はない。驚いた拍子に両の五指が城渡の右拳から剥がれてしまい、これが最悪にも近い危機をキリサメに呼び込んだ。
城渡が右腕を引き抜かないわけがなく、折り畳んだ肘と肩のバネを一気に解き放ち、同じ側の拳でもってパウンドを繰り出した次第である。
先程とは異なり、今度は防御も回避も不可能な状態であった。腕を掴み返すという迎撃だけでなく、
「――〝さっきのアレ〟は今こそだよ、キリくん! そこから速攻で逃げてッ!」
四隅の
股関節の可動域が制限された状態にも関わらず、キリサメの両足が大きく跳ね上がったのだが、その足裏とマットの隙間にこそ眉間を貫いた威力が顕れている。
「横っ面に会心の一撃を喰らわせてくれたとき、『これで最後』っつったよな? 同じ台詞をそっくりお前に返してやんよォッ!」
もはや、城渡は止まらなかった。
バリバリと火を噴くバルカン砲さながらに左右の拳を繰り出し、キリサメの顔面を滅多打ちにしていく――最初の一撃は眉間を穿つものであったが、狙いを一ヶ所に定めることもなく頬や顎など文字通りに〝面〟を無差別に殴り続けるのだ。
勢い余って空振りとなり、マットを叩く瞬間もあったが、鼓膜のすぐ近くで
パウンドの乱れ打ちに決着を託していることは間違いなく、城渡も残った体力も使い果たす覚悟なのであろう。過剰なくらいに大きく振りかぶり、全身のバネを引き絞って放つ〝ゲンコツ〟と比べても一撃ごとの威力が高いように感じられるのだ。
「――相手の呼吸を読んで打撃の〝芯〟を引っこ抜くって
頭蓋骨を軋ませる音と衝撃が呼び覚ましたのは、
ブラジリアン柔術ひいては
防御の瞬間、相手のパンチやキックが推進する方向へと身を逃がし、衝撃を受け流すことで骨身に浸透する
回し蹴りや
拳や足裏を前方へと突き出す場合、攻撃に用いた四肢を引き戻す動作が最速最短で完了する為、迂闊に後方へ
単純な術理であるが故に身のこなしも最小であり、全身を振り回す大技と比べて姿勢を制御し易い。防御に回った側も打つ手を慎重に選ばないと我が身の破滅を招く――これについてはキリサメも
このような形で電知の教えを痛感させられるとはキリサメも想像だにしていなかった。城渡はまさしく最速最短で肘を折り畳み、両の拳を絶え間なく降り注がせてくるのだ。
(……僕の記憶が間違いでなきゃ、『
相手に馬乗りになってひたすら殴り続ける――格闘技に関心のない人間の目には子どもの喧嘩のようにも映ってしまう『パウンド』という攻撃手段がMMAに
『
『NSB』がMMAの試合を発展させるべく開発したシステムに組み込まれた測定機能の一つであったのか、画面内には打撃の命中回数が表示されていた。その数値が加算される
試合場に敷き詰められたマットは、高い位置から投げ落とされても深刻な事故が起きないよう衝撃を和らげる材質となっている。それでも頭蓋骨を貫く威力は殆ど減殺されず、脳を幾重にも揺さぶるのだ。
酷似する状況に追い込まれたキリサメは、養父の一番弟子が見下ろした対戦相手の強さに改めて驚嘆し、心の底から敬意を抱いた。ルタ・リーブリを極めたというその男は、パウンドでは
(進士藤太はハナック・ブラウンに――ヘビー級
想起したのはパウンドを用いた攻防ではなく、自身の置かれた危機的状況であった為、岳が望んだ形とは正反対といっても過言ではないほど異なっていたが、
「おお、これは……ッ! かつて『不沈艦』の異名を取ったアメリカボクシング界の伝説的
進士藤太の対戦相手と同様の反撃を試みることは
「世界の格闘技や武術の
「正座説教なんて事態に陥ったら、可愛い一人娘からまたしても幻滅されるので、今の内に全方向に陳謝しておきますね! でも、黄金伝説に膨らむ夢は理解って欲しいなぁ!」
「……『またしても幻滅される』というコトは既に何かやらかしているのか――それはともかく、
実況席の二人が例に引いた『ピーカーブースタイル』とは、ボクシングで用いられる構え方の一つである。両腕を揃える形で顔面への
『不沈艦』と比べれば、キリサメの
パンチというよりは棍棒に見立てた握り拳を原始的に叩き付けるようなものであるが、これを拙劣と嘲る観客は一人としていなかった。「紛れもなく〝打撃番長〟の新技。両足の
城渡マッチのパウンドは〝付け焼き刃〟ではない。打撃にこだわり続けてきた
狂乱としか表しようのない勢いで殴打し続ける
掴まれた腕を力ずくで引き抜き、対の
「――すげェぞ、城渡ッ! アンタは
観客席が城渡を称賛する声で溢れ返ったのは言うまでもあるまい。時代遅れの遺物の如く冷遇されてきた
「気付くのが
行動を共にする暴走族チームの仲間以外は誰も気付かなかったが、
「まッ! ままま、待て待て待て待て、キリーッ! この間、一緒に観た藤太の試合を想い出せッ! 『フルメタルサムライ』って呼ばれてたアイツ! マユゲからして強そうなプロレスパンツのアイツだよ! いや、正確には藤太と闘った相手のほうを記憶の底から引っ張り出して欲しいんだけどな⁉ マウント取られてボコられた状態でも自分のほうから殴り返していたろ⁉ アレだよ、アレアレアレアレッ! あの負けん気で行けェッ!」
底抜けの楽天家である岳も、
一等大きな喚き声は城渡のパウンドをも突き抜けてキリサメの耳にまで届いたが、その指示に従うのは難しかった。
〝世界最高のMMA選手〟にも匹敵する高次の技術を要求されて困惑しているわけではない。城渡は先に掴んだ右手をキリサメの首元に押し付け、上半身の動きまで妨げているのだ。今や自由を保っているのは左腕一本である。
八一キロという体重によって片手ごと首を圧迫されたキリサメは、正面から突き込まれてくるパウンドを左下腕で
体力が底を突きかけていた男の攻撃とは思えない。
城渡マッチがパウンドを披露するのはこの試合が初めてであるが、相手の動きに合わせて柔軟に変化し、着実に追い詰めていく切れ味は打撃にこだわり抜いてきた
「――
このように評した鬼貫道明の
「今日という日に向けて新技をきっちりと仕上げてきた城渡選手とは正反対に、アマカザリ選手は明らかこの
城渡の〝進化〟を称える一方、鬼貫道明は反撃すらままならないキリサメを「セコンドとの連帯責任ですが、粗削りな上に詰めが甘くては劣勢も当然」と容赦なく切り捨てた。
例え首元を押さえ込んでいる左手を引き剥がせたとしても、
(僕はMMA選手として城渡氏と試合をしているんだ……! ここは
パウンドによって脳を揺さぶられる
『鬼の遺伝子』を率いる鬼貫道明の異種格闘技戦から始まり、ヴァルチャーマスクと八雲岳が命を懸けて育てた日本MMAのリングで人間を破壊する血塗られた技を解き放つわけにはいかないと、必死になって己に言い聞かせていた。
共に格差社会の最下層で生を
「歯ァ食いしばってるかァ⁉ オラァーッ!」
「ぐっ……は……ッ……!」
一等大きく振りかぶった右拳が肉食獣さながらの雄叫びと共に叩き込まれた瞬間、キリサメの口内に血の味が広がった。マウスピースによって防護されていなかったなら、数本の前歯がへし折られていたかも知れない。
サン・クリストバルの丘より吹き付ける乾いた風は、
格差社会の最下層より飛び出した幾万もの怒れる民が〝大統領宮殿〟を目指して打ち鳴らす靴音と、「我らは自由だ! 常にそうあらんことを!」と訴える
悲憤に満ちた歌声は、懐かしき
「ここは本当に
果たしてそれは無意識であったのか。城渡の鉄拳に粉砕された呟きもまた
(この……まま……じゃ……僕は
頭部全体を蝕む激痛よりも、血の味に反応した〝闇〟が魂を食い破って溢れ出すことをキリサメは恐れていた。
首元に押し付けられた左手を引き剥がそうともがき、その手首を右の五指で掴むキリサメであったが、これは正面の
「上下左右縦横無尽! 今までの試合も
もはや、キリサメの耳に仲原アナの実況など届いていなかった。それどころか、リングサイドから飛び込んでくる未稲の悲鳴も、コーナーポストで轟く岳の応援も聞こえない。
数え切れないくらい
そして、その果てに痺れた脳が〝闇〟の
「ボサッとしている暇なんかないだろう⁉ セコンドとしてその場所に立っている以上、自分たちの責任を果たすべきだ! 苦い経験も
勝敗が決したものと認めた二本松は、対角線上のコーナーポストで試合を見守る岳にタオルの投入を呼びかけた。前途ある
咄嗟に岳の横顔を見つめる麦泉であったが、決断を迫られた男は肩に引っ掛けてあるタオルの端を握り締めながらも、これだけは放り込むまいと堪えている様子だ。
両肩を小刻みに震わせ、歯を食い縛りながら耐える姿を目の当たりにしては、麦泉も岳からタオルを奪い取ることは出来なかった。
日本最強の空手家――
心身が削り取られる窮状を揺るぎない気概で凌いでこそ意味があるという価値観は、健全な肉体と精神を育てるものとして長らく信じられてきたが、実態はスパルタ指導に耐え得る頑強な人間を
大きな勝利を得る為ならば、その代償として犠牲を払うのも当然という〝根性論〟は、肩の故障が原因で選手生命を絶たれた麦泉にとっては、何があろうとも認めるわけにはいかないものであった。
その一方で、『鬼の遺伝子』に名を連ねたプロレスラーとしての経験から窮状の克服を不屈の精神力が支えることも理解している。決定的な戦意喪失には至らず、劣勢を覆さんと
「雅彦の気合いが生半可ではないことは付き合いの長い木村君なら知っているな?
白
試合の継続がキリサメの死を招くという強烈な警告は、
二本松を一瞥し、次いで白
果たして、二本松剛の洞察は正確であった。もはや、城渡のパウンドを
「――冥府の
〝地球の裏側〟から舞い降りたと
「――どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ!」
「キリサメ! 生きろッ!」
血の色に塗り潰された
今まさに木村レフェリーが戦意の喪失を宣言しようとした瞬間のことである。
何もかもが先程と――亡き実父が巻き込まれた銃撃戦の〝虚実〟が
ペルー現地時間の一九九六年一二月一七日に発生し、同国の突入部隊と犯人グループによる最終決戦まで一二七日に亘って全世界を震撼させた未曽有のテロ事件――『日本大使公邸人質占拠事件』であった。
やがて犯人全員が屍となって転がることになる豪奢な建物に
大勢の人質を取って在ペルー日本大使公邸に立て籠もった犯人グループも、救出作戦を託された突入部隊も、双方とも『カラシニコフ銃』を構えながら相対し、同じ銃弾で互いを撃ち抜いたのである。
何時の間にか、キリサメの
一九九七年四月二二日の最終決戦を切り取った〝虚実〟――公邸内の狂乱を題材とした映画と、作戦決行から制圧完了までを屋外で報じ続けた当日のニュース映像の両方に触れたキリサメであるが、絶え間なく轟いた発砲音は、
犯人グループの制圧に際して、ペルー軍は『ペレストロイカ』以前に開発された
顔面と側頭部を巧みに打ち分ける城渡のパウンドもそれと変わらなかった。
産まれ落ちる前から脳に染み付いた〝戦争の音〟が城渡の拳と溶け合うのは、これが初めてではない。第一
冥府へと手招きする
そして、全ての果てに血塗られた追憶が脳を貫き、少年の魂をも呑み込んでいった。
彼の足元に溜まっていたのは、
その〝血〟はキリサメの身にも流れている。
「生きろッ!」
深紅の
首から胸元まで巨大なノコギリによって肉も骨も抉られ、助かる見込みがないと一目で
だからこそ、眠れる獅子とも
(母さん、僕は――)
殺意を宿した城渡の拳を返り討ちにした瞬間のように、あるいは電知との
これまでと全く同じであった。未来なき生に手を伸ばさなくてはならない衝動と、
(――僕は何の為に命を明日へ繋がなくてはいけないんだ⁉ ……母さんッ!)
どんなことをしてでも絶対に生き残れ――血の泡を吐きながら託された想いに背を向けることは、キリサメ・アマカザリという存在そのものを否定することにも等しく、彼の
「極刑こそ相応しいほどに許されざる罪を重ねながら、それでもまだ生きることを欲するならば、これからも生贄を求め続けよ。法律の名のもとに命の在り方から自由を奪う
キリサメを生ある世界にしがみ付かせるモノが
自分自身では持ち合わせていると思っていなかった郷愁を煽り立てるその笑い声は、一字一句に至るまで
「――しっかし、お前さんほど生き
*
喋る
その『組織』こそがキリサメの宿敵であった。銃による革命と政府転覆を企むテロリストであり、〝同志〟を辿っていくと、
共通の敵を壊滅させるべくペルー国家警察と共闘していた際、キリサメはニット帽の男と『組織』の拠点で遭遇し、成り行きから血みどろの殺し合いを演じたのだ。城渡マッチに破られた関節攻撃の技で片側の膝を破壊した相手でもあった。
ペルー国家警察に
観光
生き残ろうとする執念が尋常ではないとニット帽の男から評されたのは、
太平洋戦争と同じ一九四一年に勃発し、キリサメが一歳となる頃まで最終的な決着を迎えられずにいた『ペルー・エクアドル国境紛争』の遺物であるという。
キリサメが生まれ育った
亡き母の私塾で共に学んだ旧友たちは強盗団を結成し、観光客を餌食としているが、奪い取る金品の量や標的の〝格〟を段階的に吊り上げていくという目標を掲げていた。
器用な指先を生かし、スリの
彼女の両親は銀行強盗である。父は犯行現場で射殺され、母は生きて刑期を終えられるのかも定かではない。それ故に港湾労働者である叔父に引き取られたのだが、
幼馴染みのように明確な目的を持たず、守るべき家族もなく、その日を食い繋ぐ為だけに格差社会の最下層で呪われた『
『日本大使公邸人質占拠事件』以降はテロリストの掃討作戦も進み、二〇〇〇年代半ばには勢力そのものが大きく衰退したものの、銃による革命を目指す反政府組織や、社会の転覆を期して彼らに協力する
昨年には労働者の権利を脅かし兼ねない新法の公布を発端として内戦さながらの大規模デモ『七月の動乱』が発生し、その激烈な狂乱にキリサメも巻き込まれていた。それどころか、市民の暴走を裏で扇動した『組織』の
旧友たちが徒党を組んだ際に参加を求められなかったのは当然であろう。格差社会の最下層を這い回る
怒れる市民が〝大統領宮殿〟を取り囲んでも、政府転覆を企む『組織』が政治家に狙いを定めて
そもそもキリサメは乱れたとは考えていない。富裕層と貧困層の居住区が『恥の壁』によって隔てられ、これを撤去せずに放置する
キリサメ・アマカザリという少年は、自覚するくらい何事にも無感情であった。生まれ故郷に〝何か〟を期待することがなく、それ故に未来への希望もなく、ただ漫然と流されるようにその日を生き延びていた。
「どんなことをしてでも絶対に生き残れ」という命令さえ、機械的にこなしているだけなのだ。至上目的として意識したことなど一度もなかった。
魂が根腐れでも起こしているのだろうと他人事のように考えていたので、ニット帽の男から生への固執を指摘されたときには唖然呆然と口を開け広げるほど驚いたのである。
埃だらけのガラス窓から差し込む僅かな光を頼りにカラシニコフ銃を構えた『組織』の兵士を『
絶命の間際、無意識に
そもそも二〇年以上も前に打ち捨てられた
「自分の命を脅かそうとする相手は一人残らずツブしていくお前さんの執念は、この
リング状の
斑模様のように見えなくもないそれは、船の
キリサメ本人にはまるで理解できなかったが、ニット帽の男は暴力性の
「
「その上、お前さんは一匹狼と来たもんだ。カッコ良く思えるのは若い内だけでな、一つ二つと年齢を重ねる
「……僕が墓場を寝床にしているのはあんたも知っているだろう。群がってくる隣近所なんて、動く白骨か、死霊くらいだ」
死の臭いが垂れ込める只中に
一撃必殺の威力を求める余り、急所に狙いを定める
性格の不一致のみを理由として、戦場で鍛え上げたのであろう力量を否定することは愚の骨頂であるとキリサメも弁えている。
「故郷がどうしようもなく息苦しくなったり、食うのに困るようになったら、俺ンとこに転がり込んでくれても構わねェぜ。どうせ正業に就く気もないだろ? お天道様の下で胸を張って生きるような資格は持ち合わせちゃいないって、自分の顔に書いてるもんな」
黒いニット帽を若い頃から愛用してきたという相棒は、
『
生まれ育った
だからこそ、日本への帰国後に立ち上げる
他者から命を脅かされる状況には抗うが、未来に期待することなど一つもなく、未練に思うことすら持ち合わせてはいない――己と同じ〝血〟を吸い尽くした『
「
「無神経呼ばわりは慣れているけど、その台詞、あんたにだけは言われたくない」
他者の命を
彼は敵兵の一人を片手で羽交い絞めにすると、これを盾の代わりにして
鉄製のヘルメットも被らず生身に銃撃を受けた為、頭蓋骨が弾け飛ぶ者も多かったが、無惨としか表しようのない有り
一連の攻防の仕上げとして、羽交い絞めにしていた相手の右脇腹に銃口を押し当て、そこから心臓まで二発の銃弾で貫いている。他者の命を吹き飛ばしながら、おどけた態度で
実父は〝企業戦士〟としての活動中に『日本大使公邸人質占拠事件』に巻き込まれ、実母は一九九五年にペルーとエクアドルの間で軍事衝突――『セネパ戦争』が起こった際、青年海外協力隊の一員でありながらスパイの嫌疑を掛けられていた。それぞれ別の場所であるが、キリサメの両親はペルー社会の情勢によって身の安全を脅かされた経験がある。
他者への興味が皆無に等しいのでキリサメも詳しくは
初めて邂逅し、互いの命を奪い合った日――彼は
足元に転がる夥しい遺骸を
キリサメに重傷を負わされた膝が完治していない為、拳法の
「
「……僕は国家警察の飼い犬になるつもりはない。勿論、
「ツレねェなァ~。こっちはお前さんの可愛げがないトコ、案外、気に入ってるのに」
相棒の笑い声と銃声を背中で受け止めながら狭い廊下に足を向けたキリサメは、歩く
これを蹴破って踏み込んでみれば、倉庫と
迎撃態勢を整えるまでの動きは迅速で、決して低くはない練度がそこに顕れている。銃の安全装置も事前に解除してあり、襲撃者の全身に風穴を開けるはずであった。
それにも関わらず、気付いたときには一〇人全員がまとめて床に薙ぎ倒されていた。足首や膝の骨が
映画のフィルムで
しかも、己を撃ち抜かんとしていた数多の銃口から逃れるよう身を屈めている。床に突いた片膝を軸として据え、長大な刀身を振り回すことで生じる遠心力を高速旋回に生かしたことも明白であったが、その
一瞬の内に起こった
その余韻によって鼻孔や喉を突き刺されている間に、
敵兵の一人が取り落としてしまったのであろう一挺の
相棒のような精密射撃ではなく、弾丸を無造作にばら撒くようなものであったが、一個の塊となって倒れ込んだ敵兵を屠るにはそれだけでも十分であろう。狙撃の能力など足りずとも致命傷は与えられるのだ。
絶え間ない悲鳴と銃声が入り混じり、赤い花びらとも錯覚してしまう血飛沫が
尤も、仲間の亡骸が幾つも折り重なっている為、これを跳ね除けて逃げ出すことなど叶わない。カラシニコフ銃を持つ手も満足に動かせず、被弾しなかったことが
使い物にならなくなった
「……貴様が持つそれは〝
「あの男を〝
『
「――ほらな? 自分が生き残る為なら
哀れな亡骸にはノコギリ状の刃が深々と食い込んでおり、刀身を引き戻しただけでは離れなかった。
既に
物陰に隠れていたものと
錆び付いたブリキ細工にも
砲撃や爆撃によって引き裂かれる戦場を生き抜き、傭兵とは異なる立場で再び硝煙の彼方に
その見立てはキリサメ当人も否定しないが、そもそも格差社会の最下層には似たような人間しか生き残っていないのだ。
盗品を売り捌くことで日銭を稼いでいる
主にトドメを刺す際に用いる大振りのナイフに
『エクセルシス』が〝神聖な場所〟や〝天〟といった意味であるのに対して、『サクラリッジ』は〝神への
「ワマンのダンナに聞いた話じゃあ、親父さん、こいつらの
「悪いが、リマ症候群とやらは飽きるくらい聞かされて
日本とペルーという二ヶ国の
亡き母に
写真でさえ顔を見た
実父の想いを裏切るような所業であったとしても、『
「こいつらは
「――極刑こそ相応しいほどに許されざる罪を重ねながら、それでもまだ生きることを欲するならば、これからも生贄を求め続けよ。法律の名のもとに命の在り方から自由を奪う
本人の意思を超越して続く
その自問に答えを導き出すよりも早くキリサメの視界から城渡マッチの姿が消失し、次いで天井より降り注ぐ
「――頭蓋骨がイカれちまっても後悔すんな! もう
普段は半ばまで閉ざしている
彼の姿が掻き消えてしまったのは、その拳がキリサメの眉間を穿つ寸前というわけだ。
脳に霧が垂れ込めたような状態から意識を完全に覚醒させたのは、心臓や肺を突き刺す激痛である。頭頂から足の
急激に欠乏した酸素を補わんとする荒い呼吸の音を鼓膜で拾いながら、キリサメは己の身に起きたことを少しずつ呑み込んでいった。
またしても無意識の反撃が実行されてしまった。襲撃者の正体を掴めないまま『
映画のフィルムで
本人の意思を超越し、鼻先まで迫った死から逃れる反応あるいは本能として、
*
己の意識から切り離される形で〝神速〟を引っ張り出されたキリサメは言うに及ばず、
「タオルを投げろ、八雲岳ッ! 子どもに勝利や成果を求めるのが親として最低の行為だと
高性能のカメラを
「ンの野郎ォッ!」
さしもの城渡も手首を押し潰されるような圧迫には苦悶の表情を浮かべた。骨が軋み音を立てれば、間もなく激痛が腕全体へと広がっていくのだ。
骨に亀裂が入ったとしか思えない激痛を堪え、キリサメによる捕獲から腕を引き抜いた城渡は、すぐさまにパウンドを再開した。血走った眼で左右の拳を繰り出す姿は、仲原アナが実況の中で
「何してやがんだ、アマカザリィッ! 総長に恥掻かせんなっつってんだろがッ! もうケリついてんだから、黙ってタコ殴りになっとけやァッ! 幾らてめーが弟分でも、調子こきやがったらシバき倒すぞッ! あァんッ⁉」
暴走族チームの仲間と共に観客席から城渡へ声援を送っていた御剣恭路は、眼前で繰り広げられる場景が信じられず金髪のパンチパーマを掻き
先程までは肉や骨を
城渡自身は
一方的に
最初の内は首を横に振って拳を避けるのみであったが、徐々に突き込まれた拳や腕を掌でもって迎え撃ち、弾き飛ばすようになってきた。もはや、掠らせもしない。
「アマカザリ選手……これはなんというか……ガンギマリ状態なのか~⁉」
仲原アナが戸惑ったような声色で述べた通り、
「あの動きを見せた第一
「何かの〝スイッチ〟が入った――みたいな? 悠久の
「ご両親とも日本人とのことですから、
「人を超えたとしか思えない動き……! 確かに鬼貫さんが仰った通り、第一
一瞬で覆った戦況を鬼貫道明と仲原アナは驚愕と共に分析していくが、
〝八雲岳の秘蔵っ子〟という謳い文句や秋葉原を駆け巡る〝
「この局面でついに出すかよ、超必殺技ッ! 良いぜ、キリー! お前の骨は
「最悪に不吉なこと、軽々しく口にしないでください! ……本当にそれを使って大丈夫なのか、キリサメ君⁉ 身体が
白
今まさに振り落とされようとしていた城渡の左手を掴んだキリサメは、そのまま自分のほうに引き込んだ。
自然と城渡の上体は大きく傾き、下からの攻撃でも頭部を捉えることが可能となる。その刹那、キリサメの右掌が彼の左側頭部を打ち据えた。左耳全体を覆うような形で叩いたと表すほうがより正確に近いであろう。
その寸前にキリサメは左手を城渡の腕から右膝へと移し、五指を関節にめり込ませている。ケツァールの尾羽根にも
右膝を脅かされたことで、キリサメの左足に対する
城渡の左側頭部を掌底打ちが捉えたのはこの直後である。
リングサイドで砲列を作っている
「ぐはァッ⁉」
城渡は片足の力が抜けた状態で〝神速〟にも匹敵する打撃を受けてしまったのである。
どのようにして抗おうとも踏み止まれるものではなく、城渡はマットから引き剥がされるような恰好で吹き飛ばされ、キリサメも絶体絶命の
極めて原始的に力ずくで状況をひっくり返した次第である。
「はいッ! 何が何だか私にはもう全然わッかんないです!」
職務放棄と紙一重ながら率直な感想を吐き出す仲原アナであったが、そもそも〝神速〟によってのみ
城渡を転がすだけならば頬を打つだけでも足りたはずであるが、
鬼貫が視線を巡らせた先では、木村レフェリーからダウンを宣言されるより早く起き上がった城渡が構えを取り直しているが、その様子は傍目にも明らかなほどおかしかった。
「ンだ、コレ? プールに入った直後みてぇな――」
突如として降り掛かってきた違和感に戸惑い、大きく首を傾げた城渡と、死肉に餓えたハゲワシの如く獲物へと振り向くキリサメの視線が衝突したのは、第二
日本MMA界が初めて〝神速〟を目の当たりにした第一
獲物を睨み据える猛禽類さながらに瞳孔まで開き切っているのかも知れないが、双眸を覗き込んで確かめるような余裕など城渡に有ろうはずもなかった。
掌底突きでもって真横に吹き飛ばされた城渡とキリサメの間には相応の距離が開いていたはずだが、たった一度の
改めて
突進時と比べて僅かに低下したようであるが、
真っ先に狙われたのは右外膝である。深い
キリサメは蹴り足を変えないまま右側頭部にも追撃を試みた。今度は
鼻血を噴き出そうとも歯を食い縛り、マットに崩れ落ちることだけは耐えようとする城渡であったが、四肢に力を込めた瞬間、不自然な形で姿勢が崩れてしまった。腰から上が左右に揺れており、両足に負った
「なかなかッ! えッげつねぇ技ァ使うじゃねーかッ! 面白くて仕方ね~ぜェッ!」
己の痛みすらも
「これは……? 城渡――選手、一体、どうした……ッ?」
無論、傍らで見守る者の目には異常としか映らない。木村レフェリーも訝るような表情を浮かべながら城渡の顔に目を凝らした。
彼の様子は
脳に蓄積された
同疾患を発症してしまったが為に現役を退かざるを得なかった選手を木村レフェリーは何人も知っている。城渡に関しては現在までに兆候の一つも確認されていないが、何かの拍子で深刻な後遺症に至ってしまうのが脳の損傷なのだ。
第一試合の最中だけでも尋常ならざる〝力〟によって頭部を幾度も
城渡が迸らせる吼え声は八雲岳にも匹敵するほど大きいが、先程の声量は明らかに異常であった。その上、調子も外れている――耳を強打された直後に彼自身が発した言葉と推察が結び付いた瞬間、木村レフェリーは一つの結論に辿り着いた。
「鼓膜をやられたかよッ!」
木村レフェリーの疑問が解消されたのと同時に、二本松も青
掌底突きと
キリサメの本当の
「……場慣れしているとは思ったが、どうも見立て自体を間違えていたようだな……」
首に掛けているタオルを握り締めた二本松は、〝海の向こう〟の
相手の鼓膜を裂き、三半規管にまで衝撃を伝達させる技をキリサメ・アマカザリという少年は自由自在に操れるということだ。尋常ならざる〝神速〟によって打撃の威力そのものが跳ね上がっている点を差し引いても、およそ人間業とは思えなかった。
ペルーという社会の最下層に横たわった〝闇〟を理解しようと考えること自体が
様々な問題を抱えながら法律によって秩序が保たれる
〝富める者〟の社会から弾き出された人々が身を寄せ合い、正当な許可も得ずに掘っ立て小屋を作って占拠する
内側のクッション材によって殴る側と相手の
ペルーの〝貧しき者〟は罪を犯すこと以外に生き抜く
キリサメは裏路地に迷い込んだ観光客や、
旧友の少年強盗団にも与せず、
死の胎動と心臓の鼓動が溶け合うと、一瞬の後には自分に銃口を突き付けてきた〝敵〟のほうが血まみれとなって
そして、時間の流れがキリサメの
時空の法則そのものが捻じ曲げられたとしか表しようがなかった。大きく見開かれた双眸によって捉える世界は言うに及ばず、鼓膜で拾う音さえも遅く感じられるのだ。
今も全く同じ情況であった。キリサメを除く全ての存在が時間の流れから取り残され、城渡も
捻じ曲げられた時空の法則と全身の感覚が結び合うにつれて、キリサメの
命というモノに対して無感情になった――と、言い換えられるだろう。
互いの身を喰らい合う〝暴力〟の応酬に
それ故に少年の魂は「生きろ」という命令によって衝き動かされていた。
(……そうだ。僕は死ねない。この命にはゴミクズ以下の値打ちしかないけど、ここで死ぬわけにはいかない。どんなことをしてでも――)
選手の安全性が最大限に考慮されるMMAのリングに立ちながら、キリサメの魂は
「――正々堂々とした勝負なんてのは〝富める者〟の
今や
「偽りに満ちた
拳を交えることによって成し遂げられる相互理解さえも〝富める者〟の道楽と嘲笑った
「――〝戦争の音〟を母親の
脳裏に甦った
誰もが未来への希望から手を離す世界に立ち、それでも
己の
黄金時代から日本MMAを支えてきた〝先輩〟選手に尊敬の念を抱き、〝城渡総長〟を熱烈に心酔する恭路のことも理解した
希更・バロッサが体現する〝相互理解〟の意味を
ときとして〝暴力〟の快楽に酔い痴れる瀬古谷寅之助の〝闇〟を鏡に換え、自らを律するように促した教訓は、
ペルーで編み出された喧嘩殺法と中世日本の合戦で求められた古武術の
「……もういい……」
抑揚のない声で洩れ出した呟きは、〝富める者〟の道楽に付き合い続けることを放棄する宣言であろうか。あるいは今から始まるのがMMAでも喧嘩でもないと城渡マッチに宣告したかったのか――それはキリサメ本人にさえ
考えるな、感じろ――この〝先輩〟選手から掛けられた激励も、今では
これまでにキリサメが放った〝神速〟の攻撃は、判断も動作も無意識の内に完了されている。生存本能によって引き出された緊急の行動とも言い換えられるだろう。迎撃に移ろうとする寸前から本人の意識と肉体は完全に切り離されていたのだ。
だが、この〝先〟は違う。キリサメ自身の意思で城渡マッチを壊す――目の前に立ちはだかった〝敵〟の息の根を止めなければ、生きて明日を迎えられないのである。
「きっとヴァルチャーの
白
頬に付着した血を洗い落とすような雫を双眸から流し続ける理由は分からないが、
しゃくり上げるようなこともなく、悲しげな
(この始末を付けなければ、今日を生き延びることも叶わない。……今までと同じだ)
握り拳を作った右手――その手首を対の五指にて掴みつつ心の中で呟いた一言は
リングサイドに設けられている関係者席では、八雲未稲が丸メガネを掛け直していた。再び発動された〝神速〟に昂奮し、
「……未稲さんのメガネは、ジェットパックみたいな機能でも付いているのですか?」
丸メガネを手渡した
極太の眉が得心を表すように上下したのは、姉が凝視する先を辿った直後である。
八雲岳と表木嶺子の離婚という複雑な事情を挟んでいる為、関係性としては極めてややこしいのだが、
またしても自分の頭で軽い音を立てた丸メガネに苛立ち、苗字こそ違えども実の姉である未稲を睨み付けた
日本に移り住んでから四ヶ月の間に二回は〝神速〟を引き出しており、そのどちらも未稲は立ち会っている。
死が間近に迫る状況での発動は電知との
それと比べても明らかに様子がおかしい。未稲の目には『
目配せでもって
少なくとも未稲にはそのようにしか思えなかった。
〝
「アマカザリさんが
「う、うん……。心臓はヤバいコトになってるけど、救急隊員のお世話になるトコまでは行ってないよ。お姉ちゃん、興奮し過ぎちゃったのかなぁ……?」
「……そうやって〝姉〟を強めに自己主張してくるのも勘弁して貰いたいのですが……」
何しろ未稲の顔から血の気が殆ど引いてしまっているのだ。ノートで隠されている為、
「心臓がビックリするのは仕方ないと、ぼくだって思いますけどね。試合の真っ最中でさえ、どこかボケーッとした
「ヒロくんの可愛げのないところ、
「ぼくは未稲さんの
突然の落涙は急激な眼精疲労が原因であろうという
しかし、その一方で理詰めの考察では解き明かし難いとも思えてならなかった。
「キリくんの目は涙なんか一滴も貯めていないって思ってたから、それは私も純粋に驚いたんだけどね? この間、
「未稲さんが窒息死しそうになったヤツですよね、それ……。今、ここで目撃したのとは別の意味で人間離れしているな……」
「……城渡さんへの罪悪感がキリくんの目から涙を引き出したんじゃないかなって、お姉ちゃんは考えちゃうんだよね」
「罪悪感……ですか」
「試合中でもボ~ッとして見えるけどね、……
実弟に明かせるはずもないが、幾度となく唇を貪られた未稲には、キリサメが内面に秘めた情の深さを実感として理解できるのだ。
唇から
*
新しく〝家族〟にはなったものの、接し方を掴めずにいた頃は互いに敬称を付け、ともすればよそよそしい調子で名前を呼んでいた。
長野で遭遇した様々な事件を経て心の距離が縮まったと感じた未稲は、打ち解けた証として
ネットゲームを一緒に楽しむ仲間を
小学生の頃は殆ど同姓としか交流せず、保健室で三年間を過ごし、修学旅行も欠席した中学校は同級生と顔を合わせる機会も皆無であった。現在は
『八雲道場』というMMAジムの活動報告が未稲の仕事であるが、試合や強化合宿の内容を記録する為に所属選手――岳やキリサメへ同行する場合を除いて、公式ブログの運営といった〝業務〟も自室のパソコンを使えば事足りてしまう。簡単な更新作業はベッドに寝転んだまま
その『八雲道場』が所在する下北沢は、小劇場が
必然的に顔を合わせる機会が限られるものの、人材派遣会社から専属チームの一員として『
ゲーミングサークルのオフ会にも意気揚々と出掛け、
キリサメと電知が親友の絆を結んだのと同様に未稲もまた『
中学三年間の想い出を同級生と共有していないのは、気持ちにほんの少しだけ掛け違いがあった為――ただそれだけのことである。
それでも面と向かって同い年の異性と話すことは得意ではなかった。
一七年という人生を振り返ってみても、敬語を使わずに喋ることが出来たのは性別の違いを意識しなかった小学校低学年まで――未稲の側からキリサメの心へ踏み込む為には、心臓が爆発しそうになるくらい勇気を振り絞らなければならなかったのである。
「――もう一度、『キリくん』と呼んで貰えませんか。……あ、いや――呼んで欲しい」
馴れ馴れしいにも程があると呆れられるか、反対に距離を取られてしまうか――未稲はキリサメの反応を幾通りも想像していたが、その全てが当たらなかった。「キリくん」という
「えっ? えっ⁉ へえぇッ⁉ そ、そ、それは構いませんけどどど、それならなら、キリサメさ――キリくんも『みーちゃん』って呼んでくれる……よね?」
「……みーちゃん」
「キリくん……」
「みーちゃん」
「キリくん。……あの、そんな見つめられたら困っちゃうなぁ。わ、私ってこ~ゆ~雰囲気も慣れてないし、お、女の子をね、か、か、勘違いさせるのは良くないないよよよ!」
「こういうときは相手を――というか、女の子の顔をしっかり覗き込んで話すよう死んだ母さんに教えられたから。他にも肩を掴んで逃がすなって……」
「
「良く分からないけど、頭がこんがらがっているみーちゃんも可愛いと思うよ」
「キリくんのお母さ~ん! よくも息子さんをこんな危険人物に育てましたねぇーッ⁉」
頬の火照りによって未稲の丸メガネが真っ白く曇る頃には、二人の間で敬語も使われなくなっていた。
*
当然ながら未稲はこの出来事を家族にも話していない。秘密にしておくよう約束を交わしたわけでもないが、キリサメも他所で口を滑らせてはいないはずだ。希更などは自分の知らない間に
何事にも無反応ではあるものの、キリサメ・アマカザリという少年の
再び〝神速〟を発動させ、双眸を見開き続ける――この過程で〝何か〟がキリサメの
未稲の想像した通りであれば、〝格闘競技〟のリングとは正反対の〝世界〟に引き戻されることを
「……罪悪感? そんなに甘いものなのかな、サメちゃんのアレは」
奇妙な落涙を罪悪感の発露と捉える未稲を鼻先で笑ったのは、
かつて全米にまで勇名を轟かせた近代日本最強の剣道家――
「滴り落ちるそれは歓喜の涙⁉ 〝打撃番長〟からガチンコの洗礼を受けたアマカザリ選手は今!
獲物へ咬み付かんとする野獣のように上体を傾けていくキリサメから目を逸らさない寅之助は、マットにまで飛び散った落涙に感傷的な〝何か〟を見出すことはなかった。
実況用のマイクを掴んだ仲原アナも、未稲と似たようなことを感じ取ったのであろう。
感情を激しく揺さぶられた
「キリくんのアレが
「ボクの話、聞いてた? 『そんなに甘いものじゃない』って言ったばっかりでしょ。サメちゃんが生まれ故郷から背負ってきたモノ、キミらも一〇分の一くらいは理解してると思ったんだけどねぇ。どうも買い被りだったみたいだよ」
「……そ~ゆ~訳知り顔の上から目線、照ちゃんもケツを蹴飛ばしてやりたいくらいムカつくって言ってましたよ」
「そ~ゆ~ときは実際に尻を蹴飛ばされるし、何事も有言実行な照ちゃんがボクには可愛くて堪らないのさ。需要と供給がマッチした最高のカップルと祝福しておくれよ」
地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋を抱えながら試合を見守る寅之助は、キリサメが故郷で犯してきた罪の数々をこの場の誰よりも把握している。
『
昨年のペルーで起こった大規模な反政府デモ――『七月の動乱』についてさえ、未稲よりも寅之助のほうが遥かに詳しかった。
騒乱の最終盤には
経済格差を拡大せんとする〝大統領宮殿〟を焼き討ちにしようと、テロ組織から銃器を入手した一部デモ隊の全滅という壮絶な結末であった。犠牲者数も国家警察の想定を大きく上回り、死者の尊厳を
巻き込まれる形で銃を取り、その果てに命を散らした少女の亡骸をシートの
だからこそ、眼精疲労や罪悪感とは比較にならないほど
「……この人、未稲さんやお友達一同を巻き込んでキリサメさんに不祥事を起こさせたのですよね? 理由をこじ付けてでも
「私が提案してないと思う? ていうか、照ちゃん――瀬古谷さんの
同じ時間に異なる場所で自分と全く変わらない笑みを浮かべる人間が
二〇一四年六月時点の未稲と
五〇〇〇もの歓声が壁を突き破って聴こえてくる距離に位置しながら、場内の様子はモニターでしか確認できない部屋――白
このとき、モニターに大写しとなっていたのは、左右の頬にこびり付く血を涙でもって洗い落としたキリサメ・アマカザリの
「
第二試合を受け持つ〝打投極〟の
ルールによって安全が確保されなくてはならないMMAで人体破壊を平然とやってのけるだから、試合拒否とも受け取れる反応は当然であろう。新貝とキリサメは体重も近く、同団体の男性選手の中では対戦を要請される可能性が最も高いのである。
興収増加に狂奔しているとしか思えない
世の中の全てが気に入らないとでも言いたげな面持ちは平素と変わらないのだが、その眼差しは
その
前回の長野興行でも対戦した城渡のことを日本で一番の〝
そこに
声もなく身じろぎもせず、身も心も凍り付くほど
『
MMA以外の
控室に
真意は掴めないが、キリサメ・アマカザリという存在そのものを心の底から
正常とは認め難い目付きに変わったキリサメに舌なめずりしている――少なくとも、バトーギーンの目には弄ぶべき〝玩具〟を見つけた
MMAファンを惹き付けてやまない
「……〝同類項〟――か。生い立ちは似通っているかも知れんが……」
バトーギーンが洩らした呟きはモンゴルの
標的を巧みに絡め取るブラジリアン柔術の寝技に由来し、『スパイダー』なる異名で呼ばれ、胸板からヘソに掛けて蜘蛛の巣と獲物の蝶を
二〇一六年のオリンピック・パラリンピック開催地でもあるリオデジャネイロの犯罪多発地域で生まれたという経歴は、タレントとしての
この六月から開催されているサッカー
サッカーを趣味としながら
「二人ともここが正念場ヨ! 勝負はどう転ぶのか、最後のゴングまで分からナイッ!」
犯罪多発地域の大半は貧困層の居住地であり、ブラジルでは『ファヴェーラ』と呼ばれている――記憶の水底を
控室に設置されたモニターでは、マットに冷たい雫を撒き散らすキリサメが今まさに城渡へ飛び掛かろうとしていた。
岩手興行の開催前日に実施された公開計量に
ミドル級に当該する城渡マッチに対し、キリサメはフェザー級だが、体重は一つ下のバンタム級に限りなく近い。数値のみならば中量級と軽量級の中間であるものの、実質的には後者というわけだ。
重量級に一〇キロほど足りない中量級選手だが、打撃にこだわり抜く力自慢の城渡は、マットを蹴り付けるだけでリングに悲鳴を上げさせられる。
そこにもキリサメを苦しめ続けた一〇キロ以上もの体重差が表れているようであった。
だからこそ、木村レフェリーは己の足元が脅かされたことに瞠目したのである。左の五指で右手首を掴んだまま前傾姿勢となったキリサメが膝を大きく屈伸させた瞬間、リング全体が波打つように揺れたのだ。
六二キロという体重が最も深く沈み込んだ一点を〝軸〟として、衝撃が波紋のように広がっていく――城渡の〝ゲンコツ〟が本来の狙いを外してマットに突き刺さった際にも逆巻くような形で木村レフェリーの両足に揺れが
試合に
部外者の立場でハプニング映像を眺める分には笑っていられるが、弾け飛んだ
四隅の
しかし、〝今〟は連綿と続く格闘技史の常識が一人の少年によって破壊されている状況なのだ。体重どころか、人間という種をも超えた〝力〟が闘魂と共にプロレスより受け継いだリングを軋ませている。
キリサメは単に地団駄を踏んだわけではない。己の涙が飛び散ったマットを蹴り付け、双眸が大きく見開かれた顔を城渡の鼻先まで近付けた次第である。
一足飛びで肉薄する
左右の五指を組み合わせ、両拳を巨大な鉄槌に換えて振り下ろすプロレス技――ダブルスレッジハンマーと姿勢そのものは近似しているが、握り締めたのは右拳のみである。
同じ側の手首を左の五指で掴んでいるのは、垂直の軌道を描くよう上体を固定する為であった。背筋や肩のバネを限界まで引き絞り、これを一気に解き放つのだ。
〝格闘競技〟とは相容れない暴力性の
左の五指にて対の手首を掴んだのは、
ノコギリの如く禍々しい刃で引き裂けなくとも、接触するだけで致命傷を与えられるほど『
『
それはつまり、落涙と共に双眸を見開くキリサメの〝感覚〟が
「オレにもッ! 意地があっからよォッ! 最後までッ! とォことん付き合わァッ!」
キリサメの跳躍は再び〝神速〟に達しており、城渡の双眸には
どのような攻撃を仕掛けられるのかも分からない状態で再び
完全に意識の外から襲い掛かってくる不意打ち――即ち、第一
「しぶとい――」
深呼吸と共にキリサメの口から吐き出された一言は、偽らざる本心であった。
顎を防護するマウスピースに亀裂が入るほど強く歯を食い縛り、四肢の隅々まで力を
当然ながら無傷では済まない。頭頂から眉間へと一直線に抉れ、そこから噴き出した鮮血によって城渡の顔が真っ赤に染まっていく――僅かに遅れて爆発した大歓声にも表れているが、五〇〇〇という観客も致命傷に近い
しかし、一つの事実として城渡は片膝を屈することもなかった。それどころか、疲弊の蓄積を感じさせない鋭さで旋回し、伸ばした状態の右腕を振り回したのである。
「ンんどォらァァァァァァッ!」
調子の外れた吼え声を引きずるようにして内へと水平に振り抜いた右腕には猛烈な遠心力が働いており、その勢いは上半身のバネを駆使して繰り出す〝ゲンコツ〟に勝るとも劣らない。風を薙ぐ音には眩暈の影響など少しも感じられなかった。
やや変則的な打ち方ではあるが、プロレスに
本人の失血を案じるだけでなく、対戦相手への感染症予防という観点からも速やかに応急手当を指示すべきであったのだが、割って入ろうと身構えた直後には木村レフェリーの視界からキリサメの姿が掻き消えていた。
対象を見失ってしまったのだから、
城渡のラリアットがキリサメの首を真正面から捉えたのは、木村レフェリーが幾度か
『ラリアット』も種々様々である。城渡が繰り出した
「城渡選手が持っていて、アマカザリ選手が持っていないと思われるもの――その差がここからの明暗を分けるのかも知れません。城渡選手はそれこそMMAのリングに上がる前から血だるまで闘うことに慣れています。あるいはそちらこそが彼の本質でしょう。頭も
比喩でなく文字通りの〝目にも止まらぬ早業〟を誰よりも早く看破したのは、口を大きく開け広げたまま硬直する仲原アナの
『昭和の伝説』と畏怖される名レスラーが読み解いた通り、城渡がラリアットを命中させたというよりは、キリサメのほうから彼の右腕に吸い込まれていったようにも見えた。
同じ現象は城渡が追い撃ちを試みた瞬間にも起こった。
倒れ込んだキリサメを踏み潰そうと脛に走る痛みを堪えながら右足を持ち上げる城渡であったが、不意に
その蹴り足がキリサメの胸部に突き刺さっていた。奇抜な
このときにも木村レフェリーや仲原アナはキリサメの姿を見失っていた。余人の網膜に残像すら焼き付けない
無論、キリサメが引き出した〝神速〟には追い付きようもない。正面から向き直って迎撃態勢を整えることは間に合わないと判断し、相手に側面を晒すような状態から速射砲の如き
先程のラリアットと同様に今度もキリサメのほうから城渡の蹴りに突っ込んでいき、
「ぶっちゃけ、アマカザリ選手の動きは九割ほど見逃しちゃいましたけど、それに関してのご批判は一個たりとも受け付けませんよ~。私みたいな
「誰にも仲原さんは責められませんよ。リングに向けられた全部のカメラからもアマカザリ選手の姿が消失しているハズです。勿論、この老いぼれの目にも映りませんでした」
「
「相手の動きが掴み切れず自分から当てられないのなら、自分の拳を相手に当てさせるよう仕向ける――力自慢というだけでは〝打撃番長〟の呼び名で尊敬を集めることもありません。新たな〝切り札〟を返された程度で
仲原アナの分析に対し、鬼貫は補足説明を述べつつ頷き返した。普段のような訂正を求めないということは、彼女の双眸が珍しく攻防の実態を見極めていた証左である。
補足説明として鬼貫が述べた通り、誰の
現在の城渡は尋常ならざる
つまり、城渡は
『昭和』と呼ばれた時代から日本格闘技界を牽引してきた鬼貫道明が〝目にも止まらぬ早業〟を看破できたことと同様である。長い歳月の中で積み重ねてきた
人智を超えた〝力〟を発動させた状態とはいえ、キリサメは特撮番組の
〝神速〟と言えども、
轟然たるラリアットでマットに叩き付けられた直後、キリサメの姿はリングから再び掻き消えたが、追撃を想定すれば何時までも城渡の正面に留まり続けるはずがない。さりとて追い込んだ相手から離れる理由もない――
八一キロという体重で踏み潰されることは、キリサメにとって確実に致命傷となる。右足を持ち上げるというフェイントによって絶体絶命の危機と錯覚させ、緊急回避行動を彼に起こさせたのだ。
『昭和の伝説』が明暗を分ける要因として挙げたのは、
必殺の一撃を確実に叩き込めるよう仕向けるのは、城渡が若かりし頃に体得した『
蹴り足と〝軸〟を入れ替え、全身を反対方向へと捻り込んだ城渡は〝ボンタン〟を波打たせながら追撃の飛び後ろ回し蹴りを繰り出し、キリサメの顔面を弾き飛ばした。
今日がプロデビューという
それは素早い一撃で標的を破壊する喧嘩殺法の本質であるが、
飛び後ろ回し蹴りによって吹き飛ばされ、
前回の長野興行に
養父が実践を
城渡は依然として
しかも、
無防備のまま飛び後ろ回し蹴りの直撃を許したことも、背にしたロープの弾力性を生かせなかったことも当然といえよう。胸部に亀裂が走り、瞬間的な心臓震盪が発生した可能性も否めなかった。
「立ってこい、アマカザリ! オレたちが受け持ってんのは第一試合だぜ⁉ 『
ついに右腕と左膝をマットに突いてしまったキリサメを燃え盛る瞳で見据えた城渡は、彼の血が付着する
第一試合以降にリングへ臨む〝同僚〟の為にも、場内の熱気を冷ますわけにはいかないのだと
『スカ勝ち』とは強烈な打撃によって〝スカッと痛快〟な
「ここまで来たら、とことんブッ千切れッ! ゴングが鳴ったときにぶっ倒れちまっても
「諸刃の剣を鞘に納めるのだって一つの勇気だよ、キリサメ君! 今すぐにその技を止めるんだ! 一分先の金星を掴む為にも、一秒先の自滅に手を伸ばしちゃいけない! キミならそれに頼らなくとも十分に勝負できるだろうッ⁉」
正面から対峙する城渡に続いて、白
尤も、二人は意見を
人間という種の限界を突破する〝力〟は、その代償としてキリサメに命を削るよう求めており、『
刹那の発動にも関わらず、心臓と肺が破裂しそうなほど悲鳴を上げたのだ。その状態を長時間に亘って維持し続ければ、肉体の損傷も相応に蓄積されていく。あるいは第二
最悪の事態を懸念していればこそ、岳は無理を押してでも速やかに勝負を決するようキリサメに訴えたのだ。その判断については麦泉も否定する理由がなく、尻や耳朶を抓ろうとはしなかった。
「……おあああ――ッ!」
自分を見守ってくれる
片膝を突いた場所に余韻の如く残されたのは
改めて
五枚の尾羽根を
力任せの殴り合いとは何もかもが異なる
ましてや実質的な軽量級選手であるキリサメでは、六二キロという全体重を浴びせても大した
甚だ合理性を欠いた反撃は、比喩でなく本当の意趣返しなのであろう。先ほど背後に回り込んだ上で急所を狙ったのも、ラリアットによって後頭部からマットに落下させられた
〝神速〟の
「太古の昔から
互いの鼻息が鼓膜に吸い込まれるほどの至近距離で城渡と顔を見合わせたキリサメは、効果の薄かった
城渡の側も負けてはおらず、後方へ弾かれた首を振り子の如く無理矢理に引き戻し、新たな血飛沫と共に互いの眉間をぶつけ合った。一等昂る仲原アナも実況で熱弁したが、それは原始的としか表しようのない力と力の激突なのだ。
法治国家日本の日常から切り離された蛮性が鮮血の
だが、心身の異常を確かめる声では城渡とキリサメを止めることは叶わない。もはや、第三者には押し止められないほど日秘の喧嘩師は野性を剥き出しにしているのだ。
猛烈な頭突きを見舞いつつ、キリサメの胴に両腕を巻き付けた城渡は
キリサメを迎えるようにして両腕を開いたのは、この状況まで誘導する〝罠〟である。
「ウルトラ・スーパー・マイティ・ストロングス・バックブリーカーッ! 血よりも濃い
「……何時も思うのですが、その長ったらしい
それこそが白
親友の二本松剛に直伝されたというが、彼は『
『昭和の伝説』――鬼貫道明も慣れ親しんだプロレスのバックブリーカーである。
抱え上げた頂点から相手を急降下させ、この
本当に背骨が
〝神速〟を封殺された状態ではあるものの、依然としてキリサメの双眸は見開かれたままであった。それ故にバックブリーカーが確実な致命傷を招くと本能の領域にて直感したのであろう。今まさに投げ落とされようとする寸前で城渡の胸や肩を蹴り付け、急降下の勢いに逆らいながら両腕による拘束を引き離し、空中へと抜け出した。
この試合がショーの要素が強い王道的なプロレスであったなら、キリサメも五枚の尾羽根を巻き込むようにして宙返りを披露し、マットへ降り立つのと同時に城渡と肩越しに睨み合う〝演出〟も有り得たことであろう。
しかし、これはMMAという〝格闘競技〟である。ありとあらゆる格闘技術が解き放たれた〝実戦〟のリングである。親友直伝の技を仕損じた城渡はすぐさまに振り返って両腕を伸ばし、今まさに逃れようとしていたキリサメの左足首を掴んだ。
「ぬゥおおおおおおぉぉぉぉぉぉォォォォォォッ!」
城渡の口から迸る吼え声は、リングを取り巻く人々の耳に歪曲としか表しようのない形で届いたことであろうが、その原因と鼓膜の損傷による一時的な影響は無関係である。
キリサメの片足を両の五指にて掴んだまま、城渡はその場で猛烈に旋回し始めたのだ。竜巻でも起こすかのような
変則的な
「――しゃあぁぁぁぁぁぁァァァァァァッ!」
旋回を維持したまま城渡は徐々に姿勢を傾けていき、十分過ぎるほど勢いが付いた瞬間にキリサメの
両足を執拗に痛め付けられ、更には平衡感覚まで著しく乱されていた城渡は、キリサメの片足から五指を剥がした直後に横転しそうになったが、眉間に血管が浮き上がるほど強くマットを踏み締めて堪え、空中に放り出した標的が垂直落下を始める頃には追撃の拳まで握っていた。
そもそもジャイアントスイングはMMAの試合には不向きといっても過言ではない。遠心力によって自他の三半規管を揺さぶることは可能であるが、直接的な
四隅に立つ
つまるところ、観客を楽しませる為のパフォーマンスに過ぎないのだが、標的を頭上よりも高く放り投げた場合には、攻防の筋運びが随分と変わってくる。空中に
殴り方によっては頚椎破断まで起こり得る。文字通りの一撃必殺であり、MMAに
キリサメ・アマカザリは尋常ならざる〝力〟を解き放ってはいるものの、例えば希更・バロッサがアニメ作品で演じるような
その一方で、身体能力の優れた者であれば跳躍の頂点にて姿勢を整え直すことも不可能ではないと、ヴァルチャーマスクという前例が示している。〝超人レスラー〟と同様の才能に恵まれたキリサメも巧みに身を翻し、反対に城渡へと飛び掛かっていった。
突き上げられた鉄拳をすり抜けながら彼に組み付き、その場に押し倒した次第である。
「……バックブリーカーの抜け方にも目ン玉飛び出るくらい驚かされたが、まさかジャイアントスイングまで返すとはな……。こうも豪快に〝プロレス泣かせ〟が続いたら、さすがに落ち着いてはいられんぞ……ッ!」
ほんの一瞬ながら鬼貫は技術解説の役割を忘れて実況席から身を乗り出してしまった。
キリサメのことを〝超次元プロレスの跡継ぎ〟と呼んだのは鬼貫自身であるが、
その上、マットに叩き付けられた城渡も止まらないのだ。ドロップキックさながらに左右の足を揃え、自分に向かって
このとき、五指を開いたキリサメの手付きは、明らかに絞殺を図るものであった。城渡の蹴りで弾き飛ばされていなかったなら、木村レフェリーから〝プロ〟のMMA選手にあるまじき蛮行として反則を言い渡されたはずである。
「考えるな、感じろ――オレとの
両足を高く持ち上げ、これを振り落とす勢いで跳ね起きた
「ぼちぼちケリつけようや、アマカザリ。この試合で感じたモンがお前にくれてやる香典の代わりだ。……マジで棺桶行きにならねェよう気合い入れ直しなァッ!」
人間という種を超越したとしか思えない〝力〟を長時間に亘って引き出し続けた代償は余りにも大きく、
だからこそ、城渡は最終局面に入ったことをキリサメに言い渡したのである。
ここまでは〝根性比べ〟とも
間違いなく次の攻防で完全決着を迎える――この確信も歴戦の経験で鍛えられた
「オレたち、MMA選手がリングに残しちゃならねェモンをバカ
一等強く吼えた城渡は第一
溢れんばかりの殺意を帯びた憤怒の形相と、得体の知れない
胸が躍る時間も〝次〟で最後と理解していればこそ、
「……もういい」
そのキリサメは先程と同じ言葉を怖気が走るほど無感情に呟き、殴り難いグローブで包まれている左拳を握り締めた。城渡は
一気に間合いを詰め、力を溜めに溜めた
城渡が仕掛けようとしているのは『テレフォンパンチ』とも呼ばれるものであった。四肢を大きく振り回す打撃は威力も相応に高まるのだが、それだけに
テレフォンパンチに分類される打撃を好むという荒々しい気性は、攻防を組み立てる上での選択肢を狭めるだけでなく、MMA選手としての成長そのものを阻害した――動画サイトの専門チャンネルで『
一方のキリサメも
「――MMAの試合でテレフォンパンチ⁉ 二〇一〇年代も半ばに入ったってゆ~のに二人揃ってテレフォンパンチ⁉ 実況では『原始の息吹』とか涙ぐましいくらいに無理くり盛り上げてましたけど、ミヤズに言わせれば原始時代に退行したようなモンですよ! 進歩のない城渡選手だけならまだしも、今日がデビューのアマカザリ選手まで目クソ鼻クソをやらかすなんて、こりゃあ『
歯に衣着せぬ物言いと悪口の狭間を反復横跳びする〝キャラクター〟の声が
〝根性比べ〟を繰り返した果てにテレフォンパンチを撃ち合う状況となった――そのようにも言い換えられるだろう。
会場に詰め寄せた五〇〇〇という観客たちは言うに及ばず、実況席の
しかし、〝筋書きのないドラマ〟は往々にして大勢の予想を裏切るものである。予定調和を突き破る劇的な展開が起こるからこそ、スポーツという言葉が生まれる前から人々を熱狂させてきたのだ。
己に迫る右腕をすり抜けながら横薙ぎの左拳を閃かせんとするキリサメであったが、螺旋の力が城渡の側頭部にねじ込まれることはなかった。
コークスクリューフックを迎え撃つべく同種の技に変化したわけではない。
キリサメからすれば裏の裏を掻かれた恰好であった。距離感を狂わされるほど城渡の踏み込みは深く、姿勢そのものが崩れてしまう紙一重まで上体を傾かせていた。これでは螺旋の力が宿った拳もリーゼント頭の真上を掠めるしかない。
「
互いの肘が悲鳴を上げるほど強烈にキリサメの左腕を〝捕獲〟したまま、城渡はマットに大きな円を描き始めた。
下肢と上肢の
「例の社交ダンスの映画が公開されたのって、
「この局面で〝サバキ〟に勝負の行方を託すとは……! 城渡選手は日本MMA一七年の歴史のみならず、今日まで培ってきた〝全て〟をぶつけるつもりですね! 一分置きに新たな進化を遂げていくこの
実況席にて
社交ダンスを彷彿とさせる回転で遠心力を生み出し、これを利用して放り投げようとしたのではない。キリサメの姿勢を崩す為の〝サバキ〟であった。
若き日の城渡が稽古を積んだ『
その術理に基づく〝力の作用〟がキリサメの
城渡による腕の〝捕獲〟は間もなく外れたが、そのときには片膝を突きそうになるくらいキリサメの姿勢は崩れており、マットを蹴り付ける音が鼓膜に吸い込まれた直後、視界の全てが黒く塗り潰された。
それと同時に鎖骨が軋むほどの
大きく見開いているはずの双眸を塞いだのは、『昭和』と呼ばれる時代から
「
「が……ッ!」
城渡の吼え声と共にキリサメの脳天へと降り注いだのは〝戦争の音〟であった。試合を見守る人々の耳には、バリバリと火を吹くバルカン砲さながらの打撃音が聞こえている。
両足でもって首を挟み、
首が固定されると、キリサメの
この状態が絶え間なく続いたなら、どれほど頑丈な人間であっても第二
即ち、城渡は「標的の身動きを封じ込めたまま打撃によって脳を揺さぶる」という術理を咀嚼した上で、自らの闘い方に最も合致する形へと応用した次第である。鬼貫道明の瞳には
キリサメに向かって浴びせられた
「とことんバカになろうぜ、アマカザリッ! バカになったらよ、利口そうに気取ってた頃がアホらしくなるくらい何でも面白ェからなァッ!」
最後まで温存してきた〝切り札〟を
その脳裏を掠めたのは〝格闘技バブル〟の崩壊ひいては
その試合は
第六
「ンどォらァァァッ! そろそろォ! 仕上げと行ッくぜェェェェェェッ!」
依然として調子の外れた喚き声を迸らせながら両の拳を繰り出し続ける城渡は、マットの中央に落ちたタオルを静かに見つめる柔術家の姿が
仮に第二
命を預けた親友の判断に対して、城渡も逆らうつもりはない。だからこそ、キリサメの肩から振り落とされるまで殴り続けるしかなかった。
マウスピースが
『昭和』と呼ばれた時代の『
(みっともねェ悪あがきも出来なけりゃ、自分の居場所だって守れやしねェッ!)
心の奥底から響く声は左右の鼓膜が破れていても聞こえてくる――城渡の口元は自嘲の二字で歪んでいた。
ありとあらゆる格闘技術が解放される利点を
所属団体の代表や陰湿なスポーツ・ルポライター、何よりも『
新たな挑戦に年齢など関係ない――この精神は人生の支えともなり得るが、一〇年以上もMMAの最前線に立ち続けてきた城渡は、気構えだけでは肉体の衰えを補い切れないという〝現実〟を痛みと共に悟っているのだ。
己のこだわりを投げ捨てた
「二
「別のアニメと勘違いしていますね。〝
『昭和』のロボットアニメはともかくとして――仲原アナがキリサメの頑丈さを鋼鉄に
その上、
城渡の両脚によって正面から挟まれている為、
キリサメの五指は〝ボンタン〟の上から城渡の太腿に食い込んでおり、現時点では気絶を免れている。それ以外の判断材料を持ち得ない木村レフェリーは、
「大丈夫だ、大丈夫だぞ、キリーッ! そこから
「僕も途中まではセンパイに賛成だよ、キリサメ君! とにもかくにも一方的に攻め続けられる状態を引っ繰り返そう! その後は無理しなくて良い! 第二
「城渡総長ォーッ! 身の程を弁えねェバカの〝弟分〟に思い知らせてやっちまってくださいィッ! 総長の
物理的に両耳を塞がれた状態であるから、白
そもそも頭蓋骨の内側に轟く打撃音が『カラシニコフ銃』の発砲音に換わり、〝戦争の音〟でもって
アメリカ大陸最大にして最古の闘牛場――古代ローマの
その空に吸い込まれていくのは、数え切れないほどの新聞紙であった。いずれも砂嵐と同じ色で汚れている為、記事の詳細までは読み取れないが、一面に掲載された写真を見れば全文がペルーの
日付が二〇一三年七月であることもキリサメには確信できた。
〝富める者〟の傲慢に怒り狂った民衆と、非致死性のゴム弾が装填された暴徒鎮圧用の
前者はイタリアに
後者は強化プラスチック製の盾を翳し、憤怒に衝き動かされた一撃を防いでいる。その隊列にはヘルメットを破壊する大小の石だけでなく、火炎瓶やロケット花火までもが降り注いでいた。
何万という怒れる民衆に対して国家警察の側はグレネードランチャーから催涙弾も発射しており、辺り一面に
高い壁を飛び越えて闘牛場に流れ込んでくるのは、調理器具といった家庭の金属製品を打ち鳴らす奇妙な大合奏と、自由を高らかに唄い上げるペルー国歌である。
それらを無惨に咬み砕いていく〝戦争の音〟は、果たして〝何〟をキリサメに訴えているのであろうか。
猛々しい牛と
泥濘に阻まれなくとも、彼にこの場を離れることは難しかろう。怒れる民衆と同じ側に産まれ落ちたとは思えないほど小奇麗に着飾った〝ケツァールの化身〟をも呑み込み、途方もなく大きな影が地上を覆っていた。
キリサメが幼い頃より見慣れてきた闘牛場に、〝人外〟としか表しようのない
少年を睥睨する二つの目玉は血の色が異様に濃く、また歪なほどに巨大である。それぞれが鼻を挟んで離れており、この狭間に開いた口も冥府の門としか思えないほど大きい。
上顎より突き出した左右の牙で生贄を捕らえ、生きたまま命を喰らうのであろう。老婆を彷彿とさせる白髪を貫く頭部の角は欠けた月の如く湾曲し、逆巻く炎の如く捩じれ、野を行き交う獣のそれとは似ても似つかない。
地上の生物でいう顔面と認識することが正しいのか、キリサメには判らなかった。あるいはこの世界に晒し得ない
眉間には決して小さいとは言い難い亀裂が走っており、その中心部に仮面の〝向こう〟が覗けるようであった。
明らかに生身と判別できるのは、頭髪と同じ白い体毛で隅々まで覆われた左右の耳のみである。虫の
胴体に該当するはずの部位は、人間界の喪服を想起させる漆黒の布でもって覆い隠されていた。あちこちに穿たれている無数の穴には、焼け焦げたような痕跡も見て取れた。
「――おかえり」
命を咬み砕く歯牙の〝向こう〟より降り注いだ声は、その禍々しさを忘れてしまうほどに優しく、郷愁を煽られるような懐かしさに満ちている。
生まれる前から親しんできた
愛しい雛を抱き留める親鳥のように大きく広げた
あるいは己の身をサン・クリストバルの丘に立つ物と同じ巨大な十字架に見立てているのかも知れない。
異形なる
キリサメが生まれ育ったペルーは、概ね三月末から四月上旬をキリスト教にとって極めて大切な一週間――『
信仰を捧げる上で重要な位置付けとされる受難劇の再現は『
本来は夜が明け切らない内から蝋燭だけを頼りに執り行われるものであり、心臓が揺さぶられるほど荘厳であるが、異形なる
尾や茎とも異なるモノであろうか――等間隔に収縮を繰り返し、泥濘から〝何か〟を吸い上げているようにも見える長大な管から胴体へと視線を巡らせていくと、
そこから何本もの
「汝の手に『
もはや、キリサメには懐かしい声の正体が
先ほど〝富める者〟の道楽を嘲った
泥を捏ね繰って受難劇を再現したように
冥府の玉座に
彼女は自分と同じペルーに生まれた人間である。地上を隅々まで覆ってしまえる影を落とした異形とは比較にならないのだ。そのことを疑問にも思わず、
母の
「――おかえり」
闘牛場に降り注ぐ深紅の雨はキリサメの口内にも流れ込んだが、それは再び囁かれた言葉と同じくらい甘やかである。
泥濘に打ち付ける烈しい雨音は、地上を舐め尽くす『カラシニコフ銃』の咆哮――〝戦争の音〟と入り混じって
五〇〇〇を僅かに超える驚愕の声が場内を埋め尽くしたのは当然であろう。キリサメが一九キロという体重差を物ともせずに城渡の
四隅の
実質的な軽量級選手が限りなく重量級に近い選手を投げ捨てただけであれば、歓声は上がってもどよめきには変わらなかったはずだ。
白
どれほど殴打し続けても意識を刈り取れないどころか、
人体でも特に硬い部位である肘を用いた打撃は、競技団体によってルールで制限されることもある。『
落雷の如き肘打ちは『
ほんの僅かでも重心が崩れた瞬間に折れてしまっても不思議ではない両膝を屈伸させ、
闘牛場に降り注いだ深紅の雨は、〝暴力〟のみを頼みとして格差社会の最下層で生きてきた少年に果てしない〝闇〟という本質を受け
我らは自由だ。常にそうあらんことを――
「よッしゃあッ! 栄光に向かって
今まさに足裏がマットから離れようとする寸前、岳の雄叫びが背中を追い掛けたが、この激励がキリサメに届くことはなかった。耳を貸さなかったわけでもない。もはや、〝地球の裏側〟で生まれた少年は
「
急降下と呼べるほどの勢いは付かなかったものの、八一キロという
すぐさま後方へと身を転がし、キリサメから離れつつ
「逆転に次ぐ逆転ッ! これぞ
仲原アナの実況が前のめりな昂揚から動揺へと変調していったのは当然であろう。彼女と共にリングへ視線を巡らせる鬼貫道明も椅子から立ち上がっていた。
キリサメの足元に赤い斑模様が飛び散っていた。『パウンド』の連打によって刻まれた
依然として双眸を見開いたまま、キリサメは血の涙を絶え間なく流し続けていた。観客席で渦巻くどよめきにも悲鳴が混ざり始めていた。誰よりも騒々しかった恭路ですら
「――もういい」
間近で試合を見守っているのだから当然であるが、木村レフェリーが血の涙に気付いたのは実況席の二人よりも遥かに早かった。彼もまた頭部に深刻な
両者の動きが止まった瞬間、この好機を逃すまいとキリサメに駆け寄る木村レフェリーであったが、彼の口から零れた短い呟きの意味は全く分からなかった。
先程も聞いたばかりの一言である。しかし、〝そのとき〟とは違って
木村レフェリーの足がマットを蹴り付けたときには、眼球の損傷などを確かめるべき相手は
「木村君、今度こそ彼を止めろ! 罰則云々はどうだって良い! いや、きちんとして貰わねばMMAの信頼が地に落ちるが、今はとにかく試合を止めるのが先決だ! このまま続けたら最悪、あの悪夢のようなフライ級タイトルマッチと――
青
城渡の左膝裏を無造作に踏み付け、力ずくでマットに片膝を突かせると、完全な無防備となった後頭部へ右肘を水平に打ち込んだのである。〝ボンタン〟によって顔面を覆われていたキリサメ当人には判るはずもあるまいが、奇しくも先程の意趣返しとなっている。
この
視線を巡らせた先にて展開する有り
あるいは過剰な表現を控え、『
日本のプロボクシング・フライ級タイトルマッチに
ボクシングとMMAの
「オ、オレはそ~ゆ~意味で『
キリサメが仕出かした愚行は白
ただでさえ団体内外から厳しい目を向けられる状況下でリングに臨み、信頼回復に徹するどころか、選手の安全を守る為のルールに違反してしまったのである。
岳本人は己の名誉など気にも留めないだろうが、統括本部長という〝看板〟への心象悪化も免れず、被った
「上ッ等ォ~だぜェ、アマカザリィッ!
白・青両
キリサメの足が膝裏から離れた直後、城渡は突かされた側の膝頭を〝軸〟として据え、マットの表面を撫でるような恰好で対の足を振り抜いたのである。
〝本物の喧嘩〟に応じると宣言したが、それはMMAの〝先輩〟として
反撃の足払いが虚しく
これを見据えるキリサメは
「お前は生きていてはいけない存在だ」
キリサメを押し止めんと身構える木村レフェリーの肩越しに〝何か〟を見つけた様子であるが、これを捉える目玉の動きだけが緩慢であり、
『
これに対して城渡は足払いを仕損じたと判断するや否や、同じ左足を〝軸〟に据えつつも体重を支える一点を片膝から足先へと〝軸〟を移し、回転を止めずに今度は
もはや、十全の力を四肢に満たすことさえ叶わないのだが、二乗とも
マットから膝を離し、上体を引き起こすということは、
思考能力が減退するほど消耗した状態で最善の
尤も、二重の高速旋回と姿勢の変化は
城渡の額を突き破ったのは、この試合で初めて〝神速〟を披露したときと同じ技だ。
猫の手のような形で上から下に振り落とし、直撃の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に打ち据えるこのパンチをキリサメは得意としているが、本来は掌中に握り込んだ石を叩き付け、頭蓋骨を砕く技であった。
「くッ……そォ……ッ――」
拾うべき石が一つとして転がっていないMMAのリングは〝今〟のキリサメにとって煩わしいものでしかないが、それでも常人の想像を絶する一撃であることに変わりはなく、城渡はリーゼント頭を崩しながら凄まじい勢いで
四隅に立つ
五〇〇〇という場内全ての視線がその一点に集中したのは当然であろう。誰も接触していない
城渡を殴り飛ばす寸前にキリサメは血の涙が溢れる双眸で〝何か〟を見据えていた。それが後方に立つ
そのキリサメは再びリングから姿を消したが、何の前触れもなく起こった轟音を追い掛けるように城渡が
「中途半端はお前が一番嫌うモンだろうが!
「総長……総長ォォォォォォッ! まだゴングも鳴っちゃいねぇッスよ! こっから大逆転ッス! 調子こいたクソガキに目に物見せてやってくれェェェェェェッ!」
青
反則判定から逃れるかのように姿を消したキリサメには私憤すら抱いたものの、優先すべき順位を見誤る木村レフェリーではない。意識を保っているとは思えない城渡へとすぐさまに走り寄っていった。
その瞬間、リングに一つの影が落ちた。天井から降り注ぐ
〝神速〟に達する疾風がリングを駆け抜け、天高く舞い上がる
オランダに
「――キミがその身に宿したモノは何だ⁉ 我が師の遺産にもそんなモノは……ッ!」
上等な仕立ての背広を羽織り、『
その少年が〝神速〟を初めて発動させた瞬間、ストラールは我を忘れたように『ラグナロク・チャンネル』などと意味不明な一言を漏らしたのである。
今度もまた余人には理解し難いことをオランダの
我知らず引き剥がしてしまったゴーグル型のサングラスを装着し直すこともなく、翡翠色の瞳の中央に
オムロープバーン家はオランダ式キックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』を率いており、『格闘技の聖家族』の御曹司もこれを極めている。幼少期からの英才教育によって鍛え抜かれた動体視力があったればこそ、その
あるいは人間という種を超越する〝力〟というモノを場内の誰よりも深く
舞い踊る五枚の尾羽根を瞳の中央に映していなくとも、その影が浮かび上がるリングに立っていれば〝正体〟に感付かないわけがなかった。『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』――英字で刷り込まれたMMAの正称を
「――キリサメ・アマカザリ……ッ! 神か、悪魔かッ⁉」
にわか雨の如く自身の鼻に掛かった
それらは間もなく二筋の尾と化して
『格闘技の聖家族』の御曹司と木村レフェリーが
片腕をロープに引っ掛けたまま身じろぎ一つしない城渡を血の涙に濡れた双眸でもって
マットの上に蹴倒すという生易しい
舞い下りた彗星は
〝何か〟の破断する音が天井まで逆巻いたが、城渡の身に起きたことは改めて
胸部の陥没は免れたようだが、
意識を失ったままでの吐血は、
つまり、ここまでがキリサメの
悍ましい目付きで城渡を殴り飛ばす〝先〟を探したのは、間違いなく命を絶つ為の布石というわけである。
『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦の時代から継承し続けてきた闘魂のリングが想定より遥かに脆かったことは、キリサメにとって大きな計算違いであった。長野興行で観戦した八雲岳とバトーギーン・チョルモンの試合では他団体の基準でヘビー級に属する二人が飛び跳ねても骨組みの一本とて破損せず、それ故に耐久性を見誤ったのだ。
「――ウソでしょ⁉ コレ、プロレスじゃなくてMMAですよ⁉
城渡の
ヴァルチャーマスクが自らの敗北を生け贄の如く捧げた一九九七年の東京ドームから日本MMAの歴史が始まって以来、一度たりとも先例はない。
岩手興行の会場に設置されたリングも
一七年に亘って紡がれてきた日本MMAの歴史と日秘の喧嘩師による
開戦のゴングが鳴り響いた
〝彗星〟の落下点から骨組み全体へと衝撃が伝達し、各部を繋ぎ止める金具が連鎖的に弾け飛んでいく。四隅を結び合わせていたロープも荒れ狂うように千切れ、ついにマットが敷き詰められた土台ごと潰れてしまったのだ。
「みんな、無事かッ⁉ 大丈夫なのかッ⁉ 先ずは隣同士で声を掛け合って無事を確かめてくれッ! 試合よりも怪我人の確認を最優先で頼むッ!」
『昭和の伝説』が〝痛恨〟という二字を顔面に貼り付けつつ唇を噛んだのは無理からぬことであろう。リングサイドでカメラを構えていた記者たちは下敷きになるまいと慌てて飛び
四隅に立てられた
白・青両
ほんの数分前まで場内を埋め尽くしていた熱烈な歓声は、今や悲鳴に変わっている。
仲原アナが述べた通り、ショープロレスの
身を放り出すような恰好で仰向けに倒れ、そのまま微動だにしなくなった城渡を直撃する
木村レフェリーの立場からすれば、城渡の失神を確認した時点でリング内外まで届くように
後頭部に続いて、喉への意図的な打撃までキリサメは行ってしまった。団体代表の樋口には気に入られている様子であるが、ルールで禁じられた反則行為を繰り返す
二階席の観客までもが恐慌状態に陥る中、波打ったマットを踏み付けて立つ
そもそもキリサメ・アマカザリという少年は何事にも無感情なのだ。それ故、眼下に転がる城渡に対しても、無造作としか表しようのない恰好で右足を持ち上げたのである。
「待て、キリーッ! マッチがもう闘えねェことは分かるだろ⁉ これ以上の追い撃ちは要らねぇぜ⁉ ペルーでオレと一緒に追っ払ったギャング団とは違うんだからよォ!」
引き千切れてマット上に散乱したロープの残骸を麦泉と共に片付けていた岳は、比喩でなく本当に飛び上がって驚いた。
しかし、表情を一切宿さないキリサメには
自分の生存を脅かす存在は誰であろうとも、何をしようとも死に至らしめる――それこそが「生きろ」という命令を守り抜くことであった。
だからこそ、
解けることのない呪いの如くキリサメと共に
それに手を伸ばした〝今〟は、
「
二本松から浴びせられた怒号も〝真実〟という名の〝自由〟を束縛するものではない。
「聞こえた? 『ギャング団を追っ払ったときとは違う』ってさ。丸っきり
何時しか
「例の〝
キリサメには懐かしい
血の涙が飛び散った『
「この上、更に暴挙を重ねるつもりかッ!」
キリサメ一人を睨み据えた木村レフェリーの様子からも瞭然であるが、
『
明らかな不審者である
岩手興行にゲストとして招かれていたローカルアイドルを脅迫し、出演辞退に追い込んだ犯人も未だに身柄を確保されていない。
尤も、木村レフェリーの双眸が喪服の如き出で立ちの少女を捉えたとしても、
キリサメが漂わせる異様な気配から最悪の事態を察知した木村レフェリーは、リングの側へと倒れそうになっている
他の現場スタッフが飛び付く前に横倒しとなってしまった
「――キリくん、だめぇーッ!」
白・青両
背後から囁きかける
「スポーツマンシップに欠ける行為は一番やっちゃいけないコトだよッ!」
その声がほんの数秒でも遅れていたならば、土台から崩れ落ちたリングと同じように木村レフェリーごと城渡という〝生きていてはいけない存在〟を踏み潰していたはずだ。
明確な殺意を宿らせていた右足を引き戻し、そのまま動かなくなった。
もはや、背後に
左右の耳も再び日本の
「サメちゃんってばボクの心にもグイグイ食い込んでくるねぇ~。
五〇〇〇という声を完全に聞き分けることは不可能であるが、肯定にも等しいことを述べているのは、未稲の傍らでキリサメを眺める瀬古谷寅之助くらいであろう。抜き身の竹刀を右手に握ったまま、悪鬼としか表しようのない笑みを浮かべていた。秋葉原に
故郷に
次いでキリサメの双眸が捉えたのは、私憤とも義憤とも受け取れる激情を全身から噴き出させた木村レフェリーである。
〝正常な形〟で試合が進行していたならば、流れる必要のなかった血だ。
依然として城渡を庇いつつ顔のみを上げ、歯を食いしばって罵詈雑言を喉の奥まで押し戻した様子の木村レフェリーが〝何〟を告げようとしているのか、それを察せられないほどキリサメもMMAのルールを理解していないわけではなかった。
「……『
反則負け――決着に際しての攻撃が看過し難い悪質な危険行為と断定されたのだ。未稲が拵えたルールブックを
しかし、第一試合の終了を告げるゴングは何時まで経っても鳴らなかった。その役割を担うスタッフは、目の前で繰り広げられた暴挙をMMAとして認めて良いのか、リング上の木村レフェリーと同じくらい躊躇っているわけだ。
「こ、これは……これが喧嘩マッチの幕引き……日秘の喧嘩師の……宴の……破滅――」
あるいは瞬間的に閃いた文字の羅列を無意識に述べているだけなのかも知れない。
隣席の鬼貫道明が飛び出していき、たった一人で残されてしまった実況席から仲原アナが見回した限りでは、潰れたリングの下敷きになってしまった者は確認できない。
無論、負傷者自体は一人や二人ではなかった。出血が見られる木村レフェリーは言うに及ばず、リングに面する関係者席で観戦していた背広姿の男性は、引き千切れた勢いで激しくうねったロープから逃げ遅れ、顔面に
リングサイドを取り囲むようにして並べられたパイプ椅子は、逃げ惑う人々によって数脚が蹴倒されていた。雛壇状となっている一階・補助席からの非難を試みた末、足を滑らせて危うく床まで転げ落ちるところであった者も仲原アナは視界に捉えている。
理性を焦燥によって塗り潰されたものと
「……
『
それはリングの崩壊のみを指しているのではない。在りし日の
〝平成の大横綱〟からMMAへと転向したバトーギーン・チョルモンは、
その
キリサメが自分でも不気味に思えるくらい静かな心で失格という審判を受け
日本を代表するMMA
数多の目に晒されるという状況は酷似しているが、『
それが反転したのである。温かい眼差しには心臓が早鐘を打つほど混乱させられたが、己を突き刺す想念が
暗闇の向こうから顔も分からない何者かが穏やかならざる気配を向けてくる〝世界〟に
この状況こそが〝プロ〟のMMA選手という自覚を忘れ、浅慮にも
「――
「お、おい⁉ キリー、大丈夫かよッ⁉」
「やっぱり負担が酷かったんじゃないか。……後でお説教だからね」
左右から手を差し伸べてキリサメの身を支え、転倒を防いだのは岳と麦泉の二人だ。
崩壊の巻き添えを免れ、ただ一本だけ無事に立ち続ける白
ただ一度の物理的な衝撃だけで
脳内麻薬の影響下にあった為、肉体も疲弊を認識していなかったが、その状態が断ち切られたことで、遅まきながら脳も消耗という信号を全身に伝達させたのであろう。
〝人外〟と化していたときは異なり、
「んじゃ、
「冗談を言っている場合じゃないでしょう……。血の涙なんて尋常じゃないですよ。キリサメ君、目は問題なく
この場で『
俯き加減のまま
心優しい養父たちから託されたはずの資格を血塗られた手で投げ捨てたようなものだ。
「……アマカザリ選手、
仲原アナの慰めはキリサメの耳にも届いたが、それは傷付いた
希更・バロッサのマネージャーであり、今では〝友人〟として交流を持つようになった
〝世界基準〟である『NSB』に倣い、金網で仕切られた
異種格闘技から総合格闘技へ――闘いの歴史を織り上げた偉大なる先達が夢と希望を託してきた闘魂の
未稲の金遣いを正せないくらい我が子を叱ることが苦手な岳はともかくとして、麦泉は瀕死にも等しい
仏教に
控室のバトーギーン・チョルモンは〝客寄せパンダ〟に対する罵詈雑言を喚き散らしているはずだ。相互理解の体現者たる希更でさえ友人という関係性を見直すかも知れない。
心の底から尊敬の念を抱いた城渡マッチは、四肢を投げ出して倒れたまま未だに息を吹き返していなかった。
浅いとは言い難い傷口にタオルを宛がっているものの、自らの怪我の影響で血の気が引いたわけではあるまい。
列島各地を経巡る〝旅興行〟で日本中を元気にしたいという養父たちの願いも、経済面でもこれを成し遂げんとする地域振興の
「キリくん……」
「……みーちゃん」
城渡から顔を背けた瞬間、キリサメは再び未稲と見つめ合う格好となった。
己が流した鮮血であるのか、浴びせられた返り血であるのか、判別がつかないほど赤黒く染まった姿に――血みどろになるまで城渡マッチを壊す姿に彼女は怯えていた。
屋根の上に登った〝あの日〟のように未稲は恐怖で顔を歪めていた。
未稲には何時でも楽しそうに笑っていて欲しいのに、自分のことを
「……ごめん、みーちゃん……」
「ち、違うの……キリくん、私は……」
肩を小刻みに震わせる未稲は、反則を重ねないようキリサメに訴えた場所から一歩たりとも動いていない。「何々? 痴話喧嘩? この状況で余裕じゃん」と無神経な笑い声を引き摺りながら歩み寄る寅之助とは異なり、彼女の両足は凍り付いていた。
キリサメから離れようとするときには問題なく動くことであろう。前に向かって進もうとした瞬間、その場に縛り付けられてしまうのである。
五指でもって〝何か〟を包み込んでいるのか、胸元で握り拳を作ったまま未稲は虚しく立ち尽くしていた。
(ほんの少しでも希望を持ったのがバカだったんだ。僕なんかが未来を望むなんて――)
もはや、キリサメは〝人間らしさ〟を与えてくれた陽だまりのような少女からも目を背けるしかなかった。
この
養父や樋口郁郎――自分に生き直す機会を与えてくれたの人々や、特訓に付き合ってくれた空閑電知の期待に応えなくてはならないと焦り、格闘家としての〝器〟が違い過ぎる教来石沙門への劣等感に翻弄され、何よりも大切なことを忘れていた。
「――自分には〝暴力〟しかないって何回も言うけど、私はあれを〝暴力〟だなんて思わないな。本当の〝暴力〟は見ていて気持ちの良いものじゃないでしょ? 私だったら目を逸らしちゃうよ。……でもね、キリサメさんの闘いは違ったんだ。もしかしたら、お父さんの試合と同じくらい燃えたかも」
『
キリサメが歩んできた道が間違いでないことを証明したい。今までキリサメを生かしてきた〝力〟は胸を張れる誇りなのだ。それを『
それにも関わらず、生まれて初めて芽生えた〝人間らしさ〟の支えでもある約束を〝暴力〟によって破ってしまったのである。
〝プロ〟にあるまじき反則という所業も、これに伴う
「――格闘技と言い換えても、所詮、暴力は暴力。……アマカザリさんはまだお若い。
格差社会の最下層という〝闇〟から這い出そうと足掻いていた少年は、
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