その18:替目~闘魂プロレス20年目の決着・異種格闘技の「伝説」から総合格闘技の「神話」へ──聖なる屍を超えてゆけ/大動乱の「格闘技新時代」が始まる
一八、
『
希更とマルガは共に『
消耗が余りにも激しい為か、試合開始直後に城渡への
間近で決着までを見届けた
〝神速〟の発動で疲弊した
「
「……心配し過ぎなのはマルガの言う通りだけどね。この試合は丁度、
親友にからかわれてしまうほど希更はリングに全神経を注いでおり、それ故に第一
気配こそ感じなかったものの、不審人物とは思わなかった。万全とは言えないまでも会場内の警備は厚く、ローカルアイドルの脅迫犯や『ウォースパイト運動』の思想活動家が侵入する余地はないと信じている。
警戒心を過剰に高めて拳を握り締めるようなこともなかったのだが、人影の正体には純粋に驚き、希更はその顔を思わず二度も覗き込んでしまった。
「一つ一つ積み上げていった
「――
その名を希更が裏返った声で呼ぶのも当然であろう。『
「アメリカより
「確かバロッサ家の皆さんって遠い遠いご先祖様はオーストラリアみたいですよぉ~。あちらは〝スポーツ外交〟にも力を入れていますし、納得の
「本人に代わって解説ありがと、マルガ。祖母も
「ということは、バロッサ家の総帥が本間愛染という名を知っておられるということか。それだけで今日の
「本間選手」と呼び掛けそうになった寸前で「愛染さん」と、本人が望む通りに切り替えた希更に対して、彼女よりも先に『
その中でマルガが親友の
同作は主要な登場人物が光と闇の軍勢に分かれ、ヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神々と同化し、甲冑や武器を具現化して戦うという設定であるが、最後の勝利者が高笑いする筋書きではなく、ぶつかり合った先に生まれる相互理解をシリーズ全体の
その気高い姿勢は希更・バロッサ本人にも共通するのだ――と、マルガは親友に成り代わって胸を張ったのである。
光と闇の調和を描くアニメシリーズとはいえ、『
「
「そこまで実家の
「山の上に降った雨の一滴も数多の支流と交わりながら大海に注ぐだろう? バロッサ家の手で花開いたアジアの輪がゆくゆくは地球丸ごとに広がり、〝鬼の夢〟をも叶えるハズだと揺るぎなく信じているよ。これを〝未来の架け橋〟と呼ばずにどうしようか」
「ていうか、愛染さん、『イシュタロア』に詳しくありません? ご覧になって貰っていたりして?」
「キリサメ・アマカザリが
相互理解へ辿り着く試練ではあるものの、返り血を浴びながら『
バロッサ家は二〇〇〇年代半ばから年に一度という
原則的には日本と東南アジアで交互に開催しており、『ムエタイ』の聖地と名高いタイのラジャダムナン・スタジアムの試合では希更も母親譲りの飛び膝蹴りを披露して名門の面目躍如を果たしている。
言わば、民間単位の〝スポーツ外交〟である。ぶつかり合った先に生まれる相互理解という『
だからこそ、愛染もマルガの
南半球に
〝地球のヘソ〟として知られる『ウルル』――かつてはエアーズロックという呼び方が定着していた――を懐に抱き、果てしなく広がる大地は、温暖な気候から地球上で最もスポーツに適している。国民の大半がこれを
オーストラリアという
これに対して『昭和の伝説』と謳われる鬼貫道明は〝格闘技地球連合〟とも
世界規模の統一団体という構想は一度たりとも実現には至らなかったものの、鬼貫が経営する異種格闘技食堂も〝スポーツ外交〟の延長である。全ての格闘家の胃袋を分け隔てなく満たし、彼らに交流の場を設けているのだ。
即ち、バロッサ家は〝スポーツ外交〟が盛んな
「格闘技で世界を一つにしようとした鬼貫道明が青き旗のもとに
唇から静かに滑り落ちていった愛染の呻き声だけでなく、三人の会話は小さな相槌に至るまで全て英語で行われていた。
愛染が何の前触れもなく真隣に現れた瞬間は希更も慌てふためき、マルガとの会話でも用いていた英語が口から飛び出してしまったのだが、意思疎通の支障もなく言葉を交わし続けられるのは、この〝先輩〟選手が長らく
国際的な作曲家として名高い本間
岳の呼び掛けに応じて祖国へと軸足を移し、『
希更は熊本県八代市で生まれ育った日本人であるが、両親もバロッサ家の一族も日本に根を下ろしたアメリカ人であり、一門の間では今でも英語が用いられている。
愛染と同じように二人も英語には慣れているわけだ。日本語では「
「――私の
「昨日、展望カフェでご一緒したときにも愛染さん、キリキリに〝MMAの
「私もボクシングをやるから、その名前にはどうしても敏感になっちゃうわね~。何より愛染さんがあのコを警戒する理由として一番納得いくモノだし。今日の会場に詰めている記者さんたちの反応を見てもハッキリしてるけど、
「……お
「希更くんの御父上は古武術道場の継承権が争われた難事件を解決させた豪腕弁護士と名高い。私の心を食い破って抜けない黙示を拭い去ってくれるかも知れないと希望を持ってしまうほどに頼もしいよ。しかしだね、キリサメ・アマカザリという個人をマスコミから遠ざけたとしても、彼を〝柱〟の代わりにして拡散された終末の波動は二度と消えまい」
口に出すことを躊躇ったらしい希更の言葉を引き取ったマルガの指摘に対し、愛染は溜め息混じりで頷き返した。その〝先輩〟選手が懸念するような事態には決して陥らないと
「……
「だから、あのコのコトを〝MMAのアイガイオン〟って呼んだワケねぇ。今の今まで又聞き状態だったけど、これで腑に落ちたわぁ。〝格闘技界の汚点〟と同じ形で〝道〟を踏み外したら、その
「マルガくんの指摘こそ私を衝き動かした閃きであったのだが、……キリサメ・アマカザリはどこまでも小癪だな。終末に至る物語を自らの手で書き換えるとは。その上、より悪しき黙示と来たものだ。そのテのワルさアピールで私の神通も口説いたのだろうか?」
「いや、まぁ、キリキリは母性本能くすぐる天然アピールが
フライ級タイトルマッチという華やかな舞台に臨みながら
幼い頃から家庭内暴力を受け続け、小中学校にも満足に登校できなかった
それどころか、試合が有利に進むようテレビ局は様々な便宜も図っている。
クレーン車で高く吊り上げた鉄球を振り回し、これを
スポーツマンシップを学ぶより早くスーパースターとして祭り上げられ、身の丈を超えた状況によって感覚が麻痺した
この時点で注意に耳を傾けていれば、結末も大きく変わっていたはずだ。不幸せな生い立ちから植え付けられた残虐性を軌道修正するのでなく、より一層加速させる〝環境〟こそが
視聴率を稼いで
「金貨を浴びるような富、ベルトという名声、そして、何物も思い通りに指図できるだけの権力――自分以外の手によって巻き起こされた風の中で
かつて愛染自身も
暴走の末路が〝格闘技界の汚点〟と忌み嫌われるフライ級タイトルマッチであった。
コミッションによる事情聴取で
一過性のブームや話題性で収益を上げることしか考えていない者たちに踊らされた果ての暴挙は、日本のボクシング界全体の信頼を著しく失墜させたのである。
正統派のプロボクサーによる高次元の試合を通してボクシング
改めて
『
そのキリサメが
日本のボクシングは一世紀に手が届くほどの歴史自体が強固な基盤である。支持層も厚い為、商業主義の暴走によって失われた信頼が取り戻されるまで待つことも不可能ではなかった。その間にもボクシングの火は日本で絶えなかった。
これに対して日本MMAは、たった一度の失態が原因となって〝文化〟そのものが消滅するという危うさが常に付き纏っている。反社会的勢力との結び付きが暴かれ、黄金時代が終焉を迎えた後も『MMA日本協会』の監督下で競技自体は継続されたが、『NSB』との合同大会にまで漕ぎ着けた『
そのように脆弱な基盤を崩壊させ得る危険な要因と言い換えれば、日本の格闘技に終末を告げる〝黙示の仔〟という独特な表現が現実的な脅威として輪郭を強めるのだった。
キリサメの喧嘩殺法を目の当たりにした希更も、一瞬たりとも躊躇せず目突きや金的を狙う姿にムエ・カッチューアの〝本性〟を重ね合わせていたのである。
それ故に愛染はキリサメを〝MMAのアイガイオン〟と忌々しげに呼び、本人にも決して〝道〟を誤ってはならないと警告を発してきたのだが、ここに至って「終末に至る物語をキリサメ自らが書き換えた」と、自身による最悪の想定を改めようとしていた。
「……キリサメ・アマカザリ。あの少年は格闘技が人の心を震わせる感動ではなく、原始的な本能を膨らませる見世物に『
「ショープロレスとも別モノってコトなのねぇ~。日本のMMAは
「ショープロレスは極限まで鍛え上げた〝心技体〟を
『
愛染は城渡の向こう脛に強烈な打撃を見舞い、再びダウンを奪ったキリサメの頭上を越え、四隅の
「古来より〝異形の力〟は常人には手の届かぬモノ。であればこそ、これを手にした〝超人〟に常人は惹き付けられる。
二〇一一年の『
当時の団体代表――フロスト・クラントンは、ブロードウェイのステージショーなどエンターテインメント業界で成功を収めた実業家であり、マーケティングの手腕は全米でも随一と謳われていた。
テレビ業界での実績から
代表就任以降は団体内にドーピングを蔓延させ、禁止薬物を用いた肉体改造による〝超人ショー〟へと『NSB』を作り替えていったのである。
禁止薬物は取り返しのつかない犠牲をもたらした。アフガンの帰還兵でもある若手選手は
ヴァルチャーマスクが完成させた『
現代表――イズリアル・モニワの努力が実を結び、『NSB』はMMA団体として復活を果たしたのだが、「今さら〝ただの人間〟を出場させても迫力不足でしかなく、超人たちを集めたショーを寄越せ」と、筋肉増強剤を再び解禁するよう促す暴論が
格闘競技という〝筋書きのないドラマ〟を根底から否定する風潮を
会場内の誰をも驚愕させた〝神速〟はまさしく〝人外〟の領域である。情報戦に長けた樋口は反響を呼ぶような見出しを付け、キリサメ・アマカザリという〝キャラクター〟を売り物にすることであろうが、これこそが『NSB』を蝕んだ厄災の再現なのである。
生身の人間すら
日本格闘技界に君臨する樋口郁郎は、
このような〝暴君〟を野放しにしている時点で日本の格闘技界に『NSB』と同等の自浄能力など望むべくもあるまい。フロスト・クラントンを永久追放したアメリカとは正反対であった。
暗黒時代が到来した場合には、二度と日本MMAは立ち直れまい。
「……つまり、キリキリがヴァルチャーマスクで、あたしが八雲岳ってワケね。キリキリを養ってあげたいかって
「自分の情況を冷静に気付けたのだから、希更くんはまだ壊れた〝夢〟に呑み込まれてはいないぞ。悪魔に堕ちるモノは己の
一つの事実として先程の希更はキリサメが発動させた〝神速〟の衝撃に酔い
自分が恐るべき情況にあったのだと気付いた希更は、力のない苦笑いを浮かべながら我が身を掻き
あくまでも自分は
文字通りに
間もなく
著しく安定性を欠いた試合運びから
これはマルガも同様だ。双眸を見開いたまま、キリサメの〝神速〟を凌駕する怪異に遭遇してしまったかのように
「私たちは今日、八雲岳という男が〝異形〟なる夢から巣立つ瞬間に立ち会うのかも知れないな。一度は自らの手で
二人の〝後輩〟が打ちのめされてしまった衝撃が本間愛染には心地好かったようで、自らの両腕を
愛染が視線を巡らせた先――場内の誰もが視線を注ぐのは、焦茶色の僧衣を纏い、菱形の玉を束ねた大数珠を右肩から襷掛けに帯びている仏僧だ。
『
選手にとってはマッサージや止血などの応急手当を受けられるほか、水分補給を含めた僅かな休憩時間となるわけだが、その最中にもリングが無人となることはない。ゴングが鳴る間際からモップを携えて待機していたスタッフ数名が一斉に清掃へ取り掛かるのだ。
マットには選手の汗や鮮血が飛び散っている。液体によって足を滑らせるという事故を回避するだけでなく、感染症の予防もMMA
滝の如く流れ続ける大量の汗を左右の手で拭いながら青
「
「
「気合いとド根性で何とかなるのも若い内だけだろうに。お前の筋肉痛は試合翌日に猛威を振るうのか? 二日三日と経つにつれてお年寄りと思い知らされる現実を
勿論、二本松は十分に城渡を休ませるつもりだ。痛みに耐え兼ねて転倒してしまうくらい強打された右脛にコールドスプレーを噴き付け、骨の異常も確かめていた。〝神速〟の一撃で抉られて一度は流血した側頭部の傷も入念に調べている。
「そんなに楽しいか、あの小僧との試合は? ここ最近で一番というくらい良い顔で笑いやがって。御剣が嫉妬に狂っても助けてやらんからな」
「今までに面白くない試合なんかなかったぜ。勿論、
二本松からタオルで
一方の白
二〇キロ近い体重差が幾度となく圧し掛かった腕に亀裂が入ってはいないかと麦泉が確かめる傍らで、キリサメと言葉を交わす岳が呆れたように肩を竦めているのだ。
「アマカザリ陣営、何かあったの模様です。絶賛お説教中の城渡選手とは別の意味で空気が穏やかでないようですが……?」
「……そこまで面白いものでしょうか、MMAって」
「ちょーっ! ちょーっと待て、オイ! 自分から出場したいっつっといて、それはナシにしようぜ、キリー! 試合中に絶対言っちゃダメなヤツだぞ、それ! ヴァルチャーの兄ィが聞いたら泣くなんてモンじゃねぇぞ⁉ あの人、案外と涙もろいんだからよォ!」
「……絶対に言ってはいけないことをポンポン言いまくってるコト、センパイはもっと強く自覚しましょうか……」
「いえ、あの……、僕じゃなくて城渡氏のことです。闘っている最中、ずっと楽しそうに笑い続けていたから……。闘うことが面白いなんて、僕は一度も思ったことがなかったから不思議で……」
「うおォーいッ! 大胆な問題発言連発してるぞ、キリー? じゃあ、お前、何の為にリングに立ってんだよ~? コーナーポストからはご陽気に飛んで跳ねてたようにしか見えなかったんだぜ⁉」
「出場する意味の
「……『
岳を呆れさせ、麦泉を苦笑させた原因は、コーナーポストへ
対戦交渉が成立する前後からキリサメは城渡マッチに敵意としか表しようのない感情をぶつけられてきた。
彼が
それにも関わらず、〝神速〟の一撃による最初のダウンから復帰し、第一
稀代の映画俳優であり、近代総合格闘技術の結晶とも呼ぶべき『
感情の切り替えが極端であり、〝闘う〟という
一つの事実として、城渡を昂揚させているのは自分以外には考えられなかった。だからこそ、〝何〟によって満ち足りているのか、理解に苦しむのである。
魂に巣食った〝闇〟の暴発を抑えることで手一杯という稚拙な
「小難しいコトを考えてると思ったら、そういうことかよ。……あのな、マッチは根っからの格闘バカだからよ、強い相手と闘えることだけで満足なんだよ」
ようやくキリサメの疑問を理解した岳は、「対戦相手がバカみたいに強ェ。それを嬉しく思わない選手のほうが少ねぇのさ」と一つの答えを示した。
「オレとバトーギーンの試合を振り返ってみりゃあ分かり易いと思うけどよ、相手がどんな想いを拳に乗せてくるのか、そいつを感じ取るのは最高に面白いじゃんか。他でもないキリー自身がマッチを笑顔にさせてんだぜ!」
「……いや、チョルモン氏の場合は悪いほうの例だと思いますけど……。でも、試合を通じて相手と語り合うようなことは
岳の言葉は相も変わらず感情ばかりが先走っていて趣旨が掴み難い。自分より弱い標的を狩ることで格差社会の最下層を生き延びてきたキリサメとはそもそも分かり合えない部分が多い。
「――アマカザリも俺も、これからリングの上でトークショーをやるワケさ。対戦相手が何を秘めて自分の前に立っているのか、どんな思いを拳に握り込んでいるのか。その心にまで触れることができるんだぜ? これってさ、他のどんなスポーツにも真似できねぇ格闘技だけの醍醐味じゃん」
養父の話を理解する為にキリサメが手掛かりとしたのは、MMAの〝先輩〟である
打撃系立ち技格闘技『
「
「キリサメ君、引っ込み思案に見えてかなり社交的だよね。バロッサさん本人は勿論、同行マネージャーさん共々すっかり打ち解けたし、
「……皆さんのほうから手を差し伸べてくださっているだけですよ。僕には眩しく見える人たちばかりですが……」
「……センパイの言葉を借りるようだけど、
「……何から何までデタラメな寅之助ですけど、意外と根は悪くもないんです」
『
「友達のことはさておき――今は自分自身の心配をしようか、キリサメ君。……本当に身体は何ともないのかい? 第一
第一
これもまたセコンドに課せられた重要な役割であった。試合中のダメージによって選手が不調を訴えたときにはすぐさまリングへとタオルを投げ込み、対戦相手とレフェリーに
MMAは決して〝暴力〟の応酬などではないが、互いの身を
荒唐無稽な物語や格闘技に我が身を捧げる登場人物を〝美徳〟として昇華する
人間という生き物が宿した精神の極限や、それすらも突き抜けた境地こそが
ましてや
師匠の鬼貫に将来を期待されながらも右肩に負った重傷が原因となり、若くして現役を退かざるを得なかった麦泉は、それ故に選手の故障には過敏となってしまうのだ。
「第二
「おう、そうだよッ! それそれそれッ! 何を措いても真っ先にそれだよッ! ペルーのギャング団をやっつけたときにアレがやっぱりキリーの〝切り札〟なんだな⁉ アレをもう一回使ったら一
「センパイはちょっと黙っていてください! これ以上、選手の邪魔をするつもりなら本気で控室に帰って貰いますよ⁉」
「お、オレはヴァルチャーの兄ィだってたまには失敗するって話でな、キリーも油断すんなってハッパかけようと……。キリーからも何か文多に言ってやれ! このままじゃ
「僕としてはもうお帰り頂いて結構なのですが……。種崎氏も控室に一人では寂しいと思いますし」
「お払い箱どころか、厄介払いに悪化してるじゃねェかッ!」
自らがセコンドに付いた第一試合から幾度も目を離し、『NSB』の
次いでキリサメに向き直った麦泉は、丸顔のマスコットキャラクターが刷り込まれているシャツの上から肩や腕、胸部などに自身の手を添えていく。医師による触診のように異常を確認しているわけだ。
「本当におかしく感じる
「麦泉氏を怒らせると怖いですからね。……セコンドを務めてくださる人に隠し事はしません。岳氏はともかく」
「オレに追い討ちを掛ける必要あったか、今ァ⁉ 控室どころか、実家に帰らせて貰いたくなっちまったわ! 孤児院育ちだから実家ねェけど!」
心身の故障を繰り返し問い
「あの〝
「一度きりの〝切り札〟ということは『バイオグリーン』の
キリサメの口を衝いて出たのは、日本で制作され、ペルーを含めた海外でも放送されている特撮ドラマの
主人公である正義の人型巨大超生命体は、概ねエメラルドグリーンを基調とした
記念すべき第一作目の主人公――『バイオグリーン』は両掌を前方に突き出して発射する必殺光線『バイオフラッシュ』で
一回しか出してはならない〝切り札〟という一言から小さな頃にのめり込んだ『バイオグリーン』を連想し、
「……せめて『真面目にやれ』って切り捨てて欲しいのですけど……」
「あの技は使う分だけ自分の首を絞めるものじゃないのかい?」
人間の限界を超越し、神の領域に踏み込むのだから、その反動も計り知れないはずだ。第一
特撮さながらの
岳のように余所見をせず、冷静に試合運びを見守ってきた麦泉であればこそ、消耗の原因まで看破できたと言えよう。キリサメからすれば、如何なる言い逃れも許されないような状況に立たされた恰好であるが、それでも「問題ありません」と答えてみせた。
「城渡氏よりずっと若いのですから、体力勝負で
質されたことの一部には答えなかったものの、キリサメは嘘だけは
「……普通のダメージならともかく、異常のようなモノを少しでも感じたらセコンドの判断でタオルを投げる。それは覚悟しておいて欲しい」
何とも例え
一つ一つの攻防をヴァルチャーマスクの
これを復調と認めないほど麦泉も過保護ではなかった。進学や〝正業〟を勧めたい気持ちは残っているが、MMA選手として『
「……古いレスラーの
麦泉の声色が幼い子どもに物の道理を言い諭すようなものへと変わっていく。性別は異なるものの、
『バイオグリーン』シリーズでは、侵略の魔の手から地球を守るべく戦い続けた主人公が最終回の頃には自らの生命が尽きるとも知れない満身創痍となってしまう作品もある。
麦泉文多はあくまでキリサメ・アマカザリという生身の少年に寄り添わんとしていた。
こうしたセコンドの存在こそがルールによって選手の安全を約束する〝格闘競技〟の象徴であろう。気を緩めた途端に破壊の衝動が理性を塗り潰し、〝最悪の事態〟を招き兼ねないほどキリサメの魂は〝闇〟に蝕まれているのだが、
怨霊と化したとしか思えない幼馴染み――
だからこそ、キリサメも麦泉の瞳を真っ直ぐに見つめながら「僕は闘えます」と頷き返すことが出来たのだ。
「第一
言われるまでもないと伝えるようにキリサメは首を頷かせた。
城渡を
格差社会の最下層が産み落としたとしか表しようのない〝何か〟が身の
冥府より伸ばされた
「なんだかな~、オレがキリーの
「遊んでいる暇があるなら、まともな作戦を立てて下さい。……僕だってまだ一応は岳氏を頼りに思っていないわけではないんですよ」
「相手にすると疲れる
「――もはや、ハゲワシの
養子と相棒から揃って蔑ろにされ、完全に不貞腐れてそっぽを向いてしまった岳は、視線を巡らせた先――白
それどころか、顔面を驚愕の二字で歪めたままコーナーポストから足を滑らせ、地べたに尻餅を
事故の一言では片付けられない異変に驚いたキリサメも養父が見据える先を窺ったが、〝ヴァルチャーマスク作戦〟という自暴自棄としか思えない発言を遮り、一刀両断のもとに切り捨てた野太い声に聞き
岳と麦泉より僅かに遅れて声の主を視界に捉えたキリサメは、〝神速〟を発動させた瞬間とは異なる意味で双眸を見開き、次いで己のセコンドが――鬼貫道明のもとで異種格闘技戦に挑んだ二人のプロレスラーが呆けたように立ち尽くしてしまう理由を悟った。
床を蹴って跳ね飛ぶだけで手が届いてしまうほどの近くに一人の男が立っていた。
焦茶色の僧衣を纏う
皮膚が剥き出しとなった
後ろ姿を少しばかり眺めたのみではあるものの、キリサメは一度だけこの仏僧と遭遇したことがあった。プロデビューを果たす舞台の〝下見〟に訪れた際、MMA
二階席の窓より差し込む光を浴びながら身じろぎ一つせず、天井に設置された大型モニターと向き合い続けていた。何も映していない画面に
初めて正面から見つめた顔は、キリサメの想像よりも遥かに皺くちゃであった。不当な汚名に苦しめられた歳月が形となって表れている為か、四十路半ばの岳と比べても目元や口元に刻まれた皺が余りにも多い。
頬などはブルドックと見紛うばかりに弛んでいるようだが、俗世に疲れ果てた末に出家した人間の面構えではない。猛き鷲を彷彿とさせる双眸に湛えた光は烈しく、一目見ただけでキリサメの網膜に焼き付いてしまうくらいであった。
本来はマットを踏み締めるべき物を〝下履き〟として用いる意図は定かではないが、現代日本の風景に溶け込みようのない出で立ちにレスラー仕様のリングシューズを組み合わせている。
「ヴァルチャーマスク――ヴァルチャーの
つい先程まで傍迷惑なくらい勢いよく突き出していた右の人差し指を小刻みに震わせながら、
あるいは『八雲道場』にて保管されているハゲワシのプロレスマスクの持ち主とも言い換えられるだろう。
リングから遠く眺めたときには判らなかったが、一九九七年に日本MMAの第一歩を踏み出した偉大なる巨人は、キリサメが想像していたよりもずっと小柄であった。
皺だらけの顔が枯れた風情を醸し出していることもあり、静かなる月のようにも見えるのだ。『
キリサメが記憶している限り、この男は
第一
木村レフェリーから注意されることもなかった為、六〇秒が過ぎてしまったことも三人揃って認識できていなかった。
そもそも木村レフェリー当人が不測の事態に直面して凍り付いてしまっているのだ。
これはリングサイドでカメラを構えていた記者たちも同様である。インターバルの最中に
キリサメが〝神速〟を発動した直後と同じように、場内の誰もが唖然呆然と立ち尽くしている。それも無理からぬことであろう。ヴァルチャーマスクの振る舞いは他団体の試合への乱入にも等しいのである。
ともすれば『NSB』による『
自らの敗北を生贄の如く捧げ、日本にMMAという〝文化〟を花開かせながら、黄金時代の終焉を背負って四角いリングを去った男である。驚愕よりも混乱よりも、伝説の二字こそ相応しい存在感が誰をも押し止めていた。
「一九九七年一〇月の〝あの日〟に東京ドームで敗れたのは小生であってお前ではない。小生の技がブラジルの勇者に届かなかった――ただそれだけのこと。当時の取材でも試合については語ることなど持ち合わせていないと答えたはずだ」
「あ、兄ィ……」
「他者の敗北を己の罪の如く思い詰めるとは、些か自惚れが過ぎるのではないか? よもや家族でもない他者の人生に責任を持とうなどと、本当に思い上がっていたのではあるまいな? 小生が積み重ねてきた全ての闘いは、小生以外の誰にも背負えるものではない。……弁えよ、八雲岳」
かつての
改めて
八雲岳にとってヴァルチャーマスクはプロレスラーを志すきっかけともなった生涯の恩人であるが、それぞれの道が日本とアメリカに別れてからは一度たりとも連絡を取り合わなかった。
ニューヨークのリトル・トーキョーに所在する仏教寺院――日本を代表するアイドル事務所の実父が
言葉を交わすどころか、顔を合わせたのもヴァルチャーマスクが日本のリングを去って以来、初めてということである。
日本格闘技界にとってはまさしく歴史的瞬間であるが、当人たちの
この反応こそが数年という空白期間の象徴であろうが、ヴァルチャーマスクの側は昔と変わりなく岳の心に触れたわけである。樋口郁郎と同じようにこの
血を分けた兄弟にも等しい絆は、歳月をも超えるのだ。己に先駆けて
「忘れたのならば今こそ想い出せ、岳。ブラジルの勇者に討ち取られた
「わ、忘れちゃいねぇよ! 忘れるもんかよ! オレの……、『新鬼道プロレス』の尻拭いを兄ィに押し付けようって空気は一日だって忘れられねェ! だから、あんな……無関係な兄ィに責任を取らせるような
「忘れるな、岳。お前が繰り広げた闘いを代わりに背負ってやれるほど小生は偉くも強くもない。世の人が如何に感じたのかは別として、小生もまた己の心に従って〝あの日〟を迎えたのだ。浅ましくも分を超えた我欲に過ぎぬ」
ときには岳の返事を待たず自らの言葉を一方的に重ねることもあったが、ヴァルチャーマスクは反駁を封じ込めるように威圧しているわけではない。麦泉がキリサメを諭した際の態度とも異なり、大いなる存在感でもって相手を丸ごと包み込むようであった。
「だけどよ、あの頃からブラジリアン柔術をまともに評価してたヴァルチャーの兄ィは、道場破りを引き留めたじゃねェか! ……オレは
「それこそがお前の思い上がりだと言うのだ、岳。小生の経験上、驕りは必ず己が身に跳ね返ってくる。……〝永久戦犯〟は小生にとって極めて妥当な汚名なのだよ。日本のプロレスラーの誇りを背負うような思いでブラジリアン柔術に挑み、プロレスそのものの威信を
「そんなのズルいぜ、兄ィ……! オレにも少しくらいは引き受けさせてくれたって良いじゃねェか……ッ!」
「それがお前にとって〝男の意地〟であるのなら、もっと大切な
遠い昔に奥州の覇者と謳われた〝独眼竜〟の名将――
政宗のような隻眼ではなく、それ故に眼帯の類いを着けてはいないものの、首の付け根からはみ出すほど伸ばした髪を強引に撫で付け、これを花弁のように開く形で結い上げた岳は、大抵の人間から戦国武将の
相対するヴァルチャーマスクが僧侶の出で立ちということもあり、武将としての在り方を見失いそうになった政宗の懊悩に耳を傾け、次に進むべき〝道〟を諭す
〝北の独眼竜〟を奥州の〝筆頭〟とまで讃えられる名君に育て上げた〝へそ曲がり〟の師匠は、身内同士が互いの血を浴びる戦国乱世の東北に生を
尤も、ヴァルチャーマスク当人は仏法に
声を絞り出すことすら叶わないような酷い混乱から一転し、今や麦泉に体当たりで押し止められるほど取り乱している岳の喚き声に鼓膜を揺さぶられ、ようやく我に返った木村レフェリーは、首の骨が耳障りな音を立てる勢いで青
もはや、場内の誰もが忘れつつあるが、
「こんなときにヤボは言いっこナシだぜ。……好きにさせてやんな」
改めて
目が合った瞬間に木村レフェリーの意図を察した城渡は、額から噴き出す汗を両手の甲で交互に拭いつつ、神妙の二字こそ似つかわしい面持ちで頷き返した。
他団体の乱入者に試合を妨げられている状況であり、怒鳴り声と共にヴァルチャーマスクに掴み掛かっても誰にも責められないはずだが、
それ故に決着を迎えるまで成り行きを見守ると、腕組みしながら木村レフェリーに伝えたのである。日本のリングを捨て、アメリカのオクタゴンへ逃げたとしか思えないヴァルチャーマスクに対する蟠りは大きいが、これを抑え込めるだけの度量を備えていればこそ荒くれ者が集う暴走族チームにて
「――ザケんなよ、てめー! そこのクソハゲ! どこの誰だか知らねェが、今日の主役は総長なんだよ! アマカザリもよォ、ボサッとしてねェでそいつを摘まみ出せよ! てめーンとこの知り合いなんだろ⁉ 何ならオレがやったらァッ!」
異様の二字こそ相応しい静けさに包まれた場内には、城渡の舎弟である御剣恭路の吼え声が耳障りなほど響いたが、木村レフェリーはこの暴言を黙殺して
判断を仰ぐような眼差しに対する『
『
この
『MMA日本協会』に属さないフリーランスのレフェリーではあるものの、木村も四角いリングに立ち、
あるいはヴァルチャーマスクが日本のリングを去る前からすれ違っていたのかも知れないプロレスラーたちが再び向き合おうとしていた。二人の人生にとってかけがえのない時間は、決して誰も邪魔してはならないのである。
両者の間に割って入って制止しなかったことが問題視されたときには、短刀を腰に差しながら行司を務める大相撲の
八雲岳が惨敗を喫した道場破りは、ブラジリアン柔術との異種格闘技戦を画策していた『鬼の遺伝子』ひいては『新鬼道プロレス』としての指示である。一九九四年から二〇年もの歳月を経て、ヴァルチャーマスクが生贄に捧げられた東京ドームではない〝ロサンゼルスの敗戦〟が本当の決着を迎えようとしているのかも知れない。
一つの仮説ではあるが、
「小生の
もはや、ハゲワシのプロレスマスクを被ることはなく、日本MMAの歴史がそのまま
これを受け
「確かに少しばかりの足踏みはあったかも知れぬ。それでもお前は今日まで日本のMMAを引っ張り続けてきた。お前の背中を頼りに思い、数多の後進が育ったのだ。……聞け、岳。八雲岳よ。この時代にお前が存在してくれたからこそ、日本にMMAという〝文化〟が絶えなかったのだ。お前が己に問い掛け続けてきた罪を
「罰に苦しむことだけが罪を償う手段じゃない。それが僕なりの
「そうだ。……途中で〝道〟を
二代目の統括本部長として日本MMAを
「そもそもとしてお前は一七年前の大敗に今なお小生が苦しめられていると、そのように思い込んでおるのだろう? 抜け道へ導く光明の一筋すら差し込まぬ
「この際、オレは逆に
「荒ぶる義憤がそのまま愚弄に換わると心得よ、岳。小生とてあれから歩みを止めた日はない。いつぞやの
「オ、オレだって
二〇一四年六月から遡って六〇〇〇日余り――『プロレスが負けた日』に
心ない人々に〝永久戦犯〟と
無理矢理に引き剥がされるような恰好で床へ吹き飛んでしまったタオルを麦泉が溜め息混じりで拾い上げ、岳の肩に掛け直す有り
ヴァルチャーマスクや八雲岳たち――日本MMA最初期の連敗を踏まえて寝技対策を研究し尽くし、ブラジリアン柔術が絶対的に優位という勢力図を塗り替えていった『柔術ハンター』と比べれば勝率こそ劣るものの、『
身の
『昭和』の中期から後期に跨る〝スポ根〟ブームを猛烈に過熱させた〝
〝老将〟の二字こそ相応しい年齢は、一つの現実として多くの
〝超人〟の異名は健在というべきか、全ての生き物が決して逃れられない法則へ逆行するように彼は進化し続けているのだ。
彼の半分も生きていない若い選手との力比べにも競り勝つことから
「小生を侮ってくれるなよ、岳」
例え『超次元プロレス』が相手であろうと、今でも遅れは取らないと挑発するつもりであるのか、ヴァルチャーマスクと呼ばれた
(一番の驚きは、岳氏の度を越した思い込みを引き剥がせる人間が存在したって
八雲岳とヴァルチャーマスクの間に横たわる〝二〇年間〟を把握しておらず、日本のプロレスラーとして初めてブラジリアン柔術に敗れたのが実は養父であったことも知らないのだが、断片的な情報を
笑顔もなく臨んだMMA選手としての初陣で迸らせた「オレはプロレスラーだッ!」という悲壮な
「……やっぱりよ、ブラジリアン柔術への〝リベンジ〟はオレがこの手でやんなきゃダメだったんだよな……」
昔日の試合に触れた岳が喉の奥から絞り出した呻き声の意味をキリサメは少しだけ理解できた。それと同時に「八雲岳は決して歩みを止めなかった」というヴァルチャーマスクの言葉もMMA選手として受け止めている。
対戦相手を高々と担ぎ上げたままリングを駆け抜け、その勢いのまま飛び込むような恰好で投げ落とすなど一九九七年の東京ドームに
忍術とプロレスを融合させた豪快な戦法は昔日と変わらず、リングの四方を結び合わせたロープをも駆使して〝
絶え間なく繰り出されるパンチを巧みに
ムエタイやキックボクシングなど蹴り技を主体とする打撃系立ち技格闘技の
二〇一四年の八雲岳は、ありとあらゆる格闘技術を取り入れるというMMAの本質を体現していた。異種格闘技戦ひいてはプロレスの延長でしかなかった黎明期から進化を一つ一つ積み重ねた成果であり、これをヴァルチャーマスクは褒め称えたのだ。
一九九七年も二〇一四年も、勝敗を決したのは膝関節に対する
日本で初めて〝総合格闘技術〟の体系化を成し遂げた男が認めるのも当然であろう。養父の努力に報いる言葉が紡がれた
「お前が自らの手で切り開いた真っ直ぐな〝道〟を追い掛けた
ヴァルチャーマスクが口にした『
セコンドを一人も伴わず、相手を挑発する
アメリカのプロボクシングに
そこに至る身のこなしもキリサメは瞠目させられたのだ。崩れ落ちた相手に背後から覆い被さり、横薙ぎの
MMAの最前線に身を投じている愛弟子を指して、八雲岳は己の〝最高傑作〟と誇らしげに語ったが、その
キリサメも思わず感嘆の溜め息を零してしまったのだが、
「――岳よ。お前が受け
進士藤太という男の
岳から聞かされたことであるが、『NSB』内部でドーピング汚染が横行し、一部の選手が〝
選手の
ヴァルチャーマスクから八雲岳に直伝され、更に『まつしろピラミッドプロレス』の
『フルメタルサムライ』と畏怖される強さが禁止薬物に頼って手に入れた紛い物ではないことは、数世代に亘って受け継がれてきた
対戦相手の顎を鋭く捉え、上半身ごと猛烈に撥ね飛ばす進士藤太の
正体を知らないまま遭遇した際には声を掛けることを憚り、後ろ姿を窺うのみに留め、今も養父たちの対峙に口を挟まず離れた位置にて覗くのみであったキリサメにとって、己が歩む〝道〟を
声もなく〝何か〟を訴えるのではなく、第一
「いつぞやお前に言ったな、岳。『小生に恩を感じる必要はない。代わりに誰かが頼ってきたとき、決して見て見ぬふりをしないでくれ』――と。誰にでも優しいヒーローであれと願ったその約束を守ってくれただけでも、小生は果報者だ」
「……やめてくれよ、そんな……オレはただ人として当たり前だって信じるコトをやっただけで……兄ィに褒められるコトなんか……一つだって……ッ!」
「お前のことを心から誇らしく思うぞ。八雲岳と出逢えたことが小生には生涯の自慢だ」
ペルーで生まれ育ったキリサメは〝地球の裏側〟のプロレスラーであるヴァルチャーマスクについて無知にも等しい。
亡き母が贔屓にしていた為、その
しかし、日本に
その母が命を落として以来、ヴァルチャーマスクという
しかし、養父が受け取った影響力の大きさからヴァルチャーマスクの
匿名で寄付を
迷える心まで含め、八雲岳という全存在を包み込んだのは大いなる慈愛というわけだ。ヴァルチャーマスクは高みから見下ろした相手に
無償の愛とも呼ぶべき精神が岳に受け継がれていなかったなら、
おそらくヴァルチャーマスクは、八雲岳の養子が健やかに過ごしている姿を通して古い約束の実現を噛み締めたのであろう。これに対してキリサメは逆回しとも
「……藤太を弟子に取ったコトも、キリーを養子に迎えたコトも、
脇にてヴァルチャーマスクの声に耳を傾け、一言一言に首を頷かせる
〝伝家の宝刀〟たる
それ故にリングと
『リーマン・ショック』の一年前という時期に起こった〝格闘技バブル〟の崩壊と、これに伴う一時的な引退を挟みながらも、敗戦の懊悩を抱えたまま闘い続けた二〇年間こそが日本MMAを支える財産という称賛も、〝永久戦犯〟と冷罵される屈辱の日々に引き摺り込んでしまった〝被害者〟にその罪を
(安易に自分を甘やかさないから、どれだけイラついても憎み切れないのだけど、それにしたって限度があるな。どうして傍観者のほうがモヤモヤさせられなきゃいけないんだ)
自らを厳しく律しようとする高潔な気構えと、屁理屈でもって自らを傷付ける行為は表裏一体というわけである。何事にも無感情なキリサメでさえ、養父の姿は往生際がすこぶる悪いようにしか思えなかった。
二〇一一年三月一一日――東日本大震災の直後、インターネット上に設置された安否確認用の
「――ったく、いい加減にせんかい! 肝心なところでヘタレになるのは昔からちっとも変わらんな! 嶺子にどうやって
何時までも足踏みし続ける岳を歯痒く思っていたのは
実況席にて鬼神の咆哮とも
「見苦しいにも程がある
キリサメの気持ちを代弁した人間は、改めて
観客に向けて技術解説を行う際の丁寧な喋り方ではない。実況席に用意されたマイクを使わず、鬼貫個人の言葉でもって愛弟子をどやしつけた次第である。
自身が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
そして、鬼貫道明が問題だらけの子どもほど愛しく思う
「
岳の心を静かに包み込むかのようなヴァルチャーマスクと比べて、鬼貫道明の発する言葉のほうが語気も含めて遥かに強い。
『
荒くれ者の比喩としての〝鬼〟ではない。
以前に電知が遊んだ対戦格闘型のビデオゲームでは、
「強さの哲学は時代々々で変わるモンだ。
「キリサメ君の
ペルーで生まれ育ったが為、『昭和の伝説』の名声どころか、『新鬼道プロレス』との接点もなかったキリサメは知らなくて当然であろうが、麦泉が揶揄した通り、
今やファンとの交流の手段にもなっており、『ダイニング
引退と同時に封印され、『新鬼道プロレス』の
「闘魂で世界に夢を与えるのが俺たちプロレスラーの使命じゃねぇか! お前自身がヴァルチャーマスクから夢を貰ったようにな! 一番身近なところに居る我が子には、一番恰好良い姿を見せてやれィッ!」
果たして、『アンドレオ鬼貫』の大喝は
「僕だってまだ一応は岳氏を頼りに思っていないわけではないんですよ」
相変わらず
思いがけず再会を果たした
瀬古谷寅之助の策謀に
東京ドームと連呼する養父の笑い声が脳裏に甦ったキリサメは、思わず苦笑いを浮かべてしまった。
糾弾の対象が首を傾げてしまうのは極めて珍妙な筋運びであるが、導くべき子どもを叱れないようでは親としても合格とは言い難いだろう。未稲が常識から外れた大金をネットゲームに投入したときでさえ、文句こそ垂れつつも厳しく戒めることがなかったのだ。少なくともキリサメは、この四ヶ月の間に一度として目にした
義弟に当たる
それ故にキリサメは己の命運を逡巡なく預けられるほどの信頼関係には至っていないと正直に告げたのである。ヴァルチャーマスクや鬼貫に倣って養父を励ますという選択肢も脳裏を
一つの事実として第一
キリサメは養父のことを心の底から疎ましく思っているわけではない。浅慮としか表しようのない放言には朝・昼・晩と一日に三度は必ず辟易とさせられるが、思考が後から追い掛けてくるほど行動的で前向きな岳であれば、八方塞がりの状況であろうとも渾身の力で突き破ってくれる――それだけは揺るぎなく信じられるのだった。
「少しはくだらねー妄想が晴れたのかよ、大バカ野郎が。……だったら、
それは青
第一
自分を信じて背中を預けてくれた相手に命懸けで応えてやれ――
肩を組み合って〝格闘技バブル〟を盛り上げ、自分がリングを離れている間も日本MMAを支え続けた戦友の言葉は、岳の背中を一等強く押したようだ。
乾いた音が天井に跳ね返るほど強い力で両頬を叩き、気を引き締めた岳は花弁のような形に髪を結い上げている紐を解いた。
その古びた紐を床に投げ捨てるようなことはなかった。生まれてから一度も手入れなどしたことがないであろう小汚い乱れ髪を首の付け根の辺りで一房に結わえ直したのだ。
それは『
不揃いに飛び出したすだれ状の前髪で覆い隠されている額の真下――瞳の中央に映すのは
「もう二度とキリーに心細い思いなんかさせねぇぜッ! こっから先は丸ごと全部、
もはや、自分たちのことは一瞥もせず、闘魂を注入するかのように正面からキリサメの両肩を叩く岳にヴァルチャーマスクと鬼貫道明は揃って微笑みを浮かべた。
岳の
「……つまり、岳氏は今まで僕のことなんか少しも見ていなかったと自白しているわけですよね? 『刑事コロンボ』なら最後の一〇分くらいにやって来る展開ですよ」
「ちょちょちょ、ちょっと待てよ、キリ~! この血沸き肉躍る流れだったらお前、気合いの
「……同じようなことを二度も三度も言うのが好きじゃないんです」
額面通りに受け取った岳は大仰に
その直後、四隅の
「晴れの門出に水を差した非礼、幾重にも詫びさせて貰う。この有り
「お気になさらないでください。幸か不幸か、〝
「前世の記憶を保ったままで悠久なる輪廻を潜り抜けたようなことを言ってくれる。無為に年だけ食った老いぼれにも背伸びの言葉でないことは大いに気掛かりだが、これを案じるのは岳の仕事であったな。
当然ながら自己紹介した
他団体の
ましてや養父と同じ日本MMAのリングに飛び込んだのであるから、格闘家としての実績や
「……あの――正気を疑われるのは分かってはいるのですが、お願いすれば怨霊を
口を
養父にとっても、日本のリングに立つMMA選手にとっても、粗略に扱うことなど決して許されない恩人と向き合っているのだ。自分のほうからも何か話し掛けなくてはならないと焦った末、無意識の内に
それは仏僧らしい風貌を目の当たりにしたことで引き出された反応とも言い換えられるだろう。ハゲワシのプロレスマスクを自ら剥いだ
何事にも無感情なキリサメには極めて珍しい情況であるが、比喩でなく本当に頭を抱えそうになってしまった。『八雲道場』の都合によって第二
「さっきまでのオレのバカっぷりを丸ごと吹ッ飛ばす〝爆弾〟をポンと投げてくれたな、オイ⁉ マジで初耳だぞ、それ⁉ 怨霊ゥッ⁉ 例の神懸かった
「冗談じゃないよ、ホント……センパイの言うように第一
よもやキリサメが心霊的な現象に見舞われているとは夢想だにもしていなかった岳と麦泉は、少しばかり離れた位置で成り行きを見守っている木村レフェリーから試合継続の可否を怪しまれるくらい取り乱してしまった。
岩手興行の安全と成功を祈願する儀式を執り行った僧侶が場内の何処かで
二人の反応は念仏とは認め難い文言を喚きながらリングの
「わたしに対する
観客席の何処かに漂っているものと
「――おふざけは第一
今にも身の
挨拶を交わしたこともないキリサメは
キューバに
「質問なら他にも幾らでもあるでしょ~に無理矢理おかしなオチを付ける必要がありますかね⁉ アマカザリ選手は鳴かず飛ばずで真打ちにもなれない落語家ですか⁉」
反則行為を除いたあらゆる格闘技術が解放され、
『ハルトマン・プロダクツ』といった有力企業が莫大な〝スポーツ利権〟を貪る内実はともかくとして、〝平和の祭典〟という建前を掲げるオリンピック・パラリンピックにMMAは相応しいか――仮に
〝アマチュア競技〟は幼少期から取り組む
少なくとも六年後に迎える二〇二〇年東京オリンピックでMMAが大会プログラムに記載されることはないだろう。MMAそのものの出発点とも呼ばれる
全く現実味のない夢を追い求めるという絶望的な状況に立たされながらも、MMAの第一号オリンピアンになる日を揺るぎなく信じられるカパブランカ
もしも、許されるのであれば今すぐにでもキリサメと代わりたいのであろう。除霊という意味不明な発言に腹を立てたのではなく、〝日本MMAの神様〟と言葉を交わせる名誉が羨ましくてならない様子だ。語尾を上げる
試合中の場内はリングとその周辺に
(……無謀な夢で人生を棒に振ろうとしているヤツにだけは、不真面目だとか批難されたくないんだよな……)
最悪の愚問であったとキリサメ自身が誰よりも悔んでいるので、何一つとして言い返せないのだが、第一
MMAに並々ならない情熱を傾ける青年の目には不愉快に映ったのかも知れないが、当人にとっては心身を削るような攻防であったのだ。心に巣食う〝闇〟を抑えながら全力で闘うという矛盾した一〇分間は、故郷での〝実戦〟よりも遥かに困難であった。
何事にも無感情なキリサメも、このときばかりは顔面に不機嫌という言葉を貼り付け、小さいながらも
除霊の手段や是非を巡って頭を抱えている岳と麦泉、とうとう地団駄まで踏み始め、見兼ねたアルバイト仲間から宥められるカパブランカ
「仏の悟りにも程遠い修行の身の上、小生には
若かりし頃に『ルチャ・リブレ』を修行したメキシコの伝統文化を織り交ぜた冗談をキリサメへの
この場に
「小生たちの屍を超えてゆけ、キリサメ・アマカザリ。前へ前へと常に進む時代は、若き力にこそ味方する」
岳の除く二人分の視線を背中で受け止めていたヴァルチャーマスクは、その最中に一度だけ歩みを止め、第二
二〇年に亘って日本MMAが背負い続けてきた〝原罪〟に囚われる必要はない。〝格闘技バブル〟という古い
「……僕の力が及ぶ限り、期待に応えたいと思います」
「それで良い――安請け合いをせぬ慎重さと謙虚さが備わっておるのだ。〝道〟を誤ることもなかろう。
鬼貫道明は日本格闘技の次世代を孫のような存在と呼んだ。八雲岳に「兄ィ」と慕われているヴァルチャーマスクからすれば、キリサメは可愛い甥に当たるのであろう。
そのキリサメは養父が狂おしいほどヴァルチャーマスクに憧れた理由を悟った心持ちである。このような男であればこそカパブランカ
「……やっぱりムカつくくらいカッコ良いな、
去りゆく背中を強く見つめたまま、麦泉は喉の奥から小さな呻き声を絞り出した。
悔しさと諦めと憧れを綯い交ぜにしたような呟きであった。ヴァルチャーマスクが八雲岳を二〇年にも及ぶ罪と罰の意識から解き放った言葉は、麦泉や他の人々が今までに幾度も繰り返したものと大きくは変わらない。
一度として受け
「……
セコンドの役目が果たせないほど懊悩する岳を奮い立たせ、他団体の
ヴァルチャーマスクが目の前に現れた
歩を進めながらリングを仰いだヴァルチャーマスクは、腕組みしながらマットを踏み締める城渡にも一礼したが、当人には馴れ合うつもりはないとそっぽを向かれてしまった。
セコンドの二本松剛に非礼を窘められる城渡ではあるものの、旧友の気持ちは間違いなく届いたはずだ。不貞腐れたように大きく鼻を鳴らしたのは、自分たちを裏切った相手を赦してしまいそうになる
「――この国で初めて
もはや、その存在を隠していられなくなり、
その間に彼は二度ほど小さく
最後にヴァルチャーマスクと目が合ったのは生涯の師匠――鬼貫道明であった。
久方振りの再会であったが、『昭和』と呼ばれた時代から
その瞬間、ヴァルチャーマスクの乱入によって凍て付いていた時間の流れが元通りとなり、これまでになく大きな歓声が五〇〇〇という客席の全てで爆発した。
日本に格闘技の歴史を築いてきた人々の再会が如何なる意味を持つのか、これにまつわる勉強が捗っていないキリサメは本当の意味では理解できない。今し方、目の当たりにした〝事実〟や観客たちの熱狂を手掛かりとして歴史的瞬間と推察するのみである。
本人の認識を置き去りにしてキリサメ・アマカザリという少年は、日本格闘技の歴史に足を踏み込んでいたのだ。
『アンドレオ鬼貫』の異種格闘技戦から出発し、愛弟子であるヴァルチャーマスクが理論化と体系化を初めて成し遂げ、彼から統括本部長の肩書きを継いだ八雲岳によって日本に根付いた
プロデビュー戦の第一
この少年の運命を決定的に変えてしまったのは、人間という種を超越した〝神速〟などではない。ヴァルチャーマスクとの邂逅によって、偉大な先人たちが栄光と悲劇を代わる代わるに積み重ねてきた時代の激流へと引き摺り込まれたのである。
このときには既に自分が後戻りできないところに立っていたのだと、彼が悟るのはもう少し先のことである。今はただ言葉もなく〝はじまり〟の背中を見送るのみであった。
奇しくも彼が二〇年にも及ぶ苦悩から八雲岳を解き放ったのと同じように、キリサメも日本MMAに横たわる〝負の歴史〟との対峙が
格闘技史に
ヴァルチャーマスクが『
『ガレオン』という
夢を託したMMAに〝全て〟を奪われるという悲劇を
*
岩手県奥州市の大型総合体育館にて開催される『
今まさにキリサメ・アマカザリと城渡マッチによる第一試合が執り行われている総合体育館は補助席も含めて約五〇〇〇人の
MMAの試合を通して東日本大震災の被災地を元気付けたいという統括本部長の願いが結実し、今回の岩手興行で初めて実施された
地方振興の理念から特定の活動拠点を首都圏に持たず、全国各地の運動施設を経巡るという〝旅興行〟の形態を取る『
長野興行では岳が外部コーチとして技術指導を行っている『まつしろピラミッドプロレス』が全面的に協力したのだ。
その『まつしろピラミッドプロレス』に所属する
それにも関わらず、公会堂の大ホールに設置されたモニターの前でひたすらに熱い涙を流し続けているのだ。
黒地の
その場に居合わせながらキリサメには〝意味〟も重みも理解し切れなかった再会の場景に接し、サイクロプス龍は全身の水分が枯れ果てそうな勢いで感無量となっているのだ。
主な活動の場を
アメリカの『NSB』で孤高の闘いを続ける進士藤太の
『
この三年後に師弟関係となる
尤も、このような場合には
数多のプロレスファンが夢にまで
歴史的和解に際しても、厳かな儀式など必要なかったようだ。ヴァルチャーマスクに対する負い目から誰よりも心の分断を感じていたであろう八雲岳は、これを飛び越えるまでに激しい葛藤を挟んだ様子であるが、彼に向かって差し伸べられた手に躊躇などは感じられなかった。
鬼貫道明とヴァルチャーマスクに至っては、久方振りに顔を合わせた遠方の友人への挨拶としか表しようのない気軽さでプロレスファンの絶望を希望に覆してしまった。言葉ではなく拳を重ね合った二人は、〝道〟を違えざるを得なかった歳月すら気にも留めていない様子であった。
離れていた時間が互いの気持ちを取り鎮めたというよりは、プロレスファンが悲嘆に暮れた遺恨など
拍子抜けといっても差し支えがないほど呆気なく歴史が動いた――
「――
おそらくは一〇〇にも達するであろう小さな嗚咽を一つの大声が突き破り、天井に跳ね返ったのは、場内のスピーカーから鳴り響いた甲高い金属音が――プロレスと同じゴングの音色が観客たちの鼓膜を突き刺した直後である。
「勝手に試合を終わらせねんでけろ! 終わってねわ! 一体全体、どっちが
「今のは試合
その途端に集中砲火の如く批難の声を浴びせられたのは当然であろう。大型モニターの画面では、城渡がキリサメに向かって
試合観戦の没入感に水を差し兼ねない大声を窘める何人かも言及したが、今し方のゴングは第二
「
声の主と
その男性が表示させたスポーツ記事では『
記事の中で取り上げているのは教来石沙門の
第一
現役引退後は競技統括プロデューサーとして『
異性との交際関係について
「抽選で
「そ、それについでは
彼と同じように『
首都圏と東北で会場こそ遠く離れているものの、『
『
沙門も親子二代に亘る因縁と〝八雲岳の秘蔵っ子〟を強く意識しているはずだが、抜粋ながらニュース記事に併載された試合直前のインタビューではそのことに一切触れず、対戦相手の
言わずもがな、教来石沙門が取り組んでいるもう一つの
「――格闘技に限らず、どこの社会も似たり寄ったりと思いますが、フォワードに出過ぎるヤツが気に喰わないろくでなしに自分はハッキリと言ってやりたいですね。今まで疑う余地もなく続いていたモノであっても、次の世代を押し潰す為の蓋でしかないなら、やり方がバイオレーションでもブチ抜かなきゃ始まらない。シビアな現実を教えるって口実で明日に花を咲かせるはずだった芽を潰すような人間の喉元に突き付けてやる為、自分の空手をシャープに研ぎ澄ませてきました。既にお呼びじゃないってコトにも気付けないくらいハッピーな連中は、まとめてダストボックスに帰って貰いましょうか」
モニターの向こうで五枚の尾羽根を風に
『
同日の実施とはいえ、『
教来石沙門が実の兄のように慕っていた恩人――テオ・ブリンガーより授けられた必殺の踵落としでもって鮮やかな勝利を飾った頃、キリサメは
その時点では
結局のところ、それは
ただでさえ矮小さを思い知らされる相手が一分にも満たない短時間で初勝利を飾ったと知れば、キリサメは更に気落ちし、調子を崩したことであろう。〝友人〟との間に優劣をつける必要がないと分かってはいても、プロデビュー戦の〝成果〟すら『
「公共性を確保するべきネットニュースを一個人の事業の喧伝に利用した」という批難さえも沙門は織り込み済みであろう。善悪はともかくとして、大勢の関心を引くことが出来るわけだ。これによって本部の監視が届かないような地方に点在する『
結果的に『
自らの身を犠牲として差し出すような構想は、格闘技や武道を余人とは異なる視点で捉えている教来石沙門にしか成し遂げられないことであろう。少なくともMMAを愛しているとは言い難い
踵落としだけでなく足技全般を得意とする沙門に対抗しているわけではないだろうが、モニターに映し出されたキリサメは、空中で身を捻りながら立て続けに城渡の顔面を蹴り付けていた。
肩からぶつかる体当たりを返り討ちにしようとプロレス式の
力任せに押し込むような突進の勢いでもって一九キロという体重差がある身を弾き飛ばすのが
この直後には空中で身を捻り、素早く姿勢を整えながら対の左足でもって城渡の右側頭部に前回し蹴りを見舞った。これによって追撃をも堰き止めたのである。
ヴァルチャーマスクを彷彿とさせる空中戦は、本人が現れた直後ということもあって観客たちを大いに沸かせ、サイクロプス龍も手持ちマイクに向かって「ハゲワシの
波乱含みの第一
第一
それ故に真隣の麦泉も肘でもって岳の脇腹を小突くことがないのである。白
城渡の背中を見据えながら、歯噛みする回数が徐々に増えてきた青
*
リングの上を飛び交う声など届くはずもない
「二〇世紀の終わりにMMAデビューしてから二一世紀の今日まで
「センパイの言う通りだよ、キリサメ君! 第一
「もしも、マッチが突っ込んできたら、そのときこそ大先輩の胸を借りちまえ! 物理的になァ! 胸や腹を壁みてェに踏み付けて宙返りしちまえ! 跳ねる勢いで思いっ切り
ヴァルチャーマスクの試合運びを交えつつ岳が取り上げたのは『
元々はプロレス技であり、空中戦に長けたヴァルチャーマスクも『新鬼道プロレス』の時代から
尤も、相手の上半身を壁に見立てて素早く蹴り付け、これによって高い位置でのトンボ返りを披露することに重点が置かれている為、格闘技の試合に適しているとは言い難い。顎を蹴ろうにも階段を駆け上がるかのような
ハゲワシさながらに空を翔けるという人間離れした身体能力を見せ付け、観客を魅了せんとするプロレスでは顎を狙わないことも多く、
「つまり、今のが〝ヴァルチャーマスク作戦〟というワケですか? 確かにキリサメ君の身体能力と頭の回転があれば、ヴァルチャーの
「ヴァルチャーの
「そこは自分と同じように忍者としてもやっていける才能って言ってあげましょうよ」
ペルーで日系人ギャング団を迎え撃ったときから自分はキリサメ・アマカザリという少年に備わった〝戦士〟としての才能に惚れ込んでいる――自慢げに胸を張った岳の右腋に
「実況席の
〝実戦〟に
ヴァルチャーマスクは迫り来る相手の胸や腹、あるいは太腿を蹴り付けて
桁違いの身体能力を備え、戦いの場に
「空中でも姿勢を
〝隔世遺伝〟というその一言は、亡きミサト・アマカザリよりも深くキリサメの
「神経質に考え過ぎじゃねぇか? キリーのコトに関しちゃ
「……センパイが気軽に考え過ぎなんですって。確かに東京タワーは
麦泉が口を滑らせた〝隔世遺伝〟という失言も、これに応じた養父の言葉も、二人の視線の先で城渡の猛攻を凌いでいるキリサメの耳には届いていない。
第二
麦泉が零した小さな呟きに耳を澄ませていられる余裕など彼にあろうはずもない。限りなく鼓膜まで近付いたとしても、轟々と風を薙ぐ城渡の拳によって吹き飛ばされたことであろう。それが証拠に「
「
落ち着いて攻守を組み立てるよう青
顔面を狙って直線的に突き込まれてきた右拳をキリサメは
肘打ちを防ごうとする寸前、城渡が穿たんとしていた方向へと身を
外から内へ大きく振り抜く肘打ちは、キリサメの油断を誘う為の〝罠〟ではない。側頭部に狙いを定めた渾身の一撃である。全身の隅々まで力を込め、致命傷を与えんとして繰り出す攻撃は、受け止められた瞬間に静止にも近い状態になってしまうことをキリサメは経験で知っているのだ。
第一
「マッチと密着したからって無理に
養父の
右腕を振り回された拍子に姿勢が崩れ、殆ど無防備のまま右脇腹を抉られてしまった城渡であるが、食い縛った歯の隙間から呻き声が零れるよりも先に後方へと
「無理を押して突っ込んでおいて、あっさり返り討ちに遭ったら、それこそ
ヒサシのように突き出したリーゼント頭が
「
「おまけにバカ
「二本松氏――でしたよね。城渡氏のセコンドはどんな局面でも冷静沈着ですし、言葉の選び方一つ取っても岳氏とは正反対ですよ。……羨ましくないと言えば嘘になります」
「剛のバカは皮肉が達者なだけだっつ~の! キザったらしい言い回しで何をしやがったかって、
「自分の半分しか生きていないアマカザリ君のほうが〝顔を立てる〟ということを心得ているこの現実に何も感じないのか、雅彦? 恥ずかしく思えないからお前は
「アマカザリだって
攻め込む
「とはいえ、おめーのバカ
「ぐぅ……ッ!」
右の
両者の言葉は攻防の
第一
幸いにも骨折には至らなかったが、変則的な
二本松はこの有り
それでも城渡は止まらない。
「城渡氏と沙門氏は同じ空手道場でしたよね? この蹴りは沙門氏に目の前で見させて貰いました。それがなかったら、反応しようもなかったハズです」
「ンだとォ⁉ あンの野郎、余計なコトしやがっ――」
現在は道場から離れているようだが、かつて城渡が『
尤も、〝世界一の名手〟と名高いテオ・ブリンガーから直々に伝授されたわけではないだろう。太腿の部分が膨らんだ〝ボンタン〟を波打たせながら右足を持ち上げる
だからこそキリサメも十分な余裕を持って両腕を交差させ、頭上から一気に振り下ろされた
城渡の右踵はキリサメの脳天に接触もしていないので相撃ちとは言い難い。反撃の前蹴りで撥ね飛ばされ、更には胸板の上から肺にも
「猛き鳥の爪は獲物を逃がさねェって教えてやれ、キリーッ!」
「今こそ狙い目だよ、キリサメ君! KOする覚悟で行けッ!」
岳と麦泉が声を揃えてキリサメに追い撃ちを呼び掛けたことで城渡の本能が揺り動かされたのは、皮肉な筋運びとしか表しようがあるまい。鼓膜を突き刺した二つの大声に
リングに立つ城渡も、コーナーポストで彼を見守る二本松も、若かりし頃は都内でも指折りの
キリサメは五枚の尾羽根を
己の意思と無関係に着地させられてしまったキリサメの鳩尾には、垂直に立てた状態の拳が突き込まれた――が、命中する寸前で半歩ばかり
キリサメは
互いの
当人には間を取り持ったという意識などあるまいが、『柔道屋』の電知と『空手屋』の沙門を結び付ける糸を手繰り寄せたのは、その城渡と拳を交えるキリサメなのだ。
内部のクッション材によって拳を防護する
マウスピースとファウルカップの装着をルールで義務付けている『
「石頭っつーコトならオレも自信があるんだぜェッ!」
鈍い音がリングから天井へ駆け上っていったが、城渡はこの程度ではたじろがない。互いの鼻息が交わるような距離でキリサメを見据えながら愉快そうに笑っており、荒業を駆使した真っ向勝負こそ望んでいる様子であった。
無論、城渡に圧し掛かった反動が小さかったわけではない。想定していた以上にキリサメの眉間は硬く、好戦的な笑みを浮かべた直後に膝から崩れ落ちそうになってしまった。
それはキリサメの側も同様である。肉弾の二字を体現するような試合運びには観客も大いに沸き立ったが、〝石頭〟を競い合った二人は互いの戦意が途絶えていないことを確かめながら揃ってよろめいている。
「――原始ッ!
リング内にて渦を巻き、観客たちを呑み込む形で炸裂したとてつもない
限界を超えて高まっていく熱気を断ち切るかのように木村レフェリーが
「おお~っと? 木村レフェリー、試合を中断させましたねぇ。一体全体、どうしたコトでしょう? 今の頭突き対決で出血した様子でもありませんし、まさかの
「月並みにウナギ上りと言いたくなくて、わざと鯉の滝登りを持ち出した仲原さんには申し訳ないのですが、選手の状態を確かめるのは当然でしょう。かなり危険な形で
観客の熱狂を煽り立てる仲原アナの実況すら断ち切り、リングが軋むような攻防を邪魔した格好の木村レフェリーに対しては、四方の客席から
『昭和の伝説』と畏敬される男だけに発言の効力は絶大である。〝格闘競技〟のルールは選手の安全を保障する為に存在する――と、人並み外れて逞しい顎を撫でつつマイクを通して諭した直後には場内の
鬼貫はレフェリーの交代を求める無責任極まりない暴言に腹を立てて一喝したわけではない。選手の生命を守る為に不可欠な判断であったのだと、試合中断の理由が具体的に解説されたことで観客も得心できたのである。
加えて城渡は第一
木村レフェリーの意向をこの場の誰より理解しているであろう
選手
木村レフェリーが両選手に意識混濁の有無などを確認している間、これを取り巻く人々は水を打ったように静まり返っていたが、一方の
急所への攻撃といった反則行為を除いて〝全て〟が解き放たれる『バーリトゥード』の延長にも近い体制であった最初期の『NSB』では頭突きも認められていたのだが、一九九七年にルールが見直されてからは全面的に禁止している。
そもそも頭蓋骨の骨折ひいては脳の損傷と表裏一体であり、深刻な後遺症の原因にもなり兼ねない
呂律や平衡感覚の異常などを厳密に確認していく木村レフェリーに対し、城渡は面倒臭そうに「オレは〝石頭〟だから平気だっつーの」と答えているが、頭蓋骨の厚みや
『NSB』のみならず、欧米の格闘技団体では
いつかMMAがオリンピック正式種目に採用される機会が巡ってきたとしても、
現役引退後の人生を重んじ、後遺症予防の重要性を説き続けるスポーツ医学も盛んな日本に
国際基準の如く普及したMMAの試合場――金網に囲まれた
二〇一四年六月現在の『
格闘家の生死すら美談として劇的に昇華してしまう
それはつまり、〝スポ根〟という
樋口郁郎は日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟である。目に見える形で反対の意思を示す代償は『
〝暴君〟の
「……僕、何かやっちゃいました?」
第二
『
今し方の頭突きは〝フェイント殺法〟とは関係なく反射的に仕掛けたものである。
「やり過ぎじゃねぇぜ、キリー!
「とにかく無事で安心したよ。だけど、試合中に眩暈や吐き気を感じたら、木村さんでも僕たちでも、どちらでも構わないからすぐに言ってくれ!」
白
これが悪化していけば、己の魂を塗り潰さんとする〝闇〟にも抗い切れなくなり、再び『
「――そう言や、沙門とは
「お互いに試合を控えていましたから
「化け物以外の何物でもねェ〝
「格闘技のコトならよ、沙門よりも目の前のオレから学びやがれってんだ。アイツは『
「現在進行形で学ばせて頂いていますよ。……沙門氏の体重は知りませんが、おそらく城渡氏のような真似は出来ないかと。この
「だ~か~ら! 沙門とオレを比べるんじゃなくて、オレと沙門を比べろってんだ! 順番が逆だろ、逆! 別に〝
「自分から学べと言っておいて、答えに辿り着けない意味不明な発言を飛ばすのはやめて頂けませんか……」
雑談に相槌を打ちつつも、キリサメは目の前に立つ〝先輩〟選手に対して
頭突きを撃ち合う状況でも城渡の踏み込みには躊躇がなく、二〇キロにも近い体重差もあってキリサメのほうが競り負ける可能性は極めて高かった。
それにも関わらず、キリサメは
確かに脳も揺さぶられたが、心身に異常を
(……ジワジワといたぶるような真似は好きじゃないし、城渡氏にも失礼だけど、このまま体力を削り取っていけば、最悪の事態を避けられるのか……?)
左右の手の甲で交互に拭い続けても間に合わない量の汗が噴き出し、肩が大きく上下するくらい呼吸も乱れている――第二
更に記憶を巻き戻してみれば、三月に開催された長野興行でも城渡は第二
城渡マッチが日本MMAを黄金時代から支えてきたことは、銭坪満吉のように悪意に歪んだ見方しか出来ない者を除けば、誰にも疑いようがない。格闘技そのものに対する知識が足りていない
一九九七年から数えて一七年という歳月は、城渡にとって数多の戦友たちと積み重ねてきた掛けがえのない〝誇り〟であろう。しかし、
少なくともキリサメの双眸には一七年の歴史が城渡の全身に食い込み、
若さと老い――どうあっても抗えない残酷な〝現実〟が両者の間に横たわっている。六〇〇〇日を超える時間は、
瞬間的な疲弊ということであれば、〝神速〟を発動した直後のキリサメのほうが遥かに深刻であったが、
大きな踏み込みから繰り出される頭突きでキリサメの意識を断ち切れなかったという事実は、そのまま両者の年齢差を表している。
このような事態に立ち至ることを懸念していたからこそ、セコンドの二本松は体力の浪費を戒めてきたのだ。
「――セコンドから同じことを言い付けられているとは思うが、念の為にもう一度。城渡選手もアマカザリ選手も、少しでも身体がおかしいと思ったら、試合の最中であろうとも構わず申告しなさい。こちらも明らかな変調を認めたときには然るべき措置を取ります。どちらも自分の身を一番に考えるように。……人生はリングの〝外〟で続くのだからな」
キリサメの
彼もキリサメもインターバルの最中にスポーツドリンクで水分補給を行ったが、前者は飲んだ端から剥き出しの上半身に噴き出しているようにしか見えないのである。
「おやおや~? このおじさん、放っといても勝手にブッ倒れるんじゃない? 見てらんないくらいヘロヘロじゃん。第二
「――マッチ相手に当たり負けしねェとは大したモンだ! これこそキリーの
城渡の心身を蝕んでいるであろう疲弊の度合いを見極めようと目を凝らすキリサメの耳にどこからともなく
会場のどこかでリングの有り
日々の
スポーツとしての〝格闘競技〟を理解し切れないままプロデビューを迎えてしまったキリサメにとっては、
この情況も第一
「お喋りなんてガラじゃねェし、ぼちぼちもう一発、面白ェのを行くとするかァッ!」
「城渡氏を満足させられるよう全力を尽くします」
「そうこなくっちゃよォ! MMAは観客だけを満足させても意味がねぇ! 選手同士が最高に燃えなきゃ始まらねェんだ! ますます楽しんで行こうぜェッ!」
「MMA選手がそういう気質であることは、岳氏を見ていても
二本松が制止を呼び掛けるより早く城渡がマットを蹴り付けたのは、木村レフェリーが両腕を交差させた瞬間のことである。
これに応じて正面切って突っ込んでいくキリサメは、
剛毅な態度でも誤魔化しようがない消耗は城渡自身が誰よりも理解しているのだ。〝誇り〟として背負っていくべき日本MMAの歴史に
ヴァルチャーマスクが自らを犠牲に捧げて踏み出した大いなる一歩から一七年――もはや、余りにも重い歳月を己の四肢で支え切れないほど疲れ果てようとも、その苦しみを後に続く
ましてや、自分以外の
「何もかもヴァルチャーの
五枚の尾羽根でもって半円の軌道を描くように右の前回し蹴りを放ち、同時に自分の顔面を抉らんとする城渡の左拳を首だけ横に振って
「オ、オレだってそこまで卑屈になっちゃいねェつもりだぜ! ……こんな考え自体が古臭くて時代遅れなのかもだけどよ、〝親父の教え〟ってモンは背中で子どもに示してやりてェんだよ。オレの試合さえ見とけば
「別にセンパイの気持ちは関係ないんですよ。要は今日の試合を組み立てる上での手掛かりです。さっきも咄嗟に『ダブルスレッジハンマー』を応用したみたいですし、キリサメ君は賢い子だから技の要点を伝えるだけでも戦略の幅が広がるんじゃないでしょうか」
「オレは今、猛烈に哀しいぜ。
「と言うかですね、キリサメ君、センパイの試合は長野興行のたった一度しか観戦していないじゃないですか。
「てめーはいちいち! この野郎~!」
木村レフェリーに「仲間割れはなるべく控えてください」と注意されながら麦泉の首を絞め上げる岳であるが、長年の相棒が伝えたかったことは理解している。
〝フェイント殺法〟の是非について結論を出せないまま第二
だからこそ、ヴァルチャーマスクの偉大さを熱弁するのではなく〝日本MMAの父〟が試合で用いた技を例に引き始めたのである。麦泉はその中に『超次元プロレス』も含めるよう提案しているわけだ。
若かりし頃に極めた忍術に基づき、独自に完成させたプロレスを養子へ伝えることは、養父にしか許されない〝特権〟だろう――その
「日本のMMAが今の『
「すみませんが、岳氏の昔話に付き合っていられるヒマはありません。なるべく手短にお願いします。それが無理なら後は麦泉氏に任せて、先に『八雲道場』へ帰ってください」
「見たか、聞いたか、文多⁉ やっとちょっと歩み寄ってくれたかなァって油断した矢先に東北から蹴飛ばされちまったぞ⁉ もはや、立派な家庭内暴力じゃねーかッ!」
「いや、今のはセンパイが全面的にダメでしょう。確かに『超次元プロレス』がヒントになるハズとは言いましたけど、一試合丸ごと口頭で説明しろって意味じゃありません。それ以前に何の脈絡もなく戦国時代まで遡ったら誰だって聞く気が失せますよ」
『超次元プロレス』を伝えるべく前のめりとなった直後、
岳が語ろうとしたのは『
自らも大晦日のリングに臨み、岳の試合も現地で見守った城渡は、脇腹を狙ってきたキリサメの右拳を乱暴に叩き落としつつ、麦泉と同じ呆れ顔で「どれくらい
「
「城渡さんの説明に乗っかるようで気が咎めるのだけど、その
「おめーの
「
「オレもこの後に試合あるんだよ⁉ モロッコの有望株と! チキショ~! 見てろよ、キリー! 厄介払いを企んだのを後悔するくらいブッ飛んだ『超次元プロレス』で度肝を抜いてやっからなッ!」
麦泉と城渡が引き継いだ解説はともかくとして、岳が長々と続けていた戦国時代の昔話をキリサメは聞き流している。この試合に
印象に残った
麦泉も城渡も言及しなかったが、『紀伊』は本名ではなく、先祖代々に亘って受け継がれてきた由緒ある通称――専門用語では
現在の鹿児島県に根を下ろしたという依田家の末裔が古めかしい通称をリングネームに定めたことも、耳を傾ける気も起きなかった岳の昔話が
今し方の話から養子が受け取ったのは、
「腐れ縁でついノッちまったがよ、バカのケツは
「……僕が御剣氏の身勝手に巻き込まれたのは、ごく最近なのですけど……」
「ここで恭路の
足裏を前方に突き出すような
ヒサシの如きリーゼント頭にリングを翔ける鳥の影が落ちたのは、その直後である。頭上を飛び越えることで後ろ回し蹴りを避け切ったキリサメが右側面に降り立ったと直感した城渡は、その場で二回転するようにして
しかし、今度も空振りに終わった。気付いたときにはキリサメは背後に回り込んでいたのである。言わずもがな、ただ城渡を驚かせただけではない。両腕を脇の下から潜らせ、素早く羽交い絞めにしてしまった。
キリサメがこの体勢に入った瞬間、リングサイドの関係者席で試合を見守っていた未稲は、
実父――八雲岳が〝プロレスの神様〟から伝授されたジャーマンスープレックスに近い仕掛け方であるが、空閑電知との
相手を羽交い絞めにして身動きを封じたまま高く飛び跳ね、脳天を地面に叩き付けて粉砕する〝切り札〟の一つであった。本来は高い位置から飛び降り、自滅を覚悟して標的と一緒に急降下するものであった。
最終的には破られてしまったが、電知に仕掛けた際にも
「先ほど自分はアマカザリ選手こそが『超次元プロレス』の跡取り最有力候補と述べましたが、その気持ちがますます強まってしまいました。いやぁ、この試合運びは
「八雲統括本部長と
「時代劇やアニメの影響で忍術という言葉は派手な
「忍者さながらのアクロバティックな
実況席の二人が岳と
交互に放たれた肘打ちもキリサメには命中しなかった。身を沈み込ませながらこれを
片腕でもって全身を持ち上げ、これを軸に据えて駒の如く両足を振り回し、城渡をたじろがせた――我が身に備わった敏捷性と、互いの体格差を生かした奇襲である。サーカスの衣装と見紛うばかりの
五枚の尾羽根が逆巻くと、場内を感嘆の溜め息が埋め尽くした。
「オレに説明させたバカ
片腕一本の屈伸で軽く跳ね、素早くマットを踏み締めたキリサメの
これに対してキリサメは自分に向かって振り抜かれてくる豪腕に逆らうような形で跳ね飛び、上体を引き起こすよりも早く城渡の右側面へと回り込んだ。
「ほんの少しでも城渡氏を楽しませていられるのなら幸いです。……沙門氏は格闘技の試合を
「てめッ! だからよ、オレを基準にして沙門のマセガキを比べやがれってェの! 拳で語らう愉しさを叩き込んでるのはオレなんだからよォッ!」
失速と表すのが最も正確に近いであろう。キリサメの身のこなしを双眸で見極め、その目論見を
ここまでがキリサメの組み立てた〝フェイント殺法〟であった。真田忍者と
黄金時代から日本MMAのリングを守り続けてきた
それ故にキリサメは前回の長野興行に
図らずも
無防備な側頭部への殴打を警戒する城渡は、僅かに姿勢を崩したまま前回し蹴りを繰り出した。これに対してキリサメは半歩ばかり踏み込み、
これによって城渡の動きを完全に堰き止めたつもりであったのだが、
拳を握り締めるのでもなく、岳が注意を呼び掛けたような投げ技を試みるのでもない。薄気味悪いほど緩やかにキリサメの後ろ首へ左手が添えられた。攻撃の意思が感じ取れなかった為、引き締めていたはずの警戒心さえすり抜けられてしまったのである。
城渡が狙いを定めていたのはシャツの後ろ襟である。五指でもってこれを掴み、次いでキリサメの上体を力任せに傾がせたのだ。
「これは沙門氏も使った――」
己の身で体験するのは初めてだが、それは井の頭恩賜公園の乱闘で教来石沙門が披露したものと同じ〝サバキ〟である。『
(本当のバカは他の誰でもない僕だ。城渡氏と沙門氏が同門だと知っていたのに――)
『
相手から突き込まれる打撃を巧みに受け流し、そのまま姿勢を傾かせるほか、投げをも併用して攻防を組み立て、無防備化させた上で必殺の一撃を叩き込む――これこそが〝サバキ〟の神髄であり、『
「折角、巡ってきた
『
打撃系立ち技格闘技の
沙門の同門ならば、〝サバキ〟も体得していて当然であろう。その想定が全く欠落していた為、迂闊にも『
「小細工は好かねェんだがよ、だからってダセェ姿を後輩にゃ見せらんねーしなァ!」
右手一本でキリサメの姿勢を崩したときには、既に対の腕は後方に引き付けられ、拳も固く握り締めてある。沙門が刺客を平らげた
(感じたこと全てを考え抜け……! 経験も実績も違い過ぎる本物の〝プロ〟へ喰らい付くにはそれしかないだろう……ッ!)
城渡の体力がもう少しだけ残っていれば、左腕全体のバネを引き絞るという強烈な一撃でもってKOによる勝利を得られたことであろう。あるいはキリサメと沙門の出逢いが攻防の行方を分けたのかも知れない。
キリサメの網膜に焼き付いた沙門の〝サバキ〟は、日本最強の空手家という呼び声に相応しく芸術性を感じるほど流麗であったが、城渡のそれは腕力に
加えて相手に掛けようとする負荷も感じ取り易い。キリサメはシャツの後ろ襟を引っ張る力の作用に
力を込め
尤も、攻守の動作を一体化させたような荒業は城渡の消耗が激しければこそ成立したようなものである。後ろ襟を引っ張ろうとする力の作用も抗い切れないまま巻き込まれるという程には強くはなく、中心に通しておくべき〝芯〟が四肢から
一等強くマットを踏み締めた直後、左足裏が微かに浮いたようでもあった。おそらくは体重を掛けた際に左脛の痣を激痛が突き刺し、城渡の意思を超えて
「城渡選手が見せたのは『
「一旦離れろ、雅彦! 相手のペースに乗せられるな! 今は足を止めるんじゃない!」
マイクとスピーカーを通してキリサメに向けられた鬼貫道明の称賛と、青
白熱する城渡の耳に二本松の訴えが届いているのかは疑わしいものである。
「悪くないよ、キリサメ君! 第三
「この
白
〝サバキ〟を外された城渡が
「――ンなッ⁉」
城渡の顔面に迫ったのは拳による打撃ではなかった。キリサメは右掌でもって目隠しを試みたのである。目を狙った攻撃にも見える為、木村レフェリーも思わず身構えたが、ついに反則を宣告することはなかった。
『
原始的な方法で視界を塞がれた城渡が次に見たのは、天井に設置された眩い照明だ。目隠しに続けて、キリサメの膝蹴りでもって顎を撥ね上げられた。
右膝を突き上げつつ、そのまま大きく跳躍したキリサメは空中で身を捻り込み、斜めの軌道を描くようにして左足を振り落とした。
「面白くて仕方ねェよな、アマカザリィッ!」
死角からの追撃ということもあり、必ず命中させられると確信していたキリサメだが、投げも寝技も、何もかもが許されるMMAのリングで日本に
目隠しで不覚を取ったものの、頭部に迫る殺気を感じて素早く身を
経験に裏打ちされた反応は確かに鋭かったが、軸として据えた左足の負傷と、その影響は補えない。蹴り足が命中する前にはキリサメもこれを完封する態勢を整えていた。
〝ケツァールの尾羽根〟とも
「こ、これが〝地球の裏側〟の喧嘩師⁉ インカ帝国の秘義が今! 日本人が常識と信じてきた格闘道をブチ破る! 黄金に輝く奇跡が『
思わず実況席から身を乗り出してしまい、
一九九〇年代に産声を上げた
互いに絡み合わせるような形で腰に締めている三本の布切れは、風に
今し方の変則的な投げ技は、キリサメと種崎の二人で編み出したようなものである。
「やるじゃねーか、キリーッ! お前は今! ヴァルチャーマスクの
キリサメの披露した離れ業に昂った岳は、左右の拳を勢いよく突き上げた。
メキシカンプロレス『ルチャ・リブレ』を極めた〝超人〟――ヴァルチャーマスクは自由自在とも
岳一人ではない。ヴァルチャーマスクその人が
「毎回毎回……目からウロコなコトが起きるからよ……MMAはやめらんねェ……ッ!」
膝を支点としてマットに叩き付けられた城渡は依然として不敵に微笑んでいるが、声の調子からも苦悶を押し殺すことは難しそうである。巻き付けられた帯によって振り回されている間に関節を捻られ、
キリサメにとっては右足に
さしもの
「木村君――レフェリー! あれは武器に入るんじゃないのか⁉ 反則じゃないか⁉」
この場に居合わせた人々と同様に想像を絶する妙技によって思考回路そのものが凍り付いていた二本松は、我に返った途端に木村レフェリーへ抗議を申し入れた。
即ち、青
その申し分には一理ある。反則と判定すべきか否か、木村レフェリーに迷いが生じたと見て取った岳は「反則には当てはまらねぇよ!」と白
「過去の試合を掘り返すまでもねぇ! ブラジリアン柔術にも帯や道衣を使った技があるだろうがッ! それと一緒だぜッ!」
「際どいところかも知れませんが、八雲統括本部長が話した通り、自分も反則行為には当たらないと認識しています」
木村レフェリーは岳の剣幕にも気圧されなかった。統括本部長の発言力は『
鬼貫道明が肯定的な見解を示したのは、木村レフェリーにとって予想外であった。解説担当者の同調に不服を訴える声も、場内から一つとして上がらなかった。観客までもが反則ではないと納得させられていたわけだ。
ヴァルチャーマスクを凌ぐとさえ感じられる身体能力に誰もが魅入られていた――それが説得力に換わったのである。
「待ってくれ、それは贔屓ってもんじゃないか⁉ 公平性を欠くんじゃ――」
「――オレは別に反則だなんて思っちゃいねぇよ。こいつの喧嘩技は〝地球の裏側〟のモンだろう? 日本のモンと勝手が違うのは当然じゃねーか。ンな小せェコトでガタガタ抜かすほどオレも落ちぶれちゃいねぇぜ」
「しかしだな、雅彦……」
「心配性も度を超すとオレの顔に泥塗るのと変わんねぇぜ、剛。ちったァオレを信じろ。新人相手なんだ。コレくらいはハンデだろうが」
なおも食い下がろうとする
「お前が秘めてるモンをもっともっと引っ張り出してェよ、アマカザリ。お前が今日まで作り出してきた喧嘩技、ますます楽しみになってきたぜ。丸ごと全部ぶつけて来な!」
「……それはそれで困ってしまいますけど……」
何故、自分の前に立ちはだかる人々は愉快そうな表情を浮かべるのだろうか――キリサメは思わず首を傾げそうになってしまった。
思い返してみれば、
〝闇〟が破裂して最悪の事態を引き起こす前に決着をつけたいキリサメには、〝先輩〟選手や親友の精神構造が今でも理解し切れない。脳内麻薬の分泌によって感情の働きが正常とは言い難くなっているのだろう――と分析だけは出来るのだが、その引き金には想像が及ばないのである。
親友の存在を通して揺るぎなく確信できるのは、〝闘うこと〟を人生の喜びとして感じられる人間は、簡単には止められないということである。
(体力を削り取って
ますます
臨戦態勢を解く気配のない城渡と、彼のセコンドから異議を申し立てられたキリサメを交互に見据えた
「こっから先はもう誰にも邪魔なんかさせねェぜ! この勝負の決着はオレたち二人の手でつけようじゃねェか、アマカザリ――」
木村レフェリーの判断を待つまでの間、手の甲でもって汗を拭いながらキリサメと向かい合っていた城渡は、試合再開が宣言された瞬間、構えを取り直すより先にマットを蹴り付けた。
「城渡選手、これは何だッ⁉ えっ、これは何なの……⁉」
気合いの吼え声を引き摺りながらキリサメに向かって全速力で突進し始めた城渡に仲原アナも困惑を隠しきれない様子であった。
左拳を硬く握り締めるという露骨な姿からも察せられる通り、思い切り助走を付けてキリサメに殴り掛からんとしているわけだ。
第二
いずれにせよ、リングを取り巻く人々には無謀な勝負を仕掛けたとしか思えなかった。
城渡を妄信する御剣恭路などは「総長の〝漢〟を見届けますッ!」と玉砕を前提にして声援を送っている。それはもはや、声援というよりも
死に物狂いで突っ込んできたことはキリサメにも理解できるのだが、さりとて突撃の速度は大した水準ではない。ここまでの疲弊に加えて、左膝の
迎え撃つキリサメも瞼を半ばまで閉ざした双眸で身のこなしを完全に見極めており、左拳が直線的に突き込まれるまで引き付け、一等深く踏み込まんとする出鼻を挫いた。
(ぶっつけ本番だから、ヴァルチャーマスク氏を失望させるかも知れないけど――)
城渡の右太腿を己の左足でもって踏み付け、更に対の足裏で腹部を蹴ることによって城渡の突撃を押し止めたのである。その
階段を駆け上がるような恰好で城渡の身を踏み付けにしたキリサメは、そこから後方へ回転するようにして跳ね飛んだのである。言わずもがな、ヴァルチャーマスクが得意とした蹴り技の一つ――
ヴァルチャーマスクは足の甲を用いたが、キリサメは右足を垂直に突き上げ、城渡の顎を踵でもって撃ち抜いた。跳躍の距離と引き換えにして引き上げた威力を脳まで確実に伝達させようというわけだ。
「がぐァ……ッ!」
第一
キリサメも渾身の力で踵を突き上げており、マウスピースを嵌めて防護していなかったなら、何本かの歯が折れてマットに飛び散ったことであろう。
「よーしよしよし! コレで決まりだろ! フィニッシュにヴァルチャーマスクの必殺技を持ってくるたァ、
耳を
だからこそ、着地と同時に視認したリングの有り
木村レフェリーが意識の有無を確認し始めているだろうと信じて疑わなかった城渡が口の端から鮮血を垂らしながらもマットに立ち続けていた。
何かにつけて先走る養父と今までにどれほど意思疎通が噛み合ったのか。これを数えるには片手で足りるという事実を失念してしまった己の軽率さを悟った直後、キリサメの全身から冷たい汗が噴き出した。
城渡はただ屹立していたわけではない。第一
大リーグの
攻撃より後方への大きな跳躍を重視するヴァルチャーマスクとは正反対の術理に基づいて
「キリ君、逃げて――」
キリサメの耳に届いた悲鳴は、白
「やっぱMMAはKO勝負でなくっちゃ面白くねェッ! 判定なんかに勝ち負けを決められて堪るかってんだッ!」
頭上より降り注ぐ絶対的な危機から逃れるよう訴える未稲の声は、噴火さながらの咆哮によってキリサメの脳が認識する前に咬み砕かれていく。
爪先が頭上に達するほど高く持ち上げていた左足で猛烈に踏み込み、これを軸に入れ替えつつ、腰から肩に至るまで上半身のバネを最大限まで引っ張り出した〝ゲンコツ〟がキリサメに急降下した。
もはや、飛び
ボクシング・ヘビー級の試合であっても耳にする機会が滅多に巡ってこないような殴打の音がリングに轟いた瞬間には、未稲もセコンドの二人も――場内に詰め寄せる誰もが失神による
それはキリサメ自身も同じである。今まさに〝ゲンコツ〟が振り落とされようとする間際、ただ一撃を
比喩でなく本当に頭を抱えて崩れ落ちそうになるほどの激痛が脳を一直線に貫いたことは間違いない。それにも関わらず、意識に空白が生じることはなかった。歯を食い縛り、両足でもってマットを踏み締めれば耐えて凌げる
頭部全体に広がっていく激痛を自覚していることが〝全て〟であろう。
今や城渡の〝ゲンコツ〟は隕石には
だからこそ、〝ゲンコツ〟が叩き込まれた瞬間、産まれる前から聞き慣れてきた〝戦争の音〟が脳裏に響くことも、血の海に身を横たえた女性の最期の言葉によって
人の命を
(……城渡氏……ッ!)
互いの眉間を叩き付け合ったときのほうがマットを踏み付ける力は強かったようキリサメには感じられた。四肢の動きを鈍らせる疲弊に加えて、両足の
弱体化を狙って体力を削り取り、最も得意としている打撃の威力が発揮し切れないよう追い詰めたのはキリサメ自身である。目論んだ通りの成果を実感しているわけだが、その一方で瞬く間に頭部から消えていく痛みが物悲しくてならなかった。
「先程はスレッスレのところで難を逃れた〝打撃番長〟のゲンコツにアマカザリ選手、とうとう掴まってしまったァ~! MMA初参戦から『
仲原アナの
観客の昂奮を煽り立てる語り口には長けていても、目まぐるしく変化し続ける試合内容を漏らさず読み取り、正確な分析を述べることは苦手であるらしく、それが為に技術解説の鬼貫道明から実況の
今し方の〝ゲンコツ〟に関する見当違いな放言も観客席を大いに沸かせたが、正反対としか表しようのない〝現実〟を噛み締めるキリサメには何もかもが虚しく感じられた。
「このおじさん、放っといても勝手にブッ倒れるんじゃない? 見てらんないくらいヘロヘロじゃん。いつもみたいにヤるんだよね? 小突き回して弱らせた相手にトドメを刺すのもサミーは面白がって――」
「――これで最後だッ!」
先ほど耳元で囁かれた幼馴染みの
満身創痍の〝標的〟を更にいたぶるのではない。リングの四隅に立てられた
それ自体が傲慢な考えであると、キリサメも自覚もしているが、心から尊敬できる城渡マッチという男が〝富める者〟たちから嘲笑される筋運びだけは断じて許せないのだ。
彼のことを〝総長〟と推戴する暴走族チームの仲間は言うに及ばず、強過ぎる気持ちが暴走の引き金となってしまうほど心酔する御剣恭路にも
「総長の〝漢〟を見届けますッ!」
その恭路が先ほど〝城渡総長〟に送った応援は、五〇〇〇を超える歓声を切り裂くほどに猛烈であった。彼の胸で燃え盛る
しかし、城渡マッチは違う――先程の蹴り足を軸として据え、引き剥がした分だけ強く踏み込み、背中が相手に向くほど大きく腰を捻りながら横薙ぎに閃かせた右拳には、生まれて初めて湧き起こった感情を握り締めている。
「コークッ⁉」
「スクリューッ⁉」
「フックゥッ⁉」
セコンドの岳と麦泉はコルク抜きを意味する言葉を、実況席の鬼貫は拳による打撃の名称をそれぞれ叫んだ。母音が似通っていることもあり、かつて『鬼の遺伝子』に名を連ねた三人は揃ってアヒルのように口を窄めている。
異種格闘技戦の担い手であったレスラーたちが読み抜いた通り、キリサメが繰り出したのはボクシングで言うところの『コークスクリューフック』であった。
命中する寸前に拳を内側へ捻り込んで破壊力を撥ね上げる技法であり、回転を要としている為、コルク抜きになぞらえる
軸足から始まって腰、肩、肘、そして、手首に至るまで連動的に回転を加えていき、螺旋の如き力の作用を拳に宿して撃ち放つ――そこに爆発的な威力が生み出されるのだ。
セコンドの二人も初めて目の当たりにするのだが、余りの打たれ強さにキリサメが不死身ではないかと戦慄した電知も、このコークスクリューフックによって意識を吹き飛ばされていた。
「があああぁぁぁァァァッ!」
防御も回避も間に合わず、〝ゲンコツ〟の報復として左頬に直撃を被った城渡は、拳の先まで
赤黒い斑模様が顔面に付着したキリサメは、余韻として右拳に残る手応えから今度こそ仕留めたと確信していた。コークスクリューフックで倒せなかった相手は、過去にたった一人――敵対する『組織』に与していた為、互いの命を喰らい合うことになったニット帽の日本人傭兵だけである。
全体がクッション材で覆われているとはいえ、城渡が背中から衝突したのはロープを結び合わせる
「日本が世界に誇る
今は分厚い
燃え尽きることのない闘争心に射貫かれたキリサメの全身を恐怖が駆け抜けていった。
(……僕には城渡氏と闘う資格なんか無いって、合宿のときに御剣氏から言われたけど、結局、その通りだったのかもな――)
自滅行為にも等しい突撃も、正面から
城渡は意識を失って膝から崩れ落ちたのではない。前傾姿勢に転じただけなのだ。
彼の術中に嵌まったことを悟ったキリサメであるが、前傾にも近い姿勢となるほど全身を捻り込んでいた為、右腕を引き戻す
キリサメの反応が遅れた原因には、四肢の
最後には年齢の差が勝敗を分ける――不意の〝サバキ〟によって体勢を崩された直後と同じように己の浅慮を恥じ入るキリサメであったが、このときには城渡の両腕が胴に巻き付けられ、同時に足を払われてマットへ押し倒されてしまった。
すかさず城渡はキリサメの腹の上に
「え? あ? ええっ? 城渡選手、一体、これは……ッ⁉」
「おかしなコトばっかりほざいてやがったが、本気で寝ボケてるみてェだな、あの実況。見ての通りってヤツだよな? なァ、アマカザリィッ!」
呻き声を漏らしたのは仲原アナだけではない。
強烈な打撃によって〝スカッと痛快〟な
それ故に
その城渡マッチに――日本に
「……故あって今日は日本のリングに上がれない北の
キリサメを見下ろしながら高々と振り上げられた城渡の右拳は、〝前史〟たる異種格闘技戦の時代から日本MMAの趨勢を見守ってきた『昭和の伝説』の激励に包まれている。
鬼貫道明の口から発せられたその言葉は、やむにやまれぬ事情の為に城渡マッチとの対戦を
生まれた国の成り立ちや理念の違いに拘わらず、その人を真っ直ぐに見つめ、情熱をさらけ出しながら寄り添い、誰とでも分け隔てなく絆を育む鬼貫道明は、格闘技やプロレスを通じて世界に大きな輪を描くという夢に生涯の喜びを見出していた。
鬼貫道明一人だけではない。今日はリングに臨めない仲間とも、力と技と心を純粋な気持ちで競い合う〝平和の祭典〟にて再び逢えることを誰もが揺るぎなく信じている。
『昭和の伝説』とも呼ばれたプロレスラーは異種格闘技戦を通じて世界中の人々と互いを理解し合い、その魂は
時代が起こした激しい風に振り回されることはあるけれども、誰もが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます