その18:替目~闘魂プロレス20年目の決着・異種格闘技の「伝説」から総合格闘技の「神話」へ──聖なる屍を超えてゆけ/大動乱の「格闘技新時代」が始まる

  一八、かわり



 『天叢雲アメノムラクモ』第一三せん~奥州りゅうじん総合格闘技MMAプロデビューを果たしたキリサメ・アマカザリと、前身団体『バイオスピリッツ』が崩壊する二〇〇〇年代半ばまで日本中を沸騰させた〝格闘技バブル〟の立て役者であるじょうわたマッチ――海を跨いで相対する『喧嘩師』などと仰々しく喧伝された新人選手ルーキー古豪ベテランが拳を交える試合たたかいは、第一Rラウンドの最終盤を迎えている。

 地下格闘技アンダーグラウンド団体の刺客から守ってくれた恩人であり、『天叢雲アメノムラクモ』の〝後輩〟選手でもあるキリサメのことを『キリキリ』と愛称ニックネームで呼ぶ希更・バロッサは、開会式オープニングセレモニーが終わった後も親友のマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディを付き合わせる形で会場に留まり、第一試合の趨勢を見守っていた。

 希更とマルガは共に『天叢雲アメノムラクモ』を代表する女性選手であり、叢雲くもの彩を映す指貫オープン・フィンガーグローブを装着したキリサメが一九キロという体重差に苦しめられ、本来の戦闘能力を発揮できていないことも見抜いていた。

 消耗が余りにも激しい為か、試合開始直後に城渡への反撃カウンターという形で発動させ、場内を混乱させた〝神速〟は今後の〝切り札〟として温存している様子だ。その上、コーナーポストに立つ八雲岳と麦泉文多――二人のセコンドとも作戦に関する意見が一致していないようで、第一試合の途中までは攻守の組み立てそのものが安定していなかった。

 間近で決着までを見届けた地下格闘技アンダーグラウンド団体の刺客――でんとの路上戦ストリートファイトとは正反対といっても過言ではない苦戦であったからこそ、希更は場内に留まり続けたのである。第三試合を受け持つ彼女はそろそろ準備運動ウォーミングアップに取り掛からなくてはならず、マルガにも「後は私が見といてあげるから」と促されたが、友人の闘いから一瞬たりとも目を離さない。

 〝神速〟の発動で疲弊した肉体からだを防御を固めて回復させ、一〇キロを超える体重差に慣れるとキリサメは打撃の応酬に転じた。長時間に亘って防戦が続いた場合、戦意喪失と断定した木村レフェリーがテクニカルノックアウトを宣言する危険性おそれもあった為、『ケツァールの化身』という異名の通りにそらけ始めたときには心底から胸を撫で下ろした。


伝統武術ムエ・カッチューアの野性味とか全体的にはお母さんそっくりなのに、ヘンなトコでお父さんの血が出てくるわねぇ~。希更ちゃんがリングへ上がるたびにアルフレッドさんも心配性一〇〇〇〇パーセントみたいな表情かおしてるハズだわぁ~」

「……心配し過ぎなのはマルガの言う通りだけどね。この試合は丁度、前田光世コンデ・コマの柔道とやらを相手にしたときと正反対なのよ。体格や体重で押し込まれるのもキリキリには初めての経験かもだし……」


 親友にからかわれてしまうほど希更はリングに全神経を注いでおり、それ故に第一Rラウンドが最後の二分を切るまで自分たちの真隣に立つ長身の人影に気付けなかったのである。

 気配こそ感じなかったものの、不審人物とは思わなかった。万全とは言えないまでも会場内の警備は厚く、ローカルアイドルの脅迫犯や『ウォースパイト運動』の思想活動家が侵入する余地はないと信じている。

 警戒心を過剰に高めて拳を握り締めるようなこともなかったのだが、人影の正体には純粋に驚き、希更はその顔を思わず二度も覗き込んでしまった。


「一つ一つ積み上げていったレンが天を衝く前にバベルの塔は崩れたという。人間ヒトの身でありながら人間ヒトの領分を超え、神に拳を突き上げんとする所業には相応の代償が伴う。天に唾した贖罪とも言えような。世界に黙示をもたらす仔といえども、自らの血を捧げて裁きに換えんとすることわりからは逃げられん。罰を受けれ、踏み止まったことは褒めよう」

「――ほん選手っ⁉」


 その名を希更が裏返った声で呼ぶのも当然であろう。『天叢雲アメノムラクモ』の〝先輩〟選手であるほんあいぜんが真隣に立っていたのだ。


「アメリカよりでた一族でありながら、ミャンマーの伝統武術を極め、その素晴らしさを更に日本へ伝えんとするバロッサ家は、さんごくの架け橋であればこそ礼節も重んじておられるのだな。我が最愛のじんつうと同じ中世武者の気概を現代いまに留める熊本を選んだことにも魂を震わされている。今またバロッサ家に対する尊敬の念が強まったよ。しかし、そろそろ愛染と、下の名前で呼んでくれても良い頃合いではないだろうか。希更くんとは既に友人のつもりでいるのだがね」

「確かバロッサ家の皆さんって遠い遠いご先祖様はオーストラリアみたいですよぉ~。あちらは〝スポーツ外交〟にも力を入れていますし、納得の起源ルーツだって愛染さんも思いませんかぁ~? 何しろ我らが『あさつむぎ』ちゃんですものぉ~」

「本人に代わって解説ありがと、マルガ。祖母もしょうの気風が気に入って熊本に根を下ろそうと決めたワケですし、本間選手――愛染さんから〝架け橋〟と評価して貰えたら喜びますよ。日本人の女子選手ファイターとして『NSB』の試合場オクタゴンで孤軍奮闘していた頃から、愛染さんのことを祖母は応援しているんです」

「ということは、バロッサ家の総帥が本間愛染という名を知っておられるということか。それだけで今日の興行イベント出場ただけの価値がある。全身から溢れ出る感激をお釣りとして希更くんに手渡したいくらいだ。ハレルヤ、我が人生。ありがとう、サンキュー。夢ならこのまま醒めないでくれ。ハッピーをあたまにセットしたまま天に召されるのが本望だ」


 「本間選手」と呼び掛けそうになった寸前で「愛染さん」と、本人が望む通りに切り替えた希更に対して、彼女よりも先に『天叢雲アメノムラクモ』へ参戦し、愛染と付き合いの長いマルガは下の名前ファーストネームで親しげに呼び掛けている。

 その中でマルガが親友の為人ひととなりへ重ねるような形で口にした『あさつむぎ』とは、『かいしんイシュタロア』の主人公であった。

 同作は主要な登場人物が光と闇の軍勢に分かれ、ヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神々と同化し、甲冑や武器を具現化して戦うという設定であるが、最後の勝利者が高笑いする筋書きではなく、ぶつかり合った先に生まれる相互理解をシリーズ全体の主題テーマに据えていた。

 女神イシュタルの力を『神槍ダイダロス』に換え、光の軍勢を率いる立場でありながら、闇の破壊神ドゥムジに選ばれたもう一人の主人公――幼馴染みの『もとひまわり』を慕い、二人で手を取り合って両軍の調和を成し遂げたのが『あさつむぎ』であった。

 その気高い姿勢は希更・バロッサ本人にも共通するのだ――と、マルガは親友に成り代わって胸を張ったのである。

 光と闇の調和を描くアニメシリーズとはいえ、『かいしんイシュタロア』は対話ではなく神の武器による血みどろの闘争を繰り広げ、その果てに互いを理解し合っていた。ときには敵に魅入られて裏切ったと疑う仲間から刃を向けられ、年齢の低い視聴者こどもたちが泣き叫ぶような同士討ちを演じることもあった。


音楽オトの仕事で波濤を越えることは多かったが、戦士として異境の試合場オクタゴンに立ち、言語ことばや人種を超えて拳で絆を育む時間は、私のほうこそバロッサ家の偉業に知恵を借り、見果てぬ〝道〟を照らす灯火にさせて貰っていた。あの鬼貫道明でさえ夢にながらもついに成し遂げられなかったおおきな輪は、まさしくつむぎちゃんとひまわりお姉様が結んだモノと同じであろうよ」

「そこまで実家の事業コトを褒められると逆に恐縮しちゃいます。鬼貫さんが思い描いたっていうのは、例の〝格闘技地球連合〟みたいなヤツですよね? アレと比べたら規模スケールが小さ過ぎますし……」

「山の上に降った雨の一滴も数多の支流と交わりながら大海に注ぐだろう? バロッサ家の手で花開いたアジアの輪がゆくゆくは地球丸ごとに広がり、〝鬼の夢〟をも叶えるハズだと揺るぎなく信じているよ。これを〝未来の架け橋〟と呼ばずにどうしようか」

「ていうか、愛染さん、『イシュタロア』に詳しくありません? ご覧になって貰っていたりして?」

「キリサメ・アマカザリが森寅雄タイガー・モリの剣と斬り結んだ日、同じ秋葉原アキバでファンイベントに臨んだ希更くんが広い範囲までに音声こえの届くトークショーを利用してヤツに早まったコトをしないよう呼び掛けたという風聞ウワサを小耳に挟んでね。興味の種はその一粒だったが、お陰で私のなかに新しい季節を運ぶ香りが漂い始めた。それだけは神通を惑わすニク恋敵あんちくしょうに感謝しなくてはならないな。……つむぎちゃんは現実リアルでもつむぎちゃん――と、今の私は首の骨が折れるのも構わず頷けるぞ」


 相互理解へ辿り着く試練ではあるものの、返り血を浴びながら『神槍ダイダロス』で相手を突き刺す『あさつむぎ』の姿は、平和的な国際交流が大前提となる〝スポーツ外交〟とは似て非なるモノであり、希更の主演作を例に引くことは的外れにも近いはずだが、マルガが伝えようとした意味を愛染は完全に理解していた。

 バロッサ家は二〇〇〇年代半ばから年に一度という間隔ペースでムエ・カッチューアが誕生したミャンマーの有力選手を招き、五対五の交流戦を執り行っていた。

 原則的には日本と東南アジアで交互に開催しており、『ムエタイ』の聖地と名高いタイのラジャダムナン・スタジアムの試合では希更も母親譲りの飛び膝蹴りを披露して名門の面目躍如を果たしている。

 言わば、単位の〝スポーツ外交〟である。ぶつかり合った先に生まれる相互理解という『かいしんイシュタロア』の主題テーマを鑑みれば、結局のところ、友人キリサメの初陣を見守り続ける希更の優しさに言い添える言葉として最も相応しかったわけだ。

 だからこそ、愛染もマルガの引用はなしからくだんの国際交流事業に辿り着き、バロッサ家を〝未来の架け橋〟と讃えているのだった。

 南半球にける初開催となった一九五六年メルボルン大会、併催されたパラリンピックにてルワンダより出場した水泳選手が内戦で傷付いた祖国の為に奮闘し、世界中から称賛を贈られた二〇〇〇年シドニー大会と、二度もの夏季オリンピックを成功させたオーストラリアは、マルガが触れたように国を挙げて〝スポーツ外交〟へ力を注いでいる。

 〝地球のヘソ〟として知られる『ウルル』――かつてはエアーズロックという呼び方が定着していた――を懐に抱き、果てしなく広がる大地は、温暖な気候から地球上で最もスポーツに適している。国民の大半が生活ライフスタイルの一部としており、一九八一年には国を挙げてアスリートの育成を支援する研究所まで設置されていた。

 オーストラリアという国家くにを形作る環境の〝全て〟がスポーツを通じての国際交流を促進させる土壌なのだ。

 これに対して『昭和の伝説』と謳われる鬼貫道明は〝格闘技地球連合〟ともたとえるべき統一団体で全世界の格闘家を結ぶという壮大な計画を幾度となく試みていた。海外から日本のリングに招いた猛者たちと数々の異種格闘技戦を繰り広げ、こんにちの樋口郁郎に勝るとも劣らない人脈を持つ男ならではのであろう。

 世界規模の統一団体という構想は一度たりとも実現には至らなかったものの、鬼貫が経営する異種格闘技食堂も〝スポーツ外交〟の延長である。全ての格闘家の胃袋を分け隔てなく満たし、彼らに交流の場を設けているのだ。出身地うまれも所属団体も関係なかった。

 即ち、バロッサ家は〝スポーツ外交〟が盛んな発祥地オーストラリアと、日本を代表するプロレスラーという両方ふたつの理念を体現しているのだった。


「格闘技で世界を一つにしようとした鬼貫道明が青き旗のもとにり、その師から調和の魂を受け継いだ八雲岳が旗振り役なのだから、バロッサ家をしるべとして〝未来の懸け橋〟を地球の隅々まで繋いで欲しかったのだがな。……樋口郁郎が矛盾に満ちたくらき風を呼び起こす限り、『かいしんイシュタロア』のように愛で輝く世界を見る日は遥か先か――」


 唇から静かに滑り落ちていった愛染の呻き声だけでなく、三人の会話は小さな相槌に至るまで全て英語で行われていた。

 愛染が何の前触れもなく真隣に現れた瞬間は希更も慌てふためき、マルガとの会話でも用いていた英語が口から飛び出してしまったのだが、意思疎通の支障もなく言葉を交わし続けられるのは、この〝先輩〟選手が長らく北米アメリカ最大のMMA団体『NSB』を主戦場にしていた為である。

 国際的な作曲家として名高い本間かつひさのもとに生まれ、自身も作詞家を〝本業〟にしている愛染は、映画の聖地であるハリウッドの依頼オファーを受けることもある。滞りなく打ち合わせを進められる程度の英会話は習得しているはずだが、通訳を介さずに当意即妙な受け答えを行うには英語圏の〝文化〟を現地で吸収し、耳やあたまに馴染ませないと難しい。

 岳の呼び掛けに応じて祖国へと軸足を移し、『天叢雲アメノムラクモ』にける女性MMA選手の第一号となるまで愛染はルイジアナ州ニューオーリンズに居を構えていた。〝第二の故郷〟の言語ことばを日本語と同じように使いこなせるのだった。

 希更は熊本県八代市で生まれ育った日本人であるが、両親もバロッサ家の一族も日本に根を下ろしたアメリカ人であり、一門の間では今でも英語が用いられている。

 六七年前かつての宗主国であるイギリスの影響もあって〝クイーンズイングリッシュ〟に近い性質ではあるものの、マルガの故郷ではヒンディー語と共に英語が併用されていた。

 愛染と同じように二人も英語にはわけだ。日本語では「ニク恋敵あんちくしょう」という具合に置き換えられるキリサメへの呼称は、では品性に欠ける〝スラング〟であり、希更もマルガも顔を見合わせて互いの苦笑を確かめ合った。


「――私のなかを閃く声は、その樋口がキリサメ・アマカザリという滅びの種を『天叢雲アメノムラクモ』のリングに蒔き、格闘技を心から愛する者たちを魅了していく毒の花を咲かせるだろうと囁いていた。我々の脳を溶かし、気付いたときには手遅れという死滅の黙示――その名をキリサメ・アマカザリあるいは〝アイガイオン〟と呼ぶのだと」

「昨日、展望カフェでご一緒したときにも愛染さん、キリキリに〝MMAのひきアイガイオン〟って言ってましたよね。日本の格闘技に終末を告げる〝黙示の仔〟とか。あのときは意味が理解わからないまま解散しちゃったんですけど、それってつまり……」

「私もボクシングをやるから、その名前にはどうしても敏感になっちゃうわね~。何より愛染さんがあのコを警戒する理由として一番納得いくモノだし。今日の会場に詰めている記者さんたちの反応を見てもハッキリしてるけど、ひきアイガイオンがテレビに出始めた頃とそっくりなのよねぇ~」

「……お養父とうさんはイマイチ頼りないけど、ミッシーや麦泉さんがいている限り、キリキリがみたいにマスコミの玩具オモチャにされるコトはないでしょ。〝もしも〟のときにはいけ好かない柔道家と剣道家が色目使ってきた連中を返り討ちにするハズだし、それでもしつこく言い寄ってくるなら、……バロッサ家の〝力〟を使ってでもツブしてやるわ」

「希更くんの御父上は古武術道場の継承権が争われた難事件を解決させた豪腕弁護士と名高い。私の心を食い破って抜けない黙示を拭い去ってくれるかも知れないと希望を持ってしまうほどに頼もしいよ。しかしだね、キリサメ・アマカザリという個人をマスコミから遠ざけたとしても、彼を〝柱〟の代わりにして拡散された終末の波動は二度と消えまい」


 口に出すことを躊躇ったらしい希更の言葉を引き取ったマルガの指摘に対し、愛染は溜め息混じりで頷き返した。その〝先輩〟選手が懸念するような事態には決して陥らないと友人キリサメを擁護する希更ではあるものの、俯き加減で頬を掻くその様子には、心の奥底に隠した本音が表れている。


「……ひきアイガイオンは薄っぺらい虚栄でマスコミを騙し、自分自身もテレビの虚飾に騙され、手のひらの上で踊らされた哀れな操り人形に過ぎない。あの男に同情の余地を見つけるとすれば、その一点のみだ」

「だから、あのコのコトを〝MMAのアイガイオン〟って呼んだワケねぇ。今の今まで又聞き状態だったけど、これで腑に落ちたわぁ。〝格闘技界の汚点〟と同じ形で〝道〟を踏み外したら、その醜聞スキャンダルに引き摺られて日本のMMAそのものが沈没しちゃうかも――っていうのが愛染さんの予想かな~? 確かにあのコ一人助けても解決にならないわねぇ~」

「マルガくんの指摘こそ私を衝き動かした閃きであったのだが、……キリサメ・アマカザリはどこまでも小癪だな。終末に至る物語を自らの手で書き換えるとは。その上、より悪しき黙示と来たものだ。そのテのワルさアピールで私の神通も口説いたのだろうか?」

「いや、まぁ、キリキリは母性本能くすぐる天然アピールが上手テクいですけどね」


 フライ級タイトルマッチという華やかな舞台に臨みながら王者チャンピオンの右目を親指で抉るという許されざる反則行為を仕出かし、リングを永久追放されたのはひきアイガイオンの自己責任であろうが、それ程までの凶行に及んでしまった原因は、粗暴な気性という一点のみで解き明かせるものではない。

 幼い頃から家庭内暴力を受け続け、小中学校にも満足に登校できなかったひきは密かにボクシングのパンチを練習し始め、ついには殴り掛かってきた父親を返り討ちにしたという。腕力ちからでは敵わないと本能に刷り込まれてきた絶対的な存在を屈服させたのがボクサーとしての出発点なのである。

 映画フィクションさながらの逆転劇に着目したテレビ局が彼に密着取材を始め、間もなく大衆の人気を獲得できる形で世間に売り出していった。

 それどころか、試合が有利に進むようテレビ局は様々な便宜も図っている。ひきアイガイオンを国民的英雄ヒーローに仕立て上げるドキュメンタリー番組を放送し、視聴者に対戦相手こそが〝大衆の敵〟であると思い込ませる印象操作まで試みたのだ。

 クレーン車で高く吊り上げた鉄球を振り回し、これをかわすことで反射神経や敏捷性を鍛えるというさえも天才の発想などと絶賛したのである。

 スポーツマンシップを学ぶより早くスーパースターとして祭り上げられ、身の丈を超えた状況によって感覚が麻痺したひきアイガイオンは、リング内外での傲慢な態度が目立ち始め、対戦相手への侮辱的な発言を注意するコミッションにまで逆らっていたが、テレビ局は問題行動〝型破りの無頼漢〟とし、彼のほうにこそ理があるよう喧伝した。

 この時点で注意に耳を傾けていれば、結末も大きく変わっていたはずだ。不幸せな生い立ちから植え付けられた残虐性を軌道修正するのでなく、より一層加速させる〝環境〟こそがひきアイガイオンの悲劇であった。

 視聴率を稼いで出資スポンサー企業を満足させ、予算カネさえ引き出せれば神聖なリングを泥だらけの革靴で踏み荒らしても構わない者たちが作り上げた〝商品〟は、望みもしない虚像を押し付けられ、矯正できないくらい人格を歪められた成れの果てとも言い換えられるのだ。


「金貨を浴びるような富、ベルトという名声、そして、何物も思い通りに指図できるだけの権力――自分以外の手によって巻き起こされた風の中でひきアイガイオンは自我を削ぎ落とされていった。彼の耳にも不協和音は聞こえていただろうに不幸なことだ」


 かつて愛染自身もひきアイガイオンのことを〝環境〟の犠牲者の如く言い表していた。

 暴走の末路が〝格闘技界の汚点〟と忌み嫌われるフライ級タイトルマッチであった。

 ひきアイガイオンが活躍しなければ利益を得られないテレビ局の実況アナウンサーは、最悪の反則を「不幸な事故」と庇ったが、露骨あからさまな贔屓が顰蹙を買わないはずもなく、試合後には謝罪会見に追い込まれている。

 コミッションによる事情聴取でひきアイガイオンに対する反則行為の指示が判明した所属ジムは解散を余儀なくされ、本人はプロとしての資格ライセンスが剥奪された――が、これで一件落着となったわけではない。

 一過性のブームや話題性で収益を上げることしか考えていない者たちに踊らされた果ての暴挙は、日本のボクシング界全体の信頼を著しく失墜させたのである。ひきアイガイオンの試合ではレフェリーさえも対戦相手の不利となる〝疑惑の判定〟が多く、それが批判の声を強めていた。

 のプロボクサーによる高次元の試合を通してボクシング自体そのものが再評価されるまで数年を要したことからも、名誉回復に至る道程の険しさが察せられるだろう。

 改めてつまびらかとするまでもないが、最も図太かったのはひきアイガイオンやその所属ジムと癒着したテレビ局だ。スポーツ番組でプロボクシングを取り上げる際にも彼のことは二度と触れなかった。異常としか表しようがないほど〝地上最強のボクサー〟と持ち上げた過去を封印し、リングをけがした責任も取らずに逃げ散った次第である。

 正常まともなトレーナーのもとで育ってさえいれば、祝福の中で王座に輝いたかも知れない才能あるボクサーを〝商品〟として使い捨てたテレビ局は、〝プロ〟にはあるまじき不祥事を〝暴力によって支配される貧民街スラムが生んだ底知れない才能〟という印象イメージに捻じ曲げた樋口郁郎と置き換えることも出来るだろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーを取り巻く現状は、かつてのひきアイガイオンと大きく変わるものではない。今し方も報道関係者のカメラが一斉にキリサメへと向けられたが、レンズでもって切り取ったのはMMA選手としての素養ではなく大衆の興味を引く話題性である。

 そのキリサメがひきアイガイオンの暴挙を二〇一四年の『天叢雲アメノムラクモ』で再現させれば、今度こそ日本MMAはする――親友マルガの指摘は、さしもの希更にも否定し切れなかった。

 日本のボクシングは一世紀に手が届くほどの歴史自体が強固な基盤である。支持層も厚い為、商業主義の暴走によって失われた信頼が取り戻されるまで待つことも不可能ではなかった。その間にもボクシングの火は日本で絶えなかった。

 これに対して日本MMAは、たった一度の失態が原因となって〝文化〟そのものが消滅するという危うさが常に付き纏っている。反社会的勢力との結び付きが暴かれ、黄金時代が終焉を迎えた後も『MMA日本協会』の監督下で競技自体は継続されたが、『NSB』との合同大会にまで漕ぎ着けた『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントでさえ、未だにテレビの地上波放送に復帰できていない。

 そのように脆弱な基盤を崩壊させ得る危険な要因と言い換えれば、日本の格闘技に終末を告げる〝黙示の仔〟という独特な表現がとして輪郭を強めるのだった。

 キリサメの喧嘩殺法を目の当たりにした希更も、一瞬たりとも躊躇せず目突きや金的を狙う姿にムエ・カッチューアの〝本性〟を重ね合わせていたのである。

 それ故に愛染はキリサメを〝MMAのアイガイオン〟と忌々しげに呼び、本人にも決して〝道〟を誤ってはならないと警告を発してきたのだが、ここに至って「終末に至る物語をキリサメ自らが書き換えた」と、自身による最悪の想定を改めようとしていた。

 古豪ベテランなど忘れてしまったかのように新人選手ルーキー一人へ浴びせられるカメラの明滅フラッシュは、ボクシング界の汚点とも異なる状況に変わったという〝事実〟を残酷なほど抉り出している。


「……キリサメ・アマカザリ。あの少年は格闘技が人の心を震わせる感動ではなく、原始的な本能を膨らませるに『天叢雲アメノムラクモ』を作り変えてしまうのかも知れない。それが真の黙示であり、日本MMAの真の終焉だろう」

「ショープロレスとも別モノってコトなのねぇ~。日本のMMAは実戦志向ストロングスタイルの異種格闘技戦が大元なんだし、確かに扱いは〝時代を巻き戻す〟ワケじゃないわぁ~」

「ショープロレスは極限まで鍛え上げた〝心技体〟をもってして観客ひとびとに笑顔の花を咲かせるという偉業を成し遂げている。高潔な精神の上に完成する究極の娯楽エンターテインメントだ。しかし、今日より始まるは違う。私たちが立つべき試合場リングも、それを愛でる客席も、暴力を享楽として貪る悪魔どもに乗っ取られる。……もはや、に格闘技は存在しない」


 『かいしんイシュタロア』の内容と、全編を貫く主題テーマを愛染が把握していたのと同じように、希更とマルガもこの〝先輩〟選手が喉の奥から絞り出した「暴力を享楽として貪る悪魔」という大仰な一言のを察している。

 愛染は城渡の向こう脛に強烈な打撃を見舞い、再びダウンを奪ったキリサメの頭上を越え、四隅の支柱ポールをロープで結び合わせたリングの向こう――特等VIP席にて賓客たちと何事かを語らう〝暴君〟をめ付けていた。


「古来より〝異形の力〟は常人には手の届かぬモノ。であればこそ、これを手にした〝超人〟に常人は惹き付けられる。架空フィクション現実リアルが事象の地平を超えて交わる昂奮は、人間ヒトの感情を烈しく揺り動かし、己もに同化したいと求める本能まで呼び覚ます。かつてくにたちいちばんの〝劇画〟から飛び出したヴァルチャーマスクが八雲岳を魅了し、その魔力は未だに解けていない――神の次元を仰ぐ塔を脳内あたまのなかで作るところから秩序の崩壊は始まる」


 二〇一一年の『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げ興行に参加するまで愛染が契約していた『NSB』は、世界の総合格闘技MMAを牽引するべき立場でありながら〝超人ショー〟の舞台と化していた時期があった。

 当時の団体代表――フロスト・クラントンは、ブロードウェイのステージショーなどエンターテインメント業界で成功を収めた実業家であり、マーケティングの手腕は全米でも随一と謳われていた。

 テレビ業界での実績からPPVペイ・パー・ビューにも精通し、『NSB』を世界最高のMMA団体にまで成長させたが、本人は骨の髄までショービジネスに染まり切った人間であり、命を懸けて闘う選手も全世界のファンを熱狂させる試合も、という価値観でしか捉えていなかった。

 代表就任以降は団体内にドーピングを蔓延させ、禁止薬物を用いた肉体改造による〝超人ショー〟へと『NSB』を作り替えていったのである。

 禁止薬物は取り返しのつかない犠牲をもたらした。アフガンの帰還兵でもある若手選手は過剰投与オーバードーズによって命を落とし、八雲岳の好敵手ライバルでもある古豪ベテランは比喩でなく本物の怪物モンスターと化した選手から再起不能というほどの重傷を負わされてしまった。

 ヴァルチャーマスクが完成させた『とうきょく』の理論を継ぐ日本人の選手シューターもこの〝暗黒時代〟に肉体からだを破壊され、何年もリハビリに励んでいるが、未だに復帰の目処が立たない。

 現代表――イズリアル・モニワの努力が実を結び、『NSB』はMMA団体として復活を果たしたのだが、「今さら〝ただの人間〟を出場させても迫力不足でしかなく、超人たちを集めたを寄越せ」と、筋肉増強剤を再び解禁するよう促す暴論が出資スポンサー企業からも聞こえている。

 格闘競技という〝筋書きのないドラマ〟を根底から否定する風潮を現地アメリカで感じた愛染が『NSB』の暗黒時代と近似する状況に警戒心を強めるのは当然であろう。

 会場内の誰をも驚愕させた〝神速〟はまさしく〝人外〟の領域である。情報戦に長けた樋口は反響を呼ぶような見出しを付け、キリサメ・アマカザリという〝キャラクター〟をにすることであろうが、これこそが『NSB』を蝕んだ厄災の再現なのである。

 生身の人間すら照明スポットライトという虚飾で〝商品〟に仕立て上げたフロスト・クラントンと同じように樋口郁郎もくにたちいちばんという夢に取り憑かれている。亡き師匠の作品に登場するような〝超人〟をとき、我を忘れて暴走し兼ねないのだ。

 日本格闘技界に君臨する樋口郁郎は、前身団体バイオスピリッツの頃にも格闘家としての実績より大衆やマスメディアに持てはやされる話題性を優先し、素人同然の芸能人をMMAのリングに送り出すというを持っている。

 このような〝暴君〟を野放しにしている時点で日本の格闘技界に『NSB』と同等の自浄能力など望むべくもあるまい。フロスト・クラントンを永久追放したアメリカとは正反対であった。

 暗黒時代が到来した場合には、二度と日本MMAは立ち直れまい。


「……つまり、キリキリがヴァルチャーマスクで、あたしが八雲岳ってワケね。キリキリを養ってあげたいかってかれたらソッコーで頷き返すけど、自分の妄想に呑み込まれたらアウトよね。キレイなままでなきゃ〝夢〟って呼べないし」

「自分の情況を冷静に気付けたのだから、希更くんはまだ壊れた〝夢〟に呑み込まれてはいないぞ。悪魔に堕ちるモノは己のかおを鏡で見ようともしない」


 一つの事実として先程の希更はキリサメが発動させた〝神速〟の衝撃に酔いれ、その快楽で感覚が麻痺していた。同じモノが場内を満たす熱狂と混ざり合い、観客席を隅々まで汚染した場合、そこから愛染が予言した通りの暗黒時代が始まることであろう。

 自分が恐るべき情況にあったのだと気付いた希更は、力のない苦笑いを浮かべながら我が身を掻きいだいた。マルガが気遣わしげに手を添えた親友の肩は、布越しでも分かるくらい小刻みに震えている。

 あくまでも自分は友人キリサメを信じ抜く――とマルガに目配せでもって伝えた希更がリングに視線を戻そうとしたとき、第一Rラウンドの終了を告げるゴングが鼓膜を貫いた。

 文字通りに肉体からだを張って試合を中断するよう双方の間に割って入った木村レフェリーに促され、新人選手ルーキーのキリサメ・アマカザリは白サイド古豪ベテランの城渡マッチは青サイドと、それぞれのセコンドが待つコーナーポストへ引き上げていく。

 間もなくRラウンド間の緊張感を持続させる為のBGMが場内に満たし始めた。数種類の太鼓を絶妙の時間差を付けながら小刻みに打ち続けるその曲は、メインテーマと同じ作曲家が手掛けたものである。

 著しく安定性を欠いた試合運びからテクニカルノックアウトを言い渡されるかも知れなかったキリサメが第一Rラウンドを凌ぎ切ったことに安堵の溜め息を漏らす希更であったが、何の気なしに一瞥したリングサイドへ勢いよく振り向き、次いで口を大きく開け広げてしまった。

 これはマルガも同様だ。双眸を見開いたまま、キリサメの〝神速〟を凌駕する怪異に遭遇してしまったかのようにかぶりを振り続けている。


「私たちは今日、八雲岳という男が〝異形〟なる夢から巣立つ瞬間に立ち会うのかも知れないな。一度は自らの手でむしり取ったハゲワシの羽根を僅かでも魂に残しているのなら、我らが旗頭を永く縛り続けてきた妄念を懐かしき風で吹き飛ばせるだろう。それがキリサメ・アマカザリという〝黙示〟の風向きをどのように変えてくれるのか。……自らの行動で新しき時代を示してきた〝超人〟には高みの見物より相応しい〝場〟がある」


 二人の〝後輩〟が打ちのめされてしまった衝撃が本間愛染には心地好かったようで、自らの両腕を猛禽類とりの翼に見立てて大きく広げながら、「新しき夢が創り出されるとき、古き夢はその足掛かりとなる喜びに打ち震えるのだ」と噛み締めるように呟いた。

 愛染が視線を巡らせた先――場内の誰もが視線を注ぐのは、焦茶色の僧衣を纏い、菱形の玉を束ねた大数珠を右肩から襷掛けに帯びている仏僧だ。

 現在いまはハゲワシのプロレスマスクを剥ぎ、素顔を晒したかつてのヴァルチャーマスクが実況席近くに設けられた特等VIP席から白サイドのコーナーポストへと一直線に向かっていた。



 『天叢雲アメノムラクモ』のルールでは各Rラウンド間に六〇秒のインターバルが挿入される。

 選手にとってはマッサージや止血などの応急手当を受けられるほか、水分補給を含めた僅かな休憩時間となるわけだが、その最中にもリングが無人となることはない。ゴングが鳴る間際からモップを携えて待機していたスタッフ数名が一斉に清掃へ取り掛かるのだ。

 マットには選手の汗や鮮血が飛び散っている。液体によって足を滑らせるという事故を回避するだけでなく、感染症の予防もMMA興行イベントの運営スタッフは担っているのである。

 滝の如く流れ続ける大量の汗を左右の手で拭いながら青サイドのコーナーポストに戻った城渡は、その様子を険しい顔付きで見据える二本松が用意した椅子に腰掛け、スポーツドリンクを一気に飲み干した。


つるぎに触発されて気持ちを若く保つのは悪くないが、肉体からだのほうは誤魔化しようがないだろう? 第一Rラウンドの途中に『年寄りの冷や水』と自分の口で言ったよな? もう若くないと自覚しているのなら、試合の組み立て方もに合わせろ。さっきまでの雅彦おまえは短距離選手の走り方で長距離走をやっているようなものだったぞ」

てめーは幼稚園の先生か⁉ 年寄りっつうコトは大昔からMMAのリングに立ってるってコトだろが! そのオレに試合のペース配分をレクチャーしようってのがナメてる証拠だわなァ! ……無駄に気に病むんじゃねェよ。気合いとド根性で最後まで立ち続けるってコトはお前が誰よりも理解わかってるだろ?」

「気合いとド根性で何とかなるのも若い内だけだろうに。お前の筋肉痛は試合翌日に猛威を振るうのか? 二日三日と経つにつれてと思い知らされる現実を無視シカトするな」


 肉体からだはともかくとして精神的には全く休まらない六〇秒間インターバルになりそうだ。二本松剛セコンドの忠告を無視し、無謀な突撃を繰り返したことを叱られる城渡は、ヒサシのように突き出した前髪を手櫛でもって整えつつ、聞こえよがしの大きな溜め息を零していた。今すぐにでも試合を再開して欲しい表情かおである。

 勿論、二本松は十分に城渡を休ませるつもりだ。痛みに耐え兼ねて転倒してしまうくらい強打された右脛にコールドスプレーを噴き付け、骨の異常も確かめていた。〝神速〟の一撃で抉られて一度は流血した側頭部の傷も入念に調べている。


「そんなに楽しいか、あの小僧との試合は? ここ最近で一番というくらい良い顔で笑いやがって。御剣が嫉妬に狂っても助けてやらんからな」

「今までに面白くない試合なんかなかったぜ。勿論、おまえとやり合ったガキの頃のケンカも含めてな。MMAは最高に面白ェってコトをアイツにしっかり伝えてやりてェんだよ」


 二本松からタオルで顔面かおの汗を拭われた後、城渡はこの相棒の不安を吹き飛ばすように一等明るく笑って見せた。疲弊を偽らんとする空元気などではない。日本MMAを黄金時代から支えてきた古豪ベテランは、新人選手ルーキーとの試合を心の底から満喫しているのだった。

 一方の白サイドも選手とセコンドが何事か言い争っている。

 二〇キロ近い体重差が幾度となく圧し掛かった腕に亀裂が入ってはいないかと麦泉が確かめる傍らで、キリサメと言葉を交わす岳が呆れたように肩を竦めているのだ。


「アマカザリ陣営、何かあったの模様です。絶賛お説教中の城渡選手とは別の意味で空気が穏やかでないようですが……?」


 Rラウンドの合間にも選手たちの試合たたかいは続いていると、六〇秒間インターバルの緊張感を観客に伝えようとする仲原アナによって過剰に煽られてしまったが、キリサメたちも深刻に揉めているわけではない。〝フェイント殺法〟の是非を巡って双方の考え方がすれ違ったのと同様に、キリサメと岳が噛み合わないやり取りを繰り返しているだけなのだ。


「……そこまで面白いものでしょうか、MMAって」

「ちょーっ! ちょーっと待て、オイ! 自分から出場したいっつっといて、それはナシにしようぜ、キリー! 試合中に絶対言っちゃダメなヤツだぞ、それ! ヴァルチャーの兄ィが聞いたら泣くなんてモンじゃねぇぞ⁉ あの人、案外と涙もろいんだからよォ!」

「……絶対に言ってはいけないことをポンポン言いまくってるコト、センパイはもっと強く自覚しましょうか……」

「いえ、あの……、僕じゃなくて城渡氏のことです。闘っている最中、ずっと楽しそうに笑い続けていたから……。闘うことが面白いなんて、僕は一度も思ったことがなかったから不思議で……」

「うおォーいッ! 大胆な問題発言連発してるぞ、キリー? じゃあ、お前、何の為にリングに立ってんだよ~? コーナーポストからはご陽気に飛んで跳ねてたようにしか見えなかったんだぜ⁉」

「出場する意味の有無ありなしと楽しいかどうかは、また別の話ですよ。……電知も似たような表情で闘っていましたけど、まだまだ僕は親友アイツみたいにはなれません」

「……『天叢雲うち』と揉めまくっている地下格闘技アンダーグラウンド団体の選手の名前をリング上で口に出してしまうキリサメ君はセンパイより遥かに問題なんだけど、彼にはポジティブな影響をたくさん貰っているみたいだし、僕としても注意し辛いなぁ~」


 岳を呆れさせ、麦泉を苦笑させた原因は、コーナーポストへもたれながら肉体からだを休めるキリサメが不意に洩らした一言である。

 対戦交渉が成立する前後からキリサメは城渡マッチに敵意としか表しようのない感情をぶつけられてきた。

 彼が総長リーダーを務める暴走族チームの親衛隊長――つるぎきょうの襲来など不測の事態と邂逅を経て少しずつ心の距離も近付いたはずであったが、〝格闘競技〟そのものを理解し切れないまま試合に臨もうとするキリサメに失望したのか、ゴングが鳴る寸前の城渡はまたしても憎悪に近い激情でリーゼント頭を震わせたのである。

 それにも関わらず、〝神速〟の一撃による最初のダウンから復帰し、第一Rラウンドが再開された直後にはキリサメは親しい友人と接するかのような笑顔を向けられたのだ。

 稀代の映画俳優であり、近代総合格闘技術の結晶とも呼ぶべき『ジークンドー』を創始した伝説の武術家――ブルース・リーの至言ことばを引用し、「考えるな、感じろ」と、MMAに対する迷いを断ち切る手掛かりまで城渡から示されている。

 感情の切り替えが極端であり、〝闘う〟という行為ことに何一つとして楽しさを見出せないキリサメは、リングの上で対戦相手に置き去りにされたような情況ものであった。

 一つの事実として、城渡を昂揚させているのは自分以外には考えられなかった。だからこそ、〝何〟によって満ち足りているのか、理解に苦しむのである。

 魂に巣食った〝闇〟の暴発を抑えることで手一杯という稚拙な新人選手ルーキーとの闘いが面白いはずもない。ましてや養父がヴァルチャーマスクの通称なまえを繰り返し叫んで試合の進行を妨げているのだ。城渡を笑顔にさせる理由が見当たらなかった。


「小難しいコトを考えてると思ったら、そういうことかよ。……あのな、マッチは根っからの格闘バカだからよ、強い相手と闘えることだけで満足なんだよ」


 ようやくキリサメの疑問を理解した岳は、「対戦相手がバカみたいに強ェ。それを嬉しく思わない選手のほうが少ねぇのさ」と一つの答えを示した。


「オレとバトーギーンの試合を振り返ってみりゃあ分かり易いと思うけどよ、相手がどんな想いを拳に乗せてくるのか、そいつを感じ取るのは最高に面白いじゃんか。他でもないキリー自身がマッチを笑顔にさせてんだぜ!」

「……いや、チョルモン氏の場合は悪いほうの例だと思いますけど……。でも、試合を通じて相手と語り合うようなことはしゃもん氏にも言われましたよ」


 岳の言葉は相も変わらず感情ばかりが先走っていて趣旨が掴み難い。自分より弱い標的を狩ることで格差社会の最下層を生き延びてきたキリサメとはそもそも分かり合えない部分が多い。


「――アマカザリも俺も、これからリングの上でをやるワケさ。対戦相手が何を秘めて自分の前に立っているのか、どんな思いを拳に握り込んでいるのか。その心にまで触れることができるんだぜ? これってさ、他のどんなスポーツにも真似できねぇ格闘技だけの醍醐味じゃん」


 養父の話を理解する為にキリサメが手掛かりとしたのは、MMAの〝先輩〟であるじゃどうねいしゅうが沖縄クレープを振る舞うフードトラックを訪ねた際、偶然に知り合った日本最強の空手家――きょういししゃもんの言葉である。

 打撃系立ち技格闘技『こんごうりき』から自分と同じ日にプロデビューを果たす『くうかん』空手最高師範の息子も、対戦相手と心を通わせることに喜びを見出していたのだ。

 現在いまはまだ完全には理解し切れないが、養父と友人が語ったことを総合格闘技MMA――つまり、〝格闘競技〟の本質と捉えるのが妥当であろうと、キリサメは己に言い聞かせた。団体間の敵対関係もあり、本来であれば相容れないはずの電知と路上戦ストリートファイトを経て親友となったことは揺るぎなく信じ抜けるのだった。


ともンとこの息子せがれに何か吹き込まれたってか? 沙門の野郎め~、女にも男にも手が早ェな~! ゴシップ方面のアレコレは参考にしなくて良いからなァ!」

「キリサメ君、引っ込み思案に見えてかなり社交的だよね。バロッサさん本人は勿論、同行マネージャーさん共々すっかり打ち解けたし、ねいしゅうさんの車輛みせにも一人で出掛けたんだろう? オリバーレスさんにも気に入られて、格闘技の交友関係も充実してきたね」

「……皆さんのほうから手を差し伸べてくださっているだけですよ。僕には眩しく見える人たちばかりですが……」

「……センパイの言葉を借りるようだけど、森寅雄タイガー・モリの剣道を継いだ例の彼――君は親しくせず遠巻きに眺めているくらいで丁度良いと思うよ? 身辺警護ボディーガードが必要なら他の人を雇っても良いんだし」

「……何から何までデタラメな寅之助ですけど、意外と根は悪くもないんです」


 『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手に不祥事を寅之助のことを麦泉は未だに信用していない様子だが、『八雲道場』のかかりつけ医であるやぶそういちろうに彼が秘めた心の〝闇〟を鏡に代えて自らを律するよう助言されたキリサメにとっては欠くべからざる〝友人〟なのだ。

 他者ひとの心を弄ぶ享楽家のように振る舞う一方で、全米にまで勇名を馳せた日本史上最強の剣道家――森寅雄タイガー・モリの名を口にする際には決して一礼を忘れないのである。自身の名にも寅の一字をけた青年の武道家としての誠実さをえて否定する理由もなかった。


「友達のことはさておき――今は自分自身の心配をしようか、キリサメ君。……本当に身体は何ともないのかい? 第一Rラウンドは序盤から息切れも酷かったみたいだけど、吐き気といった症状はどうかな?」


 第一Rラウンドの間に幻の鳥ケツァールの如く幾度も風になびいた五枚の尾羽根――互いを絡み合わせる形で腰に締めた三枚の布切れや、『キリサメ・デニム』と呼称される試合着ユニフォームの具合を確かめながら、麦泉はキリサメ本人に肉体からだの異常を尋ねていく。

 これもまたセコンドに課せられた重要な役割であった。試合中のダメージによって選手が不調を訴えたときにはすぐさまリングへとタオルを投げ込み、対戦相手とレフェリーに降参ギブアップを申し入れなくてはならないのである。

 MMAは決して〝暴力〟の応酬などではないが、互いの身をつ競技であることに変わりはない。脳や内臓の損傷などを選手自身よりも先に発見し、〝リング〟という最悪の事態を回避することがセコンドには求められるのだ。

 荒唐無稽な物語や格闘技に我が身を捧げる登場人物を〝美徳〟として昇華するくにたちいちばんの〝スポ根〟漫画では、心身の崩壊をも省みずに闘い抜いた果てに再起不能や絶命という壮烈な結末が待ち受けていることも少なくなかった。

 人間という生き物が宿した精神の極限や、それすらも突き抜けた境地こそがくにたちいちばんというそのものであり、今も大勢の人々を魅了し続けているのだが、〝架空フィクション〟でこそ輝く覚悟を死すら恐れない潔さとして〝現実〟の格闘家に強要することは断じて許されないのである。

 ましてやくにたちいちばんの〝最後の弟子〟である樋口郁郎が舵を取る『天叢雲アメノムラクモ』では、体重別の階級を設定しない完全無差別級の試合形式など、かつての〝スポ根〟の如きが再現されている。主催企業サムライ・アスレチックスの一員としてその興行イベントに携わる麦泉であるが、団体代表の意向に服従するつもりはない。

 現在いまでこそMMA選手のマネジメント業務に専念しているが、かつての麦泉は『鬼の遺伝子』の一人として鬼貫道明のもとに集い、異種格闘技戦へ臨むプロレスラーであった。

 師匠の鬼貫に将来を期待されながらも右肩に負った重傷が原因となり、若くして現役を退かざるを得なかった麦泉は、それ故に選手の故障には過敏となってしまうのだ。


「第二Rラウンド以降の試合の進め方を考える為にも確かめておきたいのだけど、城渡さんから最初のダウンを奪ったときの〝神速はやさ〟……あれは――」

「おう、そうだよッ! それそれそれッ! 何を措いても真っ先にそれだよッ! ペルーのギャング団をやっつけたときにがやっぱりキリーの〝切り札〟なんだな⁉ をもう一回使ったら一RラウンドでKOできたろ~? 必殺技にはキメどきってのがあるけど、あんまり意識し過ぎて足元掬われねぇよう気ィ付けろよ? ヴァルチャーの兄ィもな――」

「センパイはちょっと黙っていてください! これ以上、選手の邪魔をするつもりなら本気で控室に帰って貰いますよ⁉」

「お、オレはヴァルチャーの兄ィだってたまには失敗するって話でな、キリーも油断すんなってハッパかけようと……。キリーからも何か文多に言ってやれ! このままじゃ養父とうちゃん、マジでお払い箱になっちまわァ~!」

「僕としてはもうお帰り頂いて結構なのですが……。種崎氏も控室に一人では寂しいと思いますし」

「お払い箱どころか、厄介払いに悪化してるじゃねェかッ!」


 自らがセコンドに付いた第一試合から幾度も目を離し、『NSB』の団体代表イズリアル・モニワに同行している特等VIP席のヴァルチャーマスクにばかり気を取られるという軽率さを窘めた際にも麦泉の語調は厳しかったが、岳を仰け反らせた叱声こえは〝暴力〟の二字が最も似つかわしいような凄味を帯びていた。

 次いでキリサメに向き直った麦泉は、丸顔のマスコットキャラクターが刷り込まれているシャツの上から肩や腕、胸部などに自身の手を添えていく。医師による触診のように異常を確認しているわけだ。


「本当におかしく感じる部位ところはないんだろうね? 違和感があるのに無理して闘って良くない事態ことが起きたら、そのときは僕も本当に怒るよ?」

「麦泉氏を怒らせると怖いですからね。……セコンドを務めてくださる人に隠し事はしません。岳氏はともかく」

「オレに追い討ちを掛ける必要あったか、今ァ⁉ 控室どころか、実家に帰らせて貰いたくなっちまったわ! 孤児院育ちだから実家ねェけど!」


 心身の故障を繰り返し問いただすということは、それだけ麦泉は第一Rラウンドの内容を心配に感じているわけだ。


「あの〝神速はやさ〟――ここまで一回しか使わなかったけど、それってつまり、一回しか出しちゃいけない〝切り札〟ってことなのかな? ……それとも、その一回きりで肉体に変調をきたしてしまったじゃないのかな?」

「一度きりの〝切り札〟ということは『バイオグリーン』の必殺光線バイオフラッシュみたいなもの――と仰りたいのですか?」


 キリサメの口を衝いて出たのは、日本で制作され、ペルーを含めた海外でも放送されている特撮ドラマの題名タイトルである。『昭和』から『平成』に掛けて一六年という空白期間を挟んだものの、一九六六年の第一作を皮切りに現在まで何作ものシリーズが続く特撮作品の金字塔であった。

 主人公である正義の人型巨大超生命体は、概ねエメラルドグリーンを基調とした威容すがたであり、複数の生物や兵器などが合体したモンスター『ごうじゅう』や、これを操る侵略宇宙人から地球の平和を守るべく戦うのである。

 記念すべき第一作目の主人公――『バイオグリーン』は両掌を前方に突き出して発射する必殺光線『バイオフラッシュ』でごうじゅうを粉砕するのだが、これを使うのは極めて少ない例外を除いて絶体絶命の窮地に一度限りであった。

 一回しか出してはならない〝切り札〟という一言から小さな頃にのめり込んだ『バイオグリーン』を連想し、必殺光線バイオフラッシュ構えポーズまで再現するキリサメであったが、当の麦泉は真顔を崩さないまま首を横に振った。


「……せめて『真面目にやれ』って切り捨てて欲しいのですけど……」

は使う分だけ自分の首を絞めるものじゃないのかい?」


 人間の限界を超越し、神の領域に踏み込むのだから、その反動も計り知れないはずだ。第一Rラウンド中盤までの身のこなしがすがだいら合宿の訓練トレーニングと比べて明らかに鈍かったのは、ゴングが鳴った直後の〝神速〟によって一度は体力を使い果たしてしまった為ではないか――そのように麦泉は案じていたのである。

 特撮さながらの絶技わざを〝現実リアル〟の世界で解き放ったからこそ、会場に詰め寄せた全ての人々を驚愕で身震いさせたのだが、『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立つのは生身の人間であって、必殺光線バイオフラッシュなどの超能力を使いこなす『バイオグリーン』ではない。

 岳のように余所見をせず、冷静に試合運びを見守ってきた麦泉であればこそ、消耗の原因まで看破できたと言えよう。キリサメからすれば、如何なる言い逃れも許されないような状況に立たされた恰好であるが、それでも「問題ありません」と答えてみせた。


「城渡氏よりずっと若いのですから、体力勝負でおくれは取りませんよ。さすがに手足の痛みは否定できませんけど、肺にも心臓にも違和感はありません。……僕は闘えます」


 質されたことの一部には答えなかったものの、キリサメは嘘だけはいていない。浅はかな虚勢などではなく実際に疲労から回復しつつあり、本気で城渡との根競べに勝てると考えているのだ。短い六〇秒間インターバルだけで呼吸も随分と整えられた。


「……普通のダメージならともかく、異常のようなモノを少しでも感じたらセコンドの判断でタオルを投げる。それは覚悟しておいて欲しい」


 何とも例えがたい溜め息は抑え切れなかった様子だが、それでも麦泉がキリサメの気持ちを酌んだのは、試合継続が十分に可能な状態であることを自ら確認できた為であろう。

 一つ一つの攻防をヴァルチャーマスクの空中殺法ルチャ・リブレと重ねて昂奮する岳は煩わしかったものの、第一Rラウンド後半のキリサメは五枚の尾羽根をなびかせつつ空中から攻め掛かることも増えていたのである。

 を復調と認めないほど麦泉も過保護ではなかった。進学や〝正業〟を勧めたい気持ちは残っているが、MMA選手として『天叢雲アメノムラクモ』のリングで生きるというキリサメの決断も受けれているのだ。


「……通称なまえを連呼したりと、センパイは横からやかましいけど、もしも、身を削るような絶技わざだとしたら、少なくともこの闘いでは二度と使っちゃいけないよ。ゴングが鳴れば試合は終わるけど、キリサメ君の人生はまだまだ先が長いんだ。……後遺症が出るような事態だけは避けようね」


 麦泉の声色が幼い子どもに物の道理を言い諭すようなものへと変わっていく。性別は異なるものの、故郷ペルー非合法街区バリアーダスに生まれ、学校に通うことすらままならない貧困層の子どもたちと向き合う母の姿をキリサメは想い出していた。

 くにたちいちばんが原作を手掛けた〝スポ根〟の精神性も、『バイオグリーン』のような特撮ドラマの再現も、麦泉は新人選手ルーキーに求めていない。〝神速〟という極めて大きな話題性を利用し、マスメディアの注目を集める偶像の役割を樋口郁郎が強いるようであれば、我が身を盾に代えてでも庇い抜く覚悟であった。

 『バイオグリーン』シリーズでは、侵略の魔の手から地球を守るべく戦い続けた主人公が最終回の頃には自らの生命が尽きるとも知れない満身創痍となってしまう作品もある。

 麦泉文多はあくまでキリサメ・アマカザリというに寄り添わんとしていた。

 こうしたセコンドの存在こそがルールによって選手の安全を約束する〝格闘競技〟の象徴であろう。気を緩めた途端に破壊の衝動が理性を塗り潰し、〝最悪の事態〟を招き兼ねないほどキリサメの魂は〝闇〟に蝕まれているのだが、現在いまは己がと決めたMMAを〝富める者〟の道楽と貶めようとは思わない。

 怨霊と化したとしか思えない幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの妨害によってMMAのルールも一度は脳内あたまのなかから消し飛んでしまったのだが、幸いにも城渡との闘いを通して想い出しつつある。

 だからこそ、キリサメも麦泉の瞳を真っ直ぐに見つめながら「僕は闘えます」と頷き返すことが出来たのだ。


「第一Rラウンド中盤以降と同じように攻め続けていれば、あの〝切り札〟――大き過ぎるリスクに頼らなくても必ず競り勝てるよ。キミは紛れもなく『八雲岳の秘蔵っ子』だ。それだけの潜在能力ポテンシャルを秘めているんだからね」


 言われるまでもないと伝えるようにキリサメは首を頷かせた。

 城渡を迎撃カウンターで叩き伏せた〝神速〟は、自他の命に意味と重みを感じ取れない〝闇〟に理性をも壊された果てのでしかない。己自身では制御し得ないものの、キリサメも〝切り札〟のように考えたくないのだ。

 格差社会の最下層が産み落としたとしか表しようのない〝何か〟が身のうちに宿っている限り、養父たちが人生を捧げてきた〝格闘競技〟そのものを根本から覆してしまう。そして、そのことを認めてしまった瞬間に魂の一欠けらに至るまで〝闇〟と同化するのではないかと、キリサメには恐ろしくてならないのである。

 冥府より伸ばされた死神スーパイの手が城渡マッチの頬を撫でるようなものでもある。勝敗に拘わらず、二度と発動させることなくプロデビュー戦を終えたかった。


「なんだかな~、オレがキリーの養父とうちゃんなんだけどなぁ~! 文多のほうが親子愛ビンビンで嫉妬しちまうなぁ~! 拗ねちゃおっかな~! 〝二回目の成人式〟を済ませて数年っつうおっさんがさぁ~! 五十路目前アラフィフがゴネ始めると面倒臭ェなんてモンじゃねェからな、こんにゃろ~!」

「遊んでいる暇があるなら、まともな作戦を立てて下さい。……僕だってまだ一応は岳氏を頼りに思っていないわけではないんですよ」

「相手にすると疲れる養父パパに気を遣ってます的な回りくどいその言い方なァッ! だったらよォ~、いっそ〝ヴァルチャーマスク作戦〟っつーのは――」

「――もはや、ハゲワシの通称なまえ拘泥こだわるな。しょうせいの時代はとうの昔に終わったのだ」


 養子と相棒から揃って蔑ろにされ、完全に不貞腐れてそっぽを向いてしまった岳は、視線を巡らせた先――白サイドのコーナーポストに最も近いリングサイドに信じられない存在ものを見つけて息を吞んだ。

 それどころか、顔面を驚愕の二字で歪めたままコーナーポストから足を滑らせ、地べたに尻餅をいたまま動けなくなってしまったのである。

 事故の一言では片付けられない異変に驚いたキリサメも養父が見据える先を窺ったが、〝ヴァルチャーマスク作戦〟という自暴自棄としか思えない発言を遮り、一刀両断のもとに切り捨てた野太い声に聞きおぼえがあった麦泉の反応は、それよりも遥かに鋭い。

 岳と麦泉より僅かに遅れて声の主を視界に捉えたキリサメは、〝神速〟を発動させた瞬間とは異なる意味で双眸を見開き、次いで己のセコンドが――鬼貫道明のもとで異種格闘技戦に挑んだ二人のプロレスラーが呆けたように立ち尽くしてしまう理由を悟った。

 床を蹴って跳ね飛ぶだけで手が届いてしまうほどの近くに一人の男が立っていた。

 焦茶色の僧衣を纏う威容すがたから仏僧であることは疑いようもないが、帯の代わりとして古い縄を締め、木を削り出して拵えた菱形の玉を束ねた大数珠も右肩から襷掛けに帯びるなど風変わりである。

 皮膚が剥き出しとなった頭部あたまには横に走るきずあとが無数に刻まれており、まるで大きな螺旋でも描いているようであった。えて残したものとおぼしきもみあげは人並み外れて豊かであった。プロペラの先端としかたとえようのない形で横に飛び出しているのだ。模様の如く入り混じった白い筋は、この仏僧が壮年の範囲に入らないことを表している。

 後ろ姿を少しばかり眺めたのみではあるものの、キリサメは一度だけこの仏僧と遭遇したことがあった。プロデビューを果たす舞台の〝下見〟に訪れた際、MMA興行イベントの会場として設営される前のメインアリーナの中央にて座禅を組んでいたのである。

 二階席の窓より差し込む光を浴びながら身じろぎ一つせず、天井に設置された大型モニターと向き合い続けていた。何も映していない画面にうつしの一切を〝くう〟とする仏の教えを見出している様子であったのだ。

 初めて正面から見つめた顔は、キリサメの想像よりも遥かに皺くちゃであった。不当な汚名に苦しめられた歳月が形となって表れている為か、四十路半ばの岳と比べても目元や口元に刻まれた皺が余りにも多い。

 頬などはブルドックと見紛うばかりに弛んでいるようだが、俗世に疲れ果てた末に出家した人間の面構えではない。猛き鷲を彷彿とさせる双眸に湛えた光は烈しく、一目見ただけでキリサメの網膜に焼き付いてしまうくらいであった。

 本来はマットを踏み締めるべき物を〝下履き〟として用いる意図は定かではないが、現代日本の風景に溶け込みようのない出で立ちにレスラー仕様のリングシューズを組み合わせている。


「ヴァルチャーマスク――ヴァルチャーのあにさんッ!」


 つい先程まで傍迷惑なくらい勢いよく突き出していた右の人差し指を小刻みに震わせながら、現在いまは声の一つも発せずにいる岳に代わって麦泉がその通称なまえを叫んだ。猛き鷲に由来するその呼び名を今まさにキリサメも思い浮かべたばかりである。

 あるいは『八雲道場』にて保管されているハゲワシのプロレスマスクの持ち主とも言い換えられるだろう。

 くにたちいちばんとの提携タイアップによって〝超人〟の雷名を轟かせ、『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦を経たのち、『とうきょく』の理論に基づいて日本で初めて総合格闘技MMAの体系化を成し遂げた男――ほったいとなった現在いまは『しゅういん』と号しているが、かつてはヴァルチャーマスクと名乗っていたプロレスラーである。

 リングから遠く眺めたときには判らなかったが、一九九七年に日本MMAの第一歩を踏み出した偉大なる巨人は、キリサメが想像していたよりもずっと小柄であった。

 皺だらけの顔が枯れた風情を醸し出していることもあり、静かなる月のようにも見えるのだ。『天叢雲アメノムラクモ』が公開しているプロフィールにいても燃え盛る太陽にたとえられる岳とは真逆の佇まいといえよう。

 キリサメが記憶している限り、この男は特等VIP席にったはずである。試合中の余所見などは不可能であり、所属団体NSB代表イズリアル・モニワの傍を離れる様子は確認できなかったが、岳や麦泉の反応から察するに第一Rラウンドが終わった直後にリングサイドへ飄然と現れたのであろう。

 第一Rラウンドの一〇分間は波乱に波乱を重ねて過ぎたようなものである。白サイドのコーナーポストまで引き上げてきた選手キリサメも、これを出迎えるセコンドも、どちらも浮足立っており、第二Rラウンドの方針を話し合っている最中に場内で大きなどよめきが起こったことも気付いていなかった。

 木村レフェリーから注意されることもなかった為、六〇秒が過ぎてしまったことも三人揃って認識できていなかった。

 そもそも木村レフェリー当人が不測の事態に直面して凍り付いてしまっているのだ。

 これはリングサイドでカメラを構えていた記者たちも同様である。インターバルの最中にRラウンド数を記した表示ボードを掲げてリングを一周する女性スタッフ――ラウンドガールも自身の役割を果たして良いものか、判断し兼ねて足踏みせざるを得ない状況であった。

 キリサメが〝神速〟を発動した直後と同じように、場内の誰もが唖然呆然と立ち尽くしている。それも無理からぬことであろう。ヴァルチャーマスクの振る舞いはの試合への乱入にも等しいのである。

 ともすれば『NSB』による『天叢雲アメノムラクモ』への進行妨害とされてもおかしくはないのだが、今すぐ立ち去るよう訴える者は運営スタッフの中にもいなかった。場内各所に詰めている警備員でさえ、この明らかな不審者を取り巻こうとはしない。

 自らの敗北を生贄の如く捧げ、日本にMMAという〝文化〟を花開かせながら、黄金時代の終焉を背負って四角いリングを去った男である。驚愕よりも混乱よりも、伝説の二字こそ相応しい存在感が誰をも押し止めていた。


「一九九七年一〇月の〝あの日〟に東京ドームで敗れたのは小生であってお前ではない。小生の技がブラジルの勇者に届かなかった――ただそれだけのこと。当時の取材でも試合については語ることなど持ち合わせていないと答えたはずだ」

「あ、兄ィ……」

「他者の敗北を己の罪の如く思い詰めるとは、些か自惚れが過ぎるのではないか? よもや家族でもない他者の人生に責任を持とうなどと、本当に思い上がっていたのではあるまいな? 小生が積み重ねてきた全ての闘いは、小生以外の誰にも背負えるものではない。……弁えよ、八雲岳」


 かつての通称リングネームを叫んだ麦泉を懐かしそうに一瞥したのち、彼に支えられながら立ち上がろうとしている岳と向き直ったヴァルチャーマスクは、己のことを「兄ィ」と呼ぶ男が心の奥底に一七年間も抱えてきたことを抉り出した。

 改めてつまびらかとするまでもないが、は『プロレスが負けた日』に自分だけが汚名返上を果たし、〝永久戦犯〟の烙印を押されてしまった恩人ヴァルチャーマスクの名誉挽回に一つとして貢献できなかった罪の意識である。

 八雲岳にとってヴァルチャーマスクはプロレスラーを志すきっかけともなった生涯の恩人であるが、それぞれの道が日本とアメリカに別れてからは一度たりとも連絡を取り合わなかった。

 ニューヨークのリトル・トーキョーに所在する仏教寺院――日本を代表するアイドル事務所の実父が以前かつての代表である――にて修行の日々を過ごしながらも、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長である岳が同地で『NSB』との共同記者会見に臨んだ際にも姿を見せなかった。

 言葉を交わすどころか、顔を合わせたのもヴァルチャーマスクが日本のリングを去って以来、初めてということである。

 日本格闘技界にとってはまさしく歴史的瞬間であるが、当人たちのなかでは何とも言い表しがたい感情が渦巻いていることであろう。リングと特等VIP席に離れていたときには幾度となく以前かつての通称で呼び掛けていた岳でさえ、目と鼻の先に本人が現れた途端に腰を抜かしてしまったのだ。

 この反応こそが数年という空白期間の象徴であろうが、ヴァルチャーマスクの側は昔と変わりなく岳の心に触れたわけである。樋口郁郎と同じようにこの仏僧おとこも顔色一つから彼の考えていることが読み取れるのだろう。

 血を分けた兄弟にも等しい絆は、歳月をも超えるのだ。己に先駆けて恩人ヴァルチャーマスクの名誉を守らんとした好敵手ライバル――こいづかさる麿まろへの嫉妬が滲む顔をタオルでもって覆ったものの、隠し切れたと思っているのは八雲岳本人だけであった。


「忘れたのならば今こそ想い出せ、岳。ブラジルの勇者に討ち取られたのち、お前は小生にカタキ討ちを求めたか? 己の生き恥を肩代わりさせようとしたことなど一度もあるまい」

「わ、忘れちゃいねぇよ! 忘れるもんかよ! オレの……、『新鬼道プロレス』の尻拭いを兄ィに押し付けようって空気は一日だって忘れられねェ! だから、あんな……無関係な兄ィに責任を取らせるような事態コトになっちまって……ッ!」

「忘れるな、岳。お前が繰り広げた闘いを代わりに背負ってやれるほど小生は偉くも強くもない。世の人が如何に感じたのかは別として、小生もまた己の心に従って〝あの日〟を迎えたのだ。浅ましくも分を超えた我欲に過ぎぬ」


 ときには岳の返事を待たず自らの言葉を一方的に重ねることもあったが、ヴァルチャーマスクは反駁を封じ込めるように威圧しているわけではない。麦泉がキリサメを諭した際の態度とも異なり、大いなる存在感でもって相手を丸ごと包み込むようであった。


「だけどよ、あの頃からブラジリアン柔術をまともに評価してたヴァルチャーの兄ィは、道場破りを引き留めたじゃねェか! ……オレは忠告それ無視シカトしたんだぜ⁉ その挙げ句に最悪の結末になっちまったのは誤魔化しようがねェッ!」

「それこそがお前の思い上がりだと言うのだ、岳。小生の経験上、驕りは必ず己が身に跳ね返ってくる。……〝永久戦犯〟は小生にとって極めて妥当な汚名なのだよ。日本のプロレスラーの誇りを背負うような思いでブラジリアン柔術に挑み、プロレスそのものの威信を失墜おとしてしまった。その報いを受けるのは当然のこと。見事にを遂げたお前に庇って貰うほど落ちぶれてはおらんつもりだ」

「そんなのズルいぜ、兄ィ……! オレにも少しくらいは引き受けさせてくれたって良いじゃねェか……ッ!」

がお前にとって〝男の意地〟であるのなら、もっと大切な瞬間ときの為に取っておけ」


 周囲まわりの混乱など気にも留めず、八雲岳というプロレスラーの魂を二〇年近く蝕み続けてきたくらい感情と向き合うヴァルチャーマスクは、太陽が噴き出した灼熱の風を受け止める月のようであった。

 遠い昔に奥州の覇者と謳われた〝独眼竜〟の名将――伊達だてまさむねは、幼い頃からさいそういつなる仏僧に師事し、生涯に亘って様々な教えを授かったという。

 政宗のような隻眼ではなく、それ故に眼帯の類いを着けてはいないものの、首の付け根からはみ出すほど伸ばした髪を強引に撫で付け、これを花弁のように開く形で結い上げた岳は、大抵の人間から戦国武将の物真似コスプレと思われている。

 相対するヴァルチャーマスクが僧侶の出で立ちということもあり、武将としての在り方を見失いそうになった政宗の懊悩に耳を傾け、次に進むべき〝道〟を諭すさいしょうを二人芝居で再現しているように見えてしまうのだ。

 〝北の独眼竜〟を奥州の〝筆頭〟とまで讃えられる名君に育て上げた〝へそ曲がり〟の師匠は、身内同士が互いの血を浴びる戦国乱世の東北に生をけた政宗でさえ怒鳴り声で震え上がるくらい厳しかったとも言い伝えられている。

 尤も、ヴァルチャーマスク当人は仏法にけるせっしょうきんだんを犯したかいそうと見紛うばかりの面構えである為、如何なる角度から目を凝らしても慈悲深いかんのんさつとは思えない。

 声を絞り出すことすら叶わないような酷い混乱から一転し、今や麦泉に体当たりで押し止められるほど取り乱している岳の喚き声に鼓膜を揺さぶられ、ようやく我に返った木村レフェリーは、首の骨が耳障りな音を立てる勢いで青サイドのコーナーポストに振り返った。

 もはや、場内の誰もが忘れつつあるが、現在いまは第一試合の途中なのだ。リングに上がるタイミングを逸したまま困惑の表情で立ち尽くすラウンドガールは言うに及ばず、タイムキーパーも第二Rラウンドの開始を告げるゴングを鳴らせずにいた。


「こんなときにヤボは言いっこナシだぜ。……好きにさせてやんな」


 改めてつまびらかとするまでもないが、青サイドのコーナーポストでは同色の指貫オープン・フィンガーグローブを装着した城渡マッチと、タオルを肩に掛けた二本松剛セコンドが待機し続けている。

 目が合った瞬間に木村レフェリーの意図を察した城渡は、額から噴き出す汗を両手の甲で交互に拭いつつ、神妙の二字こそ似つかわしい面持ちで頷き返した。

 他団体の乱入者に試合を妨げられている状況であり、怒鳴り声と共にヴァルチャーマスクに掴み掛かっても誰にも責められないはずだが、前身団体バイオスピリッツの頃から日本MMAのリングに立ち続けてきたこの古豪ベテランは、共に黄金時代を支えたにとって大きな節目となり得ることも理解している。

 それ故に決着を迎えるまで成り行きをと、腕組みしながら木村レフェリーに伝えたのである。日本のリングを捨て、アメリカのオクタゴンへとしか思えないヴァルチャーマスクに対する蟠りは大きいが、これを抑え込めるだけの度量を備えていればこそ荒くれ者が集う暴走族チームにて総長リーダーを務められるわけだ。


「――ザケんなよ、てめー! そこのクソハゲ! どこの誰だか知らねェが、今日の主役は総長なんだよ! アマカザリもよォ、ボサッとしてねェでそいつを摘まみ出せよ! てめーンとこの知り合いなんだろ⁉ 何ならオレがやったらァッ!」


 異様の二字こそ相応しい静けさに包まれた場内には、城渡の舎弟である御剣恭路の吼え声が耳障りなほど響いたが、木村レフェリーはこの暴言を黙殺して特等VIP席に目を転じた。ヴァルチャーマスクが辿った道筋を遡り、彼の為に用意された席のすぐ近くに腰掛けている樋口郁郎の様子を窺った次第である。

 判断を仰ぐような眼差しに対する『天叢雲アメノムラクモ』代表の反応も城渡マッチと同じであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』のルールを紐解くまでもなく、ヴァルチャーマスクの行為は場内からの強制退去に該当している。興行イベントそのものの進行を妨げているのだから、『NSB』に対する損害賠償請求が生じる可能性も高い。しかし、直接的に迷惑を被っている城渡と団体代表が揃って承認した以上は、木村レフェリーも口を真一文字に結ぶのみである。

 特等VIP席からリングサイドへ視線を戻す間際、木村レフェリーの双眸は互いに一礼し合う日米MMA団体の代表ふたりを捉えた。

 このひとときのみ『八雲道場』の人々は『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントから特例的に切り離されることになった。

 『MMA日本協会』に属さないフリーランスのレフェリーではあるものの、木村も四角いリングに立ち、総合格闘技MMAの歴史を見守ってきた人間である。当然ながら『プロレスが負けた日』も、八雲岳が恩人ヴァルチャーマスクの名誉回復を涙ながらに訴えたことも承知している。

 あるいはヴァルチャーマスクが日本のリングを去る前からすれ違っていたのかも知れないプロレスラーたちが再び向き合おうとしていた。二人の人生にとってかけがえのない時間は、決して誰も邪魔してはならないのである。

 両者の間に割って入って制止しなかったことが問題視されたときには、短刀を腰に差しながら行司を務める大相撲のむらしょうすけに倣い、潔く切腹して責任を取る覚悟であった。

 前身団体バイオスピリッツよりも昔――『新鬼道プロレス』の頃から二人を導いてきた鬼貫道明も木村レフェリーと同じ気持ちであろう。呆然と口を開け広げている仲原アナの隣で起立し、左右の拳を腰に押し当てながら弟子たちの対峙を見守っていた。

 八雲岳が惨敗を喫した道場破りは、ブラジリアン柔術との異種格闘技戦を画策していた『鬼の遺伝子』ひいては『新鬼道プロレス』としての指示である。一九九四年から二〇年もの歳月を経て、ヴァルチャーマスクが生贄に捧げられた東京ドームではない〝ロサンゼルスの敗戦〟が本当の決着を迎えようとしているのかも知れない。

 一つの仮説ではあるが、のちの格闘技史にいて『りょうていかいせん』と呼ばれることになる全世界規模の大動乱は、二〇年目の清算をもって勢いを増したともわれている。


「小生の警告ことばに耳を貸さず、我らが師を脅さんとしたくにたちいちばんの如き過ちに加担し、二度とは消せぬ恥辱にまみれたのはお前の責任だ。お前自身が背負い抜くべき〝原罪〟だ。さりながら、お前は敗北の苦しみに押し潰され、そこで歩みを止めてしまったか? 聞けばおもてろうに腹を切るよう言い渡されたそうだが、今もこうしてを背負い、〝戦士〟としての営みを全うしているではないか」


 もはや、ハゲワシのプロレスマスクを被ることはなく、日本MMAの歴史がそのままあらわれたかのような素顔をさらけ出している仏僧の一言一言が過ちの清算にも等しいことは、この場の誰もが疑っていない。

 を受けれられずにかぶりを振っているのは、生涯の恩人に汚名を着せてしまった罪は何があろうとも許されてはならないと、己を責め続ける八雲岳ただ一人であった。


「確かに少しばかりの足踏みはあったかも知れぬ。それでもお前は今日まで日本のMMAを引っ張り続けてきた。お前の背中を頼りに思い、数多の後進が育ったのだ。……聞け、岳。八雲岳よ。この時代にお前が存在してくれたからこそ、日本にMMAという〝文化〟が絶えなかったのだ。お前が己に問い掛け続けてきた罪をあがなって余りあると小生は思うのだが、文多は如何に?」

「罰に苦しむことだけが罪を償う手段じゃない。それが僕なりの結論こたえです。〝あの日〟から何年経っても変わりません」

「そうだ。……途中で〝道〟をたがえた小生には成し遂げられなかったことである。『鬼の遺伝子』が運んだにも等しいこの四角いリングが現在いまの日本にもること、お前はもっと誇るべきではないか、岳よ。過ぎて去ったは懐かしむものでも悔むものでもない。未来への教訓おしえであり、後に続く者たちとの約束だ。お前はその難業を見事に果たしている」


 ちゅうこうの祖という言葉がある。初代のひらいた〝道〟を継ぎ、創業の折に押し通した歪みやその反動といった危機を取り鎮め、後代まで続く安定化を果たした人物への称揚だ。

 の統括本部長として日本MMAをこんにちまで繋いだ八雲岳の功績は、まさしくに相応しいだろうとたずねてきたヴァルチャーマスクに対し、麦泉は一瞬たりとも迷わずに頷き返して見せた。


「そもそもとしてお前は一七年前の大敗に今なお小生が苦しめられていると、そのように思い込んでおるのだろう? 抜け道へ導く光明の一筋すら差し込まぬげんごくとしてしまったと、おのが手に罪のけがれを見つめてきたのではないか?」

「この際、オレは逆にあにィにきてェよ! 〝悪玉ヒール〟レスラーのみんなに襲い掛かったみてェな誹謗中傷カミソリレターがどれだけしつこく続いたか……! 忘れたなんて言わせねェぜ⁉ トラウマにならないワケがねェッ! ……あにィをプロレスの面汚しとコケにしやがった声をオレは絶対に忘れねぇ! 何があっても許さねェッ!」

「荒ぶる義憤がそのまま愚弄に換わると心得よ、岳。小生とて歩みを止めた日はない。いつぞやのさる麿まろに倣うのも気が咎めるが、六〇〇〇回を超える夜明けを睨みながら練り上げてきた我が『とうきょく』、今、ここで試しても構わぬのだぞ? 己一人の真理だけを求める余り、四季にも等しき周囲まわりの移ろいから目を背けるのは如何にもけしからぬ」

「オ、オレだってあにィとならすぐにでも手合わせしてぇけど、それとこれとはハナシが別じゃねぇかよ……。つーか、あにの試合は今でも――『NSB』に移籍うつってからの試合モノも全部チェックしてるし、言いたいコトは理解わかってるけどなぁ……」


 二〇一四年六月から遡って六〇〇〇日余り――『プロレスが負けた日』にいて、日本MMAの第一歩を踏み出すべく自らを生贄の如く捧げた男は、その歴史的屈辱を最後に引退したわけではない。

 心ない人々に〝永久戦犯〟とそしられながらもリングに立ち、不退転の覚悟で積み重ねてきた戦績を否定するつもりか――と、尊敬してやまない恩人に冷たく凄まれてしまった岳は、彼に向けた前のめりな弁護から一転して狼狽し、「兄ィこそが最強ってのは、猿麿でも誰でもねェオレが一番理解わかってるけどよォ」と呻きつつ、頭頂部よりやや後ろの位置で束ねた一房の髪が風を切るほどの勢いで首を横に振り続けた。

 無理矢理に引き剥がされるような恰好で床へ吹き飛んでしまったタオルを麦泉が溜め息混じりで拾い上げ、岳の肩に掛け直す有りさまである。

 通称リングネームとプロレスマスク、何より闘いの〝場〟を日本からアメリカに変えながらも、この仏僧おとこは未だにとしてMMA選手を続けている。「六〇〇〇回を超える夜明けを睨みながら『とうきょく』を練り上げた」という些か遠回しな表現で示した通り、一九九七年当時は手も足も出なかったブラジリアン柔術とも今では極技サブミッションによる互角の勝負を繰り広げ、常勝を誇るようになっていた。

 ヴァルチャーマスクや八雲岳たち――日本MMA最初期の連敗を踏まえて寝技対策を研究し尽くし、ブラジリアン柔術が絶対的に優位という勢力図を塗り替えていった『柔術ハンター』と比べれば勝率こそ劣るものの、『とうきょく』という三要素の内の〝きょく〟でくだした相手のほうが敗れた人数よりも遥かに多いのだ。

 身のうちにて荒れ狂う罪と罰の意識とは甚だ矛盾しているが、恩人ヴァルチャーマスクの進化と挽回を岳は一つも見逃しておらず、滝ともたとえるような涙と鼻水を流して喜んできたのである。

 『昭和』の中期から後期に跨る〝スポ根〟ブームを猛烈に過熱させた〝くにたち漫画〟との提携タイアップによって歴史の表舞台へ飛び出して以来、三〇年に亘って格闘たたかいの最前線に立ち続けてきたこの仏僧おとこは、既にとなっている。

 〝老将〟の二字こそ相応しい年齢は、一つの現実として多くの競技選手アスリートが最盛期を遠く過ぎ、本人の努力を嘲笑うかのように〝心技体〟の全てが衰えていくのみであった。心身の摩耗と損傷が絶えず付き纏う〝格闘競技〟にいては後遺症の影響も深刻であり、五〇歳を待たずに現役を退かざるを得なくなる選手が殆どである。これは『NSB』といえども例外ではない。

 〝超人〟の異名は健在というべきか、全ての生き物が決して逃れられない法則へ逆行するように彼は進化し続けているのだ。の身で〝メインカード〟を任されるMMA選手は全世界を捜しても稀有である。

 彼の半分も生きていない若い選手との力比べにも競り勝つことから前代表フロスト・クラントンによる〝負の遺産〟――即ち、ドーピングを疑われ、潔白を証明するたびに常人離れした肉体でもって全米を驚嘆させていた。


「小生を侮ってくれるなよ、岳」


 例え『超次元プロレス』が相手であろうと、今でも遅れは取らないと挑発するつもりであるのか、ヴァルチャーマスクと呼ばれた仏僧おとこは肉食獣の如き笑みを浮かべ、左右の拳を腰に押し当てながら大仰に胸を張って見せた。

 りきどうざんの定番である『アームアキンボー』を模倣するととは思えないほど逞しい胸筋が僧衣の下から浮き上がり、これをリングの上にて見つめていたキリサメは我知らず瞠目してしまった。


(一番の驚きは、岳氏の度を越した思い込みを引き剥がせる人間が存在したって事実ことだけどな……)


 養父の恩人ヴァルチャーマスクが現れて以来、置き去りにされてしまったかのようなキリサメであるが、先達の間で交わされる言葉の意味が全く理解できないわけではない。

 八雲岳とヴァルチャーマスクの間に横たわる〝二〇年間〟を把握しておらず、日本のプロレスラーとして初めてブラジリアン柔術に敗れたのが実は養父であったことも知らないのだが、断片的な情報を脳内あたまのなかで繋ぎ合わせ、何らかの〝罪〟が浄化されようとしているのだろうと察している。

 開会式オープニングセレモニーPVプロモーションビデオに挿入された『プロレスが負けた日』の映像で若き日の養父ちちを垣間見たのだが、現在いまと同じプロレスパンツを穿きながらもその表情は真逆であった。〝平成の大横綱〟を迎え撃った長野興行と比べて一七年前は思い詰めた顔で闘っており、膝関節を軋ませる極技サブミッションで対戦相手を降参ギブアップさせたときでさえ喜びの一欠けらも滲ませなかった。

 笑顔もなく臨んだで迸らせた「オレはプロレスラーだッ!」という悲壮なたけびを振り返ったときにも、その双眸は酷く虚ろであった。


「……やっぱりよ、ブラジリアン柔術への〝リベンジ〟はオレがこの手でやんなきゃダメだったんだよな……」


 昔日の試合に触れた岳が喉の奥から絞り出した呻き声の意味をキリサメは少しだけ理解できた。それと同時に「八雲岳は決して歩みを止めなかった」というヴァルチャーマスクの言葉も受け止めている。

 対戦相手を高々と担ぎ上げたままリングを駆け抜け、その勢いのまま飛び込むような恰好で投げ落とすなど一九九七年の東京ドームにける攻防はプロレスの興行イベントに近い。これに対して、一七年後の長野ではMMA選手として完成された試合運びであったのだ。

 忍術とプロレスを融合させた豪快な戦法は昔日と変わらず、リングの四方を結び合わせたロープをも駆使して〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟を翻弄したのだが、打撃の技術一つを取り上げても五指を組み合わせた両拳を鉄槌ハンマーさながらに振り下ろし、相手を力任せに圧し潰すようなことはなかった。

 絶え間なく繰り出されるパンチを巧みに防御ガードしながら、チョルモンの巨体を反対に押し返していた。岳の側は四肢による打撃を流れるように連動させ、左右の足で下段蹴りローキックを繰り出した際には相手の片膝を内と外の両側から揺さぶったのだ。

 ムエタイやキックボクシングなど蹴り技を主体とする打撃系立ち技格闘技の下段蹴りローキックであった。プロレスでも同様の技は使われるが、岳の蹴り方は相手の足を壊すことを狙ったものである。

 二〇一四年の八雲岳は、ありとあらゆる格闘技術を取り入れるというMMAの本質を体現していた。異種格闘技戦ひいてはプロレスの延長でしかなかった黎明期から進化を一つ一つ積み重ねた成果であり、これをヴァルチャーマスクは褒め称えたのだ。

 一九九七年も二〇一四年も、勝敗を決したのは膝関節に対する極技サブミッションであるが、一七年目の岳はもう片方の膝を下段蹴りローキックでもって十分に痛め付け、決着フィニッシュへの布石としていた。体重を支えられないほどのダメージを両膝に刻み込み、試合の継続が不可能な状態まで追い詰めた次第である。

 日本で初めて〝総合格闘〟の体系化を成し遂げた男が認めるのも当然であろう。養父の努力に報いる言葉が紡がれた瞬間とき、キリサメも我知らず首を頷かせていた。


「お前が自らの手で切り開いた真っ直ぐな〝道〟を追い掛けたとうを見よ。世界の中心で燦然と輝き続けている。二〇年前の敗北はプロレスの汚点などではない。プロレスラーはMMAでも通じることを証明する出発点であった。〝心技体〟が及ばなかった己自身を糧とし、その教訓を未来の可能性に結実させたのは小生ではない。我が身をもつと捧げたのはお前だ、岳。二〇年にも及ぶ真摯な貢献は、一つの不名誉を遥かに上回る――」


 ヴァルチャーマスクが口にした『とう』とは、前身団体バイオスピリッツ解散後に活動拠点を日本からアメリカへ移し、現在いまも『NSB』で闘い続ける岳の一番弟子――しんとうのことである。

 セコンドを一人も伴わず、相手を挑発する大言壮語ビッグマウスも好まない孤高の佇まいから『フルメタルサムライ』なる異称で呼ばれる日本人選手の試合は、キリサメも動画サイト『ユアセルフ銀幕』のPPVペイ・パー・ビューで視聴したが、「青は藍より出でて藍より青し」という日本のことわざの通りに師匠である岳よりも試合運びが更に洗練されていたのだ。

 アメリカのプロボクシングにいてヘビー級王者チャンピオンに輝いたハナック・ブラウンから打撃の極意を授けられたというが、パソコン画面を通してキリサメが観戦した試合でも進士藤太は相手の肉体からだを精密機械の如く両拳で抉り続け、馬乗り状態マウントポジションとなった後は衝撃によって頭部あたまがマットから浮き上がるほど強烈な『パウンド』を降り注がせていた。

 に至る身のこなしもキリサメは瞠目させられたのだ。崩れ落ちた相手に背後から覆い被さり、横薙ぎのフックでもって側頭部を執拗に揺さぶり続け、これに耐え兼ねて身を転がそうとした一瞬の隙を逃さず馬乗り状態マウントポジションに持ち込んだのである。

 馬乗り状態マウントポジションを完成させ、上から見下ろすという圧倒的に有利な姿勢を維持したまま『パウンド』でもって仕留める技術テクニックは、発展期から現在に至るまでMMAの王道スタンダードであった。ここからブラジリアン柔術などを駆使した寝転んだグラウンド状態での攻防に転じることも多いのだ。

 MMAの最前線に身を投じている愛弟子を指して、八雲岳は己の〝最高傑作〟と誇らしげに語ったが、その進士藤太フルメタルサムライも師匠の思いに応えているようであった。

 キリサメも思わず感嘆の溜め息を零してしまったのだが、くだんの試合で進士藤太に勝利をもたらしたのは、師匠譲りの『超次元プロレス』であった。垂直に跳ね飛ぶことで相手の攻撃をかわし、逃れた空中でコマの如く回転しつつ反撃の左踵を脳天に落としたのだ。

 おもてひろたかと酷似する極太の眉毛を勝利の瞬間にも微動だにしなかった進士藤太のことを養父は〝世界で最も完成された総合格闘家〟とまで讃えていたが、キリサメにもを否定する気持ちはなかった。


「――岳よ。お前が受けれるべきは罪でも罰でもない。誰もがお前に感謝している。そうでなくば、お前が掲げた青い旗のもとに誰も集いはせぬ。満場に咲くこの笑顔こそが八雲岳の〝二〇年〟である」


 進士藤太という男の潜在能力ポテンシャルを疑う理由もないのだが、い師匠に導かれてこそ才能も開花するというものである。世界最高のMMA団体で通用する選手を育て上げたことも八雲岳の功績であり、己の〝原罪〟をゆるす理由に足りるであろうとヴァルチャーマスクは一等強く語り掛け、キリサメも再び首を頷かせた。

 岳から聞かされたことであるが、『NSB』内部でドーピング汚染が横行し、一部の選手が〝怪物モンスター〟と化していた時期を進士藤太は闘い抜いたという。養父の好敵手ライバルも含めて、禁止薬物を忌避したな者たちが次々と再起不能に陥った暗黒時代である。

 選手の生命いのちが〝見世物〟として弄ばれたフロスト・クラントン支配下の『NSB』に正々堂々と挑み、最後まで生き延びたまことの猛者とも言い換えられるだろう。

 ヴァルチャーマスクから八雲岳に直伝され、更に『まつしろピラミッドプロレス』のあかぞなえにんげんカリガネイダーを経てキリサメにも授けられたプロレス式の後ろ回し蹴りソバット――おそらくは師匠より学んだのであろうこの蹴り技を進士藤太もくだんの試合で繰り出している。

 『フルメタルサムライ』と畏怖される強さが禁止薬物に頼って手に入れた紛い物ではないことは、数世代に亘って受け継がれてきた後ろ回し蹴りソバットの完成度が証明していた。

 対戦相手の顎を鋭く捉え、上半身ごと猛烈に撥ね飛ばす進士藤太の後ろ回し蹴りソバットを振り返った直後、キリサメはこの蹴り技の〝元祖〟と目が合ってしまった。鷲の如き双眸で見つめられていたことに気が付いた――と表すほうが正確に近いだろう。

 正体を知らないまま遭遇した際には声を掛けることを憚り、後ろ姿を窺うのみに留め、今も養父たちの対峙に口を挟まずにて覗くのみであったキリサメにとって、己が歩む〝道〟をひらいた男との初めての接触である。

 声もなく〝何か〟を訴えるのではなく、第一Rラウンドで試みた後ろ回し蹴りソバットの拙劣を注意するのでもなく、頭頂から足の爪先さきまでめつすがめつ視線を這わせたのち、ヴァルチャーマスクは得心した旨を示すかのように首を二度三度と首を頷かせた。


「いつぞやお前に言ったな、岳。『小生に恩を感じる必要はない。代わりに誰かが頼ってきたとき、決して見て見ぬふりをしないでくれ』――と。誰にでも優しいヒーローであれと願ったその約束を守ってくれただけでも、小生は果報者だ」

「……やめてくれよ、そんな……オレはただ人として当たり前だって信じるコトをやっただけで……兄ィに褒められるコトなんか……一つだって……ッ!」

「お前のことを心から誇らしく思うぞ。八雲岳と出逢えたことが小生には生涯の自慢だ」


 ペルーで生まれ育ったキリサメは〝地球の裏側〟のプロレスラーであるヴァルチャーマスクについて無知にも等しい。

 前身団体バイオスピリッツと反社会的勢力の〝黒い交際〟が暴かれたことで日本MMAの黄金時代が終焉を迎え、これを原因として故郷のリングを去ったというが、団体代表でもないがそこまで大きな責任を負わざるを得なかった理由も分からないのだ。

 亡き母が贔屓にしていた為、その通称リングネームやメキシコの『ルチャ・リブレ』を極めたことは把握していた。ハゲワシのプロレスマスクを被って力闘する写真や試合のビデオも見たことがある。

 しかし、日本にける総合格闘技MMAの先駆者であったことは、自らが『天叢雲アメノムラクモ』に飛び込むまで全く知らなかったのだ。『とうきょく』という理論も故郷ペルーで聞いたおぼえがなく、そもそも亡き母はには無関心であったのかも知れない。

 提携タイアップ元であるくにたちいちばん原作のテレビアニメの主題歌を握り拳と共に熱唱する実母ミサト・アマカザリは、あくまでも〝超人レスラー〟と語っていたはずである。

 その母が命を落として以来、ヴァルチャーマスクという通称リングネームすらキリサメは完全に忘れていた。『八雲道場』の片隅でガラスケースに納めて保管されているハゲワシのプロレスマスクの持ち主に気付くのさえ随分と時間を要したのだ。

 しかし、養父が受け取った影響力の大きさからヴァルチャーマスクの為人ひととなりを推し量ることは不可能ではない。進士藤太を鍛え上げたという揺るぎない事実をもってして、この日本MMAの先駆者が長年の呪縛から八雲岳を解き放たんとしたのと同様である。

 匿名で寄付を送金おくりたい人間がその通称なまえを借り、同様のチャリティー運動が全国各地に波及するほどヴァルチャーマスクが児童相談所や小学校の援助に力を注ぐ篤志家であったことも教来石沙門から教わっている。

 迷える心まで含め、八雲岳という全存在を包み込んだのは大いなる慈愛というわけだ。ヴァルチャーマスクは高みから見下ろした相手にゆるしを与えようとしているのではない。自分自身を責める理由など最初から存在しないのだと、罪と罰の意識を根本から断ち切らんとしていた。

 無償の愛とも呼ぶべき精神が岳に受け継がれていなかったなら、自分キリサメ・アマカザリは今でも故郷ペルー非合法街区バリアーダスで『聖剣エクセルシス』に罪なき人々の血を吸わせていたはずだ。

 おそらくヴァルチャーマスクは、八雲岳の養子が健やかに過ごしている姿を通して古い約束の実現を噛み締めたのであろう。これに対してキリサメは逆回しともたとえるべき形で養父の恩人に触れようとしたのである。


「……藤太を弟子に取ったコトも、キリーを養子に迎えたコトも、ェのしくじりの埋め合わせには出来ねぇよ、兄ィ……。オレの脳ミソなんてたかが知れてるけどよ、その一線を踏み越えたら人間ひととして終わっちまうのは理解わかってるつもりだぜ……ッ!」


 脇にてヴァルチャーマスクの声に耳を傾け、一言一言に首を頷かせる養子キリサメに対して、直接的に対峙する岳は肩に掛けたタオルが舞い上がるほどの勢いでかぶりを振り続けている。

 〝伝家の宝刀〟たる後ろ回し蹴りソバットを直伝されるくらい心を通わせた間柄とはいえども、〝道〟を違えたのちには己のことなど視界にも入ってはいないと、岳は恩人ヴァルチャーマスクとの間に断絶を感じ、太陽のように燃え盛る笑顔の裏で深い絶望にのたうち回っていたのだろう。

 それ故にリングと特等VIP席に離れている最中は、八雲岳という存在を恩人ヴァルチャーマスクに認識させようと逸っていたわけだ。異常としか表しようのなかった昂奮もまた憧憬あこがれとは異なる感情が強く働いていたのだろうと、養子キリサメには察せられた。

 現在いまの岳は二度と〝道〟が交わるまいと思い込んでいた相手からこんにちまでの歩みは何もかも正しかったと認められたことに困惑しているようにしか見えない。

 『リーマン・ショック』の一年前という時期に起こった〝格闘技バブル〟の崩壊と、これに伴う一時的な引退を挟みながらも、敗戦の懊悩を抱えたまま闘い続けた二〇年間こそが日本MMAを支える財産という称賛も、〝永久戦犯〟と冷罵される屈辱の日々に引き摺り込んでしまった〝被害者〟にその罪をゆるされた事実がどうしても受けれられず、差し伸べられた手に立ちすくんでいる様子なのだ。


(安易に自分を甘やかさないから、どれだけイラついても憎み切れないのだけど、それにしたって限度があるな。どうして傍観者のほうがモヤモヤさせられなきゃいけないんだ)


 平素いつもは細かいことなど気にも留めず無神経なくらい豪快に振る舞い、他人ひとの運命を感情任せに変えておきながら、己の在り方を丸ごと包み込むような声に耳を塞いだ上、あれこれと理由をこじつけて自分は赦されるべきではないと、恩人ヴァルチャーマスクにねぎらわれた二〇年間をえて貶めているわけだ。

 自らを厳しく律しようとする高潔な気構えと、屁理屈でもって自らを傷付ける行為は表裏一体というわけである。何事にも無感情なキリサメでさえ、養父の姿は往生際がすこぶる悪いようにしか思えなかった。

 二〇一一年三月一一日――東日本大震災の直後、インターネット上に設置された安否確認用の災害用伝言板パーソンファインダーを取りかれたように確認し続けた姿を例に引き、「苛立つくらい能天気に見えて実は繊細」と未稲も実父ちちの内面について語っていたが、格闘技界による東北復興支援事業プロジェクトを実現に導いた性情が現在いまからぬ方向に働いているわけだ。


「――ったく、いい加減にせんかい! 肝心なところでヘタレになるのは昔からちっとも変わらんな! 嶺子にどうやって求婚プロポーズしたものか、三日三晩ぶっ通しで俺を練習に付き合わせた頃から何年経ったと思ってるんだ⁉」


 何時までも足踏みし続ける岳を歯痒く思っていたのは養子キリサメだけではなかった。

 実況席にて鬼神の咆哮ともたとえるべき大喝が迸り、日本MMAにいて〝統括本部長〟の肩書きを名乗ったの対峙から目を離せなくなっている全員のはらわたをまとめて震わせたのである。


「見苦しいにも程がある姿ところばかり養子せがれに見せていて平気なのか、お前は⁉ 今日の話を聞き付けた藤太が下北沢シモキタの道場に殴り込んできても知らんぞ! あの石頭、情けない師匠ほど許せんものはないハズだ!」


 キリサメの気持ちを代弁した人間は、改めてつまびらかとするまでもないだろう。左右の手で自身の耳を押さえつつ、「これで鼓膜破れたら、労災に入るんですかね⁉」と悲鳴を上げた仲原アナの真隣にて鬼貫道明が岳のことを睨み据えていた。

 観客に向けて技術解説を行う際の丁寧な喋り方ではない。実況席に用意されたマイクを使わず、鬼貫の言葉でもって愛弟子をどやしつけた次第である。

 自身が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で夕食を共にした際、りきどうざん最後の直弟子でもある『昭和』の伝説的なプロレスラーは、キリサメや希更・バロッサを孫のような存在と話していた。近代格闘技の歴史と共に生きてきた老将の目で見れば、さしずめ岳は〝不出来な息子〟というわけであろう。

 そして、鬼貫道明が問題だらけの子どもほど愛しく思う為人ひととなりであることをキリサメも今までの交流から理解していた。


おとことして生まれたからには、誰よりも強く恰好良くなければならない――男のやせ我慢が持てはやされるような価値観の時代はとっくの昔に終わった。俺もお前も〝下の世代〟にみっともない姿ところを平気で晒せるようになっただろう? 今じゃがり続ける必要もなくなって、気楽なを面白おかしく過ごしているがな、子どもの前で自分の生きざまに自分で泥を引っ掛けちゃならねェ。それこそが踏み越えちゃならん一線じゃねェか」


 岳の心を静かに包み込むかのようなヴァルチャーマスクと比べて、鬼貫道明の発する言葉のほうが語気も含めて遥かに強い。

 『天叢雲アメノムラクモ』の業務と関わりのない食事の席では酔いが回っていたこともあって底抜けに陽気であった。岳とも上下関係を取り払って酒を酌み交わしていたのだ。羽目を外してセクハラ行為に及び、店の従業員であるあいかわじんつうから古武術の関節技で制裁されるなど醜態を晒したが、口調も眼光も鋭く豹変した現在いまは、まさしく鬼の形相である。

 荒くれ者の比喩としての〝鬼〟ではない。腕力ちからを頼みとする者たちを従える鬼神の気魄が全身から噴き出しているのだ。あるいはこれこそが『鬼の遺伝子』と呼ばれるプロレスラーたちを率い、異種格闘技戦に臨んだ『昭和の伝説』本来の姿なのであろう。

 以前に電知が遊んだ対戦格闘型のビデオゲームでは、現在いまよりも遥かに若い最盛期の鬼貫道明が三次元描画によって再現されていたが、発売された一九九九年当時の技術では人並み以上に角ばった顎の輪郭など特徴を似せる程度であった。殆ど人形に顔写真を貼り付けたようなモノであり、泣く子も黙る鬼の形相は開発者の手に余ったのかも知れない。


「強さの哲学は時代々々で変わるモンだ。りきどうざんや〝プロレスの神様〟と同じように一途に強さを追い求める俺の美学も『平成』の世の中じゃ古臭いのかも知れん。それでもお前たちに伝えた〝強くあるべき意味〟は不変にして不滅と信じているぞ、岳ッ!」


 平素いつもは心の奥底に寝かし付けてある〝鬼〟を解き放ちながらも技術解説という己の本分を忘れてはいないのか、鬼貫は実況席からリングサイドへと移動するりも見せない。無論、岳の間近に立っていたなら、その尻を蹴り飛ばして活を入れたことであろう。


「キリサメ君の支援サポートに気持ちが入っていなかったこと、今日の興行イベントが終わったら鬼貫のあにさんに夜通しお説教して貰うつもりでいましたけど、センパイには平手打ちビンタのほうが必要だったみたいですね。……完全に愛想を尽かされる前に養父ちちおやとしてカッ良い姿ところを見せてあげてください。僕やとー――みんなの心を熱くしてくれたのと同じ勇姿すがたを!」


 ペルーで生まれ育ったが為、『昭和の伝説』の名声どころか、『新鬼道プロレス』との接点もなかったキリサメは知らなくて当然であろうが、麦泉が揶揄した通り、平手打ちビンタで闘魂を注入するという〝儀式パフォーマンス〟は鬼貫道明のであった。

 今やファンとの交流の手段にもなっており、『ダイニングこん』では自ら望んで頬を差し出す客も少なくなかった。

 引退と同時に封印され、『新鬼道プロレス』の催し物イベントへ出席するときでさえ名乗らなくなったのだが、現役時代に用いた『アンドレオ鬼貫』という通称リングネームを耳にすれば、あるいは記憶の水底から闘魂注入の逸話が浮かび上がったかも知れない。大半を聞き流していたキリサメが認識していなかっただけで、彼の母が生前に語って聞かせたプロレスの話題は多岐に渡っていたのである。


「闘魂で世界に夢を与えるのが俺たちプロレスラーの使命じゃねぇか! お前自身がヴァルチャーマスクから夢を貰ったようにな! 一番身近なところに居る我が子には、一番恰好良い姿を見せてやれィッ!」


 果たして、『アンドレオ鬼貫』の大喝はえざる平手打ちビンタになったようだ。それが証拠に岳は頬を張り飛ばされたような勢いでリングに立つ養子キリサメを仰いだ。


「僕だってまだ一応は岳氏を頼りに思っていないわけではないんですよ」


 相変わらずまぶたを半ばまで閉ざしているので眠たげに思えるものの、双眸に力を込めながら養父を見つめたキリサメは、えて先程と全く同じ言葉を繰り返した。

 思いがけず再会を果たした恩人ヴァルチャーマスクに気を取られたことは麦泉ほど深刻には考えていないのだが、亡き母の墓前で出逢ってから『天叢雲アメノムラクモ』のリングにてデビュー戦を迎えるまでの道程を振り返ってみれば、この養父に全幅の信頼を寄せられないことは明々白々である。

 瀬古谷寅之助の策謀にはまり、〝プロ〟のMMA選手にはあるまじき不祥事を起こしたときにも、を叱り飛ばすのではなく同日に交渉が行われていた日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの開催地決定を大喜びで伝えてきたのだ。

 東京ドームと連呼する養父の笑い声が脳裏に甦ったキリサメは、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 糾弾の対象が首を傾げてしまうのは極めて珍妙な筋運びであるが、導くべき子どもを叱れないようでは親としても合格とは言い難いだろう。未稲が常識から外れた大金をネットゲームに投入したときでさえ、文句こそ垂れつつも厳しく戒めることがなかったのだ。少なくともキリサメは、この四ヶ月の間に一度として目にしたおぼえがない。

 義弟に当たるおもてひろたか――即ち、七歳児のほうが未稲に対して辛辣に注意しているくらいなのだ。私塾の教え子が人の道に背きそうになったとき、一等厳しく向き合った実母ミサト・アマカザリであったなら、おそらく怒鳴り声だけでは済まさなかったはずである。

 それ故にキリサメは己の命運を逡巡なく預けられるほどの信頼関係には至っていないと正直に告げたのである。ヴァルチャーマスクや鬼貫に倣って養父を励ますという選択肢も脳裏をよぎったが、周囲まわりに流されるような形で本心を偽ってしまえば、これから先も養父との気持ちは噛み合わないまま平行線を辿ることであろう。

 一つの事実として第一Rラウンドは選手とセコンドの連携が意思疎通の段階で破綻していた。それならば、今から仕切り直せば良いのである。インターバルの時間は作戦の立て直しにも活用すべし――と、未稲が手作りしたマニュアル本にも記されていたのである。

 キリサメは養父のことを心の底から疎ましく思っているわけではない。浅慮としか表しようのない放言には朝・昼・晩と一日に三度は必ず辟易とさせられるが、思考が後から追い掛けてくるほど行動的で前向きな岳であれば、八方塞がりの状況であろうとも渾身の力で突き破ってくれる――それだけは揺るぎなく信じられるのだった。


「少しはくだらねー妄想が晴れたのかよ、大バカ野郎が。……だったら、ェを信じて背中を預けてくれたヤツに命懸けで応えてやりな」


 それは青サイドのコーナーポストにてを見守っていた城渡より発せられた言葉である。言わずもがな、岳一人を直接的に狙って浴びせられたものだ。

 第一Rラウンドの一〇分間、城渡は岳の態度に腹を立て続けていたのだが、日本のリングから去っていった人間を巻き込むような恰好で試合の進行を妨げたことが火種となったわけではない。養子を支え、慈しむべき立場でありながら、その責任を放棄したとしか思えない振る舞いが許せなかったのだ。

 自分を信じて背中を預けてくれた相手に命懸けで応えてやれ――養父ちちおやとしての役目を果たすよう岳に強く促した瞬間とき、城渡は『しんげんこうれんぺいじょう』と呼ばれる山梨の秘境で生まれ育ち、現在いまは行方不明となっている友人に託された御剣恭路の顔を思い浮かべていた。

 肩を組み合って〝格闘技バブル〟を盛り上げ、自分がリングを離れている間も日本MMAを支え続けた戦友の言葉は、岳の背中を一等強く押したようだ。

 乾いた音が天井に跳ね返るほど強い力で両頬を叩き、気を引き締めた岳は花弁のような形に髪を結い上げている紐を解いた。

 その古びた紐を床に投げ捨てるようなことはなかった。生まれてから一度も手入れなどしたことがないであろう小汚い乱れ髪を首の付け根の辺りで一房に結わえ直したのだ。

 は『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長にとって、臨戦態勢が整ったことを広く知らしめる行為ものであった。黒いプロレスパンツを穿き、レスラー仕様のリングシューズでマットを踏み締めるときと同じ髪型に変えた次第である。

 不揃いに飛び出したすだれ状の前髪で覆い隠されている額の真下――瞳の中央に映すのは養子キリサメただ一人であった。白サイドのコーナーポストに戻ってからは異常なくらい執着していた恩人ヴァルチャーマスクにも完全に背を向けている。


「もう二度とキリーに心細い思いなんかさせねぇぜッ! こっから先は丸ごと全部、養父とうちゃんが任されたッ! 一瞬たりともお前の闘いから目を離さねェからよォッ!」


 もはや、自分たちのことは一瞥もせず、闘魂を注入するかのように正面からキリサメの両肩を叩く岳にヴァルチャーマスクと鬼貫道明は揃って微笑みを浮かべた。

 岳の真隣となりに立った麦泉も安堵の溜め息を漏らしてはいるものの、彼とヴァルチャーマスクの表情かおを交互に見比べたのち、何故だか悔しそうにし口を作った。


「……つまり、岳氏は今まで僕のことなんか少しも見ていなかったと自白しているわけですよね? 『刑事コロンボ』なら最後の一〇分くらいにやって来る展開ですよ」

「ちょちょちょ、ちょっと待てよ、キリ~! この血沸き肉躍る流れだったらお前、気合いの平手打ちビンタ養父とうちゃんとお互いの頬を張り飛ばしても良いくらいだぜェ⁉ 出鼻を挫かれちゃあコーナーポストから転げ落ちちまわァッ!」

「……同じようなことを二度も三度も言うのが好きじゃないんです」


 額面通りに受け取った岳は大仰に頭髪かみを掻き毟っているが、冗談めかした皮肉もまた信用の裏返しである。

 その直後、四隅の支柱ポールを結び合わせた三本のロープの間隙を縫うような恰好でキリサメとヴァルチャーマスクの視線が再び絡んだ。現在いまは八雲岳という双方にとって大切な存在を間に挟んでいない。つまり、二人が真っ直ぐに向き合うのはこれが初めてなのだ。


「晴れの門出に水を差した非礼、幾重にも詫びさせて貰う。この有りさまでは何を話したところで言い訳にしかならぬが、親しき者が迷い苦しむ姿に見て見ぬ芝居フリを決め込んでいられるほど小生も〝大人おとな〟ではなくてな。……所詮は〝大人おとな〟になり切れぬ半端者よ」

「お気になさらないでください。幸か不幸か、〝大人おとな〟になり切れない人たちには慣れていますので。……ほど心が澄んでいることも、一七年の経験から学んでいるつもりです」

「前世の記憶を保ったままで悠久なる輪廻を潜り抜けたようなことを言ってくれる。無為に年だけ食った老いぼれにも背伸びの言葉でないことは大いに気掛かりだが、これを案じるのは岳の仕事であったな。養父ちちとしての喜びを取り上げるわけにはいかん」


 当然ながら自己紹介したおぼえもキリサメにはないのだが、今し方の口振りから察するに今日がプロデビューであることをこの仏僧おとこは知っていたようだ。あるいは『あつミヤズ』によって暴かれてしまった故郷ペルーでの悪行も把握しているのかも知れない。

 他団体の新人選手ルーキーに対して身辺調査が行われたのかと訝るキリサメであったが、すぐさまに愚問であろうと考えを改めた。進むべき〝道〟こそ違えたものの、今なお絆が断ち切られたわけではなかった八雲岳の養子にこの仏僧おとこが無関心であるはずがない。

 ましてや養父と同じ日本MMAのリングに飛び込んだのであるから、格闘家としての実績や潜在能力ポテンシャルなどに興味を持たないほうが不自然であった。おそらくは現在の所属先の代表であり、岩手興行の同行者でもあるイズリアル・モニワからりくぜんたかける邂逅と交流も聞かされていることだろう。


「……あの――正気を疑われるのは分かってはいるのですが、お願いすれば怨霊をはらって頂くことは可能なのでしょうか? 〝手に負えないヤツ〟に取りかれてしまったみたいで困っているんです」


 口をいて出た言葉にはこの場の誰よりもキリサメ自身が面食らっていた。

 養父にとっても、日本のリングに立つMMA選手にとっても、粗略に扱うことなど決して許されない恩人と向き合っているのだ。自分のほうからも何か話し掛けなくてはならないと焦った末、無意識の内に本人キリサメにも意味不明な悩みを洩らしてしまったのである。

 は仏僧らしい風貌を目の当たりにしたことで引き出された反応とも言い換えられるだろう。ハゲワシのプロレスマスクを自ら剥いだのちにニューヨークの仏教寺院で剃髪したのだが、除霊の依頼は初めての経験であったらしく、珍妙な生き物を眺める表情かおのまま目を丸くするばかりであった。

 何事にも無感情なキリサメには極めて珍しい情況であるが、比喩でなく本当に頭を抱えそうになってしまった。『八雲道場』の都合によって第二Rラウンドの開始を大きく遅らせているのだから、ヴァルチャーマスクと言葉を交わす機会はこの一度きりであろう。比べるまでもなく〝フェイント殺法〟への助言を求めたほうが有益だったはずだ。


「さっきまでのオレのバカっぷりを丸ごと吹ッ飛ばす〝爆弾〟をポンと投げてくれたな、オイ⁉ マジで初耳だぞ、それ⁉ 怨霊ゥッ⁉ 例の神懸かったはやさに組み合わせると最高に物騒な話になるぜ! 今も肉体からだを乗っ取られてるんじゃねェだろうな⁉ キリー、分かるか⁉ 養父とうちゃんだぞッ!」

「冗談じゃないよ、ホント……センパイの言うように第一Rラウンド序盤、調子が悪かったのは怨霊に生命力を吸い取られていたってコトかい? ちょっと待ってね、一旦整理しよう。キリサメ君の故郷はキリスト教だから、こういう場合はエクソシストにお願いしたほうが良いのかな⁉ 応急処置としてやれるコトは何? 清めの塩を撒いておくかい?」


 よもやキリサメが心霊的な現象に見舞われているとは夢想だにもしていなかった岳と麦泉は、少しばかり離れた位置で成り行きを見守っている木村レフェリーから試合継続の可否を怪しまれるくらい取り乱してしまった。

 岩手興行の安全と成功を祈願する儀式を執り行った僧侶が場内の何処かで現在いまも待機しているはずだが、岳も麦泉もリングサイドのスタッフを捕まえて呼びに行かせようとはしないのである。

 二人の反応は念仏とは認め難い文言を喚きながらリングの周囲まわりを飛び跳ねていた厳つい男や、彼が伴ってきた弟子たちに霊能力が備わっていないことを暴いているようなものであるが、そもそも安全祈願の儀式に参加した誰もが〝偽物〟としか思っていなかった。


「わたしに対する日本人ハポネスの扱い、さすがにヒドくない? 塩を何? ぶっかけるの? こんなに可愛い女の子に? テンジクネズミの丸焼きじゃないんだから! サミーの新しい家族、全員まとめて祟ってやろうかな~。地獄よりの使者をナメんなよぅ~」


 観客席の何処かに漂っているものとおぼしき幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの恨みがましい声が聞こえてくるようであったが、この怨霊に今すぐ退散して貰わないと困るキリサメは耳に馴染んだ故郷ペルー公用語ことばにも無視を決め込んでいる。


「――おふざけは第一Rラウンドまでにして、そろそろ真面目にやってください! 目の前にられるのがどういうかたか、ちゃんと理解わかってますか? 他でもない〝日本MMA〟の神様ですよ⁉ 理解わかってないなら、その神様がお書きになったこの本、お貸しますよっ⁉」


 の文句を引き裂くようにしてキリサメの鼓膜に揺さぶった大声は、観客席よりも近い位置から聞こえてきたものである。何事かと視線を巡らせてみると、大会本部に程近い片隅で二〇歳はたちに手が届いたか否かという青年が一冊の書籍を頭上に掲げていた。

 今にも身のうちから噴き出しそうな激しい情念を物理的に噛み殺しているのだろうか、何やら真っ白な歯を食い縛っているようだ。

 挨拶を交わしたこともないキリサメはひとづてに聞いた名前を想い出せなかったのだが、地肌が露出しない程度に短く切り揃えた頭髪かみを茶色く染めているその青年は、紛れもなくカパブランカこうせいであった。

 キューバに起源ルーツを持つという異国情緒を纏った顔立ちと、MMA興行イベントける各種セレモニーのリハーサル要員として雇用されたアルバイトであることは記憶に留めている。

 脳内あたまのなかから名前が弾き出されてしまうくらい強く印象に残ったのは、『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着たこの青年がとしてオリンピック出場を夢見ていることだ。


「質問なら他にも幾らでもあるでしょ~に無理矢理おかしなオチを付ける必要がありますかね⁉ アマカザリ選手は鳴かず飛ばずで真打ちにもなれない落語家ですか⁉」


 北米アメリカ最大の勢力を誇る『NSB』や、『天叢雲アメノムラクモ』とは地下格闘技アンダーグラウンド団体以上に穏やかならざる関係となっている『MMA日本協会』がアマチュア選手の育成や普及に尽力してはいるものの、二〇一四年の時点にいて総合格闘技MMAがオリンピック正式種目として採用される可能性は限りなく低い。

 反則行為を除いたあらゆる格闘技術が解放され、寝転んだグラウンド状態の相手に拳を降り注がせることもルールで認められているMMAは、ボクシングやレスリング、柔道などと比較した場合に暴力性の高さは否定できず、本場アメリカでさえ有力上院議員――現大統領とホワイトハウスを争った重鎮である――に野蛮な〝人間闘鶏〟と批判され、一部の州は法律によって競技の実施を禁止している。

 『ハルトマン・プロダクツ』といった有力企業が莫大な〝スポーツ利権〟を貪る内実はともかくとして、〝平和の祭典〟という建前を掲げるオリンピック・パラリンピックにMMAは相応しいか――仮にIOC国際オリンピック委員会総会で議論が交わされるとしても、競技の性質そのものが疑問視されることであろう。

 〝アマチュア競技〟は幼少期から取り組む種目ものが多い。格闘家や武術家の肉体と向き合うスポーツ医学でも成長過程の子どもにMMAをさせるべきではないと警鐘を鳴らしているのだ。脳の損傷や関節の変形といった後遺症はだけで予防し切れるものではない。

 総合格闘技MMAと〝平和の祭典オリンピック・パラリンピック〟は、見上げるだけで首の骨が軋むほど高い壁によって遮られている。それが〝現実〟であった。

 少なくとも六年後に迎える二〇二〇年東京オリンピックでMMAが大会プログラムに記載されることはないだろう。MMAそのものの出発点とも呼ばれる前田光世コンデ・コマが没したブラジルにいて、二〇一六年に開催されるリオオリンピックでも同競技は正式種目とすべき候補にすら入っていなかった。

 全く現実味のない夢を追い求めるという絶望的な状況に立たされながらも、MMAの第一号オリンピアンになる日を揺るぎなく信じられるカパブランカこうせいからすれば、ヴァルチャーマスクに向かって格闘技と無関係のことを口走るキリサメは、何十回何百回と呆れ返っても足りないくらいなのだ。

 もしも、許されるのであれば今すぐにでもキリサメと代わりたいのであろう。除霊という意味不明な発言に腹を立てたのではなく、〝日本MMAの神様〟と言葉を交わせるが羨ましくてならない様子だ。語尾を上げるたびに裏返る声がその証左である。

 試合中の場内はリングとその周辺に照明あかりが限定される為、カパブランカこうせいの掲げた書籍もキリサメには良く見えないのだが、表紙を飾っているのは『鬼の遺伝子』の一員として異種格闘技戦に臨んでいた頃のヴァルチャーマスクのようだ。


(……無謀な夢で人生を棒に振ろうとしているヤツにだけは、不真面目だとか批難されたくないんだよな……)


 最悪の愚問であったとキリサメ自身が誰よりも悔んでいるので、何一つとして言い返せないのだが、第一Rラウンドを「おふざけ」の一言で切り捨てられるのはさすがに面白くない

 MMAに並々ならない情熱を傾ける青年の目には不愉快に映ったのかも知れないが、当人にとっては心身を削るような攻防であったのだ。心に巣食う〝闇〟を抑えながら全力で闘うという矛盾した一〇分間は、故郷での〝実戦〟よりも遥かに困難であった。

 何事にも無感情なキリサメも、このときばかりは顔面に不機嫌という言葉を貼り付け、小さいながらもし口を作って見せた。

 除霊の手段や是非を巡って頭を抱えている岳と麦泉、とうとう地団駄まで踏み始め、見兼ねたアルバイト仲間から宥められるカパブランカこうせいと、それを友好的とは言い難い目付きで見据えるキリサメ――二組の様子を交互に見比べたのち、ヴァルチャーマスクは愉しそうに目を細めた。


「仏の悟りにも程遠い修行の身の上、小生にはほうりきなど望むべくもない。さりながら、古馴染みの呪術師シャーマンとの仲立ちならばやぶさかではないぞ。メキシコの山奥まで自ら足を運んで貰うことになるがな。怨霊もアンデスの高山病には敵うまい」


 若かりし頃に『ルチャ・リブレ』を修行したメキシコの伝統文化を織り交ぜた冗談をキリサメへの返答こたえに代え、分厚い皺でもって覆われた口の端を愉快そうに吊り上げたのち、かつてヴァルチャーマスクと称した仏僧おとこは、日本のリングに背を向けた。

 この場にいて己が果たすべき役目は終わったと、襷掛けの大数珠を揺らして進む背中が語っていた。だからこそ岳も先程までのように昂った声でヴァルチャーマスクを追い掛けることはなかったのである。二度と養子キリサメから目を離さない――それこそが恩人の思いに報いることなのだ。


の屍を超えてゆけ、キリサメ・アマカザリ。前へ前へと常に進む時代は、若き力にこそ味方する」


 岳の除く二人分の視線を背中で受け止めていたヴァルチャーマスクは、その最中に一度だけ歩みを止め、第二Rラウンドを迎える新人選手キリサメより〝先〟へ進むよう励ました。

 に亘って日本MMAが背負い続けてきた〝原罪〟に囚われる必要はない。〝格闘技バブル〟という古い幻想ゆめから生まれた先人など構わず踏み越えてゆけ――日本で初めて〝総合格闘〟の理論を完成させた人物が次世代に寄せる思いは、その担い手となるキリサメの心にも真っ直ぐに伝わっている。


「……僕の力が及ぶ限り、期待に応えたいと思います」

「それで良い――安請け合いをせぬ慎重さと謙虚さが備わっておるのだ。〝道〟を誤ることもなかろう。まことものの類いかは分からぬが、心の迷いが見せた幻はいずれ掻き消えよう。……ほうりきではないぞ? 我が経験からそれを約束しよう」


 鬼貫道明は日本格闘技の次世代を孫のような存在と呼んだ。八雲岳に「兄ィ」と慕われているヴァルチャーマスクからすれば、キリサメは可愛い甥に当たるのであろう。

 そのキリサメは養父が狂おしいほどヴァルチャーマスクに憧れた理由を悟った心持ちである。このような男であればこそカパブランカこうせいに〝日本MMAの神様〟と讃えられ、かつて日本を〝プロレスこそ最強〟という夢で熱狂させることが出来たのだ。


「……やっぱりムカつくくらいカッコ良いな、あにさんは。本当、腹が立って仕方ないや」


 去りゆく背中を強く見つめたまま、麦泉は喉の奥から小さな呻き声を絞り出した。

 悔しさと諦めと憧れを綯い交ぜにしたような呟きであった。ヴァルチャーマスクが八雲岳を二〇年にも及ぶ罪と罰の意識から解き放った言葉は、麦泉や他の人々が今までに幾度も繰り返したものと大きくは変わらない。

 一度として受けれられなかった言葉が恩人を通したことで拍子抜けといっても過言ではないほど簡単に響いてしまった次第である。長年の相棒として岳の活動を支え続けてきた麦泉にとっては屈辱にも等しい筋運びであろう。


「……あにさんがカッコ付けるほどセンパイは、……僕だってあなたを忘れられなくなるんですよ。言いたいコトは山ほどあるけど……とにかくズルいっ!」


 セコンドの役目が果たせないほど懊悩する岳を奮い立たせ、新人選手ルーキーをも励ましたヴァルチャーマスクに胸を熱くしてしまったことが麦泉には何よりも悔しかった。日本MMAを見捨てたとしか思えない男に反発しながらも、岳を救えるのは「ヴァルチャーのあにさん」しかいないと心の片隅どこかで信じていたのである。

 ヴァルチャーマスクが目の前に現れた瞬間とき、岳よりも早く「あにさん」とかつての愛称で呼び掛けたのは麦泉であった。〝超人〟レスラーへの憧憬あこがれや、『鬼の遺伝子』の〝同志〟として育んだ絆は、憎悪にくしみという名の刃をもってしても断ち切れなかったのだ。

 歩を進めながらリングを仰いだヴァルチャーマスクは、腕組みしながらマットを踏み締める城渡にも一礼したが、当人には馴れ合うつもりはないとそっぽを向かれてしまった。

 セコンドの二本松剛に非礼を窘められる城渡ではあるものの、旧友の気持ちは間違いなく届いたはずだ。不貞腐れたように大きく鼻を鳴らしたのは、を裏切った相手を赦してしまいそうになる甘さノスタルジーを押し殺す為であったのかも知れない。


「――この国で初めて総合格闘技MMAを育て、こんにちの『天叢雲アメノムラクモ』に続く歴史を紡ぎ上げた伝説の男が八雲統括本部長に託した言葉は、果たしてこの試合に、……いえ、大いなるハゲワシが飛び去った後の日本に如何なる風を起こすのでしょうか? 実況席の私にもハッキリと聞こえましたが、アマカザリ選手に向かって『の屍を超えてゆけ』とも告げていました。未来ある若き力を奮い立たせたであろう言葉が意味するところを読み解かずにはいられません。きっとそれは伝説からの贈り物なのです……ッ!」


 もはや、その存在を隠していられなくなり、興行イベントを盛り上げる方向に舵を切ったものとおぼしき仲原アナの声を頬で受け止めながら、ヴァルチャーマスクは自分に用意された席へと戻っていく。

 その間に彼は二度ほど小さくこうべを垂れた。キリサメが立つ白サイドのコーナーポストからも見て取れたのだが、大会本部が設置されている部屋から飛び出してきた表木嶺子と、リングサイドの席で立ち上がった未稲に気付いた様子である。

 最後にヴァルチャーマスクと目が合ったのは生涯の師匠――鬼貫道明であった。

 特等VIP席は実況席の近くに設けられており、必然的に両者の距離も近付くのだが、互いの姿を瞳の中央に映すのみで言葉を交わすことはなかった。ただ一度、握り拳を重ね合わせるのみである。

 久方振りの再会であったが、『昭和』と呼ばれた時代からながい闘いを分かち合ってきた二人には月並みな挨拶など要らず、拳に漲る力を確かめ合うだけで満たされるのだろう。

 その瞬間、ヴァルチャーマスクの乱入によって凍て付いていた時間の流れが元通りとなり、これまでになく大きな歓声が五〇〇〇という客席の全てで爆発した。

 日本に格闘技の歴史を築いてきた人々の再会が如何なる意味を持つのか、にまつわる勉強が捗っていないキリサメは本当の意味では理解できない。今し方、目の当たりにした〝事実〟や観客たちの熱狂を手掛かりとして歴史的瞬間と推察するのみである。

 本人の認識を置き去りにしてキリサメ・アマカザリという少年は、日本格闘技の歴史に足を踏み込んでいたのだ。

 『アンドレオ鬼貫』の異種格闘技戦から出発し、愛弟子であるヴァルチャーマスクが理論化と体系化を初めて成し遂げ、彼から統括本部長の肩書きを継いだ八雲岳によって日本に根付いた総合格闘技MMA――その黄金時代と崩壊に立ち合った進士藤太を経て、キリサメ・アマカザリは最も新しい世代を担うことになった。

 プロデビュー戦の第一Rラウンドが終わるまでキリサメは傍観者にも近い〝立場〟であった。日本MMAに身を置きながらも、そこで闘う群像を遠く離れた場所より覗き込み、〝戦争の音〟を子守歌に代えて〝ヒトのカタチ〟に育ったような己とは相容れないと、虚ろな面持ちでかぶりを振るのみであった。

 前田光世コンデ・コマが世界中の強豪をくだした技を現代に甦らせた空閑電知や、史上最強の剣道家と名高い森寅雄タイガー・モリ直系の技を受け継ぐ瀬古谷寅之助、ひいてはサバキ系空手の名門道場『くうかん』にいて全日本選手権三連覇を果たした教来石沙門など、身近な〝友人〟たちのような格闘技・武道の経験を一つも持たず、〝格闘競技〟の対極にある〝暴力〟のみを握り締めてMMAのリングへ臨む自分のことを〝得体の知れない化け物〟の如く蔑んでいる。

 この少年の運命を決定的に変えてしまったのは、人間という種を超越した〝神速〟などではない。ヴァルチャーマスクとの邂逅によって、偉大な先人たちが栄光と悲劇を代わる代わるに積み重ねてきた時代の激流へと引き摺り込まれたのである。

 このときには既に自分が後戻りできないところに立っていたのだと、彼が悟るのはもう少し先のことである。今はただ言葉もなく〝はじまり〟の背中を見送るのみであった。



 前身団体バイオスピリッツの破綻と共に訪れた黄金時代の終焉と、『天叢雲アメノムラクモ』という新しきが誕生するまでの僅かな狭間――日本MMAの〝失われた世代〟に己が深く関わってしまうことさえ〝はじまり〟のヴァルチャーマスクに触れたばかりの少年は夢想だにしていない。

 奇しくも彼が二〇年にも及ぶ苦悩から八雲岳を解き放ったのと同じように、キリサメも日本MMAに横たわる〝負の歴史〟との対峙が宿命さだめられたのだ。

 格闘技史にける〝失われた世代〟とは、実戦志向ストロングスタイルのプロレスや異種格闘技戦の延長ではなく、しか知らない世代とも言い換えられる。彼らがリングへ飛び込まんとしていた矢先に〝格闘技バブル〟が崩壊し、活躍の舞台となるはずであった大型興行イベントやテレビ地上波放送の途絶といった空白期間が生じたのである。

 ヴァルチャーマスクが『とうきょく』の理論に基づいて完成させた『しゅう』を極め、日本MMAを未来へ導くとまでうたわれた〝無冠の王〟――格闘家という生きざまとその末路をキリサメの魂へ焼き付けることになる・ガレオン・のりはるの名前すら、現在いまは容易に想い出せない記憶の片隅にまで押し込められている。

 『ガレオン』という通称リングネームの通りに風を受けて七つの海を進む大型帆船の入れ墨タトゥーで上半身を飾り、『NSB』の試合場オクタゴンで激闘する日本人選手シューターなど過去に一度も見たおぼえがない。

 夢を託したMMAに〝全て〟を奪われるという悲劇をもって〝失われた世代〟の象徴とのちの格闘技史に刻まれる〝無冠の王〟と、同じ史書に格闘技という一つの〝世界〟を焼け野原に変えてしまうと記されたペルーの〝死神スーパイ〟――もはや、遠くない未来さきで交わる二人の運命が『りょうていかいせん』と呼ばれる未曽有の大動乱を混沌のかわり目に衝き動かしていく。



                     *



 岩手県奥州市の大型総合体育館にて開催される『天叢雲アメノムラクモ』第一三せん~奥州りゅうじんは、県内数ヶ所の公会堂などに場外観戦パブリックビューイングの会場が設置されていた。

 今まさにキリサメ・アマカザリと城渡マッチによる第一試合が執り行われている総合体育館は補助席も含めて約五〇〇〇人の収容人数キャパシティであり、日本を代表するMMA団体の興行イベントとしては小規模とも思える。しかし、この場外観戦パブリックビューイングを合計して観客動員数を算出すると、冬季オリンピック関連施設を利用した前回の長野興行と比べても遜色がなくなるのだ。

 MMAの試合を通して東日本大震災の被災地を元気付けたいという統括本部長の願いが結実し、今回の岩手興行で初めて実施された場外観戦パブリックビューイングは、同地の地方プロレス団体『奥州プロレスたんだい』のレスラーたちに司会進行が委ねられている。

 地方振興の理念から特定の活動拠点を首都圏に持たず、全国各地の運動施設を経巡るという〝旅興行〟の形態を取る『天叢雲アメノムラクモ』は、その土地々々に根を下ろし、地元企業や自治体との関わりも深い地方プロレス団体と提携している。

 長野興行では岳が外部コーチとして技術指導を行っている『まつしろピラミッドプロレス』が全面的に協力したのだ。

 その『まつしろピラミッドプロレス』に所属するあかぞなえ人間カリガネイダーと好敵手ライバル関係であり、県の垣根を超えて幾度となく対決した『奥州プロレスたんだい』の花形選手――サイクロプス龍は今回の場外観戦パブリックビューイングで最大規模の会場を受け持ち、八〇〇人もの観客を盛り上げる役割を担っていた。

 それにも関わらず、公会堂の大ホールに設置されたモニターの前でひたすらに熱い涙を流し続けているのだ。

 黒地の覆面マスクは両目と口の部分のみが刳り抜かれており、実際に隻眼ではないものの、右目に刀の鍔を眼帯代わりとして宛がっている――『どくがんりゅう』の伝承に倣ったこのレスラーは、開会式オープニングセレモニーの冒頭で奥州市のローカルアイドルがMMA参戦を宣言したときにも唖然呆然となり、周囲まわり観客ひとびとに対する状況説明すら忘れてしまったのだが、感情の振幅こそ真逆ながら再び職務放棄にも等しい情況に陥った様子である。

 その場に居合わせながらキリサメには〝意味〟も重みも理解し切れなかった再会の場景に接し、サイクロプス龍は全身の水分が枯れ果てそうな勢いで感無量となっているのだ。

 主な活動の場を総合格闘技MMAに移しはしたものの、鬼貫道明・ヴァルチャーマスク・八雲岳というさんにんは、いずれも日本のプロレスを代表する名選手であった。このとき、サイクロプス龍は『鬼の遺伝子』や〝プロレスこそ最強〟という幻想ゆめに魅せられた一人のファンに戻っていたのである。

 アメリカの『NSB』で孤高の闘いを続ける進士藤太の存在ことも、サイクロプス龍は忘れていない。『昭和』の末期おわりにプロレスの〝道〟へと足を踏み入れ、りきどうざんから脈々と受け継がれてきた闘魂たましいを『平成』のリングに絶やさなかった男を忘れられるはずがない。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体――即ち、日本初のMMA興行イベントを世界水準レベルまで引き上げるべく岳が一九九八年に旗揚げした『八雲道場』にも〝一番弟子〟として加わった進士藤太であるが、『新鬼道プロレス』に所属していた頃は気高い反骨精神からのちの師匠に向かって「自分と真剣勝負してください」と挑戦状を叩き付けている。

 この三年後に師弟関係となる両雄ふたり真剣勝負セメントマッチは未だに実現していないのだが、巡業という衆人環視の中で突然に発生した対戦要求は、日本全国のプロレスファンの魂をこれ以上ないくらい燃え滾らせたのである。八雲岳も進士藤太も、『鬼の遺伝子』の異種格闘技戦にいて両輪さながらに牽引役を果たしていたのだ。

 実戦志向ストロングスタイルを掲げ、『昭和』と『平成』という二つの時代でプロレスブームを巻き起こしながらも、二〇〇〇年代半ばに起こった〝格闘技バブル〟の崩壊を境に日米二ヶ国に訣別わかれてしまった名選手たちは、二度と和解することはない。二本の道が再び交わる瞬間を目にすることだけは有り得ない――と、サイクロプス龍のみならず誰もが諦めていた。

 尤も、このような場合には周囲まわりで気を揉む者たちによる悲観的な想像と実態の間に大きな隔たりがあることも少なくない。第三者が捏ね回す想像は最悪の筋運びシナリオを取り込んでいびつな形に膨らんでいくが、当事者たちはを小さな針一本で容易く吹き飛ばしてしまうものであった。

 数多のプロレスファンが夢にまでた再会が『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場で果たされた。異なる〝道〟を選んだ日――ハゲワシのプロレスマスクがMMAのリングに置き去りとなった日からこんにちまでの間に少しとして絆は変らなかったと、『鬼の遺伝子』の三世代が示したのである。

 歴史的和解に際しても、厳かな儀式など必要なかったようだ。ヴァルチャーマスクに対する負い目から誰よりも心の分断を感じていたであろう八雲岳は、を飛び越えるまでに激しい葛藤を挟んだ様子であるが、彼に向かって差し伸べられた手に躊躇などは感じられなかった。

 鬼貫道明とヴァルチャーマスクに至っては、久方振りに顔を合わせた遠方の友人への挨拶としか表しようのない気軽さでプロレスファンの絶望を希望に覆してしまった。言葉ではなく拳を重ね合った二人は、〝道〟を違えざるを得なかった歳月すら気にも留めていない様子であった。

 離れていた時間が互いの気持ちを取り鎮めたというよりは、プロレスファンが悲嘆に暮れた遺恨など両雄ふたりの間には最初から存在しなかったのかも知れない。

 拍子抜けといっても差し支えがないほど呆気なく歴史が動いた――場外観戦パブリックビューイングのモニターを通して一つの時代の節目に立ち会ったサイクロプス龍は、司会進行用の手持ちマイクが掌中から滑り落ちるほどの驚愕を挟んだのち、身も心も猛烈な感動で満たされたわけだが、場内には彼と同じプロレス経由のMMAファンが数多く詰め寄せており、今や公会堂の大ホールのあちこちからすすり泣く声が聞こえてくる。


「――った! ったったったァーッ!」


 おそらくは一〇〇にも達するであろう小さな嗚咽を一つの大声が突き破り、天井に跳ね返ったのは、場内のスピーカーから鳴り響いた甲高い金属音が――プロレスと同じゴングの音色が観客たちの鼓膜を突き刺した直後である。


「勝手に試合を終わらせねんでけろ! 終わってねわ! 一体全体、どっちがったっていうワケ⁉ 見でみなさいよ、どっちも元気ハヅラヅっでらわよっ!」

「今のは試合さいがいのゴングでねがっ! こった大ぎなモニターが置いであるども、どやしたっきゃ試合終了どぢがえられるんだっ⁉ がいがぐどうだいがいでも見でんのがよっ⁉」


 その途端に集中砲火の如く批難の声を浴びせられたのは当然であろう。大型モニターの画面では、城渡がキリサメに向かって猛牛バイソンさながらに突進しようとしているのだ。古豪ベテランを迎え撃たんとする新人選手ルーキーも素足でもってマットを強く踏み締めている。

 試合観戦の没入感に水を差し兼ねない大声を窘める何人かも言及したが、今し方のゴングは第二Rラウンドの開始を告げる合図であって、決着を知らしめるものではない。


ちげちげちげぇって! つーが、いでいでいでぇって! これはあっち! 『こんごうりぎ』のだいいぢ試合だって! MMAじゃなくて立ぢ技ぎょうがぐどうだいがいのほう!」


 声の主とおぼしき男性は同行者に首を絞められながら、右手で携帯電話スマホを翳している。窒息させられる前に互いの身を引き剥がし、対の手の人差し指でもって示した液晶画面に大写しとなっているのは、速報性の高いネットニュースである。言わずもがな格闘技雑誌パンチアウト・マガジン記者ライターによる投稿であった。

 その男性が表示させたスポーツ記事では『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行と同日に行われている『こんごうりき』の試合結果を報じている。

 記事の中で取り上げているのは教来石沙門の初陣プロデビューであるが、日本最強の空手家が勝利の栄光を握り締めてリングから引き揚げたことは、改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 第一Rラウンド二三秒――〝プロ〟の世界では親の七光りなど通用しないことを叩き込むと、試合前から大言壮語ビッグマウスで挑発していたアメリカ人選手を亡き恩人より直伝されたカカト落としで沈める写真が添えられている。

 指貫オープン・フィンガー型ではなく、拳全体をクッション材で覆うボクシング式のグローブを両手に装着した教来石沙門は『くうかん』という道場名が刺繍されたからに身を包んでいた。

 下穿ズボンの裾を靡かせるようにして長いみぎあしを振り下ろし、稲妻さながらの踵でもって対戦相手の脳天を叩き割ったわけだ。これは比喩ではなく、一撃で失神KOとなったアメリカ人選手は頭蓋骨に亀裂が生じた可能性があると、くだんのネットニュースでも報じている。

 現役引退後は競技統括プロデューサーとして『こんごうりき』の運営に携わる父親――『くうかん』空手の最高師範でもあるきょういしともや、二〇〇〇年に急性骨髄性白血病で早世した恩人は、二の腕が剥き出しになるほど袖を短くした特別誂えのからで出場している。沙門も同じ物を二〇一四年に再現して試合に臨んでいた。

 異性との交際関係についてからぬ風聞うわさが常に付き纏う青年であるが、空手に対してはどこまでも誠実に向き合うという決意表明なのだろう。


「抽選で場外観戦パブリックビューイングに当だったグセして携帯電話スマホなんか操作イジッてんでねじゃ!」

「そ、それについではがえこどもござらね~ッ!」


 くだんの男性は同行者から別団体の興行イベントに目移りしたことを責められているが、こればかりは擁護しようがなく、周囲まわり観客ひとびとも一斉に首を頷かせた。

 彼と同じように『こんごうりき』の試合が気になって仕方のない者は大ホール内に多く、この騒動さわぎに竦み上がってすかさず携帯電話を片付けた。

 首都圏と東北で会場こそ遠く離れているものの、『こんごうりき』の技統括プロデューサーの実子むすこと、『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の養子むすこが同日にプロデビューを迎えるという奇跡的な巡り合わせは格闘技ファンの間で話題を呼んでいたのである。

 『こんごうりき』の教来石袈裟友が現役の頃から『天叢雲アメノムラクモ』の八雲岳を好敵手ライバルとして意識していたことは広く知れ渡っている。その上、岳が身を置いていた『鬼の遺伝子』と、現在いまも袈裟友が後進の指導に当たっている『くうかん』は、かつて異種格闘技戦という枠組みを超えた血みどろの抗争を繰り広げたこともあるのだ。

 沙門も親子二代に亘る因縁と〝八雲岳の秘蔵っ子〟を強く意識しているはずだが、抜粋ながらニュース記事に併載された試合直前のインタビューではそのことに一切触れず、対戦相手の大言壮語ビッグマウスに応じたような口振りでリングの〝外〟にる本当の〝敵〟を暗に挑発していた。

 言わずもがな、教来石沙門が取り組んでいるもう一つの挑戦たたかいである。『くうかん』の地方道場で未だに常態化している悪しき精神論や理不尽極まりない体罰を根絶する為の組織改革に抗い、既得権益と特権意識に紐づいた支配的な指導へ固執する者たちの自尊心プライドを注目度の高いネットニュースで貶めた次第である。


「――格闘技に限らず、どこの社会も似たり寄ったりと思いますが、フォワードに出過ぎるヤツが気に喰わないろくでなしに自分はハッキリと言ってやりたいですね。今まで疑う余地もなく続いていたモノであっても、次の世代を押し潰す為の蓋でしかないなら、やり方がバイオレーションでもブチ抜かなきゃ始まらない。シビアな現実を教えるって口実で明日に花を咲かせるはずだった芽を潰すような人間の喉元に突き付けてやる為、自分の空手をシャープに研ぎ澄ませてきました。既にお呼びじゃないってコトにも気付けないくらいハッピーなは、まとめて貰いましょうか」


 モニターの向こうで五枚の尾羽根を風になびかせ、肩からぶつかるような形で突進してくる城渡を先程よりも鋭い後ろ回し蹴りソバットで迎え撃とうとしているキリサメは、格闘技の政治利用と批判され兼ねないインタビュー記事に目を通してもいない。

 『くうかん』にいては日本選手権三連覇という輝かしい実績を持つ沙門であるが、『こんごうりき』では〝先輩〟選手たちを見上げる新人選手ルーキーに過ぎない。競技統括プロデューサーの愛息だからといって厚遇されるはずもなく、全く同じ〝立場〟でMMAデビューに挑むキリサメのように第一試合を任されていた。

 同日の実施とはいえ、『こんごうりき』と『天叢雲アメノムラクモ』は興行イベントの開催時間まで完全に重なるわけではない。前者のほうが開始時刻が僅かばかり早く、必然的に沙門もキリサメより先にプロデビューを迎えるわけだ。

 教来石沙門が実の兄のように慕っていた恩人――テオ・ブリンガーより授けられた必殺の踵落としでもって鮮やかな勝利を飾った頃、キリサメは花道ランウェイへと直通する入場口の近くでリングインの刻限ときを待っていた。

 その時点ではくだんのニュース記事は公開されていなかったのである。そもそも二人のセコンドは携帯電話の類いを持ち込んでいないのだ。SNSソーシャルネットワークサービスなどを利用して『こんごうりき』の試合結果を確かめることも極めて難しかった。

 結局のところ、初陣プロデビューを直前に控えたキリサメにとって僥倖さいわいであったのだろう。愛する『くうかん』空手の為に自らの為すべき大望ことを見定め、抵抗勢力から命まで狙われようとも揺るがない教来石沙門と、〝中身〟がないままMMAの世界に飛び込んだ己を比べて落差に引け目を感じているキリサメは、いっときながら平常心を失ってしまったのである。

 ただでさえ矮小さを思い知らされる相手が一分にも満たない短時間で初勝利を飾ったと知れば、キリサメは更に気落ちし、調子を崩したことであろう。〝友人〟との間に優劣をつける必要がないと分かってはいても、プロデビュー戦の〝成果〟すら『くうかん』の組織改革を巡る策略に利用してしまう抜け目のなさや器の大きさは、を持たざる人間には大きな重圧プレッシャーに換わるのだ。

 「公共性を確保するべきネットニュースを一個人の事業の喧伝に利用した」という批難さえも沙門は織り込み済みであろう。善悪はともかくとして、大勢の関心を引くことが出来るわけだ。これによって本部の監視が届かないような地方に点在する『くうかん』支部道場の悪しき体質が注目され、マスメディアが〝シゴキ〟などを暴き出すことは好都合というわけである。

 結果的に『くうかん』全体の信頼を著しく貶め、その〝誇り〟を傷付けることになるが、沙門と志を同じくする本部の空手家たちも責任を取らんと覚悟している。

 自らの身を犠牲として差し出すような構想は、格闘技や武道を余人とは異なる視点で捉えている教来石沙門にしか成し遂げられないことであろう。少なくともMMAを愛しているとは言い難い現在いまのキリサメが思い付くことは不可能であった。

 踵落としだけでなく足技全般を得意とする沙門に対抗しているわけではないだろうが、モニターに映し出されたキリサメは、空中で身を捻りながら立て続けに城渡の顔面を蹴り付けていた。

 肩からぶつかる体当たりを返り討ちにしようとプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを試みるキリサメであったが、を読み切っていたらしい城渡は一等大きな踏み込みと共に頭突きへと転じ、蹴り足の裏を眉間で受け止めた。

 力任せに押し込むような突進の勢いでもって一九キロという体重差がある身を弾き飛ばすのが目的ねらいであろう――この直感が肉体の反応に結び付いたキリサメは、片側の足裏を城渡の眉間にまま相手の踏み込みに合わせて膝を屈伸させ、己の右足に掛かる負荷を和らげつつ軽く跳ね飛んだ。

 この直後には空中で身を捻り、素早く姿勢を整えながら対の左足でもって城渡の右側頭部に前回し蹴りを見舞った。これによって追撃をも堰き止めたのである。

 ヴァルチャーマスクを彷彿とさせる空中戦は、が現れた直後ということもあって観客たちを大いに沸かせ、サイクロプス龍も手持ちマイクに向かって「ハゲワシのとうごんは未来にづづいでらァッ!」と、スピーカーの音声おとが割れてしまうほど猛烈に吼えた。

 波乱含みの第一Rラウンドを切り抜けた直後に〝友人〟から追い撃ちの如く重圧プレッシャーを掛けられてしまったなら、八〇〇人を収容し得る大ホールを歓声で満たせるような状態まで持ち直せなかったかも知れない。何しろ現在いまの客席は〝神速〟を発動させた直後にも等しいくらい昂揚しているのだ。

 場外観戦パブリックビューイングの各会場に試合映像を送信おくり続けるカメラには、白サイドのコーナーポストに立つ八雲岳の顔もたびたび映り込んでいた。またしてもヴァルチャーマスクの通称なまえを口にしている様子であったが、今度はに向かって呼び掛けているわけではなさそうだ。

 第一Rラウンドの最中は傍目にも恩人への私情に囚われているのだろうと察せられた岳も、現在はリングにて闘う養子キリサメのみを見つめている。場外観戦パブリックビューイングの会場ではその声を正確には聞き取れないのだが、空中殺法を得意としたヴァルチャーマスクの試合を例に引き、攻防を組み立てる手掛かりになるであろう助言アドバイスを与えているようだ。

 それ故に真隣の麦泉も肘でもって岳の脇腹を小突くことがないのである。白サイドの選手とセコンドは、第二Rラウンドに至ってようやく足並みが揃い始めていた。

 城渡の背中を見据えながら、歯噛みする回数が徐々に増えてきた青サイドの二本松とは正反対であった。頭部を蹴飛ばされたダメージに耐えるよう深呼吸する古豪ベテランの肩は、長いインターバルで十分に休んだ直後にも関わらず、早くも上下の律動が激しくなっている。



                     *



 リングの上を飛び交う声など届くはずもない場外観戦パブリックビューイングのモニター越しでさえ一目瞭然であったが、木村レフェリーが白と青のリストバンドを嵌めた両手を交差させつつ第二Rラウンドの開始を宣言した直後、白サイドのコーナーポストで養子キリサメの試合を見守る八雲岳は再び恩人ヴァルチャーマスク通称リングネームを吼え始めた。


「二〇世紀の終わりにMMAデビューしてから二一世紀の今日まで城渡そいつは殴り合いのケンカにこだわってきたスゲェおとこだがな、組み付かれた途端に使える技がなくなっちまうハンモンじゃねぇ! セコンドに付いてる親友マブダチから豪快な投げ技も伝授されてっからな!」

「センパイの言う通りだよ、キリサメ君! 第一Rラウンドと同じように慎重に行こう! 密着しない程度に間合いを維持キープして闘えば大丈夫だから!」

「もしも、マッチが突っ込んできたら、そのときこそ大先輩の胸を借りちまえ! 物理的になァ! 胸や腹を壁みてェに踏み付けて宙返りしちまえ! 跳ねる勢いで思いっ切りアゴを蹴り上げるのもアリだぜ! ヴァルチャーのあにィも相手に取っ掴まりそうになった瞬間ときにはそうやって体勢を立て直したもんだァ!」


 ヴァルチャーマスクの試合運びを交えつつ岳が取り上げたのは『宙返りサマーソルトキック』と呼称される足技である。大音声でもって養子キリサメに説いた通り、相手の頭上を超えるほどの宙返りと共に蹴り足を繰り出して顎を撥ね上げるものであった。

 元々はプロレス技であり、空中戦に長けたヴァルチャーマスクも『新鬼道プロレス』の時代から後ろ回し蹴りソバットと併せて多用していた。宙に弧を描くという華麗さで人気を博し、格闘技を題材とするビデオゲームの登場キャラクターに採用されることも多い。

 尤も、相手の上半身を壁に見立てて素早く蹴り付け、これによって高い位置でのトンボ返りを披露することに重点が置かれている為、に適しているとは言い難い。顎を蹴ろうにも階段を駆け上がるかのような動作うごきに体重を乗せることは難しく、脳を揺さぶるほどの威力は望むべくもなかった。

 ハゲワシさながらに空を翔けるという人間離れした身体能力を見せ付け、観客を魅了せんとするプロレスでは顎を狙わないことも多く、宙返りサマーソルトキックをMMAという〝実戦〟の場でヒット・アンド・アウェイに応用できるヴァルチャーマスクこそが異質なのだ。


「つまり、が〝ヴァルチャーマスク作戦〟というワケですか? 確かにキリサメ君の身体能力と頭の回転があれば、ヴァルチャーのあにさんみたいな技も難なくこなしてしまいそうですが、……センパイ、前のRラウンドを思ったよりちゃんと見ていたんですね」

「ヴァルチャーのあにィにのぼせ上ってた自分てめーのバカさ加減を誤魔化すつもりはねぇがな、二つの目が節穴じゃねェのも事実だぜ。飛んで跳ねて、空中でも自由自在に動き回る姿トコも見逃すモンかよ。が兄ィに重なるのは文多おまえにも否定しようがねェだろ? あれだけオレのコトをドツき回しといて、まさか自分は意地張らねェだろうな~?」

「そこは自分と同じように忍者としてもやっていける才能って言ってあげましょうよ」


 ペルーで日系人ギャング団を迎え撃ったときから自分はキリサメ・アマカザリという少年に備わった〝戦士〟としての才能に惚れ込んでいる――自慢げに胸を張った岳の右腋に頭部あたまを抱え込まれ、対の拳でもって脳天を軽く小突かれながらも、麦泉は嬉しそうに口元を緩めていた。


「実況席の二人組コンビはキリーを捕まえて『超次元プロレス』の跡継ぎみてェに持ち上げてくれたけどよ、アイツはオレよりずっと肉体からだの使い方が柔らかいだろ? 文多おまえが言う通り、頭だってキレる子だ。既存の格闘技とか関係なく、その場その場でイチバンの闘い方を編み出していくキリーの良いトコを〝型〟にハメちまうつもりはねェが、それでも兄ィの空中大決戦っぷりはアタマに入れておいて損はねェぜ」


 〝実戦〟にいて有用とは言い難い宙返りサマーソルトキックをヴァルチャーマスクはMMAのリングで如何にして放ったのか――キリサメであれば要点を説明しただけで術理を読み解き、稀代の超人レスラーと同じように使いこなせるだろうと、岳は信じて疑わないのだ。

 ヴァルチャーマスクは迫り来る相手の胸や腹、あるいは太腿を蹴り付けて動作うごきを押し止め、そのまま宙返りサマーソルトキックに転じて大きく間合いを離すこともあった。蹴られた側が体勢を立て直すまでに着地を済ませるという緊急回避の手立てとして応用した次第である。

 桁違いの身体能力を備え、戦いの場にいても思考あたまの回転に裏打ちされた柔軟性を発揮するキリサメであれば、近似する状況に立たされた際にを再現して血路を開くことであろう。


「空中でも姿勢を制御コントロールしてしまえる天性の身のこなしは、ひょっとして〝隔世遺伝〟じゃないかって思わなくもありませんけど……」


 頭部あたまを締め付ける圧迫から抜け出したのち、余人には――あるいはキリサメにも――意味が通じないであろう〝隔世遺伝〟という言葉を口走った麦泉は、すぐさま岳に向かって目配せで謝った。

 〝隔世遺伝〟というその一言は、亡きミサト・アマカザリよりも深くキリサメの起源ルーツに触れることを意味している。それ自体を麦泉は恥ずべき失言として悔恨しているのだが、岳のほうは全面的な同意を示すように首を頷かせたばかりであり、大仰に肩を竦めることで返答こたえに代えた。


「神経質に考え過ぎじゃねぇか? キリーのコトに関しちゃあまかざりの親方も八雲家こっちに任せてくれてるんだし、本人に教えちゃならねェって口止めされてるワケでもねェんだから。東京タワーに出掛ける機会があったら、そのときにでも話そうかって思ってんだぜ?」

「……センパイが気軽に考え過ぎなんですって。確かに東京タワーはあまかざりの親方ゆかりの場所ですから、をするのに最適でしょうけど……」


 麦泉が口を滑らせた〝隔世遺伝〟というも、これに応じた養父の言葉も、二人の視線の先で城渡の猛攻を凌いでいるキリサメの耳には届いていない。

 第二Rラウンドの開始を告げるゴングが鳴り響いた直後、城渡はリングの土台が軋むほどの勢いでマットを蹴り付け、両腕をだらりと垂らしたキリサメに突っ込むと、第一Rラウンドと同じように四肢を振り回し始めたのだ。

 麦泉が零した小さな呟きに耳を澄ませていられる余裕など彼にあろうはずもない。限りなく鼓膜まで近付いたとしても、轟々と風を薙ぐ城渡の拳によって吹き飛ばされたことであろう。それが証拠に「あまかざりの親方」という一言にもキリサメは反応しなかった。


現在いまのお前は燃料ガソリン残量のこりも確かめないまま箱根の峠に向かった挙げ句、重い単車バイクを手で引いて帰ってきた御剣と何も変わらないぞ! 財布から携帯電話まで一切合財を忘れて補給もままならずに半べそだったアイツの顔を想い出せ! 辛うじて免許証だけは無意識に持って出た――現在いまの自分に置き換えてみろッ!」


 落ち着いて攻守を組み立てるよう青サイドのコーナーポストから訴える二本松セコンドの声まで城渡は振り切っていた。

 顔面を狙って直線的に突き込まれてきた右拳をキリサメは頭部あたまを横に振るという最小限の動作うごきかわし、これを追い掛けるようにして水平に閃いた左の肘打ちさえも自らの右下腕で完全に防御ガードした。

 肘打ちを防ごうとする寸前、城渡が穿たんとしていた方向へと身をかわし、最も威力が発揮される一点を外すという技術テクニックを敢えて選ばなかった。両足でもってマットを踏み締めて一九キロもの体重差に耐え抜いたのである。

 外から内へ大きく振り抜く肘打ちは、キリサメの油断を誘う為の〝罠〟ではない。側頭部に狙いを定めた渾身の一撃である。全身の隅々まで力を込め、致命傷を与えんとして繰り出す攻撃は、受け止められた瞬間に静止にも近い状態になってしまうことをキリサメは経験で知っているのだ。

 第一Rラウンドと同様に畳み掛けられることがないよう骨の軋み音と引き換えにして、城渡の猛襲を堰き止めた次第である。


「マッチと密着したからって無理に宙返りサマーソルトキックを試さなくたって良いんだぜ! 他人の後追いじゃキリーらしさがダメになっちまわァ! ひきだしに仕舞っといて、使えそうなときに引っ張り出してみるくらいが良い塩梅だからよォ!」


 養父の助言アドバイスが鼓膜へ吸い込まれたとき、防御ガードに用いた右下腕には肘が突き刺さったままであった。を振り払いながら腰を捻り込んだキリサメは、同じ側の足で前回し蹴りを放ち、命中と同時にその場で逆回転して裏拳打ちバックブローにまで連ねていく。

 右腕を振り回された拍子に姿勢が崩れ、殆ど無防備のまま右脇腹を抉られてしまった城渡であるが、食い縛った歯の隙間から呻き声が零れるよりも先に後方へと退すさり、横薙ぎの一閃を避け切った。


「無理を押して突っ込んでおいて、あっさり返り討ちに遭ったら、それこそ新人選手ルーキーに一七年分の歴史と誇りを軽く思われてしまうだろうが! ……年季の入ったエンジンは長距離を走り続けられないし、何かのきっかけで簡単に故障する。しかし、を積んだクラシックカーは無理の利かなさも味わいになるだろう? 機械制御された最新モデルと完全アナログは性能を張り合うモノじゃなく、それぞれの持ち味を楽しむものだ、雅彦」


 ヒサシのように突き出したリーゼント頭が裏拳打ちバックブローの起こした風で僅かに揺れ、五枚の尾羽根に臍の辺りも撫でられてしまった城渡であるが、痛手ダメージを重ねられることだけは辛うじて免れた。彼の横っ面を殴り付けたのは、戦略の見直すように繰り返し訴える二本松の怒鳴り声である。


えて城渡氏そちらのセコンドに訂正を求めるとすれば、僕は少しも機械制御されていないということでしょうか。携帯電話も犬笛みたいで好きじゃないから所持ってもいませんし」

「おまけにバカオヤは制御不能ってか? さっきよりはマシになったかと思いきや、今度はクソデケェ声で作戦を公表し始めやがったな。一秒も止まらずに殴り合ってるは暗号で喋られても呑み込めねェがよ、それにしたってゴングが鳴った後に試合の打ち合わせをおっぱじめる連中、オレは今まで見たことねェよ」

「二本松氏――でしたよね。城渡氏のセコンドはどんな局面でも冷静沈着ですし、言葉の選び方一つ取っても岳氏とは正反対ですよ。……羨ましくないと言えば嘘になります」

「剛のバカは皮肉が達者なだけだっつ~の! キザったらしい言い回しで何をしやがったかって、相棒オレのことをジジィ呼ばわりしただけだかんな? この期に及んでまだヴァルチャーマスクに狂い続けるおめーのバカオヤのほうが可愛げがあるってェモンだ」

「自分の半分しか生きていないアマカザリ君のほうが〝顔を立てる〟ということを心得ているこの現実に何も感じないのか、雅彦? 恥ずかしく思えないからお前は幼稚ガキなんだ。他人ひと養父ちちうえを面と向かってバカ呼ばわりとは俺のほうが情けない」

「アマカザリだって自分てめーオヤをコケにしまくってるだろ! それ、無視すんなっ!」


 攻め込む好機タイミングを計りながら間合いを詰め、付け入る隙を見出せないと判断したキリサメは、深呼吸を一つ挟んだのちに鋭く跳ねた。膠着状態となってしまう前に自ら懐深くに潜り込もうというわけだ。


「とはいえ、おめーのバカ養父オヤジもバカばっか抜かしてたワケじゃねーよ。『大先輩の胸を借りちまえ』って言葉は全くその通りだ。殴り合ったら親友マブダチになれるってェコトをオレが教えてやるぜ! 全身全霊で思い知りなァッ!」

「ぐぅ……ッ!」


 右の中段蹴りミドルキックに転じようとするキリサメの動作うごきを断ち切るべく城渡は軸に据えていた左足へと下段蹴りローキックを叩き込む。相手キリサメのほうが僅かに速かった為、足先は狙いを定めた外膝から太腿に外れてしまったが、一九キロの体重差を生かしてその場へ押し止めることには成功した。

 両者の言葉は攻防のなかに交わされたものであるが、二本松剛という男は城渡の全身から新人選手ルーキーとは比較にならない量の汗が噴き出し続ける理由を悟っている。それ故に親友のことを老人も同然に扱ったのだ。

 第一Rラウンド終了の間際にキリサメは左右の五指を組み合わせ、鉄槌ハンマーに見立てて城渡の脛を脅かしている。かつて養父がMMAの試合で用いた『ダブルスレッジハンマー』を横薙ぎに振り回し、直撃によって通算二度目のダウンも奪ったのである。

 幸いにも骨折には至らなかったが、変則的な鉄槌ダブルスレッジハンマーの一撃で城渡は左足全体の動きが鈍くなっていた。しかし、脛を蝕む激痛の影響で発汗量が増えているわけでもないのだ。

 二本松はこの有りさまを自動車の古いエンジンにたとえ、軽挙妄動を諫めていた。耳まで届かなかった様子でキリサメを攻め立てる城渡であったが、実際には相棒の声が心に深々と突き刺さっている。軋む肺を鎮めるよう二度三度と深呼吸を繰り返しながら、空虚な薄笑いで自らを嘲ったのが何よりの証左であろう。

 それでも城渡は止まらない。二本松セコンドが呼び掛けても止められない。下段蹴りローキックがキリサメの身のこなしを鈍らせていると認めた直後、くうに直角を描くようにして同じ側の足を振り上げ、更に縦一文字のカカト落としへと変化した。


「城渡氏と沙門氏は同じ空手道場でしたよね? この蹴りは沙門氏に目の前で見させて貰いました。がなかったら、反応しようもなかったハズです」

「ンだとォ⁉ あンの野郎、余計なコトしやがっ――」


 現在は道場から離れているようだが、かつて城渡が『くうかん』の空手を学んでいたことはキリサメも把握している。最高師範の愛息である教来石沙門と同じ踵落としを体得していても何ら不思議ではなかった。

 尤も、〝世界一の名手〟と名高いテオ・ブリンガーから直々に伝授されたわけではないだろう。太腿の部分が膨らんだ〝ボンタン〟を波打たせながら右足を持ち上げる動作うごきも日本最強の空手家ほど鋭くはない。

 だからこそキリサメも十分な余裕を持って両腕を交差させ、頭上から一気に振り下ろされたかかとを完全に受け止められたのである。その状態から二連続で右足裏を突き出し、城渡の胸部と鳩尾を蹴り付けていく。

 城渡の右踵はキリサメの脳天に接触もしていないので相撃ちとは言い難い。反撃の前蹴りで撥ね飛ばされ、更には胸板の上から肺にも痛手ダメージを重ねられてしまい、一瞬ながら呼吸困難に陥って片膝を突きそうになってしまった。


「猛き鳥の爪は獲物を逃がさねェって教えてやれ、キリーッ!」

「今こそ狙い目だよ、キリサメ君! KOする覚悟で行けッ!」


 岳と麦泉が声を揃えてキリサメに追い撃ちを呼び掛けたことで城渡の本能が揺り動かされたのは、皮肉な筋運びとしか表しようがあるまい。鼓膜を突き刺した二つの大声に肉体からだが反応し、今まさに己の顎を脅かさんとしていた蹴り足を完全な形で防御ガードしたのだ。

 リングに立つ城渡も、コーナーポストで彼を見守る二本松も、若かりし頃は都内でも指折りの不良ツッパリが集まる島津十寺工業高校シマコーに通い、喧嘩に明け暮れていた。二人三脚で率いた暴走族チームは警察とも激闘を演じている。一〇代から古豪ベテランと呼ばれる年齢まで闘い続けてきた経験が勘働きを養い、新人選手ルーキーの目論見を上回った次第である。

 キリサメは五枚の尾羽根をなびかせながらマットを蹴り、跳躍の勢いに乗せて右足を振り上げようとしていた。奇しくも先程の逆回しとなったが、今度は城渡のほうが両腕を交差させて蹴り足を受け止め、一九キロという体重差でもって力任せに押し返した。

 己の意思と無関係に着地キリサメの鳩尾には、垂直に立てた状態の拳が突き込まれた――が、命中する寸前で半歩ばかり後方うしろ退すさった為、威力も鈍痛いたみも、本来の半分程度しか骨身に達しなかった。

 キリサメは故郷ペルーける〝実戦〟の経験と電知から学んだ防御技術を応用し、痛手ダメージを減殺し得る手立てを試みたわけであるが、城渡の側はその動作うごきに沙門の面影を感じずにはいられなかった。今日の試合に先立って猛特訓をたすけてくれた日本最強の空手家は相手の技を瞬時にして見極めることに誰よりも長けていたのだ。

 互いの風聞うわさを耳にしながらも実際に対峙したことはなく、携帯電話スマホを介して少しばかり言葉を交わしたのみであるが、空閑電知と教来石沙門の二人が冗談めかして『柔道屋』、『空手屋』と愛称ニックネームで呼び合っていることを思えば、城渡の直感は偶然の一言で片付けられるものでもない。

 当人には間を取り持ったという意識などあるまいが、『柔道屋』の電知と『空手屋』の沙門を結び付ける糸を手繰り寄せたのは、その城渡と拳を交えるキリサメなのだ。

 キリサメ自身も城渡との距離がこれまでになく近付いていた。は比喩の類いではなく物理的なものである。退すさった分よりも更に深く踏み込んだ前者と、先程の一撃ボディーブローでは手応えが感じられず、痛手ダメージを減殺できない技を仕掛けた後者が互いの眉間をぶつけ合う恰好となったのである。

 内部のクッション材によって拳を防護する指貫オープン・フィンガーグローブを装着した状態では、手を用いた打撃の威力が大きく緩衝されてしまう。これに対して生身の部分を叩き付ける頭突きであれば、接触の際に生じた衝撃を脳まで完全に伝達させられるわけだ。

 マウスピースとファウルカップの装着をルールで義務付けている『天叢雲アメノムラクモ』だが、一方で多くの格闘技団体と同様に頭部を防護まもるヘッドギアは採用していないのである。


「石頭っつーコトならオレも自信があるんだぜェッ!」


 鈍い音がリングから天井へ駆け上っていったが、城渡はこの程度ではたじろがない。互いの鼻息が交わるような距離でキリサメを見据えながら愉快そうに笑っており、荒業を駆使した真っ向勝負こそ望んでいる様子であった。

 無論、城渡に圧し掛かった反動が小さかったわけではない。想定していた以上にキリサメの眉間は硬く、好戦的な笑みを浮かべた直後に膝から崩れ落ちそうになってしまった。

 それはキリサメの側も同様である。肉弾の二字を体現するような試合運びには観客も大いに沸き立ったが、〝石頭〟を競い合った二人は互いの戦意が途絶えていないことを確かめながら揃ってよろめいている。


「――原始ッ! おとこは火の玉だったッ! 小細工なんかが入る余地もない力と力の純粋なぶつかり合いッ! これが格闘の真髄だぁ~ッ!」


 リング内にて渦を巻き、観客たちを呑み込む形で炸裂したとてつもない熱量エネルギーに仲原アナも触発されたのか、スピーカーから飛び出す音声こえにも力が漲っていた。

 限界を超えて高まっていく熱気を断ち切るかのように木村レフェリーが選手ふたりの間に割り込んだのは、仲原アナが隣席となりに腰掛ける鬼貫道明から冷静に状況を見極めるよう窘められた直後のことである。


「おお~っと? 木村レフェリー、試合を中断させましたねぇ。一体全体、どうしたコトでしょう? 今の頭突き対決で出血した様子でもありませんし、まさかのテクニカルノックアウト? 鯉の滝登りみたいな盛り上がりに水を差すのは、ヤボといえばヤボですけど……」

「月並みにウナギ上りと言いたくなくて、わざと鯉の滝登りを持ち出した仲原さんには申し訳ないのですが、選手の状態を確かめるのは当然でしょう。かなり危険な形で頭部あたまをぶつけ合った感があります。試合の流れよりも安全を優先してくれた木村さんの判断に自分は拍手を送りたいくらいです」


 観客の熱狂を煽り立てる仲原アナの実況すら断ち切り、リングが軋むような攻防をした格好の木村レフェリーに対しては、四方の客席から批難ブーイングが降り注いだが、鬼貫道明は彼の判断を明確に支持した。

 『昭和の伝説』と畏敬される男だけに発言の効力は絶大である。〝格闘競技〟のルールは選手の安全を保障する為に存在する――と、人並み外れて逞しい顎を撫でつつマイクを通して諭した直後には場内の批難バッシングも一斉に収まったのだ。

 鬼貫はレフェリーの交代を求める無責任極まりない暴言に腹を立てて一喝したわけではない。選手の生命を守る為に不可欠な判断であったのだと、試合中断の理由が具体的に解説されたことで観客も得心できたのである。

 加えて城渡は第一Rラウンド序盤に〝神速〟の一撃でもって頭部に大きな痛手ダメージを受けている。ここまで異常もなくキリサメと闘ってきたのだから確率は極めて低かろうが、万が一にも脳が損傷していた場合には今し方の頭突きが致命傷となり兼ねないのだ。

 木村レフェリーの意向をこの場の誰より理解しているであろう医師リングドクターは、医療バッグと併せて緊急搬送用の担架まで用意していた。りきどうざん最後の直弟子として四〇年近くリングに上がり続けてきた自身の経験に基づき、「安全こそ最優先」と繰り返す鬼貫の言葉をそのまま体現する恰好でもあった。

 選手第一ファーストの姿勢にまで「没入感を阻害された」と怒鳴り散らす無分別な者は場内に一人として認められず、白サイドのコーナーポストに立つ統括本部長と主催企業サムライ・アスレチックス社員スタッフは、そのことにも安堵の溜め息を漏らした。

 木村レフェリーが両選手に意識混濁の有無などを確認している間、これを取り巻く人々は水を打ったように静まり返っていたが、一方の特等VIP席では『天叢雲アメノムラクモ』のに対する批判や皮肉が欧米の言語ことばでもって紡がれていたことであろう。

 急所への攻撃といった反則行為を除いて〝全て〟が解き放たれる『バーリトゥード』の延長にも近い体制であった最初期の『NSB』では頭突きも認められていたのだが、一九九七年にルールが見直されてからは全面的に禁止している。

 そもそも頭蓋骨の骨折ひいては脳の損傷と表裏一体であり、深刻な後遺症の原因にもなり兼ねない頭突きバッティングを採用している〝格闘競技〟の団体などは『E・Gイラプション・ゲーム』といった一部の過激な地下格闘技アンダーグラウンド団体くらいである。

 呂律や平衡感覚の異常などを厳密に確認していく木村レフェリーに対し、城渡は面倒臭そうに「オレは〝石頭〟だから平気だっつーの」と答えているが、頭蓋骨の厚みや痛手ダメージに耐え得る精神力は無傷と主張する根拠には足りないのだ。

 『NSB』のみならず、欧米の格闘技団体では頭突きバッティングを反則行為と明確に定めている。ボクシングを例に引くまでもなく、『MMA日本協会』が監督する総合格闘技MMAの団体も、打撃系の立ち技を競う『こんごうりき』も同様であった。

 いつかMMAがオリンピック正式種目に採用される機会が巡ってきたとしても、頭突きバッティングによる攻撃は間違いなくルールから除外されるであろう。

 現役引退後の人生を重んじ、後遺症予防の重要性を説き続けるスポーツ医学も盛んな日本にいて、〝プロ〟のMMA団体にも関わらず頭突きバッティングを有効としている『天叢雲アメノムラクモ』は極めて異質なのだ。

 国際基準の如く普及したMMAの試合場――金網に囲まれた八角形オクタゴンのケージではなく、未だにプロレス式の四角いリングを採用し続けることから『天叢雲アメノムラクモ』を敵視する銭坪満吉スポーツ・ルポライターのみならず海外メディアにまで「樋口体制は世界の潮流に逆行している」と批判されてきたのだが、は安全性の確保というルール策定も対象に含めているわけだ。

 二〇一四年六月現在の『天叢雲アメノムラクモ』は完全無差別級の試合形式を採り、頭突きバッティング寝ているグラウンド状態の相手に対する踏み付けストンピングも認可している。MMAという〝スポーツ文化〟を牽引してきた『NSB』ではいずれも再起不能の重傷を招く危険行為と捉え、ルールで明確に制限しているのだ。ドーピングに汚染されていた時期であっても、これだけは変らなかった。

 格闘家の生死すら美談として劇的に昇華してしまうくにたちいちばんの呪いが目に見える形で表れた〝樋口体制〟に対して、日米合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する『NSB』や、メインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』が好意的な印象を持っているはずもあるまい。

 それはつまり、〝スポ根〟という架空フィクションさながらの展開と引き換えに所属選手の生命を蔑ろにする現行のルールを木村レフェリーも快く思っていないということである。だからこそくにたちいちばん最後の弟子に契約解除を宣告される可能性も省みず、頭突きの撃ち合いに割り込んでいったのだ。

 樋口郁郎は日本格闘技界を牛耳る〝暴君〟である。目に見える形で反対の意思を示す代償は『天叢雲アメノムラクモ』からの追放だけでは済まないかも知れないが、そもそも木村レフェリーは審判ジャッジを誤ったときには比喩でなく本当に腹を切るという覚悟の持ち主であった。

 〝暴君〟の権力ちからに媚びへつらうのではなく、自らの信念に潔く殉じる男なのである。


「……僕、何かやっちゃいました?」


 第二Rラウンドの最中でありながら、突如としてレフェリーに試合の進行を制止されたことで不安が膨らんでしまったのは、生まれて初めてMMAのリングに立った新人選手ルーキーである。

 『天叢雲アメノムラクモ』のルールを完全にはキリサメは、無意識に反則行為を仕出かしてしまったのではないかと額から冷たい汗が噴き出し、決して小さいとは言えない玉を結んでいた。

 今し方の頭突きは〝フェイント殺法〟とは関係なく反射的に仕掛けたものである。思考かんがえるより先に肉体からだが動いた結果、MMAのルールに違反してしまったとすれば、リングサイドの席で初陣プロデビューを見守っている未稲にも申し訳が立たないのだ。


「やり過ぎじゃねぇぜ、キリー! 頭部アタマをカチ合わせるのも『天叢雲ウチ』ならアリだ! オレがおもてらくさいに叩き込まれた『にんぽうたいじゅつ』にも頭突きはあるし、前身団体バイオスピリッツの頃からドにカマしてやったモンさァ!」

「とにかく無事で安心したよ。だけど、試合中に眩暈や吐き気を感じたら、木村さんでも僕たちでも、どちらでも構わないからすぐに言ってくれ!」


 白サイドのコーナーポストに首だけを振り向かせ、互いの眉間をぶつけ合うという攻防の是非をたずねたキリサメは二人セコンド返答こたえによって一先ずは胸を撫で下ろしたが、同時に己が不安定な情況でリングに立っていることを改めて思い知らされた。

 故郷ペルーける〝実戦〟――即ち、相手の命を守る必要がない殺し合いの経験に基づいて引き出された反応に他ならない。先程の頭突きは偶然たまたま天叢雲アメノムラクモ』のルールで認められていたから反則と判定されなかっただけであり、キリサメ本人には運に救われたようなものとしか考えられなかったのだ。

 が悪化していけば、己の魂を塗り潰さんとする〝闇〟にも抗い切れなくなり、再び『天叢雲アメノムラクモ』のルールが脳内あたまのなかから消え去ることであろう。喧嘩殺法をふるう感覚そのものが格差社会の最下層まで引き戻された挙げ句、頭突きどころか、無意識に目突きまで繰り出してしまうかも知れない。

 ほんあいぜんを裏切らない為にも『ひきアイガイオン』の再現だけは断じて避けなくてはならないと、今一度、キリサメは己に言い聞かせた。


「――そう言や、沙門とは東北こっちで暫く一緒だったんだろ? もしかしてくみも――模擬戦スパーリングもやったんか? の動き、アイツみてェでゾクッと来ちまったぜ」

「お互いに試合を控えていましたから模擬戦そういうコトはありませんでした。確か〝見切り〟と言うのでしたっけ? 沙門氏の化け物じみた反射神経を真似するなんてそもそも不可能です」

「化け物以外の何物でもねェ〝神速はやさ〟を見せ付けといて、どの口でほざきやがるんだか」


 医師リングドクターに状況を報告し、医学的観点から試合継続の可否を仰ぐ木村レフェリーの背中を見据えながら、城渡は「こうなんべんも試合をぶった切られたらたまンねぇよな」と肩を竦めていた。双眸に滑り込んで煩わしいのか、指貫オープン・フィンガーグローブに包まれた手の甲でもって幾度も汗を拭っている。


「格闘技のコトならよ、沙門よりも目の前のオレから学びやがれってんだ。アイツは『こんごうりき』だぜ。所属先だって別じゃね~か。単車タンコロの知識で自動車クルマを語るみてェなもんだぜ」

「現在進行形で学ばせて頂いていますよ。……沙門氏の体重は知りませんが、おそらく城渡氏のような真似は出来ないかと。この重量おもみこそがMMAの学びと心得ています」

「だ~か~ら! 沙門とオレを比べるんじゃなくて、オレと沙門を比べろってんだ! 順番が逆だろ、逆! 別に〝せんぱいかぜ〟を吹かせるつもりなんかねぇが、蔑ろにされると寂しいじゃね~かよ、この野郎~!」

「自分から学べと言っておいて、答えに辿り着けない意味不明な発言を飛ばすのはやめて頂けませんか……」


 雑談に相槌を打ちつつも、キリサメは目の前に立つ〝先輩〟選手に対してる違和感を覚えていた。

 総合格闘技MMAのリングに立ちながら、あくまでも打撃にこだわり抜いてきた選手の凄味はここまでの攻防で思い知らされている。特に第一Rラウンドでの猛襲は防御ガードするたび筋肉にくも骨も軋み、耳障りな破断音が腕から聞こえなかったことが今でも不思議なくらいであった。

 頭突きを撃ち合う状況でも城渡の踏み込みには躊躇がなく、二〇キロにも近い体重差もあってキリサメのほうが競り負ける可能性は極めて高かった。

 それにも関わらず、キリサメはテクニカルノックアウトを宣告されることもなく立ち続けている。出血は言うに及ばず、意識に空白が生じる瞬間もなかった。衝突の際には頭部全体へ広がっていた痛みも現在いまは眉間の一点に留まり、秒を刻むごとに鎮まっていく。

 確かに脳も揺さぶられたが、心身に異常をきたすほどの衝撃でもなかった。人体で最も硬い部位による打撃を受けながらも、マットを踏み締めていられるこの状況こそが城渡の頭突きに致命傷となり得る威力がなかったことを証明しているのだった。


(……ジワジワといたぶるような真似は好きじゃないし、城渡氏にも失礼だけど、このまま体力を削り取っていけば、最悪の事態を避けられるのか……?)


 左右の手の甲で交互に拭い続けても間に合わない量の汗が噴き出し、肩が大きく上下するくらい呼吸も乱れている――第二Rラウンドのゴングが鳴ってからの城渡は〝神速〟を発動した直後の自分と余りにも重なるのだ。

 更に記憶を巻き戻してみれば、三月に開催された長野興行でも城渡は第二Rラウンドの途中で油が切れたブリキ細工のように身のこなしが鈍くなり、そこから対戦相手アンヘロ・オリバーレスに仕留められるまでは大した時間も掛からなかったのである。

 城渡マッチが日本MMAを黄金時代から支えてきたことは、銭坪満吉のように悪意に歪んだ見方しか出来ない者を除けば、誰にも疑いようがない。格闘技そのものに対する知識が足りていない新人選手ルーキーも、全身に刻まれた痛みを通して古豪ベテランの拳に握り込まれた歴史の重みを実感している。

 一九九七年から数えて一七年という歳月は、城渡にとって数多の戦友たちと積み重ねてきた掛けがえのない〝誇り〟であろう。しかし、現在いまは生きとし生ける存在モノの肉体を容赦なく衰えさせていくときの無情さが諸刃の剣と化して彼の身を斬り付けていた。

 少なくともキリサメの双眸には一七年の歴史が城渡の全身に食い込み、筋肉にくも骨も引き裂いているようにしか見えなかった。

 若さと老い――どうあっても抗えない残酷な〝現実〟が両者の間に横たわっている。六〇〇〇日を超える時間は、新人選手ルーキー古豪ベテランをそれぞれ正反対ので包み込んでいた。

 Rラウンド間のインターバルによって呼吸を整えることが出来たキリサメとは正反対に、城渡はヴァルチャーマスクの乱入によって規定の六〇秒を超える時間を休息に充てられたにも関わらず、第一Rラウンドで消耗した体力が殆ど回復していない。

 瞬間的な疲弊ということであれば、〝神速〟を発動した直後のキリサメのほうが遥かに深刻であったが、防御まもりに徹しながら呼吸を整えている間に全身を絶えず切り刻む激痛いたみも鎮まってきた。

 現在いまの城渡が一回り以上も年の離れた新人選手ルーキーと同じ手立てで復調できるとは思えないのである。体力が底を突くような状態は、四肢に十全の力が込められなくなることをも意味し、身のこなしも鈍っていく。必然的に打撃の威力も著しく低下してしまうわけだ。

 大きな踏み込みから繰り出される頭突きでキリサメの意識を断ち切れなかったという事実は、そのまま両者の年齢差を表している。

 このような事態に立ち至ることを懸念していたからこそ、セコンドの二本松は体力の浪費を戒めてきたのだ。


「――セコンドから同じことを言い付けられているとは思うが、念の為にもう一度。城渡選手もアマカザリ選手も、少しでも身体がおかしいと思ったら、試合の最中であろうとも構わず申告しなさい。こちらも明らかな変調を認めたときには然るべき措置を取ります。どちらも自分の身を一番に考えるように。……人生はリングの〝外〟で続くのだからな」


 キリサメの頭部あたまと接触した際にヒサシの如く突き出したリーゼント頭が少しばかり崩れてしまった程度で、両者の体調に異常がないことを確認した木村レフェリーは、程なくして試合再開を宣言したが、その直前まで城渡は顔面を濡らす大量の汗を拭っていた。

 彼もキリサメもインターバルの最中にスポーツドリンクで水分補給を行ったが、前者は飲んだ端から剥き出しの上半身に噴き出しているようにしか見えないのである。


「おやおや~? このおじさん、放っといても勝手にブッ倒れるんじゃない? 見てらんないくらいヘロヘロじゃん。第二Rラウンドに入っても元気いっぱいでモンゴルの相撲取りをブチのめしたサミーの新しいお父さんとは大違いだよ。みたいにヤるんだよね? 小突き回して弱らせた相手にトドメを刺すのもサミーは面白がって――」

「――マッチ相手に当たり負けしねェとは大したモンだ! これこそキリーの身体能力フィジカルがヴァルチャーの兄ィにも肩を並べるっつう証拠! そして、『天叢雲アメノムラクモ』MMAの最前線でも通じるってェイチバンの証明だぜ! 真っ向勝負で押し切っちまえッ!」


 城渡の心身を蝕んでいるであろう疲弊の度合いを見極めようと目を凝らすキリサメの耳にどこからともなく・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの囁きが滑り込んできた。

 会場のどこかでリングの有りさまを見物している砂色サンドベージュ幻像まぼろしは、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長と比較して城渡を貶めようとしたが、キリサメの神経を逆撫でする囁きは白サイドのコーナーポストから無遠慮に押し寄せてくる岳当人の大音声でもって跡形もなく吹き飛ばされた。

 日々の生活くらしいては耳障りでしかない喚き声が今はこの上なく頼もしかった。想い出の彼方に消えながらも執念深い怨霊の如く地上に留まり続ける幼馴染みは、心に迷いが生じた隙を狙ってキリサメの存在ことを〝地球の裏側〟に広がる格差社会の最下層まで引き戻そうとするのだ。

 スポーツとしての〝格闘競技〟を理解し切れないままプロデビューを迎えてしまったキリサメにとっては、る種のを引き摺り出される誘惑にも近いのだが、養父の声が鼓膜を震わせている間はMMAのリングから意識が離れてしまうことはないだろう。

 この情況も第一Rラウンドとの差異ちがいであった。キリサメからすれば間接的にも直接的にも養父の恩人――かつてヴァルチャーマスクと呼ばれた仏僧おとこに振り回された結果でもあるが、いずれにせよ白サイドは選手とセコンドが真っ直ぐに同じ方向を見つめるようになっていた。


「お喋りなんてガラじゃねェし、ぼちぼちもう一発、面白ェのを行くとするかァッ!」

「城渡氏を満足させられるよう全力を尽くします」

「そうこなくっちゃよォ! MMAは観客だけを満足させても意味がねぇ! 選手同士が最高に燃えなきゃ始まらねェんだ! ますます楽しんで行こうぜェッ!」

「MMA選手がであることは、岳氏を見ていても理解わかりますよ。ですから僕は――城渡氏たちのように歴史を背負っていない新人は〝先輩〟に喰らい付くだけです」


 二本松が制止を呼び掛けるより早く城渡がマットを蹴り付けたのは、木村レフェリーが両腕を交差させた瞬間のことである。

 これに応じて正面切って突っ込んでいくキリサメは、故郷ペルー公用語ことばによってもたらされた懐かしい残響を脳内あたまのなかから追い出すようにかぶりを振った。

 剛毅な態度でも誤魔化しようがない消耗は城渡自身が誰よりも理解しているのだ。〝誇り〟として背負っていくべき日本MMAの歴史に肉体からだのほうが耐えられなくなっているという〝現実〟も同様であろう。

 ヴァルチャーマスクが自らを犠牲に捧げて踏み出した大いなる一歩から一七年――もはや、余りにも重い歳月を己の四肢で支え切れないほど疲れ果てようとも、その苦しみを後に続く新人選手ルーキーには決して晒さず、勇猛果敢な笑顔で迎える古豪ベテランの高潔さをキリサメは誰にもけがされたくなかった。

 ましてや、自分以外の遺志きもちに縛られ、本当ならば関わらずにいられたはずの騒乱へ投じた挙げ句、何の意味もなくした幼馴染みにだけは城渡マッチの生きざまを否定されたくなかった。


「何もかもヴァルチャーのあにさんに倣わなくても構わないって、センパイ、さっき自分でも言いましたよね? でしたら、そろそろセンパイ自身の経験からキリサメ君に助言アドバイスしてあげましょう。あにさんには敵わないって養子こどもの前で認めてしまったら『超次元プロレス』が廃りますよ」


 五枚の尾羽根でもって半円の軌道を描くように右の前回し蹴りを放ち、同時に自分の顔面を抉らんとする城渡の左拳を首だけ横に振ってかわし切ったキリサメに感嘆の溜め息を漏らした麦泉は、次いで真隣となりに立つ岳の脇腹を肘でもって軽く小突いた。


「オ、オレだってそこまで卑屈になっちゃいねェつもりだぜ! ……こんな考え自体が古臭くて時代遅れなのかもだけどよ、〝親父の教え〟ってモンは背中で子どもに示してやりてェんだよ。オレの試合さえ見とけば理解わかるってな具合でよ! ェの口で生きざまをベラベラと語り聞かせてもカッコ付かねェだろ?」

「別にセンパイの気持ちは関係ないんですよ。要は今日の試合を組み立てる上での手掛かりです。さっきも咄嗟に『ダブルスレッジハンマー』を応用したみたいですし、キリサメ君は賢い子だから技の要点を伝えるだけでも戦略の幅が広がるんじゃないでしょうか」

「オレは今、猛烈に哀しいぜ。文多おまえは何時からマン理解わかんねェ出涸らしみてェな大人になっちまったんだよ!」

「と言うかですね、キリサメ君、センパイの試合は長野興行のたった一度しか観戦していないじゃないですか。開会式オープニングセレモニーのVTRに混ざっていた一九九七年の試合だってほんの一部だけですし。格好が付く場面だけ抜き出した編集もあざとくて――」

「てめーはいちいち! この野郎~!」


 木村レフェリーに「仲間割れはなるべく控えてください」と注意されながら麦泉の首を絞め上げる岳であるが、長年の相棒が伝えたかったことは理解している。

 〝フェイント殺法〟の是非について結論を出せないまま第二Rラウンドが始まった為、選手キリサメとの間に多少の齟齬は残っているものの、MMAの試合にいて有効な戦略を授けていくという方針は麦泉もう一人のセコンドと確認し合っていた。

 だからこそ、ヴァルチャーマスクの偉大さを熱弁するのではなく〝日本MMAの父〟が試合で用いた技を例に引き始めたのである。麦泉はその中に『超次元プロレス』も含めるよう提案しているわけだ。

 若かりし頃に極めた忍術に基づき、独自に完成させたプロレスを養子へ伝えることは、養父にしか許されない〝特権〟だろう――その説得ことばに岳の心が動かないはずもあるまい。照れ隠しの咳払いを一つ挟んだのち、肺一杯に空気を吸い込んだ。


「日本のMMAが今の『天叢雲アメノムラクモ』よりもっとバカデカいお祭り騒ぎだった頃――前身団体バイオスピリッツの大晦日大会で養父とうちゃん、戦国時代から果たし状を叩き付けられたんだよ。オレの師匠がさなにんぐんの末裔ってのは話したよな? 真田家がまつしろはん一〇万ごくの大名になる前から仕えていた忍者の奥義が『超次元プロレス』の基礎ベースってワケだ。真田家と同じ長野県出身の家ってェ戦国武将が居てな、子孫の一人が遥々流浪ながれて鹿児島県に根を下ろしたんだけど、その間に『おおざかの陣』でさなのぶしげ……『ゆきむら』ってのほうが有名か? 昔馴染みの真田家が生んだ名将とも戦ったんだよ。再来年の大型連続時代劇の題名タイトルにもなった最強のじろの合戦で――」

「すみませんが、岳氏の昔話に付き合っていられるヒマはありません。なるべく手短にお願いします。それが無理なら後は麦泉氏に任せて、先に『八雲道場』へ帰ってください」

「見たか、聞いたか、文多⁉ やっとちょっと歩み寄ってくれたかなァって油断した矢先に東北から蹴飛ばされちまったぞ⁉ もはや、立派な家庭内暴力じゃねーかッ!」

「いや、今のはセンパイが全面的にダメでしょう。確かに『超次元プロレス』がヒントになるハズとは言いましたけど、一試合丸ごと口頭で説明しろって意味じゃありません。それ以前に何の脈絡もなく戦国時代まで遡ったら誰だって聞く気が失せますよ」


 『超次元プロレス』を伝えるべく前のめりとなった直後、養子キリサメ本人から全面的に拒絶されてしまった岳は歯軋りと共に地団駄を踏んだが、も無理からぬことであろう。試合中の選手に対する説明の仕方としては最悪の部類であった。

 岳が語ろうとしたのは『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体『バイオスピリッツ』が一年の締めくくりとして開催した最大規模のMMA興行イベントである。大晦日の夜に格闘技の生中継が地上波三局を占めていた黄金時代の想い出話とも言い換えられるだろう。

 自らも大晦日のリングに臨み、岳の試合も現地で見守った城渡は、脇腹を狙ってきたキリサメの右拳を乱暴に叩き落としつつ、麦泉と同じ呆れ顔で「どれくらいむすにみっともねェトコを見せられるのかって挑戦チャレンジでもしてんのか」と吐き捨てた。


おめーが言ってんのは『』とり合った試合だろ。戦国時代から続く因縁にケリをつけるって触れ込みで始まったヤツ。『真田家お抱えの忍者の末裔の弟子が標的ターゲット』っつう回りくどくて無理のある筋書きシナリオだったよなァ」

「城渡さんの説明に乗っかるようで気が咎めるのだけど、そのという日本人選手との対戦が決まってから『真田家ゆかりの忍術なんか見掛け倒し。飛んで跳ねてウケを狙う遊戯おあそびを戦国時代から続けてきたイカサマ野郎』と、センパイはしつこく挑発されていたんだよ。真田家の血筋でもないセンパイからすれば、ただの言いがかりなんだけどね」

「おめーのオヤえてのナメた態度に真っ向勝負で応じたんだ。曲芸みてェに飛んで跳ねてヤツを振り回して、目ェ回したところでトドメって寸法でな。八雲岳そいつの試合の中では一番、忍者っぽい闘い方だったな――って、何でオレまでバカの〝ケツ持ち〟に参加させられてんだ」

自宅いえを留守にして随分と経ちますし、そろそろ郵便受けも詰まっている頃合い。岳氏には郵便物や新聞の回収をお願いできないでしょうか? セコンドに付いて貰う理由を本格的に見失ってしまいましたし……」

「オレもこの後に試合あるんだよ⁉ モロッコの有望株と! チキショ~! 見てろよ、キリー! 厄介払いを企んだのを後悔するくらいブッ飛んだ『超次元プロレス』で度肝を抜いてやっからなッ!」


 麦泉と城渡が引き継いだ解説はともかくとして、岳が長々と続けていた戦国時代の昔話をキリサメは聞き流している。この試合にいては全く必要ないという判断を親不孝のように責める者もいないだろう。

 印象に残った情報ものといえば、養父が前身団体バイオスピリッツ興行イベントで対戦した選手――『』という風変わりな名前くらいである。

 麦泉も城渡も言及しなかったが、『紀伊』は本名ではなく、先祖代々に亘って受け継がれてきた由緒ある通称――専門用語ではりょう――であり、日本が江戸時代を迎える前後までは『いのかみ』と略さずに名乗っていた。

 現在の鹿児島県に根を下ろしたという依田家の末裔が古めかしい通称をリングネームに定めたことも、耳を傾ける気も起きなかった岳の昔話がのちのちに意外としか表しようのない形で自らの前に立ちはだかることも、現在いまのキリサメは夢想だにしていない。

 今し方の話から養子が受け取ったのは、を返り討ちにした戦法である。


「腐れ縁でついノッちまったがよ、バカのケツは身内てめーらだけで持ちやがれてんだ」

「……僕が御剣氏の身勝手に巻き込まれたのは、ごく最近なのですけど……」

「ここで恭路の暴走それを持ち出すか⁉ バカおやと顔突き合わせてる間にツッコミの切れ味が鍛えられたってかッ!」


 足裏を前方に突き出すような蹴り技ヤクザキックでもって防御ガードごとキリサメを弾き飛ばした城渡は、これを追い掛けながら更に大きく踏み込み、軸足を入れ替えつつ後ろ回し蹴りを繰り出したが、天空へばたかんとするケツァールの如き尾羽根も捉え切れなかった。

 ヒサシの如きリーゼント頭にリングを翔ける鳥の影が落ちたのは、その直後である。頭上を飛び越えることで後ろ回し蹴りを避け切ったキリサメが右側面に降り立ったと直感した城渡は、その場で二回転するようにして裏拳打ちバックブローへと転じ、これを迎え撃とうとした。

 しかし、今度も空振りに終わった。気付いたときにはキリサメは背後に回り込んでいたのである。言わずもがな、ただ城渡を驚かせただけではない。両腕を脇の下から潜らせ、素早く羽交い絞めにしてしまった。

 キリサメがこの体勢に入った瞬間、リングサイドの関係者席で試合を見守っていた未稲は、隣席となりに座る弟の頭に丸メガネが吹き飛ぶほどの勢いで立ち上がった。

 実父――八雲岳が〝プロレスの神様〟から伝授されたジャーマンスープレックスに近い仕掛け方であるが、空閑電知との路上戦ストリートファイトで試みた大技であったのだ。

 相手を羽交い絞めにして身動きを封じたまま高く飛び跳ね、脳天を地面に叩き付けて粉砕する〝切り札〟の一つであった。本来は高い位置から飛び降り、自滅を覚悟して標的と一緒に急降下するものであった。

 最終的には破られてしまったが、電知に仕掛けた際にも路上戦ストリートファイトの舞台となった自動車整備工場の簡易ガレージに飛び移り、最も高い位置から投げ落とそうとしたのである。


「先ほど自分はアマカザリ選手こそが『超次元プロレス』の跡取り最有力候補と述べましたが、その気持ちがますます強まってしまいました。いやぁ、この試合運びは前身団体バイオスピリッツの時代が想い出されてなりません」

「八雲統括本部長と選手の大晦日決戦ですね。当時はまだその肩書きを名乗ってはいませんでしたが……」

「時代劇やアニメの影響で忍術という言葉は派手な印象イメージが独り歩きしていますが、忍者の使命はそもそも近接戦闘ではありません。八雲選手が極めた『忍法体術』も、本来は潜入先で遭遇した敵を制圧し、窮地から脱する手段でした。選手との一戦は、その特性を遺憾なく発揮していましたね」

「忍者さながらのアクロバティックな動作うごきで幻惑された選手、最後は八雲統括本部長に肩を極められて降参ギブアップ――『忍ばない忍者は種を暴かれた手品師と変わらない』という挑発をきっちりお返しする試合だったと私も記憶しています」


 実況席の二人が岳との試合を回顧している間、キリサメに投げられまいと堪え切った城渡は、肩に対する拘束を力任せに引き剥がし、次いで振り向きもしないまま左右の肘を後方うしろに突き込んだ。

 交互に放たれた肘打ちもキリサメには命中しなかった。身を沈み込ませながらかわし、大きく開いた状態でマットを踏み締めている両足の間――股の下をスライディングの要領で潜り抜け、驚愕を帯びつつ城渡の正面に現れたのである。

 片腕でもって全身を持ち上げ、これを軸に据えて駒の如く両足を振り回し、城渡をたじろがせた――我が身に備わった敏捷性と、互いの体格差を生かした奇襲である。サーカスの衣装と見紛うばかりの試合着ユニフォームということもあり、傍目には曲芸を披露しているようにも見えたことであろう。

 五枚の尾羽根が逆巻くと、場内を感嘆の溜め息が埋め尽くした。試合着ユニフォームの〝開発〟に携わったたねざきいっさくは、あるいは計算に入れてデザインを仕上げたのかも知れない。


「オレに説明させたバカオヤの戦法をオレにそっくりカマそうってか! この野郎、いい度胸じゃねぇか! そうでなくちゃ面白くねェッ!」


 片腕一本の屈伸で軽く跳ね、素早くマットを踏み締めたキリサメの動作うごきを双眸でもって油断なく追い掛けた城渡は、横薙ぎの右拳で迎撃を試みる。

 これに対してキリサメは自分に向かって振り抜かれてくる豪腕に逆らうような形で跳ね飛び、上体を引き起こすよりも早く城渡の右側面へと回り込んだ。


「ほんの少しでも城渡氏を楽しませていられるのなら幸いです。……沙門氏は格闘技の試合を交流コミュニケーションのようにたとえていましたが、それってなのかな」

「てめッ! だからよ、オレを基準にして沙門のマセガキを比べやがれってェの! 拳で語らう愉しさを叩き込んでるのはオレなんだからよォッ!」


 前身時代バイオスピリッツの試合が二〇一四年のリングで再現されている状況をも楽しみつつ、気合いの吼え声と共にキリサメを追い掛けていく城渡であったが、その動作うごきは二本松が唇を噛むほどに遅れていた。

 失速と表すのが最も正確に近いであろう。キリサメの身のこなしを双眸で見極め、その目論見をあたまで読み抜いても、肉体からだのほうが反応し切れない様子であった。ほんの一瞬であり、すぐさまに姿勢を整え直したのだが、左の前回し蹴りでもって反撃を仕掛けようとした際には足がもつれそうになっている。

 がキリサメの組み立てた〝フェイント殺法〟であった。真田忍者となる選手との複雑な対立関係を左から右へと受け流しながらも、養父が披露したという試合運びは冷静に聞き分け、を自らの闘いに反映させた次第である。

 黄金時代から日本MMAのリングを守り続けてきた古豪ベテランは、いよいよ疲弊の影響を抑え切れなくなっている。〝ボンタン〟の上からでは確かめようもないが、横殴りの鉄槌ダブルスレッジハンマーで強打された左脛も青く腫れているはずだ。痛みには耐えられても、足さばき自体が鈍くなることは本人にさえ如何ともしがたいだろう。

 それ故にキリサメは前回の長野興行にいて城渡が対戦相手アンヘロ・オリバーレスに完敗した試合運びをも踏まえ、彼の体力を著しく消耗させたところで仕留めるという〝罠〟を張ったのだ。作戦というよりも殆ど根競べにも近い。

 図らずもの囁きをれたような恰好となり、そのことに対する蟠りは決して小さくないのだが、一七年という歴史のに狙いを定めれば、第二Rラウンドで決着を迎えられるだろう――最後には年齢の差が勝敗を分けると確信していたキリサメは、これが救いようのない愚かな浅慮であると、城渡マッチ当人から思い知らされた。

 無防備な側頭部への殴打を警戒する城渡は、僅かに姿勢を崩したまま前回し蹴りを繰り出した。これに対してキリサメは半歩ばかり踏み込み、防御ガードの為に持ち上げた右下腕に足の甲ではなく。電知との打撃訓練トレーニングで学んだ通り、技の威力が最も発揮される〝点〟を外してし掛かる衝撃を最小限に抑えたのだ。

 これによって城渡の動きを完全に堰き止めたつもりであったのだが、新人選手ルーキーの思い上がった判断など古豪ベテランの技術は容易く上回る。城渡は前回し蹴りに放った左足を引き戻しながら、キリサメに対の腕を伸ばしていった。

 拳を握り締めるのでもなく、岳が注意を呼び掛けたような投げ技を試みるのでもない。薄気味悪いほど緩やかにキリサメの後ろ首へ左手が添えられた。攻撃の意思が感じ取れなかった為、引き締めていたはずの警戒心さえすり抜けられてしまったのである。

 城渡が狙いを定めていたのはシャツの後ろ襟である。五指でもってを掴み、次いでキリサメの上体を力任せに傾がせたのだ。


は沙門氏も使った――」


 己の身で体験するのは初めてだが、は井の頭恩賜公園の乱闘で教来石沙門が披露したものと同じ〝サバキ〟である。『くうかん』の組織改革に抗わんとする者たちが差し向けた刺客を迎え撃つという内紛の場に居合わせ、日本最強の空手家の妙技を目の当たりにしたキリサメが見間違うはずもなかった。


(本当のバカは他の誰でもない僕だ。城渡氏と沙門氏が同門だと知っていたのに――)


 『くうかん』は直接打撃フルコンタクトの空手であるが、最大の特徴は〝サバキ〟と呼ばれる技法だ。

 相手から突き込まれる打撃を巧みに受け流し、そのまま姿勢を傾かせるほか、投げをも併用して攻防を組み立て、無防備化させた上で必殺の一撃を叩き込む――これこそが〝サバキ〟の神髄であり、『くうかん』はそのさきがけとなった道場である。


「折角、巡ってきた好機チャンスだ。じっくり観察しておけよ、キリサメ。これから『天叢雲アメノムラクモ』のリングで〝世界〟を相手に闘うお前さんにとっちゃ絶対に学ぶコトが多いぜ」


 『くうかん』の内輪揉めを共に見守った日本MMAの先達――じゃどうねいしゅうの言葉がキリサメの脳裏に甦った。

 打撃系立ち技格闘技の興行イベントである為、相手に組み付く行為がそもそもルールで禁じられている『こんごうりき』では沙門ほどの熟達者でなければ〝サバキ〟は使いこなせないが、同じ術理の技法はMMAの試合にいて極めて有効――キリサメは先達の助言アドバイスを自己嫌悪と共に噛み締めている。

 沙門の同門ならば、〝サバキ〟も体得していて当然であろう。その想定が全く欠落していた為、迂闊にも『くうかん』空手が掌握する間合いへ入り込んでしまったわけである。


は好かねェんだがよ、だからってダセェ姿を後輩にゃ見せらんねーしなァ!」


 右手一本でキリサメの姿勢を崩したときには、既に対の腕は後方に引き付けられ、拳も固く握り締めてある。沙門が刺客を平らげた乱闘ときと必殺の一撃を――顔面を狙って反撃の鉄拳を突き込もうとしていた。


(感じたこと全てを考え抜け……! 経験も実績も違い過ぎる本物の〝プロ〟へ喰らい付くにはそれしかないだろう……ッ!)


 城渡の体力がもう少しだけ残っていれば、左腕全体のバネを引き絞るという強烈な一撃でもってKOによる勝利を得られたことであろう。あるいはキリサメと沙門の出逢いが攻防の行方を分けたのかも知れない。

 キリサメの網膜に焼き付いた沙門の〝サバキ〟は、日本最強の空手家という呼び声に相応しく芸術性を感じるほど流麗であったが、城渡のは腕力にるところが大きく、単調であるが故に動作うごきを見極めることは難しくなかった。

 加えて相手に掛けようとする負荷も感じ取り易い。キリサメはシャツの後ろ襟を引っ張る力の作用にえて抗わず、姿勢を崩されながらも自由に動かせる左拳で迎撃を試みた。横薙ぎの左拳フックでもって城渡のこめかみを撃ち抜き、己の眉間を突き破らんと迫ってきた鉄拳は歯を食い縛って耐え抜いたのだ。

 力を込めにくい状態から殴り付けた為、虚を衝くことは出来ても大した痛手ダメージは与えられなかったであろうが、『くうかん』の〝サバキ〟から逃れるという目的ねらいは達せられた。

 尤も、攻守の動作を一体化させたような荒業は城渡の消耗が激しければこそ成立したようなものである。後ろ襟を引っ張ろうとする力の作用も抗い切れないまま巻き込まれるという程には強くはなく、中心に通しておくべき〝芯〟が四肢からけ始めているようにも感じられたのである。

 一等強くマットを踏み締めた直後、左足裏が微かに浮いたようでもあった。おそらくは体重を掛けた際に左脛の痣を激痛が突き刺し、城渡の意思を超えて肉体からだのほうが反応してしまったのだろう。


「城渡選手が見せたのは『くうかん』仕込みの〝サバキ〟ですね。『天叢雲アメノムラクモ』で使うのは久しぶりでしたが、アマカザリ選手も捕まえられた状態からを返してしまうとは。〝八雲岳の秘蔵っ子〟という触れ込みがメッキでないことをどんどん証明していきますねぇ」

「一旦離れろ、雅彦! 相手のペースに乗せられるな! 今は足を止めるんじゃない!」


 マイクとスピーカーを通してキリサメに向けられた鬼貫道明の称賛と、青サイドのコーナーポストから城渡に仕切り直しを呼び掛ける二本松の大音声がリング上でぶつかり合った。

 白熱する城渡の耳に二本松の訴えが届いているのかは疑わしいものである。


「悪くないよ、キリサメ君! 第三Rラウンドまで引っ張っても構わないからね! 攻め急ぐと今みたいにカウンターを狙われるから気を付けて! じっくり行こう!」

「このRラウンドでキメちまおうや、キリー! ヴァルチャーのあにィも勝負所には大胆に踏み込んでいったもんさ! 今こそ会心の一撃だぜッ!」


 白サイド二人セコンドが発した助言アドバイス普段いつもの如く噛み合っていないが、奇妙な偶然というべきか、正反対の指示を複合して半分に割ると、キリサメが脳内あたまのなかで捏ね返している作戦に辿り着くのである。

 〝サバキ〟を外された城渡が後方うしろに飛び退りつつ牽制の為に左足裏を突き出した瞬間、キリサメはこれを追い掛けるように自ら懐深くまで飛び込んでいく。迫り来る蹴り足を右拳で弾き飛ばすと、更に半歩ばかり踏み込んで対の手を繰り出した。


「――ンなッ⁉」


 城渡の顔面に迫ったのは拳による打撃ではなかった。キリサメは右掌でもって目隠しを試みたのである。目を狙った攻撃にも見える為、木村レフェリーも思わず身構えたが、ついに反則を宣告することはなかった。

 『天叢雲アメノムラクモ』のルールにいて目隠しは禁じられておらず、キリサメがを仕掛けたのもほんの一瞬でもあった為、木村レフェリーにも注意しようがないのである。

 原始的な方法で視界を塞がれた城渡が次に見たのは、天井に設置された眩い照明だ。目隠しに続けて、キリサメの膝蹴りでもって顎を撥ね上げられた。

 右膝を突き上げつつ、そのまま大きく跳躍したキリサメは空中で身を捻り込み、斜めの軌道を描くようにして左足を振り落とした。


「面白くて仕方ねェよな、アマカザリィッ!」


 死角からの追撃ということもあり、必ず命中させられると確信していたキリサメだが、投げも寝技も、何もかもが許されるMMAのリングで日本にける黎明期から打撃にこだわり抜いた古豪ベテランは、簡単に突き崩せるものではなかった。

 目隠しで不覚を取ったものの、頭部に迫る殺気を感じて素早く身をかわし、軸足の回転のみでキリサメに向き直りつつ右足を振り上げた。外から内へと閃く上段蹴りハイキックでもって〝ケツァールの化身〟を撃墜するつもりである。

 経験に裏打ちされた反応は確かに鋭かったが、軸として据えた左足の負傷と、その影響は補えない。蹴り足が命中する前にはキリサメもを完封する態勢を整えていた。

 〝ケツァールの尾羽根〟ともたとえられる長い帯の一本を左手に掴んだキリサメは、城渡の右膝にこれを素早く巻き付け、その一点を軸に据えて空中で投げを打ったのだ。「紐で括った物体を地面に叩き付けた」と表すほうが実態に近いのかも知れない。


「こ、これが〝地球の裏側〟の喧嘩師⁉ インカ帝国の秘義が今! 日本人が常識と信じてきた格闘道をブチ破る! 黄金に輝く奇跡が『天叢雲アメノムラクモ』に舞い下りたァッ!」


 思わず実況席から身を乗り出してしまい、隣席となりの鬼貫道明から咳払いでもって窘められてしまったが、仲原アナの驚愕と昂奮は場内の誰もが分かち合っている。

 一九九〇年代に産声を上げた総合格闘技MMAの歴史を紐解いても、キリサメが繰り出した技は前代未聞であったのだ。試合着ユニフォームの帯で足を締めつつ空中にて投げ落とす――人間という種を超越する〝神速〟に戦慄させられた人々を再び打ちのめすには十分な衝撃であった。

 互いに絡み合わせるような形で腰に締めている三本の布切れは、風になびくとケツァールの尾羽根のように舞い踊る。岳の要望を受けて試合着ユニフォームのデザインを仕上げたたねざきは、がただの装飾かざりではなく武器としても大いに利用できると仄めかしていたのだ。

 今し方の変則的な投げ技は、キリサメと種崎の二人で編み出したようなものである。


「やるじゃねーか、キリーッ! お前は今! ヴァルチャーマスクのあにィを超えたぜ!」


 キリサメの披露した離れ業に昂った岳は、左右の拳を勢いよく突き上げた。

 メキシカンプロレス『ルチャ・リブレ』を極めた〝超人〟――ヴァルチャーマスクは自由自在ともたとえられる鮮やかな身のこなしで空を翔け、日本中を魅了してきたのだが、キリサメが繰り出した技は養父のなかで恩人の活躍すらも上回ったようである。

 真隣となりに立つ麦泉は「さすがに親バカが過ぎますよ」と苦笑いで頬を掻いているが、リングへ舞い降りた養子キリサメに釘付けとなっている岳当人は周辺まわりの情報を断片すら拾っていない。

 岳一人ではない。ヴァルチャーマスクその人が特等VIP席で試合を見守っていることを観客の誰もがおぼえていなかった。ハゲワシのプロレスマスクを自らの手で、日本のリングを去っていった男の帰還による驚愕が新たな衝撃で完全に上書きされたのである。


「毎回毎回……目からウロコなコトが起きるからよ……MMAはやめらんねェ……ッ!」


 膝を支点としてマットに叩き付けられた城渡は依然として不敵に微笑んでいるが、声の調子からも苦悶を押し殺すことは難しそうである。巻き付けられた帯によって振り回されている間に関節を捻られ、じゅうによる負荷までもが右膝に集中してしまったのである。

 キリサメにとっては右足に痛手ダメージを与えることが目的ねらいであった。この影響で即座には起き上がれなくなっている城渡に対し、左右の側頭部へ立て続けに蹴りを見舞った。

 さしもの古豪ベテランもこればかりは避けようがなく、無防備のまま左右の蹴りでもって脳を揺さぶられてしまったが、三撃目が放たれる前には身を転がし、キリサメの足が届かない位置まで逃れた。


「木村君――レフェリー! は武器に入るんじゃないのか⁉ 反則じゃないか⁉」


 この場に居合わせた人々と同様に想像を絶する妙技によって思考回路そのものが凍り付いていた二本松は、我に返った途端に木村レフェリーへ抗議を申し入れた。

 頭突きバッティングの採用や完全無差別級試合など、「国際的な潮流に逆行し続けている」という批判を浴びてきた『天叢雲アメノムラクモ』であるが、徒手空拳による〝格闘競技〟という本質は堅持しており、武器の使用を全面的に禁止している。

 即ち、青サイドのセコンドは腰に巻いた帯を駆使する投げ技はルールに違反していると主張したのである。

 その申し分には一理ある。反則と判定すべきか否か、木村レフェリーに迷いが生じたと見て取った岳は「反則には当てはまらねぇよ!」と白サイドのコーナーポストから反論した。


「過去の試合を掘り返すまでもねぇ! ブラジリアン柔術にも帯や道衣を使った技があるだろうがッ! それと一緒だぜッ!」

「際どいところかも知れませんが、八雲統括本部長が話した通り、自分も反則行為には当たらないと認識しています」


 木村レフェリーは岳の剣幕にも気圧されなかった。統括本部長の発言力は『天叢雲アメノムラクモ』の内部でも絶大であるが、それにも屈せず「帯を武器と見做すのか」という問題提起を慎重に考えようとしていた。

 鬼貫道明が肯定的な見解を示したのは、木村レフェリーにとって予想外であった。解説担当者の調に不服を訴える声も、場内から一つとして上がらなかった。観客までもが反則ではないと納得させられていたわけだ。

 ヴァルチャーマスクを凌ぐとさえ感じられる身体能力に誰もが魅入られていた――が説得力に換わったのである。


「待ってくれ、それは贔屓ってもんじゃないか⁉ 公平性を欠くんじゃ――」

「――オレは別に反則だなんて思っちゃいねぇよ。こいつの喧嘩技は〝地球の裏側〟のモンだろう? 日本のモンと勝手が違うのは当然じゃねーか。ンな小せェコトでガタガタ抜かすほどオレも落ちぶれちゃいねぇぜ」

「しかしだな、雅彦……」

「心配性も度を超すとオレの顔に泥塗るのと変わんねぇぜ、剛。ちったァオレを信じろ。新人相手なんだ。くらいはハンデだろうが」


 なおも食い下がろうとする二本松セコンドを抑えた城渡は、額に脂汗を滲ませながらも決して笑顔を崩さない。右膝の損傷ダメージを隠す為の芝居などではなく、足全体に及ぶ激痛さえも試合の一部として満喫している様子なのだ。おそらくは左脛の負傷も同じであろう。


「お前が秘めてるモンをもっともっと引っ張り出してェよ、アマカザリ。お前が今日まで作り出してきた喧嘩技、ますます楽しみになってきたぜ。丸ごと全部ぶつけて来な!」

「……それはそれで困ってしまいますけど……」


 何故、自分の前に立ちはだかる人々は愉快そうな表情を浮かべるのだろうか――キリサメは思わず首を傾げそうになってしまった。

 思い返してみれば、路上戦ストリートファイトを繰り広げた空閑電知も同様であった。鼻を折られてじゅうどうをドス黒く染めるような状態に陥っても笑顔が弾けていたのだ。それどころか、傷付けば傷付くほど喜色が増していたようにも思えた。

 〝闇〟が破裂して最悪の事態を引き起こす前に決着をつけたいキリサメには、〝先輩〟選手や親友の精神構造が今でも理解し切れない。脳内麻薬の分泌によって感情の働きが正常とは言い難くなっているのだろう――と分析だけは出来るのだが、その引き金には想像が及ばないのである。

 親友の存在を通して揺るぎなく確信できるのは、〝闘うこと〟を人生の喜びとして感じられる人間は、簡単には止められないということである。


(体力を削り取って降参ギブアップに持ち込むようなは通じない。……どうしても一撃で意識を吹き飛ばすしかないか……)


 ますます呼吸いきが荒くなっているが、それでも笑顔を崩さない城渡を見据えながら、キリサメはだらりと垂らした右腕――その手首を準備運動のように回し始めた。

 臨戦態勢を解く気配のない城渡と、彼のセコンドから異議を申し立てられたキリサメを交互に見据えたのち、木村レフェリーは覚悟を決めた面持ちで試合再開を宣言した。

 特等VIP席からヴァルチャーマスクが乱入してきたときには樋口の判断を仰いだが、今度はレフェリーに委ねられた権限に基づいて、尾羽根を駆使した闘い方は禁止事項に抵触していないという結論を出したのである。


「こっから先はもう誰にも邪魔なんかさせねェぜ! この勝負の決着はの手でつけようじゃねェか、アマカザリ――」


 木村レフェリーの判断を待つまでの間、手の甲でもって汗を拭いながらキリサメと向かい合っていた城渡は、試合再開が宣言された瞬間、構えを取り直すより先にマットを蹴り付けた。


「城渡選手、これは何だッ⁉ えっ、これは何なの……⁉」


 気合いの吼え声を引き摺りながらキリサメに向かって全速力で突進し始めた城渡に仲原アナも困惑を隠しきれない様子であった。

 左拳を硬く握り締めるという露骨な姿からも察せられる通り、思い切り助走を付けてキリサメに殴り掛からんとしているわけだ。防御ガードを解いて次の一撃に全神経を集中していると表せば勇ましく聞こえるが、甘んじて迎撃カウンターを受けれようと言わんばかりの無鉄砲な突撃としか見えないのである。

 第二Rラウンドの試合時間も半分を過ぎている。第一Rラウンドと同様の猛攻ではキリサメを突き崩せず、反対に痛手ダメージを重ねられている現状を強引に覆すべく起死回生を図ったのであろうか。

 いずれにせよ、リングを取り巻く人々には無謀な勝負を仕掛けたとしか思えなかった。

 城渡を妄信する御剣恭路などは「総長の〝漢〟を見届けますッ!」と玉砕を前提にして声援を送っている。それはもはや、声援というよりもはなむけに近いだろう。

 死に物狂いで突っ込んできたことはキリサメにも理解できるのだが、さりとて突撃の速度は大した水準ではない。ここまでの疲弊に加えて、左膝の損傷ダメージによる影響がからぬ影響を及ぼしているわけだ。

 迎え撃つキリサメも瞼を半ばまで閉ざした双眸で身のこなしを完全に見極めており、左拳が直線的に突き込まれるまで引き付け、一等深く踏み込まんとする出鼻を挫いた。


(ぶっつけ本番だから、ヴァルチャーマスク氏を失望させるかも知れないけど――)


 城渡の右太腿を己の左足でもって踏み付け、更に対の足裏で腹部を蹴ることによって城渡の突撃を押し止めたのである。その動作うごきを見て取った岳が人間の言葉として成り立っていない素っ頓狂な吼え声を上げたのは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 階段を駆け上がるような恰好で城渡の身を踏み付けにしたキリサメは、そこから後方へ回転するようにして跳ね飛んだのである。言わずもがな、ヴァルチャーマスクが得意とした蹴り技の一つ――宙返りサマーソルトキックであった。

 ヴァルチャーマスクは足の甲を用いたが、キリサメは右足を垂直に突き上げ、城渡の顎を踵でもって撃ち抜いた。跳躍の距離と引き換えにして引き上げた威力を脳まで確実に伝達させようというわけだ。


「がぐァ……ッ!」


 第一Rラウンドの序盤に叩き込んだ〝神速〟の一撃や、木村レフェリーが試合を中断させる事態となった頭突きなど、ここまでの攻防で城渡の頭部には相当な痛手が蓄積されているはずであった。あるいは希更・バロッサの飛び膝蹴りにも匹敵するであろう宙返りサマーソルトキックの威力が顎から脳まで貫通すれば、それが致命傷となっても不思議ではない。

 キリサメも渾身の力で踵を突き上げており、マウスピースを嵌めて防護していなかったなら、何本かの歯が折れてマットに飛び散ったことであろう。


「よーしよしよし! コレで決まりだろ! フィニッシュにヴァルチャーマスクの必殺技を持ってくるたァ、イキな真似をしてくれるじゃね~の!」


 耳をつんざくほどの大きさは煩わしいが、背面で受け止めた養父の歓声によって空中のキリサメも城渡を仕留められたと確信できた。何しろ寸分の狂いもなく顎を蹴り上げたのだ。

 だからこそ、着地と同時に視認したリングの有りさまに言葉を失ったのである。

 木村レフェリーが意識の有無を確認し始めているだろうと信じて疑わなかった城渡が口の端から鮮血を垂らしながらもマットに立ち続けていた。

 何かにつけて先走る養父と今までにどれほど意思疎通が噛み合ったのか。これを数えるには片手で足りるという事実を失念してしまった己の軽率さを悟った直後、キリサメの全身から冷たい汗が噴き出した。

 城渡はただ屹立していたわけではない。第一Rラウンドの中盤で披露したものと同じ構えを取りながら〝標的〟の着地を待ち受けていたのである。

 大リーグの投手ピッチャーが剛速球を放つ寸前のような姿勢フォームは、城渡マッチが〝奥の手〟を放つ為の予備動作であった。つがえた矢をづるが切れるまで引き絞るような体勢と言い換えたほうが正確に近いであろう。

 攻撃より後方への大きな跳躍を重視するヴァルチャーマスクとは正反対の術理に基づいて宙返りサマーソルトキックを放ったキリサメは、城渡の射程圏内に着地している。


「キリ君、逃げて――」


 キリサメの耳に届いた悲鳴は、白サイドのコーナーポストに立った二人セコンドではなく、リングサイドの関係者席に座っている未稲のものであった。


「やっぱMMAはKO勝負でなくっちゃ面白くねェッ! 判定なんかに勝ち負けを決められて堪るかってんだッ!」


 頭上より降り注ぐ絶対的な危機から逃れるよう訴える未稲の声は、噴火さながらの咆哮によってキリサメの脳が認識する前に咬み砕かれていく。

 爪先が頭上に達するほど高く持ち上げていた左足で猛烈に踏み込み、これを軸に入れ替えつつ、腰から肩に至るまで上半身のバネを最大限まで引っ張り出した〝ゲンコツ〟がキリサメに急降下した。

 もはや、飛び退すさって回避することも間に合わず、キリサメは全く無防備のまま脳天に直撃を被ってしまった。

 ボクシング・ヘビー級の試合であっても耳にする機会が滅多に巡ってこないような殴打の音がリングに轟いた瞬間には、未稲もセコンドの二人も――場内に詰め寄せる誰もが失神によるノックアウトを疑わなかったはずだ。

 はキリサメ自身も同じである。今まさに〝ゲンコツ〟が振り落とされようとする間際、ただ一撃をもって形勢逆転を許してしまったと勝敗そのものを手放しそうになった。

 比喩でなく本当に頭を抱えて崩れ落ちそうになるほどの激痛が脳を一直線に貫いたことは間違いない。それにも関わらず、意識に空白が生じることはなかった。歯を食い縛り、両足でもってマットを踏み締めれば耐えて凌げる痛手ダメージであった。

 頭部全体に広がっていく激痛をしていることが〝全て〟であろう。

 今や城渡の〝ゲンコツ〟は隕石にはたとえられなかった。動作うごきだけは大きかったものの、本来の半分も破壊力が宿っていなかったのである。仮に標的まとを外してマットを叩いていたとしても第一Rラウンドのようにリングを軋ませることはなく、衆人環視の状況で古豪ベテランの誇りにきずが付いてしまったはずだ。

 だからこそ、〝ゲンコツ〟が叩き込まれた瞬間、産まれる前から聞き慣れてきた〝戦争の音〟が脳裏に響くことも、血の海に身を横たえた女性の最期の言葉によって身体からだが意識を超えて衝き動かされることもなかった。

 人の命をちりあくた同然としか思えない死神スーパイさながらの感覚――暴力以外に頼れるモノがない格差社会の最下層で少年の魂を呑み込んでいった〝闇〟は、かえって萎んでしまっている。


(……城渡氏……ッ!)


 互いの眉間を叩き付け合ったときのほうがマットを踏み付ける力は強かったようキリサメには感じられた。四肢の動きを鈍らせる疲弊に加えて、両足の損傷ダメージが深刻な影響を及ぼしていることも間違いない。

 弱体化を狙って体力を削り取り、最も得意としている打撃の威力が発揮し切れないよう追い詰めたのはキリサメ自身である。目論んだ通りの成果を実感しているわけだが、その一方で瞬く間に頭部から消えていく痛みが物悲しくてならなかった。


「先程はスレッスレのところで難を逃れた〝打撃番長〟のゲンコツにアマカザリ選手、とうとう掴まってしまったァ~! MMA初参戦から『天叢雲アメノムラクモ』まで屍の山を築いてきたこの一撃ッ! 鮮度が勝負の新人選手ルーキーにも古豪ベテランの拳はどうしようもなく重いィッ! イケイケに勇ましかった善戦もここまでなのかァー⁉」


 仲原アナの実況こえも一字一句に至るまで左右の耳で聞き取っている。

 観客の昂奮を煽り立てる語り口には長けていても、目まぐるしく変化し続ける試合内容を漏らさず読み取り、正確な分析を述べることは苦手であるらしく、それが為に技術解説の鬼貫道明から実況のたび訂正ツッコミを入れられてしまうのだ。

 今し方の〝ゲンコツ〟に関する見当違いなも観客席を大いに沸かせたが、正反対としか表しようのない〝現実〟を噛み締めるキリサメには何もかもが虚しく感じられた。


「このおじさん、放っといても勝手にブッ倒れるんじゃない? 見てらんないくらいヘロヘロじゃん。みたいにヤるんだよね? 小突き回して弱らせた相手にトドメを刺すのもサミーは面白がって――」

「――これで最後だッ!」


 先ほど幼馴染みの皮肉ことばも脳裏を掠めたが、これを掻き消すようにキリサメは平素いつもの姿からは想像しがたい吼え声を迸らせ、脳天に突き刺さったままの〝ゲンコツ〟を跳ね除ける勢いで上体を引き起こすと、左の足裏でもって腹部を踏み付けにし、城渡を力任せに引き剥がした。

 満身創痍の〝標的〟を更にいたぶるのではない。リングの四隅に立てられた支柱ポールの一本を背にして不敵な笑みを浮かべる〝先輩〟に醜態を晒させない為にも、次の一撃で決着をつけなくてはならなかった。

 それ自体が傲慢な考えであると、キリサメも自覚もしているが、心から尊敬できる城渡マッチという男が〝富める者〟たちから嘲笑される筋運びだけは断じて許せないのだ。

 彼のことを〝総長〟と推戴する暴走族チームの仲間は言うに及ばず、強過ぎる気持ちが暴走の引き金となってしまうほど心酔する御剣恭路にも現在いまのキリサメは寄り添える。


「総長の〝漢〟を見届けますッ!」


 その恭路が先ほど〝城渡総長〟に送った応援は、五〇〇〇を超える歓声を切り裂くほどに猛烈であった。彼の胸で燃え盛る憧憬あこがれもキリサメは守りたかったのである。

 故郷ペルーでは弱った相手や自分より明らかに力が劣る相手を真っ先に狙い、その日を食い繋ぐ為の糧に換えてきた。獲物に過ぎない為、喧嘩殺法をふるって壊す際にも〝何か〟を感じる理由がなかった。

 しかし、城渡マッチは違う――先程の蹴り足を軸として据え、引き剥がした分だけ強く踏み込み、背中が相手に向くほど大きく腰を捻りながら横薙ぎに閃かせた右拳には、生まれて初めて湧き起こった感情を握り締めている。


「コークッ⁉」

「スクリューッ⁉」

「フックゥッ⁉」


 セコンドの岳と麦泉はコルク抜きを意味する言葉を、実況席の鬼貫は拳による打撃の名称をそれぞれ叫んだ。母音が似通っていることもあり、かつて『鬼の遺伝子』に名を連ねた三人は揃ってアヒルのように口を窄めている。

 異種格闘技戦の担い手であったレスラーたちが読み抜いた通り、キリサメが繰り出したのはボクシングで言うところの『コークスクリューフック』であった。

 命中する寸前に拳を内側へ捻り込んで破壊力を撥ね上げる技法であり、回転を要としている為、コルク抜きになぞらえる技名なまえが付けられたのである。

 軸足から始まって腰、肩、肘、そして、手首に至るまで連動的に回転を加えていき、螺旋の如き力の作用を拳に宿して撃ち放つ――に爆発的な威力が生み出されるのだ。

 故郷ペルーでボクシングを学んだ経験などあろうはずもなく、る珍妙なきっかけから独自に編み出したのだが、喧嘩殺法の中でも最強の攻撃力を誇っており、キリサメにとっては勝負所で決着を託すという正真正銘の〝奥の手〟であった。

 セコンドの二人も初めて目の当たりにするのだが、余りの打たれ強さにキリサメが不死身ではないかと戦慄した電知も、このコークスクリューフックによって意識を吹き飛ばされていた。


「があああぁぁぁァァァッ!」


 防御も回避も間に合わず、〝ゲンコツ〟の報復として左頬に直撃を被った城渡は、拳の先まで伝達つたう螺旋の力によって撥ね飛ばされ、マットに血飛沫を撒き散らしながら支柱ポールに叩き付けられた。

 赤黒い斑模様が顔面に付着したキリサメは、余韻として右拳に残る手応えから今度こそ仕留めたと確信していた。コークスクリューフックで倒せなかった相手は、過去にたった一人――敵対する『組織』に与していた為、互いの命を喰らい合うことになったニット帽の日本人傭兵だけである。

 全体がクッション材で覆われているとはいえ、城渡が背中から衝突したのはロープを結び合わせる支柱ポールだ。全身の骨という骨が悲鳴を上げたことであろう。


「日本が世界に誇る特撮番組バイオグリーンの頃から土壇場でブッぱなすのは大逆転の必殺技お約束! それにしたってまさか過ぎる急展開! 私の実況ことばは爆熱沸騰のコーフンに追い付きません! くにたちいちばん原作のボクシング漫画でも猛威を振るったコークスクリューパンチが古代インカにも存在していたとはァーッ! 黄金に輝くフィニッシュブローとなるのかァーッ⁉」


 今は分厚い指貫オープン・フィンガーグローブを装着しているが、電知の横面を穿ったときより総合的な痛手ダメージは遥かに高いはずだ。城渡は支柱ポールから剥がれるような恰好で崩れ落ちていく――仲原アナの双眸にはそのように見えたのだが、古豪ベテランの瞳からは未だに光が消えていない。

 燃え尽きることのない闘争心に射貫かれたキリサメの全身を恐怖が駆け抜けていった。


(……僕には城渡氏と闘う資格なんか無いって、合宿のときに御剣氏から言われたけど、結局、その通りだったのかもな――)


 自滅行為にも等しい突撃も、正面から迎撃カウンターを叩き込まれる展開も、おそらくは城渡が仕組んだ〝罠〟であった。キリサメのことを陥れようと最初から謀っていたのではなく、長年に亘って培ってきた〝戦士〟としての勘でもって反射的にと変えたのであろう。

 城渡は意識を失って膝から崩れ落ちたのではない。前傾姿勢に転じただけなのだ。

 彼の術中に嵌まったことを悟ったキリサメであるが、前傾にも近い姿勢となるほど全身を捻り込んでいた為、右腕を引き戻す動作うごきまでもが遅れてしまう。これに対して支柱ポールを蹴り付けた城渡の突進タックルは、先程までの疲弊を微塵も感じさせない速度はやさであった。

 キリサメの反応が遅れた原因には、四肢の動作うごきが鈍った古豪ベテランを侮るという油断こそ大きく作用したはずである。

 最後には年齢の差が勝敗を分ける――不意の〝サバキ〟によって体勢を崩された直後と同じように己の浅慮を恥じ入るキリサメであったが、このときには城渡の両腕が胴に巻き付けられ、同時に足を払われてマットへ押し倒されてしまった。

 すかさず城渡はキリサメの腹の上にまたがり、互いの両足をも絡み合わせて身動きを完全に封じ込めた。


「え? あ? ええっ? 城渡選手、一体、これは……ッ⁉」

「おかしなコトばっかりほざいてやがったが、本気で寝ボケてるみてェだな、あの実況。見ての通りってヤツだよな? なァ、アマカザリィッ!」


 呻き声を漏らしたのは仲原アナだけではない。馬乗り状態マウントポジションという構図を場内の人々が認識すると、何とも表しようのないどよめきが広がっていった。四角いリングを取り囲む誰もが我が目を疑っている状況なのだ。この場で驚いていないのは二本松ただ一人である。

 前身団体バイオスピリッツの解散後、『日本MMA協会』が監督する興行イベントに出場し、次いで海外のMMA団体に活躍の場を求めたる日本人選手が広めたものに『スカ勝ち』という言葉がある。

 強烈な打撃によって〝スカッと痛快〟なノックアウトを勝ち取るといった意味合いである。城渡もまたファンから『スカ勝ち』を求められる選手であったが、同じ打撃系ストライカーでも特に立ったスタンド状態での闘いにこだわっており、テイクダウンひいては馬乗り状態マウントポジションの攻防というを今までは忌避していたくらいである。

 それ故に総合格闘技MMAの『天叢雲アメノムラクモ』ではなく、打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』に移籍したほうが活躍できると、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンなどで数え切れないほど揶揄されてきたのだ。

 その城渡マッチに――日本にける黎明期からで互いに立ったまま殴り合うことを愛してきた古豪ベテランの変化に誰もが瞠目していた。

 実戦志向ストロングスタイルのプロレスを完膚なきまでに打ち破ったブラジリアン柔術の吸収など、ヴァルチャーマスクが取りまとめた『とうきょく』の理論から絶えず進化し続けてきた総合格闘技MMAそのものに背を向ける愚か者とまで嘲笑されながらも己の〝道〟を堅持してきた城渡マッチにとって、は絶対に有り得なかったかわり目なのだ。


「……故あって今日は日本のリングに上がれない北の戦友ともも、国の垣根を超えてスポーツの喜びを分かち合い、〝平和の祭典〟を共に生きてきた城渡選手の決意と挑戦に心から拍手を送るコトでしょう。今、自分も鳥肌が止まりません……ッ!」


 キリサメを見下ろしながら高々と振り上げられた城渡の右拳は、〝前史〟たる異種格闘技戦の時代から日本MMAの趨勢を見守ってきた『昭和の伝説』の激励に包まれている。



 鬼貫道明の口から発せられたその言葉は、やむにやまれぬ事情の為に城渡マッチとの対戦を新人選手キリサメ・アマカザリに譲らざるを得なかった戦友ともへと捧げられたものでもある。

 生まれた国の成り立ちや理念の違いに拘わらず、その人を真っ直ぐに見つめ、情熱をさらけ出しながら寄り添い、誰とでも分け隔てなく絆を育む鬼貫道明は、格闘技やプロレスを通じて世界に大きな輪を描くという夢に生涯の喜びを見出していた。

 鬼貫道明一人だけではない。今日はリングに臨めない仲間とも、力と技と心を純粋な気持ちで競い合う〝平和の祭典〟にて再び逢えることを誰もが揺るぎなく信じている。

 『昭和の伝説』とも呼ばれたプロレスラーは異種格闘技戦を通じて世界中の人々と互いを理解し合い、その魂は現代いま総合格闘技MMAにも受け継がれている。

 時代が起こした激しい風に振り回されることはあるけれども、誰もがみな、この地球に生まれた同じ人間なのだ。


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