その17:原罪~聖なるハゲワシを生け贄を捧げて~総合格闘技の「はじまり」の日/プロレスが負けた日──今、明かされるブラジリアン柔術の秘められた歴史

  一七、原罪



 近現代の日本にける格闘技の歴史をえて一本の〝道〟で結ぶとすれば、敗戦に打ちひしがれ、心まで焼け野原と化してしまった日本人たちを必殺の〝空手チョップ〟で勇気付けたりきどうざんに起点を求める声は少なくないだろう。彼より四年も早く〝戦後プロレス〟に先鞭をつけたがりさだの名前とて挙がるはずだ。

 『鬼の遺伝子』と呼ばれる〝同志〟たちを率いて異種格闘技戦を繰り広げた『昭和の伝説』――おにつらみちあきは〝日本プロレスの父〟の最後の直弟子であり、興行の形態にも師弟間の影響が強い。

 外国人レスラーを豪快に薙ぎ倒し、街頭テレビに詰め寄せる人々を沸騰させた力道山と同様に『鬼の遺伝子』も海外から数多の猛者を招いて闘ったのだ。

 〝鬼〟の闘魂は『昭和』の異種格闘技戦を経て『平成』の総合格闘技MMAに繋がっていく。

 日本人レスラーが〝世界〟を迎え撃つ構図は力道山の〝戦後プロレス〟から鬼貫道明の異種格闘技戦に至るまで踏襲され、〝選手構成〟の国際色が豊かとなるにつれて多様化していったものの、MMAのリングにいても日本人選手と外国人選手の対戦が多かった。

 一九九七年一〇月に執り行われたも、プロレスとブラジリアン柔術の頂上決戦を〝目玉メインイベント〟に据えていたのである。

 明治時代の伝説的な柔道家――前田光世コンデ・コマから始まり、その孫弟子に当たるドナト・ピレス・ドス・ヘイスを経由し、彼の道場を引き継いでブラジリアン柔術を大成に導いた一族の中でも最強の男がブラジルから〝襲来〟したのだ。

 改めてつまびらかとするまでもなく、出身国が異なる選手同士の試合は、それ自体が文化交流の機会でもある。『プロレスが負けた日』という呼称が表す通り、くだんの興行は日本人レスラーにとって歴史的な屈辱となってしまったが、その試合を境にしてブラジリアン柔術ひいては寝技の有効性に注目が集まり、国内でも急速に普及・発展していった。

 MMAの試合をするといっても過言ではない寝転んだグラウンド状態での攻防が日本で成熟していく過渡期とも言い換えられるだろう。

 反則以外のあらゆる格闘技術を統一ルールのもとに〝総合化〟する体系システムは、一九九七年から数年を掛けて試行錯誤を繰り返し、日本のリングにも定着していくことになる。

 〝プロレス最強〟の幻想ゆめを信じてきた者たちからは敗北という結果のみで〝永久戦犯〟の汚名を着せられてしまったが、『鬼の遺伝子』を代表する形でブラジリアン柔術に挑んだ覆面レスラーによる初めの一歩は、日本の格闘技そのものを大きく前進させた。彼の犠牲なくして、この国でMMAという〝文化〟が花開くことはなかったのである。

 〝永久戦犯〟はな烙印ではなく、な汚名――『天叢雲アメノムラクモ』にて統括本部長を務める八雲岳は、『プロレスが負けた日』直後に収録された格闘技雑誌パンチアウト・マガジンのインタビューでも恩人の名誉回復を涙ながらに訴えている。

 日本MMAの先駆者である覆面レスラーは、かつて『ヴァルチャーマスク』という通称リングネームを名乗っていた。

 プロレス式の四角いリングで異種格闘技戦の総合格闘技MMAの両方を経験し、そのどちらでも〝超人〟と畏怖される戦闘能力によって仲間たちを強く牽引してきた格闘家は、一方で誰よりも〝プロレスラー〟であった。

 そもそも『ヴァルチャーマスク』とは、現代まで残り続ける悪しき精神論の遠因と指摘される『昭和』の〝スポ根ブーム〟の火付け役――漫画原作者のくにたちいちばんが手掛けた作品の登場人物である。

 実戦志向ストロングスタイルを標榜する『新鬼道プロレス』の所属レスラーが漫画のデザインを忠実に再現したプロレスマスクを被って闘うという提携タイアップ企画に過ぎなかったのだ。

 同作はテレビアニメの題材にも選ばれている。自身の作品を通じてプロレス自体の人気を後押ししたことからくにたちいちばんは日本格闘技界への影響力を強め、のちに袂を分かったものの、一時は鬼貫道明と国際規模スケール理想ゆめを語らいながら異種格闘技戦を推し進めた。

 やがて〝現実〟のヴァルチャーマスクは、自分自身の人気を背景にくにたちいちばんとの提携タイアップから〝独立〟し、自らの〝実戦〟経験と哲学に基づいて『とうきょく』の理論をまとめ上げ、日本で初めて〝総合格闘〟の体系化を成し遂げたのである。

 それまで培った全ての〝力〟を携えてリングに臨みながらもブラジリアン柔術に完敗を喫した為、〝永久戦犯〟の汚名を着せられてしまったが、日本MMAの骨格を組み立てた先駆者であることを疑う余地などあるまい。八雲岳の哀訴も誤りではないということだ。

 通称リングネームの通りにハゲワシの如く空中を舞うメキシカンプロレス――『ルチャ・リブレ』を極め、『昭和』のプロレスから『平成』のMMAに至るまで四角いリングにて〝鬼〟の闘魂を体現してきた誇りが日本格闘技界の過ちをゆるせなかったのであろうか。二〇〇〇年代半ばに日本MMAが黄金時代の終焉を迎えたとき、その〝罪〟を引き受けるようにプロレスマスクを自らの手で剥ぎ取り、水平線の彼方へと去っていったのである。

 りきどうざんが〝日本プロレスの父〟であり、鬼貫が〝異種格闘技戦の父〟であるならば、その系譜の先に『とうきょく』という新しき〝道〟を示したヴァルチャーマスクこそが〝日本MMAの父〟であろう。『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体では統括本部長も努めている。

 アメリカの寺院にて出家し、名前も風貌も変わったものの、紛れもないヴァルチャーマスクその人が数年ぶりに日本へ帰還かえってきたのである。

 これに勝る報道価値ニュースバリューなどあろうはずもなく、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行を取材する為に会場まで駆け付けながら、記者たちも第一試合を引き受ける選手さえ忘れたかのように特等VIP席の仏僧おとこにカメラを向けていた。何しろかつてはプロレスマスクで隠していた素顔を衆目に晒しているのだ。

 地肌が露となった禿頭あたまには螺旋を描くような傷が無数に刻まれており、仏法にけるせっしょうきんだんを犯したかいそうと見紛うばかりの威容であった。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンやネットニュースなどの記者たちは、第一試合のゴングが鳴った後も〝神話の帰還〟といった見出しを前面に押し出すような記事を考えていたことであろう。

 戦績が振るわなくなっても引退せず、見苦しいほど現役にしがみ付く愚かな古豪ベテランと、格闘家としての経歴キャリアを一つとして持たない新人選手ルーキーの試合には紙面を割いて報じるだけの値打ちもないと、誰もが決め付けていた。

 リングサイドにて砲列を作るカメラも鬼貫道明、ヴァルチャーマスク、八雲岳という日本MMAの象徴とも呼ぶべきを順繰りに撮影していたのである。

 それが今ではキリサメ・アマカザリという〝次世代〟と認めるには余りにも得体の知れない〝最年少選手〟だけをレンズの中央に捉えている。

 叢雲くもの彩を映した指貫オープン・フィンガーグローブをドス黒く染め、どこか虚ろな目を足元に落とす少年には舌打ちで抗議したくなるほど煩わしかろうが、短機関銃の連射の如くシャッター音と明滅フラッシュが続いていた。

 一瞬にして報道価値ニュースバリューが覆るのも当然と言えよう。サーカスのようなを着込み、一部の心ないMMAファンからSNSソーシャルネットワークサービスで「秋葉原でのパフォーマンスと同じように見掛け倒しに過ぎない」と冷笑された〝最年少選手〟がプロデビュー直後に瞬間移動としか表しようのない絶技を披露したのである。

 前身団体バイオスピリッツの時代から日本MMAに君臨し続ける絶対王者――ゴーザフォス・シーグルズルソンも、名実ともに『天叢雲アメノムラクモ』の〝次世代〟を担う花形選手スーパースター――レオニダス・ドス・サントス・タファレルでさえも、比喩でなく本当に人智を超えたことはない。

 ごく僅かなを除いてMMAファンから期待などされていなかった新人選手キリサメ・アマカザリが四角いリングで発揮した〝神速〟は、〝人外〟の二字こそ最も相応しいモノであった。

 総合格闘技MMAの直接的な源流は異種格闘技戦である。これを主題とする漫画を次々と発表し、幅広い世代の熱狂を煽ったくにたちいちばんの影響にも言及しながら一種の〝原点回帰〟と報じる記者もるだろう。

 くにたちいちばんは〝スポ根〟を強く打ち出す野球漫画にいても、白球ボールの分身や消失といった超能力さながらの〝魔球〟を登場させることで読者の昂奮を大いに盛り上げたのである。

 くだんの野球漫画はアニメにもなり、数々の〝魔球〟も再現されている。数十年も昔の作品ではあるものの、古き良き『昭和』を回顧するテレビ番組などでたびたび取り上げられる為、放送当時に視聴していない世代にも広く知れ渡っていた。

 それ故にキリサメのことを荒唐無稽な展開が多い〝くにたち漫画〟の登場人物と錯覚しそうになった人間は、会場内に少なくなかったはずである。

 くにたちいちばんの〝最後の弟子〟を自負する『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表――ぐちいくもその一人であろう。夢か幻としか思えない事態に接してスタッフたちが混乱する中、彼だけがリングに佇むキリサメへ拍手を送っていた。あるいはに師匠の〝世界観〟を感じて魂を震わせていたのかも知れない。

 『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業で広報戦略を一手に引き受けるいまふくナオリは、会場内に設置された〝大会本部〟で興行イベントの進行を見守っていたが、新人選手キリサメ・アマカザリが人間の限界を超えた直後には短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSソーシャルネットワークサービスにて対戦相手を見下ろす彼の写真を公開し、として「時代が塗り替えられた瞬間」と喧伝している。

 SNSソーシャルネットワークサービスなどが普及し、情報の受発信が個人・民間単位で容易となった現代では、情報戦は初動――即ち、速報性が正確性より優先される状況ケースも多い。日本で最大の勢力を誇るMMA団体を支える中心人物キーパーソンの一人がを牽制する好機を逃すはずもあるまい。

 興行イベント開催前から主催企業が新たに仕立てた〝客寄せパンダ〟ではないかと疑問視されてきた新人選手ルーキーを巡り、穏当とは言い難い思惑が奥州の空の下に渦巻いていた。

 〝神速〟の一撃によって失神寸前の痛手ダメージを受けながらも会場全体を震わせるほどの吼え声と共に勢いよく起き上がった城渡は、右側頭部が裂けて鮮血が噴き出している。リングサイドには『天叢雲アメノムラクモ』と契約している医師リングドクターが駆け付け、木村レフェリーも試合続行の可否を判断するべく傷の深さを慎重に確かめていく。

 その最中には日本に異種格闘技戦の〝道〟を拓いた経験と知識を生かし、技術解説を担当する鬼貫道明が実況席にて呻き声にも近い溜め息を漏らしていた。


「――老いぼれの昔話と思って聞き流して下さいよ? 私も若い時分には世界中の猛者たちと腕比べをしたものですが、……時空の法則を飛び越えるような選手はさすがに記憶にありません。ある意味では〝八雲岳の秘蔵っ子〟らしいのか……。まさか、アマカザリ選手が『超次元プロレス』の跡取り最有力候補になるなんて思いもしませんでした」

「いえいえ、いやいや! 聞き流すのは無理ですよ! 私も鬼貫さんと同じ感想が脳内あたまのなかをぐるんぐるん大回転してますし! 『超次元プロレス』を継ぐ者っていうか、統括本部長を超える者っていうべきか⁉ 本日は『NSBナチュラル・セレクション・バウト』で代表を務めておられるモニワ氏も来場しているのですが、是非ともご意見を伺いたいものです! MMAの本場でも今みたいなは過去に例がないのではっ⁉」

「……仲原さん、モニワ代表が会場ここまで足を運ばれたことは一応、秘密トップシークレット扱いですので、マイクを向けるのはちょっと……。私も一緒に謝りますが、後でと思いますよ」

「言ってはいけないコトが口からポロッと飛び出してしまうくらいは混乱しているワケです! コレで私たちの置かれた状況が皆さんにもダイレクトに伝わったのではないでしょうか⁉ いやぁ~、丁度良かった! そういうコトにしときましょうッ!」


 試合の実況を担当する仲原アナは自身の失態を取り繕おうとしているが、奇しくもその焦った声色がリングサイドで立ち回るスタッフたちの逼迫感を表わしていた。過去これまでの格闘技史を紐解いても、今し方のキリサメに匹敵する衝撃は前例が見当たらないのだ。

 指貫オープン・フィンガーグローブに返り血が付着していない側の手で額の汗を拭いつつ、城渡マッチと木村レフェリーを見守るキリサメの耳にも実況席の会話やりとりは届いているはずだが、脳が周囲まわり喧騒さわぎを一つとして認識していない様子である。

 目敏い者ならば異常と気付くほど乱れ切った呼吸を整えながら、何やら物思いに耽っているかのような面持ちなのだ。

 考えるな、感じろ――のちに続く総合格闘技へ多大な影響を与えた『ジークンドー』の創始者にして、〝永遠〟の二字と共に映画史に名を残すアクションスターの至言ことばと、全身を錐揉みさせるようにして繰り出すドロップキックでもって城渡マッチは新人選手ルーキーを鼓舞したが、それまではキリサメのなかで時間の流れが凍り付いていたのである。無論、には思考回路も含まれている。

 結果としてヴァルチャーマスクのとなった日本にける〝総合格闘〟の先駆け――『しゅう』の使い手であるしんかいこうなど第二試合以降の出場者は、支度を整える為に控室へ引き上げていったが、希更・バロッサとマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディの二人は、新人選手キリサメ・アマカザリの初陣を見届けるべく会場の片隅に留まっている。

 第三試合でリングに臨む希更は、今から準備運動に取り掛からないと調整が間に合わなくなる可能性もあるのだが、自分の事情ことよりも大切な友人こそ優先しているわけだ。

 国内外の格闘技を取り上げる衛星放送の有料チャンネル『パンプアップ・ビジョン』にて放送する為の収録カメラは、リングだけでなく試合を見守る希更とマルガの様子も捉えたが、ミャンマーの伝統武術ムエ・カッチューアを教え広める名門――バロッサ家の一族むすめが呆然と立ち尽くす姿は今福ナオリがインターネットの世界に投げ掛けた「時代が塗り替えられた瞬間」という一言に対して強い信憑性を持たせることであろう。

 全身をゴムのようにしならせるヨガ由来の柔軟性と、小柄で痩身そうしんながら恐ろしく発達した腕力を組み合わせる変則的なボクシングで数多くの激闘を制してきたマルガでさえも、新人選手ルーキーに対して驚愕の表情を浮かべているのだ。


「ちょっと~、ちょっとちょっとぉ~。希更ちゃんが追っかけてる例のカレ、正体は超能力者なんじゃないのぉ~? マジシャンみたいなトリック一切ナシでだとしたら、人間辞めてるレベルだと思うわよぉ~」


 開け広げていた口を自身の手で物理的に引き締めたマルガは、古くからの親友である希更に耳打ちの形でキリサメの正体ことたずねた。

 彼女から紹介される形で挨拶も済ませ、開会式オープニングセレモニーに先立つリングチェックも共におこなったが、交流が始まってから半日にも満たない相手を〝友人〟と呼ぶことは、誰とでも打ち解けられるマルガも躊躇ためらっている。

 バトーギーン・チョルモンと揉めた際、キリサメは〝平成の大横綱〟という日本で最大の威力を発揮するかつての肩書きにも全く怯まなかった。その姿から相当な胆力の持ち主であると察しているが、為人ひととなりについては『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトやパンフレットに記載されたプロフィール以外の情報を一つとして知らないのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』と敵対する地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』のでんと繰り広げた路上戦ストリートファイトなどキリサメにまつわる話は希更から幾つも教わったが、私情によって紡がれる言葉である以上は、客観性を割り引いて聞く必要があった。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンによって運営されている〝キャラクター〟の『あつミヤズ』と、彼女がキリサメの〝不祥事〟に対応する形で放送した暴露番組も組織ぐるみの陰謀を感じ取った為、内容そのものを殆ど信じていない。

 彼女マルガの出身地であるインドのマディヤ・プラデーシュ州ボパールは、当時中学三年生であった八雲岳が担任の教師の反対にも耳を貸さず、卒業後の進路について『新鬼道プロレス』への入門を宣言した頃――一九八四年に化学工場で発生した有毒性ガスの漏洩事故によって激甚な被害を受けている。

 近隣の町を包み込んだ有毒性ガスは短期間の内に数え切れない命を奪い、生き残った住民たちも、その〝次〟の世代も、事故から三〇年が経った現在いまも深刻な健康被害に苦しめられている。工場自体は解体されたが、その跡地を中心として汚染された土地は、未だに甦る目途が立たないのである。

 『世界史上最悪の産業災害』と呼ばれた大惨事にも関わらず、化学工場内部では体制そのものに問題があるという責任追及を回避するべく隠蔽工作が行われたとされており、一つの事実として運営企業から被害者に支払われた補償金も充分とは言い難い。

 事故の一〇年後にボパールで生まれたマルガは、企業犯罪を疑うような事態に直面したとき、自分でも過剰反応と思うくらい身構えてしまうのだった。

 だからこそ、新人選手ルーキーの正体を親友へじかたださずにはいられなかったのである。

 そのマルガに対して即座に返答こたえを紡げないくらい希更も驚嘆していた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の攻撃対象となった自分を庇う恰好で電知と闘ってくれたときとは比べ物にならない衝撃が全身の隅々まで駆け抜けているのだ。城渡マッチの鉄拳によって顔面が粉砕される寸前で残像さえ残さないはやさを発揮し、その窮状を覆したのである。

 セコンドに付く為に熊本から駆け付け、現在いまは控室で待機している母親のジャーメインはバロッサ家という名門の歴史上でも一世紀に一人という天才であり、娘は言うに及ばず一族の誰もが敵わない。これまでの希更には生みの親こそが〝人外〟の象徴であった。

 日本での普及に際して安全面に配慮したルールを設けたが、本来のムエ・カッチューアは目突きなどの危険行為をも体系に含んでおり、それ故に〝地上で最も恐ろしい格闘技〟と呼ばれている。

 薬品などを用いて硬度を高めた布や縄を拳に巻き、生身でという古来より受け継がれてきた様式は希更も学んでおり、他者の命を扱ってしまえる素養も自覚しているのだが、母親ジャーメインは生命の尊さなど省みず、いくさで敵をほふるべく研ぎ澄まされた〝禁忌〟を解き放つ精神たましいを宿していた。

 相手の頭部を押さえ込み、蹴り付ける大地の反動をも利用して片側の膝を瞬く間に連続で突き上げる戦闘能力など他の追随を許さない次元にればこそ、比喩として〝人外〟の二字こそ似つかわしいのだが、これに対してキリサメはそのものを超越したのである。

 主演作である『かいしんイシュタロア』を始めとして、今まで希更が生命こえを吹き込んできたアニメのキャラクターには、てのひらや眼から光線ビームを放つなど人間離れした能力ちからの持ち主が多い。遥か宇宙の彼方より地球に舞い降りた異星人を演じたこともあった。

 声優として向き合ってきたアニメと同じような能力ちからをキリサメは〝現実リアル〟の世界でさせたのである。〝架空フィクション〟との壁を爆発させたとも言い換えられるだろう。

 電知との路上戦ストリートファイトキリサメが垣間見せたは、目の錯覚などではなかった。身のうちに秘めた潜在能力ポテンシャルであったのだ――その確信が全身の熱量を引き上げた直後、希更は唖然呆然から喜色満面へと一変し、親友マルガを抱き締めながら昂奮に任せて頬擦りまで始めた。


「人間辞めるくらいでなきゃ、あたしのハートに刺さらないわよ! キリキリはアレでイイの! んもう! どれだけミステリアスなの? お姉さん、惚れ直したわよっ!」


 人間ヒトとして誰よりも優れた身体能力の持ち主がすぐ近くにればこそ、希更はキリサメが発揮した〝神速〟に対して、恩人ヴァルチャーマスクを目の前にした八雲岳の如く昂揚してしまうのだ。


大鳥聡起マネージャーさんが聞いたら、ゴシップ専門の記者ライターが物陰で耳を澄ませていないか、首をぐるんぐるん振り回したトコよぉ~。てゆ~か、希更ちゃん、ちょっと前までタファレルさんに夢中じゃなかったかしらぁ?」

「キリキリは〝弟系〟だから! 〝カミ枠〟のレオ様とは別腹っ!」

「希更ちゃんのそ~ゆ~ステキな思考あたま、わたし、大好きよぉ~」


 親友マルガが指摘した通り、声優事務所オフィス・アッポジャトゥーラのマネージャーであるおおとりさとが聞けばまなじりを決して注意しそうな持論を掲げつつキリサメに視線を戻した希更は、その途端に眉根を寄せた。

 に看過し難い異変を捉えたのである。親友が見つめる先へと視線を巡らせたマルガも同様だ。このとき、リングサイドの席では八雲未稲もキリサメの〝神速〟に丸メガネを曇らせるほど昂奮していたが、そこで観察と分析が完結してしまっている。それが双方の差異ちがいであった。

 希更とマルガは共に優れた格闘家である。前者はMMA興行イベントへの出場こそ今回で二度目だが、ムエ・カッチューアの〝実戦〟は数え切れないほど経験している。熊本県内の古武術道場へ稽古に出掛ける機会も幼い頃から多かった。

 濁流さながらに連ねられる城渡の打撃を巧みに防御ガードし、致命傷を免れているように見えたキリサメの身のこなしが鈍りつつある事実を希更は昂奮を鎮めながら受け止めていた。



 セコンドとしてコーナーポストから攻防を見守る麦泉文多も、希更たちと同じようにキリサメの試合運びへ疑問を抱き始めている。

 心ゆくまで拳の語らいを楽しむつもりであろう城渡マッチは「ここから先は真剣マジ勝負で行くぜ!」と高らかに宣言して以来、一撃ごとに膂力を限界まで生かし切るパンチと下肢のバネを引き絞ったキック、肩からぶつかって骨まで軋ませる体当たりなど、文字通りに全身を凶器に換えて新人選手ルーキーを攻め立てている。


「――先程のお話をぶり返すようですけど、鬼貫さんが愛情たっぷり夢いっぱいで育て上げたこいづかさる麿まろ選手は試合時間の大半を使って相手をヘトヘトにさせてからトドメを刺していましたが、防御ガードを固め続けるアマカザリ選手の作戦もそれに近いのでしょうか⁉ 短期決戦のKO狙いに見える城渡選手に対して、体力温存の長期戦を仕掛けているような⁉」

「三分以上を使って相手の体力を削り取るのは柔道家としての戦法であって、リングでの恋塚選手はより柔軟に立ち回っていますね。そもそも仲原さんが挙げられた戦い方はMMAより試合時間が短い柔道のルールを前提としたものですし、攻めて攻めて、とにかく攻め立てて疲れさせるスタイルでしたから、現在いまの城渡選手のほうがむしろ近いかと」

「以上! 鬼貫さんによる柔道マメ知識でした! 聞き手はお馴染みの仲原ですっ!」

「マメ知識に付け加えるようで気が引けるのですが、アマカザリ選手がどのように試合を組み立てるつもりなのか、外野が『こうだ!』と決め付けてしまうのは些か早計ではないかと。城渡選手からダウンを奪ったあの仰天すべき迎撃カウンターがあるのなら、わざわざ長期戦に持ち込む必要がありません。……を控えて防戦に回らざるを得ない理由こそ我々は見極めるべきでしょう」


 次第に険しい表情となっていく麦泉に続いて、実況席にて技術解説を行う鬼貫道明も気付いた様子であるが、防御を固めて反撃の機会を窺うという状況を差し引いても、キリサメは先程の〝神速〟が幻であったかのように攻め手が甘くなっているのだ。

 右下腕に左の五指を添えるという防御ガード痛手ダメージこそ免れたものの、一九キロの体重差という〝現実〟がそのまま砲弾と化したような体当たりの威力は凌ぎ切れず、キリサメは両の足裏がマットから引き剥がされ、後方うしろへと撥ね飛ばされてしまった。

 鬼貫の双眸は防戦一方というこの状況にも明確な原因を見出そうとしている。


「さっきの速度はやさはどうしたよ⁉ まさか、もうバテたなんて言わねーだろうな⁉ てめーの倍は人生にくたびれてるオレのほうが元気だなんて笑えねーぜ――って、オレをジジィ扱いすンじゃねぇよッ!」

デタラメさは御剣氏とそっくりですね。あの人が城渡氏に似ていると言うほうが正しいのか。打ち込みの精度は似ても似つきませんが……っ!」


 ロープの間際まで後退させたキリサメを追い掛けつつ、城渡は右腕を二度三度と車輪の如く回転させ、そこに猛烈な遠心力を生み出した。

 次いでリングの土台が軋むほど強くマットを踏み締め、これを軸に据えて一気に突き上げた右拳には命中した部位を脆いガラスも同然に打ち砕く破壊力が宿っていた。


「ンどらァッ! 、もう一丁行くぜッ!」


 竜巻の如き遠心力によってパンチの威力を増幅させんとする仕掛けとはいえ、腕の縦回転という過剰なほど大きな動作うごきは狙いを定めた部位などを相手に見破られ易い。

 MMA自体を敵視し、競技としての信用性を貶めることへ躍起になっている銭坪満吉スポーツ・ルポライターにもこのような戦い方を拙劣と幾度も批判されてきたのだが、体当たりによって両足を浮かされ、体勢も満足に整えられなかったキリサメは、暴れ牛のような勢いで間合いを詰めてくる城渡を回避も迎撃も困難な状態で迎えるしかない。


(無意味にくたびれるのはどうかと思うけど、良くない流れをどこかで変えなきゃジリ貧まっしぐらだからな――)


 顎を抉られまいと咄嗟に両のてのひらを重ね合わせ、城渡の右拳を受け止めようと試みるキリサメであったが、大噴火とたとえるのが最も相応しい一撃アッパーカットの前には、文字通りに手抜かりのない防御ブロックでさええなく弾き飛ばされてしまった。

 一方的に吹き付ける打撃の嵐を断ち切るべくキリサメが反撃に転じたのは、その直後である。突き上げる拳アッパーカットによっててのひらどころか、両腕が跳ね上げられ、これに引き摺られるような恰好で上体そのものが大きく仰け反ってしまったのだが、全身を貫いた力の作用にえて逆らわず、垂直に跳ね飛ぶ為のバネのように利用した。

 現代日本を代表するデザイナーのたねざきいっさくが生地にまでこだわって〝開発〟した『キリサメ・デニム』――試合用ズボンは股下から裾に掛けて大きな空洞となっている。膝の屈伸を最小限に留めると、相手は跳躍の予備動作すら読み取れないのだ。

 城渡の一撃アッパーカットを己の跳躍力に換えたキリサメは空中にて鋭く身を捻ると、彼の右側頭部を狙ってプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを繰り出した。


「おっおおおォォォッ! アマカザリ選手、長野のプロレス団体から試合の見せ方も勉強したご様子! イキな計らいはお養父とうさん孝行かぁー⁉ 直伝の直伝のそのまた直伝! 数世代の歴史を跨いで継がれた伝説の必殺技が城渡選手に突き刺さるゥッ!」


 この時点で城渡は突き上げた拳を引き戻していない。膝の動作うごきを把握しにくいという『キリサメ・デニム』の特性で跳ね飛ばんとする兆しすら感じ取れなかったはずだ。右腕をすり抜けるようにして足裏を浴びせれば、無防備のままこめかみを揺さぶれるのだった。

 長野県・すがだいら高原にける合宿にてキリサメにこの蹴り技を直伝したのは『まつしろピラミッドプロレス』の花形レスラーであるあかぞなえ人間カリガネイダーであった。

 そのカリガネイダーに後ろ回し蹴りソバットを授けたのは同団体まつしろピラミッドプロレスの技術指導を務める八雲岳であり、更に遡るとヴァルチャーマスクに辿り着く。その岳が〝世界最高のMMA選手〟と讃えた愛弟子――しんとうも現在の主戦場である『NSB』の試合で後ろ回し蹴りソバットを披露しているが、これもまた〝直伝の直伝〟ということであろう。


「自分は今の蹴りを〝直伝〟と呼ぶのには抵抗がありますね。……贔屓目とのお叱りを受けることは重々承知していますが、伝説の源流はじまり――ヴァルチャーマスクの完成度には遠く及びません。帯の飾りが描いた軌道に惑わされないよう気を付けませんと」

「ちょっとちょっとお待ち下さいな! 本日晴れてプロデビューのアマカザリ選手と、日本にMMAをもたらした伝説の戦士を比べるのは、さすがにフェアじゃないのでは⁉ そりゃあ、鬼貫さんからすれば今でも大事な愛弟子でしょうけどっ!」

「おそらく今の後ろ回し蹴りソバット、城渡選手の目には見えなかったハズです。お互いの位置関係を見極めた上で視界の外から仕掛ける反撃は最善ベストの判断でしょう。その好機チャンスを生かし切れなかったのも事実です。今後の課題としてアマカザリ選手に重く圧し掛かりますよ」


 言わば元祖であるヴァルチャーマスクに見守られるリングでこの技を放つという意義の深さに鼻息を荒くした仲原アナに対し、鬼貫は冷静な技術解説に努めている。彼が分析した通り、ケツァールにもたとえられた尾羽根が追い掛けていく後ろ回し蹴りソバットは見た目こそ美麗であるが、切れ味そのものはなまくらに近い。

 旋回の勢いを乗せた足裏でもって脳まで揺さぶられたはずだが、城渡はたじろぎもしなかったのだ。それどころか、左の五指でもって蹴り足を掴み返し、キリサメの身をマットへと投げ付けたほどである。痛手ダメージを受けている様子ではなかった。

 鬼貫による厳しい評価も当然であろうと、キリサメも痛感している。

 カリガネイダーに教わったこの蹴り技を〝実戦〟で用いたのは過去にただ一度――すがだいら合宿と岩手興行の間に起こった瀬古谷寅之助との〝げきけんこうぎょう〟のみであった。他者から指摘されるまでもなく〝付け焼き刃〟に過ぎないことは自覚しているのだ。

 ヴァルチャーマスクの前で披露することも本来ならば避けるべきであった。殆ど使いこなせていないという無様な現状は、元祖ヴァルチャーマスクから後ろ回し蹴りソバットを直伝された養父の顔へ泥を塗ることにも等しいのである。

 尤も、当の八雲岳は喜色満面であった。またしても特等VIP席に立つヴァルチャーマスクへと右の人差し指を突き出し、「見たかよ、兄ィッ!」とまで吼えている。生涯の恩人から授かり、後進へと託した〝伝家の宝刀〟を養子キリサメまでもが放ったのだ。険しい表情でリングを見つめる麦泉とは血色まで正反対である。

 一九九七年一〇月――『プロレスが負けた日』に自らを生贄として捧げ、日本にMMAの〝道〟を拓いたヴァルチャーマスクには、偉大なる礎から始まった歴史が次世代に受け継がれた証拠を見届けて欲しかったのだ。その夢の一つを養子が叶えてくれたのだから、脳が痺れるほど昂ってしまうのも無理からぬことであろう。


から攻守を逆転すんのもヴァルチャーの兄ィは得意だったんだぜ! キリーにも出来る! 兄ィと〝同じ景色〟を見られるお前なら絶対に出来らァッ!」


 後ろ回し蹴りソバットを仕損じたキリサメは、マットに背中を着ける状態となってしまったが、この不利な状況もヴァルチャーマスクのように瞬く間に打開するであろうと、岳は疑わないのである。

 現在いまはプロレスマスクを脱いで傷だらけの禿頭あたまを晒しているが、ヴァルチャーマスクは逆立ちしながら両足でもって相手の首を挟み、次いで己の頭を軸に代えてコマの如く全身を振り回し、勢いよく相手を投げ落とすという大技を使いこなしていた。人間の限界を超える〝神速〟を秘めた養子キリサメも恩人と同じ〝次元〟に立つ存在と信じ切っているのだ。

 過剰な期待を寄せられるキリサメを見下ろしながら、城渡は右足を高々と持ち上げた。『天叢雲アメノムラクモ』のルールではマットに倒れ込んだ相手を踏み付けることも認められている。打つ手を誤れば、八一キロという体重によって圧し潰されるのは間違いない。

 素早く身を翻して仰向けのような体勢へと転じ、その流れの中で城渡の左足首を掴んで引き倒すこともキリサメは考えたが、背骨や肋骨を踏み潰されるほうが自身の五指を繰り出すより早いだろう。

 現在いまのキリサメは身体からだを開くような恰好で城渡を仰いでいる。両のてのひらと左の踵――この三点を軸に据え、外から内へと右足を横薙ぎに振り抜いた。

 マットに三角形を描くような恰好で身体からだを固定し、二点の軸に一本の線を通すという変則的な足払いであった。軸足を据えることが不可能である為、寝転んだグラウンド状態では蹴り技を試みても十分な威力を生み出せない。これを補わんとする工夫である。

 当然ながら立ったスタンド状態で繰り出す蹴り技には劣るが、相手の虚を衝いて左足首を刈るには十分である。思わず声を裏返らせてしまった城渡マッチは咄嗟の判断で左膝を突き、振り下ろした右足でもって体重を支えて横転だけは免れた。


「気を付けろ! と同じ打撃を頭に喰らえば、二度目はダウンじゃ済まないぞ!」


 必然的に城渡の上体も大きく傾いてしまったが、セコンドの二本松が警戒を呼び掛けるような追撃はなかった。一時的とはいえ彼の動作うごきを食い止めたと認めたキリサメは、野犬の如く姿勢を低く保ったまま跳ね飛び、その真横をすり抜けていった。

 これまでの報復しかえしとばかりに数度の打撃を見舞うよりも一方的に畳み掛けられる状況から離脱し、仕切り直しを図ることが先決と判断した次第である。それ故に城渡の背後うしろには回り込まず、間合いを取ったのだ。


「……くだらない小細工だって軽蔑しますか? さっきから岳氏に要求されているような真似は……僕はヴァルチャーマスクにはなれません」

「もうちィっと自信を持てよ、アマカザリ。地べたに寝ちまったら命取りじゃねェか。特にリング外の喧嘩だとな。不利を引っ繰り返す技が小細工であるモンかよ。つーか、一人だけ頭ン中が〝格闘技バブル〟まで巻き戻ってる養父オヤジのコトはとりあえず無視シカトしとけ」


 互いの拳が届かない位置ではあるものの、同時に振り返り、再びキリサメと向き直った城渡はヒサシの如く突き出したリーゼント頭を揺らしながら笑った。

 その直後にメインアリーナで大歓声が爆発した。岩手県内各所に設けられたパブリックビューイングの会場も同様であろう。キリサメは養父の期待に応えられないと自嘲めいた調子でかぶりを振ったが、少なくとも観客たちの熱を冷ましてしまうような攻防ではなかったということだ。

 〝城渡総長〟に心酔する暴走族チームの親衛隊長――つるぎきょうは「この野郎、アマカザリィ! チマチマやってんじゃねぇよ! 大技でぶつかるのが礼儀だろがッ!」と不機嫌そうに喚いているが、それは二人の耳へ吸い込まれる前に押し流されていった。コーナーポストに立つセコンドとリングで闘う選手の距離を差し引いても、五〇〇〇に及ぶ歓声を切り裂いて鼓膜に飛び込んでくる岳の声量こそが異常なのである。


「見たか、実況コンビ! さっきはよくも自慢の養子むすこさる麿まろローのセコい作戦を一緒にしてくれがたったな! 合宿で打撃訓練トレーニングを頑張った成果だっつーの! 知ったかぶりの声なんか聞き流せ! さっきの後ろ回し蹴りソバットが証明したのは! 一七年のときを超えてキリーこそがヴァルチャーの兄ィからMMAの〝正統〟を受け継いだって資格コトなんだからよ!」


 握り拳が丸ごと収まってしまうくらい大きな口から発せられる一言一言がいちいち喧しい岳のなかでは、恩人ヴァルチャーマスクに憧れてプロレスラーという〝生き様〟を選んだ頃の純粋な闘魂たましいが大きな火柱と化し、天を焦がすように逆巻いているのであろう。


(……こんなときでさえちっとも噛み合わないんですね、僕たちは……)


 今もってリングで闘う養子じぶんの状況を殆ど認識できていない岳に対し、キリサメは疲れたようにかぶりを振るしかない。

 『さる麿まろ』という名前はゴングが鳴る直前に鬼貫道明も口にしており、実況席のマイクとスピーカーを通してリングにまで届いている。『昭和の伝説』とも謳われたプロレスラーが手塩にかけて育てた愛弟子であろうとキリサメも察してはいるのだが、亡き母も熱心に応援していたヴァルチャーマスクとは違って今日まで聞いたおぼえもなかった。

 こいづかさる麿まろと自慢の養子むすこを同列に並べないよう訴える養父の主張ことばがキリサメ当人には半分も理解できなかったのである。

 あまつさえ、本来は無関係であるキリサメにまで個人じぶんの胸のうちに留めておくべき恩人ヴァルチャーマスクへの憧憬あこがれを押し付ける有りさまなのだ。『鬼の遺伝子』の所属であった頃から共に歩んできた鬼貫と麦泉に浅慮を戒められ、一度は猛省したことさえ岳は忘れてしまったのだろう。

 黄金時代が終焉を迎える以前の日本MMAにて〝最年少選手〟と呼ばれた旧友――『おんの雑草魂』と〝今〟のキリサメを重ね、理不尽に憤激したことを「にお前を付き合わせる理由なんかねェ」と詫びた城渡とは正反対である。

 岳の吼えた言葉が何もかも見当違いであったわけではない。すがだいら合宿の最中に力を注いだ打撃技術の訓練トレーニングがこのリングにいて〝実感〟という形で芽吹きつつあるのだ。


「――路上戦ストリートファイトのときも思ったけど、やっぱキリサメは打撃系ストライカーの適性が高ェよな。殴り合いにこだわるのが『天叢雲そっち』にも多いっつーのはムエ・カッチューア使いのアイツを見りゃ分かるだろ? だったら、防御の選択肢はもっと増やしたほうが良いぜ」


 マットを蹴り付けて猛然と間合いを詰めてくる城渡を見据え、防御と回避の二者択一を己に問うキリサメの脳裏に打撃訓練トレーニングを支えてくれた親友――でんの声が甦った。



 合宿所として利用したのはすがだいら高原・奥ダボスの手前に所在する古い山荘である。木立に囲まれた広い庭には四角いリングも設置されたのだが、キリサメは養父が技術指導を務める長野県の地方プロレス団体――『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿へ同行しただけであり、一人でを独占するわけにはいかなかった。

 数名ごとに行う模擬戦スパーリングの順番を待つ間、リングを取り巻く位置でレスラーたちはそれぞれの練習をこなしており、キリサメも太い木の枝を掴んだ片手懸垂などに励んでいた。

 岳と鬼貫の二人がそれぞれ言及した通り、キリサメが最も時間を費やしたのはMMA選手にとって欠くべからざる打撃訓練トレーニングであった。『天叢雲アメノムラクモ』と敵対関係にある地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の所属選手だけに名前は伏せられたが、誰よりも熱心に付き添い、自分が体得した技術や知識を実践も交えて手解きしたのが空閑電知なのである。

 半ば押し掛けるような恰好ですがだいら合宿に同行した電知は柔道家であり、『JUDOジュードー』とも表記される国際ルールでは〝禁じ手〟と判定される投げ技まで臨機応変に使いこなしているのだが、それと同じ水準レベルで〝あて〟の技法――即ち、打撃に精通していた。

 自転車ママチャリに打ち跨って様々な道場を訪ね、膨大な量の文献も手本として〝あて〟が有効であった時代の柔道を現代に甦らせた電知の精神たましいは、その風変わりなじゅうどうが表している。

 うわの袖は肘が露出し、下穿ズボンも裾膝下九センチ程度と短く調整してある。腰に締めた黒帯こそ現代の段位に応じた物であるが、じゅうどうそのものは明治時代――即ち、柔道の黎明期に用いられた様式の復元であった。

 同様のどうを纏って『明治』の日本からばたき、世界中を経巡って一〇〇〇回もの異種格闘技戦を繰り広げ、生涯無敗を誇った伝説の柔道家――『コンデ・コマ』ことまえみつを尊崇する電知は、自らが復活させた古い時代の技にも彼の別名を冠していた。

 最期に辿り着いた〝地球の裏側〟にてこんにちける『ブラジリアン柔術』の祖となり、その隆盛を担った先駆者の一族が『NSB』の旗揚げに参加したことで、前田光世コンデ・コマの名は総合格闘技MMAという歴史の扉をも開いた偉人として格闘技史へ永遠に刻まれた。

 その前田光世コンデ・コマが得意としたように電知もまたあてから組技へと流れるように変化し、高い次元で組み立てる攻防こそ『コンデ・コマ式の柔道』の神髄であるが、キリサメの訓練トレーニングと向き合った際にはを封印し、親友の飛躍を支えることのみに集中したわけだ。


「おれはこの通りの小柄チビだからよ、『E・Gイラプション・ゲーム』の試合も『天叢雲そっち』と同じように無差別級が殆どだし、大体は倍くらい体格ガタイの良い選手ヤツを相手にしてんだよ。体重と筋肉量は必ずしも一緒イコールじゃねぇけど、やっぱ数十キロも差のある野郎からブン殴られるときは背筋がゾクゾクして愉しいぜ」

「体格差が有利不利に結び付くのは僕の経験で分かるかな。判断を間違ったら命に係わるような状況を満喫できるのが電知らしいよ。ひょっとして前田光世コンデ・コマって人も自分よりおおきな相手と闘っていたんじゃないか?」

「ちょっと前までツレなかったのに嬉しいコトをサービスしてくれるじゃねェか! キリサメもじゃん! 勿論、生きるか死ぬかの紙一重を味わい過ぎて自分の肉体からだ故障こわしちまったら単なるバカだからよ、〝下手な受け方〟だけはしねェように気ィ付けてるよ。それを言ったら、お前とり合った路上戦ときもかなり危なかったけどな」


 明治時代に生まれた前田光世コンデ・コマも身の丈が一六〇センチ半ばであり、決して体格に恵まれていたわけではない。そもそも外国の猛者たちは日本人とは骨格からして違うのだ。どれほど足掻いても埋めようのない〝現実〟を背負いながら、〝世界〟に柔道の奥深さを知らしめたのである――こうした功績を電知は以前にもキリサメに語っていた。

 何事にも反応が薄く、他人の話すら聞き流していそうな親友キリサメ前田光世コンデ・コマの伝説をおぼえていたことも、『明治』の挑戦たたかい現代じぶん試合たたかいを重ねてくれたことも、どちらも電知は天に昇るくらい嬉しく、蕩けるように頬を緩めつつじゅうどうの上からくすぐったそうに全身を掻きむしっていた。


「別に母親おふくろを恨んでるワケじゃねェんだぜ? でもな、現実としておれみてェな小柄チビはデカい相手がぶつけてくるパワーをそのまま受け止めたら、どれだけ固めていたって防御ガードの上から骨を折られちまうんだよ。そこで『柔よく剛を制す』ってワケだ! 巧い具合に威力を受け流しちまえば、反対に自分てめーの有利を呼び込めるって寸法だぜ」

前田光世コンデ・コマのように?」

「おう! 前田大先生も二倍近く体重差が開いてた『ブッチャー・ボーイ』をブッ倒して世界最強への旅を踏み出したっつーからなッ!」


 柔道の世界普及を志す前田光世コンデ・コマが一九〇五年に初めて臨んだ異種格闘技戦――伝説への第一歩は、アメリカ合衆国のニューヨークが舞台と伝わっており、自らの首級くびに一〇〇〇ドルの懸賞金を掛けて挑戦者を募るというものであった。

 これに応じたのは『ブッチャー・ボーイ』を通称とする魁偉である。アトランタにいて〝世界一の怪力〟などと畏怖されるプロレスラーであり、当時の前田光世コンデ・コマとは身長も体重も数値上ではおよそ二〇という差があった。

 くだんの試合を報じるニューヨーク現地の新聞に記された数値とも掛け離れている為、誤伝の可能性を多分に孕んでいるのだが、前田光世コンデ・コマと立ち合った際に『ブッチャー・ボーイ』の体重は一一〇キロを超えていたとするもある。

 比喩でなく文字通りに桁違いの相手を撃破したという〝伝説〟を前提とした上で、電知は「柔よく剛を制す」と親友キリサメに説いたのである。

 には〝世界最強〟という見果てぬ夢を成し遂げた前田光世コンデ・コマへのまんも込められているのだろうが、一方で電知は格闘技の試合を大きく左右する体格差という〝現実〟を極めて厳しく捉えていた。

 生涯無敗という空前絶後の神話を残した偉人おとこであればこそ、人間離れした怪力を巧みに捌き、体躯に拘わらず万人の弱点である関節を極めて『ブッチャー・ボーイ』をくだせたのだが、それは〝人外〟の領域に他ならない。凡庸なる者が手を伸ばそうものなら、自らの浅はかさを思い知ることになるであろう――と、生涯の目標である前田光世コンデ・コマと己自身を安易には重ねないのである。


「相手の蹴りを腕で防御ガードしようって瞬間とき、当たるかどうかの間際に少しだけ身体からだを引いてみるんだよ。一番威力を発揮できるって相手が見込んだ一点をこっちから引っこ抜いてやるのさ。〝芯〟を抜くって言い方だと曖昧過ぎっかな?」

「自分のほうに押し込まれてくる力を受け流すというイメージかな。格闘技の特訓トレーニングというよりは物理学の授業みたいだけど」

「完全にかわし切った場合は相手のほうも姿勢を整え易いってのは、キリサメも想像し易いんじゃねぇかな。よっぽど無茶な打ち込みさえしてなけりゃ、〝体さばき〟を自分てめーの思い通りに制御コントロールできる。でも、ただの防御ガードと見せ掛けてデカく意表を突いてやりゃあ、次の手を考えていた思考アタマまで吹っ飛ばしてやれるぜ」

「面食らって体勢を崩したところに潜り込んで投げ倒し、相手の状況に応じて寝技に持ち込むといったところかな? 電知のはやさを考えたら、自分が何をされたのかを認識できないまま首を絞め落とされそうだな」

「ど~しちまったんだよ、今日のキリサメはぁ⁉ おれを猛ラッシュみてェに喜ばせてどうする気だぁ⁉ 今夜はイイ夢、たっぷりられそうだぜっ!」


 地下格闘技アンダーグラウンドでは両者とも素手という流血必至の試合へ臨むことも多い電知は、甚だ不慣れという練習用の指貫オープン・フィンガーグローブを装着すると〝格闘競技〟にける基礎の一つを親友キリサメに語っていく。

 前田光世コンデ・コマの足跡が記された古今東西の文献を読み漁り、彼がのうろうこうどうかんへ入門する前に生まれ故郷の青森県弘前市で体得したと伝わる古流柔術――当時のひろさきはんでは門外不出のとめりゅうという――『ほんがくこっりゅう』の研究者を訪ね、意見交換も兼ねてその技法を学んでいる。

 このように武道を通じた交流コミュニケーションに慣れていることもあり、電知の説明には実例が添えられていた。『天叢雲アメノムラクモ』のルールどころか、格闘技全般の勉強が捗々しくないキリサメにも親友が述べる内容ことは理解し易く、あたまへと自然に染み込むようであった。

 例えば相手が足先でもって側頭部を揺らさんとする蹴りを放ったときには、自分のほうからえて間合いを詰め、防御ガードに用いる腕に脛の辺りを、受ける痛手ダメージを最小限に抑えつつ、有利な体勢を維持したまま速やか反撃に転じられる――この防御技術は、実践を交えて解説された。

 その効果を実感する為にキリサメが攻撃側を引き受けたのだが、例え防御ガードされても小柄な電知であれば確実に撥ね飛ばせるであろう蹴り技は、威力が大きく減殺されてしまったのだ。仮に〝実戦〟であったなら、更に半歩ばかり踏み込んだ親友から反撃の肘打ちで鳩尾を抉られていたはずである。

 あかぞなえ人間カリガネイダーなど各々それぞれの練習に励んでいた周囲まわりのレスラーたちが揃って感嘆の声を上げるほどキリサメの蹴り技は鋭かったのだ。攻守が一体で組み合わさる電知の防御技術を大きな大歓声が追い掛けたことは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 最も強い力が働く一点を外してしまう〝受け方〟――威力を発揮させない防御技術という発想から受けたキリサメの驚愕は、殆ど異文化体験にも近い。

 亡き母による理科の授業を振り返るまでもなく、打撃の際に攻守双方へ作用する〝力〟が物理法則に基づいている以上、衝撃を緩和あるいは吸収させる手立てが技術として発展していくのは当然であろう。

 そもそも格差社会の最下層を生き延びる為にキリサメが編み出した喧嘩殺法は、電知が極めた『コンデ・コマ式の柔道』のように格闘を目的とした性質ものではない。生きる糧を得るべく狙いを定めた〝標的〟を一瞬で叩き伏せることに重点を置いているのだ。

 つまるところ、今までのキリサメには防御技術を磨く必要がなかったわけである。を明確に意識したこともない。致命傷を受けないよう必要に応じて四肢を動かし、相手の攻撃と己の急所の間に手足を挟み込む感覚であった。

 骨身を軋ませる痛みを和らげるという発想など〝地球の裏側〟で闘っていた頃には、殆ど持ち得なかった。非合法街区バリアーダスの物陰から襲い掛かってくる無法者アウトローやギャング団は、大抵の場合が武器を持っている為、防御ガードしたほうがかえって危うい状況に陥るわけだ。

 格差社会の最下層を這い回る者たちは、ペルーの国民にんげんでありながら〝表〟の社会とは隔絶された状況で生きている為、負傷してもで治療を受けることが難しい。貧困層の医療費を国が全額負担する制度も運用されてはいるものの、犯罪行為を働いた際に受けた傷をで晒せば、診察室を出る頃には廊下で制服警官が待ち構えているはずである。

 キリサメがねぐらにしている非合法街区バリアーダスには腕の良い闇医者も住んでいたが、支払わなくてはならない報酬の額面が富裕層を迎え入れる私立病院にも匹敵する為、気軽には頼れないのだ。直撃を被らないよう完全にかわし切る機会が多かったのも、ペルーという国家くにに生まれ落ちた者の必然であろう。


「別に難しく考えなくたって良いんだぜ? 威力を別のトコに逃がすっつうのはキリサメも無意識にやってきたと思うし。防衛本能っつうの? そ~ゆ~モンを今よりちょっとだけ意識するトコから始めりゃ、あっという間に肉体からだにも馴染むハズだぜ!」


 お前の戦闘能力ちからはおれが誰よりも理解わかってる――キリサメの肩を叩きながら明るく笑う電知の声は、木立を揺らす高原の風と同じようにどこまでも爽やかであった。



 親友の空閑電知や養父との関わりが深い長野県の地方プロレス団体に支えられたすがだいら合宿と、岩手興行の間には瀬古谷寅之助――『タイガー・モリ式の剣道』との〝撃剣興行たたかい〟も挟んだが、要点を学んだ防御技術は今でも使いこなせてはいない。カリガネイダーより伝授されたプロレス式の後ろ回し蹴りソバットと同様の〝借り物〟に過ぎない状態である

 無論、己の至らなさをリング上で悔やんでも発展性がないことはキリサメにも分かっている。合宿で打ち込んだ訓練トレーニングの内容が自分の置かれた状況を見極める手掛かりとなったのだから、寧ろ戦況を好転し得る兆しと言えよう。

 高原の風に彩られた追憶から現実のリングに意識を引き戻し、城渡マッチを真正面に見据えたキリサメは、寒空の下で路上戦ストリートファイトを繰り広げた電知や、生涯無敗の伝説に向けた大序曲とも言い換えられる『ブッチャー・ボーイ』と相対した前田光世コンデ・コマに己を置き換え、思考を巡らせていた。

 城渡との体重差をどのようにして埋めるべきか――体重別の階級を設定しない完全無差別級の試合形式から突き付けられた課題の突破口をキリサメは模索しているのだ。

 前日の公開計量で測定された通り、胴や腕に少しばかり贅肉を纏わせた古豪ベテランの体重が八一キロであるのに対して、キリサメは六二キロである。

 一九キロという差は『NSB』が採用している階級制の基準と照らし合わせれば、三階級も飛び越えてしまっている。キリサメはフェザー級、身の丈が一回りほど大きい城渡はミドル級にそれぞれ分かれるはずであった。

 奇しくも路上戦ストリートファイトける電知と真逆の状況なのだ。今度はキリサメに順番が回ってきたとも言い換えられるが、数値では計り知れない影響が文字通りに重く圧し掛かっていた。

 中量級が適正体重にも関わらず、その条件と釣り合うMMA選手が『天叢雲アメノムラクモ』へ所属していない為、試合のたびに数倍もの体重差でし潰されてきたのがしんかいこうである。未だに挨拶すら交わしたことがない〝先輩〟の苦境を思い、キリサメは「理不尽な目に遭わせる団体に見切りを付けなかっただけでも鋼鉄の忍耐力だ」と心の中で敬意を表した。

 自身の実戦経験と理論に基づいてヴァルチャーマスクが完成させた日本で最初の〝総合格闘〟――『しゅう』の使い手でありながら、しんかいこうは体重差という〝壁〟に阻まれたまま、ついに本来の実力ちからを発揮できなかったのだ。それ故に『天叢雲アメノムラクモ』では戦績が振るわず、今では団体代表の樋口に冷遇されている。

 総合格闘技MMAのみならず、ボクシングや柔道など多くの格闘技・武道――即ち、〝格闘競技〟が体重別階級を設定し、これに違反した選手に厳しい罰則ペナルティーを与えるのは、体格差を考慮しない試合によって引き起こされる深刻な事故を防ぐ為である。

 だからこそ樋口郁郎にはの格闘技関係者から「選手の生命と人権をも弄ぶ独裁者」という侮辱にも近い批判が浴びせられるのだ。その根拠としてしんかいこうに対する酷い仕打ちを挙げる者は少なくない。


(……考えるな、感じろ――とは言うけれど、容赦なく骨身を揺さぶってくるこのをどうにかする為には、頼りない頭を働かせなきゃならないもんな……)


 これから先の攻防を頭の中で組み立てるべくキリサメは深く息を吐いた。つい先程までは肺を伸縮させるたびに突き刺された激痛も今では随分と小さくなっている。

 大噴火の如き一撃アッパーカットから始まった一連の攻防では、想定以上に体力を消耗してしまったのだが、呼吸自体が〝神速〟を発動させた直後と比べて遥かに落ち着いているのだ。

 防御ガードを固めて激しい動作うごきを抑えた効果は大きく、開戦の合図ゴングが鳴り響いて間もなく疲弊肉体からだが回復し始めていた。

 この試合中に全身を駆け巡る痛みは完全には鎮まらないだろうが、少しでも和らげば身のこなしも変わってくる。依然として未完成ではあるものの、次に後ろ回し蹴りソバットを放つときには城渡に与える痛手ダメージも倍加できるはずだ。

 無論、呼吸を整えた代償は、決して小さくはない。

 アッパーカットを凌いだ左右のてのひらだけでなく、腕の全体が痺れているのだ。両の下腕を交差させる防御ガードであったなら、拳が命中した部位に留まらず、肘関節までし折られていたかも知れない。下から突き上げる衝撃を受け流したというのに、外れていないのが不思議と思えるくらい肩が軋んでいた。

 後ろ回し蹴りソバットと同様に親友から指導された防御技術も完成されていないが、威力を緩衝し切れなかった拙劣のみが理由ではあるまい。

 一九キロの体重差が試合にからぬ影響を及ぼすという事実こそがキリサメには一番の想定外であった。に応じた筋肉量も城渡に勝っているとは言い難く、互いの拳を叩き付け合うような状況が続いたなら、まず間違いなく競り負けるだろう。

 故郷ペルーでは城渡以上に体格差のある人間と幾度も戦ったが、そのときには『聖剣エクセルシス』を握り締めていた為、体重など殆ど関係なかった。寧ろ、キリサメのほうが重かったくらいだ。

 叢雲くもいろを映した指貫オープン・フィンガーグローブに代わる以前まえの〝仕事道具〟である『聖剣エクセルシス』は、二枚の平べったい木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出す原始的な構造だが、更に石の板を上下に一枚ずつ挟んで重量を補っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』のリングは体重差に影響を受ける初めての戦いであった。

 『聖剣エクセルシス』を持たずに生きる糧を得る為の〝標的〟を襲撃したことも一度は二度ではないのだが、キリサメが編み出した喧嘩殺法は速やかに急所を突くのが要であり、MMAの試合のように相対する人間や状況に合わせて攻防を組み立てる理由がなかった。


「――マフラーが火ィ吹く勢いで行くぜ⁉ パトカーも白バイも振り切るヤツをなッ!」


 八一キロという全体重でもって勢いよくリングを蹴り付け、一気に間合いを詰めた城渡は左右の拳を幾度も幾度も突き出した。膂力を引き絞った直線的な一撃ストレートパンチを連ねることでキリサメの身動きを封じるだけでなく、鎌の如く歪曲させた軌道を側頭部や脇腹へと滑り込ませていく。横薙ぎの拳も織り交ぜながら上半身に無数のダメージを刻むつもりなのだ。


「アマカザリ選手、ジリジリじわじわと慎重に行くのかと思いきや、今度はいきなり古豪ベテランを相手に大胆不敵というか、自滅願望が溢れちゃってるっていうか……。実況席からは城渡選手をおちょくっているようにしか見えませんね。若かりし頃には『くうかん』空手で鳴らした〝打撃番長〟を『パンチの打ち方を教えてやんよ』と煽りまくってますよ、

「自分はアマカザリ選手の動体視力と瞬発力に驚かされています。仲原さんが仰る通り、確かにミット打ち――トレーナーとパンチを訓練する風景の再現と見えなくもありませんけど、絶え間なく打ち込まれてくる拳をてのひら防御ブロックしているのですよ。どこを狙われているのか、その一発一発を瞬時に見極めるのだから、アマカザリ選手も大したもんだァ」

「だから、直撃クリーンヒットさせられない状況なのに楽しそうなんですね、城渡選手は! 私だったら自分のコトをナメ腐ってるだろって血管ブチ切れるトコですよっ!」

「いやいや、もう四、五歳くらい若かったら、仲原さんが指摘された通りに城渡選手もブチギレたハズです。彼も少しはになったというコトかも知れませんね。自分も似たようなものですが、年を食うと若い衆のやるコトが何でも眩しく見えるんです」

「今、『鬼貫さんの気持ちは仲原アナにも理解わかるでしょ』って思ってくれちゃった場内の皆さ~ん! バスタブに小指をぶつけて悶絶して、軽い湯冷めを味わう程度の呪いを掛けましたからね~! 確かにうちのコは輝いてますけど、それとこれとは別問題ですよッ!」


 鬼貫が看破した通り、バリバリと轟音を鳴らすバルカン砲ともたとえるべき猛襲に対して現在いまのキリサメは落ち着いて対処できている。今度もすがだいら合宿での打撃訓練トレーニングを振り返り、パンチングミットをかざした電知に倣って城渡の拳を受け止めているのだ。

 くだんの用具は相手の拳が突き込まれる部位に厚い緩衝材クッションが入っており、指貫オープン・フィンガーグローブに同じ効果は望めない。キリサメは親友の助言アドバイスに従ってパンチを受け止める瞬間に僅かばかり腕を引き付け、肘と肩の可動をも駆使して威力を減殺させた。

 肝臓や肋骨の下の肺を狙われ、てのひらによる防御ブロックが間に合わないと判断した瞬間には前後左右に肘打ちを繰り出し、城渡の拳を叩き落としている。

 標的の内臓に痛撃を見舞い、内側から人体破壊を図る技もキリサメの喧嘩殺法には含まれていた。一九キロという体重差から生み出される衝撃で肝臓でも貫かれたなら、その瞬間に意識を刈り取られてしまうかも知れない――と、実感と共に想像できるわけだ。

 突き込まれた拳を受け止め損ね、素早く身をかわした際に掠り傷を負うこともあったが、内臓への痛手ダメージだけは徹底して防ぎ続けた。

 この防御ブロックと組み合わせるようにしてキリサメは反撃の下段蹴りローキックを繰り出し、文字通りに城渡の足元を脅かした。てのひらでもって拳を受け止め、その腕を引き戻しながら同じ側の足でもって彼の膝や脛を蹴り付けるのだ。


「キリサメ君の喧嘩殺法――もとい、『我流』の技は僕たちが想像していた以上に引き出しが多いようですね。それとも合宿の成果かな? ペルーのギャングに絡まれたとき、センパイが目撃した技はもっとだったんですよね?」

「おうとも! あのバカデケぇ〝仕事道具〟を持っちゃいねェとはいえ、こんなカツオブシをチマチマ削り取るような小技はキリーらしくねぇ! ヴァルチャーの兄ィだって退屈しちまうぜ! 〝神速さっきのヤツ〟みてェにスカッと痛快なのをカマしたれェッ!」

「……余計な一言を付け加えないとあたまが爆発してしまう病気にでも罹っているんですか、センパイは……」


 白サイドのセコンド――岳と麦泉に見おぼえがなかったのは当然であろう。は瀬古谷寅之助が秋葉原にける〝げきけんこうぎょう〟で披露した蹴り技である。

 本人に確かめたことはなかったが、おそらくは『タイガー・モリ式の剣道』――即ち、よりも遥かにで用いられたあて一種ひとつなのだろう。寅之助は竹刀を繰り出した後も脇へとすり抜けることなくその場に留まり、刀身を引きつつ踏み込みに用いた足でこの蹴りを放ったのだ。

 時間差を付けて上下を揺さぶるという複雑な連続攻撃であった。僅かな間を置いて異なる部位が狙われる為、技の拍子も見極めにくい。上半身と下半身にそれぞれ意識を分散させる形となるので、反応も遅れてしまうのだった。

 しかも、寅之助の技は手足に別々の脳がるのではないかと疑ってしまうほど巧みで、その速度も緩急自在であった。互いの足首を絡ませて横転を狙うこともあり、キリサメは大いに惑わされていた。

 竹刀によるとつてのひらによる防御ブロックという差異ちがいこそあるものの、キリサメはかつて自分を苦しめた蹴り技を模倣し、これを反撃に換えた次第である。

 これもまたプロレス式の後ろ回し蹴りソバットと同じ借り物に過ぎない。粗雑な物真似であるから四肢の動作うごきが噛み合わない瞬間も多く、直接的な痛手ダメージも小さかったが、城渡の身のこなしを妨げる効果は十分である。実際に両腕を振り抜く動作うごきも乱れ始めていた。

 キリサメ自身、上下二段の時間差攻撃で集中を乱され、反撃に転じようとする動作うごきまで封じられてしまったのである。

 四方から降り注ぐ歓声を受け止めつつ、この攻防を暫く続けた城渡は、小細工とも喩えられる蹴りを弾き返すほどの勢いで踏み込み、キリサメの防御ブロックごと撃ち抜くべく全体重を乗せて右拳を突き込んだ。


(……つまり、寅之助の性分がこれ以上ないくらいあらわれた技というコトだな。城渡氏まで付き合わるのは申し訳ないけど、誰にとってもは煩わしくてならない)


 全身のバネを駆使した加速による連打では防御ブロックを突き崩せないと判断し、最大の破壊力を発揮する一撃へと切り替えた次第であるが、城渡ならば膠着状態にあぐんで文字通りの剛腕で打開を試みるであろうと、キリサメは見越していた。

 このように過剰な反応を引き出す為、互いの拳をぶつけ合う激しい応酬を好んでいる城渡を小技でもって焦らし続けたのだ。


「この野郎、アマカザリィッ! MMAファンの皆さんが見ている前で総長に恥かかせやがってェッ! 真っ向から顔をボコボコにし合う勝負がおとこってモンだろがァッ! そのナメ腐った根性、試合後あとで叩き直してやっからな! 兄貴分の責任ケジメとしてなァッ!」


 客席の何処かで暴走族チームの仲間と共に〝城渡総長〟の試合を見守っている恭路は、仲原アナの実況によって憤怒いかりを煽られた様子である。

 酒と煙草で焼けたダミ声は何時にも増して喧しかったが、五〇〇〇という観客はそれ以上に熱狂しており、傍迷惑にも兄貴分を自称する男の文句などキリサメの耳には一つとして届かなかった。


「少しはセコンドの助言はなしを聴け、雅彦! いきり立ってをするな! 自分から認めるのはそれなりに抵抗あるが、俺たちはもう若くないッ!」


 青サイドのコーナーポストに立つ二本松剛はすぐさまにキリサメの意図ねらいを見破ったが、彼が呼び掛けた注意は城渡を引き留めるだけの効力を発揮しなかった。

 二本松セコンドの助言が城渡の耳に届いていないわけがない。年齢を引き合いに出した警告が意味することも肺を刺す痛みで認識している。それでも一七年という日本MMAの歴史を背負う古豪ベテランは、数多の戦友と育んできた誇りを握り締めて新人選手ルーキーに突っ込んでいく。

 次なる一手に繋げんとする〝罠〟であろうと察しているが、を正面から受け止めなくてはMMA選手の生き様という精神モノ新人選手ルーキーに伝え切れないのだ。


「イイぜ、何を企んでいようが関係ねェ! 大技小技、何でもぶつけて来やがれッ!」


 至近距離で浴びせられた吼え声によって鼓膜を揺さぶられながら、キリサメは素早く迎撃に転じた。

 キリサメの顔面に迫る右拳は〝神速〟を引き摺り出した瞬間にも匹敵する破壊力を秘めているはずだ。それにも関わらず、脳の働きが死神スーパイの息吹の如き〝闇〟によって塗り潰されなかったのは、ここに至る流れがキリサメの目論見通りという証左であろう。

 直撃の寸前まで引き付けてから左の五指でもって城渡の右手首を掴み返し、攻撃そのものを断ち切ったキリサメは、を捻り上げながら彼に背を向けた。

 城渡の懐まで潜り込み、胸部から腹部に己の背中を押し当てるような恰好とも言い換えられるだろう。相手が拳を突き込んでくる勢いを逆に利用し、双方の身を巻き込むような投げでもって迎撃を試みた――実況席の鬼貫もそのように捉えた為、「技の入り方が少し変わっていましたが、これはかたそでつりこみごし⁉」と、柔道の技の一つをマイクに向かって吼えたのである。


「今さら詐欺紛いのやり口なんて言うつもりはねェが、お前、プロフィールには格闘技経験ナシって書いてなかったか? 柔道の心得があったとは驚きだぜ。オリンピックやパラリンピックでペルーが柔道の金メダルをったっつーのはピンと来ねェがよ」

故郷ペルーの柔道なんて、青年海外協力隊の人が子どもたちに教えているのを遠くで眺めたくらいですよ。僕の場合は親友が柔道家なんです。ちょっと変わった柔道ですが――」


 柔道の投げ技で迎え撃たれるとは全く想定していなかった城渡であるが、相手の狙いさえ判ってしまえば、手首を掴まれた後からでも十分に対処できる。右腕を捻り上げられた状態のままマットに根を張るよう両足を踏み締めた。

 互いの身を密着させた状態から上体を撥ね起こし、巻き込むような形で投げを打つのであろうと判断した城渡は、その動作うごきに逆らうべく渾身の力でもって重心を保とうと試みたのだ。一九キロという体重差を利用すれば、確実に堪え凌げるとも確信している。

 前回の長野興行でスペイン出身のアンヘロ・オリバーレスと対戦した際、と近似する攻防から劣勢に立たされ、我が身を情けなく思うような敗北を喫したのだ。二大会続けて同じ醜態を晒すわけにはいかなかった。

 そのときにも致命傷を狙って大振りの右拳を繰り出し、鮮やかな一本背負いで反対に投げ落とされた挙げ句、背後から抱え込むような恰好で首を絞められてしまったのである。

 相手アンヘロ・オリバーレスは柔道競技のスペイン代表として夏季五輪に出場し、金メダルに輝いた実績こともある。一瞬にして形勢を逆転させるような決着も仕方がないと擁護する声もあったが、泡を吹いて失神させられた屈辱は城渡本人のなかで容易く割り切れるものではない。


「やらせっかよォッ!」


 メインアリーナの天井を貫くような咆哮を上げた城渡は、とうとうキリサメに己の身を投げさせなかった。

 しかし、ここまでがキリサメの狙いである。城渡とアンヘロ・オリバーレスの試合をリングサイドで観戦した彼は、今し方と同じ猛襲でもって相手の身動きを封じ込めながら、潮目が変わった直後に呆気なく仕留められるという最後の攻防も記憶に留めていた。

 直近の敗北を思い起こさせる状況に立たされたなら、意地でも耐え切ろうとするに違いない――果たしてキリサメの予測は的中し、城渡は仕掛けられた罠に嵌っていく。

 眉間や右腕に血管が浮かび上がるほど強い力を込めて重心の維持を図れば、その瞬間に城渡の肉体からだは八一キロの岩石と化す。一瞬ながら身動きが完全に静止してしまうわけだ。

 かたそでつりこみごしでもってマットに投げ落とせなくとも、左の五指にて城渡の右腕を捻り上げた状態は変わらない。当然ながら胴も無防備のまま晒され続けている。彼に背を向けたまま半歩ばかり離れたキリサメは、続けざまに右肘を水平に閃かせ、防御も回避もままならない脇腹を鋭角に抉った。

 『タイガー・モリ式の剣道』の蹴り技に続き、今度は『コンデ・コマ式の柔道』のあてを借りている。三ヶ月前の路上戦ストリートファイトいて電知はキリサメの片腕を強く引っ張り、これと同時に自らの背中を胸部へと押し当て、無防備となった鳩尾目掛けて右肘を突き入れてきたのだ。

 キリサメは肘によるあての術理を踏まえつつ、かたそでつりこみごしと組み合わせるという応用を試みた次第である。片手のみで投げを打つものと身構えていたマッチは流れるように変化していく技に反応し切れず、人体急所の一つに直撃を許してしまった。


「思いもしねェ形で一杯食わされるんだから、やっぱりMMAは辞めらんねぇわ! アンヘロみてェな真似をしやがると思ったら〝肘鉄〟に化けるなんてよォ! 一〇年以上、リングに立ってるがよ、こんなに面白ェ展開はなかなか巡って来ねェぜッ!」


 借り物に過ぎない上に中途半端な変化を加えてしまった為、技の完成度は電知と比べるべくもないが、痛手ダメージを刻んだ手応えはある。肋骨も数本ばかり軋ませたはずだ。

 それでも城渡からダウンを奪うには足りなかったようだ。まさに肘打ちが突き刺さった直後、左の五指による手首の拘束を力任せに振り解かれてしまったのである。

 その途端、キリサメは城渡に背後を取られるという危機的状況に陥った。

 互いの立ち位置による有利と不利が一転した――とも言い換えられるだろう。意表を突きながらも致命傷を与えられなかったキリサメに対し、城渡の側は完全に自由を取り戻しており、加えて無防備な背中を好き放題に狙い撃てるのだ。


「キリサメ君、今すぐそこから離れろ! ジャンプでも前転でも何でも構わない! とにかく足を止めちゃいけないッ!」


 わざわざ麦泉から緊急回避を訴えられるまでもない。キリサメは振り返りもせずに右足裏を後方へ繰り出し、城渡の腹部に命中したことを素足でと、壁でも蹴り付けるかのような恰好で前方に跳ね飛んだ。

 片膝の屈伸では十分な跳躍力を生み出せず、大きく距離を取ることは叶わなかったが、この状況で考え得る最善の判断であろう。空中にて身を翻し、着地と同時に城渡へと向き直った直後、キリサメが立っていた場所に一筋の流れ星が落ちたのである。

 比喩でなく本当に隕石がメインアリーナの天井を貫いたわけではない。宇宙そらに尾を引く紅い閃きとしか表しようのない一撃が城渡より振り下ろされたのだ。


「漫画で言うなれば、今のは確定的に大ゴマ! オリバーレス戦では出し惜しんだまま終わってしまった〝奥の手〟を第一ラウンドから大盤振る舞いだァ~!」


 ヴァルチャーマスクを前にした岳に勝るとも劣らないほど昂った実況こえの向こうでは、城渡の右拳がマットに突き刺さっていた。

 空中で急旋回するなか、キリサメも城渡が奇妙な体勢に転じるさまを認めてはいた。予備動作の時点では次に如何なる手を打とうとしているのか、想像し得なかったのである。

 右足一本を軸に据えて立ち、全身を後方うしろに大きく傾けながら左足を高々と持ち上げていたのだ。拘束から逃れた腕も胸を反り返らせるような恰好で引き付けられていた。

 大リーグの投手ピッチャーが剛速球を放つ寸前の姿勢フォームに見えなくもなかった。あるいはつがえた矢をづるが切れるまで引き絞る姿とたとえたほうが正確に近いのかも知れない。

 爪先が頭上に達するほど高く持ち上げていた左足で猛烈に踏み込み、これを軸に入れ替えつつ、腰から肩に至るまで上半身のバネを最大限まで引っ張り出したのである。この勢いに乗せて急降下する握り拳は、まさしく隕石であった。


「とっておきのガチンコだぜェッ!」


 一等大きな咆哮を追い掛けるようにして轟音がマットに跳ね返った瞬間、二人の選手と木村レフェリーの立つリングは間違いなく揺さぶられ、その骨組みが立てる軋み音はキリサメの耳も拾っている。


「それにしてもアマカザリ選手は命拾いしましたねぇ~。たまたま射程圏外に居たから良いものの、運が悪かったらゲンコツ一発でKOオダブツでしたよ。一体、何人の選手がアレで沈められたコトか!」


 今し方の〝ゲンコツ〟を城渡マッチの〝奥の手〟と表現したことも、〝命拾い〟という指摘も、全てが仲原アナによる実況の通りであった。

 城渡の剛腕によって起こった風がキリサメの前髪を揺らしている。それ程までに近い距離で隕石ゲンコツを目の当たりにしたキリサメの背筋を一粒の冷たい戦慄が滑り落ちていった。

 僅かでも緊急回避が遅れていたなら、再び〝神速〟が発動していたかも知れない。そもそも今度は視界の外から飛び込んできた攻撃であり、キリサメは危機こそ感じながらも致命傷に至る可能性は認識できていなかった。

 現在いまの城渡は闘争心を燃えたぎらせながら、敵意や殺意といった負の想念を纏ってはいないのだ。これでは魂を蝕む〝闇〟が反応し、先程のような〝戦争の音〟を脳内あたまのなかに轟かせることもあるまい。

 己の身に起きたことを理解できないまま隕石ゲンコツでもって脳天を打ち砕かれ、マットに崩れ落ちたはずである。力を溜めている最中、城渡の右腕には数え切れないほどの血管が浮かび上がっており、そこに想像を絶する破壊力があらわれていたのだ。


「――な~るほど。銃で撃たれそうになった瞬間ときは発砲音を耳で感じ取れるから〝神速アレ〟も飛び出すってワケか。はそれもナシ。サミーの意外な弱点発見って感じだね。……あ~あ、つまんないの」


 今も場内の何処かで幼馴染みの初陣プロデビューを見物しているだろう・ルデヤ・ハビエル・キタバタケが征服者コンキスタドール言語ことばでもって不満を漏らす声が聞こえてくるようであった。


(ヴァルチャーマスクの満足云々は僕には関係ないけど、岳氏が言う通り、小技で削り取るような戦いじゃ埒が明かない。しかも、こっちは一発入っただけでお終いだ)


 『タイガー・モリ式の剣道』と『コンデ・コマ式の柔道』からそれぞれの技を借り、MMA選手としての経験不足を補おうと試みたわけだが、このように貧しい発想がそもそも誤りであったと、キリサメは心の中で二人の友人に詫びた。

 他人ひとの技によって攻守の選択肢を増やすという思い上がった態度で、勝敗を占う天秤を傾けられるはずもあるまい。城渡は肘打ちでもって右の脇腹を抉られた直後には、何事もなかったかの如く反撃に転じているのだ。キリサメの感じた手応え自体が錯覚であったのかも知れない。

 僅かな時間で〝標的〟を仕留めなくてはならないという性質上、キリサメの喧嘩殺法は打撃技が大半を占めている。肉弾戦の手段でもないのだから、あらゆる格闘技術が解放されるMMAで殴り合いにこだわり抜く城渡へ正面から挑んで勝てるはずもあるまい。

 電知のように巧みではないが、相手を掴んだ状態で打撃に変化していく技も編み出している。我流ながら関節技を使えなくもない。しかし、いずれも腕力だけで城渡に引き剥がされてしまうことであろう。今し方の攻防で思い知らされた通りである。


(とりあえず、ここまではまだ反則を取られていないよな。……それだけでも上等としておかなくちゃな)


 乱れ切った呼吸を整えた次は、試合運びそのものに対する突破口を早急に見つけ出さなくてはならなかった。MMAのルールが記憶から抜け落ちた状況でのプロデビュー戦に似つかわしく、リング上には新人選手ルーキーの課題が山の如く積み重なっているわけだ。


(……試してみる価値を自分にいたところで、前向きな答えなんか出ないのは理解わかっているけど、八方塞がりになるよりはマシだと割り切るしかないか……)


 など絶無に等しく、初陣ここに至るまで練習すら実施していないキリサメも使いこなせるとは考えておらず、有効な選択肢として肯定できる材料を一つも持ち合わせていないが、手詰まりも同然となった以上は養父が一方的に押し付けてきた〝フェイント殺法〟を試してみるしかなかった。

 これもまた道場『とうあらた』の体験会ワークショップや、ショープロレスに特化している『まつしろピラミッドプロレス』のレスラーから学んだことを〝借り物〟として使わざるを得ないわけだが、攻め手を欠くような状況ではあらゆる選択肢を捨てられないのである。



 抑え難い不安を抱え、「このにだけは頼りたくなかった」というやり場のない葛藤の末に〝フェイント殺法〟を採らざるを得なくなった養子キリサメの情況を知ってか知らずしてか、白サイドのコーナーポストで握り拳を振り回す岳は「とプロレスと喧嘩の合体奥義を解放だァッ!」と無責任な放言を繰り返している。


「向こうが大盤振る舞いならこっちもやったれ! 三つの魂を一つに合体して戦う力に換えるのはキリーが大好きな『せいれいちょうねつビルバンガーT』とも同じだぜ! 試合前に道場のリハに立ち合えたのだって天の導きに違いねェや! アイツらから教わった武と芸術の極みを信じろ! お前なら絶対に大丈夫だッ!」


 同じ戦略を考えながらも、と向き合う心情が全く噛み合わないという捻じれた構図である。

 左足裏を前方に突き出す城渡マッチの蹴りヤクザ養子キリサメは右拳で叩き落とし、半歩ばかり踏み込みつつ対の拳を横薙ぎに振り抜いた。肩越しに辟易うんざりとした溜め息が聞こえてくるようであったが、は自身の攻撃がヒサシの如く迫り出したリーゼント頭を掠める形でかわされたことへの苛立ちではあるまい。

 『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトや関連資料に記載されたプロフィールの中で、キリサメは一度たりとも『せいれいちょうねつビルバンガーT』という趣味に言及したことがなかった。一九七〇年代に日本で制作され、ペルーでも放送されたロボットアニメを愛好していることを大声で暴露された恰好であるが、これに腹を立てたわけでもない。

 そもそも『せいれいちょうねつビルバンガー』を例に引くこと自体が的外れに近い。同作では三機の戦闘機が一つに合体して人型のスーパーロボットとなる。この基本設定を思い浮かべ、岳は「三つの魂を一つに合体して戦う力」と呼び掛けたのであろうが、主人公パイロットたちはそれぞれ異なる特性が備わった使悪の宇宙帝国と戦うのである。

 草色のマントを翻しながら天空を翔け、不思議なエネルギーが漲った騎士剣バンガーバスタードを振り回す『ビルバンガーT』、右腕の超巨大ドリルで大地を貫くスピード型の『ビルドリラー』、野性味溢れる格闘戦と水中戦が得意な『ビルトーピード』――このように一体ひとつにして三種みっつ戦闘能力ちからを臨機応変に操るわけであった。

 これに対して、キリサメが得意とする目突きや金的――即ち、〝格闘競技〟にいて反則と判定されてしまう危険な技をやショープロレスの理論に基づいて対戦相手を惑わす〝罠〟に換えるのが岳の考案した〝フェイント殺法〟なのだ。

 三種みっつ戦闘能力ちからを組み合わせるという一点を除いて、くだんのロボットアニメと〝フェイント殺法〟には共通する部分が見当たらなかった。発想の根本に働くも異なっている。


「ド派手に畳み掛けると思わせておいて、ダウンを奪った直後には何故だか大きな動きがなかったアマカザリ選手、つまるところ、小手調べだったんですねぇ。うっかりすっかり騙されてしまいました。今となってはこいづかさる麿まろ選手がオーバーラップしたのも懐かしいくらいです」

「さっきから言ってんだろ⁉ うちのキリーと猿麿なんかを一緒にすんな! 鬼貫の兄ィからもっと厳しく叱っといてくれよなぁ~!」


 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体に出場し、城渡と対戦した経験を持ちながらも現在はMMA自体から距離を置いてプロレスに専念している鬼貫道明の愛弟子――恋塚猿麿の名前を口にした仲原アナに対して、岳は周辺あたりに唾を撒き散らすような勢いで抗議の言葉を浴びせた。

 彼女は先程もキリサメの試合運びをこの場に居合わせてもいないプロレスラーの得意戦法に重ねていた。

 世界を圧倒する才能に魅入られた鬼貫道明からいざなわれてプロレスへ転向したものの、そもそも恋塚猿麿は日本を代表する柔道家であり、一九九二年バルセロナオリンピックでは無差別級に出場して銀メダルにも輝いていた。

 柔道家としての現役時代は相手に組み付いたままで三分もの間、猛然と攻め続け、体力を消耗させたのちに勝負を仕掛けるという〝心技体〟を全て兼ね備えていないと成立し得ない戦法を取ったことで有名であったのだ。

 持久戦を画策しているようにしか見えなかったキリサメに向けて仲原アナがくだんの戦法を引用した際には、すぐさまに鬼貫が柔道家時代の戦法ものに過ぎないと訂正したのだが、岳は恋塚猿麿と養子キリサメを並べて語られることがどうしても我慢ならない様子である。

 その喚き声をリング上の木村レフェリーは実況席への悪質な威嚇行為とし、「心の中では既にイエローカードを二枚出していますよ」と極めて厳しい口調で自制と反省を促したが、衆人環視という誤魔化しようのない状況で警告を受けることもなければ、あるいは際限なく憤激を過熱させていたかも知れない。

 恋塚猿麿は実戦志向ストロングスタイルによる異種格闘技戦ではなく正統派のプロレスラーを貫いており、〝プロレスこそ最強〟という大いなる夢のを目指した岳とは理念からして相容れない存在であろうが、同じ『新鬼道プロレス』に属した〝旧友〟であることに変わりはない。

 年齢や立場にこだわらず、誰に対しても友人として分け隔てなく接する『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長には珍しい姿とも言い換えられるだろう。木村レフェリーの注意をれて喉の奥へと暴言を押し込み、その代わりに憤然と鼻を鳴らし始めた。


「――ッたく、どいつもこいつもなァ……! 猿麿の野郎と比べるなんざ、キリーにも失礼ってモンだぜ! 文多もそう思うだろ? なァ~?」


 その岳の真隣に立つ麦泉の口からは先程のキリサメに負けないほど重苦しい溜め息が二度三度と滑り落ちていった。


「……樋口社長も『くにたちいちばんの影に怯え続けている』と、あちこちで陰口を叩かれていますけど、センパイの場合は何時まで経っても猿麿さんへの劣等感コンプレックスが抜けないのですね」

「ンなッ⁉」


 人智を超えたはやさで城渡に凄絶なる一撃を見舞った直後、今にも卒倒するのではないかと案じられるほど乱れ切っていた呼吸が落ち着き、が維持されているキリサメの様子を十分に見極めた麦泉は、次いで岳のことを横目でめ付けた。


「……それとも『プロレスが負けた日』と呼ばれる一九九七年の屈辱を――実戦志向ストロングスタイルのプロレスが『ブラジリアン柔術』に惨敗した〝罪〟をだけに背負わせておくことを未だに悔んでいるのですか?」


 麦泉の顔がリングの外に向いたのはほんの一瞬であり、すぐさまキリサメの背中へと視線も戻されたのだが、諦念を湛えた瞳で一瞥されただけでも、岳には彼の言わんとしたことが何もかも伝わるのである。

 ヴァルチャーマスクという〝影〟を何時までも断ち切れないからこそ、恋塚猿麿が気に喰わないのだ――麦泉は声なき追及でもって岳を突き刺していた。

 家族や恩人にさえ気付かれないよう心の最もくらい領域に隠してきたはずの感情モノを容易く見破られ、無造作としか表しようがない形で抉り出された岳は、それ故に自分のほうに向き直ろうともしない麦泉の横顔を呆然と見つめるしかなかった。

 試合を預かるセコンドとしても、親友たちから〝忘れ形見〟を預かった養父としても、本来ならば相棒が見据える先へと視線を巡らせなくてはならないのだが、現在いまは己の立場すらも忘れてしまっている。

 養子キリサメの〝命綱〟ともなり得るタオルを肩に掛けていることさえ、思考あたまから抜け落ちる有りさまであった。


「本当は背負わなくてはいけなかった〝永久戦犯〟の汚名をだけに押し付けてしまった――この一七年間、センパイが自分に問い掛け続けてきたのは、そんなところでしょうか。自分の気持ちに素直過ぎて、動く理由だって後回しにして突っ走るセンパイらしくないですよね」


 えて言葉として紡がなかった問い掛けまで岳の心に届いたと確信している麦泉は、奥底に溜まって肉も骨も腐らせていく膿を掻き出すかのように彼の〝古傷〟を抉り続ける。

 平素いつもは誰よりも穏やかで、怒っているときでさえ温かく聞こえる麦泉の声が今は心臓が凍り付くほど冷たかった。


への気持ちはキリサメ君よりも大事なのですか?」


 顔から血の気が引こうとも岳は怒号を張り上げようとはせず、低く小さな呻き声を漏らしたのちは、病的と表すのが似つかわしい色に染まった唇を噛むしかない。一方的な決め付けに過ぎないと激昂しようものならば、その瞬間に麦泉の指摘を全て認めたことになってしまうのだ。

 内心では長年の相棒に一つとして反駁できないことを自覚している。己こそが罰を受けるべきであったという罪の意識を心に溜め込んできたからこそ、正々堂々と胸を張って麦泉に立ち向かうことが叶わなかったのである。


「……歴史に残るレベルの汚点なんか、時間が解決してくれるモンでもねぇだろ……」


 ようやく喉の奥から絞り出したのは、蚊が鳴くような呻き声であった。その上、麦泉の追及に対する回答こたえにもなっていない。結局は数分もたずに麦泉の指摘を認めざるを得なくなってしまった次第である。

 如何なる言葉にも開き直れるくらいに岳が器用であったなら、何事にも無感情な養子キリサメに倣って受け流せたであろう。我知らず肩に掛けていたタオルで己の顔を隠してしまったということは、気持ちが折れた証左である。

 己自身でも薄汚く感じるくらかおを生涯の恩人であるヴァルチャーマスクや鬼貫道明には断じて晒せなかった。だからこそ「猿麿みてェにデタラメに生きちゃいねェんだよ。オレには兄ィの理想を守り抜く使命があったんだ」と虚勢を張ってみせたのだが、声を籠らせるタオルの色は白い。それは降参の旗と同じであった。

 八雲岳はプロレスでもMMAでも恋塚猿麿と拳を交えたことがない。『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体では試合後のリングに乱入してきた恋塚から挑発にも近い形で対戦を要求されたが、MMA選手としての矜持で拒否したのだ。

 恋塚猿麿がMMAのリングにて乱入未遂事件を起こしたのは、現在いまから一五年前のことである。彼は『新鬼道プロレス』と刷り込まれたシャツを着ており、これによってプロレスラーという〝立場〟を示していた。

 鬼貫道明の闘魂を継ぐレスラー同士がリングに立てば、それは宣戦布告を飛び越えて臨戦態勢である。『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦からMMAに移ったが不意に訪れた夢のような展開に白熱したことを岳自身も肌で感じていた。

 だが、MMAとプロレスの興行イベントは違う。己の足で立つのは恩人ヴァルチャーマスクが自らを生贄に捧げて拓いた〝道〟なのだ。〝生涯レスラー〟を自負しながらも揺るがない岳は、灼熱の如く煮えたぎる対抗心を抑え込んだのである。


「――ちょっと待てよ、八雲。逃げるのナシやぞ、コラ」


 小憎らしい笑顔と共に浴びせられた罵声は、五五〇〇日を超える歳月が過ぎた現在いまも岳の耳にこびり付いて離れない。このまま二度と消えることはあるまい。

 一九九九年四月二九日に名古屋にいて開催されたMMA興行イベントで岳と対戦したのは、当時から北米アメリカ最大の規模を誇っていた『NSBナチュラル・セレクション・バウト』にも参戦し、アメリカのマット界とMMAの橋渡し役を担ったプロレスラーである。

 日米レスラー対決を制したのは岳であったが、激闘による消耗は尋常ではなかった。疲弊し切った肉体からだに臨んでいたなら、観客の全員から冷笑される醜態を晒したのは間違いない。

 それでも恋塚猿麿の挑戦を受けるべきであった。受けなくてはならなかった――があらゆるしがらみを取り払った八雲岳自身の本音である。以心伝心という相棒に抉り出されたのは、一九九九年からこんにちまで封印し続けてきた悔恨なのだ。

 二〇一四年という現代いまを生きる若者たちには聞きおぼえがなく、世紀末に立ち合った人々でさえ懐かしむことがなくなったノストラダムスの大予言には『アンゴルモア』という存在が登場する。

 それぞれを別の存在として捉えるべきという研究が圧倒的に優位であり、未だに諸説紛々ではあるが、一九九九年ななつきに地球に降り立ち、人類を滅亡させるとノストラダムスが予言した〝恐怖の大王〟――その名を『アンゴルモア』と呼ぶ。

 実際に用いられたのはほんのいっときであったが、終末をもたらす存在の名をけて昔日かつての恋塚猿麿には『あわてんぼうのアンゴルモア』なる通称が付けられていた。りきどうざんがりさだ――〝戦後プロレス〟から半世紀に亘って続いてきた歴史を焼け野原に変える破壊の化身として危険視されるようになったのである。

 一九九九年一月――『新鬼道プロレス』のリングに立った恋塚猿麿は、事前の打ち合わせもなく真剣勝負セメントマッチを仕掛け、相手レスラーを叩きのめした上に団体関係者や観客をも挑発し、重傷者が出るほどの大乱闘を引き起こしていた。

 この試合で恋塚はMMAで用いられる指貫オープン・フィンガーグローブを装着していた。

 ブラジリアン柔術に敗れてプロレスの威信を貶めたとして、ヴァルチャーマスクが誹謗中傷に晒され続けていた時期でもある。

 MMAの象徴とも呼ぶべき指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めてに臨むことは、それ自体がヴァルチャーマスクに〝永久戦犯〟という心ない罵声を浴びせてきた全ての人々に対する挑発なのだ。ハゲワシのプロレスマスクを被った超人レスラーは、この日も恋塚のセコンドに付いていた。

 くだん真剣勝負セメントマッチは当代最強のレスラーが敗れて以来、磔とされた生贄に石でもぶつけない限りは怒りが鎮まらないような空気に包まれていたプロレス界全体を引き締めるべく鬼貫が恋塚に指示した〝密命〟であったのだが、暴走としか表しようのない姿に震え上がったファンたちは、いつしか『あわてんぼうのアンゴルモア』と呼び始めたのである。

 何しろでプロレスがMMAに敗れた恰好なのだ。問題の試合で恋塚はプロレスでは禁忌とされ、MMAでは有効として認められる『パウンド』――マットに寝転んだ相手に対する打撃をも解き放ったのである。

 実戦志向ストロングスタイルではない古き良きショープロレスを力道山から継承し続けてきた別団体『だいおうどうプロレス』までもが恋塚に叩きのめされたレスラーを擁護する声明を発表している。後年、同団体の名誉会長を務めるおかけんが『MMA日本協会』の会長に就任することを考えると、大いなる皮肉とも言えよう。

 世紀末に相応しく『新鬼道プロレス』も内部崩壊という厄災の気配に包まれたわけであるが、この先も戒めとするべき狂乱の事態を急報された瞬間、一五年前の岳は比喩でなく本当に膝から崩れ落ちたのだ。

 そのときに味わったくらい絶望が今でも岳の闘魂たましいを軋ませている。

 恋塚猿麿が特別待遇も同然の形で『新鬼道プロレス』に入団したのは一九九七年――奇しくも『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が旗揚げ興行イベントを開催した年であり、〝総合格闘〟の根幹を成す『とうきょく』の理論を彼に直伝したヴァルチャーマスクがブラジリアン柔術に完敗を喫する半年前のことであった。

 『新鬼道プロレス』ので実施された異種格闘技戦でデビューを飾ったものの、海外から有名選手を招いて対戦する『鬼の遺伝子』には参加せず、鬼貫とは別の形で実戦志向ストロングスタイルのプロレスに邁進していった。

 進む〝道〟を違えたということだけならば、岳も彼の選択を尊重し、素直に応援したはずである。自分より一〇年以上も後輩でありながら、瞬く間に『新鬼道プロレス』を代表するレスラーとなった恋塚猿麿のことが妬ましくてならなかったのだ。

 自身の率いる『新鬼道プロレス』へ招いたのち、鬼貫道明は愛弟子のヴァルチャーマスクと二人掛かりでトレーナーを務め、恋塚猿麿を果実兼備のプロレスラーに育て上げたのである。その二人を「アニィ」と慕う岳にとっては、これ以上ないくらい対抗心を掻き立てられる存在であった。

 三人が強化合宿に励むVTRを見せられた夜などは、醜い嫉妬を持て余して歯軋りしながら頭髪あたまを掻きむしったくらいである。

 その上、プロレスラーとしてのデビュー戦は、東京ドームで開催された興行イベントだ。己が思い描いた夢をことごとく叶え、どれだけ手を伸ばそうとも届かなかった〝全て〟を持っている――眩いばかりの男がプロレス転向から僅か二年で〝恐怖の大王アンゴルモア〟になぞらえられるような〝反逆者〟と化した。

 身寄りがなく、孤児院で育った岳にとってはまことの故郷にも等しい『新鬼道プロレス』を窮地に追いやった男とも言い換えられるだろう。

 数多の好敵手ライバルの中でただ一人、拳で語り合いたいとは思えない相手であればこそ、一九九九年四月二九日の挑戦を黙殺したのだが、その三ヶ月前に恋塚猿麿が取った行動を誰より理解できるのも八雲岳なのだ。

 本人に質したことは一度もないのだが、恋塚猿麿は人生の恩人であるヴァルチャーマスクの名誉を守らんが為、えて暴挙に出たのである。おそらくは鬼貫道明から〝密命〟を受けずとも同様の〝道〟を辿ったことであろう。

 『プロレスが負けた日』と呼ばれる歴史的屈辱から〝永久戦犯〟に浴びせられる批難は陰湿にして執拗であり、ギロチン・ウータンたちが地位向上を成し遂げる以前の〝悪玉ヒール〟レスラーを苦しめ続けた誹謗中傷カミソリレターにも近いものがあった。

 プロレスラーとして生きていく場所を失い兼ねないほどの〝掟破り〟を強行することによって、批判の矛先を自分のほうに向けさせたかったのだろう――歩み寄ろうとも思えない男の気持ちが岳には伝わってきた。

 哀れにも〝生贄〟となった相手レスラーをで叩き伏せ、血みどろの大乱闘を引き起こす間際には観客や団体関係者を「がプロレスですよ。目を覚ましてください」と嘲笑したのである。

 恩人ヴァルチャーマスクの為ならば己自身を支える〝世界〟にまで憎悪されても構わないという覚悟を一番に示さなくてはならなかったのは、恋塚猿麿ではなく八雲岳なのだ。自分こそがプロレスそのものの敗北という罪を一身に背負うべきなのだ――心の奥底より訴える声は、一五年が経った現在いまも収まる気配がない。

 だからこそ、岳は恋塚猿麿という存在に背を向け続けてきた。勿論、彼に出し抜かれたとは思わない。しかし、恩人ヴァルチャーマスクに対する想いの深さで敗れたという〝事実〟だけは認めざるを得なかった。

 〝永久戦犯〟の汚名を恩人に代わって受けることもせず、甘やかな憧憬あこがれには浸り続けるという卑しさが恋塚猿麿という鏡によって映し出されてしまうわけだ。歳月を重ねるたびに膨らんでいく煩悶まで見抜いたからこそ、麦泉は劣等感コンプレックスという何よりも痛烈な言葉で岳を突き刺したのである。


、センパイはダメなんですよ。きっと答えなんか一生、出ないんじゃないですか? ほんの数分ばかり悩んだくらいで解決するのなら、最初から一生の付き合いにはなっちゃいませんよ。……だったら、今はキリサメくんの一生左右するこの試合に全神経を集中して下さい。次にゴングが鳴ったとき、胸を張って出迎えたいでしょう?」

「……好き勝手に言ってくれるぜ。自分てめーの試合前にボコボコにされちまったよ」


 わざわざ顔を覗き込まずとも声の調子だけで心の奥底まで察せられるのだろう。リングを見据えたまま片手を伸ばし、岳からタオルを剥ぎ取った麦泉は、MMA選手の〝命綱〟をの肩に掛け直した。


「猿麿の野郎と一生の付き合いなんてぴらゴメンだぜ。とっととケリつけてやらァ」

「それ、猿麿さん本人の前では絶対に言わないで下さいよ。今度こそリングに引っ張り上げられますからね。と揉めるのは僕のほうこそぴらです」

「今度こそはってやらァ。ヤツのMMA復帰戦ってな触れ込みならプロレス的にも話題性十分だろ? 鬼貫の兄ィを立会人にしてがんりゅうじま辺りで時間無制限の一本勝負だぜ。つうか、猿麿と呑むときはいっつもこのテの話で盛り上がるんだけどなァ~」

「……僕も付き合い長いですけど、未だにセンパイたちの関係は理解に苦しみますよ」


 同じ鬼貫道明のでありながらも、それぞれ別々の〝道〟で実戦志向ストロングスタイルのプロレスを極めた二人の対戦こそ実現しなかったが、恋塚猿麿は乱入未遂事件を経て樋口郁郎との結び付きを強め、奇しくも一九九九年ななつきに『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体からMMAデビューを果たしている。

 二〇〇〇年代半ばまで続く日本の〝格闘技バブル〟を立役者の一人として支えたが、同団体の解散後はMMAそのものと距離を置き、『新鬼道プロレス』のレスラーとしてリングを賑わせている。旧友のじゃどうねいしゅうが主催した娯楽エンターテインメント志向のプロレスショーにも主要メンバーとして旗揚げ当初から参加していた。

 所属団体のみならず、日本にけるプロレスそのものを破綻の危機に追い込んだ〝反逆者〟が二〇一四年現在もレスラーとして活動できるのは、ここに至る〝全て〟の行動が本人のなかでは〝プロレス〟であったということであろう。彼を応援する人々ファンを受けれているわけだ。

 MMAのリングに殉じる覚悟の岳も、根本には恋塚猿麿と同じ闘魂たましいを宿している。プロレスという〝生き様〟を鬼貫道明から一緒に受け継いだと認めていればこそ、彼にだけはおくれを取りたくないと逸ってしまうのだった。


(電知と――対立してる地下格闘技アンダーグラウンド団体の選手とも親友になれたキリーには情けなくて顔向けできねェや。みっともねぇ養父とうちゃんですまねぇな……)


 共通の恩人の為に我が身を〝生贄〟として捧げ、それが為に『あわてんぼうのアンゴルモア』と忌まわしく呼ばれるようになった男の挑戦に応じ、勝ち負けに拘わらず互いが満足できるまで闘っていれば、晴れない気持ちを一五年も抱えずに済んだのであろうか。

 麦泉から突き付けられた通り、一生涯をかけて問い続けても己自身を納得させられる答えが得られるとは思えなかった。



 全体重を乗せた蹴りでもって相手を防御ガードごと弾き飛ばし、逆に身体からだごとぶつかっていく肘打ちによって大きく後退させられ――打撃による押し引きは互いを追い掛け合う恰好となり、木村レフェリーを引き摺り回すようにしてリングを一周したキリサメと城渡は、やがて青サイドのコーナーポスト付近へ辿り着いた。

 陣地こそ城渡側であるが、攻め立てていたのはキリサメのほうであった。

 筋肉あるいは贅肉の上から肝臓に拳を突き立てるべく懐深くへと飛び込んでいく。このときに城渡は四隅の支柱ポールを結ぶロープを背にしており、後方うしろに逃れることが難しい。ルールに基づいて対戦相手の命を保障しなくてはならないMMAのリングでは攻守の選択肢が限られてしまうキリサメにとってはまたとない好機チャンスなのだ。

 八雲岳も前回の長野興行――〝平成の大横綱バトーギーン・チョルモン〟と闘った際には同様の状況に立たされている。その試合では養父のほうが退路を断たれてしまったのだが、プロレスラーらしく自ら背中をロープに押し当て、生じた反動を利用して前方に素早く跳ねると、そのまま相手の背後まで回り込んだのである。

 大相撲にいて〝アンコ型〟と呼ばれる巨体に組み付き、これを持ち上げた岳は、そのまま後方に思い切り反り返った。バトーギーン・チョルモンの体重をそっくり乗せて頭から投げ落とす『ジャーマンスープレックス』でもって返り討ちにしたのだ。

 プロレス式の投げ技は用いずとも、ロープの間際でもつれ合えば養父の試合と似通う展開になるのかも知れない――リングサイドで目の当たりにした攻防を振り返りつつ城渡に攻め掛かるキリサメであったが、かつての黄金時代からこんにちまで打撃にこだわり抜いてきた男は、を停滞させるような小細工を好まない。

 自分に向かって鋭く踏み込んできたキリサメの足を左の下段蹴りローキックでもって正面から迎え撃つつもりであった。

 肝臓への一撃を見舞う前に自分の右膝が壊されてしまうと判断したキリサメは、尾羽根の如き飾りをなびかせながら垂直に跳ねて下段蹴りローキックかわし、風裂く音を鼓膜が拾う間に左のてのひらでもって城渡の頭部を押さえ付けた。

 その瞬間のみ城渡の身動きが止まった。

 同じ〝最年少選手〟とはいえども、前身団体の時代にその別名なまえで呼ばれた者――あるいは『祇園の雑草魂』――と違って大陸の武術に精通しているわけではないキリサメには、脳天から爪先へと垂直に貫く〝力の作用〟でもって相手の身をその場に釘付けとするような技は使えない。

 城渡は意識の外から頭部あたまに圧し掛かった衝撃に目を見開き、身を強張らせたのである。それも瞬き一つという刹那に過ぎなかったが、例えトゲほど小さくとも標的の意識に空白をこじ開けられたなら、それだけでキリサメの喧嘩殺法には十分なのだ。

 リーゼント頭を維持する為の整髪料が付着した左掌を引き剥がし、この動作うごきへ連ねるよう腰を捻り込んだキリサメは、城渡の脳天に狙いを定めて右拳を繰り出した。外から内へと横薙ぎの軌道をくうに閃かせたのである。

 頭部あたまを押さえた左手を軸に据えて跳ね飛び、そのまま城渡の側面へ降り立つことも瞬間的に考えはしたが、おそらくは幻惑の効果など一秒もつまい。その間に日本MMAが誇る打撃の巧者は体勢を立て直し、空中にるキリサメの身を上段蹴りハイキックでもって叩き落とすに違いなかった。

 それ故に最小限の動作うごきで攻撃が完了する技を選んだのである。

 は電知や寅之助の〝借り物〟ではない。油断した瞬間にナイフや拳銃ハンドガンで命を砕かれる格差社会の最下層を這い回る間に編み出したキリサメ独自の技だが、木村レフェリーの注意が割り込まないということは、MMAのリングでも反則とは判定されないようだ。

 脳天あたまを殴るより相手の顔が背中側に回転するよう首に蹴りを入れたほうがという法治国家の常識に照らし合わせるまでもない発想は脳内あたまのなかに留めている。


「この日の為のとっておき――オレの〝奥の手〟と似たような真似しやがって! 後出しじゃんけんみてェにシマらなくなったら、どうしてくれンだよ、オイッ!」


 〝空白〟ということであれば、地上でマットを踏み締める城渡と空中にて頭部を押さえ付けてきたキリサメは、至近距離とはいえ完全に密着した状態ではなかった。はそのまま前者にとって迎撃のとなった。

 この僅かな間隙を貫くようにして城渡が左足を垂直に突き上げ、剥き出しの踵でもキリサメの顎を脅かしたのである。

 腰を捻るという動作うごきを妨げてしまう為、対の拳による打撃パンチの威力も減殺されるのだが、左掌でもって城渡の頭部を押さえ続けていたなら、あるいは迎撃の蹴り技も封じ込められたかも知れない。


試合着ユニフォームの尻尾はダテじゃないと鮮烈な空中戦が証明する! 『超次元プロレス』に続いて格闘技を三次元の世界に運ぶケツァールを『くうかん』の空手技が対空砲火だァ~! 空と大地の狭間に今! 我々の血潮が燃え上がるゥッ!」


 隣席となりの鬼貫を呆れさせるほど前のめりとなっているであろう仲原アナの声を斬り裂くようにしてキリサメと城渡は空中に十文字を描き、この交錯によって互いの身を抉った。

 キリサメの打撃パンチのほうが僅かに早く側頭部へ命中したことで城渡の肉体からだが揺さぶられ、その影響が軸足にまで及んだ。僅かでも姿勢が崩れたなら、踵が顎を捉えた瞬間に最大の威力が炸裂するはずであった一点も逸れてしまう――蹴り足に働く〝力の作用〟が乱れたことで痛手ダメージも低下したのだが、完全な形であれば今度こそに陥ったはずだ。


「――沙門にゃ悪ィが、闘いにはド根性に頼らなきゃなんねェ瞬間ときがあらァ! 歯ァ食い縛ってでも踏ん張るっつう精神力になァ! ド根性は自分てめーに問い掛けるモンだぜッ!」


 苦悶の声を飲み下すのも、追撃を試みるのも城渡のほうが早かった。頭部を貫いた衝撃が脳をも揺さぶり、上体まで傾かせてしまったのだが、軸として据えていた右足一本で踏み止まるや否や、再び左足を撥ね上げてキリサメに蹴りを見舞った。

 余りにも姿勢が崩れている為、直接的な痛手ダメージこそ低かったものの、紛れもない上段蹴りハイキックである。辛うじて防御ガードは間に合ったが、この時点で着地していなかったキリサメは、抗うすべもなく空中から叩き落とされてしまった。

 つまるところ、先ほど想像した通りの蹴り技を喰らわされたわけだ。

 空中で素早く身を翻し、視界の端に捉えた青サイドのコーナーポストを左右の足でもって蹴り付け、ケツァールの如き尾羽根を巻き込むように縦回転しながら再び高く飛び上がったキリサメは、城渡の頭上へ到達した直後に獲物を狙う猛禽類と化した。

 跳躍の際に金属製の支柱ポールを軋ませた足を今度は城渡の両肩へと繰り出したのである。蹴り技というよりも踏み付けたと表すほうが正確に近いだろう。防御ガードが間に合わず、直撃を被ってしまった城渡も左右の鎖骨を同時に圧し折られるような事態には陥らなかった。

 鈍痛を伴う衝撃で揺さぶられたのは肩ではなく顔面だ。更なる宙返りを経たのちに空中で城渡と向き合ったキリサメは、両足を揃えた状態で水平に突き出し、その足裏でもって彼の顎を蹴り付けた。

 足首を掴み返そうとしていた城渡を変則的なドロップキックで迎え撃ち、その動作うごきを押し止めたのちに蹴りを加えたことで生じる反動をも利用して跳ね飛ぶと、彼とは少しばかり離れた位置に降り立った。

 地球の重力に引かれる五枚の尾羽根を大歓声が追い掛けたのは言うまでもあるまい。


の昔話に付き合わせるのは申し訳ねェって、さっき言ったばっかりだけどよ、さすがにはヴァルチャーマスクを想い出すなっつーのが無理だぜ。マジで『超次元プロレス』を継ぐコトになってんのか? ひょっとすると、ペルーで〝ルチャ・ドール〟を生業にしてたんじゃねェの?」

「一応、生まれてからずっと首都のリマで暮らしていましたけど、僕の知る限りでは故郷ペルーで『ルチャ・リブレ』を見たおぼえはありませんね。死んだ母親は何しろヴァルチャーマスクのファンだったので、本場メキシコくらい盛んだったら自分もリングに上がったハズですし」


 現在いま実母ははが健在であり、この試合を未稲たちと一緒に観戦していたならば、小細工さながらの〝軽業〟とまことの超人であるヴァルチャーマスクを比べることは身の程知らずの傲慢と、ロープを潜って怒鳴り込んできたであろう――何とも喩えようのない苦笑を浮かべる一方で、キリサメは鈍痛が残る顎を右の親指でもって撫でていた。


(こっちの攻撃に割り込んできたあの蹴り、沙門氏にそっくりだったけど、空手の――というか、『くうかん』の技なら納得だな。……〝同門〟ってヤツか)


 先程の攻防で顎を突き上げられた蹴り技が以前に目撃したきょういししゃもんと近似しているよう思っていたキリサメは、仲原アナの実況に既視感の原因を見出した。

 沙門の場合は鮮烈なかかと落としをフェイントに用いて相手を幻惑したのち、地面に据える軸を入れ替えながら対の足を振り上げる変則的な二段蹴りとして放っていたのである。

 MMA選手でありながら格闘技全般の知識が乏しいキリサメでさえ名前を知っているスイス出身うまれの伝説的な空手家――テオ・ブリンガーから直伝されたという沙門の踵落としは〝神秘〟の二字こそ相応しいほど鋭く、それ故にくだんの二段蹴りも強く印象に残ったのだ。

 相打ちとなった為に二段目は不発に終わったが、キリサメの顎を撥ね上げた直後に城渡は脳天へ踵を叩き込むつもりであったのだろう。あるいは地面に据える軸を入れ替えず、同じ足で技を変化させていったのかも知れない。

 太腿の部分が異様に広く、裾が細いという変形の黒ズボン――〝ボンタン〟とからという装いの相違ちがいこそあるものの、仲原アナが実況の中で言及したように城渡マッチと教来石沙門は同じ『くうかん』空手を体得しているのだ。互いの技が似通うのも当然であった。


(きっと沙門氏は僕みたいにモタつくこともないんだろうな。手早く試合を終えてからも脱いで、……〝新しい恋人〟をんじゃないかな)


 『天叢雲アメノムラクモ』とは競技形態や開催地の差異ちがいがあるものの、その沙門も今日が〝プロ〟の格闘家としてのデビュー戦である。かつて恩人テオ・ブリンガーが『くうかん』の看板を背負って出場し、輝かしい栄光を掴んだ打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』が初陣の舞台であった。

 同団体の試合開始時間は『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントよりも少しばかり早い。今頃は直伝の踵落としをもってして、天国の恩人テオ・ブリンガーに勝利を捧げているはずだ。

 〝世界一の踵落としの名手〟と畏怖されたテオ・ブリンガーは、二〇〇〇年に急性骨髄性白血病を発症し、同門の親友――沙門の父親に看取られながら三五歳という若さでからを脱ぐことになってしまった。

 『こんごうりき』は〝プロ〟の格闘技団体としては異例ともいえるほどチャリティー興行イベントに力を注いでおり、児童養護施設や身体からだにハンデを持つ人々の活動をたすけるなど社会貢献を重要視していた。

 沙門のプロデビュー戦も白血病治療や骨髄バンクを支援する為のチャリティー興行イベントである。テオ・ブリンガーを実の兄も同然に慕っていた彼が天国への祈りにも等しい試合たたかいで敗れるはずはないと、キリサメも信じて疑わないのだった。


「良いよ、キリサメ君! 大丈夫、落ち着いて立ち回れているよ! このペースを維持していこう! はキミに来ているから! ……焦って無理しなくて構わないからね!」

「この日の為に取っておいた〝奥の手〟を自分の口から暴露バラしてどうする⁉ 雅彦、そういう堪え性の無さが御剣にも悪影響なんだぞ! ……口を滑らせて致命的な種明かしでもしてみろ? 今日までの猛特訓も台無しじゃないか! 年齢相応に落ち着けっ!」


 友人の健闘に想いを馳せるキリサメの鼓膜を打ったのは、殆ど同時に発せられて入り混じった麦泉と二本松の声である。

 平素から煩わしい上に、恩人ヴァルチャーマスクとの再会よって未だかつてないくらい昂っている養父がに加わらなかったのは不思議であるが、有益な助言に期待しているわけでもない養子キリサメはそこまで深刻には捉えていなかった。

 うっとうしいだけの喚き声は途絶えてくれたほうが試合に集中できる――と、密かに心の奥底で扱き下ろしており、その養父の双眸が再び自分の背中を見つめ始めたことにも気付いていないのだ。ほんの僅かな時間とはいえ、岳の視線がリングから外れていた旨を底意地の悪い誰かに耳打ちされても、キリサメが悲憤することは有り得まい。

 現在いま養子キリサメが向き合っているのは、追憶の中の八雲岳であった。

 この養父が興行イベント開始の前から訴えていた〝フェイント殺法〟の手掛かりが忍術に基づいて完成された『超次元プロレス』に秘められているのではないかと考え、開会式オープニングセレモニーで用いられたPVプロモーションビデオに断片的ながらも収録されていた前身団体の試合を振り返り始めたのだ。

 己のことを〝生涯レスラー〟と宣言し、地方プロレス団体にもその闘魂たましいを伝えた八雲岳である。プロレスの理論こそが〝フェイント殺法〟を支える要になると、彼自身が熱弁していた。

 PVプロモーションビデオを通してキリサメが目にした養父の試合は、一九九七年一〇月のものであると紹介されていた。それはつまり、ヴァルチャーマスクが〝永久戦犯〟の烙印を押される直前に同じリングで繰り広げられた一戦であることを意味している。



 『天叢雲アメノムラクモ』と同じ七メートル四方のリングに黒いプロレスパンツを穿いて屹立する八雲岳は、戦国武将のようなまげを下ろし、さながら野獣の尾の如く首の付け根の辺りで一本に結わえていた。

 〝生涯レスラー〟という志を体現する出で立ちは二〇一四年現在と変わらないが、剥き出しとなっている上半身の肌艶などは二回り近く若い。筋肉自体もこんにちと比べて幾分引き締まっているように思えるが、一七年も昔であれば当然であろう。

 その映像をキリサメが初めて目にしたのは入場リングインの直前――裏舞台で待機している最中であった。

 通路に設置されたモニターに昔日の自分が大写しとなり、これを一瞥した岳は照れ臭そうに頭を掻くのではなく、「……やっぱりよ、『ブラジリアン柔術』への〝リベンジ〟はオレがこの手でやんなきゃダメだったんだよな……」と苦しげに呻いていた。

 その呟きの意味を養父に訊ねることをキリサメは憚ってしまった。同行している麦泉もかつてないほど深刻な胃痛に堪えているような表情かおであり、それで迂闊に触れてはならない禁句タブーであろうと察したのだ。

 モニターの向こうの岳は全身を轟々と縦回転させ、レスラー仕様のリングシューズに包まれた右足でもって相手選手に踵落としを浴びせている。『超次元プロレス』の豪快さは一七年前も現在いまも変わらないが、顔に貼り付けた表情まで全く同じであった。

 恩人に直伝されたプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを放つ瞬間ときでさえ、酷く思い詰めた顔で歯を食い縛っているのだ。総合格闘技MMAという〝文化〟が日本に根付くか否かを占う旗揚げ興行だけに重圧プレッシャーも並大抵ではなかったのか、平素いつもの豪放磊落さはどこにも見つけられない。

 その一方で、〝忍者レスラー〟とも称される技の切れ味が鈍ることはなかった。胸中にて渦巻く懊悩に左右されてしまうほど八雲岳は脆くないという一番の証左であろう。

 左の後ろ回し蹴りソバットでもって相手を防御ブロックごと撥ね飛ばし、ロープに叩き付けると素早くこれを追い掛け、蹴り足を入れ替えながら追撃の中段蹴りミドルキックを繰り出した。

 四隅の支柱ポールを結び合わせたロープの弾力で大きく跳ね返された相手に対し、中段蹴りミドルキックに続いて同じ側の拳を直線的に突き込んでいく。いずれも巧みに防御ガードされてしまったが、岳は一瞬たりとも動きを止めなかった。腰を逆方向に捻り込み、手の甲でもって側頭部を打ち据えたのである。

 握り拳を解かないまま次々と打撃を連ねていくのだ。対の左拳を勢いよく突き上げ、顎を捉えんとする追撃も忍者さながらに鋭かった。

 その〝忍者レスラー〟と互角に渡り合うのは、競技用のトランクスを穿いたアメリカ人選手であった。当該する試合映像を裏舞台のモニターで視聴した際に麦泉から説明されたのだが、日本でMMA団体が旗揚げされた頃には既に『NSB』の試合も経験していた実力派である。

 それまで鬼貫道明と共に〝異種格闘技戦〟へ臨んできた八雲岳にとって、生まれて初めて経験する〝総合格闘技戦〟であった。

 その選手は一目瞭然というほど防御技術に長けており、右手による裏拳打ちバックブローで脳を揺さぶられた直後でさえ、対の拳で放たれたアッパーカットを片方の掌一つで難なく受け止めている。防御ブロックごと吹き飛ばされてもおかしくない猛烈な一撃を耐え切ったわけだ。

 金城鉄壁の四字こそ最も似つかわしい防御技術で相手の攻撃を凌ぎつつ、一瞬の間隙を縫うようにして叩き込む反撃カウンターが神髄なのであろう。アッパーカットを弾き飛ばすと、そのまま岳の懐に飛び込みつつ右肘を水平に閃かせた。

 岳の左脇腹に肘鉄砲を滑り込ませようと図ったわけだが、『超次元プロレス』はすらも凌駕している。直撃するか否かという一瞬を見極めて半歩ばかり退すさり、横薙ぎの肘が胸の皮膚を薄く裂いていくのを見下ろしながら反撃に移った。

 弾き返された左腕を風車の如く回転させながら振り上げ、対の右腕もこれを追い掛けていく。肘鉄砲に即応して後方うしろ退すさりながら頭の上で左右の五指を組み合わせると、両拳を巨大なハンマーに換えて轟然と振り下ろしたのである。

 脳天に直撃を被ろうものなら意識もろともマットに沈められたことであろうが、一九九七年当時から世界最高水準レベルを誇っていた『NSB』の試合経験者である。肘鉄砲を仕掛けていた右腕を咄嗟の判断で持ち上げ、続けざまに左の五指をも添えてを受け止めた。

 彼の失敗はそこで欲を出してしまったことであろう。プロレスにて『ダブルスレッジハンマー』と呼ばれる一撃を右下腕で防御ガードした直後、同じ側の足でもって反撃の下段蹴りローキックを試みたのである。

 固く組み合わせた五指は容易くほどけるものではない。この瞬間、岳は腕による防御が極めて難しい状態に陥ったというわけだ。その隙を見逃さず、巨躯を支える膝に痛手ダメージを与えんとする判断は総合格闘技MMAの戦略として全く愚かではないが、彼はプロレスラーの腕力を見誤っていた。

 岳は相手の右下腕に両拳を押し当てたまま、その一点へ全体重を乗せるようにして更なる力を加えたのである。両足でもってマットを踏み締めていれば、上から下へと急激に働く〝力の作用〟も凌げたかも知れないが、反撃の下段蹴りローキックに移ろうとする寸前であった為に重心も著しく不安定であり、ついには上体が大きく傾いでしまった。

 組み合わせていた五指を外しながら半歩ばかり踏み込んだ岳は、自由に振り回せるようになった両腕を相手に向かって伸ばしていく。無防備に近い状態となった胴をしたのはその直後であった。

 自分よりも体格の良い選手を血管が浮き出した両腕でもって高々と持ち上げた岳は、その頂点からマットへと豪快に投げ落とした――『パワーボム』と呼ばれるプロレス技だ。

 完全に抱え込まれてしまった状態から抜け出すことは不可能であるが、されたのは胴であり、上半身の自由までは奪われていない。相手は背中から激突させられる寸前に先んじて自身の両腕をマットに叩き付け、これによって急降下の勢いを減殺させた。

 決定的なダメージを与えられなかった岳はを維持したまま再び相手の身を高く持ち上げ、同じパワーボムによる追撃を試みた。傍目には餅つきのようにも見えるこの攻防が幾度となく繰り返され、そのたびにリングでは〝何か〟の激突する音が轟いた。

 相手の身を肩の辺りまで担ぎ上げたのち、岳は「オレはなにモンだッ⁉」と、自問にしか聞こえない吼え声を引き摺りながら対角線上のロープを目指して走り始めた。

 あと数歩でロープに到達するところまで迫ると、自らが高く跳ね飛び、空中から再びパワーボムを仕掛けた。レフェリーをも押し退けるようにしてリングを横断したのは、跳躍に向けた助走というわけだ。

 跳躍によってパワーボム自体の威力を引き上げただけではない。何の前触れもなく突如としてリングを走り始めたのだから、両腕を叩き付けることで投げによるダメージを緩衝させてきた相手も、その拍子を崩されてしまうだろう。


「――オレはプロレスラーだッ!」


 後ろ髪をなびかせながら岳が迸らせた咆哮の意味をキリサメは一つとして掴めなかった。一七年前のMMAも現在いまと同じように凄まじい速さで進んでいく為、どこか悲壮なたけびをのちの養父に上げさせた〝何か〟を推し量ることも許されないのだ。

 相手の身をマットへ叩き付ける直前に岳は己の両足を大きく開いた。傍目には餅つきから尻餅に切り替えるという一種の冗談のようにも見えたことであろう。しかし、その滑稽な場景も次なる攻防を見据えた上での判断であった。

 勢いを増した急降下によって骨身を激しく揺さぶられた対戦相手は、失神こそ免れたものの、マット上に投げ出されてから上体を引き起こそうとするまでの動作うごきが著しく鈍ってしまった。その一瞬を見逃す岳ではなく、己の両足を相手の左足に絡めながら寝技へ持ち込んだのである。

 比喩でなく本当にプロレスラーは〝全身が武器〟なのであろう。一連の流れの中で岳は右腋に相手の足先を挟み、同時に肘の内側で踵を咥え込む。決してこの状態から逃すまいと、交差させた両足も太腿を強烈に締め付けていた。

 この時点で岳の対戦相手は左膝を折り曲げた状態で身動きが取れなくなっている。同部の可動とも密接に関係する踵を固めたまま、外から内へと身を捻ると、その瞬間に膝関節を軋ませる極技サブミッション――『ヒールホールド』が完成するのであった。

 改めてつまびらかとするまでもなく、岳は己の両足首を組み合わせている。相手が力ずくで極技サブミッションを引き剥がせなくなるだけでなく、その膝に対してとしても機能するのだ。

 完全に固定された状態で膝関節を捻られようものなら、どれほど屈強な肉体を誇る豪傑であろうと一溜まりもなく、靭帯を破壊される危険性が極めて高い。防御技術に長けた選手もパワーボムを凌いでいたときとは別の意味でマットを叩き、降参ギブアップの宣言に代えた。

 ゴングが鳴った後も張り詰めた空気を纏ったまま安堵の微笑すら浮かべなかったが、一七年前の八雲岳は、を勝利で終えたのである。

 日本に〝総合格闘〟の礎を築いたヴァルチャーマスクがブラジリアン柔術との頂上決戦で卓抜した寝技に完敗を喫し、〝永久戦犯〟という汚名を被った経緯を思えば、MMAの〝先輩〟とも呼ぶべき相手をヒールホールドでくだした岳の試合は、大いなる皮肉としか表しようがなかった。

 『プロレスが負けた日』にって、プロレスラーとしての本懐を遂げたのである。

 ヴァルチャーマスクが完成させた〝総合格闘〟――『しゅう』とは異なる〝道〟を選んだ岳は、あくまでもプロレスラーであることを貫いている。その上で恩人が示した『とうきょく』の神髄を日本で初めての本格的なMMA興行イベントにて知らしめたのだ。

 地上に存在する全ての格闘技の要素を取り入れ、統一されたルールのもとに技術体系の〝総合化〟を達成したスタイル――打撃から寝技まで反則行為を除いたあらゆる技術が解放される総合格闘技MMAの本質を体現し、名実ともにこの先駆けとなった瞬間、未来の養父の胸に湧き起こった〝何か〟を見極めることは現在いまのキリサメには不可能な課題であった。



 キリサメが掴み損ねたのは、若き日の八雲岳の心情だけではない〝フェイント殺法〟の手掛かりとなり得るモノを一七年前の試合から一つも拾い上げられなかった。

 モニターの画面越しでも大きく揺れていることが判る一七年前のリングを覗き込んでいた最中にキリサメの脳裏に浮かび上がったのは、寒空の下で空閑電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトである。

 『コンデ・コマ式の柔道』を操る電知も両手でもってしたキリサメの腕を外そうとはせず、一本背負いでもって何度もアスファルトの地面に投げ落とした。電知が技を仕損じるのが先か、キリサメの肉体からだが壊れるのが先か――選手の安全が保障されている〝格闘競技〟の試合では絶対に有り得ない根競べが続いたのである。

 瞬間移動としか表しようのない速度を発揮する一本背負いを振り解くことは殆ど不可能に近く、キリサメは運に助けられて命を拾ったようなものであった。

 〝立場〟こそ正反対ながら、養父と似たような攻防を経験したわけである。一九九七年は自分たちが生まれた年であり、電知もその当時には観戦していないはずだが、鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で視聴したことがあるのかも知れない。

 同店ではビデオライブラリーに保存された古い格闘技の試合を自由に閲覧できるのだ。動画そこから着想を得て、プロレスのパワーボムを柔道の一本背負いに置き換えたのではないかとキリサメには思えたのである。

 一七年前の岳は極技サブミッションでもって相手の膝を攻め立て、その激痛をもってして降参ギブアップを引き出したが、勝負する相手の全身を砕いてしまう覚悟で冷たいアスファルトの路面へ投げ落とし続けた電知のように、パワーボムを仕掛けた際に背中ではなく脳天から垂直落下させていれば、回りくどい真似をしなくとも決着を早められたはずなのだ。

 特に助走からの跳躍を伴う最後のパワーボムは、相手の頚椎を容易く圧し折れたことであろう。心優しい岳が手心を加えたからこそ命拾いしたようなものであった。

 選手の安全確保を最優先とするMMAのルールでは、意図的に命を脅かす行為を厳しく禁じている。これは前身団体も現在の『天叢雲アメノムラクモ』も同様だ。それ以前に岳自身の性格からして残虐な振る舞いなど許すまい。

 その岳も『かいおう』――ゴーザフォス・シーグルズルソンとの試合では首を攻められ、えなく絞め落とされている。前身団体の頃から日本MMAに君臨し続ける絶対王者はヴァイキングが編み出し、現代に至って〝格闘競技〟としてルールが整備された『グリマ』を自身の基盤ベースとして経歴プロフィールに記しているが、彼が極めたのは古い時代の技――即ち、殺傷ひとごろしの奥義である。

 こおれる海を席巻した蛮勇の奥義グリマと立ち合いながらも〝忍者レスラー〟は首を折られてはいない。意識を刈り取られはしたが、後遺症もなく現在いまでも健在なのだ。

 深刻な事故でもない限りは、MMAという〝格闘競技〟で人が死ぬことはない。ミャンマーの伝統武術ムエ・カッチューアを極めた希更・バロッサが長野興行で立ち合った相手ギロチン・ウータンの頚椎を飛び膝蹴りでし折らなかったのも同じ理由であろう。

 頭部を押さえた状態で首を狙っていれば、文字通りに息の根を止められたはずである。希更も『かいおう』も、そして、岳も殺傷ひとごろしの力を身に宿していながら、享楽に酔い痴れる〝富める者〟を満足させる為に道化を演じているようなものではないか。


(少しでも気を抜くとが手を鳴らして誘ってくるほうに引き戻されるワケか。気持ちの面でも早急に立て直さないといけないのに岳氏の所為せいで上手く行かないな……)


 MMAひいては『天叢雲アメノムラクモ』のルールに準じた〝フェイント殺法〟を組み立てる為、『プロレスが負けた日』に執り行われたもう一つの試合を振り返っておきながら、とは真逆の〝闇〟が心の片隅に滲みそうになったキリサメは、岳が長野興行で取っていたファイティングポーズを再び模倣しつつ、し口で眉根を寄せた。

 『プロレスが負けた日』と同じ一九九七年に〝地球の裏側〟――ペルーの首都で轟いた〝戦争の音〟を母親の胎内で聴きながら、キリサメは〝ヒトのカタチ〟となっていった。前年末から一二七日にも及んだ『日本大使公邸人質占拠事件』の経過と全く重なるのだ。

 それ故に自他の命をちりあくたも同然に扱ってしまう。〝格闘競技〟とは決して相容れない感覚を揺り起こすまいと努めてきたというのに、これでは全くの逆効果ではないか。


(いつもおかしなコトばかりやらかして僕たちに迷惑を掛けてくるんですから、せめて想い出の中では役に立ってくれませんかね……)


 養子キリサメの心の中とはいえども、未だかつてないくらい理不尽な文句が吐き捨てられていることなど岳は想像すらしていないはずだ。その通称リングネームに穏やかならざる感情を抱いている城渡でさえ、華麗なる空中殺法で日本中を魅了していた時代のヴァルチャーマスクを重ねざるを得なかったドロップキックに昂奮し、麦泉の制止も振り払って「べ、キリー! お前の存在こそがの夢の証明だッ!」と左右の拳を突き上げた。


「ヴァルチャーマスクが日本に拓いた〝道〟は未来の希望なんだ! 〝罪〟の意識みてェなくらいモンを敷き詰めたデコボコ道だったら、数え切れねェほどの総合格闘家が後に続くワケねェんだよ! キリーがんだその空にみんなが手を伸ばしてきたんだッ!」


 この吼え声がリングに飛び込んだのは養子キリサメがドロップキックを放った直後ではない。何事にも赤子の如く猛烈に感情を昂らせる人間とは思えないくらい反応が遅れた理由も、恩人の功績を殊更に強調するような言葉に込められた気持ちも、会場内の殆どの人間が想像できないだろう。

 その胸中を察しているのは、麦泉や鬼貫といった『新鬼道プロレス』ひいては『鬼の遺伝子』の同志たち――即ち、異種格闘技戦という〝道〟を共に歩んだ古くからの盟友だ。

 改めてつまびらかとするまでもなく、キリサメも喧しい声を背中で受け止めながら理解不能と大きな溜め息を零している。これを見て取った城渡から「バカオヤを刺激しねェ技をいちいち選ばなきゃならねェってんだから、お前も大変だよな」と同情されてしまう有りさまであった。

 先ほど城渡に見舞った蹴り技は『ルチャ・リブレ』を基盤ベースとするヴァルチャーマスクの空中殺法を意識したわけではない。それどころか、プロレスのドロップキックを模倣したつもりもないのだ。

 城渡に痛手ダメージを与えつつ、生じた反動をも利用して後方へ大きく跳ね飛ぶ為に両足で踏み付けた――ただそれだけのことに過ぎないのである。ヴァルチャーマスクの〝直系〟のように扱われ、一七年越しの夢を託されてもキリサメには迷惑でしかなかった。

 その岳が必勝の作戦として指示してきた〝フェイント殺法〟の要点を掴み切れないことも気鬱の種である。有効な手掛かりを得られないまま試みたということもあって、〝借り物〟の技よりも拙劣になってしまうのだ。

 下腹部を抉るように見せかけておいて、直撃の寸前で顔面狙いの上段蹴りハイキックに転じたかと思えば、中間距離から大きな踏み込みと共に横薙ぎの拳を繰り出し、技の途中で大きく腰を捻り込んで直線的なパンチにも変化させたのだが、いずれも浅いに過ぎず、城渡から再びダウンを奪うには威力が足りなかった。

 左前回し蹴りを城渡に防御ガードさせ、体勢が崩れたと認めるなり軸足を変えつつその場で回転し、対の左足で遠心力たっぷりの後ろ回し蹴りソバットを放ったが、余りにも露骨あからさまであった為に〝本命〟の二発目を軽く避けられてしまった。

 キリサメの試行錯誤は極端に悪いものではなかった。そもそも、動作の途中で技の軌道を変化させることなど素人には不可能に近い。即興にも関わらず、これを実践し得る戦闘能力を備えながら、不慣れが災いして身のこなしを鈍くしているわけだ。

 生死が紙一重で飛び交う格差社会の最下層で戦ってきたキリサメの喧嘩殺法は、直接攻撃で標的を速やかにことが本質である。〝フェイント殺法〟はを捻じ曲げることにも等しく、根の深い矛盾がに善からぬ影響を及ぼしていた。

 相手を幻惑させる〝フェイント〟から〝本命〟へ繋げる際にも重心の移動などを上手く制御コントロールできず、それが為に本来の威力が攻撃に乗り切らないのだ。連続の回し蹴りを命中し損ねたのも、二撃目へ移る寸前で間合いを読み違えたことが原因であった。

 しかも、後ろ回し蹴りソバットは完成に至ったとは言い難い技である。掠り傷を負わせることすら叶わずにかわされた瞬間ときには、自分で生み出した遠心力に振り回される有りさまだ。


「依然として防御ガードは固いままですし、変に焦っている様子でもありませんが、アマカザリ選手、これは……どうした? 攻撃が明らかに荒れ始めましたね。一気にフィニッシュしようとに大技を試しているのか、それとも別の目論見があるのか。新人選手らしい思い切りの良い冒険は頼もしい限りですが、ここまでの悪くない流れを自分から乱してしまうのは些かリスキーが過ぎるでしょう」


 実況席の鬼貫にまで心配されてしまったが、キリサメ当人も醜態を自覚している。〝格闘競技〟のリングだからに至らないだけで、ここが故郷ペルーの裏路地であったなら、〝フェイント殺法〟を失敗している間に最低でも一〇回は心臓を止められていたはずだ。


(……『とうあらた』の殺陣師ひとたちの前でみっともない姿を晒すのは、少しだけしんどいかな)


 最初から分かっていたことである為、キリサメも今さら落ち込みはしないが、岳に連れられて参加した体験会ワークショップで交流し、まくあいのステージイベントとして〝剣劇チャンバラ〟を披露する為に岩手興行の会場にも足を運んでいるたちのようにはなれないわけだ。

 くだん体験会ワークショップを通じて己の課題と見定めた殺気の制御コントロールさえキリサメは試合開始までに完成させられなかったのである。


「ちィとあめェな、アマカザリィッ!」

「しまっ――」


 城渡の左側面まで素早く回り込み、次いで死角から中段蹴りミドルキックを見舞うよう見せ掛けておいて更に飛び跳ね、背後を迂回した後に右の脇腹を肘打ちで抉る――先ほど軋ませた部位に痛手ダメージを蓄積させようと試みたところでキリサメの〝フェイント殺法〟が崩された。

 振り向きざまに左の前回し蹴りでもって迎撃され、咄嗟の防御ガードに用いた右下腕ごと上体が大きく傾いてしまった。

 策士、策に溺れる――『天下三分の計』などで知られる稀代の名軍師・しょかつこうめいが『さんごく』の一角を担う『』の王・そうそうを謀略でもって退けた際に発したとされる言葉が自嘲と共にキリサメの脳裏をよぎった。

 追撃の好機をえて見逃す理由もない城渡は右足を大きく持ち上げ、足の裏でもって蹴り付けようとした。先程と同じ蹴り技ヤクザキックと見て取ったキリサメは、素早く飛び退すさって間合いを取りつつ、相手が前蹴りを放つより先に空中から拳を振り落とした。

 射程圏内にる間に少しでもダメージを与えておこうというわけだ。

 最も高い効果が得られるだろうと判断し、つい先程も血を噴かせたばかりの右側頭部を狙ったのだが、打撃にこだわり抜いてきた古豪ベテランに同じ技が幾度も通じるはずがなく、反対に拳を叩き付けられ、「しゃらくせぇ!」と弾き返されてしまった。

 キリサメの足がマット上を踏む頃には城渡も追い付いており、全体重を乗せて直線的に右拳を突き込もうとする。

 直撃を被ろうものなら、間違いなく頭蓋骨に亀裂が走るであろう大振りな打撃に対し、間合いを詰めつつ身を屈めるという回避行動を取ったキリサメは、城渡の腕が頭上を通り過ぎるや否や、そのまま彼の懐まで潜り込んでいった。


「起死回生の秘策アリか⁉ 玉砕上等で突っ込むのか⁉ アマカザリ選手の大胆さはインカ帝国の再来を思わせますッ!」


 仲原アナが並べ立てる意味不明な文言フレーズはともかくとして、踏み込みの寸前にキリサメの脳裏には一つの閃きが走っていた。

 ここまで仕掛けた〝フェイント殺法〟は一つとして成功していない。それ自体が城渡の心理に〝罠〟として作用するかも知れないのだ。今度も珍妙な動作うごきを繰り返した後に姿勢を崩すだろうと思い込まれている可能性は決して低くはないはずだ。その油断を狙い、搦め手でもない正面攻撃を仕掛ければ、案外と急所にも命中させられるのではないか。


「真っ向勝負は大好物だぜ! 当たって砕けろっつう無鉄砲さもなァッ!」


 しかし、淡い願望を前提とした欺瞞作戦が成功するほどMMAのリングは甘くはない。結局、鳩尾狙いの拳が命中する寸前で逆に左足でもって蹴り上げられてしまった。


「……ですよねぇ……」


 己の軽率さを嘲笑ような一言を呟きつつ、左右の下腕を重ね合わせて防ぎはしたが、蹴り上げの威力を完全に緩衝できたわけではなく、そのまま後方に撥ね飛ばされた。弾かれた先が四隅の支柱ポールを結ぶロープであり、ぶつかった拍子にここでも前方に撥ね返されてしまった。

 無様によろめいたところに城渡が突っ込んできたが、キリサメは瞬間的な膝の屈伸のみで大きく跳ね、彼の頭上を飛び越えることで追撃を避け切ってみせた。


「またしても奥州の空にケツァールが舞う! アンデスから舞い降りた奇跡に終わりはありませんッ!」


 あれこそ神の鳥などと雄叫びを上げた仲原アナに煽られ、観客席も一斉に沸いた。彼女の隣席となりに座る鬼貫はえて聞こえていない芝居フリを貫いたが、「今の時代にヴァルチャーマスクを継ぐのはキリサメ・アマカザリなんじゃないのか⁉」と褒めそやす声も混ざっているようであった。

 尤も、現在いまのキリサメにヴァルチャーマスクの後継を否定する余裕などない。そもそも故郷ペルーにはケツァールなど生息していないと、仲原アナに訂正を促すことも難しい。城渡の背後を取った瞬間、握り拳を鉄球の如く振り回す裏拳打ちバックブローで迎え撃たれ、今まさに踏み込もうとする動作うごきを横一文字の閃きによって断ち切られてしまったのである。


「命中こそしませんでしたが、結果的に城渡選手は一番効果の高い技を使ったことになりますね。あの裏拳打ちバックブローにアマカザリ選手はヒヤリとしたことでしょう。迂闊に近付いていたら、先程の神がかった疾さを見せる前に返り討ちに遭ったハズです」


 鬼貫が解説した通りであった。絶好の機会であったにも関わらず、キリサメはたった一度の裏拳打ちバックブローによって攻め手を封じられたのだ。踏み止まろうという判断が一瞬でも遅れていたなら、今度は彼のほうがダウンを取られていただろう。

 再び正面切って対峙した城渡は、キリサメを見据えながら心底より楽しそうな笑みを浮かべている。


「どうだ、効くだろ? コイツがオレの――いや、『天叢雲アメノムラクモ』のプライドだぜ!」

「骨身に沁みましたよ。正直、腕が折れてないのが不思議なくらいです」

「さっきまでの喚き声から察するにバカオヤからなンかろくでもねェコト、吹き込まれてんじゃねェのか? 自分てめーの足を引っ張る野郎にまで義理立てようってェ真っ正直なトコ、恭路みてェでオレは好きだけどよォ、適当なトコで切り上げたほうがいいぜ? もっと自由に試合を満喫しな!」

「御剣氏と一緒だと褒めて頂いて、僕は喜んだら良いのか、どうなのか……。いえ、城渡氏の仰ることはその通りなのですが……」

を出し惜しみしてェんならそれでも構わねーがよ、オレのほうは手加減しねぇからよ! 他の誰でもねェお前自身の全部でぶつかって来なァッ!」

「おいおいおい、こらこらこら! 木村君、アレはどうなんだ⁉ 『八雲道場』の作戦が妨害されてんだけど⁉ みてェな疑いを掛けられたら『天叢雲アメノムラクモ』の信用にも関わるじゃねぇか! 越えちゃならねェ一線だってマッチに注意してくれよ!」


 コーナーポストから会話に割り込んでくる喧しい声と、波のように腕全体へと広がっていく鈍痛にキリサメは顔をしかめた。

 申し立てた抗議を木村レフェリーから「選手間の交流にケチを付ける前にご自分の発言を省みて下さい」と一言で切り捨てられた養父はともかくとして、腕の鈍痛は極めて深刻である。顎を蹴り上げられないよう防御ガードしたつもりであったが、時間を置いても痺れが抜けない。過去の経験に照らし合わせると、骨に亀裂が入っているかも知れなかった。


(この痛み、この強さを〝体重差〟という一言で片付けて良いハズがない。そんなハンデなんか関係ない。城渡氏は本当の化け物だ……ッ!)


 油断した瞬間に殺されるような環境を生き抜いてきたキリサメであるが、故郷ペルーでも城渡マッチほど一撃が重い人間に遭遇したことはない。かつてギャング団に捕まって鉄の棒で殴られたこともあったが、間違いなくを凌駕している。

 城渡マッチは本当に強い。古豪ふるつわものと畏敬されるだけの戦闘能力を備えているのだと、キリサメは改めて突き付けられた。最初の攻防で――〝神速〟の一撃で仕留めきれなかったのも当然といえよう。

 国家警察との共闘であるが、故郷ペルーでは非合法街区バリアーダスに魔の手を伸ばしたテロ組織とも血みどろの殺し合いを繰り広げた。その組織と関わりを持った日本人の傭兵――それより以前はフランス陸軍の外人部隊エトランジェに所属――や、裏社会の用語ことばで『デラシネ』とも呼称される殺人稼業の〝仕事人〟に勝るとも劣らないのだ。キリサメはこの二人に絶体絶命の窮地にまで追い詰められている。

 は空閑電知や瀬古谷寅之助にも言える。故郷ペルーから日本に移り住んだのち、激闘を通じて絆を育んだ友人たちも城渡と闘ったなら五体満足では済むまい。

 その城渡は前回の長野興行でアンヘロ・オリバーレスに完敗していた。

 〝先輩〟選手たちの試合をキリサメはリングサイドで観戦したのだが、MMAへの関心が薄かった為に〝実戦〟には遠く及ばない遊戯ゲームと見くびっていた。だからこそ城渡マッチの実力を正確に見極められなかったのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』に参戦するMMA選手の大部分を占めるベテラン選手について、団体代表の樋口郁郎は「高齢化は致命的。あとは下り坂」などと冷酷に扱き下ろしているが、城渡が衰えた人間とはキリサメにはどうしても思えなかった。

 日本MMA最後の砦たる『天叢雲アメノムラクモ』の誇りを背負う古豪ふるつわものは、その重みを己の拳に宿している。プロフェッショナルとしてリングに立ち続け、日本MMAの歴史そのものを強く握り締めていることが腕の痛みからも感じられるのだ。

 それに引き換え、己は攻め手にさえ迷う有りさまであった。気を緩めた瞬間に魂を塗り潰そうとする〝闇〟の力を借りなければ『天叢雲アメノムラクモ』では全く通用しないと突き放されたようなものである。

 〝フェイント殺法〟の早急な完成か、別の手段を模索するべきか――いずれの〝道〟を選ぶにせよ、『天叢雲アメノムラクモ』のリングで生きていくと決めた以上、早々に状況を打開しなくてはならない。

 何もかも立ち行かなくなった瞬間ときには、再び・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの幻像まぼろし出現あらわれ、吹き荒ぶ砂色サンドベージュの風でもってキリサメを故郷ペルーに連れ戻すはずだ。


(確かほうりきと言ったよな、お坊さんの霊能力のコト……。ヴァルチャーマスクなら芽葉笑アイツの怨霊を退散させられるのか? ……何時までも付き纏われて堪るかよ)


 心の隅から染み出してきた砂色サンドベージュの焦燥を振り切るべく今度はキリサメのほうから城渡へと突っ込んでいく。

 焦れば焦るほどに、罪を犯さなくては今日を食い繋ぐことも許されない貧困の底を共に這い回った幼馴染みの影を感じれば感じるほどに、心に巣食う〝闇〟が疼くのである。

 見る者の苛立ちを煽るかの如く上下左右に揺れ動くリーゼント頭を掴み取り、動きを押さえながら対の手で目突きを見舞えば、城渡も大人しくなるだろう――半ば無意識に両腕を繰り出そうとした瞬間、未稲の声が鼓膜に甦った。


「――なるほどなぁ、キリくん的には目突きは追い詰められたときの禁じ手じゃなくて様子見の小技くらいの感覚なんだねぇ。思いッ切りアウトだから! 『天叢雲アメノムラクモ』以外でも一発レッドカード! 地下格闘技アンダーグラウンドのルールブックなんか読んだコトないけど、『E・Gあっち』でも目突きはきっとダメ! おそらく絶対ッ!」


 親友の電知や希更・バロッサを交え、鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニングこん』で食事をった日の場景もキリサメの脳裏に浮かんでいる。

 今や己の〝半身〟と錯覚するほど深い共鳴で結ばれたあいかわじんつうと初めて出逢い、彼女のスカートが捲れ上がった拍子に純白のふんどしを覗いてしまった日とも言い換えられるが、そのときにも未稲と『天叢雲アメノムラクモ』ひいては総合格闘技MMAのルールを勉強していたのである。

 今日もリングサイドで試合を見守っている未稲が丸メガネを曇らせながら「半回転だけでも首を捻じったらアウトだよ! ていうか、関係者全員が路頭に迷うレベルの大事件だよッ!」と悲鳴を上げる姿を想い出した瞬間、キリサメはマットを踏み締めて急停止し、次いで後方へと飛び退すさった。

 今まさに迎え撃たんと身構えていた城渡もには意表を突かれたらしく、「どうしたどしたァ? 自由にやれとは言ったけど、サーカスの曲芸に付き合う気はねェぞ」と口を開け広げている。

 改めてつまびらかとするまでもないことであるが、キリサメは文字通りに己の反則行為を踏み止まったのである。

 相手の目に指を突っ込むという行為の是非は、プロボクシングのタイトルマッチで王者チャンピオンの片目から光を奪ったひきアイガイオンを例に引くまでもないが、相手の毛髪を故意に掴むことも悪質な反則に当たると、未稲が手作りしたマニュアル本にて明記されていたのである。彼女と二人で何度も勉強したことを紙一重のところで想い出したのだ。

 未稲が該当するページの内容を読み聞かせてくれていなかったなら、あるいはデビュー戦を最悪の形で終えていたことであろう。


「実際、どうしたんですか、アマカザリ選手⁉ 真面目そうに見えて若さ故の気まぐれが顔を出したか~⁉」

「気まぐれというか、依然として攻め方に迷いが見られますね。若さは関係ないとして、デビュー戦の緊張がボディーブローのようにジワジワ効き始めてきたのかも知れません。極度に張り詰め続けた結果、本人にさえ予想外の行動を取ってしまうという状況は少なくありませんしね」

「さらりとバッサリ私の実況が全否定されましたけどー⁉」


 着地の瞬間、マット上に飛び散っていた汗で足を滑らせて無様に尻餅をいてしまったキリサメには実況席のやり取りが耳障りで仕方がなく、自分のことを孫の如く慈しんでくれる鬼貫に心の中で詫びながらも、舌打ちを抑えられなかった。

 スリップによる転倒の場合は、即座にダウンと判定されることは少ない。キリサメも木村レフェリーの指示に従って即座に立ち上がったが、鬼貫が指摘したように緊張状態では思考と判断を誤ることが多いのだ。最初から不慣れということもあり、先ほど注意されたばかりのファイティングポーズを取り忘れてしまった。


「アマカザリ選手、ファイティングポーズを――」

「いいや、コイツはもう構えを取ってらァ。がアマカザリ流なんだろ? だったら、オレは構わねぇ! 木村さんよ、とっとと試合を再開させてくれや!」


 何時までも両腕を垂れ下げたままのキリサメに警告を飛ばすとする木村レフェリーを押し止めたのは城渡であった。相手に攻撃の意識を気取られないよう自然体で立つというキリサメの喧嘩殺法スタイルを尊重しようというわけである。


「そのほうがアマカザリもり易いんだろ?」


 戦闘能力を最大かつ効率的に引き出し得る様式スタイルをキリサメにたずねた城渡の声は、これ以上ないというくらい嬉しそうに弾んでいる。


「……聞きかじりだから良くは知りませんが、『敵に塩を送る』ってヤツですか」

「ペルー帰りの割に物知りじゃねーか。そうだよ、たけしんげんの教えに則ったのさァ」

うえすぎけんしんのほうだ、バカ雅彦! 塩の流通網をやられた信玄をライバルが助けたっていう逸話だろうが!」


 二本松の指摘ツッコミを背中で受け止めた城渡は、余りにも恥ずかしい間違いを誤魔化すようにして過剰なくらい豪快に笑い続けている。

 日本MMAの歴史と誇りを背負う古豪ベテランは、互いの全力を正々堂々とぶつけ合う勝負にこだわりたいのであろう。喧嘩殺法の破壊力を解き放つのに最も適した状態が整うということは、余裕のないキリサメにとって精神的にも大きな救いとなるのだ。

 ここまでから気を遣われては、後輩キリサメとしても素直に頷くしかなかった。

 それでもルールに準じるファイティングポーズをキリサメに求めなくてはならないのがレフェリーを務める木村の〝立場〟である。

 日本の大相撲はぎょうにそれぞれは名称があり、その最高位は『むらしょうすけ』を襲名する習わしである。同じ『木村』を家名としながらMMAのレフェリーを務めることを彼は一番の誇りにしており、万が一にも判定ジャッジを誤った場合は大相撲に倣って腹を切ると公言して憚らない男なのだ。

 リングの上で選手と向き合うレフェリーは、生半可な覚悟では務まらない。二人の命を預かる〝立場〟なのである。一つでも判断を間違えれば、その瞬間に深刻な事故を呼び込んでしまうのだ。

 〝神速〟を発動させた直後から明らかに様子がおかしかったキリサメのことは、こめかみを裂かれた城渡よりも気に掛けており、医師リングドクターによる確認を挟まずに試合を継続してしまった判断にも自問自答を繰り返している。

 もしも、キリサメの肉体からだに致命的な異常が生じているのなら、試合の後に腹を切って詫びるつもりであった。

 真面目一徹の木村レフェリーではあるものの、一方的にルールを押し付けて選手から柔軟性を奪うことは望んでいない。城渡が自由に試合を満喫するようキリサメを励ましたときには思わず首を頷かせてしまったくらいだ。

 キリサメのファイティングポーズをどのように取り扱うべきか、自分一人では裁量し兼ねる問題であると判断した木村レフェリーは、目配せでもって白サイドのセコンドに是非を問い掛けた。

 恩人ヴァルチャーマスクの来場によって分別を失ったとしか思えない統括本部長に選手を支える資格が有るのか、木村レフェリーには甚だ疑問であったが、セコンドとしてコーナーポストに立つ以上は彼を無視して麦泉の判断だけを仰ぐわけにはいかない。

 無論、白サイドのセコンドは両腕を垂らして相手の隙を窺う様式こそキリサメ本来のファイティングポーズと理解している。二人が揃って頷き返したことで両陣営の同意が成立し、正式に試合再開が宣言された。


「ヴァルチャーの兄ィがどうやって日本列島を沸騰させたのか、それを想い出すんだ、キリーッ! 悔しいが、マッチの言う通りだぜ! 養父とうちゃんの考えた戦法アレにこだわっていねェで、もっと自由に暴れ回れ! 解き放てよ、お前自身の本気をッ!」


 白と青のリストバンドをそれぞれの手首に装着した両腕を木村レフェリーが交差させるより早くキリサメの鼓膜に突き刺さったのは、言わずもがな養父の吼え声である。

 両腕を垂らしながら城渡との間合いを測るキリサメは、背後から飛んでくる養父の声にまたしても溜め息を零した。亡き母がヴァルチャーマスクというのファンであった為、メキシコの『ルチャ・リブレ』を極め、超人的な空中殺法で人気を博したことは伝え聞いている。試合中とおぼしき写真も見たおぼえはあるが、己自身の体感していない熱狂を理解することなど不可能であろう。

 現在いまはハゲワシのプロレスマスクを脱いだ仏僧おとこが日本中を騒然とさせた時代を想い出すよう呼びかける養父には「岳氏こそ僕が一九九七年のペルーで生まれたことを想い出してください」と聞こえよがしに吐き捨てた。心の中で密かに呟くのではなく、声に出すほど苛立っているわけだ。

 不慣れな〝フェイント殺法〟に拘泥こうでいしているのは、心に渦巻く〝闇〟を肥大させず、MMA選手としての自我を保ったまま闘い続ける為の措置でもある。だからこそ、一番と考えられる手段を中心として戦略を組み立て直しているのだ。

 関節や心臓を蝕む痛みは依然として鎮まり切っていないが、四肢の可動うごきは鉛としか喩えられなかった状態からほぼ回復している。第一ラウンドの大半を代償にしてでも乱れ切った呼吸を整え、〝神速〟を引き出した反動を和らげるという判断は間違っていなかった。

 MMAどころか、〝格闘競技〟の試合に初めて臨み、未だに右も左も分からない状態のキリサメでさえ、今が戦局全体を占う狭間であると直感として理解できるのだった。

 セコンドの立場でありながら、選手の思考を惑わすような岳の声はただ煩わしいだけでなく、麦泉や木村レフェリーから害悪と叱り付けられても不思議ではないのだ。


「もういっぺん、見せてやれ! キメちまえ! キリーのフルパワーッ!」


 自分から〝神速〟を発動させることは叶わない。何も知らない人間は黙っていろ――苛立ちが頂点に達したキリサメは、養父に振り向きもせず心の中で吐き捨てた。

 脳裏に響いた未稲の声でリングに光明が差し込み始めたときに雑音で心を乱されたくないのだ。

 他殺体が裏路地に転がっていようとも、が腹を空かせた野良犬の餌になろうとも誰も気にせず、例え手錠を掛けられてしまっても警官から賄賂カネで無罪を買い取れるような無法の世界を共に生きた幼馴染み――幻像まぼろし脳内あたまのなかを掻き回され、必死になっておぼえた『天叢雲アメノムラクモ』のルールを忘却してしまったキリサメであるが、〝闇〟に隠されていた記憶を未稲の声が呼び起こし、リング上で禁じられている行為を少しずつ想い出していった。


「……みーちゃんにキスするとき、普段いつもよりで行こう……」


 故郷ペルーに横たわる果てしなき〝闇〟そのものとも呼ぶべき幼馴染みの呪縛に呑み込まれそうになった瞬間ときも未稲の声が救ってくれた。彼女の存在こそが光差す〝道〟へと導いてくれるのだった。

 未稲の期待に応える為、キリサメは再び城渡へと向かっていく。


「おっしゃァッ! アクセルべた踏みで来やがれッ!」


 真っ向勝負を挑まれたものと捉えた城渡はこれ以上ないくらい嬉しそうに笑い、己の両拳を叩き付けながらキリサメを迎え撃とうとしていた。


(髪の毛を掴むと反則になるのなら、それ以外を狙えば済むだけの話じゃないか。希更氏も前の試合では頭部や首を押さえて膝蹴りに繋げていたんだ――)


 これまでの攻防は失格とされる技が分からない状況で恐る恐る手足を繰り出していたようなものだが、現在は反則を取られない応用を具体的に組み立てている。それはつまり、〝フェイント殺法〟に織り交ぜる選択肢が増えたということでもあるわけだ。

 上体を前方に傾けながら突進する姿は、城渡の目には頭突きを仕掛けてきたように映ることであろう。を迎え撃つべく右拳が直線的に突き込まれると、キリサメは自らの左拳を叩き付けて弾き返し、続けざまに『キリサメ・デニム』の内側なかで両膝を屈伸させた。

 瞬間的にバネを引き出して急加速を図った次第である。

 最小限の動作うごきである為、実際には速度を倍加できるわけでもないのだが、城渡の双眸に錯覚を与えるだけならば十分であった。キリサメが試合着ユニフォームとして穿いているデニム生地のズボンは股下から裾に掛けて大きな空洞となっており、その内側なかで少しばかり膝を動かしても相手には視認しがたいのだ。

 俄かな急加速に幻惑された城渡が呻き声を漏らし終わるよりも早くキリサメは左腕を前方に大きく突き出し、その五指を彼の右肩に喰い込ませた。

 意識の外から突如として圧し掛かった〝力の作用〟で城渡の上体は大きく傾いたが、キリサメはだけの為に左の五指を繰り出したわけではない。肩に対する〝捕獲〟を維持したまま己の側へと急激に引き寄せ、交差させるような形で対の拳を突き込んだ。

 間もなくキリサメの右拳は前方へヒサシのように突き出したリーゼント頭を潜り抜け、眉間を一直線に撃ち抜いた。毛髪を掴むことが禁じられているのであれば、頭部に近い部位を押さえ込み、驚愕を引き出した瞬間に打撃を見舞おうという応用である。

 仲原アナが空中戦とたとえた先程の攻防でもてのひらにて城渡の頭部を押さえ付けたが、木村レフェリーからは注意すら受けなかったのだ。つまり、『天叢雲アメノムラクモ』のルールで認められた攻撃手段という証左であろう。


「こっちもやられっ放しじゃ終われねェんだわ! 釣り銭代わりに取っときなァ――」


 〝神速〟の一撃による痛手ダメージが蓄積されている頭部を再び強打された城渡であるが、肉食獣めいた笑みから察するに、実際にはキリサメの目的ねらいを瞬時にして見極め、その右拳をえて眉間で受け止めたようだ。

 キリサメが腕を引き戻すよりも先に自身の左拳を横薙ぎに閃かせ、右側頭部に反撃を叩き込んだ。姿勢は崩れたままであったが、両者の間には上体を傾けさせた城渡が腕を伸ばしたときに丁度、キリサメの頬に触れられるような身長差がある。少なくとも打撃パンチを届かせるのに不足はなかった。

 このように拳の応酬になることまでキリサメは想定しており、脳が大きく揺さぶられるような一撃を被りはしたものの、歯を食い縛って耐え切れた。城渡に直撃を許しながら、その正面に留まり続けるというまでがキリサメ戦術ねらいというわけだ。


「――闘いの流れを考えたら、攻め寄せられたときには痛手ダメージを最小限に抑えるのがイチバンだけどよ、ここが勝負っつう局面トコではわざと殴らせてやって、反撃で返り討ちにするってコトもやるよ、おれ。相手を仕留めたってときほど気も緩み易いだろ? 肉を切らせて骨を断つってヤツだぜ」


 虎穴に入らずんば虎子を得ず――勇敢と無謀が紙一重ですれ違うことわざを体現するような電知の戦法に倣った次第である。言わずもがな、親友がこれを説いたのもすがだいら高原の合宿であった。


「――沙門にゃ悪ィが、闘いにはド根性に頼らなきゃなんねェ瞬間ときがあらァ! 歯ァ食い縛ってでも踏ん張るっつう精神力になァ! ド根性は自分てめーに問い掛けるモンだぜッ!」


 この瞬間、親友の声と併せてキリサメの脳裏に甦ったのは、つい先ほど城渡が発した吼え声である。多少の犠牲を払ってでも精神力で好機を引き寄せるという覚悟は、諦めた瞬間に死神スーパイの影に呑み込まれてしまう残酷な〝世界〟で生きてきたキリサメにも過不足なく理解できるものであった。

 この試合の間に実用し得る水準レベルまで〝フェイント殺法〟の練り上げなくてはならないのだが、伴う危険性リスクは余りにも高い。養父の発案という一種の使命感に縛られていては勝機を見逃し兼ねず、あらゆる選択肢を常に意識しておく必要があった。

 その瞬間に最も必要な戦法へ切り替えることを迷えば己の命が縮まるのみであると、キリサメは故郷ペルーを蝕む弱肉強食の最下層で思い知らされたのである。


(首をねじ切るのは格闘技の試合以前に法治国家では認められるワケがない。でも、膝の靭帯くらいなら大丈夫なハズだ――)


 己に拳を叩き込んだまま引き戻されていない城渡の腕――その腋の下を潜り抜けたキリサメは、素早く彼の左側面へと身を移しながら左右の手を大きく伸ばした。

 当然ながらばたくケツァールの物真似などではない。左の五指にて背後うしろから城渡の左膝を掴み、〝ボンタン〟の生地越しに関節の隙間を抉られる激痛に反応した彼が更に深く身を傾けようとした瞬間、右の掌でもって顎を突き上げたのである。

 右掌による打撃と連動させながら左手でもって城渡の片足を持ち上げたキリサメは、互いの身を急激に撥ね起こすような勢いに乗せて後方へと投げを打った。

 城渡も咄嗟にキリサメの首を左腕で抱え、対の拳で反撃を見舞ったが、片足がマットから剥がされた状態ではとても堪え切れず、後頭部から投げ落とされてしまった。

 キリサメが仕掛けた投げ技は互いの身をマットに放り出す性質ものではない。右の掌で顎を押さえたまま城渡を見下ろす恰好となった。対の五指は彼の左膝裏を掴み直し、股関節の可動に逆らうようにして足全体を捻り上げている。


「投げの仕掛け方こそ原始的ですが、三種みっつの攻撃を完全に一致させた合理的な技ですね。打って投げて、同時にめる。……技の本質というか、〝本性〟は大きく変わらないということか――古武術の宗家を継いだも似たような術理の技を使っていました」


 鬼貫が解説した通り、投げ技によって生じる落下の勢いを利用して城渡の左足を無理矢理に引き延ばし、膝や股関節を痛め付ける技――人体破壊を目的とした喧嘩殺法である。

 だが、この状態は第一段階に過ぎない。城渡の顎から右掌を放したキリサメは、彼の頭部をサッカーボールに見立てたかのように同じ側の足で蹴りを放とうとした。

 垂直に捻り上げられた状態で頭部を蹴り飛ばされようものなら、そこに梃子の原理が働き、城渡の左足は膝から股関節に掛けて手酷く損傷することであろう。

 傍目には粗暴にも見える踏み付けストンピングも含めて、『天叢雲アメノムラクモ』のルールでは寝転んだグラウンド状態の敵を蹴り付けることも認められている。深刻な後遺症に発展し兼ねない為、意図的に延髄を攻めることは禁じられているが、現在いまのキリサメは頭部に命中させられるのであれば、部位にはこだわらなかった。

 電知が極めた『コンデ・コマ式の柔道』や養父のプロレス技と比較すると、拙劣の二字すら思い上がった自己評価でしかないが、故郷ペルーではこの技で何人もの足を破壊してきたのである。

 テロ組織に与する〝敵〟と断定して戦った日本人傭兵の片足もで圧し折っている。

 木村レフェリーが試合の継続など不可能と判断するほどの重傷を城渡には負わせてしまうが、が起こる前に決着を迎えられる。それこそが最善の一手であろう。


「鬼貫のおっさんが褒めた通り、スジは悪くねェが、みてェな古参ジジイ連中ども前身団体バイオスピリッツの頃から『ブラジリアン柔術』にさんざん悩まされてきたんでなァ! ハン極技サブミッションは通用しねェって思いやがれ!」


 『天叢雲アメノムラクモ』のリングどころか、電知や寅之助との路上戦ストリートファイトでさえ使わなかった技である。日本で披露するのもこれが初めてであったが、城渡は上半身全体の動きを押さえ込んでいた掌が顎から離れた直後には身を捩らせるようにして拘束されていない右足を振り上げ、キリサメの左腕を蹴り付けた。

 この寸前には己の頭部を脅かさんとしていた蹴り足を左肘打ちで堰き止め、更には先程の報復とばかりに対の掌でもって膝をも押さえ付ける――これらを支点にしてキリサメの左腕を蹴り飛ばせば、五指による〝捕獲〟を力ずくで引き剥がせるわけだ。

 無理な姿勢から打ち込む蹴り技は、肘の内側を精確に狙っている。骨を軋ませるような威力は発揮できずとも、関節を強制的に折り畳ませることさえ出来れば、膝の靭帯や股関節を破壊される危機から脱せられるのだった。

 最初から術理を把握していたかのように鮮やかな緊急回避であり、技を仕損じたキリサメは己の未熟を悔恨することも忘れ、素早く起き上がって間合いを取った城渡を呆然と見送るばかりであった。


「それにしても意外だったのは、アマカザリ選手が急に地味な地上戦に切り替えたことですよ。あんなドな空中戦で場内の皆さんを魅せてくれたんですし、〝飛び関節〟くらいやっても貰わないと、こちらも張り合いがありませんよ」

「地味かどうかはともかく、先程も申し上げたように三種みっつの攻撃を一瞬にして噛み合わせる見事な関節技でしたよ。相手が城渡選手でなかったらフィニッシュホールドになった可能性も高い。不発に終わりましたが、最後の蹴りまで入っていたら確実でした」

「我々が想像している以上にアマカザリ選手の『我流』はひきだしが多いということですか。ゴングが鳴り響いて間もなくの〝アレ〟は運が良かっただけのまぐれ当たり――ラッキーパンチだったと仮定するならば……」

「仲原さんのご明察の通りです。〝あの技〟がなくとも、アマカザリ選手は最初から城渡選手と互角に渡り合えたということです。つい先程まで見せていた奇怪な動きも、今の関節技に持ち込む為の〝誘い〟であったのかも知れませんね」


 少しばかり遅れて実況席のやり取りが追い掛けてきたが、鬼貫道明の称賛はキリサメの耳に届いていなかった。関節への攻撃を容易く外してしまった理由をブラジリアン柔術との戦歴という一言で説明した城渡の声だけが脳内で反響している。


「そこまで拍子抜けみたいな表情かおされたら、ちぃっとばっかしカチンと来るがよ。お前の親父――つうか、『新鬼道プロレス』出身のレスラーみてェな極技サブミッションのエキスパートじゃなくても一九九〇年代の終わり頃からMMAのリングに上がってるヤツなら、関節狙われたときの逃げ方・外し方は速攻で閃くってモンよ。立ち技一本だからってナメんなよ!」

「岳氏も……ですか? 前回まえ興行イベントでチョルモン氏の膝をめて勝ったことはおぼえていますが――いや、そう言えば一九九七年の試合でも最後は極技サブミッションだったか……」

「相手の骨を本気で折れるって鬼貫道明に言わしめたのは、お前の親父じゃなくてヴァルチャーマスクの野郎だったが、そいつは置いといて――『新鬼道プロレス』のレスラーは練習中にひたすらお互いに極技サブミッションを掛け合ってんだよ。一種の名物みてェなモンだな」


 城渡が語って聞かせたは、鬼貫道明が『昭和』と呼ばれた時代に実戦志向ストロングスタイルを掲げて創設した『新鬼道プロレス』にける独特の練習メニューであり、〝極めっこ〟という別名も付けられていた。

 どことなく愛らしい聞こえる響きだが、その内容は壮絶である。〝真剣勝負セメントマッチ〟を想定した極技サブミッションによる模擬戦スパーリングを延々と繰り返すのだ。

 りきどうざんがりさだが活躍した〝戦後プロレス〟を経て、日本のプロレスラーは極技サブミッションを磨くようになった。ショーとは一線を画した〝本当の闘い〟を追い求めるが故に興行主プロモーターに敬遠されながらも極技サブミッションの達人と名高く、日本で〝プロレスの神様〟と畏怖される海外レスラーの技術指導もこうした潮流を大いに促進したのである。

 鬼貫道明・ヴァルチャーマスク・八雲岳といった名選手が〝神様〟の技を継いで育っていった。岳がMMAの試合でも繰り出す豪快な『ジャーマンスープレックス』は、その人物の直伝――と、城渡は言い添えた。

 〝神様〟の直系とも言える『新鬼道プロレス』は、それ故に練習で〝極めっこ〟を重視し、創設から四〇年を数えるこんにちまで極技サブミッションを練り上げ続けてきた。そこに所属するプロレスラーのことを城渡が〝エキスパート〟と評したのは、決して誇張などではない。日本格闘技史にも刻まれる〝事実〟なのだ。

 『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦ひいては総合格闘技MMAに結実した偉大な功績とも言い換えられるだろう。しゅうという形で日本に〝総合格闘〟の礎を築いたヴァルチャーマスクがその本質として掲げる『とうきょく』の内の一字は、読んで字の如く極技サブミッションを意味していた。

 寝転んだグラウンド状態での攻防もまた同様であった。あらゆる格闘技術が解放されるMMAで突然変異の如く誕生したわけではない。日本でプロレスという〝文化〟を育ててきた偉大なる先人たちの賜物なのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体で日本MMAの黄金時代を支えた城渡は、数世代にも及ぶプロレスラーたちの努力を心から尊敬している。ほんの少し触れただけでキリサメにも想いの深さが伝達つたわってくるほどだ。

 先程はブラジリアン柔術のみを例として挙げていたが、〝プロレスの神様〟が日本に伝えた極技サブミッションとも幾度となく闘ったのであろう。にもキリサメは一七年という歴史の重みを感じている。故郷ペルーける〝実戦〟で幾度も用いたが、稽古を通じて磨きを掛けることもなかった中途半端な技が通用するはずもあるまい。


「――のエキスパートに過ぎねェから、〝ホンモノ〟のブラジリアン柔術にまるで歯が立たなかったんじゃねぇか……」


 人生の〝全て〟を学んだ故郷である『新鬼道プロレス』を極技サブミッションのエキスパートと褒め称える城渡マッチの言葉を白サイドのコーナーポストで受け止めた岳は、何故だか自嘲としか表しようのない呻き声を漏らした。

 何事にも陽気な為人ひととなりは言うに及ばず、今日の昂奮を考えれば、ヴァルチャーマスクや鬼貫道明、何よりも〝プロレスの神様〟への敬意と共に誇らしく胸を張ってもおかしくはない。城渡は岳の養子に日本のプロレスラーが積み重ねてきた功績を熱弁したのである。

 しかも、キリサメは何時になく素直に感心し、幾度も首を頷かせているのだ。

 それにも関わらず、統括本部長の肩書きを背負って日本MMAを牽引してきた〝生涯レスラー〟は、自分自身を「のエキスパート」と嘲った。

 城渡に押し付けがましく暑苦しい礼を述べることも、養子キリサメに向かって「どうだ⁉ 養父とうちゃんって意外とスゲぇヤツだろッ!」と両腕でちからこぶを作って見せることもない。

 開会式オープニングセレモニーで使用されたPVプロモーションビデオに僅かながら挿入されていた過去の映像を通して『プロレスが負けた日』にける己の試合を振り返ったときと同じように、酷く虚ろな眼差しを遥か遠くへ放り出したまま立ち尽くしている。

 全てのプロレスラーにとっての歴史的屈辱から一七年もの間、胸の奥で疼き続けていた罪の意識を麦泉に暴かれた瞬間、会場内にる恩人たちに見せまいと肩に掛けていたタオルで隠したくらかおとも言い換えられるだろう。


「……何が〝プロレス最強〟の証明だよ。二〇年前のオレがやっちまったのは、その正反対じゃねぇか。……今でも思うぜ。みっともなくプロレスにしがみついていねェで、あのときに――一九九四年十二月にケジメ付けてリングを降りてさえいたら、ヴァルチャーの兄ィを〝永久戦犯〟にしなくても済んだのによ……」


 岳は僅かに開いた口から再び呻き声を漏らしてしまったが、今度は麦泉も突き放そうとはしなかった。

 先ほど厳しく戒めたのは、自分の感情を優先させて養子の試合を蔑ろにしていると感じた為である。しかし、現在いまは違う。自己否定によって心が引き裂かれているであろう岳へ寄り添うよう震える右肩に己の左手を添えた。


「自分で言ったこと、もう忘れてしまったんですか? キリサメ君のことをいつかた夢の結晶だって親バカ丸出しだったじゃないですか。夢の花を咲かせてくれた彼こそ未来の証明みたいに自慢していましたよね?」

「そいつはヴァルチャーの兄ィが蒔いた種の開花宣言みてェな意味で、オレは別に……」

「二〇年前にセンパイが失踪していたら、日本のMMAは今日まで続いていません。先駆けが誰だとか、そんなことは関係ありません。この国のMMAを育てたのは八雲岳その人です。『天叢雲アメノムラクモ』どころか、『日本晴れ応援團』――格闘技界が一丸となって東北の復興を支援ささえようという大きな輪もセンパイが呼び掛けたから実現できたんです」

「あのな、文多が励まそうとしてくれてんのは分かるけどな、そりゃ幾らなんでも買い被り過ぎだぜ。事情を取っ払って力を貸してくれたみんながスゲェんだしよ」

「センパイのほうが自分を低く見積もり過ぎているんですよ――じゃあ、もう一つだけ。キリサメ君はセンパイにとって間違いなく夢の結晶でしょう? お養父とうさんがそう思っていなければ、あのコだって張り合いがありませんよ」


 岳と麦泉――白サイドのセコンドが見つめる先には、外から内へと水平に閃く肘打ちや、対の腕を振り回す裏拳打ちバックブローを巧みに防ぎ切り、畳み掛けるような連続攻撃の間隙に飛び膝蹴りでもって割り込んでいくキリサメの姿がった。

 希更・バロッサのように両手でもって相手の頭部を押さえ込むのではなく、大きな跳躍と共に膝を突き上げる様式であったが、奇襲に近い一撃は城渡の鳩尾を鋭角に抉り、青サイドのコーナーポストに立つ二本松から「大振りな技を続けて打つのは控えるよう釘を刺しておいただろう⁉ 今のは自業自得だぞ、雅彦!」という叱声こえを引き出した。

 ゴングが鳴り響いた直後に場内を戦慄させた〝神速〟の一撃から総合格闘技MMAというよりは『こんごうりき』のような打撃系立ち技格闘技の試合にも近い攻防が続いているものの、選手双方の汗が絶え間なく飛び散るような展開ということもあって、観客席からは不満を訴える声など聞こえなかった。


「……プロレスはブラジリアン柔術に勝てなかった。その事実が歴史に残るような汚点だとするなら、僕も鬼貫のあにさんも――『新鬼道プロレス』に関わった全員みんなに罪を背負う義務があります。……センパイ一人で勝手に圧し潰されないでください」


 一九九七年一〇月からこんにちまでプロレスも進化を止めなかった。現在いまではブラジリアン柔術の使い手を極技サブミッションで破るレスラーも少なくない。何もかも一七年前と同じであるわけがないのだ――麦泉は畳み掛けるような勢いで強く言い添えた。

 〝永久戦犯〟の烙印を押され、不当な誹謗中傷を浴びせられたヴァルチャーマスクとてブラジリアン柔術を体得したMMA選手におくれを取るような状況はなくなり、その寝技を返した上で撃破している。

 もはや、『プロレスが負けた日』に受けた汚名はそそがれたのだ。それにも関わらず、罪の意識に拘泥し続けるのは、拗らせた被害妄想と変わらないのである。


「ほんの少し猿麿さんに先を越されたくらいで一〇年以上もウジウジするなんて、誰よりもセンパイがあの人を――ヴァルチャーマスクを信じてないってコトじゃないですか。思い描いた通りにならなかった過去コトに囚われていないで、『プロレスはもうブラジリアン柔術に負けない』っていう現実を受け容れたらどうですか?」

「オ、オレだってそこまで捻くれちゃいねェよ! そりゃあ兄貴の仇討ちはしくじったけど、本場ブラジルから乗り込んできた柔術ベースのヤツらは何人もブッ倒してんだぜ⁉」

「じゃあ、拗らせてるのは猿麿さんへの嫉妬だけですか。……センパイがストーカーまで落ちぶれなかったのは奇跡ですね」

「これでもかってくらい傷口に塩を塗り込むな! どんだけ丁寧にトドメ刺してんだ⁉」


 岳を蝕んできた苦しみをただ慰めるのではなく、神経を逆撫でし兼ねない名前をえて叩き付け、叱咤することも麦泉は忘れていない。少しずつ上向きとなっていた気持ちを再び真っ逆様に突き落とされるという落差を以心伝心の相棒に味わわされた岳は、くらかおから苦笑いに変わった。


「生き恥に耐えられないのなら潔く腹切れって、短刀を叩き付けられたっけな。……あの頃、生ける屍だったのは否定できねェよ」

「センパイの師匠――というか、おもてのお義父とうさんは戦国時代から現代にやって来たような人ですしね。嶺子さんがカメラを回すトコまで余裕で想像できますよ」

以前まえ義父オヤジってコトだけは忘れんなよ――ってなコトを本人の前で言おうものなら、逆さ吊りにされちまわァ。イイトシして面倒くせェんだよ、おもてらくさい!」


 おもてらくさい――現在の長野県上田市で興り、戦国乱世を経た江戸幕府の治世にいて松代藩一〇万石の大名となったさな家を陰で支え続けた忍者の奥義を現代まで受け継ぎ、これを八雲岳に授けた古老である。

 その岳の養子は忍者さながらの軽やかさで城渡の前回し蹴りを飛び越し、掠り傷一つ受けずに避け切りながら側面へと回り込んでいく。

 五枚の尾羽根も風と踊りながらキリサメを追い掛けるのだが、樋口の指示でも受けているのか、実況の仲原アナはそのさまをしつこいほど『ケツァールの化身』と強調していた。



 遠くから眺めているだけでも暑苦しく感じるほど喧しい人間が急に大人しくなったときの違和感は、当人の想像よりも遥かに周囲まわりの注目を集めるものである。

 実況席の近くに設置された特等VIP席からリングを睨み据え、キリサメの一挙手一投足に対して「殴る蹴るしか能のない素人が〝神々の黄昏ラグナロク〟の恩恵でMMAの真似事やってんのかと思いきや、意外と面白いじゃねぇの」と、余人には意味が通じない評価こと祖国ドイツ言語ことばで述べていたギュンター・ザイフェルト――『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーでもある世界最大のスポーツメーカーより臨時視察の為に派遣された経営者一族の御曹司も、現在いまは統括本部長の変調へと関心が移っている。


八雲岳ガク・ヤクモが今年で幾つになるのかは知らねぇが、そろそろ夢見る年頃ピーターパンは苦しいだろ? その辺りをキツめに叱られて、さすがに自己嫌悪ってところかねぇ。憧れのヴァルチャーマスクが日本に帰還かえってきたからって、前日イベントでもアタマが心配になるくらい張り切ってたみたいだもんな」


 『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業や、興行イベントを運営する人々スタッフは隠しておきたかった様子だが、『鬼の遺伝子』以来の〝同胞〟であり、実の兄の如く慕ってきた恩人ヴァルチャーマスクによって八雲岳の昂奮が天を衝いたことは、もはや、周知の事実である。

 日本を離れた後の所属先――『NSB』の一員として団体代表イズリアル・モニワの隣に席が用意された恩人に向かって、ハゲワシのプロレスマスクと共に棄てられたはずの通称リングネームで幾度も幾度も呼び掛けたのである。

 「旧交を温める」というる種の奥ゆかしさを秘めた言葉は全く似つかわしくない。傍目にも新人選手ルーキーを導くべき役目を忘れてしまったようにしか見えず、軽率極まりない振る舞いは、隣に立つ麦泉文多どころか、技術解説を担当する鬼貫道明にまでマイクを通じて戒められていた。

 先程はキリサメ・アマカザリの為に用意されたタオルで自分の顔を隠していたが、その直前に麦泉から心を抉られるような叱声を浴びせられたのであろうと、ギュンターは推察していた。

 五〇〇〇もの大歓声が爆発する只中であり、また唇の動きを読み取る気もなかった為にコーナーポストにける会話の詳細などは分からないが、キリサメの試合から目を離さないまま麦泉が何事かを言い放った後、岳の様子が明らかにおかしくなったのである。

 ルチャ・リブレの空中殺法を彷彿とさせる蹴り技ドロップキック養子キリサメが繰り出したときには、恩人がかつて名乗った通称リングネームを高らかに吼えながら左右の拳を突き上げていたが、結局は消えゆく蝋燭の火が一瞬だけ輝きを増すようなものであり、このを除いて薄気味悪いくらいに静かであった。


「自分はプロレスには食指が動かなかったもんだから、レスラーといってもピンと来ないんだが、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長キャプテンによっぽど気に入られているらしいな、


 『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』と、同団体と日米合同大会を共催する『NSB』――樋口郁郎の席を挟んで特等VIP席の最前列に陣取った人々の中でVVヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードだけが八雲岳とヴァルチャーマスクの関係を把握しておらず、〝神速〟を目の当たりにした動揺から立ち直って以来、幾度となく首を傾げていた。

 『NSB』側の席に腰掛ける団体代表イズリアル・モニワへ執事の如く付き従うこの男性は、先ほど格闘技の経験を仄めかしていたのだが、どうやらプロ選手による〝競技〟の観戦は興味に含まれていないようだ。

 同行者の古傷を無遠慮に抉る物言いは控えるようイズリアルから窘められたものの、そもそもVVは『ヴァルチャーマスク』という通称リングネームが捨てられた経緯も知らないのである。日本のリングを去った日にハゲワシのプロレスマスクを現在いまも八雲岳が預かり、大切に保管していることなど想像もしないだろう。

 かつて『ヴァルチャーマスク』と呼ばれ、現在いまは異なる通称リングネームとプロレスマスクで『NSB』の試合に臨んでいる仏僧は、口を真一文字に結んだままの『天叢雲アメノムラクモ』のリングを見据えており、VVの問い掛けには一つとして答えなかった。それどころか、一瞥もしない。

 大歓声の只中とはいえ、真隣に腰掛けているVVの声を聞き取れないはずもないのだ。

 それにも関わらず、悪意ある黙殺という印象に結び付かないのは、焦茶色の僧衣に禿頭という出で立ちが傍目には精神修行の一環ひとつと見える為であろう。菱形の玉を束ねた大数珠を右肩から襷掛けに帯び、古い縄でもって腰を締め付けている仏僧は、一秒たりとも直立不動を崩さないのである。


「――目を開けたまま瞑想してるような状態を良いことに本人の前で明け透けに話すのもどうかと思うんだが、……『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が旗揚げした興行イベントにな、八雲岳ガク・ヤクモはヴァルチャーマスクと一緒に出場しているんだよ」


 意思疎通が捗るであろう英語を用いながら、ギュンターがヴァルチャーマスク本人に成り代わってVVの疑問に答えた。


「世界の表木嶺子ミネコ・オモテギお手製っつう開会式オープニングセレモニーのVTRでも少しばかり取り上げられたけど、一九九七年一〇月に開催されたその興行イベントは団体の旗揚げどころか、日本に総合格闘技MMAを根付かせる為の足掛かりでもあったんだよ。『フクジテレビ』とか言ったかな――現在いまじゃ信じられねぇけど、放送権を握ったテレビ局も気合いの入れ方が違ってなァ」

「一九九七年旗揚げということは要するに『NSB』の後追いか。海外アメリカ動向うごきに四年も遅れるとは、幕府ショーグネイトが行き詰まったメイ維新レボリューションの頃から何も変わっていないと見える」

「MMA形式の大会そのものは、日本でも一九九七年を待たずに幾つか開催されてたんだけどな……。その記念すべき興行イベントでヴァルチャーマスクの〝前座〟を務めた八雲岳ガク・ヤクモは見事に勝ち星を上げ、反対に主役のほうがブラジリアン柔術の使い手に大惨敗――日本中のプロレスラーを代表しての出場だった上に、修斗っつう〝総合格闘〟の団体を樋口たちに先駆けてやってたモンだから、世間の風当たりも余計に強くなるわな」

「日本のMMAが全くといって良いほど分からない自分にも、その当時にどんなコトが起きたのか、十分に想像できるよ。大勢を巻き込んでメンツが丸ごとブッ潰れたわけだ」

「……『NSBそちら』の色男を未だに〝永久戦犯〟と罵るヤツも少なくないって風聞ウワサだぜ」


 ギュンターが解説の中で触れた開会式オープニングセレモニー映像VTRには、リングに仰向けで横たわったまま動かないヴァルチャーマスクと、彼に向かって涙ながらに立ち上がるようリングサイドで訴える八雲岳の姿も挿入されていた。それこそが一九九七年の敗北であろうと、VVも理解している。

 ヴァルチャーマスクひいては日本のプロレスは決して弱かったわけではないが、何しろ対戦相手が悪かった――と、ギュンターは直立不動の仏僧を窺いながら言い添えた。

 四〇〇戦無敗を誇り、ブラジル史上最強とも名高い格闘家であったのだ。

 世界を相手に闘い、やがてブラジルに辿り着いた明治日本の柔道家――前田光世コンデ・コマを祖とする『ブラジリアン柔術』を全世界に知らしめた一族最強の勇者とも言い換えられる。

 同国ブラジルでは『ルタ・リーブリ』という組技主体の格闘技も普及しており、ブラジリアン柔術との間で勢力争いが絶えなかったのだが、ときには乱闘騒ぎにまで発展する諍いでもくだんの人物は相手側の最強の使い手を撃破している。

 日本にいてMMAという〝文化〟が花開くのかを占う運命の一戦――絶対に負けられない試合たたかいに臨んだヴァルチャーマスクも〝プロレスこそ最強〟というファンの幻想ゆめを巻き込みながら一ラウンド四分四七秒で惨敗を喫することになる。

 それから程なくして恩人ヴァルチャーマスクカタキを討つべく八雲岳も同じ人物に〝再戦〟を挑んだが、結局は『超次元プロレス』も通用せず、第一ラウンドで首を絞め落とされてしまった。

 幸いにして日本MMAはそこで頓挫することはなく、以降も継続して興行が開催され、新しい時代の〝スポーツ文化〟として定着していったのだが、最初の数年間はブラジリアン柔術と、その隆盛を担った勇者の一族がリングを席巻する状況が続いた。

 格闘技に関わる人々の耳には既に届いていたものの、一九九〇年代の日本にいてブラジリアン柔術は〝未知なる力〟にも等しく、本格的な技術研究には旗揚げ興行から数年を要した。

 岳の愛弟子であるしんとうや、タレントとしての才能も開花させて人気を博すじゃめいどうねいしゅう――『鬼の遺伝子』最後の世代が〝柔術ハンター〟として先陣を切り、同格闘技の絶対的な優勢を覆すようになったのは、恩師ヴァルチャーマスクの名誉を取り戻すべく恋塚猿麿がプロレスのリングで引き起こした大事件よりも後のことである。

 この頃、マスメディアはブラジリアン柔術と日本格闘技界が仁義なき抗争たたかいを繰り広げているかの如く煽り立て、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンまでもがその潮流に迎合していた。実態から乖離する形で単純化された対立構造は結果的に日本MMAのを促し、二〇〇〇年代の黄金期へと結び付いていく。

 大いなる皮肉としか表しようのない筋運びは、それ自体がメディア戦略に精通する樋口郁郎の策謀であろうと当時から疑われている。

 改めてつまびらかとするまでもないが、攻略の手立てが解明され始めたからといってブラジリアン柔術の価値が下がったわけではない。勇者と同じ家名ファミリーネームを称する選手が日本のリングから姿を消した後も進化を続けており、二〇一四年現在もMMAにいて有効な攻撃手段であることはレオニダス・ドス・サントス・タファレルが証明していた。

 勇者の一族が経営する道場にてブラジリアン柔術家としての腕を磨いたレオニダスは、今や『海皇ゴーザフォス・シーグルズルソン』の玉座を脅かさんとする『天叢雲アメノムラクモ』の花形選手エースなのである。


「負い目が間に挟まるとMMAは門外漢の自分にも御両人の関係が見えてくるな。……それと同時にキリサメ・アマカザリへの呼びかけが今までとは違った意味で聞こえてしまうがね。憧憬ならいざ知らず、負い目を癒すのに養子むすこを使うのは感心できないが――」

「――そんな単純なコトじゃないんですよ、岳ちゃんは」


 『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長が異常なほど恩人ヴァルチャーマスクへ執着し続ける理由を英語でもって語らうVVとギュンターの間に日本の言語で割り込んだのは、余りにも意外な人物である。それ故に二人とも当該する人物の頭越しに互いの顔を見合わせたのだ。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体とメインスポンサーの席を隔てるような位置に腰掛けた樋口郁郎であった。かつてヴァルチャーマスクと呼ばれた仏僧おとこと同じように攻防が続くリングを見据えたまま、二人に異論を唱えた次第である。


「格闘技が世界に大きな輪を結ぶと信じた鬼貫道明の精神たましいを本当の意味で受け継いでいるのは、他の誰でもない岳ちゃんですから。……だから、リトル・トーキョーの共同会見もお願いしたワケですが、本当はロサンゼルスに足を踏み入れるだけでも、今みたいな表情かおだったハズです。相当な勇気を振り絞ったに違いないんですよ」

「……グチさんは一九九四年一二月の一件を仰っているのですね……」


 悪戯を叱られた子どものような表情かおで頬を掻き、押し黙ってしまったVVとギュンターに代わって樋口の言葉を受け止めたのは、真隣となりに座る共催団体NSBの代表――イズリアル・モニワであった。

 尋常ならざる〝神速〟を発動させたキリサメに双眸を見開き、『ケ・アラ・ケ・クア』という余人には意味の分からない呟きを漏らしてからは放心にも近い状態でキリサメ・アマカザリを――りくぜんたかで巡り逢った悩める少年の初陣プロデビューを見つめていたが、周囲まわりの状況を認識できるくらいには既に落ち着きを取り戻している。

 先程の呟きは古くから故郷ハワイで用いられてきた言語ことばによって紡がれたものであるが、樋口郁郎には日本の言語ことばで応じている。

 自ら「MMAは門外漢」と明言したVVは理解し易い解説を求めるようにまたしても小首を傾げているが、ギュンターの側はイズリアルが口にした一九九四年一二月という日付に閃くものがあり、『NSB』に用意された席の端にて屹立する仏僧おとこの横顔を仰いだ。

 依然として仏僧おとこの表情に大きな変化は認められないが、所属団体の代表がる日付を述べた瞬間だけ微かに目元の筋肉を引きらせた。ひょっとすると精神を研ぎ澄ませて俗人の雑念から解き放たれる修行などではなく、無関心の芝居フリで感情の揺らぎを押し殺しているのかも知れない。

 己も敗北という形で相対したブラジリアン柔術最強の勇者が論じられているのだ。〝永久戦犯〟の不名誉を思えば、これを聞き流していられるはずもあるまい――次は自らの意思で八雲岳をするだろうと、ザイフェルト家の御曹司は考えている。


「世間の方々はヴァルチャーマスクただ一人を槍玉に挙げて、『プロレスが負けた日』なんて触れ回っていますし、名誉棄損で訴訟を起こされたら敗訴確定な〝永久戦犯〟という悪口も独り歩きしてます。いえ、〝公の場〟で敗れた以上、心ない批判バッシングは免れないと私も理解わかってますよ? 勿論、納得できませんがね。……それでもね、『鬼の遺伝子』のプロレスラーとしてブラジリアン柔術にやられたのは岳ちゃん――八雲岳が最初という事実は絶対に忘れちゃいけないんです」

「それが一九九四年一二月のこと――でしたね。どのような言い回しを用いても陰口のようになってしまうので八雲さんに申し訳ないのですが、当時からブラジリアン柔術最強を誇っていた一族に道場破りを仕掛けて、非公式戦で返り討ちに遭ったと聞いています。そして、その舞台がロサンゼルスの柔術道場であったとも……」

「いえいえ、『申し訳ない』だなんて、そんな。〝あの日〟の一件ことを客観的に受け止めて頂けたほうが岳ちゃんは救われると思いますよ。プロレスの威信を貶めた〝罪〟をヴァルチャーマスクだけに押し付けるのは彼だって望んでいません」


 切なく眉根を寄せるイズリアル・モニワに頷き返しながら、樋口郁郎は一九九四年一二月のロサンゼルスで起きた事態ことに一等深く踏み込んでいく。これもまたギュンターが想像した通りの筋運びであった。


「先程の密談ナイショばなしを蒸し返すのは俺としても気まずいのですがね、〝その日〟の八雲岳ガク・ヤクモも対戦した相手が悪かったとしか言いようがありませんね。そもそも道場破りは相手のメンツを潰すような真似ですから、化け物をぶつけられたって文句は言えないのでしょうが」

「……道場破りに応じた柔術家までご存知のような口振りですね。さすがはザイフェルト家の人脈ネットワーク、感服の一言しかございません。全世界で起きるあらゆる事件ことを吸い上げられたからこそ『ハルトマン・プロダクツ』も頂点いただきの眺めを得られたのでしょうし」

「世界のMMAの頂点いただきに立たれた御仁からのお褒めの言葉と受け取っておきますよ。情報収集は企業を育てる要ですしね。尤も、一九九四年なんて俺自身はヨチヨチ歩きのハナタレ小僧でしたから、モニワさんのほうが当時の事情にはずっと詳しいと思いますよ」


 日米双方を代表するMMA団体の代表が語らっているのは、日本MMAにとって〝真の始まり〟とも呼ぶべき事件であった。

 『NSB』の団体代表イズリアル・モニワには皮肉を込めてやり返されたものの、当時から日米双方の格闘技界ひいてはスポーツ界と深く結び付いていた『ハルトマン・プロダクツ』も、その一件に関しては詳細に至るまで当然の如く把握している。

 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体『バイオスピリッツ』が一九九七年一〇月に東京ドームで開催した旗揚げ興行は、異種格闘技戦を通じて世界と闘った日本のプロレスと、総合格闘技MMAという新時代を世界に示したブラジリアン柔術との頂上決戦を〝目玉メインイベント〟に据えていたが、その発端は二年以上も前――一九九四年一二月まで遡ることになる。

 同団体の発足に携わった樋口郁郎は言うに及ばず、『ハルトマン・プロダクツ』と同じように〝裏事情〟まで掴んでいるだろうイズリアル・モニワもえて言及しなかったが、その頃の『鬼の遺伝子』はブラジリアン柔術との異種格闘技戦を模索していた。鬼貫道明が標的として選んだのは、言わずもがな当時から〝最強〟の二字をもって畏怖されていた柔術家一族の勇者だ。

 この交渉は程なくして行き詰まり、膠着状態を打破するべくロサンゼルスの柔術道場へ乗り込んだのが若き日の八雲岳であった。のちに共倒れにも近い状況に陥る指定暴力団ヤクザと大差のない方策だが、道場破りという〝外交戦略〟と呼ぶことが憚られるで相手側に圧力プレッシャーを掛けようと試みた次第である。

 道場の〝看板〟を揺さぶってしまえば、ブラジリアン柔術の勇者も日本のリングに上がらざるを得なくなるだろう――『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦を更なる発展に導かんとした野望が八雲岳もろとも返り討ちに遭ったのが一九九四年一二月であった。

 その当時、ロサンゼルスで開かれていた道場には鬼貫道明が照準を合わせた最強の柔術家がった。つまり、岳はブラジリアン柔術の隆盛を担った一族の勇者を直接的に狙ったわけだ。

 『鬼の遺伝子』を背負って立つ〝忍者レスラー〟の完勝を誰もが疑わなかったが、非公式として行われた一戦は開始直後に悪夢となった。容易く組み伏せられてしまった岳は、こんにちのMMAにける『パウンド』でもって顔面をドス黒く染められた挙げ句、首を絞め落とされたのである。〝プロレスの神様〟から伝授され、仲間たちと〝極めっこ〟を通して磨き上げた極技サブミッションで切り返すことも叶わない完敗であった。

 八雲岳が一方的になぶり者とされた時間は、およそ三六〇秒――のちにヴァルチャーマスクも〝公の場〟で同様の末路を辿ることになるわけだが、これこそプロレスがブラジリアン柔術に初めて敗れた瞬間であろう。

 非公式戦ゆえに記者が立ち合うことは許可されなかったものの、顔から鮮血を滴らせる敗残の写真は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの表紙となり、八雲岳は自らの命を絶つべきか迷うほどに追い詰められてしまった。

 自ら勇んで刺客に志願した〝忍者レスラー〟の惨敗という最悪の結果によって『鬼の遺伝子』及び『新鬼道プロレス』は面目を失い、日伯の間に敵対的構図を作り出すことが目的であるかのようなマスメディアにも扇動され、ブラジリアン柔術は異種格闘技戦の〝候補〟から名誉に懸けても倒さなくてはならない〝敵〟へと変わっていく。

 八雲岳の仇を日本MMAそのものの旗揚げ興行に引き摺り出し、〝プロレスこそ最強〟という幻想ゆめを体現してきたヴァルチャーマスクとの決戦に持ち込んだのは、『新鬼道プロレス』の意地でもあったわけだ。

 それは比喩や誇張などではなく、にとって絶対に負けられない戦いであった。勝利がという雪辱戦にも関わらず、八雲岳よりも更に短い時間で敗れてしまったが為、ヴァルチャーマスクは誹謗中傷としか表しようのない批判バッシングに晒され続けたのである。

 『NSB』の団体代表に同行しながら、MMAについては無知にも等しいと放言するVVは、その客観的な視点から八雲岳が恩人ヴァルチャーマスクに向ける尋常ではない感情を〝負い目〟と捉えていた。プロレスラーを志した動機きっかけでもあるという憧憬あこがれを取り除いた先には彼が看破した通りの衝動が脈打っていることだろう。少なくともザイフェルト家の御曹司はそのように確信している。


「……私は部外者ですから、軽率な発言は控えるべきと重々承知しているのですが、当時の『鬼の遺伝子』――というよりも『新鬼道プロレス』全体にブラジリアン柔術の実力を低く見積もるような雰囲気があったと聞いています。しかも、鬼貫さんたちに極技サブミッションを手解きした〝プロレスの神様〟の頃からは始まっていたと」

「モニワさんはお優しいなぁ。もっとハッキリ言っちゃって良いんですよ? 日本のプロレスは舐め腐っていたブラジリアン柔術にしっぺ返しを喰らったって――って、これはここだけの話でお願いしますね? 『昭和の伝説』や岳ちゃんに今の話を知られたら、面倒くさいカンジでヘソを曲げられちゃいますから」


 VVの頭越しにヴァルチャーマスクと呼ばれた仏僧おとこの様子を窺いつつ、当時の鬼貫道明たち――『新鬼道プロレス』とブラジリアン柔術の向き合い方を樋口郁郎にたずねるイズリアル・モニワであったが、は自身が承知している事実の確認作業に過ぎないのであろうと、ギュンターの目には映っていた。

 日本の異種格闘技戦がブラジリアン柔術に狙いを定めた背景も含めて、彼女が事態の成り行きを把握していないわけがない。

 何しろブラジリアン柔術を隆盛に導いた一族は、MMAの先駆けである『NSB』の発足にも中心人物キーパーソンとして携わっているのだ。アメリカ・コロラド州デンバーにて第一回興行が開催されたのは一九九三年のことである。

 丁度、八雲岳が道場破りに失敗する一年前であった。

 故郷ブラジルから異境ロサンゼルスに移り住んだ一族最強の男が柔術道場を営んでいることは言うに及ばず、アメリカ・プロボクシングの歴史に燦然と輝く伝説のヘビー級王者チャンピオンとも対戦し、あらゆる意味で全世界に勇名を馳せていた鬼貫道明と、彼が主導する異種格闘技戦の動向に『NSB』が無関心であろうはずもない。

 八雲岳とヴァルチャーマスク――自身が極技サブミッションを授けた教え子たちの連敗を受けて考えを改めるのだが、〝プロレスの神様〟はブラジリアン柔術に冷ややかな目を向けており、その寝技さえ格闘技雑誌パンチアウト・マガジンのインタビューで「寝転がっているに過ぎない」と手厳しく批判している。

 二〇〇七年に八二歳で生涯を終えるまで極技サブミッションとプロレスの〝強さ〟を追い掛け続けた求道者の信念であったのだろう。その闘魂たましいは『鬼の遺伝子』の異種格闘技戦を経て、『バイオスピリッツ』ひいては『天叢雲アメノムラクモ』の骨格となっていくのだが、そもそも総合格闘技MMAの歴史を遡っていくとブラジリアン柔術の祖に当たる前田光世コンデ・コマへ辿り着く。

 後年にMMAとして花開く種を蒔いた前田光世コンデ・コマの〝功績〟を日本にいて同じ偉業を成し遂げた〝プロレスの神様〟が侮るという捻じれた構図なのである。彼のことを畏れ敬う日本のプロレスラーにもブラジリアン柔術への偏った思考かんがえが刷り込まれてしまったのは間違いなかった。


「岳ちゃんが入団する前に日本を離れて故郷ブラジルに帰ったんですけど、『新鬼道プロレス』にもブラジリアン柔術の達人が在籍してたんですよ、一応。鬼貫道明の弟子っていうか、留学生の待遇でね」

「そのレスラーは私も存じ上げております。本国ブラジルの『バーリトゥード』でも歴史に名を残すような花形選手トップファイターでしたよね。『新鬼道プロレス』に招かれて来日したのは、確か一九七〇年半ば頃であったかと……」

「さすが『NSB』ですね。世界中の格闘家のデータをコレクションしていたりして。日本のレスラーと盛んに技術交流したと自分も聞いていますがね、『バーリトゥード』のような〝実戦〟は大得意でも、は芳しくなかったらしくて、ええ……」

「ブラジリアン柔術の真価を伝え切れないまま〝地球の裏側〟に帰った……と? しかしながら、『スカヴェンジャー』は――いえ、……日本では『ヴァルチャーマスク』という通称リングネームを名乗っていた〝彼〟は、くだんの選手から多くのことを学んだお陰で『とうきょく』の境地に辿り着いたのではありませんでしたか? 鬼貫さんも『バーリトゥード』の闘い方を教えられたといつか仰っていたはず」

「モニワさん、実は『新鬼道プロレス』の経営陣フロントにも紛れていたというコトはありませんよね? 私より詳しい気がするなぁ。例の人が日本に居た頃なんて自分はまだ格闘技雑誌パンチアウト・マガジン記者ライターにもなっちゃいませんよ」


 『スカヴェンジャー』と、『NSB』に馴染みのない人間には〝誰〟を指しているのかも分からない呼び名を引っ込めたのち、イズリアルはかつてヴァルチャーマスクと呼ばれた男とブラジリアン柔術の関わり方は、決して排他的な態度ものではなかったと反駁した。

 〝神様〟から授けられたプロレスの極技サブミッションの優位を信じて疑わない同僚レスラーならばともかく、ヴァルチャーマスクの瞳は一〇年先の格闘技界を見つめていた――と、一等強く言い添えている。

 畳み掛けられた樋口も目を丸くしたが、日本のプロレス団体に携わったこともないイズリアルのほうが前のめりとなる構図は極めて奇妙であり、隣席のVVから落ち着くよう窘められてしまった。あるいは同行している仏僧おとこの誇りを守りたかったのかも知れない。

 『NSB』の団体代表が熱弁した通り、『とうきょく』の理論をもってして日本に〝総合格闘〟の礎を築いたヴァルチャーマスクは、鬼貫道明に弟子入りする前後から実戦志向ストロングスタイルのプロレスよりも更に深く命の遣り取りへ踏み込む格闘たたかいを志していた。

 その意志を果たすべき覚悟に変えたのが〝地球の裏側〟からやって来た戦友とも――ブラジルの『バーリトゥード』で〝実戦〟を潜り抜けてきた猛者であった。

 往時から現在に至るまで世界最強と名高い前田光世コンデ・コマの教えから技と精神スピリットを磨き上げたブラジリアン柔術の使い手たちは、僅かな反則を除いて〝ありとあらゆる格闘技術〟が解き放たれる試合に身を投じていた。これを『バーリトゥード』と呼ぶのである。

 前田光世コンデ・コマが挑み続けた他流試合より更に自由な様式スタイルはブラジリアン柔術の隆盛を担った一族を通じて北米アメリカへと渡り、こんにちに至って総合格闘技MMAという形に洗練されていった。

 いわばMMAの原型とも呼ぶべき『バーリトゥード』の最前線で王者と謳われ、くだんの一族をも恐れさせた男の言葉へ真摯に耳を傾けたのは『新鬼道プロレス』にいて鬼貫道明とヴァルチャーマスクの両雄ふたりであったのだ。


後ろ回し蹴りソバットと共に八雲岳に直伝された膝関節の極技サブミッションにも同様のことが当てはまりますよね? 『ヒールホールド』を授けてもらったのは〝プロレスの神様〟ではなく〝ブラジルの英雄〟であったとに伺いましたが?」

ってハッキリ言っちゃったよ、この人……。岳ちゃんので今さら公然の秘密もへったくれもありませんけど、もうちょっとくらい正体を隠してあげても良いんじゃありません?」


 あらゆる動作に対応し得ることから『NSB』でも一九九七年七月から正式採用され、今や国際基準となった指貫オープン・フィンガーグローブを開発したのは他でもないヴァルチャーマスクであるが、試作に取り掛かったのは一九七〇年代――くにたちいちばんの作品と提携タイアップしてハゲワシのプロレスマスクを装着する以前のことなのだ。

 〝一〇年先を行く男〟という異名でも呼ばれていたが、本名で『新鬼道プロレス』のリングに臨んでいた頃から先見の明があったことは疑う余地もあるまい。

 格闘技の未来に必要なことを鋭く感じ取り、これを具体化していく才覚に恵まれていればこそ、ブラジルの戦友ともが語った〝地球の裏側〟の祭典バーリトゥードに誰よりも早く総合格闘技MMAの萌芽を見つけたのであろう。指貫オープン・フィンガーグローブの開発は、戦友ともの帰国から一年と経たない内に始めている。

 二人の交流は一年にも満たなかったが、戦友ともが日本を離れる日に若きヴァルチャーマスクは惜別の涙を止められなかった――と、イズリアル・モニワの耳に届いていた。

 一九九〇年に病没した為、『バーリトゥード』の直系である総合格闘技MMAが日本で花開く様子を見届けることは叶わなかったが、ブラジルの戦友ともが伝えたことは間違いなくヴァルチャーマスクの血肉となり、〝プロレスの神様〟と同じように四角いリングに未来を育てたのである。

 相手の膝関節を攻める寝技を『新鬼道プロレス』へもたらした功績に加えて、は師匠に当たる鬼貫道明にも大きな影響を与えたとイズリアルは指摘している。

 アメリカ史上最強と名高いボクシングヘビー級王者チャンピオンと日本武道館で異種格闘技戦を繰り広げた際、鬼貫道明は自らマットに寝転がり、相手に足を向けた状態で闘ったのだが、この戦法を助言したのもブラジルの戦友ともであったという。

 こんにちのMMAにいても城渡マッチのように立ち技を得意とする選手に対して有効な戦術である。立ったスタンド状態の相手からすれば、無策で飛び込んでしまうと反対に寝技へと持ち込まれ、そのまま返り討ちに遭う危険性が高いのだ。

 ブラジリアン柔術を体得した選手が多用する戦術の一つでもあり、ともすれば試合そのものの膠着を招き兼ねないとして『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体の頃からたびたび物議を醸してきたのだが、そもそも鬼貫道明が世紀の一戦に臨んだのは一九七六年六月である。

 ブラジリアン柔術そのものが国際的な知名度を得る以前の時代にくだんの戦法を鬼貫に助言できたのは、本場ブラジルで『バーリトゥード』を経験した男しかいなかったはずだ。ボクサーとプロレスラーの対戦という点に配慮し、その試合では極技サブミッションの類いが禁止されたが、双方とも立ったスタンド状態でこそ真価を発揮するボクシングへの牽制として最善の手立てであったことは間違いない。

 イズリアルも鬼貫本人に確かめたわけではないので真偽は定かではないものの、故郷ブラジルへ帰国する間際の〝置き土産〟から立ち技に対する秘策を思い付いたとすれば、異種格闘技戦から総合格闘技へと続く一本の〝道筋〟がより鮮明に浮かび上がるのであった。

 幕末維新を経て世界に扉を開いた明治後期の日本では柔道と拳闘――即ち、ボクシングとの異種格闘技戦が盛んに行われていた。寄港中の欧米艦隊から拳闘ボクシングに心得のある乗組員を招き、これを日本勢が迎え撃つ形式であったが、鬼貫道明は当時の記録写真に寝転んだ状態で相手を迎え撃つ柔道家を発見し、ボクサー攻略の手掛かりになったともいう。

 異境ブラジルの弟子による助言がまで導いたとも考えられるだわけだ。


「ときにモニワさん、ドタバタ喜劇コメディはご覧になります? アメリカは〝シット・コム〟の本場じゃありませんか。他人の勘違いに振り回されて何もかがメチャクチャになっていくのも、正常マトモなツッコミ役の声が届かずに割を食ってしまうのも、日米で大きな違いはないモンだと思いますけど」

「……ルシル・ボールに憧れたことがなかったと言えば嘘になります」

「数段重ねのすれ違いがツッコミを押し流して全部を台無しにするドタバタ喜劇コメディが『新鬼道プロレス』でも起こったと考えて頂くのが何よりも理解し易いかと思います」


 創始者と代表的なレスラーに尋常ならざる影響力を持っていながら、彼らの戦友ともはブラジリアン柔術の真価を『新鬼道プロレス』全体まで伝え切れなかった。その原因を把握してはいるものの、部外者の立場で同団体の問題点を暴くような真似をイズリアルがちゅうちょしていると見て取った樋口は、往時の実態をおどけた調子で笑い飛ばしてみせた。

 冗談では済まされない状況が『新鬼道プロレス』を呑み込み、一九九七年に至ってプロレスそのものの敗北を招いたという事実を掴んでいるイズリアルは、樋口の不調法な物言いに眉根を寄せてしまったが、えて喜劇コメディたとえた意図は正確に読み取っており、控えめながらも逡巡なく頷き返している。


「一度、偏った思考かんがえが刷り込まれ、大勢の間でそれが浸透してしまうと、上に立つ人間が言葉を尽くしても刷新は殆ど不可能に近い――確かにすれ違いの喜劇コメディの筋運びと共通していますね。ましてや〝プロレスの神様〟の教えともなれば効力は絶対的でしょうし……」

「岳ちゃんが入団したのは〝神様〟の極技サブミッションが〝最強の理論〟として完全にした後ですしねぇ~。根が真面目だから、に染まり切るのも早かったですよ。例の道場破りに出掛ける直前まえだって負ける理由がないとか息巻いてましたね」

「私にも経験があります。……新しい世界に触れ、そこに自分の支えとなる真実を見出した若者は、誰にも止められません。……決して誰にも……っ」

「岳ちゃんが〝神様〟仕込みの極技サブミッションでブラジリアン柔術を相手にイキり倒すのも仕方ないっちゃ仕方ないんですよ。……ヴァルチャーマスクっていう憧憬あこがれ対象ひとが評価するモンへの反発はハンパじゃありませんでしたから。……良くも悪くも、お子ちゃまなんです」

が美徳と紙一重ということは私も承知していますよ」


 樋口郁郎もイズリアル・モニワも、〝プロレスの神様〟が日本MMAに与えた影響を否定するつもりはなかった。こんにちの『天叢雲アメノムラクモ』にも繋がる功績に敬意を払った上で、『新鬼道プロレス』からブラジリアン柔術を遠ざけ、また道場破りの失敗と『プロレスが負けた日』を受けて八雲岳自身が「自分たちの極技サブミッションは何も通用しなかった」と格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの紙面にて結論付けざるを得なくなった原因を確かめ合っていく。

 選手たちが命を懸けて闘う『NSB』をより――〝超人ショー〟に作り替えるべく団体内へドーピングを蔓延させ、禁止薬物を用いた肉体改造をも促した前代表を追放し、MMA団体として再生させたイズリアルであればこそ、「偏った思考かんがえが浸透してしまうと、どれだけ言葉を尽くしても刷新は殆ど不可能」という一言には重い実感が込められていた。


「もっと時代を遡っても良いのなら、日本はとくさんぽうの時代からブラジルの柔術家をナメて掛かるようなトコがありましたからねぇ。前田光世コンデ・コマにも肩を並べる明治の〝柔道日本一〟がこうどうかんに道場破りを仕掛けたブラジル艦隊の水兵たちを返り討ちにした伝説、『新鬼道プロレス』の誰かが触れ回っても不思議じゃありませんよ」

「私の記憶が確かなら、遠洋航海中に寄港した東洋艦隊の乗組員でしたよね? 前田光世コンデ・コマより早くブラジルに渡った古流柔術家の教え子とか……。その果し合いが国際問題にまで発展して、勝ったはずのとくさんぽうは一時、講道館を破門されたのではなかったですか?」

「そこでオチが付くって寸法ですよ。記者ライターやってた頃に聞いた日本柔道界の伝説がモニワさんにも通じて一安心です。私一人だけスベり倒さなくて良かったなァ~」


 またしてもおどけた調子で笑う樋口郁郎をザイフェルト家の御曹司は自らの顎を撫でつつ静かに眺めていた。

 新人選手ルーキー古豪ベテランによる第一試合から目を離さないままイズリアル・モニワと樋口郁郎が語らい続けた内容は、その大半がギュンターの想像通りであった。

 『新鬼道プロレス』の実戦志向ストロングスタイルを支えた〝神様〟に対するが結果的に多くのプロレスラーの目を曇らせてしまったことや、偏った風潮に染まった八雲岳を〝環境の犠牲者〟の如く取り扱うことまで、ギュンターにとっては脳内あたまのなかに浮かんだ内容に答え合わせをしていくような時間であったのだ。

 尤も、樋口が最後に付け加えた明治時代の逸話だけは過去に聞いたおぼえがなかった。

 ドイツ出身うまれでありながら日本の古武術を修めたギュンターも、とくさんぽうという人物が発展期のこうどうかんいて〝鬼〟とも畏怖された柔道家であることは知っている。三宝なまえの読み方は「みたか」とも言い、如何なる技を仕掛けられても決して姿勢を崩さない巨躯からだになぞらえて〝一本杉〟なる異名が付けられていた。

 そのとくさんぽうがブラジルの東洋艦隊を迎え撃ったのは、前田光世コンデ・コマが同国に辿り着くより二年前――日本人が初めて夏季五輪オリンピックに出場し、元号が明治から大正に改められた西暦一九一二年の出来事である。

 世界最大のスポーツメーカーである『ハルトマン・プロダクツ』といえども、創業より三〇年も昔に日本の片隅で起きた事件までは確認できまい。

 『プロレスが負けた日』に至った原因を反芻しているギュンターとは対照的に、かつてヴァルチャーマスクと呼ばれた仏僧おとこは全くの無反応であった。

 〝神様〟の薫陶を受けた『新鬼道プロレス』が背負い、己の手で正せなかった〝原罪〟を抉り出された恰好であるが、眉間に皺を寄せるようなこともない。

 八雲岳とヴァルチャーマスクの関係について最初に疑問を投げ掛けておきながら、日米MMA団体代表の勢いに気圧されて肩を竦めるしかなくなってしまったVVを挟んではいるものの、ここまでの会話が耳に届いていないはずもあるまい。

 着席の際に頭部あたま全体を覆っていた焦茶色の布を現在いまは外しているのだ。


「偏った思考かんがえに狂わされた末の自滅だったとはいえ、『天叢雲うち』のレオニダスみたいな存在をボロ雑巾も同然にされたら、『鬼の遺伝子』――いいえ、『新鬼道プロレス』としても黙ってはいられない。自分も及ばずながらお手伝いさせて頂いた『バイオスピリッツ』第一回大会は、復讐戦争の舞台でした」


 樋口が続けた言葉の意味とは、即ちヴァルチャーマスクによるかたき打ちなのだ。その恩人に今度は日本MMAの〝原罪〟を背負わせてしまった為、八雲岳は道場破りを仕掛けて返り討ちにされた相手にリングの上で〝再戦〟を挑んだ次第である。


「……カタキを取ろうとしてくれたヴァルチャーマスクが〝永久戦犯〟になってしまったのに、自分だけは道場破り失敗の汚名を返上してしまった。……その罪悪感に岳ちゃんは今でも縛られ続けているんですよ。『超次元プロレス』で飛び跳ねるのだって、絡みつく鎖から逃れるのと一緒なんです」

「……八雲さんのこと、さすがに良くお理解わかりになるのですね」

「何だかんだと付き合いが長くなっちゃいましたからねぇ。……岳ちゃんがしてるときは、決まってこの二〇年のことを悔やんでいるんですよ。何も考えていなさそうに見えて、バカが付くほど真面目なんです、八雲岳って男は」

「部外者ではありますが、それは私も迷いなく頷けます。その精神はお弟子さんの『フルメタルサムライ』――しんとうにも間違いなく受け継がれていますよ」

「それを聞いたら岳ちゃん、めちゃくちゃ喜びますよ。……あったんで、他に誰も居ない場所で個人的に伝えてやってくださいな」


 樋口郁郎が右の人差し指で示し、イズリアル・モニワが視線を巡らせた先では、白サイドのコーナーポストにて岳が右腕を振り回している。先程までは心を突き刺す〝原罪〟の痛みに歯を食い縛っていた様子だが、少しばかり気持ちを持ち直したようでリングの養子キリサメを大音声で鼓舞している。


「――みなもとのよしつねを最強の名将に育て上げたおうしゅうふじわらのお膝元で、よもやじょうおおはしの決闘が再現されるとは~! 武蔵むさしぼうべんけいも草葉の陰で腰を抜かしていますよォ!」


 仲原アナが叫んだ通り、城渡マッチが正面から直線的に突き込んできた右拳をかわすべく後方うしろに飛び退すさるものと一瞬だけ見せ掛けておいてキリサメは急激に身を沈ませ、低い姿勢を維持したまま前方へと跳ねた。

 城渡の側面を通り抜けるようにして飛び込んでいったわけであるが、その間にキリサメは左右の五指を組み合わせ、鉄槌に換えた両拳をすれ違いざまに振り抜いた。

 プロレスでは『ダブルスレッジハンマー』と呼ばれる一撃であった。開会式オープニングセレモニーで用いられたPVプロモーションビデオには前身団体バイオスピリッツの試合も挿入されており、そこで養父が用いた技を模倣したようである。

 岳の技とは異なり、内から外へ横薙ぎに振り抜かれた鉄槌ダブルスレッジハンマーは無防備のまま引き戻されていなかった左の向こう脛を打ち据え、城渡は人間ヒトの言葉として成り立っていないような悲鳴を上げてマットに転んでしまった。

 両手でもって左足を抱えつつ、軸として据えていた対の足で幾度か跳ね、激痛を紛らわせようと試みていたが、精神力だけで凌げるものではあるまい。


「ヴァルチャーの兄ィならそこで更にぶぜ! キリーもド派手に行ったれェッ!」


 またしても恩人ヴァルチャーマスク通称リングネームを叫んでしまった岳は、隣に立つ麦泉から耳朶を抓り上げられている。前身団体バイオスピリッツと『天叢雲アメノムラクモ』の両方で統括本部長を務めた〝同志〟のことならば、表情かおを一瞥するだけで心の奥底まで読み取れると樋口郁郎は語っていた。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集長を務めていた時代から培ってきた人脈ネットワークもってして日本格闘技界に君臨し、マスメディアさえも思うがままに操るこの男は、己が代表を務めるMMA団体の関係者や所属選手にまで〝暴君〟として忌み嫌われている。

 国際規模といっても過言ではない人脈ネットワークを駆使した情報戦と、他団体を貶めることに痛みを覚えない謀略によって恐怖統制に近い状況を作り出してきただけでなく、東日本大震災の復興支援に向けて歩調を合わせなくてはならないはずの『MMA日本協会』まで遠ざけているのだ。

 『MMA日本協会』とは日本国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立の機関であるが、『天叢雲アメノムラクモ』はその傘下にも入っていない。

 格闘技の全てを深刻な人権侵害とし、テロ紛いの〝抗議〟で根絶を図る思想活動は過激化の一途を辿っており、世界中の競技団体が警備体制の見直しを迫られている。メインスポンサーと日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの共催団体による臨時視察も『天叢雲アメノムラクモ』の危機管理能力の確認を目的としているのだが、この〝暴君〟は改善提案など受けれないはずだ。

 一度でも逆らえば、格闘技の世界では生きていけなくなる――まさしく独裁者そのものであるが、一方で樋口郁郎という男は、格闘技との向き合い方にを差し挟まない。MMA団体としての興行収益を追い求めながらも、彼自身は高額の報酬を貪ろうとはしないのである。

 〝公の場〟でもなければくたびれた服を着て働き、昼食は主催企業サムライ・アスレチックスの本社近くに所在する立ち食い蕎麦のチェーン店で手早く済ませている。欲得ずくで行動しながら清貧そのものという矛盾に満ちた生き方であった。

 前身団体バイオスピリッツの時代と同じように視聴環境さえ整っていれば誰でも楽しめる地上波テレビで興行イベントの放送が再開されることを主催企業サムライ・アスレチックスは悲願としている。例え一歩ずつでも実績を積み重ね、MMAという〝文化〟を日本で完全に復権させるべく真摯に励んでいればこそ、八雲岳たちも樋口郁郎から離れずにいるのだ。


(これでコロッと騙されるほどイズリアル・モニワもお人好しじゃないと思うが、と比べて感覚はグチに近いからなぁ。……ザイフェルト家の心配するコトじゃないがね)


 ザイフェルト家の御曹司は〝古巣〟――格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部さえも未だに支配し続ける〝暴君〟とは異なる横顔を見据えていた。

 マスメディアの注目を集める話題性を何よりも重視し、〝客寄せパンダ〟をMMAのリングに差し向けてきた事実はギュンターも忘れていない。自分より団体代表に相応しい器の持ち主を主催企業サムライ・アスレチックスで冷遇する底意地の悪さには吐き気すら催すくらいだ。

 ドイツ・ハーメルンで興った『ハルトマン・プロダクツ』は、一国の経済を左右するほどの輝かしい業績とは裏腹に、〝戦争の時代〟にいて歴史上最悪の独裁政権と結託して財を成したという払拭し難い〝原罪〟を背負っている。

 ギュンターの祖父にしてザイフェルト家の現総帥――トビアスは枢軸国の戦線が崩壊していくなかに連合国側の捕虜となり、抑留先で第二次世界大戦の終結を迎えた。その父親は生まれた国こそ違えども息子と同じ〝立場〟となった人々を〝労働力〟としてハーメルンの工房にしていた。

 〝銃後の守り〟の要である職人という一種の特権で兵役を免れた父と、戦争捕虜の〝現実〟を知る息子トビアス――〝内地〟と〝戦地〟に別れて〝戦争の時代〟を生き延びた創業者親子の間には非人道的な強制労働を巡って永久に埋められない溝が生じ、ザイフェルト家もまた〝原罪〟という名の十字架を背負うことになった。

 何よりもまず人間ひととして正しくあれ――ハーメルンと同じニーダーザクセン州に所在する『ベルゲン・ベルゼン強制収容所』の跡地に訪れ、犠牲となった人々の埋葬場所を経巡る間、静かに繰り返された祖父トビアスの言葉がギュンターの脳裏に甦っている。

 現代いまを生きるドイツ人としても、独裁政権に与してしまった一族としても、樋口の振る舞いは看過できるものではない。〝戦争の時代〟に於ける自分たちハルトマン・プロダクツと同じ過ちを犯し、日本格闘技界そのものに破滅を招くようであれば、を取る手筈であった。

 日本の〝格闘技バブル〟が二〇〇〇年代半ばに終焉を迎え、再起が立ち遅れている間にシンガポールでMMAの新たな勢力が育ってきた。アジアのスポーツ利権を睨む『ハルトマン・プロダクツ』は、一握りの良心だけで樋口郁郎を評価しないのである。


(……お友達とお喋りを楽しみながら、腹の底では『ラグナロク・チャンネル』みたいなをどうやって商売に生かすか、そればっかり考えていそうな野郎だからな……)


 ギュンターが胸中にて呟いた『ラグナロク・チャンネル』なる一言は、新人選手キリサメ・アマカザリが発動させた〝神速〟を指していることだけは間違いないのだが、口に出したところで余人は意味を測り兼ねるだろう。一つの事実として、ストラールがを呟いたときには伴侶マフダレーナしか反応しなかったのである。


(世の中には知ってはならないコトがある。だが、我々ハルトマン・プロダクツを舐め切っているグチが禁忌の二文字を弁えるハズがない。……ストラールの為にも余計な詮索は食い止めないとな)


 その意味不明な言葉がギュンターにとっては何よりも重いのだ。『ハルトマン・プロダクツ』より派遣された二人の御曹司が『ラグナロク・チャンネル』なる〝何か〟になぞらえたキリサメの〝神速〟を〝客寄せパンダ〟に利用し始めたときには、樋口郁郎は言い表すのも憚るほど惨たらしい姿で己の浅慮を後悔することになる。

 〝そのとき〟には総帥トビアスに判断も仰がず、ギュンターの一存でザイフェルト家と繋がりの深い『デラシネ』――裏社会の殺し屋を差し向けるつもりだ。日本の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンや、その編集部が運営している『あつミヤズ』が樋口の後に続くことがないようにしなくてはなるまい。団体代表の眉間に風穴でも開けば、『天叢雲アメノムラクモ』の広報部門とて新人選手キリサメ・アマカザリの〝神速〟を追求するような真似もしなくなるだろう。

 比喩でなく文字通りの抹殺を選択肢に入れているザイフェルト家の御曹司に対して、イズリアル・モニワは〝暴君〟の言葉に耳を澄ませ、その一つ一つに首を頷かせていた。

 プロジェクションマッピングによる光の演出や心拍数や打撃力・命中回数のリアルタイム計測といった最先端技術を結集し、MMAの試合形式を未来の具現化とも呼ぶべき形に変えるシステムを『NSB』は新たに開発していた。

 『CUBEキューブ』と呼称されるこのシステムを盗み取らんと樋口郁郎が樋口郁郎が画策していることは彼女イズリアルも把握しているはずだが、ギュンターの目には警戒を解いてしまったようにしか見えないのである。

 当然ながら、VV・アシュフォードも彼女イズリアル隣席となりで肩を竦めている。


技術テクノロジー盗用を仕掛けてくる相手に油断するようじゃ前代表フロスト・クラントンの〝嫌がらせ〟にも簡単に足元を掬われるんじゃないか? そっちのほうが我が社ハルトマン・プロダクツの利益にはなるがねェ)


 「友達感覚で地球が回るなら、国連要らずで世界平和も成し遂げられる」という皮肉が脳内あたまのなかに浮かんだものの、が自分自身をも突き刺すものと気付いたギュンターは、口から飛び出す寸前で喉の奥に押し戻した。

 ドイツ・ニーダーザクセン州の小村に設置され、『ハルトマン・プロダクツ』が物資などを全面的に支援する難民キャンプを視察した際、現地で難民高等弁務官――マイク・ワイアットと遭遇し、意気投合する内に祖国を代表して国際競技大会に出場することが叶わない〝難民選手〟の権利拡大への協力を要請されたのだが、そのときの親友ストラール現在いまの自分と同じ表情かおであったはずだ。

 難民高等弁務官マイク・ワイアットは再来年――二〇一六年リオオリンピック・パラリンピックで〝難民選手団〟に活躍の機会が得られるようIOC国際オリンピック委員会など関連団体に働きかけているという。世界最大のスポーツメーカーとしては手を組まない理由もないのだが、親友ストラールは難民高等弁務官事務所からの代わりにされることを警戒していた。

 その親友――『格闘技界の聖家族』の御曹司とも呼ばれるストラール・ファン・デル・オムロープバーンは、ゴーグル型のサングラスを剥ぎ取った姿のまま、身じろぎもせずにリングを睨み続けている。

 一挙手一投足を見逃すまいとしているのか、翡翠色の瞳は『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーを捉えて離さない。〝神速〟の正体を問い質すべくリングに乗り込んでしまいそうな気配が眉間に寄せた皺にも表れている。

 かつてヴァルチャーマスクと名乗った仏僧おとこと酷似する有りさまであるが、も無理からぬことであろうとギュンターも理解しており、彼の伴侶パートナーであるマフダレーナ・エッシャーと視線を交わしながら肩を竦めて見せた。

 この場にいては七星セクンダディが円環を描く小さな徽章を持つ三人だけが『ラグナロク・チャンネル』という奇妙な言葉の意味を理解しているのだ。

 マフダレーナの側も親友ギュンターに対して疑問を抱いている。自分たちハルトマン・プロダクツと『NSB』を隔てるような位置に腰掛ける樋口郁郎への猜疑心が更に膨らんだと言い換えるべきかも知れない。

 『新鬼道プロレス』ひいては日本の総合格闘技MMAの〝原罪〟が抉り出されることになった発端は、ギュンターとVV・アシュフォードの何気ない会話である。自分の頭越しに古くからの仲間が揶揄されたことに気付き、『天叢雲アメノムラクモ』の団体代表は口を挟んだのだ。

 ギュンターとVVが用いていたのは英語である。樋口郁郎はその言語ことばが話せないとマフダレーナは記憶していた。それ故に彼は『NSB』との交渉の席でも外国語に長けた秘書へ通訳を託したのである。

 それにも関わらず、二人ギュンターとVVの会話を正確に理解できたのがマフダレーナには不思議でならなかったのだが、「英語は苦手」と触れ回ってきたことがそもそも欺瞞であったなら辻褄が合う。日本の言語ことばしか話せないと侮る者たちを腹の底で嘲笑いながら、素知らぬ顔で聞き耳を立ててきたわけだ。

 洋の東西を問わず、優越感は人間の理性を壊すものである。英単語の一つも理解できないだろうとえて樋口の面前で機密事項を語らう浅薄な人間はこれまでに少なくなかったはずである。

 イズリアル・モニワから咳払いで戒められたが、日本格闘技界の〝暴君〟に善からぬ感情を抱くギュンターたちは、通訳の不在を確かめた上で英語による悪言を繰り返したのである。普段であれば親友の軽挙を諫める側のストラールでさえ、口の端を厭らしく吊り上げていた。

 自分を侮辱する声さえも樋口は意味が分からない芝居フリで聞き取っていたのであろう。

 もはや、一つでも口を滑らせただけで『ハルトマン・プロダクツ』の損失に繋がり得る事態にギュンターは気付いているのだろうか。それとも、自分たちの話す英語に樋口が反応したことを認識しながら、いずれはする対象に過ぎないと気にも留めていないのだろうか。

 今や自分たちハルトマン・プロダクツの仮想敵にも近い樋口に付け入る隙を与えないようギュンターへ注意を促そうとするマフダレーナであったが、身を乗り出す前に甲高い金属音で押し止められてしまった。

 会場内にゴングが鳴り響いたのである。

 第一試合が決着を迎えたわけではない。向こう脛を強打されて一時はマットに転倒した城渡マッチであるが、木村レフェリーが駆け寄る前には起き上がり、キリサメ・アマカザリに肘打ちでもって反撃している。

 第一ラウンド終了の合図であった。


「――おい、ちょっと待て。お前、どこに行く気だ? 何をしようってんだ……っ?」


 ゴングに続いて観客席を撫でたのは鬼貫道明の呻き声である。

 実況席のマイクに集音ひろわれてしまうことも忘れ、鬼貫は技術解説の役割を離れたとしての言葉を漏らしてしまったのだが、隣席となりの仲原アナなどは声の一つも絞り出せないまま口を開閉させ続けている。

 特等VIP席にった人影が第二ラウンドの準備に追われるリングへと向かっていったのだ。その背中を追い掛ける誰もが双眸を驚愕に見開いていた。

 『ラグナロク・チャンネル』という言葉を〝神速〟に宛がい、キリサメ・アマカザリから目が離せなくなった『格闘技界の聖家族』の御曹司ストラールではない。

 かつてのヴァルチャーマスクである。現在いまはハゲワシのプロレスマスクを剥ぎ、日本MMAの〝原罪〟を背負う男が白サイドのコーナーポストを真っ直ぐに目指している。


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