その17:原罪~聖なるハゲワシを生け贄を捧げて~総合格闘技の「はじまり」の日/プロレスが負けた日──今、明かされるブラジリアン柔術の秘められた歴史
一七、原罪
近現代の日本に
『鬼の遺伝子』と呼ばれる〝同志〟たちを率いて異種格闘技戦を繰り広げた『昭和の伝説』――
外国人レスラーを豪快に薙ぎ倒し、街頭テレビに詰め寄せる人々を沸騰させた力道山と同様に『鬼の遺伝子』も海外から数多の猛者を招いて闘ったのだ。
〝鬼〟の闘魂は『昭和』の異種格闘技戦を経て『平成』の
日本人レスラーが〝世界〟を迎え撃つ構図は力道山の〝戦後プロレス〟から鬼貫道明の異種格闘技戦に至るまで踏襲され、〝選手構成〟の国際色が豊かとなるにつれて多様化していったものの、MMAのリングに
一九九七年一〇月に執り行われた日本MMAの第一回興行も、プロレスとブラジリアン柔術の頂上決戦を〝
明治時代の伝説的な柔道家――
改めて
MMAの試合を支配するといっても過言ではない
反則以外のあらゆる格闘技術を統一ルールのもとに〝総合化〟する
〝プロレス最強〟の
〝永久戦犯〟は妥当な烙印ではなく、不当な汚名――『
日本MMAの先駆者である覆面レスラーは、かつて『ヴァルチャーマスク』という
プロレス式の四角いリングで異種格闘技戦の
そもそも『ヴァルチャーマスク』とは、現代まで残り続ける悪しき精神論の遠因と指摘される『昭和』の〝スポ根ブーム〟の火付け役――漫画原作者の
同作はテレビアニメの題材にも選ばれている。自身の作品を通じてプロレス自体の人気を後押ししたことから
やがて〝現実〟のヴァルチャーマスクは、自分自身の人気を背景に
それまで培った全ての〝力〟を携えてリングに臨みながらもブラジリアン柔術に完敗を喫した為、〝永久戦犯〟の汚名を着せられてしまったが、日本MMAの骨格を組み立てた先駆者であることを疑う余地などあるまい。八雲岳の哀訴も誤りではないということだ。
アメリカの寺院にて出家し、名前も風貌も変わったものの、紛れもないヴァルチャーマスクその人が数年ぶりに日本へ
これに勝る
地肌が露となった
戦績が振るわなくなっても引退せず、見苦しいほど現役にしがみ付く愚かな
リングサイドにて砲列を作るカメラも鬼貫道明、ヴァルチャーマスク、八雲岳という日本MMAの象徴とも呼ぶべき三世代を順繰りに撮影していたのである。
それが今ではキリサメ・アマカザリという〝次世代〟と認めるには余りにも得体の知れない〝最年少選手〟だけをレンズの中央に捉えている。
一瞬にして
ごく僅かな物好きを除いてMMAファンから期待などされていなかった
それ故にキリサメのことを荒唐無稽な展開が多い〝
『
〝神速〟の一撃によって失神寸前の
その最中には日本に異種格闘技戦の〝道〟を拓いた経験と知識を生かし、技術解説を担当する鬼貫道明が実況席にて呻き声にも近い溜め息を漏らしていた。
「――老いぼれの昔話と思って聞き流して下さいよ? 私も若い時分には世界中の猛者たちと腕比べをしたものですが、……時空の法則を飛び越えるような選手はさすがに記憶にありません。ある意味では〝八雲岳の秘蔵っ子〟らしいのか……。まさか、アマカザリ選手が『超次元プロレス』の跡取り最有力候補になるなんて思いもしませんでした」
「いえいえ、いやいや! 聞き流すのは無理ですよ! 私も鬼貫さんと同じ感想が
「……仲原さん、モニワ代表が
「言ってはいけないコトが口からポロッと飛び出してしまうくらい現場は混乱しているワケです! コレで私たちの置かれた状況が皆さんにもダイレクトに伝わったのではないでしょうか⁉ いやぁ~、丁度良かった! そういうコトにしときましょうッ!」
試合の実況を担当する仲原アナは自身の失態を取り繕おうとしているが、奇しくもその焦った声色がリングサイドで立ち回るスタッフたちの逼迫感を表わしていた。
目敏い者ならば異常と気付くほど乱れ切った呼吸を整えながら、何やら物思いに耽っているかのような面持ちなのだ。
考えるな、感じろ――
結果としてヴァルチャーマスクの置き土産となった日本に
第三試合でリングに臨む希更は、今から準備運動に取り掛からないと調整が間に合わなくなる可能性もあるのだが、自分の
国内外の格闘技を取り上げる衛星放送の有料チャンネル『パンプアップ・ビジョン』にて放送する為の収録カメラは、リングだけでなく試合を見守る希更とマルガの様子も捉えたが、ミャンマーの
全身をゴムのようにしならせるヨガ由来の柔軟性と、小柄で
「ちょっと~、ちょっとちょっとぉ~。希更ちゃんが追っかけてる例の
開け広げていた口を自身の手で物理的に引き締めたマルガは、古くからの親友である希更に耳打ちの形でキリサメの
彼女から紹介される形で挨拶も済ませ、
バトーギーン・チョルモンと揉めた際、キリサメは〝平成の大横綱〟という日本で最大の威力を発揮するかつての肩書きにも全く怯まなかった。その姿から相当な胆力の持ち主であると察しているが、
『
近隣の町を包み込んだ有毒性ガスは短期間の内に数え切れない命を奪い、生き残った住民たちも、その〝次〟の世代も、事故から三〇年が経った
『世界史上最悪の産業災害』と呼ばれた大惨事にも関わらず、化学工場内部では体制そのものに問題があるという責任追及を回避するべく隠蔽工作が行われたとされており、一つの事実として運営企業から被害者に支払われた補償金も充分とは言い難い。
事故の一〇年後にボパールで生まれたマルガは、企業犯罪を疑うような事態に直面したとき、自分でも過剰反応と思うくらい身構えてしまうのだった。
だからこそ、
そのマルガに対して即座に
『
セコンドに付く為に熊本から駆け付け、
日本での普及に際して安全面に配慮したルールを設けたが、本来のムエ・カッチューアは目突きなどの危険行為をも体系に含んでおり、それ故に〝地上で最も恐ろしい格闘技〟と呼ばれている。
薬品などを用いて硬度を高めた布や縄を拳に巻き、生身で壊し合うという古来より受け継がれてきた様式は希更も学んでおり、他者の命を軽く扱ってしまえる素養も自覚しているのだが、
相手の頭部を押さえ込み、蹴り付ける大地の反動をも利用して片側の膝を瞬く間に連続で突き上げる戦闘能力など人間として他の追随を許さない次元に
主演作である『
声優として向き合ってきたアニメと同じような
電知との
「人間辞めるくらいでなきゃ、あたしのハートに刺さらないわよ! キリキリはアレでイイの! んもう! どれだけミステリアスなの? お姉さん、惚れ直したわよっ!」
「
「キリキリは〝弟系〟だから! 〝
「希更ちゃんのそ~ゆ~ステキな
そこに看過し難い異変を捉えたのである。親友が見つめる先へと視線を巡らせたマルガも同様だ。このとき、リングサイドの席では八雲未稲もキリサメの〝神速〟に丸メガネを曇らせるほど昂奮していたが、そこで観察と分析が完結してしまっている。それが双方の
希更とマルガは共に優れた格闘家である。前者はMMA
濁流さながらに連ねられる城渡の打撃を巧みに
セコンドとしてコーナーポストから攻防を見守る麦泉文多も、希更たちと同じようにキリサメの試合運びへ疑問を抱き始めている。
心ゆくまで拳の語らいを楽しむつもりであろう城渡マッチは「ここから先は
「――先程のお話をぶり返すようですけど、鬼貫さんが愛情たっぷり夢いっぱいで育て上げた
「三分以上を使って相手の体力を削り取るのは柔道家としての戦法であって、リングでの恋塚選手はより柔軟に立ち回っていますね。そもそも仲原さんが挙げられた戦い方はMMAより試合時間が短い柔道のルールを前提としたものですし、攻めて攻めて、とにかく攻め立てて疲れさせるスタイルでしたから、
「以上! 鬼貫さんによる柔道マメ知識でした! 聞き手はお馴染みの仲原ですっ!」
「マメ知識に付け加えるようで気が引けるのですが、アマカザリ選手がどのように試合を組み立てるつもりなのか、外野が『こうだ!』と決め付けてしまうのは些か早計ではないかと。城渡選手からダウンを奪ったあの仰天すべき
次第に険しい表情となっていく麦泉に続いて、実況席にて技術解説を行う鬼貫道明も気付いた様子であるが、防御を固めて反撃の機会を窺うという状況を差し引いても、キリサメは先程の〝神速〟が幻であったかのように攻め手が甘くなっているのだ。
右下腕に左の五指を添えるという
鬼貫の双眸は防戦一方というこの状況にも明確な原因を見出そうとしている。
「さっきの
「そういうデタラメさは御剣氏とそっくりですね。あの人が城渡氏に似ていると言うほうが正しいのか。打ち込みの精度は似ても似つきませんが……っ!」
ロープの間際まで後退させたキリサメを追い掛けつつ、城渡は右腕を二度三度と車輪の如く回転させ、そこに猛烈な遠心力を生み出した。
次いでリングの土台が軋むほど強くマットを踏み締め、これを軸に据えて一気に突き上げた右拳には命中した部位を脆いガラスも同然に打ち砕く破壊力が宿っていた。
「ンどらァッ! 年寄りの冷や水、もう一丁行くぜッ!」
竜巻の如き遠心力によってパンチの威力を増幅させんとする仕掛けとはいえ、腕の縦回転という過剰なほど大きな
MMA自体を敵視し、競技としての信用性を貶めることへ躍起になっている
(無意味にくたびれるのはどうかと思うけど、良くない流れをどこかで変えなきゃジリ貧まっしぐらだからな――)
顎を抉られまいと咄嗟に両の
一方的に吹き付ける打撃の嵐を断ち切るべくキリサメが反撃に転じたのは、その直後である。
現代日本を代表するデザイナーの
城渡の
「おっおおおォォォッ! アマカザリ選手、長野のプロレス団体から試合の見せ方も勉強したご様子!
この時点で城渡は突き上げた拳を引き戻していない。膝の
長野県・
そのカリガネイダーに
「自分は今の蹴りを〝直伝〟と呼ぶのには抵抗がありますね。……贔屓目とのお叱りを受けることは重々承知していますが、伝説の
「ちょっとちょっとお待ち下さいな! 本日晴れてプロデビューのアマカザリ選手と、日本にMMAをもたらした伝説の戦士を比べるのは、さすがにフェアじゃないのでは⁉ そりゃあ、鬼貫さんからすれば今でも大事な愛弟子でしょうけどっ!」
「おそらく今の
言わば元祖であるヴァルチャーマスクに見守られるリングでこの技を放つという意義の深さに鼻息を荒くした仲原アナに対し、鬼貫は冷静な技術解説に努めている。彼が分析した通り、ケツァールにも
旋回の勢いを乗せた足裏でもって脳まで揺さぶられたはずだが、城渡はたじろぎもしなかったのだ。それどころか、左の五指でもって蹴り足を掴み返し、キリサメの身をマットへと投げ付けたほどである。
鬼貫による厳しい評価も当然であろうと、キリサメも痛感している。
カリガネイダーに教わったこの蹴り技を〝実戦〟で用いたのは過去にただ一度――
ヴァルチャーマスクの前で披露することも本来ならば避けるべきであった。殆ど使いこなせていないという無様な現状は、
尤も、当の八雲岳は喜色満面であった。またしても
一九九七年一〇月――『プロレスが負けた日』に自らを生贄として捧げ、日本にMMAの〝道〟を拓いたヴァルチャーマスクには、偉大なる礎から始まった歴史が次世代に受け継がれた証拠を見届けて欲しかったのだ。その夢の一つを養子が叶えてくれたのだから、脳が痺れるほど昂ってしまうのも無理からぬことであろう。
「そこから攻守を逆転すんのもヴァルチャーの兄ィは得意だったんだぜ! キリーにも出来る! 兄ィと〝同じ景色〟を見られるお前なら絶対に出来らァッ!」
過剰な期待を寄せられるキリサメを見下ろしながら、城渡は右足を高々と持ち上げた。『
素早く身を翻して仰向けのような体勢へと転じ、その流れの中で城渡の左足首を掴んで引き倒すこともキリサメは考えたが、背骨や肋骨を踏み潰されるほうが自身の五指を繰り出すより早いだろう。
マットに三角形を描くような恰好で
当然ながら
「気を付けろ! さっきと同じ打撃を頭に喰らえば、二度目はダウンじゃ済まないぞ!」
必然的に城渡の上体も大きく傾いてしまったが、セコンドの二本松が警戒を呼び掛けるような追撃はなかった。一時的とはいえ彼の
これまでの
「……くだらない小細工だって軽蔑しますか? さっきから岳氏に要求されているような真似は……僕はヴァルチャーマスクにはなれません」
「もうちィっと自信を持てよ、アマカザリ。地べたに寝ちまったら命取りじゃねェか。特にリング外の喧嘩だとな。不利を引っ繰り返す技が小細工であるモンかよ。つーか、一人だけ頭ン中が〝格闘技バブル〟まで巻き戻ってる
互いの拳が届かない位置ではあるものの、同時に振り返り、再びキリサメと向き直った城渡はヒサシの如く突き出したリーゼント頭を揺らしながら笑った。
その直後にメインアリーナで大歓声が爆発した。岩手県内各所に設けられたパブリックビューイングの会場も同様であろう。キリサメは養父の期待に応えられないと自嘲めいた調子で
〝城渡総長〟に心酔する暴走族チームの親衛隊長――
「見たか、実況コンビ! さっきはよくも自慢の
握り拳が丸ごと収まってしまうくらい大きな口から発せられる一言一言がいちいち喧しい岳の
(……こんなときでさえちっとも噛み合わないんですね、僕たちは……)
今
『
あまつさえ、本来は無関係であるキリサメにまで
黄金時代が終焉を迎える以前の日本MMAにて〝最年少選手〟と呼ばれた旧友――『
岳の吼えた言葉が何もかも見当違いであったわけではない。
「――
マットを蹴り付けて猛然と間合いを詰めてくる城渡を見据え、防御と回避の二者択一を己に問うキリサメの脳裏に打撃
合宿所として利用したのは
数名ごとに行う
岳と鬼貫の二人がそれぞれ言及した通り、キリサメが最も時間を費やしたのはMMA選手にとって欠くべからざる打撃
半ば押し掛けるような恰好で
同様の
最期に辿り着いた〝地球の裏側〟にて
その
「おれはこの通りの
「体格差が有利不利に結び付くのは僕の経験で分かるかな。判断を間違ったら命に係わるような状況を満喫できるのが電知らしいよ。ひょっとして
「ちょっと前までツレなかったのに嬉しいコトをサービスしてくれるじゃねェか! キリサメも分かってきたじゃん! 勿論、生きるか死ぬかの紙一重を味わい過ぎて自分の
明治時代に生まれた
何事にも反応が薄く、他人の話すら聞き流していそうな
「別に
「
「おう! 前田大先生も二倍近く体重差が開いてた『ブッチャー・ボーイ』をブッ倒して世界最強への旅を踏み出したっつーからなッ!」
柔道の世界普及を志す
これに応じたのは『ブッチャー・ボーイ』を通称とする魁偉である。アトランタに
比喩でなく文字通りに桁違いの相手を撃破したという〝伝説〟を前提とした上で、電知は「柔よく剛を制す」と
そこには〝世界最強〟という見果てぬ夢を成し遂げた
生涯無敗という空前絶後の神話を残した
「相手の蹴りを腕で
「自分のほうに押し込まれてくる力を受け流すというイメージかな。格闘技の
「完全に
「面食らって体勢を崩したところに潜り込んで投げ倒し、相手の状況に応じて寝技に持ち込むといったところかな? 電知の
「ど~しちまったんだよ、今日のキリサメはぁ⁉ おれを猛ラッシュみてェに喜ばせてどうする気だぁ⁉ 今夜はイイ夢、たっぷり
このように武道を通じた
例えば相手が足先でもって側頭部を揺らさんとする蹴りを放ったときには、自分のほうから
その効果を実感する為にキリサメが攻撃側を引き受けたのだが、例え
最も強い力が働く一点を外してしまう〝受け方〟――威力を発揮させない防御技術という発想から受けたキリサメの驚愕は、殆ど異文化体験にも近い。
亡き母による理科の授業を振り返るまでもなく、打撃の際に攻守双方へ作用する〝力〟が物理法則に基づいている以上、衝撃を緩和あるいは吸収させる手立てが技術として発展していくのは当然であろう。
そもそも格差社会の最下層を生き延びる為にキリサメが編み出した喧嘩殺法は、電知が極めた『コンデ・コマ式の柔道』のように格闘を目的とした
つまるところ、今までのキリサメには防御技術を磨く必要がなかったわけである。これを明確に意識したこともない。致命傷を受けないよう必要に応じて四肢を動かし、相手の攻撃と己の急所の間に手足を挟み込む感覚であった。
骨身を軋ませる痛みを和らげるという発想など〝地球の裏側〟で闘っていた頃には、殆ど持ち得なかった。
格差社会の最下層を這い回る者たちは、ペルーの
キリサメが
「別に難しく考えなくたって良いんだぜ? 威力を別のトコに逃がすっつうのはキリサメも無意識にやってきたと思うし。防衛本能っつうの? そ~ゆ~モンを今よりちょっとだけ意識するトコから始めりゃ、あっという間に
お前の
親友の空閑電知や養父との関わりが深い長野県の地方プロレス団体に支えられた
無論、己の至らなさをリング上で悔やんでも発展性がないことはキリサメにも分かっている。合宿で打ち込んだ
高原の風に彩られた追憶から現実のリングに意識を引き戻し、城渡マッチを真正面に見据えたキリサメは、寒空の下で
城渡との体重差をどのようにして埋めるべきか――体重別の階級を設定しない完全無差別級の試合形式から突き付けられた課題の突破口をキリサメは模索しているのだ。
前日の公開計量で測定された通り、胴や腕に少しばかり贅肉を纏わせた
一九キロという差は『NSB』が採用している階級制の基準と照らし合わせれば、三階級も飛び越えてしまっている。キリサメはフェザー級、身の丈が一回りほど大きい城渡はミドル級にそれぞれ分かれるはずであった。
奇しくも
中量級が適正体重にも関わらず、その条件と釣り合うMMA選手が『
自身の実戦経験と理論に基づいてヴァルチャーマスクが完成させた日本で最初の〝総合格闘技術〟――『
だからこそ樋口郁郎には日本国外の格闘技関係者から「選手の生命と人権をも弄ぶ独裁者」という侮辱にも近い批判が浴びせられるのだ。その根拠として
(……考えるな、感じろ――とは言うけれど、容赦なく骨身を揺さぶってくるこの重みをどうにかする為には、頼りない頭を働かせなきゃならないもんな……)
これから先の攻防を頭の中で組み立てるべくキリサメは深く息を吐いた。つい先程までは肺を伸縮させる
大噴火の如き
この試合中に全身を駆け巡る痛みは完全には鎮まらないだろうが、少しでも和らげば身のこなしも変わってくる。依然として未完成ではあるものの、次に
無論、呼吸を整えた代償は、決して小さくはない。
アッパーカットを凌いだ左右の
一九キロの体重差が試合に
『
『
「――マフラーが火ィ吹く勢いで行くぜ⁉ パトカーも白バイも振り切るヤツをなッ!」
八一キロという全体重でもって勢いよくリングを蹴り付け、一気に間合いを詰めた城渡は左右の拳を幾度も幾度も突き出した。膂力を引き絞った
「アマカザリ選手、ジリジリじわじわと慎重に行くのかと思いきや、今度はいきなり
「自分はアマカザリ選手の動体視力と瞬発力に驚かされています。仲原さんが仰る通り、確かにミット打ち――トレーナーとパンチを訓練する風景の再現と見えなくもありませんけど、絶え間なく打ち込まれてくる拳を
「だから、
「いやいや、もう四、五歳くらい若かったら、仲原さんが指摘された通りに城渡選手もブチギレたハズです。彼も少しは大人になったというコトかも知れませんね。自分も似たようなものですが、年を食うと若い衆のやるコトが何でも眩しく見えるんです」
「今、『鬼貫さんの気持ちは仲原アナにも
鬼貫が看破した通り、バリバリと轟音を鳴らすバルカン砲とも
肝臓や肋骨の下の肺を狙われ、
標的の内臓に痛撃を見舞い、内側から人体破壊を図る技もキリサメの喧嘩殺法には含まれていた。一九キロという体重差から生み出される衝撃で肝臓でも貫かれたなら、その瞬間に意識を刈り取られてしまうかも知れない――と、実感と共に想像できるわけだ。
突き込まれた拳を受け止め損ね、素早く身を
この
「キリサメ君の喧嘩殺法――もとい、『我流』の技は僕たちが想像していた以上に引き出しが多いようですね。それとも合宿の成果かな? ペルーのギャングに絡まれたとき、センパイが目撃した技はもっと大味だったんですよね?」
「おうとも! あのバカデケぇ〝仕事道具〟を持っちゃいねェとはいえ、こんな
「……余計な一言を付け加えないと
白
本人に確かめたことはなかったが、おそらくは『タイガー・モリ式の剣道』――即ち、現代の様式よりも遥かに古い時代の剣道で用いられた
時間差を付けて上下を揺さぶるという複雑な連続攻撃であった。僅かな間を置いて異なる部位が狙われる為、技の拍子も見極め
しかも、寅之助の技は手足に別々の脳が
竹刀による
これもまたプロレス式の
キリサメ自身、上下二段の時間差攻撃で集中を乱され、反撃に転じようとする
四方から降り注ぐ歓声を受け止めつつ、この攻防を暫く続けた城渡は、小細工とも喩えられる蹴りを弾き返すほどの勢いで踏み込み、キリサメの
(……つまり、寅之助の性分がこれ以上ないくらい
全身のバネを駆使した加速による連打では
このように過剰な反応を引き出す為、互いの拳をぶつけ合う激しい応酬を好んでいる城渡を小技でもって焦らし続けたのだ。
「この野郎、アマカザリィッ! MMAファンの皆さんが見ている前で総長に恥かかせやがってェッ! 真っ向から顔をボコボコにし合う勝負が
客席の何処かで暴走族チームの仲間と共に〝城渡総長〟の試合を見守っている恭路は、仲原アナの実況によって
酒と煙草で焼けたダミ声は何時にも増して喧しかったが、五〇〇〇という観客はそれ以上に熱狂しており、傍迷惑にも兄貴分を自称する男の文句などキリサメの耳には一つとして届かなかった。
「少しはセコンドの
青
次なる一手に繋げんとする〝罠〟であろうと察しているが、これを正面から受け止めなくてはMMA選手の生き様という
「イイぜ、何を企んでいようが関係ねェ! 大技小技、何でもぶつけて来やがれッ!」
至近距離で浴びせられた吼え声によって鼓膜を揺さぶられながら、キリサメは素早く迎撃に転じた。
キリサメの顔面に迫る右拳は〝神速〟を引き摺り出した瞬間にも匹敵する破壊力を秘めているはずだ。それにも関わらず、脳の働きが
直撃の寸前まで引き付けてから左の五指でもって城渡の右手首を掴み返し、攻撃そのものを断ち切ったキリサメは、これを捻り上げながら彼に背を向けた。
城渡の懐まで潜り込み、胸部から腹部に己の背中を押し当てるような恰好とも言い換えられるだろう。相手が拳を突き込んでくる勢いを逆に利用し、双方の身を巻き込むような投げでもって迎撃を試みた――実況席の鬼貫もそのように捉えた為、「技の入り方が少し変わっていましたが、これは
「今さら詐欺紛いのやり口なんて言うつもりはねェが、お前、プロフィールには格闘技経験ナシって書いてなかったか? 柔道の心得があったとは驚きだぜ。オリンピックやパラリンピックでペルーが柔道の金メダルを
「
柔道の投げ技で迎え撃たれるとは全く想定していなかった城渡であるが、相手の狙いさえ判ってしまえば、手首を掴まれた後からでも十分に対処できる。右腕を捻り上げられた状態のままマットに根を張るよう両足を踏み締めた。
互いの身を密着させた状態から上体を撥ね起こし、巻き込むような形で投げを打つのであろうと判断した城渡は、その
前回の長野興行でスペイン出身のアンヘロ・オリバーレスと対戦した際、これと近似する攻防から劣勢に立たされ、我が身を情けなく思うような敗北を喫したのだ。二大会続けて同じ醜態を晒すわけにはいかなかった。
そのときにも致命傷を狙って大振りの右拳を繰り出し、鮮やかな一本背負いで反対に投げ落とされた挙げ句、背後から抱え込むような恰好で首を絞められてしまったのである。
「やらせっかよォッ!」
メインアリーナの天井を貫くような咆哮を上げた城渡は、とうとうキリサメに己の身を投げさせなかった。
しかし、ここまでがキリサメの狙いである。城渡とアンヘロ・オリバーレスの試合をリングサイドで観戦した彼は、今し方と同じ猛襲でもって相手の身動きを封じ込めながら、潮目が変わった直後に呆気なく仕留められるという最後の攻防も記憶に留めていた。
直近の敗北を思い起こさせる状況に立たされたなら、意地でも耐え切ろうとするに違いない――果たしてキリサメの予測は的中し、城渡は仕掛けられた罠に嵌っていく。
眉間や右腕に血管が浮かび上がるほど強い力を込めて重心の維持を図れば、その瞬間に城渡の
『タイガー・モリ式の剣道』の蹴り技に続き、今度は『コンデ・コマ式の柔道』の
キリサメは肘による
「思いもしねェ形で一杯食わされるんだから、やっぱりMMAは辞めらんねぇわ! アンヘロみてェな真似をしやがると思ったら〝肘鉄〟に化けるなんてよォ! 一〇年以上、リングに立ってるがよ、こんなに面白ェ展開はなかなか巡って来ねェぜッ!」
借り物に過ぎない上に中途半端な変化を加えてしまった為、技の完成度は電知と比べるべくもないが、
それでも城渡からダウンを奪うには足りなかったようだ。まさに肘打ちが突き刺さった直後、左の五指による手首の拘束を力任せに振り解かれてしまったのである。
その途端、キリサメは城渡に背後を取られるという危機的状況に陥った。
互いの立ち位置による有利と不利が一転した――とも言い換えられるだろう。意表を突きながらも致命傷を与えられなかったキリサメに対し、城渡の側は完全に自由を取り戻しており、加えて無防備な背中を好き放題に狙い撃てるのだ。
「キリサメ君、今すぐそこから離れろ! ジャンプでも前転でも何でも構わない! とにかく足を止めちゃいけないッ!」
わざわざ麦泉から緊急回避を訴えられるまでもない。キリサメは振り返りもせずに右足裏を後方へ繰り出し、城渡の腹部に命中したことを素足で感じ取ると、壁でも蹴り付けるかのような恰好で前方に跳ね飛んだ。
片膝の屈伸では十分な跳躍力を生み出せず、大きく距離を取ることは叶わなかったが、この状況で考え得る最善の判断であろう。空中にて身を翻し、着地と同時に城渡へと向き直った直後、キリサメが立っていた場所に一筋の流れ星が落ちたのである。
比喩でなく本当に隕石がメインアリーナの天井を貫いたわけではない。
「漫画で言うなれば、今のは確定的に大ゴマ! オリバーレス戦では出し惜しんだまま終わってしまった〝奥の手〟を第一
ヴァルチャーマスクを前にした岳に勝るとも劣らないほど昂った
空中で急旋回する
右足一本を軸に据えて立ち、全身を
大リーグの
爪先が頭上に達するほど高く持ち上げていた左足で猛烈に踏み込み、これを軸に入れ替えつつ、腰から肩に至るまで上半身のバネを最大限まで引っ張り出したのである。この勢いに乗せて急降下する握り拳は、まさしく隕石であった。
「とっておきのガチンコだぜェッ!」
一等大きな咆哮を追い掛けるようにして轟音がマットに跳ね返った瞬間、二人の選手と木村レフェリーの立つリングは間違いなく揺さぶられ、その骨組みが立てる軋み音はキリサメの耳も拾っている。
「それにしてもアマカザリ選手は命拾いしましたねぇ~。たまたま射程圏外に居たから良いものの、運が悪かったらゲンコツ一発で
今し方の〝ゲンコツ〟を城渡マッチの〝奥の手〟と表現したことも、〝命拾い〟という指摘も、全てが仲原アナによる実況の通りであった。
城渡の剛腕によって起こった風がキリサメの前髪を揺らしている。それ程までに近い距離で
僅かでも緊急回避が遅れていたなら、再び〝神速〟が発動していたかも知れない。そもそも今度は視界の外から飛び込んできた攻撃であり、キリサメは危機こそ感じながらも致命傷に至る可能性は認識できていなかった。
己の身に起きたことを理解できないまま
「――な~るほど。銃で撃たれそうになった
今も場内の何処かで幼馴染みの
(ヴァルチャーマスクの満足云々は僕には関係ないけど、岳氏が言う通り、小技で削り取るような戦いじゃ埒が明かない。しかも、こっちは一発入っただけでお終いだ)
『タイガー・モリ式の剣道』と『コンデ・コマ式の柔道』からそれぞれの技を借り、MMA選手としての経験不足を補おうと試みたわけだが、このように貧しい発想がそもそも誤りであったと、キリサメは心の中で二人の友人に詫びた。
僅かな時間で〝標的〟を仕留めなくてはならないという性質上、キリサメの喧嘩殺法は打撃技が大半を占めている。肉弾戦の手段でもないのだから、あらゆる格闘技術が解放されるMMAで殴り合いにこだわり抜く城渡へ正面から挑んで勝てるはずもあるまい。
電知のように巧みではないが、相手を掴んだ状態で打撃に変化していく技も編み出している。我流ながら関節技を使えなくもない。しかし、いずれも腕力だけで城渡に引き剥がされてしまうことであろう。今し方の攻防で思い知らされた通りである。
(とりあえず、ここまではまだ反則を取られていないよな。……それだけでも上等としておかなくちゃな)
乱れ切った呼吸を整えた次は、試合運びそのものに対する突破口を早急に見つけ出さなくてはならなかった。MMAのルールが記憶から抜け落ちた状況でのプロデビュー戦に似つかわしく、リング上には
(……試してみる価値を自分に
麦泉との打ち合わせなど絶無に等しく、
これもまた
抑え難い不安を抱え、「この
「向こうが大盤振る舞いならこっちもやったれ! 三つの魂を一つに合体して戦う力に換えるのはキリーが大好きな『
同じ戦略を考えながらも、これと向き合う心情が全く噛み合わないという捻じれた構図である。
左足裏を前方に突き出す城渡マッチの蹴り
『
そもそも『
草色のマントを翻しながら天空を翔け、不思議なエネルギーが漲った
これに対して、キリサメが得意とする目突きや金的――即ち、〝格闘競技〟に
「ド派手に畳み掛けると思わせておいて、ダウンを奪った直後には何故だか大きな動きがなかったアマカザリ選手、つまるところ、小手調べだったんですねぇ。うっかりすっかり騙されてしまいました。今となっては
「さっきから言ってんだろ⁉ うちのキリーと猿麿なんかを一緒にすんな! 鬼貫の兄ィからもっと厳しく叱っといてくれよなぁ~!」
『
彼女は先程もキリサメの試合運びをこの場に居合わせてもいないプロレスラーの得意戦法に重ねていた。
世界を圧倒する才能に魅入られた鬼貫道明から
柔道家としての現役時代は相手に組み付いたままで三分もの間、猛然と攻め続け、体力を消耗させた
持久戦を画策しているようにしか見えなかったキリサメに向けて仲原アナが
その喚き声をリング上の木村レフェリーは実況席への悪質な威嚇行為と
恋塚猿麿は
年齢や立場にこだわらず、誰に対しても友人として分け隔てなく接する『
「――ッたく、どいつもこいつもなァ……! 猿麿の野郎と比べるなんざ、キリーにも失礼ってモンだぜ! 文多もそう思うだろ? なァ~?」
その岳の真隣に立つ麦泉の口からは先程のキリサメに負けないほど重苦しい溜め息が二度三度と滑り落ちていった。
「……樋口社長も『
「ンなッ⁉」
人智を超えた
「……それとも『プロレスが負けた日』と呼ばれる一九九七年の屈辱を――
麦泉の顔がリングの外に向いたのはほんの一瞬であり、すぐさまキリサメの背中へと視線も戻されたのだが、諦念を湛えた瞳で一瞥されただけでも、岳には彼の言わんとしたことが何もかも伝わるのである。
ヴァルチャーマスクという〝影〟を何時までも断ち切れないからこそ、恋塚猿麿が気に喰わないのだ――麦泉は声なき追及でもって岳を突き刺していた。
家族や恩人にさえ気付かれないよう心の最も
試合を預かるセコンドとしても、親友たちから〝忘れ形見〟を預かった養父としても、本来ならば相棒が見据える先へと視線を巡らせなくてはならないのだが、
「本当は二人で背負わなくてはいけなかった〝永久戦犯〟の汚名をあの人だけに押し付けてしまった――この一七年間、センパイが自分に問い掛け続けてきたのは、そんなところでしょうか。自分の気持ちに素直過ぎて、動く理由だって後回しにして突っ走るセンパイらしくないですよね」
「あの人への気持ちはキリサメ君よりも大事なのですか?」
顔から血の気が引こうとも岳は怒号を張り上げようとはせず、低く小さな呻き声を漏らした
内心では長年の相棒に一つとして反駁できないことを自覚している。己こそが罰を受けるべきであったという罪の意識を心に溜め込んできたからこそ、正々堂々と胸を張って麦泉に立ち向かうことが叶わなかったのである。
「……歴史に残るレベルの汚点なんか、時間が解決してくれるモンでもねぇだろ……」
ようやく喉の奥から絞り出したのは、蚊が鳴くような呻き声であった。その上、麦泉の追及に対する
如何なる言葉にも開き直れるくらいに岳が器用であったなら、何事にも無感情な
己自身でも薄汚く感じる
八雲岳はプロレスでもMMAでも恋塚猿麿と拳を交えたことがない。『
恋塚猿麿がMMAのリングにて乱入未遂事件を起こしたのは、
鬼貫道明の闘魂を継ぐレスラー同士がリングに立てば、それは宣戦布告を飛び越えて臨戦態勢である。『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦からMMAに移ったプロレスファンが不意に訪れた夢のような展開に白熱したことを岳自身も肌で感じていた。
だが、MMAとプロレスの
「――ちょっと待てよ、八雲。逃げるのナシやぞ、コラ」
小憎らしい笑顔と共に浴びせられた罵声は、五五〇〇日を超える歳月が過ぎた
一九九九年四月二九日に名古屋に
日米レスラー対決を制したのは岳であったが、激闘による消耗は尋常ではなかった。疲弊し切った
それでも恋塚猿麿の挑戦を受けるべきであった。受けなくてはならなかった――これがあらゆるしがらみを取り払った八雲岳自身の本音である。以心伝心という相棒に抉り出されたのは、一九九九年から
二〇一四年という
それぞれを別の存在として捉えるべきという研究が圧倒的に優位であり、未だに諸説紛々ではあるが、一九九九年
実際に用いられたのはほんの
一九九九年一月――『新鬼道プロレス』のリングに立った恋塚猿麿は、事前の打ち合わせもなく
この試合で恋塚はMMAで用いられる
ブラジリアン柔術に敗れてプロレスの威信を貶めたとして、ヴァルチャーマスクが誹謗中傷に晒され続けていた時期でもある。
MMAの象徴とも呼ぶべき
何しろ自らのリングでプロレスがMMAに敗れた恰好なのだ。問題の試合で恋塚はプロレスでは禁忌とされ、MMAでは有効として認められる『パウンド』――マットに寝転んだ相手に対する打撃をも解き放ったのである。
世紀末に相応しく『新鬼道プロレス』も内部崩壊という厄災の気配に包まれたわけであるが、この先も戒めとするべき狂乱の事態を急報された瞬間、一五年前の岳は比喩でなく本当に膝から崩れ落ちたのだ。
そのときに味わった
恋塚猿麿が特別待遇も同然の形で『新鬼道プロレス』に入団したのは一九九七年――奇しくも『
『新鬼道プロレス』の内部で実施された異種格闘技戦でデビューを飾ったものの、海外から有名選手を招いて対戦する『鬼の遺伝子』には参加せず、鬼貫とは別の形で
進む〝道〟を違えたということだけならば、岳も彼の選択を尊重し、素直に応援したはずである。自分より一〇年以上も後輩でありながら、瞬く間に『新鬼道プロレス』を代表するレスラーとなった恋塚猿麿のことが妬ましくてならなかったのだ。
自身の率いる『新鬼道プロレス』へ招いた
三人が強化合宿に励むVTRを見せられた夜などは、醜い嫉妬を持て余して歯軋りしながら
その上、プロレスラーとしてのデビュー戦は、東京ドームで開催された
身寄りがなく、孤児院で育った岳にとっては
数多の
本人に質したことは一度もないのだが、恋塚猿麿は人生の恩人であるヴァルチャーマスクの名誉を守らんが為、
『プロレスが負けた日』と呼ばれる歴史的屈辱から〝永久戦犯〟に浴びせられる批難は陰湿にして執拗であり、ギロチン・ウータンたちが地位向上を成し遂げる以前の〝
プロレスラーとして生きていく場所を失い兼ねないほどの〝掟破り〟を強行することによって、批判の矛先を自分のほうに向けさせたかったのだろう――歩み寄ろうとも思えない男の気持ちが岳には伝わってきた。
哀れにも〝生贄〟となった相手レスラーをMMAのパウンドで叩き伏せ、血みどろの大乱闘を引き起こす間際には観客や団体関係者を「これがプロレスですよ。目を覚ましてください」と嘲笑したのである。
だからこそ、岳は恋塚猿麿という存在に背を向け続けてきた。勿論、彼に出し抜かれたとは思わない。しかし、
〝永久戦犯〟の汚名を恩人に代わって受けることもせず、甘やかな
「それだから、センパイはダメなんですよ。きっと答えなんか一生、出ないんじゃないですか? ほんの数分ばかり悩んだくらいで解決するのなら、最初から一生の付き合いにはなっちゃいませんよ。……だったら、今はキリサメくんの一生左右するこの試合に全神経を集中して下さい。次にゴングが鳴ったとき、胸を張って出迎えたいでしょう?」
「……好き勝手に言ってくれるぜ。
わざわざ顔を覗き込まずとも声の調子だけで心の奥底まで察せられるのだろう。リングを見据えたまま片手を伸ばし、岳からタオルを剥ぎ取った麦泉は、MMA選手の〝命綱〟をキリサメの養父の肩に掛け直した。
「猿麿の野郎と一生の付き合いなんて
「それ、猿麿さん本人の前では絶対に言わないで下さいよ。今度こそリングに引っ張り上げられますからね。古巣と揉めるのは僕のほうこそ
「今度こそは
「……僕も付き合い長いですけど、未だにセンパイたちの関係は理解に苦しみますよ」
同じ鬼貫道明の門下でありながらも、それぞれ別々の〝道〟で
二〇〇〇年代半ばまで続く日本の〝格闘技バブル〟を立役者の一人として支えたが、同団体の解散後はMMAそのものと距離を置き、『新鬼道プロレス』の名物レスラーとしてリングを賑わせている。旧友の
所属団体のみならず、日本に
プロレスラーとしてMMAのリングに殉じる覚悟の岳も、根本には恋塚猿麿と同じ
(電知と――対立してる
共通の恩人の為に我が身を〝生贄〟として捧げ、それが為に『あわてんぼうのアンゴルモア』と忌まわしく呼ばれるようになった男の挑戦に応じ、勝ち負けに拘わらず互いが満足できるまで闘っていれば、晴れない気持ちを一五年も抱えずに済んだのであろうか。
麦泉から突き付けられた通り、一生涯をかけて問い続けても己自身を納得させられる答えが得られるとは思えなかった。
全体重を乗せた蹴りでもって相手を
陣地こそ城渡側であるが、攻め立てていたのはキリサメのほうであった。
筋肉あるいは贅肉の上から肝臓に拳を突き立てるべく懐深くへと飛び込んでいく。このときに城渡は四隅の
八雲岳も前回の長野興行――〝
大相撲に
プロレス式の投げ技は用いずとも、ロープの間際で
自分に向かって鋭く踏み込んできたキリサメの足を左の
肝臓への一撃を見舞う前に自分の右膝が壊されてしまうと判断したキリサメは、尾羽根の如き飾りを
その瞬間のみ城渡の身動きが止まった。
同じ〝最年少選手〟とはいえども、前身団体の時代にその
城渡は意識の外から
リーゼント頭を維持する為の整髪料が付着した左掌を引き剥がし、この
それ故に最小限の
これは電知や寅之助の〝借り物〟ではない。油断した瞬間にナイフや
「この日の為のとっておき――オレの〝奥の手〟と似たような真似しやがって! 後出しじゃんけんみてェにシマらなくなったら、どうしてくれンだよ、オイッ!」
〝空白〟ということであれば、地上でマットを踏み締める城渡と空中にて頭部を押さえ付けてきたキリサメは、至近距離とはいえ完全に密着した状態ではなかった。それはそのまま前者にとって迎撃の余地となった。
この僅かな間隙を貫くようにして城渡が左足を垂直に突き上げ、剥き出しの踵でもキリサメの顎を脅かしたのである。
腰を捻るという
「
キリサメの
「――沙門にゃ悪ィが、闘いにはド根性に頼らなきゃなんねェ
苦悶の声を飲み下すのも、追撃を試みるのも城渡のほうが早かった。頭部を貫いた衝撃が脳をも揺さぶり、上体まで傾かせてしまったのだが、軸として据えていた右足一本で踏み止まるや否や、再び左足を撥ね上げてキリサメに蹴りを見舞った。
余りにも姿勢が崩れている為、直接的な
つまるところ、先ほど想像した通りの蹴り技を喰らわされたわけだ。
空中で素早く身を翻し、視界の端に捉えた青
跳躍の際に金属製の
鈍痛を伴う衝撃で揺さぶられたのは肩ではなく顔面だ。更なる宙返りを経た
足首を掴み返そうとしていた城渡を変則的なドロップキックで迎え撃ち、その
地球の重力に引かれる五枚の尾羽根を大歓声が追い掛けたのは言うまでもあるまい。
「年寄りの昔話に付き合わせるのは申し訳ねェって、さっき言ったばっかりだけどよ、さすがに今のヤツはヴァルチャーマスクを想い出すなっつーのが無理だぜ。マジで『超次元プロレス』を継ぐコトになってんのか? ひょっとすると、ペルーで〝ルチャ・ドール〟を生業にしてたんじゃねェの?」
「一応、生まれてからずっと首都のリマで暮らしていましたけど、僕の知る限りでは
(こっちの攻撃に割り込んできたあの蹴り、沙門氏にそっくりだったけど、空手の――というか、『
先程の攻防で顎を突き上げられた蹴り技が以前に目撃した
沙門の場合は鮮烈な
MMA選手でありながら格闘技全般の知識が乏しいキリサメでさえ名前を知っているスイス
相打ちとなった為に二段目は不発に終わったが、キリサメの顎を撥ね上げた直後に城渡は脳天へ踵を叩き込むつもりであったのだろう。あるいは地面に据える軸を入れ替えず、同じ足で技を変化させていったのかも知れない。
太腿の部分が異様に広く、裾が細いという変形の黒ズボン――〝ボンタン〟と
(きっと沙門氏は僕みたいにモタつくこともないんだろうな。手早く試合を終えて
『
同団体の試合開始時間は『
〝世界一の踵落としの名手〟と畏怖されたテオ・ブリンガーは、二〇〇〇年に急性骨髄性白血病を発症し、同門の親友――沙門の父親に看取られながら三五歳という若さで
『
沙門のプロデビュー戦も白血病治療や骨髄バンクを支援する為のチャリティー
「良いよ、キリサメ君! 大丈夫、落ち着いて立ち回れているよ! このペースを維持していこう! 流れはキミに来ているから! ……焦って無理しなくて構わないからね!」
「この日の為に取っておいた〝奥の手〟を自分の口から
友人の健闘に想いを馳せるキリサメの鼓膜を打ったのは、殆ど同時に発せられて入り混じった麦泉と二本松の声である。
平素から煩わしい上に、
この養父が
己のことを〝生涯レスラー〟と宣言し、地方プロレス団体にもその
『
〝生涯レスラー〟という志を体現する出で立ちは二〇一四年現在と変わらないが、剥き出しとなっている上半身の肌艶などは二回り近く若い。筋肉自体も
その映像をキリサメが初めて目にしたのは
通路に設置されたモニターに昔日の自分が大写しとなり、これを一瞥した岳は照れ臭そうに頭を掻くのではなく、「……やっぱりよ、『ブラジリアン柔術』への〝リベンジ〟はオレがこの手でやんなきゃダメだったんだよな……」と苦しげに呻いていた。
その呟きの意味を養父に訊ねることをキリサメは憚ってしまった。同行している麦泉もかつてないほど深刻な胃痛に堪えているような
モニターの向こうの岳は全身を轟々と縦回転させ、レスラー仕様のリングシューズに包まれた右足でもって相手選手に踵落としを浴びせている。『超次元プロレス』の豪快さは一七年前も
恩人に直伝されたプロレス式の
その一方で、〝忍者レスラー〟とも称される技の切れ味が鈍ることはなかった。胸中にて渦巻く懊悩に左右されてしまうほど八雲岳は脆くないという一番の証左であろう。
左の
四隅の
握り拳を解かないまま次々と打撃を連ねていくのだ。対の左拳を勢いよく突き上げ、顎を捉えんとする追撃も忍者さながらに鋭かった。
その〝忍者レスラー〟と互角に渡り合うのは、競技用のトランクスを穿いたアメリカ人選手であった。当該する試合映像を裏舞台のモニターで視聴した際に麦泉から説明されたのだが、日本でMMA団体が旗揚げされた頃には既に『NSB』の試合も経験していた実力派である。
それまで鬼貫道明と共に〝異種格闘技戦〟へ臨んできた八雲岳にとって、生まれて初めて経験する〝総合格闘技戦〟であった。
その選手は一目瞭然というほど防御技術に長けており、右手による
金城鉄壁の四字こそ最も似つかわしい防御技術で相手の攻撃を凌ぎつつ、一瞬の間隙を縫うようにして叩き込む
岳の左脇腹に肘鉄砲を滑り込ませようと図ったわけだが、『超次元プロレス』はそれすらも凌駕している。直撃するか否かという一瞬を見極めて半歩ばかり
弾き返された左腕を風車の如く回転させながら振り上げ、対の右腕もこれを追い掛けていく。肘鉄砲に即応して
脳天に直撃を被ろうものなら意識もろともマットに沈められたことであろうが、一九九七年当時から世界最高
彼の失敗はそこで欲を出してしまったことであろう。プロレスにて『ダブルスレッジハンマー』と呼ばれる一撃を右下腕で
固く組み合わせた五指は容易く
岳は相手の右下腕に両拳を押し当てたまま、その一点へ全体重を乗せるようにして更なる力を加えたのである。両足でもってマットを踏み締めていれば、上から下へと急激に働く〝力の作用〟も凌げたかも知れないが、反撃の
組み合わせていた五指を外しながら半歩ばかり踏み込んだ岳は、自由に振り回せるようになった両腕を相手に向かって伸ばしていく。無防備に近い状態となった胴を捕獲したのはその直後であった。
自分よりも体格の良い選手を血管が浮き出した両腕でもって高々と持ち上げた岳は、その頂点からマットへと豪快に投げ落とした――『パワーボム』と呼ばれるプロレス技だ。
完全に抱え込まれてしまった状態から抜け出すことは不可能であるが、捕獲されたのは胴であり、上半身の自由までは奪われていない。相手は背中から激突させられる寸前に先んじて自身の両腕をマットに叩き付け、これによって急降下の勢いを減殺させた。
決定的なダメージを与えられなかった岳は捕獲を維持したまま再び相手の身を高く持ち上げ、同じ
相手の身を肩の辺りまで担ぎ上げた
あと数歩でロープに到達するところまで迫ると、自らが高く跳ね飛び、空中から再びパワーボムを仕掛けた。レフェリーをも押し退けるようにしてリングを横断したのは、跳躍に向けた助走というわけだ。
跳躍によってパワーボム自体の威力を引き上げただけではない。何の前触れもなく突如としてリングを走り始めたのだから、両腕を叩き付けることで投げによるダメージを緩衝させてきた相手も、その拍子を崩されてしまうだろう。
「――オレはプロレスラーだッ!」
後ろ髪を
相手の身をマットへ叩き付ける直前に岳は己の両足を大きく開いた。傍目には餅つきから尻餅に切り替えるという一種の冗談のようにも見えたことであろう。しかし、その滑稽な場景も次なる攻防を見据えた上での判断であった。
勢いを増した急降下によって骨身を激しく揺さぶられた対戦相手は、失神こそ免れたものの、マット上に投げ出されてから上体を引き起こそうとするまでの
比喩でなく本当にプロレスラーは〝全身が武器〟なのであろう。一連の流れの中で岳は右腋に相手の足先を挟み、同時に肘の内側で踵を咥え込む。決してこの状態から逃すまいと、交差させた両足も太腿を強烈に締め付けていた。
この時点で岳の対戦相手は左膝を折り曲げた状態で身動きが取れなくなっている。同部の可動とも密接に関係する踵を固めたまま、外から内へと身を捻ると、その瞬間に膝関節を軋ませる
改めて
完全に固定された状態で膝関節を捻られようものなら、どれほど屈強な肉体を誇る豪傑であろうと一溜まりもなく、靭帯を破壊される危険性が極めて高い。防御技術に長けた選手もパワーボムを凌いでいたときとは別の意味でマットを叩き、
ゴングが鳴った後も張り詰めた空気を纏ったまま安堵の微笑すら浮かべなかったが、一七年前の八雲岳は、MMA選手としての初陣を勝利で終えたのである。
日本に〝総合格闘技術〟の礎を築いたヴァルチャーマスクがブラジリアン柔術との頂上決戦で卓抜した寝技に完敗を喫し、〝永久戦犯〟という汚名を被った経緯を思えば、MMAの〝先輩〟とも呼ぶべき相手をヒールホールドで
『プロレスが負けた日』に
ヴァルチャーマスクが完成させた〝総合格闘技術〟――『
地上に存在する全ての格闘技の要素を取り入れ、統一されたルールのもとに技術体系の〝総合化〟を達成したスタイル――打撃から寝技まで反則行為を除いたあらゆる技術が解放される
キリサメが掴み損ねたのは、若き日の八雲岳の心情だけではない〝フェイント殺法〟の手掛かりとなり得るモノを一七年前の試合から一つも拾い上げられなかった。
モニターの画面越しでも大きく揺れていることが判る一七年前のリングを覗き込んでいた最中にキリサメの脳裏に浮かび上がったのは、寒空の下で空閑電知と繰り広げた
『コンデ・コマ式の柔道』を操る電知も両手でもって捕獲したキリサメの腕を外そうとはせず、一本背負いでもって何度もアスファルトの地面に投げ落とした。電知が技を仕損じるのが先か、キリサメの
瞬間移動としか表しようのない速度を発揮する一本背負いを振り解くことは殆ど不可能に近く、キリサメは運に助けられて命を拾ったようなものであった。
〝立場〟こそ正反対ながら、養父と似たような攻防を経験したわけである。一九九七年は自分たちが生まれた年であり、電知もその当時には観戦していないはずだが、鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
同店ではビデオライブラリーに保存された古い格闘技の試合を自由に閲覧できるのだ。
一七年前の岳は
特に助走からの跳躍を伴う最後のパワーボムは、相手の頚椎を容易く圧し折れたことであろう。心優しい岳が手心を加えたからこそ命拾いしたようなものであった。
選手の安全確保を最優先とするMMAのルールでは、意図的に命を脅かす行為を厳しく禁じている。これは前身団体も現在の『
その岳も『
深刻な事故でもない限りは、MMAという〝格闘競技〟で人が死ぬことはない。ミャンマーの
頭部を押さえた状態で首を狙っていれば、文字通りに息の根を止められたはずである。希更も『
(少しでも気を抜くと
MMAひいては『
『プロレスが負けた日』と同じ一九九七年に〝地球の裏側〟――ペルーの首都で轟いた〝戦争の音〟を母親の胎内で聴きながら、キリサメは〝ヒトのカタチ〟となっていった。前年末から一二七日にも及んだ『日本大使公邸人質占拠事件』の経過と全く重なるのだ。
それ故に自他の命を
(いつもおかしなコトばかりやらかして僕たちに迷惑を掛けてくるんですから、せめて想い出の中では役に立ってくれませんかね……)
「ヴァルチャーマスクが日本に拓いた〝道〟は未来の希望なんだ! 〝罪〟の意識みてェな
この吼え声がリングに飛び込んだのは
その胸中を察しているのは、麦泉や鬼貫といった『新鬼道プロレス』ひいては『鬼の遺伝子』の同志たち――即ち、異種格闘技戦という〝道〟を共に歩んだ古くからの盟友だ。
改めて
先ほど城渡に見舞った蹴り技は『ルチャ・リブレ』を
城渡に
その岳が必勝の作戦として指示してきた〝フェイント殺法〟の要点を掴み切れないことも気鬱の種である。有効な手掛かりを得られないまま試みたということもあって、〝借り物〟の技よりも拙劣になってしまうのだ。
下腹部を抉るように見せかけておいて、直撃の寸前で顔面狙いの
左前回し蹴りを城渡に
キリサメの試行錯誤は極端に悪いものではなかった。そもそも、動作の途中で技の軌道を変化させることなど素人には不可能に近い。即興にも関わらず、これを実践し得る戦闘能力を備えながら、不慣れが災いして身のこなしを鈍くしているわけだ。
生死が紙一重で飛び交う格差社会の最下層で戦ってきたキリサメの喧嘩殺法は、直接攻撃で標的を速やかに斃すことが本質である。〝フェイント殺法〟はこれを捻じ曲げることにも等しく、根の深い矛盾がMMAの試合に善からぬ影響を及ぼしていた。
相手を幻惑させる〝
しかも、
「依然として
実況席の鬼貫にまで心配されてしまったが、キリサメ当人も醜態を自覚している。〝格闘競技〟のリングだから本当の意味での命取りに至らないだけで、ここが
(……『
最初から分かっていたことである為、キリサメも今さら落ち込みはしないが、岳に連れられて参加した
「ちィと
「しまっ――」
城渡の左側面まで素早く回り込み、次いで死角から
振り向き
策士、策に溺れる――『天下三分の計』などで知られる稀代の名軍師・
追撃の好機を
射程圏内に
最も高い効果が得られるだろうと判断し、つい先程も血を噴かせたばかりの右側頭部を狙ったのだが、打撃にこだわり抜いてきた
キリサメの足がマット上を踏む頃には城渡も追い付いており、全体重を乗せて直線的に右拳を突き込もうとする。
直撃を被ろうものなら、間違いなく頭蓋骨に亀裂が走るであろう大振りな打撃に対し、間合いを詰めつつ身を屈めるという回避行動を取ったキリサメは、城渡の腕が頭上を通り過ぎるや否や、そのまま彼の懐まで潜り込んでいった。
「起死回生の秘策アリか⁉ 玉砕上等で突っ込むのか⁉ アマカザリ選手の大胆さはインカ帝国の再来を思わせますッ!」
仲原アナが並べ立てる意味不明な
ここまで仕掛けた〝フェイント殺法〟は一つとして成功していない。それ自体が城渡の心理に〝罠〟として作用するかも知れないのだ。今度も珍妙な
「真っ向勝負は大好物だぜ! 当たって砕けろっつう無鉄砲さもなァッ!」
しかし、淡い願望を前提とした欺瞞作戦が成功するほどMMAのリングは甘くはない。結局、鳩尾狙いの拳が命中する寸前で逆に左足でもって蹴り上げられてしまった。
「……ですよねぇ……」
己の軽率さを嘲笑ような一言を呟きつつ、左右の下腕を重ね合わせて防ぎはしたが、蹴り上げの威力を完全に緩衝できたわけではなく、そのまま後方に撥ね飛ばされた。弾かれた先が四隅の
無様によろめいたところに城渡が突っ込んできたが、キリサメは瞬間的な膝の屈伸のみで大きく跳ね、彼の頭上を飛び越えることで追撃を避け切ってみせた。
「またしても奥州の空にケツァールが舞う! アンデスから舞い降りた奇跡に終わりはありませんッ!」
あれこそ神の鳥などと雄叫びを上げた仲原アナに煽られ、観客席も一斉に沸いた。彼女の
尤も、
「命中こそしませんでしたが、結果的に城渡選手は一番効果の高い技を使ったことになりますね。あの
鬼貫が解説した通りであった。絶好の機会であったにも関わらず、キリサメはたった一度の
再び正面切って対峙した城渡は、キリサメを見据えながら心底より楽しそうな笑みを浮かべている。
「どうだ、効くだろ? コイツがオレの――いや、『
「骨身に沁みましたよ。正直、腕が折れてないのが不思議なくらいです」
「さっきまでの喚き声から察するにバカ
「御剣氏と一緒だと褒めて頂いて、僕は喜んだら良いのか、どうなのか……。いえ、城渡氏の仰ることはその通りなのですが……」
「さっきのヤツを出し惜しみしてェんならそれでも構わねーがよ、オレのほうは手加減しねぇからよ! 他の誰でもねェお前自身の全部でぶつかって来なァッ!」
「おいおいおい、こらこらこら! 木村君、アレはどうなんだ⁉ 『八雲道場』の作戦が妨害されてんだけど⁉ ヤラセみてェな疑いを掛けられたら『
コーナーポストから会話に割り込んでくる喧しい声と、波のように腕全体へと広がっていく鈍痛にキリサメは顔を
申し立てた抗議を木村レフェリーから「選手間の交流にケチを付ける前にご自分の発言を省みて下さい」と一言で切り捨てられた養父はともかくとして、腕の鈍痛は極めて深刻である。顎を蹴り上げられないよう
(この痛み、この強さを〝体重差〟という一言で片付けて良いハズがない。そんなハンデなんか関係ない。城渡氏は本当の化け物だ……ッ!)
油断した瞬間に殺されるような環境を生き抜いてきたキリサメであるが、
城渡マッチは本当に強い。
国家警察との共闘であるが、
同じことは空閑電知や瀬古谷寅之助にも言える。
その城渡は前回の長野興行でアンヘロ・オリバーレスに完敗していた。
〝先輩〟選手たちの試合をキリサメはリングサイドで観戦したのだが、MMAへの関心が薄かった為に〝実戦〟には遠く及ばない
『
日本MMA最後の砦たる『
それに引き換え、己は攻め手にさえ迷う有り
〝フェイント殺法〟の早急な完成か、別の手段を模索するべきか――いずれの〝道〟を選ぶにせよ、『
何もかも立ち行かなくなった
(確か
心の隅から染み出してきた
焦れば焦るほどに、罪を犯さなくては今日を食い繋ぐことも許されない貧困の底を共に這い回った幼馴染みの影を感じれば感じるほどに、心に巣食う〝闇〟が疼くのである。
見る者の苛立ちを煽るかの如く上下左右に揺れ動くリーゼント頭を掴み取り、動きを押さえながら対の手で目突きを見舞えば、城渡も大人しくなるだろう――半ば無意識に両腕を繰り出そうとした瞬間、未稲の声が鼓膜に甦った。
「――なるほどなぁ、キリくん的には目突きは追い詰められたときの禁じ手じゃなくて様子見の小技くらいの感覚なんだねぇ。思いッ切りアウトだから! 『
親友の電知や希更・バロッサを交え、鬼貫道明が経営する異種格闘技食堂『ダイニング
今や己の〝半身〟と錯覚するほど深い共鳴で結ばれた
今日もリングサイドで試合を見守っている未稲が丸メガネを曇らせながら「半回転だけでも首を捻じったらアウトだよ! ていうか、関係者全員が路頭に迷うレベルの大事件だよッ!」と悲鳴を上げる姿を想い出した瞬間、キリサメはマットを踏み締めて急停止し、次いで後方へと飛び
今まさに迎え撃たんと身構えていた城渡もこれには意表を突かれたらしく、「どうしたどしたァ? 自由にやれとは言ったけど、サーカスの曲芸に付き合う気はねェぞ」と口を開け広げている。
改めて
相手の目に指を突っ込むという行為の是非は、プロボクシングのタイトルマッチで
未稲が該当するページの内容を読み聞かせてくれていなかったなら、あるいはデビュー戦を最悪の形で終えていたことであろう。
「実際、どうしたんですか、アマカザリ選手⁉ 真面目そうに見えて若さ故の気まぐれが顔を出したか~⁉」
「気まぐれというか、依然として攻め方に迷いが見られますね。若さは関係ないとして、デビュー戦の緊張がボディーブローのようにジワジワ効き始めてきたのかも知れません。極度に張り詰め続けた結果、本人にさえ予想外の行動を取ってしまうという状況は少なくありませんしね」
「さらりとバッサリ私の実況が全否定されましたけどー⁉」
着地の瞬間、マット上に飛び散っていた汗で足を滑らせて無様に尻餅を
スリップによる転倒の場合は、即座にダウンと判定されることは少ない。キリサメも木村レフェリーの指示に従って即座に立ち上がったが、鬼貫が指摘したように緊張状態では思考と判断を誤ることが多いのだ。最初から不慣れということもあり、先ほど注意されたばかりのファイティングポーズを取り忘れてしまった。
「アマカザリ選手、ファイティングポーズを――」
「いいや、コイツはもう構えを取ってらァ。コレがアマカザリ流なんだろ? だったら、オレは構わねぇ! 木村さんよ、とっとと試合を再開させてくれや!」
何時までも両腕を垂れ下げたままのキリサメに警告を飛ばすとする木村レフェリーを押し止めたのは城渡であった。相手に攻撃の意識を気取られないよう自然体で立つというキリサメの
「そのほうがアマカザリも
戦闘能力を最大かつ効率的に引き出し得る
「……聞きかじりだから良くは知りませんが、『敵に塩を送る』ってヤツですか」
「ペルー帰りの割に物知りじゃねーか。そうだよ、
「
二本松の
日本MMAの歴史と誇りを背負う
ここまで先輩から気を遣われては、
それでもルールに準じるファイティングポーズをキリサメに求めなくてはならないのがレフェリーを務める木村の〝立場〟である。
日本の大相撲は
リングの上で選手と向き合うレフェリーは、生半可な覚悟では務まらない。二人の命を預かる〝立場〟なのである。一つでも判断を間違えれば、その瞬間に深刻な事故を呼び込んでしまうのだ。
〝神速〟を発動させた直後から明らかに様子がおかしかったキリサメのことは、こめかみを裂かれた城渡よりも気に掛けており、
もしも、キリサメの
真面目一徹の木村レフェリーではあるものの、一方的にルールを押し付けて選手から柔軟性を奪うことは望んでいない。城渡が自由に試合を満喫するようキリサメを励ましたときには思わず首を頷かせてしまったくらいだ。
キリサメのファイティングポーズをどのように取り扱うべきか、自分一人では裁量し兼ねる問題であると判断した木村レフェリーは、目配せでもって白
無論、白
「ヴァルチャーの兄ィがどうやって日本列島を沸騰させたのか、それを想い出すんだ、キリーッ! 悔しいが、マッチの言う通りだぜ!
白と青のリストバンドをそれぞれの手首に装着した両腕を木村レフェリーが交差させるより早くキリサメの鼓膜に突き刺さったのは、言わずもがな養父の吼え声である。
両腕を垂らしながら城渡との間合いを測るキリサメは、背後から飛んでくる養父の声にまたしても溜め息を零した。亡き母がヴァルチャーマスクというプロレスラーのファンであった為、メキシコの『ルチャ・リブレ』を極め、超人的な空中殺法で人気を博したことは伝え聞いている。試合中と
不慣れな〝フェイント殺法〟に
関節や心臓を蝕む痛みは依然として鎮まり切っていないが、四肢の
MMAどころか、〝格闘競技〟の試合に初めて臨み、未だに右も左も分からない状態のキリサメでさえ、今が戦局全体を占う狭間であると直感として理解できるのだった。
セコンドの立場でありながら、選手の思考を惑わすような岳の声はただ煩わしいだけでなく、麦泉や木村レフェリーから害悪と叱り付けられても不思議ではないのだ。
「もういっぺん、見せてやれ! キメちまえ! キリーのフルパワーッ!」
自分から〝神速〟を発動させることは叶わない。何も知らない人間は黙っていろ――苛立ちが頂点に達したキリサメは、養父に振り向きもせず心の中で吐き捨てた。
脳裏に響いた未稲の声でリングに光明が差し込み始めたときに雑音で心を乱されたくないのだ。
他殺体が裏路地に転がっていようとも、それが腹を空かせた野良犬の餌になろうとも誰も気にせず、例え手錠を掛けられてしまっても警官から
「……みーちゃんにキスするとき、
未稲の期待に応える為、キリサメは再び城渡へと向かっていく。
「おっしゃァッ! アクセルべた踏みで来やがれッ!」
真っ向勝負を挑まれたものと捉えた城渡はこれ以上ないくらい嬉しそうに笑い、己の両拳を叩き付けながらキリサメを迎え撃とうとしていた。
(髪の毛を掴むと反則になるのなら、それ以外を狙えば済むだけの話じゃないか。希更氏も前の試合では頭部や首を押さえて膝蹴りに繋げていたんだ――)
これまでの攻防は失格と
上体を前方に傾けながら突進する姿は、城渡の目には頭突きを仕掛けてきたように映ることであろう。これを迎え撃つべく右拳が直線的に突き込まれると、キリサメは自らの左拳を叩き付けて弾き返し、続け
瞬間的にバネを引き出して急加速を図った次第である。
最小限の
俄かな急加速に幻惑された城渡が呻き声を漏らし終わるよりも早くキリサメは左腕を前方に大きく突き出し、その五指を彼の右肩に喰い込ませた。
意識の外から突如として圧し掛かった〝力の作用〟で城渡の上体は大きく傾いたが、キリサメはそれだけの為に左の五指を繰り出したわけではない。肩に対する〝捕獲〟を維持したまま己の側へと急激に引き寄せ、交差させるような形で対の拳を突き込んだ。
間もなくキリサメの右拳は前方へヒサシのように突き出したリーゼント頭を潜り抜け、眉間を一直線に撃ち抜いた。毛髪を掴むことが禁じられているのであれば、頭部に近い部位を押さえ込み、驚愕を引き出した瞬間に打撃を見舞おうという応用である。
仲原アナが空中戦と
「こっちもやられっ放しじゃ終われねェんだわ! 釣り銭代わりに取っときなァ――」
〝神速〟の一撃による
キリサメが腕を引き戻すよりも先に自身の左拳を横薙ぎに閃かせ、右側頭部に反撃を叩き込んだ。姿勢は崩れたままであったが、両者の間には上体を傾けさせた城渡が腕を伸ばしたときに丁度、キリサメの頬に触れられるような身長差がある。少なくとも
このように拳の応酬になることまでキリサメは想定しており、脳が大きく揺さぶられるような一撃を被りはしたものの、歯を食い縛って耐え切れた。城渡に直撃を許しながら、その正面に留まり続けるというここまでが
「――闘いの流れを考えたら、攻め寄せられたときには
虎穴に入らずんば虎子を得ず――勇敢と無謀が紙一重ですれ違う
「――沙門にゃ悪ィが、闘いにはド根性に頼らなきゃなんねェ
この瞬間、親友の声と併せてキリサメの脳裏に甦ったのは、つい先ほど城渡が発した吼え声である。多少の犠牲を払ってでも精神力で好機を引き寄せるという覚悟は、諦めた瞬間に
この試合の間に実用し得る
その瞬間に最も必要な戦法へ切り替えることを迷えば己の命が縮まるのみであると、キリサメは
(首をねじ切るのは格闘技の試合以前に法治国家では認められるワケがない。でも、膝の靭帯くらいなら大丈夫なハズだ――)
己に拳を叩き込んだまま引き戻されていない城渡の腕――その腋の下を潜り抜けたキリサメは、素早く彼の左側面へと身を移しながら左右の手を大きく伸ばした。
当然ながら
右掌による打撃と連動させながら左手でもって城渡の片足を持ち上げたキリサメは、互いの身を急激に撥ね起こすような勢いに乗せて後方へと投げを打った。
城渡も咄嗟にキリサメの首を左腕で抱え、対の拳で反撃を見舞ったが、片足がマットから剥がされた状態ではとても堪え切れず、後頭部から投げ落とされてしまった。
キリサメが仕掛けた投げ技は互いの身をマットに放り出す
「投げの仕掛け方こそ原始的ですが、
鬼貫が解説した通り、投げ技によって生じる落下の勢いを利用して城渡の左足を無理矢理に引き延ばし、膝や股関節を痛め付ける技――人体破壊を目的とした喧嘩殺法である。
だが、この状態は第一段階に過ぎない。城渡の顎から右掌を放したキリサメは、彼の頭部をサッカーボールに見立てたかのように同じ側の足で蹴りを放とうとした。
垂直に捻り上げられた状態で頭部を蹴り飛ばされようものなら、そこに梃子の原理が働き、城渡の左足は膝から股関節に掛けて手酷く損傷することであろう。
傍目には粗暴にも見える
電知が極めた『コンデ・コマ式の柔道』や養父のプロレス技と比較すると、拙劣の二字すら思い上がった自己評価でしかないが、
テロ組織に与する〝敵〟と断定して戦った日本人傭兵の片足もこれで圧し折っている。
木村レフェリーが試合の継続など不可能と判断するほどの重傷を城渡には負わせてしまうが、最悪の事態が起こる前に決着を迎えられる。それこそが最善の一手であろう。
「鬼貫のおっさんが褒めた通り、
『
この寸前には己の頭部を脅かさんとしていた蹴り足を左肘打ちで堰き止め、更には先程の報復とばかりに対の掌でもって膝をも押さえ付ける――これらを支点にしてキリサメの左腕を蹴り飛ばせば、五指による〝捕獲〟を力ずくで引き剥がせるわけだ。
無理な姿勢から打ち込む蹴り技は、肘の内側を精確に狙っている。骨を軋ませるような威力は発揮できずとも、関節を強制的に折り畳ませることさえ出来れば、膝の靭帯や股関節を破壊される危機から脱せられるのだった。
最初から術理を把握していたかのように鮮やかな緊急回避であり、技を仕損じたキリサメは己の未熟を悔恨することも忘れ、素早く起き上がって間合いを取った城渡を呆然と見送るばかりであった。
「それにしても意外だったのは、アマカザリ選手が急に地味な地上戦に切り替えたことですよ。あんなド
「地味かどうかはともかく、先程も申し上げたように
「我々が想像している以上にアマカザリ選手の『我流』は
「仲原さんのご明察の通りです。〝あの技〟がなくとも、アマカザリ選手は最初から城渡選手と互角に渡り合えたということです。つい先程まで見せていた奇怪な動きも、今の関節技に持ち込む為の〝誘い〟であったのかも知れませんね」
少しばかり遅れて実況席のやり取りが追い掛けてきたが、鬼貫道明の称賛はキリサメの耳に届いていなかった。関節への攻撃を容易く外してしまった理由をブラジリアン柔術との戦歴という一言で説明した城渡の声だけが脳内で反響している。
「そこまで拍子抜けみたいな
「岳氏も……ですか?
「相手の骨を本気で折れるって鬼貫道明に言わしめたのは、お前の親父じゃなくてヴァルチャーマスクの野郎だったが、そいつは置いといて――『新鬼道プロレス』のレスラーは練習中にひたすらお互いに
城渡が語って聞かせたそれは、鬼貫道明が『昭和』と呼ばれた時代に
どことなく愛らしい聞こえる響きだが、その内容は壮絶である。〝
鬼貫道明・ヴァルチャーマスク・八雲岳といった名選手が〝神様〟の技を継いで育っていった。岳がMMAの試合でも繰り出す豪快な『ジャーマンスープレックス』は、その人物の直伝――と、城渡は言い添えた。
〝神様〟の直系とも言える『新鬼道プロレス』は、それ故に練習で〝極めっこ〟を重視し、創設から四〇年を数える
『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦ひいては
『
先程はブラジリアン柔術のみを例として挙げていたが、〝プロレスの神様〟が日本に伝えた
「――名ばかりのエキスパートに過ぎねェから、〝
人生の〝全て〟を学んだ故郷である『新鬼道プロレス』を
何事にも陽気な
しかも、キリサメは何時になく素直に感心し、幾度も首を頷かせているのだ。
それにも関わらず、統括本部長の肩書きを背負って日本MMAを牽引してきた〝生涯レスラー〟は、自分自身を「名ばかりのエキスパート」と嘲った。
城渡に押し付けがましく暑苦しい礼を述べることも、
全てのプロレスラーにとっての歴史的屈辱から一七年もの間、胸の奥で疼き続けていた罪の意識を麦泉に暴かれた瞬間、会場内に
「……何が〝プロレス最強〟の証明だよ。二〇年前のオレがやっちまったのは、その正反対じゃねぇか。……今でも思うぜ。みっともなくプロレスにしがみついていねェで、あのときに――一九九四年十二月にケジメ付けてリングを降りてさえいたら、ヴァルチャーの兄ィを〝永久戦犯〟にしなくても済んだのによ……」
岳は僅かに開いた口から再び呻き声を漏らしてしまったが、今度は麦泉も突き放そうとはしなかった。
先ほど厳しく戒めたのは、自分の感情を優先させて養子の試合を蔑ろにしていると感じた為である。しかし、
「自分で言ったこと、もう忘れてしまったんですか? キリサメ君のことをいつか
「そいつはヴァルチャーの兄ィが蒔いた種の開花宣言みてェな意味で、オレは別に……」
「二〇年前にセンパイが失踪していたら、日本のMMAは今日まで続いていません。先駆けが誰だとか、そんなことは関係ありません。この国のMMAを育てたのは八雲岳その人です。『
「あのな、文多が励まそうとしてくれてんのは分かるけどな、そりゃ幾らなんでも買い被り過ぎだぜ。事情を取っ払って力を貸してくれたみんながスゲェんだしよ」
「センパイのほうが自分を低く見積もり過ぎているんですよ――じゃあ、もう一つだけ。キリサメ君はセンパイにとって間違いなく夢の結晶でしょう? お
岳と麦泉――白
希更・バロッサのように両手でもって相手の頭部を押さえ込むのではなく、大きな跳躍と共に膝を突き上げる様式であったが、奇襲に近い一撃は城渡の鳩尾を鋭角に抉り、青
ゴングが鳴り響いた直後に場内を戦慄させた〝神速〟の一撃から
「……プロレスはブラジリアン柔術に勝てなかった。その事実が歴史に残るような汚点だとするなら、僕も鬼貫の
一九九七年一〇月から
〝永久戦犯〟の烙印を押され、不当な誹謗中傷を浴びせられたヴァルチャーマスクとてブラジリアン柔術を体得したMMA選手に
もはや、『プロレスが負けた日』に受けた汚名は
「ほんの少し猿麿さんに先を越されたくらいで一〇年以上もウジウジするなんて、誰よりもセンパイがあの人を――ヴァルチャーマスクを信じてないってコトじゃないですか。思い描いた通りにならなかった
「オ、オレだってそこまで捻くれちゃいねェよ! そりゃあ兄貴の仇討ちはしくじったけど、
「じゃあ、拗らせてるのは猿麿さんへの嫉妬だけですか。……センパイがストーカーまで落ちぶれなかったのは奇跡ですね」
「これでもかってくらい傷口に塩を塗り込むな! どんだけ丁寧にトドメ刺してんだ⁉」
岳を蝕んできた苦しみをただ慰めるのではなく、神経を逆撫でし兼ねない名前を
「生き恥に耐えられないのなら潔く腹切れって、短刀を叩き付けられたっけな。……あの頃、生ける屍だったのは否定できねェよ」
「センパイの師匠――というか、
「
その岳の養子は忍者さながらの軽やかさで城渡の前回し蹴りを飛び越し、掠り傷一つ受けずに避け切りながら側面へと回り込んでいく。
五枚の尾羽根も風と踊りながらキリサメを追い掛けるのだが、樋口の指示でも受けているのか、実況の仲原アナはその
遠くから眺めているだけでも暑苦しく感じるほど喧しい人間が急に大人しくなったときの違和感は、当人の想像よりも遥かに
実況席の近くに設置された
「
『
日本を離れた後の所属先――『NSB』の一員として
「旧交を温める」という
先程はキリサメ・アマカザリの為に用意されたタオルで自分の顔を隠していたが、その直前に麦泉から心を抉られるような叱声を浴びせられたのであろうと、ギュンターは推察していた。
五〇〇〇もの大歓声が爆発する只中であり、また唇の動きを読み取る気もなかった為にコーナーポストに
ルチャ・リブレの空中殺法を彷彿とさせる
「自分はプロレスには食指が動かなかったもんだから、レスラーといってもピンと来ないんだが、『
『
『NSB』側の席に腰掛ける
同行者の古傷を無遠慮に抉る物言いは控えるようイズリアルから窘められたものの、そもそもVVは『ヴァルチャーマスク』という
かつて『ヴァルチャーマスク』と呼ばれ、
大歓声の只中とはいえ、真隣に腰掛けているVVの声を聞き取れないはずもないのだ。
それにも関わらず、悪意ある黙殺という印象に結び付かないのは、焦茶色の僧衣に禿頭という出で立ちが傍目には精神修行の
「――目を開けたまま瞑想してるような状態を良いことに本人の前で明け透けに話すのもどうかと思うんだが、……『
意思疎通が捗るであろう英語を用いながら、ギュンターがヴァルチャーマスク本人に成り代わってVVの疑問に答えた。
「世界の
「一九九七年旗揚げということは要するに『NSB』の後追いか。
「MMA形式の大会そのものは、日本でも一九九七年を待たずに幾つか開催されてたんだけどな……。その記念すべき
「日本のMMAが全くといって良いほど分からない自分にも、その当時にどんなコトが起きたのか、十分に想像できるよ。大勢を巻き込んでメンツが丸ごとブッ潰れたわけだ」
「……『
ギュンターが解説の中で触れた
ヴァルチャーマスクひいては日本のプロレスは決して弱かったわけではないが、何しろ対戦相手が悪かった――と、ギュンターは直立不動の仏僧を窺いながら言い添えた。
四〇〇戦無敗を誇り、ブラジル史上最強とも名高い格闘家であったのだ。
世界を相手に闘い、やがてブラジルに辿り着いた明治日本の柔道家――
日本に
それから程なくして
幸いにして日本MMAはそこで頓挫することはなく、以降も継続して興行が開催され、新しい時代の〝スポーツ文化〟として定着していったのだが、最初の数年間はブラジリアン柔術と、その隆盛を担った勇者の一族がリングを席巻する状況が続いた。
格闘技に関わる人々の耳には既に届いていたものの、一九九〇年代の日本に
岳の愛弟子である
この頃、マスメディアはブラジリアン柔術と日本格闘技界が仁義なき
大いなる皮肉としか表しようのない筋運びは、それ自体がメディア戦略に精通する樋口郁郎の策謀であろうと当時から疑われている。
改めて
勇者の一族が経営する道場にてブラジリアン柔術家としての腕を磨いたレオニダスは、今や『
「負い目が間に挟まるとMMAは門外漢の自分にも御両人の関係が見えてくるな。……それと同時にキリサメ・アマカザリへの呼びかけが今までとは違った意味で聞こえてしまうがね。憧憬ならいざ知らず、負い目を癒すのに
「――そんな単純なコトじゃないんですよ、岳ちゃんは」
『
「格闘技が世界に大きな輪を結ぶと信じた鬼貫道明の
「……
悪戯を叱られた子どものような
尋常ならざる〝神速〟を発動させたキリサメに双眸を見開き、『ケ・アラ・ケ・クア』という余人には意味の分からない呟きを漏らしてからは放心にも近い状態でキリサメ・アマカザリを――
先程の呟きは古くから
自ら「MMAは門外漢」と明言したVVは理解し易い解説を求めるようにまたしても小首を傾げているが、ギュンターの側はイズリアルが口にした一九九四年一二月という日付に閃くものがあり、『NSB』に用意された席の端にて屹立する
依然として
己も敗北という形で相対したブラジリアン柔術最強の勇者が論じられているのだ。〝永久戦犯〟の不名誉を思えば、これを聞き流していられるはずもあるまい――次は自らの意思で八雲岳を擁護するだろうと、ザイフェルト家の御曹司は考えている。
「世間の方々はヴァルチャーマスクただ一人を槍玉に挙げて、『プロレスが負けた日』なんて触れ回っていますし、名誉棄損で訴訟を起こされたら敗訴確定な〝永久戦犯〟という悪口も独り歩きしてます。いえ、〝公の場〟で敗れた以上、心ない
「それが一九九四年一二月のこと――でしたね。どのような言い回しを用いても陰口のようになってしまうので八雲さんに申し訳ないのですが、当時からブラジリアン柔術最強を誇っていた一族に道場破りを仕掛けて、非公式戦で返り討ちに遭ったと聞いています。そして、その舞台がロサンゼルスの柔術道場であったとも……」
「いえいえ、『申し訳ない』だなんて、そんな。〝あの日〟の
切なく眉根を寄せるイズリアル・モニワに頷き返しながら、樋口郁郎は一九九四年一二月のロサンゼルスで起きた
「先程の
「……道場破りに応じた柔術家までご存知のような口振りですね。さすがはザイフェルト家の
「世界のMMAの
日米双方を代表するMMA団体の代表が語らっているのは、日本MMAにとって〝真の始まり〟とも呼ぶべき事件であった。
『NSB』の
『
同団体の発足に携わった樋口郁郎は言うに及ばず、『ハルトマン・プロダクツ』と同じように〝裏事情〟まで掴んでいるだろうイズリアル・モニワも
この交渉は程なくして行き詰まり、膠着状態を打破するべくロサンゼルスの柔術道場へ乗り込んだのが若き日の八雲岳であった。
道場の〝看板〟を揺さぶってしまえば、ブラジリアン柔術の勇者も日本のリングに上がらざるを得なくなるだろう――『鬼の遺伝子』による異種格闘技戦を更なる発展に導かんとした野望が八雲岳もろとも返り討ちに遭ったのが一九九四年一二月であった。
その当時、ロサンゼルスで開かれていた道場には鬼貫道明が照準を合わせた最強の柔術家が
『鬼の遺伝子』を背負って立つ〝忍者レスラー〟の完勝を誰もが疑わなかったが、非公式として行われた一戦は開始直後に悪夢となった。容易く組み伏せられてしまった岳は、
八雲岳が一方的に
非公式戦ゆえに記者が立ち合うことは許可されなかったものの、顔から鮮血を滴らせる敗残の写真は
自ら勇んで刺客に志願した〝忍者レスラー〟の惨敗という最悪の結果によって『鬼の遺伝子』及び『新鬼道プロレス』は面目を失い、日伯の間に敵対的構図を作り出すことが目的であるかのようなマスメディアにも扇動され、ブラジリアン柔術は異種格闘技戦の〝候補〟から名誉に懸けても倒さなくてはならない〝敵〟へと変わっていく。
八雲岳の仇を日本MMAそのものの旗揚げ興行に引き摺り出し、〝プロレスこそ最強〟という
それは比喩や誇張などではなく、日本のプロレス界にとって絶対に負けられない戦いであった。勝利が最低条件という雪辱戦にも関わらず、八雲岳よりも更に短い時間で敗れてしまったが為、ヴァルチャーマスクは誹謗中傷としか表しようのない
『NSB』の団体代表に同行しながら、MMAについては無知にも等しいと放言するVVは、その客観的な視点から八雲岳が
「……私は部外者ですから、軽率な発言は控えるべきと重々承知しているのですが、当時の『鬼の遺伝子』――というよりも『新鬼道プロレス』全体にブラジリアン柔術の実力を低く見積もるような雰囲気があったと聞いています。しかも、鬼貫さんたちに
「モニワさんはお優しいなぁ。もっとハッキリ言っちゃって良いんですよ? 日本のプロレスは舐め腐っていたブラジリアン柔術にしっぺ返しを喰らったって――って、これはここだけの話でお願いしますね? 『昭和の伝説』や岳ちゃんに今の話を知られたら、面倒くさいカンジでヘソを曲げられちゃいますから」
VVの頭越しにヴァルチャーマスクと呼ばれた
日本の異種格闘技戦がブラジリアン柔術に狙いを定めた背景も含めて、彼女が事態の成り行きを把握していないわけがない。
何しろブラジリアン柔術を隆盛に導いた一族は、MMAの先駆けである『NSB』の発足にも
丁度、八雲岳が道場破りに失敗する一年前であった。
八雲岳とヴァルチャーマスク――自身が
二〇〇七年に八二歳で生涯を終えるまで
後年にMMAとして花開く種を蒔いた
「岳ちゃんが入団する前に日本を離れて
「そのレスラーは私も存じ上げております。
「さすが『NSB』ですね。世界中の格闘家のデータをコレクションしていたりして。日本のレスラーと盛んに技術交流したと自分も聞いていますがね、『バーリトゥード』のような〝実戦〟は大得意でも、プロレスとの相性は芳しくなかったらしくて、ええ……」
「ブラジリアン柔術の真価を伝え切れないまま〝地球の裏側〟に帰った……と? しかしながら、『スカヴェンジャー』は――いえ、……日本では『ヴァルチャーマスク』という
「モニワさん、実は『新鬼道プロレス』の
『スカヴェンジャー』と、『NSB』に馴染みのない人間には〝誰〟を指しているのかも分からない呼び名を引っ込めた
〝神様〟から授けられたプロレスの
畳み掛けられた樋口も目を丸くしたが、日本のプロレス団体に携わったこともないイズリアルのほうが前のめりとなる構図は極めて奇妙であり、隣席のVVから落ち着くよう窘められてしまった。あるいは同行している
『NSB』の団体代表が熱弁した通り、『
その意志を果たすべき覚悟に変えたのが〝地球の裏側〟からやって来た
往時から現在に至るまで世界最強と名高い
いわばMMAの原型とも呼ぶべき『バーリトゥード』の最前線で王者と謳われ、
「
「本人ってハッキリ言っちゃったよ、この人……。岳ちゃんの
あらゆる動作に対応し得ることから『NSB』でも一九九七年七月から正式採用され、今や国際基準となった
〝一〇年先を行く男〟という異名でも呼ばれていたが、本名で『新鬼道プロレス』のリングに臨んでいた頃から先見の明があったことは疑う余地もあるまい。
格闘技の未来に必要なことを鋭く感じ取り、これを具体化していく才覚に恵まれていればこそ、ブラジルの
二人の交流は一年にも満たなかったが、
一九九〇年に病没した為、『バーリトゥード』の直系である
相手の膝関節を攻める寝技を『新鬼道プロレス』へもたらした功績に加えて、立場上は師匠に当たる鬼貫道明にも大きな影響を与えたとイズリアルは指摘している。
アメリカ史上最強と名高いボクシングヘビー級
ブラジリアン柔術を体得した選手が多用する戦術の一つでもあり、ともすれば試合そのものの膠着を招き兼ねないとして『
ブラジリアン柔術そのものが国際的な知名度を得る以前の時代に
イズリアルも鬼貫本人に確かめたわけではないので真偽は定かではないものの、
幕末維新を経て世界に扉を開いた明治後期の日本では柔道と拳闘――即ち、ボクシングとの異種格闘技戦が盛んに行われていた。寄港中の欧米艦隊から
「ときにモニワさん、ドタバタ
「……ルシル・ボールに憧れたことがなかったと言えば嘘になります」
「数段重ねのすれ違いがツッコミを押し流して全部を台無しにするドタバタ
創始者と代表的なレスラーに尋常ならざる影響力を持っていながら、彼らの
冗談では済まされない状況が『新鬼道プロレス』を呑み込み、一九九七年に至ってプロレスそのものの敗北を招いたという事実を掴んでいるイズリアルは、樋口の不調法な物言いに眉根を寄せてしまったが、
「一度、偏った
「岳ちゃんが入団したのは〝神様〟の
「私にも色々な意味で経験があります。……新しい世界に触れ、そこに自分の支えとなる真実を見出した若者は、誰にも止められません。……決して誰にも……っ」
「岳ちゃんが〝神様〟仕込みの
「それが美徳と紙一重ということは私も承知していますよ」
樋口郁郎もイズリアル・モニワも、〝プロレスの神様〟が日本MMAに与えた影響を否定するつもりはなかった。
選手たちが命を懸けて闘う『NSB』をより高値が付く見世物――〝超人ショー〟に作り替えるべく団体内へドーピングを蔓延させ、禁止薬物を用いた肉体改造をも促した前代表を追放し、MMA団体として再生させたイズリアルであればこそ、「偏った
「もっと時代を遡っても良いのなら、日本は
「私の記憶が確かなら、遠洋航海中に寄港した東洋艦隊の乗組員でしたよね?
「そこでオチが付くって寸法ですよ。
またしてもおどけた調子で笑う樋口郁郎をザイフェルト家の御曹司は自らの顎を撫でつつ静かに眺めていた。
『新鬼道プロレス』の
尤も、樋口が最後に付け加えた明治時代の逸話だけは過去に聞いた
ドイツ
その
世界最大のスポーツメーカーである『ハルトマン・プロダクツ』といえども、創業より三〇年も昔に日本の片隅で起きた事件までは確認できまい。
『プロレスが負けた日』に至った原因を反芻しているギュンターとは対照的に、かつてヴァルチャーマスクと呼ばれた
〝神様〟の薫陶を受けた『新鬼道プロレス』が背負い、己の手で正せなかった〝原罪〟を抉り出された恰好であるが、眉間に皺を寄せるようなこともない。
八雲岳とヴァルチャーマスクの関係について最初に疑問を投げ掛けておきながら、日米MMA団体代表の勢いに気圧されて肩を竦めるしかなくなってしまったVVを挟んではいるものの、ここまでの会話が耳に届いていないはずもあるまい。
着席の際に
「偏った
樋口が続けた言葉の意味とは、即ちヴァルチャーマスクによる
「……カタキを取ろうとしてくれたヴァルチャーマスクが〝永久戦犯〟になってしまったのに、自分だけは道場破り失敗の汚名を返上してしまった。……その罪悪感に岳ちゃんは今でも縛られ続けているんですよ。『超次元プロレス』で飛び跳ねるのだって、絡みつく鎖から逃れるのと一緒なんです」
「……八雲さんのこと、さすがに良くお
「何だかんだと付き合いが長くなっちゃいましたからねぇ。……岳ちゃんがあんな顔してるときは、決まってこの二〇年のことを悔やんでいるんですよ。何も考えていなさそうに見えて、バカが付くほど真面目なんです、八雲岳って男は」
「部外者ではありますが、それは私も迷いなく頷けます。その精神はお弟子さんの『フルメタルサムライ』――
「それを聞いたら岳ちゃん、めちゃくちゃ喜びますよ。……色々とあったんで、他に誰も居ない場所で個人的に伝えてやってくださいな」
樋口郁郎が右の人差し指で示し、イズリアル・モニワが視線を巡らせた先では、白
「――
仲原アナが叫んだ通り、城渡マッチが正面から直線的に突き込んできた右拳を
城渡の側面を通り抜けるようにして飛び込んでいったわけであるが、その間にキリサメは左右の五指を組み合わせ、鉄槌に換えた両拳をすれ違い
プロレスでは『ダブルスレッジハンマー』と呼ばれる一撃であった。
岳の技とは異なり、内から外へ横薙ぎに振り抜かれた
両手でもって左足を抱えつつ、軸として据えていた対の足で幾度か跳ね、激痛を紛らわせようと試みていたが、精神力だけで凌げるものではあるまい。
「ヴァルチャーの兄ィならそこで更に
またしても
国際規模といっても過言ではない
『MMA日本協会』とは日本国内で開催されるMMA
格闘技の全てを深刻な人権侵害と
一度でも逆らえば、格闘技の世界では生きていけなくなる――まさしく独裁者そのものであるが、一方で樋口郁郎という男は、格闘技との向き合い方に私欲を差し挟まない。MMA団体としての興行収益を追い求めながらも、彼自身は高額の報酬を貪ろうとはしないのである。
〝公の場〟でもなければくたびれた服を着て働き、昼食は
(これでコロッと騙されるほどイズリアル・モニワもお人好しじゃないと思うが、俺たちと比べて感覚は
ザイフェルト家の御曹司は〝古巣〟――
マスメディアの注目を集める話題性を何よりも重視し、〝客寄せパンダ〟をMMAのリングに差し向けてきた事実はギュンターも忘れていない。自分より団体代表に相応しい器の持ち主を
ドイツ・ハーメルンで興った『ハルトマン・プロダクツ』は、一国の経済を左右するほどの輝かしい業績とは裏腹に、〝戦争の時代〟に
〝銃後の守り〟の要である職人という一種の特権で兵役を免れた父と、戦争捕虜の〝現実〟を知る
何よりもまず
日本の〝格闘技バブル〟が二〇〇〇年代半ばに終焉を迎え、再起が立ち遅れている間にシンガポールでMMAの新たな勢力が育ってきた。アジアのスポーツ利権を睨む『ハルトマン・プロダクツ』は、一握りの良心だけで樋口郁郎を評価しないのである。
(……お友達とお喋りを楽しみながら、腹の底では『ラグナロク・チャンネル』みたいなアレをどうやって商売に生かすか、そればっかり考えていそうな野郎だからな……)
ギュンターが胸中にて呟いた『ラグナロク・チャンネル』なる一言は、
(世の中には知ってはならないコトがある。だが、
その意味不明な言葉がギュンターにとっては何よりも重いのだ。『ハルトマン・プロダクツ』より派遣された二人の御曹司が『ラグナロク・チャンネル』なる〝何か〟になぞらえたキリサメの〝神速〟を〝客寄せパンダ〟に利用し始めたときには、樋口郁郎は言い表すのも憚るほど惨たらしい姿で己の浅慮を後悔することになる。
〝そのとき〟には
比喩でなく文字通りの抹殺を選択肢に入れているザイフェルト家の御曹司に対して、イズリアル・モニワは〝暴君〟の言葉に耳を澄ませ、その一つ一つに首を頷かせていた。
プロジェクションマッピングによる光の演出や心拍数や打撃力・命中回数のリアルタイム計測といった最先端技術を結集し、MMAの試合形式を未来の具現化とも呼ぶべき形に変えるシステムを『NSB』は新たに開発していた。
『
当然ながら、VV・アシュフォードも
(
「友達感覚で地球が回るなら、国連要らずで世界平和も成し遂げられる」という皮肉が
ドイツ・ニーダーザクセン州の小村に設置され、『ハルトマン・プロダクツ』が物資などを全面的に支援する難民キャンプを視察した際、現地で難民高等弁務官――マイク・ワイアットと遭遇し、意気投合する内に祖国を代表して国際競技大会に出場することが叶わない〝難民選手〟の権利拡大への協力を要請されたのだが、そのときの
その親友――『格闘技界の聖家族』の御曹司とも呼ばれるストラール・ファン・デル・オムロープバーンは、ゴーグル型のサングラスを剥ぎ取った姿のまま、身
一挙手一投足を見逃すまいとしているのか、翡翠色の瞳は『
かつてヴァルチャーマスクと名乗った
この場に
マフダレーナの側も
『新鬼道プロレス』ひいては日本の
ギュンターとVVが用いていたのは英語である。樋口郁郎はその
それにも関わらず、
洋の東西を問わず、優越感は人間の理性を壊すものである。英単語の一つも理解できないだろうと信じ込まされ、
イズリアル・モニワから咳払いで戒められたが、日本格闘技界の〝暴君〟に善からぬ感情を抱くギュンターたちは、通訳の不在を確かめた上で英語による悪言を繰り返したのである。普段であれば親友の軽挙を諫める側のストラールでさえ、口の端を厭らしく吊り上げていた。
自分を侮辱する声さえも樋口は意味が分からない
もはや、一つでも口を滑らせただけで『ハルトマン・プロダクツ』の損失に繋がり得る事態にギュンターは気付いているのだろうか。それとも、自分たちの話す英語に樋口が反応したことを認識しながら、いずれは始末する対象に過ぎないと気にも留めていないのだろうか。
今や
会場内にゴングが鳴り響いたのである。
第一試合が決着を迎えたわけではない。向こう脛を強打されて一時はマットに転倒した城渡マッチであるが、木村レフェリーが駆け寄る前には起き上がり、キリサメ・アマカザリに肘打ちでもって反撃している。
第一
「――おい、ちょっと待て。お前、どこに行く気だ? 何をしようってんだ……っ?」
ゴングに続いて観客席を撫でたのは鬼貫道明の呻き声である。
実況席のマイクに
『ラグナロク・チャンネル』という言葉を〝神速〟に宛がい、キリサメ・アマカザリから目が離せなくなった『格闘技界の聖家族』の
かつてのヴァルチャーマスクである。
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