番外編シリーズ ※本編と合わせてお読みいただくと、より世界観が広がります!

第零章 ランウェイ 主人公たちのプロローグを描くオムニバス形式の連作短編

その1:無法者(前編)~昭和の闇に『新撰組の剣』が閃く

 一、無法者アウトロー(前編)


 眠れる獅子――その少年をたとえる言葉として、これ以上に相応しいものは存在しないだろう。たてがみのように雄々しくうねる癖毛は百獣の頂点に立つ王の威容そのままだが、瞼は半ばまでしか開かれていないのである。

 瞳に光が宿っているか否かを確かめることさえ難しかった。微かに口を開いたまま、焦点の合わない双眸をくうに投げ出しており、見る者には常に眠そうな印象を与えるのだった。

 しかし、くらい瞳には桁外れに抜きん出た洞察力が秘められている。成長期さえ終わっていない人生経験の短さと不釣り合いな知識を蓄え、またそれを瞬時にして引き出せるほど勘働きも鋭い。ネオン街の雑踏からぬるりと現われ、何の前触れもなく抜き身の太刀を構えた少年を一瞥しただけで「てんねんしんりゅう」と剣術の流派を言い当てたのである。

 古今を問わず、日本全土に武芸と呼ばれるモノは数限りなく存在している。剣先を少しばかり傾けるという独特の構え方とはいえども、身のこなし一つを手掛かりとして流派を見破ることは至難の業であろう。

 そもそも、「抜き身の太刀を構えた」などという生易しい状況ではなかった。夜遊びの酔漢や派手な法被を着た客引き、店の常連を見送るバニーガールといった群衆でごった返す往来の間隙を縫うようにして、すれ違いざまに斬り付けてきたのだ。

 一言も声を発さず、物音すら殆ど立てない暗闇の如き斬撃であった。

 眠れる獅子の勘働きが僅かでも遅れていたら、斜めの軌道を描く太刀が享楽の空間を惨劇の舞台に一変させていたはずだ。絶対的な死角となる背後から刃は閃いていた。

 どうやら、浅葱あさぎ色の布にくるむことで太刀を隠し持っていたらしい。それはつまり、刃を納めるべき鞘など最初から携えていないことを意味している。

 百獣を喰らう狩猟の王だけに気配を察知する感覚も並外れており、それ故に凶刃を凌げたといっても過言ではない。

 彼が殺伐の気配を最初に感じたのは同行者と共に用事で訪れた廃ビルだった。外部には決して漏らせないたぐいの会合へ参加したのだが、その最中に何者かが屋外から様子を窺っていると勘付いた次第である。

 少年は会合の参加者たちに危急を告げ、速やかに裏口から脱出を図った。

 一先ずは同行者を庇いつつ、盛り場の密集地へと足を向けた。仮に自分たちを狙っているとしても、よもや衆人環視の中で銃弾をばら撒くような真似はしないだろう。旅客機や空港、山荘などを標的とする見境のないテロリストならばまだしも、民間人を巻き込むことはからは掛け離れているのだ。

 折からのオイルショックは、このような歓楽街にまで影響を及ぼしつつある。同行者が聞いた話によれば、夜間の早期消灯という省エネ奨励のもと、ネオンサインの使用自体が難しくなるそうだ。

 鼓膜が痛くなるほど賑わっているのは、威勢の良い関西弁が飛び交う土地柄ということもあるが、町全体が最後の追い込みとして乱痴気騒ぎをしている所為せいかも知れない。店舗の前にはたまで立てているキャバレーは一軒や二軒ではなかった。

 トイレットペーパーの買い占めなど、しみったれた出来事を通じて世の中に漂い始めた閉塞感へ抗っているように思えなくもない。実際、桁外れの喧噪を目の当たりにした少年は幕末から明治へ向かう過渡期に起こった『ええじゃないか運動』を連想している。

 自分と同い年くらいであろう少年が視界に入ったのは、陽気に酒瓶を呷るパンタロン姿の女性とぶつかりそうになった直後であった。

 長細い包みを左脇に抱えたその少年は何事もなく通り抜けていこうとしたが、眠れる獅子の背中には行き違う間際に冷たい戦慄が走っている。果たして、悪寒はそのまま予感に通じていたわけだ。

 同行者を安全な位置へ突き飛ばすなり両手を交差させ、鍔元で刃を受け止めて難を逃れたものの、人気ひとけの多い場所では襲われないだろうという油断から不覚を取った形である。


「――『誠』に生きた狼の剣を血でけがしやがって。あの世でだんだら羽織に詫びやがれ」

「……いにしえの聖徳太子の御名おとしめた貴様が何をほざくのか……」


 不意打ちをしくじったのち、白刃はネオンの毒々しい光を映している。これを捉えた獅子の瞳は追撃の好機を窺う相手が〝達人〟の領域にることまで見極めていた。

 黒色の学ランに身を包み、その上になめし革のロングコートを羽織るという出で立ちは、ともすれば上流階級の御曹司のように見えなくもない。しかしながら、感情表現がぜろにも等しい顔には殺伐の色が色濃く滲んでいるのだ。真っ当な道を歩んできた少年でないことは明らかで、いかにも学生然とした服装すら他者の油断を誘う為の罠かも知れない。

 黒革のブーツを履いた少年剣士と薄汚れた運動靴は好対照だが、異常性という点に於いては眠れる獅子もに違いなかった。

 ボア付きのフライトジャケットにヴィンテージ物のジーンズという快男児風の装いは自己主張が過剰なネオンの下でも目を引くが、そもそも、空が群青色へ塗り潰されるような時間帯に未成年の少年が歓楽街を闊歩していること自体が有り得ないのである。それでいて夜遊びに慣れている様子でもないから不可思議なのだ。

 左頬には一筋の古傷が走っている。まともな神経の持ち主であればパニックに陥ってもおかしくない状況だというのに全く落ち着き払っており、その佇まいをもってして古傷が事故の類いで付いたものでないことを表していた。

 痛々しいほどに血の色が透けて見える古傷は、死命を決するような極限状態の中で刻み込まれたのであろう。


「こんなトコで待ち伏せしてるくらいだ。の名前だって調査済みだろ? だったら、てめぇも名乗りやがれ。でなけりゃ平等じゃねぇ」

「……を始末する名前など、三途の川の渡し賃にもならないだろう……」

「冥土の土産も選ばせねぇってか。そんな小せェ野郎にくれてやる命はねぇな」

「……なぎろう。憶えたか、あいかわ……」

「打ってつけの名前だな。刺客ヒットマンにしちゃカッコ良過ぎるくらいだぜ」


 同い年であろう二人が交わした言葉はそれほど多くはない――というよりも、一個人の声を押し流してしまうような喧騒が周囲で渦巻いている為、会話どころではないのだ。

 それも無理からぬ話だろう。一日の内で最も賑わっている歓楽街に武者の如く太刀を携えた少年が現れたのである。ネオンの明滅を映して煌めく刃は辺り一面に戦慄を撒き散らしており、これに触れて心を乱されない人間は圧倒的に少なかった。

 無差別の通り魔と捉えて逃げ惑う人々の悲鳴や、警察に通報するよう求める絶叫、非常識にも殺戮の応酬を煽る声までが入り乱れ、狂乱の様相を呈しているわけだ。キャバレーが軒を連ねるという立地もあって正常な判断力を失った酔客も多く、そのことが混乱に拍車を掛けていた。

 混沌の渦中にあって、二人は驚くほど粛然と向かい合っている。にわかに降り始めた白雪と同じ静寂が両者の間にのみ横たわっている。吐息が極寒さながらの色に変わるのは凍て付いた外気の影響というよりも、この沈黙を咬み砕かんとする激情の前触れだろう。


拳銃ハジキじゃなく刃物ヤッパ一振りってェ気概は嫌いじゃねぇよ」

「……士道にあるまじき剣であろうとも、狼には狼なりの作法があるのだ――」


 フライトジャケットのポケットから取り出した指貫型のドライバーグローブを嵌めつつ、眠れる獅子は狼の剣を正面切って見据えた。

 果たして、その太刀筋は銃弾さえ追い抜くのではないかと錯覚するほどにはやい。ロングコートの裾を翻しながら一瞬で間合いを詰め、速射砲の如く剣先を突き入れたのである。

 狼の牙から逃れるべく相手が飛び退すさると一度目よりも更に鋭く踏み込んでいき、身体ごとぶつかるようにして再び刺突つきを見舞った。

 速度重視から威力重視へと技を派生させた次第である。最初の一撃で姿勢を崩していた人間にとって、全体重を乗せて追い掛けてくる剣先は戦慄の具現化としか喩えようがないだろう。しかも、確実に命中させるべく右腕一本を前方へ伸ばしてリーチを補っていた。

 執拗に獅子を狙う狼は己のかたなを水平に構えている。

 次の瞬間、金属同士の衝突と思しき轟音がバニーガールの悲鳴を裂いてぜ、狼の牙は少年剣士の身体ごと撥ね飛ばされていた。

 士道にあるまじき剣とやらを弾いたのは眠れる獅子の右手に握られた軍配ぐんばい団扇うちわである。ジーンズのベルト――その背中側に取っ手の部分を差し込むことで密かに携行していた得物を振るったわけだ。

 尤も、軍配団扇で防いだのは〝牙〟ではない。彼は二段目の刺突つきを左側に跳ねることで躱していたが、水平に構えられた太刀はその動きさえも追尾し、横一文字に〝爪〟を薙ぎ払ったのだ。つまり、軍配団扇が弾き返したのは三撃目ということである。

 狼の姿勢を崩した獅子はその場で横回転しながら左裏拳バックナックルを振り抜き、こめかみに報復を叩き込んだ。

 先手を許した格好の狼であるが、その猛攻は止まらない。決して標的を逃がすまいと追いすがり、肩から胸元を断つように、あるいはその逆方向から幾度となく刃を振り落としていく。これを正面から迎え撃った獅子は軍配団扇を刀身に叩き付け、比喩でなく本物の火花を辺りに飛び散らせた。

 軍配団扇のが木製であれば〝爪〟によって削り取られていただろうが、獅子が振るう得物は鋼鉄で拵えた物であり、の部分も鋭利に研ぎ澄まされている。これを手斧のように繰り出しているわけだ。

 長く重みのある狼の刃と比べて半分にも満たない大きさではあるものの、持ち主の技量と強靭さもあって全く競り負けていなかった。

 文字通り、剣の舞を披露し続けていた狼は、力では押し切れないと判断するや否や、半歩ばかり踏み込んでいく。剣先を突き付けて威嚇しつつ、刃を引き戻す動作の最中に鍔元の辺りで相手の右手首を切断しようと図った次第である。

 乱打戦のような状況に相手を慣らしておいて、いきなり変化を加えたのだ――が、すれ違い様の不意打ちさえ読み抜く勘働きがを見逃すはずもない。瞬時にして相手の腹を蹴り付け、力任せに引き剥がして難を逃れたのだった。

 軍配団扇は取っ手の底からは一繋ぎに結んだ無数の連珠を垂らしていた。香木を平らに削り出した逸品のようだ。右腕を振り回してを手首に巻き付ける獅子は、その間も興味深そうに狼の様子を眺めており、いつしか頬まで緩ませていた。

 吹き飛んだ拍子にぶつかり、電光看板を壊してしまった店へ一礼をもって詫びる姿にかれの人柄というものを感じ取ったのであろう。


「お前みたいなお人好しが〝裏の世界〟に居るのは勿体ねぇな」

「……カタギの人間に迷惑を掛けることが忍びないだけだ……」

「だったら、歓楽街こんなトコロで仕掛けてくるんじゃねェっつの。憎み切れねぇぜ、ろうのコト」

「……馴れ馴れしいぞ、貴様」


 不意打ちを仕損じた瞬間にも微動だにしなかった狼の表情かおが初めて変わった。理解に苦しむといった調子で眉根を寄せたのである。さりとて、逢ったばかりの人間――というよりも〝敵〟から親しげに呼び付けられたことが不快だったわけでもない。差し向かいで対峙する相手の様子を訝っているのだ。

 眠たそうに半ばまで落ちていた瞼がいつの間にやら完全に開かれ、ただただくらいだけであった瞳にも獰猛な輝きを宿している。太刀と軍配団扇をぶつけ合う最中など至近距離で互いの顔を睨み据えていたはずだが、現在いまは別人のようではないか。

 あるいは変身とも喩えるべき獅子の表情かおに狼は小首を傾げたが、いずれにしても相手が『本気』になったことだけは間違いあるまい。望むところとばかりに太刀を構え直し、間合いを詰めていく。野次馬たちは攻防に巻き込まれない位置まで下がって遠巻きに眺めるばかりであり、今や窮屈な思いもせずに戦えるだけの空間が拡がっていた。

 誰もが固唾を飲んで少年たちの戦いを見守っている。それは臨場感に満ちた剣劇チャンバラのようでもあり、釘付けになってしまうのも無理からぬことだろう。しかし、間違いなく現実の出来事なのである。銀幕のスターでさえ再現し得ない〝真剣ほんもの〟の凄味は戦慄と綯い交ぜになって人々の心を貫いていた。

 ヒッピー気取りと思しき中年男性は「少年たちよ、武器にフラワーを差せ! 混迷の時代こそ世界平和を示すべきではないか!」などと聖人ぶって喚いていたが、そのような声は誰の耳にも届いていない。


「お互い、ヤクザな道に入っちまったんだからるしかねェわな――」


 狼の剣によって覚醒めざめた獅子は、まさしく野獣の如き笑みを浮かべている。闘争本能が形となってあらわれた威容すがたとも言い換えられるだろう。

 神々に戦いを挑み続ける存在もの――『修羅』という形容たとえこそ最も相応しい。そして、感情の発露がぜろに等しい狼とて、それは当てはまることなのだ。

 威圧するよう大上段に太刀を構えた狼は、その姿勢を維持したままで間合いを詰めた。

 轟々たる縦一文字が躱されると、水中の獲物を捉えた飛燕の如く太刀をすり上げ、それすら軍配団扇で弾かれても狼の足が止まることはない。白刃ごと撥ね上げられた状態から上体を傾け、再び太刀を振り落としたのだ。

 太刀筋に変化が生じたのは、それから間もなくのことである。完全には振り落とさずにヘソの前で刃を止めた狼は突如として刺突つきに転じた。大振りな斬撃は胴を一直線に貫く為の布石フェイントというわけであった。

 最小の動作で本来のに切り替えた技巧に感心する獅子であったが、だからといって再びの〝牙〟を甘んじて受けるわけにはいかない。軍配団扇でもって剣先を受け流すと、相手の懐へ潜り込むようにして突進し、得物を持つ側とは対の左肘を突き入れていく。

 反射的に右膝を突き上げて肘鉄砲を防ぐ狼であったが、その間にも獅子は彼の股に右足を滑り込ませていた。

 金的でも狙うつもりであろうと読み抜いた狼は咄嗟に右掌を合わせて膝蹴りを弾き、続けて獅子の左手首を掴んだ。すかさず自分のほうへと引っ張り、その流れに合わせて彼の首に刃を宛がおうとする。一気に頸動脈を切り裂いてしまおうというのだ。

 対する獅子の反応は白刃の閃きよりもはやい。軍配団扇のでもって狼の右腕を叩き落とし、これによって捕獲から逃れつつその場へ屈み込んだ。頸動脈を切断される寸前で全ての回避動作を完了させた次第である。


「これが『いましょうとく』の――『聖王ひじりのきみ』の技か……ッ!」


 地面に突いた片膝と踵を滑らせるようにして敵の背後まで回り込み、続けて上体を撥ね起こすという獅子のうねりは、それ自体が反撃の技と一体化していた。死角から手刀を振り抜いたのである。

 しかも、この手刀は打撃を目的としたものではない。頸椎をへし折るどころか、左掌中に隠し持った棒状の刃物で頸動脈を掻き切って確実に致命傷を与える技なのだ。

 徒手空拳と軍配団扇を組み合わせた不思議な武術を操る獅子はあん――いわゆる、隠し武器の扱いにも手慣れているらしい。

 宙返りを伴って大きく飛び退き、カスリ傷の一つも刻ませなかった狼に対して獅子は刃物自体を投擲した。フライトジャケットの袖にでも隠し持っていたのだろうか、何本も立て続けに繰り出したである。

 手首のバネから放たれたは手裏剣のように風を裂いて迫ったが、狼は装飾も施されていない無骨な鍔でもって一切を弾き飛ばしていく。その内の何本かがキャバレーの壁に設置された大型のネオンサインに突き刺さり、激しい火花を撒き散らした。

 これによってネオン街は更なる混乱に包まれた。降り注いだ火花が店先のはたを炎の塊に変えてしまったのだ。積もる気配のない降雪程度では勢いを抑えられるはずもなく、たちまち店にまで燃え移った。

 二人の少年による大立ち回りを遠巻きに眺めていた群衆のどよめきが避難を呼びかける物へと一変したことは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 消火器が持ち出されるよりも早く隣の建物に延焼し、中から客や従業員が飛び出してきた。炎の勢いは尋常ではなく、一区画を焼き尽くす規模の大火となる可能性が高い。

 尤も、狼の瞳は燃え盛る炎など映してはおらず、逃げ惑う群衆の絶叫すら耳には入っていない。そのようにへ意識を向けてはいられないのだ。

 彼の眼前には軍配団扇が迫っていた。眠りより覚醒めざめた獅子は先程の刃物と同様に自らの得物まで投げ付けてきたのである。しかし、その殺傷力は小振りの暗器とは段違いだ。鋼鉄の塊をぶつけられるようなものであり、命中すれば首くらい容易く刎ね飛ぶだろう。


「――行くぜ、志狼しろうッ!」

「馴れ馴れしいと言っている……!」


 太刀を振り上げることによって手斧の如き軍配団扇は空中に弾かれた――その刹那、今度は一陣の疾風が狼の身に吹き付けた。離れた位置から得物を投擲していたはずの獅子が間近まで迫っていたのである。

 ただ間合いを詰めたわけではない。一足飛びで高速接近しつつ、その勢いを乗せた左拳でもって軍配団扇と太刀の間隙に割り込んでいく。事前に調べた情報によれば『飛龍撃ひりゅうげき』という技名であり、獅子の少年にとって一番の得意であったはずだ。

 事実、これまでに使われたどの技よりも鋭く、危うかった。右半身を開くことで直撃こそ免れたものの、完全にはかわし切れず頬の肉を少しばかり抉られてしまったのだ。全身のバネを振り絞ることで標的まで一気に飛び掛かり、これによって生み出された破壊力を拳の乗せて撃ち放つ性質ものと聞いていたが、まさにあまける龍の〝牙〟である。


「……『しょうおうりゅう』――聖なるかばねを越えしてんけん……ッ!」


 右半身を開いたまま僅かに下がりつつ反撃の体勢を整えた狼は、相手から太刀の動きが見えないよう剣先を後方に向けた。意図的に死角を作り出す構えといえよう。実際に獅子の瞳は左半身しか捉えていない状態なのだ。

 どこから刃が飛んでくるのか、予測しにくい構えから横一文字を放つ――一閃と共に馳せ違うと見せておいて急に片膝を突いた狼は、身を沈ませつつ相手の脛を払う技に転じた。

 直撃など被ろうものなら脛だけでは済まずに足の骨を完全に切断されてしまうだろう。足元を脅かす一閃を垂直に跳ねてかわした獅子は、そのまま全身を捻り込んで遠心力を生み出し、反撃のかかと落としを試みた。

 一瞬で上体を撥ね起こした狼は、空中に飛んだ獅子を串刺しにするべく右手一本の刺突つきを放った。先ほど仕掛けられたあまける龍の〝牙〟の返礼として、自らも全身のバネを振り絞った〝牙〟を突き立てようというのである。


「――ぬッ⁉」


 身体の自由が殆ど利かないような跳躍の頂点を狙い撃ちにされたのでは一溜まりもなく、回避も防御も不可能である――そのはずだったが、獅子は踵を浴びせようという動作の最中に身体を揺り動かし、対の足で後ろ回し蹴りを繰り出した。

 ある動作が完了する前に別の動作へ切り替えることなど常人には有り得ない絶技だ。関節の可動に逆らう行為でもあり、肉体へ撥ね返ってくる負荷を考えると筋肉はズタズタに引き裂かれ、四肢の骨が砕けても不思議ではない。

 ところが、覚醒めざめた獅子は人外の絶技を難なく使いこなしている。そればかりか、圧し掛かる負荷によって骨身が軋んだ様子でもなかった。

 後ろ回し蹴りを顔面に直撃させて刺突つきの拍子を崩し、これによって生じた反動をも生かして更に身を捻り込んだ獅子は、空中へ弾かれたまま自由落下していた得物を――軍配団扇を掴むと、手斧の如き一撃を繰り出して狼の剣先を弾いた。

 刺突つきより派生した横一文字の斬撃へ縦一文字の軌道を重ねた次第である。

 天と地の一閃ひらめきが耳障りな轟音を立てながら交わる頃には両者の間近まで炎は迫っていた。着地と同時に路面を滑るような足払いに転じた獅子も、片足を持ち上げて蹴りをかわし、脳天目掛けて反撃を繰り出す狼も、肌を焼く灼熱の風など恐れてはいなかった。

 両者は劫火よりも戦慄すべき存在と向き合っているのだ。頭蓋骨を両断せんとする太刀を軍配団扇で防ぎ、圧し掛かるような力の作用を巧みに受け流すことで相手を掴みもせずに投げるなど、離れ業ばかりが繰り返されていた。

 相手の身を地面へ落とすや否や、狼が右手に掴んでいる太刀目掛けて獅子は渾身の蹴りを放った。全体重を乗せた一撃で刃を押し込み、彼の首を脅かそうとしたのだ。

 殺傷の二字が最も似つかわしい追撃を察知した狼は咄嗟に太刀から手を離し、地面に身を横たえたまま右下腕を叩き付けて蹴りを押し止めた。

 敢えなく弾かれてしまった蹴り足でもって太刀を踏み付け、続けざまに軍配団扇を振り落とす獅子であったが、寝転んだままの狼は手斧の如き刃を避けるように外側から左手を伸ばし、前傾姿勢となっている彼の右手首を掴んだ。太刀を押さえられた意趣返しとばかりに相手の得物も押さえてやったのだろう。

 この状態のまま内から外に右腕を捩じりつつ自身の側へと引き込むと、刀身を踏み付けていた獅子の足が微かに浮き上がる。その隙に太刀を掴み直した狼は、つかがしらを一気に振り上げた。狼がふるう流派は『てんねんしんりゅう』と看破されていたが、どうやら剣技一辺倒ではなく柔術の系統にも心得があるらしい。

 撥ね上げた柄頭つかがしらで顎を打ち据え、強い衝撃で脳を揺さぶったのちに首筋へ白刃を押し当てるのだろう――が、体術のほうは獅子にこそがある。軍配団扇を持つ側とは対の左掌を眉間に打ち込まれ、一瞬だけ意識に空白が生じた。

 掌打で弾かれた眉間と、これによって地面に叩き付けられた後頭部――脳に向かって前後から衝撃が浸透していったわけだ。必然的に手首を掴む力も緩み、ついには拘束から逃げられてしまった。

 打撃で生み出した反動を利用し、一気に右腕を引き抜こうとする獅子であったが、狼の反応はさすがに鋭い。手首の拘束が完全に解かれるよりも早く反撃へ転じたのだ。


が……さんッ!」


 太刀を逆手に持ち替えた狼は相手の上体が傾いている間に横薙ぎでもって喉を狙ったが、頸動脈を斬り裂くことは叶わず、命中の寸前に獅子は後方へ飛び退いていた。

 見れば、左の首筋から鮮血が滴っているではないか。幸いにして致命傷は避けられたものの、達人の剣を完封できようはずもなかったわけである。


刹那すこしでも遅れてたらアウトだったぜ。冷や汗が止まんねぇわ」

「冷や汗だと? ……ニヤけたツラで厭味のつもりか、貴様?」

「後から後から笑いが込み上げてくるんだよ。お前の目的はさておき、こんなにのある時間は久しぶりだかんなァ――」


 呼吸いきを整えるかのように一瞬だけ睨み合ったのち、両者は再び間合いを詰めていく。この一秒にも満たない僅かな時間に於いて、狼は太刀は順手に持ち替えていた。

 狼と獅子の足がアスファルトの路面に固定されたのは、斜めの軌道を描いて振り落とされた太刀を軍配団扇が受け止めた直後のことである。互いの力が衝突の一点で釣り合う状態となり、この〝軸〟へ吸い付けられたかのように動けなくなってしまったのだ。

 極めて繊細な力の拮抗である。僅かでも〝軸〟から外れようものなら姿勢は大きく崩れ、その瞬間に首を刎ね飛ばされることだろう。

 危険を承知で半歩ばかり踏み込んだのは獅子のほうだ。中心の一点に向かって軍配団扇を押し込みながらも狼の右腕まで顔を寄せ、コートの上から渾身の力で咬み付いた。

 二の腕の肉を咬み千切るという荒業でもって太刀を握る力を奪い、この均衡を自分の優勢に傾けようと図ったのだが、コートの袖口から鮮血が滴り落ちようとも狼は顔色一つ変えず、〝軸〟もまた乱れなかった。


「極道の世界に身を置くんだから、せめて、これくらいの覚悟を決めといて貰わねェと面白くなかったぜ。……お前は合格だよ」

「生憎と俺は〝本職〟ではない。それは貴様とて同じことだろうに……」

「何でもかんでも良く調べていやがる。恨みっこナシでケリをつけられそうだ」


 口元に付着した返り血を舐め取りながら喜々として笑う威容すがたは、古傷が走る横顔に灼熱の色を映していることもあって百獣の王者たる猛々しさに満ちていた。

 鍔迫り合いにも似た拮抗が続く中、遠くにサイレンの音が聞こえてきた。事件の通報を受けた警察車両パトカーか、火消しに急ぐ消防車か――群衆の喧騒に阻害されて聞き分けることは叶わなかったが、いずれにしても〝裏の戦い〟をに還そうという考えは二人とも共有していた。


「お前とは長い付き合いになりそうだな、ろう

「……あいかわ、貴様は――」


 力の拮抗を維持したまま両者は目の端でもって盛り場の狭間――路地裏を睨み据えた。

 衆目の届かない〝闇〟の彼方こそが、本来、自分たちのであろう。互いの顔に目を転じて頷き合った獅子と狼は、炎の壁によって遮られている路地裏へ迷うことなく飛び込んでいった。

 〝表〟の社会の常識に当てはめて「死ぬ気か」と絶叫する群衆には、命の値打ちを別の次元に置く者たちを止めることなどできはしない。



 *



 赤坂の一等地に所在する東京ミッドタウンへ摩訶不思議な車列が乗り付けてきたのは、火の玉さながらの夕陽が林立するビル郡へ串刺にされた頃合のことである。外出に際してコートの欠かせない季節ということもあり、大都市まち黄昏たそがれいろに塗り潰されるのも早い。

 大名屋敷の跡地という歴史的な公園に面した道路を走る車列はいずれもワインレッドの塗装が施されており、ボンネットに取り付けられた花菱模様のオーナメントと共に橙色の光を跳ね返している。

 車列の中央を走るのは、とりわけ大きなリムジンだ。前後を数台の乗用車で取り囲んでいる為、歩道を行き交う通行人の目には国賓級の要人が移動しているようにしか映らないだろう。たった一台を警護するにしては余りにも厳重なのである。

 この地のランドマークと呼ぶべきミッドタウン・タワーに向かって車列は進んでいた。地上二五〇メートルに達するかという超高層ビルに於いて複数のフロアを占有している国際的チェーン・ホテルこそが目当ての場所なのだ。

 広い後部座席へ設えられたソファに独り腰掛けているのは顔の皺に和服が馴染む熟年の男性だった。窓ガラスの向こうに夕陽を眺めながら、過ぎた時代に思いを馳せている。

 沈みゆく橙色の光は見る人の心を波立たせ、感傷的にさせる。情熱の残滓を想起させるからであろうか、とかく〝古き良き昭和〟の原風景として語られることが多く、ノスタルジーの象徴として浸透しているのだが、男性のうちに於いては世間で持てはやされるような輝かしい時代でもなかったのである。

 戦後の焼け野原からの目覚ましい復興は、大不況に喘ぐ現代人の目には眩しく映ることだろう。発展の二字を実感できた時代に憧憬を抱くことも、バブル期に戻りたいと願う気持ちも否定はしない。しかし、社会や経済が隆盛していく〝裏〟で、これを促す為の必要悪が存在していた事実を蔑ろにされるのは気分が良いものではないのだ。触れてもならぬモノとして封印されてきたといっても過言ではない。

 昭和は間違いなく弱肉強食の時代であった。

 高度経済成長を支えた様々な事業へ反対の声を挙げた者たちが居たことなど、のみを享受する現代人には想像もつかないだろう――が、そのような人々が力ずくで押し退けられた事実は、高度に開発された東京ミッドタウンの情景しかり、現代にも通じる発展の成果が歴史書以上に示しているのだ。

 政治経済のみならず、大衆文化ひいては娯楽の振興に於いてさえ暴力ちからは密接に結び付いている。昭和の遠くなった現代でもそれは隠然と続いており、ときには〝表〟の社会に露見してしまうが、当事者の廃業によって片付けられる〝闇〟こそが弱肉強食という現実を物語っているのだった。


(……今は遠い――遠い昔の話だ……)


 剥き出しの暴力によって〝黒〟が〝白〟になってしまうような混沌の時代であればこそ、狼の剣も、眠れる獅子も、本当の意味でができたのかも知れない。

 現代の夕陽から暴力の昭和じだいへと意識を溶け込ませているこの男も、二匹の獣がおぞましい喰い合いを演じた場に居合わせた一人である――というよりも、狼の剣で暗殺されそうになり、眠れる獅子に命を助けられたのであった。

 刺客ヒットマンが差し向けられたのは関西で幾つかのを手掛けていた頃のことだ。当時から大繁盛していた大阪・十三じゅうそうの歓楽街に用事で出掛けた折に狼と遭遇してしまったのである。

 それは高度経済成長期の終焉が宣言された年のことであった。

 暴力の時代にしか居場所がなかった彼らは、果たして、現代に何かを残せたのか。誰もが心豊かで幸せだったというあの時代は、悲しい宿命さだめに生まれ付いた彼らにも報いたのだろうか――〝古き良き昭和〟とやらを想起させると夕陽を見つめる度に、そのことが男性の脳裏をよぎるのだった。


(……神は与え、そして、神は奪う――か。は……あの子にだけは何としても報われて欲しかったのだが、かくも人の運命とはやり切れんものかよ……)


 のちに聞かされた話では、初めて遭遇した獅子に対して狼は精神こころが『壊れている』との印象を抱いたそうだ。

 かく言う彼も出会ったばかりの頃は十分に『壊れている』と思えた。感情が限りなくぜろに近かった当時などは、己の精神こころの在り様さえ理解していなかったくらいである。

 もしかすると、眠れる獅子も狼のように最初から『壊れていた』ほうが幸せであったのかも知れない。しかし、彼は『壊れていない』状態の精神こころの欠片を抱いていた。人として当たり前の精神こころの働きを知っていた。

 そして、それはこの世で最も不幸なことかも知れない。『壊れて』しまった精神こころが元の形に回復するくらい安らげる世界を――ささやかな幸せを得たればこそ、それが失われた瞬間の反動は筆舌に尽くし難いのである。


(……あのが生をけてくれたことは、斗獅矢としやの救いだったと信じているがな……)


 同じ時代を生きた〝身内〟に想いを馳せ、何とも喩え難い溜め息を吐いた男性は、ふと和服の袖から懐中時計を取り出した。短針はそろそろ午後五時を示そうとしている。

 急いているわけでもないのに時間を確かめてしまったのは無意識の行動である。己が生きる現実を再認識し、これによって夕陽に溶け込んでいた心を引き戻したのだ。


「――感傷に耽るのも構いませんが、くれぐれも無理だけはせんでくださいよ。奥方様からお叱りを受けるのは自分なのですからね」


 運転席から声が掛けられたのはチェーン・ホテルへと抜ける最後の曲がり角まで差し掛かったときである。追憶の水底まで心を潜らせている間に身じろぎ一つもしなかった為、体調不良に陥ったのではないかと心配させてしまったわけだ。

 ハンドルを任されているのは運転席が窮屈に感じられるような大男だった。黒服の上からでも察せられるほど鍛え抜かれた肉体からだは、〝いざというとき〟に後部座席の老人を庇う為にるのだろう。

 ハンドルを任せるようになって随分と長いとしつきを経たが、彼もまた〝同じ昭和〟を生き抜いた一人である。即ち、獅子の牙を記憶に留める生き残りとも言い換えられるのだ。

 それ故、夕陽の色に何を想っていたのか、すぐさまに察したのだろう。バックミラー越しに気遣わしげな視線を向けていた。


「何せ年寄りの冷や水ほど合理性を欠くものはこの世にありません」

「……いぬひこ


 乾いた笑い声と共に運転手の名前を呼び、不調法な軽口に釘を刺した。

 肩を竦めて尚も忍び笑いをらす運転手が言うように『昭和』という剥き出しの暴力がはびこる時代を生き抜いた人間にとって、これ以上の追憶は心身に毒であった。


 程なくしてリムジンはミッドタウン・タワーの敷地内に至り、次いでチェーン・ホテルの正面玄関へ横付けされた。その直前には警護の車両から屈強の男が飛び出し、一斉にリムジンを取り囲んでいる。

 誰もが黒服に身を包んでいるので見ようによっては法事で訪れた客と勘違いしてしまいそうだが、四方八方を警戒する彼らは腋の下に手を入れている。それはつまり、万が一の状況に対処し得る道具をに忍ばせていることを意味していた。

 客から車と鍵を預からなければならないバレーパーキングのスタッフたちは異様としか喩えようのない光景にたじろぎ、自分たちの職務をも失念して立ち尽くしてしまったが、それも無理からぬ話であろう。

 『犬彦』なる運転手自らによって開かれたリムジンのドアは明らかに通常の物よりも分厚い。傍目にはVIP専用の高級車としか見えないのだが、おそらくは銃撃をも想定してドアからガラスに至るまで、くまなく防弾の備えが徹底されているはずだ。

 リムジンから悠然と降り立った熟年の男性は和服の背中に花菱の紋章を背負っている。見れば、黒服たちの襟元にも同じ形のバッジが付けられているではないか。

 それはつまり、彼らが一個の集団であることの証明である。飛び出してきた支配人が極度に緊張した面持ちで応対する辺り、を要する類いの組織であることは間違いなさそうだった。

 「わざわざの出迎え、痛み入ります。今日はお世話になりますよ」と鷹揚に応じる和服姿の男性は、どうやら国際的なチェーン・ホテルさえも脅かし兼ねないのようだ。


 くだんが支配人の案内を受けながら赴いたのはホテルの一角に所在するフレンチ・レストランである。世界が認めた料理の質は言うに及ばず、地上四〇階という天空からの眺望は絶景の一言であり、これを楽しみにして足繁く通う客も少なくなかった。

 本来であればディナータイムを迎える頃合なのだが、今日に限ってはフロア全体が不気味な静寂に包まれている。週末という状況にも関わらず、宿泊客と一度もすれ違うことがないのは不自然というべきであろう。

 を要するを迎えるに当たって、少しの粗相もないようホテル側が取り計らっているらしい。フレンチ・レストランの表には『本日貸し切り』とまで貼り出されており、幾ら何でもやり過ぎだと和服姿の男性自身が苦笑をらすほどであった。

 薄暮はくぼの東京ミッドタウンを一望できる窓際の特等席で彼を待っていたのは、大学生くらいと思われるうら若き乙女であった。

 おそらくは男性の半分も生きていないだろうに、双眸には年齢不相応ともいうべき憂いを湛えており、夕陽の色を吸い込んだ眼差しは人生の悲哀すら滲ませていた。


ひょうおじさま……」


 セミフォーマルなパンツスタイルの乙女は栗色の綺麗な髪を襟足の辺りで一房に結わえている。その姿へ愛おしそうに目を細め、微笑みと共に首を頷かせた男性は、しかし、口から飛び出しそうになった言葉だけは慌てて飲み下した。

 「一段と母上に似てきた」と我知らずらすところであったのだ。

 は彼女にとって辛い想い出であり、禁句以外の何物でもない。先程まで父親のことも振り返っていたのだが、それについても決して明かすまいと心に決めていた。


「待たせてすまなかったね、神通じんつう君。入店時間まで指定されて窮屈だっただろう?」


 哀川あいかわ神通じんつう――それがこの乙女の名前であり、差し向かいの男性は彼女から『ひょう』という風変わりな呼び方をされている。

 わざわざ椅子から立ち上がって出迎えてくれた神通へ座り直すよう促し、自らも向かい側の席に腰掛けたひょうは、傍らに整列し始めた黒服たちに店外での待機を命じた。

 腋の下にを隠し持っているような男たちに囲まれていては会話も食事も落ち着かないだろう。ひょうの配慮を感じ取った神通は律儀にこうべを垂れた。

 生真面目な神通の様子に父親の面影を重ねたひょうは過ぎ去った時代への感傷を呼び起こし続ける夕暮れの色が疎ましくなっていた。血を分けた父娘なのだから強い影響を受けていて当然だろうが、彼女には誰にも縛られることなく伸びやかに生きていて欲しいのだ。


「お忙しい中、お呼び立てして本当に申し訳ありませんでした」

「いやいや、この店を指定したのも私のほうだからね。こちらこそ、無理を頼んですまなかったよ。……結局、一時間もキミに待ちぼうけを食わせてしまった」

「遅刻というわけではないのですから、おじさまこそお気になさらないでください」

「事情はどうあれ待たせてしまったのは事実だ。お詫びといっては何だが、ここは私にご馳走させてくれ」

「……正直、すごく助かります。こんなに高級たかそうなレストラン、一度も入ったことがなくて、とだって相談しようがありませんでしたし……」


 どうやら神通はひょうから指定されて一時間ほど早く店に入り、そのまま待機していたようだ。つまり、二人揃っての入店をはばかったということである。年齢の差こそあれ男女に違いはなく、ともすれば、秘められた恋の逢瀬という疑いを持たれてもおかしくはない。

 尤も神通は「きよおばさまは元気にされていますか」とひょうに家族の近況を尋ねており、応じる彼も躊躇ためらうことなく妻について語っている。互いの心を満たすのは恋慕などではなく親類への情というわけだ。


「そうだ、しくじった……きよから神通君に春物のスカーフを預かっていたんだよ。別件に気を取られていたら、うっかり部屋に忘れてきてしまったな」

「ありがとうございます。折を見てお屋敷のほうへ取りに伺いますよ。なかなか、きよおばさまとはお会いする機会がありませんし……」

「……ああ、我々としてもキミに負担が掛かるような真似だけはしたくないからね。身内で食事をするだけでもあれこれと気を回さねばならんのは煩わしくて仕方ないよ」

「そ、そういう意味ではなくて……わたし、これでも大学生なんですよ?」


 大学生活キャンパス・ライフを謳歌しているらしい神通の口振りにひょうは相好を崩しつつ首を頷かせた。

「今度は恋人かれしもこの店に連れてきたらどうだね? 大学生の懐事情にも優しいリーズナブルな料理もある。シェフ自慢のドライカレーを頼んでみると良い。いわゆる、フランス式だが、ぶつ切りの野菜とホタテが絶妙に絡み合うのだよ。何よりここはロケーションが最高の味付けだろう? デートの締め括りとしては申し分ないと思うがね」


「……わたしの恋人かれしいない歴、年齢とそっくり一緒なんですけど……」

「これは失敬……」


 うら若き神通と熟年のひょうが親類ということは間違いないが、彼女のほうはにしか見えず、が必要な組織と関わりを持っているようにも思えないのだ。

 両者の会話から察するに必要なときだけ連絡を取り合い、普段はそれぞれが属する〝社会〟で生きているらしい。和やかな雰囲気からも仲違いしたわけではないことが窺える。

 両者を分かつのは『住む世界の違い』という事情一つということである。


「――さて、用件を先に聞いておこうかな?」


 直立不動で待機していたウェイターに注文を済ませると、ひょうは居住まいを正して神通の瞳を覗き込み、世間話から本題へ移るようやんわりと促した。

 確かに時間と場所を指定したのはひょうだが、連絡を取ったのは神通のほうなのだ。特別な話を胸に秘めているのは明白だった。彼女から呼び出しの電話を入れたのは今回が初めてなのだ。それほどまでに切羽詰まった事情を抱えているのだろうとひょうは案じていた。


「それは、ええっと……」


 食事をりながら本題はなしを切り出すタイミングを計ろうと考えていた神通は、思いがけない筋運びへ困ったような表情を浮かべた。今はまだ彼女の中でも述べるべき言葉が整理できていない様子である。


「悩み事を抱えたままだと折角の料理も台無しだろう? この店は私も家族も贔屓にしているからね。できれば、神通君にも最高の状態で堪能してもらいたいのだよ」

「……ひょう……おじさま……」

「遠慮は不要ということさ。大っぴらにすることははばかられるかも知れんが、我々は身内同士じゃないか。水臭いことは抜きで行こう」

「……ありがとうございます……」


 改めてこうべを垂れる神通に対して、ひょうは「おじさんに任せておきなさい」と、茶目っ気たっぷりにウィンクし、併せて親指を垂直に立ててみせた。


「学費の援助かな? それなら銀行を幾つか経由すれば問題なく都合できるだろう」

「いえ、それは……父が遺してくれた財産がありますし、義兄あににも助けてもらっていますから。アルバイトもしているので生活費だって問題ありません」

「確か、おにつら氏の店で働いているんだったね。……とは何年も前から揉め続けているのでなぁ……キミが肩身の狭い思いをしていなければ良いのだが……」

「その辺の事情はオーナーも呑み込んでくださっていますし、他の従業員にも漏れないよう配慮してもらっていますよ」

「学費でないなら、……いや、まさか、男を都合して欲しいなんてことは……」

「そのテの冗談は漏れなくきよおばさまに言い付けますので」

「この年齢としで屋敷から締め出される事態だけは避けたいところだな」


 おどけた調子で下世話なことを口走るひょうであったが、本気で神通をからかっているわけではない。彼女が本題に入り易くなるような雰囲気を作り出そうと試みているのだ。

 ひょうの気遣いを受けt神通も少しずつ緊張がほぐれてきたようだが、それでも無理強いだけはしなかった。彼女のほうから切り出せるようになるまで待ち続けるつもりである。

 不意にひょうから目を逸らし、窓に映る自分の顔と見つめ合った神通は、少しばかりの逡巡を挟んだのち、哀愁の色に染まった左頬を右の人差し指で撫でた。

 これによって自らを奮い立たせたのであろう。決然とした面持ちでひょうに向き直ると、ハンドバッグから一冊の手帳を取り出した。

 そこには『イラプション・ゲーム』なるロゴマークが刷り込まれている。

 机上に置かれた手帳――というよりもロゴマークにひょうも見憶えがあった。とある理由から彼女が参加している団体の物であったはずだ。


「身内のコネにすがるようで心苦しいのですが、わたしは……はおじさまを頼みとするしかなくて……」


 思い詰めた顔を見せる神通にひょうはいささか面食らってしまった。彼女が抱えている事情は吏飃りひょうの想像以上に深刻であったようだ。個人的な頼み事ではなく「わたしたち」と前置きしたからには『イラプション・ゲーム』を代表して陳情に訪れたような気構えなのかも知れない。


(……責任感の強さは父上のほうに似てくれて良かったよ)


 自分以外の誰かの事情まで背負い込んでいる神通の面持ちにひょうはまたしても父親の姿を重ねてしまった。百獣の王たる器を受け継いだことを頼もしく感じたくらいである。


「……今日は『こうりゅうかい』の大親分へお願いしたいことがあり、参上した次第です」

古武士こぶしのように畏まらなくても良いのだが、……の頼み事とは意外だな」

吏飃りひょうおじさまに『わたしたちの闘い』をお認め頂きたくお願い申し上げます」


 『わたしたちの闘い』とは、つまり『イラプション・ゲーム』という団体の活動のことだ。確かにひょうが率いる組織とくだんの団体は良好な関係とは言い難い。しかし、彼自身は神通の参加まで含めて容認してきたつもりである。

 それにも関わらず、改めて認可を請われてしまったということは花菱の紋章を掲げる組織と『イラプション・ゲーム』との間で何か善からぬ事態が発生した証拠であろう。


「神通君、キミはもっと大人に甘えることを覚えなさい。若者の願いに応えることは大人にとって得難い喜びなのだからね」

「……おじさま……」

「キミたちの『闘い』は他の誰でもないこの私が認めているのだ。これから先もそれは変わらないと約束しよう。思う存分、志を果たすと良い」


 詳しい事情を確かめない内から自分に任せておくよう請け負ってくれたひょうに神通は救われた気持ちであった。

 『こうりゅうかい』の大親分――それこそが暴力の昭和じだいを生き抜き、現代に於いても〝裏〟の社会を席巻するの肩書きである。



 *



 中野サンモールから住宅街へ通じる道路を自転車にて激走し、髪の毛を短く切り揃えた頭から大量の汗を撒き散らす少年は、傍目にはタイムトライアルへ打ち込んでいる最中のように見えなくもなかった。

 それとも、学校から学習塾へ急ぐ最中なのだろうか。じゅうどうを着たまま自転車を漕ぐ姿を見れば、誰もが部活帰りと直感するだろう。

 尤も、柔道の心得がある人間ほど驚いて振り向きそうな装いではある。下穿ズボンの裾が膝下九センチ程度と短く、風を受けても裾が靡かないのは殆ど肌に密着している証拠であった。うわの袖に至っては肘の辺りまでしか無いなどじゅうどうの丈が合っていないように思えた。

 ひょっとすると、体格差が大きく開いた先輩の使い古しでも頂戴しなければ部活へ参加できないような苦学生なのだろうか――道路ですれ違った際にそのような同情心を抱いた者が居たかも知れない。

 負けん気の強そうな顔立ちだが、そこにはあどけなさを色濃く残しており、その上、かなり小柄である。眉間が剥き出しになるくらい短い前髪の部分だけを茶色く染めるのがこだわりらしいが、これを思春期ならではの〝背伸び〟のように感じてしまうのだ。

 中学生と間違われることも多そうだが、実際には去年、義務教育を終えている。高校に通っていないので部活帰りという見立ては大間違いである。そもそも、学校の部活動に於いては華美なバックプリントの入った柔道衣じゅうどうぎなど使われるはずもなかった。

 背中には学校名でも氏名でもなく『イラプション・ゲーム』なるロゴマークが大きく刷り込まれていた。

 とめどなく噴き出してくる汗を吸い込み、重そうに湿った手拭いを首に引っ掛けているのだが、そこに青く染め抜かれた『ぐみ』という建築会社が彼の勤め先なのである。

 ペダルを踏み込む足には安全靴の機能を兼ね備えた地下足袋じかたびを泥だらけのままで履いており、汗で湿った手拭いもあちこちが黒ずんでいるではないか。つまるところ、彼は部活帰りなのではなく帰りということであった。

 大工見習いであろうことは間違いなさそうだが、この風変わりなじゅうどうを着たままで材木と格闘していたのだろうか。細かな木片は向かい風を浴びても散っていかず、黒い帯や襟などへ頑固にこびり付いていた。

 およそ大工には相応しくないじゅうどう姿で現場に臨もうものなら、親方からどやし付けられるのは明白だ。もしかすると、仕事上がりに作業服から着替えたのかも知れない。

 いずれにせよ、この少年には「珍妙」の二字こそ似つかわしいだろう。

 跨っているのも男性が好みそうなロードバイクの類いではなく、いわゆるママチャリなのである。前輪の真上に設置されたカゴの中には、はち切れんばかりに膨らんだドラムバッグが放り込まれているのだが、その無造作な有り様から察するに、おそらく内部では大工道具や水筒が混ぜこぜになっているはずだ。

 あと小一時間もすれば中野の駅舎に隠れてしまうだろう夕陽を睨み付けたじゅうどう姿の少年は、ラストスパートとばかりにサドルから腰を浮かせつつペダルを高速回転させた。

 中野駅の敷地と道路を隔てるコンクリートの壁は、いわゆる、ウォールペイントでが施されており、一種の名物として注目を集めているのだが、そうした風潮が気に喰わないのか、それとも傍迷惑な自己主張なのか、本来の絵を塗り潰すようにしてピンクのスプレーが噴き付けられている。

 単に塗料を浴びせただけではない。悪質な落書きによってウォールペイントが台無しにされてしまった箇所が散見されるのだ。いずれも口外をはばかるくらい卑猥な絵柄であるが、落書きの近くには画家のサインさながらに『二〇一四〇一二五 ブラックサバスにて公開処刑』と必ず書き添えてあった。

 文頭に記されている数字は何らかの日程であろう。『ブラックサバス』とは建物の名称と考えて間違いあるまい。公開処刑という過激な文面からは果たし状の代わりとして落書きを披露したかのような印象さえ受けるのだった。


「粋がった分だけ恥かくっていうのにご苦労なこった。処刑はこっちの台詞だっつーの」


 蛍光色のピンクがいやでも目を引く落書きを鼻先で笑い飛ばし、口元に肉食獣のような笑みを浮かべた少年は更に勢いを付けてペダルを踏み込んだ。

 二〇一四年一月二五日――落書きに添えられた日付は今日であった。

 帰宅途中であろうサラリーマンたちの間をノーブレーキですり抜けると、無礼を詰る怒鳴り声が追い掛けてきたが、少年は首を振り向かせることもなく下町情緒溢れる住宅街に突き進む。耳障りな雑音に気を取られるほど暇ではないと無視を決め込んだ次第である。

 折しも前任者の辞職に基づく東京都知事選が告知されたばかりであり、あちこちに選挙掲示板が立てられている。将来、教科書に載ることまで意識した演出なのか――数え切れないくらい大量の花を背にして立つ男性候補者のポスターを蹴り付け、この反動でもって飛び込んだ路地は夕食時ということもあって胃袋を刺激するカレーの匂いが充満していた。

 止め処なく溢れてくる生唾を飲み下した少年は、道中、コンビニに寄って握り飯でも腹に入れてくるべきだったと嘆いた。

 夕食は必ずカツカレーにしようと〝用事〟を済ませた後のことを思案し始めた矢先、正面に小さなビルを捉えた。隣接するアパートの影に埋もれてしまうような建物こそが少年の目的地である。正面玄関の脇には地下へ続いているものと思しき階段があり、アリジゴクさながらに訪れた人を手招きしているようだった。

 階段の手前まで全力でペダルを漕ぎ続け、建物へ激突する寸前で急ブレーキを掛けて勢いよくサドルから飛び降りた少年は、着地と同時に背後うしろを振り返り、「ジロジロと覗き見なんかしてんじゃねぇ! 文句があるなら出てこいやッ!」と威嚇の声を張り上げた。

 自転車で路地を駆け抜ける途中から無遠慮な視線は感じていたのだ。姿こそ見えないものの、通りを隔てた住宅の内側から不審の目を向けられているらしい。


(――まァ、ワケわかんねー連中がゾロゾロと群れて歩いてきたら、下町の皆サマが不気味がるのは当たり前だろーけどな)


 チンピラ同然の振る舞いを続けつつも、じゅうどう姿の少年は住民たちが自分のことを警戒する理由を推理していた。決して大きいとは言い難い建物に怪しげな集団が殺到しようものなら心穏やかでいられないはずだ。そこに〝事件〟の可能性を見出すのもごく自然の流れといえるだろう。


「サイレンの音が苦手なら耳栓を用意しといたほうがいいぜェ? この辺、一時間もしたら救急車で埋め尽くされるだろーからよォッ!」


 盛大に鼻を鳴らして物騒なことを言い放った少年は、数多の視線を背中に受けつつドラムバッグを担いで階段を下りていく。

 近隣の住民たちは彼が向かう建物がどのようなか、承知しているはずだ。ひょっとすると、「またか」と重苦しい溜め息を吐いていたのかも知れない。

 中野の事情ことに明るくない通りすがりの人間は、下町情緒に溢れた地上とは大きく掛け離れた〝異世界〟が地下に広がっていることなど想像だにしないだろう。

 真鍮製のプレートが貼り付けてある扉を階段の先に発見した少年は、垂直にドラムバッグを放ると、これが落下してくる前に両手でもって素早く黒帯を締め直した。

 その黒帯には血の色よりも更に鮮やかな糸でもって『でん』と刺繍されている。


の景気付けと行こうじゃねぇの――」


 右手でドラムバッグのベルトを掴み、肩に担ぎ直した少年は――でんは、階段を下り切って扉の前に立つと獰猛笑みを浮かべながら左足を持ち上げた。

 真鍮製のプレートへ刻まれた名称なまえから察するに、扉の先に存在する地下の〝異世界〟は『ブラックサバス』と呼ばれているようだ。

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