その2:無法者(後編)~コンデ・コマの後継者
二、
中野の地下に広がる〝異世界〟は、ネオンライトを嫌った人間が逃げ込む避難場所めいたショットバーである。玄関に面したカウンターテーブルから酒が提供されるらしい。
ルームフレグランスと思しき薬品的な香りも辺り一面に充満している。カレーの匂いでくすぐられたばかりの鼻を容赦なく突き刺された
天井に設置された照明は意図的に最小限まで抑えられているようだ。床に埋め込まれた照明は紫のフィルターを通しているので純粋な
電知を出迎えたのは耳を塞ぎたくなるくらい大きな雑音と、ネオンライト以上に眩い光である。地下の〝異世界〟は非常に奥行きがあり、ショットバーのカウンターテーブルと隣接する形で広い空間が広がっているのだ。視覚と聴覚を同時に冒してしまうような毒々しい光と音は、そこから輻射されていた。
ショットバーの向こうに詰め寄せた群衆より発せられる喚き声こそが爆音の正体である。
すし詰め状態の群衆は電知に背を向ける恰好で大きな輪を作り出しており、ある者は両腕を突き上げ、またある者は人間の
部屋の四隅や天井にはライブハウスで使われる色とりどりの照明器具が設置され、〝何か〟に向かって眩いばかりの光を浴びせ続けていた。昨日今日に運び込まれたと思しき機材は、ただでさえ暗い地下室を明るく照らす為の措置に違いない――が、光と共に熱までもが一点に集中している状況であり、輪の中心に近い人間は蒸し焼き同然の状態に陥っているのではないだろうか。
この状況を見て取った電知が溜め息を吐いてしまったのは仕方のないことであろう。彼もまた多方向より光が収束していく中心部へ臨まなくてはならないのだ。
ショットバーのカウンターテーブルにはフードを頭から被ったパーカー姿の少女が腰掛けており、隣の喧騒には目もくれず
「エースがそんなんだから〝奴ら〟にナメられんだよ! 気合い入れやがれッ!」
荒っぽい口調で大遅刻だと繰り返す少女は、カウンターテーブルから床の上に着地すると憤激に任せて彼の尻を蹴り上げた。
「いってぇな! てめー、
「だーかーら! 情けねぇ悲鳴を上げンなっ! メンツ潰れたら空閑の
「メンツを気にする前に女らしさの一つも持ちやがれ!」
言い返されたことが気に喰わない上下屋敷は二度、三度と
「痴女がいるってウワサのほうがよっぽどメンツにキズが付くだろーが」と窘められた上下屋敷のパーカーにも『
「痴女だぁ? 人の
「……変態に変態って呼ばれる気持ちって、すっげぇ複雑なんだな……」
今更、注意を重ねたところで無意味と悟った電知は、群衆の渦中へ――光の収束点へと進み始めた。上下屋敷はその後ろを追いかけていく。しつこく蹴りを入れるのは彼女なりの
道を譲るよう呼び掛けても誰一人として反応しない以上、もはや、
ただでさえ窮屈な思いをしている中で一等強く横へ押し付けられるのだから、誰も彼もが鬼のような形相で電知を睨んでしまうのだが、薄暗闇の中に風変わりな
電知に向かって声援を送る人々は、彼や上下屋敷の着衣へバックプリントされた物と全く同じロゴマークの品を身に付けている。人によってTシャツやリストバンドなど種々様々だが、それは『
「――お待たせしましたァッ!
ロゴマークがワッペンとして縫い付けられたジャンパーを羽織る男性が司会進行係のように叫ぶと『
そうして開かれた
冗談めかした調子で「出迎え、ご苦労!」と笑う電知の双眸は、小柄な彼より遥かに大きい少年の姿を捉えていた。着衣の上からでも出来るくらい逞しい胸板の持ち主である。尤も、素肌に直接、オーバーオールを着込むという出で立ちなのだから筋肉の脈打つ
大柄な少年は丸太のように力強い左腕でもって電知のドラムバッグを抱えていた。
『
「よく我慢できたな、
「ああ」
不敵な笑みを浮かべながら頷き合った二人は、言葉少なに互いの右拳を重ね合わせた。
極めて原始的な行為だが、仲間の期待を物理的に感じることで脳が刺激され、戦意が昂っていくのだ。あるいは闘争本能を揺り起こす〝通過儀礼〟とも言い換えられるだろう。
「この期に及んでナンだけどよぉ、やっぱ納得いかねーわ。面白トコロを空閑が独り占めじゃん? ずりーんだよ! いっそ乱闘起こして後腐れなく終わらせよーぜ~?」
「ンなことしてみろ、お前の言うメンツなんか跡形もなく吹っ飛ぶぜ。恥ずかしくて中野の町を二度と歩けなくなるんじゃねーの? 左右田だって、そう思うだろ?」
「ああ」
「ちぇ~っ! こうなると試合形式なんか面倒くせーだけだぁっ!」
大暴れの機会を与えられなかったことが不服でならない上下屋敷は、
群衆が形作った輪の中央付近は床にクッション材のマットを敷き詰めており、見た目には柔らかそうだった――が、よくよく目を凝らしてみるとサイズの合致しない物を強引に嵌め込んだ箇所も多い。
「急
それ故に電知は「脳天から落とされたら死ぬかもな」と口の端を吊り上げた。
生か、死か――二つに一つの潰し合いへ臨めることが愉快でならないのだった。
「
電知が呟いた『
電知たちがロゴマークを背負った『イラプション・ゲーム』――通称『E・G』とは、この『
トトカルチョやドラッグなどの犯罪行為が横行する先入観が
誰よりも強く、何よりも楽しく――闘う喜びを妨げる
上下屋敷は電知のことを『
室内に形作られた〝輪〟を真ん中から二分する形で『
中野駅周辺の壁に対する悪質な落書きに使われたスプレーと全く同じ色の布切れである。
この町に暮らす人々ならばパッションピンクのバンダナを巻いた一団と『
特徴をそのまま表したかのような呼称の通り、同一の色に揃えた小物などを身に付けることによって連帯感を強め、集団行動を取るのがカラーギャングである。こうした結び付きの為なのか、グループの
『ブラックサバス』に詰め寄せた二〇人ほどの集団は、パッションピンクに染めたバンダナが〝ファミリー〟の証であることから『桃色ラビッシュ』と名乗っていた。
首都圏に点在するカラーギャングの中でも、この『桃色ラビッシュ』は過激派ということを内外に向かって強く喧伝しており、一歩でも縄張りに足を踏み入れたグループには容赦なく危害を加えている。先日は敵対関係でもなかったグループのリーダーを遊び半分で袋叩きにした上、その恋人まで嬲り者にして数名が逮捕されたばかりであった。
警察からマークされ、何より事件の被害者が入院中という状況にも関わらず、活動を自粛するどころか、誰の目を
地下の〝異世界〟に於いても異様な存在感を放つパッションピンクの群れは
事実、『桃色ラビッシュ』のメンバーは〝試合〟をしようという顔付きではなく、上下屋敷が望んだ流れに向かい兼ねない気配を醸していた。闘争心よりも遥かに残忍な光を瞳に湛えているのだ。
尤も、『
「――何を偉そうな顔しているんだ。重役出勤しておいて反省の色もナシとは呆れて物が言えないのだがね」
今にもバタフライナイフを持ち出しそうなカラーギャングを楽しそうに見回し、一番に飛び掛かってくるであろう相手を品定めする電知の後頭部を何者かが小突いた。
「か、
何事かと振り返った電知が顔を引き
だが、背広の胸ポケットに差した万年筆の側面には
いかにも神経質そうな男から一睨みされた電知は、目上に対しても生意気に減らず口を叩ける性格でありながらバツの悪そうな顔で頬を掻くばかり。「重役出勤」とは遅刻者を責める常套句だが、反論の余地がないことを自覚している様子だ。
いきなり後頭部を小突かれても報復の気配すら見せずに俯いてしまうのが何よりの証拠といえよう。その様子は不良学生を注意する教頭のようにも見えるくらいだった。
「上棟式だったんだよ、今日。施主がいつまで経っても来ねぇもんだから、えらく押しちまってさ。全速力でチャリ飛ばしたんだけど、さすがに日野から中野までは遠かったぜ」
「携帯電話くらい持っているのだろう? せめて私にくらい遅れる旨を連絡してくれても良かったんじゃないか? 到着予定時刻も分からなくては場を仕切るのが大変なんだよ」
「チャリ漕ぎながら
「自転車という乗り物には停車に必要な部品が必ず取り付けられている筈なのだが、それは私の記憶違いかな?」
「おれのチャリはブレーキの壊れたトロッコと同じだよ。一度、走り出したらゴールまで
「その返事は感心しないぞ、空閑君。ノーブレーキの自転車が事故を起こすケースだって後を絶たないのだからね。キミには交通安全協会の指導を手配したほうが良いらしいな」
「……手前ェで手前ェの墓の穴を掘っちまった~い……」
一触即発という極度に張り詰めた空気の真っ只中でありながら、年少者に向けた説教を止めようとしない影浦に困惑したならず者たちの間ではどよめく声まで上がり始めている。折角、昂ってきた戦意が全く萎んでしまうような情況であり、電知の気性であれば活火山の如き勢いで反発してもおかしくないだろう。それなのに肩まで落としながら耳を傾けているのだ。
両者の〝立場〟からすれば、電知が俯き加減となってしまうのも無理からぬ話であった。影浦という背広姿の男性は『
その団体代表は地下の〝異世界〟には姿を見せておらず、この場に於いては影浦こそが『
「何とかして時間を稼いでくれないだろうか。……
電知の耳元へと顔を寄せた影浦が作戦めいた
「相手がどれだけ強ェか、試合時間はそれ次第だぜ。ダンナにゃ義理は立てるがよ、まどろっこしいコトはゴメンだし、団体の事情なんざ、おれの知ったこっちゃねぇ」
「空閑君、これはただ〝敵〟を潰せば良いという単純な話ではないのだよ。後腐れがないよう始末を付けるのが一番の目的だ」
「――この期に及んでビビッたか? こそこそと逃げる算段かよ? 笑わせらァッ!」
密談めいたやり取りを続ける電知と影浦の間に一際大きな
この二人だけではない。左右田も上下屋敷も――隣のフロアにまで漏れてしまうような大騒ぎを続けていた『
彼らの眼光は地獄の業火にも匹敵するほど破壊的な衝動によって研ぎ澄まされている。
「いやいや、ビビッちまったことを責めてるわけじゃねーんだぜ? そりゃそうだって納得してたところさァ。〝表〟と〝裏〟の
アマチュア団体でありながらプロ顔負けの腕自慢が揃う『
一目でブランド物と分かるオパールのピアスで
「空閑電知、てめーの
名字の通りに桜色に染めた髪をわざとらしく搔き上げつつ、挑発的な言葉を紡ぎ続ける櫻ヶ岡は「手に職を持つ」ということまで〝逃げ道〟のように皮肉った。〝裏〟の世界に根差したカラーギャングを絶対的な基準に据え、〝表〟の
彼の物言いは正業に就いた人間への
「気合い云々なら、てめぇらこそ足りてねーだろ。大口っつーのは手前ェの足で立ってから叩かなきゃシマらねぇんだぜ? ケツを持ってくれる
「おうおう、後ろ盾もねぇ野良犬の遠吠えは心地良いねぇ。『
「……『
「もっと聞かせろや! てめーの泣き言、
両手の中指を垂直に立て、更には舌まで出して挑発する櫻ヶ岡は全く隠すつもりがないようだが、彼の口にした『
つまるところ、『桃色ラビッシュ』が〝ヤクザ〟の紐付きであることを自供したようなものである。カラーギャングが〝ヤクザ〟の手下になることは大して珍しくもなく、特殊詐欺やドラッグの密売による資金調達などを下請け企業のように任されるのだ。
電知曰く――『
残虐極まりない暴行事件を起こし、逮捕者まで出しながらも『桃色ラビッシュ』が一斉検挙を免れたのは東日本でも最大規模の指定暴力団が
そのように厄介な相手を向こうに回した状態だからこそ、影浦は対立が長引くことを懸念している。余りにも事態が
どうやら、影浦は状況をひっくり返す〝策〟を既に講じているらしいが、一方の電知は「今、この場で
しかし、誰もが彼のように豪胆に振る舞えるわけではない。一般市民にとって指定暴力団は脅威以外の何物でもないのだ。『
それもまた自然の反応だった。あらゆる世界の人間が集い、みな平等にケンカへ興じるという性質上、『
プロのように格闘技一本だけに専念できるわけではないアマチュアだからこそ、所属選手それぞれに〝立場〟がある。守るべき家庭や、やむにやまれぬ事情を抱えている。
〝表〟の社会をホームグラウンドにする人間にとって指定暴力団との接触は何があろうとも避けなくてはならないのだった。非合法組織との関わりを遮断するという団体代表の意向に魅力を感じて『
これに対してカラーギャングを構成するメンバーは手に職を持つどころか、中学あるいは高校に通う少年ばかりが揃っている。殆どの人間が学生服に身を包んでおり、リーダーの櫻ヶ岡でさえ大学一年生なのだ。
悪童たちは〝ヤクザ〟という〝大人〟の威光を笠に着て、まるで支配者のような面構えで中野の町を
そもそも、『
早い話が恐喝である。非合法組織との取引には応じない方針を貫く『
それすら飲み込まないようなら問答無用で全面戦争に持ち込むと強く言い添えて――だ。
相手は名うてのカラーギャングである。しかも、
中野駅前の壁に記されていた落書きは比喩でなく本物の果たし状だったわけである。改めて
『
警察からマークされている状態では大規模な乱闘も起こせない。
これは
「どうした、
「るせぇんだよ、さっきからベラベラと! 『
「ビビり入ったカスはハッタリが増える法則ゥ~!」
後ろ盾の強大さ故に自分たちが負けることなど万が一にも有り得ないと信じ込んでいる櫻ヶ岡は『
(さっさとやることやって帰りてぇぜ。胃袋だってカツカレーを待ってらァ)
「オレたちは違うぜ。〝裏〟の世界一本で生きてくって覚悟は、まァ、てめーらのような半端者には理解できねぇだろーがな」
「手前ェの足で独り立つこともできねぇカスが処世術語ったって説得力もクソもねーぞ」
「密かに録音モードにしといて良かったぜ。負け犬の遠吠え、今度こそ
「てめーらみてェな体力バカは遊びでボコスカやってるだけだろ? その程度の覚悟だから〝居場所〟がなくなっちまうんだよ!」
『桃色ラビッシュ』の悪童たちは「体力バカと違ってオレたちは頭脳派なんだ」などと胸を張るリーダーに呼応し、驕り高ぶった調子で大歓声を上げ始めた。
「……〝居場所〟ねぇ――」
『
『闘う』ということは誰かの許しを得て行うものではない。闘いたいと思った情熱こそが全てであり、その瞬間に立っていた所が
『闘い』とは何より自由なものである。〝ファミリー〟の結束を強要し、〝ヤクザ〟の手駒にならなければ奔放に振る舞えない櫻ヶ岡のほうが息苦しそうに思えるくらいだった。
「――どうしても〝居場所〟が必要なら、それは自分自身の手で作るもんだ。手前ェの力で立つってのはそういうコトだぜ。やっぱ、てめーらの
「通知表の成績が体育以外は底辺だったような体力バカが説教垂れようってか? 笑わせるぜ、空閑電知。……てめぇのことは何でも聞いてるっつったよなァ?」
「
「偉そうに〝居場所〟とかのたまっちゃいたが、てめぇのそれだって所詮は
「……何ィっ?」
「
呆れ顔のまま暫く動かなかった電知の表情筋が憤激に歪んだ。己に叩き込んだ格闘技を〝軸〟に据えて独り立っているというのに、その矜持を
実際、櫻ヶ岡から浴びせられたのは言い掛かり以外の何物でもなかった。確かに〝この
〝幼馴染みとの想い出〟といっても、別段、色気のあるような話ではない。事情を知らない他人から腐れ縁などと茶化されると、ただそれだけで腹が立ってくる相手なのだ。照れ隠しでも何でもなく、本当に辟易させられるのである。
しかしながら、
出逢いは小学校に入ったばかりの頃だろうか――その少年は毎日、顔中を青く腫らして登校していた。教師たちの間では家庭内で暴力を振るわれているではないかという声が上がり、実際に彼の保護者が呼び出されて事情聴取を受けたこともあったようだ。
棒のような物で殴られたとしか思えない傷だらけの
ところが、幼い彼を迎えたのは平気で子どもに危害を加えるよう恐ろしい大人などではなく、意外としか言いようのない真相であった。
確かにクラスメートの家庭は少しばかり特殊な事情を抱えていた。小柄な電知には
そこは大正時代から続く剣道の道場であり、クラスメートはたった一人の跡取り息子なのである。電知が壁をよじ登って敷地内へ踏み込んだときにも剣道場で稽古しており、老剣士が突き込んでくる竹刀の先端を喉に受けて壁際に撥ね飛ばされたところだった。
余りの事態に驚いて『
そして、その光景が全ての答えを示していた。全身のアザは剣道の稽古で刻まれたものであり、だからこそ、学校側も保護者に対して強く注意できず、児童相談所に通報されることもなかったわけだ。『寅』自身、床の上へ倒される
尤も、それは電知が知っている剣道とは別物といっても過言ではなかった。竹刀の構え方や身のこなし、一揃いの防具などは剣道の基本に則っているのだが、大人と子どもが本気でぶつかり合うなど稽古は相当に荒々しい。
剣道の公式戦でこのような技を使おうものなら問答無用で反則を言い渡されるだろう。竹刀を握った拳による殴打など絶対にあってはならないことである。それでいて有効な部位に技を決めて勝敗を分けるという基本原則は剣道に準拠しているらしい。
不思議な技に接して目を丸くするばかりの電知に対して、『寅』は自身が稽古を積んでいる剣道の様式について、その成り立ちから説き聞かせた。
何でも『寅』の祖父は海の向こうまで勇名を馳せた伝説の剣道家――『タイガー・モリ』こと
当時の電知は
体力作りの一環として保育園の頃から習ってきた柔道にも封印された技が存在するのではないかと興味を持った電知は明治まで歴史を遡って往時の選手たちを丹念に調べ上げ、黎明期から現代に至る
古流柔術でも現代柔道でもない〝古い時代の柔道〟と呼ぶべき技に電知もまた魅せられてしまったのである。
自分と同様の〝道〟を電知が歩み始めたと知った『寅』は目を輝かせて喜んだ。特殊と言わざるを得ない環境に理解を示してくれた初めての〝友達〟だったのだろう。互いに修練を重ねて、いつか、本気で勝負しようと約束を交わしたのである。
もう一〇年も昔のことだが、その瞬間の昂揚を電知は一日たりとも忘れはしなかった。
櫻ヶ岡の罵声を受ける恰好で〝この
「いや、まさか――」
「――『そのまさか』って言ったら、
この上なく忌々しそうに吐き捨てられた呟きへ答えを返したのは、電知の真後ろから耳元に向かって
電知よりも二回りは背が高く、すらりとした細身でもある為に大人びて見えるが、少しずつ着慣れてきた頃合と思しき状態の学ランからして年齢自体は彼と同じくらいだろう。
虎柄の模様が白く染め抜かれた竹刀袋を肩に担ぐ姿は部活帰りの高校生そのままであり、地下の〝異世界〟には誤って迷い込んだとしか思えないのだが、当人は肌に突き刺さるような暴力の気配に怯むどころか、むしろ、心地良く感じている様子だった。
今にも乱闘騒ぎを起こしそうな面々を楽しそうに見回した少年は、困惑した
「左右田くんもこんばんは。相変わらず、筋肉ぱっつんぱっつんだねェ~」
「あ、ああ……」
「今夜の照ちゃんは何色かな? ボクの好みは蜜柑色だけど、後で確認させてくれない?」
「へ、変態っ! な、なんで、て、てめーのリクエストに応えなきゃなんねーんだッ!」
「ん? 照ちゃんが可愛いからさ」
「こ、ここ、答えになって、ねぇ~だろぉーがぁぁぁッ!」
慣れ親しんだような受け答えから察するに、学ラン姿の少年とは左右田や上下屋敷も浅からぬ付き合いがあるらしい。後者は下の名前が
その上下屋敷は両手でもってスカートを押さえつつ、真っ赤な顔で「ド変態!」と喚き散らしていた。先程まで周囲の目を
それとも、この少年に対する反応だけが特別なのだろうか。確かに人懐っこい笑顔はアイドルのように爽やかで、この場の誰よりも
その一方で、無害を絵に描いたような
「やっぱり、てめーが入れ知恵してやがったんだな、寅ァッ!」
火山の爆発と
本名は
「足並み揃えろっつってんだろ、〝ファミリー〟として! てめーまで空閑電知と同じ真似してたらメンツにキズが付くじゃねーか!」
「――ってことは電ちゃんも遅刻? いやぁ、面目ない。ほら、ボクって小学校の剣道クラブでコーチやってるじゃないですか。稽古に熱が入ると時間が読めないんですよぉ」
謝罪の気持ちなど微塵も感じられないのだが、到着が遅れた理由をとりあえず櫻ヶ岡へ釈明しつつ、寅之助はカラーギャングたちが固まっているほうへと歩みを進めていった。
「おい、寅! こっちの質問に答えやがれ!」
学ランの背中を追い掛けるのは、当然ながら電知の張り上げた怒号である。
「さてはてめー、……いつものッ⁉」
「そだよー、今日も今日とて元気に電ちゃんの敵側に回ってまーす! 『いつもの』っていう一言で通じ合えるなんて、行きつけのラーメン屋みたいでテンション上がるねっ」
「上がるか、ボケェッ!」
幼馴染みから殺気立った怒声を浴びせられることが嬉しくて仕方ないらしい寅之助は、駆け巡る陶酔に全身を震わせつつ、学ランのポケットよりパッションピンクのバンダナを引っ張り出すと、『
それは『桃色ラビッシュ』の〝ファミリー〟という証拠である。櫻ヶ岡に「新入り」と呼び付けられた通り、彼もまた恐るべき
『
個人情報をカラーギャングへ密告した犯人を推理する電知が真っ先に思い浮かべたのも幼馴染みの顔だったのである。そもそも、このような真似をする人間など寅之助以外には考えられないのだから、もっと早く気付くべきだったと自分の迂闊さに呆れたくらいだ。
瀬古谷寅之助という少年は、いつだって電知の神経を逆撫でするようなことばかり
それだけならば、電知にもまだ我慢できた。両者の関係が大きく変わったのは〝古い時代の柔道〟に対する理解が一等深まった頃である。その
それは
さすがに堪忍袋の緒が切れた電知から約束の反故を通告されると、用済みとばかりに独りで
幼馴染みの慣れ合いによる試合ではなく、どちらが死ぬか分からない真剣勝負こそが寅之助の悲願である。その為には電知が絆を投げ
もしかすると櫻ヶ岡を焚き付けて『
生まれて初めて自分の志す〝道〟を理解してくれたい相手には思い入れも強くなるものだが、寅之助の場合はそれが常軌を逸した形に歪んでしまったようである。
「思いっ切りお願いね、電ちゃん。キミの想いの丈はボクが全部、受け止めてあげる」
さしもの電知も今度ばかりは激怒するに違いない。憤激とは闘争本能を極限まで揺り動かす鍵でもある。今日という今日こそ〝約束〟が果たされるのだろう――袋の中から一振りの竹刀を抜き出した寅之助は、まるで赤ん坊の如く無邪気に破顔している。
身の裡から湧き起こる憤激によって頬の筋肉が小刻みに震えている幼馴染みを更に煽り立てようというのか、寅之助は彼の顔面に向けた剣先で円を描き始めた。電知のことを前にしか進めないトンボのように見立てて皮肉っているわけだ。
傍目には意味不明な行動のように見えるかも知れないが、幼馴染みとして長い時間を共に過ごしてきた電知には寅之助の意図が伝わってくる。頬の筋肉の脈動が一等速くなったことがその証拠であろう。
「因縁の対決みたいな流れに横槍を入れるのはとても心苦しいんだが、今夜、空閑君が相手をしなきゃならんのは瀬古谷君、キミじゃないだろう?」
陶酔の色を濃くしていく寅之助に対して冷たい
何しろ、寅之助は過去に『
「長い間、待機させられて爆発寸前といった感じではないかね。……見たところ、キミは〝ファミリー〟とやらの新入りなのだろう? いくら情報提供者であっても対戦相手の決定権があるとは思えないのだが?」
影浦が人差し指でもって示した先にはアジア系と思しき外国人の男性が腕組みしながら仁王立ちしているではないか。明らかに苛立った様子であり、全身から穏やかならざる気配を漂わせている。
二つのグループの抗争を決着させるべく『桃色ラビッシュ』が送り出した
それにも関わらず、今まで無視されていたわけだ。おまけに『
「影浦さんは相変わらずキレ者だなァ。『
「ポリ公の目がうぜェんだから大っぴらには仕掛けられねェだろーが。だから、こうして集まってるっつーのに……事情くらい分かれよ、仮にも〝ファミリー〟の一員なら!」
「あいすみません。
「……このクソ生意気なガキはともかく、そっちの〝先生〟は一味違うぜェ。ステゴロなら〝ファミリー〟でも最強! おまけにテクニックもケタ外れと来たもんだ。空閑電知、せいぜい今夜だけは楽しんでおけ。明日から
〝ファミリー〟を蔑ろにするような態度の寅之助を舌打ちでもって窘めつつ、彼と同じ〝新入り〟の経歴を明かしていく
大口を叩いておきながら自分で拳を交えようとはせず、安全な地点まで避難する櫻ヶ岡へ軽蔑の視線を叩き付ける電知であったが、この見下げ果てた男にいつまでも意識を向けてはいられなかった。
正面に立った怒れる外国人は確かに他の
少なくとも、「若さ」という二字は全く似つかわしくない。筋肉の鎧を纏ってはいるが、腹周りには控えめとは言い難い量の贅肉がこびり付いており、頬や眉間に刻まれた皺の数と照らし合わせると、三〇代後半であろうことが察せられた。
非行集団の中にあって異物としか
彼女の言う通り、時代劇では腕力に劣る悪代官が凄腕の剣客を用心棒として雇い、アジトまで踏み込んできた主人公に差し向けるという筋書きが定番となっているが、この外国人男性はカラーギャングにとって、まさしくそのような存在なのではないか。
寄ってたかって標的ただ一人を袋叩きにするのであればまだしも、
もしも、上下屋敷の推理が的中しているとすれば、〝ファミリー〟を大切に扱うという『桃色ラビッシュ』の方針との間に矛盾が生じるわけだが、これを聞いた影浦は確信を抱いたように首を頷かせている。言わずもがな、電知も左右田も同意見であった。
「何が
「はァ? 〝てめーら〟みたいなド底辺と同じ次元に立たなきゃいけねぇ理由もねーだろ。〝オレら〟はアタマも要領もイイんだよ」
「てめぇがやってることは要領の良さとは別物なんだよッ!」
櫻ヶ岡が上下屋敷の推理を肯定した瞬間、電知の頬が先程とは別の意味で脈動した。あろうことか、カラーギャング側が決闘自体を全否定したのだ。『
ひいては『桃色ラビッシュ』で雇ったはずの〝先生〟をも侮辱する発言であり、電知の心には並々ならない義憤が湧き出していた。当の櫻ヶ岡は〝敵〟の為に憤るという思考が全く理解できないようで、「お誂え向きの相手を用意してやったんだぜ? 感謝の言葉くらいあっても良いと思うがねェ」などと厭味ったらしく肩を竦めている。
「――電ちゃんはどっちと闘いたいの? てゆーか、どっちを殺したいんだい?」
「お誂え向きの相手」と櫻ヶ岡が口にした直後、悪童たちの喚き声を切り裂くようにして甲高い音が天井に撥ね返った。
寅之助である。顔面に薄笑いを貼り付けたまま竹刀でもってマットを叩き、両者のやり取りへ強制的に割り込んだのだ。
この言行は『桃色ラビッシュ』の〝ファミリー〟にとって背信も同然だろう。グループの意向を無視して自分と闘うよう電知を
ただそれだけで誰もが気圧されていた。
容姿だけを見ると虫の一匹も殺せそうにない優男が『
そのような少年が竹刀を乱暴に揮う姿は、がなり声で凄むよりも威圧としての効果が遥かに強いのである。
新入りに翻弄される『桃色ラビッシュ』の間抜けが愉快だったのか、はたまた竹刀を振るう寅之助に惚れ惚れしているのか、喜色満面で左右の拳を握る上下屋敷を横目で睨んだ電知は、幼馴染みに向き直るとこれ見よがしにマットへ唾を吐き捨てた。
「またそうやって電ちゃんは……キミの優しさは時に罪作りだよ」
言葉もなく自分との勝負を拒んだ幼馴染みに寅之助は残念そうな――しかし、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて竹刀を肩に担いだ。この場で立ち合うことは諦めた様子である。
拒絶の理由が明確に語られることはなかったものの、幼い頃から誰よりも近くに居た寅之助には電知の心の内が読み取れたのだろう。まさしく以心伝心であり、無言の会話を経て納得させられた次第であった。
またしても爪弾きにされる格好となっていた外国人男性の〝先生〟が動いたのは寅之助が後方に下がろうとした瞬間のことだ。通訳が随伴していない為、日本語で紡がれる会話の内容を全て理解できたとは思えないが、電知たちの間に垂れ込める雰囲気から自分が置かれた状況を読み取れないほど遅鈍でもないわけだ。
つまるところ、彼は我慢の限界に達してしまった次第である。
自分の出番を奪われまいと強引に乱入する〝先生〟だったが、怒号を爆発させるような激しさはなく、声を殺して獲物に照準を合わせる狙撃手さながらの静けさで一気に電知との間合いを詰めていく。
当の電知は
渾身の力をぶつけ合い、起き上がれなくなったほうが負けという過激なルールは今夜の決闘にも適用されている――が、そのことを両者が確認し合う
それでも電知は一向に構わなかった。そもそも、
「生半可なコトじゃおれは倒れねぇ! のっけから限界突破で来やがれッ!」
電知の吼え声に呼応して〝先生〟の速度が一等増した。左右田よりも大きな
間もなく電知の鼻先に轟々たる突風が噴き付けた。それは横一文字の鉄拳がすり抜けていった軌跡である。〝先生〟の動きを見極めて半歩ばかり後ろへ下がった為に直撃を免れたものの、一瞬でも反応が遅れていれば、小柄な電知などは間違いなく部屋の隅まで吹き飛んでいたはずだ。
『桃色ラビッシュ』から差し向けられた男は、一振りで風を薙ぐような腕力だけでなく打撃の
電知が纏う風変わりな
『ヒット・アンド・アウェイ』と呼ばれる戦法だった。腹で揺れる贅肉に惑わされがちだが、〝先生〟は相当にフットワークが軽く、立て続けに四肢を振り回す連打の
バタフライナイフといった殺傷用の武器や、〝ファミリー〟という数の暴力に頼らなければ満足に喧嘩もできない非行集団とは一線を画しているわけだ。そういう意味でも
自らも両手を繰り出して打撃の全てを受け止め、弾き返していた電知に大きなダメージはなく、攻防の中で相手の
「見掛け倒しじゃなくて安心したぜ――」
〝先生〟と呼ばれるアジア系の男がキックボクシングをベースにしていることは間違いない。機械のように正確なヒット・アンド・アウェイを見る限り、かなりの場数を踏んでいるとも窺える。プロ顔負けの猛者が集う『
「――だがッ! 打撃相手に
見憶えのない顔立ちであるが、ひょっとすると本当にプロのキックボクサーではないだろうか――そのような
小柄な少年が六〇センチは体格差がありそうな大男と正面切って拳を衝突させたなら、ただそれだけでも身体が浮き上がってしまうだろう。しかし、この場に居合わせた誰もが共有する予想を裏切るくらい電知当人は強靭であった。叩き付けた拳で〝先生〟を押し止め、身動きを封じると今度は自分のほうから間合いを詰めた。
パンチを繰り出していた右腕を両手でもって捉えながら自分の腰を捻り込んだ電知は、そのまま〝先生〟の巨体をマットの上に投げ落とした。
いわゆる、一本背負いを決めたのである。『
傍目には〝先生〟が電知へ圧し掛かっているようにも見えたことだろう。しかし、身長と体重のハンデを飛び越えてしまえるのが柔道の醍醐味であり、極意とする
〝先生〟は自分に何が起こったのか、全く理解できない内に竜巻へ飲み込まれ、受け身すら取れないまま硬いマットへ叩き付けられてしまったのである。キックボクシングの打撃に勝るとも劣らない破壊力で脳を揺さぶられ、失神しても不思議ではなかった。
だが、〝先生〟は打たれ強さも
キックボクシングがベースであろうと電知は〝先生〟の
(この野郎、やっぱり路上の喧嘩自慢なんかじゃねぇな――)
相手の技を敢えて試すことに決めた電知は横方向へ急激に働いた力の作用に身を委ね、そのままマットの上に投げ落とされた。無論、落下の寸前に両手を床に叩き付け、勢いを減殺させた上で
電知には耳慣れない
「今、『ブチ殺す』とでも言ったんか? 何だか、そーゆー
自分へ馬乗りになろうとする
自分の頭の上をすり抜けるような形で相手が宙を舞う妙技――この鮮やかな巴投げは、おそらく〝柔道の試合〟であったなら、審判から一本勝ちを宣言されたことだろう。
しかし、これは喧嘩大会さながらのデスマッチなのだ。またしても硬いマットの上に落下したことでダメージ自体は蓄積されたであろうが、相手が意識を失うか、あるいは
果たして〝先生〟はゆっくりと起き上がった。激痛に喘ぐような
「――ったく、イヤな気分にさせてくれるじゃねーか。さっきの技ってよォ……」
掴まれた拍子に緩んでしまった帯を締め直しつつ、電知は今し方の攻防を振り返った。
変則的な投げ技でもって電知を転がした後、〝先生〟は腹の上へ跨ろうとしたのである。七〇キロ近く開きがある体重で小柄な少年を押し潰し、身動きを封じ込めるつもりだろうとカラーギャングの悪童たちには見えたかも知れない――が、現代格闘技に触れた人間の目には全く違う動作として映ったはずだ。
〝先生〟が試みたのは馬乗り
尤も、電知が渋い顔になったのは敗北の危険に晒されたからではない。馬乗り
(……何でこんなときにまで胸糞悪い連中を想い出さなきゃならねぇんだ)
体格差が開いているというのに簡単には馬乗り
「バトルっつーのはスカッと爽快でなきゃいけねぇぜッ!」
パンチの予備動作を見極めるや否や、これを押し止めるようにして懐まで飛び込んだ電知は相手の左肘を右の五指にて掴み、同時に対の手を首の後ろに引っ掛けた。当然ながら〝先生〟は力ずくで振り払おうともがいたが、これこそ彼の狙いである。重心が不安定となった瞬間を見逃さずに互いの片足同士を
背負い投げと巴投げによるダメージが抜け切らない内に後頭部から落下させられ、さしもの〝先生〟は苦悶の声を洩らしたが、失神KOまでには至らず、マットの上に転がった状態でキックを仕掛けた。膝を踏み付けることで関節を損傷させ、忌々しい投げ技を封殺しようと考えたらしい。
完全に寝転ぶか、あるいは腰を下ろしたような状態から仕掛ける蹴り技もまた電知が忌み嫌う〝業界〟に於いて多用される攻撃手段であった。それが為、後方へ跳ねる最中には行儀悪く舌打ちを引き摺ってしまったのである。
尤も、その鋭い音は誰の耳にも届かなかった。大男である〝先生〟を相手に当たり負けしない電知の強靭さに『桃色ラビッシュ』の側からどよめく声が上がったのだ。無論、『
「――そうか、パンギリナンか! どこかで見た顔だと思ったんだ!」
会心の投げが決まり、『桃色ラビッシュ』にも精神的な動揺を与えたにも関わらず、「憂さばっかり溜まる闘いなんて最低に最悪だぜ」と電知が浮かない調子で吐き捨てる一方、その様子を外野から見守っていた影浦は急に素っ頓狂な声を上げた。
自分が得意とする間合いから遠ざかった電知へ鋭い眼光を浴びせつつ、苦しそうに身体を引き起こした〝先生〟のことを影浦は『パンギリナン』と呼び付けたのである。
「藪から棒に何だよ⁉ 『パンギリナン』ってこいつの名前なのか――」
大きく踏み込んできた〝先生〟――パンギリナンのハイキックを右腕にて受け止め、対の手で踵を掴み返そうとする電知だったが、横から割り込んできた影浦の声に気を取られ、そこに隙が生じてしまった。
一瞬の隙であろうとも見逃すパンギリナンではない。掴まれる前に蹴り足を引き戻し、これと同時に軸として据えていた右足を捻り込むと、同じ側の拳を旋回の勢いに乗せて鉄球の如く振り抜いたのだった。
あろうことか、〝敵〟とは別の方向に意識を飛ばしていた電知には遠心力によって加速した
すかさず回り込んだ左右田が受け止めていなければ、体重の軽い電知などショットバーのカウンターテーブルまで吹き飛ばされていたかも知れない。
「サンキューな、左右田。お陰で間抜けを晒さずに済んだぜ」
「……ああ」
口の端から滴り落ちていく一筋の鮮血を舐め取り、心地良い鉄錆の味で脳を刺激された電知は殴り飛ばされる寸前に影浦へ
彼には見憶えの一つもなかったが、影浦のほうはこのアジア系の男性の正体を知っているようなのだ。そのことが不思議でならず、思わず首を傾げそうになったところで
「――お誂え向きの相手を用意してやったんじゃね~か! ドン詰まりな『
しかし、電知の疑問に答えを示したのは影浦当人ではなく不調法にも横から割り込んだ櫻ヶ岡の声であった。
「お前らにとっちゃ『MMA』は不倶戴天の敵だろ? 今日でブッ潰れたら二度と対戦のチャンスもなくなるじゃねーの。せめてものお慰みに手配してやったのさァッ!」
著しく下降してしまった〝ファミリー〟の士気を挙げようというのか、過剰なまでに高い声を張り上げる櫻ヶ岡は『MMA』と自慢げに語った。
MMA――それは『ミクスド・マーシャル・アーツ』の略称であり、日本では『総合格闘技』という呼び方でも知られていた。
『異種格闘』ではなく『総合格闘』である。その
『何でもアリ』という一点に於いては
不倶戴天の敵という櫻ヶ岡の言い回しも大きく外れてはいないのだ。事実、日本最大のMMA団体と『
そして、このMMAという〝業界〟に於いて馬乗り
「我らが〝先生〟は、かの『
続けて語られた『
実態はともかくとして世間の目からすると
「どこの誰が絶望してんだよ、ボケかましめ。返り討ちに遭いまくってんのは自慢の〝先生〟だろうが。焦り過ぎておかしくなっちまったんじゃねぇか~?」
上下屋敷が吐き捨てた通り、不覚を取って
「プロとアマはさておき――油断できないのは確かだぞ。この男、『梁山泊』でもかなりの実績を残していたハズだ」
「ンなこたァ、
左右田に背中を押されてパンギリナンのもとへ戻ろうとする電知の右腕を横から捕まえた影浦は、耳元まで口を寄せ、「MMA選手としての完成度も高い」と念を押した。
「一発、ブチかまされたのはダンナの
「それはすまなかったが……」
「冗談を真に受けんなって。『
そう言い切った電知は、自信の程を示すようにして赤黒く染まった口の端を吊り上げている。パンギリナンが憎むべきMMAのプロ選手と知らされたことで『
「この期に及んでナイショ話か? 逃げる算段なら大声でやってくれよな~!」
「寝言は起きた状態で抜かすものではないぞ。空閑君を送り出した以上、『
「さすがはキレ者とウワサのオッサンだな。〝先生〟のことにも詳しいじゃね~の」
豊富な知識に基づいて〝
「シンプルな『ギブ・アンド・テイク』ってヤツだよ。中国にもフィリピンにも居場所がなくなって日本に逃げてきたっつーから拾ってやったまでさ」
『梁山泊』という中国のMMA興行はアジア圏から広く選手を集めている為、フィリピン人男性が参戦していること自体は何ら不思議ではない。問題は〝その後〟だ。いちいち高笑いを経由する櫻ヶ岡の物言いから察するに、パンギリナンは決して明るいとは言い難い事情から『桃色ラビッシュ』の用心棒を引き受けさせられたようである。
電知は『
「おいおい、何の為にアンタを雇ったのか、分からないじゃねーか、ええ? ギャラの分くらい働いてくれや! それとも、警察に突き出されてーのかァ? 強制送還されて困るのは〝先生〟のほうだろ~?」
劣勢明らかな〝先生〟を櫻ヶ岡が煽った直後、パンギリナン当人ではなく電知の顔色が変わった。最大の仮想敵と目しているMMA選手には負けられないと全身から溢れ出していた闘志が殺伐の気配に塗り替わったというべきかも知れない。
先程も一端を垣間見せていたのだが、櫻ヶ岡は〝先生〟という尊称を使いながらもパンギリナンを――格闘技者を露骨なくらい軽んじている。小馬鹿にするような声色からも察せられる通り、自分より下等な存在と見做しているのだろう。それどころか、人間扱いしているのかも怪しいものだった。
櫻ヶ岡はパンギリナンの弱みを握った上で『
確かにMMA選手は電知にとって一番の天敵だ。興収目的から安易にタレント選手を起用する国内の団体には嫌悪感を禁じ得ず、近い内に目に物を見せてやらなくてはならないとも考えている。
しかし、目の前に立つフィリピン人男性のことを同じ〝敵〟とは思えなくなっていた。
今や彼の憤激は櫻ヶ岡とその取り巻きにのみ向かっている。パッションピンクのカラーギャングたちは全ての格闘技者を嘲り、蔑んでいる。その程度ならば黙殺するだけで済むのだが、侮辱の対象に『桃色ラビッシュ』で雇った〝先生〟まで含めていることはどうしても看過できなかった。
一人の
「――おれたちをナメんじゃねぇぞ、カスどもがッ!」
轟然と突き込まれてきたパンギリナンの右拳を正面から見据え、左掌でもって受け止めた電知は、これを強く強く握り締めた。当然ながらパンギリナンは身を
「あんたの値打ちを分かろうともしねぇゲス共に飼われて本当に幸せなのかッ⁉ それが格闘家の幸せなのかよッ⁉ どうなんだ、おっさんッ⁉」
両手を押さえた状態でパンギリナンと向かい合った電知は地下の〝異世界〟全体を震わせるほどの大音声を張り上げた。それは格闘技者の魂に強く訴えかけるものであった。
「こんな目に遭う為にMMAをやってきたのか⁉ あんたにとってMMAって何だッ⁉」
電知はパンギリナンに向かって魂の在り方を
「言っとくが、おれはMMAなんか大ッ嫌いだ! 安全なルールで守られた生温いお遊びとしか思わねぇ!
フィリピンに生まれ育ち、MMA選手としては中国で活動してきたという男に日本語が通じているとは思えない。どれだけ熱弁を振るったところで意味など一つも分かってもらえないだろう。それでも電知はパンギリナンの魂に手を伸ばし続けた。
「てめーが気に喰わなくても、……いや、本人がどー思っていようが、〝先生〟はオレには逆らえねーんだよ。そいつはもう格闘家じゃなくて飼い犬に過ぎねぇんだからなァ!」
「居場所なくして逃げてきた負け犬如きが日本でまともに働けると思うかァ? ゴミクズ同然に野垂れ死にしそうだったところをカネで買ってやったのさァ。そうでなきゃ、殴り合いしか能がねぇチンピラなんか〝ファミリー〟の一員に迎えっかよ!」
もはや、櫻ヶ岡は〝先生〟が捨て石であることを隠そうとしなかった。それどころか、体格で劣る電知をいつまでも仕留めきれないことに苛立ち、腹癒せとばかりに罵声を飛ばし続けている。
自分にとって役に立つか否か、その一点のみで人の値打ちを決めるような男が〝ファミリー〟という言葉でパッションピンクの仲間を束ねているわけだ。義憤に衝き動かされる電知には断じて許せず、パンギリナンの拳を握る手に一等強い力が込められていった。
「あそこまで言われて黙ってるつもりか⁉ 日本語分かんなくたってコケにされてることくらい空気で読めんだろ⁉ これでまだ尻尾振るようなら本当の負け犬だぜッ!」
その
電知の魂は同じ格闘技者である彼に間違いなく届いている。
そこにパンギリナンの置かれた〝境遇〟の全てが集約されていると言えるだろう。どんなことがあっても彼は雇い主から逃れられないのだ。優越感に浸りたいだけの雇い主から人権を踏みにじられるくらい不当な扱いを受けようとも、言いなりとなる以外に命を繋ぐ手立てを持ち得ない証拠であった。
つまるところ、パンギリナンには不可視の首輪が嵌められているのである。
「くそったれ! 何だってMMA野郎にアツくなってんだよ、おれはッ⁉」
不可視の首輪という呪縛を前にしても、電知はパンギリナンの手を離さなかった。渾身の力で踏ん張り、その場に彼の身を引き留め続けた。しかし、これは獲物を逃がさないという脅しではない。「お前のことだけは絶対に見捨てない」という優しさなのだ。
掴まれた手より
「……ちょっとあの二人、近付き過ぎだよね……」
櫻ヶ岡の隣で電知の闘いを見守る寅之助は、端正な顔立ちから感情の一切が消え失せていた。大きく開かれた双眸に
「……浮気はいけないよ。ああ、浮気はいけないね、電ちゃん……」
自分との勝負を避けておきながら、別の人間に対しては格闘技者としての情熱まで剥き出しにしたのだ。寅之助の感情が乱れ、狂うにはこの事実一つだけで十分だった。
「……
丁度、対角線上から寅之助の様子を見つめていた上下屋敷は、そろそろ
次の瞬間、寅之助の顔が一等醜く歪んだが、それも無理からぬ話であろう。力み過ぎて大きく姿勢を崩したパンギリナンを自分の側へ一気に引き込み、これと同時に足の裏を横隔膜の辺りに押し付けた電知は、身を放り出すような恰好で跳ね飛んだ。
「ボクにだってそんなコトしてくれないのに……電ちゃんの浮気者……」
意味不明な寅之助の恨み節はともかくとして――背中がマットに付くや否や、電知はパンギリナンの身体ごと後方に回転し始めた。傍目には変形の巴投げのようにも見えるだろうが、術理は全くの別物だ。互いの身体を車輪のように見立てて硬い床の上を転がり、連続して相手を痛め付けるという不可思議な技であった。
横隔膜への圧迫は特にダメージが大きい。下となったパンギリナンを全体重を乗せて踏み付ける度、肺の空気まで容赦なく漏れ出していくのだ。
「あんたの事情は知らねぇし、食っていく為には気に入らねぇ野郎にもアタマ下げなきゃいけねぇっつう社会のルールだって重々分かってる! でもな、それは『手段』であって『意味』じゃねぇだろ⁉ 闘う理由まで
フィリピンの
「誰よりも強くなりてェ――
寅之助にぶつかる寸前で回転の方向を逆さまに切り替え、『
『世界最強』とも言い換えられる
銀河に咲き乱れる
「あんたにとって格闘技って何なんだァッ⁉」
もう一度、格闘技者としての在り方を質した電知は、部屋の中央まで達した瞬間に巴投げへと転じ、パンギリナンの身を仲間たちが立つほうに勢いよく投げ捨てた。
すかさず左右田が回り込み、放り出されてきたパンギリナンを落下地点で受け止めた。硬い床に叩き付けられないよう庇った次第である――が、当のパンギリナンは困惑したような
混乱の面持ちのまま左右田から身体を引き剥がし、電知の待つ地点へ戻ろうとするパンギリナンだったが、不意に襲ってきた目眩によって上体を
技を仕掛けた側ということもあるが、腕組みしながら
「何の為にてめーを買ってやったと思ってんだ、フィリピーノ! それとも、恩返しって言葉も知らねぇのかァ⁉ 万が一でも負けてみやがれ、オレたち全員で
低下の一途を
「あんなくそったれどもの為に痛ェ目見ることねーよ。……降参しな、おっさん」
強烈な虚脱感に見舞われて尻餅をつきそうになったパンギリナンは上下屋敷と左右田が二人がかりで支えた。若者たちへ任せた為に直接的には動かなかったものの、影浦もすぐさま助けられる場所に立っている。
必ず壊滅させるよう厳命されている〝敵〟に助けられたパンギリナンは悲しげな面持ちで
その後ろ姿を影浦は溜め息混じりで見送った。おそらくこの男はカラーギャングに拾われる以前から大勢に虐げられてきたのだろう。誰かに支えられたとき、一種の拒絶反応を起こすよう
影浦自身はMMAに対して
「――な? 放っておけねぇだろ、このおっさんのことだけは……」
「……ああ……」
額から脂汗を噴き出しながら間合いを詰めてくるパンギリナンの頭越しに左右田と言葉を交わす電知は「乱闘へ持ち込んだほうがよっぽどラクだった」と心の中で呟いた。
間もなくパンギリナンはフィリピンの
案の定というべきか、電知は僅かに
回避が完了する一瞬に生じる隙を見計らったパンギリナンは軸足の屈伸運動でもって急加速し、次いで左手にて帯を、右手にて襟を掴むと電知の重心を崩しに掛かった。彼を転がして再び馬乗り
「――悪ィな、今度はおれも
しかし、今度ばかりは電知も付き合わない。根を張るようにして床を踏み締め、暴風雨さながらに自分を薙ぎ倒そうとする力の作用へ耐え切った。
技の拍子と共に姿勢を崩す形となった相手の右腕を両手で掴み、先程と同様に一本背負いへ持ち込まんとする電知だったが、これは容易く見破られた。その場でコマの如く回転し、素早く右腕を引き戻したパンギリナンが対の左肘を横薙ぎに突き入れてきたのだ。
左肘を内から外に向かって振り抜くという流れに沿うような形でパンギリナンの背後まで回り込んだ電知は、直撃を被るより早く反攻に転じた。彼の背中に飛び付くや否や、両足を胴に引っ掛けて身体を固定し、左右の腕をも首に巻き付けたのである。これによって頸動脈を絞めるつもりであった。
『
今度は『桃色ラビッシュ』のほうが大歓声を上げる番であった。体格の面で劣っている電知はパンギリナンの豪腕で軽々と振り回され、そのまま空中に投げ出されたのである。
〝空中〟といっても、『ブラックサバス』は地下室であって天井も大して高くない。すぐさま頂点まで達してしまうわけだ。それはつまり、打ちっぱなしのコンクリートへ無防備のまま叩き付けられることを意味していた。
ところが、電知は空中で抜かりなく身を翻すと両足でもって天井を踏み付け、急降下の勢いに乗ってパンギリナンへ反対に組み付いていった。同年代と比べても小柄であり、また
予想だにしない妙技でもって反撃を試みる電知を叩き落そうと、パンギリナンは素早く左のハイキックを繰り出した。それは鞭のようにしなる重い一撃であり、両腕を重ね合わせるという固い
これ以上、自分の心に立ち入らないでくれ――そのような想いを込めたハイキックであろうと電知は感じていた。骨身に沁みるこの痛みこそパンギリナンの
カラーギャングたちが居並ぶほうへ撥ね飛ばされながらも巧みに着地した電知は、それが為に
格闘技者としての想いはパンギリナンの魂まで届いたようだが、そこまで力を尽くしても不可視の首輪は外せなかったらしい。それどころか、電知は差し出た真似であったと猛省しているくらいなのだ。相手の抱える事情を無視して自らの気持ちを一方的に押し付けることは、櫻ヶ岡による不当な仕打ちと表裏一体であろう。
ならば、パンギリナンの置かれた状況を丸ごと全て受け止めるのみである。それこそが電知にできる唯一のことであり、格闘技者としての
「……あんたの気持ちは分かった。だったら、おれも腹ァ括らなきゃならねぇなッ!」
僅かな逡巡を経て、電知は決然とした面持ちで拳を握り締めた。
即ち、構えを変えたということである。ここまでの攻防では両手の五指を開いた状態で相手と対峙してきたのだが、
「――それ、どういう意味? ……何? 悪ふざけのつもりなの?」
前傾姿勢となって突っ込もうとする電知の出鼻を挫いたのは、張り詰めた空気を切り裂くような寅之助の冷たい声と、竹刀でもって肉を
〝地下〟の異世界へ詰め寄せた群衆の視線が一斉に動き、竹刀を携えた寅之助と、彼の目の前で
ただそれだけで事態のあらましを悟った影浦は、我知らずネクタイを緩めながら『桃色ラビッシュ』のリーダーを
一対一の勝負を
「電ちゃんに恥をかかせてまで披露するような一発芸じゃないよね、それ。キミの人生と同じくらい下らないし、
しかも、相手の武器を無効化させた程度では〝制裁〟は止まらない。右手一本に構えた竹刀の剣先で少年の喉を抉った上に相手が吹き飛ぶより早く胸部を踏み付け、その場に倒してしまったのだ。何かの破断する音が辺りに響いたということは、あるいは二、三本ばかり肋骨をへし折ったのかも知れない。
右半身を大きく開くようにして踏み込んでいく
生まれて初めて味わう類の激痛にのた打ち回っている少年を冷たい瞳で見下ろした寅之助は、骨が折れているだろう脇腹を蹴り付けることによってその動きを強引に停止させてしまった。次いで竹刀の剣先を右目の上に移すと、「今度、小賢しい真似をしたら片目が二度と見えなくなるよ」と眼差し一つで言い渡した。
鼻を衝く
失神には至らなかった様子だが、もはや、焦点の合わなくなった虚ろな目を天井に向けるのみだった。
これは『桃色ラビッシュ』にとって看過し難い問題行動だろう。寅之助は
ところが、彼のことを裏切り者呼ばわりするような声は誰からも上がらなかった。瀬古谷寅之助という少年が漂わせる常軌を逸した殺気に
一方で『
「――瀬古谷、てめぇッ! 『
〝ファミリー〟の中でも多少は肝が据わっている
それは誰しもが思い浮かべた疑念だった。寅之助が『桃色ラビッシュ』へ加わったのはごく最近――『
寅之助が『
数々の情報提供も〝ファミリー〟の心を掴み、手懐ける為の餌であったわけだ。『桃色ラビッシュ』という看板に泥を塗られたようなものであり、裏切りを追及する櫻ヶ岡の語気はこれまで以上に荒く、憎悪に満ち溢れていた。
状況証拠のみで判断するならば寅之助のことをスパイと疑うのは無理からぬ話だろう。しかし、『
「身に覚えのない疑いを受けるのはさすがに――」
「――ごめんなさいね、影浦さん。上手いこと潜入できたと思っていたんだけど、あっさりバッチリ、バレちゃいましたよ~う」
「ぬなッ⁉」
迷惑以外の何物でもない誤解を打ち消そうとする影浦の声を遮ったのは、疑惑の人物たる寅之助であった。あろうことか、この少年は自分が『
それは〝自供〟ではなく〝狂言〟であった。影浦本人は言うに及ばず、今夜の決闘に殆ど関与していない団体代表が計略など仕掛けるはずもなかった。何しろカラーギャングと争うことを虚しいと悲嘆したくらいなのだ。
寅之助の発言が自作自演という結論に達した瞬間、影浦はその真意をも見抜いていた。
もはや、寅之助の中では『桃色ラビッシュ』は利用価値のなくなった役立たずなのであろう。そもそも、〝ファミリー〟に仲間意識を持ったことさえ一度もないはずだ。
瀬古谷寅之助という少年にとって、視界に入る全ての存在は電知に約束を果たさせる為の道具に過ぎなかった。歪んでいるとしか喩えようのない価値観は今日までの付き合いの中で厭というほど思い知らされてきたのである。
目的達成に利用できないと判断した
今度は自らが火種となり、両団体の間で大乱闘を起こさせるつもりなのだ。寅之助の狂言を真に受けたカラーギャングは『
つまるところ、『
一人を寄ってたかって袋叩きにする『桃色ラビッシュ』とは違って個々の戦闘力が高い『
影浦としてはカラーギャングの後ろ盾を押さえ得る策が整うまでは決戦を避けたかったのだが、事態がここまで拗れた以上は目の前の状況に流されるのみである。
「ブッ殺せーッ! ここから一人も生かして帰すんじゃねーぞッ!」
櫻ヶ岡が撒き散らした憤激はたちまち〝ファミリー〟に伝播し、寅之助に対する恐怖を憎悪の色で塗り替えた。それはつまり、研ぎ澄まされた殺意の
寅之助に討ち取られた少年は密かにスタンガンを持ち込んでいたが、それと同じように電知を襲う目的で用意された武器をカラーギャングたちは一斉に取り出した。
誰も彼も相手を脅かすように大仰な構えを取っている。携行し易いバタフライナイフが多く、大量の釘が打ち込まれた木製バットや伸縮式の特殊警棒を握る者も混ざっていた。
櫻ヶ岡に至ってはブレザーの内ポケットからリボルバー拳銃を抜いている。一目で安物と分かる銃身の塗装などから実銃ではなくモデルガンと察せられるが、この局面で持ち出すからには人を死傷し得るだけの威力が備わっているはずだ。いわゆる、改造銃である。
「ケッ――どのみち、
「ああ」
『決闘』という事前の取り決めに反して武器を持ち出したカラーギャングを見据える上下屋敷と左右田は――否、『
上下屋敷は両手首に巻かれた数珠状のブレスレットを外し始めている。結び目を解こうものなら穴を穿って紐で一つなぎにしている鈍色の球など簡単にバラバラとなってしまうだろう。しかし、彼女が紐の片端を握り締めた後も元の形状を維持し続けている。
それはアクセサリーなどではなかった。鞭のように振り回すことで金属の玉を叩き付ける武器なのだ。床を蹴る靴底もクッションを貫いて甲高い音を立てており、鉄板が仕込まれていることは明白である。まさしく「目には目を、歯には歯を」ということであろう。
「……よろしい。後腐れがないよう平らげて差し上げなさい」
事務担当という言葉には直結し
改造銃を構えたことで気が大きくなったらしい櫻ヶ岡も負けてはいない。銃口を抜かりなく影浦に向けながら〝ファミリー〟へ応戦を命令し、これを受けて二つの吼え声が一つに交わった。
狭い空間の中で五〇人を超える荒くれ者たちが入り混じれば乱戦と化すのは必定であり、数多の人影が巨大な渦のようにうねり始めるまで大した時間も掛からなかった。
口汚い罵声が飛び交い、それ以上に鉄拳が降り注ぐ――
「ああぁぁぁァァァーッ!」
影浦以上に逞しい肉体を誇る左右田は雄叫びと共に豪腕を振り回し、僅か一撃でもって数人を同時に駆逐していく。殴られた相手は砲弾さながらの勢いで吹き飛び、ぶつかった
自分に殺到してくるパッションピンクの波を跳ね返す猛攻を続ける一方、左右田は長身を生かして高い位置から戦況を見極めるなど
敵の中でもとりわけ大柄な青年を肩に担いで振り回し、遠心力に乗せて勢いよく放り投げたのだが、その落下地点まで計算ずくなのだ。味方を苦戦させている者たちの頭上に急降下させることで進撃の勢いを挫き、劣勢挽回を助けたのである。
上下屋敷も左右田の勇戦に負けておらず、「どいつもこいつも、ズッ殺してやる!」と物騒なことを口走りながら四方八方の敵を翻弄していた。女と思って侮っているような相手から先に数珠状の鞭で殴り倒していくのだ。一個一個が小振りとはいえ、紛れもない金属の球である。勢いを付けて頭部に命中させれば、それだけでも卒倒し兼ねなかった。
『
「ズッ殺されてェヤツは前に出な! 片っ端からやってやるよ!」
彼女が再三に亘って繰り返している『ズッ殺す』とは『
極めて野蛮な挑発といえるだろうが、バタフライナイフを突き立てようとした少年の手首に数珠状の鞭を巻き付けて床に引き倒し、鉄板の仕込まれた靴でもって容赦なく鼻を蹴り潰すなど実際の攻撃方法も過激の一言なのだ。
挑発に乗って突進してきた釘バットの青年をミドルキックで迎え撃とうとする上下屋敷であったが、スカートが
言わずもがな、横から飛び込んできたのは寅之助である。相手の腕を打ち据えることで攻撃手段を奪い、すぐさま横薙ぎに転じて胴を抉る――強烈なる二連撃をまともに受け、もんどりうって転げまわる釘バットの青年は二度と戦列には戻れないだろう。
寅之助の加勢によって余計な体力を消費せずに済んだのだが、上下屋敷本人には納得のいかない筋運びであるらしく、左右の頬を膨らませることで不満の意を表している。助けが必要なくらい自分は追い詰められていたかと抗議したのだ。
対する寅之助は少しばかり困ったような
「そーゆーのはボク以外には見せないでもらえると安心だなぁ――なんてね」
最初、自分が何を言われているのか理解できず、唖然呆然としてしまった上下屋敷は、寅之助の真意を脳が認識するに至り、一瞬で全身を沸騰させた。
言ってしまえば、それは男の独占欲とも呼ぶべきものである。
「お、おま……っ! 一体、お前は何なんだよ⁉」
「言わなくても分かってるクセにぃ」
意味深長なことを囁いてケラケラと笑う寅之助だったが、上下屋敷のスカートの中身を自分以外の男に見せたくないという気持ちは本物のようである。
程なくして上下屋敷と背中を合わせ、向かってくる敵を斬り伏せる態勢となったが、敢えて密着したのは彼女にはしたない恰好をさせない為の措置であった。スカートが
ある種の執着と呼べなくもないが、実際に上下屋敷たちは
無論、細い鞭では難儀するであろう相手が迫ったときには寅之助が先手を打って飛び出していき、これを薙ぎ払うのである。
「……アタマの中身がちっとも分からなくて気持ち悪ィんだよ、クソ野郎……っ!」
背中に感じる体温を通して寅之助の
寅之助に振り回される自分が上下屋敷は照れ臭くて仕方なかった。掴みどころがないこの少年は、幼馴染みの電知に偏執的な感情を傾けたかと思えば、それと同じくらいの〝気持ち〟を自分のほうにも向けてくるのだ。
それでいて、己の悲願を果たす為に『
「アタマの中身、見せられるなら見せてあげたいよ。結構な部分が照ちゃんで占められてるんだけどねぇ~」
「う、う、ウソつきぃっ!」
気障な台詞を軽く口にした寅之助は、背中に感じる体温が一等高まったことへ安らいだような表情を浮かべるのだった。
彼が竹刀を振るう対角線上では、電知とパンギリナンが差し向かいの状態で睨み合っている。おそらく、彼らの目には罵声が入り乱れる大混戦など映っていないのだろう。数多の群像が塊と化して激突する状況にも関わらず、一対一の〝試合〟を続けているわけだ。
やや離れた位置から幼馴染みの様子を窺う寅之助には、二人が相対する空間だけが周辺から切り離されたようにも思えたくらいである。
(……妬ましいけど、電ちゃんに後悔を残させるくらいなら今夜は譲ってあげよう……)
大真面目に一対一の状態を維持し続けている二人は傍から見ると隙だらけの
しかし、それは決闘にこだわる二人に敬意を払い、無粋な真似を慎んだからではない。横から割って入ることを
パッションピンクの悪童たちは電知に近付かなかったのではない。気圧されて近付けなかったのだ。勝負に水を差す不届き者が現れたときには、真っ先に駆け付けて退けようと寅之助は考えていたのだが、それは杞憂に終わったらしい。
誰にも決闘を邪魔はさせたくないという気持ちは寅之助だけでなく『
これから迎えるであろう決着を
それを成し遂げられる人間は空閑電知ただ一人なのだ。『
「行くぜ、おっさん――いや、パンギリナンッ!」
一等強い眼差しでパンギリナンを見据えた電知は、鋭い吐息を引き摺りながら間合いを詰めていった。
まさしく電光石火と
腐ってもプロのMMA選手というべきか、彼の反応もこれに匹敵するほど鋭く、飛び込んできた電知の顎を脅かさんと左膝を突き上げた。
しかし、
コンマ一秒の遅れもなく追いすがってくる少年から逃れる
一風変わった
肘鉄砲を
「うるあぁぁぁァァァッ!」
背中から組み付く状態を維持したまま両膝を屈伸させた電知は、引き絞ったバネを瞬時にして解き放ち、互いの身を後方目掛けて勢いよく放り出した。
柔道に於いて『裏投げ』と呼称される大技だった。意図的に頭部から投げ落とすことは禁じられているが、これはあくまでも
その刹那、耳障りな鈍い音が乱闘の間隙を駆け抜けた。
クッション材の効果など望めない硬い床に頭から叩き付けられたパンギリナンは視界が回って起き上がることさえままならず、電知から追い撃ちされても全く抗えなかった。
電知は打撃と投げを連ねた末、両腕を後ろから首に巻き付けて絞め落としに掛かった。左右の足を腋の下から滑り込ませて胴を挟み、横隔膜と頸動脈を同時に攻めるつもりだ。
「日本語が通じねェのは百も承知だがよ、もしも――もしもだぜ? おれの喋ってるコトが伝わるんなら、……これが終わったら、あんた、『
身長差が大きく開いているパンギリナン相手に寝技を仕掛けた電知は、右肘の内側に首を抱え込んだまま、その耳元に努めて優しい声で語り掛けた。
後ろから首を絞められている為、パンギリナンのほうから確かめることは不可能に近いのだが、新しい〝居場所〟へ導こうとする電知の瞳は、格闘技者としての魂を
「行くアテがねェっつーなら、とりあえず、ウチにでも来りゃいいさ。布団くらい幾らでも貸してやるし、働き口だって一緒に探してやらぁ。手先が器用だったら、おれんトコで大工仕事をやるのもアリかもだぜ? ……日本だって捨てたモンじゃねーんだよ」
パンギリナンのほうは寝技から逃れようと床の上でのた打ち回っているが、胴を挟んだ両足の力は強く、どんなに激しく身体を揺さぶっても振り払うことができなかった。それどころか、もがけばもがくほど頸動脈への圧迫が酷くなっていくのだ。
右の五指を対の肘の内側へ引っ掛けることで完全に固定している為、よしんば両足による拘束から逃げられたとしても、首への絞め込みだけは間違いなく維持できるだろう。
絶対に逃れられない寝技は、何があっても〝同じ
異常としか表しようがないパンギリナンの暴れ方は、
どん底の人生から助け出してくれる声など耳に入れてもならない――不可視の首輪より染み出していく呪縛は、パンギリナンの
だからこそ、電知も力を緩めない。頸動脈と横隔膜を渾身の力で攻め続けた。
「おれは……おれたちは! あんたを絶対に見捨てねェッ! それだけは忘れんなッ!」
今日までの苦難が報われることは絶対に間違っていないのだと改めて示した直後、電知は四肢の力を緩めた。
もがき苦しむ
レフェリーが立ち合う形式の試合であれば、けたたましいゴングと共に決着が宣言されたことだろう。敵味方が入り乱れる大混戦の最中ということもあって見届けることのできた人間は一握りであったが、
絞め落とされた敗者にも関わらず、パンギリナンの顔は驚くほどに安らかだった。閉ざされた双眸から熱い雫を流し、口元には満足そうな笑みまで浮かべていた。
不可視の首輪は、どうやら外れたらしい。
決闘の終結を見計らって歩み寄ってきた左右田にパンギリナンのことを預けた電知は、最後まで敢闘し続けた
「――な、なんだ、今のは⁉ てめー、柔道家じゃねーのかよ⁉」
決着の余韻を台無しにする無粋な声は、言わずもがな櫻ヶ岡の物である。
『桃色ラビッシュ』を代表して闘い、散っていった〝
「瀬古谷ァ!
事前に得ていた情報や装いから〝柔道家〟と思い込んでいた櫻ヶ岡は、電知がプロを悶絶させるほど見事な肘打ちを――打撃技を繰り出したことに目を丸くしていた。それどころか、彼に対する認識を〝MMA選手〟と塗り替えてしまったらしい。
「肘打ち見せたくらいで死ぬほど嫌いなMMAと一緒にされたら電ちゃんも大迷惑だね」
「あァんッ⁉」
「間抜けな質問飛ばす前に自分の記憶力を疑ってくださいませんかね。電ちゃんが身に付けたのは〝古い時代の柔道〟だって説明したじゃないですか。最後のアレは『
少しばかり離れた位置から尋ねられた寅之助は、櫻ヶ岡のほうに首を振り返らせることもなく声のみで答えた。彼を瞠目させた技を模倣するつもりなのか、特殊警棒を振りかざした相手の腕を竹刀で打ち据え、得物を奪った瞬間に肘打ちへと変化してみせた。
ただ一撃でもって敵の鼻を砕いた寅之助の肘鉄砲もまた付け焼き刃などではない。彼は〝古い時代〟に於いては柔道にも剣道にも打撃が組み込まれていたと前置きし、その技術について『
「尤も、電ちゃんの場合は〝古い時代の柔道〟じゃなくて〝コンデ・コマ式の柔道〟って呼ぶのが正しいんだけどねぇ」
「コンデ・コマだとォッ⁉」
寅之助が口にした『コンデ・コマ』という名前には櫻ヶ岡も聞き憶えがあった。
本名を
その伝説の技を空閑電知は身に付けたのだと寅之助は語った。
「ど、どうやって、そんなことッ⁉ コンデ・コマの弟子にしちゃ年齢が合わねぇ――」
「――おれは闘う為にここまでやって来たんだぜ、クソ野郎。てめぇだってお喋りするつもりはねぇハズだよな。……
二人の会話を断ち切ったのは、横から飛び込んできた電知の吼え声である。
彼はパンギリナンを捨て石扱いしたカラーギャングに地獄の業火よりも激しい怒りを燃え
「あ、あう……う……うあ……っ」
開戦当初の櫻ヶ岡であれば電知の激昂を「雑魚が必死に粋がっている」とでもいって鼻で笑っただろう――が、
憤怒の色で染まった眼光を叩き付けられ、虚栄も何もあったものではない弱々しい声で呻いた櫻ヶ岡は、そのときになってようやく自分たちの置かれた状況を認識した。
『桃色ラビッシュ』が送り出した〝
殆どの〝ファミリー〟は床の上に身を横たえており、今や立っている人間のほうが少ないくらいであった。パッションピンクの絨毯が敷かれたような光景ともいえよう。
バタフライナイフなどの殺傷力が高い武器を使うカラーギャングだが、だからといって実戦に慣れているわけではない。数に物を言わせた暴力で他者をいたぶり、嗜虐的な愉悦に浸るだけの人間と、身に刻まれた痛みさえ力に換えられる格闘家では
大人数のぶつかり合いは士気一つで戦局が簡単にひっくり返るというのに、旗色が悪くなっただけで集団全体の気勢が
リーダーであるはずの櫻ヶ岡とて破綻の真っ只中にある。圧倒的に有利な得物を右手に携えながらも、ついに一発たりとも撃つことができなかったのだ。
〝ファミリー〟を置き去りにする形で阿鼻叫喚の渦中より逃げ出した
こうなった以上、世話になっている兄貴分――指定暴力団『
カウンターテーブルの裏側に隠れた上、絶対に人目には付くまいと身を縮めた
不運というものほど重なるもので、床に落ちた拍子に内部が破損したのか、どんなに叩いても揺さぶっても、
「お困りのようだね。私の携帯電話で良ければ使ってくれて構わないぞ」
頭上から救いの声を掛けられた櫻ヶ岡は、逼迫した情況ということもあって声の主すら確かめずに顔を上げてしまったが、礼を述べようとしたところで表情を凍り付かせた。
カウンターテーブルの向こうに立っていたのは影浦その人である。
冗談では済まされない量の返り血を浴び、右手でもって悪童の一人の首根っこを掴んでいるが、今はまだ櫻ヶ岡に危害を加えるつもりはなさそうだ。友好的と言うべきか、最大の厭味と言うべきか、カウンターテーブルの上に自分の
液晶画面の表示を見る限り、相手までは分からないものの、通話の最中のようだ。耳に宛がってみろと言わんばかりに
正常な心理状態であったなら一笑に付して拒んだであろうが、思考停止にも等しい現在の櫻ヶ岡は言われるがままに
膝から崩れ落ちた櫻ヶ岡は借り物の
『
これが影浦の案じた一計である。そして、団体の命運を託された
その神通の
「……キミ、コンクリ詰めは初めてかね。この時期の東京湾はかなり冷たいらしいぞ」
先ほど浴びせられた脅し文句をそっくりそのまま返してみると櫻ヶ岡は両肩を大きく上下させながらケラケラと笑い始めた。張り詰めた精神が限界を突き抜けた瞬間に現実逃避を始めてしまったようだ。
見るに堪えない醜態から顔を背けた影浦は、心の底から安堵の溜め息を吐いた。今夜のことは相当に際どい綱渡りだったのだ。双方がぶつかり合う乱戦にもつれ込んでからも連絡がなかった為、神通の交渉が不首尾に終わったのではないかと焦ったくらいである。
その乱戦も間もなく『
「次はどいつだッ⁉ こんなんモンじゃ、まだまだ物足りねぇぜッ!」
地下の〝異世界〟を震わせるほどに猛々しく吼えた電知だけではない。上下屋敷も左右田も――『
仲間たちの勇姿を頼もしそうに、何よりも誇らしそうに見つめた影浦は、櫻ヶ岡が放り出した
『
通話状態が継続されていることを確かめた影浦は、僅かな逡巡を挟んだ
「――他ならぬ神通君の頼みとあっては断るわけにはいきませんよ。……先ほども申し上げた通り、阿呆連中を野放しにしたのは我々の落ち度でもありますしね。スジを通さずにはいられますまい」
電話の向こうから聞こえてきた声は実に紳士的であったが、これを受ける影浦の背筋は我知らず垂直に伸びていく。皮肉な筋運びというべきか、放心する寸前の櫻ヶ岡と殆ど変わらない姿勢なのである。
しかし、それも無理からぬ話であろう。通話の相手は日本国内で最大規模の勢力を誇る
この場には居ない『
『
その中に
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