その2:無法者(後編)~コンデ・コマの後継者

 二、無法者アウトロー(後編)


 中野の地下に広がる〝異世界〟は、ネオンライトを嫌った人間が逃げ込む避難場所めいたショットバーである。玄関に面したカウンターテーブルから酒が提供されるらしい。

 ルームフレグランスと思しき薬品的な香りも辺り一面に充満している。カレーの匂いでくすぐられたばかりの鼻を容赦なく突き刺されたじゅうどう姿の少年――でんは、不意に催した吐き気を打ち消すかのように鋭い舌打ちを披露した。

 天井に設置された照明は意図的に最小限まで抑えられているようだ。床に埋め込まれた照明は紫のフィルターを通しているので純粋なあかりとは言い難い。この薄暗い環境からして〝都会の隠れ家〟のような場所なのだろう――が、今日に限っていえば、これらの演出が丸ごと台無しとなっている。

 電知を出迎えたのは耳を塞ぎたくなるくらい大きな雑音と、ネオンライト以上に眩い光である。地下の〝異世界〟は非常に奥行きがあり、ショットバーのカウンターテーブルと隣接する形で広い空間が広がっているのだ。視覚と聴覚を同時に冒してしまうような毒々しい光と音は、そこから輻射されていた。

 ショットバーの向こうに詰め寄せた群衆より発せられる喚き声こそが爆音の正体である。

 すし詰め状態の群衆は電知に背を向ける恰好で大きな輪を作り出しており、ある者は両腕を突き上げ、またある者は人間の言語ことばから掛け離れた意味不明な雄叫びを上げていた。どうやら輪の中心に大勢を興奮させる〝何か〟があるらしい。

 部屋の四隅や天井にはライブハウスで使われる色とりどりの照明器具が設置され、〝何か〟に向かって眩いばかりの光を浴びせ続けていた。昨日今日に運び込まれたと思しき機材は、ただでさえ暗い地下室を明るく照らす為の措置に違いない――が、光と共に熱までもが一点に集中している状況であり、輪の中心に近い人間は蒸し焼き同然の状態に陥っているのではないだろうか。

 この状況を見て取った電知が溜め息を吐いてしまったのは仕方のないことであろう。彼もまた多方向より光が収束していく中心部へ臨まなくてはならないのだ。

 ショットバーのカウンターテーブルにはフードを頭から被ったパーカー姿の少女が腰掛けており、隣の喧騒には目もくれず携帯電話スマホのゲームアプリへ没頭していたが、じゅうどう姿の電知が扉を蹴破って現われるや否や、まなじりを決して「遅ェ!」と喚き始めた。


「エースがそんなんだから〝奴ら〟にナメられんだよ! 気合い入れやがれッ!」


 荒っぽい口調で大遅刻だと繰り返す少女は、カウンターテーブルから床の上に着地すると憤激に任せて彼の尻を蹴り上げた。


「いってぇな! てめー、かみしもしきィ! また靴に変なモン、仕込んでなぁ⁉」

「だーかーら! 情けねぇ悲鳴を上げンなっ! メンツ潰れたら空閑の所為せいだかんな!」

「メンツを気にする前に女らしさの一つも持ちやがれ!」


 かみしもしきと呼ばれた少女は顔立ちこそ愛らしいものの、足癖も口もすこぶる悪い。おまけに恥じらいという感情も希薄のようだ。膝上までの丈しかないプリーツスカートを穿いた状態で足など振り上げようものなら必然的にが見えてしまうのだが、そういったことにまるで無頓着なのである。

 言い返されたことが気に喰わない上下屋敷は二度、三度とじゅうどう姿の少年の腰に蹴りを見舞った。その度に蜜柑色の布切れが視界に入るのだが、電知のほうは鼻の下を伸ばすどころか、呆れたように溜め息を洩らすばかり。足を振り回す際に動き易いという理由からスカートを選ぶ少女へみだらな気持ちを抱くこともないらしい。

 「痴女がいるってウワサのほうがよっぽどメンツにキズが付くだろーが」と窘められた上下屋敷のパーカーにも『E・Gイラプション・ゲーム』というロゴマークがバックプリントされている。


「痴女だぁ? 人の下着パンツ覗いてヨロコんでんじゃね~よ、変態めがっ!」

「……変態に変態って呼ばれる気持ちって、すっげぇ複雑なんだな……」


 今更、注意を重ねたところで無意味と悟った電知は、群衆の渦中へ――光の収束点へと進み始めた。上下屋敷はその後ろを追いかけていく。しつこく蹴りを入れるのは彼女なりの応援エールのつもりかも知れなかった。

 道を譲るよう呼び掛けても誰一人として反応しない以上、もはや、腕力ちからに頼って進路みちをこじ開けるしかあるまい――熱狂する余り、周辺の情報を全く拾えなくなってしまった群衆の様子に頭を掻いた電知は、ベルトを額へ引っ掛けるようにしてドラムバックを担うと、両手でもって強引に人垣を掻き分け、輪の中心へと進んでいく。

 ただでさえ窮屈な思いをしている中で一等強く横へ押し付けられるのだから、誰も彼もが鬼のような形相で電知を睨んでしまうのだが、薄暗闇の中に風変わりなじゅうどうを確かめると声の調子を一変させ、気さくに肩や背中を叩いていく。

 電知に向かって声援を送る人々は、彼や上下屋敷の着衣へバックプリントされた物と全く同じロゴマークの品を身に付けている。人によってTシャツやリストバンドなど種々様々だが、それは『E・Gイラプション・ゲーム』というグループに所属する仲間の証しなのだ。


「――お待たせしましたァッ! でん選手の入場ですッ!」


 ロゴマークがワッペンとして縫い付けられたジャンパーを羽織る男性が司会進行係のように叫ぶと『E・Gイラプション・ゲーム』の全員が電知の存在に気付いた。小柄な少年にとって壁のようにそびえていた人垣も左右に割れていく。彼の為に〝花道ランウェイ〟を作ろうというわけだ。

 そうして開かれた進路みちの向こうから大きな手が無遠慮に飛び出し、電知の頭部あたまからドラムバッグを剥ぎ取った。

 冗談めかした調子で「出迎え、ご苦労!」と笑う電知の双眸は、小柄な彼より遥かに大きい少年の姿を捉えていた。着衣の上からでも出来るくらい逞しい胸板の持ち主である。尤も、素肌に直接、オーバーオールを着込むという出で立ちなのだから筋肉の脈打つさまが分かるのは当然であろう。

 大柄な少年は丸太のように力強い左腕でもって電知のドラムバッグを抱えていた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』というロゴマークがバックプリントされたオーバーオールに身を包む大柄な少年――は大切な商売道具を委ねられるくらい電知と親しい間柄のようだ。


「よく我慢できたな、? お前のことだから、二、三人は既にブッ殺してるって予想してたのによ。おれに花ァ持たせてくれるなんて友達思いじゃねーの!」

「ああ」


 不敵な笑みを浮かべながら頷き合った二人は、言葉少なに互いの右拳を重ね合わせた。

 極めて原始的な行為だが、仲間の期待を物理的に感じることで脳が刺激され、戦意が昂っていくのだ。あるいは闘争本能を揺り起こす〝通過儀礼〟とも言い換えられるだろう。


「この期に及んでナンだけどよぉ、やっぱ納得いかねーわ。面白トコロを空閑が独り占めじゃん? ずりーんだよ! いっそ乱闘起こして後腐れなく終わらせよーぜ~?」

「ンなことしてみろ、お前の言うメンツなんか跡形もなく吹っ飛ぶぜ。恥ずかしくて中野の町を二度と歩けなくなるんじゃねーの? 左右田だって、そう思うだろ?」

「ああ」

「ちぇ~っ! こうなると試合形式なんか面倒くせーだけだぁっ!」


 大暴れの機会を与えられなかったことが不服でならない上下屋敷は、不貞腐ふてくされたように頬を膨らませている。そんな彼女へ見せつけるようにして真隣の電知は楽しげに手首を屈伸させ、次いで地下足袋を脱ぎ捨てた。靴下は履いておらず、剥き出しとなった素足で床のを確かめていく。

 群衆が形作った輪の中央付近は床にクッション材のマットを敷き詰めており、には柔らかそうだった――が、よくよく目を凝らしてみるとサイズの合致しない物を強引に嵌め込んだ箇所も多い。いびつとしか表しようがない有り様は、力任せに押し付けて壊れてしまった不揃いのパズルを彷彿とさせた。

 「急ごしらえ」という言葉がこれほど似合う場所を電知は他に知らなかった。マットの下は打ちっぱなしのコンクリートだ。クッション材の上からでも足の裏に硬さが伝わってくる事実は、が単なる見掛け倒しに過ぎないという証明でもあった。

 それ故に電知は「脳天から落とされたら死ぬかもな」と口の端を吊り上げた。じゅうどうを纏う彼にとっては著しく有利な状況と言えるだろうが、笑いの込み上げてくる理由は別にある。

 生か、死か――二つに一つの潰し合いへ臨めることが愉快でならないのだった。


地下格闘技アンダーグラウンドの本当の恐ろしさを刻んでやろうとすっか」


 電知が呟いた『地下格闘技アンダーグラウンド』とは、フィクションに於いては虚実が入り混じる形で扱われている。不穏当な語感から人目に触れない地下の闘技場コロシアムで繰り広げられる〝闇大会〟を連想されてしまうが、実際はアマチュア格闘技団体と、その興行イベントという側面が強い。

 電知たちがロゴマークを背負った『イラプション・ゲーム』――通称『E・G』とは、この『地下格闘技アンダーグラウンド』の団体名に他ならないのである。

 トトカルチョやドラッグなどの犯罪行為が横行する先入観が地下格闘技アンダーグラウンドには付きまとい、実際に非合法組織の〝下請け〟として機能する団体が存在しないわけではない。しかし、『E・Gイラプション・ゲーム』の代表者は格闘技を心から愛する腕自慢だけを集め、観客に媚びることもなく闘いに酔いしれる至福の舞台を基本理念として掲げていた。

 誰よりも強く、何よりも楽しく――闘う喜びを妨げる存在ものを徹底的に遮断シャットアウトしていることが『E・Gイラプション・ゲーム』という団体の特徴なのである。過去には興行を賭博ギャンブルに利用しようと企んだ小悪党を使で退けてもいる。

 上下屋敷は電知のことを『E・Gイラプション・ゲーム』のエースと呼んだ。同じ団体のメンバーは「空閑電知選手の入場」とも叫んでいた。そして、彼自身は風変わりなじゅうどうに身を包んで怪しげな地下の酒場まで駆け付けた。それはつまり、今、この場にて地下格闘技アンダーグラウンドの試合が行われることを意味しているのだった。

 室内に形作られた〝輪〟を真ん中から二分する形で『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーと相対している群像も地下格闘技アンダーグラウンドの団体なのだろうか。ロゴマークが刷り込まれた品を身に付ける電知たちと同じように、パッションピンクのバンダナを揃って太腿に巻いていた。

 中野駅周辺の壁に対する悪質な落書きに使われたスプレーと全く同じ色の布切れである。

 この町に暮らす人々ならばパッションピンクのバンダナを巻いた一団と『E・Gイラプション・ゲーム』を混同することはまず有り得ない。電知のことを凶暴な目つきで睨み据える荒くれ者たちは、俗に『カラーギャング』と呼ばれるタイプの非行集団であった。

 特徴をそのまま表したかのような呼称の通り、同一の色に揃えた小物などを身に付けることによって連帯感を強め、集団行動を取るのがカラーギャングである。こうした結び付きの為なのか、グループの構成員メンバーは自分たちのことをマフィアに倣って〝ファミリー〟と呼び合っているそうだ。

 『ブラックサバス』に詰め寄せた二〇人ほどの集団は、パッションピンクに染めたバンダナが〝ファミリー〟の証であることから『桃色ラビッシュ』と名乗っていた。

 首都圏に点在するカラーギャングの中でも、この『桃色ラビッシュ』は過激派ということを内外に向かって強く喧伝しており、一歩でも縄張りに足を踏み入れたグループには容赦なく危害を加えている。先日は敵対関係でもなかったグループのリーダーを遊び半分で袋叩きにした上、その恋人までにして数名が逮捕されたばかりであった。

 警察からマークされ、何より事件の被害者が入院中という状況にも関わらず、活動を自粛するどころか、誰の目をはばかることもなく堂々と群れる姿からも『桃色ラビッシュ』の凶暴性と異常性が察せられるだろう。

 地下の〝異世界〟に於いても異様な存在感を放つパッションピンクの群れは地下格闘技アンダーグラウンドとは一線を画した存在なのである。ここに至る経緯から『E・Gイラプション・ゲーム』と『桃色ラビッシュ』の間で試合が組まれたことは間違いない――が、前者の基本理念からすると極めて異例な事態であった。格闘技ではなく暴力を振るうならず者の集団は、本来ならば接触を拒絶してもおかしくないのである。

 事実、『桃色ラビッシュ』のメンバーは〝試合〟をしようという顔付きではなく、上下屋敷が望んだ流れに向かい兼ねない気配を醸していた。闘争心よりも遥かに残忍な光を瞳に湛えているのだ。

 尤も、『E・Gイラプション・ゲーム』の電知エースは照明と同じように自分へ集束してくる殺意が心地良くて仕方ないらしく、歯を剥き出しにして笑っていた。


「――何を偉そうな顔しているんだ。しておいて反省の色もナシとは呆れて物が言えないのだがね」


 今にもバタフライナイフを持ち出しそうなカラーギャングを楽しそうに見回し、一番に飛び掛かってくるであろう相手をする電知の後頭部を何者かが小突いた。


「か、影浦かげうらのダンナ……」


 何事かと振り返った電知が顔を引きらせつつ「影浦かげうら」と呼んだ相手は、フォーマルな背広を着こなす中年男性であり、一見すると地下格闘技アンダーグラウンドとは全く関わりがなさそうだった。

 だが、背広の胸ポケットに差した万年筆の側面にはくだんのロゴマークが大きく刻印されており、誰にはばかることもなく『E・Gイラプション・ゲーム』の同志であることを示していた。

 いかにも神経質そうな男から一睨みされた電知は、目上に対しても生意気に減らず口を叩ける性格でありながらバツの悪そうな顔で頬を掻くばかり。「重役出勤」とは遅刻者を責める常套句だが、反論の余地がないことを自覚している様子だ。

 いきなり後頭部を小突かれても報復の気配すら見せずに俯いてしまうのが何よりの証拠といえよう。その様子は不良学生を注意する教頭のようにも見えるくらいだった。


「上棟式だったんだよ、今日。施主がいつまで経っても来ねぇもんだから、えらく押しちまってさ。全速力でチャリ飛ばしたんだけど、さすがに日野から中野までは遠かったぜ」

「携帯電話くらい持っているのだろう? せめて私にくらい遅れる旨を連絡してくれても良かったんじゃないか? 到着予定時刻も分からなくては場を仕切るのが大変なんだよ」

「チャリ漕ぎながら携帯電話ケータイイジんのは交通ルールに違反しねェ?」

「自転車という乗り物には停車に必要な部品が必ず取り付けられている筈なのだが、それは私の記憶違いかな?」

「おれのチャリはブレーキの壊れたトロッコと同じだよ。一度、走り出したらゴールまで絶対ぜってェ止まらねぇんだぜ!」

「その返事は感心しないぞ、空閑君。ノーブレーキの自転車が事故を起こすケースだって後を絶たないのだからね。キミには交通安全協会の指導を手配したほうが良いらしいな」

「……手前ェで手前ェの墓の穴を掘っちまった~い……」


 一触即発という極度に張り詰めた空気の真っ只中でありながら、年少者に向けた説教を止めようとしない影浦に困惑したならず者たちの間ではどよめく声まで上がり始めている。折角、昂ってきた戦意が全く萎んでしまうような情況であり、電知の気性であれば活火山の如き勢いで反発してもおかしくないだろう。それなのに肩まで落としながら耳を傾けているのだ。

 両者の〝立場〟からすれば、電知が俯き加減となってしまうのも無理からぬ話であった。影浦という背広姿の男性は『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表を補佐する立場なのだ。団体としての活動に欠かせない事務・経理を一手に引き受けており、所属メンバーの誰も頭が上がらない存在なのである。まさしく、〝縁の下の力持ち〟というわけであった。

 その団体代表は地下の〝異世界〟には姿を見せておらず、この場に於いては影浦こそが『E・Gイラプション・ゲーム』側の最高責任者なのである。


「何とかして時間を稼いでくれないだろうか。……哀川あいかわ君が到着する前に乱闘でも始まろうものなら、『E・Gイラプション・ゲーム』としてもさすがにマズい」

 電知の耳元へと顔を寄せた影浦が作戦めいた内容ことささやいた。

「相手がどれだけ強ェか、試合時間は次第だぜ。ダンナにゃ義理は立てるがよ、まどろっこしいコトはゴメンだし、団体の事情なんざ、おれの知ったこっちゃねぇ」

「空閑君、これはただ〝敵〟を潰せば良いという単純な話ではないのだよ。後腐れがないよう始末を付けるのが一番の目的だ」

「――この期に及んでビビッたか? こそこそと逃げる算段かよ? 笑わせらァッ!」


 密談めいたやり取りを続ける電知と影浦の間に一際大きな嘲笑わらい声が割り込み、二人は揃って顔を振り向かせた。

 この二人だけではない。左右田も上下屋敷も――隣のフロアにまで漏れてしまうような大騒ぎを続けていた『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバー全員が口を真一文字に引き締め、一斉に声のした方角へと視線を巡らせた。

 彼らの眼光は地獄の業火にも匹敵するほど破壊的な衝動によって研ぎ澄まされている。


「いやいや、ビビッちまったことを責めてるわけじゃねーんだぜ? そりゃそうだって納得してたところさァ。〝表〟と〝裏〟の社会まちを行ったり来たりしやがる覚悟の足りねぇゲス共は粋がろうにも身体の芯を通すがねぇわなぁ! キョドりながらも決戦場ここまで来たことだけは褒めてやらねぇでもねーよ!」


 アマチュア団体でありながらプロ顔負けの腕自慢が揃う『E・Gイラプション・ゲーム』を臆病者とせせら笑うのは〝ファミリー〟の中心に立つ青年――『桃色ラビッシュ』のリーダーであった。

 一目でブランド物と分かるオパールのピアスで照明ひかりを跳ね返しながら偉そうに胸を反り返らせる優男の名前が「櫻ヶ岡さくらがおか」であると、影浦は電知へ耳打ちした。


「空閑電知、てめーの情報はなしはよ~く聞いてるぜ。大工だか何だか知らねぇが、自分の進む道を一本に絞れねぇような半端者だから平気で遅刻できんだよ。てめーら、気合いが足りねぇんだ、気合いがよぉ!」


 名字の通りに桜色に染めた髪をわざとらしく搔き上げつつ、挑発的な言葉を紡ぎ続ける櫻ヶ岡は「手に職を持つ」ということまで〝逃げ道〟のように皮肉った。〝裏〟の世界に根差したカラーギャングを絶対的な基準に据え、〝表〟の社会まちで生きていく術を備えた電知のことを覚悟の足りない負け犬と嘲った次第である。

 彼の物言いは正業に就いた人間へのねたみとも聞こえる為、散々に煽られながらも当の電知は全く腹が立たなかった。怒るどころか、呆れ顔しか作れないくらいなのだ。


「気合い云々なら、てめぇらこそ足りてねーだろ。大口っつーのは手前ェの足で立ってから叩かなきゃシマらねぇんだぜ? を持ってくれる親分バックなんかアテにすんな」

「おうおう、後ろ盾もねぇ野良犬の遠吠えは心地良いねぇ。『こうりゅうかい』が後ろに付いてる以上、どう転がってもオレらの勝ちって決まってんだよ! てめーら、コンクリ詰めは初めてかァ? この時期、東京湾はクソ冷てェってよォ!」

「……『こうりゅうかい』っつったら清水次郎長しみずのじろちょうとも渡り合ったこうしゅうばくがご先祖だって聞いてたのによォ。こんな連中を飼っちまうなんざ、思いっ切り落ち目じゃねーかよ、おい」

「もっと聞かせろや! てめーの泣き言、携帯電話スマホって着信音にしとくからよぉ!」


 両手の中指を垂直に立て、更には舌まで出して挑発する櫻ヶ岡は全く隠すつもりがないようだが、彼の口にした『こうりゅうかい』とは関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団であった。

 つまるところ、『桃色ラビッシュ』が〝ヤクザ〟の紐付きであることを自供したようなものである。カラーギャングが〝ヤクザ〟の手下になることは大して珍しくもなく、特殊詐欺やドラッグの密売による資金調達などを下請け企業のように任されるのだ。

 電知曰く――『こうしゅうばく』とやらをルーツに持つ『こうりゅうかい』は当代随一の武闘派を自負しており、敵対組織と血みどろの抗争に明け暮れていた。警視庁公安部どころか、海外の警察機関にまで危険視されるほど激烈な体質は、末端に位置するカラーギャングの破壊衝動をも駆り立てるのだった。

 残虐極まりない暴行事件を起こし、逮捕者まで出しながらも『桃色ラビッシュ』が一斉検挙を免れたのは東日本でも最大規模の指定暴力団が背後バックに付いていた点が大きい。『こうりゅうかい』の庇護を根拠として、櫻ヶ岡が「最初から自分たちの勝ちに決まっている」とつけ上がるのも無理からぬ話であろう。

 そのように厄介な相手を向こうに回した状態だからこそ、影浦は対立が長引くことを懸念している。余りにも事態がこじれてしまうと『こうりゅうかい』が本腰を入れて参戦してくる可能性もあるのだ。それだけは絶対に避けなくてはならなかった。

 どうやら、影浦は状況をひっくり返す〝策〟を既に講じているらしいが、一方の電知は「今、この場で威力ちからを発揮しねぇモンに意味なんかあるかよ、ボケかましが」と、背後組織のことなど眼中にない様子であった。

 しかし、誰もが彼のように豪胆に振る舞えるわけではない。一般市民にとって指定暴力団は脅威以外の何物でもないのだ。『E・Gイラプション・ゲーム』側の何人かは『こうりゅうかい』という名称なまえに鼓膜を打たれた瞬間から著しくろうばいしてしまっている。

 それもまた自然の反応だった。あらゆるの人間が集い、みな平等にケンカへ興じるという性質上、『E・Gイラプション・ゲーム』には未成年の高校生やサラリーマン、フリーターなど多彩な顔触れが所属している。影浦とて〝表〟の社会では会計事務所を経営する立場なのである。

 プロのように格闘技一本だけに専念できるわけではないアマチュアだからこそ、所属選手それぞれに〝立場〟がある。守るべき家庭や、やむにやまれぬ事情を抱えている。

 〝表〟の社会をホームグラウンドにする人間にとって指定暴力団との接触は何があろうとも避けなくてはならないのだった。非合法組織との関わりを遮断するという団体代表の意向に魅力を感じて『E・Gイラプション・ゲーム』に加わった選手も少なくないのである。

 これに対してカラーギャングを構成するメンバーは手に職を持つどころか、中学あるいは高校に通う少年ばかりが揃っている。殆どの人間が学生服に身を包んでおり、リーダーの櫻ヶ岡でさえ大学一年生なのだ。

 悪童たちは〝ヤクザ〟という〝大人〟の威光を笠に着て、まるで支配者のような面構えで中野の町を闊歩かっぽしているのだった。

 そもそも、『E・Gイラプション・ゲーム』に挑戦したのはこの悪童たちのほうである。『E・Gイラプション・ゲーム』が中野での興行イベント開催を模索していると聞き付け、〝ファミリー〟の縄張りで好きなことをしたいのなら〝ショバ代〟を支払えと要求し始めたのだ。

 早い話が恐喝である。非合法組織との取引には応じない方針を貫く『E・Gイラプション・ゲーム』は当然ながらこれを拒否。すると今度は一対一の決闘に要求を変更したのだ。互いのグループの中で最も腕が立つ代表エース同士で決着をつけようというわけであった。

 それすら飲み込まないようなら問答無用で全面戦争に持ち込むと強く言い添えて――だ。

 相手は名うてのカラーギャングである。しかも、背後バックには『こうりゅうかい』が控えている。決闘まで断れば、一体、何をされるか分かったものではない。団体の方針から逸脱し兼ねない為に甚だ不本意ではあるものの、ここは受けて立つしかなかった。

 中野駅前の壁に記されていた落書きは比喩でなく本物の果たし状だったわけである。改めてつまびらかとするまでもなく、地下の〝異世界〟こと『ブラックサバス』を決闘の舞台に指定したのも『桃色ラビッシュ』だった。影浦が調べたところによると、彼らはここを溜まり場にしているそうだ。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の公開処刑に臨む悪童たちは誰もが残虐の色で顔を染めており、暴発寸前といった面持ちであった。その様子から察するに『桃色ラビッシュ』としても一対一という状況は本意ではないのだろう。

 警察からマークされている状態では大規模な乱闘も起こせない。特別試合スペシャルマッチを強要し、相手側のエースを叩き潰すことがせめてもの慰め、あるいは〝享楽〟に違いなかった。

 これは地下格闘技アンダーグラウンドとカラーギャングの抗争なのである。だからこそ、普段の興行には大勢駆け付けるはずの応援者サポーターも立ち入りを禁じられていた。


「どうした、らねぇのか? 今日が『E・Gイラプション・ゲーム』最後の試合なんだからよォ、でっけぇ花火でも上げねぇと帰れねぇだろ⁉」

「るせぇんだよ、さっきからベラベラと! 『こうりゅうかい』がナンボのもんだ! 指定暴力団ヤクザが怖くて〝裏〟の社会まちで闘えるかッ!」

「ビビり入ったカスはハッタリが増える法則ゥ~!」


 後ろ盾の強大さ故に自分たちが負けることなど万が一にも有り得ないと信じ込んでいる櫻ヶ岡は『E・Gイラプション・ゲーム』という団体をいたぶるように一等高くわらった。


(さっさとやることやって帰りてぇぜ。胃袋だってカツカレーを待ってらァ)


 さきほどらいの空腹感も手伝って段々と電知は苛立ってきた。自慢話へ付き合う為に自転車を飛ばしてきたわけではないのだ。自分は『E・Gイラプション・ゲーム』の代表エースとして選ばれ、闘う為にこの場へ立っているのである。


「オレたちは違うぜ。〝裏〟の世界一本で生きてくって覚悟は、まァ、てめーらのような半端者には理解できねぇだろーがな」

「手前ェの足で独り立つこともできねぇカスが処世術語ったって説得力もクソもねーぞ」

「密かに録音モードにしといて良かったぜ。負け犬の遠吠え、今度こそ携帯電話スマホってやったからよォ、明日の目覚ましアラームはコレで決まりだぜェ!」


 指定暴力団ヤクザの手駒でしかない点を情けないと罵ったつもりだが、どうやら電知の意図は櫻ヶ岡に曲解されてしまったらしい。


「てめーらみてェな体力バカは遊びでボコスカやってるだけだろ? その程度の覚悟だから〝居場所〟がなくなっちまうんだよ!」


 『桃色ラビッシュ』の悪童たちは「体力バカと違ってオレたちは頭脳派なんだ」などと胸を張るリーダーに呼応し、驕り高ぶった調子で大歓声を上げ始めた。


「……〝居場所〟ねぇ――」


 『こうりゅうかい』の暴威によって地下格闘技アンダーグラウンドの試合を執り行う〝居場所〟そのものが消滅すると櫻ヶ岡は挑発を重ねたいようだが、そもそも彼の理屈が電知には分からなかった。

 『闘う』ということは誰かの許しを得て行うものではない。闘いたいと思った情熱こそが全てであり、その瞬間に立っていた所が決闘場リングとなるのだ。〝居場所〟を前提として始めなければならないほど窮屈なものではない。

 『闘い』とは何より自由なものである。〝ファミリー〟の結束を強要し、〝ヤクザ〟の手駒にならなければ奔放に振る舞えない櫻ヶ岡のほうが息苦しそうに思えるくらいだった。


「――どうしても〝居場所〟が必要なら、それは自分自身の手で作るもんだ。手前ェの力で立つってのはそういうコトだぜ。やっぱ、てめーらの主張はなしは一ミリも理解できねぇわ」

「通知表の成績が体育以外は底辺だったような体力バカが説教垂れようってか? 笑わせるぜ、空閑電知。……てめぇのことは何でも聞いてるっつったよなァ?」

気持悪キモッ! ンなストーカーみたいな真似されたら夢見が悪くなるだろうが!」

「偉そうに〝居場所〟とかのたまっちゃいたが、てめぇのだって所詮は他人ひとからの貰いモンじゃねーか。てめーは半端者じゃなくて紛い物だなァ、えェッ⁉」

「……何ィっ?」

じゅうどうに身を包んだきっかけなんて、てめー、クソダセェじゃんよ。〝道〟の一つも自分で選べねぇボケかましが『手前ェの力で立つ』なんてカッコつけてんじゃねーぞ!」


 呆れ顔のまま暫く動かなかった電知の表情筋が憤激に歪んだ。己に叩き込んだ格闘技を〝軸〟に据えて独り立っているというのに、その矜持を原点きっかけから否定されたのである。

 実際、櫻ヶ岡から浴びせられたのは言い掛かり以外の何物でもなかった。確かに〝このじゅうどう〟を纏うようになったきっかけには幼馴染みが関わっている――が、それが全てではない。闘いの〝道〟を進むと決めたのは己自身であり、「他人ひとからの貰い物」という罵声は全くの的外れだった。


 〝幼馴染みとの想い出〟といっても、別段、色気のあるような話ではない。事情を知らない他人から腐れ縁などと茶化されると、ただそれだけで腹が立ってくる相手なのだ。照れ隠しでも何でもなく、本当に辟易させられるのである。

 しかしながら、くだんの幼馴染みに触発される形で〝このじゅうどう〟を身に纏うようになったことだけは紛れもない真実であり、どうあっても否定できなかった。

 出逢いは小学校に入ったばかりの頃だろうか――その少年は毎日、顔中を青く腫らして登校していた。教師たちの間では家庭内で暴力を振るわれているではないかという声が上がり、実際に彼の保護者が呼び出されて事情聴取を受けたこともあったようだ。

 棒のような物で殴られたとしか思えない傷だらけの肉体からだを目の当たりにしてクラスメートが親からいじめられると思い込んだ電知は、担任の教師に事実を確かめもせず、義憤に衝き動かされて少年の家へ一人で突撃してしまった。

 ところが、幼い彼を迎えたのは平気で子どもに危害を加えるよう恐ろしい大人などではなく、意外としか言いようのない真相であった。

 確かにクラスメートの家庭は少しばかり特殊な事情を抱えていた。小柄な電知にはそびえ立つ山のようにも感じられる武家屋敷風の門構えがその事実を雄弁に物語っていた。

 そこは大正時代から続くの道場であり、クラスメートはたった一人の跡取り息子なのである。電知が壁をよじ登って敷地内へ踏み込んだときにも剣道場で稽古しており、老剣士が突き込んでくる竹刀の先端を喉に受けて壁際に撥ね飛ばされたところだった。

 余りの事態に驚いて『とら』という愛称ニックネームを叫んだことは現在いまも鮮明に憶えている。

 そして、その光景が全ての答えを示していた。全身のアザは剣道の稽古で刻まれたものであり、だからこそ、学校側も保護者に対して強く注意できず、児童相談所に通報されることもなかったわけだ。『寅』自身、床の上へ倒されるたびにすぐさま起き上がり、反撃を繰り出していくのだから〝一方的な暴力〟とは断定し難かった。

 尤も、は電知が知っている剣道とは別物といっても過言ではなかった。竹刀の構え方や身のこなし、一揃いの防具などは剣道の基本に則っているのだが、大人と子どもが本気でぶつかり合うなど稽古は相当に荒々しい。つば競り合いの最中に互いの足を絡ませて相手を転ばせようと図り、そうかと思えば、喉元目掛けて肘打ちまで繰り出したのである。竹刀で打ち込む寸前には体当たりまで仕掛けていた。

 剣道の公式戦でこのような技を使おうものなら問答無用で反則を言い渡されるだろう。竹刀を握った拳による殴打など絶対にあってはならないことである。それでいて有効な部位に技を決めて勝敗を分けるという基本原則は剣道に準拠しているらしい。

 不思議な技に接して目を丸くするばかりの電知に対して、『寅』は自身が稽古を積んでいる剣道の様式について、その成り立ちから説き聞かせた。

 何でも『寅』の祖父は海の向こうまで勇名を馳せた伝説の剣道家――『タイガー・モリ』こともりとらの教え子の一人であるそうだ。その時代に興った〝古い剣道〟とやらを風化させない為に道場を開き、現代剣道ではルール上で禁じられた技まで含めて継承し続けているという。何しろ孫子まごこの名前に『寅』の一字を授けるくらいなのだ。どれだけ時代を経ても恩師への思いは薄れることがなく、余人には想像できないほど深いのだろう。

 当時の電知は森寅雄タイガー・モリについて熱弁されても全く意味が分からなかったが、〝古い時代の剣道〟だけは幼い心にもしっかりと焼き付いていた。

 体力作りの一環として保育園の頃から習ってきた柔道にも封印された技が存在するのではないかと興味を持った電知は明治まで歴史を遡って往時の選手たちを丹念に調べ上げ、黎明期から現代に至る技術わざの変化まで理解し、その末に一風変わったじゅうどうを纏うようになった。これは柔道史の初期に用いられていた道衣どうぎの再現であり、彼が辿り着いた一種のともいえよう。

 古流柔術でも現代柔道でもない〝古い時代の柔道〟と呼ぶべき技に電知もまた魅せられてしまったのである。

 自分と同様の〝道〟を電知が歩み始めたと知った『寅』は目を輝かせて喜んだ。特殊と言わざるを得ない環境に理解を示してくれた初めての〝友達〟だったのだろう。互いに修練を重ねて、いつか、本気で勝負しようと約束を交わしたのである。

 もう一〇年も昔のことだが、その瞬間の昂揚を電知は一日たりとも忘れはしなかった。


 櫻ヶ岡の罵声を受ける恰好で〝このじゅうどう〟を身に付けるようになった経緯いきさつを想い出していた電知の脳裏に、自分の個人情報を『桃色ラビッシュ』へ売り渡したと思しき容疑者の顔がよぎった。


「いや、まさか――」

「――『そのまさか』って言ったら、でんちゃん、ガチ勝負してくれるぅ?」


 この上なく忌々しそうに吐き捨てられた呟きへ答えを返したのは、電知の真後ろから耳元に向かってささやかれた声である。比喩でなく本当に飛び上がって驚き、肌を粟立あわだたせながら背後を振り返ると、いつの間にやら学ランに身を包んだ少年が立っているではないか。

 電知よりも二回りは背が高く、すらりとした細身でもある為に大人びて見えるが、少しずつ着慣れてきた頃合と思しき状態の学ランからして年齢自体は彼と同じくらいだろう。

 虎柄の模様が白く染め抜かれた竹刀袋を肩に担ぐ姿は部活帰りの高校生そのままであり、地下の〝異世界〟には誤って迷い込んだとしか思えないのだが、当人は肌に突き刺さるような暴力の気配に怯むどころか、むしろ、心地良く感じている様子だった。

 今にも乱闘騒ぎを起こしそうな面々を楽しそうに見回した少年は、困惑した表情かおで身を強張らせている電知たちへ「よっす!」と気さくに片手を上げた。


「左右田くんもこんばんは。相変わらず、筋肉ぱっつんぱっつんだねェ~」

「あ、ああ……」

「今夜の照ちゃんはかな? ボクの好みは蜜柑色だけど、後で確認させてくれない?」

「へ、変態っ! な、なんで、て、てめーのリクエストに応えなきゃなんねーんだッ!」

「ん? 照ちゃんが可愛いからさ」

「こ、ここ、答えになって、ねぇ~だろぉーがぁぁぁッ!」


 慣れ親しんだような受け答えから察するに、学ラン姿の少年とは左右田や上下屋敷も浅からぬ付き合いがあるらしい。後者は下の名前が照代てるよなのだが、これにちなんだ愛称ニックネームで呼んでも許される間柄ということも間違いないだろう。

 その上下屋敷は両手でもってスカートを押さえつつ、真っ赤な顔で「ド変態!」と喚き散らしていた。先程まで周囲の目をはばからず、無防備に足を振り上げていたというのに今更になって羞恥心が押し寄せてきたようだ。

 それとも、この少年に対する反応だけがなのだろうか。確かに人懐っこい笑顔はアイドルのように爽やかで、この場の誰よりも二枚目イケメンという言葉が似つかわしい。「だって、照ちゃんが可愛いっていうのは紛れもない事実だし」と茶化される度に上下屋敷の口元は緩んでいくのだが、それは目の錯覚などではないだろう。

 その一方で、無害を絵に描いたような表情かおの少年が笑い声を上げる度、電知の額へ刻まれる皺の本数が増えていく。


「やっぱり、てめーが入れ知恵してやがったんだな、寅ァッ!」


 火山の爆発とたとえるのが最も相応しいだろう電知の吼え声が示す通り、奇抜な竹刀袋を担いだ学ラン姿の少年こそが彼にとって古い約束の相手――『寅』である。

 本名はとらすけであり、櫻ヶ岡は苗字のほうで呼び付けているようだ。「新入りの分際で遅刻してんじゃねーよ! てめー、やる気あんのか⁉」と、いかにも不機嫌そうな叱声でもって彼のことを出迎えていた。


「足並み揃えろっつってんだろ、〝ファミリー〟として! てめーまで空閑電知と同じ真似してたらメンツにキズが付くじゃねーか!」

「――ってことは電ちゃんも遅刻? いやぁ、面目ない。ほら、ボクって小学校の剣道クラブでコーチやってるじゃないですか。稽古に熱が入ると時間が読めないんですよぉ」


 謝罪の気持ちなど微塵も感じられないのだが、到着が遅れた理由をとりあえず櫻ヶ岡へ釈明しつつ、寅之助はカラーギャングたちが固まっているほうへと歩みを進めていった。


「おい、寅! こっちの質問に答えやがれ!」

 学ランの背中を追い掛けるのは、当然ながら電知の張り上げた怒号である。

「さてはてめー、……いつものッ⁉」

「そだよー、今日も今日とて元気に電ちゃんの敵側に回ってまーす! 『いつもの』っていう一言で通じ合えるなんて、行きつけのラーメン屋みたいでテンション上がるねっ」

「上がるか、ボケェッ!」


 幼馴染みから殺気立った怒声を浴びせられることが嬉しくて仕方ないらしい寅之助は、駆け巡る陶酔に全身を震わせつつ、学ランのポケットよりパッションピンクのバンダナを引っ張り出すと、『E・Gイラプション・ゲーム』の面々へ見せびらかすようにしてこれを太腿に巻き付けた。

 それは『桃色ラビッシュ』の〝ファミリー〟という証拠である。櫻ヶ岡に「新入り」と呼び付けられた通り、彼もまた恐るべき非行集団カラーギャングに参加していたわけだ。

 『E・Gイラプション・ゲーム』のエースとして選ばれた幼馴染みとの決定的な敵対を意味している――が、電知本人は大して驚きもしなかった。彼の両隣に立つ左右田と上下屋敷も同様だ。後者に至ってはどうにも憎み切れないといった調子の苦笑いをらしている。

 個人情報をカラーギャングへ密告した犯人を推理する電知が真っ先に思い浮かべたのも幼馴染みの顔だったのである。そもそも、このような真似をする人間など寅之助以外には考えられないのだから、もっと早く気付くべきだったと自分の迂闊さに呆れたくらいだ。

 瀬古谷寅之助という少年は、いつだって電知の神経を逆撫でするようなことばかりかしていた。〝古い時代の武道〟を志す者同士、いつか、本気で勝負しようと約束を交わしたのが、ある意味に於いて運の尽きだったのかも知れない。尋常ではないほど懐かれ、四六時中、付きまとわれるようになってしまったのである。

 それだけならば、電知にもまだ我慢できた。両者の関係が大きく変わったのは〝古い時代の柔道〟に対する理解が一等深まった頃である。その時期ときを境に寅之助は約束した〝勝負〟へ持ち込むべく種々様々な策略を仕掛けるようになったのだ。

 それは鬱陶うっとうしいというどころのレベルではなかった。何か恨みでもあるのかと疑うくらい悪質な行動を繰り返すのである。今回のように電知と敵対する側へ加担するというのがその好例だ。過去には別の地下格闘技アンダーグラウンド団体に潜入し、『E・Gイラプション・ゲーム』との抗争まではかっている。

 さすがに堪忍袋の緒が切れた電知から約束の反故を通告されると、用済みとばかりに独りでくだんの団体を壊滅させ、次のを考え始めるという有り様であった。

 幼馴染みの慣れ合いによる試合ではなく、どちらが死ぬか分からない真剣勝負こそが寅之助の悲願である。その為には電知が絆を投げてて本気で立ち向かってくるような〝状況〟を作り出さなくてはならない――と、上下屋敷は本人の口から教えられていた。

 もしかすると櫻ヶ岡を焚き付けて『E・Gイラプション・ゲーム』との間にいさかいを起こさせたのも寅之助なのかも知れない。電知との真剣勝負に至上の価値観を置いている彼ならば、指定暴力団ヤクザの紐付きとなっているカラーギャングを操ることさえいとわないだろう。

 生まれて初めて自分の志す〝道〟を理解してくれたい相手には思い入れも強くなるものだが、寅之助の場合はそれが常軌を逸した形に歪んでしまったようである。


「思いっ切りお願いね、電ちゃん。キミの想いの丈はボクが全部、受け止めてあげる」


 さしもの電知も今度ばかりは激怒するに違いない。憤激とは闘争本能を極限まで揺り動かす鍵でもある。今日という今日こそ〝約束〟が果たされるのだろう――袋の中から一振りの竹刀を抜き出した寅之助は、まるで赤ん坊の如く無邪気に破顔している。

 身の裡から湧き起こる憤激によって頬の筋肉が小刻みに震えている幼馴染みを更に煽り立てようというのか、寅之助は彼の顔面に向けた剣先で円を描き始めた。電知のことを前にしか進めないトンボのように見立てて皮肉っているわけだ。

 傍目には意味不明な行動のように見えるかも知れないが、幼馴染みとして長い時間を共に過ごしてきた電知には寅之助の意図が伝わってくる。頬の筋肉の脈動が一等速くなったことがその証拠であろう。


「因縁の対決みたいな流れに横槍を入れるのはとても心苦しいんだが、今夜、空閑君が相手をしなきゃならんのは瀬古谷君、キミじゃないだろう?」


 陶酔の色を濃くしていく寅之助に対して冷たい指摘ツッコミを入れたのは両者のやり取りを脇で眺めていた影浦である。

 何しろ、寅之助は過去に『E・Gイラプション・ゲーム』へ実害をもたらそうとした男なのだ。団体の運営にも携わる影浦が彼の存在を把握しているのは当然だろう。『把握』ではなく要注意人物として『警戒』していると表すほうが正確に近いはずだ。


「長い間、待機させられて爆発寸前といった感じではないかね。……見たところ、キミは〝ファミリー〟とやらの新入りなのだろう? いくら情報提供者であっても対戦相手の決定権があるとは思えないのだが?」


 影浦が人差し指でもって示した先にはアジア系と思しき外国人の男性が腕組みしながら仁王立ちしているではないか。明らかに苛立った様子であり、全身から穏やかならざる気配を漂わせている。

 二つのグループの抗争を決着させるべく『桃色ラビッシュ』が送り出した代表エースは〝古い時代の剣道〟の使い手ではなくこの怒れる外国人男性のほうであった。

 それにも関わらず、今まで無視されていたわけだ。おまけに『E・Gイラプション・ゲーム』の代表エースには自分とは違う人間が対峙しようとしている。意中の相手が自分の頭越しに別の人間とデートの約束を取り付けているようなものであり、ここまで蔑ろにされたなら、どれほど温厚な人間であろうとも激怒して当然だった。


「影浦さんは相変わらずキレ者だなァ。『E・Gイラプション・ゲーム』って団体の中で一番手強いのはあなただとリーダーにも伝えておいたんだけど、闇討ちみたいなコトもなかったみたいだね~」

「ポリ公の目がうぜェんだから大っぴらには仕掛けられねェだろーが。だから、こうして集まってるっつーのに……事情くらい分かれよ、仮にも〝ファミリー〟の一員なら!」

「あいすみません。何分なにぶん、入って日が浅いもんで~」

「……このクソ生意気なガキはともかく、そっちの〝先生〟は一味違うぜェ。ステゴロなら〝ファミリー〟でも最強! おまけにテクニックもケタ外れと来たもんだ。空閑電知、せいぜい今夜だけは楽しんでおけ。明日から地下格闘技アンダーグラウンドを名乗るのが恥ずかしくなるような目に遭わせてやるからよォッ!」


 〝ファミリー〟を蔑ろにするような態度の寅之助を舌打ちでもって窘めつつ、彼と同じ〝新入り〟の経歴を明かしていく櫻ヶ岡リーダーは、いつの間やら部屋の中央から舎弟たちの近くまで引っ込んでいた。

 大口を叩いておきながら自分で拳を交えようとはせず、安全な地点まで避難する櫻ヶ岡へ軽蔑の視線を叩き付ける電知であったが、この見下げ果てた男にいつまでも意識を向けてはいられなかった。

 正面に立った怒れる外国人は確かに他の構成員メンバーとは違うらしい。この空間の中に外国人が彼一人という点や、学生服ではなく剥き出しの上半身に競技用のトランクスという装いも目立つ要因ではあるものの、それ以上に年齢と体格が〝ファミリー〟から掛け離れているのだ。

 少なくとも、「若さ」という二字は全く似つかわしくない。筋肉の鎧を纏ってはいるが、腹周りには控えめとは言い難い量の贅肉がこびり付いており、頬や眉間に刻まれた皺の数と照らし合わせると、三〇代後半であろうことが察せられた。

 非行集団の中にあって異物としかたとえようのない彼の姿から一つの結論に達した上下屋敷は「ご大層に〝先生〟とか呼ばれてっけど、この野郎、時代劇とかに出てくるような用心棒ってコトじゃねェ?」と首を傾げた。

 彼女の言う通り、時代劇では腕力に劣る悪代官が凄腕の剣客を用心棒として雇い、アジトまで踏み込んできた主人公に差し向けるという筋書きが定番となっているが、この外国人男性はカラーギャングにとって、まさしくそのような存在なのではないか。

 寄ってたかって標的ただ一人を袋叩きにするのであればまだしも、地下格闘技アンダーグラウンド団体との抗争に於いて一対一サシ決闘タイマンに臨む場合、さすがに『桃色ラビッシュ』のほうが分は悪い。この劣勢を覆す為、急遽、屈強の男を雇い入れたというのが真相だろう。

 もしも、上下屋敷の推理が的中しているとすれば、〝ファミリー〟を大切に扱うという『桃色ラビッシュ』の方針との間に矛盾が生じるわけだが、これを聞いた影浦は確信を抱いたように首を頷かせている。言わずもがな、電知も左右田も同意見であった。


「何が代表エースだよ、笑わせやがって! 結局、実力じゃ勝てねぇってんで、余所から助っ人引っ張ってきたっつーコトだろ⁉ 指定暴力団ヤクザに尻尾を振るだけじゃねぇ! てめぇらは負け犬根性が板に付いてやがらぁッ!」

「はァ? 〝てめーら〟みたいなド底辺と同じ次元に立たなきゃいけねぇ理由もねーだろ。〝オレら〟はアタマも要領もイイんだよ」

「てめぇがやってることは要領の良さとは別物なんだよッ!」


 櫻ヶ岡が上下屋敷の推理を肯定した瞬間、電知の頬が先程とは別の意味で脈動した。あろうことか、カラーギャング側が決闘自体を全否定したのだ。『E・Gイラプション・ゲーム』の代表エースにとっては肩透かしというよりも、意気込みをにされたようなものであった。

 ひいては『桃色ラビッシュ』で雇ったはずの〝先生〟をも侮辱する発言であり、電知の心には並々ならない義憤が湧き出していた。当の櫻ヶ岡は〝敵〟の為に憤るという思考が全く理解できないようで、「お誂え向きの相手を用意してやったんだぜ? 感謝の言葉くらいあっても良いと思うがねェ」などと厭味ったらしく肩を竦めている。


「――電ちゃんはどっちと闘いたいの? てゆーか、どっちを殺したいんだい?」


 「お誂え向きの相手」と櫻ヶ岡が口にした直後、悪童たちの喚き声を切り裂くようにして甲高い音が天井に撥ね返った。

 寅之助である。顔面に薄笑いを貼り付けたまま竹刀でもってマットを叩き、両者のやり取りへ強制的に割り込んだのだ。

 この言行は『桃色ラビッシュ』の〝ファミリー〟にとって背信も同然だろう。グループの意向を無視して自分と闘うよう電知をさそっているわけだ。当然、出しゃばった新入りに叱声も飛んできたが、寅之助は少しも怯まず、もう一度、マットに向かって竹刀を叩き落とすことで室内に沈黙をもたらした。

 ただそれだけで誰もが気圧されていた。指定暴力団ヤクザを味方に付けたことによって怖い物などなくなったと威張り散らしていたカラーギャングが戦慄に身を震わせていた。

 容姿だけを見ると虫の一匹も殺せそうにない優男が『E・Gイラプション・ゲーム』とは別の地下格闘技アンダーグラウンド団体をで壊滅させた事実は〝ファミリー〟の中で知らない者はいない。むしろ、その戦闘力を買われて仲間入りを許された面もあるくらいなのだ。

 そのような少年が竹刀を乱暴に揮う姿は、がなり声で凄むよりも威圧としての効果が遥かに強いのである。

 新入りに翻弄される『桃色ラビッシュ』の間抜けが愉快だったのか、はたまた竹刀を振るう寅之助に惚れ惚れしているのか、喜色満面で左右の拳を握る上下屋敷を横目で睨んだ電知は、幼馴染みに向き直るとこれ見よがしにマットへ唾を吐き捨てた。

 唾棄だきという行為と、冷たい眼光が寅之助という存在そのものを拒絶していた。


「またそうやって電ちゃんは……キミの優しさは時に罪作りだよ」


 言葉もなく自分との勝負を拒んだ幼馴染みに寅之助は残念そうな――しかし、どこか嬉しそうな笑みを浮かべて竹刀を肩に担いだ。この場で立ち合うことは諦めた様子である。

 拒絶の理由が明確に語られることはなかったものの、幼い頃から誰よりも近くに居た寅之助には電知の心の内が読み取れたのだろう。まさしく以心伝心であり、無言の会話を経て納得させられた次第であった。

 またしても爪弾きにされる格好となっていた外国人男性の〝先生〟が動いたのは寅之助が後方に下がろうとした瞬間のことだ。通訳が随伴していない為、日本語で紡がれる会話の内容を全て理解できたとは思えないが、電知たちの間に垂れ込める雰囲気から自分が置かれた状況を読み取れないほど遅鈍でもないわけだ。

 つまるところ、彼は我慢の限界に達してしまった次第である。

 自分の出番を奪われまいと強引に乱入する〝先生〟だったが、怒号を爆発させるような激しさはなく、声を殺して獲物に照準を合わせる狙撃手さながらの静けさで一気に電知との間合いを詰めていく。

 当の電知は遮二無二しゃにむにに突っ込んでくる〝先生〟を正面切って迎え撃つしかなかった。

 地下格闘技アンダーグラウンドの試合形式を喧嘩大会と揶揄する声は多く、『E・Gイラプション・ゲーム』もその点は否定していない。目潰しや噛み付き、急所への攻撃といった悪質な行為こそ禁じているものの、選手の安全を確保する為の規則を敢えて最小限に留めているのだ。グローブの着用さえ義務化されておらず、血だるま同士で素手の殴り合いを続けるような試合も少なくなかった。

 渾身の力をぶつけ合い、起き上がれなくなったほうが負けという過激なルールは今夜の決闘にも適用されている――が、そのことを両者が確認し合ういとまはなかった。ましてや、開戦のゴングすら鳴らされていないのである。

 それでも電知は一向に構わなかった。そもそも、決闘これはレフェリーも付かず、途中に休憩時間インターバルも挟まない無制限デスマッチという取り決めなのだ。どのような状況から闘いが始まろうとも最後まで立ち続ければ良いだけのことであり、危険であればあるほど彼の闘争心は燃え上がるのだった。


「生半可なコトじゃおれは倒れねぇ! のっけから限界突破で来やがれッ!」


 電知の吼え声に呼応して〝先生〟の速度が一等増した。左右田よりも大きな肉体からだを砲弾の如き勢いでぶつけようというのだ。

 間もなく電知の鼻先に轟々たる突風が噴き付けた。それは横一文字の鉄拳がすり抜けていったである。〝先生〟の動きを見極めて半歩ばかり後ろへ下がった為に直撃を免れたものの、一瞬でも反応が遅れていれば、小柄な電知などは間違いなく部屋の隅まで吹き飛んでいたはずだ。

 『桃色ラビッシュ』から差し向けられた男は、一振りで風を薙ぐような腕力だけでなく打撃の技術テクニックも卓越していた。そして、知識も実戦経験も豊富であるらしい。

 電知が纏う風変わりなどうも柔道の物だとすぐさま見極めたようで、パンチとキックを交互に織り交ぜた連打で押し込むように攻め立てておいて、相手が反撃を図ろうとするなり後方に跳ね飛んだ。柔道家へ密着し続けることは危険以外の何物でもなく、組み付かれる寸前で素早く間合いを離した次第である。

 『ヒット・アンド・アウェイ』と呼ばれる戦法だった。腹で揺れる贅肉に惑わされがちだが、〝先生〟は相当にフットワークが軽く、立て続けに四肢を振り回す連打の速度スピードも並みの水準ではない。開戦当初こそ無鉄砲とも思える突進を見せたが、本来はクレバーな試合運びによって戦局を操作コントロールすることに長けているのだろう。

 バタフライナイフといった殺傷用の武器や、〝ファミリー〟という数の暴力に頼らなければ満足に喧嘩もできない非行集団とは一線を画しているわけだ。そういう意味でもくだんのグループから浮いてしまうのは必然だった。

 自らも両手を繰り出して打撃の全てを受け止め、弾き返していた電知に大きなダメージはなく、攻防の中で相手の格闘様式スタイルを見極めるだけのゆとりを保っていた。


「見掛け倒しじゃなくて安心したぜ――」


 〝先生〟と呼ばれるアジア系の男がキックボクシングをベースにしていることは間違いない。機械のように正確なヒット・アンド・アウェイを見る限り、かなりの場数を踏んでいるとも窺える。プロ顔負けの猛者が集う『E・Gイラプション・ゲーム』に於いても、ここまで高いレベルで試合を組み立てられる人間は数えるほどしか居ない。


「――だがッ! 打撃相手におくれを取るわけにはいかねぇッ!」


 見憶えのない顔立ちであるが、ひょっとすると本当にプロのキックボクサーではないだろうか――そのような仮説ことを頭の中で考えつつ、電知は突き込まれてくる右のストレートパンチに自分の拳を叩き付けた。

 小柄な少年が六〇センチは体格差がありそうな大男と正面切って拳を衝突させたなら、ただそれだけでも身体が浮き上がってしまうだろう。しかし、この場に居合わせた誰もが共有する予想を裏切るくらい電知当人は強靭であった。叩き付けた拳で〝先生〟を押し止め、身動きを封じると今度は自分のほうから間合いを詰めた。

 パンチを繰り出していた右腕を両手でもって捉えながら自分の腰を捻り込んだ電知は、そのまま〝先生〟の巨体をマットの上に投げ落とした。

 いわゆる、一本背負いを決めたのである。『じゅうよく剛を制す』という格言が柔道界に広く知れ渡っているのだが、その通りに体格差の大きな相手を返り討ちにしたのだった。

 傍目には〝先生〟が電知へ圧し掛かっているようにも見えたことだろう。しかし、身長と体重のハンデを飛び越えてしまえるのが柔道の醍醐味であり、極意とする領域ところである。疾風迅雷ともたとえられる動きの中に相手を巻き込み、これによって重心をも崩し、前方に向かう力の作用エネルギーを作り出せば、ひょうであろうとも容易く巨人を仕留められるのだ。

 〝先生〟は自分に何が起こったのか、全く理解できない内にへ飲み込まれ、受け身すら取れないまま硬いマットへ叩き付けられてしまったのである。キックボクシングの打撃に勝るとも劣らない破壊力で脳を揺さぶられ、失神しても不思議ではなかった。

 だが、〝先生〟は打たれ強さもけた外れであった。轟音が撥ね返った天井を仰ぐようにしてマットへ転がったまま電知の腰に締められている帯を掴み、真横に投げ倒さんと試みたのである。絶対に逃げられないよう〝捕獲〟したのちに頭から落とそうというわけだ。

 キックボクシングがベースであろうと電知は〝先生〟の様式スタイルを分析していたが、どうやら打撃それ以外の技術テクニックにも精通しているらしい。それは身体が勝手に反応したような急ごしらえの投げ技ではなかった。


(この野郎、やっぱり路上の喧嘩自慢なんかじゃねぇな――)


 相手の技を敢えてことに決めた電知は横方向へ急激に働いた力の作用に身を委ね、そのままマットの上に投げ落とされた。無論、落下の寸前に両手を床に叩き付け、勢いを減殺させた上で頭部あたまをぶつけることだけは回避している。

 電知には耳慣れない言語ことばで何事かを呟いた〝先生〟は瞬時にして上体を撥ね起こし、次いでマットに横たわったままの彼に圧し掛かろうとした。


「今、『ブチ殺す』とでも言ったんか? 何だか、そーゆー表情かおだぜッ!」


 自分へ馬乗りになろうとする動作うごきから次に仕掛けられるだろう攻撃を読み取った電知は、すかさず〝先生〟の両腕を掴み返し、同時に腹部へと右足を引っ掛け、折り曲げていた膝のバネを一気に解き放つことで彼の身を後方に投げ飛ばしてしまった。

 自分の頭の上をすり抜けるような形で相手が宙を舞う妙技――この鮮やかな巴投げは、おそらく〝柔道の試合〟であったなら、審判から一本勝ちを宣言されたことだろう。

 しかし、これは喧嘩大会さながらのデスマッチなのだ。またしても硬いマットの上に落下したことでダメージ自体は蓄積されたであろうが、相手が意識を失うか、あるいは降参ギブアップでもしない限り、決着の一手とは成り得ないのである。

 果たして〝先生〟はゆっくりと起き上がった。激痛に喘ぐような表情かおでもないということは、つまり闘いが長期化する可能性を暗示している。


「――ったく、イヤな気分にさせてくれるじゃねーか。さっきの技ってよォ……」


 掴まれた拍子に緩んでしまった帯を締め直しつつ、電知は今し方の攻防を振り返った。

 変則的な投げ技でもって電知を転がした後、〝先生〟は腹の上へ跨ろうとしたのである。七〇キロ近く開きがある体重で小柄な少年を押し潰し、身動きを封じ込めるつもりだろうとカラーギャングの悪童たちには見えたかも知れない――が、現代格闘技に触れた人間の目には全く違う動作として映ったはずだ。

 〝先生〟が試みたのは馬乗り状態マウントポジションと呼ばれる体勢であった。読んで字の如く相手の腹の上に跨り、四肢の動きを制限しつつ攻撃を加えるという格闘技術の一種である。互いの姿勢にもるが、相手の防御を封殺して一方的に攻め続けることさえ不可能ではなく、今日こんにちでは勝敗を決定付ける技術ものとして特に重要視されていた。

 尤も、電知が渋い顔になったのは敗北の危険に晒されたからではない。馬乗り状態マウントポジションという現代格闘技を代表する技術から連想されるが癇に障って仕方がなかったのだ。そもそも、くだんの技術の有用性に注目し、攻防の手段として進化させていった〝業界〟には善からぬ感情しか持っておらず、『E・Gイラプション・ゲーム』も団体を挙げて全否定しているくらいだった。


(……何でこんなときにまで胸糞悪い連中を想い出さなきゃならねぇんだ)


 体格差が開いているというのに簡単には馬乗り状態マウントポジションへ持ち込めないと判断し、再び立ち技によるヒット・アンド・アウェイに切り替えた〝先生〟を見据えつつ、電知は苦々しげな溜め息を吐き捨てた。


「バトルっつーのはスカッと爽快でなきゃいけねぇぜッ!」


 パンチの予備動作を見極めるや否や、これを押し止めるようにして懐まで飛び込んだ電知は相手の左肘を右の五指にて掴み、同時に対の手を首の後ろに引っ掛けた。当然ながら〝先生〟は力ずくで振り払おうともがいたが、これこそ彼の狙いである。重心が不安定となった瞬間を見逃さずに互いの片足同士をからませ、そのまま背中から投げ落としていく。

 背負い投げと巴投げによるダメージが抜け切らない内に後頭部から落下させられ、さしもの〝先生〟は苦悶の声を洩らしたが、失神KOまでには至らず、マットの上に転がった状態でキックを仕掛けた。膝を踏み付けることで関節を損傷させ、忌々しい投げ技を封殺しようと考えたらしい。

 完全に寝転ぶか、あるいは腰を下ろしたような状態から仕掛ける蹴り技もまた電知が忌み嫌う〝業界〟に於いて多用される攻撃手段であった。それが為、後方へ跳ねる最中には行儀悪く舌打ちを引き摺ってしまったのである。

 尤も、その鋭い音は誰の耳にも届かなかった。大男である〝先生〟を相手に当たり負けしない電知の強靭さに『桃色ラビッシュ』の側からどよめく声が上がったのだ。無論、『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちはやかましいくらいに喝采を爆発させている。


「――そうか、パンギリナンか! どこかで見た顔だと思ったんだ!」


 会心の投げが決まり、『桃色ラビッシュ』にも精神的な動揺を与えたにも関わらず、「憂さばっかり溜まる闘いなんて最低に最悪だぜ」と電知が浮かない調子で吐き捨てる一方、その様子を外野から見守っていた影浦は急に素っ頓狂な声を上げた。

 自分が得意とする間合いから遠ざかった電知へ鋭い眼光を浴びせつつ、苦しそうに身体を引き起こした〝先生〟のことを影浦は『パンギリナン』と呼び付けたのである。


「藪から棒に何だよ⁉ 『パンギリナン』ってこいつの名前なのか――」


 大きく踏み込んできた〝先生〟――パンギリナンのハイキックを右腕にて受け止め、対の手で踵を掴み返そうとする電知だったが、横から割り込んできた影浦の声に気を取られ、そこに隙が生じてしまった。

 一瞬の隙であろうとも見逃すパンギリナンではない。掴まれる前に蹴り足を引き戻し、これと同時に軸として据えていた右足を捻り込むと、同じ側の拳を旋回の勢いに乗せて鉄球の如く振り抜いたのだった。

 あろうことか、〝敵〟とは別の方向に意識を飛ばしていた電知には遠心力によって加速した裏拳バックブローを避けることは難しく、防御ガードすらできないまま顔面に直撃されてしまった。

 すかさず回り込んだ左右田が受け止めていなければ、体重の軽い電知などショットバーのカウンターテーブルまで吹き飛ばされていたかも知れない。


「サンキューな、左右田。お陰で間抜けを晒さずに済んだぜ」

「……ああ」


 口の端から滴り落ちていく一筋の鮮血を舐め取り、心地良い鉄錆の味で脳を刺激された電知は殴り飛ばされる寸前に影浦へただそうとしていた内容を想い出した。

 彼には見憶えの一つもなかったが、影浦のほうはこのアジア系の男性の正体を知っているようなのだ。そのことが不思議でならず、思わず首を傾げそうになったところで裏拳バックブローを命中させられた次第である。


「――お誂え向きの相手を用意してやったんじゃね~か! ドン詰まりな『E・Gイラプション・ゲーム』へのはなむけとしてよォ! 感謝して欲しいくらいなんだぜ⁉ おらッ、泣いて喜べや!」


 しかし、電知の疑問に答えを示したのは影浦当人ではなく不調法にも横から割り込んだ櫻ヶ岡の声であった。


「お前らにとっちゃ『MMA』は不倶戴天の敵だろ? 今日でブッ潰れたら二度と対戦のチャンスもなくなるじゃねーの。せめてものお慰みに手配してやったのさァッ!」


 著しく下降してしまった〝ファミリー〟の士気を挙げようというのか、過剰なまでに高い声を張り上げる櫻ヶ岡は『MMA』と自慢げに語った。

 MMA――それは『ミクスド・マーシャル・アーツ』の略称であり、日本では『総合格闘技』という呼び方でも知られていた。

 『異種格闘』ではなく『総合格闘』である。その名称の通り、フルコンタクト空手やボクシング、ムエタイといった打撃系の技術と、柔道やサンボに代表される投げ・関節技サブミッションの技術など地上に存在する全ての格闘技のエッセンスを取り入れ、統一ルールのもとに技術体系の総合化を達成した競技形態スタイル――それこそがMMAであった。

 『何でもアリ』という一点に於いては地下格闘技アンダーグラウンドと類似していなくもないが、巨額のカネが動く興行イベントという側面が強いMMAは選手の安全性に考慮したルールが厳密に定められている。これに対して真剣勝負を信条とする『E・Gイラプション・ゲーム』は、本当の意味でのから掛け離れているとしてMMAを否定し続けていた。

 不倶戴天の敵という櫻ヶ岡の言い回しも大きく外れてはいないのだ。事実、日本最大のMMA団体と『E・Gイラプション・ゲーム』は長らく対立関係にある。

 そして、このMMAという〝業界〟に於いて馬乗り状態マウントポジションの技術が発展していったのだ。パンギリナンと闘う中で電知の神経が逆撫でされたのも無理からぬ話といえよう。


「我らが〝先生〟は、かの『梁山泊りょうざんぱく』にも出場していたプロのMMA選手だ。この意味がてめーに理解できるか、空閑電知ィ? アマチュアのが一ミリも通じねぇ絶望を味わいながら死にやがれッ!」


 続けて語られた『梁山泊りょうざんぱく』は中国を拠点として興行を展開させているMMA団体の一つであり、同国で最大の勢力を誇っている――と電知は記憶していた。

 実態はともかくとして世間の目からすると地下格闘技アンダーグラウンドの団体という認識に過ぎず、プロとの間には興行の規模に於いても技術に於いても、いかんともし難い差が開いている。櫻ヶ岡はその一般論にって電知を侮っているわけだ。


「どこの誰が絶望してんだよ、ボケかましめ。返り討ちに遭いまくってんのは自慢の〝先生〟だろうが。焦り過ぎておかしくなっちまったんじゃねぇか~?」


 上下屋敷が吐き捨てた通り、不覚を取って裏拳バックブローこそ見舞われたものの、より多くのダメージを重ねているのは電知のほうだ。櫻ヶ岡の罵声は的外れも良いところであるが、それでも仕留め切れないということは〝プロ〟の看板に偽りがない証拠であろう。


「プロとアマはさておき――油断できないのは確かだぞ。この男、『梁山泊』でもかなりの実績を残していたハズだ」

「ンなこたァ、り合ってるおれが一番、分かってるつもりだよ」


 左右田に背中を押されてパンギリナンのもとへ戻ろうとする電知の右腕を横から捕まえた影浦は、耳元まで口を寄せ、「MMA選手としての完成度も高い」と念を押した。


「一発、ブチかまされたのはダンナの所為せいじゃん。アレさえなかったらカスリ傷も喰らわずにブッ倒してたんだぜ?」

「それはすまなかったが……」

「冗談を真に受けんなって。『E・Gイラプション・ゲーム』の為にもカンペキにブチのめしてくるからよ!」


 そう言い切った電知は、自信の程を示すようにして赤黒く染まった口の端を吊り上げている。パンギリナンが憎むべきMMAのプロ選手と知らされたことで『E・Gイラプション・ゲーム』の代表という責任を改めて実感し、絶対に負けられないと発奮したわけだ。


「この期に及んでナイショ話か? 逃げる算段なら大声でやってくれよな~!」

「寝言は起きた状態で抜かすものではないぞ。空閑君を送り出した以上、『E・Gイラプション・ゲーム』に敗北など有り得ないのだからな。……しかし、私の記憶が確かなら、お前たちの〝先生〟とやらは成績不振で『梁山泊』の選手登録を抹消されていなかったか? それがどうして日本にいる? ましてや、カラーギャングの助っ人など……」

「さすがはキレ者とウワサのオッサンだな。〝先生〟のことにも詳しいじゃね~の」


 豊富な知識に基づいて〝先生パンギリナン〟の正体を見破った影浦に対し、櫻ヶ岡は感心したような調子で口笛を吹いてみせた。


「シンプルな『ギブ・アンド・テイク』ってヤツだよ。中国にもフィリピンにも居場所がなくなって日本に逃げてきたっつーから拾ってやったまでさ」


 『梁山泊』という中国のMMA興行はアジア圏から広く選手を集めている為、フィリピン人男性が参戦していること自体は何ら不思議ではない。問題は〝その後〟だ。いちいち高笑いを経由する櫻ヶ岡の物言いから察するに、パンギリナンは決して明るいとは言い難い事情から『桃色ラビッシュ』の用心棒をようである。

 電知は『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちにロゴマークの刷り込まれた背中を見せる恰好で〝敵〟のもとへ戻っていく。その頭越しに櫻ヶ岡をめ付けた影浦は「やはり、こんなヤツらは相手にすべきじゃなかった」と冷たい声で吐き捨てた。


「おいおい、何の為にアンタを雇ったのか、分からないじゃねーか、ええ? ギャラの分くらい働いてくれや! それとも、警察に突き出されてーのかァ? 強制送還されて困るのは〝先生〟のほうだろ~?」


 劣勢明らかな〝先生〟を櫻ヶ岡が煽った直後、パンギリナン当人ではなく電知の顔色が変わった。最大の仮想敵と目しているMMA選手には負けられないと全身から溢れ出していた闘志が殺伐の気配に塗り替わったというべきかも知れない。

 先程も一端を垣間見せていたのだが、櫻ヶ岡は〝先生〟という尊称を使いながらもパンギリナンを――格闘技者を露骨なくらい軽んじている。小馬鹿にするような声色からも察せられる通り、自分より下等な存在と見做しているのだろう。それどころか、人間扱いしているのかも怪しいものだった。

 櫻ヶ岡はパンギリナンの弱みを握った上で『E・Gイラプション・ゲーム』との抗争へ引っ張り込んだとしか思えなかった。先程の口振りからするとパンギリナンは不法入国の可能性もある。〝裏〟の非合法組織とも関わりの深い『桃色ラビッシュ』がその事実ことを聞き付けたなら、脅しのタネとして利用するのは当たり前であった。

 確かにMMA選手は電知にとって一番の天敵だ。興収目的から安易にタレント選手を起用する国内の団体には嫌悪感を禁じ得ず、近い内に目に物を見せてやらなくてはならないとも考えている。

 しかし、目の前に立つフィリピン人男性のことを同じ〝敵〟とは思えなくなっていた。

 今や彼の憤激は櫻ヶ岡とその取り巻きにのみ向かっている。パッションピンクのカラーギャングたちは全ての格闘技者を嘲り、蔑んでいる。その程度ならば黙殺するだけで済むのだが、侮辱の対象に『桃色ラビッシュ』で雇った〝先生〟まで含めていることはどうしても看過できなかった。

 一人の格闘技者にんげんが比喩でなく本当に捨て石扱いされているのだ。ひょっとすると櫻ヶ岡は抗争が終結次第、用済みとばかりにパンギリナンを警察へ突き出すかも知れない。


「――をナメんじゃねぇぞ、カスどもがッ!」


 轟然と突き込まれてきたパンギリナンの右拳を正面から見据え、左掌でもって受け止めた電知は、これを強く強く握り締めた。当然ながらパンギリナンは身をよじって振りほどこうとしたが、その動きを制するように左手首まで掴み取る。


「あんたの値打ちを分かろうともしねぇゲス共に飼われて本当に幸せなのかッ⁉ それが格闘家の幸せなのかよッ⁉ どうなんだ、おっさんッ⁉」


 両手を押さえた状態でパンギリナンと向かい合った電知は地下の〝異世界〟全体を震わせるほどの大音声を張り上げた。それは格闘技者の魂に強く訴えかけるものであった。


「こんな目に遭う為にMMAをやってきたのか⁉ あんたにとってMMAって何だッ⁉」


 電知はパンギリナンに向かって魂の在り方をただしていた。


「言っとくが、おれはMMAなんか大ッ嫌いだ! 安全なルールで守られた生温いお遊びとしか思わねぇ! 名称なまえを聞くだけでも吐き気を催すぜ! ……でもな! それ以上に格闘技をナメ腐る野郎が許せねェッ!」


 フィリピンに生まれ育ち、MMA選手としては中国で活動してきたという男に日本語が通じているとは思えない。どれだけ熱弁を振るったところで意味など一つも分かってもらえないだろう。それでも電知はパンギリナンの魂に手を伸ばし続けた。


「てめーが気に喰わなくても、……いや、本人がどー思っていようが、〝先生〟はオレには逆らえねーんだよ。そいつはもう格闘家じゃなくて飼い犬に過ぎねぇんだからなァ!」


 言語ことばを超えた格闘家同士の共感シンパシーでもって心を通わせようとする電知を櫻ヶ岡は安っぽい感傷だと見下し、鼻先で嘲笑わらい飛ばした。


「居場所なくして逃げてきた負け犬如きが日本でまともに働けると思うかァ? ゴミクズ同然に野垂れ死にしそうだったところをカネで買ってやったのさァ。そうでなきゃ、殴り合いしか能がねぇチンピラなんか〝ファミリー〟の一員に迎えっかよ!」


 もはや、櫻ヶ岡は〝先生〟が捨て石であることを隠そうとしなかった。それどころか、体格で劣る電知をいつまでも仕留めきれないことに苛立ち、腹癒せとばかりに罵声を飛ばし続けている。

 自分にとって役に立つか否か、その一点のみで人の値打ちを決めるような男が〝ファミリー〟という言葉でパッションピンクの仲間を束ねているわけだ。義憤に衝き動かされる電知には断じて許せず、パンギリナンの拳を握る手に一等強い力が込められていった。


「あそこまで言われて黙ってるつもりか⁉ 日本語分かんなくたってコケにされてることくらい空気で読めんだろ⁉ これでまだ尻尾振るようなら本当の負け犬だぜッ!」


 その瞬間とき、パンギリナンの瞳が揺れた。動揺の色も加速度的に顔面へ広がっていった。故郷からも追い立てられたというが、決して遅鈍ではなかった。言語ことばが通じなくとも周囲まわりの雰囲気や感情の発露から他者ひとの思いを酌み取ることができるくらいさといのである。

 電知の魂は同じ格闘技者である彼に間違いなく届いている。言語ことばを超えた共感シンパシーによって互いの心が通い合おうとしていた――が、これを強引に断ち切ろうと身をよじるのは櫻ヶ岡から浴びせられる罵声ことばにも真実がるからだ。

 そこにパンギリナンの置かれた〝境遇〟の全てが集約されていると言えるだろう。どんなことがあっても彼は雇い主から逃れられないのだ。優越感に浸りたいだけの雇い主から人権を踏みにじられるくらい不当な扱いを受けようとも、言いなりとなる以外に命を繋ぐ手立てを持ち得ない証拠であった。

 つまるところ、パンギリナンには不可視の首輪が嵌められているのである。


「くそったれ! 何だってMMA野郎にアツくなってんだよ、おれはッ⁉」


 不可視の首輪という呪縛を前にしても、電知はパンギリナンの手を離さなかった。渾身の力で踏ん張り、その場に彼の身を引き留め続けた。しかし、これは獲物を逃がさないという脅しではない。「お前のことだけは絶対に見捨てない」という優しさなのだ。

 掴まれた手よりつたう電知の温もりが魂を揺さぶっていればこそ、パンギリナンは抗うしかなかったのである。口から洩れる呻き声は徐々に涙声へ変わりつつあった。


「……ちょっとあの二人、近付き過ぎだよね……」


 櫻ヶ岡の隣で電知の闘いを見守る寅之助は、端正な顔立ちから感情の一切が消え失せていた。大きく開かれた双眸にともるのは紛れもなく嫉妬の炎だ。改めてつまびらかとするまでもないことだが、泥濘でいねいの如く禍々しい感情が向けられる対象はパンギリナンである。


「……浮気はいけないよ。ああ、浮気はいけないね、電ちゃん……」


 自分との勝負を避けておきながら、別の人間に対しては格闘技者としての情熱まで剥き出しにしたのだ。寅之助の感情が乱れ、狂うにはこの事実一つだけで十分だった。


「……とらこうめ、またいつもの悪癖アレが出やがったか。こっちの気持ちも知らねーでよ……」


 丁度、対角線上から寅之助の様子を見つめていた上下屋敷は、そろそろかんしゃくを起こすだろうと予感して頭を掻いた。理知的な面持ちでありながら電知のことになると見境がなくなってしまうのである。そのことは以前から承知していたはずだが、こうして目の前で見せ付けられてしまうと、彼女のほうこそ嫉妬を禁じ得なかった。

 次の瞬間、寅之助の顔が一等醜く歪んだが、それも無理からぬ話であろう。力み過ぎて大きく姿勢を崩したパンギリナンを自分の側へ一気に引き込み、これと同時に足の裏を横隔膜の辺りに押し付けた電知は、身を放り出すような恰好で跳ね飛んだ。


「ボクにだってそんなコトしてくれないのに……電ちゃんの浮気者……」


 意味不明な寅之助の恨み節はともかくとして――背中がマットに付くや否や、電知はパンギリナンの身体ごと後方に回転し始めた。傍目には変形の巴投げのようにも見えるだろうが、術理は全くの別物だ。互いの身体を車輪のように見立てて硬い床の上を転がり、連続して相手を痛め付けるという不可思議な技であった。

 横隔膜への圧迫は特にダメージが大きい。下となったパンギリナンを全体重を乗せて踏み付ける度、肺の空気まで容赦なく漏れ出していくのだ。


「あんたの事情は知らねぇし、食っていく為には気に入らねぇ野郎にもアタマ下げなきゃいけねぇっつう社会のルールだって重々分かってる! でもな、それは『手段』であって『意味』じゃねぇだろ⁉ 闘う理由まで他人ひとに差し出すんじゃねェッ!」


 フィリピンの言語ことばにて紡がれる呻き声を巻き込みつつカラーギャングたちの居並ぶ側に回転する電知は、その間にもパンギリナンへの呼びかけを続けていた。


「誰よりも強くなりてェ――格闘技者おれたちが腕比べする『意味』はそれ一つだろうがッ!」


 寅之助にぶつかる寸前で回転の方向を逆さまに切り替え、『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちが立つ側へと向かった電知は、その最中に今まで最も大きな吼え声を張り上げた。

 現在いまも竹刀を担いで闘いの行方を見守っている幼馴染みに触発されて〝古い柔道〟に目覚めて以来、電知はただ一本の〝道〟を追い求め続けてきた。

 『世界最強』とも言い換えられる頂点てっぺんを電知は幼い日から今日までずっと夢見てきた。そして、その〝道〟は格闘技に携わる全ての人間が分かち合える夢であろうとも信じて疑わなかった。

 銀河に咲き乱れる光芒ほしの花々のように煌めく夢を「下らない」と一笑に付す者たちにだけは絶対に魂を売り渡してはならない――パンギリナンを正しい〝道〟に引き戻すまで電知は諦めないつもりであった。


「あんたにとって格闘技って何なんだァッ⁉」


 もう一度、格闘技者としての在り方を質した電知は、部屋の中央まで達した瞬間に巴投げへと転じ、パンギリナンの身を仲間たちが立つほうに勢いよく投げ捨てた。

 すかさず左右田が回り込み、放り出されてきたパンギリナンを落下地点で受け止めた。硬い床に叩き付けられないよう庇った次第である――が、当のパンギリナンは困惑したような表情かおで左右田を見つめるのみであった。自分が属する〝ファミリー〟の構成員からはこのような温情を向けられたこともないのだろう。

 混乱の面持ちのまま左右田から身体を引き剥がし、電知の待つ地点へ戻ろうとするパンギリナンだったが、不意に襲ってきた目眩によって上体をかしがせた。巴投げに派生する前の回転攻撃で三半規管を徹底的に揺さぶられて、平衡感覚が著しく乱れているのだ。

 技を仕掛けた側ということもあるが、腕組みしながらパンギリナンを見据えて立つ電知は完全にバランスを保ったままマットを踏み締めており、少しも回転の影響を受けていない様子であった。その強靭な姿はアマチュアの地下格闘技アンダーグラウンドがプロのMMA選手を圧倒している決定的な証拠であり、またしてもカラーギャングはおののいた。


「何の為にてめーを買ってやったと思ってんだ、フィリピーノ! それとも、恩返しって言葉も知らねぇのかァ⁉ 万が一でも負けてみやがれ、オレたち全員でなぶり殺しにしてやるからな! 東京湾に沈みたくなけりゃ根性見せろやッ!」


 低下の一途を辿たどる〝ファミリー〟の士気を盛り返そうというのか、櫻ヶ岡は再びパンギリナンに向かって揺さぶりを仕掛けたが、他者をいたぶる言葉で仲間たちを鼓舞できるはずもなく、結局、望んだ通りの効果は得られなかった。


「あんなくそったれどもの為に痛ェ目見ることねーよ。……降参しな、おっさん」


 強烈な虚脱感に見舞われて尻餅をつきそうになったパンギリナンは上下屋敷と左右田が二人がかりで支えた。若者たちへ任せた為に直接的には動かなかったものの、影浦もすぐさま助けられる場所に立っている。

 必ず壊滅させるよう厳命されている〝敵〟に助けられたパンギリナンは悲しげな面持ちでかぶりを振ると、二人の支えを断って闘いの場に戻っていく。見ていて心配になるほどおぼつかない足取りではあるものの、もはや、彼は左右田たちを振り返ることもなかった。

 その後ろ姿を影浦は溜め息混じりで見送った。おそらくこの男はカラーギャングに拾われる以前から大勢に虐げられてきたのだろう。誰かに支えられたとき、一種の拒絶反応を起こすよう精神こころの働きが書き換えられているのだ。そもそも、優しさの受け止め方を理解できているのかすら疑わしい。

 影浦自身はMMAに対して否定派アンチの立場を貫いている。だが、仲間であるはずの人間から差別的な語調で『外人フィリピーノ』と呼び付けられる境遇には憐憫を抑えられなかった。〝敵〟の優しさをれてしまえば、それと引き換えに生きていく為の手立てを失うという強迫観念に衝き動かされているのだろうとも分析している。


「――な? 放っておけねぇだろ、このおっさんのことだけは……」

「……ああ……」


 額から脂汗を噴き出しながら間合いを詰めてくるパンギリナンの頭越しに左右田と言葉を交わす電知は「乱闘へ持ち込んだほうがよっぽどラクだった」と心の中で呟いた。

 間もなくパンギリナンはフィリピンの言語ことばで何事かを吼え、次いで横薙ぎの右拳ロングフックを繰り出した。大きく踏み込んだ左足を軸として据え、全身でぶつかるようにして大振りなパンチを仕掛けたわけだが、平衡感覚が正常に働いていない状態では命中精度は零に近い。

 案の定というべきか、電知は僅かに後退ずさることでロングフックを躱した――が、それは彼の意識を拳へ釘付けにしながら間合いを詰めるという一計に過ぎなかった。

 回避が完了する一瞬に生じる隙を見計らったパンギリナンは軸足の屈伸運動でもって急加速し、次いで左手にて帯を、右手にて襟を掴むと電知の重心を崩しに掛かった。彼を転がして再び馬乗り状態マウントポジションに持ち込もうとしたのである。


「――悪ィな、今度はおれも本気マジだぜッ!」


 しかし、今度ばかりは電知も付き合わない。根を張るようにして床を踏み締め、暴風雨さながらに自分を薙ぎ倒そうとする力の作用へ耐え切った。

 技の拍子と共に姿勢を崩す形となった相手の右腕を両手で掴み、先程と同様に一本背負いへ持ち込まんとする電知だったが、これは容易く見破られた。その場でコマの如く回転し、素早く右腕を引き戻したパンギリナンが対の左肘を横薙ぎに突き入れてきたのだ。

 左肘を内から外に向かって振り抜くという流れに沿うような形でパンギリナンの背後まで回り込んだ電知は、直撃を被るより早く反攻に転じた。彼の背中に飛び付くや否や、両足を胴に引っ掛けて身体を固定し、左右の腕をも首に巻き付けたのである。これによって頸動脈を絞めるつもりであった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーは「そのまま絞め落とせ!」と歓声を爆発させたが、仮にもプロの戦場リングで闘ってきたMMA選手の反応は鋭い。すぐさまに後方へ右手を差し向けたパンギリナンは、じゅうどうの襟を掴むと片手一本で電知の身を引き剥がしてしまった。

 今度は『桃色ラビッシュ』のほうが大歓声を上げる番であった。体格の面で劣っている電知はパンギリナンの豪腕で軽々と振り回され、そのまま空中に投げ出されたのである。

 〝空中〟といっても、『ブラックサバス』は地下室であって天井も大して高くない。すぐさま頂点まで達してしまうわけだ。それはつまり、打ちっぱなしのコンクリートへ無防備のまま叩き付けられることを意味していた。

 ところが、電知は空中で抜かりなく身を翻すと両足でもって天井を踏み付け、急降下の勢いに乗ってパンギリナンへ反対に組み付いていった。同年代と比べても小柄であり、また地下格闘技アンダーグラウンドだけに狭い部屋での興行も多い。試合の最中に壁や天井へ投げ付けられることにも慣れているわけだ。

 予想だにしない妙技でもって反撃を試みる電知を叩き落そうと、パンギリナンは素早く左のハイキックを繰り出した。それは鞭のようにしなる重い一撃であり、両腕を重ね合わせるという固い防御ガードでなければ一たまりもなく弾き飛ばされていたかも知れない。

 これ以上、自分の心に立ち入らないでくれ――そのような想いを込めたハイキックであろうと電知は感じていた。骨身に沁みるこの痛みこそパンギリナンの返答こたえというわけだ。

 カラーギャングたちが居並ぶほうへ撥ね飛ばされながらも巧みに着地した電知は、それが為に一等昏くらい表情を晒したのである。

 格闘技者としての想いはパンギリナンの魂まで届いたようだが、そこまで力を尽くしても不可視の首輪は外せなかったらしい。それどころか、電知は差し出た真似であったと猛省しているくらいなのだ。相手の抱える事情を無視して自らの気持ちを一方的に押し付けることは、櫻ヶ岡による不当な仕打ちと表裏一体であろう。

 ならば、パンギリナンの置かれた状況を丸ごと全て受け止めるのみである。それこそが電知にできる唯一のことであり、格闘技者としてのはなむけであった。


「……あんたの気持ちは分かった。だったら、おれも腹ァ括らなきゃならねぇなッ!」


 僅かな逡巡を経て、電知は決然とした面持ちで拳を握り締めた。

 即ち、構えを変えたということである。ここまでの攻防では両手の五指を開いた状態で相手と対峙してきたのだが、現在いまは拳を硬く握り締めているのだ。その姿は相手に組み付いてこそ真価を発揮する柔道家というよりパンギリナンのような打撃系ストライカーである。


「――それ、どういう意味? ……何? 悪ふざけのつもりなの?」


 前傾姿勢となって突っ込もうとする電知の出鼻を挫いたのは、張り詰めた空気を切り裂くような寅之助の冷たい声と、竹刀でもって肉をち据える甲高い音であった。

 〝地下〟の異世界へ詰め寄せた群衆の視線が一斉に動き、竹刀を携えた寅之助と、彼の目の前でうずくまっているカラーギャングの一人を捉えた。その少年は低く唸りながら右手を押さえていたが、何やら手持ちサイズの機械が足元に転がっているではないか。俗に『スタンガン』と呼ばれる道具である。先端を押し付けながら電流を浴びせ、一時的に標的を麻痺状態させることから護身用として一般にも普及していた。

 ただそれだけで事態のあらましを悟った影浦は、我知らずネクタイを緩めながら『桃色ラビッシュ』のリーダーをめ付けた。カラーギャングを背にしてパンギリナンと相対する電知が伏兵から不意打ちを受けそうになっていたわけだ。スタンガンを取り落とした少年が櫻ヶ岡リーダーの命令に従っていたことは本人たちにただすまでもないだろう。

 一対一の勝負をけがすような奇襲攻撃を先んじて制したのはカラーギャングの一味であるはずの寅之助だった。〝ファミリー〟の一人が無粋な横槍を入れようとした瞬間、縦一文字に閃く竹刀でもってスタンガンを叩き落したのだ。


「電ちゃんに恥をかかせてまで披露するような一発芸じゃないよね、それ。キミの人生と同じくらい下らないし、御母堂ごぼどうはらの中から出直してきなよ」


 しかも、相手の武器を無効化させた程度では〝制裁〟は止まらない。右手一本に構えた竹刀の剣先で少年の喉を抉った上に相手が吹き飛ぶより早く胸部を踏み付け、その場に倒してしまったのだ。何かの破断する音が辺りに響いたということは、あるいは二、三本ばかり肋骨をへし折ったのかも知れない。

 右半身を大きく開くようにして踏み込んでいく刺突つきはどこかフェンシングの動作を彷彿とさせるのだが、これもまた〝タイガー・モリが生きた時代の剣道〟なのだろうか。現代の規約では絶対に認められない危険な攻撃ばかりなのだ。

 生まれて初めて味わう類の激痛にのた打ち回っている少年を冷たい瞳で見下ろした寅之助は、骨が折れているだろう脇腹を蹴り付けることによってその動きを強引に停止させてしまった。次いで竹刀の剣先を右目の上に移すと、「今度、小賢しい真似をしたら片目が二度と見えなくなるよ」と眼差し一つで言い渡した。

 鼻を衝く悪臭においが立ち上ったのはその直後だ。自分たちは何があっても守られているという安全圏で弱い相手をいたぶってきた人間にとって寅之助から刻まれた恐怖は精神状態を破綻させるものであったらしく、無意識にをしてしまった次第である。

 失神には至らなかった様子だが、もはや、焦点の合わなくなった虚ろな目を天井に向けるのみだった。

 これは『桃色ラビッシュ』にとって看過し難い問題行動だろう。寅之助は櫻ヶ岡リーダーの意向に逆らったばかりか、息の根を止めるべき『E・Gイラプション・ゲーム』に味方までしてしまったのである。

 ところが、彼のことを裏切り者呼ばわりするような声は誰からも上がらなかった。瀬古谷寅之助という少年が漂わせる常軌を逸した殺気にてられ、また「勝負に水を差そうとする人間は、この程度では済まさない」と語る眼光にすっかり居竦いすくまっていたのだ。

 一方で『E・Gイラプション・ゲーム』の側でも因縁浅からぬ寅之助の行動に戸惑いの声が上がっていた。電知に対する個人的な執着の為だけに団体を敵に回しておきながら、今になってどういう風の吹き回しなのか――様々な憶測が飛び交う中、上下屋敷だけは頬を赤く染め、「カッコつけやがって……」と心をときめかせていたが、これはあくまでも余談。


「――瀬古谷、てめぇッ! 『E・Gイラプション・ゲーム』のスパイだったんだな⁉ 最初ハナッからオレたちを騙すつもりで潜り込んできやがったんだなッ⁉」


 〝ファミリー〟の中でも多少は肝が据わっている櫻ヶ岡リーダーは、このままでは総崩れになると自らを奮い立たせ、寅之助に糾弾の声を上げた。

 それは誰しもが思い浮かべた疑念だった。寅之助が『桃色ラビッシュ』へ加わったのはごく最近――『E・Gイラプション・ゲーム』と揉め始めた直後のことである。過去に彼らと争った経緯から有益な情報を提供できる。手を携えて地下格闘技アンダーグラウンドを潰そうと自ら売り込んできたのだ。

 寅之助が『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する選手の経歴などを詳しく語ったのは事実である。だからこそ、櫻ヶ岡も安易に気を許してしまったのだが、この期に及んで敵の代表エースを助けたということは、いざというときに『桃色ラビッシュ』を撹乱かくらんするべく送り込まれたスパイと断定するしかなかった。

 数々の情報提供も〝ファミリー〟の心を掴み、手懐ける為の餌であったわけだ。『桃色ラビッシュ』という看板に泥を塗られたようなものであり、裏切りを追及する櫻ヶ岡の語気はこれまで以上に荒く、憎悪に満ち溢れていた。

 状況証拠のみで判断するならば寅之助のことをスパイと疑うのは無理からぬ話だろう。しかし、『E・Gイラプション・ゲーム』からすれば全くの事実無根なのだ。

 上層部うえが仕組んだ罠ではないかと上下屋敷と左右田は揃って影浦の顔を窺ったが、当人もまた戸惑いの表情で肩を竦めるばかりである。


「身に覚えのない疑いを受けるのはさすがに――」

「――ごめんなさいね、影浦さん。上手いこと潜入できたと思っていたんだけど、あっさりバッチリ、バレちゃいましたよ~う」

「ぬなッ⁉」


 迷惑以外の何物でもない誤解を打ち消そうとする影浦の声を遮ったのは、疑惑の人物たる寅之助であった。あろうことか、この少年は自分が『E・Gイラプション・ゲーム』から差し向けられたスパイであると口走ったのである。

 それは〝自供〟ではなく〝狂言〟であった。影浦本人は言うに及ばず、今夜の決闘に殆ど関与していない団体代表が計略など仕掛けるはずもなかった。何しろカラーギャングと争うことを虚しいと悲嘆したくらいなのだ。

 寅之助の発言が自作自演という結論に達した瞬間、影浦はその真意をも見抜いていた。

 もはや、寅之助の中では『桃色ラビッシュ』は利用価値のなくなった役立たずなのであろう。そもそも、〝ファミリー〟に仲間意識を持ったことさえ一度もないはずだ。

 瀬古谷寅之助という少年にとって、視界に入る全ての存在は電知に約束を為の道具に過ぎなかった。歪んでいるとしか喩えようのない価値観は今日までの付き合いの中で厭というほど思い知らされてきたのである。

 目的達成に利用できないと判断した存在ものを寅之助は腹癒せのように壊していた。以前に全滅させた地下格闘技アンダーグラウンドの団体とて苛立ちを発散させる運動でしかなかったと聞いている。

 今度は自らが火種となり、両団体の間で大乱闘を起こさせるつもりなのだ。寅之助の狂言を真に受けたカラーギャングは『E・Gイラプション・ゲーム』の潔白が証明されたところで絶対に聞く耳を持たないだろう。対する地下格闘技アンダーグラウンドも成り行きはどうあれ、『桃色ラビッシュ』を力ずくで叩きのめしたいのである。双方が相手に対して殺意を膨らませている状況では、待ち受ける展開はただ一つであった。

 つまるところ、『E・Gイラプション・ゲーム』は寅之助の腹癒せに巻き込まれたのである。このまま正面から衝突すれば純粋な戦闘力で劣るカラーギャングが吹き飛ばされることは必定であり、それこそが何の痛みも感じずにを使い捨てる寅之助の目的ねらいだった。

 一人を寄ってたかって袋叩きにする『桃色ラビッシュ』とは違って個々の戦闘力が高い『E・Gイラプション・ゲーム』だけに乱闘で圧勝することは容易いが、一方的に相手を病院送りにしてしまうと『こうりゅうかい』を刺激し兼ねないのだ。決闘ではなく蹂躙と見なされたときには全面報復は免れず、比喩ではなく本当に地下格闘技アンダーグラウンドの興行を行う場が奪われてしまうだろう。

 影浦としてはカラーギャングの後ろ盾を押さえ得る策が整うまでは決戦を避けたかったのだが、事態がここまで拗れた以上は目の前の状況に流されるのみである。寅之助スパイに怒り狂った『桃色ラビッシュ』も、彼らに卑怯者呼ばわりされた『E・Gイラプション・ゲーム』も、〝敵〟を根絶やしにすること以外は全く考えられなくなっているのだ。この期に及んで双方を止める言葉などあろうはずもない。


「ブッ殺せーッ! ここから一人も生かして帰すんじゃねーぞッ!」


 櫻ヶ岡が撒き散らした憤激はたちまち〝ファミリー〟に伝播し、寅之助に対する恐怖を憎悪の色で塗り替えた。それはつまり、研ぎ澄まされた殺意の標的まとがスパイ活動の張本人から『E・Gイラプション・ゲーム』全体まで拡がったことを意味している。

 くらいの激情がたどり着く先は徹底的な破壊――先日の暴行事件によって警察からマークされている状況など思考あたまから抜け落ちているはずだ。極限に高まった苛立ちが発散されるまでは暴虐の限りを尽くすだろう。

 寅之助に討ち取られた少年は密かにスタンガンを持ち込んでいたが、それと同じように電知を襲う目的で用意された武器をカラーギャングたちは一斉に取り出した。

 誰も彼も相手を脅かすように大仰な構えを取っている。携行し易いバタフライナイフが多く、大量の釘が打ち込まれた木製バットや伸縮式の特殊警棒を握る者も混ざっていた。

 櫻ヶ岡に至ってはブレザーの内ポケットからリボルバー拳銃を抜いている。一目で安物と分かる銃身の塗装などから実銃ではなくモデルガンと察せられるが、この局面で持ち出すからには人を死傷し得るだけの威力が備わっているはずだ。いわゆる、改造銃である。


「ケッ――どのみち、る気満々だったんじゃねーか。やっぱし、最初ッから乱闘形式にしときゃ良かったんだよ。神通のヤツ、無駄骨になるじゃんか」

「ああ」


 『決闘』という事前の取り決めに反して武器を持ち出したカラーギャングを見据える上下屋敷と左右田は――否、『E・Gイラプション・ゲーム』の誰もが敵の卑怯を詰るどころか、この上なく嬉しそうに笑っている。ようやく何の気兼ねもなく大暴れできると昂揚しているのだ。

 上下屋敷は両手首に巻かれた数珠状のブレスレットを外し始めている。結び目を解こうものなら穴を穿って紐で一つなぎにしている鈍色の球など簡単にバラバラとなってしまうだろう。しかし、彼女が紐の片端を握り締めた後も元の形状を維持し続けている。

 それはアクセサリーなどではなかった。鞭のように振り回すことで金属の玉を叩き付ける武器なのだ。床を蹴る靴底もクッションを貫いて甲高い音を立てており、鉄板が仕込まれていることは明白である。まさしく「目には目を、歯には歯を」ということであろう。

 指定暴力団ヤクザとカラーギャングを分断する策が間に合わなかった影浦は仲間たちの様子に溜め息を吐いたが、数秒の後には吹っ切れたような表情かおとなり、次いで背広を脱ぎ捨てた。そればかりか、勢いでワイシャツまで両手で引きちぎったのである。


「……よろしい。後腐れがないよう平らげて差し上げなさい」


 事務担当という言葉には直結しがたい隆々とした筋肉を披露する影浦は、ここに至って全面戦争を宣言した。彼もまた『E・Gイラプション・ゲーム』のなのだ。物分かりの良い頭脳派という一面だけで人格を語り尽くせるのであれば、地下格闘技アンダーグラウンドという危険な戦場リングに臨んでいない。

 改造銃を構えたことで気が大きくなったらしい櫻ヶ岡も負けてはいない。銃口を抜かりなく影浦に向けながら〝ファミリー〟へ応戦を命令し、これを受けて二つの吼え声が一つに交わった。地下格闘技アンダーグラウンドの選手とカラーギャングが部屋の中央でぶつかったのである。

 狭い空間の中で五〇人を超える荒くれ者たちが入り混じれば乱戦と化すのは必定であり、数多の人影が巨大な渦のようにうねり始めるまで大した時間も掛からなかった。

 口汚い罵声が飛び交い、それ以上に鉄拳が降り注ぐ――現在いまが乱世であれば『合戦かっせん』とも呼ばれるような状況に陥ったわけだ。


「ああぁぁぁァァァーッ!」


 影浦以上に逞しい肉体を誇る左右田は雄叫びと共に豪腕を振り回し、僅か一撃でもって数人を同時に駆逐していく。殴られた相手は砲弾さながらの勢いで吹き飛び、ぶつかった悪童なかまたちをも巻き込んで横倒しになるのだ。

 自分に殺到してくるパッションピンクの波を跳ね返す猛攻を続ける一方、左右田は長身を生かして高い位置から戦況を見極めるなど知的クレバーな一面も覗かせていた。

 敵の中でもとりわけ大柄な青年を肩に担いで振り回し、遠心力に乗せて勢いよく放り投げたのだが、その落下地点まで計算ずくなのだ。味方を苦戦させている者たちの頭上に急降下させることで進撃の勢いを挫き、劣勢挽回を助けたのである。

 上下屋敷も左右田の勇戦に負けておらず、「どいつもこいつも、ズッ殺してやる!」と物騒なことを口走りながら四方八方の敵を翻弄していた。女と思って侮っているような相手から先に数珠状の鞭で殴り倒していくのだ。一個一個が小振りとはいえ、紛れもない金属の球である。勢いを付けて頭部に命中させれば、それだけでも卒倒し兼ねなかった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』はあくまでも徒手空拳の格闘を旨とする団体であり、それ以外の攻撃手段は認められていないのだが、上下屋敷当人は武器の扱いについて非凡な才能を秘めているらしい。その上、乱闘に発展することまで想定して支度を整えていた様子である。


「ズッ殺されてェヤツは前に出な! 片っ端からやってやるよ!」


 彼女が再三に亘って繰り返している『ズッ殺す』とは『がいこつを引っこ抜いて殺す』という意味合いのネットスラングである。

 極めて野蛮な挑発といえるだろうが、バタフライナイフを突き立てようとした少年の手首に数珠状の鞭を巻き付けて床に引き倒し、鉄板の仕込まれた靴でもって容赦なく鼻を蹴り潰すなど実際の攻撃方法も過激の一言なのだ。

 挑発に乗って突進してきた釘バットの青年をミドルキックで迎え撃とうとする上下屋敷であったが、スカートがめくれ上がる寸前で竹刀が割り込み、標的を横取りしてしまった。

 言わずもがな、横から飛び込んできたのは寅之助である。相手の腕を打ち据えることで攻撃手段を奪い、すぐさま横薙ぎに転じて胴を抉る――強烈なる二連撃をまともに受け、もんどりうって転げまわる釘バットの青年は二度と戦列には戻れないだろう。

 寅之助の加勢によって余計な体力を消費せずに済んだのだが、上下屋敷本人には納得のいかない筋運びであるらしく、左右の頬を膨らませることで不満の意を表している。助けが必要なくらい自分は追い詰められていたかと抗議したのだ。

 対する寅之助は少しばかり困ったような表情かおで上下屋敷の瞳を覗き込んだ。その間にも背後から別の敵が襲い掛かってきたが、彼は首を振り返らせることもなく肩越しに剣先を繰り出し、精確に喉を穿って返り討ちにしてしまった。


はボク以外には見せないでもらえると安心だなぁ――なんてね」


 最初、自分が何を言われているのか理解できず、唖然呆然としてしまった上下屋敷は、寅之助の真意を脳が認識するに至り、一瞬で全身を沸騰させた。

 言ってしまえば、それは男のとも呼ぶべきものである。


「お、おま……っ! 一体、お前は何なんだよ⁉」

「言わなくても分かってるクセにぃ」


 意味深長なことを囁いてケラケラと笑う寅之助だったが、上下屋敷のスカートの中身を自分以外の男に見せたくないという気持ちは本物のようである。

 程なくして上下屋敷と背中を合わせ、向かってくる敵を斬り伏せる態勢となったが、敢えて密着したのは彼女にはしたない恰好をさせない為の措置であった。スカートがめくれるような状況になろうものならすぐさま敵の正面まで回り込み、〝自分だけの物〟が露になる前に秒殺してしまうのだ。

 ある種の執着と呼べなくもないが、実際に上下屋敷たちは呼吸いきの合った連携コンビネーションを見せている。両手から繰り出す数珠状の鞭でもって敵を二人同時に捕獲し、動きを封じた上で寅之助の前に引き据え、トドメの一太刀を委ねるのだった。

 無論、細い鞭では難儀するであろう相手が迫ったときには寅之助が先手を打って飛び出していき、これを薙ぎ払うのである。


「……アタマの中身がちっとも分からなくて気持ち悪ィんだよ、クソ野郎……っ!」


 背中に感じる体温を通して寅之助の独占欲きもちを受け取った上下屋敷は、気恥ずかしさを紛らわす為に悪態をいた。尤も、その語調は嬉しさで弾んでおり、近くで豪腕を振るっていた左右田にさえ冷やかすような目で見られてしまったくらいである。

 寅之助に振り回される自分が上下屋敷は照れ臭くて仕方なかった。掴みどころがないこの少年は、幼馴染みの電知に偏執的な感情を傾けたかと思えば、それと同じくらいの〝気持ち〟を自分のほうにも向けてくるのだ。

 それでいて、己の悲願を果たす為に『E・Gイラプション・ゲーム』の敵対勢力へ味方するのである。常軌を逸した思考回路としか喩えようがなく、付き合いの深まった現在でも本当の心に触れたという手応えを得られないのである。だからこそ、上下屋敷自身の〝気持ち〟も宙に浮いたままであり、定まるべき関係ばしょに名前が付けられないのだった。


「アタマの中身、見せられるなら見せてあげたいよ。結構な部分が照ちゃんで占められてるんだけどねぇ~」

「う、う、ウソつきぃっ!」


 気障な台詞を軽く口にした寅之助は、背中に感じる体温が一等高まったことへ安らいだような表情を浮かべるのだった。

 彼が竹刀を振るう対角線上では、電知とパンギリナンが差し向かいの状態で睨み合っている。おそらく、彼らの目には罵声が入り乱れる大混戦など映っていないのだろう。数多の群像が塊と化して激突する状況にも関わらず、一対一の〝試合〟を続けているわけだ。

 やや離れた位置から幼馴染みの様子を窺う寅之助には、二人が相対する空間だけが周辺から切り離されたようにも思えたくらいである。


(……妬ましいけど、電ちゃんに後悔を残させるくらいなら今夜は譲ってあげよう……)


 大真面目に一対一の状態を維持し続けている二人は傍から見ると隙だらけの標的まとであろうが、傍若無人なカラーギャングでさえ電知に不意打ちを見舞おうとはしなかった。

 しかし、それは決闘にこだわる二人に敬意を払い、無粋な真似を慎んだからではない。横から割って入ることを躊躇ためらわせるほどの気魄が電知の全身より発せられているのだった。

 パッションピンクの悪童たちは電知に近付かなかったのではない。気圧されて近付けなかったのだ。勝負に水を差す不届き者が現れたときには、真っ先に駆け付けて退けようと寅之助は考えていたのだが、それは杞憂に終わったらしい。

 誰にも決闘を邪魔はさせたくないという気持ちは寅之助だけでなく『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちも共有している。取っ組み合いにもつれ込んでも闘い易いくらい電知たちの周辺まわりが開けているのは、カラーギャングを二人から遠ざける形で攻防が展開されている為であった。

 これから迎えるであろう決着をもってして電知はパンギリナンを救おうとしていた。不可視の首輪に呪縛されている限り、彼はカラーギャングから使い捨てられるまで止まることができないだろう。文字通りの犬死にをさせない為には、今日、ここで誰かが倒してやらなければならなかった。

 それを成し遂げられる人間は空閑電知ただ一人なのだ。『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間としてやるべきことは彼の想いを酌んで決闘の〝場〟を整えることであった。


「行くぜ、おっさん――いや、パンギリナンッ!」


 一等強い眼差しでパンギリナンを見据えた電知は、鋭い吐息を引き摺りながら間合いを詰めていった。

 まさしく電光石火とたとえるべき身のこなしである。これまでの攻防が小手調べであったかと思えるほどのはやさを発揮した電知は、瞬く間にパンギリナンの懐まで潜り込んだ。

 腐ってもプロのMMA選手というべきか、彼の反応もこれに匹敵するほど鋭く、飛び込んできた電知の顎を脅かさんと左膝を突き上げた。

 しかし、速度スピードに於いては電知のほうが更に桁上である。硬く握り締めた右拳を叩き付けることで膝蹴りを弾き返した上に、後方へ退こうとするパンギリナンにぴったりと貼り付いていったのだ。いずれも相手の速度スピードを完全に上回っていなければできない芸当ことである。

 コンマ一秒の遅れもなく追いすがってくる少年から逃れるすべはないのだとパンギリナンが悟った瞬間、攻守が入れ替わった――が、電知のほうから仕掛けたのは柔道家らしい投げ技でも関節技でもなかった。迎撃のストレートパンチを掻い潜るようにして突っ込んだ彼は大きく腰を捻り、右肘でもって鳩尾を抉っていた。

 一風変わった様式スタイルはさておき、れっきとしたじゅうどうに身を包んでおきながら打撃を繰り出したのである。それはMMA選手であるパンギリナンを真似ただけの付け焼き刃ではないだろう。電知の右肘は寸分違わず急所へ突き刺さっており、相手パンギリナンは呼吸と共に姿勢まで大きく乱している。激甚なダメージを刻み得るほど証拠であった。

 肘鉄砲をもってしてパンギリナンの動きを止めた電知は、すぐさまに背後まで回り込んでいく。次いで背中から組み付き、競技用トランクスの腰回りを左右の五指で掴んだ。


「うるあぁぁぁァァァッ!」


 背中から組み付く状態を維持したまま両膝を屈伸させた電知は、引き絞ったバネを瞬時にして解き放ち、互いの身を後方目掛けて勢いよく放り出した。

 柔道に於いて『裏投げ』と呼称される大技だった。意図的に頭部から投げ落とすことは禁じられているが、これはあくまでも地下格闘技アンダーグラウンドの試合であり、柔道の規定が当てはまるものではない。電知は一切の容赦なく後頭部から急降下させていった。その間にも相手の体重に潰されないよう己の身体を右方へと巧みに逃がしている。

 その刹那、耳障りな鈍い音が乱闘の間隙を駆け抜けた。

 クッション材の効果など望めない硬い床に頭から叩き付けられたパンギリナンは視界が回って起き上がることさえままならず、電知から追い撃ちされても全く抗えなかった。

 電知は打撃と投げを連ねた末、両腕を後ろから首に巻き付けて絞め落としに掛かった。左右の足を腋の下から滑り込ませて胴を挟み、横隔膜と頸動脈を同時に攻めるつもりだ。


「日本語が通じねェのは百も承知だがよ、もしも――もしもだぜ? おれの喋ってるコトが伝わるんなら、……これが終わったら、あんた、『E・Gイラプション・ゲーム』に来いよ」


 身長差が大きく開いているパンギリナン相手に寝技を仕掛けた電知は、右肘の内側に首を抱え込んだまま、その耳元に努めて優しい声で語り掛けた。

 後ろから首を絞められている為、パンギリナンのほうから確かめることは不可能に近いのだが、新しい〝居場所〟へ導こうとする電知の瞳は、格闘技者としての魂をただしたときと同じように深い慈愛で満たされていた。


「行くアテがねェっつーなら、とりあえず、ウチにでも来りゃいいさ。布団くらい幾らでも貸してやるし、働き口だって一緒に探してやらぁ。手先が器用だったら、おれんトコで大工仕事をやるのもアリかもだぜ? ……日本だって捨てたモンじゃねーんだよ」


 パンギリナンのほうは寝技から逃れようと床の上でのた打ち回っているが、胴を挟んだ両足の力は強く、どんなに激しく身体を揺さぶっても振り払うことができなかった。それどころか、もがけばもがくほど頸動脈への圧迫が酷くなっていくのだ。

 右の五指を対の肘の内側へ引っ掛けることで完全に固定している為、よしんば両足による拘束から逃げられたとしても、首への絞め込みだけは間違いなく維持できるだろう。

 絶対に逃れられない寝技は、何があっても〝同じ格闘家なかま〟であるパンギリナンを見捨てないという意志にも通じている。この体勢こそが想いの体現だといえよう。

 異常としか表しようがないパンギリナンの暴れ方は、言語ことばが通じなくとも自分に救いの手が差し伸べられていることを理解したからだろう。電知の慈愛が伝わっていればこそ、人情に満ちた声を掻き消すほど大きく喚かなくてはならなかったのだ。

 どん底の人生から助け出してくれる声など耳に入れてもならない――不可視の首輪より染み出していく呪縛は、パンギリナンの精神こころに〝闇〟へ回帰するよう絶えずささやいていた。

 だからこそ、電知も力を緩めない。頸動脈と横隔膜を渾身の力で攻め続けた。


「おれは……おれたちは! あんたを絶対に見捨てねェッ! それだけは忘れんなッ!」


 今日までの苦難が報われることは絶対に間違っていないのだと改めて示した直後、電知は四肢の力を緩めた。

 もがき苦しむ格闘家なかまを見ていられなくなって手加減したわけではない。意識を失った相手を絞め続ける意味などないということだ。

 レフェリーが立ち合う形式の試合であれば、けたたましいゴングと共に決着が宣言されたことだろう。敵味方が入り乱れる大混戦の最中ということもあって見届けることのできた人間は一握りであったが、地下格闘技アンダーグラウンドとカラーギャング――双方の代表による決闘は、ここに勝敗が決したのである。

 絞め落とされた敗者にも関わらず、パンギリナンの顔は驚くほどに安らかだった。閉ざされた双眸から熱い雫を流し、口元には満足そうな笑みまで浮かべていた。

 不可視の首輪は、どうやら外れたらしい。

 決闘の終結を見計らって歩み寄ってきた左右田にパンギリナンのことを預けた電知は、最後まで敢闘し続けた格闘家なかまに「あんたとれて良かった」とねぎらいの言葉を掛けた。


「――な、なんだ、今のは⁉ てめー、柔道家じゃねーのかよ⁉」


 決着の余韻を台無しにする無粋な声は、言わずもがな櫻ヶ岡の物である。

 『桃色ラビッシュ』を代表して闘い、散っていった〝先生パンギリナン〟をいたわりもしないこの青年は、電知が敵に温情を掛けたことではなく勝負を分けた技に驚愕している様子だ。


「瀬古谷ァ! 情報提供タレコミにも嘘を混ぜていやがったんだな⁉ こいつ、柔道家じゃなくて総合ファイターじゃねーかッ! 同じMMA系をぶつけて恥かいただろうがァッ!」


 事前に得ていた情報や装いから〝柔道家〟と思い込んでいた櫻ヶ岡は、電知がプロを悶絶させるほど見事な肘打ちを――打撃技を繰り出したことに目を丸くしていた。それどころか、彼に対する認識を〝MMA選手〟と塗り替えてしまったらしい。


「肘打ち見せたくらいで死ぬほど嫌いなMMAと一緒にされたら電ちゃんも大迷惑だね」

「あァんッ⁉」


「間抜けな質問飛ばす前に自分の記憶力を疑ってくださいませんかね。電ちゃんが身に付けたのは〝古い時代の柔道〟だって説明したじゃないですか。最後のは『あて』っていうんですよ。大昔――柔道の体系が完成される過渡期には打撃も反則じゃなかったんですから。剣道と柔道で畑は違いますけど、ボクん家の道場でも教えますよ、『あて』は」


 少しばかり離れた位置から尋ねられた寅之助は、櫻ヶ岡のほうに首を振り返らせることもなく声のみで答えた。彼を瞠目させた技を模倣するつもりなのか、特殊警棒を振りかざした相手の腕を竹刀で打ち据え、得物を奪った瞬間に肘打ちへと変化してみせた。

 ただ一撃でもって敵の鼻を砕いた寅之助の肘鉄砲もまた付け焼き刃などではない。彼は〝古い時代〟に於いては柔道にも剣道にも打撃が組み込まれていたと前置きし、その技術について『あて』と説いた。


「尤も、電ちゃんの場合は〝古い時代の柔道〟じゃなくて〝コンデ・コマ式の柔道〟って呼ぶのが正しいんだけどねぇ」

「コンデ・コマだとォッ⁉」


 寅之助が口にした『コンデ・コマ』という名前には櫻ヶ岡も聞き憶えがあった。

 本名をまえみつといい、明治時代に世界中で異種格闘技戦を繰り広げて常勝を誇った伝説的な柔道家であったはずだ。経歴そのものについては漫画で得た知識しか持ち合わせていないものの、格闘技雑誌ではブラジリアン柔術の祖とも紹介されていたはずである。

 その伝説の技を空閑電知は身に付けたのだと寅之助は語った。たけが合っていないように思える風変わりなじゅうどう前田光世コンデ・コマの系譜を継いだという意思表示なのであろう。


「ど、どうやって、そんなことッ⁉ コンデ・コマの弟子にしちゃ年齢が合わねぇ――」

「――おれは闘う為にここまでやって来たんだぜ、クソ野郎。てめぇだってお喋りするつもりはねぇハズだよな。……拳銃そいつで撃ってこい! 次はてめぇだッ!」


 二人の会話を断ち切ったのは、横から飛び込んできた電知の吼え声である。

 彼はパンギリナンを捨て石扱いしたカラーギャングに地獄の業火よりも激しい怒りを燃えたぎらせていた。同じ格闘家なかまの無念を晴らすまで荒ぶる心が鎮まることはあるまい。


「あ、あう……う……うあ……っ」


 開戦当初の櫻ヶ岡であれば電知の激昂を「雑魚が必死に粋がっている」とでもいって鼻で笑っただろう――が、前田光世コンデ・コマの技を備えたという実力を目の当たりにした現在いまは恐怖に挫けて後退あとずさるばかりだった。

 憤怒の色で染まった眼光を叩き付けられ、虚栄も何もあったものではない弱々しい声で呻いた櫻ヶ岡は、そのときになってようやく自分たちの置かれた状況を認識した。

 指定暴力団ヤクザを味方に付け、敗北は絶対に有り得ないと威張ってきた彼にとって信じ難い光景が『ブラックサバス』に広がっていた。

 『桃色ラビッシュ』が送り出した〝先生パンギリナン〟の完敗は、ひょっとすると崩壊の前触れを象徴していたのかも知れない。彼が仕留められてから数分と経たない内にカラーギャングは総崩れの有り様となってしまったのだ。

 殆どの〝ファミリー〟は床の上に身を横たえており、今や立っている人間のほうが少ないくらいであった。パッションピンクの絨毯が敷かれたような光景ともいえよう。

 バタフライナイフなどの殺傷力が高い武器を使うカラーギャングだが、だからといってに慣れているわけではない。数に物を言わせた暴力で他者をいたぶり、嗜虐的な愉悦に浸るだけの人間と、身に刻まれた痛みさえ力に換えられる格闘家では精神こころの強さが違うのだ。比較にならないというべきであろう。

 地下格闘技アンダーグラウンド団体から叩き付けられた暴威は非行集団の想像が及ぶ範囲を完全に超えてしまったわけだ。端的に表すならば、戦慄に打ちのめされて心が折れたということである。

 大人数のぶつかり合いは士気一つで戦局が簡単にひっくり返るというのに、旗色が悪くなっただけで集団全体の気勢ががれてしまった。その必然的な帰結として、居丈高に振る舞い続けてきたカラーギャングはあっけなく瓦解していった。

 リーダーであるはずの櫻ヶ岡とて破綻の真っ只中にある。圧倒的に有利な得物を右手に携えながらも、ついに一発たりとも撃つことができなかったのだ。ひきがねを引くどころか、改造銃そのものを取り落とす始末である。

 〝ファミリー〟を置き去りにする形で阿鼻叫喚の渦中より逃げ出した櫻ヶ岡リーダーは、カウンターテーブルの向こうへ飛び込むとワイシャツの胸ポケットから携帯電話スマホを取り出した。

 こうなった以上、世話になっている兄貴分――指定暴力団『こうりゅうかい』の構成員に連絡を取って救援を送り込んでもらうしかない。完全に追い込まれた櫻ヶ岡には、もはや、誰かに泣き付く以外の選択肢が思い浮かばなかった。

 カウンターテーブルの裏側に隠れた上、絶対に人目には付くまいと身を縮めた所為せいか、両手は指先まで小刻みに震えており、タッチパネルの操作すらおぼつかない。救援を呼び出すどころか、とうとう携帯電話スマホそのものが手のひらから滑り落ちてしまった。

 不運というものほど重なるもので、床に落ちた拍子に内部が破損したのか、どんなに叩いても揺さぶっても、携帯電話スマホは二度と起動しなかった。それはつまり、万策が尽きたことを意味している。


「お困りのようだね。私の携帯電話で良ければ使ってくれて構わないぞ」


 頭上から救いの声を掛けられた櫻ヶ岡は、逼迫した情況ということもあって声の主すら確かめずに顔を上げてしまったが、礼を述べようとしたところで表情を凍り付かせた。

 カウンターテーブルの向こうに立っていたのは影浦その人である。

 冗談では済まされない量の返り血を浴び、右手でもって悪童の一人の首根っこを掴んでいるが、今はまだ櫻ヶ岡に危害を加えるつもりはなさそうだ。友好的と言うべきか、最大の厭味と言うべきか、カウンターテーブルの上に自分の携帯電話ガラケーを置いた。

 液晶画面の表示を見る限り、相手までは分からないものの、通話の最中のようだ。耳に宛がってみろと言わんばかりに携帯電話ガラケーを差し出した次第である。

 正常な心理状態であったなら一笑に付して拒んだであろうが、思考停止にも等しい現在の櫻ヶ岡は言われるがままに携帯電話ガラケーを手に取り、「もしもし……」と何の疑いもなく通話口マイクに向かって呼び掛けた。

 ふたことこと、会話した直後のことである。櫻ヶ岡は急に直立不動の姿勢となり、顔面が土気色に変わっていった。生気が全く抜け落ち、唇に至っては病的な紫色に染まっている。

 膝から崩れ落ちた櫻ヶ岡は借り物の携帯電話ガラケーをカウンターテーブルの上に放り投げてしまった。これ以上、何も耳にしたくないとばかりに俯き加減でかぶりを振り続けているが、その姿にこそ影浦は自らの奇策が奏功したことを確信したのである。

 『こうりゅうかい』の大親分――カラーギャングの後ろ盾である指定暴力団ヤクザの総帥にがあるという『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間メンバーを経由し、今度の一件に関与しないよう依頼していたのだった。

 これが影浦の案じた一計である。そして、団体の命運を託された仲間メンバー――あいかわじんつうは極めて難しい交渉を見事に成し遂げたのだ。

 その神通の携帯電話スマホから影浦に連絡してきた大親分が末端組織カラーギャングのリーダーへ何を言い渡したのか――櫻ヶ岡の声が余りにも小さかった為に会話の詳細までは掴めなかったものの、は容易に想像できる。


「……キミ、コンクリ詰めは初めてかね。この時期の東京湾はかなり冷たいらしいぞ」


 先ほど浴びせられた脅し文句をそっくりそのまま返してみると櫻ヶ岡は両肩を大きく上下させながらケラケラと笑い始めた。張り詰めた精神が限界を突き抜けた瞬間に現実逃避を始めてしまったようだ。

 見るに堪えない醜態から顔を背けた影浦は、心の底から安堵の溜め息を吐いた。今夜のことは相当に際どい綱渡りだったのだ。双方がぶつかり合う乱戦にもつれ込んでからも連絡がなかった為、神通の交渉が不首尾に終わったのではないかと焦ったくらいである。

 その乱戦も間もなく『E・Gイラプション・ゲーム』の完全勝利をもって幕引きを迎えることだろう。パンギリナンを退けた電知は今も敵中に留まり、恐慌状態の悪童カラーギャングを次から次へと撃破している。


「次はどいつだッ⁉ こんなんモンじゃ、まだまだ物足りねぇぜッ!」


 地下の〝異世界〟を震わせるほどに猛々しく吼えた電知だけではない。上下屋敷も左右田も――『E・Gイラプション・ゲーム』の誰もがはつらつと自分たちの〝居場所〟を満喫している様子だった。

 仲間たちの勇姿を頼もしそうに、何よりも誇らしそうに見つめた影浦は、櫻ヶ岡が放り出した携帯電話ガラケーをカウンターテーブルから拾い上げた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーが思う存分に闘える〝場〟を守ることこそが己に課せられた役目だと影浦は心得ている。その誇りがあったればこそ、厄介な後始末だろうと何だろうと、一切を引き受けることができるのだ。

 通話状態が継続されていることを確かめた影浦は、僅かな逡巡を挟んだのち携帯電話ガラケーを耳へあてがい、「お気遣い痛み入ります」と通話口に向かって感謝の言葉を述べた。


「――他ならぬ神通君の頼みとあっては断るわけにはいきませんよ。……先ほども申し上げた通り、阿呆連中を野放しにしたのは我々の落ち度でもありますしね。を通さずにはいられますまい」


 電話の向こうから聞こえてきた声は実に紳士的であったが、これを受ける影浦の背筋は我知らず垂直に伸びていく。皮肉な筋運びというべきか、放心する寸前の櫻ヶ岡と殆ど変わらない姿勢なのである。

 しかし、それも無理からぬ話であろう。通話の相手は日本国内で最大規模の勢力を誇る指定暴力団ヤクザの大親分なのだ。受け答えを誤ろうものなら、カラーギャングよりも遥かに恐ろしい敵を作り兼ねなかった。

 この場には居ない『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表に無事の解決を報告できるよう最後まで気を引き締めて臨もう――と、影浦は心の中で己に言い聞かせるのだった。


 『E・Gイラプション・ゲーム』――地下格闘技アンダーグラウンドの精鋭たちは心技体のいずれも荒々しく、都心の〝闇〟に広がる〝異世界〟から地上まで一気に突き抜けるほど強く光り輝いていた。

 その中にって誰よりもはげしい電知の〝光〟が蒼天に掛かるむらくもと交わるのは、これより二か月後のことである。


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