その3:戦没将兵記念日~貴公子と少年海賊、難民キャンプの出逢い

 三、戦没将兵記念日メモリアルデー


 トロイメライ――現地の言語ことばで『夢』や『幻想』といった意味合いの名前が付けられた村は一一月ともなると連日のように深い霧が垂れ込め、いたずら好きな妖精が不意に顔を出すのではないかと期待してしまうような風情を醸し出すのである。

 その村はドイツ北西部に所在するニーダーザクセン州ハーメルン=ピルモント郡に属していた。州や群に聞き憶えはなくとも『ハーメルン』という地名だけは耳にしたことがあるという人間も多いだろう。村中の子どもを連れ去り、二度と帰ることができない彼方へと消えていった笛吹き伝説の舞台となった土地である。

 くだんの笛吹き男が現れたハーメルンはぐんに当たり、童話にも描かれた伝承の時代――中世の風情を現代いまに遺す自立都市として広く知られていた。

 トロイメライは笛吹き男のハーメルンとヴェーザー川を挟んで隣接する小村であった。州を縦断して北海まで通じる川沿いに人々が移り住んで村が興ったとドイツの年表には記されているが、その由緒はともかくとして同地が脚光を浴びたのは長い歴史を紐解いてもここ数年のことで、それまでは深い霧の中でひっそりと眠っていたのである。産業にも乏しく、半ばベッドタウンのような村なのだ。

 レンガ造りの古びた町並み以外には景勝地みどころもない為、観光客は殆ど足を運ばず、日本であったなら限界集落などと呼ばれてしまう辺鄙へんぴな小村ではあるが、一年に一度――一一月の第三日曜日だけは州や群の内外から大勢の人が詰め寄せ、靴音の狂想曲によって目を覚ましたかのように騒がしくなる。

 しかし、その様子を「賑やか」と軽妙に表すことはいかめしい服装に身を包み、緊張を帯びた面持ちでトロイメライへ足を運ぶのだった。

 二〇一三年であれば一七日が当該するのだが、その日は戦争と人間の狂気によって失われた生命を弔う国民哀悼の日フォルクス・トラウアー・タークだった。

 他国では戦没将兵記念日メモリアルデーとも呼ばれる一日である。

 一一月一七日のトロイメライは前日からの予報通りに濃霧となった。雪の女王が零した吐息のように真っ白な霧は村を凍り付かせており、厚手のコートを羽織っていなければ、たちまち風邪を引いてしまうほど冷え込んでいる。

 太陽の光を分厚い灰色の雲が遮り、冷気を吸い込んだ霧でもって路面が一塗りされると中世のおもむきを残した町並みが劇的に演出され、幻想文学の一幕から切り取ったような世界へ旅人たちをさそうのだった。

 国民哀悼の日フォルクス・トラウアー・タークにトロイメライを訪れた旅人は同地の住民と共に郊外の戦没者共同墓地を目指すのである。そこには二度の大戦で犠牲となったトロイメライの住人が眠っており、彼らに捧げられた追悼モニュメントが入り口付近の広場に設置されているのだ。

 哀愁に満ちた音色を奏でるブラスバンドを水先案内人として霧の目抜き通りを進んでいく人々は大戦期のドイツ兵をかたどった銅像の前に集い、そこで追悼式典を催すのである。

 銃弾に倒れた戦友をミケランジェロのピエタ像と同じ構図で抱える兵士の姿は、世界大戦という国際的悲劇を象徴する追悼モニュメントとして何よりも相応しいだろう。

 銅像を囲う壁のように無数の石碑が並んでいるのだが、そこには大戦の犠牲となったトロイメライ出身者の名前が一人も漏れることなく刻まれていた。

 式典へ集まった全員が鎮魂歌を合唱し、村長や地元議員による兵士の像への献花など、式典は冬の気配の中でしめやかに進められていく。合間に挟まれるブラスバンドの演奏も物悲しく、そこに在りし日の惨劇を振り返ってすすり泣く声が混じるのだった。

 このような光景はトロイメライに限ったものではない。一一月の第三日曜日は国中で大戦の犠牲者に聖なる祈りが捧げられるのだ。とりわけ首都ベルリンで執り行われる中央式典は各国の外交官が列席するなど規模も大きく、ドイツという国家にとってはベルリンの壁が崩壊した一一月九日にも等しいほど重要な一日であることを表している。

 ドイツ国民にさえ名前が殆ど知られていない小村トロイメライだけに国賓と類されるような大人物が訪れることはない――そのはずだったが、今年からは少しばかり事情が違っていた。

 古木の下へ設えられた演台に村長と入れ替わるようにして一人の男性が着いたのだが、その瞬間に不躾な記者がカメラのフラッシュを焚いたのである。当の村長が追悼文を読み上げたときには無言で聞き入っていたというのに――だ。

 演台にてスピーチの準備を進めるこの男には、他の列席者から顰蹙を買おうともカメラを向け、新聞の目玉記事として取り上げるだけの価値ニュースバリューがあるということである。

 中にはジャーナリスト風の日本人女性まで混ざっているではないか。

 現地に派遣されている通信社のスタッフなのか、この日の為にわざわざ渡海したのかは定かではないが、手持ちサイズの小型カメラでもって演台を捉えている。リアルタイムでナレーションを付ける手法なのだろうか、頭から被るヘッドセットタイプの録音機材に向かって何かを絶え間なく語り続けている。

 大振りなポニーテールが目を引く日本人女性も、このスピーチを目当てとしてドイツの田舎まで駆け付けたのかも知れない。

 なんみんこうとうべんかん――なめし革のジャケットを背広の上から羽織った男性は、マイク・ワイアットという名前と共に『難民たちの守り神』とも呼ぶべき肩書きを背負っていた。

 ゆくゆくは国連事務総長に選出されるだろうとも噂される世界のキーパーソンである。


「――戦火の彼方から微かに聞こえるか細い声へ応え、救いを求める人たちを安息の空の下へ導くにはどうすれば良いのか。自問する度に己の無力さを思い知らされ、絶望的な境遇に身を置かざるを得ない人たちに手を差し伸べられるだけの力を求めるのです」


 スイスのジュネーブに所在する難民高等弁務官事務所は、その名の通り、世界中の難民問題解決に取り組む機関である。そのリーダーのスピーチだけに難民支援の立場から語るような内容になってしまうのだが、こればかりは致し方のないことであろう。


「無力を悔やむ日は決まって妻がこうささやくのです。『今にも戦争を始めそうな怖い顔をしている』と。闘争の連鎖に終止符を打つ力を求めることは新たな闘争を引き寄せるばかりです。自分こそが世の真理を悟り得たという意識は無慈悲な優越感となり、良心を死に至らしめるでしょう。自分の正しさが受け容れられない嘆きはやがて戦火に変わるのです」


 戦争という嘆きの集合体に力を叩き付けたところで何も生まれない――そのように繰り返したのち、難民高等弁務官は演台の前に立ち、決意の光を湛える眼差しでもって追想式典の出席者たちを見回した。


「自分以外の誰かを傷付けてまで戦う意味はあるのでしょうか?」


 大戦という国際的悲劇の先に訪れた現代に於いて、なおも戦わなければならない理由は何なのか――そう問い掛けるワイアットの声には一等力が込められていた。


「餓えにも似た心の虚しさを嘆き続ける限り、人間ひとの戦いに終わりはありません。正義を押し付け合う力の衝突は、自分を含めた誰一人として救うことがないのです」


 難民救済の最前線で現代に於ける『戦争』の現実を目の当たりにしてきたであろうワイアットの言葉は極めて重く、「自覚の有無に関わらず、我々一人ひとりの心に戦争の火種とも呼ぶべき嘆きは存在する。それだけは忘れてはならない」と口にした瞬間ときには列席者の誰もが首を深く頷かせていた。

 犠牲者の子孫と思しきトロイメライの村民たちは感情の透き通った面持ちで天を仰ぎながら、静かに涙を流している。

 霧の村に秘められた嘆きの全てを洗い落としていくかのような清浄なる涙を遠巻きに眺めながら、他国より出席している青年は難民高等弁務官のスピーチを反芻し続けていた。


(……戦う意味――か……)


 二〇代前半と見えるその青年は、これまでの人生に於いて戦争に加担した経験など一度もない。出身地であるオランダでは徴兵制が廃止されて久しく、志願もしていないので軍隊経験とて持ち合わせてはいなかった。

 周りの女性たちが溜め息をらすくらい美麗な金髪ブロンドは腰の辺りまで達するほどに長く、これを三つ編みに束ねた姿は『戦い』というなまぐさい場景を連想させる言葉から遠くかけ離れているようにしか見えない。

 それにも関わらず、貴公子然とした青年は複雑な面持ちでワイアット難民高等弁務官の問いかけを振り返っている。

 誰かを傷付けてまで戦う意味はあるのだろうか――その言葉が何よりも深く彼の心に突き刺さったのである。それから先もワイアットは難民高等弁務官らしい言葉を紡いだが、いずれも青年の耳を素通りしていった。


「――そして、トロイメライという村に生まれ育った全ての人たちこそが、嘆きの連鎖を終わらせる奇跡を成し遂げたのです。人間が相争う悲劇を背負い、その重みに未来のあるべき姿を問い掛け、乗り越えた皆さんが……! 『人類はみな家族』という理想が絵空事ではなく一つの現実としてこの村で確かに育まれている。……そうです! 虚しさに満ちた力の暴走を受け止め、救い得るのは相手に寄り添おうとする大いなる愛ッ!」


 ワイアットは戦争の無意味さを繰り返し訴え、生き地獄さながらの時代を乗り越えてきたドイツの人々もこれに応じて頷き続けている――この場の誰もが「自分以外の誰かを傷付けてまで戦う意味などない」と噛み締めているというのに、貴公子めいた青年は周囲とは反対に闘うべき意味と理由を求め、その自問の中に意識を埋没させるのだった。

 他国の戦没将兵記念日メモリアルデーに列席している最中でありながら、ワイアット難民高等弁務官の語る「餓えにも似た虚しさ」とやらを考えずにはいられない自分の軽率さに呆れ、場違いとしか言いようのない心の働きを恥じ入った次第である。

 その青年は来賓の用心棒としてトロイメライまで足を運んでいた。要するにワイアットが批判した〝自分以外の誰かを傷付ける力〟を生業にしているようなものなのだ。

 それ故に彼は難民高等弁務官の言葉を重く受け止め、「自分以外の誰かを傷付けてまで戦う意味」を己の心に問い掛けたのである。

 用心棒は依頼主をのが役目であって、必ずしも暴力と同義にはできないだろう。しかしながら、青年にとって「自分以外の誰を守ること」はカネを得る為の手段に過ぎず、誰かの盾となることに価値など見出せなかった。

 自我に目覚めるより遥か以前から〝闘うこと〟を運命付けられ、過酷な世界で生き抜くのに必要な技術を最高の環境で磨き続けてきたのである。自分の意志で闘いを求めたことなど一度もない――と、青年は心の中で自嘲した。

 答えなど遥か昔に出ているのに何かの拍子に〝闘う意味〟を求めてしまうのは、が己のうちより湧き起こった魂の迸りではなく自分以外の人間より受け取った運命ものだからか。

 自分にはその〝道〟を全うする以外にはないと受け入れていながら、どうしても心に馴染まず、浮揚感にも似た錯覚が付きまとうのはという証拠だった。


(……こうも場違いだと、居た堪れなくて仕方ないな……)


 自分は招かれざる客なのだと、その青年は思っている。

 仕事とはいえ闘うことしか知らない自分は、本来、大戦の犠牲者を悼むような場に立ち入るべきではない。ワイアットから「奇跡を成し遂げた」とも讃えられたトロイメライの人々とは相容れない存在なのだ。

 尤も用心棒をにしていたのは過去のことであって、今回は久方ぶりの復帰だった。

 しかも、依頼主と行動を共にして四六時中、警護に当たるのではなく、安酒場の一角で待機し、酔っ払って騒ぎを起こすような迷惑客を摘まみ出すような仕事をしていたのだ。

 このようなタイプは用心棒稼業の中でも『バウンサー』と呼ばれている。

 成人おとなになって酒の味を覚えたのも、その店だった。駆け出しのミュージシャンを招いて演奏の場を提供する小粋な店である。自分がに立つ姿など想像もしていなかった頃は、この店で働けるのならば歯牙しがない『バウンサー』として一生を終えて構わないと本気で考えていたくらいだ。

 用心棒稼業へ復帰する決意を固めようとくだんの店を訪れた際には、世話になった主人マスターから「喧嘩の相手を探しにわざわざ遠征するようなもんだ」と茶化されてしまったが、実際に彼のキャリアの中でも群を抜いて珍しい仕事なのである。

 そもそも、だ。依頼主が無二の親友であったればこそ、一度は足を洗った用心棒稼業へ復帰したようなものであった。そして、その人物は難民高等弁務官や地元議員といった公的な仕事に就いているわけではない。に変わりはないのだが、年齢とて二〇代半ば。そのような若造にも関わらず、立派な〝賓客〟としてトロイメライに迎えられていた。

 こちらはメディアへの露出も絶無に等しく、テレビ画面に大写しとなる機会が多いワイアットとは対照的に肩書きさえ一般的には知られていない。ただし、経済系の新聞を隅々まで読み込むほど熱心なビジネスパーソンほど彼の存在を意識し、身を強張らせることだろう。実際、背広姿の数名は式典の最中にも彼の顔色を窺っていた。

 何しろ用心棒の依頼主はドイツが誇る世界最大規模のスポーツメーカーの経営者一族、ザイフェルト家――その御曹司なのである。

 くだんの企業はハーメルン市が発祥である為、ニーダーザクセン州の至宝としても名高い。ザイフェルト家の重鎮たちは郡都の式典に列席しており、御曹司ただ一人だけがトロイメライへ赴いた次第である。一族の総帥に至っては首都ベルリンの中央式典へ招かれているのだ。

 仮にも御曹司のだ。本来であれば、ザイフェルト家からしかるべき警護ボディーガードが派遣されるところだが、彼の場合は名家のしがらみが煩わしくて仕方なく、それ故に気心の知れた親友を用心棒として指名したわけであった。

 良くも悪くも気さくな人柄なのだ。現在いまは背広を着込んでネクタイも締めているが、追悼式典が終わり次第、首に纏わりつく窮屈さを解き放つだろう。髪型からして特徴的で、一目見ただけでは名家の御曹司と分からない。坊主頭のように頭髪全体を刈り込み、その上で眉間と頭頂部の間にのような塊を残していた。

 ギュンター・ザイフェルト――それが御曹司の名前であるが、大抵の場合はファーストネームに『様』という敬称が付けられる。そして、その呼ばれ方を彼はこの世の何よりも嫌っている。フォーマルな装いとはアンバランスに見えてしまう不可思議な髪型は、権威に対する反発の表れなのかも知れなかった。


「――あらゆる困難に挑戦すべき崇高な理由を、私は情熱以外に持ち合わせていません」


 ワイアットのスピーチを締め括る印象深い名文句を受けて用心棒の瞳が再び揺れた。

 彼の生業を成り立たせていたのは他ならぬ徒手空拳の技術テクニック――即ち、格闘技である。

 幼少の頃から叩き込まれてきた格闘技を忌み嫌った憶えはないが、そこに情熱が伴っているかと問われたなら即答し兼ねるのだった。

 彼にとって格闘技とは余りにも身近に在り過ぎた。人を殴り、蹴り付け、かんなきまでに叩き伏せる〝力〟の行使も日常動作と感覚が変わらないのである。

 情熱を抱く理由などあるはずもなかった。格闘技それは間違いなく人生の全てを傾けるものであるが、例えば哲学者が追い求める命題のように捉えることはできない。彼にとって格闘技とは数学にも等しかった。心身に馴染んだ公式テクニックを相手の行動パターンにし、攻略するだけのことであって至極味気ないのだ。

 何かしらの楽しみを差し挟む余地など生まれたときから持ち合わせておらず、それ故にワイアットの言葉が胸に深く刺さるのだった。


(……情熱という種火を持たない半端者が出過ぎた真似をした代償かな。人生の喜びと呼ぶべきモノが燃え尽きていくのは――)


 戦争の悲劇を断ち切った奇跡という主旨のスピーチを受ける形で再開された為か、先ほどよりも柔らかな音色となっているブラスバンドの演奏に耳を傾けながら、若き用心棒は自嘲と諦念が入り混じったような微笑を浮かべている。


「東西ドイツの併合に『イサクとイシュマエル』の引用を重ねたのは上手いんだか、ダダ滑りだったのか、判断に苦しむところだよ。難民問題に繋げようって魂胆見え見えだったしな。……ストラール、お前はどう思った?」


 用心棒の耳元で『ストラール』と名前を呼び、難民高等弁務官が披露したスピーチの内容について気楽な調子でささやいたのは護衛対象であるギュンターその人であった。

 他の列席者の耳に入らないよう声を落としたのは用心棒――ストラールに聞かせた耳打ちの内容が軽口めいた冗談だからであろう。追悼式典の最中にそのようなことを喋っていると知られては不謹慎という批難は免れまい。

 ギュンターが触れた部分をストラールは聞き漏らしていたのだが、『イサクとイシュマエル』など僅かなキーワードから想像力を働かせ、難民高等弁務官がどのような内容を語っていたのかを的確に導き出した。


「創世記からアブラハムの二人の息子を引用することはスピーチの大意を外しているとも思わないがね。つまり、人類ひとは分かり合えるということだよ。麗しい人間愛じゃないか」

「異なる〝道〟を歩まざるを得なかった二人の息子イサクとイシュマエルは、しかし、父親アブラハムの亡骸を一緒に埋葬した――か。まァ、それをドイツで語る勇気は大したモンだと思うよ」

「難民高等弁務官殿のスピーチは、この地で語ってこそ意味も生まれるのではないかな」

「そうかァ?」

「ドイツ人のお前とオランダ人の私が大戦の追悼式典に同席して親しく語り合っている。それは人類愛の表れ以外の何物でもないよ」

「……一本取られたな、こりゃ」


 ストラールによる捕捉を経て高等弁務官のスピーチ内容に納得したギュンターは、遠目には禿げ上げっているように見えなくもない坊主頭を掻きつつ肩を竦めた。最初の内は胡散臭く感じていた人類愛も、身の周りの状況に照らし合わせて呑み込めたようだ。


「――この大事なときに、あなたたちは何をやっているのですか……っ」

 互いの顔を寄せ合って談話するストラールとギュンターの臀部を針で刺されたかのような鋭い痛みが襲ったのは、注意を促す叱声こえが背中に届いた直後のことである。何事かと顰め面で振り返ってみれば背後に立っていた一人の女性が両手を伸ばし、二人分の尻を同時に抓り上げているではないか。

 波打つ赤褐色の髪を押さえ付けるようにして黒いツバなし帽子を被った女性である。

 年齢は目の前の青年たちと同じくらいだろう。羽織ったコートの上からでも分かるくらい華奢な身体付きなのだが、彼女も用心棒なのだろうか。いずれにせよ、ザイフェルト家の御曹司に同行する一人という点は間違いないはずだ。親しい間柄でもなければ、このような無礼を働くことなどできようはずもあるまい。

 周囲の目を憚ったようで叱責は一度きりであったが、愛らしい顔に「呆れ」の二字を貼り付け、重大な式典の最中に無駄口を叩く二人を灰色の瞳でもって咎めていた。

 事実、声を落としながら語らっていた用心棒と御曹司はブラスバンドの演奏がとっくに終わっていたことにも、演台に立った村長が閉会の言葉を述べ始めたことにも気付いていなかったのである。これでは注意されても仕方あるまい。

 いたずらを見つかった子どものように気まずげな顔を親友ギュンターと見合わせたストラールは、先程まで自分が何を悩んでいたのか、すっかり忘れてしまっている。〝何か〟を思い詰めていたことだけは漠然と憶えているのだが、肝心の内容が頭から抜け落ちた次第である。

 すぐに忘れてしまうということは、大した問題でもなかったのだろう――そう自分に言い聞かせ、追悼式典を締め括らんとしている村長へ向き直ったとき、塀の向こうから戦没者共同墓地の様子を窺っている一人の少年が視界に飛び込んできた。

 少年はこの幻想的な風景に驚くほど馴染んでいなかった。欧州ヨーロッパ系の顔立ちからかけ離れているだけでなく、肌の色もトロイメライの村民と大きく異なっている。式典への列席者を白雪と喩えるならば、彼は赤くけた褐色の大地を彷彿とさせるのだ。

 年齢は一二、三歳といったところだろう。丸く大きな双眸が幼さを際立たせている。短い黒髪は小さく縮れており、いわゆるパンチパーマのようにも見えた。

 おそらくは中東圏にルーツを持っているのだろう。目の錯覚でなければくだんの少年は法被はっぴと呼ばれる日本式の上着の下にからを纏っているようだ。黒い帯を締めているということは相応の段位を有しているのだろうか。

 どうは相当に使い込まれているが、反対に藍色の法被はっぴは真新しく、横に倒した梯子をモチーフにしたと思しき白い紋様は裾に染め抜かれた日の状態を維持し続けているようだ。矛盾と呼んでも差し支えのない出で立ちが妙に目を引くのだった。

 紐に括り付けて首から小さな布袋をぶら下げているが、どれだけ目を凝らしても中に何を納めているのかは見極められなかった。

 彼は一人きりではない。背後には同じ肌の色を持つ子どもたちを何人も引き連れているようだ。何やら神妙そうな面持ちではあるものの、彼らにはこの場所で行われている式典が本当に理解できているのだろうか。

 気付けばジャーナリスト風の日本人女性も子どもたちにカメラのレンズを向けていた。他の記者たちはスピーチが終わった後も難民高等弁務官という破格の価値ニュースバリューに注目し続けているのだが、そのだけは〝視点〟が違うというわけだ。

 詰め寄せた報道関係者プレスの中で唯一、彼らの存在を正確に認識できたこの女性は、もしかすると純粋にトロイメライの〝現状〟を取材する為に訪れたのかも知れない。

 不調法にも許可なくカメラで撮られていると勘付き、気分を害してしまったのか、間もなく子どもたちは霧の中に去っていった。

 その中心をく少年がからの上に羽織った藍色の法被はっぴは、背面に不可思議な紋様を染め抜いている。欧州ヨーロッパの人間には馴染みが薄い為、ストラールには意味が分からなかったのだが、幾何学模様のように角張った字体で記されているのは『天飾』という二字である。

 『角字かくじ』と呼ばれる字体がよほど珍しかったのか、それとも法被はっぴを纏う本人に惹き付けられたのか、ストラールは去りゆく少年たちの後姿を無言で見送り続けた。

 ストラールと異邦人のカメラ――二つの視線の先に何があるのかを察したギュンターは、背後から突き刺さる視線に耐えながら真隣に立つ親友の耳元へと再び口を寄せた。


「つまりはが難民高等弁務官殿のお目当てってワケさ。それは俺たちにも共通して言えることだがな」


 そのように説かれたストラールは目を細めて得心の意を表した。ドイツの追悼式典を物珍しそうに眺める中東系の少年たちが、何故にトロイメライで暮らしているのか――その全てをギュンターの言葉で理解できたわけである。

 おそらく、両親の仕事の都合といった理由で中東から奥州へ移住したわけではないのだろう。少年たちはやむにやまれぬ事情から故郷で暮らせなくなった『難民』であった。


 二〇一三年現在――欧州ヨーロッパに於いて絶大な存在感を示し続けてきたドイツという大国は、その権威を揺るがし兼ねないほど深刻な難民問題に直面している。

 しかしながら、ドイツ自体が動乱状態に陥って自国民を離散させているわけではない。むしろ、その反対である。国家が国家として機能しないほど迷走し、あるいは内戦の悲劇に巻き込まれて難民化せざるを得ない得ない人々を積極的に受け入れているのだ。

 人道支援を目的として始まった難民の受け入れは間もなく国家的事業となり、行き場を失った人々が今後数年内に何万人と移住してくる公算であるという。

 数え切れないほどの難民を国内に収容する是非を巡って世論が割れる中、片田舎の小村に過ぎないトロイメライが脚光を浴びたのは、まさしくこの問題がきっかけであった。

 住民集会による議論を経て、一〇〇〇人にも匹敵する難民たちを郊外の平野部に受け入れると表明したのだ。勇気ある英断はドイツ政府のみならず国際社会からも称賛され、難民高等弁務官が現地まで直々に足を運ぶようになったのである。

 難民問題の根絶に取り組む者たちの目には、まさしく『夢の都』として映っていることだろう――が、難民キャンプが設置されたのちに剥き出しとなったは、中世の古びた風情を残しているはずの美しい景観を一変させてしまった。

 果てしない霧に包まれた平野部は、幻想文学の登場人物が馬を走らせる大草原のようであったのだが、今やそこには無数のテントがひしめき合っている。天然自然の織りなす美麗な風景には決して馴染まない無機物が難民問題という一つのを浮き彫りにしていた。言語ことばも文化も共有したことがない異境の人間が大挙する状況をトロイメライの住民たちは想像していなかったのである。

 お互いが平穏に暮らす為にも〝住み分け〟が不可欠ではないかという声が上がり始めたのは、難民の収容が完了するより早かった。結局、受け入れ開始から半月ほどでトロイメライと難民キャンプの境目を簡素な柵によって仕切ることが決定されたのだが、その向こう側は〝異世界〟にも等しいわけだ。

 難民高等弁務官はスピーチの中で『アブラハムの二人の息子』という聖書の一節を引用していた。極めて繊細な理由から別々の〝道〟を歩まざるを得なかった兄弟は父親アブラハムが亡くなると一緒に亡骸を埋葬し、力を合わせて生きていこうと再び歩み寄った――マイク・ワイアットは共存の希望を託して伝説的な兄弟イサクとイシュマエルを例に引いたのであろうが、「奇跡の土地」とまで讃えた彼の心を引き裂くような光景が現在のトロイメライには広がっている。

 住民たちが不安の面持ちで見つめるテントには、一つの漏れもなく世界最大のスポーツメーカー、『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが刷り込まれていた。

 ドイツ国内に点在する難民キャンプは政府の管轄から離れて民間企業が運営している場所も多く、トロイメライが境界を接するハーメルン市と縁の深い『ハルトマン・プロダクツ』が全面的なバックアップに名乗りを上げた次第である。それはつまり、難民キャンプの運営だけでなく支援物資の提供も一手に引き受けるという宣言であった。

 希望する難民には携帯電話スマホも支給し、更には使用料金の免除までメーカーに掛け合っていた。本件に関する補償や必要費用は全額を『ハルトマン・プロダクツ』で引き受けるという大盤振る舞いである。

 これらの事業について底意地の悪い論客は「利権を食い物にする〝マフィア〟の売名行為」などとコラムで扱き下ろしたが、〝巨大帝国〟の余裕とでもいうべきか、『ハルトマン・プロダクツ』側は「勿論、売名行為だとも。そして、宣伝はカネが掛かる。そちらもをすれば英雄ビスマルクになれるだろう」と一笑に付して相手にもしなかった。

 つまり、ギュンターはザイフェルト家を代表してトロイメライの難民キャンプへ視察に訪れたのである。一族が支配する企業のロゴマークで埋め尽くされた場所を歩くのは気が滅入ると本人は愚痴っていたが、それでも〝異世界〟に立ち入ること自体は一瞬たりとも躊躇ためらわない。

 難民問題がドイツ人にとって差し迫った事態ということがその姿からも察せられた。

 追悼式典が解散となったのち、ギュンターは戦没者共同墓地から郊外の平野部に足を向け、用心棒であるストラールもこれに従ったのだが、その道中で非常に厄介な状況に巻き込まれてしまった。


「――よォ! そこ行くのは『ハルトマン・プロダクツ』の坊ちゃんじゃねぇか! 丁度、良いトコで追いついたもんだぜ。挨拶してェと思ってたし、一石二鳥とはこのことだァ」


 現地ガイドの案内を受けて難民キャンプへ赴いた一行は、境界を隔てる柵の前までたどり着いた直後、いきなり背後から呼び止められた。

 気さくというよりも無遠慮な調子で声を掛けてきた相手の顔を振り返ったストラールは思わず顔を顰めそうになってしまった。両手を振りつつ駆け寄ってくるのはマイク・ワイアット難民高等弁務官その人だったのである。

 追悼式典の最中に見せていた威厳が幻であったかのような軽妙さではないか。スラックスに泥が跳ねるのも構わずに砂利道を走る姿は、とても国際的な要職に就いている人間とは思えない。

 ストラールにとって――いや、御曹司の用心棒にとって、この遭遇は取り返しのつかない痛恨事だ。何しろ敷地内で鉢合わせになることを避けるべく追悼式典の解散と同時に難民キャンプへ移動し始めたのである。

 『ハルトマン・プロダクツ』を支配するザイフェルト家の一族と難民高等弁務官はどちらも注目度が高く、両者が難民キャンプにて接触したとマスコミに嗅ぎ付けられようものなら組織間の癒着など事実無根の記事を書き立てられるかも知れないのだ。ワイアットから物理的に距離を置こうと図ったのは、こうしたリスクを避ける為の措置であった。

 成功する確率は高いだろうとストラールは考えていた。難民高等弁務官という肩書きの持ち主が報道陣から囲まれないはずがなく、そちらへの対応で時間を取られるものと予想したのである。そうでなくても一旦はホテルに戻り、着替えてから出直すに違いない。

 結局、彼の予想は何もかも大外れだった。難民高等弁務官を目当てとして多くの記者が詰め寄せていたというのに、そこから巧みに脱出してきたというわけである。現地へ立ち入る前から遭遇するとは誤算も良いところで、互いに最短距離で難民キャンプを目指していた事実は皮肉と呼ぶしかあるまい。

 それ以上にストラールが厄介と感じているのはワイアット自身の人柄である。外見だけなら二〇代で通用するくらい若々しいものの、実際には六〇歳に手が届くのだ。それにも関わらず、子どものように飾らない姿は御曹司という立場を窮屈に思っているギュンターとも波長が合ってしまいそうなのだ。

 『御曹司』という立場を省みて軽挙を慎んでいるだろうに、自分より二回りは年長の難民高等弁務官が豪放磊落に振る舞っていたなら、ギュンターまで気持ちが大らかになってしまうだろう。そうなると何を仕出かすのか、分かったものではなかった。


「また眉間に皺ができていますよ、ストラール。ギュンターだって小さな子どもではないのですから。変に気を回し過ぎるのは、却って彼の名誉を傷付けることになるでしょう」

「……レーナ……」


 一緒にギュンターへ付き従う女性を『レーナ』と呼んだストラールは、「しかしだね」と異論を用意しながら頬を掻いてみせた。


「小さな子どものほうが素直で常識的に行動してくれる――彼がそんな性格ということもキミには分かるのではないかな? 付き合いは私と同じくらい長いのだから……」

「勿論ですとも。……なので、先程の台詞は自分に言い聞かせたまでのこと」

「私もキミも、ギュンターには揺るぎないを寄せているね……」


 案の定、ギュンターは挨拶を交わす中ですぐさまワイアットと意気投合したらしく、二人の目の前で固い握手を交わす始末であった。本格的に視察へ取り掛かる前から疲れたような溜め息を吐き捨てるストラールの背中を『レーナ』は優しく撫でるばかりであった。


「なァに、二人して黙りこくっているんだよ。照れてないで挨拶しろって。初対面だろ?」

「おうとも、遠慮はいらねぇし、堅苦しいのは抜きで行こうぜ。自己紹介は余計かも知れねぇが、改めて――マイク・ワイアットだ。よろしく頼むよ、ご両人!」

「お初にお目に掛かります、マフダレーナ・エッシャーと申す者です」

「……ストラール・ファン・デル・オムロープバーンと申します。以降、お見知りおきを」


 難民高等弁務官マイク・ワイアットから求められた握手へ素直に応じた『レーナ』――マフダレーナとストラールの顔には露骨な愛想笑いが貼り付けられており、返す言葉も月並みで機械的だった。


「そうか! お前さんが天下に名高いストラールか! 武勇伝は聞かせてもらってるぜ!」


 対するワイアットは他人の反応など関係ないといった調子でストラールの顔を覗き込み、いかにも上機嫌に肩を叩いていた。

 ギュンター以上にメディアから縁遠いストラールにはワイアットが何をもってして「武勇伝」などと論じているのか、その意味が全く分からない。かつて自分が用心棒を務めていた安酒場と付き合いでもあったのかと訝るばかりであった。


 最初の挨拶では温度差のあったストラールだが、難民キャンプの敷地内に立ち入ってからは、むしろワイアットだけが頼りであった。トロイメライ現地で雇ったガイドが気後きおくれした挙げ句に逃げ出してしまって以来、ワイアットに同行する難民高等弁務官事務所のスタッフが〝異世界〟の現状を熱心に説明しているのだ。

 トロイメライがその内側に抱えた〝異世界〟は単なる比喩でなく、読んで字の如くとでもいうべき不思議な空間であった。ドイツ国内でも北欧に限りなく近いニーダーザクセン州の霧の中を『砂漠の民』という言葉から連想される出で立ちの人々が行き交っているのだから、目の錯覚を疑っても無理からぬことであろう。

 この地に限らず、ドイツ国内の難民キャンプは中東やアフリカなど灼熱の大地から移り住んできた人間が多い。実質的な無政府状態のまま、泥沼の内戦が続いていたソマリアから逃れてきた人々も決して少なくないと、ワイアットの部下は解説している。

 エジプトの出身というその青年――ネルソンはソーシャルワーカーとして難民高等弁務官事務所からトロイメライに派遣されており、『フィールド』とも呼称される難民事情の最前線にて様々な問題点を調査し、望ましい解決に向けて奔走しているそうだ。

 ネルソンは難民キャンプの特徴の一つとして言語ことばの不統一を挙げていた。この村ではキャンプ内の一角に大きなプレハブ小屋を建て、ドイツの生活くらしに不可欠な技術などを教えている。当然ながら、この指導内容には同地の言語ことばも含まれているのだが、舌にも耳にも馴染んだ母国語以外を紡ぐことに抵抗を持つ中高年たちは習得へ前向きにならないという。

 『無気力』は一種の連帯感として伝播していくものでもあり、大人たちは職業訓練さえ疎かにし始める始末。物静かな場景に佇むトロイメライとは別の意味で口数が少なく、喋ることすら億劫とでも言うような倦怠感が難民キャンプ全体に漂っていた。

 中には自分たちの避難先がどの国であるかを失念してしまった人間も居るようだ。ワイアットもネルソンも、そして、ストラールもマフダレーナも、ドイツでは同地の言語ことばで話しているのだが、一行の会話が耳に入った瞬間に宇宙人と遭遇したかのような表情を浮かべる難民とは何度もすれ違っている。

 ザイフェルト家の御曹司一行が停滞としかたとえようのない空気を最も強く感じたのは、一部の難民が同じキャンプで暮らす人々に向けて開いた簡素な商店街だ。木切れの骨組みに風除けの布を引っ掛けただけの掘っ立て小屋に村から仕入れてきた商品を並べ、〝異世界〟まで足を伸ばそうという意欲が湧かない人々を迎えているのだった。

 店の構造つくりが粗末である点を除けば食品や日用雑貨など必要な物は何でも買い揃えることができるので非常に便利なようだ。信仰に配慮してアルコール類は一切置かれていない。

 それはつまり、難民キャンプ内には泥酔者など存在しないことを意味している――そのはずなのだが、道端に座り込んだまま微動だにせず、焦点の合わない目で遠くを眺めている人間が驚くほどに多いのだ。

 ストラールも安酒場で『バウンサー』を務めていた頃に同じ様子の迷惑客を腐るほど見てきた。しかし、泥酔者と難民では事情が違うだろう。後者は酒気など帯びていないのである。

 道端の成人おとなたちはぼんやりとした顔で〝何か〟を待っていた。祖国への帰還が許される日なのか、避難先ドイツでの安定した生活なのか、それとも別の〝何か〟を求めているのか、視察の一行には分からない。生きることまであぐんでしまったような風貌で、彼らはただただ〝何か〟を待ち続けるのみであった。

 トロイメライ難民キャンプは世界最大のスポーツメーカーたる『ハルトマン・プロダクツ』が運営を担っているが、だからといって難民全員の生活を保障し得るはずもなく、資金や物資の不足も常態化していた。極寒にも近いドイツの冬を凌ぐ為のコートですら難民全員には行き渡っていないのだ。

 成人おとなたちから活力が消え失せつつあるのは、我が家ではなくテントで暮らすしかないという絶望的な暮らしの中で心がすり減ってしまった結果であろうと、ワイアットもネルソンも悔しげに唇を噛んでいる。

 無論、全ての成人おとなが憂鬱の水底に沈んだわけではない。ネルソンのようなソーシャルワーカーに相談しながら職業訓練に励む者や、トロイメライとハーメルンを往復するバスへ朝一番で乗り込み、夕方まで向こうで働く者のほうが多いくらいだ。


(……生きようとする気力が萎え衰えていく感覚は分からないでもないが――)


 難民キャンプが置かれた状況を分析しながら商店街を見学して回っていたストラールの腕に柔らかな感触が圧し掛かってきた。

 前方からやって来た一人の女性と雑踏の中でぶつかってしまったのだ。

 追悼式典で見かけたジャーナリスト風の日本人女性である。互いの身体が当たった拍子に外れてしまった頭から被るヘッドセットタイプの録音機材を装着し直しながらストラールに向き直り、「こちらの不注意で失礼しました」と詫びた。

 彼女の口より発せられているのは全て日本語である。彼女の故郷で使われている言語ことばにストラールが通じていたから良いようなものの、会話が成り立たなかったなら、どうするつもりだったのだろうか。


「どうか、お気になさらないで下さい。私のほうも脇見をしていたのですから、お互い様ということで……」


 日本人女性のほうは母国の言語ことばで返事があるとは夢想だにしていなかったらしく、双眸を見開いて驚いていた。いわゆる、ボディーランゲージでもって謝罪の意を表そうとしていた矢先に出鼻を挫かれた恰好である。

 自身の前方不注意を認めたストラールではあるものの、ぶつかってきたのはこの女性のほうだ。おそらくは難民キャンプの撮影に集中する余り、周囲まわりの情報を拾えていなかったのだろう。

 郊外の戦没者共同墓地で垣間見た通り、やはり、この女性は難民キャンプの取材こそが本当の目的だったようだ。


「それよりも一つ、確認したいことがあるのですけれど、驚くほど自然な流れでセクハラが発生したのではありませんか? ストラール、あなた、今、どこを触ったのかしら?」


 ストラールの尻がマフダレーナによって抓り上げられたのは、彼が日本人女性に「お怪我はありませんでしたか」と恭しい態度で微笑みかけた直後のことである。


「ど、どこと言われても……。ギュンター、レーナに何とか言ってくれないか」


 突如として突き刺すような視線と声色に晒されたストラールは、大弱りの調子でギュンターに助けを求めたが、傍らの親友はこの上なく愉しそうに笑い続けるばかりだった。


「いやいや、俺は淑女レディーたちの味方だよ。真実を明かす為に手を貸して欲しいと要請されたら喜んで証言台に立つだろうな」

「……悪ふざけも場合によりけりだぞ。そのような冗談は悪趣味の極みだ」


 目の前の女性とぶつかった際に彼の腕で撥ね返った柔らかな感触とは、黒いレザーベストという服装の上からでも明確に分かるほど自己主張の激しい胸部に他ならない。

 たわわに実った果実の如き部分が瞬間的に押し当てられてしまったのだが、マフダレーナはそれを見過ごさなかったわけである。つまるところ、いじらしい嫉妬ヤキモチであった。


「一応、確認いたしますけれども、お肉体からだの中でも際立って豊かなモノを揉みしだかれたりしませんでしたよね? この人、身のこなしが桁外れだから、あの一瞬でそれくらいのことはするかも知れませんし……」

「レーナ、今の発言は私とキミの信頼関係を傷付け兼ねないものだよ。それにその言い回しはいかがなものだろうか。もう少し品のある表現は見つからなかったのかい……?」


 マフダレーナが両手を忙しなく開閉させる仕草ゼスチャーを披露し始めた、その場に居合わせた全員の意識がとある一点に集中した――というよりも、〝そちら〟に意識を向けざるを得なかった。

 おそらくまだ一〇歳にも届いていないだろう小さな男の子が軒を連ねる掘っ立て小屋の隙間から急に飛び出してきたのだ。

 その少年はストラールたち一行を隠れ蓑にしながら同い年くらいの友達に背後から忍び寄り、いきなり大声を張り上げた。

 このような仕打ちを受けようものなら誰だろうと飛び上がって驚くだろうし、実際に予想通りの展開を迎えたのだが、驚かせた側の少年が友達から絶交を宣言されるようなこともなく、二人して腹を抱えて笑い合っているではないか。やがて一緒に遊んでいたものと思しき子どもたちが集まり、笑い声は一等大きくなった。輪になって爆笑したのち、彼らは元気に散開していくのだった。

 物陰へ隠れつつ友達の動きや考えを見極め、次に向かうであろう場所まで先回りして驚かせるという単純明快な遊びのようである。驚いたほうも驚かされたほうも、再び鉢合わせしたときには噎せ返ってしまうくらい大笑いし、気持ち良く次の勝負に移るのだ。

 そんな子どもたちの様子にマフダレーナは嫉妬ヤキモチも忘れて頬を緩ませた。ほんの数人程度の集まりだったが、彼らは擬音語オノマペトと身振り手振り、何よりも笑い声で意思の疎通を成立させている。

 数か国の難民が身を寄せ合っている状況の表れというべきであろうか、子どもたちの集団も中近東やアフリカなど複数の民族が入り混じった構成なのだ。欧米の人間と比べた場合には確かに肌の色は近いように見えるのだが、だからといって全員が同じ言語ことばを共有しているわけではない。それでも笑い顔と擬音語オノマペトだけで彼らは通じ合っていた。

 どんなに過酷な状況であっても元気に遊び回れるのが子どもの特権なのだ。人種という名の〝壁〟など全く意識せずに手を取り合う無垢な姿は、未来の可能性を確かに予感させるものであった。


「ああっと、名刺を渡してるヒマもないやっ! 一方的にトンズラするみたいで申し訳ありませんけど、これにて失礼しますねっ!」


 くだんの日本人女性もマフダレーナと同じ気持ちになったのだろう。ストラールたちにこうべを垂れると手持ちのカメラを構え直し、大慌てで子どもたちの後を追い掛けていった。難民キャンプに芽吹いた小さな希望を撮り逃すまいと考えた様子である。


「報道の良心も捨てたもんじゃないな。記者たる人間、かくあるべしってヤツだ」


 ギュンターの呟きにマフダレーナは強く頷いた。難民キャンプの〝真実〟を切り取ろうと励む姿を見つめている内に嫉妬ヤキモチも払拭されたのだった。


「不思議な遊びでしょう? 少し前に慰問に訪れたサーカスの団長さんから教わったんですよ。勉強不足で私も存じ上げなかったのですけど、何でも世界中で大流行だとか」


 子どもたちの遊びについてネルソンから解説されるストラールであったが、その内容が少しも理解できず、相槌すら打たずに眉根を寄せてしまった。

 相手を驚かせることがただ一つの遊び方だという。しかも、より大勢を驚かせた子どもに点数ポイントが加算され、勝者を競うというようなルールでもないそうだ。

 友達同士で驚かせ合うというだけの行為なのに、どうして笑顔が弾けるのか――子どもたちの心理こころが不思議に思えてならない。

 『ユアセルフぎんまく』なる動画共有サイトを通じて国際的な人気を博したとギュンターから説明も捕捉されたのだが、ストラールにはますます意味が分からなかった。

 彼らと同じくらいの年齢の頃を振り返ってみたが、あれほど意味不明な奇行はしていなかったとはずだ。それどころか、状況自体は現在いまと大して変わらなかった。とぼけたことを口走るギュンターに対し、マフダレーナと二人して肩を竦めていた想い出ばかりが甦る有り様だった。


「一体、何が楽しいのか、理解に苦しむのだが……」

「子どもは何だって愉しいのよ。だって、それが子どもの〝仕事〟だもの」


 傍らのマフダレーナから〝子どもの仕事〟と諭されながらも釈然としないような表情を浮かべ続けるストラールだったが、さりとて異論を唱える理由もない為、あからさまとしかたとえようのない曖昧な相槌でその場を凌ごうと図るのだった。

 そして、適当な相槌は人に不快感を与えるもの。軽率に首を頷かせたストラールはマフダレーナから再び尻を抓り上げられてしまったのだが、これは余談の域を出ないだろう。


「――ああ、そうだ……こちらのキャンプでは空手も盛んなのですか? 先ほどどう姿の男の子を見つけましたが、村までロードワークに出掛けていたのでしょうか」


 抓られた拍子に記憶の回路が繋がったストラールは、追悼式典の最中に戦没者共同墓地で見掛けた少年のことを想い出した。

 から法被はっぴを纏った中東系と思しき男の子である。


「――そいつは『ガダン』に間違いねぇよ!」


 この場の誰より難民キャンプの内情に詳しいだろうネルソンへからの少年のことを尋ねるストラールだったが、彼に答えを示したのは目の前のソーシャルワーカーではない。

 その声は難民高等弁務官の物である。不思議な遊びに興じる子どもたちを眺めていたストラールたちより先行し、キャンプの住民が営む屋台でランチメニューを味見していたはずのワイアットが音も立てずにいきなり戻ってきたのだ。

 彼はカレー風味のソースで合えたパスタ料理を美味そうに頬張っている。麺に良く馴染んだラクダの粗挽き肉を堪能しつつ同行者たちの会話も抜かりなく聞き取っていたらしい。

 別々の言語ことばを正確に聞き分けるは、さすがは難民高等弁務官というべきであろう。


「ソマリアから移ってきた少年たちのリーダーさ。格闘技のほうはまだ稽古を始めたばかりだけど、あれはきっとになるぜ。欲目を抜きにしても見どころある奴なんだよ」

「は、はあ……」

「ストラール、お前さんならきっとオレの言うことを分かってくれるハズさ!」


 から姿の男の子――ガダンという少年について語り始めたワイアットは、身を乗り出すような勢いでストラールを見つめたのち、ニヤリと口の端を吊り上げた。

 その瞬間、ストラールは心の中で舌打ちしてしまった。会話の途中でこのような表情を浮かべる人間は胸の内に頼み事を秘めていると相場が決まっているのだ。狙いを付けた相手が自分の術中に嵌ったことを見極めた顔とも言い換えられるだろう。


「丁度、ガダンのことで相談したいことがあったしな! こいつは幸先が良いぜ!」


 ワイアットの笑い声を受け止めながら、そっとネルソンの顔を窺うと、彼もまた静かに頷き返した。案の定、足元を見られるような状況に陥ってしまったわけだ。

 世間的には無名に等しい自分に何を期待しているのか――その真意も測り兼ねている。


「――だったら、そのガダン君に会いに行こうぜ。さっきの子どもたちの中にカラテマンはいなかったから、どこか別ンとこにいるんだろ? 可能な限り、相談に乗ろうじゃないか。それだってココを仕切る『ハルトマン・プロダクツ』の役目なんだから」


 詳しい話を聞いていない内から乗り気になっているギュンターの姿にストラールは溜め息をらすしかなかった。

 この地を運営する立場であればこそ全ての難民へ平等に接しなくてはならないというのに特定の少年だけを贔屓するような行動は軽率以外の何物でもあるまい。それこそ難民高等弁務官は御曹司の発言をもってしてザイフェルト家により多くの物資や資金カネを提供するよう訴えてくるかも知れないのだ。そして、そのような状況となってしまったときにはならぬ御曹司ギュンターがワイアット側の味方に付くはずである。

 『ハルトマン・プロダクツ』とは縁が深く、また経営者たるザイフェルト家とも家族同然の付き合いというストラールだけに、その御曹司が手玉に取られる様子は眺めていて気分の良いものではなかった。

 しかも、自分がから姿の少年について質問したばかりに、このような事態を招いてしまったのである。悔恨を持て余しつつ頬を掻いたストラールは、心配そうな眼差しで見つめてくるマフダレーナに無言でかぶりを振るのだった。

 親友たちの思いを知ってか知らずしてか、ギュンターは意気投合したワイアットと肩を並べて笑い合っている。このように一本気な性格こそが彼の魅力とストラールも分かってはいるのだが、同時に最大の弱点でもある為、器の大きさや〝美徳〟と言い切ることができないのである。


「……あなたはだけにギュンターへ接近したのですか? もしも、私の想像している通りだとしたら、用心棒として見過ごすわけには行きませんね」


 のぼせ上がった頭へ冷水を浴びせるかのように、敢えてギュンターの目の前で薄汚い胸算用を追及するストラールだったが、当のワイアットは無遠慮に突き刺さる鋭い眼差しで動揺するどころか、むしろ自分に挑んでくる若者の気概を心地良く感じているらしい。


「……〝大人〟ってのはズルい生き物だからな、お前さんの想像を切り捨てることもなかなかできねぇさ。でもよ、ガダンのことに関しちゃ、オレはお前さんにこそ相談してェと思ってるんだぜ? 別に『ハルトマン・プロダクツ』にタカろうなんて気もねぇしよ」

「難民高等弁務官ともあろう方が一介の用心棒を買い被り過ぎではありませんか」

「さっきも言ったじゃねーの、『お前さんならオレの言うことを分かってくれる』ってよ。それは『格闘技界の聖家族』のをアテにしてるって意味だぜ。なァ、ストラール・ファン・デル・オムロープバーン?」


 人差し指の先をストラールの鼻に押し当てたワイアットは、『格闘技界の聖家族』などという仰々しい称号よびなを一等愉快そうな表情かおで口にした。


「俺がストラールのおまけ扱いなのは構わんが、ここでオムロープバーンの名前を出されると少しばかり事情が変わってくるぞ」


 傍目には能天気としか見えなかったギュンターも、このときばかりは真顔に戻っている。ワイアットは『オムロープバーン』という家名ファミリーネームを特に強調するようにしてストラールのフルネームを繰り返した。


 オムロープバーン家――ワイアットが述べたように、その家名ファミリーネームは現代アスリート界に於いて大きな意味を持っている。『格闘技王国』として名高いオランダを本拠地とする一族であり、過去には五輪選手を数多く輩出し、その度に輝かしい成績を残してきたのである。

 中でも格闘技系のアスリートが強く、柔道やレスリングでは祖国に数え切れない量の金メダルをもたらしていた。後進の教育や支援にも熱心であり、オランダ国内で活動する格闘家たちを束ねる巨大組織としても名を馳せている。

 それ故にオムロープバーン家の一族には尊崇の証しとして『格闘技界の聖家族』なる敬称が付けられているのだ。

 そして、ワイアットは『オムロープバーン』の家名ファミリーネームを持つストラールを『聖家族』の御曹司と呼んでいた。それはつまり、ザイフェルト家に用心棒として雇われた彼自身も親友と同じ肩書きの持ち主だったという証左である。

 自分の置かれる〝立場〟を言い当てられてしまったストラールは「食えない男」とワイアットに対する警戒心を一等強めていた。

 確かに彼の前でフルネームは名乗ったが、ただそれだけで御曹司と読み取ることは不可能に近い。そもそも『御曹司』とは主として一門の直系にこそ相応しい呼び方である。『聖家族』は同名の分家や親類が多く、家名ファミリーネームを判断材料として直系と決め付けてしまった場合には無知を晒すことにもなり兼ねないのだ。

 つまるところ、難民高等弁務官は最初からストラールが『御曹司』と呼ばれる立場であることを見抜いていたわけである。もしかすると、追悼式典へ赴く前から出席者たちの経歴を全て調べ上げていたのかもしれない。

 これをもってワイアットを「食えない男」と見なすことに異論を唱える者は少ないだろう。

 それにしても――とストラールが首を傾げてしまうのは、この食えない男が『オムロープバーン』という家名ファミリーネームに踊らされている点だ。確かに一族の中にはアスリート界で頭角を現した人間も多いが、彼自身は格闘技の大会ないしは興行イベントへ出場した経験がない。公式の戦績キャリアなど持ち合わせていないわけである。いくら『聖家族』の御曹司とはいえ、実績のない人間の観察眼を家名ファミリーネームひとつで優秀と信じ込めるものだろうか。


(……まさかと思うが、我々の異能ちからのことまで調べ上げたのでは……)


 あるいはオムロープバーン家が〝表〟に出していない面まで嗅ぎ付けたのではないかと、ストラールは難民高等弁務官の動向を勘繰っている。


「……大丈夫よ、ストラール。仮に『神々の黄昏ラグナロク・チャンネル』のことを掴まれていたとしても、ワイアットさんにはどうすることもできないわ。真似は勿論、強請ゆすりのネタにもならないでしょう。あれは人間の手に余るなのだから……」


 猜疑心が抑え切れないストラールの胸中を見抜いたマフダレーナが耳元に口を寄せた。その姿から察するに、言葉を交わさずとも互いの心を読み解けるほど二人は深い絆で結ばれているのだろう。


「それはそうなのだがね。……〝宿命さだめ〟と同化させられた化け物としては些細なことまで気になってしまうのだよ。これこそ人間ヒトが持て余すという証拠かも知れないが……」


 『神々の黄昏ラグナロク・チャンネル』なる意味不明な単語を挿む暗号じみた会話だったが、マフダレーナとしては少しでもストラールの心を解きほぐしたかったようだ。

 尤も、その効果は薄かった。彼女になだめられながらもストラールは落ち着かず、軽やかな足取りで先を行くワイアットの背中を睨み続けていた。


「――くだんのサーカス団が来てからキャンプで暮らしている子どもたちは前よりもずっと活発になりましたよ。団員さんは子どもたちと文化交流の機会を設けてくださいましてね。団員の皆さんは何しろ多国籍ですから、私自身、隣で聞いていて大いに触発されました」


 から姿の少年ガダンが自主トレーニングに励んでいるという場所まで案内する道すがらネルソンは色々なことを一行に話してくれたのだが、ワイアットに対する警戒が何よりも先行してしまうストラールは、その殆どを聞き流していた。彼の妻――名前はロレインというそうだ――がアルバニア難民であり、ソーシャルワーカーとして派遣された先で恋に落ちたという馴れ初めに至っては脳が認識してもいなかった。

 記憶に残ったものといえば、せいぜい数週間前に難民キャンプへ慰問で訪れたサーカス団のことくらいである。世の中の流行り廃りに興味の薄いストラールでさえ記憶している有名な一座で、七つの海を股に掛ける旅公演を打ち出していたはずだ。


「ちょっとした〝知り合い〟から強引に誘われて、何年か前のフランクフルト公演を見に行ったきりだけど、格闘技を派手なショーにアレンジした演目は見応えたっぷりだったよ。あのサーカス団、が何人も揃ってるもんな」


 ギュンターが〝知り合い〟からチケットを押し付けられたというフランクフルト公演にはストラールもマフダレーナとペアで誘われたのだが、サーカスに興味もなかった為に理由を付けて固辞していた。

 彼の傍らを歩くマフダレーナは、当時のことを振り返りながらあからさまに不機嫌な面持ちとなっている。世界中を駆け巡る有名サーカス団だけに一度でも公演を見逃すと次の機会は何年も回ってこないのだ。即ち、ストラールの所為せいでチャンスを棒に振ったことを恨めしく思っているわけである。

 一行は難民キャンプの中心部を北に抜けて、テントを張ることのできない森林を進んでいる。そこは「郊外」という言葉が本来持つべき意味すがたを留めた区域であった。


「団長さんも剣を使って『三銃士』みたいなアクションをキメてくれますしね。ガダン君は別の方の――何て言ったかな、メキシコの格闘技に魅せられたみたいです」

「ちなみに団長のシェインはオレの親友マブダチだぜ! 長年の盟友っつっても過言じゃねぇ!」


 無遠慮に割り込んできたワイアットの発言から察するに、慰問とはいえ七つの海を渡るほどの人気サーカスがトロイメライというドイツの片田舎まで出張してきたのは、難民高等弁務官ならではの人脈ツテであったらしい。


「今のはつまり、サーカス団との癒着を自供してんのかい、高等弁務官殿?」

「冗談にしちゃ塩味キツ過ぎるぜ、兄弟。チャリティー公演に決まってんだろ~」

「兄弟の交友関係なんざ知ったこっちゃないけど、話の流れからしてガダンって子が格闘技に凝り出したのは、その公演がきっかけってコトか」

「ご明察の通りですよ。……彼が『闘う手立て』を望んだのは他にも事情があったからですけど、でも、あの日のサーカスから気持ちが変わったことは間違いありません」


 談笑するギュンターたち三人が目当ての少年ガダンについて言及したとき、ようやくストラールの意識がネルソンのほうへと向けられた。

 ネルソンはガダン少年が格闘技を志すようになったきっかけを語り始めたのである。


「想い出してきたよ。あのサーカス団、確か徒手空拳の部門じゃ『ルチャ・ドール』が花形だったよな。中年のおっさんを花形って呼ぶのは抵抗あるけどよ」

「――私の記憶が正しければ、日本にも高名な『ルチャ・ドール』がいたな。あれは何という名前だったかな。鷲か鷹の覆面マスクを被っていたはずだが……」


 三人に対して初めて口を挿むストラールだったが、それは会話の流れを寸断するような言葉であり、関心を持ってくれたことを喜びながらも親友ギュンターは苦笑いするばかりである。


「そのレスラー、とっくの昔に日本を引き払って北米アメリカに拠点を移してるよ。それにカラテマンの少年とルチャ・リブレは全然関係ないだろ」

「空気を読まない独り善がりとにしているな? 他愛のない世間話だろうに」

「会話の流れを聞いてないから素っ頓狂な途中参戦になってるんだって――ま、自分の興味にひたすら真っ直ぐなところもストラールらしいけどな」

「それもまた大弱りなのですよ。この人、好き嫌いがハッキリし過ぎているから、傍に居ると気持ちが落ち着きません。私から興味が離れたとき、一体、どうなるか……」

「……レーナ、それはまた別の話だし、私の心がキミから離れる理由などあるものか」


 ギュンターからは笑い飛ばされ、マフダレーナにまで思わぬ不意打ちを喰らわされてしまったのだが、針葉樹林の先に野原のような空間を見つけてからというもの、ストラールの中でガダンへの好奇心が際限なく膨らんでいるのは事実だった。

 あのからは支援物資として難民キャンプに送られてきた物だろう――その直感は的中したようだが、衣類の数が乏しい為に他の服を選ぶ余裕がないという見立ては大きな誤りであったわけだ。格闘技へ目覚めたが為、自らの意思でからに袖を通したに違いない。


「それにしてもカラテマン――か。ストラールが興味を持つのは必然かも知れんな」

「日本の格闘技という意味では、お前のアンテナに引っ掛かっても不思議ではないぞ」

「俺のは〝輸入品〟だからなぁ。日本食を味付けし直すのと変わらないんだぜ? それで日本の格闘技云々を主張したんじゃ、向こうの〝本流〟に申し訳が立たないよ」

 ギュンターと軽口を叩き合っていると、程なくして木立の向こうに人影を発見した。

 改めてつまびらかとするまでもないが、その人影は木立の先に広がる平らな野原にる。立ち止まって広場の様子を窺うと、追悼式典の最中に見掛けたソマリアの少年が一心不乱に身体を動かし続けていた。

 言わずもがな、仲間たちも一緒だ。その場に腰を下ろして少年の姿を眺めている。

 法被はっぴを地面に脱ぎ捨て、紐でもって首からぶら下げていた布袋まで外して身軽となった少年は汗を迸らせつつ、風を切り裂くように両手両足を繰り出していた。

 おそらくは何もないくうに稽古相手の姿を映しているのだろう。ネルソンも「ボクシングでいう『シャドー』のようなことを一人で続けているんです」と説明を言い添えた。

 サーカスで目にした『ルチャ・ドール』の動作うごきを想い出しつつ自己流に置き換えているようで、どうこそ身に纏ってはいるものの、彼がくうに打ち込んでいる技は完成された空手とは全く掛け離れている。

 装いも技のかたもデタラメだというのに、ストラールはガダンから目が離せなかった。

 身のこなしが余りにも面妖なのだ。重心を定めないまま、絶えずゆらゆらと揺れ動きながら打撃の真似事を繰り返す姿は、前衛的な創作ダンスのように見えなくもない。

 余人の目には自分の姿勢を制御することもできない児戯おあそびと映るだろう――が、ガダンは自分で生み出した遠心力に飲み込まれて転んでしまうようなこともなかった。つまり、彼は独特のリズムに乗りながら身体を動かしているわけだ。

 実に興味深い――その一言だった。腕の振り方から腰の捻り方まで粗削りとしか表しようがなく、格闘技経験が皆無ということも察せられるのだが、その一方で風を裂く速度スピード児戯おあそびとは呼べないくらいに鋭い。身体能力そのものが人並み外れて優れていることは間違いなく、それは磨けば磨くほどに輝く原石という証左であった。


「――な? お前さんたちの〝目〟にはあいつの才能が読み抜けるだろ? 鼻の利かない連中はワケが分からずに気でも触れたんじゃねーかって白けた目で見ているらしーがな」


 ガダンの自主トレーニングへ釘付けとなっているストラールと、その真隣で同じように一挙手一投足へ目を凝らしていたギュンターの肩を難民高等弁務官が嬉しそうに叩いた。

 結局はワイアットの言う通りになってしまった為、その笑い声が癇に障って仕方ないストラールではあるものの、不穏当な想念もガダンを眺めるだけで清められていく。何しろ彼は不思議な遊びへ興じる子どもたちと同じように満面を喜色で染め上げているのだ。

 どんなに拙劣でも、他人から嘲笑されようとも、格闘技の世界に触れることが心の底から楽しいのだろう。束縛するものは何もないという解放感を満喫するように宙を舞い、汗と共に腕を突き出すさまは人生の喜びを噛み締めているとしか見えなかった。


(……あの少年は〝闘う理由〟が明確なのだろうな……)


 心の中で呟いたストラールは、広い野原を溌溂はつらつと飛び回った挙げ句に体力が尽きて仰向けに倒れたガダンの姿を一つの自己表現と捉えている。サーカスの演目という『人を魅了する為の動作アクション』に触発された少年は、格闘技を通じて自らの存在価値を確かめようとしているのかも知れない。

 そのような〝闘い〟が楽しくないわけがない。何よりもガダンは自らの意思で格闘技を志した。だからこそ、動きに一切の迷いがないのだ。

 生まれた瞬間から『格闘技界の聖家族』という運命を背負い、〝闘うこと〟と人生とが同一の線上で結ばれた自分とは全く違う――いつしかストラールはガダンと己の境遇を比べるようになり、息を止めるくらい意識を集中していたというのに少しずつ彼の姿を見ているのが辛くなってきた。

 想像力を無限に膨らませるのは自分だけの物語を描くようなもので、さぞや楽しかろう。対する自分の格闘技は味気ない数式だ。これによって導き出される結果はの充足感こそ得られるものの、精神こころの昂揚からはかけ離れていた。


「あんまり他人がペラペラと喋っちまうのもどうかと思うんだが、……あいつは――ガダンは小さな頃にソマリアの首都モガディシュで人身売買のブローカーに誘拐されちまってな。そのまま海賊に売り飛ばされたって聞いてるよ」

「な……っ」

「少し前に日本企業のタンカーが若い海賊に乗っ取られたって事件があっただろ? 今年のアタマには日本で裁判に掛けられるってニュースにもなったしな。……それと同じ少年海賊に仕立てられちまったんだよ」


 心の〝闇〟とも呼ぶべき領域へ意識を沈み込ませていたストラールを現実世界に引き戻したのは、傍らで心配そうにしているマフダレーナの眼差しではなく、ワイアットから告げられた衝撃的な一言であった。

 純粋無垢としか見えないあの少年が悪名高いソマリア海賊の一員だったというのだ。

 長らく無政府状態が続き、内戦によって失業者が増え続けていたソマリアでは海外の船会社から身代金などを奪い取る海賊行為が一種のビジネスと成り立っている。

 年端も行かない子どもたちが非合法組織に誘拐され、海賊の実働部隊として送り込まれるという過酷な現実が赤道を跨ぐ大地に横たわっていた。ガダンと仲間たちは決死の覚悟で海賊船から脱出し、難民高等弁務官事務所に保護されたそうだが、その欠員を補う為に同じ犯行が繰り返されるだろう。


「……難民問題の難しいところだな。犯罪者やテロリストを国内に招き入れてはいないかという声だって少なくないんだぜ」

「……私もそれを案じていたところだよ。ソーシャルワーカーたちの手助けを受けて難民は社会復帰を目指しているが、中には〝復帰〟以前に正常な社会を知らずに育った子どもだって多いと聞いているからな」

「願わくば、ガダンがその類いでないことを祈りたいな――」


 難民問題に於ける一つの〝闇〟をストラールに語ったのはギュンターだ。ドイツに生まれ付いた青年だけに国内の情勢には敏感なのである。

 「元気」の二字を体現する姿からは想像もできない壮絶な過去に接したマフダレーナは両手で口元を覆い、絶句したまま双眸を見開いているが、近くに立つギュンターは感情任せの言行ばかりが目立つ平素とは打って変わって冷静さを保ち続けていた。


「――しかし、これで納得できたよ。だから、あいつの肉体からだんだな」

「未完成な少年に仕上がり云々を当てはめるのは軽率だろうが、ギュンターの言わんとしていることは私も察したよ」


 ストラールも親友ギュンターの分析には首を頷かせている。ゆらゆらと揺れ続けるのは骨の髄まで染み込んだ〝特殊な感覚〟で全身を満たす為の予備動作というわけだ。

 あれは海面の動揺――打ち寄せてくる波へ順応する内に培われたボディバランスなのだ。物心つく前から船上に少年であれば、重心を地面に据えるより敢えて軸を定めずに大小の波になぞらえたリズムへ乗ったほうが身体を伸び伸びと動かせるに違いない。


「……海賊時代のことに負い目でもあるのか、素性がバレるとソマリア本国でマズいことになるのか、そいつはオレたちにも分からねぇ。何せあいつは自分の本当の名前だって明かそうとしないんだもんよ」


 長期的な内戦の影響でソマリアは識字率が低く、耳で聞いて意味を理解することはともかくとして、ガダンたちも殆ど字の読み書きができないともワイアットは言い添えた。


「しかし、それでは『ガダン』というのは……」

「そもそも、『ガダン』ってのはネルソンのほうで考えた仮の――いや、あいつの新しい名前だよ。環境の所為せいで狂っちまった人生を再出発させるみたいなものさ。向こう《アラビア》の言語ことばで『明日』って意味なんだぜ」


 驚愕としか表しようのないワイアットの説明は本当なのか、ストラールが視線でもって訊ねると、『ガダン』の名付け親は複雑な笑みを浮かべながら静かに首を頷かせた。

 祖国ソマリアで辛い目に遭ってきた少年の前途には、「生まれてきて良かった」と心から思えるような眩い『明日みらい』が待っていて欲しいと願ったのだろう。


「……東洋哲学に言う『人間のごう』を感じざるを得ません……」


 なかなか動揺から立ち直れないマフダレーナが震える声で絞り出した呟きもまた一つの〝真実〟であろうとストラールは感じている。それはギュンターにしても同様であり、彼女の言葉が鼓膜を打った瞬間、神妙な面持ちとなって口を真一文字に引き締めた。

 夢中になれる格闘技ものを見つけて無垢に振る舞う一方、銃火器を携えて民間船に襲い掛かるという恐ろしい戦闘行為にはこの場の誰よりも慣れているわけだ。波の動きに身体を馴染ませる面妖な挙動うごきこそが何よりの証拠であろう。

 だからといって、ガダンのことを好戦的で危険な少年とは誰も思っていない。大人たちに命じられて殺し合いに駆り出される日々に嫌気が差したからこそ、命がけで海賊船を脱出し、ドイツの難民キャンプまで逃げおおせてきたのである。

 今日という日はドイツの国民哀悼の日フォルクス・トラウアー・ターク――即ち、戦没将兵記念日メモリアルデーだ。そのような日に戦場帰りといっても過言ではない少年に遭遇した意味を、ストラールは言うに及ばず、マフダレーナもギュンターも、深く考えずにはいられなかった。

 〝戦うこと〟を命のやり取りと定義するのであれば、そのような状況は二一世紀を迎えた現代でも世界のあちこちで展開されていた。そして、それ故に『難民』と呼ばれる存在が留まることなく生まれ続けているのだ。

 だからこそ、ストラールにはガダンの心が分からない。この少年は血塗られた地獄絵図より抜け出しておきながら、今また再び新たな〝闘い〟の道を選び取ろうとしている。

 マフダレーナが東洋哲学を例に引いた通り、人間は老若を問わず闘っていなければ生きられないということなのだろうか。

 事実、戦場という極限状態に身を置いていた帰還兵の中には、武器を手にして軍事行動に参加していなければ冷静さが保てなくなるという者も多いそうだ。北米アメリカで名の知れたアフガン帰りの格闘家も同様の症例に悩まされていたはずである。

 悪夢のような世界からトロイメライへと帰還した大戦の犠牲者たちは、現在いまは故郷の土の中で往時の苦しみから解き放たれている。この村は全ての悲しみを受け止め、鎮めるだけの穏やかさで満たされているのだ。祖国では心がすり減るような日々を送っていた難民たちも、でなら平穏に暮らしていけるだろう。

 それにガダンは過去の犠牲者と違って現代いまを生きている。内戦が続く祖国ソマリアで負わされた傷を乗り越え、殺し合いとは無縁の明日みらいを築いて欲しいと難民キャンプへ携わる全ての人たちが願っているはずだ。


「……『世界史とは不断の闘争が生み出す人間劇に他ならない』――誰の言葉だったかな」


 さる歴史家の語った『不断の闘争』をミクロのケースに落とし込み、マフダレーナが呟いた『人間のごう』と照らし合わせたときに浮かび上がるのがガダンのような存在ではないだろうか――ストラールは心の中で苦々しく呟いた。

 そのときである。一行が隠れ潜んでいる木立のほうにガダンが振り向いた。少しばかり目を凝らしたガダンは茂みの向こうにネルソンやワイアットの顔を見つけると、嬉しそうに両手を振り始めた。

 息を殺して自主トレーニングを覗き見していたわけだが、その最中にも一行の間では言葉が交わされており、会話がガダンたちの耳まで届いてしまったのは自明の理であろう。

 隠れ潜んでいるところを発見される恰好となったストラールたちは、何となく居た堪れない気持ちを抱えたままガダン少年や、彼の仲間が在る広場に向かっていく。

 一行を出迎える側となった少年たちは見知った顔と肩を並べて近付いてくるストラールに目を丸くして驚いた。それも無理からぬことであろう。村の追悼式典を覗き見している最中に見掛けた人物なのである。

 ストラールたちが難民キャンプを訪れた理由が全く分からないらしいガダンは、足元から取り上げた法被はっぴをマントのように肩へ羽織ると欧州ヨーロッパ系の三人を順繰りに指差し、次いでネルソンに対して小首を傾げるような仕草ゼスチャーを見せた。

 それからガダンは小さな布袋から植物の葉っぱを何枚か取り出し、これを頬張った。彼の口より漏れてくる清涼な香りから察するに、菓子の代わりに噛んでいるのは乾燥ハーブのようである。


「……彼と一緒に海賊団から逃げてきた子どもの話では、民間船へ差し向けられたときに向こうの警備と揉みくちゃになって、死ぬより怖い思いをしたのだそうです。……耳は普通に聞こえていますから、精神こころのリハビリ次第で――と言ったところでしょうか」


 ガダンの様子を訝っていたストラールとギュンターは、躊躇ためらいがちに述べられたネルソンの説明によって事情を悟った。ボディーランゲージのみで会話を試みていたのは、つまりはだ。

 ネルソンがドイツ語によって説明を紡いだのは、同地の言語ことばに不慣れなガダンに内容を気取られない為の措置であろう。この少年にとって辛く苦しい過去を穿ほじくり返したようなものなのである。

 案の定、ガダン本人にはネルソンが何を喋ったのか分からなかったようで、自分の質問に対する答えを急かすこともなく待ち続けている。間もなく「私たちの友達だよ」とアラビア語で教わると、彼は納得したように何度も何度も首を頷かせるのだった。

 この痛ましいくらい素直な少年からストラールは思わず目を逸らしてしまった。

 極めて曖昧な基準ではあるものの、〝世間一般〟という尺度から〝現実〟を測るとして、生まれ育ちが恵まれているのは自分のほうであろう。格闘技の訓練一つを取っても、考え得る最高の環境が常に用意されていたのだ。

 一方のガダンはどうであろうか――と比較するまでもなかろう。彼は祖国ソマリアを離れた現在も本名を隠して暮らさねばならず、あまつさえ暴力の応酬の中で大切な声まで奪われてしまったのである。


「……リハビリは精神こころのケアだけなのですか、ネルソンさん?」

「――と申されますと?」

「禁煙の第一歩は口寂しさを紛らわせる品を見つけるところからスタートするのだと物の本で読んだことがございまして……」

「……いや、驚きました。ご明察の通りとしか申し上げられませんよ。しかし、彼を責めないでやってください。ガダン君は道を踏み外したんじゃない。がソマリアという国の現実だったのです」

「ええ、……私も薬草類には少しばかり心得がありまして、ソマリアのも承知しているつもりです」


 ガダン少年に向けて組まれたリハビリの内容プログラムをマフダレーナから問われたネルソンは、その鋭い着眼点に感嘆の溜め息を洩らした。

 彼女が口にした『禁煙』とは比喩である。ソマリア国内では覚醒作用をもたらす植物の葉が嗜好品として常用されているのだが、これは法によって規制されていない為、紛争の最前線に送り込まれる少年兵たちにも恐怖を打ち消す措置として与えられているのだ。

 マフダレーナが挙げた植物の葉は口に含んだまま噛み続けることで化合物アルカロイドが溶け出し、これによって精神が著しく昂揚するのである。

 ガダンたちが乗せられた海賊船に於いてもくだんの植物が蔓延していたのだろう。これと対照的にドイツでは薬草療法が推し進められており、薬物汚染の治療として乾燥ハーブが宛がわれたのではないかと、マフダレーナは看破した次第であった。

 おそらく同じ治療は乾燥ハーブの入った布袋を首から下げているガダンのみならず、彼の仲間にも施されているはずである。〝嗜好品〟だけにくだんの植物はソマリアの至る場所ところで叩き売りされているのだ。

 彼女マフダレーナの話に耳を傾けながら、ストラールは改めてガダンという少年の底知れなさに瞠目させられていた。

 おそらくは振り返りたくもないだろう凄絶な過去を背負っているはずなのだが、それすらも糧にして〝闘い〟に新しい希望を模索せんとする柔軟さは、自分には全く備わっていないものだとも思っている。

 彼のように〝運命〟を割り切れる柔軟な思考を持ち合わせてはいなかった。そもそも、己の想いへ素直になって生き方を変えていくことなど許されないのだ。

 それがオムロープバーンという『聖家族』に生まれついた人間の〝宿命さだめ〟なのである。そして、原罪のように担っていかねばならない〝十字架〟を人生の糧にしようと思ったことは一度としてなかった。

 その為にストラールは〝闘う意味〟が定められず、ガダンのほうは迷いがないのである。

 自分のほうが年長だが、人間的な器や強靭さではガダンのほうが遥かに優れている――感極まったマフダレーナから抱きすくめられて当惑する様子はあどけない少年そのものだが、今やストラールはガダンを畏敬の対象と認めつつあった。


「――で? 『明日』の為に格闘家デビューを支援しろってのが頼み事なのか?」


 顔に鬱屈を滲ませながら俯く親友ストラールを案じていたギュンターは、次いで難民高等弁務官に目を転じた。格闘技の世界へ身を投じようとしているガダンの後ろ盾になることを『ハルトマン・プロダクツ』に望んでいるのかと強い眼差しでただしたのである。

 ザイフェルト家の後ろ盾を得ることは現代格闘技界に於いて最強の利点となるだろう。その上、『聖家族』として名高いオムロープバーン家まで巻き込まれた恰好なのだ。

 この場で協力を承諾すれば連鎖的にストラールまでもがガダンの支援に手を貸さざるを得なくなるだろう。ザイフェルト家の御曹司が勝手に決めたことと知らぬ顔ができるほど親友が薄情でないとギュンターは誰よりも知っていた。

 何よりもストラール自身の中でガダンに対して並々ならない思い入れが湧き起こっている様子なのだ。

 だからこそ、ギュンターは難民高等弁務官の目的ねらいたださずにはいられなかったのである。


「そりゃあ、天下の『ハルトマン・プロダクツ』がスポンサーに付いてくれるんなら最高だけどよ、ガダンが広告塔になれるかどうかを判断するのはまだまだ先のハナシだろ?」

「最低でも二年はみっちり稽古しないと使い物にならんだろうな。……使い物ってのは広告塔て意味じゃないぜ。空手家としてのレベルって意味だ。海賊云々はともかくとして、素人に毛が生えた程度の腕前でオープントーナメントにでも出たら良いトコ二回戦落ちだ。どうせなら、ちゃんと勝たせてやりてェ――」

「――いや、ちょっと待ってくれ。ガダンが目指してるのは空手の大会じゃねーんだよ。こいつは『ランズエンド・サーガ』への出場を望んでるんだ」

「ちょっと待った……『ランズエンド・サーガ』だとぉっ⁉」


 ガダンへ気を遣わせない為にワイアットとドイツ語で応酬し続けていたギュンターは『ランズエンド・サーガ』なる言葉が飛び出した瞬間に唖然と口を開け広げてしまった。

 驚愕の余り、思わず目を剥いたストラールや、ガダンを抱きしめたまま首だけを振り向かせたマフダレーナと三人して顔を見合わせたほどである。

 からを選んだのは彼の意思だろうとストラールは捉えていたのだが、その見立ては半分が誤りだったらしい。海外から送られてきた支援物資の中には、格闘技に適した衣類があのどうしかなかったに違いない。つまるところ、彼は最初から空手一本にこだわってはいなかったのだ。

 ワイアットが口にした『ランズエンド・サーガ』とは欧州ヨーロッパ圏を中心に興行イベントを開催している打撃系立ち技格闘技団体の名称なまえであった。過去に北米アメリカにて格闘技団体を率いていた男が代表の座に就いてはいるものの、経営母体は『ハルトマン・プロダクツ』なのである。それ故、名実ともに欧州ヨーロッパ最大の規模を誇っており、近年ではアラブ圏の〝オイルマネー〟とも結びついて勢力を伸ばしている。

 投げや関節技はルールで認められず、純粋な打撃の強さのみで力を示すことが求められる戦場リングへ上がりたいとガダンは願っている――そう打ち明けられたギュンターは、比喩でなく本当に飛び上がって驚いた。


「海賊行為を強いられていた頃に尖った闘争本能がぶり返したとか、そういったことを心配されているのなら、ハッキリ申し上げて全くの誤解です。彼の場合はあくまで現実的な問題の解決を望んでいるのです。その手段が『ランズエンド・サーガ』だったのですよ」


 打撃系立ち技格闘技団体への参加希望という点で止まっていたワイアットの説明をネルソンが引き継いだ。

 曰く――一緒に脱走してきた少年海賊の仲間を養う為にまとまった金を必要としているそうなのだ。取り巻きの顔を確かめれば瞭然であるが、グループの中にはまだ一〇歳にも満たない小さな子どもが混ざっている。リーダーとして年少者の将来これからに責任を持ちたいとガダンは強く考えているという。

 それはまさしく『現実的な問題の解決』そのものであった。祖国ソマリアへの帰還が不可能に近いという現状を受け止めつつ、移住先ドイツにて自立する道を見据えているわけだ。

 空手家としてデビューしてキャリアを積み重ねるにしても、指導員など収入を得られる水準まで達するには相当な年月を要するだろう。その点を踏まえるならば『ランズエンド・サーガ』に出場してファイトマネーを稼ぐ選択肢は不正解とも言い難い。

 ガダンは〝今〟というこのときに大金カネが必要なのである。

 思春期半ばの少年が考えたとはとても思えない将来の見取り図にギュンターは目を見張るばかりだった。〝巨大帝国〟の御曹司という立場上、成人を待たずして精神的な自立を果たすよう求められたことが想い出されるのだが、だからといって自分以外の誰かの為に尽くそうという思考がガダンと同じ年齢の頃に備わっていたかと問われたなら、首を縦には振れないだろう。

 二〇代になった現在とて、そこまで自分のことを犠牲にできるとは思えなかった。


「……悪いが、少年の部を設けてくれって直談判ならお断りだぜ。『ハルトマン・プロダクツ』の立場としても、俺個人としても反対なんだからよ」


 ガダンが持つ自己犠牲的な精神に同情を寄せつつも、ザイフェルト家の代表として難民キャンプを訪れているギュンターは否定の意を込めてかぶりを振るしかなかった。

 圧倒的な力で相手を叩き伏せることだけが求められる『ランズエンド・サーガ』ではあるものの、未成年者の出場については否定的な声が多い。ましてや、一六歳にも満たない子どもが戦場リングへ上がることなど言語道断であった。

 試合のダメージによる後遺症など現役を引退しただけでは回復されないことが格闘技の世界では多く、そういった点も踏まえてオーナー側である『ハルトマン・プロダクツ』は少年選手の参加に難色を示しているのだ。


「そもそも、あんたら、『ランズエンド・サーガ』の現状は調べたんだろうな? 〝多重人格破壊者〟のコトを知らないとは言わせないぜ。……『新世紀のビリー・ミリガン』なんて物騒極まりない呼び方をされる野郎に生け贄を差し出すつもりかよ」


 ストラールも、彼の傍らに立つマフダレーナも、〝多重人格破壊者〟という不思議な言葉を受けて表情を歪ませた。無論、これは発言者であるギュンターも同様である。


「あいつにとっては『ランズエンド・サーガ』だって狩猟場と変わらないんだぜ。目を付けられたら、無理矢理にでも対戦カードを組まれるだろうよ。場外乱闘でも何でもアリって危険人物だからな、逃げ場なんかありっこない……ッ!」


 振り返りたくもないくらい忌々しい記憶があるのだろうか、〝多重人格破壊者〟なる存在についてギュンターの口から詳細が語られることはなかったものの、くだんの選手によって『ランズエンド・サーガ』の秩序が乱されていることだけは確かに察せられるだろう。

 格闘技の経験もない少年を狩猟場とまでたとえられる危険な戦場リングへ放り込むことは、そこにいかなる事情があろうとも断じて認められなかった。


「俺は――ギュンター・ザイフェルトは、あんたの要請を引き受けられない」


 『ハルトマン・プロダクツ』の総意を代弁する形のギュンターを見据えたワイアットは、「そいつは早とちりだぜ、兄弟」と大袈裟に肩を竦めてみせた。

「オレだって子どもをいきなりプロの戦場リングへ送り込むのは反対さ。兄弟に言われなくても力ずくだって押し止めるだろうよ」


「言ってることが矛盾してるじゃねーか。今すぐカネが必要なんだろ?」

「そうとも。だから、当面の学費などは特別奨学金でクリアしようって寸法さ。……ガダンが考えているのは将来これからのことだよ。こいつが格闘家デビューに適した年齢トシになるまでに『難民』が出場できる体制を整えて欲しいんだ」

「……成る程、ファイトマネーで借金を返済するって計画かよ。実にあんたらしい発想だよな、難民高等弁務官殿」

「オレがシナリオを書いように言ってくれるなよ、ザイフェルト家の坊ちゃん。これはガダン本人のアイディアさ。こっちはちょっと知恵を貸しただけだよ」


 ここに至ってワイアットの本当の目的ねらいを理解したギュンターはいよいよ神妙な面持ちとなった。彼の――否、ガダンの希望とは、つまりは『ランズエンド・サーガ』に『難民選手』の出場枠が新設されることである。

 それは難民という存在がごく当たり前となってしまった現代ならではの課題であろう。あくまでも『移民』ではなく『難民』である。帰るべき祖国を持ちながらもそれが叶わない為、一時的に異境へ退避している人々である。

 例えば、国際大会に於いてさえ祖国の代表と名乗ることができないのだ。これは極めて繊細で重要な問題である。『国籍』とは最も強く選手の身元を保証するものなのだ。それ故に帰属すべき社会から離れざるを得なかった人々は『難民』と呼ばれる。しかも、祖国が滅びて『移民』したわけではないので本来の社会へ復帰する可能性も残している。あらゆる意味で立場が定まらない悲劇は、祖国ふるさとの栄光を世に知らしめ、かけがえのない誇りで心を満たすという喜びをアスリートから奪っているのだった。

 そして、そのように弱い立場の人間にも機会チャンスを平等に約束すべきだと主張するのが難民高等弁務官であった。三年後の二〇一六年に開催されるリオ五輪オリンピックでも同様の出場枠を設けるよう水面下で交渉に当たっているともワイアットは言い添えた。


「最近はウクライナもキナ臭いことになってきたしな。……それも捨て置けねぇのよ」

「あんたの悩みの種が増える――ってか……」


 ワイアットが触れたように、近頃のウクライナではロシアと欧州連合EUのどちらと通商条約を締結するかを巡って国内が分断され、危機的な局面を迎えつつある。仮に内戦の泥沼にまで事態が拗れようものなら、世界に新たな難民が生まれてしまうだろう。

 わざわざウクライナの危機を引き合いに出したということは、その影響を免れない選手たちの受け皿になることを同じ欧州ヨーロッパ圏の格闘技団体ランズエンド・サーガに期待しているわけだ。

「先読みが鋭いのも考えものだな。……あんたのことが段々と恐ろしくなってきたぜ」

 ワイアットに悪態をかずにはいられないギュンターではあるものの、健全な青少年を応援する『ハルトマン・プロダクツ』にとっては確かにがないわけではない。『ランズエンド・サーガ』では今までに『難民選手』が出場した記録はなかった。そして、それは世界中に点在する数多の格闘技団体にも同じことが言えるはずだ。

 いささか計算高い筋運びにはなってしまうものの、栄えある五輪オリンピックにも先駆けて『難民選手』の採用を打ち出すことは何にも勝る喧伝材料となるだろう。

「そう遠くない未来にガダンが『難民選手』としてつ姿は、大勢の難民にとって間違いなく希望となるはずだ。ザイフェルト家のキミには愚問かも知れないが、セザール・ルワガサナという水泳選手を知っているかな?」

「ルワンダ出身の義足の水泳選手だな。後にシドニー五輪パラリンピックへ出場して、その勇姿に故郷の人々が奮い立ったっていう……」

「オレは現地で観戦したんだが、世界中の強豪を相手に最後まで泳ぎ切ったあの姿は、内戦で疲れ果てたルワンダの人たちにとって一番星みたいに眩しかったはずだよ」

「あんたからいちいち解説されなくても競技のことは俺だって憶えてる――いいや、あの日、胸に刻まれた感動は絶対に忘れねぇぜ」

「難民キャンプの有り様を見てきたキミたちには、オレの言いたいことが通じるハズだ。……何事もままならぬ現実に打ちのめされて気力を失ってしまった大人たちに活を入れて欲しいんだよ。ガダンは……ガダンこそが希望の光なんだ!」

「何だか上手い具合に美談風にまとめてくれやがったな。その名の通り、ガダンは『明日』への水先案内人ってワケかよ」

「――そんな生温いことではないだろう。この少年をダシにして自分の望みを叶えようとしているだけではないのか?」


 親友ギュンターの言葉を遮るようにして会話に割り込み、眼光鋭く難民高等弁務官ワイアットを牽制したのは、いわずもがなストラールその人である。

 安酒場の『バウンサー』という荒っぽい経歴の持ち主ではあるものの、御曹司という肩書きを背負うだけあって誰に対しても礼儀正しく接しており、特定の個人に向かって悪感情をぶつけるようには見えなかったのだが、今は冷静さなどかなぐり捨て、狩るべき獲物を前にした猛獣さながらの凶暴な光を双眸に宿していた。


「オレの望み? さてなァ、何のことだかなァ。ジジイになっちまうと、欲なんてモンはくたびれるだけで面白いコトもねぇだがよぉ~」

「そのような口八丁で隠しおおせると思っておいでなのですか? そこにどんな理由や事情があろうとも、あなたがやっていることは利権を貪るマフィアと大差ありません。ガダンの為などと謙虚にしていますが、所詮は彼を駒のように動かしているに過ぎない」

「こいつは手厳しいや」


 ワイアットがガダンという少年を通して画策している目論見を『先見の妙』などと好意的に解釈することはストラールにはできそうもない。

 難民たちの将来まで視野に入れた活動は難民高等弁務官の役目なのだから、そのことに異論を唱える気はないが、自らの望みを実現させるとしてガダンを巻き込もうというのであれば、どんなに無礼な振る舞いになろうともストラールは立ち向かう覚悟だった。


「誰かが敷いたレールの上に子どもを乗せて良いはずがない。そんなことをすれば、ガダンの頑張る意味がなくなってしまいます。それを一番星などと綺麗な表現ことばに言い換えて押し付けるつもりならば――それを〝大人の責任〟と考えているのであれば、ワイアット難民高等弁務官、私はあなたを心の底から軽蔑しますよ」


 サーカス団に触発されたこともあって現在いまは何の迷いもないガダンであるが、『難民の希望』という使命をワイアットから瞬間、あの笑顔は心身に食い込む重責によって蝕まれ、また同胞たちの期待に添わなくてはならないと焦燥して歪んでいくに決まっている。それはもはや、〝ガダンの闘い〟ではなくなってしまうのだ。

 これこそが〝重荷〟というモノの恐ろしさであり、ストラールは誰よりもその過酷さを知っている。

 夢や希望は誰かに押し付けられるべきではない。自分自身の心の底から湧き起こればこそ生きる糧となり、これを叶えるべく邁進していく為の支柱ともなり得るのだ。


「誤解があるようですから言っておきますが、ワイアット弁務官はガダン君がとして難民の希望になってくれたら嬉しいという話をしているだけです。裏で糸を引く陰謀家のような真似ができるほど、この人は〝大人〟じゃありませんので」

「優しく責任感のある子は大人が自分に期待していることを敏感に感じ取るものですよ。そして、その気負いが見えないレールを彼の目の前に敷いてしまうのです。心根の清らかな少年だけに、あなたたちの思いから目を背けることはできないでしょう」

「お前さん、まだまともに話してもいないだろう? それなのに心根を語り尽くせるくらいガダンを理解したっていうのかよ。そいつは大したもんだ。オムロープバーン家の洞察力はエスパーみたいに心の奥まで覗けるらしーな」

「ガダンのことを語ったのはあなたたちでしょうに。……それがなくとも周りに集まった友人の数を見れば、人望も人格も推し測れるというものです」

「な~るほどな。証拠はとっくに出揃っていたらしーぜ」

「一番の証拠はあなたご自身ですよ、ワイアットさん。あなたほどのが駒として考える少年が凡庸であるわけがない。……あなたの期待は既にガダンを縛り付けているのです」


 ワイアットや加勢に入ったネルソンを向こうに回して論陣を張る中、ストラールの脳裏には〝懐かしき人々〟の顔が甦っていた。

 それはストラールにとって何があっても忘れたくない人々であった。

 『格闘技界の聖家族』という〝宿命さだめ〟を全うする為に命の一かけらまで捧げた〝懐かしき人々〟には、もう二度と会うことは叶わない。彼らの歩んだ軌跡を心に刻み込んでいればこそ、ストラールは迷いも苦しみも何もかも飲み込んで、オムロープバーンの家名ファミリーネームを称するのである。

 何よりも彼は〝懐かしき人々〟から大いなる〝夢〟を託された。そして、それを全うすることだけがオムロープバーン家の御曹司には求められているのだ。

 重荷ともレールとも言い換えられる〝宿命さだめ〟と〝夢〟を、今日まで歩んできたストラールには無垢な魂を鎖で繋いでしまおうとする人間が断じて許せなかった。

 純粋無垢な魂に希望と友愛を湛え、過去から未来へ飛躍しようと励んでいるガダンにだけは自分と生き方をして欲しくはなかったのだ。

 現在いまのストラールはザイフェルト家に雇われた用心棒ではなく、オムロープバーン家の御曹司としてワイアット難民高等弁務官と対峙していた。


「そういうお前さんも自分の希望をガダンに押し付けちゃいねぇかい?」

「押し付けるも何も、道を誤ろうとしている少年を引き戻すのは大人の責任つとめです。私は良心に基づいて、あなたの画策に異を唱えているだけですので」

「言ったハズだぜ、今度の件はガダンが希望したコトだってな。まずは本人ありきだよ。知恵を出すっつったらカッコ良いけど、オレもネルソンも手助けしているだけなんだぜ。……でも、お前さんはそうじゃねーだろ? 他所からズカズカやって来て、『キミの考えは間違ってる。悪いおじさんに騙されてるんだ』って切り捨てるのは酷じゃねーか?」

「未来の為に必要だというのなら、私は喜んで悪者になりましょう」

「オレには悪口言っても構わないけどよ、こいつの思いだけは否定しないでやってくれ」

 ストラールから幾度となく厳しい言葉を浴びせられようとも、ワイアットは少しも動揺しなかった。あらぬ疑惑も、ガダンをとして駒同然に扱っている事実も、何もかも併せ呑んでオムロープバーン家の御曹司を見据えている。

 その瞳もまた〝真実〟を看破しており、理論の応酬の果てにとうとうストラールを黙らせてしまうのだった。

 ここで迂闊な言葉を発すれば、ワイアットから指摘されたようにガダンの大志おもいを踏みにじることになってしまう。ストラールとしては口を噤むしかないわけだ。

 ギュンターを間に挟んで睨み合い、そのまま取っ組み合いになっても不思議ではないような空気を漂わせ始めたストラールとワイアットは、不意に迎えた乱入者によって緊張の糸を寸断されてしまった。

 両者に割り込んだのは、話題の中心でありながら口論自体には参戦できずにいたガダンである。殴り合いにまで拗れたなら面白い見世物になるだろうと口笛まで吹いて煽り立てる仲間たちを押し退け、ストラールたちの前まで進み出た少年海賊のリーダーは、両手でもって力こぶを作るような仕草ゼスチャーを披露した。

 一等強い輝きを宿した瞳は「自分は必ず王者チャンピオンになる」と勇ましく語っていた。

 ストラールやワイアットが紡いでいるドイツの言語ことばはまだガダンには難しいのだが、『ランズエンド・サーガ』の名称が飛び出したことで彼らがどのような話をしているのか、彼なりに想像力を働かせたようだ。

 勿論、詳細までは分からない。しかし、自分の名前を幾度となく口にする大人たちが重苦しい顔で向かい合っているのだ。ワイアットたちと共に難民キャンプを訪れた人々が年齢を理由に自分の格闘技デビューに反対しているのだろうと脳裏に閃いた次第である。

 年齢以外にも危険性リスクの高さを説いて反対してきた人間は彼らが初めてではない。『ランズエンド・サーガ』への出場希望そのものを無謀の一言で嘲笑されたこともある。そのような相手と遭遇したときには、ガザンは決まって力こぶを作ってみせるのだった。

 彼は本気であった。『ランズエンド・サーガ』の王座に就くことは夢想などではなく数年後の既定路線であるとでも言わんばかりに胸を張っている。例の〝多重人格破壊者〟とて平らげてみせると、力強い瞳でもって語っている。

 その頼もしい姿には少年海賊たちのリーダーを務めるだけの度量も窺えるのだった。

 仲間たちの口笛を背に受けつつ、逞しさに満ち溢れた笑みを浮かべるガダンをストラールは眩しそうに見つめていた。

 それはワイアットもギュンターも同様である。「大人は黙っていろ」とでも言わんばかりの勝気さに三人は互いの顔を見合わせたまま、思わず笑い声を吹き出してしまった。

 大人たちが勝手に膨らませている思惑など少年には関係ないのだ。自信を表すことに何ら躊躇うことがない無尽蔵の逞しさは、いかなる深慮望遠に巻き込まれようとも撥ね除けるだろう。そう予感させる気概がガダンの全身に満ちていた。

 子どもには敵わない――それがストラールとワイアットが共有する結論だった。険悪な空気が垂れ込めるくらい激しく討論したのが間抜けに思えるくらいなのだ。


「……さっきはどうして、墓地の近くまで出向いてきたのかな? あれが何の催しか、キミには分かっているのかな?」


 片膝を突いてガダンと目線を合わせたストラールは、初めて邂逅したときのことをアラビア語にて訊ねた。

 欧州ヨーロッパ人にしか見えない男が故郷ソマリアで使われていたものと同じ言語ことばを紡いだことに最初は目を丸くしていたものの、ワイアットという先例を想い出してすぐに納得したようだ。それからガダンは天を仰ぎ、祈りを捧げるような仕草ゼスチャーを見せた。


「世話になってるトロイメライの追悼式典なら出向いて当たり前。祈りを捧げないと村の人にも申し訳が立たない――と、うちの大将は言っている」


 彼に従っている仲間の一人が仕草ゼスチャーの意味をアラビア語にて説明した。これを受けてガダン当人が首を頷かせたのだから正解と捉えて間違いあるまい。そして、そこにガダンという人間の心根が集約されているといっても過言ではなかった。

 少年らしからぬ義理堅さを受け止めて頬を緩ませたストラールは思わず彼の頭を撫でてしまった。過酷な環境へ身を置いていた為に目上の人間から親愛を示される経験が少なく、くすぐったそうにはにかむガダンであったが、すぐに仲間たちの手前という状況を想い出し、リーダーの威厳を守るべく突っ張ったような素振りでそっぽを向いた。

 当然ながら完全に手遅れであり、冷やかすような声がガダンに向かって一斉に浴びせられた。羞恥心が極限まで煽られる集中砲火である。全身を沸騰させつつ仲間たちを追い回しているガダンの横顔をストラールは苦笑と共に見守っていた。

 もはや、どうあっても難民高等弁務官の画策へ与するしかないようだ。心根の清らかなガダンが〝誰か〟の操り人形にされないよう睨みを利かせるには、で寄り添う以外に方法もないのである。

 ただ率直にこの少年の力になりたいとストラールは思っていた。そして、それが答えで良いとさえオムロープバーン家の御曹司は考えていた。手段や想いこそ違えども、この場に打ち揃った人々は少年難民ガダンたちを取り巻く環境を改善せねばならないという使命感を分かち合っているのだ。


「スポーツは世界共通語って言うじゃんよ。そういうコトでオーライじゃねーかな?」

「……決して相容れないはずだった二つの道から一本に交わったイサクとイシュマエルのように?」

「あらゆる事情を乗り越えてブチ抜かれたベルリンの壁のようにな」

「本当にあなたとは友達にはなれそうにありませんね」

「そうか? オレの中ではもう親友なんだけどな!」


 全く異なる考えを秘めてはいても、人を想う心があれば必ず結び付ける――それはガダンたち難民の受け入れだけに留まらず、ワイアットとストラールにも言えることであった。

 心の奥を見透かしたような態度が気に喰わず、つい冷ややかな視線を向けてしまうストラールではあるものの、その瞳はワイアットの発言に賛成であると物語っていた。


「何しろストラールは『ランズエンド・サーガ』きってのトップスターだ。おまけに『聖家族』ってとびっきりの後ろ盾もある。ザイフェルト家の坊ちゃんが外から働きかけるなら、お前さんは内側から団体を変えていけるハズだ。それを期待させてもらうぜ!」


 仲間たちの冷やかしに怒りながらもどこか楽しそうなガダンとは正反対に難しい表情かおを作り続けるストラールだったが、ワイアットが口にした「トップスター」という一言を受けると、呆けたように口を開け広げてしまった。

 マフダレーナとギュンターに至っては顔面を引きらせたまま凍り付いている。彼らはストラールが『ランズエンド・サーガ』の花形トップスターと讃えられた瞬間に変調をきたしたのだ。


「……成る程、これで全て納得です」


 自分の発言におかしな点でもあっただろうかとワイアットが戸惑っていると、当のストラールが破裂したように笑い出した。三つ編みに束ねた長い髪を大きく揺らして――だ。

 彼の頭の中では〝全て〟が繋がっていた。何故、難民高等弁務官ともあろう人物がオムロープバーン家の御曹司という理由だけで公式の試合へ出場した経験もない用心棒の洞察力へ期待を寄せたのか。そして、難民選手の推進という改革の仲間に引き入れようとしたのか――そこにはストラールが担う肩書きを利用しようという魂胆などなかったのだ。

 あくまでもワイアットは『ランズエンド・サーガ』の花形トップスターという点を見込んでいたわけである。その目論見は閃いた瞬間には実現性そのものが既に潰えており、だからこそストラールにはおかしくて仕方がなかった。史上空前に滑稽な幕引きといえるだろう。


「……そういうことなら、私には力になれないかも知れませんね」

「はいィ⁉ 何で急にッ⁉」

「あなたはずっと亡くなった兄とお喋りをしてきた――それが答えですよ」


 ここに至るまで見事な頭脳戦を展開しておきながら、ワイアットは肝心の部分でつまずいていたのである。何しろ彼が口にした『ランズエンド・サーガ』の花形トップスターとはストラールの記憶の中に棲む〝懐かしき人々〟のひとりなのである。

「私はストラール・ファン・デル・オムロープバーン。それ以外の何者でもありません」

 ワイアットから〝懐かしき人〟と――今は亡き兄と間違えられていたことを悟ったストラールの笑い声は、どこか空虚であった。


 トロイメライに垂れ込めた霧は国民哀悼の日フォルクス・トラウアー・タークの追悼式典が始まった頃に比べるとかなり薄くなってきている。間もなく青い空との対面も叶うことだろう。

 『格闘技界の聖家族』という〝宿命さだめ〟に縛られ続ける御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンがむらくもの掛かる蒼天へ想いを馳せるようになるのは、二〇一三年一一月からおよそ七ヶ月後のことである。

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