その4:日々是好日~人はエアフォースワンでも笑いを取りにいけるのか!?

 四、日々是好日ラブ・アンド・ピース


 蒼天に掛かるむらくもが常に同じ形をしているとは限らないように、ありとあらゆる事物は時代によって在り方が移ろっていく。昨日まで是認されていた事柄が急に誤りとして覆るようなことは長い歴史の中でもしばしば起こるのだ。オセロさながらともたとえるべき有り様は社会を作り、これを動かしていく人々の心が常ならざるものというであり、万物に於いて普遍は有り得ない証左あかしであった。

 己の腕のみを頼りに生きる格闘家や武術家とて社会の移り変わりから逃れることはできない。格闘技を〝稼業〟として成立させる為には、ただ強いだけでは

 所属団体へ貢献するには興行で客を呼べなくてはならない。一挙手一投足を凝視するようなスポンサーの要求にも応えなければならない。一社会人としての態度が不適切と認められた場合は「リングに上げるべきではない」と世間から無慈悲なバッシングを受け、まさしく潮が引くような勢いでのだ。

 これもまた現代格闘技の一側面である。ひと時の輝きなどではなく、長く継続していくことが前提となる〝生業としての格闘技〟の現実である。

 それ故に――というべきか、メディア対応も現代格闘家には重要な仕事となっている。スポーツ記者の取材に際しても横暴は慎み、それでいて軟弱と舐められない程度には威勢の良いことを喋り、双方ともに満足し得る成果を出すことが求められる時代なのだ。

 大言壮語ビッグマウスに終始しない話術が必須のスキルのように扱われる時代を窮屈と感じる格闘家は多いが、タレントの素養を備えた者は器用に順応し、そればかりか、リングよりも〝稼業〟としての旨味があると捉えて芸能活動に精を出していた。

 当然ながらマスコミに好まれるのはメディアへの露出が多い人間であり、これこそ現代格闘家のあるべき姿とテレビ番組でも大々的に持ち上げていく。こうして〝正統派〟を称する者とメディアにった者との間で軋轢が生じるわけだが、自分たちが原因となって引き起こされた分断さえも一過性の話題として食い散らかすのが無責任なマスコミであり、人間という生き物に宿った根差したどうしようもない本能であった。

 アフリカ大陸から海を渡ってアメリカ合衆国で活動している青年――シロッコ・T・ンセンギマナも、そのような時代に生きる格闘家の一人だが、彼の場合は愚劣な好奇心の餌食にされることが皆無に等しく、同じテレビ番組でもバラエティーではなくドキュメンタリーへの出演が殆どであった。

 ルワンダ共和国に生まれ育った青年の右足は太腿から下が存在しない。機械仕掛けの義足を装着して拳法をふるう超新星――ある格闘技雑誌に於いてはそのように称されている。

 いかなる事情にも関わらず、失われた肉体からだを取り上げて弄ぶことは人間界の倫理が許さない。それが為に揶揄の応酬でしか成り立たない低俗なバラエティー番組はンセンギマナをゲストとして招くことに二の足を踏んでいるわけだ。

 尤も、ンセンギマナ本人は腫れ物のように扱われることを望んではいなかった。それどころか、失われた肉体からだを補う義足を生きていく上でのハンデと感じたことは一度もない。〝楽しいこと〟を何よりも好む性格だけに、周囲まわりから品性を疑われるようなテレビ番組で羽目を外してみたいとさえ思っているのだ。

 その夜、参加することになった催しは、まさしく彼が待ち望んできたものであった。


「――こんにちは。いつもよりちょっぴりトクベツな気分の『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』ッ! そんな記念すべき日にお招きするのはMMAイベント『NSBネイチャー・セレクション・バウト』が誇る大型新人ことアメリカン拳法の使い手! シロッコ・T・ンセンギマナさんです!」

「待ち兼ねたぞ、この舞台を……混沌カオスの底より見ていたぞ、この惑星ほしの有り様を……無限と呼べるときの中で蓄えてきた力を今こそ解き放たん!」

「はァい、のっけから絶好調ですね! 飽きたという人はごめんなさい! 司会進行はお馴染みの顔! 『お嫁さんにしたいけど、実際に結婚したらランキング』一〇年連続首位のフィーナ・ユークリッド! クソふざけた企画を立てた野郎に呪いあれィッ!」


 自分たちを捉えているカメラに向かって陽気に呼び掛けた司会進行の女性は、その中でMMA選手――即ち、総合格闘家というンセンギマナの職業にも触れていった。


「デビュー以来全戦KO勝ち! 伝え聞いたところによれば〝金網〟の賞金女王も大注目だとか! 今、一番ホットな選手をお迎えすることができてアッパーハッピーですっ!」


 アメリカに於いては『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』という番組名は赤ん坊ですら知っている。全米屈指の視聴者数を誇る名物トーク・バラエティーであり、番組発足当初より一貫して司会進行役を務めているフィーナ・ユークリッドは老若男女問わず誰からも愛されていた。

 ンセンギマナも贔屓にしていた番組である。飛び入りに近い形だが、憧れの名物番組からオファーを受けて辞退する理由などあろうはずもなく、即座に快諾したのだった。

 しかし、企画自体が突発的ということもあって通常時とは様々な部分で異なっている。観客を招いた公開収録という形式こそ同じだが、観覧席に座る顔ぶれが風変わりなのだ。普段は主婦層によって占められている場所に中学生ジュニアハイスクールと思しき子どもたちが並んでいた。

 無論、大人が全く同席していないわけではなく、子どもたちの傍らには二名の引率者が付き添っている。部屋の後方へ設えられたソファにも数名が腰掛けているが、彼らは報道関係者であることを示す身分証明書パスケースを首から下げている為、純粋な観客とも言い難い。

 しかも、だ。今日に限っては撮影場所すらテレビ局のスタジオではなかった。


「――こちら、機長のハサン大佐であります。当機は安定した状態を保ったまま、アンドルーズ空軍基地へ向かっております。……ご搭乗の皆様におかれましては、どうか心を穏やかに保ったまま大陸縦断の旅をお楽しみください」


 スピーカーより聞こえてきたアナウンスの通りである。現在いま、ンセンギマナたちはむらくもより遥か上空にった。合衆国大統領専用の空軍飛行機――『エアフォースワン』の一室を借り切るという番組史上、かつてない特別仕様で公開収録が行われているのだ。

 改めてつまびらかとするまでもないが、機内には第四四代アメリカ合衆国大統領も搭乗している。『空飛ぶホワイトハウス』とも呼ばれる場所であったればこそ、ンセンギマナもけんぽうではなくフォーマルなタキシードに身を包んでいるのだった。

 ドレッドヘアーの形に編み上げた長い髪は日常生活の中では自然に流しているのだが、今日ばかりはむさ苦しい印象とならないよう襟足の辺りで一房に束ねてある。

 公の場を意識したコーディネートはフィーナも同様だ。通常放送ではコスプレ姿で登場することも多いが、さすがにエアフォースワンではパンツスーツという装いである。


「放送時は今みたいなアナウンスもカットになるんでしょうな。いや、しかし、去年のクリスマス生放送で起きたアクシデントはそのまま残ってましたが……」

「それはもしかして、スタジオのゴミ箱に火を点けちゃった回かなぁ。だってアレは不可抗力だもん。ノーカン、ノーカン! ノープロブレムで~す!」

「収録の最中にバーボン呷って、ゲストが持ってきた写真までゴミ箱で燃やすのは、どう頑張ったってめっちゃプロブレムでしょうし、実際、始末書ものでしたよね?」

「異議あり! アレはゲストのほうこそ有罪ギルティでしょ⁉ 独身ひとりみのクリスマスに新婚旅行の写真なんか見せられたわたしの気持ちはどーなるの⁉ お陰で降板クビ寸前まで行ったけど!」

「キレッキレの展開の後、写真燃やされた友人が一緒にテレビ局へ謝ってくれるんですから聖夜にふさわしい感動的なエピソードですな!」

「ほっとけッ! でも、親友にはめっちゃサンキューッ!」


 フィーナと友人関係にある映画女優が出演した放送回について、ンセンギマナは際どい冗談を交えつつ軽妙な口調で語らっていく。

 収録に同席している大統領のスタッフは冷静さを保ち続けるンセンギマナたちに畏敬の念すら抱き始めていた。『空飛ぶホワイトハウス』に於いて緊張を表情かおに出さないのは警護の人間を除けばこの二人くらいではないだろうか。

 現在いま合衆国大統領専用機エアフォースワンは爆弾テロの危機に直面しているのだった。



 事態ことの発端は、およそ三〇分前に遡る。

 シロッコ・T・ンセンギマナは相棒である青年と、フィーナ・ユークリッドは番組の撮影クルーたちと、それぞれゲストルームで寛いでいた。

 ンセンギマナのほうは祖国ルワンダを代表する形でホワイトハウスへの表敬訪問が予定されていたのだが、直前になって大統領側のスケジュールと合致しなくなってしまった。そこで大統領の視察先からホワイトハウスに戻るまでの空路――即ち、エアフォースワンの機内での面会がセッティングされたのである。

 偶然ながら『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』の特番収録も同日に予定されていた。任期満了が近付いていることもあり、一つの記念として大統領本人が名物番組へゲスト出演することになったのだ。エアフォースワン機内で撮影することが目玉セールスポイントとして打ち出されており、ホワイトハウスの広報活動を統括する部門の全面協力も取り付けていた。

 その日の大統領も大小数え切れない案件が重なっている。フロリダ州に所在するコンテナ・ターミナルを視察して経済活性化を奨励する演説スピーチを行うことも、そこに名門中学校から選抜された子どもたちが同行することも、全てが一日の予定に組み込まれていた。

 かくしてンセンギマナとフィーナは、フロリダ州のマクディール空軍基地から大統領一行と共にエアフォースワンへ乗り込み、面会と番組収録の段取りが整うまでの間、ゲストルームで待機することになったのである。

 ンセンギマナと相棒が揃ってタキシード姿であるように、ゲストルームで待機している誰もがフォーマルな出で立ちだった。機内で不意に合衆国大統領と出くわしても失礼がないように細心の注意を払っているわけだ。


「――次の大統領選で『カービィ・アクセルロッド』が当選したら『NSB』は苦しい立場に立たされると思うんですけど、現役選手としてはどう考えているんです? 下手をしたら超大国アメリカから全世界に向かってMMA規制の嵐が吹き荒れるかもですけれど」

「アクセルロッドなら仮に落選してもMMAを道連れにするくらいやってのけるでしょうから、正直、由々しき事態ですよ。大統領選挙の影響力は桁外れですしね」

「そして、カービィ・アクセルロッドは自分が愛したボクシング以外の格闘技を親の仇のように敵視している――有力候補の発言一つで世論まで塗り替えられる大統領選挙は皆さんにとって正念場ではないかと存じます」

「世代的にアクセルロッドのファンは古参の有力議員にも多い。そうなったら〝新興〟のMMAは確実に肩身が狭くなりますね」

「何事もなく二人だけで会話を成立させているが、相棒よ、フィーナさんは『現役選手』と言っているだろう? なのに、お前が俺の頭越しにお喋りするのは反則だ。……ところで、カービィ・アクセルロッドとは誰だ?」

「キミはねぇ、アニメ以外のことにも興味を持ちなって。鉄壁の防御ディフェンスと豪腕一閃の鉄拳ハードパンチで『不沈艦』の異名を取った北米アメリカプロボクシング・ヘビー級の伝説的な統一王者チャンピオンだよ」


 ンセンギマナも相棒を交えてフィーナと世間話に興じていた。話題に上がったのは〝格闘技業界〟も関わる社会情勢であるが、それでも和やかな時間に変わりはなかった。


「それにしても驚きました。ユークリッドさんがMMAに関心をお持ちだなんて」

「実は友達の娘さんがMMA選手としてデビューしたばかりで――」


 機内の様子が慌ただしくなったのは離陸から一〇分程度が経過した頃だ。不審に思った『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』の撮影クルーが事情を尋ねようと腰を上げたとき、予想だにしない人物がゲストルームにフィーナその人を訪ねてきた。

 大統領の警護主任と広報部の責任者である。


「ボルシュさん直々にお出ましなんて驚いたなぁ。マリスさん、元気? メールは毎日してるけど、もう暫く会ってないからさぁ~」

「ああ、家内も会いたがっていたよ。今日、フィーと一緒のフライトになると話したら、大層羨ましがって――って、……いや、すまないんだが、今はそれどころじゃないんだ。無事に地上へ降りることができたら、ゆっくりと、な……」


 顔が広いフィーナは大統領の警護主任――名前はボルシュグラーブ・ナイガードというそうだ――とも旧知であり、気さくな調子で彼に家族の近況を尋ねようとしたのだが、どうやら世間話を楽しんでいられる状況ではないらしい。

 落ち着いて聞いて欲しいと前置きした上で、警護主任は喧騒さわぎの真相を明かし始めた。


にわかには信じ難いことだが、つい先ほどエアフォースワンの通信回線がハッキングを受けた。……それだけならまだしも、容疑者は機内に大量の時限爆弾を仕掛けたと通達してきたのだよ。自分もこの仕事に就いてそれなりに経つが、こんなことは前代未聞だ」


 警護主任曰く――フロリダ州を発ったエアフォースワンがメリーランド州に所在するアンドルーズ空軍基地上空へ差し掛かるまで、およそ二時間。丁度、その頃に爆発するよう設定したと犯人は告げてきたという。

 通信を受けた機長のハサン大佐は直ちに警護主任へ報告し、これをもってエアフォースワンおよび地上のホワイトハウスは緊急態勢に突入した。犯人が爆弾解除の見返りを要求することはなく、何か笛のような物を吹き鳴らしながら「虐殺ジェノサイド」とわらったそうだ。


「腕前だけは超一流の人間が〝クスリ〟でもやって気持ちが大きくなり、度胸試しのつもりで『空飛ぶホワイトハウス』に挑戦した――それだけのことだと信じたいが、余りにも楽観的な見立てだな……」


 警護主任は愉快犯の可能性が極めて高いと分析したが、いたずらとは認識していない。エアフォースワンは地上のホワイトハウスが機能できなくなった状況でも指揮が執れるよう現代最高の機材が搭載されている。即ち、電波ジャックなど絶対に有り得ないのだ。

 「虐殺ジェノサイド」というわらい声が操縦室コックピットに轟いたを受けて、国家の防衛計画すら脅かすほど高度なハッキング技術を備えたテロリストと断定されたのだった。


「現在、機内に乗り込んだ警護班シークレット・サービスが総出で爆発物の発見を急いでいる。……後は自分の日頃の行いを信じてくれ。何ら愧じるようなことがなければ主は報いて下さるだろう」


 そのように警護主任は締め括った。本当に爆弾が機内へ仕掛けられたのかを調べ、実物を確認次第、解体を行う手筈だった。

 全ての作業が終わるまでは着陸できず、人里離れた上空を周回し続けることだろう。


「旦那と友達を同じ日に失うなんてこと、マリスさんに味わわせたくないなぁ」

「マリスも警護班シークレット・サービスの妻。いざというときの覚悟はできている――が、自分も同意見だよ。大統領と国に殉じることは大変な名誉だが、勲章が家内あいつの慰めになるとは思えん」


 犯人が設定した刻限タイムリミットに間に合わなければ、被害を最小限に抑えるべく山間部で爆発することになる。最悪の事態に備えて覚悟を決めておくよう警護主任は言い渡したのだった。


「テロリストの相手ならば任せてくれ。唯一無二の正義を気取るほど傲慢ではないが、抗う剣や盾を持たぬ者に力で物申す輩を悪と断じることに俺は何の躊躇いも持たぬのでな」


 フィーナに同行している撮影クルーの殆どが緊急事態に狼狽する中、ンセンギマナは左右の拳を鳴らしながら口の端を吊り上げた。閉鎖空間の中で凶悪なテロリストと対決する状況シチュエーションはフィクションの世界では定番であり、そのことに心が躍っているらしい。

 やたらと大仰な言い回しは、ンセンギマナが熱中しているアニメの登場人物の真似なりきりであった。


「テロリスト本人が飛行機に乗ってるワケないだろ。この中にいるならハッキングみたいな手間の掛かる真似する必要ないし。バカ丸出しで盛り上がる前に状況を分析しなって」

警護主任こちらも愉快犯と言ったじゃないか。そのテの犯人は犯行の成否を現場で見届けないと気が済まんものだ。カリエンテ、俺のプロファイリングは冴え渡っているぞ」

「お前のはプロファイリングじゃなくて、ただの思い込みだよ。もっと言うならヒーロー願望に基づく妄想に過ぎないし、見ていて恥ずかしいったらありゃしない」

「ぐうの音も出ないくらいけちょんけちょんにしてくれやがって……!」

「きっとテロリストは高みの見物と洒落込んでいるハズだよ。国家に対する挑戦がどんなシナリオを書いていくのかね。〝高み〟にいるのはボクたちのほうだから、このたとえは適切ではないかもだけどね。さしずめ、これは〝バードウォッチング〟――ですよね?」

「……自分の言いたかったことを全て代弁されてしまったが、概ね、そんなところだ」


 テロリストが拳銃で武装していようとも拳一つで撃退できる――力こぶを作って自信を示すンセンギマナに対し、傍らの相棒が肩を小突いて先走りを戒めた。

 防犯上の理由から事前に確認している乗客の名前に『カリエンテ』はなかった。一瞬、首を傾げる警護主任であったが、両者のやり取りからすぐに愛称ニックネームであろうと理解した。

 戸籍上のには当たらないが、乗客名簿に書き添えられた名前は『シード・リング』だったと記憶している。

 警護主任に続いて口を開いたのは広報部長だ。ホワイトハウスから発信される全ての情報を統括する大統領補佐官は、地上ではテロ攻撃のニュース速報が駆け巡っていると語り、次いでンセンギマナとフィーナの双方に奇妙な要請はなしを切り出した。



 一つの〝特命〟を携えてンセンギマナたちが向かった先は、合衆国大統領の仕事を見学する為に同行していた中学生ジュニアハイスクールたちのゲストルームである。

 ガラス越しに垣間見た室内は錯乱状態としか表しようがない。放心状態で絨毯の上にへたり込む者、引率の教師にすがり付いて泣き喚く者と反応は人それぞれだが、皆、一様に顔から血の気が失せていた。

 二人の引率者も不安に押し潰されぬよう必死で堪えており、冷静さを保っているのはただ一人――白雪のような肌が美しい少女だけだった。

 ゲストルームという狭い空間の中で際限なく膨らんでいく恐慌を見て取ったンセンギマナたちは〝感染源〟とも喩えるべき恐怖の根本を直感した。

 子どもたちは二〇〇一年九月一一日の再来ではないかと怯えていた。

 数機の旅客機を乗っ取ったテロリストたちがアメリカ国内の重要な建物へ次々と自爆攻撃を行った歴史上最悪の同時多発テロ――通称、『九・一一』である。

 生まれて間もない頃に直面し、深い傷として心に刻まれたであろう国家的悲劇の記憶が反復された子どもたちは、自らも同じ運命を辿るのだと狂乱してしまったのである。

 あの日、世界が目の当たりにした惨状は、記憶から風化するには余りにも生々しい。

 無論、フィーナ・ユークリッドもシード・リングも、事件当時はまだアメリカで暮らしていなかったンセンギマナでさえも、この状況から『九・一一』の再現を想起している。

 かつて避けられなかった国家的悲劇という事実が子どもたちの心を乱し、絶望の色に塗り潰してしまうだろう。抗い難い恐怖から彼らを救う為にも『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』の収録を行って欲しい――それが広報部長の要請であった。

 しかも、これは大統領自らの発案であるというのだ。アメリカへの宣戦布告といっても過言ではないテロ事件を収拾するべく対策会議ミーティングに入った大統領本人は、もはや、番組への出演は不可能だ。ンセンギマナとの面談も取り止めざるを得ないだろう。

 しかし、エアフォースワン機内での撮影許可は現時点でも失効されていない。子どもたちの錯乱を予見した大統領は、異常事態のときだからこそ底抜けに明るいトーク・バラエティーの公開収録を通じて皆を励まして欲しいと二人に託したのだった。

 それが〝特命〟である。二人とも大統領から託された想いを拒む理由はなかった。子どもたちが錯乱していると聞けば、誰に頼まれるでもなく同じことを考えたはずだ。

 迷うことなく頷き合った二人は「はーい、注~目~!」と声を揃えてドアを開き、泣き喚く子どもたちが思わず呆気に取られてしまうくらい陽気な調子で踏み込んでいった。

 動転し続ける同い年の面々を何も心配ないとなだめていた色白の少女は驚くほどに冷静であったが、突如として乱入してきた二人には唖然呆然と小さな口を開け広げた。

 しかし、それも一瞬のことである。間もなく落ち着きを取り戻した少女は乱入者の片割れであるンセンギマナの顔と義足を交互に凝視し始めた。細められた両目は何事かを閃いたかのように煌めいている。



 穏やかならざる経緯から段取りが整えられていった人気番組の収録は、一度もカメラを止めることなく進行し続けている。急なゲスト出演となったンセンギマナも事前の準備がなかったとは思えないほど多弁で、撮影クルーは胸を撫で下ろしていた。

 手慣れたタレント並みに饒舌なのは当然の結果であろう。何しろ長年にわたって出演を待望してきたテレビ番組なのだ。オファーすら受けていない内から密かにイメージトレーニングを重ねており、それが為に得意げな顔がモニターへ大写しとなっているのだった。

 相棒ンセンギマナにとっては本懐を遂げたようなものであると知っているシード・リングは、何となく気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべていた。

 公開収録は子どもたちにあてがわれたゲストルームで行われている。話を聞きつけた報道関係者も室内に足を運び、いつしか観覧席には老若男女が満遍なく集まっていた。

 今は誰もが暇を持て余している。犯人による傍受を警戒し、エアフォースワンは一般回線が完全に遮断されてしまったのだ。外部との連絡が付けられない状態では記者たちも仕事にならないわけである。

 大統領を狙ったテロ事件の最中さなかに悪ふざけが絶えないトーク・バラエティーを収録することについて不謹慎と眉を顰めた記者は一人や二人ではない――が、ンセンギマナがおどける度にくらく俯いていた子どもたちが笑顔を取り戻していくのだ。それなのに能天気などと水を差すのは、無粋を通り越して愚かであると誰もが弁えていた。


「――ああ、そうだ。これ、心ばかりの土産です。本当は大統領に差し上げようと思って持ってきたんですが、結局、渡しそびれてしまったので、上手いこと使い回せればと」


 いつの間に仕込んでいたのか、ンセンギマナは自分が腰掛けているソファの裏から何やら筒状のつつみを持ち出した。どうやら、大きめのポスターらしい。


裏事情そーゆーのは『言わぬが花』だけど……これは『NSB』のポスター? それとも、ンセンギマナさんの道場の――」


 手渡されたポスターを広げたフィーナは、刷り込まれている内容に唖然呆然と固まってしまった。我が目を疑うとはこのことであろう。そこに現れたのはンセンギマナでもなければ、彼が所属するMMA団体『NSB』の広告などでもない。

 中心に刷り込まれているのは、確かに格闘家の姿ではある。背後の敵に振り返りながら膝蹴りを繰り出すようなポーズを取っており、『解き放て、神槍ダイダロスの如き剛脚わざ』という仰々しい謳い文句キャッチコピーが添えられていた。

 しかし、それはンセンギマナとは似ても似つかない女性であり、しかも、アイドル歌手のように煌びやかな衣装を身に付けている。右手に握り締めたハンドマイクは、開け広げられた口から迸るのが絶叫ではなく絶唱ということを示していた。

 チェック柄のフリルスカートから伸びた足は彫像のように美しく引き締まり、紅棗なつめ色の長い髪が竜巻さながらにうねるさまなど迫力満点である。


「……さら・バロッサ……!」


 ポスターを一瞥した色白の少女が身を乗り出しながら『さら・バロッサ』という名前を言い当てると、ンセンギマナは「お目が高いぞ、キミッ!」と素っ頓狂な声を上げた。何をそんなに興奮しているのかは余人には知れないが、すっかり声が裏返ってしまっている。


「キミは女神イシュタルが遣わした使徒ではないかな⁉ よくぞ、俺を助けてくれたッ!」

「――ふわぁっ⁉」


 勢いに任せて少女に歩み寄ったンセンギマナは腰の辺りを掴んで大きく持ち上げると、嬉しそうに頬擦りし始めたのである。

 引率者たちの悲鳴を天井が撥ね返す中、少女の頬は白雪にもたとえられる本来の肌の色から加速度的に遠ざかっていく。番組のディレクターが割って入って暴挙を止めさせたが、そのまま頬擦りを続けていたなら全身くまなく真っ赤に沸騰したかも知れない。


「見どころのある少女が語ってくれた通りですよ。この御方こそ俺があまねく天地に於いて誰よりも敬愛する女神イシュタル――さら・バロッサ様ッ! 主演を務めたアニメシリーズ、『かいしんイシュタロア』は全米でも放送されたし、日本のサブカルに詳しいフィーナさんもご存知でしょう。何を隠そう希更様ってば〝向こう〟のナントカというMMAイベントに参戦されましてね。そのときに作られた記念ポスターなのです。ちなみにココに書かれている『神槍ダイダロス』というのは希更様が演じる主人公、『あさつむぎ』がふるう伝説の武器で――」


 これまでの最高速度で滑らかに語り続けるンセンギマナが指差したポスターは、刷り込まれている文字が全て日本語なのだが、それも当然であったわけだ。彼が土産と称して差し出したのは日本人声優のポスターなのである。

 つまり、祖国ルワンダに由来する品でも、自身が所属するMMA団体や道場の広告物でもなく、自分が心酔する日本人声優のポスターを合衆国大統領へ謹呈しようと考えていたわけだ。

 そのような話を全く知らされていなかったシード・リングは、頭を抱えつつも偶然の成り行きから最悪の事態を免れたことに安堵の溜め息を洩らした。ンセンギマナの個人的な趣味から選ばれたポスターを大統領が執務室オーバル・ルームで広げていたなら、ホワイトハウス全体が凍り付いたであろう。相棒ンセンギマナに同行する自分も絶対零度の空気で精神的に殺されたはずだ。


「つまりは人間賛歌ッ! 異世界の女神イシュタルの力を授かったあさつむぎは襲い掛かってくる敵とも絆を育み、掛けがえのない戦友ともとなり、世界に大いなる〝輪〟を築くッ! それは海を越えた国でも愛される希更様の生き様とも通じ――」


 『かいしんイシュタロア』なるアニメの特徴を朗々と語り続けていたンセンギマナは、詳しい概要あらすじへ触れようかというところでフィーナが渋い顔でポスターを睨み続けていることに気付いた。

 ようやく自分の選択チョイスが失敗ではないかと疑念を抱いたらしく、彼女の胸中を察して息を呑んだ。


「……若いはお気に召さなかったでしょうか……」


 ンセンギマナから極めてデリケートな気遣いを受けたフィーナは、ポスターを筒状に戻してテーブルに置くと背中から一冊のノートを取り出した。全体が黒革のカバーによって覆われれており、表紙には銀色に輝く天使の姿が刷り込まれている。


「次に同じコトを言ったら『天使のお迎えリスト』にンセンギマナさんの名前を載せますからねー。これでも、射撃で五輪オリンピックに出場したこともあるからさぁ、その辺のことはも~ちょっと深刻に受け止めるべきだと思うよぉ~?」


 黒革のノート――通称、『天使のお迎えリスト』は番組にも度々登場している小道具だ。フィーナに対して失礼な態度を取った人間の名前が順次書き加えられるシステムであり、これによって対象者の寿命が、縮むという触れ込みであった。

 表紙では天使を模った紋章が煌めいているが、実際にはこの世で最も恐ろしいブラックリストなのである。カバーの一部が剥げるくらい使い込まれており、何人もの名前が列記されていることが窺えた。

 拳銃の形を作った指先をフィーナから向けられたンセンギマナは、失言を零した口を両手で覆いながらかぶりを振り続けている。命乞いは言葉でなく眼差しでもっておこなっていた。


「四半世紀前だけど、わたしにだって甘酸っぱい青春時代はあったんだよ? 幼馴染みのボーイフレンドなんだけどね、この子が弁護士目指していてさ。生まれた頃から一緒にいたからお互いのことは何でも分かってたし、このままゴールインって夢見てたんだけど、今はそいつ、『天使のお迎えリスト』の一番目に名前が書いてあるから」

「いきなり始まった回想が痛々しい上に、端折られた部分を想像するのが最高に恐ろしいのだが、……大丈夫か? そこの少年少女たち、ドン引きしていないか?」

「ちなみにンセンギマナさんから頂戴したポスターね。希更・バロッサのお母さんがね、わたしのボーイフレンドをかっさらった張本人なんだよ」

「あってたまるか、そんなことォッ⁉」


 フィーナから驚天動地の事実を告げられたンセンギマナは、比喩でなく本当に椅子から転げ落ちてしまった。

 それは間違っても口にすべきではない禁句であったが、贔屓にしている声優の母親と、フィーナの間に複雑怪奇な因縁が横たわっていることなど想像できようはずもあるまい。

 希更・バロッサに関することであれば、出演イベントのスケジュールまで抜かりなく把握しているンセンギマナとはいえ、家庭の事情まで嗅ぎ回ろうとは思わない。むしろ、それはファンとしても絶対に踏み込んではいけない領域なのだ。

 血の気の引いた顔で謝罪の言葉を述べようとするンセンギマナを黙殺し、フィーナは手の甲でもって口元を隠しながらゲストルームを飛び出していった。

 誰の目にも「想い出したくもないトラウマを穿り返されて動転した」としか見えない。


「――このアホォッ! やって良いことと悪いことの区別もつかないのかッ⁉」


 司会進行に取り残されたンセンギマナは、我知らず椅子に座り直していた。自分の置かれた状況すら認識し切れないほど狼狽しており、後頭部を猛烈な衝撃でもって揺さぶられるまでの間、焦点の合わない視線をくう彷徨さまよわせるばかりであた。

 絶叫を上げたのも、ンセンギマナを渾身の力で殴り付けたのも、相棒のシード・リングである。カメラの停止も確かめずに駆け寄った彼は一撃を見舞うや否や、両手でもってタキシードの襟元を掴んで上下左右に揺さぶり始めた。


「お、俺だって知らなかったんだ! というか、希更様ンとフィーナさんの間にこんなコトがあったなんて分かるワケなかろうが!」

「普段は聞いてもいない出演情報を一方的に語ってくるクセして、肝心なときに何の役にも立たないんだもんなぁ! お前のデータベースは構造的欠陥があるよ!」


 ハラスメント訴訟にまで発展する可能性を論じ合う二人の姿を撮影クルーたちは笑いながら眺めている。それはつまり、先程の失言を誰も深刻に捉えていない証左といえよう。


「――ま、今ではわたしもすっかり希更ちゃんのファンなんだけどさ」


 果たして、フィーナは数分と経たない内に笑いながらゲストルームに戻ってきた。辛い想い出が甦って慟哭したものとばかり思ったのに、先程よりも更に陽気ではないか。

 しかも、だ。どういうわけか、ンセンギマナから受け取ったポスターの中で日本人声優が着ていた物と全く同じ華やかなアイドル衣装で登場したのである。

 これを見て取ったンセンギマナは再び椅子から転げ落ち、シード・リングに至っては真後ろに倒れ込んでしまった。

 おそらくは即席で用意したのだろう――フィーナはハンドマイクの代わりに『大成功』と大きく書かれたフリップボードを掲げている。どのような試みが達成されたのかは、彼女と撮影クルーとを交互に見比べるンセンギマナの驚愕からも瞭然であろう。

 ンセンギマナとシード・リングの二人組コンビは、フィーナが企んだイタズラに揃って引っ掛かってしまったわけだ。思い詰めた表情で飛び出すという行動自体が罠だったのである。


「どこからどう指摘ツッコミを入れたら良いのか、もう分からないくらいだけど、とりあえず、自分の年齢トシってものをあなたは――」


 迫真の名演技に騙された恨み言を紡ごうとするシード・リングだったが、それは半ばで止まってしまった。見ればフィーナは『天使のお迎えリスト』と呼ばれるノートを開き、ペンをねぶるような仕草ゼスチャーを披露しているではないか。しかも、終始無言且つ笑顔である。

 女性の年齢を穿り返すような人間は無条件で処罰されても文句は言えないと想い出したシード・リングは、先程の相棒と同様にかぶりを振りつつ眼差しでもって命乞いし始めた。


「ここで質問のコーナーだッ! 我々に訊きたいことがあれば、若人わこうどたちよ、何でも構わないからドシドシ飛ばしてくれたまえ!」


 両者の対峙によって場の空気が凍り付いては〝特命〟が果たせなくなると危惧したンセンギマナは撮影クルーの許可すら得ないまま勝手に次のコーナーへ移った。ゲストへの質問をその場で募るなどフィーナは観客まで撮影に引き入れることが多い。長年のファンであるンセンギマナも慣れ親しんだ手法に倣い、仕切り直しを図った次第であった。

 間もなく記者の一人から衣装に関する質問が飛んだ。そして、それはンセンギマナが何よりも待ち侘びていた言葉である。彼が女神イシュタルと崇め奉る希更・バロッサと同じ衣装をどうしてフィーナが纏っているのか、知りたいと願うのは自然の反応であろう。先程の話から察するに女神イシュタルの母親とは拗れに拗れたとしか思えない。

 フィーナ当人曰く――どのような演出が求められても即応できるよう収録に当たっては必ず大量の衣装を持ち歩いており、偶然にも今日の荷物の中に希更・バロッサから贈られた揃いの衣装が混ざっていたそうだ。


「メイちゃん――あ、これは希更ちゃんのお母さんね? 彼女とは中学校ジュニアハイスクールの頃から友達だし、ボーイフレンドっていってもただの幼馴染みでしかない分際で浮気を批難する資格なんかあるわけ……って、勘違いも全米トップみたいな生暖かい目を向けるのはやめて!」


 不穏な発言で誤解を招いたものの、希更・バロッサの家族とは絶縁するどころか、今でも付き合いが続いているらしい。先ほど口にした私怨とて軽い冗談のつもりなのだろう。

 おそらく〝鞍替え〟した形の幼馴染みのほうは『天使のお迎えリスト』の最初に名前が記してあるのだろうが、それはまた別の話ということである。


「あの――フィナさんじゃなくンセンギマナへの質問でも大丈夫ダイジョブです?」


 記者の質問にフィーナが答え終わるのを見計らって、一人の少女が垂直に手を挙げた。

 先ほどンセンギマナの女神イシュタルの名前を言い当てた少女である。今なお動揺が鎮まらない別の少女に寄り添っていたが、どうしても挙手せずにはいられなかったらしい。

 彼女はンセンギマナを指名し、その上でMMA選手という肩書きを殊更に強調している。


「オーケー、俺の戦績キャリアでも何でも訊いてくれ」


 ンセンギマナと差し向かいとなったことで頬擦りされたときの感覚が瞬間的に蘇ってしまったのだろう。少女の顔は瞬く間に赤みを帯びていく。


「次期大統領選でアクセルロッド当選したら選手の肩書き名乗れなくなりますが、その先、どうして生きてくんです? てゆか、格闘技続けてられるんです?」

「……なぬっ?」


 頬の火照りを必死に堪えつつ少女が投げかけたのは、二〇一六年に実施される大統領選挙にちなんだ質問であった。

 今年は議会の勢力図を左右する中間選挙が実施されることになっており、その場で次期大統領選挙への出馬を宣言する政治家も少なくない。だからといって、悪ふざけの応酬が支配するバラエティー・トークへ政治の話を持ち込むのは、いかにも無粋であろう。

 全くの想定外であった言葉にはンセンギマナも呆気に取られ、フィーナやシード・リングと顔を見合わせながら何度も双眸を瞬かせた。

 尤も、この三人が目を丸くしたのは子どもらしからぬ難解な質問が理由ではない。ほんの少し前まで自分たちが交わしていた世間話と殆ど同じ内容という点に驚かされたのだ。


「先生、この娘さんの名前は?」

「え? あの、ええっと、デビーと――」

「――デボラ。デボラです」


 ンセンギマナは本人ではなく引率者のほうに名前を尋ねたのだが、彼女自身が二人のやり取りを遮って他人にする呼び方を示した。『デビー』は愛称ニックネームであり、『デボラ』が本来の名前と考えて間違いないだろう。つまるところ、馴れ馴れしく呼び付けないよう釘を刺したわけである。

 色白の少女――デボラは家名ファミリーネームも名乗ろうとはせず、引率者にも絶対に明かさないよう険しい眼差しでもって訴えていた。過剰なくらい自衛の意識が強いようだ。あるいは自分という人間の情報を他人ひとに知られたくない理由があるのかも知れない。

 自分の情報ことは頑なに隠そうとするのに、初対面であるはずのンセンギマナには質問という形で積極的に関わろうとするデボラの行動は矛盾を孕んでいると言えなくもない。それが不思議でならなかったのか、それとも〝別の何か〟に勘付いたのか――丁度、二人の中間に立っているシード・リングは、自分たちと比べて二回りは小さな少女を見つめると、幾度も小首を傾げた。


「デビー、まだ高校生ハイスクールでもないんだろう? 小さな頃から新聞の社会面までしっかり読み込んできたタイプなんだな。俺なんかよりずっと『NSB』の内情に詳しかろうな」


 先手を打って警告したにも関わらず、無遠慮に愛称ニックネームで呼び付けられたデボラは、白雪のような顔に憤りの色を滲ませた。


「……あなた、『行間を読む』情緒が足りません。鈍感も度越したら裁判沙汰になるコト、教えてあげます? 新聞のテレビ欄だってそれくらい書いてあります」

「せっかく、出逢えた相手を他人行儀に呼ぶことほど悲しいものはないよ。心の距離を縮めなきゃ絆は育めないのだから、俺は腕が千切れるまで手を伸ばす――訴えたいなら好きにしてくれ。その代わり、判決が出るまでオレはデビーと呼ばせてもらうさ」


 またもやンセンギマナの言葉遣いは大仰なものとなっているが、これもまた『かいしんイシュタロア』の登場人物が発する台詞の引用である。

 芝居がかった台詞を受けたデボラは、何故だか異常なくらい肩を揺らし、鼻息まで荒くしている。深呼吸で動揺を落ち着けたのちに「……つむぎちゃんの台詞、男の人が喋るのアウトでしょ」と溜め息交じりで呟いたが、それもまた余人には意味不明なものだった。


「話戻します――ボクサ時代の人気あればアクセルロッドが絶対有力候補になるハズです」


 デボラが語った通り、カービィ・アクセルロッドはボクシング引退後は政界に進出し、今では野党の重鎮として君臨している。それ故にゲストルームに同席している大統領のスタッフも与党の仮想敵と目される名前に顔を顰めたのだ。


「しかし、デビー、その男がどうして『NSB』を脅かすんだ?」

「質問に質問返すですか……」

「――二〇〇八年の選挙のときに現大統領とホワイトハウスを争った大物議員がボクシングのでね。競合相手のMMAをボロクソに扱き下ろしていたんだよ。あんなのは『人間闘鶏』だってね。例の議員が先陣切ってMMAを激しく非難した所為で過去にはテレビ放送が打ち切られたこともある。……伝説的なボクサーで、しかも大統領と来れば今度はその比じゃない。本当にアメリカではMMA興行を打てなくなるかも知れないぞ」


 両者のやり取りに口を挟んだのはシード・リングである。祖国ルワンダ以外の選挙について明るいわけではないンセンギマナではデボラが何を話したいのか、正確に受け止められないと

判断したのだろう。実際、フィーナと同じ内容を語らっていたときにもカービィ・アクセルロッドという名前すらすぐには想い出せなかったのだ。


「大統領選挙は、それ自体の影響力が桁外れだよ。相棒ンセンギマナだってアメリカ暮らしが長いんだから分かるだろう? 有力候補の発言で世論が塗り替えられていく怖さが。……つまり、アクセルロッドの目的は大統領にならなくても達成させられるってコトだよ」

「俺はデビーに訊いたんだが、どうしてお前が出しゃばるんだ」

「不安が募ると口を出さずにはいられないんだ。自分の勉強不足を反省しなよ、相棒」

「実際、ボクシングの興収はMMAから差を付けられていますよね。スター選手の対戦で一時的に上回ることもありますけど、業界全体を補えるわけじゃないですし」


 フィーナまでもが口を挟んだのだが、それはンセンギマナに閃きを与えるものであったらしい。まるで悪の野望を見抜いたかのような表情かおに変わったのである。


「読めたぞ。国技にも等しいボクシングがMMAにおくれを取る状況は統一王者チャンピオンにとって耐え難いことだ。暗黒時代を塗り替えるべく大統領選へ出馬するということだな」

「北米だけでも数限りなく存在する格闘技団体を一個人の思想で規制することなんか職権濫用以外の何物でもないけどね。議会は承認の代わりに弾劾手続きを突き付けるハズさ」

「巨大な〝市場マーケット〟は一回の興行だけでも相当な〝お金〟が動きます。を大統領の思惑のみで打ち切ることはアメリカにとっても大損失でしょう」


 突拍子もない発言であるが、意外なことにシード・リングもフィーナも誇大妄想などと切り捨てることはなかった。


「それにしても、デボラちゃんってばカービィ・アクセルロッドなんてシブい名前、どこで憶えてきたのかなぁ~。あなたちの世代ではボクサー時代も知らないでしょうに」

「アクセルロッドて男の思考おつむ、少し興味あって……」


 フィーナがデボラの博識を褒め称える一方で、ンセンギマナは腕組みしながら難しそうに唸っている。この少女の話には不可解な部分が多く、質問の要点すら掴み兼ねていた。

 何しろ、この彼女デボラは二年も先の大統領選について熱弁を振るっているのだ。中間選挙すら始まっていない内から立候補者を決め付けて論じるなど気早としか言いようがあるまい。聡明な彼女には不似合いながら、どこかで聞き付けた無責任な風聞うわさを真に受けているとしか思えなかった。

 先程の世間話に於いても「MMA規制の嵐」という言葉が飛び出していたが、これがデボラの話に繋がることだけはンセンギマナも辛うじて飲み込めた。

 ボクシング自体はMMAのテクニックとして重要視されており、選手たちにも広く門戸を開いているはずなのだが、偉大なる統一王者チャンピオンは「ボクシングは完成された」と定義付けることで競技自体が内包する矛盾を解消したらしいとデボラは付け加えた。


「つまり、デボラさん、キミはMMAがもう一度、『人間闘鶏』の汚名を着せられるってことを予言したいんだね?」

「予言てか未来予想図です」


 本人の意図はともかく、ボクシングというジャンルの捲土重来を期するファンはアクセルロッドをホワイトハウスに送り込むべく全力を尽くすことだろう。ボクシング全盛期を体験した世代による投票数は、もしかすると天文学的な数値を計上するかも知れない。


「――さて、キミの話にも付き合い切れなくなってきたし、〝現実〟に戻って良いかな?」

「……随分失礼な物言いですね」

「……どんなだって〝現実〟に即して働く〝力〟の前には押し流されるってコト、ボクはキミよりも知っているつもりだよ」


 伝説的なボクサーを担いでボクシングの復権を叫んだところで盤石となったMMAの基盤を覆すことなど不可能に近いだろう。先程もシード・リング自身が述べたが、偏った思想を許すほど議会も社会も甘くはないのである。


「少し前に起きたドーピング問題だって乗り切っただろう? スポンサーも『NSB』を見捨てなかったし、それが〝現実の力〟――つまり、基盤ってものだよ」

「無傷で切り抜けてないです。責任問われた前代表は追放、興収も目減りしてますけど。弱り目見逃すほど〝敵〟は甘いんです? すぐそこにある危機、自覚すべきかと」

「ボクも楽観主義ではないつもりだけど、キミの場合は悲観的過ぎるなァ」

「有力領候補の思想に州議員染まったら、あなたのいう〝現実〟簡単にひっくり返ります。揺らがない基盤なんて絶対有り得ない。あなたこそ〝現実〟見えてます?」


 シード・リングから理詰めで追い立てられようともデボラのほうは少しも焦ることなく同水準の弁舌でもって切り返している。名門中学校から選抜された子どもたちとは聞いていたが、その中でも彼女は群を抜いて優秀な頭脳の持ち主なのだろう。知識量は言うに及ばず、これを生かす応用力にも長けているようだ。

 その上、余りにも思考が早過ぎて舌のほうが追い付いていない様子である。矢継ぎ早に並べ立てる最中には言葉そのものが飛んでしまうことも多く、ボクサーと発声する際には「ボクサ」などと短縮していた。フィーナのことは「フィナ」とも呼んでいる。

 自分の趣味のことには饒舌なンセンギマナや、トーク・バラエティーを盛り上げる為にありとあらゆる言葉を紡ぎ続けるフィーナとも種類が異なる早口なのだ。ましてや、有名なテレビ番組に飛び入り参加して舞い上がっている様子でもない。あくまでも冷静を保ち続け、発言の一切が理路整然としていた。

 そんなデボラの顔をシード・リングは不思議そうに見つめ、フィーナのほうは「ニューヨーカーだったりして?」と喋り方の〝癖〟から出身地を推理している。この見立てについてはシード・リングとて確信に近いものを感じていた。

 しかしながら、頑なに家名ファミリーネームを明かそうとしない彼女の正体へ心当たりがあるというわけではない。白雪さながらの少女はゲストルームに居合わせた誰よりも思考あたまの回転が鋭いように思える。MMA業界という場違いにも程がある話題を持ち出したことにも何らかの理由があるはずだと己に問い掛けているわけだ。

 それはデボラの言行に対する違和感と、思い過ごしであろうと自嘲する内なる声とのせめぎ合いであった。


「――こちら、機長のハサン大佐であります。あと一時間ほどでアパラチア山脈の峰をご覧いただけるかと存じます。長丁場の収録でお疲れでしょう。大地の奇跡をご覧になると気分転換にもなるでしょう。依然として当機は問題なく飛行フライトを継続しております」


 室内のスピーカーから機長の声が聞こえてきたのは、シード・リングとデボラの議論が本来のゲストを置き去りにして白熱しようかという瞬間のことであった。

 爆弾テロという極限的な状況が犯行声明の発表から少しも悪化していないと皆にしらせ、気分を落ち着けて貰おうという機長なりの配慮であろう。


「……まさか、この機長が共犯グルってコトはないだろうな……」


 それは機長の名前を耳にした記者の一人が我知らず洩らしてしまった呟きである。悪意をもって機長の名誉を傷付けようという意図はなさそうだが、しかし、無神経と批難されるだったことに変わりはない。

 『ハサン』という名前はイスラムの教えに由来するものであり、アラブ系の人種にも多いのだ――が、それを爆弾テロの共犯と結び付けて述べることは非常に危険であった。

 『九・一一』の惨状が反復されたばかりの記者にとっては特定の人種に対する偏見ではなく恐怖の発露だったのだろう。もしかするとWTC世界貿易センターで身内を亡くしたのかも知れない。

 だが、今の失言を『人種のるつぼ』が抱える病理として捉えてしまった子どもたちは、血の気が引いた顔を見合わせながら全身を小刻みに震わせている。急速に波及していったのは『九・一一』の再来に他ならないのだという絶望の反復であった。

 周りの記者から批難の眼差しを浴びせられて自分の愚かさに気付いたらしく、失言の張本人は血の気の引いた顔で俯いてしまった。過失を猛省できる様子からもを弄ぶ人間でないことは明らかで、心の古傷が先程のような言葉を選ばせてしまったのだろう。

 くだんの記者が善良な『アメリカ人』であることは明らかとなったが、それで子どもたちの心が癒えることはない。引率者たちが寄り添い、これは『九・一一』などではないと慰めようとも恐怖の振り戻しは鎮まりそうになかった。

 くだんの記者に対し、デボラは子どもの物とは思えないほど冷徹な視線を叩き付けている。

 それは紛れもなく憎悪であった。殺意を伴う想念であった。記者あいてのほうは勘付いていなかったが、目が合おうものなら悶着にまで発展したことだろう。そう予感させるくらい彼女の視線は鋭く研ぎ澄まされていたのである

 そんなデボラとくだんの記者を交互に見つめるフィーナの顔は、これ以上ないというほど深い悲しみに染まっていた。ある種の〝分断〟を目の当たりにし、一人のアメリカ人として身を切られるような思いが押し寄せてきたのだろう。

 カメラのレンズは言うに及ばず、誰の目にも映らないほど小さく首を頷かせたフィーナは何層ものフリルが重なって花びらのように開いているスカートの裏側に手を突っ込むと、そこから〝何か〟を取り出した。

 スカートの裏側に隠し持っていたのは、色とりどりの水玉模様が染め抜かれた布切れである。ハンカチよりは大きく、テーブルクロスと比べると小さい。


「――次はお待ちかねの『クイックドロウ・ロシアンルーレット』のコーナーだよ!」


 努めて明るい調子で室内の皆に語り掛けたフィーナは、次いで水玉模様の布切れをンセンギマナに向かって放った。

 当のンセンギマナはコーナー名を告げられる前から受け取った布切れの正体に気付いていた。それは『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』に於いて定番の小道具なのだ。


「この衣を纏うことを許されたからには、俺も相応の覚悟で臨まねばなるまい。これは人類の英知にして希望の結晶……託された期待に応えることこそ天命なのだ」


 口元を嬉しそうに吊り上げたンセンギマナは芝居がかった調子で布切れを身に付けていくが、それはどこの食卓でも見られる何の変哲もないエプロンである。

 水玉模様の布切れのどこに興奮する要素を見出したのかは知れないが、ンセンギマナの言い回しにはまたしてもデボラが鼻息荒く反応している――その様子をやや離れた位置から眺めていたシード・リングは、「まさか」とでも言いたげな表情で両者の顔を見比べていた。



 『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』は基本的に対談形式で進行していくのだが、視聴者を飽きさせない工夫として番組の合間に簡単なゲームなどを挟んでいる。彼女が宣言した『クイックドロウ・ロシアンルーレット』とは限られた時間内にゲストと一緒に料理を作ろうというものであった。フィーナ自身が料理研究家としても活動している為、数あるコーナーの中でも特に好評を博していた。

 当初は大統領と一緒に『クイックドロウ・ロシアンルーレット』へ臨む予定だった為、エアフォースワンの厨房設備ギャレーを民間人が使用する手続きを済ませていたのだ。機内に持ち込む食材についても警護班シークレット・サービスから事前に厳しい検査を受けて全てに許可を得ている。

 収録に同席していたホワイトハウス広報部長の了承を得たフィーナは、ンセンギマナとシード・リングの三人で名物コーナーを展開させようと決めたのであった。

 エアフォースワンで食事を提供する場合、下ごしらえは地上で済ませておいて、機内の厨房設備ギャレーでは簡単な調理のみを行うのが基本である。それと同じようにフィーナ・ユークリッドもゲストのことは関係者に至るまで念入りにリサーチしている。ありとあらゆる情報を駆使してトーク・バラエティーの完成度を高めていくわけだ。無論、ンセンギマナの相棒であるシード・リングの経歴もプライベートを侵害しない程度には調べていた。

 彼が『ヌーベ・プエブロ』なるネイティブ・アメリカンの末裔であることも、ンセンギマナの試合ではセコンドに付くことも、全て把握していた。

 会場との一体感も重要視にしている『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』では観客を撮影に引っ張り込む演出も珍しくはなく、そういう点でもシード・リングは逸材だった。何しろ単体ひとりでゲストに招いても成立するほど興味深い経歴の持ち主なのだ。


「――ンセンギマナさんとトークしている間に当方の優秀なスタッフが彼の通ってるサンノゼの道場ドージョーに電話取材してくれたんですけど、道場主のシルヴィオさんはあなたのこともたくさん聞かせてくださったみたいですよ」


 厨房設備ギャレーへ移る前にフィーナはフリルたっぷりのアイドル衣装からポロシャツ風の身軽な服装に替えていた。その上に付けているエプロンは当然ながら水玉模様である。

 同じ模様のエプロンを強引に渡された挙げ句、料理にまで参加させられてしまったシード・リングは、フィーナの言葉を受けて眉間に寄った皺の数を更に増やしていく。

 フィーナは電話取材を基に作成された資料を着替えの最中に読んだらしいが、その訳知り顔が妙に気に掛かるのだ。


「マスター・シルヴィオが、……ボクのことを?」

「一族の悲願を託されて聖地を探しているなんて、二一世紀とは思えないファンタジーですよ。ご実家で働いていたら、何の不自由もなく暮らせたのに――あっ! シード・リングさんって『ハーツフィールド・アドービシールド』の御曹司なんですよね?」

「はあ、まあ、……一応、実家といえば、そうなりますけど……」


 やや前のめりとも取れるフィーナの言葉に対してシード・リングの返答こたえは歯切れが悪い。

 『ハーツフィールド・アドービシールド』とは、一九世紀の西部開拓時代から現代まで命脈を保ち続けているアメリカきっての老舗製薬会社である。全世界の医療品売上高で常に上位へ食い込む大企業であり、同時にンセンギマナのメインスポンサーでもあった。


「ちなみにこれは一般庶民の素朴な興味から訊くんですけど、三〇代後半から四〇代前半くらいの独身男性って身内に残ってたりします? ……ああ、いえいえ! 世界最高峰の企業だけに激務で婚期を逃したりしないのかな~なんて。ええ、ただの知的好奇心です」

「露骨に玉の輿を狙うのはやめてくれませんかっ」


 狭い厨房設備ギャレーで撥ね返ったシード・リングのツッコミは、鼓膜が痛くなるほど大きかった。

 厨房キッチンではなく、あくまでも厨房設備ギャレーだ。飛行機内部の一角という限られた空間に必要最低限の機材を押し込んだような構造つくりである為、三人同時に入ろうものなら互いの肘や肩が接触してしまうくらい狭い。本来は一名で配膳まで完了させる場所なのである。

 閉所に撮影の舞台が移ったのはフィーナの一存だが、シード・リングとンセンギマナから左右の足を同時に踏まれたときには判断の誤りを認めるしかなかった。


「……いや、ちょっと待って下さいよ。現時点で回線は封鎖されたままですよね? それなのに、どうやって地上に連絡を? 電話取材なんて不可能なはずだ」


 そこでシード・リングの脳裏に一つの疑念が浮かんだ。

 エアフォースワンの通信回線は爆弾を仕掛けたという犯人によってハッキングを受けている。地上との交信から捜査情報が傍受されることを危険視した警護班シークレット・サービスが一般回線を全面的に遮断させたはずなのだ。だからこそ、報道関係者も難儀しているのである。


「――こちら、機長のハサン大佐であります。『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』の電話取材に当たっては特別回線を使用しております。勿論、大統領の許可を得てのこと。ホワイトハウス経由で連絡が入ったので、先方は大層驚いていたと報告を受けています」


 シード・リングの疑問を解消したのは絶妙のタイミングでスピーカーから聞こえてきた機長の声である。どうやら、操縦室コックピットにも収録の内容が伝えられているようだ。


「こんなヌルいことにシステムを使ってるからハッキングされるんじゃないかなぁ……」


 シード・リングの溜め息が反響するくらい窮屈な空間には、これでもかと鼻孔を刺激する香りが充満している。フィーナが二人のゲストに振る舞おうとしているのはカレー粉で味付けした特製チーズステーキサンドである。

 盛大に喉を鳴らして生唾を飲み込んだンセンギマナの傍らでは、これ以上ないというくらい憂鬱そうなシード・リングが付け合わせのサラダを皿に盛り付けている。

 間違いなく美味に決まっている料理を前にして似つかわしくない面持ちだが、それも無理からぬことであった。フィーナの質問に辟易しているということもあるが、直接的な原因は別に存在しているのだ。

 コーナーの名称として『ロシアンルーレット』と打ち出しているように、一人だけ辛さが数倍増しとなったものを食べる羽目になるのだった。これもまた番組恒例の仕掛けである。日常生活の延長ともいうべき平和なトークへ僅かばかりのスリルが差し込む演出も人気の秘訣というわけだ。

 牛のもも肉を焼いている最中のフィーナは、果たしてどのタイミングでハズレを仕込むのだろうか――戦々恐々といった様子のシード・リングとは対照的に切れ目の入ったロールパンの支度を任されたンセンギマナは鼻歌混じりで楽しそうだった。番組の大ファンを自称している彼であれば、ロシアンルーレットの恐ろしさが誰よりも分かっているはずなのだが、自分がハズレを引くかも知れないスリルさえ面白がっているようだ。


「――こちら、機長のハサン大佐です。先ほどお伝えし忘れましたが、今回は『クイックドロウ・ロシアンルーレット』も実施されるとか。人間ひとは差し迫った状況に置かれたときこそ本性が露となるものであります。モニターのない操縦席コックピットに代わって、私の言葉が持つ意味を皆さんでご確認ください。もし、厨房設備ギャレーにヘタレを発見してしまったときには、どうか温かい眼差しで応援してあげてください」

「ノリ良過ぎないか、この空軍大佐っ⁉」


 段々とおどけた調子になってきた機長の声を受けて、シード・リングは「コメディ映画だったら操縦席コックピットに乗り込んで取っ組み合いになってるよ!」とスピーカーを睨み付けた。


「俺を拳法の道に導いてくれた恩人も調味料に凝るくらい料理好きだったよ。そのクセ、フィーナさんみたいにレシピを考えるのでなく、その場のノリで色々混ぜやがってね。予想できない化学反応が楽しいと話していたが、……実験台こっちは堪ったものではなかった」


 シード・リングが憤然と歯軋りする隣ではンセンギマナが恩師を振り返っている。実に個性的な料理を振る舞ったのはサンノゼの道場主なのだろうか。


「それってシルヴィオさんですか?」

「……ああ、ちょっと分かり辛かったか。いや、今の説明はなしではそう受け取られるのも仕方あるまいな。シルヴィオ先生とはまた別さ。……デタラメな創作料理をブチかましてくれたのは俺にとっての〝人生の恩師〟というヤツだよ」


 パンにケチャップを塗っている最中であったンセンギマナの顔は、不意に込み上げてきた懐かしさによってだらしなく緩んでいく。

 人生を変えてくれた大恩人との間には、楽しい想い出しかない様子である。


「その人は仲間から『アップルシード』と呼ばれていたそうだよ。この大陸にリンゴの花を咲かせて歩いた奇跡の開拓者――ジョニー・アップルシードにちなんで――だろ?」


 相棒を標榜するだけにシード・リングはンセンギマナの人生に影響を与えた男についても詳しく知っているようだ。直訳すると『リンゴの種』という意味になる異称の由来まで彼は言い添えた。

 『ジョニー・アップルシード』――それは開拓時代初期に素足で北米各地を経巡り、旅先でリンゴの種を植えて回ったとされるアメリカ史上の伝説的人物である。

 ンセンギマナの才能を見出し、北米アメリカに導いて拳法家として大成させた男のことをサンノゼの道場主は豊穣の象徴でもある『ジョニー・アップルシード』になぞらえたという。


「ああ、そうとも。偉大なる先駆者あいつのコトはアップルシードと呼ばせて貰っているよ」


 『アップルシード』――人生の師匠に付けられた異称よびなを他の誰でもない己の声でもって紡いだンセンギマナは、懐かしそうに双眸を細めた。

 目を転じてフィーナの顔を窺ってみると、やはり『アップルシード』という異称よびなは道場主からも聞かされていなかったらしく、興味深そうに幾度も頷いている。


「どうする、相棒? ユークリッドさんの好奇心のツボを突いてしまったみたいだよ」

「ふむ、そうだな……折角の機会だから、俺に力への意志を授けてくれたヒーローの話をしてみようか。回想編というのはストーリー中盤には付き物だ」


 先程まで収録を見学していた人々や撮影クルーは、どうあっても狭い空間には入り切らないのでゲストルームに残ったままである。現在、三人の姿は厨房設備ギャレーの四隅に据え付けられた小型カメラが捉えており、別室のモニターにもリアルタイムで映し出されていた。


「キミたちもよく聞いておいてくれ。海を越えた遠い国の話は、ただそれだけでも冒険心がくすぐられる遥けし浪漫ロマンだろう?」


 天井のカメラを覗き込んだンセンギマナは「居眠り厳禁だぞ、デビー」とモニターの向こうの少女に笑い掛けると、次いで人生の恩師アップルシードについて少しずつ語り始めた。


「俺がアップルシードと初めて出会ったのは二〇世紀最後の年だったよ。アフリカ大陸の真ん中にキブ湖というのがあってだな、俺はそこに程近い集落で生まれたんだが……」

「待ってくれ、ンセンギマナ。お前の生い立ちから始めるのか? ……なあ、幾らゲストだからって無理して話を拡げなくたって良いんだぞ」


 相棒の話を無理矢理に遮ったシード・リングは、その瞳を強い眼差しで覗き込んだ。


「……勿論、ンセンギマナさんの故郷ふるさとの〝話〟は私も承知しています」


 フライパンの上で踊る牛のもも肉にスライスされたチーズを乗せていたフィーナも思わず手を止め、ンセンギマナの横顔を気遣わしげに見つめている。ルワンダの〝話〟で彼に辛い想い出を反復させはしないか案じているわけだ。

 フィーナもシード・リングも、心の奥底へ刻まれているであろうトラウマへ踏み込んではなるまいと躊躇ったのだが、これはンセンギマナ当人から押し止められてしまった。


「そこが話のキモだってお前にも分かっているだろう、カリエンテ? ……俺は前の年に首都キガリへ引っ越したばかりだったのだ。働き手を募っていた義肢工房で世話になる為にな」


 その頃のルワンダは夥しい犠牲者を出した内戦の傷跡に誰もが苦しんでいた。ンセンギマナ自身、悲愴な出来事によって右足の太腿から下を失っていたのである。

 現在いまでこそ激しい動きを要する格闘技にも対応できるくらい使いこなせるようになったのだが、ようやく一〇歳を超えたばかりであった当時のンセンギマナは慣れない義足に四苦八苦しており、杖がなくては歩行すら困難な状態であった。


「あの頃は子どもや大人という括りもなく誰もが――人間だけでなく故郷くにの全てがズタボロだったよ。銃砲の弾痕よりも地雷の恐怖よりも、この地で起きてしまった一つの事実に傷付いていた。それは……現実だからな。杖にすがってでも、どれだけ転ぼうとも独りで立たねばならなかったのだ……」


 ンセンギマナが語った通り、国民の一割以上が犠牲となった国家的悲劇は殺戮を免れた人々にも深い爪痕を残していた。内乱末期に起きてしまった最悪の事態の為、生存者の多くが四肢のいずれかを失い、日々の暮らしに於ける動作にさえ苦労していたのだ。


「そんなときだよ、首都キガリへ義肢工房が開設されたのは。遠路遥々、遠い海を越えてやって来た〝友人〟が未来への道を示してくれた――あの場所は人間が持つ希望の結晶だよ」


 幼かったンセンギマナもくだんの工房で義足を拵えて貰い、自分一人でも修理が施せるよう住み込みで技術習得に励んだという。


「――あっ!」


 フィーナが甲高い声を上げたのは、まさしくその瞬間ときであった。

 驚いたンセンギマナとシード・リングは折角のチーズステーキを黒焦げにでもしたのかとフライパンを覗き込み、当のフィーナは壁際に設置されたカメラへと目を転じた。

 それは無意識の行動であった。フィーナの瞳はデボラの姿を捜していたが、レンズを覗いたところで目当ての少女の様子など分かろうはずもあるまい。逆に彼女の様子はゲストルームに筒抜けであり、今頃は間抜けな顔を皆に笑い飛ばされているかも知れない。

 自分が酷く滑稽な真似をしていることに気付いたフィーナだったが、羞恥に身悶えるようなことはなかった。それどころか、双眸からはンセンギマナの過去に触れることへの躊躇が失せている。

 迷いのない顔となったフィーナは一等強い輝きを発する瞳にてンセンギマナを見つめた。


「わたしの記憶が間違いでなければ、その義肢工房から五輪パラリンピック選手が出ていますよねっ」


 ンセンギマナに向かって質問を飛ばす声さえも前のめりである。


「さすがは物知りフィーナさん、その通りだよ。俺も世話になった人だ」

「モニターの前のデボラちゃんたちはギリギリ生まれる前で知らないかもだけどね、シドニー五輪パラリンピックにルワンダから片足の水泳選手が出場したんだよ」

「内戦から立ち上がろうとしている国が、独り立つことさえ難しいくらいズタボロの国が〝世界〟に挑戦した日を俺は生涯忘れられない――いや、ルワンダの誰もが忘れない」


 フィーナからシドニー五輪パラリンピックの話題を差し向けられたンセンギマナは、秒を刻む毎に声の勢いが増していく。


「俺は応援団に加わって現地シドニーで泳ぎを見守ったがね、……陳腐な言い回ししか思い浮かばないが、そこにあらゆる垣根を超越した絆を感じたよ。会場に集まったみんながルワンダの代表に大声援を送ってくれたんだ。人間は捨てたものじゃない――そう断言できる偉大な愛を俺たちは〝世界〟に教えてもらったよ」


 あるいはそのシドニー五輪パラリンピックこそが、ルワンダの民にとって本当の意味での復興の始まりであったのかも知れない。ンセンギマナもそこまで大仰には語らなかったのものの、彼の話に耳を傾ける誰もが大きな転換期であろうと感じ取っていた。

 世界の強豪と戦った自国ルワンダの代表選手に〝誇り〟を学び、自分たちが国際社会に於いて孤独ではないことを数え切れない声援から教わった――それは故郷を想う心に希望と勇気の火をともすものであり、ひいては国家くにを奮い立たせるのだ。


「シドニー五輪パラリンピックを経て、ルワンダに生まれ育った誰もが未来への想いに燃え滾っていた。まだ少年ガキだった俺も背伸びしたくなるくらいでな、もっともっと自分に為せることを見つけていきたいと逸っていた時期だったんだよ。……アップルシードとの出逢いは夢見る少年が踏み出す第一歩――というべきかも知れん」

「それってアメリカン拳法に目覚めた契機を喩えているのでしょうか?」


 とろけるチーズと香ばしいカレー粉を纏った牛のもも肉を皿の上に乗せつつ、フィーナは〝第一歩〟なる言葉の意味をンセンギマナに問いかけていく。


「俺は比喩みたいなモンは得意じゃなくてね。〝第一歩〟というのは、そのままズバリの意味ですよ。……あれは、そう――五輪パラリンピックも終わって、普段の生活くらしに戻った直後の一一月くらいだったか。首都キガリの町中で一人の〝迷子〟を保護したんですよ」

「もしかして、それが……?」

「ご明察の通り、アップルシードその人です」


 フィーナがフライパンであぶってくれたチーズステーキを長細いロールパンの切れ目に挟みながら、ンセンギマナは恩人のことを〝大きな迷子〟と笑い飛ばした。


「ボクも話を聞いたときは呆れましたよ。うちの相棒、義足の配達帰りに〝迷子〟を見つけたそうなんですけど、地図の一枚も持たずにアフリカ大陸を旅してたっていうんです」

「一応、持ち物の中に地図はあったんだぞ。故郷くにから持ってきた一冊の世界地図がな」

「その世界地図、ロシアがソビエト連邦のままっていうオチが付くじゃないか」


 横合いから説明を捕捉してくれるシード・リングや、これに頷くフィーナを順繰りに見つめるンセンギマナの瞳は、在りし日を懐かしむような穏やかさに満ちていた。


「大通りで迷って、同じ道を行ったり来たりしていたアップルシードの姿は今だって鮮明に想い出せるよ。ぶっちゃけ、半ベソだったしな」

「全くの偶然による出逢いだけど、今にして思えば必然の宿命に違いない――だろ?」

「だから、お前は俺の出番を横取りするな」


 次に紡ごうとする言葉を的中させていく相棒の口にケチャップを塗る際に使っていたスプーンを突っ込んだンセンギマナは、咳払いを交えて仕切り直しを図った。

 両者のやり取りを傍観していたフィーナが突如として低く唸り、次いで鼻から鮮血を迸らせたのだが、彼女の反応リアクションは予想済みであったらしくセンギマナは気にも留めなかった。

 鼻血の噴射も番組名物である。フィーナは複数の男性が仲睦まじく触れ合っている姿へ異常にする傾向があり、例えばアイドルユニットが揃って出演しようものなら、それだけでもインターネット上で「今回は輸血パック必須」などと茶化される始末だった。

 今し方のやり取りも彼女に琴線に触れたというわけである。スプーンを口に含んだままシード・リングは迷惑極まりないといった面持ちで眉根を寄せた。


「あの瞬間にうずいた親切心も女神イシュタルの思し召し――宿命フェイトという名の歯車で噛み合ったまでさ」


 何事もなかったように話を続けるンセンギマナは、初めてアップルシードと出逢った瞬間のことを『かいしんイシュタロア』の台詞の引用を交えながら振り返っていく。


「最初は観光客だと思ったよ。でも、あいつが担いでる物を見たら物見遊山でないことが一発で理解わかった。……というか、物騒丸出しで一般人とは絶対に思えないよ」


 ツカの全体に牛革を巻くという特徴的な木刀がアップルシードにとって旅のであったそうだ。白樫を削り出したと思しきは相当に使い込まれており、血痕らしき染みが散見される刀身にズタ袋の紐を括り付けて持ち歩いていたという。


「剣道家……だったんですか? でも、ンセンギマナさんを拳法の道に導いたって……」

「拳法以外に〝剣術〟の心得もあったんですよ。本人曰く、木刀はその頃の名残だとか」

「……ここまでの情報おはなしから考えると、アップルシードさんは日本の方だったりして?」

「仏教が浸透した国と聞いていたから十字架の首飾りを垂らしていたことには驚きましたがね。日本人は顔を見れば一発で見分けられますとも」


 ンセンギマナにとって――否、ルワンダという国家くににとって日本は親しき友人なのだ。義肢工房を牽引しているのも日本人であり、その人から簡単な言語ことばを教わっていればこそアップルシードにも声を掛けられたのである。

 よもや、慣れ親しんだ故郷の言語ことばをルワンダ人の口から聞くとは思わなかったのだろう。驚愕に目を瞬かせていたと、ンセンギマナは当時の反応リアクションを思い返して頬を緩ませた。

 アップルシードの目的地が義肢工房であった点もンセンギマナに宿命の邂逅と実感させる要因の一つであった。首都キガリに於ける工房開設に向けて奔走した日本人義肢装具士との面会を求めてルワンダまで足を向けたというのである。


「ビックリするくらい甘いマスクだって話してたよね、アップルシードのコト?」

のは見てくればかりではなかったがな。話しかけたのが俺で良かったが、初めて訪れる国でいきなり呼び止めてきた相手を疑うことなく信じ込むお人好しなんて強盗からすれば格好の餌食カモだ。勘だけを頼りにして方向を決める適当さも大概だが、よくぞアテのない旅を続けてきたとビックリするくらいたよ」

「万が一、襲われても返り討ちにできる自信の表れでしょ。油断じゃなく余裕ってヤツ」

「好意的に言い表すなら常に自然体というコトになるのだろうが……」


 スプーンを調理台の上に放ったシード・リングの口振りから察するに、彼自身はアップルシードとは面識がなさそうである。伝聞でのみ知っている情報に誤りがないか、ンセンギマナへ確認を取っているくらいなのだ。


「ちなみにこれは一般庶民の素朴な興味から訊くんですけど、アップルシードさんはご結婚のほうはどうなんです? というか、彼の年齢とは……」

「好みというか、残念ながらフィーナさんのように押しが強いタイプは苦手でしたよ」

「顔も知らない内からフラれたぁッ!」


 『甘いマスク』という言葉に惹かれたらしいフィーナの妄言と悲鳴はさておき――彼が卓抜した武術家だと判明した瞬間ときのことをンセンギマナは語り始めた。


「行き先も同じだから道案内を買って出たんだが、そのときにあいつは思いがけない場所で立ち止まりました。武術に心得のある人間ならではの場所とも言い換えられるかな」


 不意に歩みを止めたアップルシードが双眸で捉えていたのは空手の稽古場だという。

 内戦の終結から数年を経た二〇〇〇年当時も畳を敷き詰めた道場を構えられるだけの余裕はなく、ツギハギで拵えたから姿の青年たちが集まるのはトタン屋根の工場だった。地面にクッション材を敷くこともままならない為、頭から横転したら大怪我を免れないのだが、そのように危険な環境でもルワンダの空手家たちは一心不乱に稽古に励んでいた。

 空手を志す者が集まれば、そこは立派な稽古場なのである。


「空手って日本の武道ですよね? それがどうしてルワンダに?」

「さすがのフィーナさんもこれはご存知なかったか。空手そのものは一九八〇年代にはルワンダに伝わっていたのだよ。日本からやって来た青年海外協力隊に教えられてね」

「ああ、それでっ!」


 日本の空手がルワンダに伝来された背景について、フィーナは『青年海外協力隊』という単語キーワードから理解に及んだらしく、「これもまた人類愛」と何度も首を頷かせている。

 青年海外協力隊とは発展途上国に派遣され、現地の発展を支援する日本政府の取り組みであった。ルワンダに赴任した隊員が健全な心身の育成を目的として空手の普及に努め、内戦によって空白期間が生じたものの、争乱の終息以降は徐々に復活していった――そのようにンセンギマナは解説を付け加えた。


「あんまりジーッと眺めているモンだから稽古中の空手家たちに目を付けられたんですよ。木刀なんか持っていたから道場破りみたいに思われたのかも知れませんがね」


 尤もアップルシードが足を止めてしまった直接的な理由は稽古場で日本語が飛び交っていたからだという。無論、日常会話はルワンダの言語ことばであるが、組手を終えて一礼する際には日本語が用いられているのだった。


「それも空手という文化を伝えてくれた日本への――〝親しき友人〟への最大の敬意だと聞いたよ。フィーナさんの言葉を借りるならば人類愛だな」


 空手の稽古場で足を止めてしまった追憶のアップルシードとは反対に、料理を終えた三人はチーズステーキサンドやサラダなどを乗せたトレイを手に取ると、厨房設備ギャレーを出て撮影クルーたちが待機しているゲストルームへと歩を進めていく。

 撮影クルーと合流するまでの間はフィーナが手持ちの小型カメラで撮影を担当することになっている。必然的にンセンギマナの隣を歩く形となるわけだが、今頃、モニターには彼の横顔が大写しとなっているだろう。



 三人が調理の為に中座したゲストルームには撮影クルーを始めとして、子どもたちや暇を持て余した記者など大勢が残っている。その誰もがフィーナのカメラからリアルタイムで送信されてくる映像へ釘付けとなっているのだ。

 モニターに映し出されているのは、拳法家として目覚めるの想い出を明かしていくンセンギマナだ。彼は普段から穏やかな目元に溢れんばかりの優しさを湛えていた。

 希望を胸に復興へ邁進していく祖国について話していることだけが理由ではないだろう。日本という〝親しき友人〟との間に結ばれた絆を改めて噛み締めている様子であった。

 アップルシードに関心を持ったルワンダ人の空手家は、武術の心得があることを彼から聞きだすや否や、試合を申し入れたという。

 完全な他流試合であり、むしろ路上戦ストリートファイトにも近い状況であったのだが、その頃のルワンダの空手は復活へ向かう時期であり、試合を挑んだ青年も己の技を高めてくれるような対戦相手をガムシャラに求めていたのだろう。

 空手の炎が再び燃え上がり始めた頃の出来事――そのようにデボラは解釈した。


「挑戦したのは首都キガリでも名前の通った空手家でな。月並みな言い方になりますが、自分より強い相手に会いたがっていたってワケです」

「つまり、アップルシードさんが腕利きだと一目で見抜けるだけの強者――と?」

「察して頂けると彼も喜びますよ。ひたすら空手道に一途な男なので、ええ」


 異境の地で一戦を交えることになったアップルシードは、ンセンギマナに木刀とズタ袋を預けて稽古場の中心に向かい、そこで奇妙な姿を披露したという。

 挑戦者に相対し、次いで両掌を合わせるという独特な構えを取った――モニターの向こうからそのように聞かされたデボラたちは小首を傾げたのち、物は試しとばかりに一斉に左右の掌を合わせた。それは仏教でいうところの『合掌がっしょう』に他ならない。


「相手はキョトンとしてましたけどね、別に虚仮脅しでも、念仏唱えて挑発したワケでもない。それがの構えなのです」

 素早い足さばきでもって接近と離脱を繰り返しながら出方を窺っていた空手家のほうも不可思議としか表しようのない合掌の構えに戸惑いを隠せなかったそうだ。

『空手』と一口にいっても、その系統は幾つも枝分かれしている。圧倒的な破壊力と技によって相手を粉砕せしめるフルコンタクト空手の知名度が最も高いだろう。ルワンダに伝えられたのは『伝統派』と呼ばれるものであり、必然的にこれを踏襲した様式スタイルで完成されていく。己にとって最も有利な間合いを迅速に掌握し、突きや蹴りに代表される打撃技だけでなく投げ技なども併用して戦略を組み立てるのだった。

 アップルシードに挑戦した青年も打撃と組技の両方を備えていたようである。

 中段と上段、それぞれを狙う回し蹴りを小手調べとして繰り出したのち、一気に踏み込んで右拳を突き入れたが、それは相手を惑わす為のフェイントだった。殴打と見せておいて対の左手でシャツの生地越しに腰のベルトを掴んだのである。突きに用いた右手もすかさず五指を開いて後ろ襟を捉え、投げに変化する――臨場感溢れるンセンギマナの語り口を元に頭の中で両者の立ち回りを想像するデボラは、我知らず握り拳を作っていた。

 ルワンダの青年が優れた空手家であることは疑うまでもないが、アップルシードはそれよりも遥かに高い次元に立っていたようだ。

 彼に脇腹を軽く小突かれただけで、空手家の側は芯を抜き取られたように呆気なく膝から崩れ落ちてしまったというのである。相手の姿勢を崩すべく組み付いたというのに逆の結果に終わった次第である。

 息つく間もない接近戦であろうと想像を膨らませていたデボラは、人智を超えた展開に椅子から転げ落ちそうになってしまった。


「キレて喧嘩を売ったわけではないし、賭け試合でもないから周りも八百長いかさまを疑ったりはしなかったが、みんなしてバカみたいに固まっていましたよ。勿論、俺自身もね」

「そりゃそうでしょう。〝掴み〟としては最高のインパクトですよ」


 映像が上下に揺れたのはンセンギマナにレンズを向けるフィーナが首を頷かせた所為せいだ。

 彼の説明を信じるならばアップルシードは指先一つで空手家を仕留めたことになる。ほんの軽く突いただけで全身から力がけて腰を抜かすなどフィクションの世界でしか有り得ないことではなかったのだろうか。モニターを眺める面々が「漫画じゃあるまいし」と戸惑いを口にするのは当然だった。

 崩れ落ちた当人も己の身に何が起きたのか、全く理解できていなかっただろう。放心状態で双眸を瞬かせるルワンダ人の姿をデボラは頭の中で思い描いた。


肉体からだの痺れが取れるなり速攻で再戦挑んでましたよ。当然のように返り討ち。結局、陽が暮れるまで同じ結果が繰り返されましたがね、アップルシードのがそうさせるんでしょうなァ、怪我はさせずに軽くいなして、最終的には技術指導になってましたね」


 ンセンギマナの説明はなしによれば、自分は空手家ではないと前置きしつつ身のこなしなどを指導していったそうである。彼から教えられた通りに動くと速度スピードや柔軟性が実感し得るほどに撥ね上がり、稽古場が歓声で包まれたとンセンギマナは誇らしげに語った。

 即ち、動作うごきの癖などを一目で見極められるような慧眼の持ち主という証明あかしであった。


「空手家のほうも『こりゃあ、敵わねぇ』って最後は気持ち良さそうに笑ってましたよ。本人は互角に闘えると考えていたみたいだが、さすがに自分を高く見積もり過ぎたな」

「そして、ンセンギマナさんは生まれ育ちを超えて彼の才能に惚れ込んだんですね?」


 正面に回り込んだフィーナがレンズの中心に捉えたンセンギマナは、問われたことへ肯定を示すようにして照れ臭そうにはにかんだ。


「……フィーナ・ユークリッド……この人、まさか……?」


 ンセンギマの話に耳を傾けながらアップルシードなる人物を思い描いていたデボラの脳裏に一つの疑問がよぎった。

 北米アメリカのMMA団体が置かれた現状を敢えてンセンギマナたちにただしたのは、その問いかけを切り口としてンセンギマナの経歴に触れ、更に別の話題はなしへ持ち込む為の策であった。

 日本人が開設に尽力したというルワンダ首都の義肢工房のことも、シドニー五輪パラリンピックに出場した水泳選手のことも、本当は自分の力でンセンギマナから引き出そうと考えていたが、その一切がフィーナによって語られたのである。

 極限にも近い混乱の中で彼女デボラが捻り出した計略をフィーナが引き継いだ恰好なのだ。

 先程もフィーナは「生まれ育ちを超えて」とわざわざ回りくどい表現を用いたが、それは国の垣根を超えることと同義であり、ひいては人種の壁をも取り払おうとモニターの向こう――つまり、自分たちに促したのではないだろうか。

 甲高い声と共に驚愕の顔がモニターへ映し出されたときは意図が掴めず困惑させられたのだが、ひょっとするとあれは〝小娘の浅知恵〟を見破った瞬間だったのかも知れない。


(……所詮、箱庭遊びの似非えせシオニストの娘――私の限界がこれ……)


 通路みちの途中で出くわした数名の警護班シークレット・サービスをフィーナのカメラが捉えたのは、心の内側を見透かされたような気持ちになったデボラが我が身を掻き抱いたのと殆ど同時であった。

 エアフォースワンの内部に仕掛けられた爆発物を調査している最中であろう彼らはンセンギマナに気付くと、頭頂あたまのてっぺんから爪先までねぶるように凝視し始めた。めつすがめつ眺められる理由も含めて意味不明だが、相手の顔面には一様に「怪訝」の二字が貼り付いている。


「俺の顔に爆弾でも埋め込まれているのか? 探知機に掛けてくれても構わんが?」


 大統領に仕えている立場とは思えないほど不調法な態度の理由を質された警護班シークレット・サービスは気まずそうにこうべを垂れると、答えも返さないままレンズの外に抜けていった。

 不可解としかたとえようのない行動といえよう。そこに穏やかならざる気配を感じ取ったシード・リングは、暫くは立ち去っていく背中を睨んでいたが、程なくしてカメラの正面に顔を振り向かせなくてはならなくなった。


「そう言えば……シード・リングさんとンセンギマナさんは、その頃からのお付き合いなんですか? 元々、『ヌーベ・プエブロ』の聖地を探して旅していたんですよね?」


 次にモニターへ大写しとなったのはシード・リングの顔である。


「そんなワケないでしょう。アメリカからアフリカまでブッ飛んじゃったら、人類史上稀に見る方向音痴じゃないですか。ボクがこいつと出会ったのはここ数年のコトです。それまではアップルシードと旅をしていたんだよな」

「その言い方は混乱を招くぞ、相棒カリエンテ。確かにアップルシードにくっついてあちこち回ってはいたが、それもアメリカの道場に入門するまでだよ。二年あるかどうかってところだ」


 神業としかたとえようのないアップルシードの強さに衝撃を受けたンセンギマナは、シドニー五輪パラリンピックを闘った義足の水泳選手を通じてスポーツの素晴らしさに目覚めたこともあり、アテのない旅をしているという彼に同行させて欲しいと頼み込んだのである。

 いわゆる、押し掛け弟子のような形だ。大抵は弟子など取る気はないとに断られ、懸命に食い下がることでようやく許しを得るものだが、アップルシードの場合は拍子抜けしてしまうほど軽く了承したそうだ。


「二年ばかり世界各地を経巡ったよ。……行けなかったのは日本くらいだ」


 ンセンギマナの話によれば、二人はアフリカ大陸を抜けてヨーロッパを一周し、ロシアから中東圏を踏破した上にカンボジアまで足を延ばしたという。子どもたちからすれば、ただそれだけでも大冒険旅行のように聞こえるが、日本以外は回ったと明言しているのだから、この道程も序の口であろう。彼らは永久凍土も旅したというのである。

 世界旅行と聞いたデボラは反射的に観光地巡りを連想してしまったが、二人はアップルシードと交流のある道場やジムを訪ね歩き、現地に根差した格闘技との技術交流を繰り返していたそうだ。

 その中には当然の如く他流試合が含まれている。そして、アップルシードは全ての闘いに圧倒的な強さで完勝していったとンセンギマナは誇らしげに語った。

 どの土地でもルワンダと同じことが起きた。拳を交えた者たちがアップルシードを取り囲み、技術指導を求める輪を作ったのである。その情景もデボラには容易く想像できた。


(……スゴ過ぎ……つむぎちゃんが創った世界、現実でやったってコト……)


 伝聞からでもアップルシードという男の人間的な魅力が十分に伝わってくるのだ。鬼神もかくやと思わせるような強さとは裏腹に穏やかな笑顔を絶やさない姿をデボラは想像していたが、おそらく大きく外れてはいないことだろう。誰に対しても分け隔てなく接する優しさから周りの人間を惹き付けずにはいられないのだ。


「人種も国籍も超えてでっけぇ輪を作るって、なんかカッケェな……!」


 デボラのすぐ近くでは同い年の男の子が目を輝かせている。他の子どもたちもンセンギマナの話にすっかりのめり込んでおり、彼と同じ感想を抱いていることも瞭然だった。見れば、失言してしまった男性も含めて記者たちまでもがその言葉に首を頷かせていた。

 皆が自分と同じ気持ちであることを確かめ、〝一つの輪〟で結ばれたことを実感したデボラは、誰にも聞こえないよう小さく安堵の溜め息を零した。

 果たして、その旅路こそがンセンギマナにとって本当の意味での〝出発地点スタートライン〟だった。

 アップルシードの〝けん〟へ完全に魅せられたンセンギマナは、己もその軌跡を追い掛けたいと本格的な修行を願ったのだ。旅の道中でも基礎は教わったが、もはや、それだけでは満足できなくなっていたのである。

 確かに義足というハンデは大きい。激しい動作が不可欠となる格闘技の世界に於いては相手におくれを取る要因ともなり兼ねない。むしろ、その可能性は限りなく一〇割に近いだろうが、ひとたび、心に宿った闘志を自ら否定することなどできようはずもあるまい。

 そのときにもアップルシードはンセンギマナの意志を認め、必ず力になると約束してくれたそうである。しかし、彼に伝授するのはあくまでも〝拳法〟の基礎のみに留め、己自身の絶技わざだけは頑なに教えようとしなかった。代わりにアメリカはカリフォルニア州サンノゼに所在する知り合いの道場を紹介した――それこそがアメリカン拳法の道場であり、ンセンギマナの〝けん〟の始まりであったわけだ。

 こんにちのアメリカン拳法は数多の系統に分かれており、『ケンポーカラテ』や『アメリカンカラテ』など呼称まで様々である。ンセンギマナが紹介された道場の創始者は北米アメリカに於いて伝説の拳法家として知られる麒麟児の愛弟子であり、更にはアメリカン拳法の祖に当たる人物の血族にも直接的に手ほどきを受けたというのだ。

 それはつまり、様々に系統が分かれたアメリカン拳法の中でも限りなく純度の高い流派であることを意味している。


「……アップルシード本人はも何もかも放り出して闘わなくて済む理由を探し求めていたんですよ。もう闘わなくて良いのだと自分自身を納得させられる理由をね」

「なんとォっ⁉」


 ネイティブ・アメリカンの末裔のように部族の悲願を託されているわけでもなく、〝極めて優れた武術家〟という点を除けば一般人と変わらないはずのアップルシードが木刀を担いで世界中を旅しなくてはならなかった理由を教えられたデボラは、思わずモニターに向かって素っ頓狂な声を上げてしまった。

 ンセンギマナが明かしたのはアップルシード本人が以前に吐露していた本当の思いであるが、〝極めて優れた武術家〟の真意として、それは余りにも意外な内容ものであったのだ。

 指先一つで対戦者を無力化させるような絶技わざを体得するまでには壮絶なる修行を積んできたはずだ。それにも関わらず、己の存在する意義を否定しようというのだから矛盾以外の何物でもあるまい。


首都キガリの義肢工房を訪ねたのも、その一環みたいなモンでしたよ。どうしても争いが避けられずに終わったとき、一体、人間ひとは何をすべきか――その答えを求めて、あいつはアフリカの大地を踏んだのですから」

「す、すごい……自分のしていることがちっぽけに思えてくるスケール……っ!」


 トークを盛り上げる為には厳戒態勢のエアフォースワンからでも取材を敢行するフィーナでさえアップルシードには脱帽させられたらしく、モニターに映し出される映像が上下左右に揺れ始めた。カメラを持つ彼女の手が小刻みに震えている証拠である。

 元々、世界中を旅して歩いていたとはいえ、義肢工房で働く人々から話を聞く為だけに内戦の混乱が終息し切っていないルワンダまで足を延ばす行動力は尋常ではあるまい。


「――『摂理のレフ』のイシュタロアになった『わたるクン』と同じ……知らぬ世界、己の目で確かめなくては何も理解わからない……その為、危険承知で我が身さらして――」


 アップルシードの探究心に触れたデボラは何やら不可思議な言葉を並べていたが、正確に意味を理解できる者は周りには誰一人としておらず、同い年の子どもたちからも首を傾げられてしまっていた。


「……あいつは究極の求道者なんですよ。少なくとも俺の目にはそう見えた。〝けん〟という名の宿命を背負っていればこそ『闘うこと』とは何なのか、いつだって己に問い続けていました。そうすることで己が生まれてきた意味を確かめていたような気がします」


 『闘う』ということ――それは原始的な本能に心身を委ねる破壊の衝動なのか。己の意志と思考に基づいてふるわれる目的達成の〝手段〟なのか。

 とも言い換えられた呪いに縛られ、その果てに導かれた愚かしい輪舞であるのか――どれほど自問しても答えを得られなかったというアップルシードは、一種の哲学のように同じことをンセンギマナにも訊ねていたそうである。


「闘う意味を問い続けた結果、誰よりも強くなること――未来を目指すことに全身全霊を傾ける『格闘家おれたち』とは正反対の〝道〟を歩まざるを得なくなったのですがね……」

「それが一人の武術家として幸せだったのかどうかは分からない――と?」


 だからこそ、己の〝けん〟だけは頑なに伝授しなかったのだろうとンセンギマナは頷き返した。むしろ、そのことは彼にとって幸いであったのだろう。アップルシード本人ではなくサンノゼの道場にて得たものは、そのまま人生の糧ともなったわけである。

 アメリカン拳法の道場に住み込みの門下生として迎えられたンセンギマナは、良き師匠にも、切磋琢磨できる仲間にも恵まれ、義足というハンデなど少しも苦に思わない最高の環境で稽古を重ねていったのだ。

 以前にデボラが伝え聞いた話によれば、ンセンギマナは道場でも頭抜けた猛者で、師範の一角として新しい入門者の教育を任されているそうだ。師匠や仲間の期待に応える為、人生の恩人に報いる為――熱い思いを胸に心技体を磨き続けた成果というべきであろう。

 アメリカン拳法の師匠である道場主から一世紀に一人の逸材とまで言わしめた才能は総合格闘技MMAの世界に於いても五体満足の選手を片端から退けた戦績が証明している。


「わたしの手元に届けられたレポートによれば、道場ではンセンギマナさんから指導を受けたいと後輩たちが輪を作っているとか――」


 即ち、大恩人であるアップルシードにそっくり同じというわけだ。デボラは先ほど頭の中に思い描いた場景をンセンギマナと置き換えてみたが、全く違和感がなかった。これもまた彼の〝器〟というものであろう。


「――ンセンギマナは引っ張りだことも伺いましたが、周りからそこまで慕われるというのは、きっとアップルシードさんにとって何にも勝る恩返しでしょう」

「ま~だまだ俺は返し足りちゃいません。ここで満足したら恩師あいつに顔向けできやしない」


 アップルシードと肩を並べたかのようにフィーナから称賛されてしまったンセンギマナはさすがに照れ臭くなり、くすぐったそうに頬を掻いた。


「師範って肩書き背負ってるワリに道場には全ッ然いないんだけどね。アップルシードに触発されて、だだっぴろ北米アメリカ大陸を徒歩あるきで旅する武者修行ってね。その最中にアリゾナ平原のド真ん中でボクと知り合ったってワケですよ」


 相棒ンセンギマナが褒められた場合、その状況を丸ごとひっくり返すのがシード・リングの役割しごとである。人里は言うに及ばず道路からも遠く離れた荒野の只中で行き倒れていた彼を偶然に見つけて干し肉でと想い出話を明かし、一連のやり取りに始末オチを付けたのだった。

 真面目な話を茶化されてしまったンセンギマナはさすがにぐちとなった。普段は軽口と思って聞き流せる冗談も人生の恩師が絡めば必然的に受け止め方も変わるだろう。


「――それも一つの人類愛ですよ。そうです、愛なのですッ」


 このままではテレビで放送できなくなるような口論に発展すると直感したフィーナは、「人類愛」という印象的な言葉を駆使して一連のやり取りを総括した。こうした見極めは名物司会者ならではの技といったところであろう。

 その機転は非の打ち所がない。しかし、どうにも恰好が付かない。首の付け根の辺りをしきりに叩くフィーナは鼻にティッシュを詰めているが、それがドス黒い塊と化しているのだ。このようになってしまった理由は改めてつまびらかとするまでもないだろう。「干し肉で相棒を」という状況シチュエーションに接して興奮が決壊してしまったらしい。

 ゲストルームにて待機する人々の目には、その姿こそが放送事故のように映っている。


「人類愛て美辞麗句使ってご自分の妄想誤魔化そうとした――そんな顔ですけど、大丈夫です? ご自分がどんな顔か、コンパクトお貸しするので確かめてください」

「帰って早々にこの猛攻撃ツッコミ! コンパクトの前に替えのティッシュが欲しいかな!」


 フィーナの有り様に呆れの溜め息を吐いたのはデボラその人である。ンセンギマナとシード・リングが出会った経緯が語られる頃には三人とも彼女デボラの目の前――ゲストルームまで戻っていた。

 モニターに映像を送信していた小型カメラもフィーナの手を離れ、三人の姿は室内にて待機していた撮影クルーがレンズの中心に捉えている。

 厨房設備ギャレーで調理してきたチーズステーキサンドをテーブルに置いたフィーナは子どもたちを順繰りに見回していった。エアフォースワンを標的とした爆弾テロが『九・一一』の再来ではないかと恐怖に引きっていた子どもたちの顔にはすっかり生気が甦っている。アップルシードとの想い出を嬉しそうに語り続けてきたンセンギマナの明るさがモニターを通して彼らにも伝わった様子なのだ。

 次いでデボラと目が合ったフィーナはウィンクを披露した。

 デボラの側は心の奥底を覗かれたのではないかという葛藤を抱えていたのだが、それが確信に変わったことで濁流の如く羞恥の念が押し寄せてきた。こうなると居た堪れないような気持ちに抗うことは難しく、ついにそっぽを向いてしまった。

 何ともいじらしいデボラの様子を微笑ましく見つめていたフィーナだが、再びンセンギマナと向かい合ったときには別人のように表情を切り替えている。バラエティー番組よりもドキュメンタリー番組のほうが似つかわしいような厳めしい面持ちであった。


「……故郷ルワンダの話を切り出したので、内戦のコトが中心になるかと思いましたが……」


 チーズが垂れないよう注意深く牛のもも肉にかぶり付こうとしていたンセンギマナは、大きく口を開けた状態のまま「なんで?」と言わんばかりに首を傾げた。

 デボラも一度は背けた顔を勢いよく振り向かせている。フィーナが口にしたのは彼女自身がンセンギマナに問うべきか控えるべきか、迷い続けてきたものなのである。

 それすらもフィーナは引き受けてくれたというわけだ。


「ルワンダにとって民族の問題、、はどうしても欠かせないでしょう? ……アップルシードさんが立ち合ったという空手家の青年、四肢は無事だったのですよね。それって――」

「――同じルワンダの民です」


 今度こそチーズステーキサンドを頬張り、口の中を満たしていく肉汁とカレーの香りに全身を震わせながらも、ンセンギマナはフィーナの声を強く遮った。

「同じ故郷に生まれ、共に育った『ルワンダ』の人間だからこそ苦労を分かち合い、一緒に未来の道を歩んでいけるんですよ、フィーナさん。は誰も何も変わらない」


 司会進行を務めるフィーナを制したのは、憧れの人でもある彼女が世間から不名誉な誤解を受けないようにする為の配慮であった。

 ルワンダ内戦は国家くにを構成する民族間で発生した紛争という説明で片付けられるほど単純ではない。他国の思惑まで絡むなど極めて複雑な背景のもとで起きた〝国家的悲劇〟であり、この点を踏まえずに不用意な言葉を述べようものならば、フィーナ本人どころか、番組のイメージにも修復不可能なきずが付き兼ねないのだ。

 ンセンギマナとしては、そのようなことだけは絶対に言わせたくなかったのである。


「……それもまた――人類愛……ですね……」


 自らの浅慮とンセンギマナの気遣いを悟ったフィーナは恥じ入るように顔を俯かせた。さりとて司会進行が沈黙するわけにもいかず、仕切り直しとばかりにチーズステーキサンドへかじり付き、次の瞬間にはソファに座ったまま全身を仰け反らせた。

 人間ひとの言葉として成り立っていないような悲鳴を上げて悶え苦しむ姿からも察せられる通り、『ロシアンルーレット』が命中したのは司会進行その人だったのである。

 肉を調理したのはフィーナ当人だが、最初からハズレと分かってしまうとゲーム性が損なわれる為、同じ包み紙で皿を覆い隠し、更にはテーブルに置く段階でシャッフルさせていた。不幸にも火の玉さながらのステーキを引き当て、口内が炎上した次第である。

 床の上に転げ落ち、一本釣りされたのちに甲板の上で暴れ回る魚の如き勢いで何度も何度も跳ねる姿にはゲストルームの誰もが爆笑を抑えられなかった。


「ユークリッドさんが気を使うのも無理ないさ。……民族間の問題は地上で一番難しいし、普通に考えたら永久に解決し得ないよ。ルワンダのケースはまさしく奇跡だ――」


 もはや、ハズレはないと安心し切った顔で自分に割り当てられた分を口にしたシード・リングは、重苦しい調子でフィーナの発言を庇ったが、僅か数秒後には声を発すること自体が難しくなってしまった。

 彼もまた舌と喉を容赦なく焼かれていた。『クイックドロウ・ロシアンルーレット』の実施に当たってフィーナは密かにハズレの肉を二枚も仕込んでいたのだ。ハズレが残っているとは想像できるはずもなく、少しの警戒もなく牛のもも肉を噛み締めた為、文字通りの不意打ちを喰らった次第である。

 ソファの背もたれに抱き着きながら悲鳴を上げる姿からは想像し難いものの、彼も『民族の対立』がどれほど過酷で陰惨であるかを理解する一人であった。

 シード・リングはネイティブ・アメリカンの末裔である。

 歴史上、先住民と開拓民が築いた社会との間にはアメリカ大陸全土を巻き込むような葛藤があった。現代に於いてもは完全に解消されたわけではなく、複雑な問題として横たわっている。超大国が発展する過程でネイティブ・アメリカンがは、こんにちに至る建国史が証明しているのだ。

 カメラの後ろ側で収録を見守っていたデボラも「民族間の問題は地上で一番難しい」というシード・リングの言葉に思うところがあったのか、眉根を寄せつつ唇を噛んでいる。ネイティブ・アメリカンの末裔がこぼした一言の裏には〝歴史〟があり、その重みが彼女の心に圧し掛かっていた。

 そもそも、だ。ルワンダ内戦にちなんで『民族間の問題』をンセンギマナに問い掛けようと考えていたのはデボラ自身なのである。結果的として辛い役回りをフィーナへ押し付けてしまったことに負い目もあり、 二重の懊悩に囚われているのだった。


「ルワンダ人の俺が問題ナシと言っているのに、お前たちのほうが深刻に悩んでどうするんだ。今まで気にも留めなかったんだが、海外そとからは〝そういう風〟に見えるのか?」


 デボラの心に垂れ込め始めたドス黒いもやを一息で吹き飛ばしたのは、「やはり」というべきであろうか、ンセンギマナの陽気な声である。チーズステーキサンドを最後の一切れまで平らげた彼は急ごしらえの観覧席に向けて「この中で『NSB』の試合を観たことが人はいるかーッ?」と大声で尋ねた。


「俺の試合じゃなくても構わないし、現地でもテレビでも何だって構わない。『NSB』の興行イベントを観戦したって人は教えてくれーッ!」


 MMA観戦が趣味であるらしい記者の一人が勢いよく挙手しようとしたが、それよりも早く女の子が「パパと一緒にネットから見ました」と声を上げた。『九・一一』の再来という恐怖でパニックを起こし、引率者に縋りついて泣きじゃくっていた子である。あれから一時間程度しか経っていないのだが、『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』の収録を見学している内に落ち着きを取り戻せたらしい。

 『NSB』なる団体名なまえを耳にした途端、弾かれたように女の子へと首を振り向かせたデボラは、その元気そうな様子に目を細めた。口元には安堵の笑みまで浮かべている。


「見ての通り、俺は右の太腿から下が無い。シドニーで闘ったスイマーと同じような義足の選手ってヤツだ。五輪パラリンピックのように〝同じ条件〟の選手同士ならば『NSB』以外の団体でも対戦カードが組めるかも知れん。だが、俺は五体が満足な選手たちと〝互角の条件〟で闘わせてもらっているのだよ。……それはどうしてだと思う?」


 デボラがくだんの女の子からンセンギマナに目を転じたとき、彼は右足の裾を膝の辺りまでめくり上げていた。当然ながら露となったのは歩行を支えている義足だ。それも、競技用ではなく日常生活の中で使用している物である。

 生身の足を模った形状であり、全体に白い塗装が施してあった。膝の部品だけは黄色く塗り分けているのだが、遠目には中世ヨーロッパの騎士が装備していた脛当てのように見えなくもない。人工の膝関節は機械式であり、複雑な運動にも対応し得るようであった。


「義足でも健常者と互角以上に闘えるくらいアメリカン拳法が強いからっ!」


 ンセンギマナの質問に答えたのは「カラ道場ドージョーに通ってます!」という自己紹介を前置きのように挟んだ男の子である。こちらはMMAの試合こそ観戦したことがないものの、アメリカン拳法家の存在を知っていたようだ。


「そうとも、アメリカン拳法はオールラウンドでオールトップな世界最強の格闘技だよ。エアフォースワンにちょっかい出そうなんて悪者は竜巻みたいな教育的指導をお見舞いしてやろう。……だがな、少年よ、ただ強いだけでは格闘技の試合は成り立たんのさ。俺が『NSB』に出場できるのは、観客席からは見えない裏舞台で色んな人たちが力を貸してくれたお陰なんだよ――」


 男の子の回答こたえに力こぶを作るような仕草ゼスチャーで応じるンセンギマナだが、己の戦歴を語るのかと思いきや、全く別の言葉を用意していた。

 どんなに拳法家として優れていても、自分一人の力だけではMMAという世界には立てなかったと噛み締めるように説いたのである。


「――そこで転げ回っている相棒カリエンテは勿論、競技用の義足を一緒に考えてくれた工房の仲間たちも、試合のときには相棒カリエンテと一緒にセコンドに付いてくれるシルヴィオ先生も……みんなの支えがあって、初めて俺は闘えるんだ。……その筆頭が『NSB』のエルフェンバイン副代表だよ」


 『エルフェンバイン』という家名ファミリーネームがンセンギマナの口から飛び出した瞬間、デボラは今までにない反応を見せた。双眸を見開いたかと思えば、たちまち頬を興奮の色に染め上げていく。珍しい玩具を前にした幼児こどものように身を乗り出し、彼の話を一字一句として聞き漏らすまいと呼吸まで最小限に抑え始めたのだ。

 その様子をフィーナが微笑ましそうに見つめていることなどデボラは知る由もなかった。


「副代表が力を尽くしてくれなかったら、MMAなんて夢のまた夢だった。どれだけ参戦を熱望したって義足の選手を受け入れるルールが整っていなけりゃ、MMAの世界に〝居場所〟がないのと同じだからなァ」


 エルフェンバインなる人物が『NSB』にて名乗る肩書きは副代表だが、この役職に就いた人間は冷暖房完備のオフィスで気楽な書類仕事をこなしているわけではない。連邦及び州政府との折衝など権限に見合った難題を任されており、同時に『NSB』の試合に課せられるルールの策定を主導する立場でもあった。

 所属選手やそのスタッフから的確に意見を吸い上げ、ときには格闘技興行を野蛮なものと決め付ける各界有力者たちの懸念をも採り入れ、万人に受け入れられる規定を作り上げていくという重責の担い手なのだ。

 だからこそ、ンセンギマナは自分の義足を掌で叩きながら「俺の〝誇り〟に寄り添ってくれた守護神ガーディアンと言えるのかも知れん」と破顔したのである。

 義足の選手が健常者と全く同じ条件でリングへ上がることは、ルール策定に従事していない一般人の想像を遥かに凌駕するくらい多くの課題を抱えている。「健常者と同じように動くことができる」という一点だけでは安全面に於いて確かな保証となり得ないのが難しい部分であった。

 事実、義足の拳法家ンセンギマナの出場申請について『NSB』も当初は慎重であった。試合中に義足が破損してしまった場合には修理や交換が済むまで一時的な中断といった措置を要するわけだが、それは緊迫した攻防を停滞させることであり、相手選手に対する負担も極めて大きい。会議では身体面の課題は解決しようがないという声も上がったほどである。

 その難題を突破したのが副代表エルフェンバインであった。肉弾戦という大きな負荷に義足の耐久性が対応し切れるのかという実験など、ありとあらゆる検証テストを実施し、また先例も細かく調べ上げて義足の選手ンセンギマナが健常者と同じ〝場〟に立てるようルールを調整したのであった。

 アメリカでは国を挙げて心身にハンデを持つ人の自立を支援している。これを貫き通したエルフェンバインの熱意は、ンセンギマナの参戦に慎重だった団体幹部たちの心まで動かしたのである。

 あまつさえ、彼はMMAの試合に最も適した義足の開発まで援助したのだ。義足の選手を受け入れてくれたにもンセンギマナは心から感謝しているが、『NSB』の中で最も敬っているのはエルフェンバイン副代表その人であった。


「――俺は出逢いに恵まれている。それが人生で一番の自慢だよ。でもな、これだけは間違えないでくれよ。俺一人がラッキーだったワケじゃない。みんな、同じなんだ」


 上体を大きく傾け、頭部あたまを前方に突き出しながら子どもたちを見回したのち、ンセンギマナは「みんながみんな、特別な絆と出逢っている」と繰り返した。


「考えてみてくれ。今、エアフォースワンの機内なかで何が起きている? 警護班シークレット・サービスは爆弾を捜し回っているし、今頃、地上では連邦捜査局FBIがテロリストを追い詰めているハズだ。それもこれも誰の為? 合衆国大統領ポータスの為か?」

合衆国大統領専用機エアフォースワンに乗り込んだ全ての人たちの安全の為――そう信じています」


 ンセンギマナの言葉に頷き返したのは、子どもたちに付き添っている引率者の一人だ。

 空中で爆弾テロの脅威にさらされるという極限状態であろうとも、事件解決に向けて全力を注いでいる専門家プロフェッショナルたちに任せておけば何の心配もない――ンセンギマナに答えを返すという形を取りながらも、引率者は子どもたちを励ますことが目的ねらいであったらしい。

 その声は年少者に教え諭すように穏やかで、鼓膜へ染み入るくらい優しかった。


「善良で思慮深く、他人にも手を差し伸べずにはいられない尊敬できる人たちで溢れているのだよ、この世界は! 己の仕事に誇りをもって打ち込むプロフェッショナルを信じていれば絶対に大丈夫! ……俺が『NBS』という光の道を歩んでいることは、プロの仕事に限界なんてないコトのにならんか⁉」


 機内で発生したのが建国以来の難事件であろうとも必ず解決されると断言し、全幅の信頼を表すように左胸を叩いたンセンギマナへゲストルームの誰もが迷いなく頷いた。シード・リングが口にした『民族間の問題』を想い出して躊躇ためらう人間も見られなかった。そのことを自分の双眸で確かめた彼はとろけるような笑顔を浮かべている。


「スケールが大き過ぎるかも知れないが、極端に言えば俺たちは誰もが地球人。同じ世界で生まれた家族だよ。自分の為に家族が何かをしてくれたら嬉しいだろう? 自分だって家族に何かあったら絶対に助けたい。そんな想いをどんどん繋げていきたい――そう願う心の働きは人類で共有ってコトだよ。そして、それこそが家族の絆だッ!」

「……大統領スピーチに匹敵する人類愛のお話ですけど、今の台詞、殆ど『かいしんイシュタロア』のパクリでは? 第一期一二回クライマックスシーンでつむぎちゃんがラスボスの生徒会長エンプレス説得するときの名台詞まんまじゃないですか」

「やはり、デビーは見どころがあるッ! そうとも、俺のバイブルだッ!」

「いえ、そういうのでなくですね、パクリは控えたほうが良いって……」


 際限なく壮大に広がっていくンセンギマナの話を押し止めたのはデボラの指摘ツッコミである。

 彼女が口にした『つむぎ』や『ひまわり』とは、フィーナとも旧知の間柄であるという日本人声優、希更・バロッサが主演を務めたアニメシリーズの登場人物らしい。そのことはンセンギマナ当人の相槌によって証明されている。

 無論、シード・リングにはンセンギマナが『かいしんイシュタロア』の台詞を引用したことも分かっていた。相棒かれが仰々しい言葉を吐くときは、殆どの場合に於いてくだんのアニメの登場人物になり切っているのである。先程の台詞も幾度となく聞かされており、憶える気がなくとも脳へ刷り込まれてしまっていた。

 他の人々はンセンギマナの言葉を単純に芝居がかった雄弁と受け止めていたが、デボラだけがシード・リングに極めて近い反応を示したわけだ。あるいはその本質を「ンセンギマナの同類項なかま」と表すべきかも知れない。


「見どころがあるというデボラさんはMMAの事情だけじゃなくて日本のアニメにもかなり詳しいんだね。『かいしんイシュタロア』の全シーンを丸暗記してるみたいだし?」

「そ、そ、それはッ!」


 シード・リングから茶化すような調子で指摘ツッコミを入れられたデボラは、比喩でなく本当に上体を反り返らせながら後退あとずさった。冷静沈着としか思えなかった少女がここまで分かり易く取り乱すということは、それ自体がンセンギマナの同類項なかまという証明であろう。


「俺は今、猛烈に感動しているぞ! 『かいしんイシュタロア』という人類の聖典に心を揺さぶられたこと! それは俺とデビーが地球の絆で結ばれた何よりの証拠だッ! 同じ人類だからこそ! 俺たちは感動を分かち合えるのだよッ!」 

「人類みな家族みたいな話でまとめようとすんなって。相棒おまえの場合、〝同じ星の住人〟を見つけてテンション上がってるだけだろ~に」

「で、ですから! わた、私はだから! た、たまたま……そう、たまたまっ! 友達の家で観た場面印象に残ってただけっ!」

「その友達も誘って全話上映会を開きたいものだ! 夢のような時間になるぞォッ!」

「――ひょわっ⁉」


 必死になって言い訳しようとするデボラの身体を持ち上げたンセンギマナは、遠慮も内にもなく二度目の頬擦りを見舞った。一回りは年齢としが離れているだろう少女に対し、同じアニメのファンという意識から身内のような感覚が芽生えたらしく、一等馴れ馴れしい態度に変わったわけだ。

 尤もシード・リングはデボラと相棒が同類項なかまであることなど早い段階で見抜いていた。収録の序盤に土産としてフィーナに渡された希更・バロッサのポスターに逸早く反応したのも彼女であり、ンセンギマナが『かいしんイシュタロア』の台詞を引用する度に奇妙な鼻息を噴出させていたのである。

 ふとフィーナの様子を窺えば、「シード・リングさんもですか」とでも言いたげに薄く微笑んでいるではないか。彼女にもデボラの思考が手に取るように分かったらしい。


「デボラがンセンギマナに言わせたかったコト、ユークリッドさんは全部分かっていたのでしょう? ちょっとあからさまってくらい〝そっち〟に話を振りまくってましたし」


 シード・リングから小声で尋ねられたフィーナは「あなたのほうこそ」と笑い返した。


「……彼女のが味わってきた苦しみ、〝ボク〟にも他人事じゃありませんから……」


 シード・リングが口にした「デボラの先祖が味わってきた苦しみ」という言葉にフィーナは神妙そうに頷いた。ンセンギマナに頬擦りされている少女がニューヨーク州ブルックリン区の出身であろうことを彼女も察していた。独特なテンポの喋り方や白雪のように美しい肌の色からして、迫害を逃れてドイツより移り住んだ民族の末裔に違いない。

 『デボラ』という名前もくだんの民族の間ではポピュラーであったと記憶している。


「取っ付きにくそうな雰囲気だけど、心根が清らかな子ですね、デボラは」

「大人なんか頼り甲斐がないって言われているようでちょっぴりショックかなぁ。チェスの駒みたいに頭脳あたまで動かさなくたって、わたしたちは力になったのになぁって」

「頭脳明晰と不器用は表裏一体ってコトもありますから。……トラブルが起きたときには自分一人で責任を背負うつもりだったんでしょう。あの思慮深さ、相棒ンセンギマナに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいです」

 祖先の歴史ルーツも少なからず影響しているだろう思惑を察していればこそ二人の〝大人〟は少女の願いが叶うようなを作っていったのである。国家くにや民族を超えた絆の象徴とも言える人々の話になるよう仕向けたのもシード・リングの計らいというわけだ。

 シード・リングとフィーナは〝共犯者〟になったような心持ちで顔を見合わせると、苦笑交じりで肩を竦めた。


「――こちら、機長を務めております、ハサン大佐であります。皆様に於かれましては大変なご不便やご心労をお掛けしておりました。エアフォースワンの機内へ爆弾を仕掛けたとされていた容疑者の身柄を確保したと、先ほど操縦室コックピットに報告がございました。繰り返します、容疑者の身柄が連邦捜査局FBIに確保されました」


 機長のアナウンスがスピーカーより流れ始めたのは、そのような折であった。

 果たして、それは今までのような雑談ではなかった。乗客たちの命運を左右するほどの重大な連絡だったのである。


「イリノイの自宅に潜伏していた容疑者を取り押さえ、その口から爆弾の設置はデタラメであることも正確に確かめられました。……ご安心下さい。合衆国の安全は揺るぎないことが証明されました。皆様には今暫くの間、ご不便をお掛けしますが、着陸地点アンドルーズまで責任をもって無事にお送り致します」


 機長の報告がされた瞬間、ゲストルームに居合わせた全ての人々が大歓声を上げた。連邦捜査局FBIの活躍によって、ついに『九・一一』の再来は防がれたわけである。

 あたかもそれはンセンギマナが語った言葉に対する答え合わせであった。

 無事を確認して抱き合う者、歓喜に衝き動かされて拍手する者と反応リアクションは様々だったが、その誰もが異口同音に機長へ「ありがとう」と告げている。室内のスピーカーに通信機能は内蔵されていない為、操縦室コックピットまで声は届かないだろう。それでも礼を述べずにはいられなかったのだ。

 一度はあらぬ誤解を受けてしまった機長であるが、乗客たちの情況を心の底から心配し、折に触れて緊張をほぐせるよう配慮してくれた優しさを誰一人として忘れていないのだ。

 ンセンギマナの頬擦りから脱出して床の上に足を着けたデボラは、ゲストルームの情景に双眸を潤ませ、年相応の笑顔を弾けさせた。この少女が何を考え、どのような思いを胸に秘めて〝誰〟を助けたかったのか――その全てが満ち足りた表情から察せられるだろう。ただ単純に友達の動揺を鎮めたかったわけではない。

 大いなる〝輪〟を見て取ったンセンギマナもデボラと同じように相好を崩したが、それも一瞬のことである。窓の外からゲストルームの様子を覗き込んでいる人影と目が合い、反射的に直立不動となってしまったのだ。

 他の人々が気付かないような刹那の出来事であったが、あの顔だけは見間違えるはずがない。アメリカ合衆国大統領その人である。

 偉大な男から託された〝特命〟は本当に果たせたのだろうかと自らに問い掛けたンセンギマナは、それ自体が無意味な行動であるとすぐに悟った。事件発生直後に蔓延していた絶望の影など現在いまのゲストルームには全く見られない。満面の笑みで喜びを分かち合う人々を見れば〝特命〟の行く末など瞭然なのだ。

 だからこそ、視線を交わした瞬間ときに大統領も白い歯まで見せて笑ったのである。


(……一緒に居なくても大勢を救えるなんて、お前は本当にとんでもない男だよ……)


 生死を決するような事態に巻き込まれて動転した人々を一つの〝輪〟で結び、その心を癒すという奇跡にアップルシードは想い出話の形で貢献している。そのことが無性に誇らしくなったンセンギマナは、胸中にて恩人への賛辞を紡いだ。

 子どもたちの様子を見届けた大統領は補佐官スタッフたちと共に去っていたが、警護主任だけはその場に居残り、廊下まで出て欲しいと窓の向こうから手招きで促している。犯人逮捕に至った詳しい経緯が説明されるのだろうと考えたンセンギマナは、シード・リングとフィーナにも声を掛け、軽やかな足取りでゲストルームを出ていった。

 デボラが熱を帯びた眼差しで自分の背中を追い掛けていることなどンセンギマナ当人は気付いてもいないだろう。


「結局、愉快犯というオチだったのだろう? 俺がケツを叩いて説教してやろう」


 廊下で警護主任と差し向かいとなったンセンギマナは冗談交じりで笑い掛けたが、相手のほうは緊張の面持ちを崩さない。とても凶悪事件が解決した後の雰囲気ではなく、異様さを感じ取ったフィーナは「犯人逮捕が誤報なんてオチじゃないですよね」とただした。


「本当は取り逃がしたけど、国家アメリカの威信の為にニュースを捏造したみたいな展開だけは堪忍して下さいよ。実は今も旦那さんのピンチが続いてるって知ったら、マリスさんってば一喜一憂の乱高下で倒れちゃいますよ。もっと大事にしてあげてください」

「じ、自分は家内マリスのことを宇宙で一番、大切に――」


 旧友フィーナの言葉に対して警護主任は無意識に首を頷かせようとしたが、その動作うごきは途中で止まってしまった。つまり、脅威が去ったことを認められなかった証拠である。


「地上で押さえたのは間違いなく本件の容疑者だよ、フィーナ。それだけは間違いない。爆弾テロをチラつかせて〝標的〟を精神的に追い詰めたかったらしいが……」


 一度、口をつぐんだ警護主任は僅かな逡巡ののち、「落ち着いて聞いてくれ」と静かに切り出した。ンセンギマナとシード・リングを順繰りの見回しながら――だ。


「犯人が標的にしていたのは大統領ではなかったんだよ。……本件に関して大統領は巻き込まれたに過ぎない。それだけに愉快犯的な異常性が際立つのだが……」

「勿体ぶらずに教えてください。もしかして、他にも〝特命〟があるのでは?」


 シード・リングの質問に対して警護主任は首を横に振った。それはまるで油が切れたブリキ細工のように重苦しい動作うごきである。


「愉快犯は『NSB』関係者をいたぶる為だけに今度のことを仕組んだらしい。あなたたちがエアフォースワンに同乗する情報こともハッキングで知ったそうだよ。勿論、フィーナの番組に乱入した例のお嬢さんだって標的だ。……むしろ、あちらが〝本命〟だろう」

「……俺のアタマではもう意味が分からなくなってきたんだが、何故にデビーが狙われねばならない? あの娘は『NSB』とは何の関係も……」

「デボラ・エルフェンバイン――『NSB』副代表の末娘とはいえ、年端も行かない子どもを面白半分で脅かそうとする腐り切った根性が自分には許せないな……ッ!」


 さしものンセンギマナも警護主任の報告には双眸を見開き、口を開け広げたまま立ち尽くすばかりである。それは彼の理解を完全に超越する事態であった。

 愉快犯の破壊工作によって合衆国大統領専用機エアフォースワンが蒼天に散ることはなかった。しかし、ただそれだけで万事解決とはならないようである。



 北米アメリカ最大のMMA団体である『NSB』は不当な暴力に脅かされている――そうした見出しが合衆国大統領を巻き込んだテロ事件の理由として新聞の一面を飾るのは、この日の夕方のこと。

 二〇一四年五月に愚かな愉快犯が引き起こした事件は一つの種火のようなものであった。それはやがて地獄の劫火と化し、全世界を震撼しんかんさせることになる。

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