その5:聖剣~ペルー編突入・動乱の都に轟くスラムの喧嘩殺法

五、聖剣エクセルシス


 日本人観光客はカネを持っている――強請ゆすりや強盗といった犯罪行為を生業なりわいとする人間にとって、それは共通の認識であった。洋の東西を問わず、万国で信じられている幻想ともいえるだろう。本国は長年の大不況から抜け出せずに苦しみ続けており、コソ泥たちが期待するほどは豊かでもないのだが、実態など誰も気にしてはいない。ようは奪った財布に紙幣や硬貨が少しでも多く入っているか、否かである。

 顔立ちからして日本人であろうと思われるその女性は、まさしく格好のであった。

 マジックテープ式の財布をジーンズのバックポケットへ無造作に突っ込み、手持ちサイズの小型カメラとヘッドセット頭から被るタイプのマイクを使って町中の様子を撮影する姿は、自ら小金持ちと触れ回っているようなものだ。南米の日差しを跳ね返すカメラは真新しく、箱から取り出したばかりということが窺えた。あるいは今日が試運転なのかも知れない。

 自分の〝棲み処〟から市街地まで出張ってきたキリサメ・アマカザリもくだんの女性に目を付けており、大通りをそぞろ歩くような素振りで尾行し続けているのだった。

 彼の双眸は瞼が半ばまでしか開いておらず、瞳に光が宿っているか否かを確かめることさえ難しい。傍目には歩いたまま眠りに落ちてしまいそうな印象だが、それでいての動向だけは決して見逃さないのである。雑踏へ紛れそうになろうとも居場所を正確に特定していた。

 眠れる獅子――少年の有り様をたとえる言葉としては、それが最も相応しいと思えた。

 肩に担いだ長細い麻袋の中には〝仕事道具〟を隠し持っている。好機が到来した瞬間にを抜き放ち、場合によっては生き血を吸わせることになるだろう。

 一五、六歳くらいと思しきその少年は、とても学校へ通っている様子ではない。そもそも、陽の高い内から市街地を歩いていること自体が学生としては不自然なのだ。学校では授業が行われている時間帯である。

 人並み以上に小汚い身なりが真っ当な人生の歩み手でないことを如実に物語っている。額の全面を覆うほど無造作に伸ばされた髪は建設現場から這い出してきたばかりのように埃を被っており、ジーズンもシャツも、履いているスニーカーさえもあちこちがボロボロに破れてドス黒い染みが飛び散っていた。

 袖口がボロボロに擦り切れたシャツの左胸には、見る者の気が抜けてしまうようなマスコットキャラクターがプリントされている。

 長めの髪を中央センターで分けた丸顔に横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き込み、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置いて完成されるデザインは何とも緊張感を欠いているが、それが日本でロングセラーとなっていることも少年は知らなかった。

 いわゆる、日系人である。両親とも純粋な日本人であり、生物学的には同じ民族とされるが、生まれてこの方、祖先の地を踏んだことがなく、今後も故郷を離れる予定はない。

 つまり、少年は国籍の違いこそあれども同じルーツを持つ女性をと見なしているわけだ――が、そこに良心の呵責など少しもない。日本人を狙うことさえ初めてではなかった。何しろはカネを持っているのだ。百獣の王も食い応えのある獲物は見逃すまい。

 少年が手を染めている行為は、改めてつまびらかとするまでもなく法律で認められたものではない。警察に逮捕されたときには未成年こどもであろうとも無事では済まされないのだ。

 しかし、〝ここ〟では罪を犯すこと以外に生き抜く術などなかった。大人でさえ満足に仕事を得られず、諦念と疲弊の中で行き倒れてしまうような世界である。

 市街地の向こうに望む丘陵地帯には粗末な掘っ立て小屋が数え切れないくらい密集しているのだが、そこは非合法街区バリアーダスと呼ばれる貧民街であった。読んで字の如く、貧しい人々が身を寄せ合い、正当な許可も得ないまま居座り続けている場所なのだ。

 不法に占拠された区域の片隅が少年の〝棲み処〟であり、夕食の費用カネを稼ぐ為にまで降りてきた次第であった。

 餓えを凌ぐ為には己の手を血と罪で穢さなければならない――それが貧民街で育った人間が共有する唯一絶対の掟なのだ。表の社会まちをたむろする〝小金持ち〟へ弱肉強食という名の牙を向けることに躊躇ためらいなど覚えるはずもなかった。

 だからこそ、この少年――キリサメも日本人女性をとすることに何の迷いも抱かなかったのだ。頭の中に浮かぶことといえば、「路地裏に入り込んでくれたなら楽に仕留められる」といった段取りである。

 だが、女性の側はキリサメの思惑から外れて不思議な方向へと歩を進めている。大小の船舶が行き交う貿易港へと向かっているのだ。当然ながら、そこは関係者以外の立ち入りが制限されている。ましてや、海外から訪れた観光客などもってのほかであろう。

 確かにこの町の西部は海に面している。海水浴やヨットが目当てならば別の場所を目指せば良い筈であって、現在いまの彼女は土地勘がないまま誤った方向へ進んでいるとしか思えなかった。


「――首都リマから港町カヤオに入りました。およそ二週間前に大量の港湾労働者が殺害されたという桟橋まで近付ければ御の字と思いますが、正攻法で現場に辿り着くことは不可能に近いでしょう。はてさて、どうしたものやら……」


 いずれは迷子になっていることを自覚するだろうとキリサメも考えていたのだが、女性がマイクに向かって喋っている内容が潮風に乗って耳まで届いた瞬間、何とも例え難い表情となった。彼女は道に迷ったわけではなく、最初から貿易港を目指していたのである。

 「数日前に港湾労働者が殺害された現場」と明言していた。

 彼女が口にした通り、港内では半月ほど前に凄惨な事件が発生したばかりだが、その調査が目的なのだろうか。

 尤も、女性はポロシャツにジーンズという身軽な出で立ちであり、世間一般でいうところの報道関係者プレスのようには思えなかった。何年か前に取材で非合法街区バリアーダスを訪問したフリージャーナリストを見掛けたこともあるのだが、彼女ほどラフな装いではなかったはずだ。


「……日本人ってバカしかいないのかな……」


 女性の後姿を見据えるキリサメは溜め息を抑えられなかった。くだんの殺人事件には彼も思うところがあり、これを穿り返そうとする手合いが不愉快でならないのである。

 しかも、だ。港湾労働者たちは〝縄張り〟の意識も強く、港内で揉め事など起こそうものなら徒党を組んで襲ってくるだろう。その場を切り抜けるだけならば容易いが、禍根を残すと非常に厄介だった。市街地まで追い掛け回されると、これから先の〝仕事〟もやり辛くなる。彼らの手で素性が暴かれることだけは何としても避けたかった。

 〝素性〟ということであれば、外国人である彼女は港湾労働者たちの事情についても無理解であろう。彼らは荷揚げ荷下ろしといった重労働を雀の涙ほどの低賃金で請け負わされた挙げ句、良いように使い捨てられてしまうのである。それほどまでに過酷な労働環境であるが為にくだんの殺人事件へ巻き込まれたようなものなのだ。

 この国の事情も何も知らないだろうに、他人の〝縄張り〟を土足で踏みにじろうとする無神経さがキリサメを苛立たせていた。

 瞼を半ばまでしか開けず、いつでも眠そうにしているキリサメは、余人と比べて感情の起伏が平坦だった。例えば、驚愕や激情を原因として目を剥くようなこともない。それにも関わらず、目の前の女性に対してハッキリと憤怒を滾らせているのだ。惨たらしい事件を起こした犯人たちに捕まり、慰み者にでもされてしまえと心の中で吐き捨てた。

 栗色の長い髪をポニーテールに結わえた女性は縦縞模様のセーターの上からでも明確に分かるくらい豊満な肉体の持ち主である。臀部の自己主張も激しく、下卑た者たちの劣情を大いに煽り立てるだろう。キリサメ自身はに殆ど関心を寄せないが、素裸で路地裏に捨てられた憐れな女性は数え切れないくらい見てきたのである。身も心も麻薬で蝕まれた末、大半が落命することさえ知っている。

 遠慮なく貿易港へと突き進んでいた女性は、積み上げられたコンテナと水平線を一度に眺めることのできる倉庫街へ差し掛かった途端、正気を疑うような行動に出た。肩から提げていたバッグにカメラを仕舞うと、港の敷地と市街地とを隔てる金網の柵をよじ登り始めたのである。

 大概のことでは感情が揺らがないキリサメも、このときばかりは双眸を見開いた。

 正面から立ち入ることが困難であると判断したのだろうが、それは不法侵入以外の何物でもなく、報道関係者プレスを気取る人間として何もかも間違っていた。

 違法行為を用いて撮影した映像は、それ自体が不適切となってしまうだろう。仮に裁判沙汰となった際にはそのまま証拠物件として採用される筈である。彼女の行動は破天荒というよりも無茶苦茶なのだ。

 いくらカネを持っている日本人とはいえ、正常まともな精神構造とは言い難い輩など忌避するに限る――を諦めて踵を返すキリサメであったが、路地裏の中へ溶け込もうとする直前に野獣のような大声がその背中を叩いた。

 日本語ではない。当地の言語ことばで何者かが喚いているようだ。

 どのような事態が起こったのか、当然ながらキリサメは察しが付いている。「バカは死ななきゃ治らないんだっけ……」という悪態を引き摺りながら振り返ると、案の定、くだんの女性が港湾労働者と思しき大男たちに取り囲まれていた。

 これこそまさに自業自得であろう。正規の手順も踏まずに不法侵入を企てた報いでしかなく、同情など差し挟む余地はなかった。


「――困っているオンナを発見したときには何が何でも助けるべし。これぞおとこの進む道」


 自分には関わる理由もないと、改めて背を向けるキリサメだったが、その耳元に別の女性がささやきかけた。

 それは『ささやき』と呼ぶには余りにも力が強く、心の奥底まで深く刻まれることから『命令』に近い。次に取るべき行動をのではなく、これ以外には有り得ないと定めてしまったのだ。

 キリサメの傍らに声の主は居ない。それどころか、この空間のどこにも存在しないの声であり、記憶の底から蘇った幻の如きとも喩えられるのだが、キリサメ・アマカザリという少年にとっては虚ろなる響きではなく絶対的な意味を持つのである。

 そのの声を無視するという選択肢をキリサメは最初から持ち合わせていない。万難を排してでも遵守すべきものとして本能こころが衝き動かされるのだった。


「……今更、僕に偽善者の真似事をさせようっていうのか、母さん――」


 もはや、報道関係者プレス気取りの女性を見捨てることができなくなってしまったキリサメは溜め息混じりで麻袋の中に右手を突っ込んだ。

 取り出したのは奇妙な道具である。二枚重ねた平べったい木の板に取っ手を組み合わせるという形状は船のオールに良く似ているのだが、板の端からは尖った石や鉄片がノコギリの刃のように幾つも迫り出しており、が紛れもない〝武器〟であることを示していた。

 キリサメはを『聖剣エクセルシス』と呼んでいる――が、名付け親は彼ではない。の持ち主が用いていた呼び名をそのまま使い回しているに過ぎなかった。

 尤も、命名自体が痛烈な皮肉と言えなくもない。何しろキリサメは〝仕事道具〟として『聖なる剣』を振るってきたのである。木の板を黒く変色させているのはノコギリのような刃で削り取られた人間のあぶらや鮮血に違いなく、『神々が住まう天上』といった意味合いの呼び名には全く似つかわしくない。

 それにも関わらず、今、キリサメは他人ひとを救う為に『聖剣エクセルシス』を握っている。一度はにしようとしか女性を大男たちから助け出そうとしている。

 異性を狙った経験ことなど過去には数え切れず、同じような状況へ直面したときはちゅうちょなく見捨ててきた。それが非合法街区バリアーダスの掟であったというのに今日に限って、どうして〝あの声〟に引き留められたのか――いくら自問を繰り返してもキリサメは答えを見出すことができなかった。


「……〝あの日と同じ場所〟をもう一度、血でけがすのも忍びない――ってコトかな……」


 『聖剣エクセルシス』のつかがしらはリング状となっており、そこへ一枚のスカーフが縛り付けられていた。ハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだは、ペルー伝統の手織物だ。手入れなど過去に一度もしたことがないのだろう。あちこちが擦り切れ、刀身と同じように黒い染みが飛び散っている。

 水平線の向こうから吹き付ける風によってスカーフが棚引き、手首に巻き付いた直後、キリサメは仕方ないといった調子で『聖剣エクセルシス』を肩に担いだ。

 そのまま報道関係者プレス気取りの女性を追い掛けるようにして柵を飛び越えていく。金網をよじ登るのでなく、一度の跳躍でもって港内へと降り立ったのである。


「――さぁ、どーしますか、海辺の腕自慢さんたち? 数メートル離れて見守るパターンのボディーガードが到着した今、あなたたちの運命も風前の灯火です。私の騎士ナイトが成敗に動く前に大人しく取材を受けるべきでは?」

「な……っ」


 キリサメが自分たちのほうに近付いてくると見て取った女性は唐突に素っ頓狂なことを口走った。挨拶すら交わしたことのない人間を捕まえてボディーガードなどと言い始めたのである。

 当然ながら、キリサメにはそのような仕事を引き受けた憶えはなく、ましてや騎士の称号も授けられてはいない。再び取り出した小型カメラのレンズで男たちを見回しつつ、デタラメなことを並べ立てているわけだ。

 今し方の口振りからして後をけていたことには勘付いたようだ。奇々怪々な行動に反して意外と侮り難い人物なのかも知れない。

 しかし、今は食わせ者の本性を探っている場合ではなかった。女性が発する言葉は全て日本語によって紡がれているの為、当地の人間に正確な意味は伝わっていない――が、身振り手振りやキリサメに対する呼びかけという事実、武器を取って駆け付けたようにも見える姿から大男たちは彼のことを本当にボディーガードと信じ込んでしまった。

 殺人事件の発生から間もないこともあって男たちは普段より気が荒くなっており、キリサメを〝敵〟と認識するや否や、一斉に飛び掛かっていった。


「ロクな死に方しませんよ、あなた――」


 最初から女性のことを救出するつもりではあったが、言葉巧みに巻き込まれる構図を肯定的に受け止められるほどキリサメもではなく、聞こえよがしに痛罵を吐き捨てた。

 それでも、即席のボディーガードとしての務めに手抜かりはない。刀剣の類いにしてはやや長いつかを両手で握り締め、これを勢いよく振り回しては大男たちを怯ませていく。

 無論、それは相手の姿勢を崩す為の〝仕掛け〟に過ぎない。次の瞬間には肘鉄砲や頭突きに転じて襲い掛かってきた者たちを返り討ちに仕留めていった。

 全体的に細身ではあるものの、シャツの袖から伸びる腕には程よく引き締まった筋肉を纏わせており、そこから繰り出される打撃は地上を一撫でする竜巻のように荒々しい。

 その内の一人が女性を羽交い絞めにすると、キリサメはすかさず『聖剣エクセルシス』の先端を地面に押し付け、ここを軸に据えて己の身を前方へと突き出した。体重を急激に振り回すことで矢の如き勢いを得た変則の飛び蹴りは標的の眉間を正確に捉え、一撃でもって女性から不埒者を引き剥がすことに成功したのである。


「ひょっとすると、キミってば私を守る為に生まれてきたんじゃないかな? ストリートファイターのならオイシイって希望を一から一〇まで実現してくれるんだけど~」


 何事も自分に都合よく解釈してしまえる女性の歓声に対して無視を決め込んでいるキリサメは、一つの事実として相当に慣れしていた。放つ打撃はいずれも人体急所を確実に捉えており、相手の金的を蹴り上げることにもちゅうちょがない。

 それでいて武術や格闘技と呼べるほど洗練された動作うごきでもなかった。『聖なる剣』などと仰々しく呼ばれる武器をるっているが、刀身を無造作に叩き付けるなど極端に原始的なのだ。ノコギリのような刃を相手の鎖骨辺りに食い込ませ、そのまま地面に引き倒してから鼻やこめかみを踏み潰す技は〝実戦〟に於いて有効ではあるものの、剣術を志す人間の目には一種の蛮行のように映ることだろう。

 『聖剣エクセルシス』の持ち主であるキリサメだが、別に〝剣術〟に長けているわけではない。手にした得物がたまたま刀剣に類される形状だったである。彼の様式スタイルを一言で表すならば路上での潰し合いに特化したけんさっぽう――即ち、『暴力』そのものである。


「……飛び道具を持ち込むつもりなら……」


 自分たちの半分も生きていないような少年こどもから一方的に打ち負かされたことで逆上したのだろう。一人の男が隠し持っていた拳銃を構えようとした――が、キリサメは相手の右人差し指が銃爪ひきがねに引っ掛けられるよりも早く『聖剣エクセルシス』を投擲とうてきしていた。

 右腕全体のバネを一気に引き絞ることで撃ち放たれた『聖剣エクセルシス』はボウガンよりも鋭く、先端が相手の顔面へめり込んだ瞬間に何本もの前歯が弾け飛んだ。いわゆる、切っ先の部分には刃が付いていないので、相手にとっては重い鈍器を叩き込まれたような形である。

 このときにはキリサメ本人も間合いを詰めており、宙を舞っていた『聖剣エクセルシス』を右手一本で握り直すと、刀身を相手の肩口目掛けて全力で叩き付けた。

 刀身の根元から迫り出している鉄片が肉を食い破り、夥しい量の鮮血が噴き出したが、裂傷よりも肩の内部のダメージのほうが遥かに深刻だろう。縦一文字の命中と同時に〝何か〟の破断する音が響き、男は脱力したかのように拳銃を取り落としたのである。

 『聖剣エクセルシス』によって右肩の筋肉を押し潰された状態からも察せられるように、内側の鎖骨は無残にも叩き折られていた。想像を絶する激痛にのた打ち回っても不思議ではないが、キリサメはそれすら許さなかった。左の五指で相手の首を掴み、「まだ続けますか? この先は命の安全は約束し兼ねますけど」と当地の言語ことばで脅していく。

 相手の肉体からだにノコギリのような刃が食い込んでいる状態のまま、キリサメは刀身を僅かに手元へ引き付ける。少しばかり傷口が広がった瞬間、男の顔から血の気が失せた。

 このまま斬り裂かれたなら『聖剣エクセルシス』によって体内深くまで蹂躙され、肩のスジもズタズタに切断されてしまうだろう。港湾労働者にとって腕力こそが一番の〝商売道具〟なのだ。それを完治不可能な状態まで破壊されることは、失業者で溢れかえるこの国に於いて死を意味するのである。


「もう手加減はしません。……今なら手当てすれば間に合うと思いますが?」


 最後通告とばかりに再び恫喝された男は、物も言わずに首を横に振るしかなかった。


「……とっとと行きますよ」


 男たちが恐怖で硬直したことを確かめたキリサメは、暢気にもカメラを回し続けている女性に向かって日本語で離脱を促した。

 拳銃をもってしても敵わないと相手が怯んだ瞬間こそ脱出の好機なのである。今ならまだ偶発的な喧嘩で済まされるが、他の港湾労働者が騒ぎを聞き付けて押し寄せてくれば、もうキリサメ個人の力では解決しようがなくなるのだ。


「ここまでやっといてトンズラァ? 後腐れなく徹底的にツブしといたほうが良くない?」

「……別に僕は殺人鬼じゃありません……」


 この期に及んで物騒なことを口走る女性を右肩に担いだキリサメは、その状態を維持したまま金網の柵を飛び越えた。一瞬の突風ともたとえられる猛攻へ腰の抜かしてしまった港湾労働者たちは、もはや、二人の後を追い掛けることさえままならなかった。



 大男の仲間たちが加勢に駆け付けることまで想定したキリサメは、追跡をかくらんするべく市街地の雑踏に紛れ込むと足早に貿易港から離れていく。

 そのかんも女性を肩に担いだままであり、すれ違う人々から奇異の視線を浴びせられるという不愉快な状況だが、放っておくと何を仕出かすか分からないような人間タイプである為、安全圏へ逃れるまでは恥を忍ぶしかなかった。

 麻袋に納め直した『聖剣エクセルシス』を左脇に挟みながら走らなくてはならず、バランスもすこぶる悪い。それでも「取材が足りないから」と逆戻りされるより遥かに気持ちが楽である。

 荷物のような扱いを受けながらも手持ちの小型カメラやヘッドセット頭から被るタイプのマイクを落とさなかった根性だけはキリサメも大したものだと感心している。町中でも撮影を続けていてくれたお陰で人さらいの類いと誤解されずに済んだ部分もあるのだ。傍目には変わり者の報道関係者プレスように映っていることだろう。

 貿易港から三〇分以上という道のりをひたすら突き進み、古びた建物など独特の風情を現代いまに遺す旧市街セントロまで辿り着いたキリサメは、一際大きな広場にて女性を地面に下ろした。

 その場所は他の地域に比べると治安も酷くはない。血の気の多い港湾労働者たちも、よもやここまで追跡してこないだろうと考えたわけだ。仮に遭遇するような状況に陥っても乱闘騒ぎだけは控えることだろう。歴史ある地域という点は言うに及ばず、大統領官邸が所在している為に警官の監視も厳しいのだった。

 インカ帝国を滅亡に追いやったフランシスコ・ピサロの屋敷に大統領府を据えたということもあって建物自体も〝支配者の象徴〟とも見られており、一部の市民は痛烈な皮肉を込めて〝大統領宮殿〟と呼んでいる。

 尤も、ペルーの国内事情など知る由もない観光客たちは〝大統領宮殿〟の正面玄関にて執り行われている衛兵の交代セレモニーを物珍しそうに見物していた。古めかしい軍服に身を包んだ衛兵たちが勇ましい掛け声と共に軍靴を打ち鳴らす姿はバロック様式の門にも良く映えている。足を止めて見入ってしまうのも当然といえよう。


「――通りがかりのボウヤ、どうもサンキュね~! 日本人同士、困ったときこそ助け合いの精神だよねぇ、ウン! そっちも旅人? 得物を担いで渡り鳥とはシャレてるね~」


 軍楽隊による勇壮な演奏で彩られたセレモニーへと抜かりなくカメラを向けた女性は、満足できる映像を撮り終えてからキリサメのほうに振り返り、能天気という表現が最も似つかわしいような調子で大きく笑った。

 その姿にキリサメはまたしても呆れ返った。助けられた礼を述べるどころか、挨拶もそこそこにカメラを回し続けるという非常識な振る舞いにも驚かされたが、何よりも港内に於いて自分がどれだけ危険な状況に置かれていたのか、全く理解していない様子なのだ。成り行きから大立ち回りを演じる羽目になってしまったキリサメの苦労とて半分も分かってはいないだろう。

 そもそも、貿易港への不法侵入など犯罪以外の何物でもあるまい。仮に倉庫街の作業員が不法侵入の一件を通報していたら、広場のあちこちに立つ警察官たちが押し寄せてくるのは間違いなかった。そうなったときにはさすがにキリサメも庇おうとは思わない。


(……こういうヒトは調子が狂って仕方ないな……)


 文句や警告など浴びせるべき言葉が頭の中で堂々巡りするキリサメだったが、このようにあっけらかんとした手合いには何を言っても無駄だろうと諦め、「旅人じゃなくて首都ここに住んでいる、……日系ペルー人です」と答えるのみに留めた。亡くなった両親が共に純粋な日本人ということも言い添えて――だ。


「……成り行きでボディーガードみたいな真似をさせられましたけど、僕があのとき、あの場所にタイミング良く居合わせた理由、あなたはとっくに気付いているのでしょう?」


 言うや、キリサメは己の身なりを見せつけるように両手を大きく開いた。至る所に埃や汚れがこびり付いた姿はとても観光客には見えない。ましてや、文明社会に於いて〝一般人〟に類されるような真っ当な市民でもない。

 南半球に位置するこの国の七月は真冬であり、誰もが厚着で寒さを凌いでいる。女性とてセーターを着こんでいるではないか。対するキリサメは半袖のシャツ一枚でコートさえ羽織っていない。つまり、防寒着を購入するだけの余裕もないということである。

 頭のてっぺんから爪先までキリサメの全身をじっくりと観察した女性は、やがて双眸を見開きつつ左右の手のひらを打ち合わせた。


「――あっ! な~んか見覚えあるって思ったんだけど、シャツのプリント、『黒ゴマ二丁目のK』の『かねしげ』じゃ~ん! ペルーで見かけるとは思わなかったよぉ~」

「いえ、……そこじゃないです、見て頂きたかったのは」


 ところが、泥まみれの全身すがたを強調しただけではキリサメの意図は全く伝わらず、見当違いとしか表しようのない回答こたえが返ってきてしまった。シャツにプリントされたマスコットキャラクターのことなど誰も訊いてはいない。そもそも、ブランド名に興味を抱いたことなど過去に一度としてない。

 麻袋に収まっている『聖剣エクセルシス』を翳してみても、やはりキリサメの考えは通じない。


「会話がちっとも成り立っていない気配がしますけど、僕、さっき何と言いました? 自分の世界に飛ぶのはその辺にしておいて、そろそろ想い出して頂きたいのですが……」

「あ~? ……あッ! 私のピンチに騎士ナイトよろしく駆け付けてくれた理由ってヤツ?」

「スタートラインに戻ったようで、微妙にズレてる気がする……」

「理由って……人助け以外に何かあるのかな?」


 またしても予想の斜め上を行く回答こたえを受けて、キリサメは絶句してしまった。

 窮地を救ってくれた〝恩人〟に気を遣って、わざと〝別の表現〟に言い換えている様子でもない。本当にキリサメの意図が理解できず、首を傾げているのだった。港内での諍いへ乱入したことも「人助け」という単純シンプルな認識のようである。


港湾労働者あいつらとやり合っている最中、『数メートル離れて見守るパターン』って言ってましたよね? それって、つまり……」

「あ~、アレは口から出任せのハッタリってヤツよぉ~。嘘っていうより武士の方便みたいな? キミのことを味方と思わせたら相手もビビるかなってね。棒切れ担いで飛び込んでくるくらいだから正義のお助けマンだろうってピンと来たしィ?」

「……もう結構です……」


 脱臼するのではないかと錯覚するくらいキリサメは盛大に肩を落とした。妙な言い回しから尾行を察していると捉えていたのだが、結局のところ、間抜けな勘違いだったのだ。『侮れない人物』として警戒を強めていた自分が滑稽でならず、皺の寄った眉間を情けなさそうに掻くばかりであった。


「……大体、どうして、あんな場所に行こうと思ったんですか? いえ、殺人事件の取材というコトは分かりましたが、日本の記者か何かなのですか?」

「い~いトコに気付いてくれたねぇ~。そうとも、ワタクシ、ペルーの真実を求めて日本からやって来たありぞのって言いまぁす! 肩書きはネットクリエイターってコトになるかしらぁ?」


 自分の身分について質問してくれたキリサメに満面の笑みを返すと、報道関係者プレス気取りの女性はハンドバッグから一枚の名刺を取り出した。

 譲って欲しいと頼んでもいないのに強引に押し付けられてしまったキリサメが名刺の表面を覗き込むと『ネットニュースサイト ベテルギウス・ドットコム 有薗思穂』なる文面が確かに確認できた。


「一口に『ネットニュース』って言っても、私の場合は動画サイトで配信するドキュメンタリー映像が専門なんだけどね。世の中に問題提起したいネタがあれば、東西南北どこまでも出掛けて行って、この目で! この耳で! ハッキリと確かめた事実を放送するってワケ。『ユアセルフぎんまく』ってサイト、聞いたことがあるでしょ? 私、その界隈じゃあ、ちょっとは名前が取ってるんだから~」


 報道関係者プレス気取りの女性――有薗思穂が喋っている内容をキリサメは少しも理解できていなかった。ネットニュースという言葉くらいはさすがに聞き憶えもあるが、それが具体的にどのような形態ものなのかは想像がつかないのである。動画サイトで配信するという彼女なりの様式スタイルについても全く飲み込めていない。

 思穂は相手に予備知識があることを前提として説明を続けている。だからこそ、キリサメは置いてきぼり状態に陥っているのだが、そうした戸惑いなどは視界に入らないのか、彼女は自分一人で気ままにどんどんと話を先に進めてしまうのだった。

 しかも、思穂は自分にとってのみ都合の良い筋運びを作り上げている。それはつまり、キリサメが更なる迷惑を被るということに他ならないのだ。


「さっき首都リマ暮らしって言ってたよね? いやぁ~、ペルーの真実を追い求めるな~んて勢い勇んで日本を発ったのは良いけど、土地勘ない場所だから大苦戦でさぁ。このまま、キミを雇わせてもらおう、ウン!」

「ちょっと……」


 港湾労働者との大立ち回りから頭抜けた力量を見込んだという思穂は、キリサメにガイド兼ボディーガードを正式に依頼したのである。

 そこにがあったとは到底思えなかった。広場をそぞろ歩く観光客や他の現地人と比較すれば瞭然なほど身なりが汚い少年を素性も調べずに雇うなど不用心としかたとえようがない。やはり格好のであろう。

 しかし、〝あの声〟によって『命令』されてしまった以上は財布を引っ手繰たくって逃走するわけにもいかない。甚だ不本意だが、思穂の依頼を引き受けるしかなさそうであった。

 〝真っ当な仕事〟を断る理由もない。差し当たっての不満点といえば、自分の意思とは無関係に話がまとめられてしまうことのみである。

 そもそも、キリサメの側は思穂に対して自己紹介すらしていないのだ。雇い主ならば、せめて名前くらいは正確に把握していなければなるまい。


「……キリサメ・アマカザリ――です。どこまで力になれるかは分かりませんが、アルバイトの申し出、引き受けさせて頂きます」

了解りょーかい! ギャラの交渉はゴハンでも食べながらするとして、呼び方は『アマッち』でイイね? よろしく、アマッち!」

家名そっちのほうで愛称ニックネームを作られたのは生まれて初めてです……」


 徹頭徹尾、調子を狂わせてくれるこの女性が当面の雇い主になるのだから、暫くは頭痛との格闘たたかいであろう。キリサメにとっては貿易港で発生したような揉め事よりも頭痛そちらのほうが悩ましかった。

 ただ一つ――血と罪でけがれた右手を何の躊躇ためらいもなく取り、嬉しそうに握手を交わしてくれたにはキリサメも信頼の担保を感じていた。





 ペルー共和国――南米西部に位置し、ブラジルと国境を接するその国は、数世紀の昔に滅びたインカ帝国の中心地であり、数々の古代遺跡が国内に点在している。悠久なるアンデスの山麓に広がる空中都市『マチュ・ピチュ』といった名所を目当てに訪れる観光客も多い。神秘に包まれた『ナスカの地上絵』も同国の盆地に描かれているのだ。

 旅人たちは市街地にも古代いにしえの先住民族国家の面影を求めるものだ――が、そこで暮らす住民たちにとって必ずしも最良の環境とは言い難い。独裁国家のような圧政が敷かれているわけではなく、大統領や議員も民意の反映というべき投票に基づいて選出されており、公平な社会であることは間違いなかった。

 国内に伏在するテロ集団も未だ根絶には至らず、破壊工作などが定期的に新聞紙面を騒がせているが、二〇一三年七月時点に於いては有力組織の殆どが壊滅し、少なくとも首都の機能を脅かすほどの脅威ではなくなっていた。

 その一方でペルーは別のを抱えている。観光による収益とその恩恵は国内の隅々まで行き届いているわけではない。絶望的としか表しようのない貧富の格差が〝現実〟として国を分断しているのだ。

 首都リマだけでも至るところに貧民街スラムが存在している。

 掘っ立て小屋がへばり付いた丘陵地帯は、いずれも不法に占拠されているわけだが、強制撤去などしようものなら貧困層の人々が首都リマの中心街まで押し寄せてしまう為、行政は何ら手を出せずにいた。そうして撤去されないまま聖域の如く残り続けている。この有り様こそが分断の象徴であろう。

 富める人々は財を蓄え、貧しき人々は働く先もないまま虚しく横たわる――『黄金のインカ帝国』という華やかな印象イメージに覆い隠されたペルーの〝事実〟がそこにった。

 キリサメ・アマカザリは首都リマ有数の観光名所として知られるサン・クリストバルの丘に面した非合法街区バリアーダスを〝棲み処〟としていた。尤も、かつて家族と一緒に暮らしていた生家いえは数年前に見舞われた豪雨災害によって倒壊しており、現在は集落の外れに所在する共同墓地にて〝墓守はかもり〟の真似をしているのだった。

 そのことをキリサメから説明された途端に思穂は目の色を変え、「アマッちの住まいを見学したい」などと言い出したのだが、これについては陽が落ちる前に宿所へ戻ることが難しいとして即座に断った。

 ただでさえ薄暗い貧民街へ夜の帳が下りて本物の〝闇〟に包まれると、犯罪に巻き込まれる確率が桁外れに跳ね上がってしまうのだ。そこで生まれ育ったキリサメにも安全と断言できる場所はない。何しろ死者が眠る共同墓地の敷地内であっても毎日のように強盗団から襲撃されていたのだ。これこそが弱肉強食の縮図といえよう。

 〝ボディーガードの判断〟としてキリサメは夕暮れ間近の非合法街区バリアーダスへ立ち入ることに反対し、思穂の側も命を預けると約束した相手の意見ことばには素直に頷いた。

 危険な貧民街への入り口と大通りとを隔絶するリマック川沿いの安ホテルがその日の宿所である。一流ホテルと比べれば寝具も調度品も粗末であり、殆ど寝起きの為だけに滞在する場所といった環境だ。セキュリティの部分にも不安がないわけではないのだが、路上で行き暮れるよりは遥かに安全マシであろう。

 幸いなことに部屋はシャワールームが完備されている。さすがは安ホテル並みというべきか、故障が直されないまま放置されているようで温度調節もおぼつかなかったが、思穂は入室するなり温かいシャワーを求めて駆け出していた。

 二人がチェックインした部屋にはダブルベッドが設えられている。不審に思われないようフロントでの手続きに際して夫婦と偽ったのだが、生憎とツインベッドの部屋は空いておらず、シングルを二部屋確保するような金銭的余裕もないということでダブルベッドになってしまったわけだが、勿論、キリサメはそれを使うつもりはない。

 窓際に置かれているソファに陣取ると、麻袋から取り出した『聖剣エクセルシス』を肩に抱え込む。その場所を定位置として侵入者などに備えるという無言の宣言だった。

 ベッド自体がキリサメには馴染めない。貧民街スラムの裏路地で重傷を負ったときには無免許の闇医者を頼るのだが、手当ての際に寝かせられる簡素な診察台すら落ち着かないのだ。路上で寝起きしている間に肉体からだのほうが順応してしまい、今では硬いコンクリートが恋しいくらいである。


(……どうやって無事に生きてきたんだろう、この人……)


 シャワールームのほうから漏れてくる調子外れの鼻歌を耳にして、キリサメは頭痛がぶり返してきた。このホテルとて思穂は行き当たりばったりで選んでいる。取材であろうが観光であろうが、目的があって海を渡っておきながら宿所を確保していなかったというのである。これほど無計画な人間をキリサメは他に知らなかった。


(――あ、いや……母さんに似ていなくもない……か……)


 ある意味に於いて近所の人々から畏れられるほど破天荒であった母のことを不意に想い出し、キリサメはすぐにかぶりを振った。これでは思穂に母の面影を重ねてボディーガードを引き受けたようではないか。

 何事にも無感情なキリサメだが、さすがに自分のことをマザコンなどと認めたくない気持ちは強い。道すがら『ネットニュースサイト』の活動の内容も教わったが、その話によれば思穂と母は仕事の内容までもが全く異なっているではないか。二人を重ねる理由など何一つないと、キリサメは自分に言い聞かせるのだった。

 基本的に思穂は日本国内を中心に取材を行い、予算が確保できると海外にも赴くそうである。配信している動画の閲覧数に応じた収入もあるようだが、営利を目的としていないので資金調達の手段にはならず、アルバイトなどの短期労働によって取材費用を捻出しているらしい。

 生活費まで切り詰めなければならないような状況にも関わらず、『中東の火薬庫』と呼ばれるパレスチナ自治区・ガザにまで足を運んだそうである。日本のマスメディアが報道しようとしない〝世界の真実〟をネットユーザーに伝え、問題提起したいという志は崇高なことのように思えるが、活動内容よりも今日まで生存したことにと感心してしまうのだ。

 リモコンの使い方を忘れるほど久しくテレビに触れておらず、新聞も廃棄されている物をたまに拾う程度なので最新の情勢は把握していないが、依然としてイスラエルとの間に抜き差しならない状況が続いているのだろうか。年末年始という時期にまで空爆が行われるような危険地帯へ潜り込み、五体満足で帰ってきたのは奇跡であろう。

 桁外れな度胸と〝真実〟の報道に対する使命感を兼ね備えているのであれば、いっそ通信社に勤めたほうが栄達も望めるのではないかと訊ねたのだが、自分以外の〝手〟が入ることで情報の純度を損ねたくないそうだ。優れた報道などに授けられるピューリッツァー賞も望んでいないという。

 だからこそ、貧乏暇ナシ――おどけた調子で思穂は話していたが、わざわざ困窮の道を選ぶ思考がキリサメには理解し難かった。


「……『キャサリン』か……」


 彼女の鼻唱にキリサメは訊き憶えがあった。日本のインディーズ・シーンでカルト的な人気を誇るパンクバンド、『エスエム・ターキー』の代表的な一曲ナンバーである。


(……サカオとルマ――だったかな、二人組コンビの名前。ずっと昔のバンドだけど、まだ活動しているんだろうか……)


 本国では「知る人ぞ知る」といった認識だが、ペルーではこの代表曲が過去に何度かラジオで放送された為、地球の裏側の流行歌と勘違いされていた。首都リマに点在する日本料理店でもエスエム・ターキーのアルバムは定番のように使われている。

 母もこのパンクバンドを愛聴しており、家事の合間に髪の毛を振り乱しながら『キャサリン』なる代表曲を口ずさんだものである。


(……母さんのお気に入りは、今も歌い継がれているみたいだよ……)


 聴くことができなくなって久しい歌声がキリサメの脳裏に蘇り、懐かしい気持ちも押し寄せてきた。


「は~い、出たよ~。アマッちも浴びてきたら? 昼間の喧嘩で汗かいたっしょ」


 鼻歌を引き摺りつつシャワールームから出てきた思穂を一瞥し、キリサメは今まで一番深い皺を眉間に刻んだ。不意に込み上げた懐かしさすら吹き飛ばされた次第である。

 思穂は肩に引っ掛けたタオル以外、何も身に付けていなかった。たわわに実った胸どころか、下半身まで剥き出しという有り様であり、その姿に恥じらいの精神こころを探すことは不可能であった。


「んん~、お姉さんに興味津々? アマッちが助けに来てくれなきゃ、倉庫の奥でエロエロな目に遭ってたかもだし、その分をお見舞いしても構わないわよ~ん?」


 何事も自分の都合良く解釈する思穂の目には呆れたなど映っていない。視線を感じるという一点のみでキリサメが自分の肢体カラダを欲していると誤解してしまったわけだ。

 からかうような調子で「オンナのを教えてあげましょ~」と両手を広げた途端に左右の胸が弾むように揺れ、その姿は極めて煽情的である――が、当のキリサメは思穂が望むような反応を全く見せなかった。それどころか、疲れたように溜め息をくばかりである。

 目の前に素裸の女性が現れたなら、興奮してむしゃぶりついてもおかしくない年頃ではないか。「顔真っ赤にするくらいのサービスがあってもバチは当たらないと思うけど~」と口の先を尖らせた思穂は、張り合いがないとばかりに衣服を着始めた。


「……まあ、この騒ぎの中じゃ気分だって盛り上がんないよねぇ」


 思穂が言う通り、窓の外から遠飛び込んでくる喧騒さわぎ所為せいで室内に居ても全く落ち着けないのである。当然ながらボディーガードのキリサメも〝定位置〟から外の様子に注意を払っている。

 カーテンを開いている為、外の様子――即ち、町中の様子はホテルの中からでもある程度は確認できるが、国土の全てが宵闇に包まれるような時間帯にも関わらず、抗議デモと思しき集団が群れを成して行進しているのだ。

 時計の針は二一時過ぎを示している。このまま深夜まで喧騒さわぎが続くようでは翌日の寝不足は免れまい。

 何しろ彼らは鼓笛隊のような有り様である。真夜中のリマを切り裂く大合奏の編成は太鼓やラッパといったばかりではなく、大多数が調理器具といった家庭の金属製品をリズムに合わせて打ち鳴らしているのだ。祭りの日であれば観光客たちも大いに盛り上がったことだろうが、このような時間帯では安眠妨害以外の何物でもなかった。


「アレって何か心当たり、ある?」


 一般道路を占拠して練り歩くデモ隊の正体について思穂は現地の住民であるキリサメにたずねた。〝世界の真実〟を追い求める彼女にとっては一等強く興味を刺激される光景だが、ペルーの言語ことばに不慣れな為、彼らの主張をどうにも飲み込めないのである。

 デモ隊は無数の旗やプラカード、横断幕を掲げながら行進しているのだが、夜間という状況を除いてもそこに書かれている内容の全てを読み取ることが思穂には難しかった。


「……噂話を小耳に挟んだ程度しか知りませんけど、近々、新しい法律が公布されるそうなんです。それに反対するデモだと思いますよ」

「まさか、共和制撤廃なんて物騒なコトを言い出すんじゃないよね?」

「そんな大掛かりなものでは……確か、労働者や大学の権利に関わる法律だったかと」


 抗議の声を上げる人々は昼夜を問わず連日のように徒党を組み、国会議事堂まで詰め寄せては公布を取り止めるよう迫っていた。

 此処リマは言うに及ばず、古代の首都としてインカ帝国の風情を色濃く残した別の都市クスコに於いても道路の封鎖など激しい抗議活動が続いているそうだ。


「大学のほうは概要あらましも分かりませんけど、もう片方は労働者を評価するシステムが導入されるとかどうとか……」

「……なるほど、ね――」


 今度、公布される法律についてキリサメが知り得た情報はごく僅かであったが、それだけでも思穂には察しが付いたらしく、にわかに眉根を寄せた。

 くだんの法律がペルーの社会へどのような影響を及ぼすのか、キリサメ自身は殆ど理解できていない。労働者たちを先頭に大規模な抗議活動が発生したことから深刻な事態なのだろうとは感じているが、認識としてはその程度である。労働者の権利を守らんとする組織がデモ隊の母体となっているそうだが、そうした内実にも興味はない。

 全ては〝表〟の社会のこと。そこから弾かれた貧民街スラムの住民には他人事ひとごとのようにしか思えなかった。血と罪で汚染された社会の〝裏〟が法律程度で改善されるのであれば、キリサメも『聖剣エクセルシス』を握らずに済んでいた筈なのだ。

 キリサメの説明を聞いている間にも思穂はバッグから取り出したノートパソコンを起動させ、自前の通信機器ルーターを介してインターネット回線に接続していく。

 首都リマを中心としてペルー各地で何が起こっているのか――インターネット検索で詳細を調べようと試みたわけだが、同地の日本大使館のホームページへアクセスしてもキリサメから教わった以上の情報は殆ど得られなかった。心許ない語学力を頼りにリサーチを進めてみると、各種のSNSソーシャルネットワークサービスには抗議の内容や、それに基づいた主張ではなく政府への罵詈雑言ばかりが並んでいることが確認できた。

 新たに得た情報といえば、同時に公布されたものが大学というシステムを壊し兼ねない教育法案であったことだろうか。これに反発する学生や教職員までもが怒れる労働者と共に行進の列を築いているのだろう。

 ペルー政府にとって二〇一三年の冬は比喩でなく本当に凍て付くような時期に違いない。何しろ、老若男女というあらゆる世代からの批判にさらされているのだ。

 思穂のほうは期待した以上の情報が得られなかったことで逆に納得したようだ。自分たちの置かれた状況を冷静に分析し、行動の是非を検討できるような余裕を完全に欠いてしまっている――それこそが暴徒化の危険性を表しているのだった。


「働く人たちが怒り狂って立ち上がったのはね、自分たちにとって絶対超えてはならない一線がそこにあるからだよ。誰にでも当たり前の権利が壊されようとしている瞬間に指をくわえて眺めているだけじゃ負け犬と変わらないもん」

「負け犬……ですか」

「……自分が〝自分〟である為に欠かせない精神モノを守って抗っちゃうのが人間だからね」


 これまでになく神妙そうな面持ちと、唇から滑り落ちた溜め息はキリサメに向けられたものである。〝表〟の社会から切り離された〝裏〟の路地をたむろしている彼は国家くにの骨格とも呼ぶべき法律の存在を重く受け止めていないと悟ったらしい。

 それでは抗議デモの本質にも、怒れる労働者たちの絶叫にも理解など及ぶまい。


「ペルーで報じられたかは知らないんだけど、何年か前に日本でも同じような事態ことが起きたんだよ。……アマッち、『けんり』って言葉は聞いたことあるかな?」

「……ハケンギリ……?」


 鸚鵡おうむ返しに同じ言葉を繰り返したことからも瞭然であるように、キリサメは思穂が口にした『派遣切り』の意味を測り兼ねていた。彼女の言う「数年前」がどの程度の期間かは分からないが、ここ数年の記憶を振り返っても何一つ思い当たらないのだ。

 『派遣切り』という言葉自体が初耳である。


「アメリカで起こったサブプライム問題のアオリが日本にまで押し寄せちゃってねぇ。何社もブッ飛ぶ地獄の大不況が始まっちゃったんだよ。それが二〇〇八年くらいのコトなんだけど、影響をモロに喰らった大企業の皆サマ、トチ狂って派遣労働者を契約期間の途中で一気に打ち切っちゃったワケよ。正社員でもない臨時雇いなんかには、もう給料払う余裕がないってね」


 当時の日本では『解雇権の濫用』に抵触するとして法律の観点からも正社員のリストラが困難となっていた。そうなると臨時雇いに過ぎないという認識の派遣労働者が真っ先に切り捨てられるのは必然であった。

 それが俗にいう『派遣切り』である。

 北米アメリカの金融危機に端を発する大不況が遠因となった社会問題について語り続ける思穂は秒を刻むごとに表情が暗くなっていく。日本中で巻き起こった人員整理の嵐にはジャーナリストの端くれとして思うところがあるのだろうか。あるいは強権的な契約解除によって損害を被った経験でもあるのだろうか。

 尤も、キリサメには思穂の内心へ触れるつもりなど毛ほどもなかった。それどころか、表情の変化すら気にも留めていなかったのである。自分たちも所詮は雇用の一点のみで繋がっているだけなのだ。そのような関係に感傷的な事柄を差し挟む理由など持ち得ないというべきかも知れない。


「……有薗氏の解説は分かり易かったのですけど、それとこの騒ぎに何の関係が?」

「アリアリ、有薗って名前と同じくらいおおアリ! 『労働者を評価するシステム』が設定されるって話でしょ? 上司の胸三寸でクビ切るかどうかを決め始めたら、そんなん地獄絵図だよ? 極端な例だけど、『アイツが気に喰わない』って個人的な気持ちだけで素行不良にされるとか、そんなコトが横行したらどうなるのさ?」

貧民街スラムが増えますね」

「会社からすれば政府公認だから大量虐殺みたいなリストラをやったって評価システムの名のもとに正当化できるでしょ? ……だから、あの人たちは立ち上がったんだよ。労働者の誇りを弄ぶのと同じだからね」


 『派遣切り』が横行していた頃には日本でも状況の改善を求めて大小のデモが起こったとも思穂は言い添えた。ペルーの場合は正社員にまで善からぬ影響が及ぶ為、より大きな騒動に発展したのだろうとも分析している。


「二〇〇八年の大晦日には仕事を辞めさせられた人たちを助ける為に『けんむら』っていう避難所が開かれてね。私は炊き出しのボランティアで参加したんだけど、……それと同じようなコトが間違いなくペルーでも起こるハズだよ」

「……『同じようなコト』というか、給水や炊き出しがなかったら町中の貧民街スラムが死体の山になってますよ」


 日本に於ける『派遣切り』を例に引きつつ、労働者に対する評価システムの導入が招く結果を説いていく思穂であるが、弱肉強食の掟に従って生きてきたキリサメの心には殆ど響いていなかった。

 法律に裏打ちされたシステムだろうが、職場の環境だろうが、弱ければ戦いに敗れ、勝者の餌食にされるだけなのだ。根拠が曖昧としか思えない法律に勝敗を委ねるなど、それこそ負け犬の遠吠えではないか――肯定を受け入れられず、首を傾げそうになるキリサメだったが、それも一瞬のことである。

 不意にドアの向こうから大きな話し声が聞こえてきたのだ。我が身を盾として思穂を庇いつつ『聖剣エクセルシス』を構え直したキリサメは、薄壁の向こうに最大級の注意を払っていたが、どうやら自分たちの部屋に侵入する算段を論じているわけではなさそうだった。

 他の宿泊客もデモ隊の喧騒さわぎに驚き、ホテルにまで侵入しないかと混乱しているらしい。


「報道されていないことを敢えて暴くのが自分の使命と仰っていましたよね?」

「その為に生まれてきたって思ってるくらいだよ」

「……それなら、注意深くなることです。生き残るってコトは、結局はそういうだと思っていますから……」


 通路側に危険がないことを確かめて窓際に戻ったキリサメは、国会議事堂への進行を阻止すべく駆け付けた警官隊とデモ隊から一瞬たりとも目を離さなくなった。

 両者は道路の中央で睨み合いとなっているが、ほんの小さなきっかけでも暴力性が解き放たれ、そのまま敵味方が入り乱れる大混戦と化すに違いない。その果てに錯乱したがホテルの側へ向かってくるとも限らないのだ。

 誰かに望まれたわけでもなく、ただ己の使命感とやらを満たす為だけに〝闇〟をこじ開けたときには、そのようにして死の影が押し寄せてくるのである。そして、その影を恐怖と思わないタイプだから有薗思穂は始末に負えないのであった。


「ちょっと、アマッち、アマッち! 私の身体、しっかり支えていてね! おっぱいくらい幾らでも触ってもいいから! ていうか、お誘いモードだかんね!」

「……注意深くなれって教えたばかりですよね」


 小型カメラを手に取り、無防備にも窓から身を乗り出してデモの様子を撮影していた思穂は、警官隊の装備が昼間に広場で見かけた物と異なっていることに気付いた。

 殺気立ったデモ隊と相対するべく重武装に替えたのか、プロテクターとヘルメットで全身を固め、左手には透明な強化プラスチック製の盾を握り締めているではないか。対の右手には警棒を、肩からは銃器をそれぞれ携えており、その威容すがたは戦地に赴く兵隊のようにしか見えないのだ。

 市街戦の始まりを予感させるような装備ともいえるだろう。夜間撮影にも対応したカメラは両手でもってグレネードランチャーを構えた者もレンズの中央に捉えている。


「まさかと思うけど軍隊まで出張ってきちゃった? これでも事前に下調べはしてたんだけど、想像以上にペルー政府、容赦ないのかな?」

「あれは陸軍じゃなくて『国家警察』です。この規模の抗議集会になると町中の警官では対処し切れませんしね。だからといって、軍隊を出動させるワケにも行かない。そんなときこそ、国家警察あのひとたちの出番というワケです……」

「ま~た興味をソソられる響き! 国家警察なんて陰謀のニオイがプンプンじゃん!」

「……まあ、汚職は否定しませんけど、迂闊に喧嘩を売るとペルーから二度と出国られなくなりますよ。余生を監獄の中で過ごすには早過ぎるでしょう」


 彼らはあくまでも〝市民たちの集会〟を解散させる為に出動してきた警察組織である。肩からベルトで提げているライフル銃や散弾銃ショットガンは暴徒鎮圧専用の物であり、非致死性のゴム弾のみを撃発する仕様であった。思穂がグレネードランチャーと直感した装備も催涙弾しか装填されていないのだ。

 警官隊の背後には装甲板によって堅牢に固められた放水車が控えているが、冬の真夜中に高圧の水大砲など浴びせようものなら二次及び三次災害の危険性も一気に跳ね上がる。鎮圧が任務とはいえ、国家警察もなるべく使いたくないはずだとキリサメは自分なりに分析を述べていった。

 対するデモ隊の後方では現職の大統領や国会議員に似せたものと思しき等身大の人形が長細い鉄柱ポールから一まとめに吊るされ、油でもって轟々と燃やされている。夜空を焦がさんと逆巻く灼熱の揺らめきが篝火の如くデモ隊の背中を照らしていた。

 巨大な影は一個の塊と化し、正面から彼らを見据える警官隊に暴威の顕現として覆い被さっていた。無論、そのようなことで気圧されるような国家警察ではない。一歩も退かずデモ隊へと突き進み、両陣営は道路を跨ぐ高架橋を挿むような恰好で対峙した。

 この公僕どもは何とも哀れだ。自分たちが使い捨ての駒だとは思いも寄らず、邪悪な政府に踊らされている――デモ隊から国家警察に対し、あざけりに満ちた罵声が乱れ飛ぶ。それでも警官隊かれらは横一文字という隊列を決して崩さない。この状態で一斉に盾を掲げ、自らを長大な壁に見立てて怒れるデモ隊を押し返そうという作戦のようだ。

 警官隊を率いるリーダーは拡声器を用いて引き返すよう説得を試みたが、その程度のことで引き下がるのであれば最初から抗議集会など開いてはいない。間もなく参加者の一人が持参した廃タイヤに火を付け、次いで棒切れを引っ掛けて燃え盛る塊を放り投げた。

 中衛付近に落下した炎の塊は警官の一人へと燃え移り、近くに居た仲間が消火器にて助けた――果たして、それは宣戦布告の代わりであった。夜空を焦がした灼熱の閃きにいざなわれてデモ隊が動き、ついに警官隊へと襲い掛かったのである。


「まるで合戦かっせんねぇ。司馬遼太郎シバリョーが書きそうな光景、ガザでもお目に掛かれなかったわ」


 レンズ越しに前衛同士の衝突を見つめていた思穂は、不意に『合戦』という耳慣れない言葉を呟いた。聞いたこともない日本語であった為、それが意味するところをキリサメは測り兼ねたが、戦闘行為か、それに準じるものであろうことは察しが付いた。

 二人の視線が向かう先では、まさしく乱世さながらの蛮行が繰り広げられているのだ。

 密集状態で盾を翳した警官隊は暴徒同然と化して押し寄せてくるデモ隊を受け止めるつもりである。万里の長城の如く隊列を展開させ、アスファルトに靴が食い込むのではないかと錯覚するほど強く地面を踏み締め、これ以上の進行を食い止める覚悟であった。

 歯を食いしばって市民の暴走に抗う警官隊へ高架橋の上から岩を投げ付ける者もいる。剥き出しの殺意を浴びせられるようなものであるが、それでも警官隊かれらは怯まず、岩などはヘルメットやプロテクターへ当たるに任せ、正面の相手に全力を注ぎ続けた。

 高架橋に向かって道路から催涙弾を撃ち込んだのが国家警察の側の最初の反撃である。デモ隊の前衛は一個の塊のようなものであり、放水車を差し向ければ一網打尽にすることも容易かろうが、警官隊のリーダーは決して水大砲の発射を命じない。本当の手詰まりとなるまでは、あくまでも〝人間の力〟による解決を試みるようだ。

 彼は声を嗄らして引き下がるよう説得を続けている。

 程なくしてデモの本隊にも催涙弾が発射され、辺り一面が鈍色のガスに包まれた。思穂たちからは全体像が掴み辛くなり、街路灯や路上で燃え盛る炎に照らされて浮かんだシルエットだけが状況を把握する手掛かりとなった。

 視界不良という状況でも瞭然なほど前衛同士の衝突は激しさを増している。

 そのとき、キリサメが「あっ」と息を呑んだ。前衛で踏ん張っていた警官隊の一角が突如として崩れ始めたのである。

 数に物を言わせた突撃ではあるものの、相手は一般市民なのだ。屈強揃いの国家警察が押し負ける事態など彼には信じられなかった。


「やってることがエグいから悪玉ヒールっぽく見えちゃうけど、デモの人たちも生きる為に必死なんだよねぇ。未来を開かなきゃならないって想いが力に換わると人間超えるんだねぇ」


 催涙ガスが薄らいだ瞬間にカメラを構え直した思穂は、国家警察をも突き崩そうとしている群衆の力へ感心したように首を頷かせた。


「てゆーか、警察の盾って意外とペラッペラなんだね。余裕で壊されまくってるし」


 その呟きに閃くものがあったキリサメは思穂からカメラを引っ手繰り、抗議も無視してレンズを覗き込んだ。彼女の手で程よくズームが調節されており、即座に望遠鏡の代わりとして使えたのだが、鈍色のガスの向こうには衝撃的な場景が広がっていた。

 確かにデモ隊は死に物狂いで攻め寄せている――が、思穂が言うように〝想い〟が攻撃力に転化されるわけではない。そのように抽象的な要因によって優劣が決するほど生易しい攻防でもないのだ。

 一般市民が国家警察の隊列を突き崩せたのは、その手に盾をも砕く武器を携えていたからに他ならない。デモ隊の一部は伸縮式の特殊警棒を振りかざしていた。それも一人や二人ではない。二、三〇人ほどが揃いの武器を強化プラスチック製の盾に叩き付けているではないか。

 国家警察との衝突に備え、木の棒切れや野球のバットといったを持参してデモに加わる者も少なくはない。道端より拾った石を投擲することも抗議の手段として有効だと考えられているくらいだ。

 しかし、揃いの武器を握って一斉に襲い掛かる場景など前代未聞である。かつてない事態であったが為に警官隊も怯んでしまったのだろう。

 味方が優勢と見て一等発奮したのか、デモ隊の間で怒涛のような歓声が上がり、後方より無数のロケット花火が放たれた。夜空を走る無数の閃光は、怒れる市民の願いを乗せた流れ星のようにも見えるのだが、所詮は人間の凶暴性が表れているに過ぎない。

 警官隊の中衛は降り注ぐロケット花火を盾で弾きながら前方へと押し出し、こじ開けられそうになったを埋めていく。

 思わぬ苦戦を挽回するべく国家警察の側も盾に警棒を併用し、本格的な反撃に移った。

 尤も、警官隊かれらが装備している警棒は標的のを目的とした硬質ゴム製であり、強度の点に於いてはデモ隊の物に全く歯が立たないようだ。正面からぶつかろうものなら根元からし折られてしまうのだった。

 国家警察の装備よりも遥かに優れたを一般人が大量に入手していることがキリサメには不可解でならなかった。ここまで攻撃性が高まってしまうと、もはや、抗議活動デモではなく政府転覆活動クーデターであろう。


(……キナ臭いことになってきたな……)


 不意に厭な予感がキリサメの脳裏をよぎったが、その正体を見極める時間など思穂は許してくれなかった。


「よーし、アマッち! ボディーガード、よろしく! 今から突撃取材キメるよ! 地元の記者も出動でてるみたいだし、負けちゃいらんないッ!」


 頭の中でこねくり回していた事柄ことはたった一つの発言によって丸ごと吹き飛んだ。迂闊とさえ思った。衝突の有り様を暢気に解説までしてしまったが、このような情景を目の当たりにして黙っている人間ではないのだ。

 思穂の性格を失念していたキリサメは自責の念と共に辟易の二字を顔面に貼り付けた。説得を重ねて非合法街区バリアーダスに立ち入ることを諦めさせたというのに、彼女は自ら『合戦』とたとえた抗議デモへ潜り込みたいと言い出したのである。

 ボディーガードとしては暴力性が破裂したような場所など絶対に近付けさせるわけにはいかなかった。普段であれば「勝手にしろ」と見捨てるところだが、〝仕事〟として引き受けた以上、その役目は果たさねばならないのだ。

 〝あの声〟から命令されたことは、つまりはである。


「……とりあえず、今夜はもう休んでください。明日は闇市やみいちに案内しますので……」

「闇市ィッ⁉」


 思穂が声を裏返らせた瞬間、キリサメは「掛かった」と胸中にて呟いた。〝真実〟を伝えることに使命感を燃やす彼女ならば反応せずにはいられない〝餌〟で釣ったわけだ。


「闇市ってコトは英訳するとブラックマーケットだよね⁉ えっ⁉ アマッち、そーゆー場所にもコネがあんの⁉ スゴくない⁉ 本邦初公開レベルじゃない、それ⁉」

「なので、体力を回復しておいてください。一応、警察の目を盗んで開いているので、ガサ入れの可能性もないわけではありません。逃げ遅れたらおしまいですよ」


 キリサメもを闇市へ案内することは気が進まないが、好奇心を別の場所に誘導しなければ、本当にホテルを飛び出していたはずだ。おあつらえ向きに用事もある。知り合いの所へ顔を見せるついでに少しばかり紹介しておけば満足させられるだろう。

 窓の外では両陣営の衝突が激化の一途を辿っている。ロケット花火より発せられる甲高いを咬み砕くかのように無数の発砲音まで轟き始めた。国家警察が暴徒鎮圧用の銃器の使用に踏み切ったわけであるが、それはつまり、手加減をめたという宣言なのだ。

 これが本物の戦場であったなら掃討の段階に入ったといえるだろう。勢いに乗って特殊警棒を叩き付けていた者たちはゴム製の散弾をまともに浴びてのた打ち回り、隊列が乱れ始めた。警官隊かれらが用いているのは非致死性の弾丸である。しかし、至近距離で命中しようものなら全身が痺れて動かなくなるほどのダメージは免れないのだ。

 被害を最小限に食い止めるという戦略上、ゴム製の弾丸をバラ撒くことが最も有効だとキリサメも頭では理解しているのだが、せいぜい打撃用の武器くらいしか持ち得ない〝市民〟が銃撃によって打ち負かされていくさまは眺めていて愉快ではなかった。

 最初に鳴り響いた発砲音一つによって攻防の流れが変わったといっても過言ではない。強化プラスチックによって築かれた壁は前衛を押し返し始めている。それでも、デモ隊は応戦し続けるだろう。あるいは警官隊と押し合い圧し合いを演じながら夜明けを迎えることになるかも知れない。

 こうした喧騒さわぎの中でも睡眠を取り、不穏な気配が近付いてきたときにはすぐさま覚醒できるように順応した肉体からだならいざ知らず、思穂のほうは眠れぬ夜を虚しく過ごすことになるだろう――とキリサメも案じたのだが、様子を窺ってみれば既にベッドへ潜り込み、気持ちよさそうに寝息を立てているではないか。


「……中東まで行ってしまうような人って忘れていたな……」


 底なしの逞しさに驚かされるキリサメであったが、どうにも頼もしく感じられないのはテーブルの上にカメラを放り出したまま眠りに落ちるくらい不用心だからであろう。


「――ずんだは食うのでなくて飲むゥッ!」


 意味不明としか表しようがない大きな寝言に溜め息を吐きつつ、キリサメもソファに腰掛け直した。相変わらず罵声の応酬はやかましいが、窓の外に覗ける衝突の場景は分厚いガスに覆われて確認が困難となりつつあった。



 リマ市内だけでも貧民街スラムは数え切れないくらい点在しているが、それは郊外に限ったことではない。都市部に於いても同様であり、賑やかな大通りから道を一本ばかり隔てた先が困窮と犯罪の巣窟であることは珍しくない。盗品などが売りさばかれる闇市とて住宅街の間隙で開かれているのだ。

 そのことをキリサメから説明された思穂は一等期待を膨らませる――が、その昂揚とは裏腹にペルーの空模様は地上の気鬱を映していた。前夜に撒かれた催涙ガスがそのまま上空に停滞しているかのような鈍色の蓋が陽の光を遮断している。

 日照時間が極端に少なくなる季節だけに曇天の日も圧倒的に多いのだが、何しろ大規模な抗議デモの翌朝である。空の下を行き交う人々は誰もが疲れ切っており、陽の光が差さないと町全体から生気が失せてしまうのだった。

 思穂が寝言を並べるようになった直後にはキリサメも仮眠に入った為、抗議デモの結末は見届けておらず、水大砲の使用も確認していないのだが、デモ隊の側は放水車の移動を妨げるべく路上に岩やブロックなどを散乱させたようだ。

 そうした障害物は、現在いま、舗装もされていない歩道でざらしとなっている。放水車の進路を確保するべく国家警察が放り捨てたのだろうが、衝突の残骸は近隣の住民たちが撤去しなくてはならないのだ。デモ隊が責任を持って片付けてくれるわけでもない。

 リマ市民の全員が抗議集会に参加したわけではない。皺寄せというものは焼け落ちたタイヤを迷惑顔で片付ける人々に行ってしまうのだった。

 宿所を出てすぐにデモのへと足を向けた思穂は、暫くは真剣な面持ちでカメラを回していた。貿易港へ向かう道程と同じようにヘッドセット頭から被るタイプのマイクへナレーションも吹き込んでいるのだが、ただでさえ気が滅入っているときに外国人よそものの見物など市民が快く受け入れるはずもあるまい。

 物騒な視線を感じ取ったキリサメはその場から思穂を強引に引き剥がし、本来の目的地へと促していく。二人が向かう先は衝突の中心地となった場所とは反対の方角なのだ。

 例え、力ずくであろうとも目的地まで連れてさえ行けば、後ろ髪を引かれるようにデモのを振り返っている思穂の気持ちも変わるだろうと考えていた。

 案の定、現地へ到着した思穂は双眸を大きく開け広げ、もはや、その意識は闇市にしか向かっていなかった。

 尤も、顔面に喜色は薄い。どうやら、彼女が想像していた光景からはかけ離れていたらしく、「何か……がっかりだな~」と肩まで落としてしまったのだ。


「がっかりというのはどういう意味でしょうか」

「だってさぁ~、ブラックマーケットって言ったら、もっとこう……アンダーグラウンドなイメージでしょ? 見た目、活気ありまくりだしヴァイオレンスが足りないよっ⁉」

「インカの遺跡から盗掘してきたような物がそこら辺にポンと置いてあるだけではヴァイオレンスが足りませんか」


 狭い通路に露天商などが寄り集まって路上市場いちばを形成しているわけだが、『闇市』という語感ひびきから密売人が廃墟で落ち合うような情景が思穂の頭の中に浮かんでいたのである。

 しかし、実際にはどうか。老朽化が窺える建物の間隙に広がっていたのは目抜き通りで飽きるほど見てきた路上市場とそっくり同じものだったのだ。客を呼び込もうとする威勢の良い声や往来を行き交う人々、胃袋を刺激する食べ物の匂いまで酷似している。

 表通りの路上市場と異なっている点を挙げるとすれば、露店を覗いているのが地元リマの市民ばかりであり、思穂のような観光客が場違いなことであろう。

 物足りなく感じるのは本人の心次第ではあるものの、期待外れと言い切ってしまうのは闇市で働く人たちに失礼である。その中にはキリサメが世話になっている相手も含まれているのだ。


「――サミー? ……あれ? もう『聖剣エクセルシス』を直す時期だっけ?」


 思穂の失言を窘めようと口を開きかけたキリサメに何者かが声を掛けた。反射的に首を振り向かせてみると、煌びやかな貴金属や携帯電話スマホ、いかにも高級たかそうな毛皮のマフラーなどを地面に敷いた布切れへ雑多に並べた少女が二人の顔を見上げているではないか。

 売り物と同時に捉えなければ、彼女が露天商とは誰も思わないはずだ。チュニックからタイトスカートに至るまで衣類は黒一色で、葬式帰りの喪服のようにも見えるのだった。

 キリサメほど酷くはないものの、衣類のあちこちに洗濯した程度では消せないような汚れが見受けられる。長袖のチュニックも生地自体は相当に薄手であり、真冬に相応しいとは言い難い。それはつまり、着る物にさえ難儀するような〝境遇〟の表れでもあった。黒ずくめも本人のこだわりなどではなく、他に選択の余地がない為であろう。

 事実、キリサメと〝同じ世界〟の人間であることだけは思穂も一目で読み抜いている。


「……?」


 『サミー』という独特の愛称ニックネームで呼ばれたキリサメは、少女を見つけるなりすぐに片膝を突き、その顔を覗き込んだ。ほんの僅かなやり取りだったが、ただそれだけで二人が親しい間柄であることや、何事にも無感情なキリサメの心が乱れた理由まで思穂には理解できた。

 キリサメから『』と呼ばれた少女は痛ましいくらいに満身創痍だった。

 額から後頭部に掛けて包帯を巻いており、テープによって固定されたガーゼが左目全体を覆っていた。顔面には絆創膏でも隠し切れないくらいの擦り傷や青痣が散見され、右腕に至っては肩甲骨の辺りで結び合わせたスカーフにて吊っている。

 自動車にでも撥ねられた直後のような風貌からキリサメと同い年くらいということは察せられた。彼女のほうは〝純粋な日本人〟ではなさそうだ。バレッタを使って結い上げた髪の毛は黒く、顔立ちも日本人のと良く似ているものの、肌の色はペルー人に近い。混血であることは間違いなかった。


「……まさかと思うけど、その怪我、バカな連中から――」

「――どうして男の人ってスケベなほうに発想が飛ぶかなぁ、もう~。普通、〝仕事〟でドジッたって考えない? ちょっと会わない間に〝そっち系〟のポルノに目覚めたの?」

「茶化すなよ。……、ここでは〝そういうコト〟が当たり前なんだから……」

「サミーが考えてるようなコトじゃないから安心して。それは大丈夫」


 キリサメたちの間では日本語が使われているので思穂にも内容が理解できた。そのやり取りからも二人が心を通わせていることが察せられ、彼女にはそれだけで十分だった。

 思穂の視線は少女の右腕を吊るしたスカーフへと注がれている。ハチドリやコンドルなど『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだは、キリサメの『聖剣エクセルシス』に縛り付けられた布切れと全く同じ物なのだ。即ち、揃いの品を分かち合うというわけである。


「ほッほ~う、アマッちってば朴念仁に見えてちゃんと青春してるんじゃ~ん。可愛い恋人さんがいるんだったら、もっと早く言って欲しかったじゃ~ん」


 冷やかすような顔と声色で『恋人』と決め付けられた二人は、心の底から迷惑そうな表情に変わった。それはつまり、思穂の察したが完全なる勘違いという証拠なのだが、何事も自分に都合良く解釈してしまう彼女は、その反応さえも照れ隠しと受け取ったようで、「照れちゃってマ~」と朗らかに笑っている。

 さすがに我慢できなくなったキリサメは自分が支えとなってを立たせると、「幼馴染みです」と溜め息混じりで強調した。


「えっと――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケって言います。……っていうか、そちらのほうこそサミーの恋人カノジョじゃないんですか? 寂しい独り身のわたしにデートを見せつけようって腹積もりとばかり……」


 キリサメに促されて自己紹介した幼馴染みの少女――は、思穂こそが彼の恋人ではないかと思っていたようである。


「はいは~い、そんじゃお返しね。私は有薗思穂、インターネットでゴキゲンなニュースを配信してまッす! お察しの通り、実は昨日からアマッちと結婚を前提にお付き合いをさせてもら――」

「――この人の言うコトは真面目に聞かなくていいから」


 自分の名刺をに手渡しながら妙な既成事実を作ろうとする思穂の言葉を即座に切り捨てたキリサメは「ただの雇用関係だから、僕たち」と念を押すように言い添えた。


「必死に取り繕うところからして怪しいな~。やっぱ、このコにホの字なんじゃない?」

「わたしとサミーが? ないなぁ~、チュ~するトコだって想像つかないなぁ~」


 どうしても思穂は二人の間に恋愛感情を見つけたいようだが、自身がそれを鼻で笑った。キリサメのほうも彼女の反応リアクションにショックを受けた風でもない。幼馴染みのロマンスなど望むべくもない雰囲気が垂れ込めていた。


「わたしはサミーよりもお姉さんのほうが好みかな。手に職持ってるみたいで将来安定しそうだし、内縁の妻ってヤツでも構いませんよ!」

情熱パッションの南米でまさかの告白っ⁉ 私のフェロモンは女の子にまで効いちゃうのね~ん」


 怪我人とは思えないくらい軽やかな足取りで思穂の背後まで回り込んだは無事な左手一本で彼女の上半身をまさぐり始めた。相手が同性であったればこそ、胸を揉みしだかれてもくすぐったそうに笑っているだけなのだが、異性による行動であれば強制猥褻わいせつとして逮捕されてもおかしくないほど怪しげな指の這わせ方である。

 その様子をつまらなそうに眺めていたキリサメは幼馴染みの手付きが僅かに変わった瞬間を見逃さず、咳払いでもってこれを咎めた。


「……、一応、確かめておきたいんだけど、〝それ〟って冗談だよね? 現在いまはボディーガードとして雇われてる身だから、〝それ〟を見逃すワケにはいかないよ」


 「さすがにサミーの目は誤魔化せないか」と肩を竦めたは、口笛を吹きつつ左の人差し指と中指でもって〝ある物〟を挟み、思穂の鼻先に翳してみせた。

 それは彼女の財布だった。昨日から変わることなくジーンズのバックポケットに突っ込んでいたのだが、それを知らない間に引き抜かれていたわけである。


「おッおおお~! 何なに、今の⁉ マジシャン? てか、テクニシャン⁉ 気配さえ読ませぬとは、おぬし! インカ忍者だなっ⁉」


 ほんの挨拶代わりだと冗談めかした態度で財布を返された思穂は、の狼藉に怒り出すどころか、一瞬たりとも気付かせない鮮やかな技に感心したようだ。両目を輝かせながら「もう一回! 今の、もう一回やって!」と両手を合わせてねだる始末であった。


「変わってるね、この人。てゆーか、インカ忍者って何?」

「一日一緒に居てみなよ、調子が完璧に狂うぞ。インカ忍者だとか、その場のノリだけでワケ分からないコトを言うし」


「てゆーか、ッちが見せてくれた神ワザ、インカ忍者の奥義だろってレベルだったけど、ひょっとしてひょっとしたりする? 本業は〝そーゆー仕事〟だったりして?」


 「逢って五分でファーストネームですか」と苦笑しながらもは思穂の問いかけを肯定するように舌なめずりを披露した。掏摸スリであろうと言外にたずねられ、これを認識した上で狙った獲物は逃がさないとでも言いたげな仕草ゼスチャーこたえたのだった。

 闇市というものは〝このような人々〟によって構成されているわけだ。盗んできた物だろうが何だろうが、素知らぬ顔で取引してしまうような逞しさが膨大な熱量となって市場全体を満たしているのである。が売りさばこうとしていた貴金属も観光客からくすねてきた物に違いない。

 〝表〟の社会の常識や法律ルールに照らし合わせた場合、何一つとして褒められることはないのだが、は「これからはインカ忍者を名乗っちゃおっかなぁ」などと、おどけた調子でふんぞり返った。

 こうしたやり取りを経て思穂に心を許したは、闇市の片隅に設けられた飲食の場へと二人をさそった。露店の片付けにも苦労する幼馴染みはキリサメが支え、その度に思穂から冷やかすような視線を浴びせられたが、その全てを彼は黙殺した。

 露店でがねいろの炭酸飲料を買い求めた三人は小さなラウンドテーブルに着いた。飲食用のスペース自体が住宅街の只中へ設けられた公園に面しており、そこではアンデスの民族衣装に身を包んだ旅芸人の一座が古くから伝わる舞踊おどりを披露している。足を止めて見入る人々も多く、闇市の名物であろうと察せられた。

 本来、闇市とは人目を忍んで開かれるものだろう。しかし、ここは悪目立ちするくらいの明るさに満ちており、思穂が面食らうのも無理からぬ話であった。


ッちにはタメ口なんだよね。私にもそれでいいよ、アマッち」


 炭酸飲料を口に含みながら民族舞踊を眺めていた思穂は、想い出したように妙なことを言い始めた。雇い主と幼馴染みで態度を変えるキリサメに対し、自分にも気安く接して欲しいというわけだ。

 にそこまで踏み込むつもりがないキリサメは露骨に迷惑そうな表情となり、彼の隣に座っていたは噴き出すように笑いながら「言われてるよ、おぼっちゃん」と彼の脇腹を小突いた。


「不愛想なクセして、このコ、やたらと礼儀正しいもんだから、目上の人に失礼なことを絶対できないんですよ。何しろお母さんの教育がいいからね~」


 の言葉を受けたキリサメは「マザコン扱いすんな」と不機嫌そうに言い捨てた。


「アマッちのお母さん? ……って、そーいや、昨夜もずっと借りっぱなしだけど、ご家族は心配してない? お家に連絡してないよね?」

「あれ? サミーってば自己紹介してないの?」

「したよ。……だからって、家族の事情まで話す必要ないだろ」


 麻袋に納めて携えてきた『聖剣エクセルシス』を胸元に抱えると、キリサメはそっぽを向いた。礼儀作法に厳しいとが評する通り、普段は大人びた態度でいることも多いのだが、幼い頃から気心が知れた相手の前では年齢相応の顔も見せるのだろう。

 不貞腐れた子どものようなキリサメの姿に思穂は頬を緩ませた。


「ご覧の通りって言って良いのか分かんないけど、わたしもサミーも孤児みなしごなんですよ。サミーのほうは確か――お父さんが日本大使公邸の事件で人質にされたんだよね」


 キリサメの様子に和みつつの話へ耳を傾けていた思穂は、がねいろの炭酸飲料を鼻から噴き出すほど驚いた。

 が口にした〝事件〟とは、一九九六年から翌九七年にかけてペルーの反政府組織が邦人二五人を人質に取って日本大使公邸に立て籠もった数ヶ月の攻防のことである。

 当然ながら日本に於いても連日のように事件の経過が報じられ、当時はまだ一〇歳にも満たない子どもであった思穂の記憶にも生々しく刻まれていた。

 昨夜、シャワーを浴びている最中に我知らずハミングしたパンクバンドの一曲ナンバーも事件当時、人質となった邦人たちを励ます為にペルーのラジオで放送されていたはずだ。


「今が二〇一三年で、ケリついたのが九七年四月だったから、えーっとうーんと……」


 鼻からがねいろの液体が滴るのも構わずに指折り数えて何らかの計算を続けていた思穂は、次いで納得したように首を頷かせた。日本大使公邸を舞台とする人質立て籠もり事件が解決されたのは一九九七年のこと。キリサメもも、その頃に生まれたのだろう。


「二人ともスゴい時期の申し子なんだねぇ~。あの事件で人質になった日本人はサラリーマンが多かったけど、アマッちのお父さんもバリバリの企業戦士だったの?」

「……さあ、僕も詳しくは……」


 父親について尋ねられたキリサメは、いかにも歯切れの悪い返事で頬を掻いた。


「僕は父親の顔だって知りませんし、興味もありません。家族に連絡を取らないのかってコトですけど、母さんだってとっくの昔に死にましたから」

「……ッちのご家族はご健在?」

「ウチもサミーんトコと似たり寄ったりですよ。両親とも銀行強盗をやらかして、お母さんは刑務所で服役中。生きてる間に出所てこられるのかなぁ。お父さんのほうはその場で射殺されましたしね」


 両親との永別をほのめかしたキリサメの事情を穿ほじくり返してはなるまいと判断した思穂はに話を振ったのだが、彼以上に重い回答こたえを受けてしまい、さすがに言葉を失った。

 生気が宿っているのかも定かではない眠たげな双眸など常に陰気そうなキリサメと比べて、のほうは満身創痍であっても溌溂はつらつとしている。その様子から家族と共に健やかに育っているのだろうと思穂は想像したわけだが、〝日本人〟と〝日系人〟の間では必ずしも〝感覚〟が一致しないことを彼女は失念していたのである。

 闇市で盗品を売ろうとする掏摸スリの少女は、紛れもなく〝逞しい人々〟の一員なのだ。


「港で働いていた叔父さんの家に居候させてもらってたんですけど、向こうにだって養わなきゃいけない家族がいますし、叔父さん一人のお給料だけじゃやっていけないので、わたしもこうして外で働いてたんですけど……」

じゃなくて盗みだけどな」

「どの口が言うかな~、そんな物騒な『聖剣もの』を担いどいて~」


 キリサメから皮肉られたは抗議の意を表すように頬を膨らませた。ともすれば幼馴染み同士のじゃれ合いのようにも見える光景だが、二人の差し向かいに座った思穂は、これを冷やかすどころか、更なる衝撃に打ちのめされて固まってしまっている。


「ねえ、アマッち……まさかと思うけど、ッちの叔父さんの勤め先って……」

「昨日、あなたが揉め事を起こしたカヤオの港ですよ」


 さしもの思穂もこのときばかりは顔から血の気が引いた。キリサメが叩き伏せた港湾労働者の中にの親族が混ざっていたとすれば大問題である。成り行きからキリサメを差し向け、あの場に集まっていた殆どの者に重傷を負わせてしまったのだ。

 謝罪になるとは思えないものの、自分なりの誠意として昨日の揉め事を気まずげに明かしていく思穂であったが、当のは「取り越し苦労」と一笑に付した。


「昨日も何も、叔父さんなら少し前に殺されちゃいましたから」

「殺さ――もしかして、例の大量殺人事件に巻き込まれたの⁉」


 これまでに会話に於いて最も重い言葉をはあっけらかんと口にした。彼女が世話になった叔父は二週間前に故人となり、その原因について病気による急死などではなく殺害されたと明言したのである。

 仮にも親族の命が理不尽に奪われたというのに、これを世間話のように喋ってしまえるの〝感覚〟は思穂とて恐ろしく感じたが、その瞬間的な戦慄によって逆に冷静さを取り戻した。

 この出逢いは偶然か、あるいは必然の運命だったのか――の叔父も犠牲となった大量殺人事件の真相を探るべく、彼女は貿易港への潜入を試みたのだ。そこでキリサメと遭遇し、こうして身内を奪われた遺族とも巡り逢った次第である。

 表情を引き締め直した思穂は、バッグの中から自身の携帯電話スマホを取り出した。


「……ッちさえ良ければ、その話、もっと詳しく聞かせてもらえないかな?」

「それは取材って意味ですか? ギャラ、高いですよぉ?」


 冗談めかして笑うに対して思穂は真剣な面持ちで頷き、意思確認を求めるように机上の携帯電話スマホを彼女の手元まで滑らせた。液晶画面には録音開始を示すアイコンが表示されている。それを指先でもって一突きすれば、取材が始まるというわけだ。

 自身は携帯電話スマホを所持していないが、アイコンが意味するところは直感的に理解できた。だからこそ、思穂に突き返すこともなく液晶画面を指で押したのである。

 果たして、液晶画面内に録音の経過時間を示す数字カウントが表示された。


「叔父さんは港湾労働者の中でも下っ端っていうか、雑用パシリみたいな部署にいたんです。責任者になれるような頭脳アタマもなかったし、……そもそも、日系人はペルーじゃあんまり良い顔されませんしね。だから、回されるのも力仕事だけ。出世の見込みもないからお給料も安くて。家庭いえでも職場でも肩身が狭いっていつもボヤいてましたよ。……だから、〝悪い仕事〟にも密かに手を出して……」

「港で〝悪い仕事〟って言うと、ギャングとかマフィア絡みってコトかな?」

「お察しの通りです。密航や密輸の手配を手伝っていたんです――といっても叔父さんだけが特別だったワケじゃなくて、港湾労働者にそういう〝裏〟の仕事を斡旋する人がいるみたいなんですよ。多いときは一〇〇人くらいが〝小遣い稼ぎ〟に駆り出されたとか」


 この時点で思穂はの叔父が殺害された理由を悟っていた。ペルーの貿易港では麻薬の原料となるコカや、乾燥させたタツノオトシゴといった非合法な品の密輸が横行している。そして、その影で犯罪組織が暗躍している事実も思穂は突き止めていたのだ。

 の叔父やその仲間たちは用済みとなって組織にと考えるのが最も妥当であろう。捨て石のように使い潰された挙げ句、口封じに殺害されることなど〝裏〟の社会では大して珍しくない。


「……の叔父さんには僕も母親の頃から世話になっていたから、あそこで何が起きたのか、自分なりに探りを入れてみたんです。殆ど成果はありませんけど――ただ二週間前には絡みの取引はなかったみたいです。あの人が関わったことが密輸なら、他の〝何か〟が運び込まれたのか、それともカヤオから持ち出されようとしていたのか……」

「ほっほーう? 好きな子の叔父さんがられた事件だから探偵業にも手を出したのね~」

「あっ、それは違いますよ。わたしのほうからサミーにお願いして――」


 真面目な話をしている最中に茶化されたキリサメは、これまで一番大きな溜め息を吐いたのち、『聖剣エクセルシス』を担いでその場を立ち去ってしまった。背中を追い掛けてきた「それくらいでムカつくなんて、まだまだ子どもだね~」というの笑い声にも振り返らず、雑踏の只中へと消えていった。


「安心してください。あれは『聖剣エクセルシス』を補修するパーツを買い揃えに行ったんですよ。サミーがに顔を出すのは、大抵、その為ですし。小一時間もすれば戻ってくるから、お喋りしながら待ってましょう。……人よりズレたトコも多いけど、決して薄情なヤツじゃないですから、わたしの幼馴染みは」


 ボディーガードから置き去りにされた思穂を安心させようとは幼馴染みの行動を事細かに解説していく。〝他人〟に誤解され易い部分まで彼女は受け止めているわけだ。

 こそがキリサメという少年にとって一番の理解者なのだろう――そのように捉えた思穂は彼女の真隣まで椅子ごと近付き、「青春真っ盛りじゃ~ん」などと冷やかしつつ肘でもって脇腹をつついた。


「そろそろ、認めちゃいなって。本当はカレとデキてるんでしょ? うりうり~?」

「ナイですって~。〝肉体カラダ〟の相性はそこそこ良いけど、性格とか価値観とか、そ~ゆ~部分がアイツとは根本的に合いませんしね~」


 冗談めかした返答こたえの中には衝撃的な言葉も含まれていたのだが、それもまた異境の風習ならわしなのだろうと思穂は自己解釈し、敢えて触れないよう話を進めていく。


「てゆーか、アマッちの〝あれ〟って『エクセルシス』ってなまえなんだ。確かラテン語で神聖な場所とか、そんなような意味があった記憶が……」

「前の持ち主曰く『聖なる剣』らしいんですけど、神聖どころか、ごうが深いったらありゃしないですよ。何しろサミーのお母さんを殺した相手の遺品ですから、アレ」


 道端で交わされる世間話のような呆気なさで明かされた『聖剣エクセルシス』の由来に思穂はまたしても双眸を見開き、呻き声を挟んで絶句した。



 キリサメが振るっている異形の剣は前の持ち主が『聖剣エクセルシス』などと気取って命名しただけであって、例えばアーサー王のエクスカリバーのような古代いにしえの英雄伝説に登場する神秘の遺産などではない。二枚の平べったい木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出すという原始的な構造の武器である。

 彼は更に石の板を上下に一枚ずつ重ねて重量を加え、一振りで標的の骨をも砕くよう改造を施している。種類の異なるパーツを無理矢理に組み合わせたいびつな武器である為、修復に必要な買い物は一ヶ所ではとても足りなかった。その上、表通りの路上市場では扱っていない物も多いのだ。

 標的の肉を裂く黒曜石などは正規の宝石店に陳列されているような磨き上げられた品では〝ノコギリの刃〟には適さない。むしろ、闇市へ持ち込まれては安く買いたたかれる欠陥品のほうが使い易かった。欠けて尖った部位を突き立てることによって骨をも食い破るのである。

 そして、個々は脆く、消耗品に過ぎない。キリサメは定期的に闇市を訪れては〝仕事道具〟の修理に必要なパーツを買い揃えているのだった。

 今日は思穂を案内することが目的だったので買っておかなければならないパーツも少なく、一〇分と歩かない内に用事が済んでしまった。それなのにキリサメの足は幼馴染みたちのもとには向かなかった。

 とのやり取りを何でもかんでも恋愛感情へ結び付けようとする雇い主に気詰まりを感じており、とにかく戻り辛いのだ。このまま仕事を放り出して自分の〝棲み処〟へ帰ろうというつもりもないが、少しでも時間を置かなくてはフラストレーションが発散されず、雇用関係の維持まで辛くなってしまう。それでは本末転倒であろう。

 心のうちに垂れ込めるもやを完全に持て余してしまったキリサメは、目的地も何もないまま闇市をふらふらと往復し続けていた。


「――デートの最中に相手を放り出して自分の趣味に走るようじゃ二枚目には程遠いぞ、キリサメ君。一緒に分かち合うのがモテる秘訣ってヤツさ。『両手に花』なら尚更ね」


 クイと呼ばれる動物を串焼きにした料理が横一列に並べられた屋台の前を差し掛かったところで急に名前を呼ばれたキリサメは、左手に携えていた麻袋の紐を緩め、いつでも『聖剣エクセルシス』を取り出せる状態を維持しつつ、その場を通り過ぎようとした。

 しかし、それも一瞬のことである。すぐさまに自分を呼ぶ声が聞き慣れたものであると思い直し、頭を掻きながら足を止めた。

 果たしてそこにはキリサメが想像した通りの人物が立っていた。屋台で買い求めたクイの串焼きを頭から頬張っているのは四〇代も半ばを過ぎた頃と思しき中年男性である。

 褐色に近い肌の色や顔立ちなどは日本人の血が入っていると異なり、純然たるペルー人であることを物語っていた。何しろキリサメのことを呼び止めた言語ことばも同国の公用語たるスペイン語なのだ。


「……ワマン氏じゃないですか」


 キリサメから『ワマン』と呼ばれた――無論、スペイン語を用いての返事だ――男性はクイの串焼きを一気に平らげると、指に付着した脂を舐め取りつつ親しげに片手を上げた。

 くたびれたジャケットの下に背広を着込んでいるが、ワイシャツもスラックスも、ネクタイまでもが皺くちゃであり、傍目には不潔以外の印象を持ち得ないくらいだった。緩やかに波打つ髪を異様に光らせているのは頭皮から染み出した脂であろう。


「二週間ぶりってところかな。相変わらず寒そうな恰好してる。私なんかジャケットがなければ凍えそうだよ。何しろ私って寒がりじゃないか」

「腹にそれだけ〝防寒具〟を付けといて良く言いますよ」


 無遠慮な物言いと共に歩み寄ってくる男性ワマンのことをキリサメは警戒心も反抗心もなく素直に迎えていた。雇い主である思穂にも聞かせた試しがない冗談まで飛ばすということは幼馴染みのと同様に気の置けない相手なのだろう。

 ワマンのほうも〝防寒具〟に喩えられた腹の贅肉を太鼓のように叩きながら笑っている。


「……まさかと思いますけど、ガサ入れじゃないでしょうね? だとしたら、趣味が悪いにも程がありますよ。〝仕事〟の前に闇市で腹ごしらえなんて……」

「キミが私のコトをどう思ってるか、よ~く分かったよ……」


 不意に真顔となったキリサメの問いかけに苦笑いを浮かべたワマンは、首を左右へ振ることで回答に代えた。


「ちょいと話したいコトができたもんでね。キミが通りそうな場所で張っていたのさ」

「――ということは、〝例の件〟の情報……ですか?」

「とりあえず、お嬢さんたちも連れておいで。詳しい話はそれからそれから」


 先程も『両手に花』などと口走っていたが、この男はキリサメが闇市へ入ってからの行動を抜け目なく把握していたようだ。そうでなければ、『お嬢さんたち』などとは口にしないだろう。

 一挙手一投足を監視されていたようなものだが、それにも関わらず、キリサメはワマンに向かって不信感を露にすることもなかった。それはつまり、この男が似ても焼いても食えない曲者だと理解している証左である。





 満身創痍を引き摺り、決して少量ではない血を吐きながら学び舎の階段を一歩ずつ進む少女は絶望に打ちひしがれていなくてはおかしかった。

 両隣を見れば、どんなときだって心許せる仲間ともがいてくれた。地獄のように苦戦するときには、ぬいぐるみのような姿で誰よりもしっかり者な妖精ミドラーシュが叱咤激励してくれた。

 そして、二度と離れ離れになるまいと誓い合った人が支えてくれたのだ。

 しかし、今、耳元を覆うヘッドフォンを貫いて鼓膜に届くのは誰の声でもない。天井に撥ね返る冷たい靴音のみである。ただそれだけを道連れにして、ただひたすらに限りなく続くようにも感じられる階段を進んでいた。

 全身に纏った黄金の神甲ローブは本来、人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのようなシルエットを形作る筈だが、今は見る影もなく破壊され、背面や四肢のパーツに搭載された天地翔咢ノズル翼焔風バーナーを起こすことは二度とないように思える。

 いくさの場に於いては大海うみをも貫く神槍ダイダロスすら今や杖の代わりにしかならない有り様だった。

 やがて、彼女は禁断の領域へと臨む扉を開き、その先に厄災の正体を見出した。

 笑顔と平和に満ちた学園の屋上には滅界樹アンチ・レインツリーが極大な根を張り巡らせ、天地を覆い尽くさんと枝葉を伸ばしている。そして、これを玉座と据えた諸悪の根源が――いや、生徒会長エンプレス神槍ダイダロス乙女戦士イシュタロアを忌々しげに見下ろしていた。

 少女を見下ろすのは、やはり少女――自然を司る神の化身とも呼ぶべき存在は絶望を知ろうとしない神槍ダイダロス乙女戦士イシュタロアに向かって「罪にまみれるが女神イシュタルの本懐かッ!」と吐き捨てた。


「貴様の希望のぞみなどはとうの昔に断たれておるのだッ! 貴様にてつさびの味を馳走したのは誰だッ⁉ 蒼穹あま翔ける翼をもぎ取り、醜く無様に重力の底へ墜したのはッ⁉ 全ては遥けき彼方の罪ではないかッ! 異世界にけがされた地球の慟哭こえに耳すら傾けぬのは、貴様自身が創造女神イシュタルに汚染された証左よッ! ……貴様は絆を紡ぐ者などではないッ! 貴様こそが人類を引き裂く厄災わざわいッ!」


 存在意義を否定する罵声を浴びせられた乙女戦士イシュタロアは、それでも凛然と立ち続けた。傷付いた身体の支えとしていた神槍ダイダロスを右脇に構え直し、神威光エネルギーを伴う穂先を前方に向けた。

 夕陽を背にした神甲ローブの煌めきに平常心を掻きむしられた玉座の生徒会長エンプレスは、地獄の底から噴き出す溶岩マグマの如き怨念を撒き散らした。


「これでもッ! これでもまだ罪と罰を数えぬのか、欺瞞いつわりの救い主よッ⁉ 貴様を『アンダーバベル』よりなお深きもつさかへ叩き落とすのはッ! 闇の主神ドゥムジでありながら貴様に想い焦がれッ! 光の主神イシュタルという資格を放棄してまで貴様が求める小娘なのだッ!」


 神槍ダイダロス乙女戦士イシュタロアの眼前に立つのは、麗しき長髪を突風かぜに棚引かせる第三の少女――互いの全存在を賭し、遠い未来まで共に歩むことを誓った存在である。

 間もなく突風かぜは竜巻に変わった。大気の逆流に呼応したのか、あるいはそれこそが竜の息吹の原因みなもとか――夕陽を背に受け、長く伸びた影が第三の少女が嵌めているヘッドフォンに吸い込まれ、瞬く間に全身を包んでいく。漆黒の被膜に亀裂が走ったかと思うや否や、内側よりおびただしい妖光ひかりが溢れ出し、ついには爆発を起こした。

 妖光ひかりが破裂した果てにドス黒い粒子を撒き散らしながら屹立するのは、少女などではなく一人の戦士である。人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのようにも見える銀の甲冑で全身を包み、念動力テレキネシスもっ極大戦輪ハーヴェストムーンを頭上に浮揚させる姿は闇の勢力に属する乙女戦士ドゥムゾアであった。乙女戦士イシュタロアのような天地翔咢ノズルが搭載されていない代わりに何枚もの羽衣を纏っている。

 光の主神イシュタル神威ちからをその身に宿した乙女戦士、『イシュタロア』を名乗る神槍ダイダロスの少女からすれば、闇の主神ドゥムジ神威ちからふるう『ドゥムゾア』は相容れない存在なのだ。

 共にる未来を思い描いた二人は光と闇の運命に翻弄され、引き裂かれていた。

 それなのに神槍ダイダロスの少女は一瞬たりとも笑顔を絶やさず、闇の乙女戦士ドゥムゾアへ見惚れている。とても〝敵〟に向けるような眼差しではなかった。


「貴様の大事な『お姉様』とやらは我が従僕ドライアードの魔力に支配されているッ! 異世界人マコシカを産み落とした貴様イシュタルにえと捧げることが反攻への狼煙ぞッ! ……地球人類でありながら異世界に侵された貴様への慰めだ……せめて、愛する者の手に掛かって――」


 悪夢の如き構図だろうと一粒の種ほども絶望が芽吹かない神槍ダイダロスの少女にごうを煮やした玉座の生徒会長エンプレスはドゥムゾアを操り人形とあざけり、攻撃命令を下そうとした。

 それよりも先に仕掛けたのは神槍ダイダロスのイシュタロアのほうである。天地翔咢ノズルが破損されているので翼焔風バーナーは使えない。生徒会長エンプレスから嘲られたように蒼穹あま翔けることも難しい。彼女は自らの想いを力に換え、地響きを引き摺るほどに凄まじい突進を披露したのである。

 満身創痍とは思えない勢いで迫り来るイシュタロアを迎え撃つべくドゥムゾアもまた極大戦輪ハーヴェストムーンを超速回転させ、触れる存在もの全てを八つ裂きにする光の輪を放った。それも一発や二発ではない。瞬時にして数十発もの光の輪が学園の空を覆い尽くしたのである。

 全方向から飛来する光の輪を神槍ダイダロスの穂先は次々と蹴散らしていく。その間にドゥムゾアは極大戦輪ハーヴェストムーンの直上へと跳躍し、得物の動作に同期すると、仁王立ち状態のまま自らも横回転しながらイシュタロアにぶつかっていった。

 滅界樹アンチ・レインツリーという名の玉座の直下にて二人の乙女戦士が互いの武器を衝突させる。光と闇の主神同士が真っ向から神威ちからを炸裂させたこともあり、校舎を大きく軋ませるほどの衝撃波が四方八方に拡散された。


「ひまわりお姉様ッ!」


 誰よりも慕わしく想う相手の名を紡ぐ雄叫びは闇の主神に選ばれしドゥムゾア――もとひまわりの耳には届かない。

 その代わりというべきか、極大戦輪ハーヴェストムーンの刃を紙一重で躱したつむぎは鋼鉄の装甲によって固められた踵で踏み込み、地響きを伴いながら神槍ダイダロスを繰り出した。

 その穂先は彼女ひまわりのどてっぱらを一直線に捉えている。胴全体を覆う闇の神甲ローブがなかったなら背中まで貫通していただろう。

 神槍ダイダロス神甲ローブがぶつかり合った瞬間、天地をことごとく照らすのではないかと思えるほど眩い光の帯が辺り一面へ幾筋も拡散された。そして、その明滅を潜り抜けるようにしてイシュタロアは追撃を閃かせるのだ。


「あ、あさつむぎッ! 貴様は何を……ッ⁉」


 愛する者を容赦なく突き殺そうとするイシュタロア――あさつむぎへ玉座の生徒会長エンプレスはよろめくほどに狼狽した。それから先も同様の攻防が続いたのだ。

 精神を支配されているひまわりの側が情け容赦なく攻撃を繰り出すのは当然だが、迎撃するつむぎまでもが急所を狙うのはどういうことなのか。眉間を、左胸を、胴を、ただひたすらに危険な部位をブチ破ろうとするのだ。闇の神甲ローブがあったればこそ致命傷を免れているようなものである。

 神槍ダイダロスによって串刺しにするか、極大戦輪ハーヴェストムーンで首を刎ね飛ばされるか。生と死とが鼻先で交錯する状況にも関わらず、イシュタロアとドゥムゾアの攻防は舞い踊っているかのように美しい。互いの武器が激突する度に撒き散らされる光の帯によって金と銀の鎧は一等強く輝き、その様はを巡る太陽と月の競演ランデブーを思わせた。


小癪そうかッ! 光と闇が分かち合う神威光エネルギー生命波動ティアマトッ! 輪舞ロンドもってして内的宇宙インナースペースまで伝達させ、強制干渉によって従僕ドライアードを突破せんという算段ハラかッ!」


 次の瞬間、自らが消耗するだけとしか見えない無謀な戦いを続けるつむぎの狙いに勘付いた生徒会長エンプレスは、驚愕に双眸を見開いた。


従僕ドライアードは自然の神たる『ユエ』の眷属ッ! 弱り切った貴様の生命波動ティアマトで退けられるものではないッ! 生命波動ティアマトが届くまで貴様の身体がつと思うかァッ!」

「届くまで何千回何万回でも神槍ダイダロスの舞を披露しましょうッ! それでもダメならお姉様と刺し違えて、常世と来世で再び手を取り合うッ!」

「神々を統べし者が甘き死を欲するとッ⁉ 純潔の生命波動ティアマト欲望エゴに染めるだとッ⁉」

「私は本望ですがッ! きっと、お姉様はその選択を望みはしませんッ! 魂の姉妹を手に掛けるという呪いの十字架だって背負わせてなるものかッ! ……ゆえに私が取るべき道は一つッ! 誓い合った未来を再び噛み締める喜びをお姉様に――ッ!」


 これは私たちの絆を確かめる試練とまで言い切ったつむぎは、目と耳と口から大量の血を噴き出しながらも一番の笑顔を弾けさせた。壮烈としかたとえようのない姿に対し、玉座の生徒会長エンプレスは混乱の面持ちでかぶりを振った。


「……何故だ……何故なのだ……何故……遥けき彼方の神々に踊らされながら……どうしてそうも人間ヒトであろうとするのだ……異世界にけがされた身で結ぶ絆など……地球への背徳に過ぎず……大罪を重ねることにも等しく――」

「愛の力をナメるんじゃありませんッ!」


 玉座に向かって叫ばれた答えは愛である。そして――


「――そして、愛の言葉が響いて『お姉様』は操り人形から解放されるって寸法さ」


 突如として始まり、佳境と思しき場面でホワイトアウトしてしまったアニメに面食らい、モニターの前で呆然と立ち尽くしていたキリサメの耳元に以降そこからの展開を語ったのは、闇市にて遭遇した中年男性、ワマンである。

 彼曰く、日本で好評を博しているアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』第一シーズンのダイジェスト版であるそうだ。中世ヨーロッパの騎士とも異なる奇抜な鎧を身に付けた少女二人が槍と戦輪チャクラムをぶつけ合ったのは第二五回『叛逆の神樹の下で』の一場面で、全編通して最大の山場であるという。

 モニターには続く最終回の様子が映し出されているが、ワマンの解説が右耳から左耳へ通り抜けていくキリサメの脳は映像自体を殆ど認識していない。つい先ほど教わったばかりだというのに『かいしんイシュタロア』というタイトルすら忘れているくらいなのだ。

 キリサメやワマンのすぐ近くには作品のポスターが何枚も貼られ、登場キャラクターの人形フィギュアやマウスパッドといった番組公式グッズも山ほど陳列されている。ダイジェスト映像の中では見るも無残に破壊されていた主人公の鎧も本来の姿であり、人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのようなシルエットで勇ましく槍を構えている。

 主人公たちの変身に欠かせないという番組オリジナルのヘッドフォンもグッズとして販売されているのだが、そのいずれにもキリサメは興味を示さず、ただひたすら心を無にしていた。話があるというワマンに連れてこられたのはリマ市内でも有数のアニメショップであった。

 テレビアニメやゲームといった日本のサブカルチャーは欧米諸国を中心に世界中で爆発的に波及しており、その熱狂は南米をも飲み込んでいた。リマ市内に於いても日本作品に由来するイベントが定期的に開催されるほどなのだ。

 さら・バロッサなる若手実力派声優がシリーズ通して主演を務める『かいしんイシュタロア』もペルーで放送されるや否や大ヒットとなり、一か月後の新シーズン放送を控えて自主的な販促フェア――というよりも、有志による祭り騒ぎの最中なのだ。

 日本の漫画を大量に取り揃えた書店やメイド風に着飾ったウェイトレスが接客してくれる喫茶店、サブカルチャー専門のCDショップなどが軒を寄せ合うショッピングセンターの一角にくだんのアニメショップは所在している。

 そこはペルー国内でも富裕層に類される人々が頻繁に出入りする場所でもあった。そもそも、生活に余裕がなければなど目を向けてもいられないのだ。不潔な印象を撒き散らしているワマンも含め、薄汚い身なりのキリサメは場違いでしかなかった。

 真冬にも関わらず、半袖のシャツを着用する姿から非合法街区バリアーダスの浮浪児と見なされたキリサメには冷たい眼差しが絶え間なく向けられている。

 そこに横たわっているのは貧富の格差に基づいてという侮辱行為であった。身綺麗に着飾った誰もがキリサメを一瞥し、鼻先で笑いながら去っていくのだ。

 とて貧民に類される側の人間だが、何しろ現在いまは全身の至る部位ところを包帯で覆っている。その出で立ちを一種のコスプレと勘違いされたようで、侮辱ではなく口笛でもって冷やかされる程度で済んでいた。

 あるいはこれによって無礼者たちは命拾いしたのかも知れない。幼馴染みが侮辱されたならキリサメはショッピングセンターの只中であろうとも『聖剣エクセルシス』を閃かせたはずだ。


「……そろそろ本題に入っていただけませんか、ワマン


 通りがかりの買い物客から「貧乏人が〝こちら側〟に踏み込んでくるな」とでも言いたげな眼差しを向けられたキリサメは、これを黙殺しつつワマンの名前をわざとらしく階級まで付けて呼んだ。当人は『かいしんイシュタロア』の世界観をモチーフとしたアンソロジーコミックを試し読みしている最中だ。

 傍目にはうら若き乙女たちが乱舞するアニメへ心を奪われているようにしか見えない中年男だが、彼がペルー国家警察の一員であることをキリサメは承知していた。の叔父が殺害された経緯を調べるに当たって情報提供を求めた相手こそがワマンなのである。

 つまるところ、キリサメは犯罪行為で生計を立てていながら国家警察とも繋がりがあるというわけである。仮に思穂がペルーの言語ことばへ精通していたなら、すぐさま取材を申し込んだことだろう。昨夜の大規模なデモを最前線で食い止めていたのは国家警察かれらなのだ。

 尤も、キリサメはワマンがデモ隊との衝突へ参加していないことを確信している。彼の場合は所属する部署が特殊である為、〝一般の事件〟には殆ど関わらないのだった。

 情報提供を依頼していた経緯もあって興味もない場所に連れ込まれても黙っていたが、そろそろ我慢の限界に達しようとしている。が本当の目的でないことをキリサメは察していた。だからこそ、本筋へ入るよう促したわけだ。

 尤も、ワマンの正体を承知していたのはキリサメただ一人である。同じような境遇のは警察関係者であることを知った途端に酷く動揺していた。掏摸スリと盗品販売で日銭を稼ぐような少女だけにやましいことしかないのだから、それも無理からぬ話であろう。


「ときにキリサメ君は『かいしんイシュタロア』のコンセプトを知ってるかい? 私も娘からの聞きかじりで詳しいわけじゃないんだけど」


 『アンダーバベル戦役・激震の完結編――ロストバベル咆哮たけぶ!』なるキャッチコピーが日本語で刷り込まれたポスターをワマンが指差した瞬間、キリサメの顔が引きった。一人娘から買い物を頼まれたと話していたが、本当にそれだけの為にアニメショップへやって来たというのか。そのようなことに付き合わされたというのか。


「――『燃え尽きるほど熱烈な絆』でしょう。ぶつかり合いはすれ違いじゃない。魂を結び合わせる儀式こそ『神戦いくさ』と呼び、だからこそ、最後には手をつなげるっていうヤツ」


 の通訳を受けてワマンが話している意味を理解した思穂がキリサメに代わって先程の質問に答えた。


「……詳しいんですね、有薗氏も」

「だって、『イシュタロア』はハマりまくってるアニメだし。私、つむぎちゃんのコスプレで配信やったコトもあるんだよ? 見るぅ?」

「あなたの仕事が段々と分からなくなってきましたよ……」


 日本語に明るくないワマンの為にキリサメが思穂の話を翻訳してやると、彼は嬉しそうに右の中指と親指を打ち鳴らし、「ビンゴ!」と双方で分かち合える言語ことばを紡いだ。


「ぶつかり合って初めて相互理解を得られるってのは素晴らしい教訓さ。ペルーの現状にもある意味、シンクロしている気がしないでもないからね」


 先程もワマンから聞かされたのだが、『かいしんイシュタロア』なるアニメは異世界より訪れた神々から大いなる力を授かり、これを鎧や武器として具現化させた少女たちが光と闇の勢力に分かれて戦うというあらすじに基づいて展開しているそうである。

 主人公たちはヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神々と同化するのだという。そうして具現化されたのが人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのようにも見える甲冑であった。


(……イシュタなんとかって洗脳効果でもあるのか? なんでみんなこんな……)


 他国にほんのアニメと祖国ペルーの現状を混同してしまえるワマンが理解できず、キリサメは首を傾げるばかりだった。思穂の話によると『かいしんイシュタロア』は〝敵〟として戦った相手とも絆を育み、対立の構図をも乗り越えて友情を結ぶ筋書きらしいのだが、そのような〝絵空事〟と〝現実〟の世界がどこで重なるというのか。

 キリサメとて小さな頃には日本のアニメシリーズへ接したことがある。人型ロボットが大活躍する『せいれいちょうねつビルバンガーT』という作品は勧善懲悪という分かり易い筋立てであったが、敵対した相手とまで肩を組むという『かいしんイシュタロア』よりも、よほど説得力があった。

 強い者が生き残る。それが戦いの結果であり、〝現実〟であろう。慣れ合いからどちらも助かるなどという生温い〝絵空事〟など絶対に有り得ないのだ。


「……だが、世の中がアニメのように上手く転がってくれないのもまた事実――おじさんの喋ってる意味が分かるね、・ルデヤ・ハビエル・キタバタケ?」


 急に名前を呼び付けられたは双眸を見開いて驚き、よろめくように後退あとずさった。その狼狽うろたえ方は後ろめたい〝何か〟を隠している人間の反応それであった。この状況に於いて、国家警察の一員というワマンの肩書きは極めて深刻な意味を持つことだろう。


「……どういう意味ですか、今のは……」


 すかさず両者の間に割って入ったキリサメは、我が身を盾として幼馴染みを庇った。

 僅かに険しさを増した双眸は、しかし、「あなたに『聖剣エクセルシス』を向けさせないでくれ」と無言で訴えている。暴力が支配する世界で生きてきたキリサメではあるものの、心を許した相手にまで害意を向けたくはないのだ。


「気になるコトがあってカマを掛けただけだよ。……できれば、今みたいな反応を見せて欲しくはなかったがね」


 反応リアクションから一つの〝事実〟を読み取ったワマンは何とも例えようのない表情を浮かべると、キリサメからも顔を逸らして和風の文鎮ぶんちんを手に取った。それもまた『かいしんイシュタロア』に関連するグッズのようだ。


「カヤオの港湾労働者が善からぬ組織と繋がっていることはの間では周知の事実だし、このところの動向にも警戒はしていたんだよ。……アタリを付けた組織と港湾労働者がどういった経緯で結託していったのかも分かってきたのだが――」

「――あんまり勿体ぶった喋り方してっと『イシュタロア』第二シーズンのネタバレをカマしてやるわよ! 日本の放送のほうがペルーよりずっと早いんだから!」


 回りくどいやり口に対する思穂の抗議をキリサメから通訳されたワマンは「そんな真似されたら公務執行妨害で逮捕せざるを得なくなるなァ」と困ったように頭を掻いた。


「……では、単刀直入に行こうかね。・ルデヤ・ハビエル・キタバタケ、キミは亡くなった親類の遺志を継いで昨夜の抗議デモへ加わったんじゃないか?」

「まさか――」


 ワマンの言葉に天地がひっくり返るほど驚愕したキリサメが首を振り向かせると、は反射的に顔を背けた。その姿こそ彼女が重傷を負った理由を物語っていた。

 同時に国家警察に所属する警部の言葉に偽りがないことも証明していた。


「ツムギ・アサクノのようにぶつかり合いを相互理解の手段にできれば世の中、もっと平和になるんだろうが、デモ集会には政治がつきまとうもんだ。そして、二つの〝思想〟がぶつかり合うとき、一〇〇パーセントの和解は有り得ないのさ。……手遅れにならん内に手を引きなさい。故人の〝事情かんがえ〟に生きてる人間が縛られたら不幸しか生み出さん」

「……ワマン氏の話は、本当なのか?」


 改めてキリサメが問い質すと、は視線を交えないまま神妙そうに頷いた。


「どうして相談してくれなかったんだ? 僕だっておじさんには――」

「……他人のサミーに頼るわけないでしょ。やめてよね、そういう……」


 から他人と突き放されたキリサメは一瞬だけ頬の筋肉を震わせたのち、ぞっとするほど冷たいに変わった。幼馴染みという縁すら絶ったかのような面持ちである。

 のほうも拒絶の意を示したまま彼と目を合わせず、両者の間には極寒としかたとえようのない空気が垂れ込めていた。他人が口を挟んで解決するような状況とも思えず、困り顔の思穂はただひたすらに立ち尽くすばかりだった。

 手に取っていた文鎮を陳列棚に戻しながら思穂の姿を一瞥したマワンは「他人事みたく眺めている場合かね」と肩を竦めた。


「シホ・アリゾノ、キミがやっているコトは抗議デモの一〇〇倍は厄介だろうに。……警察の上層部もキミに目を付け始めているのだがね」

「アマッちでもッちでも、どっちでも良いから、おじさんの話を翻訳してくれないかな~? 明らかに何か言われてるのに意味が分かんないのは精神衛生上、大変よろしくない事態だわ」


 キリサメとが無言を貫いていられたのは、ワマンがその話を切り出すまでの間のみであった。愕然の二字をもってしか表しようがない事態を突き付けられるや否や、思穂のほうに揃って首を振り向かせたのである。

 ペルーの言語ことばに明るくない思穂は自分が何を言われているのか、また自分がどのような状況に置かれているのかを把握していない様子だが、ワマンの話が事実だとすれば国家警察が彼女の存在を危険視しているということになる。

 それはつまり、重犯罪の容疑者と扱われているようなものであり、異邦人にとっては命取りとしか表しようがなかった。


「……今度の一件、裏で糸を引いているのはキリサメ君とも因縁のある『例の組織』だ。あんな連中を民間人が嗅ぎ回って無事で済むワケがない。……何か一つでも奴らに関わるコトを表に出したら、二度と後戻りができなくなるぞ」


 ワマンが『例の組織』と口走った瞬間、キリサメは血相を変えて思穂の顔を見据えた。ボディーガードを引き受けた彼も知らされていなかったのだが、日本から押し掛けてきたこの報道関係者プレス気取りは非合法組織まで嗅ぎ回っていたようである。

 『聖剣エクセルシス』を自在に操り、屈強の港湾労働者でさえ鎧袖一触で薙ぎ払ってしまうキリサメが緊迫を露にするということは、何があろうとも決して敵に回してはならない部類の者たちなのだろう。

 あるいは『因縁のある組織』であったればこそ、目の色を変えたのかも知れない。


「リマにもこんな紳士がいるのねぇ。妻帯者じゃなかったらキュンとするところだよ」


 ペルーの言語ことばにて紡がれたワマンの説教はなしが日本語に訳すと、思穂は一瞬だけ双眸を見開いたのち、これ以上ないほどに不敵な笑みを浮かべた。

 挑戦的でも反抗的でもなく、ただ凛然と薄い笑みを浮かべていた。


「世界の〝真実〟を暴き出すのが私の使命なんだもん。命の一つや二つ、置いてくる覚悟は決めてるわよ。こっちもね、自己顕示欲を満たすお遊びでやってんじゃないんだから」


 思穂の物言いから察するに自分の調査対象がペルー国内でも最も危険な組織だと把握している様子である。それでも〝真実〟の為、敢えて危険な道を突き進んでいるわけだ。


「……こちとら津波で全てを失った身よ。捨て身でやらなきゃ申し訳が立たない……」

「……ツナミ?」


 不意に思穂の洩らした呟きにワマンが不慣れな日本語で問い返した。


「……さすがに東日本大震災のことはペルーでも知れ渡ってるみたいね――ッち、この人に翻訳してあげてよ、私が『三・一一』の生き残りだってコトを」

「……思穂……さん……」

「あの大津波に巻き込まれて――生き残って一人なんだよ、私は」


 思穂が告げた『東日本大震災』という一言にキリサメもも揃って言葉を失った。日本語に通じていないワマンも『オオツナミ』という言葉から沈黙の理由を悟っていた。



 アニメショップのスピーカーより流れ出した『かいしんイシュタロア』の主題歌は、戦いの果てに未来を掴もうという情熱の迸りと、何よりも命の尊さを強く謳い上げている。

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