その6:非合法街区~武装組織のアジトに潜入せよ

 六、非合法街区バリアーダス


 二〇一一年三月一一日一四時四六分一八秒――日本の東北地方太平洋沖で発生し、内陸部に於いて最大震度七を計測した未曽有の大災害は全世界に衝撃を走らせた。

 『東日本大震災』と付けられた名称の通り、震源地の東北及び関東や北海道の各地では建造物の倒壊といった被害が相次ぎ、沿岸部では日本のほぼ全域に海より押し寄せる災害からの避難が長時間に亘って訴えられた。

 日本史上どころか、世界史上に於いてさえ類を見ないほどの被害となった最大の要因は海底断層の変位と崩壊によって引き起こされる災害――即ち、大津波であった。

 場所によって波高一〇メートルを超えた海水の〝塊〟は沿岸部の陸地深くまで到達し、数え切れないほどの命を一瞬で奪い去った。発生した火災やドス黒い土砂もろとも建物や船舶などを巻き込んで地上を覆い尽くす様相は慟哭と共に各国で報じられ、『ツナミ』という日本語の意味が世界中で共有されることにもなった。

 のちに『三・一一』と呼ばれることになった大災害である。

 郷里の岩手県で『三・一一』に遭遇し、津波に巻き込まれたと明かしたありぞのは、家族の中でただ一人生き残った事実と、震災後に渦巻いた数多の風評被害に接して絶望の谷底へ落とされたとも言い添えた。

 信じられないほど多くの人間が根拠の乏しい風評に惑わされ、そこから生じた疑心暗鬼の餌食となって心に癒し難い傷を負った。

 津波に連なる大災害の影響で故郷が避難指示区域に指定された為、あの日から数年を経たも帰還できない人は多い。その苦しい気持ちを蔑ろにする風評が氾濫し、狂気にも似た負の想念が増幅される現状に疑問しか持ち得なかったという思穂は、インターネット上でのニュースを通して〝世界の真実〟を世の中に問い掛け、自分の頭で考えるきっかけを作り出すことが使命つとめなのだと締め括った。

 生き残った者の使命つとめなのだ――と。

 ペルーどころか、中東のガザへ単身で取材に赴くだけの行動力を持ちながら通信社には属さず、〝一個人〟の立場にこだわり続ける理由をに感じ取ったキリサメは、思穂のことを物好きな報道関係者プレス気取りと見なしてきた自分をじた。

 両親ともに日本人でありながら家族のルーツである国には一度も足を踏み入れたことがないキリサメとて東日本大震災は当時の報道から知っている。地上を更地に戻してしまうほどの災害の上にち、〝真実〟を追い求めんとする覚悟を聞いて全てが繋がったような心持ちであった。

 関係者以外の立ち入りが禁止されている場所にさえ飛び込もうとする無鉄砲な行動は性格に起因しているのではない。彼女は捨て身であった。身を捨てる覚悟でもって己に課した使命つとめを果たさんとしているわけである。

 自分自身の力で手に入れたを最高純度で届けようと決意した経緯が思穂の口より明かされたのは、アニメショップと同じフロアの喫茶店へ移った後のことだった。買い物に付き合わせた礼としてワマンから食事に誘われたのだが、彼はレストランではなく一風変わった店を選んでいた。


「――お帰りなさいませ、ご主人様ぁ~」


 入店直後に味わった衝撃をキリサメは暫く忘れることができないだろう。いわゆる、メイド服に身を包んだウェイトレスたちが猫なで声でもって出迎えたのである。

 キリサメには彼女たちの主人になった記憶おぼえなどはない。ましてや、ここは自宅でもないので「お帰りなさいませ」などと出迎えられる理由もなかった。意味不明としか表しようのない状況は滅多なことでは感情こころの揺らがないキリサメすら戸惑わせたのである。

 俗に『メイドカフェ』とも呼称される場所であった。

 日本でも指折りの人気を誇るアニメシリーズ、『かいしんイシュタロア』の関連グッズなどに占拠されたアニメショップでも居心地の悪さを感じたが、此処ここはその比ではない。

 ワマンが注文したオムライスを運んできたウェイトレスは「ご主人様にいっぱいご奉仕するのですぅ~」と芝居がかった調子で全身をくねらせ、チキンライスを包むがねいろの衣にケチャップでハート模様を描いていたが、それすらもキリサメの理解を超越していた。

 あるいはワマンのようにウェイトレスに倣って全身をくねらせることができたなら、異次元にも等しい空間を楽しめたのかも知れない。

 キリサメにとっては落ち着かない状況下での食事となった次第だが、店の空気に呑まれたのは数分のことで、思穂が『三・一一』へ言及した直後には視界にも入らなくなった。

 思穂当人は自分の歩みを語り終えると普段の陽気なに戻り、『かいしんイシュタロア』に登場するマスコットキャラクターを模ったというハンバーグを頬張り始めた。

 傍目にはどこまで真剣なのか、分からないようにも見えるのだが、その覚悟は紛れもなく本物である。それだけにワマンもに切り捨てられなかったのだろう。「若いモンは早死にしたがる」などと呆れながらも、その気概だけは認めていた。

 ジャケットのポケットから〝ある物〟を取り出したワマンは、これを思穂の手元に置いた。自らの尾を喰らう大蛇の彫刻が施された小さな指輪である。その紋様に思穂は見憶えがあり、隣に座るキリサメも顔をしかめた。


「……『例の組織』に接触を図りたいのだろう? キミが探りを入れようとしている連中は末端に過ぎないがね、は上位組織との間で符丁代わりに使われている品物だよ。それを見せてやれば上位組織うえのお墨付きだと騙せるハズだ」


 『蛇の道は蛇』というものであろうか、ペルー国家警察は自分たちが取り締まるべき非合法組織とも交渉の手段を確保していたわけだ。ワマン自身も犯罪者集団との繋がりを民間人へ明かしたことなど少しも気にしておらず、「紛失したら私のクビまで飛ぶから気を付けておくれ」と冗談めかして笑ったほどである。

 それはつまり、国家警察が揃えた手札カードの一枚を捜査協力者でもない単なる外国人旅行者へということであった。

 思いがけない筋運びに驚き、呆然とする思穂からキリサメへと目を転じたワマンは、ボディーガードの対象を守りたいのなら『聖剣エクセルシス』は絶対に振るわないよう釘を刺した。


「キリサメ君にとっちゃ首を刎ねても慰めにならない相手だろうが、見受けたところ、こちらのお嬢さんはキミのように戦えるわけではなさそうだ。……それなら〝仕事〟に専念しなさい。個人的な事情の警護対象レディーを死なせたら一生の笑い者だぞ」


 それはキリサメの〝個人的な事情〟を知る人間として最も適切な忠告であったが、次の瞬間にワマンは声の調子を一変させた。


「――ただし、どう考えても収まりがつかないと思ったときには連絡してくれ。何しろヤツらは共通の大敵。キミが仕掛けるつもりなら全面的に協力しようじゃないか」


 自重を促した舌の根も乾かぬ内に共同戦線をほのめかしたワマンに対して、キリサメは眉間に寄せていた皺の数を増やしてみせた。


「……結局、僕をけしかけたいんじゃないですか?」

「メイドさん、『イシュタロア』コラボの『破壊神の角笛剣パフェ』も貰えるかな?」


 投げられた追及を露骨にはぐらかし、満面の笑みを貼り付けたウェイトレスに注文を追加したワマンは、冷ややかな視線をぶつけてくるキリサメに向かって茶目っ気たっぷりに舌を出した。それはつまり、問いかけを肯定したという意味である。

 「けしかける」という言葉の意味を測り兼ねた思穂は、解説を求めるようにキリサメの脇腹を肘で小突いた。


「……ワマン氏は組織犯罪を取り締まる部署の人なんですよ」


 所属部署まで明かしても良いかと逡巡している様子のキリサメに対し、ワマンは「丸裸にしてくれても構わんよ」と冗談めかして促した。


「平たく言えば、対テロ専門チームってね。キリサメ君とも〝そっち関係〟の現場で知り合ったのさ――って、この話はもしかして禁句タブーだったかな?」

「……いえ、別に。僕のほうだって助けて貰いましたから……」


 キリサメの通訳ことばへ耳を傾けていた思穂は二人が知り合った背景に『例の組織』とやらが関わっていたことだけは把握できた。しかし、対テロ専門チームが出動するような現場に非合法街区バリアーダスの少年が居合わせた経緯までは分からない。

 小首を傾げる思穂が一つだけ確信できたのは「けしかける」という言葉の意味だ。

 禁句タブーであったかとワマンが憚るほど因縁の深い『組織』とキリサメが接触しようものなら阿鼻叫喚の世界と化すのは必然であろう。そうなれば潜入調査どころではなくなる。ワマンが指摘した通り、戦うすべを持たない思穂じぶんなどは足手まといにしかなるまい。


「なるほどね~、おじさんってばエッグいね~。猛獣を巣穴から誘き出す為の餌ってワケだね~、私ら。数分前さっきの感謝感激を返して欲しいね~。望むところってヤツだけどね~」

「エグいって言われてますよ」

「それもひっくるめて大人らしい提案と言って欲しいもんだね」


 ウエハースなどを組み合わることで角笛に見立てられたパフェを美味そうに頬張っていたワマンは、キリサメが翻訳した思穂の悪態を悪びれもせず笑い飛ばした。


(……有薗氏の言う通りだな。僕は――いや、僕らは猛獣を引っ張り出す餌だよ……)


 取材協力にかこつけて対テロの戦略に民間人を利用せんとするワマンや、同席していた幼馴染みと別れ、宿所まで戻ってきたキリサメは闇市からショッピングセンターに至るまでの出来事を振り返りつつ、ノートパソコンに向かっている思穂の横顔を眺めていた。

 有薗思穂というこの女性は過去に巡り逢った日本人とは明らかに違っている。『無名アラン・スミシー』と称する男とは『例の組織』と接触した折に知り合い、暫くの間、行動を共にしたのだが、もっと軽薄で掴みどころもなく、全身全霊を賭して取り組まんとする意思や使命のようなものを全く感じなかったのである。

 むしろ、「責任」の二字が伴う事柄を忌避しているとキリサメの目には映っていた。思穂の対極に位置する男というわけである。

 『例の組織』が間近に迫るとき――あるいは接近せざるを得ないとき、必ず日本人が引き金になっているとキリサメは想い出していた。

 今日こんにちに至る因縁が生じた〝最初の接触〟は言うに及ばず、二度目は『無名アラン・スミシー』と称する男、そして、今度は有薗思穂である。大袈裟なたとえではあるものの、自分の中に流れる血と起源を同じくする人々によって運命の歯車を動かされているような思いがキリサメの胸中に湧き起こっていた。

 〝三人目〟の日本人は、現在いまキリサメの視線の先で『かいしんイシュタロア』の動画ビデオを再生させている。昼間に訪れたアニメショップでポスターや関連グッズへ囲まれている内に興が乗ったらしく、ノートパソコン内に保存してあった動画ビデオの中から第一シーズン全二六回のみを厳選して再生プレイリストを作ったそうである。

 最初に放送された二六本分の動画ビデオに限定したのは、第二シーズンのテレビ放送を楽しみにしているペルー国民への配慮だという。


「――わたるちゃん! 私にはあなたの気持ちが誰よりも分かりますから! 裏切りのイシュタロアなんて決して言わせませんッ!」

「う~ん、つむぎちゃんのそ~ゆ~トコがアレで女神イシュタル軍抜けたんだけどぉ、ありとあらゆるコトがポジティブ脳だから通じなかったかなぁ? ……つむぎちゃんは自分以外の誰とでも絆を結べるって言うけどさ~、それって最高サイコーに思い上がりじゃなぁい? 他人ひとの立場を無視してズカズカと一方的に踏み込んでくるようなものじゃんね~」

「そうならない為に人間には言葉があるのです! 腹を割って話してお互いをり合えるのではありませんか! 可能性の一かけらまで否定するのは未来なき袋小路ッ!」

「自分の気持ちに嘘をかない真っ直ぐな笑顔ってね、時々、神槍ダイダロスよりも鋭く誰かの心を突き刺すんだよぉ? ニブチンなつむぎちゃんには永遠に分かんないだろ~けどね~」


 ノートパソコンの画面を覗いていないキリサメには内容など殆ど分からないのだが、どうやら同じ勢力に属する仲間同士が考えの違いから対立する筋運びのようだ。

 内蔵型のスピーカーからは主人公であるあさつむぎと、彼女から『わたるちゃん』と呼ばれた少女の掛け合いが大音量で垂れ流されている。後者は音楽を武器としているようで、歌声に乗せるような台詞回しが極めて特徴的であった。

 当然ながらペルー国内向けの吹き替えではなく日本語による台詞の応酬だ。つむぎとわたる、その他の登場人物たちも加わって「戦う度に絆も想いも深まるのか」と、討論めいたやり取りを繰り返していた。無論、互いの武器を叩きつけ合いながら――だ。


(ぶつかり合って理解するのがアニメのテーマ……か)


 武力を伴う衝突の果てに相互理解を得ることはアニメという架空フィクションの世界でしか有り得ない――そう語ったワマンは、キリサメの幼馴染みである・ルデヤ・ハビエル・キタバタケにデモ隊から手を引くよう最後まで説得し続けていた。

 彼女は公布を控えた新しい法律への抗議活動に参加している。二週間ほど前に殺害された港湾労働者の叔父がくだんのデモ隊の一員であり、その遺志を姪が引き継いだ形である。

 デモ隊の主張が正当であることは国家警察とて理解している。その上で、暴動にも等しいやり方で揺さぶりを掛けたところで何の解決にもならないのだとワマンは繰り返した。自分たちに正義があると固く信じるのであれば、それに相応しい方法があるだろう。無法は正義の否定であり、それでは政府の決定を覆せない――と。

 泣き寝入りにしかならないと前置きした上で、それでもワマンは〝子ども〟が暴力の渦中へ身を投じるべきではないと〝大人〟の立場から説得を試みたのである。

 ついにワマンの言葉はに届かなかったが、その結果は最初から分かりきっていたといえよう。数分の説得で翻意させられるのであれば、暴力の応酬と化すような抗議デモなど起こってはいないのだ。

 それだけに「世の中は『かいしんイシュタロア』のように上手く転がってくれない」というワマンの呟きが重く感じられるのであった。

 詳しい情報を引き出す前に解散となった為、はっきりと確認できなかったのだが、ワマンの口振りから察するに『例の組織』はの叔父が巻き込まれた殺人事件にも関与しているようだ。同行することで危険性リスクは跳ね上がるだろうが、思穂のボディーガードという役目を除いても『例の組織』の拠点アジトへ赴かざるを得なくなったわけである。

 このようにキリサメ自身にも〝動く理由〟ができたのだが、当のとは他人呼ばわりされて以来、一度も言葉を交わしていなかった。アニメショップからメイドカフェへと移ったあと貧民街スラムではありつけない華やかな食事へ夢中になっていたようだが、それすらもキリサメとの会話を拒絶するポーズであったのかも知れない。

 東日本大震災にまつわる思穂の吐露には真剣な表情かおで頷いていたが、キリサメが口を開くや否や、星の神をイメージしたというスープパスタに専念し始め、ワマンの許可も得ないまま注文を追加する始末だった。

 そので『例の組織』の拠点アジトを包囲する戦略を論じている最中にメイド姿のウェイトレスから「シリアスモードなご主人様にメロメロですぅ~」と横槍を入れられてしまったのである。

 可愛らしいメイドに扮したウェイトレスは料理を運ぶ度に客とコミュニケーションを図るのだが、他人からの過剰な接触を好まないキリサメは店を出る頃には辟易うんざりしていた。ワマンは店側のサービスと上手に付き合っていたが、語らう内容には民間人に聞かせられないような裏事情が含まれており、本当はテーブルに近付いて欲しくなかったはずである。

 メイドカフェでの珍事はさておき――幼馴染みを突き放してまでデモ隊に参加しようとするも思穂と同じように〝捨て身〟なのだろう。

 そこまでの覚悟を胸に秘めて政府の方針に物申さんとするのであれば、余計に相談して欲しかったとキリサメは考えずにはいられなかった。ワマンのように自制を促すにせよ、『聖剣エクセルシス』を担いで加勢するにせよ、すべきことを一緒に考えられたはずではないか。


「ふっふ~ん、気になりまくってるみたいだねぇ、ッちのコト。大事なコとケンカ別れしちゃったんだから、そりゃあ~、男のコとしては悩みまくりだよねぇ。今からでも遅くないから謝ってきなよ~ん?」


 言葉もなく物思いに耽っていたキリサメのほうに首を振り向かせた思穂は、悩める少年を冷やかすような表情を満面かおに貼り付けている。『かいしんイシュタロア』の動画ビデオへ集中しているように見せ掛けて、物憂げな様子を密かに観察していたわけだ。

 心の内側を全く見透かされてしまったキリサメは「悪趣味にも程があります」と溜め息混じりに吐き捨て、くされたように顔を背けた。


「喧嘩腰で突っ撥ねてきたのは向こうですよ? 僕には謝る理由がありません」

「それでも頭を下げてもらったら女の子は満足して落ち着くんだって」

「そこまでに合わせるのもしゃくですし、あいつの性格からして変に気を遣ったら余計にこじれる気がするんですけど……」

「女の子の理不尽はね、心を許した相手に甘えてる証拠なんだよ? 『イシュタロア』にもそーゆー可愛い我がままをピックアップしたエピソードが――」

「――もうアニメは結構です」


 『かいしんイシュタロア』にて主人公を務めるあさつむぎと、そのパートナーであるもとひまわりが些細なすれ違いから大喧嘩してしまう第七回「ヤキモチの裏側」の動画ビデオを再生しようとする思穂をキリサメが一言で遮った。ただでさえ気が滅入っているときに毛ほども興味のないアニメのなど耳にしたくはないのである。


「……謝るとしても今夜じゃありません。有薗氏のボディーガードが僕の仕事ですから」

「男の子の意地っ張りはダサいか、可愛いかの二択だけど、アマッちの場合は後者だね。言い訳に利用されちゃうのも悪い気はしないなぁ~」


 キリサメから却下されたにも関わらず『かいしんイシュタロア』を再生させた思穂は、次いでノートパソコンを操作し、主人公たちが口論するシーンまで動画ビデオを早送りした。


「――つむぎさんのコトを他人だなんて思ったことは一度もありませんっ! 誰とでも絆を結べるって言いながら、私のことは何も理解してくれてないっ!」


 パートナーが主人公に向かって言い放った破れかぶれの台詞をわざわざ大音量でキリサメに聞かせた思穂は、いかにも厭らしい薄笑いで追い討ちを掛けた。

 「一分前に悪趣味だって言ったばかりですよね」と呻くキリサメではあるものの、思穂が自分たちの仲を心配してくれていることは理解している。だからこそ、無遠慮に向けられてくる疎ましい視線を睨み返したりはしなかったのだ。


「……物心つく前から傍にいた相手のことを〝他人〟だって割り切るほど薄情ではないつもりですよ……」


 少しばかりの沈黙を挟んだのち、キリサメはアニメの台詞に応じるような言葉を呟いた。


「……母親が死んだことは、もう話しましたよね?」

「うん、闇市で教わったよ。ッちのご両親が大変なコトになってるのも……」

はリマの中心部、僕はサン・クリストバルの丘――それぞれ非合法街区バリアーダスで暮らしていますが、……浮浪児ストリートチルドレンが食いつなぐには真っ当な手段なんか選んじゃいられません」


 ペルー国内の至る所に点在する非合法街区バリアーダスの中には自治体制を形成して秩序を保っている地域があり、思穂も一度は足を運びたいと考えている――が、それは稀有なる例外だ。大多数は暴力だけが生き抜く〝掟〟と定められた弱肉強食の貧民街スラムである。

 迂闊に近付かないようキリサメから警告されるまでもなく非合法街区バリアーダスが危険地帯であることは思穂も把握していた。


「……『聖剣エクセルシス』って変わり種の武器を頼りにしなきゃいけなかったって意味かな?」

「それが一番、ですから」


 キリサメは暴力という名の〝掟〟に従って頭抜けた殺傷力を秘める『聖剣エクセルシス』を振り回しているのだが、これこそ弱肉強食の象徴といえなくもないのだ。

 ノコギリの如き刃で標的を薙ぎ払う武器を以前に携えていたのは、彼の母親を殺めた張本人だというのである。非合法街区バリアーダスで生計を立てるのに便利だからという理由で忌むべき『聖剣エクセルシス』を握り続けているわけだが、〝表〟の社会に於いて法律に基づいて生きる人間にはキリサメのような思考を合理性の一言で割り切ることは難しかろう。

 しかし、それが非合法街区バリアーダスに横たわった〝現実〟なのである。


「……〝そんな世界〟だから路地裏で半殺しにされたことは一度や二度じゃありません。通り魔からいきなり銃で撃たれたことだってありますし……」


 非合法街区バリアーダスの〝日常〟を解き明かすようなキリサメの独白に耳を傾ける思穂は、我知らずアニメ動画ビデオを停止させていた。


「何日か連絡が取れなくなると、は決まって僕を捜しにきてくれたんですよ。意識が朦朧としている僕を闇医者の所まで引き摺って行って……」


 麻袋から『聖剣エクセルシス』を少しだけ引き抜いたキリサメはリング状となっている柄頭つかがしらを無言で見つめた。そこへ無造作に縛り付けられたペルー伝統の手織物がの右腕を吊っているスカーフと同じ物であることを思穂は忘れてはいなかった。

 揃いのスカーフが幼馴染みの絆を表しているといっても過言ではあるまい。


「……ベタつく関係はお互いに好きじゃないけど、〝他人〟と呼ぶには無理がある。そう信じていたのは僕一人だったみたいです。腐れ縁も完全に腐り切ったら繋がりは切れてしまうって、そんな簡単なことにも気付かなかったんですよ。……いや、自分以外の誰かに何かを求めるのがそもそもの間違いで――」


 努めて無感情に淡々と、自分との関係を分析し続けるキリサメの真隣へ腰掛けた思穂は、彼の頭を豊かな胸の中にいだいた。

 抑揚の乏しい静かな呟きこそがこの少年にとって苦しみの形なのだと直感していた。


「焦んなくても大丈夫だよ、アマッち。だって、キミたちは二人とも元気なんだもん。ほんのちょっと噛み合わなかっただけで、……何も失っていないんだから。ほとぼりが冷めたらケロッと仲直りできるよ。それは私が保証してあげる」

「……有薗氏に保障されても安心できませんね」

「お~い、こらこら~。これでもキミよりお姉さんなんだぞ~。目上のアドバイスには素直に従っておきなさ~い」


 思穂が紡いだのは喪失の重みを知る者の言葉であった。

 柔らかな体温と心臓の鼓動の中でこれを受け止めたキリサメは神妙な表情かおで首を頷かせたものの、彼女の心に残り続けているだろう古傷に触れないような返答こたえが思い浮かばず、口を真一文字に結び続けるしかなかった。

 その上、だ。今は亡き母親に重ねていたことまで想い出してしまい、胸の中で慰められている状況が気恥ずかしくて仕方なかったのである。


「……それで、どうするんです? ……行くんですか、夜が明けたら……?」

「行くッ!」


 結局、思穂から身を引き剥がしつつ、別の話題に切り替えて誤魔化す以外になかったのだが、胸の内に秘めた思惑を知ってか知らずしてか、彼女の側は僅かな躊躇ためらいもなくキリサメの案内にしたがうと宣言した。

 改めてつまびらかとするまでもないが、キリサメがたずねたのは蛇の指輪が符丁の代わりを果たすという場所――『例の組織』が潜伏としている拠点アジトである。

 ワマンから具体的な場所を教わったとき、キリサメは俄かに顔をしかめていた。反政府組織が身をひそめる場合、隠れみのとして非合法街区バリアーダスが選ばれることが多いのだが、『例の組織』はよりにもよって貧富の格差を厭というほど突き付けられる地域を選んでいたのである。

 しかも、別れ際にワマンは厄介なことをキリサメへ伝えていた。


「――内通者からの情報提供タレコミによれば、『あの神父』の弟とやらが上位組織うえから差し向けられたそうだよ。リーダーの身辺警護だそうだ。末端相手に大判振る舞いだが、それだけデカい事件ヤマっつうコトだろうね。……そいつにだけは注意したほうが良いぞ」


 『あの神父』と聞かされた瞬間にキリサメは全身の血が沸騰しそうになったが、時間を置いて冷静に振り返ったことで「それもまた必然的な巡り合わせ」と納得できた。

 かつて『あの神父』に叩き付けた怨念が今度は自分のほうに向かってきただけのこと。傍目には負の連鎖のように見えるかも知れないが、暴力が〝掟〟となって支配する世界では大して珍しくもなかった。弱肉強食の構図に於いては誰かを恨み、誰かに恨まれることなどありふれた日常に過ぎないのである。

 キリサメは『聖剣エクセルシス』のつかを握り締めずにはいられなかった。我知らず軋み音が鳴るほど強く両手でもって握っていた。


(……もしものときは受けて立つ――どのみち、生かしてはおけない連中だからな……)


 『あの神父』の弟は『トリニダード』と名乗っているそうだ。



 翌朝、宿所から道路まで足を運んだキリサメはリマの町並みにたとえようのない違和感を覚えていた。休日でも祝日でもなく、出勤途中と思しき人々が行き交うなど何の変哲もない平日の風景がそこにった。

 しかし、今朝に限ってやたらと国家警察の姿が視界へ紛れ込むのである。少しばかり周囲を見回しただけで必ず暴徒鎮圧用の装備で固めた警官を発見してしまう有り様だった。

 夜更けに始まって朝日が昇るまで続いた大規模な抗議デモから数日と経っていない以上、警備が厳重化するのは当然であろうが、それにしても尋常ではない配置なのだ。

 昨夜は抗議の大行進もなく、思穂も枕を高くして眠れたようだが、その静けさがキリサメにはかえって不気味に感じられた。


(……嵐の前の何とやらにならなきゃ良いけど……)


 言い知れぬ胸騒ぎを覚えたキリサメは無意識にフードを被り直した。それはワマンの助言をれて思穂が購入した鉄色のレインコートである。付属されたフードは非常に大振りであり、被ると顔面の大部分を覆い隠すことができるのだった。

 小細工程度の試みではあるものの、因縁の深い『組織』にキリサメだと気付かれない為の措置であった。正体を悟られた瞬間に殺し合いへ発展するような関係であれば、最初から同行しないほうが良いのかも知れないが、思穂一人を反政府組織の拠点アジトへ向かわせることのほうが遥かに危険なのだ。

 現時点で考え得る全ての支度を整えた二人は、リマ郊外に位置する非合法街区バリアーダスの一つへ向かっていく。普段は冗談ばかりを並べている思穂もさすがに緊張から口数が少ない。

 同地までは距離がある為、待機中のタクシーへ乗り込んだのだが、運転手も町の異変に気付いているらしく、酷く怯えた調子であちこちを見回していた。


「……何かあるのですか、これから……」


 著しく落ち着きを欠いた姿が気になって仕方ないキリサメがペルーの言語ことばで訊ねると、運転手はハンドルを握りながら大袈裟なくらいに身を縮めた。


「何かっていうか、……随分とこっちの言語ことばが上手ですけど、日本から来た方?」


 観光客を装っておいたほうがよかろうと判断したキリサメは宿所へチェックインした際と同じように新婚旅行で訪れた日本人夫婦と名乗った。


「だったら、最悪のタイミングに来ちゃいましたね、お客さん。今は国中の至る所で大騒ぎになってるんですよ。数日後に新しい法律が公布されるんですがね、これが労働者の権利を脅かすってんで、反対者たちがデカい抗議運動をおっ始めたんです」

「ああ、それで……。一昨日の夜も凄い数の人が行進していましたよね。僕らが泊まったホテルからも見えましたよ。あれはデモの集団だったんですか……」

「連中、今日にでも〝大攻勢〟を仕掛けるってもっぱらのウワサなんですよ。カミさんにケツ蹴られて送り出されたから仕方ないんですけど、こんな日にタクシー流していて良いのか、おっかなびっくりなんですわ。デモ隊に遭遇したら、一体、何をされるか……」

「……〝大攻勢〟とは穏やかじゃないですね……」

「クーデターを起こすって息巻いてる連中も多いとか。お客さん、これからリゾート地に繰り出すんですよね? 悪いコトは言わないから、そこから出ないほうが良い。少なくとも今日一日は市街地には戻らんことです」


 キリサメから運転手の話を通訳された思穂は唇を噛んで絶句した。政府に対する不満が最高潮へ達したときにこそ『クーデター』は叫ばれるものだが、そのような事態にまで発展してしまうと、もはや、抗議活動デモの域を飛び越えてしまうのである。

 デモ隊の一部は国家警察にも匹敵するような品質の武器まで入手しているのだ。深夜の衝突に用いられた警棒よりも遥かに殺傷力の高い銃器などがクーデターを叫ぶ者たちの手に渡っているとすれば、の鎮圧として軍隊が導入されるかも知れない。

 その果てに待ち受ける惨状は、キリサメも思穂も想像したくなかった。せめて、がワマンの説得をれて踏み止まってくれるよう祈るばかりである。


「人が群れを成して練り歩くのは『聖行列プロセシオン』だけにしといて欲しいっつーの! お客さんもそう思いませんかぁっ⁉」


 タクシーの運転手が破れかぶれの嘆息と共に語った『聖行列プロセシオン』とはキリスト教にとって極めて大切な一週間――『聖週間セマナ・サンタ』に見られる受難劇の一形態であった。

 聖書にも記された審問と十字架への磔刑はりつけ、そして、復活の場景を表した巨像を大勢で担ぎ、市内を練り歩いて大聖堂カテドラルへと向かうのだが、これは信仰を捧げる上でも重要な位置付けとされている。

 ペルーの民であるキリサメも『聖行列プロセシオン』には幼い頃から親しんでおり、運転手の言葉に一瞬の躊躇ためらいもなく首を頷かせていた。しかし、『聖週間セマナ・サンタ』は概ね三月末から四月上旬と定められ、現在いまは七月だ。脳裏をよぎったのは叶うはずもない願いであった。

 程なくしてタクシーの前方に高級住宅街が見えてきた。キリサメが根城とするサン・クリストバルの丘の非合法街区バリアーダスとも、思穂が訪れた闇市とも景観が明らかに違うその区域はリマの中心部から訪れると、まるで異世界に迷い込んだかと錯覚するほどである。

 ほんの少しばかりタクシーで通過しただけでプール付きの邸宅や大型競技場といったリゾート地の趣が確認できた。

 ただひとつ――大型マンションの向こうに望む小高い丘だけはどうにも町並みに馴染まず、寒々しい気配を醸し出していた。剥き出しの岩肌などは同地に暮らす人々を「成金なりきん」などとあざけっているように思えてならない。

 二人は高級住宅街の片隅でタクシーを降りたが、それは人目を忍ぶ為の小細工フェイクに過ぎなかった。「成金なりきん」の〝棲み処〟に面した小高い丘の向こう側こそが目的地なのである。

 庶民には手の届かない豪邸に背を向け、タクシーに送られてきた道を逆戻りし始めた二人は丘の裏側に向かって大きく迂回していく。その間にも町並みはどんどんと変わり、程なくして豪邸とは正反対のあばら家が目立つようになった。その上、キリサメたちの移動距離に比例して建物の荒れ方まで悪化していく有り様なのだ。

 通りがかりの親切な「成金なりきん」たちは「そっちの方角に行くのは危ない。すぐに引き返しなさい」と声を掛けてくれたが、思穂は愛想笑いを返すだけに留め、一秒たりとも足を止めることはなかった。

 ついに崩落寸前の家屋が視界の大部分を占めるようになった頃、一本の道が二人の前に現れた。高級住宅街の裏側に位置する丘陵地帯へと続く坂道であった。


「後戻りするなら今しかありませんが?」

「自分の値崩れを起こすようなコトを言っちゃいけないよ、ボディーガードさん」


 キリサメの最終確認に強く深く首を頷かせた思穂は、満足に舗装されていない坂道へ踏み込んでいった。

 果たして、丘の裏側は高級住宅街とは別の意味で『異世界』だった。リマ市内――否、ペルー国内に於いても最悪レベルの非合法街区バリアーダスが目の前に現れたのである。

 丘陵地帯にへばり付くようにして掘っ立て小屋が建てられている点はキリサメの根城と大差ないが、目に入る建物はいずれも朽ち果てる寸前であり、ひとたび、暴風雨に晒されようものなら数分と耐えられずに吹き飛ばされてしまうだろう。そのような光景が果てしなく広がっているのだった。

 ともすれば、残骸の山とも見える『異世界』であった。

 おそらくは永遠に晴れることがないだろう〝死〟の気配が辺り一面に垂れ込めていた。一瞬でも気を抜けばドス黒い〝影〟に捕らえられ、抗うすべもないまま冥府へと送られてしまうだろう。

 もはや、ここは死者たちの世界の入り口にも等しいのである。

 廃墟同然の建物から様子を窺っていた者たちが外界そとからやって来た二人に舌なめずりしたのは言うまでもない。間もなく前後左右から非合法街区バリアーダスの住人が忍び寄り、両手を差し出しながらキリサメたちの行方を阻んだ。

 同じ非合法街区バリアーダスを根城にする人間ではあるものの、誰も彼もキリサメとは比べ物にならないほどボロボロの身なりで、どこを見ているのか分からない虚ろな目は落ちくぼみ、常闇の如き影が差し込んでいる。真冬にも関わらず乾き切った皮膚や唇は、彼らが満足に栄養を摂取できていない現実を何よりも端的に、つ残酷なほどに表していた。

 二人を取り囲もうとしているのは、いずれも物乞いである。働くこともままならず、岩だらけの荒れ地では作物を育てることさえ難しく、誰かにすがることでしか日々の糧を得られないほど困窮した者たちである。

 そして、それこそが非合法街区バリアーダスと呼ばれる場所の本当の姿といえるだろう。キリサメは『聖剣エクセルシス』という名の暴力を、掏摸スリ技術わざを駆使して生計を立てていたが、そのように己の〝力〟を頼りにすることさえできないまま、〝表〟の社会まちから落伍者の吹き溜まりと忌み嫌われる領域まで追い詰められた人間も少なくないのだった。


「……行きますよ。付き合っていたらキリがありません」

「う、うん……」


 生ける屍のような姿を見てしまうと、さしもの思穂も気がとがめて立ち止まりそうになるのだが、我が身を盾として先を進むキリサメは彼女の腕を力任せに引っ張り、足を動かし続けるようたしなめた。

 キリサメは麻袋に納めたままで『聖剣エクセルシス』を振り回し、物乞いたちを威嚇している。これ以上、進路みちを塞ぎ続けるつもりであれば容赦しないと警告したわけだが、この行動に逆上した人間は誰一人としておらず、風の裂かれる音を耳にしただけで悲鳴を上げ、散り散りに逃げていった。

 些か乱暴ではあるものの、このように力ずくで蹴散らさないと非合法街区バリアーダスの住民から格好の餌食カモと思われ、身ぐるみ剥がされてしまうわけだ。結局、物乞いとは坂道の途中で幾度となく遭遇する羽目になり、その都度、キリサメが『聖剣エクセルシス』でもって追い払った。


「そろそろさぁ、私にも教えて欲しいんだよなぁ。……アマッちと『例の組織』の間に何があったのかを……」


 まるで弱い者をしいたげているような暗澹あんたんたる気持ちになってきた思穂は、加速度的に落ち込んでいく己を奮い立たせるべく、これから対峙することになるであろう『組織』とキリサメとの因縁をたずねた。

 キリサメにとっては他人に明かしたくない辛い過去に違いなく、その記憶を無理矢理に暴き立てるような真似は思穂も躊躇ためらったのだが、『例の組織』は取材の対象である以前に犯罪者の集まりである。言行一つで命取りともなり兼ねず、そうした言葉を選んでしまわないよう揉め事の火種は事前に把握しておかなくてはならなかったのである。

 キリサメ当人も思穂の考えは理解しており、不愉快に思うどころか、注意深くなったと感心したくらいだった。


「……死んだ母は青年海外協力隊の一員としてペルーに訪れて、そのまま定住を決めたそうです。非合法街区バリアーダスの自宅では私塾のようなものを開いていたんですよ。そこで学校にも通えない子どもたちに読み書きや日本語を教えていて……」


 も少しばかり言及していたが、彼に備わった貧民街スラム浮浪児ストリートチルドレンらしからぬ礼儀正しさは母親が教育者であったればこその影響なのだろう。

 キリサメの母親が青年海外協力隊に属していたことを知り、思穂は様々なことが腑に落ちたような心持ちであった。発展途上国の支援を目的として日本から派遣される隊員の任務には現地の教育振興も含まれているのである。


「良いお母さんだったんだね。少し話を聞いただけでも人柄が伝わってくるみたいだよ」

「ミーハーを絵に描いたような人でもありましたけどね。日本のお笑い芸人にものめり込んでいたっけ……」


 日本大使公邸人質占拠事件が発生した年、日本から二人組のお笑い芸人がヒッチハイクの旅で首都リマを訪れていた。路銀を稼ぐ為に現地のテレビ番組にも出演したのだが、青年海外協力隊として赴任していたキリサメの母もたちまちファンとなり、市内に滞在している二人を捜し当ててサインをもらったそうである。

 当該の色紙は大切に保管されていたが、は灰となって母の遺骨と共にる。


「日本のバンドの歌を子どもたちに教えて大合唱したり、私塾といってもムチャクチャなことをやっていましたね。苦情が来なかったのが不思議なくらいでしたよ」

「ほっほ~う! アマッちのお母さん、日秘の文化交流にも一役買ったわけだ~」

「そこまで大袈裟ではありませんが、……愉快な母でしたし、子どもたちから慕われていたのは間違いないですよ――」


 在りし日の母のを紐解いていたキリサメの声が不意に重苦しくなった。


「――あるとき、教え子が人買いの被害に遭ったんです。それも一気に何人も……」


 その言葉に思穂は躊躇ためらいがちに頷いた。

 ペルー国内に於いて人身売買ブローカーが暗躍していることは彼女も承知していた。そもそも人命を玩具同然にもてあそぶ組織の存在を知ってしまったことが渡海の動機きっかけだったのである。そのような〝社会の闇〟にこそ解き明かすべき〝真実〟があると使命感に燃えた次第であった。

 この丘陵地帯のどこかに拠点アジトを構えている反政府組織とて人身売買ブローカーと結託して暴利を貪っていたという。


「やめておけば良いのに母は民間人の分際で人買いの犯人を追跡し始めたんです」

「ちょっと! それって危険過ぎるんじゃ⁉」


 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった思穂に向かってキリサメは声を落とすように注意した。二人は居住区域を一直線に貫く大階段を進んでいるのだ。が無事に目的地へ辿り着く為には人目を引くような振る舞いは言語道断なのである。

 同じ場所へ長居するわけにもいかず、再び上り始めた階段は自動車の廃タイヤを土の中に埋め込んだ物であった。最初の内は石材で造られていたのだが、おそらくは途中で材料が尽きてしまったのだろう。

 物資にも費用にも乏しい貧民街スラムの〝現実〟を踏み締めながら、キリサメは「要するに母は浅はかだったんです」と呻くような調子で先程の話を続けた。


「……始末されるのは当然の結果です。身の程を弁えないことを仕出かした末に母は『例の組織』に斬殺されたんです。それも人買いの張本人に……!」


 語気荒く言い捨てた様子からもキリサメの中で『例の組織』が如何なる存在なのかは察せられるだろう。察して余りあるというものであった。

 そこにくらい怨念を感じ取った思穂は数分にも及ぶ躊躇ちゅうちょを挟んだのち、恐る恐るといった声色で質問を重ねた。それはどうしても確かめておかなくてはならないことなのだ。


「その張本人が『聖剣エクセルシス』の前の持ち主……だったりするのかな?」

「……概ね、そんなところです」


 キリサメは思穂から問われたことを言葉少なに認めた。

 おそらくはそれがワマンも口にしていた『神父』なのであろう。仮にも神に仕える身でありながら物騒極まりない武器を振るうなど異常としか表しようもないが、そもそも強盗殺人や人身売買といった犯罪が当たり前のように横行している世界で正常か否かを論じるのは無意味だろう。


「……神父気取りの人買いはメキシコから入り込んできたんです。『聖剣エクセルシス』だって、本当は向こうの武器らしいですしね」

「そうなの? てっきりインカ帝国の遺産かと思ってたんだけど」

「――ああ、言ってなかったかも知れませんが、母をズタズタに斬り裂いたのも、僕がカタキを討ったのも、この『聖剣エクセルシス』なんですよ。……『聖なる剣』だなんて呼んでますが、そんな大した代物じゃない。ただの血塗られた道具なんですよ、人殺しの為の……」

「な……っ」


 含みのある言い方からしてわざと曖昧にはぐらかしたことは明白であり、より詳しく尋ねて良いものか迷っていた思穂に対し、キリサメは更に衝撃的な告白を重ねた。

 キリサメが握り締める禍々しい剣は彼の母親の血をも吸い込んでいるというのだ

 は『聖剣エクセルシス』について「キリサメの母親を殺した相手の遺品であり、ごうが深い」などと語っていたが、ノコギリの如き刃に秘められていた〝真実〟は思穂の想像を遥かに超えていたのである。

 暴力以外に頼るものがないとはいえ、生みの親の命を奪った『聖剣エクセルシス』を平然と振るい続けるキリサメにおののいた思穂は、それきり口をつぐんでしまった。

 この少年は殺人に手を染めた過去を明かしたのである。おそらくは人の命を奪ったこともあだ討ちの一度きりではないのだろう。その衝撃が思穂の口から言葉を奪っていた。

 廃タイヤの階段すら途絶え、大地が剥き出しとなった坂道を歩き続ける羽目になった二人の瞳に頂上が映ったのは、重苦しい沈黙が舞い降りてから小一時間が経った頃である。

 坂の上に捉えたのは長く長く、どこまでも広がっていく壁であった。起伏が激しい地形へ沿うようにして建てられたその壁は万里の長城さながらの規模であり、上部には有刺鉄線まで設置されている。これによって境界線の行き来を厳重に阻んでいるのである。

 非合法街区バリアーダスから見て壁の向こう側は富裕層が暮らす高級住宅街――即ち、一枚の壁で貧富が選り分けられた形なのである。ショッピングセンターなどに於いても生活水準の格差に基づく差別意識は蔓延はびこっていたが、ここでは「平等」の二字から掛け離れた精神が目に見える形で具現化されているのだった。

 その場所はペルーの人々から忌々しげに『恥の壁』と呼ばれている。

 『例の組織』が隠れ潜む場所はワマンから教わっており、そちらへ直行しなければならないのだが、ペルーに於ける貧富の格差と、ここから生じる差別意識の象徴として海外の報道ニュースでも取り沙汰されている『恥の壁』だけは真っ先に確かめたい――そのように思穂は決めていたのである。

 『恥の壁』という名称の通り、ペルー人の大半が丘の上に可視化された差別意識を苦々しく思っており、国を率いる大統領リーダーも撤去の是非を常に求められているのだった。

 頂上より一望できる丘陵地帯は、壁の向こうに広がる眩い光景を目の当たりにした直後だけに一等寒々しく感じられた。


「噂には聞いていましたが、ここまで無駄なコトにカネを掛けたものですね。高級住宅街ラス・カスアリーナスの治安維持が目的らしいですけど、これだって金持ちの道楽の一つでしょう」


 場所は違えど非合法街区バリアーダスの側の人間であるキリサメだが、可視化された貧富にも憤りを滲ませるようなことはなく、皮肉を紡いだ声も至って平易だった。


「……これがこの国の現状です。あなたが好きな〝真実〟ってヤツですよ」


 キリサメが祖国ペルーの〝真実〟を語る内に使命感を揺り動かされた思穂は、手持ちの小型カメラで〝死〟の気配に満ちた世界を撮影し始めた。


「人身売買って言葉から誘拐を連想する人も多いみたいですけど、親兄弟に売り飛ばされた子どもだって少なくないんですよ。……それも向こう何日かの食い扶持を稼ぐ為だけに。人道だの人権だのと抜かしていたら生きてはいけない世界なんです」


 貧困層に分けられた人間にはそこからけ出す機会チャンスなど許されず、〝死〟の気配に満ちた世界で永遠に苦しむようにできている。生まれついた身であれば幸いで、〝表〟の社会まちから非合法街区バリアーダスまで追いやられた人間は発狂するか、暴力の餌食にされるのみだとキリサメは語った。それがペルーという国家くにの構造だと繰り返した。

 富裕層の高笑いが向こうかられてくるような『恥の壁』は社会の構造自体を分断する象徴――ヘッドセット頭から被るタイプのマイクへ思穂はそのようなナレーションを吹き込んだ。

 外国人である思穂にペルーという国家くにの在り方を語る資格はない。血と罪にまみれた少年を相手に道徳を振りかざすこともできない。しかし、〝環境の犠牲者〟である状況を全く疑わず、母の血を吸った『聖剣エクセルシス』を振るって食い繋がなければならない生き方だけはどうにも悲しく、寂しげにかぶりを振るしかなかった。


「……アマッちの住まいもこんな感じなの……かな?」


 先日、行き損ねてしまったキリサメの根城について思穂は控えめに尋ねた。

 サン・クリストバルの丘にへばり付くような形で掘っ立て小屋が密集する地域をキリサメは根城としており、現在いまは集落の外れの共同墓地にて『墓守はかもり』の真似事をしている。


「物乞いもいなくはないですけど、どちらかといえば強盗が多いですね。カネを持ってそうな人を集団で取り囲んで、寄ってたかって身ぐるみを剥がすんです」

「つまるところ、それがアマッちの――なのかな。初めて出逢ったときも私を狙ってけてたワケだし」

「……知っていたんですか……」

「カマ掛けただけなのにマジだったの⁉ いやだわ、貞操の危機かしら⁉ お願いだからシャワーだけは浴びさせて! それからたっぷりと召し上がってッ!」

「……あなたはどうして、すぐにに話を持っていきたがるんですか……」


 丘陵地帯の非合法街区バリアーダスという同様の体質から犯罪の傾向も似通うのではないかと推測した思穂はキリサメの返答こたえを受けて、「私だけアマッちに召し上がられたらッちに悪いかなぁ~」と全身をくねらせた。

 鋭いのか、危機感がないのか、相変わらず掴みどころがない思穂に溜め息を禁じ得ないキリサメだったが、悪ふざけにも似たやり取りを続けていられたのはつかの間のことである。最寄りの掘っ立て小屋に向けられたカメラのレンズが不審な人影を捉えたのだ。

 穏やかならざる気配をキリサメが察知したのは、思穂の視認より僅かに早かった。我が身を盾とするよう彼女の前に立つと、麻袋に包んだままの『聖剣エクセルシス』を構えた。ノコギリの如き刃を露にしたほうがが、『例の組織』の拠点アジトとも近い場所では正体を気取られそうなヒントなど絶対にさらせないのだった。

 油断なく周囲を見回し、人影の動向を窺いながらを捜し求めるキリサメだったが、助けに入ってくれそうな人間はどこにも居ない。やはり、〝この場〟は自力で切り抜けるしかなさそうだ。


「……何があっても僕の傍から離れないように」

「結婚前提のお付き合いをすっ飛ばしてプロポーズ?」

「減らず口叩いてると舌を噛みますよ――」


 キリサメが肩越しに思穂へ言い付けた直後、一〇人程度の男たちが物陰から一斉に飛び出してきた。ボロ布同然の衣服からも『恥の壁』を仰ぐ民であることは瞭然である。

 彼らは刃渡り四〇センチにも及ぶ大振りな山刀マチェーテや手斧など殺傷力の高い凶器を握り締めている。そして、誰もが血走った眼でキリサメたちを睨み据えているのだ。

 そこに宿すのは明確な殺意である。ヘッドセット頭から被るタイプのマイクに手持ちの小型カメラという「カネを持っていそうな日本人観光客」のイメージそのままの思穂に狙いを定めた強盗の類いではなく、二人の息の根を止めることが目的のようだ。

 キリサメもまた同等の殺意をもってこれに応じた。剥き出しの地面へと先端を突き立てた『聖剣エクセルシス』を勢いよく振り抜き、正面から突っ込んできた相手の顔面に砂埃を巻き上げた。

 平べったい刀身の利点を生かした威嚇の一手である。大量の砂埃によって双眸を塞がれた相手の脳天へ『聖剣エクセルシス』の側面を叩き付け、ただ一撃をもって薙ぎ倒したキリサメはこれによって得た遠心力を生かして自らも高速旋回し、横から思穂に組み付こうとしていた別の敵を左前回し蹴りで捉えた。

 敵はたおす――それこそ暴力が支配する世界の〝掟〟なのだ。キリサメは前回し蹴りで危機を回避したわけではない。彼が放ったのは蹴り技というよりもサッカーでいうシュートに近い。『恥の壁』に向かって標的を弾き飛ばしたのである。

 無防備なままコンクリートの壁に頭部を激突させられた男は二度と立ち上がれなかった。キリサメの左足は正確に首筋を打ち据えており、そこにも相当な痛手を与えていた。


「ア、アマッちってば素手ステゴロもイケるんだね……」


 砂ぼこりを巻き上げながら繰り出されるキリサメの蹴りに見入っていた思穂は、貿易港内にて披露された太刀さばきとも異なる剽悍ひょうかんな身のこなしに驚嘆の声を洩らした。


「……『素手ステゴロも』っていうか、武器使うのも蹴る殴るも大差ありませんから――」


 手斧で襲い掛かってきた敵には先んじて『聖剣エクセルシス』をり上げ、得物を握る側の手首を叩き折り、次いで身を沈ませながら右足にも平べったい側面を叩き付ける。耳障りな音が響いた直後には『聖剣エクセルシス』の一撃を見舞われた部分が関節でもないのにいびつひしゃげた。

 姿勢を維持することもままならず、前のめりに倒れそうになった敵の左手首を掴んだキリサメは、これを無造作に宙へ放り投げた。男は『恥の壁』上部に張り巡らされた有刺鉄線に片足が引っ掛かり、逆さ吊りのような状態になってしまった。

 そこまでがキリサメの狙いであった。防御も回避も不可能な状態に陥った相手の顔面目掛けて容赦なく『聖剣エクセルシス』を叩き付けたのである。顎も鼻も頬さえも原形を留めないほどに破壊された男は頭部全体をドス黒く染め、白目を剥いたまま動かなくなった。


「ここから生かして出すな! 絶対に逃がすなッ!」


 ペルーの言語ことばで更なる猛攻を確認し合った男たちは地面に落ちていた大小の石をキリサメと思穂に向かって投擲し始めた。手加減のない石つぶては直撃を被ろうものならそれだけでも致命傷となり兼ねなかったが、『聖剣エクセルシス』を盾の代わりに用いたキリサメはその殆どを抜かりなく跳ね返した。

 一発二発は頭部に喰らってしまったが、いずれも思穂に当たりそうになった物を引き受けた結果である。フードの下には僅かに流血も見られたが、目を潰されてもいなければ、脳への影響もない。それならばキリサメ当人にとってはカスリ傷同然なのだ。


「……ア、アマッち……ご、ごめ――私……ちょっと、もう……」


 キリサメの大立ち回りをカメラに収めようとする思穂だったが、途中から全身の震えが止まらなくなり、ついにはレンズを覗くことさえできなくなってしまった。

 未だかつて味わったことのない戦慄に打ちのめされていた。常に緊張状態が続くガザへ潜り込んでしまうような彼女だけに、命の危機を感じたことはこれが初めてではない。事実、『三・一一』の折には未曽有の大災害に呑み込まれそうになってしまったのだ。

 しかし、今日は違う。痛い目に遭わせて追い出そうとしていた港湾労働者とも違う。突如として飛び掛かってきた襲撃者は明確に自分たちを殺そうとしていた。

 有薗思穂という一個人に対して殺意が向けられることは生まれて初めてなのだ。圧倒的な恐怖から足が竦み、とうとうその場にへたり込んでしまった。


「……まあ、動かないでいてくれるほうがり易いから良いんですけど」


 思穂が動けなくなったことでキリサメも戦い方の変更を余儀なくされた。襲撃者は得てして精神きもちが折れた人間を優先的に狙うものなのだ。それはつまり、迎撃する側が敵の行動を読み易くなることを意味している。

 キリサメの正面には二人の男が迫っていた。彼らの背後では山刀マチェーテを携えた男が攻め入る好機を計りつつ、醜悪なダミ声で何事かを喚き散らしていた。聞き間違いでなければ、ペルーの言語ことばで「死守」と繰り返しているようだ。

 誰も彼もが必死の形相で向かってくることにキリサメは強い違和感を覚えていた。それは捨て身とも取れる突進なのだ。二人がかりで組み付き、『聖剣エクセルシス』ごと彼の身体を抑え込もうとする男たちは捨て石であることを自覚しているようにも思える。後方からはなおも石つぶてが投げ込まれているのだが、味方のに晒されようとも踏み止まり、キリサメを封じ込めることだけに全力を傾けていた。


「……こいつら、『組織』の手先か……ッ?」


 ここに至ってキリサメは襲撃者の目論見に気付いた。自分たちを殺した先に何を求めているのか――強盗目的でもないのに命を狙う理由である。あるいは、自分たちが『例の組織』と接触することを阻んでいるのではないかとキリサメは直感したのだ。

 さりとて、はした金で雇われているようにも思えない。報酬目当てで従う者は自分自身の命が危険にさらされたとき、引き受けた任務さえ放り出して逃げ出すものである。だが、彼らは違う。望んで死地に赴くような気迫を全身に漲らせているのだ。

 キリサメが『聖剣エクセルシス』を手放した拍子に体勢を崩し、よろめいてしまった二人の男も次の瞬間には血だらけとなって突っ伏した。地面に転がっていた石を素早く拾い上げ、てのひらの内側に握り締めたキリサメから渾身の力で殴り付けられたのだ。

 肩から肘にかけてのバネを引き出すことで勢いを付け、命中の寸前に手首のスナップを効かせた一撃は眉間や後頭部といった人体急所を正確に捉えている。このような打撃を受けては立っていられるはずもなかった。

 思穂へ斬り掛かるべく側面まで回り込んでいた山刀マチェーテの男には掌中の石を投げ付け、たじろいだ瞬間に対の手でもって追撃の目突きを繰り出した。鮮血が噴き出した双眸を左右の手で押さえながら転げ回るということは、ひょっとすると光を失ったのかも知れない。

 キリサメが全体重を乗せた蹴りを脇腹に見舞うと、彼の口かられる絶叫は一等悲痛なものになった。直前には〝何か〟の破断する音が響いており、一撃で何本かの肋骨を折られたに違いない。

 このように味方が呆気なく、つ惨たらしく返り討ちに遭う状況を目の当たりにしても男たちが臆病風に吹かれることはなかった。ほんの数人を倒されただけで戦意を喪失してしまった港湾労働者とは明らかに異なっているわけだ。

 地面に落ちた『聖剣エクセルシス』を拾い上げ、これを振りかざそうとした男は予想外の重量おもさに耐え切れず、無様に尻餅をいてしまった。レインコート越しには細身と見える少年に振り回せるくらいなのだから、麻袋の中身は軽量な鈍器だろうと勘違いした次第である。

 放り出された得物を改めて握り直したキリサメは、振り向きざまに相手の顔面を踏み付け、硬い岩が迫り出している場所を選んで後頭部から叩き落とした。その男が泡を吹いて動かなくなったことは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。


「……アマッち、実はペルーで指折りの隠れ有名格闘家だったりする? 実は闇大会の賭博試合でボロ儲けしてるとか……」

貧民街スラムで生きていれば、これくらいは自然と身に付くんですよ」


 酸鼻を極める状況に恐れおののく思穂は、そのように呟くだけでも精一杯だった。キリサメ当人は『聖剣エクセルシス』で仕留めるほうがと語っていたが、襲撃者たちを撥ね退ける徒手空拳の技は、粗削りながらもノコギリの如き刃による斬撃と同等の殺傷力を秘めている。むしろ、重量のある『聖剣エクセルシス』がハンデとさえ思えるくらいだった。


「――もう手加減はしません。……今なら手当てすれば間に合うと思いますが?」


 数日前、キリサメは貿易港カヤオで揉めた港湾労働者にも同じ言葉を吐き捨てていた。そのときには相手の気勢をいで危地からの脱出に成功したのだが、非合法街区バリアーダスの民は逆上したかのようにいきり立ち、更なる攻勢を仕掛けるべく身構えた。劣勢を省みるような理性が失われているのは明白である。


「……じゃあ、死んでも恨みっこなしだ……」


 キリサメもまた麻袋の上から『聖剣エクセルシス』を握り直した。言葉で通じ合えなくなった以上、〝裏〟の社会まちが共有する〝掟〟に従い、暴力によって決着をつけるしかないのだ。

 『聖剣エクセルシス』を肩に担いだキリサメは残存する敵の群れまで一気に突っ込もうと前傾姿勢になった――が、その動きは曇天を斬り裂く一発の銃声によってき止められてしまった。

 キリサメ本人を狙った銃声ではない。弾丸は鈍色の空をけ、いずれは剥き出しの地面に落下することだろう。

 何事かと銃声の轟いた方角を振り返ったキリサメは、坂道の向こうに立つ一人の青年を視界に捉えた。

 神父が纏うような黒い装束で全身を包んでいるが、聖職にはおよそ似つかわしくない大口径のリボルバー拳銃を右手に握り締めており、その銃口からは天に向かって一筋の硝煙が立ち上っていた。

 どこか軽薄そうな印象を受ける顔立ちは若く、二〇代半ばといったところであろうか。短めに切り揃えた頭髪は紫がかった灰色に染めているようだ。左の前髪という一か所だけを長く伸ばし、これによって顔面の半分を覆い隠すのが本人なりのこだわりなのだろう。

 青年の姿を見つけた襲撃者たちは驚愕に目を見開き、先に倒された仲間を引き摺って進路みちを開いた。先程の発砲に怯えたと考えられなくもないが、非合法街区バリアーダスの民は青年の顔を確認してから行動に移ったのだ。その様子から上下の関係性を感じ取ることは、決して過剰な反応ではないはずである。


「――お嬢ちゃんがオレの捜しているコだったら助かるぜ。そうでなきゃ、こいつらを止めた意味がなくなっちまう。まだまだ恥をかかされるのが面白くねェ年頃なんでよ」


 神父のような装いの青年はキリサメの頭越しに思穂へすいした。回りくどい言い回しはペルーの言語ことばで紡がれている為、彼女には意味の半分も伝わらず、やむなくキリサメが代理として頷き返して見せた。勿論、取材の為に訪れたと明言することも忘れてはいない。

 ワマン曰く――内通者を介して『例の組織』とは話を付けてあるので、代わりの指輪を持って現地アジトへ向かうだけで良いそうだ。本当に段取りが整えられているのであれば、誰何してきたこの青年こそが案内役になってくれるはずだ。


「うちの大将リーダー、今朝からお待ち兼ねだぜ。ようやく正当な主張の場が与えられたってな」


 果たして、神父のような装いの青年は、いかにも軽薄そうに口笛を吹きつつ右手を前方に突き出した。見れば思穂がワマンから預かった物と同じ指輪を嵌めているではないか。

 それはつまり、キリサメの予想が的中したことを意味している。

 『例の組織』より差し向けられた迎えであると名乗った青年に対し、キリサメは警戒を強めずにはいられなかった。出で立ちからして彼こそが『あの神父』の弟であることは間違いない――が、黒装束の上から腰にガンベルトを巻いた姿は聖職者というよりもアメリカ西部劇のガンファイターであった。何しろ、ガンベルトの表面には数十発分もの銃弾が並んで収納されているのだ。

 空を撃ったリボルバー拳銃は右側のホルスターに仕舞われた。対の左側には銃身を短く切り詰めたライフル銃を、ベルトの背面には『ボウイナイフ』と呼称される種類の短剣をそれぞれぶら下げているのだが、いずれも西部開拓時代では定番の武器である。


(……『三位一体トリニダード』とは良く言ったもんだ……)


 自分たちの拠点アジトまで道案内すると言い付けて歩き出した青年――トリニダードの背中と三種の武装を交互に観察していたキリサメは、腰を抜かしてしまった思穂の身体を支えながら小首を傾げてしまった。


「取材前からすっかりクタクタだけど、ちょっとずつ頭脳アタマ働いてきたわ。アマッちのカタキって人、メキシコからペルーに入ってきたって言ってたよね。……仮にこの人が弟さんだとすると、なんてゆーか、めっちゃ不自然てゆーか……」

「ええ、……僕もそこが引っ掛かっていました」


 思穂の耳打ちにキリサメは静かに頷き返した。彼女が気付いたように『例の神父』はメキシコの人身売買ブローカーだったのだ。その弟であれば顔立ちなどに面影を感じられてもおかしくないのだが、目の前に現れた青年は似ている箇所を見出すどころか、南米の人間とも思えないのである。肌の色から顔の構造つくりに至るまで全く欧米系なのだ。

 そもそも、ペルーの反政府組織が外国の人間を構成員として受け入れることも不自然ではないか。キリサメが知る限り、『例の組織』は閉鎖的な体質であったはずだ。

 我知らずフードのフチを一等深く下げたキリサメは、「……いよいよ本当にキナ臭いことになってきた……」と心の中で呟いた。


 キリサメとの因縁が深い『例の組織』――ペルーに革命を掲げる反政府組織は『恥の壁』に程近い場所へ拠点アジトを構えていた。

 しかし、武装集団の砦と呼ぶには似つかわしくないほどみすぼらしく、同地で暮らしている貧困層ひとびとと大差がない。つまり、彼らは掘っ立て小屋に隠れ潜んでいたわけである。

 誰の目にも急ごしらえとしか見えない掘っ立て小屋は周囲に物と比べれば相当に大きいのだが、室内を照らすのは窓から差し込む僅かな陽の光のみという有り様だった。今日は空が分厚い雲で覆われている為、互いの顔を確かめることにも難儀するほど薄暗い。

 民間人には使いこなせないほど高度な機械に囲まれながら作戦会議ブリーフィングを行うという反政府組織のイメージが根底から覆されるあばら家へキリサメと思穂を迎えたリーダーの男性は、双眸に理知的な輝きを宿しており、立ち居振る舞いも極めて紳士的であった。

 年齢も二〇代半ばと察せられ、社会の〝闇〟に潜むテロリストというよりも青年将校といった風情である。無論、生粋のペルー人であることに間違いない。かおかたち異国にほんの血が混ざっているキリサメやよりワマンと近いように見えた。

 取材の開始に当たって「ペルーにのさばる偽りの政府に対する反撃の狼煙のろしだ。革命の宣言として世界中に知らしめて欲しい」と物騒な前置きこそ述べたものの、物腰自体は穏やかで、銃を突き付けて命令を聞かせるような野蛮さなどは絶無だった。

 ワマンから預かった代わりの指輪を思穂が差し出すと、「道中、大変だったようで申し訳ない」と恭しくこうべを垂れたほどである。

 雨が降り出す前だというのにレインコートのフードを被り、ドス黒い染みが付着した麻袋を携える姿を不審に思ったのか、『組織』の兵士たちは突き刺すような眼差しでキリサメを凝視したが、リーダーはそれさえも余計な詮索として打ち切らせていた。

 『恥の壁』に於ける襲撃については、一部の住民がキリサメと思穂のことを国家警察の手先と勘違いした結果だとリーダーの傍らに控えたトリニダードより説明されたが、それはつまり、誰からの命令でもなく民間人が自発的に反政府組織を庇ったということだ。

 抗議デモにさえ参加していない者が政府と敵対するテロリストへ加担した理由は、組織の活動内容を説かれたことで理解できた。リーダーの指揮のもと、彼らは義賊的な作戦も行っていたそうだ。例えば、数多の富裕層を顧客として抱える銀行を襲撃し、強奪した金品を非合法街区バリアーダスの人々に分け与えたというのである。

 富の再分配を口先で論じるのでなく実際に決行してくれるのだから貧困層かれらにとっては救世主にも等しく、組織を脅かし兼ねない〝敵〟が現れたと知れば恩返しとばかりに飛び出すのも当然であろう。

 『エスパダス』と名乗った反政府組織のリーダーがひとかどの人物である証拠は、先程の戦闘を通じて示されたわけだ。非合法街区バリアーダスへ強引に居座り、住民たちを捨て駒のように支配する小悪党であったなら、こうした事態には発展し得ないのだ。

 答え合わせを求めるような眼差しを思穂より向けられたキリサメは、通訳を行いながら躊躇ためらいがちに首を頷かせた。反政府組織が銀行を襲ったニュースには何度も接してきたのだが、それが非合法街区バリアーダスに対する富の再分配であったとは全く知らなかったのである。

 おそらくは政府側が情報操作を図ったのだろうが、経緯はともかくキリサメも初めて耳にした事実であり、それ故に当惑を禁じ得なかった。


「どうか、彼らの仕出かしたことを許してやって欲しい。あれこそ貧困層の――いや、この国の抱える病理そのものなのだよ。労働者を死ぬまで使い潰し、保護せねばならない貧困層には見て見ぬフリを決め込んでいる。そして、既得権益層ばかりが甘い汁を吸う。吸い尽くさんとしている……ッ! 一刻も早くけがれを洗い落とさねば、国家そのものが腐り切り、堕ちてしまう。我らが目指すのは救済ッ! 革命は一つの階梯に過ぎぬのだよ」


 エスパダスが憂国の志を熱弁する度、周りの部下たちは強く深く首を頷かせた。彼らもまた祖国ペルーを救わんとする高潔な精神の持ち主のように見える。

 それは思穂が事前に調べていた情報と大きく食い違うものであった。非人道的な犯罪を繰り返す腐敗の象徴のように伝える資料も多く、だからこそ義憤に駆られて海を越え、この国の〝真実〟を暴かんと非合法街区バリアーダスまで踏み入ったのである。

 カメラを回し始めた直後は思穂も相手が詭弁を弄しているだけに違いないと疑い、人身売買の実態まで鋭く追及したのだが、当のエスパダスは機嫌を損ねるようなこともなく、「清算すべき過去から逃れるつもりはない。組織の罪は我らの罪」と、毅然とした面持ちで認めた。

 犯罪者というそしりに開き直ったわけではない。過去の罪を背負った上で、これと向き合わんとする者の態度――即ち、決意の表れであった。


「確かに。上位組織からの命令で自ら手を汚したことがある。……いや、命令を言い訳にはするまい。裁かれるべきときが来れば甘んじてそれに従うつもりだ。しかし、地獄に落ちると決まった身にしか引き受けられぬ汚れ仕事もあるのだよ」


 キリサメは『聖剣エクセルシス』を取り落としそうになるほどの衝撃に打ちのめされていた。目の前に居るのは母を死に追いやった組織の一味である。それだけは間違いない。人身売買や麻薬の密売などで人命いのちを食い物にし、けがれたカネで更なる殺戮を繰り返してきたはずだ。

 キリサメが過去に『聖剣エクセルシス』を向けた組織は革命とは名ばかりの無法者だった。金と暴力の亡者であったのだ。

 それなのに現在のリーダーはどうか。晴らし難い怨恨を抱くキリサメの目にもエスパダスは高潔な大人物のようにしか映らなかった。わざわざ掘っ立て小屋を拠点アジトに選んだのも政府の追跡を撹乱させる為でなく、真に救うべき貧困層ひとびとと同じ環境に身を置かなくてはならないと自らに試練を課したのかも知れない。

 エスパダスを高潔な志の持ち主と思えば思うほどキリサメの手に『聖剣エクセルシス』の重量おもみが食い込んでいく。メキシコから流れ着いた人殺しの道具によってむごたらしい姿に変えられた母の姿をキリサメは一秒たりとも忘れたことがなかった。

 数え切れない命をむさぼり喰らってきたを忘れ、憂国の聖人のように振る舞うことなど許されるはずがない。遺された者の心を踏み躙る姿など決して許してなるものか――。


「――二週間ほど前、カヤオの港で大勢の港湾労働者が殺される事件がありました。何らかの密輸に関わっていたそうですが、……手に掛けたのはあなたたちですね?」


 のうのうと英雄を気取る犯罪者など断じて認めまいとする衝動が身のうちを駆け抜け、赤黒く染まった女性の幻像まぼろしが脳裏をよぎった瞬間、キリサメは思穂の通訳としてではなく己自身の言葉をエスパダスに叩き付けていた。

 身勝手にも過去を清算したつもりになっているようだが、現在の罪から逃れることだけはできないだろう。所詮は薄汚い犯罪者の群れに過ぎないのだと、英雄気取りのテロリストに突き付けてやらなくてはならなかった。

 腹癒せ以外の何物でもないことは自覚しているが、もはや、キリサメ本人にも身のうちでのた打ち回る衝動を抑えられなかった。


「何を取引していたのかは分かりませんが、用済みになった使い走りを口封じしたのではないんですか? ……随分と偉そうなコトを抜かしていましたが、やっていることは昔と何も変わらない。人買いで荒稼ぎしていた頃と何が変わったというんですか?」


 ペルーの言語ことばに不慣れな思穂にもキリサメの口調が荒くなっていることは分かった。エスパダスに対する難詰はくらい怒気を孕んだ声で紡がれているのだ。落ち着くよう脇腹を肘で小突いたものの、ひとたび、火が付いてしまった勢いは止められず、彼は「何の罪もない民間人を虐殺しながら革命の英雄を気取る神経が信じられない」とまで吐き捨てたのである。

 これにはエスパダスの部下たちもざわめき、互いの顔を見合わせ始めた。彼らは両手でもって自動小銃を携えているのだ。逆鱗に触れようものなら二人まとめて蜂の巣にされるだろう。

 自ら死地へ飛び込むかのような度胸をトリニダードが口笛で冷やかす中、面罵されたエスパダスは部下たちに静まるよう命じ、苦渋に満ちた面持ちでキリサメと向かい合った。双眸に湛えているのは深い無念である。


「……言い逃れはするまい。彼らを抹殺したのは我々だ――」


 重苦しい語調で大量殺人事件への関与を自供したへ更なる追及を畳み掛けようと身構えるキリサメだが、エスパダスは間を置かずして釈明を続けた。

 欺瞞に満ちた英雄と罵るつもりであったキリサメは、次にエスパダスが発した言葉で動転させられ、呻き声以外を全く封じ込められてしまった。


「――だが、口封じがしたかったのではない。最初から粛清するつもりもなかった。あくまでも正当な契約のもとに彼らを雇おうとしたのだ。……そのつもりだったのだが、密輸のを警察に通報されたくなければ報酬金を三倍にするよう強請ゆすってきたのだよ」


 そこまでは大量殺人事件の真相としてキリサメも冷静に受け止めることができたのだが、組織をおどそうとした張本人が『キタバタケ』という日系人であると告げられた瞬間に思考の一切が停止したのである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、それはの叔父であった。愛する家族を養うべく〝裏〟の仕事に手を染めたと聞いていたが、その為に無謀な交渉を試みた挙げ句、報いを受けたわけだ。

 呆気なく明かされた真相は、キリサメにとって最も残酷な結末だった。やむにやまれぬ事情こそあれどもの叔父の自業自得は明白であり、むしろ彼のほうに非があるとしか思えなかった。

 エスパダスは「正当な雇用」と明言している。その契約に違反するような行為は殺される理由としては十分であろう。ともすれば、他の港湾労働者まで彼の身勝手の巻き添えとなったかも知れないのだ。

 の叔父にはキリサメも世話になっており、心情的には擁護したいのだが、エスパダスの釈明はなしを聞く限りでは仇討ちすら無軌道な逆恨みと見なされてしまいそうだった。


「……我々は革命の同志の中でも最下層だ。上位組織うえの命令には絶対服従せざるを得ない末端の歩兵に過ぎない。そして、裏切り者は誰であろうとも殺さねばならない――それが組織の掟なのだよ。例え、相手が同じ祖国の同胞であろうと、例外は認められん……」


 苦悶に満ちた面持ちで語ったのち、エスパダスは一粒の涙を流した。


カヤオの一件で私は心底、厭になったよ。結果として我々は偽りの政府と同じように労働者たちを使い潰してしまったのだからな。……しかし、それもここまでだ。聖なる屍は尊い犠牲をもってして私に英断の勇気を授けてくれた」


 思穂が構えるカメラのレンズは、涙に濡れたエスパダスの瞳に一等強い光が宿る瞬間を逃さなかった。


「――我らが最初に革命すべきは組織そのものであったのだ。上位組織うえの横暴に抗い、真の正義を打ち立ててみせる。同じ地に生まれた民を捕まえて血の一滴まですすることしか頭にない売国奴を徹底的に粛清し、正義の名のもとに同志を結集するのだよ。……そこまでせねば、今日までに積み上げられた聖なる屍に顔向けできないのだ……ッ!」


 胸の内に秘めていた激烈な決意を吐露していくエスパダスの顔をキリサメはただただ見つめていた。

 何とも例えようのない葛藤が胸中に渦巻いていた。今更になって正義などと掲げたところで、今までに犯してきた罪が許されるはずもない。『聖なる屍』などと気取った言い回しで誤魔化しているが、エスパダスが口にする言葉など自己満足に過ぎないではないか。

 そのようにエスパダスの大志を拒絶せんとする衝動は鎮まらないが、その一方で己自身の浅はかさに打ちのめされてもいるのだ。

 祖国の行く末を憂うエスパダスに対して、キリサメは憤怒以上に気後れを感じていた。

 彼らは罪を背負いながらも革命の信念を貫かんと進むべき路を切り開いてきたが、自分のほうは怨念という名の過去に囚われたまま、母が殺された日から同じ場所に留まり続けている。仇敵から奪った『聖剣エクセルシス』を振るい、暴力でもって生きる糧を得てきた――なのだ。

 そこに進歩や成長など起こり得ないのである。人を殺傷する技ばかりが巧みになり、これ以外は虚無にも等しい。そのようなことなど自分自身が一番分かっており、今日まで必要とも思わなかったくらいである。

 しかし、この瞬間だけは無為に過ごしてきたことを心よりじていた。

 裏路地をたむろするような最低の人生であろうとも命を食い物にするような『組織』と比べれば上等だと信じてきたが、その思いまでもが覆されようとしているのだ。

 それを認めてしまうことは母の犠牲も含めてキリサメ・アマカザリという全存在を否定するようなものである。だからこそ、エスパダスなど傍若無人な誇大妄想家と自分に言い聞かせているのだが、傲慢な独り善がりなどで誤魔化せるはずもなかった。己自身を納得させることさえ今や不可能に近いのである。


(……僕がこれまでしてきたことは……今まで生きてきた意味が……)


 いずれは決着をつけねばならないと一方的に敵視してきたものの、エスパダスという男が『組織』のリーダーに就いた瞬間、それも終わっていたのかも知れない――己の敗北を受け入れそうになるくらいキリサメは思い詰めていた。


「……アマッち……」


 カメラをエスパダスに向けたままキリサメの名前を呼んだ思穂は普段の騒々しさが嘘のような弱々しい声をもってして、自分たちがしていることの是非を言外に問い掛けていた。

 非人道的な組織への憤りを使命感に換えて〝真実〟に迫ろうとした思穂は、今や正義の所在を見失いつつあった。

 ペルーの言語ことばに不慣れであったればこそ相手の立ち居振る舞いや感情の動きを見逃すまいと注意深くなるのだが、ファインダー越しに観察したエスパダスは本気で祖国の窮状を憂えており、そこに欺瞞など感じられなかったのである。

 ここまで来てしまった以上、後戻りは許されない。しかし、この男こそがペルーに芽吹いた最後の希望ではないかと思えてならなかった。

 未来への萌芽を潰してしまえば、ペルーは底なしの暗闇へ堕ちるのではないか――そのように〝日本人がいこくじん〟から問われたキリサメであるが、自分の存在理由が揺らいでいる彼には祖国の行く末など答えられるはずもない。


「通訳を担っていると聞いたが、……この際だ、言いたいことは言っておきなさい――」


 何とも表しようのない感情を瞳に湛えているキリサメをエスパダスも正面から見つめ返した。それは挑発などではない。少年の思いをも受け止める覚悟で相対したのだ。


「――キミは我々を批難し、怒りを叩き付けるだけの資格を持っている。……そうではないかな、キリサメ・アマカザリ」


 微かな曇りもない瞳に吸い込まれていたキリサメは、不意にエスパダスから本名フルネームで呼び付けられ、また彼の手によってフードを外された驚愕で再び思考に空白が生じ、ついにてのひらから『聖剣エクセルシス』が滑り落ちてしまった。

 天井が跳ね返した重々しい音を神父のトリニダードは薄笑いを浮かべながら聴いている。





 『恥の壁』という象徴によって貧富の格差が具現化された非合法街区バリアーダスへキリサメたちが向かったことなど知る由もないは、リマの中心街をほっつき歩いていた。

 しかしながら、掏摸スリの獲物を物色しているわけではない。ぼんやりとした表情からもさっせられる通り、胸の内に抱えたやるせない思いの為に思考回路まで鈍り切っているのだ。このような状態で〝仕事〟に取り掛かろうものなら標的へ近付く前に失敗するだろう。

 の頭の中には幼馴染みの少年だけが居座り続けていた。陰気な顔を追い出すべく別のことを考えようと幾度も試みたが、その、虚しく徒労に終わっている。

 止血用のガーゼで覆われていない右目の下が真っ黒になっているのは、この状態が昨晩からずっと続いているからだ。睡眠すら満足には取っておらず、ただひたすら頭の中の幼馴染みと取っ組み合いを続けているのだった。

 無意味な意地を張ったばかりにキリサメと物別れになってしまったことをは悔やみ続けていた。一度は突き離してしまったものの、彼に心配してもらえたことが本当は嬉しかったのだ。普段は無感情な幼馴染みが貧民街スラムの住人には似つかわしくないほど義理堅く、誰よりも優しいことを自分が一番知っていたはずなのに「家族の問題に他人が口を出すな」と突き放してしまった。

 他人――と、思ってもいないことを口走ってしまったのである。

 その瞬間にキリサメの顔から一切の表情が消え失せたが、あれは目の前の出来事が理解を追い越し、心の整理が追い付かないときにだけ見せる面持ちなのだ。

 そこに彼の痛みを見て取ったは傷付けてしまったことをすぐに謝ろうと思ったのだが、どうにも相応しい言葉を捻り出せず、絶縁状態のまま今日まで懊悩の時間を重ねた次第であった。

 精神的に瀕死状態となって朝を迎えたものだから居候している叔父の遺族かぞくにも呆れられてしまい、散歩でもして気分転換するよう市街地へと押し出されていた。彼の未亡人つまはキリサメとの関係が拗れたことを一瞬で見抜いたらしく、「何ならデートに誘って仲直りに押し倒してきなさい」と無責任にあおられたほどである。


(……わたしってば、自分で思ってる以上に乙女だったのかねぇ……)


 自己嫌悪へさいなまれる内に大通りまで辿り着いたは、不意に数年前の『聖週間セマナ・サンタ』を想い出した。まさしくこの場所に立ち、キリサメと二人で『聖行列プロセシオン』を見送ったのだ。

 キリストの受難から復活に至る数々の伝承を巨像で表した宗教行列は、夜が明け切らない内から蝋燭だけを頼りに動き始めるのだが、無数の燈火によって暗闇の中に浮かび上がる受難劇は心臓が揺さ振られるほどに荘厳であった。同道する音楽隊も場面シーンに即して神聖な旋律を奏でており、耳を澄ませた者は邪念の一切が拭われていく。

 外国より訪れた観光客に混ざって見物していただけなのだが、厳粛でありながら、どこか華やかな行進には心が躍ったものである。

 夜明け前の空に掲げられた聖なる光を見つめながら、幼馴染みの二人はいつしか手を繋いでいた。自然と互いの指を絡め合っていた。双方の親が健在であった頃からの付き合いであり、物心つく前には彼の腕を引っ張って大いに振り回していたのだが、年齢を重ねるごとにそうした触れ合いもさすがに減っていた。

 手を繋いだのは本当に久方ぶりだったのだ。しかし、数年ぶりに触れた幼馴染みの手は驚くほど皮が分厚くなっており、骨の硬さに至っては肌を跳ね返して痛いほどであった。に母親と死別した後の過酷な歩みが表れているようで、それ以上、は言葉を続けられなくなってしまったのである。

 その瞬間のことを彼女は鮮明に憶えていた。幼馴染みの心身を蝕んでいるだろう痛みをどのように受け止めるべきか、結論を見出せないまま葛藤する最中さなかに十字架を抱いた聖母マリアの巨像が目の前を横切ったのだ。

 いわゆる、マリア像にはこれと同じ様式デザインが数多く存在しており、一説には十字架という象徴をもってキリストの受難を暗示しているとも伝えられていた。二人の前に現れた巨像は将来に待ち構える試練を予感しているのか、さざなみの如き慟哭の兆しが表情かおに滲んでいたのだが、同時にあまねく迷い子を包み込むほど大いなる母性をもたたえていたのである。

 〝人間の言葉〟では到底、表しようのない神々しい姿を見つめていると、ただそれだけでも心に刻まれた喪失の痛みが埋められていくようであったが、それはつまり、両手より滑り落ちていった存在いのちの大きさを改めて突き付けることにも等しい。

 神は与え、そして、神は奪う――聖書に記された言葉を喪失感と共に想い出したは声の代わりに幼馴染みの手を強く握り締め、彼が応じてくれたことで自らも安らいだ。

 は両親と切り離され、キリサメもまた母親を奪われていた。その〝穴〟を埋めたくて、二人は自分以外の体温を求めたのである。

(自分の回想で甘酸っぱい気持ちになるなんて、ホント、どーかしてるわ! キャラじゃないじゃん! こ~ゆ~のっ!)

 『聖行列プロセシオン』の追憶はほんの断片に過ぎない。ある種の末期症状ではないかと自嘲しているのだが、現在いまは目に入る町の風景を必ずキリサメとの想い出に結び付けてしまうのだった。これでは彼との絆を確かめる為にリマを巡っているようなものではないか。

(意地張ってばっかりだなァ。調子狂いまくりだなァ。……何でこーなっちゃうんだろ)

 唇より滑り落ちた溜め息をきっかけとして、ようやくの思考はキリサメ以外の人間にも向けられるようになった。

 政府の決定に抗議するデモ隊へ加わったことからキリサメと口論になり、そのまま物別れとなってしまったのだが、これに反対したのは幼馴染みだけではなかった。彼と親交があるという国家警察の警部にまでデモ隊と距離を置くよう説得されてしまったのである。

 祖国の在り方に疑問を持ち、行動する意志を尊重すると述べたワマン警部は、それでも前途ある若い世代が危険な目に遭うことだけは見過ごせないと繰り返していた。

 国家警察の人間だけにデモ隊の足並みを乱すのが狙いではないかと最初の内は勘繰ってしまったのだが、前のめりとなって説得の言葉を重ねる姿には悪意など一片も感じられなかった。何度も何度も、疎ましくなるほど危険な場には近付かないよう訴えられたのだ。

 あくまでも叔父の遺志を受け継ぎたいと答えた瞬間にワマンが見せた悲しい表情かおは二度と忘れられないだろう。デモ隊と国家警察は天敵同士ではあるものの、祖国ペルーの行く末を本気で案じている点に於いては他の誰よりも通じ合っているのではないか――にはそのように思えてならなかった。

 ワマンや思穂が推奨プッシュしている日本のアニメシリーズ、『かいしんイシュタロア』は「ぶつかり合いが相互理解の手段」というコンセプトに基づいてストーリーも展開しているそうだが、主人公であるあさつむぎとそっくり同じことをも体験したわけだ。胸襟を開いて語らえば、天敵と分かり合うことだって不可能ではなかった。

 しかし、だ。信用できる大人が手を差し伸べてくれたというのに、結局、彼女はそれを撥ね付けてしまった。説得の折にワマンが口走った「故人の〝事情かんがえ〟に生きている人間が縛られたら不幸しか生み出さない」という言葉だけは受け入れ難かったのである。

 最期の瞬間まで家族の為に働いていた叔父の生き方が否定されたようなものであった。 亡くなった家族の思いをめずして『キタバタケ』の家名ファミリーネームを称することなど許されないとさえは思い詰めていた。

 いみじくもワマンが語った通りだったわけだ。国家警察の警部は今度の抗議デモについて「世の中はアニメのように上手く転がってくれない」と嘆いていたが、『かいしんイシュタロア』にならってただちに手を取り合えるほど人間は単純な生き物ではない。そして、それこそが厳然たる〝現実〟であろう。

 さりとて、キリサメやワマンのことを真っ向から拒絶するつもりもない。自分の身を案じてくれた二人の優しさはの胸にしっかりと刻まれているのだ。それ故に今後の抗議集会へ加わるか否かも考えあぐねていた。

 何より先日の夜間行進で国家警察との衝突に巻き込まれ、重傷を負ってしまっている。これ以上、怪我を増やせば幼馴染みの少年は絶対に悲しむだろう。万が一の事態が発生してしまったときには自分を傷付けた人間に全面報復を仕掛けるかも知れない。

 そこまでキリサメから大切に想われている――この事実に身も心も沸騰したは、無事である左手で首に巻いたスカーフを――幼馴染みとの絆のあかしを握り締めていた。

 キリサメたちが宿所としているホテルも教わってはいるものの、そちらへ足を向けるつもりはなかった。取材に出掛けているかどうかは問題ではなく、思穂という第三者の前でキリサメと言葉を交わすことが今は気恥ずかしくて仕方ないのだ。

 次に彼が闇市を訪れたときに謝ろう。心配してくれたことが本当は嬉しかったのだと、心から感謝を伝えなければいけない。物心つく前から共に歩んできた幼馴染みは他人などではなく誰よりも大切な人なのだ――と。


(……ベタついた関係がイヤだってほざいたのは、一体、どの口なの……)


 キリサメのことを考えれば考えるほど頬に帯びた熱は高まり、心の中の独り言も増えていく。まるで恋する乙女のような自分自身には戸惑いすら感じていた。

 彼女を混乱させる胸の鼓動が別の意味合いに変わったのは、曇天そらに教会の鐘の音が響き渡った頃であった。『アンジェラスの鐘』とも呼ばれるその音色は祈りが開始される合図として打ち鳴らされるのだが、市民にとっては一種の時報のように親しまれていた。

 夜明けのしらせから数えて二度目の鐘は、リマに正午を告げている。

 目抜き通りの路上市場で買い食いでもしようかと考え始めた直後、清らかなる鐘を押し潰すような雑音がどこからともなく聴こえてきた。町ゆく人々が立ち止まって耳を澄ましているということは一人の幻聴ではあるまい。


「嘘でしょ、何で……」


 耳障りとしか表しようがないデタラメな旋律には聞き憶えがあった――否、記憶しているのは彼女ばかりではない。リマで暮らす市民は誰もが辟易とした表情かおで雑音が流れ込んでくる方角をめ付けている。

 今が『聖週間セマナ・サンタ』の期間中であったなら『聖行列プロセシオン』と錯覚したかも知れないが、そもそもたちの鼓膜を震わせているのは荘厳な儀式に寄り添う類の演奏などではない。誰かが指揮を執るでもなく、無暗に楽器や金属製品を鳴らすことで生じた不協和音は、数え切れない靴音と混ざり合ってリマの中心街まで近付きつつあるようだ。

 にとっては聞き憶えがあるどころではない。大掛かりな行進のたびにデモ隊が奏でる抗議の旋律なのだ。

 果たして、大通りの向こうから姿を現したのは受難劇の巨像などではなく、労働者の権利を脅かす政府へ徹底的に抗わんとするデモ隊であった。

 が参加した夜間の集会とは比べ物にならない群衆が中心街へ押し寄せていた。おそらく、数百数千どころの人数ではないだろう。

 それは山鳴りとも喩えられる喧騒であった。数え切れないほどの足踏みによって大地が鳴動しているような錯覚に襲われるほどであった。

 彼らは政府に対する罵詈雑言を怒涛のように轟かせながら抗議の旗や横断幕を掲げ、あるいは非致死性のゴム弾から身を守る為に木の板を翳している。政府高官を模した人形に火を付け、これを晒し者のように引き回す人間も散見された。

 アスファルトの路面を削るかの如き耳障りな音は、車輪もなく無造作に引き摺られる棺桶が立てているものだ。これによって国民の権利が死に絶えたことでも表したいのであろうか。あるいはペルーという国家くにの受難を訴えているのかも知れない。

 人間らしく生きる権利を約束しろ――怒号を張り上げるにせよ、旗に記して振り回すにせよ、デモ隊の主張は常に一貫しており、憂国の志から外れることはなかった。

 他の市民たちと共に呆然と立ち尽くしているの目の前を国家警察のトラックが通り過ぎていった。デモ隊は〝大統領宮殿〟へ向かっているようにも見えるのだが、その進路に先回りして迎撃態勢を整えておこうというのだろう。荷台に腰掛けた警官たちは、いずれも戦場に送られる兵隊さながらの重武装であった。

 考えられる最悪の展開といえよう。叔父の遺志を受け継ぐ覚悟を決めたではあるものの、キリサメやワマンの思いをんだばかりということもあり、気持ちが落ち着くまではデモ隊への参加を差し控えようと考えていたのである。少なくとも数日内の集会へ合流できる精神状態ではなかった。

 よもや向こうのほうから近付いてくるとは思わなかったは、中心街を貫く道路をも〝人の壁〟で物理的に占拠し、くらい憤怒を迸らせながら練り歩くデモ隊を数ブロック先に捉えた瞬間、その場から逃げ出そうと身構えた。

 しかし、そこで彼女は運命に捕まってしまった。


「――キタバタケさんトコのお嬢さんじゃないか!」


 大通りから立ち去ろうとしているを呼び止めたのは数名の男女である。

 政府高官の顔を刷り込み、その上から血の色の罰点を付けるという奇抜なシャツを着込んだ一団のことをは良く知っていた。叔父の同僚であり、彼女――というよりもキタバタケの家族にデモへ加わるよう要請してきた人々だ。

 真っ先に声を掛けた男はと同じように身体のあちこちを包帯で覆っている。しかしながら、これは先日の警官隊との衝突で負わされた怪我ではない。彼女も把握していないことだが、貿易港内でキリサメに叩きのめされた憐れな労働者の一人なのだ。抗議集会には負傷を押して加わっていたのである。

 彼らの呼びかけに応じる形で叔父の遺志を継ぎ、深夜の抗議集会にも加わったのだが、それはつまり、現在いまにとって最もいたくない存在であることを意味している。


「みんなッ、キタバタケさんの家族がやって来てくれたぞッ! これでもう百人力だッ!」

「べ、別にそういうワケじゃ……っ」


 先発隊と称した一団はがデモに駆け付けたものと誤解しているらしく、合流を前提として一方的に話を進めていく。居た堪れないような面持ちの本人が「たまたま居合わせただけで、今から帰るところで……」と歯切れ悪く説明しても全く聞こえていない。

 憂国の同志は無条件で結束すると、彼らは信じて疑わないのである。


「お嬢さんが来てくれたのって、やっぱり運命としか考えられないわ! 今日の反撃、運命は私たちに味方しているのよ! キタバタケさんが死を賭して揃えてくれた〝品〟に大いなる運命の力が注ぎ込まれたんだわッ!」


 仲間意識を感じながらも今だけは同志と名乗ることができなかったはずなのに、一人の女性がキタバタケの家名ファミリーネームを恍惚と謳い上げた瞬間、の意識は退路からへと向いてしまった。

 大して親しいわけでもない知人の一言によって、キリサメとワマンの思いが彼女の心から切り離されてしまったのだ。


「……叔父が?」

「今から『アチョ闘牛場』に向かうわよ! 決起の狼煙を上げるのよッ!」

「な、何でわざわざ闘牛場に? 抗議集会をやろうにもあそこじゃ――」

「そこで搬送係と合流する手筈になっているのよ! 勝利の女神が先頭に立ってくれるんだから、もう何も怖い物はないわッ! いざ、掛かれェッ!」

「あの、ちょっと――」


 デモの先発隊に流されるようにして名前の挙がった場所へ――アメリカ大陸最古にして最大規模の闘牛場へ歩を進めてしまうだったが、その気になれば強引に振り切って逃げることもできたはずなのだ。それもせずに背中を押す力を受け入れてしまったということは、抗う意思を欠いた証拠に他ならない。

 彼女が抗い切れなかったのは『運命』という名の激流である。「故人の〝事情かんがえ〟に生きている人間が縛られたら不幸しか生み出さない」というワマンの説得ことばも脳裏に蘇ってはいたのだが、叔父の遺志によって開かれた道から外れることを『キタバタケ』の家名ファミリーネームは許してくれなかった。

 本隊デモの雄叫びを背に受けながらアチョ闘牛場へと向かっていくには、もはや、心の中でキリサメとワマンに詫びることしかできなかった。





 リマの曇天そらに大きな爆発音が轟いたとき、キリサメは別の衝撃に打ちのめされていた。

 思穂を護衛するべく正体を隠して仇敵へ接近したというのに、よりにもよって『組織』のリーダーであるエスパダスから本名フルネームを呼び付けられてしまったのだ。無論、非合法街区バリアーダスに設けられた拠点アジトに於いて自ら名乗った憶えもない。

 顔面の半分以上を覆い隠していたレインコートのフードがエスパダスの手によって外された瞬間など危難を斬り払う為の『聖剣エクセルシス』まで床の上に落としてしまったほどだ。


「どうして、僕のことを――」


 喉の奥から震える声で祖国ペルー言語ことばを絞り出した矢先にくだんの爆発音が飛び込んできた次第である。

 キリサメは咄嗟に思穂を庇い、埃まみれの窓越しに外の様子を窺った。屋内からでは状況を掴み兼ねるものの、どこか遠くで〝何か〟が炸裂したようだ。鼓膜を揺さぶった音は遠く、おそらくは非合法街区バリアーダスよりも離れた場所であろう。


「……始まったようだな。あれこそがペルーに革命をもたらす挑戦の狼煙だよ」


 キリサメと思穂の視線が向かう先へ自らも目を転じたエスパダスは、拠点アジトからは確認できない場所に思いを馳せつつ穏やかならざることを呟いた。まるで全てを承知しているかのような口振りではないか。


「……キミたちをここに差し向けたのはワマンという国家警察の人間だろう?」


 思いがけない指摘を受けたキリサメは窓の外を見つめたまま微動だにしないエスパダスへと首を振り向かせ、そのまま呆然と立ち尽くした。

 それはキリサメよりたずねられたことへの回答こたえに相違なかった。

 正体どころか、『組織』へ接触を図った経緯まで見透かされていたわけだ。明確に〝敵〟と断定し得る人間を敢えて拠点アジトに招き入れたのはエスパダスの度量なのか、上位組織に反抗せんとする意志の表れなのか、それとも罠なのか――結論を出せないものの、キリサメは床の上に転がったままの『聖剣エクセルシス』に右の爪先を近付けていく。

 国家警察の手先あるいは『組織』との因縁が深い自分を始末する目論見であったなら、爪先でもって『聖剣エクセルシス』を蹴り上げ、これを掴んでただちに応戦せねばならないのだ。

 エスパダスはペルーの言語ことばのみを紡いでいるので思穂には殆ど意味が分からず、張り詰めた空気から状況を察するしかないのだが、そんな彼女を置き去りにして『組織』の兵士たちは次々と自動小銃の安全装置セーフティを解除し始めた。

 思穂の背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。射撃の準備が整いつつある最中さなかで危急を読み取れないほど遅鈍ちどんであったなら争乱のガザから生還することなど不可能ということである。

 『恥の壁』に於ける乱闘とは比べ物にならないほど凄まじい暴力が迫っていた。絶体絶命の窮状にも関わらず、エスパダスにカメラを向け続けていられるのは〝真実〟を伝えんとする使命感が恐怖を上回っているからだ。が自分の予想を大きく裏切るようなものであろうとも、彼女は全てを見届ける覚悟であった。

 周りの人間が緊迫の色を強める中にってトリニダードだけは腕組みしたまま悠然と壁にもたれ掛かり、寸劇を愉しむかのようにキリサメとエスパダスの受け答えを眺めている。『組織』の大敵が『聖剣エクセルシス』を拾い上げたときには警護の対象が危うくなるはずだが、リボルバー拳銃による早撃ちファストドロウに自信でもあるのだろうか。


「我々――というか、上位組織うえのものは国家警察の長官とコネがあってね、ワマンがキミたちに接触したことも、符丁代わりの指輪を託したことも全て筒向けだ。……このような言い方は失礼かも知れないが、キミたちは使い捨ての駒にされただけなのだよ」


 その上位組織から送り込まれてきたというトリニダードへ答え合わせを求めるような視線を送り、彼が口笛を交えて頷き返すとエスパダスは頬を緩めることでこれに応じた。

 エスパダスは上層部への叛意を隠そうともしないのだが、それを容認するかのような態度から察するにトリニダードも彼の志に同調しているのだろう。

 尤も、軽薄の二字が似つかわしい笑い顔から腹の底を読み取ることは難しく、カメラのレンズで捉えつつも思穂は底冷えするようなおぞましさを禁じ得なかった。


「大方、ワマンとやらはキミたちを密偵に仕立て上げたのだろう。仮に口封じで殺されても外国のマスコミ関係者が勝手に仕出かしたこととして処理したはずだよ。……政府の犬がやりそうなことではある――ヤツらは我々のことを野蛮な犯罪集団と見下しているが、同じようにキミたちの命を軽んじているわけだ」


 国家警察を政府の犬と痛罵したエスパダスは「これが質問への返答こたえだ」と締め括った。

 それは〝真実〟と呼ぶには余りにも衝撃的な暴露こくはくであった。ワマンは内通者を介する形で反政府組織との接触を図っていたが、あろうことか、彼が所属する国家警察の長官トップは取り締まるべき対象と直接的に癒着しているというのだ。

 言い逃れの通用しない完全な汚職であり、祖国に対する裏切り以外の何物でもない。


「ちょっとちょっと、アマッち~、私たち、国家的陰謀まで辿り着いちゃったんじゃないのかなぁ、これ! 私、ピューリッツァー賞なんて眼中になかったんだけど、今から受賞スピーチを考えておかなきゃだよね? むしろ、パーティー会場の予約が先ッ⁉」

「そんなボケをかましている場合じゃありません」


 エスパダスによる暴露こくはくをキリサメから通訳された思穂は、驚愕を通り越して半ば混乱状態に陥っている。国家警察長官と反政府組織の癒着などワマンは一言も話していなかったはずだ。現場を駆けずり回る身分では内部の〝闇〟に触れることがなかったのか、あるいは上層部の不正を認識しながら意図的に伏せていたのか。仮に後者の場合であったなら、ワマンもまた組織ぐるみの汚職へ加担する共犯者ということになる。

 しかし、を――祖国の次世代を担う若者を危険な場所から遠ざけようと心を砕いていた男が汚職に手を染めるとは思えないし、思いたくもない。それ故に思穂は冷静さを欠いて意味不明なことを口走ってしまったのだった。


「……僕たちが餌だってコトは最初から分かっているじゃないですか……」


 思穂よりもワマンとの付き合いが長いキリサメは、彼が国家警察の不正に関与している疑惑を信じてはいなかった。エスパダスには捨て駒などと同情されてしまったが、囮役についてはメイドカフェで食事を摂った際にもワマンのほうから言及していたのだ。使い捨ての道具として利用する目論見であったなら相手の了解を取ろうとはしないだろう。

 そもそも、だ。政府関係者の汚職が横行する国で生まれ育ったキリサメには、国家警察と反政府組織の癒着など大して驚くことでもなかった。それくらいのことは有り得るだろうとさえ考えていたほどである。

「……これがこの国の現状だよ。富裕層かねもちと結び付いて私腹を肥やす政治家はおろか、市民の安全を守るべき警察さえ腐り切っている。……抗議集会はペルーという国の悲鳴だよ。腐って膿んだ傷口が激痛いたみを伴って国中を蝕んでいる。耳を澄ませろ! 〝真実〟から目を逸らすな! を生きる我々はに責任を果たさなければならんのだッ!」

 冷めた目で祖国ペルーの社会を見つめている少年キリサメとは対照的に、汚職や犯罪を食い物にしている反政府組織の構成員エスパダスは悲愴なまでの危機感を胸に抱いており、ついには「責任」という一言まで吼えた。

 国を憂う気持ちは彼の中で義務や使命という形に昇華されていたようだ。そこまで思い詰めていなければ、正義を掲げて造反を画策するようなこともあるまい。


「キリサメ・アマカザリ、一度は戦った〝敵〟であるキミにこそ問う――自分が生まれたこの国の有り様に何も感じることはないのか? ……キタバタケはキミにとっても親族同然だったと聞き及んでいる。それほどまでに近い人間が未来を期して決起した事実をどう受け止めているのだ? もはや、知らぬ顔は許されないのだぞ」


 言うや、エスパダスはキリサメの顔面に向かって右の人差し指を突き出した。


「キミも『恥の壁』を見たはずだ。あれが象徴しているのは富める者と貧しき者の差ではない。権利を貪る者たちの思うがままに歪められた社会の構造だよ。を突き破らない限り、新たなる時代は決して訪れない。いずれは国土の全てがこのような非合法街区バリアーダスに成り果てるだろう――誰が為にペルーはある? 『我々の祖国』を汚辱にまみれた豚どもに任せておいて良いのか? ……キミはこの国の為に何をすッ⁉」


 思穂がレンズ越しに捉えたエスパダスの瞳は、一等強くキリサメを見つめている。

 水平を保ったまま少年の鼻先に突き付けられている指先は、正義が失われてしまったこのにはどこにも逃げ場がないことを物語っていた。自分たち一人一人が祖国ペルーを本気で憂い、貢献し得ることを模索しなければ『恥の壁』は負の遺産として国民の精神こころを未来永劫に亘って分断し続ける――そのようにエスパダスは突き付けていた。

 この憂国の士は『我々の祖国』という言い回しを用いている。敵味方の垣根を超え、ただ純粋にペルーの民としての在り方を質しつつ、そこに一つの希望を託しているのだ。

 果たして、その希望とは『かいしんイシュタロア』の劇中にて貫かれてきたコンセプトと全く同じモノである。


「もしも、キミの胸に大義が芽生えたならば、過去の遺恨は水に流して共に――」

「――抗議デモを仕組んだのはあんたたちか⁉」


 怨恨をも乗り越えて差し伸べられた手はとても呆気なく、一瞬の逡巡も挟まずに振り払われてしまった。エスパダスより向けられた希望を極めて強い語調で遮ったキリサメは、双眸にあらん限りの憤怒を湛えている。


「一昨日の深夜に国家警察とぶつかったデモ隊は前衛を崩すような武器を使っていた。警官隊の盾を壊せるような強度つよさの警棒だ。……あれを手配したのもあんたたちなのか⁉」


 が重傷を負った深夜のデモに於いて、民間人が手にするような水準ではない武器が出回っていたことをキリサメは確認している。

 キタバタケという家名ファミリーネームは港湾労働者の大量殺人事件と、特殊警棒が投入されたデモの双方に関わっている。全く無関係と思われた二つの〝点〟がエスパダスの話を通して一本の〝線〟で結ばれたとき、キリサメは一つの仮説に辿り着いた。

 不満分子を焚き付けて武器を売りさばく――反政府組織の破壊活動として、これ以上ないというくらい効果的であろう。けがれたカネを貪り喰らう『組織』には似つかわしいような自作自演マッチポンプというわけだ。


「キミの推理には一つ誤解がある。我々はデモを仕組んだことも扇動した憶えもない。あれは国家の悲鳴と先程も述べたようにな。しかし、アメリカから買い入れた武器弾薬を民間人へ流したのは事実だ。……国家警察の長官から要請されて、な……」


 差し伸べた手がすげなく拒まれたことを悲しみながらも、エスパダスは毅然とした態度でキリサメの憤怒を受け止めている。果たして、彼の口より明かされた新たな〝真実〟は少年こどもの浅知恵など及びもしない事態であった。

 国家警察長官と反政府組織の癒着は、比喩的な表現などではなく本当に思穂が夢想したような国家的陰謀だったわけである。


「なんなの、アマッち? この人、何て言ってるの⁉」

「……国家警察の長官トップがテロリストと組んで国民を〝き〟したってコトですよ……」

――」


 暫くの間、声一つ発さずにエスパダスをね付けていたキリサメは、沈黙をいぶかった思穂から急かされたことで呻くように通訳を再開した。

 少しばかり遅れてデモ隊の〝真実〟に接した思穂は愕然とした顔に変わり、思わず手持ちサイズの小型カメラを落としそうになってしまった。


「お嬢ちゃんには刺激が強過ぎたみたいだけど、そう珍しいハナシじゃないぜ。こんなもん、情報工作の中じゃ初歩中の初歩。民間レベルじゃねェ銃火器を握らせて証拠をでっち上げりゃ反乱軍の誕生ってな寸法でよ。公僕サマだって〝爆弾〟抱えたまま仕事なんかしたかねぇだろうしよ。あらかじめ導火線を切り落としておこうってハラさ」


 説明を捕捉したトリニダードや先に告げられたエスパダスの言葉に偽りがないとすれば、国家警察の側こそが国民感情を利用し、将来の反乱分子を炙り出したということになる。

 反逆罪の取り締まりを任務に含んでいるとしても、政府の在り方に不満を抱いている者たちを犯罪者に仕立て上げて粛清することなど許されるはずがない。

 公職に就く人間の不正を冷ややかに受け止めていたキリサメでさえ、決して小さくはない衝撃を受けているのだ。収賄程度で驚きはしないが、よもや、自国民の〝き〟が遂行されているなど誰が想像できるだろうか。


「……しかし、何から何まで汚職警官の言いなりではペルーの民も報われん。よって我々は一計を案じて裏を掻いてやった。国家警察ヤツら注文オーダーより遥かに強力な銃器を手配し――」

「――もういい。たくなんか聞き飽きた……ッ!」


 国民感情をも受け止めたとでも言いたげなエスパダスをキリサメの一喝が再び遮った。これと同時に床に転がっていた『聖剣エクセルシス』を爪先でもって宙に浮かせ、麻袋の上からツカを握り締めた。

 思穂の通訳と偽って同道してきた少年の正体に『組織』は最初から気付いている。それはつまり、麻袋の中に納められている武器ことも承知しているということだ。『聖剣エクセルシス』を握るという行為そのものが宣戦布告に他ならず、兵士たちは一斉に自動小銃を向けた。すぐさまにエスパダスが制止を命じなかったなら、誰一人として迷うことなくひきがねを引いていたに違いない。

 この期に及んでもトリニダードはリボルバーの銃把グリップを握ることもなく、顔面の左半分を覆っている長い前髪の毛先を指先でもって弄んでいた。秒を刻む毎に殺気が膨れ上がっていくキリサメの様子を愉快そうに眺めるばかりなのだ。


「僕らを撒き餌のように使ったワマン氏のことを罵っていたけど、あんたらがやったことだって何一つ変わらないじゃないか。上位組織うえの命令だとか、そいつらに逆らうとか、そんなのは関係ない。……武器を渡して『組織』の手先にしたクセに、どの口で『ペルーの民が報われない』と抜かすんだ」

「私たちがデモ隊を破壊工作の先兵として利用していると、そう言いたいのか? 断じてそれは違うッ! 決起は彼らの意思! 憂国の志なのだ! 我らは志を同じくする同胞に力を貸したに過ぎんッ! 共に政府のけがれを拭わんと――」

「――聞き飽きたって言っただろう。恥知らずな妄想は地獄の鬼にでも聞かせろ」


 やはり、お前たちは生かしておくべきではない――そう言い捨てたキリサメは、激烈な言葉とは裏腹に極めて冷静であった。

 エスパダスとの対峙は暴力というモノの在り方について考えさせられる時間だった。今日まで自分が振るってきた暴力には何の意味もなく、革命の大義を掲げるエスパダスには同じ暴力でも意味がある。憎悪を叩き付けるべき側にこそ正義があるのではないか――と懊悩し続けていたのだ。

 しかし、それは思い過ごしだった。結局、暴力は暴力なのだ。人体を破壊し、人権を踏み躙り、人命を喰らう為だけに振るわれる暴威ちからなのだ。そこには大義の有無も、人間の器の優劣さえも存在しない。残酷なほど平等に弱肉強食の掟だけが意味を持つのである。

 エスパダスたちは日常を守りたいだけのペルーの民に武器を握らせ、自分たちの代わりに政府を攻撃するよう仕向けたのだ。デモを扇動した憶えはないと潔白を訴えていたが、さつりく暴威ちからを手にしようものなら群衆の心理が破滅的な方向へ先鋭化するのは当然だ。

 大仰な言葉で飾り立て、邪悪な振る舞いを隠蔽したいようだが、所詮は破壊の為にのみ振るわれる暴力だったのだ。身寄りのない少年が生きる糧を得るべく手に取った『聖剣エクセルシス』と大した違いもないのである。

 自らの存在意義を揺さぶられたことが幻であったかのようにキリサメの心は晴れ晴れとしていた。葛藤という名のドス黒い靄などは掻き消え、麻袋から『聖剣エクセルシス』を抜き放つことにも躊躇ためらいはない。

 露となった刀身に兵士たちは揃って呻き声を洩らしたが、『聖なる剣』という意味を持つが皮肉とも思えるような禍々しさに恐れをなしたのか。それとも、かつて『組織』に災いをもたらした凶刃におののいたのか。

 ノコギリの如き『聖剣エクセルシス』は、彼らの同胞の血も吸い込んでいる。


「……お前たちは生きていてはいけない存在なんだよ……」


 『かいしんイシュタロア』のように対立する者同士が分かり合う必要はない。それどころか、分かり合える部分を探し当てる理由もない。後腐れのないよう〝敵〟は皆殺しにしてしまえば良いだけのことだ。それこそが〝闇〟に侵された祖国ペルーの〝現実〟なのである。

 キリサメが見出した結論は余りにも短絡で幼稚だった。暴力を振るっても良い理由をこじ付け、自らの正当化を試みたに過ぎないのである。

 それ故、最後まで恩讐を乗り越える可能性に賭けていたエスパダスは失望とも絶望とも取れる溜め息を洩らしたのだ。


「待って、待って、待ったァッ! アマッち、ヤケクソで暴れようとしてない⁉ キマりまくった顔からして悪党を成敗ってカンジじゃないよね⁉ それはもう理由なき暴力ってヤツじゃないかな⁉」


 キリサメがエスパダスへ襲い掛かろうとしていることを悟った思穂は、撮影さえも投げ出して彼の前に立ちはだかり、暴挙としか思えない振る舞いを押し止めようとした。

 当然ながら思穂は何挺もの自動小銃に背中を晒している。ボディーガードとしては看過し得ない状況なのだが、キリサメ当人は自らの仕事を放棄したかのように仇敵だけに意識を集中させていた。あるいは警護対象の危機すら認識していないのかも知れない。


「理由なら十分でしょう。こいつらはペルーをメチャクチャにしたんですよ。をあんな目に遭わせたのも、母の命を奪ったのもこいつらだ。……復讐して当たり前です」

「そうやって自分に言い聞かせてるだけじゃないのかな⁉ ブン殴っても許される理由を無理くり捻り出したでしょ、今!」

「まさか、情が移ったんじゃないでしょうね。確かにこの男、見てくれは良いですけど」

「そうそう、私好みの二枚目イケメンで密かにときめいて――って、ンな節操ナシじゃないわい!」

「……あくまでも邪魔をするなら力ずくで退けますよ」

「キミが振るおうとしている暴力ちからは三月一一日の大津波と変わらないって言ってるのッ!」


 心のうちを見透かして耳障りな言葉を並べ立てる思穂のことが疎ましくなり、力任せに押し退けようとするキリサメだったが、その直前に紡がれた東日本大震災という言葉がえない糸となって彼の四肢に纏わりつき、破壊的な衝動をにわかに食い止めた。

 数え切れないほどの命が犠牲となった『三・一一』の津波と、今日まで生きる糧をもたらしてくれた『聖剣エクセルシス』を同類項と扱われては足を止めざるを得なかった。


「人間同士がぶつかり合うなら私だって止めないよ? でも、今のアマッちは何を思って『聖剣エクセルシス』を振ろうとしてるのかな⁉ 私にペルーの事情を完全に理解することはできないかもだけど! ……だけどッ! 一方的な憂さ晴らしっていうのが正しくないコトだけは断言できるからッ! 災害みたいに暴れ狂う真似、アマッちにして欲しくないッ!」

「……有薗氏……」

「……縁もゆかりもないような私を守ってくれたその剣は、人を傷付けるだけの武器なんかじゃないって信じてる……ッ!」


 人の命を奪う大災害を暴力による蹂躙へ置き換えるという説得ことばは『三・一一』に直面した思穂にとっては捨て身も同然といえよう。心の傷を反復させる行為にも等しいのだが、その苦しみに堪えながらキリサメにぶつかっていくのは『かいしんイシュタロア』と同じを示したかった為である。

 生死を決する戦いは確かに過酷だが、抜き身の心で繋がり合う好機であり、そこに絆を育む手段でもあるはずなのだ。人と人が分かり合える可能性を自ら手放して殺戮の限りを尽くすことは、天地を引き裂く災害と同じではないのかと思穂は訴え続けた。

 思穂がペルーの言語ことばへ不慣れなようにエスパダスにも日本語は分からない――が、必死としか表しようのない形相や語調から暴走を踏み止まるようキリサメを説得していることだけは理解できるのだ。それ故、絶好の機会でありながら部下たちに攻撃命令を発さず、交錯の行く末を見守り続けていた。


「……有薗氏の言葉ほど心に突き刺さるものはありませんね……」

「それならッ!」

「……けど、今のたとえは的外れです。これは戦争なんですよ。災害のように一方的に人の命を奪うわけじゃない。僕と奴らとの――それ以上でもそれ以下でもないんだ」


 極めて繊細な説得ことばもってしても思穂にキリサメを止めることはできなかった。災害という強い言葉が不可視の糸になれたのも一瞬のことで、暴力以外に頼るものがない〝闇〟の世界で生きてきた彼は、自他の命に対してさえ無感情に等しいのだ。

 これは互いの命を奪い合う戦争――その一言で逆に説得を断ち切ったキリサメは、今度こそ思穂を押し退けると殺戮のを順繰りに見定めていった。


(……これで全て――何もかも終わりにできる……)


 自由奔放で好奇心旺盛な思穂に対して、キリサメは亡き母の面影を重ねていた。だからこそ、災害さながらに暴れ狂ってはならないと引き留める声に心が応じたのだ。

 微かに抱いた想いも所詮は気の迷いに過ぎなかった。説得の言葉へ耳を傾けている内に母親と思穂が似ても似つかない別人だと悟ってしまったのである。

 もしも、この場に亡き母親が立っていたならば、己の生きる道を妨げる〝敵〟は全て蹴散らして前に進むよう鼓舞した違いない。

 母が最期に命じたのは暴力からの逃避とは真逆のことであった。どんな汚辱にまみれようとも命を繋がなければならない――それが為にキリサメは母の血を吸った呪いの『聖剣エクセルシス』を握り続けてきたのである。この暴力ちからを厄災のように罵りたければ好きにしろと、キリサメは心の中で吐き捨てていた。


「残念だよ、実に――」


 思穂の説得も聞き入れず、苛烈な攻撃本能へ心身を委ねるつもりであることを認めたエスパダスは、静かな怒りを宿す瞳でもってキリサメを見据えた。


「――交渉の余地もないほど決裂した以上は、私も覚悟を決めねばならないな……」

「地獄に落ちる覚悟のことか?」

「……『組織』に殉じる覚悟だよ。先ほどお前は復讐と口にしていたが、それはこちらの台詞というものだ。キリサメ・アマカザリ、お前に何人の仲間が殺されたと思っている」


 エスパダスが右腕を垂直に突き上げた瞬間、これを合図に兵士たちが一斉に自動小銃を構え直した。今し方の仕草ゼスチャーは攻撃準備の命令ということである。右腕が振り落とされたときには仇敵目掛けて無数の銃弾が撃ち込まれるのだろう。


「仇討ちに逸る気持ちも分かるけどよォ、初手から頭部アタマや心臓を狙うなよ。ンなことしようモンなら〝例のアレ〟の餌食にされちまわァ。まずは手足をツブして身動きを封じな。立つコトさえままならねぇ状態なら、〝例のアレ〟を使われたって怖かねェだろ」


 トリニダードは余人には意味が分からない暗号めいた指示を飛ばしたが、兵士たちは首を傾げるようなこともなく神妙そうに従っていく。程なくして自動小銃の照準がキリサメの四肢を捉えた。致命傷を与えられる急所ではなく先に手足を狙い撃てという奇怪な指示を誰一人として疑わなかったのである。

 キリサメ・アマカザリという少年の恐ろしさを誰もがこれを共有しているようだ。


「……キミには我が『組織』も壊滅寸前まで追い詰められたな――今こそあの日の屈辱を拭い取ってくれよう。せめて国家警察の餌ではなく革命の生け贄として果てるが良い」


 母親の命を奪い、恩があるキタバタケ家にまで災いをもたらした『組織』がキリサメにとって最大の仇敵であるのと同じように、エスパダスからしても数多くの同志を葬ったこの少年は報復の対象なのである。

 恩讐を乗り越えることができなかった以上、『組織』の沽券メンツを挽回する為にも確実に報復を成し遂げねばならないのだった。

 尤も、キリサメには願ってもない筋運びである。これで何の気兼ねもなく、誰にも邪魔されることもなく、『生きていてはいけない存在』を根絶やしにできるわけだ。


「シホ・アリゾノ、キミには何の罪もないし、また遺恨もない。……早く行きなさい」


 いつまでもエスパダスが右腕を振り下ろさないのは、思穂を戦闘に巻き込まない為の配慮であった。彼女が拠点アジトから逃げ果せるまでは待とうというのだ――が、傍らに控えていたトリニダードは目にも止まらぬ速さでガンベルトからリボルバー拳銃を抜き、腰の辺りで構えを取りつつひきがねを引いた。


「悠長なコトを言ってらんねェぜ、大将。ここはもう戦場なんだからよォ」


 口封じの為に思穂を狙ったものと考え、思わず身を強張らせるエスパダスだったが、リボルバー拳銃より撃ち放たれた銃弾は彼女の脇を通り抜け、粗末なドアを貫いた。

 その刹那のことである。ドアの向こうから苦悶の声が聞こえ、続けて左右の壁が突き抜けた。数十にも及ぶ人影が体当たりをもってして反政府組織の拠点アジトに踏み込んできたのだ。

 突入と同時に隊列を整え、エスパダスたちを取り囲むようにして拳銃ハンドガンを構えた人影は、いずれも堅牢なプロテクターとヘルメットで全身を固めており、左腕には守護聖人が刷り込まれた腕章を嵌めている。


「――おじさんもアリゾノ君に賛成だな。今更、キミが手を汚す必要はないのだよ、キリサメ君。は我々に任せておきなさい」


 一発の銃弾によって風穴が開けられたドアを蹴破り、最後に突入したのはキリサメにも馴染みが深い顔――ワマン警部であった。

 彼もまた仲間たちと同じように完全武装しており、美少女たちが乱舞する『かいしんイシュタロア』に鼻の下を伸ばしていた男と同一人物とは思えない勇ましさである。

 この状況はつまり、反政府組織のリーダーから汚職の巣窟とまで侮辱された国家警察の一部隊が非合法街区バリアーダスまで乗り込んできたことを意味していた。

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