その6:非合法街区~武装組織のアジトに潜入せよ
六、
二〇一一年三月一一日一四時四六分一八秒――日本の東北地方太平洋沖で発生し、内陸部に於いて最大震度七を計測した未曽有の大災害は全世界に衝撃を走らせた。
『東日本大震災』と付けられた名称の通り、震源地の東北及び関東や北海道の各地では建造物の倒壊といった被害が相次ぎ、沿岸部では日本のほぼ全域に海より押し寄せる災害からの避難が長時間に亘って訴えられた。
日本史上どころか、世界史上に於いてさえ類を見ないほどの被害となった最大の要因は海底断層の変位と崩壊によって引き起こされる災害――即ち、大津波であった。
場所によって波高一〇メートルを超えた海水の〝塊〟は沿岸部の陸地深くまで到達し、数え切れないほどの命を一瞬で奪い去った。発生した火災やドス黒い土砂もろとも建物や船舶などを巻き込んで地上を覆い尽くす様相は慟哭と共に各国で報じられ、『ツナミ』という日本語の意味が世界中で共有されることにもなった。
郷里の岩手県で『三・一一』に遭遇し、津波に巻き込まれたと明かした
信じられないほど多くの人間が根拠の乏しい風評に惑わされ、そこから生じた疑心暗鬼の餌食となって心に癒し難い傷を負った。
津波に連なる大災害の影響で故郷が避難指示区域に指定された為、あの日から数年を経た
生き残った者の
ペルーどころか、中東のガザへ単身で取材に赴くだけの行動力を持ちながら通信社には属さず、〝一個人〟の立場にこだわり続ける理由をそこに感じ取ったキリサメは、思穂のことを物好きな
両親ともに日本人でありながら家族のルーツである国には一度も足を踏み入れたことがないキリサメとて東日本大震災は当時の報道から知っている。地上を更地に戻してしまうほどの災害の上に
関係者以外の立ち入りが禁止されている場所にさえ飛び込もうとする無鉄砲な行動は性格に起因しているのではない。彼女は捨て身であった。身を捨てる覚悟でもって己に課した
自分自身の力で手に入れた
「――お帰りなさいませ、ご主人様ぁ~」
入店直後に味わった衝撃をキリサメは暫く忘れることができないだろう。いわゆる、メイド服に身を包んだウェイトレスたちが猫なで声でもって出迎えたのである。
キリサメには彼女たちの主人になった
俗に『メイドカフェ』とも呼称される場所であった。
日本でも指折りの人気を誇るアニメシリーズ、『
ワマンが注文したオムライスを運んできたウェイトレスは「ご主人様にいっぱいご奉仕するのですぅ~」と芝居がかった調子で全身をくねらせ、チキンライスを包む
あるいはワマンのようにウェイトレスに倣って全身をくねらせることができたなら、異次元にも等しい空間を楽しめたのかも知れない。
キリサメにとっては落ち着かない状況下での食事となった次第だが、店の空気に呑まれたのは数分のことで、思穂が『三・一一』へ言及した直後には視界にも入らなくなった。
思穂当人は自分の歩みを語り終えると普段の陽気な
傍目にはどこまで真剣なのか、分からないようにも見えるのだが、その覚悟は紛れもなく本物である。それだけにワマンも
ジャケットのポケットから〝ある物〟を取り出したワマンは、これを思穂の手元に置いた。自らの尾を喰らう大蛇の彫刻が施された小さな指輪である。その紋様に思穂は見憶えがあり、隣に座るキリサメも顔を
「……『例の組織』に接触を図りたいのだろう? キミが探りを入れようとしている連中は末端に過ぎないがね、
『蛇の道は蛇』というものであろうか、ペルー国家警察は自分たちが取り締まるべき非合法組織とも交渉の手段を確保していたわけだ。ワマン自身も犯罪者集団との繋がりを民間人へ明かしたことなど少しも気にしておらず、「紛失したら私のクビまで飛ぶから気を付けておくれ」と冗談めかして笑ったほどである。
それはつまり、国家警察が揃えた
思いがけない筋運びに驚き、呆然とする思穂からキリサメへと目を転じたワマンは、ボディーガードの対象を守りたいのなら『
「キリサメ君にとっちゃ首を刎ねても慰めにならない相手だろうが、見受けたところ、こちらのお嬢さんはキミのように戦えるわけではなさそうだ。……それなら〝仕事〟に専念しなさい。個人的な事情の
それはキリサメの〝個人的な事情〟を知る人間として最も適切な忠告であったが、次の瞬間にワマンは声の調子を一変させた。
「――ただし、どう考えても収まりがつかないと思ったときには連絡してくれ。何しろヤツらは共通の大敵。キミが仕掛けるつもりなら全面的に協力しようじゃないか」
自重を促した舌の根も乾かぬ内に共同戦線をほのめかしたワマンに対して、キリサメは眉間に寄せていた皺の数を増やしてみせた。
「……結局、僕をけしかけたいんじゃないですか?」
「メイドさん、『イシュタロア』コラボの『破壊神の角笛剣パフェ』も貰えるかな?」
投げられた追及を露骨にはぐらかし、満面の笑みを貼り付けたウェイトレスに注文を追加したワマンは、冷ややかな視線をぶつけてくるキリサメに向かって茶目っ気たっぷりに舌を出した。それはつまり、問いかけを肯定したという意味である。
「けしかける」という言葉の意味を測り兼ねた思穂は、解説を求めるように
「……ワマン氏は組織犯罪を取り締まる部署の人なんですよ」
所属部署まで明かしても良いかと逡巡している様子のキリサメに対し、ワマンは「丸裸にしてくれても構わんよ」と冗談めかして促した。
「平たく言えば、対テロ専門チームってね。キリサメ君とも〝そっち関係〟の現場で知り合ったのさ――って、この話はもしかして
「……いえ、別に。僕のほうだって助けて貰いましたから……」
キリサメの
小首を傾げる思穂が一つだけ確信できたのは「けしかける」という言葉の意味だ。
「なるほどね~、おじさんってばエッグいね~。猛獣を巣穴から誘き出す為の餌ってワケだね~、私ら。
「エグいって言われてますよ」
「それもひっくるめて大人らしい提案と言って欲しいもんだね」
ウエハースなどを組み合わることで角笛に見立てられたパフェを美味そうに頬張っていたワマンは、キリサメが翻訳した思穂の悪態を悪びれもせず笑い飛ばした。
(……有薗氏の言う通りだな。僕は――いや、僕らは猛獣を引っ張り出す餌だよ……)
取材協力にかこつけて対テロの戦略に民間人を利用せんとするワマンや、同席していた幼馴染みと別れ、宿所まで戻ってきたキリサメは闇市からショッピングセンターに至るまでの出来事を振り返りつつ、ノートパソコンに向かっている思穂の横顔を眺めていた。
有薗思穂というこの女性は過去に巡り逢った日本人とは明らかに違っている。『
むしろ、「責任」の二字が伴う事柄を忌避しているとキリサメの目には映っていた。思穂の対極に位置する男というわけである。
『例の組織』が間近に迫るとき――あるいは接近せざるを得ないとき、必ず日本人が引き金になっているとキリサメは想い出していた。
〝三人目〟の日本人は、
最初に放送された二六本分の
「――わたるちゃん! 私にはあなたの気持ちが誰よりも分かりますから! 裏切りのイシュタロアなんて決して言わせませんッ!」
「う~ん、つむぎちゃんのそ~ゆ~トコがアレで
「そうならない為に人間には言葉があるのです! 腹を割って話してお互いを
「自分の気持ちに嘘を
ノートパソコンの画面を覗いていないキリサメには内容など殆ど分からないのだが、どうやら同じ勢力に属する仲間同士が考えの違いから対立する筋運びのようだ。
内蔵型のスピーカーからは主人公である
当然ながらペルー国内向けの吹き替えではなく日本語による台詞の応酬だ。つむぎとわたる、その他の登場人物たちも加わって「戦う度に絆も想いも深まるのか」と、討論めいたやり取りを繰り返していた。無論、互いの武器を叩きつけ合いながら――だ。
(ぶつかり合って理解するのがアニメのテーマ……か)
武力を伴う衝突の果てに相互理解を得ることはアニメという
彼女は公布を控えた新しい法律への抗議活動に参加している。二週間ほど前に殺害された港湾労働者の叔父が
デモ隊の主張が正当であることは国家警察とて理解している。その上で、暴動にも等しいやり方で揺さぶりを掛けたところで何の解決にもならないのだとワマンは繰り返した。自分たちに正義があると固く信じるのであれば、それに相応しい方法があるだろう。無法は正義の否定であり、それでは政府の決定を覆せない――と。
泣き寝入りにしかならないと前置きした上で、それでもワマンは〝子ども〟が暴力の渦中へ身を投じるべきではないと〝大人〟の立場から説得を試みたのである。
ついにワマンの言葉は
それだけに「世の中は『
詳しい情報を引き出す前に解散となった為、はっきりと確認できなかったのだが、ワマンの口振りから察するに『例の組織』は
このようにキリサメ自身にも〝動く理由〟ができたのだが、当の
東日本大震災にまつわる思穂の吐露には真剣な
その
可愛らしいメイドに扮したウェイトレスは料理を運ぶ度に客とコミュニケーションを図るのだが、他人からの過剰な接触を好まないキリサメは店を出る頃には
メイドカフェでの珍事はさておき――幼馴染みを突き放してまでデモ隊に参加しようとする
そこまでの覚悟を胸に秘めて政府の方針に物申さんとするのであれば、余計に相談して欲しかったとキリサメは考えずにはいられなかった。ワマンのように自制を促すにせよ、『
「ふっふ~ん、気になりまくってるみたいだねぇ、
言葉もなく物思いに耽っていたキリサメのほうに首を振り向かせた思穂は、悩める少年を冷やかすような表情を
心の内側を全く見透かされてしまったキリサメは「悪趣味にも程があります」と溜め息混じりに吐き捨て、
「喧嘩腰で突っ撥ねてきたのは向こうですよ? 僕には謝る理由がありません」
「それでも頭を下げてもらったら女の子は満足して落ち着くんだって」
「そこまで
「女の子の理不尽はね、心を許した相手に甘えてる証拠なんだよ? 『イシュタロア』にもそーゆー可愛い我がままをピックアップしたエピソードが――」
「――もうアニメは結構です」
『
「……謝るとしても今夜じゃありません。有薗氏のボディーガードが僕の仕事ですから」
「男の子の意地っ張りはダサいか、可愛いかの二択だけど、アマッちの場合は後者だね。言い訳に利用されちゃうのも悪い気はしないなぁ~」
キリサメから却下されたにも関わらず『
「――つむぎさんのコトを他人だなんて思ったことは一度もありませんっ! 誰とでも絆を結べるって言いながら、私のことは何も理解してくれてないっ!」
パートナーが主人公に向かって言い放った破れかぶれの台詞をわざわざ大音量でキリサメに聞かせた思穂は、いかにも厭らしい薄笑いで追い討ちを掛けた。
「一分前に悪趣味だって言ったばかりですよね」と呻くキリサメではあるものの、思穂が自分たちの仲を心配してくれていることは理解している。だからこそ、無遠慮に向けられてくる疎ましい
「……物心つく前から傍にいた相手のことを〝他人〟だって割り切るほど薄情ではないつもりですよ……」
少しばかりの沈黙を挟んだ
「……母親が死んだことは、もう話しましたよね?」
「うん、闇市で教わったよ。
「
ペルー国内の至る所に点在する
迂闊に近付かないようキリサメから警告されるまでもなく
「……『
「それが一番、手っ取り早いですから」
キリサメは暴力という名の〝掟〟に従って頭抜けた殺傷力を秘める『
ノコギリの如き刃で標的を薙ぎ払う武器を以前に携えていたのは、彼の母親を殺めた張本人だというのである。
しかし、それが
「……〝そんな世界〟だから路地裏で半殺しにされたことは一度や二度じゃありません。通り魔からいきなり銃で撃たれたことだってありますし……」
「何日か連絡が取れなくなると、
麻袋から『
揃いのスカーフが幼馴染みの絆を表しているといっても過言ではあるまい。
「……ベタつく関係はお互いに好きじゃないけど、〝他人〟と呼ぶには無理がある。そう信じていたのは僕一人だったみたいです。腐れ縁も完全に腐り切ったら繋がりは切れてしまうって、そんな簡単なことにも気付かなかったんですよ。……いや、自分以外の誰かに何かを求めるのがそもそもの間違いで――」
努めて無感情に淡々と、自分と
抑揚の乏しい静かな呟きこそがこの少年にとって苦しみの形なのだと直感していた。
「焦んなくても大丈夫だよ、アマッち。だって、キミたちは二人とも元気なんだもん。ほんのちょっと噛み合わなかっただけで、……何も失っていないんだから。ほとぼりが冷めたらケロッと仲直りできるよ。それは私が保証してあげる」
「……有薗氏に保障されても安心できませんね」
「お~い、こらこら~。これでもキミよりお姉さんなんだぞ~。目上のアドバイスには素直に従っておきなさ~い」
思穂が紡いだのは喪失の重みを知る者の言葉であった。
柔らかな体温と心臓の鼓動の中でこれを受け止めたキリサメは神妙な
その上、だ。今は亡き母親に重ねていたことまで想い出してしまい、胸の中で慰められている状況が気恥ずかしくて仕方なかったのである。
「……それで、どうするんです? ……行くんですか、夜が明けたら……?」
「行くッ!」
結局、思穂から身を引き剥がしつつ、別の話題に切り替えて誤魔化す以外になかったのだが、胸の内に秘めた思惑を知ってか知らずしてか、彼女の側は僅かな
改めて
ワマンから具体的な場所を教わったとき、キリサメは俄かに顔を
しかも、別れ際にワマンは厄介なことをキリサメへ伝えていた。
「――内通者からの
『あの神父』と聞かされた瞬間にキリサメは全身の血が沸騰しそうになったが、時間を置いて冷静に振り返ったことで「それもまた必然的な巡り合わせ」と納得できた。
かつて『あの神父』に叩き付けた怨念が今度は自分のほうに向かってきただけのこと。傍目には負の連鎖のように見えるかも知れないが、暴力が〝掟〟となって支配する世界では大して珍しくもなかった。弱肉強食の構図に於いては誰かを恨み、誰かに恨まれることなどありふれた日常に過ぎないのである。
キリサメは『
(……もしものときは受けて立つ――どのみち、生かしてはおけない連中だからな……)
『あの神父』の弟は『トリニダード』と名乗っているそうだ。
翌朝、宿所から道路まで足を運んだキリサメはリマの町並みに
しかし、今朝に限ってやたらと国家警察の姿が視界へ紛れ込むのである。少しばかり周囲を見回しただけで必ず暴徒鎮圧用の装備で固めた警官を発見してしまう有り様だった。
夜更けに始まって朝日が昇るまで続いた大規模な抗議デモから数日と経っていない以上、警備が厳重化するのは当然であろうが、それにしても尋常ではない配置なのだ。
昨夜は抗議の大行進もなく、思穂も枕を高くして眠れたようだが、その静けさがキリサメには
(……嵐の前の何とやらにならなきゃ良いけど……)
言い知れぬ胸騒ぎを覚えたキリサメは無意識にフードを被り直した。それはワマンの助言を
小細工程度の試みではあるものの、因縁の深い『組織』にキリサメだと気付かれない為の措置であった。正体を悟られた瞬間に殺し合いへ発展するような関係であれば、最初から同行しないほうが良いのかも知れないが、思穂一人を反政府組織の
現時点で考え得る全ての支度を整えた二人は、リマ郊外に位置する
同地までは距離がある為、待機中のタクシーへ乗り込んだのだが、運転手も町の異変に気付いているらしく、酷く怯えた調子であちこちを見回していた。
「……何かあるのですか、これから……」
著しく落ち着きを欠いた姿が気になって仕方ないキリサメがペルーの
「何かっていうか、……随分とこっちの
観光客を装っておいたほうがよかろうと判断したキリサメは宿所へチェックインした際と同じように新婚旅行で訪れた日本人夫婦と名乗った。
「だったら、最悪のタイミングに来ちゃいましたね、お客さん。今は国中の至る所で大騒ぎになってるんですよ。数日後に新しい法律が公布されるんですがね、これが労働者の権利を脅かすってんで、反対者たちがデカい抗議運動をおっ始めたんです」
「ああ、それで……。一昨日の夜も凄い数の人が行進していましたよね。僕らが泊まったホテルからも見えましたよ。あれはデモの集団だったんですか……」
「連中、今日にでも〝大攻勢〟を仕掛けるってもっぱらのウワサなんですよ。カミさんにケツ蹴られて送り出されたから仕方ないんですけど、こんな日にタクシー流していて良いのか、おっかなびっくりなんですわ。デモ隊に遭遇したら、一体、何をされるか……」
「……〝大攻勢〟とは穏やかじゃないですね……」
「クーデターを起こすって息巻いてる連中も多いとか。お客さん、これからリゾート地に繰り出すんですよね? 悪いコトは言わないから、そこから出ないほうが良い。少なくとも今日一日は市街地には戻らんことです」
キリサメから運転手の話を通訳された思穂は唇を噛んで絶句した。政府に対する不満が最高潮へ達したときにこそ『クーデター』は叫ばれるものだが、そのような事態にまで発展してしまうと、もはや、
デモ隊の一部は国家警察にも匹敵するような品質の武器まで入手しているのだ。深夜の衝突に用いられた警棒よりも遥かに殺傷力の高い銃器などがクーデターを叫ぶ者たちの手に渡っているとすれば、反乱の鎮圧として軍隊が導入されるかも知れない。
その果てに待ち受ける惨状は、キリサメも思穂も想像したくなかった。せめて、
「人が群れを成して練り歩くのは『
タクシーの運転手が破れかぶれの嘆息と共に語った『
聖書にも記された審問と十字架への
ペルーの民であるキリサメも『
程なくしてタクシーの前方に高級住宅街が見えてきた。キリサメが根城とするサン・クリストバルの丘の
ほんの少しばかりタクシーで通過しただけでプール付きの邸宅や大型競技場といったリゾート地の趣が確認できた。
ただひとつ――大型マンションの向こうに望む小高い丘だけはどうにも町並みに馴染まず、寒々しい気配を醸し出していた。剥き出しの岩肌などは同地に暮らす人々を「
二人は高級住宅街の片隅でタクシーを降りたが、それは人目を忍ぶ為の
庶民には手の届かない豪邸に背を向け、タクシーに送られてきた道を逆戻りし始めた二人は丘の裏側に向かって大きく迂回していく。その間にも町並みはどんどんと変わり、程なくして豪邸とは正反対のあばら家が目立つようになった。その上、キリサメたちの移動距離に比例して建物の荒れ方まで悪化していく有り様なのだ。
通りがかりの親切な「
ついに崩落寸前の家屋が視界の大部分を占めるようになった頃、一本の道が二人の前に現れた。高級住宅街の裏側に位置する丘陵地帯へと続く坂道であった。
「後戻りするなら今しかありませんが?」
「自分の値崩れを起こすようなコトを言っちゃいけないよ、ボディーガードさん」
キリサメの最終確認に強く深く首を頷かせた思穂は、満足に舗装されていない坂道へ踏み込んでいった。
果たして、丘の裏側は高級住宅街とは別の意味で『異世界』だった。リマ市内――否、ペルー国内に於いても最悪レベルの
丘陵地帯にへばり付くようにして掘っ立て小屋が建てられている点はキリサメの根城と大差ないが、目に入る建物はいずれも朽ち果てる寸前であり、
ともすれば、残骸の山とも見える『異世界』であった。
おそらくは永遠に晴れることがないだろう〝死〟の気配が辺り一面に垂れ込めていた。一瞬でも気を抜けばドス黒い〝影〟に捕らえられ、抗う
もはや、ここは死者たちの世界の入り口にも等しいのである。
廃墟同然の建物から様子を窺っていた者たちが
同じ
二人を取り囲もうとしているのは、いずれも物乞いである。働くこともままならず、岩だらけの荒れ地では作物を育てることさえ難しく、誰かに
そして、それこそが
「……行きますよ。付き合っていたらキリがありません」
「う、うん……」
生ける屍のような姿を見てしまうと、さしもの思穂も気が
些か乱暴ではあるものの、このように力ずくで蹴散らさないと
「そろそろさぁ、私にも教えて欲しいんだよなぁ。……アマッちと『例の組織』の間に何があったのかを……」
まるで弱い者を
キリサメにとっては他人に明かしたくない辛い過去に違いなく、その記憶を無理矢理に暴き立てるような真似は思穂も
キリサメ当人も思穂の考えは理解しており、不愉快に思うどころか、注意深くなったと感心したくらいだった。
「……死んだ母は青年海外協力隊の一員としてペルーに訪れて、そのまま定住を決めたそうです。
キリサメの母親が青年海外協力隊に属していたことを知り、思穂は様々なことが腑に落ちたような心持ちであった。発展途上国の支援を目的として日本から派遣される隊員の任務には現地の教育振興も含まれているのである。
「良いお母さんだったんだね。少し話を聞いただけでも人柄が伝わってくるみたいだよ」
「ミーハーを絵に描いたような人でもありましたけどね。日本のお笑い芸人にものめり込んでいたっけ……」
日本大使公邸人質占拠事件が発生した年、日本から二人組のお笑い芸人がヒッチハイクの旅で
当該の色紙は大切に保管されていたが、
「日本のバンドの歌を子どもたちに教えて大合唱したり、私塾といってもムチャクチャなことをやっていましたね。苦情が来なかったのが不思議なくらいでしたよ」
「ほっほ~う! アマッちのお母さん、日秘の文化交流にも一役買ったわけだ~」
「そこまで大袈裟ではありませんが、……愉快な母でしたし、子どもたちから慕われていたのは間違いないですよ――」
在りし日の母の
「――あるとき、教え子が人買いの被害に遭ったんです。それも一気に何人も……」
その言葉に思穂は
ペルー国内に於いて人身売買ブローカーが暗躍していることは彼女も承知していた。そもそも人命を玩具同然に
この丘陵地帯のどこかに
「やめておけば良いのに母は民間人の分際で人買いの犯人を追跡し始めたんです」
「ちょっと! それって危険過ぎるんじゃ⁉」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった思穂に向かってキリサメは声を落とすように注意した。二人は居住区域を一直線に貫く大階段を進んでいるのだ。余所者が無事に目的地へ辿り着く為には人目を引くような振る舞いは言語道断なのである。
同じ場所へ長居するわけにもいかず、再び上り始めた階段は自動車の廃タイヤを土の中に埋め込んだ物であった。最初の内は石材で造られていたのだが、おそらくは途中で材料が尽きてしまったのだろう。
物資にも費用にも乏しい
「……始末されるのは当然の結果です。身の程を弁えないことを仕出かした末に母は『例の組織』に斬殺されたんです。それも人買いの張本人に……!」
語気荒く言い捨てた様子からもキリサメの中で『例の組織』が如何なる存在なのかは察せられるだろう。察して余りあるというものであった。
そこに
「その張本人が『
「……概ね、そんなところです」
キリサメは思穂から問われたことを言葉少なに認めた。
おそらくはそれがワマンも口にしていた『神父』なのであろう。仮にも神に仕える身でありながら物騒極まりない武器を振るうなど異常としか表しようもないが、そもそも強盗殺人や人身売買といった犯罪が当たり前のように横行している世界で正常か否かを論じるのは無意味だろう。
「……神父気取りの人買いはメキシコから入り込んできたんです。『
「そうなの? てっきりインカ帝国の遺産かと思ってたんだけど」
「――ああ、言ってなかったかも知れませんが、母をズタズタに斬り裂いたのも、僕が
「な……っ」
含みのある言い方からしてわざと曖昧にはぐらかしたことは明白であり、より詳しく尋ねて良いものか迷っていた思穂に対し、キリサメは更に衝撃的な告白を重ねた。
キリサメが握り締める禍々しい剣は彼の母親の血をも吸い込んでいるというのだ
暴力以外に頼るものがないとはいえ、生みの親の命を奪った『
この少年は殺人に手を染めた過去を明かしたのである。おそらくは人の命を奪ったことも
廃タイヤの階段すら途絶え、大地が剥き出しとなった坂道を歩き続ける羽目になった二人の瞳に頂上が映ったのは、重苦しい沈黙が舞い降りてから小一時間が経った頃である。
坂の上に捉えたのは長く長く、どこまでも広がっていく壁であった。起伏が激しい地形へ沿うようにして建てられたその壁は万里の長城さながらの規模であり、上部には有刺鉄線まで設置されている。これによって境界線の行き来を厳重に阻んでいるのである。
その場所はペルーの人々から忌々しげに『恥の壁』と呼ばれている。
『例の組織』が隠れ潜む場所はワマンから教わっており、そちらへ直行しなければならないのだが、ペルーに於ける貧富の格差と、ここから生じる差別意識の象徴として海外の
『恥の壁』という名称の通り、ペルー人の大半が丘の上に可視化された差別意識を苦々しく思っており、国を率いる
頂上より一望できる丘陵地帯は、壁の向こうに広がる眩い光景を目の当たりにした直後だけに一等寒々しく感じられた。
「噂には聞いていましたが、ここまで無駄なコトにカネを掛けたものですね。
場所は違えど
「……これがこの国の現状です。あなたが好きな〝真実〟ってヤツですよ」
キリサメが
「人身売買って言葉から誘拐を連想する人も多いみたいですけど、親兄弟に売り飛ばされた子どもだって少なくないんですよ。……それも向こう何日かの食い扶持を稼ぐ為だけに。人道だの人権だのと抜かしていたら生きてはいけない世界なんです」
貧困層に分けられた人間にはそこから
富裕層の高笑いが向こうから
外国人である思穂にペルーという
「……アマッちの住まいもこんな感じなの……かな?」
先日、行き損ねてしまったキリサメの根城について思穂は控えめに尋ねた。
サン・クリストバルの丘にへばり付くような形で掘っ立て小屋が密集する地域をキリサメは根城としており、
「物乞いもいなくはないですけど、どちらかといえば強盗が多いですね。カネを持ってそうな人を集団で取り囲んで、寄ってたかって身ぐるみを剥がすんです」
「つまるところ、それがアマッちの仕事――なのかな。初めて出逢ったときも私を狙って
「……知っていたんですか……」
「カマ掛けただけなのにマジだったの⁉ いやだわ、貞操の危機かしら⁉ お願いだからシャワーだけは浴びさせて! それからたっぷりと召し上がってッ!」
「……あなたはどうして、すぐにそういう方向に話を持っていきたがるんですか……」
丘陵地帯の
鋭いのか、危機感がないのか、相変わらず掴みどころがない思穂に溜め息を禁じ得ないキリサメだったが、悪ふざけにも似たやり取りを続けていられたのはつかの間のことである。最寄りの掘っ立て小屋に向けられたカメラのレンズが不審な人影を捉えたのだ。
穏やかならざる気配をキリサメが察知したのは、思穂の視認より僅かに早かった。我が身を盾とするよう彼女の前に立つと、麻袋に包んだままの『
油断なく周囲を見回し、人影の動向を窺いながら援軍を捜し求めるキリサメだったが、助けに入ってくれそうな人間はどこにも居ない。やはり、〝この場〟は自力で切り抜けるしかなさそうだ。
「……何があっても僕の傍から離れないように」
「結婚前提のお付き合いをすっ飛ばしてプロポーズ?」
「減らず口叩いてると舌を噛みますよ――」
キリサメが肩越しに思穂へ言い付けた直後、一〇人程度の男たちが物陰から一斉に飛び出してきた。ボロ布同然の衣服からも『恥の壁』を仰ぐ民であることは瞭然である。
彼らは刃渡り四〇センチにも及ぶ大振りな
そこに宿すのは明確な殺意である。
キリサメもまた同等の殺意を
平べったい刀身の利点を生かした威嚇の一手である。大量の砂埃によって双眸を塞がれた相手の脳天へ『
敵は
無防備なままコンクリートの壁に頭部を激突させられた男は二度と立ち上がれなかった。キリサメの左足は正確に首筋を打ち据えており、そこにも相当な痛手を与えていた。
「ア、アマッちってば
砂ぼこりを巻き上げながら繰り出されるキリサメの蹴りに見入っていた思穂は、貿易港内にて披露された太刀さばきとも異なる
「……『
手斧で襲い掛かってきた敵には先んじて『
姿勢を維持することもままならず、前のめりに倒れそうになった敵の左手首を掴んだキリサメは、これを無造作に宙へ放り投げた。男は『恥の壁』上部に張り巡らされた有刺鉄線に片足が引っ掛かり、逆さ吊りのような状態になってしまった。
そこまでがキリサメの狙いであった。防御も回避も不可能な状態に陥った相手の顔面目掛けて容赦なく『
「ここから生かして出すな! 絶対に逃がすなッ!」
ペルーの
一発二発は頭部に喰らってしまったが、いずれも思穂に当たりそうになった物を引き受けた結果である。フードの下には僅かに流血も見られたが、目を潰されてもいなければ、脳への影響もない。それならばキリサメ当人にとってはカスリ傷同然なのだ。
「……ア、アマッち……ご、ごめ――私……ちょっと、もう……」
キリサメの大立ち回りをカメラに収めようとする思穂だったが、途中から全身の震えが止まらなくなり、ついにはレンズを覗くことさえできなくなってしまった。
未だかつて味わったことのない戦慄に打ちのめされていた。常に緊張状態が続くガザへ潜り込んでしまうような彼女だけに、命の危機を感じたことはこれが初めてではない。事実、『三・一一』の折には未曽有の大災害に呑み込まれそうになってしまったのだ。
しかし、今日は違う。痛い目に遭わせて追い出そうとしていた港湾労働者とも違う。突如として飛び掛かってきた襲撃者は明確に自分たちを殺そうとしていた。
有薗思穂という一個人に対して殺意が向けられることは生まれて初めてなのだ。圧倒的な恐怖から足が竦み、とうとうその場にへたり込んでしまった。
「……まあ、動かないでいてくれるほうが
思穂が動けなくなったことでキリサメも戦い方の変更を余儀なくされた。襲撃者は得てして
キリサメの正面には二人の男が迫っていた。彼らの背後では
誰も彼もが必死の形相で向かってくることにキリサメは強い違和感を覚えていた。それは捨て身とも取れる突進なのだ。二人がかりで組み付き、『
「……こいつら、『組織』の手先か……ッ?」
ここに至ってキリサメは襲撃者の目論見に気付いた。自分たちを殺した先に何を求めているのか――強盗目的でもないのに命を狙う理由である。あるいは、自分たちが『例の組織』と接触することを阻んでいるのではないかとキリサメは直感したのだ。
さりとて、はした金で雇われているようにも思えない。報酬目当てで従う者は自分自身の命が危険に
キリサメが『
肩から肘にかけてのバネを引き出すことで勢いを付け、命中の寸前に手首のスナップを効かせた一撃は眉間や後頭部といった人体急所を正確に捉えている。このような打撃を受けては立っていられるはずもなかった。
思穂へ斬り掛かるべく側面まで回り込んでいた
キリサメが全体重を乗せた蹴りを脇腹に見舞うと、彼の口から
このように味方が呆気なく、
地面に落ちた『
放り出された得物を改めて握り直したキリサメは、振り向きざまに相手の顔面を踏み付け、硬い岩が迫り出している場所を選んで後頭部から叩き落とした。その男が泡を吹いて動かなくなったことは、改めて
「……アマッち、実はペルーで指折りの隠れ有名格闘家だったりする? 実は闇大会の賭博試合でボロ儲けしてるとか……」
「
酸鼻を極める状況に恐れ
「――もう手加減はしません。……今なら手当てすれば間に合うと思いますが?」
数日前、キリサメは
「……じゃあ、死んでも恨みっこなしだ……」
キリサメもまた麻袋の上から『
『
キリサメ本人を狙った銃声ではない。弾丸は鈍色の空を
何事かと銃声の轟いた方角を振り返ったキリサメは、坂道の向こうに立つ一人の青年を視界に捉えた。
神父が纏うような黒い装束で全身を包んでいるが、聖職にはおよそ似つかわしくない大口径のリボルバー拳銃を右手に握り締めており、その銃口からは天に向かって一筋の硝煙が立ち上っていた。
どこか軽薄そうな印象を受ける顔立ちは若く、二〇代半ばといったところであろうか。短めに切り揃えた頭髪は紫がかった灰色に染めているようだ。左の前髪という一か所だけを長く伸ばし、これによって顔面の半分を覆い隠すのが本人なりのこだわりなのだろう。
青年の姿を見つけた襲撃者たちは驚愕に目を見開き、先に倒された仲間を引き摺って
「――お嬢ちゃんがオレの捜しているコだったら助かるぜ。そうでなきゃ、こいつらを止めた意味がなくなっちまう。まだまだ恥をかかされるのが面白くねェ年頃なんでよ」
神父のような装いの青年はキリサメの頭越しに思穂へ
ワマン曰く――内通者を介して『例の組織』とは話を付けてあるので、符丁代わりの指輪を持って
「うちの
果たして、神父のような装いの青年は、いかにも軽薄そうに口笛を吹きつつ右手を前方に突き出した。見れば思穂がワマンから預かった物と同じ指輪を嵌めているではないか。
それはつまり、キリサメの予想が的中したことを意味している。
『例の組織』より差し向けられた迎えであると名乗った青年に対し、キリサメは警戒を強めずにはいられなかった。出で立ちからして彼こそが『あの神父』の弟であることは間違いない――が、黒装束の上から腰にガンベルトを巻いた姿は聖職者というよりもアメリカ西部劇のガンファイターであった。何しろ、ガンベルトの表面には数十発分もの銃弾が並んで収納されているのだ。
空を撃ったリボルバー拳銃は右側のホルスターに仕舞われた。対の左側には銃身を短く切り詰めたライフル銃を、ベルトの背面には『ボウイナイフ』と呼称される種類の短剣をそれぞれぶら下げているのだが、いずれも西部開拓時代では定番の武器である。
(……『
自分たちの
「取材前からすっかりクタクタだけど、ちょっとずつ
「ええ、……僕もそこが引っ掛かっていました」
思穂の耳打ちにキリサメは静かに頷き返した。彼女が気付いたように『例の神父』はメキシコの人身売買ブローカーだったのだ。その弟であれば顔立ちなどに面影を感じられてもおかしくないのだが、目の前に現れた青年は似ている箇所を見出すどころか、南米の人間とも思えないのである。肌の色から顔の
そもそも、ペルーの反政府組織が外国の人間を構成員として受け入れることも不自然ではないか。キリサメが知る限り、『例の組織』は閉鎖的な体質であったはずだ。
我知らずフードのフチを一等深く下げたキリサメは、「……いよいよ本当にキナ臭いことになってきた……」と心の中で呟いた。
キリサメとの因縁が深い『例の組織』――ペルーに革命を掲げる反政府組織は『恥の壁』に程近い場所へ
しかし、武装集団の砦と呼ぶには似つかわしくないほどみすぼらしく、同地で暮らしている
誰の目にも急ごしらえとしか見えない掘っ立て小屋は周囲に物と比べれば相当に大きいのだが、室内を照らすのは窓から差し込む僅かな陽の光のみという有り様だった。今日は空が分厚い雲で覆われている為、互いの顔を確かめることにも難儀するほど薄暗い。
民間人には使いこなせないほど高度な機械に囲まれながら
年齢も二〇代半ばと察せられ、社会の〝闇〟に潜むテロリストというよりも青年将校といった風情である。無論、生粋のペルー人であることに間違いない。
取材の開始に当たって「ペルーにのさばる偽りの政府に対する反撃の
ワマンから預かった符丁代わりの指輪を思穂が差し出すと、「道中、大変だったようで申し訳ない」と恭しく
雨が降り出す前だというのにレインコートのフードを被り、ドス黒い染みが付着した麻袋を携える姿を不審に思ったのか、『組織』の兵士たちは突き刺すような眼差しでキリサメを凝視したが、リーダーはそれさえも余計な詮索として打ち切らせていた。
『恥の壁』に於ける襲撃については、一部の住民がキリサメと思穂のことを国家警察の手先と勘違いした結果だとリーダーの傍らに控えたトリニダードより説明されたが、それはつまり、誰からの命令でもなく民間人が自発的に反政府組織を庇ったということだ。
抗議デモにさえ参加していない者が政府と敵対するテロリストへ加担した理由は、組織の活動内容を説かれたことで理解できた。リーダーの指揮のもと、彼らは義賊的な作戦も行っていたそうだ。例えば、数多の富裕層を顧客として抱える銀行を襲撃し、強奪した金品を
富の再分配を口先で論じるのでなく実際に決行してくれるのだから
『エスパダス』と名乗った反政府組織のリーダーが
答え合わせを求めるような眼差しを思穂より向けられたキリサメは、通訳を行いながら
おそらくは政府側が情報操作を図ったのだろうが、経緯はともかくキリサメも初めて耳にした事実であり、それ故に当惑を禁じ得なかった。
「どうか、彼らの仕出かしたことを許してやって欲しい。あれこそ貧困層の――いや、この国の抱える病理そのものなのだよ。労働者を死ぬまで使い潰し、保護せねばならない貧困層には見て見ぬフリを決め込んでいる。そして、既得権益層ばかりが甘い汁を吸う。吸い尽くさんとしている……ッ! 一刻も早く
エスパダスが憂国の志を熱弁する度、周りの部下たちは強く深く首を頷かせた。彼らもまた
それは思穂が事前に調べていた情報と大きく食い違うものであった。非人道的な犯罪を繰り返す腐敗の象徴のように伝える資料も多く、だからこそ義憤に駆られて海を越え、この国の〝真実〟を暴かんと
カメラを回し始めた直後は思穂も相手が詭弁を弄しているだけに違いないと疑い、人身売買の実態まで鋭く追及したのだが、当のエスパダスは機嫌を損ねるようなこともなく、「清算すべき過去から逃れるつもりはない。組織の罪は我らの罪」と、毅然とした面持ちで認めた。
犯罪者という
「確かに。上位組織からの命令で自ら手を汚したことがある。……いや、命令を言い訳にはするまい。裁かれるべきときが来れば甘んじてそれに従うつもりだ。しかし、地獄に落ちると決まった身にしか引き受けられぬ汚れ仕事もあるのだよ」
キリサメは『
キリサメが過去に『
それなのに現在のリーダーはどうか。晴らし難い怨恨を抱くキリサメの目にもエスパダスは高潔な大人物のようにしか映らなかった。わざわざ掘っ立て小屋を
エスパダスを高潔な志の持ち主と思えば思うほどキリサメの手に『
数え切れない命を
「――二週間ほど前、カヤオの港で大勢の港湾労働者が殺される事件がありました。何らかの密輸に関わっていたそうですが、……手に掛けたのはあなたたちですね?」
のうのうと英雄を気取る犯罪者など断じて認めまいとする衝動が身の
身勝手にも過去を清算したつもりになっているようだが、現在の罪から逃れることだけはできないだろう。所詮は薄汚い犯罪者の群れに過ぎないのだと、英雄気取りのテロリストに突き付けてやらなくてはならなかった。
腹癒せ以外の何物でもないことは自覚しているが、もはや、キリサメ本人にも身の
「何を取引していたのかは分かりませんが、用済みになった使い走りを口封じしたのではないんですか? ……随分と偉そうなコトを抜かしていましたが、やっていることは昔と何も変わらない。人買いで荒稼ぎしていた頃と何が変わったというんですか?」
ペルーの
これにはエスパダスの部下たちもざわめき、互いの顔を見合わせ始めた。彼らは両手でもって自動小銃を携えているのだ。逆鱗に触れようものなら二人まとめて蜂の巣にされるだろう。
自ら死地へ飛び込むかのような度胸をトリニダードが口笛で冷やかす中、面罵されたエスパダスは部下たちに静まるよう命じ、苦渋に満ちた面持ちでキリサメと向かい合った。双眸に湛えているのは深い無念である。
「……言い逃れはするまい。彼らを抹殺したのは我々だ――」
重苦しい語調で大量殺人事件への関与を自供した犯罪者へ更なる追及を畳み掛けようと身構えるキリサメだが、エスパダスは間を置かずして釈明を続けた。
欺瞞に満ちた英雄と罵るつもりであったキリサメは、次にエスパダスが発した言葉で動転させられ、呻き声以外を全く封じ込められてしまった。
「――だが、口封じがしたかったのではない。最初から粛清するつもりもなかった。あくまでも正当な契約のもとに彼らを雇おうとしたのだ。……そのつもりだったのだが、密輸の
そこまでは大量殺人事件の真相としてキリサメも冷静に受け止めることができたのだが、組織を
改めて
呆気なく明かされた真相は、キリサメにとって最も残酷な結末だった。やむにやまれぬ事情こそあれども
エスパダスは「正当な雇用」と明言している。その契約に違反するような行為は殺される理由としては十分であろう。ともすれば、他の港湾労働者まで彼の身勝手の巻き添えとなったかも知れないのだ。
「……我々は革命の同志の中でも最下層だ。
苦悶に満ちた面持ちで語った
「
思穂が構えるカメラのレンズは、涙に濡れたエスパダスの瞳に一等強い光が宿る瞬間を逃さなかった。
「――我らが最初に革命すべきは組織そのものであったのだ。
胸の内に秘めていた激烈な決意を吐露していくエスパダスの顔をキリサメはただただ見つめていた。
何とも例えようのない葛藤が胸中に渦巻いていた。今更になって正義などと掲げたところで、今までに犯してきた罪が許されるはずもない。『聖なる屍』などと気取った言い回しで誤魔化しているが、エスパダスが口にする言葉など自己満足に過ぎないではないか。
そのようにエスパダスの大志を拒絶せんとする衝動は鎮まらないが、その一方で己自身の浅はかさに打ちのめされてもいるのだ。
祖国の行く末を憂うエスパダスに対して、キリサメは憤怒以上に気後れを感じていた。
彼らは罪を背負いながらも革命の信念を貫かんと進むべき路を切り開いてきたが、自分のほうは怨念という名の過去に囚われたまま、母が殺された日から同じ場所に留まり続けている。仇敵から奪った『
そこに進歩や成長など起こり得ないのである。人を殺傷する技ばかりが巧みになり、これ以外は虚無にも等しい。そのようなことなど自分自身が一番分かっており、今日まで必要とも思わなかったくらいである。
しかし、この瞬間だけは無為に過ごしてきたことを心より
裏路地をたむろするような最低の人生であろうとも命を食い物にするような『組織』と比べれば上等だと信じてきたが、その思いまでもが覆されようとしているのだ。
それを認めてしまうことは母の犠牲も含めてキリサメ・アマカザリという全存在を否定するようなものである。だからこそ、エスパダスなど傍若無人な誇大妄想家と自分に言い聞かせているのだが、傲慢な独り善がりなどで誤魔化せるはずもなかった。己自身を納得させることさえ今や不可能に近いのである。
(……僕がこれまでしてきたことは……今まで生きてきた意味が……)
いずれは決着をつけねばならないと一方的に敵視してきたものの、エスパダスという男が『組織』のリーダーに就いた瞬間、それも終わっていたのかも知れない――己の敗北を受け入れそうになるくらいキリサメは思い詰めていた。
「……アマッち……」
カメラをエスパダスに向けたままキリサメの名前を呼んだ思穂は普段の騒々しさが嘘のような弱々しい声を
非人道的な組織への憤りを使命感に換えて〝真実〟に迫ろうとした思穂は、今や正義の所在を見失いつつあった。
ペルーの
ここまで来てしまった以上、後戻りは許されない。しかし、この男こそがペルーに芽吹いた最後の希望ではないかと思えてならなかった。
未来への萌芽を潰してしまえば、ペルーは底なしの暗闇へ堕ちるのではないか――そのように〝
「通訳を担っていると聞いたが、……この際だ、言いたいことは言っておきなさい――」
何とも表しようのない感情を瞳に湛えているキリサメをエスパダスも正面から見つめ返した。それは挑発などではない。少年の思いをも受け止める覚悟で相対したのだ。
「――キミは我々を批難し、怒りを叩き付けるだけの資格を持っている。……そうではないかな、キリサメ・アマカザリ」
微かな曇りもない瞳に吸い込まれていたキリサメは、不意にエスパダスから
天井が跳ね返した重々しい音を神父の
*
『恥の壁』という象徴によって貧富の格差が具現化された
しかしながら、
止血用のガーゼで覆われていない右目の下が真っ黒になっているのは、この状態が昨晩からずっと続いているからだ。睡眠すら満足には取っておらず、ただひたすら頭の中の幼馴染みと取っ組み合いを続けているのだった。
無意味な意地を張ったばかりにキリサメと物別れになってしまったことを
他人――と、思ってもいないことを口走ってしまったのである。
その瞬間にキリサメの顔から一切の表情が消え失せたが、あれは目の前の出来事が理解を追い越し、心の整理が追い付かないときにだけ見せる面持ちなのだ。
そこに彼の痛みを見て取った
精神的に瀕死状態となって朝を迎えたものだから居候している叔父の
(……わたしってば、自分で思ってる以上に乙女だったのかねぇ……)
自己嫌悪へ
キリストの受難から復活に至る数々の伝承を巨像で表した宗教行列は、夜が明け切らない内から蝋燭だけを頼りに動き始めるのだが、無数の燈火によって暗闇の中に浮かび上がる受難劇は心臓が揺さ振られるほどに荘厳であった。同道する音楽隊も
外国より訪れた観光客に混ざって見物していただけなのだが、厳粛でありながら、どこか華やかな行進には心が躍ったものである。
夜明け前の空に掲げられた聖なる光を見つめながら、幼馴染みの二人はいつしか手を繋いでいた。自然と互いの指を絡め合っていた。双方の親が健在であった頃からの付き合いであり、物心つく前には彼の腕を引っ張って大いに振り回していたのだが、年齢を重ねる
手を繋いだのは本当に久方ぶりだったのだ。しかし、数年ぶりに触れた幼馴染みの手は驚くほど皮が分厚くなっており、骨の硬さに至っては肌を跳ね返して痛いほどであった。そこに母親と死別した後の過酷な歩みが表れているようで、それ以上、
その瞬間のことを彼女は鮮明に憶えていた。幼馴染みの心身を蝕んでいるだろう痛みをどのように受け止めるべきか、結論を見出せないまま葛藤する
いわゆる、マリア像にはこれと同じ
〝人間の言葉〟では到底、表しようのない神々しい姿を見つめていると、ただそれだけでも心に刻まれた喪失の痛みが埋められていくようであったが、それはつまり、両手より滑り落ちていった
神は与え、そして、神は奪う――聖書に記された言葉を喪失感と共に想い出した
(自分の回想で甘酸っぱい気持ちになるなんて、ホント、どーかしてるわ! キャラじゃないじゃん! こ~ゆ~のっ!)
『
(意地張ってばっかりだなァ。調子狂いまくりだなァ。……何でこーなっちゃうんだろ)
唇より滑り落ちた溜め息をきっかけとして、ようやく
政府の決定に抗議するデモ隊へ加わったことからキリサメと口論になり、そのまま物別れとなってしまったのだが、これに反対したのは幼馴染みだけではなかった。彼と親交があるという国家警察の警部にまでデモ隊と距離を置くよう説得されてしまったのである。
祖国の在り方に疑問を持ち、行動する意志を尊重すると述べたワマン警部は、それでも前途ある若い世代が危険な目に遭うことだけは見過ごせないと繰り返していた。
国家警察の人間だけにデモ隊の足並みを乱すのが狙いではないかと最初の内は勘繰ってしまったのだが、前のめりとなって説得の言葉を重ねる姿には悪意など一片も感じられなかった。何度も何度も、疎ましくなるほど危険な場には近付かないよう訴えられたのだ。
あくまでも叔父の遺志を受け継ぎたいと答えた瞬間にワマンが見せた悲しい
ワマンや思穂が
しかし、だ。信用できる大人が手を差し伸べてくれたというのに、結局、彼女はそれを撥ね付けてしまった。説得の折にワマンが口走った「故人の〝
最期の瞬間まで家族の為に働いていた叔父の生き方が否定されたようなものであった。 亡くなった家族の思いを
いみじくもワマンが語った通りだったわけだ。国家警察の警部は今度の抗議デモについて「世の中はアニメのように上手く転がってくれない」と嘆いていたが、『
さりとて、キリサメやワマンのことを真っ向から拒絶するつもりもない。自分の身を案じてくれた二人の優しさは
何より先日の夜間行進で国家警察との衝突に巻き込まれ、重傷を負ってしまっている。これ以上、怪我を増やせば幼馴染みの少年は絶対に悲しむだろう。万が一の事態が発生してしまったときには自分を傷付けた人間に全面報復を仕掛けるかも知れない。
そこまでキリサメから大切に想われている――この事実に身も心も沸騰した
キリサメたちが宿所としているホテルも教わってはいるものの、そちらへ足を向けるつもりはなかった。取材に出掛けているかどうかは問題ではなく、思穂という第三者の前でキリサメと言葉を交わすことが今は気恥ずかしくて仕方ないのだ。
次に彼が闇市を訪れたときに謝ろう。心配してくれたことが本当は嬉しかったのだと、心から感謝を伝えなければいけない。物心つく前から共に歩んできた幼馴染みは他人などではなく誰よりも大切な人なのだ――と。
(……ベタついた関係がイヤだってほざいたのは、一体、どの口なの……)
キリサメのことを考えれば考えるほど頬に帯びた熱は高まり、心の中の独り言も増えていく。まるで恋する乙女のような自分自身に
彼女を混乱させる胸の鼓動が別の意味合いに変わったのは、
夜明けの
目抜き通りの路上市場で買い食いでもしようかと考え始めた直後、清らかなる鐘を押し潰すような雑音がどこからともなく聴こえてきた。町ゆく人々が立ち止まって耳を澄ましているということは
「嘘でしょ、何で……」
耳障りとしか表しようがないデタラメな旋律に
今が『
果たして、大通りの向こうから姿を現したのは受難劇の巨像などではなく、労働者の権利を脅かす政府へ徹底的に抗わんとするデモ隊であった。
それは山鳴りとも喩えられる喧騒であった。数え切れないほどの足踏みによって大地が鳴動しているような錯覚に襲われるほどであった。
彼らは政府に対する罵詈雑言を怒涛のように轟かせながら抗議の旗や横断幕を掲げ、あるいは非致死性のゴム弾から身を守る為に木の板を翳している。政府高官を模した人形に火を付け、これを晒し者のように引き回す人間も散見された。
アスファルトの路面を削るかの如き耳障りな音は、車輪もなく無造作に引き摺られる棺桶が立てているものだ。これによって国民の権利が死に絶えたことでも表したいのであろうか。あるいはペルーという
人間らしく生きる権利を約束しろ――怒号を張り上げるにせよ、旗に記して振り回すにせよ、デモ隊の主張は常に一貫しており、憂国の志から外れることはなかった。
他の市民たちと共に呆然と立ち尽くしている
考えられる最悪の展開といえよう。叔父の遺志を受け継ぐ覚悟を決めた
よもや向こうのほうから近付いてくるとは思わなかった
しかし、そこで彼女は運命に捕まってしまった。
「――キタバタケさんトコのお嬢さんじゃないか!」
大通りから立ち去ろうとしている
政府高官の顔を刷り込み、その上から血の色の罰点を付けるという奇抜なシャツを着込んだ一団のことを
真っ先に声を掛けた男は
彼らの呼びかけに応じる形で叔父の遺志を継ぎ、深夜の抗議集会にも加わったのだが、それはつまり、
「みんなッ、キタバタケさんの家族がやって来てくれたぞッ! これでもう百人力だッ!」
「べ、別にそういうワケじゃ……っ」
先発隊と称した一団は
憂国の同志は無条件で結束すると、彼らは信じて疑わないのである。
「お嬢さんが来てくれたのって、やっぱり運命としか考えられないわ! 今日の反撃、運命は私たちに味方しているのよ! キタバタケさんが死を賭して揃えてくれた〝品〟に大いなる運命の力が注ぎ込まれたんだわッ!」
仲間意識を感じながらも今だけは同志と名乗ることができなかったはずなのに、一人の女性がキタバタケの
大して親しいわけでもない知人の一言によって、キリサメとワマンの思いが彼女の心から切り離されてしまったのだ。
「……叔父が?」
「今から『アチョ闘牛場』に向かうわよ! 決起の狼煙を上げるのよッ!」
「な、何でわざわざ闘牛場に? 抗議集会をやろうにもあそこじゃ――」
「そこで搬送係と合流する手筈になっているのよ! 勝利の女神が先頭に立ってくれるんだから、もう何も怖い物はないわッ! いざ、掛かれェッ!」
「あの、ちょっと――」
デモの先発隊に流されるようにして名前の挙がった場所へ――アメリカ大陸最古にして最大規模の闘牛場へ歩を進めてしまう
彼女が抗い切れなかったのは『運命』という名の激流である。「故人の〝
*
リマの
思穂を護衛するべく正体を隠して仇敵へ接近したというのに、よりにもよって『組織』のリーダーであるエスパダスから
顔面の半分以上を覆い隠していたレインコートのフードがエスパダスの手によって外された瞬間など危難を斬り払う為の『
「どうして、僕のことを――」
喉の奥から震える声で
キリサメは咄嗟に思穂を庇い、埃まみれの窓越しに外の様子を窺った。屋内からでは状況を掴み兼ねるものの、どこか遠くで〝何か〟が炸裂したようだ。鼓膜を揺さぶった音は遠く、おそらくは
「……始まったようだな。あれこそがペルーに革命をもたらす挑戦の狼煙だよ」
キリサメと思穂の視線が向かう先へ自らも目を転じたエスパダスは、
「……キミたちをここに差し向けたのはワマンという国家警察の人間だろう?」
思いがけない指摘を受けたキリサメは窓の外を見つめたまま微動だにしないエスパダスへと首を振り向かせ、そのまま呆然と立ち尽くした。
それはキリサメより
正体どころか、『組織』へ接触を図った経緯まで見透かされていたわけだ。明確に〝敵〟と断定し得る人間を敢えて
国家警察の手先あるいは『組織』との因縁が深い自分を始末する目論見であったなら、爪先でもって『
エスパダスはペルーの
思穂の背筋を冷たい戦慄が駆け抜けた。射撃の準備が整いつつある
『恥の壁』に於ける乱闘とは比べ物にならないほど凄まじい暴力が迫っていた。絶体絶命の窮状にも関わらず、エスパダスにカメラを向け続けていられるのは〝真実〟を伝えんとする使命感が恐怖を上回っているからだ。それが自分の予想を大きく裏切るようなものであろうとも、彼女は全てを見届ける覚悟であった。
周りの人間が緊迫の色を強める中に
「我々――というか、
その上位組織から送り込まれてきたというトリニダードへ答え合わせを求めるような視線を送り、彼が口笛を交えて頷き返すとエスパダスは頬を緩めることでこれに応じた。
エスパダスは上層部への叛意を隠そうともしないのだが、それを容認するかのような態度から察するにトリニダードも彼の志に同調しているのだろう。
尤も、軽薄の二字が似つかわしい笑い顔から腹の底を読み取ることは難しく、カメラのレンズで捉えつつも思穂は底冷えするようなおぞましさを禁じ得なかった。
「大方、ワマンとやらはキミたちを密偵に仕立て上げたのだろう。仮に口封じで殺されても外国のマスコミ関係者が勝手に仕出かしたこととして処理したはずだよ。……政府の犬がやりそうなことではある――ヤツらは我々のことを野蛮な犯罪集団と見下しているが、同じようにキミたちの命を軽んじているわけだ」
国家警察を政府の犬と痛罵したエスパダスは「これが質問への
それは〝真実〟と呼ぶには余りにも衝撃的な
言い逃れの通用しない完全な汚職であり、祖国に対する裏切り以外の何物でもない。
「ちょっとちょっと、アマッち~、私たち、国家的陰謀まで辿り着いちゃったんじゃないのかなぁ、これ! 私、ピューリッツァー賞なんて眼中になかったんだけど、今から受賞スピーチを考えておかなきゃだよね? むしろ、パーティー会場の予約が先ッ⁉」
「そんなボケをかましている場合じゃありません」
エスパダスによる
しかし、
「……僕たちが餌だってコトは最初から分かっているじゃないですか……」
思穂よりもワマンとの付き合いが長いキリサメは、彼が国家警察の不正に関与している疑惑を信じてはいなかった。エスパダスには捨て駒などと同情されてしまったが、囮役についてはメイドカフェで食事を摂った際にもワマンのほうから言及していたのだ。使い捨ての道具として利用する目論見であったなら相手の了解を取ろうとはしないだろう。
そもそも、だ。政府関係者の汚職が横行する国で生まれ育ったキリサメには、国家警察と反政府組織の癒着など大して驚くことでもなかった。それくらいのことは有り得るだろうとさえ考えていたほどである。
「……これがこの国の現状だよ。
冷めた目で
国を憂う気持ちは彼の中で義務や使命という形に昇華されていたようだ。そこまで思い詰めていなければ、正義を掲げて造反を画策するようなこともあるまい。
「キリサメ・アマカザリ、一度は戦った〝敵〟であるキミにこそ問う――自分が生まれたこの国の有り様に何も感じることはないのか? ……キタバタケはキミにとっても親族同然だったと聞き及んでいる。それほどまでに近い人間が未来を期して決起した事実をどう受け止めているのだ? もはや、知らぬ顔は許されないのだぞ」
言うや、エスパダスはキリサメの顔面に向かって右の人差し指を突き出した。
「キミも『恥の壁』を見たはずだ。あれが象徴しているのは富める者と貧しき者の差ではない。権利を貪る者たちの思うが
思穂がレンズ越しに捉えたエスパダスの瞳は、一等強くキリサメを見つめている。
水平を保ったまま少年の鼻先に突き付けられている指先は、正義が失われてしまったこの
この憂国の士は『我々の祖国』という言い回しを用いている。敵味方の垣根を超え、ただ純粋にペルーの民としての在り方を質しつつ、そこに一つの希望を託しているのだ。
果たして、その希望とは『
「もしも、キミの胸に大義が芽生えたならば、過去の遺恨は水に流して共に――」
「――抗議デモを仕組んだのはあんたたちか⁉」
怨恨をも乗り越えて差し伸べられた手はとても呆気なく、一瞬の逡巡も挟まずに振り払われてしまった。エスパダスより向けられた希望を極めて強い語調で遮ったキリサメは、双眸にあらん限りの憤怒を湛えている。
「一昨日の深夜に国家警察とぶつかったデモ隊は前衛を崩すような武器を使っていた。警官隊の盾を壊せるような
キタバタケという
不満分子を焚き付けて武器を売りさばく――反政府組織の破壊活動として、これ以上ないというくらい効果的であろう。
「キミの推理には一つ誤解がある。我々はデモを仕組んだことも扇動した憶えもない。あれは国家の悲鳴と先程も述べたようにな。しかし、アメリカから買い入れた武器弾薬を民間人へ流したのは事実だ。……国家警察の長官から要請されて、な……」
差し伸べた手がすげなく拒まれたことを悲しみながらも、エスパダスは毅然とした態度でキリサメの憤怒を受け止めている。果たして、彼の口より明かされた新たな〝真実〟は
国家警察長官と反政府組織の癒着は、比喩的な表現などではなく本当に思穂が夢想したような国家的陰謀だったわけである。
「なんなの、アマッち? この人、何て言ってるの⁉」
「……国家警察の
「
暫くの間、声一つ発さずにエスパダスを
少しばかり遅れてデモ隊の〝真実〟に接した思穂は愕然とした顔に変わり、思わず手持ちサイズの小型カメラを落としそうになってしまった。
「お嬢ちゃんには刺激が強過ぎたみたいだけど、そう珍しいハナシじゃないぜ。こんなもん、情報工作の中じゃ初歩中の初歩。民間レベルじゃねェ銃火器を握らせて証拠をでっち上げりゃ反乱軍の誕生ってな寸法でよ。公僕サマだって〝爆弾〟抱えたまま仕事なんかしたかねぇだろうしよ。あらかじめ導火線を切り落としておこうってハラさ」
説明を捕捉したトリニダードや先に告げられたエスパダスの言葉に偽りがないとすれば、国家警察の側こそが国民感情を利用し、将来の反乱分子を炙り出したということになる。
反逆罪の取り締まりを任務に含んでいるとしても、政府の在り方に不満を抱いている者たちを犯罪者に仕立て上げて粛清することなど許されるはずがない。
公職に就く人間の不正を冷ややかに受け止めていたキリサメでさえ、決して小さくはない衝撃を受けているのだ。収賄程度で驚きはしないが、よもや、自国民の〝
「……しかし、何から何まで汚職警官の言いなりではペルーの民も報われん。よって我々は一計を案じて裏を掻いてやった。
「――もういい。
国民感情をも受け止めたとでも言いたげなエスパダスをキリサメの一喝が再び遮った。これと同時に床に転がっていた『
思穂の通訳と偽って同道してきた少年の正体に『組織』は最初から気付いている。それはつまり、麻袋の中に納められている
この期に及んでもトリニダードはリボルバーの
「僕らを撒き餌のように使ったワマン氏のことを罵っていたけど、あんたらがやったことだって何一つ変わらないじゃないか。
「私たちがデモ隊を破壊工作の先兵として利用していると、そう言いたいのか? 断じてそれは違うッ! 決起は彼らの意思! 憂国の志なのだ! 我らは志を同じくする同胞に力を貸したに過ぎんッ! 共に政府の
「――聞き飽きたって言っただろう。恥知らずな妄想は地獄の鬼にでも聞かせろ」
やはり、お前たちは生かしておくべきではない――そう言い捨てたキリサメは、激烈な言葉とは裏腹に極めて冷静であった。
エスパダスとの対峙は暴力というモノの在り方について考えさせられる時間だった。今日まで自分が振るってきた暴力には何の意味もなく、革命の大義を掲げるエスパダスには同じ暴力でも意味がある。憎悪を叩き付けるべき側にこそ正義があるのではないか――と懊悩し続けていたのだ。
しかし、それは思い過ごしだった。結局、暴力は暴力なのだ。人体を破壊し、人権を踏み躙り、人命を喰らう為だけに振るわれる
エスパダスたちは日常を守りたいだけのペルーの民に武器を握らせ、自分たちの代わりに政府を攻撃するよう仕向けたのだ。デモを扇動した憶えはないと潔白を訴えていたが、
大仰な言葉で飾り立て、邪悪な振る舞いを隠蔽したいようだが、所詮は破壊の為にのみ振るわれる暴力だったのだ。身寄りのない少年が生きる糧を得るべく手に取った『
自らの存在意義を揺さぶられたことが幻であったかのようにキリサメの心は晴れ晴れとしていた。葛藤という名のドス黒い靄などは掻き消え、麻袋から『
露となった刀身に兵士たちは揃って呻き声を洩らしたが、『聖なる剣』という意味を持つ
ノコギリの如き『
「……お前たちは生きていてはいけない存在なんだよ……」
『
キリサメが見出した結論は余りにも短絡で幼稚だった。暴力を振るっても良い理由をこじ付け、自らの正当化を試みたに過ぎないのである。
それ故、最後まで恩讐を乗り越える可能性に賭けていたエスパダスは失望とも絶望とも取れる溜め息を洩らしたのだ。
「待って、待って、待ったァッ! アマッち、ヤケクソで暴れようとしてない⁉ キマりまくった顔からして悪党を成敗ってカンジじゃないよね⁉ それはもう理由なき暴力ってヤツじゃないかな⁉」
キリサメがエスパダスへ襲い掛かろうとしていることを悟った思穂は、撮影さえも投げ出して彼の前に立ちはだかり、暴挙としか思えない振る舞いを押し止めようとした。
当然ながら思穂は何挺もの自動小銃に背中を晒している。ボディーガードとしては看過し得ない状況なのだが、キリサメ当人は自らの仕事を放棄したかのように仇敵だけに意識を集中させていた。あるいは警護対象の危機すら認識していないのかも知れない。
「理由なら十分でしょう。こいつらはペルーをメチャクチャにしたんですよ。
「そうやって自分に言い聞かせてるだけじゃないのかな⁉ ブン殴っても許される理由を無理くり捻り出したでしょ、今!」
「まさか、情が移ったんじゃないでしょうね。確かにこの男、見てくれは良いですけど」
「そうそう、私好みの
「……あくまでも邪魔をするなら力ずくで
「キミが振るおうとしている
心の
数え切れないほどの命が犠牲となった『三・一一』の津波と、今日まで生きる糧をもたらしてくれた『
「人間同士がぶつかり合うなら私だって止めないよ? でも、今のアマッちは何を思って『
「……有薗氏……」
「……縁もゆかりもないような私を守ってくれたその剣は、人を傷付けるだけの武器なんかじゃないって信じてる……ッ!」
人の命を奪う大災害を暴力による蹂躙へ置き換えるという
生死を決する戦いは確かに過酷だが、抜き身の心で繋がり合う好機であり、そこに絆を育む手段でもあるはずなのだ。人と人が分かり合える可能性を自ら手放して殺戮の限りを尽くすことは、天地を引き裂く災害と同じではないのかと思穂は訴え続けた。
思穂がペルーの
「……有薗氏の言葉ほど心に突き刺さるものはありませんね……」
「それならッ!」
「……けど、今の
極めて繊細な
これは互いの命を奪い合う戦争――その一言で逆に説得を断ち切ったキリサメは、今度こそ思穂を押し退けると殺戮の
(……これで全て――何もかも終わりにできる……)
自由奔放で好奇心旺盛な思穂に対して、キリサメは亡き母の面影を重ねていた。だからこそ、災害さながらに暴れ狂ってはならないと引き留める声に心が応じたのだ。
微かに抱いた想いも所詮は気の迷いに過ぎなかった。説得の言葉へ耳を傾けている内に母親と思穂が似ても似つかない別人だと悟ってしまったのである。
もしも、この場に亡き母親が立っていたならば、己の生きる道を妨げる〝敵〟は全て蹴散らして前に進むよう鼓舞した違いない。
母が最期に命じたのは暴力からの逃避とは真逆のことであった。どんな汚辱に
「残念だよ、実に――」
思穂の説得も聞き入れず、苛烈な攻撃本能へ心身を委ねるつもりであることを認めたエスパダスは、静かな怒りを宿す瞳でもってキリサメを見据えた。
「――交渉の余地もないほど決裂した以上は、私も覚悟を決めねばならないな……」
「地獄に落ちる覚悟のことか?」
「……『組織』に殉じる覚悟だよ。先ほどお前は復讐と口にしていたが、それはこちらの台詞というものだ。キリサメ・アマカザリ、お前に何人の仲間が殺されたと思っている」
エスパダスが右腕を垂直に突き上げた瞬間、これを合図に兵士たちが一斉に自動小銃を構え直した。今し方の
「仇討ちに逸る気持ちも分かるけどよォ、初手から
トリニダードは余人には意味が分からない暗号めいた指示を飛ばしたが、兵士たちは首を傾げるようなこともなく神妙そうに従っていく。程なくして自動小銃の照準がキリサメの四肢を捉えた。致命傷を与えられる急所ではなく先に手足を狙い撃てという奇怪な指示を誰一人として疑わなかったのである。
キリサメ・アマカザリという少年の恐ろしさを誰もがこれを共有しているようだ。
「……キミには我が『組織』も壊滅寸前まで追い詰められたな――今こそあの日の屈辱を拭い取ってくれよう。せめて国家警察の餌ではなく革命の生け贄として果てるが良い」
母親の命を奪い、恩があるキタバタケ家にまで災いをもたらした『組織』がキリサメにとって最大の仇敵であるのと同じように、エスパダスからしても数多くの同志を葬ったこの少年は報復の対象なのである。
恩讐を乗り越えることができなかった以上、『組織』の
尤も、キリサメには願ってもない筋運びである。これで何の気兼ねもなく、誰にも邪魔されることもなく、『生きていてはいけない存在』を根絶やしにできるわけだ。
「シホ・アリゾノ、キミには何の罪もないし、また遺恨もない。……早く行きなさい」
いつまでもエスパダスが右腕を振り下ろさないのは、思穂を戦闘に巻き込まない為の配慮であった。彼女が
「悠長なコトを言ってらんねェぜ、大将。ここはもう戦場なんだからよォ」
口封じの為に思穂を狙ったものと考え、思わず身を強張らせるエスパダスだったが、リボルバー拳銃より撃ち放たれた銃弾は彼女の脇を通り抜け、粗末なドアを貫いた。
その刹那のことである。ドアの向こうから苦悶の声が聞こえ、続けて左右の壁が突き抜けた。数十にも及ぶ人影が体当たりを
突入と同時に隊列を整え、エスパダスたちを取り囲むようにして
「――おじさんもアリゾノ君に賛成だな。今更、キミが手を汚す必要はないのだよ、キリサメ君。そういう仕事は我々に任せておきなさい」
一発の銃弾によって風穴が開けられたドアを蹴破り、最後に突入したのはキリサメにも馴染みが深い顔――ワマン警部であった。
彼もまた仲間たちと同じように完全武装しており、美少女たちが乱舞する『
この状況はつまり、反政府組織のリーダーから汚職の巣窟とまで侮辱された国家警察の一部隊が
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