その7:受難~ペルー編完結!銃火轟く激闘の地で死神が目覚める!
七、
アメリカ大陸に於いて初めて聖人に選ばれたのがペルー共和国の首都――リマ出身の女性であることはキリスト教との関わりが薄い者には殆ど知られていない。
ペルーという
これもまた『
国内で流通する紙幣にも肖像画が用いられるほどペルーでは身近な存在なのだ。数多の職業を庇護する守護聖人としても知られ、国家警察もその恩恵を受けている。
左手を
ペルー人としての誇りを偏執的なまでに唱えるエスパダスも他の国民と同じように
「恥を知れ、汚職警官ども……ッ!」
警官隊が突入の際に穿った壁の穴をエスパダスの罵声が駆け抜けていく。
反政府組織と癒着した上、
「どのツラ下げて、ここまで――
「涼しげな顔してキレ易いね、おたく。キリサメ君の冷淡さを分けて貰うと良いよ」
『恥の壁』が象徴する絶望的な貧困から祖国を救わんと決起した男に面罵されたワマンであるが、憂国の思いに接して心が乱れてしまったキリサメとは異なり、一秒たりともたじろがなかった。
ワマン率いる国家警察の一部隊は、舞い上がった砂埃の只中にて反政府組織と互いの銃を突き付け合っている。それも、銃口が擦れ合うのではないかと錯覚してしまうような至近距離で――だ。
テロ集団を包囲するような形で隊列を組んだワマンたちのほうが少しばかり優勢と思える状況だが、先に犠牲者を出したのは国家警察の側である。蹴破られたドアの向こうではトリニダードの『
ワマンか、エスパダスか――どちらかのリーダーが全面対決を宣言すれば、両者の中間に立つキリサメたちをも巻き込んで激しい銃撃戦に突入することであろう。
尤も、国家警察の側のリーダーは〝鉛玉〟が装填された
「エスパダス――キミはベルリンの壁を知っているかね?」
「それは何か? 山岳地帯の寒村で生まれた私を侮っているのか? 字の読み書きすらできず、世界史のあらましも知らぬ最下層の人間だと。……笑わせるな。大志があれば貧しかろうが学ぶことができる。快楽に
「あ~、
「……貴様……」
「おじさんは勉強もお仕事もそれなりに頑張って真っ当に暮らしてる――ホントの自慢大会ってのはこ~ゆ~モンさね。……キミは正反対だろう? それなりの暮らしができるよう懸命に働く一般市民の努力を玩具にしている。我々が問題にすべきは
電撃銃の射程圏内に捉えたエスパダスに対して、ワマンは先程の仕返しとも思えるような挑発的な言葉を叩き付けた。
「キミはベルリンの壁に一番乗りした東西再統一の先駆けを真似しているらしいがね、私に言わせれば、そんな上等なモンじゃあない」
「……一九八九年一一月九日のことを言っているのか?」
「その夜に崩壊したベルリンの壁――東西分断の象徴と『恥の壁』を重ねて悦に入っているのだろう? ……ヘソで茶を沸かすとはこのコトだ。キミは壁によじ登る度胸さえ持ち合わせていない臆病者だよ。壁の向こうを覗いてみたいが、国境警備の兵隊に銃を向けられるのは恐ろしい。そこで通りがかりの人間をそそのかして壁を登らせ、本当に撃ち殺されないか確かめるような卑怯者とも言えるだろうね」
「……例え話は可能な限り、短くするべきだな。長ければ長くなるだけ作り話と聞き手に見透かされる。口から出任せを言い繕うことに必死で信憑性の欠乏まで気が回らないと丸分かりだったぞ、今のご高説は」
一方的にやり込められた仕返しとばかりに理論がほつれたと、これ見よがしに嘲るエスパダスだったが、その反応さえワマンは一笑に付した。
「我々が
東西ドイツを分断する国境の監視任務に就きながらベルリンの壁が完成する間際に〝向こう側〟への亡命を果たし、自由の象徴として英雄視された人物を例に引いた
「社会を分断せし壁の向こうに夢を
「ところで、壁の向こうに夢と自由を求めたハンス・コンラート・シューマンが東西のどちら側へ亡命を図ったか、キミは知っているかね?」
「……己以外を貶めねば質問さえできんような思い上がった人間に答える口は持ち合わせていない」
「成る程、亡命先は理解しているものと考えておこう。それでは、シューマンが不自由と嘆き、捨てることを決意した
「……それは――」
「キミたちの『組織』が掲げる主義・思想とは正反対の〝社会〟にシューマンは自由を求めたわけだ。……これが信憑性の欠乏というものだよ、エスパダス君」
エスパダスの人となりを事前に調べ上げたワマンは、その才覚を十分に認めている。回りくどいことこの上ない例え話が理解できるほど賢いと確信した上で、敢えてベルリンの壁にまつわる諸々を引用したわけだ。
亡き母から世界史のあらましこそ習ってはいたものの、東西ドイツの事情に特別詳しいわけでもないキリサメには両者のやり取りは半分程度しか呑み込めなかった。それでもワマンが底意地の悪さを発揮していることだけは察せられ、憎むべき対象であるエスパダスへ反射的に
つまるところ、ワマンは
不正が横行している国家警察の警部から憂国の志を徹底的に貶められたエスパダスは、一瞬だけ酷薄の
「ベルリンの壁付近で警備に当たっていた東西の兵士は不法越境者を見逃せまい――が、国家を守る任務に基づいた狙撃も責められまいよ。司法の判断にも表れている通りにな。……だが、キミは違う。キリサメ君が言ったように何の罪もない市民を自分たちの都合だけで『組織』の手先に仕立て上げたに過ぎない。『祖国の為に』という綺麗な言葉は悪巧みを誤魔化す呪文にはならんし、そうあってはならんのだ」
ワマンとエスパダスの間で飛び交う応酬をキリサメから通訳された思穂は、思わず「横取り質問タイ~ム!」と小型カメラを持っていない左手を垂直に挙げた。
「エスパダスさんが『恥の壁』を
「キミに渡した指輪には隠しマイクが仕込まれていてね。そいつで一部始終を盗み聞きさせてもらったのさ。国家警察の差し金ってコトまで突き止めておきながら
「わ~お、びっくり! ヒトのことをテロの手先って批判した本人が思いっ切り旅行者を捨て駒に使っちゃってるし~。告発したら外交問題待ったナシですよ、これは」
「捨て駒とは言ってくれるなぁ。こうしてピンチに駆け付けただろう?」
質問の
憤慨混じりで紡がれる思穂の言葉をキリサメは冷淡な調子で訳しているわけだ。アンバランスとしか喩えようのない両者の様子にワマンは堪らず吹き出してしまった。
「……『恥の壁』で僕らが襲われたときは無視したじゃないですか。危険な目には遭わせないって約束で手を組んだハズでは?」
通訳ではなくキリサメ自身が飛ばした批難も「バレたら元も子もないからね。悪いと思いながらも静観させてもらったよ」とワマンは軽やかに
キリサメの発言はエスパダスにとって聞き逃すことができないほど重大な意味を持っている。国家警察の協力を得て『組織』に接近したことまでは把握していたが、この突入さえも彼らの段取り通りだったということである。
ひょっとすると警官隊の包囲が完了するまでの間、取材の形で時間を稼いでいたのかも知れない。むしろ、そう考えると何事も合点がいく。だからこそ、尋常ならざる状況に接しても思穂は取り乱さなかったのだ。
キリサメと思穂が知らされていないことも多かろうが、国家警察と示し合わせた作戦行動という一点だけは疑いなかった。
「おとぼけ連中の注意がキリサメ君たちに集中していたお陰で難なく手筈を整えられたよ。表で棒立ちしてた見張りは勿論、〝協力者たち〟も押さえた。あちこちに散らばっている兵舎も時間の問題――気取った言い方をするなら、チェックメイトってヤツだ」
ワマンの通告通り、突き破られた壁の向こうでは何人もの兵士がプロテクター姿の警官たちに取り押さえられていた。その中には先ほどキリサメと思穂を襲った
音もなく気配もなく『組織』の
車輛では侵入不可能な
現在は口にベルトが巻き付けられているのだが、これは物理的に
不意に思穂が想い出したのは
戦国時代――『
やがて上杉軍は夜霧に乗じて陣を移したのだが、行軍に際して馬の口を縛るなどして物音を抑え、武田軍の間近まで密かに迫ったという。その
騎馬に
「――本当に……本当に囮に使ったのかッ⁉ 年端も行かない
思穂のナレーション収録はエスパダスが発した大音声によって強制的に打ち切られてしまった。自らの大義を
キリサメと思穂が国家警察の囮として利用された事実に本気で腹を立てている様子だ。
宿敵に対する私怨こそ混ざってはいるものの、二人を思う優しさは本物であり、純粋な心根の表れとも言えるだろう。
「キミはアレだな。自分にとって都合の悪い話は右から左へ通り抜けるタイプなんだな。さっきから『手を組んだ』って言ってるじゃないか。大体ねェ、あんなデモ――いや、暴動を煽っておいて聖人君子ヅラするもんじゃあないよ。前途ある若者が何人、巻き込まれたと思っているんだい。人にキレる前に自分の支離滅裂を自覚なさいよ」
「煽ってなどいないッ! 我らはただペルーの民の嘆きを受け止めたに過ぎぬッ!」
「それはね、お前さんの勝手な思い込みなんだよ。追い詰められたときに飛び出す類いの言い訳じゃなくてド天然な分、余計にタチが悪いがね」
矢継ぎ早に並べ立てられる罵詈雑言は、何の脈絡もなく屋内へ響き渡った歌声に断ち切られてしまった。それが『
「
ペルー国内で大流行となった日本のアニメシリーズは反政府組織にも知れ渡っているようだ。主演を務める
それは携帯電話に電子メールの受信などを告げる合図である。異世界より訪れた神と同化していく心情を
部下たちから「警部のお陰でシマらない空気になったじゃないですか」と白い目を向けられつつ、左手一本で
「今日の夕方には公になるだろうし、別に隠しておく必要もないんだが、今度の作戦は首席監察官殿直々の〝特命〟でね。仮にも長官の立場に在る人間が反政府組織と不適切な関係を結んでいる証拠を確保して〝首〟をすげ替えようって計画さ。……
『
ワマンが明かした計画とやらが本当であれば、エスパダスは他者の
本当の狙いはエスパダスから一つの証言を得ることである。
「クソ真面目で演説好きなお前さんの性格上、
「――といった旨をワマン氏は言ってますが……」
「アマッち、この人に言ってあげよ。そ~ゆ~小細工を日本では『赤ん坊と
「日本のことわざは母から教わりましたけど、有薗氏のそれは何個か混ざってません?」
つまるところ、国家警察はエスパダスの性格を利用する為に思穂を送り込んだというわけである。偽の
「正真正銘の汚職警官をブッ潰し、ペルーの民を守る組織を刷新できるんだ。特攻世直し野郎の本懐じゃないか。長官にすり寄って甘い汁を吸ってたヤツらも一網打尽だぞ」
符丁代わりの指輪に仕込まれたマイクは、おそらく国家警察の本部まで盗聴した音声を送信しているのだろう。同時に記録されたデータは汚職を裁く審理に於いて最重要な証拠として採用されるはずだ。
果たして、
ワマンの言い回しは多分に皮肉を含んでいるが、『世直し』であることに間違いはないだろう。エスパダスによる暴露は鋭利なメスとなって国家警察の膿を掻き出したのだった。
「……手段は大きく誤っているし、一警察官としても一個人としても許し難いが、その主張だけは切って捨てるつもりはないよ。国を憂う気持ち、その一つだけは分かり合える」
「貴様に……貴様などに分かられてたまるか……ッ!」
ワマンが紡いだ言葉は互いの立場を超えた歩み寄りであったが、エスパダスにとっては何の慰めにもならない。国民の〝
これに勝る屈辱など他にあろうはずもなかった。
「そう気ィ落とすなって、大将。ここから先は俺たちに任せておきな。ビセットとルーも〝仕込み〟に入っているからよ――」
やり場のない思いに全身を震わせるエスパダスの肩をトリニダードが叩いた直後のことである。希更・バロッサの歌声とは異なる異音が――風を裂いて〝何か〟の飛来する音が一同の鼓膜を揺さぶった。
「――伏せて、みんな! 伏せてェッ!」
異音の正体に逸早く気付いたのは思穂である。飛来する〝何か〟がキリサメには分からなかったのだが、彼女は見る間に表情を変えていき、ついには血走った
「身を伏せて頭を隠せ」という意味合いの言葉は冷戦時代のアメリカで実際に使われたものであり、旧ソ連からのミサイル攻撃を想定した避難訓練でも盛んに唱えられていた。
思穂がミサイルからの避難を咄嗟に絞り出したのは
彼女の絶叫とほぼ同じタイミングで国家警察の部隊も異音の正体に気付いていたらしく、ワマンの指示を待たずして一斉に地面へ伏せた。
冷戦の頃の使用例はともかくとして、「
その最中、天空より落下した〝何か〟が岩をも砕いて地面へとめり込んでいく音をキリサメは確かに聞いていた。
視線を巡らせてみれば、地中から一部分のみを露出させている筒状の物体が砂埃の向こうに
「何だって言うんですッ? 有薗氏、あれは一体――」
「――まさか、不発弾ッ⁉」
キリサメの問いかけに答える余裕もない思穂が「不発弾」と叫んだ直後、砲弾の側面から凄まじい勢いで黒煙が噴き出し始めた。
「違う、黒色火薬の煙幕だッ!」
思穂の絶叫を受けるような形で大音声を発したのはワマンである。
「そういうことか――」
このような状況で視界が遮蔽されるということは、つまり、標的の行方を見失うのと同義だった。煙幕弾が飛来する直前にトリニダードは「ここから先は俺たちに任せておけ」とも口走っていたのである。それはつまり、黒煙そのものが敵の策略であることを意味しているのだ。
すかさず地面に耳を付けたキリサメは駆け去っていく数名の足音を確かめ、自身の予想が的中したことを悟った。
「離れている時間の分はバイト代から差っ引いてもらって構いませんので」
「えっ、はい? アマッち、何を――」
『
「レディーのお相手を他の野郎に丸投げってのは甲斐性ナシを自白してるモンだぞ~」
職務放棄を揶揄するワマンの声が背中を追い掛けてきたが、些末な
(……ヤツらを潰せば、このモヤモヤだって消えるから……)
案の定、ほんの一分前まで立っていた位置にエスパダスたちの姿はない。僅かに確保できた視界を頼りに
立ち上る黒煙に阻まれてはいるものの、一切が遮蔽された地上から敵の居場所を探るよりも遥かに有効であろうと判断したのである。生業の為に『
別の兵舎に隠れ潜んでいたのだろうか、エスパダスの部下と思しき兵士が騎馬警官に追い回されていた。何人かの兵士は敢えて傾斜に退路を求めて追跡を振り切ろうとしたようだが、屈強かつ柔軟な健脚を誇る警察馬は険しい坂道であろうと難なく踏み越え、相手の正面まで回り込んでいった。
また別の場所では先程の轟音を合図として銃撃戦が始まっている。国家警察と反政府組織の双方は盾とするには心許ない掘っ立て小屋に隠れながら絶え間なく銃声を轟かせているのが、そこには
エスパダスへ協力する一部の者を除いて、殆どの住民は無関係な事件に巻き込まれた恰好である。「殺し合いなら他所でやれ!」と憤激の声を上げる人間も少なくないのだが、悲痛な思いを裏切るように銃弾の応酬は激化の一途を辿っており、数多くの人間が巻き添えを食う可能性も高まりつつあった。
比喩などではなく、
「……あれは……」
しかし、キリサメの双眸は眼下の戦闘とは別の場景を映していた。黒雲垂れ込める地上を逃げ惑っているだろうエスパダスたちを捜し当てるべく電柱の
平野よりも高い位置に所在する
ただそれだけならば大して驚く理由もない。鈍色の煙がキリサメを動揺させたのは耳障りとしか表しようのない
一昨日の晩と同じように大規模なデモが起こっている証拠であった。あるいはタクシーの運転手が怯えた調子で語っていた〝大攻勢〟が始まってしまったのであろうか――尋常ならざる爆発音も立て続けに発生しているようだ。
双眼鏡が手元にないので市街地の実態を確かめることは難しいが、遠くに轟音を聞くだけでも抗議活動の域を超えているのは明らかだった。気付くのが遅過ぎたものの、エスパダスと対峙している最中に鳴り響いた爆発音こそが戦端であったのかも知れない。
戦端である。キリサメにはリマが内戦の舞台になったように思えてならなかった。
(
幼馴染みの顔が脳裏を
不揃いの岩を積み上げただけの土台に錆びた鉄の棒を組み合わせた十字架が打ち立てられている。それ以外には何もなく、攻撃を仕掛けるには絶好の場所だった。警官隊の追撃を食い止めているのか、エスパダスの部下も同道しておらず、現在の護衛はトリニダードただ一人という状況なのだ。
この好機だけは絶対に逃すわけにはいかない――血に餓えた野獣さながらの唸り声を引き摺りつつ、キリサメは家々の屋根伝いにエスパダスたちを追い掛けた。
クーデターを恐れるタクシー運転手の話や、「ペルーに革命をもたらす挑戦の狼煙」と大仰に語られたエスパダスの言葉など手掛かりは幾つもあったのに、現実として火蓋が切られるまで内戦の可能性に辿り着けなかったのだ。自分の鈍さと愚かしさを悔やみながら歯を食いしばったキリサメは戦火に飲み込まれていく幼馴染みの姿を想像して動揺が抑えられなくなった。
標的には間もなく追い付く。肩に担いでいた『
不安も焦燥も――
「二一世紀のペルーで〝
猛禽類さながらに上空より襲い掛かるキリサメに勘付いたトリニダードは警護の対象であるエスパダスを突き飛ばすと、ガンベルトの背面に吊るしていたボウイナイフを左手で引き抜き、これを禍々しい『
「――確か両親とも日本人だったよな、おぼっちゃんはよォ。全身に流れる血が出たとこ勝負の〝
急降下の勢いを乗せた『
逆にボウイナイフの刀身をノコギリの如き刃に引っ掛けてキリサメを押さえ込み、腹部に蹴りを見舞うなどトリニダードの身のこなしには一部の隙も無駄もない。
「待てッ! ……今は待て。まだ殺すんじゃない」
エスパダスから制止の声が掛からなければ、右手に構えたリボルバー拳銃でもって追撃の弾丸を繰り出し、キリサメの眉間を吹き飛ばしていたに違いなかった。
「自我を棄てて血を求めるなど犬畜生にも劣る振る舞いだ。今、この瞬間にもペルーの民は未来を目指して突き進んでいる。……それは人間の戦いだ。人間らしくありたいと願う意志を炎と変えて革命の狼煙を挙げたというのに、大義も持ち得ぬキミは――」
有薗思穂という雇い主を放り出してまで〝敵〟を追い掛けてきた意味を
腹部への蹴りでもって撥ね飛ばされたキリサメは、片膝を地面に突きながら上体を引き起こし、エスパダスに向かって「憎悪」の二字以外は何も宿っていない眼光を浴びせた。
交戦中であるはずのトリニダードさえ眼中にはなく、〝生きていてはいけない存在〟の
詰問に対する
「……キミの目に映るのは〝真実〟ではなく、己の苛立ちを癒す幻想としての〝事実〟だけのようだ。祖国の〝現実〟すら〝キミ自身の事実〟の前には意味を
数歩ばかり下がったエスパダスと入れ替わるようにキリサメと対峙したトリニダードは臨戦態勢を完全に整えていた。ボウイナイフの
そのトリニダードにエスパダスは〝場〟を譲った形である。それはつまり、キリサメの始末を彼に託したことを意味しているのだった。
「大将のお許しも出たところで心置きなくやり合おうじゃねェの。兄貴の
「人の命を食い物にしてきた『神父』の弟に相応しい台詞だな。……その兄貴が『
器用にもボウイナイフを
相手は母を殺めた仇の弟。そして、トリニダード当人からすれば自分こそが兄の仇。
様々な疑問を抱いてはいるものの、戦いが避けられないことだけは顔を突き合わせる以前から分かっていたのだ。改めて交戦の意志を確かめ合う必要もあるまい。トリニダードを退けなければ〝生きていてはいけない存在〟まで辿り着けないのだから、返り討ちにする以外の選択肢などあろうはずもなかった。
復讐の連鎖を断ち切るといった高尚な理由ではない。行く手を塞ぐ邪魔な存在は蹴散らして進めという母の教えに従い、キリサメは自分のことを兄の仇と呼び付ける男に突っ込んでいく。
暴力だけが生き抜く
間合いを詰めるまでに撃発されても対応し切れるよう銃口の向きに意識を集中させた。無論、それだけで銃弾が飛んでくるタイミングを読み取れるわけではない。
銃を手に入れただけで無敵になったような思い違いをする手合いは迂闊に殺気を膨らませる。それ故、撃発のタイミングが手に取るように分かり、突進の間に小石でも拾って投げ付けてやれば容易く拍子を崩せるのだ。
ところが、トリニダードは顔に冷笑を貼り付けているだけで欠片ほども殺気を表に出さなかった。それでいて標的の眉間から決して狙いを外さないのである。『
余裕の表れというものであろうか、キリサメが懐深く潜り込んでくるのを待ち構えているようにも思えるくらいだ。両手で一挺ずつ銃器を構えているというのにトリニダードはただの一度も
迎撃すら放棄したかのようなトリニダードを訝ったキリサメは『
「聞いてるぜ、この石頭で何人か、『組織』の野郎を再起不能にしたってなァ――」
一瞬の急加速で相手の目を惑わし、不意打ちで鳩尾を穿とうとしたわけだが、直撃を許してくれるほどトリニダードは甘くはなかった。キリサメが頭突きへ転じる直前に右足を振り上げ、硬い革靴の裏でもって眉間を受け止めたのである。
頭突きを仕損じた上、膝の屈伸による前蹴りをまともに喰らわされたキリサメではあるものの、その状態から強引に腰を捻り込み、横一文字に『
「――
「ぐゥ……ッ!」
外から内に閃き、脇腹を抉ろうとしていた横薙ぎは、キリサメの右側面へすり抜けるような形で踏み込んだトリニダードによって物理的に押し止められてしまった。『
肘の可動域とは反対側に右腕を押さえられ、これに連動する形で腰の捻りまで封じられたキリサメは、咄嗟の判断でその場に身を沈み込ませた。これによってリボルバー拳銃の銃口から逃れようと図ったわけだが、後方へ飛び
地面を擦るかのような軌道で撥ね上げられたソードオフライフルの銃身はボクシングで
右手に握り締めている『
ノコギリの如き刃も先端部分には
果たして、二重の打撃を受けたトリニダードは姿勢を大きく崩している。
すかさず左方に跳ね、間合いを離そうとするキリサメだが、これを追尾するように銃声が轟き、鼻先を弾丸が
「何なんだ、こいつ……この動きは……」
「――結構、面白ェだろ? 裏社会の現場主義ってェヤツさ」
「何……ッ⁉」
百戦錬磨と言い表すのが何よりも似つかわしく思える青年にとっては、ほんの少しだけ相手の身のこなしを鈍らせるだけでも十分であったらしい。キリサメが一瞬の驚愕から立ち直る頃には厭味な笑い顔が正面まで回り込んでいたのである。
二挺拳銃の狙いが定まるより早く『
〝軸〟自体はトリニダードに蹴り倒されてしまったが、そのときには既にキリサメの身体は宙に放り出された後であり、素早く腰を捻り込むや否や、延髄目掛けて反撃の前回し蹴りを繰り出した。
常人であったなら――キリサメが今まで戦ってきた相手であったなら、極めて少ない例外を除いて間違いなく直撃させられたはずであるが、結果的には新たな例外が加わってしまった。死角からの奇襲にさえトリニダードはコンマ一秒も遅れることなく完璧に反応してみせたのである。
「よォ、コンマ五秒ぶりってトコかな?」
左右の踵を軸に据えて素早く旋回したトリニダードは、この上なく厭味な笑みを引き摺りながらキリサメに向き直り、ソードオフライフルで心臓を、リボルバー拳銃で下腹部を、それぞれ正確に狙い澄ましていた。
攻撃を仕掛ける度に返り討ちに遭うキリサメは、後頭部にも目玉が付いているのではないかと訝ってしまうような芸当を披露されても冷静だった。歴然とした力量の差を幾度も見せつけられたことで、却って動揺が小さくなったのである。「この男との間には埋め難い差がある」と、諦めにも近い境地へ達してしまったわけだ。
格闘技の試合でもないのだから相手の技巧を凌駕する必要はない。好機が巡ってくるまで凌ぎ続け、確実に息の根を止めるだけだ――そのように割り切ったキリサメは、振り向きざまに撃ち殺されなかったことへ違和感すら覚えていたのだ。
今も
頭部が地面を擦りそうなほどの低さで逆立ち状態になるという曲芸めいた
その斬撃は過剰なくらい砂埃を舞い上げるようにして繰り出された。視界を塞ぐと同時にノコギリの如き刃でもって脇腹を抉り取るという二段仕掛けの荒業である。キリサメは先んじてトリニダードの右足の甲を踏み付け、絶対に逃げられないよう杭の如く地面に押し込んでいた。
「兄貴の形見に振り回されてる内はダメダメだぜェ~? ただ重いだけの役立たずなんざ放り出すに限るっしょ!」
「黙れッ!」
「反抗期のお子様らしい噛み付きっぷりだがよ、お兄さんのタメになる話は素直に拝聴しとけっての。
トリニダードの高笑いに混じって鳴り響いたのは耳障りな金属音だった。
斜め下から掬い上げるような『
砂埃による不意打ちなど当たり前のように避けられており、キリサメの側だけが一方的に劣勢へと追い込まれていた。
眉間に向けられたソードオフライフルの銃口だけは外そうとした試みたものの、キリサメの腕力では微動だにしないのである。それでいてトリニダード本人は大して力を込めているとも思えない涼しげな顔なのだ。
このままでは競り負けると直感したキリサメは背中から地面へと身を放り出し、次いで両足を振り上げ、靴の裏をトリニダードの腹部に添えたまま膝を大きく屈伸させた。瞬時にして両足のバネを引き絞り、相手を後方目掛けて投げ飛ばした次第である。
すぐさまに上体を引き起こし、宙に舞ったトリニダードを『
これまで絶好の機会が巡ってきても火を噴かなかったリボルバー拳銃が目を覚ましたかのように空中から三発分の弾丸を撃ち込み、彼の前進を阻んでしまったのだ。
着地と同時に再び間合いを詰めたトリニダードはリボルバー拳銃の
このとき、二つの銃口は地面に向けられており、持ち主の踏み込みと連動するようにして火を噴いた。しかしながら、キリサメの足元を脅かそうというわけではない。発砲時に生じる
「こいつ――ッ!」
ボウイナイフの切っ先が頸動脈を掠めるか否かという寸前でトリニダードを蹴り剥がしたキリサメは、続けてデタラメに『
尤も、トリニダード当人は腹部に蹴りを受けた直後には間合いを取っており、少しばかり離れた位置で厭味な薄ら笑いを浮かべている。
「兄貴を殺したっつーから、どんなモンかとワクワクしてたっつーのに案外、だらしねぇのな。それとも〝例のアレ〟を使い始めてからが本番ってワケかい」
挑発の意図を込めてせせら笑うトリニダードは、丁度、エスパダスを背にするような形で立っている。そして、そのエスパダスは錆び付いた十字架の前にて屹立し、そこから一歩たりとも動いていなかった。腕組みしたまま両者を見守る姿は、いかにも決闘の立会人といった風情である。
あの忌々しい革命家気取りの首さえ刎ね飛ばすことができれば、心に垂れ込めた
『
キリサメも武器と体術を複合して使うことがないわけでもないが、その完成度はトリニダードと比べるべくもない。彼は戦闘技術と身体能力の両面で規格外の強さを誇っており、ここまで実力の差が開いている相手を撃破する自分の姿など全く想像できなかった。
そもそも、だ。キリサメは自分の戦闘力を遥かに凌駕する敵を向こうに回すことさえ久方ぶりなのである。ここまで追い詰められるのはエスパダスがリーダーとなる以前の『組織』に壊滅的な痛手を与えた戦闘以来であろうか。
トリニダードの兄である『神父』を葬り、これと結託していた『組織』と正面からぶつかり合うことになった際、彼らが雇ったという傭兵と
一言で表すならば奇人である。トレードマークのニット帽を頑なに被り続ける風変わりな日本人だったが、数年前までフランスの
しかし、イラン由来の拳法を駆使した格闘技術だけは認めざるを得なかった。屍で埋め尽くされた悪夢のような場所で心身の限界を超えるような死闘を演じ、その果てに辛うじて生き残ったのだが、結局、息の根を止めることはできなかった。
それどころか、互いに命を拾った後は腐れ縁のようになってしまい、彼がペルーに滞在している間は甚だ不本意ながら友人同然に行動を共にしていたのである。
(……そうだな、あのニヤケ顔を想い出すんだ、この男は……)
ニット帽の男も飄々としていて掴みどころがなかったが、他人をからかって弄ぶような立ち居振る舞いなどはトリニダードと似ていなくもない。イラン由来の拳法を
ニット帽の日本人傭兵に匹敵するような腕利きの者と常日頃から戦い続け、心技体の三本柱を鍛え上げていればトリニダードとも互角に渡り合えただろうが、元来、キリサメには手強い相手を選んで勝負を仕掛ける必要もないのだから、これを怠慢とは詰れまい。
自分より弱そうな相手を狙うこと――それが生きる糧を得る為に必要な〝掟〟である。〝表〟の
おそらくは数え切れないほどの死地を潜り抜け、その度に激烈な戦闘を経験してきたものと思しきトリニダードとの間に厳然たる差が生じているのは自明の理であろう。
(……僕のことをナメて遊んでいるにしては、どうにも不自然なんだよな……)
『組織』のリーダーに対してさえ軽薄な態度で接するトリニダードだけに自分よりも戦闘力が劣ると分かった相手を遊び半分でいたぶっていると思えなくもないのだが、確実に仕留められる状況へ持ち込みながら
何しろ銃口を向けられるという絶体絶命の状況にも関わらず、これまでの攻防に於いて実際に命の危機を感じた場面はごく僅かだったのである。発砲するにせよ、ボウイナイフでもって斬り掛かるにせよ、キリサメが確実に回避動作を実行できるよう意図的にテンポを遅らせているようにも感じられるくらいなのだ。
始末を託したエスパダスに反する行動であることは言うに及ばず、そもそも自分は兄の仇ではなかったのか。激情の赴くまま
部下には〝激烈な反撃〟を警戒するような口振りで急所は外すべしと命じておきながら、自分自身では頭部や胸部ばかりを狙っているのだ。これもまた矛盾しているではないか。
トリニダードの思考がどうにも理解できず、首を傾げそうになるキリサメだったが、その
デモ隊の暴走あるいは〝大攻勢〟は激化の一途を辿っているようだ。
「……キリサメ・アマカザリ。キミの耳にも届いているか、この国の断末魔が。生物も社会も絶えず循環し続けることで進化の
エスパダスから言われるまでもなく、もはや、
立ち止まっている場合ではない――その焦燥は止まっていたキリサメの足を強引に衝き動かした。無論、それは玉砕覚悟の特攻まで精神が追い込まれた結果に過ぎない。
野に伏せる野獣と見紛うばかりの前傾姿勢になったキリサメは『
「――ああ、そうとも。僕にはもう時間がない……ッ!」
この禍々しい『
瞬時にして引き絞ったバネを生かして勢いよく振り落とされた縦一文字は命中さえすれば間違いなく致命傷を与えられたであろうが、焦り過ぎて狙いを誤ったのか、それとも動揺から距離感が狂っているのか、トリニダードが後方に飛び
傍目には空振りとしか見えない攻撃だが、キリサメの額より噴き出した冷たい汗は技を仕損じた悔恨の発露などではないのだ。そもそも、彼の
地を這うかのように駆ける最中、巻き上げた砂埃を隠れ
専門的な訓練を受けたこともない為、勘と実戦での経験に頼ったものではあるが、自身が発揮し得る初速を見極めた上で至近距離から投擲を試みたのだ。
不意打ちだけに一瞬でも反応が遅れたら命取りとなる。事実、キリサメは長い前髪で覆い隠されていない右目一つに狙いを定めていた。
「大リーグのトライアウトにでもチャレンジしたら、そこそこイケるんじゃねェ? その前にビーンボールの
起死回生の石つぶても飛び道具の巧者には通用せず、難なく
石つぶてをしくじった直後、彼は更に深く踏み込んでいく。しかも、刀身を垂直に振り落とすという動作に合わせて『
順手から逆手に構えを直したキリサメは上体を撥ね起こしながら腰を捻り込み、『
「大リーグよりも俺と社交ダンスでペア組んでみるか? ちょっとずつ息も合ってきたコトだしよ。お前さん、見てくれもイケてっから女物のドレスが似合うハズだぜ」
「ふざけ――」
次いでトリニダードは互いの背中を擦り合わせるような恰好で己の身を転がしたのだが、この動作は立会人たるエスパダスに弔いの言葉を唱えさせるものであった。逆手に構えた『
キリサメの両脇から腕を差し込んだトリニダードはすかさず二挺拳銃の銃口を押し当てた。斜め下から抉るような形で右脇腹を脅かす銃口は、体内を通って心臓を狙っている。
トリニダードは互いの右足を
冷たい刃先が動いたときには頸動脈が切断される――死の気配が薄皮一枚の向こうに漂うような状況まで追い詰められたキリサメであるが、やはり、自分が本当の瀬戸際に立たされているとは感じられなかった。
危険を察知する感覚が狂ってしまったのではないかとキリサメ本人も思ってはいるのだが、確実に命を奪える体勢に持ち込んでおきながらトリニダードが殺気を破裂させないこともまた事実なのである。彼には
「……お前、本当に『神父』の
背後から組み付かれた状態は、最も近くで言葉を交わせることを意味している。即ち、密談に最適とも言えるわけだ。やや離れた位置に立つエスパダスには決して聞こえない小さな声で開戦以来からの疑問を紡いだキリサメは、喉の奥から押し出すかのような笑い声を
トリニダードから返された
ひょっとすると彼は〝一進一退の攻防を演じる姿〟をエスパダスに見せ付けているのではないのか。本当は兄の
地面に投げ落とされながらトリニダードはリボルバー拳銃の
それはエスパダスの脇をも通り抜け、錆びた十字架に撥ね返されたのだ。少しばかり弾道が変わった為、〝鉛玉〟の一発は『恥の壁』の向こうに飛んでいったが、もう一発のほうは背後からキリサメの右腕を捉えた。いわゆる、『
トリニダードは連射の時点で
レインコートもろとも腕の肉を少しばかり抉られたが、傷口に走る激痛はともかくとして、腕の機能に支障を
(……今ので合計六発……)
標準的なリボルバー拳銃は大概が六連発式である。文字通り、六発までしか弾丸を装填できないということだが、筒状の
それはつまり、先程の二連射によって装弾数を全て撃ち尽くしたということだ。
右の順手に『
これと同時にトリニダードはリボルバー拳銃の
左手に持ち替えたボウイナイフで『
キリサメは銃の名手に備わった力量を読み違えていた。
改めて
「銃の残弾が切れさえすれば勝ち目もあると思ったのだろう? そのように矮小で卑劣な
浅はかな考えを見透かされ、よりにもよってエスパダスから叱声を浴びせられたキリサメはさすがに歯噛みして呻いた。
相手を侮っていたのは自分のほうだと悟る頃にはリボルバー拳銃の
正面から二挺拳銃に晒される形となったキリサメは、撃ち殺される危険性がないものと確信しながらトリニダードの金的目掛けて右足を振り上げた。
左のローキックでもって急所への一撃を弾き飛ばしたトリニダードは
対するキリサメは耳の奥へこびり付いた残響を忌々しく思いながら眉根を寄せるばかりである。もはや、互いを殺さないという約束のもとでアクション・スタントを演じているようなものであった。キリサメの場合は「力量の差があり過ぎる為に殺したくても殺せない」という状況なのだが、結果としてトリニダードの〝遊び〟に付き合わされてしまっているのだ。
「……これ以上、僕の行く手を……遮るなァッ!」
中心街にて立ち上る鈍色の煙は秒を刻む
冷たい汗という形で発露する焦燥を一瞬の爆発力に換えたキリサメは二挺拳銃の銃身に『
「最後の切り札はド根性ってか。良いぜ、そういうノリも嫌いじゃねェよ。男の子っつうモンは血の小便垂れ流すくらいヤンチャでなくっちゃいけねェ」
さしものトリニダードも想定を上回る爆発力には圧倒されたらしく、革靴の踵を地面にめり込ませるような恰好で僅かに
防戦一方であったキリサメが勝敗の天秤を初めて傾けたのである。
右手一本で握り締めた『
これを迎え撃つトリニダードはソードオフライフルの銃身一つで『
その刹那、キリサメは『
すぐさまにトリニダードの右手首を掴み、互いの片足同士を
後頭部を激突させただけでは絶命には至らないだろうが、それでも意識くらいは断ち切れるはずだ。例え、一瞬でも構わない。身動きが取れない内に脇腹を踏み付け、折れた肋骨を内臓に突き刺してやる――どのようにして仕留めるかという胸算用を吹き飛ばしたのは鼓膜を揺さぶる一発の銃声であった。
左手首を掴まれたま状態のまま、トリニダードが地面に向かってソードオフライフルを撃発したのだが、その直後に投げを打った側であるキリサメのほうに異変が生じた。得体の知れない〝何か〟が作用し、トリニダードと共に地面へ落下していたはずの身体が重力に逆らって撥ね上げられてしまったのだ。
「――
先程の攻防に於いてトリニダードはすれ違い
銃身を切り詰めたライフルは発砲時の
一瞬の緊急回避動作からキリサメに術理を見破られたことを見て取ったトリニダードは、まるで答え合わせでもするかのように口の端を吊り上げてみせた。
キリサメの側はこれに応じる余裕など一片も残ってはいない。体勢を立て直して再びリボルバー拳銃を構えたトリニダードに対して、猛烈な
完全な無防備状態のまま、リボルバー拳銃の銃口を突き付けられていた。
「チェックメイト――汚職刑事の台詞を借りるようで胸糞が悪いが、……これで決着だ」
キリサメの背中に
殺戮者の本性を剥き出しにした右目は尋常ならざる
それは
胸中に秘めた真意はともかくとして、心臓を凍り付かせるような殺意を解き放ったという〝事実〟がキリサメ・アマカザリという命を押し流そうとしている。己の身を貫く死の気配に
追憶の彼方から響くかのような声は少しずつ大きくなっていき、やがてキリサメの脳を揺さぶるまでになった。
間もなくキリサメの意識は現実世界から切り離されて〝闇〟の底に沈んでいく。
奈落の底とも思えるような〝闇〟の只中に現れたのは『
「……例えどんなことがあっても、……どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ! キリサメ! 生きろッ!」
血の泡と共に吐き出された〝声〟が心の奥底で爆ぜるのと同時に一発の銃声が鼓膜を物理的に振動させ、キリサメの意識を現実の
最初に視界へ飛び込んできたのは、ペルーという社会の縮図とも呼ぶべき『恥の壁』である。富める者とそうでない者とを残酷に分断した壁は、自らの〝棲み処〟である暴力の世界をキリサメに想い出させた。
(母さん、僕は――)
弱肉強食の世界に自分を置いて逝った者へ心の中で呼び掛けたキリサメであるが、再び
「僕に『生きろ』と強いるのなら――ッ!」
至近距離から銃撃されて生き残れるとすれば、それは奇跡以外の何物でもないだろう。己の身に何が起こったのかも理解できないまま意識と命が同時に消し飛ばされ、それで一巻の終わりであった。
即ち、キリサメは自らの手で奇跡を起こしたということになる。『生きること』を轟然と吼えた彼は眉間に到達しようとしている銃弾を正確に視認し、
人智を超えた反応としか表しようがあるまい。至近距離で撃ち込まれた銃弾を回避することは言うに及ばず、視認さえ常人には不可能なのである。
しかし、一つの現実としてキリサメの目には一直線に向かってくる軌道が映っていた。〝鉛玉〟がスローモーションのように見えている。あるいは時間の流れる速度が変わってしまったと言うべきかも知れない。鼓膜で拾う音までもが
それはつまり、彼の中に於いて正面の男が
〝何か〟の破断する音が遅れて耳に届いたが、改めて確かめるまでもなくそれこそが彼の狙いである。最初のパンチで折れた肋骨を追撃の左拳で押し込み、心臓を食い破らんとしているのだった。
「――おいでなすったか、〝例のアレ〟がよォッ!」
人間離れしているとしか思えない動きを口笛でもって
神速の領域にまで達したのではないかと錯覚するような動きを大して
それ故に彼は決して止まらない。背中からぶつかった『恥の壁』を逆に蹴り付け、
しかし、ノコギリの如き刃を振り回す直前になって攻撃から回避動作へと切り替え、後方に飛び
その瞬間にも双眸を見開き、宙に残像を映すかと思えるほどの
ソードオフライフルの比ではないほどの轟音をキリサメは煙幕弾が撃ち込まれる前にも聞いている。ほんの少し前に思穂が口にした「
トリニダードの差し金であるのかは知れないが、実弾を伴わない空砲によって
自分の身に何が巻き付いたのかも確認できないまま、キリサメは
身を翻して三輪自動車の屋根に着地したキリサメは左手でもってロープを掴み返し、これを繰り出した相手の身を反対に引っこ抜いた。
遠心力に乗せて空中高く放り投げたのは小さな丸メガネを鼻に引っ掛けた優男である。果たして、右手にロープを握り締め、対の左手にトリニダードが口に
周囲に潜んでいた『組織』の伏兵であることを疑う余地はあるまい。
キリサメとしても右腕が不自由なままでは満足に迎撃態勢も整えられないのだが、二度三度とロープを掴み返されても困ると警戒したのか、この拘束は宙を舞っている最中に相手のほうから
「なんでェ、今日は随分と優しいじゃんか、ルー? その辺の
「出逢って何年も経つのだから、キミのようにパフォーマンスが趣味じゃないことくらい
「自然な流れで
古びた電柱を蹴飛ばすことで体勢を整え、トリニダードの傍らにひらりと降り立った優男は互いを揶揄するかのような軽口を叩き合いながらロープを手元に引き戻した。見れば数本分のロープを輪の形に束ね、ボウイナイフの鞘と一緒にスラックスのベルトから下げているではないか。
「……これは……どういうことなんだ……」
トリニダードたちは英語で会話している為、ペルー国内で主に用いられる
伏兵からの思いがけない横槍によって精神集中が断ち切られた影響か、今まで認識していなかった疲弊が一気に押し寄せてきたのか――眉間に脂汗を滲ませ、両肩を大きく揺するようにして荒い呼吸を繰り返すキリサメは、トリニダードたちの肩越しに一体の屍を見据えていた。
ほんの一瞬だけ大きく見開かれた瞼は再び半ばほどまで閉じられているが、瞳は正常に機能している。その屍は錆びた十字架に両腕が絡まったような状態のまま、額のド真ん中から大量の鮮血を迸らせていた。キリストの受難を彷彿とさせる姿で事切れているのは、紛れもなくエスパダスであった。
疎ましいくらい憂国の志を訴え続けてきた男の身に何が起こったのか、キリサメはすぐに勘付いた。ソードオフライフルの
その状態で銃撃を回避したのだから、流れ弾が後方のエスパダスに命中してしまうのは自明の理というものであろう。捕らえられた末の潔い刑死でも、名誉ある戦死でもなく、〝貰い事故〟によって命を失うなど政府転覆を画策した革命家の末路としては余りにも呆気なく、新時代の礎を標榜していた姿を考えれば惨めとしか言いようもない。
しかし、これを単なる偶然として片付けることはキリサメにはできなかった。
血の混じった咳と共に詰問を絞り出そうとするキリサメだが、それすらも混沌とした筋運びによって断ち切られてしまった。これまでになく近い距離で轟音が鳴り響いたかと思うや否や一発の砲弾が錆びた十字架に飛来し、エスパダスの屍をも巻き込んで炸裂した。
着弾地点を中心として四方八方に輻射された衝撃波は周囲の掘っ立て小屋を木っ端微塵に破壊し尽くした。広場の近くに住んでいた人々は
一方のキリサメは思穂から聞かされた「
「次から次へと何が――」
『恥の壁』に
掘っ立て小屋を吹き飛ばした衝撃波と照らし合わせると、爆発の規模自体はそれほど大きいわけではない。軍事兵器に明るくはないキリサメには分からなかったのだが、広場に撃ち込まれたのは
防耐火建材を選ぶ余裕など
被害が拡大しない程度に焼夷剤の量も調整されているのだろう。風に煽られて火の粉が飛び散った場合には延焼の可能性があるものの、キリサメの眼前で
「ビセットのヤツ、加減も知らずにやってくれたね……。証拠隠滅が望ましいというオーダーではあったけど、亡骸を『組織』の人間に確認させてから吹き飛ばしたほうが色々と効率的だったのに……」
「良いじゃねーか。おぼっちゃんの言葉じゃねぇが、何もかも向こうのオーダー通りってのはやっぱり面白くねェぜ」
片膝を突いて重心を落とし、その場で爆風と衝撃波を凌いだトリニダードは「打ち上げにステーキハウスっつう選択肢は消えたな。市内の良さげな店、調べといたのに」と傍らの優男に向かって笑いながら鼻を摘まんでみせた。
辺り一面には肉の焦げる
「――よォよォ、お待たせお待たせ、見たかよ、見たかよ? 一軒の火事も起こさねェで標的だけピンポイントでビンゴ! 自分の腕前に惚れ惚れしちまったぜェ~」
間もなく掘っ立て小屋の残骸を踏み越えて一人の男が姿を現した。豪快な笑い声を引き摺りながら歩いてきたその人物は呆然と立ち尽くしているキリサメの前を悠然と横切り、トリニダードたちのもとへと向かっていく。
出迎えた二人から苦笑交じりで『ビセット』と呼ばれた男は、二メートルを
それ以上にキリサメの目を引くのは大男が肩に担いでいるロケットランチャーだ。
煙幕弾でワマンたちを
ロケットランチャーを発射した際に付着した汚れであろうか、顔面の半分を覆うほど長いマフラーやボロ切れ同然のバンダナ、使い古しのジーンズはあちこちが黒ずんでいる。
「これで〝仕事〟も一段落だろ? とっととステーキ食いに行こうや! こちとら『バイス』の奢りだけを楽しみに南米くんだりまでやって来たんだぜ?」
「マジかァ? この状況で肉食おうってお前……、ど~ゆ~神経してんだよ。幾らでもご馳走してやっから、せめて別のモンにしようや。なあ、ルー?」
「ビセットも『バイス』もすっかり忘れているみたいだけど、今頃、市街地は大変な騒ぎになっているんだよ? 非常事態の真っ最中にレストランが営業していると思うかい」
ここから少しばかり離れたでは依然として『組織』の兵隊と国会警察の銃撃戦が続き、リマの中心街ではデモ隊の暴発が深刻さを増している。ペルーという国家そのものを
この男にとって
ここに至るまでの言行は何もかもおかしかったといえよう。果たして、数多の疑問に対する答えは三者の会話の中に潜んでいた。優男と大男は神父姿の青年のことを揃って『バイス』と呼んだのである。それはつまり、彼の本名がトリニダードでない証拠だった。
もはや、彼の発言は一切を偽りと切って捨てるしかなく、語られた経歴とて信用に足るものではなくなった。
「……お前、本当は『神父』の弟じゃないんだろう?」
「おっ、さすがにバレたか。名推理の通り、俺たちゃエスパダスの
『バイス・アドラー』と名乗り、左手の薬指にて煌めく結婚指輪を見せつけた青年は、英語からペルーの
次いで彼は優男のほうを『ルーファウス・クライバー』、大男のほうを『ビセット・ランカスター』と、それぞれ紹介していく。バイスから詳しく説明されることもなかったが、三人が古くからの仲間であろうとは察せられた。
「おいおい、そんなジト目はねぇだろ~。あんなに一緒に踊りまくった仲じゃないの」
「踊らされたのは僕だけだ。……胡散臭い連中を怪しむのは当たり前だろ」
「胡散臭いも何も、俺たちゃ『デラシネ』だよ。お前さんも〝裏〟の
「……『デラシネ』――」
『組織』の構成員でもないと明言したバイスは自分たちを『デラシネ』と称した。
確かにその言葉にはキリサメも聞き
〝根無し〟――つまり、特定の組織に所属しないフリーランスの殺し屋を指す隠し言葉であった。まことしやかな
〝闇の仕事人〟とも呼ぶべき『デラシネ』についてはワマンから聞いたこともあるが、長らく〝裏〟の
「……ペルーにも『デラシネ』は実在したんだな……」
率直に驚いているキリサメに対し、バイスは「人を
「ネッシーみたいに夢が膨らむハナシじゃなくて悪いがよ、俺たちゃ
「チームを組んでいるのは僕とビセットだろう。ただの助っ人を捕まえて自分んトコのメンバーみたいに紹介するのは良い迷惑なんだけどなぁ」
ルーファウスが事実との誤りに
「ンな小せェコト言うんじゃねーってばよ、相棒。実際、バイスとはもうず~っとツルんでるしよォ、広い意味ではチームで良いじゃんよ!」
「相棒と呼んでくれるのなら、僕の意見を尊重することを覚えて欲しいよ、ビセット」
三人のやり取りを眺めている内にキリサメの首は角度が徐々に傾いていった。
相変わらずルーファウスとビセットは英語で喋っているのでどのようなやり取りをしているのかは分からないが、
「……あんたたち、本当に『デラシネ』なんだよな? ランチャーなんて目立つ兵器を使う殺し屋なんて聞いたことがないけど……」
「僕も人のことは言えないし、妙な物を〝仕事道具〟にする『デラシネ』も少なくないから何とも言えないなぁ。この人がずば抜けておかしいのは間違いないよ、ウン」
「日本の少年とは思えねぇようなコトを言ってるな。江戸時代の日本にはオレみたいに大砲ぶっ放したり、
ペルー出身の少年に気を遣ったのだろう。ルーファウスは寄せられた質問に同地の
「僕は日本人じゃないし、あんたの話は半分も分からないけど、江戸時代にランチャーなんてなかったことくらいは知っているよ。まだサムライがいた頃じゃないか」
「ビセットの話を真に受けなくて良いからね。真顔で語ってる本人も受け売りだし、与太話と大差ないからさ」
自分が通訳している
「お前さんは拍子抜けするかもだけどな、メキシコの犯罪組織とのパイプ役っつう例の『神父』の身内を騙ったコトに大した意味はねぇんだよ。そのほうがエスパダスの『組織』に入り込み易かったから――それだけなんだぜ」
「……本当にあの『神父』とは兄弟じゃないんだな? メキシコ出身には見えないからおかしいとは思ってたんだけど……」
「
「……あそこで炭クズに成り果てた男はそんな話を真に受けたのかよ……」
「血の繋がりがねェ兄弟って説明したら速攻で信じてくれたよ、あいつ。政府への不信感を喚く前に、もっと身の周りのコトに注意深くならなきゃ、息苦しい世の中なんかで生きてけねぇぜ――あッ、もう生きてねぇけど」
拍子抜けとはいかないまでも、キリサメの中で張り詰めていたものが途切れたのは事実である。自分には迎え撃つ責任があるとさえ考えていた
言わずもがな、神父風の衣服も偽物である。ルーファウスとビセットはバイスの古馴染みという触れ込みでエスパダスに協力を持ちかけたという。
「――回りくどいやり方で『組織』に潜り込んだ理由を拝聴したいもんだねぇ、アメリカからおいでなすったお客さんたち? ペルーの
キリサメが続けるはずであった質問を横取りしたのは、瓦礫の山から割り込んできた第三者の声――思穂を伴って姿を現したワマン警部だった。
銃声が止まないということは『組織』の完全制圧には至っていないようだが、
ワマンの真隣にて手持ちの小型カメラを構えた思穂は、どれほど時間が経過しても衰える気配のない火柱へ釘付けとなっている。
一方のワマンはエスパダスが辿った末路や、トリニダードと偽名を使っていた青年の正体を把握している様子だ。そして、国家警察の存亡を左右し兼ねない汚職事件の重要参考人を始末された以上、三人の『デラシネ』を見逃すわけにはいかないのだった。
「あなたには皮肉なシナリオかも知れませんが、国家警察内部で蠢いていた策謀と同じことがペルーの裏社会でも起きたのですよ。……毒が他にまで回る前に組織の癌は速やかに切除するというコトです」
「自分らで
「……おじさん、今、物凄くイヤな予感がしてるんだが、まさか、今度の一件は……」
「そのまさか――ですよ。首席監察官が暗躍している情報も我々の依頼主は把握しておられたようでね。これ幸いに便乗したのです。一時雇いの我々に詳しい話は届きませんでしたが、国家警察長官というパイプ役を切り捨てたところで痛くも痒くもないのでしょう」
「信じらんねーけど、この革命家気取り、ちょっとしたカリスマ的存在だろ? そういうヤツが身内に粛清されたとなりゃ内部分裂まっしぐらになっちまわァ」
「ですので、カリスマを失った恨みが別のモノへ向かうよう誘導したということです。国家警察との間で発生した戦闘の流れ弾――それは劫火への
ルーファウスとバイスによって明かされた真実にワマンは苦虫を噛み潰したような
そればかりではない。二人の話によれば、首席監察官が主導した正義の執行までもが反政府組織の内部粛清に利用されたことになる。
カリスマに心酔していた者たちは死に物狂いで国家警察に復讐の想念を叩き付けることだろう。それはつまり、命令一つで特攻を仕掛ける〝爆弾〟を精製したも同然なのだ。ことのついでにエスパダスの直接の部下――即ち、反乱分子まで自分たちは何ら苦労せずに排除してしまったのだから、一挙両得どころではあるまい。
果たして、キリサメが想像した通りにあの流れ弾までがバイスの――否、彼らを差し向けた〝依頼主〟の計画だったわけである。
自分が他者の掌の上で転がされていたことなど最期まで気付かず、国家を覆した革命家という幻想と同化したまま逝ったエスパダスは、ある意味に於いて
「ここまで
三人の内、一人であろとも逃がすまいと電撃銃を構え直すワマンであったが、その出鼻を挫くようにズボンのポケットから哀愁漂う音色が聞こえてきた。エスパダスと対峙した際に響き渡った希更・バロッサの歌声と同じように、それもまた携帯電話に着信があったことなどを告げる合図である。
油断なく『デラシネ』たちを見据えながら液晶画面を操作し始めたワマンに向かって、ビセットは陽気に口笛を吹いてみせた。先ほど彼の
『ケダカきケダモノ』とは『
光と闇の軍勢と敵対する第三勢力であり、世界を滅亡に導くとされる
英語が分かる思穂はビセットの言葉に反応を示し、親指を垂直に立てて同志であることを示したが、相棒であるルーファウスのほうはアニメの題名すら知らないだろう。
「――で、俺たちはどうするんだい? 加勢も到着したところで、とことん
先程までの攻防に於いて蓄積された疲弊と、遠いところで繰り広げられる謀略合戦へ知らない間に巻き込まれていた虚脱感へ同時に見舞われたキリサメは、油が切れたブリキ細工のようにぎこちなく
『神父』の身内でないことが判明した以上、彼と戦いを継続するだけの理由がない。『
そもそも、〝無関係〟な人間と喋っている時間などキリサメは持ち合わせていない。今すぐに乾いた丘を駆け下り、幼馴染みの安否を確かめなくてはならないのである。
「あんたこそどうなんだ? ……僕の始末も依頼されているんじゃないのか?」
「お前さんと因縁があったのはエスパダスの『組織』じゃねーか。末端の事情なんてモンは
「……僕なんて視界にも入らない虫けらってコトか。それならそれで助かるかな……」
キリサメ自身、母親を死に至らしめた『組織』より〝先〟のことなど少しも考えられなかった。バイスたちの〝依頼主〟まで叩き潰さなければ恨みが晴らせないというわけでもなく、もはや、こだわるべき因縁そのものが消滅したのである。
それに、だ。無関係な人間まで殺して回れば、母の命を奪い、リマ市民を暴力に駆り立てた『組織』と同類になってしまう。こればかりは絶対に越えてはならない一線だった。
キリサメに戦う意志がないことを確かめたバイスは二挺拳銃とボウイナイフをそれぞれガンベルトに仕舞い、次いで大仰なくらい肩を竦めてみせた。
「ぶっちゃけ、助かったぜ。エスパダスの先代どもをブチのめしたっつう〝アレ〟を実際に見たときゃ腋の下に冷てェ汗が噴き出したんだぜ? ……ちょいとブルッちまったよ」
深手を負った脇腹をわざとらしく摩りながら冗談めかして口笛を吹くバイスだが、あの
「しっかし、ギリッギリだったなァ。
「……その話、一体、どこで……」
余人には理解不能な判然としない言葉を交わしながら徐々に怪訝な顔へと変わっていくキリサメの様子をルーファウスが苦笑混じりに見つめていた。
「気の利いた言い回しを用意してやれなくて申し訳ないけれど、キミとごく親しいという情報提供者から教わったんだ。お陰でこちらも色々と算段を立てられて助かったよ」
ルーファウスは個人名を伏せていたが、『デラシネ』たちに自分の情報を売り飛ばした人間についてキリサメは大いに心当たりがあった。裏社会の人脈が豊富であり、しかも
脳裏に蘇ったニット帽の男は自分の行いを
〝ある特殊な条件下〟に於いては銃弾だろうと何だろうと、全く通じなくなると情報提供者から教わったのだろう。
流れ弾という死因にまでキリサメは〝鍵〟として組み込まれていたわけだ。ルーファウスの投げ縄で捕獲される寸前に轟いた空砲とて〝ある特殊な条件下〟を計算に入れて実行されたものであろう。何もかも『デラシネ』たちの思惑通りに転がされていた恰好だが、心身ともに徹底的に打ちのめされてしまったキリサメには怒りなど湧き起こらなかった。
(……今度、リマで見かけたら、もう片方の足もツブしてやる……)
代わりに自分の情報を売り飛ばした男への
「彼らを相手にしないのは賢明だよ、キリサメ君。……こんなところで揉めてる場合じゃなさそうだ。どうやら、本当に取り返しのつかないことになるかも知れん……」
キリサメの選択を最善であると後押しするワマンである――が、その声は普段の曲者めいた態度が嘘のように震えており、ヘルメットで覆われていない顔面は血の気が殆ど消え失せていた。本人も無自覚のまま渾身の力で
彼のもとに穏やかならざる報告が届いたことは瞭然であり、ペルーの
今、このときに緊急事態が
「……デモ隊とぶつかっている仲間からの連絡によるとだね、一部の連中が『アチョ闘牛場』へ忍び込んだそうなんだが……」
「どうして、あんなところに? 冬は閉鎖されてるんじゃ……」
発言のみを抜き出せば冷静さを保ったまま状況を分析しているように見えなくもないキリサメだが、実際には両膝が小刻みに震えており、今にも崩れ落ちそうだった。『
改めて
「そうですよ、闘牛場へ向かっているっていうのは見間違えで、実は危険な場所から逃げ出そうとしているんです。きっと、そうだ。そうでなきゃ、あんな場所に用事は……」
「キリサメ君……」
真冬の現在は闘牛の催しなど行われていない。華麗にサーベルを振りかざす闘牛士も、その好敵手たる
決闘の舞台を取り囲む雛壇式の観客席に政府関係者でも並べて〝民の声〟でも聞かせるつもりだろうか――そうとしかキリサメには考えられなかった。クーデターの前兆などとは想像してもならないと、己に言い聞かせていた。
「アチョ闘牛場ですか……。エスパダスたちがデモ隊に用立てた武器の引き渡し場所だと聞いていますが……」
眉間に皺を寄せたルーファウスが自分の知り得る情報を明かした瞬間、ついにキリサメの両手から一切の力が抜け落ち、掌から『
おそらくワマンはアチョ闘牛場にて武装を整えたデモ隊が攻勢に出たことを告げられたのだろう。ペルーの若者の未来を憂うこの男は、武器密売を主導したというキタバタケの家族が――
「闘牛場に集められた武器が港湾労働者の手引きによる物だと知っていたら、キミの幼馴染みが駆け付けないわけはないから――」
「――そんなの、あなたに言われなくたって分かってるッ!」
想定し得る最悪の事態を口にしたワマンをペルーの
(まだ何も……何も終わっちゃいないんだ。いくら
思い過ごしに決まっている――そのように心の中で唱え続けるキリサメだが、早鐘を打つ心臓はどうあっても誤魔化しようがあるまい。アチョ闘牛場ではなく
ある意味に於いて幼稚な思考の持ち主ともいえるキリサメには、何もかもかなぐり捨てて幼馴染みのもとへ駆け付けるという選択肢が最初から存在していなかった。闘い続けなければ生きていけないこの少年は、目の前の敵を全て蹴散らさない限り、決して〝道〟は開けないと信じて疑わなかったのである。
血と破壊の果てに命を繋ぐ糧を手にしてきたキリサメは、今、己の人格形成の大部分を占める闘争本能によって追い詰められていた。
*
その日のリマを
労働者の権利などを脅かし兼ねない新たな法律に抗議するべく集結した群衆は、幾重にも部隊を展開させることによって〝大統領宮殿〟への進路を封鎖した国家警察を視界に捉えた瞬間、将来への不安を訴える手段であったはずの〝暴力〟が憤激を癒し得る目的にすり替わってしまったのだろう。
一瞬たりとも途切れることなくペルーの国歌を合唱し続ける行進は、海外より取材に訪れた
数日前の深夜に決行された大規模なデモでは密かに調達された特殊警棒が警官隊の盾を破壊して前衛を脅かす場面もあった。そのように強力な武器はごく限られた人間の手にしか渡っていないものの、群衆が一丸となって襲い掛かれば〝政府の犬〟だろうと退けられるという妄念に取り
デモ隊の先頭を進んでいた者たちは口にするのも
国旗を括り付けておく為の
デモ隊と国家警察が最も激しく衝突したのは、大企業の社屋といった大きな建物が軒を並べる区画の十字路であった。
地中に廃タイヤを埋めて階段を作らなければならないほど物資が乏しい
路面には政府を誹謗する内容の
同じ
革命家が唱える高尚な理想など
夢想家のまま逝った男の〝置き土産〟によって破壊衝動のみが加速し、その果てに暴力という名の暴風雨がリマに吹き荒んでいた。〝政府の犬〟に襲い掛かる群衆は誰も彼も革命の
この世を思うがままに変えられるかも知れないという
自らを十字架へ見立てるかのように両手を広げた母親は、国家警察ひいてはカメラを向けてくる報道関係者に「この子から未来を奪わないで」と記された横断幕を掲げた。
たった一人の小さな行動は〝敵〟の隊列を乱すには過分なほどの効果を発揮した。前衛の注意が引き付けられている間に別の通りを抜けて迂回してきたデモ隊が警官隊の横っ腹目掛けて突撃したのである。
直接的に中衛から後衛を突き崩さんとする奇襲攻撃だった。細心の注意を払って母親と赤ん坊を無傷のまま脇道まで連行した国家警察は即座に隊列を組み直し、横合いから攻め寄せてきた者たちに銃火器を向けた。このときには既に発砲の許可が下りている。
「――撃てェッ!」
間もなくペルーの
しかし、今度は手加減など一切なかった。催涙弾を装填したグレネードランチャーまでもが幾度も火を噴き、怒号を引き摺りながら向かってくるデモ隊を脅かした。
「――
対するデモ隊は過去の選挙で用いられた看板を幾つも組み合わせて一枚の分厚い盾を作り、これを
本当に銃を向けるべき相手は同じペルーの民ではなく、貧困を是正もせずに私腹を肥やし続ける政治家たちではないのか――この国に生まれ付いた者ならば誰もが共有する問題提起と共に警官隊へぶつかっていくのだ。
未来を憂う純粋さが根底にあるデモ隊は物陰に隠れて徐々に接近するような小賢しさを持ち合わせてはいない。ましてや、悠長に構えていられるような余裕もない。一秒でも早く〝大統領宮殿〟に突入して忌むべき新法を撤回させねばならないのだった。
突撃の間隙を縫うようにしてデモ隊から大小の石が放物線を描いて警官隊に降り注ぐ。側面に回り込んだ者ばかりでなく正面から押し寄せる本隊も投石を始めた為、挟み撃ちとまでは行かないものの、二方向から同時に飛び道具を受ける状況に陥っていた。何人かはプロテクターを破壊され、後方に控えている救急車へ血だらけで運ばれていった。
奇襲部隊が押し寄せてきた
もはや、軍隊が動員されても何ら不思議ではない事態であるが、国家警察の側は頑として
今や誰もが心に血を流していた。政府への憎しみを暴発させたデモ隊は明日をも知れぬ社会の仕組みに絶望し、これを食い止めんとする国家警察は同じ苦しみを分かち合う
今、ここで政府の傲慢を許してしまえば、人間らしく生きる権利すら奪われる――決死の覚悟を胸に秘める者たちは、ゴム製の散弾をまともに喰らっても歯を食いしばって耐え抜き、全身の至る箇所を青く腫らしながら前進し続けるのだ。
側面から襲い掛かった奇襲部隊の多くはエスパダスが手配した特殊警棒を握っている。数日前の衝突と同じように警官隊の盾を打ち砕いたが、二度目ということもあって国家警察の側も対策を立てている。相手の意識が前方の人間へ集中している間に数人がかりで飛び掛かり、各個、地面に組み伏せて逮捕していくのだ。執拗に抵抗する者は警察仕様である硬質ゴム製の警棒で滅多打ちにし、力ずくで屈服させるしかなかった。
その最中、装甲車両の間隙から飛び出していった騎馬警官たちがデモの本隊を大いに
〝民衆〟が相手では全力を出し切れない国家警察と、〝政府の犬〟など殺してしまっても構わないとさえ捉え、狂気じみた勢いでぶつかっていくデモ隊。一進一退で拮抗しているようにも見える攻防は鈍色の煙によって覆い隠されようとしていた。
警官隊が撃ち込んだ催涙弾とデモ隊が投擲した発煙筒より噴き出したガスが入り混じり、濃霧の如く十字路に垂れ込めているのだった。
両者の視界がいよいよ遮蔽されようかという間際のことである。鈍色の深い霧で塗り潰された向こう――デモ隊の最後尾の辺りから二頭分の蹄の音が突き抜けた。それは十字路目指して少しずつ近付いていき、勇壮なる
果たして、鈍色の霧を突き破って姿を現したのは、駿馬に打ち跨ったキリサメ・アマカザリたちである。
余人に顔を晒さないようレインコートのフードを深く被ったキリサメは左手一本で巧みに手綱を捌いている。右手に握り締めた『
鞍の後ろに乗せた思穂には腰のベルトを掴む手を絶対に離さないよう言い付けてある。万が一、落馬したときにはその場に置き去りにすると通告しているわけだ――が、それにも関わらず、彼女は右手でもって小型カメラを構え続けていた。
当然ながらキリサメの腰に回されるのは左手一本のみであり、馬体が動揺する度に翻弄されて姿勢は全く安定しない。仮にこの馬が前足など上げたときには呆気なく振り落とされてしまうだろう。
思穂は己の身の安全よりも〝真実〟へ臨む使命感を優先させているのだ。リマを呑み込んだ動乱を抗議デモの渦中にて捉える
「――それにしても、キリサメ君に乗馬の心得があるなんて初めて知ったよ。なかなかサマになっていじゃないか。まさか、お袋さんの塾では馬術まで教えていたのかい?」
「……馬を盗んだときに乗り方を憶えました」
「窃盗の自白はおじさんの管轄外だなぁ。ちなみにどこに売ったの?」
「いえ、……潰して食べる為に、その……」
「そっちか~。おじさん、好き嫌いは無いほうだけど、
「無駄口を叩いている場合じゃありませんが、あなたの好きなテンジクネズミの串焼きも大概ですよ」
並走するキリサメへ軽口を飛ばし、一喝されてしまったのはワマン警部である。つまり、彼らが
反政府組織の画策によって密売された武器弾薬はアチョ闘牛場へと運ばれ、その引き渡し場所に
単純な移動速度は警察車輌のほうが遥かに速いだろう。しかし、リマの中心部を走る道路は数千にも
しかし、『恥の壁』が広がる
エスパダスの
ともすれば職務放棄を叱責される恐れもあるのだが、自身の懲罰よりも前途ある
未来の可能性を守ることこそ何よりも優先されるべきという決意へ呼応したのか、ワマンが跨った警察馬が猛々しく
「エスパダスだったら、このモーセの十戒みたいな光景にさぞ興奮したんだろうが、おじさんは立場的に気が滅入る一方だよ」
「……結局、あの男は人形遊びがしたかっただけでしょう。死んだ今も
二頭の警察馬へそれぞれ打ち跨ったキリサメたちはデモ隊の後方から割り込み、十字路まで突き抜けた次第である。仰天した群衆は咄嗟に左右へと別れ、そこに開かれた道をワマンは旧約聖書に記された奇跡に喩えたのだった。
『出エジプト記』によると、古代イスラエルの
群衆の中には
最大の激戦地である十字路へ到達するまでの間、どれほど『
アチョ闘牛場へと向かう道筋はリマ市民であるキリサメにとって馴染みが深いのだ。視界に入る風景には幼馴染みとの想い出が重なって仕方なかった。二人で買い食いした路上市場も、新年を祝う花火を見に行った小高い丘も――リマの想い出には
『
『
紛い物のキリストが縛られた十字架の背面には『人間社会が死んだ』という抗議の文面が記されているのだ。このようにデモ隊の一部は仮装行列さながらの趣である。一本の長い鎖をそれぞれの手首に巻き付け、自分たちが社会の奴隷に成り果てたことを示そうという者たちも混ざっている。横一列に並んで
一目で急ごしらえと分かる
しかし、『爆発物』と一口に言っても大勢の人間を殺戮し得る兵器ではなかった。炸裂の規模も脅しに使う程度でしかなく、仕込まれた火薬量も窺えるというものだ。キリサメたちが駆け抜けた区画に限っては〝兵器としての爆弾〟が使われた形跡は確認できなかった。ひょっとすると大攻勢の行方を占う数多の武器弾薬は現時点ではまだアチョ闘牛場から到着していないのかも知れない。
「鉄砲とか大砲を使ってる人が誰もいないってコトは、最悪の事態だけは避けられたって言っても良いのかな? まだ内戦とは言えないよね?」
警察馬の手綱を握り締め、民間人としか思えない二人を引き連れた
それは希望的観測を含んでおり、誰かに答えを求めるというよりは自らを安心させたくて紡がれた言葉である。
「……どう思いますか?」
背中にて呟かれた疑問を通訳し、意見を求めたキリサメに対してワマンは苦渋にも近い表情を見せた。
「……アチョ闘牛場に急行した部隊へ何度も連絡を取ろうとしているんだが、無線機にも
ワマンの
もはや、ワマンはアチョ闘牛場に於いて戦闘が始まったことを想定しているのだ。
事実、キリサメたちが向かう方角からは幾筋もの黒煙が上っている。デモ隊の経路からもかなり離れている為、爆弾仕掛けの棺桶によるものではないだろう。
「……絶対に大丈夫だよ。これまで厳しい環境で辛い目に遭ってきた分、これから幸せになれるんだから。だって、それが人生なんだから……!」
歯を食いしばって手綱を握るキリサメの背後にて、思穂がまた一言、ぽつりと呟いた。
「……これまでと、これから……」
「人生には
日本人観光客はカネを持っていると虚仮にされ、格好の
想像を絶する貧困によって野垂れ死ぬ人間や、銃犯罪の犠牲となる人間が驚愕を
「世の中には幸せになれる人間と、そうでない人間がいるでしょう。理想なんかじゃなく現実として……。この
「――幸せにならなきゃダメなんだよッ!」
諦念を込めたキリサメの答えに思穂は一等強く
「アマッちだけじゃない。
「……有薗氏……」
生きてさえいれば、どんな苦しみも悲しみも、未来で必ず報われる――東日本大震災を現地で経験し、大切な人々が犠牲となった思穂の叫びは少年の心に深く刻み込まれた。
しかし、素直に頷き返してやれないのも事実である。命を繋ぐ為とはいえ、何の罪もない人たちを禍々しい『
「……幸せになる資格なんかあると思いますか? 一度は有薗氏まで
「だけど、その剣でアマッちは何をしてくれた? 何度も私を守ってくれたでしょ? 今だって
一度は全くの別人と切り捨てたものの、やはり、この
「……『
「……その人は未来に何を見たんですか……」
「恥ずかしがり屋な上にスレたコだから本人は強情張ってけど、幸せになっても良いんだよっていう友達の言葉を受け容れて、最後には希望の扉をこじ開けたよ」
思穂がキリサメに語って聞かせたのは『
光と闇双方の軍勢と敵対する第三勢力で、世界を滅亡に導くとされる
しかし、教え子と交流を深める内に絆を育んでいく喜びに目覚め、ついには光と闇の勢力とも手を携えて世界終焉の運命に叛逆した――と、思穂はあらすじを述べていく。
日本語は分からないものの、『
ペルーではこれから放送が始まる第二シーズンの結末を暴露されてしまった次第である。
「ここまでのネタバレ喰らっちゃったら、私のほうこそ暴動起こしたくなるよ! 迂闊に質問したのはおじさんのほうだけども! ネット上の情報もシャットアウトしてたのに、まさか、ここでオチが来ちゃうとはなーッ! ハッピーエンドで良かったけどォ~ッ!」
断末魔の叫びにも匹敵するワマンの甲高い悲鳴はさておき――キリサメは思穂の口から語られた『
「生まれ育った環境を理由にして運命を切り開く勇気を諦めないで。世界も人生も、そんなに捨てたもんじゃないからッ!」
母に良く似た
意地っ張りなところもあるが、
キタバタケの家族を大切にし、暴力以外に頼りとするものがないような幼馴染みのことまで心配してくれる――そんな人間らしい彼女こそ何があっても報われなければならないはずではないか。
(例え、どんな場所にいたって、
決意に満ちた瞳は前方にアチョ闘牛場の入り口を捉えた。
そこには大きな停車スペースが設けられており、現在は警察車輌や救急車が何台も並んでいた。ワマンと同じ国家警察の人間や救急隊員が入り乱れて駆け回る様子からもここで尋常ならざる事態が発生したことは明らかであろう。
周辺に住む住民たちが怯え切った面持ちで遠巻きに眺めているのは、サーモンピンクの塗装が鮮やかな壁に刻まれた銃撃の痕跡や、路上にまで飛び散ったドス黒い血痕である。
硝煙の臭いは噎せ返りそうになるほど強く残留しているが、
間もなく一人の警官が鞍上のワマンに声を掛けた。揃いのプロテクターを身に着けた姿からも察せられる通り、国家警察の同僚である。
無線に応答ができなかったことを詫びた同僚は、アメリカ大陸最古にして最大規模の闘牛場で起きてしまったことを説明しようとした――が、
停車スペースに並べられた遺体の一つへ釘付けとなった思穂は鞍から転げ落ち、路上にカメラが投げ出されたことにも気付かず、生気の失せた顔で地べたに這いつくばった。
「あ……あ……ああ……ああ……あああ――」
亡骸に縋り付いた思穂は、もはや、人間の言葉を紡ぐことさえできない。ワマンもまた夢遊病者のような足取りで彼女を追い掛け、近くで作業をしていた警官の胸倉を思わず掴み上げた。
「何だ、これは⁉ 何だ、これはッ! 今すぐにシートを持って来いッ!」
「し、しかし、想定外の死傷者数で、もう数が足らなくて……」
「何でも良いから掻き集めてくるんだッ!
ワマンの怒号が呼び水となったのだろう。思穂が狂わんばかりの
何枚もの新聞紙が乱雑に被せられた遺体は右手を包帯で覆っている。その上に重ねられたスカーフは『
ポニーテールに結わえた栗色の長い髪を振り乱しながら
自分に『サミー』と呼び掛ける声が脳裏に一度だけ蘇り、
一切の表情が、消え失せていた。
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