その7:受難~ペルー編完結!銃火轟く激闘の地で死神が目覚める!

 七、受難パシオン


 アメリカ大陸に於いて初めて聖人に選ばれたのがペルー共和国の首都――リマ出身の女性であることはキリスト教との関わりが薄い者には殆ど知られていない。

 ペルーという国家くにを形作る二つの民の血を引き、三〇年余りの生涯を信仰に捧げた高潔なる人物の名はサンタロサ――『れっせい』の名誉を授けられた一七世紀から現代まで多くの人々から尊崇を集めており、この聖女に由来する祝日にはバラの冠で美しく飾られた巨像が敬虔な信徒たちによって担がれ、詰め寄せた市民に見守られながらリマの町を進んでいく。

 これもまた『聖行列プロセシオン』の一つであり、『聖体』が安置された教会から大聖堂カテドラルへ到達するという手筈だった。

 国内で流通する紙幣にも肖像画が用いられるほどペルーでは身近な存在なのだ。数多の職業を庇護する守護聖人としても知られ、国家警察もその恩恵を受けている。

 左手を銃把グリップに添えながら電撃銃を構えたワマン警部とキリサメたちを挟む形で対峙したエスパダスは、拠点アジトに踏み込んできた警官たちが揃いで共有する腕章を憎々しげにめ付けた。そこにもサンタロサの肖像が描かれているのだ。

 ペルー人としての誇りを偏執的なまでに唱えるエスパダスも他の国民と同じようにサンタロサを敬愛してやまないのだが、その念があったればこそ聖女の庇護下にあることを喧伝する〝国家の敵〟が許し難く、秒を刻むごとに憎悪が膨らんでしまうのだった。


「恥を知れ、汚職警官ども……ッ!」


 警官隊が突入の際に穿った壁の穴をエスパダスの罵声が駆け抜けていく。

 反政府組織と癒着した上、長官トップの指示を受けて自国民を〝き〟する国家警察など売国奴以外の何者でもなく、見下げ果てた堕落者の分際で聖女の恩恵を求めること自体が冒涜であると心底より嘲っていた。


「どのツラ下げて、ここまで――非合法街区バリアーダスまで……ッ! 国家を食い物にする寄生虫の目に何が映ったッ⁉ 自らが作り出した生き地獄はどのように映ったのだッ⁉ 貴様らは何も感じぬかァッ⁉」

「涼しげな顔してキレ易いね、おたく。キリサメ君の冷淡さを分けて貰うと良いよ」


 『恥の壁』が象徴する絶望的な貧困から祖国を救わんと決起した男に面罵されたワマンであるが、憂国の思いに接して心が乱れてしまったキリサメとは異なり、一秒たりともたじろがなかった。

 ワマン率いる国家警察の一部隊は、舞い上がった砂埃の只中にて反政府組織と互いの銃を突き付け合っている。それも、銃口が擦れ合うのではないかと錯覚してしまうような至近距離で――だ。

 テロ集団を包囲するような形で隊列を組んだワマンたちのほうが少しばかり優勢と思える状況だが、先に犠牲者を出したのは国家警察の側である。蹴破られたドアの向こうではトリニダードの『早撃ちファストドロウ』にやられたと思しき隊員が腹部を押さえながら倒れていた。

 ワマンか、エスパダスか――どちらかのリーダーが全面対決を宣言すれば、両者の中間に立つキリサメたちをも巻き込んで激しい銃撃戦に突入することであろう。

 尤も、国家警察の側のリーダーは〝鉛玉〟が装填された拳銃ハンドガンを構える部下とは対照的に非致死性の電撃銃を用いていた。射出した針を相手の肉体に食い込ませ、本体と連結されたケーブル経由で電流を浴びせる種類タイプの物だ。


「エスパダス――キミはベルリンの壁を知っているかね?」

「それは何か? 山岳地帯の寒村で生まれた私を侮っているのか? 字の読み書きすらできず、世界史のあらましも知らぬ最下層の人間だと。……笑わせるな。大志があれば貧しかろうが学ぶことができる。快楽にうつつを抜かす貴様らとは違うのだよ」

「あ~、出自うまれの不幸度格付け大会は通じないんだわ、すまんね。おじさんも山岳おやまの育ちなんでな。おまけに言うならインカ帝国の末裔なのだよ。これについてスペイン系の名前を持つキミの見解を伺ってみたいものだねぇ」

「……貴様……」

「おじさんは勉強もお仕事もに頑張って真っ当に暮らしてる――ホントの自慢大会ってのはこ~ゆ~モンさね。……キミは正反対だろう? の暮らしができるよう懸命に働く一般市民の努力を玩具にしている。我々が問題にすべきは現在いま、キミが仕出かしているそのふざけた企てだ。そうだろう、革命家気取りの詐欺師クン?」


 電撃銃の射程圏内に捉えたエスパダスに対して、ワマンは先程の仕返しとも思えるような挑発的な言葉を叩き付けた。


「キミはベルリンの壁に一番乗りした東西再統一の先駆けを真似しているらしいがね、私に言わせれば、そんな上等なモンじゃあない」

「……一九八九年一一月九日のことを言っているのか?」

「その夜に崩壊したベルリンの壁――東西分断の象徴と『恥の壁』を重ねて悦に入っているのだろう? ……ヘソで茶を沸かすとはこのコトだ。キミは壁によじ登る度胸さえ持ち合わせていない臆病者だよ。壁の向こうを覗いてみたいが、国境警備の兵隊に銃を向けられるのは恐ろしい。そこで通りがかりの人間をそそのかして壁を登らせ、本当に撃ち殺されないか確かめるような卑怯者とも言えるだろうね」

「……例え話は可能な限り、短くするべきだな。長ければ長くなるだけ作り話と聞き手に見透かされる。口から出任せを言い繕うことに必死で信憑性の欠乏まで気が回らないと丸分かりだったぞ、今のご高説は」


 一方的にやり込められた仕返しとばかりに理論がほつれたと、これ見よがしに嘲るエスパダスだったが、その反応さえワマンは一笑に付した。


「我々が非合法街区バリアーダスまで遠征したコトについて、あたかも貧困層の代表ヅラして偉そうな質問をブチかましてきたが、キミこそどうだ? 騙した相手がベルリンの壁で撃ち殺されるのを眺めて楽しいかね? 誰もがハンス・コンラート・シューマンのようになれるわけでもないのに、壁の向こうに夢をさせて差し向ける気分はどうだと訊いている」


 東西ドイツを分断する国境の監視任務に就きながらベルリンの壁が完成する間際に〝向こう側〟への亡命を果たし、自由の象徴として英雄視された人物を例に引いたのち、ワマンはエスパダスの掲げた大義をペテンとまで扱き下ろした。


「社会を分断せし壁の向こうに夢をて何が悪い? その先により自由にばたける社会があるのならば、人は勇気を振り絞って可能性に賭けるものだ。祖国の民の努力を最悪の形で踏み躙り、政府に歯向かう者を許しておかない貴様らなど独裁国家の秘密警察と何の変わりもない。そうとも、貴様らこそが腐り切った政府の象徴――国家の膿だ」

「ところで、壁の向こうに夢と自由を求めたハンス・コンラート・シューマンが東西のどちら側へ亡命を図ったか、キミは知っているかね?」

「……己以外を貶めねば質問さえできんような思い上がった人間に答える口は持ち合わせていない」

「成る程、亡命先は理解しているものと考えておこう。それでは、シューマンが不自由と嘆き、捨てることを決意した国家くにがいかなる主義・思想のもとに成り立っていたのか、これは認識しているかね?」

「……それは――」

「キミたちの『組織』が掲げる主義・思想とは正反対の〝社会〟にシューマンは自由を求めたわけだ。……これが信憑性の欠乏というものだよ、エスパダス君」


 エスパダスの人となりを事前に調べ上げたワマンは、その才覚を十分に認めている。回りくどいことこの上ない例え話が理解できるほど賢いと確信した上で、敢えてベルリンの壁にまつわる諸々を引用したわけだ。

 亡き母から世界史のあらましこそ習ってはいたものの、東西ドイツの事情に特別詳しいわけでもないキリサメには両者のやり取りは半分程度しか呑み込めなかった。それでもワマンが底意地の悪さを発揮していることだけは察せられ、憎むべき対象であるエスパダスへ反射的にあわれみを抱いてしまった。

 つまるところ、ワマンは討論ディスカッションにも似たやり取りを通じてエスパダスの矛盾を追及した次第であった。口にする一言一言が的確に急所を狙う攻撃であり、図星を突かれた形である『組織』の兵士たちは顔面を怒りの色に染め上げていく。

 不正が横行している国家警察の警部から憂国の志を徹底的に貶められたエスパダスは、一瞬だけ酷薄の表情かおを晒したが、周りの部下と同じように怒号を張り上げることだけは堪えた。挑発に乗って激昂するとワマンの言葉を認めたことにもなってしまう。大義を貫かんとする身として、それは絶対に譲れない一線であった。


「ベルリンの壁付近で警備に当たっていた東西の兵士は不法越境者を見逃せまい――が、国家を守る任務に基づいた狙撃も責められまいよ。司法の判断にも表れている通りにな。……だが、キミは違う。キリサメ君が言ったように何の罪もない市民を自分たちの都合だけで『組織』の手先に仕立て上げたに過ぎない。『祖国の為に』という綺麗な言葉は悪巧みを誤魔化す呪文にはならんし、そうあってはならんのだ」


 ワマンとエスパダスの間で飛び交う応酬をキリサメから通訳された思穂は、思わず「横取り質問タイ~ム!」と小型カメラを持っていない左手を垂直に挙げた。


「エスパダスさんが『恥の壁』をたとえにしていたコトとか、この間のデモに関わっていたコト、何でワマンさんが知ってんの? ドアの向こうで聞き耳立てていたとしか思えないんだけど……」


 通訳キリサメを通して伝えられた思穂の質問にワマンは苦笑いをらした。


「キミに渡した指輪には隠しマイクが仕込まれていてね。そいつで一部始終を盗み聞きさせてもらったのさ。国家警察の差し金ってコトまで突き止めておきながら上位組織うえの手引きを真に受けて指輪の中身も疑わない間抜けで助かったよ。こんな不用心な連中を国家の敵と警戒していた自分が恥ずかしくなるくらいだ」

「わ~お、びっくり! ヒトのことをテロの手先って批判した本人が思いっ切り旅行者を捨て駒に使っちゃってるし~。告発したら外交問題待ったナシですよ、これは」

「捨て駒とは言ってくれるなぁ。こうしてピンチに駆け付けただろう?」


 質問の返答こたえを受けて思穂は抗議の意を示すべくし口を作ったが、これに対してキリサメのほうはペルーの言語ことばを淡々と日本語に訳している。ワマン個人との信頼関係はともかくとして、最初から国家警察を正義とも高潔とも思っておらず、〝これくらいのこと〟は平気でやってのけるだろうと割り切っているのだった。

 憤慨混じりで紡がれる思穂の言葉をキリサメは冷淡な調子で訳しているわけだ。アンバランスとしか喩えようのない両者の様子にワマンは堪らず吹き出してしまった。


「……『恥の壁』で僕らが襲われたときは無視したじゃないですか。危険な目には遭わせないって約束で手を組んだハズでは?」


 通訳ではなくキリサメ自身が飛ばした批難も「バレたら元も子もないからね。悪いと思いながらも静観させてもらったよ」とワマンは軽やかにかわしてみせた。

 キリサメの発言はエスパダスにとって聞き逃すことができないほど重大な意味を持っている。国家警察の協力を得て『組織』に接近したことまでは把握していたが、この突入さえも彼らの段取り通りだったということである。

 ひょっとすると警官隊の包囲が完了するまでの間、取材の形で時間を稼いでいたのかも知れない。むしろ、そう考えると何事も合点がいく。だからこそ、尋常ならざる状況に接しても思穂は取り乱さなかったのだ。

 キリサメと思穂が知らされていないことも多かろうが、国家警察と示し合わせた作戦行動という一点だけは疑いなかった。


「おとぼけ連中の注意がキリサメ君たちに集中していたお陰で難なく手筈を整えられたよ。表で棒立ちしてた見張りは勿論、〝協力者たち〟も押さえた。あちこちに散らばっている兵舎も時間の問題――気取った言い方をするなら、チェックメイトってヤツだ」


 ワマンの通告通り、突き破られた壁の向こうでは何人もの兵士がプロテクター姿の警官たちに取り押さえられていた。その中には先ほどキリサメと思穂を襲った非合法街区バリアーダスの住民たちも含まれているようだ。

 音もなく気配もなく『組織』の拠点アジトまで忍び寄った警官たちは『対テロ部隊』という肩書きに恥じない働きを見せていた。死の世界ともたとえられる丘陵地帯には『組織』の詰め所が幾つかも点在していたようだが、ワマンはそれらの制圧にも取り掛かったらしい。

 拠点アジトの外では騎馬警官も待機している。隠密性の欠かせない任務であることは言うに及ばず、ほぼ全域が舗装されていない非合法街区バリアーダスの悪路を走行することは警察車輌にも困難なのだろう。このような場合には警察馬が出動することを思穂は想い出した。

 車輛では侵入不可能なけものみちであろうと縦横無尽に駆け抜けることができる警察馬は、地形によっては他の追随を許さぬ機動力を発揮できるのだ。場所によって高低差が激しく、延々と傾斜が続く上に大地が剥き出しとなっている非合法街区バリアーダスには打ってつけのといえるだろう。

 現在は口にベルトが巻き付けられているのだが、これは物理的にいななきを封じる為の措置である。事実、思穂たちの耳にはていてつが岩だらけの地面を蹴る音さえ聞こえなかった。

 不意に思穂が想い出したのはらいさんようという江戸後期の学者であった。

 戦国時代――『の虎』ことたけしんげんと、『えちの龍』ことうえすぎけんしんが互いの両国の中間に位置する信濃しなのを舞台に幾度も衝突したかわなかじまの戦い。四度目の対決にして最大の激闘となったはちまんぱらかっせんでは、当初、上杉軍は平野の城に籠った武田軍を見下ろすような形で小高い山に布陣していた。

 やがて上杉軍は夜霧に乗じて陣を移したのだが、行軍に際して馬の口を縛るなどして物音を抑え、武田軍の間近まで密かに迫ったという。そのさまくだんの学者は『べんせいしゅくしゅくよるかわを渡る』と表したのである。

 騎馬にまたがって悪路を駆け、敵地へ不意打ちを仕掛けるという状況シチュエーションのみを抜き出せば史上名高いげんぺいかっせんに於いて武名を馳せたみなもとのろうよしつねによる『ひよどりごえさか落とし』に近いともいえるのだろうか――そのようなナレーションを思穂はヘッドセット頭から被るタイプのマイクに向かって吹き込んでいった。


「――本当に……本当に囮に使ったのかッ⁉ 年端も行かない少年こどもと外国人をッ!」


 思穂のナレーション収録はエスパダスが発した大音声によって強制的に打ち切られてしまった。自らの大義をけなされようとも声を荒げなかったエスパダスがワマンの話を遮って激情を迸らせたのである。

 キリサメと思穂が国家警察の囮として利用された事実に本気で腹を立てている様子だ。

 宿敵に対する私怨こそ混ざってはいるものの、二人を思う優しさは本物であり、純粋な心根の表れとも言えるだろう。


「キミはアレだな。自分にとって都合の悪い話は右から左へ通り抜けるタイプなんだな。さっきから『手を組んだ』って言ってるじゃないか。大体ねェ、あんなデモ――いや、暴動を煽っておいて聖人君子ヅラするもんじゃあないよ。前途ある若者が何人、巻き込まれたと思っているんだい。人にキレる前に自分の支離滅裂を自覚なさいよ」

「煽ってなどいないッ! 我らはただペルーの民の嘆きを受け止めたに過ぎぬッ!」

「それはね、お前さんの勝手な思い込みなんだよ。追い詰められたときに飛び出す類いの言い訳じゃなくてド天然な分、余計にタチが悪いがね」


 矢継ぎ早に並べ立てられる罵詈雑言は、何の脈絡もなく屋内へ響き渡った歌声に断ち切られてしまった。それが『かいしんイシュタロア』第一シーズンの主題歌『ダブル・エクスポージャー』であるとキリサメはすぐに分かった。思穂が本編の動画ビデオを再生するたびに聞かされた為、憶えるつもりもないのに刷り込まれてしまったわけである。


何故なにゆえ、ここでツムギ・アサクノッ⁉」


 ペルー国内で大流行となった日本のアニメシリーズは反政府組織にも知れ渡っているようだ。主演を務めるさら・バロッサの歌声であることにエスパダスも気付いていた。

 それは携帯電話に電子メールの受信などを告げる合図である。異世界より訪れた神と同化していく心情をつづった歌はワマンのズボンから流れているようだ。

 部下たちから「警部のお陰でシマらない空気になったじゃないですか」と白い目を向けられつつ、左手一本で携帯電話スマホを操作し始めたワマンは、液晶画面を覗き込むや否や口の端を吊り上げ、次いでエスパダスに「犯人逮捕へのご協力に感謝します!」と眩いばかりの笑顔を披露した。


「今日の夕方には公になるだろうし、別に隠しておく必要もないんだが、今度の作戦は首席監察官殿直々の〝特命〟でね。仮にも長官の立場に在る人間が反政府組織と不適切な関係を結んでいる証拠を確保して〝首〟をすげ替えようって計画さ。……国家警察われわれが絶対的に正義だなんて威張るつもりはない。だが、自浄能力まで放棄していないつもりだよ」


 『かいしんイシュタロア』の主題歌という予想外の乱入に続き、にわかには信じ難い事実を突き付けられたエスパダスと部下たちは憤激から一転して唖然呆然と立ち尽くしている。それ以外の反応リアクションが不可能な情況まで追い込まれたとも言い換えられるだろう。

 ワマンが明かした計画とやらが本当であれば、エスパダスは他者のてのひらの上で転がされたに過ぎなかったことになる。非合法街区バリアーダス拠点アジトまで踏み込んできたというのに国家警察の部隊は反政府組織の壊滅など単なる余禄おまけと見なしているわけだ。

 本当の狙いはエスパダスから一つのを得ることである。


「クソ真面目で演説好きなお前さんの性格上、報道関係者プレスなんて聞けば、ここぞとばかりに長官の癒着を暴露するだろうと思ってね。こういうのを日本では確か『渡りに船』って言うんだよな。何しろこのお嬢さんは本気度が普通じゃない。演技では再現し切れない情熱に共感しないエスパダス君ではない――だろ?」

「――といった旨をワマン氏は言ってますが……」

「アマッち、この人に言ってあげよ。そ~ゆ~小細工を日本では『赤ん坊と素人シロートには敵わない』って言うんだって。何も知らないほうが勢いあるってのは分かるけど、おじさんのやり口はちょ~っと釈然としないんだよね~い」

「日本のことわざは母から教わりましたけど、有薗氏のそれは何個か混ざってません?」


 つまるところ、国家警察はエスパダスの性格を利用する為に思穂を送り込んだというわけである。偽の報道関係者プレスを仕立てずに済んだとも言い添えていたが、筋書きを作ったのはワマン当人ではないだろう。実働部隊を率いるの階級に組織全体を巻き込むような計画の采配など許されるはずもなく、裏で糸を引いているという国家警察首席監察官の差し金であることは明白だった。


「正真正銘の汚職警官をブッ潰し、ペルーの民を守る組織を刷新できるんだ。特攻世直し野郎の本懐じゃないか。長官にすり寄って甘い汁を吸ってたヤツらも一網打尽だぞ」


 符丁代わりの指輪に仕込まれたマイクは、おそらく国家警察の本部まで盗聴した音声を送信しているのだろう。同時に記録されたデータは汚職を裁く審理に於いて最重要な証拠として採用されるはずだ。

 果たして、非合法街区バリアーダスに鳴り響いた『かいしんイシュタロア』の主題歌は、正義の到来を告げるものであった。ワマンがエスパダスに向かってかざした携帯電話スマホの液晶画面には電子メールの文面が表示されているのだが、そこにつづられていたのは現長官の身柄を確保したという報告である。

 ワマンの言い回しは多分に皮肉を含んでいるが、『世直し』であることに間違いはないだろう。エスパダスによる暴露は鋭利なメスとなって国家警察の膿を掻き出したのだった。


「……手段は大きく誤っているし、一警察官としても一個人としても許し難いが、その主張だけは切って捨てるつもりはないよ。国を憂う気持ち、その一つだけは分かり合える」

「貴様に……貴様などに分かられてたまるか……ッ!」


 ワマンが紡いだ言葉は互いの立場を超えた歩み寄りであったが、エスパダスにとっては何の慰めにもならない。国民の〝き〟という忌むべき計画の裏を掻き、一本の矢の如く束ねた憂国の志でもって政府を貫く筈であったのに、己の胸に秘めた大義もペルーの嘆きも、何もかもが国家警察の内紛を鎮める道具として弄ばれていたのである。

 これに勝る屈辱など他にあろうはずもなかった。


「そう気ィ落とすなって、大将。ここから先は俺たちに任せておきな。ビセットとルーも〝仕込み〟に入っているからよ――」


 やり場のない思いに全身を震わせるエスパダスの肩をトリニダードが叩いた直後のことである。希更・バロッサの歌声とは異なる異音が――風を裂いて〝何か〟の飛来する音が一同の鼓膜を揺さぶった。


「――伏せて、みんな! 伏せてェッ!」


 異音の正体に逸早く気付いたのは思穂である。飛来する〝何か〟がキリサメには分からなかったのだが、彼女は見る間に表情を変えていき、ついには血走ったまなこで「ダック・アンド・カバー」と悲鳴を上げた。

 「身を伏せて頭を隠せ」という意味合いの言葉は冷戦時代のアメリカで実際に使われたものであり、旧ソ連からのミサイル攻撃を想定した避難訓練でも盛んに唱えられていた。

 思穂がミサイルからの避難を咄嗟に絞り出したのはくだんの異音をガザにて聞いた為である。イスラエル側から発射された砲弾もあのように轟々と風を薙いで落下し、市街地で爆発したのだった。

 彼女の絶叫とほぼ同じタイミングで国家警察の部隊も異音の正体に気付いていたらしく、ワマンの指示を待たずして一斉に地面へ伏せた。

 冷戦の頃の使用例はともかくとして、「ダック・アンド・カバー身を伏せて頭を隠せ」という意味合いからキリサメも反射的に身を伏せ、ボディーガードとして思穂の背中に覆い被さった――その刹那に耳をつんざく轟音と衝撃が半壊状態の掘っ立て小屋を震わせ、腹這いとなった一同の内臓まで地響きがつたった。

 その最中、天空より落下した〝何か〟が岩をも砕いて地面へとめり込んでいく音をキリサメは確かに聞いていた。

 視線を巡らせてみれば、地中から一部分のみを露出させている筒状の物体が砂埃の向こうにった。曇天から漏れる陽の光を受けて鈍色の輝きを跳ね返しているということは何らかの金属片であろうか――が大砲のタマだと気付いていないのは、この場に於いてはキリサメただ一人である。


「何だって言うんですッ? 有薗氏、あれは一体――」

「――まさか、不発弾ッ⁉」


 キリサメの問いかけに答える余裕もない思穂が「不発弾」と叫んだ直後、砲弾の側面から凄まじい勢いで黒煙が噴き出し始めた。


「違う、黒色火薬の煙幕だッ!」


 思穂の絶叫を受けるような形で大音声を発したのはワマンである。拠点アジトの周辺は砂埃を平らげる勢いで広がっていく黒煙に飲み込まれ、瞬く間に視界が全く遮られてしまった。


「そういうことか――」


 このような状況で視界が遮蔽されるということは、つまり、標的の行方を見失うのと同義だった。煙幕弾が飛来する直前にトリニダードは「ここから先は俺たちに任せておけ」とも口走っていたのである。それはつまり、黒煙そのものが敵の策略であることを意味しているのだ。

 すかさず地面に耳を付けたキリサメは駆け去っていく数名の足音を確かめ、自身の予想が的中したことを悟った。


「離れている時間の分はバイト代から差っ引いてもらって構いませんので」

「えっ、はい? アマッち、何を――」


 『聖剣エクセルシス』を肩に担ぎ直したキリサメはワマンに向かって思穂を突き飛ばすと、姿勢を低く保った渾身の力で剥き出しの大地を蹴り付けた。まだ黒煙が舐めていない地面を這うようにして駆け、奇策をもって離脱を試みたエスパダスたちを追跡しようというのである。


「レディーのお相手を他の野郎に丸投げってのは甲斐性ナシを自白してるモンだぞ~」


 職務放棄を揶揄するワマンの声が背中を追い掛けてきたが、些末な内容ことへいちいち振り返っているような暇などない。吸い込んでしまった黒煙にせ返りながらもキリサメの加速は決して止まらなかった。


(……ヤツらを潰せば、このだって消えるから……)


 案の定、ほんの一分前まで立っていた位置にエスパダスたちの姿はない。僅かに確保できた視界を頼りに拠点アジトを抜け、斜向かいの家屋に設置されている貯水タンクを踏み台代わりにして屋根の上まで跳ね、更に長細い電柱の頂上てっぺんへ飛び移ったキリサメは、片足一本で立ちながら死の大地を見下ろした。

 立ち上る黒煙に阻まれてはいるものの、一切が遮蔽された地上から敵の居場所を探るよりも遥かに有効であろうと判断したのである。の為に『聖剣エクセルシス』を振るう際、路地裏に逃げ込んだを屋根の上から追跡することも多い。その応用というわけだ。

 別の兵舎に隠れ潜んでいたのだろうか、エスパダスの部下と思しき兵士が騎馬警官に追い回されていた。何人かの兵士は敢えて傾斜に退路を求めて追跡を振り切ろうとしたようだが、屈強かつ柔軟な健脚を誇る警察馬は険しい坂道であろうと難なく踏み越え、相手の正面まで回り込んでいった。

 また別の場所では先程の轟音を合図として銃撃戦が始まっている。国家警察と反政府組織の双方は盾とするには心許ない掘っ立て小屋に隠れながら絶え間なく銃声を轟かせているのが、そこには非合法街区バリアーダスで暮らす住民たちの悲鳴も入り混じっていた。

 エスパダスへ協力する一部の者を除いて、殆どの住民は無関係な事件に巻き込まれた恰好である。「殺し合いなら他所でやれ!」と憤激の声を上げる人間も少なくないのだが、悲痛な思いを裏切るように銃弾の応酬は激化の一途を辿っており、数多くの人間が巻き添えを食う可能性も高まりつつあった。

 比喩などではなく、非合法街区バリアーダス全体が正真正銘の〝死の世界〟へ塗り潰されようとしているのだ。銃弾を受けた窓ガラスが砕けて散る音さえも凶兆のように思えてならない。


「……あれは……」


 しかし、キリサメの双眸は眼下の戦闘とは別の場景を映していた。黒雲垂れ込める地上を逃げ惑っているだろうエスパダスたちを捜し当てるべく電柱の頂上てっぺんまで登ったにも関わらず、彼方に望むリマ市街の様子へ釘付けとなってしまっている。

 平野よりも高い位置に所在する非合法街区バリアーダスだけに中心街の様子まで窺うこともできるのだが、目抜き通りの辺りから幾筋もの煙が曇天そらに向かって立ち上っているではないか。

 ただそれだけならば大して驚く理由もない。鈍色の煙がキリサメを動揺させたのは耳障りとしか表しようのない大合奏ざつおんが下界から吹き上がる風に乗って丘陵へ届いた為である。

 一昨日の晩と同じように大規模なデモが起こっている証拠であった。あるいはタクシーの運転手が怯えた調子で語っていた〝大攻勢〟が始まってしまったのであろうか――尋常ならざる爆発音も立て続けに発生しているようだ。

 双眼鏡が手元にないので市街地の実態を確かめることは難しいが、遠くに轟音を聞くだけでも抗議活動の域を超えているのは明らかだった。気付くのが遅過ぎたものの、エスパダスと対峙している最中に鳴り響いた爆発音こそがであったのかも知れない。

 である。キリサメにはリマが内戦の舞台になったように思えてならなかった。


――)


 幼馴染みの顔が脳裏をよぎった刹那、キリサメの視界にエスパダスとトリニダードの姿が飛び込んできた。二人は『恥の壁』と隣接する広場に逃れようとしているらしい。

 不揃いの岩を積み上げただけの土台に錆びた鉄の棒を組み合わせた十字架が打ち立てられている。それ以外には何もなく、攻撃を仕掛けるには絶好の場所だった。警官隊の追撃を食い止めているのか、エスパダスの部下も同道しておらず、現在の護衛はトリニダードただ一人という状況なのだ。

 この好機だけは絶対に逃すわけにはいかない――血に餓えた野獣さながらの唸り声を引き摺りつつ、キリサメは家々の屋根伝いにエスパダスたちを追い掛けた。

 クーデターを恐れるタクシー運転手の話や、「ペルーに革命をもたらす挑戦の狼煙」と大仰に語られたエスパダスの言葉など手掛かりは幾つもあったのに、現実として火蓋が切られるまで内戦の可能性に辿り着けなかったのだ。自分の鈍さと愚かしさを悔やみながら歯を食いしばったキリサメは戦火に飲み込まれていく幼馴染みの姿を想像して動揺が抑えられなくなった。

 標的には間もなく追い付く。肩に担いでいた『聖剣エクセルシス』を震える手で大上段に構えたキリサメは一等高い屋根より身を投げ出した。

 不安も焦燥も――精神こころを乱す一切の想念を断ち切るべく『聖剣エクセルシス』を閃かせていった。


「二一世紀のペルーで〝特攻カミカゼ〟を喰らう羽目になるたァ夢にも思わなかったぜ――」


 猛禽類さながらに上空より襲い掛かるキリサメに勘付いたトリニダードは警護の対象であるエスパダスを突き飛ばすと、ガンベルトの背面に吊るしていたボウイナイフを左手で引き抜き、これを禍々しい『聖剣エクセルシス』に叩き付けた。


「――確か両親とも日本人だったよな、おぼっちゃんはよォ。全身に流れる血が出たとこ勝負の〝玉砕ギョクサイ〟に駆り立てるのかも知れねェがな、……想い出してみろや、やって日本が〝せんそう〟に勝てたかっつーコトをよォ」


 急降下の勢いを乗せた『聖剣エクセルシス』の一閃は刃渡り三〇センチの刀身を軋ませたが、良く鍛えられた一振りが不揃いの部品をデタラメに組み合わせて作った武器に強度で競り負けるはずもなく、し折られてしまうどころか、亀裂ヒビの一本すら入らなかったのである。

 逆にボウイナイフの刀身をノコギリの如き刃に引っ掛けてキリサメを押さえ込み、腹部に蹴りを見舞うなどトリニダードの身のこなしには一部の隙も無駄もない。


「待てッ! ……今は待て。まだ殺すんじゃない」


 エスパダスから制止の声が掛からなければ、右手に構えたリボルバー拳銃でもって追撃の弾丸を繰り出し、キリサメの眉間を吹き飛ばしていたに違いなかった。


「自我を棄てて血を求めるなど犬畜生にも劣る振る舞いだ。今、この瞬間にもペルーの民は未来を目指して突き進んでいる。……それは人間の戦いだ。人間らしくありたいと願う意志を炎と変えて革命の狼煙を挙げたというのに、大義も持ち得ぬキミは――」


 有薗思穂という雇い主を放り出してまで〝敵〟を追い掛けてきた意味をただそうとするエスパダスだったが、その言葉は全てを紡ぎ終える前に途絶えてしまった。

 腹部への蹴りでもって撥ね飛ばされたキリサメは、片膝を地面に突きながら上体を引き起こし、エスパダスに向かって「憎悪」の二字以外は何も宿っていない眼光を浴びせた。

 交戦中であるはずのトリニダードさえ眼中にはなく、〝生きていてはいけない存在〟のくびを『聖剣エクセルシス』でもって刎ね飛ばすという妄執に取りかれているのだ。

 詰問に対する返答こたえは獰悪なる眼差しのみで十分だった。〝人間らしさ〟が消え失せたとしか思えないキリサメの姿を認めたエスパダスは悲しげにかぶりを振った。


「……キミの目に映るのは〝真実〟ではなく、己の苛立ちを癒す幻想としての〝事実〟だけのようだ。祖国の〝現実〟すら〝キミ自身の事実〟の前には意味をさんとは……」


 数歩ばかり下がったエスパダスと入れ替わるようにキリサメと対峙したトリニダードは臨戦態勢を完全に整えていた。ボウイナイフのつかを口にくわえ、空いた左手にて銃身を切り詰めたライフルを構えている。二種の武器が右手のリボルバー拳銃と組み合わされば、まさしく『三位一体トリニダード』の名が表す通りの威容すがたとなるわけだ。

 そのトリニダードにエスパダスは〝場〟を譲った形である。それはつまり、キリサメのを彼に託したことを意味しているのだった。


「大将のお許しも出たところで心置きなくやり合おうじゃねェの。兄貴のカタキ討ちを忘れるような薄情者と思われるのもシャクだしな」

「人の命を食い物にしてきた『神父』の弟に相応しい台詞だな。……その兄貴が『聖剣エクセルシス』で誰を殺したか、お前は知らないのか――」


 器用にもボウイナイフをくわえた状態で宣戦布告の言葉を紡いでいくトリニダードであるが、キリサメはそれすらも黙殺し、片膝を地面に突くという低い姿勢から勢いよく飛び掛かった。砂埃を巻き上げつつ、『聖剣エクセルシス』を振り翳したまま間合いを詰めていったのだ。

 相手は母を殺めた仇の弟。そして、トリニダード当人からすれば自分こそが兄の仇。

 様々な疑問を抱いてはいるものの、戦いが避けられないことだけは顔を突き合わせる以前から分かっていたのだ。改めて交戦の意志を確かめ合う必要もあるまい。トリニダードを退けなければ〝生きていてはいけない存在〟まで辿り着けないのだから、返り討ちにする以外の選択肢などあろうはずもなかった。

 復讐の連鎖を断ち切るといった高尚な理由ではない。行く手を塞ぐ邪魔な存在は蹴散らして進めという母の教えに従い、キリサメは自分のことを兄の仇と呼び付ける男に突っ込んでいく。

 暴力だけが生き抜くすべという〝裏〟の社会まちで生きてきたキリサメだけに銃口を向けられることにも慣れている。気の抜けた顔のマスコットキャラクターが刷り込まれたシャツを脱げば古い銃創が幾つも露になるのだ。己の身に弾丸を撃ち込まれた経験があったればこそ、密着状態では飛び道具を持つ側が著しく不利になると理解しているのだ。

 間合いを詰めるまでに撃発されても対応し切れるよう銃口の向きに意識を集中させた。無論、それだけで銃弾が飛んでくるタイミングを読み取れるわけではない。ひきがねとそこに引っ掛けられた指の動きを一瞬たりとも見逃してはならず、これと同時に相手の目が何を捉えているのかまで完全に把握していなくてはならないのである。

 銃を手に入れただけで無敵になったような思い違いをする手合いは迂闊に殺気を膨らませる。それ故、撃発のタイミングが手に取るように分かり、突進の間に小石でも拾って投げ付けてやれば容易く拍子を崩せるのだ。

 ところが、トリニダードは顔に冷笑を貼り付けているだけで欠片ほども殺気を表に出さなかった。それでいて標的の眉間から決して狙いを外さないのである。『聖剣エクセルシス』を奪われただけで戦闘能力が喪失された『神父あに』とは比較にならないほど手強い相手だと、キリサメは戦慄をもって悟った。

 余裕の表れというものであろうか、キリサメが懐深く潜り込んでくるのを待ち構えているようにも思えるくらいだ。両手で一挺ずつ銃器を構えているというのにトリニダードはただの一度もひきがねを引かなかったのである。

 迎撃すら放棄したかのようなトリニダードを訝ったキリサメは『聖剣エクセルシス』を中段に構え直し、次いで懐へ潜り込むか否かという寸前で前方に大きく跳ね飛んだ。ノコギリの如き刃で斬り付けるものと見せておいて頭突きに変化した次第であった。


「聞いてるぜ、この石頭で何人か、『組織』の野郎を再起不能にしたってなァ――」


 一瞬の急加速で相手の目を惑わし、不意打ちで鳩尾を穿とうとしたわけだが、直撃を許してくれるほどトリニダードは甘くはなかった。キリサメが頭突きへ転じる直前に右足を振り上げ、硬い革靴の裏でもって眉間を受け止めたのである。

 頭突きを仕損じた上、膝の屈伸による前蹴りをまともに喰らわされたキリサメではあるものの、その状態から強引に腰を捻り込み、横一文字に『聖剣エクセルシス』を振り回した――否、振り回そうとした。


「――速度スピードだけならそれなりの人間砲弾だけどよ、こうも見え透いてっとウドの大木くらいにしか当たらねぇんだわ」

「ぐゥ……ッ!」


 外から内に閃き、脇腹を抉ろうとしていた横薙ぎは、キリサメの右側面へすり抜けるような形で踏み込んだトリニダードによって物理的に押し止められてしまった。『聖剣エクセルシス』を振り抜こうとしていた右腕を自身の左肘でもって打ち据え、続けざまに対の手で構えたリボルバー拳銃の照星ねらいを眉間に合わせたのだ。

 肘の可動域とは反対側に右腕を押さえられ、これに連動する形で腰の捻りまで封じられたキリサメは、咄嗟の判断でその場に身を沈み込ませた。これによってリボルバー拳銃の銃口から逃れようと図ったわけだが、後方へ飛び退すさる寸前に今度はソードオフ銃身を切り詰めたライフルの銃身が追い掛けてきた。

 地面を擦るかのような軌道で撥ね上げられたソードオフライフルの銃身はボクシングでたとえるところのアッパーカットの如くキリサメの顎を打ち据え、身体を起こさせた。この時点で彼の喉には銃口が押し当てられており、右手のリボルバー拳銃までもが狙いを定めて撃発のときを待っている。ひきがねが引かれた瞬間に二種の弾丸が頭部を貫くだろう。

 右手に握り締めている『聖剣エクセルシス』の先端をトリニダードの腹部目掛けて叩き込んだキリサメは、同時に対の左掌を横薙ぎに繰り出し、彼の身体を強引に突き飛ばした。

 ノコギリの如き刃も先端部分にはめ込まれておらず、鋼鉄を鍛え上げた刀剣のように一撃必殺のを見舞うことはできないが、この状況に於いてはダメージを与えるよりも銃撃の拍子を崩すことが最優先なのだ。

 果たして、二重の打撃を受けたトリニダードは姿勢を大きく崩している。

 すかさず左方に跳ね、間合いを離そうとするキリサメだが、これを追尾するように銃声が轟き、鼻先を弾丸がかすめていった。薄皮一枚が裂けた程度で致命傷には程遠いものの、銃撃という事実がキリサメを微かに動揺させ、一瞬だけ膝の屈伸が遅れてしまった。


「何なんだ、こいつ……この動きは……」

「――結構、面白ェだろ? 裏社会の現場主義ってェヤツさ」

「何……ッ⁉」


 百戦錬磨と言い表すのが何よりも似つかわしく思える青年にとっては、ほんの少しだけ相手の身のこなしを鈍らせるだけでも十分であったらしい。キリサメが一瞬の驚愕から立ち直る頃には厭味な笑い顔が正面まで回り込んでいたのである。

 速度スピードを武器に攻め立てられると重量があって小回りも利かない『聖剣エクセルシス』は圧倒的に不利であった。むしろ、離れた位置から銃撃されたほうが対処し易いと思えるほどである。横薙ぎなど繰り出していては確実に間に合わないと判断したキリサメは、手段を敢えて切り捨てた。

 二挺拳銃の狙いが定まるより早く『聖剣エクセルシス』を地面に突き立てると、これを支えとして己の身体を持ち上げ、次いでトリニダードの背後へ飛び降りるようにして跳ねた。

 〝軸〟自体はトリニダードに蹴り倒されてしまったが、そのときには既にキリサメの身体は宙に放り出された後であり、素早く腰を捻り込むや否や、延髄目掛けて反撃の前回し蹴りを繰り出した。

 常人であったなら――キリサメが今まで戦ってきた相手であったなら、極めて少ない例外を除いて間違いなく直撃させられたはずであるが、結果的には新たな例外が加わってしまった。死角からの奇襲にさえトリニダードはコンマ一秒も遅れることなく完璧に反応してみせたのである。


「よォ、コンマ五秒ぶりってトコかな?」


 左右の踵を軸に据えて素早く旋回したトリニダードは、この上なく厭味な笑みを引き摺りながらキリサメに向き直り、ソードオフライフルで心臓を、リボルバー拳銃で下腹部を、それぞれ正確に狙い澄ましていた。

 攻撃を仕掛ける度に返り討ちに遭うキリサメは、後頭部にも目玉が付いているのではないかと訝ってしまうような芸当を披露されても冷静だった。歴然とした力量の差を幾度も見せつけられたことで、却って動揺が小さくなったのである。「この男との間には埋め難い差がある」と、諦めにも近い境地へ達してしまったわけだ。

 格闘技の試合でもないのだから相手の技巧を凌駕する必要はない。好機が巡ってくるまで凌ぎ続け、確実に息の根を止めるだけだ――そのように割り切ったキリサメは、振り向きざまに撃ち殺されなかったことへ違和感すら覚えていたのだ。

 今もひきがねが引かれる気配すら感じられない。だからといって銃口の前に身を晒しておくべきではなく、狙いを延髄から右側頭部に変えて蹴りを見舞い、リボルバー拳銃の照星ねらいを外しつつも反動を利用して車輪の如き縦回転を披露した。

 頭部が地面を擦りそうなほどの低さで逆立ち状態になるという曲芸めいた動作うごきによって二挺拳銃から逃れたキリサメは、蹴倒されたまま砂埃を被っていた『聖剣エクセルシス』のツカを回転の最中に握り締め、着地と同時にこれを振り上げていく。

 その斬撃は過剰なくらい砂埃を舞い上げるようにして繰り出された。視界を塞ぐと同時にノコギリの如き刃でもって脇腹を抉り取るという二段仕掛けの荒業である。キリサメは先んじてトリニダードの右足の甲を踏み付け、絶対に逃げられないよう杭の如く地面に押し込んでいた。


「兄貴の形見に振り回されてる内はダメダメだぜェ~? ただ重いだけの役立たずなんざ放り出すに限るっしょ!」

「黙れッ!」

「反抗期のお子様らしい噛み付きっぷりだがよ、お兄さんのタメになる話は素直に拝聴しとけっての。現在いまの状況を考えりゃ、突っ張ってなんかいられねぇだろ~がよ」


 トリニダードの高笑いに混じって鳴り響いたのは耳障りな金属音だった。

 斜め下から掬い上げるような『聖剣エクセルシス』の斬撃に合わせてソードオフライフルの銃身を振り落としたトリニダードは、これをもってキリサメの動きを封じてしまったのである。

 砂埃による不意打ちなど当たり前のように避けられており、キリサメの側だけが一方的に劣勢へと追い込まれていた。腕力ちから比べに於いてもトリニダードのほうに分があり、上から押し込まれたキリサメは、とうとう片膝を地面に突かされてしまった。

 眉間に向けられたソードオフライフルの銃口だけは外そうとした試みたものの、キリサメの腕力では微動だにしないのである。それでいてトリニダード本人は大して力を込めているとも思えない涼しげな顔なのだ。

 このままでは競り負けると直感したキリサメは背中から地面へと身を放り出し、次いで両足を振り上げ、靴の裏をトリニダードの腹部に添えたまま膝を大きく屈伸させた。瞬時にして両足のバネを引き絞り、相手を後方目掛けて投げ飛ばした次第である。

 すぐさまに上体を引き起こし、宙に舞ったトリニダードを『聖剣エクセルシス』で叩き落とそうと身構えるキリサメを制したのは足元に穿たれた複数の穴だった。

 これまで絶好の機会が巡ってきても火を噴かなかったリボルバー拳銃が目を覚ましたかのように空中から三発分の弾丸を撃ち込み、彼の前進を阻んでしまったのだ。

 着地と同時に再び間合いを詰めたトリニダードはリボルバー拳銃の銃把グリップとソードオフライフルの銃床ストックをそれぞれ叩き付けて『聖剣エクセルシス』を押さえ込んだ。これによってキリサメの姿勢を崩しながら右側面まで深く踏み込み、そのすれ違いざま、口にくわえたボウイナイフで喉を斬り裂こうとした。

 このとき、二つの銃口は地面に向けられており、持ち主の踏み込みと連動するようにして火を噴いた。しかしながら、キリサメの足元を脅かそうというわけではない。発砲時に生じる反動ブローバックを利用して急激な加速を試みた次第である。


「こいつ――ッ!」


 ボウイナイフの切っ先が頸動脈を掠めるか否かという寸前でトリニダードを蹴り剥がしたキリサメは、続けてデタラメに『聖剣エクセルシス』を振り回した。再び密着状態での斬撃に持ち込まれないよう警戒したわけだ。

 尤も、トリニダード当人は腹部に蹴りを受けた直後には間合いを取っており、少しばかり離れた位置で厭味な薄ら笑いを浮かべている。


「兄貴を殺したっつーから、どんなモンかとワクワクしてたっつーのに案外、だらしねぇのな。それとも〝例のアレ〟を使い始めてからが本番ってワケかい」


 挑発の意図を込めてせせら笑うトリニダードは、丁度、エスパダスを背にするような形で立っている。そして、そのエスパダスは錆び付いた十字架の前にて屹立し、そこから一歩たりとも動いていなかった。腕組みしたまま両者を見守る姿は、いかにも決闘の立会人といった風情である。

 あの忌々しい革命家気取りの首さえ刎ね飛ばすことができれば、心に垂れ込めたもやも何もかも終わるはずなのだ――が、トリニダードがこれを断じて許さないだろう。神父姿の青年は開戦以来、余裕の表情を少しも崩していない。対するキリサメのほうは既に防戦一方であった。

 『三位一体トリニダード』の名が表す通りの武装を用いるこの青年は、まさしく接近戦のスペシャリストであった。密着状態から銃器を操る戦法スタイルなど過去に聞いた憶えもないのだが、一つの現実として彼は標的と肉薄するような距離であろうと己にとって最も有利な位置を確保し、これを成し遂げるのに必要な体術を巧みに使いこなしていた。

 キリサメも武器と体術を複合して使うことがないわけでもないが、その完成度はトリニダードと比べるべくもない。彼は戦闘技術と身体能力の両面で規格外の強さを誇っており、ここまで実力の差が開いている相手を撃破する自分の姿など全く想像できなかった。

 そもそも、だ。キリサメは自分の戦闘力を遥かに凌駕する敵を向こうに回すことさえ久方ぶりなのである。ここまで追い詰められるのはエスパダスがリーダーとなる以前の『組織』に壊滅的な痛手を与えた戦闘以来であろうか。

 トリニダードの兄である『神父』を葬り、これと結託していた『組織』と正面からぶつかり合うことになった際、彼らが雇ったという傭兵と一対一サシで対決したのだが、僅かに想い出すだけでも冷たい戦慄が甦るような強敵だったのだ。

 一言で表すならば奇人である。トレードマークのニット帽を頑なに被り続ける風変わりな日本人だったが、数年前までフランスの外人部隊エトランジェで活動し、つイラン由来の拳法に精通するなど眉唾としか言いようがない経歴の持ち主である。おまけに実名まで伏せて『名無し』を意味するアラン・スミシーと称していたのだ。近々、傭兵を退いて民間軍事企業を立ち上げるとも語っていたが、そうした展望も含めてキリサメは全く信用していない。

 しかし、イラン由来の拳法を駆使した格闘技術だけは認めざるを得なかった。屍で埋め尽くされた悪夢のような場所で心身の限界を超えるような死闘を演じ、その果てに辛うじて生き残ったのだが、結局、息の根を止めることはできなかった。

 それどころか、互いに命を拾った後は腐れ縁のようになってしまい、彼がペルーに滞在している間は甚だ不本意ながら友人同然に行動を共にしていたのである。


(……そうだな、あのニヤケ顔を想い出すんだ、この男は……)


 ニット帽の男も飄々としていて掴みどころがなかったが、他人をからかって弄ぶような立ち居振る舞いなどはトリニダードと似ていなくもない。イラン由来の拳法をふるった折にも戦いの場を変幻自在に飛び回り、大いに翻弄されたものだ。

 ニット帽の日本人傭兵に匹敵するような腕利きの者と常日頃から戦い続け、心技体の三本柱を鍛え上げていればトリニダードとも互角に渡り合えただろうが、元来、キリサメには手強い相手を選んで勝負を仕掛ける必要もないのだから、これを怠慢とは詰れまい。

 自分より弱そうな相手を狙うこと――それが生きる糧を得る為に必要な〝掟〟である。〝表〟ので暮らす人間からすれば卑怯者のように見えるだろうが、理屈自体は肉食獣の狩りと大して変わらないのだ。振るう暴力ちからは空腹を凌ぐ手段であって、敢えて強い敵を叩きのめして強さを誇る意味もない。それならば、より仕留め易いに狙いを付けるのは当然であった。

 暴力ちからの応酬なくして命を繋げない弱肉強食の世界で重い『聖剣エクセルシス』を振り回すだけの膂力りょりょくが養われ、人並み以上に感覚も鋭くなった。思穂から『けんさっぽう』などと呼ばれた殺傷の為の技術も自然と身に付いていった――が、いずれも意識的に鍛錬した憶えはなく、敢えて磨き上げずとも〝自分より弱い相手〟には十分に通用してきたのである。

 おそらくは数え切れないほどの死地を潜り抜け、その度に激烈な戦闘を経験してきたものと思しきトリニダードとの間に厳然たる差が生じているのは自明の理であろう。


(……僕のことをナメて遊んでいるにしては、どうにも不自然なんだよな……)


 『組織』のリーダーに対してさえ軽薄な態度で接するトリニダードだけに自分よりも戦闘力が劣ると分かった相手を遊び半分でいたぶっていると思えなくもないのだが、確実に仕留められる状況へ持ち込みながらひきがねを引かないことはキリサメ当人も不思議でならなかった。

 何しろ銃口を向けられるという絶体絶命の状況にも関わらず、これまでの攻防に於いて実際に命の危機を感じた場面はごく僅かだったのである。発砲するにせよ、ボウイナイフでもって斬り掛かるにせよ、キリサメが確実に回避動作を実行できるよう意図的にテンポを遅らせているようにも感じられるくらいなのだ。

 始末を託したエスパダスに反する行動であることは言うに及ばず、そもそも自分は兄の仇ではなかったのか。激情の赴くままなぶり殺しにするどころか、『三位一体トリニダード』の武装を面白半分に振り回しているだけなのである。

 部下には〝激烈な反撃〟を警戒するような口振りで急所は外すべしと命じておきながら、自分自身では頭部や胸部ばかりを狙っているのだ。これもまた矛盾しているではないか。

 トリニダードの思考がどうにも理解できず、首を傾げそうになるキリサメだったが、その動作うごきは彼方に轟く爆発音によって断ち切られてしまった。

 デモ隊の暴走あるいは〝大攻勢〟は激化の一途を辿っているようだ。


「……キリサメ・アマカザリ。キミの耳にも届いているか、この国の断末魔が。生物も社会も絶えず循環し続けることで進化の頂点いただきを見ることができるのだ。時間は決して待ってはくれないのだ。そして、進化を放棄したキミに残された時間など幾らもないと知れ」


 エスパダスから言われるまでもなく、もはや、時間ときが僅かしか残されていないことはキリサメにも分かっている。幾度も繰り返される爆発音の只中にがいるかも知れないと考えただけでも胸に湧いた焦燥が無慈悲に跳ね上がるのだ。

 立ち止まっている場合ではない――その焦燥は止まっていたキリサメの足を強引に衝き動かした。無論、それは玉砕覚悟の特攻まで精神が追い込まれた結果に過ぎない。

 野に伏せる野獣と見紛うばかりの前傾姿勢になったキリサメは『聖剣エクセルシス』を肩に担ぎながら地面を滑るようにして間合いを詰めていく。


「――ああ、そうとも。僕にはもう時間がない……ッ!」


 この禍々しい『聖剣エクセルシス』はおよそ一メートルほどの長さである。ノコギリの如き刃がトリニダードへ届くか否かという際どい距離で急激に上体を撥ね起こしたキリサメは、くうに縦一文字の軌道を描いた。

 瞬時にして引き絞ったバネを生かして勢いよく振り落とされた縦一文字は命中さえすれば間違いなく致命傷を与えられたであろうが、焦り過ぎて狙いを誤ったのか、それとも動揺から距離感が狂っているのか、トリニダードが後方に飛び退すさるまでもなく『聖剣エクセルシス』は風のみを裂いて地面を穿った。

 傍目には空振りとしか見えない攻撃だが、キリサメの額より噴き出した冷たい汗は技を仕損じた悔恨の発露などではないのだ。そもそも、彼の目的ねらいは斬撃とは別のところにある。間もなく『聖剣エクセルシス』のつかを握り締めている右手からトリニダードに向かって〝何か〟が飛び出していった。

 地を這うかのように駆ける最中、巻き上げた砂埃を隠れみのにして掌中に隠し持てる大きさの石を拾い上げていたのだ。またたきほどの時間で鋭く尖った物を抜かりなく選べたのは、こうした戦法に慣れている証拠だろう。薬指と小指のみで『聖剣エクセルシス』の重量を支え、人差し指と中指でもって投擲を試みた次第である。

 専門的な訓練を受けたこともない為、勘と実戦での経験に頼ったものではあるが、自身が発揮し得る初速を見極めた上で至近距離から投擲を試みたのだ。

 不意打ちだけに一瞬でも反応が遅れたら命取りとなる。事実、キリサメは長い前髪で覆い隠されていない右目一つに狙いを定めていた。


「大リーグのトライアウトにでもチャレンジしたら、そこそこイケるんじゃねェ? その前にビーンボールのを矯正しなくちゃならねぇがよ」


 起死回生の石つぶても飛び道具の巧者には通用せず、難なくかわされてしまったが、当のトリニダードが評したように速度も威力も並外れており、徹甲弾さながらに掘っ立て小屋の壁を貫いた。隠れていた家族が悲鳴を上げながら飛び出し、そのまま駆け去っていったが、そのようなことに気を取られている余裕などキリサメにあろうはずもない。

 石つぶてをしくじった直後、彼は更に深く踏み込んでいく。しかも、刀身を垂直に振り落とすという動作に合わせて『聖剣エクセルシス』を左手に持ち替えていた。

 順手から逆手に構えを直したキリサメは上体を撥ね起こしながら腰を捻り込み、『聖剣エクセルシス』を横一文字に薙ぎ払おうと試みた――が、トリニダードの奇策によって出鼻を挫かれてしまった。軽やかに跳ねて彼の頭を飛び越えると、何を思ったのか、互いの背中を合わせるような体勢になったのだ。


「大リーグよりも俺と社交ダンスでペア組んでみるか? ちょっとずつ息も合ってきたコトだしよ。お前さん、見てくれもイケてっから女物のドレスが似合うハズだぜ」

「ふざけ――」


 次いでトリニダードは互いの背中を擦り合わせるような恰好で己の身を転がしたのだが、この動作は立会人たるエスパダスに弔いの言葉を唱えさせるものであった。逆手に構えた『聖剣エクセルシス』を振り抜こうとしていたキリサメは反対に背後を脅かされてしまったのである。

 キリサメの両脇から腕を差し込んだトリニダードはすかさず二挺拳銃の銃口を押し当てた。斜め下から抉るような形で右脇腹を脅かす銃口は、体内を通って心臓を狙っている。ひきがねを引けば、確実に兄のかたきを討てるだろう。ソードオフライフルの銃口は顎の下に突き付けているのだが、銃弾は脳を粉砕して頭蓋骨まで貫くはずだ。

 トリニダードは互いの右足をからめることで身動きを封じている。完全に〝捕獲〟されたキリサメは満足に抗うこともできなくなっていた。羽交い絞めにされているわけではないので頭部を掴むこともできなくはないが、親指でもって右目を抉るよりも先にボウイナイフが五指全てを斬り落としてしまうだろう。

 冷たい刃先が動いたときには頸動脈が切断される――死の気配が薄皮一枚の向こうに漂うような状況まで追い詰められたキリサメであるが、やはり、自分が本当の瀬戸際に立たされているとは感じられなかった。

 危険を察知する感覚が狂ってしまったのではないかとキリサメ本人も思ってはいるのだが、確実に命を奪える体勢に持ち込んでおきながらトリニダードが殺気を破裂させないこともまた事実なのである。彼にはひきがねを引こうという気配すら感じられない。


「……お前、本当に『神父』のかたきを取るつもりがあるのか? お前は一体、何なんだ?」


 背後から組み付かれた状態は、最も近くで言葉を交わせることを意味している。即ち、密談に最適とも言えるわけだ。やや離れた位置に立つエスパダスには決して聞こえない小さな声で開戦以来からの疑問を紡いだキリサメは、喉の奥から押し出すかのような笑い声を返答こたえとして受け取った。

 トリニダードから返された反応リアクションはそれ一つだった。キリサメからただされたを肯定しているとも否定しているとも、どちらとも受け取れる曖昧な態度だった。試しにソードオフライフルを握る側――つまり、左手首を己の右手でもって掴み、前方に投げを打ってみれば、彼は抗うこともなくあっさりと地面に落下。右足への拘束すら簡単にほどけてしまったのである。

 ひょっとすると彼は〝一進一退の攻防を演じる姿〟をエスパダスに見せ付けているのではないのか。本当は兄のかたきなど取るつもりもないのに、そうとは気取らせないよう芝居を打っているだけではないか――そのような疑問がキリサメの中で湧き起こりつつあった。

 地面に投げ落とされながらトリニダードはリボルバー拳銃のひきがねを二度ばかり引いた。左手首を掴んだまま肩を踏み付け、これを支点として肘関節をねじろうとしていたキリサメは咄嗟に右方へ跳ねて難を逃れたものの、を外した〝鉛玉〟は思わぬ形で再び襲い掛かってきた。

 はエスパダスの脇をも通り抜け、錆びた十字架に撥ね返されたのだ。少しばかり弾道が変わった為、〝鉛玉〟の一発は『恥の壁』の向こうに飛んでいったが、もう一発のほうは背後からキリサメの右腕を捉えた。いわゆる、『ちょうだん』と呼ばれる現象だが、偶然から再び同じに命中したわけではあるまい。

 トリニダードは連射の時点でちょうだんの飛距離と到達地点を計算し尽くし、キリサメの回避行動がそちらに向かうよう仕掛けたのだろう。ここに至るまでの攻防に於いて彼が披露した戦闘技術の数々は、人間離れした神業の実行を確信させるには十分であった。

 レインコートもろとも腕の肉を少しばかり抉られたが、傷口に走る激痛はともかくとして、腕の機能に支障をきたすほど深刻な痛手を被ったわけではない。むしろ、八方塞がりの状況に突破口を見出したと、好機到来のように受け止めている。


(……今ので合計六発……)


 標準的なリボルバー拳銃は大概が六連発式である。文字通り、六発までしか弾丸を装填できないということだが、筒状の弾倉シリンダーの大きさから推察するにトリニダードが持つ物も七発目は装填されていないようだ。

 それはつまり、先程の二連射によって装弾数を全て撃ち尽くしたということだ。切れを起こした拳銃など無用の長物に他ならず、片手を潰したことにも等しいのだった。

 右の順手に『聖剣エクセルシス』を構え直したキリサメは潮目が変わったとばかりにトリニダードへ突っ込んでいった――が、その目の前で彼はソードオフライフルを宙に放り出した。から薬莢やっきょうしか残っていないリボルバー拳銃ではなく、残弾に余裕がある側を投げ捨てたのだ。

 これと同時にトリニダードはリボルバー拳銃の弾倉シリンダーを左側に振り出し、続けて銃口を宙に向けた。自然、足元に薬莢やっきょうが散乱する形となるわけだが、全くのからとなった弾倉シリンダーをガンベルトに引き付けると、ここに収納されていた予備の弾丸を親指で巧みに弾いていく。

 左手に持ち替えたボウイナイフで『聖剣エクセルシス』の猛攻を受け流しつつ、右指のみで再装填リロードを済ませるという早業もトリニダードにとっては造作もないことなのだろう。

 キリサメは銃の名手に備わった力量を読み違えていた。切れからの迅速な復帰は銃器を駆使する人間にとって不可欠の技術スキルだが、射撃の命中精度など攻防に直結する要素しか判断材料にできない少年こどもの想像力はそこまで及ばなかったのだ。だからこそ、装弾数がぜろとなっただけで逆転の可能性を感じてしまったわけである。

 改めてつまびらかとするまでもなく形勢は僅かとて傾かなかった。


「銃の残弾が切れさえすれば勝ち目もあると思ったのだろう? そのように矮小で卑劣な思考あたましか持ち得ぬからこそ国難に際して誤った判断を繰り返すのだ。恥を知りたまえ!」


 浅はかな考えを見透かされ、よりにもよってエスパダスから叱声を浴びせられたキリサメはさすがに歯噛みして呻いた。

 相手を侮っていたのは自分のほうだと悟る頃にはリボルバー拳銃の再装填リロードも完了し、タイミング良く落下してきたソードオフライフルの銃床ストックを掴み取ったトリニダードは二種の銃身を交差させるような恰好で突き出し、縦一文字に閃いた『聖剣エクセルシス』の刀身を挟み込んでしまった。

 正面から二挺拳銃に晒される形となったキリサメは、撃ち殺される危険性がないものと確信しながらトリニダードの金的目掛けて右足を振り上げた。

 左のローキックでもって急所への一撃を弾き飛ばしたトリニダードはおうしゃとばかりに二種のひきがねを同時に引いた――が、やはりキリサメの眉間を貫くようなことはなく、頬の薄皮を僅かに裂くばかりで彼方へと消えていった。与えたダメージといえば至近距離での銃声によって鼓膜を揺さぶった程度であろうか。

 対するキリサメは耳の奥へこびり付いた残響を忌々しく思いながら眉根を寄せるばかりである。もはや、互いを殺さないという約束のもとでアクション・スタントを演じているようなものであった。キリサメの場合は「力量の差があり過ぎる為に殺したくても殺せない」という状況なのだが、結果としてトリニダードの〝遊び〟に付き合わされてしまっているのだ。


「……これ以上、僕の行く手を……遮るなァッ!」


 中心街にて立ち上る鈍色の煙は秒を刻むごとに増えている。このような〝遊び〟に構っている暇など一秒もない。

 冷たい汗という形で発露する焦燥を一瞬の爆発力に換えたキリサメは二挺拳銃の銃身に『聖剣エクセルシス』を受け止められたまま一等深く踏み込んでいく。一度は競り負けた筋力を刀身の重量で補い、強引に押し切る覚悟であった。


「最後の切り札はド根性ってか。良いぜ、そういうノリも嫌いじゃねェよ。男の子っつうモンは血の小便垂れ流すくらいヤンチャでなくっちゃいけねェ」


 さしものトリニダードも想定を上回る爆発力には圧倒されたらしく、革靴の踵を地面にめり込ませるような恰好で僅かにあと退ずさった。

 防戦一方であったキリサメが勝敗の天秤を初めて傾けたのである。

 右手一本で握り締めた『聖剣エクセルシス』にて『三位一体トリニダード』の要たる二挺拳銃を押さえ込んだキリサメは対の左手でもって目突きを繰り出していく。用いる指は三本――親指を相手の鼻に引っ掛け、人差し指と中指でもって両目を抉ろうというのである。前髪に覆われた左目が空洞であろうが何であろうが、もはや、関係ない。光さえ奪い取ってしまえば危機的状況を打開できるはずなのだ。

 これを迎え撃つトリニダードはソードオフライフルの銃身一つで『聖剣エクセルシス』に拮抗すると、己の右腕をキリサメの左腕に巻き付けていく。互いの腕を搦めることによって肩と肘の可動を同時に制し、目突きを封殺した次第である。無論、リボルバー拳銃の銃口は彼の眉間を真っ直ぐに捉えている。

 その刹那、キリサメは『聖剣エクセルシス』を自ら手放した。刀身に向かってソードオフライフルを押し付けていたトリニダードは突如として力の拮抗する〝点〟を失ってしまい、大きく上体を傾けてしまった。

 すぐさまにトリニダードの右手首を掴み、互いの片足同士をからめて重心を崩したキリサメは相手の身を垂直に押し倒そうと試みた。おあつらえ向きのように地面からは硬い岩が露出している。後頭部から叩き付けられたようものなら如何に優れた戦闘技術の持ち主とはいえど一溜まりもあるまい。片腕はトリニダード自身が巻き付けているので簡単には外せない。つまり、投げられる側は受け身を取ることさえ不可能に近いのである。

 後頭部を激突させただけでは絶命には至らないだろうが、それでも意識くらいは断ち切れるはずだ。例え、一瞬でも構わない。身動きが取れない内に脇腹を踏み付け、折れた肋骨を内臓に突き刺してやる――どのようにして仕留めるかという胸算用を吹き飛ばしたのは鼓膜を揺さぶる一発の銃声であった。

 左手首を掴まれたま状態のまま、トリニダードが地面に向かってソードオフライフルを撃発したのだが、その直後に投げを打った側であるキリサメのほうに異変が生じた。得体の知れない〝何か〟が作用し、トリニダードと共に地面へ落下していたはずの身体が重力に逆らって撥ね上げられてしまったのだ。


「――反動ブローバックッ⁉」


 先程の攻防に於いてトリニダードはすれ違いざまにボウイナイフで首を切り裂こうとしたのだが、その瞬間に起こった急加速の原理をキリサメは今になって悟った。

 銃身を切り詰めたライフルは発砲時の反動ブローバックが極端に大きい。トリニダードは涼しい顔で操っているが、飲み込まれた側まで弾き飛ばされるほどの衝撃に片腕一本で耐えられるほうが異常なのだ。先程の急加速も、重力に逆らった得体の知れない力も、ソードオフライフルの〝特性〟に基づいて編み出されたなのである。

 一瞬の緊急回避動作からキリサメに術理を見破られたことを見て取ったトリニダードは、まるで答え合わせでもするかのように口の端を吊り上げてみせた。

 キリサメの側はこれに応じる余裕など一片も残ってはいない。体勢を立て直して再びリボルバー拳銃を構えたトリニダードに対して、猛烈な反動ブローバックに呑み込まれてしまった彼は両足が地面から離れており、頼みの綱である『聖剣エクセルシス』も現在いまは握り締めていないのだ。

 完全な無防備状態のまま、リボルバー拳銃の銃口を突き付けられていた。


「チェックメイト――汚職刑事の台詞を借りるようで胸糞が悪いが、……これで決着だ」


 キリサメの背中に終極しゅうきょくを告げるエスパダスの声が届いた瞬間、正面のトリニダードが抜き身の殺気を破裂させた。今までどこに隠していたのかと驚くほど凄まじい奔流だった。

 殺戮者の本性を剥き出しにした右目は尋常ならざる妖光ひかりを宿し、口元には残虐を絵に描いたような薄笑いを浮かべている。怖気が走るような舌なめずりは野卑の二字をもってしかたとえられないほどだ。

 それはかたき討ちという本懐を果たす人間のものとは思えない表情であった。殺された兄の無念を晴らせるといったような感慨など欠片ほども窺えず、ともすればかたき討ちを口実にして暴力の衝動に酔い痴れる悪魔としか思えなかった。

 胸中に秘めた真意はともかくとして、心臓を凍り付かせるような殺意を解き放ったという〝事実〟がキリサメ・アマカザリという命を押し流そうとしている。己の身を貫く死の気配にはらわたから震え、普段は半ばまで閉じているまぶたが大きく見開かれた――彼の脳裏に懐かしき声が甦った。

 追憶の彼方から響くかのような声は少しずつ大きくなっていき、やがてキリサメの脳を揺さぶるまでになった。

 間もなくキリサメの意識は現実世界から切り離されて〝闇〟の底に沈んでいく。

 奈落の底とも思えるような〝闇〟の只中に現れたのは『聖剣エクセルシス』を振りかざして襲ってくる『神父』と、夥しい血で全身を濡らした傷だらけの女性――二つの幻像まぼろしが幾度となく交互に浮かんだのち、脳から心につたって残響し続けていた〝声〟が一際大きく、そして、鮮明に聞こえてきた。


「……例えどんなことがあっても、……どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ! キリサメ! 生きろッ!」


 血の泡と共に吐き出された〝声〟が心の奥底で爆ぜるのと同時に一発の銃声が鼓膜を物理的に振動させ、キリサメの意識を現実の非合法街区バリアーダスに引き戻した。

 最初に視界へ飛び込んできたのは、ペルーという社会の縮図とも呼ぶべき『恥の壁』である。富める者とそうでない者とを残酷に分断した壁は、自らの〝棲み処〟である暴力の世界をキリサメに想い出させた。


(母さん、僕は――)


 弱肉強食の世界に自分を置いて逝った者へ心の中で呼び掛けたキリサメであるが、再び幻像まぼろしるようなことはなかった。次に彼が捉えたのはトリニダードより解放された獰悪極まりない〝事実〟――鼻先にまで迫った一発の銃弾である。


「僕に『生きろ』と強いるのなら――ッ!」


 至近距離から銃撃されて生き残れるとすれば、それは奇跡以外の何物でもないだろう。己の身に何が起こったのかも理解できないまま意識と命が同時に消し飛ばされ、それで一巻の終わりであった。

 即ち、キリサメは自らの手で奇跡を起こしたということになる。『生きること』を轟然と吼えた彼は眉間に到達しようとしている銃弾を正確に視認し、頭部あたまを右方へ振ることで完全にかわしてみせたのだ。

 人智を超えた反応としか表しようがあるまい。至近距離で撃ち込まれた銃弾を回避することは言うに及ばず、視認さえ常人には不可能なのである。

 しかし、一つの現実としてキリサメの目には一直線に向かってくる軌道が映っていた。〝鉛玉〟がスローモーションのように見えている。あるいは時間の流れる速度が変わってしまったと言うべきかも知れない。鼓膜で拾う音までもが感じられたのだ。

 それはつまり、彼の中に於いて正面の男が静止目標うごかないまとと化したことを意味している。銃撃を避け切った直後にトリニダードの心臓の辺りへ右拳を叩き込んだキリサメは、これと同時に〝捕獲〟されていた左腕を引き抜き、先に抉った箇所へ追撃を加えるべく身構えた。

 〝何か〟の破断する音が遅れて耳に届いたが、改めて確かめるまでもなくこそが彼の狙いである。最初のパンチで折れた肋骨を追撃の左拳で押し込み、心臓を食い破らんとしているのだった。


「――おいでなすったか、〝例のアレ〟がよォッ!」


 人間離れしているとしか思えない動きを口笛でもってかんげいしたトリニダードはキリサメの左拳が自身を捉えるよりも早くソードオフライフルの銃身を握り、銃床ストックをハンマーに見立てて横っ面を殴り付けた。奇抜なカウンター攻撃によってキリサメを弾き飛ばし、死に至るほど危険な状況を脱した次第である。

 神速の領域にまで達したのではないかと錯覚するような動きを大して狼狽うろたえるでもなく迎え撃ったトリニダードには戦慄の二字こそ相応しいが、のキリサメには相手を恐れるという感覚が消え失せてしまっている。

 それ故に彼は決して止まらない。背中からぶつかった『恥の壁』を逆に蹴り付け、づるでもって弾かれたような勢いで再びトリニダードへ飛び掛かっていく。進路上に転がっていた『聖剣エクセルシス』を拾い上げ、圧し折った肋骨ごと胴を抉るべく横薙ぎの構えを取った。

 しかし、ノコギリの如き刃を振り回す直前になって攻撃から回避動作へと切り替え、後方に飛び退すさってしまったのは横合いから砲声が飛び込んできた為である。

 その瞬間にも双眸を見開き、宙に残像を映すかと思えるほどの速度スピードを発揮している。

 ソードオフライフルの比ではないほどの轟音をキリサメは煙幕弾が撃ち込まれる前にも聞いている。ほんの少し前に思穂が口にした「ダック・アンド・カバー身を伏せて頭を隠せ」という言葉が脳裏をよぎったものの、その悲鳴が非合法街区バリアーダスの空を引き裂いたときとは異なって今度は何も飛来しなかった。

 トリニダードの差し金であるのかは知れないが、実弾を伴わない空砲によっておどかされたわけだ――が、それは次なる追撃への布石に過ぎなかった。着地を待たずしてキリサメの右腕が『聖剣エクセルシス』ごと捕まえられてしまったのである。

 自分の身に何が巻き付いたのかも確認できないまま、キリサメは曇天そらに放り出された。右腕に食い込んでいる物が先端を輪の形に結んだロープであることに気付いたのは、故障して乗り捨てられたと思しき三輪自動車へ叩き付けられようとする間際だった。

 身を翻して三輪自動車の屋根に着地したキリサメは左手でもってロープを掴み返し、これを繰り出した相手の身を反対に引っこ抜いた。

 遠心力に乗せて空中高く放り投げたのは小さな丸メガネを鼻に引っ掛けた優男である。果たして、右手にロープを握り締め、対の左手にトリニダードが口にくわえた物と同じボウイナイフを構えているではないか。

 周囲に潜んでいた『組織』の伏兵であることを疑う余地はあるまい。北米アメリカの西部開拓時代に活躍したカウボーイの如く投げ縄でもって捕らえた標的を己のもとまで引き寄せ、白刃を突き立てるつもりであったのだろう。

 くだんのロープは内側に頑丈なワイヤーでも編み込まれているようでキリサメの腕力をもってしても千切ることができなかった。それほどまでの強度が備わっていればこそ、縛り付けた標的を投げ飛ばすという荒業をこなせるわけだ。

 キリサメとしても右腕が不自由なままでは満足に迎撃態勢も整えられないのだが、二度三度とロープを掴み返されても困ると警戒したのか、この拘束は宙を舞っている最中に相手のほうからほどいた。


「なんでェ、今日は随分と優しいじゃんか、ルー? その辺の岩石いわを投げ輪で引っこ抜いてブツけるんじゃねーかってワクワクしてたのによ」

「出逢って何年も経つのだから、キミのようにパフォーマンスが趣味じゃないことくらいって欲しいものだね。無駄な労力は省くに限るし、〝仕事〟はもっと効率的にこなすべきじゃないかな。この点、キミの意見を聞かせて欲しいものだね」

「自然な流れで説教おこごと始めようとすんなよ~」


 古びた電柱を蹴飛ばすことで体勢を整え、トリニダードの傍らにひらりと降り立った優男は互いを揶揄するかのような軽口を叩き合いながらロープを手元に引き戻した。見れば数本分のロープを輪の形に束ね、ボウイナイフの鞘と一緒にスラックスのベルトから下げているではないか。

 象牙色アイボリーじゃたジャケットを羽織り、立ち居振る舞いからかおかたちに至るまで知性という二字を体現しているかのような優男をトリニダードは『ルー』と親しげに呼んでいた。


「……これは……どういうことなんだ……」


 トリニダードたちは英語で会話している為、ペルー国内で主に用いられる言語ことばと日本語しか習得していないキリサメには正確に内容を聞き取ることは不可能だったが、抜き差しならない異常事態の発生だけはこの場の誰よりも深刻に受け止めている。

 伏兵からの思いがけない横槍によって精神集中が断ち切られた影響か、今まで認識していなかった疲弊が一気に押し寄せてきたのか――眉間に脂汗を滲ませ、両肩を大きく揺するようにして荒い呼吸を繰り返すキリサメは、トリニダードたちの肩越しに一体の屍を見据えていた。

 ほんの一瞬だけ大きく見開かれた瞼は再び半ばほどまで閉じられているが、瞳は正常に機能している。その屍は錆びた十字架に両腕が絡まったような状態のまま、額のド真ん中から大量の鮮血を迸らせていた。キリストの受難を彷彿とさせる姿で事切れているのは、紛れもなくエスパダスであった。

 疎ましいくらい憂国の志を訴え続けてきた男の身に何が起こったのか、キリサメはすぐに勘付いた。ソードオフライフルの反動ブローバックに呑み込まれ、殆ど無防備のままリボルバー拳銃の銃口に晒された瞬間とき、丁度、エスパダスに背を向ける恰好でトリニダードと対峙していたのである。

 その状態で銃撃を回避したのだから、流れ弾が後方のエスパダスに命中してしまうのは自明の理というものであろう。捕らえられた末の潔い刑死でも、名誉ある戦死でもなく、〝貰い事故〟によって命を失うなど政府転覆を画策した革命家の末路としては余りにも呆気なく、新時代の礎を標榜していた姿を考えれば惨めとしか言いようもない。

 しかし、これを単なる偶然として片付けることはキリサメにはできなかった。ちょうだんの到達地点を瞬時にして割り出し、その場所まで相手を追い立てるような力量の持ち主が目の前に立っている。ひょっとすると流れ弾による〝貰い事故〟さえ計算ずくだったのではないだろうか。何しろトリニダードの行動には不審な点が多過ぎるのだ。

 血の混じった咳と共に詰問を絞り出そうとするキリサメだが、それすらも混沌とした筋運びによって断ち切られてしまった。これまでになく近い距離で轟音が鳴り響いたかと思うや否や一発の砲弾が錆びた十字架に飛来し、エスパダスの屍をも巻き込んで炸裂した。

 着弾地点を中心として四方八方に輻射された衝撃波は周囲の掘っ立て小屋を木っ端微塵に破壊し尽くした。広場の近くに住んでいた人々は国家警察ワマンたちが『組織』の拠点アジトを取り囲んだ時点で退避を済ませており、家屋の倒壊以上の被害は出ていないらしい。

 一方のキリサメは思穂から聞かされた「ダック・アンド・カバー身を伏せて頭を隠せ」の教えに倣って地面に伏せたのだが、さすがに間近で起こった爆風を耐え切れるものではなく、掘っ立て小屋の残骸と一緒に『恥の壁』へ叩き付けられてしまった。


「次から次へと何が――」


 『恥の壁』にもたれ掛かりながら身を引き起こしたキリサメは、この世のものとは思えない光景を目の当たりにして言葉を失った。着弾地点から灼熱の火柱が逆巻き、僅かに吸い込んだだけでも吐き気を催すような黒煙が曇天そらにてとぐろを巻いている。

 掘っ立て小屋を吹き飛ばした衝撃波と照らし合わせると、爆発の規模自体はそれほど大きいわけではない。軍事兵器に明るくはないキリサメには分からなかったのだが、広場に撃ち込まれたのはしょうだんと呼称される種類の砲弾である。読んで字の如く着弾地点周辺を焼き尽くすことを主な用途とする物だ。

 防耐火建材を選ぶ余裕など非合法街区バリアーダスの住民にあろうはずもなく、掘っ立て小屋は燃え易い木の板を強引に組み合わせて造っている。そのような建物が密集する場所へしょうだんなど撃ち込もうものなら大火災は免れないところだが、現時点に於いては着弾地点から先の延焼は皆無に等しかった。

 被害が拡大しない程度に焼夷剤の量も調整されているのだろう。風に煽られて火の粉が飛び散った場合には延焼の可能性があるものの、キリサメの眼前で爆炎ほのおに呑み込まれたのはエスパダスの屍のみであった。


「ビセットのヤツ、加減も知らずにやってくれたね……。証拠隠滅が望ましいというオーダーではあったけど、亡骸を『組織』の人間に確認させてから吹き飛ばしたほうが色々と効率的だったのに……」

「良いじゃねーか。おぼっちゃんの言葉じゃねぇが、何もかも向こうのオーダー通りってのはやっぱり面白くねェぜ」


 片膝を突いて重心を落とし、その場で爆風と衝撃波を凌いだトリニダードは「打ち上げにステーキハウスっつう選択肢は消えたな。市内の良さげな店、調べといたのに」と傍らの優男に向かって笑いながら鼻を摘まんでみせた。

 辺り一面には肉の焦げる悪臭においが充満しており、トリニダードの言わんとしている意味が分からないでもない。しかし、天を焦がさんばかりの火柱を眺めながら他人事のように笑う姿は理解に苦しむのだ。流れ弾ではあるものの、自らが所属する『組織』のリーダーを撃ち殺してしまった人間の反応として何から何までおかしいだろう。


「――よォよォ、お待たせお待たせ、見たかよ、見たかよ? 一軒の火事も起こさねェで標的だけピンポイントでビンゴ! 自分の腕前に惚れ惚れしちまったぜェ~」


 間もなく掘っ立て小屋の残骸を踏み越えて一人の男が姿を現した。豪快な笑い声を引き摺りながら歩いてきたその人物は呆然と立ち尽くしているキリサメの前を悠然と横切り、トリニダードたちのもとへと向かっていく。

 出迎えた二人から苦笑交じりで『ビセット』と呼ばれた男は、二メートルをゆうに超える巨躯の持ち主である。目と鼻の先でゆらめく火柱のようにさか立った金髪ブロンドや肌の色から察するに他の二人と同じ欧米系なのだろう。両目の下に塗り付けた黒い遮光グリースは瞳に感じる眩しさを和らげる物としてアスリートの間では広く親しまれているのだが、スポーツ自体に縁のないキリサメには奇抜なフェイスペイントとしか思えなかった。

 それ以上にキリサメの目を引くのは大男が肩に担いでいるロケットランチャーだ。しょうだんを放ってエスパダスの屍を焼き尽くした張本人がこれで明らかとなった次第である。

 煙幕弾でワマンたちをかくらんしたのも、トリニダードとの交戦中に空砲で威嚇を行ったのも、この男と見なして間違いないだろう。

 ロケットランチャーを発射した際に付着した汚れであろうか、顔面の半分を覆うほど長いマフラーやボロ切れ同然のバンダナ、使い古しのジーンズはあちこちが黒ずんでいる。


「これで〝仕事〟も一段落だろ? とっととステーキ食いに行こうや! こちとら『バイス』の奢りだけを楽しみに南米くんだりまでやって来たんだぜ?」

「マジかァ? この状況で肉食おうってお前……、ど~ゆ~神経してんだよ。幾らでもご馳走してやっから、せめて別のモンにしようや。なあ、ルー?」

「ビセットも『バイス』もすっかり忘れているみたいだけど、今頃、市街地は大変な騒ぎになっているんだよ? 非常事態の真っ最中にレストランが営業していると思うかい」


 ここから少しばかり離れたでは依然として『組織』の兵隊と国会警察の銃撃戦が続き、リマの中心街ではデモ隊の暴発が深刻さを増している。ペルーという国家そのものをしんかんさせるほど混沌とした状況下にも関わらず、遅い昼食ランチの相談を始めた三人の男たちを唖然と眺めるキリサメだったが、トリニダードの正体について一つの確信を得ていた。

 この男にとって自分キリサメは兄のかたきのはずである。それなのに復讐の想念を露にする瞬間もなく、確実に息の根を止められるような状況に持ち込んでさえ、致命傷となり得る攻撃だけは加えなかった。結局、彼が殺めたのはエスパダス一人という有り様なのだ。

 ここに至るまでの言行は何もかもおかしかったといえよう。果たして、数多の疑問に対する答えは三者の会話の中に潜んでいた。優男と大男は神父姿の青年のことを揃って『バイス』と呼んだのである。それはつまり、彼の本名がトリニダードでない証拠だった。

 もはや、彼の発言は一切を偽りと切って捨てるしかなく、語られた経歴とて信用に足るものではなくなった。


「……お前、本当は『神父』の弟じゃないんだろう?」

「おっ、さすがにバレたか。名推理の通り、俺たちゃエスパダスの上位組織うわやくに雇われた余所者さ。ついでに自己紹介しとくと本名だってトリニダードなんかじゃねぇ。バイス・アドラーってんだ。……入り婿なんでミドルネームが付いたりしてホントはもっと長ェんだけど、そこは割愛ってコトでヨロシクな!」


 『バイス・アドラー』と名乗り、左手の薬指にて煌めく結婚指輪を見せつけた青年は、英語からペルーの言語ことばに切り替えながらキリサメの詰問に首を頷かせた。『組織』内部で吹聴していたことの全てが偽りだったとあっさり認めてしまったわけだ。

 次いで彼は優男のほうを『ルーファウス・クライバー』、大男のほうを『ビセット・ランカスター』と、それぞれ紹介していく。バイスから詳しく説明されることもなかったが、三人が古くからの仲間であろうとは察せられた。


「おいおい、そんなジト目はねぇだろ~。あんなに一緒に踊りまくった仲じゃないの」

のは僕だけだ。……胡散臭い連中を怪しむのは当たり前だろ」

「胡散臭いも何も、俺たちゃ『デラシネ』だよ。お前さんも〝裏〟のでたむろしてるんだから、小耳に挟んだコトくらいはあるんじゃねぇか?」

「……『デラシネ』――」


 『組織』の構成員でもないと明言したバイスは自分たちを『デラシネ』と称した。

 確かにその言葉にはキリサメも聞きおぼえがあった。水面を浮かぶ根無し草を意味するフランス語のはずだが、この場に於いては比喩的な言い回しとして用いられている。

 〝根無し〟――つまり、特定の組織に所属しないフリーランスの殺し屋を指す隠し言葉であった。まことしやかな風聞うわさで聞いたのみではあるものの、裏社会には『デラシネ』を支援する組合ギルドが伏在し、暗殺ころしの〝仕事〟を競争入札のような形で斡旋あっせんしているという。

 〝闇の仕事人〟とも呼ぶべき『デラシネ』についてはワマンから聞いたこともあるが、長らく〝裏〟のを棲み処としてきたキリサメとて実際に遭遇するのは初めてである。


「……ペルーにも『デラシネ』は実在したんだな……」


 率直に驚いているキリサメに対し、バイスは「人を未確認動物UMAみてェに言うなって」と、おどけた調子で肩を竦ませた。

「ネッシーみたいに夢が膨らむハナシじゃなくて悪いがよ、俺たちゃ北米アメリカを根城にしてるチームでな。今回は〝仕事〟の都合で南米まで出張ってきただけだよ」

「チームを組んでいるのは僕とビセットだろう。ただの助っ人を捕まえて自分んトコのメンバーみたいに紹介するのは良い迷惑なんだけどなぁ」

 ルーファウスが事実との誤りに指摘ツッコミを入れると、彼の本来の相棒であるビセットが胸を反り返らせて大笑いした。

「ンな小せェコト言うんじゃねーってばよ、相棒。実際、バイスとはもうず~っとツルんでるしよォ、広い意味ではチームで良いじゃんよ!」

「相棒と呼んでくれるのなら、僕の意見を尊重することを覚えて欲しいよ、ビセット」


 三人のやり取りを眺めている内にキリサメの首は角度が徐々に傾いていった。暗殺ころしを稼業にしていることから常に殺伐の気配を漂わせるような者たちを想像していたのだが、実際に出逢った『デラシネ』は他人の命をカネに換えているとは思えないほど感情豊かで、とても生きている様子だった。ともすれば〝表〟ので暮らすと大して変わらないではないか。

 相変わらずルーファウスとビセットは英語で喋っているのでどのようなやり取りをしているのかは分からないが、非合法街区バリアーダスの只中には不釣り合いと思えるほどはつらつとした姿から陰惨な為人ひととなりでないことだけは読み取っている。


「……あんたたち、本当に『デラシネ』なんだよな? ランチャーなんて目立つを使う殺し屋なんて聞いたことがないけど……」

「僕も人のことは言えないし、妙な物を〝仕事道具〟にする『デラシネ』も少なくないから何とも言えないなぁ。この人がずば抜けておかしいのは間違いないよ、ウン」

「日本の少年とは思えねぇようなコトを言ってるな。江戸時代の日本にはオレみたいに大砲ぶっ放したり、三味線シャミセンとかいう楽器のげんで首を絞めたりする殺し屋が居たんだろ。ある意味、由緒正しい『デラシネ』の系譜じゃね~か」


 ペルー出身の少年に気を遣ったのだろう。ルーファウスは寄せられた質問に同地の言語ことばで答えていった。一方のビセットは根拠地アメリカ以外の言語ことばなど覚える気がない様子で、傍らの相棒に通訳を任せてしまっている。


「僕は日本人じゃないし、あんたの話は半分も分からないけど、江戸時代にランチャーなんてなかったことくらいは知っているよ。まだサムライがいた頃じゃないか」

「ビセットの話を真に受けなくて良いからね。真顔で語ってる本人も受け売りだし、与太話と大差ないからさ」


 自分が通訳している相棒ビセットの解説を真剣に聞く必要もないと切って捨てたルーファウスは、キリサメからバイスへと目を転じた。この少年が本当に知りたがっているだろうことを明かしてやるよう促したわけだ。


「お前さんは拍子抜けするかもだけどな、メキシコの犯罪組織とのパイプ役っつう例の『神父』の身内を騙ったコトに大した意味はねぇんだよ。そのほうがエスパダスの『組織』に入り込み易かったから――それだけなんだぜ」

「……本当にあの『神父』とは兄弟じゃないんだな? メキシコ出身には見えないからおかしいとは思ってたんだけど……」

マイったのはこっちだぜ。架空の弟をでっち上げたつもりだったのに兄貴のカタキなんてモンが出てきたんだからよ」

「……あそこで炭クズに成り果てた男はそんな話を真に受けたのかよ……」

「血の繋がりがねェ兄弟って説明したら速攻で信じてくれたよ、あいつ。政府への不信感を喚く前に、もっと身の周りのコトに注意深くならなきゃ、息苦しい世の中なんかで生きてけねぇぜ――あッ、もう生きてねぇけど」


 拍子抜けとはいかないまでも、キリサメの中で張り詰めていたものが途切れたのは事実である。自分には迎え撃つがあるとさえ考えていたカタキ討ちが予想の通りに紛い物だと確かめたのだから、それも無理からぬことであろう。何しろ、「復讐の連鎖とも呼ぶべき決戦は不可避」などと自分ばかりが深刻に考えていたのである。

 言わずもがな、神父風の衣服も偽物である。ルーファウスとビセットはバイスの古馴染みという触れ込みでエスパダスに協力を持ちかけたという。


「――回りくどいやり方で『組織』に潜り込んだ理由を拝聴したいもんだねぇ、アメリカからおいでなすったお客さんたち? ペルーの警察おまわりさんには教わる権利があると思うがね」


 キリサメが続けるはずであった質問を横取りしたのは、瓦礫の山から割り込んできた第三者の声――思穂を伴って姿を現したワマン警部だった。

 銃声が止まないということは『組織』の完全制圧には至っていないようだが、戦闘そちらは部下に任せ、自らはエスパダスの身柄を確保するつもりだったのだろう。

 ワマンの真隣にて手持ちの小型カメラを構えた思穂は、どれほど時間が経過しても衰える気配のない火柱へ釘付けとなっている。かくえきたる揺らめきの中心で消滅しようとしているのがエスパダスの屍であることを彼女は把握しているのだろうか。どの時点から二人が聞き耳を立てていたのか、キリサメには全く分からないのである。

 一方のワマンはエスパダスが辿った末路や、トリニダードと偽名を使っていた青年の正体を把握している様子だ。そして、国家警察の存亡を左右し兼ねない汚職事件の重要参考人を始末された以上、三人の『デラシネ』を見逃すわけにはいかないのだった。


「あなたには皮肉なシナリオかも知れませんが、国家警察内部で蠢いていた策謀と同じことがペルーの裏社会でも起きたのですよ。……が他にまで回る前に組織の癌は速やかに切除するというコトです」

「自分らでっといて何だけどよ、勘違いヤローには相応しい末路だと思うぜ。チェ・ゲバラ気取りのクセして一般市民まで巻き込みやがったしな。裏社会に自分から飛び込んでくるような〝ワケあり〟ならともかく、カタギを餌食にしやがったんだ。……『組織』の新生だとか何とか言ってやがったが、やってるこたァ以前まえとビタ一文変わりねぇのさ」

「……おじさん、今、物凄くイヤな予感がしてるんだが、まさか、今度の一件は……」

「そのまさか――ですよ。首席監察官が暗躍している情報も我々の依頼主は把握しておられたようでね。これ幸いに便乗したのです。一時雇いの我々に詳しい話は届きませんでしたが、国家警察長官というパイプ役を切り捨てたところで痛くも痒くもないのでしょう」

「信じらんねーけど、この革命家気取り、ちょっとしたカリスマ的存在だろ? そういうヤツが身内に粛清されたとなりゃ内部分裂まっしぐらになっちまわァ」

「ですので、カリスマを失った恨みが別のモノへ向かうよう誘導したということです。国家警察との間で発生した戦闘の流れ弾――それは劫火への道標しるべだったのですよ」


 ルーファウスとバイスによって明かされた真実にワマンは苦虫を噛み潰したような表情かおで頬を掻いた。つまるところ、エスパダスは反乱の兆しを上位組織うえに見抜かれ、先手を打たれて葬られただけなのだ。

 そればかりではない。二人の話によれば、首席監察官が主導した正義の執行までもが反政府組織の内部粛清に利用されたことになる。

 カリスマに心酔していた者たちは死に物狂いで国家警察に復讐の想念を叩き付けることだろう。それはつまり、命令一つで特攻を仕掛ける〝爆弾〟を精製したも同然なのだ。ことのついでにエスパダスの直接の部下――即ち、反乱分子まで自分たちは何ら苦労せずに排除してしまったのだから、一挙両得どころではあるまい。

 果たして、キリサメが想像した通りにあの流れ弾までがバイスの――否、彼らを差し向けた〝依頼主〟の計画だったわけである。

 自分が他者の掌の上で転がされていたことなど最期まで気付かず、国家を覆した革命家という幻想と同化したまま逝ったエスパダスは、ある意味に於いて幸福しあわせだったのかも知れないと、キリサメは胸中にて皮肉を呟いた。


「ここまでにされるといっそ気持ち良いねェ。しかし、それでも――」


 三人の内、一人であろとも逃がすまいと電撃銃を構え直すワマンであったが、その出鼻を挫くようにズボンのポケットから哀愁漂う音色が聞こえてきた。エスパダスと対峙した際に響き渡った希更・バロッサの歌声と同じように、それもまた携帯電話に着信があったことなどを告げる合図である。

 油断なく『デラシネ』たちを見据えながら液晶画面を操作し始めたワマンに向かって、ビセットは陽気に口笛を吹いてみせた。先ほど彼の携帯電話スマホから流れ出した音色に聞き憶えがあるらしく、「ペルーの警察サツって趣味が良いんだな。今のイントロは『ケダカきケダモノ』に間違いねぇ」と楽曲の名称を言い当てたのである。

 『ケダカきケダモノ』とは『かいしんイシュタロア』の第一シーズンにて使用されたエンディングテーマである。

 光と闇の軍勢と敵対する第三勢力であり、世界を滅亡に導くとされる封印の魔獣ディンギル・ウッグゥの化身である女性の心をつづった切ない歌――と、アニメショップのポスターにも明記され、思穂が動画ビデオを再生する度に流れていたのだが、興味の範囲外のものをキリサメがいちいち憶えているはずがなかった。

 英語が分かる思穂はビセットの言葉に反応を示し、親指を垂直に立ててであることを示したが、相棒であるルーファウスのほうはアニメの題名すら知らないだろう。


「――で、俺たちはどうするんだい? 加勢も到着したところで、とことんりてェんなら付き合ってやるぜ?」


 携帯電話スマホの液晶画面を見つめながら秒を刻むごとに表情が険しくなっていくワマンを目の端で捉えつつ、バイスは決着がつくまで戦い続けるか否かをキリサメに問い掛けた。

 先程までの攻防に於いて蓄積された疲弊と、遠いところで繰り広げられる謀略合戦へ知らない間に巻き込まれていた虚脱感へ同時に見舞われたキリサメは、油が切れたブリキ細工のようにぎこちなくかぶりを振った。

 『神父』の身内でないことが判明した以上、彼と戦いを継続するだけの理由がない。『三位一体トリニダード』の妙技を繰り出すバイス一人にさえ手も足も出なかったというのに、おそらくは彼に比肩するであろうルーファウスとビセットまで相手にすれば、今度こそ冥府へ送られるはずだ。

 そもそも、〝無関係〟な人間と喋っている時間などキリサメは持ち合わせていない。今すぐに乾いた丘を駆け下り、幼馴染みの安否を確かめなくてはならないのである。


「あんたこそどうなんだ? ……僕の始末も依頼されているんじゃないのか?」

「お前さんと因縁があったのはエスパダスの『組織』じゃねーか。末端の事情なんてモンは上層部うえにとっちゃ取るに足らねぇコトなんだよ。『神父』の弟として潜り込めるようお膳立てしたのは〝依頼主〟だがな、奴ら、お前さんの名前だってまともに憶えてなかったんだぜ? 昔のいさかいでメンツを傷付けられたとか、ンな風にも思ってねぇんだよ」

「……僕なんて視界にも入らない虫けらってコトか。それならそれで助かるかな……」


 キリサメ自身、母親を死に至らしめた『組織』より〝先〟のことなど少しも考えられなかった。バイスたちの〝依頼主〟まで叩き潰さなければ恨みが晴らせないというわけでもなく、もはや、こだわるべき因縁そのものが消滅したのである。

 それに、だ。無関係な人間まで殺して回れば、母の命を奪い、リマ市民を暴力に駆り立てた『組織』と同類になってしまう。こればかりは絶対に越えてはならない一線だった。

 キリサメに戦う意志がないことを確かめたバイスは二挺拳銃とボウイナイフをそれぞれガンベルトに仕舞い、次いで大仰なくらい肩を竦めてみせた。


「ぶっちゃけ、助かったぜ。エスパダスの先代どもをブチのめしたっつう〝アレ〟を実際に見たときゃ腋の下に冷てェ汗が噴き出したんだぜ? ……ちょいとブルッちまったよ」


 深手を負った脇腹をわざとらしく摩りながら冗談めかして口笛を吹くバイスだが、あの、追撃を浴びせられていたなら間違いなく致命傷となっていたはずだ。


「しっかし、ギリッギリだったなァ。最初ハナから〝アレ〟を利用するつもりではあったんだけどよ、少しでもタイミングがズレてたら、カミさん、泣かせるところだったぜ」

「……その話、一体、どこで……」


 余人には理解不能な判然としない言葉を交わしながら徐々に怪訝な顔へと変わっていくキリサメの様子をルーファウスが苦笑混じりに見つめていた。


「気の利いた言い回しを用意してやれなくて申し訳ないけれど、キミとごく親しいという情報提供者から教わったんだ。お陰でこちらも色々と算段を立てられて助かったよ」


 ルーファウスは個人名を伏せていたが、『デラシネ』たちに自分の情報を売り飛ばした人間についてキリサメは大いに心当たりがあった。裏社会の人脈が豊富であり、しかもカネに汚く、おまけに『組織』を壊滅寸前まで追い詰めたときの戦闘ことを熟知している――そのような人間など世界にたった一人しか存在しないのだ。

 脳裏に蘇ったニット帽の男は自分の行いをじるような素振りもなく、舌を出して誤魔化していた。そのような姿を容易に想像できるからこそ、キリサメは無意識の内に舌打ちしてしまったのである。

 〝ある特殊な条件下〟に於いては銃弾だろうと何だろうと、全く通じなくなると情報提供者から教わったのだろう。くだんの条件を満たし、望んだ通りの反応を示すものと確信した上でバイスは銃口を向け、意図的に殺気を破裂させたと考えて間違いあるまい。

 流れ弾という死因にまでキリサメは〝鍵〟として組み込まれていたわけだ。ルーファウスの投げ縄で捕獲される寸前に轟いた空砲とて〝ある特殊な条件下〟を計算に入れて実行されたものであろう。何もかも『デラシネ』たちの思惑通りに転がされていた恰好だが、心身ともに徹底的に打ちのめされてしまったキリサメには怒りなど湧き起こらなかった。


(……今度、リマで見かけたら、もう片方の足もツブしてやる……)


 代わりに自分の情報を売り飛ばした男への報復しかえしを密かに誓うのみであった。


「彼らを相手にしないのは賢明だよ、キリサメ君。……こんなところで揉めてる場合じゃなさそうだ。どうやら、本当に取り返しのつかないことになるかも知れん……」


 キリサメの選択を最善であると後押しするワマンである――が、その声は普段の曲者めいた態度が嘘のように震えており、ヘルメットで覆われていない顔面は血の気が殆ど消え失せていた。本人も無自覚のまま渾身の力で携帯電話スマホを握り締めてしまい、液晶画面に無数の亀裂が走っている。

 彼のもとに穏やかならざる報告が届いたことは瞭然であり、ペルーの言語ことばが分からない思穂にもそのことは察せられ、幾筋もの黒煙が立ち上るリマの中心街へとカメラを向けた。

 今、このときに緊急事態がしらされるとすれば、デモ隊の動静をいて他にはあるまい。


「……デモ隊とぶつかっている仲間からの連絡によるとだね、一部の連中が『アチョ闘牛場』へ忍び込んだそうなんだが……」

「どうして、あんなところに? 冬は閉鎖されてるんじゃ……」


 発言のみを抜き出せば冷静さを保ったまま状況を分析しているように見えなくもないキリサメだが、実際には両膝が小刻みに震えており、今にも崩れ落ちそうだった。『聖剣エクセルシス』を支えにして何とか凌いでいるようなものである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、その震えは疲弊とは別の理由から起こったものだ。


「そうですよ、闘牛場へ向かっているっていうのは見間違えで、実は危険な場所から逃げ出そうとしているんです。きっと、そうだ。そうでなきゃ、あんな場所に用事は……」

「キリサメ君……」


 キリサメはサン・クリストバルの丘に面した非合法街区バリアーダスを〝棲み処〟としている。そこから何キロと離れていない地点にアメリカ大陸最古にして最大規模の闘牛場が鎮座しているのだが、そこにデモ隊の一部が乱入したそうなのである。

 真冬の現在は闘牛の催しなど行われていない。華麗にサーベルを振りかざす闘牛士も、その好敵手たるも、どちらの姿も見つけることはできないのだ。ひとが皆無に等しい場所を占拠したところで何の意味も為さないのである。

 決闘の舞台を取り囲む雛壇式の観客席に政府関係者でも並べて〝民の声〟でも聞かせるつもりだろうか――そうとしかキリサメには考えられなかった。クーデターの前兆などとは想像してもならないと、己に言い聞かせていた。


「アチョ闘牛場ですか……。エスパダスたちがデモ隊に用立てた武器の引き渡し場所だと聞いていますが……」


 眉間に皺を寄せたルーファウスが自分の知り得る情報を明かした瞬間、ついにキリサメの両手から一切の力が抜け落ち、掌から『聖剣エクセルシス』を落としてしまった。呆けたような面持ちでワマンに目を転じると、彼もまた重苦しい様子で首を頷かせた。首を横に振って欲しいという願いまでもが虚しくついえたのである。

 おそらくワマンはアチョ闘牛場にて武装を整えたデモ隊が攻勢に出たことを告げられたのだろう。ペルーの若者の未来を憂うこの男は、武器密売を主導したというキタバタケの家族が――が蜂起に加わっている可能性を直感して心を乱してしまったのだ。


「闘牛場に集められた武器が港湾労働者の手引きによる物だと知っていたら、キミの幼馴染みが駆け付けないわけはないから――」

「――そんなの、あなたに言われなくたって分かってるッ!」


 想定し得る最悪の事態を口にしたワマンをペルーの言語ことばによる一喝で黙らせたキリサメは、苦悶の面持ちで歯を食いしばり、撮影を続ける思穂と同じ方角に視線を巡らせた。

 他人ワマンなどにわざわざ指摘されるまでもない。何よりもキタバタケの家族を大切に想っているならば、叔父の遺志を引き継ぐ形で武装蜂起の先頭に立ってしまうかも知れないのだ。怖いもの知らずとしか表しようのない行動力が幼馴染みに備わっていると、キリサメは誰よりも熟知していたのだ。本当に長い付き合いの中で互いのことを理解し合ってきたつもりなのである。


(まだ何も……何も終わっちゃいないんだ。いくらが考えナシのバカだからって、クーデターに加わる度胸なんかあるものかよ……ッ!)


 、この時点で手遅れと決め付けるには早計であろう。勝手に顔面蒼白となっているものの、ワマンが口にしたのは〝万が一の場合〟であって、実際にの姿がアチョ闘牛場に確認されたわけでもないのだ。

 思い過ごしに決まっている――そのように心の中で唱え続けるキリサメだが、早鐘を打つ心臓はどうあっても誤魔化しようがあるまい。アチョ闘牛場ではなく非合法街区バリアーダスにて鳴り響いている銃声も今までにないほど重く感じられるのだった。

 ある意味に於いて幼稚な思考の持ち主ともいえるキリサメには、何もかもかなぐり捨てて幼馴染みのもとへ駆け付けるという選択肢が最初から存在していなかった。闘い続けなければ生きていけないこの少年は、目の前の敵を全て蹴散らさない限り、決して〝道〟は開けないと信じて疑わなかったのである。

 血と破壊の果てに命を繋ぐ糧を手にしてきたキリサメは、今、己の人格形成の大部分を占める闘争本能によって追い詰められていた。





 その日のリマをたとえる二字は、『動乱』をいて他にはなかった。

 労働者の権利などを脅かし兼ねない新たな法律に抗議するべく集結した群衆は、幾重にも部隊を展開させることによって〝大統領宮殿〟への進路を封鎖した国家警察を視界に捉えた瞬間、将来への不安を訴える手段であったはずの〝暴力〟が憤激を癒し得る目的にすり替わってしまったのだろう。

 一瞬たりとも途切れることなくペルーの国歌を合唱し続ける行進は、海外より取材に訪れた報道関係者プレスの目に異様なモノとして映ったはずである。

 数日前の深夜に決行された大規模なデモでは密かに調達された特殊警棒が警官隊の盾を破壊して前衛を脅かす場面もあった。そのように強力な武器はごく限られた人間の手にしか渡っていないものの、群衆が一丸となって襲い掛かれば〝政府の犬〟だろうと退けられるという妄念に取りかれてしまったのだ。

 デモ隊の先頭を進んでいた者たちは口にするのもはばかられるような罵詈雑言が記された国旗を掲げているのだが、進路上に〝敵〟を発見するや否や、野獣さながらの吼え声と共に警官隊の前衛に殺到し、二メートルを超える長さの支柱ポールを一斉に振り落としていく。

 国旗を括り付けておく為の支柱ポールはいずれも鉄製であり、高い位置より叩き付けられた場合、当たり所が悪ければヘルメットの上からでも重傷を負い兼ねなかった。人の命さえ奪うかも知れない〝凶器〟を何の躊躇ためらいもなく繰り返すのだから、もはや、暴徒以外の何物でもあるまい。棚引く国旗は秒を刻むごとに返り血で汚れていった。

 デモ隊と国家警察が最も激しく衝突したのは、大企業の社屋といった大きな建物が軒を並べる区画の十字路であった。

 地中に廃タイヤを埋めて階段を作らなければならないほど物資が乏しい非合法街区バリアーダスとは掛け離れた〝綺麗な世界〟がそこには広がっている。道路は綺麗に舗装され、飲食物や文房具など種々様々な品物が雑多に陳列された商店ボデガや、高級レストランが〝安全な旅〟を求める観光客を手招きしているのだ。

 報道関係者プレスを除いた異邦人はホテルから出るに出られず、このような時期に訪れたことを嘆いている。それが為に今日はどの店も固く門を閉ざしていた。ペルーの町並みには防犯用の鉄格子で覆われた窓が自然に溶け込んでいるのだが、それと同じように暴徒化した群衆から略奪を受けてはなるまいと警戒しているわけだ。

 路面には政府を誹謗する内容の広告チラシが散乱し、どこかタイル柄にも似た幾何学模様を作り出している。これを赤黒く染める塗料は、言わずもがなペルーの民が流した血である。

 同じへ生まれついた人々の血を大地に吸わせることがエスパダスの目指した革命なのだろうか。自らが望む形の未来しか断固として認めず、それ以外の全てを破壊せんとする憎悪の爆発が最善の可能性を手繰り寄せる力となり得るのだろうか。

 革命家が唱える高尚な理想など激戦地そこには影も形も見当たらない。

 夢想家のまま逝った男の〝置き土産〟によって破壊衝動のみが加速し、その果てに暴力という名の暴風雨がリマに吹き荒んでいた。〝政府の犬〟に襲い掛かる群衆は誰も彼も革命のに魅入られているが、それは他人が思い描いたなのだ。死んだ人間に虚しく踊らされていることなど彼らは露とも知らないのである。

 この世を思うがままに変えられるかも知れないというは、理性を蝕んでいく麻薬のようなものだ。赤ん坊を背に担った母親は憤激と陶酔をい交ぜにした昂りの赴くまま十字路の中央へと飛び出し、警官隊を動転させた。この国の未来を担う二人を力ずくで退けることなどできようはずもなく、強化プラスチック製の盾を構えた前衛は動きを止めざるを得ない。

 自らを十字架へ見立てるかのように両手を広げた母親は、国家警察ひいてはカメラを向けてくる報道関係者に「この子から未来を奪わないで」と記された横断幕を掲げた。

 たった一人の小さな行動は〝敵〟の隊列を乱すには過分なほどの効果を発揮した。前衛の注意が引き付けられている間に別の通りを抜けて迂回してきたデモ隊が警官隊の横っ腹目掛けて突撃したのである。

 直接的に中衛から後衛を突き崩さんとする奇襲攻撃だった。細心の注意を払って母親と赤ん坊を無傷のまま脇道まで連行した国家警察は即座に隊列を組み直し、横合いから攻め寄せてきた者たちに銃火器を向けた。このときには既に発砲の許可が下りている。


「――撃てェッ!」


 間もなくペルーの言語ことばにて攻撃命令が発せられ、濁流と化して押し寄せてくる奇襲部隊に無数の弾丸が浴びせられた。

 ひきがねの引かれたライフル銃や散弾銃ショットガンはいずれも非致死性のゴム弾を発射する暴徒鎮圧専用の物である。それでも命中すれば負傷は免れない為、数日前に発生した深夜のデモでは民間人に銃口を向けることを躊躇ためらっていたのだ。

 しかし、今度は手加減など一切なかった。催涙弾を装填したグレネードランチャーまでもが幾度も火を噴き、怒号を引き摺りながら向かってくるデモ隊を脅かした。


「――とっかんッ! この国を腐らせる公僕どもへ目に物見せてやれッ!」


 対するデモ隊は過去の選挙で用いられた看板を幾つも組み合わせて一枚の分厚い盾を作り、これをもって〝公僕〟の銃弾を防いでいる。数人がかりで押し出される木の板には大統領選挙のポスターが貼られたままであり、それ自体が政府に対する抗議であった。

 本当に銃を向けるべき相手は同じペルーの民ではなく、貧困を是正もせずに私腹を肥やし続ける政治家たちではないのか――この国に生まれ付いた者ならば誰もが共有する問題提起と共に警官隊へぶつかっていくのだ。

 未来を憂う純粋さが根底にあるデモ隊は物陰に隠れて徐々に接近するような小賢しさを持ち合わせてはいない。ましてや、悠長に構えていられるような余裕もない。一秒でも早く〝大統領宮殿〟に突入して忌むべき新法を撤回させねばならないのだった。

 突撃の間隙を縫うようにしてデモ隊から大小の石が放物線を描いて警官隊に降り注ぐ。側面に回り込んだ者ばかりでなく正面から押し寄せる本隊も投石を始めた為、挟み撃ちとまでは行かないものの、二方向から同時に飛び道具を受ける状況に陥っていた。何人かはプロテクターを破壊され、後方に控えている救急車へ血だらけで運ばれていった。

 奇襲部隊が押し寄せてきた道路みちと交わる反対側は国家警察の放水車や装甲車両が封鎖したのだが、そちらにはロケット花火や火炎瓶が投げ込まれている。

 もはや、軍隊が動員されても何ら不思議ではない事態であるが、国家警察の側は頑として内乱クーデターとは認めない。あくまでもこれは抗議デモであり、参加しているのは同じペルーの国民なのである。未来をうれう者たちの叫びに接していればこそ、これを一網打尽にし得る圧倒的な武力の介入だけは遮断しなくてはならなかった。

 今や誰もが心に血を流していた。政府への憎しみを暴発させたデモ隊は明日をも知れぬ社会の仕組みに絶望し、これを食い止めんとする国家警察は同じ苦しみを分かち合う国民なかまを迎え撃たねばならない悲劇に慟哭していた。

 今、ここで政府の傲慢を許してしまえば、人間らしく生きる権利すら奪われる――決死の覚悟を胸に秘める者たちは、ゴム製の散弾をまともに喰らっても歯を食いしばって耐え抜き、全身の至る箇所を青く腫らしながら前進し続けるのだ。

 側面から襲い掛かった奇襲部隊の多くはエスパダスが手配した特殊警棒を握っている。数日前の衝突と同じように警官隊の盾を打ち砕いたが、二度目ということもあって国家警察の側も対策を立てている。相手の意識が前方の人間へ集中している間に数人がかりで飛び掛かり、各個、地面に組み伏せて逮捕していくのだ。執拗に抵抗する者は警察仕様である硬質ゴム製の警棒で滅多打ちにし、力ずくで屈服させるしかなかった。

 その最中、装甲車両の間隙から飛び出していった騎馬警官たちがデモの本隊を大いにかくらんし、続けて放水車から高圧の水大砲が繰り出された。これによって暴走する群衆を押し返そうというわけだが、路上には炎に包まれた国会議員の人形など周辺の建物へ延焼する可能性を孕んだ物が数多く放置されている為、消火も兼ねているのだった。

 〝民衆〟が相手では全力を出し切れない国家警察と、〝政府の犬〟など殺してしまっても構わないとさえ捉え、狂気じみた勢いでぶつかっていくデモ隊。一進一退で拮抗しているようにも見える攻防は鈍色の煙によって覆い隠されようとしていた。

 警官隊が撃ち込んだ催涙弾とデモ隊が投擲した発煙筒より噴き出したガスが入り混じり、濃霧の如く十字路に垂れ込めているのだった。

 両者の視界がいよいよ遮蔽されようかという間際のことである。鈍色の深い霧で塗り潰された向こう――デモ隊の最後尾の辺りから二頭分の蹄の音が突き抜けた。それは十字路目指して少しずつ近付いていき、勇壮なるいななきが轟くや否や、何十分も続いていた国歌の大合唱が途絶え、代わりにどよめきの声が渦巻くようになった。

 果たして、鈍色の霧を突き破って姿を現したのは、駿馬に打ち跨ったキリサメ・アマカザリたちである。

 余人に顔を晒さないようレインコートのフードを深く被ったキリサメは左手一本で巧みに手綱を捌いている。右手に握り締めた『聖剣エクセルシス』の側面で馬の尻を叩き、更なる加速を命じるさまは思いやりもなく酷使しているようにも見えるのだが、彼が置かれた状況を考えれば、それもまた無理からぬことであろう。

 鞍の後ろに乗せた思穂には腰のベルトを掴む手を絶対に離さないよう言い付けてある。万が一、落馬したときにはその場に置き去りにすると通告しているわけだ――が、それにも関わらず、彼女は右手でもって小型カメラを構え続けていた。

 当然ながらキリサメの腰に回されるのは左手一本のみであり、馬体が動揺する度に翻弄されて姿勢は全く安定しない。仮にこの馬が前足など上げたときには呆気なく振り落とされてしまうだろう。

 思穂は己の身の安全よりも〝真実〟へ臨む使命感を優先させているのだ。リマを呑み込んだ動乱を抗議デモの渦中にて捉える好機チャンスなど二度とは望めまい。


「――それにしても、キリサメ君に乗馬の心得があるなんて初めて知ったよ。なかなかサマになっていじゃないか。まさか、お袋さんの塾では馬術まで教えていたのかい?」

「……馬を盗んだときに乗り方を憶えました」

「窃盗の自白はおじさんの管轄外だなぁ。ちなみにどこに売ったの?」

「いえ、……潰して食べる為に、その……」

「そっちか~。おじさん、好き嫌いは無いほうだけど、はちょっと抵抗あるわ~」

「無駄口を叩いている場合じゃありませんが、あなたの好きなテンジクネズミの串焼きも大概ですよ」


 並走するキリサメへ軽口を飛ばし、一喝されてしまったのはワマン警部である。つまり、彼らがまたがっているのは警察馬ということだ。

 反政府組織の画策によって密売された武器弾薬はアチョ闘牛場へと運ばれ、その引き渡し場所にが居るかも知れない――この緊急事態に当たって、ワマン警部は自身の部隊に属する警察馬うまを特別に貸し与えたのである。

 単純な移動速度は警察車輌のほうが遥かに速いだろう。しかし、リマの中心部を走る道路は数千にものぼるデモ隊によって占拠されている為、自動車で乗り入れることは不可能に近いのだ。おそらく路上には岩などもばら撒かれているだろう。

 しかし、『恥の壁』が広がる非合法街区バリアーダスからアチョ闘牛場へ向かうには衝突の渦中を一直線に突っ切らなくてはならない。柔軟つ強靭なでもっていかなる場所でも自由自在に入り込み、最速で駆け抜ける警察馬は打ってつけであった。警察の任務を果たすべく鍛え上げられたは大きな音を間近に聞こうとも動じることなくり続けるのだった。

 エスパダスの拠点アジトに残って『組織』を徹底的に制圧しなければならないはずのワマンは側近に現場の指揮を委ねていた。共に馬を走らせていれば、国家警察の部隊と遭遇した際にも便宜を図ってやれるだろうとの判断である。

 ともすれば職務放棄を叱責される恐れもあるのだが、自身の懲罰よりも前途ある少女こどもが犠牲になることのほうが耐え難いのだ。警察馬をいてくる間に三人の『デラシネ』も姿を消している。追手を差し向けはしたものの、捕捉が困難と考えられる相手にこだわり続けるのは時間の無駄であろう。

 未来の可能性を守ることこそ何よりも優先されるべきという決意へ呼応したのか、ワマンが跨った警察馬が猛々しくいなないた。音もなく気配もなくエスパダスの拠点アジトへ接近する為にベルトで縛られていた口は自由を取り戻している。


「エスパダスだったら、このモーセの十戒みたいな光景にさぞ興奮したんだろうが、おじさんは立場的に気が滅入る一方だよ」

「……結局、あの男は人形遊びがしたかっただけでしょう。死んだ今もえない糸で人形たちを操っている……癪に障って仕方がない……ッ」


 二頭の警察馬へそれぞれ打ち跨ったキリサメたちはデモ隊の後方から割り込み、十字路まで突き抜けた次第である。仰天した群衆は咄嗟に左右へと別れ、そこに開かれた道をワマンは旧約聖書に記された奇跡に喩えたのだった。

 『出エジプト記』によると、古代イスラエルの預言者モーセは自身が指導する民を後方より迫る危難から逃すべくこうかいを二つに割って向こう岸まで辿り着いたという。

 群衆の中には国家警察ワマンの出で立ちに敵意を燃やし、行く手を阻もうとする者も少なくなかったが、キリサメが先行して『聖剣エクセルシス』を振り回すと、ただそれだけで顔面を引きらせながら飛び退いていった。ノコギリの如き刃が放つ禍々しさは、理性を失った人間さえ圧倒的な恐怖で押し流してしまうようだ。

 最大の激戦地である十字路へ到達するまでの間、どれほど『聖剣エクセルシス』で威嚇を繰り返したのか、別のことに気を取られているキリサメは数えてもいなかった。

 アチョ闘牛場へと向かう道筋はリマ市民であるキリサメにとって馴染みが深いのだ。視界に入る風景には幼馴染みとの想い出が重なって仕方なかった。二人で買い食いした路上市場も、新年を祝う花火を見に行った小高い丘も――リマの想い出にはという存在で溢れている。

 『聖週間セマナ・サンタ』の『聖行列プロセシオン』を二人で見物した場所も通過したのだが、何よりも忘れがたい想い出がは煉獄さながらの惨状によって塗り潰されていた。

 『聖行列プロセシオン』では聖書にも記された受難劇が大きな人形によって表現されていた。これを敢えて踏襲するつもりなのか、キリストに扮した男が自らを鎖でもって十字架へ縛り付け、車輪の付いた台座を仲間たちにかせている。

 紛い物のキリストが縛られた十字架の背面には『人間社会が死んだ』という抗議の文面が記されているのだ。このようにデモ隊の一部は仮装行列さながらの趣である。一本の長い鎖をそれぞれの手首に巻き付け、自分たちが社会の奴隷に成り果てたことを示そうという者たちも混ざっている。横一列に並んでを塞いでいた彼らは、頭上を飛び越えていった二頭の警察馬うまに腰を抜かして驚いたことだろう。

 一目で急ごしらえと分かるいびつな棺桶までもが至る所に放置されているのだが、どうやら内部に爆発物でも仕掛けられていたらしく、決して小さいとは言い難い火柱と鼻をくような異臭を曇天に向かって立ち上らせていた。おそらくはこれが丘陵地帯から見えた黒煙の正体なのだろう。もあちこちで大きな爆発音が轟いていた。

 しかし、『爆発物』と一口に言っても大勢の人間を殺戮し得る兵器ではなかった。炸裂の規模も脅しに使う程度でしかなく、仕込まれた火薬量も窺えるというものだ。キリサメたちが駆け抜けた区画に限っては〝兵器としての爆弾〟が使われた形跡は確認できなかった。ひょっとすると大攻勢の行方を占う数多の武器弾薬は現時点ではまだアチョ闘牛場から到着していないのかも知れない。

「鉄砲とか大砲を使ってる人が誰もいないってコトは、最悪の事態だけは避けられたって言っても良いのかな? まだ内戦とは言えないよね?」

 警察馬の手綱を握り締め、民間人としか思えない二人を引き連れた同僚ワマンに瞠目する警官隊の間をすり抜けた直後、思穂が一つの疑問を口にした。

 それは希望的観測を含んでおり、誰かに答えを求めるというよりは自らを安心させたくて紡がれた言葉である。


「……どう思いますか?」


 背中にて呟かれた疑問を通訳し、意見を求めたキリサメに対してワマンは苦渋にも近い表情を見せた。


「……アチョ闘牛場に急行した部隊へ何度も連絡を取ろうとしているんだが、無線機にも携帯電話スマホにも応答がない。何しろこのカオスっぷりだ、ただ単純に回線が混み合っているだけかも知れんし、それなら良いんだが、……メールの返事を書くようなヒマもないって状況だとしたら、それこそ最悪の事態だよ」


 ワマンの返答こたえをキリサメは日本語に換えることができなかった。一切の言葉を呑み込まざるを得ない情況にまで追い詰められていた。

 もはや、ワマンはアチョ闘牛場に於いて戦闘が始まったことを想定しているのだ。

 事実、キリサメたちが向かう方角からは幾筋もの黒煙が上っている。デモ隊の経路からもかなり離れている為、爆弾仕掛けの棺桶によるものではないだろう。


「……絶対に大丈夫だよ。これまで厳しい環境で辛い目に遭ってきた分、これから幸せになれるんだから。だって、それが人生なんだから……!」


 歯を食いしばって手綱を握るキリサメの背後にて、思穂がまた一言、ぽつりと呟いた。

 ヘッドセット頭から被るタイプのマイクを装着したままなので今の呟きも拾ってしまうだろうが、それは動乱のリマにカメラを向けた人間が絞り出した率直な気持ち――否、絶望的構図の果てには希望に満ち溢れた未来が拓けて欲しいという純粋な願いであった。


「……これまでと、これから……」

「人生には収支プラマイがあるんだよ。苦労が続いても、その内にお気楽に笑って過ごせるが来るからさ。のぼりとくだりを何度も何度も交互に繰り返しながら進むんだ。……本当に報われない人間はいないって、私は信じてるよ」


 日本人観光客はカネを持っていると虚仮にされ、格好のにされてしまう所以ゆえんがこうした甘っちょろい思考に集約されているとキリサメは呆れ返った。様々な問題を抱えながらも整備された法律と社会によって保護された日本人らしい幻想だ――と。

 想像を絶する貧困によって野垂れ死ぬ人間や、銃犯罪の犠牲となる人間が驚愕をもって報じられるような国で生まれたこの女性は『恥の壁』で何を見てきたのだろうか。


「世の中には幸せになれる人間と、そうでない人間がいるでしょう。理想なんかじゃなく現実として……。このでは報われないままゴミのように一生を終える人間なんか履いて捨てるほどいるんですよ。何の値打ちのない命なんかゴロゴロと――」

「――幸せにならなきゃダメなんだよッ!」


 諦念を込めたキリサメの答えに思穂は一等強くはんばくした。


「アマッちだけじゃない。ッちだって、みんなみんな――生まれ育ちで幸せになる権利が決まるなんてことは絶対に有り得ない! ……生き続ける限り、いつか絶対に幸せだって噛み締める瞬間がやって来るッ!」

「……有薗氏……」


 生きてさえいれば、どんな苦しみも悲しみも、未来で必ず報われる――東日本大震災を現地で経験し、大切な人々が犠牲となった思穂の叫びは少年の心に深く刻み込まれた。

 しかし、素直に頷き返してやれないのも事実である。命を繋ぐ為とはいえ、何の罪もない人たちを禍々しい『聖剣エクセルシス』や喧嘩殺法で叩き伏せ、全身を血と罪でけがしてきた人間は幸せになってはならないのではないか。他人を不幸な目に遭わせておきながら自分だけ報われたいと願うほど恥知らずでもないのだ。


「……幸せになる資格なんかあると思いますか? 一度は有薗氏までにしようとした僕なんかに……」

「だけど、その剣でアマッちは何をしてくれた? 何度も私を守ってくれたでしょ? 今だってッちを助けようと頑張ってるでしょ。……キミはね、キミ自身で思っているよりずっと優しい子なんだよ。そんな良い子を運命が見捨てるわけないじゃん!」


 一度は全くの別人と切り捨てたものの、やはり、このは亡き母親に似ているとキリサメは改めて思わされた。生きることへの意志が誰より強く、逞しかった母親であれば、思穂と同じように己の運命を勝手に決め付けたりはしなかったはずだ。


「……『かいしんイシュタロア』にもね、自分の生い立ちから不幸せな結末以外を考えられなかったコが出てくるんだよ。未来は幾らでも変えられるって前向きになることを諦めかけたコが……」

「……その人は未来に何を見たんですか……」

「恥ずかしがり屋な上にスレたコだから本人は強情張ってけど、幸せになっても良いんだよっていう友達の言葉を受け容れて、最後には希望の扉をこじ開けたよ」


 思穂がキリサメに語って聞かせたのは『かいしんイシュタロア』第二シーズン最終二部作に当たる『それはもはや奇跡ではなく』と『大好きな先生』にて描かれたストーリーであるそうだ。

 光と闇双方の軍勢と敵対する第三勢力で、世界を滅亡に導くとされる封印の魔獣ディンギル・ウッグゥ――その化身である女性は、世界に自分の居場所などないと虚ろな気持ちを抱えて生きてきた。主人公が通う学校へ教師として赴任し、生徒たちを洗脳することで自分の手駒にしようとさえ企んでいた。

 しかし、教え子と交流を深める内に絆を育んでいく喜びに目覚め、ついには光と闇の勢力とも手を携えて世界終焉の運命に叛逆した――と、思穂はあらすじを述べていく。

 日本語は分からないものの、『かいしんイシュタロア』という単語ことばに関心を引かれてキリサメに通訳を頼んだ結果、ワマンは頭を抱えて身悶えることになった。

 ペルーではこれから放送が始まる第二シーズンの結末を暴露されてしまった次第である。


「ここまでのネタバレ喰らっちゃったら、私のほうこそ暴動起こしたくなるよ! 迂闊に質問したのはおじさんのほうだけども! ネット上の情報もシャットアウトしてたのに、まさか、ここでオチが来ちゃうとはなーッ! ハッピーエンドで良かったけどォ~ッ!」


 断末魔の叫びにも匹敵するワマンの甲高い悲鳴はさておき――キリサメは思穂の口から語られた『かいしんイシュタロア』のあらすじへ今度こそ素直に頷いた。


「生まれ育った環境を理由にして運命を切り開く勇気を諦めないで。世界も人生も、そんなに捨てたもんじゃないからッ!」


 母に良く似たの言葉をキリサメは初めて信じようと思った。

 意地っ張りなところもあるが、は誰より優しい心の持ち主なのだ。掏摸スリの技術で他人の財布を掠め取ることも、闇市で盗品を売りさばくことも〝表〟の社会の法律に背いているだろう。しかし、それは命を繋ぐ為に必要なこと。悪事に手を染めなければ生きていけない世界に生まれついた人間の宿命さだめなのである。

 キタバタケの家族を大切にし、暴力以外に頼りとするものがないような幼馴染みのことまで心配してくれる――そんな彼女こそ何があっても報われなければならないはずではないか。

 が未来へ希望を繋げるのであれば、どれほど嫌われようと、幾度、他人扱いされようとも絶対に守ってみせる。大切な幼馴染みの為にこそ自分の命を使うのだ。


(例え、どんな場所にいたって、、僕はお前を――)


 決意に満ちた瞳は前方にアチョ闘牛場の入り口を捉えた。

 そこには大きな停車スペースが設けられており、現在は警察車輌や救急車が何台も並んでいた。ワマンと同じ国家警察の人間や救急隊員が入り乱れて駆け回る様子からもここで尋常ならざる事態が発生したことは明らかであろう。

 周辺に住む住民たちが怯え切った面持ちで遠巻きに眺めているのは、サーモンピンクの塗装が鮮やかな壁に刻まれた銃撃の痕跡や、路上にまで飛び散ったドス黒い血痕である。

 硝煙の臭いは噎せ返りそうになるほど強く残留しているが、は銃声も怒号も、何も壁の向こうからは聞こえない。尋常ならざる事態――戦闘は既に終結しているようだ。警官にもデモ隊にも相当な死傷者が出ているらしく、闘牛場の入口からは灰色のシートに覆われた遺体がひっきりなしに運び出されていた。

 間もなく一人の警官が鞍上のワマンに声を掛けた。揃いのプロテクターを身に着けた姿からも察せられる通り、国家警察の同僚である。

 無線に応答ができなかったことを詫びた同僚は、アメリカ大陸最古にして最大規模の闘牛場で起きてしまったことを説明しようとした――が、警察馬うまを駆ってここまで辿り着いた三人の耳には、もはや、概略など届いてはいなかった。

 停車スペースに並べられた遺体の一つへ釘付けとなった思穂は鞍から転げ落ち、路上にカメラが投げ出されたことにも気付かず、生気の失せた顔で地べたに這いつくばった。


「あ……あ……ああ……ああ……あああ――」


 亡骸に縋り付いた思穂は、もはや、人間の言葉を紡ぐことさえできない。ワマンもまた夢遊病者のような足取りで彼女を追い掛け、近くで作業をしていた警官の胸倉を思わず掴み上げた。


「何だ、これは⁉ 何だ、これはッ! 今すぐにシートを持って来いッ!」

「し、しかし、想定外の死傷者数で、もう数が足らなくて……」

「何でも良いから掻き集めてくるんだッ! の尊厳を守れなくて何が警察官だッ⁉」


 ワマンの怒号が呼び水となったのだろう。思穂が狂わんばかりのき声を張り上げた。喚き声などという生半可なものではない。獣のような激しい慟哭でを切り裂いた。

 何枚もの新聞紙が乱雑に被せられた遺体は右手を包帯で覆っている。その上に重ねられたスカーフは『聖剣エクセルシス』のつかに括り付けられた物と同じであった。何もかもキリサメが良く知るものであり、思穂やワマンのように下馬してまで確かめる必要もなかった。

 ポニーテールに結わえた栗色の長い髪を振り乱しながらき続ける思穂を不思議そうに見つめるキリサメが確かめたのは、ときに嗚咽さえ湧き起こらない己の心の冷たさである。

 自分に『サミー』と呼び掛ける声が脳裏に一度だけ蘇り、はかなついえた。それでもキリサメは頬に一粒の涙すら零さず、魂のない氷像のように無感情であった。

 一切の表情が、消え失せていた。

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