その8:伴走者~そして舞台は運命が集う場所へ

 八、伴走者ヒロイン


 数世代前と比べてパソコンの性能が大きく進化した現代に於いては数千万円もの機材を揃えずとも民間単位で良質な映像作品を完成させることが不可能ではなくなっている。俗に動画サイトとも呼称されるインターネット上のサービスは世の中に向けて何かを表現したいと願う者たちの受け皿という側面も強いのだ。

 全世界に登録者ユーザーを抱える動画配信サイト最大手、『ユアセルフぎんまく』もこうした欲求ニーズへ応える中で台頭したものである。旅先の想い出を切り取ったホームビデオや子どもたちの演奏会といったオーソドックスなばかりでなく、テレビゲームの攻略映像、アニメの名場面を編集したダイジェスト版、民間人シロウトによるラジオ番組など動画ビデオと名の付くファイルで溢れ返っていた。

 最大の特徴は配信される動画ビデオへ視聴者が自由にコメントを書き込むことができる点であろう。これは視聴者全員の再生画面へリアルタイムで表示されるシステムとなっており、場面シーンに合わせた感想や切れ味鋭い指摘ツッコミなど種々様々なのだが、そこには確かに表現者と閲覧者による双方向のやり取りが発生している。これをもってして『ユアセルフ銀幕』は新世代のコミュニケーション・ツールを標榜するのだった。

 動画ビデオの視聴回数に応じて広告収入も支払われる為、才能次第では生計を立てることも夢ではなく、小中学生の中には将来の夢――即ち、将来に就きたいとして動画配信者を挙げる子どもは少なくないのである。

 一日に数え切れない量の動画ビデオ配信開始アップロードされる状況に於いて綺羅星さながらに輝くのは尋常なことではなく、脚光を浴びたいが為に倫理を踏み外すような振る舞いをして非難の嵐にさらされる配信者も多かった。

 その一方、近年では専用チャンネルを開設する有名企業も増え、北米アメリカを主戦場とするMMAイベント『NSBネイチャー・セレクション・バウト』でさえもトップ選手同士の対戦を中心として試合の映像を配信している。名物司会者による人気トーク・バラエティー番組、『フィーナ・ウィズ・ピースメーカー』も、この『ユアセルフ銀幕』にて視聴することができるのだ。

 このようにプロとアマチュアが入り乱れて争う構図の只中にあって、ありぞのによって運営される『ベテルギウス・ドットコム』は独特な存在感を示していた。

 ネットニュース系のチャンネルでありながら一〇代から二〇代の若者を中心として盤石にも近い支持を得ており、過去に配信された動画ビデオはいずれも人気ランキングの上位へ食い込んでいるのだ。

 自らの危険を省みる気がない体当たりの撮影ロケはただそれだけでも大冒険活劇スペクタクルであり、ときには奇抜な扮装コスプレまで駆使する語り口と相まって小難しいテーマを一種の非日常世界ファンタジーとして体験できるのだった。

 『中東の火薬庫』と名高いパレスチナ自治区・ガザへ潜入取材を敢行した際は目の前にイスラエル側の砲弾が撃ち込まれるなど比喩ではなく本当に命懸けの撮影ロケとなったのだが、その甲斐あって当該の動画ビデオは半月に亘って人気ランキングの首位に君臨し続けたのである。

 一時期の『ユアセルフ銀幕』では大声で相手を驚かせては逃げ惑うという珍妙な遊戯の動画ビデオが大流行したが、それらを押さえての首位であった。クリミア出身のネットアイドルがダンスと共に『かいしんイシュタロア』の主題歌を唄い上げるという動画ビデオに王座を奪われなかったら〝在位記録〟を更に伸ばしていただろう。

 くだんの『ベテルギウス・ドットコム』は、次にペルー共和国の裏社会へ迫ると大々的に告知していた。無謀とも呼べるほど行動派な配信者のことだから、中南米に蔓延する犯罪組織の拠点アジトにでも忍び込むのではないかとファンの間では期待が高まっていたのだ――が、二〇一三年一〇月に配信された新しい動画ビデオは、ある意味に於いて意表を突いていた。

 その動画ビデオは今までに配信された中で最も短く、大部分を配信者である有薗思穂の独白が占めている。それも映像に沿ったナレーションではなく、彼女がペルーの地で感じたことをしめやかに述べていくだけなのである。

 何しろ記録映像めいた仕上がりとなっている為、従来のファンは大いに戸惑った。異境の風景は確かに視聴者の好奇心を刺激するが、にあるのは虚飾を施された非日常世界ファンタジーではなく完全なる現実世界リアルなのだ。それだけに悪ふざけのようなコメントも付けにくく、ともすれば凡百のネットニュースと変わらなくなっていたのだ。

 おどけた調子で社会が抱える問題に切り込んでいく巧妙な語り口、確かな取材に裏打ちされた問題提起の手腕から『ベテルギウス・ドットコム』は〝現代の落語〟とも評されている。だからこそ、新聞に興味を示さない層にも長期に亘って空爆の恐怖にさらされるガザの深刻さが伝わっていったのである。

 通信社などの後ろ盾を持たない民間人でありながら現地まで足を運んでしまうような優れた取材力は維持されている為、普段の趣と違うだけで動画ビデオの質そのものが低下したわけはなかった。

 事実、有薗思穂がビデオカメラをもって切り取った貧民街スラムの場景は日本のニュースでは報じられる機会が絶無に等しいものだった。〝表〟の社会の常識では推し測れない為、とかく犯罪の温床という結論ありきで語られてしまうことも多いのだが、動画ビデオの中で紹介された場所は危険で陰惨というイメージとは一線を画していた。

 海岸沿いの砂漠から丘陵地帯に向かって古い建物が続く街並みは老朽化の進み具体などからも物資の貧しさが表れてはいるものの、住民たちは助け合いながら規律正しく共同生活を送っているのだ。行政の指導が入ったわけでもなく、住民一人ひとりの積極的な行動と意見によって自治体制が整えられていった貧民街スラムなど多くの日本人には想像すら及ばないことだろう。

 しかし、一つの〝現実〟としてペルーの首都には秩序ある貧民街スラムが存在しているのだ。住民たちは経済的な事情から都市部で暮らすことが困難なだけであって〝表〟の社会から郊外へ追いやられたわけではない。ましてや犯罪を犯して爪弾きにされたわけでもない。規律という名のを保ち続ける以上、飢餓ひもじさから一切れのパンを巡って乱闘や略奪へ発展することもないのである。

 ペルーの子どもたちが砂浜にて柔道の稽古へ励む場面には驚きのコメントが数多く寄せられた。映像に合わせて挿入された思穂の解説ナレーションによれば、日本より派遣された青年海外協力隊が体力育成を目的として指導したそうだ。空手との区別が曖昧な少年も散見されたが、誰もが無我夢中で打ち込んでいることははつらつとした笑顔からも瞭然であろう。

 別の場面では日本のインディーズ・シーンでカルト的な人気を誇るパンクバンド、エスエム・ターキーの代表曲を楽しそうに合唱する主婦たちの姿を大写しするなど、日秘の交流を忍ばせる映像も豊富であり、いずれも貧民街スラムという三字が不似合いと思えるような生命力に満ち溢れていた。

 住民自治に基づく都市計画で発展したその貧民街スラムでは、現在、四〇万を超す人々が身を寄せ合っている。そして、礎が築かれた一九七一年から数えて一二年後に行政区として正式に認められたのである。


「――誤解して欲しくないのは、これはあくまでも奇跡的な例外であって他の貧民街スラムでは理不尽な暴力が吹き荒れているのです。働き口さえ得られない人たちは、カネや食糧を奪い取ることでしか死を免れることができないのですから……。しかし、それを単純な善悪の基準では裁けません。これもまたペルーという国が抱えた一つの〝現実〟なのです」


 大勢の住民が食材を持ち寄ることで運営される民衆食堂に集まり、カレーライスに似た汁かけ飯を頬張る人々をカメラの中央に捉えつつ、有薗思穂は理想的な住民自治と正反対の〝世界〟について語り始めた。

 心身の育成を目的とした柔道が持つ健全性とは正反対に、ただただを屈服せしめる暴力――しかし、これを頼りとしなければ生き抜けないほど過酷な環境がペルーの至る場所に存在していることを彼女は繰り返し強調した。それこそが貧民街スラムと呼ばれる場所の本質であり、社会の〝影〟とも言い添えたのである。

 その上、命を繋ぐ為に振るわれる暴力ちからを〝表〟の法律ルールから一方的に犯罪行為と決め付けてしまうのは傲慢ではないかと警鐘まで鳴らしたのだった。


「本気で世直しへ取り組むように志が高い人も、という瞬間を生き延びることに懸命な人も、残酷なくらい簡単に、……そして、ある意味では平等に亡骸を野に晒します。乾いた大地に吹く風が命をちりあくたのように散らしていきます」


 町の有志たちが教師を務める〝手作りの学校〟では次の世代を担う子どもたちが真剣な面持ちで勉強に取り組んでいた。指導する側も学習する側も、映像から飛び出してくるような熱気に満ち満ちており、未来に向かって築き上げられたモノを破壊し尽くすだけの暴力の影など微かも感じられなかった。


「正義も悪もなく、この国の〝影〟では暴力だけが死を免れる手立てとなっていました」


 しかし、現地取材を敢行した有薗思穂は、自らが撮影した平和な風景をペルーの例外と断言している。強盗傷害のような凶悪事件が常態化する悪夢の如き惨状は、この国では大して驚くことでもなく、ありふれた〝日常〟として至る場所に転がっているというのだ。


「自分の命を生かす為だけに他の人へ危害を加えることは、結局、自分の命を軽んじることと表裏一体ではないかと考えさせられました。暴力でも窃盗でも、続ければ続けるほど自分自身の命が値崩れを起こしていくのです。それは別に法律や社会の庇護から外れるという意味ではありません。許されざる手段で弱肉強食の世界を生きる自分に報われる未来なんかないんだと、人生そのものを諦める呪いに掛かってしまうのです」


 牧歌的とも思える映像と噛み合っていない重苦しいナレーションを引き摺りながら場面が切り替わる。砂漠に拓けた一本のを抜けていく車内から撮影なのだろう。秒を刻むごとに遠ざかる住民自治の貧民街スラムをカメラの中心に捉えた映像が余韻のように暫く続いた。

 風景が後方うしろへ吸い込まれていくという構図のまま新たに挿入フェードインされたのは、まさしく有薗思穂が語った通りの惨状――否、この二字をもってしても表し難い本物の地獄絵図だった。

 それは二〇一三年七月にリマ市内で発生した大規模な抗議デモの映像である。どのように撮影したのか、モニターの前に座る視聴者には想像もつかないのだが、暴動と呼んでも差し支えがないデモ隊と警官隊との衝突を至近距離で捉えているのである。

 デモ隊が陣取った地点から国家警察の隊列まで駆け抜けつつ撮影したことだけは察せられた。カメラを凝視する群衆がいずれも双眸を見開いているということは、かなり無茶な手段を用いたのは間違いない。

 肩透かしとしか言い表せない場面の連続に飽き始めていた視聴者たちは、この瞬間に不完全燃焼のような気持ちが弾け飛んだ。合戦さながらの衝突を数メートルと離れていない位置で撮影した動画ビデオなどテレビのニュースでさえ殆ど見ることはできないのだ。とびきり熱量の高い映像へ切り替わるや否や、「ガザに続いてまたもやミラクルを起こしてしまいましたな」といったコメントが乱れ飛んだのは当然であろう。

 僅かに間を置きつつ繰り返し割り込んでくる肉をつ音と、カメラ自体が上下に振り回されるような動揺から馬に跨った状態で撮影していたのではないかと推察するコメントも書き込まれた。アスファルトを蹴るひづめの音まで耳聡く聞き取った視聴者も居たようだ。

 このデモは生きる権利を脅かし兼ねないペルー政府のやり方が招いた結果であると思穂は語った。しかも、だ。群衆が暴発に至った要因を社会への不満と説いた上で、生じた火種が大火と化すほどに煽り立てたのは反政府組織だったと言及したのである。

 デモ隊に武器を調達していた組織はペルーの民の嘆きを利用し、政府を攻撃させる先兵に仕立て上げたわけだ。

 暴発の絵図を描いたテロリストへの接触にも成功したが、肝心の録画データは一つの重大な裁判の証拠としてペルー国家警察に押収されてしまい、判決が確定するまで返却されないという。

 反政府組織との接触については「さすがに話を。たかが一般人をテロ組織が相手にするワケねーだろ」、「マジでそんな連中にコンタクト取ったら、フツーに生け捕りにされて、日本国民の税金が無駄遣いされちゃう」などと揶揄するコメントが殺到したが、同地ペルーの内情に通じているらしい数人の視聴者は思穂の取材を勇気ある行動として称賛した。


「半信半疑の輩はペルーの日本大使館のホームページにアクセスしてみると良い。『ベテルギウス・ドットコム』が報じた内容がそこにも記されている」


 この一文が書き込まれてから数分の間は、さすがにコメントの投稿も止まった。日本のマスメディアでは殆ど報じられなかったのだが、反政府組織との癒着を暴かれた国家警察の長官は有薗思穂が撮影した大規模なデモと前後して逮捕されている。組織のリーダーが国家警察との繋がりを自供した肉声が決定打になったことも現地ペルーでは大きく取り上げられていたのだ。

 民間人シロウトのネットニュースに過ぎない『ベテルギウス・ドットコム』の動画ビデオが押収されるほど重大な裁判とは、汚職によって国家警察の名誉を傷付けた男の審理に違いなかった。

 次に国家警察長官を引き継いだのは、対テロ専門の部隊を組織の拠点まで差し向け、完全征圧に成功した首席監察官であるという。つまるところ、有薗思穂はクーデターにも近い衝撃的な長官交代劇に関わってしまったわけである。

 「取材に失敗したモンだから、国家警察の内紛に乗っかってホラ話をでっち上げただけだろ」と疑うコメントも含め、画面上には様々な憶測が飛び交っている。取材内容の信用性についても賛否が大きく分かれる中、有薗思穂は異境で出会った友人への想いを静かに紡ぎ始めた。喉の奥から絞り出すような擦れ声で〝彼ら〟のことを振り返っていた。


「……私がペルーで思い知ったのは、本当にどうしようもない自分の浅はかさです。この世に生まれた人間は誰にでも幸せになる資格がある。報われなければおかしいと、あの国で知り合った友人に話しました――でも、そんな風に押し付けることは思い上がりでしかなかったのです。……画面にも映っているデモに加わった別の友人は、報われなければいけなかったあの子は、その日、帰らぬ人となりました」


 ここで再び視聴者からコメントの投稿が途絶えた。反政府組織から入手した銃器を携えてデモの本隊へ合流しようとしていた別働隊と国家警察が交戦状態となり、夥しい犠牲者が出たと有薗思穂は語った。

 無論、その事件についてはペルー日本大使館や外務省のホームページでも詳しく解説されている。武器弾薬を得たとはいえ素人の寄せ集めに過ぎない集団が国家警察の部隊に敵うはずもなく、ついには全滅という凄惨な末路を辿ったのだが、その中に有薗思穂の友人も混ざっていたというのである。

 死闘が繰り広げられたという闘牛場の映像は含まれてはいない。しかし、彼女がそこで〝何〟を目にしたのかはにわかに震え始めた擦れ声へ耳を澄ませていれば伝わってくるだろう。〝真実〟を伝え切るという矜持が込み上げてくる慟哭を抑えているのだった。


「……人間は誰にでも幸せになる資格があると話したことが誤りだったとは思いません。嘘きと罵られても、他人の事情も考えられない無神経と批判されたって、報われない命があるのは当たり前という声には真っ向から反対する覚悟です。〝〟がどんなに苦しくても、自分の命をちっぽけなものだと割り切ったり、亡くしたあの子と同じで幸せにはなれないんだと〝未来これから〟を諦めないで――誰かを守れるその力で何ができるのか、考えることだけは止めないで欲しい。……それが遺された者の務めだから……ッ!」


 白い雲が流れていく蒼天へと切り替わった動画ビデオは「どうしようもない状況の中で可能性に挑戦し続けたあの町が〝キミ〟の心に響くように」という言葉をもって締め括られた。

 今回の配信に於いて有薗思穂は時折、不思議な言い回しを用いていた。これまでの動画ビデオには見られない趣向であった為、「今度の動画ビデオは特定に相手に宛てたメッセージカードの代わりなのか」といったコメントを投稿し、真意をたずねる視聴者も多い。ネットニュースを通じて現代社会へ問題提起を行うのが『ベテルギウス・ドットコム』の様式スタイルなのだが、今回は直接的に〝誰か〟へと語り掛けていたのである。

 有薗思穂が口にする〝キミ〟とはモニターの前の視聴者を指していたのか――結局、それは明らかにされず、動画ビデオが終了したのちにも長時間に亘って物議を醸すことになった。

 ノートパソコンの前に腰掛けて首を傾げる少女も有薗思穂の意図を測り兼ねた一人だ。

 ペルーの悲劇を伝えたかったということだけは理解できたが、『ベテルギウス・ドットコム』の配信としては余りにも地味な仕上がりであったことにひたすら戸惑い続けていたのである。デモ隊と警官隊の衝突など見どころが全くなかったわけではないのだが、凡庸という感想からはどうにも脱し難い。

 ペルーでは日本のテレビアニメシリーズ、『かいしんイシュタロア』が大人気だと聞いたことがある。それならば主人公である『あさつむぎ』に扮して現地の人々へ平和の尊さを説いて回っても良いではないか。それくらい奇抜なパフォーマンスをやってのけるのが『ベテルギウス・ドットコム』の魅力であり、独創性であったはずだ。


「……『才能枯れたってレベルじゃねーぞ』――っと。性格悪いかもだけど、厳しめのコトも言っておかないとね」


 明らかに『ベテルギウス・ドットコム』の底力を発揮できていないと感じたからこそ、この少女も否定的なコメントを投稿したのである。

 衝撃的なデモ隊の映像によって巻き返しを図ったのかも知れないが、視聴者を楽しませる義務を負った人気チャンネルであれば、たった一人の気持ちでも萎えさせた時点で失格だろうと、長らくのファンである少女は考えていた。

 元から話題性の高いチャンネルだけに配信終了直後には人気ランキング一〇位以内には入るだろう。しかし、それが一瞬の栄光だと少女は確信している。小一時間もすれば他の動画ビデオに埋もれ、「裏社会の真実を暴くと大口叩いておいて、やったことは観光旅行に毛が生えた程度」といった辛辣な批判を受けるに違いない。

 動画ビデオの最後にはドイツの知られざる難民キャンプへ向かうとの次回予告もあったが、おそらく期待などできないだろう。そもそも、『トロイメライ』などという聞いたこともないような場所で何をするつもりなのか。どうせ今回のような肩透かしに決まっている。

 そばかすが残る鼻の上に引っ掛けられた丸メガネはレンズが厚く、牛乳瓶の底のようにも見える。そこに液晶画面の照明ひかりを映した少女は「小金持つと人間は腐るって言うけど、その通りにセンスが枯渇しちゃったのかねぇ」と、投稿したばかりのコメントをなぞるような悪態をいた。

 評論家を気取って大層なことを述べてはいるものの、本人の服装は全くだらしない。

 肩甲骨の辺りまでだらしなく伸びた髪は手入れもされておらずに毛先まで痛んでおり、『ロマンスグレー大吟醸』という意味不明な文面が刷り込まれたTシャツも相当にくたびれていた。胸にはブラジャーさえ着けていないようだが、そもそも必要性を感じないほど平たい為、自堕落であるか否か、判断に苦しむところである。

 何日も人前に出ていない様子が一目瞭然の少女は名前をくもしねという。

 尤も、一日の大半を過ごすインターネットの世界では『アンヘルチャント』という仰々しい通称ハンドルネームを用いており、『ユアセルフ銀幕』にも同名で登録していた。

 アンヘルチャントの名義で遊んでいるネットゲームの仲間からパソコン宛てに電子メールが届いたのはくだん批判コメントを書き込んでいる最中のことだった。

 インターネット上のみではあるものの、親しく付き合っている男友達である。彼もまた『ベテルギウス・ドットコム』の新作動画ビデオを視聴したらしいのだが、有薗思穂が反政府組織と接触した点に疑念を抱いたという。

 デモ隊に手を貸した反政府組織に心当たりがあるという男友達は、義賊としても活動している彼らが民衆を危険に巻き込むはずがないとの見解を示した。ごく一部の視聴者から投稿されたコメントと同じようにありもしない作り話で取材の失敗を誤魔化したと見なしているわけだ。世界の軍事情勢に詳しく、また誰よりも信頼を置いている人間の言うことであれば、それが〝真実〟なのだろうと納得するしかなかった。


「――って、オイ! 何だよ、今のは! なんとな~く最後まで観ちまったけど、手掛かりなんか一つもなかったじゃねーか! ペルーの旅番組なら間に合ってるんだぜ⁉」


 何とも例え難い失望感と共に『ベテルギウス・ドットコム』を贔屓のチャンネル登録から外したのち、メールの返信を書き始めた未稲の背中へ野太い声が浴びせられた。

 溜め息を引き摺りながら背後を振り返った視線の先では、腕組みと共に胡坐を掻いた大男が不満の二字を体現するかのように頬を膨らませている。放っておくと無精髭が伸び放題となるの人間には不釣り合いの仕草ゼスチャーであるが、〝世間の常識〟に範を取るような体裁へこだわるタイプでもなさそうだ。

 四〇代半ばと察せられるその大男も未稲に負けず劣らず奇怪な出で立ちであった。首の付け根からはみ出すほど伸ばした髪を強引に撫で付け、頭頂部よりやや後ろの位置で束ねた姿は時代劇でやりかたなを振り回す戦国武将のように見えなくもないのだ。結い上げた先端が花弁の如く開いてしまうのは未稲の枝毛と同じく手入れが不足しているに違いない。

 本人としてはこだわりのある髪型に違いないが、不揃いに飛び出した前髪がすだれ状に額を覆い、頭髪全体にもささくれのように毛羽立った箇所が散見される辺り、「小奇麗に整えられている」とは言い難いものがあった。櫛で撫で付けようにも言うことを聞かない剛毛なのだろう。

 その大男に時代錯誤な印象を与えている最大の要因は珍妙な上着である。戦国武将たちがかっせんにて用いていたと伝承される古い装束――じんおりを纏っているのだ。当然ながら現代の日本に於いて似つかわしい物ではなく、日常生活の中で着用する場合には警察から職務質問を受けることまで覚悟する必要があった。

 尤も、この大男はなめし皮であつらえた陣羽織でさえカーディガンの如く軽やかに着こなしている。古銭を上下に三枚ずつ並べるという紋様が金糸にて刺繍された陣羽織は相当に使い込まれており、コンビニエンスストアにもこの姿のまま出掛けることが察せられた。それはつまり、近隣の住民から奇異の目を向けられることにも慣れている証左といえよう。

 ジャージのボトムとTシャツに袖のない陣羽織というデタラメな取り合わせを平気な顔で着ていられるのだから、の目に映る己の印象など最初から気にしていないのかも知れない。


「今更、その文句⁉ お父さんが考えるような動画モンじゃないって何度も言ったじゃん!」

「アホ抜かせ! リマの現状リアルが分かるかもって言ってきたのは未稲のほうじゃねーか!」

「私だって中身スッカスカの動画になるなんて思わなかったんだもん! いつもの『ベテルギウス・ドットコム』だったら、行った先にもっと密着して掘り下げてたんだから! 放送事故レベルの回も何度かあったけど、ここまでの失敗作は前代未聞なのっ!」


 幼稚極まりない口喧嘩からも察せられる通り、この風変わりな出で立ちの二人は父娘の関係である。つまり、荒武者風の大男は娘の後ろからノートパソコンの液晶画面を覗き込んでいたわけだ。

 戦国乱世からタイムスリップしてきたかのような風貌で現代科学の結晶をまじまじと見つめるさまは何とも滑稽だが、南米に位置するペルー共和国の首都リマにまつわる情報を掻き集める為、娘が贔屓にしているネットニュースを初めて視聴したらしい。

 両頬を大きく膨らませ、文句まで垂れたということは、娘とは異なる意味で『ベテルギウス・ドットコム』の動画ビデオに満足できなかったわけだ。如何にも期待外れといった調子で「三〇分の無駄はデケェぞ! カップ麺なら一〇個は食える!」と肩を竦め続けている。


「お前のが何も反映されてね~よ、コレ。月額一〇万も支払ってるのに肝心なときに役に立たないんじゃ意味がねぇし、バカげてらァ。もう解約しちまえよ、未稲」

「人のアカウントで『NSB』の動画見といて、調子の良いコトを言うよね~」

「だから、お前、それは資料代に計上してだなぁ~」

「ていうか、『ユアセルフ銀幕』と月額一〇万のは別のハナシだよ? 〝ネトゲ〟の課金額をここで持ち出すとかおかしいでしょ」

「おい、待て! 別のハナシって何だよ⁉ ネトゲだぁっ⁉ お前、マジで何に大金ブチ込んでんだよ⁉ 来月から財布の紐、バッキバキに締めるぞ、オイッ!」

「……課金できなくなって居場所までなくしたら、お父さんの責任だからね。いじめなんてネトゲの世界でも簡単に起こるんだよ? それこそ永久に仲間外れにされちゃうくらいコワい時代なんだよ?」

「イヤな脅し方すんなッ! ……ったく、お父さんが汗水垂らして稼いだカネはもっと大事に使って欲しいもんだぜ。ゲームやりたきゃファミコンで足りるだろ、ファミコンで」


 未稲が口にした〝ネトゲー〟とはネットゲームの略称である。インターネット回線を用いて世界中のプレイヤーと一緒に遊ぶものであり、彼女は特に『エストスクール・オンライン』なるRPGロールプレイングゲームにのめり込んでいる。

 仮想空間バーチャルの広大な『学校』を舞台とし、『生徒』になりきったプレイヤー同士で力を合わせて様々な事件イベントを解決していくというRPGロールプレイングゲームへのひと月当たりのが一般常識を超える水準に達している娘はさておき――父親のほうは比喩でなく本当に頭を抱えるほど困り果てていた。

 ある事情の為、彼は地球の裏側まで人捜しに赴かなくてはならなかった。現地ペルーの内情に明るいというガイドは既に頼んであるのだが、ニット帽をトレードマークとするその男はどうにも胡散臭く、信用に足るのかも分かったものではない。現地入りしてから泡を食うような事態に陥らない為にも抜かりなく準備を整えておきたいのだ。

 『ユアセルフ銀幕』にて配信されるネットニュースでペルーの現状が取り上げられると娘から聴き、参考資料のつもりで当該の動画ビデオを視聴したのだが、当然ながら目当ての人物に関わる情報など少しも得られず、地球の裏側で人を捜すことは危険と隣り合わせになり兼ねないと再確認した程度である。


「……年明けのアメリカ行きに合わせて――って言ってたけど、本当にペルーまで回ってくるつもりな? その人、貧民街スラムで暮らしてる可能性もあるんだよね? ……冗談抜きで危なくない?」

「お父ちゃんがチンピラ風情に負けると思ってんのか? いざとなったら、日本が誇る忍者の底力を見せつけてやらァよッ!」


 『ベテルギウス・ドットコム』からペルーの〝影〟を見せ付けられたばかりということもあり、暴力を振るわなければ生きていけない危険な輩に襲われはしないかと心配する娘に対して父親は両腕に力こぶを作ってみせた。

 どのような危険な目に遭おうとも跳ねのけるという自信の根拠は、二人が居る室内の様子からも瞭然であろう。

 部屋の奥には『忍』の一字を大書した掛け軸がある。その真下には鹿角で拵えた台が据え置かれ、大小の刀が掛けられている。これを挟むようにして右側には鎖帷子、左側には『さなにんぐん』と銀糸で刺繍された黒い忍装束がそれぞれ飾られていたのだ。

 まさしく忍者の修行場のような趣であった。天井には陣羽織と同じ紋様が刷り込まれ、壁のポスターは画鋲ではなくクナイを四隅に突き立て、留めてある。

 しかしながら、前時代的な道具ばかりが置かれているわけではない。床の大部分には柔らかいマットが敷き詰められており、同じ材質のクッション材は壁にも当てられていた。

 部屋の隅にはダンベルや跳び縄といったトレーニング用品が雑然と転がり、ベンチプレスに必要な大型の器材も据えられていた。骨太な土台スタンドから吊り下げられたサンドバッグも相当に使い込まれている。

 その上、部屋の片隅に置かれているガラスケースにはしのびしょうぞくの頭巾などではなくプロレスラーが試合で被るマスクが納められているではないか。あるいは〝忍者の修行場〟という印象そのものが錯覚なのかも知れない。

 くだんのポスターに刷り込まれた人物とて忍者ではないのだ。黒いプロレスパンツを穿き、指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めて闘魂溢れる構えを取っているのは未稲の父その人であった。

 くもがく――と、彼の名前もポスターには添えられている。臨戦態勢ということを表しているのか、髪の毛を下ろし、襟足の辺りで一つに結わえていた。

 八雲家の父娘は修行場に小さなテーブルを置き、そこでノートパソコンの液晶画面を仲良く覗き込んでいた次第である。


「何しろ忍者は隠密作戦も得意だからよ! ギャング団の目をすり抜けてヒョイヒョイ散歩するのだって朝飯前だぜェ~」

「あれだけスポットライトをガンガン浴びておいて隠密もクソもないと思うけどねぇ……」


 ひょっとすると鋼鉄よりも硬いのではないかと思える力こぶを眺めている内、相手におくれを取ることなど有り得ないと思い直したのだろう。溜め息を一ついた未稲はポスターの中央を飾るロゴマークを指差しつつ、「大事な時期なんだから、ホント、無茶だけはしないでね」と念を押した。

 『天叢雲アメノムラクモ』――そのように毛筆で記されたロゴマークは字体からして猛々しく、見る者の心に今にも溢れんばかりの力強さを刻み込んでいる。

 ここに添えられた『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英文は日本語に直訳すると『総合格闘技』という意味合いになるのだが、それこそが忍者を称する八雲岳が存分に力を発揮し得る〝世界〟なのだろうか。ポスターの中にて構えを取る彼も同じロゴマークが刷り込まれた指貫オープン・フィンガーグローブをめているのだ。


「未稲は食器とかの買い出しを頼むぜ。家族が一人増えただけでも色んなモンが足りなくなってくらァ――ってか、何だか遠足前の準備みてェでワクワクしてくるなァ!」


 はプロレスパンツではなく陣羽織を纏った岳は「二ヶ月も先のハナシだが、もう既に楽しさの限界を突き抜けちまうぜ」と嬉しそうに笑いながら未稲むすめの頭を撫で付けた。

 の少女は父親から小さな子どものように扱われると、どんなに些細なことでも顔を真っ赤にして怒り出すものだが、未稲の場合は全くの無抵抗である。さりとて頭を撫でられることを特別に好んでいるわけではない。自堕落の極みというべきか、身なりに無頓着なだけであった。

 ただでさえ見苦しい状態だったというのに手加減もない岳の所為せいで髪の毛が更に乱れてしまったが、それに対して彼女は怒鳴り声の一つも上げないのだ。頭部を揺さぶられたことでずり落ちてしまった丸メガネを掛け直す際、迷惑そうに溜め息を吐いた程度である。

 自宅の中という油断からか、横着してズボンの類いすら穿いておらず、身じろぎのたびにTシャツの裾から縞模様のショーツが見え隠れする有り様だった。どうやら、羞恥心さえ薄いようだ。


「……名前は何て言うんだっけ? お父さんの友達の子だから日系人とは思うけど、国籍は向こうなんだし、やっぱりインカ帝国っぽい名前なの?」

「これから一つ屋根の下で一緒に暮らす新しい家族の名前くらいちゃんと憶えとけって。キリサメ・アマカザリ――それがヤツの名前だよ」

「アマカザリさん、ね……」

「何で苗字なんだよ! 下の名前で呼んだれっつ~の!」

「……別に同居人ってだけでアカの他人だし……」


 面識のない相手にまで馴れ馴れしい態度を取るのが父の悪い癖だと心の中で吐き捨てた未稲は、「……キリサメ・アマカザリ」と、教わった名前を小さく繰り返した。

 同い年の少年が、この家にやって来る――その意味を改めて考え、己の身なりを確かめた未稲は、さすがに恥ずかしくなった。

 他人と一緒に暮らすことには慣れているつもりだが、それも数年前のこと。人の出入りが殆どなくなってからは衣服の選択すら怠けるようになっていたのだが、これから先は同じようにはいかないだろう。ここまでだらしない姿を他人にさらせる度胸を未稲は持ち合わせていなかった。

 念の為にペルーの公用語を勉強しておくように言い付けられたものの、初心者向けの語学書を開いただけでも嫌気が差してしまい、一向に捗っていなかった。それどころか、全てを放り出してネットゲームの世界へ逃げ込んだくらいである。

 父親も父親で随分と前から語学教室に通っているが、未だに日常会話もおぼつかない有り様だ。キリサメ・アマカザリは両親とも日本人だと聞いている。円滑な意思疎通の為にも日本語が通じることを祈るばかりだった。


(あとはご飯かぁ……醤油の味、平気な人かな。動画ビデオにカレーみたいな食べ物が出ていたけど、向こうと日本こっちじゃ使うスパイスも違うだろうし、う~ん……)


 一家の食事を引き受けている未稲にとって、日系ペルー人の口に合うものを提供できるか否かは難題である。インターネットで調べた限り、ペルー国内にタブーとされる食材はなさそうだが、現地むこうでは広く親しまれているらしいテンジクネズミ以外は食べられないと言われたら途方に暮れるだろう。味付けが合わずに体調など崩されたときには未稲のほうこそ立ち直れまい。

 考えれば考えるほど悩みが増え、気が滅入っていく。ペルー人の知り合いに心当たりなどないから誰にも相談しようがなく、対策の一つも満足に立てられないのだ。

 地球の裏側――口にすれば一言だが、未稲には異世界のように思えてならなかった。


「――ってコトは、アレかな? アマカザリさんからすれば日本は異世界気分? 見たことも聞いたこともない文化に混乱するトコロが現実リアルに見られるかも? 着替えイベントも発生しちゃう予感っ? あ~、それだけは楽しみかなぁ」

「お前の場合、ゴブリンと見なされて退治されるんじゃね~か? そーゆー小汚い恰好ナリで廊下をウロウロしてると、モンスターに遭遇エンカウントって間違えそうになるしな」

「時代劇コスプレ全開のお父さんにだけは恰好のコトを言われたくないよっ!」


 『ベテルギウス・ドットコム』の有薗思穂が動画ビデオの中で語り掛けていた〝キミ〟の名がキリサメ・アマカザリであることも、異郷ペルーの風景を切り取ったカメラの裏側に本人が居たことも、八雲の父娘は夢想だにしていないだろう。

 このときの二人にとって地球の裏側に位置するペルー共和国は、同地の〝闇〟に於いて禍々しい『聖剣エクセルシス』をふるう少年の存在まで含めて遠いものであった。




 その一方で異郷ペルーの少年を誰よりも何よりも近く――自らの半身のように感じている人間もった。

 あいかわじんつう――『地下格闘技アンダーグラウンド』の団体としては東京最強を誇る『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する女子大生は自分より二つばかり年下であるキリサメ・アマカザリのことが頭から全く離れなくなっていた。寝ても覚めても彼のことばかりを考えてしまうのだ。

 〝初陣〟を見届けるべく遠く離れた土地へと向かう新幹線に飛び乗ったのだが、それは熱病に浮かされた末の暴走にも近く、無分別な衝動へ何の疑いもなく身を委ねてしまったことに自分自身で驚いたほどである。

 何しろ自覚症状を明確に持っているほどの旅嫌いなのだ。単車バイクを趣味としている為、首都圏くらいであれば風の吹くまま走り続けることもあるのだが、やむを得ない場合を除いては郷里の山梨県から西に出ようとは思わなかった。過去の修学旅行で沖縄の地は踏んだものの、それは例外中の例外である。

 基本的には一人暮らしをしている東京と山梨の往復だけで事足りるのだ。それ以外の遠出など望んでもいない。だからこそ、〝何か〟がおかしくなってしまったのではないかと己の身に起こった異変が不安で堪らなかったのである。これではキリサメという少年に思考回路を書き換えられているようなものではないか。


(……けれども、キリサメさんのに塗り替えられていくことを心のどこかで気持ち良く感じていることは否定できませんね――)


 生まれて初めて湧き起こる不思議な想いを旅行鞄と共に抱えた神通は、二〇一四年八月一三日――盆入りの頃に特急列車へと乗り込んだ。

 大学は既に夏期休業へ入っているが、アルバイト先が飲食店である為、つい数日前まで帰郷の予定を立てられずにいた。学生のみならず社会人も休業やすみとなるこの時期は一年の中でも特に忙しく、たった一人でも戦列を外れたなら業務が破綻する可能性もあるのだ。

 故郷に帰りを待つ身内もいない神通は、むしろ繁忙期とされる日程全てに出勤する心づもりだった。それにも関わらず、山梨行きの列車に揺られることになったのは、彼女の抱えた事情を知るオーナーの計らいである。

 父と若い頃に拳を交えたことがあるというオーナーから自分の分も墓参りして欲しいと託されてしまったのだ。雇い主直々の依頼を断るわけにもいかず、同僚に対して申し訳ないと思いながらも仕事を休むしかなかった。

 勿論、神通当人もオーナーの配慮をありがた迷惑とは思っていない。

 彼は神通の複雑な家庭事情を承知しており、それ故に何かと気をつかってくれている。父を早くに亡くし、それよりに母は蒸発――血の繋がらないから学費などの援助を受けているので日々の生活くらしが困窮するようなことはなかったのだが、勤め先にも理解者がいてくれることはやはり心強いのだ。


(浮ついた気持ちを引き締めるのにこの風景は相応しいと思いましたが、……全然、そんなことはありませんね……)


 甲州市内の山間部に穿たれた新大日影トンネルを抜けると、特急列車の車窓からは壮麗なる甲府盆地を一望することができる。太古の昔には湖であったとも伝えられる肥沃な大地を取り囲むのは、乱世には天然の要害としても用いられた山々だ

 生まれ育ったこの土地を神通が離れたのは、およそ一年前のことである。用事がある度に戻っている上、郷愁に浸るような年齢でもないのだが、視界に入った風景の全てが不思議な感慨を湧き立たせるのだ。遠くに望む富士山でさえ、何故だか別のモノのように思えてくるのだった。

 さんざん見慣れたはずの景色に新たないろが加えられたと、神通には感じられた。それはつまり、キリサメ・アマカザリという少年によって心を塗り替えられてしまった証拠ではないだろうか。そのような想いを持て余しつつ眺める故郷だから、何もかもが以前とは別物と思えるのだ――これこそまさに浮ついた気持ちというものであろう。頬の火照りを自覚した途端、彼女は何とも例え難い溜め息を唇から滑らせた。


「……心ここにあらずといった調子だな、神通? 何か気掛かりでもあるのか?」

「な、何でもありませんよ、さまっ」


 新宿駅で合流し、一緒に特急列車へ乗り込んだ男性から訝しむような視線を向けられた神通は大仰ともいえるくらいかぶりを振った。本人としては努めて冷静に対応したつもりなのだが、上擦った声も含めて反応リアクションの一つひとつが極端に大きくなっている。結果的に悩みを抱えていると自供したようなものであった。

 狼狽といっても過言でない神通の様子を隣の席にて窺う男性は不審の二字を顔面に貼り付けていたが、間もなく一つの仮説へ辿り着いたらしく、「成る程」と小さく呟きながら首を頷かせた。


「悩みの種はカラーギャングとかいう連中か? お前の団体ところに決戦を挑んだことまでは聞いとるが、まだケリがついておらんのか。……全くぼうはちものの大たわけは始末に負えんな」

「そ、その話、一体、どこから……」

ひょうさんの世話になったのはお前だけじゃない――それが返答こたえだよ」


 男性が触れたのは中野を根城としているカラーギャングと『E・Gイラプション・ゲーム』との間で起こった抗争のことである。

 関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団――『甲龍会こうりゅうかい』の紐付きであったカラーギャングは非行少年の集団でありながらに劣らぬほどの凶悪事件を次々と起こしており、中野での興行イベントを計画していた『E・Gイラプション・ゲーム』にも魔の手を伸ばそうとしたのだ。

 最終的には直接対決で決着をつけたのだが、背後に控える指定暴力団まで敵に回すことは『E・Gイラプション・ゲーム』としても望むところではない。そこで『甲龍会こうりゅうかい』の大親分と旧知であった神通が直談判に及び、後腐れのないよう事態を収束させたのである。

 その大親分こそが『ひょう』なる人物であり、神通は「おじさま」と親しく呼んでいた。

 『甲龍会こうりゅうかい』の頂点に立つ巨人おとこの言葉は絶対であり、『E・Gイラプション・ゲーム』との和解を促されたカラーギャングは反抗の余地もなく了承せざるを得なかった。

 和解成立後にもカラーギャング内部では『E・Gイラプション・ゲーム』への反撃を訴える声が上がったそうだが、実行に移そうものなら自分たちの後ろ盾を裏切ることにも繋がる為、どれほど不満であっても我慢するしかないだろう。コンクリート詰めにされて東京湾に沈められる危険性もあるのだから、おいそれと手出しもできないわけだ。

 カラーギャング側には面目を潰されたという恨みを残してしまったものの、一先ず抗争は終わったのだ――が、解決に当たって神通が助力を求めた相手とは隣席の男性も親しく交わっていたのである。

 無意味に心配させてもいけないので『E・Gイラプション・ゲーム』に於けるを報せていなかったのだが、カラーギャングとの一件についてはひょうから筒抜けだったようだ。


「敢えて地下格闘技アンダーグラウンドで腕を磨こうという志は俺も買っとるが、つまらん連中だけは相手にせんことだ。阿呆に限って根に持つものだからな」

「肝に銘じておきます。……さまの心配性も相変わらずですね」

義妹いもうとが可愛くない兄などおるものかよ」


 近頃、カラーギャングとは別の問題が『E・Gイラプション・ゲーム』を脅かしつつあるのだが、大きな事業に取り組んでいる男性を巻き込むわけにもいかず、敢えて明かす必要もない為、神通は口をつぐんだ。今度は『甲龍会こうりゅうかい』も関与していないのでひょうから伝わることもないだろう。

 少しばかり古風な言葉を使う隣席の男性を神通は「さま」と呼んでいた。

 兄妹といっても血の繋がりがないことは明白だ。襟足の部分でひとふさ結わえた髪は白金色プラチナに輝いており、白雪にも近い肌の色や顔立ちなど欧州の人間にしか見えないのである

 あいかわセシル――国籍は日本に移しているものの、出身地は北欧である。ある事情から神通の実父に保護され、養子になったと。セシルが哀川家に入ったのは彼女が生まれる前のことであり、兄妹は二回り近く年齢が離れているのだ。

 妻帯者である義兄も東京で暮らしているが、大学とアルバイトが忙しかったこともあり、神通にとっては数ヶ月ぶりの再会だった。そして、少し顔を見ない間に妹の纏う雰囲気が変わったと思えたからこそ、セシルのほうも俄かに怪訝そうな表情を浮かべたのである。

 人の事情を穿ほじくり返すような性格でもないので、詮索も先程の一回のみで終わったのだが、万が一にも詳しい説明を求められたなら神通は間違いなく答えに窮しただろう。己に起きた異変の正体を彼女自身もまだ見極めてはいないのだ。


 新宿駅をって約一時間四〇分――特急列車は終着の甲府駅に到着したが、そこからの道程も長い。故郷の村まで辿り着くには更にローカル線のバスへ乗り込まなくてはならないのである。

 兄妹とも墓参りが終わり次第、東京へ戻るつもりではあるものの、セシルのほうはいささか逼迫した状況にある。最初は一家揃って河口湖畔の温泉宿に泊まる予定だったのだが、息子がインフルエンザにかかってしまい、看病の妻ともども留守番になってしまったのだ。


「お前は勤め先のオーナーから、俺は家族から父様の供養を託されたわけだ。……自分の親を褒めるのは照れ臭いものだが、毎度、人徳には感心させられるよ」


 そういって微笑む義兄に神通も強く頷き返した。

 背広とパンツスーツの違いはあれども、揃って黒を基調とした服装に身を包んだ兄妹は、どちらも空き家同然の自宅へ立ち寄るつもりがなかった。コンクリートジャングルに疲れた心身を母なる田園風景で癒そうとも思っていない。

 バス停から足早に向かい、菩提寺の山門を潜る頃には太陽が頂点てっぺんに差し掛かっていた。哀川家の菩提寺は山裾にひっそりと建っており、蝉時雨せみしぐれが一等近く聞こえる。そこは室町時代末期まで同地を治めたたけゆかりの古刹こさつとして知られ、激動の時代の中で滅んでいったしょうたまを永きに亘って弔ってきたそうである。

 たけびしを頂く本堂の脇には屋根付きの水場が設けられている。備え付けの桶に水を汲み、墓参りの支度を整えていたとき、兄妹は「同じ光景を去年も見た憶えがあるぞ」と声を掛けられた。


「おぬしら、何時の列車に乗ったんじゃ? ひょっとして同じ車両にったのかも知れぬ。儂は甲府駅からレンタカーでここまで来たがの」


 兄妹が振り返った先には右手で花束を担ぐ痩身の男が立っていた。

 五〇代半ばくらいだろうか。ノーネクタイのワイシャツからスラックス、左手に引っ掛けた背広や革靴に至るまで全身黒ずくめである。サスペンダーすら真っ黒なのだから、本人なりに強いこだわりがあるのだろう。この裁判官のような出で立ちは枯れた風情にも良く馴染んでいた。

 その一方で、頬骨が浮き出るほど痩せた頬から顎に掛けて蓄えられた豊かな髭や、緩やかに波打った髪のあちこちには白いものが目立っている。


「……やぶのおじさま」

「総一郎さん……」

「それにしても、これはどうしたことじゃ、セシル? 妻子がらんところを見ると三下り半かの?」

「心臓に悪い冗談はやめてください。仮にそんなことになったら、仲人を務めて下さった総一郎さんへ真っ先に報せますよ」


 義兄セシルに輪を掛けて古めかしい喋り方をする痩身の男性を神通は物心が付く前から知っている。この地で過ごした幼き日には遊び相手にもなってもらったのだ。

 やぶそういちろう――兄妹の父にとって唯一無二の盟友である。



 鐘楼堂の脇を抜けた先に広がっている墓地の片隅に哀川家の墓はった――といっても先祖代々に亘って受け継いできたものではなく、建立から一〇年にも満たなかった。黒御影の石塔は雨風に打たれた汚れこそあるものの、周囲まわりと比べれば外柵から玉砂利、納骨堂に至るまで真新しいとさえ思えるほどだ。石塔の隣に据えられた墓誌にも一人分の名前しか刻まれていない。

 墓誌に刻まれた俗名はあいかわ――それが神通とセシルの父親である。


「……お主ほどの果報者はそうはおらんぞ、トシ。物言わぬ骨になった後まで師匠に可愛がられておるのじゃからな。羨ましいくらいじゃわい」


 石塔の正面に立て掛ける形で置かれた一冊の書籍を見つけた総一郎は何とも例えようのない微笑を口元に浮かべながら、かつては毎日のように用いていた愛称を静かに呟いた。

 勿論、「総一郎」と呼び掛けに応じる声はない。いつだって身近で聞いていたその声は、今や記憶の水底へと沈み、少しずつ、けれども確実に忘却の砂に埋もれつつある。

 歳月という名の残酷な〝事実〟を未だに受け止められないのか、書籍から石塔に移された瞳は、ここではないどこか遠くを見つめているようであった。

 総一郎が発見したのは、いわゆる歴史書である。新進気鋭の歴史家として山梨県内ではそれなりに名前が知られていた兄妹の父――は、日本の中世史を専門とする学者へ師事していた。神通も何度か挨拶したことがあり、父の死によって交流が途絶えたも新聞やテレビ番組で名前を見掛ける度に詳細を調べていた。

 墓前に捧げられているのは、鎌倉時代末期から建武新政けんむのしんせい期を経て南北朝時代へ至るまでに発生した主な訴訟をまとめた一冊である。ざらしにしておくのがはばかられる新品であり、数日前に上梓されたばかりであったと神通は記憶している。

 父の恩師は自分たちよりも少し早く墓前ここに訪れたのだろう。くりぬき型の香炉には燃え尽きた線香の残骸が幾つも散らばっていた。


「……中世武家社会の訴訟を取り上げた書物でしたね、確か。今も父様が生きていたら、きっと共著に名前が載っておったでしょうに……」

「あやつの遺した成果は師が引き継いだからのぉ。……こんなものは恩返しにならぬと、あの御仁は嘆いておられたがな……」


 セシルと総一郎は共に甲府駅前で買い求めた花を飾ろうとしたが、これが相当な難題であった。花立ては既に隙間が殆ど埋められた状態だったのだ。恩師の他にも何人かがの墓参りに訪れたようである。


「この花は日下部くさかべさんかな……。あの人、つきめいにちには必ず墓参りをしてくれますし、俺たちも助かっとりますよ。建てた当時と同じくらい綺麗なのは日下部さんのお陰です」

「おお、からメールが入っておったことをすっかり忘れていたわい。あやつも今日、墓地ここに来ると言うておったな。詳しい時間まではかなんだが、墓の隅々まで磨かれたところを見るに、午前中一杯、精を出したようじゃ」

「……墓の掃除も俺たちがやらなくてはならんのですがね。頼りきりになってしまって、日下部さんには申し訳ないくらいです」

「あやつにとってはトシと語らう為の大切な一時ひとときなのじゃ。おぬしら、家族から認められておることは、むしろさいわいじゃろうて」


 セシルと総一郎が口にした『日下部くさかべきよ』とはにとって一番弟子とも呼ぶべき存在である――が、は学問ではなく武芸の師弟関係だ。哀川家は乱世に端を発する古武術の道場を守る家柄であり、神通の父も生前は宗家の立場にった人間なのである。

 『聖王流しょうおうりゅう』と称する流派は宗家の兄妹双方にも受け継がれていた。特に神通は祖先より伝わった奥義わざの数々を錆び付かせない為に地下格闘技アンダーグラウンドの団体へ所属しているのだった。

 対するセシルは古武術に於ける伝統と格式を引き継ぐことに尽力していた。洋の東西を問わず、中世に用いられた鎧兜を再現し、これを纏って実戦さながらの激しい試合を行う『アーマードバトル』なる競技の普及に力を注いでいるのだ。

 彼自身も極めて優れた選手であり、武器術と体術を複合した『聖王流しょうおうりゅう』の奥義わざを応用し、国際大会で番狂わせを演じたこともある。

 哀川家の兄と妹は、二本の異なる道にて古き武術を継承しているのだった。


「そういえば、奥方様は一緒ではなかったのですか? 人のことを三下り半とからかっておいて、その実、自分のほうこそわびしい暮らしになっておるのでは?」

「準備万端整って、いざ出発というタイミングでから呼び出しがあっての。科捜研の非番は休日ではなく待機時間でしかないというわけじゃよ」

「総一郎さんと大違いですね。そちらはこうして休み放題なのに」

「開業医を舐めるでないわァっ!」


 セシルは父の盟友よりも一回り以上、年齢が離れているのだが、二〇年にも及ぶ長い付き合いを経て肩肘張らずに付き合える関係となったのだろう。目下の人間を相手に軽口の応酬を交わす総一郎は不敬に腹を立てるどころか、どこか楽しそうでもある。

 二人の様子を微笑ましく見守りながらマッチを擦り、線香に火を付けていた神通は、ふと視線を巡らせた石灯籠の陰に珍妙な品を見つけた。

 無造作に放置されていたのは木彫りの阿修羅像であった。手のひらに乗せられるほどの大きさであるは削り方が雑で不格好ではあるものの、汚れの一つもなく、陽の光を跳ね返すくらい丹念に磨き上げられていた。おそらくは完成したばかりなのだろう。


「……なぎ――ろうさん……」


 父の墓前へ手作りの阿修羅像を供えていったのは誰か、神通はすぐに見当が付いた。

 藪総一郎と同じように一〇代の頃から父と関わってきた人間だが、盟友というよりは腐れ縁と表すのが似つかわしいと色々な人間から聞かされている。

 その男は幕末の京都を駆け抜けた『狼』たちと同じ剣をふるう恐るべきせんだった。現在は『ひょう』の影――即ち、『甲龍会こうりゅうかい』の構成員として〝闇〟の狭間を生きているというが、かつてはと敵対関係にあり、互いの命を削り合うような死闘を演じたそうである。

 剣と心が一体化しているような男だけに刃物を握っていないと落ち着かないらしく、荒ぶる精神を鎮める為に木彫り細工に凝っていたのだ。空き家同然の自宅の居間では彼が拵えた人形が幾つも埃を被っている。神通自身、何年か前に誕生日の祝いとして不動明王像を贈られたことがあった。

 自分や義兄のように彼もまたひょうから供養を託されたのだろう。もしかすると『甲龍会こうりゅうかい』の大親分の運転手を務める『いぬひこ』にも同じことを頼まれているのかも知れない。

 父にとって掛けがえのない相手がわざわざ足を運んでくれたことが神通には嬉しくて仕方なかった。

 生前にえにしを得た人たちは、皆、墓参りをしてくれたようである。

 菩提寺ここから数キロと離れていない神社にて宮司ぐうじを務めている父の幼馴染みも出向いてくれたのだろう。この時期になると境内に咲き乱れるひまわりが石塔の根元に供えてあった。花立に入り切らないくらい大振りである為、それが置いてあるだけでも明るく賑やかな印象となるのだ。


「これからもっと賑やかになるだろうよ。父様の周りには何時でも……何時だって人の輪ができておったからな……」


 の呟きに妹は大きく頷いた。一人また一人と、父の同志なかまはこの古刹に集まることだろう。一日と経たない内に墓石は花瓶の代わりになるはずだ。

 父は――あいかわは天寿を全うすることなく逝ってしまったが、けれども無意味な人生ではなかったのだと思いたかった。その血を継いだ娘として信じてあげたかった。


(……もしかして、も――)


 父の墓を飾る花に我知らずの面影を探してしまう神通だったが、それが愚かの極みだと即座に思い直し、にわかに昂揚した気持ちまで萎えていった。

 そもそも、の絶命さえ未だに知らないはずだ。自分たちの前から姿を消して久しいが、現在に至るまで連絡はなく、神通とて捜し歩いたこともなかった。義兄セシルも母の名前は二度と口にしないだろう。

 兄妹の脇を一組の家族が通り抜けていったが、あのように出掛ける機会は父が亡くなる数年前には永遠に失われていたのである。

 家紋入りの提灯を元気よく掲げて先祖のたまいざなう男の子に和み、心を救われていなければ、神通はそのまま奈落の底よりも深く落ち込んでいたことだろう。

 俯き加減となってしまった彼女の鼻孔をせるような匂いがくすぐった。見れば一本の葉巻を左手で摘まんだ総一郎が安物のガスライターでもって先端を焦がしている。

 程なくして彼は葉巻を口に銜えたが、紫煙を満喫するわけでもなく、を香炉の上に捧げた。

 本人は四十余年の生涯に於いて一度たりとも煙草をわなかったのだが、ヘビースモーカーの総一郎が目の前で紫煙をくゆらせても嫌がることはなかった。知的好奇心でもくすぐられたのか、葉巻の吸い口に切り込みを入れるカッターへのこだわりを語ったときにも楽しそうに耳を傾けていたのである。

 それ故に総一郎は、毎年、一本の葉巻を供えていた。生前の盟友が毎日のように感じていた紫煙かおりを捧げることで「いつまでもお前のことを忘れずにいる」という約束に代えているのかも知れない。

 胸の内に秘めた想いを総一郎自身が語ることはなかったものの、余人には決して解き明かせない情感が瞳に宿っているのだ。


「……そういえば、この間、トシと〝同じ目〟の少年をたわい」


 一筋の紫煙の向こうに黒御影の墓石をぼんやりと眺めていた総一郎は、ふと想い出したかのように奇妙なことを呟いた。


「見た? 父様のドッペルゲンガーでも目撃したという話ではないでしょうね?」


 言葉の意味を掴み兼ねたセシルに対して総一郎は「診察のほうじゃ」と解説した。


「ちと怪我の具合を診たのじゃよ。その坊やの養父おやじ病院うちのお得意様でな――おぬし、キリサメ・アマカザリという名に聞いた憶えはないか? 『総合格闘技MMA』の新人選手じゃが、デビュー戦の内容が化け物じみておっての。近頃はワイドショーで『時代の寵児』などと持ち上げられておるのよ」

「いや、知らんですね。家内なら分かるかもですが、俺はテレビも殆ど観ないので……」

「キ、キリサメさん、おじさまの病院に行ってるんですかっ⁉」


 総一郎が何気なく話した内容に双眸を見開いた神通は、その驚愕をもって心に差し込んでいたくらい影までもが吹き飛ばされていた。心の大部分を占めている名前が思いも寄らない人物から語られたのだ。総一郎とセシルは言うに及ばず、墓参りに来ていた他の人々が何事かと振り返ってしまうくらい素っ頓狂な声を張り上げたのは無理からぬことだろう。

 警視庁科学捜査研究所勤務の妻を持つ藪総一郎は、東京の下町で小さな診療所を開いている。看板へ掲げるには不吉な名字であることから「自分は生まれ付いての藪医者」などと称しているのだが、物騒極まりない冗談とは裏腹に腕は確かであり、地下格闘技アンダーグラウンドに於ける闘いから生傷の絶えない神通にとって掛かり付けの医院なのだ。

 つまり、キリサメ・アマカザリは自分と同じ病院に通っていたわけである。


「なんじゃあ、神通君、キリサメ・アマカザリと親しかったのか?」

「は、はい。まだ知り合って間もないのですけれど……」


 総一郎のほうも目を丸くして驚いたが、キリサメとの親交を聞かされた後は何とも例えようのない複雑な面持ちで顎鬚を撫でた。深い皺が刻まれた口元も微かに歪ませている。


「世間は狭いというが、何とも因果な話よの。トシと――父親と〝同じ目〟をした小童こわっぱと神通君が巡り逢うとは……」

「……その小童こわっぱとやらに惚れたのか、神通?」


 半年ばかりの間に纏う雰囲気が変わった理由に思い至ったのか、セシルは身を乗り出さんばかりの勢いで神通の顔を覗き込んだ。

 いつまでも小さな妹と思っていたのだが、彼女も今年で一九歳。なのだから恋人が居てもおかしくない――と考えて心の動揺を落ち着けようとする義兄セシルだったが、降って湧いた色恋の話にすっかり狼狽うろたえてしまい、「交換日記からスタートせんような男は許さんからな」と意味不明なことを口走る有り様だ。


「……恋とは違う気がしますよ、これは」


 一九年の人生で初恋すら経験していない神通にはセシルの心配が完全には理解しきれなかったものの、大して色気のあることではないと自分自身では考えていた。

 キリサメの初陣を見届ける為、半ば衝動的に遠出してしまうほどの執着心を持っていることは確かである。現代格闘技の世界を騒然とさせる闘いを間近で見届け、その想いが一等膨らんだことも事実だ。

 しかし、それが男女の慕情に通じるとは神通自身には思えなかった。酷薄な光を宿した冷たい瞳も、敵を殺傷することに特化したけんも――キリサメ・アマカザリという名の一個の〝暴力〟に武術家としての魂が共鳴したのだと、恋を知らない乙女は自分の中で結論付けていたのである。

 公表されたプロフィールによれば、キリサメがふるう技はペルーの貧民街スラムにて備わったものだという。古流からは遠く掛け離れているが、しかし、その理念は確実に重なっているだろう。己に備わった『聖王流しょうおうりゅう』は荒武者たちの合戦の中で編み出された武術であり、まさしく『人を殺傷することに特化したけん』なのだ。


「この胸の鼓動は『聖王流しょうおうりゅう』に生きた人間が背負うごう。魂に宿った野性が強く反応したのですよ、きっと……!」


 神通が身を置く地下格闘技アンダーグラウンドを端的に表すならばアマチュアの格闘技団体ひいてはその興行ということになる。しかし、所属選手たちは世間一般で言うところの『プロ』など最初から目指してはいない。例えば、東京体育館を借り切るような規模の大会でこそ得られる名誉や賞金には毛ほども興味がないのだ。

 昨日よりも今日よりも、明日の自分は強くりたい。今の自分よりも遥かに強い相手と闘いたい――一途な情熱おもいに衝き動かされた猛者たちがつどい、互いの腕を競うのみである。

 誰よりも強くなりたいという意志が群れを成している為、試合自体も過激化することが多く、場合によっては安全確保に欠かせないはずのグローブすら外すくらいだった。

 興行を打つたびに救急車の出動を要請する所為せいか、警察関係者からは格闘技団体ではなく暴力装置あるいは犯罪予備軍の如く危険視されている。社会から〝専門家プロ〟として認められているわけでもない荒くれ者が開く〝宴〟だけに、カラーギャングといった質の悪い連中から標的にもされ易いのだ。

 そのように危険な地下格闘技アンダーグラウンドにも暗黙のルールは存在している。相手の命を意図的に脅かしてはならない――即ち、「人を殺してはならない」ということである。法律上の問題は言うに及ばず、流血が当たり前の地下格闘技アンダーグラウンドであってさえ殺意の暴発は容認されていないのだから、総合格闘技MMAに於いては禁忌といっても差し支えないだろう。キリサメ・アマカザリが飛び込んだのは厳密なルールによって選手の安全性を守る〝競技〟なのだ。

 ところが、ペルーの貧民街スラムで育った少年は、を何の躊躇ためらいもなく軽々と踏み越えてみせた。大勢の観客に取り囲まれたリング上でありながら、比喩ではなく本当に相手の息の根を止めようとしたのだ。

 無分別なチンピラは平気で急所を狙うものだが、それで死者が出るとしても「当たり所が悪くて命を落とした」という偶発的な事故に過ぎない。対してキリサメの場合は間違いなく死に至らしめるだろう攻撃を仕掛けたのである。

 〝安全な競技〟と信じて疑わなかった観客たちはキリサメのふるう技をの襲来のようにおそれ、これを報じるマスメディアも酷く動揺していた――が、神通に言わせれば生死が鼻先ですれ違う状況こそが〝戦い〟の本質なのだ。そして、それは乱世のかっせんにて誕生した『聖王流しょうおうりゅう』が理念として掲げる境地でもあった。


「うっとりしました、正直。キリサメさんは人をだったのですからっ」

「うっかり口を滑らせたと見えるが、死者が永眠ねむる場所で殺す殺さないという話をするのはどうかと思うぞ」


 義兄が肩を竦めてしまうほど妹の声は上擦っている。

 遠い地での〝初陣〟より三ヶ月ほど前、神通と同じ地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する仲間がキリサメ・アマカザリへ路上戦ストリートファイトを挑んでいた。そこでも彼は貧民街スラムの暴力性を隠さなかったという。相手から〝光〟を奪い兼ねない目突きまで平然と狙ったそうだ。

 明治時代に世界中で異種格闘技戦を繰り広げた伝説的な柔道家――前田光世コンデ・コマの技を文献などから復活させた挑戦者は『E・Gイラプション・ゲーム』のエースとも目されている。国際ルールに基づく『JUDOジュードー』では危険行為として禁じられた〝古い時代の柔道〟の技にも精通する相手と互角の勝負を演じたキリサメは、その果てに鮮血の結末を迎えたのである。

 路上戦ストリートファイトの話を聞かされた瞬間の昂りを神通は二度と忘れられないだろう。相手の命を貪り喰らう野性の戦いをやってのけたキリサメに憧憬を抱き、初陣を見届けたことで更なる夢見心地にいざなわれたのだった。


「……トシが今も生きておったなら、キリサメ君を見て同じことを言うたであろうな」


 胸に抱いた想いは色恋とは別物だろうという自己分析を『聖王流しょうおうりゅう』の本質を例に引いて語った神通に総一郎はしみじみと首を頷かせた。


「神通君とキリサメ・アマカザリが巡り逢ったのは必然かも知れぬ。……まことに良くトシと似ておるよ。おそらくは己が力のみで『聖王流しょうおうりゅう』と同じ領域に達したのじゃろう。マスコミ連中は『古代インカ帝国の秘義』などと持てはやしておったが、日本とは比べ物にならぬほど危険な場所で戦ってきたのは間違いない。あれは喧嘩慣れとは別次元であったわ」


 総一郎の見立てに神通は何度も首を頷かせ、隣に立つセシルは無言で双眸をつむった。

 言葉もなく佇んでいると海外からの旅行者にしか見えない神通の義兄は、そのかおかたちに似つかわしいとも言うべきか、中世ヨーロッパで活躍した騎士の如く板金鎧プレートアーマーで全身を包み、幅広の両刃剣ブロードソード円盾ラウンドシールドを構える戦場に『聖王流しょうおうりゅう』の前途を見出していた。

 それが『アーマードバトル』と称される〝競技〟だった。長剣ロングソード両手剣ツヴァイハンダーなど試合で用いられる武器は刃や先端が完全に潰してあるものの、現代に蘇った中世騎士たちが渾身の力でぶつかり合う姿は場内に轟く金属音と相まって、いにしえの英雄譚サーガのようにしか見えないのだ。いわゆる、『中世ファンタジー』というジャンルを愛好する人間ならば全身の血が燃えたぎることだろう。感動の余り、雄叫びを上げずにはいられないほどである。

 近年では日本にも競技団体が設立され、戦国武将が用いた鎧兜を再現する選手も少なくない。セシルもまた『アーマードバトル』を国内で広めようと活動する一人なのだ。

 東洋の武士が編み出した古武術を西洋の騎士に倣う競技で生かせるよう最適化させるなど、『聖王流しょうおうりゅう』宗家の養子だけあってセシルの技量は余人を寄せ付けないほど高い次元にある。事実、幅広の両刃剣ブロードソードの太刀筋は荒々しくも鮮やかで、円盾ラウンドシールドを防御ではなく打撃に用いる技巧もまた変幻自在であった。

 かっせんから発祥した流派だけに『聖王流しょうおうりゅう』は体術と武器術を併用してこそ真の力を発揮する。それはつまり、兄が取り組むアーマードバトルのほうが本来の様式に近いことを意味しているが、有効打が決まる度に加算されるポイント制で勝敗を決するなど選手の安全性を考慮したルールが定められており、鎧の隙間から直接的に肉体を傷付け兼ねない刺突つきなどの危険行為も禁じられている。

 『聖王流しょうおうりゅう』本来の力を発揮し得る〝場〟でありながら、流派の理念から掛け離れている次第であった。

 反対に神通が主戦場として選んだ地下格闘技アンダーグラウンドは互いの命を削り合うというの本質に極めて近いものの、徒手空拳が大前提となることから武器は持ち込めない。先人から引き継いだ『聖王流しょうおうりゅう』を損なわない為、〝実戦の場〟を選んだというのに肝心の技が一部を除いて使えないのである。

 そうしたこともあってセシルはアーマードバトルへの参加を神通に勧めていた。妹を自分の〝道〟に引きずり込もうというわけではないのだが、武器の使用が許された〝場〟でしか得られない手掛かりも多く、必ずや『聖王流しょうおうりゅう』の血肉となるだろう。

 アーマードバトルには女性選手も多い。両手剣ツヴァイハンダーを得意とするフィンランド随一の女騎士は刀身の重量をも生かし切る柔剛一体の剣技に長けているのだが、是非とも神通と対戦させてみたいと密かに考えていた。

 『天翔ける鶴』といった意味合いの名前だったと記憶しているが、北欧最強と名高い女騎士は神通に目が覚めるような刺激を与えてくれるだろうと確信している。尤も、神通当人は一向に誘いに乗らず、また義兄としても無理強いはできない為、思い描いた対戦が実現する確率はぜろに等しかった。

 『戦いの申し子』とまで畏敬されたあいかわの〝血〟を引く神通こそ『聖王流しょうおうりゅう』の未来を担う人材とセシルは考えているのだ。それ故に様々な経験を積ませてやりたかった。総一郎が「トシのヤツめ、娘にまで『聖王流しょうおうりゅう』の宿命さだめを譲り渡したか……」と苦笑したのも〝血〟の繋がりを強く感じたからに他ならない。


「……俺が気に掛かるのは『聖王流しょうおうりゅう』に通じるとかいう技ではなく、その少年の心です」


 妹思いのセシルは二人からの伝聞に基づいてキリサメ・アマカザリという少年の横顔を真剣に想像していたが、その眉間には先程とは異なる意味合いの皺が寄っている。


「アマカザリなる少年も、……心が壊れておるのではないですか?」


 難しいに変わったのは総一郎も同じだ。「心が壊れている」という言葉は極めて繊細なモノを内包しており、医師としては軽々に頷けるものではなかったのである。患者の診察内容を口外することはなかったものの、彼と同じことを案じたキリサメ・アマカザリのからも『PTSD』――心的外傷後ストレス障害の検査を依頼されたのだ。

 そして、セシルが精神の損傷ダメージとは別の心配をしていることも総一郎には分かっている。心の根深いところでと彼は言いたいのだ。


「……話を聞く限り、その少年は父様に似ていると思う。だが、己の命を軽んじる反動で破壊の衝動に呑み込まれておるとすれば、それは何よりも危うい」

さま……」

「別にアマカザリとやらを否定するつもりはない。俺たちのだとも分かる。それだけに不安も尽きないのだ。……お前の友人なのだから尚更にな」


 キリサメ・アマカザリと同じように瞼を半ばまで落とし、眠れる獅子ともたとえられていたあいかわは最期を迎える瞬間まで完全に

 生まれ落ちた瞬間から古武術宗家の血統という宿命さだめを背負わされ、幼くして左頬に二度と癒されない傷を刻まれるほど激烈な世界にったその男は、戦うことしか知らず、死と隣り合わせにならなければ生を実感することさえできなかった。

 神経を擦り減らすような日々の中で巡り逢った一握の幸せは〝鞘〟となり、荒ぶる魂をここにおさめたの瞳は生きる希望に満ちていた。眠れる獅子の双眸は光溢れる風景を見守る為に大きく開かれていた。

 しかし、を与えたはやがて幾億倍もの絶望に変わり、完全なる崩壊へと突き落としたのだ。

 を弔う場に兄妹の母が居ないこと――それが全てだった。

 自立して家を出ていた義兄に代わり、神通は父が崩壊していく一部始終を見届けていた。一方的で残酷な書き置きを残して母が行方をくらました日、父の双眸は半ばまで落ちた。その瞬間から何もかもが変わってしまったのである。

 道場で熱心に稽古を付ける姿や、平日は駆け出しの歴史家として忙しく働く姿しか知らないが、それでも愛想を尽かされるような真似だけはしていなかったと娘の目には映っている。家庭を大事にする良き父であり、妻の〝趣味〟にも理解のある良き夫だった。

 心の軸が折られた慟哭なげきを子どもたちの前では決してらさず、自慢の父でり続けた。それまでと何も変わらない日常を守り続けたのだ。

 だからこそ、と言えるのかも知れない。己に明確な誤りがあったなら、それを理由に悔恨することもできた。自分を責めることさえできないまま、心の置き場所を見失ったのである。

 ならば、キリサメ・アマカザリも同じなのだろうか。父のように大切な〝何か〟を喪失したが為に眠れる獅子ともたとえられる双眸に変わってしまったのだろうか。犯罪の蔓延はびこる裏路地にて編み出されたけんさっぽうという一点を除いて彼はペルーに関する情報を公表しておらず、心に巣食う〝闇〟の深さを探ろうにも手掛かりなど皆無に等しかった。

 一つの〝事実〟としてキリサメの瞳はひたすらに無感情であった。己の人生に何も求めなくなった顔はむなしさに押し潰された後の父と間違いなく同じであった。

 キリサメ・アマカザリとあいかわ――空虚うつろな瞳を持つ二人は本当に良く似ていた。神通がこの世に生をけるより遥か昔、若かりし頃の父は八凪志狼といった強敵と相対するときに限って魂を揺り起こし、瞳に獰猛な輝きを宿したという。ペルーより訪れた少年もまた瞼を大きく見開いた瞬間、阿修羅にも匹敵する死神へ変貌を遂げるのだった。


「キリサメ・アマカザリを想うのであれば決して手を離すでないぞ、神通君。あの少年、強い風でも吹けば飛んでいってしまいそうじゃ。……もはや、儂も彼に関わってしもうたからの。愛を失って壊れる者を二度とは見とうはない」

「……愛――ですか」

「左様。ヒトという生き物は、所詮、愛を失くしては生きてはゆけぬのじゃ。阿修羅の如く精神たましい武技わざ肉体からだを鍛え上げようとも、愛が伴わねば生きておる甲斐もあるまいて。神通君、おぬしは愛の力にてキリサメ君を繋ぎ止めよ」

「妹が色恋関係ないと否定しておるのだから、わざわざ非行の道に引きずり込むような真似はせんでくださいよ、総一郎さん」

「何が非行じゃ。シスコンは黙っとれい」


 歯の浮くような台詞を次々と並べ立てる総一郎だったが、愛という名の幸せを喪失うしなって男の墓前に於いてはこれ以上ないというくらいの説得力を生み出すのだ。

 だからこそ、義兄は気が気でないのである。下世話な男から焚き付けられて妙な方向に張り切られてしまうのではないかと、考えただけでも肝が冷えていくのだ。神通当人がいさめて合掌を促さなかったら、セシルは総一郎を相手にそのまま揉め続けたに違いない。


「――誰のこともうらむんじゃねぇぞ、神通。お前は自由に羽撃はばたけ」


 両掌を合わせて瞑目したとき、父が遺していった言葉が神通の脳裏へと甦った。

 血まみれの身体を横たえながら娘の顔を見上げ、決して怨むなと告げたのだが、自分に引導を渡した相手を責めるなと言いたかったのだろうか。

 『聖王流しょうおうりゅう』宗家としての矜持を抱いたまま逝けたことは大いなる救いであったはずだ。

 総一郎と共に果たし合いを見届けた神通は、の門下生には秘匿されている禁忌の技まで解き放ち、まさしく猛き獅子と化して暴れ狂った父が生きる喜びに打ち震えていたと感じたのである。

 父娘の間柄ではなく一人の武術家として羨ましいとさえ思った。数百年もの月日の中で磨かれてきた『聖王流しょうおうりゅう』の全てをぶつけられる好敵手に恵まれ、心身が沸騰するような激闘に殉じたことは何にも代え難い幸せだろう――と。

 戦いの末の落命は神通にとっては当然の帰結であり、一時いっときでも父に救いをもたらしてくれた拳法家には感謝の念しか持ち得なかった。無論、これはセシルも同じ気持ちである。

 『聖王流しょうおうりゅう』へ挑戦するべくアメリカから海を渡って訪れたくだんの拳法家は、不幸な筋運びから日本の法律によって裁かれることになってしまったが、それは兄妹のどちらも望んではいなかったのである。

 そもそも、『アップルシード』と名乗った男は『聖王流しょうおうりゅう』という流派とも深い因縁で結ばれていたのだ。遠い昔の〝約束〟を果たしてくれた相手を〝罪人〟に仕立て上げるなど、それ自体が祖先たちに対するぼうとくであろう。

 どの刑務所に収監されたのかも神通の耳には入ってこなかったが、父との一戦を人生の汚点のように考えないで欲しいと願わずにはいられなかった。


(……父様――やっぱり、わたしにもあなたと同じ野性の血が流れているようです)


 総一郎とセシルの間に挟まれるような形で墓前に立ち、瞑目と共に合掌した神通は心の中で亡き父に語り掛けた。

 ペルーより舞い降りた新進気鋭のMMA選手、キリサメ・アマカザリ――戦うことしか知らず、死と隣り合わせにならなければ命を繋ぐ糧も得られなかった少年との想い出を、一つひとつ、ゆっくりと紐解いていった。


(正真正銘の命の遣り取りを何度も潜り抜けてきたのだと思います。あの人が漂わせる血の臭いに惹き付けられてなりませんが、おじさまの言うように恋なのでしょうか……?)


 心の中で父に問い掛けながらも、神通には恋というものが分からない。それどころか、分かりたいとも思わない。


「……今まで……すまなかった――」


 あいかわという男は生涯を閉じる瞬間にどうしようもなく悲しい言葉を遺していた。そして、その言葉が自分に向けられたものでないことを神通は誰よりも理解していた。

 最も〝生〟を噛み締めていたの幻想を今際いまわきわたのだろう。家族を棄てた恥知らずに詫びたのである。ほんのささやかな幸せを守り切れなかったのは己の過ちなのだとこの世に無念を遺してしまったのである。

 最期の戦いを通じて救われたはずだったのに、息を引き取ろうという瞬間ときになって満ち足りた笑顔から空虚うつろな瞳に戻ってしまった。もはや、立ち上がることもままならない身体を血の海に横たえながら左腕一つを天に向かって突き出し、幻想の中で舞い踊る最愛の人を引き留めようとした。

 果てしなき〝闇〟にとらわれたまま、運命の歯車を〝あの日〟まで戻さんと虚しく手を伸ばしたまま、獅子は永遠の眠りに就いた。

 肉体から魂が抜け出すそのときまで苦しみ抜くのが恋だとするならば、やはり、神通には理解できそうもなかった。

 義兄セシルも総一郎も最良の伴侶はんりょを得て幸せに暮らしているのだから、父だけが一等悲しく生まれ付いたと思わなくもない。しかし、その〝血〟が自分には流れているのだ。

 自分だけがあいかわの〝血〟を引いている。甚だ不本意ではあるものの、父を人間の〝血〟も混ざっている。あるいは、この世に生をけたときから人並みの幸せなど望むべくもないのかも知れない。


(……ううん、人並みの幸せなんてもの、関係ありませんね。どんな理屈を付けたって、キリサメさんへの想いを止められそうにないのですから……)


 恋だの愛だのと名前を付けることはできなかったが、それでもキリサメ・アマカザリに感じた魂の共鳴だけは受けれようと思っている。偽らざる衝動きもちとして身を委ねている。


(……暴力がすぐ隣にった昭和ではない現代でキリサメさんに巡り逢えたこと、わたしには何よりの僥倖しあわせです。どんなに羨ましがっても父様には譲ってあげませんからね?)


 父と同じ眠れる獅子の目を持った少年は『聖王流しょうおうりゅう』の理念にも通じる殺傷の技と、己を死神へと換える不思議な異能ちからを宿している。それは目が覚めるような〝暴力〟であり、だからこそ、格闘技のことをルールでもって安全化された競技スポーツのように捉えていた者たちを震撼しんかんさせたのだ。

 他の誰でもない神通自身が武術家としてまことの覚醒を迎えたような心地なのである。

 闘いの本質が命の遣り取りであることをキリサメは現代格闘技界に示した――彼の初陣を振り返った神通は、身のうちから湧き起こる昂奮をどうにも抑えられなかった。

 亡き父の横顔に刻まれていた一筋の傷痕を我知らず追憶したのだろうか、彼女は右の人差し指でもって己の左頬を撫でている。この世に生まれた瞬間より慣れ親しんできた血の色のきずあとを〝何か〟の確認のように幾度もなぞっている。


(父様にとってのアップルシード・ミトセと同じように、キリサメさんもわたしにとってただ一人の――)


 紫煙が立ち上っていくを仰いだ神通は、死神という畏怖と、賛否両論をもっちまたを騒がし、嵐を起こし続ける異能ちからの名を白い夏雲に向かって呟いた。


「――『死神の回路スーパイ・サーキット』……」



(本編に続く)

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