その8:伴走者~そして舞台は運命が集う場所へ
八、
数世代前と比べてパソコンの性能が大きく進化した現代に於いては数千万円もの機材を揃えずとも民間単位で良質な映像作品を完成させることが不可能ではなくなっている。俗に動画サイトとも呼称されるインターネット上のサービスは世の中に向けて何かを表現したいと願う者たちの受け皿という側面も強いのだ。
全世界に
最大の特徴は配信される
一日に数え切れない量の
その一方、近年では専用チャンネルを開設する有名企業も増え、
このようにプロとアマチュアが入り乱れて争う構図の只中にあって、
ネットニュース系のチャンネルでありながら一〇代から二〇代の若者を中心として盤石にも近い支持を得ており、過去に配信された
自らの危険を省みる気がない体当たりの
『中東の火薬庫』と名高いパレスチナ自治区・ガザへ潜入取材を敢行した際は目の前にイスラエル側の砲弾が撃ち込まれるなど比喩ではなく本当に命懸けの
一時期の『ユアセルフ銀幕』では大声で相手を驚かせては逃げ惑うだけという珍妙な遊戯の
その
何しろ記録映像めいた仕上がりとなっている為、従来のファンは大いに戸惑った。異境の風景は確かに視聴者の好奇心を刺激するが、
おどけた調子で社会が抱える問題に切り込んでいく巧妙な語り口、確かな取材に裏打ちされた問題提起の手腕から『ベテルギウス・ドットコム』は〝現代の落語〟とも評されている。だからこそ、新聞に興味を示さない層にも長期に亘って空爆の恐怖に
通信社などの後ろ盾を持たない民間人でありながら現地まで足を運んでしまうような優れた取材力は維持されている為、普段の趣と違うだけで
事実、有薗思穂がビデオカメラを
海岸沿いの砂漠から丘陵地帯に向かって古い建物が続く街並みは老朽化の進み具体などからも物資の貧しさが表れてはいるものの、住民たちは助け合いながら規律正しく共同生活を送っているのだ。行政の指導が入ったわけでもなく、住民一人ひとりの積極的な行動と意見によって自治体制が整えられていった
しかし、一つの〝現実〟としてペルーの首都には秩序ある
ペルーの子どもたちが砂浜にて柔道の稽古へ励む場面には驚きの
別の場面では日本のインディーズ・シーンでカルト的な人気を誇るパンクバンド、エスエム・ターキーの代表曲を楽しそうに合唱する主婦たちの姿を大写しするなど、日秘の交流を忍ばせる映像も豊富であり、いずれも
住民自治に基づく都市計画で発展したその
「――誤解して欲しくないのは、これはあくまでも奇跡的な例外であって他の
大勢の住民が食材を持ち寄ることで運営される民衆食堂に集まり、カレーライスに似た汁かけ飯を頬張る人々をカメラの中央に捉えつつ、有薗思穂は理想的な住民自治と正反対の〝世界〟について語り始めた。
心身の育成を目的とした柔道が持つ健全性とは正反対に、ただただ
その上、命を繋ぐ為に振るわれる
「本気で世直しへ取り組むように志が高い人も、
町の有志たちが教師を務める〝手作りの学校〟では次の世代を担う子どもたちが真剣な面持ちで勉強に取り組んでいた。指導する側も学習する側も、映像から飛び出してくるような熱気に満ち満ちており、未来に向かって築き上げられたモノを破壊し尽くすだけの暴力の影など微かも感じられなかった。
「正義も悪もなく、この国の〝影〟では暴力だけが死を免れる手立てとなっていました」
しかし、現地取材を敢行した有薗思穂は、自らが撮影した平和な風景をペルーの例外と断言している。強盗傷害のような凶悪事件が常態化する悪夢の如き惨状は、この国では大して驚くことでもなく、ありふれた〝日常〟として至る場所に転がっているというのだ。
「自分の命を生かす為だけに他の人へ危害を加えることは、結局、自分の命を軽んじることと表裏一体ではないかと考えさせられました。暴力でも窃盗でも、続ければ続けるほど自分自身の命が値崩れを起こしていくのです。それは別に法律や社会の庇護から外れるという意味ではありません。許されざる手段で弱肉強食の世界を生きる自分に報われる未来なんかないんだと、人生そのものを諦める呪いに掛かってしまうのです」
牧歌的とも思える映像と噛み合っていない重苦しいナレーションを引き摺りながら場面が切り替わる。砂漠に拓けた一本の
風景が
それは二〇一三年七月にリマ市内で発生した大規模な抗議デモの映像である。どのように撮影したのか、モニターの前に座る視聴者には想像もつかないのだが、暴動と呼んでも差し支えがないデモ隊と警官隊との衝突を至近距離で捉えているのである。
デモ隊が陣取った地点から国家警察の隊列まで駆け抜けつつ撮影したことだけは察せられた。カメラを凝視する群衆がいずれも双眸を見開いているということは、かなり無茶な手段を用いたのは間違いない。
肩透かしとしか言い表せない場面の連続に飽き始めていた視聴者たちは、この瞬間に不完全燃焼のような気持ちが弾け飛んだ。合戦さながらの衝突を数メートルと離れていない位置で撮影した
僅かに間を置きつつ繰り返し割り込んでくる肉を
このデモは人間らしく生きる権利を脅かし兼ねないペルー政府のやり方が招いた結果であると思穂は語った。しかも、だ。群衆が暴発に至った要因を社会への不満と説いた上で、生じた火種が大火と化すほどに煽り立てたのは反政府組織だったと言及したのである。
デモ隊に武器を調達していた組織はペルーの民の嘆きを利用し、政府を攻撃させる先兵に仕立て上げたわけだ。
暴発の絵図を描いたテロリストへの接触にも成功したが、肝心の録画データは一つの重大な裁判の証拠としてペルー国家警察に押収されてしまい、判決が確定するまで返却されないという。
反政府組織との接触については「さすがに話を盛り過ぎ。たかが一般人をテロ組織が相手にするワケねーだろ」、「マジでそんな連中にコンタクト取ったら、フツーに生け捕りにされて、日本国民の税金が無駄遣いされちゃう」などと揶揄するコメントが殺到したが、
「半信半疑の輩はペルーの日本大使館のホームページにアクセスしてみると良い。『ベテルギウス・ドットコム』が報じた内容がそこにも記されている」
この一文が書き込まれてから数分の間は、さすがにコメントの投稿も止まった。日本のマスメディアでは殆ど報じられなかったのだが、反政府組織との癒着を暴かれた国家警察の長官は有薗思穂が撮影した大規模なデモと前後して逮捕されている。組織のリーダーが国家警察との繋がりを自供した肉声が決定打になったことも
次に国家警察長官を引き継いだのは、対テロ専門の部隊を組織の拠点まで差し向け、完全征圧に成功した首席監察官であるという。つまるところ、有薗思穂はクーデターにも近い衝撃的な長官交代劇に関わってしまったわけである。
「取材に失敗したモンだから、国家警察の内紛に乗っかってホラ話をでっち上げただけだろ」と疑うコメントも含め、画面上には様々な憶測が飛び交っている。取材内容の信用性についても賛否が大きく分かれる中、有薗思穂は異境で出会った友人への想いを静かに紡ぎ始めた。喉の奥から絞り出すような擦れ声で〝彼ら〟のことを振り返っていた。
「……私がペルーで思い知ったのは、本当にどうしようもない自分の浅はかさです。この世に生まれた人間は誰にでも幸せになる資格がある。報われなければおかしいと、あの国で知り合った友人に話しました――でも、そんな風に押し付けることは思い上がりでしかなかったのです。……画面にも映っているデモに加わった別の友人は、報われなければいけなかったあの子は、その日、帰らぬ人となりました」
ここで再び視聴者からコメントの投稿が途絶えた。反政府組織から入手した銃器を携えてデモの本隊へ合流しようとしていた別働隊と国家警察が交戦状態となり、夥しい犠牲者が出たと有薗思穂は語った。
無論、その事件についてはペルー日本大使館や外務省のホームページでも詳しく解説されている。武器弾薬を得たとはいえ素人の寄せ集めに過ぎない集団が国家警察の部隊に敵うはずもなく、ついには全滅という凄惨な末路を辿ったのだが、その中に有薗思穂の友人も混ざっていたというのである。
死闘が繰り広げられたという闘牛場の映像は含まれてはいない。しかし、彼女がそこで〝何〟を目にしたのかは
「……人間は誰にでも幸せになる資格があると話したことが誤りだったとは思いません。嘘
白い雲が流れていく蒼天へと切り替わった
今回の配信に於いて有薗思穂は時折、不思議な言い回しを用いていた。これまでの
有薗思穂が口にする〝キミ〟とはモニターの前の視聴者を指していたのか――結局、それは明らかにされず、
ノートパソコンの前に腰掛けて首を傾げる少女も有薗思穂の意図を測り兼ねた一人だ。
ペルーの悲劇を伝えたかったということだけは理解できたが、『ベテルギウス・ドットコム』の配信としては余りにも地味な仕上がりであったことにひたすら戸惑い続けていたのである。デモ隊と警官隊の衝突など見どころが全くなかったわけではないのだが、凡庸という感想からはどうにも脱し難い。
ペルーでは日本のテレビアニメシリーズ、『
「……『才能枯れたってレベルじゃねーぞ』――っと。性格悪いかもだけど、厳しめのコトも言っておかないとね」
明らかに『ベテルギウス・ドットコム』の底力を発揮できていないと感じたからこそ、この少女も否定的なコメントを投稿したのである。
衝撃的なデモ隊の映像によって巻き返しを図ったのかも知れないが、視聴者を楽しませる義務を負った人気チャンネルであれば、たった一人の気持ちでも萎えさせた時点で失格だろうと、長らくのファンである少女は考えていた。
元から話題性の高いチャンネルだけに配信終了直後には人気ランキング一〇位以内には入るだろう。しかし、それが一瞬の栄光だと少女は確信している。小一時間もすれば他の
そばかすが残る鼻の上に引っ掛けられた丸メガネはレンズが厚く、牛乳瓶の底のようにも見える。そこに液晶画面の
評論家を気取って大層なことを述べてはいるものの、本人の服装は全くだらしない。
肩甲骨の辺りまでだらしなく伸びた髪は手入れもされておらずに毛先まで痛んでおり、『ロマンスグレー大吟醸』という意味不明な文面が刷り込まれたTシャツも相当にくたびれていた。胸にはブラジャーさえ着けていないようだが、そもそも必要性を感じないほど平たい為、自堕落であるか否か、判断に苦しむところである。
何日も人前に出ていない様子が一目瞭然の少女は名前を
尤も、一日の大半を過ごすインターネットの世界では『アンヘルチャント』という仰々しい
アンヘルチャントの名義で遊んでいるネットゲームの仲間からパソコン宛てに電子メールが届いたのは
インターネット上のみではあるものの、親しく付き合っている男友達である。彼もまた『ベテルギウス・ドットコム』の新作
デモ隊に手を貸した反政府組織に心当たりがあるという男友達は、義賊としても活動している彼らが民衆を危険に巻き込むはずがないとの見解を示した。ごく一部の視聴者から投稿されたコメントと同じようにありもしない作り話で取材の失敗を誤魔化したと見なしているわけだ。世界の軍事情勢に詳しく、また誰よりも信頼を置いている人間の言うことであれば、それが〝真実〟なのだろうと納得するしかなかった。
「――って、オイ! 何だよ、今のは! なんとな~く最後まで観ちまったけど、手掛かりなんか一つもなかったじゃねーか! ペルーの旅番組なら間に合ってるんだぜ⁉」
何とも例え難い失望感と共に『ベテルギウス・ドットコム』を贔屓のチャンネル登録から外した
溜め息を引き摺りながら背後を振り返った視線の先では、腕組みと共に胡坐を掻いた大男が不満の二字を体現するかのように頬を膨らませている。放っておくと無精髭が伸び放題となる
四〇代半ばと察せられるその大男も未稲に負けず劣らず奇怪な出で立ちであった。首の付け根からはみ出すほど伸ばした髪を強引に撫で付け、頭頂部よりやや後ろの位置で束ねた姿は時代劇で
本人としてはこだわりのある髪型に違いないが、不揃いに飛び出した前髪がすだれ状に額を覆い、頭髪全体にもささくれのように毛羽立った箇所が散見される辺り、「小奇麗に整えられている」とは言い難いものがあった。櫛で撫で付けようにも言うことを聞かない剛毛なのだろう。
その大男に時代錯誤な印象を与えている最大の要因は珍妙な上着である。戦国武将たちが
尤も、この大男はなめし皮で
ジャージのボトムとTシャツに袖のない陣羽織というデタラメな取り合わせを平気な顔で着ていられるのだから、
「今更、その文句⁉ お父さんが考えるような
「アホ抜かせ! リマの
「私だって中身スッカスカの動画になるなんて思わなかったんだもん! いつもの『ベテルギウス・ドットコム』だったら、行った先にもっと密着して掘り下げてたんだから! 放送事故レベルの回も何度かあったけど、ここまでの失敗作は前代未聞なのっ!」
幼稚極まりない口喧嘩からも察せられる通り、この風変わりな出で立ちの二人は父娘の関係である。つまり、荒武者風の大男は娘の後ろからノートパソコンの液晶画面を覗き込んでいたわけだ。
戦国乱世からタイムスリップしてきたかのような風貌で現代科学の結晶をまじまじと見つめる
両頬を大きく膨らませ、文句まで垂れたということは、娘とは異なる意味で『ベテルギウス・ドットコム』の
「お前の投資が何も反映されてね~よ、コレ。月額一〇万も支払ってるのに肝心なときに役に立たないんじゃ意味がねぇし、バカげてらァ。もう解約しちまえよ、未稲」
「人のアカウントで『NSB』の動画見といて、調子の良いコトを言うよね~」
「だから、お前、それは資料代に計上してだなぁ~」
「ていうか、『ユアセルフ銀幕』と月額一〇万の投資は別のハナシだよ? 〝ネトゲ〟の課金額をここで持ち出すとかおかしいでしょ」
「おい、待て! 別のハナシって何だよ⁉ ネトゲだぁっ⁉ お前、マジで何に大金ブチ込んでんだよ⁉ 来月から財布の紐、バッキバキに締めるぞ、オイッ!」
「……課金できなくなって居場所までなくしたら、お父さんの責任だからね。いじめなんてネトゲの世界でも簡単に起こるんだよ? それこそ永久に仲間外れにされちゃうくらいコワい時代なんだよ?」
「イヤな脅し方すんなッ! ……ったく、お父さんが汗水垂らして稼いだカネはもっと大事に使って欲しいもんだぜ。ゲームやりたきゃファミコンで足りるだろ、ファミコンで」
未稲が口にした〝ネトゲー〟とはネットゲームの略称である。インターネット回線を用いて世界中のプレイヤーと一緒に遊ぶものであり、彼女は特に『エストスクール・オンライン』なる
ある事情の為、彼は地球の裏側まで人捜しに赴かなくてはならなかった。
『ユアセルフ銀幕』にて配信されるネットニュースでペルーの現状が取り上げられると娘から聴き、参考資料のつもりで当該の
「……年明けのアメリカ行きに合わせて――って言ってたけど、本当にペルーまで回ってくるつもりな? その人、
「お父ちゃんがチンピラ風情に負けると思ってんのか? いざとなったら、日本が誇る忍者の底力を見せつけてやらァよッ!」
『ベテルギウス・ドットコム』からペルーの〝影〟を見せ付けられたばかりということもあり、暴力を振るわなければ生きていけない危険な輩に襲われはしないかと心配する娘に対して父親は両腕に力こぶを作ってみせた。
どのような危険な目に遭おうとも跳ねのけるという自信の根拠は、二人が居る室内の様子からも瞭然であろう。
部屋の奥には『忍』の一字を大書した掛け軸がある。その真下には鹿角で拵えた台が据え置かれ、大小の刀が掛けられている。これを挟むようにして右側には鎖帷子、左側には『
まさしく忍者の修行場のような趣であった。天井には陣羽織と同じ紋様が刷り込まれ、壁のポスターは画鋲ではなくクナイを四隅に突き立て、留めてある。
しかしながら、前時代的な道具ばかりが置かれているわけではない。床の大部分には柔らかいマットが敷き詰められており、同じ材質のクッション材は壁にも当てられていた。
部屋の隅にはダンベルや跳び縄といったトレーニング用品が雑然と転がり、ベンチプレスに必要な大型の器材も据えられていた。骨太な
その上、部屋の片隅に置かれているガラスケースには
八雲家の父娘は修行場に小さなテーブルを置き、そこでノートパソコンの液晶画面を仲良く覗き込んでいた次第である。
「何しろ忍者は隠密作戦も得意だからよ! ギャング団の目をすり抜けてヒョイヒョイ散歩するのだって朝飯前だぜェ~」
「あれだけスポットライトをガンガン浴びておいて隠密もクソもないと思うけどねぇ……」
ひょっとすると鋼鉄よりも硬いのではないかと思える力こぶを眺めている内、素人相手に
『
ここに添えられた『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英文は日本語に直訳すると『総合格闘技』という意味合いになるのだが、それこそが忍者を称する八雲岳が存分に力を発揮し得る〝世界〟なのだろうか。ポスターの中にて構えを取る彼も同じロゴマークが刷り込まれた
「未稲は食器とかの買い出しを頼むぜ。家族が一人増えただけでも色んなモンが足りなくなってくらァ――ってか、何だか遠足前の準備みてェでワクワクしてくるなァ!」
年頃の少女は父親から小さな子どものように扱われると、どんなに些細なことでも顔を真っ赤にして怒り出すものだが、未稲の場合は全くの無抵抗である。さりとて頭を撫でられることを特別に好んでいるわけではない。自堕落の極みというべきか、身なりに無頓着なだけであった。
ただでさえ見苦しい状態だったというのに手加減もない岳の
自宅の中という油断からか、横着してズボンの類いすら穿いておらず、身じろぎの
「……名前は何て言うんだっけ? お父さんの友達の子だから日系人とは思うけど、国籍は向こうなんだし、やっぱりインカ帝国っぽい名前なの?」
「これから一つ屋根の下で一緒に暮らす新しい家族の名前くらいちゃんと憶えとけって。キリサメ・アマカザリ――それがヤツの名前だよ」
「アマカザリさん、ね……」
「何で苗字なんだよ! 下の名前で呼んだれっつ~の!」
「……別に同居人ってだけでアカの他人だし……」
面識のない相手にまで馴れ馴れしい態度を取るのが父の悪い癖だと心の中で吐き捨てた未稲は、「……キリサメ・アマカザリ」と、教わった名前を小さく繰り返した。
同い年の少年が、この家にやって来る――その意味を改めて考え、己の身なりを確かめた未稲は、さすがに恥ずかしくなった。
他人と一緒に暮らすことには慣れているつもりだが、それも数年前のこと。人の出入りが殆どなくなってからは衣服の選択すら怠けるようになっていたのだが、これから先は同じようにはいかないだろう。ここまでだらしない姿を他人に
念の為にペルーの公用語を勉強しておくように言い付けられたものの、初心者向けの語学書を開いただけでも嫌気が差してしまい、一向に捗っていなかった。それどころか、全てを放り出してネットゲームの世界へ逃げ込んだくらいである。
父親も父親で随分と前から語学教室に通っているが、未だに日常会話もおぼつかない有り様だ。キリサメ・アマカザリは両親とも日本人だと聞いている。円滑な意思疎通の為にも日本語が通じることを祈るばかりだった。
(あとはご飯かぁ……醤油の味、平気な人かな。
一家の食事を引き受けている未稲にとって、日系ペルー人の口に合うものを提供できるか否かは難題である。インターネットで調べた限り、ペルー国内にタブーとされる食材はなさそうだが、
考えれば考えるほど悩みが増え、気が滅入っていく。ペルー人の知り合いに心当たりなどないから誰にも相談しようがなく、対策の一つも満足に立てられないのだ。
地球の裏側――口にすれば一言だが、未稲には異世界のように思えてならなかった。
「――ってコトは、アレかな? アマカザリさんからすれば日本は異世界気分? 見たことも聞いたこともない文化に混乱するトコロが
「お前の場合、ゴブリンと見なされて退治されるんじゃね~か? そーゆー小汚い
「時代劇コスプレ全開のお父さんにだけは恰好のコトを言われたくないよっ!」
『ベテルギウス・ドットコム』の有薗思穂が
このときの二人にとって地球の裏側に位置するペルー共和国は、同地の〝闇〟に於いて禍々しい『
その一方で
〝初陣〟を見届けるべく遠く離れた土地へと向かう新幹線に飛び乗ったのだが、それは熱病に浮かされた末の暴走にも近く、無分別な衝動へ何の疑いもなく身を委ねてしまったことに自分自身で驚いたほどである。
何しろ自覚症状を明確に持っているほどの旅嫌いなのだ。
基本的には一人暮らしをしている東京と山梨の往復だけで事足りるのだ。それ以外の遠出など望んでもいない。だからこそ、〝何か〟がおかしくなってしまったのではないかと己の身に起こった異変が不安で堪らなかったのである。これではキリサメという少年に思考回路を書き換えられているようなものではないか。
(……けれども、キリサメさんの
生まれて初めて湧き起こる不思議な想いを旅行鞄と共に抱えた神通は、二〇一四年八月一三日――盆入りの頃に特急列車へと乗り込んだ。
大学は既に夏期休業へ入っているが、アルバイト先が飲食店である為、つい数日前まで帰郷の予定を立てられずにいた。学生のみならず社会人も
故郷に帰りを待つ身内もいない神通は、むしろ繁忙期とされる日程全てに出勤する心づもりだった。それにも関わらず、山梨行きの列車に揺られることになったのは、彼女の抱えた事情を知るオーナーの計らいである。
父と若い頃に拳を交えたことがあるというオーナーから自分の分も墓参りして欲しいと託されてしまったのだ。雇い主直々の依頼を断るわけにもいかず、同僚に対して申し訳ないと思いながらも仕事を休むしかなかった。
勿論、神通当人もオーナーの配慮をありがた迷惑とは思っていない。
彼は神通の複雑な家庭事情を承知しており、それ故に何かと気を
(浮ついた気持ちを引き締めるのにこの風景は相応しいと思いましたが、……全然、そんなことはありませんね……)
甲州市内の山間部に穿たれた新大日影トンネルを抜けると、特急列車の車窓からは壮麗なる甲府盆地を一望することができる。太古の昔には湖であったとも伝えられる肥沃な大地を取り囲むのは、乱世には天然の要害としても用いられた山々だ
生まれ育ったこの土地を神通が離れたのは、およそ一年前のことである。用事がある度に戻っている上、郷愁に浸るような年齢でもないのだが、視界に入った風景の全てが不思議な感慨を湧き立たせるのだ。遠くに望む富士山でさえ、何故だか別のモノのように思えてくるのだった。
さんざん見慣れたはずの景色に新たな
「……心ここにあらずといった調子だな、神通? 何か気掛かりでもあるのか?」
「な、何でもありませんよ、
新宿駅で合流し、一緒に特急列車へ乗り込んだ男性から訝しむような視線を向けられた神通は大仰ともいえるくらい
狼狽といっても過言でない神通の様子を隣の席にて窺う男性は不審の二字を顔面に貼り付けていたが、間もなく一つの仮説へ辿り着いたらしく、「成る程」と小さく呟きながら首を頷かせた。
「悩みの種はカラーギャングとかいう連中か? お前の
「そ、その話、一体、どこから……」
「
男性が触れたのは中野を根城としているカラーギャングと『
関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団――『
最終的には直接対決で決着をつけたのだが、背後に控える指定暴力団まで敵に回すことは『
その大親分こそが『
『
和解成立後にもカラーギャング内部では『
カラーギャング側には面目を潰されたという恨みを残してしまったものの、一先ず抗争は終わったのだ――が、解決に当たって神通が助力を求めた相手とは隣席の男性も親しく交わっていたのである。
無意味に心配させてもいけないので『
「敢えて
「肝に銘じておきます。……
「
近頃、カラーギャングとは別の問題が『
少しばかり古風な言葉を使う隣席の男性を神通は「
兄妹といっても血の繋がりがないことは明白だ。襟足の部分で
妻帯者である義兄も東京で暮らしているが、大学とアルバイトが忙しかったこともあり、神通にとっては数ヶ月ぶりの再会だった。そして、少し顔を見ない間に妹の纏う雰囲気が変わったと思えたからこそ、セシルのほうも俄かに怪訝そうな表情を浮かべたのである。
人の事情を
新宿駅を
兄妹とも墓参りが終わり次第、東京へ戻るつもりではあるものの、セシルのほうは
「お前は勤め先のオーナーから、俺は家族から父様の供養を託されたわけだ。……自分の親を褒めるのは照れ臭いものだが、毎度、人徳には感心させられるよ」
そういって微笑む義兄に神通も強く頷き返した。
背広とパンツスーツの違いはあれども、揃って黒を基調とした服装に身を包んだ兄妹は、どちらも空き家同然の自宅へ立ち寄るつもりがなかった。コンクリートジャングルに疲れた心身を母なる田園風景で癒そうとも思っていない。
バス停から足早に向かい、菩提寺の山門を潜る頃には太陽が
「お
兄妹が振り返った先には右手で花束を担ぐ痩身の男が立っていた。
五〇代半ばくらいだろうか。ノーネクタイのワイシャツからスラックス、左手に引っ掛けた背広や革靴に至るまで全身黒ずくめである。サスペンダーすら真っ黒なのだから、本人なりに強いこだわりがあるのだろう。この裁判官のような出で立ちは枯れた風情にも良く馴染んでいた。
その一方で、頬骨が浮き出るほど痩せた頬から顎に掛けて蓄えられた豊かな髭や、緩やかに波打った髪のあちこちには白いものが目立っている。
「……
「総一郎さん……」
「それにしても、これはどうしたことじゃ、セシル? 妻子が
「心臓に悪い冗談はやめてください。仮にそんなことになったら、仲人を務めて下さった総一郎さんへ真っ先に報せますよ」
鐘楼堂の脇を抜けた先に広がっている墓地の片隅に哀川家の墓は
墓誌に刻まれた俗名は
「……お主ほどの果報者はそうはおらんぞ、トシ。物言わぬ骨になった後まで師匠に可愛がられておるのじゃからな。羨ましいくらいじゃわい」
石塔の正面に立て掛ける形で置かれた一冊の書籍を見つけた総一郎は何とも例えようのない微笑を口元に浮かべながら、かつては毎日のように用いていた愛称を静かに呟いた。
勿論、「総一郎」と呼び掛けに応じる声はない。いつだって身近で聞いていたその声は、今や記憶の水底へと沈み、少しずつ、けれども確実に忘却の砂に埋もれつつある。
歳月という名の残酷な〝事実〟を未だに受け止められないのか、書籍から石塔に移された瞳は、ここではないどこか遠くを見つめているようであった。
総一郎が発見したのは、いわゆる歴史書である。新進気鋭の歴史家として山梨県内ではそれなりに名前が知られていた兄妹の父――
墓前に捧げられているのは、鎌倉時代末期から
父の恩師は自分たちよりも少し早く
「……中世武家社会の訴訟を取り上げた書物でしたね、確か。今も父様が生きていたら、きっと共著に名前が載っておったでしょうに……」
「あやつの遺した成果は師が引き継いだからのぉ。……こんなものは恩返しにならぬと、あの御仁は嘆いておられたがな……」
セシルと総一郎は共に甲府駅前で買い求めた花を飾ろうとしたが、これが相当な難題であった。花立ては既に隙間が殆ど埋められた状態だったのだ。恩師の他にも何人かが
「この花は
「おお、
「……墓の掃除も俺たちがやらなくてはならんのですがね。頼りきりになってしまって、日下部さんには申し訳ないくらいです」
「あやつにとってはトシと語らう為の大切な
セシルと総一郎が口にした『
『
対するセシルは古武術に於ける伝統と格式を引き継ぐことに尽力していた。洋の東西を問わず、中世に用いられた鎧兜を再現し、これを纏って実戦さながらの激しい試合を行う『アーマードバトル』なる競技の普及に力を注いでいるのだ。
彼自身も極めて優れた選手であり、武器術と体術を複合した『
哀川家の兄と妹は、二本の異なる道にて古き武術を継承しているのだった。
「そういえば、奥方様は一緒ではなかったのですか? 人のことを三下り半とからかっておいて、その実、自分のほうこそ
「準備万端整って、いざ出発というタイミングで本庁から呼び出しがあっての。科捜研の非番は休日ではなく待機時間でしかないというわけじゃよ」
「総一郎さんと大違いですね。そちらはこうして休み放題なのに」
「開業医を舐めるでないわァっ!」
セシルは父の盟友よりも一回り以上、年齢が離れているのだが、二〇年にも及ぶ長い付き合いを経て肩肘張らずに付き合える関係となったのだろう。目下の人間を相手に軽口の応酬を交わす総一郎は不敬に腹を立てるどころか、どこか楽しそうでもある。
二人の様子を微笑ましく見守りながらマッチを擦り、線香に火を付けていた神通は、ふと視線を巡らせた石灯籠の陰に珍妙な品を見つけた。
無造作に放置されていたのは木彫りの阿修羅像であった。手のひらに乗せられるほどの大きさであるそれは削り方が雑で不格好ではあるものの、汚れの一つもなく、陽の光を跳ね返すくらい丹念に磨き上げられていた。おそらくは完成したばかりなのだろう。
「……
父の墓前へ手作りの阿修羅像を供えていったのは誰か、神通はすぐに見当が付いた。
藪総一郎と同じように一〇代の頃から父と関わってきた人間だが、盟友というよりは腐れ縁と表すのが似つかわしいと色々な人間から聞かされている。
その男は幕末の京都を駆け抜けた『狼』たちと同じ剣を
剣と心が一体化しているような男だけに刃物を握っていないと落ち着かないらしく、荒ぶる精神を鎮める為に木彫り細工に凝っていたのだ。空き家同然の自宅の居間では彼が拵えた人形が幾つも埃を被っている。神通自身、何年か前に誕生日の祝いとして不動明王像を贈られたことがあった。
自分や義兄のように彼もまた
父にとって掛けがえのない相手がわざわざ足を運んでくれたことが神通には嬉しくて仕方なかった。
生前に
「これからもっと賑やかになるだろうよ。父様の周りには何時でも……何時だって人の輪ができておったからな……」
父は――
(……もしかして、あの人も――)
父の墓を飾る花に我知らず
そもそも、あの人は
兄妹の脇を一組の家族が通り抜けていったが、あのように一家揃って出掛ける機会は父が亡くなる数年前には永遠に失われていたのである。
家紋入りの提灯を元気よく掲げて先祖の
俯き加減となってしまった彼女の鼻孔を
程なくして彼は葉巻を口に銜えたが、紫煙を満喫するわけでもなく、これを香炉の上に捧げた。
それ故に総一郎は、毎年、一本の葉巻を供えていた。生前の盟友が毎日のように感じていた
胸の内に秘めた想いを総一郎自身が語ることはなかったものの、余人には決して解き明かせない情感が瞳に宿っているのだ。
「……そういえば、この間、トシと〝同じ目〟の少年を
一筋の紫煙の向こうに黒御影の墓石をぼんやりと眺めていた総一郎は、ふと想い出したかのように奇妙なことを呟いた。
「見た? 父様のドッペルゲンガーでも目撃したという話ではないでしょうね?」
言葉の意味を掴み兼ねたセシルに対して総一郎は「診察のほうじゃ」と解説した。
「ちと怪我の具合を診たのじゃよ。その坊やの
「いや、知らんですね。家内なら分かるかもですが、俺はテレビも殆ど観ないので……」
「キ、キリサメさん、おじさまの病院に行ってるんですかっ⁉」
総一郎が何気なく話した内容に双眸を見開いた神通は、その驚愕を
警視庁科学捜査研究所勤務の妻を持つ藪総一郎は、東京の下町で小さな診療所を開いている。看板へ掲げるには不吉な名字であることから「自分は生まれ付いての藪医者」などと称しているのだが、物騒極まりない冗談とは裏腹に腕は確かであり、
つまり、キリサメ・アマカザリは自分と同じ病院に通っていたわけである。
「なんじゃあ、神通君、キリサメ・アマカザリと親しかったのか?」
「は、はい。まだ知り合って間もないのですけれど……」
総一郎のほうも目を丸くして驚いたが、キリサメとの親交を聞かされた後は何とも例えようのない複雑な面持ちで顎鬚を撫でた。深い皺が刻まれた口元も微かに歪ませている。
「世間は狭いというが、何とも因果な話よの。トシと――父親と〝同じ目〟をした
「……その
半年ばかりの間に纏う雰囲気が変わった理由に思い至ったのか、セシルは身を乗り出さんばかりの勢いで神通の顔を覗き込んだ。
いつまでも小さな妹と思っていたのだが、彼女も今年で一九歳。年頃なのだから恋人が居てもおかしくない――と考えて心の動揺を落ち着けようとする
「……恋とは違う気がしますよ、これは」
一九年の人生で初恋すら経験していない神通にはセシルの心配が完全には理解しきれなかったものの、大して色気のあることではないと自分自身では考えていた。
しかし、それが男女の慕情に通じるとは神通自身には思えなかった。酷薄な光を宿した冷たい瞳も、敵を殺傷することに特化した
公表されたプロフィールによれば、キリサメが
「この胸の鼓動は『
神通が身を置く
昨日よりも今日よりも、明日の自分は強く
誰よりも強くなりたいという意志が群れを成している為、試合自体も過激化することが多く、場合によっては安全確保に欠かせないはずのグローブすら外すくらいだった。
興行を打つ
そのように危険な
ところが、ペルーの
無分別なチンピラは平気で急所を狙うものだが、それで死者が出るとしても「当たり所が悪くて命を落とした」という偶発的な事故に過ぎない。対してキリサメの場合は間違いなく死に至らしめるだろう攻撃を仕掛けたのである。
〝安全な競技〟と信じて疑わなかった観客たちはキリサメの
「うっとりしました、正直。キリサメさんは人を殺せる本物だったのですからっ」
「うっかり口を滑らせたと見えるが、死者が
義兄が肩を竦めてしまうほど妹の声は上擦っている。
遠い地での〝初陣〟より三ヶ月ほど前、神通と同じ
明治時代に世界中で異種格闘技戦を繰り広げた伝説的な柔道家――
「……トシが今も生きておったなら、キリサメ君を見て同じことを言うたであろうな」
胸に抱いた想いは色恋とは別物だろうという自己分析を『
「神通君とキリサメ・アマカザリが巡り逢ったのは必然かも知れぬ。……
総一郎の見立てに神通は何度も首を頷かせ、隣に立つセシルは無言で双眸を
言葉もなく佇んでいると海外からの旅行者にしか見えない神通の義兄は、その
それが『アーマードバトル』と称される〝競技〟だった。
近年では日本にも競技団体が設立され、戦国武将が用いた鎧兜を再現する選手も少なくない。セシルもまた『アーマードバトル』を国内で広めようと活動する一人なのだ。
東洋の武士が編み出した古武術を西洋の騎士に倣う競技で生かせるよう最適化させるなど、『
『
反対に神通が主戦場として選んだ
そうしたこともあってセシルはアーマードバトルへの参加を神通に勧めていた。妹を自分の〝道〟に引きずり込もうというわけではないのだが、武器の使用が許された〝場〟でしか得られない手掛かりも多く、必ずや『
アーマードバトルには女性選手も多い。
『天翔ける鶴』といった意味合いの名前だったと記憶しているが、北欧最強と名高い女騎士は神通に目が覚めるような刺激を与えてくれるだろうと確信している。尤も、神通当人は一向に誘いに乗らず、また義兄としても無理強いはできない為、思い描いた対戦が実現する確率は
『戦いの申し子』とまで畏敬された
「……俺が気に掛かるのは『
妹思いのセシルは二人からの伝聞に基づいてキリサメ・アマカザリという少年の横顔を真剣に想像していたが、その眉間には先程とは異なる意味合いの皺が寄っている。
「アマカザリなる少年も、……心が壊れておるのではないですか?」
難しい
そして、セシルが精神の
「……話を聞く限り、その少年は父様に似ていると思う。だが、己の命を軽んじる反動で破壊の衝動に呑み込まれておるとすれば、それは何よりも危うい」
「
「別にアマカザリとやらを否定するつもりはない。俺たちの同類項だとも分かる。それだけに不安も尽きないのだ。……お前の友人なのだから尚更にな」
キリサメ・アマカザリと同じように瞼を半ばまで落とし、眠れる獅子とも
生まれ落ちた瞬間から古武術宗家の血統という
神経を擦り減らすような日々の中で巡り逢った一握の幸せは〝鞘〟となり、荒ぶる魂をここに
しかし、
自立して家を出ていた義兄に代わり、神通は父が崩壊していく一部始終を見届けていた。一方的で残酷な書き置きを残して母が行方をくらました日、父の双眸は半ばまで落ちた。その瞬間から何もかもが変わってしまったのである。
道場で熱心に稽古を付ける姿や、平日は駆け出しの歴史家として忙しく働く姿しか知らないが、それでも愛想を尽かされるような真似だけはしていなかったと娘の目には映っている。家庭を大事にする良き父であり、妻の〝趣味〟にも理解のある良き夫だった。
心の軸が折られた
だからこそ、
ならば、キリサメ・アマカザリも同じなのだろうか。父のように大切な〝何か〟を喪失したが為に眠れる獅子とも
一つの〝事実〟としてキリサメの瞳はひたすらに無感情であった。己の人生に何も求めなくなった顔は
キリサメ・アマカザリと
「キリサメ・アマカザリを想うのであれば決して手を離すでないぞ、神通君。あの少年、強い風でも吹けば飛んでいってしまいそうじゃ。……もはや、儂も彼に関わってしもうたからの。愛を失って壊れる者を二度とは見とうはない」
「……愛――ですか」
「左様。ヒトという生き物は、所詮、愛を失くしては生きてはゆけぬのじゃ。阿修羅の如く
「妹が色恋関係ないと否定しておるのだから、わざわざ非行の道に引きずり込むような真似はせんでくださいよ、総一郎さん」
「何が非行じゃ。シスコンは黙っとれい」
歯の浮くような台詞を次々と並べ立てる総一郎だったが、愛という名の幸せを
だからこそ、義兄は気が気でないのである。下世話な男から焚き付けられて妙な方向に張り切られてしまうのではないかと、考えただけでも肝が冷えていくのだ。神通当人が
「――誰のことも
両掌を合わせて瞑目したとき、父が遺していった言葉が神通の脳裏へと甦った。
血まみれの身体を横たえながら娘の顔を見上げ、決して怨むなと告げたのだが、自分に引導を渡した相手を責めるなと言いたかったのだろうか。
『
総一郎と共に果たし合いを見届けた神通は、一般の門下生には秘匿されている禁忌の技まで解き放ち、まさしく猛き獅子と化して暴れ狂った父が生きる喜びに打ち震えていたと感じたのである。
父娘の間柄ではなく一人の武術家として羨ましいとさえ思った。数百年もの月日の中で磨かれてきた『
戦いの末の落命は神通にとっては当然の帰結であり、
『
そもそも、『アップルシード』と名乗った男は『
どの刑務所に収監されたのかも神通の耳には入ってこなかったが、父との一戦を人生の汚点のように考えないで欲しいと願わずにはいられなかった。
(……父様――やっぱり、わたしにもあなたと同じ野性の血が流れているようです)
総一郎とセシルの間に挟まれるような形で墓前に立ち、瞑目と共に合掌した神通は心の中で亡き父に語り掛けた。
ペルーより舞い降りた新進気鋭のMMA選手、キリサメ・アマカザリ――戦うことしか知らず、死と隣り合わせにならなければ命を繋ぐ糧も得られなかった少年との想い出を、一つひとつ、ゆっくりと紐解いていった。
(正真正銘の命の遣り取りを何度も潜り抜けてきたのだと思います。あの人が漂わせる血の臭いに惹き付けられてなりませんが、おじさまの言うように恋なのでしょうか……?)
心の中で父に問い掛けながらも、神通には恋というものが分からない。それどころか、分かりたいとも思わない。
「……今まで……すまなかった――」
最も〝生〟を噛み締めていた
最期の戦いを通じて救われたはずだったのに、息を引き取ろうという
果てしなき〝闇〟に
肉体から魂が抜け出すそのときまで苦しみ抜くのが恋だとするならば、やはり、神通には理解できそうもなかった。
自分だけが
(……ううん、人並みの幸せなんてもの、関係ありませんね。どんな理屈を付けたって、キリサメさんへの想いを止められそうにないのですから……)
恋だの愛だのと名前を付けることはできなかったが、それでもキリサメ・アマカザリに感じた魂の共鳴だけは受け
(……暴力がすぐ隣に
父と同じ眠れる獅子の目を持った少年は『
他の誰でもない神通自身が武術家として
闘いの本質が命の遣り取りであることをキリサメは現代格闘技界に示した――彼の初陣を振り返った神通は、身の
亡き父の横顔に刻まれていた一筋の傷痕を我知らず追憶したのだろうか、彼女は右の人差し指でもって己の左頬を撫でている。この世に生まれた瞬間より慣れ親しんできた血の色の
(父様にとってのアップルシード・ミトセと同じように、キリサメさんもわたしにとってただ一人の――)
紫煙が立ち上っていく
「――『
(本編に続く)
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