ショートショート集~SNSの企画とも連動し、本編では描ききれなかった「小さな風景」をお届けします!

特別編(1)幼獣~或る『昭和』の闇にて

「がっこうにいきたくてもいけないこどもだっているのになにやってんだろうな」


 通りを挟んだ向かい側で巻き起こる大変な喧騒を路地裏から眺めていた男の子は、年格好に似つかわしくない皮肉を洩らした。

 小学校低学年くらいだろうか。

 彼のことを例えるのに最も相応しい言葉は″眠れる獅子″であろう。

 瞼が半ばまで閉じた両目は生気がなく、底なしの闇かと思えるほどくらい。癖が強い髪の毛も百獣の王の如くうねっているのだ。

 この世に何も求めていない瞳が目の前の喧騒を暴力の応酬と認めるには、入り交じる怒号と盾を翳した機動隊の姿だけでも十分である。

 彼がもう少し世の中について識っていたら、機動隊に立ち向かっていく若者たちの想いも受け止めることができたであろう。

 しかし、男の子は哀しいほど幼かった。

 今年の一月に日本最高学府の講堂で発生した同様の喧騒も間近で眺めたが、そのときにも先ほどと同じ呟きを溢したのである。

 だが、その幼い言葉にも真理はあるだろう。学校に通っていなくてはならない年格好の男の子は、火炎瓶を片手に「学校という支配から解放を」と叫ぶ群衆をくらい瞳で仰いでいる。

 己を肉弾と換えて機動隊とぶつかり合うのは将来、この国を担う学生なのだ。

 今、彼らは理想に殉じても構わないというほど強烈な衝動に浮かされている。それは火炎瓶あるい鈍器という形で荒れ狂い、講堂の入り口をバリケードで封鎖し、一つの『砦』として闘争の拠点にしていた。

 純粋に世界の未来を憂う若者たちは泥沼化著しいベトナム戦争の即時終結まで訴えていた。

 尤も、男の子はこうした叫びに耳を傾けないよう言いつけられている。それに今、必要な情報は彼らの志などではない。

 彼らの『砦』内部まで入り込める経路なのだ。正面玄関はバリケードで何重にも固められており、警護にも相当な人数が回されている。

 正面突破を図れば、前途ある若者たちの屍が折り重なることだろう。短慮は控えるよう釘を刺されている以上、別のところから忍び込むしかあるまい。


「お前、さっきから何してるんだ? 俺たちの様子を覗き見しているだろう!」


 殺気だった声が背中を突き刺しても男の子は少しも驚かなかった。

 自分に近寄ってくる殺意の塊にはとっくに気付いていたのだ。

 おもむろに振り返ってみると、予想通り、機動隊と乱戦を演じる若者たちと同じ出で立ちの男が立っていた。

 頭にはヘルメットを被り、両手に理想を殴り書きしたプラカードを握り締めている。

 身の内から湧き起こる衝動の操り人形ということは真っ赤に血走った眼が明らかにしていた。

 プラカードには「俺たちは奴隷じゃない」と心の叫びが書き殴られている。


「他の学校でもお前くらいの子どもが乱入して我々を妨害したと聞く。……お前は何者だ? 背後に甲龍会がいるというのは本当か!?」

「おまえにはなすことなんかねぇ」


 最高学府へ通うだけあって背後から忍び寄ってきた若者は聡く、説明や″索敵″の手間も省けて男の子には一石二鳥である。

 こうした喧騒を取り鎮める為、革命を訴える青年が名を口にした組織から差し向けられてきたのだ。


「一緒に来てもらうぞ! 理想は誰にも穢させなーー」


 プラカードを片手に持ち替えた青年は、子どもの身を右の五指にて掴もうとしたが、それよりも己の右手首がへし折れるほうが早かった。

 男の子の小さな指が手首に振れた瞬間、何かが破断する音を引きずりながら天地がひっくり返った次第である。


「かんがえなしにてをだすバカがいるかよ。だいがくでなにをべんきょうしてんだ」


 悲鳴を上げてのたうち回る姿は痛みに耐えるすべも知らない子どもだった。

 理想を貫く為の闘争に身を投じているとはいえ、講堂を寄る辺としなくては起つことも難しい子どもだらけだけなのだ。

 そのような『子ども』をしつけようと『大人』たちも本腰を入れ始めたということである。

 今年の一月まで最強の『砦』と化していた日本最高学府の講堂も『大人』たちの手によって既に解き放たれているのだ。

 尤も、『子ども』の躾の為に差し向けられた刺客もまた『子ども』という事実は″皮肉″と例えるべきか、″悲劇″と嘆くべきか。


「おれをあのなかまであんないしろ。いうことをきけばいのちだけはたすけてやる」


 冷たい地面を転げ回る青年の顎を踏みつけ、その場に押し止めた男の子は感情も生気も認められない「眠れる獅子」の瞳で内部へ侵入する術を質した。

 敢えて力を込めて顎の骨を軋ませたのは、断った場合に待ち受ける末路を想像させる為だ。

 大学で何を学んでいるのかと、私憤めいたことが口からつい飛び出してしまったが、任務に個人の感情を挟んではならないと常々言い付けられているのだ。


「がっこうにいきたくてもいけないこどもだっているのになにやってんだろうな」


 己の思考など差し挟まず、″いつも″のように与えられた任務をこなすのみである。

 彼が為すべきことと言い渡されたのはただ一つ。『大人』相手に迷惑を掛けた『駄々っ子』の制圧だ。

 言うことを聞かない『子ども』はまず殴って聞き分けを良くする――日々に追われて時間のない『大人』たちが如何にも考えそうなことだと、男の子は昏(くら)い目で呟いた。

 『大人』の思いつき一つで何もかもが壊されるという意味にいて自分は制圧の対象である『子ども』たちと変わらない。


(おれなんかといっしょにしたら、いくらなんでもしつれいかもな)


 己を取り巻くモノの在り方を疑い、このままで良いはずがないと起ち、何かを変えたいともがき、手段はともかく『大人』たちに抗う彼らのほうが遥かに上等だろう。

 実行に移すだけの意志の力は高潔とさえ感じられた。

 しかし、それは理屈で割り切ることであって、憐憫を寄せるものでもなかった。足裏で踏みつけにしている青年にも仏心ほとけごころは加えない。

 自覚の有無に関わらず、この『駄々っ子』たちは今、戦いの場に身を置いているのだ。奇しくも声高に反対を唱えるベトナム戦争と同じ命懸けの世界に立ったということである。

 戦いの場にいては、理想も哲学も、力強き者だけにしか貫き通すことは許されていない。

 弱き者は信念もろとも咬み砕かれるのみ――この残酷な掟の上にのみ″戦い″は起こる。

 そして、獅子の牙を剥くことに己の存在意義があると自覚できないほど男の子は幼くなかった。

 己の身が持つ獅子の牙などは暴力の世界でしか役に立たず、その為だけに郷愁きのうを棄てて長らえたのだから。


「はなしたくねぇならいいけどよ。てめぇはここでおわりだぜ。……それが″いくさば″なんだからよ」


 小さな獅子は強情を張る青年の顎を砕き、鼻を蹴り壊し、子どもとは思えない力で肋骨を踏み潰したのち、左頬に走る一筋の傷を右の人差し指でもって撫でた。

 薄暗い路地裏にあっても鮮明に判るほど血の色が濃い傷は、まだ新しい。

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