特別編(2)残り香一輪~文禄三年の伊達政宗

 残り香一輪



 室町幕府にいて絶大なる権勢を誇った名門の一族であり、戦国大名としての独立を経て関東に覇を唱えたほうじょうそううん――史料に残る名はそうずい――が相模さがみに礎を築いた〝ほうじょう家〟は、難攻不落と天下に名高いわら城に加え、卓抜した内政手腕と軍事力を発揮してえちうえすぎけんしんたけしんげんなど後世に災害ともたとえられる猛将の侵攻をことごとく撥ね退けてきた。

 早雲から数えて四代目に当たるうじまさの頃には『ほんのうの変』によって支配者のいない空白地帯と化した関東甲信の織田領を巡る『てんしょうじんの乱』をも戦い抜き、〝ほうじょう〟歴代最大まで版図を拡げている。

 名実とも東国に君臨し続けてきた〝ほうじょう家〟であったが、全国の武家を束ねて〝てんいっとう〟に王手を掛けたかんぱくだいじょうだいじんとよとみのひでよしによる『小田原攻め』でてんしょう一八年(一五九〇年)に滅亡の憂き目を味わうことになる。

 しかし、この征伐たたかいけるとよとみのひでよしの標的は〝ほうじょう家〟のみではない。九州から東国至るまでのだいしょうみょうを編制し、関東に空前絶後の大軍勢を差し向けることでほうの権威を奥羽に突き付けるという〝最後通牒〟も戦略の中に織り込んでいたのである。

 徳川家康などが切り崩し工作を図ってはいたものの、小田原城の包囲が完成した時点では東北諸将の殆どがほうに臣従していなかった。奥羽に武名を轟かせた〝北のどくがんりゅう〟こと伊達だてまさむねに至っては〝ほうじょう家〟と同盟を結び、秀吉の首級くびを討つ好機を窺っていた。征伐たたかいの趨勢によっては相模がほうと関東・東北軍の決戦場となる可能性もあったのだ。

 武力衝突よりも戦わずして敵をくだす鬼謀に長けていたとよとみのひでよしは相模の〝本丸〟たる小田原城を取り囲んだままえて長対陣を続け、その間に〝ほうじょう家〟の勇将たちが守る諸城を徐々に陥落させていったのである。

 それは相模の守りを一枚一枚引き剥がしていくことにも等しく、籠城戦を取る五代当主のうじなおにとっては真綿で首を締められるような状況であった。

 結果的に〝ほうじょう家〟の幕引きを担うことになった男も東日本を一息に平らげんとするとよとみのひでよしの構想にいてはいけにえの一つに過ぎなかったのかも知れない。

 小田原の〝本丸〟を中央に頂くようにして関東各地に散らばった無数の城を同時並行で攻めくだすことなどだいだいみょうによる軍勢をもってしても不可能であり、戦国最強と畏怖された武田信玄・上杉謙信の両雄でさえついに小田原城を陥落おとせなかったのである。

 その不可能を可能にしてしまえる兵力を秀吉は号令一つで全国から動員できる――この圧倒的な〝現実〟を間近で見せつけられた東北諸将はほうに抗っても勝ち目はないと認めざるを得ず、我先に小田原の陣中へと駆け付けて臣従を誓ったのである。事実上の降伏であった。

 あいばんだいさん南麓の裾野に広がるすりあげはらにて不倶戴天の宿敵を撃ち破り、奥羽の〝筆頭〟が如く名乗りを上げた政宗でさえ太刀打ちできるものではない。

 平安の昔より武勇を誇るばんどうしゃほうの本陣を挟み撃ちにする計画が破綻し、いよいよ進退窮まった政宗は〝ほうじょう家〟との同盟を破棄した上にしにしょうぞくでもってとよとみのひでよしこうべを垂れ、戦後に宇都宮城で下された裁定によって会津の領地こそ召し上げられたものの、斬首や御家断絶という最悪の事態は免れた。

 その一方で政宗のように上手く立ち回ることができず、小田原開城までに参陣が叶わなかった東北の国主も少なくない。そういった者たちは謝罪の機会も満足に与えられないまま領地から追い立てられたのである。

 これが奥州全土をしんかんさせる騒乱の発端であった。

 無慈悲且つ一方的な処断に激怒した武者たちは〝ほうじょう家〟の滅亡から三ヶ月と経たない内に豊臣政権へ反旗を翻し、東北の歴史に『西さいおおさきいっ』の呼称で刻まれることになる激烈な武力蜂起に至ったのだ。



 処断された葛西家・大崎家の旧臣が中心となって挙兵に及んだことから両家に由来する呼び名が当て嵌められたわけだが、この反乱劇の背後には伊達政宗の影が見え隠れしている。豊臣政権に不満を抱く者たちを言葉巧みに焚き付けたのである

 中心人物が立て続けに討たれたことで天正一九年(一五九一年)に終結したものの、一揆勢は『小田原攻め』よりも長く抗戦し続け、一時は新領主の親子を生け捕りにするほど優勢であった。

 伊達政宗の扇動が露見したのは一揆勢の挙兵から一ヶ月後のこと――葛西家・大崎家の旧臣を反乱に追い立て、彼らがとよとみのひでよしという巨人に踏み潰されたのち、両家の旧領を掠め取らんとする算段は本人の予想よりも遥かに早く、そして、呆気なく瓦解した。

 それは会津領が召し上げられたことに対する反撃である。綱渡りにも等しい策を講じ、奪われた分を取り返すという大博打に敗れた政宗は小田原参陣の折と同じく助命工作に奔走し、詮議とりしらべの場にいても頓智を働かせ、扇動の物的証拠として提示された一揆宛ての書状も自分を陥れる為の罠――偽物であると秀吉に認めさせてしまった。

 『西さいおおさきいっ』への加担を釈明するべく上洛し、ほうと渡り合ったのはおににわつなもとという伊達家重臣である。父のげつさいよしなおもまた政宗を支えた側近の一人であり、伊達家の命運が懸かったいくさ――ひととりばし合戦――でもののふの誉れと讃えるべき討死を果たしている。

 伊達家に殉じた父への誇りを胸に熱く燃やしていればこそ、綱元もてんびとを相手におくすることなく立ち向かえたのだ。

 その綱元が主君に対して憤慨を露にするとは余程のことであろう。

 文禄三年(一五九四年)が間もなく終わろうかという頃である。障子の向こうの中庭には大粒の雪が朝から降り続け、すずりの如く横たえられた一枚岩を白銀に彩っていた。

 この時期には秀吉も既に関白の職を甥のひでつぐに譲り、たいこうを称して伏見城に移り住んでいる。親族への世襲を通して〝五摂家〟にも並ぶ摂関の家格を天下万民に知らしめんとする政治工作であった。

 太閤のどうに従い、伊達家も伏見に屋敷を構えることとなった。政宗とその側近数名が政務を執り行う一室にて顔を突き合わせているわけだが、白鷺の羽根のように宵の空で舞い踊る雪を肴に酒を酌み交わさんという雰囲気ではない。そもそも政宗たちが障子を閉ざしているのは冷気を凌ぐ為ではないのだ。

 主従の間に垂れ込めるものとは思えない穏やかならざる気配が余人の耳に入れることを憚る会合あつまりであることを示していた。

 鬼の如く厳つい面構えの綱元を上座より見下ろす政宗は幼少の頃に光を失った右目に太刀の鍔で拵えた眼帯を宛がっている。

 〝独眼竜〟の異名を取る伊達政宗には誰もが眼帯を装着した姿を思い浮かべるのだが、それはおおやけの場に臨む為の支度であり、親族や家臣――心を許した人々の前では瞼が閉ざされた右目をそのまま晒しているのだ。

 それにも関わらず、今は鍔の眼帯で右目を覆っている。その出で立ちで正面に綱元の顔を捉えている。

 この意味すら理解できないようでは織田信長とは比べものにならない癇癪を持ったてんびととは渡り合えず、だからこそ綱元は偉大な父が命を捧げ、自らも同じ志を支えとして忠節を尽くしてきた主君を睨み返している。

 どうみょうおうぞうともたとえるべき有り様であった。


にわ殿、一先ず落ち着かれよ。かた様の戯れをいちいち真に受けておっては身がたぬこと、我らは痛いほど理解わかっておろう。愚痴ならばそれがしが幾らでも引き受け申す」

「片倉殿こそ落ち着かれませ。かた様への忠節が揺らいだこと、こんにちこのときまで一度もござらぬ。……ただの一度も。陰で主君を罵るなどもってのほか


 綱元の傍らに座し、主従の諍いにはさせまいと諫めているのは政宗の軍師とも懐刀とも畏敬される伊達家随一の知恵者――かたくらじゅうろうかげつなである。

 綱元を挟んで景綱と向かい合う位置には政宗の親類筋であり、一門衆の要たるしげざねが座している。彼はともがらのように何かを語ることもなく、口を真一文字に引き締めたまま虚空を睨み続けていた。如何にも無骨な佇まいは若年でありながらふる武士つわものの魂を体現あらわしている。

 両輪が如く文武の才をもってして伊達政宗という〝本陣〟を支える景綱と成実に対し、綱元は外交戦略を託されていた。『西さいおおさきいっ』の釈明に奔走して以来、その優れた頭脳と手腕をとよとみのひでよしから高く評価され、陪臣の身でありながらも囲碁の相手を務めるほど信頼を勝ち得ている。

 その綱元のことを政宗の軍師は『にわ』と呼んだ。

 ひのもと全土のだいしょうみょうたちがぜんのくにじょうに集められ、ここを拠点として海を渡り、大陸へと出兵していた折のことである。ほうとの交渉役を果たさなければならなかった綱元は〝内地〟――玄海の伊達じんを守っていたのだが、その際に「おおいくさなかに鬼が庭にいては縁起がよろしくない」という理由で秀吉から改姓を命じられてしまったのだ。

 先祖代々に亘って守り続け、また鬼神と化していくさに散った父・左月斎の勇猛を思えば『鬼』の一字を取り上げられることは無念の極みであったが、それでも綱元は主家の為に耐え忍んだ。

 しかし、ここから綱元の歯車が狂い始める。

 待遇如何によっては代々の主筋であろうとも情け容赦なく裏切り、血みどろの合戦に及ぶことも珍しくない乱世を生き抜いた秀吉は伊達家への忠義をどこまでも貫かんとするひたきさをますます気に入り、それが為に政宗は綱元の前で鍔の眼帯で外さなくなった。


「……らちもない」


 下座の綱元に対する政宗の一言が隙間風でも呼び込んだのか、部屋の四方に立てられた蝋燭が陽炎の如く揺らめいた。あるいは忠烈のさむらいこんにちまで支えてきた心がそのようにせたのかも知れない。


「左様、埒もござらぬ。かた様の虚言妄言などは昨日今日に始まったことではござるまい。にわ殿の真心をそれがしは常より敬ってござるが、些末なることまで御身に背負ってはおられまいかと案じてござった。それこそ要らぬ損と申すもの。重ねて申し上げるが、かた様の仰せはおよそ半分が埒もないと受け流されませ」

「……小十郎な、前々から薄々と勘付いておったがな、そなた、さては儂のことを好いてはおらんな。儂を目の前にしてこの言い草……酒盛りの肴は陰口ではあるまいな」

かた様が〝奥州のかた〟である以上、好むと好まざるとお支えすることこそ我が天命と心得てござる。御先代より賜りし大恩は今も我が身を慰めてくださりますれば」

「そなた、思っていた以上に儂のことが嫌いだな」


 真面目腐った調子で毒々しい言葉を連ねていく景綱を政宗の左目がじろりと睨んだ。

 伊達家随一の知恵者は張り詰めた空気を少しでも緩めるべく滑稽な芝居を演じたつもりかも知れないが、で和んでしまえるほど生易しい状況ならば四方の襖と障子全てが閉ざされることもあるまい。

 それが証拠に綱元の視線は上座の政宗を突き刺したまま微動だにしないのだ。他方の成実は噴き出しそうになるのを危うく堪え、咳払いでもって誤魔化した様子である。

 目にえない手で腋の下をくすぐられたのは一瞬であり、ついに口を開いた綱元が「仮にも〝奥州のかた〟がにょしょう一人にこだわるとは伊達家の先が見えた心持ち」と憤激を吐き出した瞬間、成実は苦悶にも近い面持ちで左右の瞼を閉ざしてしまった。


「かの『たいへい』を紐解いても明々白々でござろう。かまくらのばくを破りしにっちゅうじょうよしさだでさえだいごのみかどより遣わされたにょかんに天下無双の武運を吸い取られてござる。太刀でもって色欲をはらえなんだ新田の末路は奥羽の行く末に重きものを示しており申す」


 綱元が例に引いたのは南北朝の昔より語り継がれた悲話である。

 在京のなかに反旗を翻したあしかがたかうじ――この時点でのなまえである――に呼応あるいは事前に申し合わせて鎌倉の喉元で挙兵し、〝源氏将軍〟の昔から幕政を牛耳ってきた北条一門をとうしょうに滅ぼした新田義貞は、幕府転覆を主導した後醍醐帝から『こうとうのない』と称されるにょかんを与えられた。

 後醍醐帝の側近であるそん家の娘は絶世の美女であり、これを愛する余り義貞はいくさの勝機すら見誤るようになって大敗を重ね、挙げ句の果てには泥に塗れて首級くびを討たれるという無残な末路を辿った――そのように『太平記』は伝えている。

 一度は歴史を大きく動かした英雄とは思えぬ最期である。えてこれを語った綱元に対し、政宗は「我が正気を疑ったか」と乾いた声で上座よりただした。


「我が正気を疑っておられるのはかた様ではござらぬかっ」

にわ殿、お控えあれ」


 我知らず身を乗り出し、主君に対して強く問い返す〝鬼〟を脇から景綱が窘めた。

 分を弁えぬ無礼を働いたことは綱元自身にも理解わかっている。それでも彼は親子二代でつかえてきた主君にこうべを垂れようとはしなかった。そして、普段の綱元ならば口が過ぎたと感じた瞬間にはすぐさま詫びることをこの場の誰もが知っている。

 瞼を開いた成実は「ひたき」という言葉が直垂ひたたれを着て座しているかのような綱元をこの上なく頼もしそうに見つめた。

 確かに綱元の物言いは主従の一線をみ出していたが、〝鬼庭家〟の忠節を左月斎の頃より頼りとしてきた政宗だけに無礼の一言で斬り捨てることなどできようはずもない。

 天正一八年(一五九〇年)という一年間だけでも四ヶ月という僅かな間に伊達家は二度も〝ほうじょう家〟と全く同じ窮地に立たされている。己の首が胴と繋がっているのはこの場に座した側近たちの尽力があったればこそと政宗にも自覚わかっている。特に葛西家・大崎家の旧臣を新領主へ差し向けたことが露見した際には綱元なくして切り抜けられなかったであろう。

 〝あらぬ疑い〟を晴らすべく上洛した折には小田原参陣と同様に死装束に身を包み、覚悟の表れとして金箔で彩った十字のはりつけばしらまで担いでみたが、短期間で二度ということもあり、とよとみのひでよしの歓心を買おうにも大した効果は見込めなかったのである。

 てんびとから碁に誘われるほどほうの懐まで入り込んだ綱元の大手柄であった。

 綱元の視線を受け止めつつ様子を窺った成実は背筋を伸ばしたまま押し黙っており、自分のほうを一瞥もしない。無駄口を叩かない武辺者なので胸の内を探ることは難しいが、毒々しい言葉を吐きつつも伊達の〝本陣〟を離れまいと確信できる景綱とは異なって綱元にこそ気持ちを寄せているに違いない。

 『西さいおおさきいっ』への関与を隣国の将に感付かれたときには釈明が済むまでの間、身の潔白を証明する人質として差し出したのである。これもまた伊達一門衆の責務つとめと成実本人は納得した様子であったが、その胸中は計り知れなかった。


「太閤殿下に返上おかえしこそしたものの、かた様が誇り高きおうしゅうたんだいであったことは家臣領民に至るまで伊達家中の誰もが心得てござる。名実とも陸奥むつの要たるおんかたこんえのちゅうじょうと同じ過ちはさせまいとしたもん殿の忠義こそ無碍になされますな」


 冗談めかしていた先程とは打って変わり、綱元の名誉を守らんとする景綱の声は引き絞られたづるの如く張り詰めていた。「もん」と、互いの屋敷で酒を酌み交わすときに用いる呼び名が飛び出したのは当人にとっても不意のことであったはずだ。

 余人を交えないときに景綱が綱元を「兄上」と呼ぶことも政宗は知っている。父こそ違えども二人は兄弟なのだ。ともがらよりも遥かに情は深く、声を張って庇うのは当然だった。

 景綱から念を押すかのように諫められるまでもなく、政宗も下座にて全身を震わせている綱元が伊達家の興亡を心底より案じていることは疑っていない。身のうちにて煮え滾っているだろう憤激もまた忠節の表れである。

 秀吉という男は他家の陪臣であろうとも気に入った者は豊臣の直臣として引き抜こうとする悪癖がある。綱元にも誘惑の声が掛けられたものの、どこまでもひたきな好漢は約束された栄達を固辞してまで伊達家に留まったのである。

 それをまことの忠節と讃えることには政宗も躊躇ためらいはなかった。

 しかし、その一方で伊達家を守るべくして力を尽くす余り、茂庭綱元がほうに深入りし過ぎてしまったという事実を政宗は看過できない。鍔の眼帯にあらわれているのはまごうことなき猜疑の念である。

 出羽三山に掛かる夏雲のように人の心は変わり易く、ほんの些細なきっかけで移ろっていくことを〝北の独眼竜〟は厭というほど味わってきた。心を尽くせば尽くすほど、その想いが裏切られた瞬間に跳ね返ってくる激情の大きさを誰よりも知っている。

 それ故にひたきな忠節が陰ったときの恐ろしさこそ政宗は考えずにいられないのだ。

 駿河の名門・今川家の人質となっていた頃より徳川家康を支えてきた股肱の臣ですら秀吉に寝返ってしまったのだ。己が踏み越えてきた〝道〟を振り返れば、同じ事態は奥羽でも十分に起こり得るのである。

 政宗はその火種を上座より見下ろしている心地であった。蝋燭の火によって照らされた頬は陰影かげが深く、やつれた心をそのまま浮かび上がらせているようだ。


「しからば小十郎にたずねる。儂に残されたこの左目、この瞳にもえぬ不確かなるもの、如何にして明かしたてるのか。忠義の有りようを示す手立てとは如何に。とうろうあるいはげつならば槍働きをもってして我が独眼を賑やかにしよう」


 伊達家随一の槍働きを讃えられたとうろう成実であるが、「恐悦至極」と主君に応じることもなく再び双眸を瞑ってしまった。その頬は氷のように冷たい。

 屋根か中庭の木から雪の塊でも落ちたのであろう。重量おもみのある〝何か〟が地面を叩く鈍い音が障子の向こうから聞こえてきた。


「……いわみのかみは如何にして明かしたてるか」


 いわみのかみ――と、上座より呼び付けられた綱元の頬が微かに震えた。

 は天正一四年(一五八六年)に奉行職を拝命して以来の呼び名であり、主君から家臣に対する敬意に他ならない。しかし、自由闊達に修羅の道を渡る〝とうろう〟はおおやけの場を除いて綱元のことを「もん」と親しみを込めて呼んできたのだ。

 片倉景綱には「じゅうろう」、伊達成実には「とうろう」とそれぞれ呼び掛けている。鍔の眼帯と同じほど露骨に扱いを分けられた恰好であるが、このような仕打ちを受けずとも主君の心は綱元に伝わっている。

 にわいわ先々いずれ必ず浪速なにわの光に魅せられる――そのように決め付けられている事実は、伊達家とほうの仲立ちに我が身を捧げてきた綱元にとって何にも勝る侮辱であった。内通者の汚名を着せられたことにも等しいのである。

 もはや、綱元一人の問題ではない。ひととりばしいくさに散った〝おにげつ〟のたまと誇りまで踏み躙られたのだ。相互の利益に基づいて大名へ従属する在地領主――くにしゅうならば、この時点で離反してもおかしくはなかった。

 武士の面目とは主従の間であってさえ守らなくてはならないものであった。政宗が焦がれるほどどうけいする織田信長とて面目を傷付けた為に明智光秀の謀反を招いたというではないか。

 「敵は本能寺にあり」と雄叫びを上げる直前の光秀は四国の雄・ちょう家との交渉を担っていた。これに対して信長は彼の頭越しに四国と断交する号令を発したのである。武士にとって主家より任された役目とは命を賭して臨むものであり、これをぼうの石の如く蹴飛ばされる事態はまさしく面目の丸潰れであった。

 甲斐武田家を滅ぼした直後のことであるが、家臣一同が居並ぶ前で光秀が信長からちょうちゃくされたという風聞は奥州まで届いている。


「我ら家臣の力が至らずこれまで幾度、ほうから要らぬ疑いを掛けられたことか。それがしなどは首と胴が繋がっておること、未だ信じられぬ心地でござる。それがこうしてかた様の御前に侍っておりますこと、それこそがもん殿の忠義が証ではござりませぬか。〝おにげつ〟の槍に勝るとも劣らぬ働きと心得ており申す」

「そのほうより賜った〝たね〟を青々と茂った庭にて一人愛でるいわさまを小十郎は何と見るか。塀の向こうで咲き誇る花が儂の心を慰めてくれるか。……風に乗って漂い来る花ので千々に乱れる我が心こそ〝じん〟と〝〟を映す鏡ではないか」

「……〝奥州のかた〟ともあろうおんかたえんほうがんの妻女に懸想した武蔵むさしのかみもろなおが如き申されようを――これでは我らも立つ瀬がござらぬ。左様な戯れは二度とお控え下され」


 『太平記』という軍記にいては異色としか表しようのないた伝承を例に引き、次いで重苦しい溜め息を吐いた景綱は念を押すようにして「戯れもこれ限りに」と上座の政宗を諫めた。

 比喩の如き言い回しであったが、政宗が口にした〝たね〟とは女性の名前である。

 「こうまえ」とも呼ばれる女性ひとを綱元が側室としてにわ家に迎えたのは数ヶ月前のことである――が、そのいきさつが彼と政宗の関係かかわりを乱れた糸の如く複雑なものに変えていた。

 とよとみのひでよしと碁を打ったときのことである。綱元にとってはほうとの外交を穏やかに進める為の手段であり、てんびとと碁盤を囲むことは大して珍しくもないのだが、その日の勝負がたのしくてならなかったらしい秀吉は敗れた側にも関わらず喜色満面であり、気を良くした勢いで己の愛妾を褒美として与えると言い始めたのだ。

 さしもの綱元もこればかりは固辞すべきであろうと迷ったが、常軌を逸した癇癪を持つ秀吉の機嫌を損ねては主家にまで災いが及ぶものと判断し、とうとうこうまえを側室として迎えることになってしまったのである。

 天正一四年(一五八六年)のことだが、己に対する批判が当時の居城であるじゅらくていの壁に書き殴られた際に秀吉は当日の番衆を惨たらしく処刑し、落首らくがきの下手人が住んでいたというだけで町一つを焼き払っているのだ。その人物の家族は言うに及ばず、無関係の町人までもが何十人も磔にされている。ほうとの折衝を務める者として同じ惨状を奥羽で再現するわけにはいかなかった。

 主従のすれ違いが明確な亀裂へと変わったのはこの瞬間であろう。

 新田義貞とこうとうのないを振り返るまでもなく、主君が家臣に娘や姫などを与えることは珍しくないが、それがとよとみのひでよしならば事情は一変する。折衝の役割を担っているとはいえ陪臣でありながらほうに一門同然の扱いを受けているよう政宗の左目には見えた。

 父・左月斎の武勇を象徴する〝鬼〟の一字をてんびとの一声でことも政宗の心にくらい影を落としている。もやの如く垂れ込めた猜疑心が晴れない内にこうまえにわ家に入ったわけだ。

 いずれも伊達家とほうの間を安寧に保つ為――これこそ綱元の忠節の証と己に幾度も言い聞かせてきたが、ひとたび、取りいてしまった疑心暗鬼はどうあっても拭い切れない。

 にも心を開かせた綱元である。主君の頭が「ないおう」の二字で埋め尽くされていることを悟れぬはずもなかった。表面上は今までと変わりなく「にわいわ」と呼び掛けているが、こうまえを迎えたその日から声に温もりが通わなくなったのだ。

 綱元の前で鍔の眼帯を外さなくなったのは、それから間もなくである。己の胸中を見透かした上で無体としか表しようのない仕打ちを繰り返していることも「もん」と親愛の情と共に呼ばれてきた男は理解わかっている。

 先代から家督を相続するまで「若」と呼んで見守ってきた相手である。この状況にいて何を考え、己に何を求めているのか、察せられないはずもなかった。


「――太閤殿下より下賜たまわった〝たね〟には毎夜健気に水をくれておるのか」


 あるいは景綱から失言と窘められたその呟きも、綱元の心を試すべくえて吐き捨てたのかも知れない。

 こうまえを揶揄する一言は綱元の眉間に血管を浮かび上がらせ、ついには小十郎景綱と藤五郎成実を伴って伏見屋敷の一室へ主君を押し込める事態にまで陥ったのだが、それすらも上座からを窺う為の計略であったのだろう――そう読めたからこそ今日まで抑え込んできた憤激を爆発させてしまったのである。

 政宗がただした〝たね〟ので方について景綱は「戯れ」と庇ったが、己が疎まれていることを認めてしまった綱元にはどうあっても笑って受け流せるものではない。その「戯れ」が二度も繰り返されたからには、問答の形を借りた遠回しの皮肉は主従の間で猥談とはなり得ないのだった。

 足利尊氏を支えた名将・えんほうがんたかさだの妻女に横恋慕を拗らせた挙げ句、我が物とするべく苦楽を共にしたはずのともがらを破滅に追い込んだ――そのように『太平記』が伝える足利家執事・こうの武蔵むさしのかみもろなおを例に引き、これを景綱は主君への諫言に換えていたが、あろうことか政宗はてんびとから与えられたこうまえを差し出すよう綱元に求めたのだ。

 己の主君が色香に惑わされて正気を失ったわけではないと綱元自身が誰よりも理解わかっている。ときに狐でも憑いたかのように振る舞うこともあるが、〝奥州のかた〟は凡百のこっしゃなどではない。偶然たまたま、畿内に縁があったの秀吉に先を譲ったのみであり、今でもひのもとを統べる大器うつわと信じて疑わないのである。

 伊達家中で誰よりも知恵の働く景綱は領国くにを二つに割って親子が殺戮の応酬を繰り広げた美濃斎藤家の如き災厄まで思い描き、「戯れ」を憂いていることだろうが、上座から三人の家臣を見下ろす政宗はこうまえを通して「にわいわ」の心を試そうとしているのだ。

 てんびとより下賜たまわった〝たね〟を素直に差し出すならば良し。例え拒むとしても如何なる反応を示すのかを確かめたい――そこまでして忠臣を試さずにはいられない状況であることも綱元は理解わかっている。

 『西さいおおさきいっ』の扇動は奥州にを作り出し、これを掠め取らんとした一手であるが、政宗の大博打は失敗に終わり、揚げ句の果てには自らが挙兵に駆り立てた一揆衆へ討伐の軍勢を差し向ける事態に陥った。

 負けた以上は代償を支払わなければならないのが博打である。当初の目論見通りに葛西家・大崎家の旧領は伊達家に与えられたものの、代わりに伊達家代々の土地と城まで秀吉の裁定によって没収されてしまった。一揆へ加担したことに対する懲罰であることは明らかであったが、異議を申し立てることなどできようはずもあるまい。

 家中の痛手はだけに留まらない。伊達領が大幅に狭まったことで家臣たちの〝取り分〟も減ってしまい、国主たる政宗でさえ肌で感じるほど至るところで穏やかならざる空気が垂れ込め始めたのだ。

 てんびとの〝暴政〟に対する不満を利用せんとした野心が伊達領内の不満という形で跳ね返った次第である。



 『ぜんねんえき』で大敗を喫した敵将の嫡男を救い、ひとかどの武士として育て上げたきよはら家はその男――ふじわらのきよひらの報復によって滅ぼされている。黄金郷ひらいずみの礎ともたとえるべき『さんねんえき』が一つの好例であるが、奥州は平安の昔より身内同士の争いが絶えない。そこに根差した武士たちは自立心が極めて強く、政宗が父方の叔父を送り込むことで支配下に置こうとした豪族も槍刀をもって抗ってきたのだ。

 伊達家も血塗られた宿命さだめから逃れることはできない。敵も味方も欺き欺かれ、母方の伯父とも緊張状態が続くような修羅の道を歩んできたのだが、こんにちに至ってついに政宗自身の足元が炎で包まれた。

 亡き父・てるむねの頃より宿老として重きを成し、綱元と同じように外交戦略で伊達家を支えてきた遠藤家の離反を招いてしまったのである。代替わりののちに扱いが不当なほど低くなったと兼ねてより憤っていたが、政宗はほうの都合で領地を削られている状況では望み通りの恩賞を与えることも難しいと理由を付けて取り合わなかったのである。

 その一方で政宗は小田原参陣が叶わずに改易の憂き目に遭った父方の叔父のひとりを伊達家に迎え入れ、〝一門筆頭〟として遇している。

 政宗が伊達の棟梁を引き継いでからも遠藤家はその傍らで武功を重ねてきた。激闘に次ぐ激闘を重ねる伊達家にいて槍働きの意義を見失ってしまうのは必然であろう。

 遠藤家は説得をれて既にさんしているものの、輝宗以来の〝家臣筆頭〟が主家に背を向けたという事実は『西さいおおさきいっ』の余波が続く状況下では極めて深刻だ。同様の不満を募らせていた者たちを更に刺激し、伊達家による支配が揺らぐほど大勢の心が一気に離れてしまう恐れがあった。

 政宗の生母ははおやであるしゅんいんが伊達家から実家である最上家へ戻ったのはひとつきほど前のことであるが、それもまた家臣たちの動揺を煽っていた。いよいよ家中を束ねきれなくなってきた政宗には将来さきがないと見限って出奔したのであろうという風聞まで漂っているのだ。

 を聞き付けるたびに重臣は口さがない者たちを戒めているのだが、政宗と保春院の間には以前から不仲という誤解が付きまとっており、綱元も常より心苦しく思っていた。

 てんびとと対決するべく小田原へ赴く間際、保春院は激励の手料理を振る舞ったのだが、たまたま腹の調子が悪かったというだけで「政宗の膳に毒が盛られていた」との風聞が伊達領の外にまで広まってしまったのである。

 本当に不仲の母子おやこであったなら、保春院の側も愛息が絶望的な状況で己の実兄から戦を仕掛けられた際に合戦場まで輿こしで乗り付けて仲立ちを取ろうとはしなかったであろう。命懸けで我が身を守ってくれた母の愛を政宗も重く受け止めており、海を渡った向こうでも土産になりそうな物を探していたのだ。

 政宗には小次郎という実弟おとうとる。保春院はこの弟のみを溺愛し、謀反の疑いで始末されたことを生涯の恨みに思っている――これがおや不仲の筋書きであるが、これと非常に良く似た筋運びは織田信長とその弟であるかんじゅうろうのぶかつ、ひいてはぜんの間でも繰り広げられている。天下に聞こえた悲話に着想を得た〝誰か〟が伊達のおやにもを当て嵌めてしまったのだろう。

 おやの相剋は奥州の動向うごきが忌々しくてならない保春院の実家――羽州・最上家の謀略であったとも囁かれており、これをとして当の実母ははから聞かされた政宗は「儂を亡き者にすれば奥羽はせきを失うようなもの。そう以前の有り様に戻る意味さえ理解わからぬ阿呆と見做されるとは出羽侍従も舐められたものよ」と、伊達家の風聞に巻き込まれた伯父に同情まで寄せていた。

 どこかの〝誰か〟が期待したおや不仲の筋書きを政宗が耳にすれば、腹を立てるどころか、「我が生きざまが信長公に重なったというのなら、このとうろうも箔が付くというもの」と笑い飛ばしたに違いない。伊達家を離れはしたものの、そもそも小次郎は仏門に入っていて文禄三年(一五九四年)の今も健在なのだ。

 敵城に籠った者を女子どもに至るまで根絶やしにした〝撫で斬り〟など兜に取り付けられた三日月の前立てをも真っ赤に染める苛烈ないくさからてんじゅんにも等しく思われてしまうのだろう。こうの心を備えているにも関わらず、身内の屍を踏み越えていくという実態から掛け離れた虚像が果てしなく独り歩きしているのだった。

 謁見のなかに秀吉の口から血塗られた虚像が語られたときには、さしもの綱元も背筋が凍り付いた。何しろこのてんびとは白河の関を抜けたことがなく、それどころか宇都宮から北に足を踏み入れたこともないのだ。


「――はんつきと経っておらぬというのに母上が恋しくてならん。離れて過ごす日々は元より長いが、もはや、奥州に帰り着こうとも出迎えては頂けぬのだぞ。これに勝る心寂しきことを儂は思い付かぬ。……されど、仏道の弟にも同じ思いをさせておるのだ。兄ばかり恋しい恋しいと甘ったれてはおられまい」


 最上家へ戻ってしまった生母ははが恋しいのではないかと景綱からたずねられたときには阿呆のように笑いながら冗談を飛ばしていた――綱元は異父弟おとうとからそのように聞いている。

 そもそも保春院が実家に戻ったのは政宗自身の配慮である。『西さいおおさきいっ』以来、遠藤家の離反など動揺が鎮まらない伊達家よりも関白・とよとみのひでつぐとのえにしを深めつつある最上家のほうが遥かに安全であろうと判断したわけだ。

 何よりも保春院は実兄の様子を案じていた。奥羽一の器量良しと伊達領にまで聞こえる最上家の姫――こまを側室として迎えたいと秀次から強く求められ、やむなくを了承したものの、酷く憔悴しているというのだ。その実兄あにを慰めたいという保春院の気持ちを政宗が黙殺できようはずもない。

 伯父の心労はともかくとして、秀次の〝身内〟という立場を盤石にしておけば、秀吉と茶々の間に昨年、生まれたばかりの子――すてほうの長者となった後にも最上家は安泰であろう。父祖が耕してきた本領まで奪い取られ、明日はどう転ぶか誰にも知れないような伊達家とは真逆である。

 政宗の〝こう〟が綱元には慕わしく、それと同じくらい複雑な心持ちであった。伊達家の棟梁こそが己の将来さきを見限ったといえなくもないわけだ。そうでなければ恋しくてならないという実母ははを伊達領内から逃すこともあるまい。

 〝身内〟への心配りは大将の弱気にも通じるものであり、これを仰ぐ家臣に伝播しないはずもなかった。誰が遠藤家に続くとも分からない状況だからこそ、政宗は綱元の心を深奥まで覗かずにはいられなかったのである。

 政宗は〝じょうとく〟から〝仁〟と〝義〟を用いて家臣の心を測ろうとしていたが、彼こそ主従の絆を育む〝信〟を欠いている。それは〝礼〟の喪失にも等しく、棟梁としての器量を疑われても仕方がなかった。

 武勇一つで切り従えていけるほど奥羽のもののひたちは生易しい存在ではないのだ。ほうによる〝てんいっとう〟がった今、領地の切り取りさえままならず、恩賞を餌にして家中に引き留めておくこともできない。

 〝北の独眼竜〟は自らが奥州へ放った炎に取り巻かれ、鎖の如く縛り付けられていた。

 ここまで足元が揺らいでいなければ「左衛門」と親しく呼んできた股肱の臣に鍔の眼帯を付けて相対することもなかったはずだ。

 眼帯として右目に宛がう鍔の表面には牡丹を象った紋様が刻まれているのだが、そこに政宗の有りさまあらわれているようであり、綱元は直視を憚るほど哀しかった。



 ほうより賜った〝たね〟についてただされて以来、綱元の胸中では怒りと悲しみが綯い交ぜとなり、心を丸ごと巻き込むほど大きな渦を作り出している。

 問答無用でこうまえを奪い取られたほうが綱元にはまだ納得できた。「それでこそ我らの仰ぐかた様。老いさらばえた禿はげねずみなどおそるるに足りませぬ」と腹の底から笑い、今日まで溜め込んできたくらもやを吹き飛ばして伊達家を守る〝鬼〟に戻れたはずである。

 秀吉の愛妾を横から奪い取ったとて、我らが御大将はにっよしさだの如き不覚は決して取るまいと信じて疑わなかった。

 小田原へ発つ直前の政宗であればてんびとが感じた肌と温もりを己も味わってみたいと高笑いし、太刀まで振りかざして強硬に迫ったことであろう。

 〝あのとき〟の政宗はに用いる死装束を誂えながらも隙を狙っててんびとを喰ってやるという覇気を漲らせていたのだ。

 『小田原攻め』が起きた天正一八年(一五九〇年)から文禄三年(一五九四年)まで僅か四年――出羽三山まで貫くほど迸っていた気魄が瞬きほどの間に見る影もなく消え失せていた。ここに至る疲弊は察して余りあるが、戦わずして秀吉に敗けを認めてしまったようなものではないか。

 身を粉にして伊達家とほうの間を取り持ってきたのは主君の首級くびを守らんが為だけではない。いつの日にか、必ずや伊達政宗という大器うつわを天下の頂きへと押し上げる為に全てをなげうってきたのである。

 外交戦略とは名ばかりで、裏では既に秀吉と結託しており、伊達家代々の本領を差し出したではないかと疑う家中の声にもその夢があったればこそ耐えられたのである。

 てんびとの懐深くまで潜り込み、まつりごとの動かし方から肥大化し過ぎた権力ちからの脆さまで見極めてきたのはほう落日ののちに『竹に雀』の軍旗はたを瀬田のからはしに立てんが為――如何なる試練のときにも己を支えてきた大望が潰えてしまったことを綱元は断じて認められなかった。

 それが為に心を蝕まんとするくらい靄に抗い続けてきたのだが、結局は虚しさだけを残す徒労であったことを今宵の主君から悟ったのである。

 伏見に移る以前――大坂に構えた屋敷の中庭で主君や二人のともがらと餅をいたのは伊達の軍勢がぜんのくにじょうへ向かう間際のことだ。自ら杵を振り落とす政宗の意気軒昂なさまは今でも綱元の心に焼き付いている。

 父祖伝来の土地も己が生まれ育った城もてんびとに奪われながら、それでも政宗は勝負を捨てていなかった。家中の誰もが打ちひしがれ、涙に暮れる屈辱さえも勝利への意志に換えていたのである。


「左衛門、ずんだ餅は太閤殿下の口に合うと思うか」

「食の好みまではそれがしにも何とも……。さりながら、かた様手ずからかれた餅ならば必ずや召し上がられることでありましょう。腐ってしまわぬ内に殿下のもとまで届けられる根回しこそ肝要であろうかと左衛門、心得てござります」

「食わせることは難しくないということだな。……如何に馳走してやろうか」


 奥州から取り寄せた豆を額に汗を流しながらすり潰し、餅にまぶす為の餡を作る政宗との問答も綱元は鮮明におぼえている。眼帯で覆われていない右の瞼を汗が滑るたびに「いちいち痒いんじゃ!」と舌打ちを繰り返していたのだ。


「ずんだの餡に〝何か〟を混ぜようにも毒見役が控えておりますれば、殿下が口にする前にはかりごとは暴かれましょう。それがしおぼえておる限り、かた様も御前番の機転によって御母堂ひいては出羽侍従様の罠より逃れたのでは」

「誰ぞが流した風聞うわさをいちいち持ち出すな、小十郎。母上手ずからの膳はどれもこれも舌と胃がよろこんでおったわ。……伊達の与太話にまで引っ張り込んでしまっては、ますます伯父上から憎まれよう」


 蒸かしたてのもちごめを臼へと運びながら揶揄してくる景綱に噛み付きつつ、餡の具合や餅の粘り気などを細かく吟味した政宗は「老いぼれて喉の力が弱ると餅を詰まらせる恐れも増すものよ」と綱元に向かって不穏当なことを言い放ったのである。

 小さく千切った餅を己の舌で転がし、噛み応えまで確かめた理由はにあったのだ。


「餅が喉に詰まって死んだならば、それは誰の所為せいでもない。責めを負わせることもできまいて。しかも毒見役は丈夫の者ほど選ばれる故、少しばかり餅の粘り気が強かろうとも苦もなく嚙み切れよう」

「鬼庭殿、どうもかた様はお疲れのご様子じゃ。ほうの横暴までお忘れとは並大抵のことではござらんぞ。……ずんだ餅を献上したお主の身が間違いなく危うくなること、それも見落としておられるとは何とも嘆かわしい」

「申されますな、片倉殿。この左衛門にも〝鬼〟の血が流れてござる。我が父・左月斎が奥羽に轟かせたもののふの誉れ、それがししちどうの隅々まで響かせんとする覚悟にて」


 毒を盛らずとも太閤の命を脅かした事実に変わりはない。暗殺の成否に関わらず六条河原に送られることは間違いあるまいが、それこそが〝鬼〟の本懐である。〝北の独眼竜〟が天下の主座へ昇る礎となれるのだ。これに勝る喜びなど綱元には思い付かなかった。

 景綱は「命あっての物種でござるぞ」と呆れ顔であったが、政宗の背を守るようにして傍らに侍る成実はともがらの覚悟と主君の覇気が心底より頼もしかったのか、親指でもって鼻を擦りながら溌溂と微笑んでいた。


「頼んだぞ、左衛門。そなたの〝智〟は太閤の喉元に突き付けた刃にも等しき物よ。ずんだ餅を噛むさままで決して見逃すな」

「一度に飲み込める餅の大きさは老いぼれの身に如何ほど力が残っておるか、これを見極める手掛かりとなりましょう」

「弱った大将に己が将来さきを託しておく忠義者などかたぎぬ姿の奉行連中くらいなもの。恩顧とも呼べぬだいしょうみょうはより強きほうに必ずや靡かん。瀬田に我が旗を立てる日も近いぞ」


 天下大乱すら辞さない剥き出しの野心は伊達家を破滅に追い込む危うさも孕んでいるのだが、それ以上に家臣の心を躍らせていた。我が命を捧げても惜しくはないと思える主君こそ一生涯の糧なのだ。



 りし日には太陽にまで喰らい付かんとするしょうりゅうとも見えた気魄が文禄三年(一五九四年)の今は僅かも感じられない。いっときの優勢を敵に譲りながら逆襲の好機を待つりゅうでもない。

 綱元の双眸に映る〝北の独眼竜〟はとよとみのひでよしを咬み砕く為の牙を全て折られていた。


「……今宵はこれまでに致しとう存じまする――」


 傍らの景綱に太刀を持ってくるよう命じるりも見せないのであれば、これ以上の問答は綱元にも無用である。ざまに食い下がろうとも己の夢を繋ぐような筋運びになるとは思えなかった。

 もはや、そこに不動明王は居ない。左月斎から受け継いできた〝鬼〟の覚悟も気概も今や無残に折れてしまっている。


にわいわみのかみ何処いずこに参る」


 廊下へと続く障子を勢いよく開いた綱元の背中に政宗の声が追い縋った。ここに至っても呼び掛けは「左衛門」ではなく「にわいわ」である。


「……かた様の独眼を愉しませるには我が庭、花以外の無駄なものが茂り過ぎておりますれば、お招きした折に粗相なきようけいを損なう草も見苦しき石も一切を片付けねばなりませぬ。かのきゅうが作庭には遠く及びませぬが、明鏡止水を表した庭をご覧に入れましょう」


 ひたたれの袖をなびかせながら板張りの廊下に平伏した綱元は今から〝作庭〟の工夫を考えると述べたが、肩越しに覗いた障子の向こうには今も雪がしんしんと降り続けている。

 白雪が積もった庭をわざわざ整えようとする阿呆はいない。綱元の言う〝庭〟が東北の屋敷を指しているのであれば、伏見と比べて春の遠い東北では氷がけ出すまで相当に長い時間を待たねばならない。

 その上で綱元は「御屋形様が我が庭へ足を運ばれる日の支度」と言い捨てた。加えて言うならば、利休居士――後代に〝侘び〟と呼ばれる文化を大成させたちゃせいせんのきゅうは秀吉の逆鱗に触れて天正一九年(一五九一年)に切腹して果てている。

 もはや、政宗は板張りの廊下に怒れる足音を聞くのみであった。身を引き剥がす間際、異父弟おとうとに対して〝何か〟の念を込めた眼差しを向けていたが、その意味が読み取れるようであれば、不動明王は今もこの場に鎮座していたことであろう。

 間もなく足音は二人分になった。押し黙ったままともがらの言葉へ耳を傾けていた成実もその後を追い掛けていったのである。

 両者の仲立ちを取ろうという姿に見えなくもないのだが、その胸の内は景綱にさえ分からなくなっている。上座に一礼こそしたものの、爪先からはらまで沁みてくる畿内の冬と同じように成実の双眸は冷たかった。


「……どうやら儂も〝庭〟の手入れを考えねばならぬようだな、小十郎……」

「はてさて――それがしは古く侘びた〝庭〟に親しんでおりますれば、……かた様が新しき庭をお造りになられるときは石の置き方から草花の茂らせ方、種の巻き方まで煩わしいほど口出しするやも知れませぬぞ。さもなくば塀の向こうよりかた様の庭へと影を差し込ませる樹の枝に成った実も腐って落ちましょう」

「……樹の枝に成った実か……」


 今やからとなった下座を見つめる政宗の呟きは酷く虚ろであった。

 やつれた横顔に向けられる小十郎景綱の眼差しは障子の向こうの白雪の如く静かだが、去っていった異父兄あにともがらのように感情まで凍り付かせてはおらず、痛烈な皮肉に対する返答こたえの代わりであろう弱々しい薄笑いからも決して目を離さなかった。

 降りしきる白雪はまだまだみそうにない。開け放たれた障子の向こうに覗く中庭にも地面が分からぬほど積もることであろう。


「……左衛門、何処いずこに参る――」


 牡丹の紋様が刻まれた鍔の眼帯を剥ぎ取り、これを綱元が座していた場所へと放り投げる政宗であったが、五指の動きにさえ今は力という一字を感じられなかった。



 とよとみのひでよしより下賜たまわった〝種〟が〝庭〟の有り様を伝えるべく政宗のもとに参上したのは翌年のことである。竜に魅せられていた〝鬼〟は一輪の花だけを主君に残し、作庭に欠かせないはずの石や草木をことごとく始末することで己が〝忠〟のり方をあらわした。

 文禄四年(一五九五年)茂庭綱元、出奔――その男は去り際の有りさままでひたきだった。

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