その11:帝国~メガスポーツイベントの功罪/利権を喰らうスポーツマフィア・平和の祭典の陰でうごめく暗殺計画

  一一、帝国



 名前クレジット一つで興行収入が左右され、銀幕スクリーンへ登場した瞬間に人々の心を掴んでしまえるほどスター性を備えた俳優の中には拠点とは別の土地に邸宅を構える者も少なくない。休暇を過ごす為の別荘が好例であろう。住民たちが自分の名前も顔も知らず、通りすがりの人間が振り返ることもない異郷で精神こころを休めることこそ大切なのだ。

 ただ道を歩いているだけで「夥しい」としか表しようのない好奇の目に晒され、携帯電話のカメラ機能で隠し撮りされ、サイン色紙を無遠慮に突き出されるたびに神経が削り取られてしまうのである。

 俳優にとってファンは何物にも代え難い支えであるが、同時に精神こころを蝕む存在ともなり得るわけだ。眩いばかりのスター性はこれを見つめる者たちを惑わし、愛してやまない相手に対する迷惑行為さえ躊躇わなくなってしまうのだった。

 理性という名のたがが外れていなければ、プライバシーの侵害は必ず踏み止まる――それがファンという存在ものであろう。つまり、分別が成熟し切っていない若年層の支持を基盤としているアイドルの場合は〝問題〟の深刻さも大きく変わるというわけである。

 異郷で過ごす時間とは〝一人の人間〟として見做されないという疲弊を精神こころから取り除く儀式のようなものであろう。ときとして彼らはファンから一方的に押し付けられる幻想ゆめにまで蝕まれてしまうのだ。

 その一方、日本を代表するMMA団体『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手――レオニダス・ドス・サントス・タファレルのような例外がないわけではない。

 レオニダスの試合が終了すると興行イベントの途中であっても席を立ってしまうファンは多く、名実ともに同団体の花形スーパースターである。週末に岩手県奥州市で開催される興行イベントではファンとの交流を兼ねた公式オフィシャル観戦ツアーに初めて参加したのだが、旅行代理店と提携したプランは過去最速で売り切れている。

 世界で最も熱烈な〝サッカー王国〟だけに国内の人気度では同世代のネイマールと肩を並べる水準レベルとは言い難いものの、二年後――二〇一六年にオリンピック・パラリンピックを控え、ロンドンから預かったバトンを東京へ渡さなくてはならないブラジルにとっては日本と関わりの深い競技選手アスリートを国外向けの〝広告塔〟として利用できないことは大いなる痛手に違いない。

 レオニダスはブラジリアン柔術やカポエイラなどMMA選手としての起源ルーツでもある故郷ブラジルに寄り付かず、タレント活動も行っている日本に居着いていた。

 二〇一四年六月から翌七月半ばまでレオニダスの故郷ではサッカーワールドカップが開催されている。彼自身、『天叢雲アメノムラクモ』のパンフレットや公式サイトなどで公開しているプロフィールにも趣味の項目にサッカーと明記してある。

 実際に競技プレイすることも観戦することも心の底から愛しており、〝サッカー王国〟の魂を故郷ブラジルの人々と分かち合っているのは間違いない。それにも関わらず、熱狂の只中で〝リオのカーニバル〟にも匹敵する祭り騒ぎを満喫しようともしないのだ。

 ワールドカップの開催日程と重なってしまった所属団体の興行イベントこそ優先したいという職業意識の表われとレオニダスのファンは持てはやすことであろうが、その印象イメージと実態は大きく乖離しているようであった。

 隠しようがないほど巨大なアフロ頭をヘアバンドで持ち上げたまま町へと繰り出し、驚いて振り返る人々やサインの要求にも気さくに応じていた。それどころか、女性ファンとのによってタブロイド紙を賑わせることも少なくなかった。

 どこに居ても誰もが自分のことを持てはやしてくれる環境にレオニダスの精神こころは満たされているわけだ。巨万のとみと栄光が約束された日本と故郷ブラジルでは居心地の良さは比較するまでもあるまい。何しろ彼は『ファヴェーラ』と呼ばれる貧民街で生まれ育ったのだ。

 故郷ブラジルとの繋がりを頑なに拒絶する姿は貧民街ファヴェーラに残してきた昔日のじぶんから逃れているように見えなくもない――アメリカで発行されている格闘技雑誌にそのような分析が記載されたこともあった。主には過去の試合結果であるが、武勇伝として褒め称えるには余りにも残虐性の高い出来事がくだんの記事に添えられていた。

 彼が出演するバラエティー番組の視聴率に影響が及ぶことを懸念しているのであろう。イメージダウンに直結するような事柄を日本のメディアは取り上げず、『天叢雲アメノムラクモ』が公表している経歴プロフィールにも〝血〟の臭いを想像させるような記述は見られない。

 標的を絡め取る巧みな寝技にちなんで『スパイダー』なる異名で呼ばれ、実際に胸板からヘソに掛けて蜘蛛の巣と獲物の蝶をかたどったタトゥーを刻んだその男は、日本では底抜けに明るい〝キャラクター〟で親しまれている。を競技団体もテレビ業過も必要としていないわけだ。日本の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンが運営する『あつミヤズ』の配信動画でさえ同様の対応であった。

 赤提灯を軒先に吊るした古めかしい居酒屋で少し早い夕食をる青年もまた人目を惹く存在である――が、週末の解放感も手伝って赤ら顔が盛り上がる場景には全く不似合いなドイツ人ということは関係ない。

 彼はネイマールのような有名選手でもなければ、映画のフィルムと共に海を渡るような俳優でもないが、生まれ育った祖国ドイツの町を歩こうものなら誰もが振り返らずにはいられない。サインを求められることは皆無に等しいものの、代わりに不躾な〝売り込み〟に付き合わされることが多かった。

 居酒屋の店内なかには土曜日まで働き詰めであったと窺わせるビジネスパーソンが幾人も集まり、ビールや地酒を酌み交わして疲れを癒しているのだが、経済紙を隅々まで愛読する者が混じっていれば、あるいは青年の〝正体〟に気付いたかも知れない。

 決して広くはない居酒屋のテーブル席で牛タンの串焼きを頬張っているのは世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』――その経営者一族の御曹司であった。名前をギュンター・ザイフェルトという。

 例えスポーツに対する関心が薄くとも経済界に接点のある人間であれば、ザイフェルト家の一族と判った途端に恥をも捨てて媚びへつらってしまうことであろう。

 レオニダスは周囲まわりから持てはやされることに無上の快楽を覚える様子だが、ギュンターは正反対である。家名を貶めるような振る舞いを慎み、冷静な対応に努めるものの、誇り高き一族の御曹司だけに卑屈になってすり寄ってくる人間を心の底から軽蔑しているのだ。

 〝せんそうの時代〟に独裁政権と結び付くことで『ハルトマン・プロダクツ』を興し、祖国ドイツに二つとない名門となったザイフェルト家は、傘下に置いた企業の秩序まで監視し続けるほど〝正しくあろうとすること〟を厳格に守っていた。

 問題提起に近い形でレオニダスの〝本性〟を報じたアメリカの格闘技雑誌はザイフェルト家の厳格さについても「オリンピックの商業化よりも以前から様々な国際競技大会と癒着し、およそ半世紀に亘って広告利権を貪ってきた〝スポーツマフィア〟の側面と明らかに矛盾している」と痛烈に批判している。

 善かれ悪しかれ、ザイフェルト家の一族ひとびと祖国ドイツいて広く顔が知られていた。

 まだ二〇代前半という御曹司ギュンターでさえ政財界の会合に駆り出されており、難民高等弁務官が招かれた二〇一三年の国民哀悼の日フォルクス・トラウアー・ターク――他国では戦没将兵記念日メモリアルデーとも呼称――の追悼式典にも一族の代表として出席したのだ。

 この町――いわけんおうしゅうはあらゆる方向から四六時中、無神経としか表しようのない視線でもって突き刺されているギュンターにとって張り詰めていた気持ちが自然と解けるほど居心地が良かった。

 『ハルトマン・プロダクツ』の本社が所在するニーダーザクセン州のハノーファー・ランゲンハーゲン空港から旅客機に搭乗したのだが、花巻空港へ向かう機内でさえ言葉を交わした全員から腫物に触れるような扱いを受けてきたのである。数ヶ所を経由する飛行フライト時間は比喩でなく本当の悪夢であった。

 入店してきた客の何人かは東北の安酒場とドイツ人青年という珍妙な組み合わせに目を丸くしていた様子だが、それはほんの一瞬のことである。伊達政宗の事跡を目当てに欧州ヨーロッパから訪れた旅行客であろうと己のなかで勝手に結論を出し、そのままギュンターが食事をるテーブルの真横を通り過ぎていくのだ。

 呂律が回らないほど陽気な酔客でさえ牛タンに舌鼓を打つ異邦人へ「あんつぁんたぢ、どごがら来だの? 一緒さ吞むべよ!」とまとわり付くことはない。この町では誰も他人ギュンターのことを気には留めない。誰も彼もザイフェルト家の御曹司の顔を知らないであった。

 心身ともに疲れ果てる空の旅フライトを耐え抜いたギュンターはネクタイを解き、ワイシャツの第一ボタンまで外して寛いでいた。IOC国際オリンピック委員会とも結び付く世界最大のスポーツメーカーに怖気付いたでもって見張られている場所では決して許されない姿と言えよう。

 一〇年以上も昔のことだが、日本の古武術を習ったというだけで「祖国の魂を忘れたザイフェルト家の面汚し」とドイツ最大の新聞紙上で批判されたのである。

 それ以上にギュンターが恐れているのは祖父のトビアス――ザイフェルト家の総帥だ。『ハルトマン・プロダクツ』創始の歴史を十字架の如く背負う〝二代目〟は一族の誰よりも厳格であり、身だしなみから立ち居振る舞いに至るまで目を光らせている。余りにも煩わしい束縛が及ばないこの町はギュンターの解放感を大いに促しているのだった。


「――イワ最高だぜっ! 祖国ドイツの牛タン料理とはまた違った味わいで面白いしな。さっき注文した牛タンの揚げ物、衣がカレー風味で酒が進むんだわ。おかわりしようか、どうしようか。刺身も捨てがたいぜ? 牛タンをこんな風に食うって発想が楽しいもんな!」

「……トビアス総帥の目が届かない海外だからといって羽目を外し過ぎだろう。『孫は出張先でどうだったか?』とたずねられたら、私はありのままを報告するしかないんだぞ」

「お前がカタ過ぎるんだよ、ストラール。明日、『NSBナチュラル・セレクション・バウト』のお歴々の前で醜態を晒すんじゃないかって心配しているんだろう? 日付が変わる頃にベッドへ潜り込んだって一二時間以上も余裕がある。〝仕事〟までにはイヤでも酔いが抜けるさ」

「深酒をしなければな。……身も心も疲れたときには多少は酔わないと眠れないが、お前はそれほど酒に強くない。気を揉むのは当然だろう? 私としては安眠効果の薬草を煎じて飲むことを勧めたいよ」

「確かに〝薬草魔術〟は健康にも良いけどな、それは知っているけどな、その言い方はやめろっての。前から頼んでるじゃないか。……全国紙で『酒に吞まれる男はザイフェルト家の面汚し』なんて書かれたら、俺はマジで故郷ハーメルンを歩けなくなっちまうぜ」

「ドイツの全国紙は一地方の世間話を記事にするほど暇なのか? 〝笛吹き男の伝説〟と重なるような筋運びはせいぜいオカルト雑誌が取り上げるくらいだ。三流コラムニストから笑い者にされるより遥かに屈辱だろう? それがいやならほろ酔い加減でやめておけ」


 ギュンターに〝日本の古武術〟を伝授したのはであったが、そのときに和食の嗜み方も教え込まれたのかも知れない。徳利から手酌でちょに注いだ日本酒をぐいと飲み干す姿はとさえ思えるほど小意気であった。

 差し向かいに座り、翌日に酒気を残すことがないようドイツの言語ことばで窘めるもう一人の青年――『ストラール』は反らしたおとがいに色気を醸し出す呷り方にも一つとして感心していない。

 ストラールは長く伸ばした金髪ブロンドを三つ編みに束ね、これを胸元へと垂らしているのだが、その先端をいじる左の指先は明らかに苛立っていた。ほんの短期間の出張とはいえ、解放感を味わえる町に滞在するのだから旅行気分に浸りたいというギュンターの気持ちを分かち合うことは難しい様子である。

 ギュンターが奥州の地酒を満喫しているのに対し、ストラールはグラスに注いだクラブソーダでしているのだ。


「去年の国民哀悼の日フォルクス・トラウアー・タークはともかく、今日の私は身辺警護ボディーガードじゃない。おおごとが起きてもに火の粉が降り掛からない限り、自前の『ショウオウリュウ』で切り抜けて貰うことになるぞ。お前の御父上も総帥も私の判断を認めて下さるに違いない」

「口ではそんなツレないコトを言いながら、〝もしも〟のときには背中を預かってくれる親友ストラールを俺は愛しているぜ」

「口説き文句を囁く相手を間違えているぞ、親友ギュンター。今の台詞はバロッサ家の娘に贈って差し上げたら良い。……日本ではまだ『ウォースパイト運動』のは確認されていないが、奴らは我々ハルトマン・プロダクツの目も届かない地底で動く。だから、自重してくれ」

「ばっか、お前――わ、理解わかってるっての! あっ、いや! 今のはキサラ……バロッサ家の娘を口説くことを了解したって意味じゃなくてだなっ⁉」

「……やはり、お前には酒よりも心を落ち着ける〝薬草魔術〟のほうが必要らしいな」


 正面の親友ギュンターに向かって何ともたとえ難い溜め息を吐き捨てるストラールもまた他者ひとから御曹司と呼ばれる立場にった。

 ストラール・ファン・デル・オムロープバーン――奥州市には『ハルトマン・プロダクツ』の一員スタッフとして訪れているが、生まれ故郷は親友ギュンターと同じではない。オランダの首都アムステルダムするキックボクシングの名門ジム『バーン・アカデミア』を率いるオムロープバーン家のただ一人の跡取りであった。

 現代にいて格闘技を志した人間ならば誰もが一度はオムロープバーンという家名ファミリーネームを耳にしたことがあるだろう。国際的に評価の高い格闘家を数多く輩出するオランダで『格闘技の聖家族』と畏怖されており、名実ともにザイフェルト家と肩を並べているのだ。

 一九七二年ミュンヘンオリンピックにいて二階級制覇を成し遂げた金メダリストであり、おにつらみちあきに招かれて幾度も異種格闘技戦を繰り広げたオランダ最強の柔道家のようにサインを求められることはないが、アムステルダムのオープンカフェで食事をっているストラールの顔を覗き込み、その〝正体〟を見極めるようとする人間は多い。

 尤も、二人の御曹司は風貌ので要らざる注目を集めている可能性も低くなかった。

 オムロープバーン家の御曹司は分厚いゴーグル型のサングラスでもって双眸を覆っているのだ。『格闘技の聖家族』という素性を誰もが知っている祖国オランダはともかくとして、奥州の青空の下であれば好奇の目を向けられることは皆無に等しかったはずだ。しかし、は居酒屋の店内であり、尚且つ食事中なのである。手元を確認することさえ不便であろうといぶかられてしまうのだった。


「だ、大体なぁ、希更アイツが俺のコトをおぼえているかどうかも定かじゃないんだぜ? 勝算の分からないゲームも嫌いじゃないが、それはテーブルの上だけにしておきたいんだよ。手札が読めないんじゃ、正直、手も足も出ないぜ? 負けて身ぐるみ剥がされるのなら我慢できるが、人間関係の失敗しくじりは取り返しがつかない分、勝負所を探るのも一苦労でなぁ~」

「ギュンター、お前がまさか、そこまでバロッサ家の娘にこだわっているとは私も想像していなかったよ。二つ謝ろう。今のがその内の一つ。もう一つはに興味を持てないという私自身の無礼だよ。心から申し訳ないが、コンマ一秒も関心を維持できなかった」

「……お前の飲み物クラブソーダに混ぜる薬草が欲しいよ。友情への報酬として苦しむことなく逝けるヤツをなっ」


 店内にはこの地方で作られている鉄器が幾つも飾ってあった。中でも独特の存在感を示しているのは表面から愛らしい狸の顔が突き出した茶釜である。に造詣が深いらしい老夫婦の説明へ熱心に聞き入り、波打つ赤褐色の髪を揺らしながら幾度も幾度も首を頷かせる女性をサングラスの黒いレンズに映しているストラールは全く気付いていないが、彼の親友は既に食事の手を止めていた。

 ワイシャツの内側から引っ張り出した不思議なネックレスを左右の手で弄びつつ、正面の親友ストラールでさえ正確には意味が理解わからない呟きを洩らし続けているのだ。

 頬を薄く紅潮させながら「小さな頃にほんの何日か、一緒に遊んだだけなんだからさぁ~」と独り言を連ねる珍妙な様子よりも人目を引くのは特徴的としか表しようのない髪型である。

 頭髪全体を短く刈り込み、その上で眉間と頭頂部の間にのような塊を残している。一目見ただけではザイフェルト家の御曹司と判らない風貌だが、によって権威に対する反骨精神を表しているわけだ。

 彼の素性を知る人々の目には革紐のネックレスも奇妙と映ることであろう。世界最大のスポーツメーカーの経営者一族ともなれば、その財産は数世代先まで遊興にふけっても尽きることはない。衣類は言うに及ばず、アクセサリーに至るまでを思い通りに誂えられるだろう。それにも関わらず、ギュンターの首を飾る品は随分と年季が入っていた。

 革紐には二種類の色糸で編んだ小さな輪がペンダント・トップのように通してある。こちらがくたびれているのだ。糸の色も殆ど褪せていたが、形状から察するに小さな子供が手首に嵌めるミサンガのようであった。

 長年、愛用し続けているらしいが、一族にも質素倹約を求める総帥トビアスの意向に沿った品とも思えなかった。


「淡い想い出を大切に仕舞っているお前の純情がいつも眩しいよ。『ハルトマン・プロダクツ』の一員として忠告するならバロッサ家を怒らせるような事態は避けて欲しいということかな。総帥のノラ・バロッサは台湾のろうこう――こうれいとも親交が深い。下手に揉めると『NSB』まで刺激し兼ねない。……時期が時期だけにそれだけはいけない」

「やたら意識の高いご忠告ど~も! 伴侶パートナーがいる余裕を見せつけやがってからに! 俺の気持ちはお前なんかに理解わからねぇよ! 理解わかられてたまるかってんだっ!」


 手が空いているものとおぼしき店員に流暢な日本語でもってクラブソーダを注文したストラールも居酒屋ここの雰囲気に寛いでいないわけではない。鉄で拵えた長細い花瓶を指差しつつ、やはり日本の言語ことばで老夫婦と話し込んでいる女性の横顔を見つめ、親友から冗談とも本気とも取れる僻みの言葉を浴びせられるほど口元を緩めているのだ。

 脱いだ背広を店に預けてはいるものの、親友ギュンターと異なってネクタイを緩めていない。ベストは着込んだままであり、その上からサスペンダーで黒いスラックスを吊っていた。

 ベストのボタンに付けられた銀色の鎖はそのままポケットまで繋がっている。おそらく中には懐中時計でも仕舞われているのだろう。そこにダークグレーのストライプシャツが組み合わされば、洒落たビジネスパーソンとしか思えないのだが、誰にも精神こころ束縛しばられないという解放感は親友と共有しているのだった。

 ギュンターは名門の御曹司へにじり寄ってくる人間がいない状況を、ストラールは大衆性の三字こそ似つかわしい安酒場の雰囲気をそれぞれ好んでいる。

 オランダという国家くにで生まれ育った格闘家の多くは用心棒稼業を兼ねている者も多い。『格闘技の聖家族』の御曹司もほんの数年前まではからも解き放たれる歓楽街が根城であり、酒の味を覚えたパブをバロッサ家の『ムエ・カッチューア』に勝るとも劣らない蹴り技で守っていたのである。

 オムロープバーン家がオランダにいて〝名門〟と称される由縁ゆえんは世界最大のスポーツメーカーと深く結び付いているということだけではない。改めてつまびらかとするまでもなくキックボクシングの老舗ジムも栄光の一部ではある。それ以上に重い意味を持つのは『格闘技の聖家族』が同国オランダの格闘家たちを統括していることであった。

 ときには〝表〟の社会の法律すら踏み越えてしまう荒くれ者を束ねるのは、比喩でなく正真正銘の重鎮にしか成し得ないことであろう。現在いまはその大任を〝身内〟に譲ったが、以前かつてのストラールは直接的に用心棒たちと向き合い、まとめ役を果たしていたのである。

 今でこそ身綺麗に整え、取り澄ましてはいるものの、理性が消し飛んだとしか表しようのない素っ頓狂な笑い声や、酒の勢いに任せた調子外れの歌声こそ最も耳に馴染むのである。店内に充満する様々な匂いが複雑に入り混じり、鼻孔を突き刺しているのだが、それすらストラールには心地好かった。

 二人の御曹司はそれぞれの祖国くにから異なる出発時刻の旅客機へ搭乗していた。岩手県唯一の空港が所在するはなまきにて合流し、今後の打ち合わせを済ませたのちに奥州市へと移動した次第である。同市内のホテルへチェックインする頃には真っ赤な夕陽も奥羽山脈の尾根に吸い込まれつつあった。

 長時間に及ぶ空の旅フライトの疲れは決して小さいとは言い難く、ストラールはルームサービスで夕食を済ませるつもりでいた。そのときにギュンターの側から郷土料理や地酒を味わいたいと提案され、誰もを知らない安酒場へ繰り出したのであった。

 店員が運んできたクラブソーダのグラスを親友ギュンターの手元に押し出すストラールにも彼の提案を断る理由などなかった。肉体からだを軋ませる疲労を癒す為にも精神こころの解放感を味わいたいと願う気持ちも親友と分かち合っている。

 『ハルトマン・プロダクツ』の会長――ザイフェルト家の総帥トビアスであったなら、ような高級店に足を向けたことであろう。余人の目が触れない閉じた空間にける会食でこそ密談は成り立つものである。

 しかし、同じ名門の一族であっても二代もくだると感覚は大きく変わってくる。二人の御曹司は赤ら顔の大衆ひとびとがごった返すような気取らない安酒場こそ好んでいた。外部そとへ漏らすわけにいかない交渉を行う場合でも二人は密室が確保し易い高級店など選ぶまい。賑々しい喧騒を一種の隠れ蓑として利用できることも知っているのだ。

 ストラールの双眸を覆うゴーグル型のサングラスは依然として赤褐色の髪の女性を映しているが、二人のほうに振り返ったその顔はレンズの中で膨らんでいく。食事を済ませた老夫婦と別れ、ギュンターが歯軋りしているテーブルへ近付いてきたわけだ。

 汚れ一つないブラウスとタイトスカートを合わせたフォーマルな出で立ちは、仕事帰りに赤提灯の誘惑を受けて暖簾を潜ったビジネスパーソンのようにも見える。

 三人が関わりの深い仲間同士であることは一目瞭然であった。くだんの女性はブラウスの襟に七つの星が円環を描く小さな徽章を付けているのだが、これと同じ物が二人の御曹司のワイシャツでも輝いていた。無論、同じ部位である。

 欧州連合EU象徴シンボル――欧州旗を彷彿とさせる七星セクンダディは『ハルトマン・プロダクツ』の社章ではなく、〝別の結合〟を表す物であった。


「なぁ、レーナからもストラールを止めてくれよ。どうしても俺とキサラ――バロッサ家の娘をくっつけたいみたいでなぁ~。全く弱っちまうぜっ!」

「よさないか、ギュンター。〝私のレーナ〟までお前の虚しい妄想に巻き込まないでくれないか。……注文したスープが冷めてしまうくらい話が弾んでいたようだね。確か『なんてっ』――だったかな。キミの琴線に触れたのも頷けるよ」

「先程のご夫婦、この近所で伝統工芸品の販売店おみせを営んでいるそうなのよ。徳利と猪口と言ったかしら――ギュンターが使っている酒器それもこの地方の瀬戸物やきものだとか。時間が許すなら市内の職人を訪ねてお話しを伺いたいくらいよ。洋の東西にかかわらず、時代ときを超える技術には心を震わされるわ」

「キミがそれを望むなら私は幾らでも付き合うよ、レーナ。それが私の望みだ」

「速攻で二人の世界に入りやがって! 仕事だろ! 出張だろ! での視察旅行だろうが! とてつもなく自然な流れで途中下車の旅に繰り出そうとするなっ!」


 『レーナ』という愛称ニックネームで二人に迎えられた女性はくだんの老夫婦が驚くほど流暢な日本語で喋っていたが、彼女もまた東北からすれば異邦人なのである。

 愛称以外の呼び方を挙げるのならば、〝ストラールの伴侶〟こそ最も相応しい。いずれは『オムロープバーン』の家名を称することになるであろうオランダ出身うまれの女性はマフダレーナ・エッシャーという名前であった。


「ギュンター本人から教わった話と記憶しているのだけど、バロッサ家のキサラさんは日本でテレビアニメの仕事をしているのよね? ベトナムで映画に出演ているダン・タン・タインみたいに。それなら彼女が関わった作品宛てにファンレターを送るところから探りを入れるのはどうかしら? その反応次第で〝脈〟のありなしを判断してみては?」

「レーナが一番容赦ねぇな⁉ トドメを刺しに来てるとしか思えねぇよ!」


 ギュンターに向かって冗談を述べながらストラールの隣へ腰掛けたマフダレーナは薬草を煎じた芳香かおりを纏わせている。店内に垂れ込める醤油やソースの匂いに混ざると彼女自身の鼻孔や喉を刺激してしまうのだった。

 彼女自身はアムステルダムで生まれ育ったが、遠い祖先は他国を起源ルーツに持ち、深い森の中で自然と共に歩んできた一族であった。環状運河地区が整いつつある一七世紀のオランダへ流れ着いたのだ。

 人権の概念が希薄な中世という時代背景を差し引いても残酷極まりない迫害を受けて祖国から逃れてきたその一族は、主に薬草を用いた魔術に長じていた。末裔マフダレーナが漂わせている芳香かおりが継承の証左というわけである。

 それ故か、居酒屋の雰囲気は少しばかり落ち着かない様子だ。さりとてホテルのルームサービスを望んでいたわけではない。彼女マフダレーナも二人の御曹司と同じようにガラス張りの高層階から町と人とを見下ろすことを好んではいなかった。他の客と瞬く間に親しくなった通り、店内で気を張り詰めているわけでもない。

 伴侶ストラールが『スープ』と言い表した汁物――岩手県の郷土料理『ひっつみ』に口を付け、具材から溶け出した旨味を噛み締めていた。大根の燻製干しともたとえられる東北の漬物『いぶりがっこ』も取りかれたように頬張っている。

 二人の御曹司が〝薬草魔術〟と言い表した秘義も〝古い技術〟に変わりはない。祖先の頃から数世紀を経た現代いまを引き継いでいるマフダレーナが東北に息づく伝統工芸へ興味を引かれたのは必然であったわけだ。

 料理の一例を紹介する為に飾られていた鉄の鍋に関心を寄せ、『天叢雲アメノムラクモ』の公式オフィシャル観戦ツアーに組み込まれた食事会でも同様の品を用いるのであろうと話している最中に東北の鉄器や瀬戸物やきものあきなう老夫婦と意気投合した次第である。

 かまの熱で溶け出したアカマツの灰によって奇跡のいろを纏った瀬戸物やきものの一種がギュンターの手元にも置いてあるわけだが、先程もマフダレーナはこれらを手に取ってめつすがめつ観察していた。


「そのキサラさんの最新の様子を確認できるかも知れないわよ。明日、選手控室へ押し掛けるつもりなら今の内に顔をおぼえておいたほうが良いのではないかしら。お母上がセコンドに付くと聞いたわ。万が一、おやを間違えたら最悪よ?」

「お前のことだから先走って花束でも用意しているのだろう? 挨拶に伺うとしてもせめて試合後にしてくれ。試合前に色とりどりの花を渡された選手がリングで散ったら、それはそのまま致命的な厭味になる。……ザイフェルト家とバロッサ家の全面戦争に突入しようものならゴシップ記事に後世まで語り継がれる一頁ぺーじを提供する羽目にもなるハズだ」

「先走ってるのはお前らだろ! は、花束はともかく俺は別にそこまで厚かましい真似は考えちゃいねぇって! ……最悪、贈り物は予約をキャンセルすりゃセーフだし」


 言葉を重ねるたびにしどろもどろになっていくギュンターの鼻先へマフダレーナは右の人差し指を突き出し、彼や伴侶ストラールの意識を指先に引き付けたままを店内に一台しか設置されていないテレビへと動かした。

 彼女マフダレーナの意図を察したギュンターは反射的に腕時計へ目を落としたが、それは動揺による無意識の行動に過ぎない。もう少しでも平常心が残っていたなら、テレビ画面の左上にも現在時刻が表示されていると気付いたはずだ。

 丁度、一八時一〇分を過ぎた頃である。カウンターテーブルで酒とさかなを楽しんでいる酔客の何人かも同じように画面を眺めていた。ケーブルテレビで放送されているものとおぼしきローカルニュースで一日の間に起きた県内の出来事が紹介されている最中であった。


「わたしとしては祖国オランダが五対一の大差で雪辱を果たす瞬間を今一度、この目で観たかったのだけど、お店のしきたりに逆らってまでチャンネルを変えるつもりもないわ。……いずれにしても、今日中にチェックするべきニュースでもあったのだから……」


 二〇一四年六月から翌七月半ばまでブラジルではサッカーワールドカップが開催されている。マフダレーナが述べた通り、大会二日目である今日はオランダとスペインの試合が組まれており、日本では午前四時から生放送していた。

 およそ半日後の一八時からチャンネルを衛星放送に移し、録画の形で同じ試合を提供している。テレビ画面をつつくような仕草ゼスチャーはどこか口惜しそうであり、祖国オランダ強豪スペインを相手に四点差で快勝する瞬間を堪能したかった様子である。

 南アフリカで二〇一〇年に開催された前回のワールドカップでもオランダはスペインとの決勝戦に臨み、延長戦の末に僅か一点差で敗れている。遡ること八四年間、幾度となく開催地に立候補し、そのたびに落選してきたが、オランダもブラジルに劣らない〝サッカー王国〟なのである。そこで生まれ育ったマフダレーナもラテン系の魂に負けてはいないのだ。

 競技場サッカースタジアムまで足を運び、オランダ代表のユニフォームを着て猛烈に応援する伴侶マフダレーナの姿もストラールには愛しくて堪らなかった。その一方、ギュンターのほうはドイツとオランダが対戦する日には彼女に近付かないよう気を付けている。

 そもそもワールドカップといえば、日頃から熱心にサッカーを観戦しているわけでもない人々まで魅了してしまう〝メガスポーツイベント〟だ。開催期間中にはスポーツバーでなくともテレビを独占するはずだが、この居酒屋では地域の情報ローカルニュースが最優先のようである。

 ケーブルテレビには衛星放送回線も組み込まれている為、当該チャンネルを視聴できないということはあるまい。

 『まえさわ区で格闘大会の前夜祭』という見出しと共に大写しとなったのは奥州市内に所在する商業施設ショッピングセンターの大型駐車場である。その一画に特設ステージが組み立てられ、これを取り囲む形で大勢の人々が詰め寄せているようだ。

 空模様からして夕方に開催されたものと察せられた。つい先ほど撮影したばかりの映像を大急ぎで編集し、一八時から放送されるニュース番組に間に合わせたのであろう。

 これもまたマフダレーナが述べた通りであるが、くだんの映像は三人が確認しなければならないものであった。それ故に彼女の伴侶も親友も自分たちと関係がないはずの地域の情報ローカルニュースから目を離さずにいる。

 それは他の酔客も同様であった。カウンターテーブルで酒と肴を楽しんでいた人々は言うに及ばず、幾人かは椅子から立ち上がってテレビまで近付き、誰も彼も固唾を飲んで画面に食い入っていた。ビールジョッキとブブゼラの差異ちがいこそあるものの、ワールドカップの放送を見つめるサッカーファンのような面持ちである。


「夏になれば大型駐車場こちらは『よさこい』の会場にも使われるそうよ。……『よさこい』の一言では誤解を招くわね。それ自体は伝統的な踊りで、たくさんのチームによる発表会のようなお祭りがこの町では毎年七月に開催されている――と、資料に記されていたわ」

「レーナは本当に物知りだね。そして、何時でも私に寄り添ってくれる。キミの愛に応える方法だけを考えて人生をまっとうしたいよ」


 不意に小首を傾げた伴侶ストラールが〝何〟を不思議に思ったのか、疑問これをすぐさまに見抜いたマフダレーナはローカルニュースの視聴を妨げない範囲で補足説明を述べていく。

 欧州ヨーロッパから訪れた人々には当然ながら馴染みのない文化であるが、『よさこい』とは高知県高知市を発祥とする祭りであり、各地に伝わる民謡などに合わせて大勢で舞う華やかな催しであった。『なる』という小型の打楽器を鳴らしながら踊ることも特徴である。

 元々は徳島県の阿波踊りに張り合って立ち上げられた催しであったが、南国で生まれた踊りは北海道で『ソーランぶし』という漁師たちの民謡と組み合わさって大盛況となり、やがて新たな〝文化〟として全国各地に広がっていったという。奇しくもその潮流は日本MMAの黄金時代と同じ二〇〇〇年代に起きていた。

 同時期にはインターネットが広く普及し、ここから発展したSNSソーシャルネットワークサービスや動画配信サイトなど様々な〝文化〟が大輪の花を咲かせている。飛行中の大統領専用機エアフォースワンへサイバー攻撃を仕掛けた首謀者『サタナス』が大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲーム公開リリースしたのもこの頃であった。

 住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した世界的な金融危機の影響によって退潮してしまったが、社会全体が新たな扉を幾つも開いていた時期とも言い換えられるだろう。『よさこい』もその流れの中で勢いを付け、として育っていったのだ。

 奥州市では毎年の夏に『よさこい』の祭りが開催されており、当日は踊りを披露する会場の一つとしてくだん商業施設ショッピングセンターの大型駐車場が解放されるのだった。つまり、『格闘大会の前夜祭』は広い空間を見繕って無理矢理に大掛かりなステージを置いたわけではなく、同市内の住民にとって定番のイベント会場を選んだ次第である。

 マフダレーナが下調べの過程で知り得た『よさこい』の情報を披露すると、ストラールは伴侶の博識を讃えるように赤褐色の髪へ唇を落とそうとした。

 正面のギュンターが忌々しげに舌打ちするよりも早くマフダレーナは伴侶ストラールの愛情表現を避けたが、これは当然であろう。カレー風味のネギ塩で味付けされた分厚い牛タンを平らげた直後の唇を押し当てられることは迷惑以外の何物でもないのだ。

 三人の意識が一つに重なったのは水玉模様の陣羽織を纏った男性が特設ステージに飛び出した瞬間のことである。頭頂部よりやや後ろの位置で束ねた姿は時代劇でやりかたなを振り回す戦国武将のように見えなくもない。結い上げた先端は花弁の如く開いていた。

 ローカルニュースの映像は生中継ではなく事前に収録されたものであり、編集を加える際に番組内での解説を邪魔しないよう音声も消されてしまっている。その為、喋っている内容は判然としないが、天をくほどの勢いで大音声を張り上げていることだけは画面内の様子から察せられた。

 ストラールたち三人の知り得る範囲に限られるのだが、このような出で立ちで岩手県のローカルニュースに現れる人間は世界に一人しかいない。二〇〇〇年代の黄金時代を支えてきた日本MMAの先駆者にして『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長――八雲岳である。

 ここ数年、日本各地の城下町では戦国武将に扮したPR集団による地域振興活動が盛んに行われている。かつて伊達だてまさむねが治めた奥州の地では仙台城がに該当しているが、演劇などを交えつつ観光客に城や町の素晴らしさを伝えているのだ。

 ボランティアや郷土の出版社など運営体制は集団によって様々であるが、その土地と縁の深い戦国武将になりきった観光案内という点は共通していた。伊達政宗を演じる場合には三日月を模った前立ての兜を被ることになるわけだ。合戦さながらに鎧を装着し、その上から陣羽織も纏うのである。

 くだんのPR集団は岩手県のローカルニュースにもたびたび登場しており、同地で暮らす住民たちは陣羽織の裾を靡かせながら握り拳を突き上げる魁偉な男もその一員と勘違いしてしまうかも知れない。

 しかし、画面内の彼は戦国時代の鎧ではなく『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークが刷り込まれたTシャツを着ているのだ。日本MMAを背負って立つ忍者レスラーであることをストラールたちは一目で理解した。


「やけに張り切ってるじゃねぇか、八雲岳ガク・ヤクモ。元からテンションの高いおっさんだったが、それにしたって今日は一段と派手に爆裂スパークしているぜ。血管ブチ切れるんじゃないか? 暑苦しい見た目からして血圧高そうだもんな」

「全身の血が沸騰しているとしか思えない熱い御仁であったればこそ、トビアス会長も全幅の信頼を寄せているのだろう? 八雲岳ガク・ヤクモの情熱が私には心地好いよ」

貴方ストラールの詩的な言い回しは何時だってわたしの心をときめきで包んでくれるけれど、ここはギュンターに賛成したいわね。……最前列で見物している方々にはおつゆの雨が降り注いでいるのではないかしら」


 「明日、初めてじかに拝見できるのが楽しみだよ。それだけは忘れない」とストラールが噛み締めるように呟いた通り、三人とも直接的に言葉を交わしたことはなかったが、八雲岳の熱量が高いことを知っている。

 日本MMAに明るい人間から伝え聞いただけではない。『鬼の遺伝子』としての異種格闘技戦から現在の『天叢雲アメノムラクモ』に至るまで様々な試合映像の中で『超次元プロレス』を極めた忍者レスラーは猛々しく咆哮していたのである。

 これに対して『超次元プロレス』の後継者たるしんとうは自身が倒した相手に勝ち誇るのでもなく、静かに礼を尽くしている。袂を分かった愛弟子とはリング上での立ち居振る舞いまで正反対であった。

 しかし、その熱い魂が日本格闘技界ひいては『ハルトマン・プロダクツ』の会長を動かしたことは揺るぎのない真実なのだ。

 直接、トビアス・ザイフェルトと交渉して協力を取り付けたのは『天叢雲アメノムラクモ』を主催するスポーツプロモート企業『サムライ・アスレチックス』の樋口社長である。日本MMAを黄金時代に導いた手腕と人脈は数年を経た現在いまも衰えていない。その証左とも言い換えられるだろう。

 日本でも最高峰と讃えられる空手道場『くうかん』の最高師範が統括本部長を務める打撃系立ち技格闘技団体『こんごうりき』の旗揚げにも関わり、また格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集長という前歴からメディアを操る戦略にも長けている――日本格闘技界に絶大な影響力を持つ樋口郁郎が〝暴君〟の如く恐れられていることも三人は承知している。

 「根回し」といえば聞こえは良いが、その大半は倫理を疑われるような情報戦と奸計である。彼は古巣である格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部まで意のままに動かしてしまえる男なのだ。

 印象イメージが悪化するような情報を流し、合併せざるを得ない状況に競合団体を追い込んでいる。挙げ句の果てには『サムライ・アスレチックス』で同団体の代表に懲罰人事まで行っている。そのような振る舞いに対する軽蔑はストラールも決して忘れはしない。


「……八雲岳ガク・ヤクモ樋口郁郎イクオ・ヒグチは違う。グチ祖父トビアスが――ザイフェルト家が最も忌み嫌うタイプの人間だからな……!」


 ギュンターが吐き捨てた一言にマフダレーナも躊躇うことなく頷き返していた。三人とも独裁者としか表しようのない樋口への嫌悪感を共有しているわけだ。

 これに対して八雲岳は現実の行動をもってして皆の心を動かしていく。己の意志きもちを伝え、とてつもなく大きな流れを生み出していく。格闘技界の誰よりも早く東日本大震災の復興支援に動いたことはドイツにもオランダにも届いている。

 国内外のスポーツメディアで「日本MMAの復活」とも報じられた『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げは八雲岳という存在なくして成り立たなかった。日本格闘技界が一丸となって取り組む東北復興支援事業プロジェクトも同様である。樋口郁郎一人が動いただけでは事業計画書を作ることしかできなかったはずだ。

 〝暴君〟にとって逆らえば生きる場所を失うという恐怖で人々を操ることは容易い。情報と印象を作為的に誘導し、誤った〝事実〟を大衆の脳に刷り込ませるすべは何千通り何万通りと知っている。

 しかし、〝真実〟を信じる者の心を変える力はない。即ち、本当の意味で人の心を動かす力が〝暴君〟には宿らないという七星セクンダディの徽章を付けた三人は知っている。欧州ヨーロッパで生きる誰もが歴史から学んできたのだ。

 だからこそ、世界最大のスポーツメーカーを率いる会長トビアス・ザイフェルトは打算がなく純粋で一途な八雲岳を評価し、日本MMAと再び手を結ぶことを決断したのである。

 二〇一一年三月一一日の急報に接した『ハルトマン・プロダクツ』では防寒具や衣類といった救援物資の寄贈が即座に計画されたが、『天叢雲アメノムラクモ』の活動を出資スポンサー企業として支えることに決めた一番の要因はテレビ画面で大声を張り上げている陣羽織の男であった。

 この〝決定打〟についてギュンターは祖父自身の口から教わっていた。前身団体バイオスピリッツと反社会的勢力の〝黒い交際〟に激怒し、一度は日本MMAを見限った会長トビアス・ザイフェルトの気持ちを変えることなど樋口郁郎には不可能である。

 八雲岳はマグマの如き情熱でもって日本格闘技界を動かす存在である。だが、今日の昂り方は異常としか表しようがなかった。身振り手振りは大仰を通り越して喜劇俳優の演技にも近く、勢い余って横転するのではないかと心配になるほどであった。

 レンズの中央に映り込むことは少ないものの、ステージには三日月模様のプロレスマスクを被ったレスラーも立っている。ただでさえ大きな口を開け広げた様子を見れば、八雲岳に当惑しているのは明らかだ。

 依然として映像に音声は付けられていないが、腰を大きく捻るような勢いでりきどうざんの伝家の宝刀――水平に閃く『空手チョップ』まで披露する岳と周囲まわりの人々の間には如何ともし難い温度差がある。


「統括本部長を務める八雲岳選手、気合いの入れ方が違いますね! 岩手の空に響き渡らん限りの大音声です! 元気があれば何でも出来るという闘魂が迸っています!」


 ローカルニュースのアナウンサーによる好意的な解説が映像に重ねられたが、それが虚しく聞こえてしまうほど空回りする八雲岳の姿は痛々しかった。

 登壇の際に握り締めていた手持ちマイクも同じシャツを着た運営スタッフへ早々に投げ渡している。腹の底から張り上げれば大型駐車場の隅々まで声を届けられるのだろうが、これでは〝本番〟の前日に体力を使い果たしてしまいそうだ。


「リトル・トーキョーでやったイズリアル・モニワとの――つうか、『NSBナチュラル・セレクション・バウト』との共同会見では行儀よくマイク使ってたハズだよな、八雲岳ガク・ヤクモ

「……ああ、想い出してきたよ。あのときは単純にスピーチ原稿を朗読しているだけのように見えたな。この映像のように興奮するまま喋っていたら、ただでさえ怪しい英語が更に聞き苦しくなったことだろう」

「ストラールが一番失礼よ。……確かにその……、何を話しているのか、字幕で追わないと意味不明な個所も多かったのは間違いないのだけれど……」

「素直なレーナが私には愛しくて堪らないよ」


 ローカルニュースが『格闘大会の前夜祭』という極めて曖昧な表現を用いている催し物の正式名称は『天叢雲アメノムラクモ』全選手公開計量――つまり、同団体が奥州市の総合体育館で開催する興行イベントの前日セレモニーである。

 それが為、特設ステージには最新式の体重計と、測定された数値が表示される大きなモニターが置かれているのだ。『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークからも察せられる通り、どちらも最大の出資スポンサー企業から提供された機材ものである。

 先ほど『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長は『空手チョップ』でもって危うくモニターを薙ぎ倒すところであった。

 ザイフェルト家の御曹司は言うに及ばず、オランダ・アムステルダムの空港から岩手県へ向かう旅客機に乗り込んだストラールとマフダレーナも『ハルトマン・プロダクツ』の一員スタッフである。

 三人は『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを視察するべく二〇時間を掛けて海を渡ってきたのだ。それ故に日米MMA団体がニューヨークのリトル・トーキョーで開き、合同大会コンデ・コマ・パスコマの開催を正式に宣言した共同会見についても八雲岳による演説スピーチの欠点まで事細かに把握していたのだ。

 テレビ画面の中では新人選手とベテラン選手の計量が始まっている。二人とも『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが刷り込まれたスポーツスパッツを穿き、剥き出しの上半身を観覧客や取材の記者に晒していた。

 体重計を挟んで立つ位置まで第一試合を戦う二人の選手を手招きした直後、岳の気持ちは更に昂ったようだ。唇の動きからも両者の体重を読み上げていることは察せられたが、その役割に左右の拳を天高く突き上げる必要は全くなかったはずである。

 ベテラン選手――じょうわたマッチが体重計に乗ると八一キロという数値がモニターに表示された。これは筋肉による重量おもみだけではあるまい。胸板も二の腕も逞しく盛り上がってはいるものの、腹周りに纏わり付く贅肉は〝プロ〟の格闘家にとって自己管理能力の欠落を疑われる材料でしかない。

 四〇路よそじに手が届くという現実――身体能力と新陳代謝の衰えが顕著になった事実は、サラシを巻いて引き締めても隠しようがなかった。

 対する新人選手――キリサメ・アマカザリは六二キロと測定されている。モニターが映し出したのは軽量級の格闘家というステータスであった。

 テレビを凝視していた酔客たちは何ともたとがたい呻き声を一斉に洩らしたが、画面の向こうからもどよめきが聞こえてくるようだ。少年の上半身はしなやかな筋肉に包まれているが、そこには無数の傷痕が刻まれていたのである。特に目立つのは脇腹に残った刺し傷のあとと、背中に穿たれた穴のようなあとがあった。

 背中に散見されるクレーターのようなあとは銃創にしか見えない。銃社会でもない日本にいて一般市民はドラマや映画の特殊メイクでしか見る機会がないものだ。

 「を格闘大会に出場しても良いのか」と慄(おのの)いていないのは、テレビには目もくれず談笑に興じている酔客や調理に勤しむ店員を除くとストラールたち三人だけである。

 三次元描写された仮想バーチャルの〝キャラクター〟である『あつミヤズ』が動画サイト『ユアセルフ銀幕』で強行した緊急暴露番組の内容は三人とも把握しており、今さらおののく理由もなかった。一部の市民が銃器まで使った反政府デモ『七月の動乱』に新人選手が関わったことも忘れてはいない。

 前方に突き出したリーゼント頭が震えるほどの気合いを漲らせ、両腕に力こぶを作って見せるベテラン選手とは対照的に新人選手のほうは今にも睡魔に屈してしまいそうな目付きであったが、テレビの前の酔客ひとびとが想像した通りのを身のうちに秘めていることは『ハルトマン・プロダクツ』の調査でも判明していた。

 広報活動の一環として『あつミヤズ』を運営している格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの編集部ひいてはこれを操って情報工作を試みた樋口郁郎でさえ掴んでいないのかも知れないが、この新人選手は反政府デモを扇動した『組織』の拠点へ乗り込み、首謀者の一党を壊滅に追いやったのである。

 この戦いの最中、『エスパダス』と称した首謀者はロケットランチャーの直撃を被り、比喩でなく本当に爆発四散している。希更・バロッサが主演するアニメ作品のような出来事ではあるものの、国内に不穏分子を抱えるペルーではそれほど珍しくもない――少なくとも同じ七星セクンダディの徽章を付けた三人はそのように認識していた。

 共通の大敵を壊滅させるべく共闘したペルー国家警察のみならず、日本で民間軍事会社を営む男性――以前はフランスの外国人部隊エトランジェに所属していた傭兵――とも深く関わったという。『ハルトマン・プロダクツ』の調査結果でも『ウォースパイト運動』を刺激し兼ねない要注意人物に指定されていた。

 暴走族チームの総長リーダーというベテラン選手の肩書きが遊戯おあそびと思えるくらいである。


「こいつ――この子ども、ペルーじゃなくてソマリアに生まれていたら、『ガダン』と一緒に〝少年海賊〟をやっていたんだろうな。きっと名コンビになったかも知れないぜ」

居酒屋こんなところクモさんのようなテンションになってしまったら、わたしとギュンターでも止められないわよ。それとも妄想が漏れ出さないようあなたの口をわたしの唇で塞いだほうが良いかしら?」

「……レーナの唇は何時でも歓迎しているけれど、ここは伴侶パートナーと親友の流れるようなコンビネーションを戒めとして受け止めたほうが良いだろうね」

「ていうか、居酒屋こんなところでキスシーンはやめろよな~。お店の皆さんから口笛と拍手ではやし立てられるような状況になっちまったら、いよいよ俺が居た堪れねぇっつ~の!」


 ギュンターから遠回しに牽制され、その意図を察したマフダレーナには肘でもって小突かれてしまい、ストラールは苦笑を浮かべるしかなかった。双眸は依然としてゴーグル型のサングラスで覆われていたが、その向こうに反省の二字が透けて見えるようだ。

 近年、欧州ヨーロッパ各国で深刻化の一途を辿っている難民問題にも『ハルトマン・プロダクツ』は取り組んでいる。ドイツ北西部の小村に設置された難民キャンプも全面的に支援しているのだが、今日と同じように三人で現地を視察した際、難民高等弁務官――マイク・ワイアットの紹介でストラールは一人の子どもと出会っていた。

 主催企業サムライ・アスレチックスの意向か、樋口郁郎の一存であるのかは判らないが、〝最年少選手〟という触れ込みで『天叢雲アメノムラクモ』ファンの注目を集めているキリサメ・アマカザリよりも数歳年下であるが、同じソマリア難民の子どもたちのリーダーとして大人を感心させるほど大きな目標を掲げている。

 一日も早く〝プロ〟の格闘家――いわゆる、〝難民選手〟としてデビューし、苦楽を共にしてきた仲間たちを養う為に巨額の報酬ファイトマネーを稼ぎたいというのである。

 日本から救援物資として送られてきたからを愛用こそしているものの、格闘技や武道を習ったことはない。しかし、生と死とが鼻先ですれ違う〝実戦〟は政情不安なペルーの貧民街で生きてきたキリサメ・アマカザリと同じくらい経験しているはずだ。

 彼もその仲間も大人たちの手によって無理矢理に兵士に仕立て上げられてしまった〝少年海賊〟であった。独特の形で発露する〝実戦〟経験の賜物は、傷だらけの肉体からだを晒したキリサメ・アマカザリと同様に極限的な環境で育ってきたことを表している。

 くだんの子どもをストラールは何かと気に掛けていた。『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手に彼を重ねて引き合いに出せば、テレビの向こうの岳に匹敵するくらい興奮してしまうだろう――そのことを二人から牽制された次第である。

 伴侶マフダレーナから「軽い嫉妬を覚える瞬間がある」と揶揄され、ストラールも自分自身に呆れてしまうくらい〝少年海賊〟のリーダーへ入れ込んでいる。これを自覚しているからこそ、喉まで出かかった『ガダン』という名前を飲み下すしかなかったのだ。

 尤も、この三人は岳が周囲まわりを置き去りにする勢いで興奮し続ける理由を誤解していた。

 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンや『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトでも喧伝されていることだが、明日の興行イベントでプロデビューを迎える新人選手キリサメ・アマカザリは統括本部長の養子むすこなのである。初めての公開計量に臨む彼を励まさんとする身贔屓のように見なしているわけだが、実際にはローカルニュースのカメラが撮影を開始する前から血管が張り裂けんばかりに昂っていた。


「しっかし、これほど無駄な時間を俺は他に知らないぜ。時間っていうか、あらゆる全てが無意味なんだけどさ。……大体、公開計量と言いながら茶番でしかないんだぜ」

「私の記憶が確かならば、希更・バロッサの父上は優秀な弁護士だったな。大事な一人娘を差し向けるからには団体の問題点を法律の面で叩いておくべきだ」

「俺も小耳に挟んだ程度なんだけどな、その父上は樋口郁郎イクオ・ヒグチの写真をダーツの的にしているそうだぜ。……『MMA日本協会』のお歴々どころか、日本中の格闘技関係者を片っ端から敵に回しているようなもんだよな」

「考えられる最悪の時期に〝八雲岳ガク・ヤクモの秘蔵っ子〟は『天叢雲アメノムラクモ』へ飛び込むわけか。神は耐えられないほどの試練に遭わせるようなことはなさらない――『コリント信徒への手紙』は我々にそう伝えているが、果たして彼は天に命を捧げるタイプかな?」

「……それよりもわたしにはバロッサ家の内情を細かく把握しているギュンターが恐ろしくてならないのですが。盗撮? 盗聴? まさか、ザイフェルト家の御曹司がストーカーに成り下がるとは……」

「人聞き悪いこと言うなよ、レーナ! わざわざ調べなくたって物騒な風聞ウワサが次から次へと聞こえてくるんだっつーの! 希更の父上、日本の法曹界で『ランボー』って呼ばれるようなヤバい人なんだぜ⁉」


 テレビの向こうで進む〝茶番〟を見つめながら苦々しい呟きを吐き捨てたギュンターに対し、ストラールとマフダレーナは呼吸いきを合わせるかのように重々しく頷き返した。

 総合格闘技MMAのみならず、ボクシングや柔道など多くの格闘技・武道――即ち、〝格闘競技〟は体重ごとに階級を分けて試合を執り行っている。体格差を超越した闘いは架空フィクションの世界では一種のマンとして好まれるが、現実には深刻な事故を引き起こす原因でしかなく、これを回避する為にも体重別階級が厳密に設定されるのだ。

 だからこそ格闘技興行イベントの公開計量は明確な意味を持ち、記者ライターも真剣な面持ちで取材のカメラを構えるのだが、〝完全無差別級〟を謳う『天叢雲アメノムラクモ』の場合は試合に向けてファンを昂揚させる為の余興パフォーマンスに過ぎないのである。

 体重を測定する必要もないのだから、ザイフェルト家の御曹司に「茶番」などと扱き下ろされるのも無理からぬことであろう。

 計量を行う『天叢雲アメノムラクモ』の選手たちは揃いのスポーツスパッツを穿いているのだが、これも余興パフォーマンスの衣装であって試合着ではない。

 ベテラン選手の側は〝ボンタン〟と呼ばれる風変わりなズボンを、新人選手の側は国際的な名声を持つデザイナーのたねざきいっさくが〝開発〟を手掛けた『キリサメ・デニム』をそれぞれ穿いてリングに赴くはずである。

 薄手のスポーツスパッツは主催企業サムライ・アスレチックスから指定された物だが、計量に影響しない軽装という条件を満たしていれば他の衣類でも構わず、スポンサーに対する配慮が最も重視されていることは一目瞭然であった。何しろ青地に『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが白く刷り込まれているのだ。

 ローカルニュースの映像にほんの少し映り込むだけでも相当な宣伝効果が発生することであろう。番組スポンサーを紹介する際にはロゴマークの部分へ解読不可能となる加工が施されるわけだ。

 〝スポーツ利権〟の最たる例であった。企業は広報活動の一環として競技団体や選手に出資するのである。三人からすれば公開計量も深夜に放送されている通販番組と大して変わらなかった。店内の酔客に対する効果は不明だが、視聴者の間でスポーツスパッツの購買意欲がどれほど高まったのか、これをもっ自社ハルトマン・プロダクツは評価を測るのだった。

 だからこそギュンターは「時間の無駄」と鼻で笑った。彼の目には自社ハルトマン・プロダクツ製品スポーツスパッツすらも道化ピエロの衣装にしか見えないのだ。それはストラールとマフダレーナも同様である。

 記事に添える為の写真を求める記者たちに対し、新人選手はどこか遠くへと視線を飛ばしたまま無反応である。真隣で構えを取って見せたベテラン選手は試合への意気込みを示すよう気の利かない〝後輩〟を怒鳴り声で指導していた。


新人選手ルーキーの初々しさも格闘大会の醍醐味といったところでしょうか。ビックリするくらいの無反応ノーリアクションに先輩選手が『てめーは生後三日の赤ちゃんか⁉』とツッコむたび、会場は和やかな笑い声に包まれていました」


 ローカルニュースのアナウンサーによる解説を信じるならば、前日セレモニーという名の余興パフォーマンス興行イベントに向けてファンの気持ちを盛り上げることに成功したようだ。


「……しかし、一九キロ差か。『ランズエンド・サーガ』の基準でも『NSB』の基準でも三階級は飛び越えることになる。このような対戦カードが罷り通る時点で『天叢雲アメノムラクモ』は実態調査の必要もないように思えてならないよ」


 まぶたを半ばまで閉ざすなど今にも睡魔に屈しそうな新人選手は公開計量の真っ最中ということも忘れてしまった様子であり、後輩の体たらくを捨て置けないベテラン選手は目を剥きながらも自分の隣に立つよう右の人差し指でもって示している。

 出来の悪い喜劇コメディのような二人を左右のレンズに映しているストラールの声は、を聴く者の背筋に戦慄が駆け抜けるほど冷たかった。依然として双眸を確かめることは叶わないが、瞳の奥ではくらい感情が淀んでいるはずだ。

 北米アメリカ最大の規模を誇るMMA団体『NSB』の場合、六五キロ以下はフェザー級、七〇キロ以下はライト級、七七キロ以下はウェルター級、八五キロ以下はミドル級と体重別で階級が分かれており、体格差が異常に離れることがないよう配慮しながら対戦も取り決められている。

 重量級には九三キロ以下のライトヘビー級、一二〇キロ以下のヘビー級という二つの階級が更に設けられていた。競合団体NSBで運用されている制度に当て嵌めるならば、新人選手はフェザー級、身の丈が一回りほど大きいベテラン選手はミドル級ということになる。

 『NSB』よりも先にストラールが口にした『ランズエンド・サーガ』とはイギリスに拠点を構え、欧州ヨーロッパ全土で興行イベントを開催する打撃系立ち技格闘技団体であった。昨今は〝オイルマネー〟と結び付き、中東にも活動の場を拡大させつつある。

 名実ともに欧州ヨーロッパ最大の格闘技団体であった。支払われる報酬ファイトマネーも『NSB』に匹敵するほど巨額であり、ガダン――〝少年海賊〟のリーダーが〝難民選手〟としてデビューしたいと望んでいるのも『ランズエンド・サーガ』なのだ。

 報酬ファイトマネーだけでなく、体重別階級制度も『ランズエンド・サーガ』と『NSB』は大きく変わるものではなかった。


「……私の記憶が間違いでなければ、フロスト・クラントン――あの恥ずべき男にされた『ランズエンド・サーガ』でもここまで無謀な対戦カードはなかったはずだ」

「クラントンの野郎、性根は腐り切っていやがるが、アメリカのショービジネス界でのし上がっただけあって頭の回転だけは速いからな。短期間で『NSB』のときと同じ失敗は繰り返さないだろうぜ。……欧州ヨーロッパを追い出されたら追い出されたでドバイ辺りにしぶとく雲隠れしそうだがよ」

「同じ失敗というか、欧州ヨーロッパでは〝本性〟を剥き出しにする必要性を殆ど感じていないのではないかしら? ……こうして話しているだけでもわたしは吐き気を催してしまうわ」

「ある意味、あの野郎にとっちゃ理想郷ユートピアみたいなモンだしな。……日本ここじゃ樋口郁郎イクオ・ヒグチに集中しているんだろうな。さすがにクラントンの同類扱いは失礼かァ?」


 答え合わせを求めるような響きを持っていたストラールの声に応じ、伴侶マフダレーナ親友ギュンターは殆ど同時に頷き返した。

 ストラールはキックボクシングの名門としてオランダに君臨するオムロープバーン家の御曹司であり、また所属先ハルトマン・プロダクツとの関わりが深いこともあって北米アメリカ最大のMMA団体より先にの『ランズエンド・サーガ』を思い浮かべたのである。

 何しろ同団体ランズエンド・サーガを運営する企業の親会社は『ハルトマン・プロダクツ』なのだ。

 広い意味ではフロスト・クラントンなる人物も〝身内〟に含まれるはずだが、その名を吐き捨てるストラールの声はくらい憎悪を帯びていた。伴侶マフダレーナ親友ギュンターも穏やかならざる感情を抱いている様子である。底抜けに明るい喧騒の只中にって七星セクンダディの徽章を持つ異邦人だけが眉間に皺を寄せていた。

 三人も会話の中で触れているが、フロスト・クラントンはイズリアル・モニワへ禅譲する前に『NSB』の団体代表を務めた人物である。

 テレビ番組やブロードウェイのステージショーなどエンターテインメント業界で成功を収めた実業家であり、全米で右に出る者はいないとまで謳われたマーケティングの手腕を求められ、『NSB』の創始に携わったのだ。

 MMAの歴史を黎明期から支えた最重要人物キーパーソンの一人であることに異論を挟む者は『NSB』内部にもいないが、一つの事実として現在のアメリカにフロスト・クラントンの居場所は存在しない。

 テレビ業界での実績からPPVペイ・パー・ビューにも精通していたフロスト・クラントンの手腕があったればこそ『NSB』はアメリカひいては世界最高のMMA団体まで成長したのだが、本人は骨の髄までショービジネスに染まり切った人間であり、八角形オクタゴンの戦場に命を懸けるMMA選手も全世界のファンを熱狂させる試合も、何もかもという価値観でしか捉えていなかった。

 代表就任以降はいよいよ暴挙が止まらなくなり、『NSB』を〝超人ショー〟として売り出すべく団体内にドーピングを蔓延させ、ついにはアメリカ格闘技界から永久追放されたのである。

 逃亡先――『ランズエンド・サーガ』にいてはマフダレーナが指摘したように邪悪な〝本性〟を露にしておらず、傍目には極めて堅実に代表として采配を振るっていた。

 『NSB』で成功したPPV戦略を踏襲しつつ、俄かに話題となり始めた有料動画配信も即座に取り入れ、テレビやパソコン、携帯電話――ありとあらゆる媒体で『ランズエンド・サーガ』の試合を共有できる体制をごく短期間で整えたのである。

 動画サイト『ユアセルフ銀幕』にチャンネルを開設する一方、活動拠点であるイギリスのテレビ業界とはとりわけ深く結び付いていった。『ランズエンド・サーガ』に所属する選手たちの紹介を兼ねたバラエティー番組を自ら企画すると、大衆の耳目を引く過激な内容で話題を巻き起こし、団体そのものの知名度を一気に跳ね上げたのだ。

 衛星放送のスポーツ専門チャンネルに同番組を組み込んだことも戦略の一つであろう。これによって国外での視聴が簡略化され、SNSソーシャルネットワークサービスを中心にインターネット上で話題騒然となった。『ランズエンド・サーガ』の人気にも大きな影響を与えたことは改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 などはない――『NSB』でマーケティングを担当している頃に発した言葉は今でも通用すると実績でもって示したフロスト・クラントンは、アメリカ格闘技界にとって大いなる脅威でしかなかった。


「一九八五年に自分の会社から追い出されたスティーブ・ジョブズは一二年を費やして自分自身の値打ちを引き上げ、とうとう復讐を果たした。それと同じような〝計画〟が『ランズエンド・サーガ』で再現されるとしたら、これほど胸糞の悪いハナシはないぜ」

「確かにジョブズは自分を追い出した企業に返り咲いたが、『NSB』が再びあの男を迎え入れるようなことは絶対に――いや、……クラントンの〝計画〟は最終的にはに行き着くわけか……」

「わたし個人としては一日でも早く『ハルトマン・プロダクツ』から離れて貰えると嬉しいのだけど、野放しにするとそれもまた厄介ね。〝オイルマネー〟まで押さえたからには〝王殺し〟のような真似を仕掛けてくるかも知れないし……」

「よくもまァ猫を被ってドバイの〝石油王〟と手を組んだモンさ。マンスール・ビン・モフセン・アル・クルスーム――自分の豪華客船が大火事に遭ってもビクともしないあの男はフロスト・クラントンをどう見ているか? ……ヤツの〝本性〟を知らないワケじゃあるまいしな」


 『ランズエンド・サーガ』の隆盛は世界最大のスポーツメーカーである親会社ハルトマン・プロダクツにも大いに有益であろうが、フロスト・クラントンの行動原理の裏に巣食うモノ――『NSB』を崩壊寸前にまで追い詰めることになった〝本性〟がどうあっても受け容れられないギュンターは軽蔑の念を隠そうともせず、ストラールとマフダレーナもを窘めることはなかった。


「……わざわざ話を蒸し返すのもシャクだが、樋口郁郎イクオ・ヒグチも根っこの部分はクラントンと何一つ変わらないぜ。さっきの新人選手ルーキーにも〝最年少選手〟だの何だのと謳い文句をゴテゴテ付けて派手に売り込んでいるだろう? 今まで〝子分〟の団体から選手を見繕って補っていた軽量級を自前で賄える好機チャンスだって、きっと舌なめずりしたハズだぜ、あの野郎――」


 口から飛び出しそうになった醜い言葉を押し流すべくクラブソーダを一息に飲み干したギュンターが指摘した通り、『天叢雲アメノムラクモ』には軽量級の選手が極端に少ない。

 『昭和』の伝説的レスラーによる異種格闘技戦を出発点とし、実戦志向ストロングスタイルのプロレスの延長から始まった日本MMAは興行イベントの運営もに近い。前身団体バイオスピリッツの第一回興行イベントに至ってはプロレスとブラジリアン柔術の頂上決戦を目玉メインイベントとして売り出していたのである。

 前身団体かつての〝道〟を基本的に踏襲している『天叢雲アメノムラクモ』もリングを揺るがすプロレスさながらのぶつかり合いに比重を置いていた。それ故に八雲岳やモンゴル・ウランバートル出身のもと横綱であるバトーギーン・チョルモンといった重量級の選手層ばかりが異様に厚いのだ。

 尤も、重量級の選手ばかりが脚光を浴びるのは日本格闘技界独自の特徴ではない。アメリカ・プロボクシング界の歴史に〝悪名〟を刻んだ剛腕の興行主プロモーターもヘビー級に偏重する傾向が強く、経歴キャリアの最盛期から現在に至るまで物議を醸し続けている。

 無論、その手法がアメリカのボクシング人気を爆発的に高め、熱狂の中で『不沈艦』の異名を取る伝説的ヘビー級統一王者チャンピオン――カービィ・アクセルロッドを生み出したことは紛れもない事実である。「重量級選手同士による大迫力のぶつかり合いは興行収入へ結び付く」という発想は国を跨いで共通しているわけだ。

 家族に不幸があった為に二大会の出場を辞退し、明日の興行イベントから『天叢雲アメノムラクモ』に復帰する絶対王者――『かいおう』も他団体の基準に当てはめるとヘビー級選手であった。

 軽量級選手の開拓と育成を怠ってきたツケを新人選手ルーキーに払わせるつもりか――そのように樋口郁郎を罵るギュンターの声色はフロスト・クラントンへの軽蔑を吐き捨てた瞬間ときと全く同じであった。

 空回りはともかく興行イベントを全力で盛り上げようとしている統括本部長とは異なり、団体代表の姿は特設ステージのどこにもない。裏舞台で糸を引く黒幕のような振る舞いもギュンターはかんに障ってならないようだ。


「新人選手を良いように使って使って使い潰す腹積もりじゃねぇのか? 軽量級の新規開拓でさえあの野郎には建前で、裏じゃもっとドス黒いコトを企んでいるハズだ」

「……ここ最近、前身団体以来のベテラン選手を異常なほど冷遇していることはわたしも聞いているわ。『NSB』との合同大会に照準を合わせて選手層の若返りを試みているという見立てもあるようだけど……」

「団体の〝細胞〟を活性化させようっていうのはトップの判断として必ずしも間違いとは思わねぇさ。古馴染みに気を遣ってズルズルと同じコトを繰り返していたらジリ貧まっしぐらだ。……しかしな、それにしたってやり方っつうモンがあらァな」


 前日セレモニーの特設ステージでは希更・バロッサの計量が始まっているが、自社ハルトマン・プロダクツのスポーツスパッツに所属先バロッサ・フリーダムのタンクトップを合わせるという出で立ちにもギュンターは浮ついた反応を示さなかった。

 体重計へ乗る前に持ってきたフライパンを腕力のみで二つに折り曲げて見せた希更も双眸で追い掛けてはいたが、彼女の右手首に結ばれたミサンガと同じデザインのネックレスを指先で弄ぶこともない。

 ギュンター思考あたまは『ハルトマン・プロダクツ』の一員スタッフとしてのに切り替わっていた。ザイフェルト家の一族にとって公私混同という情況は〝正しくない〟わけだ。

 現在いまのギュンターは希更に続いて画面内に登場したギリシャ人選手のほうに強い眼差しを向けている。彼も城渡マッチと共に日本MMAの黄金時代を支えたベテランである。


「団体を私物化する野郎は信頼関係で結ばれていなきゃいけない選手すら手前ェの玩具と勘違いするモンだ。……この先、〝彼〟だってどうなるか、分かったもんじゃないぜ」


 『ハルトマン・プロダクツ』の調査によれば、MMA選手としての最盛期を過ぎた彼は『天叢雲アメノムラクモ』の水準レベルいていけず、肉体の損傷も限界に達しつつある。その上、祖国ギリシャは二〇〇九年に直撃した経済危機から立ち直っていない為、転職もままならない。

 物静かな佇まいからも察せられる通り、レオニダス・ドス・サントス・タファレルのようなタレント活動には不向きである。家族を養う為にはMMA選手としてリングに上がり続けるしかなかった。

 八方塞がりとなったすえ報酬ファイトマネーの額が下がっても現在の状態で闘える水準レベルのMMA団体へ移籍することを模索し始め、『天叢雲アメノムラクモ』との契約上で生じる問題について法律事務所を営む希更の父――アルフレッド・ライアン・バロッサに相談したという。

 〝下降移籍〟を繰り返しながらも生計を立てようとする〝スポーツ労働移民〟である。

 近年、野球やサッカーのプロリーグで起こっている各国共通の問題が格闘技界でも確認された次第である。〝スポーツ労働移民〟を選択する理由は様々だが、己の肉体を使い潰してでも家族の生活くらしを守らんとするギリシャ人選手は逼迫の度合いが違う。

 しかし、樋口郁郎は社会情勢に翻弄された困窮を汲み取り、己のことのように寄り添う人間ではあるまい。希更の父親が守秘義務を厳密に果たしてもギリシャ人選手が移籍を模索した事実は程なく主催企業サムライ・アスレチックスに届いてしまうだろう。そのとき、信義に悖る行為として契約解除の口実に利用しないはずがない。

 相手は日本にMMAの黄金時代を築いた〝同志〟たちまで切り捨てようとする〝暴君〟なのだ。創始者の一人でありながら『NSB』を破滅させようとしたフロスト・クラントンよりも樋口郁郎は更に恥ずべき人間である――先程のストラールもそのように吐き捨てていた。


「……〝八雲岳ガク・ヤクモの秘蔵っ子〟は考えられる最悪の時期に『天叢雲アメノムラクモ』へ飛び込むのか……」


 テレビ画面の映像がわんこそば世界新記録更新というニュースに切り替わったのは、数分前に己が洩らした呟きをストラールが再び繰り返した直後のことであった。

 全選手参加の前日セレモニーでありながら、何人かが登場しない内に映像そのものが打ち切られてしまったのである。『天叢雲アメノムラクモ』に絶対王者として君臨する『かいおう』の計量すら含まれていなかった。

 撮影した映像を限られた放送時間内でまとめるには取捨選択が欠かせない。くだんのローカルニュースでは日本人選手や声優として子どもたちにも馴染みのある希更、タレント活動によって国内での知名度が高いレオニダスを中心に取り上げている。最後に映ったのは日本の誰もが一度はテレビで顔を見たことがある〝悪玉ヒール〟レスラーのギロチン・ウータンであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』の絶対王者であろうと格闘技界から一歩でも外に出れば全く認識されないという証左である。〝地球史上最強の生物〟という仰々しい異称も殆ど共有されていないのだろう。現役引退後に沖縄クレープの移動販売を成功させ、テレビのバラエティー番組にも定期的に出演しているじゃどうねいしゅうのほうが世間では名前をおぼえられているはずだ。

 テレビの前に詰め寄せ、穴の開くほど画面を見つめていた酔客たちから大きなどよめきが起こったのだが、改めてつまびらかとするまでもなく『かいおう』の姿を確認できないまま別のニュースへ移ってしまったことに動揺しているのではない。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行には奥州市の『よさこい』から誕生した五人組のローカルアイドルの客演が発表されており、前日イベントでも歌と踊りを披露する予定であった。

 読んで字の如く〝ローカルアイドル〟は大手事務所に所属し、テレビ番組への出演やコンサートといった全国規模の芸能活動を行うわけではない。その性質は戦国武将に扮して地域振興に励むPR集団と似通っており、住民たちも地元の催し物を盛り上げる〝近所の人気者〟といった感覚で接しているのだ。

 つまるところ、酔客たちは〝地元の星〟とも呼ぶべき五人組アイドルグループがローカルニュースに登場する瞬間を待ち侘びていたわけである。間もなくどよめきの声は拍子抜けとしかたとえようのない溜め息へと変わった。そもそもアイドルとおぼしき人影は公開計量が進む最中も一度として映り込んではいなかった。おそらくは特設ステージへ登壇もしていないはずだ。


「……脅迫事件は事実だったわけだな……」


 テレビから少しばかり離れたテーブルでずんだ餅を頬張っていた酔客の一人が「今回は出演キャンセルしたど誰がに聞いだぞ」と伝え聞いた噂話を明かし、店内に新たなどよめきを起こした。

 〝地元の星〟の出番が割愛カットされたものと思い込み、落胆していた人々は事情に詳しい様子の男性を取り囲むと、口々に話の続きを求めている。「身の回りに気ぃ付けろって物騒な手紙ど一緒さ鉄砲の弾丸タマおぐげられだらしいぞ」という実しやかな説明が耳に入ってしまったギュンターは思わず祖国ドイツ言語ことばで呻いてしまった。

 はこの場に居合わせた殆どの人間が知り得ないことである。『ハルトマン・プロダクツ』から派遣された三人も僅か三時間前まで全く把握していなかったのだ。

 ドイツとオランダ――別々の国から旅客機に乗り込み、異なる時間に花巻空港へ到着した三人は合流後に市内のビジネスホテルで視察に向けた打ち合わせを行っている。その際にスピーカーフォンの形で参加した『MMA日本協会』の面々からくだんのローカルアイドルが巻き込まれた穏やかならざる事態トラブルを教えられたのである。

 日本の片隅で起こった事件がドイツひいてはオランダまで届くはずもなく、親友ギュンターのように感情を真っ直ぐに述べることがないストラールでさえ「興行イベントが始まる前から致命的な減点が付いたな」と苛立たしげに言い捨てた。

 東京からやって来る格闘大会に参加することは貴方たちの為になりません。くれぐれも身辺にご用心を――同封されていた拳銃の弾丸は玩具の物であったそうだが、これを乱雑にくるんでいた一枚の便箋は紛れもなく脅迫状である。

 ローカルアイドルは大手芸能事務所に所属しているわけではない。くだん五人組グループも地域の活性化を目的とした非営利団体であり、半ばボランティアに近い。万全の警備体制など望むべくもなく、脅迫状を送り付けた犯人が逮捕されない限りは『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントに参加することは不可能であった。

 結成は三年前――二〇一一年である。『よさこい』の文化を骨子に持つグループだが、直接的なきっかけは東日本大震災の復興支援なのだ。その気持ちを分かち合う『天叢雲アメノムラクモ』との提携を諦めざるを得ないことは無念の極みに違いない。

 それほど深刻な事態でありながらニュースや新聞では一度も報じられず、警察の捜査も秘密裏に進められている為、居酒屋の酔客たちは脅迫状の存在すら知らなかったのだ。

 は間違いなく刑事事件なのである。それにも関わらず、今日まで公にならなかったのは樋口郁郎が情報規制を仕掛けたとしか考えられなかった。興行イベントを直前に控えた選手たちを動揺させない為の配慮か、あるいは『天叢雲アメノムラクモ』の印象イメージ――即ち、MMA団体としての信頼性を損ねない為の措置であったのか。

 真偽はともかくとして、樋口郁郎も『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業も、ザイフェルト家の御曹司たちが来日することを知っていながら忌むべき事件を『ハルトマン・プロダクツ』に報告しなかった。五人組が脅迫状を受け取ったのはほんの数日前のことであり、このときには既に視察は決定していたのである。

 ギュンターが樋口のことを悪しざまに罵るのは、こうした不信感が積み重なった結果に他ならない。無論、それはストラールとマフダレーナも同等であった。


「先程の映像を見る限り、公開計量は何事もなく進んでいたようだが、……例の脅迫事件は選手にも知らされていないのではないかな。統括本部長でさえ把握していない可能性も濃厚だよ。……はさすがにからげんには見えない」

「ストラールの読みが外れていたのなら、わたしたちはそもそも岩手ここには居ないはずよ。バロッサ家の誇る敏腕弁護士ランボー主催企業サムライ・アスレチックスの事務所に殴り込んで興行イベントそのものを叩き潰したかも知れないわ。……不当な暴力に屈しなければならない五人組グループの気持ちは察して余りあるわよ……」

「俺も詳しく調べたワケじゃないが、日本のインディーズシーンではこのテのトラブルが山ほど起きているらしいぜ。ネットで少し検索しただけでも厭になるくらい事例が出てきやがる。アイドルを守る為にも慎重にならざるを得ないんだろうな。選手の将来さえゴミ同然に扱いやがる樋口郁郎イクオ・ヒグチに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいもんだ」


 インターネットを駆使して日本のアイドル事情を調べたというギュンターであるが、そもそも彼は〝ローカルアイドル〟と〝ライブアイドル〟を混同しており、脅迫事件との共通点を読み違えている。

 七星セクンダディの徽章を付けた三人がドイツ語ではなく日本語で喋っていたなら、あるいは店内の誰かが誤解を指摘したことであろう。ストラールもマフダレーナも日本のアイドル文化に明るくない為、疑問を呈することもできなかった。

 ストラールの検索結果にも表れている通り、客席とステージの距離が目と鼻の先というほど近いライブハウスで活動している種類タイプのアイドルが身の安全を脅かされる事件は後を絶たない。

 〝高嶺の花〟ではなくじかに触れ合えるような距離感は〝ローカルアイドル〟と〝ライブアイドル〟に共通する特徴であるが、地域の催し物に軸足を置く前者に対して後者の場合は過激なファンの接近を許してしまう弊害と表裏一体なのだ。

 当然ながらローカルアイドルを狙った脅迫事件もファンによる犯行が疑われているが、格闘技に関わる三人はを別の視点から捉えていた。脅迫状の文面からは「格闘大会への参加」を阻止したいという意思を読み取れるのだ。


「……この一件に『ウォースパイト運動』が関与していると思う? アメリカと違って日本ではまだ実害が確認されていないと思って油断していたのだけど、『天叢雲アメノムラクモ』がわたしたちに事件を隠しているのなら状況も一変するわ。リオと同じくらい深刻じゃない」

「丁度、四ヶ月前にトーキョーで都知事選があったのをおぼえてるか? 格闘技根絶を公約に掲げたバカが一人、立候補していた選挙だよ。そいつは十中八九、『ウォースパイト運動』に脳を汚染やらられてる」

「その候補は記憶にないが、仮にも首都の行く末を占う選挙にテロリスト同然の活動家が堂々と名乗りを上げるとは異常事態としか言いようがないな。日本でも何処で〝何〟が起きても不思議ではない。……日本がテロの恐怖に晒されるのは何年ぶりだろうな」


 これまでになく沈鬱な面持ちで喉の奥から一つの問い掛けを絞り出したマフダレーナに対し、ギュンターは二〇一四年二月九日に実施された東京都知事選を例に引きつつ頷き返した。ストラールもまた二人に向けて私見を述べていく。

 『ウォースパイト運動』――この世に存在する全ての格闘技を許し難い〝人権侵害〟と見做し、根絶を目指す思想活動である。

 シンボルマークでもある管楽器を一斉に吹き鳴らして選手・関係者を追い立て、『NSB』の試合場には火炎瓶や放水によって実害までもたらしている。暴力と批難する格闘技を同じ暴力で攻撃することは矛盾以外の何物でもないが、人権擁護という名の〝正義〟を妄信する活動家は世界秩序の守護者を自負しており、罪悪感に苛まれるどころか、何をしても許されると疑わないのだ。

 欧米では格闘技関係者と過激活動家の間で乱闘まで起きていた。『NSB』のファンが歪んだ人権擁護を掲げる青年の住宅まで押し込み、私刑にかけた際には警察によって封印された〝現場〟までストラールとギュンターの二人で視察に赴いている。

 先月、アメリカ合衆国大統領専用機『エアフォースワン』が飛行フライト中にサイバー攻撃を受けるという前代未聞のテロ事件が発生したのだが、連邦捜査官FBIによって身柄を拘束された首謀者もまた『ウォースパイト運動』の活動家であった。

 『サタナス』と称したサイバーテロの首謀者はカリフォルニア州に所在する重罪犯専用のフォルサム刑務所に収監されたが、今や『ウォースパイト運動』の同志の間では聖人の如く崇拝されている。

 人権擁護という絶対的な〝正義〟を執行する為ならば超大国の大統領をも恐れないという前例を作ってしまったのである。世界中でアメリカ同時多発テロ――『九・一一』の再現と報じられたテロ事件も志を同じくする活動家にとっては高潔な覚悟というわけだ。

 万が一にも死刑判決がくだっていたなら『サタナス』という名の殉教者は〝同志〟の間で永遠の存在となり、更なる暴力へと衝き動かしたことであろう。思想活動の先鋭化を招き兼ねない為、フォルサム刑務所でも取り扱いに苦慮しているという。

 このような有り様を〝セントヘレナ島のナポレオン〟になぞらえて風刺したアメリカの新聞は本国以上に欧州ヨーロッパで反響を呼び、特にフランスでは類似のコラムが数え切れないほど書かれている。

 今年の二月にロシア・ソチで開催されたオリンピック・パラリンピックをスポンサーの立場から支えた医療・福祉機器メーカーの経営者一族であり、同大会に有力選手も送り込んだフランススポーツ界の名門――バッソンピエール家も「アメリカの〝セントヘレナ〟にハドソン・ローはいるのか」と指摘する声明を発表していた。

 潜在的な危険性はともかく思想活動そのものを取り締まることは重大な人権侵害である為、各国の司法機関も〝正義〟の笛を吹き鳴らす活動家たちを一網打尽にすることはできない。だが、現実に『ウォースパイト運動』が行っているのは格闘技に対する抗議活動ではなくテロ行為なのだ。


「……このような時期にバッソンピエールも余計なことをしてくれたものだ……」


 フランスの名門バッソンピエールに対して善からぬ感情でも抱いているのか、ワイシャツで輝く七星セクンダディの徽章を人差し指でもって弾いたストラールは、これ以上ないというほど忌々しげな溜め息を零した。


「例の声明に触発されて本当にハドソン・ローの再来が現れたらどうなる? 〝同志〟の誰かが『ナポレオンはローに暗殺された』と吹聴すれば、かつて〝ボナパルティスト〟が仕損じた奪還作戦がフォルサム刑務所で再現されることになるはずだ」

「刑務所内の誰かがを信じて『サタナス』に毒を盛れば殉教者の出来上がり――どう転んでも厄介だぜ。ストラールの言葉を借りるようだが、これほど厄介なことはねぇな」

「ソチでも思うような成果を出せずに焦っているのかも知れないわね、バッソンピエール家の一族かたがたは。……格闘技との関わりも浅くないフランスの名家が現代の〝ボナパルティスト〟を煽るなんて、これ以上に皮肉は話をわたしは知らないわ」


 『九・一一』の悲劇を体験しながら大統領専用機エアフォースワンに対する攻撃を厭わない『サタナス』のような存在が一斉に蜂起すれば内戦状態に陥るかも知れない。アメリカでは大統領の最高軍事顧問である統合参謀本部議長――アルフレッドの実母である――でさえ『ウォースパイト運動』を〝将来的な脅威〟として警戒し始めていた。

 自分たちが愛してやまない格闘技を侵害する思想活動に私刑リンチもって報復するという暴力の応酬が更なる騒乱の前兆と見なされたわけだ。

 だからこそ三人はローカルアイドルに送り付けられた脅迫状が格闘技に言及していた事実を深刻に受け止め、過剰反応してしまうのだった。

 そして、この『ウォースパイト運動』こそ最大の出資スポンサー企業が『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを視察する理由であった。

 ストラールが指摘した通り、今や日本でも『ウォースパイト運動』が凶行に及び兼ねない状況であった。少なくとも『ハルトマン・プロダクツ』はそのように認識している。万が一にも『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場でテロ事件が発生した場合、主催企業サムライ・アスレチックスの能力で対処し切れるのか――出資スポンサー企業は警備体制の調を急務と考えていた。

 アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで市民マラソン大会が開催されているなか、スポーツ史に刻まれる悲劇が起きてしまったのはほんの一年前である。設営スタッフも専属ではなく流動的な〝旅興行〟の中で会場に爆弾が運び込まれる事態を樋口郁郎と主催企業サムライ・アスレチックスに防ぎ切れるのか、これを確認しないわけにはいかない。

 視察の対象に全選手参加の開催前日セレモニーは含まれていなかったのだが、参加者に対する脅迫事件を隠蔽されるようなら出資スポンサー企業の強権を行使してでも現地――先程までテレビ画面に映っていた大型駐車場へ赴くべきであったとさえ三人は思っている。

 世界最高水準レベルの警備体制を整えたにも関わらず、一九九六年アトランタオリンピックでは爆破事件を防げなかった。死傷者が一一〇人を超える悲劇は屋外のコンサート会場で起こったのだ。

 『ハルトマン・プロダクツ』以上に『天叢雲アメノムラクモ』の危機管理能力へ厳しい視線を向けているのは過激活動家のテロ行為に苦しむ『NSB』である。『ウォースパイト運動』から最優先の攻撃対象と見做されている状況だが、ともすれば合同大会コンデ・コマ・パスコアを推し進める『天叢雲アメノムラクモ』まで狂気の奔流に呑み込まれ兼ねなかった。

 大統領専用機エアフォースワンに対するサイバーテロはアメリカの政権中枢を支える上級職員でも政府高官でもなく、その日、偶然たまたま乗り合わせていた少女が最大の標的であったと『サタナス』たち犯行グループへの取り調べによって判明している。

 政府の仕事を見学する為に名門学校から選抜された仲間たちと大統領へ同行していたその少女は『NSB』副代表の孫娘であった。年端も行かない子どもを精神的に追い詰めようという幼稚な犯行動機の為に超大国の大統領をも次第である。

 カリフォルニア州サンノゼの道場スタジオにて『アメリカン拳法』を極め、『NSB』にも出場するルワンダ人のMMA選手――シロッコ・T・ンセンギマナも攻撃対象に含まれていたという。祖国を代表して大統領に表敬訪問するべく『空飛ぶホワイトハウス』へ同乗していたのだ。

 偏った思想に衝き動かされるは尋常ならざる存在である。日米双方の安全という現実問題を突き付けられた以上、『天叢雲アメノムラクモ』としても『NSB』による視察の申し入れは断れまい。それは最大の出資企業ハルトマン・プロダクツも同様である。

 二方面から同時に警備体制ひいては危機管理能力を問われた樋口は、敢えて双方の視察を岩手興行に固めた。とりわけ『NSB』には内政干渉と反発しているようで、要らざる口出しを封じるべく世界最大のスポーツメーカーという後ろ盾を見せつけようと謀ったのであろう。

 露骨あからさまとしか表しようのない樋口郁郎の意図を見抜いた『NSB』が反撃に転じないわけがなく、日本MMAに関わる人々が最も忌み嫌う人物を岩手興行に差し向けるそうだ。

 一連の攻防についてもザイフェルト家の御曹司は「不愉快極まりねぇ」と親友ストラールを相手に繰り返している。『ハルトマン・プロダクツ』の権威を利用されることは言うに及ばず、日米のMMA団体が互いに牽制し合うような構図の中へ入っていくのは気分の良いものではない。

 『MMA日本協会』から教わった話によると合同大会コンデ・コマ・パスコアの会場が東京ドームに正式決定した際、八雲岳は喜びを爆発させたという。その一方で樋口郁郎は『NSB』が試合の際に運用しているシステムを掠め取らんと画策しているそうではないか。これでは長年の戦友でもある統括本部長の純粋な気持ちまで踏みにじっているようなものであった。


「……樋口郁郎イクオ・ヒグチの何もかもが疑わしく思えるのは俺の器が小さいからかねぇ。『天叢雲アメノムラクモ』のスポンサーを続けているのが正しい判断なのか、正直、総帥の器はデカ過ぎて俺にも読み切れないんだよ。……それを言い始めたらフロスト・クラントンの代表就任を認めたのも祖父なんだから、いよいよ頭がパンクしそうだぜ」


 大器の持ち主と言い表した祖父――ザイフェルト家の総帥に対するやり場のない感情を洩らしたギュンターは、徳利の底に残っていた地酒さけを猪口も使わず一気に呑み干した。

 この場にトビアスが居たなら厳しく咎められるような品のない飲み方であるが、二人の親友は何も言わずにそれを見守っている。


「こうも憂鬱な事態に陥ると分かっていたら、日本ではなくブラジルのほうを出張先に選んだほが良かったかも知れないな。バロッサ家の娘に色目を使おうと考えたのがそもそもの失敗だったんじゃないか、ギュンター? 邪な気持ちを天が見逃すはずもない」

「今はお前の皮肉が心地好いぜ。自分の役割は忘れちゃいないさ。が適材適所ってこともな。『MMA日本協会』の顔だって潰すわけにもいかねぇ」

「オランダも快勝したことだし、私は正直、ブラジルのほうが良かったのだけど……」

「……レーナ、地球の裏側に飛んだ人たちもサッカーの観戦ではなくてブラジル社会の実態調査が目的だよ。ワールドカップの犠牲者を訪ねようというときにマラカナン・スタジアムから出てきたら、町中の全員から血走ったで追い掛け回されるはずさ」

「わ、私だってそこまで無神経なことは考えていないつもりよっ?」

「慌てた顔のレーナも私には愛しくて堪らないよ」


 二〇一四年六月から翌七月半ばまでブラジルではサッカーワールドカップが開催されており、第一試合の二日間と『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行は重なっている。ザイフェルト家の御曹司たちが奥州市へ入ったようにマラカナン・スタジアムに代表される試合会場にも『ハルトマン・プロダクツ』の上層部が赴いていた。

 双方にスポンサーとして関わる『ハルトマン・プロダクツ』は日伯両国で同時にる調査を行っているのだ。

 ブラジルでは今年のサッカーワールドカップから二〇一六年開催のリオオリンピック・パラリンピックまで〝メガスポーツイベント〟が短期間で続く。前者は二〇〇七年、後者は二〇〇九年にそれぞれ開催が決定していた。計九年という時間を掛けてブラジル社会全体がどのように変貌していくのか、その調査が現地の支社を中心として進められているのだった。

 サッカーワールドカップとオリンピック・パラリンピックこそ好例であるが、〝メガスポーツイベント〟にはそもそも国家の威信を賭けた巨大事業という側面がある。一九六四年に開催された東京オリンピックが高度経済成長期を背景とする都市改造を伴ったように世界中から訪れた人々が満足できる体制の整備がホスト国には課せられるのだ。

 しかし、これは開催によって得られる経済効果という点にいても必須条件でもある。安心して過ごせる環境でなければ誰も町には繰り出さず、観光産業は成り立たない。『インバウンド』という名の起爆剤を仕損じると莫大な支出を回収する手立てまで失い、大不況として跳ね返ってくる。〝メガスポーツイベント〟とは選手同士が互いの健闘を称え合うという爽やかな青春で完結する〝運動会〟などではなかった。

 『インバウンド』――即ち、外国人客による経済効果を確保する方策には開催先の治安回復まで含まれている。犯罪多発地域には観光客も寄り付くまい。小奇麗な高級レストランを増やしたところで、そもそも滞在を誘引できなければ無意味なのである。

 それはつまり、社会全体へ急激な変化を強いるということであった。

 ブラジルにいて最も顕著な事例は国中に点在する貧民街の取り扱いである。国外にも『ファヴェーラ』という呼称は広く知れ渡っていた。

 麻薬カルテルや人身売買シンジケートが巣食っている貧民街ファヴェーラは古くから犯罪の温床であり、これを取り除くことで治安の改善は実効的に見込めることであろう。しかし、それはやむにやまれぬ事情で貧民街の生活くらしを選ばざるを得ない人々から生きる場所を奪うことでもあるのだ。

 例え犯罪多発地域であろうとも、そこには人間の営みが根付いている。ゴミを片付けるだけの美化運動とは違うのだ。外国人客から見苦しくないよう景観さえ取り繕えば済むわけでもない。


「……しかし、ワールドカップの犠牲者とは相変わらず上手い言い回しを考えるモンだ。ひょっとしたらご陽気なアフロ頭が家族を放置して故郷に帰らず、日本に居着く理由もかもな。二年後の〝反動〟を待たずにブッ壊れるんじゃないか? もうズタボロだぜ」


 先ほどストラールが述べた言葉に自身の推論を上乗せしたのち、ギュンターは『天叢雲アメノムラクモ』で最も成功したブラジル人選手の心情を慮り、「ワールドカップの犠牲者」と繰り返した。

 『ハルトマン・プロダクツ』ブラジル支社の調査ではなく『ユアセルフ銀幕』にチャンネルを持つ民間のネットニュース――『ベテルギウス・ドットコム』の動画ビデオで視聴したことであるが、ワールドカップ開催の二ヶ月前にはブラジル陸軍が貧民街ファヴェーラへ送り込まれ、犯罪組織に対する大規模な制圧作戦が敢行されたという。この際に激しい銃撃戦が繰り広げられたことは他のメディアでも報じていた。

 ブラジル政府が秩序の回復という効果を国内外に発表する最中、身の危険も省みずに貧民街ファヴェーラまで潜入した『ベテルギウス・ドットコム』の日本人記者は〝ワールドカップの犠牲者〟としか表しようのない人々の窮状を伝えている。

 ワールドカップ並びにオリンピック・パラリンピックの競技施設に程近い貧民街ファヴェーラでは政府主導による強制退去が相次ぎ、これに抗わんとする住民活動も激化の一途を辿っているそうだ。くだんの制圧作戦と同じ時期には不法占拠した土地で暮らさざるを得ないと警官隊の間で逮捕者が続出する規模の衝突が発生している。

 ギュンターの話に耳を傾けながらストラールは記憶の水底へと意識を沈み込ませ、隣国ペルーで二〇一三年に起きた『七月の動乱』の概略あらましを想い出していた。抗議デモの集団と警官隊が市街戦さながらにぶつかり合ったという構図こそ似ているものの、ブラジルの場合は国家事業の名のもとに政府が〝美化運動〟を強行したわけであるから、る意味にいては更に深刻な状況といえよう。

 ありぞのという日本人記者――『ベテルギウス・ドットコム』の運営者でもある――が現地で撮影した動画ビデオは重機によって取り壊された家屋の残骸と、その前に蹲って慟哭する老人の姿も捉えていた。

 調査結果そのものは『ハルトマン・プロダクツ』ブラジル支社が取りまとめたレポートと大きくは変わらなかったが、〝身内〟ではない第三者の視点は客観性を確保する上で何より重んじなくてはならないと、オムロープバーン家の御曹司も心得ている。

 撮影されていることには全く気付けなかったが、くだんのネットニュースは自分たちが出席した昨年の戦没将兵記念日も取材しており、その内容は現地紙よりも切り口が鋭かった。即ち、情報ソースとして信用するに足るというわけだ。

 ブラジル支社のレポートには写真が添えられている。これに対してくだんのネットニュースは動画ビデオなのだ。そこに収録された〝声〟には耳を澄ませるべき意味があった。

 ワールドカップから更に二年――二〇一六年のオリンピック・パラリンピック開催までに数万人のが生活圏から追い立てられるという予想も『ベテルギウス・ドットコム』は報じていた。その上、強制移住後の待遇も保証されていないのだ。

 あくまでも貧民街ファヴェーラに留まろうとするならば、治安回復の使命を携えた装甲車は犯罪組織の次にを脅かすことであろう。

 世界で最も熱烈な〝サッカー王国〟にも関わらず、ワールドカップへの怒りが国内に渦巻いていることは『ハルトマン・プロダクツ』でも把握していた。二〇〇七年の招致成功から数年間、開催に反対するデモは数え切れないほど起こっているのだ。

 サッカーワールドカップの歴史が始まって以来、一度たりとも開催地に選ばれたことのないオランダにとっては招致合戦に敗れるほうが実は幸せなのではないかと考えさせられる事態といえよう。

 競技場スタジアムからはラテン系の情熱が溢れ出し、国家の威信に踏み躙られた人々の憎悪がこれを取り囲む――正反対の想念が混在するという極めて危うい状況下でのワールドカップであった。ブラジルという国家くにには絶望的な貧富の格差が横たわっており、この不安定な社会構造がそのまま表われているようでもある。

 無論、犯罪組織への取り締まりが大幅に強化されたことでリオデジャネイロといった大都市を中心にブラジル全体の治安は改善されつつある。強制的に撤去された貧民街ファヴェーラの跡地ではインフラ整備も行われる。大会終了後も社会に寄与する遺産レガシーの意義は一九六四年東京オリンピック開催に伴う都市改造からも瞭然であった。

 ストラールとマフダレーナが生まれ育ったオランダ・アムステルダムで一九二八年に開催された第九回オリンピックでいえば、陸上と体操に女性選手の出場が初めて認められたことが遺産レガシーに相当する。前回大会まで男性のみと定められていた出場条件の解放によって女性アスリート全体の可能性が大きく拡がったのである。

 オランダの女性陸上選手として初めて銀メダルに輝いたリエン・ヒソルフも同大会のオリンピアンであった。走高跳で未来への道を示した姿は祖国オランダの女性たちを奮い立たせ、一世紀後の時代を生きるマフダレーナも決して小さくない憧憬あこがれを抱いている。

 聖地オリンピアから開催地まで炎を引き継ぐリレーは史上最悪の独裁者がプロパガンダの一環として採用する八年後のベルリンオリンピックまで待たなければならないが、〝平和の祭典〟の象徴として大会期間中に聖火を燃やし続けるという〝儀式〟もこのアムステルダムオリンピックから始まり、永遠の遺産レガシーとなった。

 大胆な変革は間違いなく時代を先に進ませる――それ故に〝メガスポーツイベント〟は出場選手間で完結する〝運動会〟ではなく国家的事業となるのだ。

 しかし、暴力性を伴う強権によって刻み込まれた絶望は二度と消えない。

 サッカーワールドカップやオリンピック・パラリンピックの為、新たに建設された競技場も未来への遺産レガシーに変わりはないが、膨張し続ける維持費が経済効果を凌駕し、採算が取れないことは歴史が証明している。

 当然ながら、その負債は国民に跳ね返るのだ。特需を得られるのはごく一部の階層のみであり、恩恵が行き届かない立場の人々には怨念ばかりが折り重なっていく。

 国民投票によって招致の是非を決めたわけでもないのに負担のみを一方的に強いられる構図であった。国家事業として〝メガスポーツイベント〟を開催する為の財源は本来、教育・医療へ優先して宛がわれるはずの資金である。遺産レガシーへの〝投資〟が現実の社会制度を蝕んでいく矛盾が横たわっていた。

 サッカーを趣味と公言しながらもレオニダス・ドス・サントス・タファレルはワールドカップ開催中の故郷ブラジルに帰ろうとしない。ストラールは己の身と祖国オランダに置き換えてレオニダスの心情を推し量ってみたが、やはり日本に留まるという選択肢以外は考えられなかった。


「……『ハルトマン・プロダクツ』の一員スタッフとしては考えるのは良くないと、頭では分かっているのだけど、……やはり、その――ブラジルで起きていることにはどうしても感情的になってしまうわね。一方的な思惑の為、誰かに犠牲を強いることが許される道理はないはずよ」

「神は耐えられないほどの試練に遭わせるようなことはなさらない――」

「――むしろ、試練に耐えられるよう脱出の道も備えてくださる。……そうあって欲しいとわたしも心から祈っているのだけど、圧倒的な現実の前には誰しも無力だから……」


 マフダレーナが重苦しい溜め息と共に絞り出した呟きを新約聖書の引用でもって受け止めたストラールは真隣から腕を伸ばし、穏やかならざる感情に震える肩を抱き寄せた。

 このときばかりはギュンターも二人を揶揄することはなく、「……はザイフェルト家にとっても身近な問題はなしさ」と決して小さいとは言い難い呻き声で親友マフダレーナに寄り添った

 彼女自身はオランダ・アムステルダムで生まれ育ったが、その祖先は残酷極まりない迫害を受けて祖国から逃れてきた。起源ルーツと呼ぶべき土地から抗い難い暴力によって追い立てられた怒りと悲しみは数世紀を経ても癒えることはない。

 噴き出しそうになったくらい感情を抑えようと、マフダレーナは愛しい体温に甘えながら俯き加減となったが、伴侶ストラールを見つめ返すこともできない双眸が一族のを物語っている。

 唯一、慰めとなるのはエッシャー家の祖先が悪魔とも背教者とも決め付けられ、不当にして一方的な弾圧を受けた頃や、ドイツに根差すザイフェルト家が十字架を背負った独裁政権の頃から時代は流れたということだ。

 耳障りな声を黙殺して功績のみを恣意的に強調したとしても、メッキも同然ので参加国との外交が進もうとも、現在いまは権力を持たない小さな個人ひとりの慟哭でさえ世界中に届けられるのだ。かつての〝せんそうの時代〟には独裁者が都合の良い情報だけを流し、国内外の大勢を欺くことも不可能ではなかった。それ故に平和の祭典オリンピックまでプロパガンダに利用されたのである。

 しかし、はインターネットの普及によって完全に終止符を打たれた。『ベテルギウス・ドットコム』のように大手メディアを通さず、最前線の情報を直接的に届けるネットニュースがその役目を担っている部分もあった。

 検閲としか表しようのない事態を招き兼ねず、情報戦に長けた人間を〝暴君〟に仕立て上げてしまう危うさもはらんではいるが、隠蔽しなければ権力の地盤が揺るがされてしまう醜態とて完全に遮断することは不可能に近い。

 こんにちの〝メガスポーツイベント〟を経済効果で測る形に歪めてしまった一因は間違いなく『ハルトマン・プロダクツ』が推し進めた商業主義であり、同企業に属する人間としては甚だ矛盾しているが、一個人としての感情は抑え切れるものではない。


「ブラジルの行く末を憂慮する気持ちは私も大きいが、差し当たって我々は目の前の仕事に集中しよう。こちらもこちらで大事な任務だ。樋口郁郎イクオ・ヒグチでは『ウォースパイト運動』の対処は荷が重いと判ったら、その日の内に次の一手を考えなくてはならないぞ」

「それはそれで気が乗らねぇんだよなァ。基本的に樋口郁郎イクオ・ヒグチの顔なんざ見たくもねぇし。あの男、明日は俺たちと同じ席に座るんだよな? 俺、ストレスで円形脱毛症になっちまうぜ」

「……貴方の髪のどこに円形脱毛症になる余地が……?」

「レーナの切れ味鋭いツッコミは気持ち良いけどな、その言い方だと俺が抜け毛の所為せいでこんな髪型になっちゃったような印象になるからな? 刈ってるの、これは、自分で!」


 ほんの少しだけ店内の注目を集める大きさの咳払いを一つ挟み、ストラールは二人の意識を〝本来の役目〟に引き戻そうと試みた。

 仕切り直しとしては余りにも露骨であったが、マフダレーナとギュンターも〝潮時〟ということは理解している。一口で食べられる大きさの握り飯を店員へ注文したのち、二人とも居住まいを正してストラールに向き直った。

 ブラジル政府が銃撃戦も辞さない覚悟で治安回復に乗り出した通り、〝国際競技大会〟を運営する上で危機管理能力は欠くべからざるものである。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』――日米を代表するMMA団体が来年末に共催しようとしているのはサッカーワールドカップやオリンピック・パラリンピックほどの規模でないとはいえ、〝国際競技大会〟に違いはない。テロ対策に僅かでも脆弱性が発見されたなら最大の出資スポンサー企業として相応の措置を講じなければなるまい。

 ミュンヘン・アトランタ両オリンピックや一年前のボストンマラソンのような悲劇を繰り返してはならない――選手や観客の生命をテロから守るだけの能力が主催者には必須として求められていた。それは種目を問わず、全ての〝国際競技大会〟に共通する課題なのである。


「今度の視察、『NSB』側はモニワ代表直々に出張ってるだろ? さすがにオリ・パラのコトまでは考えちゃいないだろうが、調は俺たちと大差ないハズさ。樋口郁郎イクオ・ヒグチが『ウォースパイト運動』を軽く見ているようなら合同大会コンデ・コマ・パスコアの計画自体を白紙に戻すかも知れねぇ」

「……『ランズエンド・サーガ』――というか、フロスト・クラントンが足元を脅かそうとしている現在いまの状況で『NSB』と接触するのは差し障りがあるかも知れないけれど、モニワさんの動向には目を光らせておかなければならないわね」

「クラントンの思惑はともかく、我々ハルトマン・プロダクツとしても『NSB』とは健全な距離感を保っておきたい。……そうなると樋口郁郎イクオ・ヒグチがイズリアル・モニワを牽制する道具として我々ハルトマン・プロダクツを利用していることも厄介だな」

「その辺りも一度、シメなきゃいけねぇんだが、あの男の独断専行っぷりは留まるところを知らねぇからなァ。メインスポンサーの権利で是正勧告しても突っ撥ねてくる可能性のほうが高いぜ。〝内政干渉〟がとにかくお嫌いなご様子だ」


 二〇一四年現在、日本は二〇年近く直接的にはテロの脅威に晒されていない。同国を代表するMMA団体の警備体制を通してオリンピック・パラリンピック開催国の危機意識を測るべし――〝メガスポーツイベント〟という呼称が生まれるより以前から大規模な競技大会に関わる利権を掌握し、これによって世界有数の大企業スポーツメーカーまで成長した『ハルトマン・プロダクツ』は、寧ろのほうを重視しているのだった。

 日本格闘技界ひいては同スポーツ界にけるテロ対策の指標を持ち帰ることが三人に与えられた〝特命〟であり、『天叢雲アメノムラクモ』そのものの実態調査は余禄おまけに過ぎなかった。

 ストラールはキックボクシングの名門にして『格闘技の聖家族』と謳われるオムロープバーン家の御曹司であり、ギュンターは些か変わった経緯ではあるものの、『しょうおうりゅう』なる日本の古武術を体得していた――二人揃って格闘技との関わりが深く、一つの支柱ささえともしているが、どちらも一個人の想いより課せられた任務を優先できる人間なのだ。

 『ハルトマン・プロダクツ』は紛れもなく『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである。八雲岳の心意気に胸を打たれたトビアス会長の号令によって活動を全面的に支えている。しかし、その一方で格闘技という事業を競技団体や選手と異なる視点から捉えている。

 現代の格闘技ひいてはスポーツを構築する社会全体とその趨勢を睨んでいた。

 『天叢雲アメノムラクモ』や『NSB』、あるいはブラジルで熱戦を繰り広げているサッカーワールドカップの代表チームなどスポーツに関わる団体の名称が刻まれた駒を思うがままに動かし、その盤面を遥かな高みから見物しているようなものであった。


「……『NSB』がフロスト・クラントンの〝復讐戦争〟で手一杯となっている間にシンガポールの台頭を許せば、それはそれで我々ハルトマン・プロダクツには厄介ね。アジアの勢力図が変わろうというときには『天叢雲アメノムラクモ』に楔になって貰わなくてはならないのに……」


 マフダレーナによる指摘を受け、二人の御曹司が揃って呻いたのは『天叢雲アメノムラクモ』と同じ二〇一一年にシンガポールで旗揚げしたMMA団体である。

 日本の『天叢雲アメノムラクモ』は二〇〇〇年代半ばまでMMAという〝文化〟を担ってきた前身団体バイオスピリッツとその業績を礎としており、選手のみならず運営スタッフに至るまで黄金時代を築いた主要人物たちが現在も立ち働いている。こうした基盤を持たない完全な新興団体が東南アジアで産声を上げていた。

 主にアジア系のMMA選手を中心として興行イベントを開催しているが、三年が経った現在いま、飛ぶ鳥を落とす勢いは留まるところを知らない。発足当初から自国シンガポールの『スポーツファンド』が出資し、活動を強く支えていた。

 スポンサー構成も新興団体とは思えないほど。アジア圏のみならず、欧米の大企業も名を連ねているのだ。

 各国のスポーツメーカーも続々と進出しており、『ハルトマン・プロダクツ』はシンガポールの市場マーケットいて単独で二割近くを占めている。他国の情勢と同じように大きな影響力を握ったはずだが、それにも関わらず、くだんの団体はアメリカに本拠地を置く同業他社とスポンサー契約を結んでいた。こちらも一九九六年創設という歴史の浅い企業スポーツメーカーである。

 世界最大のスポーツメーカーでありながら、発展途上の新興団体へ入り込めずにいた。その上、シンガポール国外への映像配信には『NSB』と関わりのないアメリカの大手放送事業者と業務提携を結んでいる。

 今や東南アジアに〝独立勢力〟を築きつつあった。

 組織としての基盤こそ持たない新興団体ではあるものの、経営陣はオリンピックなど様々な国際大会に携わっており、スポーツビジネスを知り尽くしている。他の競技団体と異なる理念・展望も明確に打ち出し、アメリカの格闘技雑誌ゴッドハンド・ジャーナルでも数年後には『NSB』と勢力を二分するとまで予想していた。

 これについては『ハルトマン・プロダクツ』内部でも見解が一致している。アジアで最も有力なMMA団体である『天叢雲アメノムラクモ』をくだんの新興団体が上回ったとき、格闘技社会の勢力図は大きく塗り替わることであろう。

 『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーという立場でMMAに関わっている『ハルトマン・プロダクツ』にとっては予断を許さない状況であった。無論、『NSB』を迂回するような形でシンガポールに流れ込んでいる〝アメリカ資本〟への牽制も急務なのだ。

 日本格闘技界を混乱させ続ける〝暴君〟――樋口郁郎への対処は〝現実問題〟という点にいても差し迫った事態である。


「目に余るようなら、代表の首を挿げ替えれば良い。『天叢雲アメノムラクモ』に関してはそれで済む」


 依然として近くのテーブルは〝地元の星ローカルアイドル〟の談義はなしで盛り上がっている。ストラールの声は親友ギュンター伴侶マフダレーナにしか聞こえない大きさであったが、周囲まわりの喧騒を引き裂くほどに鋭く、何よりも冷たかった。

 首を挿げ替えれば良い――親友ストラールの発したその一言を静かに受け止めると、ギュンターはからになった徳利を横に倒した。数滴ばかりの飛沫が机上に散った。


「フロスト・クラントンの前任者――というか、『ランズエンド・サーガ』の前代表と同じようにって意味だよな? 確かにメインスポンサーだって人事権は握っちゃいねぇし、強権使ってグチに代表辞任を迫っても、形だけ身を引いて裏から『天叢雲アメノムラクモ』を操るだろうしなァ。それなら回りくどい真似なんかしないで、のが一番手っ取り早いわな」

「幸いにしてグチの後釜が居ないわけではないだろう? ……名前は忘れてしまったが、中・軽量級のMMA団体を長年運営している例の人物だよ。傘下の団体ということを差し引いても『MMA日本協会』の評価はすこぶる高かったように記憶しているよ」


 『天叢雲アメノムラクモ』にとっては自浄能力の回復に繋がり、ひいては組織として健全化するきっかけともなり得る――自身が示した見解について、ストラールはそのように言い添えた。


グチの一番弟子みたいな男だって『MMA日本協会』の副会長も紹介していたな。『自称』が付く一番弟子ってさ。……首が挿げ替えられたときに誰よりもくのがその男だろうぜ。だからこそ後釜に打ってつけってのもあるわな」


 ギュンターが親友ストラールの言葉に「主催企業サムライ・アスレチックスも有能揃いだけど、操り易い人材のほうが俺たちにも『MMA日本協会』にも都合が良いもんなァ」と頷き返した直後、先ほど追加した注文の品が運ばれてきた。

 小振りな皿の上には一口で食べきれる大きさの握り飯が四つばかり並んでいる。光り輝く白米を包むのは東北名産の焼き海苔であるとメニューに記してあった。

 注文を行う場合を除いて三人はドイツ語のみで話している為、店員には鼻先で飛び交う言葉の意味が一つとして分からない。それは他の客も同様である。店内の誰か一人でも会話の内容を理解していたなら、そろそろパトカーのサイレンが聞こえてくる頃合いだ。


「奇しくも『天叢雲アメノムラクモ』が証明したことだが、日本ではまだ総合格闘技MMAという〝文化〟が絶えたわけではなかった。手間暇を掛けて耕し続ければ実りも多くなっていくのは間違いない。我々は勿論、『NSB』もそれを当て込んでいるはずだ。……誰の手に落ちるかはともかく、折角の土壌を生かせず枯らせてしまうのは余りに惜しい」


 はストラールただ一人の見解ではなく、『ハルトマン・プロダクツ』本社の方針であった。誰もがアジア圏にける勢力争いを睨んでおり、『天叢雲アメノムラクモ』こそシンガポールの新興団体に対抗し得る〝最後の砦〟としているわけだ。

 〝東西冷戦〟の延長ともたとえるべきベトナム戦争を二一世紀の格闘技社会で再現するようなものだ――と、ギュンターは心の中で自嘲した。


「何時まで経っても前時代の幻想に囚われている人間には付き合い切れないってか。格闘技を含んだスポーツは〝虚業〟と言われるが、柴門公任キミタカ・サイモンの仕事を見れば一目瞭然な通り、それを支えるのは多くの〝実業〟だ。それらがまとめて枯らされるのは『ハルトマン・プロダクツ』としても大きな損害だぜ。……ここまで来ると樋口郁郎イクオ・ヒグチは害虫の一種だな」

「古くからの絆にこだわり続けていると、こちらにまで毒素が回る。害虫というのはそうなる前に駆除するものだよ」


 二人の御曹司は一人の命と所属先ハルトマン・プロダクツの利益を秤に掛け、後者を選ぼうとしていた。もはや、『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体は、アジアにいて単純な〝市場価値〟のみでは語り得ない存在と化しているのだ。

 〝暴君〟と恐れられる樋口郁郎が日本格闘技界の秩序を乱しているのは紛れもない事実だが、それでもであることに変わりはない。例え胸襟を開いて語り合える相手でなくとも永遠に声を封じるべきではない――が、二人の御曹司は一人の命を木の実の如く押し潰してしまうことに特別な感情など持たない様子であった。


「最期を迎えたときに手を叩いて喜ぶ人ばかりの生き方だけはしたくないわね。樋口郁郎イクオ・ヒグチの運命の筋書きをアガサ・クリスティーが綴るとしたら、最後は長距離夜行列車の旅で締めくくるでしょう」

「私にもろくでもない死に方が待っていると思うが、それでもせめて『アラビアのロレンス』のようであったら嬉しいよ。勿論、キミより先には逝かないつもりさ」


 机上に倒された徳利を回収する店員に日本語で礼を述べ、次いでドイツ語に戻したマフダレーナは二人の御曹司より遥かに物騒なことを平然と言い放った。

 ほんの先程まで立場の弱い人々を押し流してしまう権力の濫用に憤っていた人々の言葉とは信じられないが、そもそも彼らはには理解し得ない領域で思考を巡らせている。その切り替え方もまた異質であり、理念自体が〝表〟の社会と本質的には相容れないとも言い換えられるだろう。

 国際競技大会に関わる利権を掌握するザイフェルト家は〝スポーツマフィア〟と忌み嫌われる一族であり、オムロープバーン家は一蓮托生にも等しい同胞なのだ。御曹司ストラールもマフダレーナも〝マフィアの番人〟と面罵されたことは一度や二度ではない。

 酒類を口にしていない二人は言うに及ばず、ギュンターとて酔った勢いで倫理観を疑われるような暴言を吐き散らす趣味は持ち合わせていない。『ハルトマン・プロダクツ』の害となる存在を文字通りに〝闇に葬り去ること〟は研ぎ澄まされた理知に基づく選択肢というわけであった。

 三人とも樋口郁郎を心の底から軽蔑しているが、究極的な暴力の行使は感情と切り離して論じているのだ。その上、誰一人として思い詰めた表情かおでもない。雑談でも交わしているような調子である。まだ二〇代前半という年齢でありながらも七星セクンダディの徽章を持つ彼らは尋常ならざる〝世界〟に慣れ切っているのだった。

 〝正しくろうとすること〟を拒絶する人間には法が味方しない〝世界〟である。


「イズリアル・モニワが『天叢雲アメノムラクモ』を――いや、樋口郁郎イクオ・ヒグチを見限ったと知れば『ランズエンド・サーガ』の出方もまた変わるだろう。フロスト・クラントンの〝復讐戦争〟も別の動きを見せるはずだ。……その前にを整えるのが得策だと思うぞ」


 ストラールはゴーグル型サングラスの向こうから眼差しでもって親友ギュンターに答え合わせを求めた。


が魔眼の類いでないことはギュンターもっているだろう? 演算に基づいて私の脳内チャンネルに僅か先の黄昏ラグナロクを映すだけだよ。そして、演算には前提となる情報が欠かせない。悪名に勝る実力の行き着く先は、黄昏ラグナロクに頼らずとも情報の断片からでも弾き出せるさ」


 余人には何らかの暗号としか思えないストラールの言葉を親友ギュンターは小首を傾げることもなく静かに受け止めている。これは伴侶マフダレーナも同様であった。

 黒いレンズで覆われた双眸を確かめることは難しいが、親友ストラールの視線を読み取れないギュンターではなく、深々と頷き返してストラールの言葉にこそ合理性があると認めた。

 少なくとも『ハルトマン・プロダクツ』にとっては合理的な判断という意味である。

 三柱の死神スーパイが樋口郁郎の〝始末〟を論じ始めた時点でオムロープバーン家の御曹司の頭から『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーは殆ど抜けていた。名前は一字もおぼえておらず、先程のローカルニュースで垣間見た眠たげな双眸をほんの少しだけ想い出せるくらいであった。

 確かに異様な目付きではあったが、同じようなかおの人間をストラールは今日まで数え切れないほど見てきたのだ。印象に残るほど珍しくもない。御曹司の立場がは社会の〝裏〟で荒くれた格闘家たちと共に生きていたのである。

 『ハルトマン・プロダクツ』が日本MMAではなくサッカーワールドカップやオリンピック・パラリンピックといった〝メガスポーツイベント〟を重視しているのと同じように、のちの格闘技史にいて『四天王』として並び称されるストラールにとっても現在いまのキリサメ・アマカザリは取るに足らない存在に過ぎなかった。

 これから二四時間と経たない内、その〝存在〟によって心を掻き乱されることになるとは夢にも思わず、『格闘技の聖家族』の御曹司は伴侶マフダレーナから勧められた小さな握り飯を半ば機械的に頬張っていた。

 それ故、横合いからテーブルの上に放り投げられた一枚の紙切れを黒いレンズに映した瞬間とき、これが自分たちに向けられたメッセージであることに気付かなかったのである。

 ノートの切れ端を二枚に折り畳んだ物へ最初に気付いたのはマフダレーナであった。彼女のが放物線を描きながら飛び込んでくる一部始終を捉えており、何かの間違いではないかと隣席の客へ訝るような視線を向けてしまった。

 わざとらしく〝何か〟を投げた後の仕草を維持したまま、この上なく愉しそうな表情かおでマフダレーナの視線を受け止めたのは、一人でテーブルに腰掛け、瓶ビールをタンブラーグラスで呑んでいた若い男性である。

 玩具箱をひっくり返したかのように乱雑に並べてあった肴の皿を押し退け、狭いながらも作った空間でノートの切れ端にボールペンを走らせたようだ。

 安物の蛍光灯から降り注ぐ光を跳ね返しても、その輝きで気品を醸し出す高級ブランドのボールペンであった。

 聞くともなしにとても興味深い話を聞かせて貰いました。折角のご縁ですし、私が買い取らせて頂きましょう。さもないと私の仲間が御三方と『ハルトマン・プロダクツ』の将来を暗黒時代へ導くことでしょう――明らかに恐喝の意図を含んだメッセージは飲食用のテーブルで書いたとは思えない流麗な筆致であり、その全文がドイツ語で綴られている。

 三人の空気が張り詰めていくさまを眺めつつ足元に置いてあった鞄を取り上げた青年は、芝居がかった調子で中から何ともたとえようのない小物を引っ張り出した。

 社交の為に高い教養を備え、音楽や楽器にも造詣が深い三人でなければ、木切れのようなが鼻孔から空気を吹き込んで鳴らす笛であることに気付かなかったはずだ。

 身も蓋もない呼称であるが、はなぶえという小さな木管楽器であった。




 県内在住の医大生という身分と共にもろずみと名乗った青年は、すれ違う人々から奇異の目で見られることも気に留めず鼻笛を吹き鳴らし、跳ねるような足取りで夕暮れの道を歩いていた。

 鼻笛そのものを上手に奏でたいという気持ちは最初から持ち合わせていないらしく、音が出せれば構わないといった乱雑な吹き方であった。管の内部へ空気を吹き込む技術にすら興味もないのか、調子外れの音色は弱々しい上に大きくもない。

 それはつまり、後ろからいてくる三つの足音を聞き漏らす心配がないという意味でもあった。

 数ある学問の中でも医学部は最難関であり、一度も浪人時代を経験せず合格したもろずみは振る舞いこそ軽薄ながら本物の愚か者ではない。

 折に触れて『ハルトマン・プロダクツ』の動向が記事となる経済誌も愛読しており、昨年一一月にザイフェルト家の御曹司がドイツの戦没将兵記念日へ出席したこともくだんの雑誌を通じて把握していた。

 難民キャンプの視察も兼ねて難民高等弁務官が出席した式典である。そこにはオランダに君臨する『格闘技の聖家族』の御曹司も伴侶パートナーと共に同席していた。即ち、人並み以上に優れたもろずみの頭脳は三人の顔も鮮明におぼえていたのである。

 特に『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家に生まれた御曹司はSNSソーシャルネットワークサービス上で幾度となく写真が晒されており、面識のないもろずみでさえ瞳の色が翡翠ということまで知っている。最後にとなってからゴーグル型のサングラスを掛け、髪の毛も伸ばしたようであるが、見間違えるはずがなかった。

 もろずみは実に小知恵の働く青年であった。その上、相手が誰であろうと物怖じしない度胸もある。唯一にして一番の問題点は自分以外の人間を考えの足りない愚か者と見下す性格であろう。二日前にも交際一週間という恋人から一方的に絶縁を言い渡されたばかりだ。

 憂さ晴らしの気持ちがなかったわけではないが、余りにも痛烈な訣別の平手打ちを受けていなくとも、このさかしらな青年は世界経済の次世代を担う者たちが謀略を語らうという〝好機〟を見逃さなかったはずである。

 互いの声が掻き消されてしまうくらい騒がしい酒場をえて密談の場に選ぶという筋運びは、もろずみもスパイを題材とする映画や海外ドラマで何度も観ていた。

 耳に馴染んだドイツ語で紡がれていることもあり、〝メガスポーツイベント〟に対する辛辣な見解には思わず首を頷かせてしまった。メインスポンサーの立場でスポーツ利権を食い荒らす『ハルトマン・プロダクツ』の関係者が自己否定にも近い矛盾をさらけ出したことは、もろずみにとって何よりも愉快なのだ。

 携帯電話スマホを操作しようというところで踏み止まったものの、樋口郁郎の暗殺計画を耳にした瞬間などは短文つぶやきを投稿する形式のSNSソーシャルネットワークサービスで賛成を表明しそうになってしまった。

 もろずみが入り浸っているインターネット上のグループのみならず、SNSソーシャルネットワークサービスでも樋口郁郎にまつわる悪評は常に垂れ流されていた。格闘技を愛してやまない人々にさえ忌み嫌われる〝暴君〟の訃報が報じられた瞬間には〝平和〟を蝕む一匹の寄生虫が駆除されたと、世界中で歓喜の笛が吹き鳴らされることであろう。

 日本格闘技界を実効支配する〝暴君〟が目障りでならないのは『天叢雲アメノムラクモ』を支えるメインスポンサーも同様なのだろう――が、自分たちの意のままにならないという理由だけで命を奪って良いわけがなかった。

 あらゆる意味で許されないからこそ強請りのとなり得るのだ。そうでなければ、もろずみも接触など図るまい。二一年という人生で最も幸運な日になったことへ陶酔し、後ろからいてくる三人へはなぶえを披露せずにはいられなかったのである。

 の場を居酒屋から程近い公園に指定したのももろずみ自身であった。

 岩手が誇る三偉人の銅像が立ち、野球場や陸上競技場といった運動施設まで敷地内に所在している奥州市内でも最大規模の公園だ。

 観光名所としても広く知られている。見頃が過ぎて久しいが、春には五〇〇本もの桜が一斉に咲き誇り、朝から夜まで一日中、花見の客で盛大に賑わうのだ。はなぶえの音色に混ざり、不可思議な合奏を始めたのは公園内で飼育されている鳳凰孔雀の鳴き声である。

 日没は間近だが、初夏の空が群青色で塗り潰されるまでには時間がある。もろずみが足を向けた噴水も一九時前であれば広場に設置されたベンチでカップルがデートを楽しんでいる頃だ。

 『ハルトマン・プロダクツ』ひいてはザイフェルト家が〝裏〟でマフィアの蔑称で呼ばれていることを〝同志〟から教わったが、背広の内側に拳銃ハンドガンを隠し持っていたとしても衆人環視の中でひきがねを引くことはないだろう。

 しかも、公園ここは明治三六年にやけいしれんぽう・駒ヶ岳の山頂から遷座うつされた駒形神社の本社とも隣接している。みなもとのよりともひいては鎌倉幕府に滅ぼされるまでの間、黄金と北方貿易で栄えた北の王者――おうしゅうふじわらが厚く信仰したという〝駒形大神〟が祀られているのだ。

 無論、欧州ヨーロッパの人々が信じる神とは異なるが、が血でけがすべきではない聖域ということは教養が深い三人であれば間違いなく感じ取るはずであった。

 万が一の場合には最寄りの駐在所に保護を求めるつもりであった。自己防衛の手立てももろずみ当人は万全に整えたつもりである。


「――賑やかさではさっきの店と大して変わりませんよ。のほうが皆さんも落ち着いて話せるんじゃないかと思いましてね」


 果たして小知恵の働く青年が想像した通り、四方を取り囲む生垣の先では二組のカップルがベンチと噴水のフチにそれぞれ腰掛け、仲睦まじそうに寄り添い合っていた。

 別のベンチに座った中年男性は仕事帰りのビジネスパーソンであろう。缶の発泡酒で少しずつ喉を潤しながら何ともたとがたい溜め息を吐いている。ネクタイを緩めて寛ぐ様子から家庭に居場所がないことも察せられた。

 先程まで公園内の運動施設で練習に励んでいたのだろうか――学生服姿の少年たちは地べたにそのまま腰を下ろし、一人が持ってきたものとおぼしきタブレット端末の液晶画面を皆で覗き込んでいる。

 漏れ出してくる実況の声やブブゼラの音色から察するにサッカーワールドカップを視聴しているようだ。現在は日本時間の午前四時に行われたスペイン対オランダ戦が衛星チャンネルで録画放送されている最中だが、タブレット端末のテレビ機能はに対応していない。

 ワールドカップ公式オフィシャルの動画配信サービスを利用し、ブラジルの熱闘を味わっているのだろう。

 高校生にしては妙に老けた顔立ちのように思えたが、体格の良いスポーツ選手は実年齢より高く見えると決め付けているもろずみは、次の瞬間には違和感そのものを忘れていた。

 現在いまは銃を突き付けられることがない状況の確保しか意識していなかった。噴水の周辺に集まった市民の数は普段よりも多いようだが、少ないほうがもろずみには都合が悪いのだ。


「――ぶっちゃけ、御三方は樋口郁郎を抹殺したいのでしょう? 『社会的に』ではなくこの世からね。それ自体には大賛成ですよ。日本での〝人権侵害〟の元締めという悪評がネットに溢れ返るような害虫、存在しないほうが世の為人の為って常々思ってました」


 身の安全を十分に確認したところで、もろずみはドイツの言語ことばでもって本題を切り出し、自分たちは〝共犯〟であると三人へ順繰りに微笑んでいった。

 噴水を挟んだ向こう側のベンチに腰掛け、携帯電話ガラケーで談笑し続けている中年女性は少しばかり気に障ったが、を妨げるほど大きな声というわけでもない。


「世の為人の為のでも殺人は殺人、罪は罪だ。国際社会の法を犯す事件が起きてしまったとき、私にはに通報する義務が生じます。善良な市民ですからね」


 噴水を背にして立ち、『ハルトマン・プロダクツ』の三人を見据えたとき、もろずみは社会正義を守る英雄にでもなったような心地であった。無言でに耳を傾ける様子は愉快でたまらず、眺めているだけでも笑いが込み上げてくるのだ。

 今や世界最大のスポーツメーカーさえ手のひらの上で転がしているつもりであった。何しろ他人ひとのタブレット端末から流れてくるブブゼラの音色が無限に勇気を奮い立たせてくれる。もろずみはこれ以上の快楽をかつて味わったことがなかった。


「ご安心下さい。御三方の会話を録音していたワケではありません。一市民が手に入れられるようなでは、あの騒がしい店内でまともな音声なんか拾えません。しかしながら、これこれこういう話を犯行の前に聞いたとに通報すれば、捜査の手は間違いなく『ハルトマン・プロダクツ』へ及ぶことでしょう。……叩けば埃が出るということは素人目にも分かりますよ、ええ」


 本人は〝正義の審判〟でも下しているつもりなのだろう。の核心へと踏み込む中でもろずみは「然るべき機関」という一言に厭味としか思えないほど強い力を込めている。加えて『ハルトマン・プロダクツ』と企業名なまえを口にする際、薄笑いを浮かべてスポーツ界に君臨する権威を嘲るのだ。


「さっきの悪だくみも随分と手馴れた感じでしたし、障られたくない部分まで穿り返されるのでは? いつだって『ハルトマン・プロダクツ』はの的ですし、ドイツの検察当局には『渡りに船』といった状況でしょうしね。……あ! 『渡りに船』ってのは日本のことわざですけど、この場合の意味は別件逮捕のような――」

「解説なら間に合ってるぜ。頭のてっぺんから爪先までドイツ人だが、これでも日本の古武術を習っていてね、この国の文化カルチャーにも少しは詳しいつもりだよ。祖国の経済もろとも正義の名のもとに沈没するって意味だろ?」

「さすがは御曹司サマ、聡くて助かりますよ。ドイツ経済に大打撃というポイントを押さえているのも有難い。……ただし、事件が明るみに出れば、本社に押し掛けるのは警察や検察だけじゃない――それはお分かり?」

「……通報とその後の報道が何らかの合図になるとでも?」


 自分の言葉を遮った問い掛けにもろずみの口角が一等吊り上がった。

 のは『格闘技の聖家族』の御曹司である。ギュンター・ザイフェルトが古武術を嗜んでいることは〝同志〟から教わっていたが、〝徒手空拳〟ということであればこのオランダ人こそがもろずみにとって最大の脅威であったのだ。

 オムロープバーン家はオランダ式キックボクシングの名門でもある。写真であったが、『格闘技の聖家族』の御曹司が命を狩る大鎌の如き前回し蹴りを繰り出す姿も見たことがある。その青年おとこの牽制に成功したことでもろずみの恍惚は更に加速していった。


「ドイツで活動中の〝我が同志〟が一斉にハーメルンへ殺到しますよ。いや、欧州ヨーロッパ全土から大集結するかも知れない。〝欧州ヨーロッパ〟って括りだと昨今、イギリスはキナ臭い動きを見せていますけど、純粋なる思想活動は政治や経済に左右されません」

「……〝我が同志〟……? いや、それよりも思想活動ということは、やはり――」

「ご明察の通りですよ、オムロープバーン家の――いいえ、『格闘技の聖家族』の御曹司サマ」


 格闘技にまつわる忌々しい〝権威〟をせせら笑ったのちもろずみは噴水周辺の人々から視線を注がれるほど強くはなぶえを吹いて見せた。自体が返答の代わりである。

「ハーメルンでしたよね、本社が所在るの。笛吹き男の伝説で有名な都市まちを正義の笛吹きたちが取り囲むなんてシャレてますよ。『天叢雲アメノムラクモ』とズブズブだった『ハルトマン・プロダクツ』も結局は汚らわしいってね! その頃にはオランダも断罪を訴える笛ので埋め尽くされているハズですよ、御曹司サマ?」


 ありとあらゆる格闘技・武術を深刻な〝人権侵害〟として忌み嫌い、この根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』は特定の組織を持たず、世界中の〝同志〟たちがそれぞれ独自に行動している。

 国家権力にさえ挑んでいく勇気の規範となった『サタナス』も共犯者と連れ立ってはいたものの、の頂点で人権侵害に対する〝抗議活動〟を指揮したわけではなく、あくまでも〝単独の犯行〟なのだ。

 唯一、〝同志〟が分かち合うのは笛の類いを吹き鳴らして抗議の嚆矢とする点である。

 居酒屋で語らっていたときにも『ウォースパイト運動』を強く警戒していたこの三人ならば、はなぶえをほんの少し吹くだけでも意図が通じるであろうともろずみは疑わなかった。

 果たして二人の御曹司と一人の女性は互いの顔を見合わせ、自分たちが置かれた状況を呑み込むかのようにそれぞれ首を頷かせている。もろずみはそのさまこそのだ。


「つまるところ、私は後顧の憂いを買い取って差し上げようと言うワケです。先程も申し上げた通り、樋口郁郎に消えて欲しいって点では御三方と同じ気持ち。信頼しても損のない〝共犯〟ですよ」


 足元を十分に脅かした上で要求を示すのは交渉の基本である。そして、この青年は心理効果が最も強く作用する言葉を選び、尚且つ逸る気持ちを抑えながら基本に則って相手の反応を引き出せる程度には小知恵が働くのである。

 もろずみ自身も〝無理筋〟ということは分かっている。世界を手玉に取る大企業の人々を挑発し、動揺する姿を鼻で笑ってやりたいという気持ちはどうしても混ざってしまう――格闘技という人権侵害に対してだけは法も秩序もない手段を講じても許されると、笛吹きの〝同志〟は誰もが揺るぎなく信じているのだ。

 これもまた全世界で個々バラバラに活動する『ウォースパイト運動』が分かち合う思想だった。


「格闘技とスポーツの名門二家が同時に没落するのは世界の損失です。勿論、現実的な問題込みでね。ドイツは国内随一の大企業と経済が共倒れ。オランダの場合、用心棒稼業の顔役がいなくなるのですから、暴力しか能のないケダモノが野放しになって町は無秩序化といったところでしょうか? 『格闘技の聖家族』も大変ですね」

「高く見積もって頂いて光栄ですが、……用心棒を兼業する格闘家は別に無法者の群れではありませんよ。誰もが理性と知性を兼ね備えています。仮に当家が落ちこぼれたとしてもオランダの秩序が直ちに不安定になることはありません」

「見積もりと言えば本題がすっかり頭から抜けていました。大変失礼しました。……切りの良いところで一億。それで手を打とうではありませんか」


 交渉の秘訣コツは最初に見込みのない高値まで吊り上げ、そこから相手の出方を窺うことであるともろずみは心得ている。そして、返答次第では破滅が待っているという〝現実〟で相手を揺さぶり続けるのだ。

 一億円がそのまま我が手に落ちる可能性も低くはないと、彼は胸算用していた。

 先程は樋口郁郎暗殺計画のみを恐喝の材料として挙げたが、それ以外の〝事件〟を『ハルトマン・プロダクツ』が起こした場合にもに課せられた通報の義務を守ると暗に仄めかしたのである。

 直接的には〝別件〟の可能性を示さなかったが、僅かに言葉を交わしただけで賢さや教養が伝わってくる彼らが隠れた意図を見逃すとも思えなかった。

 例え無理筋であろうとも、要求を受け入れるという選択肢しか『ハルトマン・プロダクツ』には残されていないのだ。二一歳という二〇一四年時点にける平均寿命の半分にも満たない年齢で〝人生の勝者〟という頂きに立ったことを確信していた。


ってのはどうだ?」


 ギュンター・ザイフェルトの返答はもろずみ本人が面食らってしまうほど早かった。

 今や『ハルトマン・プロダクツ』よりも高い領域に立ったと信じ込んでいる彼の脳は、やがて降り掛かる破滅に恐怖した哀れな男が縋り付いてくるようにしか思えなかった。スポーツを汚らわしいモノへと捻じ曲げた資本主義カネの力で救いを求めるさまが何とも滑稽で、再び笑いが込み上げた。

 しかし、交渉の場にいて相手側が要求へ即座に答えを返す場合、全面降伏とは異なる可能性がある。恍惚によって正常な判断能力が働かなくなったもろずみは、提示された内容を撥ね付け、一切の話し合いに応じないという意思表示も〝即答〟という形で行われることを忘れてしまっている。

 このとき、ギュンターはえて日本語で返答している。もろずみという目の前の青年が最も馴染んだ言語ことばでもって「」という額面を示している。それはつまり、自身の意図が最も伝わり易い言語ことばを選択したということである。


「我々のは米ドルで一億だ。日本時間の月曜日、『ハルトマン・プロダクツ』はあんたを相手に米ドル一億の慰謝料請求の訴えを起こす。勿論、東京の裁判所でな。毎回の移動費用も自分てめーで持つコトになるが、ちょっとした東京旅行と思えば楽しめるかもな」


 得意満面のもろずみが告げられたのは慰謝料の請求額であった。

 改めてつまびらかとするまでもないが、この筋運びでは何もかもが正反対である。しかも、同じ〝一億〟でも日本円と米ドルでは文字通りに桁が違うのだ。後者で一億を請求されようものなら、単なる医大生に過ぎない一般人では何度、自己破産しても足りない。

 己の足元の脆さに怯え、をしてきたのだと思い込んでいた。そのざまな姿をあざわらいながら起業の資本もとでにもなり得る大金カネをせしめるつもりであったのに、ほんの一瞬で立場が逆転してしまった次第である。


「……どうも私はザイフェルト家というモノを買い被っていたようですね。ご自分の立場がまだ理解わかっておられないご様子ですが、御三方が当局に身柄を拘束されるだけでは済まないんですよ? 長い歴史の中で『ハルトマン・プロダクツ』がやってきた犯罪の全てがいもづる式にバレますよ。オリンピックやワールドカップを食い物にしてきた悪だくみまで全て……」

「ところで〝公然の秘密〟って言葉を知ってるか? 〝こっち〟の業界に関わってもいないあんたが我々ハルトマン・プロダクツを〝スポーツマフィア〟と認識しているだよ」


 ドイツ語で虚勢を張るもろずみであったが、交渉成立を確信して勝ち誇っていた数秒前とは一変し、冷静に振る舞おうと努めながらも声が震えてしまっている。

 これを見据えたギュンターは「お医者サマのタマゴなんだろ? だったら、もっと法律を勉強したほうが良いぜ」と再び日本の言語ことばで揶揄し、酷く滑稽なものを一瞥するような調子で笑って見せた。

 両者の間に飼育小屋から割り込んでくる鳳凰孔雀の甲高い鳴き声もまた滑稽シュールである。


「俺が学んだ日本の古武術はな、しょうとくたいの別名を名乗っているんだよ。『しょうおう』ってヤツをな。今の話を聞いている間に太子本人が生きていた古代日本の伝承を想い出したよ。やんごとなき御方の失言が発端になって血塗られた事件が起きた――だろ?」


 ギュンターが例に引いたのは、現在から遡ること一四〇〇年以上も昔の飛鳥あすか時代――しゅん帝暗殺事件が起こった経緯である。

 聖徳太子(うまやどの)の盟友であり、権力を二分した宿敵・ものの氏を攻め滅ぼして宮廷を掌握したがのうまに導かれ、第三二代として即位したのがしゅん帝であった。

 このとき、天下の大権は蘇我氏が握っており、しゅん帝は主上みかどでありながらも思い通りに政務を執り行うことができない立場にった。これを不満に思わないわけがなく、あるとき、献上された猪に向かって「この首を刎ねるようにして、いずれは憎き相手を斬りたいもの」と口走ってしまった。

 この一件を伝え聞いたがのうまは密かに策謀を弄し、ついには在位中の主上みかどしいぎゃくするという空前にして絶後の暗殺計画を実行した。ただの謀反ではない。日本の歴史にける唯一の〝王殺し〟なのである。

 宮廷内に渦巻く果てしなき暗闘を嘆いた聖徳太子は『ろん』に記された「和をもっとうときとなす」という教えに基づき、官位十二階と十七条憲法を制定。これによってりつりょうせいの基礎が整い、やがては『たいほうりつりょう』へと発展していくことになる――ドイツ人の青年がえて古代日本の法整備を例に引いた意図を読み取れないほどもろずみは愚かではない。

 深い教養の持ち主であることに加え、良くも悪くもかん働きが抜群に鋭いのだ。


「ドイツ出身のオレには身近なコトだが、ネットも携帯電話もない時代はどこかの誰かに聞いたウワサ話だって〝真実〟になっちまう。ポロッとマズいことを零しただけでも生き死にの分かれ道だ。しかし、現代いまはどうだ? 法が整備された現代は失言の是非が法廷で審理され、本当に裁かれるべきかどうか、立証を求められる。『疑わしきは罰せず』の原則に基づいてな」

「酔った勢いの暴言をあげつらい、私刑にかけて正義を気取っていられるのは――SNSソーシャルネットワークサービスだけです。立証を必要としない代わりに私刑の域を出ることはありません。これに対して貴方はわたしたちを恐喝しました。犯罪です。民刑両方で訴えられるという意味ですよ。……米ドル一億などは断罪の一つに過ぎません」


 飛鳥あすか時代の陰惨な政争を引用したギュンターに続き、マフダレーナの冷たい声がもろずみを貫いた。

 マフダレーナの祖先とその仲間たちは〝立証なき審判〟によって悪魔の烙印を押され、耐え難い責め苦を味わわされている。私刑にかけられ、惨たらしく奪われた命は数え切れない。だからこそ彼女の態度は背筋に戦慄が走るほど厳しいのだ。

 そのマフダレーナがもろずみに向けて翳した携帯電話の液晶画面には、録音を示す画像アイコンが表示されていた。

 交渉という名の恐喝は全て録音していると突き付けたのである。無論、もろずみの側でも携帯電話の録音機能を起動させていたが、通報時に利用する腹積もりであった証拠物件が自らの足を引っ張り兼ねないことに気付かされたのだ。

 記録した録音データを消去しようものなら自己保身の為の証拠いんめつを疑われ、裁判では立証に欠かせない信憑性が損なわれてしまうのである。

 万全であったはずの〝勝利への方程式〟が今や裏目に出ており、〝崩壊への道筋〟としてもろずみの前に浮かび上がっていた。


「……『タルタロス』さんは実際の言葉遣いとSNSソーシャルネットワークサービスでの振る舞いに随分と落差ギャップがありますね。日本で言うところの〝ネット弁慶〟といったところでしょうか。荒法師という伝承だけで乱暴者の代名詞にされてしまうとは、かの有名な武蔵坊弁慶も草葉の陰で不名誉に憤っていることでしょう」

「レーナが古き良きモノを好んでいることは誰よりも知っているつもりだったのだけど、それにしても武蔵坊弁慶なんて、一体、どこで知ったのかな? 私だって日本の武芸者を調べなければ行き着かなかったはずの名前だよ」

「あなたの知っていることは、わたしの知っていることでもあるのよ」


 伴侶の言葉に閃くものがあったらしいストラールは鸚鵡返しの如く〝何か〟をたずねようと口を半ばまで開き、結局、声を発することもなく自嘲気味にかぶりを振った。

 余人には意味の分からないやり取りであるが、そもそも二人の様子を見つめるもろずみは人より優れているはずの思考回路が凍り付いてしまっていた。今や小刻みに震え始めた全身を己の両手でいだくことしか出来ずにいる。

 マフダレーナは医大生のことをもろずみではなく『タルタロス』という奇妙な名前で呼んでいた。そして、その声が鼓膜を打った瞬間から彼の様子が急変したのである。


「ど、どうして私のアカウント名を――」


 現実世界と切り離された電脳空間では本名をかくして通称ハンドルネームを用いることが多い。『タルタロス』とはもろずみが主にSNSソーシャルネットワークサービスにて使用している登録名なのだ。急遽録音を中止した彼は大いに慌てた指使いで携帯電話スマホを操作し、次いで鳳凰孔雀にも負けない悲鳴を上げた。

 短文つぶやき形式でメッセージを投稿する画面から始まり、紹介型の交流ツールなど登録しているインターネットのサービスを片端から再確認していったが、いずれも利用停止の措置が施されているではないか。

 俗に〝凍結〟と呼ばれる状態であった。不正な操作を確認した場合、更なる悪用を阻止する為にサービス提供側が利用そのものを強制的に規制してしまうのだ。解除申請など一定の条件が整えば再開の可能性もあるが、諸角タルタロスを戦慄させたのは先程まで問題なく使用できていたはずのSNSソーシャルネットワークサービスが全滅していたという〝事実〟である。

 インターネット画面を切り替えるたびに〝凍結〟の通知が表示されるのだ。が三つ目を数えたとき、諸角タルタロスの思考までもが機能を停止した。


「取り急ぎ過去の短文つぶやき我々ハルトマン・プロダクツのIT部門で解析させて頂きました。……一億円を他の人間と分けたくなかったようですね。『カモ発見!』という狩猟前のような興奮が最後に送信おくった短文つぶやきですか」

「スポーツでいうところの実況中継みたいなコトをやっていたら、岩手県内に隠れていやがる〝味方〟が駆け付けてくれたかも知れないのに、あんた、そういう知恵は回らないんだな。ほんの一歩惜しいな、実に惜しいぜ」


 自分をSNSソーシャルネットワークサービスから締め出したのは『ハルトマン・プロダクツ』か――掠れた声で問い質す諸角タルタロスに対して、自身の携帯電話スマホを操作し続けるマフダレーナは一瞥もせずに頷き返した。

 改めてつまびらかとするまでもないが、ギュンターが横から覗き込んだ液晶画面には『ハルトマン・プロダクツ』のオフィスより送信された解析データが表示されている。夥しい量の短文つぶやきの幾つかを素早く読み取ったザイフェルト家の御曹司は、これを「あんたみたいのを日本じゃ〝エンジョイ勢〟って呼ぶんだったな」と鼻先で笑った。

 左右の膝から完全に力がけてしまった諸角タルタロスは、崩れ落ちるような恰好で噴水のフチに座り込んでしまった。威勢良く吹き鳴らされていたはなぶえはその拍子にてのなかを滑り、乾いた音を立てて地面に跳ね返った。

 達成目標は全く重ならないものの、二〇一〇年のジャスミン革命に端を発する『アラブの春』に倣い、『ウォースパイト運動』は主にインターネット上で格闘技という〝人権侵害〟の根絶を訴えている。

 正義を唱える〝同志〟たちは国の垣根を超え、各種のSNSソーシャルネットワークサービスを通して連絡を取り合い、思想活動を展開しているわけだ。

 二〇一四年六月の時点ではアメリカのように過激な〝抗議〟は確認されていないが、日本での活動も大きく変わるものではない。電脳空間という極めて狭い範囲で〝人権侵害〟に対する怒りを共有し合い、同調によってくらい憎しみを増幅させていった。

 利用停止措置によって電脳空間から弾き出されるということは『ウォースパイト運動』の活動家にとって死の宣告にも等しいのである。いずれかのSNSソーシャルネットワークサービスに再登録を試みても『ハルトマン・プロダクツ』は同様の措置を取ることであろう。

 普段から一緒に格闘技を貶してきた〝同志〟の本名も現実世界での住まいも、諸角タルタロスは一人として把握していないのである。


「誰もが『サタナス』みたいになれるワケじゃないってコトが我々ハルトマン・プロダクツには救いだよ。特にあんたみたいなタイプはな。使い方次第で幾らでも〝武器〟になったハズのネタを小遣い稼ぎの強請りに使っちまうくらいだもんなァ~」


 いわゆる〝体育会系〟の気質が昔からしゃくに障り、を徹底的に痛罵することが歓迎されるという理由だけで『ウォースパイト運動』に名を連ねたようなものであった。ストレス発散の感覚ということまでザイフェルト家の御曹司に看破されてしまったようだ。

 そのギュンターは先程も諸角タルタロスを指して〝エンジョイ勢〟と表していた。

 超大国の大統領をも〝抗議活動〟に巻き込み、重罪犯専用の刑務所へ収監されても悔むことのない『サタナス』のように己の人生を思想活動へ捧げてしまえる覚悟など最初から持ってはいなかった。

 一部の〝ガチ勢〟のように『サタナス』を聖人として崇拝するつもりもない。


我々ハルトマン・プロダクツは勿論、政府当局にだってを取り締まる権利はない。少なくとも日本やドイツ、オランダではあっちゃいけないコトだ。……は〝自由〟に対する反逆と変わらねぇ。社交活動としてはどうしようもなく不健全だが、〝ネット越しの茶話会〟にまでケチを付け始めたら、それこそあんたの言う無秩序状態だよ」


 放火や放水といった『NSB』への直接攻撃に留まらず、ついには大統領が搭乗しているエアフォースワンにまでサイバーテロを仕掛け、『九・一一』の再現としか思えない事態まで引き起こしながら、アメリカ国内の『ウォースパイト運動』が一網打尽にされない理由は、まさしくギュンターが語った通りである。

 『ウォースパイト運動』もまた〝自由〟の原則によって保証されているのだ。

 先鋭化が著しく、〝国内テロ〟の予備軍という警戒はホワイトハウスでも強めているのだが、思想活動そのものを取り締まることは〝自由〟の侵害であり、また「疑わしきは罰せず」という法理すら踏み破る暴挙にも等しい為、現行法の枠内では不可能に近い。

 『サタナス』のように罪を犯した活動家は身柄を拘束し、法律に基づいて裁くことができる。しかし、それはあくまでも〝反撃〟であって先制攻撃ではなかった。

 尤も、思想を超えて明確な害意にまで至った〝個人〟を特定できれば、その芽を摘むことなど『ハルトマン・プロダクツ』には大して難しくはない。競技大会に関わる利権を貪り喰らうだけでは〝マフィア〟の蔑称で呼び付けられるほど忌み嫌われるはずもなく、その意味と所以ゆえんもまた想像に容易いのだ。

 弱みを握ったことを確信し、得意満面となって正義の笛を吹き鳴らしていた諸角タルタロスは、自分が如何なる存在に戦いを挑んだのか、正しく理解できていなかったといえよう。夢のような大金に目がくらんだ挙げ句、落ち着いて考えれば子どもにさえ理解わかるはずのことを脳が認識できていなかった。

 勝算は錯覚に過ぎず、余りにも向こう見ずで無謀な野心が暴走しただけであった。

 『ハルトマン・プロダクツ』が掲げている〝世界最大のスポーツメーカー〟という看板は基幹事業でありながらも一側面に過ぎない。表向きには公明正大をうたう〝メガスポーツイベント〟と癒着し、その利権を掌握する為ならば非合法な手立ても厭わない。

 競技者アスリート一人ひとりに寄り添う一方で、妨げとなり得る存在にはどこまでも残酷になる。その上、無罪すらもカネで買い叩く〝巨大帝国〟であることを諸角タルタロスも〝同志〟から幾度も聞かされていたのだ。

 この三人による樋口郁郎抹殺の密談も〝巨大帝国〟にまつわる風聞が事実であったことの証明である。

 ザイフェルト家の御曹司も恐喝を仕掛けてきた相手に対する反撃が異様とすら感じられるほど手馴れている。諸角タルタロスの側ではギュンター狼狽うろたえているように思い込んでいたのだが、そもそも最初から動揺すらしていなかった。

 交渉の始まりからこの局面に至るまで破滅への道を突き進んでいたのは諸角タルタロスただ一人であった。


「……私が警察に通報すれば――いえ、御三方の密談を〝同志〟に洩らしたら、報復攻撃を加えるということですか……?」


 途方もなく長い人生を〝破滅〟という名の十字架を背負い続けなければならないという事実は、二一年しか生きていない若輩者わかものに受け止め切れるものではない。公園へ足を踏み入れた頃の威勢の良さは消え失せ、深くうなれながら鳳凰孔雀の鳴き声に肩を震わせるばかりであった。


「二度と舐め腐った真似はしねぇっつう証文は別に要らないぜ。あんたが心変わりした瞬間、それがだ」


 現実世界であろうとも電脳空間であろうとも、諸角タルタロスという人間が存在する限りは『ハルトマン・プロダクツ』の監視が四六時中、常に張り付くことになる。たった一度でも不審な動向うごきを見せた瞬間にを取る――と、ギュンターは宣告したわけだ。


「……マンハッタンの事件を日本で再現させる――と?」

「言ってくれるじゃないの。あのときの被害者も『ウォースパイト運動』の活動家だったもんな。あんたには他人ひとごとじゃないわな」


 諸角タルタロスが口にしたのはおよそ四ヶ月前――ニューヨークを氷河期さながらの様相に変えた大寒波の傷痕が癒え切らない二〇一四年二月のマンハッタンで発生した一つの傷害致死事件である。

 『ウォースパイト運動』による執拗な〝抗議〟に怒りを爆発させた『NSB』のファンが一人の活動家の自宅へ押し入り、私刑リンチによって命を奪ってしまったのだ。諸角タルタロス自身は追従しなかったものの、格闘技の根絶こそ世界平和をもたらすと揺るぎなく信じている〝同志〟たちは被害者の顔写真をSNSソーシャルネットワークサービスのアカウント画像に設定し、正義の意志を受け継ぐと表明していた。

 その悲劇を再び繰り返そうというのか――と、弱々しい声で皮肉を飛ばすことが二一歳の医大生に出来る唯一の反撃であった。諸角タルタロスには知る由もないことであるが、二人の御曹司は現地マンハッタンへと急行し、事件現場周辺を視察している。さしものギュンターも苦笑いを浮かべるしかなかった。


「例の事件は警察の捜査も入ったし、犯人全員が逮捕されたろ? ボクシング元ヘビー級王者チャンピオンの上院議員に至っては『NSB』に抗議の声明まで叩き付けていた。……我々ハルトマン・プロダクツがそんな素人シロートみたいなコトをするとでも?」

「正直に申し上げて、わたし自身は貴方に一つとして好感は持ち得ませんが、それでもご家族への想いの深さは評価しないわけではありません。歳の離れた妹さんをとても慈しんでおられるようですね。今年、小学校に進学したばかりですから可愛い盛りでしょう」


 首の骨が軋むのではないかと案じられるような勢いで頭を振り上げた諸角タルタロスは、薄笑いも浮かべずに携帯電話スマホを操作し続けるマフダレーナの顔を見据え、絞め殺された鶏の如き悲鳴を喉の奥から洩らした。

 SNSソーシャルネットワークサービスの情報を解析していけば、現実世界にける個人情報を抉り出すことも不可能ではないと彼も承知はしているが、『ハルトマン・プロダクツ』は三〇分にも満たない短時間で家族構成をも暴いたのである。

 今や魔女のようにしか見えないマフダレーナがえて妹との関係に言及した意味も明らかであった。万が一の場合に命を奪われるのは己自身だけではない。妹だけでもない。家族・親類あるいは友人にも〝マフィア〟の銃が向けられることであろう。

 中世初期の日本で横行していた〝ぞくめつ〟という二字が諸角タルタロスの脳裏を掠めた。


「――仮想世界にのめり込むと、理性と知性と品性もそちらに置き忘れてしまう。あなたはその典型のようだ。体温を感じ合うことのない空間での振る舞いが現実世界にも影響を与え、善悪双方の報いを必ず受けるということを理解して頂くのが一番でしょう」


 口を噤んだまま、暫くの成り行きを見守っていた『格闘技の聖家族』の御曹司が湖畔の如く静かな声で切り込んだ。

 依然としてゴーグル型のサングラスを装着している為、諸角タルタロスの側から双眸を覗くことは叶わないものの、から一直線に閃く眼光は永久凍土を吹き抜ける風のように冷たい。


「冥土の土産に一つ、教えて差し上げましょう。あなたが『聖家族の御曹司』と思い込んでいる相手は私ではありません」

「い、いや、そんなバカな話――『ランズエンド・サーガ』で試合する写真も〝同志〟の一人がネットで晒していたハズ……ッ!」

「晒し者と言われるのは気分の良いものではありませんが、は兄のメルヒオールのほうです。……私は弟のストラール。それ以外の何物でもない――双子同然に顔立ちが似ているから頻繁に間違えられますがね」


 伴侶マフダレーナ親友ギュンターから向けられる物悲しい視線を背中に感じながら、『格闘技の聖家族』の御曹司と呼ばれた青年――ストラール・ファン・デル・オムロープバーンは、ネクタイを緩めながら諸角タルタロスへと歩み寄っていく。

 更には聞こえよがしに両の拳まで鳴らし始めた。


「粋人気取りで放蕩三昧だった弟は、栄光の『ランズエンド・サーガ』ではなくオランダの裏路地を根城にして用心棒を束ねていました。あなたもご存知の通り、格闘家たちの副業を取り仕切っていたワケです。……まではその生業で兄を――我がオムロープバーン家を支えるものと考えていましたよ」


 奥州の大地を踏む革靴の足音おとが鼓膜に重く響く諸角タルタロスには、ストラールが酷く無感情な声で吐き出していく〝昔語り〟など聞こえているはずもない。

 栄光の舞台ランズエンド・サーガに立つ兄を仰ぎ、祖国オランダの〝暗黒街〟で荒くれ者たちと群れてきた弟には『御曹司』と呼ばれる資格など備わっていない――と、ストラールは己を蔑むかのような言葉を紡ぎ続けるのだが、これによって心を抉られているのは声もなく俯き加減となった伴侶マフダレーナ親友ギュンターである。


「同じ『ウォースパイト運動』でも日本の活動家は手抜かりが多いようですね。我が兄の死は欧州ヨーロッパでも話題となったのですが、あなたがたの情報網も海を超えることはなかったということでしょうか。それもまた不幸の一つ」

「これ以上に! 今以上に不幸な情況は! ちょっとやそっとでは思い浮かびません!」

「……純粋なまま生き抜いた兄と違い、弟は根っこが礼儀知らずでしてね。に最も効果的な対処を心得ているのですよ」


 自身の置かれた状況が諸角タルタロスには何から何まで理解できなかった。

 さりとて、我が身に降り掛かろうとしている事態から目を逸らしているわけではない。兄と同様にオランダ式キックボクシングを極めているだろう青年が暴力を振るわんとしているのは一目瞭然である。それにも関わらず、噴水周辺で寛いでいる誰一人として制止を訴えながら割り込もうとしないのだ。

 ストラールが拳を鳴らし始める以前から諸角タルタロスは誰の目にも明らかなくらい追い詰められていた。ドイツ語で交渉はなしを切り出した日本人の医大生とは異なり、外国から訪れた三人は日本の言語ことばを使い続けている。周囲まわりの人々も『ハルトマン・プロダクツ』による恫喝を理解できないわけがなかった。

 危害を加えられそうになっても〝善良な市民〟が必ず助けてくれると考えていた諸角タルタロスの算段は、ここに至って完全に破綻した。


「まさか――まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさかァ……ッ!」

「状況を呑み込むまで『まさか』と一二回も繰り返さなくてはならないとは……。それだけの時間に警察にでも通報すれば助かったとは思わないのですか? 当方としては、そのような暇を与えるつもりなどありませんがね」

「まさかッ!」

「これで一三回目。回数というか、そのものは今のあなたにこそ似つかわしいな」


 もはや、悲鳴の一つも上げられない情況で諸角タルタロスは後退ずさろうと試み、己が既に噴水のフチに腰掛けていることを想い出して双眸を見開いた。

 周囲まわりのベンチで睦み合っていたカップルや、地べたに腰を下ろして一枚のタブレット端末でワールドカップの公式配信動画を視聴していた学生たち――諸角タルタロスはこの一件に無関係であるはずの人々から取り囲まれていたのである。

 つまるところ、自分たちが到着した時点で噴水の周辺にった全員が『ハルトマン・プロダクツ』のスタッフであったわけだ。学生服を着込んだ青年たちには「妙に老けた顔立ち」という印象を抱いたのだが、その違和感は間違いではなかった。


「扮装しての緊急招集っつう無茶ぶりしたのはオレだけどな、さすがに学ランってのは厳しかったんじゃないか? 四〇代後半が一〇代で押し通すのは苦しいだろ」

「気持ちだけは若返ったんですがね」


 同じ印象を持ったらしいギュンターから冷やかされた日本人社員スタッフは、決して逃亡させまいと標的を睨み据えたまま、「娘に目撃されたら、この先、一生ネタにされますよ」と苦笑いを浮かべた。

 その男が地べたに放置したタブレット端末からは現在いまもブブゼラの音色が流れてくる。『ウォースパイト運動』の抗議活動にも多用される笛の諸角タルタロスは初めて耳障りに感じていた。

 居酒屋から公園へと移動する道すがらマフダレーナは自身の携帯電話スマホを操作し続けていたが、その間に『タルタロス』という登録名で利用されているSNSソーシャルネットワークサービスを突き止め、同時に自分たちが向かう先へ〝伏兵〟まで差し向けていたのである。

 退路を求めるように周辺あたりを忙しなく見回す様子から自分が置かれた状況を諸角タルタロス当人も完全に理解したのであろうと見て取ったギュンターは、「オレたち三人だけで岩手に入るワケないだろ」と大仰に肩を竦めた。


「酒場での話を盗み聞きしていたんだから、分かるだろ? 独眼竜のお膝元までやって来たのは観光旅行じゃなくて『天叢雲アメノムラクモ』の視察。仕事ビジネス以外の何物でもないんだよ。おまけに『ウォースパイト運動』――あんたらじゃなくてアメリカの〝ガチ勢〟が盛大なバカをやらかしたこの時期にお気軽視察旅行ってのもあり得ねぇぜ」


 噴水が所在する広場は生垣でもって四方を仕切っているのだが、ギュンターが右の親指と中指を弾き、合図の音を鳴らすや否や、茂みの内側から背広姿の男性たちが一斉に飛び出した。

 〝伏兵〟は二段構えであった。標的が第一陣を切り抜けて逃げ出さない限りは生垣の内側に隠れ、息を潜めて待機し続ける算段であったのだろう。変装した姿で諸角タルタロスを包囲する人々とは纏う雰囲気が明らかに異なっており、あるいは本当に背広の内側に拳銃を携えているのかも知れない。

 〝第二陣〟の彼らは背広の襟に『ハルトマン・プロダクツ』の社章を付けている。

 もはや、諸角タルタロスは自分が奥州市の公園にるのか、マンハッタンの事件現場に程近いセントラルパークにるのか、それすらも分からなくなっていた。

 ただちに危害を加えることはないというギュンターの言葉も思考あたまの外に抜け落ちており、集団による〝私刑リンチ〟から逃れるべく二つの瞳を縦横無尽に動かし続け、錯乱の末に噴水へ飛び込もうと試みた。

 彼の鼓膜が決して小さくはない水音を拾ったのは、その寸前のことであった。

 重い〝何か〟が投げ込まれたような音の意味を分析する間もなく噴水の側へ振り返った諸角タルタロスであるが、左右の五指で一度はフチを掴みながらも、ついにを乗り越えることは叶わなかった。

 一瞬ののち、横殴りの雨ともたとえるべき量の水滴が顔面に飛び散り、この不意打ちのような状況に動転して意識に空白が生じた諸角タルタロスは、鳳凰孔雀にも負けないほど甲高い鳴き声を引き摺りながらその場で尻餅をいてしまった。

 今にも精神を崩壊させ兼ねない驚愕は、退路として選んだ先に仰ぐ人影が一等加速させた。正面から迫ってくるように思えたストラールが何時の間にか噴水の中に立っていたのである。

 先ほど鼓膜を打ち据えたのは彼が飛び込んだ瞬間の水音であり、顔面に浴びた水滴はその際に飛び散ったものであろう――が、だからこそ諸角タルタロスの驚愕は戦慄と綯い交ぜになって全身を駆け抜けたのだ。

 正面のストラールから逃れるべく諸角タルタロスは死に物狂いで退路を探していた。それにも関わらず、彼の動きを全く捉えられなかった。映画のフィルムでたとえるならば、逃亡を図ろうとする先へ回り込む瞬間のコマが丸ごと抜け落ちてしまったようなものである。


「しゅ、瞬間移動⁉ 超能力者ですか⁉」

「……『改造人間』とでも名乗っておきましょうか……」

「もはや、そこまで⁉ 『ハルトマン・プロダクツ』ってば怖過ぎでしょう! 殆ど秘密結社じゃないですかっ!」


 スラックスが濡れてしまうことも構わずに噴水へと飛び込み、諸角タルタロスの前に立ちはだかろうとしたのは間違いない。その瞬間のストラールの動きをえて言い表すならば、〝瞬間移動〟こそ最も相応しかろう。むしろ、それ以外にたとえようがなかった。

 電光石火の四字をもってしても解き明かし難い場景におののいたのは諸角タルタロス一人ではなかったらしく、彼を取り囲んだ『ハルトマン・プロダクツ』の社員スタッフの間でも小さくはないどよめきが起こっている。

 その一方で伴侶マフダレーナ親友ギュンター――ストラールと関わりの深い二人の顔に驚愕はなかった。標的が逃れようとする方向まで予知していたとしか思えない〝瞬間移動〟を一言も発さずに見届けたのち、身を案じるような眼差しをストラールに向けた。諸角タルタロスの問い掛けに『改造人間』と自嘲めいた調子で答えた直後などは、これ以上ないほど苦々しい表情を浮かべている。


「――が魔眼の類いでないことはギュンターもっているだろう? 演算に基づいて私の脳内チャンネルに僅か先の黄昏ラグナロクを映すだけだよ」


 ゴーグル型のサングラスに覆い隠された自身の双眸について、ストラールは先ほど謎掛けとしか思えない言葉をギュンターに述べていたが、その頃から隣席の会話を盗み聞いていた諸角タルタロス「私の脳内チャンネルに僅か先の黄昏ラグナロクを映す」という奇妙な言い回しが〝何〟を意味するのか、一つとして読み解くことができなかったはずである。


「あなたとその〝同志なかま〟は言霊を無情の刃に換え、決して反撃を受けない場所から忌むべき相手を斬り刻む。それは確実に心を蝕み、死に至らしめる呪いのようなものです。だからこそ、……あなたは〝痛み〟の意味を血の味と共に噛み締めるべきだ――」


 当のストラールはへたり込んだまま立ち上がれずにいる諸角タルタロスを見下ろすと、一つの宣告と共に間欠泉としかたとえようのない勢いでもって右足を振り上げた。

 突き付けられた宣告ことばの意味を悟った諸角タルタロスは、もはや、刑の執行を待つ重罪人のような心境に至っている。

 間もなく襲い掛かるであろう衝撃に備え、双眸を瞑りながら歯を食いしばっていた。格闘技どころか、スポーツの経験すら皆無に等しい己にキックボクシングの蹴り技が凌げるはずもないのだが、頭部を守り切れる防御ガードすら思い付かない以上はダメージのという原始的な手段しか選択肢がなかった。

 やや斜めの軌道を描くような形で大量の水を巻き上げ、真珠の如き水滴をまき散らしながら轟然と風を薙ぐ前回し蹴りは、まさしく肉体と魂を永久とわに切り離す死の大鎌である。


「――その辺にしといてやりな、ストラール。……もう十分だろ」


 諸角タルタロスは依然として尻餅を撞いたままであり、ストラールの立つ場から右足を水平に閃かせると、こめかみの辺りを抉ることになる――その一点に狙いを定めた前回し蹴りは、傍目にも加減しているようには見えず、命中すればただ一撃をもって頭蓋骨どころか、頚椎まで破壊させることであろう。

 しかし、轟々と風を切り裂く音は、両手でもって庇おうとした瞬間に諸角タルタロスの頭上をすり抜け、ついに彼の魂を狩ることはなかった。半ば恐慌をきたしていた彼の両耳は、死の大鎌が振り抜かれる間際に飛び込んできたギュンターの声にも気付かなかったのである。

 制止を訴える声はストラールに間違いなく届くようオランダ語で紡がれていた。

 これに反応して右の前回し蹴り蹴りは軌道が僅かに逸れ、頭部ではなく風を薙ぎ払うのみで終わったのだ。誰よりも直接的な制裁を望んでいるであろう男――ザイフェルト家の御曹司が蹴り技から諸角タルタロスを救ったのである。

 少量とは言い難い水滴が諸角タルタロスへ降り注ぐのと同時に、残照を跳ね返しながら舞い踊っていた金髪ブロンドの三つ編みがストラールの背中に垂れた。


「……ワールドカップの開催地は奥州ここじゃなくてブラジルだぜ。素人シロートアタマをサッカーボールの代わりにしたところでMVPに選ばれるコトもないぞ」

「勲章をぶら下げる趣味は最初から持ち合わせていないさ。……必要だからやるのだよ。日本人の彼にも分かり易く言うなら〝ケジメ〟と呼ばれるものだな」

「ガキの頃から慣れ親しんだ〝顔〟には里帰りみたいな気持ちも湧くがな、あんまり〝暗黒街〟の作法を剥き出しにするとレーナだって悲しむぜ?」

「わたしはストラールに賛成なのよ。我々ハルトマン・プロダクツの関与が疑われない形で救急車を呼ぶ手筈も先ほど整えたわ。搬送先もが全面的に通るはずよ」

「そこまでは頼んでねーだろ⁉ 相変わらずおっかねぇよ、レーナは! 伴侶ストラール以心伝心ツーカーなのは構わねぇが、オムロープバーンのキック前提で段取りを組むなっての! 放っておいたら、ストラールのほうも〝必殺フルコース〟までキメちまいそうだぜ!」


 ストラールとマフダレーナが揃って肩を竦めるのは当然であろう。

 いっときの愉悦に取りかれた挙げ句、身の程を弁えない浅知恵でもって利を得ようとする人間は〝何か〟の拍子に甦るような痛みを脳に刻み込むことで初めて従順となる。絶対に拭い去ることのできない恐怖が「自分は逆らえない力によって支配されている」という意識を呼び起こすのである。

 をザイフェルト家の御曹司は誰より知っているはずなのだ。『ハルトマン・プロダクツ』の社員スタッフもストラールと同じ疑問を抱いたらしく、彼が〝瞬間移動〟を披露した直後のようなどよめきが起こった。


「オレたちは〝スポーツマフィア〟なんて不名誉な蔑称なまえを頂いちゃいるが、アル・カポネやミケーレ・グレコみたいには長い歴史の中で一度もなかったろ。残念ながらオレたちはフランシス・コッポラやマーティン・スコセッシの気を引けるような〝本物〟じゃねぇのさ。当然、タランティーノもな」

「ク、クエンティン・タランティーノは私も知ってますけど、コッポラとスコセッシって何ですか? ティッシュペーパーの銘柄?」

「オールタイム・ベストの映画くらいチェックしないと女の子にモテねぇぞ、医大生」

「……だ、だから、私はフラれたのか……」

「おっとォ、思いがけず古傷に触れちまったか⁉ 今度、一緒にレンタルショップに行こうか? 女の子にウケる映画を紹介するぜ」

「ギュンターも別に女性にモテているワケではないわよね? どうしてそんな得意満面にオススメなどと言っているのか、わたしには理解に苦しむのだけど……」

「横からオレの心のカサブタを引き剥がすなよ、レーナッ!」


 ストラールとマフダレーナの二人だけでなく、『ハルトマン・プロダクツ』の人々を順繰りに見回しながらギュンターはが〝スポーツ〟と冠するマフィアであると諭していった。

 一口に〝マフィア〟といっても形態によって種類も様々である。裏社会で血みどろの勢力争いを繰り返す〝本物〟は言うに及ばず、〝表〟の社会であっても絶大な権力を握って支配的に振る舞い、利益を吸い尽くすような存在はくだんの蔑称で呼ばれることが多かった。


「新聞で『ラッキー・ルチアーノ』呼ばわりされたときは、さすがに喜んで良いのか、腹を立てるべきか、迷っちまったがな」


 ギュンターが例に引いた『ラッキー・ルチアーノ』とは禁酒法時代が幕を下ろした後のアメリカを代表するマフィアである。弱肉強食の暗闘を勝ち抜き、絶対的な最高権力者として君臨するのではなく、組織間の互恵関係に基づく合議制を成し遂げた〝改革者〟でもあった。

 政治家や各界の著名人とも関わりを深め、また古い時代から続いてきた血族による連携さえも刷新し、アメリカマフィア全体の合理化・近代化を推し進めたとされている。〝せんそうの時代〟には軍とさえ協力関係を築いたという。

 刑務所の中から仲間を揺り動かすという点にいては天敵たる『サタナス』にも似通う人物――ラッキー・ルチアーノの名前をわざわざ挙げたのは、ザイフェルト家の御曹司の諧謔ブラックユーモアというわけであった。


「……ギュンターに感謝することです。今、あなたに刻まれるべきであった罪を代わりに背負ったのは、あなたが薄汚い野心を向けたその相手なのです」


 その御曹司ギュンターは尻や足が濡れるのも構わずに地べたへ腰を下ろし、未だに起き上がれずにいる諸角タルタロスと目線を合わせ、自身のハンカチでもって濡れた髪や頬を優しく拭っていく。

 思いも寄らない筋運びに目を丸くしている諸角タルタロスの背中を見据えたストラールは、制裁の一撃を取り止めた理由を日本語でもって紡いだ。


「今さっき話した通りさ。人生の勝負所と判断したんだろうが、マフィアと呼ばれるような連中を相手に喧嘩を売るのは勧めねぇよ。アタマに〝スポーツ〟って付くだから、ちょっと怖い思いに遭う程度で済んだけど、だったら、あんた、今頃は噴水を真っ赤に染めてたハズだぜ」


 諸角タルタロスの視線を引き付けるようにしながら右手で握り拳を作ったのち、やや芝居がかった調子で人差し指と中指を突き出した。この二指を銃身に見立て、差し向かいに座る青年の眉間を軽くつついたのである。

 この無謀な青年を恫喝し返していたときとは打って変わっておどけた調子であるが、その声は実際に柔らかい。

 依然として背後はストラールという死神スーパイによって脅かされている為、安全が保障されたとは言い難い状況だが、鼓膜へ優しげに染み込む声を聴いている内にギュンターが語り掛ける内容を理解できる程度には緊張が和らいできた。


「メンツとは別の問題で上層部うえはシブい顔すると思うがね、オレ個人はあんたのクソ度胸が嫌いになり切れねぇんだよ。……さっきレーナからあんたの短文つぶやきを読ませて貰ったが、口の悪さを除けば着眼点とか感心するモンが多かったぜ?」

「……そちらが不愉快に思うくらい格闘技を叩きまくっていましたが……」

「カチンと来なかったって言えばウソになるけど、例えばスポーツ系のリアリティ番組に対する批判は真っ当だったし、医者のタマゴらしい観点には感心させられたんだぜ」


 リアリティ番組とは原則的にタレントではない一般人たちを一つの〝閉鎖空間〟へ押し込め、そこで起こる筋書きのない人間模様を切り取るものであった。一定期間、共同生活を送ることになった人々の感情の摩擦などを建物の至る場所に設置された隠しカメラで撮影するという手法が好例である。

 〝筋書きがない現実の姿リアリティ〟ということは、テレビの画面に映し出されるのは〝筋書きに従って作られた登場人物キャラクター〟ではなく、剥き出しの人格と受け止められてしまうわけだ。その弊害は極めて深刻である。悪感情を抱いた視聴者が出演者に対して放送終了後の実生活でも嫌がらせを繰り返し、最悪の事態を引き起こしてしまうのだった。

 激しい感情のぶつかり合いは好奇の目を集め易いが、当然ながら出演者の負担は心身とも余りにも大きい。その上、番組制作側がメンタルケアや個人攻撃への対応を蔑ろにすることも多く、全世界で物議を醸していた。


「例えば現在いまも『NSB』のシキりでやってるリアリティ番組な。悪口を言うのが目的とはいえ、あんた、随分と細かく調べたみたいじゃねぇか。オレが読ませて貰った範囲じゃ日本で放送していない分までかなり正確だったぜ」

「……あれはその……自分なりの見解を述べただけで、それだけで……」

「――そもそも『NSB』はスポーツ選手を人間扱いしていない。二四時間、カメラに囲まれ続ける生活で精神に異常をきたした選手もいるのに撮影方法を見直そうともしない。心をやられて潰されたスポーツ選手は数え切れないくらいなのに。これを邪悪と呼ばずに何と呼ぶのか」

「い、一年くらい前に投稿したヤツじゃないですか、それ……っ。しかも、そんなに行儀の良い言い方じゃなかったですし……!」

「参加者が映ったポスターへの悪質なイタズラ、私物を盗んだ盗んでないという口論、試合前の選手を委縮させようと大声で威圧……出演前までは腕を競い合う親友二人が絶交したって話もある。健全な肉体に健全な精神が宿るのは大昔の幻想だが、体の具合と切っても切り離せない精神メンタルに寄り添おうともしない団体はツブしたほうが世の為だ――これに関してはイズリアル・モニワだって反駁できねぇと思うぜ」


 ギュンターが言及した通り、『NSB』では前代表フロスト・クラントンがマーケティング戦略を担当していた頃に企画したリアリティ番組を現在も継続して制作・放送している。

 『NSB』デビューを目指す選手たちがラスベガスの合宿施設で暮らし、寝食や訓練トレーニングを共にしながら同団体との正式契約を巡って勝ち抜き戦を繰り返すという形式であった。

 同番組から巣立ち、『NSB』の興行イベントに欠かせない名選手となった者も少なくない。一度は『サタナス』から攻撃対象に選ばれたルワンダ出身うまれの拳法家――シロッコ・T・ンセンギマナもその一人であった。

 〝アメリカンドリーム〟の可能性を約束する一方で、諸角タルタロスが過去に指摘したような問題も後を絶たない。これはMMA選手としての将来を占う機会でもある。言ってしまえば生存闘争を繰り広げる〝敵〟とひとところに押し込められる状況であり、互いに対する感情の振幅が他のリアリティ番組よりも遥かに大きくなってしまうのは必然といえよう。

 それは生き残る為に手段を選ばないリング外での潰し合いと表裏一体であり、ひいては心身の故障という形で跳ね返ってくる。「選手の人格を無視して見世物にしている」という諸角タルタロスの批判は極めて真っ当な問題提起なのだ。

 一個人の悪感情をただ迸らせただけではなく、医学の見地に基づいた理論展開である点をザイフェルト家の御曹司は評価しているわけだ。恐縮した様子で俯きそうになった諸角タルタロスの顔を覗き込むと、ついには「大学卒業したらウチに来ないか? ハーメルンの本社にデスクを用意しておくぜ」とまで言い出したのである。


「医者といっても働き方は色々だろ? スポーツメーカーは何時でも医者を募集しているんだよ。あんたの為人ひととなりは十分に理解わかったし、そのクソ度胸と才能を他所にられちまうのはどうしても惜しい。採用しない理由がオレには見つからないんだよ」

「……は? 採よ――え……っ?」

「選手が一〇〇パーセントの力を発揮できる環境を整えるのが主催者の役目なのに、『NSB』がやってるのはその正反対。大会を盛り上げる為だけに選手の人生を食い散らかしている腐れ外道――ここまで考えをまとめられるのなら十分さ。MMA憎しが先に立つアクセルロッド上院議員の声明スピーチよりずっと上等だよ」


 当然ながら『ハルトマン・プロダクツ』の社員スタッフたちの間でどよめきが起こり、翻意を促す声も上がったが、ザイフェルト家の御曹司は片手を軽く挙げることでを制した。


「当面の間、SNSソーシャルネットワークサービスは控えて貰うことになるし、オレの目が届く範囲――ハーメルンの本社に勤めて貰うのが一番かな。そのほうが上層部うえも説得し易いし、何より米ドル一億の請求なんてバカな真似しなくて済むんだがな。さっきの決め台詞を借りるなら、『あんたの将来をが買い取ろう』ってトコさ」

「報酬とか待遇とかそういうことではなくて。……どうして自分になんかに温情を? 命拾いしたことが未だに信じられないくらいなのですが……」

「口説き文句を聞き流されるのも悲しいもんだな。オレがあんたを気に入った。それだけで十分だろ? ……格闘技の有り様が気に喰わねぇって気持ちは分からなくもねぇよ。それならよ、ネットの悪口でそれを慰めるんじゃなくて、オレと一緒にってのはどうだ? 『ハルトマン・プロダクツ』でなら、それも不可能じゃないぜ」


 そうして差し出されたギュンターの右手を諸角タルタロスは縋り付くような恰好で握り返した。

 大金をせしめながら世界最大のスポーツメーカーを叩き潰すという栄光は得られずに終わったが、代わりに攻撃対象から将来の栄達が約束された。その上、無罪放免まで示されたのである。家族・親類に至るまでことごとく破滅させられるはずであったところを御曹司直々にゆるしてくれたのだ。

 求められた握手に応じない理由など諸角タルタロスにあるはずもあるまい。危うく閉ざされようとしていた前途に再び光が差し込んだことを祝福しようというのか、鳳凰孔雀の甲高い鳴き声が諸角タルタロスの脳天目掛けて飛び込んできた。


「……その〝顔〟だけは何時まで経っても慣れることはないだろうな……」


 諸角タルタロスと握り合っている右手に対の手のひらを重ね、大学卒業後の進路を約束する親友ギュンターの様子をストラールは黒いレンズの向こうから真っ直ぐに見据えている。我知らず唇より滑り落ちた呟きは、誰にも聞こえないくらい小さかった。

 ザイフェルト家の御曹司がすこと一つとして見逃すまいという意志を秘めた強い眼差しであった。

 多少は落ち着きを取り戻したように見えるが、精神崩壊の間際という極限的な恐怖を味わって思考かんがえる能力ちからが停止した状態であることに変わりはなく、現在いま諸角タルタロスは自分にとって不利益な交渉であっても迷うことなく首を頷かせてしまうだろう。

 もはや、破滅へと一直線に突き進むしかないと思い詰めた直後に望外の温情を受けたのだから、空白にも等しくなった脳内あたまのなかにギュンターが思い通りの命令プログラムを書き込んでも、諸角タルタロスは感謝と喜びをもって受けれるはずだ。

 つまるところ、ギュンターは私利私欲を満たす為に『ハルトマン・プロダクツ』を恫喝してきた〝敵〟を懐柔し、生涯に亘ってにするつもりなのである。

 先ほど制裁の蹴りを引き留めたのも、この篭絡に向けた計算であったに違いない。

 〝暗黒街〟のに慣れているストラールは、半死半生の状態に至らしめた上で、命が尽き果てる瞬間まで監視下に置くことを宣告するのが最良の選択肢と考えている。実際に見張り続けなくとも絶対的な恐怖によって永遠に縛られる諸角タルタロスは、二度と『ウォースパイト運動』に近寄らなくなるはずだ。

 我が身を滅ぼす結果になろうと信念を貫かんとする覚悟さえ持たず、浅知恵を弄する人間とは得てして脆弱であることをストラールは経験で知っている。権謀術数の渦中で生まれ育ってきたザイフェルト家の御曹司のほうがは痛感しているはずだが、他ならぬ彼自身が危険性リスクまで含めて一切を呑み込むと決めた以上、親友ストラールとしても従うしかなかった。

 そのギュンターは諸角タルタロスの見識をしきりに褒めちぎっているが、伴侶マフダレーナ携帯電話スマホに送信された調査結果を覗いた限り、所属先の大学を首席で卒業できるような学力ではなさそうであった。難解なドイツ語まで使いこなせるので通訳の適性はあるかも知れない。それ以外には特筆すべき点もなく、『ハルトマン・プロダクツ』に見合う人材とは思えないのだ。

 このぼんぴゃくな人間を甘言まで用いて味方に引き入れようとする利点はストラールも理解していた。各地に潜在する活動家全員を把握することまでは不可能であろうが、日本にける『ウォースパイト運動』の手掛かりを一つだけは間違いなく確保できるわけであった。

 『サタナス』のように複数名から成る集団グループで〝抗議〟を実行する者も多いが、『ウォースパイト運動』は巨大組織などではなく、あくまでもインターネットを中心とする思想活動なのだ。

 諸角タルタロスのようにどこから湧いて出てくるのか、『ハルトマン・プロダクツ』の情報網をもってしても完全には掴み切れないのである。今回は〝敵〟のほうがあらゆる意味で脆かった為、速やかに対処できたものの、『サタナス』に感化された過激派であったなら、MMA団体を支える企業にはちゅうちょなく火炎瓶をとうてきしたはずだ。交渉を試みるどころか、会話が成立しない危険性も高かった。

 彼を利用することで『ウォースパイト運動』の動向を少しでも掴めるのであれば、本社での雇用など安い代価といえよう。


樋口郁郎イクオ・ヒグチを葬り去るときには我々自身にトドメを刺すくらいの覚悟を要するのかも知れないぞ、ギュンター。……共に地獄へ落ちよう)


 洗脳にも等しい人心掌握術は〝せんそうの時代〟に独裁政権と結託し、〝巨大帝国〟を興したザイフェルト家の御曹司にとって何よりも忌み嫌うものである。諸角タルタロスを篭絡させようとしている現在いまも、全身を小さな虫が這い回るような感覚で蝕まれているのだろうと、幼い頃から共に過ごしてきたストラールには理解わかるのだ。

 かつて祖国ドイツを狂乱に駆り立てた独裁政権も若い青年たちを洗脳し、その将来を生贄の如く弄んだのである。その高官と手を組んだという罪の十字架を背負いながら、史上最悪の独裁者と同じ所業を『ハルトマン・プロダクツ』ひいてはザイフェルト家は現代にいて再現していた。

 〝本物〟のマフィアではないから、フランシス・コッポラやマーティン・スコセッシに映画の題材として選ばれることもない――それすらも詭弁に過ぎなかった。半世紀を超える歴史を紐解くと〝本物〟さえも愕然とするような〝闇〟が浮かび上がってくる。

 御曹司ギュンター自らが例に引いたラッキー・ルチアーノなる人物は組織間の同盟を重んじ、アメリカマフィア全体へ富が行き渡る体制を整えたが、それ以前には〝ふるい世代〟と訣別するべく血塗られた暗闘を繰り返し、その中で自らも瀕死の重傷を負わされていた。

 先程の諧謔ブラックユーモアは吐いた途端にギュンター自身の心を軋ませたはずであるが、彼は一族が歩んできた歴史と自らと〝同化〟しているのだ。普段の振る舞いは軽佻浮薄とさえ思えるものの、ザイフェルト家の行く末を左右する局面では己の感情を完全に殺し、〝血〟に衝き動かされるまま使を完遂してしまえるのだった。

 己を偽るたびに全身を駆け巡る痛みも滲ませることがない。ザイフェルト家の〝血〟を受け止める大器うつわの持ち主であったればこそ、権謀術数の渦中で〝御曹司〟と認められたのである。

 少年と呼ばれていた頃には己の立場に苦しみ、懊悩を抑え切れなくなることも少なくなかったが、今では矛盾をも飲み下せるようになった――まさしく諸角タルタロスと相対しているのだ。

 無論、目の前の青年の胆力と頭脳を純粋に気に入っていることは間違いなかった。人のいギュンターは損得勘定のみを行動基準としているわけではなく、ましてやを喜んで抹殺する人間でもない。手元ハーメルンに置いておけば〝要らざる介入〟から守ってやれるとも考えているのだろう。

 過激な活動家でないと確認された判断材料としては極めて大きかった。『ウォースパイト運動』の犯行であるのか、現時点では定かでないのだが、『天叢雲アメノムラクモ』のセレモニーへ参加するはずであったローカルアイドルを脅迫したのは諸角タルタロスではなさそうだ。

 何しろ言葉の端々から空虚な功名心を感じ取れる青年である。そのような性情であればローカルアイドルに対する攻撃さえも手柄の如く勝ち誇ったことであろう。しかし、得意満面であった頃にも脅迫電話には一度も触れなかった。これはSNSソーシャルネットワークサービス記録ログいても同様であった。

 攻撃されるような理由もない人々ローカルアイドルへ実害を与える過激活動家であったなら、さしものギュンターも本社で雇おうとは考えなかったはずである。


(改めて振り返るまでもなく、メッキでしかない私とギュンターとでは大違いだな……)


 同じ〝御曹司〟と呼ばれる立場でありながら、兄の代わりとしてその座に自分は〝紛い物の器〟に過ぎず、一族の歴史へ我が身を捧げられるような覚悟も備わってはいない。

 幼少期からザイフェルト家の帝王学を叩き込まれてきたギュンターとは境遇が余りにも異なる為、〝同じ景色〟を眺めることなど叶わない現実に嫉妬は覚えないが、それらしく振る舞おうとも本当の意味で御曹司にはという諦念が押し寄せてくるのだ。

 用心棒を兼業する祖国オランダの格闘家たちを束ね、彼らと共に一生を終えると、ほんの少し前まで信じて疑わなかった。

 荒くれ者たちと心を通わせようというときには衣服が汚れるのも構わずに目線の高さを合わせ、腹を割って語らうことが肝要とギュンターに教えたのも〝オムロープバーン家の次男坊〟として歓楽街を根城にしていた頃である。

 本人が望んでもいない人心掌握術を親友ギュンターに押し付け、その心を軋ませてしまったのではないかという負い目がないわけではなかった。


(……格闘技そのものが死に絶えるか否かという昨今の時勢を思えば、手段を選んではいられないが……)


 社員スタッフの一人が変装の小道具として用意したタブレット端末からは未だにブブゼラの音色が流れ続けている。

 『サタナス』の凶行によって全世界の『ウォースパイト運動』は更に先鋭化していくことが予想される。類例を挙げるまでもなく〝メガスポーツイベント〟はテロの標的となり易いのだ。格闘技・スポーツにいても従来とは全く異なる対策が求められており、そのような局面だからこそ『ハルトマン・プロダクツ』は『天叢雲アメノムラクモ』への視察に踏み切ったのである。

 『NSB』との合同大会を控えたMMA団体には万全のテロ対策が急務であるが、〝暴君〟の支配下で自浄能力すら正常まともに機能していない日本格闘技界には段取りを整えることさえ不可能であろうとストラールはしている。

 団体及び主催企業の規模が余りにも小さく、特定の拠点ホームグラウンドを持たない〝旅興行〟の形態を取っている上に会場の設営でも〝外部そと〟の人間を大量に雇い入れるという。それはつまり、『ウォースパイト運動』の活動家も容易に潜入できることを意味しているのだった。

 場合によっては篭絡したばかりの諸角タルタロスをスパイに仕立て上げ、日本にける『ウォースパイト運動』の動向を探る必要に迫られるのかも知れない――ゴーグル型のサングラスで覆われている為、感情の揺らぎを完全に読み取ることは難しいのだが、現在いまのストラールが眉間に寄せた皺の数は一本や二本ではなかった。


「……いつもより悪い顔になっているわよ、ストラール――」


 鼓膜に染み込む愛しい声のほうへ顔を向けると、今まさに伴侶マフダレーナが噴水の中へと入ろうとしていた。が一区切りとなるのを待っていたのであろう。

 初夏を迎える頃合いとはいえ、夕暮れ時ともなれば水は肌を突き刺すようになる。片手を軽く挙げて伴侶を押し止めようと試みたが、当のマフダレーナはタイトスカートが濡れるのも構わずにフチを超えてしまった。

 躊躇のない行動に頬を緩めながらもストラールは二つの意味で肩を竦め、「幾ら名前の由来とはいえ『マグダラのマリア』を模倣する必要はないのに」と優しく諭した。


「――それとも深い疲労が顔に表れてしまったのかしら? ……まさか、このような場所で『ラグナロク・チャンネル』を開くなんて……後の始末ことはギュンターたちに任せて、いつもの薬草で魂を癒さなくては……」


 水音を立てながら伴侶ストラールへ歩み寄ったマフダレーナは左右の五指でもって愛おしそうに頬を撫で、黒いレンズの向こうに翡翠色の瞳を覗き込んだ。

 余人には意味の通じない暗号めいた言葉である。その上、用いているのは祖国オランダ言語ことばである為、誰かの耳に届いたとしても内容を正確に理解される可能性は極めて低いだろう。

 あるいはギュンターは諸角タルタロスと語らいつつ、聞こえない芝居フリをしているのかも知れない。


「雨が降らなければ虹は出ない――キミやギュンター、そして、ガダンの未来に光を導くのであれば、この胸に垂れ込める憂鬱も私には無駄ではないと思えるのだよ」

 己の身を心の底から案じてくれる伴侶マフダレーナの愛情に南国ハワイ格言ことばで応じたストラールは、緩やかに波打つ赤褐色の頭髪かみへと唇を落とし、ほんの少しだけ虚ろに微笑み返すのだった。




 マフダレーナが口にした『ラグナロク・チャンネル』ものちの格闘技史に刻まれる言葉であるが、それは間もなく別の〝何か〟に書き換えられ、儚い霧の如く記憶の彼方へ掻き消えていくことになる。

 そのとき、取るに足らない存在でしかなかったはずの新人選手ルーキー――キリサメ・アマカザリが『格闘技の聖家族』の御曹司をはげしく揺さぶり、『天叢雲アメノムラクモ』を新しき局面へと導いていく。



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