その11:帝国~メガスポーツイベントの功罪/利権を喰らうスポーツマフィア・平和の祭典の陰でうごめく暗殺計画
一一、帝国
ただ道を歩いているだけで「夥しい」としか表しようのない好奇の目に晒され、携帯電話のカメラ機能で隠し撮りされ、サイン色紙を無遠慮に突き出される
俳優にとってファンは何物にも代え難い支えであるが、同時に一個人の
理性という名の
異郷で過ごす時間とは〝一人の人間〟として見做されないという疲弊を
その一方、日本を代表するMMA団体『
世界で最も熱烈な〝サッカー王国〟だけに国内の人気度では同世代のネイマールと肩を並べる
レオニダスはブラジリアン柔術やカポエイラなどMMA選手としての
二〇一四年六月から翌七月半ばまでレオニダスの故郷ではサッカー
実際に
隠しようがないほど巨大なアフロ頭をヘアバンドで持ち上げたまま町へと繰り出し、驚いて振り返る人々やサインの要求にも気さくに応じていた。それどころか、女性ファンとの適切とは言い難い風聞によってタブロイド紙を賑わせることも少なくなかった。
どこに居ても誰もが自分のことを持て
彼が出演するバラエティー番組の視聴率に影響が及ぶことを懸念しているのであろう。イメージダウンに直結するような事柄を日本のメディアは取り上げず、『
標的を絡め取る巧みな寝技にちなんで『スパイダー』なる異名で呼ばれ、実際に胸板からヘソに掛けて蜘蛛の巣と獲物の蝶を
赤提灯を軒先に吊るした古めかしい居酒屋で少し早い夕食を
彼はネイマールのような有名選手でもなければ、映画のフィルムと共に海を渡るような俳優でもないが、生まれ育った
居酒屋の
決して広くはない居酒屋のテーブル席で牛タンの串焼きを頬張っているのは世界最大のスポーツメーカー『ハルトマン・プロダクツ』――その経営者一族の御曹司であった。名前をギュンター・ザイフェルトという。
例えスポーツに対する関心が薄くとも経済界に接点のある人間であれば、ザイフェルト家の一族と判った途端に恥をも捨てて媚びへつらってしまうことであろう。
レオニダスは
〝
問題提起に近い形でレオニダスの〝本性〟を報じたアメリカの格闘技雑誌はザイフェルト家の厳格さについても「オリンピックの商業化よりも以前から様々な国際競技大会と癒着し、およそ半世紀に亘って広告利権を貪ってきた〝スポーツマフィア〟の側面と明らかに矛盾している」と痛烈に批判している。
善かれ悪しかれ、ザイフェルト家の
まだ二〇代前半という
この町――
『ハルトマン・プロダクツ』の本社が所在するニーダーザクセン州のハノーファー・ランゲンハーゲン空港から旅客機に搭乗したのだが、花巻空港へ向かう機内でさえ言葉を交わした全員から腫物に触れるような扱いを受けてきたのである。数ヶ所を経由する
入店してきた客の何人かは東北の安酒場とドイツ人青年という珍妙な組み合わせに目を丸くしていた様子だが、それはほんの一瞬のことである。伊達政宗の事跡を目当てに
呂律が回らないほど陽気な酔客でさえ牛タンに舌鼓を打つ異邦人へ「
心身ともに疲れ果てる
一〇年以上も昔のことだが、日本の古武術を習ったというだけで「祖国の魂を忘れたザイフェルト家の面汚し」とドイツ最大の新聞紙上で批判されたのである。
それ以上にギュンターが恐れているのは祖父のトビアス――ザイフェルト家の総帥だ。『ハルトマン・プロダクツ』創始の歴史を十字架の如く背負う〝二代目〟は一族の誰よりも厳格であり、身だしなみから立ち居振る舞いに至るまで目を光らせている。余りにも煩わしい束縛が及ばないこの町は
「――
「……トビアス総帥の目が届かない海外だからといって羽目を外し過ぎだろう。『孫は出張先でどうだったか?』と
「お前がカタ過ぎるんだよ、ストラール。明日、『
「深酒をしなければな。……身も心も疲れたときには多少は酔わないと眠れないが、お前はそれほど酒に強くない。気を揉むのは当然だろう? 私としては安眠効果の薬草を煎じて飲むことを勧めたいよ」
「確かに〝薬草魔術〟は健康にも良いけどな、それは知っているけどな、その言い方はやめろっての。前から頼んでるじゃないか。……全国紙で『酒に吞まれる男はザイフェルト家の面汚し』なんて書かれたら、俺はマジで
「ドイツの全国紙は一地方の世間話を記事にするほど暇なのか? 〝笛吹き男の伝説〟と重なるような筋運びはせいぜいオカルト雑誌が取り上げるくらいだ。三流コラムニストから笑い者にされるより遥かに屈辱だろう? それが
ギュンターに〝日本の古武術〟を伝授したのはアイルランド人の師範であったが、そのときに和食の嗜み方も教え込まれたのかも知れない。徳利から手酌で
差し向かいに座り、翌日に酒気を残すことがないようドイツの
ギュンターが奥州の地酒を満喫しているのに対し、ストラールはグラスに注いだクラブソーダで我慢しているのだ。
「去年の
「口ではそんなツレないコトを言いながら、〝もしも〟のときには背中を預かってくれる
「口説き文句を囁く相手を間違えているぞ、
「ばっか、お前――わ、
「……やはり、お前には酒よりも心を落ち着ける〝薬草魔術〟のほうが必要らしいな」
正面の
ストラール・ファン・デル・オムロープバーン――奥州市には『ハルトマン・プロダクツ』の
現代に
一九七二年ミュンヘンオリンピックに
尤も、二人の御曹司は風貌の
オムロープバーン家の御曹司は分厚いゴーグル型のサングラスでもって双眸を覆っているのだ。『格闘技の聖家族』という素性を誰もが知っている
「だ、大体なぁ、
「ギュンター、お前がまさか、そこまでバロッサ家の娘にこだわっているとは私も想像していなかったよ。二つ謝ろう。今のがその内の一つ。もう一つはその話に興味を持てないという私自身の無礼だよ。心から申し訳ないが、コンマ一秒も関心を維持できなかった」
「……お前の
店内にはこの地方で作られている鉄器が幾つも飾ってあった。中でも独特の存在感を示しているのは表面から愛らしい狸の顔が突き出した茶釜である。これらに造詣が深いらしい老夫婦の説明へ熱心に聞き入り、波打つ赤褐色の髪を揺らしながら幾度も幾度も首を頷かせる女性をサングラスの黒いレンズに映しているストラールは全く気付いていないが、彼の親友は既に食事の手を止めていた。
ワイシャツの内側から引っ張り出した不思議なネックレスを左右の手で弄びつつ、正面の
頬を薄く紅潮させながら「これくらい小さな頃にほんの何日か、一緒に遊んだだけなんだからさぁ~」と独り言を連ねる珍妙な様子よりも人目を引くのは特徴的としか表しようのない髪型である。
頭髪全体を短く刈り込み、その上で眉間と頭頂部の間に茂みのような塊を残している。一目見ただけではザイフェルト家の御曹司と判らない風貌だが、これによって権威に対する反骨精神を表しているわけだ。
彼の素性を知る人々の目には革紐のネックレスも奇妙と映ることであろう。世界最大のスポーツメーカーの経営者一族ともなれば、その財産は数世代先まで遊興に
革紐には二種類の色糸で編んだ小さな輪がペンダント・トップのように通してある。こちらがくたびれているのだ。糸の色も殆ど褪せていたが、形状から察するに小さな子供が手首に嵌めるミサンガのようであった。
長年、愛用し続けているらしいが、一族にも質素倹約を求める
「淡い想い出を大切に仕舞っているお前の純情がいつも眩しいよ。『ハルトマン・プロダクツ』の一員として忠告するならバロッサ家を怒らせるような事態は避けて欲しいということかな。総帥のノラ・バロッサは台湾の
「やたら意識の高いご忠告ど~も!
手が空いているものと
脱いだ背広を店に預けてはいるものの、
ベストのボタンに付けられた銀色の鎖はそのままポケットまで繋がっている。おそらく中には懐中時計でも仕舞われているのだろう。そこにダークグレーのストライプシャツが組み合わされば、洒落たビジネスパーソンとしか思えないのだが、誰にも
ギュンターは名門の御曹司へにじり寄ってくる人間がいない状況を、ストラールは大衆性の三字こそ似つかわしい安酒場の雰囲気をそれぞれ好んでいる。
オランダという
オムロープバーン家がオランダに
ときには〝表〟の社会の法律すら踏み越えてしまう荒くれ者を束ねるのは、比喩でなく正真正銘の重鎮にしか成し得ないことであろう。
今でこそ身綺麗に整え、御曹司として取り澄ましてはいるものの、理性が消し飛んだとしか表しようのない素っ頓狂な笑い声や、酒の勢いに任せた調子外れの歌声こそ最も耳に馴染むのである。店内に充満する様々な匂いが複雑に入り混じり、鼻孔を突き刺しているのだが、それすらストラールには心地好かった。
二人の御曹司はそれぞれの
長時間に及ぶ
店員が運んできたクラブソーダのグラスを
『ハルトマン・プロダクツ』の会長――ザイフェルト家の
しかし、同じ名門の一族であっても二代も
ストラールの双眸を覆うゴーグル型のサングラスは依然として赤褐色の髪の女性を映しているが、二人のほうに振り返ったその顔はレンズの中で膨らんでいく。食事を済ませた老夫婦と別れ、ギュンターが歯軋りしているテーブルへ近付いてきたわけだ。
汚れ一つないブラウスとタイトスカートを合わせたフォーマルな出で立ちは、仕事帰りに赤提灯の誘惑を受けて暖簾を潜ったビジネスパーソンのようにも見える。
三人が関わりの深い仲間同士であることは一目瞭然であった。
「なぁ、レーナからもストラールを止めてくれよ。どうしても俺とキサラ――バロッサ家の娘をくっつけたいみたいでなぁ~。全く弱っちまうぜっ!」
「よさないか、ギュンター。〝私のレーナ〟までお前の虚しい妄想に巻き込まないでくれないか。……注文したスープが冷めてしまうくらい話が弾んでいたようだね。確か『
「先程のご夫婦、この近所で伝統工芸品の
「キミがそれを望むなら私は幾らでも付き合うよ、レーナ。それが私の望みだ」
「速攻で二人の世界に入りやがって! 仕事だろ! 出張だろ! 俺たち三人での視察旅行だろうが! とてつもなく自然な流れで途中下車の旅に繰り出そうとするなっ!」
『レーナ』という
愛称以外の呼び方を挙げるのならば、〝ストラールの伴侶〟こそ最も相応しい。いずれは『オムロープバーン』の家名を称することになるであろうオランダ
「ギュンター本人から教わった話と記憶しているのだけど、バロッサ家のキサラさんは日本でテレビアニメの仕事をしているのよね? ベトナムで映画に
「レーナが一番容赦ねぇな⁉ トドメを刺しに来てるとしか思えねぇよ!」
ギュンターに向かって冗談を述べながらストラールの隣へ腰掛けたマフダレーナは薬草を煎じた
彼女自身はアムステルダムで生まれ育ったが、遠い祖先は他国を
人権の概念が希薄な中世という時代背景を差し引いても残酷極まりない迫害を受けて祖国から逃れてきたその一族は、主に薬草を用いた魔術に長じていた。
それ故か、居酒屋の雰囲気は少しばかり落ち着かない様子だ。さりとてホテルのルームサービスを望んでいたわけではない。
二人の御曹司が〝薬草魔術〟と言い表した秘義も〝古い技術〟に変わりはない。祖先の頃から数世紀を経た
料理の一例を紹介する為に飾られていた鉄の鍋に関心を寄せ、『
「そのキサラさんの最新の様子を確認できるかも知れないわよ。明日、選手控室へ押し掛けるつもりなら今の内に顔を
「お前のことだから先走って花束でも用意しているのだろう? 挨拶に伺うとしてもせめて試合後にしてくれ。試合前に色とりどりの花を渡された選手がリングで散ったら、それはそのまま致命的な厭味になる。……ザイフェルト家とバロッサ家の全面戦争に突入しようものならゴシップ記事に後世まで語り継がれる
「先走ってるのはお前らだろ! は、花束はともかく俺は別にそこまで厚かましい真似は考えちゃいねぇって! ……最悪、贈り物は予約をキャンセルすりゃセーフだし」
言葉を重ねる
丁度、一八時一〇分を過ぎた頃である。カウンターテーブルで酒と
「わたしとしては
二〇一四年六月から翌七月半ばまでブラジルではサッカー
およそ半日後の一八時からチャンネルを衛星放送に移し、録画の形で同じ試合を提供している。テレビ画面を
南アフリカで二〇一〇年に開催された前回の
そもそも
ケーブルテレビには衛星放送回線も組み込まれている為、当該チャンネルを視聴できないということはあるまい。
『
空模様からして夕方に開催されたものと察せられた。つい先ほど撮影したばかりの映像を大急ぎで編集し、一八時から放送されるニュース番組に間に合わせたのであろう。
これもまたマフダレーナが述べた通りであるが、
それは他の酔客も同様であった。カウンターテーブルで酒と肴を楽しんでいた人々は言うに及ばず、幾人かは椅子から立ち上がってテレビまで近付き、誰も彼も固唾を飲んで画面に食い入っていた。ビールジョッキとブブゼラの
「夏になれば
「レーナは本当に物知りだね。そして、何時でも私に寄り添ってくれる。キミの愛に応える方法だけを考えて人生を
不意に小首を傾げた
元々は徳島県の阿波踊りに張り合って立ち上げられた催しであったが、南国で生まれた踊りは北海道で『ソーラン
同時期にはインターネットが広く普及し、ここから発展した
住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した世界的な金融危機の影響によって退潮してしまったが、社会全体が新たな扉を幾つも開いていた時期とも言い換えられるだろう。『よさこい』もその流れの中で勢いを付け、日本の風物詩として育っていったのだ。
奥州市では毎年の夏に『よさこい』の祭りが開催されており、当日は踊りを披露する会場の一つとして
マフダレーナが下調べの過程で知り得た『よさこい』の情報を披露すると、ストラールは伴侶の博識を讃えるように赤褐色の髪へ唇を落とそうとした。
正面のギュンターが忌々しげに舌打ちするよりも早くマフダレーナは
三人の意識が一つに重なったのは水玉模様の陣羽織を纏った男性が特設ステージに飛び出した瞬間のことである。頭頂部よりやや後ろの位置で束ねた姿は時代劇で
ローカルニュースの映像は生中継ではなく事前に収録されたものであり、編集を加える際に番組内での解説を邪魔しないよう音声も消されてしまっている。その為、喋っている内容は判然としないが、天を
ストラールたち三人の知り得る範囲に限られるのだが、このような出で立ちで岩手県のローカルニュースに現れる人間は世界に一人しかいない。二〇〇〇年代の黄金時代を支えてきた日本MMAの先駆者にして『
ここ数年、日本各地の城下町では戦国武将に扮したPR集団による地域振興活動が盛んに行われている。かつて
ボランティアや郷土の出版社など運営体制は集団によって様々であるが、その土地と縁の深い戦国武将になりきった観光案内という点は共通していた。伊達政宗を演じる場合には三日月を模った前立ての兜を被ることになるわけだ。合戦さながらに鎧を装着し、その上から陣羽織も纏うのである。
しかし、画面内の彼は戦国時代の鎧ではなく『
「やけに張り切ってるじゃねぇか、
「全身の血が沸騰しているとしか思えない熱い御仁であったればこそ、トビアス会長も全幅の信頼を寄せているのだろう?
「
「明日、初めて
日本MMAに明るい人間から伝え聞いただけではない。『鬼の遺伝子』としての異種格闘技戦から現在の『
これに対して『超次元プロレス』の後継者たる
しかし、その熱い魂が日本格闘技界ひいては『ハルトマン・プロダクツ』の会長を動かしたことは揺るぎのない真実なのだ。
直接、トビアス・ザイフェルトと交渉して協力を取り付けたのは『
日本でも最高峰と讃えられる空手道場『
「根回し」といえば聞こえは良いが、その大半は倫理を疑われるような情報戦と奸計である。彼は古巣である
「……
ギュンターが吐き捨てた一言にマフダレーナも躊躇うことなく頷き返していた。三人とも独裁者としか表しようのない樋口への嫌悪感を共有しているわけだ。
これに対して八雲岳は現実の行動を
国内外のスポーツメディアで「日本MMAの復活」とも報じられた『
〝暴君〟にとって逆らえば生きる場所を失うという恐怖で人々を操ることは容易い。情報と印象を作為的に誘導し、誤った〝事実〟を大衆の脳に刷り込ませる
しかし、〝真実〟を信じる者の心を変える力はない。即ち、本当の意味で人の心を動かす力が〝暴君〟には宿らないという事実を
だからこそ、世界最大のスポーツメーカーを率いる
二〇一一年三月一一日の急報に接した『ハルトマン・プロダクツ』では防寒具や衣類といった救援物資の寄贈が即座に計画されたが、『
この〝決定打〟についてギュンターは祖父自身の口から教わっていた。
八雲岳はマグマの如き情熱でもって日本格闘技界を動かす存在である。だが、今日の昂り方は異常としか表しようがなかった。身振り手振りは大仰を通り越して喜劇俳優の演技にも近く、勢い余って横転するのではないかと心配になるほどであった。
レンズの中央に映り込むことは少ないものの、ステージには三日月模様のプロレスマスクを被ったレスラーも立っている。ただでさえ大きな口を開け広げた様子を見れば、八雲岳に当惑しているのは明らかだ。
依然として映像に音声は付けられていないが、腰を大きく捻るような勢いで
「統括本部長を務める八雲岳選手、気合いの入れ方が違いますね! 岩手の空に響き渡らん限りの大音声です! 元気があれば何でも出来るという闘魂が迸っています!」
ローカルニュースのアナウンサーによる好意的な解説が映像に重ねられたが、それが虚しく聞こえてしまうほど空回りする八雲岳の姿は痛々しかった。
登壇の際に握り締めていた手持ちマイクも同じシャツを着た運営スタッフへ早々に投げ渡している。腹の底から張り上げれば大型駐車場の隅々まで声を届けられるのだろうが、これでは〝本番〟の前日に体力を使い果たしてしまいそうだ。
「リトル・トーキョーでやったイズリアル・モニワとの――つうか、『
「……ああ、想い出してきたよ。あのときは単純にスピーチ原稿を朗読しているだけのように見えたな。この映像のように興奮するまま喋っていたら、ただでさえ怪しい英語が更に聞き苦しくなったことだろう」
「ストラールが一番失礼よ。……確かにその……、何を話しているのか、字幕で追わないと意味不明な個所も多かったのは間違いないのだけれど……」
「素直なレーナが私には愛しくて堪らないよ」
ローカルニュースが『格闘大会の前夜祭』という極めて曖昧な表現を用いている催し物の正式名称は『
それが為、特設ステージには最新式の体重計と、測定された数値が表示される大きなモニターが置かれているのだ。『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークからも察せられる通り、どちらも最大の
先ほど『
ザイフェルト家の御曹司は言うに及ばず、オランダ・アムステルダムの空港から岩手県へ向かう旅客機に乗り込んだストラールとマフダレーナも『ハルトマン・プロダクツ』の
三人は『
テレビ画面の中では新人選手とベテラン選手の計量が始まっている。二人とも『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが刷り込まれたスポーツスパッツを穿き、剥き出しの上半身を観覧客や取材の記者に晒していた。
体重計を挟んで立つ位置まで第一試合を戦う二人の選手を手招きした直後、岳の気持ちは更に昂ったようだ。唇の動きからも両者の体重を読み上げていることは察せられたが、その役割に左右の拳を天高く突き上げる必要は全くなかったはずである。
ベテラン選手――
対する新人選手――キリサメ・アマカザリは六二キロと測定されている。モニターが映し出したのは軽量級の格闘家というステータスであった。
テレビを凝視していた酔客たちは何とも
背中に散見されるクレーターのような
「こんなのを格闘大会に出場しても良いのか」と慄(おのの)いていないのは、テレビには目もくれず談笑に興じている酔客や調理に勤しむ店員を除くとストラールたち三人だけである。
三次元描写された
前方に突き出したリーゼント頭が震えるほどの気合いを漲らせ、両腕に力
広報活動の一環として『
この戦いの最中、『エスパダス』と称した首謀者はロケットランチャーの直撃を被り、比喩でなく本当に爆発四散している。希更・バロッサが主演するアニメ作品のような出来事ではあるものの、国内に不穏分子を抱えるペルーではそれほど珍しくもない――少なくとも同じ
共通の大敵を壊滅させるべく共闘したペルー国家警察のみならず、日本で民間軍事会社を営む男性――以前はフランスの
暴走族チームの
「こいつ――この子ども、ペルーじゃなくてソマリアに生まれていたら、『ガダン』と一緒に〝少年海賊〟をやっていたんだろうな。きっと名コンビになったかも知れないぜ」
「
「……レーナの唇は何時でも歓迎しているけれど、ここは
「ていうか、
ギュンターから遠回しに牽制され、その意図を察したマフダレーナには肘でもって小突かれてしまい、ストラールは苦笑を浮かべるしかなかった。双眸は依然としてゴーグル型のサングラスで覆われていたが、その向こうに反省の二字が透けて見えるようだ。
近年、
一日も早く〝プロ〟の格闘家――いわゆる、〝難民選手〟としてデビューし、苦楽を共にしてきた仲間たちを養う為に巨額の
日本から救援物資として送られてきた
彼もその仲間も大人たちの手によって無理矢理に兵士に仕立て上げられてしまった〝少年海賊〟であった。独特の形で発露する〝実戦〟経験の賜物は、傷だらけの
尤も、この三人は岳が
「しっかし、これほど無駄な時間を俺は他に知らないぜ。時間っていうか、あらゆる全てが無意味なんだけどさ。……大体、公開計量と言いながら茶番でしかないんだぜ」
「私の記憶が確かならば、希更・バロッサの父上は優秀な弁護士だったな。大事な一人娘を差し向けるからには団体の問題点を法律の面で叩いておくべきだ」
「俺も小耳に挟んだ程度なんだけどな、その父上は
「考えられる最悪の時期に〝
「……それよりもわたしにはバロッサ家の内情を細かく把握しているギュンターが恐ろしくてならないのですが。盗撮? 盗聴? まさか、ザイフェルト家の御曹司がストーカーに成り下がるとは……」
「人聞き悪いこと言うなよ、レーナ! わざわざ調べなくたって物騒な
テレビの向こうで進む〝茶番〟を見つめながら苦々しい呟きを吐き捨てたギュンターに対し、ストラールとマフダレーナは
だからこそ格闘技
体重を測定する必要もないのだから、ザイフェルト家の御曹司に「茶番」などと扱き下ろされるのも無理からぬことであろう。
計量を行う『
ベテラン選手の側は〝ボンタン〟と呼ばれる風変わりなズボンを、新人選手の側は国際的な名声を持つデザイナーの
薄手のスポーツスパッツは
ローカルニュースの映像にほんの少し映り込むだけでも相当な宣伝効果が発生することであろう。番組スポンサーを紹介する際にはロゴマークの部分へ解読不可能となる加工が施されるわけだ。
〝スポーツ利権〟の最たる例であった。企業は広報活動の一環として競技団体や選手に出資するのである。三人からすれば公開計量も深夜に放送されている通販番組と大して変わらなかった。店内の酔客に対する効果は不明だが、視聴者の間でスポーツスパッツの購買意欲がどれほど高まったのか、これを
だからこそギュンターは「時間の無駄」と鼻で笑った。彼の目には
記事に添える為の写真を求める記者たちに対し、新人選手はどこか遠くへと視線を飛ばしたまま無反応である。真隣で構えを取って見せたベテラン選手は試合への意気込みを示すよう気の利かない〝後輩〟を怒鳴り声で指導していた。
「
ローカルニュースのアナウンサーによる解説を信じるならば、前日セレモニーという名の
「……しかし、一九キロ差か。『ランズエンド・サーガ』の基準でも『NSB』の基準でも三階級は飛び越えることになる。このような対戦カードが罷り通る時点で『
出来の悪い
重量級には九三キロ以下のライトヘビー級、一二〇キロ以下のヘビー級という二つの階級が更に設けられていた。
『NSB』よりも先にストラールが口にした『ランズエンド・サーガ』とはイギリスに拠点を構え、
名実ともに
「……私の記憶が間違いでなければ、フロスト・クラントン――あの恥ずべき男に支配された『ランズエンド・サーガ』でもここまで無謀な対戦カードはなかったはずだ」
「クラントンの野郎、性根は腐り切っていやがるが、アメリカのショービジネス界でのし上がっただけあって頭の回転だけは速いからな。短期間で『NSB』のときと同じ失敗は繰り返さないだろうぜ。……
「同じ失敗というか、
「ある意味、あの野郎にとっちゃ
答え合わせを求めるような響きを持っていたストラールの声に応じ、
ストラールはキックボクシングの名門としてオランダに君臨するオムロープバーン家の御曹司であり、また
何しろ
広い意味ではフロスト・クラントンなる人物も〝身内〟に含まれるはずだが、その名を吐き捨てるストラールの声は
三人も会話の中で触れているが、フロスト・クラントンはイズリアル・モニワへ禅譲する前に『NSB』の団体代表を務めた人物である。
テレビ番組やブロードウェイのステージショーなどエンターテインメント業界で成功を収めた実業家であり、全米で右に出る者はいないとまで謳われたマーケティングの手腕を求められ、『NSB』の創始に携わったのだ。
MMAの歴史を黎明期から支えた
テレビ業界での実績から
代表就任以降はいよいよ暴挙が止まらなくなり、『NSB』を〝超人ショー〟として売り出すべく団体内にドーピングを蔓延させ、ついにはアメリカ格闘技界から永久追放されたのである。
逃亡先――『ランズエンド・サーガ』に
『NSB』で成功したPPV戦略を踏襲しつつ、俄かに話題となり始めたSNS上での有料動画配信も即座に取り入れ、テレビやパソコン、携帯電話――ありとあらゆる媒体で同じ時間に『ランズエンド・サーガ』の試合を共有できる体制をごく短期間で整えたのである。
動画サイト『ユアセルフ銀幕』にチャンネルを開設する一方、活動拠点であるイギリスのテレビ業界とはとりわけ深く結び付いていった。『ランズエンド・サーガ』に所属する選手たちの紹介を兼ねたバラエティー番組を自ら企画すると、大衆の耳目を引く過激な内容で話題を巻き起こし、団体そのものの知名度を一気に跳ね上げたのだ。
衛星放送のスポーツ専門チャンネルに同番組を組み込んだことも戦略の一つであろう。これによって国外での視聴が簡略化され、
ルールなどはない――『NSB』でマーケティングを担当している頃に発した言葉は今でも通用すると実績でもって示したフロスト・クラントンは、アメリカ格闘技界にとって大いなる脅威でしかなかった。
「一九八五年に自分の会社から追い出されたスティーブ・ジョブズは一二年を費やして自分自身の値打ちを引き上げ、とうとう復讐を果たした。それと同じような〝計画〟が『ランズエンド・サーガ』で再現されるとしたら、これほど胸糞の悪いハナシはないぜ」
「確かにジョブズは自分を追い出した企業に返り咲いたが、『NSB』が再びあの男を迎え入れるようなことは絶対に――いや、……クラントンの〝計画〟は最終的にはそこに行き着くわけか……」
「わたし個人としては一日でも早く『ハルトマン・プロダクツ』から離れて貰えると嬉しいのだけど、野放しにするとそれもまた厄介ね。〝オイルマネー〟まで押さえたからには〝王殺し〟のような真似を仕掛けてくるかも知れないし……」
「よくもまァ猫を被ってドバイの〝石油王〟と手を組んだモンさ。マンスール・ビン・モフセン・アル・クルスーム――自分の豪華客船が大火事に遭ってもビクともしないあの男はフロスト・クラントンをどう見ているか? ……ヤツの〝本性〟を知らないワケじゃあるまいしな」
『ランズエンド・サーガ』の隆盛は世界最大のスポーツメーカーである
「……わざわざ話を蒸し返すのも
口から飛び出しそうになった醜い言葉を押し流すべくクラブソーダを一息に飲み干したギュンターが指摘した通り、『
『昭和』の伝説的レスラーによる異種格闘技戦を出発点とし、
尤も、重量級の選手ばかりが脚光を浴びるのは日本格闘技界独自の特徴ではない。アメリカ・プロボクシング界の歴史に〝悪名〟を刻んだ剛腕の
無論、その手法がアメリカのボクシング人気を爆発的に高め、熱狂の中で『不沈艦』の異名を取る伝説的ヘビー級
家族に不幸があった為に二大会の出場を辞退し、明日の
軽量級選手の開拓と育成を怠ってきたツケを
空回りはともかく
「新人選手を良いように使って使って使い潰す腹積もりじゃねぇのか? 軽量級の新規開拓でさえあの野郎には建前で、裏じゃもっとドス黒いコトを企んでいるハズだ」
「……ここ最近、前身団体以来のベテラン選手を異常なほど冷遇していることはわたしも聞いているわ。『NSB』との合同大会に照準を合わせて選手層の若返りを試みているという見立てもあるようだけど……」
「団体の〝細胞〟を活性化させようっていうのはトップの判断として必ずしも間違いとは思わねぇさ。古馴染みに気を遣ってズルズルと同じコトを繰り返していたらジリ貧まっしぐらだ。……しかしな、それにしたってやり方っつうモンがあらァな」
前日セレモニーの特設ステージでは希更・バロッサの計量が始まっているが、
体重計へ乗る前に持ってきたフライパンを腕力のみで二つに折り曲げて見せた希更も双眸で追い掛けてはいたが、彼女の右手首に結ばれたミサンガと同じデザインのネックレスを指先で弄ぶこともない。
「団体を私物化する野郎は信頼関係で結ばれていなきゃいけない選手すら手前ェの玩具と勘違いするモンだ。……この先、〝彼〟だってどうなるか、分かったもんじゃないぜ」
『ハルトマン・プロダクツ』の調査によれば、MMA選手としての最盛期を過ぎた彼は『
物静かな佇まいからも察せられる通り、レオニダス・ドス・サントス・タファレルのようなタレント活動には不向きである。家族を養う為にはMMA選手としてリングに上がり続けるしかなかった。
八方塞がりとなった
〝下降移籍〟を繰り返しながらも生計を立てようとする〝スポーツ労働移民〟である。
近年、野球やサッカーのプロリーグで起こっている各国共通の問題が格闘技界でも確認された次第である。〝スポーツ労働移民〟を選択する理由は様々だが、己の肉体を使い潰してでも家族の
しかし、樋口郁郎は社会情勢に翻弄された困窮を汲み取り、己のことのように寄り添う人間ではあるまい。希更の父親が守秘義務を厳密に果たしてもギリシャ人選手が移籍を模索した事実は程なく
相手は日本にMMAの黄金時代を築いた〝同志〟たちまで切り捨てようとする〝暴君〟なのだ。創始者の一人でありながら『NSB』を破滅させようとしたフロスト・クラントンよりも樋口郁郎は更に恥ずべき人間である――先程のストラールもそのように吐き捨てていた。
「……〝
テレビ画面の映像がわんこそば世界新記録更新というニュースに切り替わったのは、数分前に己が洩らした呟きをストラールが再び繰り返した直後のことであった。
全選手参加の前日セレモニーでありながら、何人かが登場しない内に映像そのものが打ち切られてしまったのである。『
撮影した映像を限られた放送時間内でまとめるには取捨選択が欠かせない。
『
テレビの前に詰め寄せ、穴の開くほど画面を見つめていた酔客たちから大きなどよめきが起こったのだが、改めて
『
読んで字の如く〝ローカルアイドル〟は大手事務所に所属し、テレビ番組への出演やコンサートといった全国規模の芸能活動を行うわけではない。その性質は戦国武将に扮して地域振興に励むPR集団と似通っており、住民たちも地元の催し物を盛り上げる〝近所の人気者〟といった感覚で接しているのだ。
つまるところ、酔客たちは〝地元の星〟とも呼ぶべき
「……脅迫事件は事実だったわけだな……」
テレビから少しばかり離れたテーブルでずんだ餅を頬張っていた酔客の一人が「今回は出演キャンセルしたど誰がに聞いだぞ」と伝え聞いた噂話を明かし、店内に新たなどよめきを起こした。
〝地元の星〟の出番が
それはこの場に居合わせた殆どの人間が知り得ないことである。『ハルトマン・プロダクツ』から派遣された三人も僅か三時間前まで全く把握していなかったのだ。
ドイツとオランダ――別々の国から旅客機に乗り込み、異なる時間に花巻空港へ到着した三人は合流後に市内のビジネスホテルで視察に向けた打ち合わせを行っている。その際にスピーカーフォンの形で参加した『MMA日本協会』の面々から
日本の片隅で起こった事件がドイツひいてはオランダまで届くはずもなく、
東京からやって来る格闘大会に参加することは貴方たちの為になりません。くれぐれも身辺にご用心を――同封されていた拳銃の弾丸は玩具の物であったそうだが、これを乱雑に
ローカルアイドルは大手芸能事務所に所属しているわけではない。
結成は三年前――二〇一一年である。『よさこい』の文化を骨子に持つグループだが、直接的なきっかけは東日本大震災の復興支援なのだ。その気持ちを分かち合う『
それほど深刻な事態でありながらニュースや新聞では一度も報じられず、警察の捜査も秘密裏に進められている為、居酒屋の酔客たちは脅迫状の存在すら知らなかったのだ。
これは間違いなく刑事事件なのである。それにも関わらず、今日まで公にならなかったのは樋口郁郎が情報規制を仕掛けたとしか考えられなかった。
真偽はともかくとして、樋口郁郎も『
ギュンターが樋口のことを悪し
「先程の映像を見る限り、公開計量は何事もなく進んでいたようだが、……例の脅迫事件は選手にも知らされていないのではないかな。統括本部長でさえ把握していない可能性も濃厚だよ。……あれはさすがに
「ストラールの読みが外れていたのなら、わたしたちはそもそも
「俺も詳しく調べたワケじゃないが、日本のインディーズシーンではこのテのトラブルが山ほど起きているらしいぜ。ネットで少し検索しただけでも厭になるくらい事例が出てきやがる。アイドルを守る為にも慎重にならざるを得ないんだろうな。選手の将来さえゴミ同然に扱いやがる
インターネットを駆使して日本のアイドル事情を調べたというギュンターであるが、そもそも彼は〝ローカルアイドル〟と〝ライブアイドル〟を混同しており、脅迫事件との共通点を読み違えている。
ストラールの検索結果にも表れている通り、客席とステージの距離が目と鼻の先というほど近いライブハウスで活動している
〝高嶺の花〟ではなく
当然ながらローカルアイドルを狙った脅迫事件もファンによる犯行が疑われているが、格闘技に関わる三人はそれを別の視点から捉えていた。脅迫状の文面からは「格闘大会への参加」を阻止したいという意思を読み取れるのだ。
「……この一件に『ウォースパイト運動』が関与していると思う? アメリカと違って日本ではまだ実害が確認されていないと思って油断していたのだけど、『
「丁度、四ヶ月前に
「その候補は記憶にないが、仮にも首都の行く末を占う選挙にテロリスト同然の活動家が堂々と名乗りを上げるとは異常事態としか言いようがないな。日本でも何処で〝何〟が起きても不思議ではない。……日本がテロの恐怖に晒されるのは何年ぶりだろうな」
これまでになく沈鬱な面持ちで喉の奥から一つの問い掛けを絞り出したマフダレーナに対し、ギュンターは二〇一四年二月九日に実施された東京都知事選を例に引きつつ頷き返した。ストラールもまた二人に向けて私見を述べていく。
『ウォースパイト運動』――この世に存在する全ての格闘技を許し難い〝人権侵害〟と見做し、根絶を目指す思想活動である。
シンボルマークでもある管楽器を一斉に吹き鳴らして選手・関係者を追い立て、『NSB』の試合場には火炎瓶や放水によって実害までもたらしている。暴力と批難する格闘技を同じ暴力で攻撃することは矛盾以外の何物でもないが、人権擁護という名の〝正義〟を妄信する活動家は世界秩序の守護者を自負しており、罪悪感に苛まれるどころか、何をしても許されると疑わないのだ。
欧米では格闘技関係者と過激活動家の間で乱闘まで起きていた。『NSB』のファンが歪んだ人権擁護を掲げる青年の住宅まで押し込み、私刑にかけた際には警察によって封印された〝現場〟までストラールとギュンターの二人で視察に赴いている。
先月、アメリカ合衆国大統領専用機『エアフォースワン』が
『サタナス』と称したサイバーテロの首謀者はカリフォルニア州に所在する重罪犯専用のフォルサム刑務所に収監されたが、今や『ウォースパイト運動』の同志の間では聖人の如く崇拝されている。
人権擁護という絶対的な〝正義〟を執行する為ならば超大国の大統領をも恐れないという前例を作ってしまったのである。世界中でアメリカ同時多発テロ――『九・一一』の再現と報じられたテロ事件も志を同じくする活動家にとっては高潔な覚悟というわけだ。
万が一にも死刑判決が
このような有り様を〝セントヘレナ島のナポレオン〟になぞらえて風刺したアメリカの新聞は本国以上に
今年の二月にロシア・ソチで開催されたオリンピック・パラリンピックをスポンサーの立場から支えた医療・福祉機器メーカーの経営者一族であり、同大会に有力選手も送り込んだフランススポーツ界の名門――バッソンピエール家も「アメリカの〝セントヘレナ〟にハドソン・ローはいるのか」と指摘する声明を発表していた。
潜在的な危険性はともかく思想活動そのものを取り締まることは重大な人権侵害である為、各国の司法機関も〝正義〟の笛を吹き鳴らす活動家たちを一網打尽にすることはできない。だが、現実に『ウォースパイト運動』が行っているのは格闘技に対する抗議活動ではなくテロ行為なのだ。
「……このような時期にバッソンピエールも余計なことをしてくれたものだ……」
フランスの
「例の声明に触発されて本当にハドソン・ローの再来が現れたらどうなる? 〝同志〟の誰かが『ナポレオンはローに暗殺された』と吹聴すれば、かつて〝ボナパルティスト〟が仕損じた奪還作戦がフォルサム刑務所で再現されることになるはずだ」
「刑務所内の誰かが俗説を信じて『サタナス』に毒を盛れば殉教者の出来上がり――どう転んでも厄介だぜ。ストラールの言葉を借りるようだが、これほど厄介なことはねぇな」
「ソチでも思うような成果を出せずに焦っているのかも知れないわね、バッソンピエール家の
『九・一一』の悲劇を体験しながら
自分たちが愛してやまない格闘技を侵害する思想活動に
だからこそ三人はローカルアイドルに送り付けられた脅迫状が格闘技に言及していた事実を深刻に受け止め、過剰反応してしまうのだった。
そして、この『ウォースパイト運動』こそ最大の
ストラールが指摘した通り、今や日本でも『ウォースパイト運動』が凶行に及び兼ねない状況であった。少なくとも『ハルトマン・プロダクツ』はそのように認識している。万が一にも『
アメリカ・マサチューセッツ州ボストンで市民マラソン大会が開催されている
視察の対象に全選手参加の開催前日セレモニーは含まれていなかったのだが、参加者に対する脅迫事件を隠蔽されるようなら
世界最高
『ハルトマン・プロダクツ』以上に『
政府の仕事を見学する為に名門学校から選抜された仲間たちと大統領へ同行していたその少女は『NSB』副代表の孫娘であった。年端も行かない子どもを精神的に追い詰めようという幼稚な犯行動機の為に超大国の大統領をも巻き込んだ次第である。
カリフォルニア州サンノゼの
偏った思想に衝き動かされる現代格闘技の大敵は尋常ならざる存在である。日米双方の安全という現実問題を突き付けられた以上、『
二方面から同時に警備体制ひいては危機管理能力を問われた樋口は、敢えて双方の視察を岩手興行に固めた。とりわけ『NSB』には内政干渉と反発しているようで、要らざる口出しを封じるべく世界最大のスポーツメーカーという後ろ盾を見せつけようと謀ったのであろう。
一連の攻防についてもザイフェルト家の御曹司は「不愉快極まりねぇ」と
『MMA日本協会』から教わった話によると
「……
大器の持ち主と言い表した祖父――ザイフェルト家の総帥に対するやり場のない感情を洩らしたギュンターは、徳利の底に残っていた
この場にトビアスが居たなら厳しく咎められるような品のない飲み方であるが、二人の親友は何も言わずにそれを見守っている。
「こうも憂鬱な事態に陥ると分かっていたら、日本ではなくブラジルのほうを出張先に選んだほが良かったかも知れないな。バロッサ家の娘に色目を使おうと考えたのがそもそもの失敗だったんじゃないか、ギュンター? 邪な気持ちを天が見逃すはずもない」
「今はお前の皮肉が心地好いぜ。自分の役割は忘れちゃいないさ。コレが適材適所ってこともな。『MMA日本協会』の顔だって潰すわけにもいかねぇ」
「オランダも快勝したことだし、私は正直、ブラジルのほうが良かったのだけど……」
「……レーナ、地球の裏側に飛んだ人たちもサッカーの観戦ではなくてブラジル社会の実態調査が目的だよ。
「わ、私だってそこまで無神経なことは考えていないつもりよっ?」
「慌てた顔のレーナも私には愛しくて堪らないよ」
二〇一四年六月から翌七月半ばまでブラジルではサッカー
双方にスポンサーとして関わる『ハルトマン・プロダクツ』は日伯両国で同時に
ブラジルでは今年のサッカー
サッカー
しかし、これは開催によって得られる経済効果という点に
『インバウンド』――即ち、外国人客による経済効果を確保する方策には開催先の治安回復まで含まれている。犯罪多発地域には観光客も寄り付くまい。小奇麗な高級レストランを増やしたところで、そもそも滞在を誘引できなければ無意味なのである。
それはつまり、社会全体へ急激な変化を強いるということであった。
ブラジルに
麻薬カルテルや人身売買シンジケートが巣食っている
例え犯罪多発地域であろうとも、そこには人間の営みが根付いている。ゴミを片付けるだけの美化運動とは違うのだ。外国人客から見苦しくないよう景観さえ取り繕えば済むわけでもない。
「……しかし、
先ほどストラールが述べた言葉に自身の推論を上乗せした
『ハルトマン・プロダクツ』ブラジル支社の調査ではなく『ユアセルフ銀幕』にチャンネルを持つ民間のネットニュース――『ベテルギウス・ドットコム』の
ブラジル政府が秩序の回復という効果を国内外に発表する最中、身の危険も省みずに
ギュンターの話に耳を傾けながらストラールは記憶の水底へと意識を沈み込ませ、隣国ペルーで二〇一三年に起きた『七月の動乱』の
調査結果そのものは『ハルトマン・プロダクツ』ブラジル支社が取りまとめたレポートと大きくは変わらなかったが、〝身内〟ではない第三者の視点は客観性を確保する上で何より重んじなくてはならないと、オムロープバーン家の御曹司も心得ている。
撮影されていることには全く気付けなかったが、
ブラジル支社のレポートには写真が添えられている。これに対して
あくまでも
世界で最も熱烈な〝サッカー王国〟にも関わらず、
サッカー
無論、犯罪組織への取り締まりが大幅に強化されたことでリオデジャネイロといった大都市を中心にブラジル全体の治安は改善されつつある。強制的に撤去された
ストラールとマフダレーナが生まれ育ったオランダ・アムステルダムで一九二八年に開催された第九回オリンピックでいえば、陸上と体操に女性選手の出場が初めて認められたことが
オランダの女性陸上選手として初めて銀メダルに輝いたリエン・ヒソルフも同大会のオリンピアンであった。走高跳で未来への道を示した姿は
聖地オリンピアから開催地まで炎を引き継ぐリレーは史上最悪の独裁者がプロパガンダの一環として採用する八年後のベルリンオリンピックまで待たなければならないが、〝平和の祭典〟の象徴として大会期間中に聖火を燃やし続けるという〝儀式〟もこのアムステルダムオリンピックから始まり、永遠の
大胆な変革は間違いなく時代を先に進ませる――それ故に〝メガスポーツイベント〟は出場選手間で完結する〝運動会〟ではなく国家的事業となるのだ。
しかし、暴力性を伴う強権によって刻み込まれた絶望は二度と消えない。
サッカー
当然ながら、その負債は国民に跳ね返るのだ。特需を得られるのはごく一部の階層のみであり、恩恵が行き届かない立場の人々には怨念ばかりが折り重なっていく。
国民投票によって招致の是非を決めたわけでもないのに負担のみを一方的に強いられる構図であった。国家事業として〝メガスポーツイベント〟を開催する為の財源は本来、教育・医療へ優先して宛がわれるはずの資金である。
サッカーを趣味と公言しながらもレオニダス・ドス・サントス・タファレルは
「……『ハルトマン・プロダクツ』の
「神は耐えられないほどの試練に遭わせるようなことはなさらない――」
「――むしろ、試練に耐えられるよう脱出の道も備えてくださる。……そうあって欲しいとわたしも心から祈っているのだけど、圧倒的な現実の前には誰しも無力だから……」
マフダレーナが重苦しい溜め息と共に絞り出した呟きを新約聖書の引用でもって受け止めたストラールは真隣から腕を伸ばし、穏やかならざる感情に震える肩を抱き寄せた。
このときばかりはギュンターも二人を揶揄することはなく、「……それはザイフェルト家にとっても身近な
彼女自身はオランダ・アムステルダムで生まれ育ったが、その祖先は残酷極まりない迫害を受けて祖国から逃れてきた。
噴き出しそうになった
唯一、慰めとなるのはエッシャー家の祖先が悪魔とも背教者とも決め付けられ、不当にして一方的な弾圧を受けた頃や、ドイツに根差すザイフェルト家が十字架を背負った独裁政権の頃から時代は流れたということだ。
耳障りな声を黙殺して功績のみを恣意的に強調したとしても、メッキも同然の建前で参加国との外交が進もうとも、
しかし、それはインターネットの普及によって完全に終止符を打たれた。『ベテルギウス・ドットコム』のように大手メディアを通さず、最前線の情報を直接的に届けるネットニュースがその役目を担っている部分もあった。
検閲としか表しようのない事態を招き兼ねず、情報戦に長けた人間を〝暴君〟に仕立て上げてしまう危うさも
「ブラジルの行く末を憂慮する気持ちは私も大きいが、差し当たって我々は目の前の仕事に集中しよう。こちらもこちらで大事な任務だ。
「それはそれで気が乗らねぇんだよなァ。基本的に
「……貴方の髪のどこに円形脱毛症になる余地が……?」
「レーナの切れ味鋭いツッコミは気持ち良いけどな、その言い方だと俺が抜け毛の
ほんの少しだけ店内の注目を集める大きさの咳払いを一つ挟み、ストラールは二人の意識を〝本来の役目〟に引き戻そうと試みた。
仕切り直しとしては余りにも露骨であったが、マフダレーナとギュンターも〝潮時〟ということは理解している。一口で食べられる大きさの握り飯を店員へ注文した
ブラジル政府が銃撃戦も辞さない覚悟で治安回復に乗り出した通り、〝国際競技大会〟を運営する上で危機管理能力は欠くべからざるものである。
『
ミュンヘン・アトランタ両オリンピックや一年前のボストンマラソンのような悲劇を繰り返してはならない――選手や観客の生命をテロから守るだけの能力が主催者には必須として求められていた。それは種目を問わず、全ての〝国際競技大会〟に共通する課題なのである。
「今度の視察、『NSB』側はモニワ代表直々に出張ってるだろ? さすがにオリ・パラのコトまでは考えちゃいないだろうが、調査の目的は俺たちと大差ないハズさ。
「……『ランズエンド・サーガ』――というか、フロスト・クラントンが足元を脅かそうとしている
「クラントンの思惑はともかく、
「その辺りも一度、シメなきゃいけねぇんだが、あの男の独断専行っぷりは留まるところを知らねぇからなァ。メインスポンサーの権利で是正勧告しても突っ撥ねてくる可能性のほうが高いぜ。〝内政干渉〟がとにかくお嫌いなご様子だ」
二〇一四年現在、日本は二〇年近く直接的にはテロの脅威に晒されていない。同国を代表するMMA団体の警備体制を通してオリンピック・パラリンピック開催国の危機意識を測るべし――〝メガスポーツイベント〟という呼称が生まれるより以前から大規模な競技大会に関わる利権を掌握し、これによって世界有数の
日本格闘技界ひいては同スポーツ界に
ストラールはキックボクシングの名門にして『格闘技の聖家族』と謳われるオムロープバーン家の御曹司であり、ギュンターは些か変わった経緯ではあるものの、『
『ハルトマン・プロダクツ』は紛れもなく『
現代の格闘技ひいてはスポーツを構築する社会全体とその趨勢を睨んでいた。
『
「……『NSB』がフロスト・クラントンの〝復讐戦争〟で手一杯となっている間にシンガポールの台頭を許せば、それはそれで
マフダレーナによる指摘を受け、二人の御曹司が揃って呻いたのは『
日本の『
主にアジア系のMMA選手を中心として
スポンサー構成も新興団体とは思えないほど分厚い。アジア圏のみならず、欧米の大企業も名を連ねているのだ。
各国のスポーツメーカーも続々と進出しており、『ハルトマン・プロダクツ』はシンガポールの
世界最大のスポーツメーカーでありながら、発展途上の新興団体へ入り込めずにいた。その上、シンガポール国外への映像配信には『NSB』と関わりのないアメリカの大手放送事業者と業務提携を結んでいる。
今や東南アジアに〝独立勢力〟を築きつつあった。
組織としての基盤こそ持たない新興団体ではあるものの、経営陣はオリンピックなど様々な国際大会に携わっており、スポーツビジネスを知り尽くしている。他の競技団体と異なる理念・展望も明確に打ち出し、アメリカの
これについては『ハルトマン・プロダクツ』内部でも見解が一致している。アジアで最も有力なMMA団体である『
『
日本格闘技界を混乱させ続ける〝暴君〟――樋口郁郎への対処は〝現実問題〟という点に
「目に余るようなら、代表の首を挿げ替えれば良い。『
依然として近くのテーブルは〝
首を挿げ替えれば良い――
「フロスト・クラントンの前任者――というか、『ランズエンド・サーガ』の前代表と同じようにって意味だよな? 確かにメインスポンサーだって人事権は握っちゃいねぇし、強権使って
「幸いにして
『
「
ギュンターが
小振りな皿の上には一口で食べきれる大きさの握り飯が四つばかり並んでいる。光り輝く白米を包むのは東北名産の焼き海苔であるとメニューに記してあった。
注文を行う場合を除いて三人はドイツ語のみで話している為、店員には鼻先で飛び交う言葉の意味が一つとして分からない。それは他の客も同様である。店内の誰か一人でも会話の内容を理解していたなら、そろそろパトカーのサイレンが聞こえてくる頃合いだ。
「奇しくも『
これはストラールただ一人の見解ではなく、『ハルトマン・プロダクツ』本社の方針であった。誰もがアジア圏に
〝東西冷戦〟の延長とも
「何時まで経っても前時代の幻想に囚われている人間には付き合い切れないってか。格闘技を含んだスポーツは〝虚業〟と言われるが、
「古くからの絆にこだわり続けていると、こちらにまで毒素が回る。害虫というのはそうなる前に駆除するものだよ」
二人の御曹司は一人の命と
〝暴君〟と恐れられる樋口郁郎が日本格闘技界の秩序を乱しているのは紛れもない事実だが、それでも同じ人間であることに変わりはない。例え胸襟を開いて語り合える相手でなくとも永遠に声を封じるべきではない――が、二人の御曹司は一人の命を木の実の如く押し潰してしまうことに特別な感情など持たない様子であった。
「最期を迎えたときに手を叩いて喜ぶ人ばかりの生き方だけはしたくないわね。
「私にもろくでもない死に方が待っていると思うが、それでもせめて『アラビアのロレンス』のようであったら嬉しいよ。勿論、キミより先には逝かないつもりさ」
机上に倒された徳利を回収する店員に日本語で礼を述べ、次いでドイツ語に戻したマフダレーナは二人の御曹司より遥かに物騒なことを平然と言い放った。
ほんの先程まで立場の弱い人々を押し流してしまう権力の濫用に憤っていた人々の言葉とは信じられないが、そもそも彼らは余人には理解し得ない領域で思考を巡らせている。その切り替え方もまた異質であり、理念自体が〝表〟の社会と本質的には相容れないとも言い換えられるだろう。
国際競技大会に関わる利権を掌握するザイフェルト家は〝スポーツマフィア〟と忌み嫌われる一族であり、オムロープバーン家は一蓮托生にも等しい同胞なのだ。
酒類を口にしていない二人は言うに及ばず、ギュンターとて酔った勢いで倫理観を疑われるような暴言を吐き散らす趣味は持ち合わせていない。『ハルトマン・プロダクツ』の害となる存在を文字通りに〝闇に葬り去ること〟は研ぎ澄まされた理知に基づく現実的な選択肢というわけであった。
三人とも樋口郁郎を心の底から軽蔑しているが、究極的な暴力の行使は感情と切り離して論じているのだ。その上、誰一人として思い詰めた
〝正しく
「イズリアル・モニワが『
ストラールはゴーグル型サングラスの向こうから眼差しでもって
「コレが魔眼の類いでないことはギュンターも
余人には何らかの暗号としか思えないストラールの言葉を
黒いレンズで覆われた双眸を確かめることは難しいが、
少なくとも『ハルトマン・プロダクツ』にとっては合理的な判断という意味である。
三柱の
確かに異様な目付きではあったが、同じような
『ハルトマン・プロダクツ』が日本MMAではなくサッカー
これから二四時間と経たない内、その〝存在〟によって心を掻き乱されることになるとは夢にも思わず、『格闘技の聖家族』の御曹司は
それ故、横合いからテーブルの上に放り投げられた一枚の紙切れを黒いレンズに映した
ノートの切れ端を二枚に折り畳んだ物へ最初に気付いたのはマフダレーナであった。彼女の
わざとらしく〝何か〟を投げた後の仕草を維持したまま、この上なく愉しそうな
玩具箱をひっくり返したかのように乱雑に並べてあった肴の皿を押し退け、狭いながらも作った空間でノートの切れ端にボールペンを走らせたようだ。
安物の蛍光灯から降り注ぐ光を跳ね返しても、その輝きで気品を醸し出す高級ブランドのボールペンであった。
聞くともなしにとても興味深い話を聞かせて貰いました。折角のご縁ですし、私が買い取らせて頂きましょう。さもないと私の仲間が御三方と『ハルトマン・プロダクツ』の将来を暗黒時代へ導くことでしょう――明らかに恐喝の意図を含んだメッセージは飲食用のテーブルで書いたとは思えない流麗な筆致であり、その全文がドイツ語で綴られている。
三人の空気が張り詰めていく
社交の為に高い教養を備え、音楽や楽器にも造詣が深い三人でなければ、木切れのようなそれが鼻孔から空気を吹き込んで鳴らす笛であることに気付かなかったはずだ。
身も蓋もない呼称であるが、
県内在住の医大生という身分と共に
鼻笛そのものを上手に奏でたいという気持ちは最初から持ち合わせていないらしく、音が出せれば構わないといった乱雑な吹き方であった。管の内部へ空気を吹き込む技術にすら興味もないのか、調子外れの音色は弱々しい上に大きくもない。
それはつまり、後ろから
数ある学問の中でも医学部は最難関であり、一度も浪人時代を経験せず合格した
折に触れて『ハルトマン・プロダクツ』の動向が記事となる経済誌も愛読しており、昨年一一月にザイフェルト家の御曹司がドイツの戦没将兵記念日へ出席したことも
難民キャンプの視察も兼ねて難民高等弁務官が出席した式典である。そこにはオランダに君臨する『格闘技の聖家族』の御曹司も
特に『格闘技の聖家族』――オムロープバーン家に生まれた御曹司は
憂さ晴らしの気持ちがなかったわけではないが、余りにも痛烈な訣別の平手打ちを受けていなくとも、この
互いの声が掻き消されてしまうくらい騒がしい酒場を
耳に馴染んだドイツ語で紡がれていることもあり、〝メガスポーツイベント〟に対する辛辣な見解には思わず首を頷かせてしまった。メインスポンサーの立場でスポーツ利権を食い荒らす『ハルトマン・プロダクツ』の関係者が自己否定にも近い矛盾をさらけ出したことは、
日本格闘技界を実効支配する〝暴君〟が目障りでならないのは『
あらゆる意味で許されないからこそ強請りのタネとなり得るのだ。そうでなければ、
交渉の場を居酒屋から程近い公園に指定したのも
岩手が誇る三偉人の銅像が立ち、野球場や陸上競技場といった運動施設まで敷地内に所在している奥州市内でも最大規模の公園だ。
観光名所としても広く知られている。見頃が過ぎて久しいが、春には五〇〇本もの桜が一斉に咲き誇り、朝から夜まで一日中、花見の客で盛大に賑わうのだ。
日没は間近だが、初夏の空が群青色で塗り潰されるまでには時間がある。
『ハルトマン・プロダクツ』ひいてはザイフェルト家が〝裏〟でマフィアの蔑称で呼ばれていることを〝同志〟から教わったが、背広の内側に
しかも、
無論、
万が一の場合には最寄りの駐在所に保護を求めるつもりであった。自己防衛の手立ても
「――賑やかさではさっきの店と大して変わりませんよ。こういう環境のほうが皆さんも落ち着いて話せるんじゃないかと思いましてね」
果たして小知恵の働く青年が想像した通り、四方を取り囲む生垣の先では二組のカップルがベンチと噴水の
別のベンチに座った中年男性は仕事帰りのビジネスパーソンであろう。缶の発泡酒で少しずつ喉を潤しながら何とも
先程まで公園内の運動施設で練習に励んでいたのだろうか――学生服姿の少年たちは地べたにそのまま腰を下ろし、一人が持ってきたものと
漏れ出してくる実況の声やブブゼラの音色から察するにサッカー
高校生にしては妙に老けた顔立ちのように思えたが、体格の良いスポーツ選手は実年齢より高く見えると決め付けている
「――ぶっちゃけ、御三方は樋口郁郎を抹殺したいのでしょう? 『社会的に』ではなくこの世からね。それ自体には大賛成ですよ。日本での〝人権侵害〟の元締めという悪評がネットに溢れ返るような害虫、存在しないほうが世の為人の為って常々思ってました」
身の安全を十分に確認したところで、
噴水を挟んだ向こう側のベンチに腰掛け、
「世の為人の為の害虫駆除でも殺人は殺人、罪は罪だ。国際社会の法を犯す事件が起きてしまったとき、私には然るべき機関に通報する義務が生じます。善良な市民ですからね」
噴水を背にして立ち、『ハルトマン・プロダクツ』の三人を見据えたとき、
今や世界最大のスポーツメーカーさえ手のひらの上で転がしているつもりであった。何しろ
「ご安心下さい。御三方の会話を録音していたワケではありません。一市民が手に入れられるような安物の機械では、あの騒がしい店内でまともな音声なんか拾えません。しかしながら、これこれこういう話を犯行の前に聞いたと然るべき機関に通報すれば、捜査の手は間違いなく『ハルトマン・プロダクツ』へ及ぶことでしょう。……叩けば埃が出るということは素人目にも分かりますよ、ええ」
本人は〝正義の審判〟でも下しているつもりなのだろう。交渉の核心へと踏み込む中で
「さっきの悪だくみも随分と手馴れた感じでしたし、障られたくない部分まで穿り返されるのでは? いつだって『ハルトマン・プロダクツ』はウワサの的ですし、ドイツの検察当局には『渡りに船』といった状況でしょうしね。……あ! 『渡りに船』ってのは日本の
「解説なら間に合ってるぜ。頭のてっぺんから爪先までドイツ人だが、これでも日本の古武術を習っていてね、この国の
「さすがは御曹司サマ、聡くて助かりますよ。ドイツ経済に大打撃というポイントを押さえているのも有難い。……ただし、事件が明るみに出れば、本社に押し掛けるのは警察や検察だけじゃない――それはお分かり?」
「……通報とその後の報道が何らかの合図になるとでも?」
自分の言葉を遮った問い掛けに
食い付いてきたのは『格闘技の聖家族』の御曹司である。ギュンター・ザイフェルトが古武術を嗜んでいることは〝同志〟から教わっていたが、〝徒手空拳〟ということであればこのオランダ人こそが
オムロープバーン家はオランダ式キックボクシングの名門でもある。写真であったが、『格闘技の聖家族』の御曹司が命を狩る大鎌の如き前回し蹴りを繰り出す姿も見たことがある。その
「ドイツで活動中の〝我が同志〟が一斉にハーメルンへ殺到しますよ。いや、
「……〝我が同志〟……? いや、それよりも思想活動ということは、やはり――」
「ご明察の通りですよ、オムロープバーン家の――いいえ、『格闘技の聖家族』の御曹司サマ」
格闘技にまつわる忌々しい〝権威〟をせせら笑った
「ハーメルンでしたよね、本社が
ありとあらゆる格闘技・武術を深刻な〝人権侵害〟として忌み嫌い、この根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』は特定の組織を持たず、世界中の〝同志〟たちがそれぞれ独自に行動している。
国家権力にさえ挑んでいく勇気の規範となった『サタナス』も共犯者と連れ立ってはいたものの、思想団体の頂点で人権侵害に対する〝抗議活動〟を指揮したわけではなく、あくまでも〝単独の犯行〟なのだ。
唯一、〝同志〟が分かち合うのは笛の類いを吹き鳴らして抗議の嚆矢とする点である。
居酒屋で語らっていたときにも『ウォースパイト運動』を強く警戒していたこの三人ならば、
果たして二人の御曹司と一人の女性は互いの顔を見合わせ、自分たちが置かれた状況を呑み込むかのようにそれぞれ首を頷かせている。
「つまるところ、私は後顧の憂いを買い取って差し上げようと言うワケです。先程も申し上げた通り、樋口郁郎に消えて欲しいって点では御三方と同じ気持ち。信頼しても損のない〝共犯〟ですよ」
足元を十分に脅かした上で要求を示すのは交渉の基本である。そして、この青年は心理効果が最も強く作用する言葉を選び、尚且つ逸る気持ちを抑えながら基本に則って相手の反応を引き出せる程度には小知恵が働くのである。
これもまた全世界で
「格闘技とスポーツの名門二家が同時に没落するのは世界の損失です。勿論、現実的な問題込みでね。ドイツは国内随一の大企業と経済が共倒れ。オランダの場合、用心棒稼業の顔役がいなくなるのですから、暴力しか能のないケダモノが野放しになって町は無秩序化といったところでしょうか? 『格闘技の聖家族』も大変ですね」
「高く見積もって頂いて光栄ですが、……用心棒を兼業する格闘家は別に無法者の群れではありませんよ。誰もが理性と知性を兼ね備えています。仮に当家が落ちこぼれたとしてもオランダの秩序が直ちに不安定になることはありません」
「見積もりと言えば本題がすっかり頭から抜けていました。大変失礼しました。……切りの良いところで一億。それで手を打とうではありませんか」
交渉の
一億円がそのまま我が手に落ちる可能性も低くはないと、彼は胸算用していた。
先程は樋口郁郎暗殺計画のみを恐喝の材料として挙げたが、それ以外の〝事件〟を『ハルトマン・プロダクツ』が起こした場合にも善良な市民に課せられた通報の義務を守ると暗に仄めかしたのである。
直接的には〝別件〟の可能性を示さなかったが、僅かに言葉を交わしただけで賢さや教養が伝わってくる彼らが隠れた意図を見逃すとも思えなかった。
例え無理筋であろうとも、要求を受け入れるという選択肢しか『ハルトマン・プロダクツ』には残されていないのだ。二一歳という二〇一四年時点に
「米ドルで一億ってのはどうだ?」
ギュンター・ザイフェルトの返答は
今や『ハルトマン・プロダクツ』よりも高い領域に立ったと信じ込んでいる彼の脳は、やがて降り掛かる破滅に恐怖した哀れな男が縋り付いてくるようにしか思えなかった。スポーツを汚らわしいモノへと捻じ曲げた
しかし、交渉の場に
このとき、ギュンターは
「我々の請求額は米ドルで一億だ。日本時間の月曜日、『ハルトマン・プロダクツ』はあんたを相手に米ドル一億の慰謝料請求の訴えを起こす。勿論、東京の裁判所でな。毎回の移動費用も
得意満面の
改めて
己の足元の脆さに怯え、命乞いをしてきたのだと思い込んでいた。その
「……どうも私はザイフェルト家というモノを買い被っていたようですね。ご自分の立場がまだ
「ところで〝公然の秘密〟って言葉を知ってるか? 〝こっち〟の業界に関わってもいないあんたが
ドイツ語で虚勢を張る
これを見据えたギュンターは「お医者サマのタマゴなんだろ? だったら、もっと法律を勉強したほうが良いぜ」と再び日本の
両者の間に飼育小屋から割り込んでくる鳳凰孔雀の甲高い鳴き声もまた
「俺が学んだ日本の古武術はな、
ギュンターが例に引いたのは、現在から遡ること一四〇〇年以上も昔の
聖徳太子(
このとき、天下の大権は蘇我氏が握っており、
この一件を伝え聞いた
宮廷内に渦巻く果てしなき暗闘を嘆いた聖徳太子は『
深い教養の持ち主であることに加え、良くも悪くも
「ドイツ出身のオレには身近なコトだが、ネットも携帯電話もない時代はどこかの誰かに聞いたウワサ話だって〝真実〟になっちまう。ポロッとマズいことを零しただけでも生き死にの分かれ道だ。しかし、
「酔った勢いの暴言をあげつらい、私刑にかけて正義を気取っていられるのは貴方たちの
マフダレーナの祖先とその仲間たちは〝立証なき審判〟によって悪魔の烙印を押され、耐え難い責め苦を味わわされている。私刑にかけられ、惨たらしく奪われた命は数え切れない。だからこそ彼女の態度は背筋に戦慄が走るほど厳しいのだ。
そのマフダレーナが
交渉という名の恐喝は全て録音していると突き付けたのである。無論、
記録した録音データを消去しようものなら自己保身の為の証拠
万全であったはずの〝勝利への方程式〟が今や裏目に出ており、〝崩壊への道筋〟として
「……『タルタロス』さんは実際の言葉遣いと
「レーナが古き良きモノを好んでいることは誰よりも知っているつもりだったのだけど、それにしても武蔵坊弁慶なんて、一体、どこで知ったのかな? 私だって日本の武芸者を調べなければ行き着かなかったはずの名前だよ」
「あなたの知っていることは、わたしの知っていることでもあるのよ」
伴侶の言葉に閃くものがあったらしいストラールは鸚鵡返しの如く〝何か〟を
余人には意味の分からないやり取りであるが、そもそも二人の様子を見つめる
マフダレーナは医大生のことを
「ど、どうして私のアカウント名を――」
現実世界と切り離された電脳空間では本名を
俗に〝凍結〟と呼ばれる状態であった。不正な操作を確認した場合、更なる悪用を阻止する為にサービス提供側が利用そのものを強制的に規制してしまうのだ。解除申請など一定の条件が整えば再開の可能性もあるが、
インターネット画面を切り替える
「取り急ぎ過去の
「スポーツでいうところの実況中継みたいなコトをやっていたら、岩手県内に隠れていやがる〝味方〟が駆け付けてくれたかも知れないのに、あんた、そういう知恵は回らないんだな。ほんの一歩惜しいな、実に惜しいぜ」
自分を
改めて
左右の膝から完全に力が
達成目標は全く重ならないものの、二〇一〇年のジャスミン革命に端を発する『アラブの春』に倣い、『ウォースパイト運動』は主にインターネット上で格闘技という〝人権侵害〟の根絶を訴えている。
正義を唱える〝同志〟たちは国の垣根を超え、各種の
二〇一四年六月の時点ではアメリカのように過激な〝抗議〟は確認されていないが、日本での活動も大きく変わるものではない。電脳空間という極めて狭い範囲で〝人権侵害〟に対する怒りを共有し合い、同調によって
利用停止措置によって電脳空間から弾き出されるということは『ウォースパイト運動』の活動家にとって死の宣告にも等しいのである。いずれかの
普段から一緒に格闘技を貶してきた〝同志〟の本名も現実世界での住まいも、
「誰もが『サタナス』みたいになれるワケじゃないってコトが
いわゆる〝体育会系〟の気質が昔から
そのギュンターは先程も
超大国の大統領をも〝抗議活動〟に巻き込み、重罪犯専用の刑務所へ収監されても悔むことのない『サタナス』のように己の人生を思想活動へ捧げてしまえる覚悟など最初から持ってはいなかった。
一部の〝ガチ勢〟のように『サタナス』を聖人として崇拝するつもりもない。
「
放火や放水といった『NSB』への直接攻撃に留まらず、ついには大統領が搭乗しているエアフォースワンにまでサイバーテロを仕掛け、『九・一一』の再現としか思えない事態まで引き起こしながら、アメリカ国内の『ウォースパイト運動』が一網打尽にされない理由は、まさしくギュンターが語った通りである。
『ウォースパイト運動』もまた〝自由〟の原則によって保証されているのだ。
先鋭化が著しく、〝国内テロ〟の予備軍という警戒はホワイトハウスでも強めているのだが、思想活動そのものを取り締まることは〝自由〟の侵害であり、また「疑わしきは罰せず」という法理すら踏み破る暴挙にも等しい為、現行法の枠内では不可能に近い。
『サタナス』のように罪を犯した活動家は身柄を拘束し、法律に基づいて裁くことができる。しかし、それはあくまでも〝反撃〟であって先制攻撃ではなかった。
尤も、思想を超えて明確な害意にまで至った〝個人〟を特定できれば、その芽を摘むことなど『ハルトマン・プロダクツ』には大して難しくはない。競技大会に関わる利権を貪り喰らうだけでは〝マフィア〟の蔑称で呼び付けられるほど忌み嫌われるはずもなく、その意味と
弱みを握ったことを確信し、得意満面となって正義の笛を吹き鳴らしていた
勝算は錯覚に過ぎず、余りにも向こう見ずで無謀な野心が暴走しただけであった。
『ハルトマン・プロダクツ』が掲げている〝世界最大のスポーツメーカー〟という看板は基幹事業でありながらも一側面に過ぎない。表向きには公明正大を
この三人による樋口郁郎抹殺の密談も〝巨大帝国〟にまつわる風聞が事実であったことの証明である。
ザイフェルト家の御曹司も恐喝を仕掛けてきた相手に対する反撃が異様とすら感じられるほど手馴れている。
交渉の始まりからこの局面に至るまで破滅への道を突き進んでいたのは
「……私が警察に通報すれば――いえ、御三方の密談を〝同志〟に洩らしたら、報復攻撃を加えるということですか……?」
途方もなく長い人生を〝破滅〟という名の十字架を背負い続けなければならないという事実は、二一年しか生きていない
「二度と舐め腐った真似はしねぇっつう証文は別に要らないぜ。あんたが心変わりした瞬間、それが最期だ」
現実世界であろうとも電脳空間であろうとも、
「……マンハッタンの事件を日本で再現させる――と?」
「言ってくれるじゃないの。あのときの被害者も『ウォースパイト運動』の活動家だったもんな。あんたには
『ウォースパイト運動』による執拗な〝抗議〟に怒りを爆発させた『NSB』のファンが一人の活動家の自宅へ押し入り、
その悲劇を再び繰り返そうというのか――と、弱々しい声で皮肉を飛ばすことが二一歳の医大生に出来る唯一の反撃であった。
「例の事件は警察の捜査も入ったし、犯人全員が逮捕されたろ? ボクシング元ヘビー級
「正直に申し上げて、わたし自身は貴方に一つとして好感は持ち得ませんが、それでもご家族への想いの深さは評価しないわけではありません。歳の離れた妹さんをとても慈しんでおられるようですね。今年、小学校に進学したばかりですから可愛い盛りでしょう」
首の骨が軋むのではないかと案じられるような勢いで頭を振り上げた
今や魔女のようにしか見えないマフダレーナが
中世初期の日本で横行していた〝
「――仮想世界にのめり込むと、理性と知性と品性もそちらに置き忘れてしまう。あなたはその典型のようだ。体温を感じ合うことのない空間での振る舞いが現実世界にも影響を与え、善悪双方の報いを必ず受けるということを理解して頂くのが一番でしょう」
口を噤んだまま、暫く交渉の成り行きを見守っていた『格闘技の聖家族』の御曹司が湖畔の如く静かな声で切り込んだ。
依然としてゴーグル型のサングラスを装着している為、
「冥土の土産に一つ、教えて差し上げましょう。あなたが『聖家族の御曹司』と思い込んでいる相手は私ではありません」
「い、いや、そんなバカな話――『ランズエンド・サーガ』で試合する写真も〝同志〟の一人がネットで晒していたハズ……ッ!」
「晒し者と言われるのは気分の良いものではありませんが、それは兄のメルヒオールのほうです。……私は弟のストラール。それ以外の何物でもない――双子同然に顔立ちが似ているから頻繁に間違えられますがね」
更には聞こえよがしに両の拳まで鳴らし始めた。
「粋人気取りで放蕩三昧だった弟は、栄光の『ランズエンド・サーガ』ではなくオランダの裏路地を根城にして用心棒を束ねていました。あなたもご存知の通り、格闘家たちの副業を取り仕切っていたワケです。……お鉢が回ってくるまではその生業で兄を――我がオムロープバーン家を支えるものと考えていましたよ」
奥州の大地を踏む革靴の
「同じ『ウォースパイト運動』でも日本の活動家は手抜かりが多いようですね。我が兄の死は
「これ以上に! 今以上に不幸な情況は! ちょっとやそっとでは思い浮かびません!」
「……純粋なまま生き抜いた兄と違い、弟は根っこが礼儀知らずでしてね。こういう場合に最も効果的な対処を心得ているのですよ」
自身の置かれた状況が
さりとて、我が身に降り掛かろうとしている事態から目を逸らしているわけではない。兄と同様にオランダ式キックボクシングを極めているだろう青年が暴力を振るわんとしているのは一目瞭然である。それにも関わらず、噴水周辺で寛いでいる誰一人として制止を訴えながら割り込もうとしないのだ。
ストラールが拳を鳴らし始める以前から
危害を加えられそうになっても〝善良な市民〟が必ず助けてくれると考えていた
「まさか――まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさか、まさかァ……ッ!」
「状況を呑み込むまで『まさか』と一二回も繰り返さなくてはならないとは……。それだけの時間に警察にでも通報すれば助かったとは思わないのですか? 当方としては、そのような暇を与えるつもりなどありませんがね」
「まさかッ!」
「これで一三回目。回数というか、数字そのものは今のあなたにこそ似つかわしいな」
もはや、悲鳴の一つも上げられない情況で
つまるところ、自分たちが到着した時点で噴水の周辺に
「扮装しての緊急招集っつう無茶ぶりしたのはオレだけどな、さすがに学ランってのは厳しかったんじゃないか? 四〇代後半が一〇代で押し通すのは苦しいだろ」
「気持ちだけは若返ったんですがね」
同じ印象を持ったらしいギュンターから冷やかされた日本人
その男が地べたに放置したタブレット端末からは
居酒屋から公園へと移動する道すがらマフダレーナは自身の
退路を求めるように
「酒場での話を盗み聞きしていたんだから、分かるだろ? 独眼竜のお膝元までやって来たのは観光旅行じゃなくて『
噴水が所在する広場は生垣でもって四方を仕切っているのだが、ギュンターが右の親指と中指を弾き、合図の音を鳴らすや否や、茂みの内側から背広姿の男性たちが一斉に飛び出した。
〝伏兵〟は二段構えであった。標的が第一陣を切り抜けて逃げ出さない限りは生垣の内側に隠れ、息を潜めて待機し続ける算段であったのだろう。変装した姿で
〝第二陣〟の彼らは背広の襟に『ハルトマン・プロダクツ』の社章を付けている。
もはや、
彼の鼓膜が決して小さくはない水音を拾ったのは、その寸前のことであった。
重い〝何か〟が投げ込まれたような音の意味を分析する間もなく噴水の側へ振り返った
一瞬の
今にも精神を崩壊させ兼ねない驚愕は、退路として選んだ先に仰ぐ人影が一等加速させた。正面から迫ってくるように思えたストラールが何時の間にか噴水の中に立っていたのである。
先ほど鼓膜を打ち据えたのは彼が飛び込んだ瞬間の水音であり、顔面に浴びた水滴はその際に飛び散ったものであろう――が、だからこそ
正面のストラールから逃れるべく
「しゅ、瞬間移動⁉ 超能力者ですか⁉」
「……『改造人間』とでも名乗っておきましょうか……」
「もはや、そこまで⁉ 『ハルトマン・プロダクツ』ってば怖過ぎでしょう! 殆ど秘密結社じゃないですかっ!」
スラックスが濡れてしまうことも構わずに噴水へと飛び込み、
電光石火の四字を
その一方で
「――コレが魔眼の類いでないことはギュンターも
ゴーグル型のサングラスに覆い隠された自身の双眸について、ストラールは先ほど謎掛けとしか思えない言葉をギュンターに述べていたが、その頃から隣席の会話を盗み聞いていた
「あなたとその〝
当のストラールはへたり込んだまま立ち上がれずにいる
突き付けられた
間もなく襲い掛かるであろう衝撃に備え、双眸を瞑りながら歯を食いしばっていた。格闘技どころか、スポーツの経験すら皆無に等しい己にキックボクシングの蹴り技が凌げるはずもないのだが、頭部を守り切れる
やや斜めの軌道を描くような形で大量の水を巻き上げ、真珠の如き水滴をまき散らしながら轟然と風を薙ぐ前回し蹴りは、まさしく肉体と魂を
「――その辺にしといてやりな、ストラール。……もう十分だろ」
しかし、轟々と風を切り裂く音は、両手でもって庇おうとした瞬間に
制止を訴える声はストラールに間違いなく届くようオランダ語で紡がれていた。
これに反応して右の前回し蹴り蹴りは軌道が僅かに逸れ、頭部ではなく風を薙ぎ払うのみで終わったのだ。誰よりも直接的な制裁を望んでいるであろう男――ザイフェルト家の御曹司が蹴り技から
少量とは言い難い水滴が
「……
「勲章をぶら下げる趣味は最初から持ち合わせていないさ。……必要だからやるのだよ。日本人の彼にも分かり易く言うなら〝ケジメ〟と呼ばれるものだな」
「ガキの頃から慣れ親しんだ〝顔〟には里帰りみたいな気持ちも湧くがな、あんまり〝暗黒街〟の作法を剥き出しにするとレーナだって悲しむぜ?」
「わたしはストラールに賛成なのよ。
「そこまでは頼んでねーだろ⁉ 相変わらずおっかねぇよ、レーナは!
ストラールとマフダレーナが揃って肩を竦めるのは当然であろう。
そのことをザイフェルト家の御曹司は誰より知っているはずなのだ。『ハルトマン・プロダクツ』の
「オレたちは〝スポーツマフィア〟なんて不名誉な
「ク、クエンティン・タランティーノは私も知ってますけど、コッポラとスコセッシって何ですか? ティッシュペーパーの銘柄?」
「オールタイム・ベストの映画くらいチェックしないと女の子にモテねぇぞ、医大生」
「……だ、だから、私はフラれたのか……」
「おっとォ、思いがけず古傷に触れちまったか⁉ 今度、一緒にレンタルショップに行こうか? 女の子にウケる映画を紹介するぜ」
「ギュンターも別に女性にモテているワケではないわよね? どうしてそんな得意満面にオススメなどと言っているのか、わたしには理解に苦しむのだけど……」
「横からオレの心のカサブタを引き剥がすなよ、レーナッ!」
ストラールとマフダレーナの二人だけでなく、『ハルトマン・プロダクツ』の人々を順繰りに見回しながらギュンターは自分たちが〝スポーツ〟と冠するマフィアであると諭していった。
一口に〝マフィア〟といっても形態によって種類も様々である。裏社会で血みどろの勢力争いを繰り返す〝本物〟は言うに及ばず、〝表〟の社会であっても絶大な権力を握って支配的に振る舞い、利益を吸い尽くすような存在は
「新聞で『ラッキー・ルチアーノ』呼ばわりされたときは、さすがに喜んで良いのか、腹を立てるべきか、迷っちまったがな」
ギュンターが例に引いた『ラッキー・ルチアーノ』とは禁酒法時代が幕を下ろした後のアメリカを代表するマフィアである。弱肉強食の暗闘を勝ち抜き、絶対的な最高権力者として君臨するのではなく、組織間の互恵関係に基づく合議制を成し遂げた〝改革者〟でもあった。
政治家や各界の著名人とも関わりを深め、また古い時代から続いてきた血族による連携さえも刷新し、アメリカマフィア全体の合理化・近代化を推し進めたとされている。〝
刑務所の中から仲間を揺り動かすという点に
「……ギュンターに感謝することです。今、あなたに刻まれるべきであった罪を代わりに背負ったのは、あなたが薄汚い野心を向けたその相手なのです」
その
思いも寄らない筋運びに目を丸くしている
「今さっき話した通りさ。人生の勝負所と判断したんだろうが、マフィアと呼ばれるような連中を相手に喧嘩を売るのは勧めねぇよ。アタマに〝スポーツ〟って付くオレたちだから、ちょっと怖い思いに遭う程度で済んだけど、そうじゃない連中だったら、あんた、今頃は噴水を真っ赤に染めてたハズだぜ」
この無謀な青年を恫喝し返していたときとは打って変わっておどけた調子であるが、その声は実際に柔らかい。
依然として背後はストラールという
「メンツとは別の問題で
「……そちらが不愉快に思うくらい格闘技を叩きまくっていましたが……」
「カチンと来なかったって言えばウソになるけど、例えばスポーツ系のリアリティ番組に対する批判は真っ当だったし、医者のタマゴらしい観点には感心させられたんだぜ」
リアリティ番組とは原則的にタレントではない一般人たちを一つの〝閉鎖空間〟へ押し込め、そこで起こる筋書きのない人間模様を切り取るものであった。一定期間、共同生活を送ることになった人々の感情の摩擦などを建物の至る場所に設置された隠しカメラで撮影するという手法が好例である。
〝筋書きがない
激しい感情のぶつかり合いは好奇の目を集め易いが、当然ながら出演者の負担は心身とも余りにも大きい。その上、番組制作側がメンタルケアや個人攻撃への対応を蔑ろにすることも多く、全世界で物議を醸していた。
「例えば
「……あれはその……自分なりの見解を述べただけで、それだけで……」
「――そもそも『NSB』はスポーツ選手を人間扱いしていない。二四時間、カメラに囲まれ続ける生活で精神に異常を
「い、一年くらい前に投稿したヤツじゃないですか、それ……っ。しかも、そんなに行儀の良い言い方じゃなかったですし……!」
「参加者が映ったポスターへの悪質なイタズラ、私物を盗んだ盗んでないという口論、試合前の選手を委縮させようと大声で威圧……出演前までは腕を競い合う親友二人が絶交したって話もある。健全な肉体に健全な精神が宿るのは大昔の幻想だが、体の具合と切っても切り離せない
ギュンターが言及した通り、『NSB』では
『NSB』デビューを目指す選手たちがラスベガスの合宿施設で暮らし、寝食や
同番組から巣立ち、『NSB』の
〝アメリカンドリーム〟の可能性を約束する一方で、
それは生き残る為に手段を選ばないリング外での潰し合いと表裏一体であり、ひいては心身の故障という形で跳ね返ってくる。「選手の人格を無視して見世物にしている」という
一個人の悪感情をただ迸らせただけではなく、医学の見地に基づいた理論展開である点をザイフェルト家の御曹司は評価しているわけだ。恐縮した様子で俯きそうになった
「医者といっても働き方は色々だろ? スポーツメーカーは何時でも医者を募集しているんだよ。あんたの
「……は? 採よ――え……っ?」
「選手が一〇〇パーセントの力を発揮できる環境を整えるのが主催者の役目なのに、『NSB』がやってるのはその正反対。大会を盛り上げる為だけに選手の人生を食い散らかしている腐れ外道――ここまで考えをまとめられるのなら十分さ。MMA憎しが先に立つアクセルロッド上院議員の
当然ながら『ハルトマン・プロダクツ』の
「当面の間、
「報酬とか待遇とかそういうことではなくて。……どうして自分になんかに温情を? 命拾いしたことが未だに信じられないくらいなのですが……」
「口説き文句を聞き流されるのも悲しいもんだな。オレがあんたを気に入った。それだけで十分だろ? ……格闘技の有り様が気に喰わねぇって気持ちは分からなくもねぇよ。それならよ、ネットの悪口でそれを慰めるんじゃなくて、オレと一緒に内側から変えるってのはどうだ? 『ハルトマン・プロダクツ』でなら、それも不可能じゃないぜ」
そうして差し出されたギュンターの右手を
大金をせしめながら世界最大のスポーツメーカーを叩き潰すという栄光は得られずに終わったが、代わりに攻撃対象から将来の栄達が約束された。その上、無罪放免まで示されたのである。家族・親類に至るまでことごとく破滅させられるはずであったところを御曹司直々に
求められた握手に応じない理由など
「……その〝顔〟だけは何時まで経っても慣れることはないだろうな……」
ザイフェルト家の御曹司が
多少は落ち着きを取り戻したように見えるが、精神崩壊の間際という極限的な恐怖を味わって
もはや、破滅へと一直線に突き進むしかないと思い詰めた直後に望外の温情を受けたのだから、空白にも等しくなった
つまるところ、ギュンターは私利私欲を満たす為に『ハルトマン・プロダクツ』を恫喝してきた〝敵〟を懐柔し、生涯に亘って飼い殺しにするつもりなのである。
先ほど制裁の蹴りを引き留めたのも、この篭絡に向けた計算であったに違いない。
〝暗黒街〟の作法に慣れているストラールは、半死半生の状態に至らしめた上で、命が尽き果てる瞬間まで監視下に置くことを宣告するのが最良の選択肢と考えている。実際に見張り続けなくとも絶対的な恐怖によって永遠に縛られる
我が身を滅ぼす結果になろうと信念を貫かんとする覚悟さえ持たず、浅知恵を弄する人間とは得てして脆弱であることをストラールは経験で知っている。権謀術数の渦中で生まれ育ってきたザイフェルト家の御曹司のほうがそれは痛感しているはずだが、他ならぬ彼自身が
そのギュンターは
この
『サタナス』のように複数名から成る
彼を利用することで『ウォースパイト運動』の動向を少しでも掴めるのであれば、本社での雇用など安い代価といえよう。
(
洗脳にも等しい人心掌握術は〝
かつて
〝本物〟のマフィアではないから、フランシス・コッポラやマーティン・スコセッシに映画の題材として選ばれることもない――それすらも詭弁に過ぎなかった。半世紀を超える歴史を紐解くと〝本物〟さえも愕然とするような〝闇〟が浮かび上がってくる。
先程の
己を偽る
少年と呼ばれていた頃には己の立場に苦しみ、懊悩を抑え切れなくなることも少なくなかったが、今では矛盾をも飲み下せるようになった――まさしく御曹司としての面構えで
無論、目の前の青年の胆力と頭脳を純粋に気に入っていることは間違いなかった。人の
過激な活動家でないと確認された判断材料としては極めて大きかった。『ウォースパイト運動』の犯行であるのか、現時点では定かでないのだが、『
何しろ言葉の端々から空虚な功名心を感じ取れる青年である。そのような性情であればローカルアイドルに対する攻撃さえも手柄の如く勝ち誇ったことであろう。しかし、得意満面であった頃にも脅迫電話には一度も触れなかった。これは
攻撃されるような理由もない
(改めて振り返るまでもなく、メッキでしかない私とギュンターとでは大違いだな……)
同じ〝御曹司〟と呼ばれる立場でありながら、兄の代わりとしてその座に就かされた自分は〝紛い物の器〟に過ぎず、一族の歴史へ我が身を捧げられるような覚悟も備わってはいない。
幼少期からザイフェルト家の帝王学を叩き込まれてきたギュンターとは境遇が余りにも異なる為、〝同じ景色〟を眺めることなど叶わない現実に嫉妬は覚えないが、それらしく振る舞おうとも本当の意味で御曹司にはなり切れないという諦念が押し寄せてくるのだ。
用心棒を兼業する
荒くれ者たちと心を通わせようというときには衣服が汚れるのも構わずに目線の高さを合わせ、腹を割って語らうことが肝要とギュンターに教えたのも〝オムロープバーン家の次男坊〟として歓楽街を根城にしていた頃である。
本人が望んでもいない人心掌握術を
(……格闘技そのものが死に絶えるか否かという昨今の時勢を思えば、手段を選んではいられないが……)
『サタナス』の凶行によって全世界の『ウォースパイト運動』は更に先鋭化していくことが予想される。類例を挙げるまでもなく〝メガスポーツイベント〟はテロの標的となり易いのだ。格闘技・スポーツに
『NSB』との合同大会を控えたMMA団体には万全のテロ対策が急務であるが、〝暴君〟の支配下で自浄能力すら
団体及び主催企業の規模が余りにも小さく、特定の
場合によっては篭絡したばかりの
「……いつもより悪い顔になっているわよ、ストラール――」
鼓膜に染み込む愛しい声のほうへ顔を向けると、今まさに
初夏を迎える頃合いとはいえ、夕暮れ時ともなれば水は肌を突き刺すようになる。片手を軽く挙げて伴侶を押し止めようと試みたが、当のマフダレーナはタイトスカートが濡れるのも構わずに
躊躇のない行動に頬を緩めながらもストラールは二つの意味で肩を竦め、「幾ら名前の由来とはいえ『マグダラのマリア』を模倣する必要はないのに」と優しく諭した。
「――それとも深い疲労が顔に表れてしまったのかしら? ……まさか、このような場所で『ラグナロク・チャンネル』を開くなんて……後の
水音を立てながら
余人には意味の通じない暗号めいた言葉である。その上、用いているのは
あるいはギュンターは
「雨が降らなければ虹は出ない――キミやギュンター、そして、ガダンの未来に光を導くのであれば、この胸に垂れ込める憂鬱も私には無駄ではないと思えるのだよ」
己の身を心の底から案じてくれる
マフダレーナが口にした『ラグナロク・チャンネル』も
そのとき、取るに足らない存在でしかなかったはずの
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