その10:古流(後編)~武田信玄最後の秘密・血と暴力の「昭和」を生きた獅子/戦なき「平成」に生まれた麒麟――古武術と「同化」した修羅の父娘
一〇、古流(後編)
敗戦によって打ちのめされた日本列島を
一九七二年ミュンヘンオリンピックで金メダルに輝いた柔道家への挑戦に端を発する鬼貫道明の異種格闘技戦は「プロレスこそ最強」という誇りの証明であった。
鬼貫は〝日本プロレスの父〟の愛弟子である。
やがて鬼貫の志はヴァルチャーマスクや八雲岳といった『鬼の遺伝子』にも引き継がれていき、四角いマットの上で数え切れない名勝負を繰り広げた。力道山から受け取った熱き闘魂を後進のプロレスラーたちに手渡したわけだが、鬼貫自身は次世代の同志が育った後も異種格闘技戦の一線に留まり続けている。
鬼貫道明の異種格闘技戦は果てしなく、地上最強を懸けた闘魂が燃え尽きることもないだろう。しかし、一九七六年二月に日本武道館で第一歩を踏み出した前進が全く止まらなかったわけではない。
鬼貫道明の異種格闘技戦は一九八九年から一九九四年に五年もの空白期間がある。
次世代を担うプロレスラーの育成や異種格闘技食堂『ダイニング
長い間、カメラの前に現れず、スポーツ
疑問の目が向けられたのはリングへの早期復帰が望めない状態に陥った理由そのものであった。
一九八九年の春風が
およそ武術家のようには見えないが、真っ赤なシャツと緑色のジャージは激しい運動に最も適した出で立ちである。両手には指貫型のドライバーグローブも嵌めており、飄然と現れた時点で臨戦態勢を整えていたようなものであろう。
たてがみのように雄々しくうねる癖毛は百獣の頂点に立つ王の威容そのものであり、燃え盛る闘志がそこに
対する鬼貫道明は人並み外れて逞しい顎を五指でもって幾度も撫で、古い友人との再会を喜ぶような笑顔で突然の訪問者を出迎えた。プロレスパンツに穿き替え、鍛え抜かれた肉体を昂らせていなければ、誰もが『ダイニング
ジャージに身を包んだ男とプロレスパンツの鬼貫が全身を血の色に染めた状態で病院に担ぎ込まれたのはそれから一時間後のことであった。
ヴァルチャーマスクただ一人を立会人として非公式の異種格闘技戦を執り行ったのだ。
ヴァルチャーマスク以外は『新鬼道プロレス』の所属レスラーさえ近寄らせなかった為に一人の目撃者もなく、四角いリングの上で拳を交えたのかも定かではないが、鬼貫が異種格闘技戦を再開するまでの五年という歳月からも空前絶後の死闘であったことは瞭然であろう。
昭和を代表する漫画原作者であり、ヴァルチャーマスクの誕生など日本格闘技界に多大な影響を及ぼした
左右の肋骨は交通事故に遭ったとしか思えないほど深々と抉れており、担当医も「死ななかったのは本当に奇跡で、飛び抜けた生命力のお陰で一命を取り留めたようなもの」と二重の意味で戦慄させられている。何しろ鬼貫は自慢の顎まで真っ二つ割られ、頭蓋骨にも数ヶ所の亀裂が確認されたのだ。
診療記録には全身打撲とも記されていたが、骨に対するダメージよりも回復まで時間を必要としたのは左膝である。己の体重を全く支えることができず、暫くは松葉杖を手放せなかったのだ。江戸時代から続く骨接ぎの名門――
一方、『
治療に当たった医師や看護師は狐か狸に化かされたような心持ちであったそうだが、夢か幻と疑ってしまう状況にも関わらず記憶に刻み込まれるほどその男は重傷であった。
『昭和の伝説』と真っ向からぶつかり合い、五体満足で済むはずもあるまい。鋼鉄の鎧とも
破壊の権化といっても過言ではない力によって左肘を
相手の首を正面から脇に抱え、その状態を維持したまま己の身を勢いよく後方に反り返らせる投げ技――かつて封印した〝奥の手〟をこの一戦の為に再び解き放ったのだろう。全身くまなく酷使する為、鬼貫に跳ね返る負担は〝諸刃の剣〟にも等しいほど極大だが、頭部を押さえられて身動きの取れない標的は無防備のまま急降下させられ、人体を構築する全ての部位が破壊されるような衝撃を味わうのだ。
鬼貫道明の側も内臓のダメージが確認されたが、『
痛々しいほど血の色が透けて見える一筋の傷が左頬に走っていたことを看護師たちは振り返っているが、開戦の前にその男を目撃したという『新鬼道プロレス』のレスラーたちの話によれば、それは鬼貫が付けたものではないようだ。
鬼貫自身はその一戦について〝身内〟にさえ殆ど語らなかった。幾人かの記者も彼が負傷した当日の足取りを探っていたが、『新鬼道プロレス』には
それ故、鬼貫の負傷には不穏当な憶測が飛び交うことになり、「またしても何者かに監禁されたのではないか」と案じる声まで上がっていた。
作品との
ただ一つだけ確かであるのは鬼貫を訪ねてきた『
どこで約束を交わしたのか。また如何なる約束であったのか。鬼貫自身が誰にも語らない為、少なくともプロレス界には死闘――あるいは私闘――の背景を正確に把握している者は一人としていない。仮に〝腕比べ〟を超える意味を誓っていたとしても、それは拳を交えた二人の間で通じ合っていれば十分なのだ。
鬼貫道明が初めて異種格闘技戦に臨んだのは一九七六年だが、あるいはその男との〝約束〟を考え得る最良の状態で迎えたいが為、全世界から猛者たちを招いて激闘し、心技体を磨き続けていたのではなかろうか――そのように推し量る声は『新鬼道プロレス』の内部でも聞こえていた。
凄絶なる死闘から五年後に異種格闘技戦を再開したので、鬼貫がボクシングやフルコンタクト空手にプロレスで挑んだ本当の理由を〝約束〟に求めることは誤りであるのかも知れない。何しろ復帰戦で対峙したのは一九七六年二月に日本武道館で第一歩を踏み出したときと同じ人物なのだ。最大の目的を果たしたことで一度は
互いに一期一会の
鬼貫道明がただ一度だけ〝非公式の異種格闘技戦〟を繰り広げた相手が『
人知れず〝抹消〟された為、搬送先の記録にも名前は残っていない。余りにも不明点が多過ぎる為、〝非公式の異種格闘技戦〟が実際に行われたのかも定かではない。それ故に風聞あるいは鬼貫にまつわる〝伝説〟の域を出ず、信憑性も疑わしいものである。
山梨県を拠点とする新進気鋭の歴史学者と同姓同名であったが、そのことに気付いた人間は一握りであり、また同一人物であるのかを確かめる
*
一〇年以上も昔の
格闘技そのものへの悪感情を隠そうともしない
当然ながら生まれた後も格闘技の資料に囲まれる環境で育ったのである。その上、〝義理の父親〟と称するのは八雲岳なのである。
思わず寅之助が口にした神童という賞賛を否定する者はこの場に一人としていない。展望カフェの和室で二枚の円卓に別れて座っている人々は、誰もが
未稲は「お姉ちゃんの役割を
「でも、今の話は〝師匠〟に是非とも聞かせてあげたいな。大昔に書いた特集記事をそこまで完璧に
「……ご期待に沿えなくて申し訳ありませんけど、やたらと冗長だったから印象に残っているだけですよ。確か今福さんが駆け出し
「一〇年を超える時間差で理路整然としたダメ出しするのはやめてあげて!」
砂壁に跳ね返って畳の上に転がった丸メガネを拾いつつ、弟の
現在は『
その今福ナオリが当時に持ち得る限りの力を尽くして取りまとめた考察に勝敗は含まれていない。
〝非公式の異種格闘技戦〟だけに記録に残す義務もなく、当事者の二人と立会人以外は誰も死闘の結果を把握していないはずだ。今福より前にも何人かのスポーツ
その一方でヴァルチャーマスクが立会人に選ばれた理由は明白であった。
即ち、鬼貫道明が『
己が最強と信じて疑わない
しかし、彼女が書き上げた記事の中に『
その名を
勤務先を訪れた客へセクハラ行為を働いた際、哀川神通から制裁として腕関節を極める〝座敷の組技〟を仕掛けられたが、およそ三〇年前の異種格闘技戦に
神通の制裁を目の当たりにした八雲岳が「親子二代から同じ流派の技を喰らうのはどんな気持ちだい」と腹を抱えて鬼貫を笑い飛ばしたのは、それ自体が『
哀川斗獅矢という名は
当然ながら未稲も全く同じ話を
先ほど脳裏を
「……父の名と、本人から伝え聞いたことを断片的とはいえ
電話回線を用いたパソコン間の通信技術が使用されてはいたものの、一九八〇年代は現在のように一般までインターネットは普及していなかった。与太話の類いを専門に取り扱うホームページやネットニュースが存在しない時代とも言い換えられるだろう。真偽不明の怪情報が大衆の好奇心によって拡散されてしまう
鬼貫道明による〝非公式の異種格闘技戦〟の目撃情報が日本で最も有名な格闘技雑誌の編集部にも届かなかった理由もこれと同様だ。
ごく限られた範囲とはいえ、哀川斗獅矢の名が八雲岳の〝身内〟に広まっていた通り、人の口に戸を立てることなど難しかろうが、携帯電話の操作一つで個人情報が容易く晒されてしまう現代と比べれば拡散の危険性が遥かに低いのだ。昭和末期から平成初期は「人の噂も七十五日」という
三〇年近く経った今となっては当時のことを正確に
それにも関わらず、哀川斗獅矢と『
ついには日本の格闘技史からも忘れ去られた出来事が三〇年近く経った今になって実際に起きた死闘であったと証明された次第である。当事者の娘――哀川神通は
その
余人には意図を読み取ることも叶わないのだが、神通は父の名を撫でた右の人差し指でもって己の左頬に斜線を描いた。
その神通も
(若い頃の鬼貫氏と聞いて思い当たる姿は一つしかないな。……どちらかと言えば本物に似せた木彫りの人形みたいなシロモノだったけど――)
タイトル画面に一九九九年とリリースの時期が表示されている通り、『
同じ頃の
近現代の格闘家を中心に実在の選手がそのまま登場し、体格から
三次元描画の技術が発展途上の時期であった一九九九年のビデオゲームだけに精密な再現には至らず、人並み以上に角ばった顎の輪郭など顔の特徴を似せた程度であるが、現在よりも二回りは若い風貌であることはキリサメにも分かった。
黒いプロレスパンツを穿き、脛の辺りまでを覆うリングシューズでリングを闊歩するという全盛時の出で立ちもビデオゲームでは再現されていたが、まさにその
(……返す返すも
一九八九年といえば元号が平成に改まる時期であり、〝昭和の出来事〟として分類することも適切とは言い難い――そのような自問を挟みつつも、キリサメは往時の有り様を
『
『
平成に
もはや、〝戦後〟と区分されない頃とはいえ同じ昭和に生まれた亡き母が「大らかな時代」と語っていたことをキリサメも記憶に留めている。今日になってその意味を初めて理解できたような心持ちであった。そして、それ故に沙門も『
(電知も哀川斗獅矢なんて名前は一度も話していなかったよな、確か。あいつなら知っていてもおかしくないけど、……それを言い出したら、アップルシードも
平成と昭和という時代の
未稲が用意した
次いでキリサメが思い浮かべたのは自分のプロデビューを早めた人物――『
隠し撮りされたものと
『アップルシード』も『
腕試しが目的とはいえ、世界各地の道場やジムを荒らし回る執念は異常としか表しようがなく、キリサメも暴力という快楽に溺れた猟奇性を感じていた。
哀川斗獅矢という男は、二人の内、どちらに近いのか――あるいは明治時代に日本を飛び出し、世界中に経巡りながら異種格闘技戦を繰り広げた
先程も神通は父親の旅について見識を拡げることこそ目的であり、学問の師匠に随伴していた旨も述べている。おそらくはその人物に教えを請い、中世日本の法文化を一冊の書物に取りまとめる歴史学者となったのであろう。
その一方で父親が〝甲斐古流〟の一つを極めた古武術家であることも哀川神通は認めている。それはつまり、哀川斗獅矢もまた希更・バロッサのような〝兼業格闘家〟ということなのであろうか。これについては何一つとして明かされていない。
「――お店の同僚とは別の人たちと〝一緒〟ってさっきも話してたけど、もしかして『
キリサメの意識を哀川斗獅矢に対する考察から引き剥がしたのは、その娘――神通に向けられた希更の声であった。純白の褌が脳裏に浮かんだまま未だに消えないのだ。流浪のストリートファイターが瞬く間に
神通の場合、希更のように〝本業〟を別に持っているのではなくアルバイトの立場であるが、広い意味では〝兼業格闘家〟に含まれている。鬼貫は『ダイニング
その鬼貫は『
いずれも彼女の
「ああ、いえ、……そうではありません。父も門下生も一緒ではありませんよ。〝宗家〟の道場自体、随分と前に閉めておりますので……」
「はゥえ⁉ そ、そうなのっ⁉」
〝熊本の武術界〟に流れた
「恥を晒すようで気が引けるのですが、……この時代、古武術ではなかなか食べていけませんから。アメリカから日本に移住して
「うあっちゃ~、特大の〝地雷〟を踏み抜いちゃったわ! ごめんね、ジンジンっ!」
古武術道場の経営そのものが現代に
ムエ・カッチューアという伝統武術の
その希更は聖徳太子の異称を冠する流派名のみならず、ごく限られた人間しか知らないはずであった『哀川斗獅矢』の名にも小さいとは言い難い反応を示し、あまつさえ世界を旅して回っていたという事跡にまで言及している。
バロッサ家の情報源を明言することはなかったが、東北復興支援を巡る議論の〝流れ〟を総帥の代理による一言で変えてしまえる名門であれば、あるいは樋口郁郎の
「かの宮本武蔵に敗れ、
「ジンジンが言ってるのって『吉岡
「忠興公のお弟子さんが……? 熊本にはそのような伝承もあるのですね。わたしの場合は別の方が江戸時代にまとめた書物にそういった記述があると教わりました。一般的には有名な『一条寺下がり松の決闘』に敗れ、吉岡家自体が絶えたと広まっていますが……」
「武蔵側の史料ではそういうコトになってるしね。決闘後も続けていた
「宮本武蔵と相対した吉岡
「
「デジタル化もされていないとは……。インターネットには縁遠く情報社会の恩恵も殆ど受けてはいませんが、それでも閲覧方法が多様化した今、何より口惜しいです」
神通が例に引き、希更も自身の知る範囲で語った『
吉岡家当主は代々『
道場主にして〝当代〟の
その弟が兄の仇討ちと吉岡家の汚名返上を背負って臨んだ
当主兄弟の敗北を受け、吉岡一門による最後の総力戦を挑んだ
場所を変えて
一連の事件を記した史料によっては三大対決の舞台が異なる上、武蔵と剣を交えた当主兄弟の名前まで変わってしまう有り様であった。
細川忠興の流れを汲む茶人であり、江戸幕府の
『吉岡伝』によれば武蔵は吉岡家長兄との〝緒戦〟を負傷しながら引き分け、完全決着を懸けた弟との果し合いは自ら放棄したという。
尤も、
しかし、吉岡家の名残が『
「……改めて吉岡家が羨ましくなってきましたよ。同じ古流武術でも当家には副業として生かせるものは一つとして伝わっていません。『
「ちなみに何代か前はどんな感じだったの? 明治維新の直後なんかは〝武士の商法〟で大損する士族が溢れ返っていたって聞くし。……戦前戦後の宗家も苦労したんじゃ?」
「祖父母は共にわたしが小さな頃に亡くなったので想い出らしい想い出もなくて……。ただ〝戦争の時代〟を生きた人たちですから、昔のことは余り話さなかったそうです。父にはそれなりに伝えたそうですが……」
「なるほど。……なるほどね」
神通の口から紡がれる一字一句を聞き漏らすまいと神妙に首を頷かせる希更は、果たして〝何〟を考えていたのだろうか――その声色は再び『
江戸時代の伝記と照らし合わせ、哀川家の経済事情に自嘲としか表しようのない微笑を浮かべてしまうほど京都に栄えた吉岡一門を意識している神通に対し、希更は彼女の引用元まで即座に理解していた。
アメリカから熊本へ移り住み、同地の〝武術界〟に根差したバロッサ家の一族であれば誰もが基礎知識の如く把握しているのかも知れない。明治維新に至るまで藩主を務めた細川家から〝客分〟として招かれ、宮本武蔵は晩年を熊本藩内で過ごしたのである。
六〇年に及ぶ生涯の結晶である『
希更が真偽不明の物として伝え聞いた
元々、細川家は室町幕府に仕えてきた幕臣であり、文武両道の家柄でもある。何しろ熊本藩祖の祖父には荒ぶる牛を素手で投げ飛ばしたという逸話まで伝わっているのだ。足利将軍家の指南役を務めた吉岡家と交流があっても不思議ではなく、それ故か折に触れて吉岡道場の興亡が取り上げられている。
尤も、堺の豪商である
「――ちなみに細川家の重臣が遺した『
時代こそ違えども剣の〝道〟を歩む者だけに寅之助も伝説の剣豪については詳しい様子であるが、神通と希更の会話は横から口を挟むことすら叶わない勢いで進んでおり、少しばかり不貞腐れた調子でキリサメに極端な異説を披露していた。
『沼田家記』も『吉岡伝』も左耳から入って脳を通り過ぎ、やがて右耳へと抜けていくようなキリサメであるが、副業がないと生計を立てるのも難しいという点は現代の格闘家も中近世の武芸者も共通しているのだろうと推察していた。
だからこそ神通は『
「――違ェだろが! 時代なんぞの
宗家道場の閉鎖という『
聞くに堪えない喚き声を張り上げ、
V
左手に持ったそのピックを恭路は一度、旅館のロビーで取り落としていた。
そのときにも六本の弦を荒々しく弾いていたのだが、キリサメたちに混ざる神通の姿を玄関に見つけた瞬間、目玉が飛び出すのではないかと心配になるほど左右の
ただでさえ視野狭窄な男だ。視界から思考に至るまで全てが驚愕の二字に塗り潰された情況で
何の前触れもなく飄然と現れた『ダイニング
「いけ好かねェハナシだがよ、
「――幼馴染んでいません。不愉快極まりない風説の流布はやめてください」
恭路自らが明かしたように二人は同じ山梨県の
実際、恭路と一緒にいた未稲と
関わり合いになりたくない人間に対する嫌悪を剥き出しにしていたなら、むしろ姉弟は驚かなかったはずだ。
理性という
自分一人で奥州の町を散策している最中に遭遇したのであれば、どれだけ声を掛けれられようとも黙殺して立ち去ったことであろうが、同じ〝輪〟に入ってしまった以上は何時までも見知らぬ他人の
だが、故郷を同じくする二人が言葉を交わし始めた途端、戦慄にも近い緊張が走った。
「……『相変わらず』という言葉は
「成人式すら出なかった
「御剣家の
「てめー、とうとうクソ親父のコトを持ち出しやがったな! 表に出やがれッ! そのスカした顔の裏側に隠してる本性を暴いたらァ! 母親と同じろくでなしがよォッ! 哀川家の〝血〟を
「それでやり返しているおつもりですか? ……残念ながら、母親であった方は『ろくでなし』という言葉ですら足りません。折角ですから、もっと貶めて差し上げてください。尤も、
「だったら、てめーは母親にインターネットでクソ以下の真似をやらかさねぇよう叩き込んでおきやがれ! 何もかも手遅れだがよォッ!」
余人が口を挟むことのできない罵詈雑言の応酬が二人の間で始まったのである。
際限なく昂っていく恭路の喚き声に対し、神通の側は不気味とも感じるくらいに静かであったが、冷たい嫌悪感を抑えるつもりはなさそうだ。
これもまた幼馴染みの距離感というものであろうか――相手が最も触れられたくない領域まで無遠慮に踏み込み、己以外には決して晒したくない醜悪な部分を抉り出していく。和解の余地が残されていないほど断絶した人間関係が露になっているからこそ、
エレベーター内も険悪な空気で満たされ、展望カフェの和室に案内されて間もなく神通の
「折角、あの親父さんが付け直してくれた名前に負けてんだよ、てめーの人生ッ! 生後半年だったか、一年だったかはもう
座布団の上に正座していた神通はその姿勢を維持したまま畳に突いた両膝の
人体の構造上、大地を踏み締めた状態で突き出してこそ拳の隅々まで力が漲る。全身に力の作用を行き届かせる為には正座という状態は余りにも不安定であるが、和室の天井が跳ね返す音は鈍器を叩き付けたとしか思えないほど重かった。
拳を突き出す
踏み込みを必要としない
鳩尾は人体急所の一つであり、何かの拍子に強打しようものなら呼吸さえ困難な状態に陥ってしまう。明確な害意を伴う衝撃で貫かれた人間には耐えられるはずもなかった。恭路も他の類例に漏れず、悶絶したまま起き上がることさえ叶わずにいたのである。
『ダイニング
今し方、披露した技も狭い座敷での戦闘・暗殺を目的として練られたものであろう。物静かな佇まいとは裏腹に己の誇りを貶めようとする〝敵〟には実力行使も辞さないということを示した恰好でもあった。
「……今のは恭ちゃんがいけないよ。人様の名前をからかって裁判沙汰になることは珍しくないし、世が世なら無礼討ちで首ポロだよ? おバカさんとは思ってたけど、ここまで
会話の妨げとならない壁際まで押しやられた恭路を見据える寅之助の
それほどまでに浅慮な人間が鳩尾の激痛を己に対する戒めと換えるはずもあるまい。失神寸前の状態から回復するや否や、懲りもせず「武田信玄公もてめーをボロクソに言ってらァ! 履歴書に山梨出身って書くのもやめろ! 出身地取り消しやがれッ!」と神通に理不尽極まりない罵声を浴びせたのだ。
「言い訳並べて誤魔化せると思ってんじゃねーよ!
余りにも幼稚な
呻き声しか絞り出せない状態の中で恨みを煮え滾らせていたようであり、驚いた店員が和室の様子を窺うほど怒号も大きくなったが、それは間もなく甲高い悲鳴に変わった。
僅かに開けた障子戸の隙間から不安そうな顔を覗かせている店員に対し、「新しい物をお願いします」と
金髪のパンチパーマに埋もれてしまった為、傷の程度は判然としないものの、鋭い先端が
(神通氏は――いや、『
神通が再び恭路を黙らせた投擲の
二度と目にする機会はないのだが、色々な意味で手先が器用であった
キリサメ自身、標的も〝同じ人間〟であるという感覚は『
もしかすると神通も〝自分たち〟と大きく変わらないのではないか――キリサメの心は余人の理解が及ばない〝共鳴〟によって微かに震えた。背筋が凍るような予想であるが、恭路の鳩尾を
「――何でもかんでもわたしに結び付けるのは
リング状となっている『
意識したわけではなかったが、当て
自慢のパンチパーマが金色から変わっていないので出血もなさそうだが、キリサメが想像していた以上にフォークは深く突き刺さったようだ。
「バロッサさんを押しのけるようで申し訳ありません――先ほどお使いになった〝投げ武器〟の技も『
「ちょっとやめてよ、大鳥さん。あたしとキリキリの試合、明日なのよ? 素直にベタ褒めなんて雨降りの
「本来は小さな刃物を投げる
自業自得ということを忘れ、「誰か一人でもオレの心配するヤツぁいねーのか⁉」と喚き散らす恭路はさておき――大鳥と希更が揃って感心するのは当然であろう。神通が披露した『
ただそれだけでも十分に生計を立て得るだろうと誰もが認めているのだが、当の神通は寂しげに
「希更さんは熊本のご出身と伺いましたが、一〇年ほど前にそちらのほうで大きな騒ぎとなった古武術道場の継承権争いをご存知ではありませんか? 確か裁判にまで拗れたはずなのですが……」
やはり、躊躇させられてしまう〝何か〟を神通は胸に秘めているのだろう。〝熊本の武術界〟に言及する声は一等控え目であり、希更の側も何とも
「その件に関しては誰よりも詳しいと思うよ? 思いっきりうちの父が受け持った民事事件だもん。『平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件』――そっか……やっぱり、ジンジンの耳にも入ってたか~」
「お父上が例の裁判を? ……運命の導きというものをわたしは今日ほど強く感じたことはありません」
今度は神通のほうが目を丸くする番であった。
バロッサ家はアメリカから熊本県八代市に移り住み、そこに根を下ろした名門だが、よもや
八代市で法律事務所を経営している希更の父親――アルフレッド・ライアン・バロッサが原告代理人を引き受けた裁判は事件名が示す通り、古武術道場を後継する権利が争点となっている。
裁判に巻き込まれた古流道場では先代の宗家が師範の一人を後継者に指名し、その証である大小一揃いの日本刀まで授けていた。これに異論を唱えたのが開祖の子孫である。先祖代々、家名を守り続けてきた自分こそ正当な継承権を有していると言い張り、希更の父を代理人に立てて裁判を起こしたのであった。
世襲制から脱却し、最も優れた師範を新しき宗家に選んだのは原告人の実父である。長い歴史を持つ流派をどのようにして時代へ引き継いでいくべきか――伝承の在り方そのものを問う裁判の行く末は九州一円のみならず日本中の武術界が注目していたのだ。
熊本の地方裁判所を舞台として繰り広げられた法廷戦の趨勢が遠く離れた山梨県にまで届いていたとしても何ら不思議ではなかった。
「わたしも父も傍聴に伺うことは叶いませんでしたが、非常に難しい裁判だったと聞き及んでおります。あの時期は古武術界全体が異様な流れの中で夢と
「一番有名なトコだと〝古武術バスケ〟とかね。例の裁判を起こした人もそのブームにまんまと踊らされちゃったみたいでさ、その頃はあたしも『ヒロっぴ』よりちょっぴり大きかったくらいだけど、カネに目が眩んだ〝大人〟は子供心に薄気味悪かったわね。……今となってはすっかり見慣れちゃったから、あたしも同じ〝大人〟の仲間入りかな」
「ちょっと待って下さい。『ヒロっぴ』というのはひょっとしてぼくのことですか? そちらのマネージャーも遠慮しないよう言っていましたからハッキリ迷惑と抗議させて貰いますよっ」
「古流道場の知り合いは多いし、ムエ・カッチューアも伝統的な武術でしょう? 影響は肌で感じたなぁ。伯父が『
「熊本にもそこまでの影響が……。
〝熊本の武術界〟に言及する神通の声は依然として控え目であったが、希更を見つめる
『
「入門者がいきなり一気に増えちゃうと〝自分たちの時代〟が来たって錯覚しちゃうもんねぇ。思考回路が勘違いで焦がされちゃうのがブームの怖いトコよ。バロッサ家と古い付き合いの
かつては他者に貸していたという広い畑を手放さざるを得ない状況まで追い込まれた剣術道場は、希更の父親が携わった民事訴訟の当事者とも異なる流派であるという。
熊本県の旧名でもある〝
己の迂闊を悟った様子で言葉を区切った希更は、次いで神通の顔色を窺い、大きな変調がなかったことを確かめると、誰にも聞こえないほど小さく安堵の溜め息を零した。
「……少し想い出すだけでも苦い気持ちが甦ってきます。一〇年前のあの頃は毎年、大晦日に大きな格闘技興行が開催されていましたから、熱に浮かされて浅はかな夢を
「お二人が話題にしてるのは二〇〇〇年代半ばくらいにあった〝古武術ブーム〟のことですよね? それより僕はふさげた愛称を取り下げて頂く訴えを起こしたいくらいです。ぼくは引き下がりませんよっ」
希更の父が担当した裁判は原告人が係争中に病死し、最終的には和解が成立したが、その背後には一〇年前の日本に渦巻いた
神通が言及した通り、奇しくも日本MMAの黄金時代と重なっていた。
「……ざけんじゃ……ねぇ……ブームなんざ……なかったぜ……あるわきゃねぇ……古武術が……ンな風に燃え上がってりゃ……『
弱々しい呻き声で割り込み、神通から侮辱の溜め息を浴びせられた恭路は発端すら把握していなかったが、二〇〇〇年代半ばの日本はコミックやアニメ、ビデオゲームといった〝サブカルチャー〟の影響で幾度目かの〝古武術ブーム〟に沸き立っていた。
古武術の研究家がメディアに露出する機会も多く、古い
道場を利用して〝古武術ブーム〟という
わざわざ類例を探すまでもなく、策を弄した人間は望んだ成果とは正反対の末路を辿るものである。
刑事・民事を問わず裁判は長い時間を必要とする。そして、流行り廃りは残酷なほど速やかに移ろっていく。原告人が
日本各地の古流道場でも〝古武術ブーム〟の最中には一時的に入門者が増えたものの、熱狂が鎮まった後には一割程度も残らなかった。それと同様のことがミャンマーの伝統武術であるムエ・カッチューアの
無論、世間の熱が引いた後も古武術の研究家がテレビ番組などを通じて説いた全てが消え失せたわけではなく、古武術の
「あの頃、誰もが『ありがた迷惑』と愚痴っていたのに、そういう空気を全く感じ取れない程度の理解力だから『
「……クソ親父を……持ち出すなっつってん……だろがよ……完全不完全以前によ……オレは……まともに……稽古だって……付けて……貰えなかった……んだ……ッ!」
〝甲斐古流〟――哀川の『
〝古武術ブーム〟を当て込み、挙げ句の果てには設備投資の失敗で大損失となった道場を希更は例に引いていた。その中には老朽化した建物の修繕も含まれていることだろう。それはつまり、多額の費用が必要となる工事だ。
〝甲斐古流〟の道場もバロッサ家の知り合いと同じように翻弄されたのであろうと察せられた。
当時、
一年前に
つまり、一過性の熱狂の潮目が引いた直後に
(神通氏はペルーのほうが生き易いのかも知れないな。今みたいな技は
秋葉原の市街地で『
同じ〝古い時代の技〟にも関わらず、瀬古谷の道場は哀川神通ひいては『
真価を発揮し得る場が狭まれば、これを学ぼうと希望する門下生が減少していくのも道理である。それ故に
職人の世界にも相通じることだが、跡取りが育たずに継承が困難になる流派も数知れない――古武術が現代に
物憂げに伏せられた目は一等寂しそうで、キリサメは思わず身を乗り出しそうになってしまった。真隣に未稲が座っていることを想い出して引き戻さなかったなら、彼女の頬に手を添えていたかも知れない。
「資金繰りという現実問題は勿論ですが、日本古来の武術を学びたいと思う人間がいなくなったことで気力が萎えてしまう道場主も多いのです。実際、知り合いの道場もそれが原因で看板を外してしまいました」
「その辺りの事情も山梨と熊本で変わらないのよね。ていうか、全国の古流道場が抱える問題か。〝競技人口〟って言い方は適切じゃないかもだけど、教わる場所がなくなったら新しく門下生が増える見込みもなくなるワケだし……」
「空手のようにオリンピックの大舞台に立てるような機会もありませんし、一時的な興味だけでは〝競技人口〟と数えても構わないような格式を得るまで持ちません。……『
〝演武〟――即ち、それぞれの流派が磨き上げた技を文字通りに〝実演〟という形で披露するものである。伝統の保存・継承という点に
「明治維新より
「……例外っていうのはジンジンのお父さんみたいな?」
「わたしの生まれ育った土地では他流試合も盛んでしたが、……いえ、あれは
「空手はねぇ~、何十年も前から正式種目化に向けて動いてたもんねぇ~。ようやくその執念が実りそうってときに『じゃあ、古武術も一緒に』ってワケにはいかないわよね。ジンジンが言ったように競技化自体が難しいしさ」
「次に日本で夏季オリンピック・パラリンピックが開催されるまで古武術の火が残っている可能性を問われたら、……わたしは返答に困ってしまいますよ」
改めて詳らかとするまでもないが、神通と希更が古武術の衰退と併せて語らっているのは六年後の二〇二〇年に再び東京で開催される運びとなった夏季オリンピック・パラリンピックである。
前回の一九六四年大会ではアジア初の
希更も触れた通り、空手の正式種目化に向けた運動は大昔から進められており、二〇一二年ロンドン大会の際にようやく追加種目の候補に残ったばかりであった。開催国という最大の利点を得た今度こそ長年の悲願を達成させたいわけだ。
アマチュア部門を抱える『NSB』も然るべき好機を虎視眈々と狙っているようだ。そもそもアメリカは二〇一二年大会にニューヨークが、二〇一六年にシカゴがそれぞれオリンピック・パラリンピック招致合戦に敗れており、MMAの正式種目化運動も長期戦を想定しているのだろう。
MMAが
それは空手も同様であった。演武――いわゆる『
全国規模の統括団体があろうと古武術に空手と同じことは不可能と神通は考えている。
様々な流派・会派の道場が全国に点在していることなど似通う部分もあるが、空手と比べて古武術は競技人口が圧倒的に少ない。そもそも『空手』のように大きな枠組みの中でまとまることはなく、それぞれが独自の理念を掲げている『古武術』諸流派は垣根の内側から他流の有り様を見つめており、決して交わることはない。
流派によっては使用する武器の種類も、その用途さえ全く異なる。空手のように徒手空拳のみで闘うわけではないのだ。
厳密ではないにせよ『空手』が広い意味での〝分野〟であるのに対し、『古武術』とは成立時期の区分に基づいて便宜的に当て嵌められた〝総称〟に過ぎないのである。
全国の古武術家が
潰し合いは伝統の保存と振興を何よりも妨げる行為であるが、現状の活動のままでは善かれ悪しかれ限定的な範囲で完結してしまう為、試合という形で大勢の耳目を引き、〝利益〟に結び付く発展は望めない。
煩悩を断ち切り、ただひたすらに己を研ぎ澄ませていく精神性は『
しかし、その一方で古武術という火が緩やかに消えていく
オリンピックは一九七四年にアマチュアリズムを公式に切り捨て、続く一九八四年ロサンゼルス大会から〝プロ〟選手出場の解禁など商業化が加速したとされるが、それよりも遥か昔からスポーツメーカーによる利権争いの舞台と化していた。国家間の〝代理戦争〟やボイコットが起きた東西冷戦期は言うに及ばず、〝大戦の時代〟には独裁者によってプロパガンダにも利用されてきた。
今ではオリンピックを平和の祭典ではなく世紀の茶番と蔑む声が少なくない。二〇二〇年に二度目の開催を迎える日本国内にさえ経済的負担といった現実問題から反対する人々も多いのだ。事実、招致成功直後に実施された幾つかの世論調査でも一割前後が否定的な回答を寄せている。
〝
国際化ひいては商業化によって古くから守ってきた理念が変質させられてしまう弊害も否定はできない。想定される事態は二〇〇〇年代半ばに訪れた一過性のブームよりも深刻であり、慎重に構えざるを得ないのであろうが、そもそも柔道や空手のように大きな
武芸以外の
「お互いを尊重するだけの〝親睦会〟は古武術の本質を錆び付かせるのではないかと思えてなりません。……例の協会に
古武術を衰退に導く一つの理由について少しばかり毒気のある私見を語った神通の横顔を寅之助は頬杖を突きつつ眺めていた。先程から一度も相槌を打っていない。
現在の協会とは異なるものの、全国の古武術を統括し、これを奨励する組織は戦前にも存在していた。同組織は当時最大級の演武大会開催のほか、武芸を教え広める人材の養成機関の設立にも携わっている。
第二次世界大戦直後、攻撃性の助長を危惧したGHQから武道全般が禁じられ、これに伴って同組織も強制的に解散させられたのだが、
戦後間もない日本で〝軍事訓練〟を彷彿とさせる振る舞いは
彼が名に一字を
尤も、発言の訂正を求めることはない。神通が私見を述べた直後、
「ますます惜しいことです。古流の苦境は自分も伝え聞いておりましたが、その技が活躍する場所は現代にもまだまだ残されているというのに。……自分が口惜しむのもおかしな話と
気を取り直した寅之助に「愛しい
今まさに彼が思い浮かべた映像を未稲も
大鳥の幼馴染みであり、未稲と同じゲーミングサークルに所属する
安全の為に〝刃引き〟が義務付けられてはいるものの、
ドン・キホーテの伝説でも有名なスペインのラ・マンチャ地方――中世の趣を留める古城で今年の五月に開催された第一回世界大会の試合映像は動画サイト『ユアセルフ銀幕』に
締め切り当日に滑り込みの形で出場が決定したフィンランドを含む一六ヶ国から集結した騎士たちは縦横の三色旗や十字旗、
片手持ちの剣と盾の併用や、両手で握る
日本代表選手の一人は戦国時代末期に用いられた
鼻の下に白髭を蓄えた鬼の仮面は装飾品ではなく、敵の攻撃から顔を護る『
洋の東西を問わず、『中世』に区分される時代の武具は
現代に甦った〝中世武者〟の勇姿を想い出した未稲は、ポルトガルの騎士を斬り払う太刀の一閃に神通ひいては日本の古武術が活躍し得る可能性を見出したわけである。
古武術の道場は座敷や
先程も無作法な恭路を沈黙させるべく手裏剣術の
流派による得物の
ともすれば弓術・馬術の心得もあるはずだ。山梨県は古くは
それらは確かに法で平和が約束された〝現代〟の日本では
(筑摩さんは勿論、フィンランド代表の〝姫騎士〟とか女性選手もカッコ良かったもん。投げ武器以外に何が得意かも知らないけど、哀川さんだってイケると思うんだよなぁ)
現代では用意すること自体が不可能である場合を除き、素材も含めた装備の様式は中世に区分される一四~一五世紀当時の物を再現するよう
『
そのような黎明期にこそ哀川神通のような人材が求められるのだ。
西洋剣術を極めたという大鳥聡起も筑摩から執拗に勧誘を受け、その
その気持ちも未稲は共有している。正座したまま恭路を制圧できるほど優れた古武術家が加われば、日本の
(……あんまり私が出しゃばるのも良くないか。筑摩さんとの付き合いはともかく、別に
筑摩が神通の話を聞いたとすれば、その日の内に『ダイニング
「稽古場は何とかなるけど、使う人のほうが折れちゃったら、どうしようもないものね。そーゆー場合、道場に在籍してた門下生の人たちはどうなるの? ……今のジンジンも同じような状況でしょ?」
「道場が閉じるのと同時に辞めてしまう人も多いようです。どうしても続けたい人は知り合いの道場などへ出稽古に行っていますね。……わたしもそれと似たようなことをしていますよ」
眉根を寄せながら両腕を組み、「いかにも惜しい」と呻き始めたマネージャーを目配せでもって宥めつつ、希更は話の続きを神通に促した。
『
行き場を失った古武術家たちが集まって費用を捻出し、体育館などを借りて稽古を行うケースも少なくなかった。流派という垣根を取っ払い、古武術という伝統を絶やさないように努める保存会や協会も存在するが、それでも古い技の
特に〝戦場武術〟としての本質――殺傷を目的とした
それが逃れ難い現実――希更の質問に答える神通の声は何とも寂しげであった。彼女の瞳に宿った憂いが一等深くなったように感じたのは、正面からこれを捉えたキリサメの錯覚ではないだろう。
声優を〝本業〟としている希更は言うに及ばず、
プロないしはこれに相当する〝立場〟であっても兼業しなければ家族も養えない――この厳しい現実は〝格闘競技〟についての勉強が不足しているキリサメにも分かっていた。古武術界を取り巻く経済状況は更に逼迫しているのだろう。
寅之助から一方的に聞かされた話であるが、明治維新とこれに伴う急激な近代化の中で古流剣術が否定され、数多の剣士が路頭に迷った際、日本最後の〝剣客〟と謳われた
これが明治時代の〝
あるいは
『
「……神通氏が道場を継ぐことはできなかったのですか?」
「おうおう、それだよ、それ! 聞いて驚けや、アマカザリ! 哀川のクソ野郎な、『
自分の
「随分と父にこだわりますね。……身を持ち崩して
神経を逆撫でする挑発にいきり立ち、希更を押し退けるような形で掴み掛かってきた恭路の両腕を正座したまま掴んだ神通は、その状態から垂直に高く跳ね飛び、中空で彼の身を逆様にすると畳の上に脳天から落下させた。
大地に突き刺さった
彼の両腕は肘の辺りで交差しており、可動域を封じられていた。回避も防御も不可能な状態で相手を〝捕獲〟し、脳天から逆落としにする投げ技というわけだ。
もはや、恭路には
円卓よりも高く跳ねた神通は投げ技を完成させたとき、正座から畳に片膝を突ける姿勢へと転じていた。掴み掛かってきた相手の手首を五指でもって掴み、その反動を跳躍力へ換えた後に恭路の身を撥ね上げたわけであるが、当然ながら神通の足のほうが先に地面を踏むことになる。
片膝で立つ恰好となった神通はこれを軸に据えて両腕のバネを引き絞り、恭路の垂直落下を更に加速させたのであろう――電知が使う〝柔道の投げ技〟とは明らかに違う術理をキリサメも読み取っていた。
(母さんのパイルドライバーより遥かにえげつないな、今の。両手が使えないから逃げようもないし――というか、神通氏は本当に御剣氏のことが嫌いで仕方ないんだな)
一瞬の加速が引き出した効果はまたしても壁際まで運ばれていった恭路を見れば瞭然である。本来は硬い場所に投げ落として頭蓋骨を砕くか、角度を調整して頚椎を
「親父さんの――『
余人には意味の通じない呟きを吐き出した直後に意識を失い、介抱もされずに放置される恭路は、
尤も、幼馴染みの情が働いたとは思えない。神通は恭路に対する冷たい嫌悪感を隠そうともせず、「武門の誇りを貶めんとする
面目には法も道を譲るとまで彼女は言い切っている。即ち、〝誇り〟を傷付けてきた恭路は付き合いの長さに拘わらず生かしておくべき相手ではない。
先程の投げ技で恭路の首を折らなかったのは、秋葉原の〝
「道場を守り抜くことはわたしには不可能でした。……そうでなければ、吉岡一門を羨む理由もありません」
道場の継続を問うキリサメに「否」と答える神通であったが、そもそも恭路の介入などなかったかのように振る舞う姿には、隣の円卓の大鳥もさすがに顔を引き
大きな音に驚いて顔を覗かせ、恭路の有り様に全てを察して引き上げていった店員はさておき――ここに至るまでの会話や、武門の誇りを貶めんとした人間に対する苛烈な報復からも神通が『
『
その宗家が道場を閉めるということは、これに連なる諸流派にとっても由々しき事態のはずである。是が非でも存続させるべく資金援助を申し出る声が上がってもおかしくはずだが、現実として宗家の道場を守り抜くことができなかったという。その一言から分派も支流も助けてはくれなかったのだろうと察せられた。
そのことを恭路は揶揄し続けていたわけであるが、中途半端にしか『
「……灯台下暗しとは言ったもんだねぇ……」
神通の
傍若無人な彼にしては珍しく、神通の横顔を窺う瞳は躊躇の二字を映している。それはキリサメも同様であった。恭路は意識を失う寸前に『
神通当人は恭路の言葉など聞こえなかったかのような
二人が揃って想い出したのは『
関東を中心に大勢力を誇り、『
恭路や寅之助から聞いた断片的な情報しかキリサメは持ち合わせていないのだが、『
広い意味では同じ〝反社会的組織〟に類されるのだろうが、幼馴染みを奪った
その
揃いの黒装束を
『
秋葉原までキリサメを誘き寄せ、本気で〝
〝
院長室に模造品ではない十文字槍を飾り、営業妨害といった不埒な輩が乗り込んできたときには抜き身の穂先を突き付ける開業医も『
恭路は『
法治国家日本に
「父は
先ほど神通は父親の気性をそのように言い表していた。
個人の戦闘力の表し方としては些か奇妙な言い回しであったが、あるいは『
哀川斗獅矢個人の闘いということであれば、鬼貫道明と繰り広げた非公式の異種格闘技戦は約束に基づく〝腕比べ〟であって〝諍い〟ではないということであろう。
勝敗に
つまるところ、
(世間は狭いというけれど、まさか『
『
(神通氏が局長の娘だとすると例の歴史学者も反社会的勢力の片割れか? そういう人を歓迎した鬼貫氏もキナ臭いし、……そもそも学者は裏社会から転向できるものなのか?)
キリサメの
恭路の呻き声を聞こえなかった〝
「……〝宗家〟を立てるという風潮も昭和くらいまではあったようですが、今は他所を省みていられるような時代でもありませんから」
「山梨も熊本もその辺りは一緒かぁ。曾祖母の――バロッサ家の総帥を訪ねてくる古流の人たちも大抵、景気の悪い話ばっかりだよ。一〇年
「でも、わたしはこれで良かったような気がします。宗家であろうと何であろうと人が集まらなければ仕方ありません。『
山梨県の実家に併設されていた宗家の道場は既に跡形もなく、現在は親類の家に程近いアパートで独り暮らしをしながら大学に通っているという。
関東最強の『
『
「でも、あのとき、バロッサさんを助けた裏十字は寒気がするほど
重苦しい気持ちを抱えながら神通を見つめるキリサメに対し、隣の未稲は
つい先程までキリサメを巡って神通へ対抗意識すら見せていた姉の変調に
「口ではついえる運命と言いながら、それにしがみつくのは愚か者かも知れませんけど、祖先が代々に亘って受け継いできたものはどうしても手離せませんでした。……時代を言い訳にしてしまったら、ご先祖に申し訳が立ちません」
「そっか、今も出稽古に通ってるって言ってましたよね、さっき……」
「ええ、最後の継承者として技だけは損なわないよう常に修練は怠りません」
少し時間を置いただけで技は衰えるという未稲の指摘に対し、神通は『
「先祖に顔向けできないという考え方自体、ただの呪いかも知れません。人から見れば思考停止も良いところでしょう。……でも、わたしには自分に流れる血を敢えて否定する理由が見つかりませんでした――」
先祖代々の流派に囚われる己の生き方を否定するような口振りではあるものの、神通自身は一言一言を毅然と紡いでおり、誰もが見入ってしまうほどに凛々しかった。
いずれは消えゆく古武術に最後の正統後継者として殉ずる覚悟を秘めているのだろう。そして、それこそが己の運命と受け入れている様子であった。
哀しいくらいに潔く、どこか痛ましい佇まいである。
「祖先から受け継いだ流派の為に、……今はこういうところに所属しているのです」
一礼を挟みながら手元の皿を脇へ寄せた
公衆電話で用いる〝テレカ〟であった。
キリサメ自身も亡き母親も一度として使ったことがなく、幼馴染みが金券の
日本のテレカも
「イラプ……ッ⁉」
隣の円卓から身を乗り出し、これを覗き込んだ
ノベルティグッズの一種と
「……えっ? 今までみんな、それを知らなかったの? 『
かつては同団体と深く関わり、所属選手とも親交がある寅之助は神通が『
(――そうか。電知が御剣氏に言っていた山梨出身の知り合いは神通氏のコトか。……それにしたって、どこをどう見たら可愛げがないって気持ちになるんだ……?)
キリサメもまた神通が『
「……試合観戦というのは本当なのでしょうね?」
大鳥の声が俄かに冷気を帯びたのは当然であろう。彼の担当声優は『
展望カフェの和室に西洋の剣を持ち込んでいたならすぐさま左手で鞘を握り締め、対の五指をツカに引っ掛けていたことだろう。
真横から突き刺すような殺気に対し、神通は手元のフォークを取ることもなく頷き返して見せた。己が希更を狙う刺客でないことも、電知たちの襲撃に与していないことも、彼女はこの静かな行動一つで示した次第である。
一瞬たりとも言い淀むことのなかった神通の態度に得心したのだろう。大鳥は仕切り直しのような咳払いを一つだけ挟み、比喩でなく本当に背広の襟を正した。無論、彼女が希更への害意を仄めかしていたなら、内ポケットに隠し持った伸縮式の特殊警棒を迷わず振り出したに違いない。
希更を包囲した襲撃者の一人――上下屋敷から未稲の
皆に背を向けるように返信内容を確認する未稲であったが、神通が奥州市へ足を運んだことへの驚愕と、『
未稲が目を見張ったのは電子メールに添付されていた一枚の画像である。リングサイドから撮影したものと
(言っちゃ悪いけど、こういう意識の違いで〝プロ〟と〝アマ〟に差が出ちゃうなぁ。リングサイドで気ままに写真撮影なんて『
上下屋敷の写真から伝わってくるのは興行規模の差だけではない。『
つまり、選手と観客が異常に近いということである。加えて、明らかに報道関係者ではない一般人がカメラや携帯電話などを選手へ無遠慮に向けていた。物理的な距離という安全面の問題は言うに及ばず、掲載権・広告権といった〝利権〟がリング上に横たわる〝プロ団体〟の興行に
「スポーツ利権で食べてる『ハルトマン・プロダクツ』の
今日は淡い桜色のブラウスに若草色のロングスカートを合わせているが、
格闘技と接点がない人間の目には撮影に失敗した一枚としか見えないだろう。神通の勇姿を写真の中央に捉えておらず、拳を叩き込まれた相手と一緒に右端まで飛び出しそうになっているのだ。
その見切れてしまった写真に未稲は哀川神通という古武術家の力量を感じ取っていた。残像を引き摺るような形で相手の懐に飛び込んでいるのだが、それはつまり、携帯電話のカメラでは正確に捉え切れないほど神通が
襟足の辺りで一つに束ねた髪は長い尾の如く写真の左端へと流れ、
術理に関する詳しい解説はなかったが、全身のバネを引き絞ることによって稲妻の如く跳ね飛び、一気に間合いを詰めつつ拳を突き込む技――と未稲は分析した。上下屋敷が撮影を試みたときには既にレンズの中央を横切った後であったのかも知れない。やや離れた位置から相手の虚を
「ハッキリ書くのはちと悔しいがよ、ぶっちゃけ、オレだって一度も勝ったコトがねぇんだよ。頭おかしい技だけじゃねぇぞ? 神通本人が身も心も人間離れしてやがんだ。あいつこそマジで
電子メールの
未稲の胸が一等高鳴ったのは言うまでもないだろう。凛々しい
『
事実、写真に映る神通は綺麗な拳をドス黒い血の色に染めているのだ。
(私の心を――ううん、哀川さんの運命を
この直後、未稲の脳裏に甦ったのはアーマードバトル第一回世界大会で行われた
鎧の上から纏った
三対三の形式にて行われる女性選手の
相手の翳した盾に己の刃を振り落としたかと思えば、接触した一点を軸に据えて己の身体を持ち上げ、宙を舞って背後へと降り立ち、瞬く間にこれを討ち取っていく。
武骨な鎧兜で全身を包んではいるものの、中世ヨーロッパの貴族を彷彿とさせる優雅な振る舞いであった。
兜を外した瞬間に内側から黄金色の長い髪が
両者は年齢も変わらないはずだ。
未稲はプロモーターではなく、ましてや
「ジンジンってば人が悪いなぁ~。もっと早く言ってくれたら良かったのに~」
一方の希更は警戒を解き切れないらしいマネージャーを尻目に真隣の友人へ頬擦りし続けている。
一度は『
もっと早く言ってくれたなら――希更の言葉には未稲も賛成だった。鬼貫が経営する異種格闘技食堂で初めて逢ったときに『
「……『
「その『
『
その言葉には親友と呼ぶことを躊躇う理由のない電知への思いだけでなく、日本MMAの天敵である『
神通の側は幼馴染み以外の人間が『
「今のを電ちゃんが聞いたらきっと感極まって泣いちゃうよ。サメちゃんのそういうトコ、妬けちゃうねぇ」と大仰に肩を竦めることで皮肉に代える寅之助であったが、その意味は当然ながらキリサメにしか通じなかった。
「もう少し言葉を選んでください、アマカザリさん。美しい友情を否定するほど自分も野暮ではないつもりですが、個人の気持ちはともかく哀川さんが『
「大鳥さん、自覚なさそうだけど、そこをツッコむ時点でもう十分に野暮ですよ。キリキリの言う通り、主催側の思惑なんかにあたしたちの友情は負けないですよ」
「たまに自分だけ危機意識が空回っているように思えてなりませんがね、〝何か〟が起きてからでは遅いのですよ。……失礼ですが、哀川さん――明日、一緒に興行を観戦されるのは『
「仰る通りです。……隠しても仕方ありませんし、それは皆さんに不誠実ですね」
大胆不敵にも
希更のマネージャーが警戒心を強めてしまうのも無理からぬことである。自分たちの前に飄然と現れた哀川神通は新たな刺客ではなく、この場に居ない電知も二度と襲撃を企てないと分かってはいるのだが、『
希更自身にも知らせないまま声優事務所が秘密裏に行った調査によれば、『
キリサメが述べた通り、哀川神通や空閑電知といった選手個人に好感を抱いていないわけではない。しかし、それが『
「あのチビッ子みたいなヤツらがまた襲ってきたら、今度こそ『
「暴力沙汰だけは勘弁してください、バロッサさん。……『ウォースパイト運動』をお忘れではないでしょう? 格闘技界周辺で物騒な事件が立て続けに起きているのですから、下手をすれば芸能人生を縮めるだけでは済みませんよ」
大鳥の懸念とは正反対に希更当人は不敵な笑みを浮かべている。降り掛かる火の粉を自ら払う気性だけに『
あるいはセコンドに付くという彼女の母親――ジャーメイン・バロッサが娘に代わって
「……もしかして、電知も
神通が『
何しろ伝説の足跡を辿り、
「サメちゃんだってそろそろ電ちゃんの性格は
先程のように目配せでもって寅之助に一つの答え合わせを求めると、今度はおどけた調子で肩を竦めて見せた。『
改めて確認するまでもなく分かっていたことだった。神通と共に岩手興行を観戦する予定であれば、八雲家が東京を発つ当日の朝にわざわざ見送りに駆け付けるはずもないだろう。何よりも彼は親友を騙してまでサプライズパーティーを仕掛けられるような人間ではないのだ。寅之助が述べた通り、どこまでも一本気なのである。
キリサメもまた電知を唯一無二の親友として想っていればこそ、有り得ないと分かっていながら万が一の可能性に期待してしまうのだ。デビュー戦を勝利で飾るという約束はリングサイドの特別席で見届けて欲しい――そのように願う気持ちは未だに抑え込めていないのである。これは寅之助どころか、未稲にさえ打ち明けていなかった。
「前回の興行で――『
「ですよ……ね? 僕も大工の仕事を優先させなきゃならないと聞いています。大切な試合だから絶対に現地で応援したかったと、そういってくれるだけで十分ですけど……」
「キリサメさんは本当に空閑のことがお好きなのですね。少し妬けてしまいます」
「だって、相手は電ちゃんだよ? ボクやサメちゃんだけじゃなく誰だってときめかずにはいられないでしょ? 電ちゃんの魅力に気付かない人間はどいつもこいつも
「神通氏は僕に質問してくれたんだぞ。どうして寅之助が代わりになれるんだよ。……基本的にはウザったいんだからな、
「ま~たそんなツレないコト言っちゃってさ。押してダメなら引いてみろってヤツ? 小賢しい手で気を引こうとするからサメちゃんも大工の仕事に勝てないんだよ。マレーネ・ディードリヒって大昔の女優は『朝四時に電話で呼んで、来てくれるのが親友』と言ったそうだよ。電ちゃんにとってサメちゃんの値打ちもたかが知れるね! 名ばかりの親友ってバレちゃった気持ちをど~ぞ」
「電知はその早朝に見送りに来てくれたし、そもそもディードリヒの格言は『午前四時に電話できる友人が大切』――だろう? 捻じ曲げて使うな。……それに仕事を放り出して自分の趣味に走る電知なんか寅之助も見たくないだろう? そんなの
電知という共通の親友を挟んで繰り広げられるキリサメと寅之助の言い合いを傍らで眺めていた希更は「愛とは愛されることを楽しむこと。愛されることを待つことではない」と
「そして、『不平が出るようになれば愛はおしまい』――つまるところ、アマカザリさんと瀬古谷さんの勝負に終わりはないということですね。永遠にやっていて下さいと申し上げたいところですが、すっかり置いてきぼりの哀川さんがいい加減、気の毒ですよ」
一種の落としどころとして大鳥が
「手に職のある空閑がわたしには眩しく見えますよ。……学費は親の遺産や兄の――義理の兄に
〝家業〟という名の安定した職が約束されている電知を羨ましがる神通が「遺産」という二字を口にした瞬間、俄かに和んだ空気が凍り付き、キリサメは思わず息を呑んだ。
「もしかして、その、……神通氏のご両親は……」
「キリキリ、それは――」
「母は、……いません。父は――わたしの前の宗家は、他流試合を挑んできた
『
比喩などではなく全身全霊で互いの命を喰らい合う〝
地元警察すら取り締まることを諦めてしまった暴力の餌食となるか、格差社会を蝕む病理に呑み込まれて餓え死にするか――
その凄絶なる末路を実の娘はあっけらかんとも取れる調子で語ったのだ。尊厳と共に
無論、キリサメの〝感覚〟を共有し得ない人々も同様である。
つい先程までは耳障りでしかなかった御剣恭路の喚き声が神通の話に偽りがないことを証明していた。思えば彼は一貫して〝生前の哀川斗獅矢〟を語り続けてきたようにも思えるのだ。隠されていた〝意味〟が今になって解き放たれ、誰もが言葉を失った。
両親の不在に父の死という神通の事情を把握していたのは以前からの知人である寅之助のみであったが、
彼もまた〝古い道場〟の跡取りであり、〝公式大会〟の規則と相容れない〝実戦〟の技を継いでいる。それどころか、太平洋戦争当時の日本に
依然として意識を取り戻す気配のない恭路は〝御剣家の流派〟に対する習熟の度合いは言うに及ばず、武術家としての気構えすら全く不足していた。
「……今の話をあたしの父が聞いたら、どんな見解を弾き出すことやら。法律事務所自体はスポーツ専門じゃないんだけど、『格闘技医学』の勉強会にも積極的に参加してるし、試合中の事故にはすっごく敏感なんだよ。特に安全性を保障しない試合にはね」
〝
他の人々と同様に双眸を見開いたということは、少なからず驚きはしたのであろう。しかし、それも一瞬であった。遠い日に聞いた
しかも、先程は神通に対して両親の健在を
「他流試合にどのような見解をお持ちか、一人の武術家として興味を惹かれます。おそらく我が父とオーナーの一戦もご存知でしょうし……」
希更の真意は言うに及ばず、微妙な変調にも勘付いていない神通は〝友人〟の父親が法律の専門家としての視点から他流試合へ如何なる見解を持つのか、そのことにこそ興味を惹かれている様子であった。
「あたしと同じようにウワサで聞いた程度だけど、『どちらが死んでも遺恨なしという口約束は
「希更さんのお父上と同じようなことを『
「……穿り返すのは自分でもどうかと思うんだけど、その塾頭さんが例の他流試合でも立会人を務めたのかな? 多分、宗家道場で指導していたんだよね?」
「いえ、あの〝
〝他流試合の後始末〟という遠回しな表現が意味するのはただ一つである。
過失であろうと事故であろうと、法治国家日本で〝殺人〟が起きたのだから検事の関与という事態まで発展するのは当然であった。そして、その前段階には警察も介入しているはずだ。
尤も、格闘技の〝他流試合〟に係わる刑事司法手続へ注目した者は寅之助も含めて一人もいなかった。不意打ちのような衝撃で打ちのめされたのだから、混乱から立ち直るには相応の時間を要するわけだ。
年齢不相応なくらい落ち着いている
『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』なる書名と共に表紙へ刷り込まれているのは〝俗名〟ということになるのであろう。
「じゃ、じゃあ、哀川斗獅矢先生は本当に……」
「父が遺した数少ない
冗談めかして微笑みかける神通と、返答に窮した様子でこれを受け止める
この直前のことであるが、〝他流試合の後始末〟を『
希更の父親が解決に導いた〝民事事件〟は熊本県から遠く離れた山梨県でも注目されていた。その一方、鬼貫道明と闘った『
どちらも日本の武術界を震撼させる出来事に変わりはないはずだが、その内の片方だけが
神通の年齢を考えれば父親が命を落としたのは〝インターネット〟が一般に普及し、大型電子掲示板などに真偽不明の匿名情報が飛び交うようになった後のことであろう。〝パソコン通信〟すら盛んではなく、緘口令によって人の口に戸を立てることが不可能ではなかった『昭和』とは違うのだ。
それにも関わらず、古武術界の醜聞として報じられてもおかしくない深刻な事件が今日まで隠蔽されてきたのである。不可解としか表しようのない情報工作を取り仕切ったのが『
つまるところ、バロッサ家の
「哀川先生の
「父はその〝お師匠〟が好きで好きで仕方ない人でしたから喜んでいると思いますよ」
「共著の
「優しい〝お師匠〟が父の研究を引き継いでくださったんです。今も〝共著〟という形にして頂いていて、それで……」
キリサメを間に挟む恰好で同じ円卓に着いている姉から何事か
姉が無言で寄せてきた問い掛けも正確に読み取っている。どこか前のめりとも感じられる視線に促され、ブックカバーの折り返し部分に刷り込まれた経歴を改めて確認したが、著者の生死など記されているはずもなかった。
日本格闘技界と関わりが深い
(……母さんが死んだ後、僕でさえもう少し引き摺ったものけどな……)
己の頭越しに交わされる声なき会話を受け流しつつ、キリサメは実父の最期を他人事のように明かしていく神通の心を覗き込もうと試みていた。その
やがて捉えた木札のペンダントには架け橋を模ったものと
養父のように何事にも感動してしまう夢想家ではなく、スケッチブックに鉛筆を走らせることを趣味としていながら創造性と結び付く感性に富んでいるとは言い難いキリサメであるが、架け橋の紋様には武術家たちの〝語らい〟を重ねていた。
即ち、
しかし、神通の父が臨んだ〝
二人の武術家が全身全霊で立ち合う以上、行き着く先に死が待ち構えているのは必然であり、そこに遺された者の感情など差し挟む必要はない――そのように神通は割り切ってしまっているのだろうか。
おそらくは鬼貫道明ともプロレスから掛け離れた〝
互いに瀕死の重傷を負ったことがその証左である。本人は搬送先の病院から姿を消し、診断記録すら何時の間にか
法律事務所を営む希更の父親が〝闇〟に生きる者たちの暗躍を知れば、哀川斗獅矢にも鬼貫道明にも呆れを通り越して怒りすら覚えることだろう。
自らの命を
(……僕は何をそんなにのぼせ上がっているんだ? まともに挨拶したのは今日が初めてなのに……それなのに、どうして僕は――)
キリサメにも埋め難いほどの虚無は理解できなくもない。それどころか、他の誰よりも神通の魂に寄り添えると錯覚しそうになるくらいであった。
己と同じ〝血〟を吸った『
神通自身が〝
キリサメには彼女の凛々しい佇まいが虚無の
しかも、『
「自分の勝手な想像に過ぎないので気分を害してしまったら申し訳ないのですが、経済的な事情以外にも道場を辞めた理由があるのでは? 例えばそう……〝不敗伝説〟が途絶えてしまって、それで門を閉ざさざるを得なくなったということは――」
荒唐無稽な登場人物と筋立てによって一時代を築き、日本の漫画文化を牽引した
彼女を真っ直ぐに見つめながら問い掛けることができず、窓の向こうの街並みに目を転じてしまったのは言葉を重ねていく
哀川斗獅矢の最期は〝敗死〟であったのか――神通が問い掛けに答えを示すには、父の名誉にも関わることまで明らかにするしかない。大鳥自身はそこまで踏み込むつもりなどなく、言葉の選択を誤った末に取り返しのつかない無礼を働いてしまったのである。
恭路に対する制裁からも察せられる通り、聖徳太子の異称を関する流派は武人の誇りを重んじており、神通自身もこれを貶める人間を〝敵〟と見なすことに躊躇いは
「それを言い出したら、わたしなんか何度も負かされています。父がやられたのだって、そのときが初めてじゃありません。勝って負けてを生涯ずっと繰り返して、……大負けの末、最後に壊れただけのこと」
先程のように左右の膝のみで畳の上を進む技法を駆使すれば鳩尾に拳を埋めることも、背広の襟を掴むことも容易かったであろうが、大鳥の両足が天井に向かって垂直に伸びるような状況にはならなかった。
マネージャーの失言を謝罪しようとする希更を制した神通は刑の執行を待つ罪人の如き面持ちでいる大鳥本人と向き合い、「不敗伝説に
大鳥と希更が揃って双眸を瞬かせたのは無理からぬことであろう。父の〝敗死〟さえ特に躊躇う様子もなく明らかにしてしまったのだ。誇りを重んじる『
不意打ちのような衝撃に動揺させられたのか、それとも神通の
(僕なんかには神通氏が背負ったものを想像もできないし、
神通は大学生でありながら一流派の宗家を継いでいる。
〝古流〟と称するからに数世紀分は積み重ねているだろう一流派の歴史を年若い神通が担っている理由も合点がいったのだ。
会話の流れで行き着いたとはいえ、彼女は肉親の不幸という何よりも辛い想い出を穿り返されたにも関わらず、
泰然自若とはまた異なる佇まいはキリサメの魂を懐かしい〝闇〟で突き刺していた。もはや、艶めかしい
「神通氏、僕は――」
何を伝えるべきかも頭の中でまとめ切れていない内から口を開こうとしたキリサメを遮るようにして、神通は右の人差し指を彼の眼前に突き出した。
キリサメを正面から見据える神通の瞳は、何故か憂いの色が濃くなったようであった。
「初めてお会いしたときから思っていたのですけれど、キリサメさんは亡くなった父と同じ目をしています。……だから、あなたのことが気になるんです」
しかし、一つだけ悟ったことがある。『ダイニング
「キリサメさんのことを考えていたら居ても立っても居られなくなって……敵情視察と息巻いていた他の人たちに加えて頂いたんです」
その言葉にキリサメの心臓は更に飛び跳ねた。
余人には理解し得ない〝共鳴〟によって自分と神通は〝一つ〟に結ばれている――そのように考えていた最中に神通自身の口から高鳴りを加速させる言葉が滑り落ちたのだ。
無論、それを彼女に告げられるはずもなく、キリサメは注文していたコーヒーを無意識に飲み干した。そこでようやく自分の喉が渇き切っていたことに気付く有り様であった。
死んだ父親と同じ
「ちょ~っとちょっと。急展開過ぎて面白過ぎるんだけど、つまり、キミ、サメちゃんのコトが気になって仕方ないってワケ? 『ロミオとジュリエット』みたいな関係に酔っぱらってる感じ? それともシャーク団とジェット団のほう? 一体、誰が拳銃を向ける役なのやら」
この風雲急を告げる展開に寅之助が無反応でいるはずもないだろう。混乱した未稲と希更、キリサメから目を離さない神通を交互に見比べつつ、
キリサメを囲むような恰好で不可視の三角形を作る女性たちの内、極端に大きな反応を示したのはメガネを掛けた二人である。寅之助はその様子が愉しくて仕方がないわけだ。
マネージャーとも共有していない〝何事か〟を思案しつつ、神妙な面持ちで相槌を打ち続けてきた希更は勢いよくひっくり返り、その拍子に吹き飛んだ変装用のメガネのツルが恭路のパンチパーマに生け花の如く突き刺さった。
神通の
『
恩義もある友人が急に手強い恋敵に変わってしまったようなものである。少なくとも今の言葉ではそのように認識するしかなく、行儀の悪さをマネージャーから注意されるまで身を引き起こすこともできなかったのだ。
「横から
神通の
案の定、未稲と希更は引き
「もっと前から照さんや空閑から
「で、電知のヤツ、おかしなことを言ってませんでしたかっ? あいつ、僕のことを誤解してそうだから、裏で何を話しているか心配で……っ!」
「キリサメさんは急所狙いの技もたくさん持っていると伺っていますよ。眼突きは基本中の基本で、金的蹴りも巧みに取り入れているとか。いずれもお菓子を摘まむような感覚で使い、異性が相手でも遠慮なく本気で殴りに行くそうですよね? それが
「あ、ああ――なるほど、そういう……」
『
神通は〝個人の感情〟を昂揚させていたわけではなかった。それはキリサメ自身が感じた〝共鳴〟を分かち合っている
あるいは寅之助が〝人間らしさ〟と言い表したキリサメ個人の感情が混ざった為、本来は完全に重なっている〝共鳴〟の波長に狂いが生じていたのかも知れない。
同じ
「――そう思うとまた一つ、疑問が増えてしまいますね。若い頃に哀川斗獅矢先生と鬼貫さんが命懸けの真剣勝負をしたことも判りましたが、その鬼貫さんはアマカザリさんの睡眠不足みたいな
神通の横顔に更なる質問を重ねたのは、円卓の上に置いた学術書に目を落とし、右の人差し指でもって著者名を撫でた
昂揚の反動で湧き起こった激しい羞恥の念に
痴情のもつれに発展する兆しのあった雰囲気に妨げられ、
「気付く気付かない以前に
「……〝眠れる獅子〟から〝死んだ魚のような目〟では落差が大き過ぎません? 確かにアマカザリさんはボクから見てもそういう目付きですけどね」
「普段の感覚でお話しすると誤解を招いてしまいますね。キリサメさんはともかく、父の目に関してはそれ以外に良い
瞳に映る文字は逆様であるが、学術書の表紙に刷り込まれた
『
果てしない彼方に〝何〟を見ているのかは共に育った幼馴染みにも分からなかったそうだが、さりとて満たされない心を持て余して餓えているのではなく、歴史ある古武術の宗家という
瞳の中央に〝何〟も映していないようで目の前の全てを見極めている――互いに小学生であった頃から『
薄気味の悪さはまさしく〝死んだ魚のような目〟であったが、ときには自分の首を絞めるほど道理と義理を重んじ、仲間の為には自己犠牲さえ厭わないという面倒見の良さから『
神通自身は明言しなかったものの、その〝仲間〟には
「父とわたしの故郷は、……説明が難しいのですが、古い武芸が盛んな土地でして、近隣の方々には『
「聞いたこともないというか、……戦後まで刀を差し続けていた? 明治政府が維新後に出した『
「……わたしたち、〝甲斐古流〟は――『
「真顔で話してるということは冗談ではないんですね……」
〝
全国的な知名度の高さもあって信玄の
即ち、甲斐武田家で最も名が知られた
神通によって語られた伝承が誇張・吹聴の類いでなければ、哀川斗獅矢とは気が遠くなるような時間と労力を費やして取りまとめた自身の研究内容を自ら否定し、そこから逸脱する特異点の如き存在ということになってしまう。
容易には受け止められない矛盾に打ちのめされ、七歳にして眩暈を
そして、それこそが
一方、隣の円卓で耳を傾けていた寅之助は今し方の話を手掛かりにして『
〝表〟の社会に居場所がない者たちを哀川斗獅矢は『
それが〝甲斐古流〟の筆頭という『
富裕層の居住区と
同じ
尤も、日本という新天地に移り住んで以来、それも変わってきたようだ。〝家族〟である八雲未稲や表木
やはり、キリサメと神通の父親は生き写しにも等しい存在であるのかも知れない――皮肉を飛ばそうとして正反対の結論に辿り着いてしまった己自身を寅之助は鼻で笑った。
頭の中に思い浮かべた仲間たちの〝輪〟には自分も入っている。それどころか、秋葉原で画策した〝
「古くから父と付き合いのある方々も話しておられましたし、わたし自身もこの目で何度も見ましたが、普段は〝死んだ魚のような目〟であっても
「つまり、鬼貫さんが見たのは〝その目〟ということですか。目を覚ました獅子といったところですかね?」
再確認を求めるような
「父の
「……でも、その……『物理的な
「仰る通りです。母がいなくなった日に父は壊れました。……そんな目をキリサメさんに重ねるなんて失礼以外の何物でもありませんよね。本当に申し訳ありません……」
「い、いえ、僕は光栄です」
「そこはせめてツッコみましょうよ。哀川さんのボケにボケで返したようなものじゃないですか……」
自分の失言すら忘れて
『
歴史学の恩師とは世界中を旅して回っていたそうである。
キリサメも実母とは二度と会えなくなったが、その理由は神通と大きく異なっている。彼女が曖昧な表現に留めたことからも死別とは別の形でいなくなったのだろうと十分に察せられた。
「――てめーは母親にインターネットでクソ以下の真似をやらかさねぇよう叩き込んでおきやがれ! 何もかも手遅れだがよォッ!」
先ほど御剣恭路が神通に浴びせたその一言はキリサメ以外の脳裏にも甦っている。彼は同じ口で知り合いの母親を「ろくでなし」とまで罵ったのだ。
文明の利器である携帯電話を持たず、未だに時代遅れのテレカを使い続け、更にはインターネットを好んでいないという神通自身の発言が答え合わせのようなものだ。亡き父の
不貞という二字が付き纏うことだけに
いずれにしても哀川斗獅矢が再び〝闇〟に堕ちたことは間違いない。生涯の師に恵まれ、愛娘も授かり、生きる喜びに満たされていたはずの魂が己を危険に晒さない限りは命の意味を確かめられないほど壊れてしまったのである。
神通の双眸から生きる意志が消え失せなかったことは奇跡としか言いようがあるまい。
彼女の父親がどのようにして壊れていったのか、キリサメには全く理解できないわけではない。〝闇〟の底で実母が
鏡を使って身なりを整えるような趣味も習慣もなかった為、キリサメは自分に起きた変調すら気付いていなかったのだが、忌々しい刃を振り回し、喧嘩殺法の技が増える
「――あんまりわたしの知らない顔になっちゃヤダよ、サミー。塾の友達がいなくなってもわたしだけはずっと
頬を撫でながら行く末を案じてくれた幼馴染みの声が――懐かしいスペイン語で紡がれた言葉がほんの一瞬だけ脳裏に甦り、キリサメは想像の中で手を伸ばそうと試みたが、懐かしい指先へ届くよりも早くいつか頬に感じた
「山梨県にそんな秘境があったなんて興味深いわね。熊本も古い武術が盛んだから、ますます親近感が高まっちゃったわ~。あたしの地元は〝お盛ん〟過ぎて、未だに道場同士の勢力争いが残ってるけどね」
「縄張り意識と意地の張り合いは当方も似たようなものですよ。それよりもバロッサ家の情報網に引っ掛からなかったことのほうが意外です。中世の隠れ里ではありますし、山深い土地なので、わざわざ足を運ぶ観光客も殆どいませんが、外界を寄せ付けなかったのも大昔のこと。二年に一度くらいは県のローカルニュースが取材に入りますよ」
「ローカルニュースっていうのがそれっぽいわね。県内で完結しちゃって、
「私もさすがに初耳です。両親なら知ってるかな~? 武田家に仕えた真田家の忍者に繋がっているワケですし、ひょっとすると先祖を辿っていったらそこに行き着くかも」
神通の父――哀川斗獅矢が〝眠れる獅子〟となった顛末へ耳を傾ける間に希更も未稲も動揺が収まっていった。二人とも早とちりから恋敵の出現と身構えてしまったのだが、当の神通はキリサメの初陣を追い掛けた理由に恋愛感情を含めていなかったのである。
哀川神通はあくまでも一人の古武術家としてキリサメを見つめているのだった。
『
哀川斗獅矢の〝横顔〟など数分前まで強い反応を示してきた
その希更と入れ替わるように誰よりも前のめりとなったのは未稲である。神通が『
「……『
「やっぱり大昔の『
「未稲さんも弟さんと同じように博識ですね。如何なる技にも完璧に対応し、同時に敵の得物を制し、鎧兜を攻略することから『具足殺し』などと呼ばれることもあります。『敵を知り己を知れば
「そういう意味では『
「分派の一つは『鉄砲伝来』の頃から火縄銃の研究にも勤しんでいました。亡き父も含めて『
両腕でもってライフルを撃つような
誰に頼まれたわけでもなく彼女は
「……死んだ母の授業で習ったことですが、聖徳太子は合戦や暗闘を繰り返した果てにようやく新しい秩序を作り上げたはず。その異称を名乗る武術がどういうものか、今、少しだけ理解ったような気がします。……いえ、御剣氏を見れば一目瞭然ですが……」
キリサメは〝外国〟の歴史に現れる人物として聖徳太子――
『
神通の話によれば『
未稲が受け取った電子メールの内容だけにキリサメには知り得ないことだが、上下屋敷が神通のことを麒麟に
その麒麟が未稲の鼻息に触れたなら、槍刀や弓矢によって支配される動乱を求めているのだろうと勘違いを起こし、恐れ
アメリカ最大のMMA団体『
「……〝武芸百般〟ということですと、察するにキリサメさんの喧嘩殺法も『
「僕はサムライなんかじゃありませんよ。電知にも誤解されましたけど、ニンジャの弟子でもないんです」
「ですが、本質は実戦と殺傷――そのことはよくご存知なのではありませんか?」
神通の言葉によって心を射貫かれた瞬間、ある男の顔がキリサメの脳裏に甦った。
警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係を名乗り、『
個人としての〝共感〟に引き摺られそうになってしまうのだが、〝暴力〟の肯定にも通じる神通の論はキリサメが挑戦する
「……否定はできませんけど……」
だからといって、「実戦と殺傷こそが本質」と定めるような神通が誤っているともキリサメには言い切れない。
過去に一度も『
裏路地と合戦場という
「そもそも『今聖徳』が『
展望カフェの窓からは伊達家が統治した頃の風情を一望できる。城下町に点在する武家屋敷は江戸時代に建てられたものだが、『
「戦乱の世の中に必要とされたモノと同質の技を現代のペルーでどのように生み出したのか、そして、どのように
真っ直ぐな瞳で神通から問われたキリサメは即答を
神通と同じ円卓には
キリサメの喧嘩殺法も、神通の古武術も、この不愛想な男の子が知る〝格闘競技〟からは懸け離れた領域に
「……あとは試合でお見せしますよ。どこまで期待に沿えるかは分かりませんが……」
彼の目の動きと、何事かを憚るような態度から委細を悟ったのであろう。神通は首を頷かせることで了承の意を表し、聞き分けよく引き下がった。
言葉を交わすことなく通じ合ってしまったことにもキリサメは苦笑を洩らした。
喧嘩殺法について明かせば必ず凄惨な内容になると即座に理解されたわけだが、それはつまり、神通自身も血みどろの戦いに慣れているという証左なのだ。
ペルーの喧嘩殺法と『
「あんな人を〝義理の父〟とは認めたくはありませんが、僕は八雲岳と表木嶺子の息子ですよ? 妙な気を遣って貰うまでもなく古武術の本質がどういうモノか、とっくの昔に承知しています。……ていうか、秋葉原のド真ん中でノコギリみたいな
顔の輪郭から
その言葉に込められた意図を測り兼ね、返すべき言葉にまで窮してしまったキリサメはいよいよ居た堪れなくなり、最初に座った場所へ気まずげな面持ちで戻っていく。その間には
「……僕からも神通氏に質問して良いですか?」
「はい、何なりと」
「神通氏はどうして『
「私もキリくんに大賛成です。鬼貫さんとそこのうるさいパンチパーマを仕留めた技でしか『
二つの視線から逃れるべくキリサメは正面の神通に一つの疑問をぶつけた。未稲が同調したのは意外であり、その言動には不可解な部分もあったが、仕切り直しを図りたい彼には何にも勝る加勢である。
身の上話を聞く限りでは生活費のやり繰りにも苦労している様子であるが、それならば世界最大のスポーツメーカーがスポンサーに付き、相応の
プロレスとブラジリアン柔術の頂上決戦という構図を第一回興行の
『昭和の伝説』と謳われ、数多の異種格闘技戦を経験した鬼貫道明すら組み敷く技量を
「もう後戻りできないくらい〝富める者〟に染まったね」と
「……成る程、キリサメさんと未稲さんは『
「えっ⁉ い、いえ! 僕はそんなつもりではなくて、その……」
「誤解ですって! 確かに『
「……みーちゃんはさっきから何を言っているんだい? 言葉の端々が引っ掛かるというか、意味が良く分からないよ」
「キリくんこそもっと柔軟に行こう! 何なら『
「だから、そういうのが僕には何が何だか……」
思いも寄らない返答を受けたキリサメと未稲は腰を浮かすほど慌ててしまった。当人たちに他意はなかったが、先程の言い方では侮辱として受け取られても仕方ないだろう。
特に未稲は掲載権・広告権の管理についてアマチュア団体の杜撰さを心の中で扱き下ろしたばかりでもある。
決して嘲るつもりはなかったと弁解しようとしたところで、二人は神通の口元に浮かぶ微笑に気が付いた。つまるところ、からかわれただけというわけだ。
「いや~、焦った~! メガネが割れるかもって思うくらい焦った~っ! 哀川さん、そんなお茶目なコトする人なの⁉ 同じ山梨県民なのにパンチパーマと正反対じゃん!」
「……御剣氏とは別の意味で心臓に悪いですよ。人が悪いです、本当……」
「ごめんなさい。今しかできないオトボケかなって思っちゃいました」
おどけた調子で舌を出した神通にキリサメと未稲は揃って胸を撫で下ろした。
尤も、その先に湧き起こった感情は全く異なっている。凛々しい面立ちとの落差が際立たせた愛くるしさにキリサメは再び胸が高鳴り、一方の未稲は彼の頬が紅潮していることにも気付かないまま
キリサメに不可解と指摘された言動や、『
「あたしの想像だけど、ジンジンの場合、『
キリサメの疑問には神通に成り代わって希更が答えた。体系化という一点に
「希更さんと一緒にいますと、質問の手間が省けますね。本当にありがたいです」
「だっしょ~? お姉さんをもっと頼っちゃいなさ~い」
冗談めかして神通の頭を撫でる希更であった、その見立てはまたしても正解のようだ。
事実、『
「二人の間でだけ分かり合って貰っても困りますよ。『
『
似た者姉弟というべきか、普段であれば未稲の醜態を冷ややかに鼻で笑う
「ジンジンの『
「……エグい? キリくんの『我流』の技みたいな感じですよね? 空閑電知と闘ったときに見せたようなヤツ」
「随分と遠回しだねぇ~。弟ちゃんの言葉を借りるなら『今さら何を隠そうっていうんですか』ってトコだよ。デタラメな技をネットの世界に垂れ流したっていうのにさ。ボクなんて何回、目を抉られそうになった分かったもんじゃないよ」
寅之助から強引に割り込まれてしまった未稲は、不調法への抗議を歯軋りでもって示した。真隣に腰掛けたキリサメのことを想い、喧嘩殺法ではなく『
満足に反駁できず、苛立ちを噛み殺しながら無言で抗議するしかなかったのは寅之助に心の中を見透かされた為である。
空閑電知との
表現を変えただけでは残虐性を隠せない――寅之助の皮肉は確かに腹立たしいが、弟の言葉を捻じ曲げて引用しているわけでもなかった。
先ほど神通は江戸幕府と
かつての乱世さながらに古い武術が潰し合う事態を避けるべく調和に努めている全国規模の統括団体を幕府に
聖徳太子の異称を冠する流派を極め、麒麟と
未稲の疑問に答え、同時に寅之助を窘めるよう「そうそう、そんなトコ」と首を頷かせた希更は、現代の只中で乱世の気風を纏う神通に目配せでもって会話の続行を促した。
「
窓の向こうに望む武家屋敷と古武術は同じようにはいかない。現代へと至る潮流の中で国際化を果たした柔剣道や空手と異なり、後世まで保存していく意義を〝
その指標が競技人口の衰退も含めた人材不足である。後継者問題は古武術にとって保存に足る値打ちの消滅とも表裏一体であり、それ故に統括団体が全国諸流派を支え、振興と交流を
だが、神通からすれば古武術は大切に拝むような〝文化財〟ではない。戦いの場で真価を確かめ続けないと何の意味もない――それこそが伝統芸能を例に引いた理由であった。
「ムエ・カッチューアは立ち技が基本だし、MMAのルールとマッチする部分が多いからリングに上がっても違和感少ないけど、『
「先程も申し上げたように武具も一通り嗜んでおりますが、『
「
「哀川家に伝わる物は鉄で拵えた羽根のフチを刃物のように研いであるのです。手斧のような用途と想像して頂ければ分かり易いかと」
「う~ん、
「キリキリに続いてあたしもミッシーが何を興奮してるのか、分からなくなってきたわ」
神通の
残虐性の高さを懸念したキリサメは横目で
『
キリサメの場合は船の
(……底意地の悪い言い方をすれば、僕も
自分と神通は限りなく近い存在という〝共鳴〟が身の
「
気まずげにコーヒーカップを置くキリサメの隣では未稲が一等興奮している。古武術の技と知識を生かすならば
キリサメも未稲も、自分たちが軸足を置く『
「当たり前だけど、『
「わたしも軍配団扇を『
「それでも一番水が合うのよね?」
「規制が緩いかどうかでルールの良し悪しは測れませんが、『
稽古ではなく〝実戦〟の中で研がなければ技は錆びていく。それ故に『
「窮屈ということですと、希更さんはどうなのでしょう? 『
「さっきも言ったでしょ、『ルールとマッチする部分も多い』ってさ。〝エグいこと〟をしたくてムエ・カッチューアやってるわけじゃないし、上手く付き合えてるわよ」
「先日の〝初陣〟ではご披露なさらなかったようですが、渾身の頭突きで相手の意識に空白を作った
「同じ『首を狙う』のでも意味が違って聞こえるわよ。ああ、〝結果〟は似たようなものだから、やっぱり
神通が問い掛け、希更が片目を瞑って返答に代えた『首相撲』とは標的の首に両手を巻き付け、
希更もMMAデビュー戦では『首相撲』から膝蹴りに派生させ、その一撃で
「一般向けの指導や
「その〝立ち関節〟も『首相撲』も広い意味では
「その内に披露する
「……口を挟むことをまずお詫びしますが、バロッサさんもその辺りで切り上げて下さいませんか。〝エグい技〟というか、〝グロい技〟の紹介になりつつあります。〝本業〟のイメージに差し障りがあっては自分も困りますので……」
傍らで聞いていた大鳥は呆れ返ったが、『
大鳥はくれぐれも誤解しないよう神通に促したが、『
好機が巡ってきたときには人体の破壊すら躊躇なくやってのけるということであり、それ故に
(……前々から場慣れしているとは思ったけど、ここまでとは思わなかったな。でも、僕が上下屋敷氏を蹴り飛ばしたときも希更氏、特に批難とかして来なかったもんな……)
ミャンマーと日本――二つの国に
もはや、真隣の未稲と共に感嘆の溜め息を吐き続けるばかりであった。
規定のルールに沿った
〝暴力〟を生きる
言わずもがな、それは日本MMAの先駆者たる八雲岳や、伝説の柔道家――
(……誰もが〝何か〟を胸に秘めて闘っている。〝何〟もないのは僕だけじゃないか)
開祖以来の技を錆び付かせない手段が
裏返せば歴史の破壊者であり、それ故、伝統という名のもとに支配的な体制を築いた支部道場の師範たちから恨みを買い、ときには襲撃事件にまで発展していた。
全米にまでその勇名を馳せた日本最強の剣道家――
『タイガー・モリ式の剣道』は四肢を駆使した〝
出自そのものに鬱屈を抱えているとしても不思議ではなく、己と大きくは変わらない境遇でありながら脚光を浴び続ける希更・バロッサが妬ましくてならないのであろう。
これに対して神通はムエ・カッチューアの名門たるバロッサ家に敬意を払い、希更とも友情を育みつつある。それどころか、傍目には宗家の窮地を見捨てたとしか思えない分派や支流にさえ恨みがましいことを一度も口にしないのである。
『
あるいは道場を守り切れなかったことに対する
(……
あたかも『
だからこそ恭路から実母のことを揶揄された瞬間に一等激しい感情を
一方で実父の〝敗死〟を口にする際には大きな感情の動きもない。即ち、それすら宗家が〝義務〟として語り継ぐ歴史の
食い繫ぐ為だけに暴力を研ぎ澄ませ、呪われた『
聖徳太子の異称を冠した流派を継ぎ、道場を閉ざした今も六世紀に及ぶ歴史を断ち切らせまいと闘い続ける神通に対し、独り善がりな〝共鳴〟を感じてしまったことさえキリサメには恥ずかしくてならなかった。
己の命を『
明確な意志を秘めて
それにも関わらず、神通に対する胸の高鳴りだけはどうしても抑えられなかった。
真隣では円卓へと勢いよく身を乗り出した未稲が「誰が何と言おうと私は哀川さんを全力応援するよ!」と神通の手を熱烈に握り締めている。どこか夢見心地と思える口振りからも察せられる通り、この場の誰より『
「やっぱ哀川さん、すごいよ! すごく偉いと思う! 日本一の〝古武術小町〟だよ!」
「は、はい……っ?」
「私もキリくんみたいに『神通さん』って下の名前で呼ばせて貰って良いかな⁉」
「それはわたしとしても嬉しいのですけど、……あの、どうしてそんなにもメガネを曇らせているのでしょうか? わたしや希更さんの顔、見えてます?」
「メガネまで真っ白になるくらい興奮してるってコトですよ! まだ大学生っていううら若き乙女が何百年っていう古武術の歴史を背負ってるんだもん! そんなのリスペクトするに決まってるでしょ⁉ しないワケないじゃんっ!」
「……そういう……ものなのでしょうか? 自分ではよく分からないのですが……」
その口振りから察するに神通の生き様が心の琴線に触れたのは間違いない。若き日に二術を極めるべく修行を積んだ実父も広い意味では古武術家である。その娘ということもあり、『
それはキリサメと比べて真っ直ぐな心の働きであろう。上下屋敷から
この〝共感〟と熱情を
姉の暑苦しい変調に随いていけなくなった
「あたしもミッシーと同じよ。ジンジンのことも、……お父さんの斗獅矢先生のことも格闘家の端くれとして心から尊敬するわ。ていうか、ミッシーもあたしのコトをそろそろ下の名前で呼んでくれても良くない? うちの家族と合流したらみんな混乱するよ? 誰も彼もバロッサさんなんだしさ」
「はい、じゃあ、ついでに希更さんで」
「対応が雑ッ!」
六世紀という歴史に気圧され、焦燥感を引き摺り出されてしまった自分とは違い、神通が双肩に担うモノを好意的に受け止められる未稲の声がキリサメの心を一等軋ませた。
何よりも愛しい声でさえ今だけは耳を塞ぎたい――我知らず持ち上げそうになっていた両手を慌てて引き戻し、罪悪感に苛まれるキリサメの左肩が背後から急に掴まれたのは、誰の耳にも拾えないほど小さな溜め息を引き摺りつつ俯き加減となった直後である。
次の瞬間、力ずくで
寅之助がごく稀に見せる真摯な顔である。
「――サメちゃんねぇ、さっきのは完全な〝地雷〟だったよ。……ていうか、今日はみんな揃って〝地雷〟の投げ売りって具合だけどさ」
膝でもって
キリサメの
人格の歪みを疑う理由はないものの、寅之助が〝生きていてはいけない存在〟ではないことを示す顔で発せられる言葉は何よりも重く、その意味に気付いたキリサメはたちまち全身から血の気が引いていった。胸の高鳴りが如何なる状態になったのかは瞬時にして紫色に染まった唇を見れば瞭然であろう。
間近に座っている為、寅之助の声が聞こえてしまったらしい
つまるところ、キリサメは胸の高鳴りによって正常な思考が妨げられ、神通の肩越しに覗いている〝闇〟を失念していたわけである。
どうして『
二〇〇〇年代半ばの前身時代――日本MMAは反社会的勢力である『
『
MMA団体としての〝新陳代謝〟を活性化させようと目論む樋口郁郎は、かつての黄金時代を支えたベテラン選手さえ冷遇する一方で、前途有望な若手選手を積極的に起用している。『鬼貫道明を異種格闘技戦線から離脱させた謎の武術家の娘』といった謳い文句も含めて哀川神通は喉から手が出るほど欲しい人材であろうが、その正体を見破れないほど間抜けな男が日本格闘技界に〝暴君〟として君臨できようはずもあるまい。
不俱戴天の敵としか表しようのない『
彼は守るべき人々に逆らい難い恐怖を刻み込む〝暴君〟ではあるが、愚かにも国を食い潰すような〝暗君〟ではない――このときの樋口郁郎については
即ち、神通は
本当に樋口が手を回し、MMAのリングから神通を遠ざけているとしても、その判断は鬼貫にも責められまい。
普段は
同じ〝古い道場〟とはいえども南北朝時代から続く『
バロッサ家への皮肉に巻き込む一幕こそあったが、『
普段は
謝ることさえ許されない〝罪〟であるとキリサメも理解している。
貧血の症状と間違われてもおかしくない顔色を神通本人から質されたときに取り繕えるほどキリサメは器用でもなく、審問官とも
円卓に背を向けた状態ということは、当然ながら神通の手を握る未稲の顔も視界には入らない。自分に
キリサメが歩んできた道が間違いでないことを証明したい。今までキリサメを生かしてきた〝力〟は胸を張れる誇りなのだ――間近で見守った電知との
「道場を再開するときには私も全力でお手伝いしますから! お父さんに掛け合って良さそうな物件も見繕ってもらうし、宣伝だって師匠に――
「法律関係の相談ならあたしが乗るわよ! あたしっていうか、うちの父がね! 例の裁判を持ち出すのはどうかと思うけど、どこか妙なトコから横槍が入るかもでしょ? そのときには
「ですが、そこまでお二人にご迷惑をお掛けするわけには……」
「困ったときはお互い様じゃないの! ……もしものときにはあたしもバロッサ家も幾らでも間に入るからさ」
「ちなみに古武術の魅力を日本どころか、世界に向けて広くアピールする秘策も持ってるんですよね、私。さっき『古武術はオリンピックに
遠回しに何らかの勧誘を試みている未稲と、明朗快活な平素とは異なって含みのある言葉を紡ぎ続ける希更――
「キリキリからも〝古武術小町〟に一言ない? こ~ゆ~ときこそ甲斐性見せなきゃ!」
「希更さんもたまには逆転ホームランみたいなコトを言いますね! そうだよ! キリくん、あのノコギリみたいな武器で筑摩さんと剣を交えたんでしょ? そのときに感じた重みと未来への可能性を神通さんに伝えてあげて!」
血の気が引いた顔に表れている心境など分かるはずもなく、寅之助と何事か喋っているとしか思っていない希更と未稲はキリサメの背中に神通を鼓舞するよう求めた。
二人の要請は
この状況を寅之助が
恨みがましい目で寅之助を一睨みした
立場上、『
あなたもわたしを受け入れてくれますか――まるで縋り付くような眼差しで問われてしまったならキリサメが絞り出す答えはたった一つしかあるまい。この瞬間、『
「……僕からも神通氏を応援させて下さい。お互いに立場は違いますが、こうして親しくなれたのも運命だと信じていますから」
「……キリサメさん……」
「神通氏を尊敬しているのは、みーちゃんや希更氏だけじゃないんです」
「あ、ありがとう……ございます……っ」
日差しを取り込む大きな窓を背にしていることもあり、神通の座る位置からキリサメの顔色は正確には判らなかったようだ。これに対してキリサメの側からは逆光の影響を受けずに神通の顔を覗き込むことができる。
キリサメの見間違いなどではなく、神通は頬を桜色に染めていた。それはつまり、彼女が感じたという〝共鳴〟に武術家ではない一人の人間としての気持ちが少なからず含まれていたことを示しているのだ。
彼の言葉に瞳を潤ませながら顔を綻ばせた
これによって再び心を乱されたキリサメは一滴たりとも残っていないコーヒーカップに口を付け、真隣の
夕方から臨む
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