その10:古流(後編)~武田信玄最後の秘密・血と暴力の「昭和」を生きた獅子/戦なき「平成」に生まれた麒麟――古武術と「同化」した修羅の父娘

  一〇、古流(後編)



 敗戦によって打ちのめされた日本列島をりきどうざんは伝家の宝刀――空手チョップで奮い立たせ、『昭和』という時代を生きた誰もが「プロレスこそ最強」と信じて疑わなかった。

 一九七二年ミュンヘンオリンピックで金メダルに輝いた柔道家への挑戦に端を発する鬼貫道明の異種格闘技戦は「プロレスこそ最強」という誇りの証明であった。

 鬼貫は〝日本プロレスの父〟の愛弟子である。

 やがて鬼貫の志はヴァルチャーマスクや八雲岳といった『鬼の遺伝子』にも引き継がれていき、四角いマットの上で数え切れない名勝負を繰り広げた。力道山から受け取った熱き闘魂を後進のプロレスラーたちに手渡したわけだが、鬼貫自身は次世代の同志が育った後も異種格闘技戦の一線に留まり続けている。

 鬼貫道明の異種格闘技戦は果てしなく、地上最強を懸けた闘魂が燃え尽きることもないだろう。しかし、一九七六年二月に日本武道館で第一歩を踏み出した前進が全く止まらなかったわけではない。

 鬼貫道明の異種格闘技戦は一九八九年から一九九四年に五年もの空白期間がある。

 次世代を担うプロレスラーの育成や異種格闘技食堂『ダイニングこん』の経営に加え、長期間のリハビリを要するほど深刻な重傷を練習中に負ったことが原因と『しんどうプロレス』は発表したが、その直後から日本格闘技界には全く異なる風聞が流れていた。

 長い間、カメラの前に現れず、スポーツ記者ライターの取材にも応じず、死亡説までささやかれるほどであった。公の場に姿を見せたのは『しんどうプロレス』の発表から数ヶ月後のことであるが、それ以降も一年近く松葉杖を手放せなかったのだ。しかも、そこから完治までは更なる時間を要したのである。

 肉体からだを損傷する重大事故と格闘技は切り離せるものではなく、どれだけ気を付けていても不運な事態は起きてしまう。最悪の場合は〝リング〟にまで発展するわけだが、『昭和の伝説』とまでうたわれるプロレスラーが注意を怠るとは思えなかった。ましてや相手の心身にまでダメージを与え得る無謀な練習を強行するだろうか。

 疑問の目が向けられたのはリングへの早期復帰が望めない状態に陥ったそのものであった。

 一九八九年の春風がにわかに吹き始めた頃、『しんどうプロレス』の練習場に鬼貫道明を訪ねる者があった――はそこから始まっている。

 およそ武術家のようには見えないが、真っ赤なシャツと緑色のジャージは激しい運動に最も適した出で立ちである。両手には指貫型のドライバーグローブも嵌めており、飄然と現れた時点で臨戦態勢を整えていたようなものであろう。

 たてがみのように雄々しくうねる癖毛は百獣の頂点に立つ王の威容そのものであり、燃え盛る闘志がそこにあらわれていたという。

 対する鬼貫道明は人並み外れて逞しい顎を五指でもって幾度も撫で、古い友人との再会を喜ぶような笑顔で突然の訪問者を出迎えた。プロレスパンツに穿き替え、鍛え抜かれた肉体を昂らせていなければ、誰もが『ダイニングこん』へ案内するとしか思わなかったはずである。

 ジャージに身を包んだ男とプロレスパンツの鬼貫が全身を血の色に染めた状態で病院に担ぎ込まれたのはそれから一時間後のことであった。

 ヴァルチャーマスクただ一人を立会人として非公式の異種格闘技戦を執り行ったのだ。

 実戦志向ストロングスタイルのプロレスと相対したのは〝甲斐古流〟と総称される武術の一つであり、いにしえの聖徳太子へあやかるように『しょうおうりゅう』と名乗っていた。

 ヴァルチャーマスク以外は『新鬼道プロレス』の所属レスラーさえ近寄らせなかった為に一人の目撃者もなく、四角いリングの上で拳を交えたのかも定かではないが、鬼貫が異種格闘技戦を再開するまでの五年という歳月からも空前絶後の死闘であったことは瞭然であろう。

 昭和を代表する漫画原作者であり、ヴァルチャーマスクの誕生など日本格闘技界に多大な影響を及ぼしたくにたちいちばん最後の弟子が一計を案じ、二人の入院先から鬼貫の診療記録を手に入れることに成功したのだが、関節技を仕掛けられたものとおぼしき右腕は靭帯から骨に至るまで惨たらしいとしか表しようのないくらい壊されていた。

 左右の肋骨は交通事故に遭ったとしか思えないほど深々と抉れており、担当医も「死ななかったのは本当に奇跡で、飛び抜けた生命力のお陰で一命を取り留めたようなもの」と二重の意味で戦慄させられている。何しろ鬼貫は自慢の顎まで真っ二つ割られ、頭蓋骨にも数ヶ所の亀裂が確認されたのだ。

 診療記録には全身打撲とも記されていたが、骨に対するダメージよりも回復まで時間を必要としたのは左膝である。己の体重を全く支えることができず、暫くは松葉杖を手放せなかったのだ。江戸時代から続く骨接ぎの名門――せんじゅの『ぐらどう』を頼り、然るべき治療を施されていなければ、リングへの復帰は更に延びたことであろう。

 一方、『しょうおうりゅう』の男は半死半生の状態でありながら入院翌日には姿を消し、診療記録もに名前すら判らなかった。

 治療に当たった医師や看護師は狐か狸に化かされたような心持ちであったそうだが、夢か幻と疑ってしまう状況にも関わらず記憶に刻み込まれるほどその男は重傷であった。

 『昭和の伝説』と真っ向からぶつかり合い、五体満足で済むはずもあるまい。鋼鉄の鎧ともたとえるべきプロレスラーの肉体をち続けた代償であろうか、両の拳は自力では開けなかったという。幾度となくプロレス式の豪快な投げ技で硬い地面に叩き付けられた為、全身の骨も歪んでいたようだ――と担当医は述べている。

 破壊の権化といっても過言ではない力によって左肘をし折られ、意識を取り戻した後も言葉を満足に紡げない有り様であった。首全体に青アザが生じ、また呼吸も著しく乱れていた為、あるいは頚椎にも異常をきたしていたのかも知れない。

 相手の首を正面から脇に抱え、その状態を維持したまま己の身を勢いよく後方に反り返らせる投げ技――かつて封印した〝奥の手〟をこの一戦の為に再び解き放ったのだろう。全身くまなく酷使する為、鬼貫に跳ね返る負担は〝諸刃の剣〟にも等しいほど極大だが、頭部を押さえられて身動きの取れない標的は無防備のまま急降下させられ、人体を構築する全ての部位が破壊されるような衝撃を味わうのだ。

 鬼貫道明の側も内臓のダメージが確認されたが、『しょうおうりゅう』の男のほうが深刻な状態であったはずだ。一回り近く身の丈が小さいというのに『昭和の伝説』よりも大量の輸血を必要としたのである。胸部の骨も心臓が停止していないことが不思議な有り様であった。

 痛々しいほど血の色が透けて見える一筋の傷が左頬に走っていたことを看護師たちは振り返っているが、開戦の前にその男を目撃したという『新鬼道プロレス』のレスラーたちの話によれば、は鬼貫が付けたものではないようだ。

 鬼貫自身はその一戦について〝身内〟にさえ殆ど語らなかった。幾人かの記者も彼が負傷した当日の足取りを探っていたが、『新鬼道プロレス』にはかんこうれいが敷かれ、とうとう非公式の異種格闘技戦を繰り広げた場所さえ割り出せなかった。

 それ故、鬼貫の負傷には不穏当な憶測が飛び交うことになり、「またしても何者かに監禁されたのではないか」と案じる声まで上がっていた。

 作品との提携タイアップなど様々な事業を通じてプロレスを盛り上げてきたくにたちいちばんとの関係がにわかに冷え込み、彼の差し金によって鬼貫道明がホテルの一室に閉じ込められたのは一九八二年のことである。

 ただ一つだけ確かであるのは鬼貫を訪ねてきた『しょうおうりゅう』の男が「いつかの約束を果たしにきた」と述べたことである。

 どこで約束を交わしたのか。また如何なる約束であったのか。鬼貫自身が誰にも語らない為、少なくともプロレス界には死闘――あるいは――の背景を正確に把握している者は一人としていない。仮に〝腕比べ〟を超える意味を誓っていたとしても、は拳を交えた二人の間で通じ合っていれば十分なのだ。

 鬼貫道明が初めて異種格闘技戦に臨んだのは一九七六年だが、あるいはその男との〝約束〟を考え得る最良の状態で迎えたいが為、全世界から猛者たちを招いて激闘し、心技体を磨き続けていたのではなかろうか――そのように推し量る声は『新鬼道プロレス』の内部でも聞こえていた。

 凄絶なる死闘から五年後に異種格闘技戦を再開したので、鬼貫がボクシングやフルコンタクト空手にプロレスで挑んだ理由を〝約束〟に求めることは誤りであるのかも知れない。何しろ復帰戦で対峙したのは一九七六年二月に日本武道館で第一歩を踏み出したときと同じ人物なのだ。最大の目的を果たしたことで一度はしぼんでしまった闘魂が旧友との再会に接して再び燃え上がったとも考えられるだろう。

 互いに一期一会の宿命さだめと悟っていたのか、『しょうおうりゅう』の男は二度と鬼貫道明の前に姿を現すこともなかった。ただそれだけでも十分なのだ。たった一度、拳を交えたことで二人の心は満たされたのであろう。

 鬼貫道明がただ一度だけ〝非公式の異種格闘技戦〟を繰り広げた相手が『あいかわ』という名前であることを知る者は少ない。鬼貫当人や立会人を務めたヴァルチャーマスクを除くと、飄然と訪ねてきた彼に応対した『新鬼道プロレス』のレスラーにしか名乗っていないのだ。

 人知れず〝抹消〟された為、搬送先の記録にも名前は残っていない。余りにも不明点が多過ぎる為、〝非公式の異種格闘技戦〟が実際に行われたのかも定かではない。それ故に風聞あるいは鬼貫にまつわる〝伝説〟の域を出ず、信憑性も疑わしいものである。

 山梨県を拠点とする新進気鋭の歴史学者と同姓同名であったが、そのことに気付いた人間は一握りであり、また同一人物であるのかを確かめるすべもなかった。



                     *



 一〇年以上も昔の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンに掲載された考察を例に引き、自分なりの解説を述べ終えたひろたかへ四方から拍手が送られたことは改めてつまびらかとするまでもあるまい。世の中の全てを歪んで見ているかのような寅之助でさえ「神童ってのは電ちゃんだけじゃなかったんだねぇ~」と素直に感心していた。

 格闘技そのものへの悪感情を隠そうともしないひろたかであるが、まだ大きいとは言い難い彼の頭には自分が生まれる前に格闘技界で起きた出来事や、それらの情報に基づいて組み立てられた知識が詰め込まれているのだろう。

 ひろたかは日本MMAを映像作家として支えてきたおもてみね愛息むすこなのだ。国内外の格闘技・武術が身近にったのである。胎教には音楽や絵本の読み聞かせが効果的と言われているが、彼の場合は実況解説や歓声など格闘技に関連する情報がへその緒から常に流れ込んでいたようなものだ。

 当然ながら生まれた後も格闘技の資料に囲まれる環境で育ったのである。その上、〝義理の父親〟と称するのは八雲岳なのである。ひろたか当人には不本意ながら英才教育の賜物としか表しようがなかった。

 思わず寅之助が口にした神童という賞賛を否定する者はこの場に一人としていない。展望カフェの和室で二枚の円卓に別れて座っている人々は、誰もがひろたかに尊敬の眼差しを向けていた。彼が自分たちよりも遥かに年下ということは関係なかった。知識量に裏打ちされる理路整然とした立論は一流紙のスポーツ記者ライターさえ容易には真似できまい。

 未稲は「お姉ちゃんの役割をられちゃった」とおどけた調子で頬を膨らませたが、右手でもって弟の頭を撫でる顔は誇らしげだ。無論、ひろたかは姉の手を心の底から邪険に振り払い、その拍子に未稲の丸メガネが和室の壁際まで吹き飛ばされていった。


「でも、今の話は〝師匠〟に是非とも聞かせてあげたいな。大昔に書いた特集記事をそこまで完璧におぼえていて貰えるなんて記者ライター冥利に尽きるだろうし、私も一番弟子として鼻が高いもん。後でメールしてあげよっと」

「……ご期待に沿えなくて申し訳ありませんけど、やたらと冗長だったから印象に残っているだけですよ。確か今福さんが駆け出し記者ライターだった頃に書いた記事ものですよね? トガった題材テーマで注目を集めたいって気持ちが先走っていますし、正直なところ、駄文スレスレではないですか? 誰かの言い伝えを書き写すのが精一杯で裏付け調査も適当ですし」

「一〇年を超える時間差で理路整然としたダメ出しするのはやめてあげて!」


 砂壁に跳ね返って畳の上に転がった丸メガネを拾いつつ、弟の指摘ツッコミに未稲が悲鳴を上げたのも当然であろう。ひろたかが取り上げた考察記事を執筆した記者ライターとは彼女に対して〝格闘技の広報活動〟を指導している今福ナオリなのだ。

 現在は『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業へ出向しているものの、本来の所属は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンである。

 ひろたかには辛辣な批評を浴びせられてしまったが、日本で最も有名な格闘技雑誌の編集部に配属されたばかりなのだから新人記者ライターが空回りするくらい意気込むのは当然であろう。

 その今福ナオリが当時に持ち得る限りの力を尽くして取りまとめた考察に勝敗は含まれていない。ひろたかを調査不足の最たる例として挙げたのである。

 〝非公式の異種格闘技戦〟だけに記録に残す義務もなく、当事者の二人と立会人以外は誰も死闘の結果を把握していないはずだ。今福より前にも何人かのスポーツ記者ライターがヴァルチャーマスクへ取材を試みたようだが、そのたびに「小生は語る言葉など持ち合わせていない」としか述べず、仔細についても一切明かさなかったという。

 その一方でヴァルチャーマスクが立会人に選ばれた理由は明白であった。くにたちいちばんが手掛けた漫画との提携タイアップから誕生し、超人的なプロレスによって生きたまま〝伝説〟と化した覆面レスラーは、その当時、己の実戦経験と哲学に基づいて『とうきょく』の理論を完成させようとしいた。

 即ち、鬼貫道明が『しょうおうりゅう』なる古武術と闘ったのは日本で初めて〝総合格闘〟が体系化される前夜ということである。

 己が最強と信じて疑わない実戦志向ストロングスタイルのプロレスと、その極限の姿をもってして愛弟子に進むべき〝路〟を示したかったのであろう。他の誰でもないヴァルチャーマスクにこそ日本格闘技界の未来を託すという大きな〝親心〟が働いていたことは間違いない――今福ナオリはくだんの考察をこのような一文で締め括っている。

 しかし、彼女が書き上げた記事の中に『あいかわ』という個人名なまえは一度も登場していなかった。あくまでも聖徳太子の異称を冠する古武術の流派――『しょうおうりゅう』の使い手としか記されていないのだ。

 その名をひろたか実母ははを通じて八雲岳に教わったのである。更に付け加えるならば、を岳に伝えたのは鬼貫当人であるという。

 勤務先を訪れた客へセクハラ行為を働いた際、哀川神通から制裁として腕関節を極める〝座敷の組技〟を仕掛けられたが、およそ三〇年前の異種格闘技戦にいても全く同じ恰好で組み敷かれ、あるいは骨と靭帯を破壊されたのかも知れない。

 神通の制裁を目の当たりにした八雲岳が「親子二代から同じ流派の技を喰らうのはどんな気持ちだい」と腹を抱えて鬼貫を笑い飛ばしたのは、それ自体が『しょうおうりゅう』との闘いの一部始終を聞かされた証左なのだ。

 哀川斗獅矢という名はひろたかが自らの判断で解説に付け加えた次第である。

 当然ながら未稲も全く同じ話を実父ちちに教わっており、それが為に姉弟の間で共有している概略あらましを確かめ合うようひろたかと幾度か視線を交わしたのだった。

 先ほど脳裏をよぎった〝甲斐古流〟という言葉が何を意味し、誰から聞かされたのか、ここに至って未稲は鮮明に想い出したのである。


「……父の名と、本人から伝え聞いたことを断片的とはいえ格闘技雑誌パンチアウト・マガジンで読んだときには少しだけ取り乱しそうになりましたね。以来、一度も同じような記事が載らなくて安心しました」


 電話回線を用いたパソコン間の通信技術が使用されてはいたものの、一九八〇年代は現在のようにまでインターネットは普及していなかった。与太話の類いを専門に取り扱うホームページやネットニュースが存在しない時代とも言い換えられるだろう。真偽不明の怪情報が大衆の好奇心によって拡散されてしまうSNSソーシャルネットワークサービスもなかった為、哀川斗獅矢というが〝情報の海〟を漂うこともなかったのである。

 鬼貫道明による〝非公式の異種格闘技戦〟の目撃情報が日本で最も有名な格闘技雑誌の編集部にも届かなかった理由もと同様だ。

 ごく限られた範囲とはいえ、哀川斗獅矢の名が八雲岳の〝身内〟に広まっていた通り、人の口に戸を立てることなど難しかろうが、携帯電話の操作一つで個人情報が容易く晒されてしまう現代と比べれば拡散の危険性が遥かに低いのだ。昭和末期から平成初期は「人の噂も七十五日」ということわざがそれなりに効力を持っていたのである。

 三〇年近く経った今となっては当時のことを正確におぼえている人間など絶無であり、樋口郁郎の人脈ネットワークもってしても真相を確かめることは不可能であろう。突飛な発想に基づくスポーツ漫画を送り出してきたくにたちいちばんの薫陶を受け、その最後の弟子とも目される樋口がくだんの死闘を『天叢雲アメノムラクモ』の喧伝に利用しないはずがあるまい。現役を退いた鬼貫は同団体の興行にいて技術解説を担当しているのだ。

 それにも関わらず、哀川斗獅矢と『しょうおうりゅう』の名は実在そのものを疑われる風聞として扱われてきたのである。格闘技界から一目置かれる名門――バロッサ家の一族でさえまことしやかな〝伝説〟と見なしていた。

 ついには日本の格闘技史からも忘れ去られた出来事が三〇年近く経った今になって実際に起きた死闘であったと証明された次第である。当事者の娘――哀川神通はひろたかの問い掛けに対しても「父が歴史研究の仕事を本格的に始める直前のことであったはずです」と頷き返していた。

 そのひろたかから手渡された学術書の表紙に目を落とし、右の人差し指でもって著者名を撫で、これを再び持ち主へと返しながら「自分も大学では歴史学を学んでいる」と神通は言い添えた。父の影響とも付け加える声には僅かばかりの自嘲が混ざっている。

 余人には意図を読み取ることも叶わないのだが、神通は父の名を撫でた右の人差し指でもって己の左頬に斜線を描いた。ひろたか解説はなしによれば鬼貫のもとを訪れた哀川斗獅矢の左頬には痛々しいほど血の色が透けて見える一筋のきずあとが左頬に走っていたそうである。

 その神通も実父ちちが『昭和の伝説』と闘った理由について何も語らなかった。即ち、哀川斗獅矢も鬼貫道明との約束に秘められたを身内に明かさなかったという意味だ。


(若い頃の鬼貫氏と聞いて思い当たる姿は一つしかないな。……どちらかと言えば本物に似せた木彫りの人形みたいなシロモノだったけど――)


 ひろたかの話からキリサメが先ず思い浮かべたのは、すがだいら合宿の最終日に立ち寄った温泉施設で空閑電知が遊んだビデオゲームであった。

 タイトル画面に一九九九年とリリースの時期が表示されている通り、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が日本中にMMAブームを巻き起こしていた頃の対戦型格闘ゲームである。

 同じ頃の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンでは生まれた時代の違いや所属団体の思惑などから腕比べする機会に恵まれなかった者同士の夢の対決を各々の得意技などに基づいて仮想シミュレーションする企画が好評を博しており、ソフトメーカーとの提携タイアップによってこれをビデオゲーム化したのだ。

 近現代の格闘家を中心に実在の選手がそのまま登場し、体格からかおかたちに至るまで写実的な三次元描画によって再現されていた。電知はプロレスラーとして登録エントリーされたおにつらみちあきを操作し、東京ドームに特設されたリングで仮想の異種格闘技戦を繰り広げていた。

 三次元描画の技術が発展途上の時期であった一九九九年のビデオゲームだけに精密な再現には至らず、人並み以上に角ばった顎の輪郭など顔の特徴を似せた程度であるが、現在よりも二回りは若い風貌であることはキリサメにも分かった。

 黒いプロレスパンツを穿き、脛の辺りまでを覆うリングシューズでリングを闊歩するという全盛時の出で立ちもビデオゲームでは再現されていたが、まさにその勇姿すがたで神通の父と拳を交えたのであろう。


(……返す返すも日本ハポンの昭和はデタラメがまかり通っていた時代なんだな。神通氏の父親と鬼貫氏の闘いだって現代いまなら僕と寅之助みたく晒し物になっていたんじゃないか?)


 一九八九年といえば元号が平成に改まる時期であり、〝昭和の出来事〟として分類することも適切とは言い難い――そのような自問を挟みつつも、キリサメは往時の有り様をる種の無秩序と捉えていた。

 『くうかん』空手の支部道場に未だ蔓延はびこり続ける〝悪しき因習〟ときょういし沙門が吐き捨てた暴力的・支配的な指導もまた昭和から始まったものであるという。『しんどうプロレス』にとっては哀川斗獅矢の訪問自体が道場破りにも近い事態であろうが、鬼貫はこれを嬉しそうに迎え入れたというではないか。

 『天叢雲アメノムラクモ』と契約し、〝プロ〟の競技選手の立場になって以降、キリサメ自身が〝平成の日本〟で味わったことに照らし合わせるならば鬼貫の行為はを問われ兼ねず、完全復帰まで数年を要するほどの重傷を負わされたことで所属団体にも多大な損害が生じたはずだ。

 平成にいては醜聞の如く問題視される事態が昭和では不問に付されていたのだろう。今も鬼貫道明は技術解説担当者として『天叢雲アメノムラクモ』に名を連ね、日本格闘技界全体としての東北復興支援を論じる三年前の会合でも重要な役割を果たしていた。こそが何よりの証左であった。

 もはや、〝戦後〟と区分されない頃とはいえ同じ昭和に生まれた亡き母が「大らかな時代」と語っていたことをキリサメも記憶に留めている。今日になってその意味を初めて理解できたような心持ちであった。そして、それ故に沙門も『くうかん』道場の組織改革に苦労しているわけだ。


(電知も哀川斗獅矢なんて名前は一度も話していなかったよな、確か。あいつなら知っていてもおかしくないけど、……それを言い出したら、アップルシードもばくおうまるも一緒か)


 平成と昭和という時代の差異ちがいを比べる一方で、キリサメは日本の格闘技界へ足を踏み入れて以来、幾度か耳にした『アップルシード』という人物を想い出していた。

 未稲が用意した総合格闘技MMAの参考資料には名前すら記載されていなかったが、『サムライ・アスレチックス』の事務所などで伝え聞いた限りでは世界中を旅して回り、各地の格闘技や伝統武術と交流する拳法家であるという。

 次いでキリサメが思い浮かべたのは自分のプロデビューを早めた人物――『ばくおうまる』である。本来、岩手興行で城渡マッチと対戦する予定であったロシアのMMA選手を訪ね、〝他流試合〟の果てに全治三ヶ月もの重傷を負わせた道場破りであると樋口郁郎は説明していたが、こちらも『アップルシード』と同様に正体が謎に包まれている。

 隠し撮りされたものとおぼしき写真から東洋系の顔立ちであることだけは判ったのだが、それ以外の手掛かりは皆無に等しく、『サムライ・アスレチックス』ひいては樋口郁郎の人脈ネットワークを駆使しても『ヨーロピアン柔術』なる欧州発祥の格闘技に関わっているのだろうという不確かな情報しか掴めていない。

 『アップルシード』も『ばくおうまる』も流浪のストリートファイターということに変わりはないだろが、後者は城渡マッチのセコンドから連続殺人犯シリアルキラーたとえられていた。道場破りに赴いたのも一度や二度ではなく、欧州ヨーロッパに拠点を構える『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の選手も何人かがそうである。

 腕試しが目的とはいえ、世界各地の道場やジムを荒らし回る執念は異常としか表しようがなく、キリサメも暴力という快楽に溺れた猟奇性を感じていた。

 哀川斗獅矢という男は、二人の内、どちらに近いのか――あるいは明治時代に日本を飛び出し、世界中に経巡りながら異種格闘技戦を繰り広げた前田光世コンデ・コマに倣ったのではないかという希更の問い掛けに対し、神通は苦笑交じりにかぶりを振ることで返答こたえに代えた。

 先程も神通は父親の旅について見識を拡げることこそ目的であり、に随伴していた旨も述べている。おそらくはその人物に教えを請い、中世日本の法文化を一冊の書物に取りまとめる歴史学者となったのであろう。

 その一方で父親が〝甲斐古流〟の一つを極めた古武術家であることも哀川神通は認めている。それはつまり、哀川斗獅矢もまた希更・バロッサのような〝兼業格闘家〟ということなのであろうか。これについては何一つとして明かされていない。


「――お店の同僚とは別の人たちと〝一緒〟ってさっきも話してたけど、もしかして『しょうおうりゅう』の門下生ご一行様で『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを観戦するのかな? 例のお父さんと鬼貫さんの感動の再会が目玉になっちゃったり?」


 キリサメの意識を哀川斗獅矢に対する考察から引き剥がしたのは、その娘――神通に向けられた希更の声であった。純白の褌が脳裏に浮かんだまま未だに消えないのだ。流浪のストリートファイターが瞬く間に思考あたまから弾き出されてしまったのは当然である。

 神通の場合、希更のように〝本業〟を別に持っているのではなくアルバイトの立場であるが、広い意味では〝兼業格闘家〟に含まれている。鬼貫は『ダイニングこん』にて〝戦友〟の忘れ形見を預かり、その行く末を見守っているのだ。祖父と孫ほど年齢の離れた両者が雇用関係を超えた絆で結ばれていることも疑いなかった。

 その鬼貫は『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行でも技術解説を担当する。祖父も同然の人物に同行していても不思議ではあるまいが、神通当人のによれば別の人間――親しい友人とおぼしき女性と共に東京をち、明日の試合観戦では更に別のグループへ合流するという。

 いずれも彼女の勤務アルバイト先とは無関係であるそうだ。それ故に希更は『しょうおうりゅう』の関係者たちが同道していると推し量った様子である。


「ああ、いえ、……そうではありません。父も門下生も一緒ではありませんよ。〝宗家〟の道場自体、随分と前に閉めておりますので……」

「はゥえ⁉ そ、そうなのっ⁉」


 〝熊本の武術界〟に流れた風聞ウワサが気に掛かるのか、それとも別の思惑を胸に秘めているのか――『しょうおうりゅう』の現状を探るような声色であった希更は、その一言によってあらゆる予想を覆されたようだ。比喩でなく本当に飛び上がって驚き、マネージャーから目配せでもって無作法を窘められている。


「恥を晒すようで気が引けるのですが、……この時代、古武術ではなかなか食べていけませんから。アメリカから日本に移住して現在いまも道場を維持し続けていられるバロッサ家の皆さんが羨ましいです」

「うあっちゃ~、特大の〝地雷〟を踏み抜いちゃったわ! ごめんね、ジンジンっ!」


 古武術道場の経営そのものが現代にいては極めて困難であると神通はこぼした。

 ムエ・カッチューアという伝統武術の道場ジムに生まれた希更だけに神通が直面した事態を実感と共に理解できるようだ。少しだけ困ったように作り笑いを浮かべる彼女を背後うしろから抱き締めると、変装用のメガネが額の辺りまでズレてしまうほど熱烈な頬擦りを謝罪の言葉に代えた。

 その希更は聖徳太子の異称を冠する流派名のみならず、ごく限られた人間しか知らないはずであった『哀川斗獅矢』の名にも小さいとは言い難い反応を示し、あまつさえ世界を旅して回っていたという事跡にまで言及している。

 バロッサ家の情報源を明言することはなかったが、東北復興支援を巡る議論の〝流れ〟を総帥の代理による一言で変えてしまえる名門であれば、あるいは樋口郁郎の人脈ネットワークを凌駕するほどのかもしれない。


「かの宮本武蔵に敗れ、ひょうほうの家として立ち行かなくなった『よしおか道場』は家伝の染め物で糊口を凌いだと伺いましたが、残念ながら当流にはそのようなすべもなく……」

「ジンジンが言ってるのって『吉岡けんぽう』の流派よね? 熊本藩祖の父上――ほそかわただおきのお弟子さんだったか、そのまたお弟子さんのいちおりって人がへんさんした書物では武蔵とも引き分け同然で、実際に剣を交えたけんぽうも『おおざか夏の陣』の後まで生き延びたって書かれているみたいね」

「忠興公のお弟子さんが……? 熊本にはそのような伝承もあるのですね。わたしの場合は別の方が江戸時代にまとめた書物にそういった記述があると教わりました。一般的には有名な『一条寺下がり松の決闘』に敗れ、吉岡家自体が絶えたと広まっていますが……」

「武蔵側の史料ではになってるしね。決闘後も続けていたひょうほうの伝授だって結局は吉岡家の身内が起こした不祥事の所為せいで辞めざるを得なくなったそうだから、いずれにしたってイバラの道よね」

「宮本武蔵と相対した吉岡けんぽうとよとみのひでよりと共におおざかじょうに籠ったとも聞いています。家康公直々の計らいで断絶だけは免れたとはいえ、武士の面目を潰されたことに変わりはありませんし、意趣返しだと思えば『おおざかの陣』に加わった理由も納得できますよ。……他説によると吉岡家は例の不祥事を咎められて滅んだとありますので、余り迂闊なことは言えませんね」

あしかが将軍家にも武芸を指南した名門なのにねぇ。勿体ないわねぇ。……あっ、室町幕府との関わりもホントかどうか、かなり怪しいんだっけ? 細川忠興のお弟子さんらしき人の史料では詳しく書いてあるそうなんだけど、門外不出の上にデジタル化もされていないみたいなのよ。実在の怪しさは勿論、熊本と東京のどちらで保管されてるのかも一般人には分かんないし」

「デジタル化もされていないとは……。インターネットには縁遠く情報社会の恩恵も殆ど受けてはいませんが、それでも閲覧方法が多様化した今、何より口惜しいです」


 神通が例に引き、希更も自身の知る範囲で語った『よしおか一門』とは、江戸時代に勇名を馳せた伝説の剣豪――宮本武蔵の挑戦を受け、三度の対決を繰り広げたとされる京都の名門道場である。

 吉岡家当主は代々『けんぽう』と称したという。

 道場主にして〝当代〟のけんぽうが自ら赴き、木刀の一撃で敗れ去ったれんだい

 その弟が兄の仇討ちと吉岡家の汚名返上を背負って臨んだれんおういんさんじゅうさんげんどう)。

 当主兄弟の敗北を受け、吉岡一門による最後の総力戦を挑んだいちじょう下がり松。

 場所を変えてたびも行われた決闘にことごとく敗れ、名門としての面目を失った吉岡家は道場もろとも断絶の憂き目に遭った――と、現代には伝わっており、数多の作家も題材としてきたが、その顛末は諸説あることを神通と希更は共に承知していた。

 一連の事件を記した史料によっては三大対決の舞台が異なる上、武蔵と剣を交えた当主兄弟の名前まで変わってしまう有り様であった。

 細川忠興の流れを汲む茶人であり、江戸幕府のしょいんばん――いわゆる、親衛隊――も務めたはたもといちおりみちひさなる人物が取りまとめたという書物は実在すら定かではなく、半ばゆめまぼろしの域を出ない。これに対して江戸時代の作家・ふくずみどうゆうが記した『吉岡伝』は神通と希更が語らった内容の大半を含んでおり、これは『せきしゅうらん』という古文書にも収録されて現代に伝わっている。

 『吉岡伝』によれば武蔵は吉岡家長兄との〝緒戦〟を負傷しながら引き分け、完全決着を懸けた弟との果し合いは自ら放棄したという。

 尤も、ふくずみどうゆうの『吉岡伝』は武蔵が没してから四〇年近くも経過したじょうきょう元年(一六八四年)に記された〝伝記〟である為、第一級史料として信頼することはできない。神通も希更も信憑性は差し引き、当時の風聞をも取り込んだものとして語らっているわけだ。

 しかし、吉岡家の名残が『けんぽうぞめ』という染め物の技術としてこんにちまで遺っているのは紛れもない事実である。江戸時代から多くの人々に愛用され続け、京都の染屋にも確かに息づいている。兵法家の道は絶たれたのかも知れないが、別の形の〝名門〟として伝説の剣豪と同じように語り継がれているのだった。


「……改めて吉岡家が羨ましくなってきましたよ。同じ古流武術でも当家には副業として生かせるものは一つとして伝わっていません。『ひじりのきみ』――聖徳太子の名にそむくのと同じですが、所詮は戦うことしか知らない身の上です。……でも、武芸から遠く離れた副業で生計を立て、道場を支えてもご先祖様は喜ばれなかったかも知れませんね」

「ちなみに何代か前はどんな感じだったの? 明治維新の直後なんかは〝武士の商法〟で大損する士族が溢れ返っていたって聞くし。……戦前戦後の宗家も苦労したんじゃ?」

「祖父母は共にわたしが小さな頃に亡くなったので想い出らしい想い出もなくて……。ただ〝戦争の時代〟を生きた人たちですから、昔のことは余り話さなかったそうです。父には伝えたそうですが……」

「なるほど。……なるほどね」


 神通の口から紡がれる一字一句を聞き漏らすまいと神妙に首を頷かせる希更は、果たして〝何〟を考えていたのだろうか――その声色は再び『しょうおうりゅう』の内情を探るような調子となっている。顔色の微妙な変化まで確かめようとするは、真隣に座る友人が〝熊本の武術界〟という一言に尋常ならざる反応を示した瞬間にも向けていた。

 江戸時代の伝記と照らし合わせ、哀川家の経済事情に自嘲としか表しようのない微笑を浮かべてしまうほど京都に栄えた吉岡一門を意識している神通に対し、希更は彼女の引用元まで即座に理解していた。

 アメリカから熊本へ移り住み、同地の〝武術界〟に根差したバロッサ家の一族であれば誰もが基礎知識の如く把握しているのかも知れない。明治維新に至るまで藩主を務めた細川家から〝客分〟として招かれ、宮本武蔵は晩年を熊本藩内で過ごしたのである。

 六〇年に及ぶ生涯の結晶である『りんのしょ』は現在の熊本市郊外に位置する洞窟で記された物であった。武蔵が興した流派――『てんいちりゅう』は武芸が盛んな気風とも馴染んで同地に普及し、それに伴って吉岡一門との決闘といった数々の武勇伝も広まっていった。

 希更が真偽不明の物として伝え聞いたいちおりの書物にも吉岡一門の顛末は記されているようだが、その内容は『吉岡伝』に近い形であった。

 元々、細川家は室町幕府に仕えてきた幕臣であり、文武両道の家柄でもある。何しろ熊本藩祖の祖父には荒ぶる牛を素手で投げ飛ばしたという逸話まで伝わっているのだ。足利将軍家の指南役を務めた吉岡家と交流があっても不思議ではなく、それ故か折に触れて吉岡道場の興亡が取り上げられている。

 尤も、堺の豪商であるすけもんなど他の史料には確認できない人物とも関わりまで記されている為、細川家の歴史を証明し得る書物というよりも『吉岡伝』と同じ〝伝記〟の類いであろうとバロッサ家の一族は捉えていた。


「――ちなみに細川家の重臣が遺した『ぬま』によると武蔵は何人もの弟子を巌流島に潜ませておいて、そいつらがろうにトドメを刺したんだってさ。も信憑性は怪しいみたいだし、話半分の眉唾モノで聞いといたほうが無難かもだけどね」


 時代こそ違えども剣の〝道〟を歩む者だけに寅之助も伝説の剣豪については詳しい様子であるが、神通と希更の会話は横から口を挟むことすら叶わない勢いで進んでおり、少しばかり不貞腐れた調子でキリサメに極端なを披露していた。

 『沼田家記』も『吉岡伝』も左耳から入って脳を通り過ぎ、やがて右耳へと抜けていくようなキリサメであるが、副業がないと生計を立てるのも難しいという点は現代の格闘家も中近世の武芸者も共通しているのだろうと推察していた。

 だからこそ神通は『けんぽうぞめ』のように確実な収入減となり得る技術が『しょうおうりゅう』に伝わらなかったことを嘆いているのだ。アクションスターを〝兼業〟する『NSB』のMMA選手――ダン・タン・タインや、アイドル声優を〝本業〟としている希更を例に引くまでもあるまい。


「――違ェだろが! 時代なんぞの所為せいにしてんじゃねェや! 家に伝わる副業ォ⁉ てめーの才能がダメだっただけだろうが! 〝甲斐古流〟筆頭っつう由緒ある道場をツブしやがってよォ! オヤさんも継がせる相手を間違えたってあの世で泣き喚いてらァ!」


 宗家道場の閉鎖という『しょうおうりゅう』の有り様と、家業によって名門を守り抜いた吉岡家を比べていく神通の脳天に酒と煙草で焼けた声が突き刺さったのは、希更の体温ぬくもりと誠意を受け止めながらも返す言葉が見つからずに俯き加減となってしまった瞬間のことである。

 聞くに堪えない喚き声を張り上げ、他者ひとの会話に割り込むとすれば、この場に居合わせた者たちの中ではたった一人しか該当しない。果たして、皆が一斉に視線を巡らせた先では御剣恭路が血走った狐目を更に吊り上げていた。

 V字型シェイプのエレキギターを『激我』のピックでもって一等激しく掻き鳴らし、頭部を上下に大きく振り回すことで抑え難い憤怒を表しているようだ。その間にも恭路は爆炎の如き眼光を神通に叩き付けていた。左右の瞳に湛えているのは剥き出しの敵意である。

 左手に持ったそのピックを恭路は一度、旅館のロビーで取り落としていた。

 そのときにも六本の弦を荒々しく弾いていたのだが、キリサメたちに混ざる神通の姿を玄関に見つけた瞬間、目玉が飛び出すのではないかと心配になるほど左右のまぶたを開き、哀川という家名を一等大きな声で叫んだのである。

 ただでさえ視野狭窄な男だ。視界から思考に至るまで全てが驚愕の二字に塗り潰された情況でてのなかから三角形の小さなアルミ片が滑り落ちたことなど気付くはずもあるまい。

 何の前触れもなく飄然と現れた『ダイニングこん』の従業員ウェイトレスに対し、恭路が誰よりも大きな反応を示したのは意外であったが、展望カフェへ移動する間のやり取りを通じて疑問は納得に変わった。


「いけ好かねェハナシだがよ、哀川コイツとは同郷の幼馴染みなんだよ。親同士もずっと古くから〝血〟より濃く繋がった仲間で――」

「――いません。不愉快極まりない風説の流布はやめてください」


 恭路自らが明かしたように二人は同じ山梨県の出身うまれであり、以前かつては家族ぐるみで交流があったことも察せられるのだが、どうやら神通の側はこの金髪のパンチパーマを心の底から疎ましく思っているらしい。「幼馴染み」と紹介されそうになった瞬間に鋭く遮ったということは周囲まわりの人々には接点すら知られたくないのだろう。

 実際、恭路と一緒にいた未稲とひろたかは不意の大声によって鼓膜を抉られ、迷惑そうに彼を一瞥してから神通のほうへと振り返ったのだが、視線を巡らせた先に見つけた顔は一切の感情が消え失せていたのである。

 関わり合いになりたくない人間に対する嫌悪を剥き出しにしていたなら、むしろ姉弟は驚かなかったはずだ。

 理性という制御ものが備わっていなかった幼少期を知り尽くす人間が目の前に現れた瞬間とき、血を吐くようにして精神こころの死とたとえることもあるが、神通の場合は御剣恭路という存在を自分のなかから瞬間的に消し去ったようだ。姉弟は虚無の表情かおに息を呑んだのである。

 自分一人で奥州の町を散策している最中に遭遇したのであれば、どれだけ声を掛けれられようとも黙殺して立ち去ったことであろうが、同じ〝輪〟に入ってしまった以上は何時までも見知らぬ他人の芝居フリを続けるわけにもいかず、「相ッ変わらず可愛くねェ~! てめー、ちィっとはを見習えや!」という耳障りな怒鳴り声にも応じざるを得ない。

 だが、故郷を同じくする二人が言葉を交わし始めた途端、戦慄にも近い緊張が走った。


「……『相変わらず』という言葉は御剣あなたこそ似つかわしいのでは? わたしの記憶と認識に誤りがないのであれば、今日は土曜日のはずでしょう? それなのに、どうして高校の制服を着ているのですか? そもそも成人式が終わってまで、どうして学生服を? 何を私服にするのかは自由ですが、幾らなんでも日常生活に障りがあるのではないかと」

「成人式すら出なかった哀川てめーが偉そうなクチ叩くんじゃねェや! その点、オレは紋付き袴でバシッと決めてやったぜ! 〝おとこ〟が違ェんだよ、てめーとは! どこまでも〝甲斐古流〟の面汚しがよォ!」

「御剣家のもんぷくを? ……恭平おじさまをあれだけ恨み抜いておいて、先祖代々の家紋は平気な顔で用いるのは矛盾の極みでは? ……何一つ背負うものがなく、気楽に振る舞える方が羨ましくてなりません」

「てめー、とうとうクソ親父のコトを持ち出しやがったな! 表に出やがれッ! そのスカした顔の裏側に隠してる本性を暴いたらァ! 母親と同じろくでなしがよォッ! 哀川家の〝血〟をおや二人で台無しにしやがってなァッ!」

「それでやり返しているおつもりですか? ……残念ながら、は『ろくでなし』という言葉ですら足りません。折角ですから、もっと貶めて差し上げてください。尤も、御剣あなたの辞書では悪口のバリエーションもそろそろ限界でしょうか。国語の試験テストでもを取った記憶がありませんし」

「だったら、てめーは母親にインターネットでクソ以下の真似をやらかさねぇよう叩き込んでおきやがれ! 何もかも手遅れだがよォッ!」


 余人が口を挟むことのできない罵詈雑言の応酬が二人の間で始まったのである。

 際限なく昂っていく恭路の喚き声に対し、神通の側は不気味とも感じるくらいに静かであったが、冷たい嫌悪感を抑えるつもりはなさそうだ。

 これもまた幼馴染みの距離感というものであろうか――相手が最も触れられたくない領域まで無遠慮に踏み込み、己以外には決して晒したくない醜悪な部分を抉り出していく。和解の余地が残されていないほど断絶した人間関係が露になっているからこそ、主演作イシュタロアを通して『相互理解』を体現してきた希更でさえ仲裁に入れなかった。

 エレベーター内も険悪な空気で満たされ、展望カフェの和室に案内されて間もなく神通のなかで静かなる憤怒いかりが爆発した。


「折角、あの親父さんがに負けてんだよ、てめーの人生ッ! 生後半年だったか、一年だったかはもうおぼえちゃいねーがなァッ! 親父さんの期待を裏切りまくった挙げ句、由緒ある哀川家を堕としやがっ――」


 座布団の上に正座していた神通はその姿勢を維持したまま畳に突いた両膝の動作うごきだけで恭路との間合いを詰め、左の五指でもって彼の右肩を掴むや否や、反対側の握り拳を鳩尾に突き刺した。

 人体の構造上、大地を踏み締めた状態で突き出してこそ拳の隅々まで力が漲る。全身に力の作用を行き届かせる為には正座という状態は余りにも不安定であるが、和室の天井が跳ね返す音は鈍器を叩き付けたとしか思えないほど重かった。

 拳を突き出す所作うごきは電知が用いる〝あて〟と近いようキリサメには見えたが、地面に膝を突いた状態で十分な力を込め得るすべはどうしても考え付かない。故郷ペルーける戦いで同様の姿勢となった際には隠し持った刃物を相手の腹に刺し込むか、急に跳ね飛んで頭突きを見舞ったのだ。

 踏み込みを必要としない動作うごきで攻撃力を補ったキリサメに対し、神通の場合は正座の姿勢を維持したままで大地を踏み締めた状態と同等の打撃を繰り出している。折り曲げた両膝を巧みに動かして畳の上をときにも、拳を打ち込まんとする間際にも、腰から下に力を込めていた様子だが、に如何なる作用が働いたのか、重心の制御も含めて細かな術理までは読み取れなかった。

 鳩尾は人体急所の一つであり、何かの拍子に強打しようものなら呼吸さえ困難な状態に陥ってしまう。明確な害意を伴う衝撃で貫かれた人間には耐えられるはずもなかった。恭路も他の類例に漏れず、悶絶したまま起き上がることさえ叶わずにいたのである。

 『ダイニングこん』で食事をったときのことであるが、個室という極めて狭い空間と周囲まわりに幾人も座っているという状況にも関わらず、神通はセクハラ行為を働いたオーナーに対して壁にも他者にもぶつかることなく関節技で制裁を加えたのだ。

 今し方、披露した技も狭い座敷での戦闘・暗殺を目的として練られたものであろう。物静かな佇まいとは裏腹に己の誇りを貶めようとする〝敵〟には実力行使も辞さないということを示した恰好でもあった。

 ひろたかが口を真一文字に引き締め、思索を深めるようになったのはこの直後である。目の前で披露された妙技と、自身が持ってきた学術書の著者と同じ『哀川』という家名に〝何か〟が思い当たったわけだ。


「……今のは恭ちゃんがいけないよ。人様の名前をからかって裁判沙汰になることは珍しくないし、世が世なら無礼討ちで首ポロだよ? おバカさんとは思ってたけど、ここまでおつむが残念だったとはねぇ~」


 会話の妨げとならない壁際まで押しやられた恭路を見据える寅之助のは無機物へ向けるかの如く冷たいが、本人の意思と関係なく祖父の恩人から『寅』の一字を青年は『神通』という改名をこの場の誰よりも重く受け止めたのであろう。畳の上に蹲ったまま全身を小刻みに震わせる男の失言は「過失」という二字をもってしても擁護できないものである。

 それほどまでに浅慮な人間が鳩尾の激痛を己に対する戒めと換えるはずもあるまい。失神寸前の状態から回復するや否や、懲りもせず「武田信玄公もてめーをボロクソに言ってらァ! 履歴書に山梨出身って書くのもやめろ! 出身地取り消しやがれッ!」と神通に理不尽極まりない罵声を浴びせたのだ。


「言い訳並べて誤魔化せると思ってんじゃねーよ! じゅくとうくささんがやってる保存会は何だ? おりさんが目ェ掛けてるじょうえつの寺は何なんだよ⁉ うえすぎけんしんのお膝元に〝甲斐古流〟が流出ながれンのはムカつくがよォ、坊さんどもの道場は未だにツブれちゃいね――」


 余りにも幼稚な報復しかえしであるが、それも一瞬のことであった。

 呻き声しか絞り出せない状態の中で恨みを煮え滾らせていたようであり、驚いた店員が和室の様子を窺うほど怒号も大きくなったが、それは間もなく甲高い悲鳴に変わった。

 僅かに開けた障子戸の隙間から不安そうな顔を覗かせている店員に対し、「をお願いします」とこうべを垂れたのち、神通は自身が注文したシフォンケーキに添えられているフォークを恭路目掛けて投げ付けたのである。

 金髪のパンチパーマに埋もれてしまった為、傷の程度は判然としないものの、鋭い先端が頭部あたまの皮膚を食い破ったことは「牽制以外の飛び道具は反則だろうが⁉ 食器のしゅけんじゅつなんざ聞いたこともねェッ!」という負け惜しみのような悲鳴から十分に察せられた。


(神通氏は――いや、『しょうおうりゅう』とやらは徒手空拳だけじゃないってコトか? はただ物を投げたワケじゃない。ナイフだったら間違いなく喉笛を突き破ったハズだぞ)


 神通が再び恭路を黙らせた投擲の妙技わざ――〝手裏剣術〟にキリサメは幼馴染みの姿を重ねてしまい、「」という名が喉の奥から飛び出しそうになった。

 二度と目にする機会はないのだが、色々な意味で手先が器用であったは投げナイフの達人でもあり、故郷ペルーでギャング団に取り囲まれた際には背中を預け合ってを迎え撃ったのである。

 は肩のバネを引き絞り、腕を垂直に振り落とす形での投げナイフを得意としていた。これに対して神通は内から外へと腕を水平に振り抜き、肘と手首のバネでもって掌中から投擲している。あるいは『しょうおうりゅう』に含まれている手裏剣術の一種ひとつに過ぎないのであろうが、両者とも〝敵〟と見なした標的に容赦しないという点は共通しているようだ。

 キリサメ自身、標的も〝同じ人間〟であるという感覚は『聖剣エクセルシス』の一振りでもって薙ぎ払うが、故郷の〝闇〟を分かち合うも標的の急所に切っ先を突き立てる際には全体重を乗せ、確実に仕留めていた。ナイフを引き抜くときにも返り血を浴びて衣服が汚れてしまわないよう手際が良かったのである。

 もしかすると神通も〝自分たち〟と大きく変わらないのではないか――キリサメの心は余人の理解が及ばない〝共鳴〟によって微かに震えた。背筋が凍るような予想であるが、恭路の鳩尾をあてで抉ったときにも心臓まで衝撃を伝達し、本気で息の根を止めるつもりであったのかも知れない。


「――何でもかんでもわたしに結び付けるのは本気マジで気色悪いから、やめてちょっと。ていうか、人間関係をそんな風に考えるなんてサミーってば骨の髄まで金持ち日本ハポンに染まっちゃったねぇ。わたしたちの故郷ペルーに永遠なんかないでしょ? 〝血〟の繋がりもない人に面影を探したって、にわたしを閉じ込められるワケじゃないんだからさ」


 リング状となっている『聖剣エクセルシス』のツカじりにかつて巻き付けていた物と同じスカーフで右腕を吊る幻像まぼろしこそ浮かび上がってはいないが、どこからともなく聞こえてきた幼馴染みの皮肉こえは幻聴の一言では切り捨てられないほど大きく、居た堪れない気持ちが湧き起こったキリサメは神通から目を逸らしてしまった。

 意識したわけではなかったが、当てもなく彷徨さまよった末にキリサメの視線は「こういう技の安売りが面汚しだっつってんだよ」と呻きながらうずくまる恭路の背中へと辿り着いた。荒々しい筆致で記された『げき』の二字が滑稽としか思えない有り様である。

 自慢のパンチパーマが金色から変わっていないので出血もなさそうだが、キリサメが想像していた以上にフォークは深く突き刺さったようだ。


「バロッサさんを押しのけるようで申し訳ありません――先ほどお使いになった〝投げ武器〟の技も『しょうおうりゅう』の一つなのですよね? 海外のものではありますが、自分も剣術の心得がありまして、同様の技も幾つか修めましたが、とても真似できるレベルではありません。私が教えを賜った師匠よりも切れ味が鋭かったようにお見受けします。勿論、お世辞ではなく」

「ちょっとやめてよ、大鳥さん。あたしとキリキリの試合、明日なのよ? 素直にベタ褒めなんて雨降りの前兆フラグじゃない。言いたいコトはあたしも同じだけどね。……さっき話してた『食べていけない』ってのは、……つまり、――よね? こんな神業まで使えるのに道場を畳まなきゃいけなかったの?」

「本来は小さな刃物を投げる性質ものですし、フォークでの代用を〝技〟と呼ぶことに抵抗がありますけれど、……いえ、『だからこそ』と申し上げるべきかも知れません。人の生命を脅かすことでまことの値打ちを示す古い武術は現代に生きる場所などありませんから……」


 自業自得ということを忘れ、「誰か一人でもオレの心配するヤツぁいねーのか⁉」と喚き散らす恭路はさておき――大鳥と希更が揃って感心するのは当然であろう。神通が披露した『しょうおうりゅう』の技はいずれも驚嘆より先に身震いが訪れるほど凄まじかったのだ。二人と全く同意見であるキリサメは言うに及ばず、寅之助でさえ皮肉を交えて否定することはなかった。

 ただそれだけでも十分に生計を立て得るだろうと誰もが認めているのだが、当の神通は寂しげにかぶりを振るのみであり、店員が運んできた新しいフォークを見つめながら「時代に沿わない」と自嘲気味にこぼした。


「希更さんは熊本のご出身と伺いましたが、一〇年ほど前にのほうで大きな騒ぎとなった古武術道場の継承権争いをご存知ではありませんか? 確か裁判にまで拗れたはずなのですが……」


 やはり、躊躇させられてしまう〝何か〟を神通は胸に秘めているのだろう。〝熊本の武術界〟に言及する声は一等控え目であり、希更の側も何ともたとえ難い面持ちで問い掛けを受け止めていた。


「その件に関しては誰よりも詳しいと思うよ? 思いっきりうちの父が受け持った民事事件だもん。『平成一七年(ワ)古流道場宗家継承権返上請求事件』――そっか……やっぱり、ジンジンの耳にも入ってたか~」

「お父上が例の裁判を? ……運命の導きというものをわたしは今日ほど強く感じたことはありません」


 今度は神通のほうが目を丸くする番であった。

 バロッサ家はアメリカから熊本県八代市に移り住み、そこに根を下ろした名門だが、よもやくだんの裁判にまで関わっているとは夢想だにしていなかったのだろう。

 八代市で法律事務所を経営している希更の父親――アルフレッド・ライアン・バロッサが原告代理人を引き受けた裁判は事件名が示す通り、古武術道場を後継する権利が争点となっている。

 裁判に巻き込まれた古流道場では先代の宗家が師範の一人を後継者に指名し、その証である大小一揃いの日本刀まで授けていた。これに異論を唱えたのが開祖の子孫である。先祖代々、家名を守り続けてきた自分こそ正当な継承権を有していると言い張り、希更の父を代理人に立てて裁判を起こしたのであった。

 世襲制から脱却し、最も優れた師範を新しき宗家に選んだのは原告人の実父である。長い歴史を持つ流派をどのようにして時代へ引き継いでいくべきか――伝承の在り方そのものを問う裁判の行く末は九州一円のみならず日本中の武術界が注目していたのだ。

 熊本の地方裁判所を舞台として繰り広げられた法廷戦の趨勢が遠く離れた山梨県にまで届いていたとしても何ら不思議ではなかった。


「わたしも父も傍聴に伺うことは叶いませんでしたが、非常に難しい裁判だったと聞き及んでおります。あの時期は古武術界全体が異様な流れの中で夢とうつつの境い目まで消え失せていたようなものですから……」

「一番有名なトコだと〝古武術バスケ〟とかね。例の裁判を起こした人もそのブームにまんまと踊らされちゃったみたいでさ、その頃はあたしも『ヒロっぴ』よりちょっぴり大きかったくらいだけど、カネに目が眩んだ〝大人〟は子供心に薄気味悪かったわね。……今となってはすっかり見慣れちゃったから、あたしも同じ〝大人〟の仲間入りかな」

「ちょっと待って下さい。『ヒロっぴ』というのはひょっとしてぼくのことですか? そちらのマネージャーも遠慮しないよう言っていましたからハッキリ迷惑と抗議させて貰いますよっ」

「古流道場の知り合いは多いし、ムエ・カッチューアも伝統的な武術でしょう? 影響は肌で感じたなぁ。伯父が『こんごうりき』に出場したときだって『ミャンマーの古武術』なんて微妙にズレた紹介されたもん」

「熊本にもそこまでの影響が……。当方うちの――山奥に構えた道場でさえ無縁ではいられなかったのですから、……日本で歯車が狂っていたようですね」


 〝熊本の武術界〟に言及する神通の声は依然として控え目であったが、希更を見つめるは答え合わせでも求めるかのように真っ直ぐであった。

 『しょうおうりゅう』の現状を探るような言葉を重ねてきた希更も今だけはそれを取り止め、伏し目がちに頷き返した。〝歯車が狂っていた時期〟にバロッサ家が見舞われた災難を振り返る内、同病を相憐れむような気持ちが湧き起こったわけだ。


「入門者がいきなり一気に増えちゃうと〝自分たちの時代〟が来たって錯覚しちゃうもんねぇ。思考回路が勘違いで焦がされちゃうのがブームの怖いトコよ。バロッサ家と古い付き合いの――古流剣術も設備投資をしくじって大赤字。道場増設の代償に先祖代々の畑を売るハメに陥るんだからシャレにならないわ」


 かつては他者に貸していたという広い畑を手放さざるを得ない状況まで追い込まれた剣術道場は、希更の父親が携わった民事訴訟の当事者とも異なる流派であるという。

 熊本県の旧名でもある〝〟に由来するらしい流派名を明かそうとした寸前で口を噤み、咳払いを一つ挟んで〝古流剣術〟と言い直したが、その真意には誰一人として気付かなかった。

 己の迂闊を悟った様子で言葉を区切った希更は、次いで神通の顔色を窺い、大きな変調がなかったことを確かめると、誰にも聞こえないほど小さく安堵の溜め息を零した。


「……少し想い出すだけでも苦い気持ちが甦ってきます。一〇年前のあの頃は毎年、大晦日に大きな格闘技興行が開催されていましたから、熱に浮かされて浅はかな夢をてしまうのも不思議ではありませんが……」

「お二人が話題にしてるのは二〇〇〇年代半ばくらいにあった〝古武術ブーム〟のことですよね? それより僕はふさげた愛称を取り下げて頂く訴えを起こしたいくらいです。ぼくは引き下がりませんよっ」


 希更の父が担当した裁判は原告人が係争中に病死し、最終的には和解が成立したが、その背後には一〇年前の日本に渦巻いたる一つの熱狂が影響していた。

 神通が言及した通り、奇しくも日本MMAの黄金時代と重なっていた。


「……ざけんじゃ……ねぇ……ブームなんざ……なかったぜ……あるわきゃねぇ……古武術が……ンな風に燃え上がってりゃ……『荒神封うち』だって……もうちょっとは……ッ!」


 弱々しい呻き声で割り込み、神通から侮辱の溜め息を浴びせられた恭路は発端すら把握していなかったが、二〇〇〇年代半ばの日本はコミックやアニメ、ビデオゲームといった〝サブカルチャー〟の影響で幾度目かの〝古武術ブーム〟に沸き立っていた。

 古武術の研究家がメディアに露出する機会も多く、古い武技わざ動作うごきがスポーツや介護の現場で有効と説いていたのである。翻せば千載一遇の商機チャンスであり、希更の父を巻き込む形で古武術道場の継承権を得ようとした男も熱狂によって理性を失くした一人である。

 道場を利用して〝古武術ブーム〟という商機チャンスを享受するには宗家の立場でなくてはならない。〝正当〟な資格を持たざる人間が後継者を名乗り、巨額の損害賠償請求に発展した事件は後を絶たないのである。これを回避する為のというわけであった。

 わざわざ類例を探すまでもなく、策を弄した人間は望んだ成果とは正反対の末路を辿るものである。

 刑事・民事を問わず裁判は長い時間を必要とする。そして、流行り廃りは残酷なほど速やかに移ろっていく。原告人が商機チャンスを見出していた〝古武術ブーム〟の終息も早く、恩恵にありつける状況ではなくなっていた。

 日本各地の古流道場でも〝古武術ブーム〟の最中には一時的に入門者が増えたものの、熱狂が鎮まった後には一割程度も残らなかった。それと同様のことがミャンマーの伝統武術であるムエ・カッチューアの道場ジムでも起きていた――と、希更は苦笑したのである。

 無論、世間の熱が引いた後も古武術の研究家がテレビ番組などを通じて説いた全てが消え失せたわけではなく、古武術の動作うごきをスポーツや福祉介護の現場に取り入れ、身体機能を負担なく最大限まで引き出そうという試みは今でも行われてはいるが、それでも技術の一片が注目されているに過ぎなかった。


「あの頃、誰もが『ありがた迷惑』と愚痴っていたのに、そういう空気を全く感じ取れない程度の理解力だから『あらがみふうじ』を不完全な形でしか会得できないのでしょう。恭平おじさま――お父上と流派、両方を貶めているのは御剣あなたのほうでは?」

「……クソ親父を……持ち出すなっつってん……だろがよ……完全不完全以前によ……オレは……まともに……稽古だって……付けて……貰えなかった……んだ……ッ!」


 〝甲斐古流〟――哀川の『しょうおうりゅう』や御剣の『あらがみふうじ』といった山梨県の古武術もくだんのブームと無縁ではいられなかったようだ。己の流派を仰々しいくらい誇っておきながら故郷の同胞なかまたちが上げた悲鳴にも気付かなかった恭路に「そうした言い訳が御剣という家名に泥を塗ると言っているのです」と吐き捨てる感情のない声がを証明していた。

 〝古武術ブーム〟を当て込み、挙げ句の果てには設備投資の失敗で大損失となった道場を希更は例に引いていた。その中には老朽化した建物の修繕も含まれていることだろう。それはつまり、多額の費用が必要となる工事だ。

 〝甲斐古流〟の道場もバロッサ家の知り合いと同じように翻弄されたのであろうと察せられた。

 当時、故郷ペルーで暮らしていたキリサメの記憶にも生々しく刻まれていることだが二〇〇〇年代半ばにはもう一つの大きな出来事が全世界をしんかんさせている。住宅バブル崩壊を原因とする『リーマン・ショック』と、これに連鎖した〝第二次世界恐慌〟――史上最悪レベルの金融危機である。

 一年前に故郷ペルーで出会い、身辺警護ボディーガードを依頼された日本人記者――ありぞのの話によれば日本経済も深刻な打撃ダメージを受け、派遣社員に対する一方的な契約打ち切りや更新拒否といった措置が相次いだ。いわゆる〝派遣切り〟である。彼女は失業者を対象とした炊き出しのボランティアにも参加したという。

 つまり、一過性の熱狂の潮目が引いた直後にくだんの金融危機が古武術界へ襲い掛かったわけだ。それより以前まえから存亡の危機に立たされ、〝古武術ブーム〟に惑わされていた道場にとっては考え得る最悪の追い撃ちであった。


(神通氏はペルーのほうが生き易いのかも知れないな。首都リマの裏路地でこそ生かし切ることが――いや、……のような生活くらしをさせるわけにはいかないよな)


 秋葉原の市街地で『聖剣エクセルシス』を振り回し、これによって〝プロ〟の資格を問われる状況まで追い込まれたキリサメには実感として理解わかるのだが、戦いの場で相対した〝敵〟を討ち果たす為の武技など平和な法治国家では生かしようもあるまい。幾つかの競技団体に選手を派遣し、格闘技界と結び付いて確固たる地位を築いたバロッサ家は特異な例であった。

 森寅雄タイガー・モリ直系の道場に生まれた寅之助がふるう〝古い時代の剣道〟はあてや投げ技も併用して攻防を組み立てる為、とは決して相容れない。それ故に彼自身の出場は不可能であるが、子どもたちへの指導など〝現代の武道〟との接点は途切れていない。

 同じ〝古い時代の技〟にも関わらず、瀬古谷の道場は哀川神通ひいては『しょうおうりゅう』と異なっていた。

 真価を発揮し得る場が狭まれば、これを学ぼうと希望する門下生が減少していくのも道理である。それ故にひとときの熱狂が冷めれば、物珍しさで門を叩いた者たちもたちまち興味を失ってしまうのだ。

 職人の世界にも相通じることだが、跡取りが育たずに継承が困難になる流派も数知れない――古武術が現代にいて不遇を被る理由をキリサメが推し量っているものと察した神通は問われる前に自分から答えを語った。

 物憂げに伏せられた目は一等寂しそうで、キリサメは思わず身を乗り出しそうになってしまった。真隣に未稲が座っていることを想い出して引き戻さなかったなら、彼女の頬に手を添えていたかも知れない。


「資金繰りという現実問題は勿論ですが、日本古来の武術を学びたいと思う人間がいなくなったことで気力が萎えてしまう道場主も多いのです。実際、知り合いの道場もそれが原因で看板を外してしまいました」

「その辺りの事情も山梨と熊本で変わらないのよね。ていうか、全国の古流道場が抱える問題か。〝競技人口〟って言い方は適切じゃないかもだけど、教わる場所がなくなったら新しく門下生が増える見込みもなくなるワケだし……」

「空手のようにオリンピックの大舞台に立てるような機会もありませんし、一時的な興味だけでは〝競技人口〟と数えても構わないような格式を得るまで持ちません。……『しょうおうりゅう』は所属はいっていませんが、古武術の保存と振興を目的とした協会が全国規模の〝演武大会〟を定期的に開催していますが、それではどうにも――」


 〝演武〟――即ち、それぞれの流派が磨き上げた技を文字通りに〝実演〟という形で披露するものである。伝統の保存・継承という点にいて、その意義をえて否定する理由はないが、一方で総合格闘技MMAのように統一された取り決めルールのもとで他流同士が拳を交え、勝敗を争う〝仕合〟ではない。を根拠として挙げ、だからこそ古武術の〝競技人口〟が増えることはないと神通は言い切った。


「明治維新より以前まえには道場や流派という垣根を取り払った腕比べがなかったわけではないと聞いています。それこそ吉岡一門と宮本武蔵が証明していますね。ですが、現代でそのような機会はほんの一部の例外のみでしょう。取り決めルールを統一できないのは競技化への反発だけでなく、それぞれの流派が面目を保たなくてはならないから。……武門の誇りを潰し合う振る舞いは伝統の保存や振興という協会の理念にも反するでしょうし……」

「……例外っていうのはジンジンのお父さんみたいな?」

「わたしの生まれ育った土地では他流試合も盛んでしたが、……いえ、取り決めルールも何もない喧嘩と同じです。いずれにせよ古武術はオリンピックで認められる〝競技〟から程遠く、知名度も空手とは比較になりませんので前途は明るくありませんよ」

「空手はねぇ~、何十年も前から正式種目化に向けて動いてたもんねぇ~。ようやくその執念が実りそうってときに『じゃあ、古武術も一緒に』ってワケにはいかないわよね。ジンジンが言ったように競技化自体が難しいしさ」

「次に日本で夏季オリンピック・パラリンピックが開催されるまで古武術の火が残っている可能性を問われたら、……わたしは返答に困ってしまいますよ」


 改めて詳らかとするまでもないが、神通と希更が古武術の衰退と併せて語らっているのは六年後の二〇二〇年に再び東京で開催される運びとなった夏季オリンピック・パラリンピックである。

 前回の一九六四年大会ではアジア初のIOC国際オリンピック委員会委員であるのうろうが創始し、世界にばたいた柔道が正式種目として採用され、およそ半世紀を経て再び開催国となった二〇二〇年では更に空手を追加させるべく全国の関係者たちが気炎を上げていた。

 希更も触れた通り、空手の正式種目化に向けた運動は大昔から進められており、二〇一二年ロンドン大会の際にようやく追加種目の候補に残ったばかりであった。開催国という最大の利点を得た今度こそ長年の悲願を達成させたいわけだ。

 総合格闘技MMAの世界でも同じ活動は既に始まっているが、空手とのを避けるということではなくMMA日本協会も二〇二〇年東京大会での実現にはこだわっていなかった。

 アマチュア部門を抱える『NSB』もを虎視眈々と狙っているようだ。そもそもアメリカは二〇一二年大会にニューヨークが、二〇一六年にシカゴがそれぞれオリンピック・パラリンピック招致合戦に敗れており、MMAの正式種目化運動も長期戦を想定しているのだろう。

 MMAが平和の祭典オリンピック・パラリンピックの競技として相応しい〝スポーツ〟であることをIOC国際オリンピック委員会理事会が承認するには国際的な統括団体のもとでルールを整理しなくてはならない。短期間では解決し得ないくらい課題が山積しているわけであった。

 それは空手も同様であった。演武――いわゆる『かた』である――が競技の中心となるのか、選手同士が直接的に技を競う試合形式となるのかは現時点で確定していないが、長い年月を費やして平和の祭典オリンピック・パラリンピックに相応しい体制を整えてきたのだ。

 全国規模の統括団体があろうと古武術に空手と同じことは不可能と神通は考えている。

 様々な流派・会派の道場が全国に点在していることなど似通う部分もあるが、空手と比べて古武術は競技人口が圧倒的に少ない。そもそも『空手』のように大きな枠組みの中でまとまることはなく、それぞれが独自の理念を掲げている『古武術』諸流派は垣根のから他流の有り様を見つめており、決して交わることはない。

 流派によっては使用する武器の種類も、その用途さえ全く異なる。空手のように徒手空拳のみで闘うわけではないのだ。

 厳密ではないにせよ『空手』が広い意味での〝分野〟であるのに対し、『古武術』とは成立時期の区分に基づいて便宜的に当て嵌められた〝総称〟に過ぎないのである。

 全国の古武術家がつどう演武大会も各々の理念を尊重し、流派の〝看板〟を奪い合うのではなく互いの技を褒め称えることに意義がある。統一された取り決めルールに基づく〝競技化〟などくだんの協会も望んではいなかった。

 潰し合いは伝統の保存と振興を何よりも妨げる行為であるが、現状の活動のままでは善かれ悪しかれ限定的な範囲で完結してしまう為、試合という形で大勢の耳目を引き、〝利益〟に結び付く発展は望めない。

 煩悩を断ち切り、ただひたすらに己を研ぎ澄ませていく精神性は『しょうおうりゅう』の理念にも通じるものである。それは神通も理解しており、競技化という一種の解放が正解とは考えていない。

 しかし、その一方で古武術という火が緩やかに消えていくさまをただ眺めていることが美徳とも思えない。そのような矛盾が渦巻き続ける以上、〝現代〟の陽も当たらないが袋小路になることであろう――これが当代の『しょうおうりゅう』を担う神通の見解であった。

 オリンピックは一九七四年にアマチュアリズムを切り捨て、続く一九八四年ロサンゼルス大会から〝プロ〟選手出場の解禁など商業化が加速したとされるが、それよりも遥か昔からスポーツメーカーによる利権争いの舞台と化していた。国家間の〝代理戦争〟やボイコットが起きた東西冷戦期は言うに及ばず、〝大戦の時代〟には独裁者によってプロパガンダにも利用されてきた。

 今ではオリンピックを平和の祭典ではなく世紀の茶番と蔑む声が少なくない。二〇二〇年に二度目の開催を迎える日本国内にさえ経済的負担といった現実問題から反対する人々も多いのだ。事実、招致成功直後に実施された幾つかの世論調査でも一割前後が否定的な回答を寄せている。

 〝外部そと〟からは嘲りに満ちた眼差しでもって冷たく突き刺されているが、アスリートにとっては今でも夢の舞台に変わりなく、世界最高の頂点いただきを目指して〝全て〟が収束していくのである。名誉も人材も集まっている。正式種目承認によって知名度が高まれば、競技人口が増えて次世代の担い手も育っていく。

 国際化ひいては商業化によって古くから守ってきた理念が変質弊害も否定はできない。想定される事態は二〇〇〇年代半ばに訪れた一過性のブームよりも深刻であり、慎重に構えざるを得ないのであろうが、そもそも柔道や空手のように大きな潮流ながれに乗り切れないのが古武術界全体の現状であった。

 武芸以外の技術わざで糊口を凌ぎ、名門の誇りとその家名を後世まで遺すことができた吉岡道場が羨ましい――現代の古武術界で生きていればこそ、神通の嘆息は極めて重かった。


「お互いを尊重するだけの〝親睦会〟は古武術の本質を錆び付かせるのではないかと思えてなりません。……例の協会に所属はいってもいないわたしが申し上げるのは不届き以外の何物でもありませんが……」


 古武術を衰退に導く一つの理由について少しばかり毒気のある私見を語った神通の横顔を寅之助は頬杖を突きつつ眺めていた。先程から一度も相槌を打っていない。

 現在の協会とは異なるものの、全国の古武術を統括し、これを奨励する組織は戦前にも存在していた。同組織は当時最大級の演武大会開催のほか、武芸を教え広める人材の養成機関の設立にも携わっている。

 第二次世界大戦直後、攻撃性の助長を危惧したGHQから武道全般が禁じられ、これに伴って同組織も強制的に解散させられたのだが、くだんの禁止令が撤回されてからもその影響は古武術界に残り続けた。他流試合を含んだ熾烈な腕比べではなく、共栄を第一とする平和的な振興へ舵を切ったのである。

 戦後間もない日本で〝軍事訓練〟を彷彿とさせる振る舞いはせんそうへの回帰として白眼視されていた――〝戦争の時代〟を経て現在の協会は創設されたのだ。戦時中の〝斬突わざ〟まで含めて〝古い時代の剣道〟をる寅之助には平和的な振興を〝親睦会〟の一言で切り捨てることなどできなかった。

 彼が名に一字をけた森寅雄タイガー・モリも〝戦争の時代〟を生きた剣道家なのである。

 尤も、発言の訂正を求めることはない。神通が私見を述べた直後、伝統武術ムエ・カッチューアの使い手よりも早く彼女の現場マネージャーが呻き声を洩らしたのだ。


「ますます惜しいことです。古流の苦境は自分も伝え聞いておりましたが、その技が活躍する場所は現代にもまだまだ残されているというのに。……自分が口惜しむのもおかしな話と理解わかってはいるのですが……」


 気を取り直した寅之助に「愛しいカノジョの為に一肌脱ごうってワケ? サトさんもニクい真似するね~。後で報告しといてあげるよ」と揶揄されながらも口を挟み、古武術の衰退を惜しむ大鳥の気持ちは未稲も察していた。

 今まさに彼が思い浮かべたを未稲も脳内あたまのなかで共有している。これは寅之助も同様であり、「古武術が活躍し得る場所」という見解に対しても素直に首を頷かせた。神通の口から〝親睦会〟という皮肉ことばが吐き出された瞬間とは真逆の反応だ。

 板金鎧プレートアーマーといった中世ヨーロッパの甲冑を復元させた〝現代〟の騎士たちが幅広の両刃剣ブロードソード逆三角盾ヒーターシールドを構えて激しく斬り結ぶ騎士道競技――『甲冑格闘技アーマードバトル』を三者は揃って思い浮かべていた。

 大鳥の幼馴染みであり、未稲と同じゲーミングサークルに所属する筑摩依枝ヘヴィガントレットも競技選手の一員として参加しているは『メディーバル・バトル・スポーツ』という総称のもとで国際的な広がりを見せつつあった。

 安全の為に〝刃引き〟が義務付けられてはいるものの、長剣ロングソード槌矛メイスが渾身の力で鋼鉄はがねの鎧兜に叩き付けられる中世さながらの試合たたかいは世界中の人々を魅了してやまないわけだ。

 ドン・キホーテの伝説でも有名なスペインのラ・マンチャ地方――中世の趣を留める古城で今年の五月に開催された第一回世界大会の試合映像は動画サイト『ユアセルフ銀幕』に投稿アップロードされており、未稲も幾つか視聴している。

 締め切り当日に滑り込みの形で出場が決定したフィンランドを含む一六ヶ国から集結した騎士たちは縦横の三色旗や十字旗、王室旗ユニオンフラッグ星条旗スターズ・アンド・ストライプスなど二一世紀の〝現代〟にいて使用されている国旗を意匠化したころもを鎧の上から纏い、居並ぶさまはオリンピック・パラリンピックというよりも〝剣の時代〟にたとえるべきであろう。

 片手持ちの剣と盾の併用や、両手で握る長剣ロングソード長柄武器ポールアームといった同一条件のもとで技を競い合う一対一の『個人戦デュエル』は言うに及ばず、複数名が入り乱れてぶつかる『団体戦メーレー』は騎士たちの合戦絵巻であり、タブレット端末の画面越しではあるものの、ファンタジー作品をも凌駕する迫力に未稲は丸メガネがずり落ちそうになった。

 日本代表選手の一人は戦国時代末期に用いられたとうせいそくを身に着け、古城を仰ぐ広場に柵でもって設けられた試合場へ太刀を振り翳しながら飛び込んでいった。

 鼻の下に白髭を蓄えた鬼の仮面は装飾品ではなく、敵の攻撃から顔を護る『めんぽお』という防具であった。そこに丸みを帯びた輪郭のなりかぶとを被れば〝中世武者〟の復活である。

 洋の東西を問わず、『中世』に区分される時代の武具は甲冑格闘技アーマードバトルへの参加条件と合致するのだ。

 現代に甦った〝中世武者〟の勇姿を想い出した未稲は、ポルトガルの騎士を斬り払う太刀の一閃に神通ひいては日本の古武術が活躍し得る可能性を見出したわけである。

 古武術の道場は座敷やかっせんにて〝真価〟を発揮する戦闘技術のみを伝授しているわけではない。鎧武者が騎馬を駆る時代で実際に用いられた武具の知識を巻物などの形で保管し、代々に亘って伝承してきた流派も少なくはないのだ。

 先程も無作法な恭路を沈黙させるべく手裏剣術の一種ひとつを披露したが、これによって中世日本の武器術にも長けていることを証明したようなものであろう。神通は『しょうおうりゅう』について「そくじゅつ』に類される」と説明していた。

 流派による得物の差異ちがいはともかくとして、その『そくじゅつ』がなどの武器を併用する武術であることを未稲は把握している。哀川神通も徒手空拳の技だけでなく刀や槍といった〝武士のおもてどう〟を使いこなせるのかも知れない。

 ともすれば弓術・馬術の心得もあるはずだ。山梨県は古くはいのくにとも呼ばれ、戦国時代に同地を治めた武田家は最強無比と名高いしゅうを束ね、火の如きしんりゃくを成し遂げたという。風の如くはやき馬術が〝甲斐古流〟に伝わっているとしても不思議ではあるまい。

 は確かに法で平和が約束された〝現代〟の日本ではふるう機会が絶無に等しい。しかし、甲冑格闘技アーマードバトルいては評価が逆転するのである。


(筑摩さんは勿論、フィンランド代表の〝姫騎士〟とか女性選手もカッコ良かったもん。投げ武器以外に何が得意かも知らないけど、哀川さんだってイケると思うんだよなぁ)


 現代では用意すること自体が不可能である場合を除き、素材も含めた装備の様式は中世に区分される一四~一五世紀当時の物を再現するよう規則ルールで定められている。古い時代の技術を現代に甦らせるということはそのしつでんを防ぎ、文字通りの〝歴史的な財産〟として未来に継承していく意義もあるのだ。

 『しょうおうりゅう』という流派が連綿と受け継いだ武技わざと知識が中世のいくさと同じように光り輝く〝世界〟を甲冑格闘技アーマードバトルひらいたのだった。古武術の衰退を憂う顔も充実感で満たされることであろう。

 甲冑格闘技アーマードバトルは二〇一三年の発足であり、『メディーバル・バトル・スポーツ』そのものが〝最新の格闘競技〟である。しかしながら、国際大会を開催できるほど競技体制も整えられており、世界中で有力選手が育ちつつある。大勢の運命を狂わせた一〇年前の〝古武術ブーム〟のような一過性の盛況とは明らかに異なっていた。

 そのような黎明期にこそ哀川神通のような人材が求められるのだ。

 西洋剣術を極めたという大鳥聡起も筑摩から執拗に勧誘を受け、そのたびに固辞しているようだが、彼は哀川神通という逸材が甲冑格闘技アーマードバトルに属していないことをも惜しんでいるのかも知れない。

 その気持ちも未稲は共有している。正座したまま恭路を制圧できるほど優れた古武術家が加われば、日本の甲冑格闘技アーマードバトルは新たな領域へと飛躍することであろう。


(……あんまり私が出しゃばるのも良くないか。筑摩さんとの付き合いはともかく、別に甲冑格闘技アーマードバトルの関係者でもないし。……う~ん、だけど、何だかヤキモキしちゃうなぁ)


 筑摩が神通の話を聞いたとすれば、その日の内に『ダイニングこん』へ駆け込むに違いない。「甲冑格闘技アーマードバトルの担い手発見!」といった急報メッセージ送信おくろうとも考えたものの、あるいは大鳥のほうから仲介を申し出るかも知れない。


「稽古場は何とかなるけど、使のほうが折れちゃったら、どうしようもないものね。そーゆー場合、道場に在籍してた門下生の人たちはどうなるの? ……今のジンジンも同じような状況でしょ?」

「道場が閉じるのと同時に辞めてしまう人も多いようです。どうしても続けたい人は知り合いの道場などへ出稽古に行っていますね。……わたしもそれと似たようなことをしていますよ」


 眉根を寄せながら両腕を組み、「いかにも惜しい」と呻き始めたマネージャーを目配せでもって宥めつつ、希更は話の続きを神通に促した。

 『しょうおうりゅう』が息を吹き返す可能性を甲冑格闘技アーマードバトルに見出した未稲と大鳥であるが、神通当人は依然として古武術の衰退に溜め息が止まらない。

 行き場を失った古武術家たちが集まって費用を捻出し、体育館などを借りて稽古を行うケースも少なくなかった。流派という垣根を取っ払い、古武術というを絶やさないように努める保存会や協会も存在するが、それでも古い技のしつでんは免れないのだ。

 特に〝戦場武術〟としての本質――殺傷を目的とした武技わざは平和な時代にいて全く必要とされず、真っ先に消えゆく運命である。

 それが逃れ難い現実――希更の質問に答える神通の声は何とも寂しげであった。彼女の瞳に宿った憂いが一等深くなったように感じたのは、正面からを捉えたキリサメの錯覚ではないだろう。

 声優を〝本業〟としている希更は言うに及ばず、じょうわたマッチも湘南の自宅でバイク店を営んでいる。二人にとってはそれが主たる収入源であり、『天叢雲アメノムラクモ』の報酬ファイトマネーだけでは生計を立てられないことを意味している。きょういし沙門から聞いた話によれば、日本最大の空手道場『くうかん』の支部を任された師範でさえ別に勤め先を持っているそうだ。

 プロないしはこれに相当する〝立場〟であっても兼業しなければ家族も養えない――この厳しい現実は〝格闘競技〟についての勉強が不足しているキリサメにも分かっていた。古武術界を取り巻く経済状況は更に逼迫しているのだろう。

 寅之助からであるが、明治維新とこれに伴う急激な近代化の中で古流剣術が否定され、数多の剣士が路頭に迷った際、日本最後の〝剣客〟と謳われたさかきばらけんきちは剣技自体を盛大な〝もの〟として披露し、経済救援を図ったという。

 これが明治時代の〝げきけんこうぎょう〟である。その当時から現代に至るまで〝古流〟と冠する武芸は財政の先細りという問題を解決し切れないまま抱えてきたわけだ。さかきばらけんきちの試みには〝武士サムライの技〟を喪失させまいとする志も含まれていたそうだが、おそらくは神通も全く同じ状況に直面し、懊悩し続けているのだろう。

 あるいはさかきばらけんきちが試行錯誤を繰り返していた頃よりも事態は遥かに悪化しているのかも知れない。〝げきけんこうぎょう〟の流行から数年と経たない内に起きた日本最後の内戦――『西せいなんせんそう』の白兵戦にいて古流剣術の威力が見直され、〝武士サムライの技〟は復権の機会を得られたが、神通と『しょうおうりゅう』にはまことの値打ちを証明できるいくさなど望むべくもないのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の養子である自分は故郷ペルーで暮らしていた頃とは比べ物にならないような生活水準を享受し、日本格闘技界に君臨し続ける〝暴君〟の庇護をも受けてMMAデビューを迎えようとしている。

 現在いまでも苦労を重ねているだろう神通より恵まれた環境にる事実がキリサメには後ろめたくてならなかった。幻像まぼろしとなった幼馴染みから〝富める者〟に染まったと鼻で笑われても仕方のない有り様であった。


「……神通氏が道場を継ぐことはできなかったのですか?」

「おうおう、それだよ、それ! 聞いて驚けや、アマカザリ! 哀川のクソ野郎な、『しょうおうりゅう』の道場を継ぐコトは継いだんだよ! 〝先代〟の親友やじゅくとうたちが一丸となって支えてくれたっつうのによ、このカス、見事にツブしちまいやがってな! 名ばかりの宗家とはコイツのコトだぜ! 澄ました顔でも親父さんの顔までツブしたコトばっかりは誤魔化せねぇよなァ⁉」


 自分の頭部あたまに突き刺さっていたフォークを引き抜き、畳の上に放り投げた恭路が再び耳障りな喚き声を迸らせたが、それもまた一瞬のことである。


「随分と父にこだわりますね。……身を持ち崩して故郷さとから逃げ出した挙げ句、今ではヤクザ者の灰皿代わりにまで落ちぶれたというお父上が恥ずかしくてならないご様子。風の便りでは葉巻の火を頭で受け止めているそうですね?」


 神経を逆撫でする挑発にいきり立ち、希更を押し退けるような形で掴み掛かってきた恭路の両腕を正座したまま掴んだ神通は、その状態から垂直に高く跳ね飛び、中空で彼の身を逆様にすると畳の上に脳天から落下させた。

 大地に突き刺さった氷柱つららの如き有り様である。放り出されていたフォークが軽く跳ね上がるほどの衝撃が恭路の脳を揺さぶったことは間違いなく、泡を吹きつつ今度こそ完全に沈黙してしまった。

 彼の両腕は肘の辺りで交差しており、可動域を封じられていた。回避も防御も不可能な状態で相手を〝捕獲〟し、脳天から逆落としにする投げ技というわけだ。

 もはや、恭路にはすべもなかった。

 円卓よりも高く跳ねた神通は投げ技を完成させたとき、正座から畳に片膝を突ける姿勢へと転じていた。掴み掛かってきた相手の手首を五指でもって掴み、その反動を跳躍力へ換えた後に恭路の身を撥ね上げたわけであるが、当然ながら神通の足のほうが先に地面を踏むことになる。

 片膝で立つ恰好となった神通はを軸に据えて両腕のバネを引き絞り、恭路の垂直落下を更に加速させたのであろう――電知が使う〝柔道の投げ技〟とは明らかに違う術理をキリサメも読み取っていた。


(母さんのパイルドライバーより遥かにえげつないな、今の。両手が使えないから逃げようもないし――というか、神通氏は本当に御剣氏のことが嫌いで仕方ないんだな)


 一瞬の加速が引き出した効果はまたしても壁際まで運ばれていった恭路を見れば瞭然である。本来は硬い場所に投げ落として頭蓋骨を砕くか、角度を調整して頚椎をし折る技なのだろう。


「親父さんの――『きょくちょう』のメンツをツブしやがったら……『てん』の同胞なかまが……黙ってねぇぞ、てめー……」


 余人には意味の通じない呟きを吐き出した直後に意識を失い、介抱もされずに放置される恭路は、むしろ手加減されたほうであった。

 尤も、幼馴染みの情が働いたとは思えない。神通は恭路に対する冷たい嫌悪感を隠そうともせず、「武門の誇りを貶めんとするやつばらほとけごころは無用」という『しょうおうりゅう』の先達の教えまで披露していたのだ。

 面目には法も道を譲るとまで彼女は言い切っている。即ち、〝誇り〟を傷付けてきた恭路は付き合いの長さに拘わらず生かしておくべき相手ではない。

 先程の投げ技で恭路の首を折らなかったのは、秋葉原の〝撃剣興行たたかい〟にいてキリサメが寅之助の頸動脈を『聖剣エクセルシス』で掻き切きれなかった理由と大きく変わらないはずだ。周囲まわりの目さえなければ神通は頭部ではなく喉にフォークを放ったことであろう。どちらを突き刺したほうが確実に致命傷を狙えるのか――改めてつまびらかとするまでもあるまい。


「道場を守り抜くことはわたしには不可能でした。……そうでなければ、吉岡一門を羨む理由もありません」


 道場の継続を問うキリサメに「否」と答える神通であったが、そもそも恭路の介入などなかったかのように振る舞う姿には、隣の円卓の大鳥もさすがに顔を引きらせていた。

 大きな音に驚いて顔を覗かせ、恭路の有り様に全てを察して引き上げていった店員はさておき――ここに至るまでの会話や、を貶めんとした人間に対する苛烈な報復からも神通が『聖王流しょうおうりゅう』の宗家であることは間違いないだろう。

 『しょうおうりゅう』には分派や支流も幾つか存在するようだが、〝宗家〟とはそれらの頂点に立つ正統後継者である。自分や未稲とそれほど離れていない年齢で一流派の歴史を担っているということであった。

 その宗家が道場を閉めるということは、これに連なる諸流派にとっても由々しき事態のはずである。是が非でも存続させるべく資金援助を申し出る声が上がってもおかしくはずだが、現実として宗家の道場を守り抜くことができなかったという。その一言から分派も支流も助けてはくれなかったのだろうと察せられた。

 そのことを恭路は揶揄し続けていたわけであるが、中途半端にしか『あらがみふうじ』の技を受け継いでいないという彼にはそもそも神通を嘲る資格などあるまい。道場の問題を抱えているとはいえ〝宗家〟の立場を得た幼馴染みをひがむ気持ちが大きいのかも知れない。


「……灯台下暗しとは言ったもんだねぇ……」


 神通の説明はなしではなく、彼女によって壁際に押しやられた恭路の呻き声から〝何か〟に感付いたらしい寅之助はそのように呟いたのち、先程までのひろたかと同じように口を真一文字に引き締めて物思いに耽っている。

 傍若無人な彼にしては珍しく、神通の横顔を窺う瞳は躊躇の二字を映している。それはキリサメも同様であった。恭路は意識を失う寸前に『てん』の同胞なかまと言い残していたが、その一言がキリサメと寅之助の二人をる一つの追想へ導いた次第である。

 神通当人は恭路の言葉など聞こえなかったかのような芝居フリをしていた。実際に聞こえなかったのではなく明らかな〝芝居〟である。それが己の見間違いではなかったことを目配せでもってたずねたキリサメに対し、寅之助は誰にも気づかれないよう小さく頷き返した。

 二人が揃って想い出したのは『てんぐみ』という〝武闘集団〟である。改めてつまびらかとするまでもないが、「灯台下暗し」という先程の呟きには『てんぐみ』の関係者が思いも寄らず身近に居たことへの驚愕が込められている。

 関東を中心に大勢力を誇り、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体とも賭博トトカルチョなどの形で結び付いていた指定暴力団ヤクザこうりゅうかい』――当代随一の武闘派を自負し、敵対組織と血みどろの抗争に明け暮れ、警視庁公安部どころか、海外の警察機関にまで危険視されるほど激烈な体質であるというが、その傘下に『てんぐみ』という隊名なまえがあった。

 恭路や寅之助から聞いた断片的な情報しかキリサメは持ち合わせていないのだが、『こうりゅうかい』の指図によって縄張り争いに駆り出される実働部隊の一つであり、裏社会を狩場とする殺し屋デラシネのような人々が群れを成したのであろうと察していた。

 広い意味では同じ〝反社会的組織〟に類されるのだろうが、幼馴染みを奪った故郷ペルーのテロリストとは性質からして異なっているようにも思えた。

 その構成員メンバーを父に持つものとおぼしき恭路は寅之助が『てんぐみ』を「所詮は殺人集団」とせせら笑った際に血走った目で反駁していたが、キリサメは故郷ペルーの最下層を這い回ってきた自分と同じように〝闇〟の中にしか居場所がない集団ひとびとと感じている。

 揃いの黒装束をたいふくと定め、これを返り血で穢してきたという〝武闘集団〟を率いた人物は〝隊長〟ではなく〝きょくちょう〟なる風変わりな肩書きで呼ばれていたそうだ。

 『こうりゅうかい』が新宿御苑で凄惨な内部抗争を繰り広げたこともキリサメは聞いているが、もしかすると『てんぐみ』もそこに巻き込まれたのかも知れない。

 秋葉原までキリサメを誘き寄せ、本気で〝げきけんこうぎょう〟を演じる為、寅之助は『こうりゅうかい』の名を騙ったが、その際に『てんぐみ』についても調べたという。裏社会の存在ということもあり、結局は『仏捨』という二字を隊旗に掲げていたことや幹部たちの肩書きくらいしか分からず、恭路の呻き声を聞くまでは神通の父――哀川斗獅矢が〝局長〟であったとは想像もしていなかったわけだ。

 〝げきけんこうぎょう〟の後、警察の追跡から逃れるべく逃れた先――やぶ整形外科医院で寅之助は院長の藪総一郎にも『てんぐみ』に深入りしないよう威圧されていたが、それには逆らわなかったのである。

 院長室に模造品ではない十文字槍を飾り、営業妨害といった不埒な輩が乗り込んできたときには抜き身の穂先を突き付ける開業医も『てんぐみ』の幹部であったことが窺えた。

 恭路は『しょうおうりゅう』について〝甲斐古流〟筆頭の由緒ある道場と吼えていた。

 法治国家日本にいて真価を発揮する機会もない古武術の使い手たちが群れを成し、暴力性の解放が許される〝反社会的組織〟へくみしたということであれば、哀川斗獅子をはたがしらに据えた点も含めて辻褄が合うわけだ。


「父は他人ひととの諍いを好まない性格でしたので腰が重かったのですが、一度、と草の一本さえ残さないような人でした」


 先ほど神通は父親の気性をそのように言い表していた。

 の表し方としては些か奇妙な言い回しであったが、あるいは『てんぐみ』という武闘集団を束ね、その攻撃力を劫火とたとえるべきモノに換える〝局長〟としての大器うつわまで含めていたのかも知れない。

 哀川斗獅矢ということであれば、鬼貫道明と繰り広げた非公式の異種格闘技戦は約束に基づく〝腕比べ〟であって〝諍い〟ではないということであろう。

 勝敗にかかわらず『昭和の伝説』との一戦という〝実績〟を謳い文句にすれば『しょうおうりゅう』の存在感を内外に知らしめることができる。道場の再興に利用されたことを知って腹を立てるほど鬼貫道明も〝器〟の小さな男ではないのだ。

 つまるところ、くだんの緘口令以外にも喧伝してはならない理由があるということである。そして、は改めてつまびらかとするまでもあるまい。


(世間は狭いというけれど、まさか『てんぐみ』とやらまで点と点を結ぶみたいに繋がるなんてな。何も知らなかった頃は岳氏が懇意にしている医者としか思わなかったけど……)


 『こうりゅうかい』との〝黒い交際〟が暴かれたことによって『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体は黄金時代から一転して凋落し、日本にいて総合格闘技MMAという文化そのものが輝きを失ったことはキリサメも聞いている。総一郎も因縁の相手に含まれるはずだが、それにも関わらず彼の整形外科医院と懇意にしている養父は豪放磊落と呼ぶには余りにも危ういのではないか。


(神通氏が局長の娘だとすると例の歴史学者も反社会的勢力の片割れか? そういう人を歓迎した鬼貫氏もキナ臭いし、……そもそも学者は裏社会から転向できるものなのか?)


 キリサメの脳内あたまのなかでは幾つもの疑問が回転し続けているのだが、『しょうおうりゅう』に関する説明はなしが先に進んでいく為、その内の一つとして確かめることは叶わなかった。

 恭路の呻き声を聞こえなかった〝芝居フリ〟で受け流した意味はキリサメにも理解できる。それ故に詮索を躊躇ためらってしまうのだ。無論、藪総一郎のひげづらも脳裏を掠めている。


「……〝宗家〟を立てるという風潮も昭和くらいまではあったようですが、今はを省みていられるような時代でもありませんから」

「山梨も熊本もその辺りは一緒かぁ。曾祖母の――バロッサ家の総帥を訪ねてくる古流の人たちも大抵、景気の悪い話ばっかりだよ。一〇年ひと昔前に〝古武術ブーム〟で日本中が盛り上がったなんてウソみたい」

「でも、わたしはこれで良かったような気がします。宗家であろうと何であろうと人が集まらなければ仕方ありません。『しょうおうりゅう』もいずれはついえる運命だったのです。……る人には『堕ちたじゃけん』とまで言われてしまいましたし……」


 山梨県の実家に併設されていた宗家の道場は既に跡形もなく、現在は親類の家に程近いアパートで独り暮らしをしながら大学に通っているという。

 関東最強の『こうりゅうかい』はその山梨県を根拠地にしており、総一郎も〝こうしゅうばく〟のすえと呼んでいる――もはや、キリサメは神通の一言一言に『てんぐみ』を連想してしまうのだ。

 『聖王流しょうおうりゅう』を邪悪なけんと蔑まれた経験こともあると神通は自らを嘲るように呟いたが、その言い回しすらも指定暴力団ヤクザとの繋がりを指しているとしかキリサメには思えなかった。揶揄こそしなかったものの、寅之助も同様であろう。


「でも、あのとき、バロッサさんを助けた裏十字は寒気がするほどはやかったですよ。日頃から稽古していなければ、あんな動きは絶対できませんよね。一日でもサボると技はすぐに錆びて鈍ってしまうって、うちの父も言ってます」


 重苦しい気持ちを抱えながら神通を見つめるキリサメに対し、隣の未稲は甲冑格闘技アーマードバトルに『聖王流しょうおうりゅう』の可能性を感じている為に声の調子まで前のめりであった。

 つい先程までキリサメを巡って神通へ対抗意識すら見せていた姉の変調にひろたかは目を丸くしているくらいだ。


「口ではついえる運命と言いながら、にしがみつくのは愚か者かも知れませんけど、祖先が代々に亘って受け継いできたものはどうしても手離せませんでした。……時代を言い訳にしてしまったら、ご先祖に申し訳が立ちません」

「そっか、今も出稽古に通ってるって言ってましたよね、さっき……」

「ええ、最後の継承者として技だけは損なわないよう常に修練は怠りません」


 少し時間を置いただけで技は衰えるという未稲の指摘に対し、神通は『しょうおうりゅう』という古武術の後継者として応じている。


「先祖に顔向けできないという考え方自体、ただの呪いかも知れません。人から見れば思考停止も良いところでしょう。……でも、わたしには自分に流れるを敢えて否定する理由が見つかりませんでした――」


 先祖代々の流派に囚われる己の生き方を否定するような口振りではあるものの、神通自身は一言一言を毅然と紡いでおり、誰もが見入ってしまうほどに凛々しかった。

 いずれは消えゆく古武術に最後の正統後継者として殉ずる覚悟を秘めているのだろう。そして、それこそが己の運命と受け入れている様子であった。

 哀しいくらいに潔く、どこか痛ましい佇まいである。


「祖先から受け継いだ流派の為に、……今はこういうところに所属しているのです」


 一礼を挟みながら手元の皿を脇へ寄せたのち躊躇ためらいがちに自分のハンドバッグへ手を差し込んだ神通はてのなかに収まる大きさのケースから一枚のカードを抜き出し、皆に見えるよう卓上に置いた。

 公衆電話で用いる〝テレカ〟であった。

 キリサメ自身も亡き母親も一度として使ったことがなく、幼馴染みが金券の代用かわりとして調してきた闇市ブラックマーケットの〝売り物〟でしか見たおぼえがなかったが、裏面に印字された固有番号を通話の前に入力するという使い方だけは知っている。

 日本のテレカも故郷ペルーのようなプリペイド方式であるのか、表面おもてを見ただけでは判らないのだが、現在いまのキリサメにはめくって確かめるだけの余裕もなかった。しかし、それは誰もが同様であろう。


「イラプ……ッ⁉」


 隣の円卓から身を乗り出し、を覗き込んだひろたかが素っ頓狂な声を上げた。彼ばかりでなく『天叢雲アメノムラクモ』に関わる皆が一斉に息を呑んだ。

 ノベルティグッズの一種とおぼしき黒いテレカの表面には火山の紋様が――地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』のロゴマークが刷り込まれていたのである。


「……えっ? 今までみんな、を知らなかったの? 『天叢雲アメノムラクモ』のセキュリティはガバガバってさっきも言ったけどさぁ、それにしたって間抜け過ぎでしょ」


 かつては同団体と深く関わり、所属選手とも親交がある寅之助は神通が『E・Gイラプション・ゲーム』のテレカを取り出したことへ取り乱すはずもなかった。最初から所属先を把握していたのだから当然であろう。つまり、彼だけ他の面々とは驚いた理由が違うのだ。を既に承知しているものと思っていたわけである。


(――そうか。電知が御剣氏に言っていた山梨出身の知り合いは神通氏のコトか。……それにしたって、どこをどう見たら可愛げがないって気持ちになるんだ……?)


 キリサメもまた神通が『E・Gイラプション・ゲーム』の選手であったことに愕然とし、普段は半ばまで閉ざしている瞼を大きく開いたのだが、故郷ペルーの裏路地で不意打ちに慣れていることもあり、一秒と経たない内に冷静な思考を取り戻した。

 むしろ〝点〟と〝線〟が繋がったという思いのほうが強い。先祖から受け継いだ流派の為に修練は怠らないという神通本人の言葉も、『ダイニングこん』で電知が親しそうに話しかけていた理由も、上下屋敷と友人関係ということも全て合点がいった。


「……試合観戦というのは本当なのでしょうね?」


 大鳥の声が俄かに冷気を帯びたのは当然であろう。彼の担当声優は『天叢雲アメノムラクモ』長野興行の直後、『E・Gイラプション・ゲーム』から差し向けられた三人の刺客に取り囲まれ、危害を加えられそうになったのだ。

 展望カフェの和室に西洋の剣を持ち込んでいたならすぐさま左手で鞘を握り締め、対の五指をツカに引っ掛けていたことだろう。甲冑格闘技アーマードバトルに己の剣を捧げる騎士の友人として神通の話に耳を傾けていたが、『E・Gイラプション・ゲーム』という団体名なまえが飛び出した瞬間に声優事務所のマネージャーに戻ったのだ。

 真横から突き刺すような殺気に対し、神通は手元のフォークを取ることもなく頷き返して見せた。己が希更を狙う刺客でないことも、電知たちの襲撃に与していないことも、彼女はこの静かな行動一つで示した次第である。

 一瞬たりとも言い淀むことのなかった神通の態度に得心したのだろう。大鳥は仕切り直しのような咳払いを一つだけ挟み、比喩でなく本当に背広の襟を正した。無論、彼女が希更への害意を仄めかしていたなら、内ポケットに隠し持った伸縮式の特殊警棒を迷わず振り出したに違いない。

 希更を包囲した襲撃者の一人――上下屋敷から未稲の携帯電話スマホ宛てに返信メールが届いたのは、隣の円卓へ腕を伸ばした希更が「未成年じゃないんですから、社長だって過保護は求めてないハズですよ」と現場マネージャーの肩を小突いた直後である。

 皆に背を向けるように返信内容を確認する未稲であったが、神通が奥州市へ足を運んだことへの驚愕と、『E・Gイラプション・ゲーム』に属する古武術使いという本人から聞いたばかりの説明が記されているのみであり、その文面に新しい情報は一つとして含まれていない。

 未稲が目を見張ったのは電子メールに添付されていた一枚の画像である。リングサイドから撮影したものとおぼしき試合の写真であった。


(言っちゃ悪いけど、こういう意識の違いで〝プロ〟と〝アマ〟に差が出ちゃうなぁ。リングサイドで気ままに写真撮影なんて『天叢雲アメノムラクモ』じゃ出入り禁止コースだよ)


 地下格闘技アンダーグラウンド――即ち、〝アマチュア団体〟の試合らしく〝プロ団体〟である『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場とは比較にならないほど小さな体育館に四角いリングを設置しているようだ。

 上下屋敷の写真から伝わってくるのは興行規模の差だけではない。『天叢雲アメノムラクモ』が観覧席を設置して大勢を迎えるのに対し、『E・Gイラプション・ゲーム』はリングサイドにまで立ち見客が詰め寄せて応援の拳を突き上げているようだ。

 つまり、選手と観客が異常に近いということである。加えて、明らかに報道関係者ではない一般人がカメラや携帯電話などを選手へ無遠慮に向けていた。物理的な距離という安全面の問題は言うに及ばず、掲載権・広告権といった〝利権〟がリング上に横たわる〝プロ団体〟の興行にいては資格を備えていない限り、如何なる撮影・録音も認められないのである。これに違反した場合、刑事事件にまで発展してしまうのだった。


 「『ハルトマン・プロダクツ』の関係者ひとたちが見たら絶対ブチギレるよ、コレ」と心の中で呟きつつ液晶画面に表示させた写真には『E・Gイラプション・ゲーム』のリングで闘う神通が映っていた。

 今日は淡い桜色のブラウスに若草色のロングスカートを合わせているが、地下格闘技アンダーグラウンド戦場リングに立つ神通は古武術家の出で立ちであった。紺色の袴を穿き、同じ色のどうの袖をなびかせるようにして対戦相手へ右拳を突き込んでいる。

 格闘技と接点がない人間の目には撮影に失敗した一枚としか見えないだろう。神通の勇姿を写真の中央に捉えておらず、拳を叩き込まれた相手と一緒に右端まで飛び出しそうになっているのだ。

 その見切れてしまった写真に未稲は哀川神通という古武術家の力量を感じ取っていた。残像を引き摺るような形で相手の懐に飛び込んでいるのだが、それはつまり、携帯電話のカメラでは正確に捉え切れないほど神通がはやいというあかしである。

 襟足の辺りで一つに束ねた髪は長い尾の如く写真の左端へと流れ、くうに溶け込んでいるようであった。神通本人から教わったのであろうか、相手の胸部を穿つ武技について上下屋敷は『りゅうげき』なるわざをメールに記していた。

 術理に関する詳しい解説はなかったが、全身のバネを引き絞ることによって稲妻の如く跳ね飛び、一気に間合いを詰めつつ拳を突き込む技――と未稲は分析した。上下屋敷が撮影を試みたときには既にレンズの中央を横切った後であったのかも知れない。やや離れた位置から相手の虚をくようにして仕掛けるのであろう。


「ハッキリ書くのはちと悔しいがよ、ぶっちゃけ、オレだって一度も勝ったコトがねぇんだよ。頭おかしい技だけじゃねぇぞ? 神通本人が身も心も人間離れしてやがんだ。あいつこそマジでりんだぜ」


 電子メールの文中なかで上下屋敷は〝同僚〟を伝説の聖獣と伝わる〝りん〟にたとえ、所属団体にいても空閑電知と最強の座を争うほどの力量であると讃えていた。

 未稲の胸が一等高鳴ったのは言うまでもないだろう。凛々しい表情かおで『しょうおうりゅう』の武技を披露する神通の拳は指貫オープンフィンガーグローブやバンテージに防護まもられてはいなかった。文字通りに生身のまま闘争本能をぶつけ合っているのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』との対立関係もあり、未稲も地下格闘技アンダーグラウンドについて無知というわけではなく、危険なルールを採用してることも承知していた――が、神通の試合たたかいはどうであろうか。選手の安全に配慮した〝プロ団体〟の興行では決して見ることのできない原始的な〝喰らい合い〟はキリサメと電知が長野で繰り広げた路上戦ストリートファイトにも近いものがある。

 事実、写真に映る神通は綺麗な拳をドス黒い血の色に染めているのだ。


(私の心を――ううん、哀川さんの運命を交響詩フィンランディア甲冑格闘技アーマードバトルに導いているよっ!)


 この直後、未稲の脳裏に甦ったのはアーマードバトル第一回世界大会で行われたる試合の一幕――ラ・マンチャ地方の空で〝あまかける鶴〟の如く舞い踊った一人の騎士である。

 鎧の上から纏ったころもは青十字旗の模っており、これによって両手持ちの長剣ロングソードを握り締めるがフィンランドの代表選手であることを表していた。

 三対三の形式にて行われる女性選手の団体戦メーレーであった。くだんの〝姫騎士〟は二人の仲間を置き去りにして単騎ひとりで敵陣へ斬り込んでいったが、その攻防に未稲はすっかり心を奪われていたのである。

 相手の翳した盾に己の刃を振り落としたかと思えば、接触した一点を軸に据えて己の身体を持ち上げ、宙を舞って背後へと降り立ち、瞬く間にこれを討ち取っていく。

 板金鎧プレートアーマーを打ち据えることで長剣ロングソードが奏でる金属の音色には鼻唱が混じっていた。祖国フィンランドける第二の国歌――ヤン・シベリウスが作曲した交響詩『フィンランディア』の旋律リズムに乗せて刃を閃かせているのだ。

 武骨な鎧兜で全身を包んではいるものの、中世ヨーロッパの貴族を彷彿とさせる優雅な振る舞いであった。

 地下格闘技アンダーグラウンドのリングに立ち、殺傷ひとごろし武技わざで拳をけがす神通とは正反対の害術的な太刀筋であるが、その凛々しい佇まいが未稲には同じ魂を分かち合っているとしか思えない。だからこそ上下屋敷から送信おくられてきた写真を眺めている内にどこからともなく『フィンランディア』が聴こえてきたのである。

 兜を外した瞬間に内側から黄金色の長い髪がこぼれ、神の手による彫刻としかたとえようのない乙女が現れたのだが、その儚げな面持ちもまた神通と良く似ていた。

 両者は年齢も変わらないはずだ。くだん団体戦メーレーをタブレット端末で視聴した際、同大会に出場した筑摩依枝から教わった話によれば〝姫騎士〟も現役大学生であり、フィンランドでは〝北欧のスーザン・ボイル〟と呼ばれる声楽家でもあるそうだ。

 現状いまのままでは長剣ロングソードの〝姫騎士〟と古武術の宗家による変則的な異種格闘技戦でしかないが、二人揃って甲冑格闘技アーマードバトルの戦場に立てば格闘技史に刻まれる一戦となるはずだ。

 個人戦デュエルでも観客たちをことごとく魅了した〝北欧のスーザン・ボイル〟は本名をヤスミン・レンタヴァクルキという。

 未稲はプロモーターではなく、ましてや甲冑格闘技アーマードバトルの関係者でもない。それにも関わらず、ヤスミンという名前が神通と並ぶ瞬間を妄想してしまう理由は「八雲岳の実娘むすめ」という一言で説明も済むことであろう。胸躍るような闘いを求める〝血〟を彼女は色濃く引いているのだ。


「ジンジンってば人が悪いなぁ~。もっと早く言ってくれたら良かったのに~」


 一方の希更は警戒を解き切れないらしいマネージャーを尻目に真隣のへ頬擦りし続けている。

 一度は『E・Gイラプション・ゲーム』の選手から身辺を脅かされそうになり、続く〝代理戦争〟をも目の当たりにしながら彼女自身は神通の所属先など気にも留めていない様子であった。

 もっと早く言ってくれたなら――希更の言葉には未稲も賛成だった。鬼貫が経営する異種格闘技食堂で初めて逢ったときに『しょうおうりゅう』のことまで話してくれていたなら、後日に開催されたゲーミングサークルのオフ会で筑摩に甲冑格闘技アーマードバトルへ誘うべき逸材を教えることができたはずだ。


「……『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』は団体間で未だに緊張状態が解けてはいませんので、明かさないほうが良いのかと悩んでいたのですが……」

「その『E・Gイラプション・ゲーム』で選手をしている電知は僕の親友です。……僕なんかの親友でいてくれます。団体の事情は関係ありません。神通氏と僕たちもそれは変わりません」


 『E・Gイラプション・ゲーム』による悪質な妨害工作が繰り返されている『天叢雲アメノムラクモ』との対立関係に神通は所属選手の一人として蟠りを抱いている様子であった。その躊躇いがちな告白を努めて明るく受け止めようとする希更に思わず割り込んでしまったキリサメは「はこれからも何一つ変わりません」と何時になく強い声で言い切った。

 その言葉には親友と呼ぶことを躊躇う理由のない電知への思いだけでなく、日本MMAの天敵である『こうりゅうかい』――指定暴力団ヤクザと神通の間に何らかの繋がりがあるとしても自分たちの交流は影響など受けないという決意表明が込められている。

 神通の側は幼馴染み以外の人間が『てんぐみ』のことを知っているとは想像もしていないだろう。それ故、この場でキリサメの思いに感付いたのは寅之助ただ一人である。

 「今のを電ちゃんが聞いたらきっと感極まって泣いちゃうよ。サメちゃんのそういうトコ、妬けちゃうねぇ」と大仰に肩を竦めることで皮肉に代える寅之助であったが、その意味は当然ながらキリサメにしか通じなかった。


「もう少し言葉を選んでください、アマカザリさん。美しい友情を否定するほど自分も野暮ではないつもりですが、個人の気持ちはともかく哀川さんが『E・Gイラプション・ゲーム』の一員であることに変わりはないのですよ? 自分の立場としてもはさすがに庇い切れません」

「大鳥さん、自覚なさそうだけど、そこをツッコむ時点でもう十分に野暮ですよ。キリキリの言う通り、主催側の思惑なんかにあたしたちの友情は負けないですよ」

「たまに自分だけ危機意識が空回っているように思えてなりませんがね、〝何か〟が起きてからでは遅いのですよ。……失礼ですが、哀川さん――明日、一緒に興行を観戦されるのは『E・Gイラプション・ゲーム』のお仲間ではありませんか?」

「仰る通りです。……隠しても仕方ありませんし、それは皆さんに不誠実ですね」


 興行イベント当日に神通と行動を共にするのが『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーであることを本人から聞き出した大鳥は「応援を頼みたくなってきましたよ。『バロッサ・フリーダム』の皆さんにはセコンドでなく警備に回って貰いましょう」と、冗談としては余りにも手厳しい皮肉を担当声優に飛ばした。

 大胆不敵にも地下格闘技アンダーグラウンド団体は激しく対立する『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場に大人数で乗り込んでくるつもりである。しかも、首都圏から東北への遠征であった。指定暴力団ヤクザであったなら、誰もが襲撃事件の前触れと見なすはずだ。

 が警戒心を強めてしまうのも無理からぬことである。自分たちの前に飄然と現れた哀川神通は新たな刺客ではなく、この場に居ない電知も二度と襲撃を企てないと分かってはいるのだが、『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の対立関係が解消されない以上は別の選手が差し向けられる可能性を捨て切れないのである。

 希更自身にも知らせないまま声優事務所が秘密裏に行った調査によれば、『E・Gイラプション・ゲーム』は以前に『こうりゅうかい』傘下であったカラーギャングと抗争に及び、返り討ちにしてからは〝使い走り〟のように扱っているという。選手の代わりに非行少年が『天叢雲アメノムラクモ』に襲い掛かるかも知れない。

 キリサメが述べた通り、哀川神通や空閑電知といった選手個人に好感を抱いていないわけではない。しかし、それが『E・Gイラプション・ゲーム』という団体に対する信用の担保とはなり得ないのだった。


「あのチビッ子みたいなヤツらがまた襲ってきたら、今度こそ『神槍ダイダロス』で相手になるわ。ジンジンとあたしの絆に喧嘩を売るのと同じだもん。三倍返しでお仕置きだわ」

「暴力沙汰だけは勘弁してください、バロッサさん。……『ウォースパイト運動』をお忘れではないでしょう? 格闘技界周辺で物騒な事件が立て続けに起きているのですから、下手をすれば芸能人生を縮めるだけでは済みませんよ」


 大鳥の懸念とは正反対に希更当人は不敵な笑みを浮かべている。降り掛かる火の粉を自ら払う気性だけに『E・Gイラプション・ゲーム』上層部の命令でカラーギャングがリングまで踏み込んできたときにはムエ・カッチューア本来の姿を解き放ち、足元に血の海を作るだろう。

 あるいはセコンドに付くという彼女の母親――ジャーメイン・バロッサが娘に代わって無法者アウトローたちを膝蹴りで返り討ちにするのかも知れない。


「……もしかして、電知も岩手こっちに来るんですか?」


 神通が『E・Gイラプション・ゲーム』の関係者と共に『天叢雲アメノムラクモ』の興行を観戦すると明かしたとき、キリサメの脳裏には真っ先に電知の顔が浮かんでいた。彼の性格と行動力を考えれば自転車ママチャリに打ち跨り、溌溂な笑顔を弾けさせて奥州市に駆け付けてしまうだろう。

 何しろ伝説の足跡を辿り、前田光世コンデ・コマの故郷である青森県弘前市まで自転車ママチャリを走らせた少年である。親友キリサメにとっても誇らしいことであるが、その情熱溢れる行動は東北で語り草となったらしく、奥羽山脈をも飛び越え、岩手県陸前高田市の柔道場まで届いていた。


「サメちゃんだってそろそろ電ちゃんの性格は理解わかるでしょ? それともきっと応援に来てくれるって夢てる? 本気で岩手こっちに来るならつもりだったら、今頃はサメちゃんの隣に座ってるハズだよ。お姉ちゃんか弟ちゃん、どっちかの間に物理的に割り込んでさ」


 先程のように目配せでもって寅之助に一つの答え合わせを求めると、今度はおどけた調子で肩を竦めて見せた。『てんぐみ』――即ち、日本MMAの天敵たる指定暴力団ヤクザと神通の関わりを皆に気取られないよう口を閉ざしたときとは正反対に饒舌である。

 改めて確認するまでもなく分かっていたことだった。神通と共に岩手興行を観戦する予定であれば、八雲家が東京を発つ当日の朝にわざわざ見送りに駆け付けるはずもないだろう。何よりも彼は親友を騙してまでサプライズパーティーを仕掛けられるような人間ではないのだ。寅之助が述べた通り、どこまでも一本気なのである。

 キリサメもまた電知を唯一無二の親友として想っていればこそ、有り得ないと分かっていながら万が一の可能性に期待してしまうのだ。デビュー戦を勝利で飾るという約束はリングサイドの特別席で見届けて欲しい――そのように願う気持ちは未だに抑え込めていないのである。これは寅之助どころか、未稲にさえ打ち明けていなかった。


「前回の興行で――『E・Gこちら』の試合で顔を合わせたときには歯軋りして悔しがるくらい来たがっていましたが、家業いえのしごとが忙しくてどうしても抜けられないそうで。自分の都合なのに『どうしててめーらだけ良い思いするんだよ⁉』と恨み言をぶつけられて大変でした」

「ですよ……ね? 僕も大工の仕事を優先させなきゃならないと聞いています。大切な試合だから絶対に現地で応援したかったと、そういってくれるだけで十分ですけど……」

「キリサメさんは本当に空閑のことがお好きなのですね。少し妬けてしまいます」

「だって、相手は電ちゃんだよ? ボクやサメちゃんだけじゃなく誰だってときめかずにはいられないでしょ? 電ちゃんの魅力に気付かない人間はどいつもこいつも思考あたまの回路が壊れちゃってるのさ。哀川キミも含めて五感が一つ残らず逝っちゃってるんじゃない?」

「神通氏は僕に質問してくれたんだぞ。どうして寅之助が代わりになれるんだよ。……基本的にはウザったいんだからな、電知あいつは」

「ま~たそんなツレないコト言っちゃってさ。押してダメなら引いてみろってヤツ? 小賢しい手で気を引こうとするからサメちゃんも大工の仕事に勝てないんだよ。マレーネ・ディードリヒって大昔の女優は『朝四時に電話で呼んで、来てくれるのが親友』と言ったそうだよ。電ちゃんにとってサメちゃんの値打ちもたかが知れるね! 名ばかりの親友ってバレちゃった気持ちをど~ぞ」

「電知はその早朝に見送りに来てくれたし、そもそもディードリヒの格言は『午前四時に電話できる友人が大切』――だろう? 捻じ曲げて使うな。……それに仕事を放り出して自分の趣味に走る電知なんか寅之助も見たくないだろう? そんなの電知アイツらしくない」


 電知という共通の親友を挟んで繰り広げられるキリサメと寅之助の言い合いを傍らで眺めていた希更は「愛とは愛されることを楽しむこと。愛されることを待つことではない」と往年の大女優マレーネ・ディードリヒの格言をもう一つ引用し、二人の様子からその意味を初めて理解できたような気がする――と、おどけた調子で肩を竦めて見せた。


「そして、『不平が出るようになれば愛はおしまい』――つまるところ、アマカザリさんと瀬古谷さんの勝負に終わりはないということですね。永遠にやっていて下さいと申し上げたいところですが、すっかり置いてきぼりの哀川さんがいい加減、気の毒ですよ」


 一種の落としどころとして大鳥が往年の大女優マレーネ・ディードリヒの格言を更に重ね、二つの円卓で一斉に苦笑いが起きた。


「手に職のある空閑がわたしには眩しく見えますよ。……学費は親の遺産や兄の――義理の兄に支援たすけて貰って何とかなっていますが、お恥ずかしい話、生活費は『ダイニングこん』の仕事アルバイトで何とか工面している状態なので……」


 〝家業〟という名の安定した職が約束されている電知を羨ましがる神通が「遺産」という二字を口にした瞬間、俄かに和んだ空気が凍り付き、キリサメは思わず息を呑んだ。


「もしかして、その、……神通氏のご両親は……」

「キリキリ、それは――」

「母は、……いません。父は――わたしの前の宗家は、他流試合を挑んできた拳法家おとこと立ち合って命を落としました。もう何年も前のことですけどね」


 『天叢雲アメノムラクモ』のように選手の安全がルールによって約束された〝試合〟ではなく、指貫オープンフィンガーグローブを使用しない素手の潰し合いまで許される『E・Gイラプション・ゲーム』さえ超越した極限的な境地――人はそれを〝あい〟と呼ぶ。

 比喩などではなく全身全霊で互いの命を喰らい合う〝あい〟の中で神通の父親――哀川斗獅矢は絶命したという。

 地元警察すら取り締まることを諦めてしまった暴力の餌食となるか、格差社会を蝕む病理に呑み込まれて餓え死にするか――くらく冷たい裏路地に放り出され、おびただしいバラック小屋がへばり付いた剥き出しの丘より吹き降ろす風で砂色サンドベージュに塗り潰されていく骸の有り様はともかくとして、故郷ペルーでは人の命がちりあくたも同然であった。

 非合法街区バリアーダスの共同墓地を根城にし、昼も夜も絶え間なく無法者アウトローたちからナイフや拳銃で脅かされてきたキリサメにとってはありふれた〝日常〟に過ぎないが、は法治国家日本である。それにも関わらず、他流試合の末に死神スーパイの呼び声に捕まってしまうとは異常事態としか表しようがあるまい。

 その凄絶なる末路を実の娘はあっけらかんとも取れる調子で語ったのだ。尊厳と共にる人の命の重みを理解し得ないキリサメでさえ面食らってしまった。

 無論、キリサメの〝感覚〟を共有し得ない人々も同様である。

 つい先程までは耳障りでしかなかった御剣恭路の喚き声が神通の話に偽りがないことを証明していた。思えば彼は一貫して〝生前の哀川斗獅矢〟を語り続けてきたようにも思えるのだ。隠されていた〝意味〟が今になって解き放たれ、誰もが言葉を失った。

 両親の不在に父の死という神通の事情を把握していたのは以前からの知人である寅之助のみであったが、人間ひと一人の命が関わる内容ことだけにこれを揶揄しようとはしなかった。

 彼もまた〝古い道場〟の跡取りであり、〝公式大会〟の規則と相容れない〝実戦〟の技を継いでいる。それどころか、太平洋戦争当時の日本にいて敵兵を斬り殺す為に教え広められた『せん剣道』まで体得しているのだ。一人の剣道家として神通の父が迎えた運命を誰よりも身近に感じていることであろう。

 依然として意識を取り戻す気配のない恭路は〝御剣家の流派〟に対する習熟の度合いは言うに及ばず、武術家としての気構えすら全く不足していた。


「……今の話をあたしの父が聞いたら、どんな見解を弾き出すことやら。法律事務所自体はスポーツ専門じゃないんだけど、『格闘技医学』の勉強会にも積極的に参加してるし、試合中の事故にはすっごくなんだよ。特に安全性を保障しない試合にはね」


 〝あい〟の果てに神通の父親が辿った運命を山梨から遠く離れた熊本で生まれ育った希更が知る由もない――そのはずであるが、彼女の反応は何とも奇妙であった。

 他の人々と同様に双眸を見開いたということは、少なからず驚きはしたのであろう。しかし、それも一瞬であった。遠い日に聞いた風聞うわさの答えを得たかのような表情かおに変わり、周囲まわりが動揺する只中で神通を静かに見つめたのである。

 しかも、先程は神通に対して両親の健在をたずねたキリサメを引き留めようとしている。古武術界の窮状を語らう間は控えていたが、今では『しょうおうりゅう』の近況を探るような眼差しに戻していた。


「他流試合にどのような見解をお持ちか、一人の武術家として興味を惹かれます。おそらく我が父とオーナーの一戦もご存知でしょうし……」


 希更の真意は言うに及ばず、微妙な変調にも勘付いていない神通は〝友人〟の父親が法律の専門家としての視点から他流試合へ如何なる見解を持つのか、そのことにこそ興味を惹かれている様子であった。


「あたしと同じようにウワサで聞いた程度だけど、『どちらが死んでも遺恨なしという口約束は漫画コミックだから通じる世界で、責任ある立場のプロレスラーとして有り得ない』とかなんとか、レモンを丸かじりしたときよりシブい顔してたよ? 曾祖母――総帥ノラ・バロッサには『バロッサ・フリーダム』の顧問弁護士として甘過ぎるって逆にお説教されたけど」

「希更さんのお父上と同じようなことを『しょうおうりゅう』の師範おとなも言っていましたよ。確か担当検事の方も。……他流試合のは塾頭たちがしてくださったので、正直、細かいことはわたしも完全には把握していません」

「……穿り返すのは自分でもどうかと思うんだけど、その塾頭さんが例の他流試合でも立会人を務めたのかな? 多分、宗家道場で指導していたんだよね?」

「いえ、あの〝死合たたかい〟は別の方に見守って頂きました。亡き父の片腕でもあった塾頭はわたしの義兄あにと一緒に宗家道場の存続にも力を尽くして下さったのですが、……ひとたび、傾いた財政ものを建て直すのは如何ともしがたく……。現在いまは道場に拘らない保存会の形で流派をお守り頂いております」


 〝他流試合の後始末〟という遠回しな表現が意味するのはただ一つである。

 過失であろうと事故であろうと、法治国家日本で〝殺人〟が起きたのだからという事態まで発展するのは当然であった。そして、その前段階には警察も介入しているはずだ。

 尤も、格闘技の〝他流試合〟に係わる刑事司法手続へ注目した者は寅之助も含めて一人もいなかった。不意打ちのような衝撃で打ちのめされたのだから、混乱から立ち直るには相応の時間を要するわけだ。

 年齢不相応なくらい落ち着いているひろたかでさえ、膝の上に置いていた中世日本の学術書を神通に向けて掲げることしかできなかった。

 『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』なる書名と共に表紙へ刷り込まれているのは〝俗名〟ということになるのであろう。


「じゃ、じゃあ、哀川斗獅矢先生は本当に……」

「父が遺した数少ない単著ほんを大切にしてくださってありがとうございます。余りに生々しくなってしまうので先程の説明はなしでは割愛したのですけれど、勿論、印税も遺産に含まれています。弟さんのお陰で今朝も美味しいクラブハウスサンドを頂くことができました」


 冗談めかして微笑みかける神通と、返答に窮した様子でを受け止めるひろたかを交互に見比べる希更は何ともたとえようのない表情であった。

 この直前のことであるが、〝他流試合の後始末〟を『しょうおうりゅう』の塾頭や師範おとなたちが取り仕切ったという神通の説明はなしにも〝何事か〟を得心したように小さく首を頷かせていた。

 希更の父親が解決に導いた〝民事事件〟は熊本県から遠く離れた山梨県でも注目されていた。その一方、鬼貫道明と闘った『しょうおうりゅう』の存在を把握している人々でさえ先代宗家の命が奪われた〝殺人事件〟は知らなかった。

 どちらも日本の武術界を震撼させる出来事に変わりはないはずだが、その内の片方だけが外界そとに伝わっていない。おそらくは古武術を統括する協会すら掴んでいないはずだ。山梨県外まで広まる前に〝えざる手〟でもって握り潰されてしまったのであろう。

 神通の年齢を考えれば父親が命を落としたのは〝インターネット〟が一般に普及し、大型電子掲示板などに真偽不明の匿名情報が飛び交うようになった後のことであろう。〝パソコン通信〟すら盛んではなく、緘口令によって人の口に戸を立てることが不可能ではなかった『昭和』とは違うのだ。

 それにも関わらず、古武術界の醜聞として報じられてもおかしくない深刻な事件が今日まで隠蔽されてきたのである。不可解としか表しようのない情報工作を取り仕切ったのが『しょうおうりゅう』の塾頭たちであることは疑いあるまい。

 つまるところ、バロッサ家の一族むすめはそのを確かめたようなものであった。


「哀川先生の著書ほんは他にも何冊か、家の本棚にありますよ。半分以上は〝お師匠〟という方との共著ですが……」

「父はその〝お師匠〟が好きで好きで仕方ない人でしたから喜んでいると思いますよ」

「共著の学術書ほんは二、三年に一度のペースで刊行されているようですから今でも健在と思い込んでいました。……まさか、鬼籍に入られていたなんて……」

「優しい〝お師匠〟が父の研究を引き継いでくださったんです。今も〝共著〟という形にして頂いていて、それで……」


 キリサメを間に挟む恰好で同じ円卓に着いている姉から何事かたずねるような眼差しを向けられたひろたかは、己の知識を頼られていると理解しながらも首を左右に振るしかない。

 姉が無言で寄せてきた問い掛けも正確に読み取っている。どこか前のめりとも感じられる視線に促され、ブックカバーの折り返し部分に刷り込まれた経歴を改めて確認したが、著者の生死など記されているはずもなかった。

 日本格闘技界と関わりが深い姉弟ふたりの耳にも『しょうおうりゅう』を巡る悲劇は届いていなかったようだ。〝何事か〟を胸に秘めているとしか思えないバロッサ家の一族むすめ――希更とは正反対の様子とも言い換えられるだろう。


(……母さんが死んだ後、僕でさえもう少し引き摺ったものけどな……)


 己の頭越しに交わされる声なき会話を受け流しつつ、キリサメは実父の最期を他人事のように明かしていく神通の心を覗き込もうと試みていた。その表情かおを直接的に見つめることははばかった為、視線は自然と下がっていく。

 やがて捉えた木札のペンダントには架け橋を模ったものとおぼしき紋様が墨でもってえがかれている。

 養父のように何事にも感動してしまう夢想家ではなく、スケッチブックに鉛筆を走らせることを趣味としていながら創造性と結び付く感性に富んでいるとは言い難いキリサメであるが、架け橋の紋様には武術家たちの〝語らい〟を重ねていた。

 即ち、のうろうが柔道を完成させる中で到達した『相互理解』の理念である。電知との〝語らい〟を血肉に変えたからこそ湧き起こった心の働きであった。

 しかし、神通の父が臨んだ〝あい〟は柔道の創始者が目指した理想とは真逆のものだ。その〝柔道〟は〝古流柔術〟を起源としているのだから、時代を逆行しているとも言い換えられるだろう。

 二人の武術家が全身全霊で立ち合う以上、行き着く先に死が待ち構えているのはであり、そこに遺された者の感情など差し挟む必要はない――そのように神通は割り切ってしまっているのだろうか。

 おそらくは鬼貫道明ともプロレスから掛け離れた〝あい〟を繰り広げたはずである。

 互いに瀕死の重傷を負ったことがその証左である。本人は搬送先の病院から姿を消し、診断記録すら喪失うしなわれた為、哀川斗獅矢については怪我の程度が判らないものの、『てんぐみ』あるいは『こうりゅうかい』が関与したことは間違いあるまい。

 法律事務所を営む希更の父親が〝闇〟に生きる者たちの暗躍を知れば、哀川斗獅矢にも鬼貫道明にも呆れを通り越して怒りすら覚えることだろう。

 自らの命をたねせんとした賭博にも等しい〝あい〟を幾度も繰り返していたとすれば、いずれは〝その瞬間とき〟を迎えるであろうという覚悟も済んでいたはずだ。あるいは喪失の痛みにまで鈍くなってしまうほど魂を諦念に蝕まれていたのかも知れない。


(……僕は何をそんなにのぼせ上がっているんだ? まともに挨拶したのは今日が初めてなのに……それなのに、どうして僕は――)


 キリサメにも埋め難いほどの虚無は理解できなくもない。それどころか、他の誰よりも神通の魂に寄り添えると錯覚しそうになるくらいであった。

 己と同じ〝血〟を吸った『聖剣エクセルシス』を担ぎ、『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトでは〝我流〟と曖昧な表現によって紹介されている喧嘩殺法をふるい、全身を罪の色に染めてきたが、そのたびに命と向き合う感情が削り取られていったのである。

 神通自身が〝あい〟に身を投じ、生と死が鼻先ですれ違うような状況を経験したのか否かは大きな問題ではあるまい。我が身に血を浴びなくとも『しょうおうりゅう』が殺傷ひとごろしの技であることをこの〝宗家〟はとして知っているのだ。

 キリサメには彼女の凛々しい佇まいが虚無の顕現あらわれのように思えてきた。

 しかも、『てんぐみ』局長の娘の肩越しに指定暴力団ヤクザという〝闇〟がキリサメにはえるのだ。故郷ペルーという社会まちを脅かしていた存在と大きく変わるものではなく、忌々しくも懐かしく感じてしまうのだった。


「自分の勝手な想像に過ぎないので気分を害してしまったら申し訳ないのですが、経済的な事情以外にも道場を辞めた理由があるのでは? 例えばそう……〝不敗伝説〟が途絶えてしまって、それで門を閉ざさざるを得なくなったということは――」


 荒唐無稽な登場人物と筋立てによって一時代を築き、日本の漫画文化を牽引したくにたちいちばんの作品にも通じる妄想と先に誤ったのち、大鳥は父親の死が道場の閉鎖に決定的な影響を与えたのではないかと、努めて抑えた声で神通にたずねた。

 彼女を真っ直ぐに見つめながら問い掛けることができず、窓の向こうの街並みに目を転じてしまったのは言葉を重ねていくなかに己の迂闊を悟った為である。「口が滑った」という一言では取り繕いようもない浅慮とも悔んでおり、だからこそ嘲りに満ちた寅之助の視線を無言で受け止めるしかなかったのだ。

 哀川斗獅矢の最期は〝敗死〟であったのか――神通が問い掛けに答えを示すには、父の名誉にも関わることまで明らかにするしかない。大鳥自身はそこまで踏み込むつもりなどなく、言葉の選択を誤った末に取り返しのつかない無礼を働いてしまったのである。

 恭路に対する制裁からも察せられる通り、聖徳太子の異称を関する流派は武人の誇りを重んじており、神通自身もを貶める人間を〝敵〟と見なすことに躊躇いはおぼえまい。己の失態を自覚している大鳥は如何なる制裁も甘んじて受け入れる覚悟を決め、咳払いを一つ挟んだのちに若き宗家へと向き直った。


「それを言い出したら、わたしなんか何度も負かされています。父がやられたのだって、そのときが初めてじゃありません。勝って負けてを生涯ずっと繰り返して、……大負けの末、最後にだけのこと」


 先程のように左右の膝のみで畳の上を進む技法を駆使すれば鳩尾に拳を埋めることも、背広の襟を掴むことも容易かったであろうが、大鳥の両足が天井に向かって垂直に伸びるような状況にはならなかった。

 マネージャーの失言を謝罪しようとする希更を制した神通は刑の執行を待つ罪人の如き面持ちでいる大鳥本人と向き合い、「不敗伝説にマンを感じなくもありませんが、漫画のような話は現実には有り得ません」と真っ直ぐに応じた。

 大鳥と希更が揃って双眸を瞬かせたのは無理からぬことであろう。父の〝敗死〟さえ特に躊躇う様子もなく明らかにしてしまったのだ。誇りを重んじる『しょうおうりゅう』からすれば、は追憶さえはばかるほどの屈辱であろうと察せられた。

 不意打ちのような衝撃に動揺させられたのか、それとも神通の回答ことばであったのか――このときばかりはバロッサ家の一族むすめもただ呆然と口を開け広げている。


(僕なんかには神通氏が背負ったものを想像もできないし、喪失なくくしたのだって父と母で違う。……それでも、きっと、なんだ――)


 神通は大学生でありながら一流派の宗家を継いでいる。二〇歳はたちそこそこであれば、親世代が現役で道場を守っていてもおかしくないはずである。これまで彼女に惹き込まれていて違和感を覚えなかった点――世代交代に至る壮絶な背景を知らされたキリサメは静かに俯くばかりであった。

 〝古流〟と称するからに数世紀分は積み重ねているだろう一流派の歴史を年若い神通が担っている理由も合点がいったのだ。

 現在いまもキリサメの心臓は〝共鳴〟によって早鐘を打っている。

 会話の流れで行き着いたとはいえ、彼女は肉親の不幸という何よりも辛い想い出を穿り返されたにも関わらず、喪失うしなわれた命に痛みさえ感じていない様子なのだ。無論、機嫌を損ねたわけでもない。

 泰然自若とはまた異なる佇まいはキリサメの魂を懐かしい〝闇〟で突き刺していた。もはや、艶めかしいふんどし意識あたまにない。自分や幼馴染みと最も近いかも知れない存在を瞳の中央に映し、そこから全く動かせなくなってしまった。


「神通氏、僕は――」


 何を伝えるべきかも頭の中でまとめ切れていない内から口を開こうとしたキリサメを遮るようにして、神通は右の人差し指を彼の眼前に突き出した。

 キリサメを正面から見据える神通の瞳は、何故か憂いの色が濃くなったようであった。


「初めてお会いしたときから思っていたのですけれど、キリサメさんは亡くなった父と同じ目をしています。……だから、あなたのことが気になるんです」


 まぶたを半ばまで閉ざすという眠たげな双眸に父の姿が重なる――と、神通は噛み締めるように語った。

 ひろたかが持つ学術書に著者近影はない。それ故、神通が思い浮かべた父の顔は――左頬に一筋のきずあとが刻まれているという哀川斗獅矢のかおはキリサメにも分からなかった。

 しかし、一つだけ悟ったことがある。『ダイニングこん』での初対面の折に何度か見つめ合うような形になったのだが、神通のほうから視線を向けられることもあった。おそらくはその瞬間ときにも独特な目付きに亡き父の面影を感じていたのだろう。


「キリサメさんのことを考えていたら居ても立っても居られなくなって……敵情視察と息巻いていた他の人たちに加えて頂いたんです」


 その言葉にキリサメの心臓は更に飛び跳ねた。

 余人には理解し得ない〝共鳴〟によって自分と神通は〝一つ〟に結ばれている――そのように考えていた最中に神通自身の口から高鳴りを加速させる言葉が滑り落ちたのだ。

 無論、それを彼女に告げられるはずもなく、キリサメは注文していたコーヒーを無意識に飲み干した。そこでようやく自分の喉が渇き切っていたことに気付く有り様であった。

 死んだ父親と同じと言われて、お前は〝何〟を喜んでいるのか――己自身を揶揄する声は脳内あたまのなかける想像に過ぎないはずだが、それにも関わらず呆れてしまうくらい震えていた。動揺の酷さは誤魔化しようもなく、もはや、自分への嘲りを込めて口元を歪めるしかなかった。


「ちょ~っとちょっと。急展開過ぎて面白過ぎるんだけど、つまり、キミ、サメちゃんのコトが気になって仕方ないってワケ? 『ロミオとジュリエット』みたいな関係に酔っぱらってる感じ? それともシャーク団とジェット団のほう? 一体、誰が拳銃を向ける役なのやら」


 この風雲急を告げる展開に寅之助が無反応でいるはずもないだろう。混乱した未稲と希更、キリサメから目を離さない神通を交互に見比べつつ、た笑顔と共に左右の手を景気良く打ち鳴らした。

 キリサメを囲むような恰好で不可視の三角形を作る女性たちの内、極端に大きな反応を示したのはメガネを掛けた二人である。寅之助はその様子が愉しくて仕方がないわけだ。

 マネージャーとも共有していない〝何事か〟を思案しつつ、神妙な面持ちで相槌を打ち続けてきた希更は勢いよくひっくり返り、その拍子に吹き飛んだ変装用のメガネのツルが恭路のパンチパーマに生け花の如く突き刺さった。

 神通のはす向かいに座っている未稲もアヒルのように唇を窄めたまま完全に言葉を失っている。今し方の言葉は殆ど愛の告白ではないか。

 『天叢雲アメノムラクモ』第一三回興行を観戦する為に奥州市まで駆け付けたことは希更も旅館への道すがら神通本人に教わっている。しかし、キリサメ・アマカザリ個人が目当てであったということは、今、初めて把握したのだ。

 恩義もある友人が急に手強い恋敵に変わってしまったようなものである。少なくとも今の言葉ではそのように認識するしかなく、行儀の悪さをマネージャーから注意されるまで身を引き起こすこともできなかったのだ。


「横から瀬古谷あなたに言われるまでもありません。……初めてお会いした日からキリサメさんのことが片時も忘れられなくなりました」


 神通の回答こたえは自ら混乱を煽るほど衝撃が強かった。無粋にして悪趣味と窘めてくる大鳥の視線を受け止めつつ、寅之助は肺から空気がなくなるのも構わずに笑い続けている。

 案の定、未稲と希更は引きった顔を互いに見合わせ、キリサメもキリサメで俯き加減のまま忙しなく目を泳がせ続けている。真っ赤に熱を帯びた頬と耳を左右の人差し指で示し、「サメちゃんにも〝人間らしさ〟が残ってたんだねぇ~」と冷やかす寅之助は余りにも笑い過ぎてとうとう咳き込み始めた。


「もっと前から照さんや空閑から路上戦ストリートファイトの話と一緒に『面白い男がいる』と聞かされていましたし……」

「で、電知のヤツ、おかしなことを言ってませんでしたかっ? あいつ、僕のことを誤解してそうだから、裏で何を話しているか心配で……っ!」

「キリサメさんは急所狙いの技もたくさん持っていると伺っていますよ。眼突きは基本中の基本で、金的蹴りも巧みに取り入れているとか。いずれもお菓子を摘まむような感覚で使い、異性が相手でも遠慮なく本気で殴りに行くそうですよね? それが格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの特集記事に書いてあった『ペルーの喧嘩殺法』なのですか? こちらの瀬古谷さんと斬り合いに及んだときには中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルまで振るったとのことで……。わたしもその場に立ち会いたかったです」

「あ、ああ――なるほど、そういう……」


 『聖剣エクセルシス』と斬り結んだ感想を寅之助に改めて訊ねる神通の横顔を見つめながら、キリサメのなかで浮かれた気持ちが急速に鎮まっていった。受け答えがしどろもどろになってしまうくらいのぼせ上がっていたのは己一人であったのかと悟った瞬間、普段にも増して感情が虚無と化していく。

 神通は〝個人の感情〟を昂揚させていたわけではなかった。はキリサメ自身が感じた〝共鳴〟を分かち合っているあかしに他ならないのだが、双方で受け取り方が異なっていたようである。

 あるいは寅之助が〝人間らしさ〟と言い表したキリサメ個人の感情が混ざった為、本来は完全に重なっている〝共鳴〟の波長に狂いが生じていたのかも知れない。

 同じ殺傷ひとごろしの技を現代の戦場リングふるう古武術家として哀川神通はキリサメ・アマカザリという〝MMA選手〟に注目していたのである。で繰り広げられた〝あい〟の果てに絶命した父と眠たげな双眸が重なる――先程の言葉にもあらわれていたわけだ。


「――そう思うとまた一つ、疑問が増えてしまいますね。若い頃に哀川斗獅矢先生と鬼貫さんが命懸けの真剣勝負をしたことも判りましたが、その鬼貫さんはアマカザリさんの睡眠不足みたいな表情かおを見て何も仰られなかったのですか? さっきの哀川さんと同じようにかつて闘った相手にそっくりだって驚きそうじゃないですか。あの人も反応リアクションが無駄に大きくてアゴと同じくらい暑苦しいですし……」


 神通の横顔に更なる質問を重ねたのは、円卓の上に置いた学術書に目を落とし、右の人差し指でもって著者名を撫でたひろたかである。

 昂揚の反動で湧き起こった激しい羞恥の念に思考あたまを焼き尽くされたのか、酷くおぼつかない足取りで窓辺に歩いていくキリサメが気の毒になって仕切り直しを試みたようにも見えるが、当のひろたかは一人で空回りしていた義兄に一欠けらの憐憫あわれみも抱いてはいない。

 痴情のもつれに発展する兆しのあった雰囲気に妨げられ、たずねられずにいたことをようやく神通にぶつけられたのである。心の底からつまらなそうに押し黙ったまま会話に割り込む好機を窺う眼差しは七歳児のものとは思えず、この場の誰よりも賢そうであった。


「気付く気付かない以前に鬼貫道明オーナーは〝眠れる獅子〟と呼ばれていた頃の目を見たことがないハズです。『しょうおうりゅう』の塾頭や師範たち――まだ年齢が一桁の頃から父を知る方々に教わった限り、どうも昔から死んだ魚のような目であったそうで」

「……〝眠れる獅子〟から〝死んだ魚のような目〟では落差が大き過ぎません? 確かにアマカザリさんはボクから見てもですけどね」

「普段の感覚でお話しすると誤解を招いてしまいますね。キリサメさんはともかく、父の目に関しては以外に良いたとえ方が思い付かなくて……」


 瞳に映る文字は逆様であるが、学術書の表紙に刷り込まれた著者名なまえひろたかの指の動きに合わせて追い掛ける神通は、ひとづてに聞いた印象と前置きした上で、現在いまの彼と年齢としが大きく変わらない頃の父についてほんの一端だけ明かしていった。

 『しょうおうりゅう』次期宗家として生をけた哀川斗獅矢は周りの子どもたちが物心つく頃には既に瞼を半ばまで閉ざしており、虚ろな瞳でどこか遠くを眺めていたという。

 果てしない彼方に〝何〟を見ているのかは共に育った幼馴染みにも分からなかったそうだが、さりとて満たされない心を持て余して餓えているのではなく、歴史ある古武術の宗家という宿命さだめを呪い、世を儚んでいるわけでもない。

 瞳の中央に〝何〟も映していないようで目の前の全てを見極めている――互いに小学生であった頃から『しょうおうりゅう』のほどきを受けていた現在のじゅくとうも不思議な眼差しと第一印象を振り返っている。

 薄気味の悪さはまさしく〝死んだ魚のような目〟であったが、ときには自分の首を絞めるほど道理と義理を重んじ、仲間の為には自己犠牲さえ厭わないという面倒見の良さから『しょうおうりゅう』の門下生以外にも慕われ、一人でいる時間のほうが少なかったという。

 神通自身は明言しなかったものの、その〝仲間〟にはきょうじまで小さな整形外科医院を営むやぶそういちろうや、御剣恭路の実父も含まれているのだろう。


「父とわたしの故郷は、……説明が難しいのですが、古い武芸が盛んな土地でして、近隣の方々には『しんげんこうれんぺいじょう』とも呼ばれています。ひょっとするとご存知ではありませんか? 一部の住民は明治維新後も戦後辺りまでは刀を差し続けていたのですが……」

「聞いたこともないというか、……戦後まで刀を差し続けていた? 明治政府が維新後に出した『はいとうれい』を無視し続けることなんて可能なのですか? しかも、哀川さんのお父さんは武士にまつわる法律について研究していたのにから外れるなんて……」

「……、〝甲斐古流〟は――『しんげんこうれんぺいじょう』に根付いた多くの者たちが歴史の〝闇〟に生きてきたので……」

「真顔で話してるということは冗談ではないんですね……」


 〝しんげんこう〟とは言わずもがなたけが誇る名将――たけしんげんである。通り抜けた道には焼け跡しか残らない暴風雨の如き人物の〝れんぺいじょう〟であれば、相応の歴史を背負っていることは間違いあるまい。

 全国的な知名度の高さもあって信玄の法号なまえが付いてはいるものの、彼が急死した後にそうりょうを継ぎ、甲斐武田家最大の領地を切り開いた武勇高きかつよりの戦にいて秘境の人々はその力を存分に発揮したという。それどころか、信玄の父・のぶとらが成し遂げたいのくに統一をも支えたのだ――と、古い武芸の道場が身を寄せ合うやまざとには伝承されているそうだ。

 即ち、甲斐武田家で最も名が知られたのぶとらしんげんかつよりの三代よりも〝れんぺいじょう〟の歴史は古いと神通が説く頃にはひろたかは口を大きく開け広げていた。彼女の父親が記した中世日本の学術書にさえ今し方の話は見当たらないのだ。同書では信玄がいのくにに布いた『こうしゅうはっとのだい』というぶんこくほう――当時の法令である――も実例と共に取り上げている。

 神通によって語られた伝承が誇張・吹聴の類いでなければ、哀川斗獅矢とは気が遠くなるような時間と労力を費やして取りまとめた自身の研究内容を自ら否定し、そこから逸脱する特異点の如き存在ということになってしまう。

 容易には受け止められない矛盾に打ちのめされ、七歳にして眩暈をおぼえてしまうひろたかであったが、それでも一つだけ正確に捉えたことがある。〝死んだ魚〟にもたとえられるほど印象的な目付きであったなら、間違いなく鬼貫道明の記憶に刻み込まれることであろう。戦友の面影をキリサメ・アマカザリの双眸に見出さないはずもなかった。

 そして、それこそがひろたかを納得させ得る答えであった。

 一方、隣の円卓で耳を傾けていた寅之助は今し方の話を手掛かりにして『てんぐみ』局長としての哀川斗獅矢に想像を巡らせていた。秋葉原の〝げきけんこうぎょう〟を企てた際に調べた情報と今し方の話を照らし合わせたことによって、その輪郭が一等鮮明になったとも言い換えられる。

 〝表〟の社会に居場所がない者たちを哀川斗獅矢は『てんぐみ』の一員として迎え入れ、敵対者の身辺を探る密偵のように放っていたそうである。待遇には大きな隔たりがあるものの、『E・Gイラプション・ゲーム』から〝使い走り〟の如き扱いを受けるカラーギャングと同じであろう。

 それが〝甲斐古流〟の筆頭という『しょうおうりゅう』の習わしなのか、『てんぐみ』を率いる局長としての振る舞いであったのか、これを確かめるすべはない。総一郎の声が脳裏に響く寅之助も詮索する気はない。しかし、がキリサメとの明確な違いのように思えるのだ。

 富裕層の居住区と非合法街区バリアーダスの境い目に万里の長城の如く築かれ、格差社会を物理的に隔絶した『恥の壁』などペルーの首都に横たわる〝闇〟をインターネットで調べた寅之助は夥しい血に濡れた『聖剣エクセルシス』を担ぐ少年が常に孤独であったことを掴んでいる。

 同じくらい目でありながら哀川斗獅矢は人を惹き付け、キリサメ・アマカザリは周囲まわりから人がのである。亡き母親は非合法街区バリアーダスで私塾を開いていたというのだから、幼馴染みの少女以外に年齢としの近い友人がいないはずもあるまい。

 尤も、日本という新天地に移り住んで以来、も変わってきたようだ。〝家族〟である八雲未稲や表木ひろたかは言うに及ばず、何人もの仲間たちがキリサメを中心にして〝輪〟を作り出しているのだ。この場に居ない電知と沙門もその中には含まれている。ほんの半日前までは担当声優との接触を危険視し、からぬ感情を露にしていた大鳥聡起すら今では心を開きつつある。

 故郷ペルーで繰り返してきた〝暴力〟という名の罪が暴かれた後も誰一人としてキリサメの元から去ろうとしなかったのである。恭路に至ってはキリサメの境遇に強い〝共鳴〟を感じ、相手の迷惑も気にせず一方的に〝兄弟分〟と名乗り始めた。

 やはり、キリサメと神通の父親は生き写しにも等しい存在であるのかも知れない――皮肉を飛ばそうとして正反対の結論に辿り着いてしまった己自身を寅之助は鼻で笑った。

 頭の中に思い浮かべた仲間たちの〝輪〟には自分も入っている。それどころか、秋葉原で画策した〝げきけんこうぎょう〟によって〝眠れる獅子〟の如き目を持つ二人が結局は似た者同士と証明されたようなものである。そのときには『こうりゅうかい』を騙ったのだから、これ以上に皮肉な筋運びもあるまい。


「古くから父と付き合いのある方々も話しておられましたし、わたし自身もこの目で何度も見ましたが、普段は〝死んだ魚のような目〟であってもひとたび闘いの場に立つとまぶたを大きく開き、燃えるような生命力を瞳に宿していたのです。……命を張らなければ生きていることを実感できないような――そんな様子でした」

「つまり、鬼貫さんが見たのは〝その目〟ということですか。目を覚ました獅子といったところですかね?」


 再確認を求めるようなひろたかに対し、神通は「丁度、父の人生で最も生き生きとしていた時期だったようです」と薄い笑みを浮かべながら頷き返し、円卓の上に置かれた学術書の著者名を右の人差し指でもって再び撫でた。


「父のまぶたがいつも開かれるようになったのは歴史学の〝お師匠〟と出会ったのがきっかけと聞いています。父の幼馴染みも盟友のような方も、誰もが『物理的なかいげん』と笑っていました。父も折に触れて『師匠のお陰で新しい世界が開けた』と話していましたね」

「……でも、その……『物理的なかいげん』とやらは哀川さんが生まれるよりも前のことですよね? お聞かせ頂いた話から想像するしかないのですが、どこかでもう一度、……〝死んだ魚のような目〟になる出来事があったのでしょうか?」


 ひろたかが先程の自分と同じ失敗に陥りかけていると察した大鳥は咳払いでもってこれを押し止めようとしたが、その問い掛けを受け止める最中にも神通は俯き加減となっていく。もはや、如何なる制止も間に合わなかった。


「仰る通りです。母がいなくなった日に父は。……そんな目をキリサメさんに重ねるなんて失礼以外の何物でもありませんよね。本当に申し訳ありません……」

「い、いえ、僕は光栄です」

「そこはせめてツッコみましょうよ。哀川さんのボケにボケで返したようなものじゃないですか……」


 自分の失言すら忘れてひろたかが呆れ返ったのは当然であろう。居た堪れない気持ちを紛らわせるべく窓辺に立って奥州市の街並みを眺めていたキリサメは相槌すら油の切れた機械のようであった。つまり、「光栄」の二字すら喉の奥から無意識に絞り出した言葉ものというわけである。

 『てんぐみ』が如何なる意義のもとに『こうりゅうかい』の傘下で結成され、消滅に至ったのかは定かではないが、おそらく局長の立場で隊を率いていた頃は大勢の仲間に囲まれながらも〝眠れる獅子〟の如きかおであったのだろう。それから歴史学の道に入り、ほんのひとときは闘いの場でなくとも生きている実感を得られるようになったということだ。

 歴史学の恩師とは世界中を旅して回っていたそうである。

 キリサメも実母とは二度と会えなくなったが、そのは神通と大きく異なっている。彼女が曖昧な表現に留めたことからも死別とは別の形でいなくなったのだろうと十分に察せられた。


「――てめーは母親にインターネットでクソ以下の真似をやらかさねぇよう叩き込んでおきやがれ! 何もかも手遅れだがよォッ!」


 先ほど御剣恭路が神通に浴びせたその一言はキリサメ以外の脳裏にも甦っている。彼は同じ口での母親を「ろくでなし」とまで罵ったのだ。

 文明の利器である携帯電話を持たず、未だに時代遅れのテレカを使い続け、更にはインターネットを好んでいないという神通自身の発言が答え合わせのようなものだ。亡き父のかおを〝死んだ魚の目〟という聞こえの悪い表現でたとえる理由とも言い換えられるだろう。

 不貞という二字が付き纏うことだけにえて触れずに聞き流すべきであり、ひろたかもキリサメも詮索は控えている。今も恭路に意識があったなら、母娘をまとめて侮辱する怒鳴り声を神通に浴びせ、集中治療室に緊急搬送されるほど凄まじい報復を受けたはずだ。

 いずれにしても哀川斗獅矢が再び〝闇〟に堕ちたことは間違いない。生涯の師に恵まれ、愛娘も授かり、生きる喜びに満たされていたはずの魂が己を危険に晒さない限りは命の意味を確かめられないほど壊れてしまったのである。

 神通の双眸から生きる意志が消え失せなかったことは奇跡としか言いようがあるまい。

 彼女の父親がどのようにして壊れていったのか、キリサメには全く理解できないわけではない。〝闇〟の底で実母がたおれ、己に流れるものと同じ〝血〟を吸った『聖剣エクセルシス』を握らなければ今日の命を明日に繋げなくなった後のことであるが、幼馴染みの少女――から人相が悪くなったと指摘されたのだ。

 鏡を使って身なりを整えるような趣味も習慣もなかった為、キリサメは自分に起きた変調すら気付いていなかったのだが、忌々しい刃を振り回し、喧嘩殺法の技が増えるたびに少しずつまぶたが閉ざされていった――キリサメの瞳がくらくなっていく一部始終を物心つく前から共に育ったは傍らで見つめていたわけである。


「――あんまりわたしの知らない顔になっちゃヤダよ、サミー。塾の友達がいなくなってもわたしだけはずっとそばにいるんだからさ、……そのわたしを置いていかないでね」


 頬を撫でながら行く末を案じてくれた幼馴染みの声が――懐かしいスペイン語で紡がれた言葉がほんの一瞬だけ脳裏に甦り、キリサメは想像の中で手を伸ばそうと試みたが、懐かしい指先へ届くよりも早くいつか頬に感じた体温ぬくもりと共に儚く消えてしまった。


「山梨県にそんな秘境があったなんて興味深いわね。熊本も古い武術が盛んだから、ますます親近感が高まっちゃったわ~。あたしの地元は〝お盛ん〟過ぎて、未だに道場同士の勢力争いが残ってるけどね」

「縄張り意識と意地の張り合いは当方も似たようなものですよ。それよりもバロッサ家の情報網に引っ掛からなかったことのほうが意外です。中世の隠れ里ではありますし、山深い土地なので、わざわざ足を運ぶ観光客も殆どいませんが、外界を寄せ付けなかったのも大昔のこと。二年に一度くらいは県のローカルニュースが取材に入りますよ」

「ローカルニュースっていうのがわね。県内で完結しちゃって、県外そとに出ない情報のほうが遥かに多いもん。ミッシーはどう? 『しんげんこうれんぺいじょう』に聞きおぼえとかあるかな?」

「私もさすがに初耳です。両親なら知ってるかな~? 武田家に仕えた真田家の忍者に繋がっているワケですし、ひょっとすると先祖を辿っていったらに行き着くかも」


 神通の父――哀川斗獅矢が〝眠れる獅子〟となった顛末へ耳を傾ける間に希更も未稲も動揺が収まっていった。二人とも早とちりから恋敵の出現と身構えてしまったのだが、当の神通はキリサメの初陣を追い掛けた理由に恋愛感情を含めていなかったのである。

 哀川神通はあくまでも一人の古武術家としてキリサメを見つめているのだった。

 『しょうおうりゅう』の起源ルーツが一つ一つ解き明かされていく状況でありながら、希更の眼差しは先程よりも遥かに柔らかい。神通の説明はなしを一字一句に至るまで聞き漏らすまいと注意深く耳を澄ませているのに変わりはないが、不意打ちのような衝撃に脳を揺さぶられたことで張り詰めていたモノが切れてしまったのであろう。

 哀川斗獅矢の〝横顔〟など数分前まで強い反応を示してきた説明はなしにさえ現在いまは頬を掻きながら軽く相槌を打つのみである。一度、血ののぼった頭に氷で冷やした水をバケツで浴びせられたようなものであった。

 その希更と入れ替わるように誰よりも前のめりとなったのは未稲である。神通が『しょうおうりゅう』の歴史を紐解くたび、一字一句を咀嚼するかのように何度も何度も首を頷かせた。


「……『しょうおうりゅう』は本来、中世の合戦場で完全武装の相手と相対する為に作り出されたもので、古くは『かっちゅうくみうち』とも言いました。狭い座敷で戦う〝殿でんちゅう武技わざ〟は鎧兜を必要としない時代に至って練り上げられたのです。……時代の流れに合わせて『かっちゅうくみうち』から『そくじゅつ』に変わっていったようなものですね」

「やっぱり大昔の『くみうちじゅつ』が起源ルーツなんですね。地下格闘技アンダーグラウンドでは素手で闘っているようですけど、他の古武術と同じように流派そのものには色んな武器術も伝わっているんじゃないです?」

「未稲さんも弟さんと同じように博識ですね。如何なる技にも完璧に対応し、同時に敵の得物を制し、鎧兜を攻略することから『具足殺し』などと呼ばれることもあります。『敵を知り己を知ればひゃくせんしてあやうからず』――孫子の教えに倣って〝武芸百般〟を神髄としていますし、私も物心つく前から槍刀、弓矢など一通りの〝おもてどう〟を学びました」

「そういう意味では『しんげんこうれんぺいじょう』って最高の環境ですね。道場がたくさんあるってコトはそれだけ〝先生〟が多いワケですもんね」

「分派の一つは『鉄砲伝来』の頃から火縄銃の研究にも勤しんでいました。亡き父も含めて『しょうおうりゅう』代々の宗家も盛んに意見を交換していたと聞いています。流派によっては鉄砲を武士の〝おもてどう〟でないと忌避するようですが、撃ち方は勿論、弾丸タマを避ける稽古も積んだのですよ?」


 両腕でもってライフルを撃つような仕草ゼスチャーを神通が披露すると未稲の目は更に輝き、握り拳の親指を垂直に立て、心の中で「合格!」と雄叫びを上げた。

 誰に頼まれたわけでもなく彼女は甲冑格闘技アーマードバトルの適性検査を行っているわけだ。今では同競技の選手と関わりが深い大鳥よりも張り切っており、『しょうおうりゅう』とその宗家については先程から幾度となく「これ以上ない最高の相性」と判定しているのだった。


「……死んだ母の授業で習ったことですが、聖徳太子は合戦や暗闘を繰り返した果てにようやく新しい秩序を作り上げたはず。その異称を名乗る武術がどういうものか、今、少しだけ理解ったような気がします。……いえ、御剣氏を見れば一目瞭然ですが……」


 キリサメは〝外国〟の歴史に現れる人物として聖徳太子――うまやどの――を記憶に留めていた。

 『ろん』に記された「和をもっとうときとなす」という教えに基づき、新たな秩序を朝廷ひいては貴族社会へ広めるまでには血塗られた道があった。すいてんのう即位へと至る陰惨な政治闘争をも聖徳太子は目の当たりにしたのである。

 神通の話によれば『しょうおうりゅう』の開祖は人々から『いましょうとく』と敬われていたそうだが、その人物に端を発する〝武芸百般〟と『具足殺し』の研鑽は聖徳太子が歩んだ道を逆行しているようなものであろう。殺傷ひとごろしすべである点は言うに及ばず、法治国家日本にける衰退はそれ自体が乱世でしか生きられないことを意味しているのだった。

 未稲が受け取った電子メールの内容だけにキリサメには知り得ないことだが、上下屋敷が神通のことを麒麟にたとえたのも大いなる皮肉であろう。世に二人といない傑物を言い表す際に用いられることが多いものの、そもそも『麒麟』とはじんある政治が行き渡った穏やかな時代に訪れる聖獣と伝承されているのだ。

 その麒麟が未稲の鼻息に触れたなら、槍刀や弓矢によって支配される動乱を求めているのだろうと勘違いを起こし、恐れおののいて逃げてしまうかも知れない。

 アメリカ最大のMMA団体『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の特別顧問兼アジア地域担当スーパーバイザーにして台湾武術界の重鎮たる〝こうたいじん〟――こうれいが自らの祖とするこうは、乱れた時代に姿を現わしてしまった麒麟を吉兆の聖獣とも知らずにとらえ、不気味な存在いきものと見なした人々の愚かさを嘆いていた。


「……〝武芸百般〟ということですと、察するにキリサメさんの喧嘩殺法も『しょうおうりゅう』と大きく違ってはいないと想像しています」

「僕はサムライなんかじゃありませんよ。電知にも誤解されましたけど、ニンジャの弟子でもないんです」

「ですが、本質は実戦と殺傷――そのことはよくご存知なのではありませんか?」


 神通の言葉によって心を射貫かれた瞬間、ある男の顔がキリサメの脳裏に甦った。

 警視庁捜査一課・組織暴力予備軍対策係を名乗り、『E・Gイラプション・ゲーム』など地下格闘技アンダーグラウンド団体の壊滅を目論んでいるという鹿しか刑事である。神通と初めて出逢った日に同じ『ダイニングこん』で接触してきたのだ。

 くだんの刑事には「格闘技と言い換えても、所詮、暴力は暴力」と冷徹な言葉を浴びせられたのだが、今、神通が語ったことは鹿しかの指摘に全く当てはまるものであろう。

 個人としての〝共感〟に引き摺られそうになってしまうのだが、〝暴力〟の肯定にも通じる神通の論はキリサメが挑戦する総合格闘技MMAのリングとは全く相容れないのである。


「……否定はできませんけど……」


 だからといって、「実戦と殺傷こそが本質」と定めるような神通が誤っているともキリサメには言い切れない。

 過去に一度も『しょうおうりゅう』の闘いを見たことがないので具体的なイメージこそ湧かないものの、武器を携えた相手との攻防を前提としている点や、ルールに則った試合ではなく互いの命の喰らい合う精神はキリサメが故郷ペルーで編み出した喧嘩殺法と相通じるのだ。

 裏路地と合戦場という差異ちがいはあれども、キリサメの喧嘩殺法も『しょうおうりゅう』も命の遣り取りの中でしか生まれないモノであり、その根源は同一といえるのかも知れない。


「そもそも『今聖徳』が『しょうおうりゅう』をおこしたのは戦国時代よりも更に昔――なんぼくちょう時代のことです」


 展望カフェの窓からは伊達家が統治した頃の風情を一望できる。城下町に点在する武家屋敷は江戸時代に建てられたものだが、『しょうおうりゅう』はそれよりも三世紀近く歴史が古いのだった。


「戦乱の世の中に必要とされたモノと同質の技を現代のペルーでどのように生み出したのか、そして、どのようにふるわれるのか、……興味が尽きません」


 真っ直ぐな瞳で神通から問われたキリサメは即答を躊躇ためらってしまった。

 神通と同じ円卓にはひろたかが座っている。幼い義弟に血なまぐさい話を聞かせたくなかった。生まれ育った環境もあり、忌み嫌っているはずの格闘技についても膨大な知識を蓄えているようだが、人体が破壊される惨たらしい様相を見聞きしたことなどあるまい。

 キリサメの喧嘩殺法も、神通の古武術も、この不愛想な男の子が知る〝格闘競技〟からは懸け離れた領域にるのだ。


「……あとは試合でお見せしますよ。どこまでに沿えるかは分かりませんが……」


 ひろたかの小さな背中を一瞥したキリサメは、ただそれだけを神通に伝えた。

 彼の目の動きと、何事かを憚るような態度から委細を悟ったのであろう。神通は首を頷かせることで了承の意を表し、聞き分けよく引き下がった。

 言葉を交わすことなく通じ合ってしまったことにもキリサメは苦笑を洩らした。

 喧嘩殺法について明かせば必ず凄惨な内容になると即座に理解されたわけだが、それはつまり、神通自身も血みどろの戦いに慣れているという証左なのだ。

 ペルーの喧嘩殺法と『しょうおうりゅう』は誕生した時代と国を除けば表裏一体――武術家同士による〝あい〟で父を亡くした神通も、可憐な顔からは想像し難い修羅の道を歩んでいるのである。


「あんな人を〝義理の父〟とは認めたくはありませんが、僕は八雲岳と表木嶺子の息子ですよ? 妙な気を遣って貰うまでもなく古武術の本質がどういうモノか、とっくの昔に承知しています。……ていうか、秋葉原のド真ん中でノコギリみたいな得物モノを振り回しておいて今さら何を隠そうっていうんですか?」


 ひろたかもまた七歳とは思えないほど大人びた男の子である。キリサメと神通の間で如何なるやり取りがあったのか、これを読み取れないほど鈍くもない。それ故にキリサメを振り返り、「見くびられたものですね」と肩を竦めて見せたのである。

 顔の輪郭から頭髪かみの質に至るまで何一つとして似ておらず、むしろ、『NSB』に所属する日本人選手――しんとうと眉の太さが瓜二つと思える大陸は、それでもえて八雲岳のことを〝義理の父〟と呼んだ。

 その言葉に込められた意図を測り兼ね、返すべき言葉にまで窮してしまったキリサメはいよいよ居た堪れなくなり、最初に座った場所へ気まずげな面持ちで戻っていく。その間にはひろたかだけでなく寅之助まで冷やかすような眼差しで突き刺してくるのだった。


「……僕からも神通氏に質問して良いですか?」

「はい、何なりと」

「神通氏はどうして『天叢雲アメノムラクモ』ではなく『E・Gイラプション・ゲーム』に参加しているのですか? あなたならきっとMMAでも十分に闘えるんじゃないかって思うんですが……」

「私もキリくんに大賛成です。鬼貫さんとそこのうるさいパンチパーマを仕留めた技でしか『しょうおうりゅう』を知りませんが、キリくんの闘いを初めて見たときと同じくらい胸が高鳴りましたもん。MMA一本にこだわらなくたって、例えばでも古武術の技や知識は絶対生かせると思うんですよねっ」


 二つの視線から逃れるべくキリサメは正面の神通に一つの疑問をぶつけた。未稲が同調したのは意外であり、その言動には不可解な部分もあったが、仕切り直しを図りたい彼には何にも勝る加勢である。

 身の上話を聞く限りでは生活費のやり繰りにも苦労している様子であるが、それならば世界最大のスポーツメーカーがスポンサーに付き、相応の報酬ファイトマネーも支払われる『天叢雲アメノムラクモ』と契約したほうが良いのではないかとキリサメには思えたのだ。

 プロレスとブラジリアン柔術の頂上決戦という構図を第一回興行の目玉メインイベントに据えたことからも明らかである通り、日本MMAの黎明期は運営体制そのものがプロレス団体の延長にも近い。その為、男女が別々に競技団体を発足させ、交わることなくそれぞれの〝道〟を突き進んできた。

 前身団体バイオスピリッツも男性選手による試合のみを執り行っていたのだが、『天叢雲アメノムラクモ』は女性選手も多く、希更・バロッサを始めとして『女子格闘技ジョシカク』の次世代を担う人材も積極的に迎え入れている。それどころか、日本を代表する女子ヒールレスラーのギロチン・ウータンや、同団体の旗揚げまでアメリカを主戦場にしていたほんあいぜんなど世界的な有力選手も名を連ねていた。

 いっときは日本最大規模であった女子MMA団体まで『天叢雲アメノムラクモ』は吸収合併しているのだ。選手層の厚さも保証され、今や名実ともに『ジョシカク』の最前線である――前身団体バイオスピリッツとの差異ちがいは、大衆の興味を煽ろうとするメディアから押し付けられ、物議を醸すことが少なくないと併せて幾度も喧伝されている。

 『昭和の伝説』と謳われ、数多の異種格闘技戦を経験した鬼貫道明すら組み敷く技量をもってすれば、少なくとも大学生活を終えるまでを続けられるだろう。ルールの過激さもあって重傷を負う危険性の高い地下格闘技アンダーグラウンドより収支も良いはずだ

 「もう後戻りできないくらい〝富める者〟に染まったね」と嘲笑わらう幼馴染みの声が聞こえてきそうだが、神通と向き合うキリサメにはそれすらも些末なことであった。


「……成る程、キリサメさんと未稲さんは『E・Gイラプション・ゲーム』を『天叢雲アメノムラクモ』より下に見ておられるわけですね」

「えっ⁉ い、いえ! 僕はそんなつもりではなくて、その……」

「誤解ですって! 確かに『天叢雲こっち』と『E・Gそっち』はあんまり仲良くないですし、迷惑な目に遭うこともありますけど、それはそれ! これはこれ! MMAが気に喰わないようなら違う選択肢だってご紹介できなくもないですよっ⁉」

「……みーちゃんはさっきから何を言っているんだい? 言葉の端々が引っ掛かるというか、意味が良く分からないよ」

「キリくんこそもっと柔軟に行こう! 何なら『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』ともう一個、掛け持ちでも構わないんだし⁉」

「だから、が僕には何が何だか……」


 思いも寄らない返答を受けたキリサメと未稲は腰を浮かすほど慌ててしまった。当人たちに他意はなかったが、先程の言い方では侮辱として受け取られても仕方ないだろう。

 特に未稲は掲載権・広告権の管理についてアマチュア団体の杜撰さを心の中で扱き下ろしたばかりでもある。る意味にいてはを言い当てられたような恰好であり、丸メガネが鼻から天井へと跳ね飛びそうになってしまった。

 決して嘲るつもりはなかったと弁解しようとしたところで、二人は神通の口元に浮かぶ微笑に気が付いた。つまるところ、からかわれただけというわけだ。


「いや~、焦った~! メガネが割れるかもって思うくらい焦った~っ! 哀川さん、そんなお茶目なコトする人なの⁉ 同じ山梨県民なのにパンチパーマと正反対じゃん!」

「……御剣氏とは別の意味で心臓に悪いですよ。人が悪いです、本当……」

「ごめんなさい。今しかできないオトボケかなって思っちゃいました」


 おどけた調子で舌を出した神通にキリサメと未稲は揃って胸を撫で下ろした。

 尤も、その先に湧き起こった感情は全く異なっている。凛々しい面立ちとの落差が際立たせた愛くるしさにキリサメは再び胸が高鳴り、一方の未稲は彼の頬が紅潮していることにも気付かないまま甲冑格闘技アーマードバトルいざなう望みを繋いだと握り拳まで作って喜んでいた。

 キリサメに不可解と指摘された言動や、『しょうおうりゅう』の神髄とする〝武芸百般〟に刀や槍まで含まれていることに誰よりも強い反応を示した姿から哀川神通に鎧兜を纏わせることを諦めていないのだと察する大鳥ではあったが、甲冑格闘技アーマードバトルと関係のない未稲がここまでのめり込む理由までは分からず、ただただ首を傾げるしかない。


「あたしの想像だけど、ジンジンの場合、『E・Gイラプション・ゲーム』のルールのほうが『天叢雲アメノムラクモ』――というか、総合格闘技MMAより合ってたんじゃないかな?」


 キリサメの疑問には神通に成り代わって希更が答えた。体系化という一点にいて喧嘩殺法よりも遥かに『しょうおうりゅう』との性質が近いだろう伝統武術ムエ・カッチューアの使い手として地下格闘技アンダーグラウンドを主戦場に選んだ理由を推察することは難しくなかったようだ。


「希更さんと一緒にいますと、質問の手間が省けますね。本当にありがたいです」

「だっしょ~? お姉さんをもっと頼っちゃいなさ~い」


 冗談めかして神通の頭を撫でる希更であった、その見立てはまたしても正解のようだ。

 事実、『天叢雲アメノムラクモ』よりも『E・Gイラプション・ゲーム』のルールのほうが古武術の在り方に合致したという希更の見解を神通は否定しないのである。


「二人の間でだけ分かり合って貰っても困りますよ。『E・Gイラプション・ゲーム』と『天叢雲アメノムラクモ』の一番大きな違いは何なのか、私だって気になります。ルールとか契約内容とか違う点は山ほどありますけど、選手にしか見えないコトってすごく大事だなって」


 『しょうおうりゅう』宗家を甲冑格闘技アーマードバトルへ導こうと逸っている未稲であるが、本来は『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘である。神通と希更の間で交わされる言葉に興味を惹かれないはずもなく、説明の続きを急かすよう円卓に身を乗り出している。

 似た者姉弟というべきか、普段であれば未稲の醜態を冷ややかに鼻で笑うひろたかまでもが一言も話さずに聞き耳を立てていた。


「ジンジンの『しょうおうりゅう』も、うちのムエ・カッチューアも、古い時代に生まれた武術ってところはおんなじでしょ? やろうと思えば〝エグいこと〟を幾らでもやれちゃうってワケ」

「……エグい? キリくんの『我流』の技みたいな感じですよね? 空閑電知と闘ったときに見せたようなヤツ」

「随分と遠回しだねぇ~。弟ちゃんの言葉を借りるなら『今さら何を隠そうっていうんですか』ってトコだよ。デタラメな技をネットの世界に垂れ流したっていうのにさ。ボクなんて何回、目を抉られそうになった分かったもんじゃないよ」


 寅之助から強引に割り込まれてしまった未稲は、不調法への抗議を歯軋りでもって示した。真隣に腰掛けたキリサメのことを想い、喧嘩殺法ではなく『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトの経歴プロフィールに記されている〝我流〟という表現をえて用いたことを揶揄されてしまったわけである。

 満足に反駁できず、苛立ちを噛み殺しながら無言で抗議するしかなかったのは寅之助に心の中を見透かされた為である。

 空閑電知との路上戦ストリートファイトでも、瀬古谷寅之助との〝げきけんこうぎょう〟でも、キリサメは膝関節を踏み折らんとする蹴り技や目突きといった殺傷ひとごろしの技を躊躇なく繰り出している。希更の言葉を受けて未稲が思い浮かべた〝エグイこと〟とは、まさしくこれらの喧嘩殺法なのだ。

 表現を変えただけでは残虐性を隠せない――寅之助の皮肉は確かに腹立たしいが、弟の言葉を捻じ曲げて引用しているわけでもなかった。

 先ほど神通は江戸幕府ととよとみ家の最終決戦となった『おおざかの陣』を例に引いていた。

 かつての乱世さながらに古い武術が潰し合う事態を避けるべく調和に努めている全国規模の統括団体を幕府にたとえるならば、神通と『しょうおうりゅう』はかっせんにしか生きられず、おおざかじょうに時代遅れの大望を求めたろうにんであるのかも知れない。

 聖徳太子の異称を冠する流派を極め、麒麟とたとえられる者が乱世をろうにんに重なってしまうとは、これに勝る皮肉もあるまい。

 未稲の疑問に答え、同時に寅之助を窘めるよう「そうそう、そんなトコ」と首を頷かせた希更は、現代の只中で乱世の気風を纏う神通に目配せでもって会話の続行を促した。


いくさの振る舞いと並べて語ることは適切とは言えないのかも知れませんが、のうきょうげんといった伝統芸能と大きな違いはないように感じています。現代では〝きんじゅつ〟と忌み嫌われる武技わざであっても我が身に馴染ませ続けなければまことの継承には至りません」


 くだんの統括団体が組織立って保護と振興に取り組んでいなければ、日本の歴史と共に歩んできた古武術という一つの〝文化〟が時代の狭間に取り残され、未来へ辿り着く前に絶えてしまう。

 窓の向こうに望む武家屋敷と古武術は同じようにはいかない。現代へと至る潮流の中で国際化を果たした柔剣道や空手と異なり、後世まで保存していく意義を〝外部そと〟からも疑われている。

 その指標が競技人口の衰退も含めた人材不足である。後継者問題は古武術にとって保存に足る値打ちの消滅とも表裏一体であり、それ故に統括団体が全国諸流派を支え、振興と交流をもってして調和を図る必要があるわけだ。

 だが、神通からすれば古武術は大切に拝むような〝文化財〟ではない。戦いの場で真価を確かめ続けないと何の意味もない――それこそが伝統芸能を例に引いた理由であった。


「ムエ・カッチューアは立ち技が基本だし、MMAのルールとマッチする部分が多いからリングに上がっても違和感少ないけど、『そくじゅつ』はそうもいかないのよね? あたしが聞いたハナシだと短刀も使って戦うんでしょ?」

「先程も申し上げたように武具も一通り嗜んでおりますが、『くみうち』の技で闘うときには小太刀を基本にしています。わたしの場合ですと――いえ、……父から教わり、受け継いだものですが、ぐんばい団扇うちわと組み合わせています。分派のほうでは現代に合わせて別の物で代用しているようですね」

ぐんばい団扇うちわってアレでしょ? 相撲のぎょうが使ってるヤツ。山梨県的には甲府駅前の武田信玄像が構えているわね。『川中島の戦い』で一騎討ちになったときにはうえすぎけんしん太刀かたなを防いだって聞いたけど、アレって武器にも使えるの?」

「哀川家に伝わる物は鉄で拵えた羽根のフチを刃物のように研いであるのです。手斧のような用途と想像して頂ければ分かり易いかと」

「う~ん、手斧ハンドアックスはどうだったかなぁ、ちょっとレギュレーションをいてみないと分かんないなぁ。でも、両手で振り回す長柄斧ポールアックスは試合で見たおぼえがありますよ。大丈夫!」

「キリキリに続いてあたしもミッシーが何を興奮してるのか、分からなくなってきたわ」


 神通の解説はなしによると『しょうおうりゅう』では体術と武器を併用して戦うようだ。宗家の得物は独特であるものの、短刀類を〝基本〟として用いるのは敵将の首級くびこそが武勇の証であった中近世の合戦の名残であるという。

 残虐性の高さを懸念したキリサメは横目で義弟おとうとの様子を窺ったが、これは無用の気遣いという一言で切り捨てられてしまった。それどころか、ひろたかは「小回りの利く刃物は首級くびを落とすだけでなく素早く刺し殺すのにも使えますからね」と短刀類にまつわる知識を披露し、過剰なへの反撃に代えた。

 『かっちゅうくみうち』では狙った首級くびを瞬時にして〝狩る〟ことが重視されていた。時代の移ろいと共に性質が『そくじゅつ』へと変わり、座敷での戦闘たたかいや暗殺が想定されるようになった後も短刀類の武技は有用というわけである。そして、それ故に失伝うしなわれることもなく現代に至って〝基本〟として定められたのだ。

 キリサメの場合は船のオールにも見える『聖剣エクセルシス』――中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルを喧嘩殺法に組み込んでいる。得物これを携えていなかった電知と対峙したときには路上戦ストリートファイトの舞台となった自動車整備工場から鉄パイプを持ち出して武器に換えたが、故郷ペルーでも路上に転がった石などを利用したのである。


(……底意地の悪い言い方をすれば、僕も総合格闘技MMAより地下格闘技アンダーグラウンドのほうが相性が良いということになるよな。……だって、僕と神通氏は――)


 自分と神通は限りなく近い存在という〝共鳴〟が身のうちから再び湧き起こりつつあり、その昂揚から喉が渇いてしまったキリサメは自分のコーヒーカップに口を付けた。無意識の行動ということもあって酷く間抜けであるが、中身は何分も前に飲み干している。


短剣ダガーは間違いなく見た! 見間違いじゃないハズ! 最悪、手斧ハンドアックスがレギュレーション違反でも短剣ダガーがあるっ!」


 気まずげにコーヒーカップを置くキリサメの隣では未稲が一等興奮している。古武術の技と知識を生かすならば地下格闘技アンダーグラウンドよりも甲冑格闘技アーマードバトルのほうが適しているという確信を強め、当世具足を纏った神通が合戦の只中へ飛び込んでいくさまを妄想しているのだ。無論、その中ではフィンランドの〝姫騎士〟が両手でもって長剣ロングソードを構えている。

 キリサメも未稲も、自分たちが軸足を置く『天叢雲アメノムラクモ』とは別の競技団体に視線を向けているのが珍妙であった。


「当たり前だけど、『天叢雲アメノムラクモ』じゃ武器は全面禁止だからねぇ。そりゃジンジンには呼吸し辛いわよねぇ」

「わたしも軍配団扇を『E・Gイラプション・ゲーム』に持ち込んだことはありませんよ。徒手空拳の団体ですから試合での武器使用は禁止ですし、じっの技に長けた照さんも素手の『とりじゅつ』しか使っていません」

「それでも一番のよね?」

「規制が緩いかどうかでルールの良し悪しは測れませんが、『E・Gイラプション・ゲーム』ではもお互いの生命を脅かさない程度には解禁されていますから。……古来の技を失伝させずに済む場を探したら、行き当たったのが『E・Gイラプション・ゲーム』だった――そういうことです」


 稽古ではなく〝実戦〟の中で研がなければ技は錆びていく。それ故に『E・Gイラプション・ゲーム』を選択したのだと神通は言い添えた。


「窮屈ということですと、希更さんはどうなのでしょう? 『天叢雲アメノムラクモ』はバロッサ家のムエ・カッチューアを満足させているのでしょうか。〝古い時代の技〟がルール上で禁じられて物足りなく感じることもあるのでは……?」

「さっきも言ったでしょ、『ルールとマッチする部分も多い』ってさ。〝エグいこと〟をしたくてムエ・カッチューアやってるわけじゃないし、上手く付き合えてるわよ」

「先日の〝初陣〟ではご披露なさらなかったようですが、渾身の頭突きで相手の意識に空白を作ったのち、『くび相撲ずもう』に持ち込む連携も聞いております。当流にも兜やはちがねごと額を叩き付け、頭を割った上で首を狙う技があります。……ムエ・カッチューア、興味が尽きません」

「同じ『首を狙う』のでも意味が違って聞こえるわよ。ああ、〝結果〟はだから、やっぱりおんなじかな。……色々な意味でね?」


 神通が問い掛け、希更が片目を瞑って返答に代えた『首相撲』とは標的の首に両手を巻き付け、頭部あたまごと押さえ込む体勢である。ムエ・カッチューアのみならずムエタイとも共通する技法であり、相手の動きを制した上で次なる攻撃へと連ねていくのである。

 希更もMMAデビュー戦では『首相撲』から膝蹴りに派生させ、その一撃で対戦者ギロチン・ウータンを仕留めている。


道場ジムの試合ではやらないけど、首を捕らえて投げ落とした後、頭を踏み潰す技もフツーにあるわよ? 立ち技最強だけに寝技の類いはないけど、立ったまま相手の肘をし折る関節技ならお任せって感じ!」

「その〝立ち関節〟も『首相撲』も広い意味ではくみわざ。希更さんが――いいえ、バロッサ家が双方等しく極めておられぬはずもありませんでしたね。〝初陣〟で拝見できなかったのが悔やまれます」

「その内に披露する好機チャンスもあるっしょ。乞うご期待ってね! 片手で首を押さえて、もう片方の肘を背中から急所に落とすヤツもまだ見せてないもんねぇ~。バロッサ家の膝蹴りだってまだまだ幾つもバリエーションがあるんだから!」

「……口を挟むことをまずお詫びしますが、バロッサさんもその辺りで切り上げて下さいませんか。〝エグい技〟というか、〝グロい技〟の紹介になりつつあります。〝本業〟のイメージに差し障りがあっては自分も困りますので……」


 傍らで聞いていた大鳥は呆れ返ったが、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては〝格闘競技〟のルールへ照らし合わせた場合に反則と判定され兼ねないほど危険度の高い技を立て板に水の如く次々と並べていくということは、こそが〝本性〟と明かしたようなものであろう。

 大鳥はくれぐれも誤解しないよう神通に促したが、『天叢雲アメノムラクモ』では背中に対する肘打ちは危険行為として固く禁じられている。勉強不足もあって〝格闘競技〟への理解が捗らないキリサメとを希更は軽く口にしているのだ。

 好機が巡ってきたときには人体の破壊すら躊躇なくやってのけるということであり、それ故に殺傷ひとごろしの技を研ぎ続ける神通とも相通じる部分が多いのである。


(……前々からしているとは思ったけど、ここまでとは思わなかったな。でも、僕が上下屋敷氏を蹴り飛ばしたときも希更氏、特に批難とかして来なかったもんな……)


 ミャンマーと日本――二つの国におこった古い武術の話に対し、キリサメは神通への〝共鳴〟を抱えた状態で耳を傾けている。

 もはや、真隣の未稲と共に感嘆の溜め息を吐き続けるばかりであった。

 規定のルールに沿った様式スタイルを確立していくか、一流派という己の様式スタイルに適したルールを選ぶか――同じ〝古流〟でありながら、希更・バロッサと哀川神通は正反対の生き方を貫いていると言えるだろう。

 〝暴力〟を生きるすべとしてふるい続けてきたものの、格闘技の世界には足を踏み入れたばかりというキリサメにとって、それは目の覚めるような話である。闘いの場に身を置く者たちの中にも多種多様な考え方や生き方があるのだと純粋に感じ入っていた。

 言わずもがな、それは日本MMAの先駆者たる八雲岳や、伝説の柔道家――前田光世コンデ・コマの足跡を一途に追い続ける空閑電知にも当て嵌まるのだ。


(……誰もが〝何か〟を胸に秘めて闘っている。〝何〟もないのは僕だけじゃないか)


 なんぼくちょう時代の区分をキリサメも正確には想い出せないのだが、鎌倉幕府が滅亡した一三三三年と、室町時代中期に位置する応仁・文明の乱が起きた一四六七年の中間であろうと捉え、『しょうおうりゅう』の発祥はおよそ六世紀以前と弾き出した。そして、その瞬間に神通が背負った歴史の重みに改めておののかされたのである。

 開祖以来の技を錆び付かせない手段が地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』であったと神通は述べているが、言い換えればそれは『しょうおうりゅう』の歴史を繋ぐ為に必要な選択を己の人生よりも常に優先させているということだ。

 きょういししゃもんも『くうかん』空手という歴史の担い手だが、彼は昭和の〝スポ根〟ブームを経て全国の支部道場に根付いてしまった悪しき因習を取り除くべく組織改革に心血を注いでいる。

 裏返せば歴史の破壊者であり、それ故、伝統という名のもとに支配的な体制を築いた支部道場の師範たちから恨みを買い、ときには襲撃事件にまで発展していた。

 る意味にいては神通の対極に位置する存在といえよう。しかも、沙門の場合は昭和という現代と完全に地続きな時代を相手に闘っているからこそ、破壊を伴う改革にもちゅうちょがないのである。

 全米にまでその勇名を馳せた日本最強の剣道家――森寅雄タイガー・モリの弟子を祖父に持ち、直系の技を受け継ぐ道場に生まれた瀬古谷寅之助は、希更やバロッサ家の一族に逆恨みとしか表しようのないくらい感情を剥き出しにしている。

 『タイガー・モリ式の剣道』は四肢を駆使した〝あて〟や投げ技まで含んだ〝実戦〟の技であるが、それ故にとは相容れない。出場すれば間違いなく全国制覇を成し遂げられる腕前でありながら、〝古い道場〟に生をけたという己には変えようのない宿命さだめに栄光の機会を奪われたのである。

 出自そのものに鬱屈を抱えているとしても不思議ではなく、己と大きくは変わらない境遇でありながら脚光を浴び続ける希更・バロッサが妬ましくてならないのであろう。

 これに対して神通はムエ・カッチューアの名門たるバロッサ家に敬意を払い、希更とも友情を育みつつある。それどころか、傍目には宗家の窮地を見捨てたとしか思えない分派や支流にさえ恨みがましいことを一度も口にしないのである。

 『しょうおうりゅう』の誇りを貶めんとする御剣恭路とは互いの弱点を抉るような剣幕で激烈に言い争い、その果てに制裁まで加えている。決して穏やかなだけではない性情の持ち主であれば、恨み言も胸の奥に秘めてはいないだろう。

 あるいは道場を守り切れなかったことに対するくらい感情も〝宗家〟の矜持で押し殺しているだけではないのだろうか――神通の物憂げな瞳にキリサメは孤高の魂を感じていた。


(……以前まえに日系社会の誰かに聞いた『ブッディズム』の言葉では、を〝帰依〟と呼ぶんじゃなかったかな、確か……)


 あたかも『しょうおうりゅう』に係わる〝全て〟を年表に書き加えていく出来事としてあるがままに受けれている様子なのだ。だからこそキリサメは自分と大して年齢も変わらないこの女性ひとが六世紀という歴史に同化しているとしか考えられないのである。

 だからこそ恭路から実母のことを揶揄された瞬間に一等激しい感情をあらわにしたのかも知れない。だけは『しょうおうりゅう』の歴史から切り離された出来事であり、気高い誇りすら入り込む余地のない偽らざる心の発露というわけだ。

 一方で実父の〝敗死〟を口にする際には大きな感情の動きもない。即ち、すら宗家が〝義務〟として語り継ぐ歴史の断片ひとつでしかないということである。そこに一個人の感情を差し挟む理由もないのだろう。

 食い繫ぐ為だけに暴力を研ぎ澄ませ、呪われた『聖剣エクセルシス』を振り回し、ただ刹那に生きてきた自分には何一つとして背負うものなどない。亡き母の遺骨を顔すら知らない父の墓に納めた今、〝はかもり〟の役目も終えてしまっている。

 聖徳太子の異称を冠した流派を継ぎ、道場を閉ざした今も六世紀に及ぶ歴史を断ち切らせまいと闘い続ける神通に対し、独り善がりな〝共鳴〟を感じてしまったことさえキリサメには恥ずかしくてならなかった。

 己の命を『くうかん』道場の未来へ捧げることさえ厭わない沙門と接する内に芽生えた焦燥が再び噴き出した恰好であった。

 明確な意志を秘めて地下格闘技アンダーグラウンドに臨んでいる神通とは異なり、揺るぎない〝何か〟を握り締めて総合格闘技MMAの選手となったわけではない。両者の間にどうして〝共感〟など生じるというのか――キリサメが自らに吐き捨てるのは「恥知らず」という一言のみである。

 それにも関わらず、神通に対する胸の高鳴りだけはどうしても抑えられなかった。

 真隣では円卓へと勢いよく身を乗り出した未稲が「誰が何と言おうと私は哀川さんを全力応援するよ!」と神通の手を熱烈に握り締めている。どこか夢見心地と思える口振りからも察せられる通り、この場の誰より『しょうおうりゅう』宗家の生き様に心を震わされたのは彼女のようである。


「やっぱ哀川さん、すごいよ! すごく偉いと思う! 日本一の〝古武術小町〟だよ!」

「は、はい……っ?」

「私もキリくんみたいに『神通さん』って下の名前で呼ばせて貰って良いかな⁉」

「それはわたしとしても嬉しいのですけど、……あの、どうしてそんなにもメガネを曇らせているのでしょうか? わたしや希更さんの顔、見えてます?」

「メガネまで真っ白になるくらい興奮してるってコトですよ! まだ大学生っていううら若き乙女が何百年っていう古武術の歴史を背負ってるんだもん! そんなのリスペクトするに決まってるでしょ⁉ しないワケないじゃんっ!」

「……そういう……ものなのでしょうか? 自分ではよく分からないのですが……」


 その口振りから察するに神通の生き様が心の琴線に触れたのは間違いない。若き日に二術を極めるべく修行を積んだ実父も広い意味では古武術家である。その娘ということもあり、『しょうおうりゅう』の宗家に対して並々ならない〝共感〟を抱いているわけだ。

 はキリサメと比べて真っ直ぐな心の働きであろう。上下屋敷から返信かえってきた電子メールには試合の写真が添付されていたが、袴を穿いてリングに上がった神通は素手で相手を殴り倒している。物静かな佇まいからは想像もできない豪快な立ち回りにも胸を熱くしていた。

 この〝共感〟と熱情をもっわだかまりも消し飛んだのであろう。つい先程まで神通のことを恋敵と警戒していたはずなのに今では熱心な支持者に変わってしまっていた。

 姉の暑苦しい変調に随いていけなくなったひろたかは「哀川さんも厄介な人に目を付けられましたね。心底同情しますよ」と辟易した調子で溜め息を吐いている。


「あたしもミッシーと同じよ。ジンジンのことも、……お父さんの斗獅矢先生のことも格闘家の端くれとして心から尊敬するわ。ていうか、ミッシーもあたしのコトをそろそろ下の名前で呼んでくれても良くない? うちの家族と合流したらみんな混乱するよ? 誰も彼もなんだしさ」

「はい、じゃあ、ついでに希更さんで」

「対応が雑ッ!」


 六世紀という歴史に気圧され、焦燥感を引き摺り出されてしまった自分とは違い、神通が双肩に担うモノを未稲の声がキリサメの心を一等軋ませた。

 何よりも愛しい声でさえ今だけは耳を塞ぎたい――我知らず持ち上げそうになっていた両手を慌てて引き戻し、罪悪感に苛まれるキリサメの左肩が背後から急に掴まれたのは、誰の耳にも拾えないほど小さな溜め息を引き摺りつつ俯き加減となった直後である。

 次の瞬間、力ずくで後方うしろに振り向かされてしまったキリサメが捉えたのは寅之助の顔であった。いつの間にか背後まで回り込んでいたわけだが、他者の心を弄んで笑い者にする〝享楽家〟の面持ちとは大きく異なっていた。

 寅之助がごく稀に見せる真摯な顔である。故郷ペルーを震撼させた大規模な反政府デモ『七月の動乱』に巻き込まれ、幻像まぼろしという形でしか会うことが叶わなくなった幼馴染みの尊厳を傷付けないよう訴えた際にキリサメはこの表情と向き合ったのだ。


「――サメちゃんねぇ、さっきのは完全な〝地雷〟だったよ。……ていうか、今日はみんな揃って〝地雷〟の投げ売りって具合だけどさ」


 膝でもってへりを踏まないよう気を配りながら畳の上に正座し、その姿勢を維持したまま身を乗り出した寅之助は何事かと面食らっているキリサメの耳元まで己の口を近付け、無遠慮な鼻息と共に〝地雷〟という一言でもってその鼓膜を打ち据えた。

 キリサメの哀訴ことばから己の過ちを悟り、悔恨の中で晒してしまった〝享楽家〟の仮面の向こうに表情かおが同じ相手を今度は鋭く戒めていた。

 人格の歪みを疑う理由はないものの、寅之助が〝生きていてはいけない存在〟ではないことを示す顔で発せられる言葉は何よりも重く、その意味に気付いたキリサメはたちまち全身から血の気が引いていった。胸の高鳴りが如何なる状態になったのかは瞬時にして紫色に染まった唇を見れば瞭然であろう。

 間近に座っている為、寅之助の声が聞こえてしまったらしいひろたかや、キリサメの変調をいぶかる大鳥には意味不明な暗号としか思えなかったようだが、『てんぐみ』局長の娘という哀川神通のもう一つの〝立場〟を知る二人はくだんの比喩表現と目配せのみで十分に通じ合うのだった。

 つまるところ、キリサメは胸の高鳴りによって正常な思考が妨げられ、神通の肩越しに覗いている〝闇〟を失念していたわけである。

 どうして『天叢雲アメノムラクモ』ではなく『E・Gイラプション・ゲーム』に参加しているのですか――この無神経極まりない質問に本気で機嫌を損ねた様子でもなく、冗談を返事に代えた為、神通当人は気にも留めていないのかも知れないが、キリサメの側は呻き声すら忘れてしまうほどの罪悪感で打ちのめされていた。

 二〇〇〇年代半ばの前身時代――日本MMAは反社会的勢力である『こうりゅうかい』との〝黒い交際〟が暴かれ、日本MMAは絶頂期から崩壊へと歯車が狂ってしまったのだ。

 『こうりゅうかい』の傘下にった『てんぐみ』は言わば指定暴力団ヤクザの実働部隊である。これを率いた局長の娘に『天叢雲アメノムラクモ』の出場など許されるはずもなかった。

 MMA団体としての〝新陳代謝〟を活性化させようと目論む樋口郁郎は、かつての黄金時代を支えたベテラン選手さえ冷遇する一方で、前途有望な若手選手を積極的に起用している。『鬼貫道明を異種格闘技戦線から離脱させた謎の武術家の娘』といった謳い文句も含めて哀川神通は喉から手が出るほど欲しい人材であろうが、その正体を見破れないほど間抜けな男が日本格闘技界に〝暴君〟として君臨できようはずもあるまい。

 不俱戴天の敵としか表しようのない『こうりゅうかい』に連なる人間を迎え入れるわけがない。例え鬼貫道明が――『昭和の伝説』が強く推薦しても断固として受け入れないはずだ。正気を疑うような振る舞いも多い樋口であるが、『天叢雲アメノムラクモ』ひいては日本MMAを守ることについては残酷なくらい判断を誤らないのである。

 彼は守るべき人々に逆らい難い恐怖を刻み込む〝暴君〟ではあるが、愚かにも国を食い潰すような〝暗君〟ではない――の樋口郁郎についてはのちの格闘技史でも暗愚とは記してはいない。

 即ち、神通は総合格闘技MMAに出場しないのではない。『天叢雲アメノムラクモ』と比べてが厳しくない地下格闘技アンダーグラウンドのリングにしか立てないのだ。

 本当に樋口が手を回し、MMAのリングから神通を遠ざけているとしても、その判断は鬼貫にも責められまい。前身団体バイオスピリッツに続いて指定暴力団ヤクザとの〝黒い交際〟を再び疑われるような事態に陥ったなら今度こそ総合格闘技MMAという〝文化〟は日本から消滅するはずだ。

 普段は他者ひとの醜態を煽り立て、腹を抱えて笑い転げる寅之助が注意に動いたという事実が事態の深刻さを端的に物語っていた。ただ一度だけ〝地雷〟と口にした後は咎めるような目でキリサメを見据えている。

 同じ〝古い道場〟とはいえども南北朝時代から続く『しょうおうりゅう』と、昭和の剣道家である森寅雄タイガー・モリの技では測る尺度が異なるものの、自分のように先人の想いを託されてきた神通には相応の敬意を抱いているのだろう。

 バロッサ家への皮肉に巻き込む一幕こそあったが、『しょうおうりゅう』そのものには無礼な態度を取らないのである。森寅雄タイガー・モリの名を口にするたび、一礼を忘れない寅之助ならばも得心できるのだった。

 普段は他者ひとを窘める側のひろたかと大鳥が揃って寅之助をいぶかしむ状況もまた皮肉である。この二人とキリサメは神通に対する失言という〝同罪〟でもって繋がっているのだった。

 謝ることさえ許されない〝罪〟であるとキリサメも理解している。現在いまは振り返ることも叶わないのだ。病的なほど蒼白になった顔を神通に晒したなら、同郷の御剣恭路以外に『てんぐみ』の存在が露見したという事実を勘付かれてしまう危険性おそれもあるのだ。それだけは何があっても避けなければならなかった。

 貧血の症状と間違われてもおかしくない顔色を神通本人から質されたときに取り繕えるほどキリサメは器用でもなく、審問官ともたとえるべき寅之助と、彼の肩越しに覗く窓を見つめるしかなかった。

 現在いまのキリサメには虚しく思えるほど奥州の空は晴れ渡っている。まるで新人選手ルーキーの門出を祝福しているようであり、平素であれば別の感慨を抱いたかも知れない。

 円卓に背を向けた状態ということは、当然ながら神通の手を握る未稲の顔も視界には入らない。自分に総合格闘技MMAという〝道〟を示してくれた瞬間ときと同じように目を輝かせ、古武術の若き宗家と向き合っていることにも気付けなかったのである。

 キリサメが歩んできた道が間違いでないことを証明したい。今までキリサメを生かしてきた〝力〟は胸を張れる誇りなのだ――間近で見守った電知との路上戦ストリートファイトに胸が熱くなって仕方がなかったと、松代町の小さな神社で明かした夜と声の調子まで全く同じなのだ。


「道場を再開するときには私も全力でお手伝いしますから! お父さんに掛け合って良さそうな物件も見繕ってもらうし、宣伝だって師匠に――格闘技雑誌パンチアウト・マガジンとツテのある人に協力をお願いしちゃいますよーっ!」

「法律関係の相談ならあたしが乗るわよ! あたしっていうか、うちの父がね! 例の裁判を持ち出すのはどうかと思うけど、どこか妙なトコから横槍が入るかもでしょ? そのときにはいにしえの聖徳太子に倣って法律でブチのめしちゃおうってワケ!」

「ですが、そこまでお二人にご迷惑をお掛けするわけには……」

「困ったときはお互い様じゃないの! ……もしものときにはあたしもバロッサ家も幾らでも間に入るからさ」

「ちなみに古武術の魅力を日本どころか、世界に向けて広くアピールする秘策も持ってるんですよね、私。さっき『古武術はオリンピックに出場られるような競技じゃないし、知名度も空手とは比較にならないから前途も明るくない』って話になりましたよね? その課題を上手い具合に解決クリアーできるんじゃないかなって!」


 遠回しに何らかの勧誘を試みている未稲と、明朗快活な平素とは異なって含みのある言葉を紡ぎ続ける希更――甲冑格闘技アーマードバトルに参戦した神通の甲冑姿でも夢想しているのだろうと前者の脳内あたまのなかを読み抜いた大鳥であるが、自身が担当する声優の思惑だけはどうしても掴み切れず、怪訝の二字を顔面に貼り付けている。


「キリキリからも〝古武術小町〟に一言ない? こ~ゆ~ときこそ甲斐性見せなきゃ!」

「希更さんもたまには逆転ホームランみたいなコトを言いますね! そうだよ! キリくん、あのノコギリみたいな武器で筑摩さんと剣を交えたんでしょ? そのときに感じた重みと未来への可能性を神通さんに伝えてあげて!」


 血の気が引いた顔に表れている心境など分かるはずもなく、寅之助と何事か喋っているとしか思っていない希更と未稲はキリサメの背中に神通を鼓舞するよう求めた。

 二人の要請は現在いまのキリサメにとって無情としか表しようがなかった。日本に移り住んで以来、最大の難局に立たされたようなものだ。声を揃えて呼び掛けられた以上、何時までもに背を向けていては不審に思われてしまうのである。

 この状況を寅之助がたのしまないわけがなかった。数秒前とは表情を一変させ、早く神通に向き直るよう顎でもって示している。改めてつまびらかとするまでもなく、平素いつものような底意地の悪い〝享楽家〟に戻っていた。

 恨みがましい目で寅之助を一睨みしたのち、油が切れたブリキ細工ともたとえられるぎこちない動きで元の位置に座り直したキリサメが瞳の中央に捉えたのは、まるで助けを求めるかのような神通の顔である。

 立場上、『天叢雲アメノムラクモ』は『E・Gイラプション・ゲーム』の大敵である。個人間の気持ちが友好的に結び付こうとも団体間の対立関係ばかりは変えようがない。それにも関わらず同団体の所属選手や統括本部長の娘から熱烈に激励され、返答に窮するほど困惑してしまったわけだ。

 あなたもわたしを受け入れてくれますか――まるで縋り付くような眼差しで問われてしまったならキリサメが絞り出す答えはたった一つしかあるまい。この瞬間、『てんぐみ』という自分たちが相容れない理由どころか、重い罪悪感すら思考あたまから吹き飛んだのである。


「……僕からも神通氏を応援させて下さい。お互いに立場は違いますが、こうして親しくなれたのも運命だと信じていますから」

「……キリサメさん……」

「神通氏を尊敬しているのは、みーちゃんや希更氏だけじゃないんです」

「あ、ありがとう……ございます……っ」


 日差しを取り込む大きな窓を背にしていることもあり、神通の座る位置からキリサメの顔色は正確には判らなかったようだ。これに対してキリサメの側からは逆光の影響を受けずに神通の顔を覗き込むことができる。

 キリサメの見間違いなどではなく、神通は頬を桜色に染めていた。それはつまり、彼女が感じたという〝共鳴〟に武術家ではない一人の人間としての気持ちが少なからず含まれていたことを示しているのだ。

 彼の言葉に瞳を潤ませながら顔を綻ばせたのち、神通は恥じらうように俯いてしまった。胸の高鳴りさえ二人は同じ種類の〝共感〟によって結ばれていたということである。

 これによって再び心を乱されたキリサメは一滴たりとも残っていないコーヒーカップに口を付け、真隣のひろたかから「公開計量といっても形だけなんですし、お替わりを頼んでも問題ないですよ」と鼻で笑われてしまった。

 夕方から臨む興行イベント開催前日セレモニーのプログラムに心拍数の測定も組み込まれていたなら、おそらくは医者に翌日の試合出場を禁止されてしまうような数値を叩き出したことであろう。


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