その9:古流(前編)~聖徳太子の名を継ぎし流派・現代古武術模様/あるいはフンドシ狂詩曲
九、古流(前編)
〝格闘技
戦後の焼け野原から高度経済成長期へ向かっていく日本人を元気付けた〝日本プロレスの父〟――
『
競技統括プロデューサーの
〝打撃系立ち技格闘技〟の頂点は誰が疑うまでもなく『
二〇一一年の旗揚げから三年しか経っておらず、一九九三年から解散の憂き目に遭うこともなく活動し続けている『
同団体は〝旅興行〟の形態を取っており、都心に拠点を持たず全国各地の運動施設などでMMAの大会を開催している。
名実ともに総合的な闘いとも言い換えられるだろう。これに対して『
そもそも『
その岳がプロレスラーを志したきっかけの人物であり、『新鬼道プロレス』の異種格闘技と『バイオスピリッツ』の総合格闘技の双方に挑戦した伝説的なマスクマン――ヴァルチャーマスクは児童養護施設や小学校を経済的に援助する篤志家としても有名であった。
それ故、自分の名前を伏せて寄付したい者は今でもヴァルチャーマスクの名義を借りるのだ。〝彼〟の意志は多くの人々に受け継がれ、二〇一〇年の一例目を皮切りに全国各地へと広がっていった。
ヴァルチャーマスクが体現した社会貢献の精神は、岳が統括本部長を務める『
異種格闘技から総合格闘技へ至る一本の〝道〟を先駆けたヴァルチャーマスクの精神を分かち合いながらも『
打撃系立ち技格闘技と
このように〝競技の特徴〟の確立こそ格闘技団体の要と捉える者も少なくない。
国内で開催されるMMA
規模こそ『
八雲岳たち重量級選手がリングを大きく軋ませる豪快なぶつかり合いや、体重別に階級を分けないという過激な一本勝負など格闘漫画の世界を再現するかのような『
種々様々な〝格闘技
プロによる〝格闘技
何よりも興行収入という成果が振るわなければ、団体としての活動自体が立ち行かなくなるのだ。
『
一九九〇年代半ばから二〇〇〇年代という日本MMAの黄金時代とは異なり、『リーマン・ショック』以来の長い経済不況が続く〝
自らの試合を控えた選手にとって前日の過ごし方は極めて重要である。体調を万全に整えても最後の一日で緊張感や
観戦ツアーは前日から行われている。つまり、〝プロ〟にとって何よりも大切な時間を代償として差し出さなければ、格闘技団体を維持することさえままならないのだ。社会貢献に力を注いできた『
『
いわゆる〝アイドル声優〟が本業であり、アニメシリーズ『
希更がMMAデビューを飾った長野興行には〝声優業のファン〟が大挙し、
それに吸い寄せられたのか否かを確かめる
これに対して希更・バロッサの所属する声優事務所が正式な抗議を申し入れたことは、日本で最も有名な格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』でさえ報じていない。
水面下の衝突である。『
団体代表の強権を
当初の契約内容を順守するという誓約書を取り交わして騒動は落着し、法廷で争う事態だけは避けられた。声優事務所としての対処はそれで完了したが、バロッサ家の
特に父親――希更の故郷で法律事務所を構えているアルフレッド・ライアン・バロッサは部下の弁護士二人を引き連れて熊本から東京まで攻め寄せると息巻いていたそうだ。
希更の話によれば母親の説得を
その母親――ジャーメイン・バロッサは今週末の試合で娘のセコンドに付くそうだが、樋口に対する不信が遠因となったことは間違いないだろう。コーナーポストの向こうから試合を見守るだけでなく、樋口の動向にも睨みを利かせるつもりなのだ。
(大鳥さんがやたらカリカリしてるのって例の裏事情の
〝師匠〟の影響を色濃く受けていることもあって昔から問題視される言行も多かったのだが、少なくとも味方を遠ざけるような暴挙は繰り返さなかった――『
キリサメと希更がそれぞれの
出掛ける直前に希更は町内を軽く
「――木刀が置いてねぇじゃねぇか、木刀が!
ロビーと隣接する土産物売り場を乱暴に物色し、指紋を付着させるのが目的であるかのように陳列された品を一つ一つ鷲掴みにした上、受付の係員を相手に理不尽極まりないことを要求する〝迷惑客〟へ冷たい視線を浴びせた
先程から希更の
ランニングの最中では受信そのものに気付かない可能性が高く、電子メールではなく電話を掛けたほうが早かろうが、文章では饒舌でも通話では要領を得なくなる未稲は最初から後者を選択肢に含めていなかった。
誰もが憧れるアイドル声優への対抗心によって引き留められた部分もある。同じゲーミングサークルの
当人は仕事の都合で急遽欠席となってしまったが、先月半ばに秋葉原で行われたオフ会を『
オフ会の会場とアニメのファンイベントが開催された宮崎物産館は歩いて一〇分と離れていない。ゲーミングサークルの集まりが終わり次第、そちらへ合流することを狙っていたのだろうと邪推してしまうほど『
デザート・フォックスを憎からず思っている未稲にとってこれほど腹立たしいことはない。彼が愛してやまない相手とは電話番号まで交換しているが、意地でも通話ボタンを押さないつもりである。なけなしの自尊心に傷を付けるくらいならば、鬱憤を溜めながらでも無為な時間を過ごすほうが良いという判断であった。
(……お母さんのほうは夜行列車で明日の朝、東北に着くんだってバロッサさん、話してたっけ。伯母さんはどうやって
キリサメたちの帰着が遅れているもう一つの可能性として未稲が思い浮かべたのは、希更のセコンドたちである。
希更に教わった話ではジャーメインは熊本から東京に入り、更に夜行列車の一人旅で岩手県を目指すという。共にセコンドを担当する伯母も八代市で暮らしているのだ。
その伯母のみが
「なんだ、この野郎⁉ てめー、オレの〝愛車〟にケチつけようってか⁉ 客だぞ、オレはァ! 玄関ンとこに
またしても酒と煙草で焼けたダミ声が鼓膜を突き刺したが、受付の係員と言い争う〝迷惑客〟の様子を関わり合いにならない距離から眺めるくらいしか未稲にはするべきことがない。
いよいよ手持ち無沙汰の極みである。
今にも警備員を呼ばれそうな〝迷惑客〟の背中に「とっとと警察呼べば良いのに。パトカーに放り込まれちゃえ」と毒
彼女も親子揃って金曜日の夜から奥州市に入っている。八雲家と同じ温泉旅館に宿泊しているのだが、嶺子は別の階に仕事用の洋室を借りており、朝食を
つまり、かつての夫の同じように子どもたちを置いて己の仕事に没頭しているわけだ。
出場選手たちは夕方から実施される一つのセレモニーまで奥州市あるいはその近隣にて待機しているのだが、その間にも〝裏方〟――即ち、運営スタッフは
表木嶺子という名前は「天才」の二字を冠する映像作家として日本国外まで知れ渡っている。『
(草食系通り越してダシも具もない超減塩味噌汁みたいなキリくんが身近にいるから感覚おかしくなってるけど、……やっぱり野郎どもは出るトコ出てるのが好きなんだよねぇ)
『
試合直前という極度に昂った若い男女が心身の火照りを鎮める為に〝真昼の過ち〟を犯しているのではないか――
希更・バロッサは自分と比べて
汗で濡れた頬に張り付く
彼女を善からぬ想像に駆り立てたのは
デザート・フォックスと話題を共有したいが為、
競泳水着に身を包んだ一枚は屋外プールと
改めて
未稲は自分の腹を摘まもうと図り、慌てて左右の五指を引っ込めた。「摘まめる」と考えてしまう時点で勝負にならないのである。希更の腹部が強靭な筋肉を纏わせていることは競泳水着の上からでも瞭然であった。
「……てゆーか、何をやってあげたらキリくんがハイテンションになるのか、全ッ然読めないんだよなぁ……」
妄想が袋小路に辿り着いた瞬間、何時でも眠たげなキリサメの顔が脳裏に浮かんだ未稲は溜め息混じりの呟きを引き摺りつつ正気を取り戻すかのように
自分の洗濯物に未稲の下着が混ざっていたとき、照れて赤くなることも鼻の下を伸ばすこともなく、無感情に淡々と返却するのがキリサメ・アマカザリなのだ。
積極的に抱擁を試みる希更を表情一つ変えずにやり過ごす少年である。デビュー戦を翌日に控えて気を張り詰めているとしても、いきなり劣情を催すとは思えなかった。万が一にも彼女の側から言い寄られても無慈悲に蹴り剥がすことであろう。
自室の本棚へ密かに隠してある禁断の書物――本来、未稲の年齢で所持してはならない物である――にて描かれているような展開など想像することさえ馬鹿馬鹿しいとは本人も気付いている。
何しろ寅之助と大鳥も同道しているのだ。他人が揉める様子を娯楽のように愉しむ前者はともかくとして現場マネージャーの場合は担当声優が過ちを犯しそうになった瞬間、ありとあらゆる手段を講じて食い止めるはずだ。
どうあっても起こり得ない事態に想像を膨らませてしまう自分の
(……
それ以来、未稲の頭からは
名前から日秘双方の〝血〟が流れていることは察せられたが、どのような服を着て暮らしているのか、どのような
初めて日本の土を踏んだ日、キリサメは防寒用のレインコートからスニーカーに至るまで激しい劣化が明らかに見て取れる装いであったのだが、新しい物に買い替える余裕もない困窮を
元より口数の少ないキリサメは最小限の
積み重ねた歳月の違う相手がキリサメの心に寄り添い、支えているとしたら自分の出る幕はない――未稲は言葉を交わしたこともない
恋人としか思えない幼馴染みを
しかし――と、心を掻き乱す迷いに未稲は自分のほうから疑いを投げ付けてしまう。
ひょっとすると日本への移住に際して関係を解消してきたのかも知れない。余りにも自分にとって都合の良い解釈だが、それをどうしても止められなかった。
キリサメを八雲家に迎えるべくペルーへ赴いた
キリサメが起こした不祥事を引っ繰り返すべく日本格闘技界の〝暴君〟が仕掛けた情報工作の一手――動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』の専門チャンネルに
仮想空間に三次元描画された〝キャラクター〟は
『ユアセルフ銀幕』にチャンネルを
これらのニュースを事前に承知していた未稲は、キリサメが暴力に支配される〝世界〟からやって来たという暴露にも大して驚かなかった。即ち、そこでペルー社会に対する想像が完結してしまったわけである。
『七月の動乱』最大にして最悪の激戦地と化した古い闘牛場へキリサメが銃撃戦の直後に駆け付けたことも、そこで彼と年齢の大して変わらない少女が射殺されたことも
だからこそ自分が恋敵のように意識する名前が『七月の動乱』の犠牲者名簿に記載されているとは夢にも思わなかった。日本人にとっては〝地球の裏側〟の出来事なのである。
長引く経済不況など諸問題を抱えてはいても法律に支えられた平和の中で生きられる少女にとっては、温泉旅館のロビーに設置されている液晶モニターの内容のほうが想像力を刺激されるようだ。
威嚇のつもりなのか、V
旅館とのその周辺の案内
手を繋ぐことさえ
(……ちょっとくらい勘違いしちゃっても許されるって、そう思うんだけどなぁ……)
画面内で描かれる
それはゲーミングサークルのオフ会と同じ日に秋葉原で起きた一件――キリサメの〝不祥事〟であった。
自分の
結果的には騙されていたわけだが、
将来を懸けるほど激しく異性から想われたことは過去に一度もない。〝ネトゲ〟の交流が中心である
キリサメには
恋人の真似事を繰り返しながらも彼が自分のことを異性として扱ってくれているのか、未稲には自信がない。希更・バロッサのように男性を惹き付けるモノなど一つも持っていないという劣等感に囚われてしまうのだ。
それでもキリサメに憎からず想われていることだけは信じたかった。それだけは
*
日本格闘技界の〝暴君〟よって支配された
太平洋戦争以前の風情を残す墨田区
一緒に帰宅した
自室へ引き上げたのは未稲のほうが先であった。ゲーミングサークルのオフ会を終えた直後ではあるものの、その夜にも〝ネトゲ〟の約束があり、
緊急の仕事が入ってしまった為、オフ会を欠席せざるを得なかったデザート・フォックスからもそちらには間に合うとの連絡が入っている。
そのはずであったのだが、ネットゲーム用のパソコンを起動させる前から未稲はどうしても気持ちが落ち着かなかった。階段を軋ませる音が一つ二つと鼓膜に折り重なる
リビングルームから階段へ向かう間際に横目で窺ったキリサメの顔は寅之助と繰り広げた〝
未稲自身は
開戦に至る経緯まで一部始終を見届けた空閑電知との
秋葉原という大きな町を鬼ごっこに興じるかの如く寅之助と駆け巡り、狭い路地で足を止める
本当ならば一秒でも早く休んで欲しかった。未稲とてデザート・フォックスやゲーミングサークルの
自分が安心したいという我が儘であることは未稲にも分かっている。それ故に
「……何?」
「な、何っていうか、その、あの――」
ノックに対する返事を待ってドアを開けた未稲は、そこに虫の居所が悪そうな顔を見つけて戸惑い、次の言葉を紡げなかった。何事にも無感情なキリサメにしては極めて珍しい表情なのだ。それだけに短い一言は心を冷たく突き刺した。
「――キリくん、どうしてあんな危ない真似をしたの? この場合の『危ない』っていうのはこのバカデカいノコギリを振り回したコトじゃなくて、……今日は文多さんのお説教で済ませて貰えたから良かったけど、最悪、『
キリサメが
新しい家族との接し方に迷い、一人では抱えきれなくなった不安を
その頃まで感覚が巻き戻ったかのように慌ててしまった為、口を衝いて出たのは体調への気遣いではなく麦泉の詰問をなぞる
『
そのときには将来の展望まで問い
「……わ、我ながら身の程知らずの自惚れだって
『タイガー・モリ式の剣道』と激しく斬り結んだ『
拉致監禁そのものは虚言であったのだが、寅之助から挑発的な電話を受けた時点でキリサメは殆ど正気を失っていた――彼を改造バイクの
無意識の行動であったが、身の
尋ねた
他の誰でもない八雲未稲が絶体絶命の窮地と思ったからこそ、MMA選手の資格を投げ捨てる覚悟で寅之助に
それ故に心の動揺が引き金となり、本人の意識を超えて零れ出してしまったのだ。
「もしも、またみーちゃんが危ない目に遭わされたときも僕は同じように戦うよ。僕にはみーちゃんが〝全て〟だから」
キリサメの
声を掛けてきた人間を突き放すかのような態度から決然たる
そもそも間近に迫るより先に魔の手を斬り払ってみせる。己の身を盾に換えようとも守り抜く――強い決意を言い添えるキリサメであったが、声の調子は極端に昂揚しているわけでもない。つまり、彼は気負うまでもない当たり前のことを述べているつもりなのだ。
未稲の全身が更に熱を帯びたことは、改めて
「僕にはみーちゃんが〝全て〟なんだ」
もう一度、その言葉に心を貫かれた未稲は冗談めかした言葉で誤魔化そうと考えはしたものの、「それじゃお父さん、ガン無視じゃん。きっと
言葉の代わりに丸メガネが真っ白く曇り、未稲の内面をレンズに映している。
『
夜の神社で交わした約束を壊して欲しくない――と、説得すべきであることは未稲にも分かっている。
しかし、キリサメはその喧嘩殺法を自分にとっての〝全て〟である
恋に恋する年頃として当たり前の反応というべきかも知れない。あなたこそ自分の〝全て〟と告げられたことさえ生まれて初めてなのだ。身も心も沸騰しないはずがなく、脳をも溶かしてしまいそうな喜びへ素直になることもまた必然であろう。
「あ、あ、あの、あのあのあの……あの……っ! いや、あの、あのね――」
涙が溢れそうになるくらい頬が火照った未稲は全身を駆け巡る甘やかな衝動をいよいよ持て余し、セーラー服のスカーフでもって丸メガネのレンズを拭い始めた。
言わずもがなそれも無意識の行動である。一点の曇りもなくなったレンズを通してキリサメの顔を窺おうとしたが、もはや、真摯な眼差しを受け止める余裕もないくらい
「デ、デザート・フォックスさん! ていうか、サークルの人たちとネトゲの約束もしてるから! だから、えっと、その……こッ、今夜はこれでおやす――」
視界が回転するのではないかと怖くなるほど混乱した未稲はゲーミングサークルの約束を持ち出して取り繕い、何十秒と経っても一向に慣れない空気から逃れるように
未稲は右の手首を痛いくらいに強く掴まれ、抵抗する間もなくキリサメの側へ引き寄せられると、そのまま唇を奪われてしまった。手首を掴む左の五指とは対の手でもって
このとき、彼女の左手はキリサメの背中に回され、一等強くシャツを掴んでいた。
*
キリサメからぶつけられた想いを振り返る内に未稲は右の人差し指でもって己の唇を撫でていた。焼き付くのではないかと心配になるほどの熱さが
僕にはみーちゃんが〝全て〟なんだ――どこまでも真っ直ぐな言葉に
それでも
陸前高田市を訪ねた昨日も教来石沙門がすぐ近くで歩いている状況にも関わらず、強引に唇を貪られてしまったが、
ペルーの風習に詳しくない未稲であるが、それが同国の挨拶ではなくキリサメ自身の欲求による
先ほど
素直な心の働きを無理矢理に抑え込んでしまうことこそ何よりも不健康であろうと自分に言い聞かせたとき、性根が腐り切っていると恥ずかしく思うような気持ちは微塵も湧かなかったのである。
(自意識過剰ってキリくん本人に
〝あの夜〟はすぐに解放され、ゲーミングサークルの
先ほど鼻から滑り落ちた丸メガネは膝の上に転がったままである。これを拾うことさえ忘れて返信のない
穏やかな人柄に惹かれた麦泉や、パソコンの
彼女が『デザート・フォックス』という男友達の
火照った顔を逸らさず自分に
日本人にとっては〝地球の裏側〟で起きた事件であるが故、『七月の動乱』の犠牲者名簿に自分が恋敵のように意識する
もう一つの見落としは追憶の中ではなく目の前にある。向かい側のソファに弟の
「……ぼくにも判るくらい顔が真っ赤ということは明らかな発熱の症状でしょう。こんな場所でぼけーっとしていないで未稲さん一人だけでも東京に帰っては? 試合に向けて体調を整えるのは選手の義務ですが、
「――ンにょわッ⁉」
それ故に大理石で拵えたテーブルの向こうから冷ややかな
自分の足元まで転がってきた丸メガネを溜め息混じりで拾った
呆けた調子でこれを受け取り、埃を一息で吹き飛ばすことも忘れて掛け直すほど未稲の動揺は大きい。部屋で小学校の宿題に勤しんでいたはずの弟が何の前触れもなく目の前に現れたのだ。甘やかな妄想に意識を囚われていたのが原因とはいえ、ソファから転げ落ちてしまったのは無理からぬことであろう。
「――だーかーら! 何回も同じコト言わせんなや! 観光地の土産物っつったら木刀が王道だっつってんだよ! オレが何か間違ってるか? あ? ココに泊まっちゃねェから何だっつーんだ? わざわざ来てやったんだから客に変わりねーだろがよッ!」
追憶と妄想の世界から現実へと引き戻された未稲は依然として続いている〝迷惑客〟の喚き声に鼓膜を打ち据えられ、ようやく身の周りの
「お、お母さんはどうしたの? そろそろ出掛ける時間だよね? サイクロプス龍さんトコの――『
「予定が前倒しになったとかで今さっき出掛けて行きましたよ。返事がないと思ったら、やっぱり気付いてなかったんですね。『ヒロをよろしく』って未稲さんにも声を掛けていたんですよ。面倒なんか見る気がないってバッサリやって貰ったほうがぼくも気がラクですし、お構いなく」
「そ、そんなワケないでしょ~。お母さんのコトは気付かなかったけどさ、弟と遊びたくないお姉さんなんてこの世にはいないんだから~っ」
「……返事を待たずに出ていった母のほうがぼくには問題だと思いますがね、親として」
弟の向かい側に座り直した未稲は気まずげに頭を掻き、歪めた口元には自嘲の念を滲ませている。今し方の話から察するに
姉弟間の信頼にも関わる事態といえよう。その上、
平素も映像に関わる仕事は事務所の中だけで完結させるように努めており、自宅へ持ち帰らざるを得ない日にも作業用の部屋に
一方で
それ故に未稲も口の悪い
「そ、そうだ! ヒロくん、本館の展望カフェに行ってみようよ? キリくんたち、まだまだ戻って来そうにないし、お姉ちゃんとお茶しよ、お茶」
「……今、
それとも著者は一〇歳未満の子どもでも理解できる筆致で中世日本に
世界中から天才と褒めそやされる母親譲りの利発さはさておき、
そもそも八雲家と表木家は同じ温泉旅館に宿泊しながら部屋を別々に取っている。岳は両家と麦泉まで巻き込んで大部屋を予約するつもりでいたのだが、それを
宿泊する部屋が異なるのだから未稲にも弟の動向を完全には把握できない。
未稲の認識では
(最悪にみっともないトコを見られちゃったなぁ~。ただでさえ姉としての威厳ガタガタなのに、ますます信頼ゲージを下げられちゃったよ、きっと……)
驚愕に次いで気まずい思いが押し寄せてきた未稲は、弟の面倒を見なければならないと自分に言い聞かせながらも堪らず顔を背けてしまった。
この小さな少年と同じ眉毛を持つ
その直後に彼女の腹の虫が鳴った。それもロビー全体に鳴り響くほど盛大な音である。弟の間に垂れ込めていた居た堪れない雰囲気を切り替える作用は抜群であったが、先程までとは異なる意味で顔面が沸騰した。
「アマカザリさんたちの前で鳴らなかったのが唯一の救いといったところでしょうか。展望カフェに誘った理由も明白ですね。もう我慢できないご様子ですし、未稲さんだけお先にどうぞ。代わりにぼくがここで皆さんの帰りを待っていますから」
「で、できるよ! 余計なお世話だよ! 公開計量が終わるまではご飯を食べられないキリくんたちに悪いもん!」
「そんな風に思えないくらい大きな音でしたよ? 部屋に備え付けのパンフレットでも読みましたが、こちらのカフェでは特製ベーコンの料理が名物だとか。そろそろランチの時間ですし、売り切れない内に行ってらっしゃいな」
呆れ返った様子で肩を竦めて見せる
一〇歳にも満たない子どもとは思えない賢さは勘働きにも表れるわけだ。
「もう~! ヒロくんねぇ、女の人にそーゆー態度は失礼なんだよ? クラスのコに嫌われたって知らないんだからね!」
「それで反論しているつもりなんですか? 小学生相手にそんなレベルのことしか言い返せないとは、呆れを通り越して悲しくなってきましたよ。高校生相手に幼稚という言葉を思い浮かべなければならないとは」
「もーっ! も~っ!」
「確か『
「牛を名乗れるような凹凸なんか持ってないよッ!」
顔を真っ赤に染めて弟に食って掛かる未稲であるが、空腹を表す号砲を鳴らしたのは自分自身であり、何を言っても恥の上塗りにしかならなかった。
空腹を原因として苛立ち易くなっている自分の小ささを思い知った途端、未稲の
特に希更は年齢や立場を超え、対等な友人として気さくに接してくれるのだ。そのような相手にまで醜い想念を向けてしまったことが情けなくてならなかった。
「……そんなに時間ばかり気にすることも無意味だと思いますよ。待てど暮らせど
沈んだ気持ちを入れ替えるように
「ファンって、バロッサさんの……? そこはマネージャーの大鳥さんが近付けさせないんじゃないかなぁ」
「アマカザリさんにもたくさんいるじゃないですか、ファンの人。森寅雄の剣道を継いだ例の人が――というか、秋葉原のド真ん中で乱闘騒ぎを起こすような人が〝その気〟になれば、実力行使でファンを返り討ちにするハズですよ。警察から連絡が入っていないというコトは
「は……いィィィ?」
双眸を驚愕に見開き、素っ頓狂な声を上げた
その途端に未稲の鼻から丸メガネが再び吹き飛びそうになった。
つまるところ、大陸は『キリサメ・アマカザリ』という
未成年を〝暴力の世界〟へ引きずり込むことを問題視し、『
「例の暴露番組で――『
現時点では無名の選手であるキリサメ・アマカザリがインターネット上で騒がれていることに面食らった未稲は、ただただ双眸を
「このギターのアカウント画像と
「世間は狭いと言いますが、未稲さんのご友人でしたか。
「友達っていうか、ちょっとした知り合い……かな。ストリートミュージシャンってコトまでは私も知ってるけど、それくらいで――うん、そっか……栃内さんも目撃者の一人に違いないもんなぁ~」
屋上庭園の戦いでキリサメ・アマカザリは
未稲が画面内に見つけたストリートミュージシャン――
〝友人〟と呼べるほど親しいわけではないものの、未稲にとって〝知人〟であることは間違いない。興味を惹かれて幾つかの
(……樋口社長に手のひらの上で転がされてるみたいでやっぱり癪だなぁ。何もかもあの人の思い通りなんだもんなぁ。これだから誰も文句言えなくなっちゃうんだよ……)
かつて未稲自身が
「まるで
「ん~、……まぁ、うん……それは――ねぇ……」
〝裏〟の事情を
後白河法皇は出家の
それ故に〝日本一の大天狗〟と畏れられたのだ。
日本で最も有名な格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』から『
内なる心の声まで拾い上げるほど格闘家と真摯に向き合う記者であった今福にとって現代の〝大天狗〟が振るう剛腕は断じて許せるものではあるまい。樋口は所属選手を守るべき立場でありながらキリサメ・アマカザリの尊厳を踏み躙ったのだ。それ故に未稲は師匠の
彼が〝裏〟で手を回してくれたからこそキリサメの選手生命は辛うじて繋がった。それは紛れもない事実であるが、己自身は姿を現さないまま視えざる手によって〝世界〟を動かしてしまう樋口に未稲は恐怖すら覚えたのである。
「ちなみに未稲さん、今月号の『パンチアウト・マガジン』はもう読みました?」
『パンチアウト・マガジン』はプロレスやボクシング、空手に柔道などあらゆる分野の格闘技・武道を満遍なく取り扱っている。今月号では『第一三
統括本部長が見出した新星というだけでも『
その一端を
かつて
「つまり、アレがトドメの一手だったんだね。樋口社長の戦略が今月号の特集込みってコトは師匠に確認するまでもないか……」
「でしょうね。
「今福師匠じゃなくて倉持さんのほうがお母さんに連絡してきたの? ……うっわ~、聞きたくなかったなぁ、その話。生々しい方向に転がってない?
「クーデターっていうか、常に内部分裂を起こしているようなものじゃないですか。鎌倉幕府や室町幕府みたいに。アマカザリさんも大変な時期にデビューするもんですね」
特集記事に関してはキリサメ自身の
希更の言葉ではないが、儚げな雰囲気に庇護欲を刺激される人間も少なくないだろう。
互いを絡み合わせる形で腰に締めた三枚の布切れは風に
股下から裾に掛けて幅広でゆったりとしたそれは従来の試合着に比べると明らかに異質であり、現代格闘技の常識から外れた領域に
「世の中にはミーハーな人が多いですからね。ラブコメみたいな同居生活に夢
「い、幾らなんでも話の振り幅、大き過ぎじゃない?
「例えば教来石沙門とかね。近頃、アマカザリさんと急接近しているそうですね?
「そこでフツー、教来石さんを持ち出す? バロッサさんでもなく? おかしくない?」
「ウワサになればネット上にも〝そのテ〟の妄想が溢れ返るでしょうね。何しろ同じ日にデビュー戦を迎える新人選手だ。運命の糸で結ばれているように感じる人だって多いハズです。未稲さん、そういうのも好きそうですよねぇ」
「キツいな~! 実の弟から〝ナマモノ〟な話題を持ち出されるのも、それをすっぱり否定できないのもキツいなぁ~っ!」
真っ向から異論を唱えつつも弟が言わんとしていることが姉にも全く理解できないわけではない。「急接近」という表現はキリサメと沙門の為に存在するような言葉であろう。
当のキリサメも彼のことは「沙門」と
互いの命を喰らい合うような闘いを繰り広げた電知や寅之助などキリサメが
二人から聞かされた
それ故にキリサメは沙門が強硬に推し進めている『
「……ヒロくんの
「色々な意味で何を言ってるのか、測り兼ねるのですが……」
短時間で絆を育んだキリサメと沙門に対し、未稲も運命的な巡り合わせを感じている。鼻血を噴き出すことこそなかったものの、
「――さっきからおめーらが話してる教来石って沙門のコトだろ? あの野郎、オレの弟分にコナかけやがったのかァ? 兄貴分としちゃあ黙っちゃいらンねぇぜ! 城渡総長には申し訳ねぇが、一度、きっちりシメてやるァッ!」
未稲と
受付の係員へ支離滅裂な言い掛かりを付けていた〝迷惑客〟である。
太腿の部分が異様に広く、裾が細い変形の黒ズボン――いわゆる〝ボンタン〟を穿き、〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌の上に羽織るという珍妙な風貌からも一目瞭然であるが、V
金髪のパンチパーマは額の剃り込みが鋭角で、鼻の下に蓄えた髭と相まって人相の悪さを一等際立たせている。迷惑行為を遠巻きに眺めていた宿泊客へ「文句あんのか?
〝ボンタン〟にベルトは用いず、バイクの物であろうチェーンを帯の代わりに締めているのだが、これらは昭和後期の
〝短ラン〟の背面には荒々しい筆致で『
「……すみませんけど、私たちに話し掛けないで貰えます? 知り合いだって勘違いされるだけでも大迷惑なんです。今すぐお引き取りを。キリくんは当分、帰ってきませんし、何時までも居座られたら困るんですよ。警察呼ぶかどうか悩むくらい」
「るせぇな! 弟分に〝敵中突破〟してやるのは兄貴分の務めだろうが! 出直すなんてカッコ悪ィ真似、『
「御剣さんは自分の喋ってる
「……ひょっとしてこの人、『陣中見舞い』と言いたかったのでしょうか? 言い間違えや誤用というのは大抵の場合、意味が正反対にひっくり返るものですが、『敵中突破』だと一つも掠っていませんよね?」
「細かい部分に気が付くのはヒロくんの良いトコだけど、そこは聞き流すのが正解だよ。聞いたでしょ? こういう人たちは顔に泥を塗られるのが一番イヤなんだもん」
当人が得意満面で吼えた通り、御剣恭路にはインディーズバンドのギタリストとも異なる肩書きがある。湘南を中心に活動する暴走族チーム『
それはつまり、敵対する暴走族チームとの抗争に際して
キリサメが初陣で闘う相手――城渡マッチもMMAの試合では〝ボンタン〟を穿き、剥き出しの胴にサラシを巻いている。恭路は〝総長〟と慕う相手を真似して
暴走族チームを率いる
耳障りな爆音が正面玄関の扉を突き破ってから間もなく、「折角、兄貴分が来てやったのに出迎えもナシかよ、アマカザリッ!」と大声で喚きながら温泉旅館のロビーに姿を現したのだ。
改めて
野蛮の二字が〝短ラン〟を着て歩いているような強面の男でなかったら、旅館の側はバイクの撤去まで仄めかし、強硬な態度で相対したことであろう。何しろ恭路は宿泊客でもないのだ。言行の一つ一つが迷惑行為に等しく、警察に通報されても文句など言えない立場であった。
未稲は同じ爆音を
恭路当人曰く、デビュー戦に臨む〝弟分〟の陣中見舞いとのことである。
この時点で未稲は御剣恭路という男の
〝城渡総長〟からすれば〝
好意的な表現を選ぶならば分け隔てなく親愛の情を示すということであり、底意地の悪い見方をするならば八方美人ないしは無分別――元から悪感情を抱いていた相手ということもあって未稲には後者としか思えなかった。
彼女は心の中で「無神経」とも付け加えている。両手から提げたコンビニのビニール袋には大量の缶ビールが詰め込まれており、これを陣中見舞いの品として差し入れようとしていたのである。
翌日に試合を控えている
そもそもキリサメは二度もの留年によって高校に在籍したまま
(酔っ払ったらリラックスできるって発想が最悪なんだよなぁ~。お父さんもそういう部分がないわけじゃないけど、……どうすりゃここまで頭のネジを飛ばせるんだろ……)
恭路の
このときばかりは
先程もキリサメが出迎えなかったことに文句を垂れていたが、そもそも御剣恭路からの事前連絡など一度もなかった。この男の電話番号さえ未稲は知らないのである。
だからこそ、自分たちの宿泊先へ踏み込んできた恭路の
瀬古谷寅之助と
「――奥州市内のホテルや旅館をローラー作戦で回ってやったに決まってんだろ! 八雲岳のおっさんが例の観戦ツアーに出張るっつうのは総長から聞いてたからよォ、宿も市内で取ってるに違いねェってな! 手前ェで手前ェの推理力が怖くなっちまったぜェ!」
宿泊先を突き止めることができた理由を
姉に遅れてロビーを訪れた
御剣恭路は一度でも言葉を交わした人間を身内も同然と思い込んでしまうのだろう。その対象には未稲と
〝身内〟と判断する基準がキリサメとは正反対のようであるが、彼の〝兄貴分〟を自称する意味も未稲には全く理解できなかった。当然ながら一方的に〝弟分〟と見なされてしまった
「――口を挟んですみません。こちらの男性のお連れ様……ですよね? あの……彼女さんでしたら、こちらの彼氏さんをどうにかしてください! そうでないと当方としましても然るべき手段を取らざるを得ませんのでっ」
「ンなッ⁉」
受付カウンターを挟んで飛び込んできた係員の声に未稲は全身から血の気が引いた。
耐え難い誤解である。その直後、恭路が係員に「バカ野郎! オレにだって選ぶ権利があらァ! 誰がこんなチンクシャと仲良しすっかよ!」と大声で言い返し、未稲の
この不愉快な男と知り合いとも思われたくない未稲は、どれだけ耳障りでも喚き声を黙殺し、他人の
匿名による真偽不明の情報が乱れ飛ぶインターネットの世界に染まった毒舌家の一面を持ってはいるものの、姉の性根が腐り切っていないことを
「選ぶ権利っつったら沙門の野郎も片想いが哀れでならねェぜ。アマカザリのほうはヒロにべったりなんだろ。そういう意味じゃアマカザリも罪作りなヤツだわなァ。電知に寅之助と磁石みてーに人を引き寄せてやがらァ。あいつ、人付き合いがうざってェタイプじゃねェの? 何なら兄貴分のオレがヤツらとナシ付けてやっても構わねェんだぜ!」
「キリくんに
「未稲、てめー、オレの目を洞穴か何かと勘違いしてんじゃねーのか⁉ あれだけ分かり易くちょっかい出しまくってりゃバカでも分からァよ。誰がバカだ、この野郎ッ!」
「……いい加減、
城渡マッチは若き日に『
一方の
尤も、恭路本人は
「クソったれが! 無性に腹立ってきたぜ! 沙門の野郎、昨日までおめーらと一緒に居たっつってたよなァ⁉ 付き合いの古い総長のトコに顔見せるのがスジだろが! 激励しに来いっつーんだよ! それをあの野郎……やっぱヤキ入れたるァ!」
〝城渡総長〟へ礼儀を尽くさなかったことに対して必ず制裁を加えると恭路は息巻いているが、沙門に襲い掛かったところで三分と保たないはずだ。相手は名実ともに日本で最強の空手家である。
「……アマカザリさんはどうしてぼくに無駄に構うんでしょうか……」
姉と〝迷惑客〟による聞き苦しい言い争いから逃れるよう俯き加減となり、再び自身の
喉の奥から絞り出された声も
そもそも
『
映像作家の仕事以外には興味すら持たない
長野県の山奥に屋敷を構えている母方の祖父は今でも健在なのだが、仕事の都合で世界中を飛び回っている為に
今度も一人で留守番するつもりでいたのだ。それなのに思いも寄らない人物から――キリサメから手を引かれ、とうとう奥州の地を踏んでしまったのである。
「僕の出発をみーちゃんと一緒にキミにも見届けて欲しい」
MMAの興行には近付きたくもないと抗うこともできたのだが、その言葉が何故だか心に突き刺さり、ついに義兄の手を振り払えなかった。
キリサメ・アマカザリと
ただ一度、顔を合わせただけの人間にどうして深く踏み込もうとするのか。そして、誘われるがまま東北を訪れたのは何故なのか――
大人が想像している以上に子どもの感覚は鋭く、七歳らしからぬ小賢しさから同級生の親に疎まれていることも
「……ぼくを構ったって、面白くも何ともないのに……」
岩手遠征を
「……最初から何を考えているか分からない人でしたけど、いよいよ意味不明ですよ。ぼくのことを強引に誘っておいて、自分でブチ壊しそうになるとか考えナシにも程がありますよね」
「うう……、そ、そこを突かれちゃうとお姉ちゃんも何も言えなくなっちゃうなぁ~。キリくんがムチャをしちゃったのも、わ、私を心配してって感じだしぃ~」
「別にぼくは
「そ、そこまでェッ⁉ ヒロくんが恋愛相談を持ってきたって、お姉ちゃん、乗ってあげないからねっ!」
「それはご心配なく。ぼくに興味を持つ人なんて地球上のどこを探したっているハズありませんからね。ぼくとしても思春期特有の苦労が減るので今から気がラクですよ」
「またお姉ちゃんが何も言えなくなっちゃうことをこのコは~っ」
キリサメが起こしてしまった不祥事は、約束を交わした
八雲岳を含んだ〝家族〟とは異なり、格闘技そのものを少しも愛していない為、岩手興行を中止に追い込む可能性もあった不祥事さえ第三者の視点から捉えることができるのかも知れない――そこまで義兄のことを考えてしまう心の働きに如何なる名前を付ければ良いのか、これまで
「未稲さん、よくアマカザリさんとまともに意思の疎通を成立させられますよね。そこだけは、その一点だけは掛け値ナシに尊敬しますよ、本当」
「――確かによォ、アマカザリの野郎は会話に困るくれェ無口だよなァ。肝心なコトもマトモに話さねぇしよ。今の言いっぷりじゃヒロもえれェ苦労してんだろ? 弟分の弟は広い意味じゃ弟分と一緒じゃねェか! オレが何でも相談に乗ってやらァ!」
自分の心もいよいよ意味不明――そのように心の中で
「
「ヒロくんのこと、自分と似てるって思ったのかも知れないね、キリくんは」
キリサメの〝兄貴分〟という一方的な自称を耳障りなくらい強調し、「アイツとは腹ァ割って話す仲なんだぜ! 女子供も割って入れねェ男同士の絆ってヤツだ!」と余りにも虚しい自慢を垂れ流し続ける恭路を黙殺することに決めた黙殺した未稲は、小さな声で呟き続ける
肌から浸透していく温もりに乗せて、紡ぐ言葉を心の奥底まで届けようとしていた。
「私も全部を知ってるわけじゃないけどね、……キリくんにも色々なコトがあったみたいなんだよ。海の向こうのペルーでね……」
「色々……ですか……」
「キリくんはね……お父さんのことは顔も知らなくて、二人三脚で暮らしていたお母さんは早くに亡くして――たった一人で、大変な思いをして生きてきたんだよ」
その「大変な思い」が喧嘩殺法を生み出したことは樋口郁郎が裏で糸を引いた『
格闘技雑誌の特集記事や『
『
「……たった一人……」
誰に聞かせるでもなく、
いつでも眠そうに
誰に頼ったら良いのかも分からず、誰のことも信じられない独りぼっちの〝世界〟で牙を研ぎ澄ませ、死にもの狂いで戦い続けてきた――姉の言葉と体温は過酷としか表しようのないペルーの〝現実〟を弟の心に伝えていた。
「……ヒロくんとキリくんが全く一緒だなんて言えないけど、
「未稲さんの言う通りだったら、冗談抜きで大きなお世話ですよ。ぼくは別に力になって欲しいなんて思ってないし。あんな何を考えているのか読めない人に援けられなくても何も困らないのですから」
「……うん。だから、これは全部、私の勝手な想像だよ」
「肝心な答えを人に丸投げするなんて無責任ですよ。……卑怯です、未稲さんは」
「だって、その答えは私には分からないからね。……でもね、キリくんがキリくんなりにヒロくんのことを気に掛けているのは間違いないよ。本当はどんなことを考えていて、どうして手を差し伸べてくれたのか――それはヒロくんから
いつもながら姉の言葉は要領を得ないのだが、今日は特に漠然としていて趣旨を掴み切れなかった。
それでも今の
おそらくはキリサメも同じなのだろう。正体不明の衝動に背中を押され、〝血〟の繋がらない義理の弟へ「デビュー戦を見届けて欲しい」などと口走ったに違いない。
「そこなんだよ、そこ! そこそこそこ! アマカザリの野郎はそこでずーっと躓いてやがる!
姉弟の会話を盗み聞きしている間に一人で勝手に感極まった恭路は鼻水を啜りながらV
六本の弦を弾く音に乗って鼓膜へ飛び込んでくる喚き声を今まで姉弟は聞き流していたのだが、今だけは耳を傾けざるを得なかった。その声量に眉根を寄せながらもそちらに意識が向いてしまうのだ。
自分の気持ちを一方的に押し付ける傍迷惑な男ではあるものの、御剣恭路もまたキリサメ・アマカザリという少年に〝何か〟を感じた一人なのだ。認めることは甚だ不本意であるが、それだけは間違いなく、だからこそ「
「……どこまでもウザったい人です……」
心の中で跳ね続ける〝何か〟を持て余した
想定より大幅な遅刻であるが、五人揃って戻ってきた次第である。
「野郎! 殿様出勤とはこのことだぜ! 弟分の分際ですっかり待たせやがって! おうおう、瀬古谷も大鳥とかっつうのも一緒じゃねーかッ! どいつもこいつもよォッ!」
「鼓膜が破れるような声はやめてくださ――あれ? ……五人? えっと……人数が増えていませんか?」
「……ちょっと待って。一番後ろから
「いやぁ、ごめんね~! メール貰ってたことに気付いたのも今さっきでさ! 返信入力するよりロビーに入っちゃったほうが早いかなって! お詫びに何でもご馳走するよ!」
旅館の敷地内へ戻ってくるまで未稲から届いた電子メールに返信できなかったことを謝る希更の声は誰の耳にも入っておらず、その視線は彼女の肩の向こうへと注がれている。
旅館から出発していったのはキリサメと寅之助、希更と大鳥――つまり、二組四人のはずであるが、最後尾に別の女性の姿が
哀しさと凛々しさ、更には憂いをも
長く艶やかな髪を襟足のところで二つに縛ったその
淡い桜色のブラウスに若草色のロングスカートというカジュアルな出で立ちではあるものの、初対面の折に目の当たりにした姿が記憶に焼き付いている為、決して見間違えることはない。
キリサメたちに伴われるような恰好で温泉旅館に現われたのは、異種格闘技食堂『ダイニング
「お久しぶりです。店の外でお会いするには初めてなのですが……」
木札のネックレスを揺らしつつ会釈してきた彼女に対し、未稲の側は面食らった様子で双眸を瞬かせるばかりであった。
「あ、あ、哀川ァーッ⁉ なんで、てめーがッ⁉」
何の前触れもなく飄然と現れた『ダイニング
余りの喧しさに耐え兼ね、「いい加減にしてくださいっ!」と文句を引き摺りつつ姉弟揃って振り向いてみれば、声を裏返らせた当人――御剣恭路が右の人差し指を前方に突き出したまま唖然呆然と立ち尽くしている。
目玉が飛び出すのではないかと心配になるほど左右の
哀川――奇しくもそれは
八雲家・表木家ひいては希更・バロッサが岩手興行の拠点に選んだ温泉旅館は小高い丘の上に所在しており、本館最上階の展望カフェからは奥州市の穏やかで美しい町並みを眺めることができる。それこそが極上の
特製ベーコンを使った料理は宿泊客以外の人々も足を運ぶほど大評判であり、ランチの時間帯は廊下からエレベーターホールまで一直線に行列が伸びている。
キリサメたちが入店したのはランチの賑わいを迎える前であり、コーヒーや紅茶を楽しむ客が窓際の席へまばらに座っているのみであったが、合計八人という大人数に加えて人気声優まで含まれている為、テーブル席ではなく畳敷きの和室へと案内された。
改めて
ランチの混雑時であったなら、カウンター席や少人数用のテーブルと同様に和室の円卓も全て埋まっていたことであろう。
新宿駅前という激戦区で接客業をしている哀川神通は他県の飲食店に興味津々の様子であり、応対に当たった店員の一挙手一投足へ注意深く目を凝らし、二度三度と首を頷かせていた。
大人びた面立ちには不似合いな仕草に希更は「和むわね~。ハグして頭撫でたいくらい可愛いわぁ」と頬を緩ませ、キリサメのほうは気恥ずかしそうに目を逸らしていた。
神通を前にしたキリサメは明らかに緊張していた。円卓を挟んで差し向かいに腰掛けた彼女とは目も合わせられず、おまけに思考まで鈍ってしまっている様子だ。自分の注文も忘れてしまうほどであり、コーヒーにはミルクも砂糖も不要かと再確認を求めた店員に対し、「僕、何をお願いしましたっけ」と間抜けにも
これを見て取った神通が柔らかな微笑を浮かべると、眉間の辺りを掻きつつ恥じらったように俯いてしまうのである。
極めて珍しいことなのだが、『
未稲からすればキリサメと初めて顔を合わせて以来、一度たりとも見た
ほんの一ヶ月ほど前に彼女も似たような面相になったのだ。ゲーミングサークルのオフ会当日のことだが、鏡に映ったその顔はパソコンのモニター越しに長らく思い焦がれてきた
哀川神通のことを〝特別な存在〟として意識しているようにしか見えないのだ。
己が持たざるモノを全て備えた希更・バロッサや、顔も見たことがないキリサメの幼馴染み――
事あるごとにキリサメへアプローチを仕掛ける希更ならば一緒になって警戒しそうなものだが、彼女は神通のことまで気に入っているらしく、真隣に座って「このままお持ち帰りしたいわ~」と頭を撫で続けていた。
隣の円卓に腰掛け、タンブラーに注がれた冷たい水で喉を潤す大鳥聡起は依然として背広を脱いでいない。その滑稽な
そこに恋愛感情を認めたなら物理的に割り込み、両者を引き剥がしたはずだが、友人との
(ネットの陣取りゲームだってもうちょっと手加減してくれるでしょ⁉ こんなの、開戦直後に全方位から包囲網喰らってるようなもんじゃん! 味方もゼロで詰みじゃんっ!)
キリサメのデビュー戦が決まって間もなくの頃、『ダイニング
このとき、雇われている側でありながら
宿泊先の展望カフェに神通を誘ったのも希更であった。
そもそも神通は一人で奥州市内を散策している最中に多目的運動広場へ迷い込んでしまい、出口まで辿り着けず途方に暮れていたところでキリサメたちと遭遇したのである。土地勘のない場所で見知った顔に出逢えたのだから、天の助けと思えたことであろう。
「お恥ずかしい話、努力はしているのですが、どうしても方向音痴が治らなくて……。携帯電話も持っていないので地図案内も使えませんし、……そもそもインターネットが好きではないので、それで――」
顔を赤らめつつ俯き加減となった神通が道に迷った理由を小声で呟くと、すぐさまキリサメは「誰にでもあることだから、気にしないほうがいいです」といたわった。
「僕もそういうことが良くあります。
「キリくんの場合は東京にまだ慣れてないってだけでしょ? それって方向音痴とは違う気がするなぁ。東京の町って、ホラ、整理されてるようで実は迷路みたいだし」
「ペルーの町なら迷子にはならないでしょう? わたしの場合、住まいから少し離れただけで方向を見失ってしまいますから……」
「それはかなりの重症ですね。
「……僕がペルー出身だって知っていたんですか」
「先程もお話しした通りですよ。今月号の『パンチアウト・マガジン』を拝読させて頂きましたし、
「一応、国籍は日系ペルー人ですが、両親とも日本人なんです。中身という言い方が正しいのかは分かりませんが、人種
「他人行儀な呼び方でなく『神通』と呼び捨てにして頂いて構いませんよ。わたしも『キリサメさん』と、親しみを込めてお呼びしたいですし……」
「そのほうが僕も気が楽ですよ、哀か――神通……氏」
「はい、……キリサメさん」
「ちょっと~、お二人さ~ん? 私の声、聞こえてる~? 会話画面の表示からその他大勢が消えてない~? オフライン扱いになってないかなぁ~?」
互いの名前を呼び合い、照れ臭そうにはにかむキリサメと神通の顔を交互に見比べた未稲は自分の存在を示すかのように両手を挙げてみせた。
希更を含めた〝皆〟で会話を楽しんでいるつもりであったのに、もはや、他の誰も二人の視界に入っていないようなのだ。爪弾きにされてしまった形の未稲が躍起になるのは当然であろう。
「照ちゃんに実況メールを送りたいくらい面白い風向きになってきたねぇ~。一つ屋根の下の同居人っていうポジションでどこまでリードできるか、お手並み拝見と行こうか」
滑稽としか表しようのない未稲の様子を指差し、腹を抱えて笑い飛ばすのは大鳥と同じ円卓に
〝万が一〟に備えて変装した姿を維持し続ける希更と異なり、彼は一旦部屋へと戻って
その寅之助は何の前触れもなく現れた女性に翻弄される姿が愉快で仕方ないようで、注文の品を運んできた店員まで巻き込むと「負けるハズのない有利をいきなりひっくり返された人間がどういう風に余裕を失っていくのか、ヘタなサスペンスより面白いよ~」と聞こえよがしに話して未稲を間接的に煽っている。
真隣に腰掛けていたなら底意地の悪さを戒めるべく尻を抓り上げたことであろうが、腕を伸ばしても届かない程度には寅之助と離れている。わざわざ彼の
「今に始まったことではありませんが、瀬古谷さん、失礼な発言は控えて下さい。目に余るようであれば『照さん』に言い付けますよ? 彼女を怒らせたら明日も困るのでは?」
「わぁ~、『ジンジン』がツッコミ役やってくれると助かるわぁ~。試合前に無駄な体力使わなくて済むから
「こちらこそよろしくお願いします、希更さん。素敵な愛称も嬉しいです」
「……それほどバロッサさんに気を遣わなくてよろしいのですよ? 迷惑でしたら迷惑とハッキリ仰ってください。何しろこの方、常人が理解に苦しむセンスの
「大鳥さんもあんまり失礼なコトを言いまくってると、例の幼馴染みさんにチクりますからね? この剣道少年経由で!」
「別にあなたに頼まれなくてたって、とっくにチャット・アプリで実況メッセージ送ってるよ。ボクのコトをチャンスを見逃すようなノロマとナメ腐ってる?」
「……相変わらず、あらゆる方面に敵を作るのが趣味のようですね。あまり照さんに心労を掛けないであげてください」
「その照ちゃんもボクがバラ撒いた実況メッセージに大爆笑の
「ちょ、ちょっと待ってください! グループチャットで自分のことを晒し者にしているのではないでしょうね⁉ 幾らなんでも度を越しているのではっ!」
「グループって言ってもメンバーはボクたち三人だけだし、全体には晒してないんだからそうケチケチしなくても良いじゃん。何ならサトさんも入る?」
「ケチという問題ではありませんし、プライバシーを守る権利はケチと違うっ!」
二枚の円卓を挟んで飛び交う様々な調子の声に面食らい、呆けた
神通が口にした〝お噂〟というものは、あるいは寅之助が吹き込んだのかも知れない。
同じ円卓で青筋を立てている大鳥へこれ見よがしに肩を竦め、冷やかすように眺める寅之助が紹介したのかも定かではないが、神通は彼と交際している上下屋敷とも交流があるようだ。家名ではなく「照さん」と
上下屋敷と友人として付き合い始めたのはこの一ヶ月のことである。ゲーミングサークルのオフ会がきっかけとなり、
「ちなみに哀川さんはどうして岩手県に? 散歩中だったのはさっきも聞きましたけど、
哀川神通とは何者なのかと
定番とはいえども『みちのくの小京都』と謳われる城下町を引き合いに出すのは余りにも工夫がないと心の中で己自身を窘める未稲であったが、心の
「観光じゃないんだよ、みーちゃん。神通氏はね――」
「――なんでそこで割り込んでくるかなぁ……。キリくんには
「何を隠そう明日の『
未稲の質問には希更が代わりに答え、正解であると示すように
『ダイニング
「そ、そうですか、試合観戦で岩手まで……」
〝大根〟と呼ばれてしまう役者であっても、もう少しは上等であろうというくらい感情のない声で呟いた未稲は、次いで己と神通の服装を無意識に比べてしまった。
今日も今日とて使い古しのジーンズを穿き、『方言攻め活け造り~ご当地の味わい』という余人には理解不能な
希更ほどではないが、胸部も自己主張が強く、肌の色が透けそうなくらい薄い生地がその輪郭を一等際立たせていた。
服装の比較でさえ分が悪いことを未稲も認めざるを得なかった。体形という点では惨敗も良いところだ。そもそも、勝手に優劣を決め付けて落ち込んでいるのは彼女一人だけであり、その虚しさを自覚していればこそ余計に悔しいわけである。
希更・バロッサや
「今回はオーナーとは別行動でして――と申しますか、お店と関係のない人たちと一緒なのです。……〝一緒〟といっても試合当日の現地集合ですので、今日はわたし一人の完全な自由行動でして。それとはまた別に古くから親しくさせて頂いている方と一緒に岩手に入ったのですけれど……」
湖畔のように静かで澄み切った声が未稲の鼓膜に響く。キリサメや希更が惹き付けられるのも無理はないと納得させられてしまう力を秘めた
「一緒」という二字を連ねる
「なるほど。一人で散歩してたのは、そーゆーことだったんですか。キリくんやバロッサさんに巡り合ったのは本当のラッキーだったみたいですね」
焦燥感を抑えることに意識を向けざるを得ない未稲の声は依然として感情が乏しく、少しでも気を緩めると、たちまち重い溜め息が漏れてしまいそうな情況である。
「かの伊達政宗が治めた武門の町並みをこの目で見てみたかったんです。……初めてお邪魔する土地での単独行動は危ういと重々承知しているのですが、
「じゃあ、バロッサさんみたいに午前中から奥州市に? 〝前入り〟にしても早過ぎる気がするなぁ。〝今日の同行者〟っていう人はホテルに待たせているんですか?」
「
「古い付き合い」と述べるに留めた為、具体的な関係性は判然としないものの、話の中で神通が触れた服装から同性であろうと未稲は察した。
その
先に述べた〝お店と関係のない人たち〟の中に
改めて
「……結局、迷子になってしまったのですから、大人しく宿所近くの土産屋を回っていたほうが良かったのかも知れませんが……」
「他の人たちとはぐれたわけじゃないのなら、僕も安心ですよ」
「……キリく~ん、今は哀川さんと私が話してる最中なのね? ちょ~っと引っ込んでてくれないかな~?」
神通と二人の会話へ加わろうとするキリサメの様子が気に障り、更にはそれを愉しげな口笛でもって煽り立てる寅之助も未稲には腹立たしかった。
「お店と――『ダイニング
希更が口にした『道場』の二字に未稲は訝るような
団体旅行のような口振りであった為、
共に『
「ジンジンが鬼貫さんを仕留めた技、ミッシーも
「私の記憶が間違いでないなら、確か
「それでも雲の上の人を『
希更は答え合わせを求めるように神通へ片目を瞑ってみせた。
「その後に見せてもらった技もだけど、アレって茶室みたいに狭い場所での
個室という極めて狭い空間と、
鬼貫道明の腕関節を瞬く間に
「――出たな、〝甲斐古流〟が一つ! 〝座敷の組技〟とはシブいじゃねーの! 親子二代から同じ流派の技を喰らうのはどんな気持ちだい、兄貴~?」
「親子二代」という意味を未稲は測り兼ねたものの、振り返ってみれば同じ場に居合わせた実父は神通の技を〝甲斐古流〟と呼んでいた。いつかどこかで聞いたような
果たして、こうした
哀川神通が体得した武術を知っているらしい寅之助は「さすがは
西洋剣術の心得がある大鳥も身を乗り出しており、今だけは現場マネージャーという己の職務を忘れ、一人の剣士として担当声優の話に聞き入っている様子であった。
「……すみません、神通氏」
「……はい? えっと――どうなさいました、キリサメさん? それはどういう……」
「あの……、その……とにかく、すみません……」
彼が目の当たりにしたのは古武術の関節技だけではない。『ダイニング
戦い慣れた者の肢体であったことは間違いない――が、そうした分析も網膜に焼き付いた褌によって全て消し飛ばされてしまっている。
(すぐ近くに私が居るっていうのにむっつりスケベが! 無意味な脂肪が余分に突き出してるだけじゃん! キリくんも〝詫び寂び〟の
キリサメが〝何〟を想い出しているのか、先程よりも赤みの増した頬を一目見て察した未稲は、真横に座っている彼の尻を渾身の力で
それはつまり、神通を前にしたキリサメが常に落ち着かない様子であった理由とも言い換えられるだろう。
不埒なことを想像していた自覚があるだけにキリサメも抵抗できず、痛みを噛み殺しながら何事もなかったかのよう振る舞うのみであった。未稲から制裁される理由を正面の神通にだけは見破られるわけにいかないのである。
その神通は真隣に腰掛けた希更とも話している為、未稲の左腕がキリサメの尻へ伸ばされていることにも気付いていないようである。
「――さすがはバロッサ家の一族。よく勉強されておられますね」
キリサメと未稲のやり取りを神通が見落としてしまったのは無理からぬことであろう。ただ一度だけ披露した〝座敷の組技〟を手掛かりに〝日本の古武術〟という憶測まで辿り着いた希更に感嘆の溜め息を洩らしているのだ。
果たして、神通の反応こそが希更に対する答え合わせの代わりと言えるだろう。
「ジンジンもキリキリと一緒でお姉さんに興味津々? モテる女は幸せねぇ~」
「こちらの界隈では『バロッサ』の
「いやいや、照れるのぅ~。〝一族〟なんて言うと大袈裟だけど、平たく言えば伝統武術の道場を
「――と仰いますと、ひょっとしてジャーメイン先生は希更さんの……?」
「明日はあたしのセコンドに付いてくれるから、タイミングさえ合えば紹介するわよ?」
「それは是非ともっ」
『バロッサ』という家名を口にする瞬間、神通の声が並々ならない憧憬で上擦った意味は格闘技に関する勉強が依然として不十分なキリサメにも理解できた。隣の円卓で寅之助が「ヤだねぇ。古流や伝統って付く武術は必ず権威主義に走るんだから」と厭らしく鼻を鳴らした理由もそこには含まれている。
これまでに幾度となく耳にしてきた為、『ムエ・カッチューア』がミャンマーに由来する伝統武術であることも、バロッサ家が熊本県に所在する道場でこれを教え広めていることも、キリサメは記憶に留めている。
『
沙門から教わったことだが、日本格闘技界が一丸となって東北復興を支援していく
バロッサ家の道場についてキリサメはアメリカにも支部が
空閑電知が
「わたしが読んだ号――『パンチアウト・マガジン』の五月号では希更さんの試合と一緒にムエ・カッチューアのことを『古くて強くてカッコいいキックボクシング』と紹介していましたよね。アンケートハガキにも自分の見解を書かせて頂きましたが、幾らなんでも大雑把に過ぎるかと。バンテージがなかった古い時代には麻や革の紐を拳に巻いて闘ったと伺っています。せめて見出しに『幻のビルマ拳法』と付けて欲しかったです」
「うちの道場――『バロッサ・フリーダム』の稽古では柔らかいグローブで拳も肉体も安全に
「……〝他流〟の研究は父の影響なんです。勿論、希更さんに興味を惹かれたのはわたし自身ですよ? お互いに切磋琢磨させて頂ければ、これほど嬉しいことはありません」
「んッもう! ジンジン、ますます可愛過ぎっ!」
彼女の口から『
(……僕の
『
バロッサ家の名誉を背負ってMMAのリングへ飛び込んだ希更は対戦相手の首を押さえ込んで動きを封じ、続け
もはや、彼女のことを『客寄せパンダ』などと侮る人間はいない。日本MMAの次世代を担う
寅之助も指摘したが、ムエ・カッチューアの飛び膝蹴りは首を狙えば骨を
その恐るべき膝蹴りに「興味を惹かれた」と哀川神通は昂揚した様子で述べたのだ。暴力性の
「なんでもアリの
「フ、フツー、そういうのは
神通に張り合おうとする気持ちまで忘れて顔を引き
自己申告であったのか、身辺調査によって判明したのかは定かではないものの、希更が所属する声優事務所も
「弁護士やってる父はさすがに良い顔しなかったけど、母も伯母も止めなかったしね。祖母――総帥のノラ・バロッサなんて『やるからには徹底的にやれ』ってハッパ掛けてきたくらいだもん。自分の居場所は自分で作るタイプだからね、あたし。お陰で爽やかな青春時代だったわ。ミッシーも自分を舐め腐る相手は蹴散らす勢いでやっちゃいなよ~」
決して小さくはない咳払いを聞き流したことからも察せられる通り、当の希更は昔のことなど一つとして気にしていなかった。深刻な事態も間違いなく含んでいるはずだが、いじめという卑劣な行為も実力で
底抜けに強靭な人であるとキリサメは改めて感じ入り、隣に腰掛けている神通もまた強く深く首を頷かせた。
「当方の流派も似たようなものです。『武門の誇りを貶めんとする
「ますますジンジンに共感しちゃうわ~。そうなのよ、根絶やしにするつもりで行かないと救いようのない思い上がりはひっくり返らないのよ。弱い者いじめに使う〝力〟は間違ってるけど、ネジくれた根性を叩き直すのは
「根性もろとも邪悪な心を
「二人の会話が異次元過ぎて、さすがの私も随いてけないっ!」
希更は冗談めかして両腕に力こぶを作るような仕草を披露したが、その言行もまた自信の表れに他ならない。
「あたしがノリにノッたのがいけないんだけど、ジンジンの道場の話をしてたのに途中で主役が入れ替わっちゃったわ。あたしんトコに――ムエ・カッチューアに負けないくらい〝実戦〟向きみたいね? きっと座敷で取っ組み合うだけじゃないんでしょ?」
「主役と言われると気恥ずかしいですね……」
片目を瞑って話の続きを促す希更と視線を交わし、次いで緑茶を一口啜った神通はほんの少しだけ困ったような
皆の注目がバロッサ家とムエ・カッチューアに向いたということもあり、己が体得した武芸については話さずに済むものと考えていた様子である。
「希更さんが仰る通り、『
神通曰く、『
そもそも『聖徳太子』自体が尊称であり、出生時の〝伝説〟にちなんで付いた名は
「戦勝の暁には仏塔を建て、必ずや仏法を保護する」と
「しょ――『
自らが極めた流派の名を神通が明かした途端、未稲の丸メガネが円卓の上で乾いた音を立てた。正確には噴火としか
「あ、あのっ! 勘違いかも知れませんけど! 私の誤解かも知れませんけど、ひょっとして哀川さんのお父さん、大昔に鬼貫道明さんと異種格闘技戦をしたことがあったりしませんか? 公式戦じゃない野試合を! 練習用のリングで
瞳の中央に映した神通の顔は輪郭が酷く曖昧であり、未稲は表情さえ確認できずにいるのだが、それすら失念していることは震える声で畳み掛ける様子からも明らかだ。
差し向かいに座っていた希更は「その流派を聞いたら誰だって驚くかもだけど、瞬きくらい忘れちゃダメだよ」と苦笑いを引き摺りつつ身を乗り出し、左右の五指でもって卓上から拾い上げた丸メガネを未稲の鼻に引っ掛けた。
これによって我を忘れていることを自覚し、丸メガネの位置を直しながら希更に礼を述べた未稲は元の場所に改めて腰を下ろした。真隣のキリサメが面食らっていることは横目で確かめるまでもない。
二枚の丸いレンズに映った神通の顔には何とも
「――わざわざ
居住まいを正し、未稲のほうに向き直った神通が躊躇いがちに
哀川神通という名前を聞いて以来、一言も発することなく物思いに耽っていたのだが、本人の口から『
「……弟さんもご存知でしたか……」
「母がMMAに関わっていなかったら漫画みたいな話だと信じなかったでしょうし、そもそも知らなかったハズですよ。良いか悪いかはともかく、八雲岳さんとの繋がりで当事者の鬼貫道明さんのコトも全く知らないワケではありませんし……」
「私もヒロくんと同じようにお父さんから教わった程度しか知らないんですけど、一九八九年から一九九四年まで鬼貫さんが異種格闘技戦線を離脱した原因だったとか……」
互いに答え合わせを求めるよう視線を交わした姉弟は揃って神通の顔を一瞥し、脳裏に浮かんだ〝
『
流派の名を聖徳太子にあやかった理由については亡き母の授業で教わった古代日本の知識に基づいて推察できたものの、これと併せて神通が語った『
同じ円卓に腰掛けた皆の穏やかならざる反応と、これによって急激に張り詰めた空気が『
「みーちゃん、……その、今のはどういうこと――なのかな?」
「――日本の格闘技界で
キリサメの問い掛けに答えたのは今度も未稲当人ではない。斜向かいにて頬杖を突き、窓の向こうに奥州の街並みを眺める希更が視線を移さないまま口だけを動かしていた。
決して多くのことは語らなかったものの、バロッサ家の娘もまた聖徳太子の異称を冠する古武術に聞き
未稲ほど極端な反応ではないが、『
対する神通は〝熊本の武術界〟という言葉が真横から突き刺さるや否や、左右の肩が上下に跳ねた。まるで〝何か〟に怯えるかのような反応であり、希更はこれを眺め続けることを憚って窓に目を転じた様子であった。
バロッサ家の一族が根を下ろし、希更の父親が法律事務所を営んでいるのが熊本であることは神通も把握しているだろう。地名そのものには無反応であったのだが、〝武術界〟という三字が付け加え垂れた途端、これまでとは別の意味が彼女の
大鳥もまた神通の話へ興味深そうに聞き入っているのだが、自身の担当声優が未稲の言葉を横から掠め取った
日本の格闘技界で
「……さすがにそれは尾ひれが付き過ぎていますね。大きさはともかく『
「ひょっとして、コレはお父さんが書かれた本ではありませんか?」
言葉を慎重に選びながら質問を重ねた
その表紙には『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』という仰々しい書名と併せて著者名も刷り込まれている。キリサメには全く聞き
ブックカバーのソデに刷り込まれている経歴に著者近影が見当たらない歴史学者の名は
(後半に続く)
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