その9:古流(前編)~聖徳太子の名を継ぎし流派・現代古武術模様/あるいはフンドシ狂詩曲

  九、古流(前編)



 〝格闘技興行イベント〟と一口に言っても、その在り方は競技の種類や団体の体質によって千差万別とたとえられるほど異なっている

 戦後の焼け野原から高度経済成長期へ向かっていく日本人を元気付けた〝日本プロレスの父〟――りきどうざんの系譜を継ぐ『だいおうどうプロレス』、かつては世界中から強豪を招いて異種格闘技戦を繰り広げた『しんどうプロレス』、〝悪玉ヒール〟の地位向上に力を尽くした女子レスラーが率いる『ちょうじょうプロレス』といったプロレス団体を除くと、日本の競技団体では打撃系立ち技格闘技の猛者たちが腕を競い合う『こんごうりき』が実績・知名度ともに飛び抜けていた。

 『こんごうりき』は競技統括プロデューサーを務めるきょういしともが旗頭となり、〝プロ〟の格闘技団体としては異例ともいえるほどチャリティー興行イベントに力を注いでいた。児童養護施設や身体からだにハンデを持つ人々の活動をたすけるなど社会貢献を重要視しているのだ。

 競技統括プロデューサーの愛息むすこであり、日本最強の空手家と名高いきょういししゃもんも今週末にプロデビューを迎えるのだが、初陣の舞台もまた骨髄バンクへの支援を目的とするチャリティー興行イベントである。

 〝打撃系立ち技格闘技〟の頂点は誰が疑うまでもなく『こんごうりき』であるが、例えばテレビのスポーツ番組が〝総合格闘技MMA〟にいて日本を代表する団体をアンケートで募った場合、誰もが『天叢雲アメノムラクモ』と回答欄に記入することであろう。

 二〇一一年の旗揚げから三年しか経っておらず、一九九三年から解散の憂き目に遭うこともなく活動し続けている『こんごうりき』と比べれば競技団体としての歴史こそ浅いものの、日本MMAの黄金時代を築いた選手・スタッフが再び名前を連ねており、その活動を世界最大のスポーツメーカーが支えていた。

 同団体は〝旅興行〟の形態を取っており、都心に拠点を持たず全国各地の運動施設などでMMAの大会を開催している。興行イベントを実施するたび、その土地々々に根を下ろす企業や地方プロレスと提携して地域振興をたすけているのだ。

 名実ともに総合的な闘いとも言い換えられるだろう。これに対して『こんごうりき』は〝打撃系立ち技格闘技〟という競技形態のみならず開催地まで正反対であった。地方遠征・海外大会も少なくはないが、あくまでも拠点は首都圏なのである。

 そもそも『天叢雲アメノムラクモ』は東日本大震災の復興支援を掲げている。熱闘を通して戦後の日本人を奮い立たせた力道山の精神たましいに倣わんとする八雲岳の呼びかけを経て旗揚げに至ったMMA団体ならではの事業展開と言えるだろう。

 その岳がプロレスラーを志したきっかけの人物であり、『新鬼道プロレス』の異種格闘技と『バイオスピリッツ』の総合格闘技の双方に挑戦した伝説的なマスクマン――ヴァルチャーマスクは児童養護施設や小学校を経済的に援助する篤志家としても有名であった。

 それ故、自分の名前を伏せて寄付したい者は今でもヴァルチャーマスクの名義を借りるのだ。〝彼〟の意志は多くの人々に受け継がれ、二〇一〇年の一例目を皮切りに全国各地へと広がっていった。

 ヴァルチャーマスクが体現した社会貢献の精神は、岳が統括本部長を務める『天叢雲アメノムラクモ』にも行き届いている。そして、は『こんごうりき』にも共通する点であった。外部顧問として旗揚げに協力した樋口郁郎も伝説的なマスクマンと浅からぬ因縁で結ばれているのだ。

 異種格闘技から総合格闘技へ至る一本の〝道〟を先駆けたヴァルチャーマスクの精神を分かち合いながらも『天叢雲アメノムラクモ』と『こんごうりき』は競技形態そのものが違う。更に付け加えるならば前者が全ての試合を〝無差別級〟で執り行っているのに対し、後者は選手の体重によって細かく階級を分け、安全性が計算された均衡バランスの中で力と技を競うのだ。

 打撃系立ち技格闘技と総合格闘技MMA――きょういしともが八雲岳へ熱い視線を送るのと同じように格闘技ファンたちは競技の特徴・性質という垣根を超え、二つの団体を愛してやまないのである。

 このように〝競技の特徴〟の確立こそ格闘技団体の要と捉える者も少なくない。

 国内で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立の機関――MMA日本協会も幾つかの団体を主導してきたが、功を奏したか否かはともかくとして、いずれも独自の方向性を打ち出していたのである。

 規模こそ『天叢雲アメノムラクモ』ほど大きくないものの、その前身である『バイオスピリッツ』やMMA日本協会と歩調を合わせながら一〇年以上も堅実に活動してきた別団体は中・軽量級の試合を興行イベントの中心に据えている。

 八雲岳たち重量級選手がリングを大きく軋ませる豪快なぶつかり合いや、体重別に階級を分けないという過激な一本勝負など格闘漫画の世界を再現するかのような『天叢雲アメノムラクモ』とは異なり、くだんの団体は試合運びの巧みさに重点を置いた試合がMMAファンから高く評価されているのだ。

 種々様々な〝格闘技興行イベント〟に唯一の共通点を求めるならば、商業ビジネスという性質から巨額の予算が動くことである。それは同時に学生やアマチュア選手による競技大会との差異ちがいでもあった。

 プロによる〝格闘技興行イベント〟で求められるのは試合の勝敗だけではない。ファンの期待に応えるだけで済むわけでもない。経済活動である以上、出資者スポンサーや提携企業への貢献などありとあらゆる利権が複雑に絡み合うのである。

 何よりも興行収入という成果が振るわなければ、団体としての活動自体が立ち行かなくなるのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』では興行イベントに関連する〝事業〟の一つとして公式オフィシャル観戦ツアーをしていた。

 前身団体バイオスピリッツから現在に至るまで統括本部長を務め続けてきた八雲岳や、同団体の花形スーパースターであるレオニダス・ドス・サントス・タファレルもこの観戦ツアーに同行し、ファンサービスに努めている。

 一九九〇年代半ばから二〇〇〇年代という日本MMAの黄金時代とは異なり、『リーマン・ショック』以来の長い経済不況が続く〝現代いま〟は出資者スポンサーにもMMAという〝文化〟を育てるだけの余裕もなく、兼業でないと家族を養うことさえ難しい。格闘技自体にとってマイナス成長としか言いようのない時代では〝プロ〟の選手に芸能活動の能力スキルまで要求されるのだ。

 自らの試合を控えた選手にとって前日の過ごし方は極めて重要である。体調を万全に整えても最後の一日で緊張感や重圧プレッシャーに呑み込まれてしまったら、がそのまま勝敗という〝結果〟に表れてしまうのだった。

 観戦ツアーは前日から行われている。つまり、〝プロ〟にとって何よりも大切な時間を代償として差し出さなければ、格闘技団体を維持することさえままならないのだ。社会貢献に力を注いできた『こんごうりき』でさえ数年前に経営破綻の瀬戸際に立たされ、海外資本スポーツファンドの支援で窮地を脱している。

 『天叢雲アメノムラクモ公式オフィシャル観戦ツアーに限ったことではないが、契約選手はしばしば所属先が展開する〝事業〟への協力を求められる。広報戦略に結び付くものであるならば、タレントとしての適性の高さと要請の頻度は比例するわけだ。

 いわゆる〝アイドル声優〟が本業であり、アニメシリーズ『かいしんイシュタロア』で主演を務めるなど若手実力派として評価されているさら・バロッサも例外ではなかった。

 希更がMMAデビューを飾った長野興行には〝声優業のファン〟が大挙し、興行イベントの最中に主演自ら同作イシュタロアと関連する新たな楽曲を唄うというまことしやかな風聞まで流れていた。

 に吸い寄せられたのか否かを確かめるすべはないが、観客席の一角で凄まじい熱気を放つ人々に樋口郁郎が目を付けないはずもない。くだんの風聞を現実のものに換えれば、興行収入の更なる向上が望めるだろう。それが団体代表の胸算用であったのだが、言い換えれば本物の『客寄せパンダ』によう希更へ要求することである。

 これに対して希更・バロッサの所属する声優事務所がを申し入れたことは、日本で最も有名な格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』でさえ報じていない。

 水面下の衝突である。『天叢雲アメノムラクモ』ひいては主催企業サムライ・アスレチックスと取り交わした契約の内容なかに芸能活動は含まれておらず、あくまでもムエ・カッチューアの道場ジム『バロッサ・フリーダム』の格闘家として興行イベントにて出場している――それが希更・バロッサの〝立場〟であった。

 団体代表の強権をもってして契約内容の変更を迫ることは所属選手に対する権利の侵害にも等しいわけだ。断じて承服できるものではなく、声優事務所の顧問弁護士が主催企業サムライ・アスレチックスの本社へ乗り込み、「統括本部長など他の選手は要請に対して」という樋口郁郎の主張を真っ向から退けたのである。

 を順守するという誓約書を取り交わして騒動は落着し、法廷で争う事態だけは避けられた。声優事務所としての対処はそれで完了したが、バロッサ家の一族ひとびとは怒りを鎮めるまで相応の時間を要した。

 特に父親――希更の故郷で法律事務所を構えているアルフレッド・ライアン・バロッサは部下の弁護士二人を引き連れて熊本から東京までと息巻いていたそうだ。

 希更の話によれば母親の説得をれて最悪の展開こそ免れたが、樋口を敵と見なした父親は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンから切り抜いた顔写真を拡大コピーし、ダーツの的に使っているという。

 その母親――ジャーメイン・バロッサは今週末の試合で娘のセコンドに付くそうだが、樋口に対する不信が遠因となったことは間違いないだろう。コーナーポストの向こうから試合を見守るだけでなく、樋口の動向にも睨みを利かせるつもりなのだ。


(大鳥さんがやたらカリカリしてるのって所為せいだよなぁ。きょういしさんに同調するようでムカつくけど、樋口社長をしらかわほうおうたとえるのはビンゴ中のビンゴだよ)


 〝師匠〟の影響を色濃く受けていることもあって昔から問題視される言行も多かったのだが、少なくとも味方を遠ざけるような暴挙は繰り返さなかった――『かいしんイシュタロア』の主演声優が巻き込まれた〝事件〟と、幼い頃から良く知っている樋口郁郎の為人ひととなりを併せて振り返った八雲未稲の溜め息は、一向に返信が届かない携帯電話スマホの液晶画面に落ちていった。

 キリサメと希更がそれぞれの身辺警護ボディーガードを伴って奥州の空の下へ駆け出した後、未稲は宿所である古めかしい温泉旅館のロビーで暇を持て余していた。

 出掛ける直前に希更は町内を軽く周回まわってくると話していたはずだが、二時間近く経過した現在いまも誰一人として帰らないのだ。日頃の言行から飽き性と察せられる瀬古谷寅之助さえ引き返してこなかった。


「――木刀が置いてねぇじゃねぇか、木刀が! 売店こういうトコにはてめぇ、ご当地の木刀って相場が決まってんだろうがよ! 伊達だてまさむねの木刀くらいあンだろが⁉ ねぇなら岩手一の木ィ削り出してこいや!」


 ロビーと隣接する土産物売り場を乱暴に物色し、指紋を付着させるのが目的であるかのように陳列された品を一つ一つ鷲掴みにした上、受付の係員を相手に理不尽極まりないことを要求する〝迷惑客〟へ冷たい視線を浴びせたのち、ソファにもたれる未稲は顰め面のまま天井を仰いだ。

 てのなか携帯電話スマホを起動させて現在時刻を確かめると、キリサメたちがランニングに出掛けてから丁度、二時間が経ったところであった。

 先程から希更の携帯電話スマホ宛てに何通も電子メールを送信おくり、現在地を問い合わせているのだが、一度も返信がない。

 ランニングの最中では受信そのものに気付かない可能性が高く、電子メールではなく電話を掛けたほうが早かろうが、文章では饒舌でも通話では要領を得なくなる未稲は最初から後者を選択肢に含めていなかった。

 誰もが憧れるアイドル声優への対抗心によって引き留められた部分もある。同じゲーミングサークルの仲間メンバーであり、一度も会ったことはないものの、誰よりも親しい男友達である『デザート・フォックス』は希更・バロッサの熱烈なファンなのだ。

 当人は仕事の都合で急遽欠席となってしまったが、先月半ばに秋葉原で行われたオフ会を『かいしんイシュタロア』のファンイベントと同じ日に設定しようと図ったのもデザート・フォックスである。

 オフ会の会場とアニメのファンイベントが開催された宮崎物産館は歩いて一〇分と離れていない。ゲーミングサークルの集まりが終わり次第、へ合流することを狙っていたのだろうと邪推してしまうほど『かいしんイシュタロア』の主演声優に夢中なのだ。

 デザート・フォックスを憎からず思っている未稲にとってこれほど腹立たしいことはない。彼が愛してやまない相手とは電話番号まで交換しているが、意地でも通話ボタンを押さないつもりである。なけなしの自尊心に傷を付けるくらいならば、鬱憤を溜めながらでも無為な時間を過ごすほうが良いという判断であった。


(……お母さんのほうは夜行列車で明日の朝、東北に着くんだってバロッサさん、話してたっけ。伯母さんはどうやって岩手ここまで来るんだろ? きっと別行動なんだよね)


 キリサメたちの帰着が遅れているもう一つの可能性として未稲が思い浮かべたのは、希更のセコンドたちである。

 希更に教わった話ではジャーメインは熊本から東京に入り、更に夜行列車の一人旅で岩手県を目指すという。共にセコンドを担当する伯母も八代市で暮らしているのだ。

 その伯母のみが興行イベント前日から奥州市に入るのであれば、ランニングの最中に駅前辺りで希更たちと落ち合い、そのまま話し込んでいるのかも知れない。


「なんだ、この野郎⁉ てめー、オレの〝愛車〟にケチつけようってか⁉ 客だぞ、オレはァ! 玄関ンとこにめようが何だろうが勝手だろうが! そうだろ⁉ あァん⁉ ここに泊っちゃねーよ! ここに泊ってる兄弟分を待ってるっつってんだろうが、さっきからよォ! ナメてんのか? あ? オレをナメてんのか? 吐いた唾吞まんとけやッ!」


 またしても酒と煙草で焼けたダミ声が鼓膜を突き刺したが、受付の係員と言い争う〝迷惑客〟の様子を関わり合いにならない距離から眺めるくらいしか未稲にはするべきことがない。短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSソーシャルネットワークサービス携帯電話スマホから接続アクセスした瞬間、発売されたばかりの希更の写真集に対して熱烈な想いを迸らせるデザート・フォックスの長文が目に入り、閲覧そのものを打ち切ってしまった。

 いよいよ手持ち無沙汰の極みである。

 今にも警備員を呼ばれそうな〝迷惑客〟の背中に「とっとと警察呼べば良いのに。パトカーに放り込まれちゃえ」と毒く以外には気を紛らわせるすべも思い付かない未稲とは正反対に、彼女の実母にして岳の前妻――おもてみね興行イベントの開催前日にも関わらず既に大忙しという状況であった。

 彼女も親子揃って金曜日の夜から奥州市に入っている。八雲家と同じ温泉旅館に宿泊しているのだが、嶺子は別の階に仕事用の洋室を借りており、朝食をった後はへ引き籠もっていた。

 つまり、かつての夫の同じように子どもたちを置いて己の仕事に没頭しているわけだ。

 出場選手たちは夕方から実施される一つのセレモニーまで奥州市あるいはその近隣にて待機しているのだが、その間にも〝裏方〟――即ち、運営スタッフは興行イベントを成功させるべく休むことも忘れて動き続けていた。

 表木嶺子という名前は「天才」の二字を冠する映像作家として日本国外まで知れ渡っている。『天叢雲アメノムラクモ』では興行イベントの最中に使用されるPVプロモーションビデオの制作を一人で手掛けており、仕事用の洋室に必要機材一式を運び入れ、複数のパソコンや機械を同時に操作しつつ秒単位で映像の微調整を行っているのだった。

 興行イベント当日も会場の設営に立ち会う段取りとなっている。実際に大型モニターへ表示された場合の色彩の表現や、空間内の音の残響など細かな部分まで徹底的にこだわり抜くのが表木嶺子であり、映像と会場の一体化という本当の意味での完成に向けて「執念」の二字が付く情熱を燃やせるからこそ、彼女の才覚には国際的な評価が伴うのだ。


通り越してダシも具もない超減塩味噌汁みたいなキリくんが身近にいるから感覚おかしくなってるけど、……やっぱり野郎どもは出るトコ出てるのが好きなんだよねぇ)


 『らい』第四二篇の中で「しょうじん閑居して不善をす」と説かれている通り、人間の思考というものは暇を持て余しているときこそ邪な形に歪み易い。夕方のセレモニーまでは己のあたまを使う必要がない未稲は、キリサメと希更が何時までも帰着しない理由に別の可能性を想像し始めていた。

 試合直前という極度に昂った若い男女が心身の火照りを鎮める為に〝真昼の過ち〟を犯しているのではないか――下種ゲスにも程がある妄想を止められないのである。

 希更・バロッサは自分と比べて肉体カラダが激しく、また〝アイドル〟を称することが許される人間だけあって同性の目から見ても溜め息が出るほど可憐である。豊満な魅力で〝悪い道〟に誘われてしまったら、男性の理性など一瞬で吹き飛ぶことであろう。

 汗で濡れた頬に張り付くなつめ色の髪から色香フェロモンを撒き散らす艶姿すがたを思い浮かべたところで未稲は己の胸部を見下ろした。『方言攻め活け造り~ご当地の味わい』なる文言が刷り込まれたシャツには凹凸も陰影もない。俯いた拍子に鼻から外れた丸メガネが垂直落下していったが、掌中てのなか携帯電話スマホに当たって跳ね返るまでに引っ掛かることもなかった。

 彼女を善からぬ想像に駆り立てたのはSNSソーシャルネットワークサービスけるデザート・フォックスの短文つぶやきである。彼は写真集の中で希更が披露している水着姿を「あれを神の芸術と言わずして何と言うのでありましょう!」などと異様な熱量で繰り返し褒め千切ったのだ。

 デザート・フォックスと話題を共有したいが為、くだんの写真集については未稲も通販サイトに掲載されたサンプル画像を何枚か閲覧している。この中には水着姿も含まれており、それを見れば彼が昂揚した理由も察せられた。

 競泳水着に身を包んだ一枚は屋外プールとおぼしき場所で四肢を晒しているのだが、なつめ色の髪が張り付く頬から太腿に至るまで全くと言って良いほど贅肉が見られず、健康的に引き締まっていた。

 改めてつまびらかとするまでもないことであろうが、はムエ・カッチューアの修練による賜物であり、デザート・フォックスのみならず誰もが芸術と讃えられるはずだ。剥き出しの肩には未稲と比べて遥かに逞しい三角筋が深い陰影を生み出している。

 未稲は自分の腹を摘まもうと図り、慌てて左右の五指を引っ込めた。「摘まめる」と考えてしまう時点で勝負にならないのである。希更の腹部が強靭な筋肉を纏わせていることは競泳水着の上からでも瞭然であった。


「……てゆーか、何をやってあげたらキリくんがハイテンションになるのか、全ッ然読めないんだよなぁ……」


 妄想が袋小路に辿り着いた瞬間、何時でも眠たげなキリサメの顔が脳裏に浮かんだ未稲は溜め息混じりの呟きを引き摺りつつ正気を取り戻すかのようにかぶりを振った。

 自分の洗濯物に未稲の下着が混ざっていたとき、照れて赤くなることも鼻の下を伸ばすこともなく、無感情に淡々と返却するのがキリサメ・アマカザリなのだ。

 積極的に抱擁を試みる希更を表情一つ変えずにやり過ごす少年である。デビュー戦を翌日に控えて気を張り詰めているとしても、いきなり劣情を催すとは思えなかった。万が一にも彼女の側から言い寄られても無慈悲に蹴り剥がすことであろう。

 自室の本棚へ密かに隠してある禁断の書物――本来、未稲の年齢で所持してはならない物である――にて描かれているような展開など想像することさえ馬鹿馬鹿しいとは本人も気付いている。

 何しろ寅之助と大鳥も同道しているのだ。他人が揉める様子を娯楽のように愉しむ前者はともかくとして現場マネージャーの場合は担当声優が過ちを犯しそうになった瞬間、ありとあらゆる手段を講じて食い止めるはずだ。

 どうあっても起こり得ない事態に想像を膨らませてしまう自分のあたまが度し難いほど愚かであると痛感し、未稲はかぶりを振ってよこしまな疑念を捨て去った。キリサメの潔白を信じるか否かという以前に己こそと情けなくなってしまったのである。


(……って人はキリくん好みの服とか選んでたのかな――てゆーか、その幼馴染みがキリくんにとって好みの基準になっていたりして……)


 きょういししゃもんや『NSB』の団体代表――イズリアル・モニワと共に陸前高田市の街並みを見て回ったとき、キリサメは故郷ペルーで実施された東日本大震災の復興支援イベントの概略あらましを一同に向けて語ったのだが、その中で幼馴染みの少女にも言及していた。

 それ以来、未稲の頭からは・ルデヤ・ハビエル・キタバタケという名前が片時も離れないのだ。

 名前から日秘双方の〝血〟が流れていることは察せられたが、どのような服を着て暮らしているのか、どのような容貌かおであったのか、日系人であること以外の情報は一つとして読み取れなかった。

 初めて日本の土を踏んだ日、キリサメは防寒用のレインコートからスニーカーに至るまで激しい劣化が明らかに見て取れる装いであったのだが、新しい物に買い替える余裕もない困窮をなる幼馴染みと二人三脚で乗り越えてきたのだろうか。

 首都リマで暮らす大勢が〝遠くて近き隣人たち〟に貧富の別もなく肩を並べて捧げた鎮魂の祈りや、日系人コミュニティが催したチャリティーイベントにも出掛けたという。

 元より口数の少ないキリサメは最小限の情報ことしか述べなかったものの、物心つく前からと一緒に歩んできたことだけは未稲にも理解できた。

 積み重ねた歳月の違う相手がキリサメの心に寄り添い、支えているとしたら自分の出る幕はない――未稲は言葉を交わしたこともないにすっかり気後れしているわけだ。

 恋人としか思えない幼馴染みを故郷ペルーに待たせているのなら、思わせぶりな行動などしないで欲しいと叫びたい気持ちであった。

 しかし――と、心を掻き乱す迷いに未稲は自分のほうから疑いを投げ付けてしまう。

 現在いまも関係が続いているとは思えないのだ。少なくとも未稲が把握している限り、手紙エアメールをやり取りしているようではなかった。携帯電話もパソコンも所持しないと断ったキリサメは当然ながら電子メールも使わないのである。

 ひょっとすると日本への移住に際してを解消してきたのかも知れない。余りにも自分にとって都合の良い解釈だが、それをどうしても止められなかった。

 キリサメを八雲家に迎えるべくペルーへ赴いた実父ちちの話によれば、同国を発つ前に彼が親しくしていた知人の家まで挨拶に訪れたそうだが、未稲と同い年くらいの少女に会ったとは聞いていない。

 実父ちちは余計なことばかり話す人間である。何しろ家族の失敗談まで面白おかしく他人に披露してしまうのだ。キリサメの幼馴染みという格好の話題ネタを黙ってなどいられまい。

 実父ちちが何も話さないことを根拠にキリサメとの縁は切れているものと判断したのだが、つまるところ、未稲は・ルデヤ・ハビエル・キタバタケという人間について全く理解していないのである。

 キリサメが起こした不祥事を引っ繰り返すべく日本格闘技界の〝暴君〟が仕掛けた情報工作の一手――動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』の専門チャンネルにいてMMA解説を行っている『あつミヤズ』の特別番組ではペルーの反政府デモも取り上げた為、『七月の動乱』のことは未稲も把握している。

 仮想空間に三次元描画された〝キャラクター〟は格闘技雑誌パンチアウト・マガジンが広報活動の一環として運営しているのだが、くだんの特別番組の最中だけは以前かつての編集長の支配下にあり、〝命令〟されるがままにキリサメの殺人経験まで仄めかしていた。

 新人選手キリサメ・アマカザリが生まれ育ったペルーの非合法街区バリアーダスは法治国家の常識が通じず、暴力を頼りにしなければ生き延びることさえ難しい。それ程までに過酷な環境の〝犠牲者〟であるという理解を『天叢雲アメノムラクモ』ファンに求めた次第である。

 『ユアセルフ銀幕』にチャンネルを開設ひらいているネットニュースもペルーという国家くにに横たわる格差社会を取材し、海外安全情報が掲載されたホームページはキリサメが日本へ移住する数日前に首都中心部の非合法街区バリアーダスで少女の射殺体が発見されたことも伝えている。

 これらのニュースを事前に承知していた未稲は、キリサメが暴力に支配される〝世界〟からやって来たという暴露にも大して驚かなかった。即ち、そこでペルー社会に対する想像が完結してしまったわけである。

 『七月の動乱』最大にして最悪の激戦地と化した古い闘牛場へキリサメが銃撃戦の直後に駆け付けたことも、そこで彼と年齢の大して変わらない少女が射殺されたこともあつミヤズの特別番組で暴かれたが、「危険地帯といっても過言ではない国」という男友達デザート・フォックスの見立てもあり、未稲はこの二点を結び付けて考える必要性を感じなかったのだ。

 だからこそ自分が恋敵のように意識する名前が『七月の動乱』の犠牲者名簿に記載されているとは夢にも思わなかった。にとっては〝地球の裏側〟の出来事なのである。

 長引く経済不況など諸問題を抱えてはいても法律に支えられた平和の中で生きられる少女にとっては、温泉旅館のロビーに設置されている液晶モニターの内容のほうが想像力を刺激されるようだ。

 威嚇のつもりなのか、V字型シェイプのエレキギターを構え、ピックでもって六本の弦を掻き鳴らし始めた〝迷惑客〟を辟易うんざりとした顔で一瞥し、次いで目を転じた液晶モニターには初めて温泉旅行に出掛けたとおぼしき男女の様子が映し出されている。

 旅館とのその周辺の案内動画ビデオだが、〝迷惑客〟の奏でる楽器エレキギターがアンプ内蔵型であったなら筋立てを読み取れるほど集中できなかったはずだ。

 手を繋ぐことさえ躊躇ためらってしまうような初々しい男女カップルに未稲は自分とキリサメを重ね、その直後に「キリくんは色々な段階をすっ飛ばし過ぎだけどさ」と心の中で呟き、妄想を打ち消しながら右の人差し指でもって唇を撫でた。


(……ちょっとくらい勘違いしちゃっても許されるって、そう思うんだけどなぁ……)


 画面内で描かれる物語ドラマは老夫婦の旅行に切り替わっていたが、未稲がているのは脳裏に思い浮かべた一つの追憶である。

 それはゲーミングサークルのオフ会と同じ日に秋葉原で起きた一件――キリサメの〝不祥事〟であった。

 自分のあずかり知らないところで〝餌〟として利用された形であり、寅之助に腹が立たないといえば嘘になるが、それ以上にキリサメの行動で心がときめいてしまったのである。

 結果的には騙されていたわけだが、キリサメは自分が絶体絶命の窮地に陥っていると思い、MMA選手の資格を投げ捨てる覚悟で秋葉原に急行してくれた――『天叢雲アメノムラクモ』に関わる人間としては厳しく戒めなくてはならないものの、一人の少女としては純粋に嬉しかった。

 将来を懸けるほど激しく異性から想われたことは過去に一度もない。〝ネトゲ〟の交流が中心である男友達デザート・フォックスや麦泉文多から受け取る優しさともまた違うのだ。

 キリサメには一生の想い出ファーストキスを不意打ちのように奪われ、それ以降も幾度となく唇を貪られている。あつミヤズに故郷ペルーでの過去を暴かれて気持ちが沈んでいたときには未稲じぶんのほうから彼の頬に唇を押し付けていた。

 恋人の真似事を繰り返しながらも彼が自分のことを異性として扱ってくれているのか、未稲には自信がない。希更・バロッサのように男性を惹き付けるモノなど一つも持っていないという劣等感に囚われてしまうのだ。

 それでもキリサメに憎からず想われていることだけは信じたかった。それだけはにも負けないと思いたかった。



                     *



 日本格闘技界の〝暴君〟よって支配されたあつミヤズが生放送の〝暴露番組〟を強行する少し前のこと――即ち、半月ばかり遡った日のことである。

 太平洋戦争以前の風情を残す墨田区きょうじまの狭い路地へ無理矢理に押し込められたような洋館風のやぶせいけいいんから世田谷区下北沢に所在する『八雲道場じぶんたちのいえ』に帰り着いた未稲は着替えるのも忘れてキリサメの部屋のドアをノックした。

 一緒に帰宅した実父ちちから「東海道線の塗装ツートーンカラー」とたとえられたセーラー服――オフ会に出掛けた際のコスプレのまま、両腕に包帯を巻いたキリサメと向き合ったのである。

 自室へ引き上げたのは未稲のほうが先であった。ゲーミングサークルのオフ会を終えた直後ではあるものの、その夜にも〝ネトゲ〟の約束があり、架空バーチャルな空間への集合時間までに全ての支度を整えておかなくてはならなかったのだ。

 緊急の仕事が入ってしまった為、オフ会を欠席せざるを得なかったデザート・フォックスからもには間に合うとの連絡が入っている。筑摩依枝ヘヴィガントレットから紹介された甲冑格闘技アーマードバトル瀬古谷寅之助せいしょこたんが引き起こした騒動はともかくとして、ゲーミングサークルの仲間メンバーと過ごした愉快なひとときのことを男友達デザート・フォックスにも早く話したかった。

 そのはずであったのだが、ネットゲーム用のパソコンを起動させる前から未稲はどうしても気持ちが落ち着かなかった。階段を軋ませる音が一つ二つと鼓膜に折り重なるたび、心臓の早鐘も早鐘を打ち始め、ドア越しに溜め息を聞いた瞬間、デザート・フォックスとの約束を放り出してキリサメを追い掛けた次第である。

 リビングルームから階段へ向かう間際に横目で窺ったキリサメの顔は寅之助と繰り広げた〝撃剣興行たたかい〟や、その後に待っていた麦泉の叱声の所為せいだけとは思えないほど消耗していたのだ。普段いつもよりも更に虚ろな瞳が気にならないわけがない。

 未稲自身はSNSソーシャルネットワークサービスを中心に不特定多数の人間が行っていた〝実況中継〟を通じてキリサメと寅之助の〝撃剣興行たたかい〟を覗き見た程度である。二人が最後に斬り結んだ屋上庭園にも決着の間際になってようやく辿り着いたくらいだ。

 開戦に至る経緯まで一部始終を見届けた空閑電知との路上戦ストリートファイトと異なり、『タイガー・モリ式の剣道』との激闘は包帯の下で青く腫れている腕や、インターネット上で垂れ流しとなっている断片的な情報から想像するしかなかったのである。

 秋葉原という大きな町を鬼ごっこに興じるかの如く寅之助と駆け巡り、狭い路地で足を止めるたびに斬り合ったことは未稲も把握している。相当な長期戦であったことは言うに及ばず、全身くまなく疲れ果てているだろうとも察せられた。

 本当ならば一秒でも早く休んで欲しかった。未稲とてデザート・フォックスやゲーミングサークルの仲間メンバーを待たせておくのは忍びないが、〝家族キリサメ〟の体調を確認しないまま再びパソコンの前に座ったところで普段いつものように〝ネトゲ〟を満喫できるはずもないのだ。

 安心したいという我が儘であることは未稲にも分かっている。それ故にキリサメの部屋のドアをノックしながら我知らず深々とこうべを垂れたのである。


「……何?」

「な、何っていうか、その、あの――」


 ノックに対する返事を待ってドアを開けた未稲は、そこに虫の居所が悪そうな顔を見つけて戸惑い、次の言葉を紡げなかった。何事にも無感情なキリサメにしては極めて珍しい表情なのだ。それだけに短い一言は心を冷たく突き刺した。


「――キリくん、どうしてあんな危ない真似をしたの? この場合の『危ない』っていうのはこのバカデカいノコギリを振り回したコトじゃなくて、……今日は文多さんのお説教で済ませて貰えたから良かったけど、最悪、『天叢雲アメノムラクモ』の出場資格を剥奪されたかも知れないってコト。それなのに、どうしてあんな……」


 キリサメが普段いつもの無感情とも違った態度を取る理由が全く分からない未稲は、三ヶ月ばかり前――彼と出会って間もない頃と同じくらい動揺させられてしまった。

 異境ペルーからやって来た直後のキリサメは屋根の上や電柱の頂点に登るなど人間界の常識から逸脱しており、現在いまとは比べ物にならないほど考えていることが理解わからなかった。

 新しい家族との接し方に迷い、一人では抱えきれなくなった不安を男友達デザート・フォックスにも打ち明けたのだが、そのときには「危険地帯からやって来た人間は精神構造が常人とは違う」という彼の見立てにも疑問を差し挟むことなく頷き返したのだ。

 その頃まで感覚が巻き戻ったかのように慌ててしまった為、口を衝いて出たのは体調への気遣いではなく麦泉の詰問をなぞる言葉ものであった。焦る気持ちに衝き動かされ、口を噤むことも叶わないまま喋り続ける未稲であるが、当人には失言を重ねている自覚があり、額には脂汗まで滲んでいた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の運営を取り仕切るスポーツプロモート企業の役員としてキリサメと相対した麦泉は平素のような笑みを消し、傍らで見守っている人々の背筋が凍り付くほどの厳しさで〝プロ〟にあるまじき不祥事あやまちを叱責したのだ。

 そのときには将来の展望まで問いただされている。キリサメからすれば未稲が発する一言一言が心の傷口に塗り込まれる塩のようなものであろう。〝失言〟を通り越して〝禁句〟にも近いはずであった。


「……わ、我ながら身の程知らずの自惚れだって理解わかってるし、積極的に聞き流して欲しいんだけど、――なのかな? だから、あんなムチャしちゃったの……かな?」


 『タイガー・モリ式の剣道』と激しく斬り結んだ『聖剣エクセルシス』は麻袋に納められた状態で壁に立て掛けてあった。傍目には巨大なノコギリのようにも見える禍々しい異境の武器マクアフティルは未稲を救い出す為だけに振るわれたのである。

 拉致監禁そのものは虚言であったのだが、寅之助から挑発的な電話を受けた時点でキリサメは殆ど正気を失っていた――彼を改造バイクの後部うしろに乗せ、秋葉原まで送り届けたというつるぎきょうにその話を聞かされた瞬間のことを想い出し、未稲の両手は黄色を基調とするプリーツスカートの裾を掴んだ。

 無意識の行動であったが、身のうちより湧き起こってくる熱をやり過ごす術など己の意思で知恵を絞っても他に思い付かなかったはずだ。

 尋ねた内容ことが余りにも照れ臭く、紅く染まった頬を見られまいとキリサメから顔を逸らしてしまったものの、未稲の双眸は己の為に捧げられた『聖剣エクセルシス』を捉えて離さない。

 他の誰でもない八雲未稲が絶体絶命の窮地と思ったからこそ、MMA選手の資格を投げ捨てる覚悟で寅之助に異境の武器マクアフティルを振り下ろしたのか――これもまた気に掛かっていたことである。本当は胸の奥に仕舞っておこうと考えていたことである。

 それ故に心の動揺が引き金となり、本人の意識を超えて零れ出してしまったのだ。


「もしも、またみーちゃんが危ない目に遭わされたときも僕は同じように戦うよ。僕にはみーちゃんが〝全て〟だから」


 キリサメの返答こたえには迷いも淀みもなく、一瞬たりとも逡巡しなかったことに未稲のほうが驚いたくらいである。弾かれたように首を揺り動かし、『聖剣エクセルシス』から彼の顔に視線を戻してみれば、真摯の二字こそ相応しい眼差しを正面からぶつけられてしまった。

 声を掛けてきた人間を突き放すかのような態度から決然たる表情かおへと一変していた。

 そもそも間近に迫るより先に魔の手を斬り払ってみせる。己の身を盾に換えようとも守り抜く――強い決意を言い添えるキリサメであったが、声の調子は極端に昂揚しているわけでもない。つまり、彼は気負うまでもないを述べているつもりなのだ。

 未稲の全身が更に熱を帯びたことは、改めてつまびらかとするまでもないだろう。


「僕にはみーちゃんが〝全て〟なんだ」


 もう一度、その言葉に心を貫かれた未稲は冗談めかした言葉で誤魔化そうと考えはしたものの、「それじゃお父さん、ガン無視じゃん。きっと養子むすこに嫌われたァって男泣きすると思うよ?」という返答が喉の奥からどうしてもり上がって来なかった。

 言葉の代わりに丸メガネが真っ白く曇り、未稲の内面をレンズに映している。

 『天叢雲アメノムラクモ』に関わる一員としてはキリサメの言行を看過できるはずもなく、考えを改めるよう注意しなければならなかった。彼が故郷ペルーを蝕む〝闇〟の底にて編み出した喧嘩殺法は無法の〝暴力〟ではなく命を未来に繋げる為のすべであったことを証明しようと誓い合い、その舞台として総合格闘技MMAを選んだはずなのだ。

 夜の神社で交わした約束を壊して欲しくない――と、説得すべきであることは未稲にも分かっている。

 しかし、キリサメはその喧嘩殺法を自分にとっての〝全て〟である八雲未稲みーちゃんを守る為にこそ捧げるとちゅうちょなく言い切ったのだ。新たな誓いともたとえるべき強い想いを真っ向からぶつけられた未稲は口元の緩みをどうしても抑えられなかった。

 恋に恋する年頃として当たり前の反応というべきかも知れない。あなたこそ自分の〝全て〟と告げられたことさえ生まれて初めてなのだ。身も心も沸騰しないはずがなく、脳をも溶かしてしまいそうな喜びへ素直になることもまた必然であろう。


「あ、あ、あの、あのあのあの……あの……っ! いや、あの、あのね――」


 涙が溢れそうになるくらい頬が火照った未稲は全身を駆け巡る甘やかな衝動をいよいよ持て余し、セーラー服のスカーフでもって丸メガネのレンズを拭い始めた。

 言わずもがなも無意識の行動である。一点の曇りもなくなったレンズを通してキリサメの顔を窺おうとしたが、もはや、真摯な眼差しを受け止める余裕もないくらい脳内あたまのなかは真っ白に染まっていた。


「デ、デザート・フォックスさん! ていうか、サークルの人たちとネトゲの約束もしてるから! だから、えっと、その……こッ、今夜はこれでおやす――」


 視界が回転するのではないかと怖くなるほど混乱した未稲はゲーミングサークルの約束を持ち出して取り繕い、何十秒と経っても一向に慣れない空気から逃れるようにあと退ずさってしまったのだが、もまた致命的な失言であったのだろう。

 未稲は右の手首を痛いくらいに強く掴まれ、抵抗する間もなくキリサメの側へ引き寄せられると、そのまま唇を奪われてしまった。手首を掴む左の五指とは対の手でもって頭部あたままで押さえられており、逃れることなど決して叶わない状態であった。

 八雲未稲みーちゃん〝全て〟――と、しるしでも付けるかのような勢いで唇を貪られる内に丸メガネも吹き飛んでしまったが、床に落ちて跳ねる音が未稲には遠く聞こえた。

 このとき、彼女の左手はキリサメの背中に回され、一等強くシャツを掴んでいた。



                     *



 キリサメからぶつけられた想いを振り返る内に未稲は右の人差し指でもって己の唇を撫でていた。焼き付くのではないかと心配になるほどの熱さが現在いまも残り続けているが、それは余韻と呼ぶには余りにも生々しい。

 僕にはみーちゃんが〝全て〟なんだ――どこまでも真っ直ぐな言葉にすがり付いていればこそ、顔すらも知らないキリサメの幼馴染みに自分は決して負けていないと未稲も信じられるのだった。

 故郷ペルーでは幼馴染みと異なる女性との親交も仄めかしている。結局、がどのような付き合いであるのか、未稲は聞きそびれていた。臆病という自嘲が心をつたって脳内あたまにまで響いているが、今さら彼に確かめようとも思わない。

 それでも現在いまはキリサメの瞳に自分一人だけが映っているはずなのだ。

 陸前高田市を訪ねた昨日も教来石沙門がすぐ近くで歩いている状況にも関わらず、強引に唇を貪られてしまったが、下の名前ファーストネームで呼ばれるほど親しくなった希更といえども同じ経験は一度もあるまい。

 ペルーの風習に詳しくない未稲であるが、が同国の挨拶ではなくキリサメ自身の欲求による行動ものであろうことは理解していた。彼の体温を知っているのは自分のみという優越感で皆から愛される〝アイドル声優〟への劣等感を慰めていた。

 先ほど脳内あたまのなかを埋め尽くした妄想のようなことは自分一人の〝特権〟――そのように考えてしまうのは惨めなほど浅ましいと自覚もしている。しかし、罪悪感が続くのは携帯電話スマホのゲームアプリに対する巨額おおきな課金と同じく最初の一秒だけであった。

 素直な心の働きを無理矢理に抑え込んでしまうことこそ何よりも不健康であろうと自分に言い聞かせたとき、性根が腐り切っていると恥ずかしく思うような気持ちは微塵も湧かなかったのである。


(自意識過剰ってキリくん本人に嘲笑わらわれたらノーロープのバンジージャンプも辞さないけど、少なくともってコより私のほうが大事なのは間違いないよね? ……ね?)


 〝あの夜〟はすぐに解放され、ゲーミングサークルの仲間メンバーから大幅な遅刻を咎められる事態には陥らなかったものの、ドアではなくベッドを背にした状況であったなら、あるいはそこに押し倒されていたかも知れない。そのように想像してしまうほど手首に感じたキリサメの力は強く、火傷しそうな熱を帯びていた。

 先ほど鼻から滑り落ちた丸メガネは膝の上に転がったままである。これを拾うことさえ忘れて返信のない携帯電話スマホを胸に抱えた未稲は、熱い吐息と共にキリサメの名前を呟くのだった。

 穏やかな人柄に惹かれた麦泉や、パソコンの画面モニターに隔てられるもどかしさが切なくて仕方のないデザート・フォックスなど慕情を寄せる相手が何人もいることを棚に上げ、嫉妬と呼ぶほど激しくもない感情を気ままに膨らませてしまう未稲は、現在いまも〝あの夜〟も大切なことを見落としている。

 彼女が『デザート・フォックス』という男友達の通称ハンドルネームを口にした瞬間、キリサメは自分から離れないで欲しいと訴えるかのような眼差しを向けたのだ。

 火照った顔を逸らさず自分にすがっているとしか思えないを一瞥でもしていたなら、手首を掴む五指の力が汗ばむほど強かった理由も察したことであろう。

 にとっては〝地球の裏側〟で起きた事件であるが故、『七月の動乱』の犠牲者名簿に自分が恋敵のように意識する・ルデヤ・ハビエル・キタバタケの名前が載っていることなど未稲は想像だにしないのである。

 もう一つの見落としは追憶の中ではなく目の前にある。向かい側のソファに弟のおもてひろたかが腰掛けた瞬間も、その直前にノートパソコンを脇に抱えた実母ははが玄関から慌ただしく飛び出していったことも、脳がとろけてしまったかのような未稲は気付いていなかった。


「……ぼくにも判るくらい顔が真っ赤ということは明らかな発熱の症状でしょう。こんな場所でぼけーっとしていないで未稲さん一人だけでも東京に帰っては? 試合に向けて体調を整えるのは選手の義務ですが、周囲まわりも疎かにするべきじゃありません。感染うつったって知りませんからね」

「――ンにょわッ⁉」


 それ故に大理石で拵えたテーブルの向こうから冷ややかな皮肉ことばを投げ込まれるや否や、比喩でなく本当に飛び上がって驚き、そのまま床の上に滑り落ちてしまったのである。

 自分の足元まで転がってきた丸メガネを溜め息混じりで拾ったひろたかは「踏まれても知りませんよ。替えのメガネなんか持ってきていないでしょ」と揶揄を添えて姉に手渡した。

 呆けた調子でを受け取り、埃を一息で吹き飛ばすことも忘れて掛け直すほど未稲の動揺は大きい。部屋で小学校の宿題に勤しんでいたはずの弟が何の前触れもなく目の前に現れたのだ。甘やかな妄想に意識を囚われていたのが原因とはいえ、ソファから転げ落ちてしまったのは無理からぬことであろう。


「――だーかーら! 何回も同じコト言わせんなや! 観光地の土産物っつったら木刀が王道だっつってんだよ! オレが何か間違ってるか? あ? ココに泊まっちゃねェから何だっつーんだ? わざわざ来てやったんだから客に変わりねーだろがよッ!」


 追憶と妄想の世界から現実へと引き戻された未稲は依然として続いている〝迷惑客〟の喚き声に鼓膜を打ち据えられ、ようやく身の周りの情報ことを認識できるようになった。


「お、お母さんはどうしたの? そろそろ出掛ける時間だよね? サイクロプス龍さんトコの――『おうしゅうプロレスたんだい』の事務所で明日の打ち合わせだったハズ……」

「予定が前倒しになったとかで今さっき出掛けて行きましたよ。返事がないと思ったら、やっぱり気付いてなかったんですね。『ヒロをよろしく』って未稲さんにも声を掛けていたんですよ。面倒なんか見る気がないってバッサリやって貰ったほうがぼくも気がラクですし、お構いなく」

「そ、そんなワケないでしょ~。お母さんのコトは気付かなかったけどさ、弟と遊びたくないお姉さんなんてこの世にはいないんだから~っ」

「……返事を待たずに出ていった母のほうがぼくには問題だと思いますがね、


 弟の向かい側に座り直した未稲は気まずげに頭を掻き、歪めた口元には自嘲の念を滲ませている。今し方の話から察するに実母ははからひろたか面倒ことを託されたようなのだが、その言葉をたったの一文字も拾っていなかったのだ。

 姉弟間の信頼にも関わる事態といえよう。その上、ひろたかは親としての自覚が足りないと実母ははを冷たく詰っている。未稲の頬を林檎の如く染めていた熱はただ弟の一言で瞬く間に引いていった。

 姉弟ふたり実母はは――表木嶺子はひとたび、映像制作に没入し始めると肺が真っ黒に塗り潰されるのではないかと心配になるほど喫煙量が増してしまう。仕事用の洋室へやを借りたのは息子の健康を害する危険性を避ける為の措置でもあるのだ。

 平素も映像に関わる仕事は事務所の中だけで完結させるように努めており、自宅へ持ち帰らざるを得ない日にも作業用の部屋にひろたかを近寄らせないことを未稲は知っている。上出来とは言い難いまでも嶺子なりに配慮しているわけである。

 一方でひろたか実母ははに反感を抱く理由が分からないでもない。手掛けた作品が国際的な評価を受けるほど私生活より仕事に比重を置かざるを得なくなってしまう。しかも、嶺子は家族より自分自身の興味を優先させる性格なのだ。本人も公言して憚らないが、〝家庭生活〟には致命的に向いておらず、それが岳との離婚に至った原因の一つであった。

 それ故に未稲も口の悪いひろたかを窘めることができず、途方に暮れた表情かおで押し黙るしかなかった。自分は父親の側に引き取られたが、八雲岳もまた前妻と同じように己自身の心が赴くまま家族の制止さえ振り切って突き進む人間なのだ。夫婦という関係を維持できるはずのない二人の間に生まれた娘だからこそ弟を諭し得る言葉を見つけられなかった。


「そ、そうだ! ヒロくん、本館の展望カフェに行ってみようよ? キリくんたち、まだまだ戻って来そうにないし、お姉ちゃんとお茶しよ、お茶」

「……今、あしかがただよしあしかがよしあきらがそれぞれ違う形で目指した初期室町幕府の訴訟制度を読み解いているところなんですよ。法整備のすれ違いが幕府分裂のきっかけの一つになるという部分が特に難しくて。だから、途中で集中を邪魔されるのは率直に言って迷惑です」


 露骨あからさまに機嫌を取ろうとする姉を一言で切り捨てたひろたかはページを開いたままの文庫本に再び目を落とした。に刷り込まれた『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』なる書名から察するに七歳の愛読書とは考え難い学術書であろう。

 それとも著者は一〇歳未満の子どもでも理解できる筆致で中世日本にける裁判の歴史を綴っているのだろうか。難解な表現が多く、何よりも予備知識を求められるはずだが、漢字の羅列を追い掛けるひろたかの瞳は一秒たりとも止まらないのだ。

 あいかわという名前が表紙へ控え目に添えられている。

 世界中から天才と褒めそやされる母親譲りの利発さはさておき、ひろたかが七歳とは思えないほどの皮肉屋に育ってしまったのは、疑うまでもなく特殊な家庭環境が原因である。そのことを誰よりも未稲こそが気難しい弟を見守る役割には適任なのだ。

 そもそも八雲家と表木家は同じ温泉旅館に宿泊しながら部屋を別々に取っている。岳は両家と麦泉まで巻き込んで大部屋を予約するつもりでいたのだが、それをひろたかは頑なに拒否していた。

 宿泊する部屋が異なるのだから未稲にも弟の動向を完全には把握できない。実母ははが仕事用の洋室に籠っていることは承知しているのでキリサメたちを一緒に見送ろうと携帯電話スマホ宛てにメッセージも送信おくったのだが、それすらも「迷惑です」と一言で断られている。

 未稲の認識ではひろたかはロビーには絶対に居ないはずであった。彼はに瞬間移動してきたようなものなのだ。ソファから転げ落ちるほど驚いたのも無理からぬことであろう。


(最悪にみっともないトコを見られちゃったなぁ~。ただでさえ姉としての威厳ガタガタなのに、ますます信頼ゲージを下げられちゃったよ、きっと……)


 驚愕に次いで気まずい思いが押し寄せてきた未稲は、弟の面倒を見なければならないと自分に言い聞かせながらも堪らず顔を背けてしまった。

 この小さな少年と同じ眉毛を持つ男性ひとにかつて淡い想いを抱いていたのである。キリサメの幼馴染みへ対抗心を燃やした直後ということもあり、気恥ずかしさと情けなさが同時に心を揺さぶったわけだ。

 その直後に彼女の腹の虫が鳴った。それもロビー全体に鳴り響くほど盛大な音である。弟の間に垂れ込めていた居た堪れない雰囲気を切り替える作用は抜群であったが、先程までとは異なる意味で顔面が沸騰した。


「アマカザリさんたちの前で鳴らなかったのが唯一の救いといったところでしょうか。展望カフェに誘った理由も明白ですね。もう我慢できないご様子ですし、未稲さんだけお先にどうぞ。代わりにぼくがここで皆さんの帰りを待っていますから」

「で、できるよ! 余計なお世話だよ! 公開計量が終わるまではご飯を食べられないキリくんたちに悪いもん!」

「そんな風に思えないくらい大きな音でしたよ? 部屋に備え付けのパンフレットでも読みましたが、こちらのカフェでは特製ベーコンの料理が名物だとか。そろそろランチの時間ですし、売り切れない内に行ってらっしゃいな」


 呆れ返った様子で肩を竦めて見せるひろたかであったが、姉の胃袋がからに近い理由は察しており、「未稲さんが空腹を耐えたところでアマカザリさんたちの身代わりにはならないのですよ? 無意味の極みでしょう」と冷ややかに言い捨てたものの、執拗に揶揄することはなかった。

 一〇歳にも満たない子どもとは思えない賢さは勘働きにも表れるわけだ。


「もう~! ヒロくんねぇ、女の人にそーゆー態度は失礼なんだよ? クラスのコに嫌われたって知らないんだからね!」

「それで反論しているつもりなんですか? 小学生相手にそんなレベルのことしか言い返せないとは、呆れを通り越して悲しくなってきましたよ。高校生相手に幼稚という言葉を思い浮かべなければならないとは」

「もーっ! も~っ!」

「確か『天叢雲アメノムラクモ』の観戦ツアー、今日の夕食はまえさわうしの鍋でしたよね? 未稲さん、今から合流しないと間に合いませんよ? ドナドナ唄って見送って差し上げますよ」

「牛を名乗れるような凹凸なんか持ってないよッ!」


 顔を真っ赤に染めて弟に食って掛かる未稲であるが、空腹を表すを鳴らしたのは自分自身であり、何を言っても恥の上塗りにしかならなかった。

 空腹を原因として苛立ち易くなっている自分の小ささを思い知った途端、未稲のなかでは急に自己嫌悪が湧き起こってきた。自分が持たざるモノを幾つも備えた希更や、顔も知らないへ手当たり次第に負の感情を浴びせてしまったのである。

 特に希更は年齢や立場を超え、対等な友人として気さくに接してくれるのだ。そのような相手にまで醜い想念を向けてしまったことが情けなくてならなかった。


「……そんなに時間ばかり気にすることも無意味だと思いますよ。待てど暮らせど市内まちから戻らないということはファンに捕まっていると考えるのが妥当じゃないですか?」


 沈んだ気持ちを入れ替えるように携帯電話スマホで時間を確かめ直す姉に対し、弟は思いがけない推察を述べた。


「ファンって、バロッサさんの……? そこはマネージャーの大鳥さんが近付けさせないんじゃないかなぁ」

「アマカザリさんにもたくさんいるじゃないですか、ファンの人。森寅雄の剣道を継いだ例の人が――というか、秋葉原のド真ん中で乱闘騒ぎを起こすような人が〝その気〟になれば、実力行使でファンを返り討ちにするハズですよ。警察から連絡が入っていないというコトは身辺警護ボディーガードを放棄したんじゃないですか? きっとアマカザリさん、今事はファンに捕まって身動き取れなくなってますよ」

「は……いィィィ?」


 双眸を驚愕に見開き、素っ頓狂な声を上げたのちに「デビュー前から取り囲まれるレベルでファンが付くぅ⁉」とも続けた姉に向かって、弟は自身の携帯電話スマホを翳してみせた。

 その途端に未稲の鼻から丸メガネが再び吹き飛びそうになった。

 短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSソーシャルネットワークサービスが液晶画面に映し出されているが、レンズの向こうで目を凝らしてみればキリサメの『天叢雲アメノムラクモ』出場に期待する声で埋め尽くされているではないか。

 つまるところ、大陸は『キリサメ・アマカザリ』という言葉キーワードを検索し、彼について言及している利用者と、その短文つぶやきを一覧形式で表示させたわけだ。

 未成年を〝暴力の世界〟へ引きずり込むことを問題視し、『天叢雲アメノムラクモ』の運営を口汚く批判する声が混ざってはいるものの、殆どの利用者ひとびとは〝最年少選手〟を歓迎している。誰も彼も日本MMAの黄金時代を支えた古豪ベテラン――じょうわたマッチの対戦へ並々ならぬ関心を寄せている様子であった。


「例の暴露番組で――『あつミヤズ』の生放送でキリくんの生い立ちに同情が集まる流れを作ったっていうのもあるだろうけど、それにしたってこんなに効果覿面なの? 今福さんも面白くないだろうなぁ、これ……」


 現時点では無名の選手であるキリサメ・アマカザリがインターネット上で騒がれていることに面食らった未稲は、ただただ双眸をしばたたかせるしかなかった。


「このギターのアカウント画像と名前ハンドルネーム――もしかして、とちないさん?」

「世間は狭いと言いますが、未稲さんのご友人でしたか。短文つぶやきを読む限り、音楽をやっている人みたいですね。アマカザリさんの入場曲を知りたいとも言ってましたし」

「友達っていうか、ちょっとした知り合い……かな。ストリートミュージシャンってコトまでは私も知ってるけど、それくらいで――うん、そっか……栃内さんも目撃者の一人に違いないもんなぁ~」


 短文つぶやきの一覧にはひろたかが「乱闘騒ぎ」と吐き捨てた〝げきけんこうぎょう〟を間近で見守った野次馬も混ざっているようだ。

 屋上庭園の戦いでキリサメ・アマカザリは中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルを轟々と振り回していた。ノコギリ状の刃を木造橋の束柱はしらに喰い込ませるとを〝軸〟に据え、遠心力をも利用して素早くらんかんの上に跳ね飛んだ。その状態から転じたプロレス式の後ろ回し蹴りソバットの切れ味は八雲岳に勝るとも劣らない――未稲が断片的な情報でしか知り得なかった〝げきけんこうぎょう〟を詳細に紐解き、自分なりの解説を熱弁する利用者は大勢の注目を集めていた。

 くだんSNSソーシャルネットワークサービスは指定した短文つぶやきを他の利用者と共有する拡散機能が備わっている。画面に表示された二〇〇〇を超える数値はが使用された回数であり、極めて高い注目度の表われというわけだ。

 未稲が画面内に見つけたストリートミュージシャン――とちないこまもその一人であった。秋葉原の路上で歌声を披露していた際に〝げきけんこうぎょう〟に巻き込まれ、きょうじまやぶ整形外科医院までのである。

 〝友人〟と呼べるほど親しいわけではないものの、未稲にとって〝知人〟であることは間違いない。興味を惹かれて幾つかの短文つぶやきを読み取ってみたが、過去に空閑電知と交際していたことについてはさすがに投稿を差し控えているようだ。


(……樋口社長に手のひらの上で転がされてるみたいでやっぱり癪だなぁ。何もかもあの人の思い通りなんだもんなぁ。これだから誰も文句言えなくなっちゃうんだよ……)


 かつて未稲自身がしらかわほうおうに重ねた『天叢雲アメノムラクモ』の代表――樋口郁郎は〝げきけんこうぎょう〟という名の不祥事を広報戦略の一環に、得体の知れない新人選手ルーキーを次世代の担い手としてMMAファンに刷り込んでしまったのだが、この〝炎上商法〟ともたとえるべき情報工作の効果が携帯電話スマホの液晶画面に表れているわけだ。


「まるでしらかわいんですね。日本の格闘技界を裏から自由に操っているようなものですよ。ボクが何が言いたいのか、……未稲さんなら理解わかりますよね?」

「ん~、……まぁ、うん……それは――ねぇ……」


 〝裏〟の事情を実母ははから教えられたらしいひろたかもまた樋口の剛腕を〝日本一の大天狗〟になぞらえたが、正面の未稲は頷き返すことさえ忘れて呻き声を洩らしていた。

 後白河法皇は出家ののちも院政を敷き、〝てんきみ〟としての大権を掌握していた。国の舵取りを担わんとするげんぺいの武家政権――たいらのきよもりみなもとのよりともひいては最初期の鎌倉幕府を奇々怪々な政治工作で翻弄し続けたのである。

 それ故に〝日本一の大天狗〟と畏れられたのだ。

 日本で最も有名な格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』から『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業に出向し、広報活動全般を担う今福ナオリのことを未稲は師匠と仰いでいる。

 内なる心の声まで拾い上げるほど格闘家と真摯に向き合う記者であった今福にとって現代の〝大天狗〟が振るう剛腕は断じて許せるものではあるまい。樋口は所属選手を守るべき立場でありながらキリサメ・アマカザリの尊厳を踏み躙ったのだ。それ故に未稲は師匠の憤怒いかりを想い、眉間に皺を寄せてしまうのだった。

 彼が〝裏〟で手を回してくれたからこそキリサメの選手生命は辛うじて繋がった。それは紛れもない事実であるが、己自身は姿を現さないままによって〝世界〟を動かしてしまう樋口に未稲は恐怖すら覚えたのである。


「ちなみに未稲さん、今月号の『パンチアウト・マガジン』はもう読みました?」


 大陸ひろたかの問い掛けにも未稲は半ば機械的に首を頷かせていた。

 『パンチアウト・マガジン』はプロレスやボクシング、空手に柔道などあらゆる分野の格闘技・武道を満遍なく取り扱っている。今月号では『第一三せん~奥州りゅうじん』と題された『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行が大々的に取り上げられており、特殊記事の中でもキリサメのことを『八雲岳の秘蔵っ子』と喧伝していた。

 統括本部長が見出した新星というだけでも『天叢雲アメノムラクモ』ファンは興味を惹かれるだろう。その上、『南米ペルーからやって来た謎の喧嘩殺法』という仰々しい見出しまで添えられたのなら、いやが上にも期待が高まるというわけだ。

 その一端を格闘技雑誌パンチアウト・マガジンによる誇張ではなく現実の〝力〟として知らしめたのがくだんの〝げきけんこうぎょう〟であり、更に過熱するよう煽り立てた『あつミヤズ』の緊急生放送である。

 かつて格闘技雑誌パンチアウト・マガジンにて編集長を務めた樋口は、その経歴キャリアを通じて全世界の格闘技並びにスポーツ関係者と強固な人脈ネットワークを築き、『ハルトマン・プロダクツ』の総帥とさえ互角に渡り合える権力を掌握にぎった。何年も前に離れた〝古巣〟であろうとも電話一本で操ることができるのだ。


「つまり、がトドメの一手だったんだね。樋口社長の戦略が今月号の特集込みってコトは師匠に確認するまでもないか……」

「でしょうね。主催企業サムライ・アスレチックスの社長は生身の人間をコマに見立てたボードゲームが趣味みたいなものでしょう? 今福さんがくらもちさん相手に愚痴る姿までボクにも想像できましたよ。例の生放送の後、母とも長電話してましたからね、倉持さん」

「今福師匠じゃなくて倉持さんのほうがお母さんに連絡してきたの? ……うっわ~、聞きたくなかったなぁ、その話。生々しい方向に転がってない? 主催企業サムライ・アスレチックスでクーデターが起きたら最悪だよ」

「クーデターっていうか、常に内部分裂を起こしているようなものじゃないですか。鎌倉幕府や室町幕府みたいに。アマカザリさんも大変な時期にデビューするもんですね」


 特集記事に関してはキリサメ自身の外見ルックスも注目を集めていると、ひろたか携帯電話スマホを仕舞いつつ付け加えた。

 希更の言葉ではないが、儚げな雰囲気に庇護欲を刺激される人間も少なくないだろう。格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの記事に併載された写真では現代日本を代表するデザイナーのたねざきいっさくが〝開発〟した試合着を纏っていたのだが、これを一目見て心を奪われた者がいても不思議ではない。

 互いを絡み合わせる形で腰に締めた三枚の布切れは風になびくと先端の部分が尾羽根のように舞い踊る仕掛けである。これに加えて種崎自ら生地の選定までこだわり抜いた試合用のズボン――『キリサメ・デニム』の鮮やかないろには誰もが視線を引き寄せられるのだ。

 股下から裾に掛けて幅広でゆったりとしたは従来の試合着に比べると明らかに異質であり、現代格闘技の常識から外れた領域にるキリサメの来歴を一等際立たせているようであった。


「世の中にはミーハーな人が多いですからね。ラブコメみたいな同居生活に夢てると、あっさり横から取られてちゃうんじゃないですか?」

「い、幾らなんでも話の振り幅、大き過ぎじゃない? 主催企業サムライ・アスレチックスのクーデターからにブッ飛ぶゥ?」

「例えば教来石沙門とかね。近頃、アマカザリさんと急接近しているそうですね? きょういしともも八雲岳に首ったけですから親子二代のラブコールか。ボクに言わせれば重過ぎる気もしますが……」

「そこでフツー、教来石さんを持ち出す? バロッサさんでもなく? おかしくない?」

「ウワサになればネット上にも〝そのテ〟の妄想が溢れ返るでしょうね。何しろ同じ日にデビュー戦を迎える新人選手だ。運命の糸で結ばれているように感じる人だって多いハズです。未稲さん、も好きそうですよねぇ」

「キツいな~! 実の弟から〝ナマモノ〟な話題を持ち出されるのも、それをすっぱり否定できないのもキツいなぁ~っ!」


 真っ向から異論を唱えつつも弟が言わんとしていることが姉にも全く理解できないわけではない。「急接近」という表現はキリサメと沙門の為に存在するような言葉であろう。ひろたかが述べた通り、両者は父親の代から因縁が深いのだ。

 当のキリサメも彼のことは「沙門」と下の名前ファーストネームで呼んでおり、それについても未稲は幾度となく首を傾げていた。

 互いの命を喰らい合うような闘いを繰り広げた電知や寅之助などキリサメが下の名前ファーストネームを用いて話し掛ける人間は限られていた。家族や友人と認めた相手を除けば家名ファミリーネームでしか呼ばないのだ。自分のマネジメントを担当し、尚且つ養父ちちの相棒でもある麦泉文多さえキリサメなかでは後者に含まれるのだった。

 他者ひとに心を開くまで相当な時間を要するキリサメが出会ったばかりの人間を「沙門氏」と呼んでいるのだ。下の名前ファーストネームを用いるようになったのは未稲より早かったかも知れない。

 二人から聞かされた説明はなしによれば、じゃどうねいしゅうのフードトラックを訪ねた際に鉢合わせとなったそうである。きょういしともが最高師範を務める空手道場――『くうかん』の内輪揉めにキリサメが巻き込まれ、その中で親しくなったことも未稲は把握している。

 それ故にキリサメは沙門が強硬に推し進めている『くうかん』の組織改革のことまで承知していた。今では自身が属する『天叢雲アメノムラクモ』の内情よりも詳しいのではないだろうか。


「……ヒロくんの所為せいだよ。これまで〝ナマモノ〟だけには手を出すまいって我慢してきたのにキリくんと教来石さんの異種格闘技戦だなんて――投稿サイトにイラスト小説SSも溢れ返るに決まってるじゃん! にマッチしたTシャツを買わなくちゃ! 無いならオーダーメイドで刷るッ!」

「色々な意味で何を言ってるのか、測り兼ねるのですが……」


 短時間で絆を育んだキリサメと沙門に対し、未稲も運命的な巡り合わせを感じている。鼻血を噴き出すことこそなかったものの、ひろたかが予測した状況に豊かな妄想が捗らないといえば、それもまた偽りになってしまうのだった。


「――さっきからおめーらが話してる教来石って沙門のコトだろ? あの野郎、オレの弟分にコナかけやがったのかァ? 兄貴分としちゃあ黙っちゃいらンねぇぜ! 城渡総長には申し訳ねぇが、一度、きっちりシメてやるァッ!」


 未稲とひろたかが揃って辟易うんざりとした表情を浮かべ、重苦しい溜め息を吐きつつ互いの顔を見合わせたのは無理からぬことであろう。六本の弦をピックでもって掻き鳴らす音と共に姉妹の会話へ割り込んできたのは酒と煙草で焼けたダミ声である。沙門の名前を口にしたことがそもそもの失敗であったと、二人は自分たちの迂闊を呪っていた。

 受付の係員へ支離滅裂な言い掛かりを付けていた〝迷惑客〟である。

 太腿の部分が異様に広く、裾が細い変形の黒ズボン――いわゆる〝ボンタン〟を穿き、〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌の上に羽織るという珍妙な風貌からも一目瞭然であるが、V字型シェイプのエレキギターを構えながら姉妹に近付いてくるのはすがだいら高原で遭遇したつるぎきょうであった。

 金髪のパンチパーマは額の剃り込みが鋭角で、鼻の下に蓄えた髭と相まって人相の悪さを一等際立たせている。迷惑行為を遠巻きに眺めていた宿泊客へ「文句あんのか? モンじゃねーぞ!」と当たり散らし、め付ける狐目を見間違うはずもなかった。

 〝ボンタン〟にベルトは用いず、バイクの物であろうチェーンを帯の代わりに締めているのだが、は昭和後期の非行少年ヤンキーたちの間で流行った服装である。学校指定の物ではない改造ボタンは一個も留めておらず、剥き出しの腹にはサラシも巻いているのだ。

 〝短ラン〟の背面には荒々しい筆致で『げき』とペイントされている。これは恭路が属するインディーズバンドの名称であり、エレキギターの弦を弾くピックにも同じ二字が刻まれていた。


「……すみませんけど、私たちに話し掛けないで貰えます? 知り合いだって勘違いされるだけでも大迷惑なんです。今すぐお引き取りを。キリくんは当分、帰ってきませんし、何時までも居座られたら困るんですよ。警察呼ぶかどうか悩むくらい」

「るせぇな! 弟分に〝敵中突破〟してやるのは兄貴分の務めだろうが! 出直すなんてカッコ悪ィ真似、『武運崩龍ブラックホール』の名が廃るってモンだ。親衛隊長のメンツを潰すっつうコトは城渡総長に恥を掻かすのと一緒なんだぜ。そこんトコ、分かってンのか、未稲?」

「御剣さんは自分の喋ってる内容ことがちゃんと他人ひとに伝わっているのか、それを疑うところからやり直したほうが良いですよ。何一つとして伝わって来ませんし。……ていうか、気安く下の名前で呼ばないで下さい」

「……ひょっとしてこの人、『陣中見舞い』と言いたかったのでしょうか? 言い間違えや誤用というのは大抵の場合、意味が正反対にひっくり返るものですが、『敵中突破』だと一つも掠っていませんよね?」

「細かい部分に気が付くのはヒロくんの良いトコだけど、そこは聞き流すのが正解だよ。聞いたでしょ? は顔に泥を塗られるのが一番イヤなんだもん」


 当人が得意満面で吼えた通り、御剣恭路にはインディーズバンドのギタリストとも異なる肩書きがある。湘南を中心に活動する暴走族チーム『武運崩龍ブラックホール』にいて親衛隊長を任されていた。普段は背に担っているV字型シェイプのエレキギターも乱闘たたかいの場では武器として振り回すのである。

 それはつまり、敵対する暴走族チームとの抗争に際して総長リーダーの身辺を警護する側近という意味であった。平成二〇年代も後半に差し掛かったこんにちには時代錯誤としか思えない出で立ちは社会や学校に対する反骨精神だけでなく、『武運崩龍ブラックホール』の構成員メンバーという誇りを示したいわけだ。

 キリサメが初陣で闘う相手――城渡マッチもMMAの試合では〝ボンタン〟を穿き、剥き出しの胴にサラシを巻いている。恭路は〝総長〟と慕う相手を真似して憧憬あこがれという名の陶酔に浸っているようなものであった。

 暴走族チームを率いる総長おとこの舎弟が未稲たちの宿泊先へ乗り込んできたのは二〇分ほど前のことである。

 耳障りな爆音が正面玄関の扉を突き破ってから間もなく、「折角、兄貴分が来てやったのに出迎えもナシかよ、アマカザリッ!」と大声で喚きながら温泉旅館のロビーに姿を現したのだ。

 改めてつまびらかとするまでもないが、竜の嘶きとたとえるべき爆音は彼の愛車である『ガンドラグーンゼロしき』――いわゆる〝ゾク車〟のマフラーから吐き出されたものだ。しかも、正規の駐車場ではなく玄関前に大型バイクで乗り付けたらしく、旅館の従業員は控え目ながら幾度も移動を促していた。

 野蛮の二字が〝短ラン〟を着て歩いているような強面の男でなかったら、旅館の側はバイクの撤去まで仄めかし、強硬な態度で相対したことであろう。何しろ恭路は宿泊客でもないのだ。言行の一つ一つが迷惑行為に等しく、警察に通報されても文句など言えない立場であった。

 未稲は同じ爆音をすがだいら高原でも聞いたおぼえがあり、腰掛けていたソファから比喩でなく本当に飛び上がるほど驚いたのだ。

 恭路当人曰く、デビュー戦に臨む〝弟分〟の陣中見舞いとのことである。

 この時点で未稲は御剣恭路という男の思考あたまが理解できなくなり、顎が外れそうになるくらい口を大きく開け広げた。人生の師匠とも仰ぐ城渡マッチが湘南から奥州市まで遠征している理由さえ失念してしまったようなものではないか。

 〝城渡総長〟からすれば〝最年少選手キリサメ・アマカザリ〟は何としても撃破すべき対戦相手なのである。親衛隊長自ら敵情視察へ赴いたということであれば納得できたのだが、この強面の男は本気で〝弟分〟を激励するつもりのようだ。

 好意的な表現を選ぶならば分け隔てなく親愛の情を示すということであり、底意地の悪い見方をするならば八方美人ないしは無分別――元から悪感情を抱いていた相手ということもあって未稲には後者としか思えなかった。

 彼女は心の中で「無神経」とも付け加えている。両手から提げたコンビニのビニール袋には大量の缶ビールが詰め込まれており、これを陣中見舞いの品として差し入れようとしていたのである。

 翌日に試合を控えている新人選手ルーキーに対して余りにも配慮を欠いた振る舞いではないか。ロビーに未稲を見つけるなり得意げに胸を張り、「ガチガチに緊張してんだろ? 今夜は吞み明かそうじゃねぇか」と高笑いしてみせたが、正体を無くすほど酩酊した挙げ句、二日酔いでも患おうものなら息抜きどころか、試合にならなくなるはずだ。

 そもそもキリサメは二度もの留年によって高校に在籍したまま二〇歳はたちの誕生日を迎えた恭路とは違い、二〇一四年六月現在にいて未成年なのである。


(酔っ払ったらリラックスできるって発想が最悪なんだよなぁ~。お父さんもそういう部分がないわけじゃないけど、……どうすりゃここまで頭のネジを飛ばせるんだろ……)


 恭路のちんにゅうに至る経緯いきさつを振り返った未稲は、今一度、重苦しい溜め息を吐き捨てた。

 このときばかりはひろたかも皮肉めいた物言いを控え、「お気持ちはお察しします」と姉を気遣っている。

 先程もキリサメが出迎えなかったことに文句を垂れていたが、そもそも御剣恭路からの事前連絡など一度もなかった。この男の電話番号さえ未稲は知らないのである。

 だからこそ、自分たちの宿泊先へ踏み込んできた恭路の存在ことが未稲には我が身を掻き抱いてしまうほど不気味であった。驚愕を通り越して恐怖すら覚えていた。

 瀬古谷寅之助とおおとりさとが温泉旅館の名称や住所を恭路に告げ口したのではないかと一瞬だけ疑ったものの、すぐに思い直して「瀬古谷さんもそこまでバカじゃないか」とかぶりを振った。恭路も成り行きから秋葉原の〝げきけんこうぎょう〟に関わっており、二人と連作先を交換していたとしても不思議ではないのだが、大鳥の場合は担当声優に迷惑が及ぶ危険性リスクは先んじて切り捨てることであろう。


「――奥州市内のホテルや旅館をローラー作戦で回ってやったに決まってんだろ! 八雲岳のおっさんが例の観戦ツアーに出張るっつうのは総長から聞いてたからよォ、宿も市内で取ってるに違いねェってな! 手前ェで手前ェの推理力が怖くなっちまったぜェ!」


 宿泊先を突き止めることができた理由をただしてみれば、返答はストーカー紛いの奇行である。その上、「途中で妙な靴履いた坊さんを見掛けたぜ。東北じゃ編み笠に長靴って組み合わせが普通なのかねェ」とかれていないことまで付け加えてくるのだ。この場に寅之助が居たなら身辺警護ボディーガードの役目を果たすようけしかけたかった。

 姉に遅れてロビーを訪れたひろたかも金髪のパンチパーマを発見した瞬間から他人の芝居フリを貫いている。すがだいら高原で実施された合宿には彼も同行しており、恭路の喧しさを心の底から煩わしく思っているのだ。未稲もまた招かれざる闖入者を視界から追い出すべく妄想に浸っていたようなものである。

 御剣恭路は一度でも言葉を交わした人間を身内も同然と思い込んでしまうのだろう。その対象には未稲とひろたかも含まれているらしく、姉のことは無遠慮に下の名前ファーストネームで、弟のことは馴れ馴れしく「ヒロ」と愛称ニックネームで呼び捨てにするのだ。

 〝身内〟と判断する基準がキリサメとは正反対のようであるが、彼の〝兄貴分〟を自称する意味も未稲には全く理解できなかった。当然ながら一方的に〝弟分〟と見なされてしまったキリサメも困惑し続けている。


「――口を挟んですみません。こちらの男性のお連れ様……ですよね? あの……彼女さんでしたら、こちらの彼氏さんをどうにかしてください! そうでないと当方としましても然るべき手段を取らざるを得ませんのでっ」

「ンなッ⁉」


 受付カウンターを挟んで飛び込んできた係員の声に未稲は全身から血の気が引いた。

 耐え難い誤解である。その直後、恭路が係員に「バカ野郎! オレにだって選ぶ権利があらァ! 誰がこんなチンクシャと仲良しすっかよ!」と大声で言い返し、未稲のなかに生まれて初めて他者への殺意が芽生えた。

 この不愉快な男と知り合いとも思われたくない未稲は、どれだけ耳障りでも喚き声を黙殺し、他人の芝居フリを貫いていた。それだけに噴き上がる屈辱も大きいのだ。

 匿名による真偽不明の情報が乱れ飛ぶインターネットの世界に染まった毒舌家の一面を持ってはいるものの、姉の性根が腐り切っていないことをひろたかは血を分けた弟として良く理解わかっている。だからこそ、怒りに震えながら歯軋りするさまを痛ましそうに見つめるしかなかった。


「選ぶ権利っつったら沙門の野郎も片想いが哀れでならねェぜ。アマカザリのほうはヒロにべったりなんだろ。そういう意味じゃアマカザリも罪作りなヤツだわなァ。電知に寅之助と磁石みてーに人を引き寄せてやがらァ。あいつ、人付き合いがうざってェタイプじゃねェの? 何なら兄貴分のオレがヤツらとナシ付けてやっても構わねェんだぜ!」

「キリくんにまとわり付く御剣さんがそれを言いますか……。もう一つ、私にはどうにも気持ち悪いんですけど、キリくんがヒロくんにアプローチ仕掛けてたコト、どうしておぼえてるんですか? うちの弟とはすがだいらで一度しか会ってませんよね?」

「未稲、てめー、オレの目を洞穴か何かと勘違いしてんじゃねーのか⁉ あれだけ分かり易くちょっかい出しまくってりゃバカでも分からァよ。誰がバカだ、この野郎ッ!」

「……いい加減、旅館ここの人に『然るべき手段』ってのを取って貰っちゃおうかなぁ……」


 城渡マッチは若き日に『くうかん』で厳しい修練を積んでおり、空手こそが総合格闘技MMAのリングでえて打撃にこだわり抜く様式スタイルの骨子となっていた。

 一方のきょういし沙門は『くうかん』が開催する全日本選手権にて三連覇を成し遂げた天才である。全国組織として古い歴史を持つ道場を挟んで城渡の舎弟との間に親交があったとしても特別に不思議ではない。

 尤も、恭路本人はしんけんなどと仰々しく冠する古武術『あらがみふうじ』の使い手と名乗っており、『くうかん』空手を本格的に学んだことはないはずだ。互いに〝身内の知り合い〟といった接点から付き合いが始まったのであろう。


「クソったれが! 無性に腹立ってきたぜ! 沙門の野郎、昨日までおめーらと一緒に居たっつってたよなァ⁉ 付き合いの古い総長のトコに顔見せるのがスジだろが! 激励しに来いっつーんだよ! それをあの野郎……やっぱヤキ入れたるァ!」


 〝城渡総長〟へ礼儀を尽くさなかったことに対して必ず制裁を加えると恭路は息巻いているが、沙門に襲い掛かったところで三分と保たないはずだ。相手は名実ともに日本で最強の空手家である。


「……アマカザリさんはどうしてぼくに無駄に構うんでしょうか……」


 姉と〝迷惑客〟による聞き苦しい言い争いから逃れるよう俯き加減となり、再び自身の携帯電話スマホを起動させたひろたかに映し出されたSNSソーシャルネットワークサービスの画面と、数多の短文つぶやきの中に含まれている『キリサメ・アマカザリ』という名前を暫く眺めたのち、大きく首を傾げた。

 喉の奥から絞り出された声も平素いつものように鋭い皮肉で突き刺す調子ものではない。

 そもそもひろたか奥州ここのは義兄――キリサメ・アマカザリなのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』どころか、総合格闘技MMAにさえ嫌悪感を抱いているひろたかは、これまで母に誘われても決して遠征に同行することはなかった。頑なに拒み続けてきたといっても過言ではない。

 映像作家の仕事以外には興味すら持たない実母ははのもとで育ったこともあり、炊事や洗濯など身の回りのことも独力ひとりでこなせるのだ。長期間に亘って親が家を空けていても全く不自由しないのである。

 長野県の山奥に屋敷を構えている母方の祖父は今でも健在なのだが、仕事の都合で世界中を飛び回っている為にひろたかを預かることも難しい。

 今度も一人で留守番するつもりでいたのだ。それなのに思いも寄らない人物から――キリサメから手を引かれ、とうとう奥州の地を踏んでしまったのである。


「僕の出発をみーちゃんと一緒にキミにも見届けて欲しい」


 MMAの興行には近付きたくもないと抗うこともできたのだが、その言葉が何故だか心に突き刺さり、ついに義兄の手を振り払えなかった。

 すがだいら高原にける合宿が終わり、現地で解散する間際のことである。

 キリサメ・アマカザリとおもてひろたかの間柄を一言で表すならば〝義理の兄弟〟こそが最も相応しいのだが、互いの為人ひととなりを理解し合っているわけでもなく、ましてや血の繋がりもない。身内とは言い難い「他人」の一言で片付けられてもおかしくない関係なのだ。

 ただ一度、顔を合わせただけの人間にどうして深く踏み込もうとするのか。そして、誘われるがまま東北を訪れたのは何故なのか――ひろたかは持ち前の知識に頼っても解決できないほど戸惑っていた。

 大人が想像している以上に子どもの感覚は鋭く、七歳らしからぬ小賢しさから同級生の親に疎まれていることも理解わかっていた。そのように可愛げのない自分へ積極的に関わろうとする義兄キリサメの奇特さも、彼の言葉を素直に受け入れてしまった己自身の心も、ひろたかは持て余し続けているのだった。


「……ぼくを構ったって、面白くも何ともないのに……」


 岩手遠征を実母ははから持ち掛けられた瞬間に切り捨てた同行という選択肢を義兄が拾い、小さな手に握らされてしまった――自分でも未だに信じられない筋運びを振り返り、ひろたかはソファの上で膝を抱えた。


「……最初から何を考えているか分からない人でしたけど、いよいよ意味不明ですよ。ぼくのことを強引に誘っておいて、自分でブチ壊しそうになるとか考えナシにも程がありますよね」

「うう……、そ、そこを突かれちゃうとお姉ちゃんも何も言えなくなっちゃうなぁ~。キリくんがムチャをしちゃったのも、わ、私を心配してって感じだしぃ~」

「別にぼくはノロばなしをお願いしたワケじゃありません。第一、未稲さんからを聞かされるのは控え目に言っても気色悪いので本当に堪忍して下さい」

「そ、そこまでェッ⁉ ヒロくんが恋愛相談を持ってきたって、お姉ちゃん、乗ってあげないからねっ!」

「それはご心配なく。ぼくに興味を持つ人なんて地球上のどこを探したっているハズありませんからね。ぼくとしても思春期特有の苦労が減るので今から気がラクですよ」

「またお姉ちゃんが何も言えなくなっちゃうことをこのコは~っ」


 キリサメが起こしてしまった不祥事は、約束を交わしたひろたかに対しても不誠実と言えるだろう。しかし、〝プロ〟にあるまじき無責任な行動と呆れはしたものの、不思議と腹が立つようなことはなかったのだ。

 八雲岳を含んだ〝家族〟とは異なり、格闘技そのものを少しも愛していない為、岩手興行を中止に追い込む可能性もあった不祥事さえ第三者の視点から捉えることができるのかも知れない――そこまで義兄のことを考えてしまう心の働きに如何なる名前を付ければ良いのか、これまでひろたかが読破した書物にも記されてはいなかった。


「未稲さん、よくアマカザリさんとまともに意思の疎通を成立させられますよね。そこだけは、その一点だけは掛け値ナシに尊敬しますよ、本当」

「――確かによォ、アマカザリの野郎は会話に困るくれェ無口だよなァ。肝心なコトもマトモに話さねぇしよ。今の言いっぷりじゃヒロもえれェ苦労してんだろ? 弟分の弟は広い意味じゃ弟分と一緒じゃねェか! オレが何でも相談に乗ってやらァ!」


 自分の心もいよいよ意味不明――そのように心の中でこぼしたひろたかは、当然ながら姉弟の会話に割り込んできたダミ声を完全に聞き流している。己の勘違いに気付く可能性もなさそうな訳知り顔を一瞥もしておらず、「それは無口じゃなくて、キリくん、御剣さんと話したくないだけなんだと思いますよ」とわざわざ火に油を注ぐ未稲を舌打ちでもって押し止めたかった。


すがだいらの合宿で少し話したくらいなのに、なんでこんな……」

「ヒロくんのこと、自分と似てるって思ったのかも知れないね、キリくんは」


 キリサメの〝兄貴分〟というを耳障りなくらい強調し、「アイツとは腹ァ割って話す仲なんだぜ! 女子供も割って入れねェ男同士の絆ってヤツだ!」と余りにも虚しい自慢を垂れ流し続ける恭路を黙殺することに決めた黙殺した未稲は、小さな声で呟き続けるひろたかの背後へと回り込み、その小さな右肩に自分の左手を置いた。

 肌から浸透していく温もりに乗せて、紡ぐ言葉を心の奥底まで届けようとしていた。


「私も全部を知ってるわけじゃないけどね、……キリくんにも色々なコトがあったみたいなんだよ。海の向こうのペルーでね……」

……ですか……」


 露骨あからさまに遠回しな姉の言葉が樋口による一連の情報工作まで含んでいると察したひろたかは喉の奥から飛び出しそうになった皮肉を飲み下し、顎でもって膝を擦るように頷き返した。


「キリくんはね……お父さんのことは顔も知らなくて、二人三脚で暮らしていたお母さんは早くに亡くして――たった一人で、大変な思いをして生きてきたんだよ」


 その「大変な思い」が喧嘩殺法を生み出したことは樋口郁郎が裏で糸を引いた『あつミヤズ』による暴露番組の内容からも明らかであった。

 格闘技雑誌の特集記事や『天叢雲アメノムラクモ』の公式ホームページにける紹介では背景バックグラウンドに当たる部分が大幅に割愛されており、抽象的に〝我流〟とだけ記してあるのだが、空閑電知や瀬古谷寅之助と繰り広げた路上戦ストリートファイトのようなことを重ねて命を繋いできたに違いない。

 『あつミヤズ』は喧嘩殺法に秘められた戦闘能力の裏付けとしてペルー共和国の治安の悪さまで暴いている。


「……たった一人……」


 誰に聞かせるでもなく、ひろたかはその言葉を反芻した。

 いつでも眠そうにまぶたを半ばまで閉ざし、何を考えているのかも分からないキリサメ・アマカザリは、ギャングや反政府組織が潜んでいるような危険な〝世界〟をたった一人で生きてきたという。

 誰に頼ったら良いのかも分からず、誰のことも信じられない独りぼっちの〝世界〟で牙を研ぎ澄ませ、死にもの狂いで戦い続けてきた――姉の言葉と体温は過酷としか表しようのないペルーの〝現実〟を弟の心に伝えていた。


「……ヒロくんとキリくんが全く一緒だなんて言えないけど、すがだいらで合宿したときに〝何か〟を感じたんじゃないかな。それで放っておけなくなったっていうか、どうにかして力になりたいって思ったっていうか……」

「未稲さんの言う通りだったら、冗談抜きで大きなお世話ですよ。ぼくは別に力になって欲しいなんて思ってないし。あんな何を考えているのか読めない人に援けられなくても何も困らないのですから」

「……うん。だから、これは全部、私の勝手な想像だよ」

「肝心な答えを人に丸投げするなんて無責任ですよ。……卑怯です、未稲さんは」

「だって、その答えは私には分からないからね。……でもね、キリくんがキリくんなりにヒロくんのことを気に掛けているのは間違いないよ。本当はどんなことを考えていて、どうして手を差し伸べてくれたのか――それはヒロくんからじかいてあげて欲しい。今すぐじゃなくて良いから。いつか、向き合えるようになったときで良いからさ」


 いつもながら姉の言葉は要領を得ないのだが、今日は特に漠然としていて趣旨を掴み切れなかった。えて多くを語らず、胸の内に留めているようにも思えたくらいである。

 それでも今のひろたかには十分のような気がしていた。自分を奥州まで連れ出そうとしたキリサメの手をどうして振り解けなかったのか。その理由を説明することはひろたか本人にもできない。理屈を超えた〝何か〟が働き、ここまで導かれてしまったとしか言いようがないのだ。

 おそらくはキリサメも同じなのだろう。正体不明の衝動に背中を押され、〝血〟の繋がらない義理の弟へ「デビュー戦を見届けて欲しい」などと口走ったに違いない。


「そこなんだよ、そこ! そこそこそこ! アマカザリの野郎はそこでずーっと躓いてやがる! ェで勝手にひとりぼっちなんて決め付けるんじゃねぇぜ! を言い出したらオレだってひとりぼっちだ! ひとりぼっちとひとりぼっちが顔を合わせりゃ親友マブダチなンだよ! あンのバカ野郎がよォ! 生きてる人間が被害者ヅラしてんじゃねぇッ!」


 姉弟の会話をしている間に一人で勝手に感極まった恭路は鼻水を啜りながらV字型シェイプのエレキギターを掻き鳴らしている。大粒の涙が辺り一面に飛び散るさまを受付の係員は迷惑極まりないといった表情かおめ付けていた。

 六本の弦を弾く音に乗って鼓膜へ飛び込んでくる喚き声を今まで姉弟は聞き流していたのだが、今だけは耳を傾けざるを得なかった。その声量に眉根を寄せながらもに意識が向いてしまうのだ。

 自分の気持ちを一方的に押し付ける傍迷惑な男ではあるものの、御剣恭路もまたキリサメ・アマカザリという少年に〝何か〟を感じた一人なのだ。認めることは甚だ不本意であるが、だけは間違いなく、だからこそ「ェで勝手にひとりぼっちなんて決め付けるんじゃねぇぜ!」という言葉に姉弟は揃って首を頷かせたのである。


「……どこまでもウザったい人です……」


 心の中で跳ね続ける〝何か〟を持て余したひろたかが姉からも恭路からも逃れるように正面玄関へと目を転じた瞬間とき、旅館に向かって歩いてくるキリサメたちの姿をガラス窓の向こうに捉えた。

 想定より大幅な遅刻であるが、揃って戻ってきた次第である。


「野郎! 殿様出勤とはこのことだぜ! 弟分の分際ですっかり待たせやがって! おうおう、瀬古谷も大鳥とかっつうのも一緒じゃねーかッ! どいつもこいつもよォッ!」

「鼓膜が破れるような声はやめてくださ――あれ? ……? えっと……人数が増えていませんか?」

「……ちょっと待って。一番後ろからいてきてるのって――」


 ひろたかに続いて未稲もキリサメたちに気が付き、それと同時に唖然と口を開け広げた。


「いやぁ、ごめんね~! メール貰ってたことに気付いたのも今さっきでさ! 返信入力するよりロビーに入っちゃったほうが早いかなって! お詫びに何でもご馳走するよ!」


 旅館の敷地内へ戻ってくるまで未稲から届いた電子メールに返信できなかったことを謝る希更の声は誰の耳にも入っておらず、その視線は彼女の肩の向こうへと注がれている。

 旅館から出発していったのはキリサメと寅之助、希更と大鳥――つまり、二組四人のはずであるが、最後尾に別の女性の姿がるではないか。

 哀しさと凛々しさ、更には憂いをもい交ぜにしたような瞳が印象的な女性である。

 長く艶やかな髪を襟足のところで二つに縛ったその女性ひとと未稲は過去に面識があり、だからこそ奥州の地で出会うとは夢にも思わず目を丸くしたのだ。

 淡い桜色のブラウスに若草色のロングスカートというカジュアルな出で立ちではあるものの、初対面の折に目の当たりにした姿が記憶に焼き付いている為、決して見間違えることはない。

 キリサメたちに伴われるような恰好で温泉旅館に現われたのは、異種格闘技食堂『ダイニングこん』の従業員ウェイトレス――あいかわじんつうだったのである。


「お久しぶりです。店の外でお会いするには初めてなのですが……」


 木札のネックレスを揺らしつつ会釈してきた彼女に対し、未稲の側は面食らった様子で双眸を瞬かせるばかりであった。


「あ、あ、哀川ァーッ⁉ なんで、てめーがッ⁉」


 何の前触れもなく飄然と現れた『ダイニングこん』の従業員ウェイトレスに対し、この場の誰よりも大きな反応を示したのは意外な人物である。

 余りの喧しさに耐え兼ね、「いい加減にしてくださいっ!」と文句を引き摺りつつ姉弟揃って振り向いてみれば、声を裏返らせた当人――御剣恭路が右の人差し指を前方に突き出したまま唖然呆然と立ち尽くしている。

 目玉が飛び出すのではないかと心配になるほど左右のまぶたを開き、『げき』のピックをも取り落としてしまった恭路は、目の前の女性の〝家名〟を一等大きな声で叫んでいた。

 哀川――奇しくもそれはひろたかてのなかる文庫本の著者と同じ〝家名〟であった。



 八雲家・表木家ひいては希更・バロッサが岩手興行の拠点に選んだ温泉旅館は小高い丘の上に所在しており、本館最上階の展望カフェからは奥州市の穏やかで美しい町並みを眺めることができる。それこそが極上の一品ごちそうというわけだ。

 特製ベーコンを使った料理は宿泊客以外の人々も足を運ぶほど大評判であり、ランチの時間帯は廊下からエレベーターホールまで一直線に行列が伸びている。

 キリサメたちが入店したのはランチの賑わいを迎える前であり、コーヒーや紅茶を楽しむ客が窓際の席へまばらに座っているのみであったが、合計八人という大人数に加えて人気声優まで含まれている為、テーブル席ではなく畳敷きの和室へと案内された。

 改めてつまびらかとするまでもなくカフェの店員に手配を頼んだのはを避けたい大鳥である。和室には何枚かの円卓が設置されていたが、現在いまはキリサメたち以外に誰もおらず、希更のマネージャーが望んだ通りの状態であった。

 ランチの混雑時であったなら、カウンター席や少人数用のテーブルと同様に和室の円卓も全て埋まっていたことであろう。

 新宿駅前という激戦区で接客業をしている哀川神通は他県の飲食店に興味津々の様子であり、応対に当たった店員の一挙手一投足へ注意深く目を凝らし、二度三度と首を頷かせていた。

 大人びた面立ちには不似合いな仕草に希更は「和むわね~。ハグして頭撫でたいくらい可愛いわぁ」と頬を緩ませ、キリサメのほうは気恥ずかしそうに目を逸らしていた。

 キリサメの頬は微かに紅潮しているようであった。

 神通を前にしたキリサメは明らかに緊張していた。円卓を挟んで差し向かいに腰掛けた彼女とは目も合わせられず、おまけに思考まで鈍ってしまっている様子だ。自分の注文も忘れてしまうほどであり、コーヒーにはミルクも砂糖も不要かと再確認を求めた店員に対し、「僕、何をお願いしましたっけ」と間抜けにもたずね返す有り様であった。

 これを見て取った神通が柔らかな微笑を浮かべると、眉間の辺りを掻きつつ恥じらったように俯いてしまうのである。

 極めて珍しいことなのだが、『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の会場となる総合体育館が施設の一つとして所在している多目的運動広場で哀川神通と遭遇して以来、キリサメは気持ちが落ち着かない様子なのだ。むしろ、浮ついた調子と表すほうが正確に近いだろう。

 未稲からすればキリサメと初めて顔を合わせて以来、一度たりとも見たおぼえのない表情である。普段と明らかに異なる様子に対し、右隣に座った彼女が危機感を覚えないはずがなかった。

 ほんの一ヶ月ほど前に彼女も似たような面相になったのだ。ゲーミングサークルのオフ会当日のことだが、鏡に映ったその顔はパソコンのモニター越しに長らく思い焦がれてきた男友達デザート・フォックスに会えるという期待で浮かれ切っていた。キリサメの頬を紅く染めている熱はあの日の自分が感じたものと同じではないのか――この由々しき事態に接して未稲の胃は締め付けるような激痛いたみを警告に代えた。

 哀川神通のことを〝特別な存在〟として意識しているようにしか見えないのだ。

 を全て備えた希更・バロッサや、顔も見たことがないキリサメの幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケに対して、現在いまは自分こそが〝優位〟と浸ったのは小一時間ほど前のことである。唇がおぼえている甘やかな体温は薄暗い劣等感をも打ち消していたのだが、今やそれすらも吹き飛んでしまっていた。

 事あるごとにキリサメへアプローチを仕掛ける希更ならば一緒になって警戒しそうなものだが、彼女は神通のことまで気に入っているらしく、真隣に座って「このままお持ち帰りしたいわ~」と頭を撫で続けていた。

 隣の円卓に腰掛け、タンブラーに注がれた冷たい水で喉を潤す大鳥聡起は依然として背広を脱いでいない。その滑稽なさまは現場マネージャーの職務を継続しているという意思表示でもあるのだろうが、担当声優と神通の密着を咎めるつもりはなさそうだ。

 そこに恋愛感情を認めたなら物理的に割り込み、両者を引き剥がしたはずだが、友人との接触スキンシップにまで注意を飛ばすことは過干渉と弁えているのだろう。


(ネットの陣取りゲームだってもうちょっと手加減してくれるでしょ⁉ こんなの、開戦直後に全方位から包囲網喰らってるようなもんじゃん! 味方もゼロでじゃんっ!)


 キリサメのデビュー戦が決まって間もなくの頃、『ダイニングこん』で壮行会が催されたのだが、その折に同席した希更が店のオーナーであるおにつらみちあきから尻を揉まれるというセクハラ行為を受けてしまった。

 このとき、雇われている側でありながら鬼貫オーナーの不埒な振る舞いを許さず、腕の関節をめながら謝罪するよう強く訴えたのが神通だったのである。希更が親愛の情を抱くのは当然であろう。年齢も二人は大して変わらないのだ。

 宿泊先の展望カフェに神通を誘ったのも希更であった。

 そもそも神通は一人で奥州市内を散策している最中に多目的運動広場へ迷い込んでしまい、出口まで辿り着けず途方に暮れていたところでキリサメたちと遭遇したのである。土地勘のない場所で見知った顔に出逢えたのだから、天の助けと思えたことであろう。


「お恥ずかしい話、努力はしているのですが、どうしても方向音痴が治らなくて……。携帯電話も持っていないので地図案内も使えませんし、……そもそもインターネットが好きではないので、それで――」


 顔を赤らめつつ俯き加減となった神通が道に迷った理由を小声で呟くと、すぐさまキリサメは「誰にでもあることだから、気にしないほうがいいです」といたわった。


「僕もそういうことが良くあります。自宅いえの近くの公園に出掛けようとして都庁に着いてしまったりとか……」

「キリくんの場合は東京にまだ慣れてないってだけでしょ? それって方向音痴とは違う気がするなぁ。東京の町って、ホラ、整理されてるようで実は迷路みたいだし」

「ペルーの町なら迷子にはならないでしょう? わたしの場合、住まいから少し離れただけで方向を見失ってしまいますから……」

「それはかなりの重症ですね。携帯電話ケータイや地図が手放せないんじゃないですか?」

「……僕がペルー出身だって知っていたんですか」

「先程もお話しした通りですよ。今月号の『パンチアウト・マガジン』を拝読させて頂きましたし、以前かねてからお噂は伺っておりました――と。……何だか不思議な心地です。こうしているとわたしたちと同じ日本人にしか見えませんよ」

「一応、国籍は日系ペルー人ですが、両親とも日本人なんです。という言い方が正しいのかは分かりませんが、人種自体そのものは哀川氏と一緒です」

「他人行儀な呼び方でなく『神通』と呼び捨てにして頂いて構いませんよ。わたしも『キリサメさん』と、親しみを込めてお呼びしたいですし……」

「そのほうが僕も気が楽ですよ、哀か――神通……氏」

「はい、……キリサメさん」

「ちょっと~、お二人さ~ん? 私の声、聞こえてる~? 会話画面の表示からその他大勢が消えてない~? オフライン扱いになってないかなぁ~?」


 互いの名前を呼び合い、照れ臭そうにはにかむキリサメと神通の顔を交互に見比べた未稲は自分の存在を示すかのように両手を挙げてみせた。

 希更を含めた〝皆〟で会話を楽しんでいるつもりであったのに、もはや、他の誰も二人の視界に入っていないようなのだ。爪弾きにされてしまった形の未稲が躍起になるのは当然であろう。


「照ちゃんに実況メールを送りたいくらい面白い風向きになってきたねぇ~。一つ屋根の下の同居人っていうポジションでどこまでリードできるか、お手並み拝見と行こうか」


 滑稽としか表しようのない未稲の様子を指差し、腹を抱えて笑い飛ばすのは大鳥と同じ円卓にる寅之助であった。

 〝万が一〟に備えて変装した姿を維持し続ける希更と異なり、彼は一旦部屋へと戻ってけんどうから普段着に替えている。竹刀も片付け、現在いまはその手に何も握ってはいない。

 その寅之助は何の前触れもなく現れた女性に翻弄される姿が愉快で仕方ないようで、注文の品を運んできた店員まで巻き込むと「負けるハズのない有利をいきなりひっくり返された人間がどういう風に余裕を失っていくのか、ヘタなサスペンスより面白いよ~」と聞こえよがしに話して未稲を間接的に煽っている。

 真隣に腰掛けていたなら底意地の悪さを戒めるべく尻を抓り上げたことであろうが、腕を伸ばしても届かない程度には寅之助と離れている。わざわざ彼の背後うしろに回り込んでまで反撃するのは未稲の感覚では敗北にも等しい為、し口を作りながら忌々しい笑い顔を睨むことしかできなかった。


「今に始まったことではありませんが、瀬古谷さん、失礼な発言は控えて下さい。目に余るようであれば『照さん』に言い付けますよ? 彼女を怒らせたら困るのでは?」

「わぁ~、『ジンジン』がツッコミ役やってくれると助かるわぁ~。試合前に無駄な体力使わなくて済むから身体からだもラクだわぁ~。あっ、あたしのコトも『キリキリ』と同じように『希更』って下の名前ファーストネームで呼んで欲しいな」

「こちらこそよろしくお願いします、希更さん。素敵な愛称も嬉しいです」

「……それほどバロッサさんに気を遣わなくてよろしいのですよ? 迷惑でしたら迷惑とハッキリ仰ってください。何しろこの方、常人が理解に苦しむセンスの愛称ニックネームを手当たり次第にバラ撒くので……」

「大鳥さんもあんまり失礼なコトを言いまくってると、例の幼馴染みさんにチクりますからね? この剣道少年経由で!」

「別にあなたに頼まれなくてたって、とっくにチャット・アプリで実況メッセージ送ってるよ。ボクのコトをチャンスを見逃すようなノロマとナメ腐ってる?」

「……相変わらず、あらゆる方面に敵を作るのが趣味のようですね。あまり照さんに心労を掛けないであげてください」

「その照ちゃんもボクがバラ撒いた実況メッセージに大爆笑の画像スタンプ付けてるんだけどね」

「ちょ、ちょっと待ってください! グループチャットで自分のことを晒し者にしているのではないでしょうね⁉ 幾らなんでも度を越しているのではっ!」

「グループって言ってもメンバーはだけだし、全体には晒してないんだからそうケチケチしなくても良いじゃん。何ならサトさんも入る?」

「ケチという問題ではありませんし、プライバシーを守る権利はケチと違うっ!」


 二枚の円卓を挟んで飛び交う様々な調子の声に面食らい、呆けた表情かおで置き去りにされてしまった未稲は、寅之助と哀川神通が顔見知りであろうと辛うじて読み取った。

 神通が口にした〝お噂〟というものは、あるいは寅之助が吹き込んだのかも知れない。

 同じ円卓で青筋を立てている大鳥へこれ見よがしに肩を竦め、冷やかすように眺める寅之助が紹介したのかも定かではないが、神通は彼と交際している上下屋敷とも交流があるようだ。家名ではなく「照さん」と下の名前ファーストネームを用いるということは親しい友人関係なのだろう。

 上下屋敷と付き合い始めたのはこの一ヶ月のことである。ゲーミングサークルのオフ会がきっかけとなり、下の名前ファーストネームで呼び合う間柄となったのだが、未稲がおぼえている限り、聞き過ごしたのでなければ哀川神通について触れたことはなかったはずである。


「ちなみに哀川さんはどうして岩手県に? 散歩中だったのはさっきも聞きましたけど、伊達だてまさむねの史跡巡りとか? それとも有名な〝田んぼアート〟がお目当てなんですか?」


 哀川神通とは何者なのかとたずねる緊急の電子メールを携帯電話スマホから上下屋敷宛てに送信おくりつつ、未稲は世間話を装って神通本人のを窺うことにした。

 定番とはいえども『みちのくの小京都』と謳われる城下町を引き合いに出すのは余りにも工夫がないと心の中で己自身を窘める未稲であったが、心の余裕ゆとりを著しく欠いた状態であれば、それも致し方のないことであろう。それが証拠に探りを入れようとする声が勢いよく裏返ってしまっていた。


「観光じゃないんだよ、みーちゃん。神通氏はね――」

「――なんでそこで割り込んでくるかなぁ……。キリくんにはいてないよっ」

「何を隠そう明日の『天叢雲アメノムラクモ』を見に来てくれたんだって。鬼貫さんのお店で働いてるんだし、自然っちゃ自然よね。お姉さん、ジンジンの為にも頑張っちゃうわよ~」


 未稲の質問には希更が代わりに答え、正解であると示すように神通ジンジンも首を頷かせた。

 『ダイニングこん』のオーナーであり、現代の総合格闘技MMAに繋がる異種格闘技戦の先駆者でもある鬼貫道明は『天叢雲アメノムラクモ』の実況解説を担当している。勤務アルバイト先のオーナーに随伴して『天叢雲アメノムラクモ』の観戦に赴くとしても不思議ではなかった。〝異種格闘技食堂〟で働くだけあって、この女性も何らかの武芸を嗜んでいる様子なのだ。


「そ、そうですか、試合観戦で岩手まで……」


 〝大根〟と呼ばれてしまう役者であっても、もう少しは上等であろうというくらい感情のない声で呟いた未稲は、次いで己と神通の服装を無意識に比べてしまった。

 今日も今日とて使い古しのジーンズを穿き、『方言攻め活け造り~ご当地の味わい』という余人には理解不能な文言フレーズが刷り込まれたTシャツを着ている。これに対して神通の側は淡い色合いのブラウスにロングスカートという男性の嗜好このみを絵に描いたような組み合わせなのだ。

 希更ほどではないが、胸部もが強く、肌の色が透けそうなくらい薄い生地がその輪郭を一等際立たせていた。

 服装の比較でさえ分が悪いことを未稲も認めざるを得なかった。体形という点では惨敗も良いところだ。そもそも、勝手に優劣を決め付けて落ち込んでいるのは彼女一人だけであり、その虚しさを自覚していればこそ余計に悔しいわけである。

 希更・バロッサや・ルデヤ・ハビエル・キタバタケと己の〝立場〟を比べ、優越感に浸っていた時間が幻であったかのような有り様であった。


「今回はオーナーとは別行動でして――と申しますか、お店と関係のない人たちと一緒なのです。……〝一緒〟といっても試合当日の現地集合ですので、今日はわたし一人の完全な自由行動でして。とはまた別に古くから親しくさせて頂いている方と一緒に岩手に入ったのですけれど……」


 湖畔のように静かで澄み切った声が未稲の鼓膜に響く。キリサメや希更が惹き付けられるのも無理はないと納得させられてしまう力を秘めた美声こえであった。

 「一緒」という二字を連ねる返答ことばは歯切れが悪く、それ以上に含みがあるようにも聞こえる。ともすればキリサメの心を惑わし兼ねないものであり、未稲は清らかな佇まいの向こうにる種の魔性を感じていた。


「なるほど。一人で散歩してたのは、そーゆーことだったんですか。キリくんやバロッサさんに巡り合ったのは本当のラッキーだったみたいですね」


 焦燥感を抑えることに意識を向けざるを得ない未稲の声は依然として感情が乏しく、少しでも気を緩めると、たちまち重い溜め息が漏れてしまいそうな情況である。


「かの伊達政宗が治めた武門の町並みをこの目で見てみたかったんです。……初めてお邪魔する土地での単独行動は危ういと重々承知しているのですが、自動車くるま方は史跡に興味がなくて……」

「じゃあ、バロッサさんみたいに午前中から奥州市に? 〝前入り〟にしても早過ぎる気がするなぁ。〝今日の同行者〟っていう人はホテルに待たせているんですか?」

現在いまも仮眠を取っているはずです。少なくともわたしが町へ繰り出す間際まではベッドの上でゴロゴロと転がっていましたよ。……タイトスカートがめくれても、それを注意しても直して下さらない方なので困ってしまいました」


 「古い付き合い」と述べるに留めた為、具体的な関係性は判然としないものの、話の中で神通が触れた服装から同性であろうと未稲は察した。

 その女性ひとが運転する自動車に乗って『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の開催地へ入ったという。出発は東京であろうが、高速道路を使用したとしても五〇〇キロ近い長距離ドライブなのだ。疲れ切った身体からだを休めている同行者を無理矢理に引き摺り回すことなど良心が許すまい。

 先に述べた〝お店と関係のない人たち〟の中にくだんの女性が含まれているのかは定かではないが、同行者の性別を確かめたキリサメが誰にも気付かれないよう小さな安堵の溜め息を零したことを未稲は見逃さず、「今度、部屋に百合の花でも飾ってやろうかなっ」と胸中にて毒づいた。

 改めてつまびらかとするまでもないが、ペルーという地球の裏側の国家くにける結婚の捉え方を未稲が知る由もなかった。


「……結局、迷子になってしまったのですから、大人しく宿所近くの土産屋を回っていたほうが良かったのかも知れませんが……」

「他の人たちとはぐれたわけじゃないのなら、僕も安心ですよ」

「……キリく~ん、今は哀川さんと私が話してる最中なのね? ちょ~っと引っ込んでてくれないかな~?」


 神通と二人の会話へ加わろうとするキリサメの様子が気に障り、更にはを愉しげな口笛でもって煽り立てる寅之助も未稲には腹立たしかった。


「お店と――『ダイニングこん』と関係のない人たちっていうのは道場の門下生ってコトかな? どんな団体旅行なのか、まだジンジンにいてなかったわよね?」


 希更が口にした『道場』の二字に未稲は訝るような表情かおとなった。

 団体旅行のような口振りであった為、主催企業サムライ・アスレチックスと旅行代理店の提携タイアップによる『天叢雲アメノムラクモ』の公式オフィシャルツアーではなく、MMAファンの友人たちと誘い合わせた上での観戦であろうと未稲は想像したのだが、そこに希更が全く異なる見立てを示したわけだ。

 共に『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを楽しむグループを希更は〝道場の門下生〟と推察し、神通当人もこれを即座には否定しなかった。


「ジンジンが鬼貫さんを仕留めた技、ミッシーもおぼえてるでしょ? ホラ、あたしがお尻を撫でられた直後のヤツ。あたしも大々々先輩に〝飛び膝〟喰らわせなくて済んだわよ」

「私の記憶が間違いでないなら、確かうらじゅうみたいな技――でしたよね? ……あの状況なら膝蹴りで仕返ししたって誰にも怒られないと思いますけどね。鬼貫さんの分厚いアゴなら簡単には割れないハズだし」

「それでも雲の上の人を『神槍ダイダロス』でブッ刺すのはちょっとねぇ~。助けて貰った側ってコトもあってじっくり観察したんだけど、ジンジンの所作うごきは同じ関節技サブミッションでも仕掛け方が日本の古武術っぽかったのよね。だから、〝そっちの道場〟の人たちと一緒なのかなって、お姉さん、予想したんだけど?」


 希更は答え合わせを求めるように神通へ片目を瞑ってみせた。


もだけど、アレって茶室みたいに狭い場所での戦闘たたかいを想定して練られた技なんじゃないかなって。日本式の古い建物に身のこなしを適合させた技も多いって聞くし、そーゆー意味じゃ〝日本の古武術〟の特徴って言えるのかな」


 個室という極めて狭い空間と、周囲まわりに幾人も座っているという状況――悪条件が二つも揃っていながら、哀川神通は壁にも他者にもぶつかることなく標的を仕留めたのだ。

 鬼貫道明の腕関節を瞬く間にめ、うつ伏せに組み敷いた姿は未稲の記憶にも強烈に刻み込まれている。


「――出たな、〝甲斐古流〟が一つ! 〝座敷の組技〟とはシブいじゃねーの! 親子二代から同じ流派の技を喰らうのはどんな気持ちだい、兄貴~?」


 「親子二代」という意味を未稲は測り兼ねたものの、振り返ってみれば同じ場に居合わせた実父は神通の技を〝甲斐古流〟と呼んでいた。いつかどこかで聞いたようなおぼえもあるのだが、かつていのくにという名であった山梨県を発祥とする武術なのだろうか。

 果たして、こうした所作うごきが希更には大きな手掛かりとなり、神通が披露した技を古武術のものであろうと見抜いたのである。そして、には座敷内での暗殺を目的としたものが多いともバロッサ家の娘は付け加えた。

 哀川神通が体得した武術を知っているらしい寅之助は「さすがは殺傷ひとごろしの技を布教するバロッサ家。〝同類項おともだち〟のコトは鋭く気が付くね」と口笛を吹きつつ囃し立てているが、実際に希更の話は段々と穏やかなものではなくなっている。

 西洋剣術の心得がある大鳥も身を乗り出しており、今だけは現場マネージャーという己の職務を忘れ、一人の剣士として担当声優の話に聞き入っている様子であった。


「……すみません、神通氏」

「……はい? えっと――どうなさいました、キリサメさん? それはどういう……」

「あの……、その……とにかく、すみません……」


 はす向かいの席で希更の話に耳を傾けていたキリサメは、閉所にける戦闘たたかいあるいは暗殺を目的として編み出されたという〝座敷の組技〟で鬼貫道明が仕留められた瞬間を想い出し、反射的に神通から顔を背けた。

 彼が目の当たりにしたのは古武術の関節技だけではない。『ダイニングこん』の従業員ウェイトレスが着用する制服のスカートがめくれ上がり、露となったふんどしが脳裏に甦ったのだ。純白としかたとえようのないいろは言うに及ばず、野山を駆ける鹿の如く引き締まった太腿まで鮮明に浮かび上がっては落ち着いてもいられまい。

 戦い慣れた者の肢体であったことは間違いない――が、そうした分析も網膜に焼き付いた褌によって全て消し飛ばされてしまっている。


(すぐ近くに私が居るっていうのにむっつりスケベが! 無意味な脂肪が余分に突き出してるだけじゃん! キリくんも〝詫び寂び〟の精神こころッかんないのかなぁ~!)


 キリサメが〝何〟を想い出しているのか、先程よりも赤みの増した頬を一目見て察した未稲は、真横に座っている彼の尻を渾身の力でつねり上げた。

 それはつまり、神通を前にしたキリサメが常に落ち着かない様子であった理由とも言い換えられるだろう。

 不埒なことを想像していた自覚があるだけにキリサメも抵抗できず、痛みを噛み殺しながら何事もなかったかのよう振る舞うのみであった。未稲から制裁される理由を正面の神通にだけは見破られるわけにいかないのである。

 その神通は真隣に腰掛けた希更とも話している為、未稲の左腕がキリサメの尻へ伸ばされていることにも気付いていないようである。


「――さすがはバロッサ家の一族。よく勉強されておられますね」


 キリサメと未稲のやり取りを神通が見落としてしまったのは無理からぬことであろう。ただ一度だけ披露した〝座敷の組技〟を手掛かりに〝日本の古武術〟という憶測まで辿り着いた希更に感嘆の溜め息を洩らしているのだ。

 果たして、神通の反応こそが希更に対する答え合わせの代わりと言えるだろう。


「ジンジンもキリキリと一緒でお姉さんに興味津々? モテる女は幸せねぇ~」

では『バロッサ』の家名なまえは有名ですよ。『こんごうりき』という歴史ある立ち技団体にも選手を送り込んでおられますし、一族の総帥であらせられるノラ・バロッサ先生のことは密かに尊敬致しておりました。ムエ・カッチューアを次世代に教え広めておられるジャーメイン先生のご活躍も以前から聞いておりましたし……」

「いやいや、照れるのぅ~。〝一族〟なんて言うと大袈裟だけど、平たく言えば伝統武術の道場を運営ってるだけだよ、バロッサ家は。でも、そこまで褒め千切って貰えたら母の頑張りも報われるよ」

「――と仰いますと、ひょっとしてジャーメイン先生は希更さんの……?」

「明日はあたしのセコンドに付いてくれるから、タイミングさえ合えば紹介するわよ?」

「それは是非ともっ」


 『バロッサ』という家名を口にする瞬間、神通の声が並々ならない憧憬で上擦った意味は格闘技に関する勉強が依然として不十分なキリサメにも理解できた。隣の円卓で寅之助が「ヤだねぇ。古流や伝統って付く武術は必ず権威主義に走るんだから」と厭らしく鼻を鳴らした理由もには含まれている。

 これまでに幾度となく耳にしてきた為、『ムエ・カッチューア』がミャンマーに由来する伝統武術であることも、バロッサ家が熊本県に所在する道場でを教え広めていることも、キリサメは記憶に留めている。

 『天叢雲アメノムラクモ』長野興行にて配布されたパンフレットの中でも希更の経歴プロフィールにはくだんの伝統武術が記載されていた。彼女がリングへ入場しようとする間際にも館内放送アナウンスで言及していたのである。

 沙門から教わったことだが、日本格闘技界が一丸となって東北復興を支援していく事業プロジェクトと『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げが決まった二〇一一年三月の会合にいてもバロッサ家は議論の流れを大きく変える役割を果たしたそうだ。このとき、総帥ノラ・バロッサの代理として出席したのが希更の実母であり、その名前がジャーメインであることもキリサメは憶えている。

 バロッサ家の道場についてキリサメはアメリカにも支部が所在ることしか知らず、組織としての全体像も掴めてはいない。しかし、『ジャーメイン』という名前を聞いた瞬間に神通が腰を浮かせそうになった心の働きを分かるのだ。

 空閑電知が前田光世コンデ・コマに、瀬古谷寅之助が森寅雄タイガー・モリに、それぞれ礼を尽くすように神通もまたこの場に居ない人物ジャーメインに『先生』と敬称を付けていた。


「わたしが読んだ号――『パンチアウト・マガジン』の五月号では希更さんの試合と一緒にムエ・カッチューアのことを『古くて強くてカッコいいキックボクシング』と紹介していましたよね。アンケートハガキにも自分の見解を書かせて頂きましたが、幾らなんでも大雑把に過ぎるかと。バンテージがなかった古い時代には麻や革の紐を拳に巻いて闘ったと伺っています。せめて見出しに『幻のビルマ拳法』と付けて欲しかったです」

「うちの道場――『バロッサ・フリーダム』の稽古では柔らかいグローブで拳も肉体も安全に防護まもるから保護者の皆さんとの信頼だってバッチシよ? 素手による潰し合いが本質だからエグい技だって多いし、だからこそ安全第一ってね。それにしてもジンジンってば研究熱心ねぇ~」

「……〝他流〟の研究は父の影響なんです。勿論、希更さんに興味を惹かれたのはわたし自身ですよ? お互いに切磋琢磨させて頂ければ、これほど嬉しいことはありません」

「んッもう! ジンジン、ますます可愛過ぎっ!」


 格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの特集記事で希更の試合内容を確認したという神通は、バロッサ家の一族が研ぎ澄ませてきたムエ・カッチューアそのものを詳しく調べているようだ。

 彼女の口から『あつミヤズ』という〝キャラクター〟の名前が一度も出なかったということは動画サイト『ユアセルフ銀幕』で放送された『天叢雲アメノムラクモ』長野興行の解説番組は視聴しなかったようだ。インターネット自体を好んでいないとも先に述べていた。


(……僕のなかでも死神スーパイの声が聞こえるんじゃないかと思ったもんな。どんな形であれ神通さんの心が震わされたのも理解できなくはないよ)


 『天叢雲アメノムラクモ』長野興行を取り上げた格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの記事を引用する神通に対し、キリサメは自身の記憶に刻み込まれている希更の試合を振り返っていった。

 バロッサ家の名誉を背負ってMMAのリングへ飛び込んだ希更は対戦相手の首を押さえ込んで動きを封じ、続けざまに繰り出した膝蹴りでもって勝負を決したのだ。日本を代表する女子ヒールレスラーであり、統括本部長の八雲岳も一目置くギロチン・ウータンをただ一撃のみで沈めたということである。

 もはや、彼女のことを『客寄せパンダ』などと侮る人間はいない。日本MMAの次世代を担う大器うつわと周囲に認めさせるほどに『天叢雲アメノムラクモ』デビュー戦は鮮烈であったのだ。

 寅之助も指摘したが、ムエ・カッチューアの飛び膝蹴りは首を狙えば骨をし折ってしまえる殺傷ひとごろしの技であった。道場バロッサ・フリーダムでは門下生の安全を十分に確保しているようだが、希更のデビュー戦に関して言えば、キリサメは背筋が凍るほどの戦慄を覚えたのである。

 その恐るべき膝蹴りに「興味を惹かれた」と哀川神通は昂揚した様子で述べたのだ。暴力性の顕現あらわれともたとえるべき喧嘩殺法と『聖剣エクセルシス』を頼りに貧民街スラムで戦ってきたキリサメは、ムエ・カッチューアの〝本質〟に前のめりとなった彼女の姿をる種の共鳴と読み解いている。神通自身、座敷内での暗殺にも転用し得る技を披露していた。


「なんでもアリのケンならムエ・カッチューアは無敵無敗よ! 小さな頃、『日本人のクセにアメリカ人みたいでおかしい』ってアオってきた連中には自分らのバカさ加減を思い知らせてあげたし! 小学生の頃なんか生傷が勲章って感じでさぁ~」

「フ、フツー、道場外そとの喧嘩では絶対に使うなって禁止されるんじゃ……」


 神通に張り合おうとする気持ちまで忘れて顔を引きらせた未稲の呻き声に大鳥が咳払いが重なった。

 自己申告であったのか、身辺調査によって判明したのかは定かではないものの、希更が所属する声優事務所も過去かつての〝武勇伝〟を承知しているのだろう。世間に知れ渡れば経歴にもきずが付き兼ねず、笑い話として自ら暴露してしまうことを現場マネージャーが制止するのは当然であった。


「弁護士やってる父はさすがに良い顔しなかったけど、母も伯母も止めなかったしね。祖母――総帥のノラ・バロッサなんて『やるからには徹底的にやれ』ってハッパ掛けてきたくらいだもん。自分の居場所は自分で作るタイプだからね、あたし。お陰で爽やかな青春時代だったわ。ミッシーも自分を舐め腐る相手は蹴散らす勢いでやっちゃいなよ~」


 決して小さくはない咳払いを聞き流したことからも察せられる通り、当の希更は昔のことなど一つとして気にしていなかった。深刻な事態も間違いなく含んでいるはずだが、いじめという卑劣な行為も実力で退けたのだろう。くらい想い出などに囚われていないことは「バカさ加減を思い知らせた」という発言が証明している。

 底抜けに強靭な人であるとキリサメは改めて感じ入り、隣に腰掛けている神通もまた強く深く首を頷かせた。


「当方の流派も似たようなものです。『武門の誇りを貶めんとするやつばらほとけごころは無用』と諸先輩方に教わって参りました。面目には法も道を譲ると。……わたしの父は他人ひととの諍いを好まない性格でしたので腰が重かったのですが、一度、と草の一本さえ残さないような人でした」

「ますますジンジンに共感しちゃうわ~。そうなのよ、根絶やしにするつもりで行かないと救いようのない思い上がりはひっくり返らないのよ。弱い者いじめに使う〝力〟は間違ってるけど、ネジくれた根性を叩き直すのはかみさまほとけさまも認めてハズよ。『西さいゆう』のそんくうを持ち出すまでもなくね」

「根性もろとも邪悪な心をし折るくらいでよろしいかと」

「二人の会話が異次元過ぎて、さすがの私も随いてけないっ!」


 希更は冗談めかして両腕に力こぶを作るような仕草を披露したが、その言行もまた自信の表れに他ならない。


「あたしがノリにノッたのがいけないんだけど、ジンジンの道場の話をしてたのに途中でが入れ替わっちゃったわ。あたしんトコに――ムエ・カッチューアに負けないくらい〝実戦〟向きみたいね? きっと座敷で取っ組み合うだけじゃないんでしょ?」

「主役と言われると気恥ずかしいですね……」


 片目を瞑って話の続きを促す希更と視線を交わし、次いで緑茶を一口啜った神通はほんの少しだけ困ったような表情かおを見せた。

 皆の注目がバロッサ家とムエ・カッチューアに向いたということもあり、己が体得した武芸については話さずに済むものと考えていた様子である。


「希更さんが仰る通り、『しょうおうりゅう』という古い流派を嗜んでおります。分野――と言い表すのが正しいかは分かりませんが、そくじゅつ』に類される武術ものを……」


 神通曰く、『しょうおうりゅう』という仰々しい流派名は人々から『いましょうとく』と慕われた開祖が古い文献に見られるしょうとくたいの異称である『ひじりのきみ』に倣ったものであるそうだ。

 そもそも『聖徳太子』自体が尊称であり、出生時の〝伝説〟にちなんで付いた名はうまやどの――官位十二階と十七条憲法を制定し、腐敗の温床と化していた朝廷ひいては貴族社会の秩序を律した古代日本のせっしょうである。

 ほんしょ飛鳥あすか時代を代表する〝政治家〟と伝えているが、仏教の伝来とその受容を巡る当時の有力豪族――ものの氏と氏のながい宮中闘争が武力衝突に至った『ていの乱』では擁護派の後者に味方し、自ら兵を率いていくさへ赴いている。つるぎや弓矢に脅かされる恐れのない宮廷から合戦を見物するような人物ではなかったのである。

 ものの氏の本拠地であるかわちのくに――現代の大阪府に当たる――へ攻め寄せた決戦では劣勢となった味方を立て直すべくいくさにて四天王の木像を彫り、これに加護を祈願して軍を勝利へ導いたという。

 「戦勝の暁には仏塔を建て、必ずや仏法を保護する」とうまやどのが四天王に誓って間もなく、朴の木に登って奮戦していたものの軍の総大将が矢でころされたのである。

 ものの氏は当時の朝廷にいて軍事を担い、内乱の鎮圧にも駆り出された歴戦の大豪族であった。仏教擁護派にとっては名実ともに最強の敵である。のちに聖徳太子の尊称なまえで知れ渡ることとなるうまやどのはまさしく奇跡をもっを討ち果たした次第であり、武芸の名として冠し、四天王の木像へ祈願されたものと同じ加護を求めるのに相応しい人物なのだ。


「しょ――『しょうおうりゅう』ッ⁉」


 自らが極めた流派の名を神通が明かした途端、未稲の丸メガネが円卓の上で乾いた音を立てた。正確には噴火としかたとえようのない勢いで立ち上がった拍子に小さな鼻からね飛んでしまったのである。


「あ、あのっ! 勘違いかも知れませんけど! 私の誤解かも知れませんけど、ひょっとして哀川さんのお父さん、大昔に鬼貫道明さんと異種格闘技戦をしたことがあったりしませんか? 公式戦じゃない野試合を! 練習用のリングでり合ったっていうから〝野試合〟じゃないか⁉ 今は何より『しょうおうりゅう』と実戦志向ストロングスタイルなプロレスの一本勝負! どっちがどっちかなんて問題じゃないっ!」


 瞳の中央に映した神通の顔は輪郭が酷く曖昧であり、未稲は表情さえ確認できずにいるのだが、それすら失念していることは震える声で畳み掛ける様子からも明らかだ。

 差し向かいに座っていた希更は「を聞いたら誰だって驚くかもだけど、瞬きくらい忘れちゃダメだよ」と苦笑いを引き摺りつつ身を乗り出し、左右の五指でもって卓上から拾い上げた丸メガネを未稲の鼻に引っ掛けた。

 これによって我を忘れていることを自覚し、丸メガネの位置を直しながら希更に礼を述べた未稲は元の場所に改めて腰を下ろした。真隣のキリサメが面食らっていることは横目で確かめるまでもない。

 二枚の丸いレンズに映った神通の顔には何ともたとえ難い影が差している。


「――わざわざくまでもありませんよ。異種格闘技戦を行ったかどうか? 闘ったに決まっているでしょう。間違いなくしょうおうりゅう』ですよ」


 居住まいを正し、未稲のほうに向き直った神通が躊躇いがちに返答こたえを述べようとした間際、意外としか表しようのない声が割り込んだ。

 ひろたかである。キリサメの左隣に腰掛けながらも会話には参加せず、押し黙ったまま皆のやり取りに耳を傾け、咀嚼と反芻を繰り返していた小さな男の子が神通に成り代わって姉の問い掛けに答えたのである。

 哀川神通という名前を聞いて以来、一言も発することなく物思いに耽っていたのだが、本人の口から『ひじりのきみ』と冠する武芸の概略を聞かされたことで〝何か〟に辿り着いたのである。改めてつまびらかとするまでもなく、は姉の脳内あたまに浮かんだ一つの疑問と大きく変わらないものであった。


「……弟さんもご存知でしたか……」

「母がMMAに関わっていなかったら漫画みたいな話だと信じなかったでしょうし、そもそも知らなかったハズですよ。良いか悪いかはともかく、八雲岳さんとの繋がりで当事者の鬼貫道明さんのコトも全く知らないワケではありませんし……」

「私もヒロくんと同じようにお父さんから教わった程度しか知らないんですけど、一九八九年から一九九四年まで鬼貫さんが異種格闘技戦線を離脱した原因だったとか……」


 互いに答え合わせを求めるよう視線を交わした姉弟は揃って神通の顔を一瞥し、脳裏に浮かんだ〝る出来事〟が見当違いでなかったと確かめて首を頷かせた。

 『天叢雲アメノムラクモ』ひいては総合格闘技MMAという形で結実することになる異種格闘技戦の〝道〟をひらき、『昭和の伝説』と謳われる鬼貫道明と、『しょうおうりゅう』なる古武術の間に起きた〝何か〟をこの姉弟は全て承知しているようだ――が、自分の頭越しに飛び交う言葉をキリサメは一つとして理解できなかった。

 流派の名を聖徳太子にあやかった理由については亡き母の授業で教わった古代日本の知識に基づいて推察できたものの、と併せて神通が語った『そくじゅつ』のほうは想像も付かないのだ。

 同じ円卓に腰掛けた皆の穏やかならざる反応と、これによって急激に張り詰めた空気が『しょうおうりゅう』という流派名なまえに秘められた重さをキリサメに伝えている。一度は口を開きかけた神通も現在いまは左右の瞼を閉ざしていた。


「みーちゃん、……その、今のはどういうこと――なのかな?」

「――日本の格闘技界でまことしやかに囁かれてきた〝伝説〟なのよ、キリキリ。〝熊本の武術界〟にまでウワサが流れたくらいだし、国外でも耳聡い人なら知ってるかもね。……『しょうおうりゅう』か。例の柔道少年が憧れる前田光世コンデ・コマみたく世界中で格闘巡業をやっていたとも聞いたけど、今日の今日まで実在しているとも思わなかったわね」


 キリサメの問い掛けに答えたのは今度も未稲当人ではない。斜向かいにて頬杖を突き、窓の向こうに奥州の街並みを眺める希更が視線を移さないまま口だけを動かしていた。

 決して多くのことは語らなかったものの、バロッサ家の娘もまた聖徳太子の異称を冠する古武術に聞きおぼえがあったようだ。

 未稲ほど極端な反応ではないが、『しょうおうりゅう』という流派名なまえが鼓膜を打った直後、呆けたように口を開け広げ、次いで神妙な面持ちで神通の横顔を見つめていたのである。

 対する神通は〝熊本の武術界〟という言葉が真横から突き刺さるや否や、左右の肩が上下に跳ねた。まるで〝何か〟に怯えるかのような反応であり、希更はこれを眺め続けることを憚って窓に目を転じた様子であった。

 バロッサ家の一族が根を下ろし、希更の父親が法律事務所を営んでいるのが熊本であることは神通も把握しているだろう。地名そのものには無反応であったのだが、〝武術界〟という三字が付け加え垂れた途端、これまでとは別の意味が彼女のなかに浮かび上がったとしか思えなかった。

 大鳥もまた神通の話へ興味深そうに聞き入っているのだが、自身の担当声優が未稲の言葉を横から掠め取った瞬間ときには驚いたように双眸を瞬かせていた。

 日本の格闘技界でまことしやかに囁かれてきた〝伝説〟とも希更は語ったが、西洋剣術を学んでいるという大鳥の耳にその風聞うわさは届いていなかったということであろうか。いずれにせよ、置き去りも同然の状況に陥っているのはキリサメ一人ではなかったわけだ。


「……さすがにそれは尾ひれが付き過ぎていますね。大きさはともかく『しょうおうりゅう』の道場は欧州ヨーロッパ所在りましたし、わたしの父も世界のあちこちを旅していましたが、前田光世コンデ・コマと違って見識を拡げることが目的ですよ。と一緒だったそうですしね」

「ひょっとして、はお父さんが書かれた本ではありませんか?」


 言葉を慎重に選びながら質問を重ねたひろたかは、つい先程まで己が読み耽っていた文庫本を神通に翳して見せた。

 その表紙には『中世日本の法文化~サムライたちの判例集』という仰々しい書名と併せて著者名も刷り込まれている。キリサメには全く聞きおぼえのない人名なまえであったが、神通と同じ家名が意味することは、この瞬間まで折り重なってきた数多の言葉からも十分に察せられた。

 ブックカバーのソデに刷り込まれている経歴に著者近影が見当たらない歴史学者の名はあいかわという。




                                    (後半に続く)

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