その12:迷走~いざ初陣の地へ!選ばれし戦士たちが集う夢舞台――死神(スーパイ)は総合格闘家として起(た)てるのか?

  一二、迷走



 人間は思考と感情が綯い交ぜになってしまう生き物である為、夢にも思わない状況に直面した瞬間とき、頭の中が引っ掻き回されたとしか表しようのない錯覚に陥るものであった。

 それは何事にも無感情なキリサメ・アマカザリも同様である。目の前に広がった光景を脳が処理し切れず、呆けたように口を開け広げたままその場に立ち尽くすばかりなのだ。

 コンピューターでたとえるならば、処理能力の限界を超えて機能そのものが停止した状態である。生身の人間の場合は再起動さえ実行すれば元に戻るというものでもない。

 それ故、前に進むことも後ろに退すさることも叶わず、冷たいアスファルトに貼り付けた両足を動かせずにいるのだった。

 六月半ばの日曜日――『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーはプロデビューの日を迎えていた。

 創作フィクションの世界では主人公の前途を表すように雲一つないほど晴れ渡るものだが、現実には劇的な展開など有り得ない。にびいろの空がキリサメを嘲笑わらっているようであった。

 今日のキリサメはトレーニングパンツを穿き、『八雲道場』という所属先の名称が左胸に刷り込まれたシャツを着ている。

 大きく開いた両足を踏ん張り、何かを支えるように両腕を突き上げる人間を模った赤い刺繍が左胸に添えられているが、これは『八雲道場』のロゴマークではなかった。MMAの戦場リングで力闘する養子キリサメをイメージして岳が意匠を描き起こしたものであった。

 複雑に折れ曲がった針金が四肢で、この真上に浮かぶ球体が頭部であるそうだ。元気の二字を表したような姿勢ポーズは、このにびいろの空に全く似つかわしくない。

 今日のおうしゅうの光を遮ってしまうくらい分厚い雲で覆い尽くされていた。何しろどきである。宿所としている温泉旅館から出発する間際にテレビで確認した天気予報によれば、今日一日は雨が降る心配がなさそうだが、空模様の急変も十分に考えられるのだ。

 二〇一四年の東北は六月初旬に梅雨入りが宣言されている。

 新人選手ルーキーの初陣は『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行の第一試合に設定されている。それ故に対戦相手のじょうわたマッチも一度は逆上したのだ。日本MMAの黄金時代を支えた古豪ベテランにも関わらず、主催企業サムライ・アスレチックスに〝前座〟の如き扱いを受けたのだから屈辱に打ち震えるのも当然であろう。

 脳が破裂し兼ねないほどの憤りを抑えて受け入れた第一試合がよりにもよって曇天なのである。興行イベントそのものは屋内で実施されるので直接的には影響を受けないが、幸先が悪いことに変わりはなく、大雨が降り出そうものなら、これが火種となって溜まりに溜まった鬱憤が爆発する可能性も捨て切れない。

 城渡本人が機嫌を損ねなくとも、彼に心酔している暴走族チームの親衛隊長――つるぎきょうは常人には理解できない思考回路によって「総長の顔に泥を塗る気か⁉ 雷神カミナリ様をブチのめしてでも晴れ模様にしやがれ!」と辺り構わず理不尽に怒鳴り散らすことであろう。それを想像してしまうと、キリサメの傍らに立つ未稲は溜め息が止められなかった。


「サメちゃんは、ホラ、日頃の行いが悪過ぎるっていうかさ、故郷くにで血の雨をさんざん降らせてきたんだしさ、だけ快晴ってのはお天道様だって許さないでしょ」


 背後に突き刺さった声は身辺警護ボディーガードとして随行するとらすけのものである。

 けんどうではないが、それと同程度に動き易いワイドバギーパンツを穿き、緩やかな長袖のシャツを着ている。森寅雄タイガー・モリ直系の剣士として鍛え抜かれた寅之助の身体からだは贅肉もなく引き締まっている為、余計にサイズが合っていない服装のように見えた。

 その寅之助から浴びせられた皮肉にキリサメは何も言い返さない。そもそも周囲まわりの情報を認識できているのかも怪しく、「日本には『雨降って地固まる』ってことわざがあるんだよ。血の雨だって土砂降りの後には何かしらあるでしょ」という追い撃ちさえ鼓膜を上滑りする有り様であった。

 感情を瞳に湛えることも少ないキリサメが浮足立っているのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行が開催される奥州市内の総合体育館とは、そもそも多目的運動広場を有する広大な公園内の一施設である。キリサメが〝プロ〟のMMA選手としてのデビュー戦に臨む舞台は一般客の進入が制限された駐車場と隣接している。そこにめられた一台の風変わりな大型バスから降車りる人々は誰も彼もがにびいろの空を仰ぎ、肩を竦めていた。

 いずれもキリサメにとっては先輩選手――即ち、『天叢雲アメノムラクモ』にける〝同僚〟だ。

 白い塗装が全体に施され、側面に『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークや岩手興行の開催先と開始時間が大きく書き込まれた風変わりな車輛は、いわゆるラッピングバスであった。同団体の選手たちは今日の為だけに用意された特別仕様のバスへセコンドたちと一緒に乗り込み、総合体育館まで移動した次第である。

 サッカーや野球のプロチームは選手送迎用のバスを所有しているが、これは『天叢雲アメノムラクモ』の主催企業が岩手県内の企業に依頼して借り切った車輛であった。キリサメは長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿へ参加した際にも彼らの手配したレンタルバスを利用したが、は一度に大人数を運ぶ為であり、『サムライ・アスレチックス』の思惑と重なる部分は一つとしてなかった。

 キリサメがまだ養父の試合を観戦する立場であった前回の長野興行では選手個々で移動手段を確保し、会場まで向かっていた。契約関係を結んでいるとはいえ、主催企業サムライ・アスレチックスとしても〝個人の自由〟を制限しないというのが基本方針である。

 選手の行動を最大限に尊重することは競技団体を円滑に運営する上でも有効であるが、それはセキュリティーの脆弱性と表裏一体であり、だからこそ希更・バロッサも試合を終えた直後に会場の駐車場で『E・Gイラプション・ゲーム』の刺客に取り囲まれてしまったのである。

 盛大な祭り騒ぎを感じさせる賑々しい外見とは裏腹に、ラッピングバスは主催企業サムライ・アスレチックスが選手たちの安全を守る為に講じた措置であった。

 しかしながら、これは『E・Gイラプション・ゲーム』による攻撃への対応ではない。くだん地下格闘技アンダーグラウンド団体には旗揚げ間もなくの頃から激しく敵視されており、希更が襲撃される以前にも妨害を受けている。対策を立てるのであれば、もっと早くに具体案を取りまとめたはずなのだ。

 全ては『ウォースパイト運動』を睨んだ警戒策であった。先月、全世界をしんかんさせたアメリカ合衆国大統領専用機――エアフォースワンに対するサイバーテロ攻撃は、あらゆる格闘技を最悪の人権侵害と見做し、その根絶を目論む思想活動の暴走であった。

 サイバーテロの首謀者サタナスが吹き鳴らした魔笛ふえは世界各地に潜んでいる『ウォースパイト運動』の活動家を一等強く煽り立て、国家権力すら恐れない〝勇気ある決起〟を促したようなものである。

 未稲と同じネットゲームを楽しんでいる男友達――『デザート・フォックス』は、ミリタリーマニアであるが故にくだんのサイバーテロへ酷く興奮していた。女子高生が学校生活の一環として搭乗し、〝競技大会〟に挑むというアニメシリーズで脚光を浴びた戦車だけでなく、戦局を左右し得る戦術全般にも彼の興味は及んでいるのだ。

 何しろ『デザート・フォックス』という通称ハンドルネームも、敵対国の人々にさえ尊敬された第二次世界大戦の天才戦術家に由来している。いわゆる、〝筋金入り〟であった。

 テロという許されざる罪を差し引いて分析するならば、『サタナス』が成し遂げたのは極めて高度な電子戦であるという。世界最高のセキュリティーがによって突破されてしまったのだ。今度の一件が端緒きっかけとなり、アメリカの軍事力が抜本から見直されるかも知れない――そのように熱弁する電子メールは、普段と比べて明らかに長文であった。

 尤も、未稲当人はハリウッド映画と錯覚してしまうようなサイバーテロを現実のものとして受けれられずにいる。

 遠い外国で起きた事件でもある為、対岸の火事としか思えない人間は未稲も含めて多かろうが、日本で開催されるMMA興行イベントの運営状況や安全性を監督する中立の機関――『MMA日本協会』の反応は違った。

 国内にける〝同志〟まで『サタナス』に続き兼ねない状況と憂慮しており、リング内外でのテロ攻撃に警戒するよう各団体へ強く要請したのである。

 過激なは二〇一四年六月半ばの時点では日本で確認されていないが、例えば二月に実施された東京都知事でも飛沫候補の一人が『ウォースパイト運動』と同じように格闘技という〝人権侵害〟の根絶を公約として掲げていたのだ。

 つまり、格闘技・武術に関わる者たちを標的としたテロの危機は首都圏にも確実に潜在しているわけだ。日本の言語ことばで『サタナス』への同調を呼び掛ける活動家がSNSソーシャルネットワークサービスに少なくないという事実は『MMA日本協会』のほうでも把握していた。

 東北復興支援事業の発足当初こそ歩調を合わせていたものの、樋口郁郎の剛腕によって自主独立の道を突き進むようになった『天叢雲アメノムラクモ』と『MMA日本協会』の間では常に緊張状態が続いているが、今度ばかりはその助言へ耳を傾けないわけにはいかなかった。

 合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催する『NSB』とは今や一蓮托生にも等しい。あるいはエアフォースワンではなく『天叢雲アメノムラクモ』のほうがテロの標的に選ばれていたかも知れないのだ。

 当然ながら〝暴君〟は内政干渉に不快感を示したものの、〝副業サイドビジネス〟として貿易会社を営み、国外の情勢を肌で感じ取っている主催企業サムライ・アスレチックスしょうがい担当――さいもんきみたかがこれを説き伏せて警備体制の見直しに漕ぎ着けた次第である。


「どうしようもなく危機意識ガバガバと思っちゃいたけど、二組に分かれて別々の車輛クルマに乗せたら対テロ作戦ミッション完了コンプリートってつもりでいるなら『天叢雲アメノムラクモ』はマジで終わってるね。素人目にも逆効果って分かるじゃん。集団登下校じゃないんだからさァ~」

「もしや瀬古谷さんも『デザート・フォックス』さんの特別授業を受けました? バスみたいに大きな車輛くるまは小回りが利かない上、いざってときに逃げ場がないから格好の的になるんですよね。例えば爆弾テロも一度に大きな成果を――成果なんて言い方、例え話でもしちゃいけなかったですね、……ダメだなぁ、私……」

「この場に電ちゃんが居てくれたら、きっと歴史上の出来事から一番絶妙な例え話をしたんだろうなぁ。キミには悪いけど、自分の妄想と現実の間を漂ってる〝ミリオタ〟くんの言うコトは話半分で聞くべきだね。鵜呑みにしてると人格を疑われるような言い回しまで刷り込まれちゃうよ?」

「一理あるのは確かですけど、〝例の事件〟で『デザート・フォックス』さんの名前を勝手に利用した瀬古谷さんの台詞じゃないでしょ! あんまり失礼な真似をするようなら全部、本人にバラしちゃいますからね⁉」

「別にどうでも? ゲーミングサークルを辞めれば済むだけだもん。ボクのほうは痛くも痒くもないよ。脅しってのは相手が絶対に逆らえないネタを仕込まなきゃ意味ないって」

「こういう〝怖いモノがない人〟こそテロリストに堕ちるんだって『デザート・フォックス』さんも言ってたなぁーっ!」

「……お二人ともお静かに願えませんか? 一緒にいるぼくたちまでバカにするような目で見られます。……母に聞いた話ですが、瀬古谷さんのご指摘は柴門さんも最大の危険性リスクとして挙げていたそうですよ。『NSB』のように資産も盤石とはいかないので、二台の分乗が予算的にも限界だったとか」

「相変わらず弟クンはお姉さんの一〇〇倍は賢いねぇ~。ボクはサメちゃんの身辺警護ボディーガードだけど、爆弾や毒ガスまでは剣道の手に負えないし、ガチなテロが始まった日には照ちゃんを泣かせない為にも速攻で逃げ出すからよろしく~」


 軍事ミリタリーの知識が豊富な男友達デザート・フォックスから教わった内容ことに基づいて『天叢雲アメノムラクモ』の警備体制が抱えた弱点を挙げていく未稲と、これを受けて「肝心のバスには警備員が一人も乗り込んでいないんだから、片手落ちも良いとこだねぇ」とせせら笑うように肩を竦めた寅之助は、つまるところ、テロ対策にける分乗の有効性を論じ合っているわけだ。

 幼い咳払いでもって両者の間に割り込み、現在いま主催企業サムライ・アスレチックスには解決しようのない現実問題を付け加えたのはおもてひろたかである。

 相変わらず七歳とは思えないほど理知的なこの男の子は、限られた予算内で最善の策を整えようとする柴門の労苦にも想像が及ぶのであろう。「子どもの目から見た大人は頼りなくて仕方ありませんけど、大人は子どもに見えないところで頑張っているハズです」という擁護も言い添えていた。

 ジャケットにボタンダウンシャツを合わせ、青い縞模様ストライプのネクタイまで締めたフォーマルな装いが利発な振る舞いを一等際立たせていた。腰から下はハーフパンツとバスケットシューズであり、見る者に能動的な印象も与えている。

 勿論、未稲と寅之助共通の〝ネトゲ仲間〟である『デザート・フォックス』の指摘が全く間違いというわけではない。それどころか、テロ攻撃を想定した警備体制にいては極めて重要な視点である。

 スリランカのクリケットチームを乗せた選手バスが競技場へ移動している最中に武装集団から包囲され、銃撃を受けたのは数年前のことである。当時、まだ二歳であったひろたかにとっては本から学んだでしかないが、未稲と寅之助は「一九七二年ミュンヘンオリンピック以来の凶事」という報道を何ともたとえ難い生々しさと共に記憶している。

 のちのスポーツ史に刻まれることであるが、現在いまより三年後の二〇一七年にはドイツでもプロサッカーチームがパイプ爆弾によって安全を脅かされた。このときにも移動中のバスが標的となっている。

 ドイツの事件は当該チームの運営企業の信頼性を爆弾テロによって暴落させ、株式売却益を不正に吊り上げんとした投資家の犯行だが、これらの二例からも大勢の選手が一度に乗り込む大型バスがであることは明らかであった。

 特定の思想に基づくテロ行為であるか否かは関係なかった。そして、「竹刀などではテロ攻撃を防ぎ切れない」と冗談めかした寅之助の言葉もまた真実である。俗に言う〝弾丸斬り〟などは創作フィクションの世界でしか有り得ないのだ。

 岩手興行に際して『天叢雲アメノムラクモ』は白と青という二台のラッピングバスを選手たちの送迎用に手配していた。キリサメが未稲たちと共に乗り込んだのは前者である。

 この二色はそのまま白コーナーと青コーナーを意味していた。選手たちは自身が割り振られた側のバスに分乗するのである。

 キリサメたちと同じ温泉旅館を宿所としながら希更・バロッサやマネージャーのおおとりさとが異なるバスを割り当てられたのは、今回の岩手興行にいて青コーナーに属している為であった。城渡マッチやほんあいぜんに同乗し、後から到着する手筈なのだ。

 白と青という分け方は『天叢雲アメノムラクモ』独特のルールであり、ボクシングやプロレスといった他の格闘技では赤と青の二色を採ることが大半である。前身団体バイオスピリッツもこれを踏襲していた。厳密な取り決めではないものの、王者タイトルホルダーやベテランなど〝上位者〟が赤コーナーに立ち、これに挑戦する側が青コーナーとなっている。

 残酷と思えるほど競技団体内にける位階ランクひいては格闘家としての水準レベルが晒されてしまうわけだが、『天叢雲アメノムラクモ』は東日本大震災の復興支援を掲げて発足したMMA団体であり、〝格〟の上下を競うことは似つかわしくないと統括本部長――八雲岳が強く訴えたのだ。

 実戦志向ストロングスタイルのプロレスの延長とも呼ぶべき弱肉強食の真剣勝負を継続したい樋口郁郎は難色を示したものの、最終的には日本MMAの旗振り役である岳の主張を尊重し、これまでの〝通例〟から外れることが決定された。

 それ故に二つのコーナーは団体のイメージカラーである白と青で分けられたのだ。岳が東北の被災地で仰いだ青空と雲のいろが採用された次第である。

 コーナーの色分けに関する解説は未稲が手ずから作ったマニュアルにも詳しく記載されているのだが、現在いまのキリサメは幾度も読み返した内容さえ思考あたまから抜け落ちてしまっていた。それどころか、『ウォースパイト運動』への警戒策として送迎用のバスが用意されたという説明さえも右耳から入って左耳へ素通りしていく有り様なのだ。

 宿所を出発してから多目的運動広場の駐車場に到着するまでの道程さえキリサメは殆どおぼえていなかった。脳が満足に認識していなかったとも言い換えられるだろう。白い車輛に乗り合わせた〝同僚〟たちの様子に至っては二つの例外を除いて前後の席の話し声すら鼓膜が拾っていなかった。

 先発の車輛へ乗り込む直前、希更から無二の親友として紹介されたインド出身うまれの女性選手――名前はマルガ・チャンドラ・チャトゥルベディという――は移動の最中、真隣の席に腰掛けた同性の日本人選手が説く国際結婚の素晴らしさに相槌を打ち続けていた。

 希更の親友マルガ・チャンドラ・チャトゥルベディの話し相手――おおいし・マクリーシュ・の夫はアメリカの格闘技雑誌の記者ライターである。同誌が『NSB』への取材を通じてピューリッツァー賞を獲得した際にも大きく貢献した人物だが、とろけるような表情かおで繰り返しているのは夫の功績ではなくラスベガスのカジノでの運命的な出会いである。

 現役の格闘家と格闘技記者ライターという組み合わせの夫婦だけに互いが持つ機密情報を洩らしてしまわないよう日常会話も慎重にならざるを得ないそうだ。その話に未稲は強く興味を惹かれたようで、隣に座る弟から悪趣味の極みと窘められるまで聞き耳を立てていた。

 時おりマルガやのほうから話し掛けられていたので未稲のような盗み聞きではないのだが、長野興行で希更の対戦相手を務めたギロチン・ウータンは二つばかり離れた座席で二人のやり取りに耳を傾けていた。

 興行開始は三時間も先であるが、日本を代表する〝悪玉ヒール〟レスラーは既に毒々しい化粧メイクを済ませている。シャツの上から羽織った前開きのスポーツウェアには本来の所属先である『ちょうじょうプロレス』のロゴマークがプリントされていた。

 長野興行でリングが激しく軋むほどの激闘を八雲岳と演じたモンゴル・ウランバートル出身のバトーギーン・チョルモン――横綱であった頃のは『はがね』――は憤懣の二字を顔面に貼り付けている。

 〝アイドル声優〟を『客寄せパンダ』に仕立て上げて興収増加を図らんとする主催企業サムライ・アスレチックスの現状に疑問と不満を抱いており、試合でもその苛立ちを統括本部長にぶつけたのだが、どうやら胸中に垂れ込めたドス黒いもやは未だに晴れていないようだ。〝同僚〟とは目も合わせず車窓まどの外を睨み続けていた。

 初めて『天叢雲アメノムラクモ』へ参戦するスウェーデン・ストックホルム出身の男性もチョルモン同様に他の選手と関わろうとしなかったが、彼の場合は機嫌が悪いのではなく周囲まわりを気遣うだけの余裕がない為であろう。

 しかしながら、キリサメのような新人選手ルーキーでもない。イギリスの団体を主戦場とする実力派であり、『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手と比べても遜色がない戦績キャリアを誇っていた。

 前身団体バイオスピリッツにも黄金時代に幾度か出場し、日本のMMAファンの多くが『イェスペル・サンドバリ』という名前を興奮と共におぼえていた。現役時代のじゃどうねいしゅうとも名勝負を繰り広げている。

 初出場にして岩手興行の最終試合ファイナルを任されたのだが、日本MMAとの古い付き合いから抜擢されたのではない。試合が終わったとき、いつも大量の返り血を浴びていることからダンテの『神曲』に登場する悪魔マレブランケになぞらえて〝あかがおルビカンテ〟と呼ばれるイェスペルこそ〝目玉メインイベント〟に据えるべきだと樋口自身が認めたのである。

 祖国スウェーデンける人気はサッカー選手のズラタン・イブラヒモビッチと並ぶほどであった。

 名実とも国際的な有力選手でありながら車内で最もおおきな身体を丸め、酷く緊張した面持ちで何事か呟き続けていた。祖国スウェーデン言語ことばで『かいおう』といった意味を持つ呻き声が特に多かったようだが、〝同僚〟たちは何も聞こえていない芝居フリで彼の精神こころに寄り添っていた。

 他団体の〝通例〟でたとえるならば、青コーナーから最終試合ファイナルへ臨むことになっている。

 キリサメの印象に残ったのは〝あかがおルビカンテ〟だけではない。セコンドとおぼしき隣席の女性に励まされる日本人の男性選手は、未稲から説明を受けたということもあって鮮明におぼえていた。

 しんかいこうという名のその男は前回の長野興行には参戦していなかった。しかし、故障による欠場ではなく主催企業サムライ・アスレチックスのほうで彼のに相応しい対戦相手を用意できず、試合そのものが設定されなかったそうだ。

 彼に限ってはそのような事態が幾度も繰り返されており、二〇一一年の旗揚げ当初から『天叢雲アメノムラクモ』と契約している選手でありながら試合回数が極端に少ないという。加えて戦績も芳しくない。


「昨日の公開計量でも七〇キロちょっとって計測されたけど、新貝さん、本当は中・軽量級の選手が活躍する他所のMMA興行イベントでプロデビューする予定だったんだよ。その団体の代表が樋口社長の一番弟子でね、……選手層のバランスを取りたいからって『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げ興行へ引っ張られちゃってさ……」

「……みーちゃんの話を聞く限り、〝引き抜きヘッドハンティング〟とは少し違うみたいだけど……」

「この間、教来石さんが話していた『シューター』っておぼえてる? お父さんの恩人で、鬼貫さんの愛弟子だったプロレスラーが作った総合格闘の選手ね。中・軽量級メインのMMA団体はその『シューター』の主戦場みたいな感じだったんだけど……」

「つまり、その別団体からデビューするハズだった選手を横から掠め取った――と?」

「今日のキリくんみたいに期待の大型新人って評判だったんだよねぇ、新貝さん。の代表さんは樋口社長に心酔してるから、拝み倒されちゃうと断れないんだよねぇ」


 真後ろの席から身を乗り出した未稲の説明はなしによれば、新貝は『天叢雲アメノムラクモ』唯一の『シューター』であるという。岳の恩人であり、前身団体バイオスピリッツでも闘った伝説のマスクマン――ヴァルチャーマスクが『とうきょく』の理論に基づいて完成させた〝総合格闘〟の使い手とも言い換えられるだろう。

 樋口の一番弟子が代表を務めている国内の別団体から中量級選手としてデビューするべく特訓を重ねてきたにも関わらず、未稲が解説した理由によって横から『天叢雲アメノムラクモ』に引き抜かれてしまったわけである。

 前身団体バイオスピリッツの路線をそのまま踏襲したこともあって『天叢雲アメノムラクモ』は国内外の重量級の選手が顔を揃えている。その頃には中・軽量級の選手として完成されつつあり、くだんの団体へ適応するべく調整してきた体重は容易く変えられるものではない。

 必然的に重量級選手と対戦せざるを得なくなった新貝は埋め難い体重差から思うように攻防を組み立てられず、敗戦を重ねる内に〝引き抜き〟の張本人である樋口当人からも疎まれるようになっていった。


「身の丈に合わないリングに立たされた挙げ句、都合良く使い捨てられたって感じかな。如何にもあの社長サンのやりそうなコトだね。サメちゃんもせいぜい気を付けなよ」


 キリサメの隣で未稲の説明はなしに耳を傾けていた寅之助の皮肉は当て推量ではなく殆ど正解に近いのであろう。

 久々に対戦相手を用意されたというのに会場へ到着するのが恐ろしくてならないのか、新貝は己の身を掻きいだいたまま全身を小刻みに震わせていた。覗き込んで確認することはさすがに憚ったものの、おそらく顔からは生気が抜け落ちていたはずだ。

 その新貝よりキリサメは一〇キロも体重が軽い。完全な軽量級選手であり、養父を筆頭に重量級選手がひしめく『天叢雲アメノムラクモ』との相性は必ずしも良好とは言えまい。


「いつかキリくんも新貝さんと闘う日が来ると思うよ。……キリくんなら大丈夫。お父さんの目が黒い内は樋口社長にだって好き勝手はさせないって」

「お養父さんに庇って貰えるのと、『天叢雲アメノムラクモ』に残り続けるのが幸せかどうかはまた別問題じゃない? MMA選手としてメリットがあるなら、にはならないっしょ」

「……私だって樋口社長のやり口や『天叢雲アメノムラクモ』の方針が全部正解とは言ってないよ……」


 未稲はすぐさま寅之助の皮肉を打ち消そうとしたが、キリサメからすれば己の末路を見るようなものであり、それだけに新貝という名前を厭でもおぼえてしまったのだ。

 もう一つ、キリサメの記憶へのは通路を挟んだ向こう側の席に腰掛けたスペイン人選手の言葉である。

 アンヘロ・オリバーレスと名乗ったその男性は柔道の代表選手として夏季オリンピックに出場し、祖国へ黄金の栄光をもたらしたメダリストでもあった。今年の五月にラ・マンチャ地方の古城で開催された甲冑格闘技アーマードバトルの世界大会にも特別ゲストとして招待されるなどスペインの国民的英雄とも呼ぶべき人物であった。

 そのオリバーレスからキリサメはスペイン語で少年を意味する「チコ」と呼ばれ、煩わしいほど話し掛けられたのである。

 車内でのキリサメは二人席の窓際にった。身辺警護ボディーガードとして付き添っている寅之助は通路側に座っており、当然ながら彼の頭越しに言葉が交わされる構図となった。「これじゃどっちの少年チコに話しかけてるのか分かんないねぇ~」と、帆布製の竹刀袋に納めた状態の得物でもって厭味の如く床を打ち鳴らしたくなるのも無理からぬことであろう。


「ジョーワタを甘く見ちゃダメよ? カレは本当の、そして、最高のプレアドール――猛牛の魂を宿した戦士ヨ! ワタシにも日本で一番の〝好敵手アミーゴ〟なの! きっとネ、チコもたくさん勉強になるハズ! ムネを借りるつもりで行ってらっシャ~イ!」


 世界最高位の柔道に加えてフルコンタクト空手をも極め、まさしく〝総合格闘家〟として死角のない有力選手が『天叢雲アメノムラクモ』長野興行にて対戦したのが城渡マッチであった。

 その城渡のことをアンヘロ・オリバーレスは〝好敵手アミーゴ〟と褒め称えていた。

 両者の試合はキリサメもリングサイドで観戦したが、城渡の勢いが勝っていたのは序盤のみであり、『くうかん』の空手と〝喧嘩技〟を基礎ベースとする打撃も結局はいくさこうじゃのアンヘロに完封されてしまったのである。

 同じ古豪ベテランと呼ばれる立場でありながら、悲しいくらいに埋め難い実力の差が開いていることを城渡に突き付けたようなものであった。そのような相手を一瞬たりとも油断のできない強敵と称賛しているわけだが、少なくともキリサメは皮肉とは感じなかった。

 アンヘロ・オリバーレスが心の底から城渡マッチを同じMMA選手として尊敬し、前回の試合でも血を沸き立たせたということは、秒を刻むごとに上擦っていく声の調子からも十分に伝わってきた。


「チコの試合着ユニフォーム、インターネットで見ました! 腰に巻いたヤツ、まるで闘牛士マタドール赤布ムレータみたいネ! アレ見たらジョーワタも全力突進間違いナシ! だから一つお節介ヨ! 真の闘牛士マタドールだってサーベルを突き立てる前にブッ飛ばされるコトが多いの! そして、ジョーワタの〝角〟は死んだほうがマシなくらい痛いヨ!」


 流暢とは言い難いオリバーレスの日本語は発音に独特の訛りがあり、それもまたキリサメの心を揺り動かしていた。こうした喋り方を同じスペイン語圏である故郷ペルーでも毎日のように聞いていたのである。

 コンキスタドールの歴史を思えば、この上なく皮肉な筋運びであるが、生まれたときから耳慣れた言語ことばが日系ペルー人のキリサメには懐かしく、それ故に記憶へのである。「オラ!」とスペイン語で挨拶されたときには闇市ブラックマーケットで客に愛嬌を振り撒く幼馴染みを想い出し、危うく意識が故郷ペルーまで引き戻されそうになってしまったくらいだ。


「――オラ! 今日もヨロシクお願いネ! ミンナの為にも頑張りマ~ス!」


 現在いまも――駐車場でも『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着たスタッフたちへ気さくに話しかけている。彼にとってはこの場の誰もが親しい友人なのであろう。言葉を交わすだけで他者ひとの心を温められる人柄であった。

 白いバスを降車りた後も次の一歩を躊躇い続ける新海とは正反対の明るさといえよう。


「サメちゃんにラテン系のノリを求めようってつもりはないけど、せめてあの半分くらいはハツラツとしていたほうが良いんじゃない? 寝不足なんて言い訳はリングじゃ誰にも通じないよ。ていうか、ボクだってサメちゃんの所為せいでアクビが止まらないんだけどさ」


 視界に入ったスタッフへ片端から挨拶して回っているオリバーレスを眺めながら、寅之助は大欠伸あくびと共に昨晩の出来事を振り返っていった

 午前二時三一分頃のことであるが、この日、東北地方では岩手県内陸南部を震源とする地震が起きていた。最大震度四――奥州市ここでも震度三を観測している。

 温泉旅館の宿泊客たちも建物が微かに軋む音を聞いたが、館内放送によって避難を促すほど大きな揺れではない。だからこそ寅之助も地震には気付かず眠り続けていたのだ。

 彼の睡眠を打ち破ったのはキリサメであった。畳の上に敷かれた布団から飛び上がると窓まで開けて周辺あたりの状況を確認し始めたのである。一連の流れの中でテレビのリモコンをも操作し、画面に映し出された地震速報をめ付けていた。

 寅之助の携帯電話スマホも地震発生を告げる警報アラームは鳴らさず、代わりにキリサメが何時になく鋭い声で「机の下に潜って頭を隠せダック・アンド・カバー!」と呼び掛けた。

 以降は大きな余震もなく、テレビ画面も災害時の緊急放送へ切り替わることはなかったが、勢いよく蹴飛ばされたキリサメの掛布団が顔にし掛かり、警戒を訴える声でされた寅之助はとうとう朝まで眠れず、バスに揺られる間も欠伸あくびを繰り返していた。

 身辺警護ボディーガードにあるまじき姿であろうが、こればかりは誰も彼のことを責められまい。


「あ~、やっぱり昨夜の地震でもキリくん、飛び起きたんですね。五月に伊豆大島のほうで大きな地震があったときもスゴかったですよ。声を掛けても起きなかったお父さんのコトは首根っこを掴んでベッドから引き摺り出してましたもん」

「地震に気付かず眠ったままタンスの下敷きになるよりはマシかもだけど、二人部屋で叩き起こされるってのは二重の意味で気分の良いもんじゃないね」

「……ちょっと意外ですね。アマカザリさんの場合、地震で家具が倒れてきても竜巻で家ごと空中に吹き飛ばされても、気付かないまま眠りこけていそうなのに……」


 目を丸くするひろたかに対し、未稲のほうは欠伸あくびを止められない寅之助の言葉に頬を掻きつつ頷き返した。心の底から嫌いな相手だが、今だけは素直に同情を寄せている。

 およそ一ヶ月前――五月五日の早朝に伊豆大島近海を震源地とする最大震度五弱の地震が発生したとき、下北沢に所在する『八雲道場』でもそれなりの揺れを感じていた。キリサメは誰よりも早く跳ね起き、家族の二人は寅之助と同じことを味わわされたのである。

 カーテンの隙間から朝日が差し込む頃まで〝ネトゲ〟に興じ、ようやく寝床に入ったばかりであった未稲はまさしく寅之助と同じ状況を体験していた。

 余りにも素早い対応におや揃って驚かされたのだが、ペルーはフリオ・クロイワという国際的な研究者を輩出するほど震災が多く、キリサメ当人も一七年の人生の中で巨大地震を三度も経験していた。それ故、揺れや軋みには人一倍に敏感なのである。

 本日未明――興行イベント当日の地震には『天叢雲アメノムラクモ』も早急な対応が求められた。

 幸いにも巨大地震ではなかったが、最大五〇〇〇人もの観客を迎える興行イベントである。樋口たち主催企業サムライ・アスレチックスのスタッフは施設の管理者と共に安全点検を実施することになったのだ。その上、設営開始時刻までにを完了させなければならないのである。

 点検の範囲は試合を執り行う総合体育館だけではなく、パブリックビューイングの開催先である岩手県内の体育館や公会堂まで含まれている。協力者サポーターの地方プロレス団体『おうしゅうプロレスたんだい』まで動員され、誰も彼も早朝から駆けずり回っていた。

 『八雲道場』所属選手のマネジメントも担当している麦泉は本来ならば白いバスに同乗するはずであったのだが、夜明け前には岳と一緒に宿所を飛び出している。

 尤も、岳の場合は緊急事態が起きていなかったとしても統括本部長の役割がある為、一一時には総合体育館に到着していたはずだ。映像作家として『天叢雲アメノムラクモ』に携わるひろたかの母親――おもてみねも同様である。それ故に彼は今日も姉と行動を共にしているのだった。


「ていうか、サメちゃん、昨夜は一睡もしていないんじゃないの? 普段いつも以上にボーッとしてるよ? 見間違いだろうが思い過ごしだろうが、ボクの知ったこっちゃないけどね」

「……少しは寝たよ……」

「そんなトコでイキがっても電ちゃんは褒めてくれないよ? 布団に入ってからず~っとゴロゴロ寝返り打ってたように思うんだけどなぁ~。サメちゃん、枕が変わったら寝れなくなるタイプ? 天井が変わると落ち着かなくなる人もいるよねぇ」


 地震への対応が異常なほど早かったのは揺れに気付いて目を覚ましたのではなく、そもそも眠っていなかったのではないかと寅之助は疑っているわけだ。


「天井や壁がない場所でも最低限の睡眠時間を取ることには慣れているつもりだよ」


 四六時中、無法者アウトローのナイフやギャング団の銃で狙われる過酷な環境で生き残る為、それこそ眠っている最中にも神経を研ぎ澄ませていたのだ。キリサメにとって睡眠時間は大した問題ではない――本人は過去の経験に基づいて楽観的に捉えていたが、脳が覚醒状態を保ったままということは、つまり、思考あたまの切り替えに失敗したという意味である。

 それが証拠に哀川神通との邂逅によって引き出された胸の高鳴りは、一夜明けた現在いまも鎮まる気配を見せないのだ。


「――初めてお会いした日からキリサメさんのことが片時も忘れられなくなりました」


 神通から告げられたその一言が両の鼓膜にこびり付き、何時までも反響し続けていた。

 そのような情況で眠れるわけもあるまい。素直に認めることははばかったものの、寅之助から指摘された通りに一晩中、キリサメは布団の中で寝返りを打ち続けていたのである。

 声だけではない。スカートがめくれ上がった際に露となったふんどしまで幾度も幾度も脳裏に甦ってくるのだ。純白としかたとえようのないいろは言うに及ばず、野山を駆ける鹿の如く引き締まった太腿まで鮮明に浮かび上がり、喉が渇いて仕方がなかった。


(いや、ふんどしは関係ないだろう)


 身のうちより湧き起った不埒な妄想を切り捨てる程度には冷静さを残していたが、誤って蹴飛ばしてしまったパズルのように散らかっている思考までは整理し得なかった。

 しかも、パズルのピース一枚一枚に神通の顔を映すという有り様だ。

 その神通はキリサメの顔を見つめ、まぶたを半ばまで閉ざすという眠たげな双眸に父の姿が重なる――と、噛み締めるように語っていた。

 日本MMAへの〝道〟を拓いた『昭和』の伝説的プロレスラーである鬼貫道明との異種格闘技戦を繰り広げた哀川家の先代と同じ目をしていると、初めて出会った日から感じていたそうだ。

 る拳法家と互いの命を喰らい合い、その果てに戦いの宿命さだめに殉じた〝前宗家〟――あいかわである。中世日本を研究する歴史学者あるいは日本MMAの黄金時代を終焉に導いた反社会的勢力との繋がりが疑われる人物とも言い換えられるだろう。

 乱世に端を発する武器術併用の流派『しょうおうりゅう』――甲冑を纏った敵を制することで『具足殺し』とも呼ばれる〝戦場武術〟の宗家を斗獅矢から継承したのが神通であった。

 聖徳太子の異称を関する『しょうおうりゅう』は殺傷ひとごろしの技であり、その本質はキリサメが格差社会の最下層で生き延びる為に編み出した喧嘩殺法と全く同じであった。だからこそ互いに相通じるモノを感じたのだ。そして、そのはげしい共鳴がキリサメの魂に休まる時間を与えてくれないのである。

 同じ殺傷ひとごろしの技を身に宿しながらも、キリサメ・アマカザリはルールによって安全性が約束されたMMAのリングでふるおうとしている。〝我流〟などと虚飾の言葉で偽り、血の臭いが漂う〝闇〟から目を逸らしている。

 これに対して哀川神通は『いましょうとく』による創始以来、南北朝時代から現代まで連綿と続いてきた『しょうおうりゅう』の歴史へ己の人生を捧げることを躊躇わない。それこそが宗家の宿命さだめと受けれているのだ。

 法治国家日本では生きる場のない殺傷ひとごろしの技であろうとも、六世紀に及ぶ歴史である以上は断じて錆び付かせるわけにはいかない――それが為に『天叢雲アメノムラクモ』とは比較にならないほど危険な地下格闘技アンダーグラウンドのリングに身を置いているのだった。

 神通の覚悟をキリサメは歴史への〝帰依〟と感じていた。食い繫ぐ為だけに暴力を研ぎ澄ませ、ただ刹那に生きてきた己とは結局のところ、一つとして交わる部分はない――そのように割り切ろうとした矢先、彼女自身が胸の高鳴りを分かち合っていることをほのめかしたのである。

 それは〝一人の人間〟としての共鳴によって結ばれている証左であった。

 「お互いに立場は違いますが、こうして親しくなれたのも運命だと信じています」と秘めた気持ちを明かしてしまったキリサメに対し、神通は瞳を潤ませながら顔を綻ばせ、恥じらうように俯いていた。

 それ以来、憂いを帯びた顔を想い出すたびにキリサメの胸は切なく締め付けられる。

 かつて味わったことのない不思議な感覚であった。深い部分まで体温ぬくもりを分かち合った幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケとも、〝人間らしさ〟を与えてくれた未稲とも異なる存在になったのだ。

 それだけに胸の奥で暴れ回るはげしくも甘やかな気持ちを持て余してしまい、何時までも落ち着かないキリサメであったが、心を乱されてしまう声は突如として頭上に降り注いだ炸裂音によって掻き消された。

 哀川神通という存在に呑み込まれていた意識が物理的に鼓膜が揺さぶられたことで現実へと引き戻されたわけである。


「昼花火……ですか。今日きょう、迷惑扱いのクレームの所為せいで取り止めになることのほうが多いと聞いていましたよ。ぼくの通っている小学校でも鳴らしませんし。東北の人たちは都会と比べて大らかなんですね」

「柴門さんがあちこち掛け合って諸々の問題を解決クリアーしたみたいだよ。そっか、ヒロくんはいなかったっけ。この間の長野興行でも打ち上げたんだよ。今日と同じように地元の花火師さんと提携してね」

「あの人、一体、どういう人脈を持っているんですかね……」


 奥州の曇天そらに乾いた音を鳴り響かせたのは、運動会などの催し物で祝砲のように打ち上げられる花火――〝昼玉〟である。

 殺傷ひとごろしの技を分かち合う神通を通し、無法の暴力が価値を持つ〝闇〟の底――故郷ペルーに魂が引き戻されつつあった為、キリサメは花火の音を銃声と勘違いして勢いよく振り返ってしまったわけだ。

 銃社会でもない日本で白昼堂々と銃火が轟くはずもあるまい。十分な睡眠時間を取り、少しでも動揺が収まっていれば演じるわけのない失態であった。


「サメちゃんサメちゃん、記憶から飛んじゃってるみたいだけど、ここ、日本なんだよ。みたいにいきなり銃で襲われるってのはまず有り得ないのね。例えば巷で話題の『ウォースパイト運動』の活動家バカが銃を持ち込んでいたら、昨夜のサメちゃんよろしく誰かが『机の下に潜って頭を隠せダック・アンド・カバー』って叫んでるって」


 キリサメに対する挑発を目的として『バリアーダス』と呼ばれるペルーの貧民街を調べた寅之助だけに真隣の少年が過剰反応を示した原因もすぐさま看破したようだ。

 『八雲道場』が懇意にしている整形外科医――藪総一郎は、人の心を弄ぶことに快楽を見出している瀬古谷寅之助の言行はキリサメに〝闇〟の底を意識させ、その暴走を抑え込む〝だいだっ〟にもなり得るだろうと語っていた。

 日本を代表する大女優――りんに対するうちゆうのような存在を寅之助に期待したわけであるが、この底意地が悪い青年は〝だいだっ〟としての役割を苛立たしいくらい果たしているのだった。

 一度や二度ではない女性問題や逮捕など、破天荒を絵に描いたようなうちゆうと四〇年も別居し続けながら離婚にしなかった理由をたずねられたとき、りんは「夫は自分の心の醜い部分を教えてくれる有難い存在」といった旨を答えたという。

 を悪と見なして否定してしまったら何も生まれない――る種の悟りに至った大女優は、夫こそが己にとっての〝だいだっ〟とたとえたのである。

 人間という生き物は己が恐れるモノに限って他者に見つけてしまう。己が隠しておきたいもの、己でも持て余しておるものばかり他者という鏡に映り込む――藪総一郎はそのようにも語っている。


(……MMAは〝平和の祭典〟だって岳氏も言っていたもんな。……銃口に晒される心配のない社会でしか、そんなは成り立たないもんな……)


 〝だいだっ〟の皮肉が己に内在する〝闇〟へ突き刺さるより早く、キリサメも姉弟の間で交わされた言葉から己の粗忽であったと悟っている。先を行くギロチン・ウータンの背中を追い掛け始めたのはを誤魔化す為であった。

 その途中、脇をすり抜けていったバトーギーン・チョルモンから横目で睨まれたのはキリサメの勘違いではないだろう。身辺警護ボディーガードの寅之助も彼を庇うべく我が身を盾に換えようとしていた。

 統括本部長の岳と対戦した際、チョルモンは力と技を純粋に競い合うというMMAの本質を忘れ、主催企業サムライ・アスレチックスへの憎悪をリングに持ち込んでいる。そのときと同じ眼光で養子キリサメを突き刺したわけであるから、状況によっては『タイガー・モリ式の剣道』が以前かつての横綱に襲い掛かったかも知れない。


(……ああ、そうだ。この感覚、岳氏とこの人の試合と同じで……いや、そうじゃない。これはいつかの――)


 バトーギーン・チョルモンに向けられた敵意が引き金となり、キリサメの脳裏に甦ったのは故郷ペルーの場景――幼馴染みが巻き込まれた反政府デモ『七月の動乱』から一ヶ月余りが過ぎた頃の追憶であった。



                     *



 キリサメが生まれ育ったサン・クリストバルの丘周辺から少しばかり離れた地域だが、幼馴染み――もまた非合法街区バリアーダスの住民である。二人が暮らすような貧民街は首都リマの至るところに点在し、この地を訪れた人々に格差社会という隠しようのない〝現実〟を突き付けているのだ。

 貧困層と富裕層の居住区が万里の長城の如き壁で隔絶された非合法街区バリアーダスもある。同地の人々から『恥の壁』と忌々しげに呼ばれるは絶望的な貧富の格差と、ここから生じる差別意識の象徴であった。

 も格差社会の最下層を這いずり回ってきた一人である。主に外国人観光客から掠め盗った品々を闇市ブラックマーケットで売りさばき、家族と身を寄せ合って一日一日を食い繋いでいた。

 故郷ペルーの貧困層の間では窃盗・強盗は生計を立てる為の〝職業〟である。子どもたちも盗んだ金を資本もとでにして大きな事業に取り組もうとは考えない。罪深い行為と訣別して正業に就くのではなく、より値打ちのあるモノを富裕層から奪うことが夢となっているのだ。

 その日を生きるという刹那の充足が無為に繰り返される――それが格差社会の最下層なのである。

 『七月の動乱』で命を落としたの葬儀も家族やキリサメ、数名の知人が立ち会うのみという簡素なものであった。ペルーの風習に倣い、その亡骸はロッカーとも団地ともたとえられる共同墓地へ想い出の品々と共に埋葬された。ただそれだけである。

 丁度、一ヶ月後が経った日にキリサメはから幼馴染みの墓へ祈りを捧げたのだが、その帰り道で追い剥ぎの被害に遭う一人の日本人ハポネスを見つけた。

 身なりからして非合法街区バリアーダスに迷い込んだ旅行者であろう。ひとのない駐車場で不意打ちを受けたらしく、命からがら逃げおおせたものの、肩から下げていた鞄を奪われてしまったようである。

 日本人ハポネスが逃げてきた先へと視線を巡らせてみると、数名から成る少年強盗団が埃まみれのアスファルトの上に鞄の中身をぶちまけ、金目の物を物色し始めている。

 そのとき、キリサメは己が朝から飲まず食わずであったことを想い出し、次の瞬間には下卑た笑い声の聞こえる駐車場へと足を向けていた。小腹を満たす為にを見繕おうと思ったわけではない。ただ肉体からだの反応が一瞬だけ思考を上回ったに過ぎない。


「……キリー?」


 少年強盗団の誰かに懐かしい愛称ニックネームで呼ばれた。亡き母の私塾で机を並べた顔ばかりであり、誰も彼も幼い頃には一緒に遊んだ〝旧友〟である。

 しかし、そのようなことはキリサメには関係がなかった。暴力以外に生き残る為のすべを持たないキリサメには馴れ合いなど何の意味も為さないのだ。それは少年強盗団の側も同様である。〝旧友キリサメ〟が自分たちの前に飄然と姿を現わした理由を察するや否や、故郷ペルーの公用語であるスペインの言語ことばで彼を罵りながら一斉に襲い掛かった。

 幼馴染みの墓参りに出掛けていた為、その日は血塗られた『聖剣エクセルシス』を携えておらず、素手でもってこれを迎え撃たなければならなかったが、キリサメは顔色一つ変えなかった。

 彼はその手に喧嘩殺法を――路上にいて人を殺傷する為の技を握り締めている。

 足元に転がっていた石を素早く右の掌中に握り込み、真っ先に飛び掛かってきた相手のこめかみへを叩き付けた。対の拳でもって別の少年の肋骨を抉り、強盗団で一番の巨漢は金的を蹴り上げ、上体を傾かせたところに延髄目掛けて肘を落とした。

 背後から突き立てられる寸前で奪い取ったナイフは、恐れをなして逃げ出そうとしていた別の青年へと投げ付けた。鋭い尖端は狙い定めた通りに太腿を抉り、比喩でなく本当にその場へとしたのである。

 投げナイフの技はから伝授された。彼女は素手による戦いが得意でない代わりに幾つものナイフを常に隠し持っており、闇市ブラックマーケットの売上金を狙う無法者アウトローから襲撃された際には果敢に応戦していた。

 〝敵〟の急所を見定め、躊躇いなく刺し込んでしまえるくらい逞しくなければ、闇市ブラックマーケットで露店を開いてなどいられないのである。

 激痛の所為せいで突き刺さったナイフを抜くことさえ叶わず、悲鳴を巻き込むようにしてのたうち回る青年の喉に全体重を乗せた蹴りを見舞う――このような相手を確実に沈黙させる追い撃ちは、キリサメのほうからに教えたものであった。

 最後まで立っていた少年の顔面を右の五指でもって掴み、力任せに押し倒すと硬いアスファルトへ叩き付けた。例え僅かでも反撃するだけの力が〝敵〟に残っていた場合、己の命が必ず脅かされると身をもって知っているキリサメに手加減などはなく、あるいは鈍い音が響いた瞬間に頭蓋骨が割れてしまったのかも知れない。

 小さな頃から聞き慣れた声で命乞いをされても、キリサメは特に〝何か〟を感じることもない。追いすがらんとする手を邪魔そうに踏み潰し、骨の砕ける感触が足の裏に伝達つたっても〝敵〟の顔を見下ろすこともなかった。半ばまでまぶたを閉ざした双眸は駐車場に放り出されていた財布しか瞳の中央に映していないのである。

 財布というより小銭入れと表すほうが正確に近い。身なりの良い日本人ハポネスであったが、はした金程度しか入っていなかった。小知恵を働かせ、旅行用の資金かねはホテルの部屋にでも保管してあるのだろう。

 エンパナーダと金色の清涼飲料を屋台で購入すれば数枚の小銭しか残らないような金額だが、それでもキリサメには十分だった。牛肉や玉葱といった具にチーズを混ぜ、更にカレー粉を加えたミートパイで一日分の栄養は摂取できる。今日は生き延びられるのだ。

 空腹を満たし得る糧を手にした時点で、足元に転がる〝旧友〟などキリサメにとってはわざわざトドメを刺して回るにも値せず、目障りとさえ思わないに過ぎなかった。

 〝表〟の社会で法律に守られている者たちの目には残虐と見えることであろうが、格差社会の最下層では驚くほどでもない場景である。誰かのが裏路地に打ち捨てられていようとも住民たちも騒ぎ立てることはない。小銭入れのはした金でも警察官から無罪を買い取ってしまえる世界なのだ。

 極限的な暴力に呑み込まれたを想い、自らも暴力を封印するような甘い感傷などキリサメは持ち合わせていなかった。〝人間らしさ〟を留めたままでは戦いに負けることが即ち死を意味する世界では一日とて生き残れないのである。



                     *



 〝その日〟も右の人差し指と中指が血で濡れていた。〝旧友〟に対する慈悲も躊躇もない刺突つきを避けつつ、ナイフの持ち主の両目を抉った際に付着したのである。あらゆる格闘技術の解放を謳う総合格闘技MMAのリングでさえ許されない残虐な行為であった。

 大切な存在ひとを悼む気持ちさえも〝現実〟の前に押し流されてしまう故郷ペルーは、日系社会という形で文化面での接点こそあれども、何もかも日本と異なる〝世界〟なのだ。


「……キリくん? やっぱり寝不足でしんどいのかな? 開会式オープニングセレモニーまで時間はあるから控室で仮眠を取れなくもないと思うけど……」

「――ああ、……うん、大丈夫。少し考え事をしていただけだよ、みーちゃん」


 未稲の声によって追憶の水底から現実へ意識を引き戻されたキリサメは、曖昧な返事を引き摺るようにしてかぶりを振り、砂色サンドベージュに汚れた故郷ペルーの駐車場ではなく奥州市の総合体育館にることを己に言い聞かせた。

 〝ゲームの世界〟にける振る舞いはともかくとして、この少女は幼馴染みのように戦う力を持ってはいない。他者ひとから暴力を振るわれた経験もないだろう。鉄錆の味を知らなくとも生きていけるのが日本であった。

 そして、何よりも坂を上り切った先では「キリー」と嬉しそうに愛称ニックネームを呼ぶ声が待っている。それこそが故郷ペルーと日本の大きな違いなのだ。


(……よりにもよってこんな日に想い出すなんて幸先が悪いなんてもんじゃないぞ……)


 ここまで鮮明に故郷ペルーでの犯罪ことを想い出したのは日本に移り住んで以来、初めてである。

 〝格闘競技〟のリングへ臨まんとする新人選手ルーキーには自己否定にも等しい情況であった。

 神通に対する共鳴が精神こころ回路サーキットを地球の裏側へ向かうよう変えてしまったのは間違いあるまい。殺傷ひとごろしの技を身のうちに宿した人間のごうをキリサメは若き古武術宗家から感じ取っている。それはつまり、一度でも〝闇〟を受けれた者はから永遠に変われないのだと囁かれたようなものである。

 そして、はどうやら意識や自覚から切り離されたところでキリサメの精神こころへ作用しているようだ。

 いよいよ曇天はその濃さを増し、坂の向こうから風に乗って雨の匂いまでもが転がってくるようであった。

 イギリスには「三月の風と四月の雨で五月の花が咲く」ということわざがある――と、キリサメは亡き母親に教わったことがある。果たして、六月の奥州に降る雨が〝何〟をもたらすというのか、当人キリサメに分かるはずもない。



 送迎用のラッピングバスが待機する駐車場から総合体育館へと至る坂道には隙間なくのぼりが立ち並び、選手たちに進むべき路を示しているようであった。

 青いのぼりには『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークと併せて『第一三せん~奥州りゅうじん』という仰々しい文言が白く染め抜かれていた。母なる奥州からとよとみのひでよしや徳川家康と渡り合い、天下の覇権を睨んだ戦国の独眼竜――伊達だてまさむねの猛々しさにあやかろうというわけだ。

 独眼竜の加護は『天叢雲アメノムラクモ』ただ一人の『シューター』であるしんかいこうにとって圧迫感でしかなかったようで、坂道を仰いだ途端に踵を返してしまった。関係者たちが大慌てで引き留めていなかったら、本当にバスへ逃げ込んでいたかも知れない。

 華々しい平和の祭典の日に似つかわしくない曇り空は、この迷える男の精神状態をそのまま映しているかのようにも思えた。


じかに『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベント会場を見るは初めてだし、ぶっちゃけ今日まで毛ほども興味がなかったけど、想像以上のお祭り騒ぎだねぇ。こういうところはさすがに『E・Gイラプション・ゲーム』っていうか、地下格闘技アンダーグラウンドと大違いだし、電ちゃんが〝金儲けのイベント〟ってブチギレる気持ちも分からなくもないかなァ」


 「ここに電ちゃんがいたら、ご機嫌ナナメってもんじゃ済まなかったかもね」と寅之助に右肩を叩かれたキリサメは駐車場で揶揄されたときと同様に無反応である。それより前から双眸を大きく見開き、またしても両足をアスファルトに貼り付けていた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、命の危険が鼻先に迫っている状況ではない。銃声と間違えてしまうような異音も現在いまは聞こえていない。

 数多ののぼりがはためく坂道を登り切った先――およそ二四時間前、初陣の地の下見として希更たちと共に訪れた総合体育館は様相を一変させていた。

 正面玄関を挟む形で左右に並立する二棟はどちらも競技場アリーナであり、今日は『天叢雲アメノムラクモ』が終日まで借り切っている。リングが設営されたメインアリーナと興行イベント運営に要する様々な器材が運び込まれたサブアリーナの中間部分は渡り廊下となっており、壁一枚を隔てた向こう側は小さな広場である。その中央には体育館利用者が休憩する為の円形ベンチが設置されていた。

 広場そのものは晴天ならば陽の光が眩いばかりに差し込み、縦横無尽に風が吹き抜ける構造であるが、円形ベンチには大きな屋根も設けられている為、雨風を凌ぐ手立ても万全であった。二棟のアリーナの二階席を結ぶ通路も屋根代わりとなっている。『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行のような催し物の際には大勢の人々がこの真下に並び、正面玄関へ吸い込まれていくことであろう。

 建物自体は下見に訪れたときから変わりようもない。それにも関わらず、キリサメも真隣の寅之助も「一変」としか表しようのない印象を抱いたのである。

 そこかしこに坂道と同じのぼりが並べられ、正面玄関には『天叢雲アメノムラクモ 第一三せん~奥州りゅうじん』と記された大きな看板も立てられている。どれもこれも二四時間前にはなかった物ばかりなのだ。

 民間企業の警備員も既に配置についており、不審者の侵入を見逃すまいと各所で目を光らせている。に違和感を覚えたギロチン・ウータンは「随分、物々しいじゃない」と怪訝な表情を浮かべたが、『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフとは異質の制服姿が前回の長野興行と比べて明らかに増えていた。

 日米合同大会コンデ・コマ・パスコアに先立ち、『天叢雲アメノムラクモ』の運営状況を視察するべく来日した『NSBナチュラル・セレクション・バウト』の代表――イズリアル・モニワが身辺警護ボディーガードを伴っていた理由と大きくは変わらなかった。銃社会でない日本では本来は有り得ないことだが、VVヴァルター・ヴォルニー・アシュフォードと名乗ったくだんの男は拳銃を隠し持っていたのである。

 一目瞭然の通り、国外アメリカでの先鋭化が著しい『ウォースパイト運動』への備えであった。

 しかしながら、祭り騒ぎに酔いれている人々は格闘技を〝人権侵害〟と見做す思想活動が日本MMAにも影響を与え始めていることに気付いていない。これはキリサメと未稲も同様で、そもそも長野興行の会場に足を運んでいない寅之助とひろたかは警備の増員を割り出すだけの材料すら持ち合わせていないのだ。

 警備員が腰のベルトに装着させている伸縮式の特殊警棒は、ペルーで起きた大規模な反政府デモ――『七月の動乱』にいて市民の側へと横流しされた『ロンギヌス社』の製品モノである。

 平素いつものキリサメであったなら、すぐさま同企業の警棒に気付いて全身を強張らせたことであろう。武器の横流しは怒れる市民を国家転覆の先兵に仕立て上げようとした『組織』の策謀であり、その果てに彼は幼馴染みを――喪失うしなったのだ。無関係な警備会社にまで過剰反応しても不思議ではなかった。


「……『せいれいちょうねつビルバンガーT』にあんな車輛メカが出ていたような……」


 二台の中型車輛がメインアリーナに横付けする形でめられており、そこから張り出した無数のケーブルが屋内に向かって伸びていた。いよいよキリサメには意味不明な場景であり、故郷ペルーで暮らしていた頃から好んでいるロボットアニメの機械を連想してしまった。

 見るに見兼ねたひろたかから「ざっくり言うとアレは中継車みたいなものです」と解説されなければ、キリサメは口を開け広げた状態で何時までも立ち尽くしたことであろう。

 前身団体バイオスピリッツの時代から樋口郁郎と関わりが深い番組制作会社の車輛であるという。東京に本拠地を置く同社は主にスポーツ・格闘技番組を手掛けており、毎週のようにテレビ地上波で放送されていた日本MMAの黄金時代もかなめの一角として支えたそうだ。

 国内のプロレス番組も数多く制作し、前身団体バイオスピリッツ以前にも岳や鬼貫と交流が深かった。日本格闘技界の〝盟友〟あるいは〝戦友〟とも呼ぶべき企業なのである。

 未稲とひろたかの実母である表木嶺子の仕事――〝映像作家〟と〝番組制作会社〟の業務が具体的にどのように違うのか、これを完全には理解し切れないキリサメであったが、テレビ番組という手掛かりに基づいて概略あらましだけは咀嚼できた。

 時おりテレビで目にしていながらも関心が薄い為に気付いていなかったが、国内外の格闘技を幅広く取り上げる衛星放送の有料チャンネル『パンプアップ・ビジョン』の番組には同社の名称クレジットが必ずといって良いほど表示されているのだった。

 二台の車輛にも『ハーキー・フィルムズ』という社名は大きく刷り込まれている。

 歴史の長い企業だけにスタッフの顔触れには多少の変化があったものの、『天叢雲アメノムラクモ』にも前身団体バイオスピリッツから引き続いて携わっている。二〇一四年六月現在にいて地上波放送復帰の目途は立っていないが、興行イベント全体の撮影から記録・販売用の映像制作まで一手に担っているのだ――と、ひろたかは一息に説明した。


「ああ~、『ハーキー・フィルムズ』って社名なまえは結構、あちこちで見るねぇ。プロ野球とかオリ・パラ関連番組も制作つくってるんじゃなかったっけ? 弟クン、一体全体、どこでこういう知識を拾ってくるのさ? 生きる上で何一つ得にならないじゃん」

「母親が映像関係の仕事をしているので、聞きたくなくても自然と耳に入ってくるんですよ。今日の試合もテレビでの生放送はありませんが、色々な場所でパブリックビューイングをやりますよね? 実質的な生中継に必要な車輛くるまも導入したと母から教わりました」

地下格闘技アンダーグラウンド興行イベントじゃあは想像もできないや。試合の撮影なんてリングサイドの人たちが携帯電話スマホやデジカメで気ままにやってるもん。『E・Gイラプション・ゲーム』は販売目的じゃないから好き勝手に撮ってても許されるんだろうけどさ」

「この場合、プロとアマの違いというよりも〝商業イベント〟だから許可が下りないと言うべきかも知れませんね。権利の管理が恐ろしく複雑ですし、『天叢雲アメノムラクモ』で勝手気ままにカメラを構えようものなら出入り禁止どころか、裁判沙汰だって免れません」


 興行会場メインアリーナに横付けされた二台の内、片方の車輛は屋根の上にパラボラアンテナが取り付けられている。寅之助とひろたかが語らう内容を傍らで聞いていたキリサメは、ようやくその機能が理解できた。

 前回の興行イベントを開催した冬季オリンピック関連施設のほうが建物は大きく、〝ママさんバレー〟や地域の催し物など市民から親しまれる今回の総合体育館は三〇〇〇人も収容人数キャパシティが少なかった。これを補うべく岩手県内の各所でパブリックビューイングを実施する手筈となっており、映像データを各会場へ一斉送信する為にも大型アンテナを搭載した車輛が必要なのだ。

 「ぼくも完全に把握しているわけではありません」と前置きした上で、もう一台のほうは場内にける撮影を行う為の車輛であろうと、ひろたかは自身の推察を言い添えた。おそらくは誤りではないとキリサメも寅之助も揃って首を頷き返している。


(……情けなくて仕方ないけど、自分が勉強しなければならなかったことも、そのさえも、僕はまるで分かっていなかったんだな……)


 長野興行のときは無理矢理に連れていかれた〝養父の仕事場〟という感覚でしかなく、会場とその周辺の様子など興味も湧かなかった。それどころか、どのような人々が〝格闘大会〟を支えているのか、一瞬たりとも想像しなかったくらいだ。

 前回の公開計量は会場となった長野市内のビジネスホテルまで足を運ばず、宿所で待機していたのである。

 キリサメが気付けなかっただけで番組制作会社ハーキー・フィルムズの車輛は長野興行のときにも会場をケーブルを運び込める距離にめてあったのだろう。

 ようやく自身の所属するMMA団体に目を向け始めた新人選手キリサメ・アマカザリは〝格闘大会〟の縮図ともたとえるべき場景を目の当たりにし、ただただ圧倒されていた。

 二棟の間を跨ぐ屋根のように広い通路から垂らされた「奥州りゅうじん」という大会名の横断幕や、東日本大震災の復興支援への協力を呼び掛ける看板など『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントを成立させる為の〝全て〟が目の届く範囲に集まっているのだ。

 『E・Gイラプション・ゲーム』と関わりの深い寅之助は「地下格闘技アンダーグラウンドと全く異なるお祭り騒ぎ」と率直な感想を漏らしていたが、そもそも『天叢雲アメノムラクモ』は格闘家同士が単純に腕比べする舞台ではなく、〝格闘競技〟をとする巨大な〝商業イベント〟であった。

 所属選手も〝強さ〟のみが評価の基準となるわけではない。試合を通して観客を満足させられなくては興行イベントとしての人気はたちまち下落し、団体運営そのものが行き詰まってしまう。こうした危機リスク管理マネジメントまでに入れて対戦者の組み合わせが設定されるのだ。

 前日から実施されている公式オフィシャル観戦ツアーもその一環というわけである。


「――あの日と何一つ……変わらないのだな……」


 MMA一色に染まった会場に対する感慨もまた人それぞれであった。

 気難しい表情でバスに揺られていたバトーギーン・チョルモンは、建物の全景を見渡せる場所に立つとモンゴルの言語ことばで何事かを小さく呟き、次いで唇を小刻みに震わせながら一礼した。寅之助が森寅雄タイガー・モリの名を口にする瞬間と同じようにチョルモンもまた〝何か〟に神聖な想いを抱いているわけだ。

 その様子を遠くから見つめるギロチン・ウータンの眼差しは一等優しく、毒々しい化粧メイクには不似合いとも思えるほどの母性が滲み出していた。

 一九九九年のことであるが、この総合体育館では大相撲の地方巡業が開催されていた。かつて横綱として角界の頂点に君臨したバトーギーン・チョルモンの胸には余人に決して分からない想いが込み上げているのだろう。一五年の時を経て、〝廻し〟を外したMMA選手としてこの地に足を踏み入れたのである。

 未稲からそのように耳打ちされたキリサメは憤怒に満ちた眼光を叩き付けられたことも忘れ、ただ静かに礼を尽くすバトーギーン・チョルモンの横顔を見つめていた。彼が『はがね』ので初土俵を踏んだのも一九九九年であるという。


「さっき、『電ちゃんがいたら、ご機嫌ナナメってもんじゃ済まなかった』って言ったけど、前言撤回しとくよ。こんなお祭り騒ぎを見せつけられたら、下町生まれの血のほうが先に沸騰するもん」

「……〝江戸っ子〟というヤツか。……それは想像し易いな。死んだ母も下町と呼ばれる土地で生まれ育ったらしいのだけど、やっぱり無類の祭り好きだったんだ」

「ボクんとこの父や祖父も似たようなもんさ。案外、サメちゃんのお母上の実家と浅草ボクんとこはご近所なのかも知んないねぇ」


 総合体育館の周辺にいて存在感を示しているのはパラボラアンテナを積んだ車輛だけではない。記念品の販売コーナーや食べ物を振る舞う出店が賑々しく犇めき合っていた。

 これが前日のランニングの最中に希更が話していた〝屋台村〟というわけだ。まさしく寅之助が述べた通りの〝お祭り騒ぎ〟である。


「長野の興行ときは駐車場の関係もあって物販はロビー内に限定されちゃったんだけど、今度は梅雨の空模様が心配だなぁ。折角、屋台形式でお祭り感が盛り上がったところに雨で邪魔されたら最悪だもん」

「お店はどれもテントですから台風直撃でもない限り、ある程度は大丈夫でしょう」

「幾ら柴門さんだって天気と交渉することは不可能だけど、不確定な天気まで見越して支度を整えるもんね。岩手の〝次〟の興行なんてその究極みたいな形式ものだし……」


 奇しくも姉弟の会話は希更から教わった説明はなしを補う内容となっている。

 敢えて特定の拠点ホームグラウンドを持たず、全国各地の運動施設を経巡る〝旅興行〟の『天叢雲アメノムラクモ』は開催先の地域振興も事業の中に含んでいた。

 前日に希更から聞いた説明はなしと照らし合わせるならば、無限と錯覚してしまいそうになる量ののぼりや、数百メートル離れていようとも一字一句に至るまで読み取れる大きさの横断幕などは全て岩手県ひいては奥州市の企業に制作を依頼した物と考えるのが自然であろう。

 正確には『天叢雲アメノムラクモ』ではなく格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの関連グッズであるが、同誌が広報活動の一環として運営している〝キャラクター〟『あつミヤズ』を模った鉄製の人形も販売コーナーに並んでいた。これは岩手県の伝統工芸である南部鉄器と提携した品だ。

 会場の設営スタッフを開催先で雇用することまで含め、経済効果の形で地域に貢献しようという取り組みである。そこには未曽有の大震災によって深く傷付いた日本全国をくまなく元気にしたいという想いが込められているのだった。

 ずんだ餅の触感や餡の味わいを再現した和洋折衷のフローズンカスタードも、ルーの海で前沢牛のサイコロステーキが島を作るカレーライスも大盛況のようだ。地鶏の出汁ダシが効いたうどんの屋台から漂う醤油の香りは未稲の鼻孔を直撃し、真隣の弟に冷ややかな目で見られるほどの大きさで胃が悲鳴を上げた。


「今、ブラジルで開催してるワールドカップや六年後の東京オリンピックには届かないけど、お世話になった地域の手助けになるんだから、見ているだけでも嬉しくなっちゃう光景だよ」

「真面目腐ってお腹が鳴ったことを誤魔化すのは余計に恰好悪いだけですよ。……意見そのものには賛成ですけどね。オリンピックも商業化が露骨になったクセして開催地は大して儲からないと聞きますし、ぼくも利益還元というコトならこれくらいの規模が丁度良いんじゃないかと思いますよ」


 開場前ということもあって人数自体は極端に多いわけではないが、一部の観客は既に総合体育館に到着している。そうした人々の為に食事の提供が始まっているわけだ。熱心な格闘技ファンは伝統工芸によってされた『あつミヤズ』をめつすがめつ観察し、自身の財布と値札とを幾度も幾度も見比べていた。

 販売の偏りを最小限に抑え、出店した誰もが利益を得られる采配は主催企業サムライ・アスレチックスにてしょうがい活動を担う柴門公任の神髄であった。

 こうした〝屋台村〟は言うに及ばず、のぼりも横断幕も前日までは一つとして設置されていなかった。早朝の安全点検が完了した直後から作業に取り掛かり、半日と経たない内に観客を迎えられる態勢を整えてしまったのだ。

 前日に総合体育館を訪れた際、寅之助は設営が完了していないことを主催企業サムライ・アスレチックスのやる気のなさの表われのように揶揄していたが、彼やキリサメの感じた「一変」という印象こそが〝プロフェッショナル〟の証左である。県内各所で実施されるパブリックビューイングの会場も同様であろう。


「――やぁやぁ、サッカーワールドカップより総合格闘技MMAを選んだ物好き酔狂な皆々様、お待たせしましたぁ! 日本戦の放送を捨てて朝からお支度して貰っちゃったんですよね? そんな皆々様の代わりに控室で熱闘を堪能してきちゃいました! 我が第二の故郷はコートジボワールに惜敗の模様! そりゃあ空も曇るわ! 午後からは悔し涙が降るでしょう!」


 一等大きな声に驚き、に視線を巡らせたことでキリサメも気付いたのだが、二棟を繋ぐ渡り廊下の壁向こうは小さいながらも屋外ステージとなっている。今日はそこに会議で使用するような折り畳み式のテーブルが設えてあった。


「……ああ、あれはね、いわゆる〝ファンクラブブース〟だよ。屋台を見ても分かるように明らかに〝一般客〟じゃない人が来てるでしょ? あれが〝優待客〟ね。『天叢雲アメノムラクモ』のファンクラブ会員にはあのブースで選手と直接交流する特権が付いてくるんだよ。公式オフィシャル観戦ツアーに参加しなくても貰えるサービスでね、『天叢雲うち』にとっちゃどちらも良い〝カモ〟もといお得意様なの」

「みーちゃんのお陰で何となく分かったかな。死んだ母さんも『エスエム・ターキー』のファンクラブに登録していたそうだよ。会員証を自慢されたおぼえもあるなぁ……」

「インディーズのパンクバンド……だっけ? 確かお父さんもファンクラブ会員だったような……。今でもたまに代表曲の――そうそう、『キャサリン』ってのをお風呂で近所迷惑なくらい唄ってるみたいだし」

故郷ペルーで初めて逢ったときにも挨拶すらなくいきなり『キャサリン』を熱唱されたよ」

「……ペルーくんだりまで行って何してんの、お父さん……」


 未稲による解説がなければキリサメには〝ファンクラブブース〟という言葉の意味さえ分からなかったことであろう。つまり、『天叢雲アメノムラクモ』のポスターが天板から垂れ下げられたテーブルは、同団体の選手や関係者がる〝特権〟を持った〝優待客〟と直接的に交流する為の空間スペースというわけだ。

 キリサメたちが坂道を登り切った直後には『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着たスタッフしか居なかったが、今まさにブースを受け持つ選手が現れた次第である。

 そして、その選手にこそキリサメは驚かされたのだ。

 レオニダス・ドス・サントス・タファレル――『天叢雲アメノムラクモ』が誇る花形スーパースターであり、日本で精力的にタレント活動も行っているブラジル人選手が余りにも無防備な状態で大勢の前に身を晒しているのだった。近くにはスタッフや警備員が控えてはいるものの、興奮の絶頂を迎えたファンは何を仕出かすか、分かったものではない。

 傍観者のほうが肝を冷やしてしまうほど近い距離での交流が〝ファンクラブブース〟にける最大の〝特権〟であり、選手の側も納得しているのだった。

 レオニダスは前日から実施されている『天叢雲アメノムラクモ公式オフィシャル観戦ツアーにも参加し、ファンとの交流に勤しんでいる。白コーナー側の選手でありながらキリサメたちと同じバスに乗り込んでいなかったのもをこなす為であった。

 テーブルには募金箱も置かれていた。団体のファンサービスだけでなく日本格闘技界が一丸となって取り組む東北復興支援事業プロジェクトの役目も兼ねているわけだ。


「きっと母さんの目には『エスエム・ターキー』もこんな風にえていたんだろうな。ただそこに立っているだけでも輝いているというか――住む世界が違うとしか思えない」


 前回の長野興行ではレオニダスの試合が始まる直前で会場の多目的運動アリーナから出てしまい、その流れででんとの路上戦ストリートファイトへ突入した為、本人の姿をじきに見るのは実質的に今日が初めてである。

 底抜けに明るい声は鼓膜を心地好く震わせ、これによって紡がれる流暢な日本語は脳に染み込むようであった。その上、やや大仰とも思える身振り手振りをついつい目で追い掛けてしまうのだ。気付いたときにはキリサメもレオニダス・ドス・サントス・タファレルという存在に全神経が吸い寄せられていた。

 カリスマという言葉を完璧に体現するその姿をスーパースターと呼ぶことには誰も異論を挟むまい。キリサメもレオニダスが出演するテレビのバラエティー番組を幾度か視聴したが、そのときにも画面越しに感じたスター性が現在いまは肌を突き刺すようであった。

 希更もマネージャーが警戒心を抱くほどレオニダスのことを慕っている様子だが、現在いまのキリサメはそれも納得できてしまう。「レオ様」と呼ばれる陽気な男が屋外ステージでサッカーのシュートを模倣するたび、俄かに気持ちが弾むのだ。


「正直、私は苦手だけどねぇ。女性絡みの醜聞スキャンダルに事欠かない人だし、何よりあの為人キャラが致命的に合わないんだよねぇ~。太陽に祝福されて生まれてきたと言わんばかりのノリで網膜が焼き切れるっていうかさぁ」

「確かにどう頑張ってもラテン系のノリは未稲さんの性格と合いませんよね。だからこそたまには近寄ってみたらどうです? 虫干しされてカビ臭さも取れるのではないかと」

「思った以上に辛辣ッ! ヒロくん、今、世界中のインドアを敵に回したよ⁉ そもそも家に籠って本ばっかり読んでるヒロくんも似たようなもんじゃん! 自分のコトを棚に上げてお姉ちゃんをいじめるのは良くないなぁ!」

「反撃を受けてあげられなくて申し訳ありませんが、毎週末は友達とあちこちのスケートパークに出掛けていますよ。近頃、ハーフパイプが面白いって話しましたよね? ちなみに運動が脳を活性化して読書も捗るってコト、未稲さん、ご存知でした?」

「弟クン、キミのお姉さんもなかなかアウトドアなんだよ? 趣味が合うと思った連中の前ではペラペラと口数が多くなるタイプね。眺めている分には〝ダダ滑り〟も面白いからツッコミも入れずに放置するんだけどさ」

「ヒロくん、見たね? 聞いたね? 小さな頃から皮肉屋でいると高校へ進学あがる頃には口を開くたびに人間関係ブチ壊すくらいひねくれちゃうからね? この邪悪な人みたいに!」

「……みーちゃんの無責任な八方美人も僕は邪悪だと思うけどな」

「まさかの総攻撃フルボッコ! キリくんまでで参戦するとか聞いてないよぉ⁉」


 取材用に持ってきたノートでキリサメの肩を叩く未稲の悲鳴はさておき――レオニダスは同日にブラジルで開催されているサッカーワールドカップを幾度も話題に出していたが、彼の口から「日本戦より選んでくれたコトが嬉しい」と感謝を述べられると、日本代表の試合よりも『天叢雲アメノムラクモ』を優先させたことに一種のまで抱いてしまうのだ。もはや、魅了の魔力としか表しようがなかった。

 世界最大の〝サッカー王国〟で生まれ育った人間がブラジルに戻ってワールドカップという祭り騒ぎに酔い痴れないことは隣国ペルーを故郷とするキリサメにも疑問ではあったが、全身から溢れ出すスター性に触れていると、すらも些末に思えてくるから不思議である。


「サッカーは最高にご機嫌なスポーツだけど、MMAだって負けちゃいないから! 『今に見てろ、ワールドカップ』ってな心意気さ! 地球の裏側が一ヶ月掛けて最高潮クライマックスに持っていくアツさをオレたちは今日一日でみんなに届けるぜ! レオ様とみんなとの約束だぜェ!」


 ヘアバンドでもって持ち上げた輪郭シルエットがブロッコリーのように見えなくもない巨大なアフロが揺れると、ただそれだけのことで大歓声が巻き起こる――老若男女問わず親しまれ、愛されるタレント性を目標とするつもりはなく、その適正があるとはキリサメ自身も全く思わないが、『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手にはレオニダスのような素養こそ求められるのであろうと納得せざるを得なかった。


「……うッわ、やべ! 今のって〝サッカー王国〟に里帰りしたら誰かに刺されるレベルの失言じゃん⁉ みんな、オレの骨を拾ってくれェ! 納骨は愛する日本でね! 『レオ様の骨壺になりたァ~い』って夢見る人がいたら一番嬉しい冥土の土産に――いや、気持ちだけ貰っとくわ! それはさすがに愛が重過ぎるわ! 命を粗末にすんなよ⁉」


 一つの事実としてレオニダスの参加を前面に押し出した岩手興行の公式オフィシャル観戦ツアーは過去最速で全てのプランが売り切れた。主催企業サムライ・アスレチックスがMMA興行イベントと併せて推し進める事業とも彼の相性が抜群に良いことを改めて証明したわけだ。そして、それ故に統括本部長をも押し退けて花形スター選手まで駆け上がったのである。

 以前、『天叢雲アメノムラクモ』の展望に関する話を聞いたときの印象では〝絶対王者〟として君臨し続ける『かいおう』を早々に排し、レオニダスを新しき玉座に据えんとする青写真を樋口社長が描いているようキリサメには感じられた。

 団体代表の樋口にとっても広報戦略に協力的なレオニダスは最高の人材である。だからこそ心身の状態を整える時間が削り取られる〝仕事〟まで押し付けられてしまうのだが、当人レオニダスはそれすらも花形スーパースターの条件として受けれているようであった。


(……僕みたいに面白みのない人間は、真っ先に切り捨てられそうなものだけどな……)


 大勢が詰め寄せた〝ファンクラブブース〟は握手会ではなく独演会の様相である。レオニダスのように何人かの選手が二台のバスより先んじて総合体育館に入っていた。言わずもがな統括本部長の岳もその一人である。

 駐車場から坂道を登ってきたキリサメたちは、のぼりに続いて持ち運びできる大きさの柵で進むべき路へと導かれた。ナイロン製のシートをパイプに嵌めるのみという簡易式の物が幾つも立ち並び、これによって仕切られた先がそのまま一本道となっている。

 シートの表面には『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークが刷り込まれている為、順路を見誤る心配もない。

 その一本道は選手専用の出入り口へと繋がっているのだ。観客を迎え入れる正面玄関ではなく、総合体育館の通路と直結しているドアから入場する手筈であった。

 〝ファンクラブブース〟と同様に柵のにも数十人のファンたちが集まっている。会場入りする選手を柵一枚で隔てるのみという至近距離で出迎え、声援を送るのも優待客に与えられる〝特権〟の一つなのだ。無論、公式オフィシャル観戦ツアーの日程プログラムにも組み込まれている。

 華々しいMMA興行イベント裏舞台バックステージはファンにとって最も興味を引かれるもので、大枚をはたいてでも覗いてみたい――その需要に応えた〝特権〟なのだ。

 リングのなのだから嫌がらせの〝カミソリレター〟を送り付けられるのも当然という風潮が蔓延する時代を生き、〝悪玉ヒール〟レスラーそのものの印象回復と地位向上に力を尽くしてきたギロチン・ウータンはファンとの応対にも慣れている。

 軽い接触ではあるものの、最前列のファンと互いの手のひらを合わせながら歩みを進める姿は〝愛される悪玉ヒール〟の体現とも言えよう。


「――岩手の皆さん、お待たせェ! 帰ってきたよ、『天叢雲アメノムラクモ』がぁ! 俺たちの闘いでますます元気になりましょう! 頑張れ! 頑張ろう、日本!」


 ギロチン・ウータンに続いたのは意外にも新貝士行であった。

 バスの中では病的なほど怯え続け、一度は坂道の途中で立ち竦んでしまった男が大勢のファンを前にした途端、別人の如く勇ましい表情かおとなったのだ。えざる手によって感情のスイッチを切り替えられたようである。

 三年もの間、体重差という絶望的な現実を乗り越えられず、成績も振るわない為に〝暴君〟から見限られつつある状況にこそ新貝は恐怖している。本当はこの場から逃げ出したいとさえ思っているはずだが、日本最高のMMA興行を楽しみにしているファンの前では昂揚に水を差してしまう振る舞いを堪えているわけだ。

 あれこそが真のプロ意識とキリサメは素直に感心し、次いで新貝が『天叢雲アメノムラクモ』に留まり続ける理由を想い出した。

 彼が希望していたMMA団体ではなく『天叢雲アメノムラクモ』からプロデビューすることを決意したのは、樋口郁郎の意向に逆らえなかったことだけが理由ではない。誰よりも早く東日本大震災の復興支援へ飛び出した岳に胸を打たれ、その仲間になりたいと思ったのだ――と、未稲は以前に聞いた新貝の談話を説明の最後に付け加えていた。

 それは自身の体重と全く合致していない『天叢雲アメノムラクモ』に留まり続ける理由でもある。

 現在の総合格闘技MMAにも通じる『とうきょく』の理論を完成させたヴァルチャーマスクは伝説のプロレスラーであるのと同時に、児童相談所や小学校を援助する篤志家でもあった。新貝という『シューター』はその精神こころを痛ましいほど真摯に全うしていた。

 新貝が握り拳を突き上げて歓声に応える一方、ファンサービスを意図的に避けているような選手も少なくない。バトーギーン・チョルモンやイェスペル・サンドバリは温かな声援にさえ一瞥もくれず足早に立ち去っていってしまった。

 接触の有無に関わりなく、『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手が目の前を通り過ぎるたびに歓声が上がるのだ。ただそこで動いているだけで興奮が最高潮に達し、限界をも突き抜ける――それがファンという存在ものであった。

 間もなくキリサメにくだんの一本道へと進む順番が回り、未稲は取材用のノートでもって咄嗟に胸元を覆い隠した。いつものことながら彼女のシャツには『キラキラ王子様も一皮剥けば鬼畜召使とドロドロお召し替え』という珍妙な文言フレーズが記されている。これを衆目に晒すことを憚ったわけだ。


「……見せたくないなら最初から着てこなければ良いのではありませんか?」

「自分のスケベ心をオープンにできる度胸と正直さは認めなくもないけどね、他人ひとのコトを弟クンへの悪影響で突っつく前にキミのほうが先に〝歩くセクハラ〟で逮捕されると思うよ。万が一のときにはどこの留置所かは教えてね。照ちゃんにお説教して貰うからさ」


 ひろたかと寅之助から同時に浴びせられた皮肉はそれぞれが急所を突く一撃にも等しく、さしもの未稲も歯噛みしながら丸メガネのレンズを白く曇らせるしかない。

 その隣では三人の同行者を置き去りにしてでも前進しなければならないはずのキリサメが左右の足を再び奥州の大地に張り付かせていた。



 普段は眠たげな双眸を大きく見開いたまま、彼の意識はおよそ半日前――全選手参加による興行イベント前日セレモニーまで巻き戻っていた。

 宿所である温泉旅館の展望カフェにて歓談した哀川神通と別れ、セレモニーが開催される商業施設ショッピングセンターの大型駐車場へ向かったところまでは記憶も完全な形で留めている。ギロチン・ウータンの前にくだんの一本道を進み切った選手――マルガ・チャンドラ・チャトゥルベディのことを希更から無二の親友として紹介されたのもこのときだ。

 神通との間で結ばれた共鳴が心を動揺させていたのは間違いないが、それでも思考の停止には至っていなかった。

 明確に変調をきたしたのは公開計量のときである。

 『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着たスタッフに案内され、次いで養父の手招きに導かれて特設ステージへ飛び出した直後、夥しいほどの視線がキリサメ目掛けて一斉に降り注いだのだ。

 四方八方からめ付けられることは故郷ペルー非合法街区バリアーダスや裏路地でも慣れていた。少なくともキリサメ自身は慣れているつもりであった。

 それは地に伏せた野獣の群れが舌なめずりしながら獲物に狙いを定めるようなものだ。ぶすまさながらに射掛けられる眼差しは背筋を戦慄が駆け抜けるほど冷たく、害意や殺意を常に帯びていた。

 明確な〝敵意〟はむしろ少なかった。今日を食い繋ぐ糧が目的であるのだから、必ずしも標的に憎悪を燃やしている必要はない。キリサメ自身も同じように禍々しい『聖剣エクセルシス』を肩に担ぎながら息を潜め、を物陰から見繕っていたのだ。

 それ故に〝闇〟の底で四六時中、神経を張り詰めていなければ生きてはいられなかったのである。

 ところが、特設ステージへ登壇した瞬間に浴びせられた眼差しは余りにも温かく、日本最高のMMA興行に対する期待を胸に秘めて集結した人々の熱量が肌を食い破って心臓に達したと錯覚するほどであった

 暗闇の向こうから顔も分からない何者かが穏やかならざる気配で突き刺してくる故郷ペルーとは異なり、養父に導かれた先では皆の姿を一望の如く見渡すことができた。特設ステージを取り囲む誰も彼もが心の底から楽しそうに笑い、右も左も分からないような新人選手ルーキーへ激励の拍手を送っている。

 躍動する生命がひとところに溢れ返っていた。このような場景をキリサメは故郷ペルーで見たことがなかった。生前の母に手を引かれて参加した日系社会の夏祭りや、幼馴染みと見物に出掛けた復活祭でも味わったことがない。

 数多の目に晒されるという状況そのものは酷似しているのだが、そこに込められた想念が故郷ペルーとは真逆であり、どれほど言葉を尽くしても表しようのない落差によってキリサメは果てしない当惑の渦へと呑み込まれていった。

 哀川神通という魂を分け合ったかのような存在に触れたことで元から落ち着かなかったキリサメの思考あたまは、ここに至ってとうとう凍り付いてしまったのである。

 その瞬間、脳裏に甦ったのは神通のふんどしであった。目の前の出来事を処理できない情況の中で剥き出しの煩悩が呼び覚まされたわけだが、そこにこそ混乱の深さが表れているといえよう。

 判断能力すら正常に働いていないのだから計量にも不手際があり、対戦相手である城渡マッチから幾つかの指導を受けてしまった。改めてつまびらかとするまでもないが、その内容は一つとして頭に残っていない。そもそも〝先輩〟の言葉は脳のほうで認識しておらず、正確には「何も心に響かなかった」と表すべきであろう。

 岩手興行に出場する全選手の公開計量が完了した後には、公式観戦ツアーの参加者を交えた記念撮影もあったのだが、己が誰の近くに立ち、どのような表情でカメラのレンズを見据えたのかもキリサメは全くおぼえていなかった。

 数え切れない眼差しと共に特設ステージを揺らすほどの歓声も押し寄せていたのだが、脳を焼き切られたも同然のキリサメには、真隣で張り上げられた養父の吼え声すら聞こえていない。



 一夜が明けて舞台を初陣の地に移し、今またキリサメは前日セレモニーと同じような状況に立たされた次第である。


「もうじき希更さんたちも駐車場に着くんじゃないかな。当たり前だけど、キリくん、リングチェックも初めてだよね? 早めに支度してお父さんからコツを教わるのが良いと思うよ? 特にキリくんのファイトスタイル的にもキモになると思うし」


 未稲に促される形で地面から両足を引き剥がし、一本道へと強引に向けはしたものの、それだけで気持ちを切り替えられるほどキリサメは器用ではない。

 降り注ぐ視線の総量こそ前日より少ないが、その代わりに今日は距離が極めて近く、心を射抜く熱量も赤くけた風と化して襲い掛かってくるのだ。しかも、爆炎の塊ともたとえるべき渦中へ自ら飛び込んでいかなくてはならないのである。

 どうして己がこの忌まわしい祭り騒ぎの中心にるのか。〝何〟を志してMMA選手になろうとしているのか――〝全て〟の出発点に立ち戻りさえすれば、迷いは容易く晴れることでろうが、神通との出会いによって身のうちに生まれた感情ものが三ヶ月前に交わした誓いからキリサメを遠ざけていた。

 禍々しい刃をふる無法者アウトローではなくMMA選手たらんとする決意が〝闇〟を分かち合った神通によって遮られ、現在いまのキリサメは八雲未稲という存在を心の中央に捉え切れていない。傍らにいている少女の声はキリサメコンピューターに〝次なる行動〟を処理させる命令プログラムとしてしか機能していなかった。

 気持ちが落ち着かない間に初めて味わう異様な感覚が重なり続けたのだから、思考の一切が白紙となってしまうのは無理からぬことであろう。そして、そのようなときほど運命は冷静となり得る機会を与えてくれないものである。

 簡易式の柵で仕切られた道を半ばまで進んだとき、キリサメの足が再び止まってしまった。これを窘めるひろたかの咳払いにも反応せず、る一点を呆けたように見つめている。

 柵の側に立って我が身を盾に換えている寅之助も警護対象の異変にはすぐさま気付き、キリサメの視線が向かう先を辿ったのだが、そこに信じ難い顔を見つけ、得物を収めてある竹刀袋を取り落としそうになってしまった。

 キリサメと寅之助――二人の少年だけが知っている顔とも言い換えられるだろう。ほんの数人であるが、秋葉原の中心街にて繰り広げた〝げきけんこうぎょう〟の野次馬が観戦ツアーの参加者に混ざっていたのである。

 寅之助が試みたけんなど専門的な知識を要する事柄を他の野次馬に解説した青年や、二人の斬り合いから悪い影響を受けて悶着を起こしそうになっていた男女の姿もある。後者は揃いのシャツを着て互いの腕を絡ませているではないか。

 二人の少年は言葉を失ったまま目配せでもって記憶を確認し合ったが、女性のほうはMMAを貶めるような言葉を吐き捨て、熱心な格闘技ファンとおぼしき男性のほうはそれに激怒していたはずである。

 激しい感情が交わった後の展開は「アマカザリ選手のお陰で人生変わりました!」という言葉が端的に表している。男女ふたりの声は服装と同じく完璧に揃っていた。

 インターネットを利用しないキリサメには確かめるすべがなく、それ故に自覚もないことであるが、SNSソーシャルネットワークサービスを中心として全世界に晒された〝げきけんこうぎょう〟や、その直後に樋口郁郎が情報工作として仕掛けた『あつミヤズ』の暴露番組を通して、この謎多き新人選手ルーキーにもファンが付き始めていた。そのような人々が公式観戦ツアーにも参加しているわけだ。


「圧勝を期待してるぜ、超新星! 古株がはびこる『天叢雲アメノムラクモ』に新風を巻き起こせェ!」


 本人の了承も得ないまま『天叢雲アメノムラクモ』が広報活動で使い始めた『ケツァールの化身』なるから閃いたのであろう。翼に見立てた両手を上下に動かしながら発せられた男女ふたりの声がキリサメには異様なほど重く響いた。

 〝古株〟――即ち、城渡マッチたちベテラン選手の駆逐を実行させる命令プログラムのようにキリサメのコンピューターは感じてしまったのだ。


「人間関係ってのはどんな風に転ぶか、分かんないもんだねぇ~。こんなに暴力的な恋のキューピットもいないと他に思うよ? サメちゃん、MMAに行き詰まったらウェディングプランナーってテもあるよね。とんでもない荒療治だから客層も限られるけど」


 この上なく厭らしく聞こえた寅之助の揶揄に対しても、キリサメは一瞥のみに留めて何も言い返さなかった。

 数え切れないほどの人々を『聖剣エクセルシス』で不幸にしてきた自分が〝誰か〟に幸せな人生を約束することなどあるはずがない。別々ふたつの運命を絆によって結び付けることなどあってはならない。血と罪にまみれた祝福はいずれ必ず破滅を招く呪いに反転するのだ。


(神通氏が古武術の歴史へ帰依するのと同じように僕も――僕だって光には届かない。岳氏や希更氏みたいに温かく迎えられるだってないじゃないか……ッ!)


 発祥の地や求められた時代こそ異なるものの、同じ殺傷ひとごろしの技を己の身に宿した神通ならばが〝闇〟の底から解き放たれることはないと理解わかってくれるだろう。

 無論、その問いかけに答える声はなく、ただ純白のふんどしが脳を掠めるのみであった。


(……だから、そこでふんどしはおかしいだろ――)


 そもそも現在の情況を自らが呑み込むだけの時間さえキリサメには残っていない。アンヘロ・オリバーレスとそのセコンドたちが真後ろまで迫っており、何時までも同じ位置に立ち止まっているわけにはいかないのだ。


「……キリくん、同じほうの手足が一緒に出てるけど、大丈夫? あたまがバグってる?」

「この期に及んでまた〝ナンバ〟の稽古でも始めようっていうのかい? サメちゃんってば随分と余裕あるねぇ。準備運動ウォーミングアップをやる人なんか聞いたコトないよ」


 無理矢理に左右の足を動かし始めるキリサメであったが、どうしても気持ちのやり場がなくなり、先程まで己が立ち尽くしていた場所を振り返ってしまう。

 気さくなアンヘロが後続の選手に詫びつつ、客の一人一人と順繰りに握手を交わしていた。『天叢雲アメノムラクモ』のファンにとっては望外のサービスであろうが、くだんの男女はあくまでもキリサメただ一人を見送り、彼の視線に気付くと健闘を祈るように握り拳まで作って見せたのである。

 もう一人の青年は腕を組みつつ、「自分はキミの理解者だ」とでも告げるかのように首を二度三度と頷かせていた。

 果たして、その訳知り顔はキリサメ・アマカザリという少年の〝何〟を理解できたというのだろうか――これを訊ねるだけの時間がないことをキリサメは心の底から悔んだ。

 もはや、独力ひとりでは解きほぐすことが叶わなくなった混沌を突き抜ける手掛かりは、おそらくるはずなのだ。


「アリガト、アリガトね! ワタシのスペイン、昨日、オランダに負けちゃったからミナさんの気持ちが痛いくらいワカるよ! 一緒にカナシミを乗り越えまショウ! ワタシたちのファイト、きっと必ず元気出ますヨ~!」

「偉大なるコンデ・コマがブラジルに伝えたのは〝ジウジツ〟だけじゃないぜ! 一緒にアマゾンを開拓した日伯の絆は永遠に輝き続けるんだ! その証明は? このオレ! 『コマの故郷ってどんな国?』と興味ビンビン、気付いたときにはすっかりメロメロ! 愛してるぜ、日本! 最期に入る墓も麻布の丘に買っちゃったもんね~!」


 ファンサービスへ勤しむオリバーレスに対抗意識でも燃やしているのか、一本道と隣接する屋外ステージからはレオニダスの大音声も飛び込んでくる。出身国くには違えど同じラテン系という喧騒に挟まれる格好となったキリサメは、歩みを進めながらも自分の足が奥州の大地を踏んでいるという意識さえ薄れつつある。

 それはつまり、デビュー戦へと臨む記念すべき第一歩すら殆ど記憶に留めていないという意味である。無情なくらい抉り出されたキリサメの有り様とも言い換えられるだろう。


「――よォーやっと来たな、キリー! 首を長~くして待ってたぜェ! 待って待って待ちくたびれちまったよ! 『天叢雲アメノムラクモ』に新しき時代を切り開く希望ホォォォォォォプッ!」


 残り数歩で視線から逃れられることに安堵して誰にも聞こえないくらい小さな溜め息を吐き捨てようとした瞬間、キリサメの顔から生気が消え失せ、も喉の奥に押し戻されてしまった。

 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長を務める養父――八雲岳が選手専用の出入り口から陣羽織の裾が捲れ上がるほどの勢いで飛び出してきたのである。

 黒地に水玉模様の陣羽織を纏っており、〝祭り騒ぎ〟に相応しい印象とも言えるが、派手という二字をそのまま具現化したような賑々しい雰囲気すら上回るほど今日の岳は昂奮している。

 試合前にも関わらず、身の心も沸騰しているのだろう。額といわず頬といわず汗で濡れており、玉のような粒が飛び散ったらしい未稲は悲鳴を上げつつ異常なほど機敏な動きで顔を拭った。


「改めて紹介するまでもねぇかな⁉ こいつの名前はキリサメ・アマカザリ! 今日、初めてMMAのリングに飛び込む期待の大型新人だ! サイトやパンフにゃ格闘技の実績は書いちゃいねぇが、キリーの腕はオレがこの目で確かめた! こいつは本物さ! 本物の戦士だ! デビュー戦の奇跡に会場みんながおったまげること間違いナシ! よろしくお引き回しのほどをッ!」


 未稲から浴びせられた甲高い怒号を一瞥もせずに聞き流し、明らかに顔が引きっている養子キリサメの肩を掴んだ岳は入場前の選手や観客たちのほうに振り向かせると、「うちのせがれをよろしくなッ!」と何度も何度もしつこいくらい繰り返した。

 思考かんがえるより先に肉体からだが動く人間タイプと承知している『天叢雲アメノムラクモ』のファンたちは平常運転いつものことと楽しそうに笑い飛ばしているが、傍目には取り繕いようもないひいである。何者にも平等に接しなければならない立場でありながら〝身内〟に肩入れするなど統括本部長にあるまじき行為であった。

 持って生まれた性格とはいえ、現在いまの岳は昂揚が理性を凌駕してしまっており、自身の言行が与える影響など一つとして考えられなくなっていた。ファンたちが愛嬌として好ましく感じる無鉄砲さが最悪の方向に振り切れてしまっているわけだ。

 理由はキリサメにも未稲にも分からないが、昨日から――前日セレモニーで合流する頃から周囲まわりの声が届かないほど岳は昂っていた。『NSB』と共催する日米合同大会コンデ・コマ・パスコアの会場が東京ドームに正式決定した直後と全く同じ異様さである。

 岳の後方――選手専用の出入り口と直結する通路では背広姿の麦泉文多が比喩でなく本当に頭を抱えていた。岳の暴走に感付いて引き留めようとしたが、どうやら力ずくで振り切られてしまったようだ。


「……しのさんに言い付けてやる。それも息子さんのほうに……! 一回、ちゃんと叱られたら良いんですよ、あの人は……っ!」


 余人には意味が分からない麦泉の呟きは、近くを歩いていたスタッフが聞き取るよりも早く大歓声によって噛み砕かれていった。

 改めてつまびらかとするまでもないが、現在いまのキリサメには逃げることさえ叶わない状態で夥しい量の視線が突き立てられている。己の行動が養子むすこに及ぼす影響の深刻さも理解できていない養父ちちから集中砲火としかたとえようのない状況に追い込まれてしまったわけだ。熱波の如き歓声は追い撃ちとなって心身を二重にいていた。


「ナニも心配ないナイ! ワタシたちがチコのコトをずぅっと見守ってるヨ! ワタシたちっていうのは『天叢雲アメノムラクモ』の仲間だけじゃないネ! 世界中のファンがチコの味方アミーゴサ!」

「新しい好敵手ライバルは大歓迎さ! おまけに『八雲岳ガク・ヤクモの秘蔵っ子』と来たもんだ! この場にお集りの皆々様も今の姿をよ~ぅく見ておいてあげてくれ! あの顔付きがMMA選手として覚醒した頃、オレから挑戦状が届くだろうぜ! 未来の名勝負に乞うご期待!」


 オリバーレスとレオニダス――ラテン系の情熱に満ちた声が脳天へと降り注ぎ、キリサメは左右の肩を反射的に上下させたが、その微かな動きをも岳の両手によって物理的に抑え込まれてしまった。

 岳としてはデビュー戦を直前に控えるキリサメを励ましたかったのであろう。しかし、解きほぐすすべもない混乱に苛まれる彼にとっては最後トドメの一撃にも等しいのだ。

 陸前高田市で出会った『NSB』代表――イズリアル・モニワには養父ちちのようなMMA選手を目指したいのであれば、彼の〝全て〟から目を離さずに追い掛け続けるべきと説かれている。には〝立派とは言い難い姿〟も含んでいるのだが、さすがに現在いまの岳を見習いたいとは思えなかった。


「……地獄への道は善意で敷き詰められている――アマカザリさん、その内にグレるのではないですか? ……ボクなら頭がおかしくなりますよ」


 義兄キリサメに同情の眼差しを向けるひろたかが溜め息と共に呟いた引用ことばと、人の心を弄んで愉悦に浸る寅之助でさえ口元を引きらせてしまう情況は、統括本部長の空回りによって悪夢が生み出されたことを意味していた。

 現在は一二時半を少し過ぎたところである。選手控室のテレビで決着ゲームセットを見届けたレオニダスがファンたちに語った通り、二〇一四年サッカーワールドカップいて日本代表チームが初めて挑んだ試合――コートジボワールとの一戦は惜敗で終わっている。

 日本スポーツ界にとって最良の日とは言い難いわけだが、それはキリサメ・アマカザリという『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーにも当て嵌まったようである。

 何事にも無感情に生きてきたキリサメは己のうちに割り込んできた異質な〝何か〟が〝プレッシャー〟であることを認識できていない。故郷ペルーから日本に移り住んで以来、途絶えることなく訪れた数多の出会いが育んだ心の働きと〝人間らしさ〟がを引き起こしたとは想像しようもないのである。



 二四時間で様相を〝一変〟させたのは当然ながら屋外だけではない。キリサメや希更に随行して下見に訪れていた寅之助はメインアリーナを一目見るなり言葉を失った。人並み外れて青年が双眸を見開き、呆けたように立ち尽くすしかなかったのだ。

 前日に見学した際には何の変哲もない体育館でしかなかった。都内の『さんじゅくがくえん』に通う高校生であり、また少年剣道の指導の為に小学校にも頻繁に出掛けている寅之助には見慣れた景観であった。場所こそ違えども〝体育館〟という施設自体は大きく変わるものではない。

 少なくとも今日までは大差など無いと信じて疑わなかった。だからこそ、MMAの興行イベント会場としてとしか思えない様相に顎が外れるのではないかと心配になるほど口を開け広げたのである。

 良くも悪くも些細なことに動じない寅之助の為人ひととなりを知っている〝身内〟ならば、その様子にこそ驚愕したはずだ。


「……今、この場に電ちゃんが居たらとよとみのひでよしの〝いちじょう伝説〟を持ち出したんじゃないかな。いや、こればかりは『天叢雲アメノムラクモ』と主催企業サムライ・アスレチックスを見直さないわけにはいかないよ」


 学園祭といった催し物の為に体育館を飾り立てることもあるが、寅之助の目の前に現れた〝改造〟はその規模ではない。

 視界に入る全てを享楽に換えてしまえる寅之助でさえ驚愕に打ちのめされてしまうくらいなのだから、思考回路が正常に働いていない現在いまのキリサメが如何なる情況に陥っているのか、改めてつまびらかとするまでもあるまい。

 身辺警護ボディーガードの剣道家と背中合わせの状態で立ち、辺りを見回しながら小さな呻き声とやや大きな溜め息を交互に繰り返している。


すのまたとか歴史上で〝一夜城〟って呼ばれる逸話ハナシは私も聞いたコトがあるけど、超人伝説みたいなモノだって鵜呑みにしないできちんと分析してみれば、その時代の人たちの地道な努力と工夫の成果ってことが殆どでしょ? それと一緒だよ。これがプロの仕事」

「おうおうおう、未稲もたまには良いコト言うじゃねぇか! 懐かしい昔話だけどよォ、オレも一九九九年の大晦日に徳川幕府の埋蔵金発掘へ参加したとき、人類の叡智をこれでもかと思い知ったねェ~。結局、〝お宝〟は見つからずじまいだったんだがな、現代いまと昔、次から次へと神業を繰り出しまくる人間の可能性を味わえたのはデカかったぜェッ!」


 丁度、両者ふたりの中間となる位置まで歩み寄った未稲の言葉に対し、キリサメと寅之助は示し合わせたかのように揃って頷き返した。敢えて触れるまでもないが、彼女の頭を飛び越えてきた岳の放言――曰く、黄金スペクタクルロマン――は聞き流している。

 メインアリーナ一階は南側を除く三方の壁際に可動席が組み立てられていた。これに対してリングサイドの〝特等席〟に並べられた何脚もの補助椅子と二階の固定席は東西南北から選手たちの熱闘を見守る形となっているのだ。

 二階固定席は三〇〇〇、一階は可動席と補助椅子を合わせて二〇〇〇――これら全てを使い切って最大五〇〇〇人もの観客を迎え入れるのだった。

 岩手興行のパンフレットは、その一脚一脚へ既に置かれている。言わずもがな、紙の手配から印刷に至るまでデザイン以外の工程を地元企業に依頼していた。

 リングの様子を一望し得る実況席には前回の長野興行と同じ二脚の椅子が設えてあり、三角形のネームプレートも一つずつテーブルの上に置かれている。そこに記された名前の通り、二人組コンビの指定席というわけである。

 『天叢雲アメノムラクモ』以前からMMAの実況を務めてきた女性フリーアナウンサーのなかはらと、技術面の解説を行う鬼貫道明がそれぞれ着席するのだ。

 一四時開場である為、実況席から観客席に至るまでいずれの椅子も無人だが、設営状況だけを判断材料とするならば、今すぐにでも開会式オープニングセレモニーを始めることができそうだ。スピーカーや補助の照明機器も既に設置が完了している。

 最も奥まった場所に据え置かれた極大な液晶モニターは、見ているだけでも圧倒されてしまうほどの存在感を発揮している。

 こうした形態は『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントける定番スタンダードであり、前回とも殆ど変わらなかった。

 異なる点が全くなかったわけではない。最も大きな違いは一階・南側の壁際に組まれたセレモニー用の特設ステージだ。団体のロゴマークが染め抜かれた青い布で全体が覆われており、浮かび上がった輪郭シルエットから先端が少しばかり尖っていることだけは見て取れた。

 屋外そとと同じく警備員の数も長野興行と比べて二倍近く増えているのだが、これは直接的に運営へ携わっていない限り、気付くことのほうが難しいだろう。

 幾つかの出入り口には伸縮式の特殊警棒を腰のベルトに装着させた警備員がそれぞれ二人ずつ配置されていた。彼らは一階・二階両方の観客席にも直立不動の姿勢で等間隔に待機し、格闘技という〝人権侵害〟に対する抗議の笛を吹き鳴らそうとする者が侵入してはいないか、周囲を警戒し続けていた。

 二階のガラス窓を覆うカーテンまで全て『天叢雲アメノムラクモ』の物に交換されている。足を踏み入れた誰もが奥州市民の為の体育館であることを忘れてしまうだろう。寅之助が施設の〝改造〟という印象を抱くのも当然であった。


「……表舞台の脚光ひかりっていうのはなんだろうな……」


 その寅之助は天井南側に設置されたモニターを仰ぐと、背中合わせに立つキリサメにしか聞こえないくらい小さな呟きをこぼした。

 前日の午前中に〝下見〟で訪れたとき、このメインアリーナは正体不明の怪僧が借り切り、中央にて端然と座禅を組んでいた。焦茶色の僧衣の上から帯の代わりとして古い縄を締めるという風変わりな男は天井モニターと向き合い、何も映していない画面にうつしの一切を〝くう〟とする仏の教えを見出しているようであった。

 現在は電源が入っており、大きな画面に対戦者の組み合わせが次々と表示されていた。 言わずもがな無人の観客席に向けた告知などではなく、モニターの正常な起動を開場直前に確認しているわけだ。

 今すぐにでも開会式オープニングセレモニーを始めることができそうに見えるのだが、何人ものスタッフが場内を忙しなく駆け回っており、各セクションが最終チェックに追われていた。

 MMAを通して日本中を元気付けて見せると誓いながら館内へ入り、優待客の目が届かなくなった瞬間に比喩でなく本当に頭を抱えてうずくまってしまった新貝士行の名前は、第二試合を受け持つ選手としてモニターに表示されている。

 悩み多き『シューター』は長野興行にも出場したギリシャ人選手と相対するようだ。ライサンダー・カツォポリスという名前フルネームがキリサメの網膜に不思議と焼き付いた。

 続く第三試合は希更・バロッサとおおいし・マクリーシュ・の対戦である。後者は縦横無尽にして変幻自在の蹴り技に長けた『たいどう』なる武道を骨子バックボーンとしており、バロッサ家が熊本の道場を中心に教え広めるムエ・カッチューアとの〝異種足技対決〟という趣だ。

 寅之助の口から決して小さくはない舌打ちの音が滑り落ちたのは、希更の名前が画面に大写しとなった瞬間のことである。現在いまはバロッサ家の一族を揶揄して腹癒せをすることもできない為、皮肉よりも遥かにくらい感情を抑え切れなくなり、破裂した水風船の如く漏れ出した様子であった。

 背中合わせのキリサメに寅之助の表情かおを確かめることは叶わないが、例え薄笑いを貼り付けたままでも二つの瞳はやり場のない鬱憤で歪んでいたはずだ。

 電知が文献などから再現させた『コンデ・コマ式の柔道』のような打撃技――あてや投げ技をも含む〝古い時代の剣道〟の道場に跡取りとして生まれ、その奥義を極めた瀬古谷寅之助は〝現代剣道〟の規則に基づいた〝公式の大会〟とは相容れない。

 子どもたちに指導できるだけの技と知識を兼ね備えているのだから、自分自身もに準拠する剣を振るえば全国制覇を成し遂げることも難しくはない。彼の実力をキリサメは身をもって知っているのだ。

 しかし、生まれ落ちた瞬間に〝古い時代の剣道〟を宿命さだめとして背負い、道場の系譜の始まりに立つ森寅雄タイガー・モリから『寅』の一字をけ、またその名を口にするたびに礼を尽くす寅之助には一時の栄光の為だけに『タイガー・モリ式の剣道』ともたとえるべき太刀筋をことなどできないのだろう。

 だからこそ、自分が居るかも知れなかった〝光〟のもとに立つ人々を寅之助は心の底から嫌っていた。になれば〝殺傷ひとごろしの技〟をふるうことのできるバロッサ家の一族が表舞台で脚光を浴びることは特に気に入らず、折に触れてくらい感情を叩き付けていた。

 幼馴染みの電知や恋人の上下屋敷とは比べるまでもなく付き合いが短いキリサメでさえも、希更に対して妬み嫉みを露にする姿を幾度も見てきたのだ。

 寅之助のほうも歪んだ内面をキリサメに見抜かれていることは理解わかっていた。秋葉原で繰り広げた〝げきけんこうぎょう〟の際、平素いつもは軽佻浮薄という名の〝仮面〟で隠している脆さを晒してしまったのだ。


「……寅之助……」


 『寅』の一字を持つ自分には許されなかった〝大舞台〟を見上げた瞬間、己の心に浮かんだ感情モノを背中合わせのキリサメに気付かれてしまった――己の名前を呼ぶ声の調子からそのことを悟った寅之助は諦念の二字を貼り付けた顔で肩を竦め、「サメちゃんも段々と電ちゃんや照ちゃんに似てきたねぇ」と笑うしかなかった。

 依然として互いの顔は覗き込めないが、自嘲気味の笑い声からひとずは平素いつもの寅之助に戻ったことを察したキリサメも我知らず安堵の微笑を浮かべていた。

 そのとき、正面玄関エントランスと直結する扉から顔を覗かせ、自分たちの様子を窺っている女性に気付き、キリサメは一礼をもって応じた。

 インド出身うまれの選手――マルガ・チャンドラ・チャトゥルベディである。

 希更を『天叢雲アメノムラクモ』の出場へ導いた親友と聞いているが、別のバスで総合体育館ここに移動している彼女からデビュー戦を直前に控えた〝後輩〟を見守っていて欲しいと託されたのかも知れない。

 尤も、キリサメの脳内あたまのなかを覗き込むような超能力テレパシーがマルガに備わっていたなら、親友からの頼み事であろうとも呆れ返って控室に引き戻ったことであろう。


(……僕の所為せいで神通氏が心を乱してしまったら、合わせる顔もない……)


 寅之助を気遣う一方、キリサメは彼のように〝表〟の舞台で光を浴びることが許されない神通の境遇へと想いを馳せていたのである。

 プロレスラーとして最も力が充実している頃の鬼貫道明と非公式の異種格闘技戦を繰り広げ、神通が生まれたのちのことであるが、飄然と現れた拳法家と闘って絶命したという彼女の実父――あいかわは、日本MMAの黄金時代に終止符を打った指定暴力団ヤクザとも関わりが深い。

 親の所業を子が背負うことは不条理とはいえ、日本MMAの〝天敵〟とも呼ぶべき存在という事実は揺るがし難く、少なくとも『天叢雲アメノムラクモ』に出場する可能性は絶無である。

 その神通は言葉では語り尽くせないほどの〝共鳴〟を感じた自分の初陣を見届けるべくして岩手まで足を運んでいた。

 寅之助の言葉から察するに地下格闘技アンダーグラウンドと『天叢雲アメノムラクモ』では試合場の規模スケールも比較にならないのであろう。総合体育館へ足を踏み入れた瞬間に如何なる気持ちが湧き上がるのか――ほんの少し想像するだけでキリサメの心には何ともたとえ難い波紋が起こるのだった。

 本来は己もるはずなのだ。

 発祥や様式は違えども互いに殺傷ひとごろしの技を研ぎ澄ませてきたからこそ、余人が割って入ることのない〝共鳴〟を『しょうおうりゅう』の若き宗家と分かち合っている。ふるうことでその日を生きる糧を得てきたという事実を暴かれてしまった己は神通と同じ理由から〝表〟のリングに立つ資格など備えておらず、ましてやバロッサ家の一族ひとびとの如く器用に立ち回れるとも思えない――そのような葛藤をキリサメは拭い取れないのである。

 不意に純白のふんどしが脳裏に甦ったキリサメは、今度こそかぶりを振って妄念を振り払った。

 その際に「母も忙しそうですよ」というひろたかの言葉を巻き込み、に衝き動かされるような恰好でキリサメの視線はガラス窓一枚で隔てられた〝大会本部〟へと向かった。

 一階東側の壁面――その一区画はガラス張りとなっており、場内を見渡せるよう可動席も設えられてはいない。そこに岩手興行を運営する〝大会本部〟が置かれたのである。

 開会式オープニングセレモニーどころか開場前にも関わらず、狭い室内では大勢のスタッフが忙しそうに動き回っていた。ガラス窓の向こうまで怒鳴り声が突き抜けることはなかったが、天井南側のモニターの操作を巡って言い争いも起こっているようであった。

 キリサメの双眸が真っ先に捉えたのは『天叢雲アメノムラクモ』とも異なるロゴマークが刷り込まれたスタッフジャンパーである。屋外おもてに車輛をめている番組制作会社ハーキー・フィルムズの社員たちもこの〝大会本部〟に詰めて立ち働いているわけだ。

 その中心にひろたか実母ははの姿を見つけた次第である。彼が続けた説明によれば、補助の照明機器やスピーカー、極大な液晶モニターに至るまで興行イベントの〝演出〟に用いる全ての機械を〝大会本部〟で一括制御する装置も運び込まれているという。

 いずれも嶺子の手掛けたPVプロモーションビデオには欠かせない機械である。観客の昂揚を試合に向けて最高潮まで盛り上げる重要な仕掛けでもある為、開場寸前まで微調整を繰り返し、万全の状態を模索していくのである。


「楽しみにしてろよ、キリー! 嶺子のヤツ、ペルーの資料映像もしこたま仕入れたらしいからよ! きっとPVプロモを観るだけで里帰り気分が味わえるんじゃねぇかな! ひょっとしたら故郷クニの仲間にも特別インタビューしに行ってるかも⁉ この間も話したろ? オレが最初に出くわした連中あいつらだよ! オレは今! 初陣の大成功がハッキリ見えたぜッ!」


 本人から本気で嫌がられているというのにひろたかの頭を乱暴に撫で回し、かつての妻の業績を誇らしげに語る岳であったが、樋口郁郎によって既に故郷ペルーで犯した罪を暴露されているキリサメにとって「PVプロモーションビデオの制作に力を注いでいる」という言葉は恐怖しか感じないのである。

 この場合にけるPVプロモーションビデオとは入場リングインに際して選手紹介の為に使用される映像を指しているのだが、『天叢雲アメノムラクモ』参戦に至った経緯だけでなく生い立ちなども格闘家たちが背負った物語ドラマとして取り上げている。キリサメからすれば今度は〝何〟を暴かれるのか、分かったものではないのだ。自分と同じ〝血〟を吸い尽くし、ノコギリ状の刃から死の臭いを漂わせている『聖剣エクセルシス』を振るう姿まで知らない間に隠し撮りされているかも知れなかった。

 嶺子の姿を見ているだけでも気が滅入ってしまい、キリサメは〝大会本部〟からいずれ己が歩く花道ランウェイに目を転じた。

 青・白両コーナーに分かれた入場口からリングへ一直線に貫く花道ランウェイである。ファッションショーでモデルが練り歩く物と同じように段差があり、これと隣接する観客席からは自然と選手たちを仰ぐ恰好となる。

 開会式オープニングセレモニーでは出場者全員の紹介も行われるのだが、その際には両コーナーの花道ランウェイに選手たちが等間隔で整列する段取りとなっている。現在いまは『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着たスタッフ数名が花道そこに立ち、真剣な面持ちで何やら話し込んでいた。

 上下ともジャージという若い青年も混ざっており、キリサメの瞳はその男を中心に映していた。外見から察するに年齢はキリサメよりもほんの少しだけ高く、おそらくは成人を迎えたばかりであろう。地肌が露出しない程度に短く切り揃えた髪を茶色く染めていた。

 底抜けにはつらつとした笑顔が眩しくてならず、この場にられる喜びを全身で表している様子であった。キリサメには様々な意味で理解できないことであるが、総合体育館――即ち、『天叢雲アメノムラクモ興行イベント会場の空気を肺一杯に吸えることが嬉しくて仕方ないようだ。

 こんなにも明るい顔の青年をキリサメは日本で初めて見た。それどころか、故郷ペルーでさえ珍しい人間タイプである。

 迸るような熱量は岳や電知に似ていなくもないのだが、その二人とは〝印象〟が明らかに異なっていた。まず顔立ちが日本人離れしている。そこに生じた違和感がキリサメの意識を哀川神通から引き剥がしたようなものであった。

 キリサメにとっては故郷ペルーの日系社会で見慣れた顔立ちとも言い換えられる。外見そのものは似ても似つかないが、が最も近いのは日秘双方の血を引く幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケだ。岳と初めて出会った日に襲撃された日系ギャング団も同様である。

 肌の色はを鮮明に想い出させるものであった。幼馴染みだけでなく、故郷ペルーで巡り逢った多くの日系人と似ているようキリサメには思えた。


「サメちゃんさぁ、あんまり別の人のコトを考えてたら電ちゃんがヤキモチ焼くよ」

「どうして、そこで電知が出てくるんだよ……。せめて、その……神通氏じゃないか?」

「知ったこっちゃないよ、そんなの。気の多い素振りを見せてると、ますます電ちゃんがスネると思うよ~」


 キリサメの脳内あたまのなかに浮かび上がろうとしている幻像まぼろしを察したのであろう。花道ランウェイに立つ青年を眺めつつ、寅之助が彼の脇腹を肘でもって軽くつついた。

 正面玄関エントランスと直結する扉からメインアリーナの様子を窺い、そこにやって来たギロチン・ウータンと立ち話を始めたマルガまで含めて、この場に居合わせている人間の中で寅之助ただ一人がという存在の〝全て〟を知っていた。

 おどけた調子ではあったものの、幻像まぼろしに手招きされて〝闇〟の底へと引きずり込まれないよう食い止めたわけだ。


「話の流れが良く読めないんだけど、瀬古谷さんの言う〝別の人〟ってモニワさん? 確かにモニワさんみたく日本とは別の国の血が入ってるっぽいよ? でも、あんまり似てるとは思えないなぁ~。エキゾチックな顔はその通りだけどさ」

「……ん? んん――ま、そんなところだよ。……そうだね、モニワ氏とも似てるか」


 寅之助に続いて未稲が指摘した通り、陸前高田市で巡りった『NSB』の代表――イズリアル・モニワとも重なるものがある。伊達政宗の重臣・にわつなもとの末裔であり、同時に他国の血を引いている彼女イズリアルもまた日本人のようで、どこか違って見える不思議な雰囲気を纏っているのだ。

 故郷ペルーでは毎日のようにすれ違っていた顔立ちであるからこそ、キリサメはくだんの青年を目で追ってしまうのだった。


「あの人も『天叢雲アメノムラクモ』の選手なのですか? 僕たちが乗ってきたバスにはいなかったと思うのですが……」

「あの顔はボクも記憶にないね。表でやかましく喚いてるアフロ頭みたいに個別に会場入りした選手もいるみたいだし、そっちじゃない? これだけまとまりを欠きまくっておきながら新しいテロ対策を自慢するなんて、ちゃんちゃらおかしいな」

「ああ、カパブランカ君か――彼はリハーサル専門のアルバイトなんだよ。一緒に居る人たちと同じようにね」


 人差し指で当人を示すことは礼儀を失するとして憚り、キリサメは花道ランウェイという言葉を矢印の代わりに用いて青年の素性をたずねた。

 質問した相手は岳ではなく、普段の数倍も昂揚している彼に頭を抱えている麦泉だ。寅之助の皮肉を咳払いで窘めたのち、『天叢雲アメノムラクモ』主催企業のマネジメント部門常務は「キミが興味を持ってくれて嬉しいな」とキリサメに頷き返した。


「リハーサルというのは予行練習のことですよね? ……それが〝仕事〟になるというのが僕には上手く飲み込めないのですが……」

「体制作りは各団体によってだから、あくまでも『天叢雲アメノムラクモ』のやり方というコトになるけど、試合を直前に控えている選手たちにセレモニーのリハーサルを頼むのは余り良くないっていうのが我々の方針なんだよ。……僕もレスラー時代に経験があるけど、試合前の格闘家はとてもデリケートでね。誰もがキリサメ君、キミのように落ち着いていられるワケじゃないんだ」

「……僕もそんなに落ち着いているわけでは……。でも、そういう負担を選手に掛けないよう専属のスタッフを雇うという理屈は何となく分かった気がします」

「ゴングが鳴る瞬間へピークを持っていこうとしているのに、集中を変な具合に断ち切られてしまったら勝敗にも悪い影響が出るからね。……気が立っている選手も多いのはチョルモンさんを見れば一目瞭然だろう? 最良ベスト状態コンディションを維持したままリングへ上がって貰うのも主催企業サムライ・アスレチックスの責任なんだよ」

「そこまで言うならセレモニー自体、やらないのが一番なんじゃないの? 部外者には矛盾の極みにしか聞こえないんだよなぁ。リハ用のバイトを使ったって根本的には何も解決してないじゃん」

「……そればかりは反論しようがなくて悔しいな」


 寅之助の揶揄が突き刺さり、麦泉は困ったように頬を掻くしかない。

 その麦泉の説明はなしによると『カパブランカ』という家名ファミリーネームで呼ばれた花道ランウェイの青年は、興行イベントの中で執り行われる各種セレモニーなどのリハーサル要員として雇用されたそうだ。

 それが為に『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントでは全選手が揃った状態でセレモニーの段取りを確認するようなこともない。例えば開会式オープニングセレモニー花道ランウェイへ並ぶ際にも両コーナーの入場口でスタッフが立ち位置を説明するのだ。

 試合直前の選手を煩わせる必要はなくとも、花道ランウェイを照らす照明の具合や整列時の間隔などを厳密に確認しないとセレモニーの〝演出〟は破綻してしまう。にキリサメが首を傾げた〝仕事〟が発生するというわけである。

 くだんの青年は自分と同じ役割を担う仕事バイト仲間や設営スタッフたちと白コーナーの花道ランウェイで熱心に意見を交わしている。対角線上の青コーナーでは別のチームが試験的に照明を浴びていた。眩しそうに俯き、「この立ち位置だと選手にも同じ影響が及ぶかも知れない」と報告したのは女性である。同性の選手に対応するリハーサル要員なのであろう。

 「個人情報を大っぴらに話すのは良くないんだけど」と前置きしつつ、くだんの青年には今までに幾度も『天叢雲アメノムラクモ』を手伝ってもらったのだと麦泉は明かした。観客の目が届かない〝裏方〟として働いていた為、キリサメや未稲が気付かなかったのは無理からぬことであろうが、前回の長野興行が開催された冬季オリンピック関連施設にも駆け付けたという。

 麦泉は明言しなかったが、くだんの青年は主催企業サムライ・アスレチックスの正規職員ではなさそうだ。おそらく他の仕事バイト仲間や設営スタッフと同じように興行イベントごと短期雇用の契約を結んでいるのだろう。


「設営を手伝ってくれる地元企業は勿論、首都圏や他県からわざわざ〝旅先〟を追い掛けてきてくれる人も多いんだ。のようにね。……僕たちは何人もの善意に支えて貰って初めて大会を開催できるんだよ。キリサメ君、それだけは忘れないでおくれ」


 白・青両コーナーを見回し、誇らしげな眼差しを向ける麦泉が〝何〟を伝えたいのか、これを察することができないほどキリサメも遅鈍ではない。

 怪我の後遺症によって早くに現役を退かなくてはならなかったが、麦泉文多もまた鬼貫道明のもとに集結した異種格闘技戦の世代――『鬼の遺伝子』に列するプロレスラーの一人なのである。興行イベントを支えてくれる数多の力を深く噛み締めているのだ。

 このときばかりは寅之助さえも無粋な揶揄を口にしなかった。


「おうおう! 今のって『こうせい』のハナシだろ⁉ 岐阜の大学生なんだよ、こうせい! 毎回、必ず応募してきてくれてなァ! キリー、なァ、あいつもな! あいつもMMA選手志望なんだぜ! さっきまでリングで模擬戦スパーリングもやったんだ! いやァ~、キリーにも見せてやりたかったぜ! 覚醒した〝ステート・アマ〟の遺伝子が――」

「……センパイ。統括本部長ともあろう人がアルバイトの個人情報をバラ撒くのは如何なものでしょう。取り扱い注意っていつもいつもいつも釘を刺してますよね」

「細けェコトは言いっこナシだぜ、文多~! こうせいが見せた才能にはお前だって感心してたじゃねぇか! 未来の金メダリストだってよォ~! オレはまさか、生きてる間にこの目で『ジュードーキックボックス』を拝めるなんて思わなかったぜェ!」

「僕たち二人の間での会話と音量最大マックスのスピーカーみたいな真似を一緒にしてしまう時点で、事態ことの深刻さが理解できていないんだよなぁ……」


 開幕前の会場を初めて目の当たりにしたキリサメに対し、『天叢雲アメノムラクモ』のMMA選手として大切な心得を説き聞かせようとする麦泉の声を不調法に押し流したのは、改めてつまびらかとするまでもなく岳の大音声だ。

 最悪としか表しようのない割り込み方は麦泉当人のみならず『天叢雲アメノムラクモ』という団体を冷ややかに見つめている寅之助まで唖然とさせた。無論、岳は二人の様子など視界にも入れておらず、一等熱烈な声で「こうせい」と繰り返している。

 一切の遠慮もなく指差す姿から察せられる通り、虹晴それ花道ランウェイにて異国情緒を醸し出している青年の名前ファーストネームなのだろう。

 相変わらず底抜けに興奮している岳は大仰に両手を振ってくだんの青年――カパブランカこうせいを呼び寄せようとしたが、麦泉はこれを慌てて制し、そのまま打ち合わせを続行するよう主催企業サムライ・アスレチックス常務の立場から皆に促した。

 そのまま麦泉が続けた説明によれば、岳が述べた模擬戦スパーリングもMMA選手の疑似体験などではなくリハーサル業務の一つであるそうだ。撮影スタッフはリング上でのを本番同様に撮影し、カメラアングルなどを確認しなければならないのである。

 ときにスポーツは「筋書きのないドラマ」と呼ばれることがある。それはつまり、大会運営側からすれば段取りを立てにくいということだ。MMA興行のリハーサルもはたで眺めている以上に難しく、その業務は多岐に渡るのであった。


「……年齢的には〝ステート・アマ〟の子孫といったところですか。東欧系の名字でもない上に『ジュードーキックボックス』とは……。ひょっとするとご家族はキューバの方なのかな……」


 キリサメには意味が理解できなかった〝ステート・アマ〟という奇妙な言葉にひろたかは閃くものがあったらしく、カパブランカこうせい起源ルーツはキューバであろうと推察していた。

 格闘技の一種とおぼしき『ジュードーキックボックス』にも彼は聞きおぼえがあるようだ。

 言わずもがな、カリブ海に浮かぶ島国である。首都ハバナからアメリカ合衆国・フロリダ州の最南端キー・ウェストまで海峡を跨いで二〇〇キロにも満たない距離にも関わらず、一九六一年一月三日――ジョン・F・ケネディ大統領の時代に〝東西冷戦〟を背景として国交を断絶している。

 両国の通商を停止する大統領令へ署名サインする前夜、ケネディ大統領が報道官を務めていたピエール・サリンジャー報道官に愛してやまないキューバ産葉巻を確保できるだけ確保するよう指示した話は有名であった。その数は実に一二〇〇本――掻き集められた内の一本をいながら政令書をという実しやかな風聞うわさも囁かれている。

 のちに『キューバの雪解け』と呼ばれる歴史的転換点を迎えるのは、もう少し先のことであった。


「……横槍の所為せいで麦泉さんの話が途中で断ち切られてしまいましたが、この興行イベントには色々な人が関わっているというコトでしょう。あの人はいずれあなたの――アマカザリさんの後輩になるかも知れませんね」

「あ~、それはあるね。お父さんもさっきMMA選手志望って言ってたもんね。大学生なのにキリくんの後輩なのかぁ~。そういうは大好物だよ、うんっ」

「……未稲さんの思考は相変わらずワケが分かりませんね。お父上と揃って口を糸で縫い付けておいてください。思い切り太いヤツで何針も何針も」

「ツッコミにしたってキツ過ぎない⁉ 愛が欲しいなぁ、もっと愛が欲しいなぁ~!」


 未稲の素っ頓狂な悲鳴はともかくとして、姉弟の間で交わされた言葉は答え合わせを必要とするものであり、二人の意図を悟った麦泉は新人選手キリサメの理解を促すようにして首を頷かせて見せた。

 リハーサル要員のアルバイトを通して『天叢雲アメノムラクモ』との繋がりを深め、いずれは同団体からMMA選手としてプロデビューを果たしたい――と、カパブランカこうせいは熱望しているのかも知れない。〝裏方〟の仕事もまた〝下積み生活〟の一環というわけであろう。


「MMA選手の後輩に間違いはないけど、カパブランカ君の場合、『天叢雲うち』じゃなくて日本代表としてオリンピックに出場するのが夢なんだよ。僕も社長と一緒に面接試験を担当したんだけどね、金メダルへの情熱が尋常じゃなかったなぁ~」


 尤も、姉弟の見立ては〝正解〟とは言い難かったようである。確かに〝下積み生活〟に違いはないが、青年の掲げた目標はプロデビューとは真逆といっても差し支えのないものであった。

 岳の口から明かされた評価ことだが、麦泉は青年の才能を〝未来の金メダリスト〟と褒め称えたのである。


「ボクは基本的に興味がありませんし、これから過去の大会プログラムを調べようとも思いませんが、そもそも総合格闘技MMAってオリンピック競技でしたっけ?」


 我知らず小首を傾げたキリサメに先んじて麦泉に疑問を投げ掛けたのは寅之助だ。

 つい昨日のことであるが、宿所の展望カフェで哀川神通と語らったときにも空手や古武術の行く末を巡ってオリンピックが話題に上っている。その際にもMMAが正式種目として採用される兆候があるとは未稲もひろたかも話していなかった。

 その姉弟にとっても麦泉の説明はなしは理解に苦しむものであったようで、互いの顔を見合わせながら目を丸くしていた。六年後に開催されるの東京オリンピックにいて正式種目化の最有力候補と目されている空手とは異なり、MMAにはIOC国際オリンピック委員会総会で協議される可能性も無い――それは二人の表情かおが物語っている。


「勿論、MMAはオリンピック競技として認められてはいないよ。言うまでもなくパラリンピックもね。正式種目に採用されるとしても将来これからのことだよ。……ずっと先のね。空手に負けまいと『MMA日本協会』が競技化を推進しているし、おりはら理事長自らアマチュア選手――つまり、オリンピック出場候補を育てようと音頭を取っているんだ」


 麦泉が折原という個人名なまえと共に挙げた『MMA日本協会』の理事長とは、岳が好敵手ライバルの一人として対抗意識を燃やしている人物であろう。きょういししゃもんから経緯を教わった東北復興支援事業プロジェクトの旗揚げにもその名前が登場している。

 黄金時代の終焉と共に日本MMAのリングから去ってしまった伝説の覆面レスラーの愛弟子であり、その男が『とうきょく』の理論に基づいて完成させた〝総合格闘技術〟を受け継ぐ『シューター』である――と、沙門による説明をキリサメもおぼえていた。

 その男――ヴァルチャーマスクが導いた二つの〝道〟の片方を担う折原であれば、MMAをオリンピックの正式種目とするべく力を尽くしているとしても何ら不思議ではない。

 麦泉が付け加えた説明によれば、折原が所属する〝総合格闘技術〟の全国組織ではアマチュア選手による競技大会も積極的に開催しているという。


「陸前高田市でモニワさんと合流したときにも少し話したかな? 『NSB』もかなり以前からアマチュアMMAの普及に力を注いでいるんだよ。そもそもMMAはアメリカで発展した〝格闘競技〟だからね。日本の大会で柔道や空手が正式種目に認められたように、オリンピック競技化の芽があるとすれば、やっぱりアメリカ開催のときが狙い目じゃないかって言われているんだ」


 そのアメリカは近年のオリンピック招致活動でブラジルや日本におくれを取っている。同国での開催が決定し、尚且つ正式種目を呼び掛ける声が国際社会でも高まるという条件が全て整えば、最も早くて二〇二四年のプログラムにMMAという競技名なまえが記載されることであろうが、これは〝運命の気まぐれ〟でも起きない限りは有り得ない――と、麦泉は少しばかり抑えた声でもって厳しい見通しを述べた。

 MMAの歴史を遡っていくと空閑電知が尊崇する伝説の柔道家――世界中を経巡って異種格闘技戦を繰り広げた前田光世コンデ・コマに辿り着くわけだが、彼が没したブラジルで二〇一六年に開催されるリオオリンピック・パラリンピックでも同競技MMAは正式種目とすべき候補にすら入っていない。

 日米両国の団体がアマチュア選手の育成に力を注いではいるものの、MMAの礎とも呼ぶべき『ブラジリアン柔術』の発祥地でさえ、オリンピック競技化には消極的ないしは最初から見込みがないと諦めていたのであろう。

 つまり、花道ランウェイに立つ青年がとしてオリンピックへ出場するまでの道程には想像を絶する困難が待ち構えているというわけである。何しろ本人の才能や努力では動かし難い領域で夢の行く末が決まってしまうのだ。


「沙門氏からの聞きかじりですけど、確かモニワ氏はアマチュア選手の人材発掘や育成をやっていたんですよね? そういう取り組みはMMAの団体に必要でしょうが、……寅之助が言うように必ず競技採用される保証もない中でオリンピック出場を当て込むのは余りにも無茶では……?」

「キリー、だからこそ夢なんだよ! 夢っつうのは見果てぬモンと相場が決まってるし、先が読めねぇくらいで丁度良いぜ! 嵐の船出ほどが面白いモンはねェ! こうせいが日本MMAの第一号オリンピアンってワケさ! さしずめ二一世紀のないとうかつとしってトコだ!」

「……おそらくアマカザリさんはご存知ないでしょう? ないとうかつとしは日本で初めてレスリングのオリンピック代表選手になった人で、尚且つ日本初の銅メダリスト。初出場のパリオリンピックでメダルに輝いたんです。かつての異名は『タイガー・ナイトー』――広い意味ではMMA選手たちの〝先輩〟と言えなくもありませんが……」

「弟クンってば気持ち悪いくらい格闘技に詳しいね。ボク、ちょっとヒき気味だよ」


 岳が喜々として口にし、ひろたかが横から解説を加えた内藤克俊とは一九二四年パリオリンピックへレスリング・フリースタイルの日本代表として出場した選手オリンピアンであった。

 元々は柔道家であったが、アメリカへの留学中にレスリングと出会い、日本人でありながらペンシルベニア州立大学でキャプテンに就任するほどの才能を開花させた。紆余曲折を経て一九二四年パリオリンピックの代表選手に選ばれ、同大会でただ一枚のメダルを日本にもたらしたのだ。

 更に言えば、格闘技で初めての日本人メダリストである――ともひろたかは付け加えた。

 レスリングやフェンシングといった〝格闘競技〟は一九二四年パリオリンピックより以前から正式種目であったが、そもそも当時の日本では同競技レスリングそのものが普及しておらず、出場条件を満たす選手の選出も難しい状況であった。

 柔道の紛い物のようにされ、軽んじられていた時代である。内藤克俊も日本にける先駆者として普及に力を尽くしたものの、後に続く者はなかなか育たず、国内で本格的に発展するには初のメダル獲得から八年後――〝日本レスリングの父〟と呼ばれるはっいちろうの登場を待たなくてはならなかった。

 内藤克俊は一九二四年パリオリンピックから間もなくレスリングを辞めてし、前田光世コンデ・コマが『ブラジリアン柔術』の種を蒔いていた時期のブラジルで柔道普及に心血を注いだ――と伝わっている。

 つまるところ、岳は身勝手にもカパブランカこうせいの挑戦を内藤克俊の偉業に重ねて昂奮しているわけだ。彼が第一号オリンピアンとして活躍し、これによってアマチュアMMAが爆発的に広まることまで夢見ているのかも知れない。


「夢はそれくらいデッカくなけりゃ割に合わねぇ! そうだろ、キリーッ⁉」

「いえ、ですから、それが無謀なのではないかと……」

「サメちゃんもさぁ、保護者相手に気を遣わないでボロクソ言っちゃいなよ。手札カードがブタの状態で有り金全部を賭けるポーカーなんて聞いたコトある? 人生を棒に振るのが趣味としか思えない向こう見ずのどこを褒めりゃ良いのさ。夢って一言は便利だけど、それでも誤魔化せないバカってだけじゃん」


 徳川埋蔵金の発掘へ無邪気に参加するような人間は、夢という一言を都合良く考え過ぎている――と、容赦なく畳み掛ける寅之助に対し、岳は子どものように歯軋りでもって憤りを表したが、キリサメは養父を追い立てる皮肉にこそ道理があるとしか思えなかった。

 カパブランカこうせいの人生に責任を持つ立場でないにも関わらず、破滅への片道切符となり兼ねない夢を煽り立てる無神経さは養子キリサメも全く擁護できない。


(電知が夢見ている世界最強のほうがまだ実現できそうだよな。……その段階で絶望的としか言いようがないんだけど……)


 オリンピック・パラリンピックは四年に一度の開催である。言葉にするのは容易いが、二〇一四年の時点で大学生ということは、麦泉が可能性の一つとして割り出した一〇年後の大会オリンピックへ初出場するとしても三十路前後となってしまう。

 二〇二四年に正式種目として認められたなら〝日本MMAの第一号オリンピアン〟という夢は叶うが、協議そのものが却下された場合には更に四年、それでも競技化が果たされないとまた四年と、人生の大切な時間を無為に過ごすことになるだろう。

 オリンピック憲章からアマチュアリズムが削除され、商業化が加速し、〝プロ〟の参戦が解放されたとはいえ、出場を夢見る選手の多くは依然としてアマチュアなのだ。興行イベント報酬ファイトマネーを稼ぐことは〝プロ〟でないと叶わず、『リーマン・ショック』と、これに連鎖した〝第二次世界恐慌〟の爪痕が残る現在いま出資者スポンサーの援助を得ることさえ難しい。

 歳月を重ねるたび、練習すらままならないほど困窮してしまうのは明らかだった。一度、生計を立てる為に〝プロ〟となり、MMAのオリンピック競技化の気運が高まった時点でアマチュアに転向するという変則的な選択肢もあるだろうが、それもまた筆舌に尽くしがたい困難が予想されるのだ。

 その間にも努力や才能で補えないほど肉体は衰え、仮にMMAが競技化されたとしても代表選手オリンピアンに選ばれる可能性のほうが先に潰えてしまう。キリサメも故郷ペルーでは未来のない刹那的な日々を過ごしてきたが、実現する見込みがない夢の為に己の人生を犠牲にしてしまえる気持ちは僅かとて理解できなかった。

 命さえも大望に捧げようとする覚悟は『くうかん』空手の組織改革に奔走するきょういし沙門や、流派の歴史に〝帰依〟した古武術『しょうおうりゅう』の宗家――哀川神通に通じると思えなくもないのだが、さりとて二人のように具体的な展望を持っているとは考えられない。

 折原理事長ひいては『MMA日本協会』が推し進めるアマチュア選手の育成は、数年での成果を最初から求めない長期計画であろう。『NSB』側の普及活動も大きくは変わらないはずだ。日米のMMAを司る人々の意向は〝日本MMAの第一号オリンピアン〟を目指す青年に大願成就を確約するものではなかった。

 カパブランカこうせい模擬戦スパーリングで垣間見せた才能を麦泉は〝未来の金メダリスト〟と評したそうだ。これを聞いた岳は直線的に興奮していたが、麦泉本人はその一言に何ともたとがたい複雑な感情を込めていたはずである。

 主催企業サムライ・アスレチックスの常務は不祥事を起こした新人選手ルーキーに対し、ひとたび、〝プロ〟としてMMAのリングへ臨むと決意した以上は後戻りなど許されないと厳しく諭している。格闘技に人生を懸けることの難しさを統括本部長以上に重く考えている証左であろう。だからこそキリサメにも最初は『天叢雲アメノムラクモ』ではなく高校へ通うよう勧めたのだ。


「いずれはボクも瀬古谷の道場を継ぐことになるけど、ぶっちゃけ自分の代で潰しても構わないと思ってるし、そのときに備えて手に職は付けたいよね。照ちゃんにもひもじい思いをさせるコトになっちゃうもん」

「意外~! 瀬古谷さんの口からそんな現実的な話が出るとは思わなかったよ! 将来を放り出したようにしか見えない普段いつものの無軌道っぷりはひょっとして芝居フェイク? 愛する恋人ひとの為に人生設計も密かにバッチシっていうのがホントの顔なら、照ちゃんだって落差ギャップにやられてベタ惚れになっちゃうよね~」

「ボクに言わせればサメちゃんもと大差ないけどね。何時までもMMAで食べていけるワケじゃないんだし、適当なトコで身の振り方を考えたほうが良いよ? 自滅志望者のカレはある意味、最高イチバンの反面教師じゃないかな」

「いやいやいやいや、ちょっとちょっと! そーゆー人生設計をキリくんに指導レクチャーして欲しいって頼んだワケじゃないですから! デビュー戦当日の選手にそれを言いますか⁉」

「ていうか、さっきから独り言がウザいよ、キミ。現実世界と〝ネトゲ〟の世界の区別がついてないの? 寝言を並べたいんだったら他所でやってくれよ。邪魔の極みってヤツ」

「言い合ってるつもりだったのって私だけ⁉ 今日は全体的に私の扱いが悪いね⁉ レオニダスさんじゃないんだから独演会なんて誰がやるかぁっ!」


 今、カパブランカこうせいは日本MMAの最前線の空気を肺一杯に吸い込んでいる。ただそれだけでも心が満たされるのだろう。はつらつとした笑顔は途絶える瞬間もない。

 夢は叶うと信じて疑わない無垢な明るさがキリサメには痛ましくてならず、寅之助の皮肉を自らへの戒めとして素直に受け止めた。

 彼と対峙しようとして返り討ちに遭った未稲には憐憫の情を禁じ得ないが、その言葉は毒にも薬にもなりそうにない為、殆ど聞き流している。


「おっしゃあ、キリーッ! 未来の後輩が先に温めといてくれた決戦の舞台に上がってみるか⁉ いや、まだリハが終わっちゃいねぇか! もうちょいしたら完全に空くからよ、そしたら念入りにリングチェックしとこうぜッ⁉」

「……昨日、似たような台詞ことを希更氏にも言われたような気がしますよ」


 仕切り直しを図ろうというのか、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長が一等大きな声を張り上げながら決戦の舞台――メインアリーナの中央を指差すと、両腕を高く突き上げた〝未来の後輩〟が花道ランウェイから天井に跳ね返るほど大きな拍手を添えた。

 メインアリーナ中央に鎮座しているのは、未明の地震に対する安全点検が完了した直後から設営に取り掛かったものとおぼしき七メートル四方のリング――総合格闘技MMAの試合場である。

 こんにち総合格闘技MMAは、その礎たる『NSB』が使用している金網で仕切られた八角形オクタゴンの試合場――野獣を捕らえておくかのようなケージが一つの基準スタンダードであり、世界中の他団体がこれに準拠している。『MMA日本協会』傘下の団体も同様であった。

 これに対し、鬼貫道明が繰り広げた異種格闘技戦の直系とも呼ぶべき『天叢雲アメノムラクモ』は、プロレスという〝原点〟を尊重している為、前身団体バイオスピリッツの時代からプロレスラーと同じ四角いリングで戦い続けているのだ。

 バブル期の成功体験を何時までも振り翳し続ける人々と同じように、二〇〇〇年代半ばに終焉を迎えた日本MMAの黄金時代を未だに引き摺っているという批判は絶えないが、『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げの際にもを見直すという選択肢は最初に切り捨てられたのである。

 四角い土台の上に衝撃を和らげるマットが敷き詰められ、四隅にはクッション材で覆われた支柱ポールが立ち、これらを三本のロープで結び合わせることで完成されるリングは、異種格闘技から総合格闘技へ時代が移ろっていく中でも決して変わらなかった闘魂たましいの継承というわけだ。

 くだんのマットは一枚の大きなシートで覆ってあり、その中央に『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』つまりMMAの正称が英字で刷り込まれていた。にカパブランカこうせいの志とは対極の〝精神〟が添えられている。

 これを取り囲むような形でスポンサー企業のロゴマークが並んでいるのだが、その数は一〇を超えている。当然ながらメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』が最も目立っていた。


「……ちょっと待ってください。何だ、あれは――」


 養父の右人差し指が示す先へと視線を巡らせたキリサメは、その瞬間に言葉を失った。

 〝日本MMAの第一号オリンピアン〟を目指すカパブランカこうせいがリハーサルの一環として模擬戦スパーリングを行い、間もなくキリサメ自身も初陣を飾ることになるリングが正体不明の集団に占拠されようとしていたのである。

 リングチェックに訪れた『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟ではない。MMA選手どころか、現代を生きる人間ですらないのかも知れない。出入り口の一つから群れを成すような恰好で闖入してきた者たちは唖然呆然と立ち尽くすキリサメを一瞥することもなく、金属の板を擦り合わせるような異音おとを立てながらMMAのリングに上がっていく。

 彼らがその身に纏うモノをキリサメは生前の母による授業で見たことがある。日本ハポンの歴史を取り上げた際、教材の中に「のちのちの時代に復元された装備」という注釈が添えられた写真が掲載されていたのである。

 今は亡き神通の父親――あいかわの研究対象でもある中近世の日本で武者たちが身に付けていたよろいかぶとだ。鎌倉時代の主流であったおおよろいほしかぶとと比べて全体的に小振りであり、洗練の二字を見る者に印象付けている。誰も彼も〝とうせいそく〟と呼ばれる物で全身を固めていた。

 大きく動くたびに色とりどりの紐や鋲で組み合わせた板金が擦れ合い、先ほどキリサメの鼓膜を打ったような異音を奏でるのだ。

 中には岳が愛用する物と同じ袖のない陣羽織を鎧の上から纏っている者もいる。戦国乱世から現代日本へと時空を超えてやって来たとしか表しようのない鎧武者の一団が草鞋でもってマットを踏み締めていた。


はせくらつねなが殿、ご謀叛! 支倉殿、ご謀叛ーッ!」


 鎧武者の一団が飄然と現れただけでも意味不明であるのに、今度はメインアリーナの照明が出入口の誘導灯を除いて全て落とされ、暗転の直後に「ほん」という時代錯誤な吼え声がスピーカーから闇の只中へと迸った。

 両手両足の指を全て使っても足りない人数の警備員が誰も動かず、『天叢雲アメノムラクモ』の統括本部長と主催企業サムライ・アスレチックスの常務もすいすらしないので大統領専用機エアフォースワンを襲ったようなテロ攻撃ではないのだろう。我が身を盾に代えてキリサメを庇おうとした寅之助も帆布製の竹刀袋から得物を抜き放つことはなかった。

 キリサメのほうも未稲とひろたか守護まもろうとしたが、この尋常ならざる事態が〝演出〟の一環ということを間もなく認識した。間近に立っていた岳が怪異としか表しようのないリングに向かって「いよォ! 待ってましたァ!」と拍手を送ったのである。


「――我がかたさまは確かに仰せられた。今は雌伏の時であると。我が奥州に天下を取り戻す為、大いなる神を味方にせよと我らにお申し付けになられたのだ。……身の震える思いを忘れるわけがありますまい! そのこそ命を捨てても構わぬ夢でござった!」


 間もなく真っ赤なスポットライトが闇の中に一人の武将を浮かび上がらせた。

 真っ白なマントを羽織っているので肩の部分は判然としないが、一枚の板金を鍛えたものとおぼしき胴鎧を纏っている様子だ。その表面には十字架をイメージした装飾が施されている。同じ紋様はマントの左右と背面にも刺繍されていた。

 放射状に広がるフリルの塊を首にのだが、これは近世ヨーロッパの貴族や富裕層が用いていたひだえりである。

 蛇腹状に幾重にも織り込まれた装飾品は両腕の動きを妨げるのではないかと思えるほど大振りであり、傷口を舐めて雑菌が入ることを防ぐ為に動物の首へ装着する円錐台形の保護具を想い出した未稲は、笑いを堪えた拍子に子犬の鳴き声を彷彿とさせる音を鼻で鳴らしてしまった。


「希望を胸に拙者は億万もの波濤を超え、神聖なる地を一途に目指したのでござる! それが何ゆえ今になって意を翻された⁉ 何ゆえ忌々しき徳川将軍に服従されるのか⁉ かたさまの野望に未来を賭けた拙者への報いがとは如何に⁉」


 ひろたかから鼻で笑われた未稲の痛手ダメージはさておき、その武将は和洋折衷と表すのが最も相応しい出で立ちである。他の者たちと異なり、彼だけは草鞋ではなく乗馬用と思しき革靴ブーツを履き、甲高い足音おとを怨念の声に巻き込みながらリング上を闊歩しているのだ。


「……断じて認められぬ! かくなる上は徳川幕府転覆の為に大いなる神より預かりしこの力をもっかたさまに物申す! 敢えて今、拙者は謀叛人の汚名を承らん!」


 やがてリングの中央で足を止め、「謀反人の名は支倉常長! 奥州の歴史にこれを刻むべし!」と高らかに吼え、腰にいた剣のツカへと右の五指を引っ掛けた。中近世の日本で普及していた太刀ではなく、西洋の騎士が用いたような長剣ロングソードである。


「敵はまさむね! 大いなる神の祝福はこの常長にあり!」


 仰々しく長剣ロングソードを抜き放った異装の武将――支倉常長は鋭い剣先でもって天をいた。十字架をかたどった鍔がスポットライトを跳ね返し、天に逆らうような軌道で真紅あかい稲妻が煌めいた。


「支倉常長ァッ!」


 異装の武将が名乗りを上げた直後、白コーナーの花道ランウェイで一際大きな声が上がった。その名を一字一句に至るまで正確に復唱したのはカパブランカこうせいである。

 仕事アルバイト仲間から苦笑交じりで窘められている青年を闇の向こうに見つめたひろたかは「これで確定ですね」と一人静かに頷いた。

 和洋折衷とたとえるべき装備やスポットライトといった〝演出〟はともかくとして――支倉常長は伊達家に仕えた実在の家臣である。

 『ドン・フィリッポ・フランシス』の洗礼名を持つカトリック教徒の武将であり、その敬虔な信仰心を見込まれて〝かた〟――伊達政宗から通商交渉を目的とするけんおう使せつの正使に抜擢された。先程は己一人で海を渡ったとも聞こえるような台詞で大見得を切っていたが、実際には二〇〇人近い使であった。

 世に言う『けいちょうけんおう使せつ』である。

 支倉常長たち使節団は数々の試練――第一回目の航海の際は船が座礁――に遭いながらもイスパニア(現在のスペイン)の領地及び本国、更にはカトリックの〝総本山〟であるローマなどを訪問し、政宗に託された使命を見事に果たしたのである。

 当時の欧州ヨーロッパいて絶大な勢力を誇っていたイスパニアから援軍を取り付けるという密命が支倉常長に託されたという伝承もある。圧倒的な軍事力を誇る大国の後ろ盾を得て江戸幕府におおいくさを挑まんとする北の独眼竜最後にして最大の画策であった。

 無論、これは決して権力に屈しない反骨の風雲児という伊達政宗の幻想イメージが生み出した俗説に過ぎまい。の支倉常長と『慶長遣欧使節』は遠洋航海術が完成していない江戸時代初期に大海原へと旅立ち、現在のスペインやローマなどを巡歴したわけであるが、その航路にはキューバも含まれていた。

 『慶長遣欧使節』は太平洋を横断し、メキシコとキューバを経由して欧州ヨーロッパへ赴いたのである。当然ながら支倉常長は同国キューバへ上陸した初めての日本人であった。

 支倉本人が立ち寄ったという首都ハバナには二〇〇一年四月に両国の友好の証として宮城県の私立高校から彼の銅像が寄贈された。その台座は特別に拵えた物で、仙台城石垣の石が使用されているのだ。

 その銅像が立っているのは旧市街地のセスペデス公園である。閉じた扇でもって遥けきローマを指し示す姿は凛々しく、支倉常長は首都ハバナで最も有名な日本人となった。

 支倉常長の足元には進路と帰路両方の距離が刻まれている。そこからローマまでは八七〇〇キロ、仙台までは一一八五〇キロであった。

 そのことを知っていたからこそカパブランカこうせいの反応に気付いたひろたかは「これで確定」と得心した次第である。


「前口上など無用! 我らが見立てを誤ったか、大望は花開いたか――刃を交えればたちまち分かろう! このげつさいとこうつしわかつ橋を渡って参った! わしの命をにえの如く捧げた答えを今こそ賜らん!」


 次に緑色のスポットライトを浴びて二つの人影が暗闇に浮かび上がった。

 静寂の二字こそ最も似つかわしい佇まいで屹立するのはかたくらじゅうろうかげつな。噴火とたとえるべき怒号を真隣で張り上げ、荒々しく太刀を抜き放ったのはおににわげつさい――共に伊達政宗の重臣である。

 今し方、発せられた言葉から察するに両雄は既に〝この世の者〟ではなく、支倉常長が大いなる神より授かった力で復活したようだ。

 二人とも揃って白い陣羽織を纏っている。常長のマントのような紋様はなく、死装束を彷彿とさせる物だ。兜を用いる景綱に対し、左月斎は左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛っていた。

 その上、家名の通りに木彫りのめんで顔を覆っていた。おそらくは老いた鬼をかたどっているのだろう。鼻の下と顎を白髭でもって装飾している。

 鬼月斎へ倣うように景綱が太刀を抜いた直後、彼らの対角線上に青いスポットライトで一つの人影が浮かび上がった。

 毛虫をかたどった前立ての兜を被り、今すぐにでもかっせんへ飛び出していきそうな重装備で抜き身の太刀を構えているのは、敵味方に別れて対峙する三将ともかつて肩を並べて政宗を支えた朋友――しげざねである。

 徒手空拳で技を競い合う為のリング上でそれぞれ得物を構える武者たちは、立ち居振る舞いが過剰なほど芝居がかっており、キリサメには舞台劇のようにしか思えなかった。それは真隣に立つ寅之助や、未稲とひろたか姉弟ふたりも同様である。

 格闘技そのものに対する理解度と勉強が足りていないキリサメではあるが、少なくとも未稲から渡された手作りのマニュアルの中に『MMAのリングが演劇集団に乗っ取られた場合の対処』という項目はなかった。

 つまるところ、キリサメが初陣を飾る舞台を占拠したのは、支倉常長が遣欧使節の大任を果たして帰還した直後という〝設定〟に基づく演劇であった。演者たちの物々しい出で立ちからすると、あるいは〝けんげき〟と表すほうが正確であるのかも知れない。

 史実では支倉常長が帰国したのはげん六年(一六二〇年)八月であるが、この頃もまだ壮健な伊達成実とは異なり、政宗の軍師とも讃えられた片倉小十郎景綱は五年前に病没している。鬼庭左月斎に至っては三〇年以上も前に絶体絶命の合戦で壮絶な討ち死にを遂げていた。

 それ故、両雄については人智を超えた力によって現世に甦ったという筋書きが作られたのだろう。「わしの命をにえの如く捧げた」という左月斎の仰々しい台詞は、最後まで政宗を守り抜いたという本懐を踏まえたものである。

 いずれにせよ、伊達成実がえにしの深い三将から〝かた〟を守るべく駆け付けたことだけは間違いなさそうだ。


「リハーサルってコトはこの〝剣劇チャンバラ〟を今日の興行イベントの幕間にやるってコトだよね? 誰か一人でも冗談キツ過ぎって思わなったの、これ? ……モニワさんに対する最強レベルのイヤミじゃん。怒らせても知らないよ~」

「……みーちゃん、それは一体、どういう……?」

「あの薄気味悪いお面を付けた人、左月斎って名乗ったよね? 本名フルネームは鬼庭左月斎。『NSB』のイズリアル・モニワさんのご先祖様なの。正確には〝ご先祖様の役〟って言うべきかな? ご子孫の前でるっていうのは、開幕一〇秒足らずで登場しちゃったご本人と並んで物マネ大会をやらされるのと一緒でしょ。色々な意味で度胸あるよねぇ~」

「電ちゃんはともかく、キミも戦国武将に詳しかったのかい? コスプレ丸出しな実父おとうさんと違って興味なさそうに思ってたけど、意外だねぇ~」

「伊達家の皆さんには昔からお世話になってたからね。マイキャラは政宗様だよ」


 「中学生の頃、戦国時代を題材にしたテレビゲームを遊び倒した」という返答で寅之助を納得させた未稲の説明はなしによれば、左月斎の息子であるつなもとの時代に故あって〝鬼庭家〟から〝茂庭家〟へと名前を変えたそうだ。

 イズリアル・モニワ自身がその功績を熱弁していた伊達家随一の外交官・にわつなもとのことであろうと、キリサメも時を置かずに理解できた。

 歴史に造詣の深い電知がこの場にったなら、より詳しく解説を聞くことができたはずだが、MMAのリングで思うがままに振る舞っているのは、〝東北の雄〟たる伊達家の代表的な武将たち――正確にはに扮した人々である。

 本日の興行イベントにて臨時の視察を受け容れておきながら、わざわざイズリアル・モニワの神経を逆撫でし兼ねない〝けんげき〟を幕間に配置するというのは主催企業サムライ・アスレチックスの落ち度ではないかと指摘する未稲に対し、麦泉は答えに窮した様子で俯くしかなかった。


「――わしも齢五〇を超え、旅の終わりがこの独眼に映る頃じゃ。小十郎と左月の長老おじじならば、これ以上ない迎えの使者よ。いい加減に浮世も飽きたゆえ極楽浄土を見てみたい」

いまきわの冗談としては余りに出来がよろしくありませぬぞ、我がきみ。合戦は武家の生業とはいえ、その三日月にどれだけの血を浴びたかお忘れか? 数多の怨念を十字架の如く背負った我がきみの行き着く先は八大地獄と決まってござります」

めごよ、そなた一人が極楽に昇ればわしはまた孤独ひとりじゃ」

「重ねてお戯れを。我がきみが背負いしごうはわたくしのごう。共に地獄へ落ちましょうぞ。だいきょうかんだいしょうねつげん――針山の景色さえも藤次郎様とならば心が躍りましょう」


 未稲の疑問に答え得る〝何か〟を喉の奥から絞り出そうとする麦泉を遮ったのは、最後に青いスポットライトを受けた夫婦ふたりである。

 正確には夫婦の姿を見て取った岳の吼え声が麦泉の呟きを噛み砕いてしまった。「待ちに待ったぜ、北の独眼竜ッ! 真打ち登場は引っ張りに引っ張るモンだもんなァ!」と歓声まで上げ始めると、未稲とひろたかの二人は姉弟揃って比喩でなく本当に頭を抱えた。

 三日月をかたどった前立ての兜を被っているのは伊達家の総大将――つのかみまさむねである。

 パブリックビューイングの会場を取り仕切る為、既に現地へ赴いている岩手県の地方レスラー『サイクロプスりゅう』のプロレスマスクの眉間にも兜の前立てと同じ紋様が刺繍されていた。これは間近で目にしたキリサメもおぼえている。

 漆黒の陣羽織を纏った夫と互いの背中を預け合い、先端でもって天をくように薙刀を垂直に立てた凛々しい女性はめごひめ――伊達政宗最愛の正室である。斬り合いとなっても対応できるよう袴を穿き、肩を防護する〝袖〟がないどうまるを纏っていた。


「死した先でも共に歩む我らであれば、りんの果てでもそなたと必ず巡り逢えよう。我らの愛こそ永久とわばたかん!」


 左隣に立つめごひめに政宗があらん限りの愛を吼えた直後、〝けんげき〟が大きく動いた。

 くうに十文字を描くようにして同時に繰り出した斬撃で成実を弾き飛ばし、白い陣羽織を纏った左月斎と小十郎景綱が伊達の夫婦へと迫っていく。

 この時点で政宗とめごひめはロープを背にしており、後方に逃げ場がない。離れた位置から戦局を見据えていた支倉常長は、少しも嬉しそうではない声で「地獄か極楽か、旅の行く末は閻魔大王におたずねあれ」と主君に剣先を向けた。

 政宗の太刀は依然として鞘の中に納まったままである。掛けがえのない家臣に刃を閃かせることを躊躇っているのだ。

 その瞬間、一つの人影が支倉常長を飛び越えるようにしてリングサイドから飛び込んできた。ロープではなく鎧武者一人の頭上を軽やかに飛び越えたのである。

 スポットライトの追跡が間に合わないほどの軽業は、みなもとのろうほうがんよしつねが『だんうらの戦い』で披露した〝はっそうび〟にも等しかった。跳躍の頂点で一回転まで披露し、リングに降り立った謎の男は常長とは異なる意味で〝異装〟である。あるいはめごひめより〝軽装〟とも言い換えられるだろう。

 袴を穿かない着流し姿であり、片肌を脱いでいる。豪華絢爛な刺繍を散りばめた赤地の着物は〝あおいもん〟を背負っているが、腕を通していない右袖でもって半分ばかり隠れていた。

 剥き出しの右肩に太刀を担ぐという立ち居振る舞いから風貌に至るまで江戸時代中期以降の日本に溢れたろうにんを彷彿とさせる。

 伊達政宗の軍師も一陣の突風としか表しようのない闖入にはたじろぎ、これを抜かりなく見て取った素浪人風の男は、彼の真隣で縦一文字に閃いた左月斎の刃を自身の太刀で受け止めると、対の左腕を内から外へと勢いよく振り抜いた。

 左手には鉄扇を握り締めている。これを横薙ぎに繰り出して景綱の太刀を弾き飛ばしたのだ。その直後に高々と右足を振り上げ、鎧で固められた左月斎の胴を蹴り付けた。直接的な痛手ダメージを与えるのではなく、老将を間合いの外へ押し出すことが目的ねらいである。

 白い陣羽織を纏った両雄ふたりの間隙を縫うようにして支倉常長が飛び込んでくると、素浪人風の男は割って入ろうとする伊達成実を「手出し無用!」と一声で制し、自らの太刀を牽制の如く横一文字に閃かせた。

 比喩でなく本当に支倉常長の両足をその場へ釘付けにしたのである。

 左月斎へ蹴りを見舞うべく大きく股を開いた瞬間、着物の隙間から〝葵の御紋〟を染め抜いた褌の端が覗いたものの、リングサイドからこれを仰いだキリサメも神通を想い出すことはなかった。

 素浪人風の男が太刀を担ぎ直す間に成実は我が身を楯に代えて伊達の夫婦を守護まもり、三将と再び向き合った。


「このただてるに黙って面白きいくさを始めるとは義父上もお人が悪い! 否と申されようと力ずくでもご加勢つかまつるぞ! 陣中見舞いにの酒をたっぷり持参してござる!」


 豪快に笑いながら政宗へ振り向いた素浪人風の男は名をまつだいらただてるという。政宗にとってはの娘婿である。


「忠輝殿、何ゆえここに⁉ いいや、それとて些末なことよ! 我らを結ぶ絆は四年前に断ち切れてござる! もはや、忠輝殿は我が姫の夫でも何でもない! そのような御方が伊達家中の内輪揉めに首を突っ込めば、将軍より如何なる裁きが下されるか、分かったものではござらんぞ⁉」


 義父の窮地を聞きつけて助太刀に駆け付けたそうだが、政宗自身の台詞にも表れている通り、元和六年の時点で彼の娘と忠輝は既に離縁している。

 それどころか、たび重なる不祥事と素行不良を理由に現将軍の異母兄・徳川秀忠から改易を言い渡され、とうしょうだいごんげん――徳川家康の六男でありながら流罪に処されているのだ。

 配流先の屋敷にて粛々と日々を過ごさなくてはならない身であった。絶体絶命の危機を救う為とはいえ、かつての義父のもとへ駆け付けるなどあってはならないことである。


「俺は伊達の姫に惚れ申した! されど、それ以上に独眼竜の生き様に惚れ抜いておるのよ! 惚れた男をみすみす死なせるなど我が趣味にあらず! 座して訃報を聞かば我が男もすたりまする! 先ほど申し上げた通り、この忠輝、力ずくでもご加勢つかまつるぞ!」


 心の底から惚れた男と共に面白きいくさを愉しめるのであれば、首級くびなど幾らでも江戸幕府にくれてやる――まさしく快男児に相応しい口上であった。

 しかし、誰が支倉常長の謀反を忠輝にしらせたのであろうか。何よりも配流先であるしなののくに――現在の長野県諏訪市――から東北までどのようにしてやって来たのか。急報を受けた直後に瞬間移動したとしか思えず、ありとあらゆる筋運びに整合性が取れていないのだが、それを追及するのは無粋の極みであろう。


「惚れたという言葉は軽々しく口にして欲しくはありませぬな! ましてや、おのが不手際で伊達家とのえにしを台無しにされた御方には! 〝我が信ずる神〟も忠輝様だけは救う知恵もないと嘆かれることでありましょう!」


 忠輝の口上に過剰とも言えるほど強い反応を示したのは支倉常長である。肩を並べて立つ小十郎景綱と左月斎までもがおののくほど大きな吼え声を張り上げると、十字架の如き輪郭をくうに映す剣を振りかざした。

 対する快男児は口笛を吹きつつ右手の太刀と左手の鉄扇を交差させ、自身の脳天目掛けて振り下ろされた剣をその中央で受け止めた。

 兜によって守られていない頭部あたまを真っ二つに叩き斬らんとする常長と、己に迫る必殺の刃さえも愉快でならない様子の忠輝による力比べである。両者は互いに一歩も引かず、リング内外の誰もが固唾を呑んで見守る中、半ば静止したような状態に陥っている。


「惚れて惚れて惚れ抜いておらねば、拙者も無限の波濤なみを越えて〝神の地〟を目指したりは致しませぬ! 全ての試練はかたさまおんため! これみな政宗様への一途な愛ぞ!」

「苦労で測らねば語り得ぬ愛など半端の極みではないか、常長! 己の望みが外れただけで駄々をこねるおぬしに惚れた腫れたを語る資格などあろうものか!」

「愛は歳月が育むもの! 拙者と忠輝様では政宗様と分かち合った時間ときが違いまする!」

「愛とは爆発だ! ひとときの語らいがももとせにも値するのじゃ! それが舅と婿の絆じゃ!」

「歳月も爆発も、どちらも譲らぬ! 誰にも負けぬわ!」


 一進一退の力比べを繰り広げながら、どちらがより伊達政宗に惚れ込んでいるのかを張り合う二人へ我慢ならないといった荒々しさで割り込んだのは、北の独眼竜と四〇年以上も連れ添っためごひめの薙刀である。

 敵味方の区別もなく二振りの太刀を轟然と弾き飛ばしためごひめは、思わず苦笑いを漏らした常長と忠輝の二人に向かって「わたくし以外に独眼竜を飼い慣らすことなどできると思うか⁉」と勝ち誇って見せた。

 暗闇を切り裂くようなめごひめの高笑いがきっかけとなって両陣営は隊列を整え、それぞれ得物も構え直した。あるいはも段取りの通りであろうか。両者は『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークを境とし、青・白両コーナーに別れる形で向き合ったのである。


「義父上、今さら太刀など抜かずとも構いませぬぞ! この忠輝自らが義父上の刃となりましょう! その手を家臣の血でけがしてしまわれるのも忍びない!」

「もはや、何も申されるな、忠輝殿。たびの謀叛、我が手にて取り鎮めねば伊達家末代までの笑い者となろう。この政宗、独眼竜の誇りに賭けて戦わん!」


 ついに政宗は腰にいた太刀を抜き放ち、先程の常長の如く剣先でもって天をいた。次いで白刃を振り下ろし、これをもって最終決戦を宣言したのである。

 この直後、メインアリーナにる者たちの鼓膜をつんざくような大きさで法螺貝を吹く音や銅鑼を叩く音がスピーカーから鳴り響き、凄まじいかんせいを上げながら間合いを詰めた両陣営はリング中央でぶつかった。

 『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークを踏み付けにする位置で政宗と支倉常長が刀を交えれば、MMAのリングはいよいよ合戦場の様相である。誰も彼もが入り乱れ、まさしく舞い踊るかの如く刃を閃かせている。幾つものスポットライトが激しく明滅し、その勢いを表しているようであった。

 伊達成実がその気性を表すかの如く真っ直ぐな刺突つきを放てば、鬼庭左月斎は正面から迫り来る剣先を大きく身を反り返らせてかわしてみせた。防御力と引き換えに身のこなしが制限されてしまう鎧を纏いながら、神業としか表しようのないブリッジを披露したのだ。


「イナバウアーッ⁉」


 そのブリッジを目の当たりにした未稲が叫んだのはフィギュアスケートの技法テクニックである。

 イナバウアーそのものは半世紀前から使われている技法テクニックだが、現代にいて最も脚光を浴びたのは二〇〇六年トリノ冬季オリンピックであろう。同大会の女子シングル競技で金メダルを獲得した日本代表選手が上体を大きく反り返らせる様式のものを披露し、同年の流行語大賞に選ばれるほど日本国内で話題となった。

 それ故に未稲は見事なブリッジをイナバウアーと重ねたわけだが、トリノのリンクを沸かせた様式はあくまでも応用アレンジであり、本来は両足を前後に開きながら真横に滑る技法テクニックなのである。即ち、彼女は己の誤解を吹聴しているようなものであった。

 イナバウアーという素っ頓狂な大声がすり抜けていくリングでは、味方同士であるはずのめごひめと忠輝が政宗に捧げる手柄を競って互いの身を何度もぶつけ合いながら、入れ代わり立ち代わり片倉小十郎景綱と激しく斬り結んでいた。

 文字通りに敵味方が入り乱れる大合戦である。若き頃より政宗を支えてきた成実と小十郎景綱、めごひめの薙刀を「イナバウアーッ!」という大声を受けながらブリッジでかわし切る左月斎、二人がかりで常長へ攻め掛かる政宗と忠輝――相手を変えながら絶え間なく斬り合うのだ。

 何時しかキリサメは鬼月斎の立ち回りから目が離せなくなっていた。政宗と正面から向き合った瞬間などは老将と思えないほど鋭い踏み込みから斜めの軌道を描くようにして太刀をり上げ、その首を刎ね飛ばすところであった。

 互いの太刀を打ち合わせても金属音が鳴らない為、彼らのふるう武器が〝ほんもの〟でないことは分かっているが、それでも入場前に脳裏を掠めた故郷ペルーでの〝実戦〟と全く変わらない緊張感がリングを満たしているのだ。

 政宗を救うべく成実の太刀とめごひめの薙刀が左右から挟むようにして襲い掛かっても左月斎は後方へ僅かに退すさるだけでこれをけ切り、反撃の刃を立て続けに繰り出して二人を押し戻してしまった。

 〝大合戦〟とはいえども実際に身を投じている役者ひとびとは一〇人にも満たないのだが、長い武器を振り回していることもあり、七メートル四方のリングでは窮屈であろうと傍目には見える。

 しかし、彼らは巧みな身のこなしで〝大合戦〟を演じ続け、演出以外でぶつかる瞬間は一度もなかった。最後は輪を描くような形でリング中央にみなが集まり、各々それぞれの得物の尖端を合わせ、これまでで最も大きなかんせいを一斉に迸らせた。

 その瞬間にメインアリーナの照明が点灯いた。改めてつまびらかとするまでもなく〝剣劇チャンバラ〟が一段落した証左である。

 誰一人として討ち死にを遂げた者はなく、明確な勝敗を決しないままであるが、そもそも伊達家家臣・支倉常長の謀叛という筋立てすら立ち回りを盛り上げる為の〝演出〟に過ぎなかったわけだ。

 総合格闘技MMAの試合に勝るとも劣らない大掛かりな〝剣劇チャンバラ〟――殺陣たてでもって魅せる趣向であった。


(……ちょっと待ってくれ。何なんだ、これは……)


 白コーナーの花道ランウェイに立つカパブランカこうせいと、隣の養父がリングに向かって拍手喝采を送る中、キリサメは何ともたとがたい既視感に見舞われていた。

 同じような場景をキリサメはどこかで見たおぼえがあった。触れれば確実に命を奪う武器を幾人もが振り回す状況であるが、故郷ペルーの裏路地ではなく日本に移り住んだ後のことだ。暗闇に人影を映すものはスポットライトしかなかった為、間違いなく確認できたわけではないが、毛虫をかたどった前立ての兜を被る武将の顔にも違和感を覚えてならなかった。

 それ以上にキリサメのを釘付けにしたのは彼らの太刀筋である。

 身に触れるか否かというほんの数ミリ程度、抜き身の刃が。狙いを誤って仕損じているのではない。攻め掛かる側が意識してのだ。これを見る側の想像力は鎧でもって白刃を弾いていると読み解いたはずだ。

 斬るか、斬られるか――些か無理のある筋立てを吹き飛ばしてしまう緊張感が漲っており、何事にも無感情であるキリサメすらてのなかに汗が滲むくらい強く拳を握り締めていた。

 ないしはと呼ばれる高度な技術である。


「調子はどうかな、アマカザリ君」


 既視感に対する答え合わせはからやって来た。大立ち回りが一段落したのち、出演者たちはリング上で改善すべき課題を論じ始めたが、その内の一人がロープから身を乗り出し、キリサメに片手を挙げて見せたのである。


「あなたは……っ!」


 気さくに声を掛けたのは伊達成実を演じていた役者――である。毛虫をかたどった前立ての兜こそ脱がないものの、場内が明るくなった為に先程より鮮明に顔を確認できる。だからこそキリサメは目を丸くしたのだ。

 MMA選手としてつことを決意して間もなくの頃、デビュー戦に向けた特訓トレーニングの一環として参加した道場『とうあらた』の体験会ワークショップで講師を務めていたこんどうである。アクションスタントなどの事務所プロダクションも兼ねている同道場の代表的な殺陣師の一人であった。

 近藤自身が体験会ワークショップで語っていたが、『とうあらた』のスタント部は一年間に亘って放送される大型連続時代劇の撮影にも参加している。二〇一四年の題材はとよとみのひでよしてんびとの座へ導いた名軍師である為、必然的に合戦シーンも多く、殺陣師たちも多忙を極めているはずなのだ。

 MMAのリングで〝剣劇チャンバラ〟を演じる理由は言うに及ばず、そもそも奥州市に居るはずのない人間が何の前触れもなく現れたのだから、キリサメが口を開け広げたまま立ち尽くしてしまうのは無理からぬことであろう。

 くだん体験会ワークショップを伝聞でしか知らないひろたかは、当然ながらキリサメと近藤の顔を交互に見比べながら「知り合いだったんですか?」と眉根を寄せている。

 未稲もキリサメと一緒に同じ体験会ワークショップへ参加していたのだが、彼女の視線は別の殺陣師に注がれている為、近藤のほうに気付いていなかった。

 これは寅之助も同様である。二人の瞳は松平忠輝を演じる殺陣師を捉えたまま微動だにしなかった。今日は軽やかな着流し姿であるが、その男性おとこがリング上で披露した身のこなしは甲冑格闘技アーマードバトル第一回世界大会の日本代表選手と重なってならないのだ。二人ともくだんの試合動画をほんの少し視聴した程度であるが、それでも記憶に刻み込まれるほど印象的な太刀筋であった。

 先ほど着物の裾を靡かせながらロープを飛び越えた姿は、スペインの古城に設けられた〝合戦場〟へ躍り込んでいく瞬間の再現にも等しい。リング中央で他の殺陣師と打ち合わせをしている為、本人に確かめることは叶わないが、未稲も寅之助もポルトガルの騎士を切り崩した鎧武者であろうと核心に近いものを抱いていた。

 ゲーミングサークルのオフ会で二人に甲冑格闘技アーマードバトルを紹介したヘヴィガントレット――つかよりも同競技の選手である。自分と共に日本代表の一員として第一回世界大会に出場したの〝本業〟を彼女は『とうあらた』の殺陣師とも話していはずだ。

 甲冑格闘技アーマードバトルの試合では戦国時代末期に用いられたとうせいそくを纏い、更には『めんぽお』と呼ばれる防具で覆っていたが、現在いまは涼しげな顔が剥き出しとなっている。


「やだ、素顔はすっごい優男イケメンじゃん……えっ、どうしよ。今日に限ってまたクソTシャツ着てきちゃってる……」

「……サメちゃんがキミのことを邪悪って扱き下ろしていた理由が分かったよ。幾らなんでもチョロ過ぎじゃないの」


 リング上の近藤に意識を引き付けられている為、キリサメの耳に寅之助の呆れ声は届いていなかった。未稲にとっては何にも勝る僥倖さいわいであろう。もしも、キリサメに気付かれていたなら、再び「邪悪な八方美人」と冷たい眼差しを浴びせられたはずである。


「本当に助かりました。何しろ急なオファーでしたし、応じて頂けたことだけでも奇跡のような気持ちで……。一時は我々サムライ・アスレチックスもどうなることかと思っていました」


 リングサイドへと歩み寄り、次いで近藤に協力への感謝を述べたのは麦泉である。

 近藤は一礼をもって麦泉に応じているが、『とうあらた』の殺陣師たちが奥州市までやって来た理由がキリサメには依然として分からず、「なるほど。話に聞いていた殺陣の事務所プロダクションの人たちですか」と納得した様子の大陸とは正反対に怪訝な表情を浮かべ続けていた。


「……事情が呑み込めないんですが、近藤氏や他の人たちを『天叢雲アメノムラクモ』のほうから呼び寄せた――ということなんですか?」

「ざっくばらんに言えば、今日の『とうあらた』は穴埋め要員だよ。八雲先生やアマカザリ君の試合を間近で観られるんだから、自分にとってはご褒美みたいなものだけれどね」

「穴埋めなんて恐れ多い……〝やむにやまれぬ事情〟があるとはいえ、相当な無理をお願いしているのは我々サムライ・アスレチックスですし……」

「文多もあんまし頭下げ過ぎんなって。彼のほうが恐縮しちまうじゃねぇか。近藤君本人が言ってるだろ? 『ご褒美みたいなもん』ってさ! 世の中は持ちつ持たれつ! オレやキリーが無理な頼み事に見合うだけの試合をやって恩返しってな寸法よォ!」

「……僕もセンパイくらい物事を単純シンプルに考えられたら、人生、気楽なんですけどね……」


 『天叢雲アメノムラクモ』に限ったことではないのだが、格闘技の興行イベントでは選手の休憩を含めた試合間の時間調整を図る為、様々なステージイベントがプログラムに組み込まれている。今し方、〝本番〟さながらのリハーサルが行われていた〝剣劇チャンバラ〟もその一つというわけだ。

 それが証拠にメインアリーナの片隅では『天叢雲アメノムラクモ』のシャツを着たスタッフがマットの掃除で用いるモップを構えて待機している。〝剣劇チャンバラ〟の打ち合わせが完了するのと同時にリングへ上がり、が実施できる状態を整える段取りなのだろう。

 前回の長野興行ではMMAデビューを飾った人気アイドル声優――希更・バロッサが余興として主演アニメ『かいしんイシュタロア』に関連する新曲を披露するという風聞うわさがインターネット上で囁かれていたが、岩手興行では実際に県内で活動する五人組のローカルアイドルを招いたのだ。

 ところが、開催直前になってローカルアイドルの側から出演を見合わせたいという申し出があり、岩手興行のプログラムに大きな〝穴〟が生じてしまったのである。ステージイベントが一つ抜けただけでも興行全体の進行が立ち行かなくなる。その代役を引き受け、『天叢雲アメノムラクモ』の窮地を救ったのが道場『とうあらた』というわけであった。

 先程まで草鞋や革靴によってロゴマークを踏み付けにされていた『ハルトマン・プロダクツ』――即ち、『天叢雲アメノムラクモ』のメインスポンサーの側では〝やむにやまれぬ事情〟がローカルアイドルに対する脅迫ということを把握している。

 東京からやって来る格闘大会に参加することは貴方たちの為になりません。くれぐれも身辺にご用心を――くだんのアイドルグループのもとに玩具の銃弾と共に脅迫状が送り付けられたのだ。

 ローカルアイドルは大手芸能事務所に所属しているわけではない。『天叢雲アメノムラクモ』が出演を養成したグループも地域の活性化を目的とした非営利団体であり、半ばボランティアに近い。万全の警備体制など望むべくもなく、脅迫状を送り付けた犯人が逮捕されない限りは興行イベントに参加することは不可能であった。

 格闘技を深刻なして根絶を訴える思想活動――『ウォースパイト運動』が関与している可能性も高く、出場選手にも最大限の警戒を呼び掛けるべきであろうが、キリサメも岳も、脅迫事件については主催企業サムライ・アスレチックスから何一つとして知らされていなかった。

 同企業で常務の肩書きを背負っている麦泉は何ともたとがたい表情で「無理を頼んだオレが言うのもアレだけど、開催間際のキャンセルは勘弁して欲しかったわなァ」という岳の言葉に耳を傾けている。

 樋口郁郎が主催企業サムライ・アスレチックスや興行関係者たちにかんこうれいを敷いたという事実は、麦泉の反応からも明らかであった。


「リング上には見当たらないようですが、ひめ氏は奥州市こちらに来ていないんですか?」

「さっきまで一緒だったのだけど、今日は殺陣道場じぶんたちと別行動なんだよ。姫和子さんは殺陣師である前に一人の武術家だからね。純粋にMMAをしたいんだよ。アマカザリ君の試合も随分と楽しみにしていたよ~」

「そうだ――体験会ワークショップでもされていました。ブルース・リーの格闘技を極めたとか……。姫和子氏の技は、今、思い返しても脇の下に汗が噴き出しそうです」


 合衆国大統領専用機エアフォースワン襲撃に触発されたとしか思えないテロの脅威が足元まで迫っていることなど想像だにしないキリサメは、くだん体験会ワークショップで講師を務めたもう一人の殺陣師に関心が向いている。

 近藤が「自分たちとは別行動」と答えたひめ道場『とうあらた』に所属する殺陣師である。体験会ワークショップへ参加した際、キリサメは長時間に亘って〝居残り練習〟に付き合って貰っていたのだ。

 その際に姫和子は稀代の映画俳優にして伝説的な武術家――ブルース・リーが編み出した近代格闘技『截拳道ジークンドー』の一端を披露している。相手に何もさせない内に倒すことこそ神髄というその恐ろしさをキリサメは思い知らされたのである。

 直接的に打撃を加えないという約束のもとで執り行われた練習にも関わらず、紛れもない〝実戦〟であった電知との路上戦ストリートファイトや、銃が日常の風景に溶け込むような故郷ペルーとも比較にならない戦慄を味わったのだ。

 姫若子がふる截拳道ジークンドーは殺気を全く纏っていなかった。攻撃に伴う気配を完全に抑え込んでいたのである。これを傍らで見学していた岳も『日本のブルース・リー』と評したそうだが、実際に彼は残りの人生を格闘技へ捧げる覚悟であるという。

 手作りのアスレチック器具を設置するなど自宅の庭をも訓練トレーニングに適した形へ改造し、尚且つ格闘技経験を生かせる仕事として殺陣師を選んだ男である。

 近藤の話によれば、姫和子も岩手興行に足を運ぶ予定こそあるものの、所属先である道場とは別行動を取るそうだ。『E・Gイラプション・ゲーム』の一員メンバーでありながら、地下格闘技アンダーグラウンドと関わりのない友人と奥州市に入った哀川神通のことをキリサメは不意に想い出していた。

 しかしながら、純白のふんどしを思い浮かべたわけではない。姫和子が『とうあらた』とは異なる集団グループに同行している可能性を考えたのだ。拳銃ハンドガンよりも恐ろしい截拳道ジークンドーの使い手だけに何処いずこかの格闘技団体へ在籍していても不思議ではなかろう。


「――〝らくちゃん〟の愛弟子から頼まれたとあっちゃ断り切れないからねぇ」


 鬼庭左月斎を演じていた殺陣師が木彫りのめんを外しながら近付いてきたのは、キリサメが姫和子のことを振り返っている最中であった。

 この場の誰よりも溌溂とした声や、攻撃をかわした瞬間のブリッジに代表される俊敏で大きな動作に惑わされていたが、めんの向こうに現れた顔は〝重鎮〟の二字こそ最も相応しい年齢であることを皺によって物語っている。

 左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛っているが、は老将を演じる為のかつらではないのだ。

 両親の父母――即ち、キリサメの祖父母が現在いまも健在であれば、おそらく同じくらいの年齢であろう。それでも肌艶は鬼貫道明よりも随分と若々しく見えた。


「そのらくちゃんは今、どの辺りを飛び回っているんだい? 中東の忍術学校で指導したことや新しい弟子を取ったことは私も聞いているんだがね。この間、国際電話を貰ったときには『この年齢トシになっても〝娘婿〟から馬馬車のように働かされる』と嘆いていたよ」

「あのジジイ――もとい、ウチの師匠、『ダイさん』にまで愚痴ってるんですか? 勘弁してくれよなァ~。骨を折って貰ったのは間違いないですけど、そもそもオレが頼んだ仕事じゃないんですよ。人聞き悪いったらありゃしねぇなァ~」


 〝らくちゃん〟の愛弟子――鬼庭左月斎を演じる殺陣師は、珍妙としか表しようのない呼び名でもって岳に声を掛けていた。親しく語らう様子からも察せられる通り、両者は古い付き合いであるようだ。その彼を指して〝娘婿〟という二字まで用いており、私生活についても詳しい様子である。

 特訓トレーニングの一環として岳は殺陣師の体験会ワークショップにキリサメを導いていた。首都圏にも幾つか点在する殺陣道場の中で『とうあらた』をえて選んだのは、日本で一番という知名度は関係なく、古馴染みであったればこそというわけだ。

 岳が気安い調子で談笑する一方、ひろたかは酷く気まずげな様子であり、老齢の殺陣師の視界に入らない位置へと無言で身を移していた。まるで逃げるような足取りであった。

 間もなく老齢の殺陣師は近藤と一緒にリングから降り、目を丸くしたまま立ち尽くしているキリサメに握手を求めた。


「初めまして、がわだいぜんと言います。生涯青春の〝現場主義〟だから、そうは見えないと思いますが、これでも『とうあらた』での代表を務めている人間です。岳ちゃんとはもうずっと長い付き合いでね。どうぞよろしく」

「あの、……キリサメ・アマカザリです。えっと――がわ……先生」

「先生なんて呼ばれると頬や背中が痒くなっちゃうんだよなァ~。岳ちゃんと同じように気軽に『ダイちゃん』で良いんだよ? 何なら『ハセちゃん』でも構わんし」

「い、いえ、さすがにそれは僕もちょっと……」

「オレだって〝ちゃん〟付けで呼んだことはないでしょ! あんまりウチの養子せがれをからかわないでやってくださいよ~」

「堪忍してくれよ。年齢トシ食うと若い子たちがみんな孫みたいに思えてねぇ。もう何年もしない内に岳ちゃんも私の気持ちが理解わかるようになると思うよ」


 我知らず握手に応じ、右の五指に感じた力強さに再び目を丸くしたキリサメは、おどけた調子で笑う殺陣師の顔に見おぼえがない。温かな眼差しでもって見つめられる理由は更に分からない。しかし、『がわだいぜん』という名前は肩書きと併せて脳に焼き付いていた。

 今し方の自己紹介でも言及された通り、殺陣道場『とうあらた』のあるじであり、殺陣の世界にいては『生きた伝説』とまで謳われる大名人である。くだん体験会ワークショップでも教わったが、同道場の創始者でもあった。

 一年間に亘って放送される大型連続時代劇にいてがわだいぜんは三作目から殺陣指導を担当し、半世紀にも及ぶ同番組の歴史を支えてきた人物でもある。高度な立ち回りが必要とされるシーンでは自ら出演することもあり、幕末を題材とした作品では坂本龍馬を暗殺する刺客の役を三度も務めていた。

 日本ひいては世界に殺陣という〝文化〟を開花させた偉人が突如として目の前に現れたのだ。殺陣師を志しているわけではないキリサメでさえ自然と背筋が伸びていく。

 二回り以上も年齢が離れた岳と打ち解けた様子で笑い合い、初対面のキリサメにも冗談を交えて話し掛ける物腰は〝隣近所の好々爺〟といった印象だが、試合着キリサメ・デニムの開発を手掛けたたねざきいっさくもアトリエで顔を合わせた際にがわだいぜんと仕事を共にしたことを財産のように語っていた。殺陣とは異なる分野で活動する人々からも尊敬を集めているのだ。

 命のやり取りをとして見せるからには怪我するような振り付けだけは絶対にいけない――近藤馬木也が体験会ワークショップの最中に繰り返したがわだいぜんの教えはキリサメも記憶に留めている。『とうあらた』の殺陣師が表現したいのは、時代を超えて人の心を感動させるサムライの魂であり、それを芸術として昇華させるのが理想であるという。


「……不躾な質問で申し訳ありませんが、先程のリハーサルのとき、相手の攻撃を避ける為に身体を思い切り反り返らせていましたが、……腰を痛めてしまうのでは?」

「お嬢さんから『イナバウアー』と呼んで貰ったアレはね、友人の得意技を拝借したんだよ。本来は斬られた瞬間の散りざま技術なんだけど、鬼庭左月斎を斬り死にさせるわけにいかないから、さっき試したのは私なりに応用というわけさ。史実は勿論、だいら君が書いてくれた脚本ホンでも左月斎はこの世の人ではない――そこでオチが来るんだがね」

「そのかたがわ――先生も、無理のある動作で肉体からだを痛めるコトはないと……?」

「すげェだろ? すげェもん、初陣の前に拝めたろ、キリー? リハーサルが全体的に押しちまった影響ではあるんだけど、ダイさんたち『とうあらた』の〝剣劇チャンバラ〟をこのタイミングで見られたのは天の導きみてェなもんだぜ! なァ⁉」

「……同意を求められても、僕には何と答えたら良いものか……」


 がわだいぜんの友人という時代劇俳優は、日本を代表する〝斬られ役〟であり、〝五〇〇〇〇回斬られた男〟という愛称で親しまれていた。海老の如く上体を大きく反り返らせるという散りざまの演技で国際的に高い評価を受け、ハリウッドの時代劇映画にも招かれた人物である。

 『とうあらた』の一員ではなく、日本映画界にける殺陣技術の発展・継承を推し進める団体に所属しているそうだが、今回の〝けんげき〟にもがわだいぜんは客演という形で登場して欲しかったという。

 半世紀を超える芸歴人生の中で初めての主演映画が昨日――六月一四日に公開されたばかりで、さすがに『天叢雲アメノムラクモ』岩手興行とは予定が合わなかったそうであるが、麦泉のほうは主催企業サムライ・アスレチックス常務の〝顔〟で「そこまでお骨折りして頂くわけには参りませんっ」と恐縮したようにかぶりを振って見せた。


「ハリウッドのほうから彼に声が掛かったと聞いた瞬間は涙が出るくらい嬉しかったね。一つ一つ自分の仕事を積み重ねていれば、どこかで誰かが見ていてくれるということを彼は自ら証明してみせたんだ。いやぁ、人生で一番美味い酒を酌み交わした晩だったねぇ」


 長年の〝戦友〟とも呼ぶべき時代劇俳優の功績をがわだいぜんが熱弁している間に松平忠輝を演じた若い殺陣師もリングの下へと降りてきた。


「――お~、いたいた! 完成したリングを真っ先に見学とはキリキリってばやる気バリバリだね! あたしも負けてらんないなーっ!」


 天井を突き破らんとするくらい明るい声が――テレビアニメのファンに馴染みの深い希更・バロッサの声が正面玄関エントランスと直結する扉のほうから飛び込んできたのは、がわだいぜんが傍らに並んだ若い殺陣師の肩を叩き、今回の〝けんげき〟の脚本と衣装のデザインは彼が担当したのだと紹介した直後であった。

 後続のラッピングバスが駐車場に到着したようである。希更とマルガの隣では見慣れない女性がメインアリーナを覗いていた。

 『バロッサ・フリーダム』と刷り込まれたシャツを着込み、クロップドジーンズを穿いた女性は希更と同じように長い髪をなつめ色に染めていた。彼女の隣に並ぶと姉妹と錯覚してしまうくらい若々しいが、おそらくはセコンドに付くという母親――ジャーメインその人であろう。

 出発前の宿所では見なかった顔である。駐車場か、総合体育館の正面玄関エントランスで落ち合ったのかも知れない。熊本県八代市でムエ・カッチューアを教え広めている道場『バロッサ・フリーダム』の関係者が希更と共にメインアリーナへ現れたタイミングは、未稲と寅之助にとっては最悪の二字こそ相応しかった。

 がわだいぜんから己の仕事を褒められ、照れ臭そうにはにかんだ殺陣師は、だいらひろゆきと名乗ったのである。甲冑格闘技アーマードバトル第一回世界大会の試合動画をタブレット端末にて視聴している最中、筑摩依枝ヘヴィガントレットが「殺陣師を兼業している選手」として紹介した名前と一字一句に至るまで同じであった。

 ラ・マンチャ地方の〝合戦場〟にてポルトガルの騎士たちを斬り伏せた太刀筋と、松平忠輝の殺陣が重なって見えたのは目の錯覚ではなかったのである。

 「やっぱり」と声を揃えて驚く未稲と寅之助であったが、キリサメが『とうあらた』の殺陣師たちに一礼して希更のほうへと足を向けた以上、リングサイドに留まり続けることは難しかった。ひろたかまでもがキリサメの後を追い掛けているのだ。

 筑摩依枝ヘヴィガントレットの知り合いであると挨拶するだけの時間もない。リングに上がって他の殺陣師と語らう岳や麦泉を置き去りにし、二人も希更たちのもとへ移動せざるを得なかった。


(……このタイミングで〝剣劇チャンバラ〟を見られたのは天の導き? 何なんだよ、一体……岳氏にも困ったもんだな、本当……)


 快活そのものといった勢いで両手を振る希更を見据え、首だけを軽く頷かせたキリサメも〝けんげき〟の余韻を反芻していられる情況ではなかった。

 かつて体験会ワークショップに参加した殺陣道場の人々と顔を合わせたことで、デビュー戦当日までに解決できなかった課題がどうしようもない憂鬱として心を蝕み始めたのである。

 MMAデビューを望んだ養子むすこに対し、養父ちちは一般的な〝格闘競技〟の練習メニューを与えるのではなく、殺陣道場の体験会ワークショップや地方プロレスの合宿へといざなっていた。総合格闘技MMAとの関連性すら疑わしい特訓トレーニングを示したのは、〝フェイント殺法〟という奇抜な作戦への布石であったという。

 危険な技の数々を寸止めのフェイントとして応用するよう岳は促していた。その要点ツボを学ばせるべくがわだいぜん門下の殺陣や、観客を楽しませる為にショーアップされた地方プロレスの世界を体験させた次第である。

 寸止めの美学は殺陣たて、格闘技の技としての見せ方はプロレス。これらを融合させた作戦であると、岳は得意満面で熱弁していた。


「ペルーの裏路地でギリギリの死線デッドラインを掻い潜ってきたキリーなら絶対にできるってオレは信じてるぜ! 『あ、これは死んだわ』って自分でも思っちまったような闘いを再現してよォ、相手の戦意をブチ折ってやるのさ! こんな人間離れした作戦、命懸けの世界で生き抜いたキリーにしかできねぇコトだからよ! 名演技に乞うご期待ッ!」


 最終調整の段階で急に〝フェイント殺法〟を打ち出してきた岳の声が脳裏に甦り、キリサメは思わず舌打ちしそうになってしまった。

 何しろ岳が掲げた〝フェイント殺法〟は具体性など絶無に等しい。その上、興行イベント当日が近付くにつれて統括本部長の業務も忙しくなったらしく、とうとう攻防の組み立て方を相談し合う時間までなくなったのである。

 当のキリサメは殺陣の体験を通じて殺気の制御コントロールこそ急務と見定めていた。

 極限の環境下で編み出した喧嘩殺法は破壊の本能が剥き出しとなるものばかりであり、彼自身も闘いの最中には殺気の塊のようになってしまう。気魄を制御コントロールできないと相手に容易く心理を読まれ、手の内まで見破られるのだ。

 だからこそキリサメは気魄を練り、これを自由自在に操る工夫を自分なりに練習し続けてきたのである。デビュー戦の直前になってが無駄な努力と突き付けられたようなものであった。

 つまるところ、キリサメは親子間ひいては選手とセコンドの間でさえ方針が一致しないまま初陣の日を迎えてしまったのだ。


(……初めて試合に赴いたとき、神通氏はどんなふんどしを締めていたんだろうな――)


 MMA選手としての在り方さえ定まり切っていない。精神的にも安定しているとは言いがたく、更にはMMAデビューへ臨む作戦まで暗礁に乗り上げているのだ。改めてつまびらかとするまでもないが、殺気の制御コントロールという課題もついに解決できなかった。

 〝達人〟の二字を除いて表しようがないがわだいぜんの殺陣に魂を揺さぶられたばかりのキリサメには己の至らなさが余計に苦しく、惨めとすら思えた。

 このような有り様であるから、ルールによって安全性が確保されたMMAの選手としてたなければならない当日に、旧友を標的とした故郷ペルーでの〝実戦〟を想い出してしまうのである。今日だけは絶対に封じ込めておかなければいけない記憶であった。

 覚悟は既に決めているので会場ここから逃げ出したいとは思わないが、考えられる最悪の状態であることに変わりはない。



 そこまで窮していればこそ、キリサメはる一つのことに気付かなかった。握手を交わしたがわだいぜんも、本名を名乗り合った真平も、『とうあらた』の殺陣師は誰一人として彼に向かって「頑張れ」とは言わなかったのである。

 日本に殺陣という〝文化〟を開花させた大名人が己の背中を真っ直ぐ見つめていることなど知る由もあるまい。


「あの子――アマカザリさん、思ったよりガチガチになっていますけど、本当に大丈夫でしょうか。体験会ワークショップに来てくれたときもあんなに緊張していたんですか? 近藤さんが講師を務めた日でしたよね?」

「熱心に面倒見ていたのは姫和子さんですけどね。ワケも分からない場所に引きずり込まれたみたいなカタさもありましたけど、最後のほうは伸び伸びやっていましたよ。終了時刻が過ぎた後まで姫和子さんと〝居残り練習〟までやりましたもん」

「特別、緊張し易い子でもなさそうですね。晴れの舞台は誰だって緊張するから、仕方ないとは思うんですが、それにしたって心配だなぁ……」


 岳や麦泉に聞かれないよう声を落としつつ、真平と近藤は眉間に皺の寄った顔を見合わせた。キリサメが万全の状態でデビュー戦を迎えられなかったことは傍目にも明らかというわけである。

 どうしても気持ちを落ち着けられない人間には、無責任な声援こそ一番の毒になることもは弁えているのだ。


「人間にとってあらゆる経験が毒にも薬にもなるが、初陣で手痛い思いを味わってしまうと、人によっては長く引き摺ってしまう。後は彼の心の持ち方次第――とはいえ、こうしてえにしを結んだ相手のことだから、どうにも気になってしまうがね」

「先生からすれば、アマカザリさんも孫みたいなもの――でしたよね? 今日の代役ピンチヒッターを引き受けたのもあの子の為なんでしょう?」

「いやいや、岳ちゃんの頼みが決定打だよ、真平君。予定が空いていなかったら、幾ら気掛かりでも応じられなかったしね。それを言うなら、大急ぎで脚本や衣装を仕上げてくれたキミこそ熱の入れようが凄いじゃないの」

「先生が仰った通りですよ。僕たち『とうあらた』とえにしを結んだ相手のことが気にならないハズもありません」


 近藤と真平は言うに及ばず、がわだいぜんもキリサメという新人選手ルーキーが置かれた〝状況〟を承知していた。秋葉原の市街地で起こした不祥事がインターネット上で晒され、あまつさえ所属団体の代表による情報工作で故郷にける所業さえ暴かれてしまったことを把握しているわけだ。

 この場に樋口郁郎が居合わせていたなら、三人を眺めながら「お人好し」と鼻で笑ったかも知れないが、ただ一度、体験会ワークショップに参加しただけという少年の行く末をがわだいぜんたちは深く案じていた。

 そして、それこそがえにしというものであるとがわだいぜんたちは信じて疑わないのである。


「折角、こうして同じ場に居られるんだ。万が一のとき、我々のほうからも手を差し伸べられるように構えておこう」

「承知」


 師匠の言葉に対し、二人の殺陣師は同じ返事ひとことと共に強く深く頷いた。

 殺陣たて道場『とうあらた』――がわだいぜんのみならず、この大名人のもとで日本が世界に誇る〝文化〟を研鑽し続ける殺陣師たちが己にとって掛けがえのない存在になることなど、現在いまのキリサメは夢想だにしていない。だからこそ彼は一度もリングを振り返らなかったのである。


「いやァ~、堪んねぇよ! 日本MMAの新たな〝伝説〟が始まろうって日に日本MMAの礎っつう〝神話〟が帰還かえってくるんだからよォ~! 正直さ、オレ、昨日から鳥肌が止まらねぇんだわ! 一九九七年に闘いの扉を開いた大いなる〝神話〟と、同じ一九九七年に生まれた新世紀の〝伝説〟が交わるとき! 日本中が沸騰すらァッ!」


 呆れ顔の麦泉が制止するのも聞かず、リング上の岳は殺陣師たちを見回しながら、余人には意味が通じそうもない内容ことを熱烈に語り続けている。〝一九九七年〟という前世紀のる一年――在ペルー日本大使公邸人質占拠事件が解決した年――を幾度も幾度も繰り返している。

 日本で最高水準レベルの〝剣劇チャンバラ〟を花道ランウェイから見学し、支倉常長が剣を振り回すたびに拳を突き上げて喜んでいたカパブランカこうせいも既に本来の業務へ戻っていた。

 このメインアリーナで一つの事件が起こるのは、それから間もなくのこと――開会式オープニングセレモニー直前のリングチェックの最中であった。


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