その12:迷走~いざ初陣の地へ!選ばれし戦士たちが集う夢舞台――死神(スーパイ)は総合格闘家として起(た)てるのか?
一二、迷走
人間は思考と感情が綯い交ぜになってしまう生き物である為、夢にも思わない状況に直面した
それは何事にも無感情なキリサメ・アマカザリも同様である。目の前に広がった光景を脳が処理し切れず、呆けたように口を開け広げたままその場に立ち尽くすばかりなのだ。
コンピューターで
それ故、前に進むことも後ろに
六月半ばの日曜日――『
今日のキリサメはトレーニングパンツを穿き、『八雲道場』という所属先の名称が左胸に刷り込まれたシャツを着ている。
大きく開いた両足を踏ん張り、何かを支えるように両腕を突き上げる人間を模った赤い刺繍が左胸に添えられているが、これは『八雲道場』のロゴマークではなかった。MMAの
複雑に折れ曲がった針金が四肢で、この真上に浮かぶ球体が頭部であるそうだ。元気の二字を表したような
今日の
二〇一四年の東北は六月初旬に梅雨入りが宣言されている。
脳が破裂し兼ねないほどの憤りを抑えて受け入れた第一試合がよりにもよって曇天なのである。
城渡本人が機嫌を損ねなくとも、彼に心酔している暴走族チームの親衛隊長――
「サメちゃんは、ホラ、日頃の行いが悪過ぎるっていうかさ、
背後に突き刺さった声は
その寅之助から浴びせられた皮肉にキリサメは何も言い返さない。そもそも
感情を瞳に湛えることも少ないキリサメが浮足立っているのだ。
『
いずれもキリサメにとっては先輩選手――即ち、『
白い塗装が全体に施され、側面に『
サッカーや野球のプロチームは選手送迎用のバスを所有しているが、これは『
キリサメがまだ養父の試合を観戦する立場であった前回の長野興行では選手個々で移動手段を確保し、会場まで向かっていた。契約関係を結んでいるとはいえ、
選手の行動を最大限に尊重することは競技団体を円滑に運営する上でも有効であるが、それはセキュリティーの脆弱性と表裏一体であり、だからこそ希更・バロッサも試合を終えた直後に会場の駐車場で『
盛大な祭り騒ぎを感じさせる賑々しい外見とは裏腹に、ラッピングバスは
しかしながら、これは『
全ては『ウォースパイト運動』を睨んだ警戒策であった。先月、全世界を
サイバーテロの
未稲と同じネットゲームを楽しんでいる男友達――『デザート・フォックス』は、ミリタリーマニアであるが故に
何しろ『デザート・フォックス』という
テロという許されざる罪を差し引いて分析するならば、『サタナス』が成し遂げたのは極めて高度な電子戦であるという。世界最高のセキュリティーが民間人によって突破されてしまったのだ。今度の一件が
尤も、未稲当人はハリウッド映画と錯覚してしまうようなサイバーテロを現実のものとして受け
遠い外国で起きた事件でもある為、対岸の火事としか思えない人間は未稲も含めて多かろうが、日本で開催されるMMA
国内に
過激な抗議活動は二〇一四年六月半ばの時点では日本で確認されていないが、例えば二月に実施された東京都知事でも飛沫候補の一人が『ウォースパイト運動』と同じように格闘技という〝人権侵害〟の根絶を公約として掲げていたのだ。
つまり、格闘技・武術に関わる者たちを標的としたテロの危機は首都圏にも確実に潜在しているわけだ。日本の
東北復興支援事業の発足当初こそ歩調を合わせていたものの、樋口郁郎の剛腕によって自主独立の道を突き進むようになった『
当然ながら〝暴君〟は内政干渉に不快感を示したものの、〝
「どうしようもなく危機意識ガバガバと思っちゃいたけど、二組に分かれて別々の
「もしや瀬古谷さんも『デザート・フォックス』さんの特別授業を受けました? バスみたいに大きな
「この場に電ちゃんが居てくれたら、きっと歴史上の出来事から一番絶妙な例え話をしたんだろうなぁ。キミには悪いけど、自分の妄想と現実の間を漂ってる〝ミリオタ〟くんの言うコトは話半分で聞くべきだね。鵜呑みにしてると今みたいに人格を疑われるような言い回しまで刷り込まれちゃうよ?」
「一理あるのは確かですけど、〝例の事件〟で『デザート・フォックス』さんの名前を勝手に利用した瀬古谷さんの台詞じゃないでしょ! あんまり失礼な真似をするようなら全部、本人にバラしちゃいますからね⁉」
「別にどうでも? ゲーミングサークルを辞めれば済むだけだもん。ボクのほうは痛くも痒くもないよ。脅しってのは相手が絶対に逆らえないネタを仕込まなきゃ意味ないって」
「こういう〝怖いモノがない人〟こそテロリストに堕ちるんだって『デザート・フォックス』さんも言ってたなぁーっ!」
「……お二人ともお静かに願えませんか? 一緒にいるぼくたちまでバカにするような目で見られます。……母に聞いた話ですが、瀬古谷さんのご指摘は柴門さんも最大の
「相変わらず弟クンはお姉さんの一〇〇倍は賢いねぇ~。ボクはサメちゃんの
幼い咳払いでもって両者の間に割り込み、
相変わらず七歳とは思えないほど理知的なこの男の子は、限られた予算内で最善の策を整えようとする柴門の労苦にも想像が及ぶのであろう。「子どもの目から見た大人は頼りなくて仕方ありませんけど、大人は子どもに見えないところで頑張っているハズです」という擁護も言い添えていた。
ジャケットにボタンダウンシャツを合わせ、青い
勿論、未稲と寅之助共通の〝ネトゲ仲間〟である『デザート・フォックス』の指摘が全く間違いというわけではない。それどころか、テロ攻撃を想定した警備体制に
スリランカのクリケットチームを乗せた選手バスが競技場へ移動している最中に武装集団から包囲され、銃撃を受けたのは数年前のことである。当時、まだ二歳であった
ドイツの事件は当該チームの運営企業の信頼性を爆弾テロによって暴落させ、株式売却益を不正に吊り上げんとした投資家の犯行だが、これらの二例からも大勢の選手が一度に乗り込む大型バスが狙い易い攻撃対象であることは明らかであった。
特定の思想に基づくテロ行為であるか否かは関係なかった。そして、「竹刀などではテロ攻撃を防ぎ切れない」と冗談めかした寅之助の言葉もまた真実である。俗に言う〝弾丸斬り〟などは
岩手興行に際して『
この二色はそのまま白コーナーと青コーナーを意味していた。選手たちは自身が割り振られた側のバスに分乗するのである。
キリサメたちと同じ温泉旅館を宿所としながら希更・バロッサやマネージャーの
白と青という分け方は『
残酷と思えるほど競技団体内に
それ故に二つのコーナーは団体のイメージカラーである白と青で分けられたのだ。岳が東北の被災地で仰いだ青空と雲の
コーナーの色分けに関する解説は未稲が手ずから作ったマニュアルにも詳しく記載されているのだが、
宿所を出発してから多目的運動広場の駐車場に到着するまでの道程さえキリサメは殆ど
先発の車輛へ乗り込む直前、希更から無二の親友として紹介されたインド
現役の格闘家と格闘技
時おりマルガや
興行開始は三時間も先であるが、日本を代表する〝
長野興行でリングが激しく軋むほどの激闘を八雲岳と演じたモンゴル・ウランバートル出身のバトーギーン・チョルモン――横綱であった頃の
〝アイドル声優〟を『客寄せパンダ』に仕立て上げて興収増加を図らんとする
初めて『
しかしながら、キリサメのような
初出場にして岩手興行の
名実とも国際的な有力選手でありながら車内で最も
他団体の〝通例〟で
キリサメの印象に残ったのは〝
彼に限ってはそのような事態が幾度も繰り返されており、二〇一一年の旗揚げ当初から『
「昨日の公開計量でも七〇キロちょっとって計測されたけど、新貝さん、本当は中・軽量級の選手が活躍する他所のMMA
「……みーちゃんの話を聞く限り、〝
「この間、教来石さんが話していた『シューター』って
「つまり、その別団体からデビューするハズだった選手を横から掠め取った――と?」
「今日のキリくんみたいに期待の大型新人って評判だったんだよねぇ、新貝さん。向こうの代表さんは樋口社長に心酔してるから、拝み倒されちゃうと断れないんだよねぇ」
真後ろの席から身を乗り出した未稲の
樋口の一番弟子が代表を務めている国内の別団体から中量級選手としてデビューするべく特訓を重ねてきたにも関わらず、未稲が解説した理由によって横から『
必然的に重量級選手と対戦せざるを得なくなった新貝は埋め難い体重差から思うように攻防を組み立てられず、敗戦を重ねる内に〝引き抜き〟の張本人である樋口当人からも疎まれるようになっていった。
「身の丈に合わないリングに立たされた挙げ句、都合良く使い捨てられたって感じかな。如何にもあの社長サンのやりそうなコトだね。サメちゃんもせいぜい気を付けなよ」
キリサメの隣で未稲の
久々に対戦相手を用意されたというのに会場へ到着するのが恐ろしくてならないのか、新貝は己の身を掻き
その新貝よりキリサメは一〇キロも体重が軽い。完全な軽量級選手であり、養父を筆頭に重量級選手が
「いつかキリくんも新貝さんと闘う日が来ると思うよ。……キリくんなら大丈夫。お父さんの目が黒い内は樋口社長にだって好き勝手はさせないって」
「お養父さんに庇って貰えるのと、『
「……私だって樋口社長のやり口や『
未稲はすぐさま寅之助の皮肉を打ち消そうとしたが、キリサメからすれば己の末路を見るようなものであり、それだけに新貝という名前を厭でも
もう一つ、キリサメの記憶へ刷り込まれたのは通路を挟んだ向こう側の席に腰掛けたスペイン人選手の言葉である。
アンヘロ・オリバーレスと名乗ったその男性は柔道の代表選手として夏季オリンピックに出場し、祖国へ黄金の栄光をもたらしたメダリストでもあった。今年の五月にラ・マンチャ地方の古城で開催された
そのオリバーレスからキリサメはスペイン語で少年を意味する「チコ」と呼ばれ、煩わしいほど話し掛けられたのである。
車内でのキリサメは二人席の窓際に
「ジョーワタを甘く見ちゃダメよ? カレは本当の、そして、最高のプレアドール――猛牛の魂を宿した戦士ヨ! ワタシにも日本で一番の〝
世界最高位の柔道に加えてフルコンタクト空手をも極め、まさしく〝総合格闘家〟として死角のない有力選手が『
その城渡のことをアンヘロ・オリバーレスは〝
両者の試合はキリサメもリングサイドで観戦したが、城渡の勢いが勝っていたのは序盤のみであり、『
同じ
アンヘロ・オリバーレスが心の底から城渡マッチを同じMMA選手として尊敬し、前回の試合でも血を沸き立たせたということは、秒を刻む
「チコの
流暢とは言い難いオリバーレスの日本語は発音に独特の訛りがあり、それもまたキリサメの心を揺り動かしていた。こうした喋り方を同じスペイン語圏である
コンキスタドールの歴史を思えば、この上なく皮肉な筋運びであるが、生まれたときから耳慣れた
「――オラ! 今日もヨロシクお願いネ! ミンナの為にも頑張りマ~ス!」
白いバスを
「サメちゃんにラテン系のノリを求めようってつもりはないけど、せめてあの半分くらいはハツラツとしていたほうが良いんじゃない? 寝不足なんて言い訳はリングじゃ誰にも通じないよ。ていうか、ボクだってサメちゃんの
視界に入ったスタッフへ片端から挨拶して回っているオリバーレスを眺めながら、寅之助は大
午前二時三一分頃のことであるが、この日、東北地方では岩手県内陸南部を震源とする地震が起きていた。最大震度四――
温泉旅館の宿泊客たちも建物が微かに軋む音を聞いたが、館内放送によって避難を促すほど大きな揺れではない。だからこそ寅之助も地震には気付かず眠り続けていたのだ。
彼の睡眠を打ち破ったのはキリサメであった。畳の上に敷かれた布団から飛び上がると窓まで開けて
寅之助の
以降は大きな余震もなく、テレビ画面も災害時の緊急放送へ切り替わることはなかったが、勢いよく蹴飛ばされたキリサメの掛布団が顔に
「あ~、やっぱり昨夜の地震でもキリくん、飛び起きたんですね。五月に伊豆大島のほうで大きな地震があったときもスゴかったですよ。声を掛けても起きなかったお父さんのコトは首根っこを掴んでベッドから引き摺り出してましたもん」
「地震に気付かず眠ったままタンスの下敷きになるよりはマシかもだけど、二人部屋で叩き起こされるってのは二重の意味で気分の良いもんじゃないね」
「……ちょっと意外ですね。アマカザリさんの場合、地震で家具が倒れてきても竜巻で家ごと空中に吹き飛ばされても、気付かないまま眠りこけていそうなのに……」
目を丸くする
およそ一ヶ月前――五月五日の早朝に伊豆大島近海を震源地とする最大震度五弱の地震が発生したとき、下北沢に所在する『八雲道場』でもそれなりの揺れを感じていた。キリサメは誰よりも早く跳ね起き、家族の二人は寅之助と同じことを味わわされたのである。
カーテンの隙間から朝日が差し込む頃まで〝ネトゲ〟に興じ、ようやく寝床に入ったばかりであった未稲はまさしく寅之助と同じ状況を体験していた。
余りにも素早い対応に
本日未明――
幸いにも巨大地震ではなかったが、最大五〇〇〇人もの観客を迎える
点検の範囲は試合を執り行う総合体育館だけではなく、パブリックビューイングの開催先である岩手県内の体育館や公会堂まで含まれている。
『八雲道場』所属選手のマネジメントも担当している麦泉は本来ならば白いバスに同乗するはずであったのだが、夜明け前には岳と一緒に宿所を飛び出している。
尤も、岳の場合は緊急事態が起きていなかったとしても統括本部長の役割がある為、一一時には総合体育館に到着していたはずだ。映像作家として『
「ていうか、サメちゃん、昨夜は一睡もしていないんじゃないの?
「……少しは寝たよ……」
「そんなトコでイキがっても電ちゃんは褒めてくれないよ? 布団に入ってからず~っとゴロゴロ寝返り打ってたように思うんだけどなぁ~。サメちゃん、枕が変わったら寝れなくなるタイプ? 天井が変わると落ち着かなくなる人もいるよねぇ」
地震への対応が異常なほど早かったのは揺れに気付いて目を覚ましたのではなく、そもそも眠っていなかったのではないかと寅之助は疑っているわけだ。
「天井や壁がない場所でも最低限の睡眠時間を取ることには慣れているつもりだよ」
四六時中、
それが証拠に哀川神通との邂逅によって引き出された胸の高鳴りは、一夜明けた
「――初めてお会いした日からキリサメさんのことが片時も忘れられなくなりました」
神通から告げられたその一言が両の鼓膜にこびり付き、何時までも反響し続けていた。
そのような情況で眠れるわけもあるまい。素直に認めることは
声だけではない。スカートがめくれ上がった際に露となった
(いや、
身の
しかも、パズルのピース一枚一枚に神通の顔を映すという有り様だ。
その神通はキリサメの顔を見つめ、
日本MMAへの〝道〟を拓いた『昭和』の伝説的プロレスラーである鬼貫道明と非公式の異種格闘技戦を繰り広げた哀川家の先代と同じ目をしていると、初めて出会った日から感じていたそうだ。
乱世に端を発する武器術併用の流派『
聖徳太子の異称を関する『
同じ
これに対して哀川神通は『
法治国家日本では生きる場のない
神通の覚悟をキリサメは歴史への〝帰依〟と感じていた。食い繫ぐ為だけに暴力を研ぎ澄ませ、ただ刹那に生きてきた己とは結局のところ、一つとして交わる部分はない――そのように割り切ろうとした矢先、彼女自身が胸の高鳴りを分かち合っていることを
それは〝一人の人間〟としての共鳴によって結ばれている証左であった。
「お互いに立場は違いますが、こうして親しくなれたのも運命だと信じています」と秘めた気持ちを明かしてしまったキリサメに対し、神通は瞳を潤ませながら顔を綻ばせ、恥じらうように俯いていた。
それ以来、憂いを帯びた顔を想い出す
かつて味わったことのない不思議な感覚であった。深い部分まで
それだけに胸の奥で暴れ回る
哀川神通という存在に呑み込まれていた意識が物理的に鼓膜が揺さぶられたことで現実へと引き戻されたわけである。
「昼花火……ですか。
「柴門さんがあちこち掛け合って諸々の問題を
「あの人、一体、どういう人脈を持っているんですかね……」
奥州の
銃社会でもない日本で白昼堂々と銃火が轟くはずもあるまい。十分な睡眠時間を取り、少しでも動揺が収まっていれば演じるわけのない失態であった。
「サメちゃんサメちゃん、記憶から飛んじゃってるみたいだけど、ここ、日本なんだよ。キミんトコみたいにいきなり銃で襲われるってのはまず有り得ないのね。例えば巷で話題の『ウォースパイト運動』の
キリサメに対する挑発を目的として『バリアーダス』と呼ばれるペルーの貧民街を調べた寅之助だけに真隣の少年が過剰反応を示した原因もすぐさま看破したようだ。
『八雲道場』が懇意にしている整形外科医――藪総一郎は、人の心を弄ぶことに快楽を見出している瀬古谷寅之助の言行はキリサメに〝闇〟の底を意識させ、その暴走を抑え込む〝
日本を代表する大女優――
一度や二度ではない女性問題や逮捕など、破天荒を絵に描いたような
それを悪と見なして否定してしまったら何も生まれない――
人間という生き物は己が恐れるモノに限って他者に見つけてしまう。己が隠しておきたいもの、己でも持て余しておるものばかり他者という鏡に映り込む――藪総一郎はそのようにも語っている。
(……MMAは〝平和の祭典〟だって岳氏も言っていたもんな。……銃口に晒される心配のない社会でしか、そんな道楽は成り立たないもんな……)
〝
その途中、脇をすり抜けていったバトーギーン・チョルモンから横目で睨まれたのはキリサメの勘違いではないだろう。
統括本部長の岳と対戦した際、チョルモンは力と技を純粋に競い合うというMMAの本質を忘れ、
(……ああ、そうだ。この感覚、岳氏とこの人の試合と同じで……いや、そうじゃない。これはいつかの――)
バトーギーン・チョルモンに向けられた敵意が引き金となり、キリサメの脳裏に甦ったのは
*
キリサメが生まれ育ったサン・クリストバルの丘周辺から少しばかり離れた地域だが、幼馴染み――
貧困層と富裕層の居住区が万里の長城の如き壁で隔絶された
その日を生きるという刹那の充足が無為に繰り返される――それが格差社会の最下層なのである。
『七月の動乱』で命を落とした
丁度、一ヶ月後が経った日にキリサメはほんの気まぐれから幼馴染みの墓へ祈りを捧げたのだが、その帰り道で追い剥ぎの被害に遭う一人の
身なりからして
そのとき、キリサメは己が朝から飲まず食わずであったことを想い出し、次の瞬間には下卑た笑い声の聞こえる駐車場へと足を向けていた。小腹を満たす為に手頃な獲物を見繕おうと思ったわけではない。ただ
「……キリー?」
少年強盗団の誰かに懐かしい
しかし、そのようなことはキリサメには関係がなかった。暴力以外に生き残る為の
幼馴染みの墓参りに出掛けていた為、その日は血塗られた『
彼はその手に喧嘩殺法を――路上に
足元に転がっていた石を素早く右の掌中に握り込み、真っ先に飛び掛かってきた相手のこめかみへこれを叩き付けた。対の拳でもって別の少年の肋骨を抉り、強盗団で一番の巨漢は金的を蹴り上げ、上体を傾かせたところに延髄目掛けて肘を落とした。
背後から突き立てられる寸前で奪い取ったナイフは、恐れをなして逃げ出そうとしていた別の青年へと投げ付けた。鋭い尖端は狙い定めた通りに太腿を抉り、比喩でなく本当にその場へ釘付けとしたのである。
投げナイフの技は
〝敵〟の急所を見定め、躊躇いなく刺し込んでしまえるくらい逞しくなければ、
激痛の
最後まで立っていた少年の顔面を右の五指でもって掴み、力任せに押し倒すと硬いアスファルトへ叩き付けた。例え僅かでも反撃するだけの力が〝敵〟に残っていた場合、己の命が必ず脅かされると身を
小さな頃から聞き慣れた声で命乞いをされても、キリサメは特に〝何か〟を感じることもない。追い
財布というより小銭入れと表すほうが正確に近い。身なりの良い
エンパナーダと金色の清涼飲料を屋台で購入すれば数枚の小銭しか残らないような金額だが、それでもキリサメには十分だった。牛肉や玉葱といった具にチーズを混ぜ、更にカレー粉を加えたミートパイで一日分の栄養は摂取できる。今日は生き延びられるのだ。
空腹を満たし得る糧を手にした時点で、足元に転がる〝旧友〟などキリサメにとってはわざわざトドメを刺して回るにも値せず、目障りとさえ思わない物体に過ぎなかった。
〝表〟の社会で法律に守られている者たちの目には残虐と見えることであろうが、格差社会の最下層では驚くほどでもない場景である。誰かの他殺体が裏路地に打ち捨てられていようとも住民たちも騒ぎ立てることはない。小銭入れのはした金でも警察官から無罪を買い取ってしまえる世界なのだ。
極限的な暴力に呑み込まれた
*
〝その日〟も右の人差し指と中指が血で濡れていた。〝旧友〟に対する慈悲も躊躇もない
大切な
「……キリくん? やっぱり寝不足でしんどいのかな?
「――ああ、……うん、大丈夫。少し考え事をしていただけだよ、みーちゃん」
未稲の声によって追憶の水底から現実へ意識を引き戻されたキリサメは、曖昧な返事を引き摺るようにして
〝ゲームの世界〟に
そして、何よりも坂を上り切った先では「キリー」と嬉しそうに
(……よりにもよってこんな日に想い出すなんて幸先が悪いなんてもんじゃないぞ……)
ここまで鮮明に
〝格闘競技〟のリングへ臨まんとする
神通に対する共鳴が
そして、それはどうやら意識や自覚から切り離されたところでキリサメの
いよいよ曇天はその濃さを増し、坂の向こうから風に乗って雨の匂いまでもが転がってくるようであった。
イギリスには「三月の風と四月の雨で五月の花が咲く」という
送迎用のラッピングバスが待機する駐車場から総合体育館へと至る坂道には隙間なく
青い
独眼竜の加護は『
華々しい平和の祭典の日に似つかわしくない曇り空は、この迷える男の精神状態をそのまま映しているかのようにも思えた。
「
「ここに電ちゃんがいたら、ご機嫌ナナメってもんじゃ済まなかったかもね」と寅之助に右肩を叩かれたキリサメは駐車場で揶揄されたときと同様に無反応である。それより前から双眸を大きく見開き、またしても両足をアスファルトに貼り付けていた。
改めて
数多の
正面玄関を挟む形で左右に並立する二棟はどちらも
広場そのものは晴天ならば陽の光が眩いばかりに差し込み、縦横無尽に風が吹き抜ける構造であるが、円形ベンチには大きな屋根も設けられている為、雨風を凌ぐ手立ても万全であった。二棟のアリーナの二階席を結ぶ通路も屋根代わりとなっている。『
建物自体は下見に訪れたときから変わりようもない。それにも関わらず、キリサメも真隣の寅之助も「一変」としか表しようのない印象を抱いたのである。
そこかしこに坂道と同じ
民間企業の警備員も既に配置についており、不審者の侵入を見逃すまいと各所で目を光らせている。そこに違和感を覚えたギロチン・ウータンは「随分、物々しいじゃない」と怪訝な表情を浮かべたが、『
一目瞭然の通り、
しかしながら、祭り騒ぎに酔い
警備員が腰のベルトに装着させている伸縮式の特殊警棒は、ペルーで起きた大規模な反政府デモ――『七月の動乱』に
「……『
二台の中型車輛がメインアリーナに横付けする形で
見るに見兼ねた
国内のプロレス番組も数多く制作し、
未稲と
時おりテレビで目にしていながらも関心が薄い為に気付いていなかったが、国内外の格闘技を幅広く取り上げる衛星放送の有料チャンネル『パンプアップ・ビジョン』の番組には同社の
二台の車輛にも『ハーキー・フィルムズ』という社名は大きく刷り込まれている。
歴史の長い企業だけにスタッフの顔触れには多少の変化があったものの、『
「ああ~、『ハーキー・フィルムズ』って
「母親が映像関係の仕事をしているので、聞きたくなくても自然と耳に入ってくるんですよ。今日の試合もテレビでの生放送はありませんが、色々な場所でパブリックビューイングをやりますよね? 実質的な生中継に必要な
「
「この場合、プロとアマの違いというよりも〝商業イベント〟だから許可が下りないと言うべきかも知れませんね。権利の管理が恐ろしく複雑ですし、『
前回の
「ぼくも完全に把握しているわけではありません」と前置きした上で、もう一台のほうは場内に
(……情けなくて仕方ないけど、自分が勉強しなければならなかったことも、その範囲さえも、僕はまるで分かっていなかったんだな……)
長野興行のときは無理矢理に連れていかれた〝養父の仕事場〟という感覚でしかなく、会場とその周辺の様子など興味も湧かなかった。それどころか、どのような人々が〝格闘大会〟を支えているのか、一瞬たりとも想像しなかったくらいだ。
前回の公開計量は会場となった長野市内のビジネスホテルまで足を運ばず、宿所で待機していたのである。
キリサメが気付けなかっただけで
ようやく自身の所属するMMA団体に目を向け始めた
二棟の間を跨ぐ屋根のように広い通路から垂らされた「奥州
『
所属選手も〝強さ〟のみが評価の基準となるわけではない。試合を通して観客を満足させられなくては
前日から実施されている
「――あの日と何一つ……変わらないのだな……」
MMA一色に染まった会場に対する感慨もまた人それぞれであった。
気難しい表情でバスに揺られていたバトーギーン・チョルモンは、建物の全景を見渡せる場所に立つとモンゴルの
その様子を遠くから見つめるギロチン・ウータンの眼差しは一等優しく、毒々しい
一九九九年のことであるが、この総合体育館では大相撲の地方巡業が開催されていた。かつて横綱として角界の頂点に君臨したバトーギーン・チョルモンの胸には余人に決して分からない想いが込み上げているのだろう。一五年の時を経て、〝廻し〟を外したMMA選手としてこの地に足を踏み入れたのである。
未稲からそのように耳打ちされたキリサメは憤怒に満ちた眼光を叩き付けられたことも忘れ、ただ静かに礼を尽くすバトーギーン・チョルモンの横顔を見つめていた。彼が『
「さっき、『電ちゃんがいたら、ご機嫌ナナメってもんじゃ済まなかった』って言ったけど、前言撤回しとくよ。こんなお祭り騒ぎを見せつけられたら、下町生まれの血のほうが先に沸騰するもん」
「……〝江戸っ子〟というヤツか。……それは想像し易いな。死んだ母も下町と呼ばれる土地で生まれ育ったらしいのだけど、やっぱり無類の祭り好きだったんだ」
「ボクんとこの父や祖父も似たようなもんさ。案外、サメちゃんのお母上の実家と
総合体育館の周辺に
これが前日のランニングの最中に希更が話していた〝屋台村〟というわけだ。まさしく寅之助が述べた通りの〝お祭り騒ぎ〟である。
「長野の
「お店はどれもテントですから台風直撃でもない限り、ある程度は大丈夫でしょう」
「幾ら柴門さんだって天気と交渉することは不可能だけど、不確定な天気まで見越して支度を整えるもんね。岩手の〝次〟の興行なんてその究極みたいな
奇しくも姉弟の会話は希更から教わった
敢えて特定の
前日に希更から聞いた
正確には『
会場の設営スタッフを開催先で雇用することまで含め、経済効果の形で地域に貢献しようという取り組みである。そこには未曽有の大震災によって深く傷付いた日本全国をくまなく元気にしたいという想いが込められているのだった。
ずんだ餅の触感や餡の味わいを再現した和洋折衷のフローズンカスタードも、ルーの海で前沢牛のサイコロステーキが島を作るカレーライスも大盛況のようだ。地鶏の
「今、ブラジルで開催してる
「真面目腐ってお腹が鳴ったことを誤魔化すのは余計に恰好悪いだけですよ。……意見そのものには賛成ですけどね。オリンピックも商業化が露骨になったクセして開催地は大して儲からないと聞きますし、ぼくも利益還元というコトならこれくらいの規模が丁度良いんじゃないかと思いますよ」
開場前ということもあって人数自体は極端に多いわけではないが、一部の観客は既に総合体育館に到着している。そうした人々の為に食事の提供が始まっているわけだ。熱心な格闘技ファンは伝統工芸によって具現化された『
販売の偏りを最小限に抑え、出店した誰もが利益を得られる采配は
こうした〝屋台村〟は言うに及ばず、
前日に総合体育館を訪れた際、寅之助は設営が完了していないことを
「――やぁやぁ、サッカー
一等大きな声に驚き、そちらに視線を巡らせたことでキリサメも気付いたのだが、二棟を繋ぐ渡り廊下の壁向こうは小さいながらも屋外ステージとなっている。今日はそこに会議で使用するような折り畳み式のテーブルが設えてあった。
「……ああ、あれはね、いわゆる〝ファンクラブブース〟だよ。屋台を見ても分かるように明らかに〝一般客〟じゃない人が来てるでしょ? あれが〝優待客〟ね。『
「みーちゃんのお陰で何となく分かったかな。死んだ母さんも『エスエム・ターキー』のファンクラブに登録していたそうだよ。会員証を自慢された
「インディーズのパンクバンド……だっけ? 確かお父さんもファンクラブ会員だったような……。今でもたまに代表曲の――そうそう、『キャサリン』ってのをお風呂で近所迷惑なくらい唄ってるみたいだし」
「
「……ペルーくんだりまで行って何してんの、お父さん……」
未稲による解説がなければキリサメには〝ファンクラブブース〟という言葉の意味さえ分からなかったことであろう。つまり、『
キリサメたちが坂道を登り切った直後には『
そして、その選手にこそキリサメは驚かされたのだ。
レオニダス・ドス・サントス・タファレル――『
傍観者のほうが肝を冷やしてしまうほど近い距離での交流が〝ファンクラブブース〟に
レオニダスは前日から実施されている『
テーブルには募金箱も置かれていた。団体のファンサービスだけでなく日本格闘技界が一丸となって取り組む東北復興支援
「きっと母さんの目には『エスエム・ターキー』もこんな風に
前回の長野興行ではレオニダスの試合が始まる直前で会場の多目的運動アリーナから出てしまい、その流れで
底抜けに明るい声は鼓膜を心地好く震わせ、これによって紡がれる流暢な日本語は脳に染み込むようであった。その上、やや大仰とも思える身振り手振りをついつい目で追い掛けてしまうのだ。気付いたときにはキリサメもレオニダス・ドス・サントス・タファレルという存在に全神経が吸い寄せられていた。
カリスマという言葉を完璧に体現するその姿をスーパースターと呼ぶことには誰も異論を挟むまい。キリサメも
希更もマネージャーが警戒心を抱くほどレオニダスのことを慕っている様子だが、
「正直、私は苦手だけどねぇ。女性絡みの
「確かにどう頑張ってもラテン系のノリは未稲さんの性格と合いませんよね。だからこそたまには近寄ってみたらどうです? 虫干しされてカビ臭さも取れるのではないかと」
「思った以上に辛辣ッ! ヒロくん、今、世界中のインドアを敵に回したよ⁉ そもそも家に籠って本ばっかり読んでるヒロくんも似たようなもんじゃん! 自分のコトを棚に上げてお姉ちゃんをいじめるのは良くないなぁ!」
「反撃を受けてあげられなくて申し訳ありませんが、毎週末は友達とあちこちのスケートパークに出掛けていますよ。近頃、ハーフパイプが面白いって話しましたよね? ちなみに運動が脳を活性化して読書も捗るってコト、未稲さん、ご存知でした?」
「弟クン、キミのお姉さんもなかなかアウトドアなんだよ? 趣味が合うと思った連中の前ではペラペラと口数が多くなるタイプね。眺めている分には〝ダダ滑り〟も面白いからツッコミも入れずに放置するんだけどさ」
「ヒロくん、見たね? 聞いたね? 小さな頃から皮肉屋でいると高校へ
「……みーちゃんの無責任な八方美人も僕は邪悪だと思うけどな」
「まさかの
取材用に持ってきたノートでキリサメの肩を叩く未稲の悲鳴はさておき――レオニダスは同日にブラジルで開催されているサッカー
世界最大の〝サッカー王国〟で生まれ育った人間がブラジルに戻って
「サッカーは最高にご機嫌なスポーツだけど、MMAだって負けちゃいないから! 『今に見てろ、
ヘアバンドでもって持ち上げた
「……うッわ、やべ! 今のって〝サッカー王国〟に里帰りしたら誰かに刺されるレベルの失言じゃん⁉ みんな、オレの骨を拾ってくれェ! 納骨は愛する日本でね! 『レオ様の骨壺になりたァ~い』って夢見る人がいたら一番嬉しい冥土の土産に――いや、気持ちだけ貰っとくわ! それはさすがに愛が重過ぎるわ! 命を粗末にすんなよ⁉」
一つの事実としてレオニダスの参加を前面に押し出した岩手興行の
以前、『
団体代表の樋口にとっても広報戦略に協力的なレオニダスは最高の人材である。だからこそ心身の状態を整える時間が削り取られる〝仕事〟まで押し付けられてしまうのだが、
(……僕みたいに面白みのない人間は、真っ先に切り捨てられそうなものだけどな……)
大勢が詰め寄せた〝ファンクラブブース〟は握手会ではなく独演会の様相である。
駐車場から坂道を登ってきたキリサメたちは、
シートの表面には『
その一本道は選手専用の出入り口へと繋がっているのだ。観客を迎え入れる正面玄関ではなく、総合体育館の通路と直結しているドアから入場する手筈であった。
〝ファンクラブブース〟と同様に柵の外側にも数十人のファンたちが集まっている。会場入りする選手を柵一枚で隔てるのみという至近距離で出迎え、声援を送るのも優待客に与えられる〝特権〟の一つなのだ。無論、
華々しいMMA
リングの悪役なのだから嫌がらせの〝カミソリレター〟を送り付けられるのも当然という風潮が蔓延する時代を生き、〝
軽い接触ではあるものの、最前列のファンと互いの手のひらを合わせながら歩みを進める姿は〝愛される
「――岩手の皆さん、お待たせェ! 帰ってきたよ、『
ギロチン・ウータンに続いたのは意外にも新貝士行であった。
バスの中では病的なほど怯え続け、一度は坂道の途中で立ち竦んでしまった男が大勢のファンを前にした途端、別人の如く勇ましい
三年もの間、体重差という絶望的な現実を乗り越えられず、成績も振るわない為に〝暴君〟から見限られつつある状況にこそ新貝は恐怖している。本当はこの場から逃げ出したいとさえ思っているはずだが、日本最高のMMA興行を楽しみにしているファンの前では昂揚に水を差してしまう振る舞いを堪えているわけだ。
あれこそが真のプロ意識とキリサメは素直に感心し、次いで新貝が『
彼が希望していたMMA団体ではなく『
それは自身の体重と全く合致していない『
現在の
新貝が握り拳を突き上げて歓声に応える一方、ファンサービスを意図的に避けているような選手も少なくない。バトーギーン・チョルモンやイェスペル・サンドバリは温かな声援にさえ一瞥もくれず足早に立ち去っていってしまった。
接触の有無に関わりなく、『
間もなくキリサメに
「……見せたくないなら最初から着てこなければ良いのではありませんか?」
「自分のスケベ心をオープンにできる度胸と正直さは認めなくもないけどね、
その隣では三人の同行者を置き去りにしてでも前進しなければならないはずのキリサメが左右の足を再び奥州の大地に張り付かせていた。
普段は眠たげな双眸を大きく見開いたまま、彼の意識はおよそ半日前――全選手参加による
宿所である温泉旅館の展望カフェにて歓談した哀川神通たちと別れ、セレモニーが開催される
神通との間で結ばれた共鳴が心を動揺させていたのは間違いないが、それでも思考の停止には至っていなかった。
明確に変調を
『
四方八方から
それは地に伏せた野獣の群れが舌なめずりしながら獲物に狙いを定めるようなものだ。
明確な〝敵意〟は
それ故に〝闇〟の底で四六時中、神経を張り詰めていなければ生きてはいられなかったのである。
ところが、特設ステージへ登壇した瞬間に浴びせられた眼差しは余りにも温かく、日本最高のMMA興行に対する期待を胸に秘めて集結した人々の熱量が肌を食い破って心臓に達したと錯覚するほどであった
暗闇の向こうから顔も分からない何者かが穏やかならざる気配で突き刺してくる
躍動する生命が
数多の目に晒されるという状況そのものは酷似しているのだが、そこに込められた想念が
哀川神通という魂を分け合ったかのような存在に触れたことで元から落ち着かなかったキリサメの
その瞬間、脳裏に甦ったのは神通の
判断能力すら正常に働いていないのだから計量にも不手際があり、対戦相手である城渡マッチから幾つかの指導を受けてしまった。改めて
岩手興行に出場する全選手の公開計量が完了した後には、公式観戦ツアーの参加者を交えた記念撮影もあったのだが、己が誰の近くに立ち、どのような表情でカメラのレンズを見据えたのかもキリサメは全く
数え切れない眼差しと共に特設ステージを揺らすほどの歓声も押し寄せていたのだが、脳を焼き切られたも同然のキリサメには、真隣で張り上げられた養父の吼え声すら聞こえていない。
一夜が明けて舞台を初陣の地に移し、今またキリサメは前日セレモニーと同じような状況に立たされた次第である。
「もうじき希更さんたちも駐車場に着くんじゃないかな。当たり前だけど、キリくん、リングチェックも初めてだよね? 早めに支度してお父さんからコツを教わるのが良いと思うよ? 特にキリくんのファイトスタイル的にもキモになると思うし」
未稲に促される形で地面から両足を引き剥がし、一本道へと強引に向けはしたものの、それだけで気持ちを切り替えられるほどキリサメは器用ではない。
降り注ぐ視線の総量こそ前日より少ないが、その代わりに今日は距離が極めて近く、心を射抜く熱量も赤く
どうして己がこの忌まわしい祭り騒ぎの中心に
禍々しい刃を
気持ちが落ち着かない間に初めて味わう異様な感覚が重なり続けたのだから、思考の一切が白紙となってしまうのは無理からぬことであろう。そして、そのようなときほど運命は冷静となり得る機会を与えてくれないものである。
簡易式の柵で仕切られた道を半ばまで進んだとき、
柵の側に立って我が身を盾に換えている寅之助も警護対象の異変にはすぐさま気付き、
キリサメと寅之助――二人の少年だけが知っている顔とも言い換えられるだろう。ほんの数人であるが、秋葉原の中心街にて繰り広げた〝
寅之助が試みた
二人の少年は言葉を失ったまま目配せでもって記憶を確認し合ったが、女性のほうはMMAを貶めるような言葉を吐き捨て、熱心な格闘技ファンと
激しい感情が交わった後の展開は「アマカザリ選手のお陰で人生変わりました!」という言葉が端的に表している。
インターネットを利用しないキリサメには確かめる
「圧勝を期待してるぜ、超新星! 古株がはびこる『
本人の了承も得ないまま『
〝古株〟――即ち、城渡マッチたちベテラン選手の駆逐を実行させる
「人間関係ってのはどんな風に転ぶか、分かんないもんだねぇ~。こんなに暴力的な恋のキューピットもいないと他に思うよ? サメちゃん、MMAに行き詰まったらウェディングプランナーってテもあるよね。とんでもない荒療治だから客層も限られるけど」
この上なく厭らしく聞こえた寅之助の揶揄に対しても、キリサメは一瞥のみに留めて何も言い返さなかった。
数え切れないほどの人々を『
(神通氏が古武術の歴史へ帰依するのと同じように僕も――僕だって光には届かない。岳氏や希更氏みたいに温かく迎えられる理由だってないじゃないか……ッ!)
発祥の地や求められた時代こそ異なるものの、同じ
無論、その問いかけに答える声はなく、ただ純白の
(……だから、そこで
そもそも現在の情況を自らが呑み込むだけの時間さえキリサメには残っていない。アンヘロ・オリバーレスとそのセコンドたちが真後ろまで迫っており、何時までも同じ位置に立ち止まっているわけにはいかないのだ。
「……キリくん、同じほうの手足が一緒に出てるけど、大丈夫?
「この期に及んでまた〝ナンバ〟の稽古でも始めようっていうのかい? サメちゃんってば随分と余裕あるねぇ。
無理矢理に左右の足を動かし始めるキリサメであったが、どうしても気持ちのやり場がなくなり、先程まで己が立ち尽くしていた場所を振り返ってしまう。
気さくなアンヘロが後続の選手に詫びつつ、客の一人一人と順繰りに握手を交わしていた。『
もう一人の青年は腕を組みつつ、「自分はキミの理解者だ」とでも告げるかのように首を二度三度と頷かせていた。
果たして、その訳知り顔はキリサメ・アマカザリという少年の〝何〟を理解できたというのだろうか――これを訊ねるだけの時間がないことをキリサメは心の底から悔んだ。
もはや、
「アリガト、アリガトね! ワタシのスペイン、昨日、オランダに負けちゃったからミナさんの気持ちが痛いくらいワカるよ! 一緒にカナシミを乗り越えまショウ! ワタシたちのファイト、きっと必ず元気出ますヨ~!」
「偉大なるコンデ・コマがブラジルに伝えたのは〝
ファンサービスへ勤しむオリバーレスに対抗意識でも燃やしているのか、一本道と隣接する屋外ステージからはレオニダスの大音声も飛び込んでくる。
それはつまり、デビュー戦へと臨む記念すべき第一歩すら殆ど記憶に留めていないという意味である。無情なくらい抉り出されたキリサメの有り様とも言い換えられるだろう。
「――よォーやっと来たな、キリー! 首を長~くして待ってたぜェ! 待って待って待ちくたびれちまったよ! 『
残り数歩で視線から逃れられることに安堵して誰にも聞こえないくらい小さな溜め息を吐き捨てようとした瞬間、キリサメの顔から生気が消え失せ、これも喉の奥に押し戻されてしまった。
『
黒地に水玉模様の陣羽織を纏っており、〝祭り騒ぎ〟に相応しい印象とも言えるが、派手という二字をそのまま具現化したような賑々しい雰囲気すら上回るほど今日の岳は昂奮している。
試合前にも関わらず、身の心も沸騰しているのだろう。額といわず頬といわず汗で濡れており、玉のような粒が飛び散ったらしい未稲は悲鳴を上げつつ異常なほど機敏な動きで顔を拭った。
「改めて紹介するまでもねぇかな⁉ こいつの名前はキリサメ・アマカザリ! 今日、初めてMMAのリングに飛び込む期待の大型新人だ! サイトやパンフにゃ格闘技の実績は書いちゃいねぇが、キリーの腕はオレがこの目で確かめた! こいつは本物さ! 本物の戦士だ! デビュー戦の奇跡に会場みんながおったまげること間違いナシ! よろしくお引き回しのほどをッ!」
未稲から浴びせられた甲高い怒号を一瞥もせずに聞き流し、明らかに顔が引き
持って生まれた性格とはいえ、
理由はキリサメにも未稲にも分からないが、昨日から――前日セレモニーで合流する頃から
岳の後方――選手専用の出入り口と直結する通路では背広姿の麦泉文多が比喩でなく本当に頭を抱えていた。岳の暴走に感付いて引き留めようとしたが、どうやら力ずくで振り切られてしまったようだ。
「……
余人には意味が分からない麦泉の呟きは、近くを歩いていたスタッフが聞き取るよりも早く大歓声によって噛み砕かれていった。
改めて
「ナニも心配ないナイ! ワタシたちがチコのコトをずぅっと見守ってるヨ! ワタシたちっていうのは『
「新しい
オリバーレスとレオニダス――ラテン系の情熱に満ちた声が脳天へと降り注ぎ、キリサメは左右の肩を反射的に上下させたが、その微かな動きをも岳の両手によって物理的に抑え込まれてしまった。
岳としてはデビュー戦を直前に控えるキリサメを励ましたかったのであろう。しかし、解きほぐす
陸前高田市で出会った『NSB』代表――イズリアル・モニワには
「……地獄への道は善意で敷き詰められている――アマカザリさん、その内にグレるのではないですか? ……ボクなら頭がおかしくなりますよ」
現在は一二時半を少し過ぎたところである。選手控室のテレビで
日本スポーツ界にとって最良の日とは言い難いわけだが、それはキリサメ・アマカザリという『
何事にも無感情に生きてきたキリサメは己の
二四時間で様相を〝一変〟させたのは当然ながら屋外だけではない。キリサメや希更に随行して下見に訪れていた寅之助はメインアリーナを一目見るなり言葉を失った。人並み外れて神経が太い青年が双眸を見開き、呆けたように立ち尽くすしかなかったのだ。
前日に見学した際には何の変哲もない体育館でしかなかった。都内の『
少なくとも今日までは大差など無いと信じて疑わなかった。だからこそ、MMAの
良くも悪くも些細なことに動じない寅之助の
「……今、この場に電ちゃんが居たら
学園祭といった催し物の為に体育館を飾り立てることもあるが、寅之助の目の前に現れた〝改造〟はその規模ではない。
視界に入る全てを享楽に換えてしまえる寅之助でさえ驚愕に打ちのめされてしまうくらいなのだから、思考回路が正常に働いていない
「
「おうおうおう、未稲もたまには良いコト言うじゃねぇか! 懐かしい昔話だけどよォ、オレも一九九九年の大晦日に徳川幕府の埋蔵金発掘へ参加したとき、人類の叡智をこれでもかと思い知ったねェ~。結局、〝お宝〟は見つからず
丁度、
メインアリーナ一階は南側を除く三方の壁際に可動席が組み立てられていた。これに対してリングサイドの〝特等席〟に並べられた何脚もの補助椅子と二階の固定席は東西南北から選手たちの熱闘を見守る形となっているのだ。
二階固定席は三〇〇〇、一階は可動席と補助椅子を合わせて二〇〇〇――これら全てを使い切って最大五〇〇〇人もの観客を迎え入れるのだった。
岩手興行のパンフレットは、その一脚一脚へ既に置かれている。言わずもがな、紙の手配から印刷に至るまでデザイン以外の工程を地元企業に依頼していた。
リングの様子を一望し得る実況席には前回の長野興行と同じ二脚の椅子が設えてあり、三角形のネームプレートも一つずつテーブルの上に置かれている。そこに記された名前の通り、
『
一四時開場である為、実況席から観客席に至るまでいずれの椅子も無人だが、設営状況だけを判断材料とするならば、今すぐにでも
最も奥まった場所に据え置かれた極大な液晶モニターは、見ているだけでも圧倒されてしまうほどの存在感を発揮している。
こうした形態は『
異なる点が全くなかったわけではない。最も大きな違いは一階・南側の壁際に組まれたセレモニー用の特設ステージだ。団体のロゴマークが染め抜かれた青い布で全体が覆われており、浮かび上がった
幾つかの出入り口には伸縮式の特殊警棒を腰のベルトに装着させた警備員がそれぞれ二人ずつ配置されていた。彼らは一階・二階両方の観客席にも直立不動の姿勢で等間隔に待機し、格闘技という〝人権侵害〟に対する抗議の笛を吹き鳴らそうとする者が侵入してはいないか、周囲を警戒し続けていた。
二階のガラス窓を覆うカーテンまで全て『
「……表舞台の
その寅之助は天井南側に設置されたモニターを仰ぐと、背中合わせに立つキリサメにしか聞こえないくらい小さな呟きを
前日の午前中に〝下見〟で訪れたとき、このメインアリーナは正体不明の怪僧が借り切り、中央にて端然と座禅を組んでいた。焦茶色の僧衣の上から帯の代わりとして古い縄を締めるという風変わりな男は天井モニターと向き合い、何も映していない画面に
現在は電源が入っており、大きな画面に対戦者の組み合わせが次々と表示されていた。 言わずもがな無人の観客席に向けた告知などではなく、モニターの正常な起動を開場直前に確認しているわけだ。
今すぐにでも
MMAを通して日本中を元気付けて見せると誓いながら館内へ入り、優待客の目が届かなくなった瞬間に比喩でなく本当に頭を抱えて
悩み多き『シューター』は長野興行にも出場したギリシャ人選手と相対するようだ。ライサンダー・カツォポリスという
続く第三試合は希更・バロッサと
寅之助の口から決して小さくはない舌打ちの音が滑り落ちたのは、希更の名前が画面に大写しとなった瞬間のことである。
背中合わせのキリサメに寅之助の
電知が文献などから再現させた『コンデ・コマ式の柔道』のような打撃技――
子どもたちに指導できるだけの技と知識を兼ね備えているのだから、自分自身もそれに準拠する剣を振るえば高校生として全国制覇を成し遂げることも難しくはない。彼の実力をキリサメは身を
しかし、生まれ落ちた瞬間に〝古い時代の剣道〟を
だからこそ、自分が居るかも知れなかった〝光〟のもとに立つ人々を寅之助は心の底から嫌っていた。その気になれば〝
幼馴染みの電知や恋人の上下屋敷とは比べるまでもなく付き合いが短いキリサメでさえも、希更に対して妬み嫉みを露にする姿を幾度も見てきたのだ。
寅之助のほうも歪んだ内面をキリサメに見抜かれていることは
「……寅之助……」
『寅』の一字を持つ自分には許されなかった〝大舞台〟を見上げた瞬間、己の心に浮かんだ
依然として互いの顔は覗き込めないが、自嘲気味の笑い声から
そのとき、
インド
希更を『
尤も、キリサメの
(……僕の
寅之助を気遣う一方、キリサメは彼のように〝表〟の舞台で光を浴びることが許されない神通の境遇へと想いを馳せていたのである。
プロレスラーとして最も力が充実している頃の鬼貫道明と非公式の異種格闘技戦を繰り広げ、神通が生まれた
親の所業を子が背負うことは不条理とはいえ、日本MMAの〝天敵〟とも呼ぶべき存在という事実は揺るがし難く、少なくとも『
その神通は言葉では語り尽くせないほどの〝共鳴〟を感じた自分の初陣を見届けるべくして岩手まで足を運んでいた。
寅之助の言葉から察するに
本来は己もそちら側に
発祥や様式は違えども互いに
不意に純白の
その際に「母も忙しそうですよ」という
一階東側の壁面――その一区画はガラス張りとなっており、場内を見渡せるよう可動席も設えられてはいない。そこに岩手興行を運営する〝大会本部〟が置かれたのである。
キリサメの双眸が真っ先に捉えたのは『
その中心に
いずれも嶺子の手掛けた
「楽しみにしてろよ、キリー! 嶺子のヤツ、ペルーの資料映像もしこたま仕入れたらしいからよ! きっと
本人から本気で嫌がられているというのに
この場合に
嶺子の姿を見ているだけでも気が滅入ってしまい、キリサメは〝大会本部〟からいずれ己が歩く
青・白両コーナーに分かれた入場口からリングへ一直線に貫く
上下ともジャージという若い青年も混ざっており、キリサメの瞳はその男を中心に映していた。外見から察するに年齢は
底抜けに
こんなにも明るい顔の青年をキリサメは日本で初めて見た。それどころか、
迸るような熱量は岳や電知に似ていなくもないのだが、その二人とは〝印象〟が明らかに異なっていた。まず顔立ちが日本人離れしている。そこに生じた違和感がキリサメの意識を哀川神通から引き剥がしたようなものであった。
肌の色は
「サメちゃんさぁ、あんまり別の人のコトを考えてたら電ちゃんがヤキモチ焼くよ」
「どうして、そこで電知が出てくるんだよ……。せめて、その……神通氏じゃないか?」
「知ったこっちゃないよ、そんなの。気の多い素振りを見せてると、ますます電ちゃんがスネると思うよ~」
キリサメの
おどけた調子ではあったものの、
「話の流れが良く読めないんだけど、瀬古谷さんの言う〝別の人〟ってモニワさん? 確かにモニワさんみたく日本とは別の国の血が入ってるっぽいよ? でも、あんまり似てるとは思えないなぁ~。エキゾチックな顔はその通りだけどさ」
「……ん? んん――ま、そんなところだよ。……そうだね、モニワ氏とも似てるか」
寅之助に続いて未稲が指摘した通り、陸前高田市で巡り
「あの人も『
「あの顔はボクも記憶にないね。表でやかましく喚いてるアフロ頭みたいに個別に会場入りした選手もいるみたいだし、そっちじゃない? これだけまとまりを欠きまくっておきながら新しいテロ対策を自慢するなんて、ちゃんちゃらおかしいな」
「ああ、カパブランカ君か――彼はリハーサル専門のアルバイトなんだよ。一緒に居る人たちと同じようにね」
人差し指で当人を示すことは礼儀を失するとして憚り、キリサメは
質問した相手は岳ではなく、普段の数倍も昂揚している彼に頭を抱えている麦泉だ。寅之助の皮肉を咳払いで窘めた
「リハーサルというのは予行練習のことですよね? ……それが〝仕事〟になるというのが僕には上手く飲み込めないのですが……」
「体制作りは各団体によってまちまちだから、あくまでも『
「……僕もそんなに落ち着いているわけでは……。でも、そういう負担を選手に掛けないよう専属のスタッフを雇うという理屈は何となく分かった気がします」
「ゴングが鳴る瞬間へピークを持っていこうとしているのに、集中を変な具合に断ち切られてしまったら勝敗にも悪い影響が出るからね。……気が立っている選手も多いのはチョルモンさんを見れば一目瞭然だろう?
「そこまで言うならセレモニー自体、やらないのが一番なんじゃないの? 部外者には矛盾の極みにしか聞こえないんだよなぁ。リハ用のバイトを使ったって根本的には何も解決してないじゃん」
「……そればかりは反論しようがなくて悔しいな」
寅之助の揶揄が突き刺さり、麦泉は困ったように頬を掻くしかない。
その麦泉の
それが為に『
試合直前の選手を煩わせる必要はなくとも、
「個人情報を大っぴらに話すのは良くないんだけど」と前置きしつつ、
麦泉は明言しなかったが、
「設営を手伝ってくれる地元企業は勿論、首都圏や他県からわざわざ〝旅先〟を追い掛けてきてくれる人も多いんだ。彼らのようにね。……僕たちは何人もの善意に支えて貰って初めて大会を開催できるんだよ。キリサメ君、それだけは忘れないでおくれ」
白・青両コーナーを見回し、誇らしげな眼差しを向ける麦泉が〝何〟を伝えたいのか、これを察することができないほどキリサメも遅鈍ではない。
怪我の後遺症によって早くに現役を退かなくてはならなかったが、麦泉文多もまた鬼貫道明のもとに集結した異種格闘技戦の世代――『鬼の遺伝子』に列するプロレスラーの一人なのである。
このときばかりは寅之助さえも無粋な揶揄を口にしなかった。
「おうおう! 今のって『
「……センパイ。統括本部長ともあろう人がアルバイトの個人情報をバラ撒くのは如何なものでしょう。取り扱い注意っていつもいつもいつも釘を刺してますよね」
「細けェコトは言いっこナシだぜ、文多~!
「僕たち二人の間での会話と音量
開幕前の会場を初めて目の当たりにしたキリサメに対し、『
最悪としか表しようのない割り込み方は麦泉当人のみならず『
一切の遠慮もなく指差す姿から察せられる通り、
相変わらず底抜けに興奮している岳は大仰に両手を振って
そのまま麦泉が続けた説明によれば、岳が述べた
ときにスポーツは「筋書きのないドラマ」と呼ばれることがある。それはつまり、大会運営側からすれば段取りを立て
「……年齢的には〝ステート・アマ〟の子孫といったところですか。東欧系の名字でもない上に『ジュードーキックボックス』とは……。ひょっとするとご家族はキューバの方なのかな……」
キリサメには意味が理解できなかった〝ステート・アマ〟という奇妙な言葉に
格闘技の一種と
言わずもがな、カリブ海に浮かぶ島国である。首都ハバナからアメリカ合衆国・フロリダ州の
両国の通商を停止する大統領令へ
「……横槍の
「あ~、それはあるね。お父さんもさっきMMA選手志望って言ってたもんね。大学生なのにキリくんの後輩なのかぁ~。そういう設定は大好物だよ、うんっ」
「……未稲さんの思考は相変わらずワケが分かりませんね。お父上と揃って口を糸で縫い付けておいてください。思い切り太いヤツで何針も何針も」
「ツッコミにしたってキツ過ぎない⁉ 愛が欲しいなぁ、もっと愛が欲しいなぁ~!」
未稲の素っ頓狂な悲鳴はともかくとして、姉弟の間で交わされた言葉は答え合わせを必要とするものであり、二人の意図を悟った麦泉は
リハーサル要員のアルバイトを通して『
「MMA選手の後輩に間違いはないけど、カパブランカ君の場合、『
尤も、姉弟の見立ては〝正解〟とは言い難かったようである。確かに〝下積み生活〟に違いはないが、青年の掲げた目標はプロデビューとは真逆といっても差し支えのないものであった。
岳の口から明かされた
「ボクは基本的に興味がありませんし、これから過去の大会プログラムを調べようとも思いませんが、そもそも
我知らず小首を傾げたキリサメに先んじて麦泉に疑問を投げ掛けたのは寅之助だ。
つい昨日のことであるが、宿所の展望カフェで哀川神通と語らったときにも空手や古武術の行く末を巡ってオリンピックが話題に上っている。その際にもMMAが正式種目として採用される兆候があるとは未稲も
その姉弟にとっても麦泉の
「勿論、MMAはオリンピック競技として認められてはいないよ。言うまでもなくパラリンピックもね。正式種目に採用されるとしても
麦泉が折原という
黄金時代の終焉と共に日本MMAのリングから去ってしまった伝説の覆面レスラーの愛弟子であり、その男が『
その男――ヴァルチャーマスクが導いた二つの〝道〟の片方を担う折原であれば、MMAをオリンピックの正式種目とするべく力を尽くしているとしても何ら不思議ではない。
麦泉が付け加えた説明によれば、折原が所属する〝総合格闘技術〟の全国組織ではアマチュア選手による競技大会も積極的に開催しているという。
「陸前高田市でモニワさんと合流したときにも少し話したかな? 『NSB』もかなり以前からアマチュアMMAの普及に力を注いでいるんだよ。そもそもMMAはアメリカで発展した〝格闘競技〟だからね。日本の大会で柔道や空手が正式種目に認められたように、オリンピック競技化の芽があるとすれば、やっぱりアメリカ開催のときが狙い目じゃないかって言われているんだ」
そのアメリカは近年のオリンピック招致活動でブラジルや日本に
MMAの歴史を遡っていくと空閑電知が尊崇する伝説の柔道家――世界中を経巡って異種格闘技戦を繰り広げた
日米両国の団体がアマチュア選手の育成に力を注いではいるものの、MMAの礎とも呼ぶべき『ブラジリアン柔術』の発祥地でさえ、オリンピック競技化には消極的ないしは最初から見込みがないと諦めていたのであろう。
つまり、
「沙門氏からの聞きかじりですけど、確かモニワ氏はアマチュア選手の人材発掘や育成をやっていたんですよね? そういう取り組みはMMAの団体に必要でしょうが、……寅之助が言うように必ず競技採用される保証もない中でオリンピック出場を当て込むのは余りにも無茶では……?」
「キリー、だからこそ夢なんだよ! 夢っつうのは見果てぬモンと相場が決まってるし、先が読めねぇくらいで丁度良いぜ! 嵐の船出ほどが面白いモンはねェ!
「……おそらくアマカザリさんはご存知ないでしょう?
「弟クンってば気持ち悪いくらい格闘技に詳しいね。ボク、ちょっとヒき気味だよ」
岳が喜々として口にし、
元々は柔道家であったが、アメリカへの留学中にレスリングと出会い、日本人でありながらペンシルベニア州立大学でキャプテンに就任するほどの才能を開花させた。紆余曲折を経て一九二四年パリオリンピックの代表選手に選ばれ、同大会でただ一枚のメダルを日本にもたらしたのだ。
更に言えば、格闘技で初めての日本人メダリストである――とも
レスリングやフェンシングといった〝格闘競技〟は一九二四年パリオリンピックより以前から正式種目であったが、そもそも当時の日本では
柔道の紛い物のように
内藤克俊は一九二四年パリオリンピックから間もなくレスリングを辞めて柔道家へ復帰し、
つまるところ、岳は身勝手にもカパブランカ
「夢はそれくらいデッカくなけりゃ割に合わねぇ! そうだろ、キリーッ⁉」
「いえ、ですから、それが無謀なのではないかと……」
「サメちゃんもさぁ、保護者相手に気を遣わないでボロクソ言っちゃいなよ。
徳川埋蔵金の発掘へ無邪気に参加するような人間は、夢という一言を都合良く考え過ぎている――と、容赦なく畳み掛ける寅之助に対し、岳は子どものように歯軋りでもって憤りを表したが、キリサメは養父を追い立てる皮肉にこそ道理があるとしか思えなかった。
カパブランカ
(電知が夢見ている世界最強のほうがまだ実現できそうだよな。……その段階で絶望的としか言いようがないんだけど……)
オリンピック・パラリンピックは四年に一度の開催である。言葉にするのは容易いが、二〇一四年の時点で大学生ということは、麦泉が可能性の一つとして割り出した一〇年後の
二〇二四年に正式種目として認められたなら〝日本MMAの第一号オリンピアン〟という夢は叶うが、協議そのものが却下された場合には更に四年、それでも競技化が果たされないとまた四年と、人生の大切な時間を無為に過ごすことになるだろう。
オリンピック憲章からアマチュアリズムが公式に削除され、商業化が加速し、〝プロ〟の参戦が解放されたとはいえ、出場を夢見る選手の多くは依然としてアマチュアなのだ。
歳月を重ねる
その間にも努力や才能で補えないほど肉体は衰え、仮にMMAが競技化されたとしても
命さえも大望に捧げようとする覚悟は『
折原理事長ひいては『MMA日本協会』が推し進めるアマチュア選手の育成は、数年での成果を最初から求めない長期計画であろう。『NSB』側の普及活動も大きくは変わらないはずだ。日米のMMAを司る人々の意向は〝日本MMAの第一号オリンピアン〟を目指す青年に大願成就を確約するものではなかった。
カパブランカ
「いずれはボクも瀬古谷の道場を継ぐことになるけど、ぶっちゃけ自分の代で潰しても構わないと思ってるし、そのときに備えて手に職は付けたいよね。照ちゃんにもひもじい思いをさせるコトになっちゃうもん」
「意外~! 瀬古谷さんの口からそんな現実的な話が出るとは思わなかったよ! 将来を放り出したようにしか見えない
「ボクに言わせればサメちゃんも妄想メダリストと大差ないけどね。何時までもMMAで食べていけるワケじゃないんだし、適当なトコで身の振り方を考えたほうが良いよ? 自滅志望者の
「いやいやいやいや、ちょっとちょっと! そーゆー人生設計をキリくんに
「ていうか、さっきから独り言が
「言い合ってるつもりだったのって私だけ⁉ 今日は全体的に私の扱いが悪いね⁉ レオニダスさんじゃないんだから独演会なんて誰がやるかぁっ!」
今、カパブランカ
夢は叶うと信じて疑わない無垢な明るさがキリサメには痛ましくてならず、寅之助の皮肉を自らへの戒めとして素直に受け止めた。
彼と対峙しようとして返り討ちに遭った未稲には憐憫の情を禁じ得ないが、その言葉は毒にも薬にもなりそうにない為、殆ど聞き流している。
「おっしゃあ、キリーッ! 未来の後輩が先に温めといてくれた決戦の舞台に上がってみるか⁉ いや、まだリハが終わっちゃいねぇか! もうちょいしたら完全に空くからよ、そしたら念入りにリングチェックしとこうぜッ⁉」
「……昨日、似たような
仕切り直しを図ろうというのか、『
メインアリーナ中央に鎮座しているのは、未明の地震に対する安全点検が完了した直後から設営に取り掛かったものと
これに対し、鬼貫道明が繰り広げた異種格闘技戦の直系とも呼ぶべき『
バブル期の成功体験を何時までも振り翳し続ける人々と同じように、二〇〇〇年代半ばに終焉を迎えた日本MMAの黄金時代を未だに引き摺っているという批判は絶えないが、『
四角い土台の上に衝撃を和らげるマットが敷き詰められ、四隅にはクッション材で覆われた
これを取り囲むような形でスポンサー企業のロゴマークが並んでいるのだが、その数は一〇を超えている。当然ながらメインスポンサーである『ハルトマン・プロダクツ』が最も目立っていた。
「……ちょっと待ってください。何だ、あれは――」
養父の右人差し指が示す先へと視線を巡らせたキリサメは、その瞬間に言葉を失った。
〝日本MMAの第一号オリンピアン〟を目指すカパブランカ
リングチェックに訪れた『
彼らがその身に纏うモノをキリサメは生前の母による授業で見たことがある。
今は亡き神通の父親――
大きく動く
中には岳が愛用する物と同じ袖のない陣羽織を鎧の上から纏っている者もいる。戦国乱世から現代日本へと時空を超えてやって来たとしか表しようのない鎧武者の一団が草鞋でもってマットを踏み締めていた。
「
鎧武者の一団が飄然と現れただけでも意味不明であるのに、今度はメインアリーナの照明が出入口の誘導灯を除いて全て落とされ、暗転の直後に「
両手両足の指を全て使っても足りない人数の警備員が誰も動かず、『
キリサメのほうも未稲と
「――我が
間もなく真っ赤なスポットライトが闇の中に一人の武将を浮かび上がらせた。
真っ白なマントを羽織っているので肩の部分は判然としないが、一枚の板金を鍛えたものと
放射状に広がるフリルの塊を首に嵌めているのだが、これは近世ヨーロッパの貴族や富裕層が用いていた
蛇腹状に幾重にも織り込まれた装飾品は両腕の動きを妨げるのではないかと思えるほど大振りであり、傷口を舐めて雑菌が入ることを防ぐ為に動物の首へ装着する円錐台形の保護具を想い出した未稲は、笑いを堪えた拍子に子犬の鳴き声を彷彿とさせる音を鼻で鳴らしてしまった。
「希望を胸に拙者は億万もの波濤を超え、神聖なる地を一途に目指したのでござる! それが何ゆえ今になって意を翻された⁉ 何ゆえ忌々しき徳川将軍に服従されるのか⁉
「……断じて認められぬ! かくなる上は徳川幕府転覆の為に大いなる神より預かりしこの力を
やがてリングの中央で足を止め、「謀反人の名は支倉常長! 奥州の歴史にこれを刻むべし!」と高らかに吼え、腰に
「敵は
仰々しく
「支倉常長ァッ!」
異装の武将が名乗りを上げた直後、白コーナーの
和洋折衷と
『ドン・フィリッポ・フランシス』の洗礼名を持つカトリック教徒の武将であり、その敬虔な信仰心を見込まれて〝
世に言う『
支倉常長たち使節団は数々の試練――第一回目の航海の際は船が座礁――に遭いながらもイスパニア(現在のスペイン)の領地及び本国、更にはカトリックの〝総本山〟であるローマなどを訪問し、政宗に託された使命を見事に果たしたのである。
当時の
無論、これは決して権力に屈しない反骨の風雲児という伊達政宗の
『慶長遣欧使節』は太平洋を横断し、メキシコとキューバを経由して
支倉本人が立ち寄ったという首都ハバナには二〇〇一年四月に両国の友好の証として宮城県の私立高校から彼の銅像が寄贈された。その台座は特別に拵えた物で、仙台城石垣の石が使用されているのだ。
その銅像が立っているのは旧市街地のセスペデス公園である。閉じた扇でもって遥けきローマを指し示す姿は凛々しく、支倉常長は首都ハバナで最も有名な日本人となった。
支倉常長の足元には進路と帰路両方の距離が刻まれている。そこからローマまでは八七〇〇キロ、仙台までは一一八五〇キロであった。
そのことを知っていたからこそカパブランカ
「前口上など無用! 我らが見立てを誤ったか、大望は花開いたか――刃を交えればたちまち分かろう! この
次に緑色のスポットライトを浴びて二つの人影が暗闇に浮かび上がった。
静寂の二字こそ最も似つかわしい佇まいで屹立するのは
今し方、発せられた言葉から察するに両雄は既に〝この世の者〟ではなく、支倉常長が大いなる神より授かった力で復活したようだ。
二人とも揃って白い陣羽織を纏っている。常長のマントのような紋様はなく、死装束を彷彿とさせる物だ。兜を用いる景綱に対し、左月斎は左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛っていた。
その上、家名の通りに木彫りの
鬼月斎へ倣うように景綱が太刀を抜いた直後、彼らの対角線上に青いスポットライトで一つの人影が浮かび上がった。
毛虫を
徒手空拳で技を競い合う為のリング上でそれぞれ得物を構える武者たちは、立ち居振る舞いが過剰なほど芝居がかっており、キリサメには舞台劇のようにしか思えなかった。それは真隣に立つ寅之助や、未稲と
格闘技そのものに対する理解度と勉強が足りていないキリサメではあるが、少なくとも未稲から渡された手作りのマニュアルの中に『MMAのリングが演劇集団に乗っ取られた場合の対処』という項目はなかった。
つまるところ、
史実では支倉常長が帰国したのは
それ故、両雄については人智を超えた力によって現世に甦ったという筋書きが作られたのだろう。「
いずれにせよ、伊達成実が
「リハーサルってコトはこの〝
「……みーちゃん、それは一体、どういう……?」
「あの薄気味悪いお面を付けた人、左月斎って名乗ったよね?
「電ちゃんはともかく、キミも戦国武将に詳しかったのかい? コスプレ丸出しな
「伊達家の皆さんには昔からお世話になってたからね。マイキャラは政宗様だよ」
「中学生の頃、戦国時代を題材にしたテレビゲームを遊び倒した」という返答で寅之助を納得させた未稲の
イズリアル・モニワ自身がその功績を熱弁していた伊達家随一の外交官・
歴史に造詣の深い電知がこの場に
本日の
「――
「
「
「重ねてお戯れを。我が
未稲の疑問に答え得る〝何か〟を喉の奥から絞り出そうとする麦泉を遮ったのは、最後に青いスポットライトを受けた
正確には夫婦の姿を見て取った岳の吼え声が麦泉の呟きを噛み砕いてしまった。「待ちに待ったぜ、北の独眼竜ッ! 真打ち登場は引っ張りに引っ張るモンだもんなァ!」と歓声まで上げ始めると、未稲と
三日月を
パブリックビューイングの会場を取り仕切る為、既に現地へ赴いている岩手県の地方レスラー『サイクロプス
漆黒の陣羽織を纏った夫と互いの背中を預け合い、先端でもって天を
「死した先でも共に歩む我らであれば、
左隣に立つ
この時点で政宗と
政宗の太刀は依然として鞘の中に納まったままである。掛けがえのない家臣に刃を閃かせることを躊躇っているのだ。
その瞬間、一つの人影が支倉常長を飛び越えるようにしてリングサイドから飛び込んできた。ロープではなく鎧武者一人の頭上を軽やかに飛び越えたのである。
スポットライトの追跡が間に合わないほどの軽業は、
袴を穿かない着流し姿であり、片肌を脱いでいる。豪華絢爛な刺繍を散りばめた赤地の着物は〝
剥き出しの右肩に太刀を担ぐという立ち居振る舞いから風貌に至るまで江戸時代中期以降の日本に溢れた
伊達政宗の軍師も一陣の突風としか表しようのない闖入にはたじろぎ、これを抜かりなく見て取った素浪人風の男は、彼の真隣で縦一文字に閃いた左月斎の刃を自身の太刀で受け止めると、対の左腕を内から外へと勢いよく振り抜いた。
左手には鉄扇を握り締めている。これを横薙ぎに繰り出して景綱の太刀を弾き飛ばしたのだ。その直後に高々と右足を振り上げ、鎧で固められた左月斎の胴を蹴り付けた。直接的な
白い陣羽織を纏った
比喩でなく本当に支倉常長の両足をその場へ釘付けにしたのである。
左月斎へ蹴りを見舞うべく大きく股を開いた瞬間、着物の隙間から〝葵の御紋〟を染め抜いた褌の端が覗いたものの、リングサイドからこれを仰いだキリサメも神通を想い出すことはなかった。
素浪人風の男が太刀を担ぎ直す間に成実は我が身を楯に代えて伊達の夫婦を
「この
豪快に笑いながら政宗へ振り向いた素浪人風の男は名を
「忠輝殿、何ゆえここに⁉ いいや、それとて些末なことよ! 我らを結ぶ絆は四年前に断ち切れてござる! もはや、忠輝殿は我が姫の夫でも何でもない! そのような御方が伊達家中の内輪揉めに首を突っ込めば、将軍より如何なる裁きが下されるか、分かったものではござらんぞ⁉」
義父の窮地を聞きつけて助太刀に駆け付けたそうだが、政宗自身の台詞にも表れている通り、元和六年の時点で彼の娘と忠輝は既に離縁している。
それどころか、
配流先の屋敷にて粛々と日々を過ごさなくてはならない身であった。絶体絶命の危機を救う為とはいえ、かつての義父のもとへ駆け付けるなどあってはならないことである。
「俺は伊達の姫に惚れ申した! されど、それ以上に独眼竜の生き様に惚れ抜いておるのよ! 惚れた男をみすみす死なせるなど我が趣味に
心の底から惚れた男と共に面白き
しかし、誰が支倉常長の謀反を忠輝に
「惚れたという言葉は軽々しく口にして欲しくはありませぬな! ましてや、
忠輝の口上に過剰とも言えるほど強い反応を示したのは支倉常長である。肩を並べて立つ小十郎景綱と左月斎までもが
対する快男児は口笛を吹きつつ右手の太刀と左手の鉄扇を交差させ、自身の脳天目掛けて振り下ろされた剣をその中央で受け止めた。
兜によって守られていない
「惚れて惚れて惚れ抜いておらねば、拙者も無限の
「苦労で測らねば語り得ぬ愛など半端の極みではないか、常長! 己の望みが外れただけで駄々をこねるお
「愛は歳月が育むもの! 拙者と忠輝様では政宗様と分かち合った
「愛とは爆発だ!
「歳月も爆発も、どちらも譲らぬ! 誰にも負けぬわ!」
一進一退の力比べを繰り広げながら、どちらがより伊達政宗に惚れ込んでいるのかを張り合う二人へ我慢ならないといった荒々しさで割り込んだのは、北の独眼竜と四〇年以上も連れ添った
敵味方の区別もなく二振りの太刀を轟然と弾き飛ばした
暗闇を切り裂くような
「義父上、今さら太刀など抜かずとも構いませぬぞ! この忠輝自らが義父上の刃となりましょう! その手を家臣の血で
「もはや、何も申されるな、忠輝殿。
ついに政宗は腰に
この直後、メインアリーナに
『ハルトマン・プロダクツ』のロゴマークを踏み付けにする位置で政宗と支倉常長が刀を交えれば、MMAのリングはいよいよ合戦場の様相である。誰も彼もが入り乱れ、まさしく舞い踊るかの如く刃を閃かせている。幾つものスポットライトが激しく明滅し、その勢いを表しているようであった。
伊達成実がその気性を表すかの如く真っ直ぐな
「イナバウアーッ⁉」
そのブリッジを目の当たりにした未稲が叫んだのはフィギュアスケートの
イナバウアーそのものは半世紀前から使われている
それ故に未稲は見事なブリッジをイナバウアーと重ねたわけだが、トリノのリンクを沸かせた様式はあくまでも
イナバウアーという素っ頓狂な大声がすり抜けていくリングでは、味方同士であるはずの
文字通りに敵味方が入り乱れる大合戦である。若き頃より政宗を支えてきた成実と小十郎景綱、
何時しかキリサメは鬼月斎の立ち回りから目が離せなくなっていた。政宗と正面から向き合った瞬間などは老将と思えないほど鋭い踏み込みから斜めの軌道を描くようにして太刀を
互いの太刀を打ち合わせても金属音が鳴らない為、彼らの
政宗を救うべく成実の太刀と
〝大合戦〟とはいえども実際に身を投じている
しかし、彼らは巧みな身のこなしで〝大合戦〟を演じ続け、演出以外でぶつかる瞬間は一度もなかった。最後は輪を描くような形でリング中央に
その瞬間にメインアリーナの照明が
誰一人として討ち死にを遂げた者はなく、明確な勝敗を決しないままであるが、そもそも伊達家家臣・支倉常長の謀叛という筋立てすら立ち回りを盛り上げる為の〝演出〟に過ぎなかったわけだ。
(……ちょっと待ってくれ。何なんだ、これは……)
白コーナーの
同じような場景を
それ以上にキリサメの
身に触れるか否かというほんの数ミリ程度、抜き身の刃が外れている。狙いを誤って仕損じているのではない。攻め掛かる側が意識して外しているのだ。これを見る側の想像力は鎧でもって白刃を弾いていると読み解いたはずだ。
斬るか、斬られるか――些か無理のある筋立てを吹き飛ばしてしまう緊張感が漲っており、何事にも無感情であるキリサメすら
「調子はどうかな、アマカザリ君」
既視感に対する答え合わせは向こうからやって来た。大立ち回りが一段落した
「あなたは……っ!」
気さくに声を掛けたのは伊達成実を演じていた役者――
MMA選手として
近藤自身が
MMAのリングで〝
未稲もキリサメと一緒に同じ
これは寅之助も同様である。二人の瞳は松平忠輝を演じる殺陣師を捉えたまま微動だにしなかった。今日は軽やかな着流し姿であるが、その
先ほど着物の裾を靡かせながらロープを飛び越えた姿は、スペインの古城に設けられた〝合戦場〟へ躍り込んでいく瞬間の再現にも等しい。リング中央で他の殺陣師と打ち合わせをしている為、本人に確かめることは叶わないが、未稲も寅之助もポルトガルの騎士を切り崩した鎧武者であろうと核心に近いものを抱いていた。
ゲーミングサークルのオフ会で二人に
「やだ、素顔はすっごい
「……サメちゃんがキミのことを邪悪って扱き下ろしていた理由が分かったよ。幾らなんでもチョロ過ぎじゃないの」
リング上の近藤に意識を引き付けられている為、キリサメの耳に寅之助の呆れ声は届いていなかった。未稲にとっては何にも勝る
「本当に助かりました。何しろ急なオファーでしたし、応じて頂けたことだけでも奇跡のような気持ちで……。一時は
リングサイドへと歩み寄り、次いで近藤に協力への感謝を述べたのは麦泉である。
近藤は一礼を
「……事情が呑み込めないんですが、近藤氏や他の人たちを『
「ざっくばらんに言えば、今日の『
「穴埋めなんて恐れ多い……〝やむにやまれぬ事情〟があるとはいえ、相当な無理をお願いしているのは
「文多もあんまし頭下げ過ぎんなって。彼のほうが恐縮しちまうじゃねぇか。近藤君本人が言ってるだろ? 『ご褒美みたいなもん』ってさ! 世の中は持ちつ持たれつ! オレやキリーが無理な頼み事に見合うだけの試合をやって恩返しってな寸法よォ!」
「……僕もセンパイくらい物事を
『
それが証拠にメインアリーナの片隅では『
前回の長野興行ではMMAデビューを飾った人気アイドル声優――希更・バロッサが余興として主演アニメ『
ところが、開催直前になってローカルアイドルの側から出演を見合わせたいという申し出があり、岩手興行のプログラムに大きな〝穴〟が生じてしまったのである。ステージイベントが一つ抜けただけでも興行全体の進行が立ち行かなくなる。その代役を引き受け、『
先程まで草鞋や革靴によってロゴマークを踏み付けにされていた『ハルトマン・プロダクツ』――即ち、『
東京からやって来る格闘大会に参加することは貴方たちの為になりません。くれぐれも身辺にご用心を――
ローカルアイドルは大手芸能事務所に所属しているわけではない。『
格闘技を深刻な人権侵害と
同企業で常務の肩書きを背負っている麦泉は何とも
樋口郁郎が
「リング上には見当たらないようですが、
「さっきまで一緒だったのだけど、今日は
「そうだ――そういう話を
近藤が「自分たちとは別行動」と答えた
その際に姫和子は稀代の映画俳優にして伝説的な武術家――ブルース・リーが編み出した近代格闘技『
直接的に打撃を加えないという約束のもとで執り行われた練習にも関わらず、紛れもない〝実戦〟であった電知との
姫若子が
手作りのアスレチック器具を設置するなど自宅の庭をも
近藤の話によれば、姫和子も岩手興行に足を運ぶ予定こそあるものの、所属先である
しかしながら、純白の
「――〝
鬼庭左月斎を演じていた殺陣師が木彫りの
この場の誰よりも溌溂とした声や、攻撃を
左右の生え際から後方に向かっていく二筋の白線と共に黒い髪を撫で付け、襟足の辺りで軽く縛っているが、これは老将を演じる為の
両親の父母――即ち、キリサメの祖父母が
「その
「あのジジイ――もとい、ウチの師匠、『ダイさん』にまで愚痴ってるんですか? 勘弁してくれよなァ~。骨を折って貰ったのは間違いないですけど、そもそもオレが頼んだ仕事じゃないんですよ。人聞き悪いったらありゃしねぇなァ~」
〝
岳が気安い調子で談笑する一方、
間もなく老齢の殺陣師は近藤と一緒にリングから降り、目を丸くしたまま立ち尽くしているキリサメに握手を求めた。
「初めまして、
「あの、……キリサメ・アマカザリです。えっと――
「先生なんて呼ばれると頬や背中が痒くなっちゃうんだよなァ~。岳ちゃんと同じように気軽に『ダイちゃん』で良いんだよ? 何なら『ハセちゃん』でも構わんし」
「い、いえ、さすがにそれは僕もちょっと……」
「オレだって〝ちゃん〟付けで呼んだことはないでしょ! あんまりウチの
「堪忍してくれよ。
我知らず握手に応じ、右の五指に感じた力強さに再び目を丸くしたキリサメは、おどけた調子で笑う殺陣師の顔に見
今し方の自己紹介でも言及された通り、殺陣道場『
一年間に亘って放送される大型連続時代劇に
日本ひいては世界に殺陣という〝文化〟を開花させた偉人が突如として目の前に現れたのだ。殺陣師を志しているわけではないキリサメでさえ自然と背筋が伸びていく。
二回り以上も年齢が離れた岳と打ち解けた様子で笑い合い、初対面のキリサメにも冗談を交えて話し掛ける物腰は〝隣近所の好々爺〟といった印象だが、
命のやり取りを芝居として見せるからには怪我するような振り付けだけは絶対にいけない――近藤馬木也が
「……不躾な質問で申し訳ありませんが、先程のリハーサルのとき、相手の攻撃を避ける為に身体を思い切り反り返らせていましたが、……腰を痛めてしまうのでは?」
「お嬢さんから『イナバウアー』と呼んで貰ったアレはね、友人の得意技を拝借したんだよ。本来は斬られた瞬間の散り
「その
「すげェだろ? すげェもん、初陣の前に拝めたろ、キリー? リハーサルが全体的に押しちまった影響ではあるんだけど、ダイさんたち『
「……同意を求められても、僕には何と答えたら良いものか……」
『
半世紀を超える芸歴人生の中で初めての主演映画が昨日――六月一四日に公開されたばかりで、さすがに『
「ハリウッドのほうから彼に声が掛かったと聞いた瞬間は涙が出るくらい嬉しかったね。一つ一つ自分の仕事を積み重ねていれば、どこかで誰かが見ていてくれるということを彼は自ら証明してみせたんだ。いやぁ、人生で一番美味い酒を酌み交わした晩だったねぇ」
長年の〝戦友〟とも呼ぶべき時代劇俳優の功績を
「――お~、いたいた! 完成したリングを真っ先に見学とはキリキリってばやる気バリバリだね! あたしも負けてらんないなーっ!」
天井を突き破らんとするくらい明るい声が――テレビアニメのファンに馴染みの深い希更・バロッサの声が
後続のラッピングバスが駐車場に到着したようである。希更とマルガの隣では見慣れない女性がメインアリーナを覗いていた。
『バロッサ・フリーダム』と刷り込まれたシャツを着込み、クロップドジーンズを穿いた女性は希更と同じように長い髪を
出発前の宿所では見なかった顔である。駐車場か、総合体育館の
ラ・マンチャ地方の〝合戦場〟にてポルトガルの騎士たちを斬り伏せた太刀筋と、松平忠輝の殺陣が重なって見えたのは目の錯覚ではなかったのである。
「やっぱり」と声を揃えて驚く未稲と寅之助であったが、キリサメが『
(……このタイミングで〝
快活そのものといった勢いで両手を振る希更を見据え、首だけを軽く頷かせたキリサメも〝
かつて
MMAデビューを望んだ
危険な技の数々を寸止めのフェイントとして応用するよう岳は促していた。その
寸止めの美学は
「ペルーの裏路地でギリギリの
最終調整の段階で急に〝フェイント殺法〟を打ち出してきた岳の声が脳裏に甦り、キリサメは思わず舌打ちしそうになってしまった。
何しろ岳が掲げた〝フェイント殺法〟は具体性など絶無に等しい。その上、
当のキリサメは殺陣の体験を通じて殺気の
極限の環境下で編み出した喧嘩殺法は破壊の本能が剥き出しとなるものばかりであり、彼自身も闘いの最中には殺気の塊のようになってしまう。気魄を
だからこそキリサメは気魄を練り、これを自由自在に操る工夫を自分なりに練習し続けてきたのである。デビュー戦の直前になってこれが無駄な努力と突き付けられたようなものであった。
つまるところ、キリサメは親子間ひいては選手とセコンドの間でさえ方針が一致しないまま初陣の日を迎えてしまったのだ。
(……初めて試合に赴いたとき、神通氏はどんな
MMA選手としての在り方さえ定まり切っていない。精神的にも安定しているとは言い
〝達人〟の二字を除いて表しようがない
このような有り様であるから、ルールによって安全性が確保されたMMAの選手として
覚悟は既に決めているので
そこまで窮していればこそ、キリサメは
日本に殺陣という〝文化〟を開花させた大名人が己の背中を真っ直ぐ見つめていることなど知る由もあるまい。
「あの子――アマカザリさん、思ったよりガチガチになっていますけど、本当に大丈夫でしょうか。
「熱心に面倒見ていたのは姫和子さんですけどね。ワケも分からない場所に引きずり込まれたみたいなカタさもありましたけど、最後のほうは伸び伸びやっていましたよ。終了時刻が過ぎた後まで姫和子さんと〝居残り練習〟までやりましたもん」
「特別、緊張し易い子でもなさそうですね。晴れの舞台は誰だって緊張するから、仕方ないとは思うんですが、それにしたって心配だなぁ……」
岳や麦泉に聞かれないよう声を落としつつ、真平と近藤は眉間に皺の寄った顔を見合わせた。キリサメが万全の状態でデビュー戦を迎えられなかったことは傍目にも明らかというわけである。
どうしても気持ちを落ち着けられない人間には、無責任な声援こそ一番の毒になることも彼らは弁えているのだ。
「人間にとってあらゆる経験が毒にも薬にもなるが、初陣で手痛い思いを味わってしまうと、人によっては長く引き摺ってしまう。後は彼の心の持ち方次第――とはいえ、こうして
「先生からすれば、アマカザリさんも孫みたいなもの――でしたよね? 今日の
「いやいや、岳ちゃんの頼みが決定打だよ、真平君。予定が空いていなかったら、幾ら気掛かりでも応じられなかったしね。それを言うなら、大急ぎで脚本や衣装を仕上げてくれたキミこそ熱の入れようが凄いじゃないの」
「先生が仰った通りですよ。僕たち『
近藤と真平は言うに及ばず、
この場に樋口郁郎が居合わせていたなら、三人を眺めながら「お人好し」と鼻で笑ったかも知れないが、ただ一度、
そして、それこそが
「折角、こうして同じ場に居られるんだ。万が一のとき、我々のほうからも手を差し伸べられるように構えておこう」
「承知」
師匠の言葉に対し、二人の殺陣師は同じ
「いやァ~、堪んねぇよ! 日本MMAの新たな〝伝説〟が始まろうって日に日本MMAの礎っつう〝神話〟が
呆れ顔の麦泉が制止するのも聞かず、リング上の岳は殺陣師たちを見回しながら、余人には意味が通じそうもない
日本で最高
このメインアリーナで一つの事件が起こるのは、それから間もなくのこと――
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