その11:剣舞~刀の継承・百五十年の残心

 一一、つるぎのまい



 海外から訪れた観光客にも『サブカルチャーの聖地』と親しまれ、日本のアニメ作品やテレビゲームが世界にばたいていく最前線としての役割も果たす秋葉原アキバであるが、それは駅前の電気街を中心とした一角に過ぎず、経済効果の大きさは計り知れないものの、現実リアル虚構フィクションの境目が曖昧な〝世界〟は町全体に及んでいるわけではない。

 希更・バロッサがいのちを吹き込んでいる『かいしんイシュタロア』の主人公――あさつむぎが描かれた巨大パネルがビルの壁を飾り、同作のファンイベントも駅前の宮崎物産館で開催され、これを目当てとしたファンが詰め寄せている為、至る所がサブカルチャーで溢れ返っているよう錯覚しそうになってしまうのだが、週末でありながら背広姿のビジネスパーソンが行き交うオフィス街とも隣接しているのだ。

 つまり、サブカルチャーの愛好家たちによるにも節度を弁えた行動が求められるわけだ。ハロウィンの仮装パーティーでもない時期に際どい扮装コスプレで闊歩すれば秋葉原で生活する者でさえも目を白黒させるだろう。無許可の撮影会を町中で強行しようものなら駅前の交番から出動してきた制服警官に詰め寄られることは免れまい。こうした行為は東京都が定める条例にも違反しているのだった。

 傍目には昭和後期を題材とした漫画の不良ヤンキーキャラクターを気取っているようにしか見えない恭路などは制服警官から職務質問を受けても不思議ではなかった。寅之助に至っては完全な扮装コスプレ用の衣装で全身を包んでいるのだが、彼の場合は着こなしそのものが自然である為、これを目にした大勢が実在しない高校の学生服ブレザーとも気付いていないのである。

 仮に警察へ通報されるとすれば、東京都の条例違反ではなく決闘騒ぎのほうであろう。

 ノコギリを彷彿とさせる中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティル――『聖剣エクセルシス』を振りかざしたキリサメとの斬り合いは明治時代の〝げきけんこうぎょう〟をかたってはいるものの、二人を取り巻く野次馬以外の目には凶器まで持ち出した喧嘩としか映らないはずだ。

 尤も、二人は周囲の目など気にも留めていない。砂色サンドベージュ幻像まぼろしとして地球の裏側へ出現した幼馴染みに伴走されながら追いすがるキリサメと、顔面に作り笑いを貼り付けたまま背筋を伸ばして姿勢は崩さず、左右の足だけ素早く動かし続ける寅之助――〝鬼ごっこ〟の合間に剣を交える彼らは四〇人もの野次馬を引き連れて秋葉原の町を横断していった。

 大移動としか表しようのない様子が短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSにてアメリカ西部開拓時代の〝牛追いキャトル・ドライブ〟にたとえられたことは改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 しかし、キリサメと寅之助はテンガロンハットを被って馬に跨るカウボーイではない。牧場から大量の牛を追い立て、出荷用の蒸気機関車が待つ鉄道駅まで移動させようとは微塵も考えていなかった。何しろ四〇頭を超す好奇心旺盛な猛牛たちは二人の後を勝手に追い掛けているだけなのだ。

 馬ではなく己の足でもって秋葉原の町を駆け巡る寅之助は、何があっても自分のことを追跡し続けると信じて疑わないキリサメをサブカルチャーの聖地というとは大きく掛け離れた場所へ導いた。

 背後に無数の足音を聞く二人が辿り着いたのは屋上庭園と呼ばれる場所であった。

 秋葉原ではかんみょうじんの境内にも同じ呼び方で親しまれる空間が存在するのだが、こちらは商業施設の屋上を改造した公園だ。双方とも自由に出入りできる憩いの場所という点は共通していた。

 見上げた空をやけに遠く感じてしまうのは、背の高いビルが近隣に立ち並んでいる所為せいであろう。塀の内側から決して届かない場所へと手を伸ばしているような気持ちになってくるのだ。

 限られた空間に施された屋上緑化ということもあってミニチュアのように錯覚してしまうほど手狭ではあるのだが、造園そのものは中世ヨーロッパの王侯貴族が茶会に興じた場所を丸ごと移築したかのように美しい。

 解放感のある広さを演出するのではなく、奥行きを生かすという設計なのだろう。

 季節の草花が咲き乱れる庭園にわを貫くのは天然木のウッドパネルを互い違いに敷き詰めた通路である。それぞれ色合いの濃淡が異なっているので、足を踏み入れた者の目には暖色の市松模様として映るのだった。


(心が洗われるような場所だな。……これからどうなるか、僕にも分からないけど)


 文明の利器で溢れ返った〝下界〟とは似ても似つかない静かな場所であり、キリサメは自分が秋葉原の中心部に立っていることさえ忘れそうになる瞬間があった。

 この場に持参すべきであったのは『聖剣エクセルシス』ではなくスケッチブックであろうと、我知らず考えてしまったほどである。


「――七月から放送がスタートするシリーズ第三弾『かいしんイシュタロアアナザーバベル』でもダンス監修を担当されるカマプアアさんにご登壇頂きまして、第一期から第二期『ロストバベル』の想い出を振り返っていきたいと思います! 司会でもないのにちゃっかり仕切っちゃってるあたしはあさつむぎ役――希更・バロッサです! ていうか、司会を置かずに気ままなフリートークって最高にリスキーな企画ですよね。あたしたち、延々と喋り倒しますよ? 長丁場になりますけど、最後までお付き合いくださいね~!」


 尤も、出演者やスタッフによる『かいしんイシュタロア』のトークショーが強引に割り込んでくるでサブカルチャーの聖地に居るのだと厭でも想い出し、「心は洗われても落ち着ける空間じゃない」と数秒前に考えたことまで打ち消してしまうわけだが、コンクリートジャングルの只中にるとは思えないほど清浄な空気を感じた瞬間には半ばまで閉じているまぶた普段いつもより見開いたものである。

 密室ではないものの、閉所であることに変わりはなく、油断していると辺りに充満した甘ったるい香りに喉を刺激されてせ返りそうになるくらいだ。

 〝下界〟から物理的に隔絶された屋上であれば『聖剣エクセルシス』を建物にぶつけてしまうような心配が要らず、人混みに煩わされることもなく存分にだろうと期待して階段を駆け上がったのに現在いまでは庭園を血でけがすことに躊躇ためらいすら覚えていた。

 幹の部分が大きく捻じ曲がったザクロの木が四方を取り囲むようにして何本も植えられているのは転落防止の役割を兼ねている為であろう。屋上庭園は夜間も解放されているので危険な場所と訪問者を物理的にも分断しようというわけだ。

 ザクロの木々はそろそろつぼみが綻びそうである。ここを訪れるのが一週間ほど先であったなら一番の見頃と重なったはずだ――庭園の美しさに心を震わされながらも、別の思考あたまでは「余計なことをしてくれたな」と舌打ちを止められなかった。

 設置された手すりの辺りまで追い詰めれば、を超えるようにして寅之助を地上に蹴り落とすこともできるはずだが、いびつで大きな輪郭シルエットを描く木立に遮断されてしまうと、そこまで辿り着くことも難しくなるのだ。

 入口のすぐ近くには小川まで流れており、川幅に見合った大きさの木造橋も架けられている。寅之助はかわの真上に至って足を止め、キリサメは作り笑いが貼り付いた顔を橋のたもとから睨む恰好となった。

 左の逆手に持って背面へと回していた竹刀を両の五指にて握り直した寅之助は、その剣先をキリサメに向けた。

 正面の相手に対して刀身を傾け、双眸を窺うような形で剣先を突き付ける。剣のことわりいて、ありとあらゆる攻防に対応し得る王道の中段にして〝術〟と〝道〟の礎――せいがんの構えである。踵を僅かに浮かせた右足を前に出し、対の足を後ろに留めていた。

 園内のあちこちに散開し、各々のを見つけて陣取っていた野次馬たちは寅之助が竹刀を中段に構えた瞬間、大きな歓声を上げた。

 そもそも寅之助が剣道家らしい佇まいを披露したのはこれが初めてであった。ここに至るまで打突や防御に応じた構えを取ることはあっても基本的には両腕を自然体に垂らし、〝ぎょう〟ともたとえるべき姿勢で竹刀を握っていたのである。


「――つまりはあの恐るべき剣士に奇妙なノコギリが構えをということだな。演武に近いものとはいえ、ここから先は大荒れになるやも知れん」


 商業ビルでの対峙から二人を追い続け、明治時代まで遡る〝げきけんこうぎょう〟の歴史にも触れていた男性がを述べたが、当の寅之助は何も反応を示さなかった。

 ノコギリとも船のオールともたとえられる禍々しい刀身を水平に寝かせ、剣先を右脇に向ける形で『聖剣エクセルシス』を構えつつ、腰を低く落としてにじり寄ってくるキリサメから一瞬たりとも目を離せないというのが正確に近い。

 余人を相手にしている暇などないことはキリサメの姿を見れば瞭然であろう。彼もこのような形で『聖剣エクセルシス』を構えたのは初めてである。

 長大であるが故に狭い路地の攻防では刀身も満足に振り回せず、横薙ぎを仕掛けることなど不可能に近かった。つまり、現在いまの構えは本来の力を存分に発揮し得る環境が整ったことをも意味しているわけだ。


「――宮崎県には『イシュタロア』のイベントで何度もお邪魔していて……っていうか、一ヶ月に二回くらい行くこともあったから、あたしの中ではすっかり第二の地元って感じですよ。実家が熊本だから、元々、『ご近所ッ!』みたいな感覚はありましたけど」

「きーちゃん、世界大会の予選にもゲストで招待されてたよね、フラダンスのやつ。私、つむぎちゃんの〝お姉様〟なのにお呼ばれしなかったなー、ちょっと寂しいなー。宮崎の皆さん、次はここにいる全員をセットでお願いしま~す」

「だって〝ひまわりお姉様〟は日本舞踊だし、フラダンスの大会はちょっと違うんじゃないかな~。みなとさんはベリーダンスのコンテストとか呼ばれたことってあります?」

「実は一度だけ声を掛けて頂きました。丁度、お産と重なってしまってお断りするしかなかったのですけど、来年もお招き頂けるようでしたら娘と一緒に伺いたいなぁって」

「ああ~、それもステキですよね~。娘さんがお母さんに影響されてベリーダンスに目覚めたらレジェンドだなぁ~」

「すいっちょん、ベリーを踊るのはロアさんであって私じゃないから。運動神経ヘボヘボな私にあの綺麗なダンスは無理だからっ」


 張り詰めた空気を粉砕するようにして割り込んでくる希更きーちゃんたちの声は迷惑と感じるほどに大きく、それが為に聞き取りにくいのだが、秋葉原の中心部をくまなく探しても小川のせせらぎが鼓膜に届くような場所は屋上庭園ここくらいであろう。


「いかにも成金趣味丸出しってな具合だね。〝富める者〟の特権ってやつ? 屋上に川まで作っちゃうなんて……小鳥のさえずりじゃなくてモーター音が聞こえてくるのは大減点だけどさ」


 何時の間にかキリサメの隣に浮かび上がっていた砂色サンドベージュ幻像まぼろしは――芽葉笑は小川の流れも水中ポンプによって人工的に作り出された紛い物と笑い飛ばしたが、真贋など気にしていたら園内には留まっていられまい。

 ここは自然公園ではない。人の手によって改造つくられた屋上庭園なのである。

 橋脚の腐食が進んでいるようには見えないが、らんかんの表面などは汚れでもないのに異常なほど黒ずんでいる。塗装などを駆使して長い年月を経たかのような趣きを人工的に作り出しているのだ。橋全体を覆うツタも本物ではなく模造品フェイクグリーンであった。

 空には黄昏の色が混ざり始めている。の皮肉を受けた直後ということもあり、キリサメには人智の及ばない不滅の美しさが〝紛い物〟の虚しさを慈悲もなく暴いているように思えた。

 ともすれば、空中庭園へ足を踏み入れた瞬間に感じ取った風情を台無しにされたようなものでもある。キリサメは横目でもってを睨んだ。

 見つめ返してくる瞳は「を有り難がるってことはサミーはもう〝こっち側〟の人間じゃないよ」と声もなく笑っていた。


「なかなかイケてるでしょ、ここ。照ちゃんとデートで出掛ける場所を探しているときに見つけたんだよ。そのときにはサメちゃんを連れ込むなんて思いもしなかったけどさ」

「――ってコトはこれもデートなんですね⁉ バトルと見せ掛けた逢引きですね⁉ 話を聞く限り、略奪愛パターン⁉ むッは、滾るわァッ!」


 野次馬の女性が鼻息荒く投げ付けてきた言葉の意味をキリサメは理解できなかったが、これによって真隣の幼馴染みから正面の〝敵〟に視線は引き戻された。

 作り笑いの向こうに覗いた庭園の中央まで寅之助を押し込んでいけば、より一層戦い易くなるだろうと、キリサメは頭の中で算段し始めていた。

 木造橋を渡ったところで通路はみつまたに分かれている。

 直進した先にはバラの花で彩られた鉄製のガーデンアーチが立ち、ここを潜ると屋上の中央に辿り着く。広く開けたその場所に設置された五角形の巨大なカウンターテーブルこそが庭園で一番の目玉であった。

 長細い木材を組み合わせたカウンターテーブルの中央は大きな空洞となっている。そこには五芒星ペンタグラムを模った照明器具が収納されており、夕陽がビル群の向こうへ沈んだ後には幻想的な雰囲気を醸し出すのだ。闇夜を切り裂く光は机上から等間隔にそそり立つ五本の柱が受け止めるのだった。


(……なるべくなら、あの小屋へ近付く前に決着をつけたいが……)


 左右の通路は園内を一周できるよう環状に繋がっており、その途中に四阿あずまやが建てられていた。他の場所に比べて、そこだけが丘のように高くなっている。おそらくは屋上庭園の全景を一望の如く見渡せる建物として設置されたのだろう。

 気付いたときには真隣から掻き消えていた幻像まぼろしは次に四阿あずまやの屋根に出現した。わざわざ傾斜のある位置に腰を下ろし、軒先から両足を放り出した彼女は「どうやってシメるのか、お手並み拝見と行こうじゃない」とでもいわんばかりの表情かお幼馴染みキリサメの様子を見物し始めたのである。

 キリサメたちが園内へ踏み入った直後には何人かの利用客も散見されたが、物騒極まりない様子を認めるなり足早に退散していった。横柄な野次馬から強引に押し出された者も多く、許し難い暴挙と抗議する声は剣を握る二人の耳にも届いていた。

 園内でも奥まった場所に所在する四阿あずまやへ取り残されてしまった男女のカップルは怯えたように互いの身を抱き合い、「プロポーズの返答こたえを聞いてから死にたかった」などと勝手に世を儚んでいたが、軒先で上下左右に忙しなく動き続ける少女の両足には全く気付いていないらしい。


「――フラダンスのコンテストにも招かれるきーちゃんと違って、私やすいっちょんはカマプアア先生とトークショーで一緒になる機会がこれまでなかったのですよね。前々からいてみたかったのですけど、ダンス監修って大変じゃありませんか?」

「はいはいはいはいはーい、それは私も気になってました。シリーズ通して全部一人で担当してますけど、『イシュタロア』って専門のフラダンス以外にも世界中の色々な踊りが登場してるじゃないですか。一体、どーやってこなしてるのかなって。役作りのヒントにしたくて今も〝日舞〟の教室に通ってますけど、たったの一個だけでもパンク寸前になりましたよ、私のアタマ」


 地球の裏側より舞い降りた砂色サンドベージュ幻像まぼろしが四〇人もの野次馬と共に平成の〝げきけんこうぎょう〟を眺める構図だけでも面妖だというのに、アコースティックギターの生演奏と人気声優たちによるトークショーまでもが無遠慮に入り混じるのだ。秋葉原の隠れたデートスポットとして知られる屋上庭園は今や混沌と化していた。


「橋の上の決闘といえばうしわかまるさしぼうべんけい! 鞍馬天狗もかくやというテクニックで荒々しさ全開のパワーをヒネッちゃってください! でも、ぶっとい武器に屈服させられちゃうパターンも自分的には大歓迎! 行っちゃえ、っちゃえ、思い切りッ!」


 真後ろからキリサメの背中を突き刺したのは狭い路地にて斬り結んでいる最中に寅之助とぶつかってしまった女性の声である。腰を抱かれたまま甘い言葉をささやかれて以来、彼に熱烈な声援を送り続けていたが、とうとう屋上庭園ここまでいてきてしまったようだ。

 両腕を背後に回して左右の指を組み、胸を反らせて腹の底から大音声を張り上げるなど相当に気合いの入った応援である。今はまだ何も知らないはずだが、寅之助の恋人と鉢合わせでもしようものなら、それまでの熱情が反転して胸倉に掴み掛かることだろう。

 完全に他人のことながら乙女心を弄ばれた点については同情を禁じ得ず、橋の上に立つ性悪な青年へ批難の眼差しを向けようとするキリサメであったが、不意に割り込んできた驚愕が動作そのものを推し止めてしまった。


「おいおい、『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーだって全然負けてねーぞ⁉ 力と技のハイレベルな融合をさっき見たばっかだろっ!」

「走りながら日本リーグの公式サイトをチェックしてみたけど、甲冑格闘技アーマードバトルには出場してないみたいね。惜しいよね~。このコの才能、総合格闘技MMA以外でも必ず光るってば」


 くだんの女性へ呼応するかのようにキリサメのことを応援する声まで上がり始め、当人はこれまでとは異なる意味で顰め面になっていく。


「サメちゃん、ほんの一時間程度でたくさんファンを作ったねぇ。確かデビュー戦は岩手だっけ? 全員は無理でも何割かは東北まで駆け付けてくれるんじゃない?」

「……そういう発言ことはやめろと言っている」

 キリサメか、寅之助か――園内の声援こえが二つに分断されるまで数分と掛からなかった。

 己を褒め称える声に力が湧き立つようなこともなく、白熱とは別の気配を帯び始めた野次馬たちを尻目に攻撃の好機タイミングを計り続けるキリサメだったが、心の片隅では園内の様相を薄気味悪く感じていた。


(……こいつら、殺陣たてと勘違いしてるんじゃなかったのか? 誰に望まれなくたって殺し合いをするつもりだけど――)


 絶望的な格差社会が横たわるペルーでは政府が労働者の権利を脅かす度に大規模なデモが起こり、怒れる群衆は反乱にも等しい暴力性を帯びて〝攻撃目標〟に押し寄せていたのだが、首都リマで暮らす者が無縁ではいられない獰悪なる気配をキリサメは屋上庭園ここでも感じ取ったのである。


「――『ヒエロスガモス』みたいなアイディア、何をどうやったら思い付くんだろうって演じながらすごい不思議だったんですよ。きーちゃんと二人で『監督やカマプアア先生のアタマの中を覗いてみたいよね』って」

「ロアさんは第二期の最終回まで『ヒエロスガモス』自体がなかったから、正直、ずっと羨ましかったんですよ。『つむぎさんとひまわりさん、また公の場でイチャついてる』とか、『ひまわりさんの目の前で別のコと浮気なんて命知らずだなァ』とか」

「自分の出番が終わって戻ってきたときにすいっちょんから『また浮気?』って詰られましたけども! 何時だったか、『ヒエロスガモス』自体は社交ダンスが元ネタなんだって聞いたんですよね。それにしたってフラダンスを日本舞踊やブレイクダンスとコラボさせるっていう発想はかなりブッ飛んでるなぁって」

「一緒にダンスを踊ることでグルーヴ感が増して、お互いのエネルギーも増幅されるって説明を私は未だにちゃんと呑み込めてないよ⁉ 『ヒエロスガモス』をしている最中はバディと肉体からだも密着するし、それでアブない雰囲気になる――みたいな?」

「だからねぇ、きーちゃんはそろそろ浮気性をどうにかしたほうが良いと思うんですよ」

「浮気っぽいのはつむぎちゃんであってあたしじゃないからっ。つむぎちゃんもひまわりお姉様一筋のハズなんだけどね~。仕方ないかな~、あのコは無意識にオトしていくタイプだもんね~」


 ビルの向こうのトークショーにて語られている『ヒエロスガモス』とやらは全く理解わからないが、『他者との共鳴によるエネルギーの増幅』という説明は、この場にも地球の裏側で頻発する反政府デモにも当てはまるものであった。

 何らかの想念が同調を経て増幅されていく――その規模が〝一対一の関係〟ではなく想念自体が独り歩きを始めるような〝集団〟に膨らめば、何万というデモ隊を衝き動かす巨大な潮流と化していくわけだ。

 誰にも堰き止めることのできない濁流に巻き込まれ、ついには命を落とすことになった幼馴染みは、今、幻像まぼろしの身で屋上庭園を眺めている。

 テレビアニメという架空の世界の出来事ではあるものの、一種の同調を経て増幅させたヒトの想いを無限大のエネルギーへ昇華していくという『ヒエロスガモス』のトークにどのような気持ちで耳を傾けているのだろうか――寅之助の肩越しに窺ったの顔は、自身に向けられる哀しげな眼差しを薄笑いでもって茶化していた。


「もっとボクのことを見てっておねだりしたのに余所見は頂けないよ――」


 キリサメの意識を四阿あずまやから木造橋に引き戻したのは、拗ねていることを主張するように口を尖らせた寅之助である。依然として顔面に作り笑いを貼り付け、視線も交えずおどけているものの、一足飛びで間合いを詰めようとするキリサメの動きを見極めて正眼の構えから胴を狙う打突に転じたのだ。

 相手の懐に飛び込もうと図ったのはキリサメのほうであったが、攻防にいては寅之助に先手を許してしまった。水平に寝かしていた『聖剣エクセルシス』を突進の最中に右の逆手へと持ち替え、横一文字に振り抜こうとしていた彼に敢えて同質の技を叩き付けたのである。

 飛び退すさってかわすことは難しいと直感したキリサメは『聖剣エクセルシス』の剣先を橋板に突き立て、これを盾の代わりに据えて竹刀を受け止めようと試みた。

 対する寅之助はキリサメの動きに即応して腰を逆方向に捻り、今まさに横薙ぎの軌道を描こうとしていた竹刀を引き戻していく。


「――まさかと思うけど、これでタネ切れってコトはないよね? ド素人の手品だってもう少しくらい底が割れないように踏ん張るよ?」


 吊り上げられた口の端から挑発的な呟きが洩れるのは当然であろう。剣先を地面に押し当てることで幅広な刀身を固定し、平べったい表面で相手の攻撃を凌ぐという技をキリサメは既に二度も寅之助に披露している。それどころか、二度目の使用時にはここから派生する打撃まで破られてしまったのだ。

 咄嗟の判断とはいえ、術理が見抜かれている技を短時間の内に三度も使っては寅之助でなくとも呆れ返ることだろう。相手が電知であったなら、キリサメの視界は動作の途中で逆さまに引っ繰り返っていたはずだ。

 先程と同じように垂直に立てられた『聖剣エクセルシス』を右足の裏でもって踏み付け、キリサメ本人を巻き込む形で橋の上に転がそうと試みる寅之助であったが、平べったい刀身へ接触した途端に蹴り足のほうが弾かれてしまった。

 それはつまり、今までよりも遥かに強い力がノコギリを彷彿とさせる刀身に作用しているという意味である。次の瞬間、キリサメは左右の五指にてツカを握ったまま『聖剣エクセルシス』を支えに全身を持ち上げ、更には脳天が地面を睨むかのような姿勢となった。

 左右の足は太陽を仰ぐ間もなく寅之助の顎を狙って高々と突き上げられていく。

 四ツ割の竹片を組み合わせるという構造の竹刀で同種の技を試みた場合、持ち主の体重を支え切れなくなり、折れることがなくとも曲がってしまうかも知れないが、キリサメの『聖剣エクセルシス』は生半可な腕力では持ち上げることすら叶わないほど重量がある為、船のオールにも似た外見からは想像もつかないほど頑強なのである。

 垂直の状態でキリサメが全体重を掛けた場合、長いツカの端から剣先まで一本の揺るぎない支柱はしらと化すのである。得物の耐久性を把握していればこそ、持ち主キリサメも曲芸じみた真似を仕掛けることができるのだった。

 たび、同じ技を繰り返す――これ自体がキリサメのである。一度は破られたという事実さえも寅之助が不用意に近付いてくる為の〝撒き餌〟として利用していた。


「まんまと一杯食わされたねぇ。サメちゃんはボクを飽きさせないもんなぁ~」

「こっちは飽き飽きしている……ッ!」


 足技を繰り出す際に軸として据えていた左足一本で僅かに退すさり、急角度から突き上げられてきた追撃をかわし切る寅之助であったが、キリサメの変化は一等速い。両手をツカから離しつつ空中に跳ね飛ぶや否や、腰を捻り込んで再び蹴り技を仕掛けたのである。

 人体急所の一つである延髄に狙いを定め、風を薙ぐ勢いで右の前回し蹴りを繰り出したキリサメは〝撃剣興行このたたかい〟が始まって以来、初めてダメージを与えることに成功した。首を脅かされていると読み取った寅之助が更に半歩ほど退すさった為、本来の標的まとから外れはしたものの、重い打撃音と共に左側頭部を抉ったのである。


「――顔はやめてぇ! ホントに当てるのは堪忍してぇ!」

「ボッコボコにしちまえ~! 思い知らせてやれぇ!」


 優男イケメンという二字がそのまま形になったとしかたとえようのない寅之助の顔に心を奪われた女性たちが一斉に悲鳴を上げ、別の男性たちは真逆の喝采をキリサメへ送ったが、当人には他者の戯言を聞き入れる理由などない。

 蹴りが命中した箇所を〝軸〟に据えて己の身を振り回し、再び逆様になったキリサメは重力に引かれようとしている『聖剣エクセルシス』のツカを握り直すと橋板を擦るようにして禍々しい刀身を振り上げた。

 遠心力を乗せた一振りは寅之助の動きを牽制し、その場に釘付けとしたが、反応が僅かでも遅れていたら彼の両足は女性たちが卒倒するほど無残な形に拉げていたはずだ。

 ノコギリ状の刃をそのまま木造橋の束柱はしらに喰い込ませたキリサメは左側頭部へ蹴りを加えた瞬間と同じようにを〝軸〟に据えて己の身を持ち上げ、素早く姿勢を整えてらんかんに着地した。

 『聖剣エクセルシス』を振り抜こうとする動作うごきに割り込み、逆様になっている頭部あたまを踏み潰すべく間合いを詰めてきた寅之助から逃れた次第である。


「――私のローリングソバットは八雲先生の直伝なのだよ! 今度は私からキミにこの技を授けよう! 直伝の直伝そのまた直伝だ!」


 キリサメの脳裏にあかぞなえ人間カリガネイダーの声がよぎったのは、やや高い場所から寅之助を見下ろす恰好になった直後である。

 火の玉の如きプロレスマスクをトレードマークとするカリガネイダーが花形の大任を担う長野の地方プロレス団体――『まつしろピラミッドプロレス』がすがだいら高原にて実施した特別合宿へ空閑電知と共に参加したキリサメは、同団体の所属レスラーからプロレス式の打撃技も幾つか教えられていた。

 『まつしろピラミッドプロレス』の外部コーチも務めている岳が昭和を代表する先輩レスラーから直々に伝授された得意技を更にカリガネイダーへ伝えたというのだ。

 「直伝の直伝そのまた直伝」としてカリガネイダーからキリサメに授けられたのが『ソバット』と呼称されるプロレス式の後ろ回し蹴りである。


「そうだな……馬の後ろ足をイメージすると分かり易いかも知れないぞ! 自分の後ろに立つなと言わんばかりに思い切り吹き飛ばしてやりなさい!」


 振り返るつもりもないのに甦ってくるカリガネイダーの指導ことばに衝き動かされたキリサメはらんかんを蹴って寅之助へ飛び掛かり、同時に己の身を鋭く旋回させた。

 如何なる技を仕掛けられても即座に斬り返せるよう正眼の構えを取っている寅之助に背中を向けるや否や、半身を大きく開きながら右足を後方に振り回した。まさしく馬蹄のように相手の顔面や腹部へ足裏を見舞うわけだ。


「これはこれは――メキシコのほうには『ルチャ・リブレ』ってご当地プロレスがあるらしいけど、ペルーでも盛んなのかい? それとも養父おとうさんに仕込まれたかな?」


 プロレス技への急激な変化に目を丸くする寅之助ではあったが、口笛を吹きつつを迎えるだけの余裕は残している。左肩へ刀身を担ぐような恰好で鹿革に覆われているツカがしらを突き上げ、迫り来る右足の踵を弾いてソバットの拍子を崩したのである。

 カリガネイダーひいては岳にとっても〝伝家の宝刀〟に違いないが、抜き放ったからには必ず命中させなければならないといった使命感などキリサメは持ち合わせていない。ツカがしらで弾かれた瞬間にはを中継として別の技に派生しようと思考あたまを切り替えた。

 次の手立てを捻り出すよりも先に肉体からだのほうが反射で動いていた――というほうが正確に近いだろう。ソバットに用いた右足を空中にて再び繰り出し、寅之助の右肩を蹴り付けることでキリサメは垂直に軽く跳ねた。


「――往年のヴァルチャーマスクみたいだな、あの新人選手ルーキー。ここまでの軽業師は今時の日本格闘技界でも珍しいんじゃねーの? デビューしたら『天叢雲アメノムラクモ』に新風を巻き起こすかも知れねーぞぉ!」

「ヴァルチャーマスクぅ? いつの時代の話をしてんだよ。さすがは時代遅れの集団っつうか、ファンまで回顧趣味バリバリだな~。カビの生えたモンは日本男児の底力で斬り伏せちまえっ!」


 鬼貫道明と同様に昭和のマット界を大いに盛り上げたという伝説的なプロレスラーに何人かの野次馬がキリサメを重ね、『ヴァルチャーマスク』なる通称リングネームを昂揚した調子で叫んだものの、一瞬たりとも油断のできない状況下では当人の耳に届くはずもなかった。

 攻防の最中にも関わらず、急にカリガネイダーの指導ことばを想い出してしまったことにキリサメ自身が驚いているくらいなのだ。

 あるいはショーアップされた試合で観客を楽しませることへ全力を傾けている『まつしろピラミッドプロレス』と明治時代の〝げきけんこうぎょう〟を比べたことがきっかけになったのかも知れない。


(……他にも大切なことを言われたような気がするけど……どうでも良いか――)


 キリサメは高空から地上の獲物を狙う猛禽類とりのように左右の足を突き出し、眼下にる寅之助の肩を踏み付けようと図った。

 正確には肩への打撃ではなく鎖骨を圧し折ろうとしている。寅之助の技量によって振るわれる竹刀はまさしく変幻自在であり、重量や強度で勝るはずの『聖剣エクセルシス』を叩き付けても打ち砕くことは叶わないだろう。よしんば得物を破壊できたとしても電知と共に稽古を積んだものとおぼしきあてや、の道場で研がれたという足技を体得している為、形勢を引っ繰り返すことは難しそうだ。

 これらの技をから叩き折るしかないと判断して直接的に鎖骨を狙ったものの、あからさまな人体破壊など寅之助が許すはずもない。左手一本で握る竹刀を水平に構え、剣先の辺りに右手を添えながら――ツカの端を掴む左の五指とは対の形である――刀身を頭上にかざし、己の肩を脅かそうと突き込まれてくる両足を受け止めてしまった。

 やむなく竹刀を蹴り飛ばして空中に逃れたキリサメは『聖剣エクセルシス』を喰い込ませた側とは反対のらんかんに降り立った。その直後に無数のシャッター音が聞こえてきたものの、彼は一瞥をくれることもない。


ぞめしきのとび職みたいな真似をするねぇ。……ああ、日本橋の『あまかざり』って元締めとは無関係なんだっけ? ボクも電ちゃんからの又聞きだから詳しくは知らないんだけどさ」

「あいつ、そんなことまで話したのか。梯子に乗って曲芸をやるものだって聞いたけど、うちはそんな家系じゃない。……元々、家系も何もあったもんじゃないけどな」


 電知と初めて拳を交えたときにも日本橋に居を構えている『あまかざり』なる人物との関係を訊ねられたが、同姓という以外に共通点など一つもないのだ。亡き母も実家で営んでいる生業については〝大工のような仕事〟と語っていたはずである。少なくとも『とび』という言葉をペルーで聞いたおぼえはなかった。

 祖父の生業を指して亡き母は『おやかた』と呼んでいた――それが唯一の記憶といっても過言ではない。


「大きな武器振り回してるから弁慶役かと思ったけど、そっちがうしわかまるだったの⁉ 人は見かけに寄らないとは良く言ったもんだよ!」

「素手のほうがイケてねぇか、おい⁉ こりゃマジで次の『天叢雲アメノムラクモ』はものだぞ!」

「う、牛若丸ってみなもとのよしつねでしょ? 結局、ズタボロに滅ぼされたじゃない! 今度も同じ末路を辿るに決まってるわ!」


 比喩でなく本当にそらを舞いながら攻防を組み立てていくキリサメにデビュー戦への期待を込めた大歓声が押し寄せたが、その中に『牛若丸』という平安時代の伝説的な名前が混ざっていた。


(電知もそんな名前を出していたな。母さんが日本から取り寄せた昔話の絵本にあったハズだけど、有名な人物なのか……?)


 巨大なカウンターテーブルの向こうで展開される斬り合いに竦み上がり、「牛若丸って何⁉」と互いの身を抱き合い続ける四阿あずまやのカップルは聞いたことがなかったようだが、牛若丸とは世に言う〝げんぺいかっせん〟を決着に導いた源氏軍の天才武将――ろうほうがんよしつねの幼名である。史書の類でなく昔話として語られることも多い為、元服せいじん後に付けられるなまえと同じくらい現代人に親しまれていた。

 牛若丸と名乗っていた頃に死出しでの旅まで共にすることとなる第一の家来――武蔵坊弁慶と巡り逢い、京都の五条大橋あるいは鴨川を西に抜けた先の天神社、次いできよみずでらにて互いの力を確かめ合ったと伝承されている。


「照ちゃんから聞いたけど、電ちゃんもキミのことを牛若丸にたとえたらしいね。でも、ボクに言わせれば、サメちゃんは鷹や鷲――血に餓えた猛禽類だよ。ペルーから飛んできた渡り鳥っていうべきかな」


 二人が共に振り返った通り、路上戦ストリートファイトいても夜空そらで荒れ狂ったキリサメを指して電知は牛若丸ひいてはみなもとのよしつねたとえていた。しかし、らんかんの上に屹立する彼を仰いだ寅之助は幼馴染みや野次馬とは全く異なるモノを瞳に映したようである。

 奇しくもそれは八雲岳が地球の裏側で目の当たりにし、養子キリサメに〝戦士〟としての素質を感じ取ったモノと全く同じであった。

 二つに折り畳んでジーンズのベルトへ差し込んでいた鞘代わりの麻袋は既に風と踊ることをやめている。キリサメがそらを翔けている間は鳥の尾羽根の如くなびいており、これを追い掛けるようにして野次馬の多くが携帯電話に内蔵されたカメラを向けていたのである。


「――第一四回くらいから作品全体をスケールアップさせようって意見は企画会議の時点でたくさんあったのね。『イシュタロア』のウリは何といってもダンスでしょう? 社交ダンスみたいにつむぎちゃんたちを一緒に踊らせたら面白そうってアタシのほうから提案させてもらったわ。踊りでセッションしたら愛はもっとパッション! それを視聴者へストレートに伝えなきゃダメなのってね」


 見下ろすキリサメと、見上げる寅之助――野次馬の喧騒さわぎを頬で受け止めながら視線を交わし続ける二人の間へ力任せに割り込んだのは過剰なほど鼻にかかった声であった。飛び抜けて甘ったるく、言葉を区切る度に鼻を鳴らすようにして小さく笑っている。

 『かいしんイシュタロア』のトークショーから屋上庭園に流れ込んできたものだが、出演者たちのやり取りから察するに声の主こそが同作にてダンス全般の監修を務めているというフラダンサーなのだろう。


「監督から心配されたのはバラエティ溢れるダンスから膨大な量のセッションを作り切れるかってコト。作業量は勿論、個人の知識じゃ限界があるでしょ? それも当時は懸念事項だったの。モノになった今だからこそ暴露できる裏話ってヤツね。アタシの専門はフラダンスじゃない? 日舞やベリーは確かに専門外。だけど、専門分野の知識だけで『クムフラ』を続けていけるほど業界も甘くないのよ。高い表現を見つけ出す為に専門外の舞踊もたくさん調べたわ。それができなきゃダンス監修はビッグゲームのチアリーダーより大所帯になってたでしょうね。アタシってば予算にも優しいでしょ?」


 芸名と考えて間違いないだろうが、『かいしんイシュタロア』という作品の中で自分が担当した部門を熱心に語る人物は『カマプアア』と希更から紹介されていた。前後の発言から察するに、自ら名乗った『クムフラ』とはフラダンスの講師インストラクターといった意味合いなのだろう。


「最初は本当に手探りだったけど、故郷くにのハワイはアジアを中心に色々なダンスが入り込んでいたし、手掛かりは身近にたくさんあったのよぉ。『ヒエロスガモス』もねぇ、小さな頃に『ボンダンス』を踊ってなかったら行き着かなかった閃きかも知れないわ~」


 ハワイ出身うまれであることを明言したカマプアアは『ボンダンス』という日本人に強い違和感を引き起こす言葉を口にした。説明によれば日本の盆踊りが海を越えて伝わり、英語圏の同地へ定着する間にこのような呼び方が生まれたそうだ。

 フラダンスとは異なる経緯で故郷ハワイに根付いたダンスから研究の範囲を拡げていったともカマプアアは言い添えている。


「世界中を旅して回って各地の格闘技や伝統武術と交流する拳法家の話、バロッサさんは聞いたことないかしら? 『アップルシード』っていう可愛らしい通称なまえなのよ」

「あ~、いましたねぇ、そういう人。ウワサ程度なら聞いてますし、熊本で道場ジムやってる母も一時期はやたら対抗意識燃やしてましたけど、ぶっちゃけ都市伝説みたいなもんですよね。漫画の主人公みたいな人物ヒトにも関わらず、写真だって一枚も出回っていませんし。あたしはカマプアアさんが『アップルシード』を知っていたこと自体が驚きですよ?」

「人のウワサっていうのは種類を問わずに何でも流れ込んでくるってコトよぉ。アタシの場合も『アップルシード』と同じってワケ。けんの道場だって足繁く取材に通ったんだからぁ。神様に奉納するほうも、詩吟に合わせて舞うほうもどっちもね」


 『剣舞』という二字を「けぇんぶぅ~」と間延びした声で読み上げるなど、カマプアアなる人物は注意を引きたい部分を独特な言い回しによって強調する癖があるようだ。

 そうした小細工に頼るまでもなく聴衆は〝彼〟の声に意識を引き付けられずにはいられないはずだ。女性のような言葉遣いを使ってはいるが、これを紡ぐのは完全に男性の声である。生来の野太い地声を意識して甲高く調整していることも察せられた。

 俗に言う〝おネェ言葉〟である。

 そうかと思えば、いきなり野太い地声に切り替え、「漢詩を詠む声に合わせて刀で舞うという作法は『イシュタロア』の演出を考える上で一番のお手本になりました」と大真面目に語り始めるのだ。

 希更たち出演者から〝キャラ〟を統一しようとの指摘ツッコミが乱れ飛び、ファンイベントの会場は爆笑に包まれた――秋葉原の隅々まで響き渡るような笑い声は、宮崎物産館へ足を踏み入れることのない人々にも大盛況を伝えている。


「――まさか、でも剣舞の話題が出るとはね。こういうトコロにも運命感じちゃうボクって立派な夢想家ロマンチストかな」


 いつしか寅之助は内面から滲み出る笑顔を咲かせていた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、それは自らが〝キャラ〟を滑稽なくらい崩して笑いを誘うカマプアアの姿勢がおかしかったからではない。心の奥底をまさぐられた瞬間に噴き出した〝闇〟がキリサメと斬り合う内に晴れたということである。

 左側頭部を蹴り付けた瞬間、よろめきそうになる姿も確認したのでダメージは確実に刻んでいるのだが、その痛みを上回る歓喜が彼を破顔させるようだ。

 伝説の剣士として名高い『タイガー・モリ』こと森寅雄の系譜を継いだ青年も前田光世コンデ・コマの技を現代に甦らせた空閑電知と同じように闘いそのものを心の底から愛しているのだ。キリサメを仰ぐ瞳も現在いまは曇り一つなく澄み切っていた。

 児童虐待を疑われるほど峻烈な環境に生まれながら心の傷トラウマに蝕まれることがなかったようにも桁外れの精神力は、如何なる情況であっても乱れることのない〝型〟と合わさって瀬古谷寅之助を現代の〝剣士〟たらしめているわけだ。

 世界最強を夢見て地下格闘技アンダーグラウンドで腕を磨き続ける電知の魂と、これによってふるわれる『コンデ・コマ式の柔道』に『タイガー・モリ式の剣道』は勝るとも劣らない――それだけはキリサメも認めていた。『伝説のしんけん』などと仰々しいことを吼えながら中身が全く伴っていない御剣恭路とは根本的に違うのだった。


「タイムリーにも程があるよね。サメちゃんだって運命感じてるでしょ?」

「タイムリー? 今に始まったことじゃないが、お前の話はいちいち筋道が見えない」

「聞き流すなんて冷たいなぁ。明治の〝げきけんこうぎょう〟では剣舞も盛んに行われたって話したじゃないか。る史料によればさかきばらけんきち先生も直々に舞われたって教えてあげたのにさ」

「……長話は右から左へ聞き流している――そう言ったのはついさっきだ。お前こそ僕の喋っていることを全く無視しているだろう」


 日本史上にいて『最後の剣客』と畏敬されるさかきばらけんきちの名を口にしつつ天に向かって恭しくこうべを垂れた寅之助は、次いで呆れたように肩を竦めてみせた。

 一つ一つに反応していたら際限キリがなく、何よりも煩わしいので聞き流した芝居フリを貫いているのだが、『かいしんイシュタロア』のトークショーで剣舞について触れた瞬間とき、寅之助が得意気な表情かおになるだろうと直感したキリサメは、顔も知らない同作のダンス監修者に対して「余計なことをしてくれる」と心の中で毒づいたのである。

 つい耳を傾けてしまう自分自身を愚の骨頂と罵りながらも、車輪の音が響き渡る高架下で斬り合っている最中に聞かされた解説はなしということまでキリサメは記憶に留めている。

 寅之助曰く――『剣舞』とは日本の伝統舞踊の一つであり、目的や趣向によって様式が細かく枝分かれするそうである。無論、彼が解説したのは明治時代の〝げきけんこうぎょう〟で行われていたものだが、トークショーの内容を聞く限りではカマプアアなる人物が取材したという道場も同じ流れを汲んでいるようだ。

 『けん』とも呼ばれる様式である。読んで字の如く別の者が朗読する漢詩の内容を刀でもって表現するものであった。詩吟と武芸を組み合わせた舞踊は幕末の武士サムライたちの間でも風流として流行し、その経緯からさかきばらけんきちや彼に続く者たちも剣舞を〝げきけんこうぎょう〟に取り入れたのだと、寅之助は竹刀を繰り出しながら語っていた。

 一時は武道としての存在感を示しており、現代にも様々な流派が継承されている。実しやかな説によれば、第二次世界大戦後にGHQから武道全般を禁止された時期、近代の剣士たちは剣舞の中に武道としての太刀筋を組み込み、舞踊を隠れ蓑にして昭和二七年四月二八日まで技術が喪失うしなわれる危機を凌いだとも寅之助は話していた。


「幕末の風流も遠い昔っていうか、戦前の武道家には『あんなのは武道じゃない』って全否定されたみたいだよ。遊戯おあそびみたいに扱われ、隅に押しやられていた剣舞が戦後に剣道の命脈を守ったっていう説、浪漫ロマンに溢れていてボクは大好きなんだよ。……父や祖父にこのテの話をすると本気の蹴りが飛んでくるんだけどさ」


 何とも腹立たしいが、そのように言い添える声も鮮明におぼえている。

 『剣舞』という言葉からキリサメが真っ先に連想したのは旧ソ連の作曲家、アラム・ハチャトゥリアンが手掛けたバレエ『ガイーヌ』の佳境を盛り上げる激しい旋律であった。母が開いていた私塾では音楽の授業も行っており、そこで概略あらましを教えられたのだが、左右の手に一振りずつ握った剣を華麗に閃かせ、舞い踊る場面で用いられたという。

 音色に乗せていくさの場景を表現したというのだから、〝剣の舞〟という発想は国の垣根を超えて通じ合うものであるらしい。


「何だかハナシが繋がってきた! カマプアアさんがフラダンス以外を幅広く学ぶのは格闘家が他流の研究に勤しむのと同じってコトですね。あたしも母のお師匠さんから軍用ムエタイの『レドリッド』を教わりましたもん。タイの軍隊でもやってるってだけで、〝軍用〟とはちょっと違うって言われたっけな~」

「ムエタイと同じように剣舞だってたくさん流派や種類があるんだから。アタシがお邪魔した岐阜の道場だと実戦剣舞を教えていたのよ。……色々な意味で興味深かったわ」

「今のお話、あたしはストンと腑に落ちたんだけど、すいっちょんや湊さんは置いてきぼりじゃない? 特にすいっちょん、居眠りなんかしてない? 大丈夫?」

「……先々月は宮崎市のみなさんにご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでしたっ。まさかの現地イベントで寝落ちした上に椅子から転げ落ちるなんて〝ひまわりお姉様〟は絶対にやっちゃいけなかったのに」

「私にだけスキを見せてくれるひまわりお姉様が慕わしくて仕方ありません」

「速攻でフォローしてくださるつむぎさんを私も心から愛していますよ」


 さすがは〝声のプロ〟というべきか、希更きーちゃん共演者すいっちょんは一秒と掛からずに自らが演じているキャラクターへなり切った。突発的な小芝居によって会場は大いに沸いたらしく、二人の絆を冷やかすような口笛が屋上庭園まで聞こえてきた。


「第一期の打ち上げの二次会でカマプアア先生、実際に剣舞を披露されていましたよね。ここまでお話しになったのですから、会場へお越しの皆さんにも剣舞がどういうものか、ご覧になって貰わないといけませんよ」

「それ、フラダンスの講師クムフラ相手に要求するアドリブじゃないわよね? 居合刀どころか、扇子も和楽器も持ってきてないのよ? 第一、出演陣でもないアタシの実演なんて、どこの誰に需要があるっていうの?」

「湊さん、それナイス! 皆さんだって聞きたいでしょ? この先生、難しい文章を美声イケボで読み上げるんですよ。せめて朗読! 朗読だけでもお願いしますって! やってくれなきゃ、ひまわり役を降りちゃいますよ」

「どーゆー脅しなのよ、それはっ」


 希更の共演者たちによる横暴にも等しい提案を後押しするのは会場に詰め寄せたファンたちの拍手である。洗礼のようにも聞こえる乾いた音がカマプアアの退路を断っていた。

 〝げきけんこうぎょう〟の一部としてキリサメに語ってきた剣舞がでも大きな話題となっている――ただそれだけでも寅之助は愉しくて仕方がないのだろう。瞳に湛えた昂揚の輝きは一等強さを増していた。


の提案も悪くないね。ツレないサメちゃんの為にも実演込みでおさらいしてみようか」

「僕らがやっていることは遊戯おあそびでも芝居でもないことをそろそろ認識しろ――」


 そのように吐き捨てた直後、キリサメは木造橋全体が軋み音を立てるほど強くらんかんを蹴り付けた。

 瞳からおぞましい妖気を垂れ流しながら寅之助に飛び掛かり、その最中に右腕を後方うしろへ引いている。拳を握り締めてはいるものの、打撃を狙っているわけではない。人差し指と中指を伸ばしたことからも察せられる通り、突進の勢いを乗せて寅之助の双眸を抉るつもりなのだ。


「電ちゃんと照ちゃんが二人して言ってたっけ。サメちゃんは目玉焼きの黄身を潰すみたいな気軽さで目突きをポンポン狙うってさ」


 小技すら経由せずに動作うごきの大きな攻撃を仕掛けても寅之助には決して届かない――それは御剣恭路と『あらがみふうじ』が既に証明している。ましてや、眼球は人間にとって絶対に守らなくてはならない急所の一つである。そこを狙われた場合、思考かんがえるより先に肉体からだのほうが防御や回避に動くのだ。

 当の寅之助も突っ込んでくるキリサメを見据えながら正眼の構えは崩さず、もろ突きでもって返り討ちにするつもりであった。

 しかし、バネを引き絞っているものとおぼしき右腕が正面の寅之助に繰り出されることはなかった。目突きの構えを維持したまま、キリサメは直線的な軌道を描く剣先とすれ違う形で左肩から寅之助にぶつかっていったのである。

 あからさまな目突きは引っ掛けフェイントに過ぎなかった。相手の破壊を優先してしまうが為、恭路と同様に大振りな攻撃を無造作に仕掛けてしまうという己の弱点――あるいはMMA選手としての課題と呼ぶべきであろう――を布石に換えた奇策というわけだ。

 返し技として打ち込んだもろ突きを逆に引っ繰り返された挙げ句、防御も回避もなく体当たりをまともに喰らってしまった寅之助は、歓喜の入り混じった呻き声を洩らしながら大きくたじろいだ。

 無論、この好機を逃すキリサメではなかった。橋板へ降り立つや否や、束柱はしらに喰い込んだまま放置されていた『聖剣エクセルシス』のツカを左右の五指にて握り直し、引き抜いた刀身を内から外へと横一文字に閃かせた。

 キリサメにとっての誤算はノコギリ状の刃が想定よりも深く喰い込んでいたことであろう。その為、二度三度と力を込めなくては引き抜けず、渾身の横薙ぎを仕掛けたときには寅之助は後方に大きく飛び退っていた。

 橋の向こう――通路がみつまたに分かれている場所まで身を移した寅之助は、正眼の構えを解いて左手一本で竹刀を持っていた。五指でもって掴んでいるのは鍔元であり、その剣先は背後に向けられている。途中で戦いを放り出したかのような佇まいを晒しているのだ。

 そのまま寅之助はキリサメを誘うかのように環状の通路へ入っていく。先程までの〝鬼ごっこ〟とは異なり、相手キリサメの顔を真正面から見据えたまま後方へ素早く下がっていくような恰好であった。

 緩い曲線カーブを描く通路からはみ出すことがなければ、何かにつまずくこともない。目玉が後頭部にも付いているのではないかと錯覚してしまうような身のこなしである。その間にも上体が傾くことはなく、両足だけを一定の速さで動かし続けていた。


「さっきトークショーで岐阜の実戦剣舞の話をしていたでしょう? 刀を帯びた状態で瞑想して、精神を極限まで研ぎ澄ませて剣を振るうって流派があるんだよ。しんとうねんりゅうの逸話を適当にパクッた似非ナンチャッテ古流と思っていたから実在を確かめたときには驚いたなぁ」

「また知識自慢か。よく飽きないな」

「恭ちゃんが喚いていた『てんぐみ』にもね、その実戦剣舞の使い手がいたらしいんだよ。確か『総長』って役職だったかなぁ……ボクに調べられたのはその程度だけどさ」

「……調? 『てんぐみ』とやらもお前を雇っている連中ヤクザの傘下なんだろう? わざわざ骨を折らなくたって、そいつらにけば判ること――」

「――そうりゅうほ未だうんしょうに昇らず」


 相変わらず矛盾だらけで前後の言動が一致しない寅之助への詰問を切り裂いたのはカマプアアの声――朗々たる詩吟であった。裏方が出演者よりも〝表〟に出てしまうことを渋り続けてはいたものの、会場の熱気に押されて観念したようである。

 喉の状態を整えたのちに漢詩を暗誦し始めたのだが、陽気で甲高い普段の調子とは似ても似つかないほど厳かな声を張り上げており、〝げきけんこうぎょう〟に魅入られていた野次馬たちもその圧倒的な迫力に打ちのめされたのか、今では口を噤んで耳を傾けている。

 ハワイの出身者とは思えないほど流暢な日本語を紡ぐカマプアアは詩吟までもが見事であった。〝おネェ言葉〟を使っているときには発声イントネーションが乱高下する瞬間もあったが、現在いまは全く調子が外れない。

 途中からアコースティックギターの演奏まで重なった。詩吟には三味線といった和楽器が用いられるのだが、これを模倣しているらしい。

 無論、弦を爪弾くのは野次馬の先頭に立って演奏を付けてきた女性シンガーであるが、斬り合いの場景へ継ぎ接ぎの如く当て嵌められてきた『かいしんイシュタロア』の劇伴おんがくとは違って演奏と詩吟が溶け合い、寅之助の太刀筋へ寄り添っているように感じられた。

 寅之助を撮影しているとおぼしき無数のシャッター音も一定のリズムを刻み続ける為、弦楽器との合奏とのように聞こえなくもない。


 「実家が津軽三味線の教室をやってるので、の伴奏も習ったんです」という思いも寄らない身の上話に女性シンガーの周辺からどよめきが起こったが、これはキリサメの耳まで届いていなかった。余人のことなど省みている場合ではないのだから当然であろう。

 三味線の模倣が詩吟に添えられた直後、寅之助が急にを始めた。先程より正面を向いたまま後退し続けていたのだから自然な身のこなしに戻ったというべきかも知れない。

 地面に稲妻を走らせるかのような足さばきで一気に間合いを詰め、突進してきたところを斬り飛ばそうと身構えていたキリサメの動作うごきを巧みに封じ込めてしまった。

 同じ側の手足を同時に進める風変わりな所作うごきで接近した寅之助は右半身を大きく開くことによって縦一文字の斬撃を避け、次いで左の肩と膝を同時に突き出す形でキリサメの懐へと潜り込んでいく。竹刀の剣先は依然として背後に向けているので打突に変化することはないが、『聖剣エクセルシス』の太刀風を堰き止める効果は十分である。

 左半身を開いた形での体当たりもダメージ自体は大きくないが、切株を引き抜くような力がキリサメの上体へ急激に作用し、地面から足が浮いてしまった。彼もまた密着されると判断した瞬間に迎撃の頭突きへ転じたものの、その拍子さえも崩されたのだ。

 つまり、寅之助はキリサメが得意とする間合いをことごとく潰しているのだった。電知と訓練した打撃に最も適した距離まで飛び退こうとしても左右の半身を大きく開き、同じ側の手足を勧めるという独特の所作うごきで追い掛けていく。

 反対にキリサメのほうから突っ込む素振りを見せれば、左の逆手で握っている竹刀のツカを前方に引き出し、「寄らば斬って捨てる」と言外に威圧してその足を押し止める。腰に真剣を帯びているわけではないのだが、寅之助が秘めた片手突きの恐ろしさを既に味わわされている彼は、こうなると迂闊に飛び込めなくなってしまう。

 対する寅之助はカマプアアが「ほ未だうんしょうに昇らず」と吟じている最中、左手一本でツカを引き出したまま対の五指にて龍の頭とおぼしき形を作り、次いで雲の上を走るような仕草ゼスチャーを披露した。

 剣舞に組み込まれた手振りであろうが、キリサメの目には露骨な挑発としか映らない。龍を模っていた右手を高く翳して天を仰ぎ、祈りでも捧げるかのような姿を晒した瞬間に付け入るべき隙を見つけてようやく踏み込み、『聖剣エクセルシス』を右手一本で振り落とした。

 直撃の寸前まで剣先これを引き付けた寅之助は自身の左太腿を叩くと、そちらの側へと軽やかに腰を捻り込み、旋回を伴いながら後方に飛び退すさっていく。このままでは斬撃を仕損じると判断したキリサメは、縦一文字に叩き落とす最中であった『聖剣エクセルシス』のツカを振り上げる形へと握り直し、これと同時に右足でもってノコギリ状の刀身を蹴り飛ばした。

 『聖剣エクセルシス』自体の重量おもみで足首を折らないよう勢いを加減しても、スニーカーの上から鉄片などで足の甲が抉れてしまうかも知れない――大きな危険を冒しつつ繰り出した二段目の斬り上げは蹴りの威力によって急激に加速している。禍々しい刀身を股の間へ滑り込ませようというわけだ。

 右の五指はリング状となっているツカがしらの辺りを握り締めており、この小さな工夫と刀身自体の重量でもって十二分に遠心力を利かせている。


(……これも当たらないのかよ……ッ!)


 右足首が軋むのも構わずに放った変則的な斬撃はついに寅之助の急所を捉えられず、風を抉り上げる『聖剣エクセルシス』は彼の側面を虚しくすり抜けていった。

 寅之助が片膝を立てる体勢で着地する頃には「潜んでしんしゅうけんかくの腰にり――」という大音声が季節の花々を揺らしていた。腰の日本刀は未だ剣士の鞘に納まったままであるとうたう漢詩の内容に合わせ、彼は上体を引き起こしながら左手でもって竹刀のツカを前方に突き出した。

 そのツカに右の五指が掛けられたのはカマプアアの声が一等大きくなった瞬間のことである。果たして、それは居合道の達人が鞘から愛刀を抜き放つかのような所作うごきであった。


ぜんりょみなごろしにせんと欲すれば――」


 この演目で最も力を込める箇所であるのか、カマプアアも一言一言を長く溜めるかのように発していく。その間に寅之助の竹刀が縦横無尽に荒れ狂い、垂直に構えた『聖剣エクセルシス』でもって防御を固めようとするキリサメを追い立てていった。

 唸りを上げる打突はこれまでの比ではないほどはやく、『聖剣エクセルシス』の刀身で弾こうにも間に合いそうにない。それでもあおあざが増えなかったのは、縦や斜めの軌道を描く竹刀がキリサメの肌に触れる寸前で引き戻されている為だ。

 キリサメの双眸が叩き付けてくる妖気を薄ら笑いで受け流す姿からも明白な通り、寅之助は寸止めによる挑発行為を繰り返しているのだ。長大な得物マクアフティルを振るう彼が両肘を折り畳まなければならないほど間合いを詰め、四肢の小さな動きすら堰き止めるように竹刀を打ち込んでいく――キリサメには反撃など一切許されなかった。

 先程のような足技を敢えて併用しないことも底意地の悪さを表しているといえよう。上下時間差攻撃など使わなくとも封殺できるのだと嘲り笑っているわけだ。

 二〇〇八年六月に秋葉原で起きた〝凶行〟を再現させる勢いで『聖剣エクセルシス』を振るい続けるキリサメに披露された剣舞は、歴然の二字でしかたとえようがない力量ちからの差を突き付けることにも等しいのである。

 現在いまの寅之助は森寅雄タイガー・モリより受け継いだ剣で戦っているのではない。激しさを増していく三味線の模倣に合わせて舞い踊っているに過ぎないのだ。


「策無きにあらず――」

「舐めた真似を――」


 キリサメの口から洩れ出した苛立ちの声は、またしても余人の耳へ届く前に押し流されてしまったが、今度はカマプアアの詩吟が割って入ったわけではない。

 大胆不敵にも片膝を立てて足元に竹刀を置き、両腕を組みながら得物これを見下ろしていた寅之助がキリサメの接近に即応して再びツカを握り直し、「おうッ!」という裂帛の気合いに乗せて剣先を突き出したのである。

 腹の底より張り上げられた吼え声であった。軽佻浮薄を絵に描いたような青年には全く似つかわしくないものであり、キリサメだけでなく屋上庭園に居合わせた誰もが立ち竦んでしまった。四阿あずまやのカップルに至っては絹を裂くような悲鳴を上げている。

 右手一本で繰り出された突きもまた寸止めであったが、ほんの数ミリでも剣先とキリサメの距離が縮まっていれば確実に右目の光を奪っていた筈だ。寅之助が突進には不向きな姿勢であったことが幸いしただけとも言い換えられるだろう。

 次いで寅之助は手首を鋭く捻って斜めの軌道を描き、両手でツカを握り直すと地面に突く膝を入れ替えながら左右一度ずつ竹刀を振り上げ、キリサメを後方に引き下がらせた。


「――容易に汚すなかにっぽんとう


 最後の一太刀を振り上げると同時に身を引き起こした寅之助は、左の五指にて摘まみ上げたスラックスで刀身を拭う芝居フリを見せ、その直後には再び片膝で立つ体勢となった。

 やがて寅之助は対の逆手に持ち替えた竹刀を地面へ垂直に立てた。天然木のウッドパネルに剣先を突き立てるような恰好であった。

 三味線の模倣は徐々に緩やかな音色ものとなっていく。カマプアアの詩吟が末尾へ至る頃に寅之助は右手一本で竹刀を水平に構え、対の五指を剣先に添えながらを天に掲げた。

 個々それぞれを引き延ばすようにして発せられた「にっぽんとう」の三字をもって剣舞は締め括られ、女性シンガーも深い吐息と共に弦から指を離した。

 トークショーの盛況はザクロの木々を飛び越えてくる拍手喝采から想像するしかないのだが、カマプアアの詩吟が番組のファンを感動させたことは間違いあるまい。称賛の口笛さえ地響きにも匹敵するほど大きいのだった。

 彼らはビル群を挟んだ向こう側で漢詩の内容に沿った剣舞が実演されているとは夢にも思わないだろう。屋上庭園にいても大歓声が起こり、再び正眼の構えを取った寅之助はこれらに挟まれる恰好となった。


「――明治の〝げきけんこうぎょう〟ではさかきばらけんきちも自ら剣舞を踊ったと聞く。今のは『日本刀をえいず』という演目だろう。漢詩を詠ったのは水戸のこうもん様――とくがわみつくにだ。……それにしても見事だったな。流派の名前までは想い出せんが、高度に洗練された古流の型だよ。只者ではないと思っていたが、剣舞の心得もあると見た」

「あ~、惜しいねぇ。演目までは合ってたんだけど、型そのものはずーっと昔に見物した剣舞ものを適当に繋ぎ合わせた即興だよ。古流以前の問題だったね。ネットの百科事典を素直に信じ込んじゃうタイプかな?」

「うぬゥッ⁉」

「ついでに言うと榊原先生が〝げきけんこうぎょう〟で剣舞を披露されたという話もアタマから信じ込まないほうが良いみたいだよ? 鞘に納めた刀を蹴倒すような所作が図解された書物も読んだし、ボクは実際にあったって説を支持してるけどさ」


 商業ビルの工事現場から二人の斬り合いを追跡し、他の野次馬へ〝げきけんこうぎょう〟の概要を解説していた男性が剣舞に関するうんちくも披露し始めたが、寅之助本人から重大な不足を指摘され、如何にも気まずそうに口を噤んでしまった。

 くだんの男性に向けられていた眼差しが尊敬から一変して急速に冷めていく様子をキリサメは唖然呆然と口を開け広げた状態で眺めていた。

 キリサメの背筋には先程から幾筋もの冷たい汗が滑り落ちているのだが、無慈悲とたとえても良いほどあっさりと手のひらを返した野次馬たちに恐怖を覚えたわけではない。

 剣舞の最中に片膝を突いた状態から速射砲の如き鋭さで繰り出された突きがキリサメの瞳に接触することはなかったのだが、運が良くて光を奪われずに済んだのではない。僅か数ミリという互いの距離を正確に見極めた寅之助が剣先を止めたのである。

 本気で突き込まれていれば間違いなく右目を失っていた――その戦慄に竦んだまま視界に映るを片端から凝視して隻眼になっていないことを確かめているのだった。このときばかりは瞳に湛えていた妖気も霧散している。

 山刀マチェーテやナイフで斬り付けられたきずあとが全身のあちこちに残るほど凶器による攻撃に慣れているはずのキリサメが寅之助の竹刀におののいていた。四ツ割の竹片を組み合わせた刀身など接触しても青痣が増える程度と侮っていた物を拳銃ハンドガンのように恐れていた。

 もはや、生殺与奪を目の前の青年に握られたようなものではないか。


「――さっきは便宜上、舞踊の一つみたいな言い方をしたけど、昔は剣舞も武道の一つとして取り扱われていたそうなのよ。そこだけは間違えないで欲しいって取材をお願いした師範せんせいも繰り返し強調されてたわね」


 当然であるが、〝おネェ言葉〟に戻したカマプアアの補足説明もキリサメの耳には全く届いていない。


「……頼りたいときほど言うことを聞かないなんて気まぐれな猫みたいだな……」


 電知との路上戦ストリートファイトでは互いに組み合った状態で高所から墜落し、コンクリートで覆われた地面に叩き付けられる寸前で辛くも窮地を脱していた。確かに現在いまのほうがダメージは軽微だが、追い込まれた状況という点にいては二ヶ月前の長野と大して変わらないのだ。

 あるいは風に舞い上げられた未稲の傘を拾うべく交通量の多い車道へ飛び込んだ豪雪の日にも通じるというべきであろうか。

 いずれの状況下でもキリサメの真隣で死神スーパイが微笑んでいた。半ばまで開いた冥府の門より溢れ出す影に塗り潰されようかというとき、彼は人間であることを捨て去ったとしか表せない身のこなしで生命を刈り取る大鎌を掻い潜ってきたのだ。

 その姿を映画のフィルムにたとえるならば、死神の鎌から逃れる瞬間のコマが丸ごと抜け落ちてしまったかのようである。養父と背中を預け合いながら迎え撃った故郷ペルーの日系ギャング団には拳銃ハンドガンまで向けられたが、キリサメは自分を狙った銃弾さえも避け切っている。

 しかし、右目の光を奪われ兼ねなかった変則的な片手突きはどうであったか――直撃を被れば間違いなく致命傷であろうに、残像すら焼き付けないはやさで緊急回避を図ることもなかったのだ。

 その理由など余人には窺い知れるものではないが、殺意を叩き付けてくる相手の前で剣舞を披露するほどの力量ちからを見せつける寅之助が役者不足ということは有り得ないだろう。キリサメ自身、思い通りの筋運びとならないことに焦れているようで、これまでになく舌打ちの音が鋭かった。


「案の定、イラついてるねぇ。確実にこいつを仕留められる隠し玉なのに惜しいよねぇ。そもそも〝アレ〟はサミーだって扱いに困ってたじゃん。今更、キレたってどうしようもないと思うよ?」


 の声がキリサメの焦燥を更に煽り立てる。想い出の彼方へ渡った幻像まぼろしだけに現世の法則に縛られることもないのか、二人が対峙する場所とは少しばかり離れた四阿あずまやの屋根に腰掛けながら彼の耳まで声を届けられるようだ。距離を感じないほどに輪郭も鮮明で、真隣から囁かれたとしか思えない。

 幼馴染みの芸当に苛立ちを抑えられないキリサメは、自分の声が届かない四阿あずまやの方角を静かに睨み返した。


「また余所見なんてますますツレないなぁ。そんなにあのカップルが気になる? それともデートスポットに打ってつけとか考えちゃったり? 何なら帰りに未稲ちゃんを誘ってみたらどうかな。ぼちぼちオフ会も一段落の頃合だろうし、照ちゃんも交えてボクらでダブルデートしようよ」

「そういうわけじゃ……いや、それよりも今のは、一体、どういう意味だ? ……オフ会だと? みーちゃんは現在いまもお前たちの集まりに――」


 キリサメの詰問が最後まで紡がれることはなかった。正眼の構えを維持したまま無音の足さばきで間合いを詰め、中距離から飛び込むような形で振り落とされた竹刀が未稲の安否を問い質す声まで切り裂いたのである。


偶然たまたまではあったけど、〝向こう〟のイベントとのコラボなんて余興としては百点満点でしょ。異種格闘的な斬り合いはインパクト勝負みたいなところがあるし、それだけじゃお客さんだって飽きちゃうもん。メリハリって大事だよね」


 脳天目掛けて振り落とされた竹刀を高く翳した左下腕で受け止め、刀身を押し返しながら対の右手のみで『聖剣エクセルシス』を外から内へと横薙ぎに閃かせるキリサメに対し、急激に身を沈めることでノコギリ状の刃をかわした寅之助は、屈んだ状態から草を刈る鎌のように右足を繰り出して彼の軸足を撥ね飛ばそうとした。

 相手が横転を図っていると直感したキリサメは『聖剣エクセルシス』の重量によって生じた強い遠心力に身を委ねつつも長いツカから左右の五指を突き放し、同時に軸足の屈伸でもって垂直に跳ね飛んでいく。

 瞬間的な跳躍で足払いを避けたキリサメは寅之助が待つ側へと振り向きながら右拳を硬く握り締めた。次いで同じ側の手首を左の五指にて掴むと、これを大きく振りかぶり、背筋や肩のバネを限界まで引き絞ったところで一気に解き放った。鉄槌ハンマー同然と化した拳を勢いよく叩き落とそうというわけだ。


「あくまでも〝撃剣興行それ〟を引っ張るつもりか……ッ!」


 右拳ハンマーと共に寅之助の頭上へ降り注いだ声は、奈落の底から絞り出したかのように酷く擦れていた。

 蹴り足とは反対側の膝を地面に突き、これを〝軸〟に据えて急速に逆回転した寅之助はその場に屈んだまま右手一本で竹刀を振り上げたが、これは打突ではなかった。水牛革の小振りなまるつばでもってキリサメの拳を垂直落下してくる拳を凌いだのである


「サメちゃんにも〝撃剣興行そっち〟のほうが都合が良いでしょ? 友達想いだって感謝してくれなくっちゃ!」


 畳み掛けるような打撃を一度も命中させられなかった事実を嘲るつもりか――そこに秘められた真意の行方はともかくとして、寅之助は舌を出しながら愉快そうに笑っていた。

 キリサメの目に移る天地が逆様になったのは、上から打ち下ろす拳をまるつばでもって受け止められることが二度目であると気付いた直後であった。打撃によって生じた勢いを逆に利用され、後方へと投げ落とされてしまったのである。

 相手の懐に背を向ける形で腰を捻り込んだ寅之助は力の作用そのものには逆らわず、これが最も強烈に働く方向へ巧みに受け流した次第であった。

 この攻防に前後して両手からリング状のツカがしらがすり抜け、放り出された『聖剣エクセルシス』は屋上庭園の中央に設えられたカウンターテーブルの真上を横断していった。轟々と空気抵抗を貫いた果てに持ち主の立つ場所から対角線上に位置する花壇へと突き刺さったのだ。

 相当な腕力でなければ持ち上げることさえ叶わないほどの重量である為、地面を抉った際には盛大な砂埃を巻き上げており、カウンターテーブルの付近で携帯電話を構え、斬り合いの撮影に勤しんでいた野次馬たちは一斉にせ返った。

 現代剣道では決して許されない追撃の剣――倒れた相手に振り落とされる竹刀から逃れるべく後方へ身を転がしている間に鼓膜を打った異音で得物の落下地点を割り出したキリサメは、バラの花で彩られた鉄製のガーデンアーチを望む橋の袂まで戻るなり身を引き起こしたが、見据えた正面に寅之助の姿はなかった。


「鬼さんこちら、神経逆撫で間違いナシな声のするほうへ――ってね」

「自分で良く分かってるんじゃないか……ッ!」


 寅之助は鋭く尖った剣が峰を地面へ描くかのように身を移し、瞬時にしてキリサメの背後まで回り込んでいた。

 神経を逆撫でするのは声だけではなく立ち居振る舞いの全てと言うべきか――わざわざキリサメが向き直るのを待ってから打突を再開したのである。今度は接触の寸前に引き戻すようなことはなく、胴や下腕、あるいは頭部を確実に狙っていた。


(……だが、がお前の限界だ――)


 口元を微かに歪めたキリサメは『聖剣エクセルシス』の重量からされた左右の腕を鞭のようにしならせ、絶え間なく打ち込まれてくる竹刀を握り拳で叩き落としていった。あおあざの痛ましい下腕は先程よりも腫れ始めているが、ダメージの蓄積によって身のこなしが鈍ったようには思えない。

 身軽になった現在いまはキリサメの側も蹴りの速度が増している。森寅雄タイガー・モリの時代から瀬古谷の道場で磨かれたという足技と、これを絡めた時間差攻撃も反対に蹴り返しており、互いの脛が激突したときには寅之助のほうがたじろぎそうになった。


「自覚があるなら分かっているハズだな。自分がこれから命を落とす理由も……ッ!」

「未だにそんな物騒なコトを口走るくらいなんだから、サメちゃんのほうはまだ自覚できてないんだねぇ。お客さんの誰か一人でもキミのに気付いたらアウトだって、さっきも教えてあげたじゃん」


 防戦一方の状況から形勢を立て直しつつあるキリサメへの応援と、逆転を許してしまう可能性が見えてきた寅之助への悲鳴――夕焼けの空に入り混じる二つの声援こえは当人たちの耳へ届く前に拳と竹刀がぶつかり合う甲高い音に切り裂かれていた。

 直接、刀身を殴り付けて打突の軌道を捻じ曲げてくるキリサメの動作うごきを先読みした寅之助は、彼にも反応し切れないほど小さくはやい一撃で右腕に新たなあおあざを刻み、身のこなしそのものを制した。

 ほんの一瞬、肩から肘に至る可動うごきを封じるだけも十分であった。寅之助は竹刀を引き戻しながら更に深く踏み込み、急角度から抉るように右肘を突き上げていく。

 寅之助の肘鉄砲に正面切って応戦しようとするキリサメは危険を省みずに自らも踏み込んでいき、外から内へ水平に振り抜くような形で同種の技を繰り出した。


「お前の肘打ちはさっきも見たからな。それに電知の『あて』は肉体からだおぼえてる」

「クセまでお見通しってワケ? 同じ技でお返しだなんて、ゾクゾクしちゃうよ」


 互いの右肘が交差し、キリサメの鳩尾と寅之助の左側頭部をそれぞれ抉っていた。

 無論、それでキリサメが攻撃の手を緩めるはずもない。折り畳んでいた肘をすぐさま伸ばし、右の五指にて寅之助の髪を掴むと、鳩尾に突き刺さる痛みで呼吸が妨げられるのも構わず彼の身を己のほうに引き寄せようとする。

 これに合わせてキリサメは対の拳を寅之助の顔面へ突き込んでいく。例によって人差し指と中指をかぎづめの伸ばしており、打撃そのものが目的ではないことは明白だった。先程の片手突きに対する意趣返しというわけだ。

 応じる寅之助は密着状態の僅かな隙間へと右足を差し込み、おどけた調子で笑いながら力任せに蹴り剥がそうと試みた。キリサメの側も油断なく左膝を突き上げ、今まさに腹部へ押し当てられようとしていた足の裏を脛でもって受け止めた。

 結局は抗い切れず力ずくで間合いを離された為に光こそ奪い損ねたものの、肘鉄砲で脳を揺さ振り、時間差をつけて打突を追い掛ける蹴り技すら弾いて両足をも軋ませたのだから効果は十分といえよう。

 後方へ撥ね飛ばされた際に引き抜いた髪の毛が右の手のひらから滑り落ちていったが、頭皮の損傷ダメージなど勘定には含めていない。


いやァ~! むしっちゃだめぇ~! 刈り上げまではセーフでもハゲはアウト~っ!」

「いちいち真剣勝負ガチンコに見てくれを持ち込むなつーの! むしられまくってスダレ頭になっても戦い抜くのが真の戦士だ!」

「ヤるにしてもヤられるにしても優男イケメンのほうが絵になるのよっ!」


 一部の野次馬が発した黄色い声などは当然ながら聞き流している。


さかきばらけんきち先生がどれほど偉大な剣豪でも武芸が廃れつつある明治初期に一人で〝げきけんこうぎょう〟を催せるわけじゃない。資金や開催場所の確保に協力者が欠かせないのは『天叢雲アメノムラクモ』と一緒ってワケさ――そこのおじさんには判るかな? 剣術や剣道だけじゃなくて先生の生活くらしや見世物の計画に深く関わった人たちね」


 偉大なる先達に一礼して寅之助が切り出したのは、またしても明治時代の〝げきけんこうぎょう〟に関する話題であった。先ほど恥を掻かせてしまった男性に汚名返上の機会を与えた恰好である。


「……せんじゅぐらどうと、しんもんたつろう親分のこと――だろうか? 個人名を挙げるとすれば名倉堂ではなく四代目当主のぐらいちというべきかも知れんが……」

「正解~。開催に貢献した重要人物キーパーソンたちなのにネットの百科事典にはどちらの名前も書かれていないんだよね。勉強熱心で驚いちゃったよ。やるじゃん!」

「……恐縮だ」


 剣舞にまつわるうんちくを失敗したばかりということもあって躊躇いがちな口調であるが、今度は寅之助を感心させ得る回答こたえであったらしく、男性には再び称賛の声が寄せられた。

「昔話を楽しみたいなら二人で勝手にやれ。いい加減、僕を巻き込むのをやめろ」

「サメちゃんにこそ聞いて欲しいんだってば。無自覚なキミにね」


 この頃にはアコースティックギターによる伴奏も三味線の模倣から別の楽曲に替わっていた。カマプアアの詩吟を受け、今度は日本から異国の剣舞へ繋げようというのだろう。女性シンガーが掻き鳴らすのは先程もキリサメが思い浮かべたばかりであるハチャトゥリアンの『剣の舞』であった。

 絶妙な選曲を讃える声が周囲から上がったのも当然であろう。噛み合っているようで噛み合っていない会話を挟みつつ、拳と剣の〝鬼ごっこ〟を激化させていく二人には何よりも似つかわしいのである。


「さっきの話に出た『せんじゅぐらどう』っていうのは有名な整骨院だよ。創業何年かは分からないけど、江戸時代から現代まで続いている名門さ。榊原先生と〝げきけんこうぎょう〟に深く関わったぐらいちの御先代が柔術から骨接ぎの秘伝を学んだのが始まりなんだって」

「……柔術? 電知の柔道みたいなものか? ブラジルで盛んだっていう『ジウジツ』とは違うだろうけど、……それがどうして整骨院になる? 武道と医者じゃ正反対だろう」


 寅之助が述べた「柔術」の二字からキリサメが真っ先に連想したのは故郷ペルーの隣国――ブラジルで普及している『ブラジリアン柔術』のほうであった。同地の人々は日本語の発音から『ジウジツ』とも呼んでいると、風の噂で聞いたこともある。

 『天叢雲アメノムラクモ』と契約を取り交わした日にぐち社長から教えられた『ヨーロピアン柔術』も一瞬だけ脳裏を過ったが、故郷ペルーの隣国も欧州も『せんじゅぐらどう』とは無関係であろう。


ぐらの骨接ぎは源流を『ようしんりゅう』っていってね。組技やあての他に負傷者に施す治療法も伝えられていたんだよ。尤も、は『ようしんりゅう』の専売特許じゃなくて古い武術には大なり小なり似たようなモノがあるんだけどね」

「人体の仕組みに詳しくなるのだから、破壊の逆回りも然りってワケか」

「やだなぁ、自己解決されちゃったらコミュニケーションにならないじゃん。相変わらず焦らしのテクニックが上手なんだから」

「これくらい僕にだって想像がつく。……お前がコンピューターで調べた〝世界〟は人間ヒトをどうやって壊すのか、そんな工夫をいつも考えていなけりゃ生きていけないんだ」


 〝やわら〟――即ち、柔道を連想させる事柄は電知とも結び付く為、攻防の最中でありながら無意識に耳を傾けてしまう。そして、があるからこそ目の前の〝敵〟をいまだに友人などと錯覚するのだ。


「ああ! 『ようしんりゅう』は柔道の御先祖様だし、これを極めた『ぐらどう』も広い意味では電ちゃんの大先輩になるのかも。その間には柔道を挟んで前田光世コンデ・コマも入ってるワケだし」


 前田光世コンデ・コマ――ブラジリアン柔術の祖にして、電知が永遠の目標として掲げる伝説の柔道家に寅之助が触れたのは、奇しくもキリサメが組技を仕掛ける間際のことであった。

 寅之助が右手一本で竹刀を振り落とした直後とも言い換えられるだろう。彼の右側面へ回り込むことで脳天を狙う縦一文字をかわしたキリサメは、得物を持つ側の手首を両の五指にて掴むと、これを捻り上げようと試みた。

 腕の関節を極めることで上体を傾けさせ、顔面を蹴り上げたのちに右足を素早く払って前方に投げ倒す――完成さえすれば相手を引っ繰り返す勢いまで利用して肩を破壊できるのだが、幼い頃から電知と過ごしてきた寅之助は組み付かれた場合の外し方にも心得があるらしく、生半可な技など通用しなかった。

 右腕を捻ろうとする動作うごきへ強引に抗えば関節の破断や靭帯の損傷に繋がることを知っている寅之助は敢えてに逆らわず、上体が傾く寸前で彼の左膝裏を蹴り付けた。足の甲でもって膝関節を強引に次第である。

 意識の外からやってきた不意打ちであり、瞬間的に膝から力が抜けて体重を支え切れなくなったキリサメは足を滑らせ、後方へ投げ出されるように崩れ落ちていく。その驚愕で拘束が緩むのを寅之助は見逃さず、手首を掴まれていた左右の五指を一気に振り解いた。

 寝技にも長けた電知であれば寅之助の返し技に即応し、一度は捉えた右腕を決して逃さなかっただろう。横転させられる勢いを利用して自分の側へと相手を引き込み、肩や首を両足で挟んで別の技へと変化していたはずである。


(……『タイガー・モリ式の剣道』には関節技まであるのか? それとも電知から手ほどきを受けたか――この期に及んでMMA選手としての弱点を突き付けてくれる……ッ!)


 寅之助の返し技にまで電知の面影を感じ取ってしまうキリサメは寝技が得意ではない。そもそも路上に寝転んで標的を制圧する必要性を感じていなかった。どこで誰が狙っているのかも分からない状況では相手が失神するまで悠長に待ってはいられないのである。

 絞め落とすくらいなら首の骨を折ったほうが手っ取り早い――というよりも一瞬で仕留めきれないと別の敵からナイフで刺し殺されてしまう。それ故に数少ない関節技も立った状態から仕掛けるものばかりなのだ。


(第一、『聖剣エクセルシス』さえあれば転ばした相手も速攻で叩き潰せるからな。人間、踏み付けただけじゃなかなか仕留め切れないし……)


 寅之助の背中越しではあるものの、視界の中には『聖剣エクセルシス』を捉えている。咄嗟の判断で放り出してしまったが、〝実戦〟の場にいては血の臭いが染み付いたツカを握り締めていないと落ち着かなかった。


ぐらいちたすけを受けて榊原先生は侍の〝剣〟を現代まで繋げ、その家業は『コンデ・コマ式の柔道』と同じ系譜に連なっている。『ぐらどう』ってさ、ボクと電ちゃんまで結び付けていると思わないかい? これも一つのマンだよね。興奮しちゃうなぁ~」

「……こじ付けまで妄想のネタにされたら電知も堪ったもんじゃないだろうな」

「つまるところ、ぐらいちは榊原先生のパトロンなんだよ。古いことわざでは『武士は食わねど高楊枝』というけれど、本当に霞をんで生きてはいけないからね。興行の資金だけでなく生計のほうも援助していたみたいだよ。『ぐらどう』は当時から骨接ぎの代名詞になるくらい繁盛していたから、これ以上ないっていうくらいの後ろ盾だね」


 無様に転がされたキリサメの頭上へ追い撃ちのように突き刺さるのは、ぐらいちなる人物の解説であった。


ぐらいちの名前は〝げきけんこうぎょう〟の史料に出場者としても載っているし、御先代と同じように骨接ぎだけでなく本来の柔術も極めたんじゃないかな。武芸の〝道〟を歩む者として榊原先生の志に共鳴したのだと、ボクは信じているよ」


 たずねてもいないことを得意気に並べ続ける寅之助を黙らせようとキリサメは右腕一本で己の身を持ち上げ、続けざまに両足を高く突き上げた。解説を追い掛ける恰好で振り落とされた竹刀を片足で弾き飛ばし、対の足で顎を砕こうというわけだ。

 姿勢に無理もあった為、下方から抉る前に蹴り足はかわされてしまったものの、寅之助を後方に飛び退かせることはできた。転がされた状態で頭部を踏み潰されるような窮地は脱したのである。


「……『天叢雲アメノムラクモ』でいうところの『ハルトマン・プロダクツ』とでも?」

「パトロンとスポンサーは厳密には違うんだけど、当たらずとも遠からずって感じかな。ぐらいちは当時の文化人たちとも頻繁に交流していたそうだから困っている人に手を差し伸べずにはいられない親分肌だったのかも知れないねぇ」


 天然木のウッドパネルを両足で踏み、体勢を整え直したキリサメが自身の所属するMMA団体の大口スポンサーに言及した途端、寅之助は「さすがにそこまではアタマから抜け落ちていないらしいね」と愉しそうに首を頷かせた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、『ハルトマン・プロダクツ』とはドイツ・ハーメルンに本拠地を置く世界最大のスポーツメーカーである。指貫オープン・フィンガーグローブやリング用の機材一式など『天叢雲アメノムラクモ』の試合で使用される物品の殆どがくだんの企業から提供されているのだ。近年は欧州に点在する難民キャンプも支援しているという。


「今も昔もスポンサーはアスリートの死活問題だよね。名前を言っても多分、サメちゃんは知らないと思うけど、るプロスケーターは地元の人たちが募金レベルで活動資金を工面していたそうだよ。どれだけ目標が高くても先立つものがなけりゃ、ただの妄想に過ぎないもんね。そういう意味でも榊原先生には天運があったんだよ」

「さっきから妄想を垂れ流してばかりのお前が何を言っているんだ……」


 暴力しか頼るものがない社会の〝闇〟を生き延びたキリサメであるが、これまで格闘技の試合とは縁がなく、『天叢雲アメノムラクモ』の興行さえも一度しか観戦したことがない。それでも出場選手の試合着にスポンサー企業のロゴマークが付いていたことはとても印象的であり、鮮明におぼえているのだった。


「ん~、現実感ゼロって反応リアクションだねぇ。サメちゃんの場合は『八雲道場』っていう日本MMA界で一、二を争う後ろ盾があるからピンと来ないのかもだけど、目立つような実績を残せないプロ選手が引退間際になっても時給幾らのアルバイトで食い繋いでるケースなんてゴロゴロ転がってるよ。一〇を稼ぐ為に練習時間を削らなきゃならないんだから何の為にアスリートをやってるのか、分からなくなっちゃうよね」

「いちいち故郷ペルーと結び付けて話をするな。……煩わしいったらありゃしないんだよ」

「MMAが一世を風靡した前身団体バイオスピリッツの頃ならいざ知らず、現在いまは大企業でさえ財布の紐を締める時代だ。榊原先生のような天運に恵まれない限りはスポンサーを探すことにも七転八倒って具合さ。自動車レースに目を向ければ、日本人で三人目にグランプリの表彰台に登壇のぼった超一流ドライバーでさえスポンサーが付かずにもがき苦しんでいたっけ。そういう意味じゃ成績も評価されない世知辛い時代だよ」

「……お前だって他人事みたいに言うじゃないか。そうだろう、?」

「継いだ道場を自分の代で潰すかも知れないって重圧プレッシャーは照ちゃんくらいしかってくれないよ。誰もが榊原先生になれるワケじゃないからねぇ」


 アスリートに限定される問題ことではないが、スポンサーあるいはパトロンから活動費用などの援助を受けられるようになって初めて自身の専門分野だけに集中できるわけだ。MMA選手で例えるならば、日々の練習トレーニングや試合がこれに該当する。

 寅之助も少しばかり触れたが、日本を代表するレーシングドライバーがスポンサー問題でチーム残留も危ぶまれていた頃、「ドライバーはクルマのことだけを考えるべきで、それが仕事だ」と述べたことは、競技の世界の〝現実〟を生々しくも端的に表している。

 兼業などしなくとも己の〝道〟に全身全霊を傾けられる環境の確保は、時代と分野を超えて共通する永遠の課題といえるだろう。


「――この間の打ち合わせで初めて教えて頂いたのですけど、第三期からダンスの精度を一層高める為にモーションキャプチャーの機材を一新するそうなんですよ。今度の物はかなり高価おたかいみたいで、ほんの小さな身じろぎレベルまで精密に収録できるとか。そのお話を伺って『このアニメ、大層儲かったんだな』って実感しましたね」

「幾らなんでも生々しいわッ! 湊さんってば人畜無害な顔して怖いな~。ギリッギリの爆弾を放り込んでくるな~。お陰様でDVDやCDの売れ行きも好調で、あたしたちも美味しいご飯を食べていられます!」

「こういう感じで第二期から第三期の間に『イシュタロア』もたくさん変わったけど、何といっても一番は主演声優が格闘家デビューしたってコトでしょ。『演じる役柄だけじゃなくて本人まで闘うんかい!』ってツッコミ入れた人も多いと思うよ」

「プロフィールの特技欄に格闘技と書いてあったし、熊本のご実家がそういうスポーツジムをやっていることも聞いていましたけど、プロデビューまでは想定外でした。事務所が許可したこと自体、不思議だったんですよ」

「すいっちょんも湊さんもここでそれを拾っちゃう? ていうか、『天叢雲アメノムラクモ』の話題は出しても平気なの? マネージャーが別件で外してるから事務所的な判断ジャッジが分かんないや。あたしの独断でオッケーにしちゃおう! 社長ー、問題あったら、ごめんなさい!」


 『かいしんイシュタロア』のトークショーでは主演声優である希更・バロッサのMMAデビューが話題となっていた。

 二〇一四年現在の日本にいて、彼女は国際的な音楽家でもあるほんあいぜんに並ぶほど世間に名が通った〝兼業格闘家〟というわけだ。

 希更はキリサメが観戦した長野大会で初めて『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立ったのだが、その際に着用した桃色のラッシュガードにも『バロッサ・フリーダム』という所属ジムの名称以外にスポンサーのロゴマークが添えられていた。

 キリサメには知るよしもなかったが、それら全てが希更の地元――熊本県の企業である。彼女と契約している東京の声優事務所の名称なまえは唯一の例外であった。


「実家の道場って古代ビルマ拳法とも呼ばれる『ムエ・カッチューア』なのよね。日本にジムがあることにも驚いたけど、それが熊本っていうのが奥ゆかしくて良いじゃないの」

現在いまはうちの母が――ジャーメイン・バロッサが中心になって切り盛りしてますよ。ムエタイは有名だからまだ分かりますけど、日本ではかなりマイナーなムエ・カッチューアに食い付くなんて、カマプアアさんもなかなか通ですね~」

「こう見えてアタシも若い頃に格闘技をカジッたことがあるの。リゾート地のイメージが強いと思うんだけど、ハワイって昔から格闘技が盛んなのよ。『カジュケンボ』って聞いたことがないかしら?」

「確か、『空手・柔術・拳法・ボクシング』の頭文字を取って『カジュケンボ』――でしたっけ。東洋武術をベースにした新しい格闘技だと隠居した祖母から教わりましたよ」

「さっすが詳しいわねぇ~。ハワイへ出掛けるときには声を掛けて頂戴。知り合いの道場を紹介してあげるわ。きっとMMAの参考にもなると思うわよ」

「ていうか、空手やボクシングをごちゃ混ぜにするくらいだからデタラメ格闘技なんじゃないの? 今の話を聞いた限りじゃロコモコ丼みたいにぐちゃぐちゃぐちゃ~ってなってるイメージしかないよ」

「これがハイレベルに纏まってるんだよ、すいっちょん。向こうの複合武術は現代いまでいう総合格闘技の先駆けみたいなものだしね。カジュケンボかぁ……旅行のときには本当に案内をお願いしようかなぁ」


 共演者すいっちょんは『カジュケンボ』の輪郭をついに掴めなかったようだが、屋上庭園の野次馬に混ざっている格闘技ファンにとって希更とカマプアアの会話は何よりも好奇心を刺激されるものであった。

 キリサメが『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーであることを見抜いた何人かの野次馬は目の前で繰り広げられる〝げきけんこうぎょう〟と『かいしんイシュタロア』のトークショーの両方が気になって仕方がないらしく、スジを痛めてしまうのではないかと心配になるくらい首を忙しなく振り続けていた。

 随分と贅沢な悩みに悶える人々の前を通り過ぎるようにして、キリサメと寅之助はこれまでの中で最も激しい〝鬼ごっこ〟を展開している。


「――どこまで話したっけ? サメちゃんのお友達の長話が割り込んでくるから忘れそうになるよ。ハワイの武術には少し惹かれるけどね」

「だったら口を塞げ。そのまま忘れていろよ。お前の長話ほど無駄なものはない」


 〝鬼ごっこ〟であるからには環状の通路を二人して移動し続けることになる。目と鼻の先まで『聖剣エクセルシス』へ近付いたときには寅之助を追い越してでも長大なツカへ取りすがり、ノコギリ状の刃でもって耳障りな長話もろとも喉笛を掻き切るつもりであった。


「ああ、そうそうっ! しんもんたつろう親分のことをまだ話していなかったね。この人なくして〝げきけんこうぎょう〟は有り得なかったといっても過言じゃないんだよ」

「……『まだ話していなかった』じゃない。もう喋るなと言っているんだ」


 しんもんたつろう――それは〝げきけんこうぎょう〟の重要人物を問われた男性が『せんじゅぐらどう』と共に挙げたもう一つの名前である。


「幕末維新の頃に浅草の〝顔役〟としてはっぴゃくちょうに知れ渡った人物だよ。ちなみにサメちゃん、〝顔役〟の意味はるかな? ペルーにも同じような言葉があるかなァ」

「〝顔役〟だから〝親分〟と呼ばれるんだろう?」

「呑み込みが早くて嬉しいな。現代いまでいうところの消防士を生業にしていた人でね。当時はけしって呼ばれたんだけど、他にも色々な事業を手掛けたんだ。娘さんが江戸幕府最後の将軍――とくがわよしのぶに見初められたことが歴史上で一番有名かも知れないね」

「将軍の義父……なのか? まるで影の最高実力者ってところだな」

「危ない連中にも顔が利いたそうだし、その例えもあながち間違っちゃいないかもね」


 今度も前者キリサメが追い掛ける側だが、寅之助の背中を見据えているわけではない。四肢をくまなく使って打撃を繰り返していた。

 追われる側の寅之助は相変わらず目玉が後頭部に付いているのではないかと錯覚するように正面を向いたまま後方へ下がっていく。無論、一瞬たりとも足を止めず、環状の通路から花壇へ飛び出してしまうこともない。

 寅之助の竹刀は頭部を狙って縦や斜めの軌道を描き、追い付かれそうになると一等大きく跳ね飛びながら横薙ぎでもって胴を脅かしていた。


「榊原先生の〝げきけんこうぎょう〟が初めて開催されたのは明治維新後の浅草――つまり、辰五郎親分の縄張りってワケ。ボクが読んだ史料に親分は興行主として名前を連ねているよ」

「スポンサーの次は興行主か。……いちいち懇切丁寧な説明で頭に来る」

「辰五郎親分は香具師やしの元締めだったし、維新後もずっと〝顔役〟の影響力を保ち続けたからね。親分の後ろ盾なくして浅草で興行を打つことは不可能なんだよ」

「……〝ヤシ〟っていうのは良く分からないな」

「お祭りの出店をシキる人っていうか……説明が面倒臭いから、コレが終わったら自分で調べて。ネット検索で一発だよ」

「誰がするものかよ……ッ!」


 浅草の〝顔役〟であるしんもんたつろうがどのような形で〝げきけんこうぎょう〟に関わったのかを解説する寅之助の声には時間差を付けて打突を追い掛ける足技も添えられていたが、こちらはキリサメの蹴りで弾き飛ばされる回数が増えつつあった。

 竹刀による打突はあおあざや腫れが悪化するのも構わずに左右の下腕で防ぎ、剣先の軌道を見極めたときには拳でもって叩き落としていく――それぞれが持ち得る最速の技を乱打する攻防であった。

 振り回すたびに両腕が軋むほど重い『聖剣エクセルシス』を握っていないのだから、身軽になったのは当然であろう。竹刀や木刀を用いる相手と徒手空拳で相対する不利を例えて『けんどうさんばいだん』ともいうが、キリサメの場合は長大な得物マクアフティルを持たないほうが小回りも利いて戦い易いように思えるのだ。

 『剣道三倍段』とは、読んで字の如く得物を握った敵は三倍の力量差がなければ苦戦を免れないといった意味合いである。

 直撃させれば確実に致命傷を与えられる『聖剣エクセルシス』のほうがのだが、得物が突き刺さった場所への道を遮られている以上は寅之助の命を徐々に削り取っていくような攻守を組み立てるしかあるまい。


(……なぶり殺しが望みなら、期待に応えてやる……ッ!)


 野次馬からデビュー戦への影響を危ぶむ声も掛けられたが、そのように些末なことなど気にしてはいられなかった。

 如何なる状況にいても使いこなせるほど修練を重ねたであろう『タイガー・モリ式の剣道』の身のこなしや速度にようやく順応してきたところである。何よりも寅之助という〝平成の剣士〟の限界を見極めることができたのだ。

 斬り合いの最中さなかでありながら詩吟に合わせて剣舞を一つ踊り切るなど、純粋な力量では寅之助のほうが上回っているかも知れない。だが、その差は〝実戦〟の経験で十分に埋められるとキリサメは判断したのである。

 キリサメは心の中で寅之助を甘いと嘲っていた。変則的な片手突きを放った際、余裕を見せつけようと命中の寸前で剣先を引き戻していたが、このような行為で自尊心を満たすことは貧民街では愚策も良いところであった。

 相手の光を奪えるときには奪う。壊せるときに壊してしまう――それこそが暴力に支配された〝闇〟の世界の掟なのだ。貧民街の基準に照らし合わせるならば寅之助の甘さは命取りにも等しく、キリサメはそこに形勢逆転の糸口を掴んだ次第である。

 ましてや畳み掛ける好機を逃すことなど生と死が鼻先ですれ違う貧民街を生きてきた人間には絶対に有り得ない感覚であった


(――ああ、成る程……寅之助こいつには何も反応しなかったんだろうな……)


 空閑電知と瀬古谷寅之助――その身に古い時代の技を宿した両者を決定的に分けるのは何か、これを見極めたキリサメは力量差を叩き壊すべく右拳を繰り出していった。


「ここでサメちゃんにクイズを一つ。『最後の剣豪』と名高い榊原鍵吉先生だけど、戊辰戦争も終わって日本刀も新しい法律――〝はいとうれい〟のもとに取り締まられるようになった明治時代で人を斬ってしまった場合、『ぐらどう』や浅草の〝顔役〟との関係はどうなったでしょうか? 早押し問題だよ、急いで! 口では文句垂れながらボクの話をキチンと聞いてくれるサメちゃんなら答えられるハズだよ」

「僕一人しかいないのに早押しも何もあるのか。……普通に考えれば見限られるんじゃないのか。『グラドウ』とやらはサカキバラケンキチのスポンサーだろう? 広告目的で資金カネを出している以上、自分のところのイメージが悪くなるようなことだけは避けるに決まっている」

「まだまだ正解とは言い難いよ? 誰が誰を見限るって?」

「自分の出題を忘れたのか。有名な骨接ぎと将軍の舅だか何だかがサカキバラケンキチを――」

「――不正解ブッブー~ッ! 世の中、そんなに甘くありませ~ん!」


 キリサメが紡ごうとしていた回答こたえを遮り、飛び付くような勢いで間合いを詰めた寅之助は、そのまま眉間からぶつかろうと試みる。これを認めたキリサメは自らも半歩ばかり深く踏み込み、間もなく互いに頭突きを見舞い合う鈍い音が辺りに轟いた。

 剣道の試合であれば寅之助は頭部から顔面を覆う防具を装着しているはずだが、現在いまは生身である。楽しそうな声だけははつらつと張っているものの、実戦で頭突きを仕掛けるほど人間が相手ではさすがに競り負けてしまうのだった。

 それにも関わらず、傍目にはキリサメの頭部が寅之助から壊されているように見えるらしく、「いくら〝げきけんこうぎょう〟とはいえ、やり過ぎなんじゃないか」と懸念する声まで上がり始めていた。


「榊原先生は一人で〝げきけんこうぎょう〟を始めたワケじゃない。ぐらどう四代目のいちが出場者としても名を連ねていたって話したけど、先生のもとに大勢の同志が集結したんだ」


 目の前で火花が飛び散るような状態にも関わらずキリサメの追撃を察知し、あまつさえ完璧に反応できたことにも寅之助が踏んできた場数が表れているといえよう。右膝の関節を踏み潰すべく相手キリサメが左足を持ち上げるや否や、蹴り足の側面へ回り込んで射程範囲から逃れたのである。


「集まった人間の殆どが明治維新で侍の武芸を否定され、〝はいとうれい〟で〝魂〟まで取り上げられて食い詰めたぞく――もと武士たちさ。……〝げきけんこうぎょう〟は当時から誹謗中傷に晒されていたけど、もしも、そのことに腹を立てた榊原先生が真剣かたなを抜いていたら全てがブチ壊しになっていたハズだよ」


 寅之助の声を左耳で聞く頃にはキリサメは反撃に転じている。腰を捻りつつ左腕を外側へ振り抜き、鼻の骨を手の甲でもって打ち砕こうとしていた。『聖剣エクセルシス』さえ手元にあればほんの一振りだけでも薙ぎ倒せるはずだが、現在いまだけは殺傷力の不足を堪えるしかない。

 速射砲とも居合い抜きともたとえるべきはやさの裏拳バックブローであったが、寅之助は左手一本に竹刀を持ち替えると対の五指にて打撃の根元――無防備状態の手首を掴み返し、先程の報復しかえしとばかりに腕を捻り上げようとした。

 当然、キリサメは力ずくで振り払おうとするが、寅之助はその勢いを反対に利用して彼の左腕を大きく振り回し、彼の上体が傾くなり懐まで踏み込んでいく。一秒と置かず右肩へ乗せるような恰好でキリサメの身を担ぎ、そのまま片手一本で投げ落としてしまった。


しんもんたつろうぐらいちも面倒見の良い親分肌に違いはないけど、激動の時代を生き延びるだけあって甘くはない。誰か一人でも軽率な行動を取ったら〝げきけんこうぎょう〟から手を引いて参加者全員が路頭に迷ったハズだよ。宗旨替えした士族が〝なまびょうほう〟の商売で失敗して貧困喘いでいた時代だから次の働き口を見つけるのも難しかったと思うよ」


 受け身を取って勢いを緩衝することさえ叶わないまま投げ落とされてしまったキリサメであるが、低い呻き声を洩らしながら地面へ四肢を放り出すようなことはない。天然木のウッドパネルに背中を付けた直後には蟹のハサミの如く両足を繰り出し、寅之助の胴を捉えようとした。

 岳と電知がそれぞれの闘いの中で披露した同種の技を模倣した次第であるが、所詮は練習を経て体得したわけでもない付け焼刃であり、寅之助が僅かでも飛び退いてしまうとハサミのような両足が虚しくくうを切るばかりであった。


(……負け惜しみにしかならないけど、『聖剣エクセルシス』だったら届いた距離だよな……ッ!)


 先程と比べれば距離を縮めつつあるものの、望みの『聖剣エクセルシス』は未だ手を伸ばしても届かない場所にる。キリサメには焦れたような舌打ちを叩き付けながら寅之助の背中を見送るしかなかったのである。


「榊原先生のもとに集った誰か一人でも不始末をやらかしていたら〝げきけんこうぎょう〟は最悪の形で取り止めになっていた。当然、森寅雄タイガー・モリに〝道〟が繋がるはずもないし、ボクも――いや、教え子たちだって竹刀は握っていなかったはずさ。〝剣〟の可能性が全て閉ざされたといっても過言ではないね」


 黙殺へ努めるほど気に障ってしまう寅之助の解説ことばは攻防の最中にキリサメの鼓膜へ滑り込んだものである。それだけに野次馬までは届いていないのだが、仮に聞き取ることができたとしても〝げきけんこうぎょう〟にまつわる解説はなしが続いているとしか思わなかったはずだ。


「今、ちょっと〝剣〟を〝拳〟に置き換えてみたんだけど、そっくりそのままサメちゃんの養父おとうさんに当てはまるよね。さすがは『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長ってトコかな」

「……薄汚い口であの人の名前を呼ぶな」

「一度はすたれた日本MMAに未来の可能性を切り開いたサメちゃんの養父おとうさんは――八雲岳はまさしく現代のさかきばらけんきちだよ」


 偉大なる先達へ礼を尽くそうとこうべを垂れた直後、一度は離した間合いを再び詰めるべく突進に変化した寅之助は竹刀を大上段に振りかぶり、八雲岳とさかきばらけんきちを同列同格の存在と褒め称える言葉が刀身これを追い掛けた。

 『現代剣道』のように脳天へ有効打を命中させて勝敗を分けるものではない。頭蓋骨の陥没を図っているとしか思えない猛烈な縦一文字である。

 風を裂いて迫り来る一撃を片手で受け止めれば命中した部位の骨が砕けるだけでなく、梃子の原理が働いて肘まで一緒にし折られるかも知れない――そのように判断したキリサメは威力と衝撃を分散させるべく十字に交差させた両の下腕でもって竹刀を防いだ。

 これまでの打突が小手調べであったかのように重く、両腕の内部を軋ませる縦一文字であったが、肘や肩にまで及ぶ痛みよりもそこに添えられた囁きのほうがキリサメを遥かに揺さぶっている。

 八雲岳は現代のさかきばらけんきち――狭い路地にて斬り結んでいたときにも寅之助は同じことを述べていた。そして、それはキリサメ自身が『最後の剣客』にまつわる話を受けて思い浮かべたことでもある。

 その言葉は二人を取り巻く野次馬たちの耳にも届いていたが、現代総合格闘技の先駆者が『最後の剣客』にも比肩する達人という称賛ほめことばにしか聞こえなかったことだろう。

 だが、キリサメは繰り返された言葉に全く異なる意味を感じ取っていた。あるいは寅之助が執拗に〝げきけんこうぎょう〟の解説を並べてきた本当の理由ねらいとも言い換えられるだろう。


「……八雲岳がさかきばらけんきちと同じなら、キミはどうかな? キリサメ・アマカザリは〝げきけんこうぎょう〟にとってに置き換えられると思う?」


 交差した両腕に刀身を押し付けるかのような恰好で上体を傾けた寅之助は、重心を突き崩す為の足技を繰り出しながら余人には聞こえないくらい小さな声でキリサメに囁く。


「黙れッ!」


 その刹那にキリサメの放った下段蹴りローキックが寅之助の右足ごと次に紡ごうとしていた言葉を弾き飛ばし、時間差を付けて襲い掛かるなど厄介極まりなかった足技自体を封じ込めた。

 互いの脛をぶつけ合った際に生じた衝撃は膝関節まで貫いたようだ。


「――バロッサさんのデビュー戦は衛星放送の格闘技チャンネルでも取り上げてくれたからありがたかったわ~。会場で観戦した古馴染みから面白い試合だったって自慢されたもんだからマジで悔しかったのよぉ」

「ご覧になったんですか⁉ やだなぁ、ヘンテコじゃなかったですか? 試合の動画を見た母とは電話で三時間くらい反省会やったんですよ」

「お母様ってば厳しいのねェ~。ムエ・カッチューアでは何ていうのかしら……瞬く間に何発も飛び膝蹴りをブチかます技――あのフィニッシュを見たら、アタシなんか久々に血が騒いじゃったくらいよぉ。つむぎちゃん風に言えば『神槍ダイダロス』ってカンジ?」

「恐縮です~。母には首相撲から膝蹴りへ行くときにもっと脇締めろって注意されちゃいましたけどねぇ」

「それで想い出したわ! 結局、スペシャルライブはやらなかったのかしら? 番組の中でも触れてたけど、セレモニーのどこかで唄うんじゃないかってネットでウワサになってたわよね? 古馴染みも何もなかったって言うけど、気になって気になって」

「え~、なんですか、それ~? 最初から予定もなかったんですけど、どこからそんな根も葉もないウワサが流れたのかな~?」


 カマプアアと希更の会話トークを横顔で受け止めつつ、寅之助は正面のキリサメに心の底から愉しそうな笑顔を向けている。

 大量の脳内麻薬でも分泌されているのか、痛覚が正常まともに機能していないように振る舞ってはいるが、その右足はスラックスの上からでも明確に分かるほど震えており、肉体からだへの影響も速やかに表れた。

 反撃の下段蹴りローキックを受けていない左足にも着実にダメージが蓄積しているので、暫くは満足に動かせないだろう。眉間にははつらつの二字を端的に表す大粒の水滴が滲んでいるが、そこには脂汗も溶け込んでいるはずだ。

 瀬古谷の道場で編み出された研がれた足技はあくまでも相手の体勢を崩し、剣道の技を叩き込む為のものである。その用途は『ぐらどう』の源流ルーツである柔術にも組み込まれた『あて』に近い。

 同じ『あて』でも電知の場合は投げ技や組技に連携させることなくのみで闘えるよう磨きを掛けているのだが、直接的な打撃を目的としているわけではない寅之助の足技は標的を殺傷する手段であるキリサメの蹴りと比べた場合、破壊力という一点にいて埋め難い差が開いてしまうのだった。

 憤怒いかりの吼え声と共に叩き込まれた下段蹴りローキックは身のこなしそのものを著しく鈍らせ、軸足を入れ替えながら襲い掛かる右の後ろ回し蹴りソバットは顔面への攻撃を警戒して竹刀を垂直に構え、防御を固めていた左手ごと寅之助の身を大きく吹き飛ばした。

 足の裏は水牛革のまるつばではなく左手首を打ち据えている。これでは蹴りの威力を受け流すことも叶わず、内部を軋ませるダメージは竹刀を握る要の五指にまで影響を及ぼしてしまうだろう。

 防戦を強いられる時間の長かったキリサメにとっては千載一遇の好機であろうが、どういうわけか、当人の足までそこで止まってしまった。結局、寅之助の姿勢を崩した後の追い撃ちもプロレス式の後ろ回し蹴りのみであったのだ。

 寅之助を仕留める為には欠かせないだろう『聖剣エクセルシス』でさえ一足飛びで辿り着けるほどの距離にあった。


「ここで一気に畳み掛けなきゃダメよ! もう出方を窺うタイミングじゃないでしょ⁉」

「まさか、自分の脛まで折れたってか⁉ おいおいおい、ここで怪我したらデビュー戦に間に合わないんじゃないか!」

「ヤワな肉体からだしてるね! カルシウムが足りないんじゃない? バチが当たったのよ!」

「何よ、あんたッ! 偉そうにヤジ飛ばすくらいなら、まずは自分が牛乳でも差し入れてやんなさいよ! カルシウムで満たしてあげてから口を開けッ!」


 応援とは名ばかりの言い争いがキリサメの頭上で激しさを増しているが、野次馬の一人が懸念したように互いの蹴りをぶつけ合った瞬間に相討ちになってしまったということではない。右足を撥ね上げる寸前に寅之助からささやかれた言葉が小さな針と化して心を突き刺し、彼の身を強張らせているのだった。


ボクのことをりたいっていうのなら、……〝最期〟までとことん付き合ってあげるよ、ドン・キホーテ君っ!」


 野次馬たちの目には挑発を重ねているようにしか見えなかったことだろう。今度もキリサメだけが言葉の裏に潜むモノを受け取っていた。

 キリサメのの為にも見世物同然の〝げきけんこうぎょう〟として戦いを終えることが望ましいと幾度も諭しておきながら、その舌の根も乾かない内に本気で殺し合おうと促し始めた次第である。

 矛盾の極みであろうが、そもそも寅之助とは他者の尊厳を残虐に踏み躙っておきながら〝剣の道〟を現代まで繋げてくれた先達に持ち得る限りの礼を尽くすような青年おとこなのだ。心の働きすら整合性を欠いている相手に言行の破綻を追及したところで何の意味も為さないだろう。

 路上戦ストリートファイトの折に電知が用いた「ドン・キホーテ野郎」という蔑称よびなをこの局面で使い始めたのは、双眸が迸らせる妖気より更にくらい殺意をキリサメから引き摺り出す為である。


(……こっちの気も知らないで暢気に高みの見物か。……頭を撃たれたショックで性格まで壊れたのかよ)


 二人が立ち止まったのは丘のような場所に建つ四阿あずまやを正面に仰ぐ位置であった。

 何があっても近付きたくなかった建物が目と鼻の先に見えるのだからキリサメの眉間に善からぬ皺が増えてしまうのは当然であろう。案の定というべきか、これまでとは比べ物にならないほど強く幼馴染みの眼差しを感じている。

 屋根の上という特等席に腰掛けたからすれば、ようやく待望の瞬間を迎えたわけである。誰しも魅了して止まない〝げきけんこうぎょう〟を眼下に眺めているのだ。砂色サンドベージュ幻像まぼろしとなった彼女だけに許される特権であり、これ以上ないほどの贅沢であった。

 対するキリサメは小鼻に沿った頬を如何にも不愉快そうに小さく引きらせている。


「――だってさ。なぶり殺しがお望みらしいよ? 期待には応えてあげなくっちゃね!」


 屋根の上から距離を無視して鼓膜に響いた声は四阿あずまやの内側で恐怖に身を震わせる男女の悲鳴を押し流すほど大きく、『聖剣エクセルシス』を放り投げた直後に思い浮かべたことまで言い当てていた。

 その上では寅之助の言葉をれるよう囁いているわけだ――が、当のキリサメは鋭く踏み込んで目突きを繰り出すことも、一度は電知の意識さえ吹き飛ばしたコークスクリューフックを仕掛ける素振りもない。

 正眼の構えを維持し続ける剣先を見据えたまま、彼は完全に足を止めていた。

 右脛を軋ませる痛手ダメージの影響によって本来の足さばきが暫く困難となった寅之助ならいざ知らず、キリサメは縦横無尽に暴れ回ることも不可能ではないはずなのだ。シャツを濡らすほどの汗が全身から噴き出しているものの、体力が底を突きてしまったわけでもない。

 油が切れたブリキ人形の如く微動だにしない状態とは、両手を突き放してから絶えず求め続けてきた暴力性の顕現あらわれ――『聖剣エクセルシス』へ近付くことを今になって全身がちゅうちょし始めたという意味でもあるのだ。


(……僕は何をしているんだ? 棒切れを振り回しているときじゃなかっただろう⁉)


 〝剣〟を〝拳〟に置き換えた場合、〝げきけんこうぎょう〟もまた『天叢雲アメノムラクモ』に変わると寅之助は述べていた。さかきばらけんきちと八雲岳を結び付けたのは過去から現代まで普遍的に通じるモノを意識させる作為があったからに違いない。

 これらの言葉を尽くした果てに寅之助はキリサメに己の〝立場〟を質したのである。

 明治でも平成でも、大規模な興行というものはスポンサーの支援があって初めて成り立つものであり、一人きりで開催することなど不可能であった。

 寅之助は天運とたとえたが、さかきばらけんきちの場合は侍の武芸を後代まで伝えるという志に共鳴したぐらいちしんもんたつろうがこれをたすけた。対する岳は――否、平成の『天叢雲アメノムラクモ』はどうであろうか。当代随一の天才たちでさえスポンサーの獲得が困難を極める時代に所属選手が深刻な不祥事を起こせば、如何なる事態に陥ってしまうのか。

 ここに至ってキリサメは寅之助が殺し合いではなく〝げきけんこうぎょう〟で済ませようと呼び掛けてきた意味を悟ったのである。


「――キャラクターに声という命を吹き込むお仕事をさせて頂いて、もう言葉じゃ表せないくらい幸せなんですけど、生まれたときから身近にあったムエ・カッチューアもあたしにとっては同じくらい大切なんですよね。ムエタイとかに比べたら日本ではまだまだマイナー格闘技ですから、あたしが『天叢雲アメノムラクモ』で立ち技最強の看板を証明して、もっと大勢の人たちに知って欲しいなって。伯父のビクトーが『こんごうりき』でやってきたことを引き継ぎたいんですよ。本業に影響出たらいけないから事務所はシブい顔しますけどね~」


 一足先にMMAデビューを果たした希更は宮崎物産館に詰め寄せた大勢のファンや共演者たちの前でムエ・カッチューアの使い手としての在り方を熱弁しているが、『天叢雲アメノムラクモ』にける彼女の展望をキリサメは台無しにしてしまったのだ。


「サメちゃんのお友達は大胆だなぁ。立ち技最強なんて言ったら電ちゃん、またブチギレるんじゃない? ……そういや、〝あの日〟の電ちゃんってば腕や足の裏に幾つも穴を開けていたっけ。キミにとっては序ノ口ってコトかな」


 想像を絶する代償リスクを背負ってまで殺し合いを望むのなら幾らでも応じると、軋む左手首を舐めながら寅之助は笑っているが、今、この状況こそが〝プロ〟のMMA選手にあるまじき不祥事なのである。

 鳴りやまないシャッター音が逃げ場など存在しないことを無慈悲に突き付けている。

 下世話なワイドショーで『天叢雲アメノムラクモ』を扱き下ろしていたスポーツ・ルポライターのぜにつぼまんきちは自分こそ正義の代弁者といった顔でMMA批判バッシングを煽り立てることだろう。格闘技を暴力と蔑む鹿しか刑事は高笑いと共に手錠を掛けるかも知れない。それはつまり、日本からMMAという文化が完全に消滅することにも等しいのだった。


「――キミの起こした風が土壌を死滅へ導くときを数えるとしよう」


 すがだいら高原の温泉施設で遭遇した『天叢雲アメノムラクモ』の先輩選手――ほんあいぜんから突き付けられた言葉がキリサメの脳裏に甦る。『もく』などという大仰な呼び名を用いる愛染は、これからデビュー戦を迎える新人選手ルーキーが日本MMAに破滅をもたらすと予言したのである。

 まさしく、その通りではないか。新しい風を起こすことができれば崩壊の宿命さだめに抗えるかも知れないと、最後の希望を残してくれた愛染まで裏切ってしまったのだ。

 「次の岩手大会でもムエ・カッチューアは底ナシってトコをご覧に入れますよッ!」と宣言する希更の声は大勢のファンを沸かせ、MMAのリングとは異なる場所で拳を握るキリサメの心を罪悪感で満たしていった。

 そもそも――だ。未稲の監禁場所を聞き出すべく寅之助の背中を追い掛け、次いで矛盾だらけの言動を不可解と感じた為に事件の真相を暴こうと考えたのである。それにも関わらず、目の前で笑う〝敵〟の破壊だけが目的となっていた。いつの間にか、心の中身が丸ごとすり替わっていた。


「面倒臭いことを考えるの、途中でやめたでしょ? ていうか、未稲ちゃんの存在すら忘れてたんじゃないの? 目先の敵を潰して気を紛らわせようってさ」


 寅之助当人から指摘された〝結論〟の単純化を一度は自覚し、己の為すべきことを見定めたはずであったのに攻防が激しさを増した途端、未稲に危害が及んでしまったという自責の念もろとも〝敵〟を叩き潰すべく『聖剣エクセルシス』にすがろうとしたのだ。

 電知を相手に繰り広げた路上戦ストリートファイトと同じである。徒手空拳では仕留めきれないほどの強敵であろうと暴力性の顕現あらわれさえ掴めば殺し切れる――〝表〟の社会の法律が全く機能しない〝闇〟の奥底にて命を繋いできたすべが意識を超えてキリサメの肉体からだを衝き動かしているのだった。

 虐待と誤解されるほど過酷な修練を積み重ねた末、寅之助は如何なる状況下でも使いこなせるまでに剣道の〝型〟を肉体からだへ馴染ませた。キリサメが格差社会の底辺で編み出した喧嘩殺法も反射という点にいては同類項と呼べるのかも知れない。

 尤も、寅之助の身に備わった〝型〟が伝説の剣士――森寅雄タイガー・モリの継承であることに対して『天叢雲アメノムラクモ』が喧嘩殺法などと持て囃しているモノは〝表〟の法律を粉々に打ち砕く〝闇〟の濁流に他ならない。ちゅうちょなく目突きを狙うことからも瞭然の通り、本来ならば〝表〟に出すべきではないのだ。

 この場にるのが未稲であったなら、喧嘩殺法それは『暴力』などではないと諭したことだろうが、虚ろな笑みと共に砂色サンドベージュ幻像まぼろしささやくのは「生きてちゃいけない存在は根絶やしにしなくちゃ」という真逆の言葉である。

 キリサメの思考あたまから未稲救出という使命が抜け落ちたのは、故郷ペルー言語ことばを紡ぐが血で穢れた『聖剣エクセルシス』の刀身を人差し指で撫でた直後であったはずだ。


「一人でも仕留め損ねたらみたいな〝犠牲者〟が増えちゃうもん。そんなの、ダメだよね?」

「――そうそう! 次の岩手大会であたしの友達も『天叢雲アメノムラクモ』デビューなんですよ! キリサメ・アマカザリ君ってコなんだけど、もうデタラメに強くって! 初っ端からベテラン選手との対戦カードが組まれたのは『天叢雲アメノムラクモ』の伝統なのかな? あたしのときもそうだったし。負けるな、キリキリ! あの夜、誓い合ったように二人三脚で頑張ろーッ!」

「えっ、それは何? きーちゃん、初の熱愛スキャンダルなの? やだよぅ、私というものがありながら他の人に手を出すなんて! タラシなトコまでつむぎちゃんに似なくて良いのにぃ! 週刊誌の取材を受けるときにはひまわり名義でコメント出さなきゃっ!」

「キリキリ、ごめんねー! ツーショットで週刊誌載っちゃお~!」


 残響のように甦った幼馴染みの囁きを右耳に、強引に割り込んでくる希更たちのトークを左耳にそれぞれ聞いたキリサメは、交錯する二つの言葉に無感情ではいられず、苦悶にも近い表情を浮かべながら「僕は〝何物〟なんだ」と小さな呻き声を洩らした。

 このような情況は「我に返った」と表すのが最も相応しいはずだが、兇暴な〝闇〟を抱えたキリサメは己を正気とは思っていない。少なくとも法治国家日本の基準からは大きく外れているはずだ。

 暴走寸前の猛牛にも等しい野次馬たちに取り囲まれ、正面に狂気の剣をめ付ける状態であればこそ相対的に正常まともと感じられるだけである。


(一体、僕は〝何物〟なんだ⁉ 誓ったこと一つ、握り締めてはいられないのかッ⁉)


 アコースティックギターによる『剣の舞』は即興のアレンジが施され、本来の演奏時間を過ぎた後も途切れることなく繰り返されている。その間にも希更は〝プロ〟のMMA選手として力闘するキリサメが楽しみでならないと熱弁し続けるのだった。

 禍々しい刃に黄昏たそがれの煌めきを映した『聖剣エクセルシス』は、〝持ち主〟と同じ血の臭いを辺りに撒き散らしながら何を語るでもなくキリサメ・アマカザリの帰還を待ち続けていた。


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