その11:剣舞~刀の継承・百五十年の残心
一一、
海外から訪れた観光客にも『サブカルチャーの聖地』と親しまれ、日本のアニメ作品やテレビゲームが世界に
希更・バロッサが
つまり、サブカルチャーの愛好家たちによる聖地の巡礼にも節度を弁えた行動が求められるわけだ。ハロウィンの仮装パーティーでもない時期に際どい
傍目には昭和後期を題材とした漫画の
仮に警察へ通報されるとすれば、東京都の条例違反ではなく決闘騒ぎのほうであろう。
ノコギリを彷彿とさせる
尤も、二人は周囲の目など気にも留めていない。
大移動としか表しようのない様子が
しかし、キリサメと寅之助はテンガロンハットを被って馬に跨るカウボーイではない。牧場から大量の牛を追い立て、出荷用の蒸気機関車が待つ鉄道駅まで移動させようとは微塵も考えていなかった。何しろ四〇頭を超す好奇心旺盛な猛牛たちは二人の後を勝手に追い掛けているだけなのだ。
馬ではなく己の足でもって秋葉原の町を駆け巡る寅之助は、何があっても自分のことを追跡し続けると信じて疑わないキリサメをサブカルチャーの聖地という虚飾とは大きく掛け離れた場所へ導いた。
背後に無数の足音を聞く二人が辿り着いたのは屋上庭園と呼ばれる場所であった。
秋葉原では
見上げた空をやけに遠く感じてしまうのは、背の高いビルが近隣に立ち並んでいる
限られた空間に施された屋上緑化ということもあってミニチュアのように錯覚してしまうほど手狭ではあるのだが、造園そのものは中世ヨーロッパの王侯貴族が茶会に興じた場所を丸ごと移築したかのように美しい。
解放感のある広さを演出するのではなく、奥行きを生かすという設計なのだろう。
季節の草花が咲き乱れる
(心が洗われるような場所だな。……これからどうなるか、僕にも分からないけど)
文明の利器で溢れ返った〝下界〟とは似ても似つかない静かな場所であり、キリサメは自分が秋葉原の中心部に立っていることさえ忘れそうになる瞬間があった。
この場に持参すべきであったのは『
「――七月から放送がスタートするシリーズ第三弾『
尤も、出演者やスタッフによる『
密室ではないものの、閉所であることに変わりはなく、油断していると辺りに充満した甘ったるい香りに喉を刺激されて
〝下界〟から物理的に隔絶された屋上であれば『
幹の部分が大きく捻じ曲がったザクロの木が四方を取り囲むようにして何本も植えられているのは転落防止の役割を兼ねている為であろう。屋上庭園は夜間も解放されているので危険な場所と訪問者を物理的にも分断しようというわけだ。
ザクロの木々はそろそろ
設置された手すりの辺りまで追い詰めれば、これを超えるようにして寅之助を地上に蹴り落とすこともできるはずだが、
入口のすぐ近くには小川まで流れており、川幅に見合った大きさの木造橋も架けられている。寅之助は
左の逆手に持って背面へと回していた竹刀を両の五指にて握り直した寅之助は、その剣先をキリサメに向けた。
正面の相手に対して刀身を傾け、双眸を窺うような形で剣先を突き付ける。剣の
園内のあちこちに散開し、各々の観戦席を見つけて陣取っていた野次馬たちは寅之助が竹刀を中段に構えた瞬間、大きな歓声を上げた。
そもそも寅之助が剣道家らしい佇まいを披露したのはこれが初めてであった。ここに至るまで打突や防御に応じた構えを取ることはあっても基本的には両腕を自然体に垂らし、〝
「――つまりはあの恐るべき剣士に奇妙なノコギリが構えを取らせたということだな。演武に近いものとはいえ、ここから先は大荒れになるやも知れん」
商業ビルでの対峙から二人を追い続け、明治時代まで遡る〝
ノコギリとも船の
余人を相手にしている暇などないことはキリサメの姿を見れば瞭然であろう。彼もこのような形で『
長大であるが故に狭い路地の攻防では刀身も満足に振り回せず、横薙ぎを仕掛けることなど不可能に近かった。つまり、
「――宮崎県には『イシュタロア』のイベントで何度もお邪魔していて……っていうか、一ヶ月に二回くらい行くこともあったから、あたしの中ではすっかり第二の地元って感じですよ。実家が熊本だから、元々、『ご近所ッ!』みたいな感覚はありましたけど」
「きーちゃん、世界大会の予選にもゲストで招待されてたよね、フラダンスのやつ。私、つむぎちゃんの〝お姉様〟なのにお呼ばれしなかったなー、ちょっと寂しいなー。宮崎の皆さん、次はここにいる全員をセットでお願いしま~す」
「だって〝ひまわりお姉様〟は日本舞踊だし、フラダンスの大会はちょっと違うんじゃないかな~。
「実は一度だけ声を掛けて頂きました。丁度、お産と重なってしまってお断りするしかなかったのですけど、来年もお招き頂けるようでしたら娘と一緒に伺いたいなぁって」
「ああ~、それもステキですよね~。娘さんがお母さんに影響されてベリーダンスに目覚めたらレジェンドだなぁ~」
「すいっちょん、ベリーを踊るのはロアさんであって私じゃないから。運動神経ヘボヘボな私にあの綺麗なダンスは無理だからっ」
張り詰めた空気を粉砕するようにして割り込んでくる
「いかにも成金趣味丸出しってな具合だね。〝富める者〟の特権ってやつ? 屋上に川まで作っちゃうなんて……小鳥のさえずりじゃなくてモーター音が聞こえてくるのは大減点だけどさ」
何時の間にかキリサメの隣に浮かび上がっていた
ここは自然公園ではない。人の手によって
橋脚の腐食が進んでいるようには見えないが、
空には黄昏の色が混ざり始めている。
ともすれば、空中庭園へ足を踏み入れた瞬間に感じ取った風情を台無しにされたようなものでもある。キリサメは横目でもって
見つめ返してくる瞳は「コレを有り難がるってことはサミーはもう〝こっち側〟の人間じゃないよ」と声もなく笑っていた。
「なかなかイケてるでしょ、ここ。照ちゃんとデートで出掛ける場所を探しているときに見つけたんだよ。そのときにはサメちゃんを連れ込むなんて思いもしなかったけどさ」
「――ってコトはこれもデートなんですね⁉ バトルと見せ掛けた逢引きですね⁉ 話を聞く限り、略奪愛パターン⁉ むッは、滾るわァッ!」
野次馬の女性が鼻息荒く投げ付けてきた言葉の意味をキリサメは理解できなかったが、これによって真隣の幼馴染みから正面の〝敵〟に視線は引き戻された。
作り笑いの向こうに覗いた庭園の中央まで寅之助を押し込んでいけば、より一層戦い易くなるだろうと、キリサメは頭の中で算段し始めていた。
木造橋を渡ったところで通路は
直進した先にはバラの花で彩られた鉄製のガーデンアーチが立ち、ここを潜ると屋上の中央に辿り着く。広く開けたその場所に設置された五角形の巨大なカウンターテーブルこそが庭園で一番の目玉であった。
長細い木材を組み合わせたカウンターテーブルの中央は大きな空洞となっている。そこには
(……なるべくなら、あの小屋へ近付く前に決着をつけたいが……)
左右の通路は園内を一周できるよう環状に繋がっており、その途中に
気付いたときには真隣から掻き消えていた
キリサメたちが園内へ踏み入った直後には何人かの利用客も散見されたが、物騒極まりない様子を認めるなり足早に退散していった。横柄な野次馬から強引に押し出された者も多く、許し難い暴挙と抗議する声は剣を握る二人の耳にも届いていた。
園内でも奥まった場所に所在する
「――フラダンスのコンテストにも招かれるきーちゃんと違って、私やすいっちょんはカマプアア先生とトークショーで一緒になる機会がこれまでなかったのですよね。前々から
「はいはいはいはいはーい、それは私も気になってました。シリーズ通して全部一人で担当してますけど、『イシュタロア』って専門のフラダンス以外にも世界中の色々な踊りが登場してるじゃないですか。一体、どーやってこなしてるのかなって。役作りのヒントにしたくて今も〝日舞〟の教室に通ってますけど、たったの一個だけでもパンク寸前になりましたよ、私のアタマ」
地球の裏側より舞い降りた
「橋の上の決闘といえば
真後ろからキリサメの背中を突き刺したのは狭い路地にて斬り結んでいる最中に寅之助とぶつかってしまった女性の声である。腰を抱かれたまま甘い言葉を
両腕を背後に回して左右の指を組み、胸を反らせて腹の底から大音声を張り上げるなど相当に気合いの入った応援である。今はまだ何も知らないはずだが、寅之助の恋人と鉢合わせでもしようものなら、それまでの熱情が反転して胸倉に掴み掛かることだろう。
完全に他人のことながら乙女心を弄ばれた点については同情を禁じ得ず、橋の上に立つ性悪な青年へ批難の眼差しを向けようとするキリサメであったが、不意に割り込んできた驚愕が動作そのものを推し止めてしまった。
「おいおい、『
「走りながら日本リーグの公式サイトをチェックしてみたけど、
「サメちゃん、ほんの一時間程度でたくさんファンを作ったねぇ。確かデビュー戦は岩手だっけ? 全員は無理でも何割かは東北まで駆け付けてくれるんじゃない?」
「……そういう
キリサメか、寅之助か――園内の
己を褒め称える声に力が湧き立つようなこともなく、白熱とは別の気配を帯び始めた野次馬たちを尻目に攻撃の
(……こいつら、
絶望的な格差社会が横たわるペルーでは政府が労働者の権利を脅かす度に大規模なデモが起こり、怒れる群衆は反乱にも等しい暴力性を帯びて〝攻撃目標〟に押し寄せていたのだが、
「――『ヒエロスガモス』みたいなアイディア、何をどうやったら思い付くんだろうって演じながらすごい不思議だったんですよ。きーちゃんと二人で『監督やカマプアア先生のアタマの中を覗いてみたいよね』って」
「ロアさんは第二期の最終回まで『ヒエロスガモス』自体がなかったから、正直、ずっと羨ましかったんですよ。『つむぎさんとひまわりさん、また公の場でイチャついてる』とか、『ひまわりさんの目の前で別のコと浮気なんて命知らずだなァ』とか」
「自分の出番が終わって戻ってきたときにすいっちょんから『また浮気?』って詰られましたけども! 何時だったか、『ヒエロスガモス』自体は社交ダンスが元ネタなんだって聞いたんですよね。それにしたってフラダンスを日本舞踊やブレイクダンスとコラボさせるっていう発想はかなりブッ飛んでるなぁって」
「一緒にダンスを踊ることでグルーヴ感が増して、お互いのエネルギーも増幅されるって説明を私は未だにちゃんと呑み込めてないよ⁉ 『ヒエロスガモス』をしている最中はバディと
「だからねぇ、きーちゃんはそろそろ浮気性をどうにかしたほうが良いと思うんですよ」
「浮気っぽいのはつむぎちゃんであってあたしじゃないからっ。つむぎちゃんもひまわりお姉様一筋のハズなんだけどね~。仕方ないかな~、あのコは無意識にオトしていくタイプだもんね~」
ビルの向こうのトークショーにて語られている『ヒエロスガモス』とやらは全く
何らかの想念が同調を経て増幅されていく――その規模が〝一対一の関係〟ではなく想念自体が独り歩きを始めるような〝集団〟に膨らめば、何万というデモ隊を衝き動かす巨大な潮流と化していくわけだ。
誰にも堰き止めることのできない濁流に巻き込まれ、ついには命を落とすことになった幼馴染みは、今、
テレビアニメという架空の世界の出来事ではあるものの、一種の同調を経て増幅させたヒトの想いを無限大の
「もっとボクのことを見てっておねだりしたのに余所見は頂けないよ――」
キリサメの意識を
相手の懐に飛び込もうと図ったのはキリサメのほうであったが、攻防に
飛び
対する寅之助はキリサメの動きに即応して腰を逆方向に捻り、今まさに横薙ぎの軌道を描こうとしていた竹刀を引き戻していく。
「――まさかと思うけど、これでタネ切れってコトはないよね? ド素人の手品だってもう少しくらい底が割れないように踏ん張るよ?」
吊り上げられた口の端から挑発的な呟きが洩れるのは当然であろう。剣先を地面に押し当てることで幅広な刀身を固定し、平べったい表面で相手の攻撃を凌ぐという技をキリサメは既に二度も寅之助に披露している。それどころか、二度目の使用時にはここから派生する打撃まで破られてしまったのだ。
咄嗟の判断とはいえ、術理が見抜かれている技を短時間の内に三度も使っては寅之助でなくとも呆れ返ることだろう。相手が電知であったなら、キリサメの視界は動作の途中で逆さまに引っ繰り返っていたはずだ。
先程と同じように垂直に立てられた『
それはつまり、今までよりも遥かに強い力がノコギリを彷彿とさせる刀身に作用しているという意味である。次の瞬間、キリサメは左右の五指にてツカを握ったまま『
左右の足は太陽を仰ぐ間もなく寅之助の顎を狙って高々と突き上げられていく。
四ツ割の竹片を組み合わせるという構造の竹刀で同種の技を試みた場合、持ち主の体重を支え切れなくなり、折れることがなくとも曲がってしまうかも知れないが、キリサメの『
垂直の状態でキリサメが全体重を掛けた場合、長いツカの端から剣先まで一本の揺るぎない
「まんまと一杯食わされたねぇ。サメちゃんはボクを飽きさせないもんなぁ~」
「こっちは飽き飽きしている……ッ!」
足技を繰り出す際に軸として据えていた左足一本で僅かに
人体急所の一つである延髄に狙いを定め、風を薙ぐ勢いで右の前回し蹴りを繰り出したキリサメは〝
「――顔はやめてぇ! ホントに当てるのは堪忍してぇ!」
「ボッコボコにしちまえ~! 思い知らせてやれぇ!」
蹴りが命中した箇所を〝軸〟に据えて己の身を振り回し、再び逆様になったキリサメは重力に引かれようとしている『
遠心力を乗せた一振りは寅之助の動きを牽制し、その場に釘付けとしたが、反応が僅かでも遅れていたら彼の両足は女性たちが卒倒するほど無残な形に拉げていたはずだ。
ノコギリ状の刃をそのまま木造橋の
『
「――私のローリングソバットは八雲先生の直伝なのだよ! 今度は私からキミにこの技を授けよう! 直伝の直伝そのまた直伝だ!」
キリサメの脳裏に
火の玉の如きプロレスマスクをトレードマークとするカリガネイダーが花形の大任を担う長野の地方プロレス団体――『まつしろピラミッドプロレス』が
『まつしろピラミッドプロレス』の外部コーチも務めている岳が昭和を代表する先輩レスラーから直々に伝授された得意技を更にカリガネイダーへ伝えたというのだ。
「直伝の直伝そのまた直伝」としてカリガネイダーからキリサメに授けられたのが『ソバット』と呼称されるプロレス式の後ろ回し蹴りである。
「そうだな……馬の後ろ足をイメージすると分かり易いかも知れないぞ! 自分の後ろに立つなと言わんばかりに思い切り吹き飛ばしてやりなさい!」
振り返るつもりもないのに甦ってくるカリガネイダーの
如何なる技を仕掛けられても即座に斬り返せるよう正眼の構えを取っている寅之助に背中を向けるや否や、半身を大きく開きながら右足を後方に振り回した。まさしく馬蹄のように相手の顔面や腹部へ足裏を見舞うわけだ。
「これはこれは――メキシコのほうには『ルチャ・リブレ』ってご当地プロレスがあるらしいけど、ペルーでも盛んなのかい? それとも
プロレス技への急激な変化に目を丸くする寅之助ではあったが、口笛を吹きつつこれを迎えるだけの余裕は残している。左肩へ刀身を担ぐような恰好で鹿革に覆われているツカ
カリガネイダーひいては岳にとっても〝伝家の宝刀〟に違いないが、抜き放ったからには必ず命中させなければならないといった使命感などキリサメは持ち合わせていない。ツカ
次の手立てを捻り出すよりも先に
「――往年のヴァルチャーマスクみたいだな、あの
「ヴァルチャーマスクぅ? いつの時代の話をしてんだよ。さすがは時代遅れの格闘屋集団っつうか、ファンまで回顧趣味バリバリだな~。カビの生えたモンは日本男児の底力で斬り伏せちまえっ!」
鬼貫道明と同様に昭和のマット界を大いに盛り上げたという伝説的なプロレスラーに何人かの野次馬がキリサメを重ね、『ヴァルチャーマスク』なる
攻防の最中にも関わらず、急にカリガネイダーの
あるいはショーアップされた試合で観客を楽しませることへ全力を傾けている『まつしろピラミッドプロレス』と明治時代の〝
(……他にも大切なことを言われたような気がするけど……どうでも良いか――)
キリサメは高空から地上の獲物を狙う
正確には肩への打撃ではなく鎖骨を圧し折ろうとしている。寅之助の技量によって振るわれる竹刀はまさしく変幻自在であり、重量や強度で勝るはずの『
これらの技を根元から叩き折るしかないと判断して直接的に鎖骨を狙ったものの、あからさまな人体破壊など寅之助が許すはずもない。左手一本で握る竹刀を水平に構え、剣先の辺りに右手を添えながら――ツカの端を掴む左の五指とは対の形である――刀身を頭上に
やむなく竹刀を蹴り飛ばして空中に逃れたキリサメは『
「
「あいつ、そんなことまで話したのか。梯子に乗って曲芸をやるものだって聞いたけど、うちはそんな家系じゃない。……元々、家系も何もあったもんじゃないけどな」
電知と初めて拳を交えたときにも日本橋に居を構えている『
祖父の生業を指して亡き母は『おやかた』と呼んでいた――それが唯一の記憶といっても過言ではない。
「大きな武器振り回してるから弁慶役かと思ったけど、そっちが
「素手のほうがイケてねぇか、おい⁉ こりゃマジで次の『
「う、牛若丸って
比喩でなく本当に
(電知もそんな名前を出していたな。母さんが日本から取り寄せた昔話の絵本にあったハズだけど、有名な人物なのか……?)
巨大なカウンターテーブルの向こうで展開される斬り合いに竦み上がり、「牛若丸って何⁉」と互いの身を抱き合い続ける
牛若丸と名乗っていた頃に
「照ちゃんから聞いたけど、電ちゃんもキミのことを牛若丸に
二人が共に振り返った通り、
奇しくもそれは八雲岳が地球の裏側で目の当たりにし、
二つに折り畳んでジーンズのベルトへ差し込んでいた鞘代わりの麻袋は既に風と踊ることをやめている。キリサメが
「――第一四回くらいから作品全体をスケールアップさせようって意見は企画会議の時点でたくさんあったのね。『イシュタロア』のウリは何といってもダンスでしょう? 社交ダンスみたいにつむぎちゃんたちを一緒に踊らせたら面白そうってアタシのほうから提案させてもらったわ。踊りでセッションしたら愛はもっとパッション! それを視聴者へストレートに伝えなきゃダメなのってね」
見下ろすキリサメと、見上げる寅之助――野次馬の
『
「監督から心配されたのはバラエティ溢れるダンスから膨大な量のセッションを作り切れるかってコト。作業量は勿論、個人の知識じゃ限界があるでしょ? それも当時は懸念事項だったの。モノになった今だからこそ暴露できる裏話ってヤツね。アタシの専門はフラダンスじゃない? 日舞やベリーは確かに専門外。だけど、専門分野の知識だけで『クムフラ』を続けていけるほど業界も甘くないのよ。高い表現を見つけ出す為に専門外の舞踊もたくさん調べたわ。それができなきゃダンス監修はビッグゲームのチアリーダーより大所帯になってたでしょうね。アタシってば予算にも優しいでしょ?」
芸名と考えて間違いないだろうが、『
「最初は本当に手探りだったけど、
ハワイ
フラダンスとは異なる経緯で
「世界中を旅して回って各地の格闘技や伝統武術と交流する拳法家の話、バロッサさんは聞いたことないかしら? 『アップルシード』っていう可愛らしい
「あ~、いましたねぇ、そういう人。ウワサ程度なら聞いてますし、熊本で
「人のウワサっていうのは種類を問わずに何でも流れ込んでくるってコトよぉ。アタシの場合も『アップルシード』と同じってワケ。
『剣舞』という二字を「けぇんぶぅ~」と間延びした声で読み上げるなど、カマプアアなる人物は注意を引きたい部分を独特な言い回しによって強調する癖があるようだ。
そうした小細工に頼るまでもなく聴衆は〝彼〟の声に意識を引き付けられずにはいられないはずだ。女性のような言葉遣いを使ってはいるが、これを紡ぐのは完全に男性の声である。生来の野太い地声を意識して甲高く調整していることも察せられた。
俗に言う〝おネェ言葉〟である。
そうかと思えば、いきなり野太い地声に切り替え、「漢詩を詠む声に合わせて刀で舞うという作法は『イシュタロア』の演出を考える上で一番のお手本になりました」と大真面目に語り始めるのだ。
希更たち出演者から〝キャラ〟を統一しようとの
「――まさか、向こうでも剣舞の話題が出るとはね。こういうトコロにも運命感じちゃうボクって立派な
いつしか寅之助は内面から滲み出る笑顔を咲かせていた。
改めて
左側頭部を蹴り付けた瞬間、よろめきそうになる姿も確認したのでダメージは確実に刻んでいるのだが、その痛みを上回る歓喜が彼を破顔させるようだ。
伝説の剣士として名高い『タイガー・モリ』こと森寅雄の系譜を継いだ青年も
児童虐待を疑われるほど峻烈な環境に生まれながら
世界最強を夢見て
「タイムリーにも程があるよね。サメちゃんだって運命感じてるでしょ?」
「タイムリー? 今に始まったことじゃないが、お前の話はいちいち筋道が見えない」
「聞き流すなんて冷たいなぁ。明治の〝
「……長話は右から左へ聞き流している――そう言ったのはついさっきだ。お前こそ僕の喋っていることを全く無視しているだろう」
日本史上に
一つ一つに反応していたら
つい耳を傾けてしまう自分自身を愚の骨頂と罵りながらも、車輪の音が響き渡る高架下で斬り合っている最中に聞かされた
寅之助曰く――『剣舞』とは日本の伝統舞踊の一つであり、目的や趣向によって様式が細かく枝分かれするそうである。無論、彼が解説したのは明治時代の〝
『
一時は武道としての存在感を示しており、現代にも様々な流派が継承されている。実しやかな説によれば、第二次世界大戦後にGHQから武道全般を禁止された時期、近代の剣士たちは剣舞の中に武道としての太刀筋を組み込み、舞踊を隠れ蓑にして昭和二七年四月二八日まで技術が
「幕末の風流も遠い昔っていうか、戦前の武道家には『あんなのは武道じゃない』って全否定されたみたいだよ。
何とも腹立たしいが、そのように言い添える声も鮮明に
『剣舞』という言葉からキリサメが真っ先に連想したのは旧ソ連の作曲家、アラム・ハチャトゥリアンが手掛けたバレエ『ガイーヌ』の佳境を盛り上げる激しい旋律であった。母が開いていた私塾では音楽の授業も行っており、そこで
音色に乗せて
「何だかハナシが繋がってきた! カマプアアさんがフラダンス以外を幅広く学ぶのは格闘家が他流の研究に勤しむのと同じってコトですね。あたしも母のお師匠さんから軍用ムエタイの『レドリッド』を教わりましたもん。タイの軍隊でもやってるってだけで、〝軍用〟とはちょっと違うって言われたっけな~」
「ムエタイと同じように剣舞だってたくさん流派や種類があるんだから。アタシがお邪魔した岐阜の道場だと実戦剣舞を教えていたのよ。……色々な意味で興味深かったわ」
「今のお話、あたしはストンと腑に落ちたんだけど、すいっちょんや湊さんは置いてきぼりじゃない? 特にすいっちょん、居眠りなんかしてない? 大丈夫?」
「……先々月は宮崎市のみなさんにご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでしたっ。まさかの現地イベントで寝落ちした上に椅子から転げ落ちるなんて〝ひまわりお姉様〟は絶対にやっちゃいけなかったのに」
「私にだけスキを見せてくれるひまわりお姉様が慕わしくて仕方ありません」
「速攻でフォローしてくださるつむぎさんを私も心から愛していますよ」
さすがは〝声のプロ〟というべきか、
「第一期の打ち上げの二次会でカマプアア先生、実際に剣舞を披露されていましたよね。ここまでお話しになったのですから、会場へお越しの皆さんにも剣舞がどういうものか、ご覧になって貰わないといけませんよ」
「それ、フラダンスの
「湊さん、それナイス! 皆さんだって聞きたいでしょ? この先生、難しい文章を
「どーゆー脅しなのよ、それはっ」
希更の共演者たちによる横暴にも等しい提案を後押しするのは会場に詰め寄せたファンたちの拍手である。洗礼のようにも聞こえる乾いた音がカマプアアの退路を断っていた。
〝
「あっちの提案も悪くないね。ツレないサメちゃんの為にこっちも実演込みでおさらいしてみようか」
「僕らがやっていることは
そのように吐き捨てた直後、キリサメは木造橋全体が軋み音を立てるほど強く
瞳から
「電ちゃんと照ちゃんが二人して言ってたっけ。サメちゃんは目玉焼きの黄身を潰すみたいな気軽さで目突きをポンポン狙うってさ」
小技すら経由せずに
当の寅之助も突っ込んでくるキリサメを見据えながら正眼の構えは崩さず、
しかし、バネを引き絞っているものと
あからさまな目突きは
返し技として打ち込んだ
無論、この好機を逃すキリサメではなかった。橋板へ降り立つや否や、
橋の向こう――通路が
そのまま寅之助はキリサメを誘うかのように環状の通路へ入っていく。先程までの〝鬼ごっこ〟とは異なり、
緩い
「さっきトークショーで岐阜の実戦剣舞の話をしていたでしょう? 刀を帯びた状態で瞑想して、精神を極限まで研ぎ澄ませて剣を振るうって流派があるんだよ。
「また知識自慢か。よく飽きないな」
「恭ちゃんが喚いていた『
「……調べた? 『
「――
相変わらず矛盾だらけで前後の言動が一致しない寅之助への詰問を切り裂いたのはカマプアアの声――朗々たる詩吟であった。裏方が出演者よりも〝表〟に出てしまうことを渋り続けてはいたものの、会場の熱気に押されて観念したようである。
喉の状態を整えた
ハワイの出身者とは思えないほど流暢な日本語を紡ぐカマプアアは詩吟までもが見事であった。〝おネェ言葉〟を使っているときには
途中からアコースティックギターの演奏まで重なった。詩吟には三味線といった和楽器が用いられるのだが、これを模倣しているらしい。
無論、弦を爪弾くのは野次馬の先頭に立って演奏を付けてきた女性シンガーであるが、斬り合いの場景へ継ぎ接ぎの如く当て嵌められてきた『
寅之助を撮影していると
「実家が津軽三味線の教室をやってるので、コレの伴奏も習ったんです」という思いも寄らない身の上話に女性シンガーの周辺からどよめきが起こったが、これはキリサメの耳まで届いていなかった。余人のことなど省みている場合ではないのだから当然であろう。
三味線の模倣が詩吟に添えられた直後、寅之助が急に逆走を始めた。先程より正面を向いたまま後退し続けていたのだから自然な身のこなしに戻ったというべきかも知れない。
地面に稲妻を走らせるかのような足さばきで一気に間合いを詰め、突進してきたところを斬り飛ばそうと身構えていたキリサメの
同じ側の手足を同時に進める風変わりな
左半身を開いた形での体当たりもダメージ自体は大きくないが、切株を引き抜くような力がキリサメの上体へ急激に作用し、地面から足が浮いてしまった。彼もまた密着されると判断した瞬間に迎撃の頭突きへ転じたものの、その拍子さえも崩されたのだ。
つまり、寅之助はキリサメが得意とする間合いをことごとく潰しているのだった。電知と訓練した打撃に最も適した距離まで飛び退こうとしても左右の半身を大きく開き、同じ側の手足を勧めるという独特の
反対にキリサメのほうから突っ込む素振りを見せれば、左の逆手で握っている竹刀のツカを前方に引き出し、「寄らば斬って捨てる」と言外に威圧してその足を押し止める。腰に真剣を帯びているわけではないのだが、寅之助が秘めた片手突きの恐ろしさを既に味わわされている彼は、こうなると迂闊に飛び込めなくなってしまう。
対する寅之助はカマプアアが「
剣舞に組み込まれた手振りであろうが、キリサメの目には露骨な挑発としか映らない。龍を模っていた右手を高く翳して天を仰ぎ、祈りでも捧げるかのような姿を晒した瞬間に付け入るべき隙を見つけてようやく踏み込み、『
直撃の寸前まで
『
右の五指はリング状となっているツカ
(……これも当たらないのかよ……ッ!)
右足首が軋むのも構わずに放った変則的な斬撃はついに寅之助の急所を捉えられず、風を抉り上げる『
寅之助が片膝を立てる体勢で着地する頃には「潜んで
そのツカに右の五指が掛けられたのはカマプアアの声が一等大きくなった瞬間のことである。果たして、それは居合道の達人が鞘から愛刀を抜き放つかのような
「
この演目で最も力を込める箇所であるのか、カマプアアも一言一言を長く溜めるかのように発していく。その間に寅之助の竹刀が縦横無尽に荒れ狂い、垂直に構えた『
唸りを上げる打突はこれまでの比ではないほど
キリサメの双眸が叩き付けてくる妖気を薄ら笑いで受け流す姿からも明白な通り、寅之助は寸止めによる挑発行為を繰り返しているのだ。長大な
先程のような足技を敢えて併用しないことも底意地の悪さを表しているといえよう。上下時間差攻撃など使わなくとも封殺できるのだと嘲り笑っているわけだ。
二〇〇八年六月に秋葉原で起きた〝凶行〟を再現させる勢いで『
「策無きに
「舐めた真似を――」
キリサメの口から洩れ出した苛立ちの声は、またしても余人の耳へ届く前に押し流されてしまったが、今度はカマプアアの詩吟が割って入ったわけではない。
大胆不敵にも片膝を立てて足元に竹刀を置き、両腕を組みながら
腹の底より張り上げられた吼え声であった。軽佻浮薄を絵に描いたような青年には全く似つかわしくないものであり、キリサメだけでなく屋上庭園に居合わせた誰もが立ち竦んでしまった。
右手一本で繰り出された突きもまた寸止めであったが、ほんの数ミリでも剣先とキリサメの距離が縮まっていれば確実に右目の光を奪っていた筈だ。寅之助が突進には不向きな姿勢であったことが幸いしただけとも言い換えられるだろう。
次いで寅之助は手首を鋭く捻って斜めの軌道を描き、両手でツカを握り直すと地面に突く膝を入れ替えながら左右一度ずつ竹刀を振り上げ、
「――容易に汚す
最後の一太刀を振り上げると同時に身を引き起こした寅之助は、左の五指にて摘まみ上げたスラックスで刀身を拭う
やがて寅之助は対の逆手に持ち替えた竹刀を地面へ垂直に立てた。天然木のウッドパネルに剣先を突き立てるような恰好であった。
三味線の模倣は徐々に緩やかな
トークショーの盛況はザクロの木々を飛び越えてくる拍手喝采から想像するしかないのだが、カマプアアの詩吟が番組のファンを感動させたことは間違いあるまい。称賛の口笛さえ地響きにも匹敵するほど大きいのだった。
彼らはビル群を挟んだ向こう側で漢詩の内容に沿った剣舞が実演されているとは夢にも思わないだろう。屋上庭園に
「――明治の〝
「あ~、惜しいねぇ。演目までは合ってたんだけど、型そのものはずーっと昔に見物した
「うぬゥッ⁉」
「ついでに言うと榊原先生が〝
商業ビルの工事現場から二人の斬り合いを追跡し、他の野次馬へ〝
剣舞の最中に片膝を突いた状態から速射砲の如き鋭さで繰り出された突きがキリサメの瞳に接触することはなかったのだが、運が良くて光を奪われずに済んだのではない。僅か数ミリという互いの距離を正確に見極めた寅之助が剣先を止めたのである。
本気で突き込まれていれば間違いなく右目を失っていた――その戦慄に竦んだまま視界に映る物体を片端から凝視して隻眼になっていないことを確かめているのだった。このときばかりは瞳に湛えていた妖気も霧散している。
もはや、生殺与奪を目の前の青年に握られたようなものではないか。
「――さっきは便宜上、舞踊の一つみたいな言い方をしたけど、昔は剣舞も武道の一つとして取り扱われていたそうなのよ。そこだけは間違えないで欲しいって取材をお願いした
当然であるが、〝おネェ言葉〟に戻したカマプアアの補足説明もキリサメの耳には全く届いていない。
「……頼りたいときほど言うことを聞かないなんて気まぐれな猫みたいだな……」
電知との
あるいは風に舞い上げられた未稲の傘を拾うべく交通量の多い車道へ飛び込んだ豪雪の日にも通じるというべきであろうか。
いずれの状況下でもキリサメの真隣で
その姿を映画のフィルムに
しかし、右目の光を奪われ兼ねなかった変則的な片手突きはどうであったか――直撃を被れば間違いなく致命傷であろうに、残像すら焼き付けない
その理由など余人には窺い知れるものではないが、殺意を叩き付けてくる相手の前で剣舞を披露するほどの
「案の定、イラついてるねぇ。確実にこいつを仕留められる隠し玉なのに惜しいよねぇ。そもそも〝アレ〟はサミーだって扱いに困ってたじゃん。今更、キレたってどうしようもないと思うよ?」
幼馴染みの芸当に苛立ちを抑えられないキリサメは、自分の声が届かない
「また余所見なんてますますツレないなぁ。そんなにあのカップルが気になる? それともデートスポットに打ってつけとか考えちゃったり? 何なら帰りに未稲ちゃんを誘ってみたらどうかな。ぼちぼちオフ会も一段落の頃合だろうし、照ちゃんも交えてボクらでダブルデートしようよ」
「そういうわけじゃ……いや、それよりも今のは、一体、どういう意味だ? ……オフ会だと? みーちゃんは
キリサメの詰問が最後まで紡がれることはなかった。正眼の構えを維持したまま無音の足さばきで間合いを詰め、中距離から飛び込むような形で振り落とされた竹刀が未稲の安否を問い質す声まで切り裂いたのである。
「
脳天目掛けて振り落とされた竹刀を高く翳した左下腕で受け止め、刀身を押し返しながら対の右手のみで『
相手が横転を図っていると直感したキリサメは『
瞬間的な跳躍で足払いを避けたキリサメは寅之助が待つ側へと振り向きながら右拳を硬く握り締めた。次いで同じ側の手首を左の五指にて掴むと、これを大きく振りかぶり、背筋や肩のバネを限界まで引き絞ったところで一気に解き放った。
「あくまでも〝
蹴り足とは反対側の膝を地面に突き、これを〝軸〟に据えて急速に逆回転した寅之助はその場に屈んだまま右手一本で竹刀を振り上げたが、これは打突ではなかった。水牛革の小振りな
「サメちゃんにも〝
畳み掛けるような打撃を一度も命中させられなかった事実を嘲るつもりか――そこに秘められた真意の行方はともかくとして、寅之助は舌を出しながら愉快そうに笑っていた。
キリサメの目に移る天地が逆様になったのは、上から打ち下ろす拳を
相手の懐に背を向ける形で腰を捻り込んだ寅之助は力の作用そのものには逆らわず、これが最も強烈に働く方向へ巧みに受け流した次第であった。
この攻防に前後して両手からリング状のツカ
相当な腕力でなければ持ち上げることさえ叶わないほどの重量である為、地面を抉った際には盛大な砂埃を巻き上げており、カウンターテーブルの付近で携帯電話を構え、斬り合いの撮影に勤しんでいた野次馬たちは一斉に
現代剣道では決して許されない追撃の剣――倒れた相手に振り落とされる竹刀から逃れるべく後方へ身を転がしている間に鼓膜を打った異音で得物の落下地点を割り出したキリサメは、バラの花で彩られた鉄製のガーデンアーチを望む橋の袂まで戻るなり身を引き起こしたが、見据えた正面に寅之助の姿はなかった。
「鬼さんこちら、神経逆撫で間違いナシな声のするほうへ――ってね」
「自分で良く分かってるんじゃないか……ッ!」
寅之助は鋭く尖った剣が峰を地面へ描くかのように身を移し、瞬時にして
神経を逆撫でするのは声だけではなく立ち居振る舞いの全てと言うべきか――わざわざキリサメが向き直るのを待ってから打突を再開したのである。今度は接触の寸前に引き戻すようなことはなく、胴や下腕、あるいは頭部を確実に狙っていた。
(……だが、これがお前の限界だ――)
口元を微かに歪めたキリサメは『
身軽になった
「自覚があるなら分かっているハズだな。自分がこれから命を落とす理由も……ッ!」
「未だにそんな物騒なコトを口走るくらいなんだから、サメちゃんのほうはまだ自覚できてないんだねぇ。お客さんの誰か一人でもキミの本心に気付いたらアウトだって、さっきも教えてあげたじゃん」
防戦一方の状況から形勢を立て直しつつあるキリサメへの応援と、逆転を許してしまう可能性が見えてきた寅之助への悲鳴――夕焼けの空に入り混じる二つの
直接、刀身を殴り付けて打突の軌道を捻じ曲げてくるキリサメの
ほんの一瞬、肩から肘に至る
寅之助の肘鉄砲に正面切って応戦しようとするキリサメは危険を省みずに自らも踏み込んでいき、外から内へ水平に振り抜くような形で同種の技を繰り出した。
「お前の肘打ちはさっきも見たからな。それに電知の『
「クセまでお見通しってワケ? 同じ技でお返しだなんて、ゾクゾクしちゃうよ」
互いの右肘が交差し、キリサメの鳩尾と寅之助の左側頭部をそれぞれ抉っていた。
無論、それでキリサメが攻撃の手を緩めるはずもない。折り畳んでいた肘をすぐさま伸ばし、右の五指にて寅之助の髪を掴むと、鳩尾に突き刺さる痛みで呼吸が妨げられるのも構わず彼の身を己のほうに引き寄せようとする。
これに合わせてキリサメは対の拳を寅之助の顔面へ突き込んでいく。例によって人差し指と中指を
応じる寅之助は密着状態の僅かな隙間へと右足を差し込み、おどけた調子で笑いながら力任せに蹴り剥がそうと試みた。キリサメの側も油断なく左膝を突き上げ、今まさに腹部へ押し当てられようとしていた足の裏を脛でもって受け止めた。
結局は抗い切れず力ずくで間合いを離された為に光こそ奪い損ねたものの、肘鉄砲で脳を揺さ振り、時間差をつけて打突を追い掛ける蹴り技すら弾いて両足をも軋ませたのだから効果は十分といえよう。
後方へ撥ね飛ばされた際に引き抜いた髪の毛が右の手のひらから滑り落ちていったが、頭皮の
「
「いちいち
「ヤるにしてもヤられるにしても
一部の野次馬が発した黄色い声などは当然ながら聞き流している。
「
偉大なる先達に一礼して寅之助が切り出したのは、またしても明治時代の〝
「……
「正解~。開催に貢献した
「……恐縮だ」
剣舞にまつわる
「昔話を楽しみたいなら二人で勝手にやれ。いい加減、僕を巻き込むのをやめろ」
「サメちゃんにこそ聞いて欲しいんだってば。無自覚なキミにね」
この頃にはアコースティックギターによる伴奏も三味線の模倣から別の楽曲に替わっていた。カマプアアの詩吟を受け、今度は日本から異国の剣舞へ繋げようというのだろう。女性シンガーが掻き鳴らすのは先程もキリサメが思い浮かべたばかりであるハチャトゥリアンの『剣の舞』であった。
絶妙な選曲を讃える声が周囲から上がったのも当然であろう。噛み合っているようで噛み合っていない会話を挟みつつ、拳と剣の〝鬼ごっこ〟を激化させていく二人には何よりも似つかわしいのである。
「さっきの話に出た『
「……柔術? 電知の柔道みたいなものか? ブラジルで盛んだっていう『ジウジツ』とは違うだろうけど、……それがどうして整骨院になる? 武道と医者じゃ正反対だろう」
寅之助が述べた「柔術」の二字からキリサメが真っ先に連想したのは
『
「
「人体の仕組みに詳しくなるのだから、破壊の逆回りも然りってワケか」
「やだなぁ、自己解決されちゃったらコミュニケーションにならないじゃん。相変わらず焦らしのテクニックが上手なんだから」
「これくらい僕にだって想像がつく。……お前がコンピューターで調べた〝世界〟は
〝
「ああ! 『
寅之助が右手一本で竹刀を振り落とした直後とも言い換えられるだろう。彼の右側面へ回り込むことで脳天を狙う縦一文字を
腕の関節を極めることで上体を傾けさせ、顔面を蹴り上げた
右腕を捻ろうとする
意識の外からやってきた不意打ちであり、瞬間的に膝から力が抜けて体重を支え切れなくなったキリサメは足を滑らせ、後方へ投げ出されるように崩れ落ちていく。その驚愕で拘束が緩むのを寅之助は見逃さず、手首を掴まれていた左右の五指を一気に振り解いた。
寝技にも長けた電知であれば寅之助の返し技に即応し、一度は捉えた右腕を決して逃さなかっただろう。横転させられる勢いを利用して自分の側へと相手を引き込み、肩や首を両足で挟んで別の技へと変化していたはずである。
(……『タイガー・モリ式の剣道』には関節技まであるのか? それとも電知から手ほどきを受けたか――この期に及んでMMA選手としての弱点を突き付けてくれる……ッ!)
寅之助の返し技にまで電知の面影を感じ取ってしまうキリサメは寝技が得意ではない。そもそも路上に寝転んで標的を制圧する必要性を感じていなかった。どこで誰が狙っているのかも分からない状況では相手が失神するまで悠長に待ってはいられないのである。
絞め落とすくらいなら首の骨を折ったほうが手っ取り早い――というよりも一瞬で仕留めきれないと別の敵からナイフで刺し殺されてしまう。それ故に数少ない関節技も立った状態から仕掛けるものばかりなのだ。
(第一、『
寅之助の背中越しではあるものの、視界の中には『
「
「……こじ付けまで妄想のネタにされたら電知も堪ったもんじゃないだろうな」
「つまるところ、
無様に転がされたキリサメの頭上へ追い撃ちのように突き刺さるのは、
「
姿勢に無理もあった為、下方から抉る前に蹴り足は
「……『
「パトロンとスポンサーは厳密には違うんだけど、当たらずとも遠からずって感じかな。
天然木のウッドパネルを両足で踏み、体勢を整え直したキリサメが自身の所属するMMA団体の大口スポンサーに言及した途端、寅之助は「さすがにそこまではアタマから抜け落ちていないらしいね」と愉しそうに首を頷かせた。
改めて
「今も昔もスポンサーはアスリートの死活問題だよね。名前を言っても多分、サメちゃんは知らないと思うけど、
「さっきから妄想を垂れ流してばかりのお前が何を言っているんだ……」
暴力しか頼るものがない社会の〝闇〟を生き延びたキリサメであるが、これまで格闘技の試合とは縁がなく、『
「ん~、現実感ゼロって
「いちいち
「MMAが一世を風靡した
「……お前だって他人事みたいに言うじゃないか。そうだろう、未来の道場主?」
「継いだ道場を自分の代で潰すかも知れないって
アスリートに限定される
寅之助も少しばかり触れたが、日本を代表するレーシングドライバーがスポンサー問題でチーム残留も危ぶまれていた頃、「ドライバーはクルマのことだけを考えるべきで、それが仕事だ」と述べたことは、競技の世界の〝現実〟を生々しくも端的に表している。
兼業などしなくとも己の〝道〟に全身全霊を傾けられる環境の確保は、時代と分野を超えて共通する永遠の課題といえるだろう。
「――この間の打ち合わせで初めて教えて頂いたのですけど、第三期からダンスの精度を一層高める為にモーションキャプチャーの機材を一新するそうなんですよ。今度の物はかなり
「幾らなんでも生々しいわッ! 湊さんってば人畜無害な顔して怖いな~。ギリッギリの爆弾を放り込んでくるな~。お陰様でDVDやCDの売れ行きも好調で、あたしたちも美味しいご飯を食べていられます!」
「こういう感じで第二期から第三期の間に『イシュタロア』もたくさん変わったけど、何といっても一番は主演声優が格闘家デビューしたってコトでしょ。『演じる役柄だけじゃなくて本人まで闘うんかい!』ってツッコミ入れた人も多いと思うよ」
「プロフィールの特技欄に格闘技と書いてあったし、熊本のご実家がそういうスポーツジムをやっていることも聞いていましたけど、プロデビューまでは想定外でした。事務所が許可したこと自体、不思議だったんですよ」
「すいっちょんも湊さんもここでそれを拾っちゃう? ていうか、『
『
二〇一四年現在の日本に
希更はキリサメが観戦した長野大会で初めて『
キリサメには知る
「実家の道場って古代ビルマ拳法とも呼ばれる『ムエ・カッチューア』なのよね。日本にジムがあることにも驚いたけど、それが熊本っていうのが奥ゆかしくて良いじゃないの」
「
「こう見えてアタシも若い頃にほんのちょっと格闘技をカジッたことがあるの。リゾート地のイメージが強いと思うんだけど、ハワイって昔から格闘技が盛んなのよ。『カジュケンボ』って聞いたことがないかしら?」
「確か、『空手・柔術・拳法・ボクシング』の頭文字を取って『カジュケンボ』――でしたっけ。東洋武術をベースにした新しい格闘技だと隠居した祖母から教わりましたよ」
「さっすが詳しいわねぇ~。ハワイへ出掛けるときには声を掛けて頂戴。知り合いの道場を紹介してあげるわ。きっとMMAの参考にもなると思うわよ」
「ていうか、空手やボクシングをごちゃ混ぜにするくらいだからデタラメ格闘技なんじゃないの? 今の話を聞いた限りじゃロコモコ丼みたいにぐちゃぐちゃぐちゃ~ってなってるイメージしかないよ」
「これがハイレベルに纏まってるんだよ、すいっちょん。向こうの複合武術は
キリサメが『
随分と贅沢な悩みに悶える人々の前を通り過ぎるようにして、キリサメと寅之助はこれまでの中で最も激しい〝鬼ごっこ〟を展開している。
「――どこまで話したっけ? サメちゃんのお友達の長話が割り込んでくるから忘れそうになるよ。ハワイの武術には少し惹かれるけどね」
「だったら口を塞げ。そのまま忘れていろよ。お前の長話ほど無駄なものはない」
〝鬼ごっこ〟であるからには環状の通路を二人して移動し続けることになる。目と鼻の先まで『
「ああ、そうそうっ!
「……『まだ話していなかった』じゃない。もう喋るなと言っているんだ」
「幕末維新の頃に浅草の〝顔役〟として
「〝顔役〟だから〝親分〟と呼ばれるんだろう?」
「呑み込みが早くて嬉しいな。
「将軍の義父……なのか? まるで影の最高実力者ってところだな」
「危ない連中にも顔が利いたそうだし、その例えもあながち間違っちゃいないかもね」
今度も
追われる側の寅之助は相変わらず目玉が後頭部に付いているのではないかと錯覚するように正面を向いたまま後方へ下がっていく。無論、一瞬たりとも足を止めず、環状の通路から花壇へ飛び出してしまうこともない。
寅之助の竹刀は頭部を狙って縦や斜めの軌道を描き、追い付かれそうになると一等大きく跳ね飛びながら横薙ぎでもって胴を脅かしていた。
「榊原先生の〝
「スポンサーの次は興行主か。……いちいち懇切丁寧な説明で頭に来る」
「辰五郎親分は
「……〝ヤシ〟っていうのは良く分からないな」
「お祭りの出店をシキる人っていうか……説明が面倒臭いから、コレが終わったら自分で調べて。ネット検索で一発だよ」
「誰がするものかよ……ッ!」
浅草の〝顔役〟である
竹刀による打突は
振り回す
『剣道三倍段』とは、読んで字の如く得物を握った敵は三倍の力量差がなければ苦戦を免れないといった意味合いである。
直撃させれば確実に致命傷を与えられる『
(……
野次馬からデビュー戦への影響を危ぶむ声も掛けられたが、そのように些末なことなど気にしてはいられなかった。
如何なる状況に
斬り合いの
相手の光を奪えるときには奪う。壊せるときに壊してしまう――それこそが暴力に支配された〝闇〟の世界の掟なのだ。貧民街の基準に照らし合わせるならば寅之助の甘さは命取りにも等しく、キリサメはそこに形勢逆転の糸口を掴んだ次第である。
ましてや畳み掛ける好機を逃すことなど生と死が鼻先ですれ違う貧民街を生きてきた人間には絶対に有り得ない感覚であった
(――ああ、成る程……だから、
空閑電知と瀬古谷寅之助――その身に古い時代の技を宿した両者を決定的に分けるのは何か、これを見極めたキリサメは力量差を叩き壊すべく右拳を繰り出していった。
「ここでサメちゃんにクイズを一つ。『最後の剣豪』と名高い榊原鍵吉先生だけど、戊辰戦争も終わって日本刀も新しい法律――〝
「僕一人しかいないのに早押しも何もあるのか。……普通に考えれば見限られるんじゃないのか。『
「まだまだ正解とは言い難いよ? 誰が誰を見限るって?」
「自分の出題を忘れたのか。有名な骨接ぎと将軍の舅だか何だかが
「――
剣道の試合であれば寅之助は頭部から顔面を覆う防具を装着しているはずだが、
それにも関わらず、傍目にはキリサメの頭部が寅之助から壊されているように見えるらしく、「いくら〝
「榊原先生は一人で〝
目の前で火花が飛び散るような状態にも関わらずキリサメの追撃を察知し、あまつさえ完璧に反応できたことにも寅之助が踏んできた場数が表れているといえよう。右膝の関節を踏み潰すべく
「集まった人間の殆どが明治維新で侍の武芸を否定され、〝
寅之助の声を左耳で聞く頃にはキリサメは反撃に転じている。腰を捻りつつ左腕を外側へ振り抜き、鼻の骨を手の甲でもって打ち砕こうとしていた。『
速射砲とも居合い抜きとも
当然、キリサメは力ずくで振り払おうとするが、寅之助はその勢いを反対に利用して彼の左腕を大きく振り回し、彼の上体が傾くなり懐まで踏み込んでいく。一秒と置かず右肩へ乗せるような恰好でキリサメの身を担ぎ、そのまま片手一本で投げ落としてしまった。
「
受け身を取って勢いを緩衝することさえ叶わないまま投げ落とされてしまったキリサメであるが、低い呻き声を洩らしながら地面へ四肢を放り出すようなことはない。天然木のウッドパネルに背中を付けた直後には蟹のハサミの如く両足を繰り出し、寅之助の胴を捉えようとした。
岳と電知がそれぞれの闘いの中で披露した同種の技を模倣した次第であるが、所詮は練習を経て体得したわけでもない付け焼刃であり、寅之助が僅かでも飛び退いてしまうとハサミのような両足が虚しく
(……負け惜しみにしかならないけど、『
先程と比べれば距離を縮めつつあるものの、望みの『
「榊原先生のもとに集った誰か一人でも不始末をやらかしていたら〝
黙殺へ努めるほど気に障ってしまう寅之助の
「今、ちょっと〝剣〟を〝拳〟に置き換えてみたんだけど、そっくりそのままサメちゃんの
「……薄汚い口であの人の名前を呼ぶな」
「一度は
偉大なる先達へ礼を尽くそうと
『現代剣道』のように脳天へ有効打を命中させて勝敗を分ける
風を裂いて迫り来る一撃を片手で受け止めれば命中した部位の骨が砕けるだけでなく、梃子の原理が働いて肘まで一緒に
これまでの打突が小手調べであったかのように重く、両腕の内部を軋ませる縦一文字であったが、肘や肩にまで及ぶ痛みよりもそこに添えられた囁きのほうがキリサメを遥かに揺さぶっている。
八雲岳は現代の
その言葉は二人を取り巻く野次馬たちの耳にも届いていたが、現代総合格闘技の先駆者が『最後の剣客』にも比肩する達人という
だが、キリサメは繰り返された言葉に全く異なる意味を感じ取っていた。あるいは寅之助が執拗に〝
「……八雲岳が
交差した両腕に刀身を押し付けるかのような恰好で上体を傾けた寅之助は、重心を突き崩す為の足技を繰り出しながら余人には聞こえないくらい小さな声でキリサメに囁く。
「黙れッ!」
その刹那にキリサメの放った
互いの脛をぶつけ合った際に生じた衝撃は膝関節まで貫いたようだ。
「――バロッサさんのデビュー戦は衛星放送の格闘技チャンネルでも取り上げてくれたからありがたかったわ~。会場で観戦した古馴染みから面白い試合だったって自慢されたもんだからマジで悔しかったのよぉ」
「ご覧になったんですか⁉ やだなぁ、ヘンテコじゃなかったですか? 試合の動画を見た母とは電話で三時間くらい反省会やったんですよ」
「お母様ってば厳しいのねェ~。ムエ・カッチューアでは何ていうのかしら……瞬く間に何発も飛び膝蹴りをブチかます技――あのフィニッシュを見たら、アタシなんか久々に血が騒いじゃったくらいよぉ。つむぎちゃん風に言えば『
「恐縮です~。母には首相撲から膝蹴りへ行くときにもっと脇締めろって注意されちゃいましたけどねぇ」
「それで想い出したわ! 結局、スペシャルライブはやらなかったのかしら? 番組の中でも触れてたけど、セレモニーのどこかで唄うんじゃないかってネットでウワサになってたわよね? 古馴染みも何もなかったって言うけど、気になって気になって」
「え~、なんですか、それ~? 最初から予定もなかったんですけど、どこからそんな根も葉もないウワサが流れたのかな~?」
カマプアアと希更の
大量の脳内麻薬でも分泌されているのか、痛覚が
反撃の
瀬古谷の道場で編み出された研がれた足技はあくまでも相手の体勢を崩し、剣道の技を叩き込む為のものである。その用途は『
同じ『
足の裏は水牛革の
防戦を強いられる時間の長かったキリサメにとっては千載一遇の好機であろうが、どういうわけか、当人の足までそこで止まってしまった。結局、寅之助の姿勢を崩した後の追い撃ちもプロレス式の後ろ回し蹴りのみであったのだ。
寅之助を仕留める為には欠かせないだろう『
「ここで一気に畳み掛けなきゃダメよ! もう出方を窺うタイミングじゃないでしょ⁉」
「まさか、自分の脛まで折れたってか⁉ おいおいおい、ここで怪我したらデビュー戦に間に合わないんじゃないか!」
「ヤワな
「何よ、あんたッ! 偉そうにヤジ飛ばすくらいなら、まずは自分が牛乳でも差し入れてやんなさいよ! カルシウムで満たしてあげてから口を開けッ!」
応援とは名ばかりの言い争いがキリサメの頭上で激しさを増しているが、野次馬の一人が懸念したように互いの蹴りをぶつけ合った瞬間に相討ちになってしまったということではない。右足を撥ね上げる寸前に寅之助から
「それでもボクのことを
野次馬たちの目には挑発を重ねているようにしか見えなかったことだろう。今度もキリサメだけが言葉の裏に潜むモノを受け取っていた。
キリサメの行く末の為にも見世物同然の〝
矛盾の極みであろうが、そもそも寅之助とは他者の尊厳を残虐に踏み躙っておきながら〝剣の道〟を現代まで繋げてくれた先達に持ち得る限りの礼を尽くすような
(……こっちの気も知らないで暢気に高みの見物か。……頭を撃たれたショックで性格まで壊れたのかよ)
二人が立ち止まったのは丘のような場所に建つ
何があっても近付きたくなかった建物が目と鼻の先に見えるのだからキリサメの眉間に善からぬ皺が増えてしまうのは当然であろう。案の定というべきか、これまでとは比べ物にならないほど強く幼馴染みの眼差しを感じている。
屋根の上という特等席に腰掛けた
対するキリサメは小鼻に沿った頬を如何にも不愉快そうに小さく引き
「――だってさ。
屋根の上から距離を無視して鼓膜に響いた声は
その上で
正眼の構えを維持し続ける剣先を見据えたまま、彼は完全に足を止めていた。
右脛を軋ませる
油が切れたブリキ人形の如く微動だにしない状態とは、両手を突き放してから絶えず求め続けてきた暴力性の
(……僕は何をしているんだ? 棒切れを振り回しているときじゃなかっただろう⁉)
〝剣〟を〝拳〟に置き換えた場合、〝
これらの言葉を尽くした果てに寅之助はキリサメに己の〝立場〟を質したのである。
明治でも平成でも、大規模な興行というものはスポンサーの支援があって初めて成り立つものであり、一人きりで開催することなど不可能であった。
寅之助は天運と
ここに至ってキリサメは寅之助が殺し合いではなく〝
「――キャラクターに声という命を吹き込むお仕事をさせて頂いて、もう言葉じゃ表せないくらい幸せなんですけど、生まれたときから身近にあったムエ・カッチューアもあたしにとっては同じくらい大切なんですよね。ムエタイとかに比べたら日本ではまだまだマイナー格闘技ですから、あたしが『
一足先にMMAデビューを果たした希更は宮崎物産館に詰め寄せた大勢のファンや共演者たちの前でムエ・カッチューアの使い手としての在り方を熱弁しているが、『
「サメちゃんのお友達は大胆だなぁ。立ち技最強なんて言ったら電ちゃん、またブチギレるんじゃない? ……そういや、〝あの日〟の電ちゃんってば腕や足の裏に幾つも穴を開けていたっけ。キミにとってこんなのは序ノ口ってコトかな」
想像を絶する
鳴りやまないシャッター音が逃げ場など存在しないことを無慈悲に突き付けている。
下世話なワイドショーで『
「――キミの起こした風が土壌を死滅へ導く
まさしく、その通りではないか。新しい風を起こすことができれば崩壊の
「次の岩手大会でもムエ・カッチューアは底ナシってトコをご覧に入れますよッ!」と宣言する希更の声は大勢のファンを沸かせ、MMAのリングとは異なる場所で拳を握るキリサメの心を罪悪感で満たしていった。
そもそも――だ。未稲の監禁場所を聞き出すべく寅之助の背中を追い掛け、次いで矛盾だらけの言動を不可解と感じた為に事件の真相を暴こうと考えたのである。それにも関わらず、目の前で笑う〝敵〟の破壊だけが目的となっていた。いつの間にか、心の中身が丸ごとすり替わっていた。
「面倒臭いことを考えるの、途中でやめたでしょ? ていうか、未稲ちゃんの存在すら忘れてたんじゃないの? 目先の敵を潰して気を紛らわせようってさ」
寅之助当人から指摘された〝結論〟の単純化を一度は自覚し、己の為すべきことを見定めたはずであったのに攻防が激しさを増した途端、未稲に危害が及んでしまったという自責の念もろとも〝敵〟を叩き潰すべく『
電知を相手に繰り広げた
虐待と誤解されるほど過酷な修練を積み重ねた末、寅之助は如何なる状況下でも使いこなせるまでに剣道の〝型〟を
尤も、寅之助の身に備わった〝型〟が伝説の剣士――
この場に
キリサメの
「一人でも仕留め損ねたらわたしたちみたいな〝犠牲者〟が増えちゃうもん。そんなの、ダメだよね?」
「――そうそう! 次の岩手大会であたしの友達も『
「えっ、それは何? きーちゃん、初の熱愛スキャンダルなの? やだよぅ、私というものがありながら他の人に手を出すなんて! タラシなトコまでつむぎちゃんに似なくて良いのにぃ! 週刊誌の取材を受けるときにはひまわり名義でコメント出さなきゃっ!」
「キリキリ、ごめんねー! ツーショットで週刊誌載っちゃお~!」
残響のように甦った幼馴染みの囁きを右耳に、強引に割り込んでくる希更たちの
このような情況は「我に返った」と表すのが最も相応しいはずだが、兇暴な〝闇〟を抱えたキリサメは己を正気とは思っていない。少なくとも法治国家日本の基準からは大きく外れているはずだ。
暴走寸前の猛牛にも等しい野次馬たちに取り囲まれ、正面に狂気の剣を
(一体、僕は〝何物〟なんだ⁉ 誓ったこと一つ、握り締めてはいられないのかッ⁉)
アコースティックギターによる『剣の舞』は即興のアレンジが施され、本来の演奏時間を過ぎた後も途切れることなく繰り返されている。その間にも希更は〝プロ〟のMMA選手として力闘するキリサメが楽しみでならないと熱弁し続けるのだった。
禍々しい刃に
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