その12:戦技~刀の変貌・戦時下の剣道

 一二、せん



 秋葉原駅から程近い宮崎物産館にて開催されているのは希更・バロッサが主演を務める人気アニメシリーズ『かいしんイシュタロア』のトークショーであるが、その内容は今や『天叢雲アメノムラクモ』の広報活動と間違われてもおかしくない。

 幻の古代ビルマ拳法と称される『ムエ・カッチューア』の道場に生まれた希更も〝兼業格闘家〟として同団体と契約を取り交わしている。今年の三月にMMAデビューを果たしたばかりということもあって話題に上るのは自然の流れかも知れないが、〝同僚〟のことを延々と喋り続けるのは公私混同以外の何物でもないだろう。


「――それにしても『キリキリ』って変わった名前よねェ。もしかして、アタシと同じハワイ出身だったりして?」

「カマプアア先生、幾らなんでもそれは天然過ぎでしょ~。きーちゃん、キリサメ・アマカザリっていう本名フルネームを先に紹介してたじゃないですか。『キリキリ』は愛称ニックネームでしょ」

「あらそうなの? ハワイには似たような響きの名前も少なくないから同郷かもって勝手に親近感を持っちゃったわ~。ツッコミありがと、水津さん」

「名前と名字をわざわざ逆さまにするのはダンサーネームみたいなコトなのかしら? 格闘技の世界ではを何て呼ぶのか分からないけど……」

「おぉっ、みなとさんもキリキリに興味津々? リングネームじゃなくて、そのまま本名なんですよ。キリキリは地球の裏側にあるペルーからやって来た喧嘩師なんです」

「日系ペルー人ってワケね。隣国おとなりのブラジルは『イシュタロア』でも参考にしたカポエイラやブラジリアン柔術、ちょっとマニアックなところでルタ・リーブリが盛んだけど、正直、ペルーの格闘技はピンと来ないわね。何かあったかしら……?」

「ハワイ武術にも明るいカマプアアさんでさえ計り知れないとは! 来月のデビュー戦がますます楽しみになってきたよ、キリキリ~っ!」

「それは過大評価よぉ。アタシ、若い頃にカジッた程度なんだからぁ」


 一緒に登壇した共演者とダンス監修者までもがMMA談義を楽しんでいる為、本筋アニメから脱線したまま止まる気配を見せないのだ。

 イベント全体の進行を取り仕切る司会がいないことについては希更当人が「気ままなフリートークって最高にリスキーな企画ですよね。あたしたち、延々と喋り倒しますよ」と前置きしていたが、それにしても『かいしんイシュタロア』と無関係なトークが長引くのはさすがに問題であろう。

 しかし、宮崎物産館に詰め寄せた大勢のファンは本筋アニメトークへ戻るよう文句を垂れるどころか、一字一句を聞き漏らすまいと耳を澄ませ、ムエ・カッチューアを広く知らしめる為にも『天叢雲アメノムラクモ』のリングへ臨んでいると希更が熱弁したときには背中を押すかのように拍手まで送っていた。

 素朴なファンの心理としてプライバシーを侵害しない程度には贔屓にしている対象の私生活を覗いてみたいものである。実家が道場を営む希更の場合はムエ・カッチューアがそれに該当するわけだ。この場に集まったファンの中には彼女のMMAデビューを見守るべく三月の長野まで足を運んだ者も多いことだろう。

 あるいは、これこそが〝プロ〟の真骨頂というべきかも知れない。何しろ身の周りの話だけで大勢の意識を惹き付けてしまえるのだ。カリスマ性とも言い換えられるは凡人とは掛け離れた才能の持ち主にしか成し得ないことである。


「〝日舞〟のことでもオツムがパンク寸前だし、格闘技は一ミリも分かんないレベルだけど、きーちゃんが挑戦中のMMAって男女無差別だっけ? キリキリさんがデタラメに強いトコをどこで見たの? 私が知る限り、ボクシングやレスリングのは男女で別々にやってた気がするよ」

「あ~、そ~だねぇ、と似たようなもの――ってコトにしとこっか。ミステリアスな方向で期待を煽っちゃうよ~」

「ほらほら~、私なんか専門用語だってご覧の有り様だもん~! そんなド素人をさりげなくフォローしてくれるきーちゃんが大好きッ!」

「ボクシングっていえばキリキリの格闘ファイトスタイルは結構、寄りかなって。チョッピングライトと同じようなパンチも使ってたし。蝶のように舞い、蜂のように刺す――って感じなんですけど、モハメド・アリの例え話じゃなくて本当に飛んで跳ねて暴れ回るんですよ。を見た瞬間、新しい世界の扉が開いたなーって!」

「アリも驚きのリアル空中殺法ってワケ? だけど、ペルーだから『ルチャドール』じゃないのよねぇ? メキシコで武者修行でもしていたら話は別だけど」

「格闘技経験のないすいっちょんと違ってカマプアアさん、専門用語使いまくりじゃないですか~。謙遜されてますけど、やっぱり心得があるんでしょ? カジュケンボ?」

「いやねぇ、バロッサさんったら。過去むかしの話は自分でペラペラ喋るのも、誰かが穿ほじくるのもヤボってもんよぉ」


 希更の口から紡がれる声は数え切れないほどのファンを魅了し、それ以上に話題の中心となった『キリキリ』――キリサメ・アマカザリの罪悪感を際限なく膨らませていく。

 立ち並んだザクロの木々よりも遠くに彼女の声を聞きながら、その期待を裏切るような行為を繰り返しているのだ。

 寅之助から〝げきけんこうぎょう〟の演奏者を押し付けられた女性シンガーがアコースティックギターでもって奏でるハチャトゥリアンの『剣の舞』へ引っ張られるようにその行為は加速していく。

 今も寅之助の膝関節を踏み潰すべく右足裏を振り落としたばかりである。これをかわされるや否や、左腕を大きく伸ばして目突きまで狙っている。蓄積させたダメージの影響で相手の身のこなしが鈍っている今が好機であり、骨や内臓の破壊を幾度となく試みていた。

 そもそも『天叢雲アメノムラクモ』という〝競技団体〟と契約を結んだ〝プロ〟のMMA選手が路上戦ストリートファイトに興じること自体、許されざる行為なのだ。ましてやキリサメは暴力性の顕現あらわれとも呼ぶべき『聖剣エクセルシス』まで持ち出している。

 野次馬たちの携帯電話に保存された写真は、この場に警察が急行してきた瞬間から致命的な証拠となり得るのだった。


「――声優っていうんだっけ? 例の警部が好きなアニメの人、格闘技やってるクセして口が軽過ぎるよね。大勢の前でサミーの得意技をバラすなんてフツーにじゃん。速攻で知れ渡ると思うよ? 対戦相手に手の内読まれるなんて最悪なのに、どうしてあのお姉さんは――あっ、の足を引っ張るハラか! 先輩選手の皆サマはリング外での新人イビリに余念がないね」


 砂色サンドベージュ幻像まぼろしとなった幼馴染みは依然として四阿あずまやの屋根に腰掛け、神経を逆撫でするくらい耳障りな声を距離さえ無視してキリサメの鼓膜に滑り込ませてくる。


「キリキリってばデビューの話もまだ出てなかった三月の時点でフィジカルの化け物みたいな具合だったし、今頃は完璧パーフェクト以上に仕上がってるんじゃないかな。キリキリの肉体からだをどこで拝んだのかはナイショね! ……マネージャー不在を良いことに危険球投げまくってるとマジで熱愛スキャンダルになり兼ねないからワクワクもといドキドキしちゃう!」

「そういや、このお姉さん、銃でブチ抜かれたあとやエグめの刺し傷を見ても大して驚いていなかったっけ。可愛い顔して中身はサミーとおんなじかも? 叩けば埃が出るアイドルってコアな人気が出そうな〝キャラ〟だね」


 幼馴染みの発言が余りにも腹立たしくて舌打ちを堪え切れなかったキリサメだが、これを自分に向けられたものと勘違いした寅之助は右半身を開いて直線的なストレートパンチをかわし、左手一本で反撃の竹刀を振り落としながら「ようやくボクのコトだけを考えるようになったんだね。嬉しいよ、サメちゃん」と相好を崩している。

 その反応がまたキリサメには不愉快でならず、縦一文字の軌道を描く竹刀を眉間で受け止めると今度こそ寅之助本人に忌々しげな舌打ちを浴びせた。


(……芽葉笑あいつは一体、何時からどこまで僕のコトを見張っていたんだよ……ッ⁉)


 希更が〝模擬戦スパーリング〟と言い換えたのは三月の長野で電知と繰り広げた路上戦ストリートファイトのことに他ならない。しかし、冬季五輪の関連施設にも自動車整備工場にも幻像まぼろしは立ち上っていなかったのだ。

 攻防の最中、在りし日の儚い面影が脳裏に甦る瞬間もあるにはあったが、それはあくまでも追憶に過ぎない。少なくともキリサメには気配すら感じられなかった。

 あるいは先端の尖った鉄パイプで突き殺さんとする姿を視界に映り込むことのない場所から見物していたのだろうか――そうでもなければ、希更のトークに相槌を打つことなど有り得ないのだ。

 それはつまり、『コンデ・コマ式の柔道』に叩き付けた剥き出しの暴力性までに把握されているということだ。その事実は半ばまで瞼が閉ざされた双眸を一等くらいものにしていた。


「今なら電ちゃんの気持ちが良く分かるよ。サメちゃんみたいにで襲ってくる相手は居そうで居ないもん。社会的立場なんかクソ喰らえ、殺人罪上等ってトコまでデタラメやってくれるんだから、ボクらも稽古とは別次元で学ぶコトが多いのさ」


 手首のバネを引き絞ることで左手による縦一文字を打ち込む寅之助に対し、右の下腕を差し出して刀身を受け止めたキリサメは、対の五指にて竹刀を握る側の袖を掴んだ。

 次いで己の背中を寅之助の腹部へ押し付け、同時にその左腕を大きく吊り上げた――電知との路上戦ストリートファイトを通して身をもって学んだ柔道の投げ技である。


空閑電知デンチ・クガと闘う羽目になった引き金も直接的には〝あのコ〟だったよね。この間は〝あのコ〟を守る為に自分を盾にして、今日は〝あのコ〟がヤられた分だけ仕返し――大事な〝あのコ〟の為なら〝アレ〟が反応しない相手を殺すことも平気なんでしょ? ……ベタつく関係は好きじゃないけど、ほんのちょっぴり妬けちゃうかも」


 両膝の屈伸に合わせて腰に乗せている寅之助の身を撥ね上げ、ブレザーの袖を掴んだ左腕を担いで前方に投げ落とすという性質ものであるが、寅之助に背を向けるか否かという間際に滑り込んできたの言葉に面食らい、技の拍子が大きく乱れてしまった。


「電ちゃんから教わったのかな、? 借り物の投げ技と考えても体さばきとか悪くなかったよ。後は肝心なときに姿勢が崩れないよう練習あるのみだね」


 キリサメは投げ落とした直後に爪先でもって鼻骨を陥没させるつもりであったのだが、俄かな動揺によって身のこなしまで鈍ってしまうような相手に捕まっているほど寅之助も甘くはない。重心を深く落とす恰好でウッドパネルを踏み締め、両足を引き抜かれてしまわないよう耐え切った。

 この直後、寅之助はブレザーの〝前〟を留めていたボタンが全て弾け飛ぶのも構わず、袖ごと捕獲されていた左腕を力任せに外した。

 竹刀を握り締めた側の手が自由を取り戻したということだ。言い換えればそれはキリサメの背後が無防備にも等しい状態で脅かされている状態をも意味していた。


「考えてみるとサメちゃんってズルいよね。長野でり合ったとき、電ちゃんにしこたま投げられたんでしょ? 付き合いの長いボクでさえ本気の投げをお見舞いされたコトがないのにさ。抜け駆けは良くないなぁ――」


 尤も、キリサメの返し技は余りにもはやく、圧倒的に有利な状況を生かすことさえ寅之助には許さなかった。背を向けたまま左右の肘鉄砲を立て続けに繰り出し、後方の〝敵〟を迎え撃ったのである。

 故郷ペルーの貧民街では昼夜を問わず〝誰か〟に命を狙われ続け、例え睡眠中であろうとも油断のできないほどの緊張状態を強いられてきたキリサメは人並み以上に危険を察知する勘働きが敏感である。後方に飛び退すさりながら胴を打ち据えようと寅之助が構えている間に肘鉄砲でもって割り込んでいったわけだ。

 さしもの寅之助も後頭部に目玉が付いているのではないかと錯覚してしまうような返し技は想定外であり、両側のこめかみから脳まで二重の波と化した衝撃が染み込んでいく。

 先程から頭部へのダメージが幾度も刻まれているのだ。追撃の肘鉄砲を連続して突き込まれたなら視界に映る全ての物体が逆さまに引っくり返り、一時的なものであろうと竹刀を振り回すことさえ困難になるだろう。


「――ちょ、ちょっとちょっと! まかり間違って血が出たらどうすんのよ⁉ いや、鮮血に濡れた横顔もお耽美な趣だし、見てみたいけど、それとこれとは話が別よっ!」

「そいつは贔屓目にも程があるだろ! あんなの気色悪いニヤけヅラじゃねぇか! 真っ赤に染まったほうがマシになるんじゃねーの⁉」


 寅之助の上体が大きく傾いたことをキリサメに伝えるのは、竹刀を握った優男イケメンを目当てに屋上庭園まで駆け付けた女性たちの悲鳴と、これを嘲る醜悪な笑い声である。

 たちまち言い争いを始めた人々など一瞥もせず左から右へと逆に腰を捻り、追撃の肘鉄砲で寅之助の鳩尾まで抉ろうとしたが、これは水平に構えた竹刀で防がれてしまった。

 四ツ割の竹片を組んだ刀身に右肘が接触した直後、キリサメは左足を〝軸〟に据え、更なる逆回転へ移ろうとする。一瞬たりとも足を止めずに畳み掛けようというわけだ。

 振り返ると同時に全体重を乗せた右足でもって寅之助の股を抉り上げるつもりであったのだが、回転を始めようとする間際に携帯電話のカメラを構えている野次馬たちの向こうに禍々しき『聖剣エクセルシス』が映り込んだ。

 攻防の最中に放り出され、そのまま花壇へ深々と突き刺さっていたのだ。砂埃を被ったまま物も言わずに〝持ち主〟の帰還かえりを待ち続ける得物は、一つの自問をキリサメの脳裏に甦らせた。

 僕は〝何物〟なんだ――本人キリサメ以外には誰にも答えようのない問い掛けである。

 ノコギリ状の刃は己と同じ〝血〟を浴びるほど吸っている。己自身で握り締めている間も悍ましいとしか思えない刀剣マクアフティルを焦燥と共に求めてしまうのは胎内回帰の願望か。それとも呼称よびな自体が大いなる皮肉という『聖剣エクセルシス』で重ね続けてきた罪が天の裁きに従うよう訴えている所為せいか。

 あるいは両方から手招きされているのかも知れない。それが証拠にキリサメは急旋回の為に据えた軸足でもって大きく跳ね、季節の花に混じって地面から生えている『聖剣エクセルシス』へ飛び付いていったのだ。

 その最中にキリサメは風を薙ぐ甲高い音を背中に受け止めた。胴への一撃で身動きを封じようとした竹刀が肝心の標的まとを外したのである。

 寅之助が右手一本に握り直した竹刀を内から外へ水平に振り抜く間際、当のキリサメは深く身を沈め、姿勢を低く保ったまま木片が敷き詰められた地面を蹴っている。

 そのさま死肉ごちそうを前にして鼻を鳴らす野良犬も同然であった。


「――きーちゃんってば『キリキリ』って後輩クンにすっかり夢中だね。〝お姉様〟的に嫉妬の炎がメラメラ来てるよ? 私も今から総合格闘技始めよっかな~。どこの馬の骨とも知れないコに愛しのきーちゃんをられるなんて耐えられないもんっ」

「すいっちょん、高校の頃は陸上部だったよね。ハードル走だっけ? 現在いまもアスリートらしい体付きを維持してるし、実は才能あるんじゃないかな。みなとさんも一緒にMMA三人娘みたいの、目指してみる?」

「ロアちゃんのベリーダンスでさえ肉体からだが追い付かないのに⁉ 私は道場の隅っこで二人を応援してますよ。『キリキリ』さんはきーちゃんの出場ている大会でも期待の大型新人みたいに取り上げられているのかな?」

「統括本部長――いわゆる、選手代表の秘蔵っ子とまで喧伝いわわれてますもん。そこまで持ち上げられても贔屓の引き倒しにならない潜在能力ポテンシャルの持ち主なんです。だから、もう同じリングに立てることが本当に嬉しくて! 会場全体に轟く大音声でキリキリがMMA選手と紹介される日が待ち遠しいんですよ~」


 ザクロの木々や花壇から漂ってくる香りが元より優しい希更の声を蕩けるくらい甘いものに変えているが、それはキリサメの心を満たし、両足を止め得るような答えではない。

 希更から寄せられる期待に応えようのない人間であることは、キリサメ自身が誰よりも理解わかっている。そして、は己が〝何物〟であるかを見極めないままMMAのリングに臨もうとしていた暴挙に対する結論こたえといっても過言ではなかった。

 本物の〝プロ〟であったなら、如何なる事情があろうとも〝敵〟の挑発に乗って軽々に拳を振るうことはない。ましてや路上戦ストリートファイトに及ぶようなことは断じて有り得ない。よしんばが警察から正当防衛として認められたとしても、過剰な『暴力』を法治国家日本という〝社会〟が許すはずもあるまい。

 から促されるまま〝生きていてはいけない存在〟の消滅を逸ったが為に未稲救出という果たすべき使命をも失念してしまった――愚かというしかない短慮を激しく悔恨しながらも、突き出した二本の指は目玉を、蹴り足は金的や膝関節を躊躇なく狙っていたのである。

 罪にけがれた拳を『暴力』ではないと包んでくれた未稲の言葉で己を誤魔化し、目を逸らしてきたが、その手に握り締めているのは人体を破壊する為だけに編み出した技である。

 希更の試合でしかムエ・カッチューアという格闘技ものを知らないが、対戦相手をKOノックアウトするだけでは終わらない〝実戦〟の場であったなら、頭部を押さえる飛び膝蹴りによって首の骨を確実に圧し折ったであろう。から指摘されるまでもなく、『バロッサ』という家名ファミリーネームを持つアイドル声優も殺傷の技術に長けていることが察せられた。

 その上で安全の確保が最優先となるMMAのルールに己の技を適応させているわけだ。少なくとも『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立つ希更の姿は〝競技選手〟以外の何物でもなかった。

 自分は彼女と同じように振る舞えるわけがない――と、希更のデビュー戦を思い返しながらキリサメは諦念と嘆息を噛み締めていた。

 御剣恭路から問い質されるまでもなく、MMA選手に相応しい資格など最初から持ち合わせていなかったのだ。真剣かたなであったなら腕も胴も切断されていたであろう鋭い打突に対し、反射的に飛び出してしまう人体破壊の技がを証明している。

 何よりもくらい瞳は船のオールを彷彿とさせる『聖剣エクセルシス』を捉えたまま、を視界から弾き飛ばしているのだ。つまり、間近に立つ男性の人影を完全に見落としていたということである。


「邪魔な――」


 その男性は、表木嶺子がプロモーションビデオの映像素材を撮影するときに使うような手持ちサイズのカメラをキリサメに向けていた。

 対峙する寅之助がレンズに収まらないような至近距離でキリサメのことを撮っていた為、不意の急加速から逃れることも叶わず、背広の上からでも瞭然なくらい細い上体へ頭突きを喰らう恰好になってしまったのだ。

 そこまで接近を許しながらもキリサメは男性の気配に全く気付いていなかった。衝突までの一部始終を眺めていた寅之助までが「ここまで抜き足差し足忍び足が得意な人はなかなかお目に掛かれないよ」と驚嘆するくらいであった。

 うんちくの多さが少しばかり鼻につく博識な男性や、腕が痙攣を起こさないかと心配になるほど長時間に亘ってアコースティックギターを掻き鳴らし続ける女性シンガーなど自分たちを取り巻く野次馬ひとびとが屋上庭園という空間内のどこに立っているのか、キリサメは抜かりなく把握している。

 四六時中、危険と隣り合わせという無法の非合法街区バリアーダスにて研ぎ澄まされた感覚の一つであったが、くだんの男性に関しては屋上庭園へ姿を現わした瞬間は言うに及ばず、小型カメラを向けられていたことさえ全く見落としていたのだ。

 薄気味悪くて仕方のないことだが、幻像まぼろしと化したのように気付いたときには〝そこ〟に立っていたのである。

 何よりもキリサメを驚かせたのは勢い余って腹部を穿ったはずの頭突きが撥ね返されたことである。腹筋の硬い感触と機械仕掛けのワイヤーで後方に引っ張られたのではないかと錯覚してしまうほど強い反動が頭蓋骨に染み込んでいった。


「当方の不注意――いえ、不手際で誠に失礼致しました」

「あ、いや……こちらこそ……」


 右手に構えたカメラを取り落とすこともなく、たじろぎもせずにヘソの辺りで頭突きを受け止め、次いで半身を開いて進路みちを譲った細身の撮影者は聞く者に中性的な印象を与える高めの声でもってキリサメに詫びた。

 生真面目という言葉が服を着て立っているかのような佇まいである。秋葉原のオフィス街から野次馬へ加わったのか、初夏の頃には見ているだけで暑さを感じてしまう黒い背広をボタンまで留めて着こなしている。

 愛想こそ乏しいものの、周囲まわりの野次馬たちのように過剰なほど昂ることもなく、その顔立ちは涼しげに引き締まっていた。進路妨害を陳謝する声も控えめながら明朗であり、優秀なビジネスパーソンであろうことが察せられた。

 あるいは寅之助のように何らかの武道を極めているのかも知れない。この場だけでも教科書には記載されないだろう歴史にまで詳しい知識人や、津軽三味線の教室に生まれた女性シンガーが集っているのだ。興味本位の見物人の中に腕自慢が一人や二人、混ざっていても何ら不思議ではあるまい。


「申し訳ないで済むわけねぇだろ! 折角、盛り上がってたトコを妨害すんじゃねぇ!」

「はあ~⁉ 無様な逃亡防止の壁になってくれたんじゃない! 負け犬の片棒を担ぐようなヤツは状況を正常まともに認識できないワケ⁉」

「聞き捨てならないわね! そもそも無断撮影自体が失礼の極みよ! あんたたち、まとめて肖像権侵害で相手取るわよ⁉」

「そういうお前が両手で構えてるモンはなんだ⁉ 今時、『ガラケー』ってよ! それも込みでふざけてやがるじゃねーか!」


 音もなく気配もなく屋上庭園に滑り込んできた細身の撮影者は、二分化された他の野次馬たちのようにどちらを支持するのか、明らかにはしていない。背後で激化していく醜い口論にも反応を示さないままキリサメにカメラを向け続けているのだった。

 そのレンズはキリサメの背中のみを中央に捉えている。脇をすり抜けていった寅之助がなるべく映像に入り込まないよう撮影する位置を細かく調整していた。

 改めてつまびらかとするまでもなく、得物マクアフティルを間近に捉えたキリサメ当人は一瞬たりとも背後を振り返ることがなかった。今にも互いの胸倉を掴み上げそうな野次馬ひとびとも、己を撮影し続ける正体不明のカメラも、『剣の舞』からムソルグスキーの『禿はげやまの一夜』へと切り替わったアコースティックギターの演奏さえも取るに足らないモノなのだ。


(自分のバカさ加減に呆れなくもないけどな――)


 振り回すだけで両腕が軋むくらい重量のある『聖剣エクセルシス』など持たないほうが明らかに有利であり、技巧に長けた寅之助とも互角以上に渡り合える――この事実はリング状となっているツカがしらが左右の手からすり抜けていった瞬間に立証されたはずだが、それでも己と同じ〝血〟を吸った得物マクアフティルを求めてしまうのは、どうあっても逃れられないごうとしか表しようがあるまい。

 暴力性の顕現あらわれが手元から離れた途端に平常心を欠いてしまう人間を指して何と呼ぶか、現在いまのキリサメは完全に見定めていた。所詮は未稲との誓いを言い訳に換えて〝現実〟から目を背けていたに過ぎないのである。

 ひきアイガイオン――ほんあいぜんが自分に酷似しているとして名前を挙げ、嶺子たちから無残な末路を教えられた日本人プロボクサーを想い出さずにはいられなかった。

 幼い頃から虐待を繰り返してきた父親を拳で屈服させて以来、『暴力』の有用性に覚醒したという男である。

 ジムのスカウトを受けて飛び込んだプロボクシングの世界でも腕力に物を言わせて傲岸不遜に振る舞い、挙げ句の果てに挑戦者の立場で臨んだフライ級タイトルマッチで当時の王者チャンピオンから片側の光を奪ってしまったという。

 電知が〝格闘技界の汚点〟とまで吐き捨てた史上最悪の反則行為によってプロボクサーとしての資格ライセンスを永久に剥奪された後もくだんの男は『暴力』の二字を拳に握り続け、ついには我が子を死に至らしめた。幼い日に苦しめられた虐待を自らが繰り返してしまったと、キリサメは嶺子たちから教わったのである。

 所属ジムと結託したテレビ局に祭り上げられたことで傲慢さが膨らんでいったひきアイガイオンとは事情も背景も異なるものの、『暴力』によって命を脅かされるような環境で育ち、己を追い詰めた存在モノと同じ手段に頼らなければ生き延びることさえ叶わなかったという点にいては愛染の見立てに誤りはないと、キリサメは思っている。

 咲き乱れる草花を土足で踏み荒らし、暴力性の顕現あらわれである『聖剣エクセルシス』のツカに左右の五指を引っ掛けた己と、怨んで怨んで怨み抜いているだろう親と同じ鬼畜に成り果てたひきアイガイオンがどれほど違うというのか――おそらくは同等か、それ以上に惨たらしい末路が待っているはずなのだ。


(……何しろ目を狙うところまで一緒だからな……)


 独り善がりな推量に過ぎないが、ひきアイガイオンも己を蝕んでいく苛烈な暴力性に翻弄されながら抗うことさえままならず飲み込まれてしまったのではないかとキリサメには思えてならなかった。このまま突き進めば最悪の事態に陥ると理屈では自覚わかっていても、意識を超えて反射的に動いてしまうほど肉体からだに馴染んだモノは制御コントロールし難いのである。

 そうしてひきアイガイオンに思いを馳せるほど完成したばかりの試合着が無意味に思えてしまい、キリサメは心の中でたねざきいっさくに詫びた。

 彼の感覚を喧嘩殺法が生まれた環境――故郷ペルーの貧民街に近付けることによって潜在能力ポテンシャルを最大まで引き出せるよう工夫を凝らしたと種崎は語っていたが、返り血を浴び続けてきた使い古しのシャツに頼るまでもなく、身も心も地球の裏側で死臭を撒き散らす〝闇〟からけ出せていないのだ。

 ひょっとするとは全てを見透かした上で、「現在いまのサミーはわたしたちと違って〝富める側〟の人間」などと繰り返し揶揄していたのかも知れない。


「――『天叢雲アメノムラクモ』の公式サイトに載ってるサメちゃんのプロフィール、趣味の項目に『相手の眼中を指でブチ破ること』って書いてあったっけ? またチェックしないとなぁ」

「どうなっているかなんて、おぼえてないし、見てもいない。……何かのときに絵を描くことが好きとは答えたけど……」

「まァ、今度、ボクがお邪魔する頃にはサメちゃんの名前なんかとっくに抹消されていそうだけどね。ていうか、『天叢雲アメノムラクモ』そのものが吹き飛んでいる可能性のほうが高いかな。〝最期〟までとことんやるつもりなんだからさぁ~」


 キリサメを追い掛けるように花壇へと歩を進める寅之助は憎たらしいほど眩しい笑顔を弾けさせている。

 右手に握った竹刀は剣先が低く下げられているが、臨戦態勢を解いたわけではないので少しでも油断すれば速射砲の如く打突が襲ってくるだろう。『聖剣エクセルシス』は平べったい側面が寅之助に向いた状態で突き刺さっている。これを生かしてみようと思案しつつも、付け入る隙がなかなか見いだせなかった。

 ただし、今なら踏み込みを視認してからでも防御や回避が間に合いそうだ。

 両足の動きが明らかに重い。接近した状態で地面に短い直線を描く分には問題ないものの、一足飛びで間合いを詰めつつ打突を仕掛けることは困難であろう。散々に痛めつけた脛は依然としてダメージが蓄積されたまま回復し切っていない様子である。


「これからサメちゃん、大変だよ。未稲ちゃんだって〝ネトゲ〟に現を抜かしてる場合じゃなくなるだろうし。失業者はキミひとりじゃない。統括本部長の養父おとうさんも選手引退まで追い込まれるのは間違いないね」

「これから死ぬ人間が僕たちの心配をしてどうなる? 遺書を作る時間だって与えてやるものかよ」

「向こうで気ままなお喋りをやってるお友達みたいに兼業でやっているならともかく、格闘家はツブしが利かないから再就職も苦労するだろうね。ちなみにサメちゃんはベトナム出身うまれの『ダン・タン・タイン』って知ってる?」

「ハリウッドのアクションスターと二足の草鞋を履くMMA選手だろう? ……お前の言いたいことくらい分かる。僕はバロッサ氏のようにもダン・タン・タインのようにもなれはしない。なろうとも思わない」

「路上で絵でも売って日銭を稼ぐかい? ここは日本であってペルーじゃないから〝向こうと同じ稼ぎ方〟はご法度だよ」

「――この日本人ハポネス、なかなかのアイディアマンだね。サミーの絵心なら最低限、その日を食い繋ぐことくらいできるでしょ。自分一人を食べさせれば良いんだし」


 最後に割り込んできたスペイン語の囁きはともかくとして――自分たちの会話を余人に聞かれないよう配慮することさえ放棄したらしい寅之助や、こうした意識を持ち合わせていないキリサメによる不穏当な発言ことばを受けて、近距離で携帯電話のカメラを構えていた野次馬たちから決して小さくないどよめきが起こった。

 戦いの果てに生死を決すると断言されたのだから当然であろう。秋葉原の町を駆け巡りながら繰り広げられてきた〝げきけんこうぎょう〟が実は〝見世物おしばい〟とは掛け離れたものであると初めて明かされたのである。

 二〇〇八年に同地で起きてしまった凄惨な通り魔事件を想い出し、四阿あずまやで立ち往生している男女のカップルと同様に血の気が引いた者がったとしても不思議ではなかった。

 女性シンガーはやや離れた場所から〝げきけんこうぎょう〟の成り行きを見守るように演奏を続けている為、二人の間で交わされる言葉も耳に入っていなかったが、誰かが概要あらましを吹き込んだ瞬間に弦を掻き鳴らす指が止まってしまうだろう。

 大勢から一斉に向けられた猜疑の目を剣先へ引き付けるように正眼の構えを取り直した寅之助は「食い扶持に苦労するのは明治の剣士も変わらないけどさ」と、またしても『日本最後の剣客』と称されたさかきばらけんきちの話題を持ち出した。

 正面のキリサメが浮かべている辟易とした表情など眼中にも入れていないはずだ。


「天下一の骨接ぎ――『せんじゅぐらどう』が後ろ盾になったさかきばら先生だけど、暮らし向きはずっと苦しかったみたいでね。明治一〇年頃だったかな……〝はいとうれい〟で明治政府から日本刀を取り上げられてしまったぞく――もと武士たちを相手に『やまとづえ』っていう代替品を売り出したんだ」


 「これだけやっても、まだ知識自慢が足りないのか」と呆れ返るキリサメを黙殺し、寅之助は『やまとづえ』が木刀の一種であることをつまびらかにしていく。鍔に当たる部分は袴の帯へ引っ掛けて固定する為に鉤状となっており、刀身も細かったという。

 形状から用途に至るまで寅之助が解説した通りであるが、わざわざ〝はいとうれい〟まで布いて日本刀を取り締まった明治政府に配慮し、〝杖〟という建前で売り出したそうである。

 寅之助は言及していなかったが、この事業も『ぐらどう』の四代目であるいちたすけたことは想像に難くない。


「木刀ってアレだよね、サミーのお母さんが洗濯物を干すときに使ってた棒切れみたいなヤツだよね? わたしみたいに路上で品物並べて叩き売りでもしてたのかな?」

「ペルーにもバナナの叩き売りってあるのかな? 芝居がかった口上でお客さんの購買意欲を掻き立てる売り方なんだけど、さかきばら先生の場合はもっとスケールが大きくて、〝げきけんこうぎょう〟と同じようなコトをやって盛大に売り出したみたいだよ」


 奇しくもの疑問に正答こたえを示す形となった寅之助は「サミーより遥かに気が利いてるじゃん。ありがとね」とスペイン語で紡がれた感謝の言葉に全く気付いていなかった。やはり、幻像まぼろしの声は彼の耳まで届いていないらしい。

 〝やまとづえ興行〟あるいは〝倭杖業指南〟とも称されるさかきばらけんきちにちなんだ知識をひけらかしながらも寅之助はこれまでのようにキリサメを追い立てることはなかった。さりとて先程までは踏み込みから打突に繋いでいたので激痛に苛まれて両足の動きが鈍ったということでもないだろう。

 そもそも剣道の試合では達人に近付くほど乱れ打ちのような状況が起こりにくくなる。相手が得意とする技も間合いも全て見極め、瞬く間に勝敗を決するのだ。ここに至って寅之助も一撃必殺の戦法に切り替えたのかも知れない。

 これに対してキリサメは草花を巻き込みながら地面に突き刺さった『聖剣エクセルシス』を引き抜いてもいない。右の逆手で長いツカを握り、左の五指をリング状のツカがしらに引っ掛けてはいるものの、四肢に力を込めた瞬間に機先を制する一撃が飛んでくることだろう。そこに生じる隙が狙われていると思えばこそ迂闊には動けないのだ。

 寅之助の出方を窺うべく試しに『聖剣エクセルシス』の脇をすり抜けて飛び蹴りを狙うような挙動うごきを披露したところ、身を移すことを想定していた先まで竹刀に追跡され、緩やかながらも剣先まで突き出されてしまった。

 得物マクアフティルであろうが打撃であろうが、あらゆる技を返り討ちにしてみせるという無言の威圧に他ならない。

 頭部や胴を叩かれるだけならまだ良いが、けんに組み込まれていたような鋭い突きで双眸を食い破られる事態だけはキリサメとしても避けたかった。

 自分のほうからは執拗に目突きを仕掛けておいて同じ技で脅かされることを警戒してしまう矛盾がキリサメにはおかしくてならず、これを見透かして四阿あずまやの屋根で腹を抱えて笑い続けるに「好きなだけ笑えよ」と心の中で呟くのだった。


「ヤマトヅエとかいう商品は良く分からないが、何とかという興行は要するに実演販売だろう? 故郷ペルーでも伝統音楽を演奏して客にCDを買わせるパフォーマンスを見たことがあるぞ。……お前が尊敬してやまないセンセイは日銭を稼ぐ為にサムライの技を切り売りするのも平気らしいな。この様子じゃ〝げきけんこうぎょう〟の真意も怪しいもんだ」

「……さかきばら先生の試みは士族たちにとって大きな意義があったと思うよ。例え日本刀を取り上げられても侍の魂は腐らせちゃいけないっていう教えを形にしたのがやまとづえだもん」

「苦しい言い訳だな。さすがにお前だって今のは頭を下げようか、迷ってたじゃないか」

「こりゃサメちゃんに一本、取られちゃったね」


 剣術の継承を目的とした〝げきけんこうぎょう〟との売り込みが重要視される〝やまとづえ興行〟は性質が似て非なる催しであり、さかきばらけんきちの精神を『現代』に継いだ剣士である寅之助にも複雑な思いがあったようだ。平素であれば竹刀を振るっている最中であっても先人に礼を尽くしているのに、このときばかりは天を仰いでこうべを垂れることを躊躇ってしまった。

 これを指摘したキリサメは『天叢雲アメノムラクモ』が前田光世の通称――『コンデ・コマ』の名を借りて実施しようとしている日米MMA団体の合同大会を金儲けの手段とまで吐き捨てた電知の姿を想い出さずにはいられない。


「〝げきけんこうぎょう〟は剣術とかサムライの武芸わざを見世物にしたんだよな? その言い方からすると時代が変わるまで庶民には縁がなかったようにも聞こえるぞ。剣術の継承だの何だのと恰好を付けていたが、結局、例の興行は珍獣を売り物にするサーカスと大差ないんじゃないか?」

「多摩の農民を中心に伝わった流派もあるし、江戸の町道場は広く門を開いていたからサムライの特権というほど極端でもなかったんだけどね。それでも〝げきけんこうぎょう〟で大勢に解放されたのは間違いないし、物珍しさで足を運んだ庶民が少なくないのは当日の大盛況が証明しているからねぇ~」

「所詮、サカキバラとやらも上っ面を剥がせば剣士じゃなくてガメつい商売人じゃないか。必死で言い繕ってきたお前に同情するよ。その日を食い繋ぐ為にサムライの特権まで安売りする姿に庶民ひとはどんな目を向けていたんだろうな? ……お前が握った武器も、腕にあおあざを作ってくれた『タイガー・モリ式の剣道』だって安っぽく思えてくる」

「まあ、うん……収入の件に関してはボクもね、うん……〝げきけんこうぎょう〟のときには会場を落語家と共有したってウワサもあるし……」


 さかきばらけんきちひいては〝現代の剣士〟まで繋がる森寅雄タイガー・モリをも侮辱したキリサメに苦笑いを浮かべる寅之助は随分と歯切れが悪かった。

 傍目には執拗に繰り返されてきた挑発行為への意趣返しと見えるだろうが、キリサメ当人は恨みを晴らすことに意味など見出してはおらず、寅之助の激情を煽って隙を作らんとする手段に過ぎない。

 改めてつまびらかとするまでもなく、サムライの武芸が広く知れ渡っていく時期の庶民の反応も彼には興味の対象外である。〝興行〟ということなら八雲岳ちちおやの試合をリングサイドで観戦する未稲は膝の上に広げたノートへ攻防の要点などを熱心に書き込んでいたが、彼女と同じように勤勉な姿を歴史の彼方へ想像することもない。

 江戸開府以来、身分制度にいて自分たちよりも上位にった特権階級が珍獣同然と化した姿を憐れみ、二六〇年分の憂さでも晴らすかのように腹を抱えて笑い飛ばした者もいたであろうが、幕末維新まで歴史を遡る旅などキリサメは何の意味も見出せなかった。

 「その代わり」とでもいうべきか――キリサメの双眸は寅之助と、彼の後方からカメラのレンズを向けてくる細身の撮影者の肩越しに極めて厄介なものを捉えていた。

 応援する対象が二分化されて以来、反対側に立った相手を口汚く罵ってきた野次馬たちは拗れに拗れた挙げ句、今や互いの胸倉を掴み上げている。直接的に悪化の原因を作った人間が我関せずといった調子で撮影に勤しむ姿は呆れるほどに滑稽シュールであった。


(乱闘なんか始まったら最悪なんてもんじゃない。……ただでさえ邪魔な連中がゴチャゴチャと辺りに散ったら煩わしくて敵わないぞ)


 寅之助を殺し得る手段――『聖剣エクセルシス』に意識を取られる余り、半ばまで瞼の閉じた双眸が捉え損ねていた周辺まわりの様相をようやく理解し始めたキリサメであるが、彼もまた気に掛けることが常人の思考とは異なっている。


「……分け隔てなく日本の隅々まで各種武道を浸透させるのは国民の肉体からだを育てるのが目的だったのに、……いや、だからこそ、どうしたって弊害は避けられないんだよ……」

「随分とテンションが落ちてきたな。小賢しい知識自慢もそろそろネタ切れか」


 感情薄く控えめに語り続ける寅之助の後方では罵り合いの声がいよいよ大きさを増している。それにも関わらず、細身の撮影者は野次馬など見向きもしないのだ。当人からすれば真後ろで起きている騒動さわぎであろうに異次元の出来事の如く自分の立つ位置から〝向こう側〟を干渉し得ないものとして切り取っているようにも感じられた。


「剣道一五〇年の歴史にも振り返るだけで気持ちが塞いでしまうような時代があったんだよね。……さかきばら先生が未来の可能性を示した武道そのものが〝国策〟にされてしまったこともあったんだ」

「……随分と物騒な単語ことばが出てきたな」

「今はもうとっくに解散しちゃったけど、当時の日本には武道の奨励と普及を統括する全国組織があったんだよ。日本武道の元締め、総本山みたいのがね」

「それが〝国策〟なのか? ……キナ臭い話にしか聞こえないな」

「漫画に出てくる悪の秘密結社みたいだけど、各地の支部で国民体育を推し進める真っ当な組織だったんだよ。誰もが心身とも健やかになれるようにってさ」

「真っ当な組織――か。含みのある言い方で誤魔化されても、僕は別に困らないけどな」

「支部を置く他にも武道の専門学校を開設したり、大きな演武会を催していたんだけど、〝あること〟をきっかけにそれが政府直轄にされちゃってねぇ。そうなった途端にどんどんおかしな方向へ転がっていったってワケ」


 〝受難の時代〟のように述べたいのであろうと察せられる口振りになった瞬間、寅之助の顔から喜色に類される感情が完全に消えた。口角こそ吊り上げているものの、内面の発露ではなく作り笑いを貼り付けているだけであった。

 二〇一三年に地球の裏側のペルーで発生した大規模な反政府デモ――『七月の動乱』で犠牲となったの尊厳を冒涜し、その過失あやまちを恥じ入ったときのように動揺を抑え切れないのだろう。


「そのいけ好かない日本人ハポネス、攻めてるときはイケイケなのにそれが止まると脆いったらありゃしないね。ちょっと揺らぐだけで『マンハールブランコ』みたくドロドロに精神メンタル溶けちゃうし」


 幻像まぼろしという形で地球の裏側に現れた当人から『マンハールブランコ』――柔らかいキャラメル菓子のように打たれ弱いと揶揄されてしまったが、〝国策〟のもとに剣道のようが変えられていった〝受難の時代〟は記憶を紐解くだけでも心が軋むほど負担になるらしい。


森寅雄タイガー・モリがどの時代の人間かは良く分からないけど、サカキバラケンキチが生きていた明治時代から離れているのは何となく察したよ。例の組織とやらは二つの時代の間に挟まるのか?」

「森先生は違う道場で稽古を積まれていたから直接は関わっていないんだよ。『足がらみ』とか技が似通ってる部分は否定しないけど、ボクんも一応は別系統だし。……剣道全体の歴史ってコトならさかきばら先生と『現代』の狭間にあった組織と考えて貰って構わないよ。そもそも、『剣道』って呼称よびかたを広めたのもその組織だし」


 あれほど饒舌に挑発行為を繰り返してきた寅之助が急に口篭もるようになったのは剣道を〝国策〟の一つに変えてしまったきっかけに触れ難い為であり、彼の反応リアクションからそれが第二次世界大戦であろうとキリサメは察している。

 亡き母から〝世界史〟の授業で教わったことだが、一九四一年一二月八日の真珠湾攻撃パールハーバーもって戦端が切られた極東の重大局面――太平洋戦争を迎えた日本では国内で起こり得る全てに軍事が優先される体制になったとキリサメは記憶していた。


「確かに明治維新で武士の時代は終わったけど、その精神性は軍人にも通じるものが多いからね、くだんの組織や専門学校では武士道も教えていたんだよ。サメちゃん、『武士道』は分かるかな? 『死ぬことと見つけたり』みたいなの」

「……生憎、僕は日系人であって日本人じゃない」


 寅之助から「そちらのお兄さんはどう?」と問われた細身の撮影者はキリサメの姿をレンズの中央に収めることで忙しいのか、己の首を上下左右のいずれかに振るようなこともなかった。


「忠誠を誓った〝主君〟に尽くす一途さを精神的な支柱はしらのように説いていたのさ。武士道も吹き込み方次第では立派な思想教育だもん」


 幕末の武士の間で流行していたという剣舞を披露し、何よりもさかきばらけんきちが拓いた〝剣の道〟を歩んでおきながら、武士道そのものは随分と突き放して考えているようだ。

 対するキリサメも「〝主君〟に尽くす一途さ」という捉えようによっては極めて危うい一言から過去に〝世界史〟として学んだ太平洋戦争末期の悲劇を想い出していた。

 砂色サンドベージュ幻像まぼろしが腰掛けた四阿あずまやの屋根よりも遥かに上――黄昏たそがれの色がその濃さを増しつつある空にキリサメは鳥の群れをるような想いであった。

 いずれも鋼鉄はがねの翼を広げた機械仕掛けの鳥である。

 ペルーを訪れた八雲岳は古いフランス映画のワン場面シーンを例に引き、首都リマの北部に広がる海岸線が鳥たちの死に場所になっていると語っていた。そこには死期を悟った鳥が無数に集まり、砂浜に亡骸を横たえるという。

 しかし、〝世界史〟の彼方から飛び立っていった鋼鉄はがねの鳥たちが向かうのは母なる国の大地ではない。彼らは懐かしい面影を映した空を翔け、敵軍の艦船ふねを眼下に捉えると我が身を紫電あるいは流星に変えるのだった。

 外国の歴史に向ける言葉をキリサメは持ち得ないが、鋼鉄はがねの鳥たちが逆さに突き立てた鉾の如く急降下していく状況を武士道という精神ものが作り出したとするならば、『現代』を生きる寅之助もを容易くは受け容れられないはずだ。

 考えるよりも先に身体のほうが動いてしまうほど明朗快活であった亡き母でさえ、この事実を述べるときには慎重に慎重を重ねていたとキリサメも記憶している。


「身分はともかく、ある意味ではとっくに終わったサムライの時代に逆戻りってワケ。昭和と大正・明治は完全な地続きだから、良くも悪くも身近に感じられたのかもね」


 余りにも身近であったればこそ、散らなくても良かったはずの命を冥府の空へ導いてしまったのではないか――そのように口を開きそうになったキリサメは思い切り歯を食いしばって一切の言葉を飲み下した。

 寅之助の話から想起したのはあくまでもなのだ。ましてや半世紀以上も昔に起きたことへ誤りなどと言い捨てる資格を『現代』に生まれた人間が持ち合わせているはずもない。キリサメ自身、そこまで思い上がってはいないつもりである。


「武道だの何だのと言い換えているけど、サカキバラケンキチがお前たちに遺していったのは〝戦う力〟だ。真剣かたなを竹刀と入れ替えたって、それ以外の何物でもない。刀を取り上げておきながらサムライと同じ気構えでいろって言うのはいびつな先祖返りだよな」

「……かもね。〝国策〟としての武道はそんなモンだよ。敵兵を仕留める為の技が全国で一斉に教えられていたんだからさ。……『仕留める』っていうのは比喩じゃないよ」


 戦時下にいて剣道の技は『ざんとつ』と呼ばれていた――薄く笑いながら間合いを詰めていく寅之助は〝やまとづえ興行〟などさかきばらけんきち経済だいどころ事情を苦笑していたときとは異なる意味で歯切れが悪い。極めて慎重に言葉を選んでいるのは明白だが、それも無理からぬことであろう。終戦から一世紀も経過していない大戦せんそうという生々しい感覚は誰の心をも重くしてしまうのだ。


「――エイッ!」


 寅之助は森寅雄タイガー・モリの技に続いて戦時中の剣道を現代に再現するつもりのようだが、気合いの吼え声と共に振り落とされる一撃を左下腕で受け止めたキリサメは圧し掛かってくる重さに驚き、思わず片膝を突きそうになってしまった。

 ここまでに寅之助が披露した太刀筋は飄々と舞い踊るようであったが、今では『聖剣エクセルシス』の如く力任せに叩き斬る無骨なものへ変わっている。地面を窪ませるほど荒々しく、前のめりとさえ覚えるほど深い踏み込みは後ろに退くことを知らない剣を表しているようであり、敵前逃亡など許されないという突撃的な思想せいしんそのものである。

 何よりも腹の底から迸らせる大きな掛け声は剣舞の中でしか発していなかったのだ。

 この重々しい太刀筋には軍刀の使用を前提とした『ざんとつ』に対する〝現代の剣士〟の心情までもが託されているのではないかと、キリサメは鈍い痛みと共に感じていた。

 振り返れば無法者アウトロー同然に乱暴な母でさえ大戦せんそうについて語る声は驚くほど重苦しかった。

 第二次世界大戦にいてペルーは連合国側として参戦し、枢軸国側の日本とは相容れない関係となった。開戦前から日系移民に対してからぬ感情が渦巻いていた同地では国交断絶と共に熾烈な排日運動が展開され、不当逮捕やアメリカへの強制送還など多くの悲劇を招いたのである。

 暴言一つが火種となり、乱闘にまで発展するであろう野次馬たちの足元からは背の高い影が黄昏の光を受けて真っ直ぐに伸びていく。が四方を取り囲んだビルの壁に映り、真っ黒な輪郭でもって〝受難劇パシオン〟を演じている――キリサメにはそのように感じられた。

 双方とも日本人である。しかし、己が認めない存在を力ずくで排撃する偏った意識の暴走は戦時下かつての排日運動にも通じるものであり、互いを小突き合うというビルの〝影絵〟でも同質の狂暴性が暴き出されていた。


「日本人の心身を鍛えるべく古来からの武芸を庶民にも広めていた組織は、その内に強兵や軍人を養成するのが目的になっていったんだ。剣道だって戦場で敵と鉢合わせした場合の取っ組み合いが大前提。面や小手を決めて一本取ったら勝ち――なんて甘っちょろい世界じゃなかったのは事実だよ。……そうだね、サメちゃんの言うようにかな」

「どうして他人事みたいな顔しているんだ。今、自分で仕掛けている技も同じだろうに」

は単なる真似事だけどね。戦時中に広められた『せんけんどう』は瀬古谷の道場にとっても仮想敵だし、どう攻め崩すのか、〝他流〟として研究はしてきたからさ」

「……要するに軍用剣道ってことだろ」

「例の組織を中心に子どもたちにも教えられていたんだよ? と違うってコトくらいとっくに分かってるクセに。……だからこそ〝国策〟だったんじゃないか」


 寅之助は右の五指と共にツカを握り締めていた左手を鍔元に添え、まるで圧し斬るかのようにキリサメを脅かしている。すらりと伸びた四肢は標的を力ずくで制圧する際に最も力を発揮するものであり、刀身を受けた左腕に対の五指まで重ねていないと瞬時にして姿勢を崩されてしまうのだ。

 片腕を盾と代えて打突に耐え、対の手で刀身を掴もうというキリサメの算段など『せんけんどう』の前には通用しなかった。


「釘を刺しておくけど、森寅雄先生――タイガー・モリの技は例の組織とは別の道場だからね。広い意味では『古い時代の剣道』って括りかもだけど、そこは分けておいてね」

 さかきばらけんきちの〝げきけんこうぎょう〟によって継承の道を拓かれたサムライの武芸が全国規模の組織によって統括されていたことや、そのようが〝戦争の時代〟に至って大きく変わってしまったことがのキリサメにも理解できた。

 終戦からGHQ撤収までの間、日本国内で武道全般が禁止された背景にはこのような形で大戦せんそうに関与してしまった事実が横たわっているのだろう。〝戦う力〟の奨励は戦意発揚以外の何物でもあるまい。

 事実、同じ剣道の術理に則っているはずなのに竹刀を振るう所作うごきそのものが森寅雄タイガー・モリの剣と根本的に異なっているようキリサメにも感じられた。先程までの太刀筋は竹刀を精密に叩き込むといった具合であったが、『せんけんどう』と称された技には肉も骨も断たんとする勢いがある。


「――トォーッ!」


 刀身が左腕から滑って頭部を直撃する危険性リスクも省みずに自身の右足裏を繰り出し、寅之助の左足首を踏み潰さんと試みたキリサメは、これを避けるべくして後方へ飛び退すさった竹刀を掴むよりも早く反撃を受けてしまったのだが、右胴に喰らわされた横薙ぎは肋骨が悲鳴を上げるくらい重かった。

 その衝撃が一瞬で通り過ぎていくことも今までの太刀筋とは異なっている。命中した部位から竹刀を素早く引き戻すのではなく、押し当てたから抉り抜けるような形に変化していたのだ。

 四ツ割の竹片で組み上げた刀身を叩き付けるのではない。真剣かたなで斬り裂く所作である。


(……刃物は押したり引いたりしなくちゃ斬れない――寅之助こいつの武器が日本刀だったら、さっきので左腕が確実に落とされていたな……)


 まさに『ざんとつ』である。刃のない竹刀では実際に相手を圧し斬ることなどできないが、稽古さえ積んでおけば軍刀へ持ち替えたときにができるだろう。基本的な術理こそ共有していても、そこに働く理念は『打突』とは掛け離れていた。

 これこそが戦時下の剣道――『せんけんどう』の本質であり、〝国策〟として全国に広められた理由というわけだ。〝先祖返り〟とはこの上ない皮肉であった。


「――明治維新によって存在意義を否定され、西洋式の鉄砲や大砲に地位を奪われていた剣術が根絶を免れたのはさかきばらけんきちの尽力に他ならないが、評価が見直されるきっかけは別のものだ。……〝戦う力〟が価値を問われるのは結局、戦争というわけだな」


 〝げきけんこうぎょう〟にまつわる知識をひけらかしていた野次馬の男性が二人のやり取りを引き継ぐように含みのあることを述べ、寅之助当人もキリサメの前回し蹴りを竹刀で凌ぎながら頷き返した。

 躊躇いがちに首を頷かせたのは、剣の価値を戦争と結び付けられてしまうことに〝現代の剣士〟としての葛藤を抱えている所為せいかも知れない。


「電ちゃんほどじゃないにせよサメちゃんもそこそこ歴史に詳しいみたいだけどさ、『西せいなんせんそう』っていうのは聞いたことがあるかな?」


 キリサメとの分断を図るかのように『聖剣エクセルシス』の正面まで回り込んだ寅之助は、『せんけんどう』ひいては太平洋戦争よりも更に遡った時代の出来事をキリサメにたずねた。


「……西サイゴウタカモリが起こした叛乱……か?」


 寅之助を突破しなくては再び得物マクアフティルを握ることができないという状況に苛立ちつつ、キリサメは母の授業で聞いたおぼえのある偉人じんぶつの名前を記憶の水底から引っ張り出した。


「その西南戦争で価値を見直されたのが〝げきけんこうぎょう〟によって守られた剣術――って、おじさんも言いたいんだよね?」

「〝最後の侍ラストサムライ〟の幕引きとなるはずのおおいくさ武士サムライの時代を象徴する剣術の復権に繋がったのだからな。日本史を探してもこれほど皮肉な展開はなかなかあるまいよ」


 明治維新によって江戸幕府から認められていた身分も役目も、俸禄くいぶちまでも喪失うしなったかつての武士たち――ぞくの不満は経済的な困窮という現実問題を背景として暴発。新政府から追われたとうしんぺいを首領とする『らん』が引き金となり、ついには全国へ波及していったと、キリサメも〝世界史〟の一つとして亡き母に教わっている。

 そして、士族たちの叛乱は明治一〇年に至り、日本史上最後にして最大の内戦とされる『西南戦争』に辿り着く。

 明治維新の立役者であった薩摩の西郷隆盛が不平士族の嘆きを受け止め、それら一切を引き連れてくかのように挙兵。鹿児島から東京を目指して進軍する途上の熊本にて征討軍と死闘を繰り広げ、新時代に取り残された無念の屍を積み重ねていった。

 元号が明治と改められる前後に勃発した『しんせんそう』では旧幕府軍・新政府軍双方が諸外国から買い付けた洋式銃を運用しており、〝はこだて〟の終戦から数えて八年後の西南戦争でも撃ち合った銃弾が空中で衝突するような戦闘となったが、そのなか――時代の狭間という僅かな一瞬に古来より受け継がれてきた〝剣〟が再び光を放ったのである。

 熊本城の北に位置する切通しの坂道――ばるざかは主戦場まで大砲を運び入れることができる交通の要衝であり、ここに征討軍を迎えた西郷軍は銃弾の嵐さえも恐れずに白刃を振りかざし、裂帛の気合いと共に突き進んだという。

 戦国時代の昔から薩摩武士は勇猛果敢と知られており、「チェスト」という吼え声を交えた太刀筋は一撃で兜を叩き割るとまで謳われている。それだけに突撃の勢いは暴れ牛のように凄まじく、一斉射撃程度では足並みを乱すことさえ叶わなかったのである。

 最新鋭の銃砲を取り揃えたところで銃爪ひきがねを引くことさえままならない状況に持ち込まれては無用の長物でしかないわけだ。薩摩の〝剣〟に打ち負かされた征討軍は切通しの只中で立ち往生を余儀なくされたのだった。

 あの坂さえ越えられたなら勝機が見える。それなのに力と技で押し返されてしまう明治政府の焦燥感をキリサメも追体験しているようなものであろう。強引にでも『聖剣エクセルシス』を取り戻すべく右肩を突き出すようにして踏み込んでいった彼に対し、寅之助も同じ側から体当たりを仕掛けたのだ。

 そうして互いの右肩が衝突した瞬間、キリサメは予想を大きく上回る威力によって横転しそうになってしまった。先程のけんに織り交ぜられた体当たりは標的の足を地面から浮かせ、姿勢を崩すというものであったが、今度は全体重を叩き付けてその場に薙ぎ倒そうと図ったようである。

 幸いにしてキリサメの側が一方的に競り負けることはなく、互いの身が後方へ弾き飛ばされるのみで済んだものの、実際に転ばされていたなら容赦なく追い撃ちが降り注いだことであろう。

 軍刀による『ざんとつ』を考慮するならば、今し方の体当たりはそれ自体が殺傷の技術にも等しいのである。


(……明治維新後は鉄砲と大砲が中心だって教わった気がするけど、……剣術の復権?)


 〝世界史〟自体に高い関心があるわけでもなく、亡き母にも日本の歴史にける影響くらいしか教わらなかったキリサメには西南戦争で使用された装備など詳しく分かるはずもない。自動式拳銃ハンドガン短機関銃サブマシンガン突撃銃アサルトライフルといった現代の銃器ならば因縁浅からぬ故郷ペルーの『組織』と戦った際にも触れたが、西郷隆盛の挙兵とは国も時代も掛け離れているだろう。

 キリサメの脳内に浮かんだ曖昧な想像イメージを反映させるかのようにビル群の〝影絵〟も本体の動作とは無関係にその形を変えていく。

 胸倉を掴んでいた手に鉄砲とおぼしき歪曲した棒切れを携えるようになったのだ。ライフルの形状も正式な構え方もキリサメには分からないので、映し出された〝影絵〟には誤りのほうが多い。

 尤も、この場にいては詳細な再現など誰も求めていない。互いに銃口を突きつけ合う構図そのものが事態の深刻さを端的に表している。それだけで十分であった。

 このような近代戦争の只中に再び〝剣の時代〟が訪れたという事実が重要なのだ。

 思わぬ劣勢を挽回するべく征討軍の中から腕利きの〝武士〟たちが選ばれ、田原坂攻略の先鋒を務める決死の斬り込み部隊――『ばっとうたい』として臨時に編制された。

 『ふじろう』と改名し、警察官として新時代を生きていた新撰組さんばんくみちょうさいとうはじめも賊軍の汚名を晴らすべく志願したのだと野次馬の男性は語っていたが、そもそも新撰組の詳細に明るくないキリサメには話の半分も理解できなかった。


「そのおじさんが熱弁してくれた通り、西南戦争最大の激戦地になったばるざかで証明されたのは旧時代の遺物みたいに否定されていた剣術が接近戦ではかなり有効ってコトだね。志願したかどうかも定かじゃない新撰組の生き残りはともかく、『ばっとうたい』は西郷軍ヤバいヤツらと互角以上に渡り合ったそうだし、膠着状態の切り崩しっていう役目は十分に果たしたんじゃないかな」


 飛び道具の進化によって見向きもされなくなっていた武士サムライの技と精神が西南戦争を通じて再評価されたことは先に述べられた組織の誕生を促したとも寅之助は言い添えた。

 無論、ただ歴史的背景を述べるだけではない。彼の言葉は斜めの軌道を描く竹刀に乗せられている。


「――エイッ!」


 風を裂いて迫る刀身を命中寸前まで引き付け、真横に跳ねて回避するキリサメであったが、寅之助もこれを追い掛けて更に踏み込み、剣先で地面を擦るように竹刀を振り上げていく。

 水面へ急降下し、嘴でもって餌を獲った鳥が再び蒼穹に飛び上がっていくような軌道ともたとえられるだろう。「ヤーッ!」という吼え声は羽音の代わりというわけだ。

 『現代剣道』どころか、森寅雄タイガー・モリの系譜上にも位置しない『せんけんどう』のをキリサメは左右の掌でもって挟み込んだ。

 俗に『しんけんしらり』と呼ばれるものである。電知との路上戦ストリートファイトでは打ち捨てられていた鉄パイプを拾い上げて武器としたのだが、垂直に振り落としたところを同じ方法で捕獲されてしまったのだ。

 キリサメは過去の経験たたかいに倣って寅之助の『ざんとつ』を封じ込めたのである。

 電知の場合は『しんけんしらり』から投げ技に転じていたが、寅之助に付け焼刃が通じないことはこれまでの攻防で痛感している。そこでキリサメは相手の得物を押さえたままで下段蹴りローキックを繰り出した。

 下肢へ力を入れるだけでも激痛が走るだろうに強く深く踏み込んで『ざんとつ』を繰り出す精神力にはキリサメも瞠目しているが、無理を重ねる突撃精神に倣ったところで肉体の損傷という〝現実〟を補えるものではない。

 今し方の体当たりも両足の状態が万全であれば競り負けていた可能性が高いのだ。傷だらけの脛に更なる痛手ダメージを重ねることは身のこなしを鈍化させるという点にいても極めて有効だろう。不意に巡ってきた好機を逃すのは余りにも惜しかった。

 しかし、脛の破壊を狙った下段蹴りローキックは余りにも露骨であり、キリサメはこれまでにも同様の攻撃を幾度か繰り返している。それすら見抜けないようなら寅之助は森寅雄タイガー・モリの剣道などと称してはいないはずだ。

 当然の如く下段蹴りローキックの意図にも勘付いており、狙われていた右足を反対に蹴り足へと絡め、その足首を一気に払おうとする。これまでにも多用された『足がらみ』である。別系統と前置きしながらも森寅雄タイガー・モリの先にる瀬古谷の道場との共通点を否定していなかったが、『せんけんどう』にもこの足技が組み込まれているようだ。


「――これでどうだ……ッ!」


 今まさに双方の足が絡まろうかという瞬間、キリサメの両腕の筋肉が小さく短い吼え声に合わせて血管が浮かび上がるほど膨らんだ。

 『コンデ・コマ式の柔道』を志す電知と幼い頃から稽古を共にしてきたであろう寅之助は投げ技や組技への防御が巧みである。しかし、彼も二足で歩行する人間である以上、片足を持ち上げれば重心の維持が難しくなることもまた必然だ。寅之助が自分のことを横転させようと図るほんの一瞬を見極めたキリサメは、すぐさま脅かされていた左足を引き戻し、その状態から相手の身を膂力のみで持ち上げた。

 つまるところ、『しんけんしらり』で押さえた竹刀もろとも寅之助を後方に投げ捨てた次第である。電知のように相手の重心を崩すという技巧も経由しない単純な力技でもって自身に絡まっていた足さえ強引に引き剥がしてしまった。

 キリサメの両手から離れる間際には四ツ割の竹片を組んだ刀身も弓なりにしなっている。

 左右の脛に走る激痛が地面を踏み締めることも許さなかったのだろうが、空中に放り出されたのちの寅之助は機敏そのものであった。巧みに身を捻って姿勢を立て直すとキリサメの間近に着地し、右の逆手に持ち替えていた竹刀のツカがしらで反撃を仕掛けた。

 すぐさま振り返ったキリサメは自身の鳩尾目掛けて突き込まれてくるツカがしらを左の人差し指と中指で挟み、これを押さえるなり対の拳を握り締めた。そのときには寅之助の側も左腕を引き、拳によるあての姿勢に移っている。

 このまま攻め続けても互いの左拳をぶつけ合うだけであり、勝敗の天秤を傾けることは困難だろう。一度は『しんけんしらり』という有利な体勢に持ち込みながらキリサメは次の攻め手を見失ってしまった。


「残念だったね。『ばっとうたい』のようには行かないよ」

「……うるさいな」


 寅之助の皮肉がキリサメに重く圧し掛かった。

 キリサメの視界に映る〝影絵〟もまた鉄砲から日本刀へと持ち替え、互いの身を斬り刻んでいったが、野次馬たちの足元から伸びた黒い輪郭の延長に過ぎない為、剣先が胴を貫こうとも鮮血が噴き出すようなことはない。

 西南戦争の亡霊に取り囲まれた中でばるざかと同じ状態に逆戻りしてしまったのである。

 〝影絵〟が踊るビル群を染め上げていくのもドス黒い血ではなく黄昏たそがれどきの色であった。

 尤も、この屋上庭園が比喩でなく本当に血の色で塗り潰される可能性も低くはない。野次馬たちの諍いは秒を刻むごとに激しさを増しており、腰に刀を帯びていたならたちまち斬り合いを始めたであろう。

 互いを罵る言葉も空中で衝突した銃弾に匹敵するほど強烈なものとなっており、西南戦争の抜刀隊に着想を得た古い曲に切り替わったアコースティックギターの演奏も殆どが押し流されている。


ばるざかでも大戦せんそうの時代でも明治維新より前の剣術すがたに先祖返りしながら、どうにか平成まで続いてるってワケさ。……『剣道』と称しながら全く別物に頃も挟むワケだから、さかきばら先生の意志が正当に継がれているかどうかっていうと、なかなかアヤしいんだけどねぇ」


 さかきばらけんきちの〝げきけんこうぎょう〟から森寅雄タイガー・モリの系譜を挟んで『現代剣道』まで連なっていく無数の〝点〟を〝線〟で結び終えた寅之助は、依然として感情の発露とは言い難い作り笑いを顔面に貼り付けたままであり、吊り上げた口の端から自嘲が零れているようにも思えた。

 およそ一五〇年にも及ぶ剣道の歴史の中で繰り返されてきた〝先祖返り〟について、余人には計り知れない葛藤を抱えているのだろう。瀬古谷寅之助は先人たちの魂を背負って立つ〝現代の剣士〟なのである。


(先祖返り――か。電知は前田光世コンデ・コマの技を復活させたっていうけど、大戦せんそうの間に教えられていた柔道はどうだったのかな。敵を仕留める技は何通りも持ってるもんな、あいつ)


 敢えて単調な直線的なストレートパンチを打ち込み、同質のあてで応戦してくる寅之助と幾度か左拳をぶつけ合いながら、キリサメは正面で揺れるくらい瞳を覗き込んだ。

 暴力が支配する格差社会の最下層を生き延びてきたキリサメからすれば〝状況〟に合わせて戦い方を変化させるのは当然のことであって感傷的になる理由も分からないが、それでも青少年育成の場へいきなり軍隊が割り込んでくるような事態に遭遇したおぼえはない。

 あるいは寅之助が苦々しく感じているのは、己の愛する剣道が――偉大なる先人たちが拓いた〝道〟が軍事目的にされたことかも知れない。

 寅之助と同じように〝国策〟としての武道に反発した剣士は当時にも必ず存在したはずなのだ。そして、を速やかに反転せしめたのが『武士道』の存在ではないかとキリサメは推察している。彼自身はサムライの精神性など全く理解していないが、それ故に分析も客観的であり、ここまで聞かされてきた話の中に一つの仮説を見出した次第である。

 君恩に報い、国に殉じることを美徳とする教えが存亡の危機という状況下で人々の意識をどのようにしてすり替えていったのか――のキリサメでさえ想像するのは容易かった。

 だからこそキリサメは有事にって国民の戦意を大いに扇動したであろう武士道に対して寅之助が背を向けているように感じたのである。

 〝敵〟の心情に寄り添うことなど不快でならないが、一切の感情を消し去るような苦しみを伴いながら寅之助が持て余しているだろう気持ちがキリサメには痛いくらいに理解できてしまうのだ。


ドーという言葉は母さんから聞いたこともあったけど、想像とまるで違うな。自分では物を考えることができないロボットに人を殺すよう命令プログラムするのと同じじゃないか」

「……サメちゃんってばおっかないコトを言うなぁ。面倒臭い皆サマが今の話を聞いたら真っ赤な顔で掴みかかってくるよ? 結論は急ぐなって何回も注意してるのに――」


 武士の技そのものへの侮辱とも受け取られ兼ねない短慮を戒めようというのか、キリサメの二指から竹刀のツカを引き抜きつつ後方へ飛び退いた寅之助は着地と同時に再び間合いを詰め、右脇腹へ横薙ぎを繰り出した。

 「トォーッ!」という吼え声を伴う攻撃も『打突』ではなく『ざんとつ』である。

 太平洋戦争に伴い、戦時体制に即する形へ変質した『せんけんどう』では敵兵を必ず仕留めるという気魄が重要視されている。それは自らの死をも恐れない不退転の突撃精神に通じるものであり、左側頭部に迎撃の右上段蹴りハイキックを叩き込まれても寅之助は足を止めず、『ざんとつ』の構えも保ち続けた。


「これもまた一つの武士道だよ、サメちゃん」

「その武士道とやらが戦争の空にどんな〝鳥〟を放ったのか、……今の寅之助おまえが何よりも体現しているな……ッ!」


 脳を揺さぶられようとも寅之助は耐え凌ぎ、ついには外から内へ振り切るような横薙ぎでキリサメの右脇腹を軋ませた。「肉を切らせて骨を断つ」という玉砕覚悟の気概とも言い換えられるだろう。

 大した時間を置かずに二度も同じ部位を抉られてしまったキリサメは肺まで到達した衝撃で呼吸困難に陥っている。寅之助も大きくよろめいて片膝を突きそうになっていたが、双方とも一時的に動きが止まるような形にならなければ更なる追撃で肋骨をし折られていたはずだ。


「今のは効いたなぁ~。慣れない真似はするもんじゃないね。所詮は借り物の技だから調子が出ないや」


 さしもの寅之助にも笑って誤魔化せる痛手ダメージではなかったらしく、頭部あたまの調子を確かめるように首を左右に振っている。あるいは視界が回転しているのかも知れない。

 比喩でなく本当の致命傷にもなり兼ねない危険な交錯であり、一部の野次馬も悲鳴を洩らしたが、意外なことに寅之助から骨抜きにされてしまった女性は気付いていなかった。

 今し方の上段蹴りハイキックに罵声を飛ばしてもおかしくないのだが、それ以上に取っ組み合いを演じる集団への敵愾心が強いというわけだ。


「どこまでも過激だよねぇ。武士道を殺人命令プログラム呼ばわりする人、他で見たコトがないよ」

「国策だの思想教育だのと扱き下ろしたのは寅之助のほうだろ」

「武士道そのものは『侍らしくあれ』っていう心構えであって洗脳の道具じゃない。生まれてから今までの一七年間、ボクはそう信じてきたよ」


 大勢の脳が他者の視えざる手に掻き回され、その意志が暴走という形に捻じ曲げられていく恐ろしさは故郷ペルーにて頻発していた反政府デモ――何よりも『七月の動乱』で厭というほど味わっている。

 寅之助本人には否定されたものの、先に語られていた武士道というモノから故郷ペルーの市民たちを内乱の先兵に仕立て上げようと謀った忌まわしい『組織』を想い出さずにはいられなかったのだ。

 特定の思想ではなく西南戦争を引き起こした士族のように困窮という現実問題が引き金となっているのだが、同じ境遇にる群衆の間で共有され、増幅された心理が全体を支配するという点にいては相通じるだろう。

 言葉巧みに人の心を弄ぶ寅之助が一度は『組織』の首魁と重なっただけに、この筋運びは皮肉としか表しようがなかった。

 無論、全てはのキリサメによる一方的な見立てに過ぎない。


「――小さな頃から格闘技ムエ・カッチューアに親しんできたバロッサさんがこのシリーズの主役を務めるのはホント、運命的よねェ。『ぶつかり合って相互理解を得る』っていう『イシュタロア』のテーマへダイレクトにリンクしてるんだもの」

「それってつまり、拳を交えるコトとお互いを理解し合えるコトはイコールだって、実感として分かるって意味ですよね? ほらほら~! カマプアアさん、やっぱりハワイ武術をやり込んでいたんじゃないですか~。今の発言が動かぬ証拠ですよ」

「あらやだ、尻尾を掴まれちゃった? そこで前のめりになる辺り、バロッサさんってば根っからのムエ・カッチューア使いなのねェ~」


 ビル群の向こうから不意に飛び込んできた希更とカマプアアの会話トークは、武士道を一つの焦点にする寅之助の話とは相反していた。

 後者の寅之助が語った内容は、むしろ『かいしんイシュタロア』に登場する『ヒエロスガモス』という設定に近い。先程の話を聞く限り、複数の登場人物によるダンスの共演セッションを通じて〝エネルギー〟を無限大に高めていくそうだ。

 西郷隆盛を首領に戴いて明治政府に反旗を翻した不平士族や、国家転覆を謀る『組織』の首魁に操られて〝大統領宮殿〟へ押し寄せた怒れる民は攻撃対象との相互理解など求めず、同志との共鳴によって破壊的な衝動を濁流化させていったのである。


「さっき話したキリキリもデタラメに強いんだけど、他の選手と競い合ってお互いを讃えるって経験はなさそうなんですよ。そういう醍醐味たのしさを『天叢雲アメノムラクモ』で知ってくれたら嬉しいなぁって」


 相互理解にまつわるトークに感じ入ったのか、それとも『かいしんイシュタロア』のファンなのか――すぐ傍で起きている騒動さわぎにも無関心を貫いていた細身の撮影者が希更の言葉にだけは反応を示し、僅かに首を頷かせた。


「相手を叩き伏せるのが目的じゃない腕比べメインの格闘技でしか味わえないコトでもあるわよねぇ、――って、こんなコトを言うと、また尻尾掴まれちゃうかしら」

不良ヤンキー漫画の場合、タイマン張って友情が芽生えるみたいなトコもありますけどね」

「きーちゃんは『イシュタロア』以外でも『つむぎちゃん』だねぇ~。カマプアア先生は『根っから格闘家』って言ってたけど、私からすれば『根っからのあさつむぎ』だよ。このアニメに出演する為に生まれてきたんじゃないかなって思う瞬間もいっぱいあるし」


 希更の共演者が紡いだ言葉に対して、細身の撮影者は先程よりも深く頷いた。


「すいっちょん、それはねぇ、あたし自身も実感してるよ。すいっちょんや湊さん、カマプアアさんに大勢のスタッフさん、何よりこうして秋葉原まで足を運んで下さった皆さんと出逢う為にあたしは生まれてきたんだって本気で思ってるもん」

「ほらもぉ~、そーやってナチュラルに口説くし! ひまわりお姉様と私のときめきまでリンクしちゃうよ! 自分の演じてるコとドキドキ相互理解ってカンジだよぅ!」

前身団体バイオスピリッツから『天叢雲アメノムラクモ』に変わって、ようやく女性選手の対戦カードが組まれるようになったばかりだから『NSB』みたいな男女混合試合ミクスドマッチはまだまだ難しいかもだけど、いつかはあのリングで思いっ切り相互理解しようね、キリキリ~」

「――サメちゃん、〝鬼ごっこ〟やってる間に電話でも掛けた? キミに向けたトークとしか思えないよ」

「僕は携帯電話も持っていないんだぞ。走りながら公衆電話を使ったとでもいうのか」


 己に向かって突き込まれてくる左腕を先んじて叩き落としつつ宮崎物産館で行われている『かいしんイシュタロア』のトークショーへ耳を傾けていた寅之助は、希更・バロッサが屋上庭園にるキリサメへ直接的に語り掛けているのではないかと思い始めていた。

 実際、トークショーに臨んでいる希更の口からは『キリキリ』という緊張感のない愛称ニックネームが数え切れないくらい飛び出しているのだ。

 剣舞が話題に上ったのは偶然であろうが、希更の言葉はキリサメ個人を対象にしたものが殆どであり、商業ビルの工事現場から屋上庭園に至るまでの一部始終を把握しているようにも感じられた。

 何しろ『天叢雲アメノムラクモ』のリングにける選手間の相互理解まで熱弁しているのだ。〝プロ〟のMMA選手として超えてはならない一線だけは踏み止まるよう腕を引っ張っているのではないかと錯覚するほどであった。


「腕比べか。お涙頂戴のスポーツさわやか物語じゃないんだから――いや、スポーツの世界だって仲良しこよしの慣れ合いに浸っていたんじゃ強いってコトの本質にはたどり着けないだろうにねぇ。甘っちょろいって言葉でも足りないなぁ、あの人」

「……寅之助?」


 希更は〝競技選手〟の喜びが『天叢雲アメノムラクモ』ひいては格闘技そのものと表裏一体であるかのように述べ続けているのだが、それが癪に障って仕方がないらしい寅之助は慇懃無礼とは種類の異なる顔を覗かせた。

 人から憎まれる態度を取り続けながらも腹の底は晒さずにいた青年が初めて挑発の類いではない嫌悪感を剥き出しにしたのである。


「ボクだって『戦技剣道こんなわざ』は好きじゃないけどさ。……生きるか死ぬかの瀬戸際でなきゃ手が届かない領域だってあるんだよ――」


 左手一本でツカがしらの辺りを握った竹刀へ視線を落とし、四ツ割の竹片で組み立てた刀身をくらく見つめた寅之助は、声を掛けて良いものか戸惑っているキリサメの虚を衝くように間合いを詰めていく。


(……こいつ、僕に八つ当たりでもしようっていうのか?)


 その間に両の五指にてツカを握り直し、刀身を高く振りかざした直後にはキリサメの左肩目掛けて斜めの軌道を描いた。


「――エイッ!」


 咄嗟に右拳を突き上げて竹刀を弾き飛ばそうとするキリサメであったが、寅之助の竹刀はこれをすり抜けていった。狙われていると警戒していた左肩をも通り抜けたのである。

 やがて剣先がキリサメの右内肘辺りに到達し、直後に鋭く跳ね上げられた。それはつまり、迎撃の拳を突き上げたまま宙に留まっていた右腕が一等大きく弾き飛ばされたということだ。


「ヤァーッ!」


 踏み込みと共に竹刀は水平に閃き、全く無防備の状態となったキリサメの心臓へ迫る。間もなく鹿革で覆われた剣先がシャツの上から左胸に軽く接触した。

 剣舞に組み込まれた片手突きのように寸止めではなかったが、胸骨が窪むほど深々と抉られたわけではなく、鈍痛いたみも殆ど感じない。の突き技である。

 明らかに手加減されたもろ突きが何を意味するのか――希更・バロッサひいては〝競技選手〟という存在への嫌悪感に間近で接していればこそ、そこに秘められた意図がキリサメにも察せられた。


真剣かたなだったら今のでお陀仏だったでしょ? ……これが『せん』――馴れ合いなんかには真似できないモノだよ。サメちゃんならこの意味、分かってくれるよね?」

「……それは誰に向けた台詞だ。僕に言いたいワケじゃないだろう……」


 挑発的に口元を歪める寅之助であったが、果たしてその瞳が自分のことを本当に見ているのか、キリサメには疑わしく思えてならない。


「サメちゃんだって仲良しごっこがしたくてMMAの世界に入ろうとしたワケじゃないでしょ? 城渡マッチとの間にクサい絆が結ばれたとか、そんなベタベタなコトは絶対にないハズだよね? 勝手にお友達扱いされてゲロ吐きそうなんだよね?」

「……お前にあれこれ言われるまでもなく馴れ合いなんか煩わしいだけだし、そんなものを求めてもいない」


 『天叢雲アメノムラクモ』の〝同僚〟に対する仲間意識の有無を『ざんとつ』に乗せて何度も何度もただしてくる寅之助の執拗さに吐き気を催しながらキリサメは首を横に振った。

 尤も、寅之助に示した態度が一〇割の本音というわけではない。自ら求めることなど有り得ないが、『天叢雲アメノムラクモ』を通して知り合った人々のことは拒絶する理由もなく受け入れているのだ。

 〝同僚〟である希更は当然ながら、敵対組織に属する電知のことも親しい相手と認めている。『まつしろピラミッドプロレス』のレスラーたちもその中に含んでいればこそ木造橋の攻防でプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを繰り出したのである。


(これがバロッサ氏の言う相互理解なら、……分からなくもないよ)


 初対面の場では穏やかならざる事態へ陥りそうになったものの、自分のことを対戦相手として認めてくれた城渡マッチを先輩選手と呼ぶことに躊躇いはなく、すがだいら高原での遭遇から迷惑を被り続けてきた御剣恭路にさえ現在いまは恩義を感じていた。

 甚だ不愉快だが、戦時下の剣道で猛然と襲い掛かってくる青年を友人のように思ってしまうもキリサメ本人には抑えようがなかった。

 一方、細身の撮影者は希更を侮辱するような発言が寅之助の口から漏れ出して以来、眉間に皺を寄せ、遠目には分からないほど小さくし口を作っている。仕事帰りに『かいしんイシュタロア』のファンイベントへ加わるつもりで手持ちサイズのカメラを用意してきたのだとすれば、は断じて聞き捨てならないことだろう。

 焦点を合わせる為に左目を瞑り、右目もファインダーを覗き込んでいるので瞳を憤怒で満たしているのかは見極められないが、「きーちゃんは『イシュタロア』以外でも『つむぎちゃん』だねぇ」という共演者すいっちょん称賛ことばを否定された瞬間には眉間の皺が一等深くなっていた。


「サメちゃんの口から否定の言葉を聞いて安心したなぁ。キミまで宮崎物産館むこうのお友達と同類おなじになっちゃったら電ちゃんだって寂しがるもん」

「人付き合いにまで指図される筋合いはない。お前の都合なんか知るものか」


 竹刀を掴もうとする五指を避けるよう僅かに退すさった寅之助は右脇から後方へと剣先を向け、相手の目が刀身の動きを直感し得ない構えに変化していく。次いで宙に斜めの直線を描くような形で得物を振り上げ、追いすがるキリサメを真っ向から迎え撃った。


「トォ――」


 寅之助からすれば出鼻を挫き、右脇に続いて対の肋骨にも悲鳴を上げさせるつもりなのだろう。先に投げかけられた言葉への返答こたえも込めて、キリサメは胴に迫るを水平に風を薙ぐ蹴り一つで弾き返した。


「それにしたってサメちゃんのお友達ってばズルいじゃん。長野のデビュー戦は衛星放送パンプアップ・ビジョンでやってたし、あの人の伯父さんの試合だって電ちゃんに付き合って大昔にテレビで観たけど、どこからどう見てもなのに真っ当な競技選手アスリートって顔してるんだもん。詐欺も良いトコだよね?」

「同意を求められても……そもそも、僕はバロッサ氏の家族に興味はない」


 聞き耳を立てずとも半ば強制席に鼓膜へ飛び込んでくるトークショーの内容を振り返れば、ジャーメイン・バロッサという希更の母親は熊本の道場にて教え子たちの育成に励んでいるそうだが、伯父もまた格闘家として活動していたような口振りであった。


「伯母さんの旦那さんに当たるビクトー・バルデスピノ・バロッサって人が立ち技系団体の『こんごうりき』で暴れまくっていたんだよ。中間距離からステップインしつつ片足を振り回して側面サイドから顎にブチかます膝蹴りなんて痺れるくらい鮮やかだったんだから」


 すがだいら高原の温泉施設で電知が遊んでいたビデオゲームに同名のキャラクターが登場していたことなどキリサメは全くおぼえていない。ムエ・カッチューアの使い手である旨もプロフィールに明記されていたが、そもそも彼は筐体の画面ディスプレイすら殆ど見ていなかった。


「一九九〇年代を主戦場にしていた選手だし、とっくの昔に現役を退いて熊本へ引っ込んだって聞いたけどね。ちなみに入り婿なんだってさ」

「興味ないと言っただろうが。附帯情報はもっと要らない」


 『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体と同じ一九九〇年代半ばの旗揚げ以来、解散の憂き目に遭うこともなく活動を維持し続けている〝老舗〟の立ち技系格闘技団体『こんごうりき』の名称なまえはキリサメも記憶に留めていた。

 恭路の〝ゾク車〟へ跨る間際まで同団体の試合映像が自宅のテレビから垂れ流されていたのだ。寅之助たちに身柄を拘束されたという未稲と顔面をたれる出場選手が重なり、心臓が早鐘を打つほど焦燥を煽られたのだから厭でも脳に焼き付いてしまったのである。

 『こんごうりき』の重要人物キーパーソンは『競技統括プロデューサー』なる肩書きを背負っていた。その息子がキリサメと同時期に〝プロ〟の格闘家として初陣を飾るともテレビ番組では伝えていたのだが、状況が状況だけに当人もそこまで振り返ることはない。


「この間のソチ五輪にも代表選手を何人も送り込んだフランスの――なんだっけ、バッソンピエール家みたいに〝ザ・アスリート〟ってな顔してスポットライトを浴びてるけど、『バロッサ・フリーダム』とかいう道場の人たち、相手を殺す為の技を極めていそうなんだよねぇ。宮崎物産館むこうのお友達も伯父さんのビクトーも、どっちもホントは表に出ちゃいけないタイプじゃないかなァ」


 同調したように思われるのが癪なので頷き返すことはなかったものの、寅之助が言わんとした意味はキリサメにも分かっている。初めて名前を認識した伯父ビクトーのほうはともかくとして希更の試合では笑顔の向こうに死神スーパイの気配すら感じ取ったのだ。

 寅之助が述べた通り、これはバロッサ家の技に対する戦慄とも言い換えられるだろう。


「――出演陣の相互理解はお酒を頂きながら深めていますよ。収録の合間の楽しみですしね。今晩も酒盛りという名の『ヒエロスガモス』を堪能しますよ~」

「出た、酒豪っ! ていうか、湊さんが打ち上げに出るのって一年振りくらい? お腹に赤ちゃんがいる間は呑めなかったもんね~。鬼神みたいな呑みっぷりが見られないのは寂しいねって、すいっちょんとも良く話してたんですよ」

「可愛い我が子は旦那うちのひとの実家に預かっていただきましたから、醜態を晒さない程度には羽目を外しちゃおうかなって。『たまにはママも息抜きしておいで』という義理の両親の心遣いが泣けて泣けて……」

「格闘家同士でも打ち上げとかやるの? 以前まえにきーちゃん、有名レスラーさんが経営してる『異種格闘技食堂』が行きつけだって話してたけど、そういうトコに集まったりするのかなぁって。敵同士だからさすがにそこまで仲良しじゃないか」

「いやいやいやいや、フツーに仲良しだって。そもそも腕比べのライバルであって〝敵〟じゃないし。すいっちょんにもマルガのヨガ教室スクールを紹介したでしょ。『天叢雲アメノムラクモ』は面倒見の良い先輩もいるからデビュー戦の前にも壮行会みたいのをやってもらったよ。ご本人はインフルエンザを患って長野大会も病欠になっちゃったけど」


 言葉を交わしたこともない寅之助から危険分子のように謗られていると知る由もない希更は、MMA選手たちの交流について想い出し笑いを交えながら語っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』には希更とその対戦相手以外にも女性選手が何人も出場している。彼女をMMAの世界に誘ったという親友――マルガ・チャンドラ・チャトゥルベディもその一人であり、選手間の交流も盛んであるらしいが、キリサメは誰一人として顔と名前が脳内あたまのなかで一致しない。唯一、確信を持てたのはデビュー戦を直前に控えた後輩を気遣う〝面倒見の良い先輩〟がほんあいぜんではないことのみである。

 案の定というべきか、地面を滑るかのような身のこなしと柔軟にして多彩な蹴りを得意とする先輩選手について、希更は『おおいし・マクリーシュ・七七七しちみ』と紹介している。


「格闘技に詳しい方ならピンと来るかもですけど、七七七しちみ姉さんは『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げの前から日本の女子MMA団体で活躍していた選手なんです。正真正銘の大先輩が気さくに付き合ってくださるお陰で良い具合に肩の力も抜けたんですよ」

「きーちゃんのお姉様は私だけのハズなのにぃ。皆さんの前じゃなかったら今頃は悔しさでハンカチ噛み千切ってるトコだよぉ~」

「自分で話しながら『これはひまわりお姉様が嫉妬ジェラシるヤツだな』って思ったよ! キリキリにもねぇ、格闘家にはこういう楽しみもあるんだってもっと知って欲しいな。未成年だからお酒は呑めないけど、今度、美味しい焼肉屋さんに連れてってあげるからね~」


 力と技を競い合う試合こと以外にも〝同僚〟との絆を育んでいける――と、競技選手の楽しみを弾んだ声で語れば語るほど寅之助が指摘した殺傷の側面との落差が際立っていく。

 その寅之助は希更たちの交流を「巷で流行りの女子会感覚? お気楽で羨ましいっていうか、こりゃ電ちゃんも『天叢雲アメノムラクモ』にキレるわけだ」と鼻で笑った。


「仲良しごっこの為に〝本気〟を出せないなんて宝の持ち腐れも良いところじゃん。肉も骨も一振りで断ち斬れる名刀で峰打ちやってるようなもんだよ」


 選手間の慣れ合いが一種の足枷となり、ムエ・カッチューアの真価が損なわれているとまで寅之助は嘲っている。


「そもそもムエ・カッチューア自体がエグみ満点の伝統武術なんだけど、それを抜きにしたってあの一族、ヤバいニオイがするんだよね。日本中のどこよりも人が集まる東京じゃなくて、わざわざ熊本に道場を開くことからしてアヤしいじゃん」

「……バロッサ家の熊本移住は総帥の意向だと聞くし、そもそも希更さんの場合はお父上が予想外の〝家族計画〟を立てたのが原因なのだけど――」


 寅之助に反駁するかのような呟きがどこからともなくキリサメの耳に滑り込んできた。

 先ほど鼓膜を打った中世的な声とも似ていたようだが、本当に小さな呟きであったので正確に聞き取れたという自信もない。結局、自分にカメラを向け続ける撮影者が声の主とは確認できなかった。


「……母さんの知り合いにもお前みたいのがいたよ。他人の家庭事情をああでもないこうでもないと勝手に想像して陰口を叩くヤツが。そんなものを穿り返して何が楽しんだ」

「だってさぁ~、明らかに〝ボクたち〟の側なのに猫被ったまま堂々とお天道様の下を歩いているなんてズルくない? サメちゃんだってそう思うでしょ?」


 希更のことを羨むかのような言葉の真意を測り兼ねたのだろう。細身の撮影者もこれまでとは異なる調子で眉根を寄せ、撮影中の映像が乱れない程度に小首を傾げた。


「ちょっと待て。お前の言う〝ボクたち〟の中に他人ひとのこと、巻き込んでるだろ」

「今更だけど、あの人をフクロにしようってとき、ボクにも声を掛けてくれたら良かったのになぁ。アイドル声優って表の顔に隠された悪魔みたいな本性を電ちゃんに代わって引き摺り出してあげたよ」


 依然として感情の宿らない薄笑いを貼り付けたままではあるものの、もはや、寅之助は心の奥底で煮えたぎった醜い泥のような〝闇〟を吐き出すことにちゅうちょがないらしい。


「稽古では人を斬り倒すことのできない竹刀を使っていたけど、戦時下の子どもたちに広く教えられた剣道は軍刀へ持ち替えたときに敵兵を確実に仕留める為のモノだった。それだから『せんけんどう』と呼ばれるんだよ」

「バロッサ氏と家族も同じだと言いたいのか? ムエ・カッチューアは『せん』だと」

「そこまでは言わないよ。ただねぇ~、……人殺しの『せん』にも等しい伝統武術ムエ・カッチューアを〝エンタメ〟として消費する魂胆だけは気に喰わないかな」

「それは別にバロッサ氏だけに限った話じゃないだろう。……竹刀を真剣かたなに持ち替えるのは戦争の最中であって〝特例〟――だよな?」

「そうとも。〝特例〟だけに普段は絶対に許されない。いわば〝きんじゅつ〟だね。その禁じられた力を客寄せの道具に使おうっていう神経がボクには信じられない――ときめいちゃうよ。どうやらサメちゃんとも電ちゃんと同じ以心伝心の仲になれたみたいだ」

「薄汚い腹の底なら察しがつくというだけだ。……大体、を言い出したらサカキバラケンキチの立場がないんじゃないか?」

「先生の志とは根本的に違うってば。サメちゃんもいじわるだなぁ~」


 支離滅裂とも受け取れる寅之助の言動へ一度は呆けたように開け広げた口を真一文字に引き締め、細身の撮影者はに再び憤怒を示した。


(……それが寅之助おまえの本性か……?)


 寅之助から溢れ出した〝闇〟は己のうちに宿したと同じように破壊的な衝動に結び付いてはいるものの、その本質は妬みや嫉みに近いものがあるとキリサメには感じられた。

 瀬古谷寅之助が森寅雄タイガー・モリの流れを汲む道場を担っているように希更もまた『バロッサ・フリーダム』という看板を背負って『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立っている。それはつまり、古代ビルマに由来する伝統武術ムエ・カッチューアの行く末を託された一人でもあるという意味だ。

 過去から『現代』へ紡がれる〝歴史〟の担い手という相似する境遇でありながら、光と影の如く正反対の〝道〟を歩んできた希更ひいてはバロッサ家の一族に対して、寅之助は酷く歪んだ憧憬――逆恨みめいた感情を一方的に抱いているのではないか。

 翻せば、己が伝説の剣士の名のもとに〝道〟そのものを心の奥底では憎んでいるのかも知れない。いずれも傍観者キリサメによる邪推でしかないのだが、穏やかならざる想像を引き出したのは他ならぬ寅之助当人の言行であった。


「――七七七しちみ姉さんって元々は『メアズ・レイグ』の選手だったんですよ。がさっきも話した女子MMA団体なんですけど、何年か前に団体ごと『天叢雲アメノムラクモ』へ合流しちゃったんですよね。〝合流〟にたとえるのが合ってるかは微妙かなぁ」

「その話ならアタシも聞いたコトがあるわ。かなり強引な買収だったってウワサもあったハズだけど、……それが本当なら『天叢雲アメノムラクモ』はスリリングな綱渡りをやってるワケね」

「どのタイミングで吹っ飛ぶか分からない〝火種〟を抱えた状態ってコトですしね。複雑な気持ちもあるハズなんですけど、それでも七七七しちみ姉さんはあたしや友人マルガと仲良くしてくれますから。〝立場〟は人それぞれかもだけど、同じ方向を見ているなら仲間――第二期最終回でロアさんが初めてつむぎちゃんやひまわりお姉様と『ヒエロスガモス』に挑戦したのと一緒ですね」

「――そんなワケないっての。サメちゃんのお友達ってば頭の中身がお花畑みたいなコトばっかり抜かしてるね。行儀の悪い言い方になるけど、正直、が出るよ」

「……それなら、お前が電知に向ける感情ものは何だ? バロッサ氏が喋っていたコトと何も変わらないだろうが」

「ボクからキミに向けてる感情ものだって同じだよ? 自分の技を錆び付かせているコトにも気付かないなんかとは違う――今のサメちゃんなら電ちゃんと同じようにボクの気持ちを理解わかってくれるよね?」

「……僕に理解なんか求めるな――」


 どこか縋るような声を真っ向から否定したキリサメは、たび、上体を低く沈め、その状態から野を這う獣の如く寅之助に飛び掛かっていった。

 その間にキリサメの右手が地面を掠め、小さな砂埃が舞い上がるのを寅之助の双眸は見逃さなかった。自分たちが無遠慮に踏み荒らした花壇には無数の小石が転がっている。


投石いしつぶてかッ!」


 他の野次馬へ〝げきけんこうぎょう〟について解説した男性もキリサメの動作から次なる一手を直感し、「いぶし銀な真似をする!」と唸り声を上げたが、これもまた見立て違いである。

 余人の目には小石を拾い上げたように映ったことだろう。実際、キリサメも低い体勢を維持したまま右腕を振りかぶり、一度は投擲の構えを見せている。だからこそ寅之助も迎撃の『ざんとつ』を踏み止まり、いし飛礫つぶてを警戒したのだ。

 結局、キリサメの手から飛び道具が放たれることはなかった。大きく腕を振りかぶったまま一気に跳ね飛び、掌中に小石を握り締めているだろう拳を勢いよく叩き落としたのである。寅之助の目を欺いたと確かめた上で別の技に変化したわけだ。

 電知との路上戦ストリートファイトから推し量り、武器に使えそうな物は何でも拾うのだろうと考えていただけに寅之助の反応は僅かに遅れてしまった。

 直撃の瞬間に手首のスナップを効かせ、握り締めた指と掌底を同時に当てるという猫の手のようなパンチを高く翳した竹刀で受け止めることはできたものの、跳躍の勢いと全体重を乗せた拳に押し込まれて反撃には移れなかったのだ。

 当然、キリサメの側は着地と同時に追撃を仕掛けていく。左足裏を軸に据えて鋭く腰を捻り込み、対の足でもってカリガネイダーから直伝されたプロレス式の後ろ回し蹴りソバットを繰り出した。

 『せんけんどう』に貫かれる不退転の突撃精神を再び発揮した寅之助は腹部に突き刺さる足裏でもって大きく跳ね飛ばされながらも左手一本で竹刀を振り抜き、「エイッ!」という吼え声に乗せてキリサメの右側頭部を捉えたものの、相討ちと認め得る状況には持ち込めなかった。


「慣れない真似は苦手じゃなかったのか? 大声出すのも似合ってないぞ」

「照ちゃんにはナイショにしておいて欲しいな。……哀しい表情かおはさせたくないからさ」


 重い一太刀で脳を激しく揺さぶられはしたものの、キリサメは〝敵〟との位置関係を変えることに成功していた。今し方の後ろ回し蹴りソバットでもって寅之助を『聖剣エクセルシス』から引き剥がし、船のオールともたとえられる長いツカまでようやく辿り着いたのである。

 リング状のツカがしらへ五指を引っ掛けようという瞬間に掌中から滑り落ちた物は一つもない。砂埃そのものが寅之助の目に錯覚を植え付ける為の仕掛けフェイントであって、小石の類など最初から握っていなかったわけだ。


「してやられてたなぁ~。ルール無用の喧嘩技って触れ込み自体をフェイントにするなんて反則スレスレじゃないの」

「知るか。お前が勝手に勘違いしただけだろ」

 間もなく寅之助も正眼の構えを取り直し、剣先による牽制も再開されたので禍々しい刀身を引き抜くことまでは叶わなかったものの、目的は十分に達したといえよう。


(……『せん』って呼べるほど上等なモンじゃないけど、〝人殺しの力〟しか頼りにできないのは僕だって変わらないからな……)


 薄気味悪い執着心を向けられることは煩わしくて仕方ないのだが、寅之助もまた身のうちにて抑え難い〝闇〟を持て余している。どうやらこれは間違いなさそうであり、本質的には自分たちは似た者同士といえるのだろう――甚だ不本意ではあるものの、その一点だけはキリサメも認めざるを得なかった。

 対する寅之助は当代随一の人気声優を相手に口が過ぎたことを自覚したのか、僅かばかり舌を突き出しながら「冗談、キツかった?」とおどけた調子で誤魔化そうとしたが、もはや、周囲のどよめきを鎮めることは叶わなかった。


「――もう我慢できないわ! 今の言葉を取り消しなさいよ! 取り消せっ! 棒切れ振り回すしか能がない? 剣道って言葉も知らない野蛮人がッ!」

「てめぇこそ新人選手ルーキーに詫び入れろ! そっちが先だろうが! 『見掛け倒しで大したコトもないのに粘るんじゃない』だと⁉ 見掛け倒しはどっちだ、このクソアマァッ!」


 そもそも、どよめきは寅之助の発言に対する反応リアクションではなかった。キリサメの視界に大きな〝影絵〟を映していた野次馬たち――二分化された人々の間に垂れ込める緊張感が頂点に達しようとしていたのである。

 寅之助に腰を抱かれて骨抜きにされていた女性と、キリサメが『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーであることへ真っ先に気付いた男性は特に危うい状態だ。周りの人間が双方を羽交い絞めにすることで引き剥がしてはいるものの、互いに足を突き出して牽制し合うなど一触即発という状況を完全に超えてしまっている。


「あっちもイイ具合に盛り上がってきたじゃん。ボクらにアテられちゃったのかな?」

「冗談を抜かしている場合か。……面倒っていうのは次から次へ押し寄せてくる……!」


 どちらか片方でも拘束を振り解けば、そのまま取っ組み合いの喧嘩になるだろう。ひいてはこれが引き金となり、なし崩しのように双方がぶつかり合う乱闘まで突き進むのだ。極度の昂奮たかぶりが伝播した群衆とは暴力的な衝動の捌け口へ殺到していくものである。

 剥き出しの狂暴性が〝現実〟を脅かし始めた瞬間、ビルの壁に映っていた真っ黒な輪郭は一欠けらも残らずに霧散した。四阿あずまやから飛び込んできた男女カップル混声の悲鳴によって吹き飛ばされたとも言い換えられるだろう。


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