その12:戦技~刀の変貌・戦時下の剣道
一二、
秋葉原駅から程近い宮崎物産館にて開催されているのは希更・バロッサが主演を務める人気アニメシリーズ『
幻の古代ビルマ拳法と称される『ムエ・カッチューア』の道場に生まれた希更も〝兼業格闘家〟として同団体と契約を取り交わしている。今年の三月にMMAデビューを果たしたばかりということもあって話題に上るのは自然の流れかも知れないが、〝同僚〟のことを延々と喋り続けるのは公私混同以外の何物でもないだろう。
「――それにしても『キリキリ』って変わった名前よねェ。もしかして、アタシと同じハワイ出身だったりして?」
「カマプアア先生、幾らなんでもそれは天然過ぎでしょ~。きーちゃん、キリサメ・アマカザリっていう
「あらそうなの? ハワイには似たような響きの名前も少なくないから同郷かもって勝手に親近感を持っちゃったわ~。ツッコミありがと、水津さん」
「名前と名字をわざわざ逆さまにするのはダンサーネームみたいなコトなのかしら? 格闘技の世界ではそういうのを何て呼ぶのか分からないけど……」
「おぉっ、
「日系ペルー人ってワケね。
「ハワイ武術にも明るいカマプアアさんでさえ計り知れないとは! 来月のデビュー戦がますます楽しみになってきたよ、キリキリ~っ!」
「それは過大評価よぉ。アタシ、若い頃にちょっとだけカジッた程度なんだからぁ」
一緒に登壇した共演者とダンス監修者までもがMMA談義を楽しんでいる為、
イベント全体の進行を取り仕切る司会がいないことについては希更当人が「気ままなフリートークって最高にリスキーな企画ですよね。あたしたち、延々と喋り倒しますよ」と前置きしていたが、それにしても『
しかし、宮崎物産館に詰め寄せた大勢のファンは
素朴なファンの心理としてプライバシーを侵害しない程度には贔屓にしている対象の私生活を覗いてみたいものである。実家が道場を営む希更の場合はムエ・カッチューアがそれに該当するわけだ。この場に集まったファンの中には彼女のMMAデビューを見守るべく三月の長野まで足を運んだ者も多いことだろう。
あるいは、これこそが〝プロ〟の真骨頂というべきかも知れない。何しろ身の周りの話だけで大勢の意識を惹き付けてしまえるのだ。カリスマ性とも言い換えられるそれは凡人とは掛け離れた才能の持ち主にしか成し得ないことである。
「〝日舞〟のことでも
「あ~、そ~だねぇ、スパーリングと似たようなもの――ってコトにしとこっか。ミステリアスな方向で期待を煽っちゃうよ~」
「ほらほら~、私なんか専門用語だってご覧の有り様だもん~! そんなド素人をさりげなくフォローしてくれるきーちゃんが大好きッ!」
「ボクシングっていえばキリキリの
「アリも驚きのリアル空中殺法ってワケ? だけど、ペルーだから『ルチャドール』じゃないのよねぇ? メキシコで武者修行でもしていたら話は別だけど」
「格闘技経験のないすいっちょんと違ってカマプアアさん、専門用語使いまくりじゃないですか~。謙遜されてますけど、やっぱり心得があるんでしょ? カジュケンボ?」
「いやねぇ、バロッサさんったら。
希更の口から紡がれる声は数え切れないほどのファンを魅了し、それ以上に話題の中心となった『キリキリ』――キリサメ・アマカザリの罪悪感を際限なく膨らませていく。
立ち並んだザクロの木々よりも遠くに彼女の声を聞きながら、その期待を裏切るような行為を繰り返しているのだ。
寅之助から〝
今も寅之助の膝関節を踏み潰すべく右足裏を振り落としたばかりである。これを
そもそも『
野次馬たちの携帯電話に保存された写真は、この場に警察が急行してきた瞬間から致命的な証拠となり得るのだった。
「――声優っていうんだっけ? 例の警部が好きなアニメの人、格闘技やってるクセして口が軽過ぎるよね。大勢の前でサミーの得意技をバラすなんてフツーに営業妨害じゃん。速攻で知れ渡ると思うよ? 対戦相手に手の内読まれるなんて最悪なのに、どうしてあのお姉さんは――あっ、商売敵の足を引っ張るハラか! 先輩選手の皆サマはリング外での新人イビリに余念がないね」
「キリキリってばデビューの話もまだ出てなかった三月の時点でフィジカルの化け物みたいな具合だったし、今頃は
「そういや、このお姉さん、銃でブチ抜かれた
幼馴染みの発言が余りにも腹立たしくて舌打ちを堪え切れなかったキリサメだが、これを自分に向けられたものと勘違いした寅之助は右半身を開いて
その反応がまたキリサメには不愉快でならず、縦一文字の軌道を描く竹刀を眉間で受け止めると今度こそ寅之助本人に忌々しげな舌打ちを浴びせた。
(……
希更が〝
攻防の最中、在りし日の儚い面影が脳裏に甦る瞬間もあるにはあったが、それはあくまでも追憶に過ぎない。少なくともキリサメには気配すら感じられなかった。
あるいは先端の尖った鉄パイプで突き殺さんとする姿を視界に映り込むことのない場所から見物していたのだろうか――そうでもなければ、希更の
それはつまり、『コンデ・コマ式の柔道』に叩き付けた剥き出しの暴力性まで
「今なら電ちゃんの気持ちが良く分かるよ。サメちゃんみたいに本気の捨て身で襲ってくる相手は居そうで居ないもん。社会的立場なんかクソ喰らえ、殺人罪上等ってトコまでデタラメやってくれるんだから、ボクらも稽古とは別次元で学ぶコトが多いのさ」
手首のバネを引き絞ることで左手による縦一文字を打ち込む寅之助に対し、右の下腕を差し出して刀身を受け止めたキリサメは、対の五指にて竹刀を握る側の袖を掴んだ。
次いで己の背中を寅之助の腹部へ押し付け、同時にその左腕を大きく吊り上げた――電知との
「
両膝の屈伸に合わせて腰に乗せている寅之助の身を撥ね上げ、ブレザーの袖を掴んだ左腕を担いで前方に投げ落とすという
「電ちゃんから教わったのかな、それ? 借り物の投げ技と考えても体さばきとか悪くなかったよ。後は肝心なときに姿勢が崩れないよう練習あるのみだね」
キリサメは投げ落とした直後に爪先でもって鼻骨を陥没させるつもりであったのだが、俄かな動揺によって身のこなしまで鈍ってしまうような相手に捕まっているほど寅之助も甘くはない。重心を深く落とす恰好でウッドパネルを踏み締め、両足を引き抜かれてしまわないよう耐え切った。
この直後、寅之助はブレザーの〝前〟を留めていたボタンが全て弾け飛ぶのも構わず、袖ごと捕獲されていた左腕を力任せに外した。
竹刀を握り締めた側の手が自由を取り戻したということだ。言い換えればそれはキリサメの背後が無防備にも等しい状態で脅かされている状態をも意味していた。
「考えてみるとサメちゃんってズルいよね。長野で
尤も、キリサメの返し技は余りにも
さしもの寅之助も後頭部に目玉が付いているのではないかと錯覚してしまうような返し技は想定外であり、両側のこめかみから脳まで二重の波と化した衝撃が染み込んでいく。
先程から頭部へのダメージが幾度も刻まれているのだ。追撃の肘鉄砲を連続して突き込まれたなら視界に映る全ての物体が逆さまに引っくり返り、一時的なものであろうと竹刀を振り回すことさえ困難になるだろう。
「――ちょ、ちょっとちょっと! まかり間違って血が出たらどうすんのよ⁉ いや、鮮血に濡れた横顔もお耽美な趣だし、見てみたいけど、それとこれとは話が別よっ!」
「そいつは贔屓目にも程があるだろ! あんなの気色悪いニヤけ
寅之助の上体が大きく傾いたことをキリサメに伝えるのは、竹刀を握った
たちまち言い争いを始めた人々など一瞥もせず左から右へと逆に腰を捻り、追撃の肘鉄砲で寅之助の鳩尾まで抉ろうとしたが、これは水平に構えた竹刀で防がれてしまった。
四ツ割の竹片を組んだ刀身に右肘が接触した直後、キリサメは左足を〝軸〟に据え、更なる逆回転へ移ろうとする。一瞬たりとも足を止めずに畳み掛けようというわけだ。
振り返ると同時に全体重を乗せた右足でもって寅之助の股を抉り上げるつもりであったのだが、回転を始めようとする間際に携帯電話のカメラを構えている野次馬たちの向こうに禍々しき『
攻防の最中に放り出され、そのまま花壇へ深々と突き刺さっていたのだ。砂埃を被ったまま物も言わずに〝持ち主〟の
僕は〝何物〟なんだ――
ノコギリ状の刃は己と同じ〝血〟を浴びるほど吸っている。己自身で握り締めている間も悍ましいとしか思えない
あるいは両方から手招きされているのかも知れない。それが証拠にキリサメは急旋回の為に据えた軸足でもって大きく跳ね、季節の花に混じって地面から生えている『
その最中に
寅之助が右手一本に握り直した竹刀を内から外へ水平に振り抜く間際、当のキリサメは深く身を沈め、姿勢を低く保ったまま木片が敷き詰められた地面を蹴っている。
その
「――きーちゃんってば『キリキリ』って後輩クンにすっかり夢中だね。〝お姉様〟的に嫉妬の炎がメラメラ来てるよ? 私も今から総合格闘技始めよっかな~。どこの馬の骨とも知れないコに愛しのきーちゃんを
「すいっちょん、高校の頃は陸上部だったよね。ハードル走だっけ?
「ロアちゃんのベリーダンスでさえ
「統括本部長――いわゆる、選手代表の秘蔵っ子とまで
ザクロの木々や花壇から漂ってくる香りが元より優しい希更の声を蕩けるくらい甘いものに変えているが、それはキリサメの心を満たし、両足を止め得るような答えではない。
希更から寄せられる期待に応えようのない人間であることは、キリサメ自身が誰よりも
本物の〝プロ〟であったなら、如何なる事情があろうとも〝敵〟の挑発に乗って軽々に拳を振るうことはない。ましてや
罪に
希更の試合でしかムエ・カッチューアという
その上で安全の確保が最優先となるMMAのルールに己の技を適応させているわけだ。少なくとも『
自分は彼女と同じように振る舞えるわけがない――と、希更のデビュー戦を思い返しながらキリサメは諦念と嘆息を噛み締めていた。
御剣恭路から問い質されるまでもなく、MMA選手に相応しい資格など最初から持ち合わせていなかったのだ。
何よりも
「邪魔な――」
その男性は、表木嶺子が
対峙する寅之助がレンズに収まらないような至近距離で
そこまで接近を許しながらもキリサメは男性の気配に全く気付いていなかった。衝突までの一部始終を眺めていた寅之助までが「ここまで抜き足差し足忍び足が得意な人はなかなかお目に掛かれないよ」と驚嘆するくらいであった。
四六時中、危険と隣り合わせという無法の
薄気味悪くて仕方のないことだが、
何よりもキリサメを驚かせたのは勢い余って腹部を穿ったはずの頭突きが撥ね返されたことである。腹筋の硬い感触と機械仕掛けのワイヤーで後方に引っ張られたのではないかと錯覚してしまうほど強い反動が頭蓋骨に染み込んでいった。
「当方の不注意――いえ、不手際で誠に失礼致しました」
「あ、いや……こちらこそ……」
右手に構えたカメラを取り落とすこともなく、たじろぎもせずにヘソの辺りで頭突きを受け止め、次いで半身を開いて
生真面目という言葉が服を着て立っているかのような佇まいである。秋葉原のオフィス街から野次馬へ加わったのか、初夏の頃には見ているだけで暑さを感じてしまう黒い背広をボタンまで留めて着こなしている。
愛想こそ乏しいものの、
あるいは寅之助のように何らかの武道を極めているのかも知れない。この場だけでも教科書には記載されないだろう歴史にまで詳しい知識人や、津軽三味線の教室に生まれた女性シンガーが集っているのだ。興味本位の見物人の中に腕自慢が一人や二人、混ざっていても何ら不思議ではあるまい。
「申し訳ないで済むわけねぇだろ! 折角、盛り上がってたトコを妨害すんじゃねぇ!」
「はあ~⁉ 無様な逃亡防止の壁になってくれたんじゃない! 負け犬の片棒を担ぐようなヤツは状況を
「聞き捨てならないわね! そもそも無断撮影自体が失礼の極みよ! あんたたち、まとめて肖像権侵害で相手取るわよ⁉」
「そういうお前が両手で構えてるモンはなんだ⁉ 今時、『ガラケー』ってよ! それも込みでふざけてやがるじゃねーか!」
音もなく気配もなく屋上庭園に滑り込んできた細身の撮影者は、二分化された他の野次馬たちのようにどちらを支持するのか、明らかにはしていない。背後で激化していく醜い口論にも反応を示さないままキリサメにカメラを向け続けているのだった。
そのレンズはキリサメの背中のみを中央に捉えている。脇をすり抜けていった寅之助がなるべく映像に入り込まないよう撮影する位置を細かく調整していた。
改めて
(自分のバカさ加減に呆れなくもないけどな――)
振り回すだけで両腕が軋むくらい重量のある『
暴力性の
幼い頃から虐待を繰り返してきた父親を拳で屈服させて以来、『暴力』の有用性に覚醒したという男である。
ジムのスカウトを受けて飛び込んだプロボクシングの世界でも腕力に物を言わせて傲岸不遜に振る舞い、挙げ句の果てに挑戦者の立場で臨んだフライ級タイトルマッチで当時の
電知が〝格闘技界の汚点〟とまで吐き捨てた史上最悪の反則行為によってプロボクサーとしての
所属ジムと結託したテレビ局に祭り上げられたことで傲慢さが膨らんでいった
咲き乱れる草花を土足で踏み荒らし、暴力性の
(……何しろ目を狙うところまで一緒だからな……)
独り善がりな推量に過ぎないが、
そうして
彼の感覚を喧嘩殺法が生まれた環境――
ひょっとすると
「――『
「どうなっているかなんて、
「まァ、今度、ボクがお邪魔する頃にはサメちゃんの名前なんかとっくに抹消されていそうだけどね。ていうか、『
キリサメを追い掛けるように花壇へと歩を進める寅之助は憎たらしいほど眩しい笑顔を弾けさせている。
右手に握った竹刀は剣先が低く下げられているが、臨戦態勢を解いたわけではないので少しでも油断すれば速射砲の如く打突が襲ってくるだろう。『
ただし、今なら踏み込みを視認してからでも防御や回避が間に合いそうだ。
両足の動きが明らかに重い。接近した状態で地面に短い直線を描く分には問題ないものの、一足飛びで間合いを詰めつつ打突を仕掛けることは困難であろう。散々に痛めつけた脛は依然としてダメージが蓄積されたまま回復し切っていない様子である。
「これからサメちゃん
「これから死ぬ人間が僕たちの心配をしてどうなる? 遺書を作る時間だって与えてやるものかよ」
「向こうで気ままなお喋りをやってるお友達みたいに兼業でやっているならともかく、格闘家はツブしが利かないから再就職も苦労するだろうね。ちなみにサメちゃんはベトナム
「ハリウッドのアクションスターと二足の草鞋を履くMMA選手だろう? ……お前の言いたいことくらい分かる。僕はバロッサ氏のようにもダン・タン・タインのようにもなれはしない。なろうとも思わない」
「路上で絵でも売って日銭を稼ぐかい? ここは日本であってペルーじゃないから〝向こうと同じ稼ぎ方〟はご法度だよ」
「――この
最後に割り込んできたスペイン語の囁きはともかくとして――自分たちの会話を余人に聞かれないよう配慮することさえ放棄したらしい寅之助や、こうした意識を持ち合わせていないキリサメによる不穏当な
戦いの果てに生死を決すると断言されたのだから当然であろう。秋葉原の町を駆け巡りながら繰り広げられてきた〝
二〇〇八年に同地で起きてしまった凄惨な通り魔事件を想い出し、
女性シンガーはやや離れた場所から〝
大勢から一斉に向けられた猜疑の目を剣先へ引き付けるように正眼の構えを取り直した寅之助は「食い扶持に苦労するのは明治の剣士も変わらないけどさ」と、またしても『日本最後の剣客』と称された
正面のキリサメが浮かべている辟易とした表情など眼中にも入れていないはずだ。
「天下一の骨接ぎ――『
「これだけやっても、まだ知識自慢が足りないのか」と呆れ返るキリサメを黙殺し、寅之助は『
形状から用途に至るまで寅之助が解説した通りであるが、わざわざ〝
寅之助は言及していなかったが、この事業も『
「木刀ってアレだよね、サミーのお母さんが洗濯物を干すときに使ってた棒切れみたいなヤツだよね? わたしみたいに路上で品物並べて叩き売りでもしてたのかな?」
「ペルーにもバナナの叩き売りってあるのかな? 芝居がかった口上でお客さんの購買意欲を掻き立てる売り方なんだけど、
奇しくも
〝
そもそも剣道の試合では達人に近付くほど乱れ打ちのような状況が起こりにくくなる。相手が得意とする技も間合いも全て見極め、瞬く間に勝敗を決するのだ。ここに至って寅之助も一撃必殺の戦法に切り替えたのかも知れない。
これに対してキリサメは草花を巻き込みながら地面に突き刺さった『
寅之助の出方を窺うべく試しに『
頭部や胴を叩かれるだけならまだ良いが、
自分のほうからは執拗に目突きを仕掛けておいて同じ技で脅かされることを警戒してしまう矛盾がキリサメにはおかしくてならず、これを見透かして
「ヤマトヅエとかいう商品は良く分からないが、何とかという興行は要するに実演販売だろう?
「……
「苦しい言い訳だな。さすがにお前だって今のは頭を下げようか、迷ってたじゃないか」
「こりゃサメちゃんに一本、取られちゃったね」
剣術の継承を目的とした〝
これを指摘したキリサメは『
「〝
「多摩の農民を中心に伝わった流派もあるし、江戸の町道場は広く門を開いていたからサムライの特権というほど極端でもなかったんだけどね。それでも〝
「所詮、
「まあ、うん……収入の件に関してはボクもね、うん……〝
傍目には執拗に繰り返されてきた挑発行為への意趣返しと見えるだろうが、キリサメ当人は恨みを晴らすことに意味など見出してはおらず、寅之助の激情を煽って隙を作らんとする手段に過ぎない。
改めて
江戸開府以来、身分制度に
「その代わり」とでもいうべきか――キリサメの双眸は寅之助と、彼の後方からカメラのレンズを向けてくる細身の撮影者の肩越しに極めて厄介なものを捉えていた。
応援する対象が二分化されて以来、反対側に立った相手を口汚く罵ってきた野次馬たちは拗れに拗れた挙げ句、今や互いの胸倉を掴み上げている。直接的に悪化の原因を作った人間が我関せずといった調子で撮影に勤しむ姿は呆れるほどに
(乱闘なんか始まったら最悪なんてもんじゃない。……ただでさえ邪魔な連中がゴチャゴチャと辺りに散ったら煩わしくて敵わないぞ)
寅之助を殺し得る手段――『
「……分け隔てなく日本の隅々まで各種武道を浸透させるのは国民の
「随分とテンションが落ちてきたな。小賢しい知識自慢もそろそろネタ切れか」
感情薄く控えめに語り続ける寅之助の後方では罵り合いの声がいよいよ大きさを増している。それにも関わらず、細身の撮影者は野次馬など見向きもしないのだ。当人からすれば真後ろで起きている
「剣道一五〇年の歴史にも振り返るだけで気持ちが塞いでしまうような時代があったんだよね。……
「……随分と物騒な
「今はもうとっくに解散しちゃったけど、当時の日本には武道の奨励と普及を統括する全国組織があったんだよ。日本武道の元締め、総本山みたいのがね」
「それが〝国策〟なのか? ……キナ臭い話にしか聞こえないな」
「漫画に出てくる悪の秘密結社みたいだけど、各地の支部で国民体育を推し進める真っ当な組織だったんだよ。誰もが心身とも健やかになれるようにってさ」
「真っ当な組織だった――か。含みのある言い方で誤魔化されても、僕は別に困らないけどな」
「支部を置く他にも武道の専門学校を開設したり、大きな演武会を催していたんだけど、〝あること〟をきっかけにそれが政府直轄にされちゃってねぇ。そうなった途端にどんどんおかしな方向へ転がっていったってワケ」
〝受難の時代〟のように述べたいのであろうと察せられる口振りになった瞬間、寅之助の顔から喜色に類される感情が完全に消えた。口角こそ吊り上げているものの、内面の発露ではなく作り笑いを貼り付けているだけであった。
二〇一三年に地球の裏側の
「そのいけ好かない
「
「森先生は違う道場で稽古を積まれていたから直接は関わっていないんだよ。『足
あれほど饒舌に挑発行為を繰り返してきた寅之助が急に口篭もるようになったのは剣道を〝国策〟の一つに変えてしまったきっかけに触れ難い為であり、彼の
亡き母から〝世界史〟の授業で教わったことだが、一九四一年一二月八日の
「確かに明治維新で武士の時代は終わったけど、その精神性は軍人にも通じるものが多いからね、
「……生憎、僕は日系人であって日本人じゃない」
寅之助から「そちらのお兄さんはどう?」と問われた細身の撮影者はキリサメの姿をレンズの中央に収めることで忙しいのか、己の首を上下左右のいずれかに振るようなこともなかった。
「忠誠を誓った〝主君〟に尽くす一途さを精神的な
幕末の武士の間で流行していたという剣舞を披露し、何よりも
対するキリサメも「〝主君〟に尽くす一途さ」という捉えようによっては極めて危うい一言から過去に〝世界史〟として学んだ太平洋戦争末期の悲劇を想い出していた。
いずれも
ペルーを訪れた八雲岳は古いフランス映画の
しかし、〝世界史〟の彼方から飛び立っていった
外国の歴史に向ける言葉をキリサメは持ち得ないが、
考えるよりも先に身体のほうが動いてしまうほど明朗快活であった亡き母でさえ、この事実を述べるときには慎重に慎重を重ねていたとキリサメも記憶している。
「身分はともかく、ある意味ではとっくに終わったサムライの時代に逆戻りってワケ。昭和と大正・明治は完全な地続きだから、良くも悪くも身近に感じられたのかもね」
余りにも身近であったればこそ、散らなくても良かったはずの命を冥府の空へ導いてしまったのではないか――そのように口を開きそうになったキリサメは思い切り歯を食いしばって一切の言葉を飲み下した。
寅之助の話から想起したのはあくまでも外国の歴史なのだ。ましてや半世紀以上も昔に起きたことへ誤りなどと言い捨てる資格を『現代』に生まれた人間が持ち合わせているはずもない。キリサメ自身、そこまで思い上がってはいないつもりである。
「武道だの何だのと言い換えているけど、
「……かもね。〝国策〟としての武道はそんなモンだよ。敵兵を仕留める為の技が全国で一斉に教えられていたんだからさ。……『仕留める』っていうのは比喩じゃないよ」
戦時下に
「――エイッ!」
寅之助は
ここまでに寅之助が披露した太刀筋は飄々と舞い踊るようであったが、今では『
何よりも腹の底から迸らせる大きな掛け声は剣舞の中でしか発していなかったのだ。
この重々しい太刀筋には軍刀の使用を前提とした『
振り返れば
第二次世界大戦に
暴言一つが火種となり、乱闘にまで発展するであろう野次馬たちの足元からは背の高い影が黄昏の光を受けて真っ直ぐに伸びていく。それが四方を取り囲んだビルの壁に映り、真っ黒な輪郭でもって〝
双方とも日本人である。しかし、己が認めない存在を力ずくで排撃する偏った意識の暴走は
「日本人の心身を鍛えるべく古来からの武芸を庶民にも広めていた組織は、その内に強兵や軍人を養成するのが目的になっていったんだ。剣道だって戦場で敵と鉢合わせした場合の取っ組み合いが大前提。面や小手を決めて一本取ったら勝ち――なんて甘っちょろい世界じゃなかったのは事実だよ。……そうだね、サメちゃんの言うように先祖返りかな」
「どうして他人事みたいな顔しているんだ。今、自分で仕掛けている技も同じだろうに」
「こんなのは単なる真似事だけどね。戦時中に広められた『
「……要するに軍用剣道ってことだろ」
「例の組織を中心に子どもたちにも教えられていたんだよ? 軍用と違うってコトくらいとっくに分かってるクセに。……だからこそ〝国策〟だったんじゃないか」
寅之助は右の五指と共にツカを握り締めていた左手を鍔元に添え、まるで圧し斬るかのようにキリサメを脅かしている。すらりと伸びた四肢は標的を力ずくで制圧する際に最も力を発揮するものであり、刀身を受けた左腕に対の五指まで重ねていないと瞬時にして姿勢を崩されてしまうのだ。
片腕を盾と代えて打突に耐え、対の手で刀身を掴もうというキリサメの算段など『
「釘を刺しておくけど、森寅雄先生――タイガー・モリの技は例の組織とは別の道場だからね。広い意味では『古い時代の剣道』って括りかもだけど、そこは分けておいてね」
終戦からGHQ撤収までの間、日本国内で武道全般が禁止された背景にはこのような形で
事実、同じ剣道の術理に則っているはずなのに竹刀を振るう
「――トォーッ!」
刀身が左腕から滑って頭部を直撃する
その衝撃が一瞬で通り過ぎていくことも今までの太刀筋とは異なっている。命中した部位から竹刀を素早く引き戻すのではなく、押し当てた傷口から抉り抜けるような形に変化していたのだ。
四ツ割の竹片で組み上げた刀身を叩き付けるのではない。
(……刃物は押したり引いたりしなくちゃ斬れない――
まさに『
これこそが戦時下の剣道――『
「――明治維新によって存在意義を否定され、西洋式の鉄砲や大砲に地位を奪われていた剣術が根絶を免れたのは
〝
躊躇いがちに首を頷かせたのは、剣の価値を戦争と結び付けられてしまうことに〝現代の剣士〟としての葛藤を抱えている
「電ちゃんほどじゃないにせよサメちゃんもそこそこ歴史に詳しいみたいだけどさ、『
キリサメとの分断を図るかのように『
「……
寅之助を突破しなくては再び
「その西南戦争で価値を見直されたのが〝
「〝
明治維新によって江戸幕府から認められていた身分も役目も、
そして、士族たちの叛乱は明治一〇年に至り、日本史上最後にして最大の内戦とされる『西南戦争』に辿り着く。
明治維新の立役者であった薩摩の西郷隆盛が不平士族の嘆きを受け止め、それら一切を引き連れて
元号が明治と改められる前後に勃発した『
熊本城の北に位置する切通しの坂道――
戦国時代の昔から薩摩武士は勇猛果敢と知られており、「チェスト」という吼え声を交えた太刀筋は一撃で兜を叩き割るとまで謳われている。それだけに突撃の勢いは暴れ牛のように凄まじく、一斉射撃程度では足並みを乱すことさえ叶わなかったのである。
最新鋭の銃砲を取り揃えたところで
あの坂さえ越えられたなら勝機が見える。それなのに力と技で押し返されてしまう明治政府の焦燥感をキリサメも追体験しているようなものであろう。強引にでも『
そうして互いの右肩が衝突した瞬間、キリサメは予想を大きく上回る威力によって横転しそうになってしまった。先程の
幸いにしてキリサメの側が一方的に競り負けることはなく、互いの身が後方へ弾き飛ばされるのみで済んだものの、実際に転ばされていたなら容赦なく追い撃ちが降り注いだことであろう。
軍刀による『
(……明治維新後は鉄砲と大砲が中心だって教わった気がするけど、……剣術の復権?)
〝世界史〟自体に高い関心があるわけでもなく、亡き母にも日本の歴史に
キリサメの脳内に浮かんだ曖昧な
胸倉を掴んでいた手に鉄砲と
尤も、この場に
このような近代戦争の只中に再び〝剣の時代〟が訪れたという事実が重要なのだ。
思わぬ劣勢を挽回するべく征討軍の中から腕利きの〝武士〟たちが選ばれ、田原坂攻略の先鋒を務める決死の斬り込み部隊――『
『
「そのおじさんが熱弁してくれた通り、西南戦争最大の激戦地になった
飛び道具の進化によって見向きもされなくなっていた
無論、ただ歴史的背景を述べるだけではない。彼の言葉は斜めの軌道を描く竹刀に乗せられている。
「――エイッ!」
風を裂いて迫る刀身を命中寸前まで引き付け、真横に跳ねて回避するキリサメであったが、寅之助もこれを追い掛けて更に踏み込み、剣先で地面を擦るように竹刀を振り上げていく。
水面へ急降下し、嘴でもって餌を獲った鳥が再び蒼穹に飛び上がっていくような軌道とも
『現代剣道』どころか、
俗に『
キリサメは過去の
電知の場合は『
下肢へ力を入れるだけでも激痛が走るだろうに強く深く踏み込んで『
今し方の体当たりも両足の状態が万全であれば競り負けていた可能性が高いのだ。傷だらけの脛に更なる
しかし、脛の破壊を狙った
当然の如く
「――これでどうだ……ッ!」
今まさに双方の足が絡まろうかという瞬間、キリサメの両腕の筋肉が小さく短い吼え声に合わせて血管が浮かび上がるほど膨らんだ。
『コンデ・コマ式の柔道』を志す電知と幼い頃から稽古を共にしてきたであろう寅之助は投げ技や組技への防御が巧みである。しかし、彼も二足で歩行する人間である以上、片足を持ち上げれば重心の維持が難しくなることもまた必然だ。寅之助が自分のことを横転させようと図るほんの一瞬を見極めたキリサメは、すぐさま脅かされていた左足を引き戻し、その状態から相手の身を膂力のみで持ち上げた。
つまるところ、『
左右の脛に走る激痛が地面を踏み締めることも許さなかったのだろうが、空中に放り出された
すぐさま振り返ったキリサメは自身の鳩尾目掛けて突き込まれてくるツカ
このまま攻め続けても互いの左拳をぶつけ合うだけであり、勝敗の天秤を傾けることは困難だろう。一度は『
「残念だったね。『
「……うるさいな」
寅之助の皮肉がキリサメに重く圧し掛かった。
西南戦争の亡霊に取り囲まれた中で
〝影絵〟が踊るビル群を染め上げていくのもドス黒い血ではなく
尤も、この屋上庭園が比喩でなく本当に血の色で塗り潰される可能性も低くはない。野次馬たちの諍いは秒を刻む
互いを罵る言葉も空中で衝突した銃弾に匹敵するほど強烈なものとなっており、西南戦争の抜刀隊に着想を得た古い曲に切り替わったアコースティックギターの演奏も殆どが押し流されている。
「
およそ一五〇年にも及ぶ剣道の歴史の中で繰り返されてきた〝先祖返り〟について、余人には計り知れない葛藤を抱えているのだろう。瀬古谷寅之助は先人たちの魂を背負って立つ〝現代の剣士〟なのである。
(先祖返り――か。電知は
敢えて単調な
暴力が支配する格差社会の最下層を生き延びてきたキリサメからすれば〝状況〟に合わせて戦い方を変化させるのは当然のことであって感傷的になる理由も分からないが、それでも青少年育成の場へいきなり軍隊が割り込んでくるような事態に遭遇した
あるいは寅之助が苦々しく感じているのは、己の愛する剣道が――偉大なる先人たちが拓いた〝道〟が軍事目的に利用されたことかも知れない。
寅之助と同じように〝国策〟としての武道に反発した剣士は当時にも必ず存在したはずなのだ。そして、これを速やかに反転せしめたのが『武士道』の存在ではないかとキリサメは推察している。彼自身はサムライの精神性など全く理解していないが、それ故に分析も客観的であり、ここまで聞かされてきた話の中に一つの仮説を見出した次第である。
君恩に報い、国に殉じることを美徳とする教えが存亡の危機という状況下で人々の意識をどのようにしてすり替えていったのか――日本人ではない日系人のキリサメでさえ想像するのは容易かった。
だからこそ
〝敵〟の心情に寄り添うことなど不快でならないが、一切の感情を消し去るような苦しみを伴いながら寅之助が持て余しているだろう気持ちがキリサメには痛いくらいに理解できてしまうのだ。
「
「……サメちゃんってばおっかないコトを言うなぁ。面倒臭い皆サマが今の話を聞いたら真っ赤な顔で掴みかかってくるよ? 結論は急ぐなって何回も注意してるのに――」
武士の技そのものへの侮辱とも受け取られ兼ねない短慮を戒めようというのか、キリサメの二指から竹刀のツカを引き抜きつつ後方へ飛び退いた寅之助は着地と同時に再び間合いを詰め、右脇腹へ横薙ぎを繰り出した。
「トォーッ!」という吼え声を伴う攻撃も『打突』ではなく『
太平洋戦争に伴い、戦時体制に即する形へ変質した『
「これもまた一つの武士道だよ、サメちゃん」
「その武士道とやらが戦争の空にどんな〝鳥〟を放ったのか、……今の
脳を揺さぶられようとも寅之助は耐え凌ぎ、ついには外から内へ振り切るような横薙ぎでキリサメの右脇腹を軋ませた。「肉を切らせて骨を断つ」という玉砕覚悟の気概とも言い換えられるだろう。
大した時間を置かずに二度も同じ部位を抉られてしまったキリサメは肺まで到達した衝撃で呼吸困難に陥っている。寅之助も大きくよろめいて片膝を突きそうになっていたが、双方とも一時的に動きが止まるような形にならなければ更なる追撃で肋骨を
「今のは効いたなぁ~。慣れない真似はするもんじゃないね。所詮は借り物の技だから調子が出ないや」
さしもの寅之助にも笑って誤魔化せる
比喩でなく本当の致命傷にもなり兼ねない危険な交錯であり、一部の野次馬も悲鳴を洩らしたが、意外なことに寅之助から骨抜きにされてしまった女性は気付いていなかった。
今し方の
「どこまでも過激だよねぇ。武士道を殺人
「国策だの思想教育だのと扱き下ろしたのは寅之助のほうだろ」
「武士道そのものは『侍らしくあれ』っていう心構えであって洗脳の道具じゃない。生まれてから今までの一七年間、ボクはそう信じてきたよ」
大勢の脳が他者の視えざる手に掻き回され、その意志が暴走という形に捻じ曲げられていく恐ろしさは
寅之助本人には否定されたものの、先に語られていた武士道というモノから
特定の思想ではなく西南戦争を引き起こした士族のように困窮という現実問題が引き金となっているのだが、同じ境遇に
言葉巧みに人の心を弄ぶ寅之助が一度は『組織』の首魁と重なっただけに、この筋運びは皮肉としか表しようがなかった。
無論、全ては日本人ではない日系人のキリサメによる一方的な見立てに過ぎない。
「――小さな頃から
「それってつまり、拳を交えるコトとお互いを理解し合えるコトはイコールだって、実感として分かるって意味ですよね? ほらほら~! カマプアアさん、やっぱりハワイ武術をやり込んでいたんじゃないですか~。今の発言が動かぬ証拠ですよ」
「あらやだ、尻尾を掴まれちゃった? そこで前のめりになる辺り、バロッサさんってば根っからのムエ・カッチューア使いなのねェ~」
ビル群の向こうから不意に飛び込んできた希更とカマプアアの
後者の寅之助が語った内容は、むしろ『
西郷隆盛を首領に戴いて明治政府に反旗を翻した不平士族や、国家転覆を謀る『組織』の首魁に操られて〝大統領宮殿〟へ押し寄せた怒れる民は攻撃対象との相互理解など求めず、同志との共鳴によって破壊的な衝動を濁流化させていったのである。
「さっき話したキリキリもデタラメに強いんだけど、他の選手と競い合ってお互いを讃えるって経験はなさそうなんですよ。そういう
相互理解にまつわる
「相手を叩き伏せるのが目的じゃない腕比べメインの格闘技でしか味わえないコトでもあるわよねぇ、ソレ――って、こんなコトを言うと、また尻尾掴まれちゃうかしら」
「
「きーちゃんは『イシュタロア』以外でも『つむぎちゃん』だねぇ~。カマプアア先生は『根っから格闘家』って言ってたけど、私からすれば『根っからの
希更の共演者が紡いだ言葉に対して、細身の撮影者は先程よりも深く頷いた。
「すいっちょん、それはねぇ、あたし自身も実感してるよ。すいっちょんや湊さん、カマプアアさんに大勢のスタッフさん、何よりこうして秋葉原まで足を運んで下さった皆さんと出逢う為にあたしは生まれてきたんだって本気で思ってるもん」
「ほらもぉ~、そーやってナチュラルに口説くし! ひまわりお姉様と私のときめきまでリンクしちゃうよ! 自分の演じてるコとドキドキ相互理解ってカンジだよぅ!」
「
「――サメちゃん、〝鬼ごっこ〟やってる間に電話でも掛けた? キミに向けた
「僕は携帯電話も持っていないんだぞ。走りながら公衆電話を使ったとでもいうのか」
己に向かって突き込まれてくる左腕を先んじて叩き落としつつ宮崎物産館で行われている『
実際、トークショーに臨んでいる希更の口からは『キリキリ』という緊張感のない
剣舞が話題に上ったのは偶然であろうが、希更の言葉はキリサメ個人を対象にしたものが殆どであり、商業ビルの工事現場から屋上庭園に至るまでの一部始終を把握しているようにも感じられた。
何しろ『
「腕比べか。お涙頂戴のスポーツさわやか物語じゃないんだから――いや、スポーツの世界だって仲良しこよしの慣れ合いに浸っていたんじゃ強いってコトの本質にはたどり着けないだろうにねぇ。甘っちょろいって言葉でも足りないなぁ、あの人」
「……寅之助?」
希更は〝競技選手〟の喜びが『
人から憎まれる態度を取り続けながらも腹の底は晒さずにいた青年が初めて挑発の類いではない嫌悪感を剥き出しにしたのである。
「ボクだって『
左手一本でツカ
(……こいつ、僕に八つ当たりでもしようっていうのか?)
その間に両の五指にてツカを握り直し、刀身を高く振り
「――エイッ!」
咄嗟に右拳を突き上げて竹刀を弾き飛ばそうとするキリサメであったが、寅之助の竹刀はこれをすり抜けていった。狙われていると警戒していた左肩をも通り抜けたのである。
やがて剣先がキリサメの右内肘辺りに到達し、直後に鋭く跳ね上げられた。それはつまり、迎撃の拳を突き上げたまま宙に留まっていた右腕が一等大きく弾き飛ばされたということだ。
「ヤァーッ!」
踏み込みと共に竹刀は水平に閃き、全く無防備の状態となったキリサメの心臓へ迫る。間もなく鹿革で覆われた剣先がシャツの上から左胸に軽く接触した。
剣舞に組み込まれた片手突きのように寸止めではなかったが、胸骨が窪むほど深々と抉られたわけではなく、
明らかに手加減された
「
「……それは誰に向けた台詞だ。僕に言いたいワケじゃないだろう……」
挑発的に口元を歪める寅之助であったが、果たしてその瞳が自分のことを本当に見ているのか、キリサメには疑わしく思えてならない。
「サメちゃんだって仲良しごっこがしたくてMMAの世界に入ろうとしたワケじゃないでしょ? 城渡マッチとの間にクサい絆が結ばれたとか、そんなベタベタなコトは絶対にないハズだよね? 勝手にお友達扱いされてゲロ吐きそうなんだよね?」
「……お前にあれこれ言われるまでもなく馴れ合いなんか煩わしいだけだし、そんなものを求めてもいない」
『
尤も、寅之助に示した態度が一〇割の本音というわけではない。自ら求めることなど有り得ないが、『
〝同僚〟である希更は当然ながら、敵対組織に属する電知のことも親しい相手と認めている。『まつしろピラミッドプロレス』のレスラーたちもその中に含んでいればこそ木造橋の攻防でプロレス式の
(これがバロッサ氏の言う相互理解なら、……分からなくもないよ)
初対面の場では穏やかならざる事態へ陥りそうになったものの、自分のことを対戦相手として認めてくれた城渡マッチを先輩選手と呼ぶことに躊躇いはなく、
甚だ不愉快だが、戦時下の剣道で猛然と襲い掛かってくる青年を友人のように思ってしまう錯覚もキリサメ本人には抑えようがなかった。
一方、細身の撮影者は希更を侮辱するような発言が寅之助の口から漏れ出して以来、眉間に皺を寄せ、遠目には分からないほど小さく
焦点を合わせる為に左目を瞑り、右目もファインダーを覗き込んでいるので瞳を憤怒で満たしているのかは見極められないが、「きーちゃんは『イシュタロア』以外でも『つむぎちゃん』だねぇ」という
「サメちゃんの口から否定の言葉を聞いて安心したなぁ。キミまで
「人付き合いにまで指図される筋合いはない。お前の都合なんか知るものか」
竹刀を掴もうとする五指を避けるよう僅かに
「トォ――」
寅之助からすれば出鼻を挫き、右脇に続いて対の肋骨にも悲鳴を上げさせるつもりなのだろう。先に投げかけられた言葉への
「それにしたってサメちゃんのお友達ってばズルいじゃん。長野のデビュー戦は
「同意を求められても……そもそも、僕はバロッサ氏の家族に興味はない」
聞き耳を立てずとも半ば強制席に鼓膜へ飛び込んでくるトークショーの内容を振り返れば、ジャーメイン・バロッサという希更の母親は熊本の道場にて教え子たちの育成に励んでいるそうだが、伯父もまた格闘家として活動していたような口振りであった。
「伯母さんの旦那さんに当たるビクトー・バルデスピノ・バロッサって人が立ち技系団体の『
「一九九〇年代を主戦場にしていた選手だし、とっくの昔に現役を退いて熊本へ引っ込んだって聞いたけどね。ちなみに入り婿なんだってさ」
「興味ないと言っただろうが。附帯情報はもっと要らない」
『
恭路の〝ゾク車〟へ跨る間際まで同団体の試合映像が自宅のテレビから垂れ流されていたのだ。寅之助たちに身柄を拘束されたという未稲と顔面を
『
「この間のソチ五輪にも代表選手を何人も送り込んだフランスの――なんだっけ、バッソンピエール家みたいに〝ザ・アスリート〟ってな顔してスポットライトを浴びてるけど、『バロッサ・フリーダム』とかいう道場の人たち、相手を殺す為の技を極めていそうなんだよねぇ。
同調したように思われるのが癪なので頷き返すことはなかったものの、寅之助が言わんとした意味はキリサメにも分かっている。初めて名前を認識した
寅之助が述べた通り、これはバロッサ家の技に対する戦慄とも言い換えられるだろう。
「――出演陣の相互理解はお酒を頂きながら深めていますよ。収録の合間の楽しみですしね。今晩も酒盛りという名の『ヒエロスガモス』を堪能しますよ~」
「出た、酒豪っ! ていうか、湊さんが打ち上げに出るのって一年振りくらい? お腹に赤ちゃんがいる間は呑めなかったもんね~。鬼神みたいな呑みっぷりが見られないのは寂しいねって、すいっちょんとも良く話してたんですよ」
「可愛い我が子は
「格闘家同士でも打ち上げとかやるの?
「いやいやいやいや、フツーに仲良しだって。そもそも腕比べのライバルであって〝敵〟じゃないし。すいっちょんにもマルガのヨガ
言葉を交わしたこともない寅之助から危険分子のように謗られていると知る由もない希更は、MMA選手たちの交流について想い出し笑いを交えながら語っていた。
『
案の定というべきか、地面を滑るかのような身のこなしと柔軟にして多彩な蹴りを得意とする先輩選手について、希更は『
「格闘技に詳しい方ならピンと来るかもですけど、
「きーちゃんのお姉様は私だけのハズなのにぃ。皆さんの前じゃなかったら今頃は悔しさでハンカチ噛み千切ってるトコだよぉ~」
「自分で話しながら『これはひまわりお姉様が
力と技を競い合う
その寅之助は希更たちの交流を「巷で流行りの女子会感覚? お気楽で羨ましいっていうか、こりゃ電ちゃんも『
「仲良しごっこの為に〝本気〟を出せないなんて宝の持ち腐れも良いところじゃん。肉も骨も一振りで断ち斬れる名刀で峰打ちやってるようなもんだよ」
選手間の慣れ合いが一種の足枷となり、ムエ・カッチューアの真価が損なわれているとまで寅之助は嘲っている。
「そもそもムエ・カッチューア自体がエグみ満点の伝統武術なんだけど、それを抜きにしたってあの一族、ヤバいニオイがするんだよね。日本中のどこよりも人が集まる東京じゃなくて、わざわざ熊本に道場を開くことからしてアヤしいじゃん」
「……バロッサ家の熊本移住は総帥の意向だと聞くし、そもそも希更さんの場合はお父上が予想外の〝家族計画〟を立てたのが原因なのだけど――」
寅之助に反駁するかのような呟きがどこからともなくキリサメの耳に滑り込んできた。
先ほど鼓膜を打った中世的な声とも似ていたようだが、本当に小さな呟きであったので正確に聞き取れたという自信もない。結局、自分にカメラを向け続ける撮影者が声の主とは確認できなかった。
「……母さんの知り合いにもお前みたいのがいたよ。他人の家庭事情をああでもないこうでもないと勝手に想像して陰口を叩くヤツが。そんなものを穿り返して何が楽しんだ」
「だってさぁ~、明らかに〝ボクたち〟の側なのに猫被ったまま堂々とお天道様の下を歩いているなんてズルくない? サメちゃんだってそう思うでしょ?」
希更のことを羨むかのような言葉の真意を測り兼ねたのだろう。細身の撮影者もこれまでとは異なる調子で眉根を寄せ、撮影中の映像が乱れない程度に小首を傾げた。
「ちょっと待て。お前の言う〝ボクたち〟の中に
「今更だけど、あの人をフクロにしようってとき、ボクにも声を掛けてくれたら良かったのになぁ。アイドル声優って表の顔に隠された悪魔みたいな本性を電ちゃんに代わって引き摺り出してあげたよ」
依然として感情の宿らない薄笑いを貼り付けたままではあるものの、もはや、寅之助は心の奥底で煮え
「稽古では人を斬り倒すことのできない竹刀を使っていたけど、戦時下の子どもたちに広く教えられた剣道は軍刀へ持ち替えたときに敵兵を確実に仕留める為のモノだった。それだから『
「バロッサ氏と家族も同じだと言いたいのか? ムエ・カッチューアは『
「そこまでは言わないよ。ただねぇ~、……人殺しの『
「それは別にバロッサ氏だけに限った話じゃないだろう。……竹刀を
「そうとも。〝特例〟だけに普段は絶対に許されない。いわば〝
「薄汚い腹の底なら察しがつくというだけだ。……大体、それを言い出したら
「先生の志とは根本的に違うってば。サメちゃんもいじわるだなぁ~」
支離滅裂とも受け取れる寅之助の言動へ一度は呆けたように開け広げた口を真一文字に引き締め、細身の撮影者はそこに再び憤怒を示した。
(……それが
寅之助から溢れ出した〝闇〟は己の
瀬古谷寅之助が
過去から『現代』へ紡がれる〝歴史〟の担い手という相似する境遇でありながら、光と影の如く正反対の〝道〟を歩んできた希更ひいてはバロッサ家の一族に対して、寅之助は酷く歪んだ憧憬――逆恨みめいた感情を一方的に抱いているのではないか。
翻せば、己が伝説の剣士の名のもとに歩まされた〝道〟そのものを心の奥底では憎んでいるのかも知れない。いずれも
「――
「その話ならアタシも聞いたコトがあるわ。かなり強引な買収だったってウワサもあったハズだけど、……それが本当なら『
「どのタイミングで吹っ飛ぶか分からない〝火種〟を抱えた状態ってコトですしね。複雑な気持ちもあるハズなんですけど、それでも
「――そんなワケないっての。サメちゃんのお友達ってば頭の中身がお花畑みたいなコトばっかり抜かしてるね。行儀の悪い言い方になるけど、正直、
「……それなら、お前が電知に向ける
「ボクからキミに向けてる
「……僕に理解なんか求めるな――」
どこか縋るような声を真っ向から否定したキリサメは、
その間に
「
他の野次馬へ〝
余人の目には小石を拾い上げたように映ったことだろう。実際、キリサメも低い体勢を維持したまま右腕を振りかぶり、一度は投擲の構えを見せている。だからこそ寅之助も迎撃の『
結局、キリサメの手から飛び道具が放たれることはなかった。大きく腕を振りかぶったまま一気に跳ね飛び、掌中に小石を握り締めているだろう拳を勢いよく叩き落としたのである。寅之助の目を欺いたと確かめた上で別の技に変化したわけだ。
電知との
直撃の瞬間に手首のスナップを効かせ、握り締めた指と掌底を同時に当てるという猫の手のようなパンチを高く翳した竹刀で受け止めることはできたものの、跳躍の勢いと全体重を乗せた拳に押し込まれて反撃には移れなかったのだ。
当然、キリサメの側は着地と同時に追撃を仕掛けていく。左足裏を軸に据えて鋭く腰を捻り込み、対の足でもってカリガネイダーから直伝されたプロレス式の
『
「慣れない真似は苦手じゃなかったのか? 大声出すのも似合ってないぞ」
「照ちゃんにはナイショにしておいて欲しいな。……哀しい
重い一太刀で脳を激しく揺さぶられはしたものの、キリサメは〝敵〟との位置関係を変えることに成功していた。今し方の
リング状のツカ
「してやられてたなぁ~。ルール無用の喧嘩技って触れ込み自体をフェイントにするなんて反則スレスレじゃないの」
「知るか。お前が勝手に勘違いしただけだろ」
間もなく寅之助も正眼の構えを取り直し、剣先による牽制も再開されたので禍々しい刀身を引き抜くことまでは叶わなかったものの、目的は十分に達したといえよう。
(……『
薄気味悪い執着心を向けられることは煩わしくて仕方ないのだが、寅之助もまた身の
対する寅之助は当代随一の人気声優を相手に口が過ぎたことを自覚したのか、僅かばかり舌を突き出しながら「冗談、キツかった?」とおどけた調子で誤魔化そうとしたが、もはや、周囲のどよめきを鎮めることは叶わなかった。
「――もう我慢できないわ! 今の言葉を取り消しなさいよ! 取り消せっ! 棒切れ振り回すしか能がない? 剣道って言葉も知らない野蛮人がッ!」
「てめぇこそ
そもそも、どよめきは寅之助の発言に対する
寅之助に腰を抱かれて骨抜きにされていた女性と、キリサメが『
「あっちもイイ具合に盛り上がってきたじゃん。ボクらにアテられちゃったのかな?」
「冗談を抜かしている場合か。……面倒っていうのは次から次へ押し寄せてくる……!」
どちらか片方でも拘束を振り解けば、そのまま取っ組み合いの喧嘩になるだろう。ひいてはこれが引き金となり、なし崩しのように双方がぶつかり合う乱闘まで突き進むのだ。極度の
剥き出しの狂暴性が〝現実〟を脅かし始めた瞬間、ビルの壁に映っていた真っ黒な輪郭は一欠けらも残らずに霧散した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます